余りの寒さに強張った口で、ユージオは短く答えた。ベルクーリはしばし目と口を閉じ、何事か考えていたが、やがて太い笑みを浮かべた。
「ふん、なるほど、"地の利"って奴か。一本取られたことは認めてやるぜ……だが、まだ負けてやるわけにはいかねえな」
すう、と息を吸い、溜める。
この状況で何をするつもりか、とユージオは緊張した。考えられるとすれば神聖術しかない。詠唱を始めたら、即座にこちらも対抗術の準備をする必要がある。
かっ、とベルクーリの目が見開かれた。
直後、食い縛った歯列の奥から、裂帛の気合が迸った。
「ぬうううううんっ!!」
たちまち、騎士長の額に太い血管が何本も浮かび上がる。わずかに露出した首元に、幾筋もの太い肉の束が盛り上がり、皮膚が真っ赤に昂ぶっていく。
「な……」
これにはユージオも唖然とした。ベルクーリは、肉体の力のみで無理矢理この分厚い氷を割ろうというのだ。
そんなことが出来るはずがない。体が自由で、充分な助走距離があったとしても、これだけの氷の塊を素手で破壊するのは困難を極めるだろう。翻って、騎士長は全身を毛一筋の隙間もなく固定されているのだ。
噛み合わされた白い歯が、ぎりりっ、と鋼が軋むような音を立てる。水色の双眸が、まるで自ら発光するかの如く、苛烈な輝きを帯びる。
氷点下の冷気の中にあって、それを上回る寒気がユージオの背筋を疾った。
ぴしり、とかすかな――しかし決定的な破砕音が鼓膜を撃つ。
直後、氷の滑らかな表面に、一筋の亀裂が刻まれた。すぐに、それから分岐してもう一筋。さらにもうひとつ。
やはり、眼前の威丈夫は、ただの人間ではないのだ。全世界の剣士から選りに選った猛者を集めた整合騎士の、さらにその頂点に立つ、つまりは地上において最強の男。恐らく百年、二百年の時を戦場の中で過ごしてきた、生ける伝説。そう、掛け値のない伝説なのだ。ベルクーリ、その名をどこで聞いたのか、ユージオは今になってようやく思い出しつつあった。
そのような敵と対峙しておきながら、一度裏を取っただけで勝った気になるのは勘違いも甚だしいというものだ。もとよりユージオも、敵と自分を氷漬けにしただけで優位に立てると思っていたわけではなかった。真に狙ったのはここから先、文字通りの、両者の天命の削り合いに持ち込むことだ。
いまだ完全支配状態下で、刀身を薄く輝かせる青薔薇の剣の柄をしっかり握り、ユージオは意識を集中した。大きく息を吸い、叫ぶ。
「咲け――青薔薇!!」
びきびきびきっ――!
と、硬く凝るような音を立てて、幾つもの透明な"蕾"が、刀身を中心にして氷面に突き出した。それらは回転しながらほころび、剃刀のごとく薄く透き通った蒼い花びらを広げていく。
一輪の氷薔薇が、鈴に似た音を立てながら満開になったのに続いて、無数の――それこそ数百、数千の薔薇が凍りついた浴槽全体に一気に広がった。途方もなく美しく、しかし冷酷な美の饗宴だ。なぜなら、これら膨大な青薔薇たちは、ユージオとベルクーリの天命を吸って咲き誇っているのだから。
全身から力が抜け、視界さえも薄暗くなるのをユージオは感じた。最早冷たさはおろか、肌に触れる氷の硬ささえも感じられない。ただただ、痺れるような無感覚さが体を包む。
さしものベルクーリも、いまにも氷の獄を割ろうとしていた四肢の力を根こそぎ奪われたようで、上気していた肌がみるみる白く血の気を失っていくのが見て取れた。いかつい顔が初めて大きく歪む。
「小僧……手前ェ……端っから、相討ち狙い、だったのかよ」
「勘違い……しないで、ください」
力の入らない喉から、ユージオは掠れた声を絞り出した。
「僕が……貴方に優れるかもしれない唯一の要素……それは、天命の……総量です。ファナティオさんは……僕の相棒と、ほぼ同じ傷を負い、同じように倒れた……つまり、老いて死ぬことのない、整合騎士と言えども、天命の量そのものは僕らと変わらない……ということです」
口を動かすあいだにも、幾重にも咲き誇る氷の薔薇たちからは、きらきらと輝く冷気の粒が銀砂を撒くように筋を作って流れ出ている。少し前から、湯の流れ落ちる轟音が聞こえなくなっているのは、あの幾つもの滝がすべて凍りついた証だろう。
最早、ベルクーリも、ユージオも、口と鼻のまわりだけを残して氷の膜に覆われている。今ステイシアの窓を開けば、天命の数字が恐るべき速さで減少しているのが見えるはずだ。不意に襲ってきた、途方も無い眠気を振り払うために、ユージオは懸命に言葉を続ける。
「……外見からして、貴方が整合騎士になったのは、四十歳を越えてからのはずだ。対して、僕は今が天命の自然増のほぼ頂点……例え一太刀受けていても、総量ならまだ優っているはず、それに賭けたのです」
ユージオがそう言い終わるか終わらないうちに、ベルクーリの巌のような相貌が――。
くわっ! と、鬼神の如く昂じた。額と鼻筋から下がっていた氷柱が、ばりんと一斉に割れ飛ぶ。
「手前ェ……今、何て言った」
最早意識を保っているのも辛い状況で、騎士長の瞳がぎらりと強烈に光った。
「整合騎士に……なった、だと? まるで、オレたちの"それ以前"を知ってるような口を叩くじゃねえか」
ユージオは、一度瞼を閉じてから、全身全霊を込めた視線を相手にぶつけた。
「僕が……あんた達を嫌いなのは、まさにそこですよ」
腹の底からかあっと湧き上がってくる激情が、一瞬にせよ虚脱感を上回る。
「自分が何者なのかも知らず……その剣を捧げた相手の真の姿も知らずに……自分たちだけが正義の、法の守護者だという顔をする!! ベルクーリ……あんたは、アドミニストレータが天界から召還した神の騎士なんかじゃない! 人の母親から生まれた、ただの人間なんだ……あんたはこの剣に、見覚えがあるはずだ!!」
今や持てる能力を完全解放し、冴えざえとした蒼光を放つ青薔薇の剣をベルクーリに示す。
整合騎士の長、そして数百年前の御伽話の英雄は、ちらりと視線を青薔薇の剣の精緻な鍔の細工に落とした。
そして、ぐっと歯を食い縛った。
「……確かに……どこかで……。あれか……あの時か。北辺の守護竜を殺した時……彼奴の棲家に、たしかその長剣が……」
ごく低く漏れ出でたベルクーリの声に、今度はユージオが息を飲んだ。
「殺した……だって? あの竜の骨……あれは、あんたの仕業なのか? あんた……自分の……物語の竜を、殺したのか」
ぐうっと胸を衝き上げてくる、得体の知れぬ感情のうねりに、ユージオは激しく首を振った。こんな状況なのに何故か、両目に熱く滲むものがあった。
「ほんとうに忘れてしまったんですか……何もかも……。ベルクーリ、あんたはね、僕が生まれたルーリッドって村では、年寄りも子供も誰だって知ってる英雄なんですよ。央都からの長く辛い旅の末に村を拓いた、僕らのご先祖様なんだ。アドミニストレータはそんなあんたを拉致し、記憶を封じて整合騎士に仕立てた。あんたの剣の腕だけを自分の世界支配に都合よく役立てるためにね! あんただけじゃない、ファナティオさんも……エルドリエさんも、アリスだって、みんなそうなんだ。みんな、整合騎士にさせられる以前は、僕らと同じ……人間だったんだ……」
「記憶……を、封じた、だと……」
これまで、一度たりとも揺るがなかったベルクーリの両眼が、どこか遠くを見通そうとするかのように泳いだ。
「……オレも……"シンセサイズの秘儀"にはどこか胡散臭いものを感じていた……最高司祭殿の為政が……すでに限界に来ていることも……分かっちゃ……いたんだ……」
ベルクーリの顔を、ふたたび白い霜が厚く覆いつつあった。ユージオの頬を流れた涙もすでに二本の氷柱へと姿を変え、いっときの激情もまた青薔薇の根に吸われてしまったかのように虚ろな無力感へと変化しつつある。
幼い頃から何度も聞かされて育った、"ベルクーリと白い竜"の御伽話――その主役たる英雄が、もう一方の主人公である竜を冷酷にも惨殺していたのだという事実は、ユージオに言いようの無い喪失感をもたらした。アドミニストレータの権力は、予想を遥かに超える強大な代物だったのだ。大昔の英雄でさえ容易く洗脳し、自分の忠実な手駒にしてしまっている。そのような敵を相手に、いったい二人の剣士見習いが、何を出来るというのだろうか……。
自分の天命が残り僅かであることを、ユージオは痺れた思考の中で感じた。ベルクーリも同様だろう。氷の奥で半眼に俯いた瞳からは、生気の光がほとんど消えつつある。
殺してしまっていいのか?
疼くような迷いが、頭の芯でほのかに明滅する。それをしてしまったら、結局自分も整合騎士と何ら変わることのない存在になってしまうのではないか。そんな逡巡に、青薔薇の剣を握るユージオの右手が、わずかに緩んだ。
その時だった。
「ほおぉーお、これは絶景、絶景」
鉄鍋をフォークで引っ掻くような、甲高く耳障りな声がきんきんと響いた。
ユージオが霞む目を動かすと、大浴場の入り口に、奇妙なモノがいた。
丸っこい。ほとんど球形近くまで膨らんだ胴体に、冗談のように短い手足がついている。首はまったく存在せず、これまた真ん丸い頭がころんと乗っている。まるで、冬に子供が作る雪人形のようだ。
しかし、着ている服は目が痛くなるような極彩色だった。右側が真っ赤、左側が真っ青な光沢のある衣装を纏い、ぱんぱんに膨れた腹に金色のボタンがかろうじて留まっている。ズボンも同じく左右で違う色、ご丁寧に靴まで同じだ。
丸い頭には毛の一本もなく、つるりとしたてっぺんに金色の角張った帽子が載っている。大図書室にいたカーディナル前最高司祭の帽子と形は似ているが、悪趣味さは遥かに上だ。それを含めても、身長は一メル半足らずだろう。
ルーリッドの村に、毎年夏になると巡業にやってくる旅芸人の一座にも、同じような格好をした道化の玉乗りがいた。しかし、そのような心和む存在ではないのは、小男の顔を見れば明らかだった。
年齢はまったくわからない。肌は異様に白く、丸い鼻、弛んだ頬、やけに紅い唇が左右に大きくニタリと裂けている。眼は半月形に細長く、まるでにこにこ笑っているような弧を描いているが、その隙間から覗く眼光はどこか怖気を催すものがあった。
赤と青の服を来た道化は、ぴょんぴょんと跳ねるように大理石の床を横切り、氷結した浴槽に高いところから飛び降りた。つま先のとんがった左右の靴が、二輪の氷薔薇をがしゃりと踏み潰す。
「ホ、ホオーッ! ホオッ、ホオッ、ホオッ!」
何が面白いのか、丸い小男はしばし短い両手を叩いて軋るように笑うと、次々に周囲の薔薇の花を蹴散らして硝子の小片へと変えていった。そのまま、がしゃがしゃと騒々しい音を振り撒きながら、氷の中に捕われたユージオとベルクーリのほうへとやってくる。
数メル先で立ち止まり、最後に一つ薔薇を蹴り割ってから、ようやく小男はユージオたちのほうを見た。にたっ、と唇が裂け、再びあの不快な声が鳴り響く。
「いけません……いけませんねえ、騎士長殿。まさか、そのままくたばる気ですかねえ。それは明白な反逆ですよう、我らが最高司祭様への。猊下がお目覚めになられましたら、きっとお嘆きになりますよう?」
ほぼ完全に凍り付いたベルクーリの唇がかすかに震え、しわがれた声が流れ出た。
「貴様……元老チュデルキン……手前ェごとき俗物が……騎士の戦いに、口を出すんじゃねえ……」
「ホオ、ホオーッ!」
ベルクーリの言葉を聞いた道化風の小男は、再び両手を叩きながら跳び上がった。
「騎士の! 戦い! 笑わせてくれますねえ、ホオホオホオッ!」
きしきし、と人間のものとも思えぬ甲高い笑い声を振り撒く。
「忌むべき背教者を相手に、手心を加えておいてよく言いますよう! 騎士長殿、あなた時穿剣の"裏"を使いませんでしたねえ、その気になればそのガキを、一言も喋らせずにぶっ殺せたというのに! それがすでに教会への反逆だって言ってるンですよう!!」
「うるせえ……オレは……全力で戦った……それに、手前ェ、オレを謀りやがった……な。この小僧は……闇の国の手先……なんかじゃ、ねえ。手前ェみてえな醜い肉ッコロより……よっぽど、まともな、人間……」
「うっさァァァァァい! その首ひっこ抜くぞォォォォォッ」
突然両目を真ん丸く剥き出し、小男は躍り上がるように跳ねると、短い両足でベルクーリの頭を思い切り踏みつけた。そのまま器用に体勢を保ちながら、左右にゆらゆら丸い体を揺らす。
「だいたいオマエら糞騎士どもが糞程にも役立ちゃしねえからこんな面倒なことになってんですよう。たかだかガキ二人に良いようにやられまくって、アタシゃ笑いすぎて腹が破けちまいますよう。もうね、猊下がお目覚めになったら、騎士ども軒並み……少なくとも、オマエと副官の男女は再処理決定ですよう」
「なんだ……手前ェ、いったい……何を、言って……」
「ああもう、うっさい。いいから眠っときなさい」
小男は、ベルクーリの頭に乗ったまま気取った仕草で右手の小指を突き出し、真っ赤な舌でべろりと唇を舐めると叫んだ。
「システム・コール! ディープ・フリーズ・インテグレータ・ユニット・ゼロ・ゼロ・ワン!」
まったく聞いたことのない神聖術だった。しかし式は非常に短く、大した威力は無いと予想された。のだが――。
「ぐ……」
ベルクーリが低くうめいた。直後、その体がみるみる奇妙な灰色に染まっていくのを見て、ユージオは驚愕した。凍り付く、というよりも、まるで石の彫像の変わっていくかのように肌が生気を失っていく。
眼が光を失い、髪の先までもが鈍い泥のような色に変わりきったところで、ようやく小男……元老チュデルキンと呼ばれた道化は、騎士長の頭からぴょんと飛び降りた。
「ホヒ、ホヒッ……実際、もうオマエみたいなジジィは要らねえんですよう。使えそうなコマも見つかったことですしねえ」
そう呟いた小男の、針穴のように小さな瞳孔がじろりとユージオを見下ろした。背中を、ある種の――素足でノビヌル虫を踏み潰してしまったときのような怖気が這いまわる。
しかしそこで、ユージオの意識にも限界が来た。急速に暗くなっていく視界の中、氷の薔薇の上を選んでがっしゃがっしゃと踏み潰しながら近づいてくる赤と青の靴がぼんやりと見えた。
突然、激しい身震いに襲われ、俺は驚いて瞼を開けた。
眼を閉じて横になっているだけのつもりが、いつのまにか寝入ってしまったのだろうか。怖い夢を見て飛び起きたとたんに夢の内容を忘れてしまった、とでも言うかのように、頭の内側に焦燥感の余韻だけが色濃くこびり付いている。
上体を起こしながらちらりと周囲を確認したが、変わったことは何一つなさそうだった。
セントラル・カセドラルの、たぶん八十八階西側外壁に設えられたテラス上だ。太陽はずいぶん前に地平線下に没し、頭上は墨を刷いたような闇に覆われている。しかしどれだけ首を巡らせても、黒いちぎれ雲の隙間から幾つかの星が見えるのみで、待ち望む月の姿はない。しばらく前に八時の鐘が遠く聞こえた気がするので、ルナリア神がささやかなリソースの下賜を始めるまでにはまだ二時間近く間があるだろう。
黄金の整合騎士アリスは、俺への疑心を距離で表現しているのか、これ以上左に動くと新たな守護石像ドローンの索敵範囲に入ってしまうというギリギリのところに膝をかかえて座り、瞼を閉じていた。俺としては、この待ち時間を利用してわずかなりとも彼女を説得し、来るべき戦闘を回避する糸口を掴んでおきたいところだが、騎士様には世間話にすら応じるつもりはさらさら無いらしい。この場にユージオも居れば、彼の持つカーディナル謹製の短剣をちくりと刺して問題解決なのだが。
そのユージオは今ごろどうしているのか――。
考えてみると、ルーリッドの南の森であいつと出会ってからのこの二年半で、会おうと思っても会えないという状況に陥ったのはこれが初めてかもしれない。央都までの長い旅路では草枕を並べたり安宿の狭い寝床を半分ずつにして文句を言い合ったりのしどおしだったし、修剣学院に籍を得てからも寮では常に同室だった。お陰で、俺の悪態だの唆しをあいつが苦笑とともに諌めるというパターンが染み付いてしまって、引き離されると妙に心許ない。
いや、ことはもうそんな単純な話ではないのだろう、恐らく。
このアンダーワールドという異常かつ究極の仮想世界において、俺は生まれて初めて、同性の親友と呼べる存在を得たのだ。面映いことだが、それだけは認めなくてはなるまい。
デスゲームSAOに囚われる以前の俺は、同年代の少年たちを幼稚な子供と見なし、ネットの中で歳を上に偽って悦に入るという甚だ救いがたいガキだったし、それはSAOという獄に繋がれてからも大して変わらなかったろう。クラインやエギルといった、非常に人間の出来た大人達のお陰で幸いにも彼らと友誼を結ぶことはできたが、それでも彼らに腹の底までを曝け出すことは無かったように思う。俺のその度し難い傾向は、あれほど深く求め合ったアスナの前でも変わらなかったのだ。彼女に俺のほんとうの年齢と内面の弱さを吐露できたのは、アインクラッドが崩壊し、二人の意識がまさに消え去ろうというその直前だったのだから。
俺は、自分に何か人と違う特別な能力が備わっているなんて思っちゃいない。実際、SAO以前は運動面でも学業面でも何一つ人に優る部分など無かった。まして人格においてをや。
それが、SAOの虜囚となった途端トップ数パーセントに含まれるプレイヤーにランク付けされてしまい、おそらく俺は、"抜きん出る"ことの甘美さに深く魅了されてしまったのだろう。俺をトップに押し上げる要因となったのは、NERDLES技術が開発された当時からダイレクトVRワールドに耽溺したという習熟と、SAOのベータテストに狂ったようにダイブしまくった経験という、本人の能力とは何の関係もない代物だけだったにもかかわらず。
しかし、以来俺は――SAOから解放されたその後でさえ――"VRワールドにおける強さ"を誇示せずには自分というペルソナを保てなくなってしまった。周囲の人たちは俺を、生身の虚弱な桐ヶ谷和人ではなくSAOをクリアした剣士キリトとしてより強く認識しているだろうし、むしろそうなるように俺自身が無意識のうちに誘導していたことも否定できない。そのような虚飾を積み重ねれば重ねるほど、己が大事な人たちから遠ざかっていくのだと、心の底では解っていたというのに。
だから、この世界でユージオと出会い、いつしか彼の前では何一つ飾らない素の自分を曝け出していることに気付いたとき、俺は驚き、なぜそうなのかと考えた。ユージオが俺とは異なる人工フラクトライトだから? 彼はSAOの英雄キリトを知らないから? いや、そうではない。理由はただ一つ――ユージオが、このアンダーワールドという、ある意味では現実だが同時に厳然とした仮想世界において、俺を遥か上回る能力を備えているからなのだ。
彼の、剣の天分は凄まじいの一言だ。知覚力、判断力、反応速度、どれを取ってもVRワールドで散々戦ってきた俺を大きく引き離している。俺のフラクトライトに装備された戦闘回路を、旧世代のシリコン半導体CPUに喩えれば、ユージオのそれは最新のダイヤモンドCPUだ。現状ではまだ俺が指導めいたことをしてはいるが、その理由は単に俺のほうがより多い経験と知識を蓄えているからというだけにすぎない。いまのペースでユージオが腕を磨いていけば、立場が逆転する日はそう遠くあるまい。
"アインクラッド流"なる珍妙な名前をつけてしまったが、俺がこれまでのVRMMOダイブ経験において身につけた広範な戦術を、砂が水を吸収するかのように猛烈なスピードで我が物にしていくユージオの成長ぶりには、かつて覚えのない深い喜びと充足を感じずにはいられなかった。俺が長いあいだ、自我の拠り所としつつも同時に所詮はゲームの巧さでしかないことに忸怩とせざるを得なかった"剣技"が、ユージオの中で磨かれ花開くことで、はじめて本物になれたのだ、そんなふうにさえ思える。
アンダーワールドを取り巻く問題を全て解決し、ユージオのフラクトライトを首尾よく現実世界に移行させることができたら、彼をALOにダイブさせ――ライトキューブのインタフェースには、ザ・シード準拠のVRワールドとI/Oの互換性があることはほぼ間違いない――、皆に紹介しよう。俺の剣技を受け継ぎ、俺を超えた、一番弟子にして親友なのだ、と。その瞬間が待ち遠しくてたまらない。恐らくその時はじめて、俺は俺を気にかけてくれた人たちと、ほんとうの意味で――
