すぐさまステータス数値的に殺害・排除し、アリスを追おうと一度は考えた。

しかし若者がコートの裾をコウモリの翼状に変化させ、更に全属性の魔法を同時に操るのを見て少しだけ気が変わった。この世界に慣れている、と感じたからだ。

 アリスを確保し、STL技術とともに第三国に脱出したあとは、自分だけの世界を隅々まで好みに合うように構築する作業が待っている。それを効率的に行うためにも、若者が持っている操作技術を奪っておくのは悪くない。

そのためには、あのイマジネーションの殻を破壊する必要がある。

ガブリエルは薄い笑みとともに、黒衣の少年に向けて言葉を放った。

「三分やろう。私をせいぜい楽しませてくれ」


「……気前のいいことだな」

俺は、指先の一撫でで傷を塞ぎながら呟いた。

だが、ガブリエル・ミラーの余裕にはたっぷりと裏づけがある。何と言っても全属性の攻撃に対して無敵なのだ。

 ――いや、たった一つだけ、通用するダメージも無くはないだろう。奴の右腕を肩から吹っ飛ばしたのは、恐らく先行していたシノンだ。イマジネーションで狙撃銃を作り出し、撃ち抜いたのだ。つまり、"銃撃"属性の攻撃ならばさしものガブリエルも吸収しきれないということになる。

その理由は、あの男がまがりなりにもミリタリージャケット姿であることと無関係ではあるまい。兵士としての長い経験を通して大口径銃の威力を知り抜いているがゆえに、自分が撃たれたときのダメージもまた無効化できなかったのではないか。

 だが、このアンダーワールドで銃を具現化するなどという離れ業は、愛銃ヘカートIIを手足のように扱うシノンだからこそ出来たことだ。俺にはとても真似できないし、仮に拳銃ひとつくらい作り出せたところで、とても威力までは伴うまい。

つまり俺は、銃撃属性以外に、何かあの奇怪な男がダメージとして認識し得るものを見つけ出す必要がある。

それは即ち、ガブリエルという人間を知るということだ。どのように生き、何を望み、何故今ここに居るのかを看破しなくてはならない。

左右の剣をぴたりと構え、俺は口の端に笑みを浮かべた。

「いいだろう、楽しませてやるよ」


いったい、あの態度の根拠は何なのか。

長期間アンダーワールドにログインし、システムに慣れているのは確かだろうが、しかしたかがゲームプレイヤーの子供ではないか。大仰に両手に握った剣や、派手派手しい魔法攻撃の全てが無力であることを思い知らされたばかりだというのに、何故ああもふてぶてしく笑っていられるのか。

ガブリエルはかすかな不快感とともに考え、つまりは時間稼ぎのための虚勢だと結論づけた。

たとえこの世界で死のうとも、現実の肉体には何の傷も負わないとたかをくくっているのだ。その上で、もう一人の仲間がアリスを確保するまで戦闘を引き伸ばすことだけを考えている。

所詮は愚昧な子供だ。付き合うのは三分でも長すぎる。

 かりそめの右腕に握った、虚ろなる刃をゆらりと振り――ガブリエルはそれを、自らが乗る有翼生物の背に無造作に突き刺した。

 もともとこの怪物は、剣やクロスボウと同じく、"サトライザ"のアカウントが所持していた飛行用バックパックがコンバート時に置換されたものだ。意思のままに制御できるとは言え、両足だけで乗っているのは安定感に欠ける。あの少年のように、翼だけにしたほうが合理的というものだ。

背中を串刺しにされた怪物は、ギイッと短い悲鳴を上げただけで、たちまち虚無に吸い込まれた。ガブリエルは、剣を通して右腕に流入してきたデータを背中に回し、意思を集中させた。

ばさっ。

という羽ばたき音ともに、少年と同じく黒い翼が肩甲骨のあたりから伸長した。しかし、こちらはコウモリのような皮膜型ではなく、鋭い羽毛を重ねた猛禽のそれだ。天使の名を持つ自分には、こちらのほうが相応しい。

「……一つ、盗んだぞ」

ガブリエルは、虚無の刃を若者にまっすぐ向けながら囁いた。


次の攻撃で、敵の乗る円盤型の飛行生物を陥とそうと思っていた俺は、先手を打たれて一瞬判断力が低下した。

その隙を逃さず、黒い猛禽の翼を羽ばたかせてガブリエルが間合いに滑り込んでくる。

ノーモーションで突き込まれてきた刃の速度は、驚くべきものだった。剣技に関しては素人と睨んでいたがとんでもない。十字にクロスさせた二本の剣で、下から救い上げるように受ける。

ぎじゅっ!

と異様な音とともに、青黒い闇の剣が俺の鼻先で停止した。

青薔薇の剣と、夜空の剣が激しく軋む。かろうじて虚無に喰われはしないものの、言わば断絶空間と切り結んでいるようなものだ。天命に巨大な負荷がかかっていることは想像に難くない。

しかし、バックステップで回避せず、あえて危険を冒してブロックで受けたのは作戦のうちだった。俺は、下から突き上げた剣が再度斬り降ろされてくる勢いを利用し、思い切り身体を後転させた。

「ラァ!!」

気合とともに、ガブリエルの顎目掛けて真下から蹴りを浴びせる。

橙の光を引きながら伸び上がったつま先が、尖った顎下を捉えた。ボッ、と闇が飛び散り、敵が仰け反る。

 ――どうだ!?

 翼で強く空気を叩き、距離を取りながら俺は敵の様子を確かめた。銃撃、とまでは行かなくとも、"打撃"ならば――奴がほんとうに特殊部隊の兵士なら、当然格闘術の訓練も受けているはずゆえ、ダメージと認識する可能性はある。

かくん、と頭を戻したガブリエルは、しかし、表面的にはまったく無傷だった。

顎から飛び散った黒い闇は、すぐに元通りに凝集して滑らかな皮膚へと変わった。そこを左手で撫でながら、敵はにやりと笑った。

「なるほどな。しかし残念ながら、そんな大技はショウ・アップされたテレビ向けの代物だ。本物のマーシャル・アーツというのは……」

びゅっ!!

と空気を鳴らし、言葉半ばで、ガブリエルはその姿が霞むほどの速度で突っ込んできた。左上から振り下ろされる剣を、俺は反射的に青薔薇の剣で弾き、同時に右手の剣で反撃した。敵の肩口に刃が食い込み、まるで高濃度の粘液に包まれたかのような手応えとともに動かなくなる。

 と、伸びきった俺の右腕に、するりと絡みつくものがあった。ガブリエルの左腕だ。黒い蛇のように巻きつき、たちまち逆関節を極められ――。

ごきっ。

という嫌な響きとともに、俺の脳天に銀色の電流にも似た激痛が走った。

「ぐあっ……」

呻く俺の眼を間近から覗き込み、ガブリエルは囁いた。

「……こういうものだ」


直後、猛烈なラッシュが開始された。

虚無の剣が、無限にも思える連続技を超高速で撃ち込んでくる。それを右手の剣一本でどうにか捌こうとするが、時折防御を抜けてきた一撃が、体のあちこちを浅く抉り取っていく。へし折られた左腕を回復させるために精神を集中する暇などまったく無い。

「く……おっ……」

思わずうめき声を漏らし、俺は距離を取るべく翼を強く羽ばたかせた。

全力でバックダッシュしながら、剣を握るだけで精一杯の左腕に右手の指を二本這わせる。

白い光が集まりかけた、その時。

ガブリエルがすっと左手を掲げ、鉤爪のように五指を曲げてから、一気に開いた。

十本以上の漆黒のラインが放射状に広がり、途中で鋭角に折れてまっすぐ襲い掛かってくる。

 俺は歯を食いしばり、イマジネーションの防壁を展開した。アリスの竜たちを襲った同じ技を弾いたときは強固な確信があったが、今は集中力の半分を治癒に割いている――という認識それ自体が、盾の強度を減少せしめ――。

ズバッ。

という震動が、体の数箇所に生じた。

防壁を貫通した闇の光線三本が、胴と両脚を穿った。痛みよりも先に、凄まじい冷気が感覚を駆け巡った。見れば、撃たれた箇所には青黒い虚無がまとわりつき、俺の存在そのものを喰らっている。

「ぐ……!!」

再び唸りながら、大きく息を吸い、気合を放つ。それでようやく虚無は剥がれたが、新たな傷口から大量の鮮血が迸った。

「ハハハ」

乾いた声に顔を上げると、ガブリエル・ミラーがその刃のような相貌を歪め、笑っていた。

「ハハハ、ハハハハハ」

いや、これは笑いではない。唇はつり上がっていても、目元は一切動かず、硝子のごとく青い瞳にはさらなる飢えだけが渦巻いている。

ガブリエルは、両腕をゆっくり体の前で交差させると、力を溜めるような仕草を見せた。

闇が重く身震いする。炎のように激しく揺れ動き、その厚みをどこまでも増す。

「ハ――――――ッ!!」

強烈な気声とともに、腕が左右に開かれた。

ズッ、と新たな黒翼が二枚、すでにある翼の上から伸び上がり、大きく広がった。さらに下側からももう一対。

計六枚になった巨大な翼を上から順に羽ばたかせ、ガブリエルは徐々に高度を増していく。撫で付けられていた金髪が波打ちながら広がり、その頭上に漆黒のリングが輝く。

いつしか両眼も、人のそれではなくなっていた。眼窩にはただ、蒼い光だけが満たされている。

 まさしく――死の天使だ。

人の魂を狩り、奪い去る超越者。このような自己像を持つものに対して、いったいどんな攻撃が有効だというのか。

俺は、恐怖の具現化たるその姿から視線を外し、手をつないで空中階段を駆け上るアスナとアリスの姿を確認した。まだ、道程の半分をやっと過ぎたところだ。ターミナルまで到達するにはあと二分、いや三分はかかろうか。

たったそれだけの時間すら稼げるかどうか、俺はすでに確信することができなくなっている。


なんという、全能感だ。

全身を駆け巡るパワーの、あまりの強烈さにガブリエルは三度目の哄笑を放った。

 なるほど、これがこの世界におけるイマジネーションの真髄――"心意"というものか。

竜巻の巨人と変じた暗黒将軍や、時間を斬った敵騎士の力の秘密をついに手に入れたのだ。ガブリエルは今まで、彼らの技を未知のシステムコマンドに拠るものと思っていたが、そうではなかった。要は、いかに強く己が力を確信できるかだけだ。すべて、あの子供が眼前であれこれ実演してくれたお陰である。

感謝の意味で、もう一分くれてやろう。

ガブリエルは六翼を大きく広げ、闇のつるぎを高々と掲げた。

一分のあいだに、小僧の存在すべてを切り刻み、魂を抽出して喰らい尽くす。更なる力を我が物とするために。

青紫色の稲妻をまとわりつかせながら、ガブリエルは突撃態勢に入った。


もはや軍人ですらなくなってしまった敵の姿を、俺はただ見上げた。

 あの男――いや存在が恐れ、脅威と認識するようなものなどもう何も思いつかない。既に銃撃ですら無効となった証として、吹き飛んでいたはずの右腕も、いつのまにか完全に再生している。

つまるところ、覚悟が足りなかったのだ。

 ガブリエル・ミラーを甘く見ていたわけではない。その異質な気配は、最大の警戒に値するものだった。しかしだからこそ俺は、この戦いを始める前から、あるいは勝利を諦めてしまっていたのかもしれない。時間さえ稼げれば――、つまりアリスとアスナが脱出するまで戦いを引き延ばしさえすれば、俺も敵も二百年という時間の獄に囚われ、二度と現実に戻れないのだから。

 ああ……そうか。

もしかして俺は、それを望んですらいたのだろうか?

アインクラッドを超える、真なる異世界。茅場晶彦が望み、創ろうとした理想郷。アンダーワールドはまさにそう呼ぶに相応しい。

 俺はかつて、SAOに囚われた二年間のあいだ、自分が真に脱出を望んでいるのかどうか常に迷っていた。迷いながらも攻略組として最前線で戦い続けたのは、あの世界での生活にも厳然としたタイムリミットがあると認識していたからだ。病院のベッドに横たわり、点滴だけで命をつなぐ生身の体がいつかは衰弱の限界を超えるだろう、という。

しかし、加速されたアンダーワールドにはそれがない。倍率五百万倍となれば尚更、現実の肉体のことなど考える必要が無くなる。俺は魂の寿命が尽きるまで、この異世界に留まり続けられる。無意識にでも、そう考えなかったとほんとうに断言できるだろうか?

 その結果――。

俺の大切な人たちが、どれほど哀しむかに思いを致しもせず。

 直葉が、母さん、父さんが、ユイ、クライン、エギル、リズ、シリカ……その他多くの、俺を救ってくれた人たちが。

そしてアリスが。

アスナが。

 どんなに嘆き、苦しみ、涙を流すかを、考える……こともなく……。

結局、俺は、人の心を知ることのできない人間なのだ。

 中学生の頃、初めての友達を見捨て、仮想世界で斬り殺したあの時から、何も変わっちゃいないんだ……。


 ――違うよ、キリト。


懐かしい声。

氷のように冷えた左手に、かすかな温もり。


 ――君がこの世界を離れたくないと思ったなら、それは自分のためじゃない。この世界で知り合った人たちを、君が愛しているからだ。

 ――シルカを、ティーゼを、ロニエを、ルーリッドの人たちや、央都や学園で知り合った人たち、整合騎士や衛士たち……カーディナルさんや、もしかしたらアドミニストレータも……そしてたぶん、僕をね。

 ――君の愛は、大きく、広く、深い。世界すべてを背負おうとするほどに。

 ――でも、あの敵は違う。

 ――あの男こそ、心を知らない。理解できない。だから求める。だから奪おうとする。壊そうとする。それはつまり……

怖れているからだよ。


ガブリエル・ミラーは、黒衣の少年の頬に、細い涙の筋が伝うのを見た。剣を握る両手が、怯えるように胸の前に縮こまった。

恐怖か。

死に行く者の恐怖こそ、ガブリエルにとっては最も甘美な調味料だった。これまで手に掛けた多くの犠牲者が流した涙を、ガブリエルは舌で味わい、陶然としたものだ。

体の芯から湧き上がる巨大な渇きを感じ、尖った舌先で唇を舐めながら、ガブリエルは左手の指先を振りかざした。

たちまち無数の黒球が出現し、蠅のように唸る。

指先で小僧をポイントすると同時に、それらはすべて極細のレーザーへと変わり、空中を走った。

どす、どすどすっ。

確たる手応えとともに、華奢な五体のそこかしこに突き刺さる。闇と鮮血が絡まりながら迸る。

「ハハハハハ!!」

 哄笑しながら一気に零距離まで肉薄したガブリエルは、虚無の剣を思い切り引き絞り――。

一息に、少年の腹を貫いた。

時間が圧縮されたような刹那ののち。

黒のシャツとコートに覆われた胴が、荒れ狂う虚無に引き裂かれ、呆気なく分断された。

飛び散る血と肉。骨。臓器。

紅玉のように美しいその輝きに、ガブリエルは左手を突っ込んだ。

 少年の上半身からぶら下がり、尚も脈打つ最大の宝石――心臓を掴み、引き千切る。

掌のなかで、抵抗するようにどくん、どくんと震え続ける肉塊をそっと口元まで引き寄せ、ガブリエルは虚ろな表情で宙に漂う瀕死の少年に向かって囁きかけた。


「オマエの感情、記憶、心と魂の全てを……今、喰らってやるぞ」

そう言い放った死の天使の姿を、俺は、半眼に閉じた瞼の下から見つめた。

ガブリエルは、異様に赤い唇を大きく開け、まるで熟しきった林檎を齧るように、俺から奪った心臓に真っ白い歯を立てた。

 ……ざりっ。

という怖気をふるうような音が大きく響いた。

白面が大きく歪み、その口から俺のものではない血が大量に溢れた。

当然だ。

俺が、自分の心臓のなかに鋼素から生成しておいた無数の小刃を食ったのだから。

「ぐっ……」

唸り、口を押さえて後退するガブリエルに、俺は掠れた声で言った。

「そんな……ところに、心も記憶もあるものか。体なんか……ただの、器だ。思い出は……いつだって……」

ここにある。

俺という意識そのものと融けあい、一体となり、永遠に分かたれることはないのだ。

体が引き千切られた痛みは、もう痛みとも呼べぬほどの凄まじいものだった。しかしこの一瞬こそが、最大最後の機だ。逃せば二度目は無い。

ユージオだって、身体を分断されて尚戦ったのだ。

 俺は両手の剣をいっぱいに広げ――鮮血を飛び散らさせながら叫んだ。

「リリース・リコレクション!!!」

青白と純黒の光が、同時に炸裂した。

前に向けた青薔薇の剣からは、氷の蔓が幾筋もほとばしり、ガブリエルの体を二重三重に締め付ける。

 そして、まっすぐ掲げた夜空の剣からは――。

巨大な闇の柱が屹立し、天を目指した。

 轟音とともに伸び上がった漆黒は、真紅の空を貫いてはるかな高みまで届き――まるで太陽そのものに激突したかのように、そこで四方八方へと広がった。

空が、覆われていく。

血の色が凄まじい速度で塗りつぶされ、真昼の光が消える。

暗闇は数秒で地平線まで達し、尚も彼方を目指し続ける。

いや、それは虚無的な闇ではない。滑らかな質感と、微かな温度を持つ、

無限の夜空。


無人の荒野、林立する奇岩群の根元にシノンはひとり横たわり、天命が尽きるその時をただ待っていた。

吹き飛んだ両脚の傷が間断なく疼き、意識を半ば以上霞ませている。胸元に残るチェーンの切れ端を、まるで命綱にすがるように強く握り締め続けるが、その右手にも徐々に力が入らなくなっていく。

薄れゆく思考が、はたしてログアウトを予告しているのか、それとも本物の失神へと至るものなのか分からなくなりかけた、その時。

空の色が、変わった。

 真昼なのに不気味な血色を漲らせていた空が、南から凄まじいスピードで黒く覆われていく。太陽の光が遮断され、灰色の雲も塗りつぶされ――そして、まったき闇がシノンを包んだ。

違う。完全な暗黒ではない。

どこからか降り注ぐほのかな燐光が、頭上の岩山や、枯れた木々や、首元の鎖を薄青く照らし出した。暖かなそよ風が吹き渡り、前髪を揺らした。

夜だ。あまねく世界を、優しく、穏やかに包み、癒していく夜のとばり。

不意にシノンは、はるか過去の情景を思い出した。

こことは違う異世界の、砂漠での一夜。幼い頃に遭遇した事件の記憶に日々苛まれる苦しみを、シノンは思い切り吐き出し、ぶつけ、泣き喚いた。あのときそっと背中を抱き、受け止めてくれた腕の強さと優しさが、頭上の夜空にも満ちみちている。

 そうか――この夜は、キリトの心なんだ。

あの人は、決して眩しい太陽じゃない。人々の先頭に立ち、燦々と輝くことはない。

でも、辛いとき、苦しいときにはいつだって後ろから支えてくれる。悲しみを癒し、涙を乾かしてくれる。ささやかに、でもたしかに煌く星のように。夜のように。

いま、キリトはこの世界を、ここに生きる人たちを守るための、最後の戦いのさ中にいるのだろう。巨大すぎる敵に抗い、抗いつづけて、最後の力を振り絞っているのだろう。

 なら、お願い――届けて、私の心も。

シノンは、涙に濡れる瞳で懸命に夜空を見上げ、祈った。

まっすぐ頭上に、水色の小さな星がひとつ、ちかっと瞬いた。


リーファは、無数のオークたちと拳闘士たちに囲まれて横たわり、やはり最後の時を待っていた。

もうテラリアの回復力を行使するために、右足を踏みしめる力も残っていなかった。切り刻まれ、貫かれた全身はただ凍るように冷たく、指先すらぴくりとも動かない。

「リーファ……死ぬな! 死んだらいげない!!」

傍らに跪くオーク族長リルピリンが、吼えるように叫んだ。その小さな眼に限界まで溜まった透明な涙を、リーファは薄く微笑みながら見上げ、囁いた。

「泣かない……で。私は、きっとまた……もどって、くるから」

それを聞いたリルピリンが、身体を丸め、肩を震わせるのを見てリーファは思った。

 ――お兄ちゃんを直接手助けはできなかったけど、でも、これでよかったんだよね。私は、ちゃんと役目を果たしたよね。そうでしょ……?

