しかし、最大の惨状を呈しているのはやはり、ギガスシダーの直撃を受けた上腹部の傷だった。大人の拳ほどもある貫通痕が深々と口を開け、深い赤色の血を絶え間なく溢れさせている。瞼を閉じたままの顔は、鎧の色が移ったかのような薄い青紫色に変じて、そこには生気の欠片すらも見当たらなかった。
キリトは、ファナティオの腹に両手をかざし、神聖術で傷の修復を試みている最中だった。ユージオの接近に気付くと、顔を上げないまま切迫した口調で言った。
「手伝ってくれ、血が止まらないんだ」
「あ……ああ」
頷き、反対側に膝をついて同じく傷口に手を当てる。先刻キリトに使ったのと同じ、部分損傷回復の術式を唱えると、かすかな燐光を浴びた傷からの出血が僅かに減少したような気がしたが、完全な止血には程遠かった。
このまま二人で術を継続しても、やがて周囲の神聖力を使い尽くし効力が失われてしまうのは明らかだ。二人の天命を譲与すればファナティオの天命は一時的に回復するだろうが、出血を止めずにそれをしても結局は無為である。現状で彼女の命を救うのは、二人より強力な回復術を使える神聖術者の助力か、伝説の霊薬でもなければ不可能だ。
唇をきつく噛み締めるキリトの顔をそっと見やり、しばし迷ったすえに、ユージオは言った。
「無理だよキリト。出血が多過ぎる」
キリトはしばらく俯いたままだったが、やがて掠れた声で答えた。
「わかってる……でも、何か、何か方法があるはずだ。諦めないで考えるんだ……ユージオも考えてくれよ、頼む」
その顔は、二日前、ロニエとティーゼを襲った悲劇を止められなかった時と同じくらいの沈痛さと無力感に満ちていて、ユージオはどんと胸を衝かれたような気がした。
しかし、やはりどれほど考えようと、眼前で今まさに尽きんとしている天命の皿を元に戻す手段が無いことは明々白々だった。背後で倒れている九騎士を回復させ、彼らにも治癒を手伝ってもらうことも一瞬検討したが、そんな迂遠なことをしている猶予はどう見ても残されていない。おそらく今、キリトとユージオのどちらかが術式を停止すれば、その数秒後にはファナティオの命は永遠に喪われるだろう。そして、例え術を続けても――同じ結果が数分後にはやってくる。
ユージオは意を決して、出せる限りの真剣な声音で相棒に告げた。
「キリト。――君は、地下牢から脱出するとき僕に言ったね。ここから先に進むには、あらゆる敵を斬り倒していく覚悟が必要になる、って。さっき、君は、その覚悟のもとにこの人と戦ったんじゃないのか? どちらかが死に、どちらかが生き残る、そういう決意であの技を使ったんじゃないのかい? 少なくとも、この人は……ファナティオさんには迷いはなかったよ。自分の命を全部賭ける、そういう顔をしてた……と僕は思う。キリトにだって判ってるはずだ……もう、敵を気遣って、手加減なんかして勝てるような段階じゃないんだ」
真剣の刃を相手に向けるというのは、つまるところそういうことなのだ。ユージオはそのことを、ライオスの腕を斬り飛ばしたときに両の掌の震えで、右目の激痛で、胸の奥の凍るような恐怖で学んだ。
それと同じことを、この黒髪の相棒は遥か昔から――ルーリッド南の森で出会ったあの時から既に知っているものと、そう思っていたのに。
ユージオの声を聞いたキリトは、ぎりりと奥歯を噛み締め、何度も首を左右に振った。
「判ってる……判っちゃいるんだ。俺とこの人は、本気で戦った……どっちが勝ってもおかしくない、ぎりぎりの真剣勝負だった。でも……この人は、死んだら消えてしまうんだ! 百年以上も生きて……迷って、恋して、苦しんで、そんな魂を俺が消してしまうわけにはいかない……だって、俺は……俺は、死んでも……」
「え……?」
死んでも――何だというのだろう? 人は皆、天命尽きればその魂は生命の神ステイシアの元に召され、神の抱く黄金の壷の中に融けて消えるのだ。色々と謎の多いキリトとて、人間である以上その定めは一緒であるはず。
ユージオの一瞬の戸惑いは、しかし、突然上を向いて叫んだキリトの声に掻き消された。
「聞こえるか! 騎士長! あんたの副官が死んじまうぞ! 聞こえてたら降りてきて助けろよ!!」
絶叫は、遥か高い天蓋にかすかにこだまし、空しく消えた。だが、キリトは諦めることなく叫びつづけた。
「誰でもいい……まだいるんだろう、整合騎士! 仲間を助けに来いよ! 司祭でも、修道士でも……誰か来てくれよ!!」
二人の見上げる先で、破壊され尽くした三神の似姿がただ沈黙を返してよこした。何者かが現われる気配も、微風のひとつすら訪れることはなかった。
視線を戻すと、ファナティオの全身から徐々に色彩が抜け落ちつつあるのが確認できた。天命の残りは百か、五十か――。整合騎士副長ファナティオ・シンセシス・ツーだった存在が、その骸という物体に変じる瞬間を、せめて黙祷とともに待とうとユージオは言おうとしたが、相棒はなおも叫ぶのを止めようとはしなかった。
「頼むよ……誰か! 見てたら助けてくれ! この場ですぐ戦ってやるから……そうだ、あんたでもいい、来てくれカーディナル! カーディナ……」
突然、喉が詰まったかのようにキリトが黙り込んだ。
ユージオは視線を上げ、相棒の顔に愕然とした表情がまず浮かび、それが一瞬の迷い、そして決意へと変わるのを驚きとともに見た。
「お、おい……どうしたんだよ急に」
だが、キリトは答えることなく、右手を黒い上着の胸元に差し込んだ。
つかみ出されたのは――細い鎖の先に揺れる、極小の赤銅製の短剣だった。
「キリト――! それは!!」
我知らず、ユージオも叫んだ。
同じものが、ユージオの首からも下がっている。忘れるはずもない、大図書室を出るとき、追放された先の最高司祭カーディナルが呉れた短剣だ。攻撃力は一切無いが、刺された者とカーディナルの間に切断不可能な術式の通路を開く。ユージオにはアリスに、キリトにはアドミニストレータにそれぞれ使うようにと渡された、二人の最後の切り札。
「それは駄目だ、キリト! カーディナルさんが、もう予備はないって……それは、アドミニストレータと戦うための……」
「判ってる……」
キリトは、苦しそうな声で呻いた。
「でも、これを使えば助けられる……助ける手段があるのに、それを使わないなんて……人の命に優先順位をつけるなんてこと、俺にはできない」
苦しそうでもあり、しかし確たる決意に満ちてもいる表情でじっと短剣を凝視すると――キリトは、右手に握ったその鋭利な針を、迷うことなくファナティオの、そこだけは傷の無かった左手に深く突き刺した。
途端、鎖を含め、赤銅色の金属すべてが眩く発光した。
息を飲む間もなく、短剣は幾筋もの紫色の光の帯へと分解される。よくよく見れば、それらの光帯はすべて、ステイシアの窓に出現するものと同じ神聖文字の行列だった。極細の文字列たちは、ほつれながら空中をすべり、ファナティオの身体の各所へと吸い込まれていく。
短剣が完全に消滅するのと同時に、騎士の全身が紫の光に包まれた。驚くべき現象に目を見開いたユージオは、少し遅れて、上腹部の傷口からの出血が完全に停止していることに気付いた。
「キリト――」
血が止まった、とユージオは言おうとしたのだが、直後どこからともなく響いた声に遮られた。
『やれやれ、仕方ないやつじゃな』
弾かれたようにキリトが顔を上げた。
「カーディナル……あんたか!?」
『時間がない、当然のことを訊くな』
その、あどけない声にそぐわない辛辣な言い回しは間違いなく大図書室で遭遇した前最高司祭のものだった。
「カーディナル……すまない、俺は……」
苦しげにそう言うキリトの声を、再びカーディナルは素っ気無く断ち切った。
『今更謝るな。よい……お主の戦いぶりを観ている間から、こうなるのではないかと思っておった。状況は理解しておる、ファナティオ・シンセシス・ツーの治療は引き受けよう。しかし完全修復には時間が掛かるゆえ、身柄をこちらに引き取るぞ』
声がそう告げると同時に、ファナティオの身体を覆う紫の光が一際激しく瞬いた。思わずユージオが目をしばたき、再び見開いたときには、もう整合騎士の姿は――驚いたことに、床に広がっていた血溜まりも含め――完全に消滅していた。
空中には、まだ神聖文字の断片がいくつか漂っているのが見えた。それらの明滅と重なるように、カーディナルの声が、先ほどよりも音量を落としながら届いてきた。
『もう蟲どもに気付かれておるゆえ手短に伝えるぞ。状況から判断して、アドミニストレータは現在非覚醒状態にある可能性が高い。彼奴が目を醒ます前に最上階に辿り着ければ、短剣を使わずとも排除が可能だ。急げ……残る整合騎士はもう僅かだ……』
図書室との間に開いた、目に見えない通路が急速に狭まりつつあるのをユージオは感じた。カーディナルの声が遠くなり、気配が掻き消える寸前、空中に二つの光がちかちかっと瞬き、それは実体を伴って床に落下した。
涼しげな音を立てながら大理石の上に転がったのは、二つの小さな硝子瓶だった。
キリトは虚脱したようにその瑠璃色の瓶を見つめていたが、やがて腕を伸ばすと二つ同時に摘み上げた。立ち上がり、ひとつを指先に挟んで差し出してくる。
受け取ろうとユージオが伸ばした掌のなかに瓶を落としながら、キリトは低い掠れ声で呟いた。
「……取り乱して悪かった」
「いや……謝るようなことじゃないよ。ちょっとばかり驚いたけどさ」
小さく笑いながらそう言うと、キリトもようやく僅かに微笑んだ。
「せっかくの差し入れだ、ありがたく頂こうぜ」
相棒にならってユージオも小瓶の栓を弾き飛ばし、中身の液体を一息に呷った。お世辞にも美味とは言えない、砂糖抜きのシラル水のような酸っぱさに顔をしかめるが、長時間の戦闘で疲弊した頭の中が冷水で洗われるような爽快感があった。半減した天命も急回復中と見え、キリトの四肢に残る傷がみるみる塞がっていく。
「すごいな……、どうせなら二個と言わず、もっと沢山送ってくれればいいのに」
思わずユージオが嘆息すると、キリトが苦笑して肩をすくめた。
「これだけ高優先度の代物をデー……術式化して転送するには時間がかかるんだろうさ。むしろ、よくあんな短時間で……うわっ!?」
いきなりキリトが素っ頓狂な声を出して跳びのいたので、ユージオは唖然として相棒を見やった。
「な、なんだよ急に」
「ユ、ユージオ……動くな、いや下を見るな」
「はあ?」
そんなことを言われれば、見ないでいるほうが難しい。反射的に自分の足許を見下ろしたユージオは、いつの間にかそこに居たモノに気付いて悲鳴を上げた。
「ひい!?」
長さは十五センほどか。細かい体節に分かれた長く平べったい胴体から、無数の細い脚が突き出し、その前半分をユージオの靴に乗せている。頭とおぼしき球形の先端部分には十個以上ある小さな赤い眼が一列に並び、その両側からは恐ろしく長い針のような角が二本飛び出して左右別々にゆらゆらと揺れている。ある種の虫類――なのだろうが、おぞましい、と言うよりない奇怪な姿だ。ルーリッド南の森にも虫は沢山生息していたが、こんな形のものは見たことがなかった。
あまりのことに凍りついたユージオだったが、さらに三秒ほど角で周囲を探ってから、怪虫がおもむろに靴からズボンに這い登ろうとするに至って再度の悲鳴とともに飛び上がった。
「ひぃ――――っ!!」
激しく足踏みをすると、虫はぽろりと背中から床に落ちたが、すぐに反転してちょろちょろと足の間を這い回る。もう一度登ってこられては堪らぬと、ユージオは垂直跳びを繰り返したが、何回目かの着地のときにその惨事は起きた。
くしゃ、という乾いた音に続いて、ぷちぷち、と粘っこいものが弾ける感触を足裏に伝えながら、ユージオの右の靴の下で虫は見事に粉砕された。
四方に鮮やかな橙色の体液が飛び散り、刺激性の異臭が漂う。千切れた脚が尚も跳ね回っているのを見てユージオはふぅっと気が遠くなりかけたが、今倒れるわけには行かないと必死に怖気を堪え、キリトに助けを求めるべく顔を上げた。
すると、心を繋いだ相棒は、いつの間にか三メルも向こうにいて、更にじりじりと後退を続けているところだった。
「おい……おおい! どっか行くなよ!」
裏返った声で糾弾すると、キリトは蒼ざめた顔を細かく左右に振った。
「ごめん、俺、そういうのちょっと苦手」
「僕だって苦手だよすっごく!」
「そういう虫とかって大抵、一匹死ぬと十匹くらい集まってくるお約束じゃん」
「嫌なことを言うなよ!!」
こうなったら相棒に抱きついてでも運命を共にせんと決意し、ユージオは逃げるキリトに飛び掛かるべく腰を落としたが、不意に足下から紫色の光が発生して再度凍りついた。
恐る恐る下を見ると、おぞましい残骸が光の粒となって蒸発していくところだった。数秒と経たずに粘液やら殻やらは跡形もなく消え去り、ユージオは腹の底から長い安堵のため息を吐き出した。
遠方から消滅を確認したらしく、今更のようにキリトが戻ってきて、鹿爪らしい声を出した。
「……成る程な。今のが、アドミニストレータが探知用に放った"蟲"ってやつか。図書室との通路を嗅ぎつけたんだな……」
「…………」
ユージオはそこはかとない恨みを込めてキリトを上目で睨んだあと、やむなく相槌を打った。
「じゃあ……この塔には、いまみたいな奴が沢山うろついてるって事? でも、これまであんなの見たことなかったよ」
「……隠れるのが巧いんだろうさ、だからって探して回るのはご免だけどな。それに……カーディナルが妙なこと言ってたな……アドミニストレータが未覚醒、とか何とか……」
「ああ、そう言えば……。それってつまり、寝てるってこと? こんな昼間から?」
ユージオの問いに、キリトはしばらく顎を撫でたあと、自身も腑に落ちない様子で答えた。
「アドミニストレータや整合騎士は、数百年も生きてる代償として色々無理をしてるんだってカーディナルが言ってた。特にアドミニストレータは、一日の殆どを寝て過ごしてるらしいんだが……となると、今の蟲やら整合騎士の制御はどうなってるんだろうな……」
俯いたまま、更に数瞬考え込んだあと、くしゃっと髪を掻き上げて自答する。
「まあ、登ってみればおのずと分かることか。――それはそれとしてユージオ、ちょっと俺の背中見てくんない?」
「は、はあ?」
唖然とするユージオの眼の前で、キリトはくるりと後ろを向いた。訳がわからぬまま目を走らせるが、黒い上衣の布地は、度重なる戦闘を経て相当に損耗しているものの特に変わった様子はない。
「別に……何もなってないけど……」
「何ていうか……ちっちゃい虫が張り付いてたりしないか? クモ状の奴とか」
「いや、居ないけど」
「そうか、ならいいんだ。――では改めて、後半戦行ってみようか!」
そのまますたすたと、回廊北端の大扉目指して歩いていくキリトをユージオは慌てて追った。
「おい、何だよ今の!」
「なんでもないって」
「気になるよ、僕の背中も見てくれよ!」
「だからなんでもないって」
ルーリッドの村を出て以来、何度となく繰り返してきたような軽口をやり取りしながら、ユージオは心の中で本当に訊きたい問いをそっと呟いていた。
いつでも冷静なはずの君が、一人の敵でしかないはずのファナティオの死を前にあれほど取り乱した理由――そして、"俺は、死んでも……"という言葉に続くはずだったのは――。
キリト、君は、本当は誰なんだい……?
