若々しい、それでいて深い苦悩の滲む声で発せられた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「と……りひき?」
「そうだ。あの岩槍や、でけえ地割れを作ったのはお前だな。いいか、地割れに、狭くていいから橋を架けろ。そうすりゃ、四千の拳闘士団が、この黒い軍隊どもをブッ潰すまでお前らと共闘してやる」
共闘――ダークテリトリー軍が!?
そんなことが有り得るのか。暗黒界人は、いやこの世界の人間は、コード871によって上位者とその命令には逆らえないのではないのか。
しかし、この若者には右眼が無い。これはつまり、封印を自力解除した証なのか? 彼もまた、アリスと同じく限界突破フラクトライトへと進化したのか?
でもこの傷痕は――右眼が破裂したというより、無理やり抉り出したかのような……。どう考えれば、どう判断すればいいのか。
アスナの刹那の逡巡を、右側から響いた声と剣風が破った。
「その人、たぶんウソはつかない」
ぴゅ、ぴゅぴゅん。
驚くほど細く、よくしなる漆黒の剣で数人の歩兵の首を落としたのは、灰色の髪を持つ女性の整合騎士だった。名は、たしかシェータ。
「おう」
シェータを見た若い拳闘士が、にやりと不敵な――それでいてどこか照れたような笑みを微かに浮かべた。
その瞬間、アスナは決断を下した。
信じよう。
おそらく、"地形操作"能力が使えるのはこれで最後だ。ならばその機会は、破壊ではなく創造のために使うのも、悪くないだろう。
「……わかった。橋を作ります」
左腕の傷口から手を離し、アスナは右手のレイピアを高く掲げた。
ラ――――――――。
荘重な天使の歌声に続き、七色のオーロラが高く天を衝いた。
それは一直線に北へと突き進み、峡谷を貫き、対岸まで達した。
低い地響きが轟き、大地が震えた。
ゴン! ゴゴゴゴン!!
突如、崖の両側から岩の柱が突き出た。それらは見る間に長く伸び、谷の中央で結合すると、更に太く、しっかりとした架橋へと変化した。
「ううううううう、らあああああああ!!」
地形変化に伴う地響きの数倍の音量で迸ったのは、四千の拳闘士団が放つ怒りの雄叫びだった。
隻腕の巨漢を先頭に、闘士たちが一斉に橋上を疾駆し始めた。
切断された左腕の痛みに数倍する頭痛に、一瞬気を失いながら、アスナはわずかに安堵の息を吐いた。
これで――この場は脱出できるかもしれない。
どうか無事でいて、アリス。
約一分前。
戦場の最南部に於いて――。
整合騎士アリスは、あとからあとから湧いてくるような黒い歩兵たちを、もう何人斬り倒したのか数えられなくなっていた。
こいつら――おかしい。
剣士としての覚悟も、鍛錬された剣技もないのに、奇妙な言葉を喚き散らしながら仲間の死骸を踏み越え次々に飛びかかってくる。まるで、命が惜しくないかのように。それどころか、自分の、仲間の、敵の命の重さを歯牙にもかけぬかのように。
これが、リアルワールドの人間たちなのだとしたら。
確かに、アスナの言うとおり、向こう側は決して神の国ではないのだろう。
果てしなく続く殺戮と、尽きることなく出現する敵の数に、さしものアリスもいつしか意識を鈍らせていた。
もう嫌だ。こんなのは戦いではない。
早く――早くこの戦列を切り崩し、抜け出したい。
「どけ……そこをどけえええ!!」
鋭く叫び、金木犀の剣を横一文字に振り抜く。
敵の頭が、腕が、立て続けに飛ぶ。
「システムコール!!」
即座に術式起句を唱え、十の熱素因を生成する。それらを融合させ、炎の槍を作り出し、放つ。
「ディスチャージ!!」
ドッゴオオッ!!
デュソルバートの熾焔弓には劣るが、巨大な爆発がまっすぐに敵軍を突き抜け、穴を穿った。
その向こうに――。
見えた。黒い大地と、盛り上がった丘。
包囲を破ってあそこまで後退したら、この戦場から発散されたリソースを利用して"封鎖鏡面光術"を組み、黒い歩兵どもを一気に焼き払ってやる!
「せあああああ!!」
気合とともに、アリスは地を蹴った。
戦列に開いた穴を、剣を左右に閃かせながら駆け抜ける。
「……嬢ちゃん!!」
背後で、騎士長ベルクーリの鋭い声が聞こえた。
だが、それに続く、先走るな、のひと言はアリスの耳には届かなかった。
抜ける。もう少しで突破できる。
立ちふさがった最後の一人を、足を止めぬまま斬り伏せ、アリスはついに無限とも思えた敵の包囲を破って南の荒野へと飛び出した。
剣を鞘に収めながら、血のにおいのしない新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、尚も全力で疾駆する。
不意に、周囲が暗くなった。
朝日が翳ったのか、と一瞬思った。
直後、ドカッ!! と凄まじい衝撃が背中を打ち、アリスの意識は暗転した。
皇帝ベクタ/ガブリエル・ミラーにとっても、この局面は賭けだった。
しかし彼は確信していた。戦場にダイブさせた数万のアメリカ人プレイヤーに、人界軍を包囲攻撃させれば、"光の巫女"アリスは必ず再びあの巨大レーザー攻撃を行うために単身、あるいは少人数で脱出してくると。
徴用した飛竜の背にまたがり、戦場の遥か高空でホバリングしながら、ガブリエルはひたすら待ち続けた。それは、アンダーワールドにダイブして以来、最も長く感じた十分間だった。
しかしついに、黒蟻の群のような歩兵の戦列を抜け出た黄金の光を彼は見た。
「アリス……アリシア」
ガブリエルは、彼にしてはまったく珍しい本当の笑みを唇に浮かべ、囁いた。
手綱を一打ちし、竜をまっすぐに急降下させる。
彼の虚無的な心意は、すでに飛竜のAIを完全に侵食し、道具のごとく意のままに操っていた。竜は命ぜられるまま、翼を畳んで音も無く落下すると、突き出した右の鉤爪で地面を駆ける黄金の騎士の背中を一掴みにした。
バサッ!!
広げた翼を大きく鳴らし、竜は再び空へと駆け上がった。
ガブリエルは、背後の混沌極まる戦場には一瞥も呉れなかった。
彼にはもう、暗黒界軍が、人界軍が、そして召喚した現実世界人たちがどうなろうとどうでも良かった。
あとはただひたすら、この座標から最短距離のシステムコンソールである、"ワールドエンド・オールター"を目指す。そこからアリスの魂をメインコントロールルームへと排出する。
ちらり、と視線を下向けると、気を失ったまま竜の足に捕獲されている黄金の騎士の、風になびく金髪が見えた。
早く触りたい。その体を、魂を、心行くまま味わいたい。
システムコンソールまでは長い道行きだ。飛竜に乗っても数日は掛かるだろう。その時間を利用して、アリスがアンダーワールドでの肉体を備えているあいだに愉しむのもまた良かろう。
ガブリエルは、背筋を甘美な衝動が這い登るのを感じ、もういちど唇を吊り上げた。
まさか。
よもや――五万のダークテリトリー軍と、新たに召喚した三万の歩兵たちを、丸ごと使い捨てにするとは。
たった一人の少女を攫うためだけに!
騎士長ベルクーリは、皇帝ベクタなる存在の虚無的な心意を知覚したその瞬間から、強く警戒し続けてきたつもりだった。しかし、己に敵の全貌がまるで見えていなかったことを、アリスが拉致された瞬間になってようやく自覚させられる結果となった。
割れ砕けんばかりに歯噛みをしてから、ベルクーリは、いったい何十年ぶりなのか自分でも分からない行動に出た。
腹の底から、本気の怒声を放ったのだ。
「貴様ッ、オレの弟子に何しやがるッ!!」
びりっ、と空気が軋み、声の軌跡に白い電光すら弾けた。
しかし、アリスを捕獲した飛竜の騎手は、振り向くことすらせず一直線に南空へ上昇していく。
愛剣を構え、ベルクーリはその後を追って走ろうとした。しかし、アリスが術式で敵戦列に開けた穴はすでに塞がり、漆黒の歩兵たちが奇怪な罵声を吐きながらうじゃうじゃと押し寄せてくる。
「そこを……」
どけっ、とベルクーリが叫ぶより早く、頭上を眩い銀の光が駆け抜けた。
きりきりきり、と高く澄んだ音を響かせながら飛翔する二条の投刃。整合騎士レンリの神器、比翼だ。
背後で、少年騎士の鋭い声が聞こえた。
「リリース・リコレクション!!」
カッ、と一瞬の閃光を放ち、二枚の投刃がひとつに融合する。十字の翼へと変化した刃は、低空へ舞い降りると、ぎざぎざの軌道を描いて突進し敵兵たちを左右になぎ倒す。
「騎士長、行ってください!!」
レンリの叫びに、ベルクーリは背中を向けたまま応じた。
「すまん! 後は頼む!」
ふっ、と腰を落とし、右足で思い切り地を蹴る。
瞬間、騎士長の姿は白い突風へと変化した。敵の大群に再び開いた間隙を、飛ぶが如く駆け抜けたベルクーリの速度は、ダークテリトリーの拳闘士が武舞によって実現する疾駆を遥か上回っていた。
長剣をぶら下げた右手と、前に傾けた上体は微動だにさせぬまま、脚だけを朧にかすませて最古の騎士は戦場の南へと抜けた。
アリスを攫った皇帝ベクタの竜は、すでに遥か高空をゆく小さな黒点でしかなくなっている。
疾走しながら、ベルクーリは左手を口元にあて、高らかに笛の音を吹き鳴らした。
数秒後、前方の稜線から、銀色の巨大な翼がその姿を現した。ベルクーリの騎竜・星咬だ。
飛来する竜は、しかし一頭だけではなかった。アリスの騎竜・雨縁、そして今は亡き騎士エルドリエの竜・滝刳もその後ろに従っている。
「お前ら……」
ベルクーリは呟き、二頭に出そうとした待機命令を、ぐっと飲み込んだ。
低空を滑るように接近してきた星咬が、くるりと向きを変え、ベルクーリに向けて脚を突き出す。
その鉤詰に左手をかけ、騎士長は一気に竜の背中へと自らを放り上げた。鞍に跨るや、右手の剣をまっすぐ前方に突き出す。
「行けっ!!」
叫ぶと、星咬と、雨縁、滝刳は同時に翼を打ち鳴らし、紫に染まる暁の空へと駆け上った。
くさび型に隊列を組んで併進しはじめた三騎の、はるか前方をゆく黒い飛竜の脚のあたりで、黄金の光が一瞬ちかっと煌いた。
岩の架橋を一気呵成に突進してきた四千の拳闘士たちは、半ば殲滅されかかっていた数百の同族たちと合流すると、人界軍のすぐ横を駆け抜け、まるで巨大な破城槌のごとく敵軍の中央へと激突した。
十人ひと組が横一列に密接し、完璧に同期した動きで右拳を引き、構える。
「ウッ、ラァッ!!」
ボッ、と放たれた十本の突きが、黒歩兵たちの剣をへし折り、鎧を穿った。悲鳴と血煙を撒き散らし、二十人以上の敵が後方へと吹っ飛ぶ。
闘気の全てを込めた突きを放ち終わった十人が、すっと横に広がって隙間を空けると、その間から真後ろの十人が飛び出てきてガチッと横列を組む。
「ウララッ!!」
今度は前蹴りが、これも見事にシンクロした動作で撃ち出された。再び大量の敵が、爆弾でも落とされたかのように四散した。
「……すごい」
左腕の傷口に、即席で丸暗記してきた治癒術を施しながら、アスナは思わず呟いた。
拳闘士たちの闘いぶりは、SAOで攻略組が行っていたスイッチ・ローテーションと似ているが、遥かに洗練されている。十人かける十列で百人、その集団が四十以上も、まるで工事用重機のように敵を蹂躙していく様は見ていて空恐ろしいほどだ。
「感心してるだけじゃ困るぜ。このまま南に抜けたとして、そのあとはどうするんだ。あれだけの敵、囲みを突破はできても、この場での殲滅はちと難しいぜ」
アスナの隣で腕組みをして立つ、一時共闘中の敵将が、厳しい表情で言った。
確かに、前への突進力は無敵と思える拳闘士隊だが、数倍の歩兵に側面から突っ込まれて崩される集団も出始めている。何せ、召喚されたアメリカ人たちの数は、いまだ二万を軽く超えるのだ。
「……では……敵陣を破り、南へ抜けたら、そのまま距離を取ってください。わたしがもう一度、地割れを作って敵を隔離します」
アスナは低くそう応じた。
――できるだろうか。さっき、小さな橋を作っただけでも気絶しそうになったのだ。再び、地平線まで届くほどの大規模な地形操作を行ったら、今度こそ強制カットオフされるか……下手をすると、脳に物理的な外傷を負うことも……。
一瞬の迷いを、アスナは強く唇を噛んで振り払った。やるしかないのだ。この、アメリカ人の召喚が、強襲チームの最後の策のはずだ。ならば、たとえ相討ちになったとしても――。
戦場の北端に居るアスナのもとに、一人の衛士が南から駆けつけてきたのはその時だった。
「伝令!! 伝令――!!」
深手を負ったらしく、顔の半分を血に染めた衛士が、アスナの前に膝をつくとかすれ声で叫んだ。
「整合騎士レンリ様より伝令であります!! 整合騎士アリス様が、敵総大将の駆る飛竜に拉致されました! 飛竜はそのまま南に飛び去った模様……!!」
「な…………」
アスナは言葉を失った。
そうか――まさか、この状況は。人界軍から、アリス一人を誘い出すための……!!
「皇帝……が、飛び去った、だと」
しわがれた声で応じたのは、拳闘士の長だった。左だけ残った赤い眼に、異様な光を浮かべてさらに声を絞り出す。
「それで……さっき、飛竜に……。見物じゃなかったのか……。おい、女!!」
若者は、アスナを爛々と輝く隻眼で凝視し、急き込むように詰問した。
「アリスってのは、"光の巫女"だな!? 皇帝はなぜそいつに固執するんだ!? 光の巫女が皇帝の手に落ちたら、いったい何が起きるってんだよ!?」
「この世界が……滅びます」
アスナは、短く答えた。拳闘士の顔が、愕然と強張る。
「暗黒神ベクタが、光の巫女アリスを手に"世界に果ての祭壇"に到ったとき……この世界は、人界も、ダークテリトリーも、そこに住む人々を含めてすべて無に還るのです」
自らの言葉が、どうしようもなくロールプレイングゲームのシナリオじみていることを、アスナは僅かに意識した。しかし、これはまったくの事実なのだ。アリスの魂を手に入れた強襲チームは、もう用無しとなったライトキューブクラスターを丸ごと破壊するであろうことは当然の予測である。
ああ……どうすれば。スーパーアカウント"ステイシア"にも飛行能力は付与されていない。飛竜に乗っている皇帝ベクタを、どうやって追いかければいいの。
アスナの内心の苦悩に答えたのは、いつのまにか前線から戻っていた灰色の騎士シェータだった。レイピアというよりフルーレに近い漆黒の剣をぴゅんっと鳴らし、血のりを振り落としながら、涼しげな容貌の女騎士は言った。
「飛竜も……永遠には飛べない。半日が限界」
すると、シェータをちらりと見てすぐに視線を逸らした拳闘士の長が、ばしっと掌に拳を打ち付けて叫んだ。
「なら、気合で追っかけるっきゃねえな!!」
「追っかける、って……あなた……」
アスナは呆然と敵将の若々しい顔を見た。
「あなた、ダークテリトリー軍の人なんでしょう? なんで、そこまで……」
「皇帝ベクタは……俺たち暗黒界十候を並べて、確かに言ったんだ。自分の望みは光の巫女だけだと。そいつさえ手に入れれば、あとはどうでも知ったこっちゃねえ、ってな。巫女をかっ攫った今、皇帝の目的は達せられた……つまり、俺ら暗黒界軍の任務も一切合財終わったわけだ。あとは、俺らが何をどうしようと自由、そうだろが!!」
なんという――牽強付会な。
アスナは唖然と若き将の顔を見た。しかし、そこにあったのは、威勢のいい言葉とはほど遠い、悲壮な決意の色だった。
左眼でまっすぐにアスナを見て、拳闘士は言った。
「……俺は……俺たちは、皇帝には直接逆らえねえ。あの力は圧倒的だ……俺より恐らくは強かった暗黒将軍シャスターを、指一本動かさず殺したからな。もし改めてあんたらと戦うよう命じられたら、従うしかねえ……。だから、俺たち拳闘士団は、ここで黒い兵隊どもを防ぐ。あんたと人界軍は力を使わずに、皇帝を追っかけてくれ。そんで……皇帝を……野郎を……」
突然言葉を切り、若者は、まるで存在しない右眼が痛むかのように顔をゆがめた。
「野郎に、教えてやってくれ。俺たちは、てめぇの人形じゃねえってな」
ちょうどその時、一際高い拳闘士たちの喊声が、戦場の南から響いた。部隊の先頭が、ついに黒歩兵軍の囲みを破り、荒野へと抜け出たのだ。
「よぉし……」
若い長は、ずだん! と右足を踏み鳴らし、凄まじい音量で命じた。
「その突破口を保持しろ!!」
アスナに視線を戻し、短く言う。
「あんたたちは早く脱出しろ!! 長くは持たねえ!!」
大きく息を吸い――アスナは頷いた。
人間だ。この人は、まさしく強靭なる魂を持つ人間に他ならない。一族が渡っているロープを無慈悲にも切断し、百人以上を剣に掛けたわたしたちに、叩き付けたい恨みと憎しみだってあるだろうに。
「……ありがとう」
どうにかそれだけを口にし、アスナは身を翻した。
背中に、整合騎士シェータの声が掛けられた。
「私も……ここに、残る」
何となく、それを予測していたアスナは、肩越しに灰色の髪の女騎士に向かって短く微笑みかけた。
「わかりました。しんがりをお願いします」
一族の闘士たちが東西に構えて保持する突破口を、栗色の髪の不思議な女騎士と、七百ほどに減じた人界軍が走り抜けていくのを、イシュカーンは無言で見送った。
土煙から視線を外し、となりに立つ灰色の整合騎士を見やる。
「……いいのかよ、女」
「名前、もう言った」
剣呑な目つきで睨まれ、苦笑まじりに言い直す。
「いいのか、シェータ。生きて戻れるかどうかわかんねえぞ」
真新しい鎧をかしゃりと鳴らし、細身の騎士は肩をすくめた。
「あなたを斬るのは私。あんな奴らにはあげない」
「へっ、言ってろ」
今度こそ、イシュカーンは朗らかに笑った。
犬死にしていく仲間を助けたい。それだけを願っていたはずの自分が、人界軍に協力し、黒い軍隊から彼らを守るために部族全体の命運を賭けようとしているのはどうにも不思議だったが、しかし、胸中には爽やかな風が吹いていた。
まあ、悪くねえさ。こんな死にざまも。
世界を守るためなら――郷のオヤジも、弟や妹たちも、分かってくれるだろう。
「よぉおし!! 手前ら、気合入れろよ!!」
即座に、ウラアー!! という雄叫びが返った。
「円陣を組め!! 全周防御!! 寄ってくるアホウ共を、片っ端からぶちのめしてやれ!!」
「滾りますな、チャンピオン」
音もなく背後の定位置に戻っていたダンパが、左手をごきごきと鳴らした。
南の丘を越え、補給隊の待つ森へと撤退しながら、アスナは少年騎士レンリから、騎士長ベルクーリが三匹の飛竜とともに皇帝ベクタを追跡していることを知らされた。
「……追いつけると思いますか?」
アスナの問いに、レンリは幼さの残る顔に厳しい表情を浮かべ、答えた。
「正直、微妙なところです。基本的には、同じ速度で飛び、同じ時間に休息せねばならないわけですから……ただ、皇帝ベクタの竜は、アリス様を運んでいるせいで、天命の消耗は多少なりとも多いはずです。逆に騎士長閣下は、三匹の竜を順次乗り換えて疲労を抑えることが可能ですゆえ、徐々にですが距離は詰まるかと……」
となると、あとは果ての祭壇までの道行きのあいだに、騎士長が追いついてくれることを祈るのみだ。
しかし、首尾よく皇帝を捕捉したとして――。
騎士長ベルクーリは、スーパーアカウントたる暗黒神ベクタに単独で勝てるのだろうか?
