「わかったでしょう……? あの子の愛すら、あなた一人のものじゃないのよ。ううん……そもそも、最初からあなたの分はあったのかしらね?」
甘い声がするりするりとユージオの中に滑り込み、そのたびにユージオの胸のうちをかき乱し、いっそう乾かしていく。くっきりと浮き上がる、果てしない餓えと孤独感。心がみるみるひび割れ、かさかさと剥がれ落ちていく。
「でも、私は違うわ、ユージオ」
これまででもっとも誘惑的な声が、蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香にも似て、ユージオの耳にとろりと流れた。
「私があなたを愛してあげる。あなた一人だけに、私の愛をぜんぶあげるわ」
半ば曇った眼をぼんやりと持ち上げたユージオの視線の先で、銀の髪と瞳をあでやかに煌めかせた少女が、とろけるような微笑を浮かべた。
柔らかなシーツに沈み込んだ脚を動かし、上体をまっすぐに伸ばす。
両手がゆっくりと持ち上がり、薄紫の絹の寝巻きの胸元を止めるリボンを思わせぶりに弄る。
銀糸を編んだリボンの端を、しなやかな指先がつまみ、少しずつ、少しずつ引っ張っていく。広い襟ぐりから半ば以上露わになった、しっとりと白いふくらみが、誘うように揺れる。
「もっとこっちにきて、ユージオ」
その囁きは、夢の中で聞いた母の声のようでも、また幻の中で耳にしたアリスの声のようでもあった。* 意味不明な感嘆詞の羅列に、俺とアリスは同時に眉根を寄せ、首をかしげた。
聞き覚えの無い声だ。若者ではなく、さりとて老人とも思えない。ただ一つ確かなのは、声の主が、我を失うほど何かに興奮しているらしいということだけだ。
怒りに水を差されたようにアリスが剣を引き、声の聞こえてくる方向を伺った。俺もそれに倣う。
円形の広間の反対側に、俺たちが入ってきたのと同じような通路がぽっかり口を開けていた。身悶えするような絶叫は、その奥から絶え間なく響いてくる。
「…………」
行ってみましょう、と言うように、アリスが剣の先でそちらを指した。それに頷き返し、俺たちは足音を殺して移動を開始した。
広間には遮蔽物になりうる柱や調度が一切無く、その真ん中を突っ切るのは少々度胸を要したが、壁に繋がれた数十人の"元老"たちは俺たちの存在にはまったく気付かぬ――と言うよりも端から意識の埒外であるようだった。彼らにとっては、眼前のシステム・ウィンドウと、蛇口から供される流動食だけが世界の全てなのだ。
地下牢の獄吏や、エレベータを動かしていた少女の境遇を知ったときも憐れの念を催さずにいられなかったが、この元老たちの人生はもう俺の半端な想像や共感の及ぶ範疇を遥か超えている。
そして同時に、このような究極的悲惨の現出した場所において、あんな脳天気な悶え声を喚き散らす人間もまた理解不能としか言えない。少なくとも、味方となり得る人間ではまったく有り得ない。
その思いはアリスも同様のようで、顔の左半分には、先刻とは別種の怒りと苛立ちが色濃く浮かんでいた。俺の半歩前を、まったく音を立てずしかし憤激も隠さない足取りで踏破した彼女は、奥の通路の入り口の壁際に身を伏せると、先の暗闇を覗き込んだ。反対側の角から俺も先を伺う。
またしても異様に狭い通路の先は、広間ほどではないにせよ大きな部屋になっているようだった。ドアが半ば開け放たれ、内部をじゅうぶんに見通すことができる。
一見して、奇怪千万な空間だった。
まず、ありとあらゆる調度がすべて金ピカだ。箪笥やベッドといった大型のものから、小さな丸椅子や収納箱に至るまでが、壁際の黄緑色の蝋燭の光を受けてギラギラと下品に輝いている。思わず視線を動かすと、"黄金の聖騎士"アリスがとてつもなく嫌な顔をしているのが見えて、慌てて目を逸らす。
そして、それら金色の家具からはみ出し、あるいはその上を覆っているのは、大小無数の様々なおもちゃだ。
大部分が、どぎつい原色の縫いぐるみである。ボタンの目と毛糸の髪を持つ人形から、犬猫牛馬といった様々な動物、果ては一体何なのか見当もつかぬ醜悪な怪物までが床やベッドのそこかしこに堆く積もっている。その他にも、積み木やらボードゲーム、小さな楽器や武器などが数え切れないほど散乱しているのが見える。
そして、それらの真ん中に埋もれるようにして、叫び声の主がこちらに背を向けて座り込んでいた。
「ホオオオオッ!! ホオオオオオオオッ!!」
最早意味を成さぬ絶叫を立て続けに放つ人物がまた、奇怪としか言えぬ姿だった。
丸い。ほぼ真球形の胴体に、これまた真ん丸い頭が乗っかり、まるで雪だるまだ。しかしその色は白ではなく、右半身が赤、左半身が青のテラテラ光るピエロ服を着込んでいる。短い腕をつつむ袖も赤青の細い縦じまで、じっと見ていると眼がチカチカしてくる。
丸い頭は真っ白で、一本の毛髪もないのは背後の元老たちと同様だが、彼らの黴たような弛みはまったくなく、逆にぴんと脂ぎっている。その頭頂部に乗るのは、調度と同じく下品な金色の角帽。
俺は再び視線をアリスに向け、今度は同時にこちらを見た彼女に、唇の動きだけで「あいつが?」と訊いた。眼で頷いたアリスも、音を出さずに「チュデルキンです」と答えた。
世界第二位の魔術師にしては、しかし、その後姿は無防備もいいところだった。と言うようりも、両手に抱えた何かに完全に意識を奪われているらしい。
ぷっくり膨れた背中に隠されてよく見えないが、どうやらチュデルキンが夢中で覗き込んでいるのは、大きな硝子玉のようだった。その内部でちらちらと色彩が瞬くたびに、投げ出した短い脚をばたばたさせ、あああだのほおおだのと絶叫を繰り返す。
てっきり遠距離魔術戦が始まるものと思っていたのに、これは一体どうしたらいいんだと俺がアクションを決めかねていると、不意にもう我慢ならぬというようにアリスが動いた。それも、もう足音も隠さぬ全力ダッシュだ。
と言っても、実際に床を蹴ったのは四歩か五歩だろう。慌てて追随した俺を軽々と引き離し、黄金の突風となっておもちゃ満載の部屋に突入したアリスは、チュデルキンの丸い首がわずか三十度ほど回転した時点でがっしと赤青の道化服のひらひらした襟首を掴んでいた。
「ホオオオオアッ!?」
素っ頓狂な声を漏らす丸い物体を、アリスは縫いぐるみの海からすぽんと引っこ抜き、高く掲げた。その時点でようやく追いついた俺の目に、チュデルキンが夢中で覗いていたものが曝された。
直径五十センチはありそうな硝子玉の中央には、渦巻く光に彩られてどこか別の場所の映像が表示されていた。見えたのは、どこまでも続くシーツの海にしどけなく横座りをした一人の少女だ。長い銀髪に隠されて顔が見えない。少女は、今まさに細い両手で、身につけた薄紫のネグリジェのリボンを解こうとしているところだった。
エロ動画かよ! と心の中で突っ込みそうになったが、その時、少女の前方に力なくうずくまる誰かが居ることに気付いた。その人間の、短い髪の色に見覚えがある、と思った瞬間、映像の中央がしゅっと白くフラッシュし、直後すべての光が消えた。
アリスは、端からそんな映像などには興味を示さず、宙吊りにした丸い道化男の巨大な口に、金木犀の剣の切っ先をぴたりとつきつけた。
「術式起句の"シス"まで口にした時点でその舌を根元から斬り飛ばします」
凍るような声音で発せられた宣言に、何かを叫ぼうとしていた小男の口がぴたりと静止した。
あらゆる魔法には"システム・コール"の発声が必要となるこの世界の原則からして、メイジ相手にこの体勢に持ち込めばもうこちらの優位は動かない。それでも、短い両腕から意識を切らぬように注意しながら、俺は改めて男の顔を眺めた。
元老チュデルキンは、これまでアンダーワールドで出会った人間のうちで、最も正体不明という形容が似合う人物だった。真ん丸い顔の下半分を占める真っ赤で巨大な口、同じく巨大な団子鼻、そしてスマイルマークのように弧を描いた目と眉。
しかし今は、その細い目が限界まで見開かれ、小さな黒い瞳がぷるぷる震えながらアリスを凝視している。
分厚い唇が数回わななき、そして錆びた螺子が軋むような声がキイキイと漏れた。
「お前……五十番……何故こんなとこにいるんですよう。反逆者の片割れと一緒に塔の外に落っこちておっちんだ筈ですよう」
「私を番号で呼ぶな。私の名はアリス。そしてもう五十番(フィフティ)ではありません」
極北の冷気に包まれたアリスのいらえに、チュデルキンは脂汗まみれの顔を引き攣らせ、そして初めて俺のほうを見た。ふたたび、上向きの三日月型の目が半月くらいまでむき出され、喉のおくからホゴッ、ホゴッ、という喘ぎ声が漏れた。
「おまっ、オマエっ、なんでどうして!? 五十ば……アリス、何故この小僧を斬らないンですよう!? こいつは反逆者……ダークテリトリーの手先だと言ったじゃないですかああっ!!」
「確かに反逆者です。しかし闇の国の先兵ではない。私と同じように」
「なっ……なっ……」
吊り上げられたチュデルキンの両腕が、まるで部屋を埋める玩具のひとつであるかのようにばたばたと動いた。
「うらぎっ、裏切る気かぁぁぁぁっこの糞騎士風情がぁぁぁぁぁっ!!」
頭から自分の置かれた状況が消し飛んだのか、チュデルキンの真っ白い頭全体が一瞬にして真っ赤に染まり、只でさえ高い声がさらに裏返った超音波の怒声が部屋中に鳴り響いた。
「てめえってめえら整合騎士はァッ!! 単なる木偶ッ!! 教会の命ずるまンま動く操り人形の分際でええッ!! こともあろうに猊下をッ!! 最高司祭様を裏切るだとォォォォッ!!」
顔をそむけ、チュデルキンの口から飛び散る唾液を避けたアリスは、侮蔑にも眉ひとつ動かさずに氷の冷静さで言葉を返した。
「確かに木偶でしょう。"シンセサイズの秘儀"によって記憶を封印され、教会への強制的な忠誠心を埋め込まれているのですから」
「なッ…………」
再び、チュデルキンの顔が白く変じ、口がぱくぱくと動いた。
「なぜ、どうしてそれを……」
「封じられたとは言え、僅かに残っているものもあるようです。広間の憐れな元老たちを見たとき、かすかに甦った記憶……不安と恐怖に怯えきった幼い少女を、あの広間の中央に縛り付け、元老たちの三日三晩の多重術式によって心の壁を無理矢理に抉じ開けて大切な思い出を奪った……それがシンセサイズの秘儀、整合騎士召喚の儀式の真実。あの広間の床石には、かつて私であった十一歳の少女が流した恐怖と絶望の涙も染み込んでいるはず。そしてお前はその光景を、愉悦と興趣に悶えながら味わった」
アリスの、抑制されてはいるが一言ひとことが鋼刃のように鋭い言葉を聞くあいだに、チュデルキンの顔色は目まぐるしく赤と白のあいだを行き来し、滝のように流れた脂汗が道化服をぐっしょりと濡らした。
しかし最終的に、ただ一人意思ある元老であるチュデルキンは、開き直ったような卑しい笑みを巨大な口にニタリと浮かべた。
「ええ……そのとおりですよう。アタシは今でもくっきりと思い出せますよ、幼く、無垢で、最上等の人形のように美しいオマエが、宝石のような涙を流しながら、何度も何度も懇願する様を……"お願い、忘れさせないで……私の大切な人たちを忘れさせないで……"」
醜悪な裏声で幼い少女の口真似をするチュデルキンを見て、アリスの眼が、高温の炎のような輝きを秘めてぎりりと細められた。しかしチュデルキンは挑発を止めず、なおも野卑な独白を続けた。
「おほ、おほう、思い出せますとも! アタシはいまでもあの光景を肴に一晩たっぷり愉しめますよ、ファナティオやエルドリエの時のも悪かァないが、やっぱり一番はオマエですよう! 忘れてしまったオマエにも話してやりましょうか、幼いオマエが、どんなふうにして三晩の責め苦のはてに魂なき木偶人形に変わっていったか?」
この台詞には、俺も剣を握る右腕が激しく震えるのを止めることはできなかった。しかし同時に、アリスを挑発するチュデルキンの意図をはかりかねてもいた。騎士長ベルクーリを石に変えた"ディープ・フリーズ"コマンドは、チュデルキンが死ねば解除されるとアリスは言っていた。となれば、アリスには長々とチュデルキンの戯言に付き合っている必要はないのだ。道化男がこれ以上の侮辱を口にする前に、金木犀の剣でさっくりと串刺しにしてやればよい。
チュデルキンにもそれは重々分かっているだろうに、なぜ死に急ぐような真似を……?
しかし、俺の思考がどこかに辿り着く前にアリスが、俺とユージオを学院に逮捕にきたときの十倍は冷酷な声音で呟いた。
「チュデルキン、あるいは貴様も犠牲者であるのかと……最高司祭……アドミニストレータに人生を弄ばれた哀れな道化なのかと思っていました。しかし例えそうであれ、貴様は己の境遇を存分に愉しんだようだ。ならば、その愉しき思い出に浸りつつ死になさい」
金木犀の剣の切っ先がすっと動き、丸く膨らんだ道化服の胸の中央に押し当てられた。
テラテラ光る布地が、最後の抵抗を見せてわずかに凹み――。
チュデルキンの細い目が、してやったり、といふうにギラリと光った。
「待て、アリ……」
ス、と俺が言い終える前に、黄金の剣が十センチ以上もチュデルキンの肉体に沈み込んだ。だが、直後にどばっと噴き出したのは鮮血ではなく――赤と青の、どぎつい色の煙だった。
ぱぁん!! という巨大な破裂音を放って、チュデルキンの道化服が風船のように弾けとんだ。同時に四方八方に噴き出した二色の煙が、周囲の空間を濃密に覆いつくした。
「くっ……」
俺は歯噛みをしつつ、視界の隅でシュッと動いた影めがけて右手の剣を薙ぎ払った。しかし、渇いた音とともに剣尖が捉えたのは、奴が被っていた金色の帽子だけだった。
更に追撃するべく踏み込んだが、赤と青が交じり合って紫になった煙を吸い込んだ瞬間、眼と喉を猛烈な痛みが覆い、たまらず咳き込む。
「貴様ッ……!!」
アリスが咽ながらもそう叫び、影を追って飛び出した。チュデルキンが逃げたのは部屋の入り口ではなく奥方向だ、まだ追い詰められると思いながら、俺も息を止め姿勢を低くしてダッシュする。
しかし、煙の中心を脱け出した俺たちが目にしたのは、スライドした金の箪笥と、その奥に口を開けた隠し通路だった。奥にたったひとつだけ蝋燭の灯りがあり、その下を、真ん丸い頭の下に冗談のように細長い胴体と手足がついた人影が猿のように俊敏な動作で駆け抜けていくのが見えた。
「ホヒィッ!! ホヒ――ッヒッヒッヒッヒッ!!」
けたたましい笑い声が、涙と咳に苦しむ俺たちの耳に届いた。
「駆式ばかりが術じゃねえんですようバーカ! バァ――カ!! 追ってきたけりゃきなさいよう、でも今ごろはオマエらの仲間……ベルクーリを倒したあの小僧が、最新最強の整合騎士になってますよう!? 小僧とアタシ、そして最高司祭猊下に勝てると思うなら追ってきなさぁぁぁぁいっ!! ホホォ――――――ッ!!」
壊れた玩具のような笑い声に、かんかんかんと階段を駆け上がる靴音が重なった。
「リリース……」
短い術式句の、音素ひとつひとつを発声するその度ごとに、ユージオは己自身がどこまでも薄まり、軽くなっていくのを知覚していた。長い、長い時間ユージオを苛みつづけてきた餓えや渇きが甘い蜜に溶けて消えていくのと同時に、ここまで辿り着くための原動力となった使命感もまたその形を崩し、失われようとしている。
僕はいったい何故、何のためにこんな遠いところまで旅をしてきたのか。
一瞬の火花のような自問に、アリスのためだ、と答えが返る。本当にそれだけだったのだろうか、もっと大きくて大切な目的があったのではなかったか、という思考がちかっと閃くが、それが形になる前に、口から次の式句が紡ぎだされる。
「コア……」
だって、もう、悲しいのは、辛いのは嫌なんだ。
今まで、僕は疑いもしなかった。教会からアリスの体と心を助け出し、もとのままのアリスと手に手を取ってルーリッドに帰って、小さく暖かい家庭を築けば、その時こそ世界のすべてが正しい形へと回帰するのだと信じていた。
でも――もし、ルーリッドの教会前広場で、白いドレスを着て大きな笑顔をつくるアリスの隣にいるのが、僕じゃなかったら?
その場所に立っているのが、ただ一人の親友である黒髪の剣士だったとしたら?