「何をニヤニヤしているのですか」
不意に左隣から声をかけられ、俺は目をしばたいて夢想を中断した。
顔を向けると、アリスが薄気味悪そうな顔で俺を眺めていた。俺はあわてて右手の甲で口許のあたりをごしごし擦り、言った。
「いや、ちょっと……今後のことなどあれこれ考えてて……」
「それであんな緩んだ笑い方ができるのは、よほどの楽天家か、よほどの考え足らずのどちらかですね。ここからの脱出さえ覚束ない状況だというのに」
相も変わらぬ辛辣な舌鋒だ。アリスの元人格を俺は知らないが、キャラクターがこのまま変わらないなら、彼女をユージオと一緒に脱出させて現実世界で皆に引き合わせたとして、シノンやリズベットあたりと相当激しく角突き合わせることになるのは想像に難くない。
もっとも、確かにそんな究極グッドエンドめいた想像を繰り広げる前に、解決せねばならない諸問題が目の前に山積していることは事実だ。最優先なのは、この気色悪い石像ばかりが並ぶ岩棚からの脱出であるが、そのために必要な空間リソースの不足もさることながら、俺の気力リソース、具体的には腹に詰め込むべき何かの不足もそろそろ限界に達しつつある。
空を見上げつつ右手で腹のあたりを押さえ、俺は可能な限り真面目な顔と声で答えた。
「脱出のほうは、月が昇れば再開できると思うよ。ハーケンを作って地道に登っていけばいいんだし、この上にはもうドローンも置いてないみたいだしな。ただ、この絶壁をよじ登ると考えただけで目が回りそうなくらいハラが減ったという問題はあるが」
「……お前のそういう所が不真面目だというのです。一度や二度食事が取れないくらいなんですか、子供じゃあるまいし」
「あーあー、どうせ子供ですよ、こちとらまだぎりぎり育ち盛りの範疇なもんでね。天命ががっちり保護されてる整合騎士様と違って、食わなきゃ数字ががんがん減るんだ」
「言っておきますが、整合騎士とてお腹はすくし食べねば消耗します!」
きっ、と眦を吊り上げてアリスはそう言い放った。とたん、くう、という可愛らしい音が彼女の腹部辺りから発生し、俺は思わずふひっと笑いをこぼしてしまった。
騎士様の顔がさっと赤くなり、次いで右手ががしっと剣の柄を握るのを見て、慌てて両手を前に出す。
「うわ、待った、悪かった! そりゃそうだな、整合騎士と言えども生きてるんだものな、生きてるっていいなあ!」
白々しい弁解を並べながら身を縮めると、ズボンの左ポケットに何かが押し込まれている感触に気付いた。はて何を入れたのかな、と手をつっこみ、指先が触れたものの正体に気付いて、己の抜け目無さと意地汚さに感謝する。
「おお、天の助けだ。ほら、いいものがあったぞ」
引っ張り出したのは、二つの小さな蒸し饅頭だった。カーディナルの大図書室から退出するときに両ポケットに失敬しておいたやつだ。半分は昼にユージオと食べたが、残りのことをすっかり忘れていた。幾多の激戦を経て多少ひしゃげているが、この状況下で贅沢を言ってはいられない。
「……なんでそんなものをポケットに入れているのです」
アリスは呆れ返ったように脱力し、剣から手を離した。
「ポケットを叩けば饅頭が二つだ」
間違いなくアリスには理解できないだろうフレーズで煙に巻きながら、俺は饅頭の窓を引き出し、その天命が十分残されていることを確かめた。見た目はみすぼらしいが、カーディナル様が貴重な古代書オブジェクトから生成した代物だけあって、デュラビリティは驚くほど高い。
しかし、さすがに冷えて固くなっているそれをそのまま齧っても美味くあるまい。俺は少し考えてから、左手を広げ、コマンドを唱えた。
「システム・コール、ジェネレート・サーマル・エレメント」
オブジェクト生成には足りなくとも、炎素をひとつ作るくらいの空間リソースは残っていたようで、頼りなく瞬くオレンジ色の点が掌中に発生する。右手に掴んだ二つの饅頭をそこに近づけ、続くコマンドを口にする。
「バー……」
スト、と続ける前に、横合いから伸びた手がびしっと俺の口を押さえた。
「むぐ!?」
「馬鹿ですかお前は! そんなことをしたら、一瞬で黒焦げです!」
怒りと呆れと蔑みを等分ずつ瞳に浮かべ、アリスはそう罵ると、ぱっと俺の手から饅頭を攫っていった。ああっ、と情けない声を出す俺にはもう目もくれず、しなやかな左手をひらめかせると、神聖術を歌うように口ずさむ。
「ジェネレート・サーマル・エレメント、アクウィアス・エレメント、エアリアル・エレメント」
親指から中指までの三本の指先に、それぞれ橙、水色、緑色の光点がともる。何をするつもりか、と首を傾げていると、アリスはさらに術式と指の動きで、複雑な操作を加えた。まず風素で球形の空気の渦を作り、二個の饅頭をその中に浮かべる。次いで、炎素と水素もそこに投じ、それらが触れ合った瞬間、解放する。
しゅっ! という音とともに、風のバリアの中はたちまち真っ白な湯気で充満した。見た目には何ということはなさそうな現象だが、バリア内部は高温の蒸気が渦巻いているはずだ。なるほどこれなら、蒸し器を使うのと同じ効果を発生させられるというわけだ。
三十秒ほどで三つのエレメントはその寿命を終え、ふわりと溶けて消えた。流れた蒸気の中からアリスの篭手に転げ落ちてきた二つの饅頭は、まるで出来たてのようにふわりと膨らみ、ほかほかと湯気を立てていた。たまらず、口中に湧いた生唾を飲み下す。
「は、早くくれ……ギャアアア!?」
手を伸ばしかけた俺は、アリスが両手に持った饅頭をふたつ同時にかぶりつこうとするのを見て、情けない悲鳴を発した。しかし幸い、整合騎士殿は直前で口を停止させ、面白くもなさそうな顔で冗談ですとつぶやいて、片方をぐいっと突き出してきた。胸をなでおろしながら素早く受け取り、あちあちとお手玉してから大きく齧りつく。
アンダーワールドはそのクオリティにおいて現実世界にまったく劣るものではない、と分かってはいるが、蒸したての肉饅頭の皮のやわらかさ、溢れ出す熱い汁気、餡のとろける舌触りは、俺をしばし桃源郷へといざなった。とはいえわずか二口で貴重な食料は胃へと――正しくはフラクトライトの記憶野へと還元されてしまい、充足感と物足りなさを同時に味わいながら、俺はふうーっと長い息をついた。
隣でアリスも、こちらは三口で饅頭を平らげ、俺と同じように切なげなため息を小さく漏らした。俺は、戦闘の権化のような黄金騎士様にもそれなりに女の子らしいところはあるのだ、とある種の感慨を覚えながらつぶやいた。
「なるほどね……道具も何もなしにあんな調理ができるとは思わなかったな。さすがはあの料理上手の妹さんのお姉さん、という所かな……」
言い終わらないうちに、またしても横から伸びてきた手が、俺の襟首をがしっと掴んだ。
だが今度は、アリスの顔に浮かんでいるのは、青白い炎にも似た激昂の色だった。瑠璃色の瞳から飛び散った火花が、俺の眼から脳天までを貫いたような気さえした。
「お前……いま、何と言いました」
ここでようやく俺も、自分が、とてつもない失言をしてしまったのだということを遅まきながら自覚した。
十センチの至近距離から俺を睨んでいる黄金の整合騎士が、ユージオの幼馴染にしてルーリッドの修道女見習いシルカの姉、アリス・ツーベルクであることはほぼ間違いないのだが、本人にその記憶はない。九年前に教会に拉致され、"シンセサイズの秘儀"によって整合騎士に仕立てられた際、フラクトライトを改変されてそれ以前のことを一切合財思い出せなくなってしまったからだ。
今のアリスは、己が世界の平和と秩序を保ち、闇の侵略と戦うために神界から召還された騎士だと信じて、いや、そう思い込まされている。彼女にとって、神聖教会と最高司祭アドミニストレータの権威は絶対であり、そのアドミニストレータが、己の支配欲を満たすという目的のためだけに世界各地から秀でた人間を拉致しては手駒に改造しているのだ、などという説明は到底受け入れられるものではないだろう。
そもそも、どれほど言葉を尽くそうと、それだけではアリスの説得は不可能であろうと予測したからこそ、俺とユージオはカーディナルに与えられた短剣を使い、アリスを一時凍結させるという作戦を立てたのだ。今の状況は決して予定されたものではないが、それでも、俺のすべきことはただ一つ――アリスとの戦闘を回避しつつ再びユージオと合流し、彼の持つ短剣を使うチャンスを作り出すことだったはずだ。
考えなしの一言でその可能性をぶち壊しつつあるという焦りのなかで、俺は、必死に欠陥だらけの脳味噌を回転させた。アリスの表情を見れば、もはや言い間違いで押し通せる状況ではないことは明らかだ。
どう考えても、出来ることは二つしかなさそうだった。アリスとこの場で戦い、致命傷を負わせることなく気絶させて最上層まで運ぶか――あるいは、覚悟を決めて全てを話すか。
どちらを選ぶかは、アリスの何を信じるかによる。彼女の剣技が俺より劣ると信じるなら戦闘を、彼女の知性が俺より優ると信じるなら対話を。
数秒間の苦慮ののち、俺は決断を下し、襟首を吊り上げるアリスの烈火の如き視線を受け止めながら口を開いた。
「君には妹がいる、そう言ったんだ。話すよ……君が受け入れるかどうかは分からないけど、俺が事実と信じることのすべてを」
どうせ賭けるなら、相手が俺の予想を上回って優れていると思う部分に賭けたい、そう考えた俺の言葉に何がしかのものを感じたのか、今度はアリスが数秒間逡巡したあと、いきなり右手を開いた。
どすっと尻餅をついて落下した俺を、両膝立ちのまま高所から凝視する。恐らく、俺の言葉を聞く、という行為それ自体がすでに整合騎士としての範を外れるのだろう。彼女の中では、俺を一刀のもとに斬り伏せるべきだという衝動、いや命令と、自分の知らないことを知りたいと思う気持ちがせめぎあっているはずだ。
「……話しなさい。ただし……お前の言葉が、私を謀るものだと判断したら、その時点で斬ります」
低く押し潰したようなアリスの声に、俺は長く息を吸い込んで肚に力を溜めてから、ゆっくり頷いた。
「……いいよ、その判断が、真に君自身の心から出たものならな。なぜそんなことを言うかというと……君の中には、君以外の人間に植え付けられた後付けの命令が存在するからだ」
「……整合騎士の責務のことを指してそう言っているのですか、お前は」
「そのとおりだ」
頷いたとたん、アリスの水色の瞳がすうっと危険に細まる。しかし同時に、そこには隠せない感情の揺らぎも見てとれる。その揺れている部分こそが、アリス本来の心だろう。それに向けて語りかけるべく、俺は言葉を続ける。
「整合騎士は、神の代行者たる教会最高司祭アドミニストレータによって、秩序と正義を維持するために神界から召還されたものだ――と君たちは認識しているはずだ。しかし、そう信じているのは、実はこの世界では君たち整合騎士だけなんだ。世界に暮らす数万の一般民も、そして教会の司祭たち、当の最高司祭様だって、そんなことは思っちゃいない」
「何を……馬鹿なことを」
「誰でもいいぜ、今下界に降りて、央都の住民をつかまえてこう尋ねてみろよ。数年ごとに開催される四帝国統一武術大会の優勝者に与えられるものは何だ、ってな。そいつはこう答える。"決まってるさ、教会の整合騎士に任じられる栄誉に浴することだ"」
「整合騎士に……任じられる? 一般民が……? あるはずがない、そんな愚かしいこと。私は多くの騎士たちと日々接していますが、誰ひとりとして、もとは人間だったという者など居りません」
「逆だ。誰ひとり、もとは人間でなかったものなど居ないんだ」
俺は壁に預けていた上体を起こし、アリスの瞳を覗き込んだ。そこに必ずあるはずの、アリスの人間部分に向かって懸命に言葉を投げかける。
「君は、自分が神界とやらでどうやって生まれて育ったか覚えていないはずだ。最初の記憶は、アドミニストレータが君に向かって、あなたは天から使わされた神の騎士なのです、とか何とか話し掛ける場面だろう」
「…………」
図星だったらしく、アリスは僅かに体を引きながら軽く唇を噛んだ。
「……それは……神界の住人は、地上に遣わされた時点でステイシア神によって記憶を封じられるから、と……いつか地上全てに神の楽土を出来させ、整合騎士の責務を全うしたその時には、再び神の国に迎えられて封じられた記憶を……私の両親、きょうだいたちのことを全て思い出せると……」
黄金騎士の毅然たる声が、尻すぼみに揺れて消えた。
そこだ、と俺は直感的に思った。アリスは家族の記憶を、本人も自覚できない心の深奥で求めている。だからさっき、俺が口にしたシルカの名前に、激発的に反応したのだ。
「アドミニストレータの言っていることはごく一部だけ正しい。確かに君は記憶を封じられている。だがそれをしたのはステイシア神じゃなく、アドミニストレータ本人だ。そして封じられているのは神界の記憶じゃなく、君がこの人の世界で人の子として生まれ育ったという記憶なんだ。君以外の整合騎士……君の弟子のエルドリエだってそうだ。彼は帝国貴族の嫡子で、数年前の統一武術大会で優勝し、整合騎士になるという栄誉を得た。でも、それは本当に栄誉だったのか……エルドリエが俺たちとの戦闘中に倒れたのは、斬られたからじゃないぜ。彼の体に傷は無かっただろう。俺の相棒が、エルドリエの封印された"前世"を憶えていたせいで……エルドリエは、アドミニストレータに封印、いや奪われた、お母さんの記憶を刺激されてしまったんだ。でも、どうしても思い出せなかった、だから倒れた。当然だ、その記憶は、アドミニストレータが抜き出して保管しているんだからな」
「エルドリエが……人間の……貴族の子だと……?」
アリスの唇が一瞬わなないた。
「エルドリエだけじゃない。整合騎士の半分以上は大会で優勝した剣の達人だし……あくまで人間の、だぜ……その大部分が、幼い頃から剣技を習える環境にあった貴族の子女のはずだ。貴族たちは、子供を永遠に奪われるかわりに多大な金品と地位を得ている。そんな仕組みがもう何十年、何百年と続いているんだ」
「……信じられない……とても受け入れがたい」
これまで、教会と騎士の神聖さ、無謬を信じて疑わなかった黄金の騎士は、いやいやをするように首を左右に振った。
「私は……人間の貴族どもの、唾棄すべき行いをよく知っています。彼らは……禁忌目録に書かれていないあらゆる非道に手を染めている。司祭様は……ダークテリトリーを平定した暁には、腐敗した貴族たちも一掃すると……なのに……エルドリエの、他の騎士たちの親が、あの汚らわしい貴族だなどと……有り得ない。信じることはできません」
「その実証例を、君だって知っているはずだ」
俺はさらに身を乗り出し、詰め寄った。
「整合騎士見習いのアーシンとビステンを知っているだろう。あの子供たちは、もとは修道士見習いとして教会に入った貴族の子供だ。なのに、整合騎士を斬り殺して騎士見習いに取り立てられた。彼らは毒のナイフを使って俺たちも殺そうとしたよ。彼らこそ、整合騎士に必要なのは正義でも高潔さでもなく、ただの戦闘能力のみであるという証拠だろう」
「あの……二人は、あくまで例外で……騎士になれば、正しき秩序の守護者として目覚めるはずだと……」
苦しそうにそう口にするアリスの言葉に、俺は自分の声を被せる。
「そうだろうさ、アドミニストレータがそれまでの記憶を封じ、偽の記憶を埋め込んで騎士に仕立て上げるんだからな。恐らくその時点で、あの子供たちだけでなく、君達ほかの整合騎士全員の記憶も操作されるはずだ。アーシンとビステンが人間の子供だったということは忘れ、彼らもまた神界から召還されたのだと信じこまされる」
「馬鹿な!」
アリスは鋭く叫んだ。
「それこそ有り得ない! 司祭様が、私達の記憶を弄ぶような真似をなさるはずが……」
「あるんだ!」
俺も叫び返す。
「すでに同じことが何度も行われている! なぜなら、君達には……自分たちがこれまで連行した罪人たちに関する記憶その一切が存在しないからだ!!」
「ざ、罪人……?」
眉をしかめ、アリスは黙り込んだ。
「そうだ。君とエルドリエは、おととい俺と相棒を修剣学院から飛竜にくくりつけて教会まで運んだ。さすがにそれは憶えているだろう?」
「忘れるはずがありません。私が咎人を連行する任務を命じられたのはお前たちが初めてですから」
「それはどうかな。エルドリエの次に戦った、デュソルバート・シンセシス・セブンは君のことを憶えていなかったぞ。九年前、自分の手で北方から連行した君、アリスのことをな」
決定的な俺の言葉を聞いたアリスの顔から、みるみる血の気が引いた。額をひとすじの汗が流れ落ちる。
「デュソルバート殿が……私を、連行した? 罪人として……? つまり、私が……禁忌を、侵したと、お前はそう……言っている……?」
途切れとぎれの声ひとつずつに、俺は頷いた。
「そう、それこそが、貴族以外から整合騎士になった数少ない人間たちだよ。禁忌目録を侵すほどの強烈な意思力を備え、騎士となったあとは無類の戦闘力を発揮する。アドミニストレータにとっては一石二鳥だ、己の支配を揺るがす反乱分子を摘み取り、自分の強力な手駒に生まれ変わらせるんだからな。……君の話をしよう」
ここが、アリスに俺の言葉を受け入れさせられるかどうかの分水嶺だ。俺はありったけの真剣さをかきあつめ、両の眼に込めた。石のテラスにぺたんと座り込み、どこか心細そうに肩を縮めるアリスは、まるで何らかの託宣を待つかのように伏せぎみの瞳で俺を見た。
「君の、本当の名前はアリス・ツーベルクだ。北方の辺境にある、ルーリッドという小さな村で生まれた。ユージオ……俺の相棒と同い年だから、今年で二十歳になるはずだ。君が教会に連行されたのは九年前、つまり事件は十一歳のときに起きた。君はユージオと二人で、果ての山脈を貫く洞窟を探検に行き……洞窟を抜けた先、つまり人界とダークテリトリーとの境界線を一歩踏み出してしまったんだ。君が侵した禁忌は"ダークテリトリーへの侵入"、何を盗んだわけでも傷つけたわけでもない……いや、むしろ君はあのとき、死にかけた暗黒騎士を助けようとして……」
不意に俺はそこで口をつぐんだ。
俺はユージオからそこまで聞いたのだろうか? そのはずだ、二年前にアンダーワールドにやってきた俺が、そのはるか七年も前のことを詳しく知るはずもない。なのに、何故か俺の眼前には、血の筋を引きながら落下する黒い騎士と、それに向かって駆け寄ろうとするアリスの白いエプロンがまるで自分で見た光景であるかのように一瞬閃いた。耳の奥で、アリスの靴がダークテリトリーの石炭殻のような石を踏む、じゃりっという音までが再生された気がした。
俺はすぐに我に返ったが、アリスのほうにも、不自然に途切れた俺の言葉を気にする余裕は無かったようだ。蒼ざめた頬がかすかに震え、ほとんど声にならない声が低く漏れた。
「アリス……ツーベルク……それが私……? ルーリッド……果ての山脈……思い出せない、何も……」
「無理に思い出そうとするな、エルドリエみたいになるぞ」
俺は慌ててアリスの言葉を遮った。ここでアリスの"行動制御キー"が不安定になり、エルドリエの時のように他の騎士が回収にきたりしたら大事だ。しかしアリスはきっと俺を睨み、声を震わせながらも毅然と言った。
「今更何を言うのです。私は全てを知りたい。まだお前の話を信じたわけではありませんが……それは、お前が何もかもを話してから決めます」
「……わかった。と言っても、俺が知っていることはそれほど多くないけどな……。君の父親はルーリッドの村長で、名前はガスフト・ツーベルクだ。残念ながら母親の名は、俺は知らないけど、さっき言ったとおり妹が一人いるよ。シルカって名前で、今は教会でシスター見習いをしてる。彼女とは何度も話したよ、お姉さん思いのいい子だった……教会に連行された君のことをずっと気にかけていた。ルーリッドに居た頃の君もシスター見習いで、神聖術の天才と呼ばれてたそうだ。そんなお姉さんのあとを継いで、立派なシスターになろうと、一生懸命がんばってたよ」