よもや、襲撃者たちも神アカウントでログインしてくるなどとは予想もしなかったアスナは、ベクタに付与された能力を比嘉タケルに説明されていない。しかし、ステイシアの地形操作と同等の力をベクタも持っているとしたら――たとえ整合騎士たちの長と言えども、一対一での戦いは厳しすぎるのではないだろうか……。
そこまで考えたとき、レンリがしっかりした口調で言った。
「もし追いつければ、騎士長閣下はかならずアリス様を助けてくださいます。あの方は……世界最強の剣士なのですから」
「……ええ、そうですね」
アスナも、ぐっと強く頷いた。
今となっては、信じるだけだ。アンダーワールド人の意思の強さを、先刻目の当たりにしたばかりではないか。
「ならば、私たちも全軍で南進しましょう。幸い、この先はひたすら平坦な土地が広がっているようです。ベルクーリ様が、敵の飛竜を落としてくだされば……」
「分かりました、アスナ様。至急出立の準備をさせます!」
レンリは走る速度を上げ、一足先に森の中へと消えた。
ちょうどその頃――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームでは、情報戦担当員クリッターが、ログイン準備の整ったアメリカ人VRMMOプレイヤー第二陣・二万人を、新たにアンダーワールドに投入しようとしていた。
しかしその座標は、ガブリエル・ミラーの現在位置を追うかたちで、第一陣の投入地点よりも南に十キロメートルほども変更されていた。
「ワウッ!!」
奇妙な喚き声とともに、ヴァサゴ・カザルスはがばっと身を起こした。
長い巻き毛を振り回しながら、周囲を素早く確認する。
鈍く光る鋼板の壁。滑り止めの樹脂加工が施された床。薄闇にぼんやりと浮かぶ幾つものモニタやインジケータ。
そして、目の前でくるりと回転した大型のシートに座る、ひょろりと痩せた坊主頭の男をまじまじと眺めてから、ヴァサゴはようやくここが現実世界のオーシャンタートル・主コントロール室なのだと認識した。
坊主頭の男――クリッターは、ふん、と短く鼻を鳴らしてから高い声で言った。
「あらら、目ぇ醒ましやがったか。脳細胞がコゲてるほうに賭けたのになぁー」
「んだとコラ」
反射的に罵り声を上げてから、自分の身体を見下ろす。壁際に敷かれた薄いマットレスに寝かされ、腹の上にはおざなりにフライトジャケットが掛けてある。
一体何がどうしたんだったか、と強く頭を振ると、脳の芯がずきんと痛んだ。思わず再びアウッツ! と罵り、部屋の反対側で車座になってカードに興じている数人の隊員に声を掛ける。
「おい、誰かアスピリン持ってねえか」
髭面のブリッグが、無言でポケットを探ると、小さなプラスチック瓶を放ってきた。片手で受け取り、キャップを捻って中身をざらっと口に投げ込み、ぼりぼり噛み砕く。
舌が痺れるほどの苦味に、ようやく記憶がわずかに鮮明化した。
「そうか……あのクソ深ェ穴に落っこちて……」
「いったい、どんな死にザマしたんだぁー。八時間もぶっ倒れやがってよー」
「は、八時間だぁ!?」
驚愕し、ヴァサゴは頭痛も忘れて跳ね起きた。
クリッターのシートに駆け寄り、正面コンソールのデジタルクロックを睨む。JSTでAM6:03。イージス艦突入のタイムリミットまで、約十二時間しか残されていない。
いや、それよりも、八時間も失神していたならば、すでにアンダーワールド内部では一年もの年月が過ぎ去ったはずだ。戦争は、アリス捕獲ミッションはどうなったのか。
だが、クリッターはヴァサゴの驚きを見透かしたかのように、ちっちっと舌を鳴らして言った。
「眼ン玉剥いてんじゃねえー。安心しなー、おめえが中でおっ死んだ時点で、時間加速は一倍にまで下がってっからよー」
「い……一倍だと」
ならば、状況は大して変化していないのか。いやしかし、それはそれで大問題だろう。
「おい、分かってんのかこのコオロギ野郎! あと十二時間で、JSDFの海兵隊だか何だかが突っ込んでくるんだぞ!」
坊主頭をがくがく揺らすヴァサゴの手を、煩わしそうに振り払い、クリッターは答えた。
「ったりめーだろうがぁー。こりゃあ全部、隊長の指示だっつうのー」
続いて説明された"作戦"は、ヴァサゴの度肝を抜くに充分なものだった。
ミラー中尉は、ダークテリトリー東端の帝城、つまりシステムコンソールを離れる時点で、クリッターに秘かに指示していたのだ。刺激的な"ハードコアVRMMO"のベータテスト告知サイトを作成し、接続用クライアントプログラムを用意しておけと。そして、ダークテリトリー軍の戦力が半減した時点で加速率を一倍に低下させ、同時に全米でベータテスターの募集を開始しろ、と。
「この機能制限されたコンソールじゃー、中尉とてめーの座標、それに大まかな人間の分布しかわからねー。だから、この作戦は、ヒューマンエンパイア側の抵抗が予想より激しかった場合の保険だったんだがよー」
クリッターは細長い指をキーボードに躍らせ、大モニタにアンダーワールド全図を表示させた。
丸っこい逆三角形をした世界地図の、東の端から二本の赤いラインが伸び始め、西へと移動していく。
「これがてめーと隊長の移動ログだー。いいかー、てめーはこの、エンパイアのゲートあたりをウロチョロして、ここで死にやがったわけだ」
赤いラインの片方が、"東の大門"から南へ少し折れたあたりで×印とともに途切れた。
「しかし隊長は今、さらにズーっと南へと進行してる。しかも全軍を北に置き去りにして、単独でだー。これがどういうことかっつうと……」
「"アリス"を追っかけてるか、もしくは既に捕まえてるか、のどっちかだな」
ヴァサゴは唸った。クリッターも頷き、説明を続ける。
「もともとの作戦じゃー、残り時間が八時間にまで減るか、あるいはヒューマンエンパイア軍が全滅したとこで、もう一度加速率を上限まで戻すっつーことになってた。それでも内部では一年にもなるからなー。加速を戻した時点で、ダイブさせた外部ベータテスターは同期ズレで全員放り出されちまうけど、戦争さえ勝ってりゃーこっちのモンだー」
「なら、今すぐ戻せよ! もう、人界守備軍はほとんど残ってねえんだろうが」
「それが、そう単純じゃねー。いいか、ここを見ろー」
クリッターはキーを叩き、マップの一部を拡大させた。
人界と暗黒界を隔てる東の大門、そこから南へ数キロ下ったところに、平地と丘、森林が並んでいる。ヴァサゴの記憶にも新しい、人界軍が潜伏していた森だ。
しかしいつの間にか、森と平地のあいだには、東西に五十キロメートル近くも伸びる巨大な峡谷が出現していた。その谷のすぐ南側に、もやもやと蠢く雲のようなものが、二色に色分けされて表示されている。
「この、黒で表示されてんのが、俺がアンダーワールドにぶっこんだUSベータテスターの集団だー。ずいぶん減ったが、まだ二万は残ってる。んで、黒に半包囲されてる赤い丸はダークテリトリー軍だ。四千人くれーかな」
「お……おいおい、どう見ても黒が赤を襲ってるじゃねェか」
「偽ベータテスト告知じゃー、超リアルなNPCを殺し放題としか書いてねーからな。USからダイブしてる連中は、人界軍も暗黒界軍も区別してねー。けど、なんでだか、赤の減りが予想より遅ぇー。皇帝に絶対忠実の暗黒界軍が、皇帝に召喚されたUSプレイヤーに抵抗するわきゃねーんだけどよー」
「どうせ、ねちねちいたぶって殺すのに夢中になってんじゃねえのか」
「まー、この赤四千はそのうち全滅するとしてだー。問題は、ここにちょこっとだけ、青い集団がいるだろがー」
クリッターがカーソルを動かす。確かに、南へ直進する皇帝ベクタことミラー中尉を追うように、ほんのささやかなブルーのもやが移動している。
「こりゃ人界軍だー。マップ上じゃちっちぇーけど、これでも七、八百はいる。こいつらが隊長に追いつくと面倒だからなー、なんとか阻止しなきゃなんねー」
「阻止ったってよ……どうするんだよ」
ヴァサゴの問いに直接答えず、クリッターはひっひっと短く笑うと、キーを操作した。
マップ上に、ぽっと別ウインドウが開く。そこには、白一色を背景に、巨大な黒い雲がもやもやと蠢動している。
「こいつらは、第一次接続に乗り遅れたプレイヤー連中だー。二万に達したら、これをこの青集団の座標にブチこむぜー。戦力比1:25だ、一瞬で殲滅するぜー? そしたら加速を一千倍まで戻す。隊長がアリスを捕まえて、南のシステムコンソールに到着する猶予はたっぷり残るはずだぁー」
「……そう上手くいきゃいいけどな」
ヴァサゴは顎に伸びた髭をざらっと擦りながら反駁した。
「おめーが思ってる以上に、人界軍てのはヤルぜ。とくにあの整合騎士って連中はとんでもねえ、ダークテリトリー軍の第一波を根こそぎブチ殺したからな。さもなきゃ、俺があんなブザマにやられる……わけが……」
そこまで口にした時。
ヴァサゴはようやく、自分が何者に、どのようにして殺されたかを思い出した。
鋭く息を詰め、黒い眼を見開く。網膜に、はるか高みから見下ろす、女神じみた姿がまざまざと蘇る。
「"閃光"……!! そうだ……間違いねぇ、ありゃあ絶対にあの女だ……!!」
「はぁ? 何言ってんだー?」
怪訝そうなクリッターの坊主頭をがしっと掴み、ヴァサゴは喚いた。
「おいトンボ野郎!! てめーの作戦、もうK組織の奴らもやってんぞ!! 人界軍に、日本人のVRMMOプレイヤーが混じってたんだよ!!」
「なにぃー?」
胡散臭そうな顔のクリッターには構わず、ヴァサゴは獰猛な笑みを口の端に上せた。
「"閃光"アスナが居るってことは……もしかしたら、ヤツも中に居るんじゃねえのかよ。うおっ……マジかよ、こうしちゃいらんねえ……。おい、俺ももう一度ダイブするぞ! 二万の援軍と同時に、俺もその青集団の座標に降ろせ!!」
「ダイブ、つったって、もうテメーが無駄にした皇帝副官アカウントは残ってねーぞ。雑兵アカでいいんなら幾らでもあるけどよ」
「あるぜ……アカならよ。とっておきのヤツがよ」
クック、と喉の奥で笑い、ヴァサゴはコンソール上からエナジーバーの包み紙を拾い上げると、クリッターの胸ポケットから抜き取ったペンを手早く走らせた。
「いいか、そのIDでザ・シード・ネクサスのポータルサーバーにログインしたら、キャラをアンダーワールドにコンバートしろ。それを使ってダイブする」
そういい残し、ヴァサゴはSTL室に続くドアへと数歩走りかけた。
しかし、そこでぴたりと脚が止まった。
怪訝な顔で見守るクリッターを、ゆっくりと振り向いたその顔には――豪胆な電子犯罪者さえぞっとするような、凶悪な笑みが色濃く浮かんでいた。
ヴァサゴは、分厚いブーツに何の音もさせずに引き返し、クリッターの耳に短く囁きかけた。数秒後、今度こそがしゃりと開閉したドアを呆然と見やるハッカーの手には、小さな紙片だけが残された。
紙には、"ID:"に続いて、三文字のアルファベットと8桁の数字が記されていた。
"SAO12418871"。
補給隊の馬車に駆け込んだアスナが見たのは、横倒しになった銀色の車椅子と、左手を弱々しく動かす黒衣の青年、そして覆いかぶさる二人の少女たちだった。
さっ、と顔を上げたロニエが、涙に濡れる頬を歪めて言った。
「あ……アスナ様! キリト先輩が……何度も、何度も外に出ようとして……」
アスナは唇を噛みながら頷き、キリトの前に跪くと骨ばった左手を右手でぎゅっと握った。
「ええ……。アリスさんが……敵の皇帝に拉致されたのです」
「えっ……アリス様が!?」
叫んだのはティーゼだった。白い頬が、いっそう青ざめる。
一瞬の沈黙を破ったのは、キリトの細いしわがれ声だった。
「あ……ぁ……」
左手が弱々しく動き、アスナの左腕を撫でようとする。
「キリトくん……わたしを、心配してくれたの……?」
思わずそう呟いたとき、アスナの負傷に気付いたロニエが、悲鳴に似た声を発した。
「あ、アスナ様! 腕が……!!」
「大丈夫。この傷は……わたしにとっては仮初めのものですから……」
呟き、アスナは切断されたままの左腕をそっと持ち上げた。
比嘉タケルに、アンダーワールドの上位レイヤーを形作る"ニーモニック・ビジュアル"についてはざっと説明を受けている。下位サーバーで生成されるポリゴンや、与えられた数値的ステータスとは別に、イマジネーションによって具現化するもうひとつの現実。
スーパーアカウント・ステイシアに付与されたヒットポイント――天命は膨大なものだ。設定可能な上限の数字を与えられている。だから、通常武器による攻撃ならば、百、いや千の剣に貫かれても天命がゼロにはなるまい。
しかし、この傷を受けたとき、アスナは振り下ろされる巨大なバトルアックスに恐怖した。イマジネーションが弱化したのだ。ゆえにこれほどの重傷を、自ら作り出してしまった。
キリトの右腕も同じことだ。数値としての天命は全快しているのに、腕は復元されない。それは、キリトが自分を許せないでいるせいなのだ……。
アスナは自分の右手を、左腕の切断面にかざした。
意識を集中し、自分に強く言い聞かせる。
もう、わたしは二度と怯えたりしない。キリトくんに心配させたり、絶対にしないんだ。
ぽっ、と左腕に光が宿った。白く暖かい輝きは、次第に前腕を、五指をかたちづくり、喪われた左手を復元していく。
奇跡を見るように眼を丸くする二人の少女たちに微笑みかけ、アスナは元通りになった左手でそっとキリトの頭を抱いた。
「ね、わたしは大丈夫。アリスさんだって、きっと救い出してみせる。だから……その時は、キリトくんももう、自分を責めるのはやめて……」
言葉が届いたかどうかは分からなかった。しかしアスナは、一瞬強くキリトを抱きしめ、身体を起こした。
「わたしたちは、これから全軍で敵皇帝の後を追います。いま、ベルクーリさんが飛竜で追跡してくださってますから、わたしたちもきっとどこかで追いつけるはずです。それまで、キリトくんをお願いね、ロニエさん、ティーゼさん」
「は……はいっ!」
「お任せください、アスナ様!」
頷く少女たちにもう一度にこりと笑みを向け、アスナは涙をこらえながら馬車から飛び降りた。
整合騎士レンリの指示は的確で、部隊が移動準備を整えるのに五分と掛からなかった。負傷者の治療も術師隊の手によってすぐに終わり、補給隊を中央に隊列が組まれる。
準備完了を報告するレンリに、アスナは言った。
「いま、残っている整合騎士はあなただけです、レンリさん。出発の指示は、指揮官であるあなたが」
緊張した面持ちで、しかし力強く頷いた少年騎士は、右手を高く掲げ、叫んだ。
「全隊……進行開始!!」
隊列の先頭を、レンリの飛竜・風縫がどっどっと走りはじめる。続いて、衛士四百をふたりずつ乗せた二百頭の騎馬。物資と補給隊、術師隊を乗せた十台の馬車。さらに、衛士三百が分乗する、百五十の馬が続く。
ただ一頭、整合騎士シェータの竜だけがどうしてもその場を動こうとしなかった。
主の髪に似た灰色の鱗を持つ飛竜は、去りゆく仲間に向けてクルルルルッと一声高く啼き、自らは北へ――主の残った死地へと飛び去っていった。
残る敵は、皇帝ベクタただ一人。
その正体は、同じく仮の命を持つ現実世界人だ。ならば、刺し違えてでもかならずわたしが倒してみせる。騎士シェータと、赤い眼の若者、そして四千の拳闘士たちのためにも。
アスナは、強い決意を抱きながら、部隊の中ほどをゆく馬車に追いつくとその天蓋にひらりと飛び乗った。
数分後、黒い木々の連なる森が途切れ、前方にすり鉢状の巨大な盆地が姿を現した。まるでクレーターのようなそのくぼ地を貫き、細い道が南へとまっすぐ伸びている。
道が設定してあるということは、その先に何か建造物があるということだ。そして、ダークテリトリーの南部は何ものも住まない荒野だと比嘉に説明されている。つまり――この道の終わるところに"ワールド・エンド・オールター"があり、そしてその途上のどこかに皇帝ベクタと整合騎士アリスがいる。
皇帝の飛竜はもちろん、それを追うベルクーリの竜もすでに見えない。しかし、人界軍八百は、地響きを立てながら可能な限りの速度で道を突き進んでいく。
クレーターの縁を越え、下り坂を駆け降り――すり鉢の底に部隊が差し掛かった。
何かが、震えた。
ぶうぅぅ……ん、という、虫の羽音のような震動音。
「……?」
アスナはちらりと視線を上げた。正面から、右へ、そして左へ。
真後ろを向いたとき、ようやく、音の発生源を眼で捉えた。
黒く、細い、線。
ランダムに途切れ、明滅するラインが、赤い空から一直線に地面に降りてくる。
「…………うそ……」
唇が震え、声がこぼれた。
嘘よ。やめて。
しかし。
ザアアアアッ!!
という、驟雨にも似た轟音が一気に炸裂した。ラインは、左右へと広がりながら、無数に降り注ぐ。クレーターの縁に沿って、何千、万を超える勢いで南へ進み、部隊の進行方向をぴたりと閉ざす。
もう怯えない、と誓ったばかりなのに、アスナの両脚からすうっと力が抜けた。
ラインの溜まった地点に出現したのは、あのおぞましい漆黒の鎧姿だった。
「ぜ……全隊、止まるな!! 突撃!! 突撃――!!」
先頭で、整合騎士レンリが的確な指示を発した。動揺しかけた人界軍の、そこかしこから馬のいななきが響き渡る。
ドッ、と重い音とともに、部隊の速度が増した。クレーターの斜面を、今度はまっすぐに駆け上がっていく。
しかし、まるでその動きを読んでいたかのように、出現した新手の歩兵群は南に多く配置されていた。槍衾の分厚さは、ささやかな小川に叩き込まれた土嚢の山のようだった。
どうする、"地形操作"を使うか――。しかし、下手に手を出せば、部隊の進軍をも妨げてしまう。
アスナの一瞬の躊躇いを、飛竜の雄叫びが貫いた。
見れば、隊列の先頭で、騎士レンリの乗った竜がその口から炎をちらつかせながら一気に突進していく。
「いけない……あの子、捨て身で……!」
口走ったアスナの声が聞こえたかのように、竜の背中でレンリがちらりと振り向いた。
あとは、頼みます。
少年の唇が、そう動いた。
前を向いた騎士は、両腰から二枚のブーメランを取り出し、大きく構えた。
それが投擲される――寸前。
空の色が、変わった。
血の赤に染まるダークテリトリーの空が、四方八方に引き裂かれ、その奥に紺碧の青空が広がるのをアスナは見た。
クレーターの縁に密集し、今にも突進しようとしていた無数の黒歩兵も、突進を続ける人界兵たちも、先頭を走る騎士レンリすらも、一様に天を振り仰いだ。
無限の蒼穹。
その彼方から――白く輝く太陽が降りてくる。
いや、人だ。空と同じ濃紺の鎧と、雲のように白いスカート。激しく揺れる短い髪は水色。白く輝くのは、左手に握られた巨大な弓だ。顔は、逆光になってよく見えない。
誰――あなたは、誰なの?