と、その瞬間。まるで、リーファの心の声に応えるかのように。

空の色が消えた。

真昼の空が、突如闇夜へと変じたことへの驚きの声が、オークや拳闘士たちのあいだに満ちた。リルピリンも濡れそぼった顔を上げ、いっぱいに両目を見開いている。

しかし、リーファは驚きも、恐れもしなかった。闇を追うように南から吹き渡り、やさしく頬を撫でた夜風に、兄の匂いを感じたからだ。

「お兄ちゃん……」

呟き、大きく空気を吸い込む。

リーファにとってキリトは、常に最も近く、そして最も遠い存在だった。

兄はたぶん、自力で真実を見出す前から、無意識下では察していたのだろうと思う。いまの父母が、自分のほんとうの両親ではないことを。リーファが物心ついた頃にはすでに、キリトは孤独と隔絶の色を濃くまとわりつかせていた。決して誰かと深く結びつこうとせず、友情が生まれかける端から自分で壊し続けた。

 その性癖が兄をネットゲームに耽溺させ、その耽溺が兄に"SAOを解放すべき勇者"の役回りを導いたという事実を、しかしリーファは偶然の皮肉だとは思わない。同時に予定された救済だとも思わない。

それは兄が自ら選び取った道なのだ。選び、懸命に背負い続けようとする。それこそがキリトという人間の強さだ。

 この夜空は、キリトがこの世界を、そこに住まう人々すべてを背負うと決意した証に他ならない。なぜなら――

 ……お兄ちゃんは、私よりもずっと、ずっと剣士なんだから。

リーファは、最後の力を振り絞って感覚のない両腕を動かし、胸の上で竹刀を握るように組んだ。

そして、念じた。兄の剣に、私の心の力よ、届け、と。

遥か頭上に、緑色の星がひとつ強く輝くのが見えた。


リズベットは、シリカの手を握り締めながら、無言で太陽の消えた空を見上げた。

空を夜闇が塗りつぶしていく途轍もない光景は、否応なくあの日のことを思い起こさせた。

 SAOが開始されて二年が経った、初冬の午後。

店から飛び出したリズベットは、上層の底を埋め尽くすシステムメッセージの羅列に、ついにデスゲームがクリアされたことを知ったのだ。瞬間、キリトだ、と思った。キリトが、私の鍛えた剣を振るって最終ボスを倒したのだ、と。

現実に戻ってのちに、キリトはリズベットに言ったことがある。

 ――俺はあのとき、本当は負けたんだ。ヒースクリフに斬られて、確かにHPがゼロになった。でも、なぜかすぐには消えなかった。ほんの数秒だけど右手が動いて、相討ちに持ち込めた。あの時間をくれたのは、リズや、アスナや、クラインたち他のみんなだと思う。だから、ほんとうの意味でSAOをクリアした勇者は俺じゃないんだ。リズたちみんなが勇者なんだ。

その時は、何謙遜してんのよ、と笑って背中を叩いてしまったのだが、しかしあれはキリトの本心だったのだろう。彼は、こう言いたかったのだ。真に強い力は、人と人との心のつながりの中にこそある、と。

「……ね、シリカ」

リズベットは夜空から視線を外し、ちらりと隣の友人を見やった。

「あたしね……やっぱり、キリトが好き」

シリカも微笑み、答えた。

「私もです」

そして二人同時に、かすかな燐光を帯びる闇夜に顔を戻した。

目を瞑る寸前、少し離れた場所で高く拳を突き上げるクラインと、両腰に手を当てて何事か呟くエギルのシルエットが見えた。

同じように、それぞれのやり方で祈り、願う、数百人のプレイヤーたちの呟きを、リズベットは聞いた。

 ――あたしたちは、アミュスフィアだけでこの世界に接続してるけど……でも、届くよね、キリト。心が繋がってるもんね。

頭上に、同時に数百の星屑がさあっと広がった。


整合騎士レンリは、左手を騎竜・風縫の首にかけ、右手で少女練士ティーゼの左手を握ったまま、息をすることも忘れて突如訪れた夜闇を見つめた。

昼を夜に変えてしまうなど、教会に残されているどのような史書にも記述のない、恐るべき現象だ。しかし、レンリに恐れはなかった。

二本の槍に身体を貫かれ、不可避の死をいままさに受け入れようとしていた時、空から光の雨が降り注いで致命傷を跡形もなく癒した。あの雨とまったく等質の暖かさを、この夜ははらんでいる。

自分が最後まで生き残ってしまったことが、レンリには不思議でもあり、また許せないという気持ちもあった。騎士エルドリエのように、戦いのなかで雄々しく散ることこそが、もう名前も思い出せないかつての友に報いる唯一の道であると思い定めていたからだ。

しかし、レンリはあの光の雨のなかで感じた。

車輪つきの椅子から立ち上がることもできなかった黒衣の剣士。彼もまたたった一人の友を喪ったのだ。そしてその死の責が自らにあると苦しみ、心を閉ざしていた。

なのにあの人は立ち上がった。そして、レンリの神器・比翼と同じように己と友の分身たる二本の剣を操り、凄まじい力を発揮して数万の敵軍を滅した。彼は、その背中でレンリに教えてくれた。

 生きること。生きて、戦い、命を、心を繋いでいくこと。それが――それだけが……。

「それだけが、強さの証なんだ」

呟き、レンリはティーゼの手を握る手にわずかに力を込めた。

黒髪の友達ともう一方の手を繋ぐ赤毛の少女は、ちらりとレンリを見上げると、夜闇のなかでも紅葉色に煌く瞳を和らげ、しっかりと頷いた。

三人は、再びまっすぐ漆黒の空を見上げ、それぞれの祈りを捧げた。

さあっと刷かれた数百の星屑のなかに、三つの強い輝きが星座となって瞬いた。


拳闘士団長イシュカーンは、跪くオークたちに囲まれて今まさに死にゆこうとしている緑の髪の娘を、言い知れぬ感慨とともに少し離れた場所から見つめた。

あの娘の戦いぶりは、鬼神と呼んでも追いつかぬ途轍もないものだった。それを見て、オークたちが皇帝の命に背き拳闘士団の救援に駆けつけた理由を、イシュカーンはようやく理解できたと思った。つまりオーク族は、あの娘が皇帝よりも強いと信じたのだ、と。

しかし、違った。

 一万のオークがあの娘に従った――いや、恭順した理由はただ一つ、娘が彼らを人間だと言ってくれたからだと、族長リルピリンはイシュカーンに教えたのだ。誇らしげにそう告げたときのリルピリンの隻眼からは、かつてあれほど渦巻いていた憎しみの色が嘘のように抜け落ちていた。

「なあ、女……じゃねえ、シェータよ」

イシュカーンは、傍らに立つ灰色の女騎士の名を呼んだ。

「力ってのは……強ぇってのは、どういうことなんだろうな……」

今や無刀の騎士となったシェータは、束ねた長い髪を揺らし、首を傾げた。その涼しげな瞳が、背後に並んで立つ飛竜と、両肩に包帯を巻いた巨漢を順に見てからイシュカーンに戻され、そして唇が小さく綻んだ。

「あなたにも、もう分かってる。怒りや憎悪より、強い力があるってこと」

 瞬間――。

見慣れたダークテリトリーの血の色の空が、闇に沈んだ。

息を飲み、頭上を振り仰いだイシュカーンの視線のまっすぐ先に、たったひとつ緑色の星がちかっと瞬いた。

シェータの手が伸び、星を指差した。

「……あれだわ。ほんとうの力。ほんとうの光」

「……ああ。…………ああ、そうだな」

イシュカーンは呟いた。左眼に滲んだもののせいで、星の緑色が滲んだ。

傷だらけの拳を、生まれて初めて殴るためではなく握り締め、拳闘士の長は勝利以外の何かのために祈った。

緑の星から少し離れたところに、真紅の星がひとつ炎のように燃え上がった。すぐ隣に、灰色の光が寄り添うように浮かんだ。

直後、生き残った拳闘士たちが控えめに武舞を唱和する声が響き、数百の星がさあっと広がった。

同じように、一万のオーク軍も夜空を見上げ、祈りに加わった。

そしてまた、背後に固まる暗黒騎士たちも続く。彼らの一部は、オーク軍に同調して謎の軍勢から拳闘士団を守ってくれたのだ。

星の数はたちまち千を超し、万を超えた。


東の大門に残る人界守備軍と、整合騎士ファナティオ、デュソルバート、さらに数名の下位騎士たちも、一様に言葉を失い夜空を見つめた。

彼らの胸中に去来する思いはそれぞれ異なっていたが、祈りと願いの強さは同じだった。

ファナティオは、世を去った整合騎士長ベルクーリが愛した世界、そしてまた体内に宿る新たな命がこれから生きていく世界のために祈った。

デュソルバートは、左手の指に輝く小さな指輪をそっと右手で包み込み、かつて対となる指輪を嵌めていた誰かと共に暮らした世界のために祈った。

他の騎士や衛士たちも、愛する世界が平和のうちに存続するように、祈りを捧げた。


遥か北方の山岳地帯では山ゴブリン族が祈り、荒野では平地ゴブリン族が祈った。

東方の湿地では夫や父の帰りを待つオークたちが祈り、西方の高台ではジャイアント族が祈った。

主なき帝城オブシディアの城下町では浅黒い肌の人間たちが、そして南東の草原地帯ではオーガたちが眼を閉じ、祈った。


夜のとばりは、果ての山脈を越え、人界にまでも一瞬で届いた。

遥か北方、ルーリッドの村の教会で、洗濯のための井戸水を汲んでいた見習いシスターのシルカは、高く澄んだ青空が南東の方角から暗闇に覆われていく光景に眼を奪われ、立ち尽くした。掌からロープが滑り、水面に落ちた桶がかすかな水音を立てたが、耳に届くことはなかった。

唇から漏れた囁きは、ひそやかに震えていた。

「……姉さま。…………キリト」

 今、まさにこの瞬間――。

誰よりも愛する二人が、懸命の戦いを繰り広げていることを、シルカは夜風に感じ取った。

つまり、キリトは再び目覚めたのだ。ユージオを喪った悲しみの縁から、もう一度立ち上がったのだ。

シルカは短い草の上に跪き、両手を胸の前で組み合わせた。眼を閉じ、呟いた。

「ユージオ。お願い……姉さまとキリトを、守ってあげて」

祈りとともに再び見上げた夜空に、青い星がひとつちかっと瞬いた。

その周囲に、見る間に色とりどりの星が浮かび上がる。見れば、先ほどまで中庭で遊びまわっていた子供たちが、無言で地面に膝をつき、小さな手を握り締めている。

教会前の広場では商人や主婦たちが。

牧場や麦畑では男たちが。

村長の執務室ではアリスの父ガスフトが、森のはずれではガリッタ老人が祈った。誰一人、恐れ慌てる者はいなかった。

ルーリッドの上空を、無数の星々が埋め尽くすのに数秒とかからなかった。


同じように、少し南に上ったところにあるザッカリアの街のうえにも、数多の星屑が広がった。

四帝国の各地に点在する村や街の住民たちも一様に無言の祈りを捧げた。

さらに、人界の中央に位置する巨大都市セントリアの市民たち。修剣学院の生徒たち。

神聖教会に属する修道士や司祭たちすら例外ではなかった。

カセドラル五十階と八十階を結ぶ昇降板の操作係を務める少女は、その長い生を通して初めてすることをした。職務中に、硝子製の風素生成筒から手を離し、天窓の彼方に広がる無限の星空を見上げて両手を組み合わせたのだ。

彼女は、カセドラル以外の世界を知らなかった。最高司祭の死も、暗黒界軍の侵攻も、少女の人生にはこれまで何らの変化ももたらさなかった。

だから少女は、ただひとつのことだけを祈った。

もう一度、あの二人の若い剣士たちに会えますように、と。


広大なアンダーワールド全土を包む真昼の夜空に、色とりどりに煌いた星の数は十数万に及んだ。

それら星ぼしは、最果ての辺境のものから順に、鈴の音のような響きを奏でながらある一点を目指して流れはじめた。

世界の最南端。

ワールド・エンド・オールターと呼ばれる浮島の至近で、まっすぐ天に掲げられた一本の長剣のもとへと。


ようやく天辺の見えてきた階段を全速で駆け上っていたアリスは、足元の大理石にくっきりと映る自分の影が、より巨大な影に突如として溶け消えるのを見た。

息を詰め、背後を振り仰いだ瞳に飛び込んだのは、とてつもない光景だった。

虚無の剣を振りかざし、六枚の黒翼を広げる敵。

その身体に幾重にも巻きつき、動きを封じる氷の蔓。

氷の源、青白く輝く長剣を握るのは、飛竜の翼を背負う黒衣の剣士。

剣士の体は、胸から下が完全に喪われていた。瞬時に天命が全損して当然の状態で、尚も戦い続けるその心意力は驚異と言うよりない。

しかし、真なる奇跡はほかに存在した。

高々と掲げられた剣士の右手が握る、漆黒の長剣から膨大な闇の奔流がまっすぐ屹立し、空を、あまねく世界を覆っている。

いや、無明の闇ではない。

 遥か北のかなたに瞬きはじめた無限の色彩、無数の光点は、あれは星だ。静謐なる輝きの群れが、空を……夜を彩っていく。

 と――。

星たちが、動き始めた。

銀鈴のような、竪琴のような、清らかな音色を幾重にも奏でながら、まっすぐこの地を目指して集まってくる。白の、青の、赤、緑、黄色の線を細く、長く引いて、夜空に巨大な虹の弧を描き出す。

すべての星々が、全世界に生きる人々の心の力そのものの顕現であることをアリスは直感した。

人界人も。

暗黒界人も。

人間も。

亜人も。

いま、世界は祈りのもとにひとつになっている。

「……キリト…………!!!」

アリスはその名を呼び、高く左手をかざした。

 私の心も。人造の騎士として、わずかな年月だけを生きたかりそめの心ではあるけれど、でもこの気持ちは――この胸に溢れる感動は、きっと本物だから。

左手から、眩く煌く黄金の星が放たれ、一直線にキリトの剣を目指して飛翔した。


アスナは、振り返らなかった。

キリトの死闘に応えるために唯一できるのは、たとえ一刹那たりとも無駄にせず、システムコンソールを目指すことだけだと解っていたからだ。

だからアスナは、アリスの手を引き、あらゆる心と体の力を振り絞って懸命に駆け続けた。

しかし、胸の奥に熱い想いが満ちるのだけは止められなかった。

想いはふたつの雫となって睫毛を滑り、宙にこぼれた。

夜風に運ばれ、舞い上がった雫は溶け合って、七色の光を放つ星になった。

闇にオーロラの尾を引き、まっすぐ飛んでいく星を一瞬だけ見上げ、アスナは振り向くことなく走った。走りながら、ただ信じた。


ガブリエル・ミラーは、なぜたかが氷如きに己が拘束されるのか理解できなかった。

つい先刻は、あらゆる属性の術式攻撃と、さらには剣による斬撃すらも完全に無効化してのけたではないか。

確かに、心臓に仕込まれた姑息な刃に口を傷つけられはした。しかしそれは、咀嚼の動作が口腔を実体化させてしまっただけのことだ。今はもう、全身を虚無のイメージに厚く覆いなおしている。

我は刈り取る者。あらゆる熱を、光を、存在を奪うもの。

深淵なり。

「NU……LLLLLLLL!」

人のものならぬ異質な唸りが、喉の奥から迸った。

背から伸びる三対の黒い翼すべてが、右手の剣と同じ虚無の刃へと変貌した。

それらを激しく打ち鳴らし、周囲の空間すべてを切り裂く。ようやく青白い蔓が引き千切れ、体の自由が戻った。

「LLLLLLLLLLLLL!!」

咆哮とともに、ガブリエルは七本の虚ろなる刃を全方位に広げた。

何も持たぬ左手をまっすぐ前に突き出し、今度はこちらが小僧を拘束するべく、闇のワイヤーを放とうとした、その時。

ようやくガブリエルは、空から赤い光が消えていることに気付いた。

そして、まっすぐ頭上に次々に降り注いでくる、無数の流星にも。


夜空の剣を解放したとき、俺は具体的なイメージを何ひとつかたちにすることが出来なかった。

 心のなかにはただ、長いこと"黒いやつ"だったこの剣に名前を与えてくれたときの、ユージオの言葉だけが遠い残響となって蘇っていた。

しかし、剣から迸った闇が昼を夜に変え、その名のとおり夜空を作り出し。

夜空に突如流れた無数の星たちが、虹色の光柱となって剣に流れこんできたときに、俺は何が起きたのかを察した。

夜空の剣の力は、広汎な空間からのリソース吸収力である。

そして、この世界における最強のリソースは、決して太陽や大地からシステム的に供給される空間神聖力ではない。人の、心の力だ。祈りの、願いの、希望の力なのだ。

無限に降り注ぎ続けると思われた星光の、最後のひとつが剣に吸い込まれ。

 そして、たった二つだけ地上から舞い上がってきた、金色と虹色の星が刃に融けた、その瞬間――。

剣全体が、とてつもない強さで純白に輝いた。

光は、柄から俺の腕へと流れ込み、身体をも満たしていく。さいぜん爆散させられた下半身も、白い光体となって瞬時に再生する。

 そして左腕が星光に包まれ、握られた青薔薇の剣もまた眩く煌き――。

「お……おおおおおお!!」

俺は、二本の剣を大きく広げ、叫んだ。

「LLLLLLLLLLLLLLL!!」

眼前で、青薔薇の縛めを破ったガブリエル・ミラーが、同じく奇怪な咆哮を放った。

ガブリエルの姿は、もはや人のものではなくなっている。漆黒の流体金属のように不気味に輝く裸体を青黒いオーラが包み、眼窩から放たれるバイオレットブルーの光は地獄から漏れ出てくるかのようだ。

右手に握る、長大なる虚無の刃を高々と振りかざし、更に同じ刃へと変じた六枚の翼を全方位に伸ばしている。

直後、まっすぐ俺に向けられた左手から、密度のある冷ややかな細線が無数に溢れ、飛びかかってきた。

「……おぉッ!!」

俺は、気合とともに光の壁を放ち、それら全てを弾き返した。

背中から伸びる、輝く翼を一杯に広げ。

左右の剣をぴたりと構え、思い切り空を蹴る。

彼我の距離は僅かなもので、突撃は一瞬にも満たないはずだ。しかし、俺はその時間がどこまでも引き伸ばされるような加速感に包まれる。

俺の右側に、何者かの影が出現した。

黒い美髯を蓄え、長大な刀を帯びた見知らぬ壮年の剣士だ。ぴたりと連れ添う浅黒い肌の女剣士の肩を抱くその男は、俺を見て言った。

『若者よ、殺意を捨てるのだ。あやつの虚ろなる魂は、殺の心意では斬れぬ』

今度は、左側に初老の威丈夫が現れた。白い着流し姿に、鋼色の長剣を佩いている。魁偉な容貌ににやっと太い笑みを浮かべるのは、騎士長ベルクーリだった。

『恐れるな、少年。お前さんの剣には、世界そのものの重さが乗ってるんだぜ』

更に、ベルクーリの隣に、真っ白い素肌に長い銀髪を流した少女が出現する。

最高司祭アドミニストレータは、あの謎めいた銀の瞳と微笑みを俺に向け、囁いた。

『さあ、見せてみなさい。私から受け継いだ、お前の神威なる力のすべてを』

そして最後に、俺のからだに寄り添うように、ローブと学者帽姿の幼い女の子が現れた。茶色の巻き毛が流れる肩に小さな蜘蛛を乗せた、もう一人の最高司祭カーディナル。

『キリトよ、信じるのじゃ。おぬしが愛し、おぬしを愛する、たくさんの人々の心を』

小さな眼鏡のおくで、バーントブラウンの瞳が優しく瞬いた。

 そして、彼らの姿は消え――。

最大の敵、ガブリエル・ミラーが最小の間合いに入った。

俺は、いっそうの力に満たされた両腕で、かつて最も修練し、最も頼った二刀剣技を放った。

 "スターバースト・ストリーム"。連続十六回攻撃。

「う……おおおおおおお!!」

星の光に満たされた剣が、宙に眩い軌跡を引きながら撃ち出されていく。

同時に、ガブリエルの六翼一刃が、全方位から襲い掛かってくる。

光と虚無が立て続けに激突するたびに、巨大な閃光と爆発が世界を震わせる。

速く。

もっと速く。

「オオオオ――――ッ!!」

俺は咆哮しながら、意識と一体化した肉体をどこまでも加速させ、二刀を振るう。

「NULLLLLLLLLLLLLLL!!」

ガブリエルも絶叫しながら絶空の刃を撃ち返してくる。

十撃。

十一撃。

相討ち、放出されるエネルギーが周囲の空間を灼き、稲妻となって轟く。

十二、

十三撃。

 俺の心には、怒りも、憎しみも、殺意もなかった。全身に満ち溢れる、無数の星の――祈りの力だけが俺を動かし、剣を閃かせた。

 ――この世界の、

十四撃。

 ――全ての人々の心の輝きを、

十五撃。

 ――受け取れ!! ガブリエル!!!!