俺が口を閉じたあとも、アリスは何の反応も示さなかった。
先ほどまでの、動揺にも似た表情は消え去り、星灯りの下でも艶やかに白い顔は、ある種のマスクのように俺の眼前で微動だにしない。恐らくいま彼女は、俺が出したいくつかの固有名詞を記憶の底から呼び覚まそうとしているのだろうが、それがどうやら失敗に終わりそうなことは最早明らかだった。
だめだったか――。
俺は内心で肩を落とした。アドミニストレータの記憶封印術は予想以上に強力だ。俺などの言葉では抗すべくもない。打ち消せるのは同じ管理者権限を持つカーディナルのみ、しかもそれにはアドミニストレータの手に有るアリスの記憶ピースが必要なのだ。
落胆しながら、俺はアリスの、お前の言葉は欺瞞だ、という宣告を待った。
その時、アリスの唇が小さく動き、短い音が発せられた。
「シルカ」
続けて、もう一度。
「シルカ……」
蒼い瞳がうごき、ふっと頭上の星空に向けられた。
「思い出せない。顔も、声も。でも……この名前を呼ぶのは初めてじゃない。私の口が、舌が、喉が憶えている」
「……アリス」
俺は息をのみ、ささやいた。もはやアリスは、俺の存在など眼に入らぬ様子で、尚もかすかな声で続けた。
「何度も呼んだ。毎日、毎晩……シルカ、シル……シー」
アリスの、長い睫毛に透明な液体が珠のように溜まり、溢れて、星の光を受けて煌めきながらこぼれ落ちるのを、俺は信じられないものを見る気持ちで見つめた。涙はあとからあとから湧き出して、俺とアリスの間の床石にかすかな音を立てて落ちつづける。
「本当なのね……。私に、家族が……妹が。血を分けた妹が……この空の下の、どこかに……」
たどたどしい声は、込み上げる嗚咽にせき止められ、アリスは子供のように喉を鳴らした。
「アリス……」
思わず伸ばした俺の右手を、アリスは見もせずに、自分の手の甲で強く払った。
「見るな!!」
半ば泣き声でそう叫んだアリスは、乱暴に俺の胸を衝き、篭手のないほうの手で何度も眼を拭った。しかし涙は止まることなく、騎士はくるりと振り向くと、立てた膝の間に顔を埋め、激しく両肩を震わせた。
「う……うぐっ……ううっ……」
声を押し殺し、号泣するアリスの背中を見ているうち、いつしか俺の目にも涙が溜まっているのに気付いた。そんな場合ではないと分かっていながら、俺も目尻に滲む液体をとどめることはできなかった。
必ず――。
必ずや、アドミニストレータを倒し、アリスを故郷に連れていくのだ。俺は改めてそう決意しながら、自分の涙の半分は、ただのもらい泣きではないことを意識していた。
俺とユージオがその目的を果たしたとき、ルーリッドでシルカと再会するのは、目の前にいるこのアリスではないのだ。かつての記憶を取り戻したとき、アリスはユージオとシルカ、そしてルーリッドで過ごした日々のことを思い出し、同時に整合騎士であった九年間のことを忘れる。
あるべき形に戻るだけだ、そう言い聞かせようとしたものの――俺は、背中を向けて子供のように泣きじゃくる最強の騎士にして一人の女の子が憐れだと思うことをやめられなかった。恐らく、九年に及ぶ孤独の日々のなか、心の奥底では常に、失われ二度と手の届かない家族の暖かさを渇望しつづけてきたのであろう整合騎士アリス・シンセシス・フィフティが、どうしようもなく不憫でならなかった。*「どっ……こい……すああああ!」
形振りかまわない掛け声とともに、両腕による懸垂で体を持ち上げた俺は、そのまま前のめりに頭から水平な床に突っ伏した。
限界を越えて酷使した全身の関節や筋肉が、まるで巨人の手で捻り上げられているかのようにみしみしと痛む。大粒の汗が額から首筋から幾筋も滴り落ちるが、拭う気力などあるはずもなくただひたすら荒い呼吸を繰り返す。この世界が、俺の脳に与えられた量子的情報なのだという大前提がどうにも信じられなくなりそうなほどのすさまじい疲労感だ。
およそ二時間にわたる壁面登攀のすえ、ついに辿り着いたセントラル・カセドラル九十五階"暁星の望楼"であるが、フロアの地形や敵の有無を確かめる余裕すらなく、俺は電池の切れたおもちゃのように四肢を投げ出し、天命の自然回復を待った。
たかが八フロアぶんの壁を登るのにこれほどの時間と体力を消耗してしまったのは、ひとえに、今俺の背中に乗っかり細い鎖でしっかりと固定されている整合騎士様の存在ゆえだ。
数時間前、ついにユージオと同等の精神的ブレイクスルーに到達し、謎のシステムアラート、外部のラーススタッフの誰かによって施されたと思しき心理拘束を打ち砕いた騎士アリスではあるが、その代償はやはり大きかった。
碧玉の如き右眼は跡形も無く吹っ飛び、そのショックによりアリスは気を失ってしまったのだ。
人工的記憶媒体であるライトキューブ中に魂を保持されたアンダーワールド人は、俺たち現実世界の生身の人間のように、脳に加えられた外部的衝撃によって失神するということはない。例えば、アンダーワールド内で高所から落下して頭を打っても、タンコブができ天命は減少し痛みに涙を滲ませはするが、昏倒だけはしないのだ。
しかしそのかわりに、彼らは心理的ショックには比較的脆弱な傾向がある。余りにも大きな悲しみ、恐怖、あるいは怒り等を感じると(犯罪が存在しないこの世界ゆえ、それら負の感情が発生することは非常に稀であるが)、おそらくは致命的エラーからフラクトライトのコア部分を守るために、ある程度の時間心神喪失状態に陥ってしまうのである。一例を挙げれば、思い出すも辛いことだが、上級修剣士ライオス・アンティノスらによって陵辱されるという恐怖と苦痛を味わったティーゼとロニエは一時間ちかく気を失っていたし、加害者であるライオスのほうは、ユージオに殺されるという恐怖を処理しきれずに魂を崩壊させてしまった。
アリスもまた、深い心理的ショックによりフラクトライトに被ったダメージを緩和、修復するために失神したのだろうと、俺はいささか慌てたすえに推測した。もしそのダメージが致命的なものであれば、ライオスのように一瞬で天命がゼロになり、ユニットとして消去処分されていたはずだからだ。
そう考えれば、同様のショックに見舞われたはずのユージオが、意識を失うことなく直後にライオスを斬ってのけたその精神力はやはり驚嘆すべきものだ。事件がひと段落し、懲罰房に放り込まれたあとはさすがに放心していたが、それでも思考が混乱したりする様子は無かった。
アンダーワールド人の精神的脆弱性と命令に対する絶対服従性、それに例のシステム・アラート封印にどのような関連があるのかはまったく謎だが、少なくともそれらを克服することは不可能ではない。それをユージオとアリスは身をもって証明している。やはり、長い時間はかかるだろうが、全アンダーワールド人が俺たち人間と対等の知的存在して現実世界で生きていける可能性は確実に存在するのだ……。
――などということを考えつつ、俺は八十七階のテラスでアリスの回復を待っていたのだが、一時間経っても騎士様は眼を覚ましてくれなかった。右目の傷には俺の天命を使って血止めは施したが、完全に治癒させるにはとうてい時間もリソースも足りない。月はとうに高く昇り、空間リソースの供給は開始されていたが、それはすべて登攀用のハーケン生成に使わなくてはならなかった。せめてものことに、俺のシャツの裾を千切って作った即席の包帯だけは巻いておいてから、俺は腹を括り、アリスを背負って塔を登ることにしたのだ。
互いの体を繋いでいた黄金の細鎖をはずして、アリスの細いが死ぬほど重い体を背中に乗せたときは、よっぽどその重量の大半を占めるブレストプレートと金木犀の剣を置いていこうかと考えたものだ。しかし、アリスがアドミニストレータと戦う決意をしてくれたからには、これはもう二度とは得難い貴重な戦力であり、その武装を捨てるのは愚策以外の何ものでもない。
もう一度覚悟を決めなおし、背負った体を鎖でしっかりと固定してから、俺は夜空に溶け込む塔の最上部目指して絶壁を登りはじめたのだった。
二時間に及んだ地獄の道行きの果てに、ついに前方の壁面に開口部が見えてきたときは、つい気が遠くなってハーケンひとつぶん滑り落ちてしまったりもした。命綱がない状況で、もし完全に落下してしまったら、八十七階まで逆戻りかヘタをしたらはるか地上で二つの小さな染みになっていたところだ。
ともあれ、こうして目標地点までの八フロアぶんを――塔外に放り出された時点から数えれば十五フロアぶんの距離を登りきったからには、まるでしかばねのように返事もせず地面に転がるくらいのことは許されるだろう。どうせ、前方のフロア内には少なくとも誰かが居るような気配はない。
と考えながら俺はただひたすら目を閉じ水平面に寝転がる快楽に耽っていたのだが、それを妨げたのは、背中の上で発生したもぞもぞする動きと声だった。
「う……ううん……」
小さな息遣いとともに、俺の首筋にこそばゆい空気の流れが当たる。
「……ここは……私は……どう……」
という呟きとともに、アリスが起き上がろうとした気配があったが、すぐにぐるぐる巻きになった鎖がちゃりっと張り詰め、いったん離れた重みがふたたびどさっと背中に戻ってきた。
「な……何これ……え……? お前、キリト……? 私を……背負って……?」
そのとおり、少しは感謝してくれよ。と胸中で一人ごちたのも束の間。
「えっ、ちょっと、やだ! お前、汗でびちょびちょじゃないですか! 嫌っ、私の服に! 離れて! 離れなさい!」
悲鳴とともに、後頭部をごちんとどつかれ、俺は額をしたたか硬い石床にぶつけた。
「ひでえよ……あんまりだ……」
急かされつつ鎖を解き、背中の荷物を下ろした俺は、巨大な円柱にもたれかかって嘆いた。
しかし騎士様のほうは、俺の献身的重労働など一顧だにする様子もなく、顔をしかめて白い衣装のあちこちをパタパタと払っている。その手を止めたと思ったら、背負われている間じゅう俺の首筋に密着していた肩口のふくらんだ袖部分をつまみ、くんくんと匂いを嗅いで鼻筋に皺を寄せたりしているのを見れば、俺も余計な憎まれ口を叩かずにおれない。
「そんなに気になるなら風呂でも入ってくればどうっすか」
潔癖症のアリスへの皮肉のつもりだったのだが、言われたほうは首をかしげて検討する素振りなので、慌てて付け加えた。
「いや、冗談だよ! これからまた中層に降りるなんて冗談じゃないぞ」
「いえ、そこまで行かずとも、ほんの五階下に大浴場があるにはあるのですが」
「なぬ……」
今度は俺のほうがぐらりとくる。牢を破ってからの激闘につぐ激闘と、先刻の壁のぼりで埃まみれ汗まみれの服と体をさっぱり洗えるというのは正直魅力的な話ではあった。
座ったまま首を回し、フロアの様子をあらためて確認する。
九十五層・暁星の望楼は、その名のとおり巨大な展望台として造成された場所らしかった。正四角形のフロアは全周がそのまま空へ開放されており、約三メートル間隔で立つ円柱だけが上層の天井を支えている。この素通し構造を見れば、アドミニストレータがまさかの侵入者に備えて少し下方の壁に衛兵を配置したのもなるほどと頷ける。
俺たちが居る最外周部は、フロアをぐるりと取り巻く通路になっていて、その各所から内側に向けて短い上り階段が設けられていた。すこし高くなったフロア内部には、均等に並ぶ華麗な彫刻やら、見たことのない花をつけた小型の樹に囲まれるように、大理石のテーブルと椅子が置かれている。こんな真夜中ではなく昼間にあの椅子に座れば、さぞかし四方に広がるアンダーワールド全体を見下ろす絶景が楽しめることだろう。今更ではあるが、現在はどのテーブルにも人っ子一人いない。
そして、俺から見てフロアの右端と左端に、それぞれ上りと下りの大階段が次のフロアへと繋がっているのが見えた。
問題は、ユージオがすでにこの九十五層を通過しているかどうか、ということだ。
彼と分断されたのが八十階、普通に考えれば、四苦八苦して外壁をよじ登ってきた俺と、内部の階段を登るだけのユージオでは、むこうのほうが遥かに早くここまで辿り着けたはずだ。しかし問題は、俺たちが戦ったドローン以上の強敵――恐らくは整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人がユージオの前に立ちはだかったであろうということだ。俺と互いに死の際まで踏み込む激闘を演じたファナティオより、そしてそもそも相手にすらさせてもらえなかったアリスより強いという、伝説上の英雄。
無論ユージオも強い。剣技だけを取るならあるいはすでに俺を超えたかもしれない。しかし、もはや超人というべき上位整合騎士には剣の腕だけでは勝てない。相手の裏を衝き、周囲の状況すべてを利用した、ある意味では卑怯とすら言うべき戦術が必要となる。真面目一本のユージオにそれが出来ただろうか……。
悩む俺に、同じく左右の階段を見回したアリスが、ぽつりと声を掛けてきた。
「これはもちろん、お風呂とは関係なしに言うのですが……お前の、あのユージオという名の仲間は、まだここまで登ってきていないのではないでしょうか」
「え? どうして?」
「何故なら、この層が唯一、カセドラルの外部に放り出された私達が再び中に戻り得る場所だからです。それは見ればわかることですし……つまり、もし先にここに到達していれば、彼はお前をここで待っているはずでしょう」
「……なるほど、そりゃ理屈だな……」
俺はあごを撫でながら頷いた。言われてみれば尤もな話であり、もしユージオがここを先に通過したとすれば、それは彼が捕縛されたか、意識を失っていたか、あるいは――亡骸になっていたか、の三通りしかないのだ。先の推測とは矛盾するが、そう容易く捕まったり殺されたりするユージオではない、と信じたい。
「それに、ユージオが……」
自分でも自覚はしていないだろうが、するりと彼の名を呼び捨てで口にしたアリスが、俯きながら呟いた。
「……雲上庭園から大階段を登ったとすれば、このような最上部まで達する以前に、最強の相手と遭遇したはずです。小父様……騎士長ベルクーリと」
オジサマ、という呼称はさておいて、俺はある種の興味に促されて尋ねた。
「やっぱり強いのか? 騎士長様っつうお方は」
するとアリスは、ふっと小さく微笑み、頷いた。
「私も勝てません。となれば、私に負けたお前や、お前と同等の腕であろうユージオも勝てぬ道理」
「……道理だけどさ、そりゃ。でも、俺があんたに負けたかどうかは……」
ぶちぶちと口にした俺の負け惜しみを聞き流し、黄金の騎士は続ける。
「小父様は……あの人の持つ神器・時穿剣は、その銘のとおり時間を斬るのです。具体的には、小父様の斬った空間はその斬撃の威力をおよそ十分間保持する、と言えばわかるでしょうか……目に見えない必殺の刃が、対する者の周囲を取り巻いてしまうようなものです。動けばそれに触れて手足、へたをすれば首が落ちますし、さりとて動かねば実体たる剣の一撃で絶息は必至。小父様と戦う者は、あの人の一撃必殺の"型"を、木偶のように受けるしかないのです」
「む……むう……」
言葉で聞いただけではイメージは難しいが、要は斬撃の持つ時間的座標を前方に引き延ばすということだろうか。一見地味ではあるが、しかし確かにこれは恐るべき力だ。俺やユージオの操る連続剣技の、一撃の威力をスポイルしてでも攻撃の効果範囲を広げるという本質を、あっさりと無効化してしまうからだ。
そんな敵と対峙して、はたしてユージオはどうなっただろうか。彼が死ぬわけはない、と確信しつつも、嫌な予感が拭いがたく背中を這い登ってくる。
やはり階下へ向かい、彼を捜すべきか。しかしもし、すでに彼が拘束され、階上……おそらくは"シンセサイズの秘儀"が行われるのであろうアドミニストレータの本丸へ連れ去られていたら? この上ユージオが最新の整合騎士にでもされてしまったら、もう望みは九割断たれたも同然だ。
ようやく疲労感の薄れてきた手足に力を込め、俺はよろりと立ち上がった。再び左右の大階段を睨み、唇を噛む。
神聖術の中には、人の居場所を捜すためのものもあるが、他人を直接、術式の対象に指定することが許されない(もしそれが可能なら、相手のステイシアの窓に記されたユニットIDさえわかれば、直接相手の天命を消し飛ばすような恐ろしい術さえ組み得る)この世界では、探したい人が常に身につけているオブジェクトのIDをサーチ対象の代用とすることになる。学院にいるときは、俺はユージオの制服についていた銀の校章のIDを用いていたのだが、あれは放校の憂き目にあったときに没収されてしまったし……。
いや、待った。
「そうか、なんだ、そうじゃん」
ついそう呟いた俺は、訝しそうな顔を見せるアリスに小さく笑ってみせてから、右手を掲げて大声で唱えた。
「システム・コール!」
右手が紫の燐光に包まれるまで待ち、俺がハーケン生成に使いまくった空間リソースがまだ残されているのを確認してから、続く式を口にする。
「サーチ・ポゼッション・プレース! オブジェクトID、DI:WSM:0131!」
何事も憶えておくものだ。俺が指定したのは、無論ユージオの愛剣、青薔薇の剣のIDである。
伸ばした人差し指の先端から糸のように放たれた紫の光線は、するすると伸び――足元の石床に突き刺さった。
「下だな」
「下ですね」
なるほど、という顔でこちらを見たアリスと頷き交わす。指を振って術式を解除すると、俺はその右手を何度か握り締め、体力がある程度回復しているのを確かめた。ついで、再びアリスに視線を向ける。
「大丈夫か? 動けるか……?」
騎士は軽く唇を噛み、元は俺のシャツだった黒い眼帯に覆われた右眼をそっと押さえた。
「この包帯は……お前が?」
「ああ……血は止めたけど、もっと綺麗な布に取り替えたほうがいいかもしれない」
「いえ、このままで構いません」
ぽつりと呟き、アリスは残された碧い左眼でまっすぐ俺を見た。
「痛みはもうほとんど無いですが……やはり、視界がかなり制限されますね。戦闘に影響が出るのは避けられそうもありません」
「何、右は俺がカバーするさ。じゃあ……悪いけど急ぐぞ。さっきの光線のかんじだと、四、五階は下みたいだからな」
「わかりました。私が先に立ちましょう、道をよく知っていますから……と言っても、階段をただ降りるだけですが」
そう宣言すると、アリスは俺に口を差し挟むひまも与えず、ブーツの鋲でかっかっと大理石を鳴らしながら小走りに進み始めた。俺も慌ててその後を追う。
道路からにょきりと飛び出す地下鉄の出入り口を華美壮麗にしたような造りの下り大階段は、薄暗がりからひんやりとした空気を吹き上げてくるのみで、何者かの気配は微塵もなかった。下層ですら人間の生活感は限りなく微かだったセントラル・カセドラルだが、この最上部に至っては、まるである種の建築美術、もしくは廃墟にも似た寒々しさを濃く漂わせている。とうてい、全アンダーワールドを統治する為政の府の中枢とは思えない。
これまでに得た情報では、神聖教会の上層部には、整合騎士団のほかに元老院なる機関があるはずだったが、こんなほとんど天辺まで登ってきてもそいつらの気配すらしないというのはどういうことだろうか。
先に階段を駆け下り始めたアリスの右横に追いつき、俺は小声でその疑問を口にしてみた。するとアリスは軽く眉をしかめ、同じくささやき声を返してきた。
「実のところ……私達、管制騎士という座にある整合騎士の指揮官にすら、元老たちの全貌については知らされていないのです。九十六層から九十九層までが元老院と呼ばれる区画なのですが、騎士や修道士の立ち入りは禁止されていますし……」
「ふむ……。そもそも、元老っつう連中の仕事は一体何なの?」
「禁忌目録」
アリスはぽつりと、どこか危険物に触れるかのような慎重さの漂う声でつぶやいた。
「禁忌目録が、この世界を完璧に維持……あるいは停滞させ続けているかどうかの監視と、必要があらば各条項の更新を行う、それが元老の仕事です。そして、目録の条項だけでは対処しきれない事態が生じた場合は、整合騎士団に命じて事態の収拾に当たらせる。私に、八十階でお前達を迎撃させたのも元老院の指令です」
