「よかった……間に合った」

頭部の向きが僅かに動き、左の眼がまっすぐに俺を見た。

「最後に……役に……立てて……うれ、し……」

言葉は、宙に溶けるように薄れ、途切れた。艶やかな丸い眼に、紅い光がちかちかと瞬き、そして消えた。

 視界がゆらりとぼやけ、俺は瀕死のこの状況でもなお溢れる涙があったことを知った。歪んだ光景のなかで、黒い蜘蛛の巨体が、音もなく縮んでいくのが見えた。白い血溜まりもみるみるうちに蒸発し――一秒後、そこに残されたのは、仰向けになり肢を縮めた指先ほどの大きさのなきがらだけだった。

ゴーレムは、己が断った命への関心を瞬時に失ったかのように、ぐるんと頭をもたげると光る両眼でユージオを追った。

巨体が九十度向きを変え、踏み出された足の先端がずしりと床を突く。その目指す先では、乱舞する紫の光の帯がますますその輝きを強めている。

俺は、残された全精神力を振り絞って、感覚のない首を数センチ動かし視界に光の源を収めた。

円形の部屋の北側、ガラス窓から三メートルほど離れた位置に突出した円筒形の出入り口が見えた。ほんの数十分前、俺とアリスが巨大な恐怖と、同量の自負心を抱えて潜り抜けたセントラル・カセドラル最後のドアだ。あの先は狭い螺旋階段になっており、今は亡き元老チュデルキンの悪趣味な私室へと続いている。

艶やかな大理石の扉、その湾曲した表面に、ごく小さな針のようなものが刺さっているのに俺は気付いた。十字架の長辺を尖らせたようなそれは勿論、カーディナルが俺とユージオにひとつずつ託したブロンズの短剣だ。かの、もう一人の最高司祭が百年間伸ばし続けた髪をリソースとしており、彼女と短剣を刺されたものとの間に空間を超越した術式のチャンネルを開くことができる。

対アドミニストレータ用の最終兵器であったそれを、恐らくユージオはこの部屋で行使しようとして果たせなかったのだろう。代わりに、不思議な蜘蛛シャーロットの指示によってドアに刺したのだ。

短剣を突きたてられたドアは、いまや全体が紫色に光り輝き、その周囲を同色の半透明のリボンが無数に乱舞している。光は際限なくその勢いを増し、部屋中をラベンダーの色に覆い包んでいく。ひぃぃぃん、という大量の音叉が共鳴するような甲高い唸りが光と同期して高まるなか、ついに短剣そのものがばらりと解け、渦巻く細長い文字列となって宙を踊った。

ドアの傍らに立ち尽くしたユージオが、眩さに耐えかねたか左腕で顔を覆った。彼に向かって着実な前進を続けていたソードゴーレムも、理解不可能な現象に戸惑うように、がしゃりと関節を鳴らして停まった。

ドアの手前で螺旋をつくっていた紫の文字列が、その先頭から音も無く大理石の表面に吸い込まれた。と見えたその瞬間、艶やかな白いマーブル模様が、水面のようにゆらりと揺れ波紋を広げた。中央に、インクを垂らしたように濃い漆黒が生まれ、それは瞬時にドア全体に広がった。

バシィッ!! という、高圧電流が弾けるような大音響が部屋を揺るがした。同時に、空間を乱舞していた紫の光たちが放射状に広がり、薄れて消えた。

つい一瞬前まで、硬そうな白大理石であったドアが、今はつや消しの黒檀の扉へと変わっていた。どこかで見た色艶と装飾のある、重厚な扉だ。いつしか光も音も消え去り、部屋に静寂が戻った。

現象が終息したことで、コマンドが再入力されたかのように、ソードゴーレムがずしりと右脚を一歩踏み出した。

戸惑いと決意を半分ずつ顔に浮かべたユージオがさっと振り向き、至近に迫りつつある巨大な敵を睨んだ。右腕が閃き、青薔薇の剣の柄をがしっと握った。

 その瞬間――。

カチリ、という硬く小さな音が、ささやかに、しかし確かに空気を揺らした。

黒檀のドアの左脇に据えられた、艶のある青銅のドアノブ。それがゆっくりと回っている。

半回転したところでもう一度硬い音が響き、そして、内側からドアがそっと押された。

きいい、という古めかしい軋みとともに、戸口の細い隙間が徐々に大きくなっていく。その向こうにあるはずの、螺旋階段のオレンジ色の灯りが見えない。内部は完全な暗闇だ。

 ゆるゆるとドアは開いていき、九十度角をすこし越えたところでギッと鳴って停まった。いまだその向こうに誰がいるのかは目視できない。ゴーレムは、もうそんな現象にかかずらうつもりはないらしく、前進を停めることはない。その巨大な剣の間合いにユージオを捉えるまであと三歩――二歩――。

突然、ドアの内側の闇が、純白の閃光に満たされた。

そこにシルエットとなって浮かぶ小さな人影を認識できたかできぬ内に、恐ろしく巨大な稲妻が開口部から水平に迸り、ゴーレムの腹を打った。

ガガァァァン!! と、およそこれまで見聞きしたあらゆる術式のうちでも最大の衝撃音が俺の耳を痛打した。ゴーレムの全身が黒く染まるほどの閃光が、まるで純白の竜であるかのようにうねり、空中に無数の細枝を広げて放散・消滅した。

これまで完全無敵ぶりを嫌と言うほど見せ付けてきたソードゴーレムが、その巨体をぐらりと揺らし、前進を停めた。各所の剣骨から薄く白煙を上げ、薄青い両眼を不規則に点滅させている。

がしゃがしゃ、と両脚を鳴らして踏みとどまった巨人を、再び極太の雷光が打ち据えた。あの超優先度にして何と言う連射速度だろうか。驚愕する俺の視線の先で、ゴーレムがぎぃぃっと怒り、あるいは恐怖の唸りを放って一歩後退した。そのわずか半秒後。

ガガァッ!! と神撃のごとき咆哮を伴い、三発目の雷閃がドアの内側から迸った。先の二発よりさらに巨大なその光に打たれ、ついに身長四メートルの巨大ゴーレムが、突風に撫でられた紙人形のように空中を吹き飛んだ。ぐるぐると回転しながら二十メートル近くも舞った巨体が、凄まじい衝撃音を放って部屋の反対側の壁際に墜落し、動きを止めた。それでもなお天命は尽きないようで、両手の剣をぎしぎしと動かし、眼を高速で明滅させているが、すぐには立ち上がれまい。

俺は視線を戻し、ドアの向こうの闇を再度見やった。

そこから現れるべき人物の名を、俺はもう強く確信していた。この世界で、あれほどの超絶的神聖術を連発できるのは、最高司祭アドミニストレータのほかには一人しか存在しないからだ。

蝋燭と星明りの織り成す仄白さのなかに、まず見て取れたのはシンプルな黒い杖と、それを握る小さな手だった。華奢な手首を包む、ゆったりとした漆黒の袖。幾重にもドレープを作った学者のようなローブ。大きく角ばった帽子もまた学究の徒を思わせる簡素なものだ。長いローブの裾からちらりと覗く平底の靴は、床から二十センチばかり浮き上がっている。この世界には存在しないはずの、空中飛翔術。

最後に、やわらかそうな茶色の巻き毛と、銀縁の小さな眼鏡が光のもとに現れた。幼さと無限の叡智を同居させた大きな瞳が、青い夜灯りを受けてきらりと輝いた。

 永劫にも等しい年月を隔絶した空間で過ごしてきた幼な子――アドミニストレータの分身にして対等の権限を持つ最高術者カーディナルは、俺の記憶にあるとおりの教師のような厳しい表情で、ゆっくりと広大な寝室を見回した。

まず、すぐ隣に立つユージオを見やり、小さく頷く。ついで離れた場所に倒れたままの整合騎士アリスを見つめ、最後に同じく床に臥す俺に視線を向けると、その小さな唇にごくごくかすかに苦笑の色をほのめかせ、もう一度頷いた。

最後に、くるりと首を巡らせ、遠く部屋の北端に浮遊したまま動作も声も発しない最高司祭アドミニストレータをちらりと見やった。二百年ぶりに相対する究極の敵の姿に、その胸中にいかなる感慨を抱いたのか、表情からは察することができなかった。

状況を確認し終えたカーディナルは、すっと右手の杖を掲げた。とたん、その小さな身体が音も無く宙を滑り、俺とアリスの中間地点へと移動していく。

俺の前を通過するとき、カーディナルはふいっと無造作に杖を振った。するとその先端から、暖かな白い光の粒がきらきらと宙を流れ、俺の傷ついた肉体を包んだ。

途端、腹から胸にかけてわだかまっていた冷たい虚無感が消滅し、灼熱の激痛が戻り、悲鳴を上げそうになったもののその熱はみるみる間に暖かく溶けて薄れた。突然、抜けたコードが挿し直されたかのように身体感覚も復活し、俺は慌てて右手を動かすと、腹の傷を探った。いまだにヒリっとくる盛り上がりは残っているが、ほとんど体を分断しかけたあの傷が、溶接したかのように瞬時に融け塞がっているのには驚愕するしかない。俺かユージオが同じ結果を導こうと思ったら、日光降り注ぐ森のなかで丸々三日はコマンドを唱えねばなるまい。

 有り難い、などという言葉ではとても足りない奇跡の癒しだが、しかし無論相応の巨大な代償はあるはずだ。なぜなら、恐らく、最高司祭アドミニストレータはこの状況をこそ――。

俺の戦慄に満ちた想像などまるで意に介せぬように、カーディナルはふわりと眼前を通過すると、今度はアリスに向かって杖を振った。もう一度、ダイヤモンドの粒のような癒しの光が降り注ぎ、黄金の騎士の胸を染める真紅へと溶けていく。

カーディナルは尚も動きを止めず、更に数メートル前進してから、すとんと靴を着地させた。

幼き賢者が降り立ったのは、絨毯の上に小さく横たわるささやかな骸の前だった。

とっ、と軽い音とともに黒い杖が床に突き立てられた。主の手が離れても、その杖は微動だにせず直立を続けた。

カーディナルはそっと腰をかがめ、両手で床からシャーロットの遺骸を優しく救い上げた。掌に包み込んだ黒蜘蛛を胸に当て、うつむいた少女は、聞き取れぬほどの小さな声で囁いた。

「この……馬鹿者。任を解き労をねぎらい、お前の好きな本棚の片隅で望むように生きよと言うたじゃろうに」

丸眼鏡の奥で、長いまつげが一度しばたかれた。

俺は傍らに転がっていた剣を杖代わりによろよろと立ち上がり、まだ力の入らない両脚でどうにか二、三歩カーディナルに近づくと、色々と言うべきことを棚上げにしてまず尋ねた。

「カーディナル……その蜘蛛、いや彼女は、いったい……?」

巻き毛を揺らして顔を上げた賢者は、薄く濡れた瞳を俺に向けぬまま、懐かしくすらある口調で答えた。

「お主の知ってのとおり、この世界はもともとファンタジーゲーム・パッケージを基盤にしておるでな。古の時代には、多くの不思議や奇跡が森や野を棲家としていたのじゃ。そう言えばわかるじゃろう?」

「つまり……ネームド・モンスター? でも……シャーロットは言葉をしゃべったぞ。本物の感情だってあった……フラクトライトを持っていたんじゃないのか……?」

「いや……お主にも馴染みのある、いわゆるNPCと一緒じゃよ。ライトキューブではなく、メインフレームの片隅にささやかな擬似思考エンジンを与えられた、何の変哲もないトップダウン型AIじゃ。はるか昔には、そのような人語の受け答えを可能とする獣やモンスター、草木や岩が世界にあまねく、数多く配置されておった。しかし、皆消えてしもうた。半数は整合騎士に退治され、半数はアドミニストレータめにオブジェクト・リソースとして利用され、な」

「そうか……ベルクーリのお伽噺に出てきた、果ての山脈の守護竜たちと同じように、か」

「然り。わしはそれを不憫に思い、新たに生成されるその種のAIたちを保護でき得るかぎり保護してきたのじゃ。わしが使役した感覚共有端末はその殆どが思考エンジンを持たぬただの小型動的ユニットじゃが、中にはこのように保護したAIに苦労してもらうこともあった。何せこやつらは高プライオリティゆえにちょっとやそっとのことでは傷もつかんからな。お主の服に忍んだまま、お主がどれほど暴れようとも無事だったのはそのおかげじゃ」

「で、でも……でもさ」

俺は視線をじっと、カーディナルの掌中に横たわるシャーロットの骸に据え、胸の痛みに耐えながらさらに尋ねた。

「シャーロットの言葉……行動は、擬似AIなんてものじゃなかったぞ。彼女は……俺を救ってくれた。俺のために自分を犠牲にしたんだ。なぜ……なんで、そんなことが……」

「以前言ったと思うが、この子はもう五十年も生きておった。その間わしを始め多くの人間たちと交わり、自らを高めてきたのじゃ。お主に張付いてからですら早二年……。それほどの時を共に過ごせば、たとえフラクトライトが無くとも――」

不意にカーディナルは声を強め、その先をきっぱりと言い切った。

「たとえその本質が入力と出力の蓄積に過ぎなくとも、そこに真実の心が宿ることだってあるのじゃ。そう、時として愛すらも。――貴様には永遠に理解できぬことであろうがな、アドミニストレータ、虚ろなる者よ!!」

苛烈な叫びとともに、幽り世の賢者は、ついに二百年来の仇敵をその双瞳でまっすぐに見据えた。

遠く離れた位置に高く浮遊し、状況を睥睨していた総天の支配者は、すぐには言葉を返さなかった。

指を絡み合わせた両手に顔の大部分を隠し、ただ鏡の双眸に謎めいた光だけを浮かべている。

かつてカーディナルに聞いた話では、アドミニストレータは世界調整プログラムと融合したときに己の内部に埋め込まれた自己訂正サブプロセス(つまり現在のカーディナルの基となった人格)の反乱を防ぐため、フラクトライトを操作しほぼすべての感情を捨てたのだという。

物理的に肉体が分かたれてからは、分裂人格に乗っ取られる危惧はなくなったはずだが、だからといって感情などという彼女にとっては無駄なものをわざわざ復活させる必要もあるまい。ゆえに、俺がアドミニストレータという存在に抱いていたイメージは、ただ機械のようにタスクを処理していく、それこそプログラムのような人間というものだったのが、しかしこのカセドラル最上階で実際にまみえた彼女の姿には少なからぬギャップがあった。チュデルキンを嘲り、アリスを弄ぶその微笑みは、確かにほんものの感情に彩られているような気がしたのだ。

そして今も、最高司祭アドミニストレータは、隠された唇のおくから珠を転がすような笑い声を漏らし、両の眼をすうっと細めた。

くすり。くすくす。

自分に向けられたカーディナルの舌鋒など、そよ風ほどにも感じておらぬふうに、細い肩を揺らして笑い続ける。

 やがて、その合い間に、短い一言が――先刻の俺の畏れを現実のものとする台詞が軽やかに発せられた。

「来ると思ったわ」

くす、くすくすくす。

「その坊やたちを苛めてれば、いつかは黴臭い穴倉から出てくると思った。それがお前の限界ね、おちびさん。私に対抗するために手駒を仕立てておきながら、それを駒として使い捨てることもできないなんて、まったく度し難いわね、人間というものは」

やはり。

 危惧したとおり、アドミニストレータの真意は、俺たちを死の際まで追い詰めることによって不可侵の壁に守られた大図書室からカーディナルを誘き出すことにあったのだ。つまり彼女には、この状況で絶対確実に勝利できる奥の手がまだ存在するということだ。しかし――最終兵器であったはずのソードゴーレムはすでに動作不能、対してユージオは無傷だし俺もどうにか戦えそうだ。見れば、アリスも意識を取り戻したのか、片手をつき上体を起こそうとしている。

カーディナルとアドミニストレータは、一対一で戦えばほぼ相打ちになるはずの同等の術者なので、この状況はもうこちらの圧倒的有利と判断して差し支えあるまい。つまりアドミニストレータは、少なくともカーディナルが出現したその瞬間に、傍観を解き全力攻撃を開始して然るべきだった。なのに一体何故、ゴーレムが破壊され、俺とアリスが回復されるのを許したのか。

カーディナルも当然、俺と同じ疑問を感じていると思われた。しかしその表情には、さすがにもう一人の最高司祭と言うべきか、小揺るぎもしない厳しさのみがあった。

「ふん。暫く見ぬまに、貴様こそずいぶんと人間の真似が上手くなったものじゃな。二百年のあいだずっと、鏡を見て笑う練習でもしておったのか」

痛烈な言葉を、アドミニストレータはまたしても微笑で受け流した。

「あらぁ、そういうおちびさんこそ、その変な喋り方はなんのつもりなのかしら。二百年前、私の前に連れてこられたときは、心細そうに震えてたのに。ねぇ、リセリスちゃん」

「わしをその名で呼ぶな、クィネラよ! わしの名はカーディナル、貴様を消し去るためにのみ存在するプログラムじゃ」

「うふふ、そうだったわね。そして私はアドミニストレータ、あらゆるプログラムを管理する者。挨拶が遅くなって御免なさいね、おちびさん。歓迎用の術式を用意するのにちょっと手間取ったものですから」

高らかにそう云い終えたアドミニストレータは、ゆるりと右手を掲げた。

大きく広げられたしなやかな五指が、まるで見えない何かを握りつぶそうとするかのようにぐぐっと撓む。これまで一度たりとも顔色の変わることのなかった陶磁器のような頬にわずかな赤みが射し、銀の瞳に凄絶な光が宿る。あの最高司祭が、ついに本気の精神集中を行っていることを察して、俺の背中に無数の氷針にも似た戦慄が疾る。

いかなる対応を考える余裕もないわずかな刹那ののち、アドミニストレータの細い右手が、ぐっ、と強く握り締められた。

 同時に――。

がっしゃぁぁぁん!! という、十重二十重の硬質な破砕音が、周囲の全方向から猛々しく響き渡った。

両耳がきんと痺れるほどの、圧倒的な音量だった。俺は、部屋の全周を取り囲む硝子壁がすべて粉砕されたのだと直感した。

だが、そうではなかった。

 砕けたのは、窓のむこう――うねる黒い雲海と、その上に瞬く星ぼし、そして冴えざえと輝く青白い月、それら夜空のすべてだった。

 世界が、無数の平らな破片となって舞い散り、互いに衝突してさらに砕けながら落下していくのを、俺はただ呆然と見つめた。きらきらと輝く断片たちの向こうに存在するのは、"非存在"とでも言うよりない光景だった。

光も奥行きも無い真黒の闇に、マーブル模様のような濃い紫色が融け、ゆるゆるとうねっている。長時間見ていたらこちらの精神までも虚ろに吸い取られてしまいそうな、まったき虚無の世界。

色合いも美しさもまるで違うが、しかしそれでも、あのとき見たものに似ていると俺は瞬間、連想した。かつて浮遊城アインクラッドが崩壊するときに見た、夕焼け空を覆い包み消し去っていく白い光のベールたち。

まさか、このアンダーワールドも同じように、すべてが崩壊・消滅したのか!?

強い恐慌に陥りそうになった俺を引き戻したのは、驚きはあるがしかし尚も確固としたカーディナルの言葉だった。

「貴様……アドレスを切り離したな」

 何だ――どういう意味だ?

