しかし、敵の刃は、俺の右手にさしたる手応えも残さずに左側の虚空へと流れ――
そこで凄まじい速度で切り返されて、
俺の二撃目よりも迅く、真横から襲い掛かってきた。
――っ!?
驚愕に打たれながらも、俺は反射的に技をずらし、危うい所で銀の刃を迎え撃った。再びの衝撃。火花。
跳ね上げられた黒い剣を、引き戻すよりも一瞬先んじて。
アドミニストレータの剣が、再度左から滑り込んでくる。
受けは間に合わない。連続技を停めて身体を捻り、なんとか回避を試みる。
しかし、切っ先が僅かに胸をかすめ、コートの一部が鮮やかに切り裂かれる。
通り過ぎた銀の煌きは、何たることか、右側でもう一度超高速の切り返しを見せ――
ずばっ!! という鮮やかな横薙ぎの一撃を、俺の腹に叩き込んだ。
「…………ッ!!」
迸る鮮血の糸を引きながら、俺は後方に跳びのき、左手で傷を押さえた。
あとわずかで内臓に達するほどの深手だ。しかしその激痛よりも、俺は言葉を失うほどの驚愕に打たれていた。
いまの――今の技は――!?
喋れない俺に代わって、アドミニストレータが、剣尖のあかい雫を振り切りながらゆっくりと告げた。
「――片手直剣四連撃ソードスキル、"ホリゾンタル・スクエア"……だったわね」
自分の耳が捉えた言葉が、意味へと変換されるまでに少しのラグがあった。
ソードスキル――、
今、アドミニストレータは、そう言ったのか。
この世界では、俺とユージオしか知るはずのない、旧ソードアート・オンライン由来の連続剣技。それを見事に使いこなし、しかも技の名まで口に出すなどと――一体なぜ、そんなことが。
巨大な混乱に襲われ、じりじりと距離を取る俺の視界に、血の池に倒れ臥すユージオの姿が僅かに入った。ずきりと襲ってくる疼きと焦燥に耐えながら、俺はある可能性を思いつく。
アドミニストレータはユージオの名前を知っていた。恐らく、俺とアリスがこの部屋に乗り込む以前に、ユージオに対して何らかの干渉が行われたことは間違いない。フラクトライトへの直接アクセス権を持つアドミニストレータは、ユージオの記憶を走査し、そこから俺が彼に伝えた連続剣技を掬い取ったのではないか?
この推測が正しければ――彼女が使えるのは、片手直剣用の中級スキルまでに限られるはずだ。ユージオがマスターしていた技は最大でも五連撃までなのだから。
ならば、俺がそれ以上の技を繰り出せば、勝機はある。
片手直剣技を完全習得した俺の最大攻撃は、十連撃に及ぶのだ。もう、出し惜しみをしている状況ではない。
ぐ、と足を開き腰を落とした俺を見て、アドミニストレータがくすりと嗤った。
「あら……まだ、そんな生意気な眼ができるの? いいわね、楽しい時間が長くなるというものだわ」
片腕を落とされ、天命も大幅に減少しているはずの最高司祭は、底知れぬ余裕を見せてそう嘯いた。俺はもう言い返そうとせず、大きく息を吸い、ぐっと溜めた。
身体と記憶に染み付いたソードスキルのイメージが、鮮明に蘇ってくる。見れば、右手の剣を、ぼんやりとスカイブルーのエフェクト光が包み始めている。
ゆるり、と円を描くようにその剣を大上段に持ち上げ――
「――ハァァッ!!」
気合一閃、同時に剣から迸った眩い光芒を振り撒きながら、俺は片手直剣最上位ソードスキル、"ノヴァ・アセンション"を発動させた。
見えない力に後押しされるように、身体が超高速で宙を翔ける。初弾は、ほとんどの剣技に撃ち合わせることが可能な上段から最短距離の斬撃だ。この速度を上回る技は、片手直剣には無いはずだ。
刃がアドミニストレータの肩口を襲うまでの約〇.五秒。
加速感覚によってゼリーのように密度を増した時間のなか、俺の瞳が捉えたのは――。
す、と剣尖をこちらに向けられるアドミニストレータの銀の剣。
その刀身が、一瞬でその幅を半分ほどに縮め。
ヴァーミリオンのライト・エフェクトをちかっと瞬かせ。
ドカカカカッ!! と、立て続けの刺突八弾が自分の肉体を貫くさまだった。
「がっ……」
俺の口から、大量の血液が迸った。
黒い剣の刃は、あと髪ひとすじ程でアドミニストレータの肌を切り裂く、というところで停止していた。
初弾をインタラプトされた俺の十連撃は、ブルーの輝きをむなしく宙に放散させ、消滅した。
一体何が起きたのか、もうまったく理解できなかった。激痛と驚愕の双方に等しく翻弄され、俺は腹から血塗られた極細の刀身がずるりと抜き出されるさまを、ただ見つめた。
突き技――!?
しかし、何というスピードだ。あんな技、直剣カテゴリには存在しない。
混乱と同期するかのように、八箇所の小さな傷口から、勢い良く鮮血が噴き出した。がくりと膝から力が抜け、俺は剣を床に突きたてて倒れるのをどうにか堪えた。
俺の血を避けるように、軽やかに数歩跳んだアドミニストレータは、極細の剣で唇のあたりを覆った。それが、哄笑を抑える仕草であることを俺は直感的に察した。
「うふ……ふふふ……ざーんねんでした」
刃の縁から、きゅうっと唇の両端をはみ出させ、美貌の支配者は嘲るように告げた。
「細剣八連撃ソードスキル、"スター・スプラッシュ"よ」
――嘘だ。
そんな技、俺はユージオに教えていない。
それは――俺ではなく――アスナの得意技ではないか。
ぐうっ、と世界が歪む感覚。いや、歪んでいるのは俺自身か。有り得ないはずの事象を突きつけられ、俺は必死に解答を求める。
覗かれたのは――俺の記憶?
今の技は、俺のフラクトライトから盗まれたのか?
「嘘だ……」
俺の口から、俺のものとは思えない潰れた声が漏れた。
「そんなの嘘だ」
ぎりり、と噛み合わされた歯が軋む。自分でも理由のわからない怒り、そして再び忍び寄りつつある恐怖を打ち消そうとするかのように、俺は床から乱暴に剣を引き抜き、ふらつく脚を叱咤して大きくスタンスを取る。
左手を前に、右手を引いて。一撃必殺、"ヴォーパル・ストライク"の構え。
彼我の距離、約五メートル。完全に間合いのうちだ。
「う……あああああ!!」
萎えかけたイマジネーションの力を無理やりに引っ張り出すべく、俺は腹の底から絶叫した。肩の上につがえられた剣が、獰猛なまでのクリムゾンに輝く。それは血の色――あるいは、むき出しの殺意の色か。
対するアドミニストレータは。
俺と同じように、両脚を大きく前後に広げると、左手のレイピアを滑らかな動作で右腰に回し、まるでそこに鞘があるかのようにぴたりと止めた。
その針ほどにも細い刀身が、再び形を変えた。
ぐ、と幅と厚みを増し、その上ゆるやかな弧を描く。片刃の曲刀――あれは、まるで。
いや、もう思考はいらない。怒りだけがあればいい。
「――――おおおッ!!」
獣の咆哮とともに、俺は剣を撃ち出した。
「――シッ!!」
アドミニストレータの唇からも、抑制された、しかし鋭い気合が放たれた。
右腰の剣が、眩い銀色に輝き。
俺の血色の直突きよりも、滑らかで、美しく、そして速い曲線軌道を描いて。
抜き打ちの一撃が、俺の胸を抉った。
巨人のハンマーで横殴りにされたような、凄まじい衝撃が俺を紙切れのように吹き飛ばした。決定的な深手から、残ったほぼすべての天命を真紅の液体に変えて放出しながら、俺は高く宙を舞った。
左手をまっすぐに振りぬいた姿勢のまま、アドミニストレータが悠然と放つ言葉が、かすかに俺の耳に届いた。
「カタナ単発重斬撃、"絶虚断空"」
俺の――
知らない、
ソードスキル。
驚愕などという形容では追いつかない、圧倒的に拒絶された感覚を抱えながら、俺は床に墜落した。ばちゃり、という水音とともに、大量の鮮血が周囲に散った。俺のものだけではない――落ちたのは、ユージオの肉体から零れた真紅の海のなかだった。
痺れ切った意識、そして身体のなかで、動かせるのはもう視線だけと思えた。俺は懸命に眼を巡らせ、すぐ傍らに横たわるユージオを見た。
骨盤の真上あたりから無残に分断された、誰よりも大切な相棒は、真っ白な顔をわずかに傾けて目蓋を閉じていた。その傷口からは、まだぽた、ぽたと血が垂れていて、天命がすでに尽きてしまったのか、あるいはまだ僅かに残っているのか判別できなかったが、しかしもう意識は戻るまいと思えた。
そして、何より確かなのは――俺が、彼から受け取った意志を無駄にしてしまったということだった。
アドミニストレータには勝てない。
神聖術戦ではもちろん、剣と剣の戦いにおいても、俺があの存在に勝る部分は何一つ無かったのだ。
一体彼女が、いかなる情報源からソードスキルの恐らく全体系を己に取り込んだのかはもうまったく解らない。ユージオの記憶でも、俺の記憶でもないことだけは明らかだ。アンダーワールド構築にも使用された、汎用のザ・シードパッケージには、ソードスキルのシステム・アシスト・プログラムは含まれていない。それが現存するのは旧SAOサーバーを受け継いだアルヴヘイム・オンラインの内部だけだ。しかし、高度なプロテクトに守られたはずのALOサーバーにハッキングを仕掛けるなどということは、現実世界の人間ではないアドミニストレータに出来るはずはないのだ。
これ以上はもう、推測するだけ空しい。たとえ真実を導けたとしても、俺にはもう何もない、という事実は厳然として変わらない。
許し難い無力――耐え難い矮小さ。
シャーロットの献身、ユージオの覚悟、そしてカーディナルの遺志を、俺は――。
「――いいわね、その顔」
凍りついた刃物のような声が、倒れ臥す俺の首筋を撫でた。
剣を下げたアドミニストレータが、一歩、一歩と、しなやかに近づいてくる気配が感じられた。
「やっぱり、向こうの人間は感情表現も一味違うのかしらね? その泣き顔のまま、永遠に氷漬けにしておきたいようだわ」
絹を撫でるような喉声で、小さく嗤う。
「それに、面倒なだけだと思ってた武器戦闘も、これはこれで悪くないわね。相手の苦痛を指先で感じるもの。せっかくだから、もう少しだけ生きていて頂戴な。私がさきっぽから切り刻んで遊べるように」
「……好きに、しろ」
音にならない声で、俺は答えた。
「好きなだけ……嬲って、殺せ……」
せめて俺が、ユージオやカーディナルの倍、いや十倍苦しんでこの世界から消えるように。
もう喋る力も尽きかけ、貼り付いたように黒い剣の柄を握り続ける右手の指を、俺は最後の気力で引き剥がそうとした――
その瞬間。
耳元で、声がした。
「らしく……ないぞ、諦め……る、なんて」
切れ切れの、
今にも消え入りそうな、
しかし聞き間違えるはずもないその声は。
俺は、自分がすでに意識を失い幻覚に落ち込んだのかと疑いながら、再び視線を動かした。
泣きたくなるくらい懐かしい、鳶色の瞳が、うっすらと俺を見て微笑んでいた。
「ユー……ジオ!!」
掠れ声で叫んだ俺に向かって、相棒は、ほんの僅かに唇をほころばせてみせた。
先刻、ソードゴーレムの攻撃で腹を分断されかけた俺は、痛みと恐怖で動くこともままならなかった。しかしユージオの傷は、その比ではない。内臓から脊髄まで、全てが完璧に切断されているのだ。その痛みは、フラクトライトが崩壊するに充分なレベルに達しているはずなのに――。
「キリト」
凄まじい意志力の発露を見せ、ユージオがもういちど囁いた。
「僕は――あのとき……アリスが連れ去られるとき……動けなかった……。君は……幼い君は、勇敢に……立ち向かおうと、したのに……」
「……ユージオ……」
それが、九年前の出来事に関する言葉であろうことはすぐに解った。しかし、俺はその場には居なかったはずなのだ。ユージオの記憶が混乱しているのか、と一瞬思ったが、彼の眼に宿る光はあくまでもまっすぐで、その言葉が真実を告げていることを明白に表していた。
「だから……今度は、僕が……君の、背中を、押すよ……。さあ、キリト……君なら、もう一度、立てる。何度だって、立ち上が……れる……」
ユージオの右手が、ぴくり、と動いた。
その指が、血の海のなかから、青銀に輝く金属――青薔薇の剣の柄を拾い上げるのを、俺は溢れる涙を通して見た。
刀身の半分が粉砕された愛剣を、ユージオはその断面を血に沈めたまま僅かに持ち上げ、そして一瞬眼を閉じた。
直後、とてつもなく暖かな朱色の輝きが、俺たちを包んだ。
血だ。ほとんどはユージオの、そして少しばかり俺の零したものが混ざりこんだ血の海が、炎のように発光している。
「何をっ……!?」
アドミニストレータが、そう叫ぶ声がした。しかし、何故か無敵の支配者は、朱色の光を恐れるかのように左手で顔を覆い、一歩後ずさった。
輝きは、どんどん……どんどんその強さを増し、ついに無数の光点と化して一斉に舞い上がった。
それらは皆つぎつぎと、渦を巻いて青薔薇の剣へと吸い込まれていく。
そして、剣の断面から――真紅の、新たな刀身が。
ダイレクトリソース変換!
世界にたった二人の管理者にしか使えないはずの超絶技を間近に見て、俺は息を詰まらせた。恐ろしいほどの感情のうねりが胸の奥から湧き上がり、それは新たな涙に変わって次々と溢れ出した。
数秒でもとの長さを取り戻した青薔薇の剣の、その名の由来となった、柄に精緻に象嵌されている幾つもの青紫色の薔薇たちが、真紅にその花弁を変えた。今はもう紅薔薇の剣となったその美しい武器を、ユージオは震える腕で俺に差し出した。
さっきまで感覚すら失せていた俺の左手が、滑らかに動き、ぐっとユージオの手ごと剣の柄を掴んだ。
瞬間、身体の奥深いところに流れ込んできたエネルギーを――
俺は術式とは呼ばない。
それは確かに、ユージオの意志そのものが生み出す力だった。奇跡、そう言ってもいい。システムも、コマンドもまったく超越したレベルで、ユージオのフラクトライトから俺のフラクトライトへと伝わる魂の共振を、俺は確かに感じた。
ユージオの手から力が抜け、俺に剣を預けると、ぱたりと床に落ちた。再び微笑みを浮かべたその唇から――いや、彼の意識から俺の意識へと、短い一言が伝達された。
『さあ……立って、キリト。僕の……英雄……』
全身に穿たれた傷の痛みが消えた。
胸の奥の虚無が、燃え上がるような熱さに埋め尽くされた。
再びまぶたを閉じたユージオの横顔を、いっとき強く見つめ、俺はうなずいた。
「ああ……立つよ。お前のためなら、何度だって」
数秒前までは感覚すらなかった両腕を高く差し上げ、そこに握った二本の剣を床に突いて、俺は歯を食いしばって全身を持ち上げた。
体は半分以上言うことを聞こうとしなかった。足はふらつき、孔だらけの体幹は今にも砕けそうだ。それでも、俺は一歩、二歩と、よろけながら前に進んだ。
アドミニストレータは、背けていた顔をゆっくりとこちらに戻し――蒼い炎のような両眼で俺を見た。
「――何故だ」
放たれたその声は、フィルタがかかったかのように低く歪んでいた。
「何故そう幾度も幾度も抗おうとする。何故そうまで拒絶するのだ、慈悲深き絶望の腕を」
「言ったろう」
同じく、低く掠れた声を俺は返した。
「抗うことだけが、俺が今ここにいる意味のすべてだからだ」
その間も足を止めず、何度も倒れそうになりながら、俺はひたすらに進み続ける。
右手と左手に握った二本の剣たちは、とてつもなく重かった。しかし同時に、その強烈な存在感からはある種のイマジネーティブな力が尽きることなく湧き上がり、俺の内部を満たし、身体を動かした。そう――遠い、遠い昔、こことは別の世界で、俺はこうして二刀を引っさげて幾度も死地へと赴いたものだ。これこそが、俺が長い間忌避しつづけてきた黒の剣士、"二刀流"キリトの真にあるべき姿だ。
再び視覚のオーバーライティング現象が発生し、切り刻まれたロングコートが一瞬で再生した。無論、肉体に負ったダメージまでは消えない。だがもう、残る天命数値が幾つだろうと関係ないと思えた。手足が動き、剣を振れさえすれば、それ以上必要なものはもう何一つない。
レーザーのような視線で俺を射ていたアドミニストレータが、不意にじりっと片足を下げた。ついでもう片方も。
そののちに、己が後退したという事実に気付いたかのように、白銀の美貌に鬼神のごとき憤怒の表情が浮かんだ。
「……許さぬ」
唇が動くことなく発せられた一言は、青白い炎に包まれていた。
「ここは私の世界だ。貴様如き侵入者に、そのような振る舞いは断じて許さぬ。膝を衝け。首を差し出せ。恭順せよ!!」
ごっ!! と凄まじい勢いで、支配者の足下から、黝い闇のオーラが噴き出し蛇のようにうねった。カタナから再び直剣へと戻った銀色の刃が凶悪にぎらつきながら持ち上げられ、ぴたりと俺の胸の中央を擬した。
「……違う」
距離約五メートルの位置で脚を止め、俺は最後の言葉を返した。
「あなたは只の簒奪者だ。世界を……そこに生きる命を愛さない者に、支配者の資格は無い!!」
身体がほとんど勝手に動き、構えを取る。左手の紅い薔薇の剣を前に、右手の黒い大樹の剣を後ろに。右脚を引く。腰を落とす。
アドミニストレータの銀の剣も、すうっと肩の上まで掲げられ、俺の黒い剣と対象の位置、角度で停止した。真珠の唇から、何度と無く繰り返された言葉が、託宣のように放たれた。
「愛は……支配也。私はすべてを愛する。すべてを支配する!!」
外燃機関を思わせる同質の金属音が、双方の剣から放たれ、高く共鳴した。
銀の剣と黒の剣が、まったく同色の真紅の閃光に包まれた。
俺とアドミニストレータは、同時に床を蹴り同一のソードスキルを始動させた。
完璧な鏡像を成して、剣が矢のように引き絞られ、一瞬の溜めで光を倍増させ――撃ち出される。
等しい軌道上を直進したそれぞれの剣は、ほんの僅かに剣尖を触れ合わせ、交差した。
重い衝撃とともに、俺の右腕が肩の下から斬り飛ばされ、
しかしその時には、俺の剣もアドミニストレータの左腕を付け根から断ち斬っていた。
吹き飛んだそれぞれの剣と腕が、いまだクリムゾンの光芒を引きながら、高く舞い上がった。