「なるほどな……つまり、元老院は最高司祭の仕事のほとんどを代行してるってわけだ。しかし、よくアドミニストレータがそんな権限を与えたもんだな。それとも、元老たちも整合騎士と同じように行動制御キーを埋め込まれてんのかな」
俺の言葉を聞いたアリスは、嫌な顔をして指先で額をなぞった。
「その話は止めてください。私の中にもまだそのなんとかキーがあると思うと不安になります」
「君はもう大丈夫だと思うよ……最高司祭が埋め込んだ制御キーよりも深いレベルの、言わば神の束縛を打ち破ったわけだし……」
「……だといいのですが」
指先を、額から右目の眼帯にそっと移動させるアリスの様子を横目で見ながら、俺は先の一幕を思い出していた。
あれほどの動揺に翻弄されながらも、アリスの額に埋め込まれた制御キーが不安定になることはついになかった。俺は、アドミニストレータがアリスから奪った記憶のピースは、恐らくユージオかシルカとの思い出なのだろうと予想していたのだが、ユージオとは二度も直接相対しているし、シルカの名前を聞いたときも涙を見せこそすれ額から例の三角柱が脱け出したりはしなかったのだ。
となると、今現在アドミニストレータの手許にあるはずのアリスの記憶ピースの中身とは、一体何なのか。
無論、"逆シンセサイズ"によって騎士アリスがもとのアリス・ツーベルクに戻れば分かることである。であるのだが、しかし……。
再び、胸の奥に疼くような二律背反を感じながらも、俺はアリスに並んで機械的に足を動かした。しんと静まり返った深夜の大階段に、二つの足音だけが硬く響く。
高い天窓から、踊り場のじゅうたんに降り注ぐ蒼い月光を五度踏むと、目の前に巨大な扉が立ち塞がった。ここまで、階段や壁の滑らかな石材に、戦闘の痕跡らしきものは小さな傷ひとつとて目にしていない。
隣で足を止めたアリスに、俺は短く、ここが? と尋ねた。
「ええ……。この先が大浴場です。よもやこのような場所を迎撃地点に選んだりはしないと……思うのですが……あの人のすることは……」
眉をしかめ、語尾を小さく飲み込みながら、アリスは右手を揚げて右側の扉に当てた。軽く力を入れただけで、巨大な無垢材の一枚板が音も無く奥に滑る。
途端、濃密な靄が白いかたまりとなって押し寄せてきて、俺は思わず顔を逸らせた。
「うわ……すごい湯気だな。どんだけデカい風呂なんだよ、奥がまるで見えないぞ」
そんな場合では無論ないが、泳いだらさぞかし気持ちいいだろうなあ、などと思いつつ一歩、二歩、内部に踏み込む。その時になって俺はようやく、全身を包んでいる白い靄が、熱湯から立ち上った蒸気なのではなく――極低温の凍気であることに気付いた。
堪えようもなく、二度、三度と盛大なくしゃみを連発する。そのせいではないだろうが、直後、目の前の白いベールがすうっと左右に分かれた。露わになった"大浴場"の全景は、俺を心底から驚愕させるに充分以上の代物だった。
途方もなく広い。カセドラルのワンフロアぶち抜きで作ってあるのだろう、突き当たりの壁が霞むほどの面積のほぼ全体が、それこそ巨大プールとでも言うべきサイズの浴槽になっている。俺が立つ場所から真っ直ぐ前に広い通路が一本、中央でそれと交差する通路が一本あり浴槽は四分割されているのだが、そのひとつが俺の学校――修剣学院ではなく現実世界の高校――の二十五メートルプールより明らかに大きい。
しかし、真に驚愕すべきは、その巨大風呂桶になみなみと湛えられていたのであろう湯が、今はすべて真っ白に凍り付いていることだった。
周囲の壁に設えられた、獣の頭部を模したレリーフから流れ落ちる滝までもが湾曲した氷の柱と化しており、この凍結が瞬時に行われたことを示している。当然、自然現象ではなく大規模な神聖術が荒れ狂った結果と見るべきだろう。
しかし、この容積の湯を一瞬で氷結させるとは只事ではない。氷素を用いた通常の凍結術ならば、高位の術者が最低でも十……いや二十人は必要だ。だが――おそらく、この氷の世界を現出させたのは……。
俺は左前方に数歩進み、階段状になっている浴槽の縁を降りると、氷の表面に立った。腰をかがめて足元にたなびく靄に手を突っ込み、そこに頭を出していた小さな氷の突起物を折り取る。顔の前まで持ってきたそれは、予想どおり、青く透き通った花弁を幾重にも開いた氷の薔薇だった。
「……ユージオ」
呟いた俺の隣に、しゃり、と音をさせてアリスも降り立った。驚きに左眼を見開きながら、掠れた声で囁く。
「なんという……。これを引き起こしたのは、お前の仲間の……?」
「ああ、間違いないだろう。ユージオの"青薔薇の剣"の完全支配術だ。まあ、俺も正直……これほどの威力とは思ってなかったけどな……」
今更ながら、俺は長年苦楽を共にした相棒の戦闘能力に舌を巻く思いだった。ユージオは自分の武装完全支配術を、足止めのためのものだなどと言っていたがとんでもない。この氷の地獄に捕らえられれば、それだけで天命が全て消し飛びかねない。
これならば、あいつは本当に伝説の騎士ベルクーリを退けたのかも――と思いながら、俺は懸命に目をすがめ、四方の靄を見通そうとした。青薔薇の剣をサーチした光線は確かにこの大浴場を示したのだし、その近くに彼も居るはずだ。
と、その時、隣でアリスが小さくあっ……と言いながら右手で前方を指差した。
「…………!」
俺も鋭く息を吸い込んだ。確かに、二十メートルほど先の氷結面に、こんもりと突き出したシルエットが見えた。間違いなく、人の肩から頭にかけてのラインだ。
アリスと同時に駆け出し、足元にびっしり咲いた氷薔薇をかしゃかしゃ蹴散らしながら人影へと向かう。しかし、半分ほど距離を詰めたとき、俺は氷に埋まった人物が明らかにユージオではないことに気付いた。肩幅も、首回りも、ユージオの倍はあろうかという逞しさだ。
落胆と警戒心によって速度が落ちた俺とは逆に、アリスは一声細く叫んで残りの距離を疾駆し始めた。
「小父様……!」
引き止める間もなく、凍結したシルエットの傍へと駆け寄っていく。
あれがベルクーリ!? ならばユージオは何処に行ったんだ……!?
混乱しながらも、俺は左右に視線を走らせつつアリスを追った。数秒後に追いついたときには、アリスはもう氷に埋まった巨漢の隣にひざまずき、胸の前で両手を組んで、悲鳴のような声で何度も呼ばわっていた。
「小父様……! 騎士長様……! なぜ、このようなお姿に……!?」
どこか奇妙なその言葉の理由は、俺にもすぐ解った。
分厚い氷に胸元まで埋まり込んだ威丈夫は、しかし、ただ凍りついているわけではなかった。隆々と筋肉が盛り上がった肩も、丸太のような首も、そしてそこに乗る、無骨だが、研ぎ澄まされた名刀のように鋭い相貌も――すべてが、濃褐色の石へと変じていたのだ。遠い昔に現実世界で観た大河シリーズもののSF映画、あの二作目で敵に捕らえられた宇宙船の船長が、ちょうどこのような質感のレリーフに変えられていたことを、俺は頭の片隅で思い出していた。
「……これは……ユージオの術じゃない」
しわがれた声でそう呟いた俺に、背を向けてひざまずいたままのアリスが小さく頷いた。
「……ええ、そうでしょう……小父様に聞いたことがあります、元老たちは、整合騎士に……"再調整"なる処理を施すため、石に変じせしむる術式を用いる権限を与えられていると……確か、"ディープ・フリーズ"、そんな名でした」
「ディープ……フリーズ。なら、このおっさん……いや、ベルクーリにその術を掛けたのは元老の一人なのか……しかし何故? 今や、元老院……ひいてはアドミニストレータに残された貴重な戦力だろうに」
「……小父様は、確かに元老院の指令には密かな疑念をお持ちのようでした。しかし……私と同じように、教会の存在なくして人界の平和は有り得ないと信じ、これまで永劫の日々を戦ってこられたのです。"再調整"がいかなるものなのか知りませんが、このような……このような仕打ちを受ける謂れはありません! 断じて!!」
俯き、そう叫んだアリスの膝元の氷に、頬を伝った涙がぽたりぽたりと滴った。それを拭うことなくアリスは両手を伸ばし、石に変じた英雄の肩に縋りついた。宙に散った涙の滴が、騎士長の額に当たり、弾けた。
その時だった。
びしり! という鋭い音が、俺の耳朶を打った。
はっと身を引いたアリスが、一瞬前まで手を乗せていたベルクーリの首筋に、一本の深い亀裂が入ったのに俺は気付いた。裂け目は見る間に数を増し、細かい石の欠片がぴしぴしと割れ飛ぶ。
硬質の石像が、無数のひび割れを作りながらも徐々に、徐々に首の角度を変えていくさまを、俺たちは呆然と見守った。
数秒かけて顔を仰向かせた騎士長は、今度は顔の眉間と口の両側にびしりと亀裂を刻んだ。ぽろぽろと鋭い欠片がこぼれ落ち、周囲の氷に飛び散っていく。
ディープ・フリーズという名前からして、そのコマンドは、このアンダー・ワールドにおける人間の体の活動を最高優先順位で完全停止させるものと思われた。現実世界で、例えば体に石膏を塗りたくられるのとは訳が違う。システム的に――つまりは神の命令によってあらゆる動作を禁止されているのだ。それを、この男は、意思の力のみで打ち破ろうというのか。
「小父様……やめて、もうやめて! 体が……壊れてしまうわ、小父様!!」
アリスが涙混じりの声で叫んだ。しかしベルクーリは神への反逆を一瞬たりとも止めることなく、ついに一際大きな、ばきっという破砕音とともに両の瞼を持ち上げた。露わになった両の眼は、皮膚と同じく石の色だったが、その視線に込められた意思の力を俺はまざまざと感じた。
ぽろぽろと欠片を振り撒きながら、口もとにニヤリと太い笑みが形作られ、同時にごくごく微かな、しかし力強い声が流れた。
「よ……よう、嬢ちゃん。泣くんじゃねえよ……び、美人が、台無しだぜ」
「小父様……!!」
「し……心配すんな、この程度で、オレがくたばるわきゃねえ……だろう。それより……」
ベルクーリは一瞬言葉を止め、すぐ眼の前で両膝をつくアリスの顔を見上げると、石の貌にまるで父親のような慈愛に満ちた笑みをうっすらと浮かべた。
「そうか……嬢ちゃん、ついに……壁を、破ったんだ……な。このオレが……三百年かけて……破れなかった、右目の……封印を……」
「お、小父様……私……私は……」
「そんな顔……すんじゃねえ……。オレは……嬉しいんだ、ぜ……。これで、もう……オレが、嬢ちゃんに、教えることは……何も無え……」
「そんなこと……そんなことありません!! 小父様には、もっと、もっと、教わりたいことが、た、沢山、たくさん……!!」
アリスは、子供のように泣きじゃくる声を隠そうともせず、再び騎士長の首を両腕でかき抱いた。ベルクーリも、もう一度優しい微笑みを浮かべ、アリスの耳に囁きかけた。
「嬢ちゃんなら、できるさ……教会の……過ちを正し、この歪んだ世界を、あるべき形へ……導く……ことが……」
その声が、急速に力を失いつつあることに、俺は気付いた。騎士長のフラクトライトから生み出される驚異的な意思力も、今や枯渇する寸前なのだと思われた。
光を失い、鈍い石に戻りつつあるベルクーリの眼が、僅かに動き、まっすぐに俺を見た。もう動かない唇から、おそらく最後の言葉が流れ出た。
「おい、小僧……アリス嬢ちゃんを……頼んだ……ぞ」
「……ああ、任せておけ」
頷いた俺に向かって、古の英雄は、ぴしりとひび割れを増やして頷き返して見せた。
「お前の……相棒、は……元老、チュデルキンが……連れていった……恐らく……最高司祭様の、居室へ……急げ……あの坊やが、記憶の迷路に……惑わされる前に…………」
その一言を最後に、騎士長ベルクーリは完全に動きを止めた。無数の亀裂だらけになったその彫像から声が発せられることは、二度と無かった。
「……小父様……」
騎士長の肩に縋りついたままのアリスが細く絞り出す悲痛な声を聴きながら、俺は、いまの言葉の意味を懸命に考えた。
元老チュデルキンなる人物が、ベルクーリに"ディープ・フリーズ"コマンドを施し、ユージオを連れ去ったということか。視線を動かすと、胸まで氷結したベルクーリのすぐ前方に、まるで氷を電動鋸で切断したかのような真四角の滑らかな穴が、浴槽の底まですっぽりと深く開いているのが見えた。
ユージオは、おそらく騎士長と相打ちになるのを覚悟で互いの身体を凍結させたのだろう。そこに闖入した元老が、これ幸いとユージオを氷ごと切り出し、上層に運んだのだ。ただ、その届け先が、"シンセサイズ"のための儀式の間ではなく、アドミニストレータの居室とはどういうことか。それに、記憶の迷路という言葉の意味は……。
これ以上は、考えても詮無いことだ。確かなのは、ユージオが現在敵首魁の手の内に落ちているという事実だけなのだから。彼のことだ、容易く洗脳されたりはするまいが、フラクトライトに直接アクセスする力を持つというアドミニストレータがどのような手段を弄するかは俺にも想像がつかない。
さらに視線をめぐらせると、四角い穴のすぐ横に、刀身を半ば以上氷に埋めた青薔薇の剣がひっそりと置き去りになっていた。そして、その隣に無造作に投げ出された白革の鞘。
もはやある意味ではユージオの分身ですらある美しい神器が、細いつららをいくつもぶら下げた姿で打ち棄てられている光景は、俺に名状しがたい漠然とした不安感をもたらした。
数歩移動し、腰をかがめて青薔薇の剣の柄を握る。凄まじい冷気が無数の針となって掌を突き刺すが、構わず全身の力を込める。
剣は数秒間、まるでその場に根付いてしまったかのように微動だにしなかったが、やがてぴしりという鋭い音とともに氷に罅が入り、同時に青銀色の刀身がわずかに抜け出た。亀裂が一つ増えるごとに、少しずつ、少しずつ剣はその姿を露わにし、半分を過ぎたところで鈴の音のような響きを放って一気に氷から解き放たれた。
直後、両膝があまりの負荷に抗議するように軋み、俺は思わず短くうめいた。左腰の黒い剣だけでもすでに鉄球をぶら下げているほどの重みがあるというのに、それと同等の重量がある青薔薇の剣を持ち上げたのだから当然のことではあるが。
つい、これは無理かという思考が頭の片隅を過ぎるが、すぐに思い直す。ユージオを最高司祭の手から救出し、彼に剣を返すのはどう考えても俺の役目だろう。幸い、この世界では、少なくともただ運ぶぶんにはシステム的重量制限などというものはない。
腰を屈め、白い鞘も拾い上げると、俺は左腕の袖で抜き身に付着した氷片をぬぐってからそっと納剣した。少し考えてから、それを剣帯の右側に吊るす。そうしてみると、なんとか動き回れるくらいには重みに収まりがつき、ほっと息をつきながら両腰の剣の柄に左右の手を乗せた。
顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていたアリスと視線が合った。赤くなった左目の縁を指先で擦っていた少女騎士は、照れ隠しのようにぱちぱちと瞬きし、ややぶっきらぼうな口調で言った。
「……剣を二本装備するような酔狂者は、ただ恰好をつけたいだけの貴族だの皇族と相場が決まっていますが……なんだかお前は妙に様になっていますね」
「ん? そうかな……」
思わず苦笑し、肩をすくめる。確かにSAO時代は、二本のロングソードがソロプレイヤーとしての俺の拠り所となっていたのは事実であるが、しかし当時は他人にそうと知られるのを恐れて二本目の剣をほぼ常に隠していたせいだろうか、いまだに居心地の悪さを感じずにはいられない。
いや――もしかしたらそれだけではなく、"二刀流"キリト、というあまりにも救世の勇者として一人歩きしてしまった名前を、俺はどこかで恐れ……あるいは嫌悪しているのかもしれないが。あんな役回りだけは、誰になんと言われようともう二度とご免だ。
「……だからって、二本を同時に操るのはとても無理だよ」
首を振りながらそう言った俺に、アリスもさもありなんというふうに頷いた。
「同時に複数の神器の"記憶解放"を行うのが不可能だということはすでに実証されていますからね。その一事を取っても、二剣装備に意味が無いことは明らかです。それより……その剣の持ち主、お前の相棒はやはりすでに最高司祭様の手中に捕われてしまったようですね。……急いだほうがいい、あの方のする事は、私にも予想できませんから……」
「……会ったことがあるのか? アドミニストレータと」
「一度だけ」
俺の問いに、アリスは口もとを引き締めると、短く首肯した。
「もうずっと昔……整合騎士として目覚めた私は、まず己の"召喚主"でありこの世界における神の代理人であるという最高司祭様と謁見させられました。見た目には、とてもなよやかな……剣はおろか、羽ペンの一本すらも握ったことのなさそうな美しい方なのですが、でも……あの眼」
篭手のない右手で、左腕の肌をそっと包む。
「あらゆる光を吸い込み、渦巻かせる銀色の瞳……そう、今なら解ります。あの時、私は、あの方を深く懼れた……。決して逆らってはならない、御言葉の一片たりとも疑ってはならず、忠誠の全てを捧げて仕えねばならないと私に思わせたのは、圧倒的な恐怖……だったのでしょうね、恐らく」
「アリス……」
俺はかすかな危惧とともに、青白い顔を俯かせる整合騎士を見詰めた。
しかしアリスは、そんな俺の内心を察知したかのように、大きく深呼吸すると視線を上げて頷いた。
「大丈夫です。私はもう決めたのです。北空の下のどこかにいる妹のために……まだ見ぬ家族、そして多くの無辜の民のために、正しいと信じたことを行うと。――小父様は、我らに施された右目の封印のことをご存知だった。ということはつまり、全整合騎士を束ねるベルクーリ・シンセシス・ワンにして、神聖教会の絶対支配を決して盲目的に善しとはしておられなかったということです。この階まで降りてきたのは、お前の相棒を助けるという点では無駄足でしたが、でも小父様と会えてよかった……これでもう、私の心は決して揺らぐことはありません」
アリスは腰を屈め、伸ばした手でさっと石化したベルクーリの頬を撫でた。しかしその動作も一瞬のことで、くるりと身を翻した騎士は、力強い足取りで氷上をもときた方へと歩きはじめた。
「さあ、急ぎましょう。ことによると、最高司祭様とまみえる前に、元老どもと一戦交える必要があるかもしれませんから」
「お……おい、騎士長はあのままにしておいていいのか?」
慌てて小走りでその横に並びながら、俺は尋ねた。すると、騎士アリスは、蒼い左目にちかりと凄愴な光を浮かべ、こともなげに言った。
「元老チュデルキンを吊るし上げて術を解除させるか……あるいは斬り捨てればそれで済むことです」
この少女をもう一度敵に回すのだけは絶対にご免だな、と、二本の剣の重みを堪えて走りつつ俺は考えた。
恐ろしく細い腰のまわりに、紫の薄物がまるであでやかな花のようにふわりと広がり落ちるのを、ユージオは阻害された意識のなかでぼんやりと見詰めた。
まさに花、それも、強烈な芳香と滴る蜜で虫たちを惑わせ捕らえる、魔性の大輪だ。そんなふうに感じる部分はまだユージオの中に残っていたが、しかし、紫の花弁の中央に儚げにたたずむ真っ白い花芯――アドミニストレータの一糸纏わぬ上体から放たれる誘引力はあまりにも強烈で、先刻の幻に千々に乱されたユージオの思考を、粘性の液体のなかにどっぷりと引き込んでいくかのようだった。
あなたは、本当に満ち足りたと思えるほど誰かに愛されたことがない。
アドミニストレータはそう言った。そしてそれが、一面では確かな事実であると、ユージオは徐々に認めはじめていた。
ユージオ自身は幼少のころ嘘偽り無く、母を、家族を、友人たちを愛した。彼らの幸せが自分の幸せだと思い、自分が摘んできた花で母が笑い、獲ってきた魚を兄や父たちが旨そうに食べるのを幸福感とともに見た。ユージオに色々な意地悪をしたジンクやその仲間たちだって、たとえば彼らが熱を出したりしたときは苦労して薬草を集めて届けたりしたのだ。
でも、その人たちはあなたに何をしてくれたの? あなたの愛の見返りに、どんなものをくれたのかしら?