アスナの、無音の問いに答えるかのように、空に浮く少女はゆっくりと弓を天に向けて掲げた。
右手が、これも強く発光する細い弦を引き絞る。
一際鋭い閃光。弓と弦に大して垂直に、天地を貫くかのような巨大な光の矢が出現した。
人界軍も、黒い歩兵たちも、一人のこらず言葉を忘れた静寂の中。
ほんの微かな音とともに、巨大な光線が真上に向かって撃ち出された。
それは、ぱっ、と瞬時に全方位へ分裂し――。
百八十度向きを変え、無限数のレーザーと化して地上へと降り注いだ。
スーパーアカウント02、"ソルス"。
付与された能力は、"無制限殲滅"である。* 堅焼きパンに、チーズと燻製肉、干し果物を挟んだ朝食をもぐもぐ食べながら、アスナは寝ぼけ頭で考えていた。
……時間が一千倍に加速されているということは、現実世界の人々がご飯を一度食べるあいだに、わたしは千回食べるってことよね。まさか、そのぶん太るなんてことはないだろうけど……。
ちらりと視線を前に向けると、同じように瞼の重そうな整合騎士アリスが、サンドイッチを口元に運んでいる。厚手の布ごしにも、その体がほどよく引き締まり、無駄な弛みの欠片もないことがわかる。
はたしてこの世界には、生活習慣病のたぐいは存在するのだろうか? それとも体型は、産まれた時点で付与される固定パラメータなのだろうか? あるいは――外見はすべて、精神のありようを映す鏡に過ぎないのか。
傍らでは、寝床から上体を起こしたキリトに、ロニエがサンドイッチを少しずつ千切っては食べさせている。アリスいわく、天命の維持にはじゅうぶん足りる量の食事はさせてきたそうだが、しかしキリトの体が見る間に痩せほそっていくのはどうしようもなかったらしい。
まるでこの世界から、いやあらゆる世界からも、消え去ってしまいたいと彼自身が望んでいるかのように。
「……今朝は少し、顔色がいいですね、キリト先輩」
不意に、アスナの心を読んだかのように、ロニエが呟いた。
「それに、ごはんもしっかり食べてくれるし」
「まさか、美女三人の添い寝が効いたのかしらね」
アリスの言葉に、思わず複雑な笑いを浮かべてしまう。
昨夜は結局、横たわるキリトを囲んで、午前一時くらいまで話し込んだ。三人が溜め込んだキリトの記憶を開陳しあうには、それでもぜんぜん時間が足りなかったのだが、ついに睡魔に負けてその場で眠りに落ちてしまったのだ。
一瞬のちに鳴り響いたかのような角笛の音に叩き起こされ、こうして朝食を口にしながらアスナが改めて思ったのは、この人はどこにいても変わらないな、ということだった。
誰にでも優しく、それゆえに多くを背負い、己を傷つける。
――でも、今度ばかりは無茶だよ。たった一人で世界をまるごと背負おうだなんて。
――少しはわたしや、他の人たちにも頼ってよね。だってみんな、キミのことが大好きなんだから。
――もちろん、一番はわたしだけど。
アスナは、改めて強い決意が胸中に満ちるのを感じた。キリトが目覚めたとき、笑顔でこう告げるのだ。大丈夫、ぜんぶうまくいったよ。キミが守りたかったものは、わたしとみんなでちゃんと守ったよ、と。
アスナの意思は、その場の二人にも伝わったようだった。アリスとロニエも、眠気の抜け落ちたまなざしをアスナと見交わすと、ぐっと強く頷いた。
敵襲を告げる角笛の、切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、その直後だった。
パンの切れ端を咥えたまま自分の天幕に駆け戻ったアリスは、手早く鎧を身に纏い、金木犀の剣を引っつかむや再び飛び出した。
同じように武装したアスナと合流し、ロニエとティーゼに「キリトを頼むわね!」と声を掛けてから、野営地の北を目指す。
黒い森が切れるあたりには、すでに帯剣したベルクーリの姿があった。偵察騎兵から報告を受けていた騎士長は、駆けつけたアリス、アスナと、ほぼ同時に到着したレンリ、シェータの姿を確認するや、厳しい表情で唸った。
「なるほど、"敵"側リアルワールド人てのの遣り口は相当なモンだな。皇帝ベクタが、思い切った手に出たようだ」
続いた言葉に、アリスも思わず唇を噛んだ。
荒縄一本を頼りに、幅百メルの峡谷の横断を強行。
落下すれば命はないのだ。強靭な体力と精神力がなければ出来ない芸当だ。そのような作戦を強いるとは、ベクタはよほどなりふり構っていないのか――あるいは、兵の命など紙くずほどにしか思っていないのか。
とは言え、仮に三分の一が渡峡に失敗したとしても、敵主力はまだ七千近くも残る計算だ。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はない。
当初の作戦である、森に潜伏しての術式攻撃も、こう明るくなっては不可能だ。ならば更に南進し、再度奇襲の機を待つべきか?
アリスの迷いを断ち切ったのは、騎士長ベルクーリのひと言だった。
「こいつは戦争だ」
ぼそりとそう言い放った古の豪傑は、その逞しい首筋に太い腱を浮き立たせながら続けた。
「異界人のアスナさんはともかく、オレたちがダークテリトリー軍に情けを掛けてる場合じゃねえ。この機は……活かさねばならん」
「機……と?」
意表をつかれ、鸚鵡返しに問うたアリスに、ベルクーリは鋭い眼光で応じた。
「そうだとも。……騎士レンリよ」
突然名前を呼ばれ、若い整合騎士がさっと背筋を伸ばす。
「は……はっ!」
「お前さんの神器"比翼"の最大射程はどれくらいだ?」
「はい、通常時で三十メル、記憶解放状態ならばおそらく五十……いや七十メルは」
「よし。では……これから我ら四騎士で渡峡中の敵主力に斬り込む。オレとアリス、シェータはレンリの護衛に専念。レンリは、神器で敵軍の張った綱を片っ端から切れ」
アリスは小さく息を飲んだ。
成程――敵も横断用の綱は必死で守るだろうが、仮にその根元に人垣を築かれたとて、曲線軌道で飛翔する投刃ならば敵頭上を超えて綱への直接攻撃が可能なのだ。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。
しかし、弱冠十五歳の少年騎士は、その幼い顔に固い決意をみなぎらせ、右拳を左胸に当てた。
「御命、了解致しました!」
ついで、無音の騎士シェータも、低く呟く。
「だいじょうぶ。私が……守る」
そして、ベルクーリの指示からは外れていたアスナまでもが一歩前に出た。
「わたしも行きます。壁は多いほうがいいでしょう」
アリスは一瞬瞑目し、胸中で呟いた。
今更この私に――巨大術式で一万の敵亜人部隊を焼き払い、また完全支配術で二千の暗黒術師を殺戮した私に、栄誉ある戦いなぞ求める資格があるはずもない。
いまはただ、剣を抜き、斬るのみ。
「――急ぎましょう」
四人に頷きかけ、アリスは視線を北の丘へと向けた。深紅の曙光が、すでにその稜線を黒く際立たせていた。
急げ。
急げ急げ!
両の拳を握り締め、拳闘士団長イシュカーンは胸のうちで何度もそう叫んだ。
広大な峡谷に張り渡された十本の荒縄を、拳闘士と暗黒騎士たちが半分ずつ分け合って次々に渡り始めている。
両手両脚を綱に絡め、ぶら下がって進もうとするのだが、そのような訓練などしたことのない兵たちの動きはぎこちない。せめて全員分の命綱を作り、配布する時間があればよかったのだが、皇帝はその猶予を与えてくれなかった。
その上、自分が真っ先に渡りたい、というイシュカーンの上申も瞬時に退けられた。昨夜、命令を拡大解釈してわずかな手勢とともに先行接敵した行動への戒めらしい。貴様らは余の命令にただ従えばよい、という皇帝の氷のような声が耳朶に染み付いている。
歯噛みしながら拳闘王が見守る先で、最も進みの早い部下がようやく綱の中ほどにまで達した。
赤銅色の肌は、早朝の冷気に晒されてもうもうと湯気を上げ、滴る汗の輝きがこの距離からでも見て取れる。やはり相当の苦行なのだ。
その時だった。
巨大な谷間を、一際強い突風が吹き抜けた。
びょおおおっ! と綱が鳴り、ぐらぐらと大きく揺れる。
「あっ……!」
イシュカーンは思わず声を上げた。数人の部族兵が、汗で濡れた掌を綱から滑らせたのだ。
谷間に轟く、吼えるような雄叫び。それは断じて悲鳴ではない、と若き長は歯を食いしばった。いくさ場ではなく、曲芸の真似事をさせられた挙句に命を落とすことへの無念の咆哮だ。
突風の一吹きで、無限の暗闇に沈む谷底目掛け十名を超える拳闘士と黒騎士が落下していった。
しかし、すぐ後に続く者たちは果敢にも綱渡りを続けた。さらに根元では、およそ三メルの間隔をあけて、次々と新たな兵らが綱に取り付いていく。
無情にも、突風は断続的に吹き寄せ、その度に新たな命が失われた。いつしか、イシュカーンの握り拳からは、炎にも似た赤い光が立ち上りつつあった。
犬死にだ。
いやそれ以下だ。弔うべき骸すらも残らないのだから。
しかもその目的が、暗黒界五族の悲願である人界侵攻ではなく、光の巫女などという女一人を皇帝が欲しがっているからと来れば、部族の者にどう詫びていいのかもわからない。
急げ、急いでくれ。これ以上の邪魔が入る前に全員渡りきってくれ。
若い長の願いが伝わったのか、あるいは動作に馴れたせいか、速度を上げた先頭の兵らがようやく向こう岸に到着した。五秒ほどの間をあけ、次の者も大地に足をつける。
この調子だと、十本の綱を一万の兵が渡り終えるのに一時間以上は楽に掛かる計算になる。そんな長時間、敵がこの作戦に気付かないでいるなどということが有り得るとは思えない。
しかし、今だけは万に一つの幸運を祈るしかなかった。
恐ろしいほどの速度で太陽が東の空を昇り、大地を赤く照らし出していく。
対して、渡り終えた兵たちの数はじれったいほどゆっくりとしか増えていかない。多くの落下者を出しながら、五十が百となり、二百、ようやく三百を超えたとき。
赤い空に黒々と刻まれる南の稜線に、五の騎馬がその姿を現した。
イシュカーンの超視力を以ってしても、その背に乗る敵兵の姿までは識別できない距離だった。たった五……偵察兵か。ならば、敵が態勢を整えるまでにまだ少しの猶予はあるか。
その判断、あるいは希望は、一瞬で打ち砕かれた。
五騎は、恐ろしい速度でまっすぐ峡谷目掛けて丘を駆け下りはじめたのだ。翻るマント、色とりどりの煌びやかな甲冑、そして何より、全員から陽炎のように濃く立ち上る強烈な剣気をイシュカーンは否応なく視認した。
整合騎士! しかも五人!!
「守れ!! 綱を死守しろぉーっ!!」
対岸までは声が届くかどうかも定かでない距離だったが、イシュカーンは思わず叫んでいた。
命令が聞こえたか、すでに渡峡を終えた三百強の兵らの半数が、綱を留める丸太杭の根元に集まり円陣を組む。残りはその前で迎撃態勢を取る。
飛翔するが如き速度で、丘から峡谷までの千メルの荒野を駆け抜けた敵騎士たちは、同時に馬から飛び降りると一丸となって右端の綱へと突進した。
先頭を走るのは、白いゆったりとした装束をなびかせた巨漢。その右に、黄金の髪と鎧を輝かせる女騎士。左には、昨夜イシュカーンと拳を交えたシェータという名の女騎士の姿が見える。その三者に囲まれるように小柄な騎士が一人と、さらにその後ろにもう一人居るようだが、仔細には確認できない。
裸体から汗の珠を飛び散らせながら、数十人の拳闘士たちが一斉に飛びかかった。
「ウラアァァ――――ッ!!」
猛々しい喊声とともに、拳が、足が、騎士らに降り注ぐ。
ちかっ。ちかちかっ。
幾つかの閃光が短く瞬いた。
どばっ。
大量の鮮血が、逆向きの滝となって空へと噴き上がった。その向こうで、闘士たちの腕が、脚が、そして首が冗談のように呆気なく体から切り離されるのが見えた。
直後。
銀色の輝きが、きらきらと光の筋を引きながら三騎士の背後から高く飛翔した。
それは、赤い朝焼けの中、斜めの弧を描いて拳闘士たちの頭を飛び越え――今も大量の兵らが取り付く、右端の太縄へと――。
「やめろおおおぉぉぉ――ッ!!」
イシュカーンの鋭敏な耳は、自身の絶叫に紛れることなく、ぶつ、というかすかな切断音を聞き分けた。
張力の反動で、大蛇のように宙をうねる綱。
ひとたまりもなく振り落とされ、谷底へと落ちていく数十人の闘士たち。
その光景を、見開いた両のまなこに焼き付けながら、イシュカーンは我知らず口走っていた。
「これが……戦かよ。こんなものが闘いと呼べるのか」
背後に付き従う副官ダンパも、今ばかりは何も言えないようだった。
軽業師の真似事をさせられた挙句、敵の前に立つことすら出来ずに地割れに飲み込まれていく部族の民たちは、断じてそのような死に方をするために長く辛い修練に耐えてきたのではない。
郷で彼らの帰りを待つ、老いた親や幼子らに何と伝えればいいのだ。敵の刃に雄々しく立ち向かい、誉ある散りざまを得たのではなく――その肌にひと筋の傷も受けぬうちにただ地の底に消えたなどとどうして言えよう。
立ち尽くすイシュカーンの耳に、闘士たちの無念の雄叫びが幾重にもこだました。
かならず仇は取ってやる。だから許せ。許してくれ。
ひたすらにそう念じたものの、しかし何者を仇と定めればいいのか、イシュカーンには即座に判断できなかった。
数倍の軍勢を前に、敵整合騎士たちも必死なのだ。こちらの最後の一人が谷を渡り、整列し終えるまで座って見ていてくれ、などと頼める筈もない。むしろ、時宜を逃さず即応するためにたった五人で斬り込んできたその意気は見事ですらある。
ならば、いったい誰が。
何者が、闘士たちの無為なる死の責を負うべきなのか。
こうしてただ、阿呆のように両手を握って立っている名ばかりの長か。
それとも――。
不意に、右眼の奥に鋭い痛みを感じ、イシュカーンは歯を食いしばった。血の色の光が脈打つように視界にゆらめき、その向こうで、二本目の綱が断たれて空に舞った。
敷設させた十本のロープのうち、三本までもがたちまちのうちに切断される様子を、ガブリエル・ミラーは自軍後方から頬杖をつきながら眺めた。
やはり、AIの性能では人界側のユニットのほうがやや優秀と見える。いや、状況対応力だけを見れば段違いというべきか。昨夜の第一次会戦も含め、ダークテリトリー軍の攻撃を瞬時に切り返し、手痛いカウンターを決めてくる様は、とてもCPU相手のシミュレーション・ゲームとは思えない。
そのゲームの結果、ガブリエルはすでに自軍ユニットの七割以上を損耗しているのだが、しかし彼にいまだ焦りは無かった。
今この瞬間、百の単位で失われていく主力ユニットを目視しながらも、彼はただ待っていたのだ。"その時"が来るのを。
約八時間前――。
オーシャンタートル・メインコントロールルームに陣取る襲撃チーム唯一の非戦闘員クリッターは、STRA倍率を×1に引き下げると同時に、衛星回線を通じてあるひとつのURLを全米のオンラインゲーム・コミュニティへとばら撒いた。
それは、彼がガブリエルの指示で手早く作成した、とあるプロモーション・サイトへのアクセスを促すものだった。
サイトには刺激的な配色のフォントが並び、飛び散る鮮血のエフェクトとともに、以下の内容を告知していた。
新規VRMMOタイトルの時限ベータテストを開催。
史上初、"殺戮特化"型PvPゲーム誕生。
レーティング無し。倫理コード無適用。
それらの惹句を見たユーザーたちは、このメーカーはどんな命知らずか、と呆れつつも大いに喜んだ。
二〇十六年現在、VRMMOタイトルの法規制が進むアメリカでは、業界団体による厳格なレーティング審査を受け、倫理コードに則ったうえでなければとてもサーバーの運営は出来ない状況となっている。具体的には、血液エフェクト、悲鳴エフェクト、死体表現の全面禁止である。
その規制は、VRMMO発祥国である日本よりも格段に厳しく、全米のプレイヤーは巨大なフラストレーションを募らせていた。そこに突如現れたのが、謎のベータテスト告知だったのだ。
URLはあらゆる種類の回線を通じて口コミで広がり、接続用クライアントが恐ろしい勢いでダウンロードされ、コピーされ、再アップロードされた。たった八時間で、クリッターの作成したクライアントプログラムを導入したアミュスフィアは、実に三万台を突破した。
ガブリエルが貴重な現実時間を消費してまでも仕掛けた最大の策。
それは、全米のVRMMOプレイヤーに、ダークテリトリーの暗黒騎士アカウントを与えたうえで自らの戦力としてアンダーワールドに接続させるというものだった。
そのようなことが可能であるとは、ラースを率いる菊岡誠二郎も、アンダーワールドを設計した当人である比嘉タケルですらもまったく考えもしなかった。しかし、アンダーワールドは、下位レベルではあくまでザ・シード規格に適合したVRMMOパッケージに過ぎないのだ。通常のポリゴン表現によるゲーム世界としてならば、ただアミュスフィアさえ有ればログインすることも、オブジェクトに触れることも――あるいは他のキャラクターを殺すこともできるのである。
そして、全米のアミュスフィア販売数は、現時点で五百万台を突破している。
ガブリエルとクリッターの秘策は、完全にラーススタッフの想像の埒外にあった。
また、たとえ気付いたところで、メインシャフトを占拠された状態では衛星回線の切断すらも不可能だった。
しかし、クリッターが問題のURLを送信した時点で、ただ一つの存在だけがそのパケットに気付いた。
結城明日奈の持ち込んだ携帯端末から、オーシャンタートル内の状況を観察していたトップダウン型人工知能・ユイは、プロモーションサイトにアクセスし、ガブリエルの狙いを正確に推測してのけたのだ。
彼女はなんとか、物理的・回線的に封鎖されたサブコントロールルームに状況を警告しようとしたが、明日奈の船室に置きっぱなしにされた端末のアラームをいくら鳴らそうと、とても聞こえるものではなかった。
やむなくユイは、遥か太平洋を隔てた日本へと意識を引き戻し、幾つかの携帯端末番号を同時にコールした。
