強張りそうになった頬にもういちど笑みを浮かべ、アリスは「それで」と言葉を繋いだ。
「なにか、ご用でもあるの?」
「あ……は、はい」
ほんの少しだけ緊張の色を薄めたティーゼが、一瞬きゅっと唇を噛んでから言った。
「あの……私たち、騎士さ……アリス様が、飛竜でご到着になられた際に、黒髪の……若い男性をお一人伴っておいでだったと聞き及びまして……それで、もしかしたら、そのお方が、私たちの知っている人ではないかと、そう思って……」
「あ、ああ……そうか、そうよね」
右手に小鍋、左手にワインの瓶を握ったまま、アリスはようやく少女たちの来意を悟り、頷いた。
「あなたたち、学院でキリトと親しかったんですものね」
と、アリスが口にした瞬間、二人の顔がまるで瞬時に蕾が花開いたかのようにさあっと輝いた。ロニエにいたっては、茶色の瞳にうっすらと涙まで滲ませている。
「やっぱり……キリト先輩だった……」
か細い声で呟いたロニエの手を握り、ティーゼも期待に満ちた声で叫んだ。
「じゃあ……ユージオ先輩も……!」
その名前を聞いたとたん、アリスは鋭く息を詰め、眼を見張った。
いけない。この二人はもちろん――知らないのだ。カセドラルで繰り広げられた一昼夜の激闘と、その結末を。
絶句したアリスに気付き、二人は不思議そうな表情を作った。アリスは数秒間、ティーゼとロニエの瞳を交互に見つめたあと、ゆっくり眼を伏せた。
今更、ごまかすことはできない。
それに、この二人にはすべてを知る権利がある。恐らく彼女たちは、キリトと、そしてユージオにもう一度会うためだけに守備軍に志願し、ここまでやってきたのだろうから……。
意を決して顔を上げると、アリスはゆっくりと口を開いた。
「あなたたちには……辛すぎる現実かもしれない。でも、私は信じます。キリトと、そしてユージオの後輩だったあなたたちなら、かならず受け止められると」
アリスの内心の期待に反して、キリトはティーゼとロニエをその視界にとらえても、一切の反応を見せなかった。
落胆しつつも、ほんの少しだけほっとしている自分に気付き、アリスは天幕の隅で強く両手を握りながらじっと悲壮な光景を見つめつづけた。
ベッドに腰掛け項垂れたままのキリトの前に跪いたロニエは、小さな両手でキリトの左手を包み込んで、頬に涙を伝わらせながら小さく何かを話しかけている。
しかし更に痛々しいのは、敷き革にぺたりとしゃがみこんで、折れた青薔薇の剣を見つめつづけるティーゼだった。紙のように白くなった顔には、ユージオの死を伝えられたときから一切の表情がない。
アリス自身は、ユージオという名の若者とは、直接言葉を交わす機会はほとんど無かった。
カセドラルに連行し地下牢に叩き込むまでと、塔の八十階で彼らを迎撃したときの数分間、あとはもう最上階での対アドミニストレータ戦で共闘しただけだ。
あの騎士長ベルクーリに時穿剣を発動させてなお勝利し、また自らの身体を剣に変じて最高司祭の片腕を斬り飛ばした心意力には心底敬意を覚えるが、ユージオのひととなりに関してはもっぱらルーリッドでシルカから聞いた思い出話に依る部分が大きい。
シルカいわく、ユージオはおとなしく物静かな少年で、アリス――当時のアリス・ツーベルクに引っ張られていろいろな冒険に嫌々付き合わされていたらしい。そんな性格ならば、さぞかしキリトともいい相棒同士だったのだろうと思う。
キリトとユージオは、きっと学院でもあれこれ騒ぎを起こしたに違いない。そんな二人に、この少女たちは魅せられ、大きな影響を受けたのだ。
だから――お願い、受け止めて。キリトとユージオは、とても大切なたくさんのものを守るために戦い、傷つき、散ったのよ。
アリスは半ば祈りながら、二人の、ことにティーゼの様子をじっと見守った。
人界に暮らす人々は、あまりにも巨大な恐怖や悲嘆といった精神的衝撃を受けると、耐え切れずに心を病んでしまう場合も多い。先日の闇の軍勢によるルーリッド侵攻でも、体は無傷なのに臥せりきりになってしまった村人が僅かながら出たようだ。
ティーゼは、たぶん、ユージオを愛していたのだろう。
この若さで、愛する人の死という巨大な衝撃を受け入れるのは、生半なことではあるまい。
アリスの視線の先で、座り込んだティーゼの指先がぴくりと動き、少しずつ青薔薇の剣の刀身に近づき始めた。
緊張しながらその様子を見守る。青薔薇の剣は、半分に折れているとはいえ最上位の神器だ。あの少女に扱えるとは思わないが、しかし絶望もまた巨大な心意を導く。何が起きるかは予測できない。
震えながら伸ばされたティーゼの指が、ついに薄青い刀身に触れた。刃ではなく峰を、そっとなぞっていく――。
と、その瞬間。
灯り取り穴から差し込み天幕を満たす赤い光を押しのけ、折れた刀身がかすかに、しかし確かに青く煌いたのを、アリスは見た。
同時にティーゼがびくんと身体を逸らせ、顔を仰向ける。
何かを感じたらしいロニエも振り向き、友達を見つめた。張り詰めた空気のなか、じわり、とティーゼの睫毛に大きな水滴が浮かび上がり、音も無く零れ落ちた。
「……いま…………」
薄い色の唇から、ひそやかな呟きが流れた。
「……聞こえた……ユージオ……せんぱいの、声……。泣かないで、ティーゼ、って……ぼくは、ずっと、ここにいるから……って……」
零れる涙はみるみるその量を増し、突然ティーゼは剣の上に顔を伏せると、幼い子供のように激しい嗚咽を漏らした。ロニエもまた、キリトの膝に伏せてわあわあと号泣する。
その、言葉も出ないほど痛ましくしかし美しい光景につい目頭を熱くしながらも――。
アリスの心の一部は、そんなことがあるだろうか、と考えを巡らせていた。
剣に心意が残る?
確かに、武装完全支配術の発動中は、武器と主の意思は一体となる。ユージオの場合はそれだけではなく、実際に青薔薇の剣とその身体を融合させ、その最中に命を落としたのだ。
だから、残った剣の欠片に、主の意思が残響のように焼きつく――ということもないではないのかもしれない。
しかし。
いまティーゼは、ユージオが自分に呼びかけた、と確かに言った。であるなら、剣に残った心意は、ユージオが落命したときの木霊ではないということになる。
少女の恋心が聞いた幻なのか? それとも……?
ああ――もどかしい。キリトならば、この現象の秘密を即座に看破してくれるだろうに。この世界の外側、謎の神々が住まう場所から落ちてきたという彼なら。
ぐるぐると渦巻くアリスの思考に、まるで小さな気泡のように、ひとつの言葉が浮かび上がった。
ワールド・エンド・オールター。
果ての祭壇。その場所には、この世界の外側へと続く道があるという。
もしそこにたどり着ければ、あらゆる謎が一瞬で氷解するのだろうか? それどころか――喪われたキリトの心も取り戻せるのだろうか……?
しかし、果ての祭壇は人界の外、東の大門を出て真南に進んだ彼方にあるという。つまり、闇の種族が支配するダークテリトリーのそのまた辺境だ。
そんなところに行こうとするなら、まず東の大門の向こうに布陣する大軍を、防ぐどころか突破しなくてはならない。いや、仮に敵陣を突破できたとしても、大門の守りを空にして南へ向うわけにはいかない。闇の軍勢が、そのままアリスたちを追ってくるとは思えないからだ。
彼らにとっての蜜流るる地である人界から目を逸らさせるためには、どうしても追ってこなくてはならない理由を作ってやる必要がある。だが――ダークテリトリーの民にとっては、"人界の蹂躙"は数百年来の悲願だ。それ以上に魅力的なものなど、あるはずがない……。
やはり、いずれ果ての祭壇を目指すとしても、その前に闇の軍勢を完全に殲滅しなくては。
たどり着いた結論に、アリスは思わず瞑目した。
殲滅、などと……敵の先陣を押し返すことすらおそらく至難のこの状況で。
そっと息を吐いてから、アリスは数秒間の黙考を断ち切り、泣きじゃくる少女二人に歩み寄った。
ソルスの残照はずいぶん前に西の彼方に消え去ったのに、東の大門の向こうに細く見えるダークテリトリーの空には、不吉な血の色がしつこく揺らぎ続けている。
まるでその光景を遮断するかのように、人界守備軍野営地の中央、昼間は飛竜発着場に使われる草地には、白い陣幕が南北方向に張られていた。その手前、高々と翻る整合騎士団旗と四帝国旗の下に、整合騎士約二十名に加えてほぼ同数の衛士の隊長格が集まり、三々五々固まっては深刻な顔を突き合わせている。
その幾つかの小集団が、騎士と衛士の区別なく出来上がっていることに気付き、アリスは少し驚いて近づく脚を止めた。
輝くような銀甲の鎧をまとった整合騎士と、美麗さは劣るが優先度は充分に高そうな黒鋼の鎧を着込んだ衛士長が、双方右手に同じシラル水のグラスを持って熱心な議論を交わしているのだ。耳をそばだてれば、衛士の言葉からは迂遠な敬語のたぐいの一切が省かれているようだ。
「急拵えの寄り合い所帯にしてはなかなかのモンだろう、嬢ちゃん」
突然かたわらで低い声が響き、アリスは慌てて向き直った。
着流しの懐に両手をしまった騎士長ベルクーリは、顔の動きだけで敬礼しようとしたアリスを制した。
「そういうしち面倒くさい儀礼だのは全部ナシにしたのさ。少なくとも、俺ら騎士と衛士長同士ではな。幸い、禁忌目録にも『一般民は騎士サマと話す前には十分間ご機嫌伺いをしなくてはならない』なんて項目は無ェからな」
「は、はぁ……。それは大いに結構なことと思いますが……しかし、それはさておいても……」
言葉を切り、再び視線を臨時の軍議場に向ける。
「整合騎士は全員参加と聞きましたが、見たところ二十名ほどしか来ていないようですが」
「だから、これで全部さ」
「え……ええ!?」
思わず高くなりかけた声を掌で押さえ、アリスはやや渋面になった騎士長を見上げた。
「そんな……ばかな。騎士団には私を含め五十名が存在するはずでは」
それは、アリスに与えられたフィフティという神聖語名が示すとおりだ。
ベルクーリは、そりゃそうなんだが、とため息混じりに答えるとひときわ声を低くした。
「嬢ちゃんも知ってるだろう。元老チュデルキンは、記憶制御に齟齬を来たしそうになった騎士に"再調整"という処理を施していた。奴が死んだときその処理中だった十名は……いまだに眼を醒ましていないんだ」
「…………!」
思わず眼を見張る。そんなアリスから視線を外し、ベルクーリはいっそう苦々しい声で続けた。
「再調整用の術式群を知悉していたのは、高い確率でチュデルキンと最高司祭だけだ。その二人が死んだ今となっては、十名の騎士の処理を中断し覚醒させることは不可能かもしれん。――よって、現在動ける整合騎士は四十名。うち五名はカセドラルと央都の指揮管理のために残し、さらに十五名を果ての山脈全体の警護に当たらせている。差し引き二十……それがこの絶対防衛線につぎ込める上限、というわけだ」
「二十人……ですか」
たったの、と付け加えそうになるのをアリスは唇を噛んでこらえた。
しかも、よくよく確かめればその半数以上が神器を――つまり武装完全支配術を持たない下位騎士だ。近間の斬り合いだけならばゴブリンの百は二百は屠ってみせる猛者たちではあるが、戦況全体を動かすほどの爆発力は期待できない。
思わず押し黙ったアリスに、調子を切り替えたベルクーリの声が掛けられた。
「ときに、あの若者の預け先だがな……なんなら、オレから後衛部隊に……」
「あ……いえ、大丈夫です」
騎士長の、ぎこちない気遣いにかすかに微笑みながら、アリスは首を振った。
「偶然、修剣学院で彼の傍付きをしていたという志願兵が居りましたので……開戦後は彼女達に任せることになりました」
「ほう、そりゃ良かった。……で、どうだ? 過去に交流のあった者と接触して、何か反応はあったか?」
無言でちいさくかぶりを振る。
ベルクーリは短く息を吐き出すと、そうか、と唸った。続けて、いっそう潜められた声で、
「……正直、オレにはあの若者こそが、この戦いの帰趨を左右する最後の一要素に思えてならんのだ……」
アリスははっと視線を上げた。
「嬢ちゃんやユージオ青年の助力はあったにせよ、剣でチュデルキンと最高司祭を斃したというのはとてつもない事だぞ。こと心意の強度だけを比べれば、恐らくオレも及ばないだろう」
「……まさか、そのような……」
キリトの強さに今さら疑義を呈するつもりは毛頭ないが、しかし騎士長ベルクーリの心意は二百年以上の悠久の時間を経て研ぎ上げられたものなのだ。対するにキリトはまだ二十歳になるやならず。むしろ、剣技や体術はともかく意思力だけは騎士長に敵わないと見るのが自然なのではないか。
だが、ベルクーリは確信に満ちた仕草でアリスの言葉を否定した。
「先刻、心意を打ち合わせたとき確かに感じた。この若者は、オレなど問題にならぬほどに膨大な実戦の経験がある、とな」
「実戦……? とは、どういう意味です……?」
「文字通りだ。命のやり取りだよ」
それこそまさか、と言うほかない。
人界に暮らす人間たちは、禁忌目録や各帝国の膨大な法に保護、あるいは束縛され、木剣での試技はすれども真剣勝負の機会など生まれてから死ぬまで一度も無いのだ。
唯一の例外が整合騎士で、果ての山脈を侵そうとする闇の怪物や暗黒騎士と規則の無い戦いをすることはある。しかしそれにしても月に一、二度あるかないかで、しかも整合騎士側が戦力に於いて圧倒的に勝っているので正直なところ命の取り合いとは言い難い。
そう考えれば、人界でもっとも実戦の経験が豊富なのは、騎士団がいまより遥かに小規模な頃から闇の軍勢と戦ってきたベルクーリであるのは間違いない。実際、整合騎士になりたての頃は――信じがたいことではあるが――当時の暗黒騎士に手酷くやられ、命からがら逃げ延びたこともあるらしい。
そのベルクーリよりも、キリトが実戦の回数に於いて勝っている?
仮にそんなことが有り得るとすれば――それは、この世界での経験ではない。
彼のほんとうの故郷であるという"外の世界"。しかし、そこは同時に真の創世神たちが住まう神界でもあるはずだ。なのに、実戦? 命の取り合いを……?
もう何をどう考えていいかわからず、アリスは少し迷ったあと意を決した。
かくなるうえは、ベルクーリに全てを話すしかない。"外の世界"、そしてそこに続く回廊があるという"果ての祭壇"のことを。
「……小父様……実は、私……あの戦いのとき……」
考えかんがえ、そこまで口にしたときだった。
突然、金属質の声が鋭く響いた。
「閣下、時間です」
はっ、と声のしたほうに視線を向ける。
立っていたのは、夜空の下でもひときわ麗々しく光る薄紫色の装甲にくまなく全身を包んだ、一人の整合騎士だった。
その、細身の騎士の顔を隠す鋭角な意匠の銀面を見たとたん、アリスの心中に浮かんだ感慨は――端的にあらわせば、うへえ、というものだった。
アリスにとって、恐らくこの世界でもっともウマの合わぬ人物。騎士団副長にして第二位の整合騎士、ファナティオ・シンセシス・ツーだ。
内心を顔に出さないようけっこうな努力をしながら、アリスは右拳を左胸にあてる騎士の礼をした。
相対するファナティオも、かしゃりと装甲を鳴らして同じ動作を行う。しかし、両脚を少し開いてまっすぐ直立するアリスに対して、ファナティオは片脚に体重をあずけて右腰を吊り上げ、上体を横に湾曲させたなよやかな姿勢を取っている。意識してやっている訳ではないのだろうが、胸にあてた手も無骨な拳ではなく、優美に反らせた五指を折りたたんだ形だ。
この人の、こういう所がどうにも……、と腕を下ろしたアリスは内心でひとりごつ。
鎧と兜、それに口調で厳重に隠しているつもりなのだろうが、だからこそ、ファナティオからは"女性"が大輪の花のように匂い立つのだ。そしてそれは、最年少で整合騎士に任ぜられたアリスにはついぞ会得する機会のなかった"技"でもある。
副騎士長ファナティオは、カセドラル五十階においてキリト及びユージオと闘い、キリトの記憶解放技に直撃されて瀕死の重傷を負った。しかしキリトは、苦労して倒したファナティオに治癒術をほどこし、さらに不思議な術式でどこかに転送してまで救ったのだという話を、アリスはその場に居合わせた下位騎士からの伝聞で知った。
いかにもキリトのやりそうな事だとは思うが――しかしやはり心穏やかではいられない。
だいたいこの人は、百年間ずっと騎士長一筋ですというわりには、自分に心酔している騎士を九人も直属部下にしているのだ。憧れるだけで永遠に手も触れさせられない彼らこそいい面の皮だ。せめて、四六時中銀面をかぶっていないで顔くらい見せてやればいいものを。
と、内心でぶつぶつ言ったその瞬間、ファナティオが両手を兜の側面にかけたのでアリスはぎょっとした。
ぱち、ぱちりと留め金が外され、薄紫に輝く装甲が無造作に引き上げられる。大きく広がった艶やかな黒髪が、夜空に流れて絹のように光った。
ファナティオの素顔を見る機会があったのは、カセドラルの大浴場で偶然行き会ってしまったときだけだった。このような衆人環視の場で副騎士長が面を取るのは記憶にあるかぎり初めてのことだ。
美貌にうっすらと白粉を刷き、唇に艶やかな紅を差したファナティオは、アリスににこりと微笑みかけると言った。
「久しぶりね、アリス。元気そうで嬉しいわ」
「…………」
"ね"? "わ"?
