ことにガブリエルを満足させたのは、小柄な体格に不釣合いな対戦車ライフルを抱えたうら若い少女プレイヤーだった。ほとんどの参加者が、正面から撃ち合うしか芸の無いプレイヤーだったために、ガブリエルは様々なトラップで撹乱した上でナイフで止めを刺すという最も好みの殺し方を思う様味わえたのだが、あの少女だけはどうしても接近を許さず、仕方なく遠距離からC4爆薬で仕留めた。しかし、自分が罠に掛かったと知った瞬間の少女の瞳――怒りと闘争心に、僅かな屈辱をブレンドさせたあの溢れるような輝きは、ガブリエルを大いに満足させるものだった。
数日後には、同じ大会の団体戦が催される。恐らくあの少女も、仲間を集めてリベンジを挑んでくるだろう。今度こそ、背後からしっかりと拘束し、あの猫を思わせる瞳を至近距離から覗き込みながら、ナイフで喉を切り裂く。そうすれば、もしかしたら、あの瞬間に感じた奇蹟――十五年前、エレメンタリースクールに通う子供だった頃に初めて味わったあの感動に近い何かが、再び訪れるかもしれない。
髭面のテロリスト達を機械的に掃討しながら、ガブリエルは来るべき瞬間を予期して、背筋を這い登る快感に少しだけ身を震わせた。
ガブリエル・ミラーは、一九九〇年二月にノースカロライナ州シャーロットで生を受けた。
兄弟姉妹は無く、昆虫学者の父と専業主婦の母の愛を絶え間なく注がれて育った。先祖代々伝わる家屋敷は広大なもので、遊び場には事欠かなかったが、幼いガブリエルが最も好んだ隠れ場所は父親の標本保管庫だった。
ノースカロライナ大学で教鞭を取る父親は、趣味と実益を兼ねて膨大な量の昆虫標本を買い集め、また自ら採取・処理したものも含めて、広い保管部屋の四方の壁を隙間無く埋めつくすほどのコレクションを並べていた。ガブリエルは、時間があれば保管庫に篭り、拡大鏡片手に標本を眺めつづけ、それに疲れると部屋中央のソファーに腰掛けてぼんやりと空想に耽った。
天井の高い、薄暗い部屋に一人きりで、周囲を無数の、それこそ数万匹の物言わぬ昆虫たちに囲まれていると、決まってガブリエルはある種の神秘的な感慨に襲われた。この虫たちは、みんな、ある時までは生きていたのだ――生きて、元気にアフリカの草原や、中東の砂漠や、南米の密林で巣を作ったり餌を探したりしていたのだ。しかし、短い生の半ばにして採取者に掴まり、薬品的処理を施され、今はこうして銀色のピンに貫かれてガラスケースの下に行儀よく並んでいる。つまりこの保管庫は、昆虫標本のコレクション・ルームであると同時に、殺戮の証を万単位で並べた恐るべきインフェルノでもあるのだ……。
ガブリエルは目を閉じ、周囲の虫たちが不意に命を取り戻す様子を想像する。六本の足が懸命に宙を掻き、触覚が闇雲に振り回される。かさかさ、かさかさ……。かすかな音が無数に重なり、渇いた細波となってガブリエルに押し寄せる。かさかさ、かさかさ。
ぱっと目蓋を開く。周囲を見回す。ひとつのケースの隅に留められた、緑色の甲虫の足が動いたような気がして、ソファーから飛び降りて駆け寄る。青い目を見開き、食い入るように見つめるが、その時にはすでに昆虫は物言わぬ標本に戻っている。
金属のように艶やかなエメラルドグリーンの甲殻、鋭いトゲの生えた脚、極小の網目の入った複眼。無機質の工芸品としか思えないこの物体をかつて動かしていたのは、一体どのような力なのだろうとガブリエルは考える。昆虫には、人間のような脳は無いのだと父親は言った。ならどこで考えているの、と問うと、父親は一本のビデオを見せてくれた。
撮影されていたのは、交尾中の一対のカマキリだった。鮮やかな緑色の、丸々と太ったメスを、背後から小さなオスが押さえ込み、交接器を接合させている。メスは、しばらくじっと身動きしなかったが、ある瞬間思い立ったようにオスの上半身を腕で抱え込み、その頭部をむしゃむしゃと咀嚼し始めた。ガブリエルが驚愕しながら見守るなか、オスはなおも交尾を続け、おのれの頭が完全に食い尽くされたところで交接器を離した。そして、メスの鎌を振りほどいて一目散に逃げ出したのだった。
頭部を完全に失っているにも関わらず、オスカマキリは草の葉を伝い、枝を上り、器用に逃走を続けた。その映像を指しながら、父親は言った。カマキリを含む昆虫は、全身の神経がすべて脳のようなものなのだ。だから、感覚器に過ぎない頭を失っても、しばらくは生きていられるのだ、と。
そのビデオを見てから、ガブリエルは、ならカマキリの魂はどこにあるのだろうと数日間考えつづけた。頭を取っても生きていられるなら、足を全て失ってもさして問題ではあるまい。ならば腹か? しかし腹というのは餌の消化装置だろう。なら胸だろうか? しかし虫たちは、ピンで胸を貫かれても元気にじたばたと足を動かしつづける。
体のどこの部位を失っても即死しないというなら、カマキリの魂は、その体を作る物質とは無関係に存在すると言わなくてはなるまい。当時八歳か九歳だったガブリエルは、家の周囲で捕らえた昆虫を使って何度か実験を試みた末、そのように独自の結論を得た。昆虫という半機械的な仕掛けを動かす不思議な力、つまり魂は、どの部位を損傷されようとしぶとくその器に留まろうとする。しかしある瞬間、もう無理だと諦めて器を捨て、離脱していく。
離れていく魂をこの目で見たい、とガブリエルは熱望した。しかし、どれほど拡大鏡に目を凝らし、慎重に実験を行っても、昆虫の体から離れていく何ものかを見ることはできなかった。屋敷の裏手の広い林の奥深くに作った秘密の実験場で、どれほどの時間と熱意を費やしても、望みが叶うことはなかった。
自分のそのような渇望が、親たちには歓迎されないものであろうことは、幼いガブリエルにも判っていた。だから、カマキリの一件以来、父親には二度と同種の質問はしなかったし、実験のことも決して口外しなかった。しかし、隠せば隠すほど、その欲求は大きくなっていくようだった。
その頃、ガブリエルには、とても仲のよかった女の子の友達がいた。アリシア・クリンガーマンというその少女は隣の屋敷に住む銀行家の一人娘で、当然同じエレメンタリースクールに通い、親同士も親しくしていた。物語が好きな、内気な少女で、外で遊ぶよりも家の中で一緒に本を読んだりすることを好んだ。ガブリエルは、自分の秘めたる欲求のことはアリシアにも巧みに隠し、虫の話は一切しなかった。
しかし、考えるのだけはやめられなかった。自分の隣で、天使のような微笑みを浮かべながら子供向け幻想物語を朗読するアリシアの横顔をそっと覗き見ながら、アリシアの魂はどこにあるのだろう、とガブリエルは何度も考えた。昆虫と人間は違う。人間は、頭を失ったら生きられない。だから、人間の魂は頭にあるのだろう。だがガブリエルは、父親のパソコンでネットを渉猟し、脳の損傷が必ずしも生命の喪失と直結しないことをすでに学んでいた。太い鉄パイプで顎から頭頂までを貫かれても死ななかった建設作業員もいるし、患者の脳の一部を切除して精神病を治療しようとした医者もいる。
だから、脳のどこか一部なのだ。綿毛のような金髪に縁どられたアリシアの額を見ながら、ガブリエルはそう考えた。脳組織に深く深く覆われた核に、魂の座がある。
自分は将来、アリシアと結婚することになるのだろう、とガブリエルは何の疑いもなく信じていた。だから、いつの日か、アリシアの魂をこの目で見ることができるかもしれないという深い期待をひそかに抱いていた。天使のようなアリシアの魂は、きっと言葉にできないほど美しいに違いない。
ガブリエルのその望みは、思いがけないほど早く、半分裏切られ、半分叶えられることとなった。
二〇〇一年九月十一日、ガブリエルにとって――いや、全米に暮らす人間にとって一生忘れられないだろう事件が発生した。
シャーロットの北東五百マイルに位置する大都市で、二機の旅客機が高層ビルに突入し、ひとつの時代を終わらせた。凄まじい土煙を噴き上げながら崩壊するビルディングの映像を、テレビで繰り返し観ながら、ガブリエルはその瓦礫の中で消滅した数千の魂のことを思った。いけないことだと分かってはいたが、どうしても、近隣のビルの高層階から貿易センター崩落の瞬間を眺められなかったのが残念だという気持ちを抑えることができなかった。もしあの場に居合わせれば、崩れ落ちる瓦礫の下から現われて天に昇る魂たちの輝きを見ることが出来たかもしれないのに。
同時多発テロは、様々な形で合衆国を激しく揺さぶった。その波は、アパラチア山脈のふもとに広がるシャーロットの街まで、具体的にはガブリエルの家のすぐ隣にまで及んだ。事件で最も打撃を受けたのは航空業界であり、全世界で航空会社の倒産が相次いだのだが、そのうちの一つの企業に、アリシアの父親のクリンガーマン氏とその顧客が多額の投資をしていたのである。
巨大な負債を抱え、顧客たちから容赦なく責められたクリンガーマン氏は、拳銃自殺という形で人生の幕を下ろした。家屋敷を含む資産を全てを差し押さえられ、残された夫人とアリシアは、小さな工場を営む親戚を頼って遠くピッツバーグまで引っ越すこととなった。
ガブリエルは悲しかった。十一歳の子供にしては聡明だった彼は、十一歳の子供でしかない自分がアリシアを助けることなど出来るはずもないことを理解していたし、今後アリシアを待っているであろう過酷な境遇も明確に想像できた。完璧なセキュリティに守られた屋敷、熟練のコックが作る毎日の食事、裕福な白人の子供ばかりの学校、それらの特権はアリシアの人生からは永遠に去り、貧困と肉体労働がそれに取ってかわるのだ。何より、いつか自分のものになるはずだったアリシアの魂が、名も知らぬ誰かたちによって傷つけられ、輝きを失っていくのは、ガブリエルには耐えがたいことだった。
だから、彼女を殺すことにした。
アリシアが学校で最後の挨拶をしたその日、帰りのスクールバスから降りた彼女を、ガブリエルは自宅の裏の森に誘った。道路や家々の塀に設置された全ての監視カメラを巧妙に避け、誰にも見られていないことを確認しながら森に入ると、足跡が残らないよう落ち葉の上を十分ほど歩き、密生した潅木に囲まれた"秘密の実験場"にガブリエルはアリシアを導いた。
かつてそこで数え切れないほどの虫たちが死んでいったことなど知るよしもないアリシアは、ガブリエルがぎこちなく彼女を抱きしめると、一瞬身を固くしたが、すぐに同じように腕を回してきた。小さくしゃくりあげながら、アリシアは、どこにも行きたくない、ずっとこの街にいたい、と言った。
僕がその望みをかなえてあげるよ――と心の中で呟きながら、ガブリエルは上着のポケットに手を入れ、用意しておいた道具を取り出した。父親が昆虫の処理に使う、木製の握りがついた、長さ四インチの鋼鉄製ニードルの尖端をそっとアリシアの左耳に差し込み、反対側をもう一方の手で抑えておいて、一瞬の躊躇もなく根元まで貫き通した。
アリシアは、何が起きたのかわからない様子で不思議そうに目を瞬かせたあと、不意に体を激しく痙攣させ、喉のおくでくぐもった奇妙な音を漏らした。数秒後、見開かれた青い瞳がふっと焦点を失い、そして――
ガブリエルは、それを見たのだった。
目の前の、アリシアの滑らかな白い額の中央から、きらきらと光り輝く小さな雲のようなものが現われ、ふわりふわりと漂いながらガブリエルの眉間に近づくと、そのまま何の抵抗もなく染み込んだ。
いきなり、周囲を包んでいた秋の宵闇が消えた。空から、高い木々の梢を貫いて幾つもの白い光の筋が降り注ぎ、かすかな鐘の音さえ聴こえた気がした。
凄まじい法悦と高揚感に、両目から涙が溢れた。自分は今、アリシアの魂を見――それだけではなく、アリシアの魂が見ているものをさえ見ているのだ、ガブリエルはそう直感した。
輝く小さな雲は、永遠とも思えた数秒をかけてガブリエルの頭を通り抜け、そのまま天からの光に導かれるように上昇を続けて、やがて消え去った。同時にあたりに暗がりと静寂が戻った。
生命と魂を失ったアリシアの体を両手で抱えながら、ガブリエルは、今の体験が真実だったのか、それとも極度の昂奮がもたらした幻覚だったのかと考えた。そして、そのどちらであろうとも、自分は今後ずっと、今見たものを追って生きていくことになるだろうと確信した。
アリシアの骸は、かねて見つけておいた、樫の巨木の根元に開いた深い竪穴に放り込んだ。次に、自分の体を慎重に調べ、付着した長い二本の金髪を摘み上げると、それも穴に捨てた。ニードルは綺麗に洗ってから父親の道具箱に戻した。
アリシア・クリンガーマン失踪事件は、地元警察の懸命の捜査にも手がかりひとつ発見されず、やがて迷宮入りした。
ガブリエルは当初、脳を研究する科学者を目指そうと考えた。しかしすぐに、学者が自由に出来るのはサルの脳がせいぜいであることを知った。サルの魂に興味が持てるとは思えなかったので、次に、合法的に人が殺せる職業に就くことにした。警官になるのは難しくなさそうだったが、そうそう犯罪者を射殺する機会などありそうもなかったし、世界情勢的にも兵士になるのが最良の選択と言えそうだった。
決意したその日から、ガブリエルは計画的にトレーニングを始めた。両親は不思議がったが、高校でフットボールをやりたいからだと言うとあっさり納得し、高価なエキササイズマシンさえ買ってくれた。
もともと体格に恵まれていたガブリエルの身体能力はみるみる上昇し、高校に進学してからは宣言どおりフットボールだけでなく、バスケットボールとボクシングでも花形選手となった。肉体的には、軍隊の訓練がどれほどハードなものであろうと耐えられるという確信を得るに至ったガブリエルだが、最大の障壁は両親の理解だった。息子は当然、一流の大学に進みトップエリートの道を歩むのだと信じて疑わない両親に、軍隊に入りたいなどと言っても一顧だにされないだろうことは明白だった。
十八歳になる直前、ガブリエルは毎年夏に訪れるノックスビルの別荘で、両親に酒に混ぜた多量の睡眠薬を飲ませて昏睡させたうえで建物ごと焼死させた。高校を卒業すると、相続した財産のうち不動産は全て有価証券に換え、そのまま一番近い陸軍徴募事務所に足を運んだ。
屋敷を不動産業者に引き渡す前日、ガブリエルは何年ぶりかに標本収納庫を訪れ、埃をかぶったガラスケースの向こうから囁きかける虫たちの声に耳を傾けようとした。しかし、かつて彼に、生命と魂の秘密をかさかさと語ってくれた数万匹の昆虫たちは、ピンに貫かれたまましんと黙り込むだけだった。
ガブリエルは、肩をすくめてその部屋を後にし、そして二度とシャーロットの土を踏むことはなかった。
コンバット・シミュレーターのダイビングシートから身を起こしたガブリエルは、傍らに立つ女性一等軍曹が尊敬と緊張の面持ちで差し出すゲータレードのボトルを受け取り、一息に飲み干した。空容器をガブリエルから受け取り、一歩下がった若い兵士は、頬を僅かに紅潮させながら口を開いた。
「見事でした、中尉(LT)。文句なしの最高得点です。いったい、どのような訓練をすればあれほど的確に動けるのですか?」
ガブリエルは、タフな小隊長が浮かべるのに相応しい野性的な笑みを片頬に刻んで見せながら、短く答えた。
「一度の実戦は百の訓練にまさるのさ、一等軍曹(ガニー)。本物の糞溜め(ドッジ・シティ)を経験すれば、仮想訓練などニンテンドーと大差ない。君にももうすぐそれを知る機会が来るはずだ」
「そのときはぜひ、LTのブラボーチームに所属したいものです」
「おいおい、ミラー中尉、その情報をどこから手に入れた」
笑いを含んだ声の主は、白いものが混じるブラウンの髪を短く刈り込み、口ひげをたくわえた壮年の男だった。対テロ部隊バリアンスの司令を務めるジェンセン大佐だ。一等兵曹が敬礼して去っていくのを見送ってから、ガブリエルは歯をむき出してニヤリと笑い、答えた。
「最高司令官閣下がアジアの将軍にきついボディ・ブロウを見舞うつもりでいることは、この基地の全員が知っていますよ、大佐」
「だが、我々の出番があるかどうかは決まっていないぞ」
「あの国で戦うとなればいきなり市街戦です。SEALやグリーン・ベレーには道とドブの区別もつきゃしませんよ」
「ふっふっ、まあそういうことだな」
満足そうに髭をしごきながら頷くと、ジェンセンは表情を改め、続けた。
「ともあれ、今回の基地間合同シミュレーション訓練における総合成績トップは君だ、ミラー中尉。おめでとう」
「ありがとうございます」
差し出された右手をがっちりと握り返しながら――
冷え切った魂の奥底で、茶番だ全て、とガブリエルは呟いていた。
八年前、新品のブーツを履いて訓練教官の前に立ったその日から、ガブリエルは合衆国陸軍兵士という役目をこなす(ロールプレイ)には二つのものを充分に示さなければならないことを知った。一つは合衆国への忠誠心、もう一つは仲間の兵士たちとの絆である。
人間の魂なるものを知る、そのために合法的に沢山の人を殺す、ただそれだけを動機として入隊したガブリエルは、忠誠心も絆も、一オンスたりとも持ち合わせていなかった。いや、そのような非合理的な感情がガブリエルの中に存在したことはかつてなかった、と言うほうが正しい。ゆえにガブリエルは、自分が愛国心に溢れた仲間思いの男であると見せかけるすべを学ばなければならなかった。
幸い、高校のアメフト部で似たような演技を三年間続けた経験が役に立ち、ガブリエルはすぐに脳まで筋肉でできているような同僚や上官たちの信頼を集めることに成功した。訓練でも抜きん出た能力を発揮した彼は、折しも勃発したイラン戦争に先遣機械化部隊の一員として派兵され――そして、殺して、殺して、殺しまくった。
テヘランへの進軍の途上では、ブラッドリー歩兵戦闘車の二十五ミリ機関砲でイラン軍の装甲車や歩兵をなぎ倒し、首都を占領してからは、掃討部隊に志願して、ライフルとコンバットナイフで街のあちこちに立て篭もるゲリラたちを始末して回った。
仲間の兵士たちは次々と敵弾に倒れ、あるいは神経症を発して後送されるものも続出したが、ガブリエルは不思議と傷一つ負うこともなかった。それどころか、日々、これこそ我が天職であるという歓喜のなかに居たとさえ言える。浅黒い肌に濃い髭を生やした異国の兵士達は、装備も練度も士気もすべてが不足しており、捕食昆虫のように背後から忍び寄るガブリエルの銃弾あるいはナイフによってあまりにも呆気なく倒れていった。
最終的に、ガブリエルは二年半で五十人以上の敵兵と、戦闘に巻き込まれた七人の民間人を殺した。気付くと彼は、二つの勲章と曹長の肩章を手にしていた。
しかし、ただひとつ残念なことに、どのような殺し方をしても、体から離れる魂を見る機会はついに訪れなかったのだった。遠距離からライフル弾で倒した場合はもちろん論外、接近して拳銃で仕留めても、額から離脱する光の雲は現われなかった。
惜しい、と思えたのは背後からナイフで喉あるいは心臓を一突きにしたケースだ。敵兵の頭に自分の頭を密着させ、スムーズに刃を埋めると、獲物の体から力が抜ける瞬間、ぴりぴりと電気のようなものがガブリエルの脳を刺激した。やはり、人間が死ぬそのとき、なんらかのエネルギーが脳から体外へ離脱しているのだ――という確信を得るには充分な現象だったが、幼い頃アリシアの魂に触れたときのような法悦には程遠かった。
一つ学んだのは、対象の死の瞬間、肉体的または精神的に乱れれば乱れるほど、魂の離脱現象は起こりにくい、という事実だ。あの日、アリシアは、自分に何が起きたのかわからないまま死んだ。ゆえに、恐怖も絶望も感じることなく、ただかすかな戸惑いの中で絶命し、その魂は損なわれることなく脳から飛び去った。
逆に、ガブリエルが殺したイラン人兵士の大部分のように、怒り、恐れ、もがき、苦しんで死ぬと、その断末魔によって魂は離脱する前に無惨に飛び散ってしまい、形を保つことができない。だから、殺すときは、可能な限り静かに、滑らかに不意をつき、最小限のダメージによって生命を奪う必要がある。
戦争の終盤に主な任務となったゲリラ拠点の掃討任務において、すでにサイレント・キルの達人となっていたガブリエルは、夜闇に紛れて敵兵の背後から近づくと無音の一撃でその命を奪った。小隊の仲間たちは、ガブリエルのことを畏怖をこめてマスター・ニンジャと呼んだが、どれほどその技術に熟達しようとも、彼は満足できなかった。
理想を言うならば――と、毎夜簡易ベッドに横たわりながらガブリエルは考えた。
可能ならば、ナイフよりも更に鋭く、滑らかな武器が欲しい。アリシアを殺した鋼鉄製ニードルのような……いや、もっと言えば、物質的でさえない凶器が必要だ。例えば、致命的なレーザーか、マイクロウェーブのようなもの。最低限の損傷で脳の活動を止め、魂を損なうことなく離脱させる……。
携行型レーザー兵器の研究が進められているという話はあったが、残念ながらイラン戦争の終結までに実戦配備されることはもちろんなかった。二年半はあっという間に過ぎ去り、軍はガブリエルがじゅうぶんすぎるほど合衆国に貢献したと判断して、彼を少尉の位とともに本国に戻した。
合法的殺人の権利を奪われ、やり場のないエネルギーをハードトレーニングで押さえ込む日々が続いた。
ある日、ガブリエルは基地のメスホールでコーヒー片手に見るともなくテレビを眺めていた。CNNのキャスターは、極東の同盟国で起きた奇妙な事件のニュースを昂奮した口調でまくし立てていた。
その内容が頭に入ってくると同時に、ガブリエルはコーヒーの紙コップを思わず握り潰していた。そのニュースは、発狂したゲーム開発者が、ヘルメット型インターフェースをハックして、高出力マイクロウェーブを発生させて数千人のゲーマーの脳を破壊したと伝えるものだった。
以前から、日本において新種のVRハードウェアが開発されたという話は知識として記憶に留めてはいた。しかしガブリエルは幼少の頃よりテレビゲームの類にほとんど興味が無かったし、そのNERDLESという奇妙な名前のテクノロジーは主にアミューズメント用途に使用されるという報道だったので、殊更気に掛けることもなかったのだ。
だが、"マイクロウェーブによる脳の破壊"というフレーズは、否応なくガブリエルの意識を惹きつけた。それこそまさに、イランより帰還して以来、ガブリエルの最大の研究テーマであった"静かで瞬間的で清潔な殺人"を実現する数少ない手段だと思えたからだ。
魂の離脱現象を再現するためには、肉体的・精神的ストレスを極小に留めた死、という矛盾する状況を作らなければならない。当然、刺殺、銃殺、殴殺といったありきたりな手段では、対象者は大いに暴れ、おののき、死に最大限抵抗しようとするので、目的の実現は到底覚束ない。
ならば、対象者の意識を薬品等で喪失させてから致命傷を与える――あるいはいっそ、麻酔薬に類するものを使って眠るごとき死に導いたら?
