「なら……ちゃんとした旅の用意をしていけば……」

「あのねえキリト。君だって僕と同じくらいの歳なんだから、住んでた村では天職を与えられてたんでしょ? 天職を放り出して旅に出るなんてこと、できるわけないじゃないか」

「……そ、それもそうだな」

俺は頭をかきつつ頷きながら、注意深くユージオの様子を観察した。

 この少年が、単純なNPCでないことは明らかだ。豊かな表情や、自然そのものの受け答えは本物の人間としか思えない。

 しかし同時に、どうやら彼の行動は、現実世界の法律以上の効力をもつ絶対の規範によって縛られているように思える。そう、まるでVRMMO中のNPCが、決められた移動範囲内からは絶対に逸脱しないように。

 ユージオは、"禁忌目録"というものによって制限されているエリアに侵入しなかったので逮捕されなかった、と言った。その目録とやらがつまり彼を縛る絶対規範で、恐らくはフラクトライトそのものを直接規制しているのではないだろうか。ユージオの天職、つまり仕事が何なのかは知らないが、生まれたときから一緒だった女の子の生死以上に大切な仕事というのはなかなか想像できない。

そのへんのことを確かめてみようと、俺は言葉を選びつつ、水筒を口につけているユージオに尋ねた。

「ええと、ユージオの村には、禁忌……目録を破って央都に連れていかれた人がほかにもいるの?」

ユージオは再度目を丸くし、ぐいっと口もとを拭いながら首を横に振った。

「まさか。ルーリッドの三百年の歴史の中で、整合騎士が来たのは六年前の一回きりだ、って爺ちゃんが言ってた」

言葉を切ると同時に、革の水筒をひょいっと放ってくる。受け取り、栓を抜いて口もとで傾けると、冷えてはいないがレモンとハーブを混ぜたようなさわやかな芳香のある液体が流れ込んできた。三口ばかり飲み、ユージオに返す。

何食わぬ顔で俺も手の甲で口を拭ったが、内心では何度目かの驚愕の嵐が吹き荒れていた。

 三百年だって……!?

 そのあまりに長大な年月を実際にシミュレートしているなら、STRA機能は数百……ことによると千倍にも達する加速を実現しているということになる。となると、先週末に行った連続ダイブテスト中に、俺は実際のところどれほどの時間を過ごしたのだろうか。今更のようにぞっとすると同時に、二の腕に軽く鳥肌が立ったが、その生理反応のリアルさに感嘆する余裕はほとんどない。

データを得れば得るほど、逆に謎は深まっていくようだった。ユージオは果たして人間なのかプログラムなのか、そしてこの世界は一体何を目的として作られたものなのか。

 これ以上のことは、ルーリッドというらしい村に行って他の人間に接触してみないとわかりそうもなかった。そこで、事情を知るラースの人間に会えるといいけれど……と思いながら、俺はややこわばった笑みをつくり、ユージオに言った。

「ごちそうさま。悪かったな、昼飯を半分取っちゃって」

「いや、気にしないで。あのパンにはもう飽き飽きしてたんだ」

こちらは至極自然な笑顔とともに首を振ると、手早く弁当の包みをまとめる。

「じゃあ、悪いけどしばらく待っててね。午後の仕事を済ませちゃうから」

そう言いながら身軽な動作で立ち上がるユージオに向かって、俺は尋ねた。

「そういえば、ユージオの仕事……天職っていうのは、何なの?」

「ああ……そこからじゃ見えないよね」

ユージオはまた笑うと、俺に手招きをした。首を捻りつつ立ち上がり、彼のあとについて巨樹の幹をぐるりと回る。

そして、先刻とは別種の驚きに打たれて口をあんぐりと開けた。

巨大なスギの闇夜のように黒い幹が、全体の四分の一ほど、約一メートルの深さにまで切り込まれている。内部の木質も石炭を思わせる黒で、密に詰まった年輪に沿って金属のような光沢を放っているのが見て取れた。

視線を動かすと、切り込みのすぐ下に、一本の斧が立て掛けてあった。戦闘用ではないのだろうシンプルな形状の片刃だが、やや大ぶりの斧刃も、長めの柄も灰白色の同じ素材で作られているのが特徴的だ。マット仕上げのスチールのような不思議な光沢をもつそれをまじまじと凝視すると、どうやら全体がひとつの塊から削りだされた一体構造となっているようだった。

柄の部分にだけ、握りこまれて黒光りする革が巻かれたその斧を、ユージオは右手でひょいっと持ち上げると肩にかついだ。幹に刻まれたくさび型の切り込みの左端まで移動すると、腰を落として両足を開き、斧をしっかりと両手で握り締める。

細目と見えた体がぐうっとしなり、大きく後ろに引かれた斧は、一瞬の溜めののちに鋭く空気を切り裂いて見事切り込みの中央に命中し、かぁんと澄んだ金属音を大音量で鳴り響かせた。間違いなく、俺をこの空き地まで導いたあの不思議な音と同じものだった。

美しいとさえ言える身のこなしに感嘆しながら眺める俺の前で、ユージオは機械以上の正確さでペースと軌道を保ったまま斧打ちを繰り返した。テイクバックに一秒、溜めに一秒、スイングに一秒。一連の動作は、まるで、この世界にもソードスキルがあるのかと思いたくなるようななめらかさだ。

三秒にいちどのペースできっちり五十回、計百五十秒間斧を巨樹に叩き込んだユージオは、最後の一撃をゆっくりと深い切り込みから引き剥がすと、ふうっと長い息をついた。道具を幹に立てかけ、どさりと傍らの根っ子の上に座り込む。額に汗の珠を光らせながらはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているところを見ると、この斧打ちは俺が考えているよりはるかに重労働であるらしかった。

俺は、ユージオの呼吸が整うのを待って、短く話し掛けた。

「ユージオは樵なのか? この森で木を切ってるの?」

短衣のポケットから取り出した手巾で顔を拭いながら、ユージオは軽く首を傾け、少し考えた末に答えた。

「うーん、まあ、そう言っていいかもしれないね。でも、天職に就いてからの七年間で、切り倒した木は一本もないけどね」

「ええ?」

「このでかい木の名前は、ギガスシダーって言うんだ。でも村の人はみんな、"悪魔の樹"って呼んでる」

首を捻る俺に意味ありげに笑ってみせてから、ユージオははるか頭上の梢を仰いだ。

「そんなふうに呼ばれる理由は、この樹が周りの土地から、テラリアの恵みをみんな吸い取っちゃうからなんだ。だから、この樹の葉の下にはこんなふうに苔しか生えないし、影が届く範囲の樹はどれもあまり高くならない」

テラリア、というのが何かはわからないが、この巨樹と空き地を見たときの第一印象はあながち間違っていなかったようだ。俺は、先を促すようにこくこくと頷いてみせる。

「村の大人たちは、この森を拓いて麦畑を広げたいと思ってるんだ。でも、ここにこの樹が立ってるかぎり、いい麦は実らない。だから切り倒してしまいたいんだけど、さすがに悪魔の樹と言われるだけあって、恐ろしく硬いんだよ。普通の、鉄の斧じゃあ一発で刃こぼれして使い物にならなくなっちゃう。そこでこの、ドラゴンの骨から削りだしたっていう"竜骨の斧"を央都から取り寄せて、専任の"刻み手"に毎日叩かせることにしたのさ。それが僕」

事も無げにそう語るユージオの顔と、巨樹に四分の一ほど刻まれた斧目を、俺は半ば呆然としながら交互に眺めた。

「……じゃあ、ユージオは七年間、毎日ずーっとこの樹を切ってるのか? 七年やって、ようやくこれだけ?」

今度はユージオが目を丸くし、呆れたように首を振る番だった。

「まさか。たった七年でこんなに刻めるもんなら、僕ももう少しやり甲斐があるんだけどね。いいかい、僕は六代目の刻み手なんだ。ルーリッドの村がこの土地にできてから三百年、代々の刻み手が毎日叩いてやっとここまで来たんだよ。たぶん、僕がお爺さんになって、七代目に斧を譲るときまでに刻めるのは……」

ユージオは両手で二十センチくらいの隙間をつくってみせた。

「これくらいかな」

俺はもうゆっくり首を振ることしかできなかった。

 ファンタジー系のMMOではたいてい、樵や鉱夫といった生産職はひたすら地道な作業に耐えるものと相場が決まっているが、一生かけて一本の樹すら切り倒せないというのは常軌を逸している。ここが作られた世界である以上、この樹も何らかの意図のもとにここに配置されているのだろうが、それが何なのか、俺にはさっぱり見当がつかない。

 ――が、それはそれとして、むずむずと背中を這うものがある。

俺は、およそ三分間の休息のあと立ち上がり、斧を手に取ろうとしたユージオに向かって、半ば衝動的に声をかけた。

「なあ……ちょっと俺にもやらせてくれない?」

「ええ?」

「ほら、弁当を半分貰っちゃったからさ。仕事も半分手伝うのが筋だろう?」

 まるで、仕事を手伝おうと言われたのが生まれて初めてであるかのように――実際そうなのかもしれないが――ユージオはぽかんと口を開けていたが、やがてためらいがちに答えた。

「うん……まあ、天職を誰かに手伝ってもらっちゃいけないなんて掟はないけど……でも、案外難しいんだよ、これ。僕もはじめたばっかりの頃は、まともに当てることさえできなかったんだから」

「やってみなきゃわからないだろ?」

 俺はにっと笑ってみせながら、右手を突き出した。ユージオがなおも不安そうに向けてくる"竜骨の斧"の柄を、ぐっと握る。

斧は、軽そうな外見に反してずしりと手首に応えた。あわてて革が巻かれたグリップを両手でしっかり握り、小さく振って重心を確かめる。

 SAO、そしてALOのプレイを通して斧を武器にしたことは一度もないが、動かない的に当てるくらい容易いだろう、と俺は考えた。深い切り込みの左に立ち、ユージオの姿勢を真似て両足を広げて軽く腰を落とす。

いまだ気がかりそうに、しかし同時にどこか面白そうにこちらを見るユージオが充分離れているのを確認してから、俺は肩の高さにまで斧を振り上げた。歯を食い縛り、両腕にありったけの力を込めて、思い切り叩きつける。

がぎ、と鈍い音がして斧刃は標的から五センチちかくも離れた場所に食い込み、両手を猛烈なキックバックが襲った。堪らず斧を取り落とし、骨の髄まで痺れあがった両手首を脚のあいだにはさみこんで、俺はうめいた。

「い、いててて」

情けない、という以外に形容できない一撃を見て、ユージオがあっはっはっは、と愉しそうに笑った。俺が恨みがましく目を向けると、ごめん、というように右手を立て、尚も笑いつづける。

「……そんなに笑わなくても……」

「ははは……いや、ごめん、ごめん。力が入りすぎだよ、キリト。もっと腕の力を抜いて……うーん、何て言うかなあ……」

 もどかしそうに両手で斧を振る動作を繰り返すユージオを見ながら、俺は遅まきながら己の過ちに気付いた。この世界では、もちろん厳密な物理法則や肉体の動きがシミュレートされているわけではない。STLが作り出すリアルな夢なのだから、一番大切なのはイメージ力なのだ、おそらく。

 ようやく痺れの取れた手で、足元から斧を拾い上げる。無駄な力を抜くように構えると、体全体の動きを意識しながら、ゆっくり、大きな動作でテイクバック。SAOで散々使った水平スラッシュ系ソードスキル"ホリゾンタルスクエア"の一撃目を思い描きつつ、体重移動によって生じるエネルギーを腰、肩の回転に乗せ、最後の斧の頭に届けて、それを樹にぶつける――。

今度は切り込み自体から遠く離れた樹皮を叩いてしまい、がいん、とこれまた醜い音を立てて斧が跳ね返った。先ほどのように手が痺れあがるようなことは無かったが、自分の動きにばかり意識が行って、照準がおろそかだったらしい。これはまたユージオが笑うな、と思いながら振り返ると、少年は意外にもわずかに目を見開いているのみだった。

「お……キリト、今のはけっこういいよ。でも、途中から斧を見てたのがよくなかったな。視線は切り込みの真ん中から動かさないで。忘れないうちにもう一度!」

「う、うん」

次の一撃もお粗末なものだった。しかしその後も、あれこれユージオの指導を受けながら斧を振りつづけ、何十回目だか忘れた頃、ようやく斧が高く澄んだ金属音とともに切り込みの真ん中に命中し、ごくごく小さな黒い切片が飛び散った。

それを機にユージオと交替し、彼の見事な斧打ちを五十回眺める。また斧を受け取り、ひいひい言いながら俺も五十回振り回す。

何度繰り返しただろうか、気付くと太陽はすっかり傾き、空き地に差し込む光はほのかなオレンジ色を帯びていた。大きな水筒から俺が最後の一口を飲むと同時に、ユージオが斧を振り終え、言った。

「よし……これで千回、と」

「あれ、もうそんなにやったのか」

「うん。僕が五百回、キリトが五百回さ。午前と併せて一日二千回ギガスシダーを叩く、それが僕の天職なんだ」

「二千回……」

俺は改めて、黒い巨樹に刻まれた大きな斧目を眺めた。どう見ても、初めて見たときと較べてそれが深くなっている様子は無かった。何という報われない仕事なのか、と愕然としていると、背後からユージオの朗らかな声がかかった。

「やあ、キリトは筋がいいよ。最後のほうは、五十回のうち二、三回はいい音させてたし。おかげで僕も今日はずいぶん楽だったよ」

「いや……でも、ユージオが一人でやればもっとはかどっただろうな。悪かったな、足引っ張っちゃって」

恐縮しつつそう謝ると、ユージオは笑いながら首を横に振った。

「この樹は僕が一生かかっても倒せないって言ったろ。いいかい……いいものを見せてあげるよ。ほんとは、あんまり見ちゃいけないんだけど」

言いながら、巨樹に近づくと、左手を掲げた。二本の指で例の印を切ると、黒い樹皮をぽんと叩く。

 なるほど、この樹自体にも耐久力ポイントが設定してあるのか、と思いながら俺は駆け寄った。鈴のような音とともに浮かび上がってきた"窓"を、ユージオと一緒に覗き込む。

「うえ……」

俺は思わずうめいた。そこに表示された数字は、二十三万二千いくつ、という途方もないものだったからだ。

「うーん、先月見たときから五十くらいしか減ってないや」

ユージオも、さすがにうんざりしたような声で言った。

「つまり……僕が一年斧を振って、ギガスシダーの天命は六百しか減らせないってことだよ。引退するまでに、残り二十万を切れるかどうか、ってとこだね。ね、わかったろ。たった半日、仕事がすこしはかどらなくても、そんなのぜんぜんたいしたことじゃないんだ」

 その後、"竜骨の斧"をかつぎ、空になった水筒をぶらさげて村へと戻るあいだも、ユージオは快活にいろいろな話を聴かせてくれた。彼の前任者であるガリッタという名前の老人が、いかに斧打ちの名人であるかということや、村の同年代の少年たちはユージオの天職を楽なものだと考えていて、それが少々不満であるということ、それらの話に相槌を打ちながら、俺は相変わらずひとつのことを全力で考えていた。

それは、つまり、この世界はいったい何を目的として運営されているのか、ということだ。

 STLの仮想環境生成技術のチェックなら、それはもう完璧な形で達成されている。この世界が、そう簡単に現実と見分けられるようなものではないことは、俺はもう嫌というほど味わった。

 にもかかわらず、この世界はもう内部時間にして最低で三百年ものシミュレートを行っており、さらに恐ろしいことに、あの巨大な樹――ギガスシダーの耐久値とユージオの仕事量からすると、さらに千年ちかくも運用を続ける予定があると考えられるのだ。

 主観時間加速機能、STRAの倍率がどれほどの数字に達しているのかは知らないが、記憶を封印され、ここにダイブしている人間は、ことによるとまるまる一生分の時間を過ごすことにもなりかねない。確かに、現実世界の肉体には何の危険も及ばず、ダイブ終了時点で記憶を消去されるなら本人にとっては単なるおぼろげな"長い夢"なのかもしれないが――しかし、魂、フラクトライトはどうなのだ? 人の意識を作る不確定な光の集合体には、寿命はないのだろうか?

どう考えても、この世界で行われていることはあまりにも無茶、無謀だ。

 つまり、それほどの危険を冒してでも、達成するべき目的があるのだ。エギルの店でシノンが言ったように、単なるリアルな仮想空間の生成などという、アミュスフィアでも実現可能な事柄ではないのだろう。この、現実と完全に見分けのつかない環境において、無限とも言いたくなるような時間を費やして、はじめて到達できる"何か"――。

気付くと、いつのまにか細い道の先で森が切れ、オレンジ色の光が広がっているのが見えた。

出口から間近いところに、小さな物置小屋がぽつんと立っており、ユージオはそこに歩み寄ると無造作に戸を開けた。覗き込むと、中には普通の鉄斧がいくつかと、鉈のような小さな刃物、ロープやらバケツといった道具類と、なんだかわからない細長い革包みが雑多に詰め込まれていた。

それらの間にユージオは竜骨の斧を立てかけ、ばたんと戸を閉めた。そのまま振り向き、道に戻ろうとするので、俺は驚いて言った。

「え、鍵とかかけなくていいのか? 大事な斧なんだろ?」

するとユージオも驚いたように目を丸くした。

「鍵? なんで?」

「なんで、って……盗まれたりとか……」

 そこまで口にしてから、俺はようやく悟った。泥棒なんて居ないのだ。なぜなら、恐らく"禁忌目録"とやらに、盗みを働くべからず、というような一節が書いてあるのだろうから。

ユージオは笑い、歩きだしながら予想どおりの答えを返した。

「大丈夫だよ、誰も盗むような人なんていないし」

それを聞いたところで、ふとある疑問が浮かぶ。

「あれ、でも……ユージオは、村に衛士がいるって言ったよな? 盗賊が来たりしないなら、なんでそんな職業があるんだ?」

「決まってるじゃないか。闇の軍勢から村を守るためだよ」

「闇の……軍勢……」

「ほら、見えるだろう、あそこ」

そのとき、俺たちはちょうど最後の樹のあいだを抜けた。

眼前は、一面の麦畑だった。まだ若く、膨らみ始めてさえいない青い穂先が風に揺れている。傾きはじめた太陽の光がいっぱいに降り注ぎ、まるで海のようだ。道は、畑のあいだを蛇行しながら伸び、そのずっと先に小高い丘が見えた。周囲を木々にかこまれたその丘をよくよく見ると、砂粒のように小さな建物がいくつも密集し、中央には一際高い塔があった。どうやらあそこが、ユージオの暮らすルーリッドの村らしい。

そして、ユージオの指がさしているのは、村のさらに向こう、遥か彼方にうっすらと伸びる白い山脈だった。鋸のように鋭い険峻が、視線の届くかぎり左から右へと続いている。

「あれが、"果ての山脈"さ。あの向こうに、ソルスの光も届かない闇の王国があるんだ。空は昼でも黒雲に覆われていて、天の光は血のように赤かった。地面も、樹も、炭みたいに黒くて……」

遠い過去を思い出しているのだろう、ユージオの声がかすかに震えた。

「……闇の王国には、ゴブリンとかオークみたいな呪われた生き物や、いろいろな恐ろしい怪物……それに、黒い竜に乗った騎士たちが住んでる。もちろん、山脈を守る整合騎士がそいつらの侵入を防いでるけど、でも神聖教会の言い伝えによれば……千年に一度、ソルスの光が弱まったとき、暗黒騎士に率いられた闇の軍勢が、山脈を越えて一斉に攻めてくるんだって。そうなったら、整合騎士でも防げるかどうかわからないから、そのときに備えて村には衛士が、少し大きい街には衛兵隊があるんだよ」