戸惑う俺の視線の先で、すっと右手を降ろしたアドミニストレータは、わずかに解れた前髪を整えながら寒々しい笑みを浮かべた。

「……二百年前、あと一息で殺せるところだったあなたを取り逃がしたのはたしかに私の失点だったわ、おちびさん。あの黴臭い穴倉を、非連続アドレスに置いたのは私自身だものね? だからね、私はその失敗から学ぶことにしたの。いつかお前を誘い出せたら、今度はこっち側に閉じ込めてあげよう、って。鼠を狩る猫のいる檻に、ね」

言い終えた最高司祭は、仕上げとばかりに右手を横に伸ばし、指先をぱちんと鳴らした。

 途端に、先刻のものに比べれば随分とささやかな破壊音とともに、円筒形の出入り口がドアごと砕け散った。"黒檀の板"や"大理石"といったオブジェクトとして破壊されたのではない証に、それらはまるで一枚の鏡に映し出された平面図であったかのように薄っぺらい破片となって降り積もるそばから跡形もなく溶けて消えた。残ったのは、ふかふかの絨毯に描かれた円模様だけで、そのどこにも継ぎ目や織りの乱れすら見当たらなかった。出入り口のすぐそばに立っていたユージオは、目を丸くして上体を仰け反らせていたが、やがて恐る恐るつま先で一瞬前まで穴が開いていたはずの床を探ると、ちらりと俺を見て小さく首を振った。

 ――つまり、こういうことだ。

アドミニストレータが破壊したのは窓の外の世界ではなく、世界とこの部屋との接続そのものなのだ。

 仮に、どうにかしてこの部屋の窓なり天井なりを破壊しても、その先には絶対に進入できまい。移動するための空間が存在しないのだから。仮想空間に於いて誰かを閉じ込めるための手段としては完璧すぎるほどに完璧――まさしく、管理者権限を持つ者だけに許された禁じ手だ。カーディナルが出現してからの数秒間を、アドミニストレータは無為に浪費したのではなく、この大掛かりなコマンドを準備していたという訳だ。

しかし。

 空間の連続性を完全切断したということは、すなわち――。

「その喩えは正確さに欠けるのではないかな」

俺と同じ疑問にいち早く気付いたらしいカーディナルが、低い声を投げ返した。

「切断するのは数分でも、繋ぎなおすのは容易ではないぞ。つまり、貴様自身もこの場所に完全に囚われたということじゃ。そしてこの状況では、どちらの陣営が猫でどちらが鼠なのかは確定しておらぬと思うが? 何せ我々は四人、そして貴様は一人。この若者たちを侮っておるのなら、それは大いなる誤りじゃぞ、アドミニストレータよ」

 そう、そういうことだ。かくなった以上、アドミニストレータ本人もこの部屋からはもう容易くは抜け出せないはずなのだ。そして彼女とカーディナルはまったく対等の術者である。俺たちとしては、カーディナルに敵の神聖術を相殺してもらっているあいだに斬り込むだけで勝敗を決定できる――ということになる。

しかし、カーディナルの指摘を突きつけられてもなお、最高司祭の薄ら寒い微笑は消えない。

くすくす、という細波のような喉声に乗せられて届いた言葉は、すぐには理解できない内容だった。

「四対一? ……いいえ、その計算はちょっとだけ間違ってるわね。正しくは……四対、百五十一なのよ」

無垢な響きの声がそう言い切ると同時に、遥か高い天井に描かれている無数の神々が、強烈な紫の輝きを放った。

そしてその現象と同期するように、半壊したはずのソードゴーレムが、全身から凄まじい金属音を高らかに共鳴させた。

「なにっ……」

口走ったのはカーディナルだった。最高位の術式を三連撃で叩き込んで、完全に無力化したと判断したのだろう。俺だってそう思っていた。

しかし、ついさっきまでは確かに消える寸前だったゴーレムの両眼の光が、今は二つの恒星のように青白く燃え上がっている。二条の眼光でまっすぐに俺たちを射抜きながら、巨人はダメージがすべて消え去ったかのように両手両脚の剣で軽がると胴体を持ち上げると、ぐるんと股関節を回転させて直立した。

よくよく見れば、カーディナルの稲妻に撃たれ、各所で焼け焦げて白煙を上げていたはずの剣骨も、いつのまにか新品同様の輝きを取り戻している。たしかに、この世界の高プライオリティの武器は天命の自己回復力を備えているが、それはきちんと手入れをして鞘に収めた上でのことだ。と言うよりも、対となる鞘に、空間リソースを吸収し剣に還元させる術式が仕込まれているのだ。そのうえ半減した数値を最大に戻すには、少なくとも丸一日はかかる。

つまり、あのゴーレムを回復させようと思ったら、いちど完全支配を解いて分離させ、剣をすべてそれぞれの鞘に戻さねばならないということになる。

 だが、小揺るぎもせずに直立し、四メートルの高みから俺たちを見下ろす巨人の姿には、そのような理屈を超越した圧倒的な存在感があった。もしかしたら――このゴーレムが量産できるなら、ほんとうにアドミニストレータは独力でダークテリトリーの侵略を撥ね退けて見せるのではないか、と思わせるほどの。

そして何より恐ろしいのは、もしそれが可能なら、俺たちの今までの戦いはその意味をほとんど失ってしまうという、事実。

同じことを、カーディナルなら一瞬で考えたはずだった。しかし小賢者はあくまでたじろぐことなく、ゴーレムに向けて右手の杖を鋭く掲げると、俺たちにさっと左手を振った。

「キリト、アリス、ユージオ、下がれ! わしの前に出るでないぞ!」

そう言われても、見た目十歳の子供の背中に隠れるのは大いに躊躇われる。しかし同時に、俺たちはつい数分前あのゴーレムに挑みまさに瞬殺の憂き目にあったので、指示に逆らって突撃することもできない。

やむなく俺は、剣を構えながらも数歩下がった。左にユージオ、右にアリスが、それぞれ素早く駆け戻ってくる。

ゴーレムの剣に心臓を直撃されたアリスは、肉体的には治癒されたとは言え感覚的ダメージが幻痛となって残っているはずで、俺はちらりと表情を確かめた。さすがに顔色は青白く、胸当てを失い深く穴のあいた装束も痛々しかったが、しかし騎士は気丈に背筋を伸ばし、俺に低く囁きかけてきた。

「キリト……あの子供はいったい誰なのです!?」

「……名前はカーディナル。二百年前にアドミニストレータに追放された、もう一人の最高司祭」

 そして――管理者(アドミニストレータ)に対する、初期化者(フォーマッタ)。世界を慈悲深き空白に還す者。

しかしもちろん、今はそこまでは言えない。俺の答えに怪訝そうな顔をするアリスに、更に説明を重ねる。

「大丈夫、味方だよ。俺とユージオを助け、ここまで導いてくれた人だ。この世界のことを心から愛し、憂いている」

少なくともこれは確かな真実だ。アリスはまだ戸惑いから抜けきれないようだったが、それでも、左手でそっと胸の傷痕を覆いながらうなずいた。

「……分かりました。高位の神聖術は使用者の心を映す鏡でもある……私の致命傷を癒した彼女の術の温かさを信じます」

 まったくその通りだ、と、俺も深く同感しながら頷きかえす。たとえ定型コマンドを用いた初歩の治癒術でも、それを他人に用いるとき術者がなおざりに使うか真剣な祈りを込めるかで相手が受ける感覚は大いに異なる。カーディナルの治癒術には、あらゆる痛みを柔らかく包み溶かす真の慈愛が満ちていた。だからこそ俺は、彼女の、世界すべてを無に還すという覚悟は決して本意ではあるまいと期待し信じてもいるのだが――しかしそれはすべて、この戦いに勝ち得てのちの話だ。

完全に力を失っていたはずのソードゴーレムを一瞬で全回復させた仕掛けは何なのか、どうすれば対抗できるのか、それが看破できなければ残念ながらこちらの敗北はほぼ決定的と言っていい。

全身を黒ずんだ鋼色に煌かせながら、ゴーレムはじり、じりと接近を続ける。対峙するカーディナルは油断なく杖を構えているが、今度は先ほどのように大掛かりな術を叩き込んでとりあえず黙らせる、というわけにはいかない。その瞬間、ゴーレムの後ろからアドミニストレータの攻撃術が降り注ぎ、分身たる両者の力の均衡を崩してしまうだろう。

考えろ。今、俺にできるのはそれだけなのだから。

記憶解放状態で自己治癒するからには、ゴーレムの体を構成する剣たちの基となったオブジェクトにも同じ属性があったはずだ。天命の自然回復と聞いて真っ先に思い出すのは、俺の剣の前身である巨樹ギガスシダーだが、しかしあの超回復力は森の中でふんだんに供給される空間リソースあってこそのことだ。この部屋のリソースは、先のチュデルキンとの戦闘でほとんど使い尽くされており、とてもあれほどの瞬時回復を賄えたとは思えない。つまりゴーレムの基材は自然物オブジェクトではない。

 となれば、残る可能性は、空間リソースに依存しない回復力を与えられた動的オブジェクト、つまり生物ユニットだ。だが、カーディナルは、かつてこの世界に存在していた巨大ネームドモンスターはすべて絶滅したと確かに言った。そして現在フィールドにスパウンする動物ユニットには、とてもあれほどの威力・重量を実現できるほどの高プライオリティはない。たとえ一万匹まとめて変換したところで、整合騎士の持つ神器一本ほどの威力もあるまい。獣の天命はそれほど少なく、寿命は短いのだ。優先度(プライオリティ)と耐久度(デュラビリティ)は比例するので、あれほどの武器群を作ろうと思えば、最低でも千、二千の天命と、五十年以上の寿命をもつ動物ユニットが百体は必要――

待て。

さっき、アドミニストレータが妙なことを言わなかったか?

 "四対、百五十一"。* 四人対、百五十一――人。

動物ではないのだ。

あのソードゴーレムを造るのに使われたリソースは、この世界に暮らす人間たちなのだ。それも百五十人。ちょっとした村がまるまるひとつ廃墟になってしまう。

脳が焼け焦げるほどの思考のすえに辿り着いた真実だが、しかし爽快感などまるでなかった。代わりに俺を襲ったのは、圧倒的な恐怖だった。つま先から背筋を経てうなじまでの肌が限界まで粒立つ。

 アンダーワールド人は、ただの動的オブジェクトではない。ライトキューブに保存された魂、フラクトライトを持っているのだ。そして、そのかりそめの器たる肉体がたとえ剣に変質させられようと、それが存在し続ける限りフラクトライトの活動も終わらない。つまり、あのゴーレムの部品に変えられた人々は、いまだ意識を保っているということになる。動けず、喋れず、見るべき眼も、聴くべき耳も持たずに。おおよそ考えうるかぎり最悪の牢獄――いっそ、なぜ魂が崩壊、消滅しないのかが不思議なほどの。

前後して同じ結論に達したらしいカーディナルが、やはり全身をびくりと強張らせた。杖を掲げる小さな手が、真っ白になるほどにきつく握り締められた。

「……貴様」

発せられたその言葉は、あどけない声音に似つかわしくない怒りで嗄れていた。

「貴様。なんという……なんという非道な真似を! 貴様は統治者じゃろうが!! その剣人形に変えた民は、本来貴様が護るべき者たちではないのか!!」

えっ、という鋭い声が、俺の左右で同時に響いた。

「民……? 民って、人……間?」

ユージオが、よろりと一歩後退しながら呟いた。

「人……だと言うのですか、あの怪物が……?」

アリスが、先刻貫かれた胸に左手をあてながら呻いた。

そして、やや間をあけてアドミニストレータが、俺たち四人の驚愕を楽しむかのようにゆっくりと答えた。

「ご・名・答。やぁーっと気付いてくれたのねえ。このままじゃ種明かしをする前に全員死んじゃうかもって心配しちゃったわぁ」

本心から嬉しそうに、ひとしきり無邪気な笑い声を上げると、絶対統治者はぱたんと一度両手を合わせ、でもねぇ、と続けた。

「おちびさんにはちょっとガッカリだわね。二百年もこそこそ穴倉から覗き見してたくせに、まだ私のこと分かってくれてないのね。ある意味ではあなたのママなのになぁ」

「……たわ言を! 貴様の腐りきった性根なぞ底の底まで見通しておるわ!」

「ならどうして下らないこと言うのかしら? 護るべき民、とか何とか。私がそんな詰まらないことするわけないじゃない。護るだの、統治するだの」

にこやかな表情は一切変わらないのに、しかしアドミニストレータを包む空気の温度が急激に低下したように俺には思えた。絶対零度の微笑を浮かべる唇から、するりと続く言葉が紡がれた。

「私は支配者よ。私の意志のままに支配されるべきものが下界に存在しさえすればそれでいいの。たとえその形が人だろうと剣だろうと、それは大した問題じゃないわ」

「貴……様……」

カーディナルの声が掠れ、途切れた。

俺も、発するべき言葉を見つけられなかった。

 アドミニストレータと名乗るかの女性――いや存在の、精神の在り様はもう俺の理解を遥か絶している。彼女はその名のとおりシステム管理者であり、書き換え可能なデータファイルとして国民たちを保存しているに過ぎない。言わば、現実世界におけるネット中毒者(アディクト)が、ただ収集・整理することだけを目的に膨大なファイルをダウンし続けるようなものだ。ファイルに何が含まれているのかなど、ほとんど気にも留めずに。

 カーディナルは大図書室での会話において、アドミニストレータの魂に焼きこまれた行動原則を"世界の維持"だと語った。それは正しいのだろうが、しかし真実のすべてを捉えてはいなかった。

 旧SAO世界において、魂なき管理プログラムであった初代カーディナルは、果たして俺たちプレイヤーを人間、つまり意思ある生命だと認識していただろうか?

答えは否だ。俺たちは、管理、選別、そして削除されるべきデータファイルに過ぎなかった。

遠い昔に存在した少女クィネラは、たしかに人を殺せなかったのかもしれない。

しかし今のアドミニストレータにとって、人間はもはや人ではない。

彼女が維持せんとする世界に、人の営みは必要ない。


「あら、揃って黙り込んじゃって、どうしたの?」

遥か高みから俺たちを見下ろし、管理者は首をかしげながら微笑んだ。

「まさか、たかだかユニット百五十個ていどを変換したくらいで驚いてるわけじゃないわよねえ?」

「たかが……じゃと」

ほとんど音にならない声で咎めたカーディナルに、その仇敵はとても嬉しそうにうなずいた。

「たかが、ほんの、それっぽっち……よ、おちびさん。その人形が完成するまでに、一体いくつのフラクトライトが崩壊したと思って? だいたい、それはあくまでプロトタイプなのよね。厭ったらしい負荷実験に対抗するための量産型には、ま、半分くらいは必要かなって感じだわ」

「半分……とは……」

「半分ははんぶんよ。四万ユニット。それだけあれば充分だわ……ダークテリトリーの侵攻を退けて、向こう側に攻め込むのに、ね」

あまりにも恐ろしいことをさらりと口にし、アドミニストレータは銀の瞳を俺の右隣に立つ騎士へと向けた。

「どう、これで満足かしら、アリスちゃん? あなたの大事な人界とやらはちゃんと守られるわよ?」

からかうようなくすくす笑いを、アリスはしばらくただ黙って聴いていた。金木犀の剣の柄を握る手が細かく震えているのに俺は気付いたが、そうさせているのが恐怖なのか、あるいは怒りなのかは、すぐには察せられなかった。

やがて発せられたのは、ぎりぎりまで抑制された、ひとつの問いだった。

「……最高司祭様。もはやあなたに人の言葉は届かない。ゆえに、同じ神聖術者として尋ねます。その人形を作っている剣――所有者はいったいどこに居るのです」

一瞬、俺は戸惑った。数十本の剣の記憶解放を行い、ゴーレムへと組み上げたのは間違いなくアドミニストレータ自身だ。ゆえに、原則からは外れるが、所有者は最高司祭なのだろうと俺は考えていたのだが。

しかし、アリスは続く言葉で、俺の推測を打ち消した。

「司祭様が所有者ということは有り得ない。たとえ、完全支配できる剣は一本のみという原則を破れたとしても、この場合だけは有り得ないのです。なぜなら――記憶解放を行うには、剣とその主のあいだには強固な絆が必要だからです。私とこの金木犀の剣、そして他の騎士たちとその神器、あるいはキリト、ユージオと彼らの剣のように。主は剣を愛し、また愛されなくてはならない……武装完全支配術とは、剣と主が互いに完全なる結合を成すという意味なのですから! 司祭様、その人形の剣の基となったのが罪なき民たちだというのなら、あなたが剣に愛されるはずがない!!」

りぃん、と涼やかな残響を引きながら、アリスが言い切った。

しばしの静寂を破ったのは、どこまでも謎めいたアドミニストレータの含み笑いだった。

「うふふ……どうしてこうも瑞々しいのかしらね、幼い魂というものは。黄金の林檎のように甘酸っぱいセンチメンタリズム……今すぐに握りつぶし、最後のひとしずくまで絞り尽くしてしまいたいくらいよ」

銀鏡の瞳が、胸中の昂ぶりを映してか虹色にぐるぐると輝く。

「でも、まだダメダメ。まだその時じゃないわ……――アリスちゃん、あなたの言いたいことはつまり、私ではこの剣たちの実存を上書きできるほどのイマジネーション強度は発揮できないだろう、ってことよね。その指摘は正しいわ。私の記憶野にはもう、こんなにたくさんの剣を高精細に記録するほどの余裕はないものね」

最高司祭が優雅に指差す先では、数十本の剣で構成されたゴーレムがじり、じりと前進を続けている。

 俺の理解しているところでは、武装完全支配術というのはつまり、所有者がそのフラクトライト中に武器の外見、質感、重さ等あらゆる情報を覚え込み、その上でコマンドの助けを借りて武器そのものを想像の力によって変化させるという技だ。術を発動させるためには、所有者はその剣の全情報を己の記憶のなかに完璧以上に保存しているのが必須条件となる。俺の黒い剣を例に言い換えると、まずライトキューブ・クラスターの中央にあるはずのメイン・ビジュアル・タンクとでも言うべき共有記憶倉庫中の剣の情報Aと、そして俺のフラクトライト中にある剣の情報Bが、ほぼ無限小の誤差で一致していなくてはならない。そうであってはじめて、俺は情報Bを想像力で変化させることによって情報Aをも上書きする、イコール他の人間やオブジェクトにもその変化の影響を与えることができるというわけだ。このロジックは、先ほど俺の体に起きた"変身"と共通するものでもあろう。

 さて、ひるがえってアドミニストレータはと言えば、彼女のライトキューブ容量はもう三百年の人生の記憶で限界まで圧迫されているはずなのだ。とても三十本もの"剣を愛し愛される"、つまり完全な記憶を保持することが可能とは思えない。アリスの指摘はあくまでリリシズムから出たものだろうが、しかし同時にシステム的な正鵠を射てもいたわけだ。

 となれば――やはりあのゴーレムの剣たちには、それぞれ対応する所有者がいるはずなのだ。そのライトキューブ中に剣の情報を持ち、そしてあれほどまでの破壊の意思を秘めた魂たちが。

 しかし何処に!? いまやこの空間は、外界とはあらゆる意味で隔離されている。つまり所有者たちもまたここに居なくては理屈が通らない。しかし、今この場所に存在するのは――

「答えは坊やたちの眼の前にあるのよ」

不意に、アドミニストレータがまっすぐ俺を見てそう言った。

続いて、その視線が左に振られ、

「ユージオちゃんにはもう分かってるはずよ」

 何――!?

俺は息を詰め、隣のユージオを見やった。

亜麻色の髪の相棒は、血の気を失った顔で身じろぎもせずに最高司祭を凝視していた。奇妙なほどに表情のないそのブラウンの瞳が、細かく震えるように動き、すっとはるか高い天井に向けられた。

俺も釣られて上を見た。円形の天井には、無数の神々の細密画が描かれ、それらのほぼすべてが紫色に発光している。

俺はいままで、その光を単なる装飾的照明だと思っていた。だってあれはただの絵ではないか。オブジェクトですらないものに、一体なんの秘密があるというのだ。戸惑いながら視線を戻し、もう一度ユージオを見る。

相棒は、いまだ愕然とした顔つきのまま、ぎこちなく左手を動かしズボンのポケットを上から押さえた。唇が二度、三度と震えてから、からからに掠れた声が絞り出された。

「そうか……そうだったのか」

「ユージオ……何か気付いたのか!?」

俺の問いかけに、ユージオはゆっくりとこちらを見ると、深い恐怖を湛えた顔で呟いた。

「キリト……あの天井の絵……。あれは、ただの絵じゃないんだ。あれは全部、整合騎士たちから奪われた記憶の欠片なんだ!」

「な……」

絶句した俺に続いて、カーディナルとアリスがそれぞれ、「何じゃと!?」「何ですって!?」と異口同音に叫んだ。

 整合騎士の記憶の欠片――それはつまり、"シンセサイズの秘儀"によって騎士となる以前の人間たちから抜きだされた、最も重要な記憶情報のことだ。その記憶とはすべからく、もっとも愛しい人間の思い出であると考えて間違いない。エルドリエにとっては母、デュソルバートにとっては妻。

 だが、それらはあくまで、フラクトライト中の記憶書庫の断片であるはずだ。それを完全な魂と同一視することはできない――。

いや、待て。なにかが俺の思考をちくちくと刺激している。

あの細密画がすべて騎士の記憶ピースということなら、その中には奪われたアリスの記憶も含まれているはずだ。

そしてここはセントラル・カセドラル最上階。

 そうだ――二年半前、ルーリッド北の洞窟でゴブリン先遣隊と戦闘になりユージオが深手を負って、その傷を治療しているときに俺は確かに奇妙な声を聴いたのだ。カセドラル最上階で俺とユージオを待っている、という不思議な少女の声――そして同時に感じた大いなる癒しの力。

あの声の主が、この部屋に封じられたアリスの記憶なのだとしたら? それはつまり、騎士から奪われた記憶ピースそれ自体も独自の思考力を持っているということにならないか?