そう……それを思い出せない。
再び、目の前のアドミニストレータの微笑がぐにゃりと歪み、過去の場景が甦ってくる。
あれは十歳になった年の春……村の中央広場で、大勢の子供といっしょに、村長から生涯の天職を告げられた日のことだ。緊張するユージオを、台上からちらりと見下ろし、ガスフト村長が与えたのは"ギガスシダーの刻み手"という思いがけないものだった。
それでも、一部の子供からは羨望の声がちらほらと上がった。刻み手は村にたったひとりの稀少な天職だし、剣ではないにせよ本物の斧が与えられるのだ。ユージオ自身も、その時は決して不満には思わなかった。
赤リボンで丸めた羊皮紙の任命証を握り締め、村はずれの家まで駆け戻って、ユージオは上気した顔で、自分の帰りを待っていた家族に天職を告げた。
しばしの沈黙のあと、最初に反応したのは下の兄だった。彼はチッと短く舌打ちすると、牛の糞掃除は今日で終わりだと思ってたのに、と毒づいた。ついで上の兄が、これで今年の作付けの計画が狂ったな、と父に言い、父も唸るように、その仕事は何時に終わるんだ、帰ってから畑は手伝えるのか、とユージオに訊いた。男たちの不機嫌を恐れるように、母は一言もなく台所に消えた。
以来八年間、ユージオは家のなかでは常に肩身が狭かった。それなのに、ユージオが稼いでくる決して少なくはない賃金は父親の財布に消え、気付くと羊が増えていたり、農具が新品になっていたりした。ジンクらは稼いだ金をほとんど全て自分で使えて、昼飯には肉をたっぷり挟んだ白パンのサンドイッチを買い、新品のなめし革の短衣やら剣帯やらを毎月のようにユージオに自慢していたのに。そんな友人たちの前を、ユージオは擦り切れた靴で歩き、麻袋には干からびた売れ残りのパンしか入っていなかったのに。
ほら、ね?
あなたが愛した人たちは、一度でもあなたのために何かをしてくれたことがあった? それどころか、彼らは、あなたの惨めさを喜び、嘲笑いさえしたでしょう?
そう……そのとおりだ。
十一の夏にアリスが整合騎士に連れ去られてから二年ほど経った頃、ジンクはユージオに言ったのだ。村長の娘が居なくなっちまったら、もうお前が落とせる女は村にいねえよなあ。おい、俺はよう、こないだ雑貨屋のビリナとよ……。
あの時、ジンクの眼はあきらかに、いい気味だ、と言っていた。村でいちばん可愛くて、神聖術の天才のアリスと誰よりも仲が良かったユージオが、その特権を失って喜んでいた。
結局、ルーリッドの人々は誰ひとり、ユージオの気持ちに報いてはくれなかったのだ。差し出したものと等価の見返りを得る権利がユージオにはあったのに、それは不当に奪われていた。
なら、あなたのその惨めさや口惜しさを彼らに返したっていいじゃない? そうしたいでしょう? 気持ちいいでしょうね……整合騎士になって、銀の飛竜にまたがって、故郷の村に凱旋したら。あなたを嘲った愚か者を全員地面に這いつくばらせて、その頭をぴかぴかのブーツで押さえ付けてやったら。そうしてやってようやく、あなたはこれまで奪われたものを取り立てられるのよ。それだけじゃないわ……。
すぐ眼前の銀髪の美少女は、それまで自分の胸を覆っていた両の腕を、焦らすかのようにゆっくり、ゆっくりと外した。支えを失ったふたつの豊かな膨らみが、熟れきった果実のように重そうに弾んだ。
アドミニストレータは両腕をまっすぐユージオに伸ばし、蕩けるような微笑を浮かべて囁いた。
「あなたは初めて、愛される歓びを心ゆくまで味わうことができるのよ。頭のてっぺんから爪先までが痺れるような、本物の満足を。私は、あなたから奪うだけだった連中とは違うわ。あなたが私を愛してくれたら、それとまったく等価の愛を返してあげる。深く愛してくれればくれるほど、あなたがこれまで想像もしなかったような、究極の快楽に誘ってあげるのよ」
ユージオの思考力はすでに、最後の一滴までもが魔性の花びらに吸い尽くされようとしていた。しかしそれでも、心の深奥に残された最後の領域で、彼はささやかに抵抗した。
愛っていうのは……そういうものなのかな?
お金と同じように……価値で購う、それだけのものなのかな?
違いますよ、ユージオ先輩!
と、どこかで叫ぶ声がして、そちらに視線を向けると、灰色の制服に身を包んだ赤毛の少女が、幾重にも垂れ下がる黒い布の隙間から懸命に手を伸ばしているのが見えた。
しかしユージオがその手を取るまえに、少女の足元の泥沼のような闇から、生白い肌をした長身の男がずぶずぶと湧き出て、少女に絡みついた。男の紅い唇がきゅうっと裂け、粘つくような笑いを含んだ声が発せられた。――これはもう貴君のものではないよ。
赤毛の少女は、悲しそうな瞳の色だけを残して再び闇に消えた。すると今度は、別の方向からまたユージオに囁く声がした。
違うわ、ユージオ。愛は決して、何かの見返りに得られるものじゃないのよ。
振り向くと、暗闇のなかにぽっかりと開けた緑の草原に、青いドレスを着た金髪の少女がたたずんでいた。少女の蒼い瞳が、この底無しの沼から脱せられる唯一の窓であるかのように眩く煌めき、ユージオは懸命に萎えた脚に鞭打ってそちらに這い進もうとした。
しかしまたしても、少女の隣に人影が現れ、ユージオに向けられていた小さな手を握った。その黒髪の少年は、ゆっくりと首を振りながら言った。――悪いなユージオ。これは俺のなんだ。
直後、緑の野原もまた粘つく闇に没した。光を見失い、ユージオは途方に暮れてうずくまった。胸中に溢れ、渦を巻くような渇きは、最早耐えがたかった。自分は子供のころから不当に虐げられ、搾取され、与えられるべきものを誰かに奪われつづけてきたのだと考えると、惨めさと口惜しさが濃い塩水となって喉を焦がした。
ついに、彼はゆっくり、ゆっくりと四肢を動かし、にじり寄りはじめた。とめどなく滴る、甘い蜜の泉へと。
ふかふかの絹のシーツをかき分け、伸ばした指先に触れたアドミニストレータの脚は、ベッドに詰められた最高級の羽毛など問題にならぬほど滑らかに柔らかく、その感触だけでユージオの全身を痺れるような衝撃が貫いた。
餓えと渇きに急かされるように、ユージオはすがりついた脚を遡った。両手で掴めそうなほど細い腰、絶妙な曲線でいざなう腹部を夢中で通り過ぎる。
曇り、光を失った瞳を上げたユージオの顔を、二つの膨らみがふわりと包んだ。頭の後ろに華奢な腕が回され、ぎゅっと強く引き寄せた。しっとりと吸い付くような、ひんやりとした肌に、ユージオはたちまち飲み込まれた。
すぐ耳もとで、くすくすと笑う声がした。
「欲しいのね、ユージオ? 何もかも忘れて、貪り尽くしたいんでしょ? でも、まだだめよ。言ったでしょう、まず私に愛をくれなくちゃね。さあ……私の後に続いて言うのよ。心の底から私だけを想い、信じ、全てを捧げると念じながらね。いいかしら? ……まず神聖術の起句を」
ユージオにはもう、自分を包み込む途方も無い柔らかさだけが現実の全てだった。これが愛の本質であると信じ込むに充分すぎるほどに、彼を捕らえた蜜はとろりと甘すぎた。
自分の口が勝手にうごき、掠れた声が漏れるのを、自分とは無関係の事柄であるかのように彼は聞いた。
「システム……コール」
「そうよ……つづけて……"リリース・コア・プロテクション"」
はじめて、アドミニストレータの声が、ある種の感情――期待と歓喜――の存在を示して、ごくわずかに震えた。
ふたたび五フロアぶんの階段を、こんどは重力に逆らって駆け抜けた俺とアリスは、『暁星の望楼』の上り階段前まで到達して足を止めた。
新たに加わった右腰の剣の重みのせいで荒い息を繰り返す俺に対して、装備の重量という点ではこちらと大差ないはずの重装騎士様の顔はどこまでも涼しげだ。冷気すら感じさせる雪白の肌と紺碧の瞳に、確たる決意を浮かべて階段の上部を睨みつけている。
「……息を整えながらでいいから聞きなさい。元老たちは、武器による近接戦闘能力は一般民並みですが、神聖術の行使権限ならば我々整合騎士より高位にあるはずです。神聖力の供給源となる各種媒質や霊杖を携え、ほぼ無限に遠隔攻撃術を放ってくるでしょう」
「そういう……相手には、不意打ちからの……接近戦と、相場が決まってる……な」
情けなく喘ぎながら口を挟んだ俺に、アリスはこくりと頷いた。
「気取られずに接近できればそれに越したことはありませんが、そう都合よくも行かないでしょう。その場合は、金木犀の剣の"流散花"で攻撃術を防ぎますから、お前が突入するのです」
「……俺がフォワードか」
SAOやALOでは、遠隔タイプの敵がどうにも苦手だったことを思い出しつつ浮かない顔をすると、アリスがぴくりと片方の眉を持ち上げて得意の皮肉を放った。
「私は構いませんよ、一人で攻めと護りの両方やっても。ただその場合は、お前は物陰からおとなしく見ていることになりますが」
「わかったよ、やるよ、やりますよ」
確かに俺の黒いやつは、現在天命の回復中で記憶解放が行えるか心許ない。それに出来ることなら対アドミニストレータ戦まで温存しておきたいのが正直なところだ。そもそも、ギガスシダーの過去の姿を召喚するだけというシンプル極まりないあの必殺技は、状況をひっくり返す破壊力はあれども、アリスの剣の分離攻撃のような応用力に乏しい。
「気が向けば後ろから回復術のひとつも掛けてやります。存分に暴れて構いませんが、チュデルキンだけは生かしておいてください。私の記憶どおりの姿なら、悪趣味な青と赤の道化服の小男です」
「……なんか……威厳もへったくれもない恰好だな」
「だからと言って侮ってはなりませんよ。整合騎士ではないお前に"ディープ・フリーズ"術は効かぬはずですが、それ以外にも高速かつ高威力の術式を多数操る……恐らく教会でも最高司祭様に次ぐ能力を持つ術者ですから」
「ああ、わかってるよ。そういう一見小者っぽい見かけの奴が、実は一番厄介だったりするのがお約束だからな」
俺の台詞に怪訝な顔をしたのも束の間、アリスは鋭い視線を階段に向けなおし、それでは、と力強い声で言った。
「――行きましょうか」
今度は、急ぎつつも可能な限り足音を殺してワンフロアぶん駆け上がった階段の先に待っていたのは、やけに狭く薄暗い通路とその突き当たりに見える黒い扉だった。
壁に並ぶ奇妙な黄緑色の蝋燭に照らされた通路の幅は一メートル半というところだろう。人ふたりがすれ違うのもちょっと面倒なほどの狭さだ。その奥の、片開きの扉がまた小さい。俺やアリスはなんとか頭をぶつけずに潜れるだろうが、たとえば騎士長ベルクーリほどの威丈夫ならばそうとう身を屈める必要があるのではないか。
どうにもしっくりこない眺めだった。ふつう、このような最高支配者の本拠地――ぶっちゃければラストダンジョンは、奥に進めば進むほどに構造も装飾も豪華絢爛になっていくものではないか? 実際、下の『暁星の望楼』までは細部まで贅を尽くした、広々とした設計になっていたのだ。現在は、俺とユージオが暴れまわったせいで完全に無人だったが、あそこを美しく着飾った騎士や司祭たちが行き交っていたらさぞかし大作ファンタジー映画のような眺めだったろう、と思わせるほどに。
それが、いよいよ最上階まであと一エリアという所まで来てこのせせこましさは何だ。まるで――この通路を利用するのが、小柄な人間たったひとりしかいない、と言うかのようだ。
おそらく俺とは違う理由で、しかし同じように眉を寄せていたアリスだったが、すぐにふわりと金髪を流して通路に進みはじめた。
この狭さは、もしかしてトラップだの伏兵だのの仕掛けがあるせいかと考えはじめていた俺は、反射的に引き止めようとしたがすぐに思い直し、後を追った。絶対支配組織たる神聖教会のこんな中枢に、侵入者を想定した面倒な罠などあるはずがない。勇者のパーティーを待ち受けるためだけに作られた魔王の城とは訳が違うのだ。
長さ二十メートルほどの通路は、何事もなく侵入者の通過を許し、俺たちはすぐに小さな扉の手前にまで到着した。
ちらりと目を見交わし、同時に頷いてから、俺が手を伸ばして使い込まれて黒光りするドアノブを握る。扉には鍵すらも掛けられておらず、カチリと呆気なくノブが回り、そっと引っ張ると滑らかに開いた。
しかし、途端にその奥から吹き寄せてきた冷たい空気には間違いなく濃密な何ものかの気配が――例えるならアインクラッド迷宮区のボス部屋のドアを初めて開けたときのような――含まれており、俺の背筋をぞわりと戦慄が横切った。
だからと言って、無論アリスに今更前衛を代わってくれなどとは言えない。ぐっと大きくドアを引き開け、少々頭をかがめて内部を見通す。
狭い大理石の通路がもう少しだけ奥に続いており、その先はほとんど光のない、暗い広間になっているようだった。いくつかの紫色の光がちらちら瞬いているのが見えるが、詳細は不明だ。
そして同時に、何やら低くぶつぶつと呟く呪詛めいた声が耳に届いた。それも一人のものではない。何人――何十人といった規模だ。懸命に耳をそばだてるが、言葉の中身がすぐにはわからず、斜め後ろでアリスが低く「神聖術だわ」と囁くのを聞いてようやく合点が行った。
たしかに神聖術のコマンドだ。すわ、俺たちを狙った多重魔法攻撃か、と体を固くしたが、どうやらそういうわけでもなさそうだった。断片的に聞き取れるコマンドの内容は、何かの数値を操作するようなものばかりなのだ。
首をかしげていると、アリスがほとんど音にならない声で俺を促した。
「行きましょう。元老たちが皆、何かの大規模な施術の最中ならば逆に好都合です。これだけ暗ければ、剣の間合いにまで近づけるかもしれない」
「……ああ、そうだな。予定どおり俺が先に仕掛ける、防御よろしく」
囁き返し、俺はゆっくりと左腰の剣を抜いた。アリスの金木犀の剣も抜刀される音を確かめてから、ぐっと腹に息をため、扉を潜る。
内側の通路に踏み込むと、頬を撫でる冷たい風に、何かいやな匂いが含まれているのに気付かされた。獣臭や血臭というのとは違う。夏場にうっかり鍋を半日放置してしまったときのような、かすかに饐えた匂い。それを意識から振り落とし、最後の三メートルを詰める。
通路の終わり角にぴったり背中をくっつけ、俺はついに元老の間の内部を視界に収めた。
広い――というより、高い。
床の直径三十メートルほどの円形になっている。湾曲した壁は、おそらく三フロア分ほどをもぶち抜いてまるで塔の内部のように頭上に伸び、天井は闇に沈んでよく見えない。
照明らしきものはほとんど設置されておらず、光源は壁に沿っていくつもならぶ仄かな紫の瞬きだけだ。懸命に視線を凝らし、それがランプの類いではなく四角く半透明な板状の光――つまり"ステイシアの窓"であることに気付いた頃、ようやく闇に慣れた俺の目に、壁に等間隔に並ぶモノの姿がはっきりと映った。
人間だ。
人間が何人も、壁から突き出た椅子に座っている。いや、座らされている、と言ったほうが正しい。なぜなら、彼らは一切衣服を身につけていないその肉体を、幾つもの金属環でがっちりと椅子に固定されているからだ。
ぶよぶよの真っ白い体に鉄の縛めが食い込む様は痛々しかったが、しかし彼ら当人がその境遇をどう思っているのかは、俺の目では察せられなかった。背もたれの上部から突き出た半円形の首輪に繋ぎ止められた彼らの顔には、表情というものがまるで存在しないのだ。
頭髪や眉毛すら一本もない、白くたるんだボールのような頭に埋め込まれた二つの眼球は、ぼんやりと顔のすぐ前に表示された紫のシステムウィンドウを眺めている。その窓には、びっしりと何かのデータが表示されており、その文字列がちらちら瞬いて切り替わるたびに、白い人間たちの色のない唇も動く。
「しすてむ・こーる……」
「しすてむ・こーる……」
抑揚の乏しい、嗄れた声に耳をそばだてると、それはどうやらこの世界のあらゆるエリアのあらゆるオブジェクト数を参照、照合する命令のようだった。
本来、ザ・シードパッケージの中核たるカーディナルシステムが行うはずの世界のバランス調整、それをこの人間たちが行っているのだ。しかし何故。権限をアドミニストレータ(及び図書室のカーディナル)に乗っ取られたとはいえ、自動調整プログラムたるカーディナルシステムそのものはまだ機能しているはずだ。
眼前の光景に圧倒され、混乱した頭を必死に整理しようとしていると、不意にびびーというブザー音のようなものが鳴り響き、俺はハッと剣を握りなおした。
同時に、数十人はいようかという白い人間たちの術式詠唱がぴたりと止まり、今度こそ侵入がバレたかと覚悟したが、そうではないようだった。人間たちが一斉に、下方の俺たちではなく、頭上に顔をもたげたからだ。
彼らを拘束する、無骨な金属椅子の背もたれの上からは奇妙な蛇口のようなものが伸びており、人間たちはそろってその先端を見詰めると、ぱかりと大きく口を開いた。
直後、蛇口から褐色のどろどろしたものが嫌な音をさせながら流れだし、人間たちはそれを口に受けると、無我夢中といった様子で咀嚼し、飲み下しはじめた。口から溢れたどろどろは彼らのアゴから滴り、腹や脚を汚していく。饐えた匂いの源は間違いなくあれだ。
白い人間たちは、体が汚れるのなど一切意識しないかのように、歓喜にとろけた表情を浮かべながら茶色いどろどろを貪りつづけた。
やがて再びブザーの音が響き、同時に蛇口から垂れる流動食も止まり、人間たちの顔から感情が消えた。かくりと頭を正面に戻し、ぼんやりとした目でウインドウを眺めると、コマンドの詠唱を再開する。しすてむ・こーる……しすてむ・こーる……。
人間ではない。