そこでいぶかしそうに俺の顔をちらりと見て、ユージオは続けた。

「……子供でも知ってる話だよ。キリトはそんなことも忘れちゃったのかい?」

「う……うん、聞いたことはあるような気がするけど……」

冷や冷やしながらそう誤魔化すと、ユージオは疑うことなど知らないような笑顔で小さく頷いた。

「うーん、もしかしたらキリトは、このノーランガルス神聖帝国じゃなくて、東方や南方の国の出なのかもしれないね」

「そ、そうかもな」

俺は頷くと、話題を切り替えるべく、かなり近づきつつあった丘を指差した。

「あれがルーリッドの村? ユージオの家はどのへんなの?」

「正面に見えるのが南門で、僕の家は北門の近くだから、ここからは見えないなあ」

「ふうん。てっぺんの塔がその、教会?」

「うん、そうだよ」

目を凝らすと、細い塔の先端には、十字と円を組み合わせたような金属のシンボルが見て取れた。

「なんか……思ったより、立派な建物だな。ほんとに、俺みたいなのを泊めてくれるかな?」

「平気さ。シスター・アザリヤはいい人だから」

 不安ではあったが、おそらくはユージオと違って本物のNPC、というか自動応答プログラムなのだろうから――なんと言っても、STLは世界にたった六台しかないのだ――常識的な受け答えをしていれば問題はあるまい、と俺は考えた。もっとも、その常識というやつが、今の俺にはぽっかりと欠如しているわけだが。

理想的には、そのシスターがラースのオブザーバーであれば話が早い。しかしおそらく、世界の観察を目的としている人間が、村長だのシスターといった重要な役どころに就いていることはないだろう。村にもぐりこんだら、どうにかして接触すべき相手を探し出さなくてはいけない。

 それも、この小さな村にオブザーバーが常駐していれば、の話だけどな……と俺はやや心配になりながら、苔むした石造りのアーチをユージオと一緒にくぐった。

「はいこれ、枕と毛布。寒かったら奥の戸棚にもっと入ってるわ。朝のお祈りが六時で、食事は七時よ。一応見にくるけど、なるべく自分で起きてね。消灯したら外出は禁止だから、気をつけて」

言葉の奔流とともに降ってきた、簡素な枕と上掛けを、俺は伸ばした両手で受け止めた。

ベッドに腰掛けた俺の前で両手を腰に当てて立っているのは、年のころ十二ほどと見える少女だ。白いカラーのついた黒の修道服を身に付け、明るい茶色の長い髪を背中に垂らしている。くりくりとよく動く同色の瞳は、シスターの前でかしこまっていたときとは別人のようだ。

シルカという名のこの少女は、教会に住み込みで神聖魔術の勉強をしているシスター見習なのだそうだ。同じく教会で暮らす数人の少年少女たちの監督役でもあるというそんな立場のせいか、ずっと年長の俺に対してもまるで姉か母親のような口の利きぶりで、思わず笑みがこぼれそうになるのをどうにか堪える。

「えーと、あと他にわからないことある?」

「いいや、大丈夫。いろいろありがとう」

礼を言うと、シルカは一瞬だけくしゃっと大きな笑顔を見せ、すぐ鹿爪らしい顔に戻って頷いた。

「じゃあ、お休みなさい。――ランプの消し方はわかるわね?」

「……ああ、わかるよ。お休み、シルカ」

もう一度こくんと頷き、シルカは少し大きい修道服の裾を引きずりながら部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかるまで待って、俺はふう、と深い息をついた。

あてがわれたのは、教会二階の普段は使っていないという部屋だった。およそ六畳ほどのスペースに、鋳鉄製のベッドひとつ、揃いのテーブルと椅子、小さな書架とその横の戸棚が設えてある。膝に置いたままだった毛布と枕をシーツの上に放り投げ、俺は両手を頭の下で組みながらごろりとベッドに横になった。頭上のランプの炎が、じじ、と音を立ててかすかに揺れた。

「一体、こりゃあ……」

どうなってんだ。という言葉を飲み込みながら、村に入ってから現在までのことを脳内に逐一再生してみる。

 俺を連れて村に入ったユージオは、まずアーチから程近い場所にあった衛士の詰め所に向かった。中に居たのは、ユージオと同い年だというジンクという若者で、当初こそ俺を胡散臭そうな目で見ていたものの、"ベクタの迷子"であるという説明を拍子抜けするほどアッサリと受けいれて俺が村に入るのを許した。

 もっとも、ユージオが事情を話しているあいだ、俺の目は衛士ジンクが腰に下げていた簡素な長剣に釘付けで、声は右から左に抜けていたのだが。よっぽど、いささか古ぼけたその剣をちょっと借りて、この世界でも俺が――正しくは仮想の剣士キリトが身に付けた技が有効なのかどうか試してみようかと思ったのだがその衝動はどうにか抑えた。

詰め所を出た俺とユージオは、メインストリートをわずかな奇異の視線を浴びながら歩いた。それは誰だ、と尋ねてくる村人が少なからずおり、そのたびに立ち止まって説明するので、小さな村の中央広場にたどり着くまでに三十分近くを要した。一度など、大きな篭を下げた老婆が、俺を見て「なんてかわいそうに」と涙ぐみながら篭から林檎(のような果物)を出して俺に呉れようとするので当惑しつつも罪悪感を覚えたものだ。

 村を構成する丘の天辺に立つ教会に、ようよう到着したときには既に太陽はほぼ沈みかけていた。ノックに応えてあらわれた、"厳格"という言葉を具現化したとしか思えない初老の修道女がうわさのシスター・アザリヤで、俺は彼女を一目見て『小公女』に出てくるミンチン先生を連想してしまったためにこりゃあだめだ! と内心うめいた。のだがこれまた予想に反してシスターはあっけなく俺に宿を提供することを受諾し、それどころか夕食まで付けようと申し出たのだった。

 明朝の再会を約束してユージオとはその場で別れ、俺は教会へと招き入れられた。最年長のシルカ以下六人の子供たちに紹介され、静かながら和やかな食卓を共にし(供せられた料理は揚げた魚に茹でたジャガイモ、野菜スープというものだった)、食後は恐れたとおり子供たちから質問攻めに会い、どうにか躱したと思ったら三人の男の子たちと一緒に風呂に入れと言われ、それら多種多様の試練からようやく解放されてこの客間のベッドに転がっている――というわけなのである。

一日の疲れがずっしりと体に圧し掛かり、目を瞑ればすぐにも寝入ってしまいそうだったが、俺を襲う更なる混乱がそれを許そうとしなかった。

一体、これはどういうことなのだ。もう一度胸中で呟き、唇を噛み締める。

 結論から言えば、いわゆるNPCなどこの村には一人もいない。

 最初に会った衛士ジンク以下、道ですれ違った多くの村人たちや林檎をくれた老婆、厳しくも親切なシスター・アザリヤと見習いシスターのシルカ、親を亡くしたという六人の子供たち。その全員が、ユージオとほぼ同じレベルのリアルな感情、自然な会話力、精妙な動作を備えている。簡単に言えば、皆本物の人間としか見えない。少なくとも、通常のVRMMOに実装されている自動応答キャラクターなどでは決してない。

だが、そんなことは有り得ないのだ。

 既存のソウル・トランスレーターは六台のみ、ラースの分室で俺はたしかにそう聞いた。仮にそれから台数が増えていたとしても、ひとつの村を丸ごと構成するほどの人間をダイブさせる数には到底足りないはずだ。規模からして、このルーリッドの村には五百を下らない人間が住んでいるだろうし、あの、部屋ひとつぶんほどもあるSTL実験機がそう容易く量産できるものではないことは断言できる。だいいち、この世界に存在するらしい無数の村や街、そして噂の"央都"に住む人間たちのことを考えれば、仮に莫大な費用を投じてマシンを揃えることはできても、その数万――数十万? にのぼるテストプレイヤーを秘密裏に募ることなど絶対に不可能ではないか。

「あるいは……」

やはりユージオ達は本物の人間、つまり記憶を制限されたプレイヤーではない、ということなのだろうか? 常識を遥かに超えた、ほぼ完全の域に近づいた自動応答プログラム。

 AI、人工知能……という言葉が脳裏を過ぎる。

 近年、主にパソコンやカーナビなどの機械類のガイダンス用として、いわゆるAIは長足の進歩を遂げている。人間あるいは動物を模したキャラクターに向かって、音声で命令や質問をすると、かなりの正確さで必要な情報が返ってくるというものだ。あるいは、俺の馴染んだVRゲーム中のNPCもAIの一種と言っていい。クエストに必要な情報のやり取りは勿論、他愛ない雑談でもある程度自然な受け答えを実現しているので、"NPC萌え"を信条とする一派などは主に美少女タイプのものに付きまとい日がな一日話し掛けたりもする。

 だが勿論、それらAIに真の知能が備わっているわけではない。要は、こう言われたらこう答える、という命令の集合体でしかないので、データベースにない質問や会話には応答することができないのだ。その場合、大概のものは穏やかな笑顔とともに首を傾げ、『質問の意味がわかりません』という意味の台詞を口にする。

だが、今日いちにち、ユージオが一度でもそんなことを言っただろうか?

彼は、俺が無数に発した質問のすべてに、驚き、戸惑い、笑いといった自然な表情を交えながら適切極まりない回答を返した。ユージオだけではない、シスター・アザリヤも、シルカも、年少の子供たちも一度として『データがありません』などという顔は見せなかったのだ。

 俺が知る限り、既知の人工知能で最も高度なレベルに達しているのは、旧SAOにおいてメンタルケア用カウンセリング・プログラムとして開発され、今は俺とアスナの"娘"としてALOに存在するユイという名のAIだ。彼女は、丸二年間に渡って五万人のプレイヤーのあらゆる会話をモニター・分析しつづけ、ほぼ完全な擬似人格を確立するに至った。市販レベルのAIが、せいぜい数十人の開発陣との会話による"経験"しか得られないことを考えれば、ユイの応答や感情があれほど高度なことも納得できる。彼女はいまや、"自動応答プログラム"と"真の人工知能"との境界例とさえ言っていいほどのレベルに達している、と俺やアスナは考えている。

 しかし、そんなユイですら完璧ではない。彼女も時には、その単語はデータベースにありません、と首を傾げることがあるし、例えば"怒っているフリ"などの人間の微妙な感情は読み違ったりもする。会話のふとした一瞬に、拭いがたく"AIらしさ"が存在するのだ。

 ところがユージオやシルカたちにはそれがない。ルーリッドの村人たちが、プログラマーによって組まれた少年型、少女型、老婆型、盛年型……のAIなのだとしたら、それはある意味ではSTLなど遥かに上回るオーバー・テクノロジーだ。とうてい、実現可能なものだとは思えない。

俺は溜息とともに体を起こし、床に下りた。

 ベッドと、カーテンに覆われた窓との間の壁に、古めかしい鋳物のオイルランプが据えられており、揺れるオレンジ色の光とともにかすかな焦げ臭さを発していた。もちろん現実世界では本物に触ったことなどないが、幸いSAOの俺の部屋に似たようなものがあったので、見当をつけて底部にあるつまみを捻る。

きゅきゅっと軋む音とともに灯芯が締められ、一条の煙を残して灯りが消えた。暗闇に包まれた室内に、窓から細い月光がひとすじ落ちている。

俺はベッドに引き返すと、枕を窓側に置き、今度はちゃんと体を横たえた。わずかな肌寒さを感じて、シルカがくれた厚手の毛布を肩まで引っ張りあげると、抗しきれない眠気が襲ってきた。

 ――人間でもなく、AIでもない。では、何なのか?

 俺の思考の片隅には、すでにひとつの答えが浮かびつつあった。だが、それを言葉にするのはどうにも恐ろしかった。もし仮に、俺の考えていることが可能なのだとしたら――ラースはもはや、神の領域の遥か深奥に手を突っ込んでいる。それに較べれば、STLで魂を解読することなど、パンドラの箱を開けるための鍵を指先でつつく程度に等しい。

眠りに落ちながら、意識の底から響いてくる声に耳を傾ける。

 脱出方法を探して右往左往している時ではない。央都に行くのだ。行って、この世界の存在理由を見極めるのだ……。* からーん、とどこか遠くで鐘の音がひとつ聞こえたような気がした。

それとほぼ同時に肩口を遠慮がちに突付かれ、俺は毛布に深く潜行しながらもごもごと唸った。

「うー、あと十分……いや五分だけ……」

「だめよ、もう起きる時間よ」

「三分……さんぷんでいいから……」

尚も肩をつんつんされているうちに、ようやく小さな違和感がまどろみを押し退けて浮上してくる。妹の直葉なら、こんなまだるっこしい起こし方はしない。大声で喚きながら髪を引っ張る鼻をつまむ等の乱暴狼藉を働き、最終的には布団を引っぺがすという悪鬼の所業に及ぶ。

ああ、そうか、と思いながら毛布から顔を出し、薄く目を開けると、すでにきちんと修道服を身につけたシルカの姿が目に入った。俺と視線が合うと、呆れたように唇をとがらせる。

「もう五時半よ。子供たちはみんな起きて顔を洗ったわ。早くしないと礼拝に間に合わないわよ」

「……はい、起きます……」

暖かいベッドを、あるいは平和な眠りを名残惜しく思いながら上体を起こす。ぐるりと見回すと、そこは昨夜の記憶にあるとおりの、ルーリッド教会二階の客間だった。もしくは、ソウル・トランスレーターの作り出した仮想世界アンダーワールドの内部、と言うべきか。俺の奇妙な体験は、どうやら一夜限りのはかない夢、というわけではなさそうだ。

「夢だけど、夢じゃなかった、か」

「え、何?」

けげんそうな顔をするシルカに、あわてて首を振る。

「いや、なんでもない。着替えてすぐ行くよ、一階の礼拝堂でいいんだろ?」

「そう。たとえお客様で、ベクタの迷子でも、教会で寝起きするからにはお祈りしなくちゃだめなんだからね。一杯の水と藁のベッドでも、それを与えてくれる神様に感謝しなさいって、シスターがいつも……」

そのままお説教が始まりそうだったので、俺はそそくさとベッドから出た。寝巻きとして貸し与えられた薄手のシャツを脱ごうと裾を持ち上げると、今度はシルカが慌てたような声を出した。

「あ、あと二十分くらいしかないからね、遅れちゃだめよ! ちゃんと外の井戸で顔を洗ってくるのよ!」

 ぱたぱた、と足音をさせて床を横切り、大きな音をさせてドアが開閉するともうその姿は無かった。やっぱり、どう見てもNPCじゃないよな……と思いながらシャツを脱ぎ、椅子の背にかけてあった"初期装備"の青いチュニックを手に取る。ふと気付いて鼻先に持ってきてみたが、幸い汗の匂いはしないようだった。さすがに、匂いのもとになる雑菌類までは再現していないのだろう。もしかしたら、汚れや綻びといったものはすべて"天命"という名の耐久度に統合してあるのかもしれない。とは言え、この世界での滞在が長引くならいずれ下着を含めた替えは必要になるだろうし、そのために通貨を入手する方策も検討しなくてはならない。

などと考えながら上下とも着替えを終え、俺は部屋を出た。

階段を降り、炊事場の横にある裏口で適当なサンダルを借りて外に出ると、見事な朝焼けが頭上に広がっていた。まだ六時前と言っていたが、そういえばこの世界の住民は時間をどのようにして知っているのだろう。食堂にも、客間にも時計のようなものはなかった。

首を捻りながら、四角く切った石畳の上を歩く。すぐに、大きな樹の下に井戸が見えた。すでに子供たちが使ったあとらしく、周囲の草が濡れている。蓋を外し、つるべから下がった木製のバケツを落とすと、からからかぽーんと景気のいい音がした。ロープを引いて、バケツになみなみと汲まれた透明な水を傍らのたらいに移す。

 手が切れるほど冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、ついでにもう一杯汲み上げてごくごく飲むと、ようやく眠気の残滓がきれいさっぱり吹き飛んでいった。昨夜はおそらく九時前には眠りについたので、こんな早起きをしてもたっぷり八時間以上は眠っているはずだ……とそこまで考えてから、しかし、と首を捻る。

 ここがアンダーワールドなら、おそらくSTRA機能が今も働いているはずだ。倍率が三倍なら俺の実際の睡眠は三時間以下だし、まさかとは思うが昨日おぼろげに予想した、千倍という恐るべき加速ならば三十秒たらず(!)だ。それっぽっちで、こんなにも頭がすっきりするものだろうか。

 まったく、わけのわからないことだらけだ。一刻もはやくこの世界から脱出し、状況を確かめなければ……と思う反面、昨夜眠る前にかすかに響いた囁き声がまだ耳から離れない。

 俺が、桐ヶ谷和人の意識と記憶を保ったまま今この世界に在るのは、イレギュラーな事故の結果にせよ何者かの意思によるものにせよ、為すべき何かのためではないのか? 俺は別に運命論者ではないが、しかし反面、すべての物事には何らかの意味があるのだ、と考えがちであることも否定できない。だって――そうでなければ、SAO事件で消滅した一万の生命は、いったい何のために……。

ばしゃり、ともう一度顔に冷水をぶつけて、俺は思考を断ち切った。当面の行動方針はふたつだ。まずは、この村にラースの監視者が居るのか調べる。そして同時に、央都とやらに行く方法を探る。

 前者は、それほど難しいことではない気がする。STRAの倍率が不明な状況でははっきりしたことは言えないが、少なくともラースの技術者が村人を装って暮らしているなら、何年、何十年もぶっ続けでダイブすることは不可能なはずだ。つまり、行商やら旅行といった理由で長期間留守にすることがある住民がいれば、そいつがオブザーバーである可能性が高い。

 後者は――正直なところノーアイデアだ。ユージオは、央都まで馬でひと月かかると言っていた。その馬をどうやって手にいれるのか見当もつかないし、旅に必要な装備も資金も何一つ持っていないし、そもそも今の俺にはこの世界の基本的な知識が欠如しすぎている。ガイドをしてくれる人間が必要なのは明らかで、もっとも適任と思えるのはユージオだが、彼には一生かけても終わらない"天職"があるときている。

いっそ、俺も禁忌目録とやらに重大な違反をして、なんとか騎士に逮捕されれば話は早いのだろうか。しかし、それで央都まで連れていかれた途端斬首だの磔刑にされては、判明するのはこの世界で死んだらどうなるのかという、それだけだ。

あとでユージオに、神聖魔法には蘇生呪文もあるのかどうか聞いておかないとな、などと考えていると、教会の裏口がばたんと開き、シルカの小さな姿が見えた。と思ったとたん、大声で叱られてしまう。

「キリト、いつまで顔洗ってるのよ! 礼拝はじまっちゃうわよ!」

「あ、ああ……ごめん、すぐ行く」

俺は片手を上げると、井戸の蓋を戻して早足で建物へと向かった。

厳かな礼拝と賑やかな朝食が終わると、子供たちは掃除や洗濯といった雑務に取り掛かり、シルカはシスター・アザリヤと一緒に神聖術の勉強をするために書斎へ消えて、俺は食って寝るだけの居候の身に少々の罪悪感を覚えながら、今度は正面の入り口から外へと出た。

前庭を突っ切って青銅の門をくぐり、円形の中央広場の真ん中でユージオを待つ。

数分と経たないうちに、消えかけた朝靄の奥から見覚えのある亜麻色の髪が近づいてくるのが見えた。同時に、背後の教会の尖塔から、華麗なメロディを奏でる鐘の音が聞こえた。

「ああ……なるほど」

ユージオは、俺が開口一番そんなことを言ったので、驚いたように目をぱちくりさせた。

「おはよう、キリト。なるほどって、何が?」

「いや……。あの、一時間ごとに鳴る鐘の音が、毎回違う旋律なのに今ごろ気付いた。つまりこの村の人は、あの鐘で時間を知ってるわけなんだな」

「もちろん、そうだよ。"ソルスの光の下に"っていう有名な賛美歌を、一節ずつ十二に分けて鳴らしてるんだ。それと、半刻ごとにカーンとひとつ。残念ながらギガスシダーのところまでは音が届かないから、僕はソルスの高さで時間を見当するしかないんだけど」