ガブリエルはそのアイデアを、兵士としては護るべき合衆国国民を実験台に用いて試してみた。休暇を利用して、基地のあるジョージア州リバティー郡からは州境をまたいだ大都市メンフィスやジャクソンビルに赴き、盗んだり偽名で購入した中古車を使って不運な獲物を拉致したのだ。
ガブリエルに銃を突きつけられた実験台たちは、睡眠薬だと渡された小瓶の中身を言われるままに呷った。その説明は嘘ではなかったが、限界量の数十倍のアモバルビタール製剤をシロップに溶いたその液体は、飲んだものを容易く、永遠に醒めない昏睡へと導いた。
犠牲者の呼吸が徐々に途切れがちになり、体温が低下していくのを、ガブリエルは冷静に――遠い昔、秘密の研究室で、解体された昆虫を見守ったときと同じように――観察した。彼らの死はまさに眠るようで、魂の昇天を乱すものは何一つ無いように思われた。
しかし、奇跡が再現されることは一度としてなかった。同じ方法で三人を殺してから、ガブリエルは失望とともに認めざるを得なかった。脳に作用する類の薬品を用いると、やはり魂は離脱前に損壊されてしまうのだ。
その後、全身を凍らせるという方法で一人、注射器で血液を大量に抜き取るという方法で一人を殺したが、そのどれもが失敗だった。
戦地から帰還して一年が経ち、ガブリエルは焦りと落胆の中にあった。人間の魂の謎を解き明かし、離脱現象を確実に引き起こす方法を見つけ、そして究極的には離脱する魂を捕獲するという崇高な目的のために十年以上を費やしてきたが、いまだ手がかりさえ得られていない。やはり兵士となったのは間違いだったのだろうか? 除隊し、大学に入って大脳生理学をまなぶべきだろうか? それとも、あの出来事――アリシアの無垢なる魂の昇天を己の魂で感じた至高体験そのものが、ある種の幻覚作用だったのだろうか……?
そんな迷いのなか、ガブリエルは、"SAO事件"のニュースを見たのだった。
CNNのキャスターが、次の話題です、と言ったのを機に基地内の自宅に戻り、ガブリエルはネットで関連するニュースを漁った。そして、問題の殺人機械"NERVGEAR"の構造を知り、昂奮とともに「これだ」と呟いていた。
ナーヴギアは、延髄部分で体感覚をインタラプトすることで、使用者の意識を肉体から分離させる。つまり、死の際においても、使用者は肉体の異常を体感しないということだ。さらにギアが使用者を殺す手段は、ヘルメット内の素子から高出力マイクロウェーブを発して脳幹部分を一瞬で破壊するというものだ。つまり人間の意識、魂が存在する(とガブリエルが考えている)大脳辺縁系へのダメージは最小限にとどめ、生命現象そのものを終わらせる。あの日、アリシアの脳幹を貫いたニードル以上にクリーン、そしてスマート。
まったく理想的だった。
事件発生から数日で死んだという大量の若者たちの脳から一斉に離脱する魂の群れのきらめきが目に見えるようだった。
これを手に入れなくてはならない、どうしても。ガブリエルはそう決意した。
部隊の仲間たちには無論秘密にしていたが、ガブリエルには両親から相続した膨大な資産があった。国外の銀行――具体的にはスイスとケイマン諸島――で管理していたので、軍の身上調査にも引っかかっていないと確信できた。
今まで、ほとんど手をつけていなかったその金に、ガブリエルは初めて頼った。身元を追跡できないよう注意しながら、ネットを通じて私立探偵にナーヴギアの入手を依頼したのだ。
探偵は、直接日本に飛び、現地のブラックマーケットで品を買い付けてきた。総額で三万ドルを超える報酬を要求されたが、ガブリエルは黙って払った。偽名で取ったホテルの部屋に、フェデックスで届いた箱に収められていたのは、まだ真新しい濃紺の外装を持つ流線型のヘッドギアと、殺人ゲーム"Sword Art Online"のディスクだった。しかし新品ではない。添付された報告書によれば、以前の持ち主は十九歳の大学生で、事件発生の二十二日後に死んだという。
次にすべきことは、"処刑"時に損傷した信号発生素子の修理と、制御プロトコルの解析だった。ガブリエルはそれを、別の探偵を通して見つけた電子工学部の学生にまたしても大金を払って依頼し、二ヵ月後、再生されたギアを受け取った。
再び、狩りの季節がやってきた。
車を使って拉致した獲物に、ガブリエルはヘッドギアをかぶるよう命じた。当時まだアメリカには類する機械は無く、銃を突きつけられたハイティーンの少年は、泣きながらもいぶかしそうにギアを装着し、顎下でロックを締めた。
シガーソケットにアダプタを介して接続したナーヴギア本体の電源を入れると、ガブリエルの目の前で少年の体からくたりと力が抜けた。工学部の学生が"Sword Art Online"のリバース・エンジニアリングによって解析・作成したプログラムがロードされ、現実の肉体から切り離された少年の意識は暗闇の中、一本のブルーのゲージを見ているはずだった。"Hit Point"を表すそのゲージが突如減少を開始し、半減したところでイエローに、残り二割になったところでレッドに変化、そしてゼロになると、眼前に"You Are Dead"というメッセージが表示され――。
ガブリエルの眼前で、少年の体が一瞬ぴくりと震えた。せっかく直した素子を再び焼き切らないよう、出力はやや抑えてあるが、それでも充分に致命的な電磁波が少年の脳細胞を沸騰させたのだ。
すかさず、ガブリエルはヘッドギアからわずかに覗く少年の額に、自分の額を押し当てた。目を閉じ、何ものをも逃すまいと意識を集中する。
そして、彼は見た。ついに、それを見たのだ。
きらきらと輝く光の雲が、目蓋を閉じているはずのガブリエルの眼前に広がり、そのまま脳に染み込んでくる。彼は、名も知らぬ少年の恐怖、戸惑い、絶望を感じた。少年がこれまで生きてきた十数年を、コンマ数秒のラッシュ・フィルムとして感じた。少年が両親から与えられてきた愛情、少年が両親や妹、飼い犬に感じている愛情、その汚れ無き純粋なるエネルギーを感じた。
ガブリエルの目から涙が溢れた。アリシアを殺したときには及ばないが、それでも圧倒的な法悦が彼を包んでいた。少年の魂を、このまま己の脳に閉じ込めたい、と彼は懸命に望んだ。
だが、至高体験は、わずか数秒しか続かなかった。光の雲はガブリエルの頭を抵抗なく通過し、そのまま車の屋根を透過して、夜空へと昇っていった(ように感じた)。
ガブリエルは、ようやく、実験が次のレベルへと進んだことを自覚していた。つまり、"魂の捕獲"という段階へ。
"SAO"によって殺された初のアメリカ人となった少年の遺骸と、犯行に使用した中古のピックアップを注意深く処分し、基地へ戻るべくバイクを飛ばす道すがら、ガブリエルはひとつのことをずっと考えていた。
これまでに二度知覚した魂の離脱は、はたして何らかの神秘的現象なのだろうか、それとも科学で説明のつく物理現象なのだろうか?
おそらくは――後者であろう。とガブリエルは判断した。
光の雲の離脱が、主の御許に召される魂の昇天であるならば、持ち主の死に様によって起きたり起きなかったりするのは甚だ不公平というものだ。脳幹をピンポイントで破壊された人間のみ受け入れる天国の門など、ナンセンスの極み以外の何ものでもない。
つまりあれは、人間という有機機械を制御するある種のエネルギーの流出、と捉えるべきものだろう。であるなら、何らかの手段によって閉じ込めることも可能なはずだ。しかし一体、どのようなエネルギーなのか?
フォート・スチュアートの自宅に戻ったガブリエルは、早速ネットに接続し、様々な資料の渉猟を開始した。基地内のネットワークを流れるパケットが、NSAの情報監視システム(エシュロン)にチェックされていることは承知していたので、死、殺人、魂といった危険なキーワードの使用を避けたため時間がかかったが、ついに一週間後、興味深い情報を掲載しているサイトに行き当たった。
それは、ペンローズというイギリスの学者が提唱した、"量子脳理論"なるものを解説しているサイトだった。その説によれば、人間の思考を形作っているのは、脳細胞の微細管構造の中に存在する、量子状態の光が引き起こす波動関数の客観的収縮だという。
光量子! それこそまさに、あの揺らめく光の雲を指し示す言葉だ、とガブリエルは直感した。
つまり、離脱する魂を捕獲し、我が物とするためには、光を閉じ込められる容器があればいいということになる。
だが、それがどうにも難問だった。
光を閉じ込める――、言葉にすれば簡単だが、空気によって絶縁できる電気とは違い、光というのはどこにでも気ままに飛び出して行ってしまう。まず、内面を鏡状に加工した球体、のようなものをガブリエルは想像したが、反射してくる光の速度を上回るスピードで蓋を閉めることはできそうにない。
ならば、ある方向から入射された光を外に出さないような物質があればいいということになる。ガブリエルは半信半疑で検索を続け、そしていかなる偶然か、"光の閉じ込め"というテーマが近年の通信業界において最先端の研究テーマとなっていることを知った。
なんとなれば、通信インフラの光回線化が著しい昨今、その回線速度のボトルネックとなっている既存のルータ機器に代わる"光ルータ"というものの開発が各社で競われているのだった。その機械には、光の減速と閉じ込めという機能が必須であり、すでに"ホーリーファイバー"や"フォトニック結晶"といった基礎技術の開発は成功し、実用化が進められている段階らしかった。
ガブリエルはそれら実験段階の部材を入手するべく方法を模索したが、いくら資金が豊富な彼にも、情報管理の厳しい大企業の開発技術を盗み出すことはハードルが高すぎた。不本意ながら、ガブリエルは、光ルータ機器が実用化・市販されるまで――おそらくは目玉が飛び出すほど高価であろうが――待つよりないという結論に至った。
それまでの代替案として、ガブリエルはひとつの方策を考え出し、実行した。
ジャクソンビルの郊外に見つけた廃工場のせまい一室を、一ヶ月ほどかけて完璧な暗室に改造し、大口径のレンズを備えたカメラを持ち込んだのだ。
その後、更に一ヶ月を費やして相応しい対象を吟味し、そしてある夜、かつてのアリシアによく似た面影を持つ女子大学生を拉致した。気絶させ、暗室に運び込んだあと、入り口を分厚いテープで厳重に封鎖し、対象を椅子に座らせてナーヴギアを被せた。
対象の頭を注意深く固定し、その額にカメラのレンズを密着させるとこれも固定する。右手でナーヴギアの電源、左手でカメラのシャッターの位置を確認し、首に下げたLEDトーチを消すと、周囲は完全な闇に満たされた。
ガブリエルは、まずナーヴギアを起動した。改造SAOプログラムがロードされ、数秒後、迸ったマイクロウェーブが女子大学生の脳を灼いた。
すかさず、左手でカメラのシャッターを切る。長時間露光にセットしてあったシャッターはその口を開けたまま、対象の脳から遊離する光の雲を飲み込み、そして高感度フィルムがそれを受け止めたはずだった。
全てが終了すると、ガブリエルは死体を遠く離れた山林に埋め、カメラは名も知らぬ川に投げ込んで、フィルムを大事に抱えて基地に戻った。
興奮を抑えながら、自宅の暗室で現像した写真には――確かに、何かが写っていた。
一面の闇の中央に、ごくかすかに焼きついた七色の光。中央部では複雑なマーブル模様を作り、外に行くに従って放射状に広がっている。他人には単なる露光ミスとしか思われないに違いなかったが、ガブリエルには、どのような宗教画よりも美しい輝きを放って見えた。
これで満足しよう、今は。いつか、より完全な光の捕獲装置を手に入れる、その時まで。ガブリエルは自分に言い聞かせ、写真を額に入れて寝室に飾った。
こうして、ガブリエル・ミラーの魂を希求する旅の第一期が終わった。彼が手にかけた人間は、イラン軍兵士五十二人、イラン市民七人、アメリカ市民八人に上った。
ジェンセン大佐の肝煎りで、ガブリエルの合同シミュレーション訓練得点トップを祝うパーティーが基地近くのパブで催され、バリアンス隊のほぼ全員が集った乱痴気騒ぎは深夜二時まで続いた。
ガブリエルも盛大に羽目を外して、次々と注がれるビールを浴びるように飲み、仲間たちと声を合わせて部隊のテーマソングを歌った。端から見れば、ガブリエル・ミラーという人間は、イラン戦争で華々しい武勲を立てた英雄でありながらそれを鼻にかけない、仲間思いの気のいいLTで、愛すべき陽気な陸軍野郎そのものであったが、しかし勿論それはガブリエルの作り上げたいくつもの仮面の一つでしかなかった。
ガブリエルは酒に酔わない。どれほどアルコールを飲もうと、真に思考が乱れることは一切ない。それどころか、昔、自分の耐性を確かめるべく各種のドラッグを服用してみた時も、ハイになったり酩酊したりという症状はわずかにも現われなかった。彼の意識は常に明晰さを失わず、肉体を完璧に制御しつづけるので、様々なペルソナを操ることなど造作もないことなのだった。
タフな兵士として振舞うことは勿論、なろうと思えば、アイヴィーリーグ出のエリートビジネスマン、オイルにまみれた自動車工、首に缶をぶら下げた物乞いにすら完全に化けることが出来た。それゆえに、彼は大勢の獲物を容易く拉致し、そののちに捜査線上から煙のごとく消え失せることが可能だったのだ。
しかし、そのようなペルソナを全て剥ぎ取った、素のガブリエルに戻ったとき、彼は己がどんな人間なのか、自分でも形容することができなかった。パブでの大騒ぎがお開きになり、仲間達と別れて一人バイクに跨ると、もう必要なくなった"陽気な中尉"の仮面がたちまち消え去り、胸中を冷ややかな空虚さが満たした。
一体、自分は何ものなのか。ホンダのイグニションキーを回す手を止め、彼はふと考える。
軍に入ったのは、合法的に人間を殺すのが目的で、国や国民を守ろうという意識は欠片もないのだから軍人ではない。ならば殺人者かと言うと、殺人そのものが目的ではないので、それも違う。己を動かすのは、人間の魂なるものを知り、観察し、手に入れたいという欲求だけだ。では、なぜそれほどまでに魂に惹かれるのか? あの日、アリシアの魂を見たことが原因なのか? いや、そうではない。それ以前からずっと、生物という機械を動かすエネルギーが何なのか知りたかった。遡れる最初の記憶が、昆虫標本を飽かず眺める幼い自分なのだから。
これ以上は考えても答えは出ない。大量のアルコールが体内に入っているにも関わらず正確無比なシフト操作で大型バイクを加速させながら、ガブリエルは合理的に判断する。
自分が何ものなのかは、恐らく、目的を達したときに分かるのだろう。人間の――望み得るなら、汚れを知らぬ、活力に満ちた――魂を捕獲し、両手に収めて、心の底から満たされたと思えたとき、なぜ自分がこのような存在として生を受けたのか、その謎も解けるはずだ。
ヴァイタルな魂、その手触りを想像すると、普段虚ろな胸のうちにほんの少し熱が生まれたような気がして、ガブリエルは薄く微笑んだ。連想したのは、ガンゲイル・オンラインの大会でまみえた日本人の少女プレイヤーだ。
ナーヴギアを手に入れて以来、ガブリエルは深い興味を持って"SAO事件"の推移を見守り続けた。あの機械は直接魂にアクセスするものではないにせよ、人間の意識を肉体と切り離すという点において、己の目的達成に重大な意味を持つものだと直感していたからだ。
百の階層を持つ空中城に囚われた日本の若者たちは、そう時を待たずに全員死亡するだろうというニュース・コメンテーターたちの予想を裏切り、二年もの期間戦い続けて、何と全体の八十パーセント近くが生還した。
自動翻訳エンジンの悪文に苦労しながら読み込んだ日本のウェブログによると、事件解決の原動力となったのは、攻略組(プログレッサー)と呼ばれたごく一部――わずか二百人足らず――のプレイヤー達だったという。彼らは、一度の死亡がすなわち現実の死となる絶望的なデスゲームを戦い抜き、最終ボスを倒して、狂った開発者の設定した条件をクリアしてのけたのだ。驚くべきは、肉体と切り離されてなお失われない魂の力ではないか。
ガブリエルは、光ルータの完成を待つという方針を覆し、日本駐留部隊への転属を希望して、生還したSAOプレイヤーを何人か殺してみるべきか真剣に考えた。そのためにオンラインの語学講座に登録し、会話ならばほぼ完璧にマスターするにまで至ったのだが、計画を実行に移すより速く、日本製VRマシンとの接点は思わぬ形でガブリエルの前にもたらされた。
民生用機器の米国発売に先立って、自衛隊との協力体勢のもと、訓練用VRシミュレーションが軍に導入されるという噂が流れたのだ。もっとも、当初それを利用できるのは、SOCOM直下に新設されるカウンター・テロ部隊だけだという話だった。
ガブリエルは、迷うことなくその部隊、"バリアンス"の選抜試験に応募した。戦歴も、出身も、心理面もまったく問題なかった彼は、試験でも抜群の身体能力を見せつけ、ほぼトップの成績で合格した。
陸軍入隊以来七年を過ごしたフォート・スチュアートの第三歩兵師団から、マクディール空軍基地に置かれた主に空軍と海兵隊出身者からなるバリアンスに移ったガブリエルは、ここでも愛国心と仲間意識に溢れた好漢ぶりを如何なく発揮し、たちまち同僚と上官の信頼を勝ち得た。導入されたVRシミュレーター第一号機の、最初のテストダイブに自分が選抜されたことを、彼は偶然だとは考えなかった。
以来一年。
今では、ガブリエルは、部隊だけではなく、全軍で最もVRシミュレーション訓練に適応した兵士と言っても過言ではない。プライベートでも、ようやく発売された民生用マシン"AmuSphere"を発売日に購入し、様々なVRゲームの渉猟を続けている。
ITバブル崩壊の余波のせいか、一向に進まない光ルータの開発状況をガブリエルが忍耐強く待っていられるのは、間違いなくVR世界で多くの魂たちの殺戮を愉しんでいるからだ。殺しの手応えという点では、やはりアミュスフィアに触れて間もない米国のプレイヤーたちより、先行国日本のプレイヤーのほうが好ましい。相互接続を許可しているタイトルが少ないのは残念だが、それも秘匿プロキシ・サーバを設置することで回避できる。
次の週末に予定されている、ガンゲイル・オンライン・トーナメントのチーム戦のことを考えると、バイクのグリップを握る手がじわりと熱くなった。あの水色の髪の少女を背後から拘束し、ナイフでゆっくりと喉を切り裂けば、最後に人間を殺してからもう三年も味わっていないあの充実感がきっと甦るだろう。