そしてこれからもたったひとり、癒されることのない渇きに満ちた時間が、どこまでも続く。
銀髪の少女が示した術式を最後まで口にしたとき、自分は恐らく自分ではなくなってしまうのだろうということが、ユージオにはおぼろげに理解できていた。しかしそれによって、使命を、友情を打ち棄てる罪悪感を忘れられるなら――そして、少女が約束した唯一無二の愛のなかにどこまでも深く潜っていられるのなら、もうそれでもいいという気持ちが確かに存在した。
「そうよ……さあ、いらっしゃいユージオ、私のなかへ」
耳もとで、至上の甘さを湛えた囁き声がとろりと流れた。細くとがった舌先が、くすぐるように耳朶を這った。
「いらっしゃい、永遠なる停滞のなかへ……」
「プロ……テク…………」
魂を明け渡す最後の一音節が紡がれるのを、その寸前で押しとどめた力が何なのか、ユージオ自身にもわからなかった。
導かれるまま、銀の瞳の少女のなかへと身を投げ打ってしまいたいという衝動はとてつもなく巨大だった。しかし、なぜか――何ものかが、少女とユージオの間を薄紙一枚の距離でなおも隔てつづけていた。
閉じていた目を薄く開くと、ユージオはすでに銀髪の少女、最高司祭アドミニストレータをシーツに押し倒し、その細い体を強く抱きしめていた。剥き出された豊かな胸がユージオの下で柔らかく潰れ、しなやかな脚はユージオのそれへと絡みついている。
あとほんの一挙動、そして一音節でユージオはアドミニストレータとあらゆる意味で融合し、吸収され得るだろう。しかしほんの小さな何か――異物が、ユージオと少女のふたつの心臓のちょうど中間に留まり、ささやかな冷気を放って一体化を妨げる。
ユージオの顔のすぐ下で、蕩けるような微笑を湛えていたアドミニストレータの顔が、かすかな、ほんのかすかな苛立ちを浮かべた。
「どうしたの、ユージオ? 私が欲しいんでしょ? さあ……もう一度言ってごらんなさい」
「プ……プロ……」
促されるまま、ユージオは口を動かした。だが今度は、ちくりと刺すような明確な冷たさが胸の中央を貫き、ふたたび舌が縺れて停止した。
アドミニストレータも、先刻よりはっきりと唇の端を強張らせ、ユージオを促すように体を艶かしくくねらせた。
「あとほんの一言、それだけであなたは何もかもを手に入れられるのよ。至上の快楽、権力、そして永遠の生命さえも。さあ……言いなさい、ユージオ」
「…………」
しかし、ユージオの思考の一部には、もはや無視できない大きさで疑問、もどかしさ、そして違和感が湧きあがりつつあった。胸をちくちくと刺す、この小さくて硬いものは一体なんだったろうか――何のために、誰が与えたものだったろうか、という。
不意に、アドミニストレータの両手がユージオの肩を掴み、驚くほどの力で右に倒した。
くるりと体を入れ替えた少女が、ユージオの腰の上にまたがり、掌で両頬を包んでくる。銀の髪が垂れ下がり、首筋を撫でる。
「悪い子ね……私だけじゃ不満なの? もっと欲しいの?」
すうっと鏡の瞳を細めて、アドミニストレータが、これまでとは別種の淫らな笑みを浮かべた。
「そんなにおなかが空いてたのね? なら、これも食べてみたくないかしら……?」
頬から離れた右手が、ゆるやかに宙に掲げられた。真珠の唇から、聞き取れないほどの超高速で術式が紡がれ、すると不思議な現象が起こった。
広大な寝室の天井に描かれた無数の神々――その中央近くで、花冠を編んでいた幼い姿の女神の細密画が、すうっと紫色に発光したと思うとそのまま一点に流れ集まって、輝く大きな雫へと変じたのだ。
ぽたり、と滴った光の凝集は、空中で紫の三角柱へとふたたび姿を変え、アドミニストレータの手のなかに音も無く収まった。
とてつもなく美しい物体だった。三つの長辺を、輝く点がすべるように行き来し、内部にも微細な光の線が複雑に煌めいている。
なおも分厚い霧に包まれたような意識のなかにあっても、ユージオの心臓がどくんと大きく跳ねた。思わず持ち上げた右手で短衣の胸元をぎゅっと掴むと、掌の中にあの"何か"、硬く鋭いものの感触が伝わるが、今はもう気にしていられなかった。
あの紫のプリズムが、自分にとってとてつもなく大切な――ほとんど究極の目的であることが、本能的に理解できたからだ。
「あ……ああ……」
ユージオは眼を見開き、しわがれた呻き声とともに左手を伸ばした。しかしアドミニストレータは、じらすようにプリズムをひょいと遠ざけ、くすくすと喉を鳴らした。
「うふふ……そうよ、これが、あなたがとっても欲しかったモノ。ずっと昔、あなたが大好きだった、金髪の女の子の記憶」
まるで、ユージオ、ユージオ、と呼びかけるように、プリズムの中央がちかちかと瞬く。
「私の願いを叶えてくれたら、これもあなたにあげてもいいのよ。ユージオ」
アドミニストレータは、色の薄い唇をプリズムに寄せ、ちろりと舌先で撫でた。銀鏡の瞳に虹色の光が渦巻き、凄まじい幻惑力となってユージオの脳を貫いた。
「ほんのみっつの言葉を口にしてくれたら、ね? アリス・シンセシス・フィフティ……あれはほんとは私の次の体にしようと思ってたんだけど、あの体にこの記憶を戻して、あなたの本物のアリスを返してあげる」
「あ……あり……す」
うわ言のようにその名前を繰り返すユージオを見て、アドミニストレータはもう一度くすりと笑った。
「そうよ。しかも……もう二度と、あなたのアリスが誰かを見たりすることのないように、魂を書き換えてあげるわ。永遠にあなた一人を愛し、あなた一人の言葉だけに従うように……どんな命令だって聞いてくれるのよ。何だってさせられる、あなただけのかわいいお人形」
くすくすくす。愉しそうに、銀髪を揺らして少女が笑う。
「永遠の愛……永遠の支配を、あなたは手に入れられるの。さあ……言いなさい、ユージオ。もう一度……"リリース・コア・プロテクション"」
「…………」
ユージオの唇が震え、そしてこぼれ落ちた言葉は、しかし先ほどほとんど言い終えかけた術式ではなかった。
「永遠……の……愛」
「そうよ。ほしかったんでしょう?」
「永遠の……支配……」
「そうよ!」
アドミニストレータの唇から、すっと笑みが消えた。右手のプリズムをユージオに突きつけ、左手で自分の肢体を撫でながら、アドミニストレータは迫るように叫んだ。
「さあ……言うの! 私の支配を受け入れなさい、ユージオ!!」
「愛は……支配し、されること……か。そうか……ふ、ふ、皮肉……だな」
ユージオの口から、掠れてはいるが意味をなす言葉が発せられたのを聞き、アドミニストレータの瞳が一瞬見開かれ、ついですうっと細められた。
「……君も、そうだったんだね。愛に餓え……求めつづけ……しかし与えられることはなかった」
右手に握り締めた細く鋭いものの感触と、鼓動のように瞬くプリズムの光が、自分の意識を絡め獲っていた呪縛を清澄な流水のように洗い流していくのをユージオは感じていた。
確かに、僕は誰かに明白な形の愛を与えられたことはないのかもしれない。
でも、例えそうであっても、僕は確かに多くの人たちを愛した。
「違うよ、可哀想な人」
ユージオは、強烈な虹色の光を渦巻かせる少女の瞳を見詰め、ゆっくりと言った。
「支配することが愛じゃない。愛の本質は、ただ与えつづけること、それだけだ。でも、残念だけど……僕は君を愛せない。僕は君を救えるほどの人間じゃない」
「救う……ですって……?」
アドミニストレータの唇が、ふたたび、薄っすらとした笑みをかたちづくった。しかしそこにはもう、誘惑の甘さはひとしずくも存在しなかった。
「あらあら……困ったわね。道に迷った哀れな坊やに、気まぐれで一時の夢を見せてあげようとしただけなのに……」
己にまたがる少女が、みるみるうちに"人"から"神"へと変貌を遂げていくさまを、ユージオは懸命に恐怖を堪えながら見詰めた。外見的には変化はない――あくまで、華奢なか弱さと豊満な肉感が同居した、裸身の少女にすぎない。しかし、その透き通るような肌を底知れぬ威圧感、言うなれば神気のようなものが幾重にも覆っていく。指先ひとつ振るだけで、どのような剣士だろうと術者だろうとばらばらに引き千切られるだろうと思わせる、圧倒的な力の兆し。
「ユージオ……あなた、もしかして、私があなたを必要としている……なんて思っているのかしら? あなたと、あなたのちっぽけなお仲間に、私が思い乱されている……とでも……?」
最早、少女の薄い笑みに感情を読むことはできなかった。ユージオはただ、右手を固く握り締め、歯を食い縛って恐怖に耐えた。
「うふふ……あなたみたいなつまんない子は、もういらないわ。ついでにこの可哀想な記憶のカケラも、ね。両方リソースに戻して、何か気の利いた置物でも作ることにしましょう」
明らかに抑揚の薄くなった声でそう言い放つと、アドミニストレータは左手をユージオの首に掛け、右手のプリズムに強く爪を立てた。
その瞬間、ユージオは、かき集めた全身の力を右腕に込め、拳に握り込んだもの――胸元にぶら下がっていた赤銅の短剣型ペンダント――をアドミニストレータの胸の中央めがけて突き出した。
必中の間合いだった。
短剣の刀身部分はわずか五セン強しかないが、それでも自分の上にまたがる人物に届かぬわけはなかった。
しかし、ペンダントの針のような切っ先が、アドミニストレータの珠のごとき肌からほんの薄紙数枚ぶんの距離にまで迫ったとき――ユージオの想像を絶する現象が発生した。
ガガァン!! という、雷鳴にも似た衝撃音が轟き、同時に紫色の光の膜が短剣の先端を中心として同心円状に展開したのだ。その輝く波動が、ごく微細な神聖文字のつらなりで形作られていることをどうにか見て取ったその直後、まるで鋼鉄の厚板にぶち当たったが如き手応えがユージオの右腕を襲った。
「ぐ……うっ!!」
しかし、歯を食い縛り、ありったけの気力を振り絞って、ユージオはその巨大な反発力に抵抗した。カーディナルと名乗る不思議な幼子から与えられた最後の切り札を、アドミニストレータに対して行使できる唯一の機会が今であることがよく解っていたからだ。ユージオのペンダントはもともと、整合騎士アリスを捕縛するために携えていたものだが、同じものを持つキリトがそれを騎士ファナティオの救命のために使ってしまった今、そして手の届く距離にアドミニストレータが無防備な裸身を晒している今、断固として選択せねばならぬ行動はもはや明らかだった。先刻どうしても思い出せなかった、アリスを連れ戻すという個人的目的を上回る使命――つまりわずか十一歳の少女を拉致洗脳するような、そして罪無き下級貴族の息女をその身分差ゆえに陵辱せしむることを許すような、歪んだ支配構造そのものを打ち壊さねばならないという強い意志が、ユージオの右腕を動かした。
ただ一つの誤算は、アドミニストレータが裸形でありながら無防備ではなかったということだ。ユージオには術式の見当もつかない紫光の障壁はますます密に、まばゆく波動し、それを貫こうと抗う短剣の切っ先もまた、直視できないほどに白熱し輝いた。
「なっ……!?」
さしものアドミニストレータも驚いたのか、銀瞳を見開いて上体を仰け反らせた。だがユージオの体から腰を上げ身を退けるよりもほんの少し速く、バチィッ!! と千の火花が弾けるような音を放って、短剣の先端が障壁をわずかに抜けた。
しかし、鋭い針がアドミニストレータの心臓の真上の肌に触れ、そこをまさに貫かんとしたその瞬間、紫の障壁が数多の神聖文字の断片となって爆発し、ユージオと最高司祭双方の体を後方へと吹き飛ばした。
「うわっ……!!」
惜しくも目的を果たせず、まるで巨人の掌に薙ぎ払われたかのような勢いで後ろ向きに回転しながら宙を舞ったユージオだったが、しかしそれでも二つのことを同時にやってのけた。
まず、右手からすっ飛ぼうとしたペンダントを危く握りなおし、そして障壁の断片に混じって視界の端できらりと光った紫の煌めき――アドミニストレータの掌から跳ね飛んだ小さなプリズムを、左手で掴み取ったのだ。
直後、背中から床に叩きつけられ、なおもごろごろと後ろに転がるあいだも、ユージオは二つのものを懸命に腹に抱え、衝撃から守った。再びどかんという衝撃とともに硝子壁にぶち当たり、ぐはっと大量の空気を吐き出してから、ユージオはその場に無様に横臥した。
かたや、まったく同じ勢いで吹き飛ばされたはずのアドミニストレータの方は、尚も優雅さをまったく失わなかった。懸命に見開いたユージオの視界のかなたで、銀髪をほうき星の尾のように引きながら宙を滑ったアドミニストレータは、両手を広げるとふわりと音もなく空中の一点に静止した。長い髪が煌めきながら放射状に波打ち、ひと筋にまとまって、ゆるりと背中に垂れた。
少女は、すぐにはユージオを見なかった。一切の表情が消えた顔を俯かせ、己の豊かな双丘のあいだに視線を落としている。
カーディナルの短剣がわずかに触れたその箇所には、いまだに紫の火花がばちっ、ばちっと音を立てながら絡みついていた。しかし、少女の右手がすっとその上を撫でるとその現象も収まり、見た目には一切の痕跡も残らなかった。
アドミニストレータは、右手をそのまま持ち上げると額の銀髪をふわりと整え、まるで空中に透明な揺り椅子でもあるかのようにゆったりとした動作で腰を下ろすと、長い脚を組んだ。その姿勢のまますうっと音も無く空中を移動し、円形のベッドを横切ると、部屋の隅に倒れるユージオから十メルほどの位置にまで近づき停止した。
上体を起こし、指を組み合わせた両手をおとがいの下にあてがったアドミニストレータの視線が、わずかな冷気を伴って降り注ぐのをユージオは肌で感じた。動くことも、何を話すこともできぬうちに、少女の唇がほのかな笑みの形を作り、言葉を紡いだ。
「一切の武器を帯びていないことを確かめたはずなのに、と思ったら……図書室のちびっこの仕業ね、それは。私の知覚からフィルタするなんて、気の利いたマネができるようになったじゃないの」
くすくす、と喉の奥で猫のように笑う。
「でも残念でした。私だってただ寝てたわけじゃないのよ。そのおもちゃの剣をメタリック属性に置換したのはちびっこの失点ね。今の私の肌には、あらゆる金属オブジェクトは傷をつけられないの……例えそれが巨人の鉄槌だろうと、裁縫屋の待針だろうと」
なんてことだ、とユージオは内心でうめいた。
金属武器に対して不可侵、などということなら、もうこの赤銅の短剣を含むあらゆる剣による攻撃は無力ではないか。あとは、術式すら推測できぬその対金属障壁に対抗式で組み入り解除するか、遠距離での攻撃術をもって挑むよりない。しかし、世界最強の術者に剣士見習いの身で神聖術戦を仕掛けるなど、結果は火を見るよりも明らかだ。
ここは、思いがけない僥倖によってアリスの記憶だけは取り戻せたのだし、一時撤退の機をうかがうべきか。塔の内部に戻りつつあるはずのキリトと合流できれば、あるいは――。
しかし問題は、このアドミニストレータの寝室に、出入り口らしきものが一切見当たらないことだ。
周囲の壁はすべて仄青い夜空へと続く硝子板だし、それらを支える等身大の神像たちもとうていドアを隠せるほどの幅はない。調度と呼べるのは巨大な円形の寝台だけで、よもやあれが丸ごと動いたりするとは思えない。
とは言え、自分がこうしてこの場所に居るからには、どこかを通ってきたに違いないのだ、とユージオは尚も懸命に視線を走らせながら考えた。凍結した大浴場からユージオを運んできたのがあの元老チュデルキンという道化者だとすれば、やはり塔の階下からこの最上階にまで続く通路が絶対に存在するはずだ。
「うふふ……何を探してるのかしら?」
しかし、ユージオの眼が何かを見つけるよりも早く、アドミニストレータがひそやかな笑い声を含みながら空中をすっと二メルほど近づいてきた。じわり、と背中に冷たいものが走る。
「まだ何かしようだなんて、健気な坊や。ん……、やっぱり玩具にしちゃうのは勿体無いかしら? 面倒だけどシンセサイズ処理にかけたほうがいいかしらね? ねえ……坊やはどっちがいい……?」
くす、くす、と喉を鳴らして、中空に腰掛けた裸形の少女は、組んだ脚を揺らしながら少しずつ近づいてくる。
残念ながら、逃亡の機会は残されていないようだった。いや――たったひとつ、残された道があることはある。ありったけの力を背後の硝子板にぶつけ、叩き割るのだ。階下の分厚い石壁を素手で破壊するのは絶対に不可能だろうが、薄い硝子ならばあるいは砕き得るかもしれない。無論、その先は手掛かりひとつない虚空であり、飛び出したところで数百メル下の地面まで落下するしかないが、八十階で同じ目にあったキリトはどうにかして生き延びたはずとユージオは確信している。ならば、自分もまたここで、己が身体能力と万にひとつの僥倖に賭けるよりあるまい。
それに、少なくとも、左の掌をほんのりと暖める小さなかけらだけは――。
このアリスの記憶だけは、なんとしても二度とアドミニストレータの手中に戻させてはならないのだ。たとえ己はここで命を散らそうとも、整合騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻り、ルーリッドでの穏やかな暮らしの中に帰っていくという可能性だけは絶対に繋がなくては。
アドミニストレータとの距離は、すでに五メルを切ろうとしていた。彼女の超高速詠唱力を考えれば、残された猶予は一瞬のみ、そう覚悟を決めたユージオは、立ち上がろうと両足に力を込めた。
しかしその時、思いがけぬ音――声が、どこか下方から届き、緊迫した静寂を破った。
「開けっ、開けてっ、開けてくださぁぁぁぁい最高司祭様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
盆をフォークで引っ掻くようなその金切り声は、間違いなくあの道化――元老チュデルキンのものだった。
「おねっおねっお願いですようぅぅぅぅ助けてくださぁぁぁぁぁいっ!! 開けてぇぇぇぇぇぇっ!!」
その情けないわめき声を聞いたアドミニストレータが、いかにもうんざりしたような嫌悪感を眉間のあたりに滲ませ、ふううっと深いため息をついた。
「……何故あやつは、年経るにつれ幼な児めいてゆくのでしょう。そろそろリセットしないと駄目かしら」
そう呟いた最高司祭は、厭わしそうな表情ながらもぴたりと静止し、右手を離れた床の一点に向けて伸ばした。唇から一瞬の術式が紡がれ、人差し指がとんと振られると、思いがけぬ現象が起こった。絨毯の一部に描かれていた円模様が発光し、くるりと回転したと思ったら、そのまま螺子のようにせり上がりはじめたのだ。
あれが出口か!