「なるほどなあ……」

俺はもう一度呟きながら、塔の天辺を振り仰いだ。四方に切られた円形の窓の奥に、大小たくさんの鐘がきらきらと光っている。だが、たった今鐘が鳴り終わったばかりなのに、その下に人影は無かった。

「あの鐘は、どうやって鳴らしてるの?」

「……ほんとにキリトは、何もかも忘れちゃったんだなあ」

ユージオは、呆れたような面白がるような声で言ってから。咳払いして続けた。

「誰も鳴らしてないよ。あれは、この村にたった一つある神聖器だからね。決まった時刻に、一秒もずれることなくひとりでに鳴るんだ。もちろん、ルーリッドだけじゃなくて、ザッカリアにも、他の村や街にもあるんだけどね。……ああ、でも、今はもうひとつあるかな……」

闊達なユージオにしては珍しく、語尾が口の中に飲み込まれるように消えたので、俺は眉を上げて首を傾げた。だが、ユージオはそれ以上この話題を続ける気はないようで、ぱん、と両手で腰を叩いて言った。

「さて、僕はそろそろ仕事に行かないと。キリトは、今日はどうするんだい?」

「ええと……」

俺は少し考えた。この村をあちこち探検して回りたいのはやまやまだが、独りでうろついて妙なトラブルに巻き込まれないとも限らない。先刻考えたとおり、監視者の見当をつけるだけなら、ユージオに留守がちの村人がいないかそれとなく訊けばいいわけだし、彼をそそのかして央都に向かおうという俺の悪辣な計画のためには、ユージオの天職自体についてももう少し調べてみる必要がある。

「……ユージオさえよければ、今日も仕事を手伝わせてくれないか」

思案のすえそう言うと、ユージオは大きく笑って頷いた。

「もちろん、僕は大歓迎だけど。何となく、キリトがそう言うんじゃないかと思って、ほら、今日はパン代を二人分持ってきたんだ」

ズボンのポケットから小さな銅貨を二枚取り出し、掌でちゃりんと音を立てる。

「ええっ、いやそりゃ悪いよ」

慌てて手と首を振ると、ユージオは肩をすくめて笑った。

「気にしないで。どうせ、毎月村役場から貰う給金も、使うアテなんてないから無駄に貯めてるだけなんだ」

お、いいねいいね、央都までの路銀もこれで宛がついた。と、人非人の俺は内心で考えた。あとは、ユージオの天職、もしくはあのでかい樹をどうにかするだけだ。

そんなことを考えているのが今更ながら心苦しくなるほどに朗らかな笑顔を浮かべたまま、ユージオはじゃあ、行こうかと言って南へ足を向けた。その後を追いながら、俺はもう一度振り向き、毎時自動的に奏でられるという鐘楼を見上げた。

 まったく、実に奇妙な世界だ。現実と見紛うほどのリアルな農村生活が繰り広げられているそのすぐ傍に、拭いがたくVRMMO世界っぽさが漂っている。かつて暮らしたアインクラッドの各主街区でも、きっかり一時間ごとに時を告げる鐘の音が鳴り響いたものだ。

 神聖魔術、そして神聖教会か。はたしてそれらに、システムコマンド、ワールドシステム、と振り仮名を振っていいものかどうか。だがそうすると、世界の外にあるという闇の王国とやらの存在をどう考えるべきか。システムと対立するシステム……。

物思いに耽る俺の隣で、ユージオはパン屋と思しき店先でエプロン姿の小母さんと快活に挨拶をかわし、例の丸パンを四つ購入した。覗き込むと、店の奥では、店主らしい男が小麦の塊をばんばん捏ね、大型のかまどからは盛んに香ばしい匂いがしてくる。

 あと一時間、いや三十分も待てば焼きたてのパンが買えるのだろうに、と思うが、そのへんの融通の利かなさも"天職"という厳格なシステムの一部なのだろう。ユージオが森について斧を振りはじめる時間はすでに決定されており、動かすことはできないのだ。そんなものをひっくり返して彼を旅に連れ出そうというのだから、俺の計画が容易なものではないことも推して知るべし、だ。

だが、どんなシステムにも抜け道はある。風来坊の俺が、彼の手伝いとして仕事に潜り込むことができたように。

南のアーチをくぐり、俺とユージオは緑の麦畑を貫く道を、遠くに横たわる黒い森目指して歩き始めた。この場所からも、一際高く鋭いギガスシダーの姿ははっきりと見て取れた。


ユージオと交替しながら、懸命に竜骨の斧を振るうちに、ソルスという名の太陽はものすごい速さで中天まで駆け上った。

俺は、鉛のように重くなった両腕に鞭打って、五百発目のスイングをお化け杉の胴体に叩き込んだ。こぉーん、と胸のすくような高い音とともに、ほんの小さな木っ端が飛んで、巨樹の膨大な耐久値がわずかに減少したことを知らせた。

「うああ、もうだめだ、もう振れない」

俺は悲鳴を上げて斧を放り出すと、ぼろ切れのように苔の上に崩れ落ちた。ユージオが差し出してくる水筒を受け取り、シラル水と言うらしいさわやかな味の液体を貪るように飲む。

そんな俺の様子を、こちらは余裕しゃくしゃくな笑顔で見ながら、ユージオは教師のような口調で言った。

「でも、キリトは筋がいいよ、ほんと。たった二日で、かなりまともに当たるようになったじゃないか」

「……それでも、まだユージオにはぜんぜん及ばないからな……」

溜息をついて座りなおし、背中をギガスシダーの幹に預ける。

改めて、たっぷりと重い斧を振り回したおかげで、俺はこの世界における己のステータスをあるていど把握できた気がしていた。

 もう分かっていたことだが、旧SAO世界のキリトが備えていた超人級の筋力、敏捷力には及びもつかない。と言って、現実世界の虚弱な桐ヶ谷和人準拠というわけでもない。現実の俺なら、こんなごつい斧を何十回も振りまわせば全身筋肉痛で翌日は起き上がれないだろう。

つまりどうやら、今の俺の体力は、この世界における十七、八の若者の平均値ということなのだろう。さすがに七年もこの仕事をやっているだけあって、ユージオのそれは俺をかなり上回っているように感じる。

 幸いなのは、体を動かす勘、あるいはイメージ力といったものは、これまでプレイしたVRMMOと同じかそれ以上に有効に機能するようだ。重量と軌道を意識しながら何百回もスイングしたおかげで、どうやらこの"要求STRの高い"斧をそこそこコントロールできるという自信は持てそうだった。

 それに、同じ動作の反復練習というのは、かつてあの世界で反吐が出るほど行った、言わば俺の得意分野だ。少なくとも根気だけは、ユージオにも負けはしない――。

 いや……待て。俺はいま、何か重要なことを……。

「ほら、キリト」

ユージオがひょいっと放ってきた二個の丸パンが、俺の思考を中断させた。慌てて両手でひとつずつ受け止める。

「……? どうしたんだい、妙な顔して?」

「あ……いや……」

俺は、するりと滑り落ちてしまった思考のしっぽを捕まえようと四苦八苦したが、何か大切なことを考えたぞ、というあのもどかしさだけが霧のように漠然と漂うだけだった。まあいい、重要なことならそのうち思い出すだろう、と肩をすくめ、改めてユージオに礼を言う。

「ありがとう。遠慮なく、頂きます」

「不味いパンで悪いけどね」

「いやいやそんなそんな」

 大口を開けてがぶりと噛み付く。味はいい――が、正直なところやはり相当に固い。その感想はユージオも異なりはしないようで、顔をしかめて顎を全力で動かしている。

二人無言のまま一つ目のパンをどうにか胃に収め、顔を見合わせて微妙な笑いを浮かべた。ユージオはシラル水を一口含み、ふっ、と視線を遠くに向ける。

「ああ……ほんと、キリトにも、アリスのパイを食べさせてやりたかったなあ……。皮がさくさくして、汁気のある具がいっぱいに詰まってて……絞りたてのミルクと一緒に食べると、世の中にこれより美味しいものはない、って思えた……」

話を聞いているうちに、不思議に俺の舌にもそのパイの味が甦るような気がして、とめどなく生唾がわいた。慌ててふたつ目のパンを一口齧ってから、遠慮がちに尋ねる。

「なあ、ユージオ。その……アリスは、教会で神聖魔術の勉強をしてたんだよな? シスター・アザリヤの後を継ぐために」

「うん、そうだよ。村始まって以来の天才って言われて、十歳の頃からもういろんな術が使えたんだ」

どこか誇らしげにユージオは答える。

「じゃあ……今教会で勉強してる、シルカって子は……?」

「ああ……。シスター・アザリヤも、アリスが整合騎士に連れて行かれてからずいぶんと気落ちしてね。もう生徒は取らないって言ってたんだけど、そういう訳にもいかないからって、村の偉い人たちが説得して、一昨年ようやく新しい見習としてあの子が教会に入ったんだ。シルカは、アリスの妹なんだよ」

「妹……。へえ……」

どちらかと言うと、しっかり者のお姉さん、といった印象のシルカの顔を思い浮かべながら、俺は呟いた。あの子の姉というなら、アリスという少女もさぞかし面倒見のいい世話焼きタイプだったのだろう。のんびりしているユージオとは、きっといいコンビだったに違いない。

そんなことを考えながらちらりと視線を向けると、樵の少年は何故か、気がかりそうにちいさく眉を寄せていた。

「……歳が五つも離れてるから、僕はあんまり一緒に遊んだこととか無いんだけどね。たまに僕がアリスの家にいくと、いつも恥ずかしそうにお母さんやお婆さんの後ろに隠れてるような子だったな……。ガスフト村長や他の大人たち、それにシスター・アザリヤも、あのアリスの妹だからきっとシルカにも神聖術の才能があるってすごく期待してるみたいだけど……でも、どうなのかな……」

「シルカには、お姉さんほどの才能は無い、って言うのか?」

俺の直截すぎる訊きかたのせいか、ユージオはかすかに苦笑して首を振った。

「そうは言わないよ。誰だって、天職に就いたばかりの頃はうまくやれないさ。僕も、まともに斧を振れるまでには三年以上かかったんだ。真剣に頑張れば、どんな天職だって無理ってことはない。ただ……シルカは、ちょっと頑張りすぎてるような気がして……」

「頑張りすぎ?」

「……アリスは、神聖術の勉強をはじめてからも、べつに教会に住み込んでたわけじゃないんだ。勉強は午前中だけで、お昼には僕の弁当を届けてくれて、午後には家の仕事の手伝いをしてた。でもシルカは、それじゃ勉強の時間が足りないからって、家を出たんだよ。ちょうど、ジェイナやアルグが教会で暮らすようになって、シスターだけじゃ手が足りなかった、ってのもあったみたいなんだけど」

俺は、小さな子供たちの面倒をこまめに見ているシルカの姿を思い出した。とりたて辛そうには見えなかったが、確かに一日中勉強をした上で六人もの子供の世話をするのは、自身まだ十二歳でしかない少女にとっては簡単なことではないだろう。

「なるほどな……。そこに、更にわけのわからない風来坊が飛び込んできたわけか。せめて俺は、シルカに面倒はかけないようにしないとな」

明日はきちんと五時半に起きよう、と決意してから、そう言えばと言葉を続ける。

「あの教会で暮らしてる、シルカ以外の子供たちは、親を亡くしたんだって? 両親ともなのか? あの平和そうな村で、なんで六人も?」

それを聞いたユージオは、憂い顔を作って地面に視線を落とした。

「……三年前のことなんだけど、村に流行り病がきてね。ここ百年以上無かったことらしいんだけど、大人や子供が、二十人以上も亡くなったんだ。シスター・アザリヤや、薬師のイベンダおばさんが手を尽くしても、一度高い熱が出たらもう誰も助からなかった。教会にいる子供たちは、その時両親を失ったんだ」

俺は、予想外のユージオの言葉に唖然として言葉を失った。

 伝染病だって? ――しかし、ここは仮想世界なんだ。細菌やウイルスなんてあるはずがない。つまり、病気による死者は、世界を管理する人間あるいはシステムが作り出したものだ。しかし、何のために? 住民に意図的な負荷を与えることで、一体何をシミュレートしようというのだろう?

 結局、すべてそこに行き着くのだ。この世界が存在する理由――。

俺の深刻な顔をどう受け取ったのか、ユージオも沈んだ表情のままさらに口を開いた。

「流行り病だけじゃない。ちかごろ、おかしな事が多い気がするんだ。はぐれ長爪熊や、黒森狼の群が人を襲ったり、小麦の穂が膨らまなかったり……。ザッカリアからの定期馬車も、来ない月がある。その理由が……街道のずっと南に、盗賊団が出るからだ、って言うんだよ」

「な、なんだって」

俺は二、三度まばたきを繰り返した。

「盗賊って……だって、あれだろ? 盗みは、禁忌目録で……」

「勿論。すごい最初のほうのページに出てるよ、盗みを働くべからず、って。だから、もし盗賊団なんてものが本当にいたら、整合騎士があっという間に討伐してしまうはずなんだ。しなきゃならないんだよ、アリスを連れていった時みたいに」

「ユージオ……」

いつも穏やかなユージオの声に、不意に深い遣り切れなさ、とでも言うべきものが混じった気がして、俺はもう一度驚いた。が、それは一瞬で消え去り、少年の口もとにはまたかすかな笑みが浮かんだ。

「……だから、僕はそんなのただの噂話だろうって思ってる。でも、ここ二、三年で教会裏の墓地にだいぶ新しいお墓が増えたのは確かなんだ。そういう時期もある、って祖父ちゃんは言うんだけど」

そういえば、今がかねてからの疑問をぶつけてみるチャンスだ、と思い、俺はさりげなく聞こえるよう注意しながら尋ねた。

「……なあ、ユージオ。神聖術には、その……人を生き返らせるようなものは無いのか?」

どうせまた、常識を疑うような目で見られるんだろうなあ、と身構えていると、あにはからんやユージオは真剣な顔で小さく唇を噛み、それとわからない程に頷いた。

「……村の人たちはほとんど知らないだろうけど、高位の神聖術には、天命そのものを増やすようなものもある、ってアリスが言ってた」

「天命を……増やす?」

「うん。あらゆる人や物の天命は……僕やキリトのもだけど、人の手で増やすことはできないよね。たとえば人の天命は、生まれたときから、大きくなるに従ってどんどん増えていって、だいたい二十五歳くらいで最大になる。そのあとはゆっくりゆっくり減っていって、七十から八十歳くらいで無くなって、ステイシアのもとに召される。これくらいはキリトも覚えてるだろう?」

「あ、ああ」

当然初耳だったが、俺は鹿爪らしい顔で頷いた。

「でも、病気や怪我をすると、天命が大きく減る。傷の深さによっては、そのまま死んじゃうこともある。だから神聖術や薬で治療する。そうすると、天命は回復することもあるけど、決してもとの量以上には増えないんだ。年寄りにどんなに薬を飲ませても、若い頃の天命は戻らないし、深すぎる傷を癒すこともできない……」

「でも、それを可能にする術もある、ってことか?」

「アリスも、教会の古い本でそれを知って驚いた、って言ってた。シスター・アザリヤにその術について聞いたら、すごい怖い顔になって、本を取り上げられて読んだことは全部忘れなさいって言われた、って……。だから僕も詳しいことは聞いてないんだけど、なんでも、神聖教会のすごく偉い司教たちだけが使える術らしいんだ。百歳を超えた老人や、手足が千切れた怪我人の天命を呼び戻す……もしかしたら、天命がゼロになった亡骸にさえも命を与える術かもしれない、って……」

「へえ……。偉い司教、か。じゃあそれは、教会の僧侶なら誰でも使えるってわけじゃないのか」

「勿論だよ。だって、もしシスター・アザリヤにそんな術が使えたら、あの人なら絶対に子供の親、親の子供が病で死ぬようなことを黙って見てるわけないもの」

「なるほどな……」

 つまり、今俺がこの場で死んだとしても、教会の祭壇で壮麗なオルガンの音とともに甦る、というようなことは無いと考えてよさそうだった。その場合はおそらく、現実世界に復帰することになるのだろう。いや、そうでなければ大いに困る。STLに、フラクトライトを破壊するような機能は無い――無いはずなのだから。

 だが、脱出方法としてそいつを試すのは、可能な限り最後の手段としたいのもまた事実だった。ここがアンダーワールドであるというのは決して確定事項ではないのだし、その確信を持てたとしても、この世界の存在目的を知らないうちに脱出してしまっていいのか――と、魂の奥深くでささやく声がするのだ。

今すぐ央都に瞬間転移し、神聖教会とやらに駆け込んで、システムの中枢なのだろう司教たちの首根っこをぎゅうぎゅう締め上げてやりたい。ステータスは参照できるくせにテレポートができないとは、プレイアビリティに欠けることこの上ない。

 これが普通のVRMMOなら、今すぐGMを呼びつけて不満を捲し立てるか、運営体に送るメールの文面でも考えるところだ。だがそれが出来ない以上、システムの許す範囲で最大の努力をするしかない。そう、かつてアインクラッドで、フロア攻略に散々知恵を絞ったように。

俺はふたつ目のパンを胃に送り込むと、ユージオが差し出す水筒を口につけながら頭上に伸びるバカ高い幹を見上げた。

央都に行くためには、どうしてもユージオの協力が必要だ。しかし、真面目な彼に天職を放り出せと言っても無駄だろうし、そもそも禁忌目録で禁止されているのだろう。ならば、この厄介な樹を何とか片付けるしかない。

視線を戻すと、ユージオがズボンをはたきながら立ち上がるところだった。

「さ、そろそろ午後の仕事を始めよう。まずは僕からだね、斧を取ってくれないか」

「ああ」

ユージオの差し出す手に、俺は傍らに立て掛けてあった竜骨の斧を渡そうと、右手で柄の中ほどを握った。

 その瞬間、電撃のように脳裏に閃くものがあった。先ほど掌からするりと漏れていった"重要な何か"、その尻尾を今度こそ捕まえると、慎重に引っ張り上げる。

ユージオは確かこう言っていたはずだ。普通の斧では簡単に刃こぼれしてしまうから、央都から大枚はたいてこの竜骨の斧を取り寄せた、と。

 ならば、もっと強力な斧を使えばどうなのだ。さらなる攻撃力、耐久力を持ち、"要求STRの高い"やつを。

「な、なあユージオ」

俺は息せき切って尋ねた。

「村には、これより強い斧はないのか? 村になくても、ザッカリアの街とかに……。これを仕入れてからもう三百年も経つんだろ?」

だがユージオはあっけなく首を横に振った。

「あるわけないよ。竜の骨っていうのは、武器の素材では最高のものなんだよ。南方で作るダマスク鋼や、東方の玉鋼より固いんだ。これ以上強いって言ったら、それこそ整合騎士が持ってるような……神聖器でないと……」

語尾が揺れながらフェードアウトしていくので、俺は首をかしげて続きを待った。たっぷり五秒ほども沈黙したあと、ユージオはごく小さな声で、あたりを憚るように囁いた。

「……斧は無い。でも……剣ならある」

「剣?」

「ぼくが、教会の前で、時告げの鐘のほかに神聖器がもうひとつある、って言ったのを覚えてる?」

「あ……ああ」

「村で、知ってるのは僕だけだ。七年間、ずっと隠しておいたんだ……。見てみたいかい、キリト?」

「も、もちろん! 見たい、ぜひ見たい」

意気込んでそう言うと、ユージオはなおも思案する様子だったが、やがて頷いて一度握った斧を再度俺に押し返してきた。

「じゃあ、キリトから先に仕事を始めていてくれないか。取って来るけど、すこし時間がかかるかもしれない」

「遠くにあるのか?」

「いや、すぐそこの物置小屋さ。ただ……重いんだ、とてつもなく」

その言葉どおり、俺が五十回の斧打ちを終えるころようやく戻ってきたユージオは、疲労困憊した様子で額に玉の汗を浮かべていた。

「お、おい、大丈夫か」

聞くと、答える余裕もなさそうに短く頷きながら、肩に担いでいたものを半ば投げ出すように地面に落とした。どすん、と鈍い音が響き、苔の絨毯が大きくへこむ。はあはあと荒い息を繰り返してへたりこむユージオに、水筒を拾い上げて渡すのももどかしく、俺は横たわるそれを注視した。

