「簡単に言うなよ。寒くするって、夏は暑いから夏なんだよ。古代の封禁魔術で雪でも降らせる気か? 次の日には央都の整合騎士がすっとんできて処刑されちゃうよ」

「う、うーん……。何か無いかなあ……いい方法が……」

キリトが眉をしかめ、そう呟いたときだった。いままで二人の会話を黙って聞いていたアリスが、長いおさげの先に指をからませながら口を挟んだ。

「面白いわね」

「な、何を言い出すんだよアリスまで」

「別に、禁術を使おうってんじゃないわよ。村をまるごと寒くしようとか大げさなこと考えなくても、例えばこのお弁当を入れるバスケットの中だけ寒くなればいいんでしょ?」

至極当然のことのような言葉を聞き、ユージオは思わずキリトと顔を見合わせ、同時にこっくりと頷いた。アリスはちらりと済ました笑みを浮かべ、続ける。

「夏でも冷たいものなら、いくつかあるわよ。深井戸の水とか、シルベの葉っぱとか。そういうのを一緒にバスケットに入れれば、中が寒くならないかしら?」

「ああ……そうか」

ユージオは腕を組み、考えた。

教会前広場の真ん中には、ルーリッドの村が出来たときに掘られたという恐ろしく深い井戸があり、そこから汲み上げる水は夏でも手が痛くなるほど冷えている。また、北の谷にわずかに生えているシルベの樹の葉は、摘むとツンとくる香りを放ちながらひんやりと冷たくなるので、打ち身の治療に重宝されている。確かに、深井戸の水を壷に入れたり、シルベの葉でパイを包んだりすれば、弁当を運ぶ間冷たく保つことは可能なように思われた。

しかし、同じようにしばらく考えていたキリトは、ゆっくり首を振りながら口を開いた。

「それだけじゃたぶんムリだよ。井戸水は、汲んで一分も置けばすぐにぬるくなっちゃうし、シルベの葉っぱはちょっとヒヤっとするくらいだし。とても、アリスの家からギガースシダーまで、バスケットの中を寒くできるとは思えないな」

「なら、他にどんな方法があるってのよ?」

せっかくの名案にケチをつけられたアリスが、唇を尖らせながら訊き返した。キリトはしばらく、黒い髪をわしわし掻き混ぜながら黙っていたが、やがてぼそりと口にした。

「氷だ。氷がいっぱいあれば、じゅうぶんに弁当を冷やせる」

「あんたねえ……」

ほとほと呆れた、というように、アリスが首を振った。

「今は夏なのよ。氷なんか、どこにあるってのよ。央都の大マーケットにだってありゃしないわ!」

まるで、聞き分けのない子供を叱る母親のような口調で捲し立てる。

が、ユージオはひしひしと嫌な予感を覚えつつ、口をつぐんだままキリトの顔を見ていた。この幼馴染が、こういう眼の光を浮かべ、こういう口調でものを言うときは、大抵ろくでもないことを考えているのだということを長年の経験から知っているからだ。頭のおくに、東の山まで皇帝蜂の蜜を取りに行ったときのことや、教会の地下室で黒妖精の封じられた壷を割ってしまったときのことなどが立て続けに浮かんでは消えた。

「ま、まあ、いいじゃないか、急いで食べれば大丈夫なんだからさ。それより、そろそろ午後の仕事にかからないと、また帰りが遅くなっちゃうよ」

手早く空いた皿をバスケットに戻しながら、ユージオはそう言って、この不穏な話題を打ち切ろうとした。が、キリトの瞳が何らかの思いつきにきらりと輝くのを見て、危惧が現実になりつつあるのをいやおうなく悟る。

「……なんだよ、今度はいったい何を思いついたんだ」

やや諦め混じりにそう尋ねると、キリトはにいっと笑みを浮かべながら答えた。

「なあ……ずーっと昔、ユージオの爺ちゃんにしてもらった話、憶えてるか?」

「ん……?」

「どの話……?」

二年前に天命天職を果たしてステイシアのもとに召されたユージオの祖父は、色々な昔話をたっぷりと白い髭の奥に詰め込んでいて、庭の揺り椅子に腰掛けパイプをくゆらせながら、足元にうずくまる三人の子供に聞かせてくれたものだ。不思議な話、わくわくする話、怖い話などその数はたっぷり数百に及び、ユージオはいったいキリトがどれのことを言っているのかわからず、アリスと同時に首を傾げて尋ね返した。

「夏の氷、と言えばあれしかないだろう。『ベルクーリと北の白い……』」

「おい、やめてくれ、冗談だろう!」

ユージオは最後まで聞かず、両手と首を振りながらそう叫んで遮った。

ベルクーリ、というのは、ルーリッドの村を拓いた入植者たちの中で一番の使い手だった剣士で、初代の衛士長を務めたと言われている人物だ。なにぶんもう三百年も前のことなので、口伝てにいくつかの神話的武勇譚が残っているだけだが、その中でももっとも奇想天外なのが、キリトが言いかけた題を持つ話だった。

 ある夏の盛りの日、ベルクーリは村の東を流れる川に、大きな透明の石が流れてくるのに気付く。拾い上げてみるとそれはなんと氷の塊で、不思議に思ったベルクーリは、ひたすら川沿いにさかのぼって歩き続ける。やがて彼は、地の果てと考えられている北の山脈に彷徨いこみ、尚も細い流れを追って谷を登っていくと、そこには巨大な洞窟が口を開いていた。吹き出してくる、凍えるような風に逆らってベルクーリは洞窟に踏み込み、いろいろな危険を乗り越えて一番奥の大広間までたどり着くと、そこで彼を待っていたのは……という筋で、タイトルは『ベルクーリと北の白い竜』というものだった。

 いかな悪戯好きのキリトと言えど、まさか禁を犯して北の峠を越え、本物のドラゴンを探しに行こうなどと考えているわけではあるまい――と半ば祈りながら、ユージオはおそるおそる尋ねた。

「つまり、ルール川を見張って、氷が流れてくるのを待とう……っていうこと?」

だが、キリトは馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、あっさり言い放った。

「そんなの待ってるうちに夏が終わっちゃうぜ。別に、ベルクーリの真似してドラゴンと戦おうってんじゃないよ。あの話じゃ、洞窟に入ったらすぐにでっかいツララがいっぱい生えてたって言うじゃないか。そいつを二、三本折ってくれば、じゅうぶん間に合うはずだ」

「だからってお前……」

ユージオは数秒間絶句してから、傍らを振り返って、かわりにこの無鉄砲小僧を諌めてくれないものかとアリスを見た。そしてその碧い瞳の奥に、きらきらと常ならぬ光が宿っているのに気付き、内心でがくりと肩を落とした。

甚だ不本意ながら、ユージオとキリトは、村一番の悪餓鬼コンビとして、厳格な老人たちから溜息苦言叱責等々を日常的に頂戴する身である。しかし、二人の数々の悪行の裏に、村一番の優等生アリスのひそかな扇動があることを知る者は少ない。

そのアリスは、右手の人差し指をふっくらとした唇にあて、さも迷っているふうに数秒間首を傾げてから、ぱちりとひとつ瞬きをして明るい声で言い放った。

「――悪くないアイデアね」

「あ、あのねえアリス……」

「確かに北の峠に行くのは村の掟で禁じられているわ。でもそれは、峠の先にある『果ての山脈』を越えることが神聖教会の禁忌目録に触れるからでしょ? 私たちはなにも、果ての山脈のてっぺんに登ろうってんじゃないのよ。そのふもとのどっかにある洞窟を捜そうっていうだけよ。それにだいたい、峠道じゃなくて川のほとりを進むんだから、村の掟だって破るわけじゃないわよ」

流れる水のごとくそうまくしたてられると、いつものことながらユージオは異を唱える隙間さえ見つけることができない。それに、聞いているうちになんとなく、アリスの言っていることが正論のように思えてきてしまうのだ。

禁忌目録、とは、遥か央都に天まで貫く巨塔を構える世界中央神聖教会が発行する分厚い黒革装の書物だ。ユージオたちの暮らすノーランガルス神聖帝国だけでなく、東方や南方、西方のあまねく異国のあらゆる町や村の長の家にかならず一冊備えられ、その中には教会が定めた「してはいけないこと」がびっしりと列挙してある。第一項にある「教会への反逆」から、末項の「山羊に干したオリシュ麦を与えること」まで禁忌の数は軽く千を越えるが、それを全て暗記するのが学校の授業のうちでも最重要の科目となっている。

 禁忌目録の威が及ばないのは、世界を囲む果ての山脈の向こうにあるという闇の王国だけだ。ゆえに、山脈を越えることは禁忌の中でもかなり最初のほうに記してある。確かに厳密に解釈すれば、山脈のふもとをうろつくくらいなら禁忌には触れないと思われる――ものの、ユージオはおぼろな不安を感じてごくりと喉を鳴らした。

だが、もう一度だけアリスを諌めてみようとしたその矢先に、キリトが大きな声で言った。

「ほら、村で一番ちゃんと目録を暗記してるアリスがそう言うなら間違いないって! よし決まり、次の休息日はドラゴ……じゃない、氷の洞窟探しだ!」

「お弁当は保ちのいい材料で作らないとかなー」

顔を輝かせる二人の親友を交互に見やって、ユージオは内心でふかい溜息をつき、次いで「そうだね」と弱々しい笑みを浮かべながら相槌を打った。


七の月三回目の休息日は、どうやらいい天気になりそうだった。

すでに天職を与えられている十歳以上の子供たちも、この日ばかりは幼い頃に戻り、夕食の時間まで遊びまわることが許されている。ユージオとキリトもいつもは他の男の子らと一緒に魚を釣ったり剣術の稽古のまねごとなどをして過ごすのだが、今日はまだ朝靄も消えないころから家を抜け出し、村はずれの古樹の下で落ち合ってアリスを待っていた。

「……遅い!」

自分もユージオを数分待たせたことを棚に上げ、キリトがぶつぶつと毒づいた。

「まったく女ってのは、約束の時間よりも身支度のほうが優先なんだからなもう。そんであと二年もすれば、お前んとこの姉ちゃんみたく、服が汚れるから森になんか入れないとか言い出すんだ」

「しょうがないよ、女の子なんだからさ」

苦笑混じりにそう言いつつ、ユージオはふとキリトの言う二年先のことを考えた。

アリスはまだ、身分的には天職に就かない子供の範疇なので、周囲も彼女が好んでユージオたちと行動を共にすることを黙認している。しかしもともと彼女は村長の娘という、村の女性たちの規範的存在となることが半ば決定している立場なのだ。そう遠くない未来には、男の子と遊ぶことも禁じられ、神聖魔法だけでなく立ち居振舞いや作法のレッスンも受けるようになるに違いない。

 そして……その後はどうなるのだろう。彼女も、一番上の姉のスリニャのように、どこかの家に嫁ぐのだろうか? もしかしてその相手が、ユージオあるいはキリトだというようなことは有り得るのだろうか? 一体そのへんのことを、この相棒はどう考えているのか……?

「おい、何ぼんやりしてるんだよ。昨夜ちゃんと寝たのか?」

いきなり怪訝な表情でキリトに顔を覗き込まれ、ユージオは慌ててこくこく頷いた。

「う、うん、大丈夫。……あ、来たみたいだよ」

たったっという軽い足音を耳にとらえ、村のほうを指差す。

濃い朝もやをかき分けるように現われたアリスは、キリトの言ったとおり、綺麗に梳いた金髪をリボンで結わえ、染みひとつないエプロンドレスを揺らしていた。ユージオは思わずキリトと顔を見合わせて笑みを噛み殺し、向き直って同時に叫んだ。

「遅い!」

「あんた達が早すぎるのよ。まったくいつまでも子供なんだから」

済まし顔でそう言ってのけ、アリスは右手のバスケットをユージオに、左手の水袋をキリトに向かって突き出した。

 二人が反射的に荷物を受け取ると、くるっと後ろ――村から出てゆく細道のほうを振り向き、腰をかがめて足元から草穂を一本摘み取る。丸く膨らんだその先端でびしっと彼方にそびえる岩山を指し、アリスは元気よく叫んだ。

「じゃあ……夏の氷を探して出発!」

 どうしてこういつも、"お姫様と従者二人"みたいになっちゃうんだろうなあ、と思いつつ、ユージオはもう一度キリトと視線を交換し、歩き出したアリスの後を追った。

村を貫いてのびる道は、南側は人や馬車の往来も多くしっかりと踏み固められているが、北へ向かう人間はほとんど居ないため樹の根や石が多く歩きづらい。しかしアリスは道の悪さなど感じさせない軽やかな足取りで、鼻歌をうたいながらユージオの前を進んでいく。

何て言うか、身のこなしが綺麗なんだよな、とユージオは思う。数年前までアリスは村の悪餓鬼連中に混じって剣の練習(のようなこと)をすることがたまにあったが、彼女の持つ、良くしなる細枝にユージオもキリトも何度ぴしりとやられたことか。そのくせこちらの棒は、風の精でも相手にしているかのように無様に空を切ってばかりなのだった。もしあのまま修行を続けていたら、アリスはひょっとしたら村ではじめての女剣士にすらなれていたかもしれない。

「剣士か……」

ユージオはぼそりと口のなかで呟く。

巨樹の刻み手という天職を与えられる前まで、もしかしたら、と漠然と考えていた途方もない夢。村の男の子なら皆が憧れる衛士にもしも抜擢されたなら、生木の皮を剥いだ不恰好な木剣ではなく、時代ものではあろうが本物の鋼剣を与えられ、日々ほんとうの剣術を学ぶことができる。

 それだけではない。北辺の村々の衛士は、毎年秋になると南のザッカリアの街で開かれる剣術大会に参加することができる。そこで上位に入賞したりすれば、街の衛兵――名実ともに本物の剣士と認められ、央都の鍛冶工房で鍛えられた制式剣が貸与される――に取り立てられることもあるという。夢はそこで終わらない。衛兵隊で出世すれば、央都に上り、皇帝の御前で開かれる武術大会に参加する機会が与えられる(昔話のベルクーリは、この大会で準々決勝まで進んだということだ)。

 そしてその次にして究極が、真の英雄のみが集うという、神聖教会そのものが催す四帝国統一大会だ。神々すら照覧するというこの戦いを勝ち抜いた者だけが、あらゆる剣士の頂点、世界の秩序を守る神命を帯び、ときに"闇の王国"に棲まう悪魔とすら戦うという、飛竜を駆する整合騎士に任じられる――。

 そこまではさすがに想像すらも覚束ないが、でも、もしかしたら、とユージオも思っていた頃があった。もしかしたら、アリスは、剣士ではなく神聖術士の見習いとして村を出て、ザッカリアの街の学校へ、あるいは央都の魔術院にすら行けるかもしれない。その時その隣には、護衛として、緑と薄茶の衛兵隊制服に身を包み輝く制式剣を吊った自分が……。

「まだ終わった夢じゃないぜ」

突然、横を歩くキリトがぼそりとそう呟き、ユージオは吃驚して顔を上げた。どうやらかすかな嘆息から空想をすべて読まれたらしい。相変わらずの勘の鋭さに苦笑いしてから、呟き返す。

「いいや、終わったさ」

そう、もう夢見る時期は終わってしまったのだ。村の衛士の天職を与えられたのは、現衛士長の息子ジンクとその子分二人(全員、剣の腕ではユージオとキリト、そしてもちろんアリスにまったく及ばなかったのに!)だった。少しの苛立ちと、倍量の諦めを込めて吐き出す。

「一度決まった天職は、村長にだって替えられないよ」

「たったひとつの例外を抜けばな」

「例外……?」

「仕事をやり遂げた場合だ」

今度はキリトの頑固さに呆れてもう一度苦笑する。この相棒は、鉄より硬いギガスシダーを自分の代で切り倒すという大それた野望をまだ捨てていないのだ。

「あの糞ったれな樹をぶっ倒せば、俺たちの天職はきれいさっぱり完了だ。そしたら次の仕事は自分で選べる。そうだろ?」

「そりゃそうだけどさ……」

「俺は、羊飼いとか麦造りとかの天職でなくて良かったと思ってるぜ。そういう仕事には終わりって無いけど、俺たちのは違う。絶対何か方法があるはずだ、あの樹をあと三……いや二年で切り倒して、そしたら……」

「街の近衛兵登用試験を受ける」

「何だよ、お前もその気なんじゃないかユージオ」

「キリトにだけいい恰好はさせられないからね」

軽口の応酬をしているうちに、何となくそれほど大それた夢ではない気がしてくるのが不思議だった。制式剣を拝受して村に戻り、ジンクたちの目を丸くさせるところを想像してキリトと二人にやにやしながら歩いていると、前を歩いていたアリスがじろりとこちらを振り向いた。

「こら、なに二人で内緒話してるのよ」

「い、いや、何でも。昼飯はまだかなーって、さ。なあ」

「う、うん」

「あっきれた、まだ歩き始めたばっかじゃない。それより、ほら、川が見えたわよ」

アリスが草の穂先で指す方を見ると、道の先に大きめの木の橋が姿を現していた。ルール川をまたぐ北ルーリッド橋だ。あれを渡り、さらに進むとやがて北の峠に行き着く。が、三人が目指すのは峠ではなく、川の源流だ。

橋のたもとからは、川辺の草むらに降りる細道が伸びていた。よく釣りにくる場所なので、勝手知ったる足取りでひょいひょいと下っていく。

ユージオは水辺でひざまずくと、さらさらと鳴る透明なせせらぎにざぶりと右手をつけてみた。さすがに真夏だけあって、春先には凍るようだった水はかなり温んでいる。服を脱ぎ捨てて飛び込んだらさぞ気持ちいいだろうが、アリスの前でそんな真似もできない。