「おのれええええええ!!」
双腕を失ったアドミニストレータの鏡の眼が、虹色の焔と化して燃え上がった。
長い髪が、まるで生き物のように逆立ち、無数の束を作って宙をうねった。その尖端が鋭い銀色の針に変わり、俺の全身目掛けて襲い掛かった。
「まだだあああああっ!!」
俺の叫びと同時に、左手に握られたユージオの剣が、再び真紅の閃光を解き放った。
SAO世界では決して有り得なかった、二刀によるヴォーパル・ストライクの二撃目が、やや下方から血の色の彗星となって突進し――
銀針の群れの中心を突き破って、アドミニストレータの胸の中央を深く貫いた。
とてつもなく重く、決定的な手応えが、俺の左の掌に深く浸透した。全身に穿たれたレイピアの傷より、胸を抉ったカタナの傷より、そして切断された右腕の痛みよりも、それは鮮明に俺の意識の隅々にまで響き渡った。
剣がアドミニストレータの滑らかな皮膚を切り裂き、筋肉を断ち骨を砕き、その奥の心臓を吹き飛ばすのを――つまり、自分がひとりの人間の生命を破壊したのを、俺は実際に眼で視たかのように自覚した。この世界の人間たちが本物のフラクトライトを持っていると悟ってから、執拗に避け続けてきた行為。しかし、この一撃に限っては一抹の躊躇いもなかった。ここで迷うことは、俺たちを信じて逝ったカーディナルのためにも決して許されなかった。そして恐らく、誇り高き支配者であるアドミニストレータのためにも。
そのような思考を巡らせることができたのも、ほんの一瞬だった。
最高司祭の胸の中央を貫いた青薔薇の剣が、ソードスキルのエフェクト光ではない、恐ろしいほどに強烈な真紅の輝きを放ったのだ。
ユージオの血から再生された刀身の前半分が、融ける寸前の鋼のように発光し、次の瞬間――数千、数万のエレメントを同時にバーストさせたかのごとく、リソースの大解放現象を引き起こした。
アドミニストレータの両眼が極限まで見開かれた。小さな唇が無音の絶叫を放った。
この世界の誰よりも美しいその体のそこかしこから、細い光の束が放射状に屹立し――
そして、純粋なエネルギーの極大爆発が、すべてを飲み込み、広がった。
轟風に叩かれた木の葉のように、俺は回転しながら吹き飛ばされ、背中から硝子の壁に激突した。跳ね返り、床に墜落したあと、ようやく右肩の傷口から噴水のように血が噴き出すのを感じた。散々切り刻まれたあとにこれほどの血が残っているのがいっそ不思議なほどで、いよいよこれで俺の天命もゼロになるのか――と一瞬考えたが、しかし俺にはまだやらなければならないことがある。もう少しだけ、生きていなくてはならない。
左手の剣に目をやると、刀身は再び半分になり、薔薇の象嵌も青に戻っていた。それを床に落とし、五本の指で右肩を強く握る。
不思議なことに、術式を唱えずとも治癒のイメージを想起しただけでブルーの光がほのかに零れ、凍てつくようだった傷口に暖かさが広がった。しかし術はほんの一秒ほど、出血がぎりぎり止まったところで解除する。ほとんど枯渇しているはずの空間リソースをこれ以上使うわけにはいかない。
左手を離し、それを床に突いて、俺は身体を持ち上げた。
そして、驚愕のあまり呼吸すらも忘れた。
いまだバーストしたエネルギーの残滓が、空中を蜃気楼のようにゆらゆらと漂うその先に――。
凄まじい爆発で、跡形もなく吹き飛んだと思えた銀髪の少女が、よろめきながらも二本の脚で立っていた。
その身体は、いまだ人のかたちを留めているのが奇跡と思えるほどの有様だった。両腕は喪失し、胸の中央には巨大な孔が開き、全身のそこかしこにも陶器が割れたかのようなひび割れや欠損がある。
そして、無数の傷口から流れ出しているのは、血ではなかった。
銀と紫が混じった火花のようなものが、ばち、ばちっと鋭く弾けながら絶え間なく噴き出し、空中に拡散していく。剣に変えられた人々だけではなく、アドミニストレータ自身の身体すらもはや生身の人間のものではないのだと思わずにいられない光景だ。
溶かしたプラチナのように美しかった長い髪もずたすたに切断され、不揃いに垂れ下がるその奥で俯けられた顔はよく見えなかった。
しかし、暗がりでかすかに唇が動き、漏れ出した声が俺の耳に届いた。竪琴の音色にも似たその響きは完全に失われ、それはもう歪んだノイズでしかなかった。
「……よもや……剣が、二本ともに……金属でないとは……ふ、ふ」
壊れた人形のように小刻みに肩を揺らし、支配者はそれでも短く笑った。
「意外……まったく、意外な、結果だわ……。残るリソースすべてを掻き集めても……追いつかない、傷を、負うなんて……ね」
アドミニストレータが、一瞬で傷を完璧に癒してしまう悪夢を否応無く想像させられていた俺は、詰めていた息をわずかに吐き出した。
瀕死の支配者は、もう俺のほうなど見ようともせず、がくりと崩壊寸前の身体の向きを変えた。ばち、ばちと火花をこぼしながら、電池の切れかけた玩具のように、ゆっくりと歩き始める。
その向かう先は、部屋の北側――最初から最後まで何一つ存在しなかった箇所だった。俺は必死の努力で、硝子に背を預けて立ち上がり、アドミニストレータを目で追った。これ以上、何か逆転の手を打たれるまえに確実に倒さなくてはならない。そう思い、後を追おうとしたが、俺の体もほとんど言うことを聞かなかった。最高司祭よりもさらにぎこちない動作で、ずるり、ずるりと脚を引き摺って進みはじめる。
俺の二十メートルほど先を歩くアドミニストレータは、間違いなく一点を目指しているようだった。しかし、リソースの枯渇したこの隔絶空間から脱出する術は、彼女にも無いはずだ。切り離すのは一瞬でも繋ぐのは大ごと、というカーディナルの言葉を、アドミニストレータも否定はしていなかった。
数十秒後、支配者が立ち止まったのは、やはり何も――部屋のそこかしこに散らばるゴーレムの剣骨すら一つたりとも存在しない場所だった。
しかし、傷だらけの裸身を大仰そうに振り向かせ、俯いたまま俺を見て、少女はかすかに嗤った。
「……しかた、ないわ。予定より、随分と早い……けど、一足先に、行ってるわね、向こうに」
「な……何を……」
言っているのだ、と俺が問い質すまえに。
アドミニストレータは、伸ばした右脚で、とん、と床を衝いた。
その箇所の絨毯に――不思議な円形の紋様があった。
巨大ベッドを収納した跡のような、そして円筒形の出入り口が砕け散った跡のような。
直径五十センチほどのその円が、ぱあっと紫の光を放った。
輝くサークルの底から、かすかな震動とともにせり上がってきたものは。
大理石の柱の天辺に載った、
ひとつのノートパソコンだった。
「な……」
俺は驚愕のあまり棒立ちになった。
いや――現実世界のノートPCそのものというわけではない。筐体は半透明の水晶製だし、画面も薄紫に透き通っている。キーボードはダイヤモンドのように輝き、ポインティングデバイスは磨かれた鏡のようだ。あれは――PCではなく、SAO世界でいちど目にしたバーチャルシステム端末そのものだ!
つまり、あれこそが――
俺がこの二年間追い求めてきた、"外部世界への連絡装置"なのだ!
背を殴られるような衝動に従い、俺は思わず駆け出そうとしたが、その命令を右脚が拒否しがくりと膝を突いた。
それでも俺は、片手で床を掻き、這い進んだ。しかしその速度は絶望的なまでに遅く、アドミニストレータの居る場所は決定的に遠かった。
両腕の無い支配者の、銀の髪がひと房生き物のように持ち上がり、その先端で素早くキーボードを叩いた。ホロ画面に幾つかのウインドウが開き、何らかのインジケータがカウントを刻みはじめ――、
そして、アドミニストレータの身体を、床から天井へと流れる紫の光の道が包み込んだ。素足のつま先が、音も無くふわりと浮き上がった。
ここでついに、爆発からはじめてアドミニストレータが顔をあげ、まっすぐに俺を見た。
完璧を誇っていたその美貌は、無残な有様だった。左側が大きくひび割れ、眼のあった場所は底なしの暗闇に満たされている。その奥で、細いスパークが連続して弾け、崩壊寸前の機械の印象をいっそう強めている。
真珠色に輝いていた唇もいまは紙のようだったが、そこに浮かぶ微笑は変わらずに極北の冷気を湛えていた。無事な右眼をすうっと細め、アドミニストレータは再び短く嗤った。
「ふ、ふ……じゃあね、坊や。また……会いましょう。今度は、お前の、世界で」
その言葉を聴いて、ようやく俺は、アドミニストレータの意図するところを察した。
彼女は――現実世界へと脱出しようとしているのだ!
天命という絶対限界に縛られたこのアンダーワールドから抜け出し、そのフラクトライトを保全するつもりなのだ。俺が、ユージオやアリスの魂をそうしようとしていたように!
「ま……待て!!」
俺は懸命に這いずりながら叫んだ。
俺が彼女なら、脱出と同時にあの端末を破壊する。もしそうされたら、すべての希望が潰える。
しかし、アドミニストレータの裸身は、ゆっくりと、しかし着実に光の回廊を上昇していく。
笑みを湛えたその唇がゆっくりと動き、無音の言葉を刻んだ。
さ、よ、
う、
な――
最後の一音が形作られる、その直前。
いつの間にか、俺もアドミニストレータも気付かぬうちに、彼女の足元まで這い進んできていた人物が、甲高い絶叫を放った。
「行かないでくださいよほぉぉぉぉぉぉうぅぅぅぅぅッ!!」
チュデルキン。
もうはるか昔と思えるほど以前に、俺の技に貫かれ、アドミニストレータに処分されたはずの道化が。
青いほどに血の気を失った丸い顔に、すさまじい形相を浮かべ、両手の指をかぎづめのように曲げて上空へと伸ばした。
その、胸の下でほとんど分断されかけた身体が、突然灼熱の炎と化して燃え上がった。
ぼおおっ!! と轟音を撒き散らし、まるで自身が火焔ピエロの術式と化したかのように赤熱したチュデルキンが、螺旋を描いて上空へと突進した。
さしものアドミニストレータの顔にも、驚愕と、そして恐らく恐怖の表情が浮かんだ。ほとんど天井に達しようとしていたその小さな両足に、チュデルキンの燃え盛る両手ががっちりと食い込んだ。
引き伸ばされた道化の身体は、そのままぐるぐるとアドミニストレータの裸身を這い進み、火焔でできた蛇のようにしっかりと巻きついた。直後、これまでに倍する炎がその全身から吹き荒れ、両者の身体を包み込んだ。
アドミニストレータの髪が、その先端から融けるように燃え上がった。
唇が歪み、悲鳴にも似た叫びが放たれた。
「離せっ……! はなしなさいこの馬鹿者!!」
しかし、チュデルキンはまるでその言葉が愛の告白ででもあったかのように、真ん丸い頭の中央の細い目をさらに糸のようにして、至福の笑みを浮かべた。
「ああぁぁぁ……ついに……ついに猊下とひとつになれるのですねぇぇぇ……」
短い両腕が、アドミニストレータの身体をしっかりと抱きしめ、ついに支配者の肌それ自体が灼熱の炎を吹き上げた。
「貴様ごとき……醜い道化に……この私がっ……」
その言葉は半ば悲鳴だった。身体のあちこちに穿たれていたひび割れが、さらに拡大しつつ次々と剥離し、そこから噴き出す新たな銀のスパークと火焔が混じり合って花火のように飛び散った。
チュデルキンの体躯はもうほとんど原型を失い、純粋な炎と化していた。その中心に至福の表情だけが残り、最後の言葉を響かせた。
「ああ……猊下……アタシの……アドミニストレータ……さ……ま……」
そして、アドミニストレータの身体もついに実体を失い、荒れ狂う炎と化した。
支配者は、破壊され、燃え上がる顔からすっと表情を消し、銀の瞳で上空を見つめた。この状況にあっても、支配者の相貌は、恐ろしいまでに美しかった。
「……私の……世界……。どこまでも……ひろがる……わたし……の……」
その先を聴くことはできなかった。
燃え盛る火焔が、一瞬ぎゅっと凝縮し、
純白の閃光となって解き放たれた。
爆発というよりも、すさまじいエネルギーの全てが光に還元され、空間に満ちたように思えた。轟音も震動もなく、ただ、世界でもっとも巨大な存在が崩壊・消滅したという概念的事象それのみが空間を満たした。
もう、世界はもとの姿に戻らぬのではないかというほどの長時間、白光は密度と方向を揺らめかせながら輝き続けた。
しかし、やがてついにそれも薄れてゆき、俺の視界に色と形が戻りはじめた。
涙が溢れる眼を何度もしばたかせながら、俺は爆発の中心点を懸命に見通した。
そこには、紫のゲートがまだかすかに残っていた。しかし存在するのはそれだけで、アドミニストレータとチュデルキンという存在の痕跡は何一つ見つけられなかった。数秒のうちにゲートが瞬きながら消滅し、あとには床から突き出した大理石の柱と、バーチャル端末だけが冷たく鎮座するのみだった。
ついに、アドミニストレータ、あるいはクィネラという名の女性が、完全に消滅したことを俺は論理と直感の双方で悟った。彼女の天命はゼロになり、そのフラクトライトを格納していたライトキューブは初期化された。おそらくは、その隣に並んでいたのであろうカーディナルのライトキューブと同じように――。
「……終わった……のか……」
俺は、床に両膝を突いたまま、無意識のうちにそう呟いた。
「これで、よかったのか……カーディナル……?」
無論、答えはなかった。
しかし、恐らくは俺の記憶から発生したかすかな波動のようなものが、微風となってそっと頬を撫でた。大図書室の底で、そっと抱きしめたカーディナルの香り――古書と、蝋燭と、そして甘い砂糖菓子の香りが混じった風だった。
俺は一瞬顔を仰向かせ、眼を閉じた。
そして、左腕でぐいっと涙を拭いた。それを包む袖が、いつの間にか黒革のロングコートからもとの麻のシャツに戻っていることをわずかに意識しながら、身体の向きを変え、部屋のほぼ中央――横たわるユージオに向かって這い進んだ。
相棒の身体には、まだかすかに生命の気配が残っていた。
無残に切断された身体からは、ぽたり、ぽたりと間隔をあけて血が滴っている。残る天命はおそらく数分も保つまい。
必死の前進でユージオの傍らまで達した俺は、まず出血を止めるべく、離れた場所に転がる下半身を運んでぴたりと切断面を合わせた。
そして、傷口に左手を当て、治癒のイメージを想起する。
掌の下に、ぽっ、と点った青い光は、愕然とするほど頼りなかった。しかし俺はその光を懸命に切断面に翳し、傷を塞ごうとした。
だが――。
じわり、じわりと滲み、流れ出てゆく、ユージオの命そのものである紅い液体は、いっこうに止まろうとしない。ダメージの巨大さに対して、治癒術の優先度が絶望的に足りないのだ、と頭では理解しながらも、俺は執拗に手を動かし、叫んだ。
「止まれ……止まれよ! なんでだよ!!」
アンダーワールドでは、イメージの力がすべてを決定し、あるいは覆すのだ。想いはどんな奇跡だって起こせるのだ。そうであるはずではなかったか。俺は魂を絞り尽くすほどに祈り、念じ、そして願った。
しかし、血はなおも一滴、一滴とこぼれ続ける。
イマジネーションが干渉できるのは、あくまでオブジェクトの外形という視覚的要素のみで、プライオリティやデュラビリティといった数値要素までをも改竄できるわけではない――。
そんな理屈が意識の片隅を横切ったが、俺はそれを認めることを拒否した。
「ユージオ……戻ってこい! ユージオ!!」
もう一度叫び、俺は顔を下げると、歯で自分の左手首を噛み破るべく口を開いた。計算上は圧倒的に足りないのは解っていたが、しかし現在俺が利用でき得るリソースのすべてを注ぎ込まずにはいられなかった。たとえそれで、俺とユージオの天命がともにゼロになろうとも。
犬歯が皮膚に食い込み、肉と一緒に引きちぎらんととした、まさにその瞬間――。
ごくごく微かなささやき声が、俺の頬をそっと撫でた。
「ステイ・クール…………、キリト」
はっ、と顔を上げる。
ユージオが、ほんの少しだけ目蓋を持ち上げ、微笑んでいた。
顔色は紙のように青白く、唇にもまったく血の気がなかった。天命は変わらず減少を続けているのは明らかだ。しかし鳶色の瞳は、常と変わらず、穏やかな光をきらきらと湛えて俺を見つめた。
「ユージオ……!」
俺は、かすれた声で叫んだ。
「待ってろ、いま治してやるからな! お前を死なせやしない……絶対に死なせない!」
もう一度、手首を噛み破ろうとする。
しかし、寸前、氷のように冷たく、しかし同時に仄かに暖かい手が俺の手首を覆い、握り締めた。
「ユー……」
言いかけた俺を、ユージオはごく僅かに首を振って制した。
「いい……んだ。これで……いいんだ、キリト」
「何言ってるんだ! いいわけないだろう!!」
悲鳴のような俺の言葉にも、ユージオは、どこか満ち足りたような笑みを消すことはなかった。
「僕は……果たすべき、役目を、ぜんぶ果たした……。ここで、僕らの道は……分かれてたんだよ……」
「そんなわけがあるか!! 俺は運命なんて認めない!! そんなの絶対に認めないからな!!」
子供のように、泣き声混じりにそう言い募る俺を諭すように、ユージオはもう一度瞳でかぶりを振った。
「……もし……こうならなければ、僕と……君は、お互いの"アリス"のために……戦わなくちゃ、ならなかったろう。僕は……アリスの記憶をその身体に戻すために……そして君は、整合騎士アリスの魂を、守るために……」
瞬間、俺は息を詰めた。
それこそは、俺が心の奥底で危惧し、しかし意識して考えようとしてこなかった未来図だった。仮にすべてが解決し、いまの騎士アリスを消去してルーリッドのアリスを復活させるとなったとき、俺は果たしてそれに同意できるのだろうか――という。
今この時になっても、俺は答えを出すことはできなかった。
しかし、その迷い自体を、涙とともに俺はユージオにぶつけた。