見覚えがある。長さ一・三メートルほどの、細長い革包みだ。昨日ユージオが竜骨の斧を仕舞った物置小屋の床に、無造作に放り出されていたものに間違いなかった。

「開けていいか?」

「あ……ああ。気を……つけなよ。足の上に、落っことしたら、かすり傷じゃ……すまないぞ」

ぜいぜい喉を鳴らしながらそう言うユージオにひとつ頷いてから、俺はいそいそと手を伸ばした。

そして腰を抜かしそうなほどに驚いた。いや、ここが現実なら、本当に腰椎のひとつくらいズレてもおかしくない。それほどに、革包みは重かった。しっかり両手で握ったのに、まるで地面に釘止めでもされているかのごとく動こうとしないのだ。

現実世界における妹の直葉は、ハードな剣道部の練習に加えて筋トレの鬼なので、外見とくらべて存外重いのだが、包みの体感重量は誇張でなく彼女くらいありそうだった。改めて両足をしっかり踏ん張り、腰を入れて、バーベルを持ち上げるつもりで全身の筋力を振り絞る。

「ふっ……!」

みしみし、と各所の関節が軋んだ気がしたが、ともかく包みは持ち上がった。紐で縛ってあるほうが上にくるように垂直にすると、改めて下部を地面に預ける。倒れないように左手で必死に支えながら、右手一本でぐるぐる回してある紐を外し、革袋を下にずらしていく。

中から現れたのは、思わず溜息が出そうになるほど美しいひとふりの長剣だった。

柄は精緻な細工が施された白銀製で、握りにはきっちりと白い革が巻いてある。ナックルガードは植物の葉と蔓の意匠で、それが何の種類かはすぐにわかった。柄と同じく白革造りの鞘の上部に、鮮やかな青玉で、薔薇の花の象嵌が埋め込んであったからだ。

大変な年代物、という雰囲気ではあるが汚れや染みはまるで無かった。主を得ることなく長い、長いあいだ眠っていた剣、そんなふうに思わせる風格を漂わせている。

「これは……?」

顔を上げて尋ねると、ようやく呼吸が整ったらしいユージオはどこか懐かしそうな、切なそうな目の色でじっと剣を見つめながら口を開いた。

「"青薔薇の剣"。ほんとうの銘かどうかわからないけど、おとぎ話じゃそう呼ばれてる」

「おとぎ話だって?」

「村の子供……いや大人もだけど、誰だって知ってる話さ。――三百年前、ルーリッドの村を作った初代の入植者のなかに、ベルクーリっていう名剣士が居たんだ。彼にまつわる冒険譚は山ほどあるんだけど、中でも有名なのが"ベルクーリと北の白い竜"ってやつでね……」

ユージオはふっと視線をどこか遠くに向け、かすかな感傷の滲む声で続けた。

「……簡単に筋だけ説明すると、果ての山脈を探検に出かけたベルクーリは、洞窟の奥深くでドラゴンの巣に迷い込むんだ。主の白竜は幸い昼寝の最中で、ベルクーリは即座に逃げ帰ろうとするんだけど、巣に散らばる宝の山の中にひとふりの白い剣を見つけて、それがどうしても欲しくなってしまう。音を立てないように慎重に拾い上げて、さて一目散に逃げようとしたら、その途端剣からみるみる青い薔薇が生えてきて、ベルクーリをぐるぐる巻きにしちゃう。堪らず倒れたその音で、ドラゴンが目を醒まして……っていう、まあそういう話」

「そ、それからどうなったんだ」

つい引き込まれながら尋ねるが、ユージオは長くなるから、と笑いながら首を振った。

「まあ、いろいろあってベルクーリはどうにか許してもらって、剣を置いて命からがら村に逃げ帰ってきました。めでたしめでたし……他愛ないおとぎ話だよね。もし、それを確かめにいこう、なんて考える子供さえいなければ……」

深い後悔に彩られたその声を聞いて、俺は悟った。その子供とは、ユージオ自身のことなのだ。そして、彼の幼馴染のアリスという少女も。

しばしの沈黙のあと、ユージオは続けた。

「六年前、僕とアリスは果ての山脈までドラゴンを探しにいった。でも、ドラゴンはいなかった。かわりに、刀傷のある骨の山があるだけだった」

「え……ドラゴンを殺した奴がいるってのか? 一体、誰が……?」

「わからないよ。ただ……宝には興味のない人間だろうね。骨の下には、山ほど色々な宝物が転がってた。そして、その"青薔薇の剣"も。もちろん、あの頃の僕じゃ重くてとても持ち帰れなかったけど……。――そしてその帰り道、僕とアリスは洞窟の出口を間違えて、山脈を闇の王国側に出ちゃったんだ。あとは昨日話したとおりさ」

「そうか……」

俺はユージオから視線を外し、改めて両手で支えたままの剣を眺めた。

「でも……その剣が、なんでここに?」

「……おととしの夏、もう一度北の洞窟まで行って、持ってきたんだ。安息日ごとにほんの何キロかずつ運んでは、森の中にかくして……あの物置小屋まで持ち帰るのに、三月もかかったんだよ。なんでそんなことしたのか……ほんと言うと、僕にもよくわからないんだけどね……」

アリスのことを忘れたくなかったからか? それとも、いつかこの剣を携えてアリスを助けにいくつもりだった?

色々な想像が胸を過ぎったが、それを言葉にするのは憚られた。代わりに、俺は歯を食い縛ってもう一度剣を持ち上げ、右手で柄を握ってそれを抜こうとした。

まるで地面に深く刺さった杭を引き抜こうとするがごとき凄まじい抵抗があったが、一度動き出すとあとは押し出されるような滑らかさで鞘走った。シャーン、と涼しげな音を立てて刀身が抜け、同時に右肩から腕がもげそうになり、俺は慌てて左手の鞘を捨てて柄を両手で握る。

革造りと見えた鞘にすらとてつもない重量があったようで、ずんと音を立てて石突が地面に突き刺さった。危く左足を貫かれるところだったが、飛び退る余裕もなく俺は懸命に抜き身を支えた。

幸い、剣は鞘のぶん三割方軽くなり、どうにかしばらく保持していられそうだった。俺は吸い寄せられるように目の前の刀身に見入った。

不思議な素材だった。幅およそ三センチとやや細身のそれは木漏れ日を受けて薄青く輝いている。よくよく眺めると、日光はその表面で跳ね返されるだけでなく、いくらかは内部に留まっていつまでも乱反射しているように見えた。つまりわずかに透明なのだ。

「普通の鋼じゃないよね。銀でもないし、竜の骨とも違う。もちろんガラスでもない」

ユージオが、わずかに畏れを感じさせる調子で呟いた。

「つまり、人の手によるものじゃない、ってことさ。神様の力を借りて強力な神聖術師が鍛えたか、あるいは神様が手ずから創りだした……そういうもののことを"神聖器"って言うんだ。その青薔薇の剣も、神聖器のひとつだと、僕は思う」

神。

 ユージオの話や、シスターのお祈りの端々に"ソルス"や"ステイシア"といった神なる存在が出てくるのには気付いていたが、俺はいままでこういうファンタジー世界にありがちな概念のみの設定物だと思い込んでいた。

 だがこのようにして、神が創ったアイテムなどというものが登場するからには考えを改めるべきなのだろうか。仮想世界における神――それはつまり、現実世界における管理者のことか? あるいは、サーバー内のメインプログラムのことなのか?

 それもまた、考えて答えの出る疑問ではなさそうだった。今のところは、神聖教会とやらとひっくるめて"システム中枢"的存在と位置付けておくしかない。

 ともかく、この剣が、システム的にかなり上位のプライオリティを与えられたオブジェクトなのは間違いないだろう。あとは、同じく上位オブジェクトと目されるギガスシダーと、どちらの優先度が高いか――。それによって、ユージオと一緒に央都にいけるかどうかも決まるわけだ。

「ユージオ。ちょっと今の、ギガスシダーの天命を調べてくれないか」

剣を構えたままそう言うと、ユージオは疑わしそうな目で俺を見た。

「ちょっとキリト……まさか、その剣でギガスシダーを打とうなんて言うんじゃないよね」

「まさかどころか、それ以外にこいつを持ってきてもらった理由があるとでも?」

「ええー……でもなあ……」

首を捻って考え込むユージオに、迷う隙を与えるものかと畳み掛ける。

「それとも、禁忌目録に、ギガスシダーを剣で叩いちゃだめだ、なんて項目があるのか?」

「いや……そりゃ、そんな掟はないけど……」

「あるいは村長とか、前任の……ガリッタ爺さんに、竜骨の斧以外使っちゃだめだと言われたか?」

「いや……それも……。……なんだか……前にもこんなことあったような気がするなぁ……」

ユージオはぶつぶつ言いながら、それでも腰を上げるとギガスシダーに近づいた。左手で印を切り幹を叩き、浮かんできたウインドウを覗き込む。

「ええと、二十三万二千三百と十五、だね」

「よし、それ覚えといてくれよ」

「でもさあ、キリト。その剣をまともに振ろうだなんて、絶対無理だと思うよ。持ってるだけでふらふらしてるじゃないか」

「まあ見てろって。重い剣は力で振るんじゃない。重心の移動がミソなんだ」

 もうはるかな昔のこととなってしまったが、旧SAO世界において俺は好んで重量のある剣を求めた。手数で勝負する速度重視の武器よりも、重さの乗った一撃で敵を粉砕する手応えに魅せられたからだ。レベルが上昇し、筋力値が増加するに伴って剣の体感重量は減少してしまうためその都度より重いものに乗り換え、最終的に装備していたやつはたぶんこの青薔薇の剣と大差ない手応えがあったはずだ。その上、往時の俺は左右の手で一本ずつ剣を操るなどという荒業さえこなしていたのである。

もちろんワールドシステムの根幹が違うのだから単純に同一視はできないが、少なくとも体捌きのイメージくらいは流用できよう。ユージオが樹から離れるのを待って、俺は深い斧目の左端に移動すると、腰を落とし、持っているだけで両腕が抜けそうになる剣を下段に構えた。

 連続技でも何でもない、単純な右中段水平斬りでいいのだ。SAOのソードスキル名を借りれば"ホリゾンタルアーク"、スキル熟練度50足らずでマスターできる超のつく基本技。

俺は呼吸を整えると、体重を右足に移しながらテイクバックを開始した。剣の慣性質量に引っ張られ左足が浮く。そのまま尻餅をつきそうになるが、剣尖がトップポイントに達するまで必死に堪え、右足で思い切り地面を蹴って重心を左半身に移していく。同時に脚、腰の捻転力

を腕から剣に乗せ、スイングを開始する。

 剣が発光することも、動きが自動的に加速されることもなかったが、俺の体は完璧にソードスキルの型をトレースしていった。着地した左足がずしんと地面を震わせ、移動する巨大な質量は慣性に逆らうことなく理想の軌道に乗って突進する――。

が、模範的演技はそこまでだった。踏ん張りきれずに両足が膝からふらつき、剣は目標を遥か離れた樹皮に激突した。

ぎいいいん、と耳をつんざくような音がして、周囲の森から一斉に小鳥が飛び立ち四方へ逃げ出していった。が、俺はそれを見ることもできなかった。反動に耐え切れず手が柄から離れ、無様に宙を飛ぶと、顔から苔に突っ込んだのだ。

「わあ、言わんこっちゃない!」

駆け寄ってきたユージオに助け起こされた俺は、口に詰まった緑の苔を必死に吐き出した。真っ先に着地した顔もさることながら、両手首、腰、両膝が悲鳴を上げたくなるほど痛い。しばしその場にうずくまって呻吟してから、どうにか声を絞り出す。

「……こりゃだめだ……ステータスが真っ赤だ……」

 旧SAOにおいて要求STRを上回る武器を装備したときのウインドウ表示状態がユージオに伝わるはずもなく、不思議そうに首をひねる彼に向かって俺は慌てて言い添えた。

「いや、その……ちょっと体力が足らないみたいだな。ていうか、あんな化け物、装備できる奴がいるのかよ……」

「だから、僕らには無理なんだって。ちゃんと剣士の天職を得た……それも、街の衛兵隊に入れるくらいの人でないとさ」

俺は肩を落とし、右手首をさすりながら振り返った。ユージオもつられたように背後を見る。

そして二人同時に呆然と凍りついた。

青薔薇の剣は、美しい刀身を半分ちかくもギガスシダーの樹皮に食い込ませ、そのまま空中に横たわっていた。

「……うそだろ……たった一撃で、こんな……」

ふらりと立ち上がったユージオは、しばらく絶句したのちにかすれ声で呟いた。

右手の指先をおそるおそる伸ばし、剣と樹の接合部をゆっくりなぞる。

「刃が欠けたんじゃない……ほんとに、ギガスシダーに切り込んでる……」

俺も全身の痛みを堪えながら立つと、汚れた服をはたきながら言った。

「な、試してみただけのことはあるだろ。その青薔薇の剣は、竜骨の斧よりも……その、攻撃力が上なんだ。もういちど、ギガスシダーの天命を見てみろよ」

「う、うん」

頷き、ユージオは再度印を切って樹皮を叩いた。迫り出したウインドウを食い入るように眺める。

「……二十三万二千三百十四」

「な、なに」

今度は俺が驚く番だった。

「たった一しか減ってないのか? それだけ深く食い込んでるのに……。どういうことだ……やっぱり斧でないと駄目なのか……?」

「いいや、そうじゃないよ」

ユージオは、腕を組むと首を左右に振った。

「切り込んだ場所が悪いんだ。皮じゃなくて、ちゃんと斧目の中心を叩けば天命はもっと減ったと思うよ。……たしかに、この剣を使えば、竜骨の斧より遥かに早く樹を刻めるかもしれない……それこそ、僕の代でこの天職が終わってしまうほど……。――でも」

振り向いたユージオは、じっと俺を見ると、難しい顔で軽く唇を噛んだ。

「それも、ちゃんと剣を使いこなせれば、の話だよ。一度振っただけでそんなに体を痛めて、しかも狙ったところに当てられないんじゃ、結局斧を使うよりも仕事は遅くなってしまうんじゃないかな」

「俺は駄目でも、ユージオならどうだ? お前のほうが、俺より力がありそうだ。一回、そいつを振ってみろよ」

俺が食い下がると、ユージオは尚も首を捻っていたが、やがて、じゃあ一回だけ、と呟いて樹に向き直った。

食い込んだままの青薔薇の剣の柄を両手で握り、こじるように動かす。刃が樹皮からようやく離れた、と思った途端ユージオの上体がふらふらと泳ぎ、剣先がずしんと音を立てて地面に落ちた。

「わっ、なんだよこの重さは。これはとても無理だよ、キリト」

「俺に振れたんだ、ユージオにもできるさ。要領は斧と大して変わらない。斧を使うときよりももっと体の重さを利用して、腕の力じゃなく全身で振り回すんだ」

言葉でどれほど伝わったか不安だったが、やはり長年斧打ちを続けてきただけあって俺の言わんとするところをユージオはすぐに理解したようだった。純朴そうな顔を引き締めると小さく頷き、腰を落としてぐいっと剣を持ち上げる。

ゆっくり後ろに剣を引き、わずかな溜めのあと、シッと鋭い呼気とともに猛烈なスピードでスイングを開始した。右足つま先が一直線に走るところなどは、俺も驚く見事な体重移動態だ。空中に青い光の軌跡を残して、剣尖が深い斧目の中心目掛けて突進していく。

 ――が、最後の一瞬で、すべての質量を支える左足がずるっと滑った。跳ね上がった剣はV字の切れ込みの上辺を叩き、がっつと鈍い音を発して止まった。直後、俺とは逆に真後ろに吹っ飛んだユージオは、太い根にしたたか尻を打ち付けて低い呻き声を上げた。

「うぐっ……」

「お、おい、平気か」

慌てて駆け寄ると、さっと右手を上げてなおもしかめっ面を続ける。その様子を見て、俺は今更ながら、この世界には痛覚が存在するのだ、という事実に気づいた。

 SAOを含むVRMMOゲームは、痛みの感覚を遮断するペインアブソーバという仕組みを備えている。脳の錯覚によって発生する幻の痛みですら無効化するので、VRゲーム内でヒットポイントが一桁になるまで血みどろの肉弾戦に興じることもできる。

だが、この世界にはそんなエンタテインメント精神は欠片も無いようだった。ようやく収まりつつあるとは言え、俺の手首や肩は今もずきんずきんと鈍く疼いている。捻ったり打ち付けた程度でこの有様なのだ。これが、武器による深手なら一体どれほどの苦痛がもたらされるのだろうか。

アンダーワールドで今後、剣を手に戦うつもりなら、その前にこれまでは要求されたことのない種類の覚悟を決めておく必要がありそうだった。何せ、俺はこれまで、重量のある刃によって肉体を叩き斬られる痛みなど想像すらしたこともないのだから。

どうやら、俺よりは苦痛に耐性のあるらしいユージオは、わずか三十秒ほどで渋面を消すと、ひょいっと身軽に立ち上がった。

「うーん、これは無理だよ、キリト。狙いどころに当たる前に、こっちの体が壊れちゃうよ」

苦笑混じりに肩をすくめ、ギガスシダーに向き直る。青薔薇の剣は、斧目の上側に浅い角度で命中したあと弾かれて、樹の根元に斜めに突き立っていた。

「いい線行ってたと思うけどなあ……」

俺は未練がましくそう言ったが、ユージオは首を振ると地面から鞘を拾い上げ、脚をふらつかせながら引き抜いた剣を慎重に収めた。その上から革袋を被せると、元通りくるくると紐で縛る。少し離れた岩の上に剣を横たえ、ふうっと長い息をついて、立てかけてあった竜骨の斧を手に取った。

「うわあ、なんだかこの斧が鳥の羽みたいに軽く思えるよ。――さ、ずいぶん時間を取っちゃったからね、午後の仕事はがんばらないと」

こーん、こーんとリズミカルに斧を振り始めたユージオの背中から視線を外し、俺は横たわる剣のところまで歩み寄ると、指先でそっと革袋越しに鞘を撫でた。

考え方は間違っていないはずだ。この剣を使えば、ギガスシダーは必ず切り倒せる。しかし、ユージオの言うとおり、無理矢理振り回してどうにかなる代物ではないのもまた確かだ。

 剣がこうして存在する以上、これを装備し自在に扱える人間もどこかに居るのだろう。俺やユージオは、システムに規定されたその条件を満たしていないのだ。条件とは何だ? クラス? レベル? ステータス? 一体それを、どうやって調べれば……。

「…………」

そこまで考えたところで、俺はしばし言葉を失った。己の思考の鈍さに愕然としたからだ。

 もちろん、ステータスウインドウを見ればいいに決まっているではないか。昨日、ユージオがパンの"窓"を開いたときに、それに思い至らなかったとはまったくどうかしている。

俺はいそいそと左手を伸ばすと、指先で例のマークを描き、少し考えてから右の手の甲を叩いた。予想違わず、鈴の音とともに浮かび上がってきた紫の矩形を食い入るように眺める。

パンのウインドウとは違い、そこには複数行の文字列が表示されていた。咄嗟に隅々までログアウトボタンを探したが、残念ながらそれらしいものは存在しない。

 まず、最上段に"UNIT ID:NND7-6355"の一文。ユニットID、という言葉の響きには少々ぞっとしないものがあるが、深く考えるのは止めることにする。続く英数字は、おそらくこの世界に存在する人間の通し番号だろうか。

 その下に、パンやギガスシダーにもあったDurabilityPointの表示がある。値は"3280/3289"となっている。普通に考えれば左が現在値、右が最大値だろうか。わずかに減少しているのは、先ほど重い剣を無茶して振り回したせいかもしれない。さらに下方へ視線を動かす。"ObjectControlAuthority:38"とある。その下に、"SystemControlAuthority:1"の文字列が続く。