背丈の数倍はあろうかという巨大な扉の前で立ち止まった黒衣の剣士は、両手を掲げると、重々しい軋み音とともに左右に押し開いた。途端、冷たい風がごうっと吹き付けてきて、ユージオはわずかに顔をそむけた。* 扉のむこうに見えたのは、ユージオ達が上ってきた大回廊南側の階段ホールとほぼ同じ広さの空間だった。形も同じく半円形、奥で弧を描く壁面には細長い窓が並んで穿たれ、濃い青色の北空を覗き見ることができる。
しかし、黒と白の石を交互にはめ込んだ床には、南側にあったような大きな階段は存在しなかった。
それどころか、梯子も、縄一本すらも見当たらない。つるりと滑らかな床面には、ほぼ中央に奇妙な円形の窪みがひとつあるのみで、上に登るための路は一切ユージオの目には入ってこない。
「か……階段がないよ」
呆然と呟きながら、キリトの後に続いて薄暗い半円ホールに踏み込んだユージオは、再び首筋に冷たい空気の流れを感じて肩を縮めた。相棒も気付いたようで、二人同時に真上を振り仰ぐ。
「……な……」
「なんだこりゃ……」
そして、二人同時に息を飲んだ。
天井は無かった。半分に切った巻きケーキの形の空間が、視線の届く限りどこまでもどこまでも伸びている。上のほうは濃紺の闇に沈んで、一体どれほどの高さまで続いているのか推し量ることもできない。
遥かな高みから徐々に視線を戻してくると、この吹き抜けは完全に空っぽの空間というわけではないことに気付いた。五十一階以降のそれぞれの階層に相当する高さの壁面に、二人の背後にあるのよりは小さい扉が設けられ、その前から細長いテラスが吹き抜けの中ほどまで伸びている。
つまり、あのテラスまで辿り着ければ上の階に侵入できる――ということになるのだが。
ユージオは無意識のうちに右手を伸ばし、ぴょんと軽く飛び上がってみた。
「……届くわけないって」
ため息混じりに呟く。最も近いテラスでさえ、当然ながら背後の"霊光の大回廊"の天井以上の高さに存在するわけで、どう見積もっても二十メルはある。
隣で同じように目をしばたいていたキリトが、力の抜けた声で訊いてきた。
「あのー……一応確認しとくけど、空を飛ぶ神聖術ってないよな?」
「ないよ」
容赦無く即答する。
「だって空を飛ぶのは整合騎士だけの特権じゃないか。彼らだって、術で飛んでるんじゃなくて飛竜に乗ってるんだし……」
「じゃあ……ここの人間は、どうやって五十一階から上を行き来してるんだ?」
「さあ……」
二人揃って首を捻る。気は進まないが、大回廊に取って返して、倒れているファナティオの部下に上に行く方法を尋ねるしかないのか、と考えた、その時。
「おい――何か来るぞ」
キリトが緊張した声で囁いた。
「え?」
眉をしかめてもう一度吹き抜けを見上げる。
確かに――何かが近づいてくるのが見えた。一列になって突き出しているテラスの端をかすめるように、黒い影がゆっくりと降下してくる。キリトと同時に後ろに飛びのき、剣の柄に手を掛けながら、ユージオはじっと接近するものを凝視した。
完全な円形だ。差し渡しは二メルと行ったところか。細い窓から差し込む青い光を受けるたびに縁がぎらり、ぎらりと光るところを見ると、鉄製の円盤というようなものらしい。しかしなぜそんな代物が、支柱も何もない空間をふわふわ下降してくるのか。
一定の速度で移動する円盤が二階上のテラスを通過したとき、ユージオの耳が、しゅうしゅうという奇妙な音を捉えた。同時に再び、冷たい空気の流れを首筋で意識する。
逃げるでも、剣を抜くでもなく、ユージオはただ唖然と立ち尽くしたまま、円盤が頭上のテラスをかすめ二人の目の前へと降りてくる様を眺めていた。ほんの数メル上空にまでそれが近づいたとき、円盤の下部中央に小さな穴が開き、そこから猛烈な勢いで噴き出す空気が、謎の音と風の原因であると気付く。
しかしたかが風の力で、こんな大きな鉄の皿を浮かせられるものだろうか――といぶかしむ間にも、しゅうしゅういう音はどんどんその勢いを増し、金属盤は落下速度をみるみる緩め、最後にはこつんというかすかな音だけを発して、石床に空いていた窪みにぴったりと嵌まるように停止した。
円盤の上面は、鏡のように滑らかに磨かれていた。縁には、精緻な細工の施された手摺がぐるりと取り付けられている。中央からは、長さ一メル少々太さ十五センほどのの硝子製の筒が真っ直ぐに伸び――半球状に丸くなったその筒のてっぺんに両手を当てて、一人の少女がぽつりと立っていた。
「――!」
ユージオは息を飲みながら、剣の柄に沿えた右手に力を込めた。新手の整合騎士か、と神経を張り詰めさせる。
しかしすぐに、少女の腰にも背中にも、短剣のひとつも装備されていないことに気付いた。服装も、おおよそ戦闘には向かなそうな、簡素な黒いロングスカートだ。胸からつま先近くまで垂れる白いエプロンの、縁取りに施された控えめなレース編みだけが唯一装飾的と言っていいもので、あとはアクセサリーのひとつも身につけていない。
灰色がかった茶色の髪は、眉と肩の線で真っ直ぐに切り揃えられ、血色の薄い顔も特徴を見出しにくい造作だった。整ってはいるが表情というものが無い。歳の頃はユージオ達より少し下、と見えたが確信は持てなかった。
一体何者だろう、とユージオは少女の瞳を見ようとしたが、伏せられた睫毛に隠れ色すらも分からない。円盤が停止する前から、一切二人の顔を見ようとしなかった少女は、不思議な硝子筒から手を離すとそれとエプロンの前に揃え、さらに深く頭を垂れて、はじめて声を発した。
「お待たせいたしました。何階をご利用でしょうか」
最低限の抑揚だけを備えた、色合いの無い声。およそ感情というものを窺うことができない。
少なくとも、敵意や害意は欠片すらも聞き取れなかったので、ユージオはそっと剣から手を離した。頭のなかで、少女の言葉をもう一度繰り返す。
「何階を……って……。じゃあ、君が、その、僕らを上の階まで連れていってくれるの?」
半信半疑でそう尋ねると、少女は戻した頭を再び下げた。
「左様で御座います。お望みの階をお申し付けくださいませ」
「って……言われても……」
自分たちの前に現れる者はことごとく障害、と思っていたユージオは、咄嗟に何を言っていいか分からず口篭もった。すると隣で、こちらも何を考えているのか分からないキリトがのんびりした口調で言った。
「ええと、俺たち、カセドラルに侵入した犯罪者なんだけど……そんなのエレ、いや円盤に乗っけて問題はないの?」
すると、少女はごくかすかに首を傾げたが、すぐに定位置に戻して答えた。
「わたくしの仕事は、この昇降盤を動かすことだけで御座います。それ以外のいかなる命令も受けておりません」
「そうか。じゃあ、ありがたく乗せてもらうよ」
呑気なことを言うと同時に、キリトがすたすたと円盤目指して歩きはじめたので、ユージオは慌てて声を掛けた。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「だって、これ以外に上に行く方法はなさそうだぜ」
「そりゃ……そうかもしれないけど……」
子供騎士二人にあんな目に合わされた直後に、よくそんな無警戒に怪しげなものに乗れるなあとユージオは呆れたが、確かに、二人には円盤の動かし方すら見当もつかないのだ。これが罠でも、少なくともどこかのテラスに飛び移れればそれでいいかと腹を決め、相棒の後に続く。
華奢な手摺の切れ目から順に円盤に乗り込むと、キリトは不思議そうに硝子の筒を覗き込みながら少女に告げた。
「えっと、じゃあ行ける一番上の階まで行ってくれ」
「かしこまりました。それでは八十階、"雲上庭園"まで参ります。お体を手摺の外に出しませんようお願いいたします」
間髪入れずに答え、またしても一礼してから、少女は筒のてっぺんに両手を当てた。すうっと息を吸い込み――。
「システム・コール。ジェネレート・エアリアル・エレメント」
突然の術式詠唱に、すわ攻撃か、とユージオは泡を食ったが、どうやらそうではないようだった。緑色に輝く風素が出現したのは、透明な筒の内部だったからだ。しかしその数を見て、もう一度驚く。きっちり十個――これだけの数の素因を同時生成できるからには、術者としては相当に高位だ。
少女は硝子筒に当てた華奢な十指のうち、右手の親指、人差し指、中指をまっすぐ立てると、そっと呟いた。
「バースト」
途端、素因のうち三個が緑の閃光とともに弾け、ごうっ! という音が足の下から湧き起こった。直後、三人が乗った鉄の円盤が、見えない手に引っ張られたように上昇を開始する。
「なるほどなあ! そういう仕組みなのか」
感心したようなキリトの声に、ユージオはようやく円盤が上下する仕組みを悟った。鉄盤を貫く硝子筒の内部で風素を解放し、生み出された爆発的な突風を下向きに噴出することで、三人の体重に円盤自体の重さを足しただけの重量を持ち上げているのだ。
仕掛けとしては甚だ単純なものだが、それをまったく感じさせないほどに、円盤の動きは一定かつ滑らかだった。上昇開始時に、多少ぐうっと押し付けられる感覚があった他は、ほとんど揺れを感じさせることもなくすうっと宙を滑っていく。
五十階の床はたちまち眼下に遠くなり、ユージオは改めてこの小さな円盤が八十階、つまり雲にも届くほどの高さまで昇るのだということを意識した。汗ばんだ掌をズボンで拭い、ぎゅうっと手摺を握りしめる。
しかし隣のキリトのほうは、まるで以前にも似たようなものに乗ったことがあるとでも言うように平然とした顔でへえーだのふうーんだのと感心していたが、やがて興味の対象を円盤からそれを操る人間のほうに移したらしく、少女に向かって尋ねた。
「君は、いつからこの仕事をしてるの?」
少女は顔を伏せたまま、ほんの少しだけ不思議そうな声で答えた。
「この天職を頂いてから、今年で百七年になります」
「ひゃ……」
思わず足下の空間のことを忘れ、ユージオは目を丸くした。つっかえながら更に問いただす。
「ひ、百七年って……その間ずっとこの円盤を動かしてるの!?」
「ずっと……ではありません。お昼には食事休みを頂きますし、もちろん夜も寝ませて頂きますから」
「い、いや……そういうことでなく……」
――そういうことなのだろう。恐らく、この少女もまた整合騎士と同様に天命を凍結され、永遠とも言える時間を一枚の金属盤の上で生きてきたのだ。
無限の刻を戦いに費やす整合騎士よりも――それははるかに恐ろしく、孤独で、荒涼とした運命であるとユージオには思えた。
金属盤は、ゆるゆると、しかし着実に上昇していく。少女は、伏せた瞼の下に一切の感情を包み隠し、風素がひとつ尽きると新たにひとつ、またひとつと解放させる。そのたびに呟く「バースト」の一言を、これまで彼女は何度繰り返してきたのだろう、とユージオは考えたが、もちろんとても想像の及ぶ範囲ではなかった。
「君……名前は?」
不意にキリトがそう訊いた。
少女は、これまでで一番長く首を傾げたあと、ぽつりと答えた。
「名前は……忘れてしまいました。皆様は、私を"昇降係"とお呼びになります。昇降係……それがわたくしの名前です」
これにはキリトも返す言葉を見つけられないようだった。通過するテラスを何気なく数えていたユージオは、それが二十を超えたところで、何かを言わなければ、という衝動に背中を押されるように口を開いた。
「……あの……あのさ、僕たち……神聖教会の偉い人を倒しに行くんだ。君に、この天職を命じた人を」
「そうですか」
少女が返した声はそれだけだった。しかし、ユージオは尚も、恐らくは何の意味もないであろう言葉を重ねた。
「もし……教会がなくなって、この天職から解放されたら、君はどうするの……?」
「……解放……?」
覚束ない口調でそう繰り返すと、昇降係という名前の少女は、円盤がさらに五つのテラスを通り過ぎる間沈黙を続けた。
ちらりと上空を見上げたユージオは、いつの間にか行く手に石の天蓋が見えてきていることの気づいた。あそこが八十階――いよいよ、本当の意味で教会の、つまり世界の中核に足を踏み入れることになる。
「わたくしは……この昇降洞以外の世界を知りません」
不意に、少女がごくかすかな声で言った。
「ゆえに……新たな天職と仰られても決めかねますが……でも、してみたいこと、という意味ならば……」
これまでずっと俯かせていた顔をすっと上げて、少女は肩越しに細長い窓を――その向こう側の、午後の北空を見やった。
「……あの空を……この昇降盤で、自由に飛んでみたい……」
はじめて見る少女の瞳は、真夏の蒼穹のように深い、深い藍色だった。
最後の風素が瞬いて消える寸前に、円盤は三十番目のテラスに到達し、ふわりとその動きを止めた。
昇降係の少女は、硝子筒から両手を離すとエプロンの前で揃え、深く一礼した。
「お待たせいたしました、八十階・"雲上庭園"でございます」
「あ……ありがとう」
ユージオもキリトと一緒に頭を下げ、円盤からテラスへと乗り移った。
少女はもう一切顔を上げることなく、再度の会釈だけを残して、風素が弱まるに任せ円盤を降下させた。木枯らしのような噴出音はたちまち遠ざかり、永遠の刻を閉じ込めた鋼鉄の小世界は、薄青い闇のなかにその姿を消した。
ユージオは我知らず長いため息をついていた。
「……僕の前の天職も、終わりが見えないことにかけちゃ世界で最悪だと思ってたけど……」
呟くと、キリトが眉を持ち上げて視線を送ってくる。
「年とって斧が振れなくなったら引退できる……ってだけでぜんぜんましだよね、あの子に比べれば……」
「天命を術で無理矢理に延ばしても、魂の老化は防げないんだってカーディナルは言ってたよ。記憶が少しずつ侵されていって、最後には崩壊してしまう、って」
唇を噛みながらそう答えたキリトは、想念を断ち切るように勢い良く振り向き、深い縦孔に背を向けた。
「この世界はどうしようもなく間違ってる……だから俺たちはアドミニストレータを倒すためにここまで来た。でも、それで終わりじゃないんだ、ユージオ。本当の難題は、その先に……」
「え……? アドミニストレータを倒せば、あとはさっきのカーディナルさんに任せればいいんじゃないの?」
眉を寄せながらユージオがそう訊くと、キリトは何かを言いかけるように唇を動かしたが、常に果断な彼らしからぬ躊躇いをその目に浮かべ、顔を伏せた。
「キリト……?」
「……いや、この先は、アリスを取り戻してから話すよ。今は余計なこと考えてる余裕はないもんな」
「それは……そうだけど」
首を傾げるユージオの視線から逃れるように、キリトは足早にテラスを歩きはじめた。腑に落ちないものを感じながらユージオはその後を追ったが、短いテラスの突き当たりに聳える大扉が視界に入ると、湧き上がった緊張感がかすかな疑念をあっという間に吹き散らした。
五十階にあれだけの騎士を集めていたことからして、教会を指揮する人間はあそこで何がなんでも二人を阻止するつもりだったのだろう。実際のところ、ファナティオの猛攻撃を退けられたのは紙一重の僥倖でしかなかった。あの防衛線を突破し、最上階に間近いこんな所まで登ってきてしまったからには、教会側もいよいよ最高戦力を惜しみなく繰り出してくるに違いない。例えば、この扉を開けた先には、騎士団長以下残る整合騎士の全員と、司祭や修道士といった高位術士たちが大挙して待ち構えている――ということも充分に有り得るのだ。
しかし、迂回路が無い以上、あらゆる障壁を正面から突破していかなくてはならない。
できるはずだ――僕と、キリトなら。
ユージオは、隣に立つ相棒としっかりと瞳を見交わし、頷きあった。同時に手を伸ばし、左右の扉にそれぞれの掌を当てる。
重々しい音を立てて、石扉はゆっくりと別たれた。
「……!?」
途端、眼前に広がった色彩と、水のせせらぎ、そして甘い香りの渦に、ユージオは一瞬眩暈に似た感覚に襲われた。
塔の内部なのは間違いない。その証に、四方は見慣れた大理石の壁に囲まれている。
しかし、広大な床面には、五十階にあったような滑らかな石張りは一枚たりとも無かった。かわりに、柔らかそうな青草が密に生い茂っている。所どころに色とりどりの花が咲き誇っていて、香りの源はそこらしい。
驚いたことに、数メル離れた場所には小川までもが流れ、水面をきらきらと輝かせていた。二人の立つ扉からは、草むらを貫いて細い煉瓦敷きの小道がくねりながら伸び、小川にかかる木橋を経てさらに先へと続いている。
川の向こうは小高い丘になっているようだった。揺れる若草に覆われた斜面を、小道は蛇行しながら登っていく。視線で道を辿ったユージオは、その行き着く先に、一本の樹が生えているのに気付いた。
それほど大きな樹ではない。細い枝には濃い緑色の葉と、霞のように咲くごく小さな橙色の花が見てとれる。はるか高い天井間近の壁に設けられた窓から、細々と差し込むソルスの光が、今ちょうどその樹に投げかけられて無数の花をまるで黄金の飾り玉のように輝かせていた。
細い幹もまた、陽光を浴びて滑らかに光り――そしてその根元にも、一際眩しい金色の煌めきが――。
「あ…………」
ユージオは、自分の口から漏れた小さな声を意識することは無かった。
樹の幹に背中を預け、眼を閉じて座っている一人の少女を見たときから、あらゆる思考が停止していた。
傾きはじめた木漏れ日が生み出した幻ででもあるかのように、少女の全身は金色の光にくまなく彩られていた。上半身と両腕を覆う華麗な鎧は、白銀に黄金の象嵌を施したものだし、長いスカートも純白の地に金糸の縫い取り、白革のブーツに至るまでが降り注ぐ陽光を存分に跳ね返している。
しかし、何よりも眩く輝いているのは、鎧の上に豊かに流れる長い髪だった。純金を鋳溶かしたかのような真っ直ぐな髪が、完璧な円弧を描く小さな頭から、草むらに広がる毛先までの、神々しいほどの光の滝を作り出していた。
遥かな昔、毎日のように目にしていた輝き。その貴さも、儚さも知らず、いたずらに引っ張ったり、小枝を結びつけたりしたあの髪。
友情と、憧れと、ほのかな恋心の象徴であった黄金の輝きは、ある一日を境にしてユージオの弱さ、醜さ、怯惰だけを意味するものへと変質してしまった。そしてもう、二度と見つめることは叶わないはずだったあの煌めきが、今また手の届く場所にある。
「あ……アリ……ス……」
自分の口からしわがれた声が漏れたのにも気付かないまま、ユージオはふらつく脚を前に踏み出した。
煉瓦の小道をよろよろと辿る。もう、青草や花のさわやかな香りも、呟くような水音も、ユージオの意識には届かなかった。ただ、胸元を握り締める汗ばんだ手の熱さと、布地の奥で脈打つような銅剣の感触だけが、ユージオを世界に繋ぎ止めていた。
小川に架かる橋を渡り、登り坂へと差し掛かる。丘の天辺までは、もう二十メルも無かった。
少しだけ俯いた少女の――アリスの顔が、もう間近に見えた。透き通るように白い肌には、いかなる表情も浮かんでいない。ただ目を閉じて、陽光の温もりと、樹の花の香りに心を漂わせているようだ。
眠っているのだろうか?
このまま近づいて、揃えた膝の上で組み合わせられている指先に、ほんの少しこの針を刺せば――それで全てが終わるのだろうか?
ユージオがふとそう考えた、その瞬間だった。
アリスの右手が、音もなくすっと掲げられ、ユージオは心臓がどくんと跳ねるのを感じながら足を止めた。
艶やかな唇が動き、懐かしい声が耳に届いた。
「もう少しだけ待って。せっかくのいい天気だから、この子にたっぷり浴びさせてあげたいの」
金色の睫毛に縁どられた瞼が、ゆっくりと持ち上げられた。
唯一無二の碧玉の色をもつ瞳が、まっすぐにユージオの目を見た。
その瞳がふわりと和らぎ、唇に穏やかな微笑が浮かぶ――幻を、ユージオは予感した。
しかし、透き通った蒼い瞳に見出せたのは、人間としてのユージオには一抹の興味も持たない、冷徹に敵を見定める剣士の視線でしかなかった。
射竦められたかのように、ユージオは脚を動かせなくなった。
やはり戦わなければならないのだ――喩え記憶を失っていようとも、紛うことなきルーリッドのアリス・ツーベルク本人であるところのあの少女を相手に剣を抜かなければならないのだ、というこの状況が、ひどく受け入れがたいものであることをユージオは改めて認識させられていた。
整合騎士アリスの実力は、一日前に鞘で頬を打たれたときに体で理解している。あの一撃を、虚を衝かれたとはいえユージオは目で追うことすらできなかった。それほどの腕を持つ剣士の動きを、傷を負わせることなく封じるのがいかに至難か、考えるまでもない。
しかし――だからと言って、アリスの肌に刃を触れさせられるのだろうか? いや、あの金色の髪を、ひと筋ですら切り落とすことが、本当にこの僕に出来るのだろうか?