「なら、戦えよ!! 傷をぜんぶ完璧に治してから、俺と戦え!!」
だが、ユージオの、透徹したような笑みは揺らぐことがなかった。
「僕の……剣は、もう折れて……しまったよ。それに……僕も……決められた、運命なんて、厭だ。僕と……君が、戦うなんて、そんな……誰かに決められた……筋書きみたいなの、絶対に、厭だよ」
そう呟いたユージオの両眼に、大きな涙の粒が盛り上がり、すうっと音もなく流れた。
「僕は……ずっと、君が、羨ましかったんだ……キリト。誰よりも……強く、誰にだって……愛される、君が。もしかしたら……アリスだって、君のほうを……、そんな風に、思ってたんだ……よ。でも……ようやく、解った。愛は……もとめる、ものじゃなくて、与える、ものなんだって。アリスが……それを、教えて、くれたんだ」
言葉を切り、ユージオは左手も持ち上げた。その掌に包まれた紫のプリズムがちかちかと瞬きながら、俺の指先に触れた。
その瞬間――。
世界のすべてが白い光に包まれ、溶け、消滅した。
床の硬さも、重力も、斬られた右腕の痛みも消え、穏やかな流れが俺の魂を載せてどこか遠くへと運んだ。胸を覆い尽くす巨大な哀しみすらも、暖かなストリームに優しく融かされ――そして――
ちらちら、と鮮やかな緑色の輝きが、高みで揺れている。
木漏れ日。
ようやく訪れた春の日差しを謳歌するように、樹々の新芽がいっぱいにその手を伸ばし、微風にそよぐ。艶やかな黒い枝を、名も知れぬ小鳥たちが追いかけっこをするように飛び渡っていく。
「ほら、手がお留守よ、キリト」
鳥たちの囀りよりも軽やかな声に、見上げていた視線を戻した。
傍らに座った、青と白のエプロンドレス姿の女の子の金髪が、日差しを受けて眩くきらめいた。一瞬眼を細めてから、肩をすくめて言い返す。
「アリスだってさっき、口ぽかーんて開けてワタウサギの親子を見てたじゃないか」
「ぽかーんなんてしてないわよ!」
ぷい、と顔を反らせ、すぐにくしゃっと笑ってから、少女――アリスは手にしていたものを高く差し上げた。
それは、丁寧に仕立てられた小剣用の革鞘だった。真新しい、ぴかぴか光る表面に、色鮮やかな白糸で竜をかたどった刺繍が施してある。どこか親しみを覚える、丸っこい形の竜の尻尾だけが中途で途切れ、その先端からは針に通された糸が垂れ下がっている。
「ほら、私のほうはもうすぐ出来るわよ。そっちはどうなのよ」
言われて、目を自分の膝に落とす。
乗っているのは、森で二番目に硬い白金樫の枝を削り出した小剣だ。森のことに誰よりも詳しいガリッタ爺さんに教わって、鉄のようなその木材を二ヶ月もかけて形にしたのだ。刀身はもう完全に出来上がり、あとは柄の細工の仕上げを残すのみだ。
「俺のほうが速いさ。もうあとこんだけだ」
答えると、アリスはにっこりと笑って言った。
「じゃあ、あと少しがんばって仕上げちゃいましょうよ」
「うーん」
もう一度、高い梢を透かして空を見ると、ソルスはすでに真ん中を通り過ぎている。今日は朝からこの森の秘密の場所で作業をしていたので、さすがにいい加減帰らないとまずい気もする。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
首を振りながらそう言うと、アリスは小さな子供のように唇を尖らせた。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
「しょうがないなあ。じゃあ、ほんとにあとちょっとだぜ」
頷きあい、互いの作業に没頭して数分後。
「できたぞ!」「でーきた!」
同時に響いた二つの声に重なるように、背後でがさがさと草を踏み分ける音がした。
手の中のものを背中に隠しながら、さっと振り向く。
そこに、きょとんとした顔で立っていたのは、ぽわぽわした亜麻色の髪を短く切り揃えた小柄な少年――ユージオだった。
澄んだ瞳をぱちぱちと瞬かせ、ユージオは訝しげな声を出した。
「なんだ、朝からずっとこんなとこに居たの、二人とも。いったい何やってたの?」
アリスと、首をすくめながら目を見交わす。
「ばれちゃったわねえ」
「だから言ったじゃないかー。台無しだよもう」
「台無しってことないわよ。いいからそれ貸しなさいよ」
アリスは、後ろ手で仕上がったばかりの木剣を奪い取ると、自分の持つ鞘にそっと収めた。
そして、ぴょん、とユージオの前に一歩飛び出すと、お日様のように満面の笑みを浮かべて、叫んだ。
「三日ばかり早いけど……ユージオ、誕生日、おめでとう!!」
さっと差し出された、真新しい革鞘に包まれた小剣を見て、ユージオは大きな目をさらに丸くした。
「え……これ、僕に……? こんな、すごい物……」
アリスにおいしいところを持っていかれ、苦笑しながら言葉を添える。
「ユージオ、前に、買ってもらった木剣を折っちゃったって言ってたろ? だからさ……勿論、お前の兄ちゃんが持ってるみたいな本物には負けるけど、でもこいつは雑貨屋に売ってるどんな木剣よりもすげえんだぜ!」
おずおずと伸ばした両手で小剣を受け取ったユージオは、その重みに驚いたように体を反らせ、次いで、アリスに負けないくらい大きく顔をほころばせた。
「ほんとだ……これ、兄ちゃんの剣よか重いよ! すごいや……僕……僕、大事にするよ。ありがとう、二人とも。嬉しいな……こんな嬉しい誕生プレゼント、はじめてだ……」
「お……おい、泣くなよ!」
ユージオの目じりに、小さく光るものを見て、慌てて叫ぶ。泣いてないよ、とごしごし目をこすり、
ユージオはこちらをまっすぐに見て、
もういちど笑った。
不意に、その笑顔が虹色に歪んだ。
突然の、切ない胸の痛み。どうしようもないほど強い郷愁と、喪失感。あふれ出した涙はとめどなく流れ、頬を濡らす。
並んで立つアリスとユージオも、同じように泣き笑いの顔で――。
声を揃えて、言った。
「僕たち……私たち三人は、確かに同じ時を生きた。道はここで分かれるけど……でも、思い出は永遠に残る。君の、あなたの中で生き続ける。だから、ほら――」
そして、木漏れ日に包まれた情景は消え去り、俺は再びセントラル・カセドラル最上階へと引き戻された。
「だから、ほら――泣かないで、キリト」
ささやいたユージオの両手から力が抜け、右手は床に、左手は胸の上に落ちた。その掌のなかのプリズムも、瞬く光をほとんど失おうとしていた。
いま観た、ごく短い情景は、確かに俺の記憶だった。思い出せたのはそのワンシーンだけだったが、それでも、俺とアリス、ユージオが、幼い頃から共に育ち、揺るぎない絆で結ばれていたのだという事実が、暖かく俺の胸を満たし、痛みをわずかに癒した。
「ああ……思い出は、ここにある」
俺は、自分の胸に左手の指をあて、嗚咽混じりにそう囁いた。
「永遠にここにある」
「そうさ……だから僕らは、永遠に、親友だ。どこだい……キリト、見えないよ……」
微笑を浮かべたまま、輝きの薄れかけた瞳を彷徨わせ、ユージオが呟いた。俺は身を乗り出し、ユージオの頭を左手でかき抱いた。零れた涙の粒が、次々にユージオの頬に滴った。
「ここだ、ここにいるよ」
「ああ……」
ユージオは、どこか遠くを見つめながら、笑みをわずかに深めた。
「見えるよ……暗闇に、きらきら、光ってる……。まるで……夜空の……星みたいだ……ギガスシダーの、根元で……毎晩、見上げた……そう、君の剣の……輝きの……ようだよ……」
囁き声はどこまでも透きとおって音を失い、しかし水滴が染みこむように俺の魂に響いた。
「そうだ……あの剣……"夜空の剣"って名前が……いいな。どうだい……」
「ああ……いい名前だ。ありがとう、ユージオ」
徐々に軽くなっていく友の身体を、俺は強く抱いた。触れ合う意識を通して、さいごの言葉が、水面に落ちる雫のように伝わった。
「この……悲しい、世界を……夜空のように……優しく…………包んで……………」
そして、音もなく瞼が降り、
ささやかな重みを俺の腕に残して、ユージオの顔がことりと仰向いた。
ユージオは、どことも知れぬ暗い回廊に立っていた。
しかし、一人ではなかった。
繋がれた左手をたどると、青いドレス姿のアリスがにっこり微笑みながらそこに居た。
少しだけ握る手に力をこめ、ユージオはそっと尋ねた。
「これで……よかったんだよね」
アリスは金髪を結わえる大きなリボンを揺らして、しっかりと頷いた。
「ええ。あとは、あの二人に任せましょう。きっと、世界をあるべき方向に導いてくれるわ」
「そうだね。じゃあ……行こうか」
「うん」
いつの間にか、ユージオも幼い少年の姿に戻っていた。同じ背丈の少女と、強く互いの手を握り合い、ユージオは回廊のかなたに見える白い光めざして歩きはじめた。
その瞬間――。
NND7-6361というIDで管理されるヒューマン・ユニットに設定されたデュラビリティ数値がゼロへと変化した。
アンダーワールド・メインフレームを制御するプログラムが、そのアルゴリズムに従い、該当するユニットのフラクトライトを格納するライトキューブ・インターフェースへひとつの命令を発した。
命令を受け取ったインターフェースは、接続された希土類結晶格子中の全量子ゲートを、忠実に初期化した。
内包されていた百数十億のフォトンは、一瞬の煌きを残して拡散、消滅し――
ユージオという名で、二十年にわずかに満たぬ主観時間を生きたひとつの魂が、ふたつの世界から喪われた。
殆ど同時に。
そのライトキューブから、かなり離れた位置に格納された、もうひとつのキューブでも同様の処理が行われた。
非正規的操作によって製造された、限定的思考力と、アリス・ツーベルクという名の魂の記憶の一部を格納したそのフラクトライトもまた永遠に喪失した。
ふたつの魂を構成していたフォトンの雲が、どこに向かい、どのように消えたのかを知るすべは存在しない。
ユージオのからだと、その胸に乗ったアリスの記憶プリズムが、光の粒となって完全に消え去るまで俺はただその場所に跪きつづけた。
どれくらいそうしていただろうか。
気付くと、硝子窓の向こうに渦巻いていた虚無空間はいつのまにか消えうせ、満天の星空が戻ってきていた。東の果てに刻まれた黒い稜線のかなたに、ごくうっすらとした曙光が訪れつつあった。
思考力のほとんどを失ったまま、俺はよろよろと体を起こし、どうにか立ち上がると、離れた場所に横たわる騎士アリスに近づいた。
アリスの傷も酷いものだった。しかし幸い、そのダメージは火傷がほとんどで出血は止まっており、天命の持続的減少は無かった。左手で抱き起こすと、意識を取り戻しはしなかったが、微かに眉が動き、唇から細い声が漏れた。
アリスを抱えるようにして、俺はゆっくり、ゆっくりと、部屋の北端目指して歩いた。
いまや、この空間でそれのみが無傷で残る水晶のシステム端末が、きらきらと冷たく、無機質に輝きながら、俺を迎えた。
アリスをそっと床に横たえ、俺は左手の指先でタッチパッドをなぞった。
インタフェースは、慣れ親しんだ日本語と英語の混在したシステムだった。ほとんど機械的に階層をもぐり、やがて俺は求めるものを発見した。
"外部オブザーバ呼出"。
そう名づけられたタブをクリックすると、ひとつのダイアログがビープ音とともに浮かび上がった。『この操作を実行すると、STRA倍率が1.0倍に固定されます。よろしいですか?』――という窓のOKボタンを、躊躇いもせずに押す。
突然、空気の粘度が増したような気がした。音、光、すべてが引き伸ばされ、遠ざかり、そして追いついてくる。まるで自分の動きも、思考までもが超スローモーションになってしまったかのような違和感が一瞬俺を襲い、そして何事もなかったかのように消滅した。
画面の真ん中にひとつの真っ黒いウインドウが開いた。片隅に音声レベルメーターが表示され、その上にSOUND ONLYの文字が点滅している。
虹色のメーターが、ぴくり、と跳ねた。
さらに動く。同時に、ざわざわというノイズが俺の耳に届いてくる。
現実世界の音だ、と思った。
アンダーワールドの状況に関わり無く、平穏な日常が繰り返されている向こう側の世界。血も、痛みも、死すらも例外的な出来事でしかないリアル・ワールド。
不意に、身体の奥底から、名状しがたい激情が吹き上がり、俺を揺さぶった。
感情のまま、端末に顔を近づけ、俺は出せる限りの大声で叫んだ。
「菊岡……、聞こえるか、菊岡!!」
今、この手が菊岡誠二郎あるいは他のラース・スタッフに届いたら、俺はそいつを絞め殺してしまうかもしれない。行き場の無い怒りに震える左こぶしを大理石の柱に叩きつけ、もう一度叫ぶ。
「菊岡ぁぁぁっ!!!」
直後――何かの音が、画面から流れ出した。
人の声ではなかった。カタタタ、カタタタタ、という歯切れのいい震動音。咄嗟に思い出したのは――はるかな昔、ガンゲイル・オンラインというVRMMOゲームの中で接した、小火器の連射音だった。しかし――まさか、そんなはずが――。
立ち尽くす俺の耳が、今度こそ人間の叫び声をかすかに捉えた。
『――メです、A6通路占拠されました! 後退します!!』
『A7で何とか応戦しろ! システムをロックする時間を稼げ!!』
再び、カタカタという音。それに混じって、散発的な破裂音も。
何だ、これは。映画? 誰かの見ているストリーム動画と混線でもしたのか?
しかし、そのとき、知らない声の持ち主が、俺の知っている名前を呼んだ。
『菊岡二佐、もう限界です! 主コントロールは放棄して、耐圧隔壁を閉鎖します!!』
それに答える、すこし錆びのある鋭い声。
菊岡誠二郎――俺をこの世界へと引き込んだ男。しかし、彼のこれほど切迫した声を俺は聴いたことがなかった。
『済まん、あと二分耐えてくれ! 今ここを奪われるわけにはいかん!!』
何が起きているというのだ。
襲撃されている? ラースが? しかしいったい何者に――?
再び菊岡の声。
『ヒガ、ロックはまだ終わらないのか!?』
また、新しい未知の声。
『あと八……いや七十秒ッス……あ……ああ!?』
その、やけに若々しい声が、驚愕をあらわして裏返った。
『菊さんッ!! 中から呼出です! ちがいます、UWの中っすよ!! これは……、あああっ、彼です、桐ヶ谷くんだッ!!』
『な……なにぃっ!?』
足音。がつ、とマイクが鳴る。
『キリト君……いるのか!? そこにいるのか!?』
間違いなく菊岡だ。俺は戸惑いを押し殺し、叫んだ。
「そうだ! いいか菊岡……あんたは……あんたのしたことは……っ!」
『誹りはあとでいくらもで受ける! 今は僕の言葉を聞いてくれ!!』
その、彼にそぐわぬ必死さに押され、俺は思わず口を閉じた。
『いいか……キリト君、アリスという名の少女を探すんだ! そして彼女を……』
「探すもなにも、いまここにいる!」
俺が叫び返すと、今度は菊岡が一瞬押し黙った。次いで、急き込むように――。
『な、なんてことだ、奇跡だ! よ、よし、この通信が切れ次第倍率を戻すから、アリスを連れて"ワールド・エンド・オールター"を目指してくれ! 今君が使っている端末はこのメインコントロール直結だが、ここはもう墜ちる!』
「墜ちる……って、一体何が……」
『説明している暇はないんだ! いいか、オールターは東の大門から出て南へ……』
そのとき、最初に聞いた知らない声が、至近距離で響いた。
『二佐、A7の隔壁を閉じましたが保って数分……ああ、まずい、奴ら、正電源ラインの切断を開始した模様ッ!!』
『えええっ、ダメだ、それは今はダメだよッ!!』
悲鳴を返したのは菊岡ではなく、"ヒガ"と呼ばれた高い声の持ち主だった。
『菊さんッ、いま主ラインがショートしたらサージが起きる! メインフレームやクラスターは保護されてますが……上の、キリト君のSTLに過電流が……フラクトライトが焼かれちまいます!!』
『何っ……馬鹿な、STLにはセーフティ・リミッターが何重にも……』
『全部切ってるんですってば! 彼は今治療中なんだ!!』
一体――何なのだ。俺のフラクトライトが――どうするというんだ?
コンマ数秒の沈黙を破ったのは、再度菊岡が叫ぶ声だった。
『ロック作業は僕がやる! 比嘉、君は神代博士と明日奈くんを連れてアッパーシャフトに退避、キリト君を保護してくれッ!!』
『で、でも、アリスはどうするんスか!?』
『倍率をリミットまで上げる!! 後のことはまた考えるッ、今は彼の保護を……』
続く叫び声の応酬を、俺はほとんど聞いていなかった。
直前に聞いたひとつの名前が、俺の意識を強打し、嵐のように揺さぶった。
明日……奈?
アスナがそこに? ラースにいるのか……? 何故!?
菊岡に問い質そうと、俺はモニタに覆いかぶさった。
しかし、声を発する直前、悲痛な絶叫が耳朶を打った。
『ダメだ……電源、切れます!! スクリューが止まります、総員対ショック!!』
そして――。
不思議なものが見えた。
頭上はるか彼方から、カセドラルの壁も天井も貫いて、俺めがけて殺到してくる白いスパークの渦。
凍りつき、それを見上げる俺を、音もなく無数の雷閃が貫いた。
衝撃も、痛みも、音すらもなかった。
しかし、それでもなお、俺は自分に与えられた取り返しのつかないほどに深いダメージを強く自覚した。それは、俺の肉体や感覚ではなく、魂の基層に加えられた傷、そう思えた。
俺という存在を規定する、何か大切なものが、ばらばらに引き千切られ、消えていく。
空間、時間、すべてがかたちを失い、混沌なる空白へと融ける。
俺は――。
その言葉すらも、意味をなくし。
思考する能力を奪われるその直前、どこか遠くで呼ぶ声を聴いた。
『キリトくん……キリトくん!!』
泣きたくなるほど懐かしく、狂おしいほどに愛しい、その響き。
あれは――――
誰の声だったろう?