つい数秒間も絶句してしまってから、アリスはようやく挨拶を返した。
「お……お久しぶりです、副長」
「ファナティオでいいわよ。それより、アリス。小耳に挟んだんだけど……あの黒髪の坊やも、一緒に連れてきたそうね?」
何気なく発せられた言葉に、アリスは驚きを脇に押しやって、さっと警戒心を漲らせた。キリトとユージオに倒された整合騎士は多いが、そのなかでももっとも恨みを抱いていそうな者を挙げればこのファナティオだろう。アリスがカセドラルから出奔した半年前、もしファナティオが眠りから醒めていたら処刑論はもっとずっと高まっていたはずだ。
「は……、はい」
短く肯定だけしたアリスに、副騎士長は艶然とした微笑を浮かべたまま頷いてみせた。
「そう。なら、軍議のあとで少しだけ会わせてくれないかしら?」
「え……な、何故です、副、いえファナティオ……殿?」
「そんな顔をしないで。別にいまさら斬ろうなんて思ってないわよ」
微笑みに少しだけ苦笑を混ぜ、ファナティオは肩をすくめた。
「ただ、ひと言だけお礼が言いたいの。あの坊やが助けてくれたお陰で、私は今ここに居られるんだから」
「……でしたら、キリトに言う必要はないと思います。あなたを癒したのは、おそらく先の最高司祭、カーディナルという名のお方ですから。そしてあの方はすでに身罷られました」
どうしても疑わしい顔になりかけるのを苦労して抑えながらアリスがそう言うと、ファナティオは視線をすっと宙に向け、軽くうなずいた。
「ええ……おぼろげに憶えているわ。あのように暖かく、力強い治癒術は初めてだった。でも、私をあの方のところに送ってくれたのはやはり坊やなのだし、それに……もう一つ、別のことでも有難うと言いたいのよ」
「別……?」
「そう。私と戦い、倒してくれたことをね」
……やっぱり斬る気なのでは。
と身構えたアリスに、ファナティオは真面目な顔で、大きくかぶりを振った。
「本心よ。だってあの坊やは、整合騎士として生きたこの百年でたった一人、私を女と知ってなお本気で剣を振るった男なんだもの」
「は……? それは……どういう……」
「私も、昔はこんな分厚い兜を被らずに、あなたのように素顔を晒して戦っていたのよ。でも、ある日気付いてしまったの。模擬戦の相手をする男の整合騎士たち、それどころか命の取り合いをしている最中の暗黒騎士ですら、剣筋にわずかな気後れがあることにね。許せない、と思ったわ。私が女だから、勝てるのに勝たない――なんてことは」
それは――無理もないことだろう。素顔のファナティオから匂い立つこの色香を、無視できる男はそうそういるまい。この世界の男たちにとって、女とは守り愛しむものなのだ。そのように、魂に書き込まれているのである。ダークテリトリーの住民である暗黒騎士も、子を成し育てる以上例外ではあるまい。まるで外見の異なるゴブリンやオークは、もちろんまったく別だろうが。
しかし同じ女騎士であるアリスは、相手の遠慮など一切気にしたことは無かった。敵が気後れしようと全力を振り絞ろうと、自分のほうが遥かに強いという確信があったからだ。
そんなことに拘るのは、やはりあなたがどこまでも"女"である証左なのでは。
とアリスが内心独りごちたのと同時に、ファナティオがまったく同じことを呟いた。
「だから私は顔を隠し声を変え、敵を近間に入れない剣技と術式を身につけた。でも、それは、私もまた自分の性別にとらわれていたってことなのよね。あの坊やはそれを一発で看破したわ。その上で私と全力で斬り結んだ。素晴らしい一瞬だった……詰まらない拘りが全部飛んでいくほど、ね。要は、私が相手に変な遠慮なんかさせないほど強くなれば、それでいい話だったのよ。――その単純な事実に気付かせてくれて、その上私を生かしてくれた坊やに、お礼を言いたいと思うのは不思議ではないでしょう?」
真面目な顔でそう言ってのけたあと、ファナティオは少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「それに……やっぱり、少しだけ癪だしね。坊やが私にまるで"女"を感じなかった、っていうのも。だから、私の魅力で坊やが目を醒まさないか、試してみようと思って」
「な……」
何だと。
もしそれでキリトが覚醒したら今までの努力が空しすぎるではないか。そしてキリトの場合、その可能性が皆無だと言い切れない部分がある。
眉間が険しくなるのをもう隠さずに、アリスは尖った声で言い返した。
「お言葉は有り難いのですが、彼はもう休んでおりますし。ファナティオ殿のお気持ちは、私が明日確かに伝えておきますゆえ」
「あら」
笑みを消し、副騎士長もぴくりと切れ長の目尻を動かした。
「坊やに会うのに、あなたの許可が要るの? 私は、あなたが騎士長閣下に面会を求めてきたとき、私情で拒んだことは無いつもりだけど」
「それこそ、私が小父様……騎士長殿と会うのにファナティオ殿の許可は不要でしょう。だいたい、考えてみれば、男の騎士にコテンパンにして欲しかったのなら騎士長殿に頼めばよかったではないですか」
「あら、閣下はいいのよ。世界最強の剣士なんだから、万人に対して手加減して当然だわ。暗黒将軍にすら情けをおかけになったのよ」
「へえ、そうですか? 私との稽古のときは、小父様は汗だらだらになるほど本気でしたけど?」
「……閣下! いまのは本当ですか!?」
「そもそも小父様がこの人を甘やかすから……」
アリスとファナティオは、同時に横に向き直った。
無人であった。
つい数分前までは確かに騎士長ベルクーリが立っていたはずのその場所を、夜風に乗って枯れ草だけがかさかさと通り過ぎていった。
十分ほど遅れて開始された軍議は、進行を務める副騎士長ファナティオ・シンセシス・ツーと、新たに参陣した整合騎士アリス・シンセシス・フィフティの発する巨大な剣気のせいで、異様なほどに緊張した雰囲気のなか始まった。
手短に自己紹介を終えたアリスは、最前列に用意された携行椅子にどすんと腰を下ろした。
「……アリス様」
隣に座るエルドリエがそっと差し出してきたシラル水のグラスを、ひったくるように受け取って、冷えた甘酸っぱい液体をひといきに流し込む。長々と息をついて、どうにか気分を切り替える。
――それにしても。
やはり少ない。神器を装備する上位整合騎士は、よく見知った顔ぶれが騎士長たる"時穿剣"ベルクーリ、"天穿剣"ファナティオ、"星霜鞭"エルドリエ、そして"熾焔弓"のデュソルバート・シンセシス・セブン。加えて、名前程度しか知らない騎士が二名、それにアリスで合計わずか七名だ。
残りは、おそろいの白い鎧を着込んだファナティオ直属の"宣死九剣"と、番号の若い――と言ってもアリスよりは古株だが――四名の下位騎士。これが、この最終防衛線に投入できる整合騎士団の全戦力というわけだ。
対するに、一般民で構成される衛士隊の隊長たちは三十名ほどが列席している。危惧したよりも士気は低くないようだが、しかしやはり、一瞥しただけで整合騎士との剣力の差が見えてしまう。アリス自身は無論のこと、もっとも下位の騎士ですら三十人と立て続けに手合っても勝ち残るだろう。
「――四ヶ月に渡って、あらゆる戦法を検討してきましたが……」
いつの間にか話し始めていたファナティオの声が、アリスの意識を引き戻した。
「結局のところ、確実なのは、敵軍に包囲された時点で我が方の勝ち目は消えるということだけです」
天穿剣の細い鞘を指示棒がわりに、ファナティオは陣幕の手前に設えられた巨大な地図を示した。
「見てのとおり、果ての山脈のこちら側は、一万メル四方に渡って広大な草原と岩場しかありません。ここまで押し込まれたら、あとは十倍の敵軍に包囲殲滅されるのみでしょう。ゆえに、頼みの綱はこの、東の大門から続く幅百メル長さ千メルの峡谷しかありません。ここに縦深陣を敷き、敵軍の突撃をひたすら受け止め、削り切る。これを基本方針とします。これについて、何か意見はありますか」
さっ、と手を挙げたのはエルドリエだった。藤色の巻き毛を揺らして立ち上がった若者は、日ごろの洒脱さを抑えた声を宵闇に響かせた。
「仮に敵軍が、ゴブリンやオークからなる歩兵のみで構成されておれば、五万が十万でも斬り倒せましょう。しかし、それは彼奴らとても承知の上。ダークテリトリーには強力な弩弓を装備するオーガの軍団、さらに危険な暗黒術師団も存在します。歩兵の後背から浴びせられるであろうそれら遠距離攻撃にはいかなる対処を?」
「これは……ある程度危険な賭けですが……」
ファナティオは一瞬唇を止め、視線をエルドリエからちらりとアリスに向けてきた。思わず瞬きをしながら、続く言葉を待つ。
「……峡谷は、昼でも陽光が差さず、また植物がほとんど見当たらない。つまり、空間神聖力が薄いのです。開戦前に、それを根こそぎ消費してしまえば、敵軍は強力な術式を撃てなくなる」
ファナティオの大胆な意見に、騎士と衛士長がこぞってざわめいた。
「無論、それは我が方も同じこと。しかしこちらには、そもそも神聖術師は百名ほどしか居りません。術式の撃ち合いとなれば、神聖力の消費量は敵のほうが遥かに多いはず」
確かに、それはその通りだ。だが――ファナティオの作戦には、問題点が二つある。
絶句したエルドリエにかわって起立したのは、彼の遠距離戦の師、デュソルバートだった。赤銅色の鎧に身を包んだ威丈夫が、錆びた声で問いかける。
「成程、副長殿の慧眼には感服する。しかし、神聖術は攻撃のみに用いられるものではなかろう? 神聖力が枯渇してしまえば、傷ついた者の天命の回復すらできなくなるのではないか?」
「ですから――賭けと申しました。この野営地には、教会の宝物庫から聖具・霊薬のたぐいをありったけ運び込んであります。術式を防御や回復に限定すれば、それらだけを供給源としても二日、いや三日は保つはずです」
これには、先ほどを上回る驚きの声が軍議場に満ちた。神聖教会の宝物庫と言えば、数多のおとぎ話の素材になっているほどの厳封、禁足、絶対不可侵の代名詞だ。宝物が運び込まれこそすれ、持ち出されたのは人界史上初めてのことではなかろうか。
さしもの豪傑騎士も、厳つい顔に驚きの色を浮かべて押し黙った。彼が低く唸りながら着座するのを待って、アリスは意を決し立ち上がった。
「問題は……もうひとつあります、ファナティオ殿」
先刻の一幕のことは意識の外に押しやり、冷静な声で続ける。
「いかに供給が薄いとは言え、峡谷はまったき闇でもなく、はるか虚空でもない。あの空間には、すでに膨大な神聖力が満ちているとおもわれます。一体何者が、開戦前の短時間で、その力を根こそぎ使い尽くせましょう?」
短い静寂。
山脈を貫く谷間の広大さは、建物の一室とは比べ物にならない。そこに満ちる力を完全に枯渇させ得る術式の巨大さは想像を絶する。そのような力の持ち主など、それこそ――すでに亡き最高司祭アドミニストレータ以外ありえないのではないか。
しかし副騎士長ファナティオは、先ほどと同じ意味ありげな視線をもう一度アリスに向け、ゆっくり頷いた。
「居ます。たった一人だけ、それが可能な者が」
まさか。誰が――騎士長ベルクーリか?
しかし、続けて発せられたのは、アリスの思いもよらぬ名前だった。
「あなたです、アリス・シンセシス・フィフティ」
「え……!?」
「自分では気付いていないかもしれませんが……現在のあなたの力は、もう整合騎士をも超えています。今のあなたなら、行使できるはず……天を割り地を裂く、まことの神聖術を」
「それほど強力なのか、上位整合騎士とは?」
岩鱗竜二頭が牽く巨大な御座車に揺られながら、ガブリエルは尋ねた。
絹張りの長椅子でも震動は完全には消せないが、イラク戦争で散々味わったブラッドリー歩兵戦闘車の殺人的乗り心地に比べれば何ほどのこともない。傍らの小テーブルに置かれたワイングラスも、規則正しい波紋を生み出しているだけだ。
ガブリエルの足元で、毛足の長い絨毯にしどけなく寝そべる妙齢の美女は、包帯でぐるぐる巻きの右脚をさすりながら頷いた。
「あたくしの乏しい語彙では、とても連中の極悪さを余さず陛下に伝えられませんわ。そうですね……三百年近い戦いの歴史において、我らが闇の騎士や術師が、整合騎士を討ち取った例はただのひとつも無い、と言えばご理解戴けますかしら? もちろん、その逆は星の数ほどありますのよ」
「フムン……」
口を閉じたガブリエルに代わって、壁際であぐらをかき酒をボトルごと抱えたヴァサゴがいぶかしむ声を出した。
「でもよう、ディーのアネさんよ。その整合……騎士とかいう妙な名前の奴ら、そんなに強ぇならなんで逆にこっちに攻め込んでこなかったんだ?」
暗黒術師長ディー・アイ・エルは、皇帝に対するときよりもやや艶然とした笑みをそちらに向け、人差し指を立てた。
「いいご質問ですわ、ヴァサゴさま。彼奴らは確かに一騎当千の猛者ですが、それでもあくまで一騎に過ぎないのです。広大な空間で万軍に囲まれれば、かすり傷でも積もり積もって天命が尽きることも有り得る。ゆえに連中は卑怯にも、その危険が無い果ての山脈上空から決して出てこないのですわよ」
「へーえ、なるほどねえ」
本気で頭を働かせているのか疑わしくなる、好色な視線をディーの肢体に無遠慮に這わせながらヴァサゴが頷いた。
「アレだな、たとえメタルキングでも、こっちがどくばり装備二十人パーティーなら確実に……」
「は……? めた……?」
益体も無い例えを出すヴァサゴにじろりと一瞥を呉れてから、ガブリエルは軽く咳払いをして言った。
「ともかく、だ。要は、その整合騎士どもを、じゅうぶんに広い戦場に引っ張り出すかあるいは押し込めば力押しで殲滅できる、というわけだな?」
「理屈では、そうですわね。雑兵どもの犠牲は甚大でしょうけどね」
ディーはうふふ、と笑うと絨毯上の銀杯から毒々しい色の果実を一つとり、同じくらい真っ赤な唇で舐めるように含んだ。
言われるまでもなく、歩兵ユニットの損耗などガブリエルにはどうでもいいことだ。それどころか、眼下のディーを含めた全軍と引き換えに敵軍を撃破できるなら何の文句もない。これは、ヴァリアンス部隊で頻繁に行われるウォー・シミュレーションではないのだ。
双方の軍勢が一兵残らず相討ったあと、新たな支配者としてゆうゆうとヒューマン・キングダムに君臨し、全土に最初にして最後の命令を発する。すなわち、『アリスという名の少女を探し、連れてこい』。それで、この奇妙な世界におけるミッションは完了だ。
そう思うと、このエキゾチックな風味だが上等なワインの味わいも惜しくなる。ガブリエルはグラスを取り、大きく呷ると、口全体で愉しんでから嚥下した。
この時、ガブリエル・ミラーの脳裏にある"アリス"の姿は、酷似した名前を持つ彼の最初の獲物、アリシア・クリンガーマンの無垢で華奢な容姿と無意識のうちに融合していた。
ゆえに、ガブリエルはあるひとつの可能性に関する検討を怠ってしまった。
まったく想像もしなかったのだ――追い求める"アリス"が、騎士として敵軍を率いていようなどということは。
御座車を中核に据えた長大な軍列は、ゆっくりと、しかし確実に、西の果てを目指して行進を続けた。血の色の空のかなたに、鋸のように黒く聳える山脈の連なりが徐々にその姿を現しつつあった。
「じゃあ……よろしくお願いするわね、キリトのこと」
アリスは、年若い少女ふたりの顔を順に見つめながら言った。
初等練士、いやすでに一人前の剣士であるティーゼとロニエは、ぴんと背筋を伸ばして力強く頷いた。
「はい、お任せくださいアリス様」
「必ず、私たちが先輩を守りとおしてみせます」
さっ、と敬礼してから、ティーゼが左手を、ロニエが右手を、新造された車椅子の握りにかける。
灰白色に輝く細身の椅子は、物資天幕に余っていた全身鎧をアリスの術式で形状変化させたものだ。ルーリッドで使用していた木製車椅子と同程度の強度を持ち、しかし遥かに軽い。
とは言え、そこに座るキリトがしっかりと抱きかかえた二本の剣の重量まではどうしようもない。アリスはやや危ぶんだが、少女たちはさほど困難な様子も見せず、二人呼吸を合わせて椅子をごろごろと、天幕の敷革の上を一メルほども前進させてみせた。
これなら、たとえ全速撤退を命じられても遅れはするまい。――もっとも、峡谷から撤退を余儀なくされた時点で、守備軍はまるごと包囲殲滅されると決まったようなものなのだが。
本心を言えば、戦況に僅かなりとも危うさが見えた瞬間に、この二人にだけは全力で西に逃げるよう指示したい。だが、それは運命を数ヶ月、いや数週間先延ばしにするだけのことだ。東の大門が陥落した瞬間、ここ以外の山脈を護る十五名の騎士も撤退し、各地の村や街から住民を避難させつつ央都セントリアに最後の防衛線を引く手はずになっている。しかしそれも空しい抵抗というものだろう。最終的には侵略軍に蹂躙され、あの美しい都も、白亜のカセドラルも焼け落ちるしかない。果ての山脈という閉じた壁の内側に逃げ場などないのだ……。
アリスは屈みこみ、同じ高さからキリトの瞳を覗き込んだ。
野営地に到着してからの四日間、最後の望みをかけて、時間を見つけてはキリトに語りかけ、手を触れ、抱きしめてきた。しかし、ついに今日まで、反応らしい反応を引き出すことは出来なかった。
「キリト。……もしかしたら、これが最後のお別れになるかもしれないわ」
ごくごくかすかな囁き声で、アリスは黒髪の青年に語りかけた。
「小父様は、あなたがこの戦の行方を決めるような気がする、と言った。私も……そう思うわ。だって、この守備軍はあなたが造ったようなものですもんね」
実際、キリトとユージオが居なければ、今頃東の大門に布陣していたのは最高司祭アドミニストレータと整合騎士団、そしてあの忌まわしい剣骨兵に変身させられた無数の一般民だったろう。
すさまじい威力を発揮した剣骨兵が一万もいれば、たしかにダークテリトリー軍などものの数ではなかったはずだ。しかしそれは人界の滅亡と同義だ。キリトたちは、ひとつの命とひとつの心を犠牲にその悲劇を防いだ。
だが、このまま今の守備軍が敗北すれば、形は違えど巨大な悲劇が降りかかる。それでは、何のためにあの苦しい戦いがあったのか分からない。
「私も頑張る。天命を一滴残らず燃やし尽くしてみせる。だから……もし私が倒れて、最後の声であなたを呼んだら、きっと立ち上がって、その剣を抜いてね。あなたさえ目覚めれば、敵が何千、何万いようと関係ない。片っ端から斬り倒して、世界を守ってくれる。だって、あなたは……」
――あの最高司祭にすら勝ったんだから。三百年を生きた最強の術者、世の理さえも支配した半神人に。
胸のなかで呟き、アリスは両手を伸ばすと、ぎゅっと強くキリトの痩せ細った身体を抱き締めた。
一瞬とも数分とも思えた抱擁を解き、立ち上がったアリスは、見開いた大きな瞳に様々な感情を揺らして自分を凝視しているロニエに気がついた。なんだろう、と一瞬思ってから、すぐに悟る。
「ロニエさん。あなた……好きなのね、キリトのこと」
微笑みながらそう言うと、焦茶色の髪の少女は左手をさっと口元にあて、頬から耳までを真っ赤に染めた。何度も瞬きしてから視線を伏せ、消え入るような声で呟く。
「い、いえ、そんな……畏れ多い……私なんか、ただの傍付き初等練士ですから……」
「畏れ多くなんかこれっぽっちもないわよ。だって、ロニエさんは爵士家の跡取りなんでしょう? 私なんか辺境のちっちゃい村の生まれだし、キリトは出身地もよくわからない無登録民……」
笑いを含んだ声でそう続けたアリスの言葉を、不意にロニエが激しくかぶりを振って遮った。
「違うんです! 私は……もう……」
長い茶色の睫毛に、大きな水滴を溜めたロニエは、一瞬傍らのティーゼに視線を向けて唇を震わせた。見れば、ティーゼのほうも沈痛な表情を作り、左手でしっかりとロニエの身体を抱いている。
絶句したロニエに代わって、ティーゼが紅葉色の瞳を伏せたまま、掠れた声で話しはじめた。
「アリス様は……キリト先輩とユージオ先輩が犯した禁忌を、ご存知ですよね?」
「え……ええ。学院内での諍いにより……ほかの学生を殺めた、と聞いたわ」
半年前、いまだ疑うことを知らぬ教会の守護者だったアリスのもとに元老院からの捕縛命令が降りてきたときの、小さいとは言えぬ驚きは今も覚えている。一般民がおなじ一般民を殺害したなどという重大な禁忌違反は、史書のなかにすら見出せないものだったからだ。
「では、先輩たちがなぜその禁忌を犯すに到ったか、については……?」
「いえ……そこまで……は……」
首を振りかけたアリスは、不意に耳奥に蘇ったひとつの叫び声に、はっと息を飲んだ。
あれは、キリトとともにカセドラル外壁から放り出され――罪人の助けは要らないと喚くアリスに向って、彼が叫んだ言葉……。
『――禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!』
そうだ、私はこの二人の名をあのとき聞いていた。
上級生、とはキリトたちが斬った学生のことだろう。そして、陵辱――とはつまり――。
目を見開いたアリスに対して、ティーゼはきつく唇を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。
「あたしたちは……憤りのあまり我をわすれて、上級修剣士に対する逸礼という学院則違反を犯してしまいました。その結果、貴族間賞罰権規定を適用され……」
思い出すのも苦痛なのだろう。ティーゼの声が詰まり、ロニエは俯いたまま低くしゃくりあげた。もうそれ以上言わなくていい、そう思ってアリスは手を挙げて止めようとしたが、ティーゼは目でいいえと言って再び話し始めた。
「私たちは汚され、キリト先輩とユージオ先輩はそんな私たちのために剣を振るいました。私たちがもう少しだけ賢かったら、あの事件は起きなかった。先輩たちが、法を正すために教会と戦い命を落とすこともなかったんです。私たちは……もう二度とすすげない汚れと罪を背負ってしまった。だから……口が裂けても、先輩たちのこと、好きだなんて言えないんです」
そこまでを吐露し終え、ついにティーゼの目にも涙が溢れた。幼い少女たちは互いに抱き合い、その年齢には重過ぎる悔恨と屈辱の嗚咽を低く漏らした。
アリスはきつく奥歯を噛み締め、天幕の梁材を見上げた。
四帝国上級貴族の腐敗ぶりについては知っているつもりだった。飽食と蓄財、そして邪淫。