現実世界では女子高校生、仮想世界では超級狙撃手である朝田詩乃は、寝入りばなに響いた着信音が意識に届くや、自宅アパートのベッドからがばっと跳ね起きた。
心臓が口から出そうになった理由は、そのメロディが、桐ヶ谷和人の自宅回線からの着信を示すものだったからだ。
まさか。意識不明のうえに行方不明になったままのキリトからコールが。
混乱しながら端末に押し当てた耳に、飛び込んできたのは幼い少女の切迫した声だった。
『シノンさん、ユイです!』
「え……ゆ、ユイちゃん?」
キリトの所有するAIであるユイのことは無論知っている。ほんの一週間前、彼の行方を明日奈たちと話し合ったとき、ユイの情報処理能力と感情表現の高度さを目の当たりにしたばかりだ。
しかし、よもや直接電話をかけてくるとは予想できず、詩乃は絶句した。耳に、ほんのかすかに電子的な響きのある甘い声が、急き込むように流れ込んでくる。
『説明は後からします。今すぐ準備をし、家を出てタクシーに乗ってください。行き先住所と最小時間経路は端末に送ります。運賃はシノンさんの電子マネー口座に入金しておきます』
直後、ちゃりーんというサウンドエフェクトが、詩乃の端末にオンライン振込みがあったことを告げた。
「え……た、タクシー?」
言われるままに立ち上がり、パジャマのズボンから脚を引き抜きながら、詩乃はいまだ回転数の上がらない頭でそう訊ねた。しかし、続いたユイの言葉が、氷水のように詩乃の意識を覚醒させた。
『はい。パパとママが危険なのです!!』
「き……危険!? お兄ちゃんとアスナさんが!?」
女子校生にして剣士、そして桐ヶ谷和人の妹でもある桐ヶ谷直葉は、ジーンズのボタンを留めながら聞き返した。
『リーファさん、あまり大声を出すとおばさまが起きてしまいます』
端末から流れ出すユイの冷静な声に、慌てて口をつぐむ。
「そ……そうね。ていうか……こんな時間にこっそり抜け出すなんて初めてだよ……」
『今からおばさまに事情を説明し外出許可を求める時間的余裕は残念ながらありません。ホームサーバーに、部活の朝練があるので早く登校するむねメッセージを吹き込んでおけば大丈夫でしょう』
「わ……わかった。すごいな……ユイちゃん策士だねえ」
いたく感心しながら着替えを終えると、直葉は足音を忍ばせて階段を降り、玄関の戸に手をかける。いかに時代物の日本家屋とは言え、夜間はオンラインセキュリティが働いているはずなのだが、警報はユイが切ったらしい。
和人が行方不明となって以来、心労の色著しい母親・翠の目を盗んで行動することに罪の意識を感じたが、直葉は心の中で手を合わせて家を出た。
――ごめんなさい、お母さん。お兄ちゃんは、きっと私が助け出すからね。
大通りに出ると、幸いまだ回送ではなく割増表示のタクシーがたくさん走っており、すぐに掴まえることができた。直葉の年齢にやや訝しげな顔をする運転手に、親戚が急病なんですと言い訳し、端末を覗き込む。
「ええと……東京の港区までお願いします」
六本木とまでは言わないほうがいいような気がした。
比嘉タケルは、かじりかけのエナジーバーが膝の上に落ちた感覚に、はっと目を開いた。
きつく瞬きを繰り返してから、壁の時計を確かめる。JSTで午前四時少し前。視線を横に動かすと、サブコントロールルームに詰めるラーススタッフたちの、疲れ果てた顔がいくつも見えた。
ドクター神代は、コンソールの椅子の一つに横向きに腰掛け、こくりこくりと頭を揺らしている。菊岡二等陸佐ですら、寝てはいないまでも、メインモニタに向けられた黒縁めがねの下の細い眼にいつもの鋭さは無い。
あとは、技術系のクルー四人が壁際に敷かれたマットレスに屍のように転がっているだけだ。自衛官の警備要員たちは、情報漏洩者が含まれる可能性を考慮し、菊岡が全員をサブコントロールの一層下で耐圧隔壁の警戒に当たらせた。
謎の武装グループの強襲を受けてから、ようやく六時間が経過したことになる。
オーシャンタートルを護衛する――はずだった――イージス艦《ながと》に突入命令が出るまで、あと十八時間。この状況下では、絶望的なまでに長い。時間が加速されているアンダーワールドにおいてをや、である。
結城明日奈が、スーパーアカウント"ステイシア"を用いてダイブしてからももう三時間が経過している。内部時間では四ヶ月にもなんなんとする月日が過ぎ去った計算になる。なのに、いまだにアリス確保任務が成功したとも失敗したとも連絡が無いとはどういうことか。
「そんなに遠くしたっけなあ……ヒューマンエンパイアからワールドエンドオールターまで……」
もごもご呟きながら、脳裏にラースのロゴマークと酷似するアンダーワールド全図を思い描こうとした――そのとき。
コンソールに設置された電話機が、びびび、びびびと耳障りな音で喚きたて、比嘉は思わず飛び上がった。
「き……菊さん、デンワ」
下のフロアで何かあったのか、と思いつつ指揮官に声を掛ける。
同じようにびくっと跳ね起きたアロハシャツ姿が、つま先から下駄を落としながら受話器に飛びついた。
「サブコントロール、菊岡だ!」
少々掠れてはいるが、びんと強く響く応答に、やや間を開けてスピーカから流れたのは――防衛要員を指揮する中西一尉ではなく、戸惑いをたっぷり含んだ若い男の声だった。
「え、えーとそちら、ラース本社のSTLプロジェクト本部……ですよね? 私、ラース六本木支部の平木と申しますが……」
「は? ろ、ろっぽんぎ?」
菊岡にしては珍しく、完全に意表をつかれたような間の抜けた声だったが、しかし比嘉もまったく同感だった。
なぜこんな時間に六本木支部が連絡してくるのだ。あそこのスタッフは、ラースが国防予算によって運営される偽装企業であることも、その中核が日本本土ではなくはるか南洋を漂うオーシャン・タートルに置かれていることも、プロジェクト・アリシゼーションという名称すらも知らされていない。
そしてもちろん、ラースが今謎の敵の攻撃に晒されていることも。六本木支部は、完全にSTL関連技術開発のみに特化した、あくまで一出先機関なのだ。
そう……STL……。
不意に、何か閃きのシッポのようなものが比嘉の脳裏をかすめたが、それを捕まえる前に菊岡が大きく咳払いした。
「あ、ああ、はい。STLプロジェクトチームの菊岡ですが」
「あ、どうもどうも! 以前一度お眼にかかりました。ご無沙汰しております、こちらで開発主任をやらさしてもらってます平木ですぅー」
そんなカイシャインみたいな挨拶はいいから早く本題を言え!!
と比嘉は胸中で叫んだし、菊岡もまったく同じ顔をしていたが、出てきた声は見事な偽装会社員振りだった。
「あっはい、どうもお疲れ様です平木主任。こんな時間まで残業ですか?」
「いやぁー、それがちょっと、飲んでるうちに終電逃がしちゃってぇー。会社の場所が悪いんですよー六本木とか。あ、上にはオフレコでこれ、うふふ」
お前が今話してるのが上だよ! ザ・てっぺんだよ! いいから用件を言えよ!!
比嘉の念力が通じたか、平木はそれ以上無駄口を叩かず、口調を改めた。
「あーっと、それでですねえ……ちょっと問題、というか……妙な話なんですけどね。ここに今、外部のヒトがアポなしで突然来まして……」
「外部? 取引先ですか?」
「いえ、まったく無関係の……ていうか、どう見ても女子高生なんですよ、しかも二人……」
「はぁ!?」
再び菊岡と、比嘉、ついでにいつの間にか立ち上がっていた神代博士も素っ頓狂な声を出す。
「じょ……し、こうせいですか?」
「ええ。いやもちろん追い返そうとしたんですよ、この会社守秘関連すごい厳しいですから。でも……そのコたちの言ってることが、どうにも……」
要領を得ない平木の言葉に、ついに比嘉も立ち上がり、コンソールに両手をついた。菊岡のほうは、見上げた忍耐力を発揮し、穏やかに問い返した。
「で、いったい何を言われたんです?」
「えーとですね。今すぐラース本部の菊岡誠二郎って人に連絡して、こう言えと。アンダーワールドの、STRA倍率を即刻確認するように、と……」
「なにぃ!?」
再び、異口同音に驚愕の叫びが漏れた。
なんで外部の女子高生がそんな単語を知っているのだ!! アリシゼーション計画の全貌を知悉していなければ絶対に出てこない台詞ではないか。
口をぽかんと開けて菊岡と眼を見交わした比嘉は、半ば自動的にコンソールに向き直り、キーボードに指を走らせた。
暗いモニタに、白く現在の時間加速倍率が浮き上がる。
×1.00。
「げっ……等倍!? いつからだ!?」
あえぐ比嘉から視線を外し、菊岡が急き込むように受話器に向けて叫んだ。
「な……名前。その女の子たちは名乗りましたか」
「あっ、はい。それが、これもフザケた話っていうか……どう考えても本名じゃないんですが。えっとですね、"シノン"と"リーファ"だって菊岡さんに伝えてくれって言うんですよ。顔は日本人なんですけどねえー」
ガコッ。
という乾いた響きは、菊岡が右足だけに突っかけた下駄からカカトを滑らせた音だった。
ラース六本木支部エントランスのオートロックが開き、浅田詩乃と桐ヶ谷直葉が小走りに中に入るのを確認して、人工知能ユイは小規模な安堵表現を行った。
具体的には、ほう、とささやかなため息を漏らし、演算能力の大半を同時継続中の別のタスクへと振り分ける。
ユイは、こちらの目的の達成には多大な困難が伴うと推測していた。なぜなら、ユイ単独では絶対に遂行不可能なことがらだからだ。
しかし同時に、これに失敗すれば、愛する"パパ"と"ママ"の願いは空しく潰えるであろうことも確かだった。
詩乃の携帯端末から意識を引き戻し、ユイはそのつぶらな瞳で、目の前に並んで座る四人の"妖精たち"を順に見た。
VRMMO-RPG、アルヴヘイム・オンライン内部に存在するキリトとアスナのプレイヤーホーム、そのリビングルームにユイたちは居る。
葉っぱで編んだようなソファに腰掛けるのは、三角形の耳と小さな牙を持つケットシー族のアバターでログインしている、プレイヤー"シリカ"。
隣に、メタリックピンクの髪をふんわり膨らませた、レプラホーン族の"リズベット"。
少し離れたテーブルに腰を乗せるのは、赤く逆立つ髪に悪趣味なバンダナを巻いたサラマンダー族、"クライン"だ。さらに、その横に腕組みをして立つ灰色の肌の巨漢が、ノーム族の"エギル"。
彼らはいずれも、生還者(サバイバー)と通称される、デスゲームSAOを生き抜いた歴戦のVRMMOプレイヤーであり、またキリトとアスナの無二の親友たちでもある。ユイの連絡を受け、深夜にも関わらず快くALOにログインした彼らは、いまちょうど状況の概説を聞き終わったところだった。
額に巻いたバンダナごしにがりがりと頭を掻きながら、クラインが持ち前の飄々とした声に最大限の深刻さを滲ませて呻いた。
「ったく……あんにゃろう、まーた一人でとんでもねえことに巻き込まれやがって……。自衛隊が作ったザ・シード連結体(ネクサス)"アンダーワールド"に、そこに生まれたマジモンの人工知能"アリス"かよ」
「その人工知能っていうのは、NPCじゃなくて……あたしたち人間と同じ存在、っていうことなの?」
続けて発せられた質問はリズベットのものだ。ユイはそちらに向けて大きく頷いた。
「ええ、そのとおりです。私のような既知AIとは構造原理から完全に異なる、本物の魂なのです。ラース内部では"人工フラクトライト"と呼ばれていますが」
「それを、戦闘機に乗せて戦争させようだなんて……」
ユイと、膝で丸くなる小竜"ピナ"を順に見たシリカが顔をしかめた。
「実際には、ラースとしてはそれを他国向けのデモンストレーション的な技術基盤に用いる意図のようですが……現在オーシャンタートルを占拠している襲撃者たちは、もっと具体的な用途を想定していると私は推測します」
ユイの言葉に、クラインが渋面を作って訊ねた。
「いったい何者なんだい、その襲撃者っつうのは」
「98%の確率で米軍か米情報機関が関与しています」
「べ……べーぐん!? てアメリカ軍!?」
仰け反るリズベットに、ユイはこくりと首を動かした。
「もし"アリス"が米軍の手に落ちれば、いずれ確実に無人機搭載AIとして実戦配備される日が来るでしょう。パパもママも、それだけはなんとしても阻止したいと思うはずです。なぜなら……なぜなら」
不意に、自分の情動アウトプットプログラムが不思議な反応を見せたことに、ユイは戸惑った。
頬を、ぽろり、ぽろりと大粒の水滴が転がり落ちていく。
涙。
私、泣いている。でも、いったいなんで。
その戸惑いすらも、衝き上げるような未知の感覚に押し流され、ユイは胸の前で小さな両手を握り締めて言葉を続けた。
「なぜなら、"アリス"は、SAOから始まったあらゆるVRMMOワールドと、そこに生きた多くの人々の存在の証であり、費やされたリアル・リソースの結実だからです。私は確信します。ザ・シードパッケージが生み出されたそもそもの目的が、"アリス"の誕生に他ならないと。連結された無数の世界で、たくさんの人たちが笑い、泣き、哀しみ、愛した、それら魂の輝きがフィードバックされていたからこそ、アンダーワールドに真の新人類が生まれたのです。パパや、ママや、クラインさん、リズベットさん、シリカさん、エギルさん、そのほか多くの人々があの浮遊城で流した涙が、今"アリス"の体に赤い血となって流れているのです!」
しばらく、誰ひとりとして口を開こうとしなかった。
ユイには、眼前の人間たちの意識回路で発生しているであろう思考や感情を推察するすべは無かった。情報集積体でしかない既知AIが、本物のエモーションを持たず、理解もできない存在であることを、誰よりも知っているのはユイだったからだ。
そう、キリトやアスナ、そしてその愛する人たちを助けたいというこの強い衝動ですらも、メンタル・ヘルスケア・プログラムとして最基層に書かれたコードに由来するものでしかないのだ。
そんな自分の発する、単なる情報の羅列にすぎない言葉が、人間たちの心にどれほど届き得るものだろうか、とユイはこの会合を始める以前から――大きな目的を抱いてオーシャンタートルを飛び立ったその瞬間から危惧していた。
だから、突然リズベットの瞳に透明な涙が盛り上がり、つう、と流れるのを見てユイは珍しく驚きを覚えた。
「そう……、そうだよね。繋がってるんだ、ぜんぶ。時間も、人も、大きな川みたいに」
シリカも、目を潤ませながら立ち上がり、ユイの前に跪くとそっと両腕を回してきた。
「大丈夫だよ、ユイちゃん。キリトさんも、アスナさんも、私たちが助けにいくから。だから泣かないで」
「おうとも。水臭ぇぞユイッペ、俺らがキリトを見捨てるわきゃ無ぇだろうが」
ぐい、とバンダナを目深に引き下げ、クラインが湿った声で追随した。隣のエギルも深く頷き、重々しいバリトンで宣言した。
「あいつにはでっかい借りがあるからな。ここらで少しは返しておかんとな」
「……皆さん…………」
シリカに抱かれたまま、ユイはそう言うのが精一杯だった。
先ほどから、理由のわからない涙が後からあとから溢れ、一向に止まろうとしないからだ。
時間がないのに。語るべきことがまだまだあるのに。行動優先度からすれば、今は冷静に情報を伝達しなければいけないときだ。私の情動アウトプット回路は壊れてしまったのだろうか。
しかしユイは、己の全存在を満たすひとつのコードに支配され、しゃくりあげながら同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「……ありがとう、ございます……ありがとうございます、皆さん……」
数分後、ようやく情動の最適化に成功したユイは、口早に現在の状況と今後起こるであろう事象の推測を四人に告げた。
眉間に険しい谷を刻み、クラインが唸った。
「USからのダイブが、最低でも三万……多ければ十万以上か……。そいつらにとっては、キリトとアスナ、そしてアリスを含む人界軍てのは、PvPのマトでしかねぇ、って訳かよ」
「いっそ、アメリカのネットゲームコミュニティにこっちも書き込みをしたらどうなの? 実験のこととか、襲撃のこととか暴露して、偽装ベータテストに参加しないでください、って頼めば……」
リズベットのストレートな意見に、ユイは小さくかぶりを振った。
「ことの真相は、日米の軍事機密争奪戦なのです。下手にそれを匂わせると、むしろ逆効果になりかねません」
「相手は本物の人間だから、殺さないで……って書くのも、じゃあ、やぶへびですよね」
シリカがしゅんとした顔で呟く。
重い沈黙を、すぐにクラインの威勢のいい声が破った。
「へっ、なら同じ手を使えばいいってこった! ネトゲ廃人の数ならUSなんぞに負けやしねえぞ。こっちもベータテスト告知サイトを作って、その……ラースの何とかさんに対等のアカを用意してもらえば、三万や四万すぐに集めてみせるぜ!」
「だが、厄介な問題がひとつある」
エギルが、丸太のような両腕を組みながら短く指摘した。
「ンだよ、問題って」
「時差だ。日本はいま日曜の午前四時半、つまりもっとも接続数の減る時間帯だ。対して、アメリカは土曜の昼間。アクティブプレイヤーの数では、向こうのほうが圧倒的に多いぞ」
「う…………」
今はじめてそれに気付いたような顔で、クラインが呻いた。
当初から、まったく同じことを懸念していたユイは、大きく頷くと言った。
「エギルさんの仰るとおりです。そもそものVRMMOプレイヤー絶対数の差に、時間帯の問題、さらに募集にも大きく出遅れていることを加味すると、我々が日本で集められる人数は一万にも遠く及ばないでしょう。つまり、敵側と同レベルのアカウントを使用するのでは、対抗できる可能性は非常に低いと言わざるを得ません」