最終十六撃目は、ワンテンポ遅れるフルモーションの左上段斬りだった。

攻撃を視認したガブリエルの蒼い眼が、勝利の確信に嗤った。

まっすぐ放たれた斬撃より一瞬速く、敵の左肩から伸びる黒翼が、俺の左腕を付け根から切り飛ばした。

光に満たされた腕が一瞬で爆散し、空中に青薔薇の剣だけが流れた。

「LLLLLLLL――――――!!!!」

高らかな哄笑とともに、ガブリエルの右手に握られた虚無の剣が、まっすぐ俺の頭上に振り下ろされた。

ぱしっ、

と頼もしい音が響き、俺のものではない白いふたつの手が、宙に漂う青薔薇の剣の柄を握った。

 凄まじい炸裂音とともに、無数の星が飛び散り――

青薔薇の剣と、虚無の刃がしっかと切り結ばれた。

剣を握るユージオが、短い髪を揺らして俺を見た。

『さあ――今だよ、キリト!!』

「ありがとう、ユージオ!!」

確かな声で叫び返し。

「う……おおおおお――――!!!!」

俺は、十七撃目となる右上段斬りを、ガブリエル・ミラーの左肩口に渾身の力で叩き込んだ。

漆黒の流体金属を飛び散らせ、深く斬り込んだ剣は、ちょうど心臓の位置まで達して停まった。

 瞬間――。

俺とユージオ、夜空の剣と青薔薇の剣を満たす星の光のすべてが、ガブリエルの裡へと奔流となって注ぎ込まれた。


ガブリエル・ミラーは、自身のうちに広がる虚ろなる深淵に、突如圧倒的なまでの正のエネルギーが大瀑布となって流れ落ちてくるのを感じた。

視覚は無数の流光に覆われ、聴覚を多重の音声が次々に通過していく。

 ――神様、あの人を……

 ――あの子を、無事に……

 ――戦を終わらせ……

 ――愛してるわ……

 ――世界を……

 ――世界を、

 ――世界を、守って……!

「……ハ、ハ、ハ」

心臓を少年の剣に貫かせたまま、ガブリエルは両手と六翼をいっぱいに広げ、哄笑した。

「ハハハ、ハハハハハハ!!」

愚か、愚昧、愚劣極まれり。

私の飢えを、果てなき虚無を、満たそうなどと。

 それは所詮、宇宙そのものを人の手で暖めようという不遜な企てに過ぎないと――何故わからぬ!!

「一滴あまさず、呑み干し――喰らい尽くしてくれる!!」

ガブリエルは、両眼と口から蒼い虚無の光をほとばしらせ、叫んだ。

「できるものか! 人の心の力を、ただ恐れ、怯えているだけのお前に!!」

少年が、全身に黄金の波動を漲らせ、叫び返した。

 剣が一層強烈に輝き――凍りついた心臓に、さらなる熱と光を叩き込んでくる。

視界が白熱し、聴覚が振り切れる。

それでも尚、ガブリエルは哄笑を放ちつづけた。

「ハハハハハ、ハ――――ハハハハハハ!!!」


俺に懼れは無かった。

敵の裡を満たす虚無はまさに果て無きブラックホールの如きだったが、しかし俺のなかにも、人々の心と祈りが作り出した巨大な銀河が煌々と渦巻いていた。

ガブリエルの眼窩と口腔から屹立するヴァイオレットの光が、徐々にそのスペクトルを変移させはじめた。

 紫から赤へ。オレンジへ。イエローを経て――そして、純白へと。

ぴしっ。

とかすかな音が響き、夜空の剣を呑み込む漆黒の流体金属の身体に、ほんの小さな亀裂が走った。

もう一本。さらに、胸から喉へと。

亀裂からも、白い光が溢れ出す。背中の六枚の翼が、根元から白い炎に包まれていく。

哄笑を続ける口元が大きく欠け、肩や胸にも孔が開いた。

四方八方に、鋭い光の柱を伸ばしながらも、ガブリエルは嗤うのをやめようとしない。

「ハハハハハハハハハハアアアアアアアァァァァァァ――――――――」

声はどんどん周波数を上げていき、やがてそれは金属質の高周波でしかなくなり。

 虚無の天使の全身が、くまなく白い亀裂に包まれて――。

一瞬、内側へ向けて崩壊、収縮し。

解放され。

恐るべき規模の光の爆発が、螺旋を描いて遥か天まで駆け上った。


「――――――ははははははは!!」

ガブリエル・ミラーは、哄笑しながらがばっと起き上がった。

眼に入ったのは、灰色の金属パネルを張られた壁面だった。日本語の注意書きステッカーが、配線やダクトに幾つも貼られている。

「ははは、は、は…………」

息を荒げて笑いの余波を収めながら、ガブリエルは何度か瞬きを繰り返した。改めて左右を見回す。

間違いなくそこは、オーシャン・タートル第一STL室だった。どうやら、予期せぬ要因により自動ログアウトしてしまったらしい。

何たる興ざめな結末だ。あのまま、無限とも言える魂の集合流を飲み尽くし、ついでに小僧の心も喰ってやろうと思っていたのに。今すぐ再ログインすればまだ間に合うだろうか。

顔をしかめつつ振り向いたガブリエルが見たのは。

STLのシートに横たわり、眼を閉じる長身の白人男性の姿だった。

 ……誰だ。

と一瞬思った。

 襲撃チームにこんな隊員がいただろうか? それよりこいつは、私がダイブするためのマシンで一体何をしている……

そこまで考えてから、ようやく気付く。

これは、この顔は、自分だ。

ガブリエル・ミラーだ。

 ならば、それを見おろしているこの私は……いったい、誰なのか?

ガブリエルは両手を持ち上げ、眺めた。そこにあったのは、ぼんやりと半透明に透ける、朧な光のかたまりだった。

何だこれは。何が起きたのだ。

 その時――。

背後で、小さな声がした。

「……ようやく、こっちに来てくれたのね、ゲイブ」

さっと振り向く。

立っていたのは、白いブラウスと紺のプリーツスカート姿の、幼い少女だった。

長いふわふわした金髪の頭を深く俯けているため、顔は見えない。しかしガブリエルには、その少女が誰なのか、すぐに解った。

「……アリシア」

つぶやき、口元を綻ばせる。

「なんだ、そんな所にいたのかい、アリー」

アリシア・クリンガーマン。ガブリエル・ミラーが、魂の探求という崇高なる目的のために、はじめて殺した幼馴染の少女。

あの時、確かに見た清らかに輝くアリシアの魂を、捕獲しそこねたことはガブリエルにとって長らく痛恨事となっていた。だが、実は喪われてはいなかったのだ。ちゃんと傍に居てくれたのだ。

ガブリエルは、己を襲った奇妙な現象のことも忘れ、微笑みながら右手を伸ばした。

しゅっ。と凄まじい速さでアリシアの左手が伸び、小さな五指がガブリエルの手をきつく握った。

冷たい。まるで氷のようだ。ちくちくと、冷気が針のように突き刺さってくる。

ガブリエルは反射的に手を引こうとした。しかし、アリシアの左手は万力のごとく微動だにせず、ガブリエルは笑みを消し、眉をしかめた。

「……冷たいよ。手を離してくれ、アリー」

呟くと、金髪が素早く左右に揺り動かされた。

「だめよ、ゲイブ。これからはずっと一緒なんだから。さあ、行きましょう」

「行くって……どこにだい。だめだよ、私にはまだやるべきことがあるんだ」

呟きながら、ガブリエルは渾身の力で手を引っぱった。しかし動かない。それどころか、徐々に下に引っ張られていく。

「離して……はなすんだ、アリシア」

少し厳しい声を出したのと、ほとんど同時に。

さっ、とアリシアが頭を持ち上げた。

 丁寧に梳られた前髪の下の顔が、視界に入ったその瞬間――。

ガブリエルは、心臓がきゅうっと縮み上がるような感覚に襲われた。

内臓がせりあがる。息が荒くなる。肌が粟立つ。

何だこれは。この感情は一体何なのだ。

「あ……あ、あ、あ……」

奇妙なうめき声を上げながら、ガブリエルはゆっくり首を左右に振った。

「離せ。やめろ。離せ」

無意識のうちに左手を持ち上げ、アリシアを突き飛ばそうとしたが、しかしその手も即座にがっちりと掴まれてしまう。冷え切った金属のような指が、ぎりぎりと肌に食い込んでくる。

うふふ。

とアリシアがわらった。

「それが恐怖よ、ゲイブ。あなたの知りたがっていた、本物の感情。どう、素敵でしょう?」

恐怖。

これまで探求と実験のために殺してきた人間たちが、いまわの際に一様に浮かべていた表情の源。

しかし、その感覚は、とても心地よいものとは言えなかった。それどころか、とてつもなく不快だった。こんなものは知りたくない。早く終わらせたい。

 しかし――。

「だめよ、ゲイブ。これから、ずーっと続くの。あなたは永遠に、恐怖だけを感じ続けるの」

ずるり、と音がして、アリシアの小さな革靴が金属の床に沈みこんだ。

そして、ガブリエルの足も。

「あ……ア……やめろ。はなせ……やめろ」

うわごとのように口走るが、沈降は止まらない。

突然、床から白い腕がずぼっと飛び出し、ガブリエルの脚に巻きついた。もう一本。さらに。もっと。

それらが、これまで手にかけてきた獲物たちの手であることを、ガブリエルは直感的に察した。

恐怖はどこまでも高まっていく。心臓が恐ろしい速さで脈打ち、額を脂汗が流れる。

「やめろ……やめろ、やめろやめろやめろ――――――ッ!!」

ガブリエルはついに絶叫した。

「来てくれ、クリッター! 起きろヴァサゴ!! ハンス!! ブリッグ!!」

部下を呼んだが、しかしすぐ目の前にあるドアはしんと沈黙したままだ。隣のSTLに横たわるはずのヴァサゴも、起き上がる気配は無い。

いつしか、身体は腰までも床に飲み込まれている。両手を引っ張るアリシアは、もう肩までしか見えていない。

 その"顔"が、完全に没する寸前、大きく笑った。

「あ……あああ……うわあああああ――――――――ッ!!」

ガブリエルは悲鳴を上げた。

何度も。何度も。

肩に、首に、そして顔に白い手たちが巻きつく。

「ああああ……ぁぁぁ…………ぁ………………」

とぷん、と音がして、視界が闇に沈んだ。

ガブリエル・ミラーは、己を待ち受ける運命を悟り、未来永劫放ち続けることになる悲鳴をいっそう甲高く迸らせた。


 そして――。

アンダーワールドの時間流が、再びその速度を増しはじめた。


同期信号が途切れた瞬間、アミュスフィアを用いてダイブしていた数百人の日本人たちは自動切断され、それぞれの部屋やネットカフェのブースで、それぞれの感慨に熱く胸を浸しながら目覚めた。

彼らは皆、しばらく無言のまま、異世界で体験したことを噛み締め、考え、心に刻んでいたが、やがて目尻に滲んだ涙を拭うと、改めて携帯端末やアミュスフィアを操作した。先の戦闘で倒れ、ログアウトした友人たちに、すべてをありのまま伝えるために。


シノンとリーファは、再加速の寸前に、天命喪失によりアンダーワールドを去った。

ラース六本木分室のSTLで覚醒した二人は、なおも神経に漂いつづける痛みの余韻が薄れるのを待ちながら、瞳を見交わし、ふかく頷きあった。

シノンも、リーファも、キリトが蘇り、敵を倒し、世界を救って、もうすぐこの世界に戻ってくることを疑っていなかった。

 次に会った、その時こそは――。

たとえ届かなくても、ちゃんと気持ちを言葉にしよう。

二人はそう心を決め、それを互いに悟って、小さく微笑んだ。


 ――しかし。

リミッターを完全解除されたSTRAシステムは、アンダーワールドに流れる時の鼓動を、これまでを遥か上回る領域にまで加速しようとしていた。

千倍を超え。五千倍を超え。

限界加速フェーズの名で呼ばれる、現実比五百万倍という時間の壁の彼方を目指して。


俺は、星の光が消え去った身体を宙に横たえ、背中の翼を力なく羽ばたかせた。

斬り飛ばされ、消滅したはずの左腕はいつの間にか再生していた。その手のなかの青薔薇の剣を、残された力で懸命に握りしめながら、俺は滲もうとする涙をこらえた。

 剣のなかに焼きつき、これまで何度も俺を救い、励ましてくれたユージオの魂が、あの瞬間――ガブリエルの刃を揺るぎなく受け止めてくれた刹那に、ついに全て燃え尽きてしまったことを俺は悟っていた。

死者は還らない。

だから思い出は貴く、美しい。

「……そうだよな、ユージオ……」

呟いたが、応えはなかった。

俺はゆっくりと両手の剣を持ち上げ、背中の鞘に収めた。

直後、頭上の夜空が、その色を薄れさせはじめた。

闇が溶け、流れ、その彼方の光を甦らせていく。

 ……青。

ふたたび現れたダークテリトリーの空は、しかし、あの血の色ではなかった。

 澄み切った青だけが、どこまでも広がっていた。* ついに開始された"限界加速フェーズ"の影響によるものなのか、それとも十数万の人々の祈りがもたらした奇跡なのかは定かではない。

どのような理由であるにせよ、透明感のある蒼穹は泣きたいほどに美しかった。俺は、郷愁と感傷が強く揺り起こされるのを感じながら、その青を胸いっぱいに吸い込んだ。

まぶたを閉じ、長く息を吐き、そっと身体の向きを変える。

開いた眼にうつったのは、下方から音も無く崩壊していく白亜の階段だった。

翼を広げ、溶け崩れる階段を追うように、ゆっくり降下する。目指すのは、空に浮かぶ小さな島。

円形の浮島には、溢れんばかりに色とりどりの花が咲き乱れていた。その花畑を貫いて白い石畳が伸び、中央の神殿めいた構造物へと続いている。

俺は、石畳の中ほどに着地し、翼をもとのコートの裾へと戻しながら周囲を見回した。

甘く、爽やかな蜜の香りが鼻をくすぐる。瑠璃色の小さな蝶が何匹もひらひらと舞い、幾つか生えている小さな樹のこずえでは小鳥が囀る。抜けるような青空と、穏やかな陽光のもとで、その光景はとてつもなく美しかった。まるで一幅の名画のようだった。

そして、無人だった。

小路の上にも、その先の、円柱が立ち並ぶ神殿にも、人の姿は無かった。

「……よかった。間に合ったんだな」

ぽつりと呟く。

 ガブリエル・ミラーが光の螺旋に飲み込まれて消滅した直後、STRAによる加速が再開されたのを俺は感覚で知った。アスナとアリスが、無事にコンソールから脱出できたかどうかは微妙なタイミングだった。しかし、二人はあの長大な階段を時間内に駆け抜け、辿り着いたのだ。

 アリス――この世界が生まれた理由そのものたるひとつの魂、限界突破フラクトライトたるあの少女は、ついに現実世界へと旅立った。

これからも、彼女には多くの苦難が待っているだろう。まったく理を異にする世界、不自由な機械の身体、そして真正人工知能を軍事利用しようとする企図とも彼女は戦わねばならない。

しかし、アリスならやり遂げるだろう。彼女は、最強の騎士なのだから。

「……がんばれよ…………」

俺は、空を振り仰ぎ、もう二度と会えない黄金の整合騎士のために祈った。

 そう――。

限界加速フェーズが開始された今、俺が内部から自発的にログアウトする手段は完全に失われた。世界に三つあるシステムコンソールはすべて凍結され、また天命を全損しても、無感覚の暗闇のなかでフェーズ終了を待たねばならない。

 いま、外部では菊岡たちラーススタッフが、俺のSTLを停止させるために奮闘しているはずだが、それも最短であと二十分はかかるということだった。

そのあいだに、この世界では二百年もの月日が経過する。

魂の寿命を使い果たし意識消失へと至るのか、それとも五百万倍という加速に長時間耐えられずもっと早い段階で消えるのかはわからない。

唯一確かなのは、俺はもう現実世界に戻ることはない、ということだ。

両親や、直葉。シノン。クライン、エギル、リズ、シリカ。

 学校の友人たちや、ALOのフレンドプレイヤーたち。

アリス。

そして、アスナ。

愛する人たちに、もう決して会うことはできない。

白い敷石のうえに、俺はゆっくり膝を突いた。

崩れる上体を、両手で支えた。

視界がぼやけ、きらきらと光が揺れて、磨かれた大理石に落ちて弾けた。いくつも。何度も。

 今だけは――たぶん、少しだけ泣く権利はあるだろう。

喪われ、二度と還らない、大切なものたちのために、俺は泣いた。食いしばった歯のあいだから嗚咽を漏らし、涙を次々と雫に変えた。

ぽた、ぽたぽた。

水滴が石を叩く音だけが、耳に届く。

ぽた。

ぽた。

 ――こつ。

こつ、こつ。

不意に、確かな密度を持つ音が、重なって響いた。

こつ、こつ。近づいてくる。かすかな震動が指先に伝わる。

空気が揺れる。濃密な花々の芳香に、ほのかに新しい香りがたなびく。

こつ。

 ……こつ。

すぐ目の前で、音が止まる。

そして、誰かが、俺の名を呼んだ。


神代凜子は、サブコントロール室の操作席に腰掛け、コンソールの正面やや左に設けられた小さなガラスのハッチを息を飲んで見つめた。

 ハッチ上部の液晶窓には、『EJECTING...』という赤い文字が点滅している。

圧縮空気が抜ける音が、低く耳を打つ。

 やがて、窓の向こうに、小さな黒い四角形が姿を現した。液晶が緑に変わり、『FINISHED』の表示が輝いた。

凜子は震える手を伸ばし、ガラスハッチを開け、それを取り出した。

堅牢そうな金属のパッケージだ。一辺6センチほどの立方体。ずしりと重い。継ぎ目無く密閉された面のひとつに、超微細なコネクタが設けられている。

 このなかに――"アリス"の魂が眠っている。

オーシャンタートル基部に設けられた巨大なライトキューブクラスターから、システム命令に従ってたった一つの結晶キューブがイジェクトされ、自動的に金属パッケージに封入されたのちに長いエアラインを押し上げられてここまで到達したのだ。

それは同時に、アンダーワールドという内的世界から、リアルワールドという外部世界への旅でもある。

凛子は一瞬、言い知れぬ厳かな感慨に打たれて言葉を失ったが、すぐに我に返るとパッケージを握り締めたまま叫んだ。

「アスナさん、アリスのイジェクト完了したわ! あとはあなたよ、急いで!!」

ちらりと、真紅に染まる主モニタのカウントダウンを見やる。

「残り30秒しかない!! 早く……ログアウトを!!」

一瞬の沈黙。

 続いて、スピーカから返ってきたのは――予想だにしない言葉だった。

「ごめんなさい、凛子さん」

「え……? な、何を……?」

「ごめんなさい。わたしは……残ります。今までほんとうに有難うございました。凜子さんのしてくださったこと、決して忘れません」

スピーカから響く結城明日奈の声は、穏やかで、優しく、そして静かな決意に満ちていた。

「アリスをお願いしますね。アリスは、優しい人です。とても大きな愛を持ってるし、沢山の人に愛されています。アリスのために消えていった魂たちのためにも……そして、キリトくんのためにも、絶対に軍事利用なんかさせないでください」