この扱いは、決して人間たる存在に――いや、どのような動物に対してだって、して良いものではない。
腹の底から湧きあがってきた畏れ、憐れみ、そして巨大な怒りに耐えかねて、俺がぎりっと歯を鳴らすのと同時だった。
「彼らが……彼らが、世界を守護する神聖教会の、元老だというのですか」
絞り出すようなアリスの声が聞こえた。
視線を向けると、通路の反対側の壁に背中を預けたアリスが、蒼白の肌に蒼い瞳を爛々と燃やして前方を睨んでいた。
「この光景を作り出したのも……最高司祭様なのですか」
「ああ……そうだろう」
俺も、ひび割れたささやき声で肯定した。
「世界各地から数百年にわたって拉致した人間のうち、戦闘能力には欠けるが神聖術行使権限に秀でた者をこうして……思考と感情のほとんどを破壊し、元老という名の世界監視装置に作り変えたんだ」
そう、彼らは単なる監視装置なのだ。このアンダーワールドが、神聖教会の統治のもと、完璧な停滞のなかに維持されつづけているかをチェックするための。もし何らかの異常、つまりオブジェクトの不正な増加あるいは減少を発見した場合、禁忌目録を更新して対応する。そうやって、アドミニストレータ治下の怠惰で緩慢な人の営みが数百年にわたって続けられてきたのだ。
アリスの顔がゆっくりと伏せられ、はらりと垂れた金髪がその表情を隠した。しかし、続けて流れた声の響きが、彼女の苛烈な意思を如実に示していた。
「……許せない」
右手に握られた金木犀の剣が、主の怒りを反映してか、かすかにりんと刃鳴りした。
「彼らも人間……教会が守るべきステイシアの子ではありませんか。それを……私たちのように記憶を奪うだけに飽きたらず、あのような……人の証たる知性すらも取り上げ、身動きすらも許さず、獣以下の食事をさせるなど……ここに最早正義は無い。暗黒騎士だってこのような所業はしない」
言い切った直後、アリスはかっとブーツを鳴らし、広間へと歩み入った。慌てて俺もその後を追う。
まばゆい黄金の騎士が目の前に現れても、元老たちの視線はぴくりともウインドウから動かなかった。アリスは左に進み、もっとも近い椅子に拘束された元老のひとりの前に立った。
間近で見ても、哀れな人間の年齢も、性別すらも、よくわからなかった。それでも、その全身に漂う生気の無さは、ここに拘束されて数十年、あるいは百年以上の年月が流れたことを明確に告げていた。
アリスは一瞬、耐えがたい様子で顔をそむけたが、すぐに左目をかっと開き、金木犀の剣をすっと掲げた。元老の四肢を縛める鉄環を斬るのかと思ったが、その剣尖は弛緩した胸の中央、心臓の真上に擬せられ、俺は息を飲んだ。
「アリス……!」
「命を絶ってやるのが……慈悲だとは思いませんか」
俺は即答できなかった。
この有様を見れば、整合騎士のように記憶のピースを取り戻せば元の人格に戻せるという楽観的な推測は一切できない。この人間たちのフラクトライトは、おそらく取り返しのつかないほどに無惨に破壊され、修復は不可能だろう。
しかしそれでも、カーディナルなら――あるいはアドミニストレータなら、せめて彼らに一片の望みを、例えば産まれたばかりの赤子にまで戻すというような希望を与えることが出来るのではと俺は考え、アリスの剣を押し留めようとした。
しかしそれより早く、広間の奥から響き渡った奇怪な叫びが、俺たちの動きを止めた。
「ああっ……ああ――っ!」
きんきんと甲高い、男の金切り声だった。
「ああっ、そんな、ああっ、最高司祭様、そんな勿体無い、ああっ、いけませんっ、ああ、おおお――っ!!!」* 激しい嗚咽が、徐々にその音量を落とし、やがてひそやかなすすり泣きへと終息するまでにずいぶんと長い時間がかかった。
俺のほうは少しばかり先んじて緩んだ涙腺のバルブを閉め直し、今後の展開へと思考を切り替えていた。
現在想定し得る、最も理想的な展開とは、次のようなものだろう。
登攀を再開し、邪魔されることなく塔内へと戻ったら、アリスとの戦闘を対話と説得によって回避し、ユージオと合流する。残る障害、最古にして最強の整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンをどうにか倒す、あるいはこれも説得し(ユージオが退けていてくれたなら申し分ないが!)、究極の敵アドミニストレータが眠る最上階へと突入する。
最高司祭が目覚めないうちに、ユージオが温存しているはずの短剣を突き刺し、カーディナルから一方的に送り込まれる破壊的コマンドによって無力化、あるいは消滅させる。そして秘匿されているアリスの記憶中枢を回収し、彼女の記憶と人格を復元する。
しかる後に俺は現実世界へと連絡を取り、菊岡誠二郎と交渉して現アンダーワールドの永久保存の確約を取り付け、間近に迫る"負荷実験段階"への突入も停止させる。アンダーワールドの平和的調整をカーディナルに一任し、アリスとユージオをルーリッドに送り届け、状況が落ち着き次第、彼らにこの世界とその外側に広がる世界についての真実を話す。そこでようやく俺は現実へとログアウトし、ユージオたちのフラクトライトを、広大無辺な外部ネットワークへと導く。彼らを、いわば人工フラクトライト達の"大使"として、アンダーワールド住民の存在を現実世界の人間たちに認めさせる――。
ざっと考えただけでも、気が遠くなるほどの高難易度ミッションの連続だ。すべての段階が、成功率五割……いや三割、二割を下回ると思えてならない。
しかし、もう俺は立ち止まることの許されない地点にまで達しているのだ。アンダーワールドで過ごした二年半、いや、もしかしたらSAOにログインしたあの日からの長い、長い時間すべてが、ユージオたち新しい人類、新しい知性を現実世界へと解き放つという目的のために存在したのかもしれないのだから。
茅場晶彦は、アインクラッドが崩壊するあの真っ赤な夕焼け空の下で、こう言った。自分は、ただ、ほんとうの異世界を創りたかっただけなのだ、と。
俺は別に、あの男の目的を引き継いだつもりはまったくないが、真なる異世界というべきものは、まさにいま俺の眼下に遥か地平線まで広がっている。そして、茅場の人格コピーが俺に託した"ザ・シード"パッケージは、すでに現実世界におけるVR空間のデファクト・スタンダードとなり、偶然か必然か、ユージオたちアンダーワールド民はザ・シード世界と互換性のあるインターフェースを備えている。
SAO世界において、二年間ものあいだ多くの人々が戦い、死に、そして生きた意味をどこかに求めるとするならば――それは、ユージオたち新人類が現実世界において創りあげる何かにのみ見出されるのだと、そう考えてしまうのは、俺の感傷だろうか?
ともあれ、俺はもう引き返すことはできない。ルーリッドの南の森で目覚めてから、長い時間をかけてこの塔のほぼ天辺まで、ほとんど腕を伸ばせば最終目標に届くところにまでやってきたのだから。あとはもう、頭と剣技のすべてを絞り尽くして邁進するだけだ。
しかし、ほんの小さな、しかし無視できない問題があるとすれば。
先に列挙したクリアすべき段階のうち、俺が果たして心の底から望んでいるのかどうか定かでないものがたったひとつだけあるということだ……。
「……お前は、さいぜん言いましたね」
こちらに背を向け、膝を抱えて蹲ったまま、不意にアリスがそう呟いた。
俺は、混迷の度合いが深まるいっぽうの思考を一時中断し、顔を上げた。すこし間をおいて、まだ湿り気の残る細い声で、アリスが続けた。
「塔の壁が破れ、外に放り出されたあと……お前は、このような反逆を企てた目的は、最高司祭様の過ちを正し、人の世を守るためだ、と言った」
「ああ……そのとおりだ」
あまりにも多くを省いた言葉だが、そこに欺瞞はない。俺はアリスの背中を流れる金髪に向けて頷く。
「まだ、お前の言葉を全て信じたわけではありませんが……塔の外壁に、闇の国のドローンが配置されていたり……整合騎士が、神界ではなくこの人界から集められ、記憶を封じられて造られたのだという話も、どうやら本当のようです。つまり、最高司祭様が、忠実なしもべたる我ら整合騎士を深く欺いておられるのは否定できない……」
俺は息を飲んでアリスの言葉に聞き入った。
記憶を改変され、行動原則キーなるものを思考回路に挿入された整合騎士は、アドミニストレータへの絶対なる従属を魂レベルで強制されているはずだ。事実、これまで出会った整合騎士たちは、俺たちがどれほど言葉を尽くそうと教会への疑義をひとかけらでも表すことはなかった。
それを考えれば、アリスがいまの台詞を口にできたことがすでに驚異的としか言えない。やはり彼女には何か、他の人工フラクトライトにはない秘密があるのだろうか。見開いた俺の目の前で、小さく手足を抱えたまま、黄金の騎士は囁くように話しつづける。
「しかしいっぽうで、最高司祭様が我らに与えた第一の使命が、ダークテリトリーの侵略からの人界の防衛だというのも事実なのです。現にいまも十名以上の整合騎士が飛竜にうち跨り、果ての山脈で戦っているし、私も長らくその任についていました。最高司祭様が整合騎士団を編成せず、その防衛力が存在しなければ、人界は遥か昔に暴虐極まる侵略に晒されていたでしょう」
「そ、それは……」
それは、この世界のあるべき姿ではないのだ――整合騎士たちが独占し続けている成長リソースは本来、多くの一般民に与えられるべきものだったのだ、などと、今言っても理解してはもらえまい。言葉に詰まった俺にむけて、アリスはさらに静かだが厳しい声を投げかけてくる。
「お前は、私が生まれ育ったという……今でも私の両親と妹が暮らしているというルーリッドなる村が、北方の辺境、果ての山脈の麓にあると言った。つまり、ダークテリトリーの侵略が始まれば、真っ先に蹂躙される地域です。もしお前たちが全ての整合騎士を退け、最高司祭様をも刃にかけたとして、その時はルーリッドを含む辺境の地を、いったい誰が守るというのです? まさか、お前たち二人だけで、闇の軍勢を平らげてみせるとでも?」
細い背中はまだ小刻みに震えているが、しかしアリスの声には確たる意思が刻み込まれていて、俺はすぐに答えることができなかった。人の世をなんとしても守るのだ、というアリスの裏表のない決意に比べ、俺の抱え込む隠し事のなんと巨大なことか。
唇を噛み、今ここで全てを――この世界が造られたものであるということも含めて何もかもをぶち撒けてしまいたいという衝動を堪えてから、俺は口を開いた。
「なら、逆に訊くけど……君は、整合騎士団が万全の態勢を以って迎え撃てば、来るべきダークテリトリーの総攻撃を完全に退けられると、本当に信じているのか?」
「……それは……」
今度は、アリスが言葉に詰まった。
「俺も昔、闇の国のゴブリンの一隊と戦ったって話はしたよな。……闇の軍勢では最下級の兵士であるはずのゴブリンでさえ、剣技も、腕力も、恐るべきものだった。ダークテリトリーには、あんな奴らが何万とひしめいているんだし、その上に君たちと同じように飛竜を駆る暗黒騎士、そして司祭級の術式を操る暗黒術士がごまんと控えているんだ。たとえ全整合騎士を揃え、アドミニストレータ本人が出陣したとしても、そんな寡兵で防ぎきれるようなもんじゃないぞ」
無論これはカーディナルからの受け売りだが、アリスにも同様の認識はあったらしく、これまでのように即座に鋭い舌鋒で切り返してくることはなかった。しばしの沈黙ののちに、苦しげな声が低く絞り出される。
「……確かに……騎士長ベルクーリ殿も、胸の裡には、同様の懸念を秘めておいでのようでした。ダークテリトリーの精兵はすでに数万の規模で整えられ、それらが一斉に四方から押し寄せてきたら我が騎士団だけでは抗しきれまい、と……。――しかし、だからと言って、人界には我らのほかに戦力と呼べるものなど無いのもまた事実。剣やその他の武術を学ぶ者は貴族を中心に数多いですが、美々しい型のみを追い求め、一滴の血も見たことのない彼らに実戦などできようはずもない。結局……三神のご加護を信じて、我らが戦うしかないのです。お前ならこの状況は理解できるでしょう」
「君の言うとおり……今の人界には、実際に闇の軍勢と戦える力を持つのは整合騎士しかいないだろう」
俺は言葉を選びながら、慎重に答えた。
「だが、それはアドミニストレータが望んで作り出した状況なんだ。最高司祭は、自分の完全なる制御が及ばない戦力が人界に発生するのを恐れた。だからこそ、武術大会の優勝者や禁忌目録の違反者をかきあつめ、記憶を封じ忠誠心を植え付けて整合騎士に造り変えてきたんだ……数百年に渡ってね。つまり言い換えれば、アドミニストレータは、君達……俺たち人間を信じちゃいないんだ、これっぽっちも」
「!!……っ」
アリスの背中がぴくりと強張った。
「もし、最高司祭が、自分の支配する人間たちを信じ、きちんとした訓練を受け装備の整った軍隊を編成していれば、今ごろはダークテリトリーにじゅうぶん伍し得る戦力が人界にもあったはずだ。しかし最高司祭はそうしなかった。もし戦時となれば真っ先に剣を取るべき上級貴族たちに怠惰と放埓を許し、結果彼らの魂は澱みきってしまった……俺と相棒が斬った、あの男のように」
修剣学院の初等練士、ティーゼとロニエを襲った悲劇を思い出すとずきりと胸が痛む。あの惨たらしい出来事は、まだほんの三日前のことなのだ。彼女らは今も心身に負った深い傷に苦しんでいるだろう。もしこのまま負荷実験段階が到来し、人界が闇の侵略に飲み込まれれば、あのような悲惨が数限りなく出現するのだ。
鋭い疼きを押し殺し、俺は口を動かしつづける。
「でも……まだ、全てが手遅れになってしまったわけじゃない。ダークテリトリーの軍勢が押し寄せてくるまでに残された時間が、あと一年か二年かわからないけど……それまでに、人界にも出来るかぎりの規模の軍隊を整えるんだ」
「出来るわけがない、そんなこと!」
アリスが鋭く叫んだ。
「お前も今言ったばかりではありませんか、この世界の貴族たちがどれほど腐敗しているか! 戦争が始まるから剣を取れと、四皇家や大貴族に命じたとたん、彼らは逃げ出す算段を始めるに決まっている!」
「ああ、確かに上級貴族に戦う気概は無いだろうさ。でも、そんな人間ばかりじゃないんだ。下級貴族や、多くの一般民には、なんとしても家族を、町や村を、そしてこの世界を守ろうという強さと誇りを持った者たちが沢山いるんだ。彼らに、この塔に蓄積されている膨大な武具を全て分け与え、君らが磨いた本物の剣技と神聖術を学ばせれば、一年で立派な軍隊を作り上げることも不可能じゃない。少なくとも、それを背景に、闇の勢力と交渉を行えるくらいのな」
無論――実際に戦争へと突入してしまう事態は避けねばならない。ダークテリトリーの住人とてもまた、本物の魂をもつ人工フラクトライト達なのだから。
首尾よく外部のラースに向けてチャンネルを開き、実験の凍結を受け入れさせられれば戦争は回避できる。しかし、もしそれに失敗すれば、人界を襲う悲惨な運命をキャンセルするために、カーディナルが全アンダーワールドを消去してしまう。あの頑固な管理者様にその決意を翻させるためには、人間の軍隊を背景としたダークテリトリーとの和平交渉という可能性に一縷の望みを繋ぐしかない。
「一般……民を……?」
掠れた声で呟くアリスに、俺はさらに畳み掛けた。
「そうだ。無理な徴兵をしなくとも、義勇兵を募るだけで充分な戦力が集まるはずだ……すでに、各々の街や村には衛士隊も編成されてるんだしな。俺の言ってることが決して夢物語じゃないことは君にもわかるだろう。だが……それとは別の理由によって、今のままじゃ、これは絶対に実現不可能な話なんだ」
「…………最高司祭様が……お許しになるはずがない」
アリスは苦しそうな声を低く絞り出した。
「そう、そのとおりだ。説得することすら不可能だろう。忠誠を魂レベルで強制できない軍隊なんて、アドミニストレータにとっては、闇の軍勢以上に恐ろしいものだろうからな。つまるところ……結論は一つなんだ。最高司祭アドミニストレータの絶対支配を打ち破り、残されたわずかな時間を最大限有効に使って、来るべき侵略に対抗できる防衛力を作り上げるしかない」
アリスの背中にそう告げながら、俺は大いなる皮肉を感じずにはいられなかった。
菊岡誠二郎率いるラースがこのアンダーワールドで壮大な実験を行っているのは、つまるところ、彼の属する自衛隊に、周辺諸国――ひいては太平洋の向こうの強大な軍事国家にすら抗えるほどの"防衛力"を備えさせるという目的のために他ならないのだろう。俺はユージオたち人工フラクトライトが、そんなふうに兵器として利用されるなんてことはどうしても容認できないと思っている。なのに今、抑止力としての戦力――などといかにも菊岡が言いそうなことを口にしているのだ。
そんな俺の忸怩たる思いなど知るよしもないアリスは、俺とは別の理由によって再び長い沈黙を続けていた。
今彼女は、魂に刻み込まれた神聖教会への忠誠と、数時間前に会ったにすぎない薄汚れた侵入者の言葉を心の天秤にかけているのだろう。表面上は抑制されているが、その葛藤、苦しみは、大変なものがあるはずだ。
やがて――。
ぽつり、と大理石の床に声がこぼれ落ちた。
「……会えますか」
「え……?」
「もし、お前に協力し……奪われた私の記憶を取り戻せたら、私はもういちどシルカに……妹に会えるのですか」
俺は思わず息を詰めた。
会える。会うことにはなんの問題もない。でも……。
今度は俺が長いあいだ言葉を失った。アリスは相変わらずこちらに背中を向けたまま座り、立てた膝を両腕で抱え込んでじっと俺の答えを待った。