「とても氷が流れてくるような水温じゃないよ」

振り向いてそう言うと、キリトは唇ととがらせて反論した。

「だから大元の洞窟まで行こうってんじゃないか」

「それはまあいいんだけど、夕方の鐘までに帰れなくなったら大目玉だからね。ええと……ソルスが空の真ん中まで来たら、その時点で引き返すことにしよう」

「仕方ないわね。そうとなれば、急ぐわよ!」

柔らかい下草をさくさく踏んで歩き出すアリスの後を、二人も早足で追いかける。

左側から天蓋のように張り出す樹々の枝が日差しを遮り、また右の川面から立ち上る涼やかさのせいもあって、ソルスが空高く登ったあとも三人は心地よく歩くことができた。幅一メルほどの岸辺は短い夏草に覆われ、足を取るような石や穴もほとんどない。

これだけ歩きやすい場所なのに、考えてみると北ルーリッド橋から先には一度も足を踏み入れたことがないんだな、とユージオは少し不思議に思った。村の掟、さらには教会の禁忌目録への畏れが、いつのまにか胸の深いところにまで刻まれてしまっているのかもしれなかった。いつもキリトと二人、大人たちはしきたりばかり気にして、と文句を言っているのに、思えば自分たちも実際に掟や禁忌を犯したことは一度もないのだ。今日のこのささやかな冒険が、かつてもっとも禁に迫る行為なのは間違いない。

今更ながら少しばかり不安になり、前を歩くキリトとアリスを見るが、二人は呑気に羊飼いの歌など合唱している。まったくこいつらは、何かを心配したりということがないんだろうか、と溜息をつきたくなる。

「ねえ、ちょっと」

声をかけると、二人は足を動かしたまま揃って顔をユージオに向けた。

「なーに?」

首をかしげるアリスに、しかめつらを作ってみせながら、少し脅かしてやろうと尋ねる。

「もうけっこう村から離れたけどさ……このへんて危ない獣とか出たりしないの?」

「えー? 私は聞いたことないけどなあ」

アリスがちらりと視線を向けると、キリトも首を傾げた。

「うーん……ドネッティのとこの爺さんがでかい長爪熊を見たってのは、あれはどのへんの話だっけ?」

「東の大林檎の樹のあたりでしょ。しかも十年前の話よ、それ」

「このへんじゃあ、出ても赤毛狐くらいだよなあ。まったく、ユージオは怖がりだな」

揃ってアハハと笑われてしまい、がくりと肩を落としたくなる。

「そ……そんなこと言ったって、二人とも村の北に出たのは初めてじゃないか。少しは気をつけたほうがいいって言ってるんだよ」

そう抗弁すると、不意にキリトが悪戯そうに目を輝かせた。

「うん、そう言やそうだよな。知ってるか? この村ができたばっかりの頃は、たまに闇の国からゴブリンだのオークだのが山を越えてきて、子供をさらったりしたんだぞ」

「何よ、二人して私を怖がらせようとして。知ってるわよ、最後には央都から整合騎士が来て、ゴブリンの親玉を退治してくれたんでしょ?」

「――『それからというもの、晴れた日には、果ての山脈のはるか上を飛ぶ白銀の竜騎士が見えるようになったのです』」

キリトは、村の子供なら誰でも知っているおとぎ話の最後の一節を口ずさむと、ふいっと振り向いた。ユージオとアリスも、いつの間にか視界のかなりの部分を覆うほどに近づいていた巨大な岩山の連なりと、その上の青い空をじっと見詰める。

もしかしたら雲の間にきらきら光る飛竜の姿が見えるかも、と一瞬思ったが、どんなに目を凝らしても空には染みひとつなかった。三人は顔を見合わせると、ふひっと笑った。

「――おとぎ話、よね。きっと、洞窟にいる氷の竜ってのも後から作った話なのよ、ベルクーリが」

「おいおい、村でそんなこと言うと村長の拳骨が落ちるよ。ベルクーリは村の英雄なんだから」

ユージオの言葉にもう一度笑うと、アリスは歩くスピードを上げた。

「行ってみればわかるわよ。ほら、のんびり歩いてると、お昼までに洞窟につかないよ!」


 ――とは言え、実際には、とても半日歩いたくらいで『果ての山脈』にまでは着かないだろうとユージオは思っていたのだ。果ての山脈はほんとうの世界の果て、つまりこの神聖教会と四帝国によって成り立つ人間の国の終わりであって、いくらルーリッドの村が北部辺境のなかでもいちばん北にあると言ったってそう簡単に子供の足で辿り付ける場所ではないだろう、と。

だから、太陽が中天に達するほんの少し前、かなり幅を狭めていたルール川が、崖の根元にぽっかり口を開けている洞窟にその姿を消しているのを目にして、ユージオは本当に驚いた。

ついさっきまで左右に深く広がっていた森は突然切れてなくなり、眼前では灰色の岩がごつごつと伸び上がっている。見上げてみれば、まだ天を切り裂く稜線までは相当の距離があるだろうが、この岩の連なりが山脈の端っこであるのは間違いないようだった。

「これが……果ての山脈なのかよ?」

キリトも見ているものが信じられない様子で、ぽかんと開けた口で低くそう呟いた。同様に、アリスも青い瞳をいっぱいに見開いたまま、わずかに唇を動かす。

「ほんとに……あの山の天辺のむこうが、闇の王国なの? だって……私たち、まだ五時間くらいしか歩いてないよね。その程度じゃザッカリアの街にだって着かないわよ。ルーリッドって……ほんとうに、世界の端っこにあったのねえ……」

 実際、何でこんなことを僕たちは知らなかったのか、とユージオは愕然とせざるを得ない。いや――もしかしたら、村の大人たちも、誰ひとり果ての山脈がこんなにも近いということを知らないのではないだろうか? 三百年の歴史の中で、村の北に広がる森を抜けたのは、ベルクーリのほかには僕たちしか居ないのでは……?

なんだか妙だ。ふとユージオはそう感じる。だが、何がおかしいと思うのかがよくわからない。

 毎日毎日、決まった時間に起き、同じ朝食を食べ、同じように畑や牧草地、鍛冶場や糸繰り場へ出かけていく大人たち。さっきアリスは、五時間じゃザッカリアの街にだって着かない、と言ったが、もちろんアリスもキリトもユージオも、実際に街に行ったことがあるわけではない。大人が、南の街道を馬で朝から夕方まで進むとザッカリアの街がある、と言っているのを聞いただけだ。だが、その大人たちにしたって、ほんとうにザッカリアまで行ったことがある者が、果たして居るのだろうか……?

ユージオの中でもやもやと渦巻く考えがまとまった形になる前に、とにかく、というアリスの声がそれを吹き払ってしまった。

「――とにかく、ここまで来たならもう中に入ってみるしかないよね。その前に、お弁当にしましょう」

そう言うと、ユージオの手からバスケットを取り、短い下生えが灰色の砂利に変わるぎりぎりの場所に腰を下ろす。待ってました、もう腹ぺコだよ、というキリトの歓声に促されるように、ユージオも草の上に座り込んだ。香ばしいパイの匂いが疑問の残り滓を拭い去ると、思い出したように胃が空腹を訴えはじめる。

 我先にと伸ばされたユージオとキリトの手をぺしぺしと叩いて撃退し、アリスは料理の"窓"を次々に引き出した。すべてにまだ余裕があるのを確かめてから、魚と豆のパイ、林檎とくるみのパイ、干したすももを配ってくれる。さらに、水袋に詰められたシラル水を木製のカップに注ぎ、これもまた悪くなっていないか確認する。

ようやくお許しが出た午餐に、いただきますももどかしくかぶりつきながら、キリトが聞き取り難い声で言った。

「そこの洞窟で……つららを見つければ、明日の昼飯はこんな慌しく食わなくてもよくなるな」

口の中のものを飲みくだしてから、ユージオは首をひねりつつ答える。

「でもさ、よく考えてみると、うまく氷を手に入れても、それ自体の"天命"はどうやって保たせるんだよ? 明日の昼までに溶けてなくなっちゃったら何の意味もないんじゃない?」

「む……」

それは考えてなかった、というようにキリトが眉をしかめると、アリスがすまし顔で言った。

「急いで持って帰って、うちの地下室に入れておけば一晩くらいは大丈夫でしょう。まったくあんたたちは、それくらい最初に考えておきなさいよ」

またいつものようにそそっかしさを指摘されてしまい、ユージオとキリトは照れ隠しにがつがつと食事を頬張った。それに付き合ったわけでもないだろうが、アリスも普段より早いペースでぺろりとパイを平らげ、シラル水を飲み干す。

綺麗に空になったバスケットに、料理を包んでいたナプキンをきちんと畳んで収めると、アリスはすっくと立ち上がった。三つのカップを持ってすぐそばの水面まで歩き、川水で手早く洗う。

「うひゃっ」

妙な声を上げながら作業を終え、戻ってきたアリスは、エプロンで拭いた手をユージオに向かって広げた。

「川の水、すっごい冷たいよ! 真冬の井戸水みたい」

見れば、小さな掌はすっかり赤くなっている。思わず両手を伸ばし、アリスの手を包んでみると、確かにひんやりと心地よい冷たさが伝わってきた。

「ちょっ……やめてよ」

少しばかり頬を掌と同じ色にさせながらアリスがすぽんと両手を引き抜いた。それでようやく、ユージオも自分が普段なら決してしないようなことをしてしまったことに気付き、泡を食う。

「あっ……いや、その」

「さて、そろそろ出発しようか、お二人さん」

それでも助け舟のつもりなのか、ニヤニヤしながらそんなことを言うキリトの足を軽く蹴り、ユージオは照れ隠しに乱暴な動作で水袋を拾い上げると肩にかつぎ上げた。そのまま後ろを見ずに、洞窟の入り口へと歩を進める。

ここまで三人が追いかけてきた透明なせせらぎは、これが本当にあのルール川の源流かと思うほどにささやかなものになっていた。差し渡しは一メル半ほどしかあるまい。高い崖に穿たれた洞窟から溢れ出す水流の左側には、同じくらいの幅で剥き出しの岩肌が伸びており、どうにか歩いて中に入れそうだった。

三百年前、衛士長ベルクーリも踏んだとおぼしき灰色の岩に右足を乗せ、しばし躊躇してから、ユージオは思い切って洞窟の内部へと踏み込んだ。いきなり周囲の気温が下がり、思わず剥き出しの両腕をこする。

後ろから二人の足音がついてくるのを確認しながら、さらに十歩ほど進んだ。

そしてユージオは、またしても肝心なことを忘れていたことに気付き、肩を落としながら振り返った。

「しまった……僕、灯り持ってきてないよ。キリトは?」

入り口からわずか五メルほどしか入り込んでいないのに、すでに二人の表情が判別しにくいほどに周囲は暗くなっている。洞窟の中は真っ暗だなどという、あまりに当然のことを忘れていた自分に幻滅しつつ、相棒の機転に望みを託すが、返ってきたのは、「お前が気付かないことに俺が気付くわけがない!」という情けないものだった。

「あ……あのねえ、あんたたち……」

一体今日何度目に聞くアリスの呆れ声だろう、と思いつつ、わずかな光にも輝く金髪に目を向ける。アリスは数回左右に首を振ってから、エプロンのポケットに手を差し込み、何か細長いものを取り出した。よく見ると、冒険に出るときに摘み取った草穂だ。

 右手に持った草の先端に左の掌を添え、アリスは目を閉じた。小さな唇が動き、"窓"を引き出すときの聖句に抑揚が似ているがずっと長い、不思議な音の羅列を空中に奏でる。

最後に左手が素早く複雑な印を切ると、丸く膨らんだ穂の先にほわっと青白い光が灯った。それはたちまち強さを増し、洞窟の中をかなりの距離まで照らし出した。

「うおっ」

「おお……」

キリトとユージオは、思わず異口同音に嘆声を漏らした。

 アリスが聖術を学んでいるのは知っていたが、こうしてその実例を目にしたのはほとんど初めてと言っていい。シズター・アザリヤの教えによれば、すべての魔術、つまり生命神ステイシアに祈る聖術と、七元素神の力を源とする精術は――闇神ベクタに帰依する魔物が使う闇術は例外だが――世界の平穏と安息を守るためにのみ存在するのであって、みだりに使用してはならない、ということになっているからだ。

シスターとその生徒アリスが聖術を使うのは、村に薬では治せない病人や怪我人が出たときだけだ。とユージオは理解していたので、草穂に魔法の光を灯すアリスに向かって、思わず尋ねてしまった。

「あ、アリス……こんなことに魔法使って、平気なの? 罰が当たったりとか……」

「ふん、この程度で罰が当たるなら、私なんか今ごろ十回くらい雷に撃たれてるわよ」

「…………」

それってどういう、と聞こうする前に、アリスは右手の光る草をぐいっとユージオに向かって突き出してきた。思わず受け取ってしまってから、ひええ、と思う。

「ぼ、僕が持つの!?」

「当たり前じゃない。か弱い女の子に先頭を歩かせる気? ユージオは私の前、キリトは後ろよ。時間が勿体無いわ、とっとと先に進むわよ」

「は、はい」

勢いに押されるように、ユージオは振り向くと灯りを掲げ、洞窟の奥へとおそるおそる進み始めた。

内部は、曲がりくねりつつも一定の広さで続いているようだった。青みがかった灰色の岩は濡れたように光り、時折、灯りの届かない暗がりでかさかさと小さな何かが動き回る気配がする。天井からは、不思議な形の尖った岩が垂れ下がり、それと同じ場所に地面からも石のトゲが伸び上がっている。

が、どれほど目を凝らしても、氷らしきものは一切視界に入らなかった。

さらに五分ほど足を動かしたところで、ユージオは振り向くと口を開いた。

「ねえ……確か、洞窟に入ったすぐのところに氷のツララがあるって、キリト言ってたよねえ?」

「言ったっけ、そんなこと」

「言った!」

とぼけるように目を逸らす相棒に詰め寄ろうとするが、アリスがすっと右手を上げてユージオを止めた。

「ねえ、ちょっと、灯りを近づけて」

「……?」

言われるままに、右手の魔法の光をアリスの顔に寄せる。アリスは唇を丸い形にすると、光に向かってほうっと息を吐き出した。

「あ」

「ね、見えたでしょ? 冬みたいに、息が白くなってる」

「うえ、ほんとかよ。どおりでさっきから寒いと思ってたんだよ……」

勝手な文句を言うキリトを無視して、ユージオとアリスはこくりと頷きあった。

「この洞窟の中は、冬と同じなんだわ。きっと氷だってあるはずよ」

「うん。もう少し、進んでみよう」

体の向きを変え、少しずつ広がっているような気がする洞窟の奥のほうに魔法の灯りを向けて、慎重に前進を再開する。

聞こえるものと言えば、三人の革靴が岩をこするかすかな音のほかは、とうとうと流れる地下水のせせらぎだけだった。これほど源流に近づいてもその勢いは弱まらない。

「……もし舟があったら、帰りは楽だよなぁ」

 最後尾で呑気な声を上げるキリトを、ユージオは、静かにしてろとたしなめた。すでに、予定を遥かに越える深さで洞窟に入り込んでいる。まさかとは思うが――

「――ねえ、ほんとにドラゴンに出くわしたら、どうするの?」

ユージオの思考を読んだように、アリスが囁いた。

「そりゃ……逃げるしか……」

同じくひそひそ声で答えるが、それに被さるようにまたキリトの脳天気な言葉が反響する。

「だいじょーぶだって。ベルクーリがドラゴンに追っかけられたのは、宝剣を盗もうとしたからだろ? いくらなんでもつららを取るくらい許してくれるさ。――うーん、でもなあ、できれば剥げたウロコの一枚くらいほしいよなあ……」

「おい、何考えてるんだよキリト」

「だってさぁ、本物のドラゴンを見た証拠を持って帰ったら、ジンク達が死ぬほど羨ましがるぜ」

「冗談じゃないよ! 言っとくけど、もしお前がドラゴンに追っかけられたら、僕たちは見捨てて逃げるからな」

「おい、声が大きいぞユージオ」

「あのな、お前がおかしなことばっかり言うから……」

不意に足元で妙な音がして、ユージオは口をつぐんだ。ぱりん、という、何かを踏み割ったような響き。慌てて右手の光を近づけ、右足の下を確かめてから、思わず声を漏らす。

「あっ、これ見てよ」

腰をかがめるアリスとキリトの視線の先で、つま先を動かす。灰色の滑らかな岩肌に溜まった水が、表面に薄い氷を張らせていた。指を伸ばし、透明な薄膜の一片を摘み上げる。

掌に載せたそれは、数秒のうちに溶けて小さなしずくに変わってしまったが、三人は顔を見合わせて思わず笑みを漏らした。

「間違いない、氷だよ。この先にもっとあるはずだ」

 ユージオがそう言いながら周囲を照らすと、同じように氷結した水たまりがいくつも青い光を跳ね返した。それに、真っ暗な闇に沈む洞窟の、ずっと奥のほうに……。

「あ……なんか、いっぱい光ってる」

アリスの言葉どおり、ユージオが右手をうごかすと、それにつれて無数の小さな光点がちかちかと瞬くのが見えた。もうドラゴンのことなどすっかり忘れ、半ば駆け出すようにその方向を目指す。

さらに百メルほども進んだか、と思えた時だった。突然、左右の岩壁が無くなった。

同時に、息を飲むような幻想的な光景が、三人の前に出現した。

広い。とても地下の洞窟とは思えない、あまりにも広大なドームだ。村の教会前広場の、ゆうに五倍はあるに違いない。

 ほぼ円形に湾曲する周囲の壁は、さっきまでのような濡れた灰色ではなく、薄青い透明な結晶にびっしりと覆われているようだった。そして床面は、なるほどこれがルール川の源だったのかと納得させられる、巨大な池――いや湖になっていた。ただし、水面はぴくりとも揺れていない。岸辺から中央までが、分厚く氷結しているのだ。

白いもやのたなびく氷の湖のそこかしこからは、ユージオたちの背丈などゆうに上回る高さで、不思議な形の柱が突き出している。先端の尖った、角張った氷の柱だ。まるで、昔ガリッタ爺さんに見せてもらった水晶の原石のようだとユージオは思った。ただし、こちらのほうがずっと大きく、美しい。無数の、深い透明な青色の柱たちが、ユージオの握る草穂が放つ魔法の光を吸収して、六方向に放射し、それをまた反射させることで、広大なドーム全体をぼうっと照らし出している。氷柱は湖の中心に近づくほど数を増し、真ん中まではまったく見通せない。

氷だった。すべてが氷でできている。見れば、周囲の壁もまた分厚い氷の板なのだった。それが高く伸び上がり、はるか頭上で天蓋のように丸く閉じている。

三人は肌を刺す寒さも忘れ、白い息を吐き出しながら、たっぷり数分間も立ち尽くしていた。やがてアリスが、かすかに震える声で言った。

「……これだけ氷があったら、村中の食べ物を冷やせるわね」

「それどころか、しばらく村を真冬にだってできるぜ。――なあ、奥のほうに行ってみよう」

キリトは言い終える前に、数歩進んで湖の氷の上に乗った。かなり分厚く凍り付いているようで、軋む音ひとつ聞こえない。

 いつもだったら、ここで諌めるのがユージオの役回りなのだが、今回ばかりは好奇心が優った。もしかして、本当にあの奥にドラゴンがいるんじゃ……? と思うと、どうしても覗いてみたくてたまらなくなる。

魔法の灯りを高く掲げ、ユージオはアリスと並んでキリトの後を追った。足音を立てないよう慎重に、巨大な氷柱の影から影へと伝うように湖の中心を目指す。

 すごいぞ、もしドラゴンを見たら――。ユージオは考える。そうしたら、今度は僕たちの話が、何百年も続く物語になるんだろうか? もし、もしもだけど、ベルクーリにできなかったこと……ドラゴンの宝を何かひとかけらでも持って帰れたら、村長も僕たちの天職を考え直してくれるんじゃないだろうか……?