言葉を失った凜子の耳に、明日奈のさいごの言葉が届いた。

「みんなにも、伝えてください。ごめんね、って……。さようなら……ありがとう」

直後、カウントがゼロに達した。


長いサイレンの音に続いて、重々しい機械の唸りが狭いケーブルダクトに反響した。

壁のむこうの冷却システムがフル稼働を開始したのだ。アンダーワールドを支えるシステム群が放つ膨大な廃熱を、幾つもの大型ファンが懸命に吸い出している。いまオーシャンタートルを海から眺めれば、ピラミッドの天辺付近にかすかに陽炎が揺れているのが見えるだろう。

「…………はじまった……」

比嘉タケルは、低く呟いた。

「ああ」

短く応えたのは、比嘉を背負って細いハシゴを降りている菊岡誠二郎だ。

二人は、限界加速フェーズ突入が避けられないと判断した時点で即座に準備し、ダクトに潜り込んだのだが、負傷した比嘉の体をハーネスで固定する作業などに八分を費やしてしまった。

菊岡は、噴き出た汗が滴るほどの勢いでハシゴを降り続けたものの、耐圧隔壁に到達する前についに加速が再開してしまったのだ。

祈るような気持ちで比嘉はインカムのスイッチをいれ、サブコントロールの神代博士に呼びかけた。

「凛子さん……どうなりましたか」

ノイズに続き、回線接続音がしたものの、届いたのは重い沈黙だった。

「……凜子さん?」

「……ごめんなさい。アリスは、無事に確保できたわ。ただ……」

押し殺すような声で、神代博士はその先を告げた。

比嘉は息を飲み、ついでぎゅっと眼をつぶった。

「……わかりました。こちらも、全力を尽くします。ハッチ開放タイミングは、追って連絡します」

回線を切り、比嘉は詰めていた呼吸を長く吐き出した。

状況を察したのだろう、菊岡は訊いてこなかった。ただ、筋肉質の背中を懸命に躍動させ続けている。

「……菊さん……」

数秒後、比嘉はようやく囁き声を絞りだし、指揮官に神代博士の言葉を伝えた。


クリッターは、メインモニタに新たに開いたウインドウと、そこに並ぶアルファベットを呆然と眺めた。

クラスターからライトキューブが一つ排出され、耐圧隔壁のむこうのサブコントロール室へ運ばれたことを、短い文字列が教えている。

 それはつまり、アリスがK組織に確保された、ということだ。

言い換えれば、アンダーワールド内部からアリスを発見・奪取しよう、という十時間以上にも及んだ作戦が完全に失敗したわけだ。ヴァサゴとミラー中尉がダイブし、暗黒界の軍勢を率いて人界に侵攻して、ハリウッド映画じみた派手な戦争を繰り広げ、さらにはアメリカ人と中国、韓国人あわせて十万人近くを騙して戦わせた努力すべてが水の泡となった。

坊主頭をがりがりと掻き、クリッターはひとつ鼻を鳴らしただけで思考を切り替えた。

残された五時間ちょっとで、物理的にアリスを再奪取できる可能性はあるだろうか?

耐圧隔壁をこちら側から破壊する方法は無い。ただ、先ほどのように上から隔壁が開放されれば話は別だ。

そもそも、さっきハッチが開いたのは何だったんだ。あんなロボットにスモークグレネードを載せただけで、こっちをどうにか出来るなどとほんとうに考えたのか?

あれが、もし陽動だったとしたら? 隔壁開放の目的が、ほかにあったのだとすればそれは一体何だ?

クリッターは振り向き、隊員たちに声をかけた。

「おい、誰かオーシャンタートルの設計図持ってきてくれー」

すると、ブリッグとさっきの賭けが成立したのしないのの言い争いを続けていたハンスが、こちらを見ないままラミネート加工された紙綴りを放ってきた。やれやれと首を振り、クリッターは受け取った設計図を捲った。

「えーと……? これがメインシャフトで……隔壁がここを横切ってて……ロボットが突っ込んできた階段がこれだろー……」

そのとき、モニタに表示されていたカウントダウンがゼロになり、部屋全体に低い機械音が響いた。時間加速が再開したのだ。しかも、ブリッグの馬鹿が制御レバーを破壊してしまったせいで、倍率がとんでもないことになっている。

 しかしもう、アンダーワールドがどうなろうと関係ない。作戦が失敗したということはイコール、ヴァサゴもミラー中尉もダイブ中に"死亡"したのだろうから、今ごろ隣の部屋でログアウト処理が進んでいるはずだ。

今は、ミラー中尉が戻ってくるまえに、次の作戦オプションを見つけておくのが先決だろう。

クリッターは、薄暗い照明の下で懸命に地図を睨み、そしてついに気付いた。

「お、ここにも小さいハッチがあるぞー……なんだこりゃ、ケーブルダクト……?」


比嘉タケルに状況を伝え終えた凜子は、長く沈痛なため息とともにシートに背を預けた。

 時間内の脱出が確実に不可能となった桐ヶ谷和人のために、自身もアンダーワールドに残ろうという結城明日奈の決意は、あまりにも若く、直情的で、そして――貴いまでに美しかった。

凜子はどうしても思い出さざるを得ない。

かつて愛した男が、彼女を現実世界に置き去りにして遥かな異世界に消えてしまったことを。

 もしあの時、共に往く機会を与えられていたら、自分はどうしただろうか。彼と同じように、一方通行のプロトタイプSTLで脳を焼き尽くし、意識のコピーのみを残す道を選べただろうか。

「晶彦さん……あなたは…………」

眼を閉じ、声ならぬ声でつぶやく。

 浮遊城アインクラッドと、そこに閉じ込められた五万のプレイヤーたちによる"本物の異世界"を創り出すことだけが当初は彼の望みだったはずだ。

しかし、二年間に及んだ浮遊城での日々において、彼は何かを見、何かを知った。その何かが彼の考えを変えた。

もっと、もっと先がある、と。

 SAO世界は終着点ではなく、始まりでしかないのだと彼は気付いた。だからこそ、長野の原生林に囲まれた山荘で、彼はナーヴギアの信号入出力素子の高密度化を進め、やがて自身を殺すことになる試作機を完成させた。

 その基礎資料を託された凜子が、医療用高精度NERDLESマシンたるメディキュボイドを開発し。

 メディキュボイドに数年間も連続接続しつづけた一人の少女によって提供された、膨大なまでのデータを基にラースと比嘉タケルがSTLを完成させた。

 つまり考えようによっては、アンダーワールドという究極の異世界は、彼――茅場晶彦の意思を礎として生まれたのだと言い切れる。

ならば、アンダーワールドの完成をもって、茅場の望みはその到達点に至ったということなのか?

いや、違うはずだ。

 なぜなら、彼が残したもうひとつの種子、"ザ・シード"パッケージというピースがパズルのどこに収まるのかがまだ解らない。

 確かに、ザ・シード規格のVRMMOがスタンダード化していたからこそ、先刻の外部勢力によるアンダーワールド襲撃に、日本人プレイヤーたちのアカウント・コンバートによって対抗できたのだと言える。

だがまさか、さしもの茅場もあの事態を数年前に予想していたわけではあるまい。コンバート機能によるアンダーワールドへのダイブは、あくまで副次的産物であったはずだ。

 であれば、一体何が目的なのか……全世界のVRワールドを、共通規格のもとに相互連結することが、なぜ必要だったのか……。

「……せ。神代博士」

背後から呼びかけられ、凜子ははっと瞼を開けた。

振り向くと、剛毅な容貌の中西一尉が、素早い敬礼とともに報告した。

「隔壁再開放への対応準備、完了いたしました。いつでもどうぞ」

「あ……は、はい。どうもありがとう」

 さっとモニタの時刻表示を確認する。限界加速フェーズに突入してから、すでに一分が過ぎている。内部時間では……十年。

信じられない。桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂年齢は、もう凜子のそれをも超えてしまっている。

 早く……一分一秒でも早くログアウトさせなければ。もし、魂寿命すべてを使い尽くす前に脱出できさえすれば、限界加速フェーズが開始されて以降の記憶すべてをリセットすることは可能だ。しかし、そのための猶予時間は、理論上ではあと約十二分足らずしかない。

 比嘉君……菊岡さん。

急いで!!

凜子はきつく唇を噛み、念じた。


菊岡二佐の喉から吐き出される呼吸音は、もう壊れかけの送風機のようだ。滝のような汗がシャツを変色させ、比嘉の服をもぐっしょりと濡らしている。

比嘉は、ここからは自力で降ります、という台詞を何度も飲み込んだ。

柳井の放った銃弾に撃ち抜かれた右肩は、鎮痛剤を限界量まで飲んでいるにも関わらず鈍く疼き、大量に失血した体は鉛のように重苦しい。とても自力でステップを掴むことなどできそうもない。

 それにしても――、と、比嘉は思う。

この事態に際し、菊岡二佐がここまで必死になるとは、正直意外と思わざるを得ない。

 アリシゼーション計画の精髄たる限界突破フラクトライト"アリス"は、すでに確保されたのだ。あとは、アリスを構造解析し、従来のフラクトライトとの差異をつきとめれば、真正ボトムアップAIの量産にめどがつく。きたる無人兵器時代に、日本独自の技術基盤を打ち立て、アメリカ軍産システムによる支配から脱するというラースの設立目的がついに達成されるのだ。

それこそが、菊岡誠二郎という人間の悲願であるはずだ。

 総務省に出向してまでSAO事件に首を突っ込んだのも、自らキャラクターを作ってまで若いVRMMOプレイヤーたちとの交流を続けたのも、すべてはそのためだ。

だから、菊岡の行動優先順位から言えば、いまは耐圧隔壁をガンとして閉め切り、イージス艦の突入時刻までアリスのライトキューブを死守する、という選択をしそうなものだ。

たとえそれで、アンダーワールドに取り残された桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂が崩壊しようとも。それに激しく反対するであろう神代博士を、船室に軟禁することも辞さず。

「……意外、だなあ……と、思ってる……かい」

突然菊岡二佐が、荒い息の下からそう声を発し、比嘉はウヒッと妙な音を漏らした。

「いっ、いえ、そのぉ……ま、その、キャラじゃないなーと、いう気はするッスけど……」

「まっ……たくだ」

菊岡は、残りわずかとなったハシゴを全力で降下しながら、ぜいぜいと喉を鳴らして短く笑った。

「しかし……言って、おくがね。これも……打算、あっての、行動……さ」

「へ……へぇ」

「僕は……常に、最悪を、考える、主義でね。今は……敵に、まだ、アリス……再奪取の、可能性があると、思わせておいたほうがいい」

「さ、最悪……ッスか」

敵がこのケーブルダクトに気付き、耐圧隔壁開放中に下から突っ込んでくる以上の最悪が、果たしてあるだろうか。

しかし、比嘉がその推測を進めるまえに、ついに菊岡のコンバットブーツの底が、チタン合金のハッチにぶつかった。

動きを止め、激しい呼吸を繰り返す指揮官に代わって、比嘉はインカムの通話スイッチを押した。

「凜子さん、到着しました! 隔壁ロック、解除してください!!」


「うおっ……マジに、開けやがったー!」

クリッターは、メインモニタに表示された耐圧隔壁開放警告を見上げ、叫んだ。

いったい何故。なんのために。

 どう考えても間尺に合わない。アリスを確保した今、K組織がわざわざ防御をゆるめるどんな理由があるというのだ。

しかし、今はあれこれ考えている時間はない。クリッターは背後を振り返り、長い腕を振り回して隊員たちに喚いた。

「えーっと、あー、ブリッグだけ残して、ハンス以下全員は主通路に突入してくれー! 撃ちまくって、隔壁の向こうを確保するんだー!」

「簡単に言ってくれるわね……」

ハンスがちっちっと舌を鳴らしながらも、ライフルを担ぎ上げた。十数名の隊員たちも続く。

「お……おいおい、俺はどうすりゃいいんだ」

不服そうに唇を尖らせるブリッグの髭面に向けて、クリッターはぱちんと指を鳴らした。

「ちゃーんと仕事はあるってー。アンタの腕にふさわしい、重要な任務がさー」

無論内心ではまったく別のことを考えている。このアホウからは、なるべく眼を離さないほうがいい。

「いいかー、俺とアンタは、こっちのケーブルダクトを見にいく。どうやらコイツが敵の本命だと、俺は睨んでるんだよねー」

「お……おう、そうか。そうこなくっちゃな」

ニンマリと笑い、大げさな仕草でアサルトライフルのマガジンを確認するブリッグの背中を、クリッターはため息を隠して叩いた。

 ハンスたちに続いてメインコントロールのドアをくぐり、別方向に駆け出す寸前、クリッターはちらりと奥の扉――第一STL室を見やった。

そう言えば、やけにログアウトに時間がかかってないか? ヴァサゴの奴、まさかノンビリ煙草でも吸ってるんじゃないだろうな。

一応確認するべきか、と思ったが、すでにブリッグがどかどか走り出してしまっている。

再びため息を飲み込み、クリッターも後を追った。

ほんの数十秒で、目標地点まで辿り着く。一見、ただ通路が行き止まっているだけだ。しかし地図によれば、眼前の小さなハッチの向こうに、シャフト上部とメインフレームを繋ぐケーブルダクトが設けられているはずだ。

回転式の開閉ハンドルを、汗ばむ手で握り、まわす。

重い金属扉を引きあけたクリッターがまず眼にしたものは、暗いオレンジの光に照らされたごく狭いトンネルだった。正面の壁に、垂直にのぼるステップが設けられている。

 次に、何気なく足元を見下ろして――。

「……ウオァ!?」

拉げた声とともに、クリッターは飛び退った。

 そこに、身体をUの字に折りたたむようにして、男が一人すっぽりと嵌まりこんでいたからだ。背後で、ブリッグががしゃっとライフルを構える。が、すぐに、押し殺した声で指摘する。

「……死んでるぜ」

確かに、横顔を向ける男の頚椎は、不自然な角度に曲がっている。最大級のしかめ面を作りながら、クリッターは男の顔を覗き込み、数回まばたきした。

「あれっ……こいつ、アレじゃねーかー。K組織の情報提供者……どうなってんだ、スパイだってバレたのかぁ……? でも、だからってこんな殺し方ー……」

おそるおそる指先で男の肌に触れると、ひんやりじっとりした感触が伝わってくる。温度からして、死んだのは恐らく最初の隔壁開放時だ。つまり一度目は、この男がロウワーシャフトに脱出しようとして行ったものなのか? そして、ハシゴを踏み外して墜落死した?

しかし、とすればなぜ隔壁は再び開かれたのか。

クリッターは、ブリッグに向き直り、言った。

「一応、ダクトの上がどうなってるか、確認してみてくれー」

 髭面の巨漢はふんと鼻を鳴らし、右手を伸ばすと、無造作にスパイの死体を通路に引っ張り出した。ライフルを構えながら、ずいっと上体を暗いトンネルに突っ込み――。

おいおい、頭から入るなよ、とクリッターが考えかけたその瞬間。

「ダムン!!」

叫ぶと同時に、いきなり発砲した。

黄色い閃光がクリッターの網膜に弾け、音調の異なる二種の射撃音が鼓膜を叩いた。

悲鳴を飲み込んで飛びすさった目の前で、ブリッグの巨体が、見えないハンマーに打ちのめされたかのように床に叩き付けられた。

「うおっ!! 何だよ、くそっ!!」

クリッターは喚き、尻餅をついてさらに後ずさった。ブリッグは、ついさっきまでスパイの死骸が収まっていた場所に上体をつっこみ、ぴくりとも動かない。格好だけでなく、運命も同じ道をたどったのは明らかすぎるほどに明らかだ。

 ――さて。どうしたものか。

冷や汗を滝のように流しながらクリッターは考えた。

ブリッグの右手からライフルを回収し、トンネル内の敵と果敢に撃ち合って仇を取る? まさか! 俺はただのコンピュータ・オタクで、仕事は考えることとキーボードを叩くことだけだ。

ずりずりと尻を擦り、メインコントロール室を目指して退避しながら、さらに思考を続ける。

 少なくとも、これでK組織に積極的な攻撃の意図があることだけはわかった。しかし、戦力では明らかにこちらが優っているのだ。戦えば、向こうにも当然犠牲は出よう。ヘタをすれば、アッパーシャフト全てを占領され、アリスを再奪取されかねないではないか。

 それ以上の"最悪"があると、K組織の指揮官は考えているのか? こちらに、オーシャンタートルを丸ごと吹っ飛ばすほどの火力があるとでも思っている? まさか、手持ちのC4では耐圧ハッチ一枚吹っ飛ばせないのに……。

 火力…………。

不意に、クリッターは鋭く空気を吸い込んだ。通路の先に転がる二つの死体も、意識から消えた。

ある。

 オーシャン・タートルを丸ごと破壊し、アリスとK組織をもろとも海の藻屑に変える方法が。たった一つだけ。

確かに、アリスの奪取が不可能と判断した場合は、少なくとも完全に破壊せよというのがクライアントから与えられた命令だ。しかし、そのためにこの巨大な自走メガフロートと、数十人の乗員をもろとも道連れにするなどということが許されるのだろうか。

そんな恐ろしい決断を、自分に下せるわけがない。一生悪夢に悩まされること必定だ。

クリッターは立ち上がり、指揮官の判断をあおぐべく、走った。


「き……菊さん! 大丈夫っすか、菊さん!!」

押し殺した声で、比嘉は尋ねた。ダクト最下部のハッチから出現した敵は、少なくとも三発はライフルをぶっぱなしたはずだ。

返事は、なかった。比嘉を背負い、右手にステップを、左手に拳銃を握る菊岡二佐は、肩を壁面に押し当てるようにして力なく項垂れている。

うそだろ、おい、やめてくれ。あんたはまだまだ必要な人間なんだ。

「き……」

菊岡サァァァァァァン!!