(第七章 終)*第八章
超一級の天才たるを自認する比嘉健にとっても、この二時間に発生したさまざまな事象を事前に予測することは出来なかった。
しかし、現在すぐ目の前に存在する状況は、びっくりの中でも極め付き、ぶったまげるとしか形容できない代物だった。
齢十八、九の華奢な少女が、そのなよやかな片腕で、自分より十五センチは背の高い男の襟首を掴み上げている。趣味の悪いアロハシャツが千切れんばかりに張り詰め、サンダルのかかとが僅かに宙に浮く。
燃え上がらんばかりに爛々と光る両の瞳で、二等陸佐・菊岡誠二郎を睨み付けた女子高校生・結城明日奈は、その可憐な唇から刃にも似た言葉を放った。
「このままキリト君が戻らなかったら、あなたを殺すわ、必ず」
比嘉の位置からは、菊岡の黒縁メガネに照明が反射して表情は見えなかった。しかし、柔道剣道空手合わせて何段だか知れぬ幹部自衛官は、明日奈の言葉に気圧されたかのようにぐびりと喉を動かし、両手をそっと体の左右に挙げた。
「分かっているよ。責任は必ず取る。だからその手を離してくれないか」
張り詰めた沈黙が、オーシャンタートル・メインシャフト最上部、サブコントロールルームに重く満ちた。
コンソールに座る比嘉も、隣に立つ神代凜子も、部屋に残った数名のラーススタッフも、誰一人言葉を発することはできなかった。それほど、この場で最も年若い少女の放つ気迫は圧倒的だった。なるほど、確かにあの娘は本物の戦場からの生還者なのだ、と比嘉は意識の片隅で考えた。
やがて、明日奈は無言で右手を開いた。解放された菊岡は、ほとんど落下するようにどすんと踵をつけ、明日奈のほうはふらふらと数歩後ろによろけた。すぐさま凜子が白衣を翻して飛び出し、その背中を支えた。
女性科学者は、学生だった頃から何ら変わらぬ包容力で明日奈を抱きしめ、小さく囁いた。
「大丈夫よ。絶対に大丈夫。彼は帰ってくるわ、あなたの所に」
その声はかすかに濡れていて、明日奈は一瞬はっと眼を見開き、すぐにくしゃりと表情を歪ませた。
「…………はい、そうですよね。すみません……取り乱して」
目尻に浮かび上がった――襲撃の最中ですら一度も見せなかった涙を、凜子の肩に押し当て、明日奈は震える囁きを返した。
ようやく僅かに弛緩した空気を、再び引き締める金属音が部屋の一方から響いた。スライドドアが手動で開かれ、駆け込んできたのは一等海尉の中西だった。
白いワイシャツに汗染みを作り、ショルダーホルスターから大型の拳銃のグリップを覗かせた中西は、ちらりと明日奈と凛子に視線を投げてから、その右奥の菊岡に向けて短く敬礼した。
「報告します! 一七三○、第一、第二耐圧隔壁の完全閉鎖、および非戦闘員の船首ブロックへの退避を確認しました!」
菊岡は、アロハの襟元を直しながら進み出ると、大きくひとつ頷いた。
「ご苦労。隔壁はどれくらい持ちそうだ?」
「は……連中が持ち込んだ装備によりますが、小火器での破壊は不可能です。カッターでの切断ならば最短でも八時間はかかります。C4やセムテックスにはさすがに耐えられませんが……恐らくそれは無いでしょう。ロウワー・シャフトには……」
「原子炉とプルトニウム電池があるからな」
語尾を引き取り、菊岡はメガネのブリッジを押し上げながらしばし黙考した。
しかしすぐに顔を上げ、腹の前でぐっと右拳を左手に打ちつけると、一際通る声で言った。
「よし、状況を整理する」
薄暗いサブコン中を素早く見回し、続ける。
「中西、人的被害を報告してくれ」
「は。非戦闘員に軽傷三、船首医務室で治療中です。戦闘員、重傷二、軽傷二。同じく治療中ですが生命の危険は無いとのことです。戦闘可能者は、軽傷の二名を含め六名です」
「あれだけ撃ちまくられて、死者が出なかったのは僥倖だな……。次に、船体の被害状況を」
「船底ドックの操作室は穴だらけです。遠隔での開閉は不可能ですね。ドックからメインコントロールへの通路も同様ですが、これはまあ引っかき傷のようなものです。深刻なのは、正電源ラインを切断されたことで……電力自体は副ラインから各所へ安定供給されていますが、一度制御系を再起動しないとスクリューを回せません」
「ヒレを無くした海亀だな。おまけに腹に鮫が食いついたまま、か」
「はい。ロウワー・シャフトの、A1からA12までの区画は完全に占拠されました」
髪を短く刈り込んだ、剛毅そのものといった顔を中西は悔しそうに顰めさせた。対して菊岡は、どこか教師めいた長めの前髪をくしゃりとかき上げ、腰を傍らのコンソールに乗せると下駄をつま先で揺らした。
「アンダーワールドメインフレームから、第一STL室、ライトキューブクラスター、そして主機まで軒並み奴等の手の中か。まあ……幸いなのは、連中の目的が破壊ではない、ってことだ」
「は……そうでしょうか」
「ただ破壊したいなら、何もこんな大層な突入作戦を実行せずとも、巡航ミサイルなり魚雷なり撃ち込めば済むことだ。そこで問題なのは、連中が何者なのか、ってことだが……比嘉君、何か意見はあるかな」
突然話を振られ、比嘉は何度か瞬きしたあと、まだ多少痺れの残る脳味噌を少しばかり動かした。
「あー、そっスね、えー」
意味の無い唸り声を並べながらコンソールに向き直ると、右手でマウスを操作し、正面の大モニタに用意しておいた船内カメラの録画映像を呼び出した。
開いた動画窓は暗く不鮮明だったが、適当なところで一時停止し、補正パネルを操作する。浮き上がったのは、狭い船内通路を前かがみになって走る、複数の黒い人影だった。頭には丸いゴーグルで顔の隠れるヘルメットを被り、手に物々しいライフルを携えている。
「……とまぁ、見てのとおり、アタマにも体にも識別マークの類は一切ありません。装備の色、形も、どっかの正規軍のもんじゃないッスね。持ってる銃はステアーですが、こりゃ大量に出回ってますから……唯一言えるのは、体格の平均値から推測して、恐らくアジア人じゃないな、ってことぐらいスね」
「つまり連中は少なくとも自衛隊員ではないってことだ。そいつは喜ばしいね」
物騒なことをさらりと口にし、菊岡は顎を掻いた。普段から笑ったような眼を、皿に糸のように細めてモニタを見上げる。
「そしてもう一つ、こいつらはプロジェクト・アリシゼーションのことを知っている」
「ま、そうなるッスね。ドックから突入して、迷わずメインコントロールまで登ってきやがりましたからね。目的はズバリ、真正ボトムアップAIの奪取でしょうね」
つまり、深刻なレベルでの情報漏れがあったということだ。しかしそこまでは口に出さず、部屋を見渡して一人ひとりの顔を確認したくなる衝動も抑えつけて、比嘉はあえて楽天的な口調で続けた。
「幸いにも、メインコントロールのロックは間に合いました。物理破壊よりも確実に、メインフレームの直接操作は不可能化してやりましたよ。アンダーワールドに介入することも、"アリス"のフラクトライトを外部に持ち出すことも」
「しかしそれはこちらも同様なわけだろう?」
「同様ッスね。このサブコンからも、管理者権限によるオペレーションはできません。しかし、こうなればもう勝ったも同然でしょう? 護衛のイージス艦からコマンドが突入してくりゃ、あんな連中ジョートーッスよ、ジョートー」
「何が上等なのかわからんが……問題はそこだ」
菊岡は厳しい顔を崩さず、視線を中西に投げた。
「どうだ、"長門"は動くか?」
「は……それですが……」
中西は、ぎりっと音がしそうなほどに顎に力を込め、僅かに顔を伏せた。
「長門への命令は、現状の距離を保って待機、だそうです。どうやら司令部は、我々を人質と見做しているようです」
「んな…………」
比嘉はガクンと顎を開いた。
「……アホな! 乗員は全員隔壁のこっち側に退避してるんスよね!?」
錆びた声で答えたのは菊岡だった。
「つまり、あの黒づくめ連中は、自衛隊の上層部にもチャンネルがあるってことだ。恐らく、長門に突入命令が出るのは、連中が"アリス"のライトキューブを確保した後だろう。無論、時間に上限はあるだろうが……」
「てぇことは……あいつら、ただのテロリストじゃないッスね。やばいな……もし向こうにも専門家がいたら、気付くかもしれないですよ。アリス回収の抜け道に……」
「アンダーワールド内部からのオペレーション……向こうはSTLも押さえてるしな」
比嘉は、菊岡と同時に、サブコントロールの奥の壁に設けられたドアを見やった。
しっかりと閉じられた合金製のドアには、小さなプレートが留められている。書かれている文字は、『第二STL室』。
今は見えないが、ドアの向こうには二機のソウル・トランスレーターが設置されている。その片方には、アリシゼーション計画に当初から大きな役割を果たし、いまやその行方すら左右する、一人の少年が横たわっているはずだ。
菊岡は視線を戻し、腕を組むと、ゆっくりと言葉を発した。
「我々の最後の望みは、またしても彼に託されたというわけだ。比嘉君……どうなんだ、キリト君の状態は」
かすかに鋭い呼吸音が聞こえ、比嘉が顔を上げると、凜子に抱えられながらもまっすぐにこちらを見る明日奈の強い視線と眼が合った。
反射的に顔を伏せ、どう言ったものか迷う。しかしすぐに、掠れてはいるがしっかりとした声が比嘉の耳朶を打った。
「かまいません、言ってください、本当のことを」
深く息をつき、比嘉はちいさく頷いた。もとより、人に気を遣って言を誤魔化すのは決して得意ではない。
「一言で言えば……絶望的、の一歩手前です」
語調を改めてぼそりとそう口にし、比嘉は再びコンソールを操作した。
黒づくめ連中の画像が消え、別の窓が開く。表示されたのは、不規則に明滅する虹色のドットの集合体だ。
「これは、キリト君のフラクトライトの三次元モニタ像です」
部屋中の全員が、声もなくスクリーンを凝視する。
「彼は、先日の事件による心停止の影響で、フラクトライト中の意識野と肉体野の連絡回路に損傷を負っていました。そこで、その部分に新たなチャンネルを開くため、リミッターを解除したSTLによってフラクトライトの賦活を行っていたのです。これ自体はそう複雑な操作ではない……電気的刺激によって、死滅した脳神経細胞に代わる回路の発生を促した、そう理解してもらえばいいです」
一息ついて、傍らからミネラルウォーターのボトルを取り上げて口を湿らせる。
「この治療を行うためには、彼をアンダーワールドにダイブさせることが必須でした。脳の意識野と肉体野が等しく活動しなければ、治療の効果も出ませんから。ゆえに我々は、六本木の支局でダイブして貰ったときと同じく、キリト君の記憶をブロックしてアンダーワールドの辺境へ降ろした。そのはずだったのです。しかし、原因は今もって不明ですが……恐らくは損傷の影響でしょう、記憶はブロックされなかった。キリト君は、現実世界の桐ヶ谷和人君のまま、アンダーワールドに放り出されてしまった。そうとわかったのはついさっき、内部の彼から連絡があったその時なんですが……」
「ちょ……ちょっと待って」
声をはさんだのは神代凜子だった。
「じゃあ、彼は、STRA環境化のアンダーワールドで、桐ヶ谷君としてあの日数を過ごしていたというの? 内部では……何ヶ月……」
「……二年半です」
ぼそりと比嘉は答えた。
「それだけの時間、キリト君はあの世界で人工フラクトライト達と触れ合った。恐らくは、フラクトライト達が、いずれ現実験の終了とともにすべて消去される存在だと知りながら……。だから彼は、アンダーワールドの中心、かつて最初の村に設置されていた現実世界への連絡装置を目指したのでしょう。菊さん、あなたに全フラクトライトの保全を要請するためにね」
ちらりと視線を横に投げたが、菊岡は眼鏡にスクリーンの光を反射させて桐ヶ谷和人のフラクトライトに見入ったままだった。
「……容易なことではなかったはずです。連絡装置はいまや、"神聖教会"と呼ばれる統治組織の本拠地に埋もれていましたから。組織に属するフラクトライト達のシステムアクセス権限は膨大なもので、とうてい一般民に設定されたキリト君が対抗できるレベルじゃなかった。本来なら、組織に楯突いたその瞬間に彼は"死亡"し、アンダーワールドからログアウトしていたはず……しかし、彼はたどり着いた。襲撃中のことで、ログを詳細に確認はできませんでしたが、どうやら彼には何人かの協力者、無論人工フラクトライトのですが……つまり仲間がいたようです。神聖教会での戦いでその仲間はほとんど死亡し、その結果、こちらへの回線を開くことに成功した時彼は激しく自分を責めていた。言い換えれば、自分で自分のフラクトライトを攻撃していたのです。まさにその時、黒づくめ共が電源ラインを切断し、発生したサージスパイクのせいでSTLから限界を超える強度の量子ビームが放たれた。それは、キリト君の自己破壊衝動を現実的なものに強化してしまい……結果、彼の自我を吹き飛ばしてしまった……」
比嘉が口を閉じると、重苦しい沈黙がサブコントロールに降りた。
かすれた声を発したのは、明日奈の両肩を抱いたままの凛子だった。
「自我を……吹き飛ばす? それはどういう意味なの?」
「……これを見てください」
比嘉はコンソールを操作し、桐ヶ谷和人のフラクトライト活性を示すリアルタイム画像を拡大した。
不定形に揺らめく虹色の雲、その中心部ちかくに、暗黒星雲のように虚無的な闇が小さくわだかまっている。
「ライトキューブ中の人工フラクトライトと違い、人間の生体フラクトライトの構造はまだ完全解析には程遠いですが、それでも大まかなマッピングは終了しています。この黒い穴、ここに本来あるべきものは、簡単に言えば"主体"、セルフ・イメージなのです」
「主体……自ら規定した自己像、ってこと?」
「そうです。人間は、あらゆる選択を、"自分はこの状況でそれを行うか否か"というY/N回路を経由して決定します。たとえば凛子先輩は、牛丼の星野屋で二杯目を頼んだことあります?」
「……ないわよ」
「もうちょっと食べたい、と内心で思っても?」
「ええ」
「つまりそれが凜子先輩のセルフ・イメージ回路による処理結果というわけです。同様に、あらゆるアクションはその回路を通過しないと実際の行動にならないのです。キリト君の場合、心、魂そのものは無傷です。しかし、主体が破壊されてしまったために、外部からの入力を処理することも、自発的な行動を出力することもできない。今の彼にできるのは……恐らく、染み付いた記憶による反射的アクションのみでしょう。食べたり、眠ったりといった程度の」
凜子は唇を噛み、しばし考える様子だったが、やがて囁くような声で言った。
「なら……今、彼の意識はどういう状況に置かれているの?」
「恐ろしいことですが……」
比嘉は一瞬言葉を切り、視線を伏せて続けた。
「自分が誰かも、何をすべきなのかも分からず、ただいくつかの経験的欲求にのみ操られる……そんな状態だと……」
再び、静寂のみが場を支配した。
「……Fu……」
続くべき音節を、コンバットブーツのビブラム底が鋼板を蹴り飛ばした大音響がかき消した。
アサルト・チーム副隊長、ヴァサゴ・カザルスは壁を二、三箇所凹ませただけでは満足しなかったようで、なぜか床に落ちていたキャンディーらしきパッケージを勢いよく踏みしだいて破裂させてから、ようやく罵声の奔流を止めた。
ヒスパニック系の血を示してゆるく波打つ長い黒髪を両手でかき上げ、ずかずかとメイン・コンソールの前まで移動すると、そこに立っていた男のボディアーマーの襟首を片手で吊り上げる。
「てめぇ、もう一度言ってみろ」
ムチのようにしなやかな細身のヴァサゴの腕にぶら下げられたのは、輪をかけてガリガリに痩せた若者だった。金髪を三ミリ程度の丸刈りにして、肌は病的なまでに白い。こけた頬の上に、冗談みたいにごつい金属フレームのメガネをかけたその男はクリッターという名の、チームで唯一の非戦闘員だ。
もとは逮捕歴もあるネットワーク犯罪者だという触れ込みで、名前も本名ではなくハンドルネームだろう。しかしそれはヴァサゴも同様だ。よもや地獄の王子の名を息子につける親はいるまい。こっちのほうは、麻薬取引に絡んで地元に居られなくなったのを、今の雇い主に拾われたらしい。
――と、言うよりも。
オーシャン・タートル急襲チームの隊員十二名は、リーダーであるガブリエル・ミラーを除く全員が、後ろ暗い過去を持ち、新たな身元保証と引き換えに飼われている"犬"なのだ。飼い主である民間警備会社そのものもまた、大企業の暗黒面に繋がって巨額の利益を上げる地獄の番犬(サーベラス)にも等しい存在である。
そんな犬の一匹たるクリッターは、抜き身のナイフのようなヴァサゴに締め上げられてもさすがに怯える様子もなく、音を立ててガムを噛みながらキンキン響く声で言い返した。
「何度でも言ってやるよー。いいかー、このコンソールには糞みてえなロックが糞みてえにべっとりくっついてて、持ち込んだラップトップマシンじゃーあんたが睾丸癌でくたばるまで計算しても解除できねーっつったんだよ」
「そこじゃねえよこの目ン玉野郎! てめぇ、ロックされたのは俺らがノロクサしてたからだっつたろうが!!」
浅黒い肌を紅潮させてヴァサゴは喚いた。道を間違えなければ俳優でも食えただろうと思えるくらいの野性味溢れるハンサムだが、それだけにキレたときの剣呑さには凄みがある。
「おいおい、事実を言っただけだぜー?」
「そう思うンならてめぇも一発くらい撃ちゃよかったじゃねえかよ!!」
口汚く罵りあう二人を、残る隊員九名はまったく止める様子もなくニヤニヤ顔で眺めている。ガブリエルは、大きくひとつ息を吐き出すと、ぱちんと手を叩いて口げんかに割って入った。
「オーケー、そこまでだ二人とも。責任の所在を追及している時間はないぞ。今はこれからの行動を考えなければならない」
すると、くるりと首を回したヴァサゴが、子供のように口を突き出して言った。
「でもよぉ兄貴(ブロ)、こいつだきゃァ一度シメないと許せないっすよ」
その"兄貴"はやめろ、といいかけた言葉を飲み込む。初顔合わせの戦闘訓練で、ガブリエルがヴァサゴ以下十人の精鋭チームを現実・仮想双方のフィールドであっさり全滅させてから、この若者は『兄貴には一生ついていくっすよ』と言うのをやめようとしない。
無論、ガブリエルには、妙なことを言う奴だという以上の感想はない。あらゆる人間を"光の雲=魂の容れ物"としか認識できないガブリエルにとって、ヴァサゴが向けてくる尊敬や親愛らしき感情は、もっとも理解の難しい代物だからだ。
いずれ、魂の抽出・保存技術を自分だけのものにしたその時には、あらゆる人間の感情を、光の雲の色合いや形といった情報によって整然と分類できるようになるだろう。そう考えながら、ガブリエルはゆっくりした口調で二人に言い含めた。
「いいかヴァサゴ、クリッター。俺はここまで、チームの働きに満足している。こっちの被害はゲイリーがかすり傷を負っただけで、目的であるメインシャフトの占拠を達成できたんだからな」
それを聞いたヴァサゴは、しぶしぶといった様子でクリッターのボディアーマーを離し、両手を腰に当てた。
「でもよぉ兄貴、いくらシャフトを占拠しても、その……なんだっけ、何たらライトって奴を持ち出せなきゃ意味ねーんだろ?」
「だから、その方法をこれから考えようと言ってるのさ」
「ったって、JSDFの奴らもいつまでも引き篭もっちゃいねぇぜ? このドン亀に貼り付いてるイージス艦が突入してくりゃ、さすがに俺ら十一人とオマケ一人じゃ分が悪りぃ」
ガブリエルが副隊長に抜擢しただけあって、ヴァサゴは単なる野良犬にはない状況把握力を持っている。少し考えてから、ガブリエルは軽く肩をすくめるジェスチャーをしてみせた。
「……俺も確信していたわけじゃないから今まで言わなかったが、どうやら俺たちのクライアントとJSDFの上のほうに、ある種の取引があったらしい。イージスは、作戦開始から二十四時間は動かないそうだ」