だが、かつての整合騎士アリスは、それら行状を詳しく知ることで自分さえも汚されるような嫌悪感を覚え、あえて目を逸らしていたのだ。一般民が何をしようと、それが禁忌に触れぬかぎりは関係ない――神界より召喚された、人の子ならぬ己には。そう信じ続けていた。
しかしそれこそが罪だったのだ。キリトが憎んだ、禁忌目録には触れないがそれゆえに巨大な罪。
アリスは大きく息を吸い、吐いた。今の自分に出せる、もっとも毅然とした声で少女たちに語りかける。
「いいえ、違うわ。あなたたちは汚されてなんかいない」
さっ、と顔を上げたのはロニエだった。いつもティーゼの陰にかくれている印象のある少女が、今だけは道場で対峙する剣士のように瞳を燃やして叫んだ。
「アリス様には……貴い整合騎士のアリス様には分かりません! 私たちの体は……あいつらに……何度も、何度も……」
「体はただの容れ物に過ぎない! いえ、それ以下の、私たちの心が作り出すあいまいな境界でしかない! 大事なのは――」
握った右拳で、強く胸の中央を叩く。
「心です。魂だけが唯一確かに存在するものです。いいですか……見ていなさい。これは術式ではありません」
アリスは眼を閉じ、意識を集中した。
一週間前、ルーリッドが襲撃されたおり、アリスは一時的に整合騎士の鎧を創り出し身にまとった。あまりにも強く、烈しく念じればそのようなことが起きるのは、最早事実として感得している。
だが、いまはそれだけでは足りない。自分の生身の肉体をも、思念によって変化させねばならない。
できるはずだ。かつてキリトが見せてくれたではないか。アドミニストレータの前に、二刀を握って立ったキリトは、確かに彼であって彼でない姿に変じていた。
戻るのだ。九年前の自分に。
見知らぬ巨大な塔のなかで記憶を失って目覚めた不安と寂しさを打ち消すために、ひたすら分厚い氷の鎧で心を覆ってしまうまえのアリスに。
私も、あなたたちと同じなのよ、ロニエ、ティーゼ。人の子として生まれ、多くの誤りを犯し、巨大な罪を背負って、今ここに居る。ユージオが人を殺めたのがあなたたちのせいだと言うなら……それ以前に、九年前の私がささやかな禁忌に触れなければ、そもそもユージオたちが央都を目指すことも無かったのだから。
そう――ほんとは、わたしのせいなの。
アリスは目を開けた。
直立しているのに、目の前にキリトの俯けられた顔があった。
見上げると、呆然と自分を見下ろしているティーゼとロニエがいた。
「……ね? 体は、心の従属物なのよ」
自分の唇から流れた声は、驚くほど高く、幼かった。青いドレスの上に重なる白いエプロンをぽんぽんとはたき、絹糸のような金髪をなびかせながらくるりと一回転して、アリスは続けた。
「そして心は誰にも汚されない。私はこの齢のとき、術式で魂を刻まれ、記憶を操作されて整合騎士になったわ。でも、その心がいまの私なの。私はいまの自分が好きよ」
小さな両手を持ち上げ、アリスはロニエとティーゼの手を同時にきゅっと握った。
ぽたり、ぽたりと頬に落ちてきた少女たちの涙が、先ほどとまったく異なる色をしていることを、アリスは幼子の瞳で見てとった。
どどろん。
どどろん。
地面を揺るがす重低音は、ジャイアント族が打ち鳴らす竜革の太鼓だ。
巨大な心臓の鼓動に圧される無数の血球のように、攻撃部隊が最終陣形を展開させていくさまを、最後方の御座車から皇帝ベクタ=ガブリエルは無言で見守った。
先鋒は、ゴブリンの軽装兵とオークの重装兵が計一万。果ての山脈に穿たれた峡谷の幅にぴったり合わせて縦隊を組ませている。隊列の各所には、まるで攻城塔のごときジャイアントの巨体も配置されており、数はおよそ五百と少ないが、歩兵部隊を援護する主力戦車としての活躍が期待できるだろう。
亜人種混成部隊の後ろには、五千の拳闘士団、同じく五千の暗黒騎士団が第二陣として控える。新たに暗黒将軍を襲名した若い騎士は、先代の汚名を雪ぐつもりか先陣を希望したがガブリエルは退けた。騎士ユニットは全体的な士気の低下が予想されたので、その不確定要素を排するためだ。
第三陣は、オーガの弩弓兵七千と、女性ばかりの暗黒術師団三千。これは、歩兵の後ろから峡谷に突入させ、遠隔攻撃によって敵軍を殲滅するのが役目だ。術師総長ディーによれば、たとえ遠距離からでも、敵の主軸――整合騎士の姿さえ視認できれば、火力を一点集中することで斃し得るという。
正直なところガブリエルは、無敵とすら称されるその騎士たちと直接戦闘してみたい、そしてその魂を喰らってみたいという欲望を感じないでもなかった。しかし、何らかの突発的事態によってこのアカウントを喪っては元も子も無いし、アンダーワールド人、つまり人工フラクトライトは後にいくらでも生産できる。いまは"アリス"を押さえ、オーシャンタートルから脱出するのが先決だ。
内部時間にしてすでに八日、現実世界では十五分近くが過ぎ去っている。今後、ヒューマンキングダムを完全支配し、アリス捜索の命令を世界すみずみにまで伝達するのにさらに十日ほどはかかろう。そう考えれば、この戦争は可能な限り速やかに――最長でも丸一日ほどで片付けたい。
「あーあ、結局オレっちは出番なしっスかねえ、兄貴?」
隣で何本目かのワインボトルを抱えたヴァサゴがぼやいた。ちらりと視線を流し、少しばかり辛らつな口調で指摘する。
「見ていたぞ。お前、あのシャスターという騎士がミューテーションしたとき、オレを放って真っ先に逃げたろう」
「うへ、さすがは兄貴。見てますねぇー」
悪びれる様子もなく、ヴァサゴはにやりと笑った。
「いやぁ、あのオッサン本気すぎてちょっと引いちまったんスよ。ドンビキっすよ」
しばし横目で、ヒスパニックの若者の整った顔貌を眺めたあと、ガブリエルは短く問うた。
「ヴァサゴ、なぜこの任務に志願した?」
「へ? アンダーワールドへのダイブっすか? そりゃ勿論面白そうだから……」
「その前だ。オーシャンタートル襲撃任務……いや、違うな。なぜ今の仕事を選んだ? 警備会社の非合法活動部門などと……リスクばかりが大きい職場だろうに。お前の齢なら、ハンスやブリッグのような中東帰りの"戦争の犬"というわけでもあるまい」
ガブリエルにしては長い質問だったが、もちろん、ヴァサゴ・カザルスという人間に心底からの興味を抱いたわけではない。ただ、この若者の軽薄な態度の下に、何かがあるのか、それとも無いのかとふと思っただけだ。
ヴァサゴはひょいと肩をすくめ、同じっすよ、と答えた。
「そっちもやっぱり、面白そうだから……っス。そんだけっすよ、マジで」
「ほう……」
面白いのは何がだ? 銃が撃てること? それとも人を殺せることか?
そこまで聞くか、それとも会話を打ち切るかガブリエルが少し考えたそのとき、階段からこつこつと杖の音が響き、限界まで浅黒い肌を露出した美女――暗黒術師総長ディーが現れた。
恭しく一礼してから、唇をちろりと舐めて報告する。
「陛下、全軍の配置、完了いたしましたわ」
「うむ」
ガブリエルは組んだ脚を解くと玉座から立ち上がり、ぐるりと眼下を眺めた。
前方に展開する主力三万のほかに、主にゴブリンとオークからなる予備兵力一万七千、それに商工ギルドが受け持つ輜重部隊三千が御座車の左右に待機している。
この、総数五万に及ぶ軍隊が、ダークテリトリーに存在する兵力のすべてだ。その数は実に全人口の半分に及び、銃後に残っているのは女子供と老人だけだ。
だから、仮に五万ユニットを全損してなお敵の守りを破れなかったときは、計画の根本的な修正を余儀なくされる。と言うよりも、アリス確保の可能性はほぼ断たれる。
とは言え敵軍は、偵察の竜騎士によれば多くとも五千の規模だという。つまり整合騎士とやらさえ計画どおり排除できれば、敗北は有り得ない。
「……よし、ご苦労。大門の崩壊まではあとどれくらいだ?」
「おおよそ三時間でございます」
「では、一時間後に第一陣を峡谷に進入させろ。大門の手前ぎりぎりまで展開させて、崩壊と同時に一斉突撃。戦線を押し上げられるようなら、即時弓兵と術師を投入して一気に敵を殲滅するのだ」
「はっ。……一時間とかけずに敵将の首級をお持ちして見せますわ。もっとも、黒焦げになってしまうかもしれませんけど」
うふふ、とディーは微笑んでみせた。背後に控える伝令術師たちに早口で指令を伝え、深く一礼して階段を降りていく。
ガブリエルは巨大四輪車の前部に歩み寄ると、まっすぐ正面に屹立する巨大な石門を眺めた。
まだ二マイルほども先にあるはずだが、すでに頭上に圧し掛かってくるかのような存在感を発揮している。あの質量の塊が丸ごと崩壊するさまはさぞかし見ものだろう。
しかし、真の饗宴はそこから始まる。弾けては消える数千の魂は、きっと途方も無く美しい煌きを放つに違いない。オーシャンタートルのアッパーシャフトに立てこもるK組織のスタッフ連中は、自分たちがスケジュールした最大のスペクタクルを大モニタで見物できないことを悔しがっているだろうか。
どどろん。どどろん。
どん、どっ。どん、どっ。
テンポを速めた戦太鼓が、荒野を濃密に覆う餓えと猛りを、いっそう駆り立てていくようだった。
新たに支給された黄金の胸鎧と篭手を、アリスは入念に革帯を締めながら装着した。
"変身"が短時間で解除されてよかった、と考え、少し可笑しくなる。あの姿のまま前線に現れたら、副騎士長たちはさぞかし慌てただろう。
純白の、艶のある革製長スカートの上にも、黄金の小片をいくつも組み合わせた直垂を着ける。仕上げに金木犀の剣を左腰に吊るすと、カセドラル時代以上にきらびやかな騎士装が出来上がり、アリスはわずかに眉を顰めながら姿見を覗き込んだ。
薄暗い物資天幕に、山吹色の光源を積み上げたかのような有様だ。開戦は日没とほぼ同時の予定なので、宵闇にこの姿はさぞ目立つだろう。だがそれでいい。少しでも敵を引き付け、衛士たちやほかの騎士の損耗を軽くするのがアリスの役目だ。
最後に軽く髪を梳き、整えてから、アリスは涼やかに具足を鳴らして天幕を出た。
待ち構えていたように、エルドリエが駆け寄ってきて感嘆の声を漏らす。
「おお……素晴らしい……ソルスの光輝を凝縮したがごとき……まさにこれこそ我が師アリス様……」
「どうせ一時間も戦えば土埃に塗れます」
素っ気無く言葉を遮り、西空を見上げる。
陽光はすでに朱色へと変じつつある。地平線に消え去るまではあと三時間というところか。それと時を同じくして、ついに東の大門の天命が消滅する。三百年の封印が解けるのだ。
やれるだけのことはした。
この五日間、アリスも衛士隊の訓練に合流したが、彼らの練度はたった半年とは思えないほどの段階に到達していると思えた。驚いたのは、すべての者が、人界には存在しなかったはずの連続剣技を身につけていたことだ。
聞けば、副騎士長ファナティオがひそかに磨いた技を皆に特訓したのだという。最長でも五連撃までらしいが、本能のままに振るわれるゴブリンやオークの蛮刀相手には心強い武器となるだろう。
無論、独自の連続技体系を持つ暗黒騎士が出てくれば衛士には荷が重い。更に高速の連撃を持つらしい拳闘士も含めて、そのときは整合騎士が相手をするしかない。
要は、当初押し寄せるであろう亜人たちの大軍勢を最小の損耗でしのぎ切れるかどうかだ。
そして、それは即ち、弩弓と暗黒術の遠距離攻撃を防ぎきれるかどうかでもある。
その成否は、今やアリスひとりの能力にかかっている――。
視線を空から下ろすと、後方の補給部隊が最後の食事を煮炊きする煙が、幾筋も立ち上っているのが見えた。
あの下に、ロニエとティーゼ、そしてキリトがいる。
護る。なんとしても。
「……アリス様、そろそろ……」
エルドリエの声にうなずき、アリスは片足を引いた。
ふと思いつき、ただ一人の弟子にじっと視線を注ぐ。
「な、何か?」
戸惑ったように瞬きする、薄い色の瞳をじっと見つめ、アリスは引き締めていた唇をわずかに緩めた。
「……これまで、よく尽くしてくれましたね、エルドリエ」
「は……な、なんと!?」
唖然と立ち尽くす白銀の騎士の左手に、そっと自分の右手を添え、続ける。
「そなたが傍に居てくれたことは、私にとっても救いでしたよ。最初の師デュソルバート殿に叩頭してまで私の指導を欲したのは……幼かった私を案じたから、そうなのでしょう?」
整合騎士の老化は、基本的に凍結されている。しかし九年前、わずか十一歳にして騎士になったアリスは、天命が充分に増加するまで凍結処理を受けなかった。
今でこそ外見的にはエルドリエとほぼ同年齢だが、彼がアリスに師事した四年前には、さぞかし心細げな少女に見えたことだろう。まさにその年頃のティーゼたちと触れ合った今なら、それがわかる。
「とっ……とんでもない、そのような不遜なことは断じて! 私はただ、アリス様の剣技の見事さに心底敬服したがゆえにっ……」
白皙に血の色をのぼらせて否定するエルドリエの手を一瞬ぎゅっと握り、離して、アリスは今度こそしっかりと微笑んだ。
「そなたが支えてくれたから、私は倒れることなく今この場所まで歩き続けることができました。有難う、エルドリエ」
数瞬絶句した若き騎士の目に、突然、大きな涙の粒がわきあがった。
「…………アリス様……なぜ……できました、などと」
ごく細く、掠れた声がそう問うてくる。
「なぜ、道がこの地で終わってしまうような言い方を……なさるのです。私は……私はまだ、まるで教わり足りませぬ。まだあなたの足元にも達していない。これからも、ずっと、ずっと私を鍛え導いていただかねばなりませぬ……!」
伸ばされた、震える右手が自分に触れる寸前――。
アリスは、打って変わって厳しい声で叫んだ。
「整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス!」
「は……はっ」
ぴたりと手を止め、騎士が直立不動の姿勢を取る。
「師として最後に命じます。……生き抜きなさい。生きて平和の訪れを見届け、そして取り戻しなさい。そなたのまことなる人生と、愛する者を」
カセドラル最上階には、アリス以外のすべての整合騎士の"奪われた記憶"と"愛する者"がいまも封印されている。それらをあるべき場所、かたちに戻すすべはかならずあるはずだ。
直立したまま、滂沱の涙をこぼすエルドリエに強く頷きかけ、アリスはばっと身を翻した。黄金の髪と純白のスカートが、刻一刻色を深める大気を眩く切り裂いた。
まっすぐ目の前に、暗く沈む峡谷と"東の大門"が見える。
これからアリスは、生涯最大最長術式の詠唱に入る。ソルスからの供給が停止した空間神聖力を一滴あまさず凝集し、敵軍に痛撃を加えるために。
もし、わずかにでも意識集中を損なえば、神聖力が暴発しアリスの存在を一片も残さず消し飛ばすだろう。
だが、もう恐怖も心残りもない。整合騎士アリスとして、ベルクーリやエルドリエたちの愛情を受け、またルーリッドのアリスとしても、妹シルカとともに半年も暮らすことができた。
そして何より、ユージオとキリトという奇跡の剣士たちと出会い、戦い、触れ合うことで、人としての感情を――哀しみ、怒り、それに愛を知ったのだ。これ以上何を望もう。
アリスは、音高く装備を鳴らしながら、開戦を待つ守備軍の中央を一歩一歩まっすぐに進んでいった。* 無尽蔵に湧いて出るとすら思える平地ゴブリン族の波状攻撃に、デュソルバートは焦燥と消耗の色を深めていた。
無論、ゴブリンの兵卒如き何匹連続で相手にしようとも後れを取るものではない。事実彼の視界内には、斬られ、射抜かれ、灼かれた亡骸が山と積み上がっている。
しかし、広く横一線となって押し寄せる敵軍を、独りで同時に迎え撃つのは不可能だ。どうしても大部分は一般民の衛士たちに任さざるを得ない。
個々の練度と装備を比較すれば、ゴブリンよりも衛士のほうがかなり高いだろう。半年間の厳しい訓練によって身に彼らが身につけた"連続剣技"は、ゴブリンが遮二無二振るう蛮刀よりも確実に疾く、鋭い。だが、その実力差は、整合騎士とゴブリン兵の圧倒的乖離と比べればはるかに不確実なものだ。やはり足りない――敵兵が撒き散らす獣の如き殺気と、そして恐るべき多数というふたつの要素をひっくり返すには。
自分の身に備わった、常軌を逸して強大な力を百に分割し、衛士たちに分け与えたい――とデュソルバートは痛切に感じた。そのほうが、この戦場ではどれほど有効に機能するか。
しかし無論、そのような術式は存在しない。
貴重な衛士たちは、ある者は複数のゴブリンに飛びかかられ、ある者は疲労の極に達し、そしてある者は不運にも足を滑らせて、次々と命を落としていった。彼らの悲鳴が戦場に響くたびに、デュソルバートは自らの天命が激しく削られていくような気すらした。
これが、大規模複数戦闘。
これが、戦争というものか。
犠牲者零が当然であり前提条件ですらあった、これまでの闇の勢力との戦いとはまったく異なる。必然的に発生する死者の数を、冷徹に織り込んだうえで展開される醜悪な消耗戦。
この戦場には、誇りも、高潔さも、それどころか"闘い"すらも存在しない。
ここにあるのはただの"殺し合い"だ。
まだか。
まだ後方から部隊交代の命令は出ないのか。
開戦から何分が経過したのかもすでに分からなくなっていた。デュソルバートは闇雲に右手の長剣を斬り払い、少しでも間合いが開くや鋼矢をごっそり掴み出して乱れ撃った。いつしか冷静さも、判断力も失われ、彼は敵兵の一部が奇妙な行動を取り始めているのに気付かなかった。
平地ゴブリンの新族長シボリは、山ゴブリンの長コソギと較べてはるかに愚鈍で、凶暴で、そして残忍だった。
当初シボリは、敵軍を率いるという整合騎士なる存在について、眉唾もののお伽噺に出てくる悪魔くらいにしか認識していなかった。所詮は白イウム一匹、荒地で大型獣を狩るときのように囲んで潰せばそれで終わるとたかをくくっていたのだ。
しかしいざ蓋を開けてみれば、悪魔というだけあって実にタチが悪く、どれだけ手勢を突撃させてもさっぱり近寄れない。大爆発する火矢はもちろん、普通の矢も驚くほど正確かつ強烈に兵たちの脳天や心臓を貫いてくる。
さてどうしたものか。
しばらく考えたあげく、シボリが出した結論は至極単純かつ無慈悲なものだった。
つまり、悪魔の矢が尽きるまで待つことにしたのだ。
――とは言え、無為に突撃させられる兵たちもまた、当然のように『たまったものじゃない』と考えた。彼らの中には、シボリより知恵の回る者もそれなりに居て、抗命とはいかぬまでも出来るかぎりの工夫はすることにした。
斃れた仲間の死骸を両手で掲げ、自分は頭を縮めて、悪魔からつかず離れず矢を射掛けさせはじめたのである。
デュソルバートも、これが開戦直後であれば、そのような単純な策など即座に見抜いたはずだ。しかし、力尽きていく衛士たちの断末魔が彼の冷静さを、本人も気付かぬうちに削り取っていた。さらに夜戦であることも、ゴブリンらを利した。
――おかしい。敵が倒れるのが、やけに遅い。
とデュソルバートが気付いたときには、充分すぎるほど用意させたはずの鋼鉄矢が、あろうことか尽きつつあった。
「よーしよし、やっとこ矢ぁが切れやがったな」
シボリは両肩に担いだ蛮刀の峰で、ごりごり首筋を掻きながらほくそ笑んだ。
部族の兵が、前線に文字通り人垣となって骸を晒している光景など、彼の精神には一抹の圧迫も与えなかった。かつての酸鼻極まる"鉄血の時代"を潜り抜けた先祖たちが残した、"戦争への耐性"ゆえの強靭さだった。
兵は三分の一がとこやられたようだが、まだ二千以上残っている。後方には予備戦力も残っているし、白イウムどもの国を滅ぼしてたっぷりの肉と麦を手に入れれば、部族はいくらでも殖やせるのだ。
しかし広い領土を得るためには、それなりの手柄も立てなければならない。悪魔の首を二、三個取ればよかろう。
「うっしゃ、いくぞテメェら。あの悪魔を囲んで掴んで引き倒せ。首はこのシボリ様が落とす」
周囲を固める、いずれも屈強、粗暴な側近たちに顎で指示し、シボリはうっそりと歩を進めた。
「くっ……不覚……」
デュソルバートは低く呻いた。
ようやく、離れた暗がりでひょこひょこ動いていた敵兵が、死骸の案山子であることに気付いたのだ。
頭や心臓ではなく足元を狙ってそれらを操るゴブリンを仕留め、背後の大矢筒を探った手が、空しくなめし皮の底を擦った。
矢が無くては、熾焔弓もただの長弓と何ら変わらない。熱素と鋼素から生成することは可能だが、それは充分な間合いのある、しかも一対一の闘いでのみ有効な技だ。そもそもこの戦場では、余剰な空間神聖力はほぼすべてが上空の整合騎士アリスに吸収されて、大気はからからに渇いているはずなのだ。
歯噛みしながら熾焔弓の弦を左肩に引っ掛け、デュソルバートは再び腰から剣を抜いた。
まさにその時、前方の薄闇から、足音も重苦しく急接近してくる一際逞しい一団が見えた。
これまで相手にしてきた雑兵とは明らかに出で立ちが異なる。胸から腰を、分厚い板金を連ねた鎧で覆い、恐ろしく長く太い上肢は鋲を打った革帯が固く巻かれている。握っているのは、野牛でもまるごと裁けそうな肉厚の大鉈。
その、隊長格と思しき七匹の後ろに、さらに巨躯の――ほとんどオーガにも近い体格を持つ一匹が控えているのをデュソルバートは認めた。
鋳物ではなく鍛鉄の鎧や、両手の大段平、頭に揺れる極彩色の飾り羽を見るまでもなく、それがこの一軍の指揮官であることは即座に知れた。
突き出た額と、ひしゃげた鼻梁の奥に赤く輝くゴブリンの長の両眼と、デュソルバートの鋼色の双眸が見合わされた瞬間、周囲の空間がぎしりと密度を増した。絶え間なく撃ち合わされていた剣と蛮刀が、徐々にその音を間遠にしていき、やがて途絶えた。
衛士たちも、ゴブリンたちも無言で間合いを取り、固唾を呑んで双方の将の対峙を見守った。
デュソルバートは、駆け寄ってこようとする数名の衛士らを左手で制した。右手の剣を油断なく構えながら、低く錆びた、しかしよく通る声で問う。
「貴様が暗黒界十候の一……ゴブリンの長か」
「おうよ」
巨躯の二丁段平が、ざくっと片足を鳴らして立ち止まり、黄色い牙を剥き出して応えた。
「平地ゴブリン族長、シボリ様だ」
デュソルバートは、荒い息を懸命に静めようとしながら、敵将を真正面から睨み付けた。
こいつだ……こいつを倒せば、敵軍はいっときにせよ瓦解する。その機を逃さず戦線を押し込めば、先陣の役目は果たしおおせる。
たとえ、神器が使えなくとも。
たとえ十候を含む八対一でも、かくなるうえは必勝あるのみ。整合騎士は一騎当千――ここでその真なるを顕さずして如何せん!