 いや、しかしあらゆる神聖術には対象接触の原則があるのだ。このセントラル・カセドラルから、遥か地の果てのルーリッドまで、声や治癒力を届けるなどということはアドミニストレータその人にも出来まい。そんな奇跡が可能になるのは、唯一、武装完全支配術と同じロジックが働いた場合だけで……となると、アリスの記憶ピース中に保持された思い出というのは、つまり――つまり……。

高速回転する俺の思考を遮ったのは、烈火のごときカーディナルの叫びだった。

「そうか……そういうことか! おのれクィネラ……貴様は、貴様はどこまで人の心を弄ぶつもりなのじゃ!!」

はっ、と眼を見開いた俺の視線の先で、銀髪の現人神は悠然と微笑んだ。

「あら、さすが……と言ってあげるべきかしらね、おちびさん? 案外早く気付いたみたいね、偽善的な博愛主義者にしては。じゃあ、改めて聞かせてくれるかしら、あなたの解答を?」

「フラクトライトの共通パターン。そういうことじゃろう!」

カーディナルは、右手の黒いステッキをびしりと上空のアドミニストレータに突きつけた。

「シンセサイズの秘儀で抜き取った記憶ピースを、別のライトキューブに改めてロードした思考原体に挿入すればそれを擬似的な人間ユニットとして扱うことは可能じゃ。しかしその知性はきわめて限定され……ほとんど本能的衝動しか持たぬ存在となるじゃろうから、とても武装完全支配などという高度なコマンドを使役させることは出来ぬ。じゃが……その制限にも抜け道はある。それはつまり、挿入した記憶ピースと、それに与えられる武器の構成情報が限りなく共通するパターンを持っている場合じゃ! 具体的には……整合騎士たちから奪った記憶に刻まれた"愛しき人"、及びその親族をリソースとして剣を作った……そういうことじゃな、アドミニストレータよ!!」

混乱とその収束に続いて、俺を襲ったのは、只でさえ凍るような背筋を更に痺れさせる凄まじい恐怖と嫌悪だった。

 剣の所有者が、整合騎士たちから抜き盗られた"愛する人"に関する記憶ピースであり――そして剣は、その愛する人の身体を素材として造られたもの。

 これなら確かに、理論上は、記憶解放現象を起こすことは可能かもしれない。情報Aと情報Bが、ともに同一の存在に由来しているのだから。記憶ピースを基に作られた擬似フラクトライトが、リンクされた剣に対して何かを強く想えば、それが実現することはあり得る。

 問題は、その"何か"とは何なのか、ということだ。記憶の欠片たちは一体いかなる衝動に従って、あのような凶悪なゴーレムを造り動かしているのか?

「欲望よ」

まるで俺の疑問を見透かしたかのように、アドミニストレータがするりと言葉を放った。

「触りたい。抱きしめたい。支配したい。そういう醜い欲が、この剣人形を動かしているの」

ふふ。うふふ。銀瞳を細め、少女はひそやかに嗤う。

「騎士たちの記憶フラグメントから合成した擬似人格たちが望むのはただ一つ――記憶の中にいる誰かを自分のものにしたい、ってことよ。彼らはいま、すぐそばにその誰かがいることを感じているわ。でも触れない。ひとつになれない。狂おしいほどの飢えと渇きのなかで、見えるのは自分の邪魔をする敵の姿だけ。この敵を斬り殺せば、欲しい誰かが自分のものになる。どう? 素敵な仕組みでしょう? ほんとに素晴らしいわ……欲望の力というものは!」

アドミニストレータの高らかな吟声を背景に、接近しつつあるソードゴーレムの両眼が激しく明滅した。

 その無骨な全身から放たれる金属質の共鳴音――それが、俺には悲哀と絶望の叫びのように聞こえた。

あの巨人は、殺戮を求める合成兵などではなかったのだ。唯ひとり憶えている誰かにもう一度会いたいという気持ちが寄り集まり、造り出した哀れな迷い子なのだ。

 アドミニストレータは、ゴーレムを動かす原動力を欲望と表現した。しかしそれは――

「違う!!」

俺の思考と同期するようにそう叫んだのは、カーディナルだった。

「誰かにもう一度会いたい、手で触れたい、その感情を欲望などという言葉で穢すな! それは――それは、純粋なる愛じゃ!! 人間の持つ最大の力にして最後の奇跡……決して貴様のような者が弄んでよいものではない!!」

「同じことよ、愚かなおちびさん」

アドミニストレータは喜悦に唇を歪め、両の掌をソードゴーレムに向けて差し伸べた。

「愛は支配、愛は欲望!! その実体は、フラクトライトから出力される単なる量子信号にすぎない!! 私はただ、最大級の強度を持つその信号を効率よく利用してみせただけよ……お前が用いた手段より、もっとずっとスマートにね!!」

銀瞳で俺たち三人をさっと撫で、支配者は勝利を確信した音声をさらに高らかに謳い上げた。

「お前に出来たのはせいぜい、子供を二、三人篭絡する程度のことに過ぎない! でも私は違うわ……その人形には、記憶フラグメントも含めれば百八十人以上の欲望のエネルギーが満ちみちている!! そして何より重要なのは、その事実を知ったいま、もうお前には人形を破壊することは出来ないということよ! なぜなら、ある意味では、人形の剣たちはいまだに生きた人間共なのだから!!」

しん、とした静寂の中を、アドミニストレータの声の余韻だけが長く尾を引き、消えた。

ソードゴーレムに向けて掲げられていたカーディナルのステッキが、ゆるゆると頭を垂れていくのを、俺は愕然としながら見つめた。

続けて流れたカーディナルの言葉は、奇妙なほどに穏やかだった。

「ああ……そうじゃな。わしに人は殺せぬ。その制約だけは絶対に破れぬ。人ならぬ身の貴様だけを殺すために、二百年のときを費やして術を練り上げてきたが……どうやら無駄だったようじゃ」

くく。くくくく。

アドミニストレータの唇が限界まで吊り上がり、哄笑を堪えるような喉声が絹のように宙を滑った。

「なんという暗愚……なんという滑稽……」

くっくっくっく。

「お前ももう、知っているはずなのに。この世界の真実の姿を。そこに存在する命なるものが、単なる量子データの集合にすぎぬことを。それでもなおそのデータを人と認識し、殺人禁止の制約に縛られるとは……愚かさも極まれりだわね……」

「いいや、人だとも、アドミニストレータよ」

カーディナルは、どこか温かですらある声で、おそらくは微笑みながら、そう反駁した。

「彼らには、我々が失った真の感情がある。笑い、喜び、愛する心がある。人が人たるために、それ以外の何が必要であろうか。魂の容れ物がライトキューブだろうと生体脳だろうと、それは本質的な問題ではない。わしはそう信じる。ゆえに――誇りとともに受け入れよう、敗北を」

ぽつり、と発せられた最後の一言が、俺の胸の中央を深く抉った。だが、真に激痛をもたらしたのは、それに続く言葉だった。

「じゃが、一つ条件がある。わしの命は呉れてやる……その代わりに、この若者たちは逃がしてやってくれ」

「……!!」

俺は息を飲み、一歩踏み出そうとした。しかしカーディナルの小さな背中から強烈な無言の意思が放射され、俺の動きを押し留めた。

アドミニストレータは、獲物を爪にかけた猫のように瞳を細め、ゆるりと小首をかしげた。

「あら……この状況でいまさらそんな条件を呑んで、私にどんなメリットがあるのかしら?」

「さっき言うたじゃろう、術を練り上げてきたと。あえて戦闘を望むなら、その哀れな人形の動きを封じながらでも、貴様の天命の半分くらいは削ってみせるぞ。それほどの負荷をかければ、貴様の心もとない記憶容量限界が更に危うくなるのではないか?」

「ん、んー……」

あくまで微笑みを消さぬまま、アドミニストレータは右手の人差し指を頬に当て、考える素振りを見せた。

「別に、結果のわかってる戦闘ごときで私のフラクトライトが脅かされるなんてことは無いけど、でもま、面倒ではあるわね。その"逃がす"っていうのは、この閉鎖空間から下界のどっかに飛ばしてやれば条件を満たすのよね? 今後永遠に手を出すな、なんてことなら拒否するわよ」

「いや、一度退避させるだけでよい。彼らなら、きっと……」

カーディナルはその先を口にしなかった。代わりに一瞬うしろを振り向き、あまりにも優しい瞳で俺を見た。

冗談じゃない、そう叫びたかった。俺のかりそめの命と、カーディナルの本物の命が等価であるはずがない。いっそ今すぐアドミニストレータに斬りかかり、カーディナルが脱出するための時間を稼ぐべきかと俺は真剣に考えた。

しかし、それはできない。一か八かの博打に、ユージオとアリスの命まで賭けることになってしまうからだ。

右手はいますぐ抜剣しろと柄を痛いほどに握り締め、右脚は動くなと床を穿つほどに踏みしめる。そんな焼け付くような鬩ぎ合いを続ける俺の耳に、アドミニストレータの声がするりと届いた。

「ま、いいわ」

にっこりと無垢な微笑を浮かべ、美貌の少女は瞬きをしながらうなずいた。

「私も、面白いことを後に取っておけるし、ね? じゃあ、神に誓いましょう。おちびさんを殺したあと、後ろの三人は無傷で逃がして……」

「いや、神ではなく、貴様が唯一絶対の価値を置くもの……自らのフラクトライトに誓え」

びしりと遮るカーディナルの声に、アドミニストレータは微笑にほのかな苦笑を混ぜ、もういちど首肯した。

「はいはい、それでは私のフラクトライトと、そこを流れる光量子に誓うわ。この誓約だけは私も破れない……今のところ、ね」

「よかろう」

 こくりと頭を動かしたカーディナルは、ふわりと振り向き、今度は時間をかけてユージオとアリス、そして俺を見つめた。幼い顔にはあくまで穏やかな微笑みが、そしてブラウンの瞳には慈愛の光だけが満ちみちていて――俺は、胸中に溢れる巨大すぎる感情が液体となって視界をぼやけさせるのを止めることができなかった。

カーディナルの唇が動き、音にならない声で、すまぬな、と囁いた。

彼方でアドミニストレータも、こちらは高く澄んだ声で、さようならおちびさん、と告げた。

その右手が振られると、部屋の中央に達しつつあったソードゴーレムの動きがぴたりと止まった。手はそのまま高くかかげられ、掌が何かを握るような動作をとると、まるで空間からにじみ出るようにきらきらと光の粒が舞い踊り、細長いものの形を取った。

 それは、一本の銀色の細剣だった。針のような刀身も、流麗な形の鍔も柄も、すべてが完璧な鏡の色だ。触れただけで折れそうな華奢な姿だが、しかしその秘める圧倒的なプライオリティは遠目に見ただけでも明らかだった。間違いなく、カーディナルの黒いステッキと対になるアドミニストレータ本人の神器――彼女の術式を支える最強のリソース源だ。

銀のレイピアが、しゃりん、と鳴りながらまっすぐにカーディナルを指した。

アドミニストレータの瞳が、恍惚とした歓喜の虹を渦巻かせた。

直後、極細の剣尖から、空間すべてを白く染める極大の稲妻が迸り、カーディナルの小さな身体を貫いた。

ハレーションを起こした世界のなかで、華奢なシルエットが弾けるように二度、三度と仰け反った。

巨大すぎる電撃のエネルギーが、空気をも焦がしながら拡散消滅し、俺は灼かれた眼を懸命に見開いてカーディナルの姿を追った。

幼き大賢者は、まだ倒れていなかった。長いステッキに体重の大半を預けながらも、両の足でしっかりと床を踏みしめ、その顔はまっすぐに己の究極の敵へと向けられていた。

しかし、ダメージの痕跡は痛々しいほどに明らかだった。漆黒の帽子やローブはそこかしこが焼き切れて煙を上げ、艶やかだった茶色い巻き毛までも一部が黒く炭化している。

声も出せずに立ち尽くす俺のほんの五メートル先で、ゆっくりとカーディナルの左手が持ち上げられ、焦げた髪を無造作に払い落とした。嗄れてはいるが、しっかりした声が宙に流れた。

「ふ……ん、こんなもの……か、貴様の術は。これでは、何……度撃とうが……」

ガガァァァン!!

という大音響が再び世界を揺るがした。

アドミニストレータのレイピアから、先刻をわずかに上回る規模の雷撃が放たれ、カーディナルの身体を容赦なく打ち据えた。

四角い帽子が吹き飛び、無数の灰となって消滅した。細い体が痛々しく突っ張り、ぐらりと揺れて、横倒しになる寸前でがくりと片膝を床に突いた。

「……もちろん、手加減はしているわよ、おちびさん」

溢れんばかりの狂喜を無理やり押さえつけるかのようなアドミニストレータのひそやかな声が、焦げ臭い空気を揺らした。

「一瞬で片付けちゃったら詰まらないものね? 何といっても私は、二百年もこの瞬間を待ったんだもの……ね!!」

ガガッ!!

三度の雷閃。

それは鞭のように弧を描いて上空からカーディナルを直撃し、その身体を凄まじい勢いで床に叩き付けた。高くバウンドした小さな姿が、かすかな音を立ててもう一度墜落し、力なく横臥した。

黒いローブももう大半が炭となって消え、内側の白いブラウスと黒のキュロットも無残な焦げ痕に覆われている。染み一つない雪のようだった腕の肌もまた、蛇のような火傷に巻かれ惨い有様だ。

その腕が震えながら伸ばされ、床に爪を立てるようにして身体を少しばかり持ち上げようとした。

死力を振り絞ったその動作を嘲うかのように、新たな稲妻が横薙ぎに襲い掛かった。幼い姿はひとたまりも無く吹き飛び、床の上を数メートルも転がった。

「ふ……うふふ。ふふふふ」

彼方の高みで、アドミニストレータが我慢できぬというように笑いを漏らした。

「ふふ、あはっ。あははは」

もう白目も虹彩も定かでない銀の眼が、凶悪なまでにまばゆいプリズムの輝きを強く迸らせた。

「あははは! はははははは!!」

 高笑いとともにまっすぐ掲げられた鏡の細剣の切っ先から――。

ガガァッ!!

ドカァァァッ!!

 ガガガァァァ――――ッ!!

と、立て続けに雷撃が発射され、もう動かないカーディナルを立て続けに突き刺した。そのたびに小さな身体は鞠のように跳ね、服も、肌も、その存在のすべてを焼き焦がされていった。

「ははははは!! あははははははは!!!」

悪魔の喜悦に身を捩り、銀髪を振り乱して哄笑するアドミニストレータの声は、もう俺の耳にほとんど届かなかった。

両眼からとめどなく液体が溢れ出し、視界をおぼろに歪ませるのは、決して際限ない雷閃の白光に網膜を痛めたからではない。

心中に吹き荒れる大渦は、灼熱と極寒を等しく混淆し、いっそ存在しないと思えるほどに激烈なものだった。カーディナルの命が今まさに失われつつあることへの焦燥、無慈悲な処刑を愉しむアドミニストレータへの怒り、しかし何より大きいのは、自分の無力さへの言いようのない感情だった。

 ここに及んでもなお、俺は動けず、剣を抜くこともできなかった。たとえ結果が最悪な――カーディナルの遺志をも無駄にするものとなろうとも、俺は剣を抜き、己に可能な最大の攻撃をソードゴーレムと、その彼方のアドミニストレータへと撃ち込むべきだと、そうせねばならないと判っていてもなお動けなかった。

情けないことに、その理由すら俺には理解できているのだった。

 元老チュデルキンを、通常では有り得ない超長距離の"ヴォーパル・ストライク"で斬ってのけたのが俺のイマジネーションの力なら、今俺を木偶のように縛り付けているのもまさにその力なのだ。俺は数分前、ソードゴーレムに赤子のように吹き飛ばされ、致命傷を負わされた。あの、腹から入って背骨を断ち割った剣の感触が、俺に強烈すぎる敗北のイメージを焼き付けた。ゴーレムを前にしては、もう二度とSAO時代の"黒の剣士キリト"を呼び起こすことは出来まいと俺に確信させるほどの、断固たる敗北と死のイメージ。

 今の俺はどんな整合騎士にも、いや学院の生徒の誰にすらも勝てまい。ましてや――もう一度、あの最強の怪物に斬りかかることなど。決して。

「……くっ……うぐっ…………」

自分の喉が鳴り、餓鬼のような情けない嗚咽が漏れるのを、俺は聞いた。自分の敗北を悟り、しかしそれを正面から受け止めて雄々しく立ったカーディナルが今まさに襤褸切れのように殺されようとしていて、その犠牲をただ傍観することで救われようとしている俺という人間を、俺は強く憎んだ。

 気付けば、左に立つユージオも、右のアリスも、それぞれの感情によるそれぞれの涙を流していた。彼らの胸中を推し量ることなどとてもできないが、しかし少なくとも、三人がともに己の無力という大きすぎる蹉跌を感じていることは明らかだった。そう――たとえこの場から脱出できたとしても、これだけの傷を心に刻まれたまま、果たして何が出来るのか、と言わねばならぬほどの。

動けない俺たちの視線の先で、恐らく最後の、そして最大の稲妻をその刀身にまとわり付かせたレイピアを、アドミニストレータが高く高くかざした。

「さあ……そろそろ終わりにしましょうか。私とお前、二百年のかくれんぼを。さようならリセリス……私の娘、そしてもうひとりの私」

どこか感傷的な台詞を、しかし狂喜に歪む唇に乗せ、最高司祭は鋭くレイピアを振り降ろした。

幾千の光条となって宙を疾った最終撃は、ふたたび一つに撚り集まり、横たわるカーディナルの身体を撃ち、包み、焼き、焦がし、破壊した。

右脚の先を炭と変えて散らしながら、最古の賢者はゆっくりと宙を舞い、俺のすぐ足元へと落下した。もう質量すらも殆ど感じさせない、がさりと渇いた音が響いた。更に多くの黒い欠片が、身体の各所から床に零れた。

「うふふ……あはは……あははははは! あーっはははははは!!」

右手の剣をくるくると回し、空中でダンスを踊るがごとくアドミニストレータが再びの哄笑を放った。

「見える……見えるわ、お前の天命がぽとりぽとりと尽きていくのが!! ああ……なんという法悦……なんという……うふふ……ふふふふ……さあ、最期の一幕を見せて頂戴。特別に、お別れを言う時間を許してあげるから!!」

その言葉に諾々と従うがごとく、俺は、壊れた人形のようにがくりと膝から崩れ、カーディナルに向けて手を伸ばした。

幼い少女の、炭化していないほうのまぶたは閉じられていた。だが、指先が触れたその頬からは、消え去る寸前のほんの、ほんのわずかな命の温かさが伝わった。

ほとんど無意識のうちに、俺は両手でカーディナルの身体を抱き上げ、胸に抱えた。とめどなく溢れる涙が、次々に惨い傷痕のうえに滴った。

それが切欠でもあったかのように、少女の睫毛がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がった。激痛のさなか、死の寸前にあって尚、カーディナルのマホガニー色の瞳は尽きることの無い慈愛を湛え、俺を見た。

『泣くな、キリトよ』

その言葉は、声ではない音として俺の意識に響いた。

『そう……悪くない、最期じゃ。こうして……心を繋いだ誰かの腕に抱かれ……死ねるなどとは、とうてい……想って……おらなんだよ』

「ごめん……ごめんよ……」

俺の唇から零れ落ちた言葉も、ほとんど声とは言えない空気の震動でしかなかった。それを聞いたカーディナルの、奇跡的に無傷な唇が、ほのかな笑みを浮かべた。

『なにを……謝る……ことがある。お主には……まだ、果たすべき……使命がある、じゃろう。お主と、ユージオ、そして……アリス……三人で……この、儚く、美しい、世界……を……』