その次は、いよいよ日本国内でのみ運営されているVRMMOゲームへと進出するつもりだった。ことに、旧SAOプレイヤー達が多数参加しているという"Alfheim Online"というタイトルがガブリエルの食指をそそっていた。
軍人ではなく、快楽殺人者でもなく、そして恐らくはVRMMOプレイヤーでもない、名を持たぬ自分にも、楽しみだと思えることがあるのが、ガブリエルには嬉しかった。
*第七章
二年。
と言われて真っ先に思い出すのは、もちろんかの浮遊城アインクラッドに囚われた苦しくも懐かしい日々のことだ。
あの頃は、一日一日が本当に長かった。フィールドに出ている間中、あらゆる種類の緊張に晒されていたのに加え、最大限の効率でステータスアップを図るために常にぎりぎりのタイムスケジュールを組んで行動していたからだ。肉体的疲労が発生しないのをいいことに、睡眠時間さえ限界まで削り、ねぐらに潜り込んでからも各種情報の暗記に勤しんだ。感覚的には、"アインクラッド以前"の十四年間と、"当時"の二年間がほぼおなじ質量を持っていると思えるほどだ。
それに比べて――。
この不思議な世界、アンダーワールドに放り出されてからの日々の、何と早く過ぎ去っていったことか。
一日二十四時間、年三百六十五日と現実世界に準拠した暦を遡れば、すでに二年をとうに超える月日が経過している。当初予想していたよりも、遥かに長い実験期間だ。
いや、そもそも、これは本当に正規の実験なのだろうか。現実の記憶が鮮明に残っているのが奇妙と言えば奇妙だし、その割には実験に参加した記憶が残っていないのが尚更腑に落ちない。
もし、俺が正規の手続きを経てSTLに接続しているのなら、あのマシンの時間加速機能は俺が知らされていたよりも遥かに高倍率を実現しているか、あるいは俺は数ヶ月間ダイブしっぱなしになることを承諾したということになる。その上で、実験開始直前の記憶だけをブロックし、この世界に身ひとつで放り出されたということになるのだが――果たしてそんなことが有り得るのだろうか? いっそ、俺のダイブ直後に現実世界で何かとんでもない事件か天変地異が発生し、崩壊した六本木のラース研究施設の廃墟で俺とSTLだけがひっそりと動きつづけている、というような事態を想定したほうがよほどしっくりくるのではないか。
そのへんのことを確かめるために、アンダーワールドの中核が存在すると思われる世界中央神聖教会を目指して旅を始めたはずなのだが、気付けばはや二年、である。
教会への侵入が物理的、というかシステム的に不可能と判明し、ならば教会内に自由に立ち入れる整合騎士なる身分を獲得するしかないと、その入り口であるセントリア修剣学院の門を学生としてくぐった頃は、何と迂遠な話かと気が遠くなったものだ。しかし日々与えられる剣技と勉学のカリキュラムに圧倒され、それを必死になってこなしているうちに、これだけの年月が経過してしまった。
やっていることはアインクラッドでの日々と殆ど代わらないはずだ。なのに、これほどまでに時間の流れ方が違うというのは、STLの時間加速機能の影響なのか、生命の危険が存在しないせいなのか――それとも、俺が、学院での日々を、心の底では楽しいと思っていたという事の証左なのだろうか。
そう、もう認めなくてはなるまい。アインクラッドから解放されて以来ずっと、俺の中には、仮想世界への帰還を望む衝動が拭いがたく存在していたことを。ALOを始めとする数多のVRMMOゲームでは決して癒されない、深い渇きを。
朝、自室のベッドで目を醒ました直後に、あるいは学校で級友たちとたわいもない馬鹿話に興じている折、更には明日奈と手を繋いで歩いているその瞬間でさえ、俺は時として、この現実はほんとうに現実なのか、という違和感に襲われた。まるで、現実という名のひとつのシミュレーションの中にいるかのような乖離感覚。明日奈とは、互いに何でも相談しあうと約束していたが、しかし、そのことだけは話せなかった。話せるはずがない――俺が、心の一部でとは言え、あの殺戮世界への帰還を望んでいるなどということは。それが、明日奈を始め苦しみながら生き抜いた多くの人たちを、そしてほぼ同じ数に上ろうという、あの場所で死んでいった人たちへの、手酷い裏切りだと知りながら。
つまり、そのような衝動を抱きながらそれを隠した俺は、二重に明日奈を裏切りつづけていたと言える。なのに、愚かしくも更に背信を重ねてしまったのだ。恐らく何らかの事故によって放り込まれたこの世界、完璧なリアリティを実現した究極の仮想世界アンダーワールドでの生活を愛することで。
もしかしたら、その裏切りへの報いだったのだろうか。修剣学院での暮らしが、あのような悲劇的な結末を迎え、一筋の陽光も届かない地の底に繋がれることとなったのは――。
両手首を縛める鎖の重さを確かめようと、じゃらりと重い金属音を立てると、すぐ近くの闇の中から小さな声がした。
「……起きてたの、キリト」
「ああ……ちょっと前からな。悪い、起こしたか」
獄吏に聞かれないよう同じく囁き声で答えると、今度は小さな苦笑が返ってきた。
「寝られるわけないじゃないか。というか、牢屋に叩き込まれたその晩から鼾かいて寝るお前のほうがおかしいよ」
「アインクラッド流の極意その一だ。寝られるときに寝とけ」
言いながら周囲を見回す。灯りは、鉄格子を隔てた通路のずっと先にある獄吏の詰所からわずかに漏れ届くのみで、隣のベッドにいるはずのユージオの輪郭がやっと見える程度だ。もちろん、光をともす程度の初歩神聖術はとっくにマスターしているが、どうやらこの牢獄ではあらゆるシステム・コールが無効化されているらしい。
表情は伺えないが、ユージオの顔のあたりに目を凝らし、俺はためらいながら尋ねた。
「どうだ……少しは落ち着いたか?」
体内時計に従えば、時刻は午前四時といったところだろう。この牢獄に叩き込まれたのが昨日の昼頃だったから、さらにその前日の夕刻に発生したあの惨劇からは、やっと三十六時間程度が経過したに過ぎない。禁忌目録に背いてライオス・アンティノスを剣にかけ、更にその精神が崩壊する様を目撃したユージオが受けたショックは激甚なものだったはずだ。
しばらく沈黙が続いたあと、ごくごくかすかないらえがあった。
「なんだか……全部が、まるで夢みたいで……。ロニエとティーゼのこと……ライオスのこと、それに……アリスの……」
「……あまり思い詰めるな。これからのことだけ考えるんだ」
どうにかそれだけを口にする。俺は直接目撃していないが、ライオスのフラクトライトが異常を来した理由が、自らの死というあり得べからざる概念を受け入れられなかったことならば、まったく同じ理由でユージオも崩壊してしまうかもしれないという懸念があった。
しかし、それにしても腑に落ちない。
この世界を動かすラースの、ひいては菊岡誠二郎の目的は、完全なる人工フラクトライトの発生だと俺は推測していた。現実世界の人間とまったく同じ情動と知性を持つアンダーワールド人たちの、ただひとつの瑕疵が"法を破れない"ことだとすれば、青薔薇の剣でライオスを断罪したユージオはその壁を乗り越え、言い換えれば最終的なブレイクスルーを得て、いまや真なる人工知能へと進化を遂げているはずだ。だから、俺は一昨日ライオスの部屋で思わず天を仰ぎ、世界が停止する瞬間を待った。
しかし、今に至るまで実験が終了する気配はまるで無い。これは一体どういうことなのだろうか。ラースのスタッフは、ユージオの精神が落ち着くのを待つつもりなのか、あるいはSTRAの倍率が高すぎてまだこの事態をモニターできていないのか、それともやはり、何か想定外の事故が発生しているのか……。
「うん……そうだね」
ユージオの呟き声に、俺はもう何度も捻りまわしている疑問を脇に押しやった。
「これからのこと……どうにかここから脱出して、アリスに何が起きたのか確かめないと……」
「ああ、そうだな。しかし……脱出と言ってもな……」
もう一度、両手首から石壁まで伸びる鉄鎖をじゃらりと鳴らす。
昨日、二匹の飛竜によって神聖教会まで連行された俺とユージオは、白亜の巨塔を眺める暇もなく裏口から地下への螺旋階段をひたすら下らされ、そこで本当に教会の一員なのかと疑いたくなる恐ろしげな獄吏に引き渡された。アリス・シンセシス・フィフティと名乗った整合騎士ともう一人はそこで振り向きもせず去っていき、ヤカンのような金属マスクをかぶった獄吏が、恐らく久々の仕事に嬉々としながら俺とユージオをこの牢にぶち込んで鎖に繋いだのだ。
あとは、夕方に一度、かちかちに乾いたパンと生ぬるい水の入った革袋を檻越しに放り投げに来ただけだ。これに比べれば、アインクラッドの黒鉄宮の牢獄に収監されたオレンジプレイヤーの待遇など、高級ホテルのスイートルーム並みと言っていい。
鎖を引っ張る、かじる、神聖術で切断する等の手段は昨日のうちに一通り試し、それが呆れるほど頑丈に出来ているのはすでに確認済みだ。もしユージオの青薔薇の剣か、俺の黒いのがあればこんな鎖など一撃で叩き切ってみせようというものだが、所持品の入った袋は整合騎士たちがどこぞへ運び去ったまま行方が知れない。
つまり現段階では脱獄の可能性は限りなく低く、あとは騎士たちが言っていた審問とやらの折に機会を狙うしかなさそうだという状況なのだ。
「……アリスも……八年前、ここに繋がれたのかな……」
鉄枠にぼろ布を被せただけのベッドに横たわったまま、ユージオが力なく言った。
「さあ……どうかな……」
答えになっていないが、そう返すほかない。ユージオの幼馴染である"アリス"が、ルーリッドの村より連れ去られたのち俺たちと同じ処遇を受けたのだとすれば、わずか十一歳のときにたった一人、あの鉄面の獄吏によって冷たい大鎖に繋がれたことになる。さぞ凄まじい恐怖を感じたことだろう。やがて審問台に立たされ、何らかの刑を宣告され――その後は……?
「なあ、ユージオ。念のため確認しておくけど……あのアリス・シンセシス何とかって名乗った整合騎士が、お前の探してるアリスなのは、間違いないのか?」
躊躇いがちに訊ねると、しばしの沈黙に続いて、嘆息混じりの声が流れた。
「あの声……あの髪、目……忘れるわけはないよ。ただ……雰囲気はまるで別人だけど……」
「まあな、幼馴染にしては随分容赦なくお前を引っ叩いたからな。つまり……何らかの手段によって、記憶とか精神とかを制御されてる、ってことなのかな……」
「でも、そんな神聖術、教本には載ってなかったよ」
「教会の司祭ってのは、天命さえ操るってんだろう? 記憶をどうこうするくらいやってのけてもおかしくはないさ」
そう、STLというのはまさにそれを可能とするマシンなのだ。何らかの電気的メディアに保存されているのであろう人工フラクトライトならばなおのこと。そう思いながら続ける。
「でも……となると、あれは何だったのか……。二年前、ルーリッドの北の洞窟で……」
「ああ……言ってたよね。シルカと一緒に僕を治療しようとしたとき、アリスらしい声を聞いた、って……」
あの洞窟で、傷ついたユージオに猛烈な勢いで天命を吸い取られこれ以上は保たないと覚悟したとき、俺はたしかにアリスとおぼしき少女の声を聞き、その手を感じた。あまつさえ、俺とユージオ、そしてアリスが、ルーリッドの村でともに生まれ育ったのだという恐ろしいほどリアルな記憶の存在を意識した。
その記憶を単なる錯誤として片付けていいのかどうかもいまだに判断できていないが、ともかく俺とユージオは、あの時の声が告げた、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、という言葉だけを頼りにここまでやってきたのだ。
しかし、俺たちの前に現われたアリスは、ルーリッドの村長の娘アリス・ツーベルクではなく、冷酷な法の番人、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティと名乗った。俺たちのことをあくまで裁くべき罪人としか見ていない物腰からは、ユージオの幼馴染であると思わせるものは皆無だった。
彼女は実際に別人なのか、それともやはり記憶を制御されているだけで本物のアリスなのか――それを確かめるには、どうにかして現状から脱け出し、実際にこの塔、つまりセントラル・カセドラルの最上部にまで昇ってみるしかなさそうだ。結局はそこに行き着くのだが、しかし鎖も鉄格子も、ちょっとやそっとでは傷一つつきそうにない。
「ああ、もどかしいな……。今ここに神サマがいれば、襟首締め上げて真実を残らず吐かせてやるのにな!」
お気楽トンボ野郎こと菊岡の顔を思い浮かべながら俺が吐き捨てると、ユージオがいつもの苦笑いを浮かべて囁いた。
「おいおい、いくらなんでも、教会の中でステイシア様の悪口はまずいよ。天罰が下っても知らないぞ」
あれだけのことをしておきながら、まだ遵法意識の持ち合わせはたっぷり残っているらしいユージオの様子に少々安堵しながら、俺は肩をすくめた。
「どうせならこの鎖に天罰とやらを落としてくれないもんかな」
軽口を叩いてから、ふと気付き、首を捻る。
「そう言えば、この場所は、"窓"も出せないのか?」
ユージオは、少し考える素振りをしたあと、同じように首を傾けた。
「そう言えばそれは試してなかったね。やってみなよ」
「ああ」
俺は通路の奥にある獄吏詰所の様子をうかがってから、右手の指を伸ばし、この二年半ですっかり腕に染み付いたステータス・ウインドウ呼び出しゼスチャーを行うと、さして考えもなく左手を縛める鎖を叩いた。
一瞬の間をおいて、見慣れた薄紫色のウインドウが浮き出し、俺は僅かに安堵した。鎖のステータスを見られたからと言って状況が好転するとは思えないが、何にせよ情報が収集できるのは喜ばしいことだ。
「お、出たぞ」
ユージオにニッと笑いかけてから、いそいそと窓を覗き込む。表示されているのはわずか三行、固有のアイテムIDと、その下に"25500/25500"といううんざりさせられる耐久度、そして"クラス38オブジェクト"の文字列だけだった。
クラス38というのは、単なる鎖としては噴飯物に高いプライオリティだが、さすがに神器である青薔薇の剣の45や、数百年を経た魔樹ギガスシダーの枝を砥いだ黒いのの47には及ばない。つまりどちらかの剣があれば、やはりこの鎖の切断は可能だったはずだが、今それを言っても無いものねだりというものだ。
俺に倣って自分の鎖の窓を出したユージオが、さすがに辟易したような声で呟いた。
「うへ、こりゃあいくら引っ張ってもびくともしないわけだよ。この鎖を切るには、最低でも同じクラス38の武器なり道具なりがないと……」
「そういうことだな」
俺は改めて、狭く暗い牢獄を見回したが、あるのは粗末な鉄のベッドと、空の革製の水袋くらいだ。ベッドを破壊すればバールの代わりにでもなるかもしれないと、一縷の望みを託して窓を出してみたが、こちらは見た目どおりクラス1の安物だった。ならば鉄格子はと目をやるが、こちらは鎖のせいでそもそも触れることすらできない。
それでも諦め悪くきょろきょろ首を動かしていると、隣でユージオが溜息混じりに言った。
「いくら探したって、こんな牢屋においそれと名刀なんか落ちてないよ。そもそもモノ自体ないじゃないか。鎖がほとんど唯一ここにあるモノだよ、どう見たって」
「……唯一……」
俺は自分の腕を縛める鎖を眺め、次にユージオの手首から伸びる鎖を見やった。ようやく、ある一つのアイデアが浮かび、興奮を抑えながら囁く。
「いいや、唯一じゃないぞ。二本あるじゃないか、鎖の野郎」
「はぁ?」
何を言ってるんだ、と眉を寄せるユージオを急かしてベッドから立たせる。
「おいキリト、どうしたの一体」
答える手間も惜しんで自分も石床に降り、俺は闇に目を凝らしてユージオの立ち姿を確かめた。簡素な部屋着から伸びる両腕には黒々とした鉄輪が嵌り、左右のそれを問題の鎖ががっちりと繋いで、さらに右手からは一本の長い鎖が伸びて壁に埋め込まれた留め具まで続いている。
俺はまず、ユージオの手と壁を繋ぐ鎖を身を屈めてくぐり、今度はユージオをしゃがませて、鎖をまたいで元の場所まで戻った。これで、俺とユージオの鎖はエックス型に交差したことになる。手振りでユージオを少し下がらせ、自分も離れると、二本の鎖は交差点から耳障りな音を立てながらぴんと張りつめた。
これで、ようやくユージオは俺の意図を察したように目を丸くし、次いで疑わしそうに唇を曲げた。
「あの、キリト、まさかこのまま引っ張ろうってんじゃないよね?」
「引っ張ろうってのさ。原理的には、これで鎖は互いに天命を削りあうはずだ。試してみればわかるさ、早く両手で鎖を握れよ」
俺とユージオは、右手首から伸びる鎖を両手で握り、腰を落とした。
「おっと、その前に……」
もう一度右手でゼスチャーを切り、鎖を叩いて窓を呼び出す。
無論現実世界でこれと同じ真似をしても、鎖はせいぜい軋む程度で切断など到底覚束ないだろう。だが、このアンダーワールドにおいては、万物はいかにリアルであろうとも厳密な物理法則に従っているわけではない。かつて、一本の剣を用いてわずか五日で直径四メートルの巨樹を切り倒すことが可能だったように、二つのオブジェクトを一定以上の圧力をかけて接触させれば、よりプライオリティが高く天命が多いほうが、やがて確実にもう一方を破壊することになるのだ。
俺たちは目を見交わし、口だけでせーの、とタイミングを取ると、全筋力と体重を振り絞って握った鎖を引っ張った。と、思いも寄らないユージオの馬鹿力につんのめりそうになり、なにくそと床を踏み締めて引っ張り返す。たちまち向こうの顔にも負けん気が浮かび、俺たちはしばし大人気なく意地の張り合いを続けた。数秒後、鎖の交差部分からぎりぎりっと歯の浮くような摩擦音が発生し、俺は我に返って出したままだった窓を覗き込んだ。
「おっ」
思わずガッツボーズをしたくなるが、それは叶わないので勝ち誇った笑みを浮かべるに留める。二万五千を誇った鎖の天命は、狙い違わず急速な減少をはじめていた。おそらく、俺たちのオブジェクトコントロール権限が50近くなければ不可能な手段だったろう。だから、八年前にたった一人投獄された幼いアリスには、この鎖を切ることはできなかったはずだ。
やはり彼女は、審問の場に引き出され、そこで何かがあったのだ。しかし、一体何が――?