 それだけだった。RPGに必須と思える経験値やレベル、ステータスなどの表示はどこにもない。俺は唇を噛み、しばし唸った。

「うーん……オブジェクト・コントロール権限……これかな……」

単語の感触からして、アイテムの使用に関連するパラメータと思えなくもなかった。しかし、三十八、と言われてもそれが何を意味するのかまったく見当もつかない。

左右に何度も頭を捻ったのち、俺はふと思いついて、自分のウインドウを消去すると今度は目の前に横たわる青薔薇の剣の情報を引き出してみることにした。袋の口をゆるめ、少しだけ柄を露出させると、印を描くものもどかしくそっと叩く。

 浮かび上がったウインドウには、耐久値"197700"という数字のほかに、求めるものもあった。すぐ下に浮かぶ"Class 45 Object"なる表示が、先ほどのコントロール権限と対応するものである可能性は高い。俺の数字は確か三十八。四十五には届いていない。

剣の窓を消去し、元通り袋を縛ってから、俺はごろりとその場に横になった。うららかな青空を睨みながら、ふうっと溜息をつく。いくつかの情報は得たものの、結局俺がこの青薔薇の剣を使うことはできないらしい、という事実を数値で確認したにすぎない。権限レベルを上昇させられればいいのだが、その方法は見当もつかないと来ている。

 この世界が、大まかには一般的VRMMOのシステムに則って動いているとすれば、何らかのパラメータを上げたいなら、長期間の反復訓練をするか、モンスターを倒して経験値を稼ぐかしないのだろうが、前者を試みる余裕は時間的にも心理的にも無いし、後者に至ってはフィールドにモンスターのモの字も見かけない。「レアアイテムを手に入れたものの装備要件レベルが足りない」という状況は、ふつうは経験値稼ぎに邁進するモチベーションを高めてくれるものだが、レベルの上げ方がわからなければ上昇するのはフラストレーションだけである。

 MMOゲームは、攻略サイトが存在しない初期の手探り状態がいちばん楽しい――などというヘビーユーザー気取りの発言は、現実に戻ったらもう二度としないぞ。などと益体もない決意を固めつつ見守るうちに、五十回の斧打ちを終えたユージオが、汗を拭いながら振り向いた。

「どう、キリト? 斧が振れそうかい?」

「ああ……。痛みはもう引いたよ」

俺は振り上げた両脚ではずみをつけて立ち上がり、右手を伸ばした。受け取った竜骨の斧は、確かに青薔薇の剣と較べれば笑いたくなるほど軽かった。

 せめて、この斧振り行為によって少しでも問題のパラメータが上昇することを祈ろう。そう思いながら、俺は両手で握った斧をいっぱいに振り上げた。* 人間の手によらず自動生成された仮想世界。

 その概念には、詩乃の胸を高鳴らせるものがあった。なんとなれば、ちかごろ詩乃は、VRMMOゲーム世界の"恣意的デザイン"に違和感を覚えることが往々にしてあるのだった。

 既存のVRワールドは、当然ながら端から端まで、開発会社の3Dデザイナーが組み上げたものだ。廃墟に転がる古タイヤ、荒野に生えるサボテン、それらはどんなに何気なく見えても、偶然そこにあるものではない。デザイナーが、何らかの意図のもとに配置したオブジェクトなのだ。

ゲームプレイ中に、一度そんなことを考えてしまったが最後、詩乃の胸の奥ですっと醒めるものがある。自分たちは所詮、開発者たちという名の神様の掌中で右往左往するだけの存在なのだ、ということを否応無く意識させられてしまうからだ。

 もともと、愉しむためにガンゲイル・オンラインを始めたわけではない詩乃は、過去の呪縛を乗り越えたいまでも、GGOの中で己を鍛えることには何らかの現実的意味があると考えている。リアルでもモデルガンを携帯し、揃いの記章バッジを服に飾って兵士を気取るような一部のプレイヤー連中には怖気が走るが、そういうことではなく、ゲーム内でシノンが身に付けた忍耐力、自制力といったものは現実の朝田詩乃をもわずかながら強くしてくれているという信念があるし、また逆に言えば、もしそうでなければ決して少ないとは言えない時間と金銭をつぎ込んで仮想世界に飛び込み続ける甲斐がないというものではないか。

 人見知りの激しい自分が、わずか数ヶ月の付き合いで結城明日奈とここまで仲良くなれたのもそのへんに理由があるのではないか、と詩乃は思う。いつもふわふわと笑っている彼女だが、同じような価値観の持ち主――つまり、VRゲームを逃避的に遊ぶのではなく、現実の自分をも高めるという目的意識を持つ人種である、ということは疑いようもない。簡単に言えば、明日奈もまた戦士である、ということだ。

 なればこそ、詩乃はVR世界がただの作り物でありその内部で起きることがすべて虚構だとは思いたくない。思いたくないが、あまねくVR世界には製作者が存在するのもまた事実である。明日奈の家に泊まりにいったとき、照明を落とした部屋で詩乃はその違和感のことをつっかえつっかえ口にしてみた。すると、大きなベッドに並んで横たわった明日奈は、しばらく考えてから言った。

『詩乃のん、それはこの現実世界も同じことだと思うよ。いまはもう、わたし達に与えられた環境なんて、家や街も、学生っていう身分も、社会構造まで、ぜんぶ誰かがデザインしたものなんだよね……。たぶん、強くなる、って、その中で進みたい方向に進んでいける、ってことじゃないかな』

少し間をあけて、明日奈は笑いを含んだ声で続けた。

『でも、一度見てみたいよね。誰かがデザインしたわけじゃないVR世界。もしそういうのが実現したら、それはリアル以上のリアルワールドってことになるのかも、ね』

「リアルワールド……」

詩乃が無意識のうちに呟くと、どうやら同じことを思い出していたらしい明日奈が、テーブルの向こうでこくりと頷いた。

「キリト君……じゃあ、それはつまり……ソウルトランスレーターなら、主観的にはこの現実世界と同じかそれ以上の現実が作れる、ってことなの? デザイナーのいない、ほんとの異世界が?」

「うーん……」

和人はしばし考えこみ、やがてゆっくりと首を振った。

「いや……現状では難しいだろうな。単純な森とか草原とかは、オブジェクトのランダム配置でも生成できるだろうけど、整合性のある文明世界となると結局は人間の組んだアルゴリズムが必要だろうからな。あるいは……実際にプレイヤーが原始的世界から暮らし始めて、都市が自然に出来るのを待つか……」

「あはは、それはずいぶんと気の長い作戦だねー。百年くらいかかりそうだね」

明日奈と詩乃は同時に笑った。和人はなおも眉間にしわを刻んで考え込みつづける様子だったが、そのうち顎をなぞりながらぽつりと呟いた。

「文明シミュレートか。いや……あながち無いでもない話かもな。中に持ち込む記憶は制限すればいいんだし……STLのSTRA機能が進化すれば……」

「エスティーエルのエスティー……何だって?」

略語の連発に詩乃が顔をしかめると、和人は瞬きして顔を上げた。

「ああ……ソウル・トランスレーション技術による魔法その2、さ。さっき、夢の話をしたろ」

「うん」

「ときどき、ものすごく長い夢を見て、起きたらぐったり疲れてる、みたいなことあるよな。怖い夢のときとか特に……」

「あー、あるある」

詩乃はしかめっ面のままこくこく頷いた。

「何かから逃げて逃げて、途中でもうこれは夢だろう、とか思うんだけど目が醒めなくて。散々おっかけられてからようやく起きた、と思うとまだそこも夢だったりしてさ」

「そういう夢って、体感的にはどれくらいの時間経ってる感じがする?」

「えー? 二時間とか……三時間くらいかな」

「ところが、だ。脳波をモニターしてみると、当人がものすごく長い夢を見た、と思っているときでも、実際に夢を見ている時間は目覚める前のほんの数分だったりするんだな」

そこで言葉を切ると、和人は不意に手を伸ばし、卓上に並べて置かれたふたつの携帯端末を掌で覆った。いたずらっぽい視線で詩乃を見て、小さく笑う。

「STLの話をはじめたのが四時半だったよな。シノン、いま何時だと思う?」

「え……」

虚を突かれて、詩乃は口篭もった。古めかしい掛け時計があるのは詩乃の背後の壁だし、夏至を過ぎたばかりのこの時期の空はまだまだ明るくて陽の落ち具合で判断することもできない。やむなく当て推量で答える。

「んーと……四時五十分くらい……?」

すると和人は携帯から手を離し、画面を詩乃に向けた。覗き込むと、デジタル数字は五時をとうに回っていた。

「わ、もうそんなに経ってたのか」

「かくも時間とは主観的なものなのさ。夢の中だけじゃなく、現実世界でもね。何か緊急事態が起きて、アドレナリンがどばーっと出てるときは時間はゆっくり流れるし、反対にリラックスして会話に夢中になってたりするとあっというまに過ぎ去っていく。フラクトライトの研究によって、何故そういうことが起きるのか、おぼろげにわかってきたんだ。どうやら、思考領域の一部に、"思考クロック発振器"とでも言うべきものがあるらしいんだよ」

「クロック……?」

「ほら、よくパソコンのCPUが何十ギガヘルツとか言うだろう。あれだよ」

「計算するスピードのことね?」

明日奈の言葉にこくりと頷き、和人はテーブルの上に置いた右手の指先をとんとんと鳴らした。

「あれも、カタログはマックスの数値を載せてるけど、実は一定じゃないんだ。普段は発熱を抑えるためにゆっくり動いてて、重い処理を命じられると――」

とんとんとん、と指のスピードを上げる。

「動作クロックを引き上げて計算速度をスピードアップさせる。フラクトライト、つまり人間の意識を作る量子コンピュータも一緒だ。緊急事態に置かれて、処理すべきデータが増大すると、思考クロックを加速して対応する。シノンも、GGOの戦闘中にむちゃくちゃ集中してるときとか、弾が見えるような気がするときあるだろう?」

「あー、うん、調子いいときはね。まあ、なかなかあんたみたいに"弾道予測線を避ける"みたいな真似はできないけどさ」

唇を尖らせてそう言うと、和人は苦笑して首を振った。

「いやあ、もうだめさ、最近すっかりナマっちゃって。……ともかく、その思考クロックが、時間感覚に影響してるってわけなんだな。クロックが加速しているとき、人間は相対的に時間の流れをゆっくりと感じる。睡眠中はこれが更に顕著になる。膨大な量の記憶データを処理するためにクロックは限界までスピードアップし、結果として、数分間のうちに何時間ぶんもの夢を見る」

「ふむむ……」

 詩乃は腕を組んで唸った。自分の脳、というか魂が光でできたコンピュータだ、などという話だけでも常識のはるか埒外なのに、こうして"考える"という行為によってその動作スピードが上がったり下がったりする、と言われても実感することなど到底できない。だが、和人は、まだまだ、とでも言うようにニッと笑うと言葉を続けた。

「となると、もし、夢の中で仕事や宿題ができたら、凄いことになると思わないか? 現実世界では数分間でも、夢ん中じゃあ何時間だぜ」

「そ、そんな無茶な」

「そうだよー、そんな都合のいい夢なんか見れないよ」

詩乃と明日奈は同時に異論を唱えたが、和人は笑みを消さないまま首を振った。

「本物の夢が支離滅裂なのは、それが記憶整理作業の余剰産物だからだ。STLによって作られる夢はもっとずっとクリアだ……と言うか、ユーザーの意識自体は覚醒してるんだからな。寝てるのは身体制御領域だけでさ。その状態で、思考クロック発振部分に干渉し、強制的に加速させる。それに同期させて、仮想世界の基準時間も加速する。結果、ユーザーは、実際のダイブ時間の数倍の時間を仮想世界で過ごすことができる。これが、ソウル・トランスレーション・テクノロジーのもうひとつの特殊機能、"主観時間加速"……サブジェクティブ・タイムレート・アクセラレーション、略してSTRAさ」

「……なんだか、もう……」

 現実の話とは思えないなぁ、と詩乃は小さく嘆息した。アミュスフィアと"少し違う"どころではない。

 NERDLESテクノロジーだけでも、社会生活はずいぶんと様変わりした。コストダウンが至上命題の一般企業では、すでに会議や営業のたぐいを仮想世界で行うのは当たり前と聞くし、シーンに入り込んで好きな場所から視聴できる3Dドラマや映画が毎日何本も放送され、高度な再現性が売り物の観光ソフトは年配者に大人気、先に和人が言ったように軍事訓練ですら仮想世界で行われる時代なのだ。あまりにも家から出ないで済ませられることが増えすぎたというので、自前の足で目的なく街を闊歩する"散歩族"ブームなどというものが到来し、それに併せて"バーチャル散歩ソフト"が発売されてこれも大好評などというわけのわからない現象も出来している。大手のハンバーガーショップや牛丼チェーンのバーチャル支店が出現したのもそう最近のことではない。

 かくの如き仮想世界からの潮流に、現実世界はどこへ押し流されていくのかさっぱり判らない、という昨今の世相だが、そこへソウル・トランスレーターなどというものが登場したら、一体世の中はどうなってしまうのか――と詩乃が薄ら寒いものを感じて両腕をさすっていると、同じようなことを考えたらしく眉をしかめた明日奈が、ぽつりと呟いた。

「長い夢……かぁ……」

隣の和人を見上げ、微かに笑う。

「SAO事件が、ソウル・トランスレーターが普及する前のことでまだしも良かった……って思うべきなのかなぁ……。もしナーヴギアでなくてSTLだったら、アインクラッドが千層くらいあって、クリアに中の時間で二十年くらいかかってたかもね」

「か……カンベンしてくれ」

和人がぶるぶると首を振るのを見て、明日奈はもう一度くすりと笑うと、続けて言った。

「じゃあ、この週末、キリト君はずーっと長い夢を見てたのね?」

「ああ。長時間連続稼動試験があってさ。三日間飲まず食わずでダイブしっ放し。栄養の点滴はしてたけど、やっぱちっと痩せたなぁ……」

「ちっとどころじゃないよー。まったく、またそんな無茶して」

明日奈は可愛らしい怒り顔を作ると、左手で和人の肩をぽこんと叩いた。

「明日あたり、川越までご飯つくりに行くからね! 直葉ちゃんに、野菜いーっぱい仕入れておくように頼んどかなくちゃ」

「お、お手柔らかに」

そんな二人の様子を微笑みながら見ていた詩乃は、そっかー、と頷いてから、ふと感じた疑問を口にした。

「そんなバイトしてたのかぁー。丸三日も拘束されたんじゃ、えーと、時給かける七十二? そりゃここはキリトの奢りで決定だね。――それはそうとしてさ、その三日のダイブ中も、ええと……STRA? は働いてたんでしょ? あんた、中じゃ実際のとこどれくらいの時間を過ごしたわけ?」

和人はひょいっと頭をかたむけ、覚束ない口調で言った。

「……と、言っても、さっき説明したとおり、俺ダイブ中の記憶無いんだよね。でも、STRAは、現状では最大で三倍ちょいって話だからな……」

「てことは……九日?」

「か十日くらいかな」

「ふぅん……。一体どんな世界で何してたんだろうね。持ち出しはできなくても、現実の記憶は中に持ち込めたの? 他にテスターはいたの?」

「いやー、そのへんのこと、マジで何も知らないんだよ。予備知識があると、テストの結果に影響するからってさ。でも、機密保持が目的なら記憶の持ち込みを制限する意味なんかないだろうし……俺が行ってる都内の研究所にはSTLは一台だけだけど、本社にはもっとあるらしいから、同時にダイブしてるテスターもそりゃ居たんじゃないのかな。ほんと、"中"のことは徹底して秘密主義なんだよな……。ビーターとしては、テストのし甲斐が無いったらないよ。教えてもらったのは世界の名前だけさ」

「へえ、何て?」

「"アンダーワールド"」

「アンダー……地下の世界? そういうデザインのVRワールドなの?」

「さあ、世界設定に関しては現実モノなのかファンタジーなのかSFなのか、それすらも教えて貰ってないからな。ただまあ、そういう名前なんだから、地下っぽい暗いとこなのかな……」

「ふうん。なんかピンとこないね」

詩乃と和人がそろって首を捻ると、明日奈が、華奢なおとがいに指を当てながら小さく呟いた。

「もしかしたら……それも、アリスなのかもしれないね」

「アリスって……?」

「さっきのラースって名前もそうだけど、"不思議の国のアリス"から取ってるのかなって。あの本、最初の私家版は、"地下の国のアリス"って名前だったのよね。原題は"アリスズ・アドベンチャー・アンダーグラウンド"だけどね」

「へえ、初耳。もしそうだとしたら、なんか、メルヘンな会社だね」

詩乃は少し笑ってから続けた。

「そう言えば、アリスの本ってふたつとも長い夢の話だよね。……ってことは、もしかしたらキリトもダイブ中に、ウサギとお茶会したり女王様とチェスしたりしてたのかもね」

それを聞いた明日奈も、可笑しそうにあははと笑う。が、当の和人はと言うと、何故か難しい顔でテーブルの一点を見詰めていた。

「……どうかしたの?」

「……いや……」

詩乃が尋ねると視線を上げたが、ぎゅっと眉を寄せ、もどかしそうに瞬きを繰り返している。

「いま、アリス……って聞いて、何か思い出しそうな気がしたんだけどな……。うーん……ほら、よくあるだろ。さっきまで何かすごい気がかりなことを考えてたんだけど、何が気がかりなのかを思い出せなくなっちゃって、その不安な感じだけが残ってる、みたいなこと」

「あー、あるね。怖い夢を見て飛び起きたのに夢の中身が思い出せない、みたいな」

「うう、何か……いますぐにしなきゃいけないことを忘れてる気がする……」

ぐしゃぐしゃと髪をかき回す和人を心配そうに見やりながら、明日奈が訊いた。

「それって、つまり、実験中の記憶ってこと……?」

「でもさ、あんた、仮想世界の記憶は全部消去されてるって言ったじゃない」

続けて詩乃もそう口にする。和人は尚も目を閉じて唸っていたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。

「……まあ、何せ十日分の記憶だからな。デリートしきれない断片がわずかに残ってるのかもな……」

「そっか……そう考えると、もし記憶が残ってたら、あんた、私達より一週間ぶん余計にトシとってるってことになるのよね、精神的に。なんか……怖いね、そういうの」

「わたしはちょっと……嬉しいかな、差が縮まったみたいで」

詩乃と和人よりひとつ年上の明日奈は小さく笑いながらそう言ったが、その顔にもかすかな不安の色が潜んでいるように見えた。

「そういえば……ダイブが終わった直後から、今日学校で授業受けてる時くらいまで、ヘンな違和感あったよ。何か……よく知ってるはずの街とかテレビ番組とか、めちゃくちゃ久しぶりに見る感じがしてさ。クラスの連中も……あれ、誰だっけこいつ、みたいな……」

「十日ぶりくらいで大袈裟なこと言わないでよ」

「ほんとだよー、何か不安になるじゃない」

和人の言葉に、詩乃と明日奈はそろって顔をしかめた。

「キリト君、もうそんな無茶な実験やめてよね。体にだって負担かかってるよ、絶対」

「ああ、長時間連続運転試験は大成功で、基礎設計上の問題点はオールクリアされたそうだから。次はいよいよ実用化に向けてマシンをシェイプする段階だろうけど、ありゃ何年かかるかわかったもんじゃないな……。俺も当分はバイト行かないよ、来月からは期末試験も始まるしな」

「う……」

和人の言葉に、詩乃はもう一度渋面を作った。

「ちょっと、ヤなこと思い出させないでよ。キリトとアスナのとこはいいよ、ペーパーテストとかほとんど無いんだからさ。ウチはいまだにマークシート方式なんだよー、カンベンしてほしいわよまったく」