カーディナルの声は急速に薄れ、その身体もまた軽くなっていくようだった。

不意に、同じく跪いたアリスが両手を伸ばし、カーディナルの右手を包んだ。

「必ず……必ず」

その声も、頬も、しとどに流れる涙で深く濡れていた。

「あなた様に頂いたこの命……必ずや、お言葉を果たすために……使います」

続いて、左側からユージオの手が伸ばされた。

「僕もだ」

ユージオの声は、これがあの気弱で優しい相棒かと思えるほどにしっかりとした意思に満ちていた。

「僕も、いまようやく、僕の果たすべき使命を悟りました」

 しかし――。

それに続いた言葉は、俺も、アリスも、そして恐らくはカーディナルですらも予想し得ないものだった。

「そして、その使命を果たすべき時もまた今――この瞬間です。僕は逃げない。僕にはいま成さねばならないことがある」

 ユージオ――一体なにを。

そう思い、俺は視線を動かした。

亜麻色の髪の少年、俺の無二の親友、ルーリッドの剣士ユージオは、一瞬だけ俺の瞳を見返し、微笑み、頷いた。彼はすぐにカーディナルに瞳を戻し、その言葉を口にした。

「最高司祭カーディナル様。残された最後の力で、僕を――僕のこの身体を、剣に変えてください。あの人形と同じように」

 その言葉が、意識を引き戻したのか――。

ほとんど光が失われつつあったカーディナルの瞳が、ほんの僅かだけ見開かれた。

『ユージオ……そなた……』

「こうするしかないんです。今僕らがここから退いたら……アドミニストレータは世界中の人間たちの半分を、あの恐ろしい怪物に変えてしまう。そんなの、絶対にさせちゃだめだ。その悲劇を防ぐための、ほんの一筋の光が……最期の可能性が残されているとすれば、それは、この術式の中に……」

すべてを悟り切ったような、透明な微笑みを浮かべ、ユージオはごく微かな声で、しかしはっきりと詠じた。

「システム・コール……リリース・コア・プロテクション」

初めて耳にする、ごくごく短い術式だった。

それを言い終えたユージオが、唇を結び、まぶたを閉じた。

途端、彼の滑らかな額に、まるで電気回路のような複雑な紋様が、紫色の光のラインで描き出された。それは見る見る間に、両頬から首を伝って伸び、肩、二の腕、そして指先へと達する。

幾多の光のパラレルラインは、ユージオが両手で握るカーディナルの右手にまでわずかに浸出し、そこで入力を待ち受けるかのようにちかちかと先端を瞬かせた。

 核心防壁解除――。

その名前から察するに、ユージオは今、己の全存在に対する無制限の操作権をカーディナルに与えたのだろう。彼がなぜそんな術式を知っているのか、そもそもなぜそのようなコマンドが用意されているのか、何一つ解らないが、しかし少なくともその短い式句はユージオの決意と覚悟を明らか過ぎるほどに映し出していた。

コマンドを受け取った瀕死の賢者は、無事な左目と、灼かれた右目をも限界まで見開き、唇を震わせた。わななくような思考波が、触れる肌を介して伝わった。

『よいのか……ユージオ。元の姿に……戻れるかどうか……わからぬぞ』

額と両頬に光の回路を浮き立たせたユージオは、目蓋を閉じたまま、深く頷いた。

「いいんです。これが僕の役目……僕がいま、この場所に存在する唯一の意味なんです。さあ、早く……アドミニストレータが気付く前に」

やめろ。

俺はそう叫びたかった。

人間の肉体を、その属性を無視して武器に変換するなどという超高位コマンドを実行できるのはこの世界にアドミニストレータとカーディナルの二人しかいない。うち片方は究極の敵であり、もうひとりは今まさにその命を尽きさせようとしている。つまり、仮にユージオがその身を剣と成し状況を打破し得たとしても、もう一度彼を人に戻すことができる術者はもう居ないかもしれないのだ。

 しかし――今の俺に何が言えるだろう。

一度の敗北で骨の髄まで震え上がり、もう剣を振りかぶることも、前に足を出すことすらも出来ない俺に。

血がにじむほどに唇を噛み沈黙する俺の腕のなかで、カーディナルはすうっと眼を閉じながら、一度深く頷いた。

『よかろう、ユージオ。我が生涯最後の術式を……そなたの意志に、捧げよう』

燃え尽きる寸前の蝋燭が一瞬強く輝くかのように、はっきりとした声が俺たちの意識に響いた。

かっ、とブラウンの瞳が見開かれ、その中央に、紫の光が宿った。

カーディナルの手に接続された無数の回線が、強烈な輝きを宿して燃え上がった。その光は一瞬でユージオの身体を駆け上り、額の紋様にまで達すると、そこから溢れてまっすぐ上空に柱となって屹立した。

「なにを……!」

叫んだのは、彼方から陶酔の表情でこちらを睥睨していたアドミニストレータだった。勝利の余韻が一瞬で消え去り、銀瞳をいっぱいに剥き出させて、支配者は怒りの声を放った。

「死に損ないが何をしているッ!!」

右手のレイピアが振り下ろされ、耳を劈く咆哮とともに巨大な雷光がまっすぐこちらに向けて迸った。

「させない!!」

叫び返したのは、整合騎士アリスだった。

もう天命も限界のはずの金木犀の剣が、じゃああっ!! とその刀身を分裂させ、黄金の鎖となって宙を疾った。

鎖の先端が、アドミニストレータの稲妻に触れた。と思った瞬間、エネルギーの奔流は一直線に鎖を伝い、アリスの右手に迫った。

しかし、致命の一撃が主を撃つ寸前、黄金の鎖は後方にもその身を伸ばし、端についた針を大理石の床に突き立てた。稲妻はその回路から逃れることが出来ず、巨大なエネルギーのすべてを塔の構造物にむなしく撃ち込み、ただ爆発音と白煙のみを生み出して消滅した。

アリスは、左手の人差し指をまっすぐにアドミニストレータに向け、高らかに叫んだ。

「私に雷撃は効かぬ!!」

「人形風情が……生意気を言うわね!!」

唇をゆがめてそう吐き捨てた支配者は、あらためて凄絶な笑みを浮かべなおすと、白銀のレイピアを高く掲げた。

「なら……これはどうかしら!?」

 ぼぼっ!! と低い唸りを放ち、刀身のまわりに無数の紅点が出現した。その数四十か、五十か――。あれほどの数の熱素をどうやって制御しているのか、もう推測することもできない。

アリスの金木犀の剣が、火焔による不定形の攻撃に弱いのは先のチュデルキンとの戦闘で明らかになっている。しかし黄金の騎士は退く気配も見せず、決死の覚悟で右脚を一歩前に出した。主の決意を感じたかのように、鎖を形作る小片たちもじゃきっ! と鋭い金属音を響かせると、空中に整然と並んだ。

両者が対峙するあいだにも、ユージオを包み込む紫の光輝は際限なく強まり続けている。

手が離されてもなお、光の回線はカーディナルとユージオを固く結び、洪水のような情報を伝えているようだった。不意にユージオの身体からがくりと力が抜け、しかし彼はそこに倒れることなく、逆にわずかに空中に浮かび上がった。

 まっすぐに直立したユージオの身体から、すべての衣服が蒸発するように消えうせた。その寸前、片方のポケットから、不思議な物体が――ちかちかと瞬く紫のプリズムが零れ、ふわりと舞い上がるのを俺は見た。

それが、整合騎士アリスから失われた記憶の欠片であることを、俺は直感的に悟った。本来、天井で輝く神話図の一角に収まっているはずのそれを、ユージオはいつのまにか回収してのけていたのだ。

彼にしてみれば、あとは騎士アリスの魂にその記憶ピースを戻すだけで目的のすべてを達成できていたことになる。しかし、一体なにがユージオを、目的の成就を目の前にしてこのような自己犠牲に駆り立てているのか。

俺の内心に渦巻く疑問に答えることなく、ユージオは目を閉じたその顔を高く仰向かせた。舞い上がった紫のプリズムが、彼の額のすぐ前にぴたりと停止し、強く瞬いた。

 そしてもうひとつ――。

腰に巻かれた剣帯が消滅し、繋がれていた青薔薇の剣も落下すると見えたのだが、それもまた重力に抗うように浮き上がると、鞘のみを脱ぎ捨ててユージオの胸の前に音もなく静止した。

ユージオの鍛えられた白い身体と、青薔薇の剣の氷色の刀身、そして紫の小さな三角柱が、一直線に並んだ。

直後、すべてを覆いつくすような強烈な輝きが、三者を中心として部屋中に迸った。

「みんな燃え尽きてしまいなさい!!」

アドミニストレータが、絶叫とともにレイピアを突き出した。

その刃を包んでいた炎が、巨大な火球となってこちらに発射された。

「させないと……言ったはず!!」

凛とした声で叫び返し、渦巻く火焔にむかって飛び出していったのはアリスだった。

彼女の周りで浮遊していた黄金片たちが、一瞬にして凝集し、ひとつの巨大な盾を作り出した。それを右手に掲げ、騎士は高く、高く跳躍すると、身体ごと恐るべき大きさの火球へと突っ込んだ。

一瞬の静寂。

直後の爆発は、閉鎖空間すら揺るがすほどの規模だった。荒れ狂う熱と閃光、そして衝撃波が広大な部屋中に広がり、すべてを焼き焦がしたが、アリスの身体に守られた俺は熱波に息を詰まらせただけだった。離れた場所で静止したままのソードゴーレムすらぐらぐらとその巨体を揺らし、さらに彼方のアドミニストレータも左腕で顔を覆った。

真紅の閃光が薄れ、爆発の中心点からどさりとアリスが落下した。わずかに遅れて、無数の黄金片もまた、その力を失ったかのように主の周囲に舞い散り落ちた。

アリスの白い装束は各所で炭化し、煙を上げている。肌も広範囲に受傷し、天命が大きく減少したことは明らかだ。意識も失ったようで、その身体はもうぴくりとも動かなかったが、しかし彼女が稼いだ貴重な数秒のあいだに、カーディナルの最後の術式はついに完成されようとしていた。

紫の光柱に包まれたユージオの身体が、実体を失い、すっと透き通った。その胸の中央に、吸い込まれるように青薔薇の剣が沈み込み、それもまた半透明の光と化して主と完全に同化した。

再びの強烈な閃光。

思わず目蓋を閉じかけた俺の視線の先で、ユージオの身体が無数の光となって解けた。それらは渦を巻くようにひとつの十字架のかたちに寄り集まり、凝縮した。

一瞬ののち、そこに浮遊しているのは、もう俺の親友の姿ではなかった。

青いほどに純白の刃と、十字の鍔、柄を持つ、一本の巨大な剣がそこに在った。刀身はもとのユージオの腰ほどにも幅広く、それでいて優美なラインを描き、鋭い剣尖へと収縮している。その刀身の中央に穿たれたちいさな溝に、いまだ宙に漂っていた紫のプリズムが、まるで寄り添うように近づき、かちり、と音を立てて嵌まった。

カーディナルの左腕が、力を失い、ぱたりと垂れた。

唇がかすかに震え、最後の一句が、微風のように宙を渡った。

『リリース……リコレクション』

 きぃぃぃん!! と鋭い共振音を放って、紫のプリズム――アリスの記憶ピースが眩く光り輝いた。それに応えるように、ユージオの剣も涼やかに刀身を鳴らし、ふわりと更に高く浮かび上がった。

いまや、白い大剣は、ソードゴーレムとまったく同じロジックによって自ら動いていた。つまり、人の身より鍛えられた剣、その所有者たる人の記憶、両者を繋ぐ想いの力だ。

その想いの色だけが、ソードゴーレムと決定的に異なるはずだった。

ゴーレムを動かすのが、引き裂かれた恋人や家族の哀しみの力であるならば、白い大剣はついに巡り合ったユージオとアリスの愛の力で動いている。その証左として、俺は剣から放射される、人の善なるエネルギーの波動を強く感じた。

「おのれリセリス……余計な真似をっ……!!」

まるで、剣の放つ輝きから眼を守るように顔を背けながら、アドミニストレータが叫んだ。

「術式を模倣したところで……そのような貧相な剣一本で私の機兵に対抗できるはずもない! 一撃のもとにへし折ってあげるわ!!」

さっ、とアドミニストレータの左手が振られると、これまで沈黙していたソードゴーレムの両眼が再び青白く輝いた。ぎいいいん、と耳障りな軋み声を放ち、巨体がぐぐっと前進を始める。

世界最強の怪物に対し、ユージオの剣はすっと刀身を回転させると、その切っ先をまっすぐに敵に向けた。

白い刀身が一層その輝きを増し、雪のように光の粒を舞い散らせた。

直後、彗星のように光の尾を引きながら、剣はまっすぐにゴーレム目掛けて突進を開始した。

『……美しい……』

俺の腕のなかで、カーディナルがかすかに呟いた。

『人の……愛、そして意志の放つ……光……。なんて……美しい……』

「ああ……そうだな」

抑えようもなく、両眼から涙が溢れるのを感じながら、俺は囁き返した。

『キリト……あとは、頼んだ、ぞ……。世界を……人々を……守っ……て……』

 最後の力で目蓋を持ち上げ、透き通った瞳でまっすぐ俺を見て、カーディナルはそっと微笑んだ。俺が頷くのを見届けると、世界最古の賢者にして齢幼き少女は、ゆっくりと目を瞑り、穏やかに息を吐き――そして二度と呼吸することはなかった。

両腕に感じていたささやかな重みが、溶けるように消えていくのを、俺は滂沱と滴る涙の熱さとともに感じた。

滲む視界のなか、カーディナルの遺志を注ぎ込まれた白い剣は、光の翼を羽ばたかせながらどこまでもまっすぐ飛翔していく。

それを迎え撃つかのように、くろがねの巨兵は、両手の大剣と肋骨の鎌を大きく広げた。黝い闇をまとわり付かせた無数の刃が、凶悪なあぎとと化していっぱいに口を開いた。

数値上のプライオリティだけで比較するなら、ユージオひとりの身体と青薔薇の剣だけが基となった白の剣では、百数十人もの人間を転換したゴーレムには抗すべくもない。

それでも、ユージオの剣はさらに速度を増し、待ち受ける刃の獄へと突進する。

 その軌道が貫く先――ゴーレムにもし心臓があるとすればそこだったろう、という左胸の肋骨部を凝視した俺は、あることに気付き、涙の雫を散らしながら大きく目を見張った。

これまで、左右同じ数だけ対になっていると思っていたゴーレムの肋の剣が、左側のそこだけ一本少ない。

 もしかしたら――あそこには本来、天井の神話図に組み込まれたアリスの記憶が操る剣が合体するはずだったのではないだろうか。

それが、何らかの理由によって記憶ピースが分離されたため、本来あるべきパーツが一つ少なくなってしまったのだ。アリスの記憶とユージオの身体からなる白の大剣は、まっすぐにその空虚を目指している。

俺がそう悟ったその瞬間。

両者が激突し、白と黒のエネルギーが絡み合い、渦巻き、炸裂した。

 ギャァァァァッ!! という、獣の咆哮にも似た多重の金属音を放ってゴーレムの剣の牙が噛み合わされ――。

しかし、それより一瞬早く、白い剣はゴーレムの肋骨に開いたわずかな間隙を深々と貫き通していた。

これまで、黒い炎のような闇によって接合されていたゴーレムの無数の間接部に、貫かれた肋骨から広がった白い光が猛烈な勢いで浸透していく。

それはまるで、引き裂かれた恋人たちの悲哀を、ユージオとアリスの愛が癒し、昇華させているかのように俺には見えた。

ぎいいいというゴーレムの醜い叫びが、みるみるうちに澄んだ鈴の音となって高まり、共鳴し、拡散した。

 直後、閉じた両腕と肋骨の中心部から、純白の輝きが迸り――数十本の魔剣は、嵐に引き裂かれるかのように、ばらばらに分離して吹き飛んだ。

凄まじい速度で回転しながら高く舞い上がった剣たちは、放射状に飛び散り、轟音とともに円形の部屋の外周部に一斉に突き立った。

俺のすぐ背後にも、巨大な刃が墓標のごとく屹立した。それは間違いなく、俺の身体を分断したゴーレムの右脚だったが、まとわり付いていた鬼気とでも言うべきオーラはすでに消えうせ、今はもうただの冷たい鉄でしかなかった。

 ゴーレムを動かしていた天蓋の数十の神図たちも、不規則に明滅しながらその紫の輝きを薄れさせ、やがて完全な闇に没した。"彼ら"の意識がどうなったのかは定かでないが――少なくとも、その感情を糧にしていたアドミニストレータの完全支配術は解け、二度と再現されることはあるまいと思えた。

世界最強の魔神を一撃で分解せしめた白の大剣は、いまだ空中に横たわり、きらきらと光の粒を振り撒いていた。

その刀身の中央に埋まり煌くアリスの記憶フラグメント、その内部に刻まれているのは、ルーリッドに生まれてから十一歳の夏までを共に過ごしたユージオとの思い出であることはもう明らかだ。だからこそこの奇跡は起こり得たのだし、剣のまとう輝きがこれほどまでに美しいのだ。

「ああ……ほんとうに、綺麗だ」

俺は、腕のなかのカーディナルの骸を強く抱きしめ、もはやアンダーワールドからも現実世界からもはるか遠い場所へと旅立った彼女の魂へと囁きかけた。

応える声はなかったが、惨く傷つけられた小さな体が、ほのかな燐光に包まれていくのを俺は感じた。その輝きは、白い剣の放つ奇跡の光とまったく同質の清浄さに満たされていた。それこそが、カーディナル、あるいはリセリスという名を持つ少女が、何度も繰り返し自称していたようなプログラムではなく、真の感情と愛を持つひとりの人間であったという証左だと俺は確信した。燐光は、ほのかな温かみすら伴って俺の萎え切った体に染み込み、同時に骸はその重みを少しずつ薄れさせていく。

 隔絶空間をあまねく照らし出し、浄化するかのような白い輝きの波動を――。

あくまで拒絶するがごとく、冷ややかな声が刃となって切り裂いた。

「死に際に悪あがきをしてくれるわね、ちびっこは。ちょっとだけ興醒めだわ」

己の最後の切り札を破壊されてなお、傲然とした態度を崩すことなく、アドミニストレータは壮絶な笑みを浮かべて見せた。

「――でも、せいぜい試作品をひとつ壊すくらいが限界だったってことよね。あんなもの、これから何千個、何万個だって造れるんだもの」

鏡のレイピアに左手の指先を這わせながらそう嘯くその姿には、カーディナルの同位体であるはずの彼女のほうはほんとうにすべての感情を凍結しているのかもしれないと思わせる、底知れない闇の色がまとわり付いている。いや、比喩でなく、輝かんばかりの白亜の肌と銀髪を持つその肢体を、瘴気のごとく赤黒いうねりがゆったりと取り巻いているのが見える。

俺の体の底に、恐怖のいう名の冷たい蛇がふたたび鎌首をもたげるのを感じる。無敵と思えたソードゴーレムはついに破壊されたが、その代償はあまりに大きかった。世界で唯ひとり、アドミニストレータの超魔力に抗しうる人物を俺たちは失ってしまったのだから。

 声も出せず、ただ最高司祭の姿を見ることしかできない俺とは対照的に――。

涼やかな音を響かせ、先端をまっすぐに敵に向けたのは、浮遊を続けるユージオの剣だった。

「あら」

凶悪な輝きを銀鏡の瞳に浮かべ、アドミニストレータが囁いた。

「まだやる気なの、坊や? 術式の穴を衝いて私の機兵を崩したくらいで、ずいぶんと強気じゃない?」

その言葉が、鉄身と化したユージオの意識に届いているのかどうかは定かでない。しかし、純白の大剣は小揺るぎもせず、鋭い切っ先で最高司祭を狙い続ける。刀身を取り巻く輝きは再び強まり、きん、きんという刃鳴りもその周波数を高めていく。

「……やめろ、ユージオ」

俺は思わずそう口走り、左手を伸ばした。

「もういい、戻れ。一人で行くな」

圧倒的な危惧に突き動かされ、俺は力の抜けた足でわずかに前ににじり進んだ。まっすぐ差し出した指先に、剣から放射される光の粒がひとつ触れ、弾け、消えた。

直後。

 轟という響きを放ち、大剣の柄部分からもういちど純白の翼が大きく広がった。それを力強く羽ばたかせ――白い剣は、凄まじい速度で一直線にアドミニストレータ目掛けて突進した。