俺の思考を、ピキンという甲高い金属の悲鳴が遮った、と思う間もなく俺とユージオは猛烈な勢いで後ろに転がり、同時に後頭部を石壁にしたたかぶつけた。
しばし床にうずくまり、STLが律儀に再生した打撲の痛みとショックに耐えてから、ようやく体を起こす。今度こそ獄吏に気付かれたかと鉄格子の向こうを窺うが、やはり何ものも現われる気配はなかった。
遅れて立ち上がったユージオが、尚も手で頭をさすりながらぼやいた。
「うう、今ので天命が百は減ったよ」
「それくらいで済めば安いもんだろう、ほれ」
俺は両腕を突き出し、右の鉄輪から力なく垂れ下がる鎖を小さく揺らした。圧力を受け止めていた部分のリングは真っ二つに断ち割られ、計四つの破片となって床に転がっている。
ユージオも、自分を戒めていた鎖が見事に破壊されているのを確認し、少しばかり口惜しそうに笑いながら右手の親指をぐっと立てた。
「まったく、こういう無茶を仕出かすことに関しては、いつまで経ってもキリトには叶わないな」
「ふふん、無茶は俺の旗印だからな。……さて、こっちも切らないと」
これで壁から二メートル、いや二メルしか離れられないという状況からは解放されたが、まだ両手首を四十センほどの鎖が繋いでいる。しばらく考えてから、壁に残っているほうの鎖を両手のあいだに通し、その先端をユージオに握っていてもらいながら今度は慎重に圧力をかけていくと、時間はかかったが同じように切断できた。同じ手順でユージオの鎖も切り、俺たちは久々に両手を大きく広げて思う存分伸びをした。
「……さて、と」
今後の行動に移る前に、これだけは確認しておかねばならないと思い、俺は真面目な顔を作ってユージオを見た。
「一応聞いておくけど……いいんだな、ユージオ。ここから脱出して、アリスに関する真実を探るということは、つまり神聖教会に真っ向正面から反逆するってことだ。今後、何か行動を起こそうとするたびに一々葛藤している余裕はないぞ。ここで覚悟を決められそうになかったら、お前は残ったほうがいい」
実のところ、これは少々賭けでもあった。根源的な理由によってあらゆる法に背けないはずの人工フラクトライトであるユージオは、上級修剣士ライオスの腕を斬り飛ばすというほとんど最終的な禁忌を犯すに至ったのだが、その過程で、彼の魂を作る光量子回路にはとてつもなくドラスティックな変革が発生したはずだ。
つまり今の彼の状態は見た目以上に不安定であると考えるべきで、出来たばかりの新しい思考回路に負荷をかけすぎるとそれこそライオスのように崩壊しかねないと危惧した俺は、これまで意識的にユージオに神聖教会と禁忌目録への反逆という話題を振らないようにしていたのだ。
しかし、このまま状況に流されるならともかく、脱獄して最上階を目指すという過激な行動を起こすなら、その最中に突発的に葛藤されるよりも、ここで最低限意識を整理しておいてもらったほうがいい。アリスの謎を探るという目的のほかに、俺にはもう一つ、最上階を目指す動機があった。もしこのアンダーワールドに、外部、つまり現実世界のラース研究員に連絡できるシステムコンソールがあるとすれば、それはおそらくこの教会の最中枢部以外有り得ない。俺はなんとかしてそこに辿り着き、スタッフか菊岡に連絡をとって、ユージオが最終的ブレイクスルーに達したことを知らせて彼のフラクトライトの保護を指示しなくてはならないのだ、何としても。
そう、俺は、ユージオを――俺の無二の相棒にして親友を、今の彼のまま現実世界へ連れ出すつもりなのだ。実験終了などという無味乾燥な理由で、彼と永遠に別れたり、いわんや彼の魂を消去させることなど絶対に容認できない。ユージオなら、絶対に明日奈や直葉、他の友人たちとも仲良くなれるはずだ。いや、彼だけではない。後輩のロニエやティーゼ、それにソルティリーナ先輩やルーリッドのシルカといった愛すべきフラクトライトたちを、どうあろうと消去させはしない、絶対に。
ユージオは、俺の言葉に虚をつかれて目を見開き、次いで急に痛みを感じたかのように右目を掌で覆った。一体どのような現象のあらわれなのか、ライオスを斬ったとき彼の右目は激しく出血し、その後神聖術による治療によって傷は塞がったはずだったのだが。
しばらく俯いたままだったユージオはやがて手を下ろし、唇を噛みながらゆっくりと、しかし大きく頷いた。
「……分かってる。僕は――僕は、もう決めたんだ。アリスを助け出して一緒に村に帰るためなら、どんな禁忌だって犯す、教会にも背くって。そのために必要なら……また人間だって斬ってみせる。……あの整合騎士が本物のアリスなら、なんで記憶を失っているのか探り出して、もとのアリスに戻すんだ。絶対に、そうする」
顔を上げたユージオの右目は、出血こそしていなかったが、どこかこれまでの彼にはない強烈な光を宿していた。俺は、彼の言葉に頷き返しながらも、ある種の新たな危惧を感じてわずかに息を詰めた。アリスを助け出すという決意自体に異論はない。しかし――そのためにあらゆる禁忌を犯すという言葉が、俺に名状しがたい不安をもたらす。
もっとじっくり話し合うべきだという気もしたが、そんな時間の余裕があるとも思えなかった。脱獄に成功し、装備を取り戻して一息ついたら、善悪の二面性ということについて彼と話そう、そう心に決めて、俺は口を開いた。
「よし。でも、戦闘は可能な限り避けるぞ。正直、整合騎士とまともにやりあって勝てる気はしないからな」
「キリトにしては弱気じゃないか」
にやっと笑うユージオに、勝てる戦いしかしない主義なんだと言い返して、俺は鉄格子に歩み寄った。直径三センほどもありそうな極太の鉄棒を叩いて窓を出す。ほっとしたことに、これもベッドと同じクラス1のオブジェクトだった。ただし、太さに比例して耐久度は三千を越えている。
隣に立ったユージオも格子を握り、うーんと唸った。
「鎖よりはまだ何とかなりそうだけど、道具がないと大変なのは一緒だね。どうする、二人で体当たりでもする?」
「んなことしたらまた天命が減っちまうぜ。あるじゃないか道具……というより武器が。お前、鞭の練習はしなかったのか?」
「ムチぃ? そんな科目、学院には無かったろう? せいぜい節棍くらいで……」
呆れ顔のユージオを下がらせ、俺は右手からぶら下がる、長さ一メル強の鎖を握ると軽く振った。
「まあ見てろって。ソルティリーナ先輩から教わったんだ、あの人は貴族のくせに、剣以外の武器術もまるで百貨店だったからな……。いいか、鉄格子を吹っ飛ばすとさすがにどえらい音がするだろうからな、一気に走って階段を目指すぞ。獄吏が出てきても戦わないで逃げるからな」
「……へぇー」
ユージオの妙な視線を無視して、腰を落とす。鞭代わりに使うには長さがかなり足りないが、威力は38のプライオリティが補ってくれるはずだ。ちゃり、ちゃりとかすかな音を立てながら頭上で鎖を回転させはじめると、すぐに鋭い風切り音が金属音に重なる。握った手許ではなく、鞭の先端を意識しながら打つのよ、という先輩の言葉を思い出しながら回転数を限界まで上げ、俺はぐっと息を止めると腕をしならせた。
鈍色の蛇のように宙を疾った鎖の先端は、鉄格子でできたドアの錠前部分を寸毫狂わず直撃し、暗闇に無数の火花が咲いた。耳を圧する大音響とともに、ドアは蝶番と掛け金の残骸を撒き散らしながら吹っ飛んで、向かい側の牢屋の格子に激突して無残にひしゃげた。もしあっちにも囚人がいたら、それこそソルスの天罰でも降ってきたかと思ったに違いない。
もうもうと立ち込める粉塵を左手で振り払いながら、俺は通路に転がり出た。いくらなんでもさっきの音を聞けば、あのヤカン頭の獄吏も飛び起きるだろう。鞭がわりの鉄鎖があれば、おいそれと戦闘で遅れを取る気はしないが、正直命じられた仕事をしているだけの人間相手に武器を振るいたくはなかった。
身構えながら通路の先を窺うが、しかし数秒が経過しても、意に反して何ものも現われる様子はない。首を捻りながら振り向き、続いて出てきたユージオを見やると、早口に言った。
「待ち伏せでもされていると厄介だ。気をつけていくぞ」
「わかった」
頷きあい、今更ではあるが足音を殺しながら走り出す。
連行されたときに頭に叩き込んでおいた地図によれば、この神聖教会地下牢獄は、放射状に八本の通路が広がり、それぞれの通路の両側に俺たちが放り込まれたような収容房が八つ設けられている構造だ。全ての房が二人部屋なら、八掛ける八掛ける二で百二十八人ぶんものキャパシティがある計算になるが、はたして有史以来この場所にそれだけの囚人が存在したことがあるとは到底思えない。
通路が集まっている円形の空間の真ん中には、小さな獄吏詰所があり、その脇から地上へと続く螺旋階段が伸び上がっている。なんとか獄吏をかわして階段に飛び込んでしまえばこちらのものなんだが――と思いつつ、通路を駆け抜けた俺は、ハブ部屋の手前で立ち止まり、奥の様子を探った。
さすがに部屋は真っ暗闇ではなく、詰所の壁には小さなランプが吊るされ、あたりをぼんやりと照らし出している。動くものは一切なかったが、手前の陰に獄吏が身を潜め、何やら恐ろしげな武器を振りかざしているのではないかと予想し、懸命に耳をそばだてた。と――。
「……ねえ、キリト」
「しっ!」
「キリトってば」
全感覚を張り詰めている俺の肩をユージオがゆさゆさ揺すぶり、俺は眉をしかめて振り返った。
「なんだよ?」
「ねえ、この音……イビキじゃないか?」
「……なんだと」
言われるまま、聴覚の焦点をずらすと、確かにごくごく微かではあるが馴染みのある低周波音が周期的に繰り返されているのに気付いた。
「…………」
もう一度ユージオの顔を見てから、俺は脱力しつつ立ち上がった。
八本の通路が集合する円形の部屋の中央には、これも円筒形の獄吏詰所が設けられ、壁の一箇所に鉄扉と、その横に小さな窓が造りつけられていた。詰所の壁を巻くように伸びている階段が見える。
俺たちは拍子抜けしつつも足音を忍ばせて詰所に近づくと、窓から中を覗いた。狭い丸部屋にある調度は粗末なベッドただひとつで、そこに樽のような巨体を押し込めるようにして見覚えのある獄吏が横たわり、窓越しにもはっきりと聞こえる大鼾を奏でている様子が見て取れた。
油染みた、襤褸布のようなズボンだけを穿き、上半身裸の獄吏は、寝ているあいだもヤカンに似たマスクを外していなかった。俺は思わず、この囚人のめったに来ない地下牢の番をひたすら続け、太陽を見ることもない生活をいうものを想像し、心の底からこの獄吏に同情した。
現実世界であれば、とっとと転職するという選択肢もあろうが、しかしこの世界では、十歳を迎えると同時に与えられる天職を拒否することはできないのだ。そもそも人工フラクトライトには法、命令に背くという概念は存在しないため、恐らくこの獄吏は、疑いひとつ抱くことも許されずに、齢十の頃からこの地下空間で朝も夜もない暮らしを続けてきたのだろう。狭い詰所から出ることもなく、決まった時間に起き、決まった時間に寝る、それだけが彼の仕事だったのだ。俺たちがあれほどの大騒ぎをしても、まったく目を覚まさなくなってしまうくらい。
詰所の壁には、大小さまざまな鍵が無数に掛けられていた。そのなかには、俺とユージオの手首に嵌っている鉄輪を外す鍵もあると思われたが、獄吏の唯一の安らぎを妨げるにしのびず、俺はユージオを促すと言った。
「……行こう」
「ああ……そうだね」
ユージオも、何かしら思うところがあったような顔で頷いた。俺たちはそっと窓から離れ、ドア脇の階段に足を載せると、あとは振り向くこともなくひたすら駆け上り続けた。
降りるときは随分時間のかかった螺旋階段も、鍛え上げた俺とユージオが全力で走れば、昇りきるのに十分とかからなそうだった。地下の湿り気がこもった空気に、だんだんと冷たい甘さが混ざり始め、俺たちはいっそう必死に二段飛ばしで足を動かした。やがて上方に仄かな灯りが見え始め、それが四角い出口の形になり、警戒するのも忘れてそこに飛び込むと、俺は新鮮な空気を貪るように吸った。
「ふう……」
一息ついて、あたりを見回す。
巨大な神聖教会セントラル・カセドラル・タワーの裏手、どこか陰鬱な気配が漂うバラ園の中だった。青銅製の柵が迷路のように縦横に走り、それに絡みついたイバラの蔦が、トゲに夜露を宿して光っている。
背後には、今出てきた塔の壁が左右に伸び、それに沿って回り込めば正面まで出ることは可能と思われたが、残念ながら高い柵が壁に密着して行く手を遮っており、まっすぐ進むのは難しそうだった。トゲだらけのイバラが巻きついた柵を素手で登るのはあまり楽しそうではないし、鎖を使って柵ごと吹っ飛ばしていくのも、やればできるだろうが整合騎士がわらわらと集まってきてしまいそうだ。
どうしたものかと考えていると、夜空を見上げていたユージオが、長く息を吐きながら囁いた。
「どうやら、朝の五時前って感じだね。もうすぐ明るくなるだろうから、その前になんとか塔に潜りこみたいね……」
「うむ。――と言っても、入り口とかどこにあるのかな……。できれば正面玄関からは避けたいよな」
「剣も無いしね」
言われてみればそのとおりだ。鉄鎖もそれなりに心強い武器ではあるが、ユージオは使い慣れないようだし、できれば早いところ青薔薇の剣と黒い奴を回収したい。そこでようやく、俺はもうここが牢獄ではないのだということを思い出した。
「システム・コール!」
右手を掲げて小声で叫ぶと、神聖術がコマンド待機状態に入った証として、指の回りをほのかな紫色の燐光が包む。ほっとしながら先を続ける。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:1999!」
黒いのが存在する場所を追跡するコマンドを実行すると、右手の人差し指から、髪の毛のように極細の紫色のビームがするすると伸び、塔の少し高いところにある壁の一点に刺さった。指を動かし、ビームの振れ幅から、黒いのまでの距離を概算する。
「うーん、だいたい塔の三階、中央やや北寄りって感じだな……」
呟き、手を振ってコマンドを終了する。
見ていたユージオは、記憶を探るように視線を泳がせた。
「えーと……探し物までの最短ルートを表示するような神聖術って、あったっけ?」
「さすがに無いだろう、そんな便利な術は。あったら、学院から脱け出す道を探すときに使ってるよ」
苦笑しつつ答えると、いつも寮を脱け出しては買いに行っていた揚げ菓子やまんじゅうの味が思い出され、空っぽの胃がきりきりと刺激された。思わず、ちょいと脱出して腹ごしらえをすることを提案したくなるが、せっかく潜り込んだ教会にまた入れなくなってしまったら目も当てられない。
汁気たっぷりの肉まんの味を反芻するだけで無理矢理満足し、俺は振り向くと、バラ園の迷路を眺めた。
「確か、この先に整合騎士の飛竜が降りたちょっとした広場があったよな。あそこまで行けば道が分かるかもしれない。とりあえずそこを目指そう」
「うん、わかった」
ユージオと軽く頷きあって、俺は小走りにイバラの園に足を踏み入れた。
晩春だけあってバラは今が花盛りらしく、暗赤色や黒紫色の花たちが濃密な香りを漂わせるなか、俺たちは星明かりだけを頼りに右に曲がり左に曲がりしながら進んだ。幸い、振り向けば天を衝く白亜の巨塔が常に見えるので、方向だけは分かる。袋小路に突き当たっては戻って曲がることを繰り返し、およそ十五分ほども進むと、ようやく前方に見覚えのある背の高いアーチが出現した。その先に、ベンチと噴水のある広場があったはずだ。
広場なんだからバラ園全体の地図もあるだろう、あってくれと思いながらアーチをくぐろうとした俺の上着を、後ろからユージオが突然掴んだ。
「な、なんだよ」
「……誰かいる」
「なにっ……」
咄嗟に身構え、俺は目を凝らした。
広場は南北に長い長方形で、俺たちのいるアーチが南端にあたる。中央にはテラリア神を象ったブロンズ像のある噴水が設けられ、回りに華美な曲線を持つ金属製のベンチが四つ並んでいる。
その東側のひとつに、ユージオが言うとおり人影がひとつ、脚を組んで座っていた。左手にはワインらしきグラス、右手にバラの花を一輪乗せ、花弁に鼻を寄せている。ゆるくウェーブした長い髪のせいで顔は見えないが、体は磨き上げられた白銀の鎧に包まれ、肩からは手のバラと同じ黒紫色のマントが垂れているのが見てとれた。
俺と同時にユージオも息を飲み、次いで、絞り出すように囁いた。
「整合騎士だ……!」
間違いなかった。しかも、マントの色と鎧の形からするに、学院まで俺とユージオを連行しに来た二人のうち、アリスではないほうだ。
即座に振り向いて迷路に逃げ込むべきか、俺は一瞬迷った。が、行動を決定する前に、バラから顔を離した整合騎士が、爽やかな響きのある声を発した。
「見ていないで、入ってきたまえ囚人君たち」
フルフェイスの兜を被っていたときの、陰々と歪んだ声とはまったく違う。その語尾に挑発的な調子を感じ取った俺は、つい悪い癖を出し、逃げるかわりに前に進んでいた。
「へえ、俺たちにもそのワインを振舞ってくれるとでも言うのか」
俺の言葉にすぐには答えず、整合騎士はこちらに顔を向けると、ワイングラスを少し掲げてみせた。
「これは、君達のような子供……しかも罪人が口にできるものではないよ。ウェスダラス帝国産、百五十年物だ。この雫を舐めるためだけに……」
右手のバラをワインに少し漬け、付着した液体を足元にぽたりと垂らす。
「這いつくばる上級貴族だって山ほどいる」
にこりと笑ったその顔は、言動と相まって、この野郎と思いたくなるような怜悧な美貌だった。高く通った鼻筋と、やや野性味のある長い眉に囲まれて、すっと切れ上がった眼が涼しげな光を放っている。
つい気圧され、口をつぐんだ俺とユージオが見つめるなか、騎士は組んでいた脚をほどくと金属音ひとつさせず立ち上がった。ディープ・バイオレットのマントと、波打つペール・パープルの髪が同時に夜風になびく。
「さすがにアリス様は慧眼だな。君たちが脱獄するという、有り得ない可能性に備えて一晩ここで過ごせと仰るから、バラを愛でつつ夜明かしをしようかと思えば本当に現われるとは。その鎖は南の果ての火山で鍛えられた呪鉄製だよ。それを切るなんて、君達はやはり大逆の徒だな。仕置きが多少厳しいものになってしまうことは……もう覚悟しているだろうね?」
言葉を切るとワインを飲み干し、騎士はグラスとバラを同時に放り投げた。恐らくとんでもない値段なのだろう薄いグラスが、石畳に落ちてはかない天命を散らす。
恐らくはこいつも貴族の出なのであろう、気障な台詞回しはライオス・アンティノスと通じるものがあったが、あの男が常に漂わせていたアクたっぷりの嫌味はまるで感じられなかった。その理由は、この整合騎士が、自信たっぷりの言葉を裏付けてお釣りのくるすさまじい剣気を放っているからだ。
「さて、君たちの天命を残り一滴まで減らすまえに、もう一度名乗っておこう。あの時は無粋な兜ごしで失礼したからね。整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス……またの名を、"無間"のエルドリエだ」