剣を抜くどころか、もう一歩たりとも前に進めないというのに。
突然の葛藤に襲われ立ち尽くすユージオの背後で、キリトが少しばかり掠れた声を出した。
「お前は戦うな、ユージオ。カーディナルの短剣を、確実にアリスに刺すことだけ考えるんだ。アリスの攻撃は、俺が体で止める」
「で……でも」
「それしかないんだ、戦闘が長引けば長引くほど状況は悪くなる。彼女の初撃を、かわさずに受けてそのまま拘束するから、すかさず短剣を使え……いいな」
「…………」
きつく唇を噛む。デュソルバートと戦ったときも、ファナティオと戦ったときも、結果的に血を流す役回りは全てキリトに押し付けてしまったのだ。もとより、神聖教会に挑むというこの無謀な企ては、ただユージオの個人的な感情のみに端を発しているというのに。
「……すまない」
忸怩たるものを感じながらそう呟くと、キリトは低い笑いを交えて答えた。
「なに、すぐに倍にして返してもらうさ。……しかし、それはそれとして……」
「……? どうしたんだ?」
「いや……ここから見た限りだと、彼女、武装してる様子がないぞ。それに……"この子"って何のことなんだ……?」
言われるまま、丘の上に座るアリスに目を凝らす。先刻一瞬開いた瞼は再び閉じられ、軽く俯いたままの彼女の腰を見ると、確かに、学院で会った時にはそこに下がっていた金色の鞘が今は無い。
「もしかしたら、休憩中で剣は置いてきた、とかかな……だとしたら凄く助かるけどな」
そんなことは全く信じていなさそうな口調で呟き、キリトは右手を黒い剣の柄に乗せた。
「彼女には悪いけど、日向ぼっこが終わるまで付き合って待ってるわけにもいかない。今仕掛ければ、剣があろうと無かろうと、少なくとも完全支配を発動する余裕は無いはずだ。正直、あれを使わずにすめばそれに越したことはないしな」
「そうだね……僕の完全支配術はそんなに剣の天命を消費しないから、今日中にあと二回は使えると思うけど……」
「そりゃ助かる……けど、こっちはもう一回が限界だ。アリスの後にも、強敵が少なくとも二人いるはずだからな。じゃあ……行くぞ」
視線で頷き、キリトは一歩前に足を進めた。
意を決し、ユージオもその後を追う。
丘をぐるりと巻いて伸びる煉瓦道から外れ、一直線に頂上を目指す。さく、さくと靴底で青草が鳴る。
アリスが音も無く立ち上がったのは、二人が丘の半ば程まで登ったときだった。半眼に開かれた瞼の奥で、一切の感情をうかがわせない蒼い瞳が二人をじっと見下ろした。
途端、まるで視線にある種の術式でも含まれているかのように、両足がずしりと重くなる。やはり、どう見てもアリスは剣帯していないのに、足がこれ以上彼女に接近することを拒んでいるようにユージオには感じられた。一度頬を打たれただけで肉体に恐れを刻まれてしまったのか――しかし、それにしては、前を行くキリトの足取りからも力強さが失われてはいないか。
「とうとう、こんな所まで登ってきてしまったのですね」
再び、アリスの澄んだ声が空気を揺らした。
「お前たちが仮に牢の鎖から逃れることがあっても、薔薇園に待機させたエルドリエ一人で充分に処理できると、私は判断しました。しかしお前たちは彼を破り、あまつさえ神器を携えたデュソルバート殿を、そしてファナティオ殿までも斬り伏せてここまで来た。一体何が、お前たちにそのような力を与えているのです? 一体何故、このような人界の平穏を揺るがす挙に及ぶのです? お前たちが整合騎士を一人傷つけるたびに、闇の侵略に対する備えが大きく損なわれていることが何故理解できないのですか?」
――君のため、ただそれだけだ。
ユージオは心のなかでそう叫んだ。しかし、それを言葉にしても、眼前の整合騎士アリスには何の意味も持たないことは分かっていた。奥歯をきつく噛み締め、ただ懸命に、ユージオは足を前に動かしつづけた。
「やはり――剣で訊くしかないようですね。いいでしょう……それがお前たちの望みならば」
ため息のようにそう口にして、アリスは傍らの樹の幹に右手を添えた。
でも、剣なんか無いじゃないか――。
ユージオがそう思うのと、キリトが短く、まさか、と口走ったのはほぼ同時だった。
次の瞬間、一瞬の金色の閃光を放って、丘の天辺に生えていた樹が消滅した。
「――――!?」
少し遅れて、甘く爽やかな香りが一際強く漂い、そして消えた。
アリスの右手には、見覚えのある、やや細身の直剣が握られていた。鞘も柄も、精妙な細工が施された黄金製だ。
何が起きたのか、咄嗟にユージオには理解できなかった。樹が消えて、剣が現われた――つまり、あの樹が剣へと変化したということなのか? しかし、アリスは何の術式も口もしなかった。今のが単なる幻術にせよ、あるいは超高等神聖術の物質組成変換であるにせよ、駆式もなしに実行するのは不可能だ。もし、持ち主の心象化のみに拠って姿を変えたのなら――それは、つまり――。
一足早くその結論に達したらしいキリトが、低く呻いた。
「しまった、やばいぞ……あの剣、まさか……もう完全支配状態なのか」
棒立ちになった二人を半眼で睥睨し、アリスは両手で水平に剣を掲げた。
じゃっ! と音高く抜き放たれた刀身は、鞘よりも一際深い山吹色の輝きを放ち、眩く煌めいた。
一瞬のちに、キリトが猛然と突っ掛けた。アリスの剣の攻撃力が発揮される前に接近戦に持ち込むという判断だろう。足許の青草を盛大に引き千切りながら、僅か十歩ほどで丘を八割がた登り詰める。
胸元の鎖を握りながら、ユージオも必死にその後を追った。キリトは抜刀する気は無いようだった。言葉どおり、アリスの初撃を体で止めるつもりらしい。恐らく、動きを封じられるとしても一瞬だろう。ならば、その隙を逃さずに短剣を刺すという役目を、ユージオは絶対に果たさなくてはならない。
黒衣の剣士の猛突進を目にしても、アリスの表情に一切の変化は無かった。ほとんど無造作とも見える動きで、右手の剣を軽く振りかぶる。
まだキリトは切っ先の間合いには程遠い。ということは、デュソルバートやファナティオのような遠隔型攻撃術か。とすれば仮に第一撃でキリトが退けられても、ユージオが組み付く猶予はあるはずだ。
咄嗟にそう考え、ユージオはキリトとは角度を変えて突進を続けた。
アリスの右手が、すっと前に振られた。
黄金の剣の、刀身が消えた。
「!?」
正確には、消えたのではない。分解した――と言うべきか。剣は、幾百、幾千もの小球へと分かたれ、金色の突風となってキリトを襲った。
「ぐあっ!!」
無数の輝きに包まれたキリトが、呻き声とともに棒のように地面に打ち倒された。
相棒が作ってくれた唯一の機会を生かすべく、ユージオは歯を食い縛って前に走った。
しかし、キリトを襲った黄金の風は、そこで止まったわけではなかった。ざああっ! と木枯らしのような音を立てながら空中で左に向きを変え、そのまま横殴りにユージオを包み込んでくる。
とても耐えられるような衝撃ではなかった。巨人の掌に張り飛ばされたかのごとく、ユージオは声も無く右方向に倒れこんだ。
麦粒のような小球ひとつひとつが、凄まじい重さだ。嵐に含まれる雨粒すべてが鉄に変じたかのような――いや、それよりも酷い。背中から地面に落ちたユージオは、黄金の突風に打たれたとき咄嗟に顔をかばった左腕全体に焼け付くような痛みを覚え、のた打ち回りたくなるのを必死に耐えた。
二人の突撃をいとも容易く退けた無数の黄金球は、弧を描いて舞い上がり、アリスのもとに戻った。しかし、剣の姿に還ることはなく、そのまま騎士の周囲に漂いつづける。
「――私を愚弄しているのですか? 抜刀もせず突撃してくるなど」
相変わらず寸毫も感情を表に出さずに、アリスが静かに叱責した。
「今の攻撃は、警告の意味を含めて加減しました。ですが次は天命を全て消し去ります。持てる力を出し尽くしなさい、これまでお前たちが倒した騎士のためにも」
手を――抜いた?
あの凄まじい威力で? まさか!
心底戦慄するユージオの視線の先で、無数の黄金球が、一斉にじゃきっ! と音を立ててその形を変えた。それらは最早滑らかな球ではなく、一端が鋭角に尖った菱形だった。
恐怖が、手足を痺れさせるほどの冷水となってユージオを飲み込んだ。
仮に黄金の小片が只一つだけだったとしても、それに急所を貫かれれば天命は激しく減少するだろう。しかし、今アリスの周りに豪奢な花吹雪のごとく煌めいている小片は、少なく見積もっても千以上に及ぶのだ。それらすべてを剣で弾くのは不可能だし、かといって空中を高速かつ自在に移動する群れをかわすのもまた至難だ。つまり、攻撃力としては、本来有り得ないほどに完全、そして万能――。
そう、有り得ないのだ。
神器を用いた武装完全支配術は確かに強力な技だが、それでも限界というものはある。武器の元となった存在が持つ"方向性"、つまり熱い、冷たい、硬い、速いといった要素を取り出し、より尖鋭化させて攻撃力に変えるのがこの術の本質であって、ある方向に特化すればするほどそれ以外の方向においては性能が劣化せざるを得ないのだ。例えば、ファナティオの完全支配術が、凝集した光線による一点貫通力に特化しすぎた余りに、小さな鏡一つに弾かれてしまったように。
アリスの剣の元となったらしいあの小さな樹がどのような出自を持つのかはまだ不明だが、内包する威力をあれほどまでに小さく多数に分割すれば――つまり突貫力を犠牲にして命中性を追求すれば、あの小片ひとつひとつの攻撃力はもっとずっと小さなものにならなくてはならない。先ほどユージオが体をもって実感させられたように、一センに満たない程度の欠片ひとつが、巨人の拳のように重いなどということはどう考えても理屈に合わない。
もし、そのようなことを実現できるとすれば、あの橙色の花を咲かせていた華奢な樹は、キリトの剣の元となったギガスシダーを遥かに凌ぐ超高優先度を与えられているということになる。
左前方に倒れているキリトも、一瞬のうちにユージオと同じことを考えたらしく、もたげた横顔はかつて見せたことのないほどの戦慄に蒼ざめていた。
しかし、諦めるということを知らない相棒は、恐怖の中にあってもまだ爛々と光る眼をちらりとユージオに向け、声を出さずに小さく唇を動かした。
"えいしょう"――を開始しろ。
確かに、もはや正攻法でアリスに接近するのは不可能だ。ならば、青薔薇の剣の完全支配術で奇襲を仕掛け束縛するしかない。先刻、攻撃中のアリスは黄金片の群れの動きに併せて柄だけの剣を左に振っていた。つまり、あの群れは主の意思のみによって動いているわけではない、ということだ。
不恰好に打ち倒されたまま、ユージオはそっと右手で剣の柄に触れ、音になるやならずの声で完全支配術の詠唱を始めた。アリスに気付かれ、攻撃されたら万事窮するが、そこはキリトが何とかしてくれるはずだ。
予想どおり、詠唱開始と同時にキリトは派手な動作で立ち上がると、びんと張りのある声で叫んだ。
「未だ剣士手習いの身ゆえ、儀礼に則した抜剣を遠慮奉ったが、改めて名乗らせて戴く! 剣士キリト、騎士アリス殿と尋常なる剣の試し合いを所望したい!」
胸に右手を当てて一礼すると、左腰の剣を大袈裟な身振りで抜き放つ。じゃりっ! と鋭い音を立てた漆黒の刀身が、アリスのまとう黄金の光を吸い込むように高く掲げられた。
アリスは、何もかも見通すような蒼い瞳でじっと黒衣の剣士を眺め、一度瞬きをすると答えた。
「――いいでしょう、お前たちの邪心がいかほどのものか、その剣筋で計ることにします」
す、と右手を振る。すると、周囲に浮かんでいた無数の黄金の小刃が、細波のような音を立てて渦巻きながらアリスの手許に集まり、握られた柄の前方に、わずかな隙間を残して刀身の形に整列した。直後、一瞬の閃光とともに、じゃきん! という金属音を立てて小片は結合し、黄金の長剣へとその姿を戻した。
優美な動作でぴたりと剣を中段に据え、歩を進めようとするアリスに向かって、こちらは両手で剣を構えたキリトが更に言葉を投げた。
「剣を交えればどちらかが倒れるのは必定、その前にひとつお尋ねしたい。アリス殿の携えたる神器……先刻の小樹がその古の記憶と見受けたが、なぜ只の樹にそれほどの力が?」
明らかに時間稼ぎの質問だが、アリスの剣の謎を知りたいというのはキリトの本心だろう。無論ユージオも大いに気になるところだ。
アリスも、キリトが本気で訊いているのを感じたのか、右足を前に出したところで立ち止まった。しばしの沈黙が続いてから、小さな唇が僅かに動く。
「これから死に行くものに教えても詮無いことですが……天界への道中の慰みに言いましょう。我が神器の銘は"金木犀の剣"、その名のとおりかつては、先ほど見たとおり何の変哲もない金木犀の樹でした」
キンモクセイ、秋に小さな橙色の花をつける小型の樹だ。ルーリッド近辺ではあまり見かけなかったが、それほど珍しい種類ではない。ましてや、ギガスシダーのように世界にたった一本というような希少種とは程遠い。
「そう、お前たちの言うように只の樹なのです……唯一、その年経た時間だけを除いて。遥かなる古の時代、今セントラル・カセドラルが建つこの地には、創世神ステイシアによって創られた、最初の人間たちが暮らした村がありました。その村の中央には美しい泉が湧き、岸辺には一本の金木犀が生えていた……と創世記の最初の章にあります。その樹こそが、我が剣の源の姿。よいですか、この金木犀の剣は、現世における森羅万象のなかで最も旧き存在なのです」
「な……なんだって……」
愕然とするキリトとユージオに対し、アリスはあくまでも無表情に言葉を綴りつづけた。
「神の創りたもうた樹の転生たるこの剣の属性は"永劫不朽"。舞い散る花弁のたった一つですら、触れた石を割り地を穿つ……先ほどお前たちがその身で味わったように。わかりましたか、如何なる存在にその刃を向けようとしているのか?」
「……ああ、よくわかったよ」
格式ばった口上をかなぐり捨て、キリトが囁いた。
「なるほど、神が設置した……破壊不能オブジェクトってことか。次から次にとんでもないモンが出てきて、嬉しいぜまったく……だからって、へへぇと恐れ入るわけにもいかないけどな」
同種の原型を持つとは言え恐らく遥かに格下ということになるのだろう黒い剣をゆっくりと上段に振りかぶり、キリトは叫んだ。
「では、整合騎士アリス……改めて、勝負!」
ぶんっ! と空気を揺らして、黒衣の剣士が突進した。丘上に立つアリスに向かって、登り坂とは思えない速度で突っ込んでいく。
いかにアリスの剣が大変な代物だろうとも、接近戦からの連続技に持ち込めれば優位に立てる、とキリトは考えたのだろう。先に戦ったファナティオが高速の連撃に対応してきたのは、彼女が心理的な事情によって連続技を習得していたからであって、それは整合騎士としては例外的な能力であるはずだ。
キリトと、そしてユージオの読みどおり、キリトの上段斬りに対してアリスは素直に剣を頭上に掲げた。あの動きでは、上段から無呼吸で繋がる右中段は防げない。
黒い雷光となって振り下ろされたキリトの剣が、金木犀の剣と衝突し、青白い火花を散らした。
しかし、それに即座に続くべき二撃目は発生しなかった。
アリスの剣がほとんど動かなかったのに対して、撃ち込んだキリトのほうが、まるで大岩を小枝で叩いたかのように後方に大きく弾かれて体勢を崩したからだ。
「うおっ……」
斜面に足を取られ、二歩、三歩と不恰好によろけるキリトに向かって、流水のように滑らかな足捌きでアリスが迫った。
ぴんと指先まで前方に伸ばされた左手。体を大きく開き、後ろに真っ直ぐかざされた黄金の剣。アインクラッド流と比べればいかにも実戦向きとは言えない古流の型だが、たなびく金髪や翻るスカートと相まって、その姿は一幅の絵画のように優美だった。
「エェェイッ!」
高く澄んだ気合の叫びとともに、大きな弧を描いて剣が右斜めから撃ち出された。速度は恐るべきものだ。しかし動作があまりにも大袈裟だ。
体勢を回復したキリトは、充分な余裕を持って剣を左に備えた。
がかぁぁん! という大音響を放って、二振りの剣が衝突した。
コマのように回転しながら吹き飛ばされたのは、今度もキリトの方だった。草むらに手を突き、危く転倒を回避しながら、丘の麓近くまで滑り落ちていく。
ここに至って、ようやくユージオにも、眼前で何が起きているかが理解できた。
攻撃の重さが違うのだ。これまで、あまたの神器の中でも最重量級と思われた黒い剣と、超高速の斬撃を以って整合騎士たちとの撃剣にもまったく退くことのなかったキリトだが、アリスの持つ金木犀の剣は、恐らく黒い剣の数倍になんなんとする重量を秘めている。それを軽々とあれほどの速度で振られては、弾くのはおろか受け止める事さえ至難だろう。
いや、それどころではない。最初の一合で判明したように、キリトから撃ち込んだ場合でさえ、弾き返されたのは彼のほうなのだ。これでは勝負にならない。
その事実を身をもって悟ったらしいキリトは、慄然とした表情で数歩下がった。それを、滑るように丘を下りながらアリスが追う。
キリトが剣を抜いた戦いとしては、この二年来初めてと言っていい一方的な展開となった。
舞うように典雅な型で、アリスが次々と斬撃を繰り出す。キリトはそれを懸命に受けるが、その度に無様に吹っ飛ばされる。体捌きだけで回避できれば反撃の機会もあろうが、アリスの剣は大振りであっても凄まじく速く狙いも精妙で、とても綺麗にかわすことなど出来ない。
移動し続ける二人を、懸命に詠唱しながらユージオも追った。こうなったら、キリトがどうにか攻撃を受けているうちに氷薔薇の術を発動するしかない。
四、五回の攻防を経て、ついにキリトは西側の壁まで追い詰められた。背後は分厚い大理石、最早逃げ場はどこにもない。
窮地に陥った敵に涼しい表情でぴたりと剣尖を向け、アリスが言った。
「なるほど。――私の剣をここまで凌いだのはお前で二人目です。それなりの覚悟、信念を持ってここまで塔を登ってきたのでしょう。しかし……教会の守護を揺るがすにはまるで足りません。やはりお前たちに、人界の平穏を乱させるわけには行かない」
キリト――何か言え、得意の舌先で時間を稼ぐんだ、あと三十……いや二十秒!
限界の速度で駆式しながらユージオは念じた。
しかしキリトは、ぎらぎらと目を光らせながら唇を小さく震わせるだけで、一言も返さなかった。
「では――覚悟」
金木犀の剣がすうっと円弧をなぞり、天を指して垂直に構えられた。
一瞬の静寂。
びゅおおっ! と空気を引き裂いて、黄金の閃光が飛翔した。後方から右に回転し、正確にキリトの額へと。
限界までに目を見開いたキリトの右手が動いた。
ちん、とかすかな金属音。ささやかな一条の火花。
受けるのではなく流したのだ。剣先と剣先を最小限だけ接触させ、アリスの超重攻撃の軌道を寸毫ずらす。
ずがっ!! と轟音を発して黄金の剣が貫いたのは――キリトの頭の僅かに左、滑らかな大理石の壁だった。切断された黒い髪が一房散った。
直後、キリトがアリスに飛びかかった。左手で騎士の右手を押さえ、右腕を左腕に絡ませる。さすがに、これまで微動もしなかったアリスの頬がぴくりと揺れた。
今だ――最初で最後の機会!
「リリース・リコレクション!!」
絶叫とともに、青薔薇の剣を抜きざま足許に突き立てる。
破裂するような衝撃音とともに、一瞬にして周囲の草むらが白く凍りついた。霜の環は、十メルほど離れたキリトとアリスを飲み込み――。
そして、百本以上の氷の蔓が二人の足下から一斉に伸び上がった。それらは、青く透き通った縛鎖となって密接する二人の体を幾重にも巻き絡めていく。キリトの黒いシャツと、アリスの金の鎧が、みるみるうちに白い霜に覆われる。
キリト――アリス、すまない!