支配者の真珠色の唇に、凶悪な笑みが一杯に浮かんだ。軋むような音を立てて振り下ろされた鏡のレイピアから、尽きることない極大の雷光が迸り、迫る光の剣を迎え撃った。

剣の切っ先が、雷光に触れた瞬間。

これまで記憶にないほどの衝撃波が荒れ狂い、遠く離れた俺の全身をも強打した。

顔を背けながらも、限界まで眼を見張った俺の視線の先で、アドミニストレータの雷光が、無数の細条へと引き裂かれるのが見えた。

バァァァーッ!! という轟音とともに飛び散った稲妻の破片が、部屋の各所を叩く。超高優先度の激流を正面から打ち毀し、剣はなおも飛翔する。その刀身の表面が、微細にひび割れ、次々と破片を散らしていくのを俺は見た。それら全てはユージオの肉体、命そのものであるはずなのに。

「ユージオ!!」

叫んだ俺の声は、荒れ狂う嵐に紛れ。

「小僧……!!」

アドミニストレータの唇からついに笑みが消え。

雷光をその源まで遡りきった白の大剣は、その尖端を、レイピアの針のような切っ先に正確に命中させた。

超高周波の震動が空間すべてを揺るがした。アドミニストレータの全魔力を支えるリソース源たる鏡のレイピアと、ユージオの変じた白い剣は、真正面から凄まじい密度の鬩ぎ合いを数瞬、続けた。見かけ上は完全な静止状態だったが、それが次なる破壊への前兆であることを俺は全身の肌で感じた。

やがて起きた現象は、コンマ数秒のことだったが、俺にはとてつもなくゆっくりとしたスロー再生のフィルムのように見えた。

アドミニストレータのレイピアが、無数の鏡の破片となって粉砕され。

白い大剣が、その刀身の中央から真っ二つにへし折れ。

回転しながら吹き飛んだ前半分の刃が、アドミニストレータの右腕を、その肩口から滑らかに斬り飛ばした。

それらすべてが、無音のスクリーンに緩やかに映し出され、やがて遠くから音と震動が追いついた。

直後、解放されたリソースが引き起こした大爆発が、二者を飲み込んだ。

「ユージオ――――――――!!」

俺の絶叫は、荒れ狂う電磁ノイズのような轟音に呑まれ、俺自身にも聞こえなかった。打ち寄せてきた衝撃波が、俺の体を叩き、壁際まで吹き飛ばした。

 突き立つゴーレムの剣の陰で激流をやり過ごし、腕にカーディナルの遺骸を抱えたままよろよろと立ち上がった俺が見たのは――。

初めて二本の足で床に立ち、蒼白の無表情で肩の傷口を押さえたアドミニストレータと。

その足元に横たわる、ふたつの剣の破片だった。

剣には、いまだうっすらと白い輝きが宿っていた。

しかし呆然と見守るうちに、それはまるで心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅しながら力を失い、やがて、消えた。

白い剣の断片たちは、同時にすうっとその実体を失い、紫に透き通った構造体に戻ると、徐々にその形を人の姿へと変じさせた。

切っ先から刃の中ほどまでの破片は、両脚と腰の半ばほどまで。

そして柄を含む破片は、ユージオの上半身へと。

亜麻色の髪の少年は、目を閉じ、胸の上に乗せた右手に紫のプリズムを握っていた。その体が肌の質感を得、重さを取り戻し、その直後。

 分断された体の双方から、恐ろしいほどの量の血液が溢れ出し、一瞬にしてアドミニストレータの素足を浸した。*転章 II


洗い終えた皿を水切り籠に立て、エプロンの裾で手を拭きながら、アリスはふと窓の外を眺めた。

粗製のガラスを通して見える樹々の梢は、ここ数日の冷え込みで、せっかく赤や黄に色づいた葉をかなり散らしてしまった。やはり央都と比べると冬の訪れがずいぶんと早い。

それでも、久しぶりの透き通るような青空から降り注ぐソルスの日差しはぽかぽかと暖かそうだ。すぐ近くの太い枝で、キノボリウサギのつがいが身体を寄せ合って目をつぶり、気持ちよさそうに日光浴をしている。

我知らず微笑みながらしばしその様子に見入ってから、アリスは振り向き、言った。

「ねえ、今日はいい天気だから、東の丘まで行ってみましょう。きっとすごく遠くまで見えるわ」

返事は無い。

二部屋しかない狭い丸太小屋の、大きいほうの部屋の中央に据えられた丸テーブルの傍ら、質素な椅子に腰掛けた黒髪の若者は、ぼんやりと視線を俯けたままだ。

痩せている。もとより肉付きのいいほうではなかったが、今では明らかにアリスよりも細い。ゆったりとした部屋着の上からでも、その身体が骨ばかりなのが見て取れる。中身のない、ぶらりと垂れ下がった右袖が、痛ましさをいっそう増している。

しかし、真に寒々しいのはその表情だった。髪とおなじく漆黒の瞳に、輝きは無い。閉ざされたその心を映してどこまでも虚ろなその双眸は、決して誰かを正面から見ようとはしない。

一日に何度も感じる鋭い胸の痛みを押し殺し、アリスはさらに明るい声で続けた。

「でも、ちゃんと厚着したほうがいいわね。待ってて、すぐ用意するから」

エプロンを外して洗い場の横に掛けてから、足早に寝室へと向かう。

長い金髪を後ろでくくり、綿布のスカーフでしっかりと覆う。壁に並んだ二着の羊毛の外套の、小さいほうを羽織るともう一方を小脇にかかえ、居間へ戻る。

若者は、さっきと寸分変わらぬ姿勢のままただ緩慢な呼吸のみを繰り返していた。その背にそっと手をかけ、立つように促すと、やがてがく、がくと膝を揺らしながらゆっくりと身体を起こす。

しかし、自発的に可能なのはここまでで、歩行は一メルとても行えない。アリスは椅子を引き、外套を着せ掛けると、前にまわってきっちりと革紐を留めた。

ちょっとだけがんばってて、と声をかけ、急いで居間の片隅へと走る。

そこに置いてあるのは、明るい白茶色の木材でこしらえた頑丈な椅子だ。しかしさっきまで若者が腰掛けていたものと異なり、四本の足がすべて丸木を輪切りにして鋼の心棒を通した車輪となっている。森の奥に独居する、ガリッタという名の老人が工夫してくれたものだ。

その車椅子の、背もたれについている握りを持ってごろごろと若者の背後まで移動させる。ゆらゆらと危なげに身体を揺らす若者を、そっと椅子に座らせ、分厚い毛糸のひざ掛けを身体の前に載せてやる。

「よし! じゃあ、行きましょうか」

ぽん、と若者の肩を手でたたき、取っ手を握って、小屋の戸口目指してわずかばかりごろんと椅子を押したときだった。

不意に若者が顔の角度を変え、左手を持ち上げて、一方の壁に差し伸べて口を開いた。

「あー……、あー」

掠れたその声には、顔とおなじく感情というものがなかった。しかしアリスはすぐに若者の求めるものを察した。

「あ、ごめんなさい。すぐ取ってくるわ」

若者の手が指す部屋の南の壁に、頑丈な金具で掛けられた三本の剣があった。

 右側には、アリスの所有物である黄金の長剣、"金木犀の剣"。

 左側に、若者がかつて帯びていた漆黒の長剣、"夜空の剣"。

 そして中央に――黒の剣に名前を与え、そして今はもういない一人の少年のものだった純白の長剣、"青薔薇の剣"。

アリスはまず、ずしりと重い漆黒の剣を壁から外し、抱えた。次に真ん中の白鞘を外す。こちらは、重みが黒の剣の半分ほどしかない。収められている刀身が、その半ば以上を失っているからだ。

二本の剣を抱いて戸口へ戻り、膝にそっと載せると、若者は左腕でしっかりそれらを抱きかかえ、ふたたび顔を俯けた。彼は決して、この二振りの武器から離れようとしない。彼が何らかの反応を見せるのは、剣を求めるときだけだ。

「……さ、行きましょう、キリト」

再び襲ってきた胸のうずきを飲み込んで、アリスはそう声を掛けると、さっきより格段に重みを増した車椅子を押した。

扉をくぐり、石段ではなくなだらかな板を渡してある短い坂を降りると、ひんやりとした微風と、滋味に満ちた陽光が同時に二人を包んだ。

小屋は、深い森のなかにぽっかりと開けた丸い草地に建っている。アリスが自身で丸太を切り出し、皮を剥ぎ、ガリッタ老人に手伝ってもらって組み上げたものだ。見栄えは悪いが、優先度の高い木材だけを使用しているので造りはしっかりしている。もっとも、老人には、こんな怪力の娘っ子は見たことねえと数十回は言われてしまったが。

老人は、この森の空き地は子供だったころのアリスと、青薔薇の剣の所有者だった少年ユージオが二人だけの遊び場にしていたのだとも言った。勿論アリスにその記憶はない。ガリッタ老や他の人々には、ただ昔のことは全部忘れてしまったのだとだけ説明してあるが、実際には今の自分、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、彼らが知るルーリッド生まれのアリス・ツーベルクの身体を奪い占拠しているのが真実だ。叶うならば今すぐにでも身体を彼女に返したいが、本来のアリスはユージオとともにこの世界から去ってしまった。

一瞬の物思いを振り払い、アリスは草地を横切る細道に、車椅子を進ませた。

細道は、周囲を取り囲む深い森を貫き、東と西へと伸びている。西へ小一時間も歩けばルーリッドの村だが、用無く訪れる気にはどうしてもならない。ソルスの光を右前に受けながら、東へと小路を辿る。

十月も終わりに近づき、紅葉から落葉の季節へと移りつつある森のなかを、ゆっくりゆっくりと進む。

「キリト、寒くないかしら?」

声を掛けるが当然答えはない。仮に、極寒の吹雪のなかに裸でいたとしても今のキリトは声ひとつ上げるまい。ただ身体が凍りつき、天命が尽きるに任せるだろう。首を伸ばして覗き込み、上着の襟元がしっかり閉じているのを確認する。

勿論、その気になれば熱素因系の術を使い、周囲への冷気の進入を完璧に防御するのは容易なことだ。しかし、ただでさえ微妙な立場なのに、高度な術式を操るところを村人に見られて奇妙なうわさを流されるのは避けたい。

重い車椅子をごろごろと、十分ほども押すと、前方で木立の切れ間が見えた。

その先は、短い草に覆われた小高い丘になっている。もう道もない斜面を、アリスは苦も無く車椅子を押し上げ、たちまち天辺へと達する。

さっと視界が開けた。広大なルール湖の青い水面と、その奥に連なる湿地帯がどこまでも見通せる。左手には、天を衝く壁のように果ての山脈が聳え、正面から右奥へと弧を描いて連なっている。かつてあの峰々を、飛竜を駆って軽々と飛び越えていたことがまるで幻のようだ。

美しく広がる景色を前にしても、キリトの瞳はそれを見ようとはしなかった。ただ、虚ろな黒瞳をぼんやりと虚空に向けている。

その隣に腰を下ろし、アリスはそっと身体を椅子にもたれさせた。

「綺麗だわ。カセドラルに掛けられていた絵よりずっと綺麗」

そっと呟く。

「……あなたが守った世界よ」

眼下の湖水を、一羽の白い水鳥が、点々と波紋を作りながら滑走し、高く飛び去っていった。


どれくらいそうして座っていただろうか。

気付くと、ソルスはずいぶんと高いところまで昇っていた。そろそろ小屋に戻り、昼食の準備に取り掛かる時間だ。自分の空腹などまるで気にならないが、一度にほんの僅かしか食べようとしないキリトのためにも、一食と言えどおろそかにするわけにはいかない。

立ち上がり、帰りましょうか、と声を掛けながら車椅子の持ち手を握ったときだった。

草を踏みながら丘を登ってくる小さな足音に気付き、アリスは振り返った。

近づいてくるのは、黒いベールと修道衣に小柄な身体を隙間無く包んだ、ひとりの少女だった。いまだ子供の面差しが残る可愛らしい顔に、輝くような笑みを浮かべて手を振っている。

「姉さま!!」

弾むような声が微風に乗って届き、アリスも笑みを返しながら小さく手を振った。

最後の十メルを勢いよく駆け上がってきた少女は、目の前で足を止めると、息を切らした様子もなくもう一度言った。

「おはよう、アリス姉さま!」

くるっと身体を回し、車椅子のキリトを覗き込んで、一層元気よく叫ぶ。

「キリトもおはよう!」

まるで反応のない相手の様子を気にする気配もなくにっこり笑ったその顔が、キリトの膝の二本の剣に向けられた瞬間だけ、わずかに痛みを感じさせるものに変わった。

「……おはよう、ユージオ」

呟き、指先で青薔薇の剣の鞘をそっと撫でてから、少女は改めてアリスに向き直った。心にぽっと暖かいものが流れるのを感じながら、アリスも挨拶を返した。

「おはよう、シルカ。よくここが分かりましたね」

シルカさん、と言わずにすむようになったのはつい最近のことだ。世界でただ一人の妹であるこの少女のことを、愛しく思えばおもうほど、今の自分にこの暖かさを感じる資格があるのか、と己を責めもしてしまう。

そんなアリスの絶えざる葛藤に、とっくに気付いているのであろうシルカは、まるで屈託なく笑った。

「べつに神聖術で探したわけじゃないわよ。姉さまの居るところならすぐ分かるもの。今朝しぼったばかりのミルクと、あと少しだけどりんごとチーズのパイを持ってきたの。家のテーブルに置いてきたから、お昼に食べてね」

「ありがとう、とっても助かるわ。何を作ろうか迷ってたのよ」

「姉さまの料理の腕じゃ、いつかキリトが逃げ出しちゃうかもしれないからね!」

あははは、と笑うシルカにむかって、アリスも笑いながら右手を上げてみせた。

「こら、言いましたね! これでも、最近ずいぶんと勘が分かってきたのよ」

はしゃぎながらするりとアリスの手をかわし、シルカはすぽんと胸に飛びこんできた。そのまま眼を閉じ、心地よさそうに頬をアリスの胸にこすりつける。アリスも、自分よりずいぶんと背の小さい妹の背を、そっと包む。

この瞬間だけ、アリスは自分を苛む罪の意識を忘れたいと本気で思う。剣を捨て、騎士の責務から逃げ、森の奥で穏やかな日々に暮らすことへの罪悪感を消し去れたら、どんなにほっとするだろう。しかし同時にそれが絶対に不可能であることも、アリスは悟っている。こうしている今この瞬間でさえも、目の前にそびえる果ての山脈のむこうから、終わりの時が刻一刻と近づいてきているのだから。


 半年前の、あの激闘の最終幕において――。

瀕死の重傷を負い、まるで動かせない身体をカセドラル最上階の床に横たえたまま、アリスはおぼろげに戦いの行方を知覚していた。

アドミニストレータとキリトの死闘。チュデルキンの妄執の炎に巻かれ、共々に消えた最高司祭。キリトのパートナーであったユージオの死。彼の、いまわの際の言葉だけは、途切れとぎれの記憶に鮮明に焼きついている。

 そして、もう一つ、不思議な水晶細工から流れる声とキリトが交わした会話も。ほとんど意味の汲み取れない、奇妙なやりとりの終わりに、突然キリトが身体を硬直させて倒れ――世界は完全に沈黙した。

どうにか天命がほんのわずか回復し、アリスが動けるようになったとき、硝子窓のむこうでは再びソルスの光が空を染めつつあった。いっぱいに差し込む曙光を神聖力源とし、アリスはまず倒れたキリトの傷を癒した。しかし彼は意識を取り戻さず、やむなくそのまま寝かせておいて自分にも治癒術を掛け、そののちにキリトが言葉を交わした水晶細工を調べた。

だが、紫に輝いていた表面はすっかり黒に変わり、どこをいじろうと二度と光ることはなかった。

アリスは途方にくれ、座り込んだ。キリトの言葉を信じ、世界の人々とどこかにいる妹を守るために絶対の支配者であったアドミニストレータと戦ったものの、よもや自分が生き残るとは考えていなかったのだ。ここで自分は死ぬだろうと、そう覚悟して最高司祭の剣のしたにわが身を晒したのだが、しかしいかなる奇跡か命をつないでしまった。

助けたならその責任を取りなさい、かたわらに横たわるキリトに向かって何度もそう叫んだが、黒髪の若者は決してその瞼を開けようとしなかった。ここからは自分で考えろ、まるでそう言っているかのようにアリスには思えた。

ずいぶん長い時間膝をかかえてから、アリスはようやく立ち上がり、行動に移った。出入り口があったあたりの床を、こちらもやっと回復した金木犀の剣で苦労して破壊し、現れた螺旋階段をひとり降りたのだ。

主を失ったチュデルキンの部屋と、いまだぶつぶつ術式を続ける元老たちの広間を抜け、向かった先は剣の師のもとだった。氷がほとんど溶けた大浴場に、大の字になって浮かぶ整合騎士長ベルクーリの身体は、幸い石化術からは解放されていた。おじさま! と呼びかけ、びしびし頬を叩くと、威丈夫はまるで長い間寝こけていたかのように伸びをすると、一度盛大なくしゃみをし、目を覚ましたのだった。

ようやく緊張がほぐれ、泣き笑いに喉を詰まらせながらも、アリスはどうにか状況をすべて説明した。ベルクーリは厳しい顔ですべてを訊き終えると、一言、よくがんばったな、嬢ちゃん、と言った。

あとはぜんぶ任せろ、そう宣言したベルクーリの行動は迅速だった。キリトらに破れ、しかしなぜか完全に治療された状態で薔薇園の片隅で発見された副長ファナティオをはじめ、同じく石化拘束されていたらしいデュソルバートやエルドリエといった主だった整合騎士を全員五十層の大回廊に集めると、真実をぎりぎりまで述べたのだ。

キリト、ユージオとの戦いの結果、最高司祭アドミニストレータが破れ、死んだこと。

その最高司祭の人界防衛計画が、人間の半数を剣骨の兵に変えるというものだったこと。

騎士団の上部組織・元老院の実体が、チュデルキンただ一人であったこと。

 隠されたのは、整合騎士の来歴のみだった。もとより"神界からの召喚"に疑いを持っていたベルクーリは真実に耐えられたが、他の騎士たちには不可能だろうという判断だ。これは、最上階に残る数十の剣と神図の秘密の解明を待つ必要があろうとベルクーリはアリスのみに言った。

しかし、それでも尚、騎士たちの混乱は深刻だった。無理もない、これまでの永遠にも等しい年月において、最高司祭は唯一絶対の支配者であったのだ。

 議論の果てに、彼らがともかくも騎士長に従うという選択をしたのは、皮肉にも、アドミニストレータに施された強制従属術ゆえのことだったかもしれない。例え最高司祭が消滅しようとも、彼らは"教会"に隷属しているのであり、そしてもはや騎士長ベルクーリが神聖教会の最高権力者であるのは疑いようもない事実だったのだから。

 そしてそのベルクーリは、恐るべき精神力で本来の任務、"人界の守護"遂行へとまい進し始めた。彼にも葛藤はあったはずだ、己から奪われた愛する者の記憶が、すぐ手を伸ばせば届く場所に存在すると知ってしまったのだ。

しかし彼は記憶の回復よりも、迫り来る闇の侵攻への防御を整えるという責務を選んだ。数日で整合騎士団は体勢を立て直され、四帝国の近衛軍を実戦用に再編するという新たな任務へと動きはじめた。

 それを見届けてから――アリスは、昏睡状態のキリトとともに自分の飛竜に乗って密やかに央都を去った。騎士の一部に、反逆者を処刑すべしとの意見が消えないのがその理由だった。最上階の激闘から、五日後のことだ。


悩みに悩んだ末、北の最果ての村、ルーリッドへと竜の手綱を向けるのに、更に三日を要した。央都の郊外で野営する間もキリトはいっこう目を醒まさず、充分に治療するにはどうしてもちゃんとした屋根とベッドが必要だと判断したのだ。しかし、街の宿屋に泊まろうとも市井の通貨の持ち合わせは無く、と言って整合騎士の権威を振りかざすような真似をする気にはもうなれなかった。

 一縷の望みを――たとえ記憶を失っていようとも、生まれ故郷に暮らす家族たちは自分を暖かく迎えてくれるのではないかという期待を胸に、アリスはひたすらに北へと飛び、ノーランガルス帝国を縦断して、果ての山脈の裾野に接する深い森に抱かれた小村へとたどり着いた。

飛竜を住民に見られぬよう、低空を飛んで村にほど近い森のなかに降り、そこで三本の剣を守っているように竜に言いつけて、瞑るキリトを背負ってアリスはルーリッドの村へ徒歩で入った。

青い麦畑を横切るあいだも、小さな農家のわきを抜け、小川にかかる橋を渡るときも、多くの村人の視線がアリスに注がれた。しかしそこにあったのは、驚きと警戒の色だけだった。

裸の道が石畳に変わろうとする直前、小さな番屋から飛び出してきた若者が、そばかすの消えない顔に血を上らせて行く手を塞いだ。

待て、よそ者が勝手に通ったらいかんぞ!