――と目を見開き、ユージオはこの機に窓から脱出しようとしていた体の動きを危いところで止めた。
直径一メル半ほどの大理石の円筒は、くるくると滑らかに回転しつつ人の背丈を上回る高さにまで床から突出し、止まった。何らかの機械仕掛けなのか、あるいは術式の効果なのかは不明だが、その筒の側面に嵌め込まれた湾曲した扉を見れば、そこが唯一の出入り口であるのは明らかだった。
その扉の奥からは、なおも情けない悲鳴と、どんどんと叩くこもった音が響いていたが、アドミニストレータが上向けた指をくいっと引くと掛け金が外れたかのように急に開いた。
「ほおおおおおっ!!」
と、奇声を上げながら転がり出てきた真っ白で真ん丸い頭は、間違いなくあの元老チュデルキンのものだった。しかし――。
「……おまえ、その恰好は何なの?」
と冷ややかな声でアドミニストレータが呟いたのも無理はなかった。チュデルキンは、腰に悪趣味な赤青縞の下着を身に着けているだけという、とうてい最高支配者に謁見するに相応しいとは言えない姿だったのだ。
そして、その体つきがまたユージオを驚愕させた。記憶にある元老チュデルキンは、丸い頭を同じく真ん丸い体に乗せた雪人形のような体格だったはずだ。しかし今彼が晒している半裸の肉体は、棒のようにがりがりの胴から同じく枝めいた手足が伸びた、それでいて頭だけが巨大な真球という子供の落書きめいたものなのだ。
なら、あのぱんぱんに膨れた服のなかには何が入っていたんだ!? ――という疑問を口にする精神的余裕は無論ユージオには有りはしなかったが、しかし床にべたりと這いつくばったチュデルキンは、自らキイキイと弁解じみた台詞を喚きたてた。
「げっ、猊下にあらせられましてはこのような御見苦しい姿さぞ御不快でありましょうがこれは小生已む無く奥の手を使わざるを得ずっ!!」
そこでがばりと顔を上げたチュデルキンは、宙に腰掛けるアドミニストレータの裸身を見るや、上向きの三日月のような細い目をくわっと見開き直後に両手でばちんと顔を覆った。まるでそれが仕掛け釦ででもあったかのように、白い頭が一瞬にして真っ赤に湯気を上げる。
「ああっ!! ほおおおおおっ!! いけませんそんなっ、勿体無いっ、小生眼が潰れますっ、石になりますよおおおうっ!!」
勿体無い畏れ多いとまくし立てながらも、指の隙間は大きく開き、その奥からあからさまな視線をぎらぎらと輝かせるチュデルキンの様に、さしもの最高司祭も嫌悪感もあらわに左手で胸を覆った。一層の冷気を帯びた声で、道化の痴態を串刺しにする。
「今すぐに用向きを言わないとほんとうに石にするわよ」
「ほああっ! ほああああっ……あ…………あっ」
細長い体躯をねじりながら悶え声を上げていたチュデルキンは、それを聞いたとたんにピタリと動きを止めた。赤く熱していた頭部がすうっと白くなる。
直後、くるりと振り向いた元老は、蛙のような動きで跳ね上がると背後の円筒扉に飛びついた。ほひいいと悲鳴じみた声を上げながら両手で扉を押し、それが戸枠にぴたりと収まる寸前――。
内部の暗闇から稲妻のように伸びた黒衣の袖が、がしりと扉の縁を押さえた。
前後からの力に挟まれた扉が静止していた時間は、わずか一秒足らずだった。どかん、という明らかに内側から蹴り飛ばしたと思しき大音響とともに、弾かれるように再び開いた扉がしたたかにチュデルキンの顔を打った。
「ほぶうっ!!」
ひしゃげた悲鳴とともに吹き飛んだ元老は、その巨大な球形の頭部をごろごろとどこまでも回転させ、はるか離れたベッドの縁に半ば埋まるかたちでようやく停止した。
その有様を思わず最後まで見守ってしまってから、ユージオはハッと我に返り、もういちど円筒形の出入り口に視線を戻した。
扉の奥、灯りのまったくない暗闇からは、戸板を蹴り開けた恰好のまま黒いズボンに黒革ブーツの足が一本まっすぐに突き出していた。ユージオが唖然として見守るなか、その無遠慮な足がゆっくりと下ろされてゆき、高価な絨毯をずしりと踏みつけた。
続いてぬっと現れたのは、やけに毛先が尖った長めの黒髪。同じく黒いシャツに包まれた細身の上体はわずかに屈められ、右手はだらりと垂れ、左手はぐいとポケットに突っ込まれている。
暗がりから最後に引き抜いた右足で、もういちどどすんと床を踏み据え、そこで侵入者はようやく顔を上げた。
どこか中性的な線の細さと、その印象に倍する刃物のような剣呑さが同居した相貌が、ぐるりと広大な部屋を見回し、壁際に尻餅をつくユージオに視線を止めると、唇の端がぐいっと吊りあがってふてぶてしい笑みを形作った。
「よう」
短い台詞を放って寄越したその人物――二年半前、ルーリッド南の森に突如として現れ、ユージオを長い旅路にいざない、己の両脚のみでついにセントラル・カセドラルを最上階まで踏破してのけた唯一無二の相棒・キリトの姿は、幾多の激闘を経てなお倣岸なまでの剣気に包まれていて、それを見た途端ユージオの胸に名状しがたい熱がかーっと渦巻いた。
「……遅いぞ」
意識せぬままそう呟くと、キリトはもう一度へっと笑い、右手もポケットにぐいと突っ込んだ。
左右の腰に黒白二本の長剣をぶら下げ、腰を突き出し上体を引いた姿勢で屹立するキリトの姿に、さしものアドミニストレータも計りかねるものを感じたのか、無言のまま瞳を細めると空中をすうっとうしろに滑り距離を取った。
それを見て、ユージオも力の失せかけた両脚に活を入れなおし、背中を板硝子に預けてぐいっと立ち上がった。右手の短剣と左手のプリズムをそれぞれズボンの左右のポケットにそっと仕舞い、汗で濡れた掌をごしっと拭う。
キリトは、ちらりと鋭い視線をアドミニストレータに投げかけてから、右腰の白鞘の金具を鳴らしてベルトから外し、それをユージオに向けてひょいっと放ってきた。左手で受け止めると、懐かしい重みが掌に吸い付くように収まった。ふたたび手許に戻った愛刀・青薔薇の剣が、まるで再会を喜ぶように鞘の中でかすかにりぃんと刃鳴りするのを聞き、全身にさらなる活力が甦ってくる。
キリトのほうに移動しようと足を踏み出しかけたとき、相棒の背後の暗闇から、聞き覚えのある声がかすかに響いてきてユージオは軽く息を飲んだ。
「ちょっとお前、いつまでそんなとこで恰好つけているつもりですか」
「あ、ああ……ワリ」
キリトはちらりと背後を見てから、肩をすくめて一歩横に移動した。
かかっ、と金属の靴が石段を軽やかに叩く音に続いて、まばゆい純白と黄金の色彩がふわりと戸口から浮き上がり、重さを感じさせない動きで床に降り立った。ひるがえった長い金髪と白のロングスカートが、宙に優美な曲線を描いた。
それは、間違いなくアリス・シンセシス・フィフティ――カセドラル八十階でキリトを容易く追い詰め、しかし崩壊した壁の穴からともに虚空へと放り出された整合騎士の姿だった。
ユージオの全身の血流が、どくんと大きく波打った。なぜここに、それもキリトと一緒に!? という驚愕が指先までを震わせる。
確かに、数時間前ユージオは、キリトならば間違いなく己とアリスを落下から救って塔の内部に戻り、騎士アリスを殺さずに無力化するかあるいは説得して休戦に持ち込んでくれるに違いないと自分に言い聞かせた。
しかし実際にこうして、黒衣の反逆者と純白の守護騎士がぴたり並び立つ姿を眼にすると、とても信じがたいという思いのみが胸中に満ちる。
キリトが、とても友好的ではないと思われる人物の胸襟を開かせ、いつのまにか確たる信頼を得る様を見るのは決して初めてではない。そのたびに、自分にはできないことだという尊敬の念と、わずかばかりの羨望をユージオは感じてきたのだ。
しかし――あの、血液のかわりに教会への信仰のみが流れているとさえ思えた整合騎士アリスを、一体どうすれば説得しえたというのか。
見れば、アリスの右眼は黒い布で作った眼帯で幾重にも覆われ、その生地を提供したらしいキリトのシャツは左の裾が大きく千切り取られている。
ライオス・アンティノスを斬ったときに自分の右目を襲った痛みと奇妙な神聖文字をユージオは思い出し、もしかして同じことがアリスにも起こったのだろうかと考えたが、具体的に何があったのかを推測するすべがあるはずもなかった。キリト、一体君はアリスに何を言い、何をしたんだ!? という圧倒的な疑問が脳裡を圧し、ユージオは思わずぎゅっと両目を瞑った。
考えるな。今はそんなことを思い悩んでいるときじゃない。
あそこに立っているのは、ユージオの幼馴染アリス・ツーベルクではなく、その肉体でしかないのだ。アリスの心はいま、ポケットの中でひっそりと瞬いている。
大きく息を吸い、吐いて、ユージオは思考を無理矢理に切り替えた。今はともかく、最大最後の敵アドミニストレータとの戦いに意識を集中せねばならない。
ぐっ、と右足を意識して前に出し、そうするとようやく体が動いて、ユージオはキリトの隣へと歩を進めた。
近づくユージオを、キリトは力強い頷きで、そしてアリスは左目の短い一瞥で迎えた。
騎士の蒼い瞳には、ユージオを戦力として値踏みする冷徹さしか見出すことができず、ユージオはちくりとする痛みを感じながらすぐに視線を逸らせて部屋の中央へと向き直った。
最高司祭アドミニストレータは、新たなる二人の侵入者を、興趣と苛立ちが半ばずつ混じったような酷薄な微笑で睥睨していた。腰掛けた見えない寝椅子の高さを、更に一メルほどすうっと持ち上げる。
不意に、隣でキリトがぼそりと呟いた。
「なあ……あの人、何で裸なの? ユージオ、まさかお前……」
「なっ……何考えてんだ馬鹿! 何もないよ!」
ひそひそ声で軽口を叩き合うと、ようやくわだかまりが少しずつ溶け出し、ユージオは更に集中して最高司祭の挙動を凝視した。
二人のやり取りが聞こえたわけでもないだろうが、裸形の少女はくすりと笑みを浮かべると、胸を覆っていた両腕を大きく上に伸ばしてからしどけなく宙に寝そべった。
「あらあら……お客様が増えちゃった。チュデルキン、おまえ、あんな簡単な言いつけも守れなかったの? 連れてくるのは亜麻色の髪の坊や一人だけ、あのイレギュラーは適当に固めておきなさいって、私、言わなかったかしら?」
笑み混じりでありながら、真冬の山おろしのような凍気に包まれた声が響いたとたん、少女の下方でベッドの側面に埋まり込んでいたチュデルキンがずぼっと頭を引き抜いた。
「ほっ、ほひいっ! すっすみませえええん御免なさぁぁぁぁい猊下ぁぁぁぁっ!!」
きいきいじたばたと喚き立てた異形の道化男は、ようやく重心がおかしそうな体をまっすぐにすると、棒のような腕でびしっとアリスを指差した。
「こっ、これというのもあの糞インテグレータがぶっこわれて裏切りやがったせいなんですよおおおおうっ! あの下品な金ピカ騎士めが、こともあろうに小生に剣をぶっさしやがったんですよお! 無論、ピカピカ馬鹿の剣なんざアタシにかすり傷の一つもつけられやしませんけどねえええっ! ホオオオッ!!」
「……あやつだけは……」
めらっ、と炎が燃え上がるが如くアリスが呟いた。それに気付く様子もなく、チュデルキンはさらに金切り声を喚きたてた。
「も、も、もとっからあいつら……ベルクーリの薄らでかと副官の男女はイカレ気味だったんですよおっ! 連中の阿呆が五十番にも伝染ったに決まってますよおおおおっ!」
「ふむ。……おまえ、少し黙ってなさい」
アドミニストレータがそう囁いた途端、壊れた玩具のようにキイキイ飛び跳ねていたチュデルキンの動きがピタリと止まった。と思いきやそのまま、懲りずにまた脂ぎった両目を見開いて頭上の主君の姿を舐めまわすように凝視している。
もう道化の所業には一切の興味を無くしたように、アドミニストレータは銀の瞳をじっとアリスに向けると、もう一度ふうんと呟いた。
「一番と二番はそろそろリセットの頃合だったから不思議はないけど……アリスちゃんはまだそんなに使ってないわよねえ? 論理野にエラーが起こるには速いわ……てことは、やっぱりそこのイレギュラーユニットの影響なのかしらね? 面白いわね」
最高司祭が一体何を言っているのか、ユージオにはほとんど理解できなかった。それは前最高司祭というカーディナルの言葉も同様だったが、しかし、銀髪の少女がつぶやく台詞には何かしらぞっとするような――まるで、父や兄たちがその日に締める牛の話をしている時のような冷徹さがあった。
「ねえ、アリスちゃん。あなた、何か言いたいことがあるんでしょ? 怒らないから、ちょっと言ってご覧なさいな」
うふん、と艶っぽく笑うアドミニストレータの視線を受けた途端、アリスの黄金の鎧がかすかにカタタ、と鳴ったのにユージオは気付いた。
ちらりと視線を向けると、ユージオの位置から見えるアリスの横顔は半分が黒い眼帯に覆われていたものの、それでもあの無敵の整合騎士が身を強張らせ、立ちすくみ――深く恐怖しているのが如実に感じ取れた。
じり、じりっと、両のブーツがわずかに後ずさった。
しかしアリスはそこで踏みとどまり、ゆっくりと左手を持ち上げると、いつの間にか篭手がなくなっているその指先でそっと右眼の眼帯に触れた。まるでその粗末な布切れから何かの力を得たかのように、後ろのめりになっていた体がぐっと前に押し出された。
かっ。
毛足の長い絨毯の上なのに、鋭く澄み切った足音が響き、騎士アリスは一歩前に出た。さらに一歩。もう一歩。
そこで立ち止まった整合騎士は、最高支配者に対してひざまずくかわりに、昂然と胸を張り、凛とした口上を響かせた。
「我らが栄光ある整合騎士団は、本日潰滅いたしました! 半分は、この二名の不遜な反逆者の剣によって……そしてもう半分は、最高司祭様、あなたの執着と愚かさによって!!」
おお、言う言う。
――と俺は、口中に満ちる鋭利な戦慄の味を無理矢理飲み下しながら呟いた。
ついに対面叶ったアンダーワールドの絶対支配者にして最長命のフラクトライト、最高司祭アドミニストレータの姿は、ここがサーバの中の仮想世界であり、彼女が人工的媒体に保存されたAIであるという俺の認識を、机上の砂文字ででもあるかのように一瞬で吹き散らしてしまう圧倒的なオーラに満ちみちていた。
いや、その優美な銀髪と銀瞳を眼にするずっと以前、元老チュデルキンの部屋の奥に隠されていた螺旋階段を駆け上がっているその時点でもう、俺の肌は冷たい恐怖の予感に粟立っていたのだ。
階段の天辺に開いた小さなドアからチュデルキンが逃げ出し、そこから漏れる光が消え去る寸前にどうにか再度蹴り開けることに成功したものの、俺は続く一歩を踏み出すのに、文字通り全身から気力を掻き集めねばならなかった。
なぜならドアの先の、蒼い月灯りと白い蝋燭の光に満ちた広大な空間には、かつてアインクラッドで踏み込んだどのボス部屋よりも明確な"死の予感"がひんやりと凝集していたからだ。
生身の俺、つまり上級修剣士キリトではなく高校生桐ヶ谷和人が、このアンダーワールド内で現実的に死ぬ筈がない。
俺はこれまで、その認識を――世界を"仮"へと変え、眼と判断を曇らせかねない認識を脳裡から拭い落とそうと一度ならず努力してきた。
しかし、最高司祭アドミニストレータを名乗る恐るべき美貌の少女には、俺に死以上の悲惨な運命を与え得る力があるのだと、俺はこの部屋に踏み込み彼女の瞳を見たとたん今更ながら気付いた。
そう、カーディナルが確かに言っていたではないか――アドミニストレータは禁忌目録には拘束されないが、それでも幼少の頃に与えられた禁忌の概念により、殺人を犯すことだけはできないと。そしてその制限こそが、俺に"HPがゼロになりこの世界からログアウトする"という結末を遥か上回る責め苦、たとえば、あの人間性を破壊された元老たちとまったく同じ境遇を、数年……数十年、ことによると魂が擦り切れて精神的に死ぬまで強いるという、現実世界ですら有り得ないほどの苦痛を与えかねないのだ。
仮に、俺たち三人ともに剣折れ血に塗れて倒れたとき、アドミニストレータはアリスとユージオのフラクトライトを操作し整合騎士へと作りかえるだろう。
しかし、生体脳とSTLを用いてこの世界にダイブしている俺の魂にはそのような操作は出来ない。
そして、たとえ俺が剣と誇りのすべてを差し出し恭順を誓っても、あの少女はそんな裏づけのない服従など決して信じない。
となれば、俺のメンタルに現れた異常にラースのスタッフが気付きダイブを停止するまで、この時間が恐るべき倍率で加速された世界において、いったいどれほどの年月が流れるのだろうか。
――とは言え、そのような、様々な事情を知るが故の俺の恐怖は、アリスやユージオのそれを上回るだろうなどと思ったわけでは勿論ない。
とくに、魂の深奥に"絶対服従キー"を埋め込まれている整合騎士アリスが、己の絶対支配者から与えられているであろうプレッシャーの巨大さは想像を絶する。恐らく、二本の足で立っているというそれだけで、ありったけの精神力を振り絞っているのだろう。両の拳が体の横で固く握り締められ、とくに篭手のない左手は真っ白に血の気を失って痛々しいほどだ。
それでも、アリスはあくまでしっかりと胸を張り、凛と響く声で騎士の口上を続けた。
「我が使命は、神聖教会の、そして最高司祭様の為政の護持に非ず!! 剣なき幾千万の民びとの幸なる営みと安らかな眠りの守護こそが我と我が騎士団の使命なり!!」
アリスの黄金の髪が、まるでその信念を映したかのごとくわずかに輝きを増し、俺は目を細めた。高く澄んだ声が曙光のように、部屋中にたゆたう淫靡な気配を切り裂き、押しのけた。
しかし、離れた空中に浮遊する支配者は、アリスの口上を微風ほどにも感じた様子もなく、なお一層興がるように真珠色の唇の笑みを深くした。
代わりに、真っ赤になって跳ね上がったのは、見た目の嵩が半分以下になってしまった元老チュデルキンだった。
「だっ、だぁっ、黙らっしゃぁぁぁぁぁいッ!!」
俺とアリスの前から神聖術ならぬ忍術によって遁走した道化男は、アドミニストレータの超魔力の圏内に逃げ込んで安心したか、あるいは主君の裸身をたっぷり眺めて気力充填でもしたのか、機敏な動作でベッドに飛び上がり、びしっと両手の人差し指をアリスに突きつけた。
「この半壊れの騎士人形風情がぁっ! 使命!? 守護!? 笑わせますねえホォ――ッホッホッホッホォ――――ッ!!」
甲高く笑いながら縞パンツ一丁の体をぐるりと一回転させ、今度は両腕を胸で組み棒じみた右足の指先でアリスを指す。
「お前ら騎士など!! 所詮アタシの命令どおりに動くしかない木偶の集まりなのですよッ!! この足を舐めろと言われたら舐め、踏み台になれと言われたらなるッ!! それがお前ら整合騎士のありがたぁぁぁぁい使命なんですよぉぉぉぉッ!!」
そこまで言ったところで、巨大な頭の重みに堪えかねたか、チュデルキンはぐぐっと体を後ろに傾かせたが危いところでびよんと飛び上がり、腕を組んだまま仁王立ちになった。
「だいたいですねェ! 騎士団が潰滅とかちゃんちゃらおかしいことをゆってましたねオマエ!! やられたかぶっ壊れたのは、もともとおかしかった一番二番とその他十人、いや十駒程度じゃないですかッ! つまりこちらにはあと四十も駒が残ってるんですよォ! オマエ一人がガタガタぬかしたところで教会の支配はぴくりとも揺るぎゃァしねェんですよこの金ピカ!!」
皮肉にも、道化の安っぽい悪罵はアリスの恐怖を薄れさせたようだった。冷静さを取り戻したようにアリスは両の拳をほどき、その手をがしゃりと腰の装甲に当てた。
「馬鹿はお前です、この毒風船。その丸い頭にも、脳味噌ではなく臭い煙が詰まっているのですか?」
「なッ……なぁぁぁッ!!」
ただでさえ赤くなっていた頭を、さらにどす黒く染めたチュデルキンが何かを喚く前に、アリスが氷のような声音を放った。
「残る騎士四十名のうち、十名は"再調整"、つまり汚らわしき術による記憶の操作中で動けません。そして三十名は、今も飛竜に打ち跨り、果ての山脈の上で戦っております。彼らを呼び戻すことなど出来はしない、なぜなら彼らがいなくなった途端、南北西の地下道そして東の大門は闇の軍勢に破られ、お前の言う教会の支配なぞ一瞬にして崩れ去るからです」
「ぐッ……むぐぐッ……」
紫色になった顔の眉と目尻と口もとを上げ下げするチュデルキンに向けて、アリスは尚も刃のような言葉を続けた。
「いえ、もうすでに崩れかけている。彼らも飛竜も、永遠に戦えるわけではない。しかしカセドラルにはもはや交替要員は残されておりません。それともお前がダークテリトリーに赴き、剛勇を誇る暗黒騎士たちと一戦交えますか?」
この指摘には、チュデルキンだけでなくアリスの背後の俺もぐさりと来るものを感じずにはいられなかった。塔内に詰めていた騎士たちを病院送りにしてしまった件はほとんど俺とユージオに責任があるからだ。
しかし、俺が視線を下向けるよりも早く、チュデルキンの頭の内圧が限界を超えた。
「ムッホォォォォォォ!! こっ、こっ、小賢しいぃぃぃぃぃぃッ!! それで一本取ったつもりですか小娘ぇぇぇぇぇッ!!」
ほとんど蒸気のように大量の息を鼻から噴き出し、道化はじたばたと地団駄を踏んだ。
「無礼ぇぇぇぇぇをぶっこいた罰として!! お前は再調整が済んだら最低三年は外地送りだぁぁぁぁッ!! いや、その前にアタシのオモチャとしてたっぷり色んなことをしたりさせたりしてやるぅぅぅぅッ!!」
続けて、アリスにしたりさせたりする予定の行為を際限なくキイキイキイと喚き立てるチュデルキンの下卑た台詞をぴたりと停止させたのは、上空のアドミニストレータが発した短いひとことだった。
「……ふぅーん」
最高司祭は、笑みを口の端に浮かべたまま、細い首を小さく傾けた。
「単純に論理野のエラーってだけでもなさそうね。服従キーはまだ機能している……となると、あの者が施した"コード871"を自発的意思で解除したのかしら……? 感情ではなく……?」
何だ――何を言っているのだ。『あの者』? 『コードハチナナイチ』?