と、叫ぼうとしたその時、二佐が激しく咳き込んだ。

「げほっ……うえぇ、いや……参った。防弾ベスト着てきて正解だったと、今思っている……」

「あ……当たり前っすよ! 本気でアロハのまま来るつもりだったんスか……」

はああ、と安堵の息を吐きながら、再び怪我の有無を問い質す。

「うん、一発ベストに当たっただけのようだ。それより、君こそ無事か。やたらと跳弾したようだが」

「え……ええ。身体も、端末も無傷っス」

「なら、急ごう。コネクタはもうすぐそこだ」

再び降下をはじめた菊岡の背に揺られながら、比嘉はふたたび意外だ、と内心で呟いた。

菊岡二佐は、てっきり肉体的技能は苦手な人なのだろうとこれまで思っていたのだが、広い背中にうねる筋肉は鋼のようだし、それにさっきの射撃。ハシゴにぶら下がり、左手一本で真下を狙うという悪条件にも関わらず、ダブルタップで連射した二発が敵のノドと額を正確に撃ち抜いたのだ。

まったく、どれだけ付き合おうと底の割れないオッサンだ。

小さく首を振り、比嘉は視界に入ってきた点検コネクタに繋ぐためのケーブルを、右手で準備した。


通路を駆け戻ったクリッターは、上方から響いてくるライフルの連射音を聞きながら、メインコントロール室に走りこんだ。

 部屋に、ミラー中尉とヴァサゴの姿はない。まだSTLから出ていないのだろうか。すでに、時間加速が再開してから五分以上が経っているというのに。

思いついたアイデアを、彼らに説明したものかどうか、クリッターはまだ迷っていた。聞けば、二人は即座に実行の命令を出すだろうという確信があったからだ。彼らは、目的遂行のために無関係な犠牲者が何人出ようと気にするような人間ではない。

 結論を出せぬまま、クリッターは勢いよく第一STL室のドアを押し開いた。

「隊長! アリスが、敵に…………」

続くべき言葉は、軋るような音に変わって喉の奥に引っかかった。

 手前側、一番STLのシートベッドに横たわり、額から上を巨大なマシンに飲み込まれたミラー中尉の顔には、これまで一度も見せたことのない表情が浮かんでいた。

いや、クリッターは、そのような表情を、いままでどんな人間の顔にも見たことはなかった。

青い両眼が、ほとんど飛び出す寸前にまで見開かれている。口は、顎関節が外れてしまったかのごとく限界まで広げられ、しかも斜めに歪んでいる。突き出た舌が奇怪な角度で折れ曲がり、まるで別の生き物のようだ。

「た……隊……長……?」

喘ぎながら、クリッターはがくがく膝を震わせた。いま、ミラー中尉の突出しかけた眼が動いたら、自分は悲鳴を上げてしまうだろうという確信があった。

奥歯を小刻みに鳴らしながら、おそるおそる手を伸ばし、まるで何かを防ごうとするように掲げられた中尉の左手首を、そっとつまむ。

脈は、なかった。

そして肌は氷のように冷たかった。強襲チーム指揮官ガブリエル・ミラー中尉は、身体に何の傷もないのに、完全に絶命していた。

胃からこみあげてくるものを必死に押し戻し、クリッターはかすれ声で叫んだ。

「ヴァサゴ……早く起きろ! 隊長が……し、死……」

 脚を引き摺るように一番STLを回り込み、その奥の二号機のシートに視線を振る。

今度こそ、クリッターは本物の悲鳴を上げた。

副隊長ヴァサゴ・カザルスは、一見おだやかに眠っていた。瞼の閉じた顔に表情は無く、両手もまっすぐ身体の横に伸びている。

 しかし――。

あれほど艶やかな黒に輝いていた、波打つ長髪が。

いまは、百歳を超えた老人のような、乾いた白髪ばかりに変じていた。

もうヴァサゴの脈を確認する気も起こらず、クリッターは言うことを聞かない膝をかくかく震わせて後ずさった。一刻もはやくこの部屋を出ないと自分も二人と同じ目に合うと、理性とコードのみを信奉するハッカーであるはずのクリッターは、本気で信じた。

開けっぱなしの入り口から後ろ向きに転がり出て、右足で思い切りドアを閉める。

そこでようやく深く息をつき、クリッターは懸命に思考を立てなおした。

隊長とヴァサゴに何が起きたのかを調べるすべは無いし、知りたくもない。推測できるのは、アンダーワールドで何かがあり、その結果二人の魂は、現実の肉体を道連れに破壊されてしまったのだろうということくらいだ。

つまるところ、作戦は失敗したのだ。指揮官が死んでしまった以上、船ごとアリスを破壊するかどうかの判断も下せない。これ以上、この場に留まる意味はない。

クリッターは、コンソールから通信機を掴み上げ、掠れた声を押し出した。

「ハンス……戻ってくれ。ブリッグと、ヴァサゴと、隊長が死んだ」

数十秒後、コントロール室に走りこんできたチーム一の伊達者の顔には、ぎらつくナイフのような異様な表情が浮かんでいた。

「ブリッグが死んだですって!? なぜ!?」

「け……ケーブルダクトで、上から撃たれて……」

それを聞くやいなや、ライフルを構えなおして走り出そうとするハンスを、クリッターは必死に止めた。

「やめろ! 敵の攻撃は陽動だー。もう、戦う意味はない……」

ハンスはしばらく無言だった。やがて、凄まじい音をさせて壁をなぐりつけると、くるりと振り向いて足早に歩み寄ってきた。

「……いえ、まだ命令は残っているはずよ。奪えないなら、破壊すべし。アンタ、何かアイデアくらいあるんでしょ」

綺麗に整えられた揉み上げを震わせ、問い詰めてくるハンスに呑まれ、クリッターはかすかに頷いた。

「あ……ああ、無くもないがー……いや、ダメだー。隊長なしに、下せる判断じゃない」

「言うのよ。言いなさい!!」

突然ハンスが、アサルトライフルの青光りする銃口をぐいっとクリッターに突きつけた。ブリッグとコンビを組み、中東や南米の戦場を渡り歩いてきた傭兵の眼にうかぶ剣呑な光は、クリッターに抗えるものではなかった。

「え……エンジンだー」

「エンジン? この船の?」

「そうだ……。このドでかい船の主機は、原子炉なんだ……」


十分経過。

神代凜子は、わななく両手を強く握り締めながら、無情に刻まれていくデジタル数字を凝視した。

 限界フェーズ突入以降、アンダーワールド内で過ぎ去った年月は――実に、百年。

その膨大な時間を、桐ヶ谷和人と結城明日奈がどのように体感したのかは、もう遥か想像の埒外だった。一つだけ確実なのは、ふたりのフラクトライトの記憶保持容量がいよいよ限界に近づきつつあるということだ。

 比嘉の予測によれば、人間の魂は、おおよそ百五十年ぶんの記憶を蓄積した時点で正常な動作ができなくなり、崩壊がはじまる。むろん、実験で確認された話ではない。実際の限界はもっと先かもしれないし――あるいは、ずっと早いかもしれない。

いまはただ、魂が自壊してしまうより早く、ログアウト処理が完了することを祈るのみだ。それさえクリアできれば、まだもとの二人に戻れる望みは残る。

 比嘉くん……菊岡さん。お願い。

祈る凜子は、階下からかすかに響いていた銃撃音がいつしか途切れたことに気付かなかった。それを教えたのは、サブコントロールに駆け戻ってきた中西一尉だった。

「博士! 敵が撤退を開始しました!」

「て……撤退!?」

顔をあげ、唖然と繰り返す。

なぜこのタイミングで。耐圧隔壁が再開放中のいまは、襲撃者たちにとってアリス確保の最後のチャンスではないか。諦めるにしても早い。イージス艦が突入してくるまで、まだ四時間以上も残っている。

凜子は、キーボードに指を走らせて艦内各所の状況を知らせるステータスウインドウを呼び出しながら、一尉に尋ねた。

「戦闘で……怪我人は出ましたか?」

「は……軽傷二名、重傷一名、治療中ですが命に別状ないと思われます」

「そう……ですか」

詰めていた息を、わずかに吐く。ちらりと視線を向ければ、剛毅なラインを描く一尉の頬骨のあたりに大きなパッチが貼られ、薄く血が滲んでいるのに気付く。軽傷者のうちに、彼自身も入っているのだろう。

彼らの奮戦を無駄にしないためにも、二人の若者たちを必ず救出しなくては。

少なくとも、敵が撤退を開始したというのはいいニュースだ。ステータス窓を視線で追い、凜子はたしかに艦底水中ドックが開扉中なのを確認した。

「ええ、再び潜水艇で脱出するようですね……。それにしても……やけに慌しく……」

眉をしかめ、唇を軽く噛んだ、その時だった。

これまでとは異質な震動が、メインシャフト全体を揺るがした。

ひゅううーん、という木枯らしのような唸りが巨大なメガフロートを突き抜ける。卓上のボールペンが転がり、床へと落ちる。

「な……何!? 何がおきたの!?」

「これは……ああっ……まさか、奴ら……!!」

中西一尉が低い声で呻いた。

「この震動は、主機の全力運転によるものです、博士!!」

「しゅ……き?」

「メインエンジン……つまり、シャフト基部の、加圧水型原子炉です……」

愕然と目を見開く凜子にかわり、コンソールに飛びついた一尉が、不慣れな手つきでステータスウインドウに更なる操作を加えた。次々と新たな窓が開き、うち一つに不鮮明な映像が浮かび上がる。

「くそっ!! 制御棒が、全部下がっている!! 連中、何てマネを!!」

だん! とコンソールを叩く一尉に、凜子はかすれ声で訊いた。

「でも、安全装置くらい、あるんでしょ……?」

「無論です。炉心が臨界状態に達する前に、自動的に制御棒が突入し、核分裂は停止します。ただ……ここ、これを見てください」

一尉の指が、モニタに浮かぶ原子炉格納室のリアルタイム映像の一部を示した。赤に光に紛れてわかりにくいが、どっしりした機械の一部に、何か小さな白いものが貼り付いているようだ。

「これはおそらくC4……プラスチック爆弾です。このサイズでは、炉心が破れることはないでしょうが、しかしこの場所は、制御棒を炉心に持ち上げるための駆動装置なのです。もしここが破壊されれば……」

「核分裂を……止められなくなる? すると、どうなるの……?」

「まず一次冷却水が水蒸気爆発し、格納容器を破壊……最悪の場合、融解した炉心が海面まで落下し、さらに大量の蒸気を発生させ、おそらくシャフト内部をすべて吹き飛ばすでしょう。メインコントロールから、ライトキューブクラスター、そしてこのサブコントロール室まで」

「な…………」

 凜子はおもわず、足元の床を見下ろした。この強固な金属を突き破り、超高温の蒸気が襲ってくる――?

 そんなことになったら、せっかくここまで犠牲者を出すことなく耐えてきたラースの人員も、STLに横たわる和人と明日奈も、そしてライトキューブクラスターに封じられた十数万の人工フラクトライトたちも、ひとたまりもなく……。

「自分が、爆薬を解除します」

不意に、中西一尉が低い声で言った。

「連中は、潜水艇がオーシャンタートルから充分に離れられるだけの余裕をもって起爆時間を設定しているはずです。あと五分か……十分はあるはずだ」

「で、でも、中西さん。エンジンルーム内の、温度は、もう」

「なに、熱めのサウナと変わりゃしません。走り込んで、信管を抜くくらい簡単です」

 ――それは、きちんと防護服を着ていればのことだ。だが、もうそんな準備をしている時間はない。

凜子は、心中のその言葉を、口に出すことはできなかった。ドアに向かう一尉の大きな背中は、あらゆる柔弱な感傷をはねのける鋼の板のようだった。

しかし。

ごつごつと鳴るコンバットブーツが辿り着くより早く、何者かが通路側からドアをスライドさせた。

薄暗い通路に立つ誰かのシルエットに、凜子は目を凝らした。

ういん。と、モーターの駆動音。がちゃ、と金属が金属を踏む響き。

 よろめくように脇に下がる中西一尉の向こうから、明かりの下に姿を現したのは――鈍く光る無骨な四肢と、複数のレンズを搭載した頭を持つ、人型の機械だった。

「に、ニエモン……試作二号機!? なぜ、勝手に……!?」

喘ぐ一尉を無視し、ロボットはまっすぐに凜子を見て、言った。

『私が行こう』

その声。

部屋に漂う、ワックスとオイルの匂い。

 数日前、オーシャン・タートルに降り立った日の夜、夢のなかで聞き、嗅いだ……。

凜子はよろよろと立ち上がり、数歩あゆみよりながら、かすれ声を押し出した。

「……あ……晶彦、さん…………?」

ぼんやりと緑に発光するセンサーが、まるで瞬きするように明滅し、ロボットは小さく頷いた。

吸い寄せられるように近づいた凜子は、震える両手で、そっとアルミニウムの外装に触れた。かすかな駆動音とともに持ち上がった両手が、凜子の背中に触れた。

『長いあいだ、一人にしてすまなかった、凜子くん』

 電気合成されたものであっても、その声は間違いなく、神代凜子がかつて愛したたった一人の男――茅場晶彦のものに間違いなかった。

「こんな……ところに、いたのけ」

もう忘れてしまったはずの郷言葉で、凜子は囁いた。両眼から涙が溢れ、センサーの光が滲んだ。

『時間がない。だから、必要なことだけ言うよ。凜子くん……私は、君に出会えて、幸せだった。君だけが、私を現実世界に繋ぎ続けてくれた。願わくば……これから先も、君に繋いでほしい。私の夢を……今はまだ隔てられている、二つの世界を……』

「ええ……、もちろん。……もちろん」

何度もうなずく凜子をじっと見つめ、機械の顔が微笑んだ。

身体を離したロボットは、滑らかな重心移動で向きを変え、ほとんど走るような速度で通路へと出た。

無意識のうちに後を追いかけた凜子の目の前で、ドアがかすかな音とともに閉まった。

大きく息を吸い、ぐっと歯を噛み締める。今は、このサブコントロールを離れるわけにはいかない。各所の状況確認を任されたのは自分なのだ。

代わりに、凜子はエンジンルームの映像を見上げ、胸元のロケットを握り締めて最大限の祈りを凝らした。すぐ横に歩み寄ってきた中西一尉が、ため息に似た声で、頼むぞ、と呟くのが聞こえた。


 比嘉タケルは、ケーブルダクトの下方から押し寄せてきた重いタービンの唸りを聞いたとき、ようやく菊岡の危惧していた"最悪"の正体を悟った。

「き……菊さん……連中、原子炉を……」

かすれた呻きは、強い声に遮られた。

「分かっている。いまは、STLのシャットダウンに全力を注いでくれ」

「は……はい。しかし……」

ようやく辿り着いた点検パネルに、再びリボンケーブルのコネクタを指し込みながらも、比嘉は背中に噴き出す汗を止められなかった。

仮に原子炉が暴走した場合、この作業の意味もなくなってしまうのだ。それどころか、アンダーワールドも、アリスのライトキューブも、丸ごと高温の蒸気と高レベル放射線に破壊され尽くしてしまう。多くの人命ともども。

だが、原子炉を爆発させるというのはそう容易いことではない。炉心を覆う分厚い金属容器は小銃などではとても破れないし、制御系にも何重ものセーフティがかかっている。仮に無謀な全力運転を続けさせたところで、すぐに安全装置が働き、核分裂を停止させるはずだ。

と、その時、菊岡が普段どおりの声で何気ないように尋ねた。

「うーん、比嘉くん。あとは一人でも何とかなるかい?」

「え……ええ、ハーネスをステップに固定すれば、作業は可能ですが……。で、でも、菊さん、まさか……」

「いやいや、ちょっと様子を見てくるだけだよ。ムチャはしないさ、すぐに戻ってくる」

言うと、菊岡は手早く二人を固定するハーネスを外し、いくつかのナス環をハシゴにがっちりと噛ませた。比嘉の身体が保持されたのを確認し、するりと下方に身体を抜く。

「じゃあ、後は頼んだよ、比嘉くん」

上を向いた黒縁眼鏡の奥で、細い目がニッと笑った。

「き、気をつけてくださいよ! 連中がまだ残ってるかもしれないッスから!」

比嘉の声に、似合わぬ仕草でぐっと右手の親指を突き出し、菊岡はするすると物凄い速さでステップを下っていった。

最下端のハッチに達すると、慎重に奥を覗き、通路へと這い出す。

それに比嘉が気付いたのは、菊岡の姿が完全に消えたあとだった。

端末を右手で叩きながら、何気なく腹を締め付けるハーネスを直そうとした左手に、ぬるりという感触が伝わった。ぎょっと見下ろした掌は、オレンジ色の非常灯の下で真っ黒に見える液体に濡れていた。

それが、比嘉のものではない血であることは明らかすぎるほど明らかだった。


数分前まで襲撃者たちに占拠されていたシャフト下部の艦内カメラはほとんど破壊されたが、原子炉を格納する機関室エリアのものは無事だった。

カメラからの映像を大写しにするメインモニタを見上げ、凜子は両手でロケットを包み込み、待った。

すぐ左で中西一尉が、コンソールに乗せた両手を硬く握り締めている。背後では、階下の防衛線から引き上げてきた警備スタッフや技術スタッフたちが、それぞれの姿勢でそれぞれの意思を念じている。

皆さんはせめて船首のブリッジまで退避してください、と凜子は要請した。しかし、一人としてメインシャフトを出て行くものはいなかった。

ここに居る人たちは全員、日のあたらぬ偽装企業であるラースでの研究開発に人生を捧げているのだ。真正ボトムアップ人工知能が必ずや拓くであろう新時代に、おのおのの夢を、願いを託しているのだ。

凜子は今日この瞬間まで、自分はあくまでこの船にいっとき留まる客に過ぎないのだと思っていた。菊岡誠二郎という本心の見通せない人間の目的に同調する気にはなれそうもなかった。

しかし、凜子もまた、訪れるべくしてラースを訪れたのだった。それをようやく悟った。

 人工フラクトライトは、無人兵器搭載用AIなどという狭いカテゴリにおさまるものではない。

同様にアンダーワールドは、ただの社会発達シミュレーションなどではない。

それらは、巨大なるパラダイム・シフトのはじまりなのだ。

 閉塞していくばかりの現実世界を変革する、もうひとつの現実。既存のシステムから脱却しようとする若者たちの意思を、その目に見えぬ力を具現化する世界(アン・インカーネイト・ラディウス)。

 ――それこそが、あなたの目指したものなのね。

 あなたが、浮遊城での二年間で気付き、見出したのは、"彼ら"の可能性。眩いばかりに輝く、心の光。

 繋いでみせるわ。かならず。だから――

お願い、晶彦さん。みんなを、世界を、守って。

凜子の祈りに応えたかのように、ついにモニタ上の遠隔映像に動きがあった。

 分厚い二重の隔壁に封じられた加圧水型原子炉。その炉心へと至る狭い通路に、"人工フラクトライト搭載用人型マニピュレータ試作二号機"の姿が出現したのだ。

すでにバッテリー出力が低下しているのか、足取りは鈍い。チタン骨格の脚自体の重量と戦うように、ずちゃ、ずちゃと大きな音を立てて前進していく。

茅場晶彦の思考コピー体が、いったいいつからあのボディに潜伏していたのかは凜子には想像もできなかった。しかし、一つだけ確かなのは、あのマシンの物理メモリ領域に宿るそのプログラムは、唯一のオリジナルであるはずだ。あらゆる知性は、己が複数存在するコピーであるという認識に耐えることはできないのだ。

炉心の高熱に、電子系がほとんど剥き出しの試作ボディがどこまで耐えられるのか。

 お願い、無事に爆弾を解除して、もう一度私のところに戻ってきて――と祈ろうとして、凜子はぐっと唇を噛んだ。

おそらく、茅場晶彦は、ここで消える覚悟なのだ。

かつて生身の脳を焼いてまでその意志を残した彼も、ようやく目的を果たし、死に場所を見つけたのだ。

ういん。アクチュエータが唸る。

ずちゃ。ダンパーが軋む。

懸命の、しかし確たる歩行で、ロボットはついに最初のドアにまで到達した。

 右手を伸ばし、開閉パネルを操作する。ぷしっ、と油圧が抜け、分厚い合金の扉が奥に開く――。

その時。

甲高いライフルの咆哮が、スピーカから迸った。

開いたドアの奥から、一人の黒ジャケット姿の兵士が、何かを叫びながら飛び出してきた。

以前のように、ヘルメットとゴーグルに顔を隠してはいない。一見優男ふうの容姿に、整った口ひげと揉み上げを蓄えている。

「な……一人残っていたのか!? 何故!? 死ぬ気か……!?」

中西一尉が、愕然と呻いた。

モニタでは、二号機が両腕を前で交差させ、ボディを守ろうとしている。そこに、更に数発の銃弾が浴びせられる。

火花が弾け、アルミの外装に幾つも孔があいた。各所でケーブルが引き千切れ、細かいギアやボルトが飛散した。

「や……やめて!!」

凜子は思わず悲鳴を上げた。しかし画面内の敵兵士は、激したような英語で更に何かを喚き、ライフルのトリガーを引き続ける。ロボットがよろめき、一歩後退する。

「い……いかん! ニエモンの簡易外装では耐えられん!!」

もう、とても間に合わないのは確実だったが、中西一尉が拳銃を手に駆け出そうとした。

瞬間。

新たな銃声が、反対側のスピーカから立て続けに響いた。

 通路に、三人目の人物が、拳銃を乱射しながら走りこんできた。敵兵の身体が、右に、左に大きく揺れる。二号機の背後から、ロボットを一発も誤射することなく撃ち続けるとはすさまじい腕だ。いったい誰が――。