心中でそう叫びながらも、ユージオは尚も氷の蔓を生み出しつづけた。あの騎士アリス相手では、どれほど縛ろうとも充分という気がしない。
びき、びきん、と硬い音を放ちながら撚り集まる蔓は、やがて一塊の氷柱へとその姿を変えた。
水晶の原石のように幾つもの面を持つ透明な柱が、内部に二人の剣士を閉じ込めて静かに煌めいている。突き出しているのはアリスの右手と、そこに握られて壁を貫く金木犀の剣だけだった。碧い氷の中で、アリスの顔はわずかな驚きを、キリトの顔は決死の覚悟を、それぞれ静止させている。
あの腕に、短剣を刺せば全てが終わる。
ユージオは眩暈を感じながら、剣から手を離し立ち上がった。右手で懐中の短剣を強く握り、一歩、二歩、前へ――。
三歩目が草に触れるのと、金色の光が爆発したのは同時だった。
「な――!?」
驚愕するユージオの視線の先で、壁に突き立っていたアリスの剣が、再び無数の花弁へと分裂した。
ざああっ……と和音を奏でながら、それらは黄金の花嵐となって氷柱を包み込む。
無数の黄金刃が竜巻のように渦巻いて、まるでジェリーのように氷を削っていく光景を、呆然とユージオは見守るしかなかった。あの渦の中に飛び込めば、一歩も進まないうちにユージオの天命は消し飛ぶだろう。
花嵐は、氷柱をごく薄く残して削り終えると、上空へと舞い上がった。
直後、かしゃーんと音を立てて柱が砕け散った。
抱きついたままのキリトを左手で押しやり、髪に付着した氷片を払いながら、尚も冷然とした態度でアリスが言った。
「――お前たちは、剣技の勝負を望んでいたのではないのですか? なかなかの座興でしたが……たかが氷で、私の花たちを止められるはずもありません。お前とは次に戦ってあげますから、そこでおとなしく待っていなさい」
す、と右手を伸ばすと、上空に漂っていた黄金刃が一斉に集まって元の剣の形へと――。
「リリース・リコレクション!!」
いつのまに完全支配術を詠唱し終えていたのか――絶叫したのはキリトだった。
両手に握られた黒い剣から、幾筋もの闇が吹き出す。
狙ったのは、アリス本人ではなく――。
凝集する寸前の、金木犀の剣だった。
「な……!!」
初めて、アリスが叫んだ。
闇の奔流は、黄金の小片を吹き散らし、その制御を乱した。
ぶわあぁぁ――っ!! と耳を劈く轟音を撒き散らし、黒と金の入り混じった嵐が吹き荒れた。それらは絡み合い、渦を巻いて、二人の背後の壁へとぶち当たった。
「ユージオ――――!!」
キリトの絶叫。
そうだ。これが、まさしく、最後の機会。
ユージオは懐から短剣を引き抜き、地面を蹴った。
アリスまで、距離はわずか八メル。
七メル。
六メル。
そして、恐らく、その場の誰もが予想し得なかった出来事が起きた。
二本の神器から解放された超絶攻撃力が融合した嵐に叩かれた、セントラル・カセドラルの壁に――
縦横無数の亀裂が。
ぐわあああっ!! と天地を揺るがすような破壊音とともに、巨大な大理石が分解した。
四角い石が内側に吸い込まれるようにみるみる孔が広がり――その向こうに、青い空と白い雲海が覗く光景を、走りながらユージオは呆然と見つめた。
突然、猛烈な突風に背を叩かれ、ユージオは草地に叩きつけられた。塔内の空気が孔から吸い出されていく。その空気の流れに、孔のすぐ傍にいた二人は抗うこともできず――。
黒衣の剣士と、黄金の騎士が、絡みあうように塔の外へと吹き飛ばされていく瞬間が、ユージオの瞳に焼きついた。
「うわあああああ!!」
絶叫し、ユージオは孔へと這い進んだ。
どうする――神聖術で縄を作って――いや、青薔薇の剣の氷で二人を――。
それらの思考は、しかし、功を奏することはなかった。
吹き飛んだはずの、大理石の壁石が、まるで時間を巻き戻すように塔外から寄り集まり、再び縦横に組み合わさっていく。
ごん、ごん、と重い音が響くたびに孔は小さくなり――。
「ああああああっ!!」
悲鳴を上げ、転がるように駆け寄ったユージオの目の前で、何事も起きなかったかのように、ぴたりと塞がった。
拳を打ちつけた。二度、三度。
皮膚が破れ、血が飛び散っても、傷ひとつなく再生された壁はもうびくともしなかった。
「キリト――――!! アリス――――――!!」
ユージオの絶叫を、白く滑らかな大理石が、冷たく跳ね返した。
きっ。
きしっ。
という鋭い音が響くたびに、俺の心臓がぎゅうっと縮み上がる。
音の源である黒い剣の切っ先は、セントラル・カセドラル外壁の巨大な石組みの隙間に、どうにかほんの一センほど食い込んでいる。その柄を握ってぶら下がる俺の右手は冷や汗にじっとりと濡れ、肘と肩の関節は重量に耐えかねて今にも抜けそうだ。
限界間近なのは左手も同じだった。きつく握り締めた黄金の篭手は、もちろん整合騎士アリスのものだ。傷一つない装甲は、汗ばむ掌ではどうにも捕らえにくく、どれほど力を込めてもほんの僅かずつ滑り落ちていく。
また、決して大柄ではない騎士本人が異様に重い。上半身を覆う金属鎧のせいもあろうが、やはり彼女の右手に握られたままの黄金剣がすさまじい重量なのだ。下に落とせと言いたいのはやまやまだが、剣士の魂を捨てろと言っても無駄なことは分かりきっていた。逆の立場なら俺だって手を離すまい。
よって、俺の両手は今にも指が千切れ飛びそうだし、何よりこれだけの加重を剣尖だけで支える黒い剣の天命が急速に減少しつつあるのは疑いようもなかった。それでなくても、二度の記憶解放で恐らく最大値の八割以上を消耗しているのだ。きちんと手入れをして丸一晩は鞘に収めておかなければとても回復できないダメージだ。
銘も決まらないうちに、しかも戦闘に於てではなく毀れてしまうのではいかにも不憫だし、何よりその時は俺もアリスも必然的に遥か数百メル下方の地面まで落下し、小さな染みになってしまう。よって、どうにかこの状況から可及的速やかに脱出しなければならないのだが、両手は握り締めているだけで一杯一杯だし、そのうえ――。
「もういい、その手を離しなさい! 罪人の情けに縋って生き恥を晒すつもりはありません!」
またしても"落ちそうになるところを敵に助けられた人"が言いそうな台詞を口にしたアリスが、俺に掴まれた左手を振りほどこうと揺り動かした。
「うおっ……ばっ……」
その振動で、アリスの篭手が手首の所から掌部分まで摺り落ち、黒い剣の切っ先が嫌な軋み音とともに髪の毛五筋ぶんほども抜け出た。全筋力と精神力を振り絞ってどうにか揺れを押さえ込んでから、アドレナリンの噴出に任せて大声で喚く。
「動くなバカ! あんた整合騎士で三番目に偉いんだろうが! ここで自棄になって落っこちても何も解決しないことぐらい判れバカ!」
「な……」
俺の足の下にわずかに覗くアリスの白い顔が、ほんのわずかに紅潮するのがちらりと見えた。
「ま……またしても愚弄しましたね! 撤回しなさい、罪人!」
「うっさい! バカだからバカって言ったんだ、このバカ! バーカ!」
挑発して交渉に引き込むのが目的なのか、ただ単に俺も頭に血が上っているだけなのか、自分でも分からないまま俺は尚も喚き散らした。
「いいか!? あんたがここで落ちて死ねば、俺が生還する確率が上がるのは勿論、中に残ったユージオはこのまま塔を登って最高司祭のとこまで行くぞ! あんたはそれを阻止するのがお役目なんだろうが! なら今は何を置いても生きのびるのが最優先だろう、整合騎士として! そんくらいの理屈が飲み込めないバカだからバカって言ってんだ!!」
「くっ……は、八回もその屈辱的な呼称を口にしましたね……」
恐らく、整合騎士として生きたこの九年間でバカ呼ばわりされたことなどないのだろうアリスは、怒りと恥辱に頬を染めて眦を吊り上げた。右手に握る金木犀の剣がわずかに持ち上げられるのを見て、まさか俺を斬って諸共落ちる気かとヒヤッとしたが、危いところで理性が優ったらしく、剣は再び力なく垂れた。
「……なるほど、お前の言う事は理屈が通っています。しかし……」
真珠粒のような歯をきりりと噛み締め、整合騎士は反駁した。
「ならば、なぜお前はその手を離さないのです!? 私を排除できれば、目的達成に大きく近づくのは明々白々なる道理です! その理由が、私にとっては死よりも耐え難い屈辱であるただの憐憫ではないと、お前は証明できるのですか!」
憐憫――ではない、勿論。何故なら、アリスを助けることそれ自体が、俺とユージオがはるばるこんな場所までやってきた目的のきっかり半分なのだから。
しかし、それをここで一から説明するほどの時間的猶予はまるで無いし、何よりユージオが助け出そうとしているのは正確には整合騎士アリス・シンセシス・フィフティではなくルーリッドの村長が一子アリス・ツーベルクなのだ。
俺は、恐慌の余り燃え尽きそうになっている脳味噌を懸命に働かせ、どうにかアリスを納得させられそうな言い訳を探そうとした。だが、そんなものがおいそれと出てくるわけがない。かくなる上は――ある程度の真実を述べるより他にない。
「俺は……俺たちは、神聖教会の潰滅を企んでここまで登ってきたわけじゃない」
強い光を放つアリスの碧い瞳をまっすぐ見下ろしながら、俺は必死に言葉を絞り出した。
「俺たちだって、ダークテリトリーの侵略から人界を守りたいのは一緒なんだ! 二年前、果ての山脈でゴブリンの先遣隊と戦ったんだからな……って言っても信じてもらえないだろうけど。――だから、整合騎士でも最強のひとりと言われるあんたをここで失うわけには行かない、貴重な戦力なんだからな!」
さすがにこれは予想外だったのだろう、アリスは柳眉をしかめ、数瞬沈黙したが、すぐに鋭く言い返した。
「なら! ならば――何ゆえ、人の天命を損なうなどという最大の禁忌を犯したのですか! 何ゆえ、エルドリエはじめ多くの騎士をその手にかけたのですか!!」
純粋なる正義の念――たとえそれがアドミニストレータによって都合よく改変されたものであっても――を両の瞳に爛々と燃やし、アリスが叫ぶ。
それに対して、正面から堂々と反駁できるほどの確信を、残念ながら俺は持ち得ない。さっきアリスに向けて放った"人界を守りたい"という台詞も、本心ではあるが同時に大いなる欺瞞なのだから。今のところ、俺は一直線にカーディナルによるアンダーワールド完全初期化という結末に向かって突き進んでいるし、それを回避し得る方策など何ひとつ思いつけないでいる。
しかし、ここでアリスと共に墜落死するのが最悪の展開だということだけは確かだ。カーディナルの復権ならぬまま人界はダークテリトリーの侵略に晒され、俺とユージオのせいで戦力半減させた整合騎士は容易く撃破されて、人間たちは苦痛と悲嘆の中で鏖殺の運命を辿るだろう。
何より我慢ならないのは、俺がラース研究施設のSTLの中で傷ひとつなく目覚めたあと、研究者の"今回の実験は失敗だった"の一言ですべてが終わったことを知るであろうというその事実だ。アンダーワールド全住民が地獄の苦しみの果てに死に、生き残った者も実験終了とともに削除され、俺ひとり無傷で現実世界に戻る――それだけは絶対に、太字に傍点つきで、絶対に受け入れられない。
「お……俺は……」
教会と法の完全なる守護者である今のアリスに、残された僅かな時間を全て費やしたところで何ほどのことが伝えられよう。しかし、たとえ届かない言葉でも、俺にはもうそれを精一杯語るくらいしか出来ることはなかった。
「俺とユージオが、ライオス・アンティノスを斬ったのは……あんたが奉じている禁忌目録がどうしようもなく間違っているからだ! 今の法、今の教会では、人界の民たちを幸せにすることはできない、それは、本当は、あんたにだって判ってるんじゃないのか!? 禁忌目録の許すところによって、ロニエとティーゼみたいな何の罪もない女の子が、上級貴族にいいように陵辱されるなんてことが……ほ、本当に許されると、あんたはそう言うのかよ!!」
今まで無理矢理に意識の埒外に押しやっていたあの光景――異様に大きなベッドの上に、弄ばれた小鳥のように力なく横たわっていた二人の少女の姿が目の裏にフラッシュバックし、激した感情のあまり俺の全身が大きく震えた。すべてを支える剣の先端がひときわ激しく軋んだが、それを殆ど気にもせずに、俺は叫んだ。
「どうなんだ! 答えろ、整合騎士!!」
脳裡に甦ったあまりにいたましい光景が、俺の目尻から否応なく数滴の雫を絞り出し、頬を伝って落下したそれはぶら下がるアリスの額に当たって散った。黄金の騎士は鋭く息を飲み、目を見開いた。僅かにわななく唇から漏れた声からは、先刻の苛烈さが多少なりとも抜け落ちているように思えた。
「……法は、法……罪は罪です。それを民が恣意によって判断するなどということが許されれば、どのようにして秩序が守られるというのです!」
「その法を作った最高司祭アドミニストレータが正しいか否か、一体誰が決めるんだ。神か!? なら、なぜ今神罰の雷が落ちて、俺を焼かないんだ!?」
「神は――神の御意志は、僕たる人の行いによって自ずと明らかになるものです!」
「それを明らかにするために、俺とユージオはここまで登ってきたんだ! アドミニストレータを倒して、その誤りを証明するために! そして、それと全く同じ理由によって……」
俺は、ちらりと上を仰ぎ、壁に食い込む黒い剣がもう限界にきていることを確かめた。次にアリスが動くか、風が吹いたら切っ先が隙間から外れ、諸共に墜落するだろう。
「……今、あんたを死なせるわけには行かないんだ!!」
大きく息を吸い、ぐっと溜めて、俺は全身から残された気力をかき集めた。うおおっ、と気合を放ちながら、左手で掴んだアリスの手を引っ張り上げる。びき、びきとあちこちの関節が嫌な音を立て、目も眩むような激痛が脳天を貫いたが、どうにかアリスを同じ高さにまで持ち上げることに成功し、最後の力で俺は叫んだ。
「あの石の継ぎ目に剣を……! こっちはもう保たない、頼む!」
すぐ隣で、アリスの白い顔が大きく歪むのを、俺は必死の形相で見つめた。張り詰めた一瞬の沈黙ののち、アリスの右手が動き、握られた金木犀の剣の切っ先が鋭い音とともに大理石の隙間に深く突き刺さった。
直後。
ぎっ! と最後の悲鳴を上げて、黒い剣が継ぎ目から抜け落ちた。
つま先から脳天までを突き抜ける過電流のようなパニックの中で、俺は長い長い墜落とその最後に訪れるであろう甚だ不愉快な結末を瞬間的に思い描いた。
しかし、実際に味わったのは刹那の浮遊感だけで、それに引き続くべき落下は訪れなかった。超絶的な反応で閃いたアリスの左手が、俺の上着の後ろ襟をがつんと掴んだのだ。
アリスの剣と両腕が、二人分の重さをしっかりと支えるのを確認してから、俺はふううーっと長く息を吐き、早鐘のような鼓動をどうにかなだめた。
わずか一秒のあいだに物理的及び心理的な位置関係が逆転してしまった相手を、窮屈な襟首のあいだから苦労して見上げる。
金色の整合騎士は、ありとあらゆる種類の相反する感情に苛まれているかのように、頬を引き攣らせ歯を食い縛っていた。俺のうなじのすぐ後ろで、華奢な拳が緩んではまた握り締められる気配が繰り返し感じられた。
このような極限的状況で逡巡することのできるアンダーワールド人を、俺は他にはユージオ――あの事件以後の――しか知らない。他の人間、つまり人工フラクトライトは、善くも悪しくもあらゆる規則及び己の内なる規範に対して盲目的に忠実であり、重大な意思決定において悩むということを殆どしない、言い方を変えれば、重大な決定を下すのは常に自分ではない何か、誰かなのだ。
つまりこの一事を取っても、整合騎士アリスの精神は、今のユージオと同レベルのブレイクスルーに達しているということになる。アドミニストレータによる記憶改変を経ても、なお。
アリスの中で、どのような葛藤が行われたのか俺には推測することができなかった。しかし、とてつもなく長い数秒間を経て、俺の体は軽々と元の高さまで引っ張り上げられた。
彼女と違い、俺のほうには悩む理由は一つもない。即座に黒い剣を岩の継ぎ目にしっかりと突き刺し、俺はようやく強張る背中から力を抜いた。
俺の体勢が安定するや、アリスの左手はさっと引っ込められ、ついでに顔までもぷいっと背けられた。風に乗って届いた声は、口調を裏切って弱々しかった。
「……助けたわけではありません、借りを返しただけです……それに、お前とは剣の決着がまだついていない」
「なるほど……じゃあこれで貸し借りは無しだ」
慎重に言葉を選びながら、俺は口を動かした。
「そこで提案なんだが……とりあえず、俺たちは二人ともどうにかして塔の中に戻らなきゃいけない事情は一緒なわけだ。なら、ひとまずそれまで休戦ということにしないか」
「……休戦?」
わずかにこちらに動かされた顔から、甚だ胡散臭そうな視線が浴びせられる。
「この絶壁を登るにせよ壊すにせよ容易なことじゃない、一人より協力したほうが生還の可能性が増えるのは確かだろう。――もちろん、あんたには簡単に中に戻る方法があるっていうなら別だけどさ」
「…………」
アリスはしばし口惜しそうに唇を噛んでいたが、すぐにまた顔を逸らせた。
「……そのような方法があればとうに実行しています」
「そりゃそうだ。なら、休戦、協力については諒承と思っていいな?」
「協力……と言っても、具体的には何をするのですか」
「どちらかが落ちそうになったら、それを助ける、ってだけさ。ロープでもあれば尚いいんだが……」
刺々しさの一向に薄れない横顔をこちらに向けたまま、アリスはしばし考えていたが、やがてよくよく見ていなければ判らないほどの動きでかすかに頷いた。
「合理的な手段である……と認めざるを得ないようですね。仕方ありません……」
そのかわり、とアリスはこちらに最後の一睨みをくれながら続けた。
「塔内部に戻ったその瞬間、私はお前を斬ります。それだけはゆめ忘れないように」
「……憶えとくよ」
俺の返事に再び軽く頷き、思考を切り替えるようにアリスは小さく咳払いした。
「それでは……ロープが必要なのでしたね? お前、何か不要な布なり持っていませんか」
「布……」
俺は自分の体を見下ろしたが、考えてみればハンカチの一枚すら持っていないのだ。ここが普通のVRMMOワールドなら、アイテムウインドウから予備の服だのマントだの山ほど取り出すところだが、あいにくそんなプレイアビリティーはこの世界には存在しない。
「……と言われても、このシャツとズボンしかないなあ。必要というなら脱ぐが」
左の肩だけをすくめながら答えると、アリスはこれ以上ないほどの渋面を作りながら俺を叱った。
「要りません! ……まったく、剣一本下げただけで戦地に赴くなど、呆れたものですね」
「おいおい、俺とユージオを着の身着のままで引っ立てたのはあんたじゃないか!」
「その後塔の武具庫に押し入ったのでしょう、あそこには上等のロープだって何巻きも……ああもう、時間が惜しい」
アリスはふんっとおとがいを反らすと、左腕を目の前まで持ち上げた。しかしそこで、自分の右手が剣の柄から離せないことに気付いたらしく、眉をしかめて腕をぐいと俺のほうに突き出した。
「空いている手で私の篭手を外しなさい」
「は?」
「いいですか、肌には決して触れないように! 早くしなさい!」
「…………」
ユージオの回想によれば、ルーリッドに居た頃のアリスは明るく元気で誰にでも優しい女の子だったそうだ。とすれば、それとは真逆と思える現在の人格はいったいどこから湧いて出たものなのだろう。
というようなことを考えながら、俺は剣の柄を左手に持ち替え、自由になった右手で黄金の篭手の留め金を外した。俺に篭手を握らせると、アリスはそこから左手を素早く引き抜き、どきっとするほど白く華奢な指を滑らかに動かしながら叫んだ。
「システム・コール!」
聞いたことのない複雑な術式が高速展開されると同時に、俺の手の中の篭手が発光、変形していく。わずか数秒ののち、俺が握っているものはきれいに束ねられた黄金の鎖へとその姿を変えていた。
「うお……物質組成変換?」
「何を聞いていたのです、それともそれは耳ではなく虫喰い穴ですか? 今のはただの形状変化、組成そのものを書き換える術は最高司祭様にしか使えません」
どうやら、互助協約には同意しても辛辣な物言いは一切変える気がなさそうなアリスにすいませんと謝っておいて、俺は鎖の強さを確かめた。端を咥えて引っ張ると歯が抜けそうになったので、慌てて口を離す。強度も長さも充分、おまけに両端には頑丈そうな留め具までついていて言う事なしだ。
一端を自分のベルトにしっかりと固定し、もう一方を差し出すと、アリスは引ったくるように受け取り、自分の剣帯に留めた。これでとりあえず、二人揃って落っこちない限りは安全が保証されるはずだ。
「さて……と」
俺は数回瞬きしてから、改めて視線を巡らし、現在の状況を確認した。
太陽の方向から判断して、俺たちがぶら下がっているのはセントラル・カセドラルの西側の壁だ。時刻はすでに四時を回ったと見えて、頭上の空は青から紫へと色を変えつつあり、背後から訪れる陽光が塔の白壁を明るいオレンジ色に染め上げている。
恐る恐る足下方向を眺めれば、薄くたなびく雲のむこうにぼんやりとミニチュアのような庭園とそれを四角く囲む石壁、さらに広大な央都セントリアの市街が一望できて、改めて現在位置の高度を認識させられる。大階段を登ったときの目算では、塔のワンフロアぶんの高さは床の厚みも含めると六メル――メートルほどもあったので、アリスと戦った八十階が単純計算で比高四百八十メートル、いや"霊光の大回廊"の高さも足せば五百メートルか。壁に開いた大穴から十メートルほど落下したとしても、まだ俺たちの足裏から地面までは想像を絶する距離が残っているというわけだ。もし墜落すれば、どれほど天命があろうとも一瞬で吹っ飛ぶのは間違いない。それどころか、そんな衝撃と痛みを忠実に再現されたら、フラクトライトに現実的な損傷が発生する可能性すらあるのではないか。