アドミニストレータの言葉を解釈できず、俺は眉をしかめた。
しかし銀髪の少女は、それ以上の情報を与えることなく、ゆっくりと右手で髪をかきあげながら結論めかした口調で言い放った。
「ま、これ以上は構造解析してみないと、かな。……さて、チュデルキン。私は寛大だから、下がりきったおまえへの評価を挽回する機会をあげるわよ。あの三人、おまえの術で凍結させてみせなさい」
言い終わると同時に、くるりと伸ばした右手の人差し指を軽く一振り。
途端、部屋の中央に鎮座していた天蓋つきの円形ベッドが、重い響きとともに回転を始めて、俺は思わず目を見張った。
直径十メートルはありそうなその代物は、まるでそれ全体が巨大な螺子の頭ででもあるかのように滑らかに床の中へと沈降していく。シーツの上でふんぞり返っていた元老チュデルキンが、ほひいっと悲鳴を上げて危いところで転がり落ちる。
わずか数秒で、黄金の支柱も薄紫のベールもすっぽりと床下へと収納され、最後に残った天蓋がくるくるぴたりと床面にはまり込むと、もうそこにあるのは絨毯に描かれた巨大な円模様だけだった。
ふと思いついて視線を動かすと、俺とアリスがくぐってきた円筒形の入り口も、それと床の境目には似たような模様が描かれているのが見えた。さてはこの部屋は、床から色々なものが伸びたり沈んだりする仕掛けがあるのか――と考えて更に周囲を見回したが、同様の模様はあとひとつだけ、小さなものがずっと離れた壁際にあるだけだった。そこから何が出てくるのかは、今は推測する手立てもない。
ベッドが無くなった最上階は、今までにも増して広大に見えた。
それはそうだ、セントラル・カセドラルの一フロアをまるまる占有しているのだから。さすがに、四角形の中層部と比べると、円形になっているこの最上層エリアの面積はずいぶんと小さいようだが、それでも部屋の直径は五十メートルを下回ることはないだろう。
円弧を描く壁面はすべて曇りひとつない硝子製で、それらを等身大の神像が柱となって繋いでいる。少しばかり意外なのは、それらが皆猛々しい戦神だということだ。像たちは例外なく大小さまざまな剣を携え、まるでこれから始まる戦いの審判者ででもあるかのように、瞳なき眼で俺たちを見守っている。
更に視線を上向けると、えらく高い天井にも沢山の神々の細密画が描かれている。しかし奇妙なことに、中央にかなり大きな、そして少し離れた場所には小さ目の、不自然な空白部がある。
――ともかく、このアドミニストレータの寝室は、遮蔽物なし・面積たっぷりの接近戦には甚だ不向きなフィールドだということだ。瞬時の観察でそう判断した俺は、敵の術式詠唱が始まる前に突っ込むべきか、と考えじりっと右足に力を込めた。
しかし、実際の動作に入るよりも早く、アリスがごくかすかな声で肩越しに囁いた。
「不用意な突進は危険です。最高司祭様には、手で触れさえすれば瞬時の詠唱でこちらを無力化する術がいくらでもある。チュデルキンに先に仕掛けさせるのは、それを狙っているからに違いありません」
「そういえば……」
これまで隣で沈黙していたユージオが、まだどこかアリスに気後れしているかのように、控えめな声で割って入った。
「あの元老は、ベルクーリさんに"ディープ・フリーズ"術を掛けるとき、わざわざ乗っかっ……いや、直接触れていたよ」
「なるほど、"対象接触の原則"か」
俺も頷きながら呟いた。間接的攻撃術、つまり火炎や稲妻による攻撃以外で敵に大きな影響を与えようとする場合は、ほぼ必ず手なり体の一部で触れる必要がある。学院の初等練士でも知っている、神聖術の基本ルールだ。
つまり、ベルクーリと同じ整合騎士のアリスも、チュデルキンらに直接触れられさえしなければ、あの恐るべき石化術を掛けられる心配はないということになる。しかしそれは同時に、こちらも剣の間合いまで接近できなくなるということでもある。となればやはり、状況は圧倒的に不利だ。遠距離での術の撃ち合いは敵のもっとも望むところだろう。
道化者といえどもそれくらいは理解しているのか、ベッドから転げ落ちたまま床上で逆さになりコマのように回転していたチュデルキンは、両手をひろげてその運動を停止させると、おどけた掛け声とともに立ち上がった。
「ホホウッ!!」
びよん、とバネ仕掛けのように正立すると、チュデルキンは頭上の支配者に対して、右手を胸にあて左手を背後に伸ばすという芝居がかった礼をした。
「……あのような糞虫三匹、猊下にあらせられましては小指一本でぶっちりぶちぶち潰せますものを、わざわざ小生にその悦びを御下賜くださるとは欣快の極み! 小生泣けます! 泣けますですぞぉぉぉぉ!! おくっ、おくくくく……」
そして言葉どおり、巨大なまなこから粘液質の涙をねとりぼとりと落とす様には、どうにも唖然とするしかない。
アドミニストレータもまた、相手をするのにそろそろ疲れたのか、そっけない一言とともに更に数メートル宙を退いた。
「……ま、適当にやって」
「ははぁっ! 小生死力を尽くしてご期待に応えますぞぉぉぉぉぉッ!」
そこにスイッチでもあるのか、チュデルキンが右手の指でこめかみを押すとキュッと涙も止まり、異躯の道化は打って変わって陰険な目つきで俺たちを睨んだ。
「さぁてさてさて……テメェらはそうそう楽にゴメンナサイさせやしねえんですよう。ひぃひぃ泣いて這いつくばる前に、ど汚ェ天命を最低八割はちっくりちくちく削ってやるから覚悟しなさいよぅ?」
「……お前のたわ言はもう聞き飽きました。先に言ったとおり、その小汚い舌を根元から切り飛ばしてあげますから、かかってきなさい」
舌戦でも一歩も退かずにそう言い返したアリスは、ゆっくりと右手で左腰の剣の柄を握ると、ぐいっとスタンスを広げた。
はるか二十メートル彼方のチュデルキンもまた、両腕を胸の前で交差させるという奇妙なポーズを取った。
「ンンンンンもぉ許しませんよぉぉぉぉッ!! そんなに私のかぐわしいベロが欲しければ、たっぷり舐めまわしてやりますよッ!! お前をカッチンコチコチ凍らせた後でねえッ!! ほァァッ!!」
びよーん。
と飛び上がったチュデルキンは――何を考えているのか、空中で逆さ向きになり、どすんと巨大な頭で床に着地した。
「…………」
これには俺もユージオも絶句する。たしかにあの、どでかい頭に棒の体ではさかさまになったほうがよほど安定はするだろうが、自ら動けなくなってどうするつもりなのか。
しかし当のチュデルキンは、至って大真面目な顔――さかさまになると、上向きの三日月マナコが下向きになって怖さは倍増だ――でびしっと両手両足を広げると、金切り声で起句を絶叫した。
「システムッ……コォォォォ――ル!!」
それに対応して、アリスがしゃらっと音高く抜刀する。どうしていいのかわからぬまま、俺とユージオもそれに倣う。
「ジェネレイットォォォォォ……クライオゼニック! エレメントゥァ!!」
やけに巻き舌の発音で、チュデルキンが冷素召喚の術式を繋げた。
遠隔型攻撃術の威力・規模は、最初に発生する素因の数でかなりの部分まで予測できる。離れた場所に呼び出される光点を見逃すまいと、俺は目を眇めた。
ぱぁん!! と派手な音をさせて逆向きチュデルキンの両手が打ち鳴らされ、ばっと広げられる。両の手の指先に、バシバシッと凍結音を放ちながら生み出された青い冷素――その数、十。
「くそっ、多い」
俺は毒づき、対抗すべく熱素を呼び出す態勢に入った。とは言え、俺が同時にジェネレートできる素因の数は最大でも五個だ。これはユージオも大差ない。つまり、二人で同時にカウンターせねば間に合わない。――という意味をこめて、一瞬ちらりと右の相棒に視線を送る。
しかし、ユージオがそれに頷き返してくるよりも早く――。
ばしぃん!! という音がさらに響き、俺はハッと視線を戻した。
それは、逆立ちしたチュデルキンの両足もまた器用に打ち合わされた音だった。続いて、Y字型にまっすぐ伸ばされた両足の五指それぞれの前にも、霜が伸びるような響きとともに十個の冷素が召喚された。隣で、ユージオが掠れた声で呟いた言葉に、俺もまったく同感だった。
「うそ……だろ……」
合計二十の青い光点にびっしり取り囲まれたチュデルキンは、さかさまの口で巨大な笑いを作った。
「おほっ、オホホホホ……ビビってますねェ、チビリあがってますねェェ? このアタシを、そこらの木偶騎士どもと一緒にしてもらっちゃ困るんですよぅ」
アンダーワールドにおける神聖術――つまり魔法は、半分が音声によるコマンド、そしてもう半分は術者によるイメージによって制御される。例えば、治癒術を使う場合は、癒したい対象の者への敵意が心のなかにあると効果が激減するし、逆に真摯な献身の念をそそぐことで術者のレベル以上の効果が生み出されもする。
そして、それは素因を操る攻撃術も例外ではない。
具体的には、生み出したエレメントの変形や発射に、術者の意識と直結したイマジネーションの回路が必ず必要なのだ。ではどうやってその回路を作るかというと、これは指を使うのである。一本の指に一つのエレメントが繋がっているイメージを常に保持しながら指先を動かすことで、術式全体を制御するのだ。
つまりそれはイコール、どんな高位の術者でもふつうは同時に十個までのエレメントしか操れないということになる。その制限を突破し、足の指にまでもイメージ回路を作ろうと思えば、アドミニストレータのように超々高位術によって宙を飛ぶか(そもそもこの世界には飛行コマンドは用意されていない)――逆立ちの姿勢を維持するしかないということになる。道化の元老チュデルキンのように。
「オホホホォ…………」
甲高い笑い声に続けて、変成コマンドを詠唱したチュデルキンは、立ち尽くす俺たちに向かってまず右腕をびしっと振りぬいた。
「ホォォォォォアッ!!」
シュゴッ!!
と突風のような音を立てて、空中に発生した五本の巨大なつららが冷たく煌めきながら迫った。続けて、左腕からも更に五本。
回避しようにも、扇形に広がりながら飛んでくる氷の槍衾に死角などなさそうだった。撃ち落せるか!? と迷いつつも腹をくくったその時、吹き付けてくる冷気を力強い叫びが切り裂いた。
「散・花・流・転!!」
しゃらああああっ!!
と、千の鈴が打ち鳴らされる音とともに、横なぎに振りぬかれたアリスの金木犀の剣が、その切っ先から無数の黄金の花びらとなって舞い散った。
* 最大の死地にありながらも、俺は(そしておそらくユージオも)煌めく光の群れのあまりの美しさに息を飲んだ。
この最上階を照らす灯りは決して多くない。硝子窓の南面から差し込む月光と、そして柱の上部に設けられた燭台に揺らめくささやかな白い炎だけだ。しかし、アリスの剣から分かたれた黄金の欠片たちは、自ら放っているとしか思えない山吹色の輝跡を引きながら、一群の流星雨と化して飛翔した。
「せいっ……」
アリスが鋭い気合とともに、手中に残る柄を右に振り払う。その動きに連動して宙を舞った無数の鋭片は、まさにアリスを貫かんとしていた五本の氷柱を飲み込み、凄まじい切削音を響かせた。
高速回転するミキサーに角氷を放り込んだようなもの、と言うべきか――。
チュデルキンが生み出した、恐るべき威力を内包しているはずの氷の槍は、わずか半秒で無害なシャーベットへと転換させられ、宙にきらきらと溶けて空しくリソースを散らした。
「……やっ!!」
その結果を見届けもせず、アリスは右手を左方向へと突き出した。ぐるりと空中で向きを変えた黄金の花吹雪は、再びざぁっという葉擦れの音を振り撒きながら、さらに五本の氷柱を迎撃した。再び大量のみぞれが放射状に飛び散り、周囲の気温を少しばかり低下させた。
「……ぬっ……ぬぬぬぬぐぐぐぐぐっ……」
己の放った術があっさりと退けられたのを見たチュデルキンは、巨大な唇からむき出した歯列を左右にキリキリキリと鳴らしながら同時に怒りの唸り声を上げるという器用な技を披露しながら、逆向きの頭部を一層赤黒く染めた。
「……そんなチンケな下ろし金で勝った気になってんじゃねぇってんですよう! そんならこいつはどうですかッ!! ホォォォォォッ!!」
十の素因を保持した短い両脚を、同時に前に蹴り出す。
ひゅうっと青い平行線を描きながら高く舞い上がった氷素は、そこでひとつに融合すると、いきなり巨大な氷の塊を発生させた。
見るみる間に、それはごつんごつんと角張りながら体積を増やし、直径二メートルはありそうなドラム缶の形へと成長した。変形はそこで止まらず、後ろの側面中央部から細長い棒状の氷柱が伸びる。
出現したのは、白い冷気の靄を纏った、恐ろしく巨大なハンマーだった。鏡のようにつやつやと輝く打撃面の、大岩ですら一撃粉砕できそうな硬さと重さを想像し、俺は思わず一歩あとずさった。
「ホヒヒッ……どうですかァ、我が氷系最強ちょっと手前の術はァッ!! さぁ、行きますよおおおおっ……"グレート・グレイシャル・プレッサー"!!」
うわっ、と隣でユージオが声を漏らし、身を屈めた。無理もない、自分より数倍はでかい巨大トンカチが、重く空気を圧縮しながら降ってくるさまには俺も体を強張らせることしかできなかった。しかも、いかにも必殺技というべき大層な名前がついている! この世界で、神聖文字(つまり英語)を言語として認識できるのは、俺のほかにはカーディナルとアドミニストレータだけだと思われるので、おそらくこの術式を編み出したのは最高司祭本人なのだろう。部下に与えるくらいだから彼女にとっては余技にも等しい術式なのかもしれないが、それを食らうほうは堪ったものではない。
しかし、今度も、騎士アリスは一歩たりとも退かなかった。己を叩き潰さんと肉薄する巨大オブジェクトを、両足を踏ん張ったまましかと見据え――。
「旋・花・砕・巌!!」
こちらは一般アンダーワールド語だが、たっぷりとイマジネーションの詰まった技名を、区切りながら声高く叫んだ。
直後、それまで不定形の一群として浮遊していた黄金の花吹雪が、ジャキリッ! と歯切れのよい響きとともに、アリスの右手を中心とした巨大な円錐形を形作った。その輝く巨大なドリルは、たちまち高周波を放ちながら高速回転を開始し、鋭い先端で落下してくる氷のハンマーを迎え撃った。
二つの必殺技が接触した瞬間、すさまじい大音響と閃光が発生し、部屋中を激しく揺るがした。
「くっぬうううううほぉぉぉぉぉッ……ブッツブ……れなっ……さぁぁぁぁいッ!」
「…………砕けっ……花たちっ……!!」
チュデルキンとアリスは、美醜の対極にある顔を同様にきつく歪め、食いしばった歯の間から声を漏らした。
こうなると、双方の技の優劣を決めるのは、数値的なプライオリティ以前に意志力、イメージ力の強さにかかってくる。なんといってもここはアンダーワールド……夢が現実となる世界なのだ。
青い大槌と金の螺旋は、白熱した接触点をはさんでしばし静止を続けていたが、やがて徐々に互いを飲み込みはじめた。振りまかれる光芒の眩さと、耳をつんざく破壊音のせいで、ハンマーがその打撃面でドリルを潰しているのか、あるいはドリルがその尖端でハンマーを穿ちつつあるのか判別できない。
勝敗が明らかになったのは、双方の姿が半ば以上光に飲み込まれた時だった。
びきっ。
という鈍い破砕音とともに、氷の大槌全体に白く輝く亀裂が走った。
直後、ちょっとした小屋ほどもありそうなハンマーは、先のつららのように無数の氷片となってその巨体を散らした。ばがぁぁぁん、と盛大な震動を伴って周囲の空間が一気に白く凍り、空しく放散された冷気リソースの波動を俺は左袖で防いだ。
「ひきゃああ!?」
素っ頓狂な悲鳴は、無論元老チュデルキンのものだ。
さかさまになったまま、道化は細い体を後ろに傾け、ゆらゆらと揺れた。
「そっ……そんなバカチンなっ……。げ……猊下に頂戴した、アタシの美し格好良い術式がっ……」
大きく裂けた唇が、ついにニヤニヤ笑いを消し去り、小さく窄められてわななく様は痛快だったが、しかし見事巨大ハンマーを粉砕してのけたアリスも無傷とは行かなかった。ドリルの回転をゆるめた金の小片たちを、右腕の一振りでじゃきっと元の剣に戻した騎士は、大きく姿勢を崩し、危ういところで踏みとどまった。天命にダメージはないはずだが、振り絞った精神力の消耗が激しいのだろう。
「アリス……!」
駆け寄ろうとした俺を、しかし左腕で鋭く制し、アリスは気丈に剣の切っ先をびしりとチュデルキンに向けた。
「チュデルキン、お前の信念なき技など、虚ろに膨れた紙風船にすぎないと知れ! お前本人と同じように!!」
「なっ……んですってェ……この小娘っ……」
アリスの、斬撃のごとく鋭い舌鋒に、ついにチュデルキンの悪口雑言が止まった。限界まで歪めた巨顔を激しく痙攣させ、滝のような脂汗が逆向きに流れる。
しばしの沈黙を破ったのは、ほとんど退屈したとでも言わんばかりの、アドミニストレータのため息混じりの呟きだった。
「あーぁ、ほんと、何年経ってもお馬鹿さんねえ、チュデルキン」
チュデルキンの後方で宙高く、寝そべった姿勢で浮遊していた最高司祭は、細いおとがいを乗せた両手の甲ごしに唯一の腹心を見下ろし、続けた。
「あの娘の持つ"金木犀の剣"は、この世界に存在するディヴァイン・オブジェクトの中でも最大クラスの対物理優先度を持っているのよ。そして、その事実をあの娘も強く確信している。そんなの相手に実体系攻撃術を使うなんて、神聖術の基本も忘れちゃったの?」
「はっ……ほほはひっ……」
甲高い声を漏らし、チュデルキンは丸くした両目を頭上――正確には眼下に向けた。その上まぶたに、たちまち大粒の涙がぼろりぼろりと溢れる。
「おぉぉっ……なんと勿体無いっ、有難いっ、畏れ多いっ!! 猊下御自ら小生めに御教示下さるとはっ……! 応えますぞ、このチュデルキン必ずやお応えしますぞっ!!」
アドミニストレータの声は、チュデルキンにとって最高級の治癒術以上の効果を持っているようだった。先刻までの驚愕と怯えは一瞬にして払拭され、逆さまの元老は、おそらく彼なりの最大の気迫が篭っているのであろう奇相でしっかとアリスを睨みつけた。
「……整合騎士アリス・シンセシス・フィフティよ!! オマエさっき言いましたねェ!! このアタシが虚ろな、信念なき紙風船だと!!」
「……違うとでも言うのですか」
「違――――う!! 違う違う違う違う!!」
チュデルキンの両眼に、ぼっと音を立てて赤い炎が点った――ように見えた。
「アタシにだって信じるものはあるんですよう!! それは、ズバリ、愛ッ!! 我が尊く麗しき最高司祭猊下への、偽りなき愛なりィッ!!」
この時この場所以外のどんな状況で聞いても三流の滑稽劇にしかなり得ない台詞ではあるが、しかし今だけは――たとえそれを放ったのが、丸頭に棒体の道化者だとしても――ある種の悲壮感すら伴って、力強く部屋中に響き渡った。
チュデルキンは、燃えるまなこでアリスを凝視し、両手両足を大きく広げながら、背後のアドミニストレータにむかって限界まで甲高く裏返った声を奏上した。
「さ、ささ、最高司祭猊下ッ!!」
「なぁに? チュデルキン」
「小生、元老チュデルキン、猊下にお仕えした永の年月において初めての不遜なお願いを申し上げたてまつりまするぅっ!! 小生これより身命を賭して彼奴ら反逆者どもを殲滅致しますればっ! その暁には猊下のっ! げっ、猊下のぉぉっ、貴き玉身をこの手で触れっ、くっ口付けしっ、一夜の夢をとっとっ共にするお許しをっ、頂きたくございますぅぅぅぅぅッ!!」
――半人半神の最高支配者に対して、なんとも直截的なお願いもあったものである。しかしその絶叫が、このチュデルキンという歪みきった道化男の、魂よりの真実の吐露であろうことは間違いなかった。
悲壮感さえ通り越し、もはやヒロイックですらあるその雄叫びを聞き、俺もユージオも、そしてアリスも、身動きひとつできずに絶句した。
そして、チュデルキンの背後で己への"お願い"を聞いた最高司祭アドミニストレータは――。
まるで、可笑しくてたまらぬ、というふうに真珠色の唇をきゅうっと吊り上げた。
感情無き鏡の瞳に、今だけは明らかな、愚かな人間への興趣と嘲弄の色が揺らめいた。哄笑を堪えるかのように、右手ですっと口元を覆ったアドミニストレータは、その表情からは想像できぬ、慈愛に満ちた囁き声で――。
「……いいわよ、チュデルキン」
と、嘘をついた。
その言葉が明白な虚偽であることが、同じく偽り多き人間である俺にははっきりと感じ取れた。