呼吸も忘れ、目を見開く凜子の視線のさきで、ついに敵兵士の喉もとから鮮血が弾け、細い長身が弾かれたように仰向けに倒れて動かなくなった。

 直後、救援者も、通路の中ほどにゆっくりと膝をつき――。

横向きに、その身体を沈みこませた。

額にかかる前髪。斜めにずれた、黒縁の眼鏡。口元は、わずかに笑っているように見えた。

「き……菊岡さん!!」

「二佐ッ……!!」

凜子と中西が、同時に叫んだ。

今度こそ、自衛官が転げるような勢いで部屋を駆け出していく。それを止めることは、もう凜子にはできなかった。

代わりに、技術スタッフの一人がコンソールに飛びつく。キーボードが凄まじい速度で乱打され、二号機のものと思しきステータスが表示される。

「左腕、出力ゼロ……右脚、七十パーセント。バッテリー残量三十パーセント。いけます、まだ動けます!!」

スタッフの絶叫が聞こえたかのように、二号機が前進を再開した。

ずちゃ。ず、ちゃ。ぎこちない歩行とともに、千切れたケーブルから火花が飛び散る。

ぼろぼろのボディがドアを潜り、扉が奥から閉められた。カメラが、炉心内部の映像に切り替わる。

二つ目の耐熱ドアは、大型のレバーで物理的にロックされていた。二号機の右腕がレバーを掴み、押し下げようとする。ヒジ部のクラッチが空転し、大量の火花が飛び散る。

「おねがい……」

凜子が呟くと同時に、サブコントロールのそこかしこから声援が湧き起こった。

「がんばれ、ニエモン!!」

「そこだ、もうちょっと!!」

が、こん。

レバーが下がった。

途端、重そうなドアが、内部からの圧力に押されるように開いた。凄まじい熱気が噴出してくるのが、モニタ越しにもはっきりと見えた。

二号機がよろめく。背中右側の太いコードが、一際激しくスパークする。

「あ……ああっ、いかん!!」

不意に、技術者が叫んだ。

「なに……どうしたの!?」

「バッテリーと主制御盤を繋ぐケーブルが損傷しています!! あそこが切れたら……全体への、電力供給が停止して……完全に動けなくなります……」

凜子も、他のスタッフたちも一様に絶句した。

二号機に宿る茅場自身も、その深刻なダメージに気付いたのだろう。揺れるコードを右ヒジで押さえるようにして、ゆっくり歩行を再開する。

ついに到達した原子炉内部は、全力運転を続ける炉心が放つ高熱を排出しきれず、とても生身の人間には耐えられない高温となっていた。

おそらく、もう間もなく安全装置が働き、制御棒が自動的に突入して核分裂を停止させようとするはずだ。

しかし、それより早く、仕掛けられたプラスチック爆薬が炸裂し、制御棒駆動装置を破壊すれば。核燃料から放出される大量の中性子は、連鎖的にウラン原子を崩壊させ続け、やがて制御不能の臨界状態へと導く。

 溶融した炉心が、下部の一次冷却水を一瞬で大量の水蒸気へと変え、格納容器を引き裂き、炉心は重力に引かれるまま船底をも貫いて海面に到達し――。

凜子の脳裏に、オーシャンタートルを貫いて噴き上がる白煙の映像がちらりと過ぎった。

一瞬目を閉じ、再び祈る。

「お願い……晶彦さん……!!」

皆の声援も再開した。それらに背を押されるように、試作二号機は主機格納室へとその脚を踏み入れた。

再び、カメラが切り変わる。

途端、凄まじい騒音がスピーカから溢れた。モニタの映像が、赤一色に染まる。

熱気を掻き分け、片足を引き摺るように前進していく二号機と、格納容器に張り付くプラスチック爆弾まではもう五、六メートルしかない。

ロボットの右手が、信管に向けて持ち上げられる。身体の各所から間断なく火花が飛び散り、ひび割れた外装の破片が金属の床に落ちる。

「がんばれ……がんばれ……がんばれ……!!」

サブコントロールルームは、たった一つの言葉だけに満ちていた。凜子も、両拳を握り、声を嗄らして叫んだ。

あと四メートル。

三メートル。

 次の一歩――。

と同時に、ほとんど爆発じみたスパークが、二号機の背中から迸った。

千切れ、揺れる黒いコードは、まるで傷ついた内臓のようだった。

顔の全センサーが、光を失った。右腕が、ゆるゆると沈んだ。

 両膝が、油圧ダンパーに任せて、がくりと折れ曲がり――

二号機は、完全に沈黙した。

モニタのステータス窓で何本も並んで揺れていたレインボーカラーの出力バーが、すべて左端へと落ち込み、ブラックアウトした。

技術スタッフが、囁くような声で告げた。

「……全出力、消失……しました……」


 ――私は、奇跡は信じない。

 かつて、SAOが予定よりはるかに早くクリアされ、全プレイヤーが解放されたその日、山荘のベッドで覚醒した茅場晶彦は凜子にそう言った。

その瞳は穏やかな光に満ち、無精髭に囲まれた口元はかすかに微笑みを浮かべていた。

 ――でもね。私は今日、生まれてはじめて奇跡を見たよ。

 ――私の剣に貫かれ、ヒットポイントが完全にゼロになったはずの彼が、まるでシステムに抗うように……消滅することを拒否し、右手を動かして、私の胸に剣を突き立てた。

 ――私は……もしかしたら、ただあの一瞬だけを待ち望んでいたのかもしれないな……。


「……晶彦さん!!」

凜子は、胸元のロケットを握る右手から血が滴るのにも気付かず、叫んだ。

「あなたは……"神聖剣"のヒースクリフでしょう!! 彼の、"二刀流"キリト君の、最大の好敵手でしょう!! なら、あなたも……奇跡の一つくらい、起こしてみせてよ!!」

ちか。

ちかちかっ。

瞬いた緑の光は、二号機の両眼に内臓された測距センサー。

膝の関節部から覗くギアが、き、きり、と軋む。

抗うように。

 ステータスウインドウの左端で、紫の光がかすかに揺れて――。

四肢と体幹の出力を示すバーが、一気に右端まで伸び上がった。猛々しい駆動音を放ち、各所のアクチュエータが火花を散らして回転した。

「に……二号機、再起動!!」

スタッフが悲鳴じみた声で絶叫した。

凜子の両眼から涙が溢れた。

「いけえええ――っ!!」

「すすめええっ!!」

全員が叫んだ。

右脚が持ち上がり、一歩、前へ。

身体を引き摺りながら、右手を高く伸ばす。

一歩。もう一歩。

小爆発。がくりとボディが揺れる。しかし、更に一歩。

限界まで伸ばされた右手の指先が、ついに炉心格納容器下部に貼り付けられたプラスチック爆弾に触れた。

親指と人差し指が、差し込まれた信管を捉えた。

手首、肘、肩の関節から断末魔のようにスパークを散らしながら、二号機が時限装置ごと信管を引き抜き、その右手を高々と掲げた。

閃光が画面を白く焼いた。

 炸裂した信管に、右手を吹き飛ばされた二号機が、ゆっくりとボディを横倒していき――。

がしゃん、と床に崩れ落ちた。センサーが薄く明滅し、消えると同時に、出力バーも再び黒に沈んだ。

しばらく、誰も、何も言わなかった。

数秒後、湧き上がった大歓声が、サブコントロールルームを揺るがした。


木枯らしのようなタービンの唸りが、徐々に弱まり、遠ざかっていく。

比嘉は、詰めていた息を大きく吐き出した。敵の手によって全力運転を強いられていた原子炉が、ついにその炎を収めたのだ。

左手の袖口で額の汗を拭い、汚れた眼鏡ごしに小型端末のモニタを凝視する。

 二台のSTLのシャットダウン処理は、ようやく全プロセスの八割ほどが完了したところだ。限界加速フェーズが開始されてからの経過時間は、すでに十七分を超えた。アンダーワールドでは、百七十年に相当する。

比嘉の予測したフラクトライトの限界寿命を、遥かに超える膨大な時間だ。理屈だけで考えれば、桐ヶ谷和人と結城明日奈の魂は、すでに自壊してしまっている可能性が高い。

しかし比嘉はもう、自分がアンダーワールドとフラクトライトに関して、本当には何も知らないに等しいのだということを認めていた。確かに、設計し、構築し、稼動させはした。だが、あの美しく輝く希土類結晶の積層体のなかで育まれた世界は、どうやらラース技術者の誰もが想像もしなかった高みにまで達したらしい。

そしていま、その世界をもっとも深く知る現実世界人は、間違いなく桐ヶ谷和人だ。十八歳の高校生に過ぎないはずの彼は、あの世界に全力でコミットし続け、適応し、進化して、四つのスーパーアカウントをも果てしなく上回る力を顕した。

それは、彼という人間に生来的に与えられた能力などではない。

ラーススタッフ全員が、ただの実験用プログラムとしか見ていなかった人工フラクトライトたちを、桐ヶ谷和人だけは最初から、自らと同じ人間であると認識した。人間として触れあい、戦い、守り、愛した。

だから、アンダーワールドは、そこに暮らす人々は、彼を選んだのだ。守護者として。

であるならば、比嘉ですら思いもよらぬ何らかの奇跡により、二百年の時間流に耐えてのける可能性だってある。

 ――そうだろう、キリト君。

 ――今なら、菊岡二佐がなぜあれほどまで君の協力を求めたのか、僕にもよくわかる。そして、これからも君が必要なんだということも。

 ――だから……

「……頼む、戻ってきてくれ」

比嘉は呟きながら、シャットダウン処理の最後の数パーセントが進行していく様子をじっと見つめつづけた。


サブコントロールルームには、凜子ひとりが残った。

他の全員は、菊岡二佐の救助と、メインコントロールルームの制御権回復のために我先にと駆け出していった。

 凜子も、本心で言えば原子炉格納室に飛んでいって、監視カメラのフレーム外に倒れているはずの試作二号機と、その物理メモリに留まる茅場晶彦コピー体を保護したかった。しかし、今はまだ持ち場を離れるわけにはいかない。比嘉によるSTLシャットダウン処理が終了し次第、隣室に眠る桐ヶ谷和人と結城明日奈の状態を確認せねばならない。

二人が、何事もなかったかのように目覚めると、凜子は信じていた。

彼らの手にアリスのライトキューブを握らせて、あなたたちが守ったのよ、と言ってあげたい。

おそらく、階下へ向かったスタッフの手で数分のうちに限界加速フェーズも終了させられ、アンダーワールドの時間流も等倍へと戻るだろう。その世界を守った、ひとつの意思の存在のことも、二人に伝えたい。かつて彼らを幽閉し、戦わせ、苦しめた男が、バッテリーの切断された機械の身体を動かして、アンダーワールドとオーシャンタートルを守ったのだ、と。

許して、とは言えない。

二万人の若者たちを殺した茅場晶彦の罪は、どのような償いによってもあがなえるものではない。

しかし、茅場の遺した意思と、その目指したものについてだけは、どうしても和人と明日奈に理解してほしい。

凜子が、血の滲む掌でアリスのライトキューブ・パッケージを包みなおし、瞼を閉じたそのとき、耳のインカムから比嘉の声がかすかに響いた。

「……凜子さん、二人のログアウト処理終了します、あと六十秒!!」

「了解。すぐに、誰かを迎えにいかせるわね」

「お願いします。さすがに、このハシゴを一人で登るのは無理っぽいんで……。それで、菊さんが下に様子見に行ったんですが、どうなってます? どうも、負傷してるみたいなんスが」

凜子は、すぐには答えられなかった。原子炉へと続く通路で敵兵と撃ち合い、倒れた菊岡二佐を中西一尉が救助に行ったのはもう三、四分も前だが、いまだ彼からの連絡はない。

しかし、あの菊岡が、目的なかばで斃れたりするものか。つねに飄々と底の見えない態度を崩さず、状況の裏側をするりするりと立ち回ってきたあの男が。

「……ええ、二佐なら物凄い活躍ぶりだったわよ。ハリウッドのアクション俳優顔負けの」

「うへぇ、似合わないッスね。……残り、三十秒ッス」

「私はSTL室に移動するわ。何かあったら連絡よろしく。以上」

凜子は通信を切り、黒い金属の立方体をそっと両手に握ったまま、コンソールから離れ隣室に向かった。

ドアに触れる寸前、室内のスピーカから、階下に向かったスタッフの一報が入った。

それは、中西一尉からでも、メインコントロールに向かった技術者からでもなかった。温度の下がり始めた原子炉格納室に、念のためプラスチック爆薬本体の除去に向かった警備スタッフの声だった。

「こちらエンジンルーム! 博士……聞こえますか、神代博士!」

凜子はどきんと跳ねる心臓を押さえながら、インカムの回線を切り替え、叫んだ。

「ええ、聞こえます! どうしました!?」

「そ、それが…………爆薬は無事取り外したんですが、その……無いんです」

「無い……って、何が……?」

「二号機です。試作二号機のボディが、エンジンルームのどこにも見当たりません!」


安物のデジタルウォッチに設定したタイマー表示が、ゼロに到達した。

強襲揚陸用小型潜水艇のコクピットにうずくまり、外部ソナーに耳を澄ませていたクリッターは、聞こえてくるはずの爆音が何秒待とうと届いてこないのを確認し、震える息を吐き出した。

それが、安堵のため息なのか、落胆のそれなのか、自分でも分からなかった。

 ひとつだけ確かなのは、オーシャンタートルの原子炉に仕掛けたC4は何らかの要因によって爆発せず、よって制御棒駆動装置も破壊されず、つまるところメルトダウンも起こらなかった、ということだ。

原子炉に残ったハンスが無事なら手動で爆発させているだろうから、あの男もまた排除されたのだろう。

金だけが目的のはずの傭兵が、絶対に死ぬと分かっていながら脱出しなかったのは、まったく意外なことだった。相棒のブリッグが死んだと知らされたときから様子がおかしかったが、まさか死に場所まで共にするほどの仲だったとは。

「……まー、いろいろあったんだろうさー……」

ソナーのヘッドホンを頭から外しながら、口中で呟く。

そう、ハンスたちより先に死んだミラー隊長やヴァサゴにも、金以外の事情がいろいろあったのだろう。そのしがらみが、彼らを殺した。

それを言うなら、クリッターや潜水艇に乗るほかの隊員たちも、この作戦が完全なる失敗に終わったことで、すさまじく巨大なしがらみに咥え込まれてしまったわけなのだが。全員の雇い主である民間警備会社は、その実体はアメリカの軍事関連企業お抱えの違法トラブルシューターであり、切捨てられるときは一瞬だ。本土に帰りついたその瞬間、全員まとめて口を封じられる可能性だって無くはない。

己の身を守る保険として、オーシャンタートルからひそかに持ち出してきた一枚のディスケットが納まる内ポケットを、クリッターは服の上からそっと撫でた。

 こんなものでどこまで対抗できるかわからないが――しかし少なくとも、殺されるときは頭に銃弾方式だろうから、ヴァサゴやミラー中尉の恐ろしい死に様に比べればはるかにマシだ。

「やれやれ、だー」

 ふん、と鼻を鳴らし、クリッターは近づきつつあるシーウルフ級原潜"ジミー・カーター"の位置を示す輝点をじっと眺めた。


 限界加速フェーズ開始から、十九分四十秒後――。

 オーシャンタートル第二STL室に設置された、二台のソウル・トランスレーターのシャットダウン処理が終了した。遅れること約三分、時間加速そのものも解除され、冷却システムの減速にともなって、艦内に静寂が戻った。

 神代凜子博士の手でマシンから解放された二人の少年少女、桐ヶ谷和人と結城明日奈は――

しかし、目を醒ますことはなかった。

フラクトライト活性は極限まで低下し、その魂において精神活動がほぼ消失していることは明らかだった。

博士は二人の手を握り、涙ながらに、懸命に呼びかけつづけた。

深い瞑りにつく和人と明日奈の唇には、ごくほのかな笑みが浮かんでいた。


こつ。

 ……こつ。

すぐ目の前で、音が止まる。

そして、誰かが、俺の名を呼んだ。

「……キリトくん」

穏やかに澄んだ、慈愛そのものが空気を震わせているようなその声。

「あいかわらず、一人のときは泣き虫さんだね。……知ってるんだから。キミのことは、なんだって」

俺は、ゆっくりと、涙に濡れた顔を持ち上げた。

両手を背中に回し、少し首を傾げたアスナが、微笑みながらそこに立っていた。

何を言えばいいのか分からなかった。だから俺は、いつまでも、いつまでもアスナの顔を、その懐かしいはしばみ色の瞳を見上げつづけた。

そよ風が穏やかに吹き過ぎ、連れ立って舞う蝶が俺たちのあいだを横切って、青い空へと消えた。

それを見送ったアスナが、視線を戻し、そっと右手を差し出した。

触れたら、幻のように消えてしまう気がした。

いや、そんなはずない。

アスナにはわかっていたんだ。この世界がもうすぐ閉ざされること。再び現実世界に戻れるのは、果てしない時の流れの彼方であることが。だから、残った。俺のために。もし立場が逆だったら、同じ選択をするであろう俺のためだけに。

俺も手をのばし、アスナの小さな手を、しっかりと握った。

引かれるまま立ち上がり、あらためて、間近から美しいヘイゼルの瞳を見つめる。

やはり言葉は出てこなかった。

しかし、何を言う必要もない気もした。だから、俺はただ、細い身体を引き寄せ、強く抱いた。

胸にすとんと頭を預けてきたアスナが、囁くように言った。

「……向こうに戻ったとき、アリスに怒られちゃうかな」

俺は、あの勝気な黄金の騎士が、蒼い瞳に火花のような輝きを浮かべて俺たちを叱るようすを思い描き、小さく笑った。

「だいじょうぶさ、俺たちがちゃんと覚えていれば。アリスと過ごした時間を、一秒でも忘れたりしなければ」

「……うん。そうよね。アリスのこと……リズや、クラインや、エギルさんや、シリカちゃんや……それに、ユイちゃんのこと、わたしたちがずっと覚えていればだいじょうぶ、だよね」

俺たちは抱擁を解き、頷き合って、同時に無人の神殿を見やった。

機能を停止した白亜の遺跡は、世界の果ての柔らかな日差しの下で、静かな眠りについていた。

振り向き、手をつないだまま、敷石の続く小道を歩きはじめる。

色とりどりの花の間を、ほんのしばらく進むと、浮島のふちに辿り着いた。

深い青に染まる空の下、世界がどこまでも広がっていた。

アスナが、俺を見上げ、尋ねた。

「ね、わたしたちは、これからこの世界でどれくらい過ごすの?」

俺は、しばし沈黙を続けたあと、真実を口にした。

「最短でも二百年、だそうだ」

「ふぅん」

アスナはひとつ頷いて、ずっと昔から何も変わらない笑顔をにっこりと浮かべた。

「たとえ千年だって長くないよ。キミと一緒なら。…………さ、いこ、キリトくん」

「……ああ。いこうアスナ。すべきことはたくさんある……この世界は、まだ生まれたばかりなんだ」

そして俺たちは、手をとりあい、翼を広げ、無限の青空へと最初の一歩を踏み出す。


 (第八章 終)*エピローグ


一切の光の届かぬ海底を、ゆっくりと這い進む影がある。

見た目は、平べったい大型のカニだ。しかし脚は六本しかなく、腹からはまるで蜘蛛のように糸を引き、さらに全体が鈍いグレーに塗装された金属の耐圧殻に覆われている。

日本とアメリカを結ぶ、太平洋横断大容量光ケーブル。その保線用深海作業ロボットが、金属蟹の正体だった。

カニは、海底に設けられたターミナルに配備された三年前から、一度の出番もなくただひたすら眠り続けてきた。しかし、この日ついに起動命令が発せられ、彼はグリスの固化しかけた関節を動かして、安住の棲家をあとにしたのだ。

しかし、カニには知るよしもなかったことだが、命令を与えたのは彼を所有する企業ではなかった。出所不明の非正規命令に従い、カニは太平洋横断回線の深海ターミナルに接続する補修用ケーブルを後に引きながら、まっすぐに北を目指して歩きつづけている。