「でも、アスナが使った神様アカウントってもう無いんでしょう? だからって、キリトみたいに一からレベル上げしてる時間もあるわけないし……やっぱり、ラースに用意してもらえるアカウントのうち、一番強いやつで頑張るしかないんじゃ……」
硬い表情でそう呟くリズベットを、ユイはじっと見つめた。
「いいえ……アカウントは存在します。敵側の使用するデフォルトアカウントより、レベルも装備もはるかに強力なものが」
「えっ……ど、どこに?」
「皆さんはもうそれを持っています。今この瞬間、ログインに使用している、まさにそのアカウントです」
ぽかん、とした顔を作る四人に向け、ユイは己の使命の核心を告げるために口を開いた。
彼らに、とてつもなく巨大な代償を――文字どおりその半身を捧げることを求めようとしているという認識はあった。
しかし同時に、この人たちならば必ず応じてくれると、ユイは強く信じた。
「――コンバートです! 皆さんが、そして他の多くのVRMMOプレイヤーたちが、あまたのザ・シード世界で鍛え上げたキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするのです!」
午前五時。
アルヴヘイム・オンライン世界の中央に位置する中立都市アルン、そのさらに中心にそびえる世界樹内部の巨大ドームに、三千人を超えるプレイヤーが集結していた。
かつて、ドームの天蓋に設けられたゲートを防御していた守護騎士モンスターの姿はもうない。かわりにこの場所は、妖精九種族間の会議や交渉に用いられるようになっている。
クラインやリズベットらがゲーム内メールを飛ばしまくった時点で、ログインしていた領主プレイヤーはほんの三人だけだった。しかし彼らや、各種族の役職プレイヤーを拝み倒し、リアルで連絡をつけてもらうという禁じ手までも繰り出した結果、わずか四十分で八人の領主全員が一同に会することとなった。
周囲の広大な空間に、立ったり浮遊したりしているプレイヤーたちの三割近くは、作成したばかりのキャラクターを使用している。だが、VRMMO初心者というわけではない。彼らは皆、他のザ・シード規格タイトルにおけるベテランプレイヤーであり、ALOにアカウントを持つ友人知人の求めに応じて集まったのだ。
つまり、このドームに集う三千人は日本人VRMMOプレイヤーの精鋭中の精鋭であり、ユイが一縷の望みをかけた、アンダーワールドの人界守備軍を救いうる唯一の戦力なのだった。
いま、しんと静まり返った彼らの頭上を、よく通るリズベットの声がさらに魔法で増幅されて高らかに響いている。
「……私が皆さんに言ったことは、嘘でも冗談でもありません! 日本が、その国家予算で造ったザ・シード・ネクサスである"アンダーワールド"を、もうすぐアメリカ人プレイヤーたちがそれと知らずに侵略し、攻め滅ぼそうとしているのです!」
リズベットは、ナショナリズムを煽るような言い方に忸怩としたものを覚えながらも、今はそれすらも利用しなければいけないのだと自分を叱咤した。
「アンダーワールドに暮らしているのは、ただのNPCではないんです! 皆さんがダイブしてきた、たくさんのVRMMO世界から還元された情報を源として生まれた、ほんものの人工知能なんです! 彼らを守るために、皆さんの力を貸してください!!」
リズベットは、数分間の演説をその言葉で締めくくり、プレイヤーたちをぐるりと見回した。
たくさんの妖精たちの顔には、一様に戸惑いの表情だけが浮かんでいる。それはそうだろう、突然聞かされて、すぐに理解できるような話ではない。
低いざわめきを割って、しなやかな腕が発言を求めた。
進み出たのは、長身を緑色のローブに包んだシルフ族の領主、"サクヤ"だった。
「リズベット。君や、君の友人たちが悪戯でこんなことをするとは思えないし、何よりあのキリトがもう一週間もログインしていないのは確かにただ事ではないだろう。しかし……」
低く滑らかなサクヤの声が、いつになく困惑を含んで揺れた。
「……正直、にわかに信じがたい。いや、事実確認は、君の言うとおりログインしてみれば出来るのだろうが……先ほど君は、"アンダーワールド"へのダイブにあたっては、幾つかの問題点があるとも言ったな? まずその問題とやらを説明してくれないか?」
――ついに、この瞬間がきた。
リズベットは大きく息を吸い、そっと瞳を閉じた。
正念場だ。ここでしくじれば、誰も救援には来てくれないだろう。
ぱちりと両眼を開き、目の前のサクヤを、そして他の領主たちと無数のプレイヤーを順に見渡しながら、リズベットはしっかりした声で告げた。
「はい。アンダーワールドは、ゲームとして運用されているわけではありません。ゆえに、ダイブには幾つかの問題が発生します。まず第一に……コマンドメニューが存在しません。よって、自発的ログアウトができないんです」
ざわめきが突然大きくなる。
"自発的ログアウト不能"、それはかつて存在したデスゲーム・ワールドを否応なく思い起こさせるフレーズだ。現在では、アイコン操作と音声コマンド双方でログアウトできないVRワールドは、MMOゲームに限らず違法となっている。
「ログアウトの方法は、内部で"死亡"するしかありません。しかし、ここで第二の問題が発生します。アンダーワールドには……センス・アブソーバが設定されていないのです。恐らく、ダメージに伴って、かなり強烈な錯覚痛があるはずです」
さらに大きなどよめき。
痛覚遮断もまた、法で義務付けられたVRサーバの必須機能だ。それが存在しない、つまりアブソーバレベル0状態ということは、剣で切られたり炎で焼かれたりすると、ほとんど現実と同じ強さの苦痛を味わうことになる。場合によっては、生身の体に痣が浮き出ることすらある。
動揺の声が少し収まるのを待って、リズベットはついに第三の、そして最大の代償を口にした。
「そして、もう一つ。アンダーワールドサーバは、現在、開発者たちですらオペレーションできない状態にあります。つまり……コンバートした皆さんのアカウントデータを、再コンバートできるかどうかは保証できません……ことによると、キャラクターロストという結果になる可能性があるのです」
一瞬の沈黙に続き――。
突如、凄まじいボリュームの怒号が、広大なドーム空間に満ち溢れた。
フロアの中央に並ぶリズベット、クライン、シリカ、エギルの四人と、小さなピクシーに姿を変えてクラインの肩に乗るユイは、実際的圧力をともなって押し寄せてくる罵声の波に耐えて、まっすぐに立ちつづけた。
この反応は、まったく予想されたとおりのものだった。
彼らハイエンドゾーンのプレイヤーたちは、そのキャラクターを育て上げるために、尋常ならぬ時間と努力をつぎ込んでいる。一時間必死になってモンスターを倒しまくって、ようやく経験値が0.1%上がるかどうか、という、湖の水をバケツでくみ出すような作業を日々積み重ねてその位置にとどまっているのだ。
その、精魂傾けて鍛えてきたキャラクターを失うかもしれないなどと言われて、平静でいられるはずもない。
「ふ……ふざけんなよ!!」
集団から数歩飛び出てきたひとりが、リズベットに人差し指をつきつけて叫んだ。
深紅の全身鎧に身を包み、背中に巨大な両手剣を背負ったサラマンダーだ。たしか、領主モーティマー、将軍ユージーンに次ぐ地位にある指揮官格のプレイヤーだったはずだ。
ヘルメットをもぎ取り、怒りに燃える両眼を露わにしたサラマンダーは、背後の大集団が一瞬押し黙るほどのボリュームで更に言葉を放った。
「こんな時間に無理やり人を集めまくって、わけのわかんねえ違法サーバーにダイブしろってだけでもどうかしてんのに、その上キャラロスするだぁ!? 消えたらお前らが補償できんのかよ!!」
呵責のない言葉に、隣から飛び出そうとするクラインを手で押さえ、リズベットは可能な限り静かな声で答えた。
「できないわ。あなたたちの育てたキャラクターが、お金に換えられるものじゃないことくらいよく分かってるもの。だからお願いしてるんです。私たちを助けて、って。今、アンダーワールドで必死になってアメリカの攻撃を防いでる、私たちの仲間を助けてくださいって」
叫ばずとも、リズベットの声はドーム全体に滔々と流れた。サラマンダーは一瞬息を詰めたようだったが、すぐにそれを怒気に変えて吐き出した。
「仲間っつうのはあいつらだろ! 生還者とか言われて、レベルも大したことねえのに自分らだけ特別みてえな顔してる連中だろうが! 分かってんだよ、お前ら元SAO組が、心んなかじゃ俺たちのこと見下してることくれえよ!!」
今度は、リズベットが言葉を失う番だった。
サラマンダーが指摘したことを、リズベットはこれまで自覚も意識もしたことはなかった。だが、言われてみれば、そのような心理がほんとうに一欠片も存在しないと確信はできない気もした。プレイヤーホームを、地上フィールドではなく上空の新アインクラッドに構え、ほとんど下に降りることもなく、昔なじみとばかり交流してきたのは事実なのだ。
リズベットの動揺を見抜いたか、サラマンダーは尚も容赦ない言葉を重ねた。
「人工知能とか、防衛機密とか知るかよ! VRMMOにリアルの話持ち込んで偉そうなこと言ってんじゃねえよ! そういうのは、お前らだけでやりゃいいだろうが! リアルでもお偉い生還者様だけでよ!!」
そうだ、帰れ、という罵声が周りからいくつも追随した。
だめだった。
あたしの言葉じゃ、ぜんぜん届かなかった。
リズベットは、我知らず涙ぐみそうになりながら、すがるような気持ちで仲のいいALOプロパーの実力者、シルフ領主サクヤや、サラマンダー将軍ユージーン、ケットシー領主アリシャ・ルーたちを見やった。
しかし、彼らは言葉を発しようとしなかった。
それぞれの瞳に強い光を宿し、ただじっとリズベットを見つめていた。まるで、おまえの意思を、覚悟を見せてみろ、と言うかのように。
リズベットは、大きく息を吸い、ぎゅっと瞼を閉じた。そして、今この瞬間にも懸命の闘いを続けているはずのアスナや、傷ついたキリト、そして一足先に戦場に馳せ参じていったリーファやシノンのことを思った。
――あたしのレベルじゃ、たとえコンバートしても、とてもみんなのようには戦えない。でも、だからこそ、あたしにしかできないことだってあるんだ。いまこの瞬間が、あたしの戦いなんだ。
ぱちりと瞼を開け、涙滴を振り飛ばし、リズベットは話しはじめた。
「……ええ、これはリアルの話よ。そしてあなたの言うとおり、SAO出身者は、リアルとバーチャルを混同しがちなのかもしれない。でも、決して、あたしたちは自分が英雄だなんて思ってない」
隣で、涙を浮かべて立ち尽くすシリカの手を握り、続ける。
「あたしとこの子は、あなたの言う生還者だけが集められた学校に通ってるわ。転入に選択の余地はなかった。元の学校は中退扱いになってたから。あの学校ではね、かならず週に一度カウンセリングを受けないといけないの。モニタリングソフトに繋がれて、現実感がなくなることはないかとか、人を傷つけたくなることはないかとか、下らない質問いっぱいされる。学籍と引き換えに、投薬を強制されてる子だって何人もいるんだ。あたしたちはみんな、政府にとっては監視対象の犯罪者予備軍なの」
いつしか怒声の波は収まり、張り詰めた静寂がドームを支配していた。眼前のサラマンダーさえも、意表をつかれたように目を見開いている。
自分の言葉の行き先が、リズベットには分からなかった。ただ、溢れてくる感情を、意思を、懸命に声に変え続けた。
「でも……ほんとは、そういう扱いをされてるのは旧SAOプレイヤーだけじゃないわ。VRMMOプレイヤーはみんな、多かれ少なかれそんな目で見られてる。ネットゲーマーは社会に寄生してるとか、真面目な労働者が積み上げたGDPをすり減らすだけとか、税金も年金も払わない現実逃避者だとか……徴兵制を復活させて、訓練で強制的に現実を教え込むべきだなんて議論まであるわ!」
数千のプレイヤーのあいだに、ぎりりと緊張が高まるのをリズベットは感じた。針で一つつきすれば、先ほどに倍する怒りが爆発するに違いない。
しかし、リズベットは、片手を胸にあてて尚も叫んだ。
「だけど、あたしは知ってる! あたしは信じてる! 現実はここにあるって!!」
もう一方の手で、大きく周りを――世界を指し示す。
「この世界は、ここと繋がる沢山の連結体は、絶対に仮想の逃げ場所なんかじゃない! 本当の生活と、本当の友達と、本当の笑いや、涙や、出会いや、別れがある……"現実"なんだ、って!! みんなもそうでしょう!? この世界こそがリアルなんだって信じてるから頑張れるんでしょう!? なのに、これはただのゲームだって、所詮バーチャルだって切り捨てたら、じゃあ、あたしたちの本当はどこにあるの……!!」
ついに、堪えきれずに涙が溢れた。それを拭うこともせず、リズベットは最後の言葉を絞り出した。
「……みんなで育てた沢山の世界が、この世界樹みたいに寄り集まって、芽吹いて、ようやくつけたたった一つの実を、あたしは守りたい! お願い……力を貸してください……!!」
静まり返ったドームの天蓋にむけて、リズベットは両手を差し伸べた。
涙に揺れる視界に、幾千の妖精の羽が放つ燐光が、きらきらと滲んだ。
瞬く銀光が、暁の空にきらきらと大きな弧を描く。
ほんの一秒後、乾いた音とともに五本目の太綱が切断され、黒い蛇のように宙をうねった。
多重の悲鳴。なすすべもなく跳ね飛ばされ、奈落へと落ちていく人影。
それらから耳と目を背け、アスナは懸命に眼前の敵だけに意識を集中させた。
いや、たとえそうしたところで、胸中の動揺が薄れるわけではなかった。右手の細剣を閃かせるたびに飛び散る鮮血、崩れる肉体、そして失われる命はすべて本物なのだ。
悲壮な決意を呑んだ表情で、次々に飛びかかってくるダークテリトリーの戦士たちは、決して自身の望みによってそうしているわけではない。
皇帝ベクタなる最高権力者に身を宿した、現実世界の何者かに命ぜられるままに戦い、命を散らしていく。
しかしアスナは、全精神力を振り絞ってその事実を意識から排除した。
いまはアリスの身を護ることだけが最優先事項だ。実際、僅かにでも気を散らせば剣を弾き飛ばされかねないほどに、敵拳闘士たちの拳足は硬く、疾い。
ベクタ神の指揮下にある、ダークテリトリー軍の戦力はこの拳闘士と暗黒騎士を残すのみと聞いた。無謀な渡峡作戦を利用して敵主力を損耗させれば、ベクタアカウントを利用する強襲チームに打てる手も尽きてくるはずだ。
あとは、人界に対する危険が消えたところで、あらためてアリスをワールド・エンド・オールターまで導き、現実世界へ――オーシャンタートル上部のサブコントロール側へとイジェクトすればよい。強襲者たちに、イージス艦突入時刻までに隔壁を破る手立てが無ければ、だが。
「――よし、六本目にいくぞ!!」
騎士長ベルクーリの鋭い声が響いた。即座に、アスナを含む四剣士が応と返す。
西に移動を開始しかけたとき、遥か南から、高らかな角笛の旋律が響き渡った。
見れば、一キロ先の丘を、人界軍の衛士たちが整然と隊列を組んで駆け下りはじめたところだった。ほんの十五分ほどで装備・編成を終え、整合騎士たちの救援に馳せ参じたのだ。
「ったく……大人しくしてない奴らだ」
ベルクーリが苦言じみた声を出したが、しかしその口元には笑みが滲んでいる。
いかに騎士たちの剣力が圧倒的とはいえ、五本のロープを切断するあいだに、残る五本を渡り終えた敵の数は五百ほどにも達している。このタイミングでの援軍は、正直ありがたい。
ロープを守ろうと隊列を組む敵拳士・騎士たちにも動揺が走った。一部が南に向き直り、急造の防御線を築こうとする。しかし、土煙を上げて殺到する人界軍は一千を超える数だ。
この戦いは、どうやらこっちの勝ちね、ベクタさん。
アスナが胸中で呟いた――
その言葉が消えないうちに。
奇妙な現象を、両の瞳がとらえた。
血の色の朝焼けを背景に、遥か上空から、不思議なものが降りてくる。
黒い線。一本ではない。数十――いや、数百。
いや、数千か。
線は、微細なドットの連なりからなっているように見えた。懸命に目を細めると、そのドット一つひとつが、数字やアルファベットであることが分かる。
それら謎のラインあるいは情報は、幾束も寄り集まって、峡谷のこちら側、戦場から一、二キロほど離れた場所に円を描くように降り注いだ。
いつしか、アスナだけでなく他の整合騎士や、ダークテリトリーの兵たちすらも、足と腕を止めてその奇妙な現象に見入っていた。
戦場の西側に突き立った最初の黒線が、地面に溜まり、小さな塊となり――
それが人の姿を取るまで、ほんの二秒ほどしかかからなかった。* 朝田詩乃/シノンは、自らのもたらした巨大な破壊を見下ろしながら、比嘉という名の技術者によるレクチャーを耳裏に蘇らせていた。
『スーパーアカウントは、確かに強力だけど決して万能じゃない。どうしてもアンダーワールドにダイブしたうえで大規模なオペレーションを実行しなくてはならなくなった場合に、内部の住民たちにギリギリ受け入れられるであろう形でそれを行うために用意されたものなんス』
『えーと……つまりGM(ゲームマスター)じゃなくて、ものすごく強いPC(プレイヤーキャラ)でしかない、ってこと?』
初期のNERDLES実験機のように巨大なSTLマシンに横たわったシノンは、眉をしかめながらヘッドセットにそう問いかけた。流れてきたのは、パチン、という恐らく指を鳴らす音だった。
『イエス、まさに然りッスよ。ゆえに、君に使ってもらう"ソルス"アカウントも、アンダーワールドのリソース原則からは逃れられない。アスナさんの使っている"ステイシア"は、オブジェクトに設定されたリソースを利用してその形を変えるわけですが、ソルスの熱線攻撃にはどうしても空間リソースの吸収・リチャージが必要なんス。自動リチャージ能力は上限設定ですから、日中であれば枯渇は有り得ないはずッスが、連射は不可能と考えてください』