 叫びながら安物の剣を抜き、無遠慮に切っ先を突きつけてきたその衛士は、まず背負われたキリトの顔を見て訝しそうに首を捻った。あれ、こいつは……、そう呟いてから、改めてアリスを凝視し、そしてぽかんと目と口を丸くした。

 あんた……あんた、まさか。

衛士のその言葉を聞いて、アリスは僅かながらほっとした。どうやら九年の時間が経ても自分を覚えていたらしい、そう思いながら、言葉を選んで衛士に告げた。

自分はアリス・ツーベルク。父親で村長の、ガスフト・ツーベルクを呼んでほしい。

カセドラル外壁で、たった一度キリトに聞いただけの名前だが、忘れるはずもなかった。衛士は顔色を赤から青に変え、ま、ま、待ってろと喚いて駆け出していった。

昼下がりの村はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。子供から大人までが、どこにこんなにいたのだと思うほどに集まってきて、アリスを遠巻きにして口々にひそひそ声を交し合った。

アリスが再度不安に襲われたのはその時だった。村人たちの顔には、こちらの素性を知ってもなお、警戒の色が濃く浮かんでいたからだ。そして、少なからぬ嫌悪すらも。

数分後、人垣の向こうから大股で近づいてきたのは、口とあごの髭を綺麗に整えた初老の男だった。

男はアリスを見た瞬間、いわく言いがたい表情に顔をゆがめた。その奥にどのような感情があったのか、アリスには察せられなかった。

ゆっくりと、何かを恐れるような歩調で目の前までやってきた男は、しわがれた声で言った。

アリス、なのか。

そしてこう続けた。

何故ここにいる。罪は赦されたのか。

 抱きしめるでも、涙を浮かべるでもなく、"父親"がそう言い放つのを聞いて、アリスは手足の先が冷たくなるのを感じた。しかし、懸命に相手の目を見返して、アリスは答えた。

処罰により、私はこの村で暮らしたころのすべての記憶を失いました。しかし、ここより他に行くところはありません。

言えるかぎりの真実だった。

ガスフトは、ぐっと目をつぶり、顔を仰向けさせ、そしてくるりと背を向けた。

 肩越しに投げかけられた言葉は――。

去れ。この村に罪人を入れるわけにはいかぬ。


一瞬の回想がアリスの身体を強張らせたのを感じとったのか、シルカが顔を上げ、少しだけ首を傾けた。

「姉さま……?」

気遣わしそうに問いかける最愛の妹に、アリスは微笑みを浮かべながら短く答えた。

「いえ……なんでもないのです。さあ、そろそろ帰りましょう、シルカ」

あの日、打ちひしがれて悄然と森の奥に戻ろうとしたアリスを、木立のかげから呼び止めてくれたのがシルカだった。父親である村長の意向に添わぬ行動だと知りながらそうした彼女の勇気と、彼女が引き合わせてくれたガリッタ老人の善意が無ければ、アリスはいまも寄る辺無き逃亡者として荒野を彷徨っていただろう。

シルカにとっても、決して簡単に受け入れられる話ではなかったはずだ。

ただ一人の姉が、過去をすべて忘れてしまったこと。二年前に交流があったというキリトの昏睡。そして、兄にも等しい存在だったユージオの死。

しかし、シルカが涙を見せたのはただの一回だけで、以降は決して笑顔を絶やすことなく元気に振舞っている。その心の強さと思いやりの深さには、日々感謝と驚嘆の念を新たにせずにはいられない。教会の司祭たちの神聖術より、整合騎士の剣よりもずっと強く、尊い力だと思う。

そして同時に、自分がいかに空疎な存在であるか、とも。

老人の手助けを得て、村の境界外の森に小さいながらしっかりとした住処を造りあげてから、アリスがまず行ったのは大規模な回復術を眠るキリトに施すことだった。

広い森でもっともテラリアの恩寵が潤沢な地点を選び抜き、ソルスの光を遮る雲が一片たりとも空にない日に、それら膨大な神聖力を根こそぎ回収・凝縮させてキリトの身体に注ぎこんだのだ。

発生した癒しの力はキリトの天命の数十倍に達し、またそこまでの高位術を駆式できるのは人界でもいまや自分ひとりであろうという自負がアリスにはあった。キリトの受けた傷がどれほど深いものだろうと、斬り落とされた右腕を含めてたちまち回復し、何事もなかったかのように目を醒ますだろうと確信していた。

しかし、結果は無残なものだった。

 どれほど青い霊光を注ぎ込もうとも、まるで傷そのものが癒されることを拒むかのように右腕は戻らず――そして、ようやく開かれた瞼のおくの黒い瞳に、意志の光は無かった。

数時間の施術のすえについに諦めたとき、力の余波を受けたか、自分の顔に巻かれた包帯のしたで右眼が何事もなかったかのように再生していたことも、アリスには己の無力を嘲われているようにしか感じられなかった。

以来、キリトの心が戻ってくる兆しはまったく無い。

シルカは、こんなに姉さんが一生懸命看病してるんだもの、きっといつか元のキリトに戻るよ、と事あるごとに言ってくれるが、アリスはひそかに、自分では無理なのではないかと深く恐れている。

なぜなら、自分は心を持たぬ人形の騎士だから。


枯れた下草を踏みながら前を行くシルカが、不意に歩調をわずかに緩め、アリスは再び物思いから醒めた。

小さな修道衣の背中が、何かを言い出そうとして躊躇っていることを察し、アリスは車椅子を押す速度を少し落として声をかけた。

「どうしたの、シルカ? 困りごと?」

すると、さらに数秒ためらってから、ちらりと振り向いたシルカが言いづらそうに答えた。

「あのね……、バルボッサのおじさんが、また倒せない樹の始末を頼みたい、って……」

「なんだ、そんなこと。あなたが気にやむことないのに」

アリスが微笑むと、シルカは不意に憤慨するように唇を尖らせ、両手を胸の前で組んだ。

「勝手だわ、あの人たちは! 姉さんを怖がって村から追い出したくせに、困ったときだけ助けてもらおうだなんて。前から言ってるけど、断ってもいいのよ、姉さん。必要なものは、何でもあたしが持ってきてあげるから」

今度は少し声に出して笑い、アリスはなだめるように言った。

「ありがとうシルカ、でもほんとに気にしなくていいのよ。村の近くに住まわせてもらえてるだけでも有り難いことだわ。キリトにお昼をたべさせたら、すぐに行くわね。南の畑でいいのよね?」

「……うん。あのね……あたし、来年の春にはシスター見習いから準シスターに昇格して、少しだけどお給金もらえるようになるから。そしたらもう、姉さんにあんな奴らの手伝いなんてさせないからね」

すぐ横まできて、決然とした表情でそう告げるシルカの頭を、アリスは右手でそっと撫でた。

「ありがとうね……、でも、あなたが居てくれるだけで、私はじゅうぶん幸せなのよ……」


名残惜しそうに手を振り振り去っていくシルカと、小屋のある草地の真ん中で別れ、アリスは手早く昼食の準備をした。

最近では、どうにか家事の真似事をこなせるようになってきたものの、料理の腕だけはいかんともしがたい。金木犀の剣と比べると、村で買った包丁はおもちゃのように軽く頼りなく、恐る恐る材料を切るだけで三十分や一時間くらいすぐに経ってしまう。

今日は幸いシルカが、すぐに食べられるパイを届けてくれたので、それをフォークで小さく切ってキリトの口に運んだ。唇が開かれるのを辛抱強く待ち、そっと中に入れてやると、まるで食事の記憶を本人ではなく口が思い出しているかのように、ゆっくりゆっくりと噛む。

小さな一切れを長い時間をかけて食べさせ、スプーンでミルクを飲ませるあいだに、自分も素朴な手作りパイを大事に味わって食べる。カセドラルでは、四帝国の各地から集められた美味佳肴が常に巨大なテーブルに満たされ、それらをいい加減につついては下げさせるような真似をしていたのが今更恥ずかしく思い出される。

後片付けをしてから、再びキリトにしっかりと外套を着せ、膝に二本の剣を載せてやる。自分も、身体と髪を隠すように分厚く着込む。

車椅子を押しながら外に出ると、いつのまにかすっかり向きが変わった日差しが梢のあいだから零れていた。近頃は随分日が短くなり、午後はたちまち空の色が変わってしまう。少しばかり急ぎ足で、今度は細道を西へ辿る。

森が切れると、目の前に刈り入れを待つばかりの黄金の麦畑が広がった。重そうに揺れる麦穂の海のむこうに、丸い丘を覆うようにして赤い屋根の家々が軒先を並べるルーリッドの村が見える。中央から、一際高い尖塔を伸ばしているのがシルカが暮らす教会だ。むろん、シルカも、彼女を指導するアザリヤという修道女も、全世界の教会組織を束ねるセントラル・カセドラルの最上階がいまや主無き廃墟であることを知らない。

たとえカセドラルが大混乱に陥ろうとも、地上の営みにはまるで影響はなかったのだ。禁忌目録は変わらず有効に機能し、人々の意識を縛り続けている。果たして彼らに、剣を取り国を守るなどということができるだろうか。無論、教会の名で命じれば従いはするだろう。しかし、戦いに勝つためにはそれだけではまったく不十分なことは、少なくとも騎士長ベルクーリにはよく分かっているはずだ。

武装の優先度でも、術式の行使権限でもなく、最終的に戦いの帰趨を決するのは意志の力だ。絶望的な戦力差を覆し、多くの整合騎士を、そして最高司祭アドミニストレータをすら斬り伏せてのけた修剣士キリトの存在がそれを証明している。

農作業の手を止め、忌まわしそうな視線を向けてくる村人たちの姿を、伏せた眼のはしで捉えながらアリスは胸中で呟いた。

 ――小父様、彼らにとって平和とはただ誰かに保証されたものに過ぎないのかもしれません。

そして、そうさせてしまったのは神聖教会と整合騎士団だ。こうして土の上で暮らしてみて初めて、アリスはこの世界がいかに歪んだ姿をしているかに気付いた。

物思いに沈みながらも、早足で麦畑の外周を回る道を辿り、村の南に広がる開墾地へと出たアリスは、そこで車椅子を止めた。

ほんの二年前までは、この先には東の森を上回る深く暗い原生林が広がっていたのだという。

しかし、その森の主であり、神聖力を底無し穴のように吸い取っていた巨大樹をキリトとユージオが切り倒してくれたので、いま村の男たちは畑を広げることに夢中なのだ、とシルカが少々困ったような顔で言っていた。禁忌目録で、村の人口に対する畑の上限面積が厳密に規定されているため、そこに達すればそれ以上の開墾は出来なくなる。その前に、他の農家よりも少しでも大きな土地を確保しようと、男たちは殺気立っているらしい。

視線の先には、荒く掘り返された黒土が半円を描いて広がり、その彼方で数十人の村人が盛んに斧音を響かせている。中でもひときわ多くの人数を指揮し、あれやこれや喚いている太鼓腹の男が、ナイグル・バルボッサという村一番の大農家の長だ。一族の人数では、現村長を出したツーベルク家を上回るそうで、その尊大さは元整合騎士のアリスも驚くほどだ。

気が進まないながらも、アリスは踏み固められた細道に車椅子を進ませた。キリトは、かつて自分が倒した巨大樹の痕跡を僅かにとどめる、朽ちかけた黒い切り株の傍らを通過しても一切の反応を見せず、ただ二本の剣を抱いたまま俯いている。

二人に最初に気付いたのは、倒したばかりらしい木の幹に腰掛けて豪勢な弁当をがっついてるバルボッサ一族の若者たちだった。歳は十五、六とおぼしき彼らは、深く巻いたスカーフを貫くような粘ついた視線でアリスを眺め回したあと、車椅子のキリトに視線を移し、小声で何かを言い合っては厭な笑い声を立てる。

無視してその前を通過すると、若者の一人が間延びした大声を出した。

「おじさーん、来たよぉー」

すると、腰に手を当てて怒声を撒き散らしていたナイグル・バルボッサがくるりと振り向き、脂ぎった丸顔ににんまりと大きな笑みを浮かべた。丸い鼻や細い眼が、どこか元老チュデルキンを思い起こさせて肌が軽く粟立つ。

しかしアリスは、可能な限りの笑みを返し、軽く会釈した。

「こんにちは、バルボッサさん。何か御用と聞きましたので……」

「おお、おお、アリスや、よく来てくれたのう」

丸い腹を揺らし、両手を広げて近づいてきたので、よもや抱擁する気ではと再びぞっとしたが、幸いその前にキリトの膝に載った剣呑な武器に眼を留めて思いとどまったようだった。

代わりにアリスの右横五十センに立つと、ナイグルは大儀そうに巨躯を回し、森と開墾地の境を指差した。

「ほれ、見えるじゃろう。昨日の朝からあの糞ったれな白金樫にかかりっきりなんじゃが、大の男が十人がかりでようやく指いっぽん分しか進まん有様での」

見れば、直径が一メル半はありそうな、巨大な白褐色の樹が四方八方に根と枝を広げ、開墾者たちに頑強に抵抗しているようだった。幹の一方には二人の大男が取り付き、かわるがわる斧を樹皮に叩きつけているが、刻まれた切り込みは確かに十センにも届かない浅さだ。

男たちの、裸の上半身は真っ赤に染まり、汗が滝のように流れている。胸や上腕の筋肉はそれなりの厚みだが、普段鍬や鋤しか持ったことのない手に急に斧を握ったせいだろう、重心移動も腰の回転もお粗末のひとことだ。

見守るうち、男の一人が右脚を滑らせ、見当違いの箇所を斜めに叩いた斧が柄の中ほどからべきりと折れ飛んだ。怒声を上げて両手を抱え、うずくまる男に、周囲の仲間たちが遠慮のない笑い声を浴びせる。

「まったく、何をやっとるんだ馬鹿者めらが……」

ナイグルが唸り、もう一度アリスを見た。

「あれでは、あの樹一本に何日かかるか知れたもんじゃねえ。ウチが手間取ってるあいだに、リダックの盗っ人どもが二十メルも土地を広げよった!」

バルボッサ家に次ぐ規模の麦作農家の名前を挙げると、ナイグルは鼻息荒くブーツで足元の地面をこじった。ふうふうと胸を波打たせてから、不意にまた脂っこい笑顔を満面に浮かべる。

「そんな訳でな、月に一度の約束じゃけんども、すまんけど今回だけ特別に力を貸してもらえんかの、アリスや。あんたは憶えておらんじゃろうが、ワシは子供のころのあんたにお菓子を呉れたことが何度も……」

ため息を押し隠してアリスはナイグルの言葉を遮り、頷いた。

「ええ、いいですよバルボッサさん。今回だけということでしたら」

このように、開墾の邪魔をする高優先度の樹や岩を排除する、それが現在のアリスの天職だ。無論、誰に与えられたものでもない。村はずれに落ちついて一ヶ月ほど経ったころ、地崩れで村道を塞いだ大岩を、アリスがひとりで押して退かしたのが噂になりこんな手伝いを頼まれるようになった。

実際、暮らしていくうえで多少の現金はどうしても必要だったので、稼ぐ手段があるのは有り難いことではある。しかし言われるままに頼みごとを聞いていたら、男たちは際限なく要求してくるとシルカが心配したので、手伝うのはひとつの開墾地で一ヶ月に一度まで、と取り決めを交わしてある。

禁忌目録から村の掟にいたるまで、一切の規則を厳守するはずのナイグルが、このような取り決めに外れた依頼をしてくる時点で、彼らがアリスのことを村人よりも下に見ているというのは明らかだ。内面を看破されているとも知らず、にこやかに揉み手をするナイグルに、しかしアリスは無言で頭を下げると車椅子から手を離し、大木へと歩み寄った。

アリスの姿に気付いた男たちの中には、野卑な笑みを浮かべるものも、あからさまに舌打ちするものもいた。しかし、今はもう皆がアリスの力を知っているので、全員が持ち場を離れ、遠くで輪になった。

彼らには一切眼を向けず、アリスは白金樫の古木に近寄ると、右手でそっとその表面を叩き、ステイシアの窓を引き出した。さすがに天命はかなりの数値だ。この優先度では、いつものように借り物の斧を使っては歯が立つまい。

一度小走りにキリトのところに戻り、腰を屈めて、小声でそっと囁いた。

「ごめんね、キリト。少しだけ、あなたの剣を貸して頂戴」

軽く右手を黒い長剣の鞘に掛けると、キリトの身体がわずかに強張るのが感じられた。しかし、辛抱強く虚ろな黒い瞳を覗き込んでいると、やがて左腕から力が抜け、かすかな声が喉から漏れた。

「……ぁー」

これは、意志が伝わったというよりも、記憶の残響のようなものなのだろう。キリトの心ではなく、思い出の残滓だけが、今の彼をほんの僅かに動かしている。

「ありがとう、キリト」

囁いて、膝からそっと黒い剣を持ち上げて、アリスは再び樹の前へ向かった。

それにしても立派な大樹だ。央都セントリアの構造材になっている古代樹には及ばないまでも、樹齢は百年を軽く越すだろう。

心のなかで、ごめんなさい、と呟き、アリスはぐいと足場を固めた。

 右脚を前に、左脚を後ろに。左手で腰溜めに構えた"夜空の剣"の、黒革を巻かれた柄に軽く右手を添える。

「おいおい、そんな野暮ったい剣で白金樫を倒す気かぁ?」

男の一人が叫び、周囲がどっと笑った。剣が折れるぞぉ、その前に日が暮れちまわぁ、と次々に喚き声が交わされる中、背後から心配そうなナイグルの声がかけられた。

「あー、アリスや、できれば一時間くらいで何とかして欲しいんじゃがのう」

これまでアリスは、借り物の斧を振るってどんな樹でも三十分以内に倒してきた。そんなに時間を掛けたのは、斧を破壊してしまうのを避けたからだ。しかし、今日ばかりは武器を折る心配はない。夜空の剣は、金木犀の剣には及ばぬまでも世界で最強クラスの優先度を備えた神器なのだ。

「いえ、そんなには掛かりません」

呟くように答え、アリスはぐっと柄を握った。

「……せあっ!!」

短い気合。両の足元から、爆発じみた土煙が上がる。

随分と久々に振るう本物の剣だったが、身体は滑らかに動いた。抜きざまの左水平斬りが、黒い稲妻となって宙を疾った。

周囲の人間で、斬撃そのものを視認できた者はいるまい。剣を右前方に振り切った姿勢で動きを止めたアリスの頭から、ふわりとスカーフがはずれ、長い金髪がなびいた。

黄金の輝きに眼を奪われた男たちは、立ったままの大木に視線を戻し、訝しそうに首を捻った。白褐色の滑らかな樹皮には、彼らがつけた小さな刻み目が残るのみで、それ以外は傷痕ひとつ見えない。

なんだよ、外れかぁ?、という声が上がるなか、アリスはゆっくり身体を起こし、漆黒の刀身をぱちりと鞘に収めた。足元からスカーフを拾い上げてから、男たちの輪の一部を指差す。

「そこ、倒れますよ」

訝しそうに眉をしかめたその顔が、驚愕に変わったのは、ゆっくりと自分たちのほうへと傾いてくる大木の幹を見てからだった。うわあああと盛大な悲鳴を上げて飛び退り、尻餅をついた男たちのあいだに、凄まじい地響きを立てて切断された巨樹が横倒しになった。

もうもうと巻き上がった土煙をぱたぱたと払いながら、アリスはちらりと幹の切断面を確認した。年輪がくっきりと浮き上がった、磨かれたように滑らかな断面に、一箇所わずかなささくれが見て取れた。