「創生神ステイシアに誓うわ。そなたが責を果たしたそのときには、私の体の隅々までも、一夜そなたに与えましょう」
この世界の人間は、人工フラクトライトの構造的要因と、謎の"コード871"によって宿命的に法というものに逆らえない。その法には、村や町の掟から帝国基本法、そして勿論禁忌目録、さらには自ら神に誓った約定も含まれる。支配構造の上位に属する者ほど、縛られる法も少なくなるが(たとえば整合騎士は禁忌目録に拘束されないように)、その原則は世界最高位の存在たるカーディナルとアドミニストレータとて例外としない。カーディナルがティーカップを机に置けないように、そしてアドミニストレータが人を殺せないように。
しかし今、アドミニストレータは、己が神への誓いにすら制約されないということを俺の目の前で実証してみせた。それはつまり、あの少女は、寝室の天井に描かれていないステイシア、ソルス、テラリアの創生三神への帰依心など欠片も持ち合わせていないということに他ならない。
だが、勿論、哀れな道化チュデルキンには思いもよらぬことであったろう。
己の背後で、主が嘲笑を堪えながら放った言葉を聞き、チュデルキンの眼にまたしても大粒の涙が盛り上がった。
「おお…………おおっ…………小生、ただいま、無上の……無上の歓喜に包まれておりますよぅ…………もはや……もはや小生、闘志万倍、精気横溢、はっきり言って無敵ですようぅぅぅぅッ!!」
じゅっ、と音を立てて涙が蒸発し、直後、チュデルキンの全身がすさまじいほどの赤々とした炎に包まれた。
「シスッ!! テムッ!! コォォォォル!!! ジェネレイトォォォォォサァァァァァマルゥゥゥウゥ!! エレメ――――――ント!!!」
しゅばばっ、と両手両足で宙を斬り、指先までがぴんと広げられたその四肢に、赤熱する幾つもの光点が宿った。これが元老チュデルキンの、己が天命までもリソースに変えた最大最後の攻撃となろうことは、アリスの背後に隠れる俺にもしかと感じ取れた。
先ほどと同じく、生成された素因――ただし今度のはルビーのごとく輝く熱素――の数は、すべての指先に計二十個だった。
確かに、倒立状態のチュデルキンの両足は、体を支えるという役目から解放されて完全に自由ではある。しかしそうは言っても、足指十本をそれぞれ別個かつ同時に認識するのはよほどの訓練を積まねばできることではない。あまりに特異な外見と人格にばかりつい注意が向いてしまうが、この元老チュデルキンという人物も、整合騎士の猛者たちと同じように――あるいはそれ以上に長い経験を重ねてきた、恐るべき強敵なのだ。
果てしなく遅きに失した俺の恐怖を感じでもしたか、チュデルキンの両眼がまるで勝ち誇るかのようにすうっと細められ、直後、零れ落ちんばかりに丸く見開かれた。その針穴のごとき瞳孔が、突然真紅の光を帯びてあかあかと輝き、俺の恐れは驚愕へと変わった。もしや、奴の気迫が呼び起こした現象なのか――と思ってから、ようやくそうではないことに気づく。あれも、チュデルキンの両眼のすぐ前に浮かんで煌く赤光もまた、大型の熱素因なのだ。奴は己の両眼までも端末として、二十一個目と二個目のエレメントを生成したのだ。
変成・射出前の素因それ自体も、わずかではあるがその属性に準じたかたちでリソースを放散している。指の数センチ先に熱素を呼び出すくらいなら、多少爪が炙られるくらいで済むが、目の玉の至近にあれほど巨大な奴を保持して術者が無事なわけがない。たちまち、チュデルキンの目のまわりの白い皮膚が、しゅうしゅうと音を立てて黒く焦げ始め、俺はたまらず頬を引きつらせた。
しかし元老本人は、その熱さなどもはや毛ほども感じていないようだった。眼窩が広く黒ずみ、異相が凶相へと転じた顔全体でニィィっと笑ってみせると、チュデルキンは低く軋る声で最後の見栄を切った。
「お見せしましょォォォォう、我が最大最強の神聖術ゥゥゥゥッ……! 出でよ魔人ッ!! そして敵を焼き尽くせェェッ!! "クルゥエル・クリムゾン・クラウン"――――ッ!!」
ぶおっ、と細い四肢が同時に前に振り下ろされた。打ち出された二十のエレメントは、すぐには変成せず、宙に五本ずつの平行線を描きながら猛烈なスピードで飛び回った。
その赤く輝く軌跡が、見る見る間に巨大な人間のかたちを描き出していくのを、俺は思わず魅入られながら凝視した。短い足。でっぷりと膨れた腹。妙に長い腕、そして角がいくつもついた冠を載せた丸い頭。まるで、破裂する前のチュデルキンをそのまま数倍に拡大したかのような――巨人のピエロだ。
ごうごうと燃える身長五メートルの道化を創り出した二十個の素因は、最後にひらひらした道化服に炎の縦じまを描き、ようやく消えた。
いまだ二十メートル近くの距離があるのに、すでに見上げるほどの高さにあるピエロの顔は、チュデルキンのそれを模していながら何倍も残酷そうに見えた。分厚い唇の隙間からは火焔の舌がちろちろと見え隠れし、細長い吊り目を作る暗い亀裂からは、炎の巨人であるにもかかわらず凍えるような冷気が吹き付けてくるように思える。
両手両足を振り回しながら超絶的召喚術を組み終えたチュデルキンは最後に、残るふたつのエレメントを宿した両の目をばちっと一度まばたきした。すると、目の前の熱素が消え去り、同時に炎のピエロの細い目がくわっと開いて、そこに二つの燃える瞳が宿った。
火焔の巨人は、チュデルキン本人が乗り移ったかのごとく残酷な殺意のこもった両眼でぎろりと俺たちを見下ろした。とがった靴を履いた右足がゆっくり持ち上がり、一歩前の床をずしりと踏みしめた。重い震動音とともに、大量の炎が巨人の足元から巻き起こり、周囲の空間を揺らした。
もはや唖然と立ち尽くすばかりだった俺とユージオは、ごくかすかだが鋭いアリスの声が発せられたのを聞き、はっと気を取り直した。
「……あの術、私も見たことがないほどの、恐るべき優先度です」
アリスの声はこの状況でもあくまで毅然としていたが、しかし内心の畏れを映してか、語尾がかすかに掠れ、揺れた。
「あやつを甘く見過ぎました。残念ですが、あの炎は私の花たちでも破壊できない」
「な……って、じゃあ、どう……」
非生産的な声を挟んだ俺に、アリスは初めて出会った頃以上に厳しい声を短く叩き返した。
「十秒、どうにか防ぎます。キリト、ユージオ、その間にチュデルキン本体を討ってください。ただし接近してはいけない! 最高司祭はそれを待っているのですから」
「じゅう……」
「……びょう」
俺とユージオは同時に呻き、顔を見合わせた。
もはや剣技でも発想でも俺を超えたかもしれない相棒だが、しかし今度ばかりはその顔を彩っているのは絶望と恐慌の蒼白だった。無論、俺もまったく同じ表情を浮かべているはずだ。
アリスが防いでいるあいだに突貫せよというならいくらでもやる! それはもともと俺の好むスタイルだし、実際SAO時代はボス攻略のたびにその役目を務めたのだ。
しかし、彼我の距離二十メートルを縮めてはいけないというのは、俺とユージオの戦闘力を九割減じる大きすぎる枷だ。俺たちはなんといっても剣士なのであり、遠隔攻撃の手段などわずか二つしかないからだ。
そのひとつはこちらも神聖術を使うという手だが、俺とユージオに使えるコマンドはまったく初心者級のものでしかなく、せいぜい距離を詰めるための小技にしか使えない。とてもチュデルキンのような高位術者の護りを貫き天命を削りきる威力は望めない。
もうひとつは、取って置きの必殺技――つまり武装完全支配術だが、これは取って置きすぎたのが災いした。アリスの技があればチュデルキン相手には使う必要はあるまい、対アドミニストレータ戦まで維持できるはずと判断したせいで、俺もユージオもあの長ったらしい術式をまったく唱えていないのだ。今からではどう考えても間に合わない。
俺が絶望的思案を懸命に巡らす間にも、燃え盛る巨大ピエロは、踏み出した右足で床を蹴り、その図体をふわりと宙に浮かべてさらに前進を続けた。
どすん、と両足で着地する。まるで水溜りを散らすかのように火焔の飛沫を振り撒いてから、次のジャンプに移る。とても敏捷とは言えない動きだが、何といってもサイズがサイズだ。一跳びで三メートルの距離を詰めてくる。
ピエロの放散する熱気と焦げ臭さが圧力となって感じられるほどの間合いとなったとき、ついにアリスが動いた。
凝集している金木犀の剣を、すうっと真っ向正面の大上段に振りかぶる。後ろに伸ばされた左腕、大きく前後に開いた両足が、ぎり、ぎりと弓の弦のように張り詰めていく。
突如、アリスの足元からも竜巻のごとき突風が沸き起こり、白のロングスカートと長い金髪が水平に舞い上がると激しくひらめいた。金木犀の剣の刀身が、黄金の光に包まれてぴしっと幾百の菱形へと分離し、ひとすじの列を作って空中を滑りはじめる。
「――嵐! 花! 裂! 天!」
あの細い体のどこから、と思えるほどの叫びが鋭く宙を切り裂いた。
同時に、それまでゆるりと円運動をしていた黄金の花弁たちが、個々の姿が見えないほどの超スピードで渦を作り、それはたちまち巨大な竜巻へと成長した。
先に氷のハンマーを砕いたドリルの時は、密に凝集した先細りの円錐形を作っていたのだが、今度はその逆だ。アリスの手元から漏斗状に広がり、その直径も先端では五メートルはあるだろう。
たちまち周囲の空気が、まるで大嵐に見舞われたかのように圧縮され、引きちぎられ、そして放出された。俺とユージオの髪と服が激しくばたばたと揺れる。
もはや圧し掛からんばかりに接近していた火焔ピエロは、にやにや笑いを消さぬまま高々と最後のジャンプで天井近くにまで舞い上がり、アリスの竜巻の中央に恐れ気もなく落下してきた。
どばぁぁぁぁっ!!
という、千の溶鉱炉が咆哮するが如き轟音がそれ以外のあらゆる音を圧した。
黄金の竜巻はほとんど垂直近くにまで立ちあがり、その真ん中に火焔ピエロの両足が飲み込まれている。高速回転する黄金片に引き裂かれた炎が、大掛かりな花火のように放射状に飛び散り空気を焦がす。
しかしピエロの総体はわずかにも減少しているような気配すらなく、燃え盛る両眼のにやにや笑いをさらに大きくしながら徐々に、徐々に竜巻をその巨大な足で踏み潰しはじめた。真下ですべてを支えるアリスの両足がじわ、じわと崩れ、かすかに見える横顔は鬼気迫るほどの形相だ。
さらには、竜巻を作る黄金片たちが、ピエロの熱量に耐えかねるようにたちまち赤熱していく。いままさに、整合騎士アリスも、その手の金木犀の剣も、凄まじい速度で天命を失いつつあるのだ。
残り時間――十秒。
あらゆるシステム・コマンドはもはや何の助けにもならない。
そして俺にあるのは、右手の黒い剣と、体に染み付いた技だけだ。
このアンダーワールドにおいて、俺は、主にユージオに教え伝える目的でかなりの数の"連続技"、つまり旧SAO世界において俺のフラクトライトに深く刻み込まれたあまたのソードスキルを再生させた。その過程において俺は、SAO世界のようなシステム・アシストの存在しないこの世界でも、ほとんどかつてのものと変わらない速度・威力のソードスキルを放つことが可能であることを知った。
なぜならば、アンダーワールドでは、行動とその結果のかなりの部分を、システムによる演算ではなく行う者の意志力、イマジネーションが決定するからだ。俺や人工フラクトライト達が見ているのはポリゴンで作られたオブジェクトではなく、記憶のアーカイブから取り出し加工された夢――ニーモニック・ビジュアルであるからだ。
ゆえに俺は、俺の記憶に強く刻み込まれたソードスキルたちを――現実世界では絶対に行うことのできない超高速の連続剣技を再生し得た。
そしてそれは同時に、この世界においてならば、俺の剣技はSAO世界のシステム・アシストを超える高みに――旧アインクラッドに於いて、数多の剣士たちが憧れを込めてソード・アートと呼んだ、システムの規定を超えた速度と威力そして美しさを持つ真の技へと達し得るかもしれない、ということでもある。
その為に今だけは、俺は、SAO世界で生まれそして消えた"黒の剣士キリト"への忌避――あるいは恐怖を捨てねばならない。
アリスの竜巻を踏み破りつつある巨人の熱気を頬で感じながら、俺は大きく体を右に開き、腰を沈めた。
右手の黒い剣を肩の高さまで持ち上げ、完全な水平に倒すと同時に限界まで後ろに引き絞る。
左手はその剣尖に、カタパルトのごとくまっすぐに伸ばしてあてがう。
アンダーワールドでは、幾つかの理由によって完全再現を試みようとしなかった単発重攻撃技――アインクラッドにおいて間違いなく最多回数放ったソードスキル、"ヴォーパル・ストライク"の構え。
透明感のあるブラックに輝く切っ先のはるか延長線上に、倒立した元老チュデルキンの姿が見える。
焼け焦げた眼窩に嵌まる巨大な両眼は、ダメージはあれども視力は健在らしく、爛々とひん剥かれてこちらを睨みつけている。意識の大部分は、己の四肢と視線で操る火焔ピエロに向けられているのだろうが、俺のアクションも無論視界には入っているはずだ。
攻撃はワンチャンス、決して防御も回避も許してはならない。その意味でも、この二十メートルという距離はあまりに遠い。頭頂部のみで体を支えるチュデルキンには素早い移動は不可能だろうという期待はあるが、しかしあの男の土壇場のしぶとさを、もうこれ以上過小評価する過ちは犯せない。一瞬――一秒の半分のその半分でいい、チュデルキンの注意を強く外に逸らさねばならない。
残り時間八秒。俺は限界まで速く短い言葉で、隣の相棒に頼んだ。
「奴の目を」
「そう来ると思った。いくよ」
打てば響く、とはこのことだ。ちらりと視線を向けると、いつのまにジェネレートしたのか、ユージオの右掌には青く光る鋭利な氷の矢が保持されていた。それほど大きなサイズではないが、眩いほどの輝きに包まれているのを見れば、その矢が持つのが生半なプライオリティでないのはすぐにわかる。おそらく、先刻のアリスと元老の攻防によって放散された冷気リソースを、消滅する前に素早くエレメントに変えていたに違いない。このような状況判断力は、まったく頼もしいの一言だ。
残り七秒。ユージオの両手が見えない大弓を引き絞るように動き、つがえられた氷の矢がひときわ激しく光った。
「ディスチャージ!!」
コマンドとともに発射された氷の矢は、しかし、まっすぐにチュデルキンに向かったわけではなかった。
ユージオの両手にコントロールされた軌道に沿って、まず火焔ピエロを左に迂回し、そこから右方向へと大きくカーブを描いて舞い上がる。炎の赤一色に染まる戦場に、その矢が長く引く青い軌跡は強烈なコントラストでまばゆくきらめいた。
残り五秒。アリスとチュデルキンの間の虚空を、涼やかな音を振りまきながら斜めに横切った氷の矢は、高い位置でさらに左へとターンした。ユージオの両手がぐっと握られる。それが合図となり、矢は直線軌道を描いてそれまでの数倍のスピードで突進した。その鋭い鏃が狙ったのは――。
今度もまた、チュデルキンではなかった。
奴の後方約二メートルの空中にしどけなく寝そべる最高司祭アドミニストレータこそが、ユージオの照準した標的だった。
残り四秒。
もちろん、いかに氷の矢の優先度が高かろうと、ユージオの権限レベルから生み出された程度のものに最高司祭が慌てるはずもない。銀髪の少女は、小煩そうに己に向かってくる青い矢を見やると、唇を尖らせ、ふっと軽く息をふきかけた。その息にどのような術式が込められていたのか推測する手立てはないが、矢は少女の素肌に達するはるか一メートル以上も手前で、ぱしゃっと光のしずくを振りまきながら呆気なく粉砕された。
しかし、ユージオが真に攻撃したのは、アドミニストレータ本人ではなかった。
彼がその冷静な判断力と苛烈な意志力によって一撃を浴びせたのは、元老チュデルキンが声高に宣言した、彼の最高司祭への盲目的執着、あるいは愛情だったのだ。
それまで、油断なく俺たちの動向を注視していたチュデルキンの両眼が、氷の矢が下降したその瞬間のみぐりっと横を向いた。窄められていた唇がいっぱいに開き、甲高い叫びが発せられた。
「猊下、御気をつけくださいぃぃぃッ!!」
残り三秒。
チュデルキンの絶叫が聞こえるよりも早く、俺の体は動き始めていた。
前に大きく踏み出した左足で、強く床を蹴る。その加速を腰で回転力に変え、胸と背中の筋肉を経由させて右肩に伝える。そこから繋がる俺の右腕はすでに黒い長剣と一体化した武器となり、エネルギーのすべてを超重量の刀身へと注ぎ込む。
打突開始の一瞬、剣の反動は俺の右半身を引きちぎりそうなほどに大きい。しかし歯を食いしばり、喉の奥から気合を放ちながら、俺は凄まじく重い武器を一直線に加速させていく。
旧SAO世界において、連続技に組み込めない単発のソードスキルであり発射後の隙も大きいこの"ヴォーパル・ストライク"をなぜ俺がそこまで愛用したかというと、それは戦況を一撃で決定し得る威力もさることながら、片手用直剣技にあるまじき長大なリーチにこそ理由がある。
かの世界では、強烈なエフェクト光を持つソードスキルは押並べて武器の実サイズを越える当たり判定を持っていた。なればこそ俺たちプレイヤーは、自身の数倍の体躯と得物を持つ巨大なボスモンスターたちと正面から渡り合えたのだ。しかしそのなかでも、ヴォーパル・ストライクの間合いは群を抜いて広かった。血のように赤いエフェクト光が敵を貫くその距離は、およそ刀身の二倍。限界まで伸ばされる右腕のリーチも加えれば、時として鞭や長槍すらも凌駕する射程距離を誇った。
――とは言え、もちろん、それはこのアンダーワールドとは距離、時間、観念他あらゆる意味に於いて遥か隔てられた浮遊城アインクラッドでの話だ。
この世界でこれまで多くのソードスキルを再生し得た、と言ってもそれはすべて連続技の動作としてのみであって、色とりどりのエフェクト光や剣の実寸を超える間合いなどは当然含まれていない。二年半前に一度だけヴォーパル・ストライクを実戦で――アリスの妹シルカを攫ったゴブリン部隊長との戦闘で使ったことはあるが、そのときも技としては何の変哲もない直突きでしかなかったのだ。
しかし、今、この一撃だけは――。
俺はヴォーパル・ストライクという名の剣技を、真の意味で甦らせねばならない。
いや、それ以上だ。俺と敵の距離は二十メートル、かつての技でさえ到底届かない。この"距離"というシステム上の制約を、意思とイマジネーションの力で打破しなくてはならないのだ。
不可能事では絶対にない。この世界では、イメージの力はシステムの規定を超える力を持つのだ。その証左が、今俺とユージオを限界以上の気力で炎魔人の攻撃から護っている騎士アリスの存在だ。彼女は、己の愛剣の記憶解放を行う際に一切のコマンド詠唱を行っていない。そんなものは、もうアリスには必要ないのだ。己と剣との絆を信じる彼女の意志力が、それを可能としているのである。
であれば、俺も、アリスのその意志に応えなくては。
信じろ。
確信せよ。
断固として実現するのだ。
俺は、何者であるよりも先に、剣士キリトなのだから。
突然、右手が猛烈な熱に包まれた。素手のはずの皮膚が、どこからか現れた黒い指貫きのグローブに瞬時に覆われる。続いて、激戦でほつれたシャツの上に、艶やかな黒革の袖が出現し、一瞬で腕から肩へと広がっていく。懐かしいロングコートの裾が、俺の腰の周りで大きくひるがえる。
どこからか、外燃機関の猛りにも似た金属質の轟音が響いてくる。発生源は今まさに撃ち出されようとしている黒い刀身そのものだ。
紅い閃光。
剣全体を包む、圧倒的な輝きは、炎ではなく血の赤。切っ先から放射されるその光は、部屋を埋め尽くす火焔の色すらも覆い尽くす。
「う……おおおおおッ!!」
喉から迸る獰猛な気合とともに、俺は右手に集ったすべての力を、一直線に前へと解き放った。
残り、一秒。
何の音だ!?
いきなり耳元で炸裂した異質の咆哮に、ユージオは全身を硬直させた。
獣の吼え声とも、稲妻の轟きともまるで違う。炎の怒号でも、吹雪の絶叫でもない。金属、それも幾千の剣が一斉にその身を震わせたかのような――。
氷の矢を放ち終えた両腕を前に伸ばしたまま、ユージオはすぐ左に立つキリトへと視線を送った。そして新たな驚愕に激しく打たれた。
轟音の源は、キリトが右手に構えた黒い直剣だった。黒曜石の輝きを持つ肉厚の刀身が、その鋭い刃を朧に霞ませるほどに高速で震動させながら、戦場の何よりも激しい咆哮を放っている。
記憶解放が行われたのか!? 術式詠唱もなしに!?