たしかに、左手の白い長弓は、広範囲射撃の直後からその輝きを薄れさせていた。両端からふたたび光が戻りつつあるが、再度の全力攻撃が可能となるまでは十分はかかるだろう。
連射不可。ふん、上等じゃない。
オートマチックよりボルトアクションのほうがしっくり来るってもんだわ。
胸中で嘯き、シノンは爆炎の収まった地上を確認した。
差し渡し一キロはありそうなクレーターの縁には、黒焦げになり煙を上げる死体がぐるりと折り重なっている。いちどの射撃で、おそらく六、七千の敵兵を屠っただろう。あれが、本物のアンダーワールド人ではなく、シノンと同じように現実からログインしているアメリカ人だというのは正直さいわいなことだ。ベータテストと信じ込まされ、接続した瞬間に焼き殺されたプレイヤーたちは、今頃向こう側で怒り心頭だろうが。
クレーターの中央では、黒い軍勢に比べるとあまりにもささやかな騎馬部隊が、再度の前進をはじめている。敵はまだたっぷり一万以上も残っているが、そのうち半数近くはふたたびの射撃、というより爆撃を恐れて上を見たまま動かないので、なんとか囲みは突破できそうだ。
シノンはいっそう眼を凝らし、人界部隊の戦列を確認した。
すぐに、一台の馬車の天蓋に立ち、まっすぐ自分を見上げている栗色の髪の少女に気付く。
思わず笑みをこぼれさせ、シノンはソルスアカウントに付与されたもう一つの能力・"連続飛行"を制御しながら、斜め下方へと一直線に舞い降りた。
群青色のブーツのつま先が、カンバス地の幌を捉えると同時に、軽く片手を挙げる。
「や、お待たせ、アスナ」
にこ、と微笑むと、眼前の少女のはしばみ色の瞳に、珠のような涙が盛り上がった。
「……詩乃のん……!!」
絞りだすような叫びとともに飛びついてきたアスナに、思い切り抱きしめられる。シノンは身体を震わせる親友の背中をそっと叩き、もういちど囁いた。
「がんばったね。もう大丈夫……あとは私に任せといて」
自分よりほんの少し背の高いアスナを腕のなかに抱いたまま、一割ほどリチャージされた左手の弓をまっすぐ前方に向け、右手で軽く弦を引く。
ソルスの弓は、弦を引き絞る強さでその威力を、弓の縦横の向きで攻撃範囲を設定する。十センチほど引いた弦の中に、細く眩い光矢が出現した。シノンはその先端を、部隊の先頭を走る大きな竜の行く手をさえぎる敵集団に照準した。
ビシュッ、とささやかな発射音。
僅かに傾けていた弓から放たれた光線は、直径十メートルほどの範囲に着弾し、スティンガーミサイル顔負けの爆発を引き起こした。黒い鎧兜が塊で吹っ飛び、ぽかりと開いた間隙に、すかさず竜が突入した。踏みとどまっていた歩兵も、巨大な鉤爪に引っ掛けられ、ひとたまりもなく宙を舞う。
ここに来て、ようやく敵兵たちも、倒すべき獲物あるいは稼ぐべきポイントが逃げていくことに気付いたようだった。一万数千のスラングが全方位から炸裂し、クレーターの斜面を黒い津波のように歩兵たちが駆け下りてくる。
シノンは、弓を腕にひっかけてアスナの両肩に手を置き、そっと体を引き起こした。
「アスナ。ここからしばらく南にいったとこに、遺跡みたいな廃墟が見えたわ。道はその真ん中を貫通してて、左右はでっかい石像がいっぱい並んでるの。あそこでなら、敵に包囲されることなく戦線を限定できると思う。なんとかそこで、この敵を撃退しよう」
流石にアスナも歴戦の剣士だけあって、シノンの言葉を聞くと即座に眼に勁い光が戻った。ぐい、と涙を拭ってから口を開く。
「わかったわ、詩乃のん……シノン。いくらアメリカ人VRMMOプレイヤーが多くても、これ以上の数はすぐには用意できないはず。あの一万何千かを撃退すれば、敵に打てる手はもう無いわ」
「ま、私にまかせといてよ。……で、それはそうと……」
人界軍の隊列の最後尾が、どうにか敵の包囲を抜けたことを確認してから、シノンは改めてちらりとアスナを見た。
「……その、キリトは……この部隊にいるの?」
これには、アスナも微かな苦笑を漏らした。
「今更そんな、遠慮っぽい聞き方しなくてもいいわよ。キリトくんは、ココ」
持ち上がった右手の人差し指が、ちょいちょいと足元を指す。
「わ、そうなの。じゃあ……ちょっと、挨拶してくるね」
ごほん、と咳払いしてから、シノンは大型馬車を覆う幌の後ろ端に右手を引っ掛け、すとんと内部に身体を降ろした。
続いてアスナも降りてくるまで待って、積んである木箱の奥へと向かう。
まず眼に入ったのは、灰色の制服に身を包んだ二人の異国の少女たちだった。同時に眼をまん丸にし、片方が小さな声を漏らす。
「そ……ソルス様……?」
「こんにちは、はじめまして。ソルスっぽいけど、中身は違うの。私の名前はシノン」
可能なかぎりの笑顔を向けると、二人はいっそうの驚き顔を作ったが、すぐに背後のアスナを見て何か得心したようだった。
「そ、アスナと同じリアルワールド人よ。そして、キリトの……友達」
「そう……なんですか」
赤い髪の少女がほうっと息をつき、黒い髪の子は、口のなかで小さく、女のひとばっかり、と呟いた。
まだまだこんなもんじゃないわよ、と内心で苦笑しながら、シノンは左右に分かれた少女たちの間を数歩進んだ。
キリトの状態は、比嘉タケルから聞かされてはいた。しかしこうして、実際に傷ついた姿を見ると、胸がいっぱいになって思わず涙が滲んだ。
「ぁ…………」
しわがれた声を漏らす、かつての敵にして戦友、そして命の恩人の前に、シノンはそっと膝をついた。
車椅子に沈むその姿に、かつての力強さはわずかにも残されていなかった。シノンは弓を肩にひっかけたまま、両手を差し伸べ、痩せ細ったからだをきつく抱いた。
キリトの魂は、その中心の大切な部分――"自己"が損なわれてしまったのだという。
回復の手段は、いまのところ見つかっていない、と比嘉は沈んだ声で言った。
しかしシノンは、ぎゅっと眼をつぶって涙の粒をこぼしながら、そんなの簡単なことじゃない! と胸中で叫んだ。
キリトの記憶、キリトのイメージ、そしてキリトへの気持ち――愛ならば、沢山の人が山ほど持っている。それらを少しずつ集めて、キリトの心に戻してあげればいいんだ。ほら、感じるでしょう……私のなかの君を。皮肉屋で、そのくせ隠れ熱血で、そして誰よりも強い、同い年の男の子を。
シノンは顔の向きを変え、キリトの頬にしっかりと唇を触れさせた。
この時――。
朝田詩乃は、自分の強い感傷が、桐ヶ谷和人の唯一の治療方法に紙一重のところまで肉薄していることを知らなかった。
もし彼女に、アンダーワールドとフラクトライトの構造について充分な知識があれば、解答にたどり着くことは可能だったかもしれない。しかし、詩乃がダイブ直前に受けたレクチャーは、現在の状況とソルスアカウントの使用方法にとどまっていたのだ。
ゆえに詩乃は、唇を触れさせたときになぜ和人が一瞬その身体を震わせ、体温がかすかに上昇したように感じたのか、その理由に思いを致すことはなかった。
すぐにキリトから身体を離したシノンは、立ち上がり、背後の三人を見た。
「だいじょうぶ、キリトはきっとすぐに元通りになるよ。みんなが、本当にこの人を必要とした時にね」
アスナと二人の少女たちは、涙ぐんだままこくりと頷いた。
「じゃあ……私、一足さきに南の遺跡に飛んでいって、地形の確認をしてくる。貴方たち、キリトのこと、よろしくね」
そう声をかけ、馬車の後ろに向かいかけたシノンの肩を――。
突然アスナが、がしっと強く掴んだ。
その瞳にとてつもなく切迫した光が浮かんでいるのを見て、シノンは息を飲んだ。
「あ……アスナ、どう……」
「シノン、今飛ぶって言った!? あなた、飛べるの!?」
急き込むような問いに、戸惑いながら頷く。
「え……ええ。ソルスアカウントの能力なんだって。制限時間とかもないって聞いたけど……」
「なら、助けてほしいのはわたし達じゃないわ! アリスを……皇帝に攫われたアリスさんを追いかけて!!」
続けてアスナが説明した状況は、シノンの心胆を寒からしむるに充分なものだった。
すべての鍵となる整合騎士アリスが、現実側の敵である皇帝ベクタに拉致され、はるか南を飛行中であること。いまそれを追っているのは、騎士長とよばれる剣士ただ一人であること。
「スーパーアカウント相手に、いかに騎士長さんと言えども荷が重いわ。もし皇帝が果ての祭壇に到着する前にアリスさんを救出できなければ、この世界は丸ごと破壊されてしまうの。シノン、ベルクーリさんを助けて!」
どうにか事情を飲み込み、騎士長ベルクーリの外見を頭に叩き込んだシノンは、馬車から離陸すると一気に高度を取った。
土煙を立てて南下する人界軍八百。
北から怒涛の勢いで追いすがる一万以上の黒い軍勢に比べれば、まるで津波に飲まれる直前のボートの群れのようだ。
アリスを取り戻したら、すぐ駆けつけるから――それまでがんばって、アスナ。
内心でそう呼びかけて、シノンはくるりと南を向き、一気に加速した。白い尾を引く流星となり、赤い空をまっすぐに切り裂く。
前方、無限に広がる世界を俯瞰しながら、シノンはふと考えた。
そういえば――。
同時にログインしたはずのリーファは、どこに行ってしまったんだろう?
レンリ率いる人界軍、追いすがる一万三千のアメリカ人プレイヤー。
その遥か北では、アスナが作った峡谷の際で、イシュカーンとシェータ及び拳闘士団が、いまだ二万近く残るアメリカ人たちを相手に絶望的な戦いを続けている。
そして、さらに数万メル北方。
もはや古戦場の趣きすらある、東の大門を望む荒野に、一つのずんぐりした姿がたたずんでいた。
丸い巨躯を包む、鈍色の鎧。風になびく革マント。丸い頭の両脇に薄い耳が垂れ、大きな鼻がまっすぐ突き出ている。
オーク族の長、リルピリンである。
残るわずかな部族兵を後方に待機させ、単独で東の大門にほど近い地点までやってきたのだ。一人の護衛すらもつけなかったのは、地面を這い回る自分の姿を見せたくなかったからだ。
何時間も苦労して、リルピリンはようやく求めるものを見つけ出した。華麗な彫刻を施した、銀のイヤリング。
そっと拾い上げ、掌に載せたそれは、皇帝の命により人身御供となったオーク族の姫将軍の耳にいつも輝いていたものだった。
遺品は、それだけだった。荒野には、姫とともに死んだ三千のオークの遺骸どころか、骨の欠片すらも残っていなかった。暗黒術師たちのおぞましい邪術が、オークたちの身体をあまさず喰らい尽くしてしまったのだ。
その残酷を行ったあの憎むべき女術師も、それを許した皇帝も、もうこの地には居ない。
暗黒術師ギルド総長ディーは、"光の巫女"の反撃により死に、皇帝は巫女を追って飛び去ってしまった。リルピリンへの待機命令を解除することもなく。
のこる数千の部族兵だけでは、とても東の大門を守る人界兵と整合騎士に勝つことはできない。暗黒界五族の悲願である、人界征服の夢は潰えたのだ。
だとすれば。
いったい――なんのために。
なぜ、リルピリンと共に育った姫将軍と、生贄にされた三千、そしてそれ以前に大門での戦いに出陣した二千のオークは死なねばならなかったのか。その死がなにをもたらしたというのか。
無。一切、何ひとつ。
ただ、人より醜いという理由だけで、五千もの一族が空しく死んだ。
リルピリンは、握り締めたイヤリングを胸に抱き、がくりと地に膝を突いた。怒り、やるせなさ、そして圧倒的な哀しみが胸に突き上げ――それが涙と嗚咽に変わろうとした――
その直前。
背後で、どすっと軽い音がした。
慌てて振り向いたオークの長が見たのは、地面に尻餅をつき顔をしかめた、深緑の髪と白い肌、そして若草色の装束に身を包む若い人間の女だった。
その唐突すぎる出現に対する驚きよりも、人間族への怒りや殺意よりも、リルピリンが真っ先に感じたのは、自分を見ないでくれ、という羞恥にも似た感情だった。
なぜなら、眼前の娘は、あまりにも美しすぎたのだ。
絞ったばかりのミルクの色の肌からして、初めて間近に見る白イウム――人界人であるのは明らかだ。
背が高く骨太で、たっぷりと張った肉と、銅色の肌を持つ暗黒界人の女とはまるで違う。手足は触れただけで折れてしまいそうなほど華奢で、髪は風もないのにさらさらと揺れ、きょとんとした風情でまっすぐ見上げてくる大きな瞳は、磨き抜かれた翠玉のようだ。
リルピリンは、この小さくひ弱な種族を、震えるほどに美しいと思ってしまう自分の感覚を呪った。
同時に、娘の緑色の瞳に、嫌悪の色が満ちるのを恐れた。
「み……見るなッ!! おでを見るなあッ!!」
喚きながら左手で自分の顔を覆い、右手で大刀の柄を握る。
悲鳴を聞かされるまえに、首を刎ねてしまえ。
そう思って、抜き打ちの動作に入りかけたリルピリンは、耳に届いた声――言葉にびくりと凍りついた。
「あの……こんにちは。それともおはよう、かな」
身軽な動作で立ち上がり、裾の広がった短い足通しをぱたぱた叩きながら、娘はにっこりと笑った。
顔を覆う指のあいだから、唖然と小さな人間を見下ろし、リルピリンは瞬きを繰り返した。
娘の瞳には、いっさいの嫌悪も、侮蔑も、それどころか恐怖すらも浮かんでいない。白イウムの子供にとっては、オークは人食いの悪鬼そのものであるはずなのに。
「な……なぜ」
自分の口から漏れ出た言葉は、一万の軍団を率いる暗黒界十候の一人にはまるで似つかわしくない、途方にくれたような響きを帯びていた。
「なぜ逃げない。なぜ悲鳴を上げない。人間のくぜに、なぜ」
すると、今度は娘が驚いたような、困ったような表情を作った。
「なぜ、って……だって」
そして、まるで大地は平らで、空は赤い、と言うかの如き何気なさで続けた。
「あなたも人間でしょう?」
その瞬間、背筋に走った震えの理由が、リルピリンには分からなかった。大刀の柄を強く握り締めたまま、喘ぐように亜人の長は言った。
「に……にんげん? おでが? 何を馬鹿な、見ればわがるだろうが! おではオークだ! おまえらイウムが人豚と罵るオークだッ!!」
「でも、人間だよね」
華奢な両腰に手をあて、娘はまるで親が子に言い含めるような調子で繰り返した。
「だって、こうして話が出来てるじゃない。それ以外に何が必要なの」
「なに……って…………」
最早、どう反駁していいのかすらリルピリンには分からなかった。緑色の髪の少女が自信たっぷりに提示した価値観は、これまで人間族に対する劣等感と怨嗟のみを燃やして生きてきたオークの長にはあまりにも異質すぎた。
話が出来れば人間?
"人間"の定義とはそんなものなのか? 言葉なら、ゴブリンだって、オーガだって、ジャイアントだって操る。しかし、それにオークを含めた四種族は、ダークテリトリーの開闢以来"亜人"と呼ばれ、人間とは頑として区別されてきたのだ。
荒い鼻息だけを漏らして立ち尽くすリルピリンの衝撃と混乱を、少女は「そんなことよりも」とひと言で押しのけ、くるりと周囲を見回した。
「……ここは、どこなの?」
桐ヶ谷直葉/リーファ/スーパーアカウント03"テラリア"は、どうやらログイン座標が大きくズレてしまったらしいと推測し、短くため息をついた。
使用したSTLマシンが、ロールアウトしたばかりの、まだビニールカバーも取れていない新品だと聞いたときから嫌な予感はしていた。直葉は新品の竹刀は決して試合では使わないし、同様に電子機器も信用していない。どういうわけか昔から、電子デバイスの初期不良引き当て率は異常高値を維持しているのだ。
ログインは、並んでマシンに入ったシノンと同様、先にダイブしているアスナの座標で行われたはずなので、周囲にひと気がないのはやはり事故が起きたのだろう。いや、正確にはひとりだけ、目の前にお相撲さんのような巨体を持つ誰かが立っている。
ダイブ直後のみ有効となるカラーマーカーによれば、このオークのアバターを持つ人は、目下の敵であるアメリカ人プレイヤーではない。アンダーワールドに暮らす"人工フラクトライト"、つまりAIユイの説明によるところの真正人工知能だ。
その成り立ちを説明されたときから、リーファは、どうしても、何がなんでもそれが必要という状況にならない限り、彼ら相手に剣は抜くまいと決めていた。当然のことだ――兄キリトが守ろうとした"人間たち"を、殺すなんて出来るわけがない。人工フラクトライトは、この世界で死ぬと、その魂は現実世界でも完全に消滅してしまうのだから。
それにしても――。
眼前のオークアバターの精密度は、数多あるザ・シード規格VRMMO中最高峰のグラフィックを誇るALOに馴れたリーファの目にも驚異的だった。ピンク色の大きな鼻と耳の動き、逞しい巨体をよろうアーマーとマントの質感、そして何より、小さな黒い両眼の表情の豊かさは、その奥に宿る魂が紛れもなく本物だということを如実に示している。
なぜか気後れしたように顔を背けるオークに、とりあえずここがどこなのか尋ねてみたが、答えはすぐには返ってこなかった。ならばもっと手前から始めよう、と思い、リーファは別の質問を発した。
「えーと……あなたのお名前は?」
混乱の極みに突き落とされたオークの長は、娘が二度目に発した質問には、思わず反射的に答えていた。名前だけは、自分に与えられたすべてのもののなかで、唯一気に入っていたからかもしれない。
「お……おでは、リルピリン」
口にしてから、すぐに後悔する。昔、はじめて帝城にのぼったとき、リルピリンの名を聞いたイウム貴族の若者たちが大笑いしたことを思い出したのだ。
しかし娘は、またしてもにっこり笑いかけてきた。
「リルピリン。可愛い、良い名前ね。私はリーファ。はじめまして、よろしく」
そして、何度目かの驚愕すべき挙に出た。
しなやかな白い右手を、まっすぐ差し出してきたのだ。
握手――という習慣は無論知っている。オーク同士でも日常的に行われる。しかし、これまでイウムとオークが握手した話など聞いたことがない!