「……会えるよ。飛竜を使えば、ルーリッドまでほんの一日、二日だろう。けれど……いいか、よく聞いてほしい」
俺はわずかに前ににじり寄り、アリスの左の耳に顔を近づけて、その先を口にした。
「シルカと再会するのは、君であって君じゃない。記憶を取り戻したその時、君は九年前の……"シンセサイズの秘儀"を受ける前のアリス・ツーベルクへと戻り、同時に整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは消滅するんだ。今の君の人格は、整合騎士として生きてきた九年間の記憶とともに消え去り、その体を本来の人格へと明渡す……残酷なことを言うけど……今の君は、アドミニストレータによって作られた"仮のアリス"、仮の人格なんだ」
ゆっくり、ゆっくりとそう告げる俺の言葉を聞くうちに、アリスの肩が二度、三度と震え、頭が両腕のあいだに低く埋められた。
しかし、先ほどのように、嗚咽が漏れることはもうなかった。
やがて懸命に感情を押し殺された声が、俺の耳にかすかに届いた。
「……整合騎士が人より造られたという話を聞いたときから……そういうこともあろうかと……思っていました。私は……この体を、アリスという名の少女から奪い取り、道具として使ってきた……そうなのでしょう」
俺にはもう、かけるべき言葉が見つからなかった。これまで信じてきたものが全て崩れ落ちていく衝撃に、おそらくは必死に耐えながら、なおもアリスは語りつづけた。
「盗んだものは……返さなくてはね。それが……妹の、両親の、お前の友人の……そしてお前自身の望みでもあるのでしょうから」
「…………アリス」
「ただ……ひとつ、ひとつだけ頼みがあります」
「それは……?」
「この体に本来のアリスの人格を復元する前に……私をルーリッドの村に連れていってくれませんか。そして、物陰から……ほんのひと目だけでいい。シルカの……妹の姿を、そして家族の姿を見せてほしいのです。それだけ叶えられれば、私は満足です」
言葉を切り、アリスはゆっくりと首を回して、肩越しにちらりと俺を振り向いた。
その瞬間、いつの間にか頭上にのぼっていた月が、黒い雲間からさっと一条の光を投げかけた。金色の光の粒に輪郭を縁どられながら、アリスは幼子のように赤く泣き腫らした目の縁をやわらげ、かすかに微笑んだ。
俺は思わず顔を伏せ、きつく歯を食い縛った。
アリスの記憶を取り戻す。
それが、俺の無二の相棒であるユージオのたったひとつの望みだ。つまり同時に俺の望みでもあるはずだ。
しかし――それは、いま眼前で心細そうにうずくまる一人の少女の死と同義だ。
やむを得ない犠牲、やむを得ない優先順位。
これは、どうしようもないことなのだ。
「ああ……約束する。誓うよ」
俺は視線を伏せたまま、そう声に出した。
「記憶を復元する前に、必ずルーリッドに連れていく」
「……絶対ですよ」
念を押すアリスに、ふかく頷き返す。
「わかりました。それでは……人の世を、この平和を守るために、私、アリス・シンセシス・フィフティは、今より整合騎士の使命を捨て……っ……あっ……!!」
突然アリスの声が、鋭い悲鳴とともに途切れ、俺は驚いてがばっと顔を上げた。
すぐ目の前で、アリスが白い顔をおおきく歪め、両手で強く右目を押さえている。激痛を示して唇が破れるほどに噛み締められ、仰け反った細い喉が絶叫を飲み下そうとするかのように二度、三度と痙攣する。
俺は驚愕しながらも、同時に、三日前に見たあの光景を想起していた。
ライオス・アンティノスの右腕を斬り飛ばし、血刀をぶら下げたユージオ――その右眼は跡形もなく吹き飛び、噴き出した鮮血が赤い涙となって頬に流れていたのだ。
一晩を費やした治癒術によって眼はどうにか復元できたのだが、施術の最中、ユージオはぽつりぽつりと語った。ライオスを斬ろうとした瞬間、右手がまるで自分のものでなくなってしまったかのように凍りつき、同時に右目に凄まじい痛みが走った、と。そして眼前に、真っ赤に光る、見慣れぬ神聖文字が出現したのだ、と――。
今アリスを襲っているのは、ユージオの語ったものと同一の現象だろう、恐らく、禁忌と認識しているものを侵そうとすると発現する、何らかのセキュリティ・ブロックなのだ。
「何も考えるな! 思考を止めるんだ!」
俺は叫び、アリスに飛びついた。
「あ……うああ……っ」
耐えかねるように細い悲鳴を漏らすアリスの手首を握り、右目から外す。
「!?」
碧玉の色をしているはずのアリスの瞳に、ちらちらと明滅する赤い光を見つけて、俺は息を飲んだ。光の正体を確かめるべく、間近から覗き込む。鼻先が触れ合うほどの距離にまで双方の顔が接近し、数秒前までならこの瞬間俺の首がすっ飛んでいてもおかしくないが、アリスにももう俺の行為を咎める余裕はまったく無いようだった。
見開かれたアリスの右目の、真円を描く蒼い光彩。
その周囲に、赤く発光する微細な縦ラインが行列を作り、ぎりぎりと回転している。ラインには三種類ほどの異なる太さがあり、それらがランダムに並んでいる。まるで――。
まるでバーコードだ。
俺は、ユージオの話を聞いたときから、この心理ブロックを組み上げたのはアドミニストレータだと推測していた。しかしこれまで、この世界でバーコードなどというものを眼にしたことはついぞ無かった。
アドミニストレータの仕業ではない……? しかし、となると、一体何者が……。
その瞬間。
円形のバーコードの回転が停止し、アリスの収縮した瞳孔の真上を横切って、奇妙な記号の羅列が、これも真紅に輝きながら浮かび上がった。"TЯヨ」A MヨT2Y2"、俺の目にはそのように見て取れた。
それが何を意味しているのか、俺はいっとき戸惑ってから、すぐに悟った。
鏡文字なのだ。文字列の直下にあるアリスの瞳には、左右に裏返したかたちに見えているはずだ。つまり、"SYSTEM ALERT"と。
システムアラート。俺にとっては、PCを操作していると時折ポーンというビープ音とともに出てくる不愉快なアレ、として馴染みのある代物だが、しかしアリス達アンダーワールド人には何の意味も持たない単語だ。この世界では基本的に日本語のみが用いられ、英語は"神聖文字"、つまり人間には理解不能でありまた理解する必要もないものとして扱われている。
神聖術を使う者であれば、例の"システム・コール"を始め様々な英単語を頻繁に口にはするものの、それらが具体的になにを意味しているのかは一切知らない。現実世界のRPGで、回復呪文や攻撃呪文を使うときに口にする奇妙なカタカナの呪文が、言語的にはどのような意味を持っているのか俺たちプレイヤーがまったく気にしないのと一緒だ。
つまるところ、このSYSTEM ALERTという文字列は、アンダーワールドでは完全に意味を成さない代物なのだ。アリスに見せても何の効果もない。よって、この心理的ブロックをアリスやユージオたちアンダーワールド人に組み込んだのは外部世界の人間――具体的にはラースのスタッフである誰かだ。
高速回転する俺の思考を、至近距離で発せられたアリスの押し殺した悲鳴が遮った。
「く……あっ……眼が……! 何か……おかしな……モノが、見える……!?」
「何も考えるんじゃない! 頭をからっぽにするんだ!!」
慌ててそう叫び、俺はアリスの小さな顔を両手で挟みこんだ。
「君が今見ているソレは、禁忌を破ろうとすると現れるブロック……障壁のようなものだ。右目に痛みを発生させて、禁忌への無条件服従を誘導しているんだろう……そのまま考え続けると右目が吹っ飛ぶぞ!」
咄嗟にそう説明したが、しかしこの場合は言えば言うほど逆効果かもしれない。どんな人間だって、考えるなと言われて考えるのを止めたりするような器用な真似はできない。
俺の声を聞いたアリスは、ぎゅっと両目を瞑り、唇を噛み締めた。しかし、瞳の表面に貼り付く赤い文字列は、それで見えなくなることはないだろう。華奢な両手が持ち上げられ、俺の両肩をシャツ越しにきつく掴む。小さな悲鳴が断続的に喉のおくから漏れるたび両手に物凄い力が込められ、俺の筋肉と骨がみしみしと軋むが、アリスの堪えている痛みはその比ではないだろう。
せめて思考を止める助けになればと、アリスの顔を両の掌でしっかり挟みながら、俺はなおも推測を積み重ねる。
アリスを含む一部の整合騎士は、すでにいちど禁忌を破っている。そのせいでアドミニストレータに発見され、洗脳処置を施されたのだから。
しかし、アリスに限って言えば、九年前"ダークテリトリーへの侵入"罪を犯したとき、右目が吹き飛んだというような事実はないはずだ。ユージオからそのような話は一切聞いていない。彼が語ったところによれば、アリスはふらふらと無意識的に境界線を踏み越えてしまったということらしい。つまりその際、自発的に禁忌を破ろう、という明確な思考はアリスの意識には無かったと思われる。
現在彼女を襲っている心理ブロックは、あくまで禁忌を積極的に侵害しようという意思にのみ反応するのだろう。そのような行動を意識したとたん、まず右目の痛みで、次にSYSTEM ALERTの赤文字で対象者の思考を乱し、改めて禁忌への畏怖を植え付ける。ただでさえ規則を破るという性向を持たないアンダーワールド人に、このような神の御業としか思えない障壁を施せば、彼らの法への従順性はかぎりなく完璧に近づくだろう。
ただ、この障壁をラースのスタッフが埋め込んだと考えるとき、そこには大きな矛盾が発生する。
なぜなら、首謀者の菊岡は恐らく、禁忌を破れる人工フラクトライトを求めてこのような壮大な実験を延々続けているはずだからだ。せっかくアンダーワールド人がブレイクスルーに近づいても、こんな粗雑で暴力的な心理ブロックでそれを無理矢理押し止めてしまっては、本末転倒以外の何ものでもない。
つまりこのブロックは、ラーススタッフの手になるものであっても、菊岡以下の首脳の預かり知らぬものなのではないか? それを端的に表現するならば、内部の反乱分子によるサボタージュだ。ラースに潜り込んだ何者かが、意図的に実験の成功を遅らせているのだ。
ならばその人物の目的は何か?
ヒースクリフ……茅場晶彦の仕業なのか、と俺は一瞬考えたが、すぐにそれを打ち消した。彼もまた、目的は違えど真正人工知能の発生を望んでいるはずだ。だいたい、こんな世界のルールを無視した粗暴な手段は彼のスタイルではない。やはりこれは、ラースという組織そのものへの敵対者のしたことだろう。
ラース=自衛隊内部の菊岡派とでもいうべき先鋭化した一部勢力と考えるとき、それに敵対する勢力は数多く想定できる。もちろん自衛隊の主流派、そして国内の防衛産業を独占する財閥系メーカー、考えを飛躍させれば無人兵器群による自衛隊の軍備増強を警戒する周辺アジア国家すら含まれる。
しかし、もしそれら巨大勢力がラースのサボタージュを企てたとき、このような手の込んだ手段を採るだろうか? ライトキューブ中のフラクトライト原型に妨害プログラムを組み込めるほどの中枢アクセスが可能な人間ならば、もっと手っ取り早く、アンダーワールドの本質たるライトキューブクラスターを爆破なりしてしまうこともできるのではないか。
つまりこれを企てた人間は、実験の遅延は意図しているが、完全な消滅は望んでいないということになる。遅延させ、何かを待っているのだ。準備に時間のかかる、大掛かりで最終的な作戦が実行されるのを。例えば――
ライトキューブクラスターを含む、人工フラクトライト研究すべての奪取だ。
アンダーワールドには、外部世界のさらに外側からも危険が迫っている。その可能性を認識し、俺は慄然とした。ますます、一刻もはやく菊岡に連絡を取る必要がある。
「……ひどい……」
俺の両手のなかで、懸命に痛みに耐えるアリスが、喘ぎ混じりの声を絞り出した。
はっと我に返り、俺は整合騎士の顔を見下ろした。
常に優美なラインを保っていた眉がきつく顰められ、両の瞼もしっかりと閉じられている。目尻には小さな涙の玉が宿り、唇は血が滲むほどに噛み締められている。
その、白く色の失せた唇がわななき、再びかすかな言葉が発せられた。
「ひどい……こんなの……。記憶……だけでなく、意識すらも……誰かに操られる……なんて……」
俺の両肩を掴むアリスの両手が、痛み以外の感覚、悲しみかあるいは怒りによって更にきつく握り締められる。
「これを……この神聖文字を……私の眼に焼きこんだのは……最高司祭……様なのですか……?」
「……いや、違う」
俺は無意識のうちにそう答えていた。
「この世界を、外側から観察している……君らが神と呼ぶ存在、そのうちの一人がしたことだ」
「神……」
アリスの目尻から、涙の粒がいくつか転がった。
「私が……私達が、これほど信じ、帰依し、その教えを守るために……無限の日々を戦ってもなお……神は私達を……信じてくださらないのですか。私から妹を……妹から私を奪い、思い出を、命すらも書き換え、そのうえこのような……疑うことすらも……許さないなんて……」
九年という時間をただ神の騎士としてのみ生きてきたアリスが、今どのような衝撃と混乱に見舞われているのか、俺には想像することもできなかった。息を詰め、見守ることしかできない俺の眼前で、突然アリスの両目がかっと見開かれた。
右目の蒼い光彩を横切る鏡文字は、一層血の色の輝きを増している。しかしアリスはそれを意に介する様子もなく、ただまっすぐ上を――黒雲の隙間からのぞく丸い月を凝視した。
「私はモノじゃない」
荒い呼吸のなかにも確固たる激しさを込めて、アリスが叫んだ。
「私は確かに、造られた人格、盤上の駒かもしれない。でも私にも意思はあるのです! 私はこの世界を……人間の世界を守りたい。家族を、妹を守りたい。それが私の果たすべき使命です!」
キイイイン、と耳障りな金属音を放ち、鏡文字が高速で明滅を開始した。光彩を取り囲むバーコードも、再び目まぐるしく回転をはじめている。
「アリス……!」
もう今すぐにでも起こりうる現象を懸念し、俺は叫んだ。アリスは俺に視線を向けることなく、切れぎれの声で囁いた。
「キリト……私を、しっかり押さえていて」
「…………」
俺にはもう、何も言えなかった。かわりに、右手をアリスの背に、左手を頭の後ろに回し、両腕に強く力を込めた。黄金の鎧を通して、早鐘のように、しかししっかりと鳴り響くアリスの鼓動が伝わる。
アリスは俺の右肩に頭を乗せ、ぐいっと顔を反らせて、まっすぐに天を振り仰いだ。
「最高司祭……そして神よ!! 私は……私の成すべきことを成すために、あなたと、戦います!!」
凛と響く独立の宣言。
その残響に重なるように、ばしゃりという破裂音が続いた。俺の頬と首筋に、暖かい液体が大量に降りかかった。
ユージオ。
ユージオ……。
どうしたの、怖い夢を見たの?
ぽっ、と柔らかい音を立てて、ランプが小さなオレンジ色の光を灯した。
廊下に立つユージオは、両腕に抱いた枕に半ば顔をうずめ、少しだけ開いたドアの陰に身を隠すようにして暖かな光の源を見つめた。
部屋の奥には、粗末な木のベッドが二つ並んでいる。右側のほうは空だ。洗いたての上掛けがひんやりと畳まれている。
左側のベッドには、ほっそりとした人影が横たわり、上体をもたげてこちらを見ていた。右手に掲げたランプの、揺れる光のせいで顔はよく見えない。艶のある純白の寝巻きの少し開いた胸元からは、いっそう白く滑らかなふくらみが覗いている。ベッドに流れる長い髪は絹のように細く、柔らかそうだ。
ランプの向こうにどうにかそこだけ見える口許の、薔薇のように紅い唇がほころび、再び声が流れ出た。
そこは寒いでしょう、ユージオ。さあ、こっちにいらっしゃい……。
そっと持ち上げられた上掛けの奥は、とても暖かそうなとろりとした暗闇に満ちていて、不意にユージオは全身を包む凍るような冷気を意識した。いつしか足が戸口をまたぎ、不思議に縮んでしまった歩幅でとことことベッドに向かう。
近づくほどに、なぜかランプの光は小さくなり、ベッドに横たわる女性の顔を見ることはどうしてもできない。しかしユージオはそんなことを一切気にせず、ただあの暖かな暗がりに潜りこみたい一心で足を動かす。
ようやく辿り着いたベッドは、腰の高さほどもあって、ユージオは抱いていた枕を投げ出すとそれを踏み台にしてどうにか寝台によじ登った。とたん、ふわりと分厚い布が体を覆い、世界が闇に包まれた。ある種の渇望に急かされるように、ユージオはその奥へ奥へとにじり進んだ。
伸ばした指に、暖かく柔らかなふくらみが触れた。
ユージオは夢中でそれに縋りつき、顔を埋めた。しっとりとした肌が、まるでユージオを飲み込もうとするかのように優しく蠢く。
痺れるような満足感と、しかしそれに倍する餓えに翻弄されながら、ユージオは懸命に暖かな躯にしがみついた。滑らかな腕が背中を抱き、頭を撫でるのを感じて、ユージオは小さな声で尋ねた。
「母さん……? 母さんなの?」
すぐに答える声がした。
そうですよ……お前のお母さんですよ、ユージオ。
「母さん……。僕のお母さん……」
暖かく湿った暗闇になおも深く深くうずまりながら、ユージオは呟いた。
半ば麻痺しきった頭の片隅に、泥沼に浮き上がる泡のような疑問がぷちりと弾ける。
母さんは……こんなにほっそりとして、柔らかかっただろうか? 毎日麦畑で働いているはずの両手に、なんで傷ひとつないんだろう? それに……右側のベッドで寝ているはずの父さんはどこへ行ってしまったんだ? 母さんに甘えようとするといつだって邪魔をする兄さんたちはどこに?