ぶるっと背筋を震わせて、俺は再び剣を左手に握り直すと、右掌に滲んだ汗をズボンで拭った。
「えーっと……一応確認するけど……」
声を掛けると、隣で同じように足元を覗き込んでいたアリスが顔を上げた。さっきより心なしか顔色が悪いような気がしたが、滑らかな頬が夕陽の色に染まって定かではない。
「……何です?」
「いやその……物体形状変化みたいな高度な神聖術を使う騎士様なら、空中飛行術なんかも知ってたりしないかなって……あ、しないですね、すいません」
吊りあがる眉を見て素早く謝ったのに、アリスは容赦なく俺を罵倒した。
「お前、学院で何を習っていたのですか!? 飛翔の術を使えるのは人界広しと言えども最高司祭様ただお一人です、どんな幼い修道士見習いでも知っていることです!」
「だから一応って言ったじゃんか! そんな怒ることないだろう」
「妙にあてこするような言い方をするからです!」
そろそろ、この第二人格アリスと俺は、立場以前に決定的に相性が悪いのだということが明らかになりつつあるようだったが、更に言い返したい衝動を押さえ込んで俺は質問を続けた。
「……じゃあ、これも一応聞くんだけど……俺をここまでぶら下げてきたあのでっかい飛竜、あれをここまで呼ぶってのは?」
「重ねがさね愚かなことを。飛竜はカセドラルの周囲五百メル以内への進入を禁じられています」
「な……そ、そんな決まりを俺が知るわけないだろう!」
「発着場が塔からあれほど離れていた時点で察してしかるべきです!」
俺たちはこの短時間でもう何度目かも分からない睨み合いを三秒ほど繰り広げたのち、同時にぷいっと顔を背けた。* 更に三秒を費やしてアリスの理不尽な口様への腹立ちをぐいっと飲み込み、顔の向きを戻して言う。
「……じゃあ、まずは空を飛んで脱出する線は無しってことか」
騎士様のほうは冷静さを取り戻すのに俺より二秒ほど余分にかかったようだったが、それでも怒りの色を収めた瞳をちらりとこちらに向けて頷いた。
「カセドラルの近くでは、小鳥すらも空を飛べないのです。詳細は私も知りませんが、最高司祭様の御手になる特殊な術式が働いていると聞いています」
「なるほどね……徹底してるな」
改めて周囲の空間を見渡すと、たしかに鳥はおろか羽虫の一匹すらも見当たらない。最高権力者アドミニストレータの超絶的な魔力と――妄執にも似た警戒心の顕現、と言うべきか。そう考えれば、この塔の常軌を逸した高さも、権威の象徴であると同時に見えざる敵への恐怖を示していると思えてくる。
「となると、残る選択は三つ……降りるか、昇るか、もう一度壁を破るか、だな」
「三つ目は難しいですね。カセドラルの外壁はほぼ無限の天命と自己修復性を備えています」
アリスが考え込むように俯きながら言った。
「そもそも先ほど、内側から壁が破壊されたこと自体が信じがたいのですが……私とお前の武装完全支配術が複合し、異常な威力が発生してしまったことによる万に一つの不運、と考えるしかないでしょうね。まったく余計な真似をしてくれたものです」
「…………」
ここで言い返したらまた口喧嘩スパイラルだ、と俺はふうふう鼻息を荒げるのみに留めた。
「……しかし、それなら、また同じ現象を起こせば壁を壊せる理屈じゃないか?」
「可能性としては絶無とは言いませんが……穴が修復されるまでの数秒のあいだに内部に戻るのは至難であるのと、それにもうひとつ……私はすでに二回、この子の完全支配術を使用してしまっています。一度もとの樹の姿に戻し、陽光を浴びさせてあげなければもう術は使えません」
「確かに……それはこっちも同じだ。一晩は鞘に入れておかないと、というかこうやってぶら下がってるだけでも既に結構やばいな。そろそろ行動に移らないと……降りるにせよ登るにせよ」
言いながらもう一度壁面を確かめるが、これがまた絶望的なまでに凹凸というものがない。一辺約二メートルの白亜の石がどこまでもきっちり組み上げられているのみで、その隙間にどうにか剣先を突き立てて俺たちはぶら下がっているのだ。
移動する方法としては、ロッククライミングに使うハーケンのようなものを用意し、それを石の継ぎ目に次々に打ち込んで手がかりにしていくしかない。その手順においては昇るも降りるも労力に大差はなさそうなので、移動距離が短くてすむほうを選択したいのだが、そこで問題になるのは――。
俺は左隣のアリスを可能なかぎり真剣な表情で凝視し、恐らく答えてはくれないだろうと覚悟しながら尋ねた。
「もしここから上に向かったとして、どこか内部に戻れそうな場所はあるか?」
するとアリスは、予想どおり躊躇いの表情を見せ、唇を噛んだ。登った先で中に入れるとすると、そこはもうアドミニストレータの居住する最上階のごく至近ということになる。教会の敵をそんな場所まで導いてしまうことは、守護者たる整合騎士としてはほとんど禁忌を犯すに等しいだろう。
しかし――。
アリスはぐっと一息飲みこむと、眼差しに力を込めて頷いた。
「ええ。九十五階、"暁星の望楼"と呼ばれる場所は、四方の壁が円柱のみの吹きさらしになっています。そこまで登れれば、容易に中に戻れるでしょう。……ですが」
蒼い両の瞳が、一際強く光る。
「仮に辿り着けたとしても、そこで私はお前をどうあろうと斬らねばなりません」
うなじがちりちりと痺れるほどの気迫がこもったアリスの視線を正面から受け止め、俺は頷き返した。
「最初からそういう約束じゃないか。なら――登る、ってことでいいんだな?」
「……いいでしょう。ここから地上まで降りるよりは現実的ですから。しかし……お前は簡単に言いますが、この平滑な壁面をどのように登るつもりなのですか」
「そりゃもちろん垂直に走って……いや、冗談だ」
零度以下まで急速冷却されたアリスの目つきから逃れるように咳払いすると、俺は右掌を上に向け、術式を唱えた。
「システムコール! ジェネレート・メタリック・エレメント!」
たちまち生成された、水銀のように輝く金属系の素因を、フォームコマンドとイメージ力で変形させる。全体を長さ五十センチほどの棒状に引き伸ばし、先端のみを薄く尖らせた短い槍のような形が出来上がったところで術を止め、俺はそれをしっかり握った。
頭上の、黒い剣が刺さっている石の継ぎ目を見上げ、右手を大きく振りかぶる。
「ふんっ」
あらん限りの力を込めて即席のハーケンを打ち込むと、幸いへし折れるようなこともなく刃部分が深々と狭い隙間に突き立った。ぐいぐい上下にこじってみるが、どうやら体重をかけても問題ないほどには固定されたようだ。
コマンドで生成したオブジェクトの耐久度は非常に低く、放置しておくだけでも数時間で消滅してしまう。ゆえに、アリスと俺を繋ぐ命綱には使えなかったわけだが、壁を登る手がかりに用いるなら十分も保ってくれれば事足りる。
相変わらず疑わしそうなアリスの視線を感じながら、俺は限界まで酷使した黒い剣を左手で抜き、腰の鞘に収めた。次に両手で壁から突き出すハーケンにぶら下がると、鉄棒の要領で懸垂し、体を持ち上げる。
アンダーワールドにおける俺の身体能力は、SAO時代の、アメリカB級映画に出てくるニンジャ顔負けの超人振りには及ばないものの、それでも現実世界に比べれば遥かに敏捷かつ頑健だ。さして苦労もせずに右足を鉄棒に乗せ、左手で石壁をしっかりと押さえて、俺は細い棒の上に立つことに成功した。
「だ……大丈夫ですか」
掠れた声に視線を向けると、アリスは空いた手で黄金の鎖をしっかりと握り、やや顔を蒼ざめさせてこちらを見上げていた。そういう表情の時は意外に幼い印象のあるその顔を見ていると、そんな場合ではない、と分かってはいてもつい悪い癖が頭をもたげる。
「うわあっ!」
わざとらしく叫んでからずるっと左足をハーケンから滑らせて見せると、アリスは喉の奥でひぐっと奇妙な声を上げた。真ん丸く目を見開き、びくりと背筋を強張らせる騎士様に向かって、嘘ウソ、と手を振る。
「な……」
アリスの青白い頬が一瞬にして真っ赤に気色ばむ様子はなかなかに見物ではあったが、直後に命綱の鎖を思い切り引っ張られ、俺は本当に落下しかけた。
「わぁ、嘘ウソウソ!」
「何が嘘ですか! この大馬鹿者!」
しばらく続いた綱引きに耐え、どうにかバランスを回復すると俺はふうふうと荒い息をついた。完全にむくれてそっぽを向いてしまったアリスに謝りの声を掛けてから、もう一度術式を唱えて新しいハーケンを作り出す。
右手を一杯に伸ばすと、幸い次の石の継ぎ目までは無理なく届いた。二本目の鉄棒を力いっぱい打ち込み、先ほどと同じ要領で懸垂してその上によじ登る。ほんの二メートルではあるが、ようやくの前進にささやかな達成感を抱きながら俺は下方のアリスに呼びかけた。
「よし、いけそうだ! 今俺がやったみたいに、まずは一本目の棒に登るんだ」
しかし整合騎士はまだ怒りが冷めないのか、顔を背けたまま動こうとしない。
「……いや、悪かったよ。もうふざけたりしないから、登ってきてくれ」
なだめるようにそう付け加えたが、尚もアリスはそっぽを向いたまま沈黙を続けている。これは、扱いづらさに関しても史上最強クラスか、と俺が苦笑いしかけたその時、ぼそりと呟く声がした。
「……りです」
「は? 何だって?」
「……無理です、と言ったのです!」
「い……いや、無理ってこたないよ。君ほどの腕力があれば、自分の体を引っ張り上げるくらい簡単に……」
「そういう意味ではありません」
俺がぎこちなく掛けた励ましの言葉を、アリスは大きく一度かぶりを振って退けた。
「こ……このような状況に陥ったのは初めての経験ゆえ……は、恥を晒すようですが、こうしてぶら下がっているだけでもう精一杯なのです。そんな細い足場に上るなど、とても……」
再び消え入るようにか細くなってしまったアリスの声に、俺はしばし絶句した。
人工フラクトライト達は、おしなべて想定外のストレスに対して脆弱な傾向がある。ことに"本来有り得ない事態"への対応力は欠如著しく、ユージオに片腕を斬り落とされた上級修剣士ライオスに至っては天命の消滅よりも早くフラクトライトが自己崩壊してしまった――と俺は推測している――ほどだ。
破壊不可能なはずの塔の壁に開いた大穴から放り出され、侵入不可能な超高空域に足場もなくぶら下がっているこの状況は、いかに整合騎士とは言え対処しかねるものなのだろうか。あるいは――洗脳状態にある騎士アリスも、その本質はひとりの女の子であるということなのか。
どちらにせよ、誇り高い整合騎士が弱音を吐くからには、本当に今の状態が限界ギリギリなのだろう。そう判断し、俺は叫んだ。
「わかった! なら、俺が命綱で足場まで引っ張り上げる! 両手でしっかり壁を支えていれば大丈夫だ!」
するとアリスは、再びプライドと状況を秤にかけるように俯いて唇を噛んだが、一度決定した優先順位を覆すつもりはないらしく、ごく小さく頷くと腰に繋がる鎖を左手で握った。
「……頼みます」
消え入るようなその声に、どうしても茶々を入れたくなる悪癖を抑えつけて、俺も右手に鎖を巻きつけた。
「じゃあ、ゆっくり持ち上げるからな……」
一声掛けてから、命綱を慎重に引っ張る。足場のハーケンが一瞬みしりと軋んだが、どうやら短時間なら二人分の荷重にも耐えてくれそうだ。揺らさないように気をつけながら、黄金の騎士様を一メートルほども吊り上げると、俺は一度鎖をホールドした。
「……よし、剣を抜いてもいいよ」
アリスは頷き、石壁に突き立ったままだった金木犀の剣をゆっくり引き抜いた。途端に剣の重量が加わって、俺の右手と背中と足場が同時にみしみしと悲鳴を上げるが何とか堪える。
剣が腰の鞘に収められるのを確認し、引き上げを再開する。アリスのブーツが最初のハーケンに乗ったところで、ふたたび声を掛けた。
「両手で壁につかまって……そう、よし、鎖を離すぞ」
角度的に表情は見えないが、懸命な仕草で壁に張り付いたアリスは、こくこくと頭を振った。風になびく金髪の下にあるであろう必死の形相を想像しながら、俺はそっと右腕の荷重を降ろした。騎士の足元は細いハーケンの上で多少ぐらついたようだったが、すぐに安定を取り戻した。
「ふう……」
思わず長い息が漏れる。
九十五階まであと何メートルあるのか知らないが、ともかくこの作業を繰り返していけばいずれは辿り着けるはずだ。問題は、ブロックを一つ登るのにこれだけの時間が掛かっては、空に光があるうちに登りきるのは少々難しそうなことだが、いざとなったら壁にぶら下がった体勢での野営も考えておかねばなるまい。
「じゃ、俺はもういっこ上に登るよー」
緊張感のない声を下に投げると、アリスは強張った顔をちらりとこちらに向け、風の音に紛れてほとんど聞こえない囁きを返してきた。
「……気をつけてください」
「うん」
親指を立てた右手を突き出しておいてから――アンダーワールド文明には存在しないジェスチャーではあるが――俺は三たび、システムコマンドを詠唱した。
来月にはもう夏至祭があるというのに、いったん沈み始めた太陽のスピードは無情なほどに速かった。
白亜の壁面を染めていたオレンジ色は、燃えるような朱色からすみれ色を経て深い藍色に沈み、首を回せばはるか西方を横切る果ての山脈が、消える寸前の残照に朧に照らされているのが見て取れる。
頭上ではすでに幾つもの星がまたたきつつあるが、絶壁登攀は予想以上にはかどっていなかった。理由は、思わぬところから現われたシステム上の制限による。
作業としては非常に単純だ。コマンドでハーケンを一つ作り出し、それを壁石の隙間に固定して俺がその上によじ登る。しかるのちに鎖でアリスを引っ張り上げ、さっきまで俺が立っていたハーケン上に乗せるという、それだけである。十回も繰り返して慣れたころには、ワンセット五分を切るくらいになっていたのだ。
問題は、そのハーケンを生成する過程にあった。
この世界には、いわゆるMP、マジックポイントというものは存在しない。神聖術、つまりシステムコマンドは、術者のシステムアクセス権限が及ぶ範囲ならば自由に行使することができる。
しかしそれは、無制限にいくらでも詠唱できるという意味ではない。あらゆる生産行為にはリソースが必要となるこの世界の原則に、神聖術もしっかりと縛られているのだ。種類にもよるが、術式の行使にあたっては、術者の天命か稀少な触媒、あるいは術者が存在する座標の空間リソースなるものを消費することになる。
この空間リソースという奴が、数値として見ることのできない実に厄介な代物なのだ。基本的には、ソルスつまり太陽光か、テラリアつまり地力によって供給される。地面に接し陽光溢れる場所ならばリソースも豊富であり、術式の連続詠唱にもじゅうぶん耐えるが、逆に石造りの建物の窓が無い部屋などではすぐに空間リソースは尽きてしまい、リチャージされるまでに長い時間が必要となる。
その原理原則に従えば――俺とアリスが現在陥っているこの状況、つまり地上はるか五百メートルの高空であり太陽は地平線に没しつつあるという条件は最悪に近い。結論を言えば、登攀に必須なハーケンを続けて生成できなくなってしまったのである。
「システム・コール! ジェネレート・メタリック・エレメント!」
少しでも残照に近づけようとまっすぐ伸ばした俺の掌で、銀色の光の粒がいくつか頼りなく漂い、ぷすんと煙を上げて消えた。
ため息をつく俺の二メートル下方で、アリスがこちらも疲れた声で言った。
「……器物生成術は、空間神聖力を大きく消費しますからね。ソルスが沈んでしまったら、一時間にひとつ作れればいいほうかも……。――もう、どれくらい登りましたか?」
「ええと……そろそろ八十五階は越したと思うけどな」
「まだまだ先は長いですね」
俺は消え行く空の紫色を未練がましく眺め、頷いた。
「ああ……どっちにしろ、完全に暗くなっちゃったら危なくて登れないしな。しかし……野営するにしても、この体勢じゃ休むどころじゃないなあ……」
幾らなんでもツルツルすぎるだろう! と内心で壁を罵り、少しでも手掛かりになるものはないかと宵闇に沈みつつある上方を睨む。と――。
「む……」
わずか一フロアぶんほども離れた場所に、何か規則的に飛び出している物体があることに俺は気付いた。先刻まで塔を舐めていたもやの塊が、いつのまにか風に吹き散らされたらしい。
「おい、あそこ……何か見えないか?」
指差しながらそう叫ぶと、足元でアリスも顔を上向けた。青い眼が細められ、首が小さく傾く。
「確かに……何かの石像でしょうか? しかし、何故こんな高さに……誰も見る者はいないのに」
「なんでもいいよ、上に腰を下ろせれば。うー、でもハーケンがあと……四本は必要かな……」
「四本……ですか」
アリスは一瞬考え込む様子だったが、すぐに再度顔を上げ、言った。
「分かりました。いざという時のために取っておくつもりでしたが……今がその時のようですね」
言葉が終わらないうちに、右手だけで体を支え、空いた左手で右腕を覆う篭手を外した。黄金に煌めく華奢な防具を凝視し、コマンドの詠唱をはじめる。
鎖を造ったときと同じ複雑な術式が高速で組み上げられ、一瞬の閃光が放たれた――と思ったときにはもう、篭手は四本のハーケンに姿を変えていた。
「これを使ってください」
二メートル上にいる俺に向かって、精一杯伸ばされた左手に握られた貴重な道具を、俺は足場の上で腰を落とし慎重に受け取った。
「ありがとう、助かる」
「どうしてもと言うなら、まだ鎧もありますが……」
俺はアリスの上半身を覆う優美なブレストプレートを一瞥し、首を振った。
「いや……それは、それこそ最後まで取っておこう。今となっては、最後のオブジェクト・リソースだからな」
立ち上がり、ハーケンのうち三本を懐に入れて一本を右手に固く握る。
「よっ……」
掛け声とともに撃ち込んだ黄金の杭は、さすがに生成したものとは段違いの強靭さでしっかりと隙間に突き立った。いいかげん慣れた懸垂でその上に登り、命綱でアリスを引っ張り上げる。
更に同じプロセスをもう一度繰り返すと、頭上に並ぶ謎のオブジェが、薄闇のなかにもかなりはっきりと見て取れた。
やはり石像だ。塔の壁を取り巻くように、幅一メートルほどの狭いテラスが左右に延びており、そこに三メートルほどの等間隔でかなり大きな像が並んでいるのだ。
しかしそれは、これまで塔の内部で散々見たような、厳かな神や天使の像ではなかった。
人間型ではある。しかし、膝を曲げ、腕を突いて蹲ったその姿勢は神々しさとは無縁のものだ。全身にはごつごつと無骨な筋肉が盛り上がり、背中からはナイフのように鋭い風切羽を持つ翼が伸びている。
そして、その頭部は――異形、と言うしかない代物だった。湾曲しながら長く前方に突き出した先端に、横一列、四つの黒光りする玉で出来た眼が嵌め込まれている。口らしきものは見当たらず、頭だけ見ればまるである種のヒルのようだ。
「うえ……なんか、嫌な感じだな……」
と俺が口走るのと、
「え……!? あ、あれは……ダークテリトリーの……」
とアリスが息を飲むのと――。
もっとも近い場所に蹲る石像の、四つの眼のうち右端のやつが、ぐりぐりんと動いて底無し穴のような瞳孔でこちらを視たのはほぼ同時だった。
例えばここが市販のスタンドアローンRPGの中ならば、当然襲われる場面であろう。
しかしその場合は、イベントを書いたシナリオライターは度を越した加虐趣味か、ただの素人のどっちかだ。なぜならプレイヤーたる俺たちは、虚空の絶壁に張り付けられて一歩たりとも動けないのだ。
敗北固定イベント――などというろくでもない言葉が脳裡を過ぎり、俺は舌打ちして一連の思考を遮断した。もしここから落下しても、何者かが颯爽と助けてくれるなどということは一切期待できない。現状取り得る何らかの手段で、危機を回避するしかないのである。
その間にも、有翼の石像は、眼球に続いて長い首までをも細かく震わせるように動かしはじめていた。同時に、壁石と似た灰白色だった全身が、末端部からぬめりのある濃色に変化していく。
複眼にくすんだ赤い光が宿り、ばさっ! と大きな音を立てて黒い翼が広げられるに及んで、俺は腹をくくって剣の柄に手をかけながら、下のアリスに呼びかけた。
「このまま戦うしかなさそうだ、落っこちないのを最優先でいこう!」
しかし騎士様は、宵闇のなかに白く浮き上がる顔をかたく強張らせ、唇をわななかせるのみだった。まさか、どうしてこんなことが――という呟きが、かすかに俺の耳に届いた。
教会の全てを識るはずの整合騎士が、なぜ今更それほどのショックを受けているのか、少々不思議ではあった。伝聞のみでしか知らないが、最高権力者アドミニストレータはどうやら偏執的なまでに用心深い性格だ。飛行不可能な塔の外部を、強引によじ登って侵入してくる輩を退けるためにガーディアンを配置しておくくらいのことはあってもおかしくない。
そのガーディアン――RPGの伝統に倣ってガーゴイルと呼ぶべきか、そいつは十秒足らずで石像から生物へと変身を遂げ、鉤爪のある両腕でテラスの縁を握ると、ミミズ様の頭部の下側に隠れていた円形の口からブシュッ! と空気を吐き出した。俺たちの真上で真っ先に動き始めた一匹に続いて、左右のガーゴイルも体色を変えつつあるのに気付いてさすがにぞっとする。もしあいつらが塔の外壁沿いにびっしり配置されているなら、総数は百匹を超えてもおかしくない。
「くそっ」
毒づきながら体の向きを反転させ、壁に背中を預けて剣を抜いたが、それだけで大きく体がぐらついた。何せ足場は細い鉄棒一本だ。こんな状況で戦闘を行ったことは、初代SAO以来一度たりともない。
どうするか――と考えるいとまもなく、頭上からバサバサッと羽ばたく音が聞こえた。見上げると、濃紺の空を背景に飛び立ったガーゴイルが、薄赤く発光する四ツ眼で俺をねめつけたところだった。