「ふふ、バレット・オブ・バレッツが終わったら今度は勉強合宿でもしよっか」

言いながら、明日奈は詩乃の背後の壁を見上げ、わ、と小さく声を上げた。

「もう六時近いよ、ほんと、お喋りしてるとあっという間だね」

「そろそろお開きにするか。なんか本題の打ち合わせは五分くらいしかしてなかった気がするけど」

苦笑する和人に、詩乃も笑みを返した。

「ま、詳しい戦術とかは中で決めればいいよ。アスナの武器も選ばないとだし。じゃ……今日はどうも、ごちそーさま」

「へいへい」

自分の携帯をポケットに入れ、反対のポケットから財布を出しながら和人はカウンターに歩み寄った。詩乃と明日奈はそれぞれ自分の鞄を持ち、先に出口へと向かう。

「エギルさん、ご馳走様でした」

「またくるねー」

夜のための仕込みに忙しそうな店主に声をかけ、ウイスキー樽から傘を抜いて、詩乃はドアを押し開けた。カラカラン、と鳴るベルに続いて、町の喧騒と雨音が耳を包む。

 日没までにはまだ少し間があったが、厚い雲のせいで、濡れた路面近くにはすでに濃い夜の気配が漂っていた。傘を広げ、小さな階段を一歩降りたところで――詩乃はぴたりと足を止め、素早く周囲に視線を走らせた。

「詩乃のん、どうしたの……?」

背後の明日奈が不思議そうに声をかけてくる。詩乃はハッと我に返り、慌てて道路に出て振り返った。

「う、ううん、なんでもない」

照れ隠しに短く笑う。まさか、うなじにちりりと狙撃手の気配を感じたような気がした、などとはとても言えない。オープンスペースで咄嗟にスナイピングポイントの確認をするクセが現実世界でも出てしまったのか、と考え、少々愕然とする。

明日奈はなおも首を傾げていたが、すぐにもう一度ドアベルが鳴り、その音に押されるように階段を降りた。

財布を仕舞いながら出てきた和人は、傘も差さずに、まだ釈然としないような顔で呟いていた。

「アリス……アリス、か……」

「何よあんた、まだ言ってるの?」

「いや……よく思い出してみると、実験前、意識がシフトする直前に、スタッフが話してたのをちらっと聞いたような気がするんだよな……。A、L、I……アーティ……レイビル……インテリジェン……うーん、何だったかなあ……」

尚もぶつぶつと要領を得ない単語を口中で転がしている和人に、自分の傘を差しかけながら、明日奈が困った人ねえ、と苦笑した。

「ほんと、何かに気を取られるとそればっかりなんだから。そんな気になるなら、次に会社行ったときに訊いてみればいいじゃない」

「まあ……それもそうだ」

和人は二、三度頭を振ると、ようやく手にした傘を開いた。

「んじゃシノン、今夜十一時にグロッケンの"ラスティボルト"で待ち合わせでいいか?」

「了解。遅れないでよ」

「じゃーね詩乃のん、また今夜ねー」

「ばいばい明日奈」

 JRで帰る和人と明日奈を手を振って見送り、詩乃は反対方向にある地下鉄の駅目指して一歩足を踏み出した。そこでもう一度、傘の下からそっと周囲を見渡してみたが、先刻感じたような気がした粘つくような視線は、やはりそれが幻であったとでも言うかのごとく、綺麗に消え去っていた。


(第二章 終)


転章 I


人の体温というのは不思議なものだ。

結城明日奈は、ふとそんなことを考えた。

雨は止み、雲の端にかすかな橙を残した濃紺の空の下を、ふたり手を繋いでゆっくりと歩いている。隣に立つ桐ヶ谷和人も、数分前から何事か物思いに沈んでいるようで、唇を閉じたまま歩道の煉瓦タイルに視線を落としていた。

 世田谷に住む明日奈と、川越まで帰る和人は、いつもならJR新宿駅で別れてそれぞれ違う電車に乗り換えるのだが、今日は何故か和人が「家の近くまで送るよ」と言い出したのだった。彼の家までは渋谷から更に一時間近くかかってしまうため、そんなことをしていては朝田詩乃との待ち合わせ時間ギリギリになってしまうと思い反射的に断りそうになったが、和人の眼にどこかいつもと違う色の光を見た気がして、明日奈は自然と頷いていた。

最寄駅で降りたあと、どちらからともなく手を繋いだ。

こうしていると、ぼんやりと思い出す情景がある。甘いだけではない、苦く恐ろしい記憶でもあるので普段はほとんど意識にのぼることは無いのだが、たまに和人と手を繋ぐと、ふっと甦ってくるのだ。

 現実世界の記憶ではない。旧アインクラッド第55層主街区、鉄塔の街グランザムでのことだ。

当時、明日奈/アスナはギルド血盟騎士団の副団長を務めており、護衛としてクラディールという名の大剣使いが四六時中随行していた。クラディールはアスナに対して異常なほどの妄執を抱いており、アスナにギルド脱退を決意させた和人/キリトを、麻痺毒を用いて秘密裏に葬ろうとした。

 その過程で三人のギルドメンバーが殺され、あわやキリトも命を落としかけたところに駆けつけたアスナは、激情に身を任せてクラディールを斬った。二人はそのまま55層の血盟騎士団本部に戻り、ギルド脱退を告げて、寒風吹きすさぶグランザムの街を手を繋いであてどなく歩いたのだった。

表面的には平静を保っていたが、あの時アスナの胸中には、初めてほかのプレイヤーを手に掛けたことによるパニックが渦巻いていた。死ぬ直前のクラディールの表情、声、爆散するポリゴンの煌めき、それらが繰り返し目の前に再生され、ついに悲鳴を上げてしゃがみこみそうになった時、キリトが言ったのだった。君だけは、何があろうと元の世界に還してみせる、と。

パニックは嘘のように消え去った。同時にアスナは、この人を守るためならわたしは何でもするし、その報いはすべて胸を張って受け止める、と強く思った。

あの瞬間、繋いでいながらそれまで冷たさしか感じなかった右手が、暖炉にかざしたかのようにほわりと暖かくなったのを、明日奈は鮮明に憶えている。仮想世界は消え去り、現実に戻ってきた今でも、こうして手を繋ぐとあの温度があざやかに甦ってくる。

本当に、人の体温というのは不思議なものだ。肉体が自らを維持するためにエネルギーを消費し発している熱に過ぎないはずなのに、触れ合った掌で交換されるそれには明らかに何らかの情報が含まれている感触がある。その証拠に、お互い黙って歩いているのに、和人が何か大事なことを言い出そうとして逡巡しているのが明日奈にははっきりと判る。

人の魂とは、細胞の微小構造中に封じ込められた光子だ、と和人は言った。そのマイクロチューブルが存在するのは当然、脳細胞だけではないのだろう。全身の細胞にたゆたう光の粒たちはそれぞれ何らかの情報を担い、それらが作り出す量子場が、いま互いの掌を通じて接続している。体温を感じるというのは、つまりそういうことなのかもしれない。

その様子を想像しながら、明日奈は心の中で囁いた。

 ――ほら、大丈夫だよ、キリト君。いつだって、わたしはあなたの背中を守ってる。わたし達は、世界最高のフォワードとバックアップなんだから。

不意に和人が立ち止まり、まったく同時に明日奈も足を止めた。ちょうど七時になったのか、二人の頭上で古めかしい青銅色の街灯がオレンジ色の光を灯した。

雨上がりの黄昏時、住宅街の隘路に明日奈たち以外の人影は無かった。和人はゆっくり向き直り、濃い色の瞳でじっと明日奈の眼を見ながら口を開いた。

「アスナ……俺、やっぱり行こうと思う」

ここしばらく和人が進路のことで悩んでいたのを知っていた明日奈は、微笑みながら訊き返した。

「サンタクララ?」

「うん。一年かけていろいろ調べたけど、あそこの大学で研究してる"ブレイン・インプラント・チップ"がやっぱり次世代VR技術の正常進化形だと思うんだ。マンマシン・インタフェースは絶対にその方向で進んでくよ。どうしても、見たいんだ。次の世界が生まれるところを」

明日奈は真っ直ぐ和人の瞳を見詰め返し、こくりと大きく頷いた。

「つらいこと、哀しいこと、一杯あったもんね。何のために、どこにたどり着くために色んなことが起きたのか、見届けなきゃね」

「……そのためには何百年生きても足りそうにないけどな」

和人は小さく笑い、次いで再び口篭もった。

二人が離れ離れになることを言い出せないでいるのだろう、と明日奈は思い、もう一度微笑んで、ずっと胸のうちに暖めていた自分の答えを言葉にしようとした。だが、口を開く前に、和人が、かつて別の世界で結婚を申し込んだときとまったく同じ表情で、つっかえながら言った。

「それで……、お、俺と、一緒に来てほしいんだ、アスナ。俺、やっぱ、アスナが居ないとだめだ。無茶なこと言ってるって判ってる。アスナにはアスナの進みたい方向があるだろうって思う。でも、それでも、俺……」

そこで和人は戸惑ったように言葉を切った。明日奈が目を丸くし、次いで小さく吹き出したからだ。

「え……?」

「ご……ごめん、笑ったりして。でも……もしかしてキリト君、最近ずっと悩んでたのは、そのことなの?」

「そ、そりゃそうだよ」

「なぁーんだ。わたしの答えなら、もうずーっと前から決まってたのに」

明日奈は、右手で握ったままだった和人の手に、左手も重ねた。かつて別の世界で結婚を申し込まれたときとまったく同じようにゆっくり頷きながら、その先を言葉にする。

「もちろん、行くよ、一緒に。キミの行く世界なら、どこだって」

和人は小さく息を吸い込み、しばし目を見張ったあと、滅多に見せることのない大きな笑顔を浮かべた。二、三度瞼をしばたかせたあと、右手をそっと明日奈の肩に載せてくる。

明日奈も、ほどいた両手をしっかりと和人の背に回した。

触れ合った唇は、最初ひんやりとしていたがすぐに暖かく溶け合い、その瞬間明日奈はもう一度、互いの魂を作る光が絡まって一体となるのを意識した。たとえこれから、どんな世界をどれだけの年月旅しようと、わたし達の心が離れることは絶対にない、強くそう確信した。

 いや、二人の心は、もうとっくに結びついていたのだ。アインクラッド崩壊の時、虹色の光に溶けて消え去ったあの時から――もしかしたら、それより遥か以前、敵として出会い、剣を交えたその瞬間から。


「だけど、さ」

数分後、再び手を繋いで煉瓦道を歩きながら、明日奈はふと感じた疑問を口にした。

「ソウル・トランスレーター……あれは、正常進化じゃない、ってキリト君は思うの? ブレイン・チップはNERDLESと同じ細胞レベル接続だけど、STLはその先、量子レベルのインタフェースなんでしょ?」

「うーん……」

和人は反対側の手にぶら下げた傘の先で、煉瓦をこつこつと叩いた。

「……確かに、思想としてはブレイン・チップより先進的かもしれない。でも、何ていうか……先進的すぎるんだ。あのマシンを、民生用にダウンサイジングするのは多分不可能だよ。あれは、仮想世界に同時に何万人、何十万人のオーダーで接続するための機械じゃない気がする」

「ええ? じゃあ、何のためのマシンなの?」

「魂レベルで仮想世界にダイブさせる、というより、むしろ、そのダイブによって魂……フラクトライトそのものを知るためのマシンなんじゃないかな……。その先に何があるのか、俺もまだよく判らないんだけど……」

「ふうん……」

 つまりSTLは目的そのものではなく、手段だということなんだろうか、と明日奈は考え、魂を知ることで一体何ができるのか想像しようとしたが、その前に和人が言葉を続けた。

「それに、さ。STLは言わば……ヒースクリフの思想の延長にあるマシンだと思うんだ。あの男が、何のためにアインクラッドを作って一万人も殺して、自分の脳も焼き切って、ザ・シードなんてものをばら撒いたのか……その目的がなんだったのか、そもそも目的なんてあったのかどうか、俺にはさっぱりわからないけど、STLっていう化け物マシンには、あいつの気配がある気がするんだよ。その目指すところを知りたい気はするけど、それを自分の進路にはしたくない。いつまでもあいつの掌で躍ってるような気がして嫌になるからな」

「……そっか……団長の……。……ね、団長の意識、っていうか思考と記憶の模倣プログラムは、まだどっかのサーバーで生きてるんだよね? キリト君は、話をしたんでしょう?」

「ああ……一度だけ、な。あいつが自殺するのに使ったマシンは、メディキュボイド、そしてSTLの言わば原型だ。ヒースクリフが自分の思考コピーに何らかの目的を持たせていたとするなら、それはラースがSTLでしようとしていることと無関係じゃないと思う。今のバイトを続けることで……何らかの決着を見つけたいと、俺は思ってるのかもしれないな……」

すっと視線をどこか遠くに動かした和人の横顔を、明日奈はしばらく見つめていたが、やがてそっと呟いた。

「……ひとつだけ、約束してね。もう絶対、危ないことはしない、って」

「もちろん、約束するよ。来年の夏にはアスナと一緒にアメリカに行けるんだから」

「その前に、SATでいい点取れるようにがんばって勉強しないとね?」

「う……」

ふふ、と笑って、明日奈は握った手にきゅっと力を込めた。

「ね、みんなには……いつ言うの?」

「その前に、一度、アスナのご両親に挨拶しないとな……。彰三氏とはときどきメールやり取りしてるけど、お母さんの覚えが悪そうだからなあ俺……」

「へーきへーき、最近はずいぶん物分りいいから。あ、そうだ……どうせなら、今日ちょっと寄っていかない?」

「ええ!? い、いや……期末試験が終わったら、改めて伺うよ、うん」

「まったくもう」

明日奈は少し唇を尖らせて見せてから、しょうがないなあ、というように笑った。和人も照れたように片頬に笑みを浮かべる。

いつのまにか、自宅から程近い小さな公園の前に差し掛かっていた。明日奈は名残惜しい気分を味わいながら立ち止まり、わずかに高いところにある和人の目をじっと覗きこんだ。もう一度キスをねだるように、軽く睫毛を伏せる。

和人も明日奈の右肩に手を乗せ、そっと首を傾けた。

距離が五センチまで縮まったその時だった。背後から、ごつごつと重い足音が響いてきて、明日奈は反射的に体を遠ざけた。

 振り向くと、少し先にあるT字路から小走りに飛び出してきた人影が視界に入った。黒っぽい服装をした長身の男は、明日奈と和人に視線を止めると、すいませぇん、と間延びした声を上げながら近づいてきた。

「あのぉ、駅はどっちの方ですか?」

ぺこぺこ頭を下げながら、そう訊いてくる。明日奈は内心で小さなため息をつきつつ、一歩進み出て、笑顔を作りながら口を開いた。

「えっと、この道をまっすぐこっちに進んで、最初の信号を右に曲がって……えっ」

突然和人が、強い力でぐいっと明日奈の肩を引いた。思わずよろけるが、和人は前に出ると、明日奈を更に大きく後方に押しやる。

「ど、どうし……」

「お前……ダイシー・カフェの近くに居たな。誰だ」

鋭い口調で、和人は明日奈の思いもかけないことを言った。息を飲み、改めて男の顔を見る。

 斑に色の抜けた長髪。頬のこけた輪郭線は、無精髭に濃く覆われている。耳には銀のピアス、首元にも太い銀の鎖。退色した黒のプリントTシャツに、同じく黒の革パンツを穿き、腰からも金属チェーンがじゃらじゃらと下がっている。足は、この季節なのに重そうな編み上げブーツに包まれ、全体として埃っぽい色が染み付いた印象だ。

 ぼさぼさの前髪の隙間から、笑ったように細い目が覗いていた。男は、和人が何を言っているかわからない、というように首を傾げ、眉を寄せてから――突然、暗い瞳にいやな色の光とギラリと浮かべた。

「……やっぱ、不意打ちは無理か」

打って変わって低い、ざらついた声だった。唇の端がぎゅっと歪み、笑みだか苛立ちだかわからない形を作る。

「お前は、誰だ」

重ねて和人が問いただした。男は肩をすくめると二、三度首を振り、大きなため息を吐いた。

「ヘイ、ヘイ、そりゃあないよキリト。オレの顔忘れたのかよ。オレは忘れたことなかったぜ、この一年半。ソー・バッドだな」

「お前っ……」

和人の背中がびくりと緊張した。右足を引き、軽く腰を落とす。

「――ジョニー・ブラック!」

電光のように閃いた右手が、肩の上、何も無い空間を掴んだ。かつてキリトの背に装備された片手直剣の柄があった、まさにその場所を。

「プッ、クッ、クハハハッハハハ! 無いよ、剣無いよ!!」

ジョニー・ブラックと呼ばれた男は、上体を捩って甲高い笑い声を迸らせた。和人は全身を緊張させたまま、ゆっくりと右手を下ろす。

 明日奈は、その名前を知っていた。旧アインクラッドにおける積極的殺人者、レッド・プレイヤーの中でもかなり通りの良かった名だ。“ラフィン・コフィン”というギルドに属し、ザザという男とコンビを組んで十人を超えるプレイヤーをその手に掛けた。

 脳裏に浮かんだ新しい名前は、更なる情報を明日奈の記憶から引き出した。“赤眼のザザ”――その名前は、ほんの半年前にも聞いたはずだ。そう……あの、恐るべき死銃事件の首謀者として。

 主犯のザザとその弟は逮捕され、しかし三人目の仲間は逃亡中、と事件直後に聞いた。当然、もう捕まっているだろうと思っていたその犯人の名は、確かカナモト……そして、昔ザザとコンビを組んでいた男……。ということは――。

「お前……まだ逃げていたのか」

和人が掠れた声で言った。ジョニー・ブラックこと金本は、にいっと嗤うと両手の人差し指を和人に向けた。

「オフコ――ス。ザザが捕まる前に、キリトの奴だけはどうしても仕留めてくれって頼まれたからよ。あの喫茶店を探し当てるまで五ヶ月、その前に張り込んで一ヶ月……ヘイトな日々だったぜー」

くっくっ、ともう一度喉を鳴らし、金本はぐるんと両目を回した。

「しかしキリト、剣の無いてめえはなんつーか……単なるひ弱なガキだなぁ? 顔は同じだけど、オレを散々ぶちのめしたアイツと同一人物とは思えねーなぁ」

「そう言うお前も……得意の毒武器無しで何ができるんだ?」

「ヘイ、見た目で武装を判断するのは素人だぜ」

金本は蛇のような速さで右手を背中に回し、シャツの中から何かを掴み出した。

奇妙な代物だった。のっぺりとしたプラスチック製の円筒から、簡単な握り部分が突き出している。明日奈は一瞬水鉄砲かと思ったが、和人の背中が一層強張るのを見て息を飲んだ。途惑いは、続く和人の声を聞いて驚愕に変わった。

「デスガン……! 貴様っ……」

和人は後ろに右手を突き出し、明日奈に退がるよう促した。同時に、左手に持っていた畳んだ傘の先端を、ぴたりと金本の顔に向ける。

一歩、二歩と意識せぬまま後ずさりながら、明日奈の目はプラスチック製の銃に吸い寄せられていた。あの道具の話も、和人や詩乃から聞いていた。あれは高圧ガスを利用した注射器で、内部には心臓を止める恐ろしい薬品が充填されているのだ。

「あるよー、毒武器あるよぉー。ナイフでないのが残念だけどなー」

注射器の先端を円を描くように動かしながら、金本は軋るように笑った。和人は両手で握った傘を油断なく金本に向けながら、低い声で叫んだ。

「アスナ、逃げろ! 誰か人を呼んでくるんだ!」

一瞬の逡巡のあと、明日奈は頷き、くるりと振り向いて駆け出した。背中に向かって、金本の声が飛んでくるのが聞こえた。

「おい、“閃光”! ちゃんと周りに言うんだぜぇ……“黒の剣士”の首を取ったのはこのジョニー・ブラックだってなぁ!」

最寄の家のインターホンまでは、直線距離で三十メートルほどだった。

「誰か……助けて!!」

 明日奈は精一杯の大声で叫びながら走った。和人を置いて逃げたのは間違いだったのではないか……二人で同時に飛び掛り、あの武器を押さえるべきだったのではないか、そう思いながら距離を半分ほど駆け抜けたとき、その音が耳に届いた。