まだ左腰の剣に手もかけていないのに、ごうっと闘気が吹き付けてきたような気がして、俺は思わず右手から下がる鎖を構えて一歩あとずさった。まだ広場に数歩入ったばかりの俺たちと、エルドリエと名乗る騎士のあいだには、十五メル近い間合いがあるのに、本能がこれ以上接近することを拒んでいる。
エルドリエは、マントと同じ色の瞳でちらりと俺の鎖を眺め、ふっと唇をほころばせた。
「なるほど、それを武器にしようというのか。なら、私も剣ではなくこちらで相手をしようかな」
動いた右手が掴んだのは、剣の柄ではなく、剣帯の後ろ側に留められていたらしい――金属の鞭だった。
幾重もの輪に巻かれていた鞭は、エルドリエの右手からぱらぱらとほどかれ、蛇のように石畳の上にわだかまった。俺の握る無骨な鎖とは違い、銀糸を編み上げたような美麗な造りだ。しかし、よくよく見ると、まるでバラの蔓のようにそこかしこから鋭いトゲが生え、剣呑な輝きを放っている。あんなものに打たれたら、皮膚が裂ける程度では収まるまい。
その上、鞭の長さはどう見ても四メルはありそうだった。俺の鎖はおよそ一メル三十セン、リーチの差は三倍以上だ。これは、どうにかして攻撃を掻い潜り、近接戦に持ち込まないと一方的な展開になりそうだ。
背中に冷や汗をかく俺とは違い、エルドリエは相変わらず涼しげな顔で右手を軽く振った。鞭が生き物のようにうねり、ぴしりと石畳を叩く。
「それでは……教会と禁忌目録に背いた大罪人に敬意を払って、私の無間という銘の理由を教えてあげよう」
エルドリエは、さっと鞭を握った右手を掲げると、一際りんと張った声で叫んだ。
「システム・コール! エンハンス・ウェポン・アビリティ!」
その先を、俺は聞き取ることが出来なかった。神聖術には高速詠唱、つまり恐るべき早口でコマンドを綴るという技術があるのだが、当然早くなればなるほど式をとちる確率も上がる。だがエルドリエは、恐らく五十ワードは下るまいという長大なコマンドを、一切つっかえることなくわずか十秒ほどで発声し終え、そのまま一切の躊躇なく右手を振りかぶると――まっすぐ俺目指して振り下ろした。
「なっ!?」
俺は驚愕し、反射的に鎖を両手で握り頭上に掲げた。俺と奴の距離は十五メル、大して銀の鞭は四メルだ。どう考えても届く道理は無い。しかし。
びゅうっと空気を焼き焦がすような勢いでうねったエルドリエの鞭は、まるで伸縮性の素材で出来ているがごとく空中でするすると伸び、俺の顔面に襲い掛かってきた。攻撃を防げたのは、たんなる僥倖でしかなかった。無意識のうちに鎖を掲げていなければ、俺の顔はトゲだらけの鞭に打たれて無惨に切り裂かれていたろう。
耳障りな音と青白い火花を放って鎖の表面を滑った鞭は、蛇のように向きを変えると、またするするとエルドリエの手許に戻っていった。どっと全身から汗が吹き出すのを感じながら鎖を見た俺は、思わずうめいた。
「げっ」
クラス38オブジェクトの、呪鉄とやらで出来ているはずの鎖の一部がごっそり削れ、あと僅かでリングが一つ切断されそうになっていた。
硬直する俺とユージオを、整合騎士はほんの僅かな興味を含んだ視線であらためて眺めた。
「ほう……耳のひとつも落とすつもりだったが、我が神器"星霜鞭"の攻撃を初見で凌いだか。たかが学徒と侮ったのは申し訳なかったかな、これは」
恐ろしいことをさらりと口にしたが、その内容は俺の意識にはほとんど届かなかった。
強敵だ。それも、超のつくほどの。無意識のうちに侮っていたのは俺のほうだ。
この整合騎士エルドリエは、俺がいままで一度たりとも相手にしたことのないタイプ――いや種族の敵なのだということを、遅まきながら悟る。
もちろん、アンダーワールドはあくまでラースの実験フィールドであって、厳密な意味ではこの闘いに俺、修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人の生命は賭かっていない。たとえエルドリエの鞭に首を飛ばされ、天命が零になったところで、恐らく俺は現実世界のSTLで目覚めるだけで、実際の傷はひとつたりとも負うまい。
つまり、戦闘の恐ろしさという意味では、あのリアル・デスゲームSAOと同列に比較することはできない。アインクラッドで"赤眼のザザ"や"ジョニー・ブラック"といったレッドプレイヤーたちと剣を手に対峙したときの恐怖、足元に底無しの淵が口を開けているようなタイト・ロープ感覚は、恐らく俺はもう二度と味わう機会はないだろうし、そうしたくもない。
しかしいかにデスゲームとは言え、プレイヤーとしてのザザやジョニー達は――俺も含めてだが――所詮剣術などとは縁のない、運動不足のゲーム・マニアだったのだ。現実世界では棒っきれすらも満足に振れない虚弱なゲーマーが、数値的ステータスとシステム的アシスト、それになけなしの反射神経を手札に命のやり取りをしていた、一面ではそれが真実なのだ。
だがこのエルドリエは違う。彼は己を、法の守護者たる整合騎士としてのみ認識し、それを一抹も疑うことはない。肉体的にも、精神的にも、本物の戦士なのだ。SAOプレイヤー達とも、CPUが動かすモンスターとも違う、言わばファンタジー小説に登場する魔法騎士の具現化した姿。
茅場晶彦の望んだ、真なる異世界の住人そのものではないか。
果たして、今の俺がエルドリエに優っている部分が存在するのだろうか。数値的ステータスは勿論、身体能力――厳密には脳の運動野を構成する光量子回路の性能――も、闘争心すら向こうのほうが上だと思える。この場を切り抜けられる可能性があるとすれば、それはたったひとつ――。
「ユージオ」
俺は後ろを見ずに囁いた。
「勝機は、俺たちが二人だという一点にしかない。俺が体であいつの鞭を止めるから、お前が打ち込むんだ」
だが、答えは返ってこなかった。いぶかしみながら一瞬だけ肩越しに視線を送ると、ユージオの顔には、恐怖というより感嘆の色が浮かんでいた。
「……今の見たかい、キリト。凄いよ……図書室の本で読んだことしかないけど、間違いない。あれは"武装完全支配"……武器の材質にまで術式で割り込みをかけて、神の奇跡を攻撃力に顕すっていう超高等神聖術だよ。さすが整合騎士だなあ!」
「感心してる場合か。……その完全支配っていうのは、俺たちには使えないのか?」
「無理無理! 公式が教会の最上級秘蹟に指定されてるからね。たとえ式を覚えても、行使権限が足りるかどうか……」
「ならもうそいつの事は忘れよう。手持ちのカードだけで何とかするんだ。いいな、俺がどうにかして鞭を抑えたら、お前が決める。慣れてない武器でも、思い切り当てれば無傷じゃ済まないはずだ」
ようやく表情を引き締めたユージオに、駄目押しで確認する。
「覚悟決めろよ。教会の権威の象徴、整合騎士を倒すんだ、俺たちで」
「……分かってるさ。言ったろう、もう迷わないって」
頷きあい、俺たちは同時に右手の得物を構えながらエルドリエを睨んだ。
整合騎士は、相変わらず涼やかな微笑を浮かべたまま、銀の鞭を小さく鳴らした。
「相談は終わったかな、罪人君たち。さあ、少しは私を愉しませてくれよ」
「……そんな余裕かましてていいのか、整合騎士様が?」
「無論、わずかでも禁忌目録に疑いを持った者は即連行即処刑、それがアドミニストレータ様の絶対なる教えだ。だが絶望するには及ばない、もし君達が私にひとつでも傷を負わせるほどの能力を見せれば、別の道がひらけないこともないからね。万に一つも有り得ないことだが」
「傷? 嘗められたもんだな。天命を半分ほど吹っ飛ばして、そのにやにや笑いを消してやるぜ」
内心に広がる焦燥感を押し隠し、俺はうそぶいた。エルドリエが漏らした妙な名前も気になったが、今は思案している暇などない。左手を広げて、エルドリエに向けて素早く突き出す。
「システム・コール! ジェネレート・サーマル・エレメント!」
叫ぶと、五本の指の前にそれぞれ一つずつ、オレンジ色の輝きが発生した。火炎系攻撃術の起点となる熱源だ。続いて術を展開しようとするが、十五メル先で、エルドリエも左手を上げ、式を開始した。
「システム・コール! ジェネレート・クライオゼニック・エレメント!」
こちらの術に対抗するための冷気系起点がおよそ十ほども生成される。反応が早いが、気にせず術を続ける。
「フォームエレメント、アローシェイプ!」
式と同時に左手をまっすぐ引くと、火点がそれぞれ引き伸ばされ、五本の炎の矢が完成した。飛翔速度と貫通力を重視した形態だ。敵に対応する時間を与えまいと、最大限の早口で最後の式を唱える。
「ディレクション・ストレート! ディスチャージ!」
直後、ごうっと火炎の渦を巻き起こしながら、五本のファイア・アローがまっすぐエルドリエ目掛けて撃ち出された。さらに式を続ければ、限定的ながら軌道修正も可能だが、距離を詰めるための牽制なので撃ちっ放しにして自分も地面を蹴る。
「フォームエレメント、バードシェイプ! カウンター・サーマル・オブジェクト! ディスチャージ!」
前方で、エルドリエが一気に術を終わらせた。青い輝点がすべて小さな小鳥の形――ホーミングに適した形状――に変化し、一斉に飛び立つ。自在な軌跡を描いて、俺が放った炎の矢を次々と迎撃し、爆炎と氷結晶を同時に振り撒きながら相殺・消滅していく。
それらを隠れ蓑に利用し、俺は一気にエルドリエから三メルほどの地点にまで肉薄した。あと二歩で俺の鎖の間合いに入る。
と、ついに奴の右手が動き、まるで生き物のように地面から銀の鞭が跳ね上がってきた。が、この距離なら、武装完全支配とやらが生み出した間合いのアドバンテージは関係ない。右から弧を描いて襲ってくる鞭の軌道を懸命に読み、体を傾け膝を屈めて回避体勢に入る。だが――。
「っ!?」
思わず俺は喉を詰まらせた。空中でエルドリエの鞭が二又に分裂し、新たに生まれた銀の蛇が一層鋭角な軌跡を引きながら飛び掛ってきたからだ。
僅か数センの間合いで見切ろうとしていた俺は、その攻撃に対処できず、鞭にしたたか胸を打たれて吹き飛んだ。覚悟はしていたつもりだが、目もくらむほどの激痛に思わず声が漏れる。
「ぐうああっ!!」
我ながら惨めとしか言いようがないが、とても耐え切れるものではない。見れば、簡素なチュニックは大きく切り裂かれ、右胸から左腹部にかけての肌に無数の棘が作った醜い傷痕が一直線に走っている。たちまち無数の血の玉が吹き出し、幾筋もの線を引いて流れ落ちる。
「駄目駄目、完全支配下の星霜鞭はそんな愚直な突っ込みでは避けられないよ。間合いは最大五十メルまで拡大し、同時に七本にまで分裂することができる。八人で一斉に飛び掛ってくれば何とかなるかもしれないがね」
まるで教師のようなエルドリエの物言いにも、今は腹を立てる余裕などまったくない。これほどの痛みは、二年半前にゴブリンの隊長に肩を斬られて以来のことだ。この、痛みへの耐性の無さがこの世界での俺の最大の弱点になりかねないということは常に意識していたのだが、しかし寸止め絶対厳守の学院での修行においては、苦痛に慣れるような機会は全く無いに等しかった。ユージオには、体を張ってでも鞭を止めるなどと大きなことを言ったが、これでは無様にも程がある。
「ふむ、これはやはり買い被りだったかな? 一撃で戦意を喪失しているようでは、とてもシンセサイズの秘儀を受ける資格はあるまい。せめてもの情けだ、一撃で意識を刈り取ってあげよう」
エルドリエは、白銀のブーツで石畳を鳴らしながら俺に歩み寄ろうとした。と、いつの間にか奴の背後に回りこんでいたユージオが、決死の面持ちで鎖を振りかぶり打ちかかった。
再びエルドリエの右手が煙るほどの速度で動き、宙を疾った鞭が、またしても二本に分裂しながらユージオを捉えた。右足と胸をしたたか打ち払われ、ユージオも空を舞うと、遥か離れた噴水の中に水飛沫を上げて落下した。
俺を苛む激痛は、その間も一向に緩みはしなかったが、ユージオが決死の突撃で作ってくれた貴重な時間を無駄にすることだけはできなかった。相棒の動きが視界に入ると同時に、俺は奥歯を軋むほど食い縛り、痛みを一時的に意識下に追いやった。細めた右目でエルドリエの顔を凝視し、視線が俺から外れてユージオのほうに向けられる瞬間を待つ。
さすがに実戦経験も豊富なのだろう、整合騎士は俺への警戒を完全に切ることはなかったが、それでもユージオを打つその時だけは殺気の流れが逸れた。その刹那、俺は先刻石畳をのたうちながらも左手に握り込んでおいたものを放った。
アインクラッドと違って、この世界では、ほとんどのオブジェクトは破壊されたからといってエフェクト光とともに消滅したりはしない。"オブジェクトの残骸"として新たな天命のカウントが始まるのだ。勿論その天命は、現実世界より遥かに早く数値を減少させ、ゼロになると同時に今度こそ跡形も無く消え失せるのだが、それでも最低数十分ほどの猶予は存在する。
たとえそれが、主が戯れに砕いたワイングラスの破片のようなささやかな代物であっても。
夜明け前の闇を、一条の光線と化して切り裂きながら硝子片は飛翔し、ユージオを攻撃した直後のエルドリエの右目を正確に襲った。恐らく、視界にグラスの光が入ってから命中するまでの時間はコンマ一秒も無かったろう。それでも、騎士は恐るべき反応速度で顔を背け、眼球への直撃だけは避けてみせた。
硝子片はエルドリエの目尻を掠め、藤色の髪をひと房切断して闇の中へと去った。滑らかな肌に開いた傷口から血が流れ出す前に、俺はうずくまった姿勢から全力で飛び出していた。
確かに俺は、能力的にエルドリエには遠く及ばないが、少なくともアインクラッドで散々繰り返した何でもありの対人戦闘経験だけは奴には無いもののはずだ。無論エルドリエも整合騎士としてダークテリトリーの敵相手に命の懸かった実戦を繰り広げてきたのだろうが、この世界の戦闘は、武器戦にせよ神聖術戦にせよ正面からの技のやりとりになりがちだ。フェイント、トラップ、虚実ない交ぜとなった泥仕合にかけてはこちらに分がある、その一点に俺は賭けた。
二回地面を蹴ると、右手の鎖の間合いに入る。わざと大ぶりの上段攻撃モーションを作りながら、鎖を大きく背後に振りかぶる。一瞬の動揺から回復したエルドリエが右手を引き戻し、ユージオを打ったまま宙をくねっていた鞭が再び俺を狙って唸りを上げる。
このまま攻撃しても、鎖は空中で鞭と交錯し、今度こそ真っ二つに切断されてしまうだろう。その後鞭はもう一度俺の上半身を打ち、先刻と同じかそれ以上のダメージを与えるはずだ。しかし俺はその恐怖を振り払い、煌めく銀の鞭から視線を外すと、目を見開きながらエルドリエの背後、ユージオが突っ込んだ噴水のほうを凝視した。
攻撃中に対象からわざと視線を逸らすなどという行為は、修剣学院で教えられている、型を重視するあらゆる流派においてタブーである。そう、禁忌なのだ。よって、この世界に存在する剣士は決してそれをしない。整合騎士とて例外ではないはずだ。
よって、エルドリエは俺のアクションを、俺が彼の背後に何かを見たゆえのことだと判断した。瞬間首を曲げて後ろに視線を送る。しかし当然そこには誰もいない。
俺のフェイントをそうと意識し、しかし驚きで硬直しなかったのは流石と言うべきだろう。だが鞭の動きは一瞬遅れた。もう俺の鎖を空中で迎撃することはできない。稲妻のような速度で左手を掲げ、顔面をガードしようとする。
だが、ありったけの殺気を振り絞ってエルドリエの顔を睨みつつ右手を振った俺が真に狙ったのは、奴の足だった。視線を下に向けずに叩きつけた鎖は、狙い違わずエルドリエの左足に、黒い毒蛇のようにしたたか噛み付いた。
整合騎士の足を覆う白銀の装甲は、やはり相当のプライオリティを持っていたようで、俺の鎖は最初に星霜鞭に削られた部分からついに千切れ飛んだ。だが俺がこの一撃で狙ったのは直接的なダメージではない。軸足を真横から払われたエルドリエは、堪らず後方に倒れこむ。
もし奴が背中から地面に落ちたら、俺は剣士としてのプライドなどかなぐり捨てて――どうせ剣など持ってはいない――馬乗りになり、短くなってしまった鎖を右手に巻きつけて奴の顔面を石畳に埋まるまで殴り倒すつもりだった。しかし、鎖から伝わってきた手応えが僅かに軽かったことから、エルドリエが直前に自分で飛んでいたと判断し、方針を変更する。
読みどおり、整合騎士は見事な動きで後方宙返りを決め、足からの着地を成功させた。その身体能力には舌を巻くが、拍手などしている暇はない。俺も同時に零距離にまで突っ込み、エルドリエの右手に――正確にはそこに握られた鞭に飛びついた。握りに近い、トゲの生えていない部分を自分の右腕にぐるぐる巻きつけ、完全に封じる。
これは、この戦闘で何度目かのギャンブルだった。エルドリエにはまだ自由な左手と腰の剣がある。それを抜かれれば、離脱できない俺は一瞬で叩き斬られるだろう。
だが、俺はユージオを、六年間"刻み手"として来る日も来る日もギガスシダーを叩き続けた彼の忍耐力を信じた。たとえトゲだらけの鞭でしたたか打ち据えられても、俺のようにうずくまって痛みに悶えるようなユージオではない。
そして、相棒は当然のように俺の期待に応えた。エルドリエがついに冷笑的な態度をかなぐり捨て、怒りの形相とともに左手で逆手に剣を抜こうとしたときには、すでに噴水から飛び出したユージオが驚異のダッシュ力で距離を詰め、右手の鎖を振りかぶっていた。
だが、惜しむらくは、ユージオは鎖での攻撃に慣れていなかった。腕の振りがわずかにぎこちなく、それが整合騎士に対処する間を与えた。剣に伸ばしかけた左腕をさっと突き出すと、エルドリエは恐るべき見切りで、ユージオの鎖の先端をがしっと掴んだ。
例え頭部への直撃は避けても、そんなことをして無傷でいられるはずはない。皮手袋に包まれただけだったエルドリエの左手から、何本かの骨が折れる音が確かに聞こえた。だが騎士は声一つ漏らすことなく、握った鎖を全力で引いてみせた。ユージオも対抗して足を踏ん張り、鎖がぎしっと嫌な音を立てて軋んだ。
とてつもなく長く思えた数秒間の攻防の末、俺とユージオ、エルドリエは互いに得物を封じられ、動きを止めた。俺たちは全力で鎖と鞭を引っ張りつづけたが、長身の整合騎士は岩のように揺るぎもしない。一対一の綱引きだったら恐らくもたなかっただろう。
最初に沈黙を破ったのはエルドリエだった。
「……なるほど、アリス様が警戒するわけだな。型も美しさもないが……それゆえに私の予測を上回るか。これほどの手傷を負ったのは、暗黒将軍シャスターと戦ったとき以来だ」
騎士の右目のすぐ横についた傷からは、流れ出した血が細い糸を引いて滴っていた。だがそんなものは、俺とユージオの胸に走る鞭跡に比べればかすり傷以下だ。
さすがにムカっときたので、どう言い返してやろうかと思ったとき、ユージオが両目に相変わらず素直というか馬鹿正直な感嘆の光を浮かべながら声を漏らした。
「あなたこそ……やっぱり流石だ、騎士殿」
その口調にわずかな引っかかりを覚え、俺はエルドリエから視線を外さずに繰り返した。
「やっぱり……?」
「うん。実は一昨日からずっと、どこかで聞いた名前だと思ってたんだけど……ようやく思い出した。この人は、エルドリエ・ウールスブルーグ。僕たちの先輩だよ。二十一年前のセントリア修剣学院総代表で、その年の四帝国統一大会の優勝者だ。図書室の年鑑で読んだんだ」
「な、なんだと」
先輩だ!? しかも二十一年前……!?