予想以上に大きい。頭からつま先までで二メートル近いだろう。更に、体と同じくらいの長さの尻尾がくねりながら伸びている。
「ブシャアッ!!」
バルブから蒸気が抜けるような叫び声を放ち、反転急降下してきたガーゴイルを、俺は懸命に凝視した。幸い遠隔攻撃能力は持たないようなので、襲ってくるとすれば鉤爪の生えた四肢のどれかだろう。右か左か、上か下か――。
「――うおわ!!」
鞭のように唸りを上げて飛んできたのは、先端が鋭く尖った尻尾だった。完全に虚を衝かれ、俺は悲鳴とともに首を捻った。尻尾の先には、まるで短剣のような硬質の棘が生えており、その先端が俺の左頬を浅く切り裂き、後ろの壁を抉った。
直後バランスが崩れ、ぐらっと体が傾く。
必死に踏みとどまろうとする俺を狙って、目の前でホバリングを続けるガーゴイルの尻尾が立て続けに突き込まれてくる。
左手で壁を掴み、右手の剣で尻尾を防ごうとするが、盾のように掲げるのが精一杯だ。とても剣を振り回す余裕はない。
「ぬ……このっ……調子のんなっ」
もう出し惜しみをしている場合ではないと判断し、俺は一瞬左手を壁から離すと、懐に残るハーケンの片方を掴み出した。ガーゴイルの体の中心を狙い、手首のスナップだけで投擲する。
薄闇に黄金の閃光を引き、ハーケンはガーゴイルの下腹に突き刺さった。
「ブシイッ!」
丸い口からどす黒い血の飛沫をわずかに噴出し、ガーゴイルは身を翻して高度を取った。アリスの篭手から生成したハーケンの高優先度ゆえに、不十分な投射速度でもそこそこのダメージは通ったようだが、やはり撃退するには足りない。瞼のない昆虫のような瞳に、一層赤々とした光を漲らせて俺を睨んでいる。
そんな時ではないと分かってはいても、俺はつい考えてしまう。――あの異形の怪物を動かしているのは、機械的なプログラムなのだろうか? それとも、アンダーワールド人と同じ真正のフラクトライトなのか。
「ブシュウウウーッ!!」
新たに響き渡った雄叫びが、俺の想念を吹き散らした。更に二体のガーゴイルがテラスから飛び立ち、こちらの隙をうかがうようにぐるぐると円を描いている。
「――アリス! 剣を抜け、そっちにも行くぞ!」
俺は叫んで足元を覗き込んだが、整合騎士はまだ原因不明の動揺から立ち直っていないようだった。このまま襲われたら、尻尾で串刺しになるか足場から落っこちるのは必至だ。
どうする――ガーゴイルが様子を見ているあいだに、無理矢理テラスまで登るべきか。しかし、残る壁石の隙間は二段、懐のハーケンは一本。怒り心頭のガーゴイルに、刺さってるそれを返してくれと言っても恐らく無駄だろう。
奇怪な噴出音でこちらを威嚇していた三匹の異形たちは、やがて攻撃を再開する気になったらしく、一際甲高い叫び声を放った。
いざとなったら――命綱を外して、やつらの一匹に飛びつくしかない。
そう考え、俺は腰に繋がる鎖を左手で探った。
そして、はっと目を見開いた。鎖の長さは約五メートル。手を一杯に伸ばせば、テラスまでは四メートルだ。
「アリス……アリス!!」
俺は剣を鞘に収めながら、出せる限りの大声で叫んだ。
アリスの体がぴくりと震え、青い瞳がようやくこちらを見た。
「いいか……着いたら、しっかり掴まれよ!!」
一体何を、と訝しそうに眉を寄せるアリスに繋がる鎖を、俺は両手でしっかりと握った。
ぐいっと引っ張ると、アリスの体が足場から浮く。
「ちょっと……お前、まさか……」
「巧く行ったら後でいくらでも謝る!!」
大きく息を吸い込み、全身の力を振り絞って――俺は鎖にぶら下がる騎士様を、思い切り上空へと放り投げた。
「きゃあああああああ!!」
初めて聞く盛大な悲鳴を撒き散らしながら、アリスは今まさに襲い掛かってこようとしていたガーゴイル達の目の前を通過し、狙い違わず四メートル上のテラスへと着地――より表現に正確を期すならば着弾した。ドカーンという大音響に重なった悲鳴の終わり際が、高貴な女性騎士様には相応しくない、ぐえ、あるいはむぎゅ、という音だったのは聞かなかったことにしておこう。
無茶な投擲による当然の反作用として、俺の体は足場から振り子のように吹っ飛ばされた。アリスが踏ん張り損ねれば、俺たちは二人揃ってはるか地面までダイビングだ。
一瞬ひやりと肝が冷えたが、さすがに最強騎士は俺の期待に応え、土ぼこりの中からがばっと立ち上がると両手で鎖を握った。
「こ……のおおおおお!!」
怒りに満ちたアリスの叫びとともに、今度は俺が同じように放り上げられる。
壁に背中から衝突したときは息が詰まったが、直後這いつくばったテラスの頼もしい平面は、何にも優る感触を俺に与えた。このまま永遠に寝転がっていたかったが、アリスにがつっと脇腹を蹴り飛ばされ、やむなく体を起こす。
「な……何を考えているのですかこの大馬鹿者!!」
「そっちがボーっとしてるのが悪いんだろ……そんなことより、来るぞ!」
俺は再度抜刀し、急上昇してくる三匹のガーゴイル達に切っ先を向けた。
本格的な戦闘に突入する前のわずかな猶予時間に、周囲の地形を確かめるべく、ちらりと視線を走らせる。
サーカスめいた離れ技で登攀に成功したテラスは、目測どおり幅一メートルといったところだった。装飾の類いは一切なく、ただ四角い板状の石が、塔の外壁から棚のように垂直に張り出しているに過ぎない。いや、実際に棚以上でも以下でもないのだろう、ガーゴイルを並べておくための実用品なのだ。
このテラスの存在をアリスが知らなかったことから少々期待したが、背後の外壁に、戸口や窓のような開口部は一切見受けられなかった。のっぺりとした壁石を背負って異形の彫像たちがはるか遠くのコーナーまでずらりと行列しているのみである。改めて確認すると空恐ろしいほどの数だ。幸い、今のところ動き出したのは、俺たち目掛けて舞い上がってくる三匹だけのようではあるが。
しっかりとした足場を得てようやく人心地がついたのか、アリスも黄金の長剣をしゃらんと鞘走らせた。しかし、まだ胸中の疑問は解消しないらしく、掠れた呟き声が俺の耳に届いた。
「……間違いない……なぜ……どういうことなの……」
テラスと同じ高さにまで昇ってきたガーゴイルたちは、構えられた二本の剣を警戒してか、すぐには飛び掛ってこようとはしなかった。俺は連中の挙動に注視しながら、アリスに疑義を質した。
「さっきから何に引っかかってるんだ。あの怪物のこと、知ってるのか?」
「……ええ、知っています」
即座に肯定の呟きが返ってくる。
「あれは、ダークテリトリーの暗黒術士たちが使役する魔物です。彼らに倣って、私達はあれを"ドローン"と呼んでいます」
「ドローン……ダークテリトリー産なのは、見た目からすれば納得だけど……なぜそんなモンが、世界で最も神聖な場所たるセントラル・カセドラルの壁にごっそり張り付いてるんだ?」
「私が知りたい!」
絞り出すような小声で叫び、アリスは唇を噛んだ。
「お前に言われるまでもなく、あってはならぬことです……守護騎士の眼を掻い潜って果ての山脈を越え、遥か央都の、しかも教会の中枢にまで侵入してきた……などとは到底考えられないし、ましてや……ましてや」
「ましてや、教会内部で高位の権力を持つ何者かによって意図的に配置されていたのだ……なんてことは有り得ない、か?」
途端、アリスはきっと俺を睨みつけたが、反駁しようとはしなかった。これ以上何か言ってまた口喧嘩スパイラルに入ってしまうのも困るので、俺は問題を棚上げするべく極力真剣な顔を作って言った。
「ま、議論は奴らを撃退してからにしよう。――その前にもう一つだけ訊くけど……あのガー、じゃないドローンは、知性はあるのか? 言葉を喋ったりするのか?」
「それこそまさかです。ドローンはゴブリンやオークのような生物ではない、闇神を奉じる邪僧どもが土塊から作り出す粗悪な使い魔……主の初歩的な命令をいくつか解するだけです」
「……そうか」
アリスに悟られぬように、少しばかり胸を撫で下ろす。問題を先送りしているに過ぎないことは重々承知しているが、やはり人間と同質のフラクトライトを己の手で破壊するのは躊躇われる。
カーディナルは、この世界の"人間"はシステム的に契りを結んだ男女からのみ生まれてくると言った。ダークテリトリーの住人とてそれは例外ではあるまい。とすれば、神聖術によって生成されるドローンは人工フラクトライトではなく、森の動物たちと同じプログラムコードだということになる。
そのつもりで見ると、ドローンたちの複眼から放射される敵意には、SAO時代に散々戦ったモンスターたちと共通する無機質さがはっきりと感じられた。コマンドが"様子を見る"から"攻撃"に切り替わったのか、三匹同時に翼を強く羽ばたかせ、ぐっと高度を取る。
「――来るぞ!」
一声叫び、俺は剣を構えなおした。先ほど稼いだヘイト値のせいか、真っ先に飛び掛ってきたのは腹にハーケンを生やした一匹だった。
今度は尻尾ではなく、長い両腕の鉤爪が連続して襲ってくる。決して速いとは言えない攻撃だが、久々の――実に二年以上ぶりの――対モンスター戦とあって、間合いが取りづらい。剣で鉤爪を弾くことに専念しながら敵の隙をうかがっていると、無傷の二匹が左隣のアリスに向かって急降下してくるのが視界の端にちらりと見えた。
「気をつけろ、二匹行った!」
女性騎士の身を純粋に気遣ってそう警告したのに、返ってきた声はとことん冷淡だった。
「お前、私を何だと思っているのです」
すっと腰を落とし、剣を腰溜めに構える。
ドッ、という凄まじく重い斬撃音とともに、宵闇の中にあっても眩しいほどに煌びやかな黄金の光が宙を薙いだ。
フェイントも繋ぎ技もない、単なる左の中段斬りだ。しかし、横目で眺めただけで冷や汗が吹き出すほどに速く、重い。八十階での戦闘で俺を苦もなく追い詰めたのは、回避も受け流しも断固として許さないこの一撃の完成度なのだ。まったく、長年のVRMMO経験で凝り固まった俺の連続技至上主義をあっさり粉砕しかねない威力である。
剣を右に振り切った姿勢でぴたりと動きを止めたアリスの直前で、今まさに突き立てられんとしていた二匹のドローンの腕四本がぼとぼとっと落下した。続いて、どう見ても間合いの外としか思えないドローンたちの胴体までもが、胸のあたりからずるっと左右にずれる。
悲鳴を上げる余裕もなく、分断されながら墜落していく二匹の怪物の傷口から、今更のようにどす黒い血液がばしゃっと噴出した。無論、一滴たりともアリスには触れていない。
涼しい顔で体を起こした整合騎士は、いまだに防戦一方の俺をちらりと見て、そこはかとなく嫌味のこもった麗しい声音で言った。
「手伝う必要がありますか?」
「……い、いや結構」
せめてもの意地で申し出を丁重に拒絶すると、俺はようやくパターンを看破したドローンの両手両脚プラス尻尾の連続攻撃をいなした。距離を取り直そうとする敵に向かって、体に染み付いた四連続ソードスキルを放つ。
無論この世界には、SAOに存在したような攻撃アシスト機能はないが、こと戦闘に関しては体の動きをどれだけ強固に、明確にイメージできるかが動きの速さと正確さを決める。そういう意味では、やはりかつて散々繰り返したソードスキルの動作は有効に機能するのだ。ほとんど考えることもなく右手の剣が閃き、左右の水平斬りと、右上への斬り払い、そして直突きを一呼吸で繰り出す。
アリスに対抗したわけではないが、俺が相手をしたドローンも左右の腕とオマケに尻尾を斬り飛ばされ、最後に胸の中央を貫かれて絶息した。こちらは数滴頬に浴びてしまった返り血を拭いながら、墜落していく異形の姿が雲に没するのを見届ける。
「……ほう」
まるで、教え子が意外に頑張るのを見たコーチのような声音でアリスが短く呟いた。 黒い剣を左右に切り払って鞘に収めながら、俺は横目で騎士を見た。
「……何だよ、ほうって」
「いえ、奇妙な剣を使う、と思っただけです。夏至祭の見世物小屋で披露すれば客を呼べますよ」
「……そりゃ、どーも」
まったくいちいち皮肉の効いた騎士様も居たものである。何と言い返してやるべきかあれこれ考えていると、俺の頬に視線を止めたアリスが、厭わしそうに眉をひそめた。
「ドローンの血は病を呼びます。きちんと落としておきなさい」
「ん? ああ……」
言われてみれば芳しからぬ匂いのする返り血を、俺は上着の袖で擦ろうとした。途端、こら! と怒られる。
誰かにこらなどと言われたのは果たして何年ぶりかと唖然とする俺を、アリスは苛立たしくてたまらぬという目で睨み、罵った。
「ああもう、男というのはどうしてこう……。手巾の一枚も持っていないのですか」
「も、持ってません」
「……もういいです、これを使いなさい」
実はポケットがあったらしい白のロングスカートから、同じく純白のハンカチを取り出し、心底嫌そうな顔でアリスはそれを差し出した。どうせ小学生扱いされたことでもあるし、ここで騎士様のスカートを摘み上げてそれで頬っぺたを拭いたらどうなるかなあーと俺は考えたが、普通に殺されるという結論に至ったので止めた。
細かいレースの縁取りがされた染みひとつないハンカチをありがたく拝借し、憚りながら頬をぬぐうと、恐らく汚れ落としの術式が掛けられているのだろうそれはまるで吸い取るように半ば乾いたドローンの血を綺麗さっぱり落としてくれた。
「どうもありがとう」
先生、と言いたくなるのを我慢しながらハンカチを返そうとすると、先生はふんっと顔を逸らせて一言――。
「私に斬られる前に洗って返しなさい」
まさに前途多難である。いったいこの騎士様を、どのように説得すれば戦闘を回避しつつユージオと合流できるものだろうか。
今ごろ、塔の内部を登っているであろう相棒の姿を想起しながら、俺は壁の穴から吸い出されたのがユージオだったらこんな苦労はしていないだろうと心底慨嘆した。
視線を巡らせると、空の残照はついに消え去り、幾つかの星が瞬きはじめていた。苦労してガーディアンを撃退したものの、月が昇りわずかなりとも空間リソースの供給が行われるまでは登攀を再開できないだろう。
左右数メートル先からずらりと並ぶ石化状態のドローンたちは、どうやら正面の索敵範囲にさえ入らなければ動き出すことはないようだった。つまり、少なくとも五、六時間はこのテラスの現位置でじっと待機せざるを得ないわけだ。
平面に腰を降ろして休めるのは大歓迎だが、その間アリスの機嫌を損ねずにおくのは大いなる難関と思えた。俺はため息を飲み込みながら、腕を組みそっぽを向いたままの整合騎士にどう声を掛けようかと考えた。
孤独というものの味を、長いこと忘れていたな。
長い階段をとぼとぼと登りながら、ユージオは胸のうちでそうひとりごちた。
アリスと引き離された十一の夏から、ユージオは目と耳を閉ざし、ひたすら黒い巨木だけを相手にして生きてきた。家族を含む村の誰もが、整合騎士による村長の娘の連行という一大事件を、まるでそれ自体ひとつの禁忌ででもあるかのように一切話題にしようとしなかったし、アリスのいちばんの友達でもあり問題の事件にも関わったユージオのことすら避けるようになったからだ。
しかしそれと同じくらい、ユージオも人を、そしてあの出来事の記憶を遠ざけ続けた。己の弱さ、怯懦を認めることに耐えられず、諦めという名の沼に深く潜ることで過去と未来から目を背けようとした。
ユージオにとって孤独とは、常に諦念の甘苦さに塗れている。自分は一人では何もできない人間なのだ――あの事件よりずっと以前、アリスと二人野山を遊び場にしていた幼い頃から。親や兄たち、村の大人の言いつけに一切逆らわず、他人の顔色だけを窺って生きてきたのだと、煮詰めすぎたママレードのように口中にまとわりついて再確認を迫る味。
しかし十八の春、荷物ひとつ持たずにふらりと森に現れたあいつが、ユージオを泥濘から力ずくで引っ張り出した。共にゴブリンの集団を斬り伏せ、ギガスシダーを打ち倒し、ユージオにもう一度自信と目的を与えてくれた。
ルーリッドの村を飛び出し、ザッカリアの町を経ての央都までの長い旅路、修剣学院での修練の日々のあいだも、常に傍らにはキリトがいた。予定とは少々異なる経緯だったが、最終目標たる神聖教会にとうとう入り込み、幾多の障害を退けて塔最上階の直下にまで迫れたのは、間違いなくあの黒髪の風来坊のお陰だ。
だがこうして、目的地まであと一歩のところで相棒の姿を見失うと、その途端に喉の奥からあの味が込み上げてくる。これまでいかに強くキリトに依存してきたのか――ほんとうは、自分は森で倒せぬ樹を叩いていた頃からなにひとつ変わっていないのではと思えてくるほどだ。
キリトとアリスが、突如崩壊した塔の壁から外に放り出された直後、ユージオは極度の恐慌に襲われて闇雲にもういちど壁を壊そうとした。しかし、いくら拳で殴り、剣を叩きつけようとも、一度修復された壁はもうびくともしなかった。
考えてみれば、あの瞬間に目の当たりにした現象からして、塔の外壁には永続性の自己修復術が施されているに違いないのだ。言葉にすれば簡単だが、本来、術者と対象の接触が原則となる神聖術に、術者と離れても永続する術式など存在し得ない。つまりあの自己修復は、この塔全体をある種の完全支配状態に置いている、とでも言うべき超絶的な術式が導いたものなのだ。
そのような壁相手では、たとえ無理矢理に一センでも石をずらせたとしても、すぐに押し戻されてしまうのは明らかだ。あれは、二人の剣の記憶解放技が複合し、瞬間的に膨大な攻撃力が発生したゆえの異常事態だったのだろう。
それほどの技と力を持った彼らが――ことにキリトが、虚空に放り出された程度のことで死ぬはずはない。状況への即応力だけを取れば、彼が整合騎士をすらも大きく上回るのは、これまでの戦闘を見ても明らかなのだから。
キリトはきっと、アリスをも落下から救いだして塔の外壁を登っているに違いない。そう信じて、ユージオは単身、"雲上庭園"の南側の大扉から出て再び大階段を登り始めたのだった。独りになった途端、心細さや無力感が背中に這い登ってくるのを懸命に振り払いながら。
どのような襲撃があるか予想できなかったので、走るのはやめて慎重に進むことにしたが、八十一階、八十二階と過ぎても、塔内には人の気配はまったく感じられなかった。騎士たちの話によれば、教会にはまだ高位の司祭たちと少なくとも一人の整合騎士――"団長"と呼ばれる人物――、そして最高司祭アドミニストレータが居るはずだ。行政を天職とする司祭たちが直接戦闘を仕掛けてくるとは考え難いが、いずれ高位の術者であろう彼らが神聖術を用いた罠を張っている可能性はあるし、何より整合騎士を束ねるという"団長"がユージオを素通りさせてくれるはずはない。
ゆえに限界まで感覚を張り詰めさせ、剣の柄に手を沿えて一歩一歩階段を登っているのだが、どうしても余計な思考が入り込んでくるのを防ぐことができない。
キリト――ぶっきらぼうで目つきの剣呑な彼が、あれほど攻撃に呵責のなかった騎士アリスを説得なり休戦なりできただろうか。塔の壁にぶら下がったまま、尚も戦闘を続けるという想像のほうがよほどしっくりくる。
しかし、キリトのあのつっけんどんさと斜に構えた態度が、何故か人の胸襟を開かせるのもまた事実なのだった。これまでの旅で出会った多くの人々が、いつの間にかキリトに魅せられ、笑顔を向けるようになるのをユージオは何度も目の当たりにしている。そう、勿論、ユージオ自身もそこには含まれる。
彼の不思議な魅力は、整合騎士としての使命感の塊のようだったアリスにも通用するのだろうか。
そう考えた途端、ユージオはいわく言い難い感情の流れを自覚し、思わず唇を噛んだ。
数時間前――炎の弓を操る整合騎士デュソルバートに剣先を突きつけたときに襲われた葛藤が、焦げ臭い残り香のように甦ってくる。あの時、止めを刺そうとしたユージオを制したキリトに、ほんの一瞬とは言え、ユージオは激烈な嫉妬を感じた。君なら、連れ去られるアリスを黙って見ているなんてことはしなかったろう、という巨大な劣等感。
あらゆる枷から自由であるように思えるキリトなら、今のアリスの心さえ、ほんとうに溶かしてしまうかもしれない。
嫌だ、これ以上考えたくない。
思考を更に続ければ、自分がどうしようもなく醜くなってしまうような気がして、ユージオは激しく頭を振り、右手でごしごしと顔を拭った。ユージオの存在証明の全てと言ってよいアリスの奪還という目的を知るキリトが、おかしなことをする筈がない。だいたい、こんなことを考えること自体無意味なのだ。なぜなら――。
あの黄金の整合騎士は、正確には"アリスの体"でしかないのだから。
ユージオの愛するルーリッドのアリス・ツーベルク、その核心とでも言うべき"記憶のピース"は塔最上階のアドミニストレータの居室に保管されている。それを奪還し、アリスの体に戻せば、今の整合騎士アリスは、そうであった間の記憶ともども消滅する。
目を醒ました本物のアリスを、この腕に強く抱くのだ。そのとき初めて、全てがあるべき形に戻る。明日には――ことによると今夜中に、その瞬間が来る。だから今は、雑念を振り捨て、前に進まなければ。
大階段の両脇に細く開いた窓から見える空は、たちまちのうちに光を薄れさせ、濃紺から黒へとその色を変えた。
央都じゅうの礼拝堂からかすかに届く鐘の音が夜七時を告げると同時に、ユージオの眼前からついに続くべき階段が途絶えた。
階がひとつ過ぎるたびに折った指の数は十本。つまり次が九十階だ。いよいよ、神聖教会の核心部に足を踏み入れたのだ。
ホールから折り返して伸びる階段は無く、北側の壁に大扉がひとつあるのみだった。これまでの塔内の構造から類推するに、この先は五十階や八十階と同じくぶち抜きの大空間となっているに違いない。
そして恐らく、これまで以上に強力な敵が待ち構えている。
勝てるのか? 僕が?