ユージオの一瞬のその思考は、すぐに否定された。キリトの黒い剣の完全支配術は、これまで数回見たように、深い夜にも似た闇の中からかの巨大樹を召喚するというものだ。
しかし、ユージオの目の前で剣の切っ先から強く迸ったのは、血のように重い紅の光だった。
幾つもの束となって溢れ出た赤い閃光は、みるみるうちに刀身すべてを覆いつくし、それにとどまらず持ち主の腕をも包み込んでいく。
真に驚くべき現象が起きたのはその後だった。
キリト本人の姿が、まばゆい輝きに覆われた一瞬を境に、それまでとは違う出で立ちに変化したのだ。
今まで彼が身につけていたのは、数々の激戦を経て解れ傷んだ黒いシャツと、同色の麻のズボンだったはずだ。だが赤い光の波が、右腕から体、足へと通過した途端、高い襟と長い裾を持つ輝くような革のコートがどこからともなく現れてキリトの体を装い、ズボンもまた細身の革素材のものへと瞬時に変わった。光沢のあるブーツは重そうな金属鋲つき、両の手もまた鋲の埋め込まれた手袋に包まれた。それらの色はすべて、吸い込まれるように深い黒。
瞬きよりも短い刹那に起きたその、言わば"変身"のとどめは、キリトの肉体そのものに起きた変化だった。
まず、黒い髪がわずかに伸び彼の横顔をほとんど隠した。次に、ユージオとほぼ同じ大きさだったはずのその躯が、ぎゅっと密度を増すように少しばかり小柄になった。しかし、その全身から放たれる威圧感は逆に倍化したように思えた。理由は、激しく揺れる前髪の隙間からのぞく黒い眼だ。これまで常にキリトの瞳に宿っていた穏やかさ、言い換えれば戦うことへの迷いと躊躇いのようなものが、嘘のように失われている。その眼光の鋭さは、まるで彼自身が一本の剣になってしまったかのようだ。整合騎士たちの冷厳さすら上回る、あらゆる感情を削ぎ落とした戦闘者の眼。
その瞳が、ぎらりと禍々しく光った。噛み締めた歯が剥き出され、唇がまるで笑うように歪んだ。
直後、その唇の奥から、剣の唸りを上回る雄叫びが放たれた。
「う……おおおおおッ!!」
ユージオの背中が総毛立った。
剣が放つ金属質の咆哮が限界まで高まり、直後、キリトの右手が消えうせるほどの速度で前に撃ち出された。
じゃきぃぃぃん!! と、見えない鋼板をぶちぬくような轟音。荒れ狂う紅の閃光。長いコートの裾が、伝説の闇の魔物の翼のように激しくはためく。
なんという凄まじい突き技だろうか。これまでキリトに教授されたアインクラッド流剣術のどの技とも異質な、どちらかと言えば伝統流派に近い単発の大技だ。だが、それら流派が重視する様式美など寸毫も無い、只々敵の肉体をぶち抜くためだけの殺戮技――。
しかし。
ユージオは、どうにか目の端にとらえた剣尖の輝きを追って視線を右に動かした。キリトが狙ったのは無論、火焔の巨大道化を操る元老チュデルキンだ。だがその体は遥か二十メルの彼方だ。どんな技だって、それが剣技である限り届くはずがない。
攻撃の瞬間、チュデルキンはキリトを見ていなかった。その視線は己の左上方、ほんの数秒前にユージオが発射した氷の矢の軌道に向けられていた。ユージオとしては限界まで威力を高めた術式も、無論アドミニストレータに通用するはずもなく、息吹ひとつで粉砕されてしまった。だが、狙ったとおりチュデルキンは主への攻撃を無視せず、声高に警告の叫びを上げたので、奴の注意を逸らせというキリトの要求は達せられたことになる。
氷の矢が呆気なく消失したことに安心したように、チュデルキンはぐるりと巨大な顔の向きを戻した。
その細い眼がくわっと見開かれ、いくつかの感情が刹那のうちに目まぐるしく入り乱れた。
まず、今まさに打ち出されようとしているキリトの剣と、それが放つ紅い閃光への驚愕。
次に、攻撃が遥か間合いの外からの単なる突き技であったことへの安堵と侮り。
最後に――超高速で打突された剣から、耳を劈く轟音とともにどこまでも伸びてくる紅い光の刃を見た恐怖。
息をするのも忘れるほどの驚きに打たれたのはユージオも同じだった。血の色の光剣は、二人の前方で火焔を防ぐアリスのすぐ左横を通過し、二十メルの距離を一瞬で駆け抜けて――
倒立するチュデルキンの棒のごとき胴体のど真ん中を、それが紙ででもあるかのように呆気なく貫いた。
紅い刃は、そのまま尚も三メル近く伸び、ぽかんとした表情の元老の体をわずかに宙に留めてから、束が解けるように周囲の空間へと拡散し、消えた。直後、チュデルキンの胸と腹の境に開いた、ほとんど胴を分断しかけるほどの横長の傷口から、どこにこれだけと思えるくらい大量の血液が迸った。
「ほおおおぉぉぉぉぅぅぅ…………」
空気が抜けるような、高く力ない叫びが、血霧の舞う空中に響き渡った。
自分が作り出した鮮血の池に、ばちゃっと仰向けに落下したチュデルキンは、細い右腕をぶるぶると震わせながら頭上に漂うアドミニストレータに向けて差し伸べた。
「……あぁ……げい……か…………」
か細い声を放つ、年経た道化者の表情は、ユージオの位置からは見えなかった。右手が湿った音を立てて濡れそぼった絨毯に落下し、それきりチュデルキンは動きを止めた。
直後、アリスの頭上でいままさに黄金の竜巻を踏み破ろうとしていた火焔の巨人も、その膨れ上がった胴体を大量の白煙へと変え、ニヤニヤ笑いを宙に溶かして消滅した。アリスの操る黄金の小片たちも、強敵の消滅に戸惑うかのようにゆるゆると減速し、宙に漂った。
突如訪れた沈黙に、耳が痺れるような感覚を味わいながら、ユージオはそっと隣に視線を戻した。
キリトは、右足を大きく踏み込み、右腕を限界まで伸ばした姿勢のまま沈黙していた。
黒い剣の表面に残っていた紅い光がすうっと消え、黒髪とコートの裾が最後にふわりとなびいてから垂れた。小柄なその姿が、末端からぼやけるようにもとの相棒へと戻っていくさまを、ユージオはただ息を詰めたまま見つめた。
革のコートや厚底のブーツが、まるで幻ででもあったかのように完全に消え去ったあとも、キリトは数瞬動かなかった。やがてゆるりとその右腕が降ろされ、黒い剣の先がとん、と絨毯を叩いた。
丈を取り戻した体をまっすぐに起こしてからも、キリトはうつむいたまま、ユージオのほうも、転がるチュデルキンの体も見ようとしなかった。ユージオもまた、何と声を掛けていいのか判らなかった。瀕死のファナティオを前にあれほど取り乱した相棒が、たとえ敵があの元老チュデルキンであったにせよ、その剣にかけたことに決して快哉を叫ぶ気分ではないだろうことが想像できたからだ。かいま見えたキリトの横顔は、攻撃時の氷のような冷徹さをもう微塵も感じさせないものだった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、アリスの鋭い呼吸音だった。黄金片が剣へと戻る、じゃっと鋭い金属音がそれに続いた。
素早く顔を戻したユージオが見たのは、倒れた最後の配下の体へと華奢な左手を差し伸べるアドミニストレータの姿だった。
治癒術を掛ける気か!? まさか、どう見てもチュデルキンはすでに絶命している。それとも最高司祭は、子供の頃に聞いた伝説どおり、禁断の蘇生術すらも操るというのか――?
瞬間、そう危惧したユージオが、術式詠唱が開始される前に突進して接近戦に持ち込むべきかと青薔薇の剣の柄に手をやった、その時。
あらゆる感情を伺わせないアドミニストレータの声が、ゆるりと流れた。
「勘違いしないで。片付けるだけよ、見苦しいから」
ふいっと左手が振られると、チュデルキンの骸は、綿入りの人形かなにかのように軽々と吹き飛び、はるか離れた窓際にかすかな音を立ててわだかまった。
「……なんということを」
最高司祭の所業を見たアリスが、わずかに顔を背け、押し殺した声で呟いた。
いまの彼女の人格は改変された冷徹な整合騎士のものだが、しかしその気持ちはユージオにも理解できた。チュデルキンは到底敵として尊敬できぬ人物ではあったが、しかし少なくとも、主のため死力を尽くして戦い命を落としたのだ。ならばせめて、その死に対しては礼を以って報いるべきではないのか。
だが、配下の犠牲にアドミニストレータはわずかにも感情を動かされた様子はなかった。
彼女の銀色の瞳は、放り捨てたチュデルキンの骸をもう一顧だにせず、それどころか意識と記憶からその存在すべてを消し去ってしまったかのように、以前と何ら変わらぬ謎めいた微笑をとろりと宿した。
「……ま、退屈な一幕ではあったけど、それなりに意味のあるデータも少しばかり拾えたわね」
難解な神聖語を交えつつ、最高司祭は無垢な美声でそうひとりごちた。見えない寝椅子にうつ伏せに上体をもたげた姿勢のまま、空中をふわりと滑り、円形の寝室の中央まで移動する。
なびいた銀髪のひと筋を指先で背中に払いながら、七色の光が揺らめく瞳をすっと細め、裸形の少女はその磁力的な視線をまっすぐにユージオの隣――いまだ俯き加減のキリトへと注いだ。
「イレギュラーの坊や。詳細プロパティにアクセスできないのは、非正規婚姻から発生した未登録ユニットだからかな、って思ってたんだけど……違うわね。ボク、あっちから来たのね? "向こう側"の人間……そうなんでしょ?」
囁くように投げかけられた言葉の意味を、ユージオは九割がた汲み取ることができなかった。あっち? 向こう側……?
黒髪の相棒にして親友キリトは二年半前、記憶をなくした"ベクタの迷子"としてルーリッド南の森に現れた。そのような人間がたまに出現することをユージオはうわさとして伝え聞いていたが、もちろん俗称のとおり闇の神ベクタが悪戯に人の記憶を消すのだなどと信じていたのはほんの子供の時分だけだ。人はあまりにもつらいこと、悲しいことが起きると自らその記憶を失い、時には命すら落としてしまうことがあるのだ、とユージオに教えたのは、前任の刻み手であるガリッタ老人だった。彼はずいぶんと昔、大水の事故で奥さんを亡くしていて、その時あまりにも嘆き悲しんだせいで奥さんとの思い出を半分以上失ってしまったらしかった。それは命の神ステイシアの慈悲であり罰でもある、と老人はさびしそうに笑った。
ゆえにユージオは、キリトにもおなじことが起きたのだろう、という推測をこれまで秘め続けてきたのだ。髪と瞳の色からして東域か南域の生まれと思うが、その故郷で何かとても辛く悲しい出来事があり、記憶を失いながら長い距離を彷徨ってついにルーリッドの森に辿り着いたのだろう、と。
央都までの旅路や学院での日々において、キリトに記憶のことをほとんど尋ねなかったのはそのせいもある。もちろん、彼が記憶を取り戻し、故郷に帰ってしまうのを恐れた――という理由も無いとは言えないが。
だが今、世界のすべてを見通す力を持つ最高司祭は、キリトの生まれた場所を不思議な言い方で表した。
向こう側。それはつまり、果ての山脈の向こう――闇の国、ダークテリトリーを指すのだろうか? キリトとその出自を結ぶ唯一のもの、連続剣技アインクラッド流は、闇の国で興された流派なのか?
いや――だが、最高司祭ならばダークテリトリーの地勢すらも詳細に知悉しているはずではないか。彼女の配下たる整合騎士たちは自由に果ての山脈を越え、かの国の暗黒騎士と日々激戦を繰り広げているのだ。その騎士たちの支配者たるアドミニストレータが、ダークテリトリーにどんな国がありどんな町があるのか、そこにどのような人々が暮らしているのかを知らないなどということは有り得ない。"あっち"とか"向こう側"などという曖昧な言葉を使う必要はないのだ。
ということは、つまり――。
アドミニストレータがその言葉で指し示したのは、彼女の眼すら届かない、この世界そのものの外側……? 闇の国のさらにその彼方、などという平面的な意味ではなく……世界を包む見えない壁、その向こう……?
ユージオには、己の思考が導き出しかけた概念はあまりにも抽象的すぎて、それを的確に表す言葉すらも不足していた。だが、自分がいま、何かあまりにも重大な、世界の秘密とでもいうべきものに触れかけていることだけは何となく分かった。焼け付くようなもどかしさに襲われ、ユージオは視線を動かして巨大な窓の向こうに広がる夜空を眺めた。
過ぎ行く黒い雲の切れ間に、瞬く星屑の海が広がっていた。あの空の向こう側、キリトが生まれた国、そこはどのような場所なのだろうか? そしてキリト自身は、その記憶を取り戻しているのだろうか?
数秒間続いた静寂を破ったのは、ゆっくりと顔を持ち上げた黒衣の剣士だった。
「そうだ」
キリトは短く、しかしとてつもなく重い一言で、最高司祭の問いを肯定した。ユージオは痺れるような衝撃とともに、心を繋げた相棒の横顔を見つめた。やはりキリトはすでに記憶を回復していたのだ。いや――もしかしたら――彼は、最初から……?
黒い瞳が一瞬、ちらりとユージオに向けられた。そこに浮かぶさまざまな感情、その中でも最も大きいのは、俺を信じてくれ、という懇願の光であるようにユージオには思えた。
視線はすぐに、前方のアドミニストレータに戻された。キリトは厳しい表情のなかに、ほんのわずかな苦笑の色を仄めかせ、そっと両手を広げた。
「……とは言え、俺に与えられた権限レベルはこの世界の人たちとまったく同等で、あなたのそれには遠く及ばないんだけどな、アドミニストレータ……いや、クィネラさん」
不思議な響きの名前で呼ばれたとたん、最高司祭のかんばせから微笑がすっと薄れた。しかしそれは一瞬のことで、アドミニストレータは再び先刻よりも大きな笑みを艶やかな唇に宿らせた。
「あのちびっこが、詰まらない話をいろいろと吹き込んだようね。で? 坊やは、いったい何をしに私の世界へ転げ落ちてきたのかしら? 管理者権限ひとつ持たずに?」
「権限はなくても、知っていることは少しばかりある」
「へぇ。たとえば? 下らない昔話には興味ないわよ」
「なら、未来の話はどうかな」
キリトは、床に立てた黒い剣に両手を乗せ、体重を片足にかけた姿勢で最高支配者に相対した。頬のあたりに張り詰めたような厳しさが戻り、黒い瞳が刃のように鋭く光る。
「クィネラさん、あなたは、そう遠くない未来にあなたの世界を滅ぼす」
発せられた衝撃的な言葉を聞き、しかしアドミニストレータは、唇の笑みをきゅうっと大きくした。
「へぇ。私が? 私のかわいい手駒たちを散々いじめてくれた坊やじゃなく、私が滅ぼすの?」
「そうだ。なぜならあなたの過ちは、神聖教会と整合騎士団を作り上げたそのこと自体だからだ」
「ふふ。うふふふ」
おそらく、己の過ちを指摘されることなどその至聖の座について以来初めてであろうアドミニストレータは、哄笑を堪えるように唇に指先を触れさせ、肩を揺らした。
「ふふふ。いかにも、図書室のちびっこが言いそうなことね。あんな形(なり)で男を篭絡するなんて、おちびさんも随分と手管を覚えたのねぇ。いっそ不憫だわ……そこまでして私を追い落としたいあの子も、うかうかと乗せられた坊やも」
くっ、くっ、と細い喉を鳴らし、最高司祭は笑い続けた。対して、キリトは更に言葉を投げかけようと口を開きかけたが、それより一瞬速く凛と鋭い声が響き渡った。
「お言葉ですが、最高司祭様」
かしゃっと鎧を鳴らし、一歩前に出たのは、これまで沈黙を続けていた整合騎士アリスだった。長い金髪が、アドミニストレータの艶やかな銀髪に対抗するように月明かりにまばゆく煌いた。
「来るべき闇の軍勢の総侵攻に、現在の騎士団では抗しきれないとお考えだったのは、騎士長ベルクーリ閣下も、副長ファナティオ殿も御同様でした。そして――この私も。無論我ら整合騎士団は、最後の一騎までも戦い抜き散り果てる覚悟でしたが、しかし最高司祭様には、騎士団なきあと無辜の民びとを護る手立ては御在りだったのですか! よもや――お一人で、かの大軍勢を滅ぼし尽くせるなどと御考えだったわけではありますまい!」
騎士アリスの、烈しくも涼やかな声音が広大な部屋中に風となって吹き過ぎ、アドミニストレータの髪を揺らした。少女は、すこしばかり意外そうな面持ちで微笑みを薄れさせ、じっと黄金の騎士を見下ろした。
そしてユージオにとっても、別の意味でアリスの言葉は衝撃だった。
整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ、ユージオの幼馴染の少女の体に作られた偽者の人格――それは、数日前に学院の大講堂でユージオの頬をしたたか打ち据えたように、感情なき冷徹な法の執行者であるはずだった。騎士アリスのなかに、かつてのアリス・ツーベルクが持っていたたくさんの感情、とりわけ慈愛と献身、そして善性は微塵も存在しないはずだった。
だが、今のアリスの言葉はユージオの中で、まるでかつてのアリスがそのまま世界の守護騎士として成長し、発したものであるかのように響いたのだ。
息を呑むユージオの視線になど気づくふうもなく、整合騎士は右手の金木犀の剣をカァン! と音高く床に突き立て、更に宣した。
「最高司祭様、私は先刻、あなたの執着と愚かさが騎士団を潰せしめたと言いました。執着とは、あなたが我ら騎士以外のものに一切の武器と力を与えなかったことであり、そして愚かさとは、あなたがその騎士たちすら微塵もお信じにならなかったことです! あなたは我らを謀った……親から、妻や夫、兄弟姉妹たちから無理やりに引き離しその記憶を封じておきながら、ありもしない神界から召喚したなどと麗々しい偽りを植えつけた。でも、それはいい……この世界を、民たちを護るために必要なことであったのなら、それは今は糾しますまい。ただ、どうして我らの……私たちの、教会と最高司祭様、あなたに対する忠誠と敬愛すらも信じて下さらなかったのですか! なぜ私たちの魂に、あなたへの服従を強制する術式などという穢れたものを埋め込まれたのですか!!」
振り絞るようにそう叫んだアリスの、わずかに見える頬の輪郭から、ほんの数滴のしずくが散ったのをユージオは見た。
涙。
あらゆる感情を棄て去ったかのようだった整合騎士アリスが、涙を。
愕然とするユージオの視線の先で、騎士は頬をぬぐうこともせず、昂然と背筋を反らせて支配者を見上げた。
烈火のごとき言葉を浴びせられたアドミニストレータは、しかし、それを微風ほどにも感じなかったように薄い冷笑を浮かべた。
「あらあら、アリスちゃん。随分と難しいことを考えるようになったのねえ。まだたった七年……八年? それくらしか経ってないのにね……造られてから」
情というものを一抹も含まない、軽やかな声だった。美しいが、しかしそれは磨き上げられた貴金属の響きだ。わずかな温もりや揺らぎさえ聞き取ることができない。
「私があなたたち整合騎士(インテグレータ)を信じなかった、ですって? やぁね、心外だわ。とっても信頼してたのよ……歯車仕掛けで健気にカタカタ動く、かわいいお人形さんたちですもの。あなただって、その大事な剣が錆びたりしないように、こまめに磨いてあげるでしょう? それと同じことよ。あなたたちにプレゼントした行動制御キーこそ、私の愛のあかしだわ。あなたたちが、いつまでもきれいなお人形でいられるように。下民たちのように、くだらない悩みや苦しみに煩わされずに済むように」
酷薄な笑みを消さぬまま、アドミニストレータは白い両手を胸の前で握り締め、芝居がかった仕草でゆっくりと首を左右に振った。
「ああ……なんて可哀想なアリスちゃん。きれいなお顔をくしゃくしゃにしちゃって。辛いんでしょう? 苦しいのね? 私のお人形のままでいれば、そんな涙なんて汚らしいものをこぼす必要は、永遠になかったのに」
ぽたり、ぽたりと、アリスの頬から滴り床にはじける水音は途切れなかった。そして同時に、きし、きしっと何かが鋭く軋む音もユージオの耳に届いた。
音源が、アリスの金木犀の剣であることはすぐにわかった。床に突き立てられた剣尖が、分厚い絨毯を貫通し、その下の滑らかな大理石に食い込みつつあるのだ。騎士アリスの心の痛みは、ほぼ破壊不能の天命をもつ塔の基材よりも硬く、大きい。
あふれ出す寸前の感情に彩られたアリスの声が、途切れ途切れに流れた。
「……小父様……騎士長ベルクーリ閣下が、整合騎士として生きた二百年の永の日々で、わずかにも悩んだり、苦しんだりしなかったと、最高司祭様はそうお考えですか。この世界で最も巨大な忠誠をあなたに捧げた人物が、その心に抱きつづけてきた痛みを知らぬと、そう仰いまするか」
ビキッ、と一際鋭い音が、剣の下の床から響いた。同時にそれを上回る烈しさで、アリスは叫んだ。