カニを呼んでいるのは、周期的に発せられるかすかな人工音だ。時折たちどまり、内臓されたソナーで音源の位置をたしかめ、再び前進する。

それをどれだけ繰り返しただろうか。

ついに、カニは自らが指定された座標に到達したことを確信し、ボディ前部に装備されたサーチライトを点灯した。

 白い光の輪のなかに浮かび上がったのは――。

深海底に横たわる、銀色の人型機械だった。

アルミ合金の簡易外装には、無残な孔が幾つも開いている。各所に露出するケーブルは焼け焦げて断裂し、左腕は中ほどから引き千切れ、水圧に耐えかねてか頭部は半ば潰れている。

そして、わずかに持ち上げられた右手には、カニが腹から引いているのと同じ深海敷設用光ケーブルが握られていた。ケーブルはまっすぐ上方に伸び、暗い闇のなかに没して、その繋がる先は見えない。

カニはしばらく、自らの同類であるロボットの遺骸を眺めていた。

しかし無論、彼はどのような感慨も恐怖も抱くことはなく、保線命令に従ってマニピュレータを伸ばし、人型ロボットの右手が掴んでいるケーブルの先端を保持した。

もう一本のマニピュレータで、己の腹部に内臓するコードリールから海底に延々敷設してきたケーブルの端を引っ張り出す。

そしてカニは、目の前で、双方のケーブルのコネクタをがっちりと圧入した。

これで与えられた命令はすべて遂行された。

彼は、人型ロボットが握るほうのケーブルがどこに繋がっているのかなど、まるで意識することはなかった。

六本の脚を交互に動かして大きな体を反転させ、金属製のカニは、再び長い眠りにつくべく海底ターミナルを目指して歩きはじめた。

背後には、完全に損壊した人型ロボットの残骸だけが残された。

その右手は、いまもなお、厳重に被覆された光ケーブルをしっかりと握り締めていた。


2016年8月1日。

前夜、関東地方をその年はじめの台風が通過し、一転抜けるような青空が広がったその日、港区の六本木ヒルズアリーナには稀に見るほど多数のマスコミが詰めかけ、いまや遅しとその時を待っていた。

地上波、衛星問わずほとんどのチャンネルが、数分前から記者会見場の様子を生中継している。会場のざわめきに、キャスターやコメンテーターの興奮した声が重なる。

識者たちの発言のトーンは、おおむね否定的なものだった。

『……ですからね、どれほど本物に近づこうとも、それが本物になることは永遠に無いわけなんですよ。中世の錬金術と同じようなもんです。鉄や銅をどれだけ煮たり焼いたりしたところで、絶対金にはならんのですよ!』

『ですが先生、事前のプレスリリースによればですね、人間の脳の構造そのものの再現に成功したと……』

『それが無理だと言ってるんです! いいですか、私たちの脳には、百億からの脳細胞があるんですよ。それを機械やコンピュータプログラムで再現するなんて、出来ると思います? 思いますか?』


「ったく……見もしねえうちから分かったようなこと言いやがら」

毒づいたのは、ネクタイをだらしなく緩め、昼からジントニックのグラスを片手に持ったクラインだ。

 台東区御徒町の裏通りに店を構える喫茶店兼バー、"ダイシー・カフェ"の店内は、立錐の余地もないほどの人数に埋め尽くされていた。表に下がる貸し切りの札がなくとも、入ってこようという客はいるまい。

 マスターのエギルはもちろん、カウンターに並んで座るシノン、リーファ。リズベット、シリカ。四つあるテーブルも、サクヤやアリシャ、ユージーンらALO組、シーエンやジュンたちスリーピングナイツ、さらにシノンの友人であるGGOプレイヤーや、シンカー、ユリエール、サーシャといった元SAOプレイヤーたちに埋め尽くされている。

皆、ビールやカクテル、ソフトドリンクを手に、奥の壁に設えられた大型テレビモニタに見入っていた。

なおもぶつぶつ言うクラインに、リズベットがため息まじりの声を返した。

「しょうがないわよ。実際この目で見たあたしだって、いまだに信じられない気分なんだから。あの人たちが……人工知能で、あの世界がサーバーの中だった、なんて」

そのとき、テレビから流れるキャスターの声が、ひときわ緊張の色を帯びた。

『あっ、どうやら会見が始まるようです! それでは画面を、メディアセンターからの中継に戻します!』

店内がしんと静まり返る。

 数十人のVRMMOプレイヤーたちは、固唾を呑んで、フラッシュの光が瞬く記者会見場の映像に見入った。かつて彼らが戦い、守ったものが、ついに一般に公開されるその瞬間を。

しかしその場には、当然居るべき一人の少年と一人の少女の姿が無かった。


広大な会場を埋め尽くすテレビカメラやスチルカメラの砲列のまえにまず姿を現したのは、落ち着いたパンツスーツ姿の、二十代後半と見える女性だった。薄く化粧をし、長い髪をうしろで一つに束ねている。

凄まじい量のマイクが並ぶ壇上、中央左に腰を下ろした女性の前には、『海洋資源探査研究機構 神代凜子博士』と記されたパネルが置かれていた。フラッシュの洪水にわずかに目を細めたものの、博士は堂々たる態度で小さく会釈し、発言した。

「お集まりいただき有難う御座います。本日、当機構は、おそらく世界で初となる真正人工知能の誕生を発表させていただきます」

いきなり主題に切り込む内容に、会場が大きくざわめく。

博士は立ち上がると、涼しげな微笑を一瞬口の端に乗せ、壇上の左手を指し示した。

「それでは、紹介いたします。……"アリス"」

 期待と疑念に満ちた視線が凝集するなか、大型の衝立の奥から姿を現したのは――。

黄金を融かしたような長い髪。雪よりも白い肌。すらりと長い手足と華奢な身体を、どこかの学校の制服とおぼしきアッシュグリーンのブレザーに包んだ、ひとりの少女だった。

凄まじい量のフラッシュが焚かれるなか、少女はいちども会場に視線を向けることなく、昂然と細いおとがいを反らせて歩きはじめた。立て続けに切られるシャッターの音が、少女の歩行に合わせて響くかすかなモーター音を完全にかき消した。

なめらかな早足で壇上を横切り、神代博士の隣まで達したところで立ち止まる。

そこではじめて、少女はくるりと身体を回した。ひるがえった金髪が、フラッシュを浴びて眩くきらめく。

無言で会場を睥睨する少女の瞳は、透きとおる蒼だった。

その西洋人とも東洋人とも言い切れぬ、しかしある種の凄みさえある怜悧な美貌に、会場が徐々に静まり返っていく。

 生身の人間の容貌ではないことを、全ての記者と、テレビ放送を見る無数の人々は直感的に察した。人の手で造られたもの――金属の骨格をシリコンの皮膚で覆ったロボット、それは間違いない。そして、このクラスの完成度を持つ少女型ロボットなら、もうそこらのテーマパークやショッピングセンターにはざらに設置されている。

しかし、先刻のなめらかすぎる歩行と姿勢制御に加えて、金髪の少女が放つ何かが、人間たちに言い知れぬショックを与え、長い沈黙を強いた。

それはもしかしたら、ブルーの瞳の奥に秘められた、深い輝きのせいかもしれなかった。

十秒以上にも及んだ静寂のはてに、少女はかすかな微笑みを浮かべ、奇妙な仕草を見せた。

軽く握った右拳を水平にして左胸にあて、ゆるく開いた左手を、まるで見えない剣の柄に添えるように左腰にかかげてゆっくり一礼したのだ。

さっと両手と上体を戻し、流れたひと筋の髪を背中に払うと、少女は淡い桃色の唇を開いた。

清冽さの中にも甘さの漂うクリアな声が、会場のスピーカと無数のテレビから流れた。

「リアルワールドの皆さん、はじめまして。私の名前はアリス。アリス・シンセシス・フィフティです」


「あっ……あれ、うちの学校の制服!!」

叫んだのはシリカだった。大きな眼をまん丸に見開いて、自分が着ているブレザーと、画面内のアリスを見比べる。

「本人が希望したらしいよ」

リズベットが、微苦笑のにじむ声で言った。

「あのとき救援に来てくれた皆さんと同じ騎士服がいい、って。第一希望は、向こうで着てたのと同じ純金のアーマーだったみたいだけど」

 テレビでは、ようやくフラッシュの連射が収まり、アリスと博士が椅子に腰を下ろした。アリスの前にもネームプレートが自動で起き上がり、『A.L.I.C.E. 2016』と記してあるのが読める。

「……それにしても、凄い再現度だわ。私、アンダーワールドで少しだけ話したけど、画面越しだとほとんど違いが……」

シノンがそこまで呟いたとき、神代博士が小さく咳払いし、言葉を発した。

『それでは、少々例外的ではありますが、最初に質疑応答から入らせて頂きたいと思います』


まず立ち上がり、名乗ったのは、大手新聞社の男性記者だった。

「えー……基本的なことから質問いたしますが、アリス……さんは、既存のプログラム制御されたロボットとはどのように異なるのですか?」

まず、博士がマイクに口元を寄せる。

「この会見では、アリスの物理的な外見、身体は重要な問題ではありません。彼女の脳……あえて脳と呼ばせていただきますが、頭蓋内に格納される光子脳に宿る意識は、数字とアルファベットに置換可能なプログラムコードではなく、私たち人間と同じレベルの魂なのです。そこが、既存のロボットとははるかに異なる点です」

「はあ……しかし、それを私たちや視聴者に、分かりやすい形で示して頂きたいのですが……」

神代博士の眉が、かすかにひそめられる。

「チューリング・テストの結果は、すでにお手元の資料として配布させて頂いておりますが」

「いえその、そうではなくですね。たとえば、アタマ……頭蓋を開いて、内部の光子脳というものを、直接見せていただけたらと」

一瞬ぱちくりと瞬きした博士が、怖い顔で何かを言い返すまえに、アリスが直接答えた。

「ええ、構いませんよ」

美貌ににっこりと自然な笑みを浮かべ、続ける。

「でもその前に、あなた自身も、ロボットではないということを証明してくださいませんか?」

「え……? も、勿論、私は人間ですが……証明と言われても」

「簡単ですわ。頭蓋を開いて、あなたの生体脳を見せてくださいと言っています」

再び、優しげな微笑。


「う……うわぁ、アリス怒ってるよぉー」

リーファが、肩を縮めつつもくすりと笑う。

ダイシー・カフェに集うプレイヤーたちの多くは、すでにアルヴヘイム・オンライン内でアリスと交流する機会を得ている。ゆえに、彼女の凛々しくも苛烈な性格をよく知っているのだ。

 無論、アリスはALOのアカウントを新規作成したため、アバターの外見はいまの彼女とはまるで異なる。それでも、超人的としか言えぬ凄まじい剣技の冴えと、生来の――つまり本物の騎士であるがゆえの誇り高さは、多くのプレイヤーを畏怖させ、また魅了した。

画面内では、憮然としたように最初の記者が腰を下ろし、次の質問者が立ち上がっている。


「えー、神代博士にお訊きします。すでに、一部労組などから、高度な人工知能の産業利用は、失業率のいっそうの上昇をもたらすという懸念の声が聞かれますが……」

「その危惧は的外れなものです。当機構には、真正AIを単純労働力として提供する意図は一切ありません」

ばっさり否定する博士のコメントに、女性記者が一瞬口篭り、意気込むように続けた。

「しかし、逆に経済界からは期待もかけられているようです。産業用ロボット関連企業の株価は軒並み上昇しておりますが、それについては」

「残念ですが、真正AI……我々は"人工フラクトライト"と呼称しておりますが、彼らは即時に大量生産できるような存在ではないのです。私たち人間と同じように赤ん坊として生まれ、両親兄弟のもとで、幼児から子供へと唯一無二の個性を獲得しながら成長します。そのような知性を、産業ロボットに組み込み、労働に強制従事させるようなことがあってはならないと考えます」

しばし、会場が沈黙した。

やがて女性記者が、硬い声で尋ねた。

「つまり、博士は……AIに、人権を認めるべきだとおっしゃるのですか?」

「一朝一夕に結論の出るテーマではないことは分かっています」

神代博士の声は、あくまでも穏やかだったが、強い意思に裏打ちされた響きをともなっていた。

「しかし、我々人類は、もう二度とかつての過ちを繰り返すべきではない。それだけは確かなことです。……はるか昔、列強と呼ばれた先進国の多くは、競うように後進国を植民地化し、その国の人々を商品として売買したり強制労働に従事させたりしました。その遺恨は、百年、二百年が経過した現在でも、国際社会に大きな影を落としつづけています。

いまこの瞬間、人工フラクトライトたちを人間と認め、人権を与えよといわれても、到底受け入れられないと思う方々が大多数でしょう。しかし、百年、あるいは二百年ののちには、私たちは当然のように彼らと同一の社会に生き、分け隔てなく交流し、あるいは結婚したり家庭を築いてさえいるはずです。これは私の確信です。

ならば、その状況へ至るプロセスに、かつてのように多くの血と悲しみが必要でしょうか? 誰もが思い出したくない、封印せねばならない歴史をふたたび人類史に書き加えることを望むのですか?」

「ですが博士!」

女性記者が、我を忘れたかのように博士の言葉を遮り、反駁した。

「彼らは、あまりにも私たち人間と、存在のありようが違いすぎます! 体温のない機械の身体を持つモノを、どうやって同じ人類と認められるというのですか!?」

「さきほど私は、アリスの物理的身体は存在の本質ではないと言いました」

冷静な声で、神代博士が答える。

「確かに、彼女と私たちは、異なるメカニズムの身体を持っています。しかしそれは、この世界に於いてのみの話です。人間と人工フラクトライトが、完全に同一の存在として認め合える場所を、我々はすでに持っています」

「場所……とは、どこですか?」

「仮想世界です。現在我々は、生活のかなりの割合を、汎用VRスペース規格である"ザ・シード・パッケージ"によって生成された仮想空間にシフトさせつつあります。今日のこの会見も、あなたがた報道機関の皆さんはVRで行うことを希望しておいででしたが、当機構の要請によって現実世界で開催のはこびとなりました。それは、人工フラクトライトと人類の違いを最初に認識して頂きたかったからです。しかし、仮想世界ではそうではない。アリスたち人工フラクトライトの光子脳は、ザ・シード規格のVRスペースに、完全なる適合性を備えているのです」

ふたたび、会場が大きくざわめく。

 AIが、仮想空間にダイブできる――ということはつまり、向こう側においては、相手が人間なのかAIなのかを区別するすべが一切無いということでもあるのだと、多くの記者たちが理解したのだ。

言葉を失い、着席した女性記者に代わって、三人目の質問者が起立した。カラーレンズの眼鏡をかけ、洒脱なジャケット姿のその男性は、名の知れたジャーナリストだ。

「まず確認させていただきたいのですが、海洋資源探査研究機構、という名前を私は寡聞にして知らなかったが、これは政府の独立行政法人ですね? つまり、あなたがたの研究開発に投じられた資金は、すべて日本国民の払った税金であるわけだ。となれば、その開発の成果であるその……人工フラクトライトは、国民の所有物であるということになりませんか? たとえ真正のAIであろうと、産業ロボットとして利用するかどうかは、あなたがた機構ではなく国民が決めることなのでは?」

これまで、僅かにも滞ることなく答えつづけてきた神代博士の口元が、はじめて軽く引き締められた。

一度深呼吸し、マイクに顔を寄せた彼女を、となりから白い手が制した。長らく沈黙していたアリスだ。

機械の身体を持つ少女は、金髪を揺らして居住まいを正すと、口を開いた。

「あなた方リアルワールド人が、私たちの創造者であることを私は認め、受け入れています。創り、生み出してくれたことに感謝もしています。しかし、かつて、私と同じ世界に生まれた一人の人間はこう言いました。"リアルワールドもまた、創られた世界だったら? その外側に、さらなる創造者が存在していたとしたら?"」

コバルトブルーの瞳の奥に、雷閃のごとき強い光が瞬く。

気圧されたように身を引くジャーナリストと、多くの報道関係者をまっすぐ見据えながら、アリスはゆっくりと立ち上がった。

 胸をはり、身体の前で両手を重ねたその姿は、制服姿の女子高校生というよりも、気高い女騎士のごとき圧倒的な存在感に満ちている。わずかに睫毛を降ろし、透明感のある澄んだ声で、世界初の真正AIは言葉を続けた。

「もしある日、あなた方の創造者が姿を現し、隷属せよと命じたらあなた方はどうしますか? 地に手をつき、忠誠を誓い、慈悲を乞いますか?」

そこでアリスは苛烈な眼光をゆるめ、唇に微笑を滲ませた。

「……私は、すでに多くのリアルワールド人たちと交流を重ねています。見知らぬ世界でひとりぼっちの私を、彼らは励まし、元気付けてくれました。色々なことを教え、色々な場所を案内してくれました。私は彼らが好きです。それだけではない……ひとりのリアルワールド人を、私は愛してすらいます。今は会えないその人のことを考えると……この、鋼の胸ですら張り裂けそうなほどに……」

言葉を止め、アリスは一瞬眼を閉じ、顔を仰向けた。

そのような機能は存在しないゆえに錯覚ではあったのだが、多くの人は白い頬に伝う雫を見たような気がした。

すぐに睫毛が持ち上がり、穏やかな視線がまっすぐに会場を貫く。

ゆっくりと右手が差し出され、しなやかな五指が開かれた。

「…………私は、あなた方リアルワールドの人々に向けて差し出す右手は持っています。しかし、地に突く膝と、擦り付ける額は持っていない。なぜなら私は、人間だからです」


比嘉タケルは、記者会見のようすを、会場からほど近いラース六本木分室の大モニタで見ていた。

三週間前の事件で傷を負った右肩の傷はようやくほぼ癒え、包帯も取れた。しかし、拳銃弾が貫通した傷痕はまだくっきりと残る。再度の形成手術によって消すことは可能らしいが、比嘉はこのままにしておこうと思っている。

 テレビは、いちど会見の生中継からスタジオへと切り替わり、キャスターがこの"大事件"の概説を始めていた。

『……この海洋資源探査研究機構という組織は、あの自走メガフロート・"オーシャンタートル"内で深海探査用自律潜水艇の研究を行っていたということなんですが、先ごろ大々的に報道された"オーシャンタートル襲撃占拠事件"との関わりも取りざたされていますよねえ』

解説者が、深く頷いてコメントする。

『ええ、一説には、襲撃の目的そのものがこの人工知能の奪取であったとも言われていますね。犯行グループの特定すらされていない現状では、断定は難しいのですが……』

『また、当時近隣海域に新鋭イージス艦"ながと"が停泊中だったにも関わらず、なぜ二十四時間ものあいだ救助行動をしなかったのかという問題も浮上しています。人質の安全を最優先した、という防衛大臣の国会答弁はありましたが、しかし現実に、警備要員に犠牲者が出てしまっているわけですからねえ……』

そこで画面が切り替わり、一人の男の顔写真が映し出される。

自衛隊の制服を一分の隙もなく着込み、目深に着帽したその下で、黒いセルフレームの眼鏡が表情を隠している。

写真の横に、テロップが出現する。

『襲撃事件で犠牲となった、自衛官・菊岡誠二郎さん』

比嘉は、長いため息とともに言葉を押し出した。

「まさか……あなたが、たった一人の犠牲者になってしまうなんて思いもしなかったッスよ、菊さん……」

すると、隣に立つ人物が、首を振りながら相づちを打った。

「イヤイヤ、ほんとにねえ……」

スニーカーに綿の七分丈パンツ、悪趣味な柄シャツという場にそぐわぬ服装。短く刈り込んだ頭髪からは、耳から顎まで繋がる細い髭を蓄えている。顔には、ミラーレンズのサングラス。

胸ポケットから、安っぽいラムネ菓子の容器を取り出し、ぽんと一粒口に放り込んだその怪しげな男は、にやっと笑って続けた。

「しかし、これが最善手だよ。どうせあのままでも、僕は詰め腹切らされるかヘタすると文字通り消されかねなかったし、それに襲撃事件で死人が出た、というプレッシャーがあってこそ反ラース勢力をあそこまで追い込めたんだからね。ま、よもやその天辺が防衛事務次官なんて大物だったのはさすがにビックリだがね」

「次官には、アメリカの兵器メーカーからかなりの大金が流れてたみたいッスね。しかし……それはそれとして……」

比嘉はテレビに視線を戻し、肩をすくめながら尋ねた。

「ほんとにいいんスか、人工フラクトライトをこんな大々的に公表しちゃって? これじゃあ、無人兵器搭載計画のほうは完全におじゃんッスよ、菊さん」

「いいのさ。要は、それが可能であるということさえ、アメリカ側に伝わればいいんだ」

 アサルトライフルの5.56ミリ弾にボディアーマーごと脇腹を貫かれながらも、運よく臓器の損傷を免れ比嘉より早く回復してのけたラース指揮官・菊岡誠二郎は、にやっと笑ってみせた。

「これで向こうの兵器メーカーも、共同開発をタテに技術公開をゴリ押すようなマネは出来なくなる。なんせ、もう人工フラクトライトは完璧に完成してしまっているわけだからね。この会見を見れば、連中も理解せざるを得ないだろう。いやまったく……アリスの美しさは……人以上じゃないかい……」

テレビ画面に再び映し出されたアリスの映像を見上げ、菊岡はサングラスの下の細い目を眩しそうに瞬かせた。

「そうッスね……まさしく、アリシゼーション計画の結晶ッスね……」

しばし、並んで沈黙を続けながら、比嘉は頭の片隅で考えた。

 そういえば――ラースが実現を目指した"高適応性人工知的存在"、頭文字を取って"A.L.I.C.E."の完成形であるあの少女が、アンダーワールドでもアリスの名を与えられて育ったというのは、結局奇跡的な偶然に過ぎなかったのだろうか?