「吾は整合騎士、デュソルバ……」
高らかに名乗りかけた声を、野卑な叫びが断ち切った。
「おおっと、獲物の名前なんざ興味ねえ! おめぇは肉だ、俺様が取る首級にくっついた邪魔っけな肉だ!! おら……てめぇら、かかれ!!」
ウ――――ラアアアアアッ!!
凶暴な鬨の声を唱和し、七匹の精鋭ゴブリンが一斉に襲い掛かってくるのを、デュソルバートはすうっと息を吸いながら見つめた。
剣士の誇りを持たぬ奴ばらならば、あのまま"戦争"をしていればよかったものを――このような"決闘"の真似事をしようなどと、
「笑止!!」
あらゆる整合騎士は、鞭使い、槍使い、そして弓使いである以前に剣士である。
デュソルバートが右手の長剣を大上段に構え、一気に振り下ろすその挙動を、しかと視認できた者はその場には一人も居なかった。
仄白い光芒を引く無音の斬撃が完了した数瞬あとに、ぴきん、と微かな音が響き、先頭のゴブリンが頭上に掲げていた蛮刀が真っ二つに分断された。
ぶしゃっ!!
直後、そのゴブリンの背中に赤い筋が出現し、そこから大量の鮮血が迸った。
一匹目が倒れるより、いや己の死に気付くよりも疾く、デュソルバートは次撃を繰り出した。
ファナティオや、かつて戦った反逆者たちが操ったような連続剣技ではない。あくまで伝統的な、構え・斬撃・構えを繰り返す古い流派だ。しかしその技は、無限にも等しい年月の間に磨かれ、練られ、神速の域にまで達していた。これに追随できるのは、一握りの暗黒騎士だけだろう。
事実、ほとんど同時に左側から斬りかかったはずの二匹目も、その獲物をようやく振り下ろしはじめたあたりで板金鎧ごと心臓を断ち割られ絶命した。
圧倒的、としか言えない実力差だ。
しかし、精鋭ゴブリンたちは臆するということを知らなかった。長シボリもまた彼らにとっては恐るべき上位者であり、その命令に抗うという選択肢は存在しないのである。
同族が撒き散らす血煙を浴びながら、デュソルバートの真横に回りこんだ二匹が左右から同時に襲い掛かった。
しかし、歴戦の騎士はいささかも慌てることなく、まず左のゴブリンを真下から一直線に斬り上げ、弦月の弧をなぞるような軌道で滑らかに背後へと撃ち降ろした。右の敵は、逆に額から腹までをすぱっと裂かれる。刹那の一挙動で前後の敵を両断する、まさに神業だ。
残り三、いや将を入れて四。
同時に来るか、それとも連続か。
赤黒い血飛沫を宙に引きながら、デュソルバートは次の構えに入った。
視界左、五匹目が愚直に斬りかかってくる。他方向に刃の光は無い。
「ぬん!」
短い気合とともに、大きく引いた剣を袈裟懸けに払い下ろす。
銀光の弧を描き、剣尖が敵の左肩へ――。
そこで、デュソルバートは信じがたいものを見た。
彼の斬撃とまったく同時に、敵ゴブリンの右肩ごしに出現した蛮刀が、まっすぐ振り下ろされてくる!
その刃は、いまだ息のある仲間の肩から胸を断ち割りつつ、近接するデュソルバートの首筋へと。
回避も、受けも不可能。
咄嗟に判断し、掲げた左腕に、がつっと分厚い大鉈が食い込んだ。
痺れるような衝撃。手甲が砕け、肉が裂かれ、刃が骨にまでも届く。火花のような激痛。
「く……おおッ!!」
驚愕を気合で塗りつぶし、デュソルバートは強引に敵刃を左へ受け流した。ごっき、と鈍い音が響き、左腕の骨が完全に砕かれたことを告げた。
たかが――片腕!!
全精神力を振り絞って、斬撃途中の剣を止めたデュソルバートは、それをそのまままっすぐ突き込んだ。捨石となった五匹目の身体を貫通した剣が、その向こうで仲間ごとデュソルバートを攻撃した六匹目の身体を捉えた。
しかし、手応えが浅い。
早く剣を抜き、距離を取り、次撃の構えに繋げねば。
いつしか額に汗を浮かべながら、デュソルバートは一気に剣を引き戻した。
絶息し、ぐらりと倒れるゴブリンの体の向こうに見えたのは――。
武器を捨て、地を這うように両腕を広げて飛びかかってくる、残る二匹の姿だった。
そして、そのような、まるで土下座するがごとき体勢にある敵を攻撃し得る型は、身につけた流派には存在しなかった。
一瞬の戸惑いは、充分すぎるほど致命的だった。
がっ、がしっ! と両脚が同時に敵に抱え込まれた。凄まじい膂力に、一秒と踏み止まれずデュソルバートは地に引き倒された。
首をもたげ、見開いた両眼の先に、これ以上はないほどの残忍な喜悦を浮かべ、両手の大段平を振りかざし飛びかかってくる敵将シボリの巨体が見えた。
まさか――こんな――ところで。
整合騎士が。このデュソルバートが。有り得ない――。
"有り得ない"。
その思考が、この世界に生きる者にとってとてつもなく危険なものであることを彼が知りようはずもなかった。瞬時に凍りついた意識が、デュソルバートの動きを完全に封じた。
金縛り状態に陥り、ただただ迫り来る死の刃を見つめることしかできない騎士の耳に――。
響いた、雄々しい叫び。
「騎士どのぉぉぉぉっ!!」
敵将に向って右手から突っ込んでいくのは、あの偉躯の衛士長だった。名前すらまだ聞いていない若者は、両手に握った大剣を振りかざし、渾身の、正統的な、それゆえにあからさまな大技を放とうとした。
対して、シボリは小五月蝿そうな渋面を作り、無造作に左手の段平を斬り払った。
ガギン!!
鈍く、けたたましい金属音が響いた。
シボリとほぼ同等の体格を持つ衛士長が、まるで紙人形のように吹き飛ばされ、地面に激突し、二転、三転した。技術、速度、装備の差をいとも容易く覆す、圧倒的な膂力だ。
赤くく光る獣の眼が、すうっと細められた。残忍な喜悦を振りまきながら、空中でひょいっと段平を逆手に持ち替え、いまだ立てない衛士長に止めを刺そうと――。
だめだ。
これ以上の犠牲は、
容認できない!!
その一瞬の思考が、デュソルバートの硬直した魂を、灼けた鉄棒のようにまっすぐ貫いた。
両足を拘束するゴブリンを振りほどき、立ち上がり、移動する時間はもうない。右手の剣を投げつける、いやそれも結果を数秒遅らせるだけだ。
どうすれば、と考えるよりも速く、右手と左手がほとんど自動的に閃き――彼は、百年の生ではじめて行うことを、これまで考えすらもしなかったことをした。
砕けた左手で水平に構えた熾焔弓に、右手の剣をつがえて、強く引き絞ったのだ。
まるで、大地に繋がれた縄を引くような、凄まじい手ごたえ。意識を根こそぎ吹き消すほどの激痛。
しかしデュソルバートは、割れ砕けよと奥歯を食いしばり、一気に発射態勢を取ると、叫んだ。
「焔よ!!!ッ」
ゴアアアッ!!
吹き上がった火柱の凄まじさは、かつて発動した全ての記憶解放術をはるかに凌駕していた。
当然だろう、つがえられた長剣は、神器と呼ばれてもおかしくない古の銘品なのだ。量産される鋼矢とは、けた違いの優先度を持つ。その内包する神聖力を、すべて火焔へと変えたのである。
炎熱に耐性のあるはずの、精銅の全身鎧がたちまち赤熱し、まばゆく輝いた。
脚に取り付く二匹のゴブリンが、悲鳴を上げる暇も与えられずに口から炎を吹き出して燃え始めた。
いぶかしそうに振り向いたシボリが、両眼を丸く剥き出し、右手の段平を投げつけるべく振り上げた。
しかしそれより速く――。
「――灼き尽くせッ!!」
ボアウッ、という轟音とともに、炎と化した長剣の鍔が左右に伸び、翼のように羽ばたいた。
撃ち出された巨大な火焔は、まるで熾焔弓のかつての姿――南方の火山に棲んでいたという不死鳥が甦ったかの如く、両翼を広げ、尾をたなびかせて、一直線にゴブリンの将を呑み込んだ。
火焔を防ごうとしたのか、体の前で十字に組み合わされた段平が、しゅっと音を立てて蒸発した。
そして、その持ち主もまた、燃焼の過程を辿ることすらなく、一瞬で黒い炭と化し――それすらも白く溶け、光の粒となって舞い散った。
ようやく事態を理解し、後ろを向いて逃げ惑いはじめた残りの平地ゴブリン軍も、実に二百名以上が同じ運命を辿った。
中央のファナティオ、右翼のデュソルバートの苦闘。
それにエルドリエの指揮する左翼を見舞った煙幕による混乱を、後方の第二部隊に控える守備軍総指揮官・騎士団長ベルクーリ・シンセシス・ワンは明瞭に察知していた。
しかし、彼は動かなかった。
動けない理由があったのだ。第一に、手塩にかけて育てた部下たちに絶対の信頼を置いていたということもあるし、第二には敵地上部隊の主力――暗黒騎士団と拳闘士団が動かないうちは、予備戦力を投入するわけにはいかないという事情もあった。
しかし、最も大きい第三の理由は、ダークテリトリーについて知悉する彼が懸念せざるを得ない、思わぬ方角からの奇襲の可能性だった。
つまり、飛行戦力である。
空中飛翔術式の存在しない――正確には、故最高司祭の秘匿した術式総覧(インデックス)にのみ記され、彼女の死とともに永遠に喪失した――この世界では、整合、暗黒双方の騎士団にごく少数存在する竜騎士は、言わば規格外の力だ。剣の届かぬ高空を飛翔し、術式や熱線で地上の兵を薙ぎ払う。
だが、貴重すぎるがゆえに、そう容易くは投入できない。敵より先に出撃させて、万が一地上からの術や弓矢で墜とされでもしたら、その瞬間から巨大な不利を背負うことになってしまう。
ゆえにベルクーリは、アリスの騎乗する"雨縁"以外の飛竜を最後方に温存させたし、敵暗黒騎士も同様にするだろうと確信していた。だから、彼が懸念した奇襲は、竜騎士によるものではない。
それ以外に、闇の軍勢には、彼らだけが持つ飛行兵力が存在するのだ。
"飛塑兵"、あるいは"ドローン"と呼ばれる、醜悪な有翼怪物である。暗黒術師によって粘土その他の多様な材料から生成され、知性は持たないが幾つかの簡単な命令だけを解する。つまり、飛べ、進め、殺せ、の言葉のみを。
実はドローンとまったく同じものを、最高司祭も作成・研究していたらしいという話をベルクーリは騎士アリスから聞いていた。しかし、さしもの最高司祭といえども、醜悪な外見をそのままに整合騎士団に導入するのはためらったと見える。ふさわしい姿への改変が間に合わぬうちに彼女が入寂してしまったのは、今となっては惜しいと言わざるを得ないが、無い物ねだりをしても仕方ない。
以上の理由によって、ベルクーリは、上空からのドローンの奇襲に備えておく必要があった。
そして飛竜が出せず、また修道士隊も衛士らの治癒に手一杯の状況では、高空の広範な防衛が可能なのは彼ひとりだった。
正確には、彼の持つ神器"時穿剣"のみが。
第二部隊の中央に仁王立ちになり、納鞘したままの愛剣を両手で地面に突いたベルクーリは、瞑目したままひたすらに意識を集中していた。
部下たる整合騎士、そして勇敢な衛士たちの苦しい戦いぶりは、間断なく彼の知覚に届いてくる。左翼の大混乱とゴブリン部隊の侵入も、手に取るように察知できる。
しかし、彼は一歩も動くわけにはいかない。
なぜなら既に発動しているのである。武装完全支配術、"未来を斬る"という時穿剣の強大な力を。
虚空に描き、保持している斬撃線は、その数実に――三百本以上。
東の大門が崩壊する直前、ベルクーリは独り騎竜・"星咬(ホシガミ)"にまたがり、大門のすぐ手前上空に、幅百メル・奥行二百メル・高さ百五十メルという巨大な"斬撃空間"を作り出しておいたのだ。気合の篭もった一閃を放つたびに、微細な上下動と後退を繰り返し、虚空にびっしりと密な網目を描いたのである。
それだけの数と広がりを持つ心意を、数十分も保持するのは、二百年以上を生きた不死人たるベルクーリにも初めてのことだった。肉体から意識を離し、ただひたすらに精神を集中してどうにか可能となる絶技だ。全軍の指揮をファナティオに任せたのは、ひとえにこのためなのだ。
早く――早く来い。
無為な焦りとは無縁の精神的境地に達している彼にして、ひたすらそう念じずにはいられなかった。自身の消耗はともかくとして、時穿剣の神聖力は半ば以上を消費してしまっている。一度記憶解放を解除し、同じことを繰り返すのは不可能だ。敵ドローンを確実に殲滅できねば――そしてドローンが、斬撃空間のさらに手前に浮遊する整合騎士アリスを襲えば、守備軍唯一の望みが潰える。
――早く。
この地に集った上位整合騎士七名のうち、もっとも自虐的な心理状態に陥っていたのは持ち場を放棄してしまったレンリ・シンセシス・フォーティナインだったが、彼とは別の意味で大きな脆弱性を秘めていたのが、レンリより遥か長い経験があるはずのエルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。
エルドリエは自他共に認める、第三位騎士アリスの崇拝者である。
その感情は、"宣死九剣"のダキラがファナティオに抱いていたような恋慕とはまた異なる。己の全てを捧げて仕えつつ、同時に庇護もしたいという、二律背反性が色濃く存在する。
整合騎士として覚醒したその直後から、アリスは騎士団史上最大の天才と謳われた。修道士や司祭らすらも軽く上回る神聖術行使権限に加え、これまでいかなる騎士とも共鳴することを拒んできた最古の神器、永劫不朽のふたつ名を持つ"金木犀の剣"の主に選ばれ、さらに騎士長ベルクーリの超絶技を若木のように吸収していく武才をも併せ持っていたのだ。
外見こそ幼い少女だったが、アリスは多くの騎士にとって、近寄りがたい北天の孤星のようなものだった。最高司祭アドミニストレータの後継者であるという噂も、それに拍車をかけた。
ゆえに、エルドリエも、五年もの長きに渡ってアリスに話しかけようともしなかった。忌避していた、とすら言っていい。最古騎士の一人であるデュソルバートを師に持ち、早い段階で上位騎士に任ぜられ、それを誇りとしてきた彼にとって、目覚めた直後から上位騎士であり騎士長その人の唯一の弟子であるアリスには、脅威を覚えこそすれ親しみなど抱けようはずもなかったからだ。
しかし――四年前。
幼い子供から、凄絶なまでの美少女へと花開き、ますます孤高の度合いを増していたアリスの、思いもよらぬ姿をエルドリエは偶然目撃してしまったのだ。
深夜。ひそかに剣の修行をしようと足を運んだ薔薇園の奥深く。
簡素な寝巻き姿のアリスが、ひとつの粗雑な墓標の前に身を投げ出し、すすり泣いていた。どう見ても手作りの、白木を剣で斜めに斬っただけの墓標に刻まれていた名は、数日前に天命の尽きた老飛竜――アリスの"雨縁"、そしてエルドリエの"滝刳"の母竜のものだった。
たかが竜。たかが下等な使役獣ではないか。何故墓などつくり、何故泣く必要があるのだ。
と、その時のエルドリエは、理性では考えた。
しかし、鼻で笑って身を翻そうとした彼は、自分の目頭に熱くこみ上げるものに気付き驚愕した。
地上を去った母を悼んで泣く姿――、それが何故、引き裂かんばかりに心を打ったのかは今でも分からない。ただエルドリエは、直感的に、この感情は絶対的に正しく貴いものであり、そして今見た光景こそがアリスの真実の姿なのだと悟った。
その日以降、天才騎士アリスは、エルドリエの眼にはそれまでとはまったく異なるように映りはじめた。天才という望まぬ運命に耐え、甘受し、しかし秘かに誰かの差し伸べる腕を求める、今にも風に折れそうな硝子の花。
守りたい。自分があの少女を苛む寒風を防ぎたい。
その思いは日々強くなるばかりだった。しかし、守るなどという発想はあまりにもおこがましいものであるのもまた事実だった。アリスの才能は、術においても剣においても、エルドリエを遥か凌駕するのだから。
唯一可能だったのは、その時点での師たるデュソルバートへの圧倒的な不敬となると分かりながら、新たな師としてアリスの指導を欲することだけだった。
以来、四年の月日を、エルドリエはただ二つのことを果たすためだけに生きてきた。師アリスを守り、また認められること。
ことに後者は、至難というよりない目標だった。天才騎士アリスの実力は、当時ですら騎士長ベルクーリとほとんど変わらないのではないかと思わせる高みに達しており、エルドリエは追いつくというより愛想を尽かされないために必死になって修練に励んだ。
同時に、日常的にアリスにあれこれ話しかけ、食事を共にし、いつしか身につけた気障かつ軽薄な話術で――と、彼自身は思っていたが、実際には整合騎士となる以前の"地"が戻っていたのだ――少しでも笑顔を引き出そうと努力した。
そのような日々は少しずつ実を結び、剣力も上昇し、またごく稀なことではあるが師の唇に微かな笑みが浮かびはじめたように思えてきた頃。
カセドラルを、あの大事件が襲った。
最初は、ただの通常業務だったはずなのだ。確かに、ふたりの学生が犯した"殺人"という大罪はエルドリエの長い記憶にも無いものだったが、広い人界には諍いと偶発的な不幸が重なって血が流れてしまう事件ならば稀には起こる。実際、北セントリアの学校で捕縛した罪人らは、最初はまるで危険にも凶悪にも見えなかった。むしろ単なる、しょげ返った一般民の若者でしかなかった。