だが、わずか一メルほど前に立つ男は、どう見ても二十代半ばだ。学院を卒業したのがそんなに昔なら、四十近くにはなっていないとおかしいのだが。
俺は驚愕のあまり息を飲んだが、しかしどうしたことか、当のエルドリエは俺を上回る衝撃を受けたかのように蒼ざめ、目を見開いた。
「……なんだと……」
呟いたその声は、別人のようにしわがれていた。わずかに体勢をぐらつかせながら、唇をわななかせる。
「私が……修剣学院の……? エルドリエ……ウールスブルーグ……?」
予想外の騎士の反応に、ユージオも驚いたようにぽかんと口を開けたが、すぐにつっかえつつも続けた。
「ま……間違いないよ。近間では剣、遠間では鞭を操り、華麗な技で並み居る強豪を退けた……そう書いてあった」
「……私は……私は、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだっ……! 知らん……ウールスブルーグなどという名はっ……!」
「だ、だが……」
思わず戦闘中だということを忘れそうになりながら、俺は口走った。
「あんただって、生まれたときから整合騎士だったわけじゃないだろう。任命される前はそういう名前だったんじゃないのか……?」
「知らん! 私は……私は知らんっ!!」
叫んだエルドリエの顔に血の気は全く無かった。
「わ……私は……高貴なるアドミニストレータ様より秘儀を授けられ……整合騎士として……世の秩序を……」
そして、次の瞬間、俺を更に唖然とさせる出来事が起きた。
エルドリエの、滑らかな額の中央に、突然逆三角形の紫色のマークが輝きながら浮き上がったのだ。
「ぐ……うっ……」
呻いたエルドリエの手から力が抜けたが、俺は鞭を奪うのも忘れて騎士の額を凝視した。なぜなら、発光部分から、水晶のように透明な三角柱がわずかずつ突出し始めるというとてつもない現象に度肝を抜かれたからだ。
三角柱の内部には、微細な光の筋が縦横に走り回っていた。突き出した部分の長さが二センほどにも達したとき、ついにエルドリエの両手から鞭の柄と鎖が抜け落ちた。しかし騎士はもう俺たちのほうを見ることもせず、よろよろと後退ると、糸の切れた操り人形のように石畳に膝を突いた。
呆気に取られ棒立ちになっていた俺は、張力を失った星霜鞭が右腕からほどけ、地面に落ちた音でようやく我に返った。エルドリエの顔にはもう表情は全く存在せず、虚ろな両眼に、額から迸る紫色の光が反射するのみだ。
機だ。――と思ったが、しかし何をすればよいのか、咄嗟には判断できない。
攻撃するなら、今をおいてないのは確かだ。鎖を使うなり、鞭を拾うなりして叩きのめせば無力化できる可能性が高い。
あるいは、一目散に逃走するという選択もある。下手に刺激して意識を取り戻されたりしてしまえば、もう不意打ちもフェイントも通じないことだろうし、逆に死亡一歩手前にまで追い込まれるのは必至だ。
そして、リスクは最も高まるが、このまま成り行きを見守るのも一案ではある。俺たちが今目の当たりにしているのは、間違いなくこの世界の秘密の根幹に関わる何か――エルドリエの、そして恐らくアリスの騎士任命以前の記憶を奪った処置、恐らくは"シンセサイズの秘儀"と呼ばれるもの――が引き起こした現象なのだ。つまり、アドミニストレータ様とかいうふざけた名前の神聖教会最高権力者は、アンダーワールド内部から人工フラクトライトをある程度自由に操作できるということになる。
そいつ自身が、俺と同じ人間なのかあるいはやはり人工フラクトライトなのかはまだ定かでないが、ラースのスタッフや菊岡誠二郎の意図を離れた事態であるのは間違いないだろう。菊岡の求める"真・人工知能"段階に達したはずのアリスを、再び盲目的規則遵守状態に戻すような改変を許してしまうのは本末転倒以外の何ものでもないからだ。それに、このままでは同じブレイクスルーに到達したユージオさえも"シンセサイズ"されてしまうか、最悪消滅させられてしまいかねない。
同じく改変されたらしいエルドリエに起きたこの現象を最後まで見極めれば、少なくともその改変が可逆性なのかどうかだけは判断できるかもしれない。もしそうならアリスも元に戻せるということになる。
どうせ、この無抵抗状態のエルドリエを袋叩きにするような行為にはユージオが難色を示すだろうし、逃げると言っても迷路を抜ける道が分からない。ならば危険覚悟で観察を続けよう――、そう結論を出し、俺が整合騎士に半歩にじりよった、その時だった。
徐々に突出を続けていた光る三角柱が、切れかけた電燈のように明滅したと思うと、一転エルドリエの額に沈み込みはじめたのだ。
「う……」
俺は思わず唇を噛んだ。三角柱が完全に抜け落ちたとき何かが起きる、と予想していたからだ。
「エルドリエ! エルドリエ・ウールスブルーグ!」
呼びかけると、一瞬だけ没入が停止した気がしたが、すぐにまた動き始める。この現象のきっかけになったのが、騎士任命以前の記憶を刺激されたことだと思い至った俺は、振り返ると目を丸くしているユージオに向かって叫んだ。
「ユージオ、もっとこいつについて憶えてることはないか!? 何でもいいから、こいつの記憶を呼び覚ますんだ!」
「え、ええと……」
一瞬いぶかしむように眉を寄せたが、すぐにユージオは頷いた。
「エルドリエ! あなたは、二等爵士エシュドニ・ウールスブルーグの第三子だ! 母親の名前は……たしか……アルメラ、そう、アルメラだ!」
「…………」
虚ろな表情の整合騎士の唇がかすかに震えた。
「ア……アル……メ……か……あ……さん……」
ひび割れた声が漏れ、同時に三角柱の光量が再び増大した。が、俺をハッとさせたのはそのことではなく、見開かれた騎士の両眼から音も無くこぼれた大粒の涙だった。
「そうだ……思い出せ、全部!」
無意識のうちにそう口走りながら、俺はさらに一歩騎士に詰め寄ろうとした。
そして、つんのめって地面に左手を突いた。
目も眩むような激痛を意識したのは、あれっと思いながら下を見て、自分の右足甲を一本の矢が石畳に縫い付けているのに気付いてからだった。
「ぐあっ!」
灼熱の火花が右足から頭までを貫き、短い悲鳴を漏らす。歯を食い縛りながら両手で赤銅色の矢を握り、力任せに引き抜くと、倍増した痛みに気絶しそうになりながら暗い空を振り仰ぐ。
「キリト!」
叫びながら駆け寄ってきたユージオの右腕から垂れる鎖を掴むと、俺は思い切り引っ張った。
ヒュドッ、ドッ、と重い音をさせ、直前までユージオがいた場所を二本の矢が貫く。
星のほとんど出ていない漆黒の空を背景に、はるかな高みを一匹の飛竜が舞っていた。限界まで目を凝らせば、その背中に騎乗する人影がどうにか識別できる。間違いなく整合騎士だが――あの距離から弓で俺たちを狙ったとすれば、驚異的な精密射撃だ。
と思う間もなく、騎士の手許が一瞬ちかっと光った。息を詰めながら傷ついた右足で思い切り地面を蹴り、俺が尻餅をついていた場所に、ドドッとほとんど同時に矢が二本突き立つのを見て全身を粟立たせる。
「や、やばいぞこれは」
ユージオの鎖を掴んだまま、俺は口走った。この世界で弓矢を見たのは初めてだ。歩く武器庫だったソルティリーナ先輩もせいぜい投げナイフを使ったくらいだったので、遠距離攻撃はアンダーワールドの剣士たちの性に合わないのだろうと思っていたが、整合騎士に関してはもう何でもありらしい。
飛竜から目を離すわけにはいかないので、頭の中に周囲の場景を思い描くが、潜り込めるような遮蔽物は一切無い。最悪、密に生い茂ったイバラの中に飛び込むしかないか、と覚悟を決める。
「次の矢を回避したら走るぞ」
早口にそう指示し、俺は全身を緊張させた。が、新たな整合騎士はそこで一端狙撃の手を止め、手綱を引くと飛竜を降下させはじめた。同時に、お馴染みの陰々とした声が噴水広場中に鳴り響く。
「騎士トゥエニシックスから離れろ、穢れた罪人ども!」
反射的にちらりと目を向けると、せっかく抜け落ちそうになっていたエルドリエの額の三角柱は、またしても元に戻りつつあった。
「高潔なる整合騎士に堕落の誘いを試みた罪、最早許せぬ! 四肢を磔にして牢に戻してくれるわ!」
ようやく詳細に見て取れるようになった整合騎士は、全身を赤銅の鎧兜に包み、左手に凄まじく巨大な長弓を携えていた。恐らくはエルドリエの星霜鞭と同じような神器だろう。あの超狙撃力は"完全支配"術によるものなのか、それとも真の能力を発揮するのはこれからなのか。
銅がねの騎士は、それ以上喋る気は無いようで、弓に矢を同時に五、六本つがえると無造作に俺たちに向けた。
「走れ!」
この距離では発射を見てからでは避けられないと判断した俺は、ユージオの鎖を掴んだまま全力でダッシュした。一歩ごとに右足と胸に疼痛が走るが、この際構っていられない。
元来たほうに戻り、再び地下牢に飛び込むことを一瞬考えたが、それでは狙撃は避けられても状況が悪化するだけだ。かなりの博打だが新しい道を使うことにして、噴水の東側に見えるアーチ目指して懸命に走る。
数歩も進まないうちに、すぐ背後でドカカカカッ! と胆の冷える重低音が立て続けに響いた。
「うおあああ!」
悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げ、一層スピードを上げる。ブロンズのアーチをくぐった瞬間、頭上で複数の金属音が鳴り響き、バラの花弁が無数に舞う。
迷路の両側には背の高い柵が巡らせてあり、それに沿って走ると多少は狙撃を避けられるようだった。矢が降ってくるペースは落ちたが、十字路等でやむなく姿を晒した瞬間、空気を焦がす熱が感じられるほどの至近距離を何本もの矢が擦り抜けていく。
「何本矢を持ってやがんだ!」
腹立ち紛れに叫ぶと、すぐ後ろを走るユージオが律儀に答えた。
「さっきので三十本超えたよ、すごいな!」
「いい加減なVRMMOじゃあるまいし……いや、何でもない!」
もう、方角は完全にわからない。闇雲に角を曲がっているだけなので、もし袋小路に掴まったら万事窮すだ――。
と思った瞬間、目の前に三方を塞ぐイバラの柵が現われて、俺は我が身の運の無さを嘆いた。かくなる上は鎖で青銅の柵を吹き飛ばすしかないが、ドアや窓と比べて、壁や床に類するオブジェクトの天命はけた違いに大きい。一撃で破壊できる可能性は限りなく低い。
覚悟を決め、運を天に任せて右手の鎖を振りかぶろうとした、その瞬間。
「おい、こっちじゃ!」
突然聞こえた声に、俺はコンマ一秒ほど思考停止した。こっちじゃ、という年寄りじみた言い回しのその声が、どう聞いても年若い少女のものだったからだ。
唖然としながら視線を巡らすと、前方すぐ右側の柵の一部に、いつのまにか小さな扉が開いていた。そこから顔だけを覗かせて手招きをしているのは、老賢者のような黒いローブに同色の角張った巨大な帽子を被った、十歳そこそことしか思えない女の子だった。鼻に乗せた小さな丸眼鏡をきらっと光らせて引っ込んだ女の子を追って、俺とユージオは無我夢中で小さな扉に頭から飛び込んだ。* 空中でぐるりと半回転し、背中から落下する。息を詰まらせながら周囲を確認した俺は、驚きのあまり目を見開いた。
ユージオと俺は、確かにバラ園の柵に設けられた扉をくぐったはずだ。であるからには、その先は咲き誇るバラの茂みのど真ん中でなければならない。しかし、俺が見ているのは、茶褐色の石が整然と組み合わされた、縦横二メルほどの通路だった。床にはバラの花弁ひとつ落ちておらず、石組みの天井のどこからも夜空は覗けない。通路はまっすぐ前方に十数メルほど続いており、その先からは暖かみのあるオレンジ色の光が揺れながら差し込んできている。空気さえも、ついさっきまでの甘く湿った芳香に代わり、乾いた紙のような匂いが満ちている。
呆然としながら、俺は首を回して背後を見た。同質の壁の下部にある扉が、向こう側からは確かにイバラの絡んだ青銅製と見えたのに、今は鋳鉄の金具で補強した木製のものになっているのに気付いても、もう驚く気にはならなかった。
その傍らに立つ黒ローブの女の子は、俺たちが通り抜けるやいなやきっちりと扉を閉め、掛け金にぶら下がる巨大な錠前に、懐から取り出したこれまた巨大な鍵を突っ込んで回した。がちりと頼もしい音を立てて施錠すると、難しい顔のまま扉に耳を寄せ、何やら聞いている様子だ。
つられて耳を澄ますと、扉の向こうから、カサカサと小さな音が聞こえてくるのに気付いた。まるで、小さな地虫が大量に這いまわっているような不快な響きだ。
「……探知されたな。このバックドアはもう使えん」
しかめっ面でぶつぶつ呟くと、女の子は俺たちのほうを見た。鍵を仕舞いながら、左手に握っていた黒光りする杖というかステッキを、追い立てるように振る。
「ほれ、とっとと奥に進まんか! ここは通路ごと廃棄じゃ」
幼い少女の口から出る言葉には、なぜか修剣学院の総長以上の威厳が感じられて、俺とユージオは慌てて立ち上がると小走りで明かりの方に向かった。たちまち短い通路を抜け、奇妙な場所に出る。
相当に広い、四角い部屋だった。壁にはいくつかのランプが取り付けられており、ほっとするような穏やかな炎を揺らしている。調度らしきものは一切なく、正面の壁に重厚な木製のドアが一つあるのみだ。
異様なのは、それ以外の三面の壁だった。俺たちが出てきたような狭い通路が、横にいくつも並んでいるのだ。奥を覗いてみると、みな突き当たりに小さな扉がひとつ設けられた同一の構造のようだった。
俺とユージオが呆気に取られてきょろきょろ周囲を見回していると、続いて出てきた丸眼鏡の少女が、くるりと振り向いて、通路に向かってステッキをかざした。
「ほいっ」
可愛らしい――あるいは年寄りじみた掛け声とともに一振りする。もうこれ以上驚くことはあるまいと思っていたが、続く現象に俺たちは再び度肝を抜かれた。通路の奥のほうから、左右の石壁がごんごんと音を立てて順繰りに迫り出し、地響きとともに組み合わさっていくのだ。
わずか数秒で十メル以上の通路は完全に閉鎖されてしまい、最後に目の前で上下左右から突き出した石が接合すると、そこにはもうまっ平らの壁しかなかった。直前まで存在した通路の痕跡はまったく、凹みひとつ存在しない。
神聖術としても、相当に大掛かりな高等術式だ。あれだけの量の石を動かすには、大変な長さの詠唱とハイレベルのシステムアクセス権限が必要となるだろう。驚くべきは、この女の子が、今の術を掛け声一つで実行したという事実だ。システム・コールの一言すら発さなかった。俺が知る限り、そんなことのできる人間はこの世界には他に一人も居ない。
「フン」
女の子は小さく鼻を鳴らし、何事もなさそうにステッキを地面に突くと、向き直って俺たちをじろりと見た。
改めて眺めると、人形のように可愛らしい少女だった。びろうどのように光沢のある黒いローブと、同じ質感の重そうな帽子は世捨て人の老学者然としているが、帽子の縁からのぞく栗色の巻き毛やミルク色の肌が年相応の艶やかな輝きを放っている。
しかし、印象的なのはその眼だった。鼻に乗った小さな丸眼鏡の奥、長い睫毛に縁どられた瞳は髪と同じ焦茶色だが、なぜか圧倒的な知識と賢さを感じさせる底知れない奥深さを備えている。そのせいで、この少女が何ものなのかは勿論、年齢も立場も、従ってよいのか否かさえも俺には読みきれなかった。
しかしこのまま黙っていても埒があかない。この子が整合騎士の攻撃から俺たちを助けてくれたのは確かなので、とりあえず礼を言うことにする。
「ええと……助けてくれて、ありがとう」
「その価値があったかどうかはまだ分からんがな」
にべも無いとはこのことだ。旅をしていた頃の経験で、初対面の人間との交渉はユージオに任せたほうが良いことは身にしみているので、肘で突付いて相棒を矢面に立たせる。
一歩前に出たユージオは、亜麻色の髪をごしごし掻き混ぜながら口を開いた。
「その……僕の名前はユージオ。こいつはキリト。ほんとにありがとう、助かったよ。えっと……君は、この部屋に住んでるの?」
こいつも相当に混乱してるようだった。女の子は呆れたように眼鏡に指をやりながらばっさりと答えた。
「阿呆ゥ、そんなわけがなかろうが。……ついて来い」
かつっとステッキを鳴らし、正面の壁に唯一ついている大きなドアに向かって歩いていく。俺たちも慌てて後を追い、女の子のステッキの一振りでノブがひとりでに回るのを見てもう一度驚く。
ぎいいい、と重厚な音を立てて両側に開いた扉の向こうは、さらに大量の橙色の光に溢れていた。眩しさに一瞬眼を細めながら、女の子に続いて扉をくぐった俺とユージオは、この不思議な場所に入り込んで以来最大級の衝撃を受けて呆然と立ち尽くした。
凄まじい光景だった。一言で表現すれば、活字中毒者の天国だ。
本棚とそこに収まる本でのみ構成された世界が、俺たちの眼前に広がっていた。全体としては円筒形の空間なのだが、壁面には石造りの階段と通路が縦横複雑に絡みあい、その片側あるいは両側に年代物の巨大な書架がいくつもいくつも並んでいる。俺たちが立っている底面から、立体状の迷路のごとく伸び上がる本また本の回廊の先に見えるドーム型の天蓋までは、恐らく五十メルはあるだろう。階段や壁に無数に設置されたランプに照らされる本の総冊数は、想像することすら不可能だ。
どう思い出しても、あのバラ園にこのような空間を内包する建築物は存在しなかった。俺は頭上を見上げながら、掠れた声で訊いた。
「こ……ここは、もう塔の内部なのか?」
「そうであるとも言えるし、違うとも言えるな」
少女の声は、どこか満足気な響きが混じっているように思えた。
「わしが論理アドレスを切り離したゆえ、この大図書室は塔内部に存在はするが何者も入ってくることはできない。わしが招かない限りな」
「大……図書室……?」
ユージオが、尚も呆然と周囲を見回しながら呟いた。
「うむ。ここには、この世界が創造された時よりのあらゆる歴史の記録と、天地万物の構造式、そしてお前たちが神聖術と呼ぶシステム・コマンドのすべての記述法則が収められておる」
論理アドレス? システム・コマンドだと!?