「否!! ベルクーリ閣下は、司祭様への忠誠と、民びとの守護という使命のあいだで、常に苦しんでおいでだった!! 閣下が、四帝国の名ばかりの近衛隊の強化と整合騎士団による直率を、何度元老院に上申したか、あなたはご存知ありますまい! 閣下は……小父様は、私たちの右目に仕込まれた封印のことを知っておられた。それこそが、小父様こそが誰よりも巨大な苦しみを抱き続けてきた方だという明らかな証左ではありませんか!!」
まさに、血を吐くがごとき痛切な独白だった。
しかしその言葉すらも、アドミニストレータの謎めいた瞳の奥に届いた様子はなかった。絶対支配者の白い頬に色濃く浮かんだのは、なおも面白がるような笑みだけでしかなかった。
「ほんと……悲しくなっちゃうな。私の愛が、そんな程度のものだと思われてるなんて」
笑みがきゅうっと深くなり、興趣のなかにある種の残酷さが揺らいだようにユージオには思えた。
「七歳の幼いアリスお嬢ちゃんに教えてあげるわ。一番……ベルクーリが、その類の詰まらないことにうじうじ悩むのは、初めてのことじゃないのよ。実はね、百年くらい前にも、あの子は同じようなことを言い出したのよ。だからね、私が直してあげたの」
くすくす。細い喉のおくから、さえずるような笑い声がこぼれる。
「ベルクーリの魂のページをめくって、そこに書いてある悩みだの苦しみだの、ぜーんぶ消してあげたのよ。あの子だけじゃないわ……初期に造られた騎士は、みんなそう。辛いことは、何もかも消してあげたわ、私の愛でね。安心して、アリスちゃん。ちょっとおいたをしたくらいで、あなたに怒ったりしないから。今、あなたにそんな悲しい顔をさせてる記憶も、ちゃんと消してあげる。何も考える必要のないお人形に、ちゃんと戻してあげるわ」
静寂のなかに、しばしアドミニストレータの含み笑いだけが揺れ続けた。
あの人は――もう人間ではないのだ。改めて襲い掛かってくる戦慄に肌を粟立てながら、ユージオは強くそう認識した。
人の記憶を覗き自在に書き換える力、そんなものが存在するなんてことを、ユージオは想像すらしたことはなかった。床に収納されたベッドの中での出来事の記憶は曖昧だが、あの重く粘ついた夢のなかで、最後にアドミニストレータに何らかの術式を唱えさせられそうになったことはかすかに憶えていた。あの短い術式を口にしていたら、いったい何が起きていたのか――想像するだけで背筋に氷のような汗が流れる。
もはや神にも等しい権限を持つ支配者を前に、その被造物である整合騎士アリスは、すぐには言葉を返そうとはしなかった。いつしか滴る涙は止まり、剣の軋みも収まっていた。アリスの背中から、ゆるりと力が抜けるのを、ユージオは不安とともに見つめた。決していまのアリスを完全に信用しているわけではないが――何せほんの数時間前に見失ったときは恐るべき強敵だったのだ――それでも、今アドミニストレータ側へ戻られたら、この戦いの帰趨は完全に決する。
アリスの金髪に彩られた頭が、ゆっくりと項垂れた。左手が持ち上がり、胸の辺りを押さえた。
「……たしかに、私は今、この胸が引き裂かれるほどの苦痛と悲しみを感じています。こうして立っていられるのが不思議なほどに」
発せられた声は、数分前とは打って変わったかすかな囁きだった。
「……でも、私はこの痛みを……初めて感じるこの気持ちを、消し去りたいとは思いません。なぜなら、この痛みこそが、私が人形の騎士ではなく、ひとりの人間であることを教えてくれるからです。いいえ、最高司祭様。私にあなたの愛は必要ない。あなたに直してもらう必要はありません」
「人形であることをやめた人形――」
アリスの訣別の言葉を聞いたアドミニストレータは、表情を変えぬまま歌うように言った。
「それを、何て呼ぶのか教えてあげる。"壊れた人形"よ、アリスちゃん。残念だけど、あなたがどう思うかなんて、どうでもいいことなの。私が再シンセサイズすれば、今のあなたの感情なんて何もかも無かったことになっちゃうんだから」
「あなたが、自分に対して行ったように――かな、クィネラさん」
これまで沈黙を守っていたキリトが、再び奇妙な名でアドミニストレータを呼んだ。それを聞くや、先刻と同じように少女の顔からわずかに笑みが薄れた。
「ねぇ坊や、昔の話はやめてって、私言わなかった?」
「そうすれば事実が消えるとでも? いくらあなたでも、過去を好き放題編集できるわけじゃない。あなたもまた人の子として生まれ育った、ただの人間であるという事実は決して上書きできない、そうだろう?」
そうか――おそらくキリトは、あの大図書室にいた不思議な子供からアドミニストレータの過去について聞いていたのだ。ユージオはそう直感し、キリトがそれを隠していたことに僅かながら傷ついたが、しかし同時にその話がキリトの出自とも密接に関連しているのだろうとも推測していた。
「人間……、ニンゲン、ね」
アドミニストレータはすぐに笑みを取り戻し、これまでとは少し趣きの異なる、どこか皮肉そうな表情でつぶやいた。
「"向こう側"からきた坊やにそう言われると、なかなかに複雑なものがあるわねぇ。つまり坊やは、自分のほうがエライと言いたいの? アンダーワールド人ごときが生意気な、って、そういうことかしら?」
再び出てきた耳慣れぬ言葉に、ユージオの混乱はいや増した。アンダー……ワールド? 神聖語であることはわかるが、意味まではとても汲み取れない。前後の流れからして、"向こう側"に対する"こちら側"を示しているのだろうか。
「いやいや、とんでもない」
ユージオの思索は、すぐさま発せられたキリトの声に遮られた。
「それどころか、多くの点でこっちの人たちのほうが向こうの人間よりも優れてると思ってるよ。でも、大本のところでは、どちらも同じ魂を持つ人間であることに違いはない。そう、それはあなたも例外じゃない。たとえ三百年の時間を生きてきたとしても、それで人間が神になれるわけじゃない」
「……だからどうだ、って言うのかしら? 同じ人間どうし、仲良くお茶でも飲もうとでも言うつもり?」
「そうするに吝かではないけどな。……でも今俺が言ってるのは、あなたも人間である以上、完璧な存在では在り得ない、ってことさ。人は過ちを犯す、宿命的にね。そしてあなたの過ちは、もう修正不可能なところまで来てしまっている。整合騎士団が半壊した以上、もし今ダークテリトリーの総侵攻が始まったら人界は滅ぶぞ。あなたがこれまで苦心して維持……あるいは停滞させてきたこの世界は、凄まじい破壊と暴力に晒される。そんなこと、無論あなただって望んじゃいないだろう」
「騎士たちを壊してまわったのは坊やなのに、随分ねぇ。ま、いいわ。それで?」
「自分だけ生き延びられれば、その後に最初からやり直せばいい……そう思ってるのかもしれないけどな」
キリトは語気を強め、右足を半歩前に動かした。
「この地に溢れた闇の民たちと生き残った人間を再び法で縛って、新しい……暗黒教会とでもいうべき支配組織を作り上げる。あなたならあながち不可能なことじゃないと思うけど、でも、残念ながらそうはならない。"向こう側"には、この世界に対して真に絶対の権限を持つ者たちがいるからだ。彼らこそこう思うだろう……今回は失敗だった、何またやりなおせばいいさ、ってな。そしてひとつボタンが押され、この世界の何もかもが消え去る。山も、川も、街や畑も……そして人間を含むあらゆる生命もまた、一瞬で消滅するんだ」* キリトの言葉はもはや、遥かユージオの理解の埒外だった。それはアリスも同様だったろう。目のふちが乾かぬ顔をわずかに振り向かせ、物問いたげに眉を顰めている。
しかし、最高司祭ただ一人だけは、謎多き剣士の言わんとすることを完璧に汲み得たらしかった。笑みが極限まで薄まり、細められた銀の瞳に凍てつくような冷たい光が一瞬過ぎった。
「……さすがに、愉快ではないわね。この世界が、誰かさんの気まぐれで生み出された小さな箱庭だ、なんてはっきり言われるのは」
なよやかな指が組み合わされた両手に、美貌の下半分が隠される。見えない唇から発せられる声は、先刻までのからかうような響きをほとんど失っている。
「でも、それなら、あなたたち……"向こう側"の人間たちはどうなのかしら? 自分たちの世界が、より上位の存在に創造されたものである可能性を常に意識し、世界がリセットされないように、上位者の気に入る方向へのみ進むよう努力しているのかしらね?」
この問いは、キリトにも予想外のものであるらしかった。すぐには答えられない反逆者を高みから睥睨しながら、アドミニストレータはゆるりと上体を起こし、両手を左右に広げた。折り畳んでいた長い両脚も、誇示するように伸ばし、組む。豊かさと清らかさが同居した輝くような裸身が――実際にほのかな燐光を放ちながら、圧倒的な神々しさを空間すべてに振り撒いた。
「そんなはずはないわよね。戯れに世界と生命を創造し、気に入らなくなれば消し去ろうなんて連中だものね。そんな世界からやってきた坊やに、私に融和と博愛なんていう実存のない代物を押し付ける権利があって? 私は御免だわ、創造神を気取る奴輩におもねって、存在し続ける許可を乞うなんて惨めな真似は! ちびっこに昔話を聞いたなら、坊やは知っているはずよ……私の存在証明は、支配の維持と強化それのみにある。その欲求のみが私を動かし、私を生かす。この足は踏みしだく為にのみあるのであって、決して膝を屈する為ではない!!」
ごう、と空気が逆巻き、銀の髪を大きく広げた。ユージオはどうしようもなく気圧され、思わず一歩右足を引いた。アドミニストレータは、アリスを奪い記憶を書き換え、また貴族たちの腐敗を放置した敵ではあるが、しかしやはり世界に唯一人の最高支配者なのだ――本来であればユージオのような無姓民は目にすることすら叶わぬ半神人なのだ、と改めて認識させられる。
そのユージオをここまで導いてきた黒髪の相棒も、同じく圧倒されたのか上体を揺らしたが、しかし下がることなく逆にぐっと一歩踏み込んだ。自分を鼓舞するように、右手の剣を一度強く床に突き立てる。
「ならば!!」
発せられた声は、背後の硝子窓を揺らすほどの大音量だった。
「ならば――あなたはこのまま人界が蹂躙されるに任せ、民なき国の支配者として虚ろなる玉座で独り滅びの時を待つつもりなのか!」
「黙れ若造!!」
その瞬間だけ、アドミニストレータの容貌から少女めいた部分が消滅し、彼女が生きた時間の悠久さが感情無き怒りとして色濃く現れた。しかしすぐにそれは薄れ、再び戯れるがごとき笑みが真珠の唇を彩った。
「……坊やが言ったことを、私が考えなかったと思われたなら心外だわ。私には考える時間はたっぷりあったのよ……時間だけは私の味方ですものね、創造者たちのではなく」
「……では、あなたにはこの終局を回避する手段があるというのか」
「手段であり、目的でもあるわね。支配こそが私の存在意義……その適用範囲に制限など無いわ」
「何……? どういう意味だ」
僅かに戸惑ったようなキリトの声に、アドミニストレータは答えなかった。代わりに一層笑みを深くし、お話はこれでおしまい、と言うように両手をぽんと打ち合わせた。
「その先は、坊やが私のお人形さんになったときに聞かせてあげるわ。勿論アリスちゃんも……亜麻色の髪の坊やもね。ひとつだけ付け足すなら……私は、このアンダーワールドを消滅させる気は勿論、ダークテリトリーによる負荷実験さえも受け入れるつもりだって無いのよ。そのための術式はもう完成してるの……喜びなさい、誰よりも最初に、あなたたちに見せてあげるから」
「……術式?」
キリトが低くかすれた声で聞き返した。
「いまさら、制限だらけのシステム・コマンドに頼るって言うのか。あなたひとりのコマンドで、闇の軍勢を全滅させられるつもりなのか。今この状況では、もう俺たち三人すら処理できないだろうに」
「あらそう?」
「そうさ。もうこうなってはあんたの負けだ。遠隔攻撃術はアリスの剣が一瞬にせよ止めるし、その隙に俺とユージオが斬り込む。接触コマンドで無力化させる気なら、さっきチュデルキンを斃した技であなたも斬る。――今さらこんなこと言いたくないけど、前衛のない術士ひとりでは複数の剣士には勝てない。それはこの世界でも絶対の原則であるはずだ」
「ひとり……ひとり、ね」
アドミニストレータはくすくすと喉の奥で笑った。
「いい線突いてるわね。そう……結局、数が問題なのよね。駒が多すぎれば制御しきれない。少なすぎれば負荷に耐えられない。整合騎士団は、そのバランスの中で増やしてきたわけだけど、もうそれじゃ足りない」
最後の忠臣を失い、残るはわが身ひとつの最高支配者は、三人の反逆の徒を前に底知れない余裕を見せながら詠うように独白した。
「でも、今必要なのは、アリスちゃんみたいなお人形ですらないのよ。何も考えずにただひたすら敵を屠るただの機械であればいい。可愛くも、綺麗でもなくていい……つまりもう、人間である必要はない」
「何……? なにを……」
問い質すキリトの声を無視し、アドミニストレータはさっと高く両手を掲げた。
「最後までお馬鹿な道化だったけど、チュデルキンも少しは役に立ったわね。まだ整理できてないこの長ったらしい術式を組む時間を作ってくれたんですから。さあ……目覚めなさい、私の忠実なる僕! 魂無き殺戮機械よ!!」
続いて銀髪の少女が高らかに歌い上げた言葉は、介入しようがないほどに短く、しかしその恐ろしさをユージオも他の二人も充分以上に理解しているあの一句だった。
「リリース・リコレクション!!」
記憶解放――。
その命を受け取ったのは、これまでユージオの視界に入り続けていながら、まったく脅威として認識できていなかった物たちだった。本来、それを握る主がなければ何の役にも立たないはずの代物。すなわち――壁に並ぶ無数の神像、それらが携える大小無数の剣。
ぎぃぃぃん、という骨を軋ませるような共鳴音を放ち、総数三十は越えるだろう剣たちが一斉に青紫に発光した。そして同時に、どういう理由なのか、天井に描かれている無数の神の線画もまた大部分が紫に輝いた。
突如、すべての剣が神像の手から外れ、唸りを上げて宙に舞い上がったので、三人は慌てて身を屈めた。空気を切り裂きながら飛翔した剣の群れは、渦を巻くように広大な部屋の中央に集まると、更に驚くべき現象を発生させた。
まず、最も巨大な両刃剣――長さ二メルはあるであろうそれが、柄を上にして静止した。即座にその両側に、小型の剣たちが籠を作るように十本以上も整列する。まるで、修剣学院の治療術の授業で教わった、人間の背骨と肋骨であるかのように。
ユージオのその連想が当を得ていた証として、骨盤があるべき場所には二本の鎌のごとく湾曲した東域刀が向き合わせに接続した。そしてその弧に柄を収めるように、大型の直剣が二本ずつ束になって繋がる。更に、その剣尖の隙間に同型の剣が一本挟まれる。
瞬く間に胴体と下半身を完成させた剣の骸骨は、次に四本ずつの束を肩部分に合致させた。脚に対して倍以上の太さがある上腕に見合うかのごとく、最大級の、ほとんど背骨と同じ刀身長がある両手剣がその先に接続する。
最後に、背骨を成している大剣の柄に、二本の短剣が交差しながら収まった。短剣の柄の端に埋め込まれた宝玉が、両の眼であるかのように、気味の悪い青白い光を明滅させた。
数秒とかからずに完成した、剣のみで構成された巨人が、がしゃりと各関節を鳴らしながら床にその足――を成している剣の切っ先を降ろすのを、ユージオは呆然と眺めた。
「……まさか……有り得ない」
半ば呻くようにそうつぶやいたのは、整合騎士アリスだった。声には出さねどユージオもまったく同感だった。
これは有り得ない術だ。
確かに、完全支配術をそのように組み記憶解放を行えば、剣に空中を飛翔させることは可能だろう。そして自在に操ることも。だが、それができるのは剣一振りのみだ。所有者が複数の剣の記憶解放を同時に行うことはできない、それはこの術式が根本的に内包する大原則だからだ。
だが、この場にいるのはアドミニストレータただ一人。最高支配者の権限は、神聖術の原則すらも超越するのか!? しかしそれが可能なら、三人の身体を遠距離から拘束する程度のことだってできるはずではないか。
つまり彼女は、なんらかの説明可能な手段で所有者と剣一対一の原則を回避しているのだ。
ユージオが、僅かな刹那で看破できたのは、残念ながらそこまでだった。説明を求めて周囲を見回すよりも速く、ぎぃぃぃっ!! という金属質の雄叫びを放って、身の丈四メルに達する剣の巨人が突進を開始した。
恐るべき速度、そして圧倒的な重量感だった。
巨人の身体は、骨に見立てた剣だけで構成された空疎なしろものだし、その上背も先に元老チュデルキンが召喚した炎の魔人には及ばない。しかし、各関節をじゃきりじゃきりと鳴らして肉薄してくる悪夢のごとき剣巨人の姿に、ユージオは腹の底まで凍りつくほどの恐怖をおぼえた。ある意味ではアドミニストレータその人をも上回る、完璧なる絶望の具象化――。
三秒と無かった猶予時間を、ユージオはただ呆然と立ち尽くすことで消費した。
キリトは半秒足らずで何かを考え決定したらしく、左斜め前方へと飛び出した。
しかし、最も素早く、しかも果敢な行動に出たのは整合騎士アリスだった。
黄金の残光を引きながら、アリスは剣巨人の前進とほとんど同時に、その真正面へと突撃したのだ。
「いやあああああ!!」
巨骸の放つ金属共鳴音すら上回る、烈破の気合。両手で握った金木犀の剣を、アリスは右肩に担ぐように大きく振りかぶった。
敵もまた、右腕を構成する鈍色の大剣を、ほとんと天井に届かんばかりに高く掲げた。
その時点で、すでにこちらも疾走を開始していたキリトは巨人の左真横に達しようとしていた。
脚の感覚すらも失い棒立ちとなっていたユージオではあるが、それでもアリスとキリトの、まるで意識そのものを交感させたかのごとき同時攻撃の意図はどうにか察することができた。
二人とも、巨人に弱点があり得るとすればそれは後ろ側、背骨をなす剣と四肢の接合部だろうと判断したのだ。前面はどこもかしこも刃だらけでとても攻撃は届かない。ゆえにアリスが囮となって敵の動きを止め、その間にキリトが急所を断つ――つまり今回も、チュデルキンの魔人を退けたときと同じ役割というわけだ。
キリトとしては内心複雑なものはあろうが、しかし事前の相談もなしにしては驚くべき意思疎通、まさに完璧な連携攻撃だ、とユージオは無意識の羨望とともに感嘆した。
そして同時に、否応無く湧き上がる卑小感もまた。
それをいや増すかのように、ソルスの光にも似た眩い軌跡を描いて、アリスの剣が疾った。巨人の右腕も、交錯軌道を取って轟然と振り下ろされた。双方が激突した瞬間、塔全体を揺るがす爆発じみた衝撃と閃光がすべてを圧した。
戦闘開始から、ここまでで三秒。
そして、戦闘と呼びうるものはこの瞬間終わった。
続いて始まったのは、一方的な惨劇だった。
アリスの金木犀の剣が――"永劫不朽"の二つ名を持つ、この世のすべての剣のなかで最も古く力ある神器のなかの神器が、巨人の右手剣に呆気なく弾き返され宙を泳ぐさまを、ユージオは愕然と見つめた。
剣に引き摺られるように、騎士の身体もわずかに浮きあがり、重心を崩した。倒れまいと懸命にもがくアリスの、がらあきの正面に――
何の躊躇も気負いもなく、巨人の左腕がほとんど無造作に、しかし煙るほどの速度で突き込まれた。
どっ。
というその音は、先の戟剣と比べればあまりにもささやかに響いた。しかし引き起こされた結果は、比べるまでもなく決定的だった。
アリスの細い背中から、凶悪なほどに鋭く分厚い剣の先端が出現し、真紅の雫を撒き散らしながら深く突き抜けた。長く美しい金髪が、血液の飛沫のあいだを縫うようにふわりと流れた。
左右に分断された黄金の胸当てが、瞬時に天命を失いながら粉々に砕けた。騎士の右手から、その命である剣が抜け落ち、床に転がった。
そして最後に、アリスの華奢な身体は、己を貫く剣に沿ってずるりと滑りながら床へと倒れ臥した。
「う……ああああ!!」
悲鳴にも似た絶叫。
迸らせたのはキリトだった。巨人の後背に回りこみ終えたところだった黒衣の剣士は、蒼白の顔に両眼をぎらりと光らせ、歯を剥き出しながら猛然と床を蹴った。
黒い凶鳥のように、三メル以上も高く飛翔したキリトは、獰猛な雄叫びを放ちながら愛剣を大上段から振り下ろした。狙ったのは巨人の中心を成す最大の剣の柄部分。
急所であろうそこを、防御するすべは巨人には無いはずだった。
しかし――。
闇に囲まれて狭窄したユージオの視界の中で、再び有り得べからざる現象が起きた。
剣巨人の上半身が、背骨を軸として、猛烈な速度で回転した。人間には不可能な動きで、完全に真後ろを向いた巨人の右の剣が、横薙ぎにキリトを襲った。
がぎぃん!!