いったい何なのだ、この人間は。何かの罠か、それとも術師の手妻なのか。いつのまにか幻惑術にでも掛けられてしまったのか。
娘の右手を凝視し、唸るしかできないリルピリンを娘はたっぷり十秒近くも見つめていたが、やがて少しだけがっかりしたように手を下ろした。その様子に、なぜか胸の奥がちくりと痛む。
これ以上娘と会話をしていたら、いや見ているだけでも、頭がどうにかなってしまいそうだった。リルピリンは、もう眼下の小さな人間を叩き斬る気にはなれなかったが、それ以外のもっとも頭を使わずにすむ解決法にすがるべく、口を開いた。
「お前……人界軍の士官だな。お前を捕虜にする。皇帝のところに連れでいぐ!」
年齢はともかく、娘の装備する若草色の鎧や、背負われた長い曲刀は、どう見ても一介の兵士に与えられるものではない。精緻な意匠や素材の輝きは、あるいはリルピリンの装備より上質とも思える。
大将軍たるリルピリンの大声にも、娘はまるで怯える様子も見せなずに何かを考えているようだったが、やがて小さく肩をすくめると訊いてきた。
「皇帝、ってのは暗黒神ベクタのことよね?」
「そ……そうだ」
「わかった。なら、いいわ。連れていって頂戴」
頷き、両手をそろえてずいっと前に突き出す。それが、握手ではなく虜縛を促す動作であることはすぐに分かった。
ほんとうに、一体何を考えているのか。
リルピリンは、ベルトから飾り帯を一本外し、少女の手首を手荒に――しかし少しだけ緩めに縛った。その端を握り、ぐいっと引っ張ってから、ようやく皇帝がもう本陣には居ないことを思い出す。
しかし、これ以上難しいことを考えると、頭の芯が焼き切れてしまいそうだった。皇帝がいなくとも、あの嫌な目つきの副官か、商人の長レンギルあたりが処置を決めてくれるだろう。
ぐるっと身を翻し、やや控えめに帯を引っ張りながら歩きはじめた、ほんの数秒後。
突如、周囲に、黒い靄のようなものが色濃く立ちこめはじめた。嫌なにおいがつんと鼻をつく。たちまち視界が失われ、リルピリンは油断なく周囲を見回した。
「あっ……!?」
短い驚きの声、あるいは悲鳴は、まちがいなくリーファという名の娘のものだった。
さっと振り向いたリルピリンが見たのは、濃密な黒霧のむこうからぬっと突き出た一本の腕が、娘の髪を掴んで引っ張り上げているさまだった。
直後、腕の持ち主が霧を割って姿を現した。
死んだはずのあの女――暗黒術師総長ディー・アイ・エルが、狂気じみた笑みを紅い唇に浮かべ、立っていた。
なぜ、追いつかない。
整合騎士長ベルクーリは、怒りと焦燥のなかにも深い驚きを感じていた。
追跡行はもう二時間以上も続いている。
人界守備軍が野営していた森を、その南に広がっていた円形の窪地を飛び越え、奇怪な巨像が林立する遺跡を通過して、かつてないほど深くダークテリトリーの奥地に分け入りながら、しかし距離は一切縮まる様子がない。愛弟子である整合騎士アリスを拉致した皇帝ベクタの飛竜は、相変わらず遥か地平線に浮かぶ極小の黒点のままだ。
皇帝は、一頭だけの飛竜に、自身とアリスの二人を乗せて飛んでいる。
対するベルクーリは、星咬、雨縁、そして滝刳の三頭に順に飛び移り、竜たちの疲労を可能なかぎり抑えている。理屈では、そろそろ追いついていてもおかしくないはずだ。
一体なぜ追いつけないのか。皇帝は、飛竜の天命をも自在に操るというのか。そんなはずはない。天命及び空間力の循環は、最高司祭アドミニストレータすら操れなかった、世界の最大原則ではないか。
もちろん、まさか無限に飛べるというわけではないだろう。この先、"世界の果ての断崖"までは、飛竜の翼でも二、三日は確実に要する距離があるはずだ。しかし、ベルクーリを乗せる竜たちもいずれは降下、休息しなくてはならない。速度が同じなら、永遠に距離は縮まらない。
やむを――得ないか。
はるか地平線まで届く射程の術式など、ベルクーリにも到底操れない。今この状況を打破できる可能性があるとすれば、それは唯一……。
騎士長は、右手でそっと腰の愛剣に触れた。
ひんやりと硬い、頼もしい手ざわり。しかし、その天命がまだ完全回復にはほど遠いのは、感触で分かる。東の大門で使用した大規模な記憶解放攻撃による消耗が、予想以上に大きかったのだ。
これから使う術は、神器・時穿剣の最終奥義ゆえに、莫大な天命を消費する。
撃てて一度。その一撃を、針の穴を通す以上の精密さで命中させねばならない。
ベルクーリは、騎乗していた滝刳の首筋をそっと撫でると、ひょい、と隣の星咬の背に飛び移った。
長年共に戦った相棒に、手綱を持つこともなく意思を伝え、高度を慎重に調整する。
照準するのは、遥か地平線を往く砂粒のような黒点。
皇帝本人を狙いたいのはやまやまだが、姿も視認できないこの距離では外す危険が大きすぎる。どうにかその動きが滲むように見て取れる、飛竜の片翼に全精神力を集める。
鞍の上に仁王立ちになったベルクーリの右手が、ゆるり、と動いた。鞘から、全体が同一の鋼より削り出された長剣を滑らかに抜き出す。
体の右に構えられた、傷だらけの刀身が、不意に揺れた。朧のごとくかすんだ刃が、飛竜の前進につれて、幾つもの残影を後ろに引く。
唇が、罪のない飛竜への詫びを短く呟く。
直後、薄青い色の瞳をすうっと細め――最古の騎士ベルクーリは、裂帛の気合を込めて叫んだ。
「時穿剣――裏斬(ウラギリ)!!」
ずうっ、と重く、しかし凄まじい速度で刃が振り下ろされた。青い残影がいくつも斬撃の軌道に沿って輝き、順に消えた。
遥か数十万メルかなたで、黒い飛竜の左の翼が、付け根から吹き飛ぶのが確かに見えた。
「匂う……におうわ、なんて甘い……天命の香り……」
人族の娘の髪を掴み、体ごと吊り上げたディー・アイ・エルの唇から、ひび割れた声が漏れ出でた。
どれほど憎んでも憎み足りないはずの暗黒術師の姿を、しかしリルピリンはただ呆然と眺めた。
艶やかに輝いていた肌も、豪奢だった黒い巻き毛も、酷い有様だった。全身に、鋭利な刃物に斬られたような傷が縦横無尽に走り、じゅくじゅくと血を滲ませている。ディーが身動きするたびに、それらの傷が幾つかぱっくりと口を開き、鮮血がほとばしるが、術師の身にまとわりつく黒い煙がたちまち傷口に集まり、しゅうっと嫌な匂いを放って止血していく。
煙の源は、ディーの腰にぶら下がる小さな皮袋だった。見ると、袋の口からは時折、奇怪な虫めいた代物が顔を出し盛んに黒い霧を吐き出しているようだ。おそらく、天命の減少を抑えるためのおぞましい邪術に違いない。
嫌悪感のあまり鼻を拉げさせるリルピリンをちろりと見て、ディーは再び唇の両端を吊り上げた。
「素晴らしい獲物ね。誉めてやるわよ、豚。ご褒美に、いいものを見せてあげるわ」
言うや否や――。
ディーは、髪を引っ張り上げられて顔をゆがめる娘の襟首に、鉤爪のような右手の指を食い込ませた。
ばりぃっ、と容赦のない音とともに、鎧と、その下のチュニックまでもが一瞬で引き裂かれる。
眩いほどに白い上半身の肌が露わになり、娘はいっそう顔を歪めた。その様子に、ディーは嗜虐的な吐息を荒々しく吐き出し、しゅうしゅうと笑った。
「どう、人族の女の体を見るのははじめてかしら? 豚には目の毒かしらね! でも、面白いのはこれからよ…………!!」
毟り取った緑色の鎧と長刀を背後に投げ捨てたディーの右手の五指が、突然、骨をなくしたかのようにうねうねと蠢いた。
いつのまにか、それは指ではなく、ぬらぬらと光る長虫のような姿へと変じていた。先端には、同心円状に細かい鋸歯が並ぶ口がぱくりと開き、おぞましい蠕動を繰り返している。
「ほら……!!」
ディーが叫ぶと同時に、五本の指あるいは触手は、娘の上体に巻き付きずるずると這い回った。動きを封じた上で、先端が鎌首をもたげ――肌の五箇所に、突き刺さるがごとく噛み付いた。
「アァッ!!」
鮮血が飛び散り、リーファという名の娘は、瞳を見開いて悲鳴を上げた。触手を剥ぎ取ろうと手を動かすが、手首をリルピリンの飾り帯に拘束されているためにままならない。
五箇所の傷口からの出血は、一瞬で収まったかのように見えた。しかし実際はそうではなく、ディーの右手に繋がる触手が、ごくごくと音を立てて飲んでいるのだと、リルピリンは察した。
暗黒術師は、喉を反らし、甲高い声で術式を唱えた。
「システムコール!! トランスファ・デュラビリティ……ライト・トゥ・セルフ!!」
ぽっ、と青い輝きが娘の傷口から迸る。それは血液の流れと同調するように触手を伝い、ディーの腕に吸い込まれていく。娘の苦悶はいっそう激しくなり、華奢な身体が折れんばかりに仰け反る。
「はぁっ……凄いわ……凄いわぁ!! なんて濃くて……甘いの!!」
きんきん響く金切り声がリルピリンの耳を劈いた。
その痛みで、オークの長は我に返り、喘ぐように叫んだ。
「な……何をする!! こでは、おでの捕虜だ!! おでが皇帝のもとへ連れでいぐ!!」
「黙れ豚アアッ!!」
瞳孔をぐるりと裏返したディーが、狂気に満ちた声で喚いた。
「私が皇帝に作戦指揮の全権を委任されていることを忘れたかッ!! 私の意志は皇帝の意思!! 私の命令は皇帝の命令なりいいいッ!!」
ぐっ、とリルピリンは喉を詰まらせた。
その作戦なぞ、とうの昔に失敗に終わっているではないか、という反駁が喉元まで突き上げる。しかし、皇帝は何も指示せぬまま戦場から消えてしまったのだ。ならば、あらゆる命令は維持されているというディーの主張を覆す材料は何もない。
立ち尽くすリルピリンの目の前で、声無き悲鳴を上げる娘の動きが、徐々に弱々しくなっていく。それに比例して、ディーの肌に刻まれた無数の傷が、片端から癒着し、ふさがっていく。
「ぐ……グゥ……」
食い縛った牙のあいだから、押し潰された声が漏れた。
リルピリンの目にはいつしか、天命を吸われる娘の姿が、生贄となり息絶えた姫将軍の姿と重なって映っていた。
娘の瞳から、徐々に光が薄れていく。肌の色はすでに白を通り越して蒼ざめ、いつしか両腕はだらりと力なくぶら下がっている。しかし、ディーの右手の触手は、尚も飽き足らぬように蠢き、一滴のこさず血を吸い取ろうとする。
死ぬ……死んでしまう。
せっかくの捕虜が。
いや、自分を見ても恐れも蔑みもしなかった、はじめての人間が。
その時――。
不思議な現象、あるいは奇跡が発生し、リルピリンは目を見張った。
地面が。
炭殻のように黒く不毛なダークテリトリーの大地が、娘を中心に、緑色に輝いている。
オーガ族の住まう東の果てでしか見られないはずの、柔らかそうな若草が一斉に萌え出で、色とりどりの小さな花もそこかしこに咲いた。風の匂いが芳しく変わり、血の色の日差しすら穏やかな黄色へと転じた。
その、生命に満ち溢れる光景が、渦巻きながら瞬時に娘の体へと吸い込まれていく。
青白かった肌にたちまち血の色が戻り、瞳にも輝きが蘇る。
一瞬の幻視が消え去ると同時に、娘の天命が全回復したことをリルピリンは直感で悟った。理由のわからない安堵が、胸の奥に満ちた。
しかし、それは即座に打ち破られた。
「なんてこと……湧いてきた……また溢れてきたわぁぁぁ!!」
すでに、こちらも傷はほぼ全快しているはずのディーが、箍が外れたような声で喚いた。
娘の髪を掴んでいた左手を離し、そちらの指をも醜悪な触手生物へと変容させる。
どすっ、どすどすと鈍く湿った音を立て、あらたに五本の触手が娘の肌に突き刺さった。
「っ……あああっ……!!」
か細い悲鳴を、ディーの哄笑がかき消した。
「アハハハハ!! ア――ハハハハハハ!! 私のよ!! これは私のよおおおお!!」
――耐えなければ。
現実世界でもかつて感じたことのない、目のくらみそうな激痛に晒されながら、リーファはただそれだけを念じた。
スーパーアカウント"テラリア"に付与された能力はダイブ前に説明されている。
"無制限自動回復"。周囲の広範な空間から、自動的にリソースを吸収し、天命つまりヒットポイントに常に変換し続けるのだ。ただでさえ膨大な設定数値にその能力が加われば、天命損耗による死亡はほとんど有り得ないはずだ、と比嘉という技術者は言っていた。
なればこそ、リーファは、捕虜となる危険を冒しても暗黒神ベクタ――現実世界人の"敵"――と遭遇し戦いを挑もうと意図したのだし、またアンダーワールド人に対しては剣を抜くまいと決めもしたのだ。
ただでさえ、自分はこの世界で死のうと何も失わないというのに、それに加えてヒットポイントが無限では、不公平にも程がある。剣士として、そんな真似だけはどうしても出来ない。
いま、自分を苛んでいる女性も、リルピリンと同じくアンダーワールド人、つまり人工フラクトライトだ。
剣で斬れば、その魂は完全に消滅してしまうのだ。どのような事情で傷つき、どのような理由により回復を欲しているのか、知りもせずに戦うわけにはいかない。
ああ――でも。
衣服をほとんど剥ぎ取られた羞恥すら感じる余裕がないほどに、天命を吸い取られる痛みは圧倒的だ。
これは本当に、現実の肉体とは切り離された仮想の感覚なのだろうか。
「……やめろ」
それが自分の口から漏れた言葉だと、リルピリンはすぐには気付かなかった。
しかしすぐに、今度は明らかに口が動き、喉が震動した。
「やめろ!」
針穴のように瞳孔が縮んだディーの眼が、きろり、とリルピリンを舐める。腹の底に湧き上がる寒気に耐え、オークの長は更に言った。
「もう、あんだの天命は完全に回復しだではないか。これ以上そのイウムから吸い取る必要はないはずだ!」
「……なぁに、それ。命令……?」
歪んだ歌のような調子で、ディーが囁いた。
その間にも、両手の指は一層激しく蠢き、娘の肌を締め上げ血を貪り続ける。暗黒術師の肌は完全に再生して油を塗ったような照りを取り戻し、髪すらも本来以上の長さで豊かに垂れている。
それどころか、その全身から、余剰となった天命が青い光の粒となって空中に放散されていくではないか。なのに、ディーは自身より遥かに小柄な娘を背後から抱き絡め、虐げるのをやめようとしない。
「言ったでしょ、豚? この捕虜はもう私のよ。私がどれだけ天命を吸おうと、豚の目の前で辱めようと、あるいはこの場でくびり殺そうと、お前には関係ないでしょ?」
くく、くくく、と喉奥からこもった笑いが響く。
「ンー、でも、そうね。見つけたのはお前なんだし、少しくらいは譲歩すべきかしらねえ? なら……今そこで、裸になってみせなさい」
「な……何をいっでる……」
「私ね、前まえっから、お前がその大仰な鎧とマント着てるのを見ると吐き気がするのよねえ。豚のくせに、まるで人みたいじゃなぁい? そこで素っ裸になって、四つん這いでフガフガ鳴いてみせたら、もしかしたらこの娘を返してあげるかもよ?」
ずきり。
突然、視界の右半分に赤い光がちらついた。同時に、右眼奥から鉄針を差し込まれるような痛みが頭を貫く。
豚のくせに。
人みたい。
ディーの言葉に、リーファという少女の発した言葉がかさなる。
人間でしょう?
それ以外に、何が必要なの?
この娘を、ディーに殺させてはいけない。いや、殺させたくない。そのためなら……そのため、ならば。
リルピリンの震える両手が、マントの留め金にかかった。ぶちっ、と一気に引き千切る。
足元にわだかまったマントを踏みつけ、リルピリンは鎧を締める革帯に手をかけた。
不意に、微かな声が聞こえた。
「……やめて」
はっ、と顔を上げると、自分をまっすぐ見ているリーファと眼が合った。
激痛に涙ぐむその翠玉の瞳が、ゆっくり左右に振られた。
「私は……だいじょうぶ、だから。やめて、そんな、こと」
声は最後まで続かなかった。ディーが突然、娘の頬に軽く歯を立てたのだ。
「それ以上つまらないこと言ったら、可愛い顔を食い破るわよ。せっかく面白い見世物なのに。ほら、どうしたの豚。さっさと脱ぎなさいよ。それとも人間の裸に興奮しちゃったのかしら?」
きゃはははは、とけたたましい笑いが続く。
リルピリンは、鎧の留め具に掛けた手を、ぶるぶると震わせた。
右眼の痛みはもはや圧倒的だった。だが、胸中に渦巻く怒りと屈辱に比べれば、何ほどのこともなかった。
「お……おでは……おでは」
突然、両眼から溢れ、頬を伝って滴るものがあった。左側に垂れる雫は透明だったのに、右側のそれは深紅に染まっていた。
右手が、ゆっくりと留め具から離れ――左腰の大刀の柄へと伸びた。
「おでは、人間だッ!!」
叫ぶと同時に、右の眼がばしゃりと爆裂した。
半減した視界の端に、リルピリンはしっかりとディーの姿を捉え続けていた。嗜虐的な哄笑が途切れ、その口がぽかんと開いた。
ディーの無防備な足元に向け、リルピリンは全身全霊を込めた抜き打ちを放った。
しかし――片目が消滅した直後ゆえに、距離感が狂った。
剣先は、ディーの右足の脛を掠めただけで空しく流れ、リルピリンは無理な斬撃姿勢ゆえに左肩から地面に倒れこんだ。
見上げた先で、凶悪な面相へと変じたディー・アイ・エルが、唇を歪めて吐き捨てた。
「臭い豚がァ……よくもこの私に傷をッ……!」
ぶん、と娘の身体を後方に投げ捨て、両手の触手を高くかざす。それらはギィンと硬い音を放ち、一瞬で黒く輝く十本の刃へと変容した。
「切り刻んで、肉にして、竜のエサに食わしてくれる!!」
左右に大きく広げられた刃が、振り下ろされるのをリルピリンはただ待った。
とっ。
とん。
と微かな音が、立て続けに響いた。ディーの動きがぴたりと止まった。
術師の両腕が、その付け根からぽろりと零れ落ち、湿った音とともに地面に転がるのを、リルピリンは呆然と眺めた。
驚愕の表情を浮かべたのはディーもまた同様だった。左右の肩から滝のように鮮血を振り撒きながら、長身の女はゆっくりと身体の向きを変えた。
白く輝くリーファの姿が、リルピリンの視界に入った。
ほぼすべての衣服を失ったその華奢な体躯では、とても扱えそうにない長大な曲刀をまっすぐ前に振りぬいている。両手首は拘束されたままなのに、この娘が、ディーの両腕を瞬時に切断したのは明らかだ。
ディーが、乾いた声で言った。
「人間が……豚を助けて、人を斬る……?」
信じられぬ、というふうに首を左右に振り続ける暗黒術師をまっすぐ見て、リーファが答えた。
「違います。人を助けるために邪悪を斬るのです」
すうっ、と長刀が大上段に構えられた。
ひゅかっ。
とても届くとは思えない遠間から、娘が真っ向正面の斬撃を放った。
なんと――美しい。
鍛え上げられた、一切の無駄のない体。研ぎ上げられた極限の技。
再度の、しかし今度は感動の涙に滲むリルピリンの視界で、暗黒界最強の術者にして十候最大の実力者、ディー・アイ・エルの肢体が音も無く真っ二つに裂けた。
最後の力を振り絞って片翼のみで軟着陸し、細く一声啼いて息絶えた飛竜を、ガブリエル・ミラーは無感動に見下ろした。
視線を外したときにはもう、彼の記憶と思考から竜の存在は完璧に排除されていた。表情を変えぬまま、ぐるりと周囲を見渡す。
墜落したのは、円柱様の奇岩がいくつも立ち並ぶエリアだった。どの岩山も、高さ三百フィート、直径も百フィートはありそうだ。そのうち一つの上に彼は立っている。
飛び降りるのは、さすがに無謀に過ぎる。エレメントを生成・操作するこの世界の魔術にも、まだ習熟しているとは言いがたい。足元に、意識を失ったまま横たわる整合騎士アリスを抱えて降下するとなれば尚更危険は増す。
カラビナとハーケン、ザイルがあれば、現実世界でもこの程度の垂直壁面はたやすく懸垂降下してのけるガブリエルだが、今は"待ち"でよかろう、と判断を下した。
なぜなら、遥か北の空から、ガブリエルを何らかの手段で撃墜した張本人とおぼしき敵が、三匹の竜を伴って急接近中だからだ。敵を処理し、しかるのちに新しい竜のAIを支配して南下を再開すればよい。
視線をまっすぐ頭上へと動かす。クリムゾンの空に浮かぶ太陽は、すでにかなりの高さに達している。
クリッターが時間加速を再開するまで、もう何時間もあるまい。問題は、戦場に投入したアメリカ人ベータテスターたちが、再加速で弾き出されるまでに首尾よく人界軍を殲滅してのけるかどうかだが――テスターの数はおそらく五万は楽に越えるはずだ。たった一千ほどしか残っていなかった人界軍に抵抗はできまい。
不確定要素があるとすれば、暗黒界軍を次々に蹂躙してのけた整合騎士とやらだが、そのひとりアリスはこうして手の内にあるし、恐らく接近中の追跡者もまた騎士だろう。北方の戦場には、残っていたとしても一人、二人。
問題は何もない、と短く頷き、ガブリエルは最後に、横たわる整合騎士アリスをじっと眺めた。
改めて、つくづく――美しい。
体の奥を這い回る興奮を抑えられないほどに。
眼を醒ましたときのために、武装を布一枚に到るまで全解除して、きつく拘禁しておくかどうかガブリエルは少し迷った。合理的判断としてはそうすべきなのだろうが、しかし敵が迫っている中で、慌しく作業的に扱うのは躊躇われる。
やはり、時間加速が再開してから、たっぷりと時間をかけて味わいたい。鎧のバックル一つ外すにも、優美に、厳粛に、象徴的に。
「……もう暫らくそのまま眠っているといい、アリス……アリシア」
優しく言葉をかけ、ガブリエルは敵を迎え撃つべく、テーブルロックの中央へと歩を進めた。
暗黒神ベクタアカウントを使用するガブリエル・ミラーにも、それを発見したクリッターにも知る由もないことだったが、最強騎士たるアリスが、たかが飛竜に蹴られただけで気絶したまま数時間も覚醒しないのは、すべてベクタに付与された能力ゆえのことだった。
アンダーワールドに設定された四種のスーパーアカウントは、それぞれ、世界の直接的――つまり神の御業的な――操作を目的として存在する。
フィールド改変を行うステイシア。
動的・静的オブジェクトを破壊するソルス。
オブジェクト耐久度を回復するテラリア。
そしてベクタは、住民たる人工フラクトライトそのものを操作の対象とする。
具体的には、住民たちの精神活動、つまりフラクトライト中の光子情報(ベクターデータ)を一時停止し、遥か離れた地点に再配置したり、新たな家族を作らせたりするのだ。
行為としては住民を襲い、攫うかたちとなるため、他の三神とは異なり信仰の対象とはなりにくい。ゆえに最高優先度装備、上限天命数値に加え、術式対象にならないという強力な保護が施されている。アンダーワールドに童話として伝わる"ベクタの迷子"は、過去に行われたその種の操作が元となっているのである。
もちろん、そのための音声コマンド体系が存在するのだが、STLを使用して他フラクトライトに働きかけるかぎりにおいては、コマンドはトリガーにすぎない。限定的な効果ならば、イマジネーションのみにても発生させることは可能となる。
そして、暗黒神ベクタの能力は、ガブリエルの特異な精神とは、ある意味では最上の、同時に最悪の組み合わせでもあった。
人の心を――その熱を、光を、輝きを吸う。
アリスは、一時的にフラクトライトの活力を奪われ、強制的な昏睡状態へと置かれていたのだ。
暗黒将軍シャスターの必殺の心意を喰らい尽くしたのもまた、ベクタとガブリエルの力の融合あってのことだった。
そして今、シャスターの長年の好敵手であった整合騎士長ベルクーリも、同じ道へと進もうとしていた。
ベルクーリは、幸運にも、敵皇帝ベクタがすぐには脱出できそうもない高い岩山の上に着陸したのを視認した。
絶技を使用したことによる強い消耗感を、気力で振り払う。
「よぉし……もうひとっ飛び、頼むぞ星咬、雨縁、滝刳!!」
声と同時に、三頭は限界まで接近し、ひとつの巨大な翼のように加速した。
敵が静止していれば、たとえ十万メル以上の距離でも飛竜にとってはほんの数分だ。
戦いの前に残された時間を、ベルクーリは静かな黙考へとあてた。脳裏に、今朝方見た夢が鮮明に蘇る。
死を予感したことはある?