俺は、自分の耳が聞いた単語をすぐには信じられず、まじまじと少女の顔を凝視した。少女は、俺の受けた衝撃と、その理由さえも気付いているぞと言わんばかりにわずかに微笑み、言葉を続けた。
「わしの名はカーディナル。かつては世界の調整者であり、いまはこの大図書室のただひとりの司書じゃ」
――カーディナル。
俺の知っている範囲で、その名称には三つの意味がある。
一つは、現実世界のカトリック教会における高位の役職だ。日本語では枢機卿と呼ばれる。二つ目は、アトリ科の鳥の名前。日本語では猩猩紅冠鳥、全身に枢機卿が着る法衣と同じ緋色の羽毛が生えていることから名づけられた。
そして三つ目が――茅場晶彦によって開発された、VRMMOゲームバランス調整用の大規模AIプログラム、"カーディナルシステム"だ。最初のバージョンがSAOに用いられ、アインクラッド内のあらゆる通貨、アイテム、モンスターの出現バランスを絶妙に調節して俺たちプレイヤーを手玉に取った。
その後カーディナルシステムは、茅場が死後遺した擬似人格プログラムの手によってバージョン2に進化し、汎用VRMMO開発パッケージ"ザ・シード"に組み込まれて、後期ALOやGGO他多くのゲームを制御することになる。無償配布に俺が一役買ったこともあり、電脳茅場の真の目的は何なのか長い間考えたが、納得のいくような答えはとうとう導き出せなかった。まさかあの男に限って、単にSAO事件の贖罪のために完全フリーの開発環境を公開した、などということはあるまいと思っていたのだが……。
今俺の目の前にいる少女が、あのカーディナルシステムが人の形を得た姿、なのだろうか?
神聖教会で高位の立場にあるフラクトライトに枢機卿の名を冠したに過ぎない、ということは勿論あり得る。だが女の子は確かに、かつては世界の調整者だった、と言った。指導者でもなく、支配者でもなく、調整者たるカーディナル。
しかしなぜ、カーディナルAIがここに? アンダーワールドは、ザ・シードを利用して組み上げられたのだろうか? 仮にそうだとしても、完全なる裏方であるはずの調整システムが、なぜこんな場所に閉じこもっているのだろう。そもそも、カーディナルにプレイヤーと会話するインタフェースなど実装されていなかったはずだ。
無数の疑問に翻弄されて立ち尽くす俺のとなりで、ユージオも別種の驚きに打たれたように、震える声で呟いた。
「あらゆる歴史……? 四帝国の建国以来の年代記が、全部ここにあるんですか……?」
「それだけではないぞ。世界がステイシア神とベクタ神によって二つに分かたれた頃の創世記すら所蔵されておる」
少女の言葉に、歴史オタクのユージオは卒倒しそうに頭をふらつかせる。カーディナルの名を持つ謎の少女は、眼鏡を押し上げながらにっと微笑み、続けた。
「どうじゃな、わしの話は長くなるゆえ、その前に食事と休息を取っては? 読みたければ本を読んでもよいぞ、好きなだけ」
ほい、と掛け声とともにステッキを振ると、傍らの空間に、床から湧き出したかのように小型の丸テーブルが出現した。白い大皿が載っており、そこにはサンドイッチだのまんじゅうだの、ソーセージだの揚げ菓子だのが山盛りになって湯気を上げている。
昨夜早くにうすいスープを啜りかちかちのパンを齧っただけの俺たちの胃は暴力的に刺激されたが、ユージオはアリス救出作戦中のこの状況で、旨いものを食ったり本を読んだりすることに罪の意識を感じずにいられないようで、躊躇うような顔でこっちを見た。俺は肩をすくめ、多少言い訳がましい台詞を口にした。
「強引な突破が難しいことははっきりしたしな、一旦休んで作戦を練り直そうぜ。どうやらここは安全な場所みたいだし、俺たちの天命も相当減ってるし」
「うむ、まじないをかけてあるゆえ、食えばその傷もたちまち癒えるぞ。その前に、おぬしら両手を出せ」
有無を言わせぬ少女の言葉に、俺とユージオは素直に枷がはまったままの両手を前に差し出した。ステッキが二度振られ、いかつい鉄の輪があっけなく弾け飛んで鎖ごと床に落ちる。
ほぼ二日ぶりに自由になった両手首をさすりながら、ユージオは尚も申し訳無さそうに小声で言った。
「……それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます、カ……カーディナルさん。ええと……その、創世記というのはどのへんに?」
カーディナルはステッキを持ち上げると、かなり上のほうの、一際大きな書架が固まっている一角を示した。
「あの階段から先が歴史の回廊じゃ」
「ありがとう」
ぺこりと頭を下げると、ユージオはテーブルからまんじゅうや腸詰めを一抱え持ち上げ、いそいそと階段を登っていった。いつも学院の図書室には古代の記録が少ないとぼやいていた彼には、抗しがたい魅力があるのだろう。
その後姿を見送っていたカーディナルが、ぼそりと呟いた。
「……教会の初代最高司祭が、筆記官に命じて書かせた創作物ではあるがな、残念ながら」
俺は、少女の大きな帽子に向かって、声をひそめながら訊ねた。
「……じゃあ、やっぱりこの世界の神様は実在しないのか? ステイシアも、ソルスも、テラリアも」
「居らん」
向き直ったカーディナルの答えはそっけなかった。
「現在信じられている創世神話は、教会が自らの権威を確立するために利用し、広めたものに過ぎん。緊急措置用のスーパー権限アカウントとして登録はされているが、人間がそれでログインしたことは一度もないよ」
その台詞で、俺の疑問はほんの一部だけではあるが解消された。焦茶色の瞳をじっと見ながら、俺は言った。
「あんたは、この世界の住人じゃないな。外側の……システム運用サイドに属する存在だ」
「うむ。そして、それはお主もじゃな、無登録民キリトよ」
厳密には、これが初めての瞬間となるのだろう。俺がこの世界に放り出されてから二年半、ここが真の異次元などではなく、現実の人間によって生成された仮想世界であるという確信を得られたのは。
自分でも思いがけないほどの強烈な感慨が突き上げてきて、俺は大きく息を吸い、吐いた。訊ねるべきことがあまりにも沢山ありすぎて、咄嗟に選ぶのが難しい。しかしまずは、これを確認せなばならない。
「システムを作った組織の名はラース……R、a、t、h。この世界の名はアンダーワールド。そうだな?」
「いかにも」
「そしてあんたは、カーディナルシステム。茅場晶彦という人間がプログラミングした自律型コントローラーだ」
言った瞬間、少女は眼をわずかに見開いた。
「ほう、それを知っているか。あちら側で、わしの別バージョンと接触したことがあるのか?」
「……まあな」
接触どころではない、およそ二年に渡って、ある意味では究極の敵と見据えていたこともあるのだ。しかし今はそんな話をしているときではないだろう。
「だが……俺の知る限り、カーディナルシステムに、そんな擬人化インターフェースなど組み込まれてはいなかった。一体……あんたは、どういう存在なんだ? 一体この場所で何をしているんだ?」
やや性急な俺の問いに、カーディナルはかすかに苦笑するような気配を見せた。額にはみ出した栗色の巻き毛を指先できっちり帽子にしまいながら、可憐だが同時に老成した声で言う。
「長い……とても長い話になる。わしがなぜこのアドレスに自らを隔離し……なぜお主と接触するのを長いあいだ待っていたのか……それはとてつもなく長い話じゃ……」
一瞬、何らかの物思いにとらわれたように口をつぐんだが、すぐに顔を上げて続けた。
「じゃが、可能な限り手短に済まそう。……まずは食え、傷が痛むだろう」
予想外の展開のあまり痛みなどすっかり忘れていたが、指摘された途端、エルドリエに鞭で抉られた胸と、赤銅の整合騎士に矢で射抜かれた右足がずきりと疼いた。言われるままに、俺はテーブルから熱々の肉まんじゅうを一つ取ると、大口を開けてかぶりついた。よく修剣学院を脱け出しては買い食いしていたゴットロの店の肉まんに優るとも劣らぬ美味が口中に広がり、思わずがつがつと頬張ってしまう。どのようなコマンドが仕込んであるのか、飲み下すたびに痛みは薄れ、傷口すらも塞がっていく。
「……さすがに管理者だな……あらゆるパラメータ制御が思い通りか」
感嘆しながら呟くと、カーディナルはフンと鼻を鳴らしながら軽くかぶりを振った。
「二つ間違っている。今のわしは管理者ではない。そして操れるのは、現在このアドレスに存在するオブジェクトだけじゃ」
そのままくるりと後ろを向くと、かつかつとステッキを鳴らしながら、壁に沿って湾曲した通路を歩いていく。俺は慌ててまんじゅうとサンドイッチを抱え、ずっと離れた場所にいるユージオの様子を確かめた。相棒は階段の途中にしゃがみこみ、大判の書物を膝に広げて、夢中で頁を繰りながらサンドイッチを齧っている。
カーディナルの後を追って歩いていくと、通路は分岐と上昇下降を頻繁に繰り返し、たちまち自分が大図書室のどのへんにいるのか分からなくなってしまった。無作法に歩き食いした食べ物がほぼ無くなるころ、目の前に周囲を本棚に囲まれた小さな円形のスペースが現われた。中央にテーブルが一つ、それを二脚の古風な椅子が囲んでいる。
椅子の片方にちょこんと腰掛けると、カーディナルは無言のままステッキで向かいの椅子を示した。言われるまま、俺も腰を降ろす。
途端、小さなかちゃかちゃという音とともにテーブルの上にお茶のカップが二つ出現した。自分の前のカップを持ち上げ、上品に一口含んでから、カーディナルは唐突に喋り始めた。
「お主、考えたことはあるか? この平和な人工世界に、なぜ封建制が存在するのか」
カーディナルはその言葉を"フューダリズム"と発音したので、俺は意味を思い出すのに半秒ほどを要した。
封建制。地方領主としての貴族と、それらを封ずる君主による支配構造である。要は、皇帝だの国王だの伯爵だの男爵だのという、ファンタジーものの小説やゲームにはありがちな――と言うよりそうでない物のほうが珍しい――中世的身分制度のことだ。
アンダーワールドの世界設定は産業革命前のヨーロッパあたりを基にしているらしいので、俺はこれまで貴族や皇帝の存在に疑義を抱いたことはほとんどなかった。だから、カーディナルの質問は、俺を大いに戸惑わせた。
「なぜ……って……それは、開発者たちがそう設定したからじゃないのか?」
「否じゃ」
カーディナルは、俺の答えを予測していたかのように小さな唇の端にかすかな笑みを滲ませた。
「この世界を生み出した向こう側の人間たちは、ただ入れ物を用意しただけに過ぎん。現在の社会構造を作り出したのは、あくまで住人たる人工フラクトライト達だよ」
「なるほど……」
ゆっくりと頷いてから、俺はようやく、カーディナルの言動から真っ先に思いついておかねばならなかったことに気付いた。彼女は、現実世界のラースとスタッフ達の存在を認識している。ということは、つまり……。
「ちょ、ちょっと待った。あんたは、現実世界と連絡が取れるのか? 向こう側との回線を持っている?」
意気込んでそう訊ねたが、カーディナルは頭の鈍い子供の対するかのように渋面を作り即答した。
「馬鹿モン、それができればこんな埃臭い場所に何百年も閉じこもっておらんわ。残念ながら、その手段を持っているのは奴……アドミニストレータだけじゃ」
「そ……そうか……」
またも出てきた奇妙な名前のことも気になるが、今は棚上げしておいて、一縷の望みをかけて食い下がる。
「じゃあ、せめて今は現実時間で何月何日なのかは……あるいは俺の体は現実世界のどこに存在するのか、とかは……」
「すまんな、今のわしはシステム領域にはアクセスできん。データ領域ですら、参照できる範囲は微々たるものじゃ。お主が向こう側で知っていたカーディナルと比べれば、あまりに無力な存在なのじゃ」
それなりに忸怩たるものがあるのか、ばつが悪そうな顔になるカーディナルを見て、俺もなんだか申し訳ない気分になり思わずいやいやと手を振った。
「いや、現実世界が存在してるとわかっただけでも御の字だ。話の腰を折って悪かった……ええと、封建制が出来た理由、か」
話を戻し、少し考えてから続ける。
「それは……治安の維持とか、生産物の分配とかを、誰かが監督しなきゃならないからじゃないか?」
「ふむ。じゃが、お主も知っておろう。この世界の住人たちは、原則として法に背かん。人を傷つけたり、盗みを働いたり、収穫を独り占めしたりすることはないのじゃ。勤勉さや公正さが根源的に強制されておるのじゃから、むしろ共産主義社会を発達させたほうが効率が良かろう。現在のような、人口たかが十万そこそこの世界に皇帝が四人もいたり、爵士と称する貴族家が千以上も存在するような、過剰な身分制度が必要だと思うか?」
「十万……」
初めて知ったアンダーワールドの総人口だ。カーディナルは"たかが"と言ったが、俺はむしろその膨大さに驚いた。これはもう、人工知能の製造実験というよりも、文明そのもののシミュレーションだ。
だが確かに、皇帝一人が支配する住民が二万五千というのは、現実のローマ帝国や秦帝国に比べるまでもなくいかにも少ない。これでは、必要があって生じた封建制というよりも、現実のそれを模した擬似制度、ごっこ遊びのようではないか。
首を捻る俺に、カーディナルはまたしても唐突な言葉を投げかけてきた。
「わしは先ほど、この世界には神は居らんと言った。じゃが、創世の時代――今より遡ること四百五十年前、似たようなものは存在したのじゃ。まだ央都セントリアが小さな村でしかなかった頃に……四人の"神"がな」
「人間……日本人か? ラースのスタッフ?」
カーディナルはぴくりと片眉を動かし、面白そうに微笑んだ。
「ほう、そのくらいは察するか」
「……この世界では、卵ではなくニワトリが先のはずだからな。最初のフラクトライトの赤ん坊を育てた何ものかが居た……そうでないと、ここで日本語が話され、書かれている理由が説明できない。フラクトライトの言語野を完全に記憶野から分離し、モジュール化できれば別だが……そこまでの技術はまだラースにも無かったはずだ」
「筋の通った推論じゃな。まさしくその通り。原初……わしがまだ意識を持たぬ管理者だった頃、四人の人間スタッフがアンダーワールドの中心、つまりまさにこの場所に降り立ち、二軒の粗末な農家で八人ずつの"子供"を育てたのじゃ。読み書きや、作物の育て方、家畜の飼い方から……後の禁忌目録の礎となった、善悪の倫理観に至るまでな」
「まさに神か……責任重大だな。何気ない一言が、後の文明の行く末を左右してしまう訳だ」
俺の"何気ない一言"に、カーディナルは至極真剣な顔で頷いた。
「如何にもな。わしがこれらの思索を行い、ある結論を得たのはこの図書室に幽閉されてからのことだったが……つまり、なぜこの世界には本来必要ない封建制が存在するのか? 禁忌目録などという常軌を逸した法体系が存在し、さらにその隙間をついて自己の利益と快楽を得ようとする貴族たちが存在するのか? それらの疑問に対する答えは、もはや一つしか有り得ぬ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、カーディナルは厳かな声音で続けた。
「原初の四人、ラースの開発者たちは、課せられた困難な使命を見事達成したことからも、人間としては最高級の知性を備えていたことが分かる。わしの開発者に迫るほどな。同時に、アンダーワールドの住民たちに生来の善性を与え得たのだから、倫理的にも見上げるべき者たちだったのだろう。しかしそれは、四人全てではなかった」
「……何だって……?」
「知性には秀でていても、しかし善ならざる者が一人居たのだ。そやつが、言わば汚染したのよ。育てた子のうち、一人か二人のフラクトライトをな。恐らく意図してのことではなかったのだろうが……しかし、性根というものは隠せんのだろうな。子に、利己心や支配欲といった、人間の欲望をも伝えてしまった。その子供が祖先となったのだ。今存在する、あらゆる貴族と、そして神聖教会司祭たちのフラクトライトのな……」
善ならざる者……だって……?
つまり、ラースの中心スタッフに、アンダーワールド住民に人間的悪性を植え付けた者がいる、ということだろうか? 最終的に、あのライオス・アンティノス――法の隙間を巧妙に利用し、二重三重の執拗な罠を張ってロニエとティーゼを陵辱した三等爵士に至るような……?