「……ほぉー」
細く口笛を吹いたのはクリッターだった。ゴーグルのような眼鏡の奥で、薄いグレーの瞳が細められる。
「てことは、このオペレーションはただの……――イヤイヤ、これは言わないほうが賢明ってやつかなー」
「そう思うぞ、俺も」
薄く笑みを浮かべて頷いておいて、ガブリエルは改めて視線をチーム全員にめぐらせた。
「よし、それではまず状況を確認するぞ。ブリッグ、耐圧隔壁のほうはどうだ?」
呼びかけられた巨漢の隊員が、のっそり進み出て答えた。
「よろしくないですな。ありゃあいいカネだ、最新のコンポジット・マテリアルでしょう。持ち込んだポータブルカッターじゃ、二十四時間ではとても無理ですな」
「ジャパンマネー健在なり、か。ハンス、ライトキューブ・クラスターのほうはどうだった」
今度は、口髭を綺麗に整えた痩躯の隊員が、洒脱な仕草で両手を広げた。
「驚きだわ(アストニッシュ)。この部屋の上にどデカいチャンバーがあって、そこにキラキラすんごく綺麗なこれっくらいの……」
右手の親指を小指で二インチほどの幅を作ってみせる。
「キューブがびっしり積み上がってるの。アレを全部潜水艇に乗せるのはぜぇーったいムリね」
「フムン」
ガブリエルは腕を組むと、一瞬考えてから言葉を続けた。
「……我々に与えられたミッションは、その数十万個に及ぶキューブのなかから、唯ひとつを見つけ出してインタフェースとともに持ち帰ることだ。キューブのID情報はすでに得ている。つまり、メインコンソールさえ操作できれば、そのキューブを検索しクラスターからイジェクトするのは容易かったはずだ。今頃はビール片手に帰りの船旅だったな」
「ったくよぉ、このヒョロメガネが、日ごろは『僕の罪状はペンタゴンの中央サーバーに侵入したことだ』なんつう大法螺吹いてるくせに、ちんけなロックひとつ解除できねぇからよぉ」
「おっとぉー、こりゃびっくりだー。いつも『俺を追ってるのはコロンビアの麻薬王だ』なんつってる奴に言われちゃったなぁ僕ー」
口喧嘩を再燃させようとするヴァサゴとクリッターをひと睨みしておいて、ガブリエルは語気を強めた。
「ここまできて手ぶらで帰ることはできない! お前達は、ステイツに帰って『JSDFのお嬢さんたちにしてやられました』と言いたいか!?」
「ノー!!」
全員が一斉に叫ぶ。
「お前達は、所詮は正規軍の新米訓練生にも勝てない素人どもか!?」
「ノー!!!」
「なら考えろ!! 首に乗っている丸い入れ物に、オートミールではない物が詰まっているところを証明しろ!!」
"タフな指揮官"の役を完璧に演じて鋭く叫びながら、ガブリエルは自分でも密やかな思考を巡らせていた。
魂の探求者たるガブリエルにとっても、人類が初めて創りだした真の魂である"アリス"の入手は、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの独占とあわせて最大の目的だ。その二つを入手したあとは、突入潜水艇にひそかに運び込んだ神経ガスでチームの全員を処分し、第三国まで自走航行して行方をくらませる計画をすでに立てている。
しかしその段階に進むまでは、このオペレーションはガブリエルの目的と完全に合致している。管理者権限でのメインフレーム操作を封じられたいま、なんとかしてそれ以外の手段で"アリス"の発見と抽出を達成しなくてはならないのだ。
"アリス"――"A.L.I.C.E."。
そのコードネームを、ガブリエルの一時的雇用主であるNSAに伝えたのは、自衛隊(JSDF)"K組織"内の情報提供者(ラビット)だ。
ラビットのパーソナルデータまではガブリエルは知らない。しかし、情報を流した動機が、強奪計画の首謀者・ハイテク軍需企業グロージェンMEに約束された多額の報酬であることを思えば、この状況で自らを危険にさらしてまで動こうとはしないだろう。
つまり、耐圧隔壁のむこうにいるラビットの協力はもう期待できない。今ある情報と装備だけで、しかも短時間のうちに、目的を達せねばならない。
時間――すべては時間だ。
生来、焦りという感情を知らぬガブリエルではあるが、二十三時間後に近づきつつあるタイムリミットの存在にはなにがしかの圧迫感を覚えずにはいられない。
NSAのアルトマンらは、オペレーションの開始直前にガブリエルに言った。
K組織の活動は、日本の既存の軍需利権を大きく揺さぶるものだ。ゆえに、自衛隊上層部には、K組織の存在を快く思わない――それどころか、積極的に妨害しようという勢力も少なからず存在する。
K組織の基盤となっているのは陸自・空自の若手将校であり、海自とのパイプは狭い。NSAはそこを狙い、在日本CIAを通して海自のとある将官と密約を取り付けた。K組織の本拠・オーシャンタートルを護衛するイージス艦"長門"は、襲撃開始から二十四時間は"人質の安全を優先する"という名目で動かない、という。
しかし待機時間が終了したあとは、のちのちのマスコミ対策のためにもイージスは動かざるを得ない。その場合、現場の突入要員たちに"手心を加えろ"などという命令ができるはずもない。結果、圧倒的人数・装備差によってガブリエルたち襲撃チームはほぼ殲滅されるだろう。
――というアルトマンの説明に、ガブリエルは肩をすくめて諒解としておいた。
仮にその最悪の結末となった場合でも、自分だけは潜水艇で脱出する算段ではある。しかしその傍らに、目的のライトキューブとSTLマシンが載っていなければ、人の魂の探求という偉大なる旅は取り返しのつかない後退を強いられる。
ガブリエルは、この強襲が完了した以降の長い人生についても、すでに計画を立て終えていた。
STLテクノロジーとともに東南アジアの第三国に脱出したあとは、自分の容姿や指紋もふくめてあらゆる痕跡を消す。その上でヨーロッパ――南仏かスペインが望ましい――へと渡る。
運用によって膨大な額になっている隠し資産を惜しみなく使い、広く快適な屋敷を手に入れる。その奥まった一室にSTLを設置し、さまざまなヴァリエーションの仮想世界を構築する。
その世界の住人は、当初は"アリス"とガブリエルだけとなろう。しかしそれではあまりに寂しい。魂の研究という目的のためにも、素材は増やさねばならない。
もちろん、地元で狩りをするような愚は冒さない。最低でも国境線をひとつは越えたさきで、若く活力にあふれた魂の持ち主を見つけ、拉致し、STLに掛けて魂を引き抜いたあと不要な殻は処分する。
北東ヨーロッパや中東、アフリカだけでも多くの出会いはあるだろう。しかしそれだけでは寂しい。ほとぼりが冷めたあとは、母国アフリカ――そしてもちろん、VR技術発祥の地である日本にも遠征したい。
日本のVRゲーム・プレイヤーたちの輝くようなヴァイタリティは、昔からガブリエルを深く魅了してきた。無論全員がそうではないが、一部のプレイヤーたちは、まるでそこが現実以上の現実であるかのように振る舞い、リアルな感情を惜しみなく振り撒くのだ。
それはおそらく、かつてあの国に二年間だけ存在したという"リアル・バーチャル・ワールド"というべきものと無関係ではあるまい。開発者によりハッキングされ、真の生と死が付与されたデスゲームを体験した若者たち。かれら"生還者"たちの魂は、それ以外の者にはない仮想世界適合性をそなえている。
可能ならば、一人でも多く彼らを――しかも"攻略組"と呼ばれたという子供たちの魂を手に入れたい。それらを封入したライトキューブは、どんな宝石よりも貴重な輝きを放とう。
全世界のどんな権力者、大富豪が幾ら札束を積もうとも決して手に入れることのできない究極の輝石。それを屋敷の秘密の部屋にたくさん、たくさん並べ、毎日好みの相手を好みの世界にロードして、いかようにも望むままに扱えるのだ。
素晴らしいのは、人間から抜き出しライトキューブに封じた魂は、コピーもセーブも自由自在だということだ。壊れたもの、歪んだものは端から消去し、長い時間をかけて、ガブリエルの好みのかたちへと造り上げられるのだ。まるで原石に、最上の輝きを放つカットを施すかのように。
その段階に至ってはじめて、ガブリエルの長い旅はあの原点と同じレヴェルの至福と歓喜へと還元されるだろう。
幼いころ、森の大きな樹の下で、アリシア・クリンガーマンの魂の美しい輝きを見たあのときへと。
一瞬の想念ではあったが、ガブリエルは瞼を閉じ、かすかに背中を震わせた。
次に目を開けたときには、もう氷のような思考力が戻っていた。
各国の、そして日本の若者たちの魂が、王冠の周囲を取り巻く色とりどりのルビーやサファイアだとすれば、中央に嵌まるべき巨大なダイヤモンドはやはり"アリス"だ。一切の穢れなき究極の魂であるアリスこそ、自分の永遠の伴侶にふさわしい。となれば、何としても彼女のライトキューブを発見、入手せねばならない。
しかし、クラスターに積み上げられた十万以上のキューブは、見た目にはまったく同じものだ。物理的な作業で判別するのは不可能だ。
となれば、やはり情報的オペレーションに頼るしかない。とは言えメインコンソールのロックは一流の電子犯罪者であるクリッターにも手が出せないものらしい。
ガブリエルはブーツを鳴らして移動し、キーボードに突っ伏すようにして両手指を高速運動させているクリッターの背後に立った。
「どうだ」
返事は、両掌を上にして高く持ち上げる仕草だった。
「管理モードへのログインは絶望的ー。できるのは、上のクラスターに収まってる魂ちゃんたちがユカイに暮らすおとぎの国を、指をくわえて覗き見することくれーだなー」
クリッターが指を動かすと、正面モニタのOS画面にひとつ窓が開き、奇妙な光景が表示された。
とても、"おとぎの国"という印象ではない。空は不気味なクリムゾンに染まり、地面は炭ガラのように黒い。
革を張り合わせたとおぼしき、尖ったテントが画面中央にいくつか建っている。そのかたわらに、ずんぐりした体格と禿げ上がった頭を持った奇妙な生き物が十匹ほど集まり、何か騒いでいるようだ。
おおまかには人型だがどう見ても人ではない。ひどい猫背で、腕が地面に擦りそうなほど長く、対照的に折れ曲がった脚は短い。
「ゴブリン?」
ガブリエルが呟くと、クリッターは軽く口笛を吹き、嬉しそうな声を出した。
「オッ、詳しいじゃないの隊長ー。そーだなー、オークやオーガーって感じじゃないから、こりゃゴブリンだろうなー」
「でも、それにしちゃちょっとデッケーぜ。こりゃホブだな、ホブゴブ」
隣にやってきたヴァサゴが、両手を腰に当てて意見を加えた。
なるほど、いくら武器の扱いに精通していようとも、やはり兵士ではなく民間企業の飼い犬なのだな、とガブリエルは思った。もともとの所属である特殊部隊"ヴァリアンス"には、ガブリエルのほかにはVRMMOゲームの知識がある者などひとりもいなかったのだ。
しかし、このチームのメンバーにはその手のゲーム経験がある者が多い。あるいは仮想世界内での作戦行動もあり得るということでピックアップされた人員なのだから、当然と言えば言えるのかもしれないが。
ガブリエルたちが見守る先で、十匹ほどの"ホブゴブリン"の騒ぎはいよいよ過熱していくようだった。ついに二匹が互いの胸倉をつかみ上げ、取っ組み合いの大喧嘩を始めると、それを取り囲む奴らも両手を振り上げてはやし立てる。
「……クリッター」
何か、アイデアのおおもとが形になりかけるのを感じながら、ガブリエルはシートに座る坊主頭に向かって声を掛けた。
「へい?」
「こいつら……この怪物どもは、いわゆるMobAIだのNPCとは違うのか?」
「あーっとぉー、んー、どうやらそうだナー。こいつらはある意味マジモンの"人間"ー。上のライトキューブ・クラスターにロードされてる人造魂……フラクトライトの一部ってわけだなー」
「なに(ワッ)!? マジかよ(リアリー)!? なんてこった(オーマイ・ゴッ)!!」
途端、ヴァサゴが素っ頓狂な叫びとともに身を乗り出した。
「このホブどもが人間!? 俺らと同じレベルの魂を持ってるだって!? フリスコのバァちゃんが聞いたらその場のおっ死んじまわぁ!!」
ぺしぺしとクリッターの坊主頭を叩きながら、更に喚きたてる。
「日本人てのはクリスチャンでブッディストでゼンマスターなんだろう!? よくまあこんな研究ができたモンだな!! あれかよ、上のキラキラに収まってんのはみんなこういうゴブだのオークなのか!? 俺らのアリスちゃんもか!?」
「なワケ無ぇー」
迷惑そうにヴァサゴの手を払いながら、クリッターが訂正した。
「いいかー、ここの連中が作ったVR、アンダーワールドって奴は二つのエリアに分かれてんだよー。真ん中に"ヒューマン・キングダム"があってそこではフツーの人間が暮らしてる。んで、外側に"ダーク・テリトリー"があって、こいつら怪物がうじゃうじゃいやがるってわけだー。アリスが居るのは当然ヒューマン・キングダムのどっかだなー。それを見つける手をいま考えてんだぁー」
「んなの簡単じゃねえか。人間ってからには言葉通じんだろ? ならそのヒューマンキングダムとやらにダイブして、そのへんの連中に、アリスってコ知らねえ? って訊けばいいだろ」
「うわっアホだ。アホがいるぞー」
「んだとてめえ!!」
「あのなー、キングダムはてめーがのたくってたフリスコと同じくらいでっけーんだ。そこに人間が十万からいるんだぞー。それを一人二人でどうやって調べ上げる気だっつうのー」
と、うんざりした口調で発せられた自分の言葉に打たれた、とでもいうかのように――。
クリッターが、がばっと猫背を起こした。坊主頭ががつっとヴァサゴの顎に命中し、ラテン系の喧嘩小僧がまたしても悪態を喚き散らすが、耳も貸さずに大声で叫ぶ。
「待て。待て待て待て待てー。一人二人……じゃ無ぇーぞ」
それを聞いた途端、ガブリエルの中にあった曖昧なアイデアも、さっと大まかな形へと整えられる。
「……そうか。アンダーワールドへのログイン用に用意されているアカウント……その全てが、レベル1の一般市民ということは考えにくい。そうだなクリッター」
「イエス。イエース、ボス!!」
だかだかだかっ!
とキーボードが打楽器のように唸り、大モニターにたちまち幾つものリストがスクロール表示される。
「人間のオペレータがログインして内部を観察、あるいは操作するためのアカウントなら……あらゆる階級の身分が用意されてるはずだぁー。軍隊の士官……いや将軍……。いやいや、貴族、皇族……ことによると皇帝そのものだって……」
「おぉ。おー!! そいつぁイカシてるな!!」
くっきりと割れた顎をこすりながら、ヴァサゴが叫んだ。
「つまり、ジェネラルだのアドミラルだの国防長官だののご身分でアンダーワールドにログインしてよ、好き放題命令すりゃあいいってことか! "全軍整列! 回れ右! アリスを探して連れて来い!!"」
「……なぁーんか、アンタに言われるとせっかくのアイデアがくだらねーものに思えてくるよなぁー」
ぶつぶつ文句を言いながらも、クリッターは物凄いスピードでコンソールを操作し続けた。
しかし。
ほんの数秒後、この男にしては珍しい罵り言葉とともにリストアップが中止された。
「クソッ、だめかぁー。ワールド直接操作だけじゃなく、ハイレヴェル・アカウントでのログインにもがっちりパスがかかってやがる。残念ですが、ボス、ヒューマン・キングダムへのダイブは一般市民アカウントでしかできねぇみたいだー」
「……フム」
クリッターとヴァサゴの顔には明確な落胆の色が浮かんでいるが、ガブリエルは表情筋ひとつ動かさず、軽く首を傾けただけだった。
残された時間的猶予は、決して多いとは言えない。
しかし、それはあくまでこの現実世界において設定されたリミットでしかない。スクリーンの中に広がる異世界"アンダー・ワールド"では、現実比1000倍という凄まじい比率で圧縮された時間が流れているのだ。
つまり言い方を変えれば、残された猶予二十三時間は、アンダーワールドでは実に二年半以上もの膨大な年月に相当することになる。
それだけの時間があれば、一般民としてログインし、求める"アリス"を探し出して確保したうえで、世界内部のコンソールから現実側へとイジェクトさせることもあながち不可能ではないかもしれない。
しかし――いかにも冗長な話であるのも確かだ。
そんなことをするくらいなら、むしろ、ヒューマン・キングダムの"外側"からアプローチしたほうが速いのではないか。
「クリッター。ハイレヴェルのアカウントは、目標エリア外……"ダーク・テリトリー"には用意されていないのか?」
「……外? しかし、アリスがそっちに居るってー可能性は限りなく低いのでは?」
疑問を口にしながらも、クリッターの指が軽やかに閃く。
開きなおされるウインドウ群を見上げながら、ガブリエルは答えた。
「ま、そうだろうな。しかし、エリア境界は完全不可侵というわけではなかろう? アカウントに与えられた権限によっては、境界を超える手段があるかもしれない」
「オーッ、さっすがは兄貴! 考えることが違うな! つまりアレだろ……人間の将軍じゃなくて、モンスターどもの大将になって攻めこもうってんだろ!? そっちのほうが燃えるってもんだ!!」
ぴゅう、と口笛を鳴らして喚くヴァサゴに、ほとほとうんざりという口調でクリッターが冷や水を浴びせた。
「燃えるのは勝手だけどなー、ログインするのがおめーなら、向こうじゃクサくてデカい怪物になるんだからな……っと、おっ、あった、ありましたよボス」
たぁん、とキーが弾かれる音とともに表示されたウインドウは二つ。
「えー、人間側と違って、スーパーアカウントはたった二個ですが……やった、パスはかかってませんよ! なになに……まず一つは、"暗黒騎士(ダークナイト)"ってー身分ですな。権限レヴェルは……70! こりゃ高いですよ!」
「おお、いいねいいね! そいつはオレがもらうぜ!!」
騒ぐヴァサゴを無視して、クリッターはもう片方のウインドウをアクティブにした。
「で……もう一つは、と。――なんだこりゃ? 身分が空欄だ……レヴェル表示もないぞ。設定されてるのは名前だけです。こいつは……何て読むんだ? ……"ベクタ"?」
サブコントロールを包んだ重苦しい沈黙を、比嘉は遠慮がちに破った。
「ええ……と、ですね。彼の肉体……というか、現実世界での桐ヶ谷君の置かれた状況は、今説明したとおり……楽観を許さないものです」
神代凜子に肩を抱かれた結城明日奈が、びくりとその体を震わせるのを見て、慌てて言い添える。
「で、でも、僅かながら希望もあります!」
「……と言うと?」
鋭い、しかしどこか縋るような響きを帯びた声で凛子が問う。
「アンダーワールドにおけるキリト君は、まだログインを継続している」
比嘉は、メインコントロールルームに比べると随分と小さくなってしまったモニタを見上げた。マウスを動かし数回クリックすると表示が切り替わり、人界とそれを取り囲むダークテリトリーで構成されるアンダーワールドの俯瞰図が出現する。
「つまり、自我が損傷したとは言え、彼のフラクトライトそのものはまだ活動し、様々な刺激を受け取っているわけです。事ここに到ればもう、アンダーワールドにおいて、ある種の……奇跡的癒しが彼に訪れることを祈るしかない……。自分自身を憎み、責めるあまり、自らの魂を損なってしまった彼を、何者かが癒し、赦しを与えてくれることを……」
自分の言葉がとうてい科学的とは言えないものであることを比嘉は自覚していた。
しかしそれはもう、偽らざる本心そのものだった。
比嘉は、他のラース技術者らと力と知恵をあわせ、ナーヴギア、メディキュボイドと続いた脳インターフェースマシンの最終形・ソウル・トランスレーターを生み出した。しかしそのマシンによって見出された人の意識体・フラクトライトに関しては、まだ分からないことのほうが圧倒的に大きい。
フラクトライトは物理的な現象なのか?
それとも――唯物論を超えた観念なのか?