「むぐ」

歩きながらいつのまにか夢想をふくらませていたユージオは、突然立ち止まったキリトの後頭部に鼻をぶつけてしまい、顔をしかめた。

「おい、急に止まるなよキリト」

だが、相棒は返事をしなかった。いぶかしむうち、その喉から低い呻き声のようなものが漏れる。

「……なんだよこれ……」

「え……?」

「なんなんだよ、これ!」

隣のアリスと同時に首を傾げ、ユージオはキリトの横から前方を覗き込んだ。

「一体どうしたって言うのよ……」

ユージオと同じものを見たアリスが、言葉の尻尾を飲み込んだ。

骨の山がそこにあった。

青い、氷の骨だ。氷というより、水晶の彫刻のようでもある。ひとつひとつがあまりに大きな、様々な形の無数の骨が積み重なって、三人の背丈より高い山を作っていた。山の中央に、それが何の骨なのかを厳然と語るひとつの巨大な塊があった。

頭骨だ、と一目でユージオも理解した。虚ろな眼窩と、鼻の孔。後ろ側には角のような突起が長く伸び、迫り出した顎骨には剣のような牙が無数に並んでいる。

「ドラゴンの……骨?」

アリスが低く囁いた。

「死んじゃったの……?」

「ああ……でも、ただ死んだんじゃない」

答えたキリトの声は落ち着きを取り戻していたが、普段相棒があまり見せることのない、ある種の感情に彩られているようにユージオは感じた。

キリトは数歩進み出ると、足元からドラゴンの前足と思われる巨大な鉤爪を拾い上げた。

「ほら……いっぱい傷がついてるし、先っぽも綺麗に欠け落ちてる」

「何かと戦ったの……? でも、ドラゴンを殺せる生き物なんて……」

 ユージオの心中にも、アリスと同じ疑問が浮かぶ。ドラゴンと言えば、世界を囲む果ての山脈の各地に棲み、闇の勢力から人間の国を守る、世界最強の善なる守護者ではなかったのだろうか? 一体何者がそれを殺すというのか……?

「これは、獣や他のドラゴンと戦ってできた傷じゃない」

キリトが、指先で青い鉤爪をなぞりながらぽつりと言った。

「え?」

「これは剣の傷だ。このドラゴンを殺したのは人間だ」

「え……ええ? でも……だって、央都の御前大会で何度も勝った英雄ベルクーリでさえ逃げることしかできなかったのよ。そこらの剣士じゃ、そんな大それたこと……」

不意に、アリスは何かを思いついたように黙り込んだ。しばしの静寂が、今は巨大な墳墓となった氷の湖の表面に落ちる。

「……整合騎士……? 教会の整合騎士が、このドラゴンを殺したの……?」

 やがて、ついにアリスがそう口にした。*「うああ……極楽極楽……」

我ながら親父臭いセリフだが、労働で疲れきった体をたっぷりした熱い湯に沈めれば、そう言うより他にない。

ルーリッド教会の風呂場は、つるつるしたタイル貼りの床に大きな銅製のバスタブを埋め込んだもので、外壁に設えられたカマドで薪を燃やして湯を沸かす仕組みになっている。中世ヨーロッパにこんな風呂があったとはとても思えないが、ラースのプログラマーがこのようにデザインしたにしろ、内部時間で数百年に及ぶというシミュレーションの結果独自に進化したにしろ俺にとってはまことに有り難いことだ。

夕食が済んでから、まずシスター・アザリヤとシルカと二人の女の子がお湯を使い、その後俺と四人の男の子が入浴して、散々騒いだガキたちが先刻ようやく出て行ったところである。なのに、巨大なバスタブをなみなみと満たす湯にはわずかな濁りもない。俺は両手に透明な液体をすくうと、ばしゃりと顔に浴びせ、再度うふぇ~と弛緩しきった声を漏らした。

 これで、この世界に放り出されてからほぼ三十三時間が経過したことになる。俺のダイブ以降のSTRA倍率が不明ゆえ、現実ではどの程度の時間が過ぎ去っているのか見当もつかないが、もし等倍速、つまり現実と完全に同期していて、更に俺が行方不明などということになっていれば、さぞ家族や明日奈が心配していることだろう。

そう考えると、こんなふうにノンビリ風呂に浸かっているなどとんでもない、とっとと脱出方法を探すべきだと焦る気持ちが喉元にせり上がってくる。だが、それと同じくらいの質量で、この世界の秘密を見極めたいという欲求もまた確かに存在する。

 俺が、桐ヶ谷和人としての意識と記憶を保ったままこの世界に在るのは、やはりイレギュラーな状況なのだと思えて仕方ないのだ。なぜなら、俺の行動ひとつで、シミュレーションの行方が大きく歪められても不思議はないのである。最低三百年以上に及ぶ壮大な実験が"汚染"されるのは、ラースの技術者にとって間違いなく歓迎されざる事態であろう。

 つまりこれは、俺にとって驚天動地の大ピンチであると同時に、千載一遇の大チャンスかもしれないのだ。RATH――おそらくは国の、ことによると防衛予算がたっぷりと注ぎ込まれたあの謎めいた研究機関の、真なる目的を見極める、最初で最後の機会。

「いや……それもまた、言い訳、かな……」

俺は口もとまで湯に沈むと、ぶくぶくと泡に混じって呟いた。

 あるいは、俺は単に、ひとりのVRMMOゲーマーとしての単純な欲望に衝き動かされているに過ぎないのかもしれなかった。"世界"を"攻略"したい――マニュアルひとつないこの世界を、知識と勘だけを頼りに渡り歩き、剣の腕を磨いて、数多いるであろう剛の者を打ち倒し最強者の称号を目指したいという、愚にもつかない幼稚な欲望。

仮想世界における強さなど所詮データの作る幻に過ぎないと、俺はかつて何度も思い知らされた。二刀流最上位剣技がヒースクリフに破られたとき、妖精王オベイロンの前で無様に地に這ったとき、追いすがる死銃から為す術なく逃げ惑ったとき、もう二度と同じ過ちを犯すまい、と苦い悔恨を噛み締めたものだ。

 しかしまたしても、心の深いところでくすぶる熾火が執拗に俺を焚き付けようとする。俺には振れなかったあの青薔薇の剣を、軽々と操る奴がこの世界にはどれほど居るのだろうか? 法を守護するという整合騎士は、そして闇の国の暗黒騎士とやらはどれほど強いのか? 世界の中央にあるという神聖教会の、一番高い椅子に座るのはどんな奴なんだ……?

無意識のうちに右手の指先が水面を斬り、飛んだ飛沫が正面の壁に当たってビシッと高い音を立てた。

と同時に、脱衣所に繋がるドアの向こうから声がして、俺は我に返った。

「あれ、まだ誰か入ってるの?」

シルカの声だと気付き、慌てて体を起こす。

「あ、ああ、俺――キリト。ごめん、もう上がるから」

「う……ううん、ゆっくりしてていいけど、出るときにちゃんと浴槽の栓を抜いて、ランプを消してね。それじゃ……あたしは部屋に戻るから、おやすみ」

そそくさと去っていく気配に、俺は慌ててドア越しに呼びかけた。

「あ……シルカ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」

ぴたりと止まった足音は、しばし迷うように沈黙を続けていたが、やがて聞き取れないほどかすかな答えが返ってきた。

「……少しなら、いいわ。あなたの部屋で待ってる」

こちらの言葉を待たず、とてとてと小さな音が遠ざかっていく。俺は慌ててバスタブから立ち上がると、底の端っこにある木製の栓を抜き、壁のランプを消して脱衣所に出た。タオルを使わずとも水滴がたちまち消えていくのをいいことに大急ぎで部屋着をかぶり、しんと静まり返った廊下から階段を登る。

客間のドアを開けると、ベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたシルカが顔を上げた。昨夜とは違い、簡素な木綿の寝巻き姿で、ブラウンの髪を三つ編みにまとめている。

シルカは表情を変えずに傍らのテーブルから大きなグラスを取り上げ、俺に向かって差し出した。

「お、ありがとう」

言いながら受け取ると、俺はシルカの隣にどすんと座り、冷えた井戸水を一息に飲み干した。渇いた体の、手足の先まで水分が染み透っていく感覚に、思わずうめく。

「うー、甘露甘露」

「カンロ? って何?」

途端、きょとんとした顔でシルカが首をかしげ、しまったこの世界の語彙には無い言葉だったかと慌てる。

「ええと……すごく美味しくて、癒されるーって感じの水のこと……かな」

「ふうん……。エリクシールみたいなものかしら」

「な、なんだいそれは」

「教会の高位司祭が祝福した聖水のことよ。あたしも見たことはないけど、小瓶ひとつ飲めば怪我や病気で減った天命がたちまち戻るというわ」

「へえ……」

そんなものがあるなら、何で伝染病で何人も死人が出たんだ、と思ったが何となく聞いてはいけないことのような気がして、俺は黙った。少なくとも、神聖教会というご大層な名前の組織が統治するこの世界は、当初思ったほどの楽園ではない、ということだ。

俺が空にしたグラスを受け取ると、シルカは眉をしかめて促すように言った。

「で、話があるなら、早くしてちょうだい。こんな時間に男性の部屋に長い時間いたのをシスター・アザリヤが知ったら、こっぴどく怒られちゃうわ」

「そ……それは申し訳ない。じゃあ手短に済ませるけど、その……聞きたいのは、シルカのお姉さんのことなんだ」

途端、俯いていたシルカの肩がぴくんと揺れた。

「……あたしには、お姉さんなんていないわ」

「今は、だろう? ユージオに聞いたんだ。君に、アリスっていうお姉さんがいたこと……」

言葉が終わらないうちに、シルカがえらい勢いで顔を上げ、俺は少々唖然とした。

「ユージオが? あなたに話したの、アリス姉さんのこと? どこまで?」

「あ……ああ。その……アリスもこの教会で神聖術の勉強をしてたことと……六年前、整合騎士に央都に連れていかれた、ってこと……」

「……そう……」

シルカはかすかな吐息とともに再び視線を落とし、呟くように続けた。

「……ユージオ……忘れたわけじゃなかったんだ、アリス姉さんのこと……」

「え……?」

「村の人は……お父さんも、お母さんも、シスターも、決して姉さんの話をしようとしないの。部屋も、何年も前に綺麗に片付けちゃって……まるで、最初からアリス姉さんなんて居なかったみたいに……。だからもう、みんな姉さんのこと、忘れちゃったのかな、って……ユージオも……」

「……忘れるどころか、ユージオはすごくアリスのことを気にかけてるみたいだぜ。それこそ……天職さえなければ、いますぐ央都まで探しにいきたいくらいに」

何気なく俺はそう言ったが、伏せられたままのシルカの横顔が一瞬くしゃっと歪んだような気がして二、三度瞬きした。だが、すいっと俺のほうを向いたシルカは、いつもと変わらない落ち着いた表情だった。

「そうなの……。じゃあ……ユージオが笑わなくなったのは、やっぱりアリス姉さんのせいなのね」

「笑わない?」

「ええ。いつでも姉さんと一緒にいた頃のユージオは、いつでもニコニコしてたわ。笑顔でない時を探すのが難しかったくらい。あたしはまだすごく小さかったから、ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……でも、気が付くと、ユージオはぜんぜん笑わない人になってた。それだけじゃない、村の、他の子供たちともちっとも一緒にいないで、毎日朝に森に出かけ、夕方に家に帰る、それを繰り返すだけの人になってた……」

聞きながら、俺は内心で少々首を捻っていた。確かにユージオの物腰は静かだが、感情を殺しているという印象はない。森への行き帰りや休憩時間、俺と色々な話をしながら声を出して笑ったことも一度や二度ではないだろう。

 彼がシルカや他の村人の前では笑顔を見せないというなら、その理由はおそらく――罪悪感だろうか? 誰からも愛され、次代のシスターとして期待されていたというアリスが捕縛される理由を作り、また助けることもできなかったという罪の意識……? 当時の事情を知らない余所者の俺の前でのみ、ほんの一時自らを責めずにいられる、そういうことなのか。

主観時間にして六年ものあいだ、一度として笑うことがなかったというその一事だけ見ても、ユージオの抱えた苦悩の大きさが忍ばれる。彼の魂はプログラムではない、俺と同じ本物のフラクトライトを持っているのだ。たとえこの世界が巨大な実験場で、それが終了すれば消去されてしまう記憶なのだとしても、それほどまでに深い傷を刻み込む権利が何人にあるというのだろう。

 央都に行かねばならない――、再度強くそう思う。俺の目的のためだけではなく、なんとしてもユージオをこの村から連れ出し、アリスを探しあてて、二人を再会させてやらなければどうにも気が収まらない。そのためには、あの樹をどうにかして早晩切り倒さなくては……。

「……ねえ、何を考えてるの?」

シルカの声に物思いから引き戻され、俺ははっと顔を上げた。

「いや……ちょっと、思っただけさ。ユージオはきっと、君の言うとおり、いまでもアリスのことが何より大切なんだろうな、って」

心中をぽろりと口にしたその途端、シルカの顔がもう一度かすかに歪んだような気がした。少し前に大ヒットしたハリウッド映画で幼い気丈なヒロインを演じた子役の女優にどこか似た、くっきりと濃い眉と大きな瞳に、一抹の寂寥感が吹き過ぎる。

「そう……なのね、やっぱり」

呟き、肩を落とすその様子を見れば、いかな朴念仁の俺にも思い当たることがあった。

「シルカは……ユージオのことが好きなんだ?」

「なっ……そんなんじゃないわよ!」

 眦を吊り上げて抗議したと思ったら、ぱっと首筋まで赤くしてそっぽを向いてしまう。よもや、この子のフラクトライトの持ち主は、現実でも同年代の女の子なのではあるまいな……などと考えていると、しばらく俯いていたシルカが、不意に少し張り詰めたような声で言った。

「……なんだか、堪らないのよ。ユージオだけじゃない……お父さんも、お母さんも、口には出さないけど、いつも居なくなった姉さんとあたしを較べて溜息をついてた。他の大人たちもそうよ。だからあたし、家を出たの。なのに……シスターも……シスター・アザリヤさえ、あたしに神聖術を教えながら、姉さんなら何でも一度教えたらすぐにできるようになったのに、って思ってる。――ユージオは、あたしのこと避けてるわ。あたしを見ると、姉さんを思い出すから。そんなの……あたしのせいじゃない! あたしは……姉さんの顔だって憶えてないのに……」

 薄い寝巻きの生地の下で、細い肩が震えるのを見て、俺は正直なところ心の底から動転した。いままで、頭のどこかでこの世界はシミュレーションでありシルカたちは――プログラムではないにせよやはり仮初めの住人なのだと考えていたせいで、隣で十二歳そこそこの女の子が泣いているという事態に即座に応対できるはずもなく、無様に凍り付いていると、やがてシルカは右手で目尻を拭い、ついた水滴を払い飛ばした。

「……ごめんなさい、取り乱したりして」

「い……いや、その。泣きたいときは、泣いたほうがいいと思うよ」

何をマンガみたいなことを言っているんだおのれは。と思ったが、二十一世紀に氾濫するメディアに毒されていないシルカは、小さく微笑むと素直に頷いた。

「……うん、そうね。なんだか、少しだけ楽になったわ。人の前で泣いたのはずいぶん久しぶり」

「へえ、凄いなシルカは。俺なんて、この歳になっても人前で泣きまくりだ」

明日奈の前でだけだけど、と心の中で付け加えていると、シルカが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。

「あれ……キリト、記憶が戻ったの?」

「あ……い、いや、そうじゃないんだが……そんな感じがするっていうか……と、ともかく、自分は自分なんだからさ。他の誰かになんてなれない……だから、シルカも、自分にできることをすればそれでいいんだ」