やはり腕が鈍っている、と軽いため息をつきながら振り向いたアリスは、ぎょっとして立ち止まった。ナイグルが再び、満面の笑みで両腕を広げて急接近しつつあったからだ。

思わず左手の夜空の剣をわずかに持ち上げると、かしゃりという刃鳴りを聞いてナイグルは急停止した。しかし笑顔はまったく減じられず、野太い叫びが喉の奥から発せられた。

「すばっ、すんばらしい! なんという腕じゃ! 衛士長のジンクなんぞ問題にならん! まさに神業! どっ、どう、どうじゃアリス、手間賃を倍にするから、週に一度……いや、一日いっぺん手伝ってくれんかのう!!」

丸い体を捩り、絞るように手を揉むナイグルに、アリスはそっけなくかぶりを振った。

「いえ……、今頂いている金額でじゅうぶんですので」

仮に、金木犀の剣を持ってきて完全支配術を使えば、一日一本の大木を切るどころか、数分でこの森を見渡す限りの裸地に変えることだって容易い。しかし、そんなことをすれば、彼らの要求は土地を畑に整備し、重い杭を打ち、雨を降らせることにすら及ぶだろう。

んぬぬぬぬぬ、と唸りながら悶えていたナイグルは、アリスの「御代を」という声で我に返ったように瞬きした。

「お、おう、そうじゃったそうじゃった」

懐に手をやり、ずしりと重そうな革袋から、約束の銀貨一枚をつまみ出す。

それをアリスの掌に落としながら、ナイグルはなおも未練がましく言葉を連ねた。

「そ、それじゃこういうのはどうかのう。今、銀貨をもう一枚やるから、今月のリダックの連中の手伝いは断る、ってのは……」

呆れ返りつつため息を飲み込んだアリスの耳に、がたん、という大きな音が届いた。はっと顔を上げ、音源のほうに視線を走らせる。

車椅子が横倒しになり、投げ出されたキリトの痩身が見えた。

表情はないが、しかしどこか必死さを感じさせる動きで、枝のような左腕を伸ばしている。あー、ああー、という掠れ声が、搾り出されるように喉から間断なく漏れる。

その腕の先では、弁当を食べていた少年らが、青薔薇の剣を二人がかりで持ち上げようとしていた。真っ赤に興奮した顔で、口々に喚いている。

「うおっ、なんだこりゃ重ェぞ!!」

「馬っ鹿、だからあんな女でも白金樫が倒せるんじゃねえか」

「いいからちゃんと押さえてろよ!」

三人目の少年が叫び、剣を抜こうと両手で柄を握って体を反らせた。

ぎりっ、という剣呑な音が、噛み合わされた奥歯から発せられるのをアリスは聞いた。それを意識するより早く、右脚が強く地面を蹴った。

「貴様らっ……!!」

鋭い声を聴いた少年たちが、ぽかんとした鈍重な顔をアリスに向けた。

その締まらない表情が、僅かながらも怯んだのは、アリスが二十メル以上の距離を一瞬にして駆けるのを見たからだろう。土埃を巻き上げて止まったアリスの眼前で、三人がじりっと後ずさる。

大きく一度息を吸い、激しい感情をどうにか押し留めてから、アリスは倒れたキリトを助け起こしながら低く言った。

「その剣はこの人のものです。早く返しなさい」

それを聞いた少年たちの顔に、挑戦的な反抗の色が浮かんだ。青薔薇の剣を抜こうとしていた、最も大柄な藁色の髪の一人が、唇を歪めて笑いながら片手でキリトを指差す。

「俺たちはちゃんとそいつに剣を貸してくれって言ったぜ」

車椅子に戻ったキリトは、肩にかけられたアリスの手も、少年の言葉もまったく意識することなく、なおも純白の剣に向けて左腕を伸ばしながら細く声を漏らしている。

その様子を嘲るように歯を見せながら、別の少年が続けた。

「そしたらそいつ、気前よく貸してくれたんだよ、なぁ? アー、アーって言ってさぁ」

残る一人も、調子を合わせてへっへっへと笑う。

アリスは、自分の右手を襲った強い震えを抑えるのにかなりの苦労をしなければならなかった。その手は間違いなく、左手で下げたままの夜空の剣を抜こうとしていたからだ。

 半年前の自分なら、一瞬の躊躇もなく、青薔薇の剣に掛けられた六本の腕を斬り飛ばしていただろう。整合騎士は禁忌目録には一切規制されず、騎士団の内規はあるにせよ、それも"不敬行為"という曖昧な基準に拠って処罰対象の天命の最大七割までを減ずることを許している。そもそも、右眼の封印を破った自分を、真に縛る法も規則ももう一つとして存在しないのだ。

 しかし――。

アリスは痛いほど奥歯を噛み締め、己を襲う衝動と戦った。

 あの少年たちは、キリトとユージオが、魂と命までもを引き換えにして守ろうとした"人界の民"だ。傷つけることはできない。キリトもそれは望むまい。

数秒間、アリスはぴくりとも動かず、声も発さなかった。しかし恐らく、瞳に浮かんだ殺気までは隠せなかったのだろう、少年たちは不意に怯えたように笑みを消し、口をつぐんだ。

「……わかったよ、怖ぇ顔しやがって」

やがて、ふて腐れたようにそう吐き捨て、藁色の髪が剣の柄から手を離した。残る二人も、恐らくはもう支えているのも限界だったのだろう、どこかほっとしたように鞘を離し、青薔薇の剣はその場に重々しい音を立てて横たわった。

アリスは無言のまま数歩進み、腰をかがめて、わざと右手の指三本だけで軽々と白革の鞘を持ち上げた。振り向く瞬間、悪餓鬼どもにじろりと一瞥を呉れ、車椅子のところまで戻る。

鞘についた土埃を外套の袖でぬぐってから、白黒二本の剣を一緒に膝に置いてやると、キリトはそれをしっかりと抱きしめて沈黙した。

改めてナイグルのほうを見ると、富農の頭領はこの騒ぎには一切の興味を持たなかったようで、すでに男たちの指揮に没頭していた。湯気を立てながらあれこれ喚き続けるその背中に軽く一礼して、アリスは車椅子の背を押して元きた道を戻り始めた。

胸中に吹き荒れた激しい怒りは、いつの間にか冷たい虚無感に取って変わられていた。

ルーリッド近郊で暮らし始めて、このような思いをするのは初めてのことではない。村人たちの多くは、アリスと言葉を交わそうとすらもしないし、魂に傷を受けたキリトに至っては人間として扱ってさえくれない。

それを責めるわけではない。彼らにとっては、禁忌目録を破った人間などというものは闇の国の怪物と大差ない存在なのだろうから、いっそ村の外に住まわせ、食料や日用品を売ってくれるだけで有り難いと思うべきなのだ。

しかし同時に、何故、何のために、とも思わずにはいられない。

いったい何のために自分たちは、あれほどの苦難を乗り越え、アドミニストレータと戦ったのか。前最高司祭カーディナルとユージオは命を落とし、キリトは言葉と感情を失い、そこまでして守ったものは一体何だったのか。

 この思考の行き着く先は常に、決して言葉には出せぬひとつの問い――。

あの村人たちに、守る価値、意味があったのか、という。

その迷いこそが、アリスに剣と整合騎士第三位の座を捨てさせ、この地の果てに留まらせていると言ってもいい。

 こうしている今も、イスタバリエス帝国の果てにある"東の大門"では、騎士長ベルクーリ率いる新生守備軍が、迫り来る大侵攻への備えを重ねているはずだ。四帝国の近衛軍と各地の衛士隊を掻き集めたと言っても、士気も武装も頭数も充分には程遠く、立場から言えばアリスは一刻も早く馳せ参じるべきなのだろう。

しかし、今のアリスには、金木犀の剣はあまりにも重過ぎる。

唯一絶対の忠誠を誓った最高司祭アドミニストレータを自ら倒し、天には神界も創世三神も存在しないことを悟り、更に人間たちの醜さを知りすぎるほどに知ってしまった。自らの善と正しさを疑うことなく剣を振るうことができたあの頃は遠くに過ぎ去った。

今、アリスが真に守りたいと思う人間はたった三人、妹のシルカとガリッタ老人、そしてキリトだけだ。彼らさえ守れるなら、この地で眠るように暮らし続けるのもいいのではないか。そう思わずにいられない。


稼いだ銀貨で一週間分の食材を買い込み、それを背負って東の森の小屋に帰りつくころには、空はすっかり夕焼けの色に染まっていた。

 扉を開けようとしたアリスは、北から低い風きり音が近づいてくるのに気付いた。木々の梢を掠める低空から現れたのは、巨大な竜の影だった。アリスの騎竜、名前は雨縁(アマヨリ)だ。

飛竜は、二度大きく羽ばたいて勢いを殺すと、軽やかに草地に降り立った。長い首を伸ばし、まずキリトに鼻息を吹きかけてから、アリスに大きな頭を寄せてくる。

緑がかった銀色の和毛を掻いてやると、雨縁はるるるると低く喉を鳴らした。

「お前、ちょっと太ったわね。湖の魚を食べすぎなのではなくて?」

笑み混じりにそう叱ると、ばつが悪そうにふうっと鼻から息を吐き、長い体を回して小屋の裏手にある寝床へと歩いていく。

数ヶ月前、住処が完成したその日に、アリスは雨縁の首に留められていた銀のはみを外し、拘束術もすべて解除した。その上で、お前はもう自由です、西域にある飛竜の巣へ帰りなさい、そう命じたのだが、しかし竜は森から離れようとしなかった。

自分で枯れ草を集めて小屋の裏に寝床をつくり、日中は気ままに森で遊んだり、湖で魚を獲ったりしているようだが、夕暮れには必ず戻ってくる。誇り高く凶暴な性質を、強力な神聖術によってのみ抑え込んでいたはずだったが、いったい何が飛竜をこの場所に留めているのかはアリスにも分からない。しかし、九年間ともに空駆けた雨縁が、彼女自身の意志で一緒にいてくれるのは素直に嬉しいので、あえて追い出そうとはしなかった。飛翔する姿が時折村人に目撃され、アリスへの悪意ある噂の一因になっているようだが、今更気にかけても始まらない。

干し藁の上で丸くなった雨縁に、おやすみを言ってからアリスは車椅子を押して家に入った。

夕食には、豆と肉だんごのシチューを作った。多少豆が硬く、だんごは大きさが不揃いだったが、味は随分とまともになってきた気がした。もちろん、キリトが感想をくれるわけではない。小さなスプーンで口に入れてやったものを、思い出したように噛み、飲み込むだけだ。

せめて、何が好物で何が嫌いなのかくらい知っていれば、と思うものの、この若者と話をした時間は一日にも満たぬ短さだった。シルカは二週間近く同じ教会で寝起きしたらしいが、しかし食事に何が出ようと嬉しそうにがっついていた記憶しかないという。それもまたキリトらしいと思う。

時間をかけてどうにか皿を空にさせ、ごちそうさまを言った。

洗った食器を拭き、棚に並べているときだった。突然、いつもならもう静かに眠っているはずの雨縁が、窓の向こうでルルルッと低く唸った。

はっとして手を止め、耳を澄ます。森を渡る夜風に混じって届いたのは、間違いなく大きな翼が立てる風切り音だった。

戸口の掛け金を上げるのももどかしく、前庭に飛び出して空を仰ぐ。切れぎれの雲間にのぞく星空を背景に、螺旋を描いて舞い降りてくる黒い影は、間違いなく竜の翼のかたちだった。

「まさか……」

暗黒騎士が山脈を越えてきたのか、と息を飲んだが、剣を取りに戻りかけた直前、星明りを受けて竜のうろこが明るく輝くのが見えた。僅かに肩の力を抜く。銀鱗を持つ飛竜を駆るのは、人界とダークテリトリーを含めても整合騎士しかいない。

しかし、安心するのは早い。いったい誰が何のためにこんな辺境まで飛んできたのか。反逆者キリトの粛清論は、半年経っても消えていないのだろうか。

小屋の裏から雨縁も這い出てきて、長い首を高くもたげて再び低く唸った。

しかし、剣呑な響きはすぐに消え、喉声はきゅうんと甘えるような甲高いものに変わった。その理由は、アリスにもすぐに分かった。

 見事な手綱さばきで、狭い草地に大した音もさせずに着地した騎士の竜は、雨縁とよく似た青緑がかった銀の鱗を持っていた。間違いなく彼女の兄竜、名を滝刳(タキクリ)。ということは、その背に乗る白鎧の騎士は――。

左腰の長剣と、右腰に束ねた鞭を鳴らして降り立った騎士に、アリスは硬い声で呼びかけた。

「……よくここが分かりましたね。何をしに来たのです、エルドリエ」

長身痩躯の整合騎士は、すぐには応えず、流麗な仕草で右手を胸にあててまず一礼した。おもむろに外された、後方に長い飾り角を立てた兜の下から現れたのは、艶やかな藤色の長い巻き毛と、男としてはやや華美すぎるほどに整った容貌。紅を引いたように鮮やかな唇が動き、音楽的な声が流れた。

「お久しゅうございます、我が師アリス様。装いは違えど相変わらずお美しくいらっしゃる。今宵の月明かりには師の御髪もさぞ麗しく輝いておられようと思うと居ても立ってもいられずに、秘蔵の銘酒片手に馳せ参じた次第」

背中に回されていた左手がさっと差し出されると、そこに握られていたのは一本の赤ワインだった。

アリスはため息を飲み込みながら、剣の弟子であるところの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスを眺めた。

「……傷は癒えたようで何よりですが、性格は変わっていませんね。今気付きましたが、そなた少し元老チュデルキンに似ていますよ」

うぐっ、と妙な音を出すエルドリエに背を向け、小屋へと歩きだす。

「あ、あの、アリス様……」

「真面目な話があるのなら中で聞きます。無いならそこで一人酒をしなさい、好きなだけ」

半年振りの再会に、嬉しそうに首をこすり合わせている滝刳と雨縁の兄妹をちらりと見上げてから、アリスは足早に小屋へ戻った。

おとなしく付いてきたエルドリエは、狭い小屋のなかを物珍しそうに見回したあと、テーブルの脇で俯くキリトをちらりと一瞥し、僅かに切れ長の眼を細めた。しかしそれきり、かつての剣敵のことは無視することに決めたようで、素早くテーブルの奥に滑り込むと、アリスのために椅子を引いた。

「…………」

ありがとう、と言うのも馬鹿馬鹿しいのでため息で代用し、アリスはどすんと腰を降ろした。エルドリエは勝手にアリスの向かいに座ると、ワインをテーブルに置き、不意に顔を持ち上げて形のよい鼻をひくひく動かした。

「何やら良い匂いがしますな、アリス様。ところで私、夕餉はまだ食べておりませぬ」

「何がところでなのですか。だいたい、長駆するのに酒を持って携行食を持たぬとはどういうことですか」

「私はあのぱさぱさした奴は一生食わぬと三神に誓いましたので。あんなもので腹を満たすくらいなら、飢えて天命が尽きようとも本望というもの……」

エルドリエの益体も無い返答のなかばでアリスは椅子を立ち、背後の台所に移動すると、かまどに乗った鉄なべからシチューの残りを皿についでテーブルに戻った。

無言で目の前に置かれた皿を、エルドリエは一瞬の喜びと、続く疑念をあらわにして見下ろした。

「…………つかぬことを伺いますが、これはもしやアリス様お手ずから……?」

「そうですが。それがどうかしましたか」

「…………いえ。我が師の手料理を頂ける日が来ようとは! 秘剣の型を授かったときに勝る喜びというもの」

緊張した表情で匙を握り、豆を口に運ぶエルドリエが再び何かを言い出す前に、アリスは声音を改めて再び問い質した。

「それで、そなた、どうやってこの場所を探り出したのです。央都からはいかなる探査術も届かぬ距離……さりとて、今更私ひとりを見つけるために騎士を割く余裕など、カセドラルには無いはずです」

エルドリエはしばらく答えず、何だ旨いじゃないですか、などと呟きながらシチューをがっついていたが、やがて綺麗になった皿を置くとまっすぐにアリスを見た。

「私とアリス様の魂の絆によって……と言いたいところですが、残念ながらまったくの偶然ですよ」

芝居がかった仕草でさっと右手を広げる。

「最近、北方で活動するダークテリトリー勢があるという情報が届きましてね。南北西の洞窟はすべて、騎士長の指示で潰してありますが、そこを性懲りも無く掘り返す気かもしれんということで、私が確認にきたのです」

「何……洞窟を……?」

アリスは眉をしかめた。

果ての山脈に穿たれた四箇所の孔のうち、南、西、そして北の洞窟はごく狭く、闇の軍勢の中核を成す巨躯のオークやトロールは通過できない。ゆえに、敵軍の本陣は東の大門に集結すると予想されたが、騎士長ベルクーリは念を入れて、指揮権を得た直後に三箇所の洞窟をすべて崩落させたのだ。

それを知っていたからこそ、アリスはこの地を隠遁先に選んだのだが、敵が洞窟を掘り返すとなれば状況は変わる。ここは平和な辺境からたちまち戦火の最前線となってしまう。

「それで……動きは確認できたのですか」

「丸一日かけて飛びまわりましたが、オークはおろかゴブリンの一匹すらも見ませんでしたよ」

エルドリエは再び肩をすくめた。

「大方、新米の騎士が、獣の群れか何かを軍勢と見違えたのでしょう。……っと、これは失言」

新米と言うならば、最新の整合騎士であるアリスがもっとも該当することになる。頭を下げるエルドリエに軽く手をかざし、アリスは考えた。

「……洞窟は確認しましたか?」

「無論。向こう側から中を覗きましたが、見渡すかぎり岩で埋まっておりましたよ。あれを掘り返すにはトロールが一部隊は要るでしょう。……それを確かめ、再び東へ戻ろうと手綱を引いたところ、滝刳が妙に騒ぎましてね。導かれるまま飛んでみたら、この場所に降りたという次第です。正直、私も驚きましたよ。大した偶然……いや、やはり運命の導きか」

いつの間にか芝居めいた口調を一切消し、エルドリエは剛直な騎士の貌になって続けた。

「いまこの時、再び相まみえたからには、これを申すのは私の責務。アリス様……騎士団にお戻りください! 我々は、千の援軍よりもあなた御一人の剣を必要としております!!」

迷いの無い強い視線から逃れるように、アリスは僅かに俯いた。

判っている。

人界を包む脆い殻が、いま音を立てて砕けようとしていることも。それを支えようとするベルクーリと守備軍の絶望的な状況も。

 騎士長には返し尽くせぬ恩があるし、エルドリエを含む整合騎士団の朋輩たちには絆を感じもする。しかし、それだけでは戦えないのだ。強さとは意志の力そのものである、アリスは最高司祭との戦いで知りすぎるほどにそれを知ってしまった。天命や権限の絶望的戦力差を覆すのも意志力なら、最強の刃をなまくらに変えてしまうのもまた同じ――。

「……できません」

ごく微かな声で、アリスは答えた。

間髪入れず、エルドリエの鋭い声が響いた。

「何故です」

返事を待たず、鞭のように鋭い視線を、左横の車椅子に沈み込む若者に向ける。

「その男のせいですか。カセドラルの神聖を侵し、多くの騎士を刃にかけた此奴が、今も尚アリス様のお心を惑わせているのですか。であればその迷い、今すぐにでも私が断って差し上げる!」

ぎり、と右腕に力を込めるエルドリエを、アリスは一瞬かつての剣気を取り戻した両眼で射た。

「やめなさい!」

抑えた声量ではあったが、整合騎士は指先を持ち上げただけでぴたりと動きを止めた。

「彼もまた、己の信じる正義のために戦ったのです。そうでなければ、なぜ最強たる我ら整合騎士が、騎士長にいたるまで遍く敗れ去ったのですか。彼の剣の重さは、直接刃を交えたそなたが一番よく知っている筈」

怜悧な鼻梁に、僅かに悔しげな皺を寄せ、エルドリエは再び体を落とした。勢いの失せた口調で、呟くように独白する。

「……確かに、人の半数を剣骨の兵に変えるという最高司祭様の計画は、私にも受け入れがたいものです。そして、此奴が現れなければ、計画が実行されるのを何ぴとも止められなかったでしょう。増して、此奴を導いたのが、アドミニストレータ様に放逐されたもう一人の最高司祭であった、という騎士長殿の話が事実であるなら、私も今更此奴の罪を問おうとは思いませぬ。しかし……そうであるなら、尚のこと納得が行かない!!」