だから、彼らを飛竜で連行し、カセドラルの地下牢に叩き込んだあと、師アリスがしばしの黙考のすえに『念のため、一晩だけ牢の出口を警備しておきなさい』とエルドリエに命じたときは少々驚いた。そして、薔薇園でのワイン片手の夜明かしもたまにはよかろうと任に就き、東の空が白みはじめた頃、ほんとうに罪人らが脱獄してきたときはもっと驚いた。
師の慧眼に感服し、その信頼に応えるべくエルドリエは彼らの前に立ちふさがり――あろうことか、見事なまでに敗れた。武器と言えば千切れた鎖しか持たない一般民相手に、しかも、"星霜鞭"の武装完全支配術まで用いながら。
いや、敗北は受け入れざるを得ない。あの二人は結局、デュソルバートや、ファナティオと宣死九剣、師アリスから騎士長ベルクーリの護りすら突破し、最終的に最高司祭アドミニストレータまでも斬ってのけたのだから。アリスも、あの名も知れぬ北の寒村の庵で、罪人の片割れを前に確かに言っていた。この人は、整合騎士を上回る最強の剣士なのだ、と。
己があの黒髪の若者に、剣力で明白に劣ることが口惜しいのではない。
そうではなく――自分ではなかったのだ、という事実が。
師アリスが自ら作り出した氷の箱庭から、彼女の心を解き放つ者は、自分ではなくあの若者だったのだ、という認識がエルドリエを激しく揺さぶった。
開戦前、師が、これまで一度として見せたことのない慈愛に満ちた微笑みとともに礼の言葉を口にしたとき、彼は感涙とともに決意したのだ。せめて、この戦いにおいて、四年にわたる指導がいかに大きく結実したか、それを師に伝えねば、と。
その強い心意は、エルドリエの実力を引き上げると同時に、追い込みもしていた。
仮に、彼の率いる左翼を襲った山ゴブリン軍が尋常な戦いを仕掛けていれば、エルドリエは右翼デュソルバートをも上回る獅子奮迅の働きを見せただろう。
しかし、実際にはゴブリンらは強烈な煙幕で彼と左翼部隊の視界を完全に奪い、足元を潜り抜けて後背を襲うという予想もしなかった作戦に出た。
ゴブリン如きにしてやられた、空から見守るアリスの目の前で醜態を晒した、という衝撃と焦りがエルドリエから冷静な判断力を奪った。彼は、鼻先も見えない濃密な煙のなかで闇雲に周囲を見回し、衛士らに指示を飛ばそうとした。しかし、どうにか思いついたのは、この状況で攻撃命令を出せば同士討ちになってしまう、ということくらいで、煙をどう除去していいのかまるで思いつかなかった。
藤色の巻き毛を振り乱し、血が滲むほど唇を噛み締めながら、エルドリエはただ立ち尽くした。
再び膝を抱えこんで自分だけの世界に戻ろうと、腰を落としかけた整合騎士レンリは、耳に届いた大勢の叫び声の予想外の近さに、ぴたりと動きを止めた。
まさか、これほど早く敵軍が戦列を突破してくるなどということは有り得ない。まだ、開戦からたかだか十分ほどしか経過していない。
気が高ぶっているせいだ、それで遠くの音が明瞭に聞こえるんだ、とレンリは思い込もうとした。
しかし、迫ってくる鬨の声が自分だけの錯覚ではないことを、同じ天幕に逃げ込んできた二人の少女たちの反応が教えた。
「うそ……、もうこんな後方まで!?」
赤毛の少女、シュトリーネンという姓らしい練士がさっと顔を上げると、素早く天幕の入り口に走った。
僅かに垂れ幕を持ち上げ、外を確認する。即座に、その幼さの残る顔が青ざめた。
「け……煙が……!」
掠れた叫びに、アラベル練士のほうも身体を強張らせる。
「えっ……ティーゼ、火も見えるの!?」
「う、ううん、ただ……変な色の煙だけが……。――いえ、待って、煙の中から……人が、沢山……」
垂れ幕の隙間から外を覗く赤毛の練士の言葉が、分厚い綿に吸い込まれるように、不意に止まった。
嫌な沈黙だった。
レンリは中腰のまま眉をしかめ、耳を澄ませた。
いつの間にか、鬨の声は遠く薄れている。しかし、その静けさの底を、何かが――。
ひたひた。
ひたひた、と。
突然、シュトリーネン練士が、からくり人形のようなぎこちない動きで、一歩、二歩と天幕の中に下がった。右手ががくがくと強く震えている。剣を抜こうとしているのだ、とレンリが気付くのとほぼ同時に。
ばさっ! と乱暴に垂れ幕が引き開けられた。
外はすでに夜闇に包まれて、わずかな篝火の光だけが薄赤くゆれている。それを背景に、のっそりと立つ人影。やや小柄で、妙に猫背、対して腕は異様に長く――握られているのは、ただ板金を切り出したかのような、無骨極まる刀。
入り口から吹き込む空気に混ざる、強烈な異臭がレンリの鼻を刺し。
シュトリーネン練士が、鞘をカタカタ鳴らしながら抜剣し。
アラベル練士が低く、鋭く叫んだのは、ほぼ同時だった。
「――ゴブリン!!」
その声に、しゅうしゅうと擦過音の混ざる、しわがれた囁きが答えた。
「おうおう……白イウムの、娘っこだぁ……おれの……おれの獲物だぁ……」
あまりにも明け透けな、生々しい欲望の響き。
上位整合騎士でありながら、レンリが肉眼で闇の種族を見るのはこれが初めてのことだった。果ての山脈まで飛んでいくための騎竜を与えられる前に、凍結処分されてしまったからだ。
ぜんぜん――ちがう。
レンリは、内心で呆然とそう呟いた。
下位騎士の時分に、古参騎士の講義や、書物類を通してダークテリトリーの亜人四種については知識を得ていた。しかし、まるでお伽話に出てくる悪戯妖精のように想像していたゴブリンと、今目の前に立つ人型の生物との間には、果てしない隔絶があった。
この世界に、これほどまでに濃密な殺気と欲望が存在したなんて。
人間を、壊して喰おうと本気で考える生き物がいるなんて――。
つま先まで完全に痺れ上り、動くことも出来ないレンリの目の前で、うぞり、とゴブリンが一歩前に進んだ。
シュトリーネン練士は、両手で握った長剣を、しっかりと中段に構えようと――したのだろうが、両膝が激しく震えるせいで切っ先が定まらない。小さくかちかちと聞こえるのは、歯が打ち合わされる音か。
「テ……ティー……」
アラベル練士が、細い声を喉から漏らした。右手で剣の柄を握ったものの、どうしても抜けない、というように背中を引き攣らせている。
そしてもう一つ、奇妙な音がレンリの耳に触れた。
ぎし、ぎし、と何かが軋むような。
ちらりと視線をだけを右に動かしたレンリが見たのは――。
すぐ隣の暗がりで、車椅子にぐったりと沈み込み、虚ろな表情で俯く黒髪の若者。その、二本の剣を抱く左手に、血管が浮き、関節が盛り上がり、恐ろしい力が込められていることを示している。
そう、まるで、剣を抜く右手が存在しないことを憤るかのように。
「君は……」
レンリは、音にならない声で囁いた。
君は、あの子たちを助けようというのか。立つことも、抜剣することも、それどころか喋ることさえできないのに。
ああ……。
そうか。
この若者、最高司祭を斃したという反逆者の強さというのは。たぶん、剣技でも、術力でも、神器でも、武装完全支配でもなく。
騎士、一般民の隔てなく皆が生まれながらに持ち、しかし容易く見失ってしまう、ささやかな力。
勇気。
レンリの右腕がかたく強張り、震え、ゆっくりと動き始めた。
ゴブリンが、シュトリーネン練士の頭上に、分厚い蛮刀をずいっと振り上げた。
指先が、右腰の神器"比翼"の片方に触れた。
刹那――。
シュバァッ!!
鋭く空気を斬る音。青白い閃光。それは低い位置から弧を描いて跳ね上がり、シュトリーネン練士の赤毛を掠めて右に曲がり、ゴブリンの立つ位置を通過して急激に角度を変え――まっすぐ伸ばされたレンリの、右手の二本の指のあいだにぴたりと挟まれた。
「……ぐ、ひ……?」
いぶかしむような、ゴブリンの唸り。
その、鼻と顎が垂れた顔面の中央に、斜めの赤い線が走った。
どっ。
まず落ちたのは、肘の上で綺麗に切断された、蛮刀を握った右腕だった。
次いで、ゴブリンの頭がずるりとずれて、上半分だけが蛮刀の上に湿った音をたてて転がった。
双投刃"比翼"は、くの字形をした、ごく薄い鋼の刃二枚が一対を成す神器である。
長さ六十センほどのその刃に、柄は存在しない。両端ともがごく鋭い切っ先となっており、その一方を指先で挟んで投擲する。高速回転しながら飛翔した刃は、鋭角な楕円軌道を描いて主のもとに戻り、それを再び二指で受けとめる。
つまり、通常の使用に際してすらも、剣とは比較にならないほどの集中力を必要とするのだ。少しでも精神を乱せば、戻ってきた刃を受けそこね、容易く手指を落とされる。
そのような武器を軽々と扱えるというだけで、レンリの技量の並々ならぬことは証明されていると言っていい。しかし本人にその自覚はまったく無い。武装完全支配術を発動できない、というたった一つの負い目が、彼の精神を強く萎縮させているからだ。
ゆえに、瞬時の神業でゴブリンを即死させたからと言って、レンリがすぐさま戦意を取り戻せたわけではなかった。
伸ばした右手の先で、りぃぃ……ん、と微かに刃鳴りする青鋼の冷たさを感じながら、レンリは左手で強く鎧の胸を押さえた。縮こまりすぎた心臓が、今にも圧力に耐えかねて破れそうだ。
「……騎士、さま」
一瞬の静寂を破ったのは、振り向いたシュトリーネン練士だった。その深紅色の瞳に浮かぶ涙は、巨大な恐怖の余韻か。
「騎士様……、ありがとう……ございます。助けて……くださったのですね」
囁かれた感謝の言葉に、レンリは思わず顔を背けた。やめてくれ、そんな眼で見ないでくれ。僕の勇気はいまの一投で枯れてしまったよ。――胸のうちでぽつりと呟く。
不意に、投刃の重みが増したような気がして、レンリは右手を下ろした。
今のゴブリンは、夜闇にまぎれて単独で飛び出してきた欲深者だったのだろう。敵本隊は、きちんと前線で迎撃されているはずだ。
半ば願うようにそう予想した、まさにその瞬間。
天幕の外、驚くほど近くで、新たなゴブリンの雄叫びと、人間の悲鳴が響いた。同時に剣戟の金属音。それらは瞬く間に数を増し、全方位から一気に押し寄せてくる。
大きく息を吸い、背筋を伸ばしたシュトリーネン練士が、レンリをまっすぐ見つめて言った。
「騎士様、ゴブリンの集団が、おそらく煙幕のようなものを使用して前線を突破、後方を襲っております! 補給部隊には非武装のものも多く居ります、彼らを守らねば!」
「し……集団……」
あんな奴らが――何十匹、何百匹、いや戦争なのだ、それ以上の規模でもおかしくない。
無理だ。僕にはできない。一匹のゴブリンですら、あれほど恐ろしかったのだ。軍勢の前になんか、絶対に立てない。
呼吸が浅くなる。脚から力が抜ける。
逃げ場所を探して泳いだ瞳が――。
再び、黒髪の若者が隻腕で抱える、二振りの長剣に吸い寄せられた。
いつの間にか、不思議な光景がそこに出現していた。
二振りの片方、精緻な薔薇の象嵌をほどこした白鞘に収められた剣が、薄闇のなかで、仄かに発光している。薄青い、しかしどこか暖かみのある微かな光が、まるで心臓のように――とくん、とくんと脈打つ。
溶ける。全身を包む冷気が、胸中に満ちる恐怖が、ゆるゆると溶かされていく。
先刻、若者が発散していたものが勇気なら――いま、この剣から溢れ、レンリの心に流れ込んでくるものは……。
「……君たちは、ここでこの人を守っていて」
自分の口から、しっかりとした声が流れるのをレンリは聴いた。
顔を上げると、シュトリーネン練士だけでなく、アラベル練士の眼にもいつしか涙が宿っていた。二人に向けて強く頷きかけ、レンリは具足を鳴らしながら、天幕の入り口に歩み寄り、垂れ布を大きく跳ね上げた。
即座に、視線が血塗れた光景を捉えた。
二十メルほど離れた物資天幕に寄りかかるように、一人の傷を負った衛士がかろうじて立ち、右手の小剣をどうにか構えようとしている。その目の前に二匹のゴブリンが迫り、我先にと蛮刀を振り上げる。
しゅっ、とレンリの右手が唸り、風切り音だけが飛んだ。ゴブリンが立つ位置で、一瞬ちかりと反射光が閃き、二匹の動きが止まる。
指先に無音で投刃が戻ってくるのと、二つの首が落ちるのは同時だった。しかしレンリはその結果を確かめることなく、すでに視線を左に向け、新たな目標に向けて左腰の鋼刃を放った。内側からくぐもった悲鳴の漏れる天幕の、頑丈な厚織布を引き裂こうとしていたゴブリンの背中から左肩にかけてがすぱっと裂けた。
今度は背後に気配。
砂利を踏みしだきながら急接近してくる足音に向けて、レンリは右手の刃を後ろ手に投じた。その後に振り向き、敵の顔面を断って戻ってきた武器を受ける。
僅か三秒で四匹のゴブリンを始末したレンリに、周囲の闇から粘つく視線が一斉に注がれた。
「騎士だ……」
「大将首だ!」
「殺せ! 殺せ!!」
軋るような唱和を浴びながら、レンリは敵をこの場所から引き離すべく、東へと走った。そちらには、確かにシュトリーネン練士の言ったとおり奇妙な灰緑色の煙がもうもうと立ち込め、その奥から更に無数のゴブリンたちが湧き出しつつある。
あの視界では、前線は大混乱だろう。主力衛士たちが態勢を立てなおし、ゴブリン部隊を追ってくるには最短でも五分ほどはかかるかもしれない。
その間、自分ひとりで敵を引きつけ、食い止めることができるだろうか。
いや――やるしかないんだ。ここで逃げたら、僕は間違いなく、永遠に失敗作だ。
なぜなら、ようやく分かったような気がするんだ。僕に欠けているもの。"比翼"と共鳴しながら同化を阻んだ、大きな欠落がなんなのか。
その思いを強く噛み締め、レンリは走った。
すぐに、整然と並ぶ天幕の列が切れ、前線とのあいだの空白地帯に達する。すぐ左に垂直に切り立つ崖の岩肌、前方には無数に沸いてくるゴブリンの主力、後方からは引き返して追いかけてくる先鋒部隊。
完全な被包囲状況に自ら飛び込んだレンリは、脚を止めると、二枚の薄刃を挟み持った両手を左右一杯に広げ、叫んだ。
「僕の名はレンリ!! 整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナイン!! この首が欲しければ――悲鳴すら上げられずに死ぬことを覚悟してかかって来い!!」
高らかな名乗りに応えたのは、無数の怒りと欲望の咆哮だった。
一斉に蛮刀を振り上げ、飛びかかってくるゴブリンの群れに向かって、レンリは双刃を同時に放った。
右の刃は左方向へ。左の刃は右へ。包囲突進する敵の最前列を、まるで舐めるようなゆるい円弧を描いて死の閃光が飛翔する。
ばらっ、ばららら……。
腕が、首が、立て続けに胴から離れ、こぼれ落ちた。
しかし一瞬前まで仲間だった残骸を蹴り飛ばし、わずかな逡巡も見せずに新たなゴブリンが迫ってくる。
レンリは、戻ってきた二枚の刃を、指で挟むのではなく、弧の内側に人差し指を引っ掛けるようにして受け止めた。勢いを殺さぬよう、指先で猛烈に回転させながら、一呼吸の間も置かずに再度投擲する。
まったく同じ光景が繰り返された。通常攻撃の威力だけを比較すれば、"熾焔弓"や"天穿剣"をも上回る凄まじい殺戮だ。"比翼"の刃は紙よりも薄く、それが超高速で回転しているため、生半な防具は無いも同然の切れ味を発揮するのだ。
連続同時投擲が、もう一度。
そしてさらにもう一度行われ、さしもの数を誇るゴブリンらも、仲間のあまりにも呆気ない死に様に怯んだか、やや突進の勢いが緩んだように思えた。
いける――。もう少しだけ持ちこたえれば、前線から衛士たちが追いついてきてくれる。
レンリは仄見えた希望とともに、五度目の投擲を行った。
――しかし。
耳に届いたのは、小枝を鉈で落とすようなそれまでの切断音ではなく。
カァン! キャリイイン!!
という、甲高い反射音だった。
大きく軌道をぶらせて戻ってきた二枚の刃を、レンリは一杯に伸ばした両手で危うく受け止めた。とても指先に引っ掛けるという芸当を見せる余裕はなく、この局面で初めて死の刃が静止した。
さっ、と視線を向けた先、谷の北側から、一匹のゴブリンがうっそりと姿を現した。
大きい。
いや、体格はさほどでもない。肉体年齢十五歳のレンリと較べても、目線の高さはさほど変わらない。
しかし――その全身を包む、鋼のような筋肉の盛り上がりと、何より放射される鍛えられた殺気は、他のゴブリンらとまるで異なるものだった。
「……お前が大将か」
レンリは低い声で問うた。
「いかにも、俺が山ゴブリン族長のコソギだよ、騎士の坊や」
鋭く吊り上がった黄色い瞳で、じろりと周囲を睥睨する。
「あぁあ、随分と殺してくれたなあ。何でこんな後ろに整合騎士が居残ってるのかねえ。まったくアテがはずれちまったよ」
言葉遣いすらも、他のゴブリンとはまったく違う。制御された意思と、知性の響き。
――関係ない、そんなもの。たった一度、たまたま跳ね返せたからって、そう何度も続くわけはない。
レンリはぐうっと両腕を後ろに引くと、短く叫んだ。
「なら……これでお前らの戦争は終わりだ!!」
シュバッ!!
全力、最速の投射だった。
右の刃は斜め上から、左の刃は地面から跳ね上がるように、正確にコソギの首を狙って飛んだ。だが。
カカァン!!
今度もまた、響いたのは高く澄んだ金属音だった。
敵将コソギは、右手に握った大鉈と、左手の小刀で、二枚の投刃を見事に防いだのだ。
なぜ!?