「ほんとに……あなたは、母さんなの?」
そうですよ、ユージオ。あなた一人だけのお母さんですよ。
「でも……父さんはどこ? 兄さんたちはどこへいったの?」
うふふ。
おかしな子ね。
みんな、
お前が殺してしまったじゃないの。
突然、指がぬるりと滑った。
ユージオは目の前で左右の掌を広げた。
暗闇の中なのに、両手にべっとりとこびりつき、ぽたぽたと滴る真っ赤な血がはっきりと見えた。
「……ぁぁぁあああああ!!」
絶叫とともにユージオは飛び起きた。
ぬるつく両手を、無我夢中で上着に擦りつける。悲鳴を上げながら、何度も何度も拭ったところで、自分の手を濡らしているのが血ではなくただの汗だとようやく気付く。
夢を見ていたのだ――とやっと思い至っても、早鐘のように鳴り響く心臓も、吹き出す脂汗も、しばらく収まろうとしなかった。とてつもなく恐ろしい夢の余韻がいつまでもじっとりと背中に貼り付いている。
母親のことなんて……何年も考えたことさえなかったのに。
ひとりごち、ぎゅっと目を瞑って、ユージオは恐慌から脱け出そうと深い呼吸を繰り返した。
実際の母親は、畑仕事と家畜の世話、家事全般の雑忙に疲れユージオを優しくあやしてくれることなどほとんど無かった。頑固で口うるさい父親にただ従うばかりで、自己主張した場面の記憶は無いに等しい。というより、母親にまつわる思い出の絶対量がごく少ないと言っていい。
つまり、ユージオにとっては、自分を産み育ててくれた人としての感謝の念こそあれ、決してそれ以上の存在ではないはずなのだ。そうでなければ、新たな天職を選ぶとき、なぜほとんど迷うこともなく村を出るという決断を下せたのか。
なのに、どうして今更あんな夢を……。
ユージオは強く頭を振り、思考を止めた。どんな夢を見るかは、眠りの神ヒュプニーが気ままに決めることだ。今の悪夢には何の意味もない。
最後に大きく息を吐いてから、ようやく、自分は今どこにいるのか、という疑問が湧いてくる。
うずくまった姿勢のまま、そっと瞼を持ち上げた。
最初に視界に入ったのは、驚くほど毛足の長い、込み入った模様の編み込まれた絨毯だった。一メル四方で果たして幾らするのか見当もつかないそれが、視線を前に上げても上げても、どこまでも続いている。
顔が真っ直ぐ前に向いたところで、ようやくはるか遠くに壁が見えた。
壁、と言っても板や石造りではない。神々の姿を浮き彫りにした黄金の柱が弧をえがいて等間隔に並び、その間に巨大な一枚硝子が埋め込まれている。だから実際には壁というより連続した窓なのだろうが、貴重な硝子をあれほどたっぷりと使った窓は皇帝の居城にもあるまい。
総硝子張りの壁のむこうには、厚くうねる雲の連なりが見えた。ただし、その黒い雲海があるのは視点の下方だ。この部屋は、雲よりも高い場所にあるのだ。
黒い雲の縁を、淡い光がほのかに青く染めている。朧な光の源は、天上に坐す丸い月だった。その周囲を、これまで見たこともないほどの数の星々がしずかに瞬きながら取り巻いている。濃密な星空から降り注ぐ蒼光があまりにも鮮やかすぎて、ユージオが現在は深夜なのだと気付くのが少々遅れた。月神の位置からして、零時を少し回った頃だろうか。つまり、眠っているあいだに日付けが変わってしまったことになる。
視線を、夜空から更に上向けて部屋の天上を見た。広大な円形のそこにも、絨毯に劣らず華美かつ精密な絵が一面に描き込まれている。神々の軍勢、退けられる魔物、地を分かつ山脈……どうやら創世記の絵物語になっているらしい。
しかしどうしたことか、絵の主題からして絶対に必要と思われる創世神ステイシアの似姿が、あるべき中央部に存在しない。その部分は漆黒に塗りつぶされ、いわく言いがたい虚無感のようなものが絵全体を支配してしまっている。
眉をしかめ、首を振りながらユージオは顔を戻した。
そして、今更ながら、自分が何か柔らかいものに背中を預けているのに気付いた。
慌てて振り向く。
「え…………」
身体を捻ったまま、ユージオは絶句し、しばし凍りついた。寄りかかっていたのは、驚くほど巨大な円形のベッドの側面だったのだ。
差し渡しが八メル、いやもっとありそうだ。周囲を五本の黄金の柱が取り巻き、紫の羅紗と半透明の薄布が垂れ下がる天蓋に繋がっている。寝台は純白の絹とおぼしきシーツに覆われ、窓からの燐光を受けてほの青く輝いている。
そして――ベッドの中央に、横たわる人影がひとつ。周囲を薄い紗に囲まれ、輪郭しか見えない。
「!!」
ユージオは息を飲み、跳ねるように立ち上がった。これほどの近距離にいながらまるで気配に気付かなかったのは考えられない迂闊さだ。いや、それ以前に、自分はこのベッドにもたれ掛かってたっぷり四、五時間は眠ってしまったのだ。いったい何故こんなことに――。
そこまで考えてから、ユージオは、ようやく途切れた記憶の直前の場面を思い出した。
そうだ……僕は、騎士長ベルクーリと戦ったんだ。そして青薔薇の剣の力によって双方を氷の中に閉じ込めて……互いの天命が尽きる直前、変な道化、元老チュデルキンと名乗る小男が現れていろいろ奇妙なことを言った。あいつの靴が薔薇を踏み割りながら近づいてきて……そして――。
記憶はそこで暗闇に沈んでいる。あの道化が自分をここまで運んできたのだろうか、と考えながらユージオは唇を噛んだが、今は推測する材料すらない。無意識のうちに腰を探ったが、青薔薇の剣はどこかに消え去ってしまっている。
途端に襲ってきた心細さを懸命に押し戻しながら、ユージオはベッド上の人影のほうに眼を凝らした。敵か味方か……いや、ここは間違いなくセントラル・カセドラルの、それもほとんど最上階だ。そんな場所に居る人間が味方ということはあるまい。
このまま足音を殺して部屋から脱出するべきか、とも思ったが、眠る人物が誰なのか知りたい、という欲求のほうが勝った。意を決して、気配を殺しながらそっとベッドに右ひざを乗せる。
ふかっ、と淡雪のようにどこまでも柔らかくシーツが沈み込み、ユージオは慌てて両手を突いた。その手もまた滑らかな絹に沈んでしまう。
あの恐ろしい夢で何者かが横たわっていたベッドの感触が甦ってきて、思わずぶるりと背中を震わせてから、ユージオは音を立てないようにそっと左ひざも持ち上げた。そのまま四つん這いで、ゆっくり、ゆっくりとベッドの中央を目指す。
有り得ないほど巨大な寝台を息を殺して這い進みながら、この絹の下に包まれているのが最高級の羽毛だとしたら一体何羽ぶんになるのだろう、とユージオは考えずにはいられなかった。ルーリッドの村では、飼っていた家鴨の抜け羽を毎日毎日少しずつ集め、ひとつの薄い布団を作るのに一年はかかったものだ。
こんな贅の限りを尽くした寝台にたった一人眠るのは、はたして誰なのか。垂れ下がる紗幕はもう、すぐ目の前だ。
そこで動きを止め、ユージオは息を止めて耳を凝らした。ごくごくかすかに、規則的な呼吸音が聞こえてくる。相手はまだ眠っているようだ。
生唾を飲み込みたくなるのを堪え、そっと右手を伸ばす。指先を紗の隙間に差し込み、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げる。
「…………!」
ついに、背後からの蒼い光がベッドの中央に届き、その瞬間ユージオは眼を見開いた。
眠っていたのは、ひとりの女性だった。いや、少女、と言うべきか。
身の丈はかなりある。立てばほとんどユージオと変わらないだろう。銀糸の縁取りがついた淡い紫――ステイシアの窓の色――の薄物をまとい、身体の上に載せた白く華奢な両手を組み合わせている。露わな腕や指は滑らかに細いが、その上側で布地を押し上げるふたつの膨らみは量感豊かで、ユージオは慌てて眼を逸らした。広く開いた襟ぐりから覗く胸元もまた、輝くように白い。
浮き出た鎖骨、細い首、そしてそれに続く小造りの顔――。
魂の抜けるような、という表現を、ユージオはほとんど生まれてはじめて実体験していた。
何という造形の完璧さだろうか。もはや人とも思えない。
先日から数回眼にした、成長した騎士アリスも非の打ち所のない美貌だったが、しかし彼女はそれでも人間の美しさの範疇に留まっていた。貶めているわけではない、それで当然であり自然なのだ、アリスは人なのだから。
しかし、今眼下に眠るこの存在は。
央都で最高の腕を持つ彫刻家が、一生を費やして彫り上げたかのような――いや、もはや人の手によるものではあるまい。芸術の神アルティノスが数百年の時をかけて創造したとでも比喩すべき、完璧という語彙そのものがここにある。眉、鼻、唇、それらすべてを形容する言葉をユージオは思いつけなかった。花のような唇、と譬えたくとも、これほどの可憐な曲線を持つ花が人界には存在するまい。
閉じられた瞼を縁どる長い睫毛、そして四方に長く広がる髪、そのどちらもが溶かした純銀の色だった。今は闇と月光を吸い込んで、深い蒼に煌めいている。この髪のたった一すじでさえ、ソルスのもとではどんな貴族の装身具よりもまばゆい輝きを放つだろう。
ユージオは、いつしか甘い蜜に惑う蜂のように考える力を失っていた。
この手に、髪に、頬に触れてみたい――という欲求だけが、身体の奥のから激しく衝き上げてくる。
じり、じり、と意識せぬまま膝が前ににじりよった。
これまで嗅いだことのない種類の、ほのかに薫る香が鼻から入り込み、思考を覆っていく。
伸ばした右手の指先が、もう少し……あと少しで、紫の薄物に届く――。
いけない、
ユージオ、
逃げて!
突然、どこか遠くでかすかに、しかしはっきりと、誰かが叫んだ。
一瞬、電光のように思考の糸が繋がり、ユージオははっと眼を見開いた。
今の声……どこかで、聞いたような――。
いや、それどころじゃない。考えるんだ、考えろ。自分が今どういう状況にいて、何をすべきなのか。
まるでそれ自体の意思があるかのように、尚も前に伸びようとわななく右腕を抱え込んで、ユージオは懸命に頭を回転させようとした。呪縛的な麻痺感は、不思議な甘い香りとともに身体に入り込んでくるようで、息を止めて必死に抗う。
考えるんだ。
僕は、この女性を知っているはずだ。セントラル・カセドラルの最上部で……これまで見たどんな部屋よりも豪華なベッドで、たったひとり眠る人物。つまり、教会でもっとも高位の権力を持つ――ひいては、この人界すべてを支配する人物……。
最高司祭。
アドミニストレータ。
ようやく思い出したその名を、ユージオは計り知れない衝撃とともに何度も頭のなかで繰り返した。
アリスを連れ去り、記憶を奪って整合騎士に造り変えた……あの驚異的な力を持つカーディナルでさえ敵わなかった、最強究極の神聖術者。自分とキリトの、最後の敵。
その相手が今、目の前で、眠っている。
今なら殺せる!?
しかし剣が――。
いや、待て。ある――小さな、しかし強力な武器が。
ユージオは、こわばった右手を動かし、布地ごとシャツの胸元を掴んだ。
硬く、鋭い十字の感触がしっかりと掌に伝わった。
この短剣を刺せば、アドミニストレータはカーディナルの術の支配下に捕われる。空間を越えて送り込まれてくる超攻撃術によって、たちまちのうちに焼き殺されてしまうはずだ。
「…………く……」
しかし、ユージオは、シャツごしに短剣を握ったまま動けなかった。
ユージオの半身は、最強の術者アドミニストレータへの恐怖に怯え――もう半身は、その人と思えぬ美貌の呪縛にいまだ囚われていた。
傷つけてしまっていいのか……これほど美しい、完璧なる神の似姿を。
躊躇いが、ほんの僅かな時間、ユージオの右手を石に変えた。
しかし、その強張りが解ける寸前。
ぴくり、と、眠る少女の銀の睫毛が震えた。
それがゆっくり、ゆっくり持ち上がっていくのを、ユージオはただ、呆けたように口を開けながら見つめた。
神の国へと繋がる窓というものがもし存在するとすれば、それはこの少女の瞳以外のものでは有り得ない。
そんなふうに思えてならないほどに、薄く開かれた瞼の下から漏れた光は玄妙かつ神々しく、ユージオはもう視線を動かすこともできなかった。自分が今、どこで何をしているのかといったことすら、意識の彼方に吹き飛ばされていく。
そんなユージオを焦らすかのように、少女は薄く開いた瞼をふたたびそっと閉じ、そのゆっくりとした瞬きをさらに二度繰り返した。そしてついに、完璧な棗型の目をぱっちりと見開いた。
「あ…………」
自分の口から零れたため息を、ユージオは自覚できなかった。
少女の瞳は、白金を液体に変えたかのような、純粋な銀色だった。その鏡の如き虹彩を、文字通り虹の七色が、かすかにたゆたいながら彩っている。この世界に存在するどんな宝石よりも――それこそ四皇帝の宝冠の中央に輝く金剛石すら足元にも及ばないほどの、神々しい煌めき。
もはや指先の感覚までも失せ、ただベッドの上に膝を衝いた格好で石像のように固まったユージオの眼前で、目覚めた少女はまったく重さを感じさせない動作でふわり、と上体を持ち上げはじめた。腕を使うこともなく、筋肉の力というよりも目に見えぬ超常の力に背中を押されるかのように体が起き上がり、とてつもなく長い銀の髪も、風もないのに一度後方にさら……と流れてからまっすぐにまとまって流れ落ちる。
その動きにあわせて、これまで嗅いだことのない濃密かつ清冽な薫りがあたりに漂い、ユージオの思考を一層麻痺させた。
ほんの二メルの距離から呆然と見つめる侵入者の存在を、少女――アドミニストレータはまるで気にもとめぬ様子で、頬にかかった一筋の髪を右手の指先で後ろに払った。まっすぐ伸ばしていた、紫の薄物に包まれた両脚を、揃えて右に折りたたむ。重心が傾いた細い体を、華奢な左手をシーツについて支える。
その艶かしい姿勢のまま、アドミニストレータは、ついに顔を左に傾けてまっすぐユージオのほうを向いた。
俯いていた両の瞳がすっと上に動き、ユージオの目を正面から覗き込んだ。
虹色の燐光に縁どられた純銀の瞳。その中央に、人間ならば有るべき瞳孔は存在しない。とてつもなく美しいが、しかし鏡のようにすべての光を反射し、心の奥を一切覗かせぬ瞳――ユージオはそこに映り込んだ己の顔を目にしたが、しかし自分がどれほど危険かつ無防備な状況にあるのかということに気付く前に、アドミニストレータの艶やかな真珠色の唇が小さく動いた。
「可哀想な子」
何を言われたのか、理解するのにずいぶんと時間がかかった。しかし己の思考力の鈍磨を自覚することもなく、ユージオは呆然と問い返した。
「え……?」
かわいそう? 誰が? 僕が……?
「そうよ。とっても可哀想」
幼い少女のようでもあり、同時にあでやかな成熟をも感じさせる声が言った。無垢な清らかさと、触れなば落ちん危さを等しくはらんだ、聞くものの心を深く掻き乱す響き。
その声を生み出した、ほんのりと赤みを帯びた真珠のごとき唇が、ごくごくかすかな微笑みを浮かべ、ユージオの心中に更なる混乱を渇望を巻き起こす。アドミニストレータは謎めいた微笑を漂わせたまま、更にいくつかの言葉を宙に零れさせた。
「あなたはまるで、萎れた鉢植えの花。土にどれだけ根を張ろうと、風にどれだけ葉を伸ばそうと、ひとしずくの水にさえ触れない」
どういう……意味なんだ……?
僕が……萎れた鉢植え……?
ユージオは眉をしかめ、痺れた頭で不思議な言葉の意味を理解しようとした。しかし、停滞した思考のなかにあっても、アドミニストレータの言葉には、何かしら心に突き刺さる痛みを喚起させるものがあった。
「そうよ……あなたにはわかっている。自分が、どれほど渇き、餓えているか」
「……何に……?」
口が勝手に動き、低くしわがれた声が漏れた。
アドミニストレータは、輝く銀の瞳でじっとユージオを見つめ、微笑を消さぬまま弓形の眉をまるで憐れむかのようにひそめて答えた。
「愛に」
愛……だって?
まるで……僕が……愛を知らないみたいに……。
「そのとおりよ。あなたは、愛されるということを知らない、可哀想な子」
そんなことない。
母さんは……僕を愛してくれた。眠れないときは……僕を抱いて、子守唄を歌ってくれたんだ。
「その愛は、ほんとうに、あなた一人のものだったの? 違うでしょう? ほんとうは、あなたの兄弟に分け与えた余り物だったんでしょう……?」
嘘だ。母さんは……僕を、僕だけを愛してくれたんだ……。
「自分だけを愛してほしかった。でもそうしてくれなかった。だからあなたは憎んだの。母の愛を奪う父を。兄たちを」
嘘だ! 憎んでなんかいない。僕は、僕は、父さんや兄さんたちを殺したりしてない。
「そうかしら……? だって、あなたは殺したじゃない」
…………。
誰を……?
「はじめて、自分ひとりを愛してくれるかもしれなかった、あの赤毛の女の子……あの子を力ずくで奪い、汚した男を、あなたは殺した。憎いから。自分だけのものを獲られたから」
……!!
違う……僕は、そんな理由で……そんな理由でライオスを斬ったんじゃない。
「でも、あなたの乾きは癒されない。もう誰も、あなたを愛してくれないから。誰も、あなたに水を与えてくれないから。みんなあなたを忘れてしまった。もう要らないって、捨ててしまったの」
違う……違うよ。僕は……僕は、捨てられてなんかいない……。
そうだ……違う。
僕には、
アリスがいる。
その名を思い出したとたん、頭の中を濃密に覆い尽くすねっとりとした霧が少し晴れたような気がして、ユージオはぎゅっと両目をつぶった。このままじゃいけない、この声を聞いてちゃいけない、湧き上がった危機感がそう囁く。
しかし、思考する力を取り戻す前に、再び甘く蠱惑的な声が、両の耳から滑り込んできた。
「本当にそうかしら……? 本当にあの子は、あなただけを愛しているのかしら……?」
憐れみの響きの裏に、かすかにくすくすと笑うような音が混じる。
「あなたは忘れているの。思い出させてあげる。真実を……あなたが深いところに埋めてしまった、ほんとうの記憶を」
途端、ユージオの視界がぐらりと傾いた。
膝をついていた柔らかいシーツは消えうせ、暗い、暗い穴のなかを、どこまでも落ちていく。
ふと、生々しい青草の匂いが鼻をつく。
視界の隅に緑色の光がちらちらと瞬き、さえずり交わす小鳥の声に、ざくざくという足音が重なる。
気付くと、ユージオは深い森の中を一人走っている。
視点がやけに低く、歩幅も短い。見下ろせば、粗い麻の半ズボンから伸びた脚は、細く頼りない子供のものだ。だが違和感はすぐに消え去り、変わりに圧倒的な焦燥感と寂寥感が取ってかわる。
今日は、朝からアリスの姿が見えないのだ。
午前中の家の手伝い、牛の世話と菜園の草取りを終わらせ、ユージオは一目散にいつもの集合場所、村の外れの林檎の樹の下に急いだ。しかし、どれだけ待とうとアリスは来なかった。それに、同じく産まれたときからの幼馴染である黒髪の少年――キリトも。
ソルスの光が作り出す自分の影がずいぶんと短くなるまで二人を待ってから、ユージオは言い知れぬ不安を抱えながらアリスの家までとぼとぼと歩いた。きっと、何かイタズラが見つかって遊びにいくのを禁止されたんだ、そう思ったのに、ユージオを出迎えたツーベルクのおばさんは首をひねりながら言った。
おかしいわねえ、今日は随分とはやく出かけたわよ。キリ坊が迎えにきたから、てっきりユー坊も一緒だと思ったんだけどねえ。
もごもごと礼を言って村長の屋敷を後にしたユージオは、不安が焦りに変わるのを感じながら、村中を探し回った。しかし、村の餓鬼大将である衛士長の息子ジンクとその子分たちが占拠している中央広場はもちろん、どの遊び場にも、隠れ家にも、キリトとアリスの姿は無かった。
思い当たる場所はもう、一箇所しかなかった。普段、子供たちが一切近づかぬ東の森、その奥に最近見つけた、小さな円形の空き地。大人達が"妖精の輪"と呼ぶ、様々な花や甘い果実に埋めつくされた、三人だけの秘密の場所。
そこを目指して、半ばべそをかきながら、ユージオは懸命に走る。寂しさと訝しさ、そしてもうひとつ、名前を知らない不快な感情に衝き動かされながら。
曲がりくねった獣道を懸命に駆け抜け、一際太い古木にぐるりと囲まれた秘密の空き地が近づいてきたとき、不意に樹の幹と幹のあいだに眩い金色の光が瞬いて、ユージオははっと脚を止めた。
間違いなく、見慣れたアリスの金髪の輝きだった。何故か反射的に息を潜め、耳をそばだてる。ぼそぼそ、と密かに交し合う言葉の端々が、かすかに届いてくる。
どうして……どうしてだよ。
そんな言葉だけを頭のなかで繰り返しながら、ユージオはそっと、そっと空き地に歩み寄った。巨大な惨めさを抱えながら、ひときわ太い樹の陰に身を隠し、陽光溢れる秘密の場所を覗き見る。
咲き乱れる色とりどりの花の中央に、アリスがこちらに背を向けて座っていた。顔は見えないが、流れるまっすぐな金髪と、深い青のドレス、白いエプロンは間違いようもない。
そしてその隣に、つんつんと硬い黒髪の頭。無二の親友、キリトだ。
じっとりと冷たい汗が、握った手のひらを濡らす。
何してるんだ。二人だけで、僕にかくれて、何してるんだよ。
立ち尽くすユージオの耳に、微風に乗ったキリトの声が聞こえた。
「なあ……そろそろ戻ろうぜ。ばれちゃうよ」
それに答える、アリスの声。
「まだだいじょうぶよ。もう少し……もうちょっとだけ、ね?」
いやだ。
もう、ここにいたくない。
しかしユージオの脚は、まるで樹の根に絡みつかれたかのように動かない。
どうしても逸らせない視線の先で、アリスの頭がそっとキリトに近づく。
かすかな囁き声の断片。
鮮やかなソルスの光の下、咲き誇る花々の中央で寄り添う二人の姿は、まるで一枚の絵のようで。
いやだ。
うそだ。こんなの、全部うそだ。
ユージオは心の中で叫ぶ。しかしどれほど否定しようと、この光景すべてが、自分の記憶のなかから出てきた真実であるという確信がぬぐいがたく湧き上がり、胸に苦い水となって満ちる。
「ほら……ね?」
くすくす。
ひそやかな笑いの混じる、アドミニストレータの囁き声が、ユージオを現実に引き戻す。
セントラル・カセドラル最上階、薄暗い最高司祭の居室の巨大なベッドの上で我に返っても、ユージオの瞼の裏に閃く緑と黄金の輝きはなかなか消えなかった。それに、耳に染み付く、アリスとキリトの囁き声も。
キリトと出会ったのはたったの二年半前、もうアリスが教会に連れ去られたずっと後だ――というかすかな理性の声も、ユージオの胸中を埋め尽くす圧倒的な黒い塊を溶かすことはできなかった。感情の大渦に翻弄され、蒼白になって荒い息を繰り返すユージオを、すこし離れた場所からアドミニストレータは憐憫の表情を作って見つめてくる。