じっとりと湿ってくる掌を、ユージオはズボンで擦りながら自問した。キリトを半死半生にまで追い込んだファナティオや、傷ひとつつけさせなかったアリス以上の剛の者と、どのように戦えばいいというのか。
しかし考えてみれば、これまでの戦いにおいて常に敵の剣に身を晒しつづけたのはキリトだった。ユージオはその背中に隠れ、決めの大技を放ってきただけだ。完全支配術の性格上それが当然の作戦だ、とキリトは言ったが、彼がいない以上今度こそユージオが最初から最後まで戦うしかない。それが出来なければ、キリトと対等の場所に立つことはもうできない。
腰の愛剣をそっと撫で、ユージオは強く奥歯を噛み締めた。氷薔薇の術はおそらくあと一回ならば使えるだろうが、闇雲に放っても奏効する可能性は低い。まずは純粋な剣技で敵を圧倒しなくてはならない。
「……行くぞ」
小さく呟いて、ユージオは右手を掲げ、扉を強く押し開いた。
途端――押し寄せてきたのは、眩い白光と、厚い煙、連続的に響く低音だった。
もう敵の術が発動しているのか!?
そう考え、口と鼻を覆って飛びのこうとしたユージオは、その直前にそれが煙ではなく濃い蒸気であることに気付いた。湿った熱気が全身を包み、たちまち肌を水滴が伝い落ちる。
予想どおり、扉の内部は一階ぶんをそのまま使った大部屋だった。天井もずいぶんと高い。恐らく、"霊光の大回廊"や"空中庭園"といった類いの名前がついているのだろうが、今は知るすべはない。
まず目に入ったのは、広大な床面を覆う真っ白い湯気と、その向こうに煌めく水面だった。
湯だ。すさまじい量のお湯が、階段状に窪んだ床全面になみなみと湛えられている。どどどどと低く響く音の源は、左右の壁に幾つも設けられた、様々な幻獣の頭部を象った彫像の口から流れ落ち水面を叩く湯の滝だった。
湯気を透かしてよくよく見れば、ユージオの立つ扉前から、幅五メルほどもある大理石の橋が奥へと続いている。広間の中央で橋は十字に分岐しているので、湯の池は四つに分かれていることになる。
一体これは何だ……?
予想外の光景に、ユージオは目を丸くしながら呆然と考えた。このような高温の湯の中で生きられる魚などいないし、観賞用の庭園にしては湿気が不快すぎる。つまりこれは――。
超巨大な、風呂なのだ。
「……なんてこった」
思わず嘆息する。ルーリッドの村では、風呂と言えばタライに毛の生えたような桶と相場が決まっていたし、ゆえに学院の寮の大風呂を見たときは、こんな大量の湯をどうやって沸かすのかと目を見張った。
しかしこれは桁外れだ。学院の修剣士全員が一度に入浴してもまだ余りそうだ。今は人影は見えないが、同時に何人が入浴するにしても贅沢の極みというものだ。
これも整合騎士や司祭たちの特権のひとつかとあきれ返りながら、ユージオは肩の力を抜き、大理石の橋を進み始めた。いくらなんでも風呂場で待ち伏せはあるまい。
と、不覚にも思い込んだため、気付くのが随分と遅れた。
浴場の中央、橋の十字部分に近づいたとき、ユージオはようやく北東の一角、一際濃い湯気をもうもうと上げる水面に、大の字に手足を広げた人影があるのを見て取った。
「!?」
瞬間的に飛び退り、剣に手を掛ける。
水蒸気に阻まれてよく見えないが、随分と大柄なようだ。敵か……? 入浴中だけあって裸のようだが、剣は近くにあるのか?
そう考えたとき、低く錆びているがよく通る声が水面に響いた。
「妙齢の美女でなくって悪ぃな。すぐに上がるからちっと待っててくれ。なんせ、さっき央都に着いたばっかりなもんでよ」
これまで塔内で遭遇した人間の誰よりもぞんざいな言葉遣いに、瞬間唖然とする。騎士というよりもむしろ、故郷の村の農夫たちを思い起こさせる飾り気の無さだ。
ユージオがどう対応したものか決めかねているうちに、ざぶりという水音が立ち、巨大な浴槽を覆っていた湯気に切れ間ができた。
全身から滝のように水滴を落としながら、巨躯の男がこちらに背を向けて身を起こしたところだった。両手を腰に当てて首をぐるぐる回し、ううーんなどと緊張感のない唸り声を上げている。
しかし、男の後姿を見たとたん、逆にユージオは鋭く息を飲んでいた。
何という重厚さだろうか。膝から下は湯の中だが、それでも男の身長が二メル近いのは明らかだ。青みを帯びた鈍色の髪は短く刈り込まれ、首筋の尋常ではない太さが一目瞭然となっている。そして、そこから繋がる肩がまた異様に広い。丸太のような上腕は、いかなる大剣ですら容易く振るだろう。
何より目を引くのは、幾重にもうねる筋肉に鎧われた背中だった。ユージオが知る限り最も分厚い背中を持っていたのは、学院で傍付きを務めたゴルゴロッソだが、湯船の男は彼をも明らかに凌駕する。腰周りにはたるみ一つなく、大腿がまた樽のように太い。
湯の滴に照り映える、あまりに完璧な筋肉の連なりに目を奪われていたため、ユージオは男の全身がほぼ隈なく古傷に覆われていることにすぐには気付かなかった。改めて注視すると、それら全てが矢傷、刀傷であることがすぐにわかる。
恐らく、この男が騎士長と呼ばれる人物なのだろう。つまり全整合騎士中最強の剣士、ひいては教会を敵に回したこの戦いにおける最大の障壁なのだ。
となれば、ユージオが選択し得る最善の行動は、男が剣も防具も持たぬ今のうちに一気呵成に斬りかかることだったが、しかしユージオは動けなかった。
男の背中が、隙だらけなのか、それとも万全の備えが行き渡っているのか判断できないのだ。むしろ誘っているのかとすら思えてくる。
そんなユージオの逡巡を一切気にとめる様子もなく、男は湯の中をざぶざぶと歩きはじめた。湯船の北がわに、衣類を入れてあるらしい篭の乗ったワゴンが見える。
階段状にせり上がっている縁を大またに登り、大理石を敷いた床に立つと、篭からひょいと下穿きを取り上げて脚を通した。次にやたらと大きな衣をばさっと広げ、背中に羽織る。どうやら東域風の綿織物のようで、前で合わせた布を腰下に巻いた幅広の帯で留めてから、男はようやくユージオに顔を向けた。
「おう、待たせたな」
深みのある錆び声のよく似合う、剛毅としか言いようのない風貌だ。
思ったよりも齢が行っている。口許と額に刻まれた鋭い皺は、男が整合騎士となった時点で四十を越していたことを示しているが、高い鼻梁と削げた頬には肉の緩みはまったくない。しかし男の印象を決めているのは、深い眼窩から放たれる強烈な目の光だ。
淡い水色の瞳には、殺気らしい殺気はまったく無いのに何故か気圧されるものがあった。これから斬り結ぶであろう相手に対する、敵意抜きの純粋な興味と、戦闘そのものへの歓び、だろうか。そのような目ができるのは、自分の剣技に圧倒的なまでの自信を持っているからだ。つまりこの男は――どこか、キリトに似ている。
着替えの篭が乗った銀のワゴンから、長大な剣を取り上げ、男は素足でぺたぺたと大理石を踏んで歩きはじめた。浴槽の角を回りこみ、ユージオが立つ中央通路の北端へと移動する。二十メルほど先で立ち止まり、鞘の先端で敷石を突くと、さてと、とまばらに髭の生えた逞しい顎を撫でた。
「お前さんとやりあう前に、一つ聞いておかなきゃならねえ」
「……何ですか」
「なんだ、その……な。副騎士長は……ファナティオは、死んだのか?」
夕食のメニューを訊くような素っ気無い口調に、あんたの一番の部下のことじゃないのか、とユージオは反発をおぼえた。しかしすぐに、視線を横に逸らせた男の表情に、不器用な取り繕いがあるのに気付く。本心では気になって仕方がないのに、それを見透かされるのが嫌なのだろうか。そういう所もまた、ここにはいない相棒を思い起こさせる。
「生きてますよ。今、治療を受けている……はずです」
ユージオの答えを聞いた男は、太い息を吐き出し、ひとつ頷いた。
「そうか。なら、お前さんも殺すまではしねぇでおこう」
「な……」
再び、言葉を失う。心理作戦か、などと疑う気も起こさせないほどの強烈な自負だ。勝利への確信はそれ自体が大きな武器だ、とはキリトがよく言っていたことだが、彼ですら敵を目前にしてここまでの揺ぎ無さを示すことはできまい。おそらくは、男の砦のごとき自負心の礎となっているのは、最古の整合騎士として百年を越すであろう戦闘経験であるからだ。
しかしそれを言うなら、これまで倒してきた騎士たちだって同じことだ。整合騎士が決して絶対無敵なる存在ではないことを知っている今ならば、少なくとも胆力のせめぎ合いだけで負ける道理はない。
萎えそうになった心を奮い起こし、ありったけの戦意をかき集めて、ユージオは正面から男を睨んだ。声が揺れないように腹に力を込めて、言う。
「気に入らないな」
「ほう?」
右手を衣の懐に入れたまま、男は面白そうな声を出した。
「何がだい、少年」
「あんたの部下はファナティオさんだけじゃないでしょう。なのに、アリスの生死はどうでもいいってことですか」
「あぁ……そういうことかい」
男は顔を上向け、左手で鞘を握った大剣の柄で、側頭部をごりごりと擦った。
「何つうかな……オレはファナティオよりも強ぇ。奴さんはオレの弟子だからな……だからもしファナティオがお前さんに斬られたのなら、その片はオレがつけなきゃなんねえ。でもよ、アリスの嬢ちゃんとオレ、どっちが上かは正直わからん。本気でやったこたぁ無えし、やろうにも嬢ちゃんはオレを親父代わり扱いするしなぁ……いや、んなことはどうでもいいんだけどよ。ともかく、オレはお前さんに負ける気はこれっぽっちもしねえし、だから嬢ちゃんが斬られたとも思わん。聞いた話じゃ、お前さんには相棒がいるって言うじゃねえか? そいつがここにいないってことは、大方、今どこぞで嬢ちゃんとやりあってるんじゃねえのかい」
「……だいたいそんな所です」
釣り込まれるように素直に頷いてしまってから、ユージオはきつく剣の柄を握りなおした。どうにも男の喋りには敵意を削がれるものがあるが、緩んでいる場合ではないのだ。目に一層力を込め、挑発的な台詞を叩きつける。
「ちなみに、あんたを斬ったら次は誰が仕返しに出てくるんですか」
「ふっふ、安心しな。オレに師匠はいねえ」
にやっと笑い、男は大剣をゆったりした動作で抜いた。左手に残った鞘を、ひょいと傍らに放り投げる。
黒ずんだ刀身は艶やかに磨き込まれているものの、砥いでも消せない無数の古傷が白い灯りを受けて、獣の牙のように立て続けに光った。鍔も握りも刀身と同質の鋼でできているようだが、これまでの騎士たちが携えていた神器のような壮麗さはまったくない。
と言って、軽んじていい武器では決してないのは、遠目にも明らかだった。気の遠くなるような年月、無数の敵の血を吸い込んできた妖気のようなものが鈍色の刃にまとわりついている。
すーっと細く息を吐きながら、ユージオも左腰の愛剣を鞘走らせた。完全支配状態ではないが、主の緊張に反応しているのか、薄蒼い刀身からはわずかに冷気が放出されて周囲の濃密な蒸気をきらきら輝く氷の粒へと変えていく。
整合騎士は、その巨躯に見合った豪壮な動作で、右手の剣をほとんど垂直に、左手をまっすぐ前に、腰をどっしりと落として構えた。たしか『天衝崩月』という名の、古流のなかでも相当に旧い、一撃必殺ではあるが外したときの変化などまったく考えない型だ。
ユージオはそれを見て、二連撃技『リバースホイール』の体勢を取った。一撃目で敵の大技を受け流し、その勢いを利用して二撃目が下からの逆回転で襲い掛かる反撃系の技である。キリトがアリスと戦ったときのように、敵の超重攻撃を正面から受け止めれば恐らく後方に弾かれてしまうだろうが、最初からごく僅かに軌道を逸らせることだけを狙えば、敵は即応できないはずだ。
全身の力みを抜き、剣を中段引き気味に構えたユージオを見て、男の眉間に新たな縦皺が刻まれた。
「見慣れねえ構えだな。少年……お前ぇ、もしや連続剣の使い手かよ」
「…………!」
読まれた――!?
男は、自分がファナティオの師だと言った。ならば、あの女性騎士が密かに磨いていた我流の連続剣技のことも知っていておかしくないということなのか。いや、たとえユージオが連続技で来ることを看破しても、技の中身までは見切れないはずだ。アインクラッド流剣術を知るのは、この世でキリトとユージオの二人だけなのだから。
「……だったら、何だっていうんです」
低い声で返すと、男はふん、と鼻を鳴らした。
「いや何、暗黒騎士にもたまにそいつを使う奴がいるんだがよ、あんまりいい思い出はねぇんだよな……。何せこちとら、ちょこまか器用な技はさっぱり知らねえもんでよ」
「だから、こっちも古臭い見せ技で付き合えと?」
「いやいや、好きなだけ使ってくれて構わんよ。そのかわり、こっちもハナっから奥の手を出させてもらうぜ」
片方の犬歯をむき出してにやりと笑い、男は高く構えた剣をさらにぐぐっと引き絞った。
直後、ユージオは大きく目を見開いた。使い込まれた男の大剣が、突如陽炎のように揺れたのだ。周囲を流れる濃い蒸気のせいかと思ったが、どんなに目を凝らしても、刀身それ自体が揺らいでいるようにしか見えない。
しまった、あの剣はすでに記憶解放中だったのか、とユージオはきつく奥歯を噛んだ。
武装完全支配術を、術式詠唱から発動までどれくらいの時間保留しておけるかは、術の性質が大きく影響する。キリトの黒い剣が召還する巨大樹のように、詠唱そのものが発動の鍵となっている術ではそもそも保留は不可能だし、ユージオの氷薔薇の術のように剣を床に突き立てる等の動作が鍵となっていれば数分間は待機させておけるだろう。
男の完全支配術がどのような物なのかはまだ分からないが、恐らく発動鍵となっているのは攻撃動作だと思われる。そしてこれほど長時間保留しておけるからには、大掛かりな召還や空間操作系ではないはずだ。エルドリエの鞭のように間合いを広げるか、あるいは斬撃の威力を増すといった補強系の能力である可能性が高い。
そうであるなら、集中していれば初見でも対応できないことはない。今から完全支配術を詠唱している余裕はないし、それ以前にこの高温の環境では氷薔薇の術も本来の力を発揮できまい。
たとえどれほどの威力を秘めていようとも、あの構えから放たれる技は馬鹿正直な右上段斬り一択だ。軌道は読めるし、その一本さえ弾ければこちらの反撃を回避する余裕は男にはあるまい。
肚を決め、ユージオはありったけの集中力を両眼に込めて男の全身を注視した。まだ彼我の距離は二十メルもある。もしあの位置から剣を振る気ならば、男の奥の手とは斬撃の間合いを伸ばす術だろう。エルドリエの変幻自在な鞭と比べれば、剣の軌道は遥かに直線的だ。回避して、一気に距離を詰めれば男の優位は消滅する。
ユージオの読みどおり、男は脚を動かすことなくぐうっと全身を撓め、攻撃体勢に入った。笑みが消えた口許から迸った太い声が、大浴場全体を震わせた。
「整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワン、参る!!」
どこかで聞いた名だ――という思考が一瞬脳裏を横切ったが、ユージオはその雑念を打ち払い、吸い込んだ息をぐっと止めた。
ずどん! と凄まじい音と震動を放ち、騎士長の剥き出しの左足が床石を踏み締めた。周囲の蒸気が、一瞬で遥か遠くにまで吹き散らされる。
恐ろしく迅いのに、しかし同時にゆったりと見える動きで男の腰、胸、肩、腕がうねった。学院で教えられた古流剣技の、究極の完成形がそこにあった。最大の威力と壮麗さを両立させた、人の子の天命を越えた年月の修練のみが実現し得る奇跡とでも言うべき斬撃。
しかしながら、その技には一つ大きな欠落がある。アインクラッド流連続剣技がひたすらに追及する、確実な命中性だ。男の剣と同質と言っていいアリスの攻撃に、キリトが次々に追い詰められたのは、自分の剣で正面から弾こうとしたからだ。
剣で受けずにギリギリの距離で回避し、ひと跳びで懐に飛び込む!