これまた甚だしく引用臭いセリフではあったが、シルカはしばらく考え込み、こくりともう一度頷いた。

「……そうね。あたし……自分からも、姉さんからも、ずっと目を背けようとしてたのかもしれない……」

健気に呟くその様子を見ていると、この子のそばからユージオを引き離そうとしている自分に罪悪感を覚える。しかし、現状のままではユージオがシルカの気持ちに応える可能性はほとんど無いような気もするし、シルカにとってもアリスがいまどうしているのか知るのはいいことなのではないだろうか。

などと俺が悩んでいると、頭上すぐのところからしっとりとした鐘の和音が降り注いできた。

「あら……もう九時なのね。そろそろ戻らないと」

ぽん、と床に降り、シルカはドアに向かって数歩進んでから振り向いた。

「ね……キリトは、整合騎士がどうして姉さんを連れていったのか、その理由も聞いたの?」

「え……ああ。なんで?」

「あたしは知らないのよ。お父さんたちは何も言わないし……ずっと前にユージオに聞いたんだけど、教えてくれなくて。ねえ、理由は何だったの?」

俺はかすかに引っかかるものを感じながらも、その正体に思い至る間もなく口にしていた。

「ええと……たしか、川を遡ったところにある洞窟から果ての山脈を越えて、闇の王国に一歩踏み込んじゃったから、って聞いたけど……」

「……そう……。果ての山脈を……」

シルカは何事か考えているようだったが、すぐに小さく頷いて続けた。

「明日は安息日だけど、お祈りだけはいつもの時間にあるからね、ちゃんと起きるのよ。あたし、起こしにこないからね」

「が、がんばってみる」

一瞬だけ微笑み、シルカはドアを開けるとその向こうに消えた。

俺は、遠ざかっていく足音を聞きながら、どすっとベッドに上体を横たえた。アリスという謎めいた少女の情報を得るつもりだったが、居なくなった当時まだ五、六歳だったというシルカにはやはりほとんど記憶が無いようだ。わかったのは、ユージオのアリスに対する気持ちがいかに深いか、ということだけである。

俺は目を閉じ、アリスの姿を想像しようとしてみた。だが勿論、顔立ちなど浮かぶはずもなく、ただ瞼の裏に一瞬きらりと閃く金色の光が見えたような気がしただけだった。


その翌朝、俺は自分の考えの至らなさを嫌というほど思い知らされることになった。


からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。

東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。

耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。

 俺の"初期装備"であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう――などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。

桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。

「あっ……おはようございます、シスター」

そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。

「あの……シスター、何か……?」

恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。

「――シルカの姿が見えないのです」

「えっ……」

「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」

これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。

「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」

起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。

「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」

「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」

「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」

「ああ……なるほど」

それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。

「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」

「……だといいのですが……」

シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。

「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」

「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」

会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。

胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。

ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。

「やあキリト、おはよう」

「おはようユージオ」

微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。

「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」

「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」

「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」

「ええ?」

ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。

「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」

「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」

「行きそうな、って言われても……」

「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」

そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。

「あっ……」

「なんだい、どうしたのキリト?」

「まさか……。――なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」

ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」

「それだ」

俺は低くうめいた。

「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」

「ええっ!」

ユージオの顔が一気に蒼ざめた。

「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」

「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」

「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」

ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。

「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」

「急ごう。すぐに出よう」

俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。

「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」

俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。

商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。

麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。

ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。

「ここだ……踏まれた跡がある」

 呟き、すばやく印を切って草の"窓"を呼び出した。

「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」

「あ……ああ」

俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。

 どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある"ループする回廊"のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。

俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。

そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。

「なあ……ユージオ」

呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。

「なに?」

「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」

するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。

「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」

「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」

「……何を考えてるのさ、キリト?」

「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」

「……」

ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。

「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」

「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」

俺は、挑発するようにそう口にした。

「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」

「……キリト……」

 ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の"遵法精神"を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット――人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。

果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。

「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」

「でも、アリスにはできた」

俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。

「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」

言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。

 ――アリス……君は、いったい、何者なんだ?

ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。

 しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは――。

自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。

「見えたよ、キリト」

はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。

ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。

 仮想世界じゃあるまいし――、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。

雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。

「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」

信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。

「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」

「……こんなに、近いなんて」

後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。

放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。

「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」

「あ、ああ……そうだな」

彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。

「あれか……」

小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。

「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」

ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。

「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」

システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。

驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。

「ゆ、ユージオ……いまのは?」

厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。

「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」

「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」

「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」

なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。

「なあ……俺にも、使えるかな?」

こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。

「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」

つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。

濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。

「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」

思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。

「あっ……」

青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。

俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。

「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」

思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。

「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」

「そ、そうか……」

 改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。

 いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした――その時だった。

前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。

「おい……今の、なんだ?」

「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」

「こ、今度は何だよ」

「なんか……匂わない、キリト……?」

言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。

「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」

樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。

「なんだ、これ……」

そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。

 きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。

「まずい!」

「シルカ……!」

俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。

 この世界に放り出されて以来、最大限にまで――どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも――高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。

 やはり"アンダーワールド"もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。

 ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。"最後の時"が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。

 だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。

 激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、"天命"が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。

進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。

 腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ――とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。

 不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数――かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。

 すべてを視ろ、そして考え、行動を起こせ――可能な限り早く。刻み込まれたセオリーに従い、俺は両目をいっぱいに見開いて、その場の状況を広角カメラのようにかしゃりと切り取った。

岩のドームはほぼ円形、直径は五十メートルほどもあるだろう。床面はほぼすべて厚そうな氷に覆われているが、中央部分で大きく割れて、青黒い水面が顔を出していた。

オレンジ色の光の源は、その池の周りに立てられたふたつの篝り火だった。高い足のついた黒い鉄製の篭の中で、薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。

そして、その二つの炎を取り巻くように、一応は人間型ではあるが明らかに人でも獣でもない者たちが三々五々固まって座り込んでいた。その数、三十をやや超えるか。

一人、あるいは一匹の大きさはそれほどでもない。立ち上がっている者の頭の高さは、俺の胸ほどまでしかない。だが彼らの、やや猫背ぎみの体躯はがっしりと横幅があり、とくに異様なまでに長い腕と、その先の鋭い爪のついた手は何でも引き裂けそうなほど逞しい。体には、ほぼ黒に近い色の革製の銅鎧を付け、腰周りには雑多な種類の毛皮や何かの骨、小袋をじゃらじゃらと並べている。それに、無骨だが恐ろしい威力を感じさせる大きな曲刀も。

肌は、炎に照らされていてもはっきりとわかるくすんだ緑色で、まばらな剛毛が生えている。頭部は例外なくつるりと禿げ、尖った耳の周囲にだけ密集している長い毛はまるで針金のようだ。眉毛は無く、突き出た額の下に、不釣合いなほどに大きい眼球が張り付いて、濁った黄色い光を放っている。

 どうしようもなく異質――ではあるが、同時に長年見慣れた姿でもあった。彼らは、RPGで言うところの低級モンスター、"ゴブリン"そのものだ。非常にオーソドックス、とさえ言っていい。それを認識すると同時に、俺はほんの少し肩の力を抜いた。ゴブリンというのはほとんど例外なくノービス・プレイヤーの練習相手兼経験値稼ぎ用のモンスターであり、そのステータスはかなり低く設定してあるのが通例だ。

だが、その安堵も、俺とユージオに最も近い場所にいた一匹がこちらに気付き、視線を向けてくるまでのことだった。

 そいつの黄色い目玉に浮かんだいくつかの"表情"を見て、俺は骨の髄から凍りついた。そこにあったのはわずかな不審と、残忍な悦び、そして底無しの餓え。俺を大蜘蛛の巣に掛かった蜻蛉のように竦み上がらせるのに充分な悪意がそこにあった。

こいつらも、プログラムではない。

俺は圧倒的な恐怖の中で、それをはっきりと認識した。

このゴブリン達もまた、本物の魂を持っている。ユージオや俺と、あるレベルではまったく同質の、フラクトライトによって生み出される知性を持っている。

 だが何故――どうしてそんな事が!? 

 俺は、この世界に放り出されてからの約二日間で、ユージオやシルカたち住人がどのような存在であるのか、おおよその推測を立てるに至った。彼らは恐らく、いくつかの原型からコピーされ、その後加工されて多様性を与えられた言わば人工フラクトライトなのだ。どのようなメディアに保存されているのかまでは分からないが、STLによって魂が読み取れるなら、その複製もまた可能であろうことは想像に難くない。

 原型となったのは、恐ろしいことだが多分、複数の新生児のフラクトライトであろう。言わば原思考体とでもいうべきその存在を無数にコピーし、この世界で赤ん坊として一から成長させる。それならば、アンダーワールドの住民たちが"本物の知性を持ち""現存STLを遥かに超える数存在する"という矛盾する状況が説明できる。俺が一日目の夜、神への挑戦であると畏れたラースの目的はつまり――真なるAI、人工知能を創ることだ。それも、人の魂を鋳型にして。

 その目的は最早、八割……いやもしかしたら九割九分達成されている。ユージオの思慮深さは俺を上回るほどだし、複雑な情動は深遠そのものだ。つまり、ラースのこの壮大かつ不遜極まりない実験はすでに終了していておかしくない。

 しかし尚も、このようにして継続しているからには、現段階の成果では研究者たちは不満なのだろう。何が足りないのかは根拠のない想像をするしかないが、もしかしたらあの禁忌目録、ユージオたちの"根源的に破れない法"と無関係でないのかもしれない。

 兎も角、俺のこの仮説によって、ユージオたちの存在についてはおおよそ説明できる。彼らは、俺とは物理的な存在次元が異なるだけで、魂の質量はまったく同じ"人間"であると言ってよい。

 しかし――ならば、このゴブリンたちは何者なのか? 黄色い目から強烈に放射される、このしたたるほどの異質な悪意は――?

 彼らの魂の原型もまた人間のものである、とはとても思えない。この底無しの餓え、俺、つまり人間の血をすすり骨を噛み砕くことへの欲望は、人の魂から作り出せるものでは絶対にない。もしかしたらラースは、現実世界で本物のゴブリンを捕まえて、そいつをSTLにかけたのか、などという支離滅裂な思考が頭のなかで明滅した。

 俺が凍り付いていたのは、ほんの一秒足らずだったろうが、俺の魂を竦み上がらせるには充分な時間だった。どう動いていいのかも思いつけないまま、ただ視線を動かせないでいる俺の前で、一匹のゴブリンがギィィッというような音――もしかしたら笑い声を上げ、立ち上がった。

そして、喋った。

「おい、見ろや! 今日はどうなってんだぁ、またイウムの餓鬼が二匹も転がりこんできたぜ!」

途端、ドーム中にぎぃぎぃ、きっきっというわめき声が満ちた。近くのゴブリンから次々に、武器を片手に立ち上がり、餓えた視線をぶつけてくる。

「どうする、こいつらも捕まえるかぁ?」

最初のゴブリンがそう叫ぶと、奥のほうから、ぐららぁっと大きい雄叫びが轟き、全員がピタリと笑うのをやめた。さっと群れが左右に割れ、進み出てきたのは、一際大きな背丈を持つ、指揮官クラスとおぼしき一匹だった。

金属の鎧をつけ、頭に巨大な飾り羽を立てたそいつの目は、それだけで俺を気絶させるのではと思うほどの圧倒的な邪悪さと、氷のような知性を放射していた。にやりと歪めた口の端から、黄色い乱杭歯を剥きださせて、そいつは言った。

「男のイウムなぞ連れて帰っても、幾らでも売れやしねぇ。面倒だ、そいつらはここで殺して肉にしろ」

殺す。

という言葉を、どのようなレベルで受け取ればいいのか、俺は一瞬戸惑った。

 真にリアルな死、つまり現実世界の俺の肉体が致命的損傷を受ける、という可能性は除外していいはずだ。おそらくSTLの中にいる現実の俺に、このゴブリンどもが危害を加えることなど(SAOじゃあるまいし!)できようはずもない。

 しかし、かと言って通常のVRMMOと同じように、死を単なるコンディションのひとつであると割り切るわけにも行かないだろう。この世界には、便利な蘇生魔法やアイテムは――神聖教会の中枢という例外を除き――存在しないのだから、ここで連中に殺されたら、たぶんこの"キリト"はジ・エンドなのだ。

ならば、もし死んだら、主体的意識としての俺はいったいどうなるのだ?

ラースの開発支部で目を醒まし、オペレータの平木孝治がにやにやしながらオツカレ、などと言ってドリンクでも差し出すのか? あるいは、この一連の記憶は消去され、またどこかの森でひとり目覚めるところからやり直しなのか? あるいは肉体なき幽霊として、世界のゆく末をただ見守る役を与えられるのか?

 そしてその場合――同じくここで命を落とすであろうユージオとシルカはどうなるのだろう?

 自前の脳味噌という"専用保存メディア"を持っている俺と違い、何らかの大容量記憶装置に存在するのだろう彼らの魂は、もしかしたら、死んだら消去されてそれきり……ということも有り得るのではないか?

 そうだ……シルカ、彼女はどこにいるんだ。

俺は瞬間的思考をわずかに中断させ、再度目の前の光景に意識を向けた。

 隊長ゴブリンの指示に従い、部下たちのうち四匹がおのおののエモノをぶら下げて俺とユージオに向かって歩き始めたところだ。ゆっくりとした歩調といい、巨大な口に張り付くにやにや笑いといい、俺たちをなぶり殺しにする気満々と見える。単純な擬似AIには有り得ない行動パターンだ。

 奥に残る二十数匹のゴブリンたちも、目に興奮の色を浮かべながら口々にぎぃぎぃと囃し立て、そして――居た! 暗がりに紛れて見え難かったが、修道服を来たシルカの小さな体が、粗末な四輪の運搬車に転がされている。体は荒縄で縛られ、瞼は閉じられているが、顔色からして意識を失っているだけと思えた。

そうだ、先刻、隊長ゴブリンはこう言った。男のイウム(人間のことだろうか?)を連れて帰っても売れないから、この場で殺せ、と。

裏返せば、女なら売れるということだ。奴らは、シルカを闇の国へと拉致し、商品として売り飛ばすつもりなのだ。脳裏に、およそ十通りほどもの陰惨な想像が過ぎる。

 このまま何もしなければ、恐らく俺とユージオは殺され、ユージオの魂は"消滅"するだろう。だが、シルカを待つ運命の過酷さは恐らく死より辛いものだ。それを、単なるシミュレーションの枝葉末節などと割り切ることは俺にはできない。絶対にできない。彼女も、俺とおなじ人間――まだほんの十二歳の女の子なのだから。

 どうやら、やるべきことは――

「明確だな」

俺はごく小さく呟いた。隣で、同じように凍り付いていたユージオの体がぴくりと動いた。

 シルカは絶対に助け出す。例えその代償を、俺のこのかりそめの命で払うことになろうともだ。そして例え、目の前の"本物の"ゴブリンたちを一匹残らず殺すことになろうとも、だ。

もちろん、そんなことが簡単に出来ようはずもない。戦力差はあまりに巨大で、こちらには棒きれの一本も無い。しかし、知力と体力のすべてを振り絞ってやれる限りのことをやるのだ。これは明確なる戦争なのだから。

「ユージオ」

視線を前方に据えたまま、ほとんど音にならない声でささやく。

「いいか、シルカを助けるぞ。動けるな」

すぐに、短いがはっきりと、うん、という答えが返ってくる。やはりこいつも、おっとりしているようでその実ハラが据わっている。

「三つ数えたら、前の四匹を体当たりで突破して、俺は左、お前は右のかがり火を池に倒す。その光る草を無くすなよ。火が消えたら、床から剣を拾って、俺の後ろを守ってくれ。無理に倒そうとしなくていい。その間に、俺はあのボスをやる」

「……僕、剣なんて振ったことないよ」

「斧と一緒だ。いいな、いくぞ……一、二……三!」

氷の上だが、俺もユージオも脚を滑らせることなく最高のスタートを切った。この運が最後まで続くことを祈りつつ、俺は腹の底からときの声を上げた。

「うらあああああ!!」

 一拍遅れて、ユージオのふほおおおお! という叫びが続くのを聞いてなんだよそりゃと思ったが幸い効果は充分だったようで、四匹のゴブリンは黄緑色の目を丸くして立ち止まった。もっともそれは雄叫びのせいではなく、"イウムのガキ"が捨て身の突進を仕掛けてきたこと自体に驚いたからかもしれないが。

ちょうど十歩目で俺は体をぐっと沈め、一番左とその隣のゴブリンの隙間目掛けて、右肩から全力のタックルをぶちかました。不意打ちと体格差とスピードの修正効果で、二匹はものの見事に後ろにひっくり返り、手足を振り回しながら氷の上をつーっとすべっていった。ちらりと横を見ると、ユージオの体当たりもきれいに決まって、同じく二匹が裏返しの亀のように回転しながら遠ざかっていく。

足を止めることなく、俺たちはゴブリンの円陣ど真ん中目掛けてさらに加速した。幸い、連中の状況対応力はそれほどでもないようで、隊長を含めていまだ立ち上がることなくぽかんとこちらを見ている。

そうだ、そのままボーっとしてやがれ。罵るように祈りながら、俺はゴブリンどもの間を縫うように最後の数メートルを走り抜ける。

さすがに隊長ゴブリンだけは他の連中とは一枚上の知能を持っているようで、怒りに満ちた叫びが氷のドームに轟いた。

「そいつらを火に近づけるな――」

だが、いかにも遅かった。俺とユージオは、三本足の火篭に飛びつくと、勢い良く水面めがけて蹴り倒した。渦のように火の粉を撒き散らしながら、二つのかがり火は黒い水面へと倒れこんでいき、ばしゅっという音と白い水蒸気を残してあっけなく消え去った。

 ドームは一瞬、まったき暗闇に包まれ――次いで、ほのかな青白い光がそっと闇を退けた。ユージオが左手に握るネコジャラシの光だ。

ここで、二つ目の僥倖が俺たちを待っていた。

周囲にうじゃうじゃいるゴブリンどもが一斉にぎいいいいっという悲鳴を上げ、ある者は顔を覆い、ある者は後ろを向いてうずくまったのだ。見ると、池の向こうに立っている隊長ゴブリンさえも、苦しそうに顔を背け、こちらに左手をかざしている。

「キリト……これは……!?」

驚いたように囁くユージオに、俺は短く答えた。

「多分……あいつら、その光が苦手なんだ。神聖術の光がな。今がチャンスだっ」

俺は、周囲の床に乱雑に放り出されている武器のなかから、巨大な鉄板のように無骨な直剣と、先端にボリュームのある曲刀を拾い上げ、刀のほうをユージオの手に押し付けた。

「その刀なら使い方は斧と同じでいけるはずだ。いいか、草の光で牽制して、近づく奴を追い払うだけでいいからな」

「き……キリトは?」

「奴を倒す」

短く答え、顔を覆った右手の隙間からこちらを凄まじい怒りの視線で睨んでいる隊長ゴブリンに向かって俺は一歩踏み出した。両手で握った直剣を、数回左右に振ってみる。外見に反して、やや頼りないと思えるほど軽いが、あの剣のように重過ぎて扱えないよりは遥かにマシだ。

「ぐららぁっ! イウムごときが……この"蜥蜴喰いのジラリ"様と戦おうとでも言うのか!」

じりじり近づく俺を片目でねめつけながら、隊長が太い雄叫びを放った。同時に、右手で腰から巨大な蛮刀をじゃりんと抜き放つ。黒ずんだその刀身は、錆びだの何かの血などがこびり付き、異様な迫力を纏っている。

勝てるのか!?