もし後者であるならば。
傷つき、疲れ果てた桐ヶ谷和人の魂を、何か、科学を超えた力が癒すということもあり得るのかもしれない。
たとえば、誰かの愛が。
「……わたし、行きます」
まるで、比嘉の思考と同調したかのように。
小さな、しかし確とした言葉がサブコントロールに響いた。
部屋中の人間が、はっとして声の主――この場における最年少の少女を見つめた。結城明日奈は、肩を抱く凛子の手をそっと外し、こくりと頷きながらもう一度言った。
「わたし、アンダーワールドに行きます。向こうで、キリト君に会って、言ってあげたい。がんばったね、って。悲しいこと、辛いこと……いっぱいあっただろうけど、きみは出来るかぎりのことをしたんだよ、って」
大きなはしばみ色の瞳に涙を溜めながらそう言う明日奈の姿は、一生を学究に捧げる覚悟の比嘉ですら息を飲むほど美しかった。
同じように、何かにうたれたような顔つきで言葉を聞いていた菊岡が、すぐに眼鏡のレンズに表情を隠しながら、隣接するSTLルームを見やった。
「……たしかに、STLはあと一つ空いている」
錆びた声でそう言ったあと、アロハ姿の指揮官は難しい表情を作り、続けた。
「しかし、アンダーワールドは今……とうてい平穏な状況とは言いがたい。スケジュールされていた最終負荷段階に、こちら側の時計であと数時間のうちに突入するからだ」
「最終……負荷? 何がおきるの?」
眉をしかめる凛子に、比嘉は手振りを交えて説明した。
「ええと……簡単に言えば、殻が割れるんス。人界とダークテリトリーを数百年に渡って隔ててきた"東の大門"の耐久値がゼロになって……闇の軍勢が人の世界になだれ込む。人間達が充分な軍事体制を整えていれば、最終的には押し返せる負荷です。しかし、今回の実験では……キリト君が統治組織である"神聖教会"を半ば壊滅させてしまってますから……どうなるか……」
「考えてみれば、どっちにしろ我々の誰かがダイブせねばならん状況かもしれないな」
胸の前で腕を組んだ菊岡が呟いた。
「侵攻がはじまれば、その混乱と虐殺のさなかで、人界にいる"アリス"が殺されてしまうこともあり得る。そうなっては、何のために苦労してメインコンソールをロックし時間を稼いだのか分からないからな。誰かがスーパーアカウントで中に行って、アリスを保護し、内部コンソールである"果ての祭壇"まで連れて行って、そこからこのサブコントロールにイジェクトするべきかもしれん」
「ああ……あなた、キリト君にもそう頼んでいたわね、事故の直前に」
「うむ。彼が無事だったら、きっと遂行してくれたはずだ。あの時、彼はアリスと一緒にいたんだからな……まさに、万にひとつの僥倖だったのだが」
「なら、内部時間で何ヶ月か経っているいまも、二人は一緒にいる可能性が高い……ということ?」
凜子の質問に、菊岡と比嘉はそろって首をかしげた。
答えたのは比嘉だった。
「……そう、考えていいかもしれません。なら、やはりダイブは明日奈さんにお願いするべきかも……。キリト君とのコミュニケーション力はもちろん、アリスの保護には内部での戦闘能力が要求されるでしょうから。ここにいる人間で、もっとも仮想世界での動きに慣れているのは明日奈さんっス、間違いなく」
「なら、スーパーアカウントも、可能な限りハイレヴェルなやつを使ってもらったほうがいいな」
菊岡の声に頷き、比嘉はキーボードに指を走らせた。
「そういうことなら選り取りみどりッスよ。騎士、将軍、貴族……色々あります」
「ねえ、ちょっと待って」
不意に、やや緊張した声で凜子が口を挟んだ。
「なんスか?」
「……それとまったく同じことを、襲撃者連中が考えるってことはないの? さっきあなた言ってたでしょ? アリス確保の抜け道は、内部からのオペレーションだ、って」
「あぁ、はい。確かにあいつらにも可能な手段です。下のメインコントロールにも、STLが二基設置してありますからね。ただ、あいつらにはスーパーアカウントのパスを破る時間はないはずッス。ログインできるのはレベル1の一般民だけっすよ。とても、最終負荷段階の修羅場で活動できるステータスじゃないッス」
早口にそう説明しながらも――。
比嘉はふと、何かを忘れているような、かすかな悪寒が背中を走るのを意識した。
しかし、その思考は、高速でスクロールされるアカウントリストの点滅光に紛れて形になることはなかった。* 暗黒騎士リピア・ザンケールは、騎竜の動きが止まるまえにその背から飛び降りると、発着台から城へと続く空中回廊を全力で走りはじめた。
すぐに息苦しさを感じ、右手で大きな黒鋼の兜を引き剥がす。
ばさっ、と広がった灰青色の長い髪を、左手でまとめて背中に戻し、リピアはさらに速度を上げた。重苦しい鎧とマントも脱ぎ捨ててしまいたいが、帝宮にのたくっている気に食わない男どもに、肌の一片たりとも見せてやる気はない。
湾曲する回廊を三分ほども疾走すると、右手の円柱の隙間から屹立する巨城のすがたが、赤い空を背景にあらわれた。
帝宮オブシディア城は、広大無辺な闇の国でもっとも高い峻峰の頂付近をそのまま彫り抜いて築いてある。
最上階の皇帝居室からは、はるか西の彼方にそびえる果ての山脈と、その山肌に繰りぬかれた大門がかすかに望めるという。
しかし、その伝説を確かめたものは、この数百年ひとりもいない。
闇の国の玉座は、初代帝であり堕天の神でもあるベクタそのひとが、太古の昔に地の底の暗闇に去って以来空位なのだ。最上階の大扉は膨大な天命をもつ大鎖にて封印され、永遠に開くことはない。
リピアは、漆黒の城の突端から視線を引き剥がすと、目前に迫った鉄門を守る衛兵に呼びかけた。
「暗黒騎士十一位ザンケールである! 開門せよ!!」
衛兵は人間ではなくオーガ族だ。頑強ではあるものの多少頭の回転が鈍く、リピアが鋳鉄の柵に達する寸前になってようやく巻き上げ機を回しはじめた。
ゴ、ゴン、と重苦しい音を響かせながらわずかに開いた隙間を、小柄なからだを横にしてすり抜ける。
三ヶ月ぶりの城は、相変わらず冷え冷えとした空気でリピアを迎えた。
コボルドどもが毎日愚直に磨き上げる廊下には塵ひとつない。黒曜石の敷板を具足の底でカンカン鳴らして走っていると、前方から肌もあらわなドレスに身をつつんだ妖艶な女ふたりが、こちらは足音ひとつさせず滑るように歩いてくるのが見えた。
きらびやかに波打つ髪に載る、とがった大きな帽子が、彼女らが暗黒術師であることを教えている。眼をあわせないようにしてすれ違おうとしたとき、片方がきんきん声でわざとらしく言った。
「アァラすごい地響き! オークかトロルでも走ってるのかしら!」
すぐさま、もう一方がケタケタ笑いながら言い返す。
「そんなもんじゃないわぁ、この揺れはジャイアントよぉ」
――刃傷沙汰禁止の城内でなければ舌を切り飛ばしてやるものを。
と思いつつ、リピアは鼻を鳴らしただけで一気に駆け抜けた。
闇の国のヒューマン族の女性は、修練所を卒業したのちはたいていが術師ギルドに入る。ひどく享楽的な組織で、規律のかわりに放埓を学ぶと言われ、出来上がるのはあのような、着飾ることにしか興味のないやつばらばかりだ。
それでいて、術師よりも格の高い騎士に叙任された女にはやたらと対抗心を燃やしてくる。リピアも、修練所同期で仲の悪かった女術師に毒虫の呪いを飛ばされて往生したことがある。飛竜の炎で髪をぜんぶ燃やしてやったら大人しくなったが。
所詮、連中は"先"を見ようとしない馬鹿者どもなのだ。
組織が、そして個人が常にいがみ合い、力で優劣を決めることしか知らないこの国には未来がない。
現在でこそ、十侯会議のもとに危うい均衡で内乱が抑えられているが、それも長続きはしない。目前にせまった"人界"、オークやゴブリンたちの言うところの"イウムの国"との戦争で十候のだれかが命を落とせば、均衡はくずれ再び血で血を洗う乱世が出来するだろう。
その未来図をリピアに語ったのは、十候のひとりであり、直属の上官たる暗黒騎士団の長であり、また愛人でもある男だった。
そしていまリピアは、彼が待ち望んだひとつの情報をその胸のうちに携えているのだ。
となれば、女術師どもの戯言にかかずらわっている暇など一秒たりともない。
無人のホールを一直線に横切り、大階段を二段飛ばしでひたすら駆け上る。鍛え上げた躯ではあるが、さすがに息が切れ汗が滲んだころ、ようやく目指すフロアにたどり着いた。
闇の国全土を合議によって支配する十候は、五人がヒューマン族、二人がゴブリン族、残りをオーク族、オーガ族、ジャイアント族の長が占めている。百年にも渡る内乱を経てようやく条約らしきものが結ばれ、現在ではこの五族のあいだに上下はないという約定が交わされている。
ゆえに、オブシディア城の皇域のすぐ下に、十候それぞれの私室が均等に並んでいる。リピアは円形の廊下を、さすがに少々足音を殺しながら走り、奥まった一室の黒檀の扉をそっと叩いた。
「――入れ」
すぐに押し殺した声でいらえがある。
廊下の左右に目を走らせ、無人であることを確認してから、リピアは素早くドアを開け中に滑り込んだ。
広大だが、装飾は最低限に抑えられた部屋に漂う男っぽい匂いを吸い込みながら、戸口に肩膝を突く。
「暗黒騎士リピア・ザンケール、ただいま帰参仕りました」
「ご苦労。まあ、座れ」
太い声に、高鳴る胸を押さえつけつつ視線を上げる。
丸テーブルを挟んで置かれた巨大なソファの片方に横すわりになり、両腕を枕にして高々を足を組む男こそが、暗黒騎士長、別名暗黒将軍のビクスル・ウル・シャスターその人だった。
ヒューマン族としては図抜けた体躯だ。さすがに横幅は比べられないが、背丈だけならオーガ族にも引けは取らない。
黒々とした髪を短く刈り込み、対照的に口元と顎の美髭は長く豊かだ。ブロンズ色の肌は、簡素な麻のシャツのボタンを弾き飛ばしそうなほどの筋肉を包んで盛り上がり、しかし腰周りには余計な肉のひとつまみもない。四十を超えたとは思えない完璧な肉体を保つのが、騎士の最高位に上り詰めても欠かすことのない、凄まじいまでの日々の鍛錬であることを知るものは少ない。
久々に目にする愛人の姿に、いますぐその胸に飛び込みたい衝動を抑えながら、リピアは立ち上がりシャスターの向かいのソファに座った。
自分も身体を起こしたシャスターは、卓上の水晶杯のかたほうをリピアに持たせると、年代物らしき火酒の封を指先で切った。
「お前と一緒に飲ろうと思って、昨日宝物庫からくすねておいたんだ」
片目を素早くつぶりながら、薫り高い深紅色の液体をグラスに注ぐ。そういう表情をするとどこか悪戯っ子めくところも、昔とまったく変わらない。
「あ……ありがとうございます、閣下」
「二人きりのときはそれはやめろと何度言わせる?」
「しかし……まだ任務中ですから」
やれやれ、と肩をすくめるシャスターと控えめにグラスを打ちあわせ、高価な酒を一息に呷って、リピアをようやく深く息をついた。
「……それで、だ」
自分も杯を干し、おかわりを注ぎながらも表情を改めた騎士長は、わずかに低めた声で聞いた。
「卿が使い魔で知らせてきた"一大事"とは、一体何なんだ?」
「は……」
リピアはつい視線を左右に走らせながら、身体を乗り出した。シャスターは豪放磊落だが同時に細心でもある。この部屋には防御術が幾重にも張り巡らされ、たとえ術師ギルド総長の魔女であろうとも盗み聞きはできないはずだ、とわかっていても、己の携えた情報の巨大さについ囁き声になる。
シャスターの黒い瞳をじっと見つめ、リピアは短く言葉を発した。
「……神聖教会最高司祭アドミニストレータが死にました」
一瞬、さしもの暗黒将軍もカッとその目を見開いた。
静寂を、ふううーっという太いため息が破る。
「……本当か、それは……などと訊くのは野暮だな、卿の情報を疑いはせんが……しかしな……あの不死者が…………」
「は……お気持ちはわかります。私もどうしても信じられず……確認に一週間を掛けましたが、やはり間違いないかと。神聖教会の修道士団員に"聴耳虫"を忍ばせて裏を取りました」
「ほう……無茶をしたな。もし"逆聴き"されたら、今頃卿は八つ裂きだぞ」
「ええ。しかし、私程度の術式を探知できなかったことからも、情報は真実かと思います」
「……うむ……」
二杯目の火酒をちびりと舐め、シャスターは剛毅に整った貌を僅かに俯かせた。
「――いつのことだ、それは。それに、死因は?」
「およそ半年前と……」
「半年。――そなたの仇敵、あの"五十番"が山脈から消えたのもその頃だったか?」
「よしてください」
リピアは眉をしかめて反駁した。
「きゃつには別に負けてはおりません、私はこうして生きていますから。――そうですね、確かに半年前ですね。そして最高司祭の死因ですが……これはおそらく流言でありましょうが、"剣に斃れた"と……」
「剣に。――あの女を斬ったものがいた、と?」
「ありえませぬ」
絶句したシャスターにむけて、リピアは大きくかぶりを振った。
「おそらくは、かの不死者と言えどもついに天命が尽きたのでしょう。しかし神人を名乗った最高司祭の霊性を保つため、そのような空言を流したのではないかと……」
「うむ……ま、そんなところだろうな。しかし……死んだか、アドミニストレータが……」
シャスターは目を閉じ、両腕を組んで、身体をソファに預けた。
そのまま長いこと黙考していたが、やがて、短い呟きとともに瞼を開いた。
「機だ」
リピアは一瞬息を詰め、掠れた声で訊ねた。
「何の、ですか」
答えは即座に返った。
「無論……和平の、だ」
この城で口に出すには危険すぎる単語は、部屋の冷たい空気に即座に溶け、消えた。
リピアは無論のこと、豪胆で鳴るシャスターの頬にすらもわずかな強張りが見てとれた。
「それが可能だと……お考えですか、閣下」
囁くように問うたリピアに対し、シャスターは視線をグラスの中の赤い液体に据えながら、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
「可能であろうとなかろうと、成さねばならぬのだ、何としても」
ぐっ、と火酒を干し、続ける。
「創世の古より世界を分かち続けてきた"大門"の天命が、ついに尽きようとしていることは最早疑いようもない。闇の五種族の軍勢は、ソルスとテラリアの恩寵豊かな人界への大侵攻のときを目前にして焼けた大釜のごとく沸き返っておる。前回の十候会議では、人界の土地と財宝、そして奴隷をどのように分割するかで大いに紛糾したよ。まったく……度し難い欲深どもだ」
歯に衣着せぬシャスターの物言いに、リピアは首を縮めた。
"禁忌目録"という恐るべき大部の成文法に支配されているという人界とはまったく異なり、闇の国に存在する法はただ一つのみである。すなわち――力で奪え。
その意味では、最高権力の位に智謀と武勇で上りつめ、そして今なお尽きぬ欲望を人界という至高の熟果に向ける九人の諸候たちにくらべれば、シャスターのほうが異端と言うべきなのだろう。
しかし、リピアがこの男にどうしようもなく惹かれるのも、その異質な思考ゆえだ。何と言っても、他の諸侯にかしずく女たちと違って、リピアは無理やりに奪われてきたのではない。シャスターは花束を差し出し、ひざまずき、リピアただ一人を口説いたのだ。
愛人がそのような思考を彷徨わせているとはつゆ知らぬ様子で、シャスターは更に重々しく続けた。
「しかし、連中は人間たちを甘く見すぎている。人間たちを守る剣……"整合騎士団"を」
数度瞬きして、リピアは意識を引き戻した。
「確かに……。奴らは容易ならざる相手です」
「一騎当千さ、文字通り。暗黒騎士団の長い歴史において、整合騎士に殺されたものは数え切れぬが、その逆は一度として無いのだからな。この俺とても、追い詰めたことは幾たびかあるが、ついに止めまでは刺せなかった。それほど奴らの剣技は研ぎ澄まされ、身に帯びた神器は強力無比だ」
「は……。怪しげな術も使いますし……」
「"武装完全支配"か。騎士団の術理部にずいぶんと研究させたが、結局解明には到らなかったな。あの技ひとつに対抗するにも、ゴブリンの兵士が百では足りぬだろう」
「とは言え……我がほうの軍勢は五万を数えます。翻って、整合騎士団は総勢で五十に満たぬはず。さすがに押し切れるのでは……?」
リピアの言葉に、シャスターは美髯の片端を皮肉げに持ち上げた。
「さっき、一騎当千と言ったろう。計算上は相討ちだな」
「まさか……そこまでは」
「まぁ、な。気にくわん戦法だが、戦線を我ら騎士団とオーガ、ジャイアントあたりが支え、後方から暗黒術師どもの遠距離攻撃を浴びせればいずれは整合騎士どもも力尽きるだろう。だが、最後の一騎が墜ちたとき、こちらにどれほどの損害が出ているか想像もつかん。万か……あるいは二万か」
かちん、と硬い音を立てて水晶杯が卓上に置かれる。
酌をしようとするリピアを片手で制し、シャスターは広い背中をソファにうずめた。
「そしてその結果、当然ながら種族のあいだに力の不均衡が生じる。十候会議は意味を失い、五族平等の条約も破棄されるだろう。"鉄血の時代"の再来だ。いや、尚悪いな。今度は人界という、飲み干せぬ蜜の大海が目の前に開かれているのだから。かの地の支配権が定まるまでは、百年では足りるまい……」
それは、常々シャスターが危惧していた最悪の未来図だ。
そして更に悪いのは、シャスター以外の九候は、その未来を最悪と思っていないことだ。
リピアは顔を伏せ、騎士団入団とともに与えられた漆黒の全身鎧の、磨きこまれた艶やかな輝きにじっと見入った。
子供の頃は人一倍小柄で、腕力もなかったリピアは、百年前の"鉄血の時代"ならばとうてい騎士になどなれなかっただろう。食い扶持を減らすために人買いに売られるか、どこぞの路地裏で殺されるかして短い人生を閉じていたはずだ。
しかし、曲がりなりにも平和条約らしきものができたお陰で、奴隷市ではなく修練所に入ることができたし、そこで遅咲きの剣の天稟に恵まれて、ヒューマン族の女としてはほとんど望みうる最高の地位にまで達することができた。
今リピアは、月々の給金のほとんどを投じて、いまだ人買いの横行する僻地から親に捨てられた幼子を集め、修練所に入れる歳になるまで面倒を見る保育所のようなものを運営している。
そのことは、同輩たちはもちろんシャスターにも秘密にしている。自分でも、自分がなぜそんな真似をしているのか説明できないからだ。
ただ――。
この世界、力あるものが全てを奪う"闇の国"はどこかおかしいという感覚は、常にリピアの心の片隅にある。シャスターほど、理念を明確な言葉に変える知恵は自分には無いが、それでも、もっと"あるべき正しい姿"がこの国、いや、人界をも含む世界すべてにあるような気がするのだ。
その、いわば新世界が、シャスターの唱える和平のはるか先に存在するであろうことは、今のリピアにもおぼろげに理解できる。愛する男の力になりたいとも思う。
しかし。
「……しかし、どのようにして他の諸侯を説得するおつもりですか、閣下。それに……そもそも、整合騎士団は和平の交渉を受け入れるでしょうか?」
低い声でリピアは訊ねた。
「……うむ……」
シャスターは目を閉じ、右手で艶やかな髭をしごいた。やがて、苦い響きのある声が、この対話中でもっとも密やかに発せられた。
「整合騎士については……脈有りと見ている。最高司祭が斃れたとあらば、いま総指揮を執っているのはベルクーリの親父だろう。食えん男だが……話はわかる奴だ。問題は、やはり十候会議よな。こちらは……矛盾するようだが、斬らねばならんかもしれん。最低でも三人を」
持ち上がった瞼の奥の、わずかに赤みを帯びた黒い瞳は、名剣の切っ先よりも剣呑な輝きを帯びていた。
はっ、と息を飲み、リピアは身を乗り出した。
「三人。と仰いますと……やはり山ゴブリン族の長、オーク族の長、それに」
「暗黒術師ギルド総長。とくにあの女は、アドミニストレータの長命の秘儀を手に入れ、いずれ皇帝位に上る野望を滾らせておるからな。和平案など決して受け入れるまい」
「し、しかし!」
絞り出すように、リピアは反駁した。
「あまりにも無謀です、閣下! ゴブリン、オークの長は敵ではないでしょうが……暗黒術師だけはどのような卑劣な手妻を用いるか見当もつきませぬ!」
シャスターはしばらく無言だった。
不意に発せられた言葉は、まったく予想もできないものだった。
「なぁ、リピアよ。俺のところに来てもうどれくらいになる?」
「はっ? は……え、ええと……私が二十一のときでしたから……四年ですか」
「もうそんなに経つか。……長い間、曖昧な身の置き方をさせて悪かったな。どうだ……そろそろ、なんだ、その」
視線をぐるりと回し、頭をがりがりと書いてから、筆頭暗黒騎士は少々ぶっきらぼうに言った。
「……正式に、嫁にならんか。こんなオッサンですまないと思うが」
「か……閣下……」
リピアが唖然と目を見開き――。
胸のおくに、じんわりと熱いものがこみ上げて、たまらずに愛する男の胸に飛び込もうとした、その時。
分厚い扉のおくから、引きつったような甲高い大声が広い部屋を貫いた。
「一大事!! 一大事ですぞ!! ああっ、なんたること!! おいでませ諸侯方、はよう、はよう!!」
かすかに聞き覚えのあるその声は、おそらく十候のひとり、商工ギルド頭領のものか。
リピアの記憶にある、恰幅のいい大人物然とした姿にそぐわない裏返った悲鳴は、さらに続いた。
「一大事でござる!! ――こっ、皇域のっ!! 神鉄の縛鎖が!! 啼いてござるううううう!!」
ガブリエル・ミラーは、とてつもなく広大な玉座の間にひざまずき頭を垂れる数十の人工フラクトライトを、いくつかの感慨とともに眺めた。
この"存在"たちは、一片二インチのライトキューブに封じ込められた被造物だ。それでいて、この世界では知性と魂を備えた本物の人間なのだ。もっとも、最前列に並ぶ十人のうち半分は、奇怪な容姿を備えたモンスターだが。
彼らと、その背後に従う騎士や術師たち、そして城の外に駐屯する五万の軍勢が、ガブリエルに与えられた戦力、"ユニット"ということになる。これから、この駒たちを適宜動かし、人界の防衛力を殲滅してアリスを確保せねばならない。
しかし、現実世界のリアルタイム・シミュレーションゲームと異なり、このユニットたちはカーソルとコマンドで好き放題動かせるわけではない。言語と態度で統率し、命令しなくてはならないのだ。
ガブリエルは無言で身体を回し、巨大な玉座のうしろの壁に張られた鏡を見やった。
そこに映っているのは、なんとも悪趣味な格好をした己の姿だった。
顔の造作と、白に近いブロンドの髪色だけは現実のガブリエルのままだ。
しかし、額には黒鉄色の金属に深紅の宝石をはめ込んだ宝冠が飾られ、黒いスエード調の革製のシャツとズボンの上に、これも漆黒の豪奢な毛皮のガウンをまとっている。腰からはおぼろな燐光を放つ細身の長剣が下げられ、ブーツと手袋には精緻な銀糸の刺繍が施されている。さらに背中には、血の色に染められた長いマント。
視線を右に振ると、玉座から一段下がった位置に、両手を頭の後ろで組んできょろきょろあたりを見回している騎士の姿があった。
宝石のように輝くディープ・パープルのフルプレートアーマーの中身は、ガブリエルと同時にログインした副隊長ヴァサゴだ。勘がつかめるまでは、調子に乗って余計なことを言うなと釘を刺してあるが、スラングの感嘆詞を連発したくてたまらないという様子でカタカタとつま先を鳴らしている。
ため息を飲み込み、ガブリエルは再び自分の、ロック・スターも顔負けの装束に視線を戻した。
機能性一本やりのファティーグに馴染んだ体には、どうにも居心地が悪い。しかし、この異世界"アンダーワールド"では、ガブリエルは陸軍の一中尉ではない。
広大無辺のダークテリトリーを統べる皇帝。
そして――神なのだ。
ガブリエルはまぶたを閉じ、ゆっくりを息を吸い、吐いた。
演ずるべき役柄を、"タフでクールな隊長"から、"無慈悲な暗黒の神"へと切り替えるスイッチが意識のどこかでカチリと鳴った。
ふたたび眼を開け、艶やかなマントをばさりと翻して振り向いたガブリエル――暗黒神ベクタは、人間味のかけらも残されていない声を玉座の間に響かせた。
「顔を上げ、名乗るがいい。――そちからだ」
巨大なリングが輝く中指にさされたのは、最前列左端にうずくまる恰幅のいい中年男だった。
「は、はっ! 商工ギルド頭領を務めさせていただいております、レンギル・ギラ・スコボと申します」
再び平伏する男の隣には、凄まじく巨大な――立ち上がれば十フィートはあるだろう体躯に、黒光りする鎖を十字に巻きつけ、腰を奇怪な獣の全身皮で覆った亜人種が片膝を突いていた。
人間と比べると異様に長い鼻梁と顎をぐいっと持ち上げ、地響きのような低音で巨人が名乗る。
「ジャイアント族の長、シグロシグ」
この怪物を動かしているのが、自分と同質の魂なのだという事実をガブリエルが咀嚼するあいだに、さらに隣のほっそりした影が密やかに告げた。
「……暗殺者ギルド頭首……フ・ザ……」
ジャイアントに比べるとあまりにも華奢で存在感のないフーデッドローブ姿は、年齢も、性別すら定かでない。
顔を見せろと命令するかと一瞬考えたが、どうせこの手のアサッシンには素顔を晒すのを禁じる掟だのなんだのあるのだろう、と捨て置くことにして、ガブリエルは視線を左に移した。
そして、嫌悪に顔をしかめそうになるのを危うくこらえた。
醜悪、という言葉を見事に具現化した存在がそこにどさりと座り込んでいた。足が短すぎて膝をつけないのだ。でっぷりと丸く膨れた腹は脂ぎってテラテラと光り、肩と一体化した首からは獣の頭骨らしきものがじゃらじゃらと下がっている。
さらに、その上に載った頭は七割が豚、三割が人という代物だ。突き出た平らな鼻と、牙ののぞく巨大な口、しかし細長い眼だけが人の知性をぎらぎらと映していて、それが余計におぞましい。
「オーク族の長ぁ、リルピリンだぁ」
甲高い声を聞いて、ガブリエルは、こいつは果たして男なのか女なのかと一瞬考えたが、すぐにその興味を捨てた。オークと言うからには軍団の下層レベルだろう。どうせ端から使い捨てにするユニットだ。
次に一礼したのは、まだ少年と言ってもいい年頃の、赤金色の巻き毛を垂らした若者だった。銅色に日焼けした上半身は革帯だけ、下半身はぴったりした革ズボンとサンダル、そして両手にはごつごつと金属鋲の打たれたグローブを嵌めている。
「闘技士ギルドチャンピオン、イシュカーンです!!」
右のオークと比較すると、やけにきらきらと輝いて見える少年の瞳を見返しながら、闘技士とはなんだろうとガブリエルは内心首を傾げた。兵士とは別物なのか。いちど、各ユニットのレベルとステータスを検分する必要がありそうだ。
少年の軽やかな声が消えるや否や、ぐるるるっ!! という獣の唸りが鳴り響いた。
ぐいっと頭を持ち上げたのは、ジャイアントには劣るが人間ばなれした体幹から、やけに長い両腕を床に突いた亜人種だった。上半身は、ほとんど全体が長い毛皮に包まれている。衣装ではなく、地毛らしいとわかったのは、その頭部が完璧に獣のものだったからだ。
犬でも、熊のようでもある。長く突き出た鼻筋と、のこぎりのように並んだ牙、そして三角の耳。べろりと舌の垂れた口から、聞き取りにくい言葉が漏れ出した。
「ぐるる……オーガの……長……フルグル……るるる……」
それが名前なのか、ただの唸り声なのか確信は持てなかったが、ガブリエルは軽く頷いて次を見た。
その途端、耳障りな甲高い声がキイキイと喚きたてた。
「山ゴブリンの長ハガシにござりまする! 陛下、ぜひとも一番槍の栄誉は我が種族の勇士にお与えくださりますよう!!」
声の主は、猿に似た禿頭の両脇から細長い耳を突き出させた、小さな亜人種だった。
背丈も筋肉も、これまで名乗ったジャイアント、オーク、オーガどころか人間たちにすら及ばない。
ダイブ前に受けたクリッターのレクチャーによれば、このダークテリトリーに存在する法はたったひとつだという。すなわち、"力ある者が支配する"。ならば、このどう見ても非力なゴブリンを、他の種族と対等の位置につかせている力とは何なのか。
どちらにしてもオーク以下の最下級歩兵ユニットであろうが、僅かな興味をもってゴブリンの顔つきを眺めたガブリエルは、ふむ、と内心で小さく頷いた。
ゴブリンの丸く小さな眼には、これまで名乗ったリーダーたちのなかで最大の欲望と不満が渦巻いていたからだ。
山ゴブリンの長の言葉が終わらぬうちに、その隣に座していた、肌の色合いだけが異なる亜人が同じようにきいきいと喚いた。
「とんでもない! こんな連中よりも十倍陛下のお役に立ちまするぞ! 平地ゴブリンの長クビリにござります!」
「なんだとこのナメクジ喰いめが! 湿気た土地のせいで頭がふやけたか!!」
「そっちこそ頭のミソが天日でカラカラ乾いたか!!」
きいきいきいと言い合う二匹の鼻先で――。
ばちっ。ばちばち!!