炭酸飲料のキャップを捻るような、ヘアスプレーを吹くような、短く、鋭い圧搾音だった。だが、その意味するところを理解するに従って、恐怖のあまり明日奈の足はもつれ、よろけて、濡れた煉瓦に片手を突いた。

明日奈は、肩越しにゆっくり振り向いた。

視界に入ったのは凄絶な光景だった。

和人の握った傘の、金属製の石突が金本の腹部右側に根元まで突き刺さっている。

そして金本の握った注射器は、和人の左肩に強く押し当てられていた。

二人は同時にぐらりと上体を傾けると、そのまま鈍い音を立てて路上に倒れこんだ。


それからの数分間は、色の無い映画を見ているように現実感のないものだった。

明日奈は動こうとしない脚に鞭打って和人の傍まで駆け寄った。腹を押さえて苦悶している金本から和人を引き離し、しっかりして、と叫んだあと、ポケットから引っ張り出した携帯端末を開いた。

指は凍ったように感覚がなかった。強張ったその先端で必死にボタンを押し、オペレーターに現在地と状況を機械的に告げた。

今更のように集まってくる野次馬。誰かが通報したのか、人垣を割って現れる警官。明日奈は質問に短く答えただけで、あとはずっと和人の体を抱き締めつづけた。

和人の呼吸は短く、浅かった。苦しそうな息の下で、彼は二言だけ短く囁いた。「アスナ、ごめん」と。

永遠のような数分間ののち、到着した二台の救急車の片方に和人は搬入され、明日奈も付き添って乗り込んだ。

意識を失いストレッチャーに横たわる和人の気道を確保しながら、口元に顔を近づけた救急救命士は、すぐさま同乗している救急隊員に向かって叫んだ。

「呼吸不全を起こしている! アンビューバッグを!」

慌しく呼吸器が用意され、和人の口と鼻を透明なマスクが覆う。

明日奈はともすれば悲鳴を上げそうになる喉をどうにか押さえつけ、奇跡のように思い出した薬品名を救命士に告げた。

「あの、さ、サクシニルコリン……っていう薬を注射されたんです。左肩です」

救命士は一瞬の驚愕を見せたあと、矢継ぎ早に新しい指示を飛ばした。

「エピネフリン静注……いや、アトロピンだ! 静脈確保!」

シャツを脱がされた和人の左腕に輸液用の針が装着され、胸に心電モニターの電極が貼り付けられた。更に飛び交う声。空気を切り裂くサイレン。

「心拍、低下しています!」

「心マッサージ器用意!」

瞼を閉じた和人の顔は、蛍光灯の下で恐ろしいほど青ざめて見えた。やだ、やだよ、キリト君、こんなのやだよ、という小さい声が自分の口から出ていることに明日奈はしばらく気付かなかった。

「心停止!」

「マッサージを続けて!」

 うそだよね、キリト君。わたしを置いて、どこかに行ったりしないよね。ずっと……一緒だって、そう言ったよね。

明日奈は、固く握ったままだった携帯端末に視線を落とした。

 ELモニタに表示されているピンク色のハートは、一度小さく震えたあと、その鼓動を止めた。デジタル数字が、冷酷なまでに明確なゼロの値へと変化し、そのまま沈黙した。*「うああ……極楽極楽……」

我ながら親父臭いセリフだが、労働で疲れきった体をたっぷりした熱い湯に沈めれば、そう言うより他にない。

ルーリッド教会の風呂場は、つるつるしたタイル貼りの床に大きな銅製のバスタブを埋め込んだもので、外壁に設えられたカマドで薪を燃やして湯を沸かす仕組みになっている。中世ヨーロッパにこんな風呂があったとはとても思えないが、ラースのプログラマーがこのようにデザインしたにしろ、内部時間で数百年に及ぶというシミュレーションの結果独自に進化したにしろ俺にとってはまことに有り難いことだ。

夕食が済んでから、まずシスター・アザリヤとシルカと二人の女の子がお湯を使い、その後俺と四人の男の子が入浴して、散々騒いだガキたちが先刻ようやく出て行ったところである。なのに、巨大なバスタブをなみなみと満たす湯にはわずかな濁りもない。俺は両手に透明な液体をすくうと、ばしゃりと顔に浴びせ、再度うふぇ~と弛緩しきった声を漏らした。

 これで、この世界に放り出されてからほぼ三十三時間が経過したことになる。俺のダイブ以降のSTRA倍率が不明ゆえ、現実ではどの程度の時間が過ぎ去っているのか見当もつかないが、もし等倍速、つまり現実と完全に同期していて、更に俺が行方不明などということになっていれば、さぞ家族や明日奈が心配していることだろう。

そう考えると、こんなふうにノンビリ風呂に浸かっているなどとんでもない、とっとと脱出方法を探すべきだと焦る気持ちが喉元にせり上がってくる。だが、それと同じくらいの質量で、この世界の秘密を見極めたいという欲求もまた確かに存在する。

 俺が、桐ヶ谷和人としての意識と記憶を保ったままこの世界に在るのは、やはりイレギュラーな状況なのだと思えて仕方ないのだ。なぜなら、俺の行動ひとつで、シミュレーションの行方が大きく歪められても不思議はないのである。最低三百年以上に及ぶ壮大な実験が"汚染"されるのは、ラースの技術者にとって間違いなく歓迎されざる事態であろう。

 つまりこれは、俺にとって驚天動地の大ピンチであると同時に、千載一遇の大チャンスかもしれないのだ。RATH――おそらくは国の、ことによると防衛予算がたっぷりと注ぎ込まれたあの謎めいた研究機関の、真なる目的を見極める、最初で最後の機会。

「いや……それもまた、言い訳、かな……」

俺は口もとまで湯に沈むと、ぶくぶくと泡に混じって呟いた。

 あるいは、俺は単に、ひとりのVRMMOゲーマーとしての単純な欲望に衝き動かされているに過ぎないのかもしれなかった。"世界"を"攻略"したい――マニュアルひとつないこの世界を、知識と勘だけを頼りに渡り歩き、剣の腕を磨いて、数多いるであろう剛の者を打ち倒し最強者の称号を目指したいという、愚にもつかない幼稚な欲望。

仮想世界における強さなど所詮データの作る幻に過ぎないと、俺はかつて何度も思い知らされた。二刀流最上位剣技がヒースクリフに破られたとき、妖精王オベイロンの前で無様に地に這ったとき、追いすがる死銃から為す術なく逃げ惑ったとき、もう二度と同じ過ちを犯すまい、と苦い悔恨を噛み締めたものだ。

 しかしまたしても、心の深いところでくすぶる熾火が執拗に俺を焚き付けようとする。俺には振れなかったあの青薔薇の剣を、軽々と操る奴がこの世界にはどれほど居るのだろうか? 法を守護するという整合騎士は、そして闇の国の暗黒騎士とやらはどれほど強いのか? 世界の中央にあるという神聖教会の、一番高い椅子に座るのはどんな奴なんだ……?

無意識のうちに右手の指先が水面を斬り、飛んだ飛沫が正面の壁に当たってビシッと高い音を立てた。

と同時に、脱衣所に繋がるドアの向こうから声がして、俺は我に返った。

「あれ、まだ誰か入ってるの?」

シルカの声だと気付き、慌てて体を起こす。

「あ、ああ、俺――キリト。ごめん、もう上がるから」

「う……ううん、ゆっくりしてていいけど、出るときにちゃんと浴槽の栓を抜いて、ランプを消してね。それじゃ……あたしは部屋に戻るから、おやすみ」

そそくさと去っていく気配に、俺は慌ててドア越しに呼びかけた。

「あ……シルカ。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間あるかな?」

ぴたりと止まった足音は、しばし迷うように沈黙を続けていたが、やがて聞き取れないほどかすかな答えが返ってきた。

「……少しなら、いいわ。あなたの部屋で待ってる」

こちらの言葉を待たず、とてとてと小さな音が遠ざかっていく。俺は慌ててバスタブから立ち上がると、底の端っこにある木製の栓を抜き、壁のランプを消して脱衣所に出た。タオルを使わずとも水滴がたちまち消えていくのをいいことに大急ぎで部屋着をかぶり、しんと静まり返った廊下から階段を登る。

客間のドアを開けると、ベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたシルカが顔を上げた。昨夜とは違い、簡素な木綿の寝巻き姿で、ブラウンの髪を三つ編みにまとめている。

シルカは表情を変えずに傍らのテーブルから大きなグラスを取り上げ、俺に向かって差し出した。

「お、ありがとう」

言いながら受け取ると、俺はシルカの隣にどすんと座り、冷えた井戸水を一息に飲み干した。渇いた体の、手足の先まで水分が染み透っていく感覚に、思わずうめく。

「うー、甘露甘露」

「カンロ? って何?」

途端、きょとんとした顔でシルカが首をかしげ、しまったこの世界の語彙には無い言葉だったかと慌てる。

「ええと……すごく美味しくて、癒されるーって感じの水のこと……かな」

「ふうん……。エリクシールみたいなものかしら」

「な、なんだいそれは」

「教会の高位司祭が祝福した聖水のことよ。あたしも見たことはないけど、小瓶ひとつ飲めば怪我や病気で減った天命がたちまち戻るというわ」

「へえ……」

そんなものがあるなら、何で伝染病で何人も死人が出たんだ、と思ったが何となく聞いてはいけないことのような気がして、俺は黙った。少なくとも、神聖教会というご大層な名前の組織が統治するこの世界は、当初思ったほどの楽園ではない、ということだ。

俺が空にしたグラスを受け取ると、シルカは眉をしかめて促すように言った。

「で、話があるなら、早くしてちょうだい。こんな時間に男性の部屋に長い時間いたのをシスター・アザリヤが知ったら、こっぴどく怒られちゃうわ」

「そ……それは申し訳ない。じゃあ手短に済ませるけど、その……聞きたいのは、シルカのお姉さんのことなんだ」

途端、俯いていたシルカの肩がぴくんと揺れた。

「……あたしには、お姉さんなんていないわ」

「今は、だろう? ユージオに聞いたんだ。君に、アリスっていうお姉さんがいたこと……」

言葉が終わらないうちに、シルカがえらい勢いで顔を上げ、俺は少々唖然とした。

「ユージオが? あなたに話したの、アリス姉さんのこと? どこまで?」

「あ……ああ。その……アリスもこの教会で神聖術の勉強をしてたことと……六年前、整合騎士に央都に連れていかれた、ってこと……」

「……そう……」

シルカはかすかな吐息とともに再び視線を落とし、呟くように続けた。

「……ユージオ……忘れたわけじゃなかったんだ、アリス姉さんのこと……」

「え……?」

「村の人は……お父さんも、お母さんも、シスターも、決して姉さんの話をしようとしないの。部屋も、何年も前に綺麗に片付けちゃって……まるで、最初からアリス姉さんなんて居なかったみたいに……。だからもう、みんな姉さんのこと、忘れちゃったのかな、って……ユージオも……」

「……忘れるどころか、ユージオはすごくアリスのことを気にかけてるみたいだぜ。それこそ……天職さえなければ、いますぐ央都まで探しにいきたいくらいに」

何気なく俺はそう言ったが、伏せられたままのシルカの横顔が一瞬くしゃっと歪んだような気がして二、三度瞬きした。だが、すいっと俺のほうを向いたシルカは、いつもと変わらない落ち着いた表情だった。

「そうなの……。じゃあ……ユージオが笑わなくなったのは、やっぱりアリス姉さんのせいなのね」

「笑わない?」

「ええ。いつでも姉さんと一緒にいた頃のユージオは、いつでもニコニコしてたわ。笑顔でない時を探すのが難しかったくらい。あたしはまだすごく小さかったから、ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……でも、気が付くと、ユージオはぜんぜん笑わない人になってた。それだけじゃない、村の、他の子供たちともちっとも一緒にいないで、毎日朝に森に出かけ、夕方に家に帰る、それを繰り返すだけの人になってた……」

聞きながら、俺は内心で少々首を捻っていた。確かにユージオの物腰は静かだが、感情を殺しているという印象はない。森への行き帰りや休憩時間、俺と色々な話をしながら声を出して笑ったことも一度や二度ではないだろう。

 彼がシルカや他の村人の前では笑顔を見せないというなら、その理由はおそらく――罪悪感だろうか? 誰からも愛され、次代のシスターとして期待されていたというアリスが捕縛される理由を作り、また助けることもできなかったという罪の意識……? 当時の事情を知らない余所者の俺の前でのみ、ほんの一時自らを責めずにいられる、そういうことなのか。

主観時間にして六年ものあいだ、一度として笑うことがなかったというその一事だけ見ても、ユージオの抱えた苦悩の大きさが忍ばれる。彼の魂はプログラムではない、俺と同じ本物のフラクトライトを持っているのだ。たとえこの世界が巨大な実験場で、それが終了すれば消去されてしまう記憶なのだとしても、それほどまでに深い傷を刻み込む権利が何人にあるというのだろう。

 央都に行かねばならない――、再度強くそう思う。俺の目的のためだけではなく、なんとしてもユージオをこの村から連れ出し、アリスを探しあてて、二人を再会させてやらなければどうにも気が収まらない。そのためには、あの樹をどうにかして早晩切り倒さなくては……。

「……ねえ、何を考えてるの?」

シルカの声に物思いから引き戻され、俺ははっと顔を上げた。

「いや……ちょっと、思っただけさ。ユージオはきっと、君の言うとおり、いまでもアリスのことが何より大切なんだろうな、って」

心中をぽろりと口にしたその途端、シルカの顔がもう一度かすかに歪んだような気がした。少し前に大ヒットしたハリウッド映画で幼い気丈なヒロインを演じた子役の女優にどこか似た、くっきりと濃い眉と大きな瞳に、一抹の寂寥感が吹き過ぎる。

「そう……なのね、やっぱり」

呟き、肩を落とすその様子を見れば、いかな朴念仁の俺にも思い当たることがあった。

「シルカは……ユージオのことが好きなんだ?」

「なっ……そんなんじゃないわよ!」

 眦を吊り上げて抗議したと思ったら、ぱっと首筋まで赤くしてそっぽを向いてしまう。よもや、この子のフラクトライトの持ち主は、現実でも同年代の女の子なのではあるまいな……などと考えていると、しばらく俯いていたシルカが、不意に少し張り詰めたような声で言った。

「……なんだか、堪らないのよ。ユージオだけじゃない……お父さんも、お母さんも、口には出さないけど、いつも居なくなった姉さんとあたしを較べて溜息をついてた。他の大人たちもそうよ。だからあたし、家を出たの。なのに……シスターも……シスター・アザリヤさえ、あたしに神聖術を教えながら、姉さんなら何でも一度教えたらすぐにできるようになったのに、って思ってる。――ユージオは、あたしのこと避けてるわ。あたしを見ると、姉さんを思い出すから。そんなの……あたしのせいじゃない! あたしは……姉さんの顔だって憶えてないのに……」

 薄い寝巻きの生地の下で、細い肩が震えるのを見て、俺は正直なところ心の底から動転した。いままで、頭のどこかでこの世界はシミュレーションでありシルカたちは――プログラムではないにせよやはり仮初めの住人なのだと考えていたせいで、隣で十二歳そこそこの女の子が泣いているという事態に即座に応対できるはずもなく、無様に凍り付いていると、やがてシルカは右手で目尻を拭い、ついた水滴を払い飛ばした。

「……ごめんなさい、取り乱したりして」

「い……いや、その。泣きたいときは、泣いたほうがいいと思うよ」

何をマンガみたいなことを言っているんだおのれは。と思ったが、二十一世紀に氾濫するメディアに毒されていないシルカは、小さく微笑むと素直に頷いた。

「……うん、そうね。なんだか、少しだけ楽になったわ。人の前で泣いたのはずいぶん久しぶり」

「へえ、凄いなシルカは。俺なんて、この歳になっても人前で泣きまくりだ」

明日奈の前でだけだけど、と心の中で付け加えていると、シルカが目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。

「あれ……キリト、記憶が戻ったの?」

「あ……い、いや、そうじゃないんだが……そんな感じがするっていうか……と、ともかく、自分は自分なんだからさ。他の誰かになんてなれない……だから、シルカも、自分にできることをすればそれでいいんだ」

これまた甚だしく引用臭いセリフではあったが、シルカはしばらく考え込み、こくりともう一度頷いた。

「……そうね。あたし……自分からも、姉さんからも、ずっと目を背けようとしてたのかもしれない……」

健気に呟くその様子を見ていると、この子のそばからユージオを引き離そうとしている自分に罪悪感を覚える。しかし、現状のままではユージオがシルカの気持ちに応える可能性はほとんど無いような気もするし、シルカにとってもアリスがいまどうしているのか知るのはいいことなのではないだろうか。

などと俺が悩んでいると、頭上すぐのところからしっとりとした鐘の和音が降り注いできた。

「あら……もう九時なのね。そろそろ戻らないと」

ぽん、と床に降り、シルカはドアに向かって数歩進んでから振り向いた。

「ね……キリトは、整合騎士がどうして姉さんを連れていったのか、その理由も聞いたの?」

「え……ああ。なんで?」

「あたしは知らないのよ。お父さんたちは何も言わないし……ずっと前にユージオに聞いたんだけど、教えてくれなくて。ねえ、理由は何だったの?」

俺はかすかに引っかかるものを感じながらも、その正体に思い至る間もなく口にしていた。

「ええと……たしか、川を遡ったところにある洞窟から果ての山脈を越えて、闇の王国に一歩踏み込んじゃったから、って聞いたけど……」

「……そう……。果ての山脈を……」

シルカは何事か考えているようだったが、すぐに小さく頷いて続けた。

「明日は安息日だけど、お祈りだけはいつもの時間にあるからね、ちゃんと起きるのよ。あたし、起こしにこないからね」

「が、がんばってみる」

一瞬だけ微笑み、シルカはドアを開けるとその向こうに消えた。

俺は、遠ざかっていく足音を聞きながら、どすっとベッドに上体を横たえた。アリスという謎めいた少女の情報を得るつもりだったが、居なくなった当時まだ五、六歳だったというシルカにはやはりほとんど記憶が無いようだ。わかったのは、ユージオのアリスに対する気持ちがいかに深いか、ということだけである。

俺は目を閉じ、アリスの姿を想像しようとしてみた。だが勿論、顔立ちなど浮かぶはずもなく、ただ瞼の裏に一瞬きらりと閃く金色の光が見えたような気がしただけだった。


その翌朝、俺は自分の考えの至らなさを嫌というほど思い知らされることになった。


からーん、と五時半の鐘が鳴るのとほぼ同時に目を醒ました俺は、やればできるものだ、などと思いながら潔くベッドから降りた。

東向きの窓を開け放つと、大きくひとつ伸びをして、暁色に染まった冷たい空気を胸一杯に吸い込む。数回呼吸を繰り返しているうちに、後頭部あたりにわだかまっていた眠気の残り滓は綺麗に消え去っていった。

耳を澄ませると、廊下の向かいの部屋でももう子供たちが起き始めているようだった。一足先に井戸で顔を洗おうと、手早く服を着替える。

 俺の"初期装備"であるところのチュニックとズボンには、まだ目に見える汚れは無いものの、ユージオの言葉によれば衣服はこまめに洗濯しないと天命の減りが早まるのだそうだ。ということなら、そろそろ着替えを手に入れる算段をしなくてはならない。そのへんのことも、今日ユージオに相談してみよう――などと考えながら裏口から外に出て、井戸へと向かう。

桶に数杯ぶんの水をタライに移し、顔をつけてばしゃばしゃやっていると、後ろから近づいてくる早い足音が耳に入った。シルカかな、と思いながら体を起こし、両手の水を切りながら振り向く。

「あっ……おはようございます、シスター」

そこ立っていたのは、すでに一分の隙もなく修道服を身につけたシスター・アザリヤだった。俺が慌てて頭を下げると、向こうも会釈しながら「おはようございます」と答える。その厳格そうな口もとが、いつも以上にきつく引き締められているのを見て、内心で少々竦み上がる。