 頭ひとつほども大きいそいつと対峙した俺は、一瞬ひるんだ。だがすぐに、歯を食い縛って怯えの虫を噛み潰す。ここで奴を倒せず、シルカを助けられなかったら、俺がこの世界に来たのはあの子に最悪の運命を与えるためだった、ということになってしまう。サイズなど問題ではない――旧アインクラッドでは、俺より三倍も四倍も大きいモンスターどもと数え切れないほど戦ったのだ。しかもそいつらは、俺を"本当に殺す"可能性に満ち満ちていたのだ。

「違うね……戦うだけじゃない、ぶっ倒そうっていうのさ」

俺は無理矢理作った笑みの隙間からそう吐き出すと、右足で思い切り地面を蹴った。

左足を深く踏み込み、大上段に振りかぶった剣を敵の肩口目掛け真っ向正面から振り下ろす。

 甘く見ていたわけではないが、ボスゴブリンの反応は息を呑むほど速かった。視力を半ば奪っていることを考えると、旧SAOのベテラン剣士並みと言っていい。戦い慣れている。

 "後の先"――とでも言うのか、打ち込みに呼吸を合わせるように横殴りに飛んできた蛮刀を、俺はぎりぎりのところで掻い潜った。髪が何本か、圧力に引き千切られるのを感じた。俺の上段斬りは、先端が奴の肩アーマーを掠めて小さな火花を散らすに留まった。

止まったら斬られる、そう確信した俺は、低い姿勢から体を左に捻り、がら空きのゴブリンの脇腹目掛けて右手一本の突き技を放った。今度は見事命中したものの、傷だらけの胴鎧を貫通するには至らず、鱗状の板金を何枚か引き千切っただけだった。

ちゃんと先まで砥いどけよ! とこの剣の持ち主に向かって毒づきながら、ごうっと頭上から降ってくる反撃の一刀をさらに右に飛び退って回避する。蛮刀の分厚い切っ先が足元の氷を深く穿ち、改めてゴブリンの膂力に戦慄する。

 単発攻撃では埒があかない。隊長ゴブリンが体勢を回復する前に、俺は体に染み付いた片手直剣三連撃技"シャープネイル"を繰り出した。

右下から払い上げの第一撃が、敵の左足を掠め、動きを止める。

左から右へ薙ぎ払う第二撃が、鎧の胸部分を切り裂き、その奥の肉をも浅く抉る。

右上から斬り下ろす第三撃が、致命傷を防ごうと上げられた敵の左腕を、肘の少し下部分からガツッと音を立てて断ち切った。

壊れた蛇口のように迸る鮮血は、青白い光の中で真っ黒に見えた。跳ね飛んだゴブリンの左手が、くるくる回りながらすぐ左側の池に没し、どぷんと重い水音が響いた。

勝った!

俺がそう確信してから、止めの一撃を放つまでのわずかな隙を、しかし敵は見逃さなかった。

横殴りにごうっと飛んできた蛮刀を、俺は回避しきれず、先端が左肩を掠めた。その圧力だけで俺は二メートル近くも吹き飛ばされ、ごろごろと氷床に転がった。

 左腕を切り飛ばされながらも一瞬も怯むことのなかった隊長ゴブリンの胆力、当たり損ねの一撃で俺を跳ね飛ばす剣の威力、そして何より、脳天に稲妻が突き刺さるような途方もない痛みのせいで――

俺は石のように竦み上がった。

「キリト! やられたのか!?」

すこし離れた場所で、右手に曲刀、左手に光る草を持って手下ゴブリンどもを牽制していたユージオが焦りの滲む声で叫んだ。

かすり傷だ、と言い返そうとしたが、強張った舌が意思のとおりに動かず、俺はああ、うう、としゃがれた音を漏らすことしかできなかった。左肩から発生し、全身の神経を焼き切ろうとするかのような熱さのせいで、目の前にちかちかと火花が飛び、抑えようもなく涙が溢れた。

なんという凄まじい痛みだ!

耐えられる限界を遥かに超えている。氷の上に転がり、丸めた体を硬直させて浅い呼吸を繰り返す以外に何もできない。それでもどうにか首を回し、おそるおそる傷口を見ると、チュニックの左袖はまるごと引き千切られ、剥き出しになった肩に大きく醜い傷が口を開けていた。刀傷というより、巨大な鉤か何かでむしられたかのようだ。皮膚とその下の肉がごっそり抉られ、剥き出しになった筋繊維の断面から赤黒い血液が絶え間なく噴き出している。左腕はすでに痺れと熱の塊と化し、指先は他人のもののように動こうとしない。

こんな仮想世界があってたまるか、と俺は脳裏で呪詛のようにうめいた。

 バーチャル・ワールドというのは、現実の痛みや苦しみ、醜さや汚さといったものを除去し、ひたすらコンフォートでクリーンな環境を実現するために存在するのではないのか!? こんな恐ろしい苦痛をリアルに再現することに、いったいどんな意味がある。いや――むしろ、この痛みは現実以上とさえ思える。現実世界でこのような怪我をすれば、脳内物質が分泌されたり、失神したりといった防御機構が働くのではないだろうか? こんな、魂そのものを苛む痛みに耐えられる人間などいるはずがない……。

それも少し違うかもな。

諦めに似た脱力感の中に逃げ込みながら、俺は自嘲気味にそう思いなおした。

 そもそも、俺はリアルな痛みというものにまったく慣れていないのだ。現実世界では、救急車に乗るような大きな怪我などしたことは無いし、幼い頃祖父に強制された剣道も、練習の辛さに音を上げてすぐに辞めてしまった。SAO脱出後のリハビリは苦しかったが、最先端のトレーニングマシンと補助的投薬のお陰でたいした苦痛に晒されることもなかった。

 仮想世界においては何をかいわんやである。ナーヴギアやアミュスフィアのペインアブソーブ機構によって過保護なまでに痛みを除去された結果、俺にとって負傷というのは財布から払うコインにも似た、単なる数値の増減でしかなくなった。そう――もしSAO世界にこんな痛みが存在すれば、俺は始まりの街から出ることもできなかったろう。

アンダーワールドは、魂の見る夢。もうひとつの現実。何日前のことかは定かでないが、エギルの店で自分が口にした言葉の意味を、俺はようやく知った。何が『この世界を攻略したい』だ。剣の技を試してみたい、などとどうしようもない思い上がりだった。たったひとつの傷に耐えることのできない者に、そもそも剣を持つ資格があろう筈もない。

それにしても痛い。今すぐにこの痛みから解放されなければ、大声で泣き喚き助けを乞うてしまいそうだ。せめてそんな醜態を晒す真似だけはしたくない。

涙で滲む視界の先で、隊長ゴブリンが切断された左腕にぼろ布を巻き終え、おもむろに俺を見た。両眼から放射される凄まじい怒りの念で、周囲の空気が揺らいでいるかのようだ。口に咥えていた蛮刀を右手に移し、ぶんっ、と振り回す。

「……この屈辱は、お前らを八つ裂きにして、腸を食い散らしても収まりそうもねぇが……とりあえず、やってみるとするか」

 いいから、早くやってくれ。どうせここから出て、STLの中で目を醒ましたら、すべての記憶を無くしているんだ。ユージオのことも。シルカのことも。あの子をいかなる犠牲を払っても助けると誓ったその数分後に、尻尾を巻いて逃げ出す自分へのどうしようもない嫌悪感さえも。

頭上で蛮刀をぶん、ぶんと回しながら近づいてくる隊長ゴブリンから視線を外し、俺は遠く離れた場所に意識を失って横たわるシルカの姿をちらりと見た。そしてぎゅっと両目を瞑った。

重い足音が、転がる俺のすぐ前で止まった。空気が動き、巨大な刀が高く振りかぶられるのを感じた。頼むから一撃、一瞬で片をつけてくれよ、と思いながら俺はこの世界から放逐される瞬間を待った。

だが、いつまで待ってもギロチンの刃は落ちてこなかった。かわりに、背後からだだっと氷床を蹴る音がして、すぐに聞きなれた叫び声が続いた。

「キリト――ッ!!」

驚いて目を見開くと、俺を飛び越えて隊長ゴブリンに打ちかかるユージオの姿が見えた。右手に握った曲刀を腕力だけでめちゃくちゃに振り回し、自分より遥かに大きい敵を二歩、三歩と後退させていく。

ゴブリンは一瞬驚いたようだったが、しかしすぐに余裕を取り戻し、蛮刀を巧みに操ってユージオの攻撃を左右に捌いた。瞬間痛みを忘れ、俺は叫んだ。

「やめろユージオ! 早く逃げろ!!」

 だが、ユージオは我を忘れたかのように大声で叫びながら、尚も剣を振りつづけた。一撃のスピードには目を見張るものがあるが、いかんせんテンポが単調すぎる。隊長ゴブリンは、獲物の抵抗を楽しむかのようにしばらく防御に徹していたが、やがて一声ぐららうっ! と叫ぶとつま先でユージオの軸足を払った。体勢を崩し、たたらを踏むユージオ目掛けて――

「やめろおおおっ!!」

俺の叫びが届くより早く、蛮刀を横薙ぎに叩きつけた。

* 見た目よりもしっかりと硬く力強い手を握り返しながら、俺は少年の名前を何度か口中で転がした。聞きなれない響きだが、しかしどこかしっくりと舌に馴染む気がする。

ユージオと名乗る少年は、手をほどくと再び巨樹の根元に座り込み、布包みから取り出した丸パンの片方を俺に差し出した。

「い、いいよそんな」

慌てて手を振ったが、引っ込める様子はない。

「キリト君だってお腹空いてるんじゃないの? 何も食べてないんでしょ」

言われた途端、俺は強烈な空腹感を意識して思わず苦笑いした。川の水は美味かったが、腹持ちがいいとはとても言えない。

「いや、でも……」

尚も遠慮していると、手にぐいっとパンを押し付けられてしまい、俺は已む無く受け取った。

「いいんだ。僕、あんまり好きじゃないんだこれ」

「……じゃあ、ありがたく頂くよ。ほんとは腹へって倒れそうなんだ」

あははと笑うユージオの前の木の根に、俺も腰を下ろしながら言い添えた。

「それと、キリトでいいよ」

「そう? じゃあ、僕もユージオって呼んで……あ、ちょっと待った」

ユージオは左手を上げ、さっそく丸パンを口もとに運ぼうとしていた俺を制した。

「……?」

「いや、長持ちするしか取り得のないパンなんだけど、まあ一応ね」

 言うと、ユージオは左手を動かし、右手に持ったパンのうえにかざした。人差し指と中指だけをぴったり揃えて伸ばし、他の指は握り込む。そのまま、指先は空中にSの字とCの字を組み合わせたような軌道を描く。

唖然として見つめる俺の目の前で、二本の指が軽くパンを叩くと、金属が震動するような不思議な音とともに、パンの中から薄紫に発行する半透明な矩形の板が出現した。幅二十センチ、高さ八センチといったところか。遠眼にも、その表面には慣れ親しんだアルファベットとアラビア数字がシンプルなフォントで表示されているのが見えた。見紛うことなき、オブジェクトのステータスウインドウだ。

俺は口を大きくあんぐりと開き、しばし放心した。

 ――これで確定だ。ここは現実でも、本物の異世界でもなく、仮想世界だ。

その認識が腹の底に落ち着くと同時に、安堵のあまりすうっと体が軽くなるのを意識した。九十九パーセント確信していたとは言え、やはり明白な証拠が無いという不安が薄皮のようにまとわりついていたのだ。

相変わらず経緯は不明のままだが、ともかく慣れ親しんだ仮想世界に居るのだと思うことで、ようやく俺にも状況を楽しむ余裕が出てきたようだった。とりあえず、ユージオの真似をして俺もウインドウを呼び出してみようと、左手の指二本をまっすぐ伸ばす。

 見よう見真似でSとCの形をなぞってから、おそるおそるパンを叩くと、はたして効果音が鳴り響き紫に光る窓が浮かび上がった。顔を近づけ、食い入るように眺める。

 表示された文字列は非常にシンプルなものだった。DurabilityPoint:7、とそれだけだ。おそらく、このパンに設定されている耐久値なのだろうことは容易に想像できる。これがゼロになったとき、一体パンはどうなるんだろう、と思いつつ数字を凝視していると、傍らからユージオの不思議そうな声があがった。

「ねえ、キリト。まさか、"ステイシアの窓"を見るのまで初めてだなんて言わないよねえ?」

顔を上げると、ユージオはすでに窓が消えたパンを片手に首を傾げていた。慌てて、そんなバカな、というように笑顔を作ってみせる。当てずっぽうに、窓の表面を左手で触れるとそれは跡形もなく消え去り、内心で少しばかりほっとする。

ユージオは特に疑った様子もなく頷くと、言った。

「まだ"天命"はたっぷりあるから、急いで食べなくてもいいよ。これが夏だと、とてもこんなに残ってないけどね」

 "天命"とは数値で示された耐久力のことで、それを表示したステータスウインドウが"ステイシアの窓"なのだろう。その口ぶりからして、ユージオは今見たものをシステム上の機能ではなく、何らかの宗教的あるいは魔術的現象と認識しているようだった。

まだまだ考えるべきことは多そうだったが、とりあえず棚上げして、目先の食欲を満たすことにする。

「じゃあ、いただきます」

 言って、大口を開けてかぶりついた俺は、パンの硬さに思わず目を白黒させた。しかしまさか吐き出すわけにもいかず、力任せに噛み千切る。仮想世界とは思えないほどリアルな"歯がぐらつきそうな感覚"に図らずも感嘆させられる。

いわゆる全粒粉のような挽きの荒い麦を使ったパンで、必要以上の歯応えがあるものの噛んでいるとそれなりに素朴な味わいがあって、腹が減っていた俺は懸命に顎を動かして咀嚼し、飲み込んだ。バターを塗ってチーズでも挟めばもっと美味くなるだろうに、等と恩知らずなことを考えていると、同じように顔をしかめてパンに噛み付いていたユージオが笑い混じりに言った。

「おいしくないでしょ、これ」

俺は慌てて首を横に振る。

「そ、そんなことないって」

「無理しなくてもいいよ。村のパン屋で買ってくるんだけど、朝が早いから前の日の売れ残りしか買えないんだ。昼に、ここから村まで戻るような時間もないしね……」

「へえ……。じゃあ、家から弁当を持ってくればいいんじゃ……」

そこまで言ったところでユージオがふっと視線を伏せるのを見て、無遠慮すぎることを口走ったかと首を縮める。が、ユージオはすぐに顔を上げると、小さく笑った。

「ずーっと昔はね……昼休みに、お弁当を持ってきてくれる人がいたんだけどね。今は、もう……」

ブラウンの瞳に揺れる深い喪失感をたたえた光に、俺は瞬間、この世界が作り物であることを忘れて身を乗り出した。

「その人は、どうしたんだ……?」

訊くと、ユージオは遥か頭上の梢を見上げながらしばらく黙っていたが、やがてゆっくり唇を動かした。

「……幼馴染だったんだ。同い年の、女の子で……毎日、朝から夕方まで一緒に遊んでた。天職を与えられてからも、毎日お弁当を持ってきてくれて……。でも、六年前……僕が十一の夏に、村に整合騎士がやってきて……央都に、連れていかれちゃったんだ……」

セイゴウキシ。オウト。正体不明の単語だったが、それぞれある種の秩序維持者とこの世界の首都のことだろうと見当をつけ、黙ったまま先を促す。

「僕のせいなんだ。安息日に、二人で北の洞窟までドラゴンを探しにいって……帰り道を間違えて、果ての山脈を闇の王国側に抜けちゃったんだ。知ってるだろ? 禁忌目録に、決して足を踏み入れることならず、って書いてあるあの闇の国だよ。僕は洞窟から出なかったんだけど、彼女はほんの一歩だけ、闇の国の土を踏んじゃって……たったそれだけのことで、整合騎士は、皆の見てる前で鎖で縛り上げた……」

ユージオの右手の中で、食べかけのパンがぐしゃりと潰れた。

「……助けようとしたんだ。僕も一緒に掴まってもいいから、あの騎士に斧で打ちかかろうと……でも、手も、足も、動かなかった。僕はただ、あの子が連れていかれるのを、黙って見てた……」

表情を失った顔でユージオはしばらく空を見上げつづけていたが、やがてその唇にかすかな自嘲の色が浮かんだ。ひしゃげたパンを口に放り込み、俯いてもぐもぐと噛みつづける。

俺は何と声をかけていいか分からず、同じようにもうひとかけらパンを噛み千切り、それを苦労して飲み込んだあとようやく口を開いた。

「……その子がどうなったか、知ってるのか……?」

ユージオは目を伏せたままゆっくり首を振った。

「整合騎士は、審問ののち処刑する、って言ってた……。でも、どんな刑に処せられたのか、ぜんぜんわからないんだ。一度、お父さんのガスフト村長に聞いてみたんだけど……死んだものと思えって……。――でもね、キリト、僕は信じてるよ。きっと生きてる。アリスは、央都のどこかで、かならず生きてる」

俺は息を飲んだ。

 アスナは言っていた。STLの開発企業である"ラース"、そして仮想世界"アンダーワールド"、それらの名前は小説『不思議の国のアリス』から取ったものではないか、と。ならば、今ユージオが口にしたアリスという名は果たして偶然によるものなのだろうか?