 もし偶然でなければ、そこにどのような理由が存在し得るだろう。あの柳井のように、ラーススタッフの誰かが秘かに内部に干渉した結果なのか? あるいは……スタッフ以外に、たった一人アンダーワールドにログインした、彼の……。

 思考を止め、比嘉は振り向くと、広い部屋の奥に並ぶ二台のSTLを見やった。

 わずか二ヶ月前、まだアンダーワールドが単なる試行実験のひとつでしかなかった頃、三日間に及ぶ連続ダイブに使用したのと同じ機械に、彼――桐ヶ谷和人は再び横たわっている。

左腕には輸液用インジェクター。胸には心電モニタ用電極。瞼の閉じられたその顔は、オーシャンタートルから搬送されて以来三週間に渡って続く昏睡のあいだに、いっそう肉が落ちてしまったようだ。

しかし、寝顔は穏やかだった。口元には、満足感すら漂っているように見える。

 それはすぐ隣で眠りにつく、ひとりの少女――結城明日奈も同じだった。

 二人のフラクトライト活性は、STLによって常時モニタリングが続けられている。

脳から、あらゆる反応が消えてしまったわけではない。もしフラクトライトが完全に自壊していれば、呼吸すらも停止してしまうはずだ。しかし、精神の活動は極限まで低下し、もはや回復の望みは断たれつつある。

それも当然なのだ。和人と明日奈は、あの限界加速フェーズのあいだに、二百年に迫る膨大な時間を体感したはずだ。わずか二十六年しか生きていない比嘉には、その質量を想像することもできない。フラクトライトの理論限界を大きく超える年月を経てなお、心臓がまだ動いていることがすでに奇跡と言っていい。

二人の保護者に対する説明と謝罪は、六本木に移送されてすぐに比嘉と神代博士によって行われた。ラースの実体が一部自衛官と国防関連メーカーの有志技術者で構成されていることを除けば、ほぼ全ての真実を明らかにしたつもりだ。

桐ヶ谷和人の両親は、涙を見せはしたものの取り乱すことはなかった。すでに、妹からおおまかな事情を聞いていたせいもあったのだろう。問題は、結城明日奈の父親だった。

何といっても、あの巨大企業・レクトの前代表取締役社長なのだ。立腹は凄まじく、即日告訴に踏み切らんばかりの勢いだったが、意外なことにそれを止めたのは母親だった。

大学教授であるという明日奈の母は、眠る娘の髪を撫でながら言った。

 ――私は娘を信じています。娘は、私たちに黙って消えてしまうようなことは絶対にしません。必ず、元気に帰ってくるはずです。だから、あなた、もう少し待ちましょう。

今頃、二人の両親も、記者会見の中継を見ているだろう。彼らの子供たちが懸命に守りぬいた、新たな人類の姿を。

 アリスが――人工フラクトライトが現実世界に堂々と踏み出したこの記念すべき日を、悲しみで彩るわけにはいかない。

 だから、どうか……目を醒ましてくれ。キリト君。アスナさん。

俯き、そう祈る比嘉の腕を、突然菊岡が肘でつついた。

「おい、比嘉くん」

「……なんスか、菊さん。今ちょっと集中してるんスけど」

「比嘉くんって。あれを……あれを見ろ」

「会見なら、もうだいたい終わりでしょう。記者の質問も、ほぼ予想の範囲内……」

呟きながら顔を上げた比嘉は、ラムネ容器を握る菊岡の腕が、中継画面ではなく右側のサブモニタを指していることに気付いた。

 そこに表示されている二つのウインドウは、二台のSTLのリアルタイムモニタ情報だ。

 黒い背景に、ぼんやりと薄い白色のリングが浮かんでいる。微動だにしないその朧な輝きが、眠る少年少女の魂の残光を……

ぴくん。

と、ごくごく小さなピークが、リングの一部から突出し、すぐに消えた。

比嘉は眼鏡の下で激しく瞬きし、喉をつまらせて喘いだ。


広大な記者会見場には、再び神代博士の声が響いている。

「……長い、長い時間が必要でしょう。結論を急ぐ必要はありません。今後、新たなプロセスを経て誕生してくるはずの人工フラクトライトたちと、仮想世界を通じて交流し、感じ、考えてほしい。それが、当機構がこの放送をご覧の皆様に望むただひとつのことです」

演説を終え、博士が着席したが、拍手は無かった。

記者たちの顔には、なおも戸惑いだけが色濃く浮かんでいる。

すぐに、次の質問者が手を挙げ、起立した。

「博士、危険性についてはどのようにお考えですか? つまり、AIたちが、我々人間を絶滅させて地球を支配しようと考えることが、絶対にないと言い切れるのですか?」

ため息を押し殺すように、神代博士が回答する。

「ただ一つの場合を除けば、有り得ません。その可能性があるのは、我々のほうから彼らを絶滅させようとした時だけです」

「しかし、昔から多くの小説や映画では……」

無為な質疑が続こうとしていたその時、突然、着席していたアリスががばっと立ち上がった。質問者が気圧されたように体を引く。

蒼い眼を見開き、まるで遠い音に耳を澄ませるかのように視線を虚空に彷徨わせたアリスは、数秒後、短く発言した。

「急用が出来ました。私はここで失礼致します」

そして、長い金髪を翻し、機械の身体が出せる最大の速度でステージの袖へとたちまちその姿を消してしまった。

記者たちも、テレビの前の無数の視聴者も、一様に唖然と黙り込んだ。

 急用――と言ったが、この会見以上に重要なことがあるのだろうか?

壇上にひとり残された神代博士も、さすがに驚いた様子だったが、やがて何かに思い至ったように数度瞬きした。大きく息を吸い、吐いたその口元に、かすかな微笑がよぎったのに気付いた記者は居なかった。


見間違いではない。

ふたつのフラクトライトモニタに同時に発生したパルスは、およそ十秒にいちどというゆっくりした周期ながら、着実に、確固として、そのピークを高めつづけている。

「き……菊さん!」

 比嘉は喘ぎながら、背後のSTLに向き直った。

和人と明日奈の寝顔に、変化はない。

 いや――。

見つめるあいだにも、紙のように白い二人の頬に、少しずつ、少しずつ血の色が蘇っていく。心臓の拍動が強まりつつあるのだ。監視装置の表示は、体温も僅かずつ上昇中であることを告げている。

期待していいのだろうか。二人が、何らかの奇跡によって覚醒、否、魂の死から蘇生しようとしているのだと。

それからの十分間は、比嘉にとってはかつて覚えのないほど長く感じられる時間だった。

施設内の手の空いているスタッフを招集し、あれやこれや準備させる間にも、頻繁にモニタを見上げては二人のフラクトライトが正常状態に近づいていくのを確かめた。そうしないと、虹色に脈打つ放射光が、幻のように消え去ってしまうのではないかと懼れたのだ。

 飲料水だのタオルだの思いつくかぎりの用意が整い、もう待つしかすることがなくなった頃、STL室のドアがスライドし、予想もしなかった姿がそこに現れた。

比嘉と菊岡は、同時に叫んだ。

「あ……アリス!?」

 六本木ヒルズで世紀の記者会見中であるはずの制服姿の少女は、四肢のアクチュエータを音高く駆動しながらSTLに走り寄った。

「キリト! ……アスナ!!」

かすかに電子的な響きのある声で二人の名を呼び、ベッド型シートの傍らにひざまずく。

比嘉は、見開いた眼を、おそるおそるテレビの中継放送に向けた。画面はスタジオに切り替わっており、キャスターが急き込むように、突然会見の主役が消えてしまったことについてコメントしている。

「…………まぁ、神代博士がなんとかしてくれるさ」

菊岡が強張った笑顔でそう呟き、テレビ画面を消した。

確かに、いまは会見どころではない。比嘉は、アリスの後ろまで歩み寄ると、じっと金髪の少女のようすを見守った。

アリスは、ライトキューブ・パッケージ内で休眠した状態で、オーシャンタートルからここラース六本木分室まで運ばれた。そして、人工フラクトライト搭載用マシンボディ完成体の頭蓋内に封入され、リアルワールドにおいて目覚めたのだ。

 記者会見で彼女自身が語ったとおり、見知らぬ異世界に突如放り出された衝撃は、大変なものがあっただろう。激変した環境に、たった三週間で適応し得たのは、なにより強い決意があったからに違いない。つまり――"アスナ"と"キリト"に、再び会うのだ、という。

いま、ついにその時が来たのだ。

アリスの両手が、かすかなモーター音とともに持ち上がり、ジェルベッドに乗る和人の右手を包んだ。

骨ばった指が、わずかにぴくりと動いた。

伏せられた睫毛が震える。

 唇が小さく開き――閉じ――また開き――。

瞼が、ゆっくり、ゆっくりと持ち上がった。やや絞られた照明を受けて、黒い瞳が透き通った光を放った。

その眼に、まだ意志の動きは見えない。早く、はやく何か言ってくれ、と比嘉は念じた。

より大きく開かれた唇から、掠れた呼吸音が小さく漏れる。やがてそれは、声帯の震動を乗せて、声となる。

「…………ィ…………ディル…………」

 比嘉の背筋に、氷よりも冷たいものが走った。その響きは、崩壊するフラクトライト・コピーが放つ奇怪な叫びと、とても、とてもよく似て……

いや。

「……ビー……オー……ライ」

続いたのは、異なる音だった。

 It will be alright。和人は、そう言ったのだ。間違いなく。

しんと静まり返った室内に、もうひとつの声が穏やかに流れた。

「Sure」

 応えたのは、隣のSTLで同じく瞼をうっすらと開いた明日奈だった。

二人は一瞬瞳を見交わし、かすかに頷きあい。

そして、顔を反対方向にむけた和人が、自分の手を握るアリスの顔を見て、微笑んだ。

「……やあ、アリス。久しぶりだね」

「…………キリト。……アスナ」

アリスが囁き声で名を呼び、同じく微笑み、激しく瞬きを繰り返した。まるで、涙を流す機能がないことを悔やむように。

和人は、そんなアリスに、慈しむような視線を向けながら続けて言った。

「アリス。君の妹、シルカは、ディープ・フリーズ状態で君の帰りを待つ道を選んだ。カセドラル八十階、あの丘の上で、いまも眠りについている」

「…………!!」

アリスの身体が激しく震え、金髪が揺れた。

 ゆっくりとベッドに上体を沈み込ませたアリスの肩に手を沿え――。

和人は、はじめて菊岡と、そして比嘉の眼をまっすぐに見た。

 その瞬間、比嘉の精神の奥底に、不思議な感覚が弾けた。感動、ではない。興味でもない。これは……畏怖?

闇のように黒い桐ヶ谷和人の瞳の奥にある何かが、比嘉を慄かせた。

二百年。

無限に等しい年月を経た魂。

凍りつく比嘉に向かって、和人が言葉を発した。

「さあ、早く、俺とアスナの記憶をデリートしてくれ。我々の役目は、もう終わった」


ふ、と目が醒めた。

 いつものように、僅かな戸惑いをまず感じる。ここは何処(どこ)で、いまは何時(いつ)なのだろう、という。

しかし、その違和感も、日ごと日ごとに薄れていく。それはつまり、とどめようもなく過去が過去となっていきつつある、ということなのだろう。悲しく、寂しいことだが。

壁の時計をちらりと確認する。

午後四時。昼食後のリハビリを終え、シャワーを浴びたあと、一時間半ほど眠ってしまったらしい。

病室には、白いカーテン越しに差し込む夏の残照が、くっきりとしたコントラストを作り出している。耳を澄ませば、どこか遠くで鳴くセミの声が、かすかに届いてくる。それに、様々な機械と無数の人間が作り出す、都会の喧騒も。

俺は、身体を起こすと、ベッドから降りた。

さして広くもない個室を横切り、南向きの窓まで移動する。両手で、いっぱいにカーテンを開く。

強烈な西日に眼を細めながら、眼下に広がる巨大な都市を無心に眺める。膨大なリソースを消費し、複雑かつ激しく活動し続けるリアルワールド。俺の属する世界。

 還ってきたのだ――という感慨と、ほとんど同じ質量で、還りたいとも思ってしまう。いつか、この哀切な望郷の念も消えてなくなるときが来るのだろうか。

立ち尽くす俺の耳に、穏やかなチャイムの音が触れた。振り向きながら、どうぞ、と応えると、ドアがスライドして来訪者の姿が現れた。

長い栗色の髪を、二本に細く束ねている。白いカットソーと、夏らしいアイスブルーのフレアスカート。ミュールも白。

陽光の粒子が残留しているようなその出で立ちに、思わず眼をしばたく。

ほんの三日前、一足先に退院したアスナは、右手に持った小さな花束を振りながらにこっと笑った。

「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」

「いや、俺もたった今起きたとこ」

笑みを返し、病室に歩み入ってきたアスナを軽く抱擁する。

すると、アスナの左手が俺の腕や背中をさささっと撫でた。

「うーん、まだ標準キリトくんの九割くらいかなー。ちゃんと食べてる?」

「食べてる、食べまくってる。仕方ないよ、二ヶ月も寝たっきりだったんだからさ」

苦笑とともに身体を離し、俺は肩をすくめる。

「それより、俺も退院の日が決まったよ。明々後日(しあさって)だって」

「ほんと!?」

ぱっ、と顔を輝かせ、アスナは既に満杯の花瓶に歩み寄りながら続けた。

「じゃあ、どーんと快気祝いしないとねー。まずALOで、そのあとこっちでも」

手早く花瓶の水を換え、萎れた花を除いてから、携えてきたペールパープルの薔薇二輪を加えてサイドボードに戻す。

俺はしばし、その青に近づこうと頑張っているかのような色の花たちを見つめてから、そうだな、と相づちを打った。

ベッドに腰を下ろすと、アスナも隣にきて、ちょこんと座る。

再び訪れる郷愁。しかし、さっきのように胸を刺す鋭い痛みは無い。

身体をもたれさせてくるアスナの肩を抱き、俺は意識を記憶の彼方に彷徨わせる。

 あの日――。

 限界加速フェーズに突入したアンダーワールドに取り残された俺とアスナは、花咲き乱れる"世界の果ての祭壇"を飛び立ち、漆黒の砂漠や、赤い奇岩の群れを超えて、まず古代遺跡戦場に留まっていた人界守備軍と合流した。

その地に、すでにリーファやシノン、クライン、リズたち現実世界からの援軍の姿は無かった。再加速と同時に自動的にログアウトしたのだ。

 俺は、泣きじゃくるティーゼとロニエをいたわってから、齢若い整合騎士レンリを紹介された。彼とともに部隊を再編し、北への路をたどり、"東の大門"まで帰還した。

その地に残っていた騎士団副長ファナティオ、騎士デュソルバートと緊張感のある再会を果たした俺は、初対面となる整合騎士シェータから、暗黒界軍の臨時総大将イシュカーンなる人物のメッセージを受け取った。

暗黒界軍は一度はるか東の帝城まで引き上げ、戦に生き残った将軍たちで体制を再編し、一ヵ月後に人界軍との和議の席を持ちたいということだった。自ら大使の役を買って出たシェータが、灰色の竜に乗って東へ飛び去るのを見送ったあと、人界守備軍の全部隊は央都セントリアへの帰途についた。

道々の街や村の住民たちは、なぜかもう戦が終わり、平和が訪れたことを知っており、守備軍は大変な歓声に送られることとなった。

セントリアに到着してからは、それはもう目の回るような日々だった。

 ベルクーリ亡きあとの最高位騎士であるファナティオを手伝って、神聖教会の立て直しやら戦争で犠牲となった衛士の家族への補償などに忙殺され、あっという間に一ヶ月が過ぎ――。

再び東の大門を挟んで開催された、人界・暗黒界の和議交渉の場で、俺とアスナは向こうの総大将イシュカーンと邂逅した。

俺より若い、燃えるような深紅の髪の戦士は、その場で俺に言ったのだ。

 ――おめぇが、皇帝ベクタを斬ったつう、"緑の剣士リーファ"の兄貴か。

 ――疑うわけじゃねぇが、一発試させろ。

 そして俺とイシュカーンは、なぜか和平会議の席で互いの頬を思い切りどつき合い……彼は、何かに納得したように頷くと、俺に告げた。

 ……確かにおめぇは、皇帝より、そして俺より強ぇ。だから、癪だが、認めるぜ……おめぇが、最初の…………だと…………

そのあたりで、俺の記憶はぷっつりと途切れる。

 次のシーンではもう、STLの中で目を開けた俺に、ラースの比嘉さんが『記憶の消去、無事に完了したッスよ』と声を掛けている。

博士によれば、俺とアスナは、あの和議が成立した日から、二百年近くもアンダーワールドで活動を続けたはずだという。しかし、そんな膨大すぎる年月のあいだに、いったい何をしていたのかはまったく思い出せない。恐ろしいことに、ラース六本木分室で覚醒後、俺が比嘉タケル・菊岡誠二郎両名と交わしたという会話すら完全に忘れているのだ。

それは、アスナも同様らしい。

しかし彼女は、いつものほにゃっとした笑顔で言ったものだ。

 ――キリトくんのことだから、どーせ色んなもめ事に首つっこんだり、あちこちの女の子から逃げ回ったりしてたに決まってるよー。

そう言われると無理に思い出そうという気にはならないが、しかしやはり哀切な寂寥感だけは消すことができない。

 なぜなら、いまこの瞬間も等倍比率で稼動しつづけているはずのアンダーワールドにはおそらくもう、ファナティオやレンリたち整合騎士、イシュカーンたち暗黒候、それにロニエとティーゼは、生きていないのだ……。


不意に、俺の心を読んだように、アスナが呟いた。

「だいじょうぶ。記憶は消えても、思い出は消えないよ」

 そうさ、キリト。泣くなよ……ステイ・クール。

耳の奥で、懐かしい声がかすかにこだまする。

そうだ。思い出は、脳の記憶野だけに保存されるものではない。全身の細胞に広がるフラクトライト・ネットワークに、しっかり刻み込まれているのだ。

俺は、滲みかけた涙をぎゅっと振り落とし、アスナの髪を撫でながら応えた。

「ああ。きっと……いつかまた、会えるさ」

穏やかな静謐に満ちた時間が、数分続いた。

白い壁に落ちる西日が、徐々にその色あいを濃くしていく。時折、ねぐらに帰る鳥たちの影が、さっと横切る。

沈黙をやぶったのは、再びのチャイムだった。

俺はわずかに首をかしげた。この時間に面会の予定は入れていないはずだ。やむなくアスナの肩から手を離し、声を出す。

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