という音は、キリトがこれも超人的な反応で、振り下ろしつつあった剣の軌道をずらし巨人の右腕を迎撃してのけた証だった。
だが、やはりそこまでだった。
一瞬前の再現として、布切れのように弾かれた剣士は、恐ろしいほどの速度で床に叩きつけられ反動で半メル近くも浮き上がった。その身体が、もう一度床に落ちることはなかった。
巨人の左脚を成す片刃の大段平が、何の予備動作もなしに轟と跳ね上がり、キリトの身体を捕らえた。どかぁっ!! という鈍い衝撃音とともに、剣士の身体はふたたび、しかし今度は水平に吹き飛ばされ、十メル以上の距離を瞬時に飛翔して硝子壁に激突した。ばしゃっとそら恐ろしいほどの量の血液を、放射状に硝子面に広げてから、そこに太く赤い筋を引きながらキリトの身体はゆっくりと床に滑り落ちた。
うつ伏せに倒れた相棒の下から、尚もじわりと血溜まりが広がっていく様を、ユージオは棒立ちになったままただ凝視した。
脚も、腕も、感覚は無かった。ただひたすら冷たく、そして己の肉体ではないように細かく震えるだけだった。
唯一そこだけはどうにか動かせる眼球を、ユージオは苦労しながら巡らせて、離れた場所に屹立する剣巨人を見上げた。
巨人もまた、まっすぐにユージオを見下ろしていた。その顔部分を構成する二本の短剣の、柄に嵌められた宝石が、ひたすら無感情にちかちかと明滅する。
うそだ。
こんなのは嘘だ。
ユージオは、頭のなかで何度もそれだけを繰り返した。
アリスとキリト、いまや間違いなくこの人界で最強と言えるはずの二人の剣士が、こうも容易く斃されていいはずがなかった。いや、それ以前に――キリトは確かに言っていたではないか。この剣巨人を生み出した術者、最高司祭アドミニストレータは、人を殺すことはできないと。
あの残忍なチュデルキンも、戦闘に際してユージオらを殺すとは言わなかった。天命を削り、無力化し、拘束すると言っただけだった。それがアドミニストレータの命令だったからだ。
だが――この剣巨人の攻撃に、手加減などというものは皆無だ。あの傷と出血を見れば、キリトとアリスの天命が今まさに尽きようとしているのは明らかだ。いったいなぜ――どうして。
くすくす。くすくすくす。
巨人が放つ共鳴音のかげに、かすかに揺れるさざなみめいた音が、アドミニストレータの含み笑いであることにユージオは気づいた。
視線を動かすと、最高司祭を名乗る銀髪の少女は、その双眸にただ興味と満足の色だけを浮かべて、血塗られた惨劇の場をはるか高みから見守っていた。その唇を彩る魔性の微笑みのどこにも、ユージオの疑問を解消しうる答えは見出せなかった。
ただひとつ明らかなのは、アドミニストレータにはもはやユージオを手駒として懐柔しようなどというつもりは無いのだということだけだ。少女の美貌に浮かぶのは、己が組み上げた術式とその恐るべき威力への喜悦それのみだった。
主の意を受けた剣の巨人は、それを最後まで忠実に実行すべく、青白く明滅する眼でまっすぐにユージオを凝視した。
右足が持ち上がり、長大な歩幅でがしゃんと床を突く。
左足がぎらりと輝きながらそれに続く。
己の死が、最後の数メルをゆっくりと接近してくるのを、ユージオは灼き切れかけた感情とともに見つめた。
巨人の左腕と左脚は、ともに細く滴る赤い雫に彩られている。どうせなら、そのどちらかに斬られて終わりたいと、理由もなくユージオは考えた。もはや恐慌すらも消えうせ、世界はあまりにも静かだったので――。
不意に、左脇で泡のように弾けたかすかな囁き声が、現実のものだとはすぐには気付けなかった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
かなり年上と思われる、艶っぽい女性の声だった。やれやれ、今わの際の幻聴を聞くにしてももう少し節操というものがあってもいいだろう、などと思いつつ再び左を向いたユージオの目に飛び込んできたのは、それこそ幻としか思えない、あまりにも意外すぎる光景だった。
うつ伏せに倒れ、動かないキリトの身体。
その背中の襟の折り返しから、ちょろりと姿を現し、ユージオに右手――あるいは右足の一本をまっすぐ突きつける、小さな漆黒の蜘蛛。
すでに限界まで負荷のかかったユージオの思考には、もう驚く力すら残されていないようだった。痺れた意識のなかで、ユージオは自分の口が、幼子のように言い分けをするのを聞いた。
「だ……だめなんだ。あの短剣は、アドミニストレータには効かないんだ」
「違うわよ! ドアよ!! ドアに刺しなさい!!」
「え……」
ユージオは唖然と目を見開いた。黒い蜘蛛は、紅玉のように煌く八つの眼でしかとユージオを見据えながら、今度は左の後ろ足でびしっと部屋の隅――キリトとアリスが乗り込んできた、円筒形の通路を指した。
「時間はあたしが稼ぐから! 急いで!!」
口のあたりから覗く可愛らしい牙を動かしながら蜘蛛はそう叫ぶと、右手を降ろした。そしてその先で、目を瞑り血の気を失ったキリトの頬を、まるで名残を惜しむかのように一瞬、そっと撫でた。
次の瞬間、指の先に載るほどの極小の黒蜘蛛は――
間近に迫りつつある剣の巨人、掛け値なく己の数千倍の質量があろうというその相手に向かって、果敢な突進を開始した。
肉体的苦痛はある程度克服したつもりだった。
二年以上も昔、この世界に放り出されてすぐの頃、ゴブリンと呼ばれるダークテリトリーの住人との戦闘において俺は肩に受傷し、それが決して致命的なものではなかったにもかかわらず苦痛のあまり――正しくは苦痛が誘起した恐怖によって竦みあがり、動けなくなってしまった。
あの経験は、アンダーワールドにおける俺の最大の弱点を如実に浮かび上がらせた。ナーヴギアおよびアミュスフィアが備えるペイン・アブソーバによって執拗なまでに保護された環境で長い時間を過ごしてしまったため、痛みへの耐性が極限まで低下していたのだ。
以来俺は、主にユージオとの手合わせで積極的に木剣を身に受けることで痛みに慣れるよう努めた。その経験が奏功したのか、この塔に突入してからの実戦の連続で手酷い傷をどれほど負おうと、精神的に硬直してしまうことだけはなかった。アンダーワールドでの負傷は、たとえ四肢や臓器を損失するほどの重傷であっても天命がゼロにならない限り完全治癒が可能だし、となれば克服しなければならないのは恐怖それのみであるからだ。
だが――。
この局面に突入して、俺はいまさらのように自分の精神力を過信していたことを思い知らされた。
アドミニストレータが造り上げた剣の巨大人形、ソードゴーレムとでも言うべき怪物のパワーとスピードは桁外れだった。この世界の根幹的なバランスを逸脱した超絶的な性能だ。一撃目を防御できたのがすでに万にひとつの僥倖であり、下方から跳ね上がってきた二撃目は、眼で捉えることすらできなかった。
ゴーレムの足を構成する剣は、どうやら俺の右下腹部から入り、内臓と脊柱を分断して左脇に抜けたようだ。あの一瞬、ひやりと氷のような感触がその軌道を撫でたのは意識できたが、吹き飛ばされ、窓にぶつかり、床に転がった今ではもう胴体を包む灼熱のごとき激痛が存在するだけだ。首も両手も動かせず、下半身に至っては感覚すら消えうせている。ことによると身体が真っ二つになっていてもおかしくない。
意識と思考力を保ち得ているのがいっそ不思議だった。
あるいはそれは、苦痛や恐怖といった感覚よりも、絶望のほうが遥かに大きいせいかもしれなかった。
恐らく今、俺の天命はかつてない速度で減少しているだろう。ゼロになるまでの時間は一分と残されているまい。
そしてその猶予は、整合騎士アリスのほうが恐らく少ない。離れた床に倒れ臥す黄金の剣士は、出血こそ俺より少ないが、ソードゴーレムの腕に心臓を直撃されている。たとえ今すぐ最上級の治癒術を施しても間に合わない可能性が高い。アンダーワールド三百年の歴史の果てについに出現した、法への盲従性を超越した奇跡の人工フラクトライトが、まさに今むなしく消滅しようとしている。
視界には捉えられないが、左方向に居るはずのもうひとつの奇跡にして掛け替えの無い親友ユージオの命運も、もはや風前の灯だ。
ゴーレムが足を上げ、ずしりと前進するのが霞んだ眼にうつる。
逃げてくれユージオ、そう念じるが口も舌もぴくりとも動かせない。
いや――たとえ叫べたとしても、ユージオは逃げるまい。青薔薇の剣を構え、俺とアリスを救うために、巨大すぎる敵に立ち向かうだろう。
この状況を招いたのはすべて俺の誤り――"アドミニストレータに人は殺せない"はずだ、という読み違いのせいであるのに。図書室のカーディナルは、俺にわざわざティーカップとスープカップの実演を見せてくれた。それは即ち、殺人禁止の法ですら長い時間のなかでは変質し得る、ということの喩えに他ならなかったのに。
灼熱の激痛は、いつしか凍えるような虚無感へと摩り替わろうとしている。
もうすぐ、俺に設定された天命という名のステータス値がゼロになる。その瞬間俺はこの世界から弾き出され、STLの中で意識を取り戻し、そして知るだろう。現在のアンダーワールドが――アリスやユージオを含む全てのフラクトライト達が、悲嘆と絶望の果てに完全リセットされたのを。
ああ――いっそ、俺の天命も、ユージオたちのそれとまったく同じ意味を持っていれば! それ以外に、俺はどうやって彼らに詫びることができるというのか――。
徐々に暗くなる視界には、重々しく前進を続けるソードゴーレム、その後方で愉悦の色を浮かべるアドミニストレータ、そして斃れたアリスの金髪の輝きが収められている。
数秒先の新たな惨劇を見るに偲びず、俺は、そこだけが動くまぶたをそっと閉じた。
耳元で、小さく、しかし確かな声がはじけたのはその時だった。
「バカね! 短剣を使うのよ!!」
初めて聞く、どこか徒っぽさのある女性の声だ。俺は何も考えられず、目を閉じたままその声と、ユージオの戸惑い声のやりとりと聞き続けた。
声の主は、手短にいくつかの指示を放ったあと、時間を稼ぐ、と宣言して俺の首筋から移動した。一瞬、頬に何か、小さくあたたかいものの感触が横切った。
その温度がわずかな力を取り戻させたのか、俺のまぶたが殆ど自動的に持ち上がった。
視界の中央に、俺の頬からすとんと降り立ったのは――全身が艶々とした漆黒にきらめく、ごくごく小さな一匹の蜘蛛だった。
声は記憶にないが、しかしこの姿は覚えている。
シャーロットだ。カーディナルが長い間俺にくっつけていた情報収集端末。
しかし何故。この小蜘蛛は、図書館で端末としての命令を解除され、本棚の隙間に消えていったではないか。それに――人の言葉をしゃべるとは、一体。
瞬間、痛みと恐怖を忘れた俺の目の前で、あまりにも小さなその蜘蛛は、接近しつつある巨大なゴーレムに向かって、一直線に突進を開始した。
八本の細い脚が、優雅ですらある滑らかな動きで目まぐるしく絨毯を蹴る。しかし、その一歩が刻む距離は、ソードゴーレムのそれとは比較にならない。ユージオに向かって大股に接近していくゴーレムに対して、一体どのような手段で時間を稼ぐつもりなのか見当もつかないが、到底間に合いそうにない――。
と思考したその瞬間、再び俺に激痛を忘れさせる驚異が出現した。
ぐっ、と、黒蜘蛛の体躯が一回り大きくなったのだ。
尖った脚が床を突くたびに、まるで何らかのエネルギーが注入されでもしたかのように、ぐい、ぐいと蜘蛛はその体積を増していく。現象は留まるところを知らず、わずか数秒で猫から犬のサイズを越え、なおも巨大化を続ける。いつしか俺は、床に接した頬でシャーロットの脚が生み出す重い震動を感じていた。
ぎっ。
という金属質の軋み声を上げて、ソードゴーレムがシャーロットを見下ろした。青白い二眼が、新たな敵を評価するように激しく明滅する。
しゃあああっ!!
と、こちらは剃刀を革で研ぐような咆哮を放ち、ついに全長二メートルほどにまで達した黒蜘蛛は、真紅の複眼を強烈に発光させた。
上背はゴーレムの半分にも及ばないが、向こうが細長い骨だけで構成されているのに対して、巨大シャーロットの姿は禍々しいほどに逞しく、それでいてとてつもなく優美だった。全身を覆う漆黒の繊毛は光を受けると金色に輝き、八肢の先端の鉤爪は黒水晶のように冷たく透き通っている。
両腕と言うべき最前の二脚はひときわ大きく、爪もまるで剣かと思うほどに長く鋭い。その右脚を高く掲げると、シャーロットは躊躇い無くゴーレムの左脚に叩き付けた。
大剣同士を打ち合わせたとしか思えない、重々しい金属の衝突音が部屋中に響いた。発生したオレンジ色の火花が、薄暗い室内を瞬間眩く照らした。
それが合図であったかのように、これまで硬直していたユージオが、ついに走り出す気配を俺は感じた。
ゴーレムに向かってではない。俺やアリスを目指したのでもない。
シャーロットの不思議な指示――"短剣をドアに刺せ"というその言葉を実行するべく、部屋の左隅にある円筒形の階段目掛けて駆け出したのだ。倒れた俺の視界を、ユージオの革ブーツが瞬時に通過する。
その向こうでは、シャーロットの一撃によって僅かに体勢を崩したソードゴーレムが、しかし難なく踏みとどまり逆襲の右腕剣を高く掲げたところだった。
質量では己と拮抗するかもしれない巨大蜘蛛を、ゴーレムはもう完全に敵と認識したらしく、青白い両眼をびかぁーっと光らせて超重超速の斬撃を撃ち放った。
対してシャーロットは、左腕の鉤爪を下から鋭く振り上げた。
空中で衝突したふたつの刃は、再び大音響で床を震わせた。俺とアリスを紙人形のように吹っ飛ばしたゴーレムの一撃を、漆黒の蜘蛛は七本の脚をふかく沈めながらも正面から受け切った。
両者はそのまま、交錯した腕と脚で、互いを押し切るべくぎりぎりとせめぎ合いを続けた。超重量を支えるシャーロットの脚がその甲殻を軋ませ、ゴーレムの右腕を構成する複数の剣が、その接合部を赤熱させる。
力の拮抗は――わずか一秒ほどで決着した。
びぎっ、という鈍い音とともにへし折れ宙を舞ったのは、シャーロットの左前脚だった。断面から白い体液がほとばしり、黒の繊毛を染めた。
しかし蜘蛛は退かず、声ひとつ漏らさず、残る右脚を再び繰り出した。狙ったのはソードゴーレムの背骨だった。槍のごとく閃いた鋭い爪が、ゴーレムの体幹を成す巨大剣の腹に食い込む――と見えたその瞬間、背骨の脇に並んでいたあばら骨がいっせいに動いた。
じゃきぃぃん!! とある種の裁断装置めいた金属音を放って、左右七本ずつの曲刀があぎとのごとく交差したのだ。そこに銜え込まれる形となったシャーロットの右前脚は、ひとたまりもなく中ほどから切断され、再び大量の白色血が噴き出した。
ゆるりとゴーレムの肋骨剣が開き、その檻の内側から千切れた脚がぼとりと落下した。勝利を確信したのか、ゴーレムの両眼がまるであざ笑うかのように薄く瞬いた。
直接攻撃手段を失ったシャーロットだが、しかしその果敢さは消えなかった。
もういちど鋭い叫びを放ち、口に生えた太く短い牙で噛み付くべく跳びかかる。
しかし、攻撃は届かなかった。蹴り上げられたゴーレムの右脚剣が、シャーロットの左側の脚をさらに二本斬り飛ばし、八肢を半減させられた蜘蛛はバランスを崩してどうっと床に落下した。
もういい――逃げろ。
俺はそう叫ぼうとした。
あのシャーロットという名の黒蜘蛛と、直接会話を交わしたことはない。彼女は二年のあいだ一度も俺に気取られることなく、カーディナルに与えられた任務を果たし続けたのだ。
その任務とはすなわち、俺とユージオの映像を主に送ることだ。それだけのはずだ。決してこのような絶望的な戦いを挑み、捨石となって死ぬことではない。
しかし、俺の喉から声は出なかった。
右の脚だけでよろよろと身体を起こしたシャーロットが、再び跳躍しようと姿勢をたわめた。
一瞬早く、真上から降ってきたゴーレムの左腕剣が、優美な曲線を描く黒蜘蛛の胴を深く刺し貫いた。
ぞっとするほど大量の血が、剣の周囲から高く迸り――。
同時に、何もかもを塗りつぶすがごとき、紫色の強烈な光が部屋の左側から炸裂した。
見覚えのある閃光だった。ただの照明ではない。光の筋ひとつひとつが、微細なプログラムで編まれたリボンとなっている。五十階での戦闘で俺が倒した副騎士長ファナティオに、カーディナルが呉れた短剣を使用したときに見た輝き。
俺からは見えないが、ユージオがドアまで辿り着き、彼の短剣をそこに突き刺したに違いない。それで一体どのような結果が導かれるのか定かでないが、シャーロットが文字通り懸命の挺身で稼いだ時間を、ユージオは無駄にしなかったのだ。
その漆黒の蜘蛛は、身体の中央を完全に貫かれてなお、立ち上がろうと弱々しく残った脚で床を掻いていた。しかし、ずるっと湿った音を立ててゴーレムの腕が引き抜かれると、白い血溜まりにその巨体を力なく沈ませた。
一本の脚が、震えながら伸ばされ、突っ張るように身体の向きを変えた。
八つの複眼は、ルビーのようだった鮮やかな緋色を、ほとんど失いかけていた。その眼でドアの方角を確かめたシャーロットは、牙の間からも血を零しながら、あの年上の女性を思わせる声でかすかに囁いた。