俺は不意に、背筋に軽い寒気が走るのを感じた。俺の現実の肉体は、意識を完全に失って、どこだか知らないがラースの本拠地のSTLに接続されているのだ。そのすぐ傍を、ライオスと同種の人間がうろついているかと思うと心底ぞっとする。
そいつは俺の知っている人物だろうか。頭の中で、記憶にあるラーススタッフの顔を思い浮かべてみるが、出てくるのはせいぜい菊岡誠二郎と、六本木でバイトをしていた時に俺のSTLの調整をしていた平木というエンジニアくらいだ。何せ、俺の主観時間では、もう二年半も昔のことなのだ。
問題は、そいつが、利己心は強いがあくまで金と名誉のためにラースで働いているのか、それとも何らかの意図を持ってラースに潜入しているのか、ということだ。研究を盗む、売り飛ばす、あるいは……破壊する、というような。
「カーディナル……その"原初の四人"の名前……本名はわかるか?」
だが今度も、少女はゆっくりとかぶりを振った。
「それを知るには、システム領域の中枢へのアクセス権が必要じゃ」
「いや……悪かった、何度も同じようなことを訊いて」
どうせ、今名前がわかったところで何も出来ない。現実と連絡を取る必要性が一層増したのは確かだが。
背もたれに体を預け、甘い香りのするお茶をひと啜りしてから、俺は再び話題を戻した。
「なるほどな……フラクトライトのうち、僅か一部の者だけが支配欲を持っていれば、そいつらが特権階級化していくのは当然だろうな。ガゼルの群れにライオンが混じってるようなもんだ」
「そして、削除できないウイルスプログラムのようなものでもある。この世界では、子が生まれるとき、外形だけではなく性向も遺伝するからな。平民との婚姻が多い下級貴族では、大分利己性も薄まっているようだが……」
カーディナルのその言葉で、俺は下級貴族のロニエやティーゼが実に尊敬すべき正義感と友愛心を持っていたことを思い出した。
「てことは……貴族同士の婚姻が続けば、悪性も保存されていく、ということか?」
「然り。その精髄が四皇帝家であり、教会の司祭たちだ。そしてその頂点に立つのが、この世界の最高支配者……神聖教会最高司祭にして、今では管理者ですらある一人の女じゃ。アドミニストレータなどという、不遜極まりない名を名乗っておる」
「女……!?」
吐き捨てるようなカーディナルの言葉に、俺は目を見開いた。何となく、神聖教会の頂点は現実世界の教皇と同じく年経た男であるような印象を持っていたのだが。
「そうとも。そして……おぞましいことだが、わしの母でもあるのじゃ」
「ど……どういう意味だ?」
理解が追いつかず訊き返したが、カーディナルはすぐには答えようとしなかった。まるで我が身を嫌悪するかのように、自分の白く華奢な右手を厭わしそうにしばらく見つめてから、ゆっくりと口を動かす。
「……順に話そう……。神聖教会という、この世界の絶対統治機関が造られたのはおよそ三百五十年前のことじゃ。つまり、シミュレーション開始より百年が経過した頃、という事じゃな。アンダーワールド住民は二十歳前後で結婚し、平均で五子を設けるので、第五世代の住民の数はすでに五百人を超えておった」
「ちょ、ちょっと待った。そもそも、この世界での生殖ってのはどういうシステムに……」
二年来の疑問を解消する機会だと思い反射的にそう問うてしまってから、中身はどうあれ外見的に十歳そこそこの少女にしていい質問ではなかったと俺は泡を食った。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、さらりと答えた。
「わしは現実世界の人間の生殖活動をよく知らんゆえ断言はできんが、行為そのものはおおよそ現実に準じておるはずじゃ、フラクトライトの構造原理からしてな。しかし人口管理の必要上、胚の発生までを厳密にシミュレートしておるわけではない。システムに婚姻登録をした男女が行為をおこなった場合のみ、ある確率に基づいて子が産まれることになる。具体的には、ライトキューブ・クラスターのひとつに新たにフラクトライト原型をロードし、両親の外形的要素と思考領域の一部を付加したものを新生児として誕生させるわけじゃな」
「は、はあ、なるほど……。その、婚姻登録というのは?」
「単純なシステムコマンドじゃ。ステイシア神に婚姻を宣誓するという形を取っておる。原初の時代は村の長が行っておったが、各地に教会が出来てからはそこの修道士なり修道女のみが執り行うようになった」
「ふむ……」
いわゆる知恵というものを記憶と分離することはできなかったはずなので、新生児フラクトライトに与えられるのは、それこそごく根源的な性格のみなのだろう。しかし、だからこそ、ラーススタッフの誰かが感染させた悪性は消えることなく受け継がれ続けてしまったということなのか。
「いや、腰を折って悪かった。続けてくれ」
俺の言葉に、カーディナルは軽く頷いて話を戻した。
「シミュレーション開始から百年後、五百人を超えた住民たちは、すでに数人の領主に支配されておった。先祖から利己心という武器を受け継いだ彼らは、所有する土地をひたすらに拡大させ続け、そのせいで近隣に畑を持てなくなった若者たちを小作人として使役するようになっていたのじゃな。中にはそれを嫌い、中央を旅立って辺境を開墾した者たちもいたようだが……」
なるほど、そういう若者たちがルーリッドのような村を拓いていったのだろう。
「領主たちは、当然互いに反目していたので、長い間姻戚関係を結ぶことは無かった。しかしついにある時、二つの領主家のあいだで政略結婚のようなことが行われ……結果、一人の女の赤子が生まれたのじゃ。天使のような可愛らしい容姿と、それまで存在した全フラクトライト中最大の支配欲を併せ持った赤子がな……。名を、クィネラと言った」
カーディナルの瞳が、はるか過去を彷徨うかのように薄く霞を帯びた。部屋を取り囲む本棚のあいだに設けられたランプの炎が、不意に揺らめいて少女の頬に複雑な陰影を作り出す。数百年の時間を閉じ込めた静謐のなかを、穏やかだがどこか哀切を帯びた声が流れ続ける。
「当時、セントリアの――すでに村ではなく町と言うべき規模だっだが――子供たちの天職を割り振っておったのは、長を務めるクィネラの父親じゃった。十歳になったクィネラは、剣や神聖術、歌や織物、あらゆる分野に天稟を示し、どのような職でも立派に勤め上げるだろうとみなに思われておった。しかし、それゆえに――父親は、美しいクィネラを町に働きに出すのが惜しくなったのじゃな。愚かな執着よ……彼は、クィネラをいつまでも手許に置くために、娘に神聖術の修練という天職を命じたのじゃ。屋敷の奥まった部屋で、クィネラはその知性を存分に発揮し、神聖術……つまりシステム・コマンドの解析を始めた。それまで、アンダーワールドの住民たちは基礎的なコマンドを暗記的に覚え行使するのみで、コマンドの意味なぞ考える者は居なかったのじゃな。それで充分だったのじゃ、生活のためには」
たしかに、ルーリッドの村に居た頃のユージオや他の村人たちは、天命を知るためにステータス窓を引き出すか、あとはせいぜい明かりを灯すくらいしかコマンドを使用しなかった。
「じゃが……クィネラは、子供としては恐るべき忍耐心と洞察力で、コマンドに使われている単語の意味を調べつづけた。ジェネレート……エレメント……オブジェクト、それら奇怪な異世界の言葉をな。そしてついに彼女は、ごく基礎的ないくつかのコマンドから、"炎の矢"の攻撃術を独力で編み出してのけたのじゃ。――キリトよ」
不意に呼びかけられ、俺は瞬きしてカーディナルの顔を見た。
「お主、なぜ自分の神聖術行使権限レベル……つまりシステム・アクセス・オーソリティの値が急激に上昇したか理解しておるか?」
「ああ……まあ、大体のところは。モンスターを……洞窟でゴブリンの群れと戦って撃退したせいだろう」
「うむ、その通りじゃ。後ほど詳しく話すが、この世界はもともと、住民が侵入してくる外敵と闘い、自らを強化していくようデザインされておるのじゃ。そうなるのは負荷実験段階に入ってからのことじゃがな……。ゆえに、権限レベルを上昇させようと思えば、敵を倒すかあるいは地道に術を使用しつづけるしかない。クィネラは、わずか十一歳のときに、自力でその仕組みを発見したのじゃよ。家の近くの森の中で、無害なキントビギツネを相手に炎の矢の試し撃ちをした時にな……」
「……ということは、倒す相手は闇の国のモンスターに限定されているわけじゃなく……?」
「うむ。所謂経験値の上昇は、人間を含むあらゆる動的ユニットを破壊すれば発生するのじゃ。勿論この世界の人間は人間を殺さないし、またほとんどのものは無害な動物を殺したりせんがな。しかし貴族の遺伝子を濃く持つ者は別じゃ。彼らは戯れに狩りを行い、その結果意図せずに一層強力なステータスを手に入れていく……。それを明確な目的のもとに行ったのが、十一歳のクィネラよ。動物を殺すことで神聖術行使権限が上昇することに気付いた彼女は、夜毎家を脱け出し、家族や村人に隠れておそるべき殺戮を行いつづけたのじゃ。当時ワールドバランスを司っておったわしに意識があれば、クィネラの行為に震え上がったじゃろうな。彼女は無感情に……いや、あるいは一種の悦びをおぼえつつ、一夜でセントリア周辺の野獣を一掃した。わしはアルゴリズムの命ずるままに、減少した動物ユニットを補充し……それらはまた翌日の夜に全滅した……」
――VRMMOゲーマーの俺にとっては、それはごくありふれた行為であるはずだ。SAO時代の俺は、まさにそのような鏖殺を連日繰り返し、自らの強化に邁進していたのだ。MMOというのはそういうものだと刷り込まれていたし、疑いを抱いたことなどこれまで一度もなかった。しかし今、カーディナルの言葉を聞く俺の背筋には、強い悪寒が張り付いている。
闇夜、寝巻きのまま深い森を徘徊し、発見した獣を眉ひとつ動かさず焼き殺していく幼い少女。そのイメージを一言で表現するなら、悪夢以外の言葉は思い浮かばない。
俺の畏れが感染したかのように、カーディナルも小さな両手をそっと握り合わせた。
「クィネラの権限レベルは際限なく上昇を続けた。コマンドの解析も着実に進み、やがて彼女は天命治癒や天候予測といった、当時の住人にとっては奇跡にも等しい数々の術を操れるようになった。父親をはじめ住人たちは、クィネラをステイシア神の申し子と信じ、崇め奉ったものじゃ。十三になったクィネラは、まさに神々しい美貌に育っておったでな……。天使の微笑を浮かべつつ、クィネラは、己の奥底にとぐろを巻く支配欲という名の毒蛇を完璧に満足させるときが来たことを悟ったのじゃ。領主たちのように土地の所有権を使うよりも、剣士たちのように武器を使うよりも、絶対的に強力な手段……神の名を騙ることによってな……」
言葉を切ったカーディナルは、一瞬だけ視線を頭上――大図書室のはるか高みに被さる天蓋か、あるいはその向こうの現実世界へと向けた。
「この世界を造った人間たちの、最大の過ちじゃ。システム・コマンドの不可思議な効力の説明を、神という概念をもってしたのはな。わしが思うに……人間という生物にとって、神なる存在は甘すぎる劇薬じゃな。あらゆる痛みを癒し、あらゆる残酷を赦す。魂の容れ物が、生体脳であろうとライトキューブであろうと。情緒を持たぬわしには神の声は聞こえんがな……」
バーント・ブラウンの瞳を手許のカップに戻し、左手の指で白い陶器のふちを軽く叩く。たちまち熱い液体がどこからともなく満ち、立ちのぼった湯気を小さな唇でふう、と吹く。
「それは盲信もしようというものじゃな、このような奇跡を実際に目のあたりにさせられ、それを神の御業と説明されれば。――農作業で怪我を負った男をたちまち癒し、嵐の訪れを三日も前から予言したクィネラの言葉を疑うものはもう居なかった。彼女は、父親以下村の有力者たちに、神のために祈る場所が必要だと告げた。さらなる奇跡の技を呼び起こすためにな。すぐに、村の中央に白亜の石積みの塔が建てられた。当時は敷地も小さく、たった三階の高さしかなかったが……そうじゃ、それこそがこのセントラル・カセドラルの原型よ。そして同時に、神聖教会三百年の歴史の端緒じゃ」
カーディナルが語る、最初の聖女クィネラの逸話は、否応無く俺にある人物のことを思い起こさせた。直接知っているわけではなくユージオやシルカからの伝聞だが――幼い頃から神聖術に天分を示し、教会のシスター見習いという天職を与えられた少女、アリス・ツーベルクである。だがユージオはアリスのことを、誰にでも分け隔てなく優しかったと述懐した。増してやシルカの姉である。とても夜な夜な家を脱け出し、周囲の獣を殲滅していたとは思えない。
では、アリスはどうやってシステムアクセス権限を上昇させたのだろうか。
疑問の淵に沈みかけた俺の意識を、カーディナルの声が引き戻した。
「当時の住民は、例外なくクィネラをステイシア神に祝福された巫女だと信じた。朝夕白い塔に祈り、収穫の一部を惜しむことなく寄進した。クィネラと縁戚でなかった領主たちの中には、当初彼女を快く思わない者も居ったが……利害が対立するゆえな。しかしクィネラはしたたかじゃった。すべての領主に、神の名において貴族、つまり爵士の地位を与えたのよ。それまでは、領主に収奪されることに懐疑的な意見もあったが、神の認めた権威となれば従わないわけにはいかん。貴族となった領主たちも、クィネラに対立するよりは従っておったほうが得じゃと判断した。こうして、アンダーワールドにおける初の封建制が確立されたのじゃ」
「なるほど……。治安維持の必要上生まれた制度じゃなく、支配のための支配……か。上級貴族に義務感が無いのも当然と言うべきなのか……」
俺が呟くと、カーディナルも眉をしかめながら頷いた。
「お主は直接目にしておらんじゃろうが、大貴族や皇族どもの私領地における振る舞いはそれは酷いものじゃ。禁忌目録に殺人と傷害の禁止条項がなければ、どれほどの地獄となっておったか見当もつかん」
「……その禁忌目録を作ったのも、問題のクィネラさんなんだろう? 彼女にも、それなりの道徳心はあった……ということなのか?」
「フン、それはどうかな」
カーディナルは可愛らしく鼻を鳴らした。
「――長年の思索によっても、なぜこの世界の人間が、上位の権威から与えられた規則を破れないのか、その理由は分からん。元がプログラムコードであるわしもそれは例外ではないのじゃ。わしにとっては神聖教会は上位存在ではないゆえ、禁忌目録には縛られんが……それでも、カーディナルというプログラムとして与えられたいくつかのルールには背けん。と言うよりも……こんな場所に数百年も閉じこもっておること自体、抗えぬ命令に縛られておる結果だと言える」
「それは……クィネラも例外ではないのか……?」
「然りじゃ。禁忌目録を作ったのは奴ゆえ、奴もあのたわけた法に拘束はされんが……それでも、幼少の頃与えられたいくつかの不文律には逆らえんし、今は新たな命令に衝き動かされておる。考えてみい、奴の親が人を傷つけてはならぬと教えておらねば、奴が動物を殺すだけで満足したと思うか? より権限レベルが上昇しやすい人間を殺したに決まっておるわ」
ふたたび、俺の背中がぞくりと粟立つ。それを押し隠し、口を動かす。
「ふむ……つまり、この世界では、他人を傷つけることは原初の頃からのタブーだったってわけか。クィネラはそれを明文化し、他の細かい条項を付け加えただけ……ってことか」
「形だけ見ればな。じゃが、決して奴がこの世界の平和を願ったからではないぞ。――二十代半ばになった頃のクィネラはいよいよ美しく、塔は一層高くなり、何人もの弟子を持っておった。各地の村にも似たような白い塔が建てられ、正式に神聖教会と名乗りはじめたクィネラの統治組織はいよいよ磐石なものとなりつつあった。じゃが……人口が着実に増加し、人々の居住地域が拡大して、己の眼が届かぬ部分が出てくると、クィネラは不安になったのじゃな。辺境の地で、自分と同じように神聖術行使権限の秘密に気付く者が現われるのではないか、と。そこで彼女は、あらゆる人間を確実に支配するために、明文化された法を造ることにしたのじゃ。第一項には神聖教会への忠誠を書き、第二項に殺人行為の禁止を記した。何故か?」
一瞬口をつぐみ、カーディナルはじっと俺を見てから続けた。
「――無論、人間を殺せば、殺したものの権限レベルが上昇してしまうからじゃ。それだけが理由なのじゃ、教会が殺人を禁じておるのはな。あの一文にはいかなる道徳も、倫理も、善性も存在せぬ」
軽い衝撃を感じながら、俺は反射的に抗弁しようとした。
「し……しかし、もともと殺人や傷害は、原初の四人が与えた道徳的タブーなんだろう? 教会に言われるまでもなく、人々はそういう倫理観を持っていたんじゃないのか?」
「じゃが、親にそれを教えられなければどうじゃ? 確率は低いが、産まれてすぐ親、つまり最初の上位存在と引き離され、道徳教育を受けずに育った子供がいれば? そやつが貴族の遺伝子を持っていれば、欲望のみに従って周囲の人間を殺しまわり、クィネラを上回る権限レベルを手に入れてしまうやもしれぬ。その可能性を最大まで減じるために、クィネラは禁忌目録なる書物を編纂し、製本してあらゆる家に所蔵させたのじゃ。親たちは、子供が言葉を覚える過程で禁忌目録を最初のページから教えるよう義務づけられておる。よいか、この世界の人間が、善良かつ勤勉で、博愛心に溢れておるように見えるとすれば、それはそのほうが都合が良いからに過ぎんのじゃ、教会という絶対統治機関にとってな」
「だ……だが……」
俺は、カーディナルの言葉を素直に受け入れることができず、首をゆっくり左右に振った。ルーリッドの村で、旅の途中で、そして修剣学院で交流した人々――シルカや、ロニエ、ティーゼ、ソルティリーナ先輩……そして誰よりユージオの、尊敬すべき人間性が、すべてプログラム的に造られたものだとはどうしても思いたくなかった。
「……それが全てじゃないだろう? 少しは……その、フラクトライトの原型って奴に含まれてる部分もあるんじゃないのか? 俺たち人間の魂に最初から与えられている何かが……」
「その反証を、お主はもう目にしておるじゃろう」
カーディナルの言葉に意表を突かれ、俺は二、三度瞬きをした。
「え……?」
「お主とユージオを容赦なく殺そうとしたゴブリンたちじゃよ。お主、あれが現実のゲームと同じ……単なるプログラムコードだと思っておったわけではあるまい? あれこそが、フラクトライト原型に禁忌目録とはまったく逆の……殺せ、奪え、欲望に従えという命令が与えられた姿じゃ。よいか、あれらも人間なのじゃ、ある意味ではお主とまったく同じ、な」
「…………」
絶句する。
いや、その可能性をまったく考えなかったわけではない。二年前の秋、果ての山脈で剣を交えた怪物――ゴブリンたちの会話や仕草は実に自然で、一般のVRMMOゲームに登場するモンスターたちに共通するぎこちないプログラムらしさは欠片もなかった。何より、彼らの黄色い眼に宿っていた欲望のぎらつきは、単なるテクスチャーマッピングで表現できるものではなかった。決して。
しかし俺はこれまで、意識して彼ら闇の国の住人について考察しようとはしなかった。しようにもデータが少なすぎたということもあったが、もしあのゴブリンたちもまた人工フラクトライトだった場合、示される意味がそら恐ろしいものになると思えてならなかったからだ。
なぜなら、俺はこれまでの年月を通して、ユージオたちアンダーワールド人を現実世界の人間、つまり俺とまったく同質の存在と確信するようになってきている。単に存在の位相が異なるだけで、思考や情緒といった人間性の核は何一つ違わないのだ。だからこそ俺は、この壮大な実験が終了するとともに全フラクトライトが消去されてしまう、という事態を避けるために、一刻も早く現実世界と連絡を取るべく神聖教会の中枢を目指していたのだから。
だが――あの怪物達もまた人間だったとしたら。
ユージオたちは消去するな、しかしあいつらは消していい、などと言うことはもう許されない。あの殺意と欲望に満ちたゴブリンたちもまた同種の生命であると認識を改めねばならないのだ。俺はすでに、隊長ゴブリンの首を容赦なく斬り飛ばしているというのに。
「悩むな、バカ者」
黙り込んだ俺を、ぴしりとカーディナルの言葉が打った。
「お主まで神になろうとでもいうつもりか? 百年二百年悩んでも答えなど出ぬぞ。わしもいまだ――こうして、ついにお主とまみえる時がやってきてもなお迷いの中にある……」
顔を上げると、カーディナルは細い眉をわずかに寄せて、じっとカップの中を見つめていた。そのまま、どこか詩を詠じるような口調で続ける。
「わしも、かつては一切の迷い無き神であった。我が掌中でもがく小さき者たちのことなど何ひとつ思い致すことなく、不変の法則によって世界を動かしておった。しかしこうして人の身を得て……我が生命への執着を知ってはじめて解ることもある……。恐らく、この世界を造った者たちも、己らが何を造ったのか真に理解してはおるまい。彼らもまた神じゃからな……クィネラの恐るべき反逆も、興がりこそすれ憂いてはおらんじゃろう。このまま世界が負荷実験段階に入れば、筆舌に尽くせぬ地獄が出来するのは必然じゃというのに……」
「そ……それだ、その負荷実験というのは何なんだ? さっきもそう言ったが……」
口を挟むと、カーディナルは伏せていた目を上げ、軽く頷いた。
「話を戻そう、順に説明せねばわからん。――クィネラが禁忌目録を作り全世界に配布したところじゃったな。あの書物によって、神聖教会の支配はいよいよ磐石のものとなった。何せ、クィネラは次々と目録を改定し、教会にとって都合のよい道徳観念で民をぎちぎちに縛ると同時に、生活全般において起こりうるトラブル要因を事細かに排除していったからな。流行り病の発生源に指定されている沼を立ち入り禁止にしたり、羊に食わせると乳が出なくなる草の名まで書いてな……。なにも考えずあの書物にただ従っておれば、問題は何ひとつ起こらんのじゃ。年経るごとに民は教会を頼り、盲信し、第一項にある教会への忠誠を疑うものはもう一人として現われんかった」
まさに絶対統治だ。飢餓も、反逆も、変革も一切無い理想社会か。
「セントリアの人口は爆発的に増加し、建築技術の進歩――もちろん教会が指導したのじゃが――もあって、かつての村はみるみる立派な都市へと変貌していった。神聖教会の敷地も、このように広大なものとなり、塔はどんどん高くなってな……。思えば、このセントラル・カセドラルは、クィネラの飽くことなき欲望を示しておったのじゃろうな。彼女は足るということを知らん女じゃった。齢三十、四十となり、容色が衰えるにつれより一層、な。と言っても、無論大貴族どものように、美食や肉欲に耽溺したわけではない。ある頃よりクィネラは一切下界には姿を現さなくなり、上昇しつづける塔の最上階に閉じこもって、ひたすら神聖術の解析のみに没頭するようになった。求めたのは更なる権限、更なる秘蹟……己に課せられた寿命という限界すらも破壊するほどのな」
この世界において、天命というステータスは非情なまでに明白だ。成長の過程においては着実に増大し、二十代か三十代のどこかで頂点に達し、反転すればあとは緩やかな減少を経て六十から八十歳あたりでゼロとなる。俺の天命も、この二年間でずいぶんと増えた。この数値が日々減っていくのは、確かに恐怖だろう。世界を手中にした絶対支配者であれば尚更。
「じゃが……いかにコマンドを解析し、天候すら操るほどの技を手に入れても、寿命だけはどうにもならんはずじゃった。それを操作できるのは管理者権限を持つ者のみ……ラースのスタッフか、あるいはバランス・コントロールAIであるわし、カーディナルだけじゃからな。クィネラの天命は日々着実に減っていった……五十歳になり、六十歳になり……かつて人心を幻惑した神々しい美貌はいつしか見る影もなく、歩行すらも覚束ず、ついには世界で最も高い場所にある部屋の豪奢なベッドから出ることも叶わなくなった。一時間に一度ステイシアの窓を出し、たった一ずつ、しかし止まることなく削られていく天命を凝視し……」
ふと言葉を切り、カーディナルは寒気を感じたように両手で小さな体を抱いた。
「……しかしそれでも、クィネラは諦めるということを知ろうとしなかった。恐るべき執念……恐るべき執着よの。しわがれた声で日夜、あらゆる音の組み合わせを試し、禁断のコマンドを呼び覚まそうと足掻きつづけた。――そのような努力、実るはずは無かったのじゃ。確率から言えばな……コインを千枚投げて、全部表を出そうとするようなもの……いや、更に可能性は少ないか……じゃが……しかし……」