驚愕し、見開かれたレンリの眼が、コソギの携える武器の輝きをとらえた。
その形こそ無骨な代物だが、色が違う。あれは、他のゴブリンが持っているような粗雑な鋳造品ではない。精錬された鋼を、長い時間かけて鍛え抜いた、高優先度の業物だ。
視線に気付いたか、コソギは一歩距離を詰めながら、にやりと笑った。
「おうよ。ま、あくまで試作品だがね。暗黒騎士どもから製法を盗むために、そりゃあ血が流れたもんさ。だがな……それだけが防がれた理由じゃあないぞ、坊や」
「……舐めるなッ!!」
ふっ、と両手が霞むほどの速度で振り抜かれる。今度は、遥か上方へと舞った薄刃が、レンリと敵の視界から消え、大きな弧を描いて背中を襲う。これは弾けないはず――
「……!?」
確信は、即座に裏切られた。コソギという名のゴブリンは、あろうことか、両手の得物を背後に回し、見ることもなく超高速の刃を逸らしたのだ。
不規則に揺れながら戻ってきた刃を、レンリはわずかに受け止めそこね、左手の指先に浅い切り傷を負った。しかしその痛みなど、驚愕の前には存在せぬも同然だった。
「軽いんだよ、騎士坊や。それに軌道が素直すぎる」
コソギの短い台詞は、完璧なまでに"比翼"の弱点を言い当てていた。
投刃それぞれの重量は、神器と呼ばれる武器としては、有り得ないほどに軽い。鋭利さと高速回転に性能が突出しているため仕方ないことではあるのだが、それゆえに、速度に反応でき充分な優先度の装備を持つ敵の防御を、強引に押し切るということができないのだ。
また、刃が描く飛翔軌道は、行きと戻りが完全な対称形となる。これは、たとえ背後から襲ってくる場合でも、投擲直後の軌道さえ見逃さなければその攻撃点を正確に予測できるということでもある。
わずか数回の攻撃を見ただけで、そこまでを看破してのけたコソギの知性にレンリは戦慄した。ゴブリンと言えば、粗野で、下等で、卑しいだけの怪物ではなかったのか。
「ゴブリンのくせに……ってツラだな、坊や」
にやりと、しかしどこか凄愴なものを秘めた笑みを浮かべ、コソギが囁いた。
「だが、俺としちゃこう言わせてもらいたいね。お偉い騎士さまのくせに、ってな。整合騎士は一騎当千……そう聞いていたんだが、どうやらお前さんはそうでもないようだな? だからこんな後ろに隠れてた、そうなんだろ?」
「……ああ、そうさ」
目の前の敵を、ゴブリンと侮ったのがそもそもの間違いだった。そう悟ったレンリは、虚勢を捨て、頷いた。
「僕は失敗作だ。だけどね……勘違いするなよ。出来損ないなのは僕だけで、こいつじゃない」
両手の指先に挟んだ薄刃を、ゆっくりと降ろす。
"比翼"の明瞭なる弱点。それを完全に覆しうる、たった一つの方法が、このふたつの武器の記憶を解放することだ。
伝え聞く、比翼の源となった古の神鳥は、それぞれ左と右の翼を喪ったつがいだったのだという。一羽だけでは飛べない彼らは、互いの身体を繋ぎ合わせることで、他の鳥たちには飛べない高みまでも舞い上がり、無限に等しい距離を往くことができた。
その伝説を聞いたがゆえに、レンリは武装完全支配術を発動できなくなってしまったのだ。
"シンセサイズの秘儀"によって記憶から奪われた、"愛する者"。
それは、四帝国統一大会の決勝で戦い、極限の鬩ぎ合いのなかで刃が止まらずに命を奪ってしまった、幼馴染の親友だった。
レンリと親友は、まさしく比翼の鳥だった。物心つくかつかぬ頃から二人で腕を競い合い、故郷を出て央都に上ってからも、互いの存在を心の支えにしてあらゆる試練を突破し――人界最高の舞台にまで同時に達した。
だが、そこで翼は折れてしまった。
記憶を封印され、整合騎士となってからも、レンリの心にぽっかりと開いた巨大な喪失感は埋まることはなかった。剣を取り戦う"勇気"、誰かと心を繋ぐ"情愛"、その二つを見失ったレンリに、一枚ずつの翼を繋いで飛翔する比翼鳥の姿を心象化できるはずもなかったのだ――。
しかし。
つい先刻目にした、傷ついた若者と、腕に抱かれた二本の剣が。
その片方が放った仄かな光が。
レンリに声なき声で語りかけた。この世界には、たとえ命尽きようとも、決して喪われないものがあると。
それは記憶。思い出。
誰かの命は、心繋いだ誰かに受け継がれ――そしてまた、次の命へ連なっていく。
レンリは、勝利を確信した表情で迫ってくるゴブリンの将から視線を外し、そっと瞼を閉じた。
何もかも諦めたがごとき、力ないその姿から、突然、熱風のような剣気が放たれた。かっ、と両眼が見開かれる。二枚の鋼刃を挟み持った両腕が、顔の下半分を隠すように交差される。
ズバアァツ!!
腕が真横に振り抜かれると同時に、舞い上がった二条の光。高い弧を描き、右と左からコソギへと襲い掛かる。
「何度やろうが……無駄だッ!!」
ゴブリンの長は、苛立ちを滲ませた怒号とともに、投刃を受けるのではなく全力で弾き返した。
ガッ、ギャリイインッ!!
眩い火花とともに、薄い翼は呆気なく跳ね返り、再び空高く飛翔した。それらは、まるで螺旋のような曲軌道を引きながら――絡まりあい、寄り添い、一点へと。
瞬間。
「リリース……リコレクション!!」
レンリは、かつて何度も唱え、その度に絶望を味わった聖句を、喉も破けよとばかりに叫んだ。
小さなソルスにも似た眩い光が、谷間後方を照らし出した。
鳥の形をした二枚の鋼刃が、輝きながらその頂点を接合させ、融けあい、完全なる一へと変貌する。
ゆるゆると回転するそれは、十字の刃を、まるで遠い夜空の星のように青く煌かせていた。神器"比翼"、その解放された姿。
遥か高空で光を放つ己の分身に、レンリはそっと右手を差し伸べた。
――綺麗だ。
――まるで僕と……――のようだ。
ぐ、と強く手を握り。その拳を、勢いよく振り下ろす。
ギュアアアアッ!!
十字刃が、瞬時に猛烈な勢いで回転しながら、空を舞った。レンリの腕の動きに従い、降下し、舞い上がり、旋回する。
「なに……おぅっ!!」
一声吼えたコソギが、猛禽のように上空から襲い掛かる比翼を、左右の武器で同時に叩き落そうとした。
しかし、双方が触れる直前――それまでの滑らかな軌道を急激に変化させ、十字刃は垂直に跳ねると、再度真下へ向けて加速した。
カッ。
かすかな、乾いた音だった。
が――次の瞬間、コソギの鍛え抜かれた体の正中線に、青白い輝きが走り。
直後、眩い閃光の奔流を振り撒きながら、真っ二つに分断された。
死の瞬間、コソギは、いったい何故自分が敗れたのかをその傑出した知力で考えた。
彼の力学に従えば、己よりも、ひ弱そうな小僧騎士のほうがより強い殺意と欲望を秘めていたのだということになる。しかし、どれほど凝視しようとも、あどけなさの残る白い顔にはいかなる殺気をも見出すことは出来なかった。
ならば、いったい己は何に敗北したのか。
どうしてもそれを知りたかったが、しかし直後、視界がまったき闇に包まれた。
戦線のはるか東、ダークテリトリー軍の第二陣後方。
皇帝の御座竜車には見劣りするが、それでも充分に豪奢な二輪馬車に、浅黒い肌も露わな一人の女が腕組みをして立っている。暗黒術師ギルド総長ディー・アイ・エルである。
その馬車の脇に控える、細い黒衣の人影が、ゆるりと主に身体を向けた。
「シグロシグ殿、シボリ殿、コソギ殿、共に討ち死にとのこと」
顔を薄い紗で覆った伝令術師が低く告げた言葉に、ディーは露骨な舌打ちを漏らした。
「ええい、使えぬ……所詮は亜人か、獣どもめらが」
艶やかな胸元の肌に垂らした、小型の装身具をちらりと一瞥する。銀の円環に十二の貴石を配したそれは、仄かな色合いの変化で時刻を教えるという最高級の神器だ。六時の石は紫に光り、七時の石はいまだ闇色。つまり開戦からわずか十五分ほどしか経過していないことになる。
「整合騎士の座標固定はどうなっている」
苛立った声で尋ねると、伝令は短い術式に続けてぼそぼそ呟き、耳を澄ませる仕草を見せてから答えた。
「最前線に視認できた三名は照準済みです。後方にさらに二名探知していますが、固定にはいましばらく」
「クソ、遅いな。それとも、そもそもの数が少ないのか……しかし、せめてその五人は確実に落とさねば……」
ディーは、皇帝の前に出ているときの媚態が嘘のような冷たい表情でひとりごちると、少し考え、命じた。
「よし、ドローンを出せ。コマンドは……」
眼を細めて、崩壊した大門とその彼方の戦線までの距離を測り、続ける。
「……七百メル飛行、のち降下、無制限殲滅」
「その距離ですと、最前線の亜人部隊を多少巻き込みますが」
「構わん」
無感動に言い捨てる。
伝令の女術師も、一切の感情を見せずに「は」と首肯し、さらに尋ねた。
「数は如何なさいます。現状で孵化済みの八百体すべてを運んできておりますが」
「ふむ、そうだな……」
ディーはさらに数瞬、思考を巡らせた。
作成に多くの資源と時間が必要となるドローンは、彼女にとってはゴブリンなどよりもよほど貴重な戦力だ。出し惜しみしたいのはやまやまだが、『後方からの同時集中斉射による敵主力殲滅』というディーの献策がもし失敗すれば、皇帝の不興を買うことは間違いない。
「……八百全部だ」
命じた唇に、小さく酷薄な笑みが浮かんだ。
ディーの秘めたる野望――この戦が終わり、光の巫女とやらを手に入れれば再び地の底に還るのであろう皇帝ベクタから、摂政の地位を与えられ暗黒界及び人界をあまねく実効支配する。それが叶った暁には、ドローンなど何万体でも作れる。最大の障害だった暗黒将軍シャスターはすでに亡く、残る実力者と言えば単なる金の亡者や格闘にしか興味の無い小僧とくれば、大望成就はもはや目の前と言えよう。
あの半神人、最高司祭アドミニストレータですら成し得なかった、全世界の征服――。
そのうえで、神聖教会の総本山に秘匿されているのであろう無限天命の術式をも手に入れてみせる。
不老不死。永遠の美。
ディーは、背筋を這い登る甘美な戦慄に、ぞくりと身を震わせた。青く塗られた唇を、ちろりと覗いた舌が舐める。
ちょうどその時、伝令術師の指令が前方の術師本隊に行き渡り、まるで闇が翼を得たかのごとき漆黒の人造怪物どもが一斉に飛び立った。
ぬらりとした肌に篝火を照り返させながら、八百ものドローンは命ぜられたままに上昇し、まっすぐに峡谷へと吸い込まれていった。
――来た。
騎士長ベルクーリは、これまで彫像のように引き結んでいた口元に、はじめて持ち前の太い笑みを浮かべた。
大門手前の上空に描いた心意に、ついに広範かつ多数の反応があったのだ。
暗黒騎士や飛竜の気配ではない。無機質、無感動な、魂を持たぬモノの手応え。
しかしまだ発動はさせない。敵の放ったドローンの全てが"斬撃圏"に呑まれるまで、たっぷりと引き付ける。
ベルクーリの研ぎ澄まされた知覚には、すでにファナティオ、デュソルバートの奮戦と、一時は逃亡してしまった上位騎士レンリの覚醒までもが捉えられていた。
敵先陣の将すべてを討ったとなれば、もうこの局面で戦線を押し込まれることはない。あとは、目論見どおりアリスが空間神聖力を根こそぎ奪うことで敵の遠距離攻撃を無効化してくれれば、無傷の守備軍第二陣でダークテリトリー軍主力たる暗黒騎士団・拳闘士団を迎え撃てる。
己の、真の出番はその先だろう、とベルクーリは推測していた。
長年の好敵手たる暗黒将軍シャスターとの一騎打ち、ではない。
ベルクーリは、すでに、敵本陣にシャスターの気配がないことを察していた。おそらく、数日前に知覚した巨大な剣気の消滅――あれが、かの豪傑の最期だったのだ。
最古の整合騎士として、無限の年月を生きてきたベルクーリにはすでに、寿命ある人間たちの死を嘆き哀しむことはもうできない。それでも、この男ならば、いつか暗黒界と人界の無血融和の可能性を拓いてくれるやもと期待していたシャスターの死は、無念以外のなにものでもなかった。
かくなるうえは、シャスターの命を絶った、あの無限の虚無にも似た気の持ち主――何者かは分からないが、恐らくいまのダークテリトリー軍を率いているのであろう総司令官を、この手で斬ることで弔いに代えるだけだ。
あるいはそこで、ついに自分の命も終わるのかもしれない、とベルクーリは感じている。
しかし、もう生への執着は、彼のなかには欠片も残っていなかった。
死すべき時宜を得て死するのみ。
ファナティオ配下の下位騎士ひとりが、今わの際に放ったその心意に、ベルクーリは見事と感嘆すると同時に――かすかな羨望をも覚えていたのだ。
しかし、無論まだその時ではない。
上空の暗闇を、細波にも似た羽音の重なりとともに侵入してくるドローンの群れが、ついに斬撃圏にまるごと呑み込まれた。
ベルクーリはかっと両眼を見開き、地に突き立てていた愛刀・時穿剣を、ゆるやかな、しかし恐ろしく迅い動作で大上段に振りかぶった。
「――――斬ッ!!」
気合一閃、虚空を刃が切り裂いた。
同時に、遥か上空で、無数の白い光条が整然とした格子模様を作ってまばゆく瞬いた。
奇怪な断末魔の大合唱に続いて、どす黒い雨が、亜人混成軍の頭上に滝のように降り注いだ。ドローンの血液は微弱な毒性を持っており、それが将を失った大混乱に更なる拍車をかけた。
これまで、まったくの無感情を貫いていた伝令師の声に、かすかな怯えの響きを聞きつけた時点で、ディーは不吉な予感にとらわれた。それは一秒後、現実へと変わった。
「おそれながら……ドローン八百体、降下前に全滅した模様にございます」
「な…………」
絶句。
続いた破砕音は、馬車の車輪に叩きつけられた高価な水晶杯の悲鳴だ。
「何ゆえだ! 敵にそれほど大規模な術師部隊が居るとは聞いていないぞ!」
それ以前に、術式のみにて八百ものドローンを屠ることは不可能に等しい。素材が粘土であるがゆえに、火炎術も、凍結術も、さしたる効果を持たないのだ。もっとも有効なのは鋭利な武器での攻撃だが、鋼素から生成した低優先度の刃にそこまでの威力があるはずはない。
「……竜騎士はまだ出ていないのだな?」
どうにか怒りを押さえ込み、ディーは尋ねた。伝令師は、低くこうべを垂れたまま肯定した。
「は、大門付近上空には、現時点まで一匹の飛竜も確認しておりません」
「と……なると……アレか。彼奴らの切り札……"武装完全支配術"。しかし……よもやこれほどの……」
語尾を飲み込みながら、剥き出した糸切り歯をきりりと噛み合わせる。
暗黒将軍シャスターと同じように、ディーも整合騎士の隠し持つ超絶技については研究を進めさせていた。しかし、いかんせんこれまでは実物を目撃することすら至難だったのだ。神器と騎士本人の力の相乗効果であろう、ということくらいしか解明できていない。
「だが……武器をそのように使うかぎり、天命は必ず消費されるはずだ。連発はできまい…………」
全力で思考を回転させながら、ディーがそう呟いたとき。
前線からの声に耳を傾けていた伝令師が、さっと顔を上げ、少し張りの戻った声で伝えた。
「総長様、後方の整合騎士二名の座標固定、完了いたしました。あわせて、五の目標を照準中」
「……よし」
頷き、更に考える。
不確定要素たる敵の武装完全支配術を、更に消費させるために地上部隊主力の暗黒騎士団と拳闘士団を投入するか。それとも、こちらの切り札、暗黒術師団をここで動かし、一気にけりをつけるか。
ディーは本来、念入りに策を巡らせ万難を排してから動く用心深い性格だ。
しかし、虎の子のドローンを全て喪失するという予想外の展開が、彼女を自覚なき焦燥に追い込んでいた。
機は熟したのだ。
新たな水晶杯に、黒紫色の酒を満たしながら、ディーは自分に言い聞かせた。
私は冷静だ。今こそ、最初の栄光を掴み取る時。
杯をひといきに干し、それを掲げて、ディー・アイ・エルは高らかに命じた。
「オーガ弩弓兵団、及び暗黒術師団、総員前進! 峡谷に進入後、"広域焼夷矢弾"術詠唱開始せよ!!」* くるるる……。
高く、心細そうな喉声。飛竜"雨縁"が、主を気遣っているのだ。
整合騎士アリスは、どうにか微笑らしきものを唇に浮かべ、囁いた。
「大丈夫よ、心配しないで」
だが、実際のところは、まったく大丈夫ではない。視界はゆらゆらと歪み、呼吸は荒く、手足は氷のように冷たい。次の瞬間に気を失ってもおかしくない。
アリスを消耗させているのは、保持・詠唱中の、今にも暴発しそうなまでに密度を高めている巨大術式ではなかった。
その力の発生源となっている、無数の死そのものだった。
騎士。衛士。修道士。そして敵たるゴブリン、オーク、ジャイアントの、凄まじい勢いで喪われていく命が、アリスを苛む。
かつてのアリスは、一般民の生死や、ましてダークテリトリーの住民の生き死になど、思考に上せる必要すらも感じなかった。
半年間のルーリッドの暮らしを経て、村人たちのささやかな営みの貴さを知り、それは守るべきものだという認識を得たが、しかし暗黒界に暮らす者たちに思いを致すまでにはならなかった。その証左として、ほんの十日ほど前、ルーリッドを襲った亜人の群れをアリスは何の躊躇いもなく殲滅している。
闇の軍勢は血も涙もない侵略者であり、一兵残らず討ち尽くすべきもの。
今の任務に就くその瞬間まで、そう信じて疑うことはなかった。
しかし。
なんということか――。
遥か眼下の戦場から、絶え間なく生み出され、蒸散してくる天命力の感触は、人のものも怪物たちのものも、まったく同一だったのだ。一抹の差異なくすべてが暖かく、柔らかく、元の持ち主がどちらの軍の兵士なのかを感じ分けることは完全に不可能だった。
これはどういうことなの、とアリスは激しく動揺した。仮に、人界の民も、暗黒界の怪物も、本質的に同一の魂を持ち、ただ生まれた場所が山脈のあちらかこちらかだけの違いしかないのだとすれば。
いったい何故彼らは、そして私は戦っているのか。
その疑問に答えの出ようはずはなかった。
アリスは、そこで無理やりに考えるのを止め、ただただ峡谷に放出される神聖力を凝集し、術式に換えることだけに集中した。
おそらく、この世界でただ一人、疑問の答えを知っているのであろう黒髪の若者を守る――そのためだけに。
しかし、無数の悲鳴と断末魔が谷いっぱいに反響し、否応なくアリスの精神を締め付ける。死ぬ。死んでいく。誰かの父が、兄が、姉妹が、そして子が。
……はやく。
アリスは心の裡で呟く。
いっそ、はやくその"時"が来てほしい。己の力で、巨大な死を生み出すことでこの惨劇を終わらせられる、その時が――。
人界侵略軍先陣を構成する、亜人混成部隊は壊走の一歩手前で踏みとどまっていた。
三人の長はすべて死んだ。殺された。それはつまり、敵を率いる騎士が、彼らの誰よりも強いということだ。そして、力あるものがすべてを支配する。
もしこの戦いが、亜人たちだけのものだったなら、長たちが討たれた直後に残る兵らは全面降伏していただろう。
危うくその事態を食い止めていたのが、彼らのうえに初めて降臨した暗黒の神、皇帝ベクタの存在だった。皇帝は十候の誰よりも強く、そして今はまだ人界の騎士とどちらが上かは決定されていない。
だから亜人たちは元命令を固守せざるを得ず、勢いに乗る人界守備軍と懸命に刃を打ち合わせた。
その、懸命なる奮闘が稼ぎ出した数分間を利用して、ダークテリトリー軍の切り札である遠距離戦力、つまりオーガ部隊と暗黒術師部隊が大門崩壊跡の線ぎりぎりに密集展開した。
陣形は、七千ものオーガ軍が前方で巨大な弩弓を構え、後方で三千の術師が攻撃術を詠唱するというものだ。指揮を取るのは、オーガ族の長フルグルではなく、術師総長ディーの最側近である練達の高位術師だった。
術師は、後方の伝令師から届いた命令に耳を澄ませ、ひとつ頷くや叫んだ。
「オーガ隊、弩弓発射用――意! 術師隊、"広域焼夷矢弾"術式詠唱開始!! 照準師、敵整合騎士座標への誘導術式詠唱開始!!」
広域焼夷矢弾、とはこの作戦のためにディー・アイ・エルが設計した、大規模殲滅術式である。限りある空間暗黒力を全て炎熱の威力へと換え、それをオーガの矢に乗せることで長距離の射程を実現する。"バードシェイプ"や"アローシェイプ"といった発射、誘導のための変形に術力を消費しないため、爆発、焼却の凄まじさは想像を絶するものになるはずだった。皇帝ベクタの威のもとに十候軍が共闘するこの戦だからこそ実現できる、"鉄血の時代"にも存在しなかった史上最大の攻撃術だ。
さらにディーは、風素因術に秀でた数名の術師によって、敵の主力である整合騎士に向けて威力を誘導・集中する"風の道"を造らせるという周到な策を用意していた。これは、仮にその誘導を一点に凝らせば、かの最高司祭アドミニストレータですら防げなかったと思われるほどの超高優先度攻撃となるはずだった。まさしく、かつて賢者カーディナルが危惧した、"個の力では対抗しきれない数の威力"そのものだったのだ――。
再び、雨縁が低く啼いた。
しかし今度は、鋭い牙鳴りの混ざる警戒音だった。
アリスは、朦朧とし始めていた意識を、気力を振り絞って立てなおし、じっと遥か彼方の闇の底を見徹した。
――来た!!