と七色の火花が弾け、ゴブリンの長たちは悲鳴を上げて飛び退った。
「――皇帝陛下の御前ですわよ、お二方」
艶やかな声とともに、掲げた右手を戻したのは、肌も露わな衣装に豊満な体を包んだ若い女だった。火花は、女の指先がライターのフリントのように擦りあわされると同時に飛び散ったのだ。
ゆるりと立ち上がった女は、プレイメイトも目ではないほどの体と美貌を誇示するように腰を反らせてから、気取った仕草で一礼した。ガブリエルの左下方で、ヴァサゴが低く口笛を鳴らしたのもやむなしという所だろう。
カフェオレ色の肌は、まるでオイルでも刷り込んでいるかのように輝き、胸と腰まわりだけをわずかに黒いレザーが隠している。膝の上まで伸びるブーツは針のようなピンヒール。背中には黒と銀に輝く毛皮のマントを羽織り、その上に、豪奢なプラチナブロンドのストレートヘアが腰下まで流れている。
アイシャドーとルージュは鮮やかな水色、それに負けぬ同色の瞳をあだっぽく細めながら、女は名乗った。
「暗黒術師ギルド総長、ディー・アイ・エルと申します。我が配下の術師三千、そして私の心と体すべては陛下のものですわ」
もしこの視線を向けられたのがアサルトチームのほかの隊員の誰かなら、この瞬間に飛びついていてもおかしくない、と思えるほどの妖艶さだったが、性的衝動にコントロールされることのないガブリエルは鷹揚に頷いただけだった。
ディーと名乗ったウィッチは一瞬小さくまばたきし、更に何か言うかどうか考えたようだったが、もう一礼しただけで再び跪いた。
賢明なことだ、と思いながらガブリエルは視線を動かし、リーダーユニットの十人目、最後のひとりを見た。
そこに片腕片膝をついて頭を垂れているのは、おそらくは人間であろうが驚くべき体格を備えた中年の男だった。
全身を包む漆黒の鎧は、無数の傷を刻まれて鈍く光っている。俯けた顔にも、額と鼻梁に薄い傷痕が走っているのが見て取れる。
顔を上げぬまま発せられた男の声は、見事に錆びたバリトンだった。
「暗黒騎士団長ビクスル・ウル・シャスター。我が剣を捧げる前に……皇帝に尋ねたい」
ぐっ、と上げられた顔は、ガブリエルが軍役において出会った数少ない"本物"の軍人たちと共通する、研ぎ上げられた風貌を持っていた。
ことにその鋭い両眼の底にあるものは――男の右側にならぶ九人にはわずかにも見出せなかった、ある種の覚悟だった。
シャスターという騎士は、射抜くような視線でガブリエルを凝視しながら、いっそう低い声で続けた。
「いまこの時に玉座に戻った皇帝の望みは……いずくにありや?」
なるほど――確かにこいつらは、単なるユニットではないのだ。
そのことを常に意識しておくべきだな。と内心で思いつつも、ガブリエルが被った"神の仮面"が口と表情を自動的に動かした。
「血と――恐怖。炎と破壊。死と悲鳴」
ガブリエルの、切削された合金のように滑らかではあるがエッジの立った声が広間に流れたとたん、十人の将軍たちの表情がさっと締まった。
その顔を順番に睥睨しながら、ガブリエルは黒毛皮のガウンを翻し、右腕を高く西の空にかざした。
「余を天界より放逐した神どもの恩寵溢れる蜜の地、その護りたる"大門"は今まさに崩れ落ちんとしている。余は戻ってきた……我が霊威をあまねく地上にしろしめすために! 余が欲するはただ一つ、時を同じくして彼の地に現われたる、天の神の巫女を我が掌中に収めることのみ! それ以外の人間どもは望むままに殺し、奪うがいい! すべての闇の民が待ち望んだ――約束の時だ!!」
しん、と静まり返った空気を――。
甲高い野蛮な雄叫びが破った。
「ギィィィィッ!! 殺ス!! 白いイウム共殺スウウウウウ!!」
短い足をジタバタさせながら喚いたのは、小さい眼に欲望と鬱屈を滾らせたオークの長だった。すぐに、二匹のゴブリンが同時に両腕を突き上げ追随する。
「ホオオオオオウッ!! 戦だ!! 戦だ!!」
「ウラ――――ッ!! 戦だ戦だ――――ッ!!」
鬨の声は、たちまち他の将軍たち、そして彼らの背後の士官らにも伝染した。暗殺ギルドの黒ローブたちは枝のように細い体をゆらゆらと揺らし、暗黒術師ギルドの魔女集団も嬌声とともに色とりどりの火花を散らす。
巨大な広間に満ち満ちた、プリミティヴな大音声のさなかにあって――。
シャスターと言う名の騎士だけが、跪き俯いた姿勢のまま、身動きひとつしないことにガブリエルは気付いた。
それが、軍人らしい抑制のたまものなのか、あるいは何らかの感情に起因するものなのかは、彫像のような鎧姿からは判断できなかった。
「いやぁ、兄貴にあんな才能があったとはね! 役者になったほうがよかったんじゃねーッスか!?」
ニヤニヤ笑いながらワインの瓶を放ってくるヴァサゴに、ガブリエルはフンと鼻を鳴らして応じた。
「必要に応じたまでだ。お前こそ、それっぽい演説の仕方を覚えておいたほうがいいぞ。あの連中より一段上の立場なんだからな」
受け取った瓶の栓を指先で弾き、ルビー色の液体を大きく呷ってから、果たしてこれは任務中の飲酒に該当するのかどうかとふと考える。
ヴァサゴのほうは、呑まなきゃ損と言わんがばかりに上等なヴィンテージ物をビールのように流し込み、ぐいっと口元を拭って答えた。
「俺は命令だの演説だのよか、先頭で斬り込みてえな。せっかくこんなものすげえVRにダイブしてるんすから……この酒も、ボトルも、本物としか思えねえ」
「その代わり、斬られれば痛いし血も出るぞ。ここはペイン・アブソーバが効かないんだからな」
「それがイイんじゃないっすか」
にやっと笑うヴァサゴに肩をすくめ、ガブリエルはボトルをテーブルに戻すとソファから立ち上がった。
オブシディア城の最上階にある、皇帝の私室だ。ホワイトハウスも問題にならないほどの豪華な内装に加え、巨大な窓からは遥か眼下の夜景が一望できる。
将軍たちは開戦準備を整えるために城を去り、都市から物資を運び出す輜重隊列のかがり火が途切れることなく動いている。補給を担う商工ギルドの頭領には、城に備蓄された食糧や装備をすべて使い尽くせと命じたので、兵たちが飢え、凍えることは当分無いはずだ。
無数の光から視線を外し、ガブリエルは部屋の片隅に歩み寄ると、そこに設置された黒曜石の柱――システム・コンソールに手を触れた。
メニューを手早く操作し、外部オブザーバ呼び出しボタンを押す。時間加速倍率が低下し、1:1に戻るときの奇妙な感覚に続いて、クリッターの早口がウインドウから流れ出した。
「隊長ですか!? まだダイブを見届けてメインコントロールに戻ってきたばっかりですよ!!」
「こっちではもう一日目の夜だ。分かっちゃいたが……奇妙なものだな。とりあえず、今のところは予定どおり進行している。ユニットの準備は一両日中に完了し、順次ヒューマン・キングダムへの進軍を開始する予定だ」
「素晴らしいー。いいですか、"アリス"を確保したら、そこまで運んできて、メニューから外部イジェクション操作を行ってください。そのコンソールはメインコントロールルームと直結ですから、それで"アリス"のライトキューブはこっちのもんです。それとー、これはヴァサゴのバカによく言い聞かせておいて欲しいんですが」
クリッターの声が耳に入ったらしく、背後から短い罵り声が聞こえた。
「管理者権限での操作が出来ない現状では、アカウントデータのリセットも不可能です。つまりー、隊長もヴァサゴも、その世界で"死んだ"ら、二度とそのアカは使えません。そしたら今度こそ一兵卒で出直しっすからねー」
「ああ……分かっている。当分は前線には出ないようにしておこう。JSDFの動きは?」
「今のところは無いです。まだ隊長たちのダイブには気付いていないようですねー」
「よし。それでは通信を切る。次の連絡はアリス確保後と行きたいものだな」
「了解ー、期待しております」
通信ウインドウを閉じると、再び僅かな違和感とともに加速倍率が戻った。
ヴァサゴは尚もぶつぶつ毒づきながら鎧の留め金と格闘していたが、やがてすべての装具を床に放り出し、革のシャツとズボン姿になると立ち上がった。
「えーっと兄貴、ちょいとダウンタウンに遊びに行ったら……ダメっすよね、やっぱり」
「暫くはガマンしろ。目標回収後に一晩時間を取ってやる」
「了ー解。あぁあ……殺しも女もお預けか……。そんじゃま、おとなしく寝ます。そっちの部屋使うっすよ」
こきこき関節を鳴らしながら、ヴァサゴが隣接したベッドルームのひとつに消えると、ガブリエルもふうっと息を吐いて額から宝冠を外した。
マントとガウンもソファに掛け、剣をその上に投げる。
これまでプレイしたVRゲームでは、装備は外すはしからアイテムウインドウへと戻ったものだが、どうやらこの世界にはそのような便利な機能は無いようだった。この調子で一ヶ月も暮らすと部屋が酷い有様になりそうだが、どうせ明後日には城を去り、次に戻ってくるのはログアウトのためだ。
上着のボタンを外しながら、ヴァサゴが消えたのと反対側のドアを開けたガブリエルは、ぴくりと手を止めた。
こちらも恐ろしく広大な寝室の、呆れるほどラグジュアリーなベッドの傍らに――平伏する小さな人影があった。
召使を含む何者も、城の玉座の間より上の階には立ち入るなと命じたはずだった。神の命令に背くものがいるとは、どういうことか。
戻って剣を取るべきかと一瞬考えたが、ガブリエルはあえてそのまま寝室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
「……何用か」
短く誰何する。
返ってきたのは、少しハスキーな女の声だった。
「……今宵の伽を務めさせていただきます」
「ほう」
片眉をぴくりと動かし、ガブリエルは薄暗い寝室をゆっくりとベッドへ歩み寄った。
両手を床についているのは、確かに薄ものをまとった若い女だった。アッシュ・ブルーの髪を高く結い上げ、飾り紐で留めている。仄かに透ける体のラインには、ナイフの一本すら帯びている気配はない。
「誰の命令だ」
艶やかなシルクのシーツに腰を下ろしながらそう尋ねると、女は一瞬間を置いたあと、密やかな声で答えた。
「いえ……。これが役目で御座いますゆえ」
「そうか」
ガブリエルは視線を外し、ベッドの中央にどさりと身を横たえた。
数秒後、女が上体を起こし、音もなく右隣に滑り込んできた。
「失礼いたします……」
囁いた女の顔は、ガブリエルですら一瞬ほう、と思うほどエキゾチックな美貌だった。肌の色は濃いが、頬骨のあたりにどこか北欧的な気高さがある。
薄い衣をはらりとほどき、髪を留める飾り紐を外そうとする女を見上げながら、ガブリエルはある種の感動を覚えていた。
人工フラクトライトとは、ここまでのことをするものか。
これですら、AIとしては不完全なのか。ならば、完成形であるというアリスは、どれほどの高みに達しているのか。
ガブリエルが心を動かしたのは、体を差し出す女の行為に対してではなかった。
そうではなく――。
ばさり、と広がった髪の中から女がつかみ出し、高く振り上げた小さなナイフの存在を予測してのことだった。
充分な余裕を持って女の右腕を捕らえたガブリエルは、もう一方の手も素早く閃かせ、華奢な首筋を掴むとベッドへと引き倒した。
「くっ……!!」
女は小さな犬歯をむき出して、なおもナイフを突き出そうと激しく抗った。その膂力は予想以上のものがあったが、ガブリエルを慌てさせるほどではなかった。女の腕を逆に極め、喉笛に軽く親指を沈ませて、動きを封じる。
激痛に顔をゆがめながらも、女は灰色の瞳から決意の色を薄れさせようとしない。隙あらば即座に攻勢に出るという意思に四肢を強張らせたまま、ようやく動きを止めた女を、ガブリエルは上から眺めた。
すぐに、専業の暗殺者ではなかろうと見当をつける。化粧もぎこちないし、身体が鍛えられすぎている。となれば、翻意を抱いたのはフ・ザと名乗ったアサッシンの元締めではなく、他の九将のいずれか――おそらくは、人間の将軍四名のうちの誰か、ということになる。
わずかに顔を近づけ、ガブリエルは先ほどと同じ質問を発した。
「誰の命令だ」
女はぎりっと歯を食いしばり、その隙間からやはり同じ答えを返した。
「私自身の……意思だ」
「ほう。ならば、お前の上官は誰だ」
「…………いない。流浪者だ」
「フムン」
ガブリエルは一切の感情を交えずに、機械のように考えた。
"K組織"がブレイクスルーを目指した、人工フラクトライトの限界点。それは、上位の存在から与えられた規則、法、命令の一切に逆らえない、ということだ。
無数の法に縛られた人界のフラクトライトたちと比べ、ダークテリトリーの住民たちは遥かに自由に振舞っているように見えるが、しかし本質は変わらない。こちら側のフラクトライトに与えられた法はたった一つなので、見かけ上は自由に感じられるというだけなのだ。
その法とは、"力で奪え"。より高い戦闘力を持つものが、下位のものを支配するという弱肉強食の世界だ。K組織の実験が計画どおり進めば、秩序あふれる人界と混沌に満ちた暗黒界はガブリエルの介入なくとも激突し、その戦争状態のなかでブレイクスルーを目指す予定だったらしい。
しかしいかなる理由か、計画がそこまで進むまえに人界において"アリス"なる限界突破フラクトライトが誕生した。ラビットからの暗号文に記されていたのはそこまでで、暗黒界がわにも同様の存在が発生したという情報はない。
つまり、ナイフひとつで皇帝の暗殺を企てたこの女も、絶対の法に縛られる魂には違いないのだ。そして、将軍の列にいなかったということは、あの十人の誰かに従う立場であるわけで、しかし先ほどのガブリエルの質問に対して主人の名を明かさなかったということは――。
つまりこの女は、皇帝にして神たるガブリエルの命令よりも、己の主人への忠誠を優先したのだ。言い換えれば、皇帝よりも主人のほうが"強い"と思っているのだ。
となれば、作戦をスムーズに遂行せしむる上でも、一度きっちり自らの力を将軍たちに示し、ガブリエルがこの世界で最も力あるものなのだと認識させておく必要がある。
しかしまさか、貴重な将軍ユニットを全部破壊するわけにもいかない。どうしたものか――。
いや。
どちらにせよ、将軍のうち一人は処分せねばならないのだ。この女に暗殺の意思を抱かせた、十人のうち誰か。
それをどうやって炙り出すべきか。もう一度クリッターに連絡し、将軍ユニットを外部から監視させるか。いや、それをするためには時間加速倍率を1倍に戻さねばならないし、戻せば貴重な現実世界での持ち時間を消耗してしまう。
さて――。
そこまでを一瞬で思考したガブリエルは、もう一度女の、錬鉄のような色の瞳を覗き込んだ。
「なぜ余の命を狙った。金を積まれたか? 地位を約束されたか?」
さして考えもなく発した質問だった。しかし、即座に返ってきた答えは予想外のものだった。
「大義のためだ!」
「ほう……?」
「いま戦が始まれば、世界は百年、いや二百年後退してしまう! もう、力なき者が虐げられる時代に戻してはいけないのだ!!」
再び、ガブリエルは僅かな驚きに打たれた。この女は、これで本当にブレイクスルー以前の段階なのか。だとすると、いまの台詞を言わせたのはこの女の主人?