「あの……シスター、何か……?」

恐る恐るそう聞くと、シスターは少し迷うように視線をさまよわせてから、短く言った。

「――シルカの姿が見えないのです」

「えっ……」

「キリトさん、何かご存知ではないですか? シルカはあなたに懐いているようでしたし……」

これはもしや、俺がシルカをどうこうしたと疑われているのか? と一瞬周章狼狽したが、すぐにそんなわけはないと思い直した。この世界には犯す者なき絶対の法たる禁忌目録があるのであり、少女をかどわかすなどという大罪はシスターにとって想像の埒外であろう。つまり彼女は、シルカの不在は本人の意思によるものと思っており、純粋にその行き先について俺が何か情報を持っていないかと問うているのだ。

「ええと……いや、俺は特に何も聞いていませんが……。今日は安息日なんですよね? 実家に戻っているのでは?」

起きぬけの頭で懸命に考えてそう言ったが、シスターは即座に首を振った。

「シルカは教会に来てからの二年間一度も生家には帰っていません。もしそうだとしても、私に何も言わず、朝の礼拝にも出ずに行くなどということは有り得ません」

「なら……何か買い物をしているとか……。朝食の材料は、いつもどうしているんですか?」

「週の最初の日にまとめて買いこんでおくのです。今日は村の店もすべて休みですから」

「ああ……なるほど」

それでもう俺の乏しい想像力は種切れだった。

「……きっと、何か急な用事があったんでしょう。すぐに帰ってきますよ」

「……だといいのですが……」

シスター・アザリヤは尚も心配そうに眉をひそめていたが、やがて短く溜息をついて言った。

「それでは、お昼まで待って、まだ戻らないようなら村役場に相談に行くことにします。お邪魔をして御免なさいね、私は礼拝の準備がありますので、これで」

「いえ……。俺も、あとで周りを探してみますよ」

会釈して去っていくシスターを見送りながら、俺は遅まきながら胸にかすかな不安感がざわめくのを感じた。昨夜のシルカとの会話の中で、確かに何かひとつ懸念をおぼえることがあったのだ。だがそれが何なのか、思い出せない。シルカが教会から失踪するきっかけになるような何かを、俺は口にしてしまったのだろうか。

胸騒ぎを抑えられないまま朝のお祈りをこなし、シルカ姉ちゃんはどこにいったの? と口々に尋ねる子供たちをなだめながら朝食を終えても、シルカは戻ってこなかった。俺は食事の後片付けを手伝ってから教会の表門に向かった。

ユージオとは何の約束もしていなかったが、八時の鐘が鳴ると同時に北の通りから広場に入ってくる亜麻色の髪を見つけ、俺はほっとして駆け寄った。

「やあキリト、おはよう」

「おはようユージオ」

微笑ながら手をあげるユージオに、俺も短く挨拶を返し、続けて言った。

「ユージオは、今日はいちにち休みなんだろう?」

「うん、そうだよ。だから、今日はキリトに村中を案内してあげようと思って」

「そりゃ有り難いけど、その前にちょっと手伝ってほしいんだ。朝からシルカが姿を消しちゃってさ……。それで、探してみようと思って……」

「ええ?」

ユージオは目を丸くし、次いで心配そうに眉をひそめた。

「シスター・アザリヤに何も言わずに居なくなったのかい?」

「どうも、そうみたいだ。こんなこと初めてだってシスターは言ってた。なあ、ユージオはどこか、シルカが行きそうな所に心当りはないか?」

「行きそうな、って言われても……」

「俺ゆうべ、シルカと少しだけアリスの話をしたんだよ。だから、もしかしたら、アリスとの思い出の場所とかかもしれない、と思って……」

そこまで口に出したところで、俺はようやく、本当に呆れるほど遅まきながら、胸にわだかまる不安感の正体に気付いた。

「あっ……」

「なんだい、どうしたのキリト?」

「まさか……。――なあユージオ。昔、シルカに、アリスが整合騎士に連れて行かれた理由を訊かれたとき、教えなかったんだって? 何故だ?」

ユージオは何度かぱちぱち瞬きをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「ああ……そんなこともあったね。何故……何で言わなかったのかな……。はっきりした理由があった訳じゃないんだけど……不安だったのかもしれないね……シルカが、アリスの後を追いかけてしまいそうで……」

「それだ」

俺は低くうめいた。

「俺、昨夜シルカに教えちゃったんだ。アリスが闇の王国の土を踏んだ話を……。シルカは果ての山脈に行ったんだ」

「ええっ!」

ユージオの顔が一気に蒼ざめた。

「それはまずいよ。村の人に知られる前に、早く追いかけて連れ戻さないと……。シルカが出発したのは何時ごろなの?」

「わからない。俺が起きた五時半にはもういなかったらしい……」

「今ごろの季節だと、空が明るくなりはじめるのは五時くらいだ。それより早くだと森を歩くのは無理だよ。てことは、三時間前か……」

ユージオは一瞬空を仰ぎ、続けた。

「僕とアリスが洞窟に行ったとき、子供の脚でも五時間くらいしかかからなかった。たぶんシルカはもう半分以上進んでると思う。今すぐ追いかけても、間に合うかどうか……」

「急ごう。すぐに出よう」

俺が急かすように言うと、ユージオもこくりと頷いた。

「準備してる時間は無いね。幸いずっと川沿いだから、水に困ることはない。よし……道はこっちだよ」

俺とユージオは、行き過ぎる村人に怪しまれない限界の速度で北に向かって歩き始めた。

商店の類がまばらになり、人通りがなくなると、石畳の下り坂を転がるように駆け下りる。およそ五分で水路にかかる橋のたもとに辿り付き、詰め所の衛士の目を盗んで村の外に飛び出た。

麦畑が広がる南がわと違い、村の北は深い森が迫っていた。ルーリッド村を構成する丘を一周するように取り巻く水路に流れ込む川がひとすじまっすぐ森を貫いて伸びており、その岸辺は短い草が繁る小道になっている。

ユージオはわき目もふらず道に飛び込むと、十歩ほど進んでから立ち止まった。俺を左手で制止しながら、地面にしゃがみこみ、右手で足元の草を撫でている。

「ここだ……踏まれた跡がある」

 呟き、すばやく印を切って草の"窓"を呼び出した。

「天命が少し減ってる。しばらく前に誰かが通ったのは間違いないね。急ごう」

「あ……ああ」

俺はごくりと唾を飲みながら頷き、早足に歩き始めたユージオの後を追った。

 どれだけ進もうと、風景はいっこうに変化する気配を見せなかった。RPGによくある"ループする回廊"のトラップに踏み込んでしまったのではないかと疑いたくなってくる。およそ一時間前に、かすかに鐘の音が届いてきたのを最後に村の時報も途絶えたので、時刻を知る手がかりはじわじわ上りつづける太陽しかない。

俺とユージオは、半ば駆け足に近いスピードで川縁を遡りつづけている。現実世界の俺なら、三十分もこんな真似をすれば完全に息が上がってしまうだろう。しかし幸い、この世界の平均的男子はかなり体力に恵まれているようで、かすかな、心地よいとさえ言える疲労感があるのみだ。一度ユージオにもう少しスピードを上げようと提案したのだが、これ以上速く走ると天命がみるみる減って、長い休息を入れないと動けなくなると言われてしまった。

そのくらいギリギリの速度ですでにたっぷり二時間は進んでいるのに、いまだ道の先に少女の姿を見つけることはできない。というよりも時間的にはシルカはそろそろ洞窟に到着してもおかしくない頃だ。不安と焦りが、口の中に鉄臭い味を伴って広がっていく。

「なあ……ユージオ」

呼吸を乱さないように注意しながら声を掛けると、右前方を走るユージオがちらりと振り向いた。

「なに?」

「ちょっと訊いておきたいんだけど……もしシルカが闇の国に入ったら、その場ですぐ整合騎士に掴まってしまうのか?」

するとユージオは一瞬記憶をたどるように視線をさまよわせ、すぐに首を振った。

「いや……整合騎士はたぶん明日の朝、村に現われると思う。六年前はそうだった」

「そうか……。じゃあ、最悪の場合でもまだシルカを助けるチャンスはあるわけだ」

「……何を考えてるのさ、キリト?」

「単純な話さ。今日中にシルカを連れて村から出れば、整合騎士から逃げ延びることができるかもしれない」

「……」

ユージオは顔を正面に戻すと、しばらく黙り込んだあと、短く首を振った。

「そんなこと……できるわけないよ。天職だってあるし……」

「べつに、ユージオに一緒に来てくれとは言ってないぜ」

俺は、挑発するようにそう口にした。

「俺がシルカを連れて逃げる。俺が口を滑らせたのが原因なんだからな。その責任は取るさ」

「……キリト……」

 ユージオの横顔に、傷ついたような色が浮かぶのを見て俺も胸が痛む。しかし、これも彼の"遵法精神"を揺さぶるためだ。シルカの危機を利用しているようで気が咎めるが、この世界に暮らすユニット――人間たちにとっての禁忌目録が、単に倫理的なタブーなのか、それとも物理的に焼きつけられたルールなのか、そろそろ見極めておく必要がある。

果たして、ユージオは更なる沈黙に続いてゆっくり、何度も首を左右に振った。

「だめだよ……無理だよ、キリト。シルカにだって天職があるんだよ、たとえ騎士が捕まえにくるとわかっていても、君と一緒に行くはずがない。それに、そもそも、そんな事にはならないと思うよ。闇の王国に足を踏み入れるなんていう重大な禁忌を、シルカが犯すなんて有り得ないことだ」

「でも、アリスにはできた」

俺が短く反例を挙げると、ユージオはぎゅっと唇を噛み、もう一度大きく否定の素振りを見せた。

「アリスは……アリスは特別な存在だった。彼女は、村の誰とも違っていた。もちろん、シルカとも」

言葉を切ると、これ以上話を続ける気はない、というようにわずかに走る速度を上げる。俺はその後を追いながら、胸の中でつぶやいた。

 ――アリス……君は、いったい、何者なんだ?

ユージオやシルカを含む住人たちにとって、やはり禁忌目録というのは、破りたければ破れる、というレベルのものではなさそうだ。あたかも、現実世界に暮らす人間が物理法則を破って空を飛んだりできないように。それは、彼らが『本物のフラクトライトを持つが俺と同じ意味での人間ではない』という、俺の考察を裏付ける材料であると言っていい。

 しかし、ならば、重大な禁忌を破ったという少女アリスはどのような存在なのか? 俺と同じく、STLを利用してダイブしているテストプレイヤーなのか、あるいは――。

自動的に脚を動かしながら、頭の中でアイデアの断片をあれこれ切り貼りしていると、今度はユージオが沈黙を破った。

「見えたよ、キリト」

はっとして顔を上げる。たしかに、目指す先で森が切れ、その奥に灰白色の岩が連なっているのが見て取れた。

ラストスパートとばかりに、残る数百メートルを二人並んで駆け抜け、足元の草地が砂利に変わったところで立ち止まった。さすがに少々荒い息を繰り返しながら、俺は眼前に広がった光景を唖然として見上げた。

 仮想世界じゃあるまいし――、などと思わず言いたくなるほどの、見事なエリアの切り替わりっぷりだった。密に生い茂る樹々の縁から、ほんのわずかな緩衝帯をへだてて、いきなりほとんど垂直に岩山が切り立っている。驚いたことに、手の届きそうな高さから薄い雪に覆われて、比高何千メートルあるのか知らないが頂上付近は真っ白に輝いている。

雪山は、俺のいる場所から右にも左にも視線の届くかぎりどこまでも続き、世界を南と北に完璧に二分しているようだった。もしこの世界にデザイナーが存在するのなら、あまりにも安易な境界線の引き方だと非難されても仕方あるまい。

「これが……果ての山脈なのか? この向こうが、すぐにもう、噂の闇の王国なのか……?」

信じられない思いでそう呟くと、ユージオがこくりと頷いた。

「僕も、初めてここに来たときは驚いたよ。世界の果てが……」

「……こんなに、近いなんて」

後半を引き取って嘆息混じりに言い、俺は無意識のうちに首を捻っていた。何の障害もない一本道を、たった二時間半の早足で辿り付けるこの距離、これでは、まるで、期待しているようではないか。住民が、偶然禁断の地へと迷い込んでしまう事態を。

放心する俺に向かって、急かすようにユージオが言った。

「さあ、急ごう。シルカとは三十分くらいしか遅れていないはずだよ、見つけてすぐに引き返せば、まだ明るいうちに村に戻れる」

「あ、ああ……そうだな」

彼が指し示す方向を見ると、俺たちが遡ってきた小川が、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟に吸い込まれて(正確には流れ出して)いるのが見えた。

「あれか……」

小走りに近づく。洞窟はかなりの高さと幅があり、ごうごうと流れる急流の左側に、二人がじゅうぶん並んで歩けそうな岩棚が張り出していた。奥のほうは真っ暗闇で、時折凍りつきそうに冷たい風が吹き出してくる。

「おい、ユージオ……灯りはどうするんだ?」

ダンジョン探索に必須のアイテムをすっぽり忘れ去っていた俺が慌ててそう言うと、ユージオは任せておけ、というように頷き、いつの間に拾っていたのか一本の草穂を掲げた。そんなネコジャラシをどうするつもりかと、俺が唖然として見守る前で、真剣な表情を浮かべると口を開く。

「システム・コール! エンライト・オブジェクト!」

システムコールだぁ!? と驚愕したのも束の間、ユージオの握る草穂の先端に、ぽうっと青白い光が点った。暗闇を数メートル先まで照らし出すのに十分な光量を持ったそれを前にかざし、ユージオはすたすたと洞窟に踏み込んでいく。

驚きから冷めやらぬまま俺は彼を追いかけ、隣に並んで問い掛けた。

「ゆ、ユージオ……いまのは?」

厳しく眉を寄せたまま、それでもちらりと得意そうな色を口の端に浮かべて、ユージオは答えた。

「神聖術だよ、すごく簡単な奴だけどね。おととし、あの剣を取りにこようと決心したときに、一生懸命練習したんだ」

「神聖術……。お前……システムとか、オブジェクトとか……意味は知ってるのか?」

「意味……っていうか、聖句だよ。神様に呼びかけて、奇跡を授けてくださるようにお願いする言葉なんだ。上級の神聖術は、聖句もさっきの何倍も長いらしいよ」

なるほど、言葉としての意味は持たない呪文扱いなのか、と内心で頷く、それにしても、即物的な呪文もあったものだ。やはりこの世界のデザイナーは、筋金入りの現実主義者らしい。

「なあ……俺にも、使えるかな?」

こんな状況ではあるが、多少わくわくしながらそう尋ねると、ユージオはどうだろう、というように首を捻った。

「僕がこの術を使えるようになるのに、毎日仕事の合間に練習しながら二ヶ月くらいかかったんだ。アリスが言ってたんだけど、素質のある人なら一日で使えるし、できない人は一生かけてもできないって。キリトの素質はわからないけど、今すぐには無理じゃないかな」

つまり反復訓練によるスキルアップが必須、というわけなのだろう。それは確かに一朝一夕でマスターできるものではなさそうだ。素直に諦め、前方の闇に目を凝らす。

濡れた灰色の岩肌は、右に曲がり左に曲がりしながら、どこまでも続いているようだった。肌を切るように冷たい風がひっきりなしに吹き付けてきて、隣に相棒がいるとは言え、棒の一本も携えない丸腰の身では、多少の不安感が湧き上がってくる。

「なあ……ほんとに、シルカはこんなとこに潜っていったのかな……」

思わずそう呟くと、ユージオは無言で光るネコジャラシを足元に向けた。

「あっ……」

青白い光の輪のなかに浮かび上がったのは、凍りついた浅い水たまりだった。中央が踏み割られ、四方に罅が走っている。

俺が試しにその上に乗ると、ばりんと音を立てて氷がさらに大きく割れ、わずかな水が飛び散った。つまり、直前に俺より体重の軽い者がこの上を歩いた、ということだ。

「なるほど……間違いないみたいだな。まったく……無鉄砲というか恐れを知らないというか……」

思わずそうぼやくと、ユージオは不思議そうに首を傾げた。

「別に、何も怖いものなんてないよ。この洞窟にはもうドラゴンもいないし、それどころかコウモリ一匹だっていやしないんだからさ」

「そ、そうか……」

 改めて、この世界にはモンスターはいないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、果ての山脈のこちら側は、VRMMOで言う圏内エリアと考えていいわけだ。

 いつの間にか強張っていた背中から、ふう、と力を抜こうとした――その時だった。

前方の闇の奥から、風に乗って妙な音がかすかに届いてきて、俺とユージオは顔を見合わせた。ぎっ、ぎいっ、と言うような、ある種の鳥か、あるいは獣の哭き声のように、聞こえなくもなかった。

「おい……今の、なんだ?」

「……さあ……初めて聞くよ、あんな音。……あ」

「こ、今度は何だよ」

「なんか……匂わない、キリト……?」

言われるままに、俺は吹き寄せる風を深く鼻から吸い込んだ。

「あっ……なんか、焦げ臭いな……。それに……」

樹脂の焼けるような匂いに混じって、ほんのわずかに、生臭い獣臭を嗅いだ気がして、俺は顔をしかめた。到底、心安らぐ香りとは言いがたい。

「なんだ、これ……」

そう言いかけた時、新たな音が響いてきて、俺は息を呑んだ。

 きゃああああ……と、長い残響音の尾を引くそれは、間違いなく女の子の悲鳴だった。

「まずい!」

「シルカ……!」

俺とユージオは同時に叫ぶと、凍りついた岩にまろびつつ全力で走り出した。

 この世界に放り出されて以来、最大限にまで――どこにいるのかまるで分からなかったあの時よりも――高まった危機感が、体の内側を氷のように駆け巡り、手足を痺れさせていく。

 やはり"アンダーワールド"もまた完全な楽園などではないのだ。薄皮一枚の下に黒い悪意を内包している。そうでなければ理屈に合わない。なぜなら、おそらくこの世界は、住人すべての魂を挟んだ巨大な万力なのだから。何者かが、数百年の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと螺子を回している。魂たちが結束して抗うか、あるいは無力に潰れてしまうのかを観察するために。

 ルーリッドの村は、もっとも万力の口金に近い場所のひとつなのだろう。"最後の時"が近づくにつれ、村の住人の中から、弾けて消える魂が少しずつ増えていく。

 だが、その最初のひとりにシルカが選ばれるのは、絶対に容認できない。彼女をこの洞窟に導いてしまったのは俺なのだから。彼女の運命に干渉してしまった者の責任として、かならず無事に連れ帰らなければ……。

 激しく揺れる弱々しい光だけを頼りに、俺とユージオはほぼ全力で走りつづけた。呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。何回か滑ったときに打撲した膝や手首も絶え間なくうずき、"天命"が急速に減少しているであろうことは想像に難くないが、だからと言って速度を落とすわけにはいかない。

進むにつれ、木が焚かれる焦げくさい匂いと、饐えたような獣の体臭は確実にその濃さを増していく。ぎっ、ぎっという声に混じって、がちゃがちゃ鳴る金属音も頻繁に耳に届く。前方に何者が待つのか分からないが、友好的な存在ではないだろうことは容易に想像できた。

 腰にナイフの一本も持たない以上、何らかの作戦を立てて慎重に進むべきだ――とVRMMOプレイヤーとしての俺が囁くが、躊躇している場合ではないという気持ちの方が大きかった。それに、俺以上に血相を変えて猛烈なスピードで走るユージオには、何を言っても引き留めることはできまい。

 不意に、前方の岩壁にオレンジ色の光が揺れた。反射の感じから見て、奥はかなり広いドームになっているらしい。びりびりと肌が震えるほどに明確な、敵性存在の気配を感じる。それも複数――かなり多い。シルカの無事を一心に祈りながら、俺はユージオとほぼ同時にドーム状空間に走り込んだ。

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