混戦を続ける亜人部隊のむこうに、新たな軍勢が整然と、しかし高速で突き進んでくる。金属鎧の輝きは無い。つまり前衛部隊ではなく、遠距離攻撃部隊だ。
彼らこそ、人界守備軍を一掃し得る、凶悪なる威力を秘めた破壊者たち。
しかしそれは、この私も同じなのだ――。
アリスが設計・駆式している術。それは、伝え聞いたファナティオとキリトの戦いに着想を得た、"反射凝集光線"術とでも言うべきものだった。
峡谷に満ちる空間神聖力と、戦いが生み出した放散天命力という膨大なリソースをもとに、アリスはまず晶素によって差し渡し三メルはあろうかという巨大な硝子球を生成した。
次に、その球を、鋼素によって分厚い銀膜を造り、くまなく覆う。
出来上がったのは、"閉じた鏡"だ。あとはそこに、発生するリソースの全てを光素へと変えて閉じ込めていく。
素因の保持、それは古から、幾多の高位術者たちを悩ませてきた基本かつ究極の技術だった。
生み出した各種の素因は、意識を繋いでおかねば気ままに空中を漂い、やがて消滅なり破裂なりしてしまう。そして、保持し得る素因の上限は、人間が持つ端末――つまり十指の数と一致する。
元老チュデルキンは、その特異な体格を利用して、頭のみで倒立することで両足の指をも端末化し、二十の素因を操った。さらに最高司祭アドミニストレータは、いかなる精神力を用いてか、自身の銀色の髪をも端末とすることで、百近くもの素因を保持した。
しかし、そのどちらもアリスには真似できない技術だ。そもそも、二十が百でもこの状況ではまったく足りない。何せ敵の暗黒術師は三千、全員が中位階梯だとしても最低一万五千を超える素因を発生させ得るのだから。
ゆえに、アリスは、発生させた素因から意識を切っても位置を保てる方法を考えた。しかし、攻撃術として一般的な熱素や凍素は、何に触れてもそれを燃やし、あるいは凍らせて消えてしまう。風素に至っては閉じ込めることがそもそもできない。
だが、カセドラル五十階での戦いに於いて、キリトが"天穿剣"の光を、わずかな鋼素と晶素から生成した鏡で反射してのけた、と聞いて、アリスは考えた。
光は、鏡と接しても跳ね返るだけなのだとしたら――閉じた鏡を造ってやれば。そして、その内側に光素を生成すれば。
理論上、鏡の天命が尽きるまで、無限個の光素を保持しておけるのではないか。
屈強なオーガ兵たちの引き絞った弩弓が、ぎりぎりと軋みながら天を向いた。
無数に煌く凶悪な鏃に、三千の暗黒術師たちは炎熱の力を封じ込めるべく、両手を差し伸べて、一斉に起句を詠唱した。
「「「システム・コール!!」」」
女声のみが幾重にも和するそれは、まさしく死の合唱だった。術師ひとりひとりは、自らが加わり作り出す力場の巨大さに陶酔しながら、次の術式を歌い上げた。
「「「ジェネレート・サーマル・エレメント!!」」」
しなやかな指先に、仄かに赤い輝点が瞬き――
即座にその色をくすませ、ささやかな煙とともに消滅した。
指揮官の高位術師は、いったい何が起きたのか即座に理解することが出来ず、もう一度式を唱えた。しかし結果は一緒だった。
呆然とする彼女に、傍らにいた若い術師が、おそるおそる言葉をかけた。
「ぶ、部隊長さま……これは……空間暗黒力が、枯れ切っているのでは……」
「そ、そんなはずがあるものですか!!」
指揮官は、愕然として叫んだ。幾つもの指輪が嵌まった左手で、前方の戦線を指す。
「あの悲鳴が聞こえないの!? 人も、亜人も、あんなに死んでるじゃないの!! あれだけの命が、一体どこに消えてしまったって言うのよ!!」
それに答えられる者は居なかった。オーガ兵たちも、発射命令が出ないことに苛立ちながらも、ただ弓を絞り続けるしかなかった。
時、来たれり。
アリスは一瞬瞑目し、すぐにきっと眦を決した。
たった一人のために多すぎる命を奪う罪は、己の両肩に背負ってみせる。
直径三メルの銀球は、雨縁の背中と首に保持され、その内圧を限界まで高めている。それにぴったりと合わせた掌に、ぐっと力を込め、アリスは叫んだ。
「雨縁……首を下げて!!」
命令に従い、飛竜が体を前傾させる。ずず、と銀球が転がりはじめ、ちょうど一回転して虚空へと放たれた、その瞬間。
「……バースト・エレメント」
これほどの威力を内包した術式にしては、あまりに短く、単純な一句だった。
銀鏡球は、前方に向いた一箇所をわざと薄く造られていた。
無限個の光素が崩壊する純粋な力は、そこに集中し、銀を真っ赤に溶解させ――。
パウッ。
という、かすかな音とともに外界へと放たれた。
最前線で"それ"を見たファナティオは、呆然と立ち尽くしながら、己の記憶解放攻撃の百倍はある、と考えた。
それ以外の衛士・騎士は、ただ単純に、ソルスの神威だ……と畏怖した。
幅十メルはあろうかという純白の光の柱が、斜め下方に向けて伸び、亜人部隊の中央に突き立った。そのまま峡谷の奥へと、撫でるように向きを変え――。
クアァッ。
甲高い共鳴音とともに、熱と光の波が峡谷の幅一杯に溢れかえり、直後、天地を引き裂く轟音とともに、山脈の稜線までも届く火柱が吹き上がった。
ほとんど手の届きそうな距離に出現した、とてつもない規模の"破壊"を、ディー・アイ・エルは当初みずからの作戦が生み出したものと誤解した。
しかしすぐに、峡谷の東、つまり外側に向けて押し寄せてきた熱気が、彼女を凍りつかせた。
灼けた風が運んできたもの。それは間違いなく、亜人部隊の、そしてディーが手塩にかけた暗黒術師たちの断末魔の悲鳴だった。
立ち尽くすディーに、傍らの伝令師が、掠れたわななき声で告げた。
「……原因不明の空間力枯渇現象により、我が方の"広域焼夷矢弾"術式は不発……直後、敵陣より放たれた未詳の大規模攻撃により、亜人混成部隊の九割、オーガ弩弓兵の七割、さらに暗黒術師隊の……三割が壊滅した模様です……」
「原因不明の枯渇……だと!?」
ディーは、突如噴出した瞋恚のままに叫んだ。
「原因は明らかだ! あの馬鹿でかい術式が、峡谷のあらゆる空間暗黒力を吸い取ったのだ!! しかし……有り得ぬ、あれほどの術はこの私にも……それこそ、死んだ最高司祭にしか行使できないはず!! ならば、何者の仕業だというのだ!?」
怒鳴り散らしてみたものの、何ら建設的な思考は湧いてこない。この局面をどう打開したものか、それ以前に皇帝ベクタになんと報告すればいいのか、十候最大の智謀を持つと言われたディー・アイ・エルにしてもまったく思いつかなかった。
桁外れに巨大な術式を行使した反動と、何よりもそれが生み出した惨劇そのものに打ちのめされ、アリスは雨縁の背中にくたりと崩れ落ちた。
飛竜は主の体をやさしく受け止めると、緩やかな螺旋を描いて人界守備軍の最前線に降下した。
真っ先に駆け寄ってきたのは、副騎士長ファナティオだった。両腕を伸ばし、滑り落ちかけたアリスを抱きかかえる。
「見事……見事な術式、そして心意だったわ、アリス。御覧なさい、あなたが導いた勝利よ」
囁くような声に薄目を開けると、いまだ赤熱する峡谷の底を、狂乱の体で逃走していく敵生存兵の姿が見えた。死体のほうはほとんど確認できない。最初の超高熱線を受けて瞬時に蒸発してしまったか、その後の爆発で跡形もなく四散したのだ。
あまりにも無慈悲な破壊を、誇る気持ちには到底なれなかった。
しかし、直後、周囲の衛士たちから津波のような歓声が沸き起こった。それはすぐに一つにまとまり、脈打つ勝ち鬨へと変わる。
整合騎士団万歳、四帝国万歳の唱和を聞きながら、アリスは詰めていた息を吐き、ファナティオの腕から立ち上がった。向けられる歓声に、かすかな笑顔と控えめに挙げた右手で応えてから、副騎士長に向けて口を開く。
「ファナティオ殿、戦いはまだ終わったわけではありません。今の術式が新たに発生させた神聖力を敵に再利用されぬよう、治癒術で消費しておかねば」
「そうね……向こうにはまだ主力が健在ですものね」
黒髪の麗人は頷くと、声を張り上げた。
「よし、修道士隊、それに衛士でも治癒術の心得のあるものは、空間力の尽きるまで全力で負傷者の治療に当たれ! 敵陣の動きからも眼を離すなよ!」
鋭い命令が響き渡るや、鬨の声に変わって、システムコールの起句が各所で響き始めた。
アリスは体の向きを変え、愛竜のやわらかい顎裏を掻いてやりながら、優しく囁いた。
「お前も、よく頑張ってくれましたね……ひとところに静止し続けるのは疲れたでしょう。寝床に戻って、食べ物をたっぷり貰いなさい」
竜は一声うれしそうに啼くと、浮き上がり、最後方の仲間たちのもとへと滑空していった。さて、自分も負傷者の救護に当たろう、そう思って一歩足を踏み出した、その時。
「……師よ」
低く響いた声は、騎士エルドリエのものだった。
ただ一人の弟子を労おうと、笑顔とともに視線を動かしたアリスが見たのは――常に洒脱で軽妙だったはずの若者の、凄惨な姿だった。
右手の剣。左手の鞭。ともに、何層にもこびり付いた血で赤黒く染まっている。それだけではない。白銀の鎧も、艶やかだった藤色の巻き毛も、返り血で酷い有様だ。いったい、どのような戦い方をすればこんな姿になるのか。
「え……エルドリエ! 怪我はないのですか!?」
息を飲みながら尋ねると、騎士はどこか虚ろな表情で、ゆっくりと首を振った。
「いえ……。しかし……いっそ、命を落とすべきでした……」
「……何を言っているのです。そなたには、この戦いが終わるまで、衛士たちを率いて戦い抜くという使命が……」
「私はその使命を果たせませんでした」
ひび割れた声で、騎士は呟いた。
アリスには知り得ぬことだったが、エルドリエは山ゴブリン族の奸系で前線突破を許してしまったあと、たっぷり数分間も、術式なしで煙幕を晴らそうと無駄な努力を続けたあと、ようやく手勢を率いて後方を襲ったゴブリンを追ったのだ。
しかしその時にはすでに、山ゴブリン族長コソギは、"失敗騎士"の烙印を押されていたはずの整合騎士レンリに討たれたあとだった。挽回の機会をも奪われたエルドリエは、ほとんど惑乱の体で、長を失い逃げ惑うゴブリンたちを片端から殺戮し――血にそぼ濡れた姿で、師が上空から放った神威の術式を見上げたのだった。
「アリス様の期待を……私は裏切った……」
鞭を腰に戻した左手で、エルドリエは激しく長い巻き毛を引き毟った。
「愚かな……無様な姿を……生き恥を晒し……何が騎士か……!」
そして、何が"師を守りたい"か。
あの凄まじい術式の威力。違いすぎる――何もかも。
所詮、必要なかったのだ。天才騎士である師には、自分のような半端者など。剣技も、術力も、完全支配術にも秀でるものを持たず、その上ゴブリンごときの策にしてやられる愚昧ぶりをも露呈したのだから。
このざまで、守るどころか――師の心を、愛を得ようなどと――滑稽にも程がある。
「私には……アリス様の弟子を名乗る資格など……!」
血を吐くような激しさで、エルドリエは叫んだ。
「そなたは……そなたは、良くやりました!」
呆然としながらも、アリスはどうにかそれだけを口にした。
一体、エルドリエに何が起きたのか、推測することもできなかった。前線に多少の混乱はあったようだが、さしたる被害もなく敵を打ち破っているではないか。
「私にも、守備軍にも、そして人界の民たちにもそなたは必要な者です。何故そのように、己を責めるのです」
最大限穏やかな声でそう言い聞かせたが、エルドリエの眼光の昏さは薄れることはなかった。返り血が点々と跳ねる頬を震わせ、騎士は聞き取りにくい声で呟いた。
「必要……。それは……戦力として、ですか……それとも…………」
言葉は、最後まで言い終えられることはなかった。
不意に空気を震わせた、異質な唸りが、アリスとエルドリエの聴覚を同時に刺激した。
「ふるるるる……」
狼のような、犬のような、湿った喉声。アリスは眼を見開き、峡谷の奥側を見やった。
地面が冷えて再び訪れた夜闇にまぎれるように、巨大な影がうっそりと立っていた。
人のかたちではない。奇妙な角度に折れ曲がった下肢、異様に細い腰周り、前傾する逞しい上体と、そこに乗る頭は――まさしく、狼のものだ。ダークテリトリーの亜人。オーガ族。
神速で右手を剣の柄に掛けたアリスは、しかしすぐに相手が丸腰であることに気付いた。それどころか――体の左半分は醜く焼け焦げ、薄く煙を上げている。熱線に灼かれ、重傷を負ったのだ。しかしなぜ、他の亜人のように撤退しなかったのか。
いつの間にか、周囲からは衛士たちや騎士の姿は消えている。エルドリエと話しているあいだに、治療のために彼らも少し後方に引いたのだ。
オーガの挙動を鋭く警戒しながら、アリスは低く問うた。
「……そなた、見たところもはや瀕死の深手。その上丸腰で敵陣に打ち入るのは何ゆえか」
返ってきた言葉は、まったく予想外のものだった。
「……るる……おれ……は、オーガの長……フルグル…………」
名乗りとともに、突き出た口吻から長い舌が垂れ、ハァハァと激しい呼吸音が響く。
アリスは小さく息を飲んだ。オーガの長、つまり暗黒界十候の一人であり、敵軍の最高位の将ではないか。となれば、やはり最後の力で斬り込みにきたのか。
しかし、オーガは更に意外な言葉を発した。
「おれ……見た。あの……光の術……放ったの、お前。あの力……その姿……お前、"光の巫女"。るるる……お前、連れていけば……戦争、終わる。草原、帰れる……」
何を――言っているのか。
光の巫女? 戦争が終わる?
まったく意味は分からなかったが、しかし、自分が今何かとてつもなく重要な情報に触れているのだということをアリスは直感した。もっと訊き出さねば。一体、巫女、つまり自分を、どこに"連れていく"というのか。
だが、その瞬間。
「…………おのれ……獣が何を言うかッ!!」
絶叫したのはエルドリエだった。右手の血刀を振りかぶり、一直線にオーガの長に斬りかかる。
だが、その刃は、振り下ろされることはなかった。
凄まじい速度で、ほとんど瞬間移動のように飛び出したアリスが、左手の二本の指だけでぴたりとエルドリエの全力の斬撃を押さえたのだ。
「し……師よ、何故!?」
悲鳴にも似た声を漏らす弟子に、言葉を掛ける余裕もなく、アリスは目の前のオーガに向かって更にもう一歩踏み出した。
間近で見ると、亜人の傷は深手というよりも既に致命傷だった。左腕から胸にかけてはほぼ炭化し、そちらの眼も白く濁っている。意識すらも、半ば混濁状態であることが察せられたが、アリスは尚も問いを続けた。
「――いかにも、私こそが"光の巫女"。さあ、私を連れていくのは何処なのです。私を求めるのは誰なのですか」
「……るるるる……」
オーガの、無事なほうの眼が鈍く光った。長い舌から、血の混じった唾液が垂れる。
「……皇帝……ベクタ、言った。欲しいの、光の巫女だけ。巫女をつかまえ、届けた者の願い、何でも聞く。オーガ……草原帰る……馬飼って……鳥撃って……暮らす…………」
皇帝――ベクタ!!
伝説の暗黒神! そんなものが、ダークテリトリーに降臨したというのか。その神が、この戦を、そして"光の巫女"を欲しているのか。
アリスは、得た情報をしっかりと記憶しながらも、目の前の大きな亜人に憐れのこもった視線を向けた。
この、狼の頭を持つ戦士からは、ゴブリンが放つような生臭い欲望の匂いはまるで漂ってこない。ただ、命ぜられるままに戦場に参じ、命ぜられるままに弓を引き絞り――しかし、それを放つことなく部族の者ほとんどが死に絶えた。
「私を……恨まないのですか。そなたの民を皆殺しにしたのは、この私です」
アリスは、無為と知りながらそう言わずにいられなかった。
オーガの答えは、至極単純であり、それゆえに真理を含んでいた。
「強いもの……強さと同じだけ、背負う。おれも……長の役目、背負っている。だから……お前、捕まえて、連れて……いく…………」
ぐるるるるっ!!