今までせき止めていた胸のなかのものを吐き出すように、エルドリエは叫んだ。

「この男が、アリス様の仰るように整合騎士をも上回る最強の剣士だというのなら、何故いま剣を取り戦おうとしないのです!! 何故このような情けない姿に成り果て、アリス様をも縛りつけようとするのですか!! 民を守るというなら、まさに今こそがその時だというのに!!」

火を吐くようなエルドリエの言葉にも、キリトは一抹の反応すらも見せなかった。薄く開いた黒瞳を、虚ろにテーブルに向け続けるのみだ。

降り積もる重い沈黙を、やがてアリスは穏やかな声で破った。

「……御免なさい、エルドリエ。私はやはり行けません。この人とは関係ない……私の剣力はもう失せてしまった、それだけなのです。今そなたと立ち会えば、たぶん三合と持たないでしょう」

エルドリエははっとしたように顔を上げ、アリスを見つめた。歴戦の騎士の貌が、一瞬、幼い少年のようにくしゃりと歪み、やがて諦念を映した微笑に変わった。

「……そうですか。では、もう何も言いますまい……」

ゆっくりと右手を伸ばし、低く速い詠唱で神聖術の起句を呟いた。生み出した二個の晶素を、騎士は熟練の駆式でたちまち光り輝く薄いグラスに変えた。

テーブルからワインの瓶を取り上げ、指先でキン、と音をさせて首を切断する。鋭利な切断面を傾け、優美な仕草でごく僅かずつ真紅の液体をグラスに注ぎ、瓶を置いた。

「……別れの酒になると知っていれば、秘蔵の西域産二百年を持って参りましたものを」

片方のグラスを持ち上げ、エルドリエは一息に呷ると、そっとテーブルに戻した。一礼して立ち上がり、純白のマントを翻して背中を向ける。

「では、これで御別れです、師よ。教授頂きました剣訣、このエルドリエ生涯忘れませぬ」

「……元気で。無事を祈っています」

どうにかそれだけ口にしたアリスの言葉に、僅かに見せた横顔で微笑みを返し、整合騎士はかつかつと長靴を鳴らして歩き去った。その背中は揺るぎない剣士の誇りに満ちていて、アリスは思わず目を伏せた。

ドアが開き、閉じると、数秒後に滝刳が一声高い鳴き声を放ち、羽ばたき音がそれに続いた。兄との別れを惜しむ雨縁の鼻声が、アリスの胸をちくりと刺した。

アリスはしばらく、身動きせずじっと座っていた。

やがて手を伸ばし、残されたグラスを持ち上げると、中身をそっと唇で受けた。半年振りのワインは、甘さよりも渋さを強く舌に残した。直後、短い天命が尽きた二客のグラスが微かな光と変じて消滅した。

そのまま、アリスは長いこと椅子に背を丸めていたが、どこか遠くで名も知れぬ獣が遠吠えしたのを機に、やっと身体を起こした。

「……御免なさいね、キリト。疲れたでしょう、いつもならもうとっくに休む時間だものね」

車椅子の若者に囁き、そっと肩に手をあてて起立させる。黒い部屋着を脱がせ、生成りの寝巻きに着替えさせると、やせ細った体を抱えて寝室に運んだ。

窓際の大きなベッドの奥がわにそっと横たえ、足元から毛布を持ち上げて首元までかけてやる。半眼に開いたままのキリトの瞳は、瞬きもせずに虚ろに天井を見上げる。

ベッドから離れ、壁のランプを吹き消すと、室内にはうす青い闇が降りた。それでもキリトは尚もじっと天井を見続けていたが、数分が経ったとき、まるで何かの動力が切れたかのように、音も無く瞼が閉じた。眠ったのではなく、恐らくは、夜、暗い部屋で横になれば眠るものだ、という過去の記憶に体が反応しただけに過ぎないのだろうが。

それでも、アリスはほっと息をつくとベッドから離れ、自分も寝巻きに着替えた。居間の灯りも落とし、戸口に閂をかけてから寝室に戻る。

ベッドの毛布を持ち上げ、手前側にもぐりこむと、微かな温もりが身体を包んだ。

いつもなら、眼を閉じればすぐに穏やかな眠りのなかに逃げ込めるのだが、今日はなかなか眠りの神の一撫では訪れなかった。

歩き去るエルドリエの背中、眩いほどに白いマントの上で揺れる藤色の巻き毛の輝きが瞼の裏にのこり、ちくちくと眼の奥を疼かせる。

かつては、自分の背中も同じように誇り高い光に彩られていたはずだ。己の剣で世界を、正義を、あまねく善なるものを護っているのだという揺るぎない確信がいかなるときも指先までに強く行き渡っていた。しかしもう、その力は最後の一片まで失われてしまった。

エルドリエに、かつての弟子に問いたかった。あなたは一体何を信じ、何のために戦うのかと。

 しかしそれはできない。アリスとベルクーリ以外の整合騎士は、最高司祭の恐るべき企てについて最小限のことしか知らされていないからだ。あのエルドリエにしても、封印された最上階に己の"過去の記憶"と、そしてその記憶に残る"最愛の人"の変わり果てた体が残されているなどとは露にも思っていないのだ。

ゆえに、彼はまだ教会そのものの正しさを信じていられる。いつかまた次の最高司祭が彼らの上に立ち、再び栄光の時代が戻ることを疑わず、それゆえに雄々しく剣を取り竜を駆れる。

だが、それすらも大いなる欺瞞だと知ってしまった自分はどうすればいいのだ。止むを得ないとはいえ、騎士長ベルクーリはすべての騎士に真実を隠し、絶望的な戦いへと向かわせている。今そこへ加われば、この胸に抱えた迷いはきっと他の騎士たちも惑わせてしまうだろう。

 間もなく、最後にして最大の侵攻が始まる。騎士は一人、また一人と倒れ、戦火は広がり、やがてこの山すその村までを飲み込む。それを止めることはもう誰にもできない。僅かな可能性があるとすれば、あのカセドラルでの戦いの最後で、キリトが謎の"神たち"と交わしていた会話の断片――。

『ワールド・エンド・オールター』、そして『東の大門から出て南へ』。その二言だけがおぼろげに記憶に残る。

しかし、大門から出る、ということはその先は黒い荒野と血の色の空が広がるダークテリトリーだ。キリトは、いったいその地で何をしようとしていたのだろうか。

アリスは枕の上で首をかたむけ、離れたベッドの向こう端に横たわる傷ついた若者を見やった。

毛布の中を這い進み、その隣まで移動する。そっと手を伸ばし、まるで悪夢に追われる幼子のように、体にすがりつく。

骨ばかりの体は寒々しいほどに細く、右腕のあるべき空間の虚ろさが胸を刺す。

どれほど強く抱きつこうと、かつてあれほど荒々しくアリスの心を揺さぶり、目覚めさせ、導いた若者はいかなる反応も見せなかった。睫毛の先が震えることすらなかった。ここにあるのは、最早完全に燃え尽きた炭殻に過ぎないことを、アリスは痛いほどに感じた。緩慢に鼓動する心臓の動きすらも、いっそ哀れだった。

 いま、右腕に剣があったら――。

触れ合ったふたつの心臓をともに貫き、そしてすべてを終わりに。

その一瞬の思考が、熱い涙となって目尻から零れ、キリトの首筋に散った。

「教えて……。どうすればいいの……」

答えはない。

「私は……どうすれば…………」

静寂のなか、ただ、木々の梢を揺らす晩秋の夜風だけが過ぎていった。


(転章II 終)*「あ…………あ…………」

自分の喉から搾り出される割れた声を、俺はどこかとても遠い場所から聴いた。

世界はすべての色を失い、匂いも、音も、極限まで希釈された。

無感覚の空間のなかで、こんこんと広がり続ける血の色だけがぞっとするほど鮮やかだった。その真紅の海の中央、横たわるユージオの上半身のすぐ傍らに、はるか上空から煌きながら舞い降りたものがあった。

 とん、と軽い震動と波紋を生じさせて血溜まりに突き立ったのは、華奢な青銀の長剣――青薔薇の剣だった。見た目は完璧なまでに無傷、と思えたのはほんの一瞬で、不意に、かしゃん、とささやかな破砕音が響き、刀身の半ばから下が極微の結晶となって砕け散った。支えを失った上半分が、ゆっくりと傾いて、ユージオの顔のそばに力なく転がった。飛び散った飛沫のひとつがユージオの頬に当たり、つう、と流れた。

俺は、よろよろと二、三歩あとずさると、床に両膝を突いた。

虚ろに眼を開いたまま、すがりつくように腕のなかのカーディナルの遺体を強く抱いた。しかしその小さな体は、すでに半ば以上光の粒へと還元され、実体をほとんど失っていた。放出された仄かに暖かいリソースは俺の体へと浸透し、何らかの作用を導こうとしているようだったが、俺の胸中に広がる虚無を埋めるには足りなかった。冷ややかで果てのない空疎のみが俺の内部を満たした。

 もう――これで終わりにしよう。

そんな思考が、虚ろの奥から泡のように浮かんではじけた。

 俺たちは、いや俺は、あらゆる意味で敗れたのだ。俺がいまこの場所に存在する意味、それはただひとつ、ユージオという名の魂を現実世界へと解き放つためではなかったか。なのに現実には、俺がユージオの犠牲に守られ、こうして木偶のように跪いている。この世界で命を落とそうと、それは単なる"ログアウト"にしかならない俺が。

なら、もう終わらせてくれ。

あとはただ、フェードアウトするようにこの場所から消え去りたい。

もうこれ以上、何を見たくも、聞きたくもない。

俺はただそれだけを願った。

 しかし――。

アンダーワールドは、やはり、ひとつの確たる現実であり、その支配者もまたエンド画面とともに停止するプログラムなどではなかった。

血の海に立ち尽くしていたアドミニストレータの、彫像のごとき無表情のなかに、かすかな感情の色がいくつか浮かび、消えた。唇が動き、俺の耳に否応なく美しい声が届いた。

「これほどの傷を負ったのは……何百年ぶりかしらね」

その呟きは、怒りよりもむしろ感嘆しているかのようだった。

「ユージオちゃんが転換した剣……プライオリティ的には、とても私の"シルヴァリー・エタニティ"に対抗できるはずはなかったのに、意外な結果だわ。メタリック属性でないのを見落としたのも私の失点ね。まだまだ考証すべきデータは多いわ……」

切断された右肩からは、ぽたり、ぽたりと紫がかった真紅の血が垂れ、足元の海に波紋を作っている。アドミニストレータはその雫をいくつか左の掌に受けると、それを青い光へと変え、傷口に注いだ。切断面が一瞬にして滑らかな皮膚に覆われた。

「さて……」

応急手当を終えた支配者は、長い睫毛をしばたかせ、銀の視線を俺に向けた。

「最後に残ったのがお前だとは、これも少々意外ね、人間の坊や。管理者権限も持たずに、一体何のためにここまで来たのか、わずかばかりの興味はあるけど……でも、もういささか飽きたし、眠いわ。顛末はあとであの者に訊くとして、いまはお前の血と悲鳴でこの喜劇の幕を引くとしましょう」

す、と右足が前に出され、アドミニストレータは優美な動作で歩行を始めた。ユージオの血でできた海に、ぱしゃりぱしゃりと飛沫が跳ねる。

 歩きながら、俺の死神である少女は、滑らかに左手を真横に伸ばした。その掌目掛けて、後方からふわりと飛んできたのは、華奢な一本の腕――ユージオの剣に撥ねられた彼女の一部だった。

肩に再接続するのか、と思ったが、自分の腕の手首部分を握ったアドミニストレータは、それを顔の前まで持ち上げ、ふっと息を吹きかけた。その途端、紫色の光が腕を包み、金属質の震動音とともにオブジェクト転換が行われた。

 出現したのは、シンプルながら華麗な刀身と柄を持つ、銀色の長剣だった。破壊されたレイピアほどには完璧な鏡色ではないが、世界最高の優先度を持つ人間の腕一本をまるまるリソースとしているだけあって、その秘めたる威力は明らか――少なくとも、一撃で俺の首を撥ねるには充分すぎると思えた。

死が、滑らかな音で絨毯を踏みながら近づいてくるのを、俺は跪いたままただ待ち受けた。

もう何の感情も見せることなく、俺の目の前までやってきたアドミニストレータは、片腕を失ってもなお輝かんばかりの裸形で、傲然と俺を見下ろした。

見上げた俺の視線と、鏡の瞳がはなつ磁力的な光がぶつかった。その双眸に、ごく微かな笑みを浮かべ、少女は優しい声で囁いた。

「さようなら、人間。いつかまた、向こうで会いましょう」

きらきらと光を振り撒きながら、長剣が高々を振りかざされた。

 針よりも鋭い切っ先に、ちかりと星のような瞬きが宿り――。

神速でそれが降り注ごうとした、その寸前。

ひとつのシルエットが、俺と死のあいだに割って入った。

長い髪が、ふわりと宙を舞った。

両腕をいっぱいに広げた、満身創痍の少女騎士の背中を、俺は呆然と見つめた。

この光景は、

見たことがある。

俺は、

何度、

 同じ過ちを――


 ――繰り返すつもりなのか!!

閃光にも似たその叫びが、時間を一瞬、停止させた。

静寂に包まれたモノクロームの世界で、いくつかのことが連鎖的に起きた。

俺の腕のなかのカーディナルのからだが、ついに最後の光を散らして消滅した。放出されたリソース、あるいは世界を愛した一人の少女の遺志が仄かな熱となり、俺の内側の深いところにまで届いた。

そこに凝っていた冷たい恐怖、俺の動作を縛していた敗北の確信を、小さな手が撫で、ほんの少しだけ溶かした。

負のイメージが消えたわけではない。

しかし、その弱さを肯定することはできるのだと、温かな手の持ち主が俺に囁いた。

常に勝ち続けなくてもいい。いつか敗れ、倒れたとしても、心を、意志を誰かに繋げられれば、それでいい。

 ――これまで、お主とひとときを共有し、そして去っていったすべての者はそう思っておったはずじゃ。無論、このわしも。

 ――ならば、お主だって、まだ立てるはずじゃ。

 ――愛する誰かを、守るためなら。


身体の、あるいは意識の奥底から発生したささやかな熱が、凍りついたフラクトライトのなかに細い回路をつないでいくのを俺は感じた。

胸の中央から、右肩を通り、腕をたどって、指先へと。

燃え上がるような熱さに包まれた五指が、ぴくりと震えた。

かつてない程の速度で閃いた右手が、左腰の剣の柄を、しっかりと掴んだ。

そして再び、時間が動き出した。


俺を守らんと、大きく両手を広げて立つ騎士アリスの左肩口めがけ、アドミニストレータの剣が流星となって墜ちてくる。

その告死の刃が、焼け焦げた騎士服のふくらんだ袖を引き裂き、白い肌に食い込もうとした、まさにその瞬間。

俺が立ち上がりざまに抜刀した黒い剣の切っ先が、ぎりぎりの所で下方から迎え撃ち、凄まじい火花を散らした。

発生した衝撃は、密接していた俺とアリス、そしてアドミニストレータを圧倒的な勢いで吹き飛ばした。

胸に倒れ込んでくるアリスの身体を左手で抱えたまま、数メートルも後方に押しやられた俺は、両脚を踏ん張って硝子に激突するのをこらえた。俺の右肩に頭をあずけたアリスは、ずるりと顔を傾かせて、青い瞳で俺を見た。

「なんだ……」

アドミニストレータの火炎攻撃をその身で防いだ傷も生々しい頬を、ほんのわずかにほころばせ、騎士はかすれた声で囁いた。

「まだ、動けるでは……ないですか」

「……ああ」

俺も、どうにか笑みらしきものを返し、そう答えた。

「後は、任せておけ」

「そう、させて……もらいます」

その一言を最後に、アリスは再び意識を失い、がくりと膝を折った。

細い体を左腕で支え、そっと床に降ろすと、俺はもういちど胸中で呟いた。

あとは任せて、ゆっくりと休んでくれ。

シャーロット、カーディナル、そしてユージオから預かったこの命を、俺は君に繋ぐ。

いま、どうしても成すべきは、アリスだけでも何としてもこの隔絶空間から脱出させることだ。そのために、俺はアドミニストレータと戦い、勝てないまでも相討ちに持ち込まねばならない。

たとえこの四肢すべて斬り飛ばされ心臓を貫かれようとも。

その覚悟を噛み締めながら視線を上げ、俺は敵を見据えた。

アドミニストレータは、笑みを極限まで薄れさせ、剣を握った左手を見つめていた。先の戟剣で傷ついたのか、柔らかそうなその掌がわずかに擦りむけ、一滴の血が剣の柄に伝っている。

「……さすがにそろそろ不愉快になってきたわ」

ぽつり、と極寒の響きをまとった声が漏れ出た。俺に向けられた鏡の瞳が、すう、と細められた。

「何なの、お前たちは? なぜそうも無為に、醜く足掻くの? 結果はもう明らかだというのに。そこにたどり着く過程にどんな意味があるというの?」

「過程こそが重要なんだ。跪いて死ぬか、剣を振りかざして死ぬかがね。俺たちは人間だからな」

 応え、まぶたを閉じ――俺はもういちど、敗れるべき己の姿をイメージした。

 これまで、長い間俺を否応なく規定してきた"黒の剣士キリト"の自己像。決して敗北してはならない――もし敗れたときは、あらゆる居場所を失うと怯えてきた呪縛の象徴。

しかしもう、その虚像からも手を離すべきときだ。

眼を開けると、長い前髪が視界にかかっていた。それを、指貫きのグローブに包まれた左手でかき寄せ、長い黒革のコートの裾を翻すと、俺は右手の長剣を正眼に構えた。

離れた場所に立つアドミニストレータは、瞬間眉を険しくしかめたあと、この一幕でもっとも残酷な笑みを浮かべた。

「そう、いいわ。あくまで苦痛を望むというのなら……お前には、とてもとても永く惨い運命を与えましょう。はやく殺して、と千回懇願したくなるほどの」

「それじゃ足りないな……俺の愚かさを償うには」

呟き、ぐっと腰を落として、俺は敵の銀の長剣を見た。

アドミニストレータの神聖術の超絶的威力はこれまで散々思い知らされたが、そのリソース源であった鏡のレイピアが破壊されたいま、高優先度の術式を連発することはもうできないだろう。それゆえに彼女はわざわざ己の腕を、新たな剣へと変換したのだ。

武器による近接戦闘は俺としても望むところだが、敵の剣技はまったくの未知数である。恐らくはアリスに代表される整合騎士のスタイル、つまり単発の大技を主とするものだろうが、それが決して侮ってよいものではないことは、アリスとの戦闘で思い知らされたとおりだ。

武器のプライオリティそのものでは恐らくこちらが劣るので、遠距離からの撃ち合いとなれば不利だ。なんとか密接し、敵の一撃を体で止めて、反撃を確実に命中させるしかない。

腹を決め、俺は突進に備えてさらに腰を落とした。前に出した右脚に、引き絞られた弓のように限界まで力を込める。

対峙するアドミニストレータは、涼やかな立ち姿で左手の剣を高く左後方に掲げた。やはりアンダーワールド風の古流の構えだ。あそこから放たれる一撃は恐らく回避不可能の神速技、それをなんとか連続技の初撃でいなして致命傷を避け、続く二撃目を当てる。

「………………」

俺は大きく息を吸い、ぐっと腹に溜めた。

一瞬ののち、右脚のブーツを爆発するように踏み切って、俺は跳んだ。

 コートの裾が、翼のように両側ではためく。一条の黒い光線となって、俺は宙を疾る。右手の剣が、きらりと閃いて初動に入る。垂直四連撃、バーチカルスクエア――。

アドミニストレータは、俺の予想どおり、振りかぶった銀の剣を斜めの軌道で撃ち降ろしてきた。その描く曲線を読み、こちらの技を微調整して、敵の剣の腹へと叩きつける。

ギャアアンッ!!

という強烈な金属音が響き、迸った火花が空間を灼いた。

 跳ね返された剣を、そのまま左に振りかぶり、無呼吸の二撃目に――

待て。

軽い。

予想では、アドミニストレータの剣は、俺の左肩に命中しそこで止まるはずだった。

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