キリトの超高速剣に鍛えられたユージオの目は、騎士長の大剣の軌跡をしっかりと捉えていた。予想通り、右上段からの斬り降ろしだ。剣自体が伸びるにせよ、衝撃だけが飛んでくるにせよ、僅かな左への移動でかわせるはずだ。
稲妻のような白光を宙に描き、男の剣が振り下ろされた。
同時にユージオは右足で床を蹴った。
頬をかすめるはずの、威力の余波は――無かった。
「!?」
突進しようと前傾した体をユージオは凍りつかせた。男の剣が発生させたのは、颶風のような轟音と、一直線に蒸気を吹き払う空気の流れ、それだけだった。刀身が伸びもしなければ、斬撃の円弧が輝きながら飛んで来ることもなかった。
つまり、男が今やってみせたのは――ただの、素振りだ。修剣学院の試験で行うのと何ら変わりない、剣技の表演だ。
「な……」
何のつもりだ、とユージオは声の出ぬまま唇を動かした。
しかし騎士長はもうユージオを見ようともせず、剣を振り切った姿勢からのっそりと体を起こし、先刻までの気合が嘘のように抜け落ちた顔でぼりぼりと顎の無精髭を掻いた。
「ふん、まあまあの振りだったな」
ぼそっと呟き、そして信じがたいことに、くるりと背中を向けた。剣を右肩に担ぎ、そのままぺたぺたと床に転がる鞘に向かって歩いていく。
「…………!!」
これにはユージオも、頭の後ろ側がちりっと燃えるような感覚を覚えた。馬鹿にしているとしか思えない。学校に通っている子供なら、素振りひとつで尻尾を巻いて逃げ帰れ、ということか。
気付いたときには床を蹴っていた。全速の突撃で男の背中に迫る。
しかし男は尚も振り向く様子を見せない。もうこの位置からなら、絶対に先手を取れる。青薔薇の剣を引き絞り、最大射程の直突きを構える。
ゆらっ、と、すぐ目の前の空間が揺れた。
何だ。陽炎? さっき、男の剣を包んでいたような。
この位置は――数秒前、あいつの素振りが通過した――。
ぞわっと背中がそそけ立った。ユージオは両足を踏ん張り、突進を止めようとした。が、濡れた大理石の上だ、簡単に止まるものではない。
どかあっ!! と、凄まじい衝撃が、左肩から胸下へと抜けた。ユージオは突風に煽られた襤褸切れのように吹き飛ばされ、何回転もしながら宙を舞った。胸に刻まれた傷口から、大量の血液が真紅の螺旋を描いて流れるのが見えた。
背中から落下したのは、通路東側の浴槽の中だった。高く上がった水柱が収まるやいなや一瞬で周囲の湯が真っ赤に染まる。
「ぐはあっ!!」
喉奥に侵入した湯を吐き出すと、その飛沫にも薄い朱が混じっている。傷の一部は肺に達したようだ。もしあそこで僅かなりとも勢いを殺していなければ、体が両断されていてもおかしくない、それほどの衝撃だった。
「システム……コール」
ぜいぜいいう呼吸を懸命に抑え、切れ切れに治癒術を唱える。幸い、周囲には大量の湯がある。冷水に比べれば、遥かに大量の空間神聖力を蓄えているはずだ。とは言え、これほどの深手を短時間の施術で完治させることは不可能だが。
血止めをしながら、どうにか上半身を浴槽の縁に引っ張り上げたユージオを、遠くで振り返った騎士長が見た。すでに拾い上げた鞘に剣を収め、右腕を懐に戻している。
「おいおい危ねえなあ、まさかそんな勢いで突っ込んでくるとは思わなかったからよ……悪ぃな、殺しちまうとこだった」
呑気な台詞に、怒る余裕もなくユージオは掠れた声を絞り出した。
「い……今のは……一体」
「だから言ったろう、奥の手を使うってな。オレはただ空気を斬ったわけじゃねえぜ。言わば……ちょいと先の、未来を斬ったのよ」* 男の言葉が、頭の奥で具体的な形をとるまでに少しの時間がかかった。湯のなかで、まるでそこだけに氷を押し付けられているかのような痺れをともなって疼く傷口の痛みが思考を妨げる。
未来を……斬るだって?
現象としては確かにそのとおりだ。騎士長が大剣を振り抜いてから、ユージオが突進するまでにたっぷり二十秒は経過したはずだ。しかし、問題の場所に踏み込んだとたん、過去から斬撃が襲ってきた、とでもいうかのようにユージオの体は手酷く切り裂かれた。
いや、より正確を期すならば、剣によって発生した斬撃の威力そのものが空中に留まっていた、と言うべきだろうか。吹き飛ばされる直前、ユージオはたしかに、空中にゆらゆらと揺れる力の軌跡のようなものが漂っているのを見た。つまるところ、あの男の剣が持つ能力は、攻撃が命中するために必要な、"その場所"を"その瞬間"に斬るというふたつの絶対条件のうち後者を拡張するのだ。拡げられる範囲がどれほどなのかはまだ不明であるが。
見た目には派手な現象は何一つ付随しないが、しかしこれは恐るべき力だ。あの剣が通った軌道がすべて、致命的な受傷圏として蓄積していってしまうのである。その広さは、しょせん時間と空間のごく限られた一点を重ねていくだけの連続剣技の比ではない。剣と剣での接近戦など、とても挑めない。
ならば、遠距離戦か。
騎士長の完全支配術は、時間は拡張できても距離までは伸ばせない。対して、青薔薇の剣が発生させる氷の蔓の射程は三十メルを超える。
問題は、この膨大な湯に満たされた場所で、ユージオの術式が本来の性能を発揮できるか、ということだ。発動から効果発生までに、多少の遅延があることは覚悟しなくてはならない。つまり、あの男を、氷薔薇の術の性質を見切っても射程外に逃れることができないぎりぎりの距離まで引き込む必要がある。
いちかばちかの勝負に出る肚を決め、ユージオは左手で胸の傷を探った。びりっと鋭い痛みが走るが、どうやら血は止まったらしい。無論完治には程遠く、天命は三分の一がとこ減少しているだろうが、まだ立てるし、剣だって振れる。
「システム……コール。エンハンス・ウェポン・アビリティ」
激しい水音に声を紛れさせ、ユージオは術式詠唱を開始した。騎士長ベルクーリは、それに気付いているのかいないのか、離れた床の上で腕組みをしたまま尚も緊張感のない口調で喋り続ける。
「オレが初めてその連続技ってやつを見たのは、整合騎士の任についてそう間もない頃でなぁ。最初は、そりゃあぐうの音も出ねえほどやられたさ。ほうほうの体で逃げ返ってから、なんで負けたのか悪い頭で随分と考えたもんだ」
ぐいっと指先で撫でた顎を横切る薄い傷痕は、その時のものなのだろうか。
「まあ、分かってみりゃあ難しい話じゃあなかったんだけどな。要は、オレの体に染み付いた剣術がただひたすら一撃の威力だけを追及したモンなのに対して、連続技ってのは如何にして敵の打ち込みを捌き、自分の攻撃を当てるかってことだけを突き詰めたモンなんだっつうことだわな。どちらがより実戦的なのかは言うまでもねえ。どれほど強烈な打ち込みだろうとも、当たらなきゃあちょいとそよ風が吹いたようなもんだしよ……」
ひん曲げた唇の端から、ふん、と短く息を吐き出す。
「――しかしそれが分かったところで、はいそうですかと連続剣技に宗旨変えできるほどオレは器用じゃねえんでなぁ。まったく、神サンも整合騎士を創るなら創るでなんでもうちっと便利なヤツにしなかったのかねぇ」
その言葉に、詠唱を続けながらもユージオは眉をしかめた。
やはりこの男も、整合騎士となる以前の記憶は存在しないのだ。しかし本人が忘れようとも、これほどの威丈夫にして剛剣士が、世の人々の記憶に残らぬなどということは有り得まい。いや、先刻の男の名乗りを聞いたときから、ユージオ自身も頭の片隅に何かが引っかかるもどかしさを感じている。ベルクーリ、間違いなくどこかで見聞きした名だ。四帝国統一大会の優勝者か……あるいは建国期の帝国代表騎士か……?
食い入るようなユージオの視線などどこ吹く風で、男は飄々と述懐を続ける。
「なもんでよ、足りねえ頭を捻って、どうすりゃあオレの剣が敵に当たるか三日ほど考え抜いてな。出した答えが、こいつよ」
すべてが鋼色の無骨な剣を、鞘のなかでかしゃりと鳴らす。
「この剣はもともと、セントラル・カセドラルの壁に据えられてた"時計"っつう神器の一部だったのよ。今じゃあ同じ場所にある鐘が音で時刻を知らせてるけどよ、大昔はその時計ってヤツが、丸く並べた数字を針で指してたんだぜ。なんでも、世界ができたその時から存在したっつう代物でよぉ……最高司祭殿は、しすてむ・くろっく、とか妙な呼び方をしてたなあ。司祭殿いわく、その時計は時間を示すに非ず、時間を創るのだ……ってな、意味はよく解らんがな。ともかく、その時計の針を丸ごと戴いて剣に打ち直したのがこいつって訳だ。出所はアリスの嬢ちゃんの剣と似てるが、あれがこう……横方向の広がりをぶった斬るのに対して、こいつは時間っつう縦方向を貫くのよ。銘は時穿剣……時を穿つ剣だ」
時計、なるものを具体的に思い描くことは難しかったが、男の言わんとするところはユージオにもどうにか理解できた。やはり、剣を振ったその瞬間発生した威力を、時間を貫いて保持する能力を持つのだ。それが可能ならば、アインクラッド流のように、何撃もの技を繋げる必要はまったくない。連続技がなぜ連続するのかと言えば、それは取りも直さず、斬撃の時間的な幅を広げるために他ならないからだ。ベルクーリの時穿剣が、単発技の攻撃力と、連続技の命中力を両立させるならば、その剣技はもはや絶対無敵だ――間合いのうちにおいては、であるが。
いみじくもベルクーリ本人が言ったように、やはり対抗する術はただひとつ、水平方向の広さで勝負するしかない。
と、ユージオが考えたのと同時に、騎士長もニヤリと笑った。
「となりゃあ遠隔攻撃だ、と考えるわけだな、オレの技を見た奴は」
ぎくっとする。しかし今更詠唱を止めることはできない。ユージオが遠距離攻撃を仕掛けることを読んでも、技の中身までを知る術はないはずだ。
「ファナティオを含め、整合騎士たちが必殺技に遠隔型のもんを選ぶ傾向があるのは、オレの剣を見ちまったせいってのも無くはねえだろうなぁ、あいつらはあれでなかなか負けず嫌いだからよ。しかし言っとくが、オレは連中との手合いで負けたことはいっぺんもねえぜ。もしオレに勝ったら、その時からそいつが騎士長だって言ってあるしな。ま、アリスの嬢ちゃんにはいつかやられるかもしんねえが……兎も角、オレも楽しみなのさ。連中を軒並み退けてきたお前さんの技が、どんな代物なのかよ」
「……余裕、ですね」
ようやく術式を、最後の一句を残して唱え終わり、ユージオはぼそりと呟いた。
実際、余裕そのものなのだ。ベルクーリが長広舌を披露したのは、間違いなく、ユージオに完全支配術を発動させる時間を与えるためだ。どのような技であろうとも、初見で破れるという確信がなければできないことだ。
そして、口惜しいことではあるが、ユージオにはたとえ氷薔薇の術がベルクーリを捉えても天命を削りきれるという確信はまるでなかった。もともと、敵の動きを止め、隙をつくることに特化した術なのだ。いや、それすらも完全には成功するまい。自由を奪えたとしても恐らく数秒――その時間をどう使うか、そこにこの攻撃の成否がかかっている。
全身から水滴をしたたらせながら、ユージオは立ち上がった。薄く塞がっただけの胸の傷がずきんずきんと疼く。次に同程度の斬撃を受ければもう動けない。
「ふっふ、来るかよ、少年。言っとくが、手加減するのはさっきの一振りで仕舞えだぜ」
時穿剣の鋼の柄をぐっと握り、騎士長は太く笑った。
二十メル離れた位置で、ユージオも青薔薇の剣を腰溜めに構えた。すでに刀身は硬く凍りつき、周囲を漂う湯気を一瞬にしてきらきら光る氷のチリへと変えていく。
キリトなら、ここで口上のひとつも切り返してみせるのだろうが、ユージオの口はからからに乾いてとても滑らかに回りそうにはなかった。最後の一句をしくじることのないよう、ごくりと唾をのみこんで、ユージオは低く呟いた。
「リリース……リコレクション」
ごっ!!
と足元から渦巻き、四方へ吹き荒れる冷気の中心で、ユージオは逆手に持ち替えた剣を思い切り床石へと突き立てた。
大理石の滑らかな表面を覆っていた水の膜が、一瞬にして鏡のように凍りつく。ばしばしと生木のひび割れるような音を立てながら、氷結域は前方に立つベルクーリ目掛けて拡大していく。
凍気は通路の左右で波打つ湯をも飲み込み、輝く氷に変えていくが、そのスピードは目に見えて遅い。やはり、一度の術で浴槽全体を凍結させるのはとても不可能だ。
全ての想念を右手だけに集中し、ユージオは一層強く剣を握り締めた。ぎゃいんっ! と硬質の咆哮を上げ、凍りついた床から無数の氷の棘が伸び上がる。
それらは、長槍兵隊の突撃のように、鋭い穂先を通路いっぱいに煌めかせてベルクーリに殺到した。圧力はかなりのもののはずだが、騎士長は口許をやや引き締めたのみで、ぐっと腰を落とし動こうとしなかった。左右の湯中に逃れる気は毛頭ないらしい。
その、巨大な砦のごとき立ち姿を見て、ユージオも覚悟を決めた。文字通り捨て身で掛からねば絶対に倒せない相手だ。床から青薔薇の剣を抜き、右手を鋭く振りながら開いて、再び握る。
空中を濃密に覆う氷霧のなかを、氷の槍衾を追って走り出す。ベルクーリが、数十本の氷柱を迎撃するときにできるであろう一瞬の猶予を利用して肉薄する作戦だ。
疾駆するユージオの姿も当然見えているだろうが、騎士長に動揺の気配は微塵もなかった。左右に広く足を開き、左腰で握った剣をぐぐうっと溜める。
「ぬうんっ!!」
太い気合が迸るや、横一文字に時穿剣の一薙ぎ。氷槍の陣が間合いに入るよりも一呼吸以上早く、刃は何もない宙を焦がしたのみだが、時穿剣には時間的間合いは関係ない。
約半秒後、がしゃああんっ!! と耳をつん裂くような硝子質の悲鳴を上げて、無数の氷柱が同時に砕け散った。直前にベルクーリが"置いた"斬撃を抜けた槍は一本もない。騎士長は憎らしいほどの余裕を持って、振りぬいた剣を上段に戻し、ユージオの追撃に備えた。
しかし、ユージオもついに己の間合いに敵を捉え、右手の得物を高く振りかぶった。周囲に幾重にも浮遊する氷柱の残片に天井からの光が反射し、視界を霞ませるが、それは敵も同じことだ。
「せああっ!!」
「おうっ!!」
ユージオとベルクーリの気合が同時に響いた。
ぼっ、と凄まじい圧力を伴って、真上から分厚い鋼が降ってくる。
まさに必殺の名に相応しい一撃だ。うなじから背中にかけてがざわっと総毛立つ。歯を食い縛り、己の斬撃を右斜めから合わせる。
ベルクーリの鈍色の軌跡と、ユージオの薄青い軌跡が交錯した。
その瞬間。
かしゃーん! と儚い悲鳴を放って、ユージオの握った"剣"が砕け散った。
ベルクーリの目がわずかに見開かれた。あまりの手応えの無さに驚愕したのだろう。ユージオの右手にも、剣が破砕するときの衝撃はほとんど伝わらなかった。
それも当然だ。ユージオは、突進を開始する直前、握った青薔薇の剣を右に放り投げ、傍に屹立していた氷柱の一本を折り取って剣の代わりにしていたのだ。
ベルクーリの上段斬りは、撃剣によってユージオが後ろに弾かれることを予想した軌道だった。しかし、氷柱が抵抗なく砕けたため、ユージオは突進の勢いを削がれることなく、ベルクーリの目算よりも一歩深く懐に潜り込んだ。
轟、と必殺の唸りを上げて、時穿剣がユージオの左腕を掠めて背後に流れた。
ユージオは、氷柱の残骸を握っていた右手を左手で抱えると、右肩から全突進力を乗せた体当たりをベルクーリの腹にぶちかました。アインクラッド流"体術"、メテオブレイクなる技だ。本来ならこのあとに左からの斬撃が続くが、もう剣は無い。
替わりに、ユージオは両手を広げ、騎士長の体に組み付いた。
「ぬおっ……」
さしもの巨漢も、二重に虚を衝かれ、ぐらりと体勢を崩した。これが最初で最後の機だ。
「うおおおお!!」
叫びながら、ユージオは全身の力を振り絞り、騎士長もろとも右の浴槽目掛けて体を投げ出した。ベルクーリは左足を踏ん張って堪えようとしたが、凍りついた床の上で素足が滑った。
体が宙に浮く感覚に続いて、着水の衝撃が体の右側を激しく打った。
しかしそんなものは、全身を包み込む殺人的な冷たさに比べたら些細なものだった。
「なっ……!?」
ユージオに組み付かれたまま、ベルクーリが三度目の驚愕に声を漏らした。つい先刻まで己が浸かっていた煮えるような湯が、いつのまにか凍る寸前の冷水に変わっているのだ、それは驚くだろう。
立ち上がろうとする巨漢を左手で懸命に抑えながら、ユージオは右手で浴槽の底を探った。確かにこの辺に投げたはず――。
緻密な目算と、もう半分は運に助けられ、指先が馴染んだ愛剣の柄に触れた。
「ぬうううおっ!!」
ユージオを振りほどき、ベルクーリが立ち上がりかけた。
それよりほんの一瞬先んじて、ユージオは水中で青薔薇の剣をしっかり握り、叫んだ。
「凍れええええっ!!」
びしいいいいっ!
と、数千の鞭を鳴らすような衝撃音が迅った。
完全支配状態の青薔薇の剣を投げこまれ、凍結寸前にまで冷却されていた巨大浴槽の水は、二人の剣士を飲み込んだまま一瞬にして硬く硬く凍りついた。
全身を数万本の針に刺されるような凄まじい冷気に、ユージオは思わず喘いだ。真冬のルーリッドの森に裸で立ってもこれほどの寒さは感じまい。目を閉じれば、肌に触れているのが氷なのか灼熱の炎なのか分からないほどだ。
瞼を覆い始めた霜を拭いたかったが、左手は浴槽深くでベルクーリの腹を押さえ、右手は青薔薇の剣を逆手に握った拳がようやく氷の表面から突き出した状態でそれぞれがっちりと固定されてしまっている。やむなく懸命に瞬きして薄い氷の膜を振り落とし、濃密な靄を透かしてユージオは敵の様子を確かめた。
ベルクーリも、ユージオと同じく首元ぎりぎりのところまでが完全に氷中に没していた。直前に体を起こそうとしたせいで、左手も、時穿剣を握った右手も浴槽の底に突いた状態だ。
眉や髭から垂れ下がった極小の氷柱をぱりぱりと鳴らしながら、騎士長は低く唸った。
「よもや、敵を前に剣を放り捨てる剣士がこの世に居ようとはな。お前ェ一人で編み出した戦い方か?」
「……いえ。師……相棒が教えてくれたことです。"戦場のあらゆる物が武器とも罠ともなり得る"」