いや、そんなはずはない。現実世界ならいざしらず、万物に意味のある仮想世界において、都合のいい偶然などというものは存在しない。つまり、ユージオの幼馴染にして六年前に連れ去られたという少女アリスは、おそらくこの世界における重要なキーパーソンなのだ。

そして、もうひとつ驚くべきことがある。

先ほど、ユージオは六年前に十一歳だった、と言った。つまり彼は今十七歳で、しかもどうやら、そのあまりに長大な時間の記憶をすべて保持しているらしい口ぶりだ。

 だがそんな事は有り得ない。STRA機能による三倍の加速を考えても、この世界で十七年という時間をシミュレートする間に、現実世界でも六年もの年月が過ぎ去っているということになる。しかし、STLの第一号機がロールアウトしてから、まだたった半年程度しか経っていないはずだ。

これをどう考えればいいのだろうか。

 ここは俺の知るSTLではなく、未知のバーチャルワールド生成システムの中で、しかもそれは最長で十七年もの昔から稼動していた。あるいは、俺の聞かされていたSTRA機能の三倍という倍率が間違いであり、実は三十倍以上の加速を実現している。どちらも、おいそれと信じられない話だ。

俺の中で、不安感と好奇心が急速にふくれ上がる。今すぐログアウトし、外部の人間に事情を聞きたいと思う反面、この内部に留まって可能な限り疑問を追いつづけてみたいという気もする。

パンの最後の欠片を飲み込んでから、俺はおそるおそるユージオに尋ねた。

「なら……行ってみたらどうなんだ? その、央都に」

言ってから、しまった、と考える。その言葉は、ユージオから思わぬ反応を引き出してしまったようだった。

栗毛の少年は、たっぷり数秒間もぽかんと俺の顔を眺めていたが、やがて信じられない、というふうに頭を振った。

「……このルーリッドの村は、帝国の北の端にあるんだよ。南の端にある央都までは、馬でひと月もかかるんだ。歩きだと、一番ちかいザッカリアまでだって二日。安息日の夜明けに出たってたどり着けないんだよ」

「なら……ちゃんとした旅の用意をしていけば……」

「あのねえキリト。君だって僕と同じくらいの歳なんだから、住んでた村では天職を与えられてたんでしょ? 天職を放り出して旅に出るなんてこと、できるわけないじゃないか」

「……そ、それもそうだな」

俺は頭をかきつつ頷きながら、注意深くユージオの様子を観察した。

 この少年が、単純なNPCでないことは明らかだ。豊かな表情や、自然そのものの受け答えは本物の人間としか思えない。

 しかし同時に、どうやら彼の行動は、現実世界の法律以上の効力をもつ絶対の規範によって縛られているように思える。そう、まるでVRMMO中のNPCが、決められた移動範囲内からは絶対に逸脱しないように。

 ユージオは、"禁忌目録"というものによって制限されているエリアに侵入しなかったので逮捕されなかった、と言った。その目録とやらがつまり彼を縛る絶対規範で、恐らくはフラクトライトそのものを直接規制しているのではないだろうか。ユージオの天職、つまり仕事が何なのかは知らないが、生まれたときから一緒だった女の子の生死以上に大切な仕事というのはなかなか想像できない。

そのへんのことを確かめてみようと、俺は言葉を選びつつ、水筒を口につけているユージオに尋ねた。

「ええと、ユージオの村には、禁忌……目録を破って央都に連れていかれた人がほかにもいるの?」

ユージオは再度目を丸くし、ぐいっと口もとを拭いながら首を横に振った。

「まさか。ルーリッドの三百年の歴史の中で、整合騎士が来たのは六年前の一回きりだ、って爺ちゃんが言ってた」

言葉を切ると同時に、革の水筒をひょいっと放ってくる。受け取り、栓を抜いて口もとで傾けると、冷えてはいないがレモンとハーブを混ぜたようなさわやかな芳香のある液体が流れ込んできた。三口ばかり飲み、ユージオに返す。

何食わぬ顔で俺も手の甲で口を拭ったが、内心では何度目かの驚愕の嵐が吹き荒れていた。

 三百年だって……!?

 そのあまりに長大な年月を実際にシミュレートしているなら、STRA機能は数百……ことによると千倍にも達する加速を実現しているということになる。となると、先週末に行った連続ダイブテスト中に、俺は実際のところどれほどの時間を過ごしたのだろうか。今更のようにぞっとすると同時に、二の腕に軽く鳥肌が立ったが、その生理反応のリアルさに感嘆する余裕はほとんどない。

データを得れば得るほど、逆に謎は深まっていくようだった。ユージオは果たして人間なのかプログラムなのか、そしてこの世界は一体何を目的として作られたものなのか。

 これ以上のことは、ルーリッドというらしい村に行って他の人間に接触してみないとわかりそうもなかった。そこで、事情を知るラースの人間に会えるといいけれど……と思いながら、俺はややこわばった笑みをつくり、ユージオに言った。

「ごちそうさま。悪かったな、昼飯を半分取っちゃって」

「いや、気にしないで。あのパンにはもう飽き飽きしてたんだ」

こちらは至極自然な笑顔とともに首を振ると、手早く弁当の包みをまとめる。

「じゃあ、悪いけどしばらく待っててね。午後の仕事を済ませちゃうから」

そう言いながら身軽な動作で立ち上がるユージオに向かって、俺は尋ねた。

「そういえば、ユージオの仕事……天職っていうのは、何なの?」

「ああ……そこからじゃ見えないよね」

ユージオはまた笑うと、俺に手招きをした。首を捻りつつ立ち上がり、彼のあとについて巨樹の幹をぐるりと回る。

そして、先刻とは別種の驚きに打たれて口をあんぐりと開けた。

巨大なスギの闇夜のように黒い幹が、全体の四分の一ほど、約一メートルの深さにまで切り込まれている。内部の木質も石炭を思わせる黒で、密に詰まった年輪に沿って金属のような光沢を放っているのが見て取れた。

視線を動かすと、切り込みのすぐ下に、一本の斧が立て掛けてあった。戦闘用ではないのだろうシンプルな形状の片刃だが、やや大ぶりの斧刃も、長めの柄も灰白色の同じ素材で作られているのが特徴的だ。マット仕上げのスチールのような不思議な光沢をもつそれをまじまじと凝視すると、どうやら全体がひとつの塊から削りだされた一体構造となっているようだった。

柄の部分にだけ、握りこまれて黒光りする革が巻かれたその斧を、ユージオは右手でひょいっと持ち上げると肩にかついだ。幹に刻まれたくさび型の切り込みの左端まで移動すると、腰を落として両足を開き、斧をしっかりと両手で握り締める。

細目と見えた体がぐうっとしなり、大きく後ろに引かれた斧は、一瞬の溜めののちに鋭く空気を切り裂いて見事切り込みの中央に命中し、かぁんと澄んだ金属音を大音量で鳴り響かせた。間違いなく、俺をこの空き地まで導いたあの不思議な音と同じものだった。

美しいとさえ言える身のこなしに感嘆しながら眺める俺の前で、ユージオは機械以上の正確さでペースと軌道を保ったまま斧打ちを繰り返した。テイクバックに一秒、溜めに一秒、スイングに一秒。一連の動作は、まるで、この世界にもソードスキルがあるのかと思いたくなるようななめらかさだ。

三秒にいちどのペースできっちり五十回、計百五十秒間斧を巨樹に叩き込んだユージオは、最後の一撃をゆっくりと深い切り込みから引き剥がすと、ふうっと長い息をついた。道具を幹に立てかけ、どさりと傍らの根っ子の上に座り込む。額に汗の珠を光らせながらはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているところを見ると、この斧打ちは俺が考えているよりはるかに重労働であるらしかった。

俺は、ユージオの呼吸が整うのを待って、短く話し掛けた。

「ユージオは樵なのか? この森で木を切ってるの?」

短衣のポケットから取り出した手巾で顔を拭いながら、ユージオは軽く首を傾け、少し考えた末に答えた。

「うーん、まあ、そう言っていいかもしれないね。でも、天職に就いてからの七年間で、切り倒した木は一本もないけどね」

「ええ?」

「このでかい木の名前は、ギガスシダーって言うんだ。でも村の人はみんな、"悪魔の樹"って呼んでる」

首を捻る俺に意味ありげに笑ってみせてから、ユージオははるか頭上の梢を仰いだ。

「そんなふうに呼ばれる理由は、この樹が周りの土地から、テラリアの恵みをみんな吸い取っちゃうからなんだ。だから、この樹の葉の下にはこんなふうに苔しか生えないし、影が届く範囲の樹はどれもあまり高くならない」

テラリア、というのが何かはわからないが、この巨樹と空き地を見たときの第一印象はあながち間違っていなかったようだ。俺は、先を促すようにこくこくと頷いてみせる。

「村の大人たちは、この森を拓いて麦畑を広げたいと思ってるんだ。でも、ここにこの樹が立ってるかぎり、いい麦は実らない。だから切り倒してしまいたいんだけど、さすがに悪魔の樹と言われるだけあって、恐ろしく硬いんだよ。普通の、鉄の斧じゃあ一発で刃こぼれして使い物にならなくなっちゃう。そこでこの、ドラゴンの骨から削りだしたっていう"竜骨の斧"を央都から取り寄せて、専任の"刻み手"に毎日叩かせることにしたのさ。それが僕」

事も無げにそう語るユージオの顔と、巨樹に四分の一ほど刻まれた斧目を、俺は半ば呆然としながら交互に眺めた。

「……じゃあ、ユージオは七年間、毎日ずーっとこの樹を切ってるのか? 七年やって、ようやくこれだけ?」

今度はユージオが目を丸くし、呆れたように首を振る番だった。

「まさか。たった七年でこんなに刻めるもんなら、僕ももう少しやり甲斐があるんだけどね。いいかい、僕は六代目の刻み手なんだ。ルーリッドの村がこの土地にできてから三百年、代々の刻み手が毎日叩いてやっとここまで来たんだよ。たぶん、僕がお爺さんになって、七代目に斧を譲るときまでに刻めるのは……」

ユージオは両手で二十センチくらいの隙間をつくってみせた。

「これくらいかな」

俺はもうゆっくり首を振ることしかできなかった。

 ファンタジー系のMMOではたいてい、樵や鉱夫といった生産職はひたすら地道な作業に耐えるものと相場が決まっているが、一生かけて一本の樹すら切り倒せないというのは常軌を逸している。ここが作られた世界である以上、この樹も何らかの意図のもとにここに配置されているのだろうが、それが何なのか、俺にはさっぱり見当がつかない。

 ――が、それはそれとして、むずむずと背中を這うものがある。

俺は、およそ三分間の休息のあと立ち上がり、斧を手に取ろうとしたユージオに向かって、半ば衝動的に声をかけた。

「なあ……ちょっと俺にもやらせてくれない?」

「ええ?」

「ほら、弁当を半分貰っちゃったからさ。仕事も半分手伝うのが筋だろう?」

 まるで、仕事を手伝おうと言われたのが生まれて初めてであるかのように――実際そうなのかもしれないが――ユージオはぽかんと口を開けていたが、やがてためらいがちに答えた。

「うん……まあ、天職を誰かに手伝ってもらっちゃいけないなんて掟はないけど……でも、案外難しいんだよ、これ。僕もはじめたばっかりの頃は、まともに当てることさえできなかったんだから」

「やってみなきゃわからないだろ?」

 俺はにっと笑ってみせながら、右手を突き出した。ユージオがなおも不安そうに向けてくる"竜骨の斧"の柄を、ぐっと握る。

斧は、軽そうな外見に反してずしりと手首に応えた。あわてて革が巻かれたグリップを両手でしっかり握り、小さく振って重心を確かめる。

 SAO、そしてALOのプレイを通して斧を武器にしたことは一度もないが、動かない的に当てるくらい容易いだろう、と俺は考えた。深い切り込みの左に立ち、ユージオの姿勢を真似て両足を広げて軽く腰を落とす。

いまだ気がかりそうに、しかし同時にどこか面白そうにこちらを見るユージオが充分離れているのを確認してから、俺は肩の高さにまで斧を振り上げた。歯を食い縛り、両腕にありったけの力を込めて、思い切り叩きつける。

がぎ、と鈍い音がして斧刃は標的から五センチちかくも離れた場所に食い込み、両手を猛烈なキックバックが襲った。堪らず斧を取り落とし、骨の髄まで痺れあがった両手首を脚のあいだにはさみこんで、俺はうめいた。

「い、いててて」

情けない、という以外に形容できない一撃を見て、ユージオがあっはっはっは、と愉しそうに笑った。俺が恨みがましく目を向けると、ごめん、というように右手を立て、尚も笑いつづける。

「……そんなに笑わなくても……」

「ははは……いや、ごめん、ごめん。力が入りすぎだよ、キリト。もっと腕の力を抜いて……うーん、何て言うかなあ……」

 もどかしそうに両手で斧を振る動作を繰り返すユージオを見ながら、俺は遅まきながら己の過ちに気付いた。この世界では、もちろん厳密な物理法則や肉体の動きがシミュレートされているわけではない。STLが作り出すリアルな夢なのだから、一番大切なのはイメージ力なのだ、おそらく。

 ようやく痺れの取れた手で、足元から斧を拾い上げる。無駄な力を抜くように構えると、体全体の動きを意識しながら、ゆっくり、大きな動作でテイクバック。SAOで散々使った水平スラッシュ系ソードスキル"ホリゾンタルスクエア"の一撃目を思い描きつつ、体重移動によって生じるエネルギーを腰、肩の回転に乗せ、最後の斧の頭に届けて、それを樹にぶつける――。

今度は切り込み自体から遠く離れた樹皮を叩いてしまい、がいん、とこれまた醜い音を立てて斧が跳ね返った。先ほどのように手が痺れあがるようなことは無かったが、自分の動きにばかり意識が行って、照準がおろそかだったらしい。これはまたユージオが笑うな、と思いながら振り返ると、少年は意外にもわずかに目を見開いているのみだった。

「お……キリト、今のはけっこういいよ。でも、途中から斧を見てたのがよくなかったな。視線は切り込みの真ん中から動かさないで。忘れないうちにもう一度!」

「う、うん」

次の一撃もお粗末なものだった。しかしその後も、あれこれユージオの指導を受けながら斧を振りつづけ、何十回目だか忘れた頃、ようやく斧が高く澄んだ金属音とともに切り込みの真ん中に命中し、ごくごく小さな黒い切片が飛び散った。

それを機にユージオと交替し、彼の見事な斧打ちを五十回眺める。また斧を受け取り、ひいひい言いながら俺も五十回振り回す。

何度繰り返しただろうか、気付くと太陽はすっかり傾き、空き地に差し込む光はほのかなオレンジ色を帯びていた。大きな水筒から俺が最後の一口を飲むと同時に、ユージオが斧を振り終え、言った。

「よし……これで千回、と」

「あれ、もうそんなにやったのか」

「うん。僕が五百回、キリトが五百回さ。午前と併せて一日二千回ギガスシダーを叩く、それが僕の天職なんだ」

「二千回……」

俺は改めて、黒い巨樹に刻まれた大きな斧目を眺めた。どう見ても、初めて見たときと較べてそれが深くなっている様子は無かった。何という報われない仕事なのか、と愕然としていると、背後からユージオの朗らかな声がかかった。

「やあ、キリトは筋がいいよ。最後のほうは、五十回のうち二、三回はいい音させてたし。おかげで僕も今日はずいぶん楽だったよ」

「いや……でも、ユージオが一人でやればもっとはかどっただろうな。悪かったな、足引っ張っちゃって」

恐縮しつつそう謝ると、ユージオは笑いながら首を横に振った。

「この樹は僕が一生かかっても倒せないって言ったろ。いいかい……いいものを見せてあげるよ。ほんとは、あんまり見ちゃいけないんだけど」

言いながら、巨樹に近づくと、左手を掲げた。二本の指で例の印を切ると、黒い樹皮をぽんと叩く。

 なるほど、この樹自体にも耐久力ポイントが設定してあるのか、と思いながら俺は駆け寄った。鈴のような音とともに浮かび上がってきた"窓"を、ユージオと一緒に覗き込む。

「うえ……」

俺は思わずうめいた。そこに表示された数字は、二十三万二千いくつ、という途方もないものだったからだ。

「うーん、先月見たときから五十くらいしか減ってないや」

ユージオも、さすがにうんざりしたような声で言った。

「つまり……僕が一年斧を振って、ギガスシダーの天命は六百しか減らせないってことだよ。引退するまでに、残り二十万を切れるかどうか、ってとこだね。ね、わかったろ。たった半日、仕事がすこしはかどらなくても、そんなのぜんぜんたいしたことじゃないんだ」

 その後、"竜骨の斧"をかつぎ、空になった水筒をぶらさげて村へと戻るあいだも、ユージオは快活にいろいろな話を聴かせてくれた。彼の前任者であるガリッタという名前の老人が、いかに斧打ちの名人であるかということや、村の同年代の少年たちはユージオの天職を楽なものだと考えていて、それが少々不満であるということ、それらの話に相槌を打ちながら、俺は相変わらずひとつのことを全力で考えていた。

それは、つまり、この世界はいったい何を目的として運営されているのか、ということだ。

 STLの仮想環境生成技術のチェックなら、それはもう完璧な形で達成されている。この世界が、そう簡単に現実と見分けられるようなものではないことは、俺はもう嫌というほど味わった。

 にもかかわらず、この世界はもう内部時間にして最低で三百年ものシミュレートを行っており、さらに恐ろしいことに、あの巨大な樹――ギガスシダーの耐久値とユージオの仕事量からすると、さらに千年ちかくも運用を続ける予定があると考えられるのだ。

 主観時間加速機能、STRAの倍率がどれほどの数字に達しているのかは知らないが、記憶を封印され、ここにダイブしている人間は、ことによるとまるまる一生分の時間を過ごすことにもなりかねない。確かに、現実世界の肉体には何の危険も及ばず、ダイブ終了時点で記憶を消去されるなら本人にとっては単なるおぼろげな"長い夢"なのかもしれないが――しかし、魂、フラクトライトはどうなのだ? 人の意識を作る不確定な光の集合体には、寿命はないのだろうか?