ガブリエルはさらに顔を下ろし、間近から灰色の瞳を凝視した。
決意。忠誠。その奥に隠れるこの感情は…………。
ああ、なるほど。
そういうことなら、この女はもう必要ない。正確には、この女のフラクトライトはもう要らない。
ガブリエルは、己の下した判断に従い、もう一切無駄な言葉を発することなく無造作に女の首を掴んだ右手に力を込めた。
みしっ、と骨と気道が拉げる感覚。女の目が大きく見開かれ、口が無音の悲鳴を発する。
暴れる四肢をがっちり押さえ付け、容赦なく首を締め上げながらも、ガブリエルは先ほどとは別種の驚きを味わっていた。
ここはほんとうに仮想世界なのだろうか!? 右手に伝わる、人体組織が破壊されていく感触も、露わな肌から放散される恐怖と苦痛の匂いも、現実世界以上にクリアにガブリエルの五感を刺激する。
無意識のうちに身体が震え、右手が反射的に収縮した。
ごきり。という鈍い音とともに、名も知らぬ女の頚骨が粉砕された。
そして、ガブリエルは見た。
両眼を強くつぶり、歯を食いしばった女の額から――虹色に輝く光が湧き出してくる!
一体なぜ!? これは、間違いなくあの時――幼いアリシアを絶命させたときに見た、"魂の雲"ではないか!!
瞬間、ガブリエルはここ数年来覚えのない挙に出た。自省を完璧に忘れ、口を大きく開いて、女の魂をあまさず吸い込んだのだ。
恐れ。痛み。苦しさ――の苦味。
悔しさ。悲しさ――の酸味。
それらに続いて、ガブリエルの舌を得も言われぬ天上の蜜が浸した。
閉じたまぶたの裏の暗闇に、朧な光景がちかちかとフラッシュした。
古びた二階屋の前庭に遊ぶ、小さな子供たち。人間も、ゴブリンも、オーガもいる。こちらを見ると、大きな笑顔を満面に浮かべて、両手を広げて一斉に駆けてくる。
その映像が消えると、今度は誰か男の裸の上半身が見えた。鍛え抜かれた広い胸板が、温かく、力強く抱擁する。
『愛して……います……閣下…………』
幽かな声が響き、反響し、遠ざかった。
すべてが消え去ってからも、ガブリエルは女の骸を強く抱きしめたまま膝立ちになり、見開いた両眼を真上に向けたまま身動きしなかった。
素晴らしい――何と言う――。
ガブリエルの意識の大部分は法悦に震えていたが、残された理性のかけらが、今の現象に理屈をつけようとした。
絶命した女のフラクトライトを格納するライトキューブと、ガブリエル自身のフラクトライトは、量子通信回線とSTLを介して有線接続されている。ゆえに、"天命"なるヒットポイントがゼロになり、スウィープされた量子データの断片が、回線を通じて逆流してきたのかもしれない。
しかし、そのような理屈はいまのガブリエルにはどうでもいいことだった。
人生すべてを投じて追い求め、あまたの実験を繰り返しては失望させられてきた"現象"を、ついに再体験したのだ。ガブリエルは、死にゆく女が最後に抱いた感情――"愛"を余すことなく摂取し、味わい尽くした。それはまるで、荒涼たる砂漠に落ちた一滴のネクタールにも等しかった。
もっと。
もっとだ。
もっと殺さなければ。
ガブリエルは、鉤爪のように指を曲げた右腕をまっすぐ上に突き出し、無言の絶叫を放った。* 羊皮紙にたった一枚分の手紙を丸一日かけてどうにか書き終え、アリスは末尾にゆっくりと署名した。
丁寧に折りたたみ、封筒に入れて、シルカの名前を表書きする。もう一通、ガリッタ老人宛のものと並べてテーブルに置く。
別れと謝罪の手紙だった。整合騎士エルドリエに知られてしまったこの森の家にはもう居られない。次はエルドリエではなく、おそらく騎士長ベルクーリ本人が説得に来るだろう。そのとき、大恩ある剣の師に告げるべき言葉を、今のアリスは持たない。
だから、もういちど逃げ出すのだ。
細く長いため息を漏らしてから、アリスは顔を上げ、テーブルの向かいに座る黒髪の青年を見やった。
「ねえ、キリト。あなたは何処に行きたい? 西域の"竜の巣"はそれは美しいところよ。それとも、南域の密林地帯がいいかしら。そっちは私も行ったことないの」
ことさら明るい声を出してみたものの、もちろんキリトは何の反応も見せなかった。
虚ろな瞳はじっとテーブルの表面に向けられている。この傷ついた若者を、また流浪の生活に連れ出さねばならないことにアリスの胸は痛んだ。しかし、と言って置いていくわけには行かない。シスター見習いの身であるシルカに無理な頼みごとはできないし、またアリス自身もそうしたくない。いまやキリトの面倒を見ることだけが、アリスに残されたただ一つの生きる目的なのだから。
「……そうね、行き先は雨縁に任せるわ。さ……もう遅いわね、そろそろ休みましょう。明日は早く起きて発たないと」
キリトを着替えさせて横にならせ、自分も寝巻き姿になって灯りを消してから、アリスはベッドに潜り込んだ。
暗闇のなかで数分間目を閉じ、隣のキリトの呼吸音が深く、緩いものになるまで待ってから、アリスはもぞもぞと身体を移動させた。
若者の薄い胸に、そっと自分の頭を載せる。密着した耳に、ゆっくりとした、しかし確実な鼓動音が伝わる。
キリトの心はもう、ここには存在しない。この鼓動は、過去からこだまする残響でしかない。
夜毎寄り添って眠りについたこの数ヶ月間、アリスはずっとそう思ってきた。しかし同時に、深い確たる響きのおくに、何か――まだ何かが残されているのではと、そんな気がすることもある。
もし今のキリトが、"心は正常なのにそれを表に出せない"というような状態だったとしたら、自分のこの行為をどう申し開きしたものか。そんな事を考えてかすかに微笑みながら、アリスはいっそうぴたりと全身を触れ合わせ、緩やかに眠りへと落ちていった。
びくり。
突然、触れ合った身体が強く震える感覚に、アリスは暖かな暗闇から呼び起こされた。
瞼を持ち上げようとするが、粘るように重い。どうにか視線を定まらせ、東の窓に向けるが、カーテンの隙間からのぞく空はまだ真っ暗だ。感覚的にも、眠っていたのは二、三時間というものだろう。
もう一度ぴくりと身体を強張らせるキリトに、アリスは掠れた声を掛けた。
「どうしたのキリト……まだ夜中よ……」
再び眼を閉じながら、肩を撫でて寝付かせようとしたが、耳元で小さな声が響くに及んでようやくアリスは半ば以上覚醒した。
「ぁ……あー……」
「キリト……?」
今のキリトに自発的欲求は存在しない。寒いとか、喉が渇いたとか、そんなことでは眼を醒まさないはずなのだ。なのに若者はいっそう強く身体を震わせ、まるでベッドから起きだそうとするかのように足でシーツを掻く。
「どうしたの……?」
これは尋常ではない、まさか本当に意識が戻ったのか、そう思ったアリスは跳ね起きて、ランプを点ける手間も惜しんで光素因を一つ発生させた。
ほのかな白い明かりに照らし出された若者の瞳は、常と変わることなく虚ろな闇に満たされたままで、わずかに落胆する。しかし、となれば一体何が――。
その時、アリスの耳に、今度は窓の外から甲高い鳴き声が届いた。
「クルル、クルルルッ!」
雨縁の――警戒音。
鋭く息を飲み、床に飛び降りると、アリスは寝室から居間を駆け抜けてドアを叩きつけるように開いた。途端、押し寄せてくる真冬の寒気。しかしその中に、異質な匂いが混ざりこんでいる。これは、焦げ臭さ……?
素足のまま、アリスは前庭へと踏み出した。そしてぐるりと空を見渡し、両眼を見張った。
西の空が――燃えている。
赤黒く揺れる光は、間違いなく巨大な炎の照り返しだ。眼を細めると、星空を覆い隠す黒煙の筋も幾つも見て取れる。
火事!?
一瞬そう思ってから、アリスはすぐに打ち消した。焦げた風に乗って、かすかに届いてきたのは、間違いなく金属が打ち鳴らされる音と――そして、悲鳴。
これは敵襲だ。ダークテリトリーの軍勢が、ルーリッドの村を襲っているのだ。
「……シルカ!!」
アリスは掠れた悲鳴を漏らし、家へと駆け戻ろうとした。
そして立ちすくんだ。
妹だけはなんとしても助け出さねばならない。
しかし……ほかの村人はどうする?
全員を可能な限り救おうとしたら、闇の軍勢と正面から戦わねばならない。だが、今の自分にそんな力が残されているだろうか。かつての"整合騎士アリス"の力の源は、狂信的なまでの教会への忠誠だった。その信仰が欠片も残さず崩れ去ってしまった今、自分は果たして剣を振るい、術を行使できるのだろうか。
凍りついたアリスの耳に――。
ガタン、という音が家のなかから届いた。
はっ、と視線を向ける。その先にあったのは、横倒しになった椅子と、その傍らで這いずる若者の姿だった。
「……キリト……」
眼を見開き、アリスは萎えた足を動かして家の中へと駆け戻った。
キリトの瞳には、変わらず意思の光はなかった。しかし、その緩慢な動作の目的は明らかだった。
伸ばされた隻腕は、まっすぐに、壁に掛けられた三本の剣を指していた。
「キリト……あなた……」
アリスの胸から喉を、熱いものが塞いだ。ぼんやりと視界を歪ませたのが涙だと気付くのに、少しかかった。
「……あ……あー……」
しわがれた声を漏らしながら、キリトは身体を一瞬たりとも止めようとせず、ひたすらに剣を目指す。アリスはぐいっと両眼を拭うと、一直線に若者に駆け寄り、その痩せた身体を床から抱き上げた。
「分かったわ……大丈夫、私が行くわ。私が皆を助ける。だから、安心してここで待ってて」
早口でそう囁きかけ、アリスは強くキリトを抱きしめた。
どくん。どくん。密着した胸から、大きな鼓動が伝わる。
その奥には、燃え殻ではない意志が、仄かな熾火ではあっても確かに存在する。いまならそれが分かる。
唇で若者の頬を撫でてから、アリスは軽いからだをそっと壁にもたれさせた。跳ねるように立ち上がり、迷うことなく壁から己が愛剣の鞘を掴み取る。
半年ぶりに握る金木犀の剣は凄まじい重さだったが、アリスはよろめくこともなくその剣帯を寝巻きの上から腰に締めた。ドアの傍から外套だけひったくるとばさっと羽織り、ブーツを右手で掴みあげてふたたび前庭に飛び出す。
「雨縁!!」
一声叫ぶと、即座に家の裏手から巨大な影が飛び出し、低く首を下げた。
軽やかに跳躍し、裸の背に跨ったアリスは、かつてと変わらぬ鋭い声で騎竜に命じた。
「行けッ!!」
ばさっ! と両の銀翼が打ち鳴らされ、短い助走を経て竜は一気に空へと舞い上がった。
少し高度を取っただけで、アリスの視界にはルーリッドの惨状が如実に映し出された。
赤黒い炎を吹き上げているのは、主に村の北側だ。やはり襲撃者は"果ての山脈"からやってきたのだろう。
ベルクーリの指示で完全に崩落させられたはずの洞窟を、闇の民たちがどのようにして復旧したのかは分からない。しかし、二日前に確認に来たエルドリエは異常なかったと言っていたので、わずか数十時間であの大量のガレキを撤去してのけたことになる。となれば、そのために動員された兵もまた膨大であろう。
古来、果ての山脈に穿たれた三箇所の洞窟を、少人数の偵察部隊が守護騎士の目を盗んで往来することはあった。しかしこれほど大規模かつあからさまな行動は聞いたことがない。やはり、闇の国全体に、人界滅すべしの機運が限界まで高まっているのだ……。
掴んできたブーツに脚を通しながら、アリスがそのような思考を巡らせたほんの短い時間に、雨縁は深い森を一息に飛び越えルーリッド外輪の麦畑上空に達した。
手綱は無いが、手で竜の首筋を擦りあげることで滞空の指示を出す。
アリスは身を乗り出し、眼下を凝視した。村の目貫通りに北側から殺到する多数の襲撃者たちの影がくっきりと見て取れる。その先陣を走る小柄な影は、俊敏なゴブリンたちだろう。先頭はすでに家具や木材を積み上げた急拵えの防御線にぶつかり、その周囲では打ち合わされる白刃がちかちかと光っている。
応戦しているのは、村に組織されている衛士隊だ。だが、人数も装備も練度もすべてがゴブリン部隊にすら劣っている。このままでは、後方から地響きを立てて接近しつつある巨大なオークの中核が到着したら、ひとたまりもなく粉砕されてしまう。
歯噛みをしつつ急く気持ちを押さえ付け、さらに周囲の状況を確認する。
東側、西側の大通りにも、すでに大きな群れが流れつつある。しかし南側にはまだ十匹以下のゴブリンと、僅かな火の手しか見えない。
住民はすでに南から森に避難しているだろう、そう思いつつ最後に村の中央広場に眼を凝らしたアリスは――思わず声を漏らした。
「なぜ……!?」
教会前の広い円形広場には、ぎっしりと密集してうずくまる黒い人波があった。あまりにも大人数なので最初には気付けなかったのだ。あれは、おそらくルーリッドの村人のほぼすべてだ。
なぜ南へ逃げないのか!? あれだけの人数がいれば、それがたとえ剣を持たない農民でも、数匹のゴブリンぐらい鋤や天秤棒で撃退できるはずだ。
襲撃者たちの本隊は、すでに東西の大通りの入り口にも達しようとしている。今すぐに南へ移動を始めなければ間に合わない。
アリスは我を忘れ、騎竜を村の広場上空まで突進させると叫んだ。
「雨縁、呼ぶまでここで待機!」
そして、数十メルの高みから、ひといきに身を躍らせた。
羊毛織の灰色の外套と、炎に照らされて赤金色に輝く長い髪をひるがえしながら、冷たい夜気のなかを一直線に滑り降りる。
円形に固まった数百人の村人たちは、いちおうは防御態勢のつもりか外周に農具を携えた男たちを配置していた。その北側の端で、盛んに指示を飛ばしている二人の男のすぐそばに、アリスは大音響とともに着地した。
ブーツの裏で、石畳が放射状にひび割れる。さすがに、超高優先度を備える身体とはいえ天命は微減しただろうが、アリスはそれよりも注目効果のほうを取った。
狙い通り、いきなり頭上から降ってきた人影に度肝を抜かれたようで、二人の男たち――農民を取りまとめるバルボッサと、そしてルーリッド村長ガスフトは目を見開いて口をつぐんだ。
アリスは、かつての父親であるガスフトの顔を見てわずかに息苦しさを感じたものの、生まれた一瞬の沈黙を逃さずに大声で叫んだ。
「ここでは防ぎ切れません! 今すぐ南の通りから全住民を避難させなさい!!」
凜と響いた声に、農民頭と村長はいっそうの驚き顔を浮かべて棒立ちになった。
しかし、数秒後に返ってきたのは、バルボッサの殺気だった怒声だった。
「馬鹿言うな! 南にももう怪物どもが回りこんどるのが見えねえか!!」
青筋を立てて喚く大男に、アリスは語気鋭く反駁した。
「向こうにはまだ僅かなゴブリンしか居ません! 男たちに先頭を行かせれば突破できます、もうすぐ東西からも敵の本隊が押し寄せてきますよ!」
ぐっ、と言葉に詰まったバルボッサに代わって、村長のガスフトが低く張り詰めた声を発した。
「広場で円陣を組んで護れというのが、衛士長ジンクの指示なのだ。この状況では、村長の私とて衛士長の命令には従わなければならない」
今度は、アリスが息を詰める番だった。
襲撃などの有事の際には、衛士長の天職に就く者が一時的に全住民の指揮権を得る、これは禁忌目録に記された条文だ。
しかし、ジンクという名の衛士長は、父親からその職を譲られたばかりの若者なのだ。このような状況で、冷静な指揮判断ができるとは思えない。ガスフトの顔に濃く浮かぶ焦燥が、村長もまたそう考えていることを示している。
とは言え村人たちにとって禁忌目録は絶対だ。今すぐ避難を開始させるには、北側の防御線に居るのだろうジンクを引っ張ってきて命令を変更させるしかないが、そんな時間はどう考えても残されていない。
どうする。どうすれば――。
立ち尽くしたアリスの耳に、幼くも毅然とした叫びが飛び込んだのは、その時だった。
「姉さまの言うとおりにしましょう、お父様!!」
はっ、と視線を向けた先にいたのは、人垣の内側で、火傷を負ったらしい村人に青白く光る手をかざす小柄な修道女だった。
「……シルカ!」
よかった、無事だった。愛する妹に向かってアリスは足を踏み出しかけたが、それより早く治療を終えたシルカが立ち上がり、三人のもとへと駆けてきた。
アリスに向けて一瞬笑みを浮かべてみせたシルカは、さっと顔を引き締めると、続けてガスフトに言った。
「昔から、姉さまが一度でも間違ったことを言ったことがあった? ううん、あたしにだって分かるわ。このままじゃ、みんな殺されちゃう!」
「し……しかし……」
苦渋の表情でガスフトは言い澱んだ。たくわえられた口ひげが細かく震え、視線がうつろに宙を彷徨う。
絶句した村長に代わり、再び怒声を爆発させたのはバルボッサだった。
「子供が出しゃばるな! 村を……家を捨てる気か!!」
禿頭の下の小さな眼がちらりと走ったのは、広場にほど近い場所に建つ自身の屋敷の方向だ。正確には、秋に収獲したばかりの大量の小麦と、長年蓄財した金貨にだろう。
アリスとシルカに視線を戻し、バルボッサは突如、裏返った声で喚きたてた。
「そ……そうか、わかった、わかったぞ! 村に闇の怪物どもを招き入れたのはお前じゃなアリス!! 昔、果ての山脈を越えたときに闇の力に汚されたんじゃ!! 魔女……この娘は魔女じゃ!!」
太い指をつきつけられ、アリスは絶句した。北と、東、西から近づきつつある怪物たちの鬨の声も、すうっと遠ざかった。
村はずれに落ち着いてからの数ヶ月、アリスは何度となくバルボッサのために森の巨木を倒してきた。そのたびにこの男は身を捩らんばかりに感謝したのだ。なのに、自分の財貨を守らんがためだけに、こんな言葉を吐くとは――なんという――
醜悪さ。
なんという愚かさだろう。