突然、オーガの口から凶暴な咆哮がほとばしった。
逞しい右腕が、凄まじい迅さでアリスに向かって伸びた。
チン。
短く響いたのは、金木犀の剣の鍔鳴りだった。アリスが、オーガの数倍の速度で抜剣し、一閃ののち鞘に収めたのだ。
ぴたりと亜人の巨躯が停まった。
アリスが一歩退くと同時に、ゆっくりとオーガはその身を横たえ、地に沈んだ。逞しい胸に、薄く一直線の傷痕が浮かんだが、あまりの滑らかさゆえか一滴の血も零れなかった。
音も無くまぶたを閉じた、狼頭の戦士のむくろに、アリスは右手をかざした。ふわりと放散されるささやかな神聖力を受け止め、幾つかの風素を生み出す。
「せめてその魂を、草原に飛ばしなさい……」
緑色の光は、一陣のつむじ風となって峡谷の空へと舞い上がっていった。
御座車の床にひざまずき、限界まで平伏しながら、ディーは己を見下ろす皇帝の視線に心底恐怖した。
怒りに、ではない。
氷色の瞳は、ひたすら無感情に、ディーの価値と能力のみを計ろうとしている。己が無能、無用の者であると判断されたとき、はたして皇帝がどのような処分――罰ではなく――を下すのか、それを考えただけで骨の髄まで震えがきた。
やがて、低く滑らかな声が短く問うた。
「ふむ。つまり、お前の策が失敗したのは、敵が先んじて空間……暗黒力を吸収・消費し尽くしたから、というわけだな?」
「は……はっ!」
ディーは額を足元に擦り付けるようにして答えた。
「まさにその通りであります、陛下! 最高司祭無き敵軍に、それほどの術者が残っているという情報は入っておりませなんだゆえ……」
「暗黒力を補充するすべはないのか?」
必死の言い訳には耳も貸さず、皇帝は対応策のみを求めた。しかし、それに対しても、ディーは首を横に振るしかなかった。
「お……おそれながら……敵整合騎士を殲滅し得るほどの高密度暗黒力の補充には、肥沃な地勢、横溢な陽光がともに必要となり……あるいは、オブシディア城の宝物庫になら暗黒力に転用可能な輝石のたぐいが秘蔵されておりましょうが、回収に向かうにも数日の時間が……」
「なるほど」
皇帝は軽く頷くと、鋭利な相貌を西の峡谷へと向けた。
「……しかし、見たところ、この地には草木もなく、またすでに日も沈んでいるようだが。ならば、お前は何を力の源として大規模術式を実行しようとしたのだ?」
ディーは恐怖のあまり、暗黒術体系の開祖たる古神ベクタが、ごく基本的な理屈について問うてくる違和感を意識することはなかった。己の保身のみを懸命に追う女術師は、沈黙を畏れるようにひたすら口を動かした。
「はっ、それは、何と言ってもいくさ場に御座りますゆえ……亜人ども、また敵兵どのも流した血と尽きた命が暗黒力となって大気を満たしておりました」
「ふ……む」
皇帝が玉座から立ち上がる気配がしたが、ディーは顔を上げられなかった。
こつ、こつ、と黒革の長靴が近づいてくる。内臓が絞られるような恐慌。
凍りつくディーのすぐ左脇で立ち止まった皇帝は、毛皮マントの裾を夜風になびかせながら、小さく呟いた。
「血と……命か」
「"光の巫女"……?」
干した果物と木の実を刻んで混ぜた堅焼きパンを大きくかじり取った騎士長ベルクーリは、逞しい顎を動かしながら首を捻った。
いっときの停戦状態を利用して、守備軍の兵たちには補給部隊から大急ぎで戦場食が配布された。負傷者の治療はあらかた終了し、超高位術者でもある整合騎士の活躍もあって、瀕死だった者ですらもすでに起き上がってスープをかき込んでいる。しかし無論、死んだものたちは戻ってこない。千名で構成されていた第一陣のうち、百五十近い衛士と、一人の下位騎士が命を落としていた。
アリスは、小さくちぎったパンを口に運びながら、正面に腰を下ろす騎士長に頷きかけた。
「はい。そのような名称、これまでどんな歴史書にも見出したことはありませんが、しかし敵の総司令官がそれを強く求めているのは確かと思われます」
「司令官……闇の神ベクタ、か」
唸るベルクーリの手中のグラスに冷えたシラル水を注いでから、副長ファナティオが言葉を発した。
「とても信じられません……神の復活、などと……」
「まぁ、な。しかし……得心のゆく部分もある。敵本陣を覆う異質な心意を、お前も感じておらぬわけではあるまい」
「は……確かに、吸い込まれるような冷気を……感じる気も致しますが……」
「何せ、世界が創られて以来はじめて大門が崩れたのだ。もう何が起きても不思議ではない、と考えるべきかもしれん。だがな……嬢ちゃんよ」
勁い眼光がアリスを正面からとらえる。
「ダークテリトリーに暗黒神ベクタが降臨し、そ奴が"光の巫女"を求めており……さらにその巫女が、嬢ちゃんのことだと仮定するとして、それが今の戦況にどう影響する?」
そう。
結局はそういうことになる。ベクタは巫女を手に入れれば満足するのだとしても、残る闇の種族らは、人界を喰らい尽くすまでは決して止まるまい。この峡谷を何が何でも死守せねばならないという状況に変わりはない。
しかし、アリスには、もうひとつだけ脳裏に染み付いて離れない単語があった。
"世界の果ての祭壇(ワールドエンド・オールター)"。
そこに辿りつけば、半年前のカセドラルでの戦いの最後で、キリトが会話をしていた謎の"外の神々"に呼びかけられるはずだ。
今までは、そこに向かいたくとも、大門の防衛を放棄するわけには絶対に行かないという事情があった。
しかし――追ってくるなら。
光の巫女を求めるベクタとその軍が、山脈から出たアリス一人を追いかけてくるならば。
むしろ、敵軍を人界から引きはなし、更に守備軍の陣容を整える時間を稼げるのではないか――。
あまりにもあやふやな"祭壇"の話は伏せたまま、アリスは毅然とした口調で、守備軍最高指揮官に告げた。
「私が単身、敵陣を破って、ダークテリトリーの辺境へと向かいます。敵の首魁と、少なからぬ手勢は私を追ってくるはず。充分な距離を取って分断したところで、残る敵軍を逆撃、殲滅して頂きたい」
皇帝ベクタは、何の感情も交えぬ乾いた声で言った。
「ディー・アイ・エル。三千も使えば足りるか?」
「……は、は?」
言葉の意味がわからず、ディーはついに顔を持ち上げた。皇帝の横顔は、いっそ穏やかとすら思えるほどに滑らかで、ただその眼だけが、ぞっとするような何かを湛えて眼下の軍勢を睥睨していた。
「敵整合騎士を排除する術式を再度行使するための暗黒力として――」
続いた言葉に、さしもの冷酷なる智将も、愕然と両眼を見開いた。
「あのオーク予備兵力の命を三千も消費すれば足りるか、と聞いている」
両脚から這い登る冷気。深甚なる恐怖。
それらは、背筋に染みとおる過程で――あまりにも甘美な、皇帝への帰依と陶酔へと変わった。
「……充分でございます」
ディーは、意識せぬまま皇帝のブーツにすがり、額を押し付けて囁いた。
「ええ、充分にござりますとも陛下。ご覧に入れてさしあげますわ……我が暗黒術師ギルド史上最大最強、この世の地獄の顕現たる奇跡の術式を……」
人界、暗黒界問わず、アンダーワールドに住まう者の名前は、言語と直結する意味を持たない、"音の羅列"である。
これは、最初の人工フラクトライトを育てたラーススタッフ、"原初の四人"が、名前というものについて深く考えることなく、彼らの認識するファンタジー的なカタカナ名を"子"や"孫"たちに与えたことに端を発する。
原初の四人が死去(ログアウト)したあと、フラクトライトたちは独力で子供を生み、育てていくこととなった。そこで彼らを戸惑わせたのが、確立されぬままの命名法だった。
やむなく、初期の親たちは自分と似たような、意味を持たない音の組み合わせを子に与えていた。しかし時代が下り、世代交代が進むなか、いつしか名付けにも法則が生まれ、それはアンダーワールド独自の"命名術"というようなものにまで進化することとなった。
つまり、アからンまでの音と、濁音、半濁音すべてに意味を与え、その組み合わせによって子供の未来に願いを込める――というものだ。
例を挙げれば、ア行の音は真摯さ。カ行の音は快活さ。サ行は俊敏さ。タ行は、元気で丈夫。ナ行は包容力……等々。よって、"ユージオ"は、優しく、仕事が早く、真面目であるように、という意味になる。"ティーゼ"は、元気で面倒見がよく、武術に才があることを願ってつけられた名前だ。命名術はダークテリトリー五族でも共通のもので――あまりにも繁殖力が強すぎるゴブリン族は、簡便に話し言葉を流用することも多いが――、たとえば"シグロシグ"は、敏捷、勇猛、精悍、また敏捷勇猛たるべし、という欲張りな名前である。
さて――。
亜人五族を率いる五人の将、最後の生き残りであるところのオーク族の長。
彼は、その名を、リルピリンと言った。
リルピリンは、かの暗黒将軍シャスターをして、ディー、コソギと並んで人界との和平を阻む最大の障害であると言わしめたほどの、人族への強烈な敵意の持ち主として知られている。
しかし、それは決して生来の性質ではなかった。
彼は、オークの有力豪族の子として生を受けたとき、種族の歴史上もっとも見目麗しい赤子であると賞された。与えられた名前は、美しさを表すラ行音を三つも含んだ、オークとしては稀有なものだった。
リルピリンは、両親の願いどおり、容姿も、そして心根も美しい若者としてまっすぐ育った。武才にも恵まれ、次代の長として誰からも期待され、そしてある日、先の十候に付き従って、初めてオーク領である南東の湖沼地帯を出て帝城オブシディアに登った。
きらびやかな鎧と剣で身を飾り、誇らしく背を反らして城下町へと入った彼が目にしたのは――ほっそりとした体、艶やかな髪、そしてくっきりと麗しい目鼻立ちを持つ"人族たち"だった。
リルピリンは、天地が砕けるような衝撃とともに知った。自分の美しさは、あくまで、『オークとしては』という一句が先に付くものであること。そして、オークは、暗黒界五族のなかでもっとも醜い種として嘲笑されていることを。
でっぷりと丸い腹、短い手足、巨大で平らな鼻、小さく潰れた眼、垂れ下がった耳。そのような造作を持つオークにあって、リルピリンが『美しい』と称えられたのは、取りも直さず、顔立ちがかすかに人族に近いから、という理由だったのだ。
それを知ったとき、リルピリンの魂は崩壊寸前にまで追い込まれた。精神を保つため、彼はひとつの激烈な感情にすがるしかなかった。つまり、敵意だ。いつか必ず人族を打ち滅ぼし、全員を奴隷化したあげく、二度とオークを醜いと嗤えないように一人残らず目を潰してやる、という凄まじい決意を秘めたままリルピリンはオークの長となった。
だから、彼は決して、先天的な残虐性を持っているわけではない。それは巨大な劣等感の裏返しというだけであり、一族の者に対しては、変わらず慈悲深き名君だった。
「そ……そではあんまりだ!!」
皇帝の命令が届いたとき、リルピリンは思わず叫んだ。
オーク軍はすでに、先陣の補助兵力として一千名を出し、悉く失っている。自分の指揮の届かないところで、ゴブリンやジャイアントどもに命ぜられるまま戦い、死んでいった彼らのことを考えるだけでも胸がつぶれそうだというのに、新たに下された指示はあまりにも無慈悲なものだった。
暗黒術師の攻撃術の礎となるために、三千の人柱を拠出せよ。
もはや、戦士としての名誉も、それどころか知性あるものの尊厳すら欠片も認められない死に様だ。ただの肉――輜重部隊の竜車に積まれている毛長牛どもと何ら変わりないではないか。
「おで達は、戦うだめにここに来たんだ! お前らの失敗を命で償ってやるだめではない!」
甲高い声を振り絞り、リルピリンは抗弁した。
しかし、腕組みをして立つ暗黒術師総長ディーは、冷たい眼で見下ろしながら、傲然と言い放った。
「これは勅令である!!」
ぐ、とオークの長は喉を詰まらせた。
皇帝ベクタの力のほどは、あの暗黒将軍の叛乱劇のさいに嫌と言うほど目にしている。十候を遥か超える力を持つ、圧倒的な強者だ。
強者には従わねばならない。それ以外の選択肢は一切ない。
しかし――。しかし。
リルピリンは立ち尽くし、両拳をぶるぶる震わせた。
と、背後から、オークにしては低く滑らかな声がかけられた。
「長よ。皇帝の命には、しだがわねばなりませぬでしょう」
ハッ、と振り向くと、立っていたのはやや細めの体と、薄くながい耳を持つ女オークだった。リルピリンの遠縁にあたる豪族で、子供の頃にはよく一緒に遊んだ幼馴染だ。
穏やかな笑みを口元に滲ませ、彼女は続けた。
「私と、我が隊三千名、喜んで命を捧げまする。皇帝のだめ……そして、一族のだめに」
「…………」
リルピリンは言葉を失い、ただ長い牙を砕けそうなほどに噛み合わせることしかできなかった。女オークは一歩前に出ると、密やかな声で囁いた。
「リル。私は信じでいます。人だけではなく、死んだオークの魂も神界に召されるのだと。いつか……まだ、そこで会いましょう」
お前までもが命を捧げる必要はない、そう言いたかった。しかし、人柱となる三千の兵に運命を受け入れさせるには、彼らがある意味では長よりも崇拝している姫君であるところの彼女が共に逝くことが必要であるのも確かだった。
リルピリンは、強く相手の手を握り、呻くように言った。
「すまん……許しでくれ……すまない……」
そんな二人を厭わしそうに見下ろしながら、ディー・アイ・エルが、無慈悲に言い放った。
「五分以内に三千名を峡谷手前百メルに密集陣形で待機させよ。以上だ!」
身を翻し、去っていく人族の長を、オークの長は燃え上がりそうな視線で凝視した。なぜ、なぜオークだというだけでこんな仕打ちを受けなければならないのか、という叫びが胸中で渦巻いたが、答えはどこからも得られなかった。
整然とした縦列を組み、本陣を出て行進していく三千の兵たちは、いっそ誇らしげですらあった。だが、それを見送る七千の同族からは、すすり泣きと怨嗟の声が低く、深く響いた。
若き姫に率いられた三千のオークは、暗黒騎士団と拳闘士団の陣の中央を、旗指物を翻しながら抜けていき、峡谷の入り口から少し下がったところで方陣を組んだ。
その周囲を、黒い霧が湧くように、二千の暗黒術師たちが取り囲んだ。
開始された詠唱は、術式の呪わしさを映してか、ひどく耳障りな共鳴音を作り出し大気を震わせた。
「あ……ああ…………」
リルピリンは掠れた呻き声を放った。突如、愛する兵たちが、苦悶するように身を捩り、地に崩れたのだ。
のたうつ彼らの体から、白く点滅する光の粒のようなものが、間断なく吸い出されていく。それらは術師のもとへと集まると同時に黒く変色し、わだかまって、次第に奇怪な長虫のような姿へと変わっていく。
三千の兵と、ひとりの姫将軍の悲鳴が、鋭く、鮮やかにリルピリンの耳に響いた。
それに混じって、口々に叫ばれる、甲高い声もまた。
オーク万歳。オークに栄光あれ。
直後、兵たちの体が、立て続けに爆ぜ始めた。血と肉片をばら撒きながら、なおも大量の光を放出し、たちまち術師たちに奪われる。
いつしかリルピリンは両膝を突き、右拳を地に打ち付けていた。あふれ出した涙が、大きな鼻の両側を伝い、音を立てて砂に落ちた。
人め。
人め!
人どもめらが!!
怒りと怨みの絶叫が脳内にはじけるたびに、なぜか右眼が強く痛んだ。
時を遡ること十数分。
人界守備軍本陣では、二分された部隊が、再会を誓い合って握手や抱擁を繰り返していた。
整合騎士アリスの策を容れた騎士長ベルクーリが、もう一つの決断を付け加えたのだ。
それは、囮となって敵軍を引きつける"光の巫女"ことアリスに、部隊の五割を同行させる、というものだった。もちろんアリスは強く反対し、単独行を主張したが、騎士長は聞き入れなかった。
――囮が嬢ちゃん一人では、敵は大して追っ手を振り分けないだろう。充分な戦力が共に逃げてこそ、分断策も奏功するってもんだ。
そう言われれば、反論はできない。"光の巫女"などというあやふやな話ひとつを根拠に、自分にひとりに敵全軍を引き寄せる価値があると主張するのは強引にすぎるのも確かだからだ。
それに、アリスは、雨縁の背に自分だけでなくキリトをも載せていくつもりでいた。単身囮となりつつ、彼の身を守りつづけられるか、いくばくかの不安もあった。部隊が共に附いてきてくれるなら、その意味では心強い。
守備軍の二分割が決定されたあと、ベルクーリはさらに皆を驚かせた。
総指揮官たる騎士長自身も、囮部隊に加わるというのだ。
これには、居残り部隊の指揮官に命ぜられたファナティオとデュソルバートが大反対した。
「お前らはもう充分働いたじゃねえか」
諭すような口調で言うベルクーリに、ファナティオは眦を吊り上げて抗弁したものだ。
「私がお傍におらねば、着替えも畳めないような人が何を仰いますか!!」
これには、騎士や衛士たちの間から、大いに囃し立てる声が上がった。ベルクーリは苦笑し、ファナティオの耳元に顔を寄せて何か囁き――驚いたことに、副長は俯いて引き下がったのだった。
デュソルバートのほうは、緒戦で鋼矢が尽きてしまったという明快な事実を指摘され、こちらも已む無く受け入れた。現在、後方の街に補給隊員が仕入れに走っているが、一、二時間でどうなるものでもない。
進む部隊、留まる部隊、別れを惜しむどちらの顔も、等しく緊張と気遣いに満ちていた。実際、どちらがより危険なのかは定かでない。敵軍のどれくらいが囮部隊を追い、どれくらいが大門攻撃を続行するかは、神のみぞ――いや、敵総指揮官たる暗黒神ベクタのみが知っているのだ。
やがて、囮部隊を構成する五人の上位騎士とその飛竜、千二百の衛士、更に五十人の補給部隊の準備が整った。
補給隊の輜重段列には、四頭立ての高速馬車十台が仕立てられた。そのうち一つに、キリトの車椅子と、二人の少女練士たちも乗っているはずだ。
アリスは、彼女らが囮部隊に加わることに激しく逡巡した。しかし、ティーゼとロニエの決意は固かった。それに、一体何があったのか、上位騎士の一人であるレンリが命に代えても彼女たちを守ると誓ったのだ。
アリスは、正直なところ、騎士レンリをほとんど記憶に止めていなかった。だが、その幼い顔に満ちた決意と自信、そして両腰に装備された神器がまとう心意は本物だと思えた。
ベルクーリの"星咬"を先頭に、五騎の飛竜が助走を開始したとき、後方に残る部隊からは控えめな歓声が上がった。
アリスは、騎士長の左後方で雨縁の手綱を握りながら、さらに左に付くエルドリエにちらりと視線を送った。
常に饒舌な弟子が、出撃準備のあいだ中やけに寡黙だったことが少し気になった。しかし、何か言葉を掛けようとした寸前、星咬がふわりと離陸し、アリスも慌てて前を向くと雨縁の横腹を軽く蹴った。
「よし――峡谷を出ると同時に、竜の熱線を敵主力に一斉射! 向こうにはもう遠距離攻撃手段はほとんど無いはずだ、敵竜騎士にだけ気をつけろよ!」
ベルクーリの指示に、はいっ、と鋭く応える。
すぐ後ろからは、騎馬と徒歩で突進する衛士たちの足音が重く響く。彼らと輜重馬車が峡谷を出て、南つまり右方向に直角転進し、充分に距離を取るまでは整合騎士だけで戦場をかき回さねばならない。
狭く暗い峡谷の彼方に、たちまち無数の篝火が見えてくる。
やはり――多い。あれだけ倒したのに、敵本隊の規模はいまだ膨大だ。
とは言え、その大部分は暗黒騎士、それに拳闘士であるはず。どちらも近接戦闘に特化した部隊で、飛竜に騎乗した整合騎士に対する有効な攻撃方法は持たない。
いや。
あれは、何だ。
風切り音に混ざって届いてくる、低くうねるような、呪詛じみた唱和。
術式――多重詠唱!?
馬鹿な、この一帯にはもう、大規模攻撃術を行使できるほどの神聖力は残っていないはず!!
アリスは自分の直感を否定しようとした。
しかし同時に、すぐ前を飛ぶベルクーリが、「奴ら……何て真似を!!」と吐き捨てる声が聞こえた。
ああ。
なんと、
いう、
力か!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、両手を高く掲げながら、あまりの法悦に全身をわななかせた。
これほど濃密に飽和した空間暗黒力場を体感した術師は、史上ひとりたりとも存在するまい。
知性あるものの天命というのは、この世界で最も優先度の高い、純粋なる力の塊である。たとえそれが、卑しく醜いオークの命であろうとも。この密度を百年もののワインに喩えるならば、陽光や大地から供給される力などただの水だ。
そのうえ、先刻の"広域焼夷矢弾"で用いようとしたのは、あくまで戦闘で消費された命の残りカスである。しかし今は、三千もの命を、術式により直接暗黒力に変換しているのだ。
ディー以下二千名の術師たちが差し伸べる両手には、それぞれ黒いもやが凝集して出来上がったような、無数の足を持つ醜悪かつ巨大な長虫が何匹ものたくっている。これらは闇素因から生成された、いわば"天命喰らい"だ。剣も盾も、あらゆる物質では絶対に防げない。暗黒力の変換効率としては、火炎や凍結攻撃には劣るが、これほど豊富な供給源があれば話は別だ。
貴重な部下を千人も焼き殺してくれた、敵の"光の柱"への意趣返しとしてディーはこの術を選んだ。のた打ち回って死んでいくオーク兵の断末魔すら、彼女には甘美な交響曲でしかなかった。
「よぉし……"死詛蟲"術、発射用意!!」
高らかに叫んだディーの眼に――。
何をとち狂ったか、峡谷の奥から突撃してくる竜騎士どもと、騎兵、歩兵の群れが映りこんだ。