どう考えても、この世界で行われていることはあまりにも無茶、無謀だ。

 つまり、それほどの危険を冒してでも、達成するべき目的があるのだ。エギルの店でシノンが言ったように、単なるリアルな仮想空間の生成などという、アミュスフィアでも実現可能な事柄ではないのだろう。この、現実と完全に見分けのつかない環境において、無限とも言いたくなるような時間を費やして、はじめて到達できる"何か"――。

気付くと、いつのまにか細い道の先で森が切れ、オレンジ色の光が広がっているのが見えた。

出口から間近いところに、小さな物置小屋がぽつんと立っており、ユージオはそこに歩み寄ると無造作に戸を開けた。覗き込むと、中には普通の鉄斧がいくつかと、鉈のような小さな刃物、ロープやらバケツといった道具類と、なんだかわからない細長い革包みが雑多に詰め込まれていた。

それらの間にユージオは竜骨の斧を立てかけ、ばたんと戸を閉めた。そのまま振り向き、道に戻ろうとするので、俺は驚いて言った。

「え、鍵とかかけなくていいのか? 大事な斧なんだろ?」

するとユージオも驚いたように目を丸くした。

「鍵? なんで?」

「なんで、って……盗まれたりとか……」

 そこまで口にしてから、俺はようやく悟った。泥棒なんて居ないのだ。なぜなら、恐らく"禁忌目録"とやらに、盗みを働くべからず、というような一節が書いてあるのだろうから。

ユージオは笑い、歩きだしながら予想どおりの答えを返した。

「大丈夫だよ、誰も盗むような人なんていないし」

それを聞いたところで、ふとある疑問が浮かぶ。

「あれ、でも……ユージオは、村に衛士がいるって言ったよな? 盗賊が来たりしないなら、なんでそんな職業があるんだ?」

「決まってるじゃないか。闇の軍勢から村を守るためだよ」

「闇の……軍勢……」

「ほら、見えるだろう、あそこ」

そのとき、俺たちはちょうど最後の樹のあいだを抜けた。

眼前は、一面の麦畑だった。まだ若く、膨らみ始めてさえいない青い穂先が風に揺れている。傾きはじめた太陽の光がいっぱいに降り注ぎ、まるで海のようだ。道は、畑のあいだを蛇行しながら伸び、そのずっと先に小高い丘が見えた。周囲を木々にかこまれたその丘をよくよく見ると、砂粒のように小さな建物がいくつも密集し、中央には一際高い塔があった。どうやらあそこが、ユージオの暮らすルーリッドの村らしい。

そして、ユージオの指がさしているのは、村のさらに向こう、遥か彼方にうっすらと伸びる白い山脈だった。鋸のように鋭い険峻が、視線の届くかぎり左から右へと続いている。

「あれが、"果ての山脈"さ。あの向こうに、ソルスの光も届かない闇の王国があるんだ。空は昼でも黒雲に覆われていて、天の光は血のように赤かった。地面も、樹も、炭みたいに黒くて……」

遠い過去を思い出しているのだろう、ユージオの声がかすかに震えた。

「……闇の王国には、ゴブリンとかオークみたいな呪われた生き物や、いろいろな恐ろしい怪物……それに、黒い竜に乗った騎士たちが住んでる。もちろん、山脈を守る整合騎士がそいつらの侵入を防いでるけど、でも神聖教会の言い伝えによれば……千年に一度、ソルスの光が弱まったとき、暗黒騎士に率いられた闇の軍勢が、山脈を越えて一斉に攻めてくるんだって。そうなったら、整合騎士でも防げるかどうかわからないから、そのときに備えて村には衛士が、少し大きい街には衛兵隊があるんだよ」

そこでいぶかしそうに俺の顔をちらりと見て、ユージオは続けた。

「……子供でも知ってる話だよ。キリトはそんなことも忘れちゃったのかい?」

「う……うん、聞いたことはあるような気がするけど……」

冷や冷やしながらそう誤魔化すと、ユージオは疑うことなど知らないような笑顔で小さく頷いた。

「うーん、もしかしたらキリトは、このノーランガルス神聖帝国じゃなくて、東方や南方の国の出なのかもしれないね」

「そ、そうかもな」

俺は頷くと、話題を切り替えるべく、かなり近づきつつあった丘を指差した。

「あれがルーリッドの村? ユージオの家はどのへんなの?」

「正面に見えるのが南門で、僕の家は北門の近くだから、ここからは見えないなあ」

「ふうん。てっぺんの塔がその、教会?」

「うん、そうだよ」

目を凝らすと、細い塔の先端には、十字と円を組み合わせたような金属のシンボルが見て取れた。

「なんか……思ったより、立派な建物だな。ほんとに、俺みたいなのを泊めてくれるかな?」

「平気さ。シスター・アザリヤはいい人だから」

 不安ではあったが、おそらくはユージオと違って本物のNPC、というか自動応答プログラムなのだろうから――なんと言っても、STLは世界にたった六台しかないのだ――常識的な受け答えをしていれば問題はあるまい、と俺は考えた。もっとも、その常識というやつが、今の俺にはぽっかりと欠如しているわけだが。

理想的には、そのシスターがラースのオブザーバーであれば話が早い。しかしおそらく、世界の観察を目的としている人間が、村長だのシスターといった重要な役どころに就いていることはないだろう。村にもぐりこんだら、どうにかして接触すべき相手を探し出さなくてはいけない。

 それも、この小さな村にオブザーバーが常駐していれば、の話だけどな……と俺はやや心配になりながら、苔むした石造りのアーチをユージオと一緒にくぐった。

「はいこれ、枕と毛布。寒かったら奥の戸棚にもっと入ってるわ。朝のお祈りが六時で、食事は七時よ。一応見にくるけど、なるべく自分で起きてね。消灯したら外出は禁止だから、気をつけて」

言葉の奔流とともに降ってきた、簡素な枕と上掛けを、俺は伸ばした両手で受け止めた。

ベッドに腰掛けた俺の前で両手を腰に当てて立っているのは、年のころ十二ほどと見える少女だ。白いカラーのついた黒の修道服を身に付け、明るい茶色の長い髪を背中に垂らしている。くりくりとよく動く同色の瞳は、シスターの前でかしこまっていたときとは別人のようだ。

シルカという名のこの少女は、教会に住み込みで神聖魔術の勉強をしているシスター見習なのだそうだ。同じく教会で暮らす数人の少年少女たちの監督役でもあるというそんな立場のせいか、ずっと年長の俺に対してもまるで姉か母親のような口の利きぶりで、思わず笑みがこぼれそうになるのをどうにか堪える。

「えーと、あと他にわからないことある?」

「いいや、大丈夫。いろいろありがとう」

礼を言うと、シルカは一瞬だけくしゃっと大きな笑顔を見せ、すぐ鹿爪らしい顔に戻って頷いた。

「じゃあ、お休みなさい。――ランプの消し方はわかるわね?」

「……ああ、わかるよ。お休み、シルカ」

もう一度こくんと頷き、シルカは少し大きい修道服の裾を引きずりながら部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかるまで待って、俺はふう、と深い息をついた。

あてがわれたのは、教会二階の普段は使っていないという部屋だった。およそ六畳ほどのスペースに、鋳鉄製のベッドひとつ、揃いのテーブルと椅子、小さな書架とその横の戸棚が設えてある。膝に置いたままだった毛布と枕をシーツの上に放り投げ、俺は両手を頭の下で組みながらごろりとベッドに横になった。頭上のランプの炎が、じじ、と音を立ててかすかに揺れた。

「一体、こりゃあ……」

どうなってんだ。という言葉を飲み込みながら、村に入ってから現在までのことを脳内に逐一再生してみる。

 俺を連れて村に入ったユージオは、まずアーチから程近い場所にあった衛士の詰め所に向かった。中に居たのは、ユージオと同い年だというジンクという若者で、当初こそ俺を胡散臭そうな目で見ていたものの、"ベクタの迷子"であるという説明を拍子抜けするほどアッサリと受けいれて俺が村に入るのを許した。

 もっとも、ユージオが事情を話しているあいだ、俺の目は衛士ジンクが腰に下げていた簡素な長剣に釘付けで、声は右から左に抜けていたのだが。よっぽど、いささか古ぼけたその剣をちょっと借りて、この世界でも俺が――正しくは仮想の剣士キリトが身に付けた技が有効なのかどうか試してみようかと思ったのだがその衝動はどうにか抑えた。

詰め所を出た俺とユージオは、メインストリートをわずかな奇異の視線を浴びながら歩いた。それは誰だ、と尋ねてくる村人が少なからずおり、そのたびに立ち止まって説明するので、小さな村の中央広場にたどり着くまでに三十分近くを要した。一度など、大きな篭を下げた老婆が、俺を見て「なんてかわいそうに」と涙ぐみながら篭から林檎(のような果物)を出して俺に呉れようとするので当惑しつつも罪悪感を覚えたものだ。

 村を構成する丘の天辺に立つ教会に、ようよう到着したときには既に太陽はほぼ沈みかけていた。ノックに応えてあらわれた、"厳格"という言葉を具現化したとしか思えない初老の修道女がうわさのシスター・アザリヤで、俺は彼女を一目見て『小公女』に出てくるミンチン先生を連想してしまったためにこりゃあだめだ! と内心うめいた。のだがこれまた予想に反してシスターはあっけなく俺に宿を提供することを受諾し、それどころか夕食まで付けようと申し出たのだった。

 明朝の再会を約束してユージオとはその場で別れ、俺は教会へと招き入れられた。最年長のシルカ以下六人の子供たちに紹介され、静かながら和やかな食卓を共にし(供せられた料理は揚げた魚に茹でたジャガイモ、野菜スープというものだった)、食後は恐れたとおり子供たちから質問攻めに会い、どうにか躱したと思ったら三人の男の子たちと一緒に風呂に入れと言われ、それら多種多様の試練からようやく解放されてこの客間のベッドに転がっている――というわけなのである。

一日の疲れがずっしりと体に圧し掛かり、目を瞑ればすぐにも寝入ってしまいそうだったが、俺を襲う更なる混乱がそれを許そうとしなかった。

一体、これはどういうことなのだ。もう一度胸中で呟き、唇を噛み締める。

 結論から言えば、いわゆるNPCなどこの村には一人もいない。

 最初に会った衛士ジンク以下、道ですれ違った多くの村人たちや林檎をくれた老婆、厳しくも親切なシスター・アザリヤと見習いシスターのシルカ、親を亡くしたという六人の子供たち。その全員が、ユージオとほぼ同じレベルのリアルな感情、自然な会話力、精妙な動作を備えている。簡単に言えば、皆本物の人間としか見えない。少なくとも、通常のVRMMOに実装されている自動応答キャラクターなどでは決してない。

だが、そんなことは有り得ないのだ。

 既存のソウル・トランスレーターは六台のみ、ラースの分室で俺はたしかにそう聞いた。仮にそれから台数が増えていたとしても、ひとつの村を丸ごと構成するほどの人間をダイブさせる数には到底足りないはずだ。規模からして、このルーリッドの村には五百を下らない人間が住んでいるだろうし、あの、部屋ひとつぶんほどもあるSTL実験機がそう容易く量産できるものではないことは断言できる。だいいち、この世界に存在するらしい無数の村や街、そして噂の"央都"に住む人間たちのことを考えれば、仮に莫大な費用を投じてマシンを揃えることはできても、その数万――数十万? にのぼるテストプレイヤーを秘密裏に募ることなど絶対に不可能ではないか。

「あるいは……」

やはりユージオ達は本物の人間、つまり記憶を制限されたプレイヤーではない、ということなのだろうか? 常識を遥かに超えた、ほぼ完全の域に近づいた自動応答プログラム。

 AI、人工知能……という言葉が脳裏を過ぎる。

 近年、主にパソコンやカーナビなどの機械類のガイダンス用として、いわゆるAIは長足の進歩を遂げている。人間あるいは動物を模したキャラクターに向かって、音声で命令や質問をすると、かなりの正確さで必要な情報が返ってくるというものだ。あるいは、俺の馴染んだVRゲーム中のNPCもAIの一種と言っていい。クエストに必要な情報のやり取りは勿論、他愛ない雑談でもある程度自然な受け答えを実現しているので、"NPC萌え"を信条とする一派などは主に美少女タイプのものに付きまとい日がな一日話し掛けたりもする。

 だが勿論、それらAIに真の知能が備わっているわけではない。要は、こう言われたらこう答える、という命令の集合体でしかないので、データベースにない質問や会話には応答することができないのだ。その場合、大概のものは穏やかな笑顔とともに首を傾げ、『質問の意味がわかりません』という意味の台詞を口にする。

だが、今日いちにち、ユージオが一度でもそんなことを言っただろうか?

彼は、俺が無数に発した質問のすべてに、驚き、戸惑い、笑いといった自然な表情を交えながら適切極まりない回答を返した。ユージオだけではない、シスター・アザリヤも、シルカも、年少の子供たちも一度として『データがありません』などという顔は見せなかったのだ。

 俺が知る限り、既知の人工知能で最も高度なレベルに達しているのは、旧SAOにおいてメンタルケア用カウンセリング・プログラムとして開発され、今は俺とアスナの"娘"としてALOに存在するユイという名のAIだ。彼女は、丸二年間に渡って五万人のプレイヤーのあらゆる会話をモニター・分析しつづけ、ほぼ完全な擬似人格を確立するに至った。市販レベルのAIが、せいぜい数十人の開発陣との会話による"経験"しか得られないことを考えれば、ユイの応答や感情があれほど高度なことも納得できる。彼女はいまや、"自動応答プログラム"と"真の人工知能"との境界例とさえ言っていいほどのレベルに達している、と俺やアスナは考えている。

 しかし、そんなユイですら完璧ではない。彼女も時には、その単語はデータベースにありません、と首を傾げることがあるし、例えば"怒っているフリ"などの人間の微妙な感情は読み違ったりもする。会話のふとした一瞬に、拭いがたく"AIらしさ"が存在するのだ。

 ところがユージオやシルカたちにはそれがない。ルーリッドの村人たちが、プログラマーによって組まれた少年型、少女型、老婆型、盛年型……のAIなのだとしたら、それはある意味ではSTLなど遥かに上回るオーバー・テクノロジーだ。とうてい、実現可能なものだとは思えない。

俺は溜息とともに体を起こし、床に下りた。

 ベッドと、カーテンに覆われた窓との間の壁に、古めかしい鋳物のオイルランプが据えられており、揺れるオレンジ色の光とともにかすかな焦げ臭さを発していた。もちろん現実世界では本物に触ったことなどないが、幸いSAOの俺の部屋に似たようなものがあったので、見当をつけて底部にあるつまみを捻る。

きゅきゅっと軋む音とともに灯芯が締められ、一条の煙を残して灯りが消えた。暗闇に包まれた室内に、窓から細い月光がひとすじ落ちている。

俺はベッドに引き返すと、枕を窓側に置き、今度はちゃんと体を横たえた。わずかな肌寒さを感じて、シルカがくれた厚手の毛布を肩まで引っ張りあげると、抗しきれない眠気が襲ってきた。

 ――人間でもなく、AIでもない。では、何なのか?

 俺の思考の片隅には、すでにひとつの答えが浮かびつつあった。だが、それを言葉にするのはどうにも恐ろしかった。もし仮に、俺の考えていることが可能なのだとしたら――ラースはもはや、神の領域の遥か深奥に手を突っ込んでいる。それに較べれば、STLで魂を解読することなど、パンドラの箱を開けるための鍵を指先でつつく程度に等しい。

眠りに落ちながら、意識の底から響いてくる声に耳を傾ける。

 脱出方法を探して右往左往している時ではない。央都に行くのだ。行って、この世界の存在理由を見極めるのだ……。* 第三章


空気に、匂いがある。

覚醒直前の断片的な思考のなかで、ふとそんなことを意識した。

鼻腔に流れ込んでくる空気には、大量の情報が含まれている。甘やかな花の匂い。青々とした草の匂い。肺胞を洗うように爽快な樹の匂い。渇いた喉を刺激する水の匂い。

聴覚に意識を傾けると、途端に圧倒的な音の洪水が流れ込んでくる。無数に重なった葉擦れの音。陽気にさえずる小鳥の声。その下で控えめに奏でられる虫の羽音。更に遠くからかすかに届くせせらぎ。

 どこだろう。少なくとも、自分の部屋じゃないな、などと今更のように考える。普段の目覚めに必ず付随する、乾いたシーツの日向くさい匂いやドライ運転のエアコンの唸り、階下から漂う味噌汁の香りといったものが一切存在しない。それに――さっきから閉じた瞼を不規則に撫でる緑の光は、消し忘れた照明ではなく木漏れ日ではないだろうか。

もう少しだけ深い眠りの余韻に漂っていたい、という欲求を押し退け、俺はようやく目を開けた。

揺れる無数の光がまっすぐ飛び込んできて、何度も瞬きを繰り返す。滲んだ涙を、持ち上げた右手の甲でごしごし擦りながら、ゆっくり上体を起こす。

「……どこだ……?」

思わず呟いた。

まず目に入ったのは、淡い緑色の草叢だった。所々に白や黄色の小さな花が群生し、それらの間を光沢のある水色の蝶が行ったり来たりしている。草の絨毯はほんの五メートルほど先で途切れ、その向こうは、樹齢何百年とも知れない節くれだった巨木が連なる森のようだった。幹の間の薄暗がりに目を凝らすと、光の届く限りの範囲まで木々はずっと続いているように見える。ごつごつ波打つ樹皮や地面はふかふかした苔で覆われ、差し込む陽光を受けて金緑色に輝いている。

首を右に動かし、ついで体ごと一回転してみたが、古木の幹はすべての方位で俺を出迎えた。森の中に開けた小さな円形の草地、その中心に俺は寝転んでいたらしい。最後に頭上を見上げると、四方から伸びる節くれだった梢の隙間に、ちぎれ雲の漂う青い空を望むことができた。

「ここは……どこだ」

もう一度、ぽつりと呟いた。が、答える声は無い。

こんな所に来て昼寝をした憶えは、どう記憶をひっくり返しても出てこなかった。夢遊病? 記憶喪失? 脳裏を横切る物騒な単語を、まさか、と慌てて打ち消す。

 俺は――俺の名前は、桐ヶ谷和人。十七歳と八ヶ月。埼玉県川越市で、母親と妹の三人暮らし。

自分に関するデータが滑らかに出てきたことにやや安堵しながら、更に記憶を手繰る。

高校二年生。だが、来年の前学期には卒業要件単位を満たすので、秋には進学しようと考えている。そうだ、そのことに関して相談をしたはずだ。あれは六月最後の月曜日、雨が降っていた。授業が終わったあと、御徒町にあるダイシー・カフェに行って、ゲーム仲間のシノンと大会の打ち合わせをした。

 そのあと、アスナ――そう、結城明日奈と合流して、しばらくお喋りをしてから店を出た。

「アスナ……」

恋人であり、全幅の信頼を置いて背中を任せるパートナーでもある少女の名前を俺は思わず口にした。傍らにあるのが当たり前になりつつあったその姿を探して周囲を何度も見回したが、小さな草地はもちろん深い森のどこにも彼女を見出すことはできなかった。

突然襲ってきた心細さと戦いながら、記憶を遡る作業に戻る。

 店を出た俺とアスナは、シノンと別れて電車に乗った。JRを下回りに渋谷に出て、東横線に乗り換えてアスナの家がある世田谷へと。駅を出ると雨が止んでいた。濡れた煉瓦貼りの歩道を並んで歩きながら、進学の話をした。アメリカの大学へ行きたいと考えていることを打ち明け、アスナも一緒に行って欲しいと無茶な頼みごとをして、それに対して彼女はいつもの、穏やかな日差しのような笑顔を見せ、そして――。

記憶は、そこで途切れていた。

思い出せない。アスナが何と答えたのか、どうやって別れ、駅まで戻ったのか、家には何時に帰り、何時ごろ寝たのか、まったく思い出すことができない。

やや愕然としながら、俺は必死に記憶を引っ張り出そうとした。

だが、アスナの笑顔が水に滲むようにぼやけて消えていくばかりで、それに続くべきシーンはどこをどう押しても引いても出てくることはない。目を閉じ、眉をしかめて、灰色の空白を懸命に掘り返す。

 赤い――点滅する光。

気が狂いそうな息苦しさ。

ちっぽけな泡のように浮かんできたイメージは、そのふたつだけだった。思わず、胸一杯に甘い空気を吸い込む。今まで忘れていた喉の乾きが激しく意識される。

間違いない、俺は昨日、世田谷区宮坂にいたはずだ。それがなぜ、こんなどことも知れない森の中、一人で寝ているのか。

いや、本当に昨日なのか? 先ほどから肌を撫でていく風はひんやりと心地よい。六月末の蒸し暑さが、その中には欠片も存在しない。俺の背中を、今更のように本格的な戦慄が走り抜ける。

 俺が今、大時化の海に浮かぶ小さな浮き輪の如く必死にしがみついているこの"昨日の記憶"は、果たして本当にあった事なのだろうか……? 俺は、本当に俺なのか……?

何度も顔を撫でまわし、髪を引っ張ってから、下ろした両手を仔細に眺める。記憶にあるとおり、右手親指の付け根に小さな黒子を、左手中指の背に子供の頃作った傷痕を発見し、ほんの少し胸を撫で下ろす。

そこでようやく、俺は自分が妙な恰好をしていることに気付いた。

 普段寝るとき身に付けているTシャツとトランクスでも、学校の制服でも、いや手持ちの服のどれでもない。それどころか、どう見ても市販の既製服とは思えない。

 上着は、薄青く染められた、荒い綿かもしかしたら麻の半袖シャツだ。布目は不規則で、ざらざらした感触。袖口の糸かがりも、ミシンではなく手縫いのようだ。襟は無く、V字に切られた胸元に茶色の紐が通されている。指先で摘んでみると、繊維を編んだものではなく、細く切った革のように思える。

ズボンも上と同じ素材で、こちらは生成りと思しきクリーム色だった。丈はすねの中ほどまでしかない。ポケットの類はひとつもなく、腰に回された革製のベルトは、金属のバックルではなく、細長い木のボタンで留められている。靴も同じく手縫いの革製で、厚い一枚革の靴底には滑り止めの鋲がいくつも打ってある。

 こんな服や靴に、お目にかかったことは無かった。――現実世界では、だが。

「なんだ」

俺は軽い溜息とともに小さくそう口にした。

果てしなく異質だが、しかし同時に見慣れた服装でもある。中世ヨーロッパ風の、言い換えればファンタジー風の、いわゆるチュニック、ハーフパンツ、そしてレザーシューズ。ここは、現実ではなくファンタジー世界、つまりお馴染みの仮想世界なのだ。

「なんだよ……」

もう一度呟き、改めて首を捻る。

どうやら、ダイブ中に寝てしまったらしい。しかしいつ、何のゲームにログインしたのか、さっぱり憶えていないのはどうしたことか。

何にせよ、ログアウトしてみればわかることだ、そう思いながら俺は右手を振った。

数秒待ってもウインドウが開かないので、今度は左手を振った。

途切れることのない葉音と鳥の囀りを聴きながら、腰のあたりから這い登ってくる違和感を懸命に振り払う。

 ここは仮想世界だ。そのはずだ。だが――少なくとも、馴染んだアルヴヘイム・オンラインではない。いや、アミュスフィアが生成する、ザ・シード準拠のVRワールドではない。

なんとなれば、つい先刻俺は、手に現実世界と同じ黒子と傷痕を確認したではないか。そんなものを再現するアミュスフィア規格のゲームは、俺の知る限り存在しない。

「コマンド。……ログアウト」

薄い望みを抱きながらそう発音したが、一切のレスポンスは無かった。胡坐をかいたまま、改めて自分の手を眺める。

指先で渦を巻く指紋。関節部に刻まれた皺。薄く生えた産毛。先ほどからにじみ出てくる冷や汗の粒。

それを上着で拭い、ついでにもう一度布地を仔細に確認してみる。荒い糸を、原始的な方法で布に編んである。表面に毛羽立つ極細の繊維までがはっきりと見える。

ここが仮想世界だとすると、それを生成しているマシンは恐るべき高性能機だ。俺は視線を前方に据えたまま、右腕を素早く動かして傍らの草を一本千切りとり、目の前に持ってきた。

 従来のVRワールドに使われているディティール・フォーカシング技術なら、俺の急激な動きに追随できず、草が細部のテクスチャーを得るのにわずかなタイムラグが発生したはずだ。しかし眼前の草は、細かく走る葉脈や縁のぎざぎざ、切り口から垂れる水滴にいたるまで、俺が凝視した瞬間から超微細に再現されていた。

つまりこの世界は、視界に入るすべてのオブジェクトを、マイクロメートル単位でリアルタイム生成しているということになる。容量で言えば、この草一本で数十メガバイトにのぼるだろう。そんなことが、果たして可能なものだろうか?

俺は、これ以上追及したくない、という心の声を押さえつけ、足の間の草を掻き分けると右手をシャベルがわりに土を掘り返してみた。

湿った黒土は案外柔らかく、たちまち細く絡み合った草の根っこが目に入った。網目のようなその隙間にもぞもぞと動くものを見つけ、指先でそっとつまみ出す。

三センチほどの小さなミミズだった。安住の地から引っ張り出され、懸命にもがくそのミミズは、しかし光沢のある緑色で、オマケにキューキューと細い鳴き声を上げた。俺は眩暈を感じながらそいつをもといた場所に戻し、掘り返した土をその上にかけた。右手を見ると、掌がしっかりと黒く汚れ、爪の間に細かい土の粒が入り込んでいた。

たっぷり数十秒間放心したあと、俺は嫌々ながら、この状況を説明するに足る可能性を三つばかり捻り出した。

 まず、ここが、従来のNERDLES技術の延長線上にあるVR世界である、という可能性。しかしその場合、俺の記憶にあるどんなスーパーコンピュータでもこんな超微細な3Dワールドは生成できない。つまり、俺が記憶を失っているあいだに、現実時間で数年、もしかしたら数十年の時間が経過してしまった、ということになる。

 次に、ここは現実世界のどこかである、という可能性。つまり俺は何らかの犯罪、あるいは違法実験、あるいは手酷い悪戯の対象となり、こんな服を着せられて地球上のどこか――気候からして北海道、ことによると南半球か?――の森に放り出された。しかし、日本にはキューキュー鳴くメタリックグリーンのミミズはいないと思うし、世界のどこかの国にいたという記憶もない。

 そして最後は、ここが本物の異次元、異世界、ことによると死後の世界であるという可能性だ。マンガや小説、アニメではお馴染みの出来事。それらのドラマツルギーに従えば、俺は今後、モンスターに襲われた女の子を助けたり村の長の頼みごとを聞いたり救世の勇者として魔王と戦ったりするのだろう。そのわりには、腰には"銅の剣"の一本もありゃしない。

俺は腹を抱えて大爆笑したいという急激な欲求に襲われ、どうにかそれをやり過ごしてから、三つ目の可能性は完膚なきまでに排除することにした。現実と非現実の境界を見失うと、ついでに正気も無くしてしまいそうな気がしたからだ。

 つまるところ――ここは仮想世界か、あるいは現実世界だ。

前者なら、たとえどれほどスーパーリアルな世界であろうと、その真偽を確かめるのはそう難しくない。手近な樹の天辺まで登り、頭から墜落してみればわかる。それでログアウト、あるいはどこぞの寺院なりセーブポイントで蘇生すれば仮想世界である。

 しかし、もしもここが現実世界であった場合、その実験は最悪の結果を招く。ずいぶん昔に読んだサスペンス小説で、とある犯罪組織が、リアルなデスゲームのビデオを撮影するために、人を十人ほど攫って無人の荒野に放り出して殺し合いをさせるという奴があった。そんなことが現実に行われるとは中々思えないが、それを言ったらSAO事件だって同じくらい突拍子も無い出来事だったのだ。もしこれが現実世界を舞台に行われているゲームなら、スタート直後に自殺するのはあまりいい選択肢とは思えない。

「……そういう意味じゃあ、アレはまだマシだったのかなあ……」

俺は無意識のうちにそう口に出していた。少なくとも、茅場晶彦はゲーム開始時点にあれこれ細かい説明をするという最低限の義務は果たしたのだ。

梢の向こうに覗く空を見上げ、俺はもう一度口を開いた。

「おい、GM! 聞いてたら返事しろ!!」

だが、どれだけ待っても、巨大な顔が現われたり、フードを被った人影が横に出現したりということは無かった。もしやと思い周囲の草むらを再度仔細に調べ、衣服のあちこちを手で探ったが、ルールブックに類するものを見つけることもできなかった。

どうやら、俺をこの場所に放り出した何者かは、サポートヘルプには一切応じるつもりはないようだ。事態が、ある種の偶発的事故によるものでないのなら、だが。

鳥たちの呑気な囀りを聞きながら、俺は今後の方針について懸命に考えた。

もし、これが現実の事故であるなら、迂闊に動き回るのはあまりいい考えではないような気がする。現在、この場所に向かって救助の手が近づきつつあるかもしれないからだ。

 しかし、一体どのような事故が起きればこんな訳のわからない状況が出来するというのだろう。無理矢理にこじつけるなら、例えば旅行か何かで移動中に乗り物――飛行機なり車なりがトラブルを起こし、この森に落下して気絶、そのショックで前後の記憶を失った、ということも有り得なくはないのかもしれない。しかしそれでは、この妙な服装の説明がつかないし、また体のどこにも擦り傷ひとつ負っている様子はない。

あるいは、仮想世界にダイブ中の事故、ということもあるのかもしれない。通信ルートに何か障害が発生し、本来繋がるべき世界ではない場所にログインしてしまった、というような。しかしやはりその場合も、オブジェクトの恐るべきハイディティールっぷりを説明することはできない。

やはりこれは、何者かの意図によってデザインされた事態と思うほうが無理がないように思える。であるなら、俺から何か行動を起こさない限り状況は一切変化しない、と考えたほうがいい。

「どっちにせよ……」

 ここが現実なのかVRワールドなのか、それだけはどうにかして見極める必要がある、と俺は呟いた。

何か方法があるはずだ。完璧に近づいた仮想世界は現実と見分けがつかない、とはよく使われるフレーズだが、現実世界の森羅万象を百パーセントシミュレートするなどということが可能だとは思えない。

俺はしゃがみこんだ恰好のまま、五分近くもあれこれ考えつづけた。が、現状で実行可能なアイデアは、ついに出てくることはなかった。もし顕微鏡があれば、地面に微生物が存在するかどうか調べられるし、飛行機があれば地の果てまで飛んでみることもできる。しかし悲しいかな生身の手足だけでは、地面を掘るくらいがせいぜいのところだ。

こんな時、アスナならきっと俺などが思いもよらない方法で世界の正体を判別してのけるんだろうなあ、と考え、短く嘆息する。あるいは彼女なら、くよくよいつまでも座り込んでいないで、とっとと行動に出ているのかもしれない。

再び襲ってきた心細さに、俺は小さく唇を噛み締めた。

 アスナに連絡を取れないというだけで、こんなにも途方に暮れている自分に少々驚きもするし、そうだろうな、と納得する部分もある。この二年というもの、殆どすべての意思決定を彼女との対話を通して行ってきたのだ。今では、アスナの思考回路なしでは、俺の脳は一方のコアが動かないデュアルCPUのようなものだ。

 主観時間ではつい昨日、エギルの店で何時間もお喋りに興じたのが嘘のように思える。こんなことなら、STLの話なんかしないで、現実世界と超精細仮想世界の見分け方でもディスカッションしておくべきだった……

「あっ……」

俺は思わず腰を浮かせた。周囲の音が急速に遠ざかる。

何ということだ、今までそれを思い出さなかったとはまったくどうかしている。

 俺は知っていたはずじゃないか。NERDLESマシンを遥かに超える、超現実とでも言うべきVRワールドを生成できるそのテクノロジーを。それでは――ということは、ここが――。

「ソウルトランスレーターの中……? ここが、アンダーワールドなのか……?」

呟いた声に応えるものはいなかったが、俺はそれをほとんど意識もせずに呆然と周囲を見回した。

本物としか思えない節くれだった古木の森。揺れる草叢。舞う蝶。

「これが夢……? 俺の深層イメージの加工物だっていうのか……?」

 ベンチャー企業"ラース"でのアルバイト初日に、STLの大雑把な仕組みとそれが生成する世界のリアルさについては説明を受けていた。しかし、実際に仮想世界を見た記憶の持ち出しが許されないために、俺は今までぼんやりと想像することしかできなかった。"組み立てられた夢"というその言葉が導く印象は、酷く混沌とした、一貫性のない舞台劇というようなものだった。

ところがどうだ。いま俺の目に入るあらゆるオブジェクトは、リアル、つまり現実っぽい、などというレベルのものではない。ある意味では現実以上である。空気の匂いも、風の感触も、鮮やかな色彩をもつ風景のすべてが、初代ナーヴギアをはるか上回るクリアさで俺の五感を刺激している。

 もしここがSTLによって作られた世界なら、それがバーチャルなものであることを何らかのアクションによって確かめるのはほとんど不可能だ。なぜなら、周囲のオブジェクトはすべて、デジタル処理されたポリゴンではないからだ。俺は、現実世界で草の葉を千切り、眺めたときと全く同じ情報を脳――フラクトライトに与えられるのであり、原理的にそれがどちらの世界に属するものなのか判別することはできない。

 STL実用化の暁には、世界がそれとわかるようなマーカーが絶対に必要だな……と思いながら、俺はふうっと肩の力を抜き、立ち上がった。

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