夢のなかでそう言った最高司祭アドミニストレータは、二百年以上付き合ったベルクーリにも、最後まで謎に包まれた存在だった。
深凍結処理から解放され、アリスに最高司祭の死を知らされたときも、驚愕というほどのものはなかった。長い間お疲れさん、という感慨があった程度だ。むしろ、寿命ある存在だった元老チュデルキンが死んだことのほうに驚いたものだ。
だから、アドミニストレータの最後の戦いと、その散り様について、殊更アリスに尋ねることもしなかった。突然自分の肩にのしかかってきた人界防衛の任に忙殺されたせいも無論あるが、あるいは、知りたくなかったのかもしれないという気もする。あの銀髪銀瞳の少女の、欲望と執着、業の深さを。
ベルクーリにとっては、アドミニストレータは常に物憂げで、飽きっぽく、気まぐれなお姫様だった。
尊敬したことはない。服従こそすれ忠誠を誓った覚えもない。
しかし――。
仕えること自体は、決して、厭ではなかった。
「そうさ……それだけは、信じてくれよな」
呟き、最古の騎士はぱちりと鋭い双眸を開いた。
もう、横たわるアリスの黄金の鎧と、その手前に影のようにひっそりと立つ皇帝ベクタの姿がはっきりと見て取れた。
「よし……お前らは、上空で待機! もし俺がやられたら、すまんがなんとかアリスを奪還して、北へ逃げてくれ!」
竜たちに低くそう指示し――ベルクーリは、遥か高空から、ふわりとその身を躍らせた。
流星のように光の軌跡を残して飛び去ったソルス/シノンの後を追うように、人界軍八百は必死の南進を続けた。
徒歩で追ってくる黒の歩兵軍団一万三千は、多少引き離されつつある。しかし、一頭が二人の衛士を乗せている馬たちもこのまま走り続けることはできない。
アスナは、キリトとティーゼ、ロニエの乗る馬車の天蓋に立ちながら、祈るように南を凝視し続けた。
はたして――。
二十分ほどの行軍のあと、地平線に、寺院めいた巨大な遺跡が蜃気楼のように浮かび上がった。
生命の気配は無い。朽ちた石たちが静かに眠るばかりだ。
まっすぐ伸びる道を挟むように、ふたつの平らな大宮殿が横たわっている。高さは二十メートルほど、幅は左右に三百メートル以上もあるだろうか。敵軍の包囲を防ぐ障壁としては充分な規模だ。
ふたつの宮殿の間を、道はそのまま南へ続いている。参道めいた印象を持つのは、宮殿の壁に接するかたちで道の両側に、奇怪な巨像がびっしり並んでいるからだ。
東洋風の仏像でも、西洋風の神像でもない。しいて言えば、どこか南米の遺跡を彷彿とさせる、ずんぐりと四角いシルエットだ。すべてが真ん丸い目と巨大な口を彫り込まれ、胸の手前で短い手を合わせている。
あれは、アンダーワールドが生成されたとき、ラースのエンジニアがデザイン、配置したものなのだろうか? それとも、ザ・シードパッケージが自動生成したのか?
あるいは――かつてこの地に暮らしたダークテリトリー種族が、岩山から掘り出したものか……?
たとえば、たくさんの死者に捧げる、巨大な墓標として。
不吉な想念を、アスナは鋭い吐息で押しやった。
部隊の先頭を走る飛竜の背の騎士レンリに、大声で伝える。
「あの参道の中ほどで敵を迎え撃ちましょう!」
すぐに、了解です! という声が返った。
数分後、部隊はその勢いを減じることなく、薄暗い遺跡に突入した。左右から、四角い巨大神像たちが、じっと無言で見下ろしてくる。馬のひづめと馬車の車輪が、土から敷石へと変わった道路に硬質の音を響かせる。
ひんやりと冷たい空気を切り裂くように、レンリの爽やかな声が命じた。
「よし、前部衛士隊は左右に分かれて停止! 馬車隊と後方部隊を通せ!」
さっ、と割れた騎馬の間を十台の馬車が進み、同じように停止した後続騎馬隊も抜けて、いちばん奥に達したところで停まった。
密度のある静寂をはらんだ風が、人界軍を撫でるようにひゅうっと吹き抜ける。
しかしそれも一瞬だった。北から追いすがる大部隊の立てるどろどろという地響きが、たちまち追いついてくる。
アスナは、馬車から飛び降りると、幌の内側から顔を見せた少女たちに声を掛けた。
「これが、最後の戦いよ。キリトくんのことお願いするわね」
「はい! 命に代えても!」
「必ずお守りいたします!」
固く握った小さな右拳で騎士礼をするロニエとティーゼに、同じ仕草を返しながら、アスナは短く微笑みかけた。
「大丈夫、絶対にここまで敵は通さないから」
それは、半ば自分に誓った言葉だった。開いた右手を軽く振り、アスナは毅然と身を翻した。
駆けつけた部隊の先頭では、レンリがてきぱきと衛士たちを配置していた。
道の幅はおよそ二十メートル。理想的とは言えないが、この人数でも完全ブロックした上でスイッチローテーションを組むのは不可能ではあるまい。
要は、後方からの術師たちの支援が続くあいだに、犠牲者を極力抑えて敵を削りぬくことが可能かどうか、だ。幸いなのは、黒歩兵軍に、魔術職の姿がまるで見えないことだ。アンダーワールドの複雑なコマンド体系を、短時間でアメリカ人プレイヤーたちに習得させることは不可能と判断してのことだろうが、この状況では正直ありがたい。
いざとなれば――。
わたし一人で、敵全軍斬り伏せる。
アスナは大きく息を吸い、決意とともに体の底に溜めた。
ステイシアの膨大な天命を考えれば、数値的ダメージによって倒されることはないだろう。問題は、あの恐るべき痛みに耐え切れるかどうか、だ。心が痛みに負けたとき、この体は傷つき、命はあれども剣を握れないという無様を晒すことになる。
アスナは目を閉じ、傷ついたキリトのことを思った。彼が受けた痛みと、背負った悲しみの大きさを思った。
部隊の一番前に向けて歩き出したとき、心にはもう一片の恐れも無かった。
おそらくは、この戦争において最後の大規模戦闘となるはずの激突は、昇りきった朝日のもとで行われた。
プロモーションサイトが約束していたリアルな血と悲鳴を求めて、二十人ほどの重武装ベータテスターたちが、真っ先に遺跡参道へと突入していった。
彼らを迎えたのは、しかし、レーティング無視の娯楽を提供するための哀れなNPCなどではなかった。
世界を、そして敬愛する黄金の少女騎士を救わんとする決意を秘めた、真の勇士たちだった。その剣は意志に満ち、断固たる威力で振り下ろされた。
一方的に殲滅されていくアメリカ人プレイヤーたちを、高みから見下ろすひとつの影があった。
極限まで金属装甲を廃した、ライダースーツにも似た革の上下。艶のあるレザーの到るところに、銀色の鋲が突き出ている。
武器は、腰に下がる大型のダガーひとつのみ。顔は見えない。レインコートに似た、やはり黒革のポンチョを羽織り、フードを口元まで下ろしているからだ。
唯一覗く大きめの唇は、極限まで歪んだ笑みをにやにやと湛えていた。
ヴァサゴ・カザルスである。
アンダーワールドに再ログインした彼は、直後浴びせられたシノンの広範囲レーザー照射をなんなく回避し、アメリカ人たちに紛れ込んで人界軍を追ったのだ。しかし初期の突撃には加わらず、西側の大宮殿の壁をするすると登ると、戦線を見下ろす位置にある神像の頭にあぐらを掻き、特等席からの見物を決め込んだのだった。
「おーお、相変わらずキレると容赦ねーなあの女。うほほ、殺す殺す」
愉しくてたまらぬ、というふうに、笑い混じりに呟く。
はるか眼下では、真珠色の鎧に栗色の髪をなびかせた少女――"閃光"アスナが、ヴァサゴの遠い記憶にある姿そのままに、右手のレイピアを閃かせている。
あの時も、ヴァサゴは同じように、ハイディングしつつアスナの戦闘を眺めたものだ。世界(ゲーム)が終わる前にかならず仕留めてやる、と内心で固く誓いながら。
――アスナの隣で、より凄まじい戦いぶりを見せる黒衣の剣士ともども。* 騎竜の背を離れたとき、ベルクーリの下にはまだ二百メル近い空間が残っていた。ただ落下するに任せれば、いかに彼とて着地の衝撃には耐えられない。
しかし騎士長は、まるで見えない階段でも存在するかのように、螺旋を描きながら空を駆け下りた。
実際には、一歩ごとに足下に風素を生成・炸裂させ、その反動で落下速度を殺したのだ。下肢を素因制御端末とする技を、彼は十年以上前に元老チュデルキンから盗んでいた。アンダーワールドに存在する闘法に、騎士長ベルクーリの知らぬものは無い。
遥か眼下の、尖塔にも似た岩山の頂上に立つ皇帝ベクタの死角へ、死角へと跳躍しながら、最古騎士は愛剣の柄に手を添えた。
初撃で決める。
容赦なく、静かに、当たり前のように、殺す。
整合騎士長ベルクーリが必殺の心意を練るのは、実に百五十年以上も昔に初代の暗黒将軍を斬って以来のことだった。それほどの長きに渡って、彼の殺意を呼び起こす敵は出現しなかったのだ。
セントラル・カセドラルで単身挑みかかってきた、ユージオという名の若者との戦闘に於いてでさえ、ベルクーリは本気になりこそすれ殺気を漲らせることはなかった。いや、それを言うならば、初代暗黒将軍に対してすら、怒りや憎しみのような負の心意を抱いたわけではない。
つまり、ベルクーリは、その長い生涯で初めて刃に怒りを込めたことになる。
彼は怒っていた。心底激怒していた。アリスを拉致されたことのみに対してではない。
リアルワールドという外世界からやってきたよそ者が、和睦成立の可能性のあった暗黒界人たちをいいように操り、戦場に駆り立て、無為に命を落とさしめた。それは、二百年以上もこの世界を見守り続けてきたベルクーリには、どうしても赦せないことだった。
――てめぇにどんな事情があるかは知らねえ。
だが、リアルワールド人の全員がてめぇのようなど腐れじゃねえことは、あのアスナという娘を見ればわかる。
つまり、てめぇという個体の本質が、どうしようもなく悪だということだ。
ならば、その報いを。
暗黒将軍シャスターの、整合騎士エルドリエの、そして戦場に散った多くの人間たちの、命の重さを。
この一撃で、とくと知れ!!
「ぜ……あぁッ!!」
高度十メルで最後の一歩を踏み切り、騎士長ベルクーリは、あらんかぎりの意思を込めた斬撃を皇帝ベクタの脳天目掛けて振り下ろした。
大気が灼け、白く輝いた。刃が生み出す光のあまりの眩さに、空の色すら彩度を失った。
それは間違いなく、かつてアンダーワールドで発生したすべての剣技中最大最強の威力を内包した一撃だった。メインビジュアライザー内のニーモニック・データ書き換え優先度はシステム制御命令のそれをも上回り、つまりあらゆる数値的ステータスを無効化するほどの絶対事象だったのだ。
皇帝ベクタに設定された無限に等しい天命数値すらも削り切るほどに。
命中しさえすれば。
降り注ぐ絶対的な死を見上げながらも、ベクタの表情はまるで動かなかった。
せいぜい見ることしかできないくらいの、超速の一撃だったのだ。いかなる反応も、対処も不可能なはずの、その刹那。
黒水晶の鎧に包まれたベクタの体が、音もなく滑った。
唯一回避可能な方向へ、回避に足るだけのぎりぎりの距離を。
ベルクーリの剣に触れたのは、宙になびいた赤いマントだけだった。その瞬間、分厚い毛皮は微細な塵へと分解し――。
ズガァァァッ!! という雷鳴じみた轟音とともに、硬い岩盤に一直線の傷痕が刻まれた。巨大な岩山全体が震動し、縁からいくつもの塊が剥がれ落ちていった。
あれを、躱すかよ。
そう瞠目しながらも、ベルクーリの体はほんの一瞬たりとも停まらなかった。戦闘のさなか、予想外の展開に思考が凍るような段階はとうに脱している。
弧を描くように体を入れ替え、皇帝の側面へと回りこむ。再度、横薙ぎに一閃。全身全霊を込めた大技を空振っておきながら、着地、移動、再攻撃まで、半秒とかかっていない。
その追い撃ちすらも、ベクタは避けた。
まるで風に吹かれた黒い煙のように、予備動作もなくゆらりと地面を滑る。切っ先は、鎧の表面を掠めて空しく火花を散らすのみ。
しかし。
今度こそ、ベルクーリは確信した。
――取った。
初撃は、外れはしたが消えたわけではなかった。神器・時穿剣の完全支配技、"未来を斬る"という能力を、彼は発動させていたのだ。
皇帝ベクタは、致死の威力が留まる空間に、まっすぐ背中から吸い込まれていく。
鉄の環で束ねられた、白っぽい金色の髪が中ほどから切断され、ぱっと広がる。
額に嵌まる宝冠が、かすかな金属音とともに砕け散る。
ベクタの腕が、許しを請うかのように高く掲げられた。
黒を纏う長身が、縦に裂けるさまを、ベルクーリは強く予感した。
ぱん。
軽く乾いた破裂音。
その源は――頭の後ろで打ち合わされた、皇帝の両の掌だった。
――素手で、
挟み止めた、だと。しかも背を向けたまま。
有り得ない。いや、斬撃を両手で包み込むように受ける奥技は、暗黒界の拳闘士たちには伝えられているが、あれは彼らの鉄より硬い拳あっての代物だ。そもそも、あの空間に保持されていた威力は、拳闘士の長と言えども素手で止められるようなものではなかったはずだ。
その思考は、ほんの一瞬のものではあったが、しかしベルクーリの動きはついに止まった。
ゆえに、続いて発生した事象を、彼はただ黙視してしまった。
蜃気楼のように空中に留まる必殺の斬撃が、皇帝の両手に吸い込まれていく!
同時に、見開かれたふたつの青い瞳が、底なしの闇に染まりはじめる。
いや、それだけではない。闇の底には、ちかちかと瞬く無数の――あれは――星?
違う。
あれは、魂だ。この男が、これまで同様に吸い取ってきた、人々の魂が囚われているのだ。
「……貴様は、人の心意を喰うのか」
そう呟いたベルクーリに、斬撃を吸収し尽した両手をすっと降ろしながら、ベクタは答えた。
「シンイ? ……なるほど、心(マインド)と意思(ウィル)か」
ひどく寒々しい、生物の気配が抜け落ちた声だった。それを発した赤い唇が、見かけは微笑みに似た形へと変形した。
「お前の心は、まるでグレート・ヴィンテージのワインのようだ。とろりと濃密で……どっしり重く、キックの強い後味。私の趣味ではないが……しかし、メインの露払いに味わうには吝かではない」
青白い右手が動き、腰の長剣の柄を握る。
ぬるぬると鞘から抜き出された細身の刀身は、青紫色の燐光に包まれていた。それを力なく垂らし、皇帝ベクタはもういちど微笑んだ。
「さあ、もっと飲ませてくれ」
ついに、粗雑な造りの大剣が、アスナの二の腕を掠めた。
焼けた金串を押し当てられるような感覚。
――痛いもんか!!
強く念じる。途端に、僅かに薄赤く刻まれた痕が、すうっと消えていく。
その時にはもう、右腕が煙るように閃き、眼前の大男の右肩から左脇腹へと四連の突き技を叩き込んでいる。男の顔が歪み、シッ!! という罵り声とともに地に沈む。
今のが何人目だったか、すでに数えられなくなっていた。
それどころか、遺跡参道での戦端が開かれてもう何分、何十分経っているのかすら定かでない。ひとつだけ確かなのは、参道入り口から殺到してくる黒い歩兵たちは、まだまだ無限に等しいほど存在する、ということだけだ。
ふん、これくらいの持久戦、大したことないわ。アインクラッドじゃ、ボス戦が一、二時間続くのなんてザラだったんだから。
内心でそううそぶき、アスナは大男の死体を踏み越えて飛びかかってきた敵の斧を思い切り払い落とした。
重心を崩した上で、的確なクリティカルダメージを叩き込みながら、ちらりと横に視線を走らせる。
参道中央で奮戦するアスナの右側では、数人の衛士をはさんで整合騎士レンリが、両手のブーメランを交互に投射しながら死体の山を築いている。その威力と、照準の正確さはそら恐ろしいほどで、こちらはもう暫く任せきりでも平気そうだ。
しかし問題は左サイドだった。隊長格の衛士たちを多めに配置しているが、徐々に戦線が押し込まれているのがわかる。
「左、先頭交代の間隔を速めて! 治癒術もそっちを厚くしてください!」
背後から即座に諒の叫びが返るが、その声にも疲弊の色が濃い。
気がかりは、もう一つあった。
いま戦っている歩兵たちは、決して単純なAIで動く人型モンスターではないのだ。MMORPG発祥国たるアメリカの、百戦錬磨のプレイヤーたちなのである。PvP、GvGに慣れ親しんだ彼らが、そろそろ単純な突撃では埒が開かないと考え始めてもおかしくない。
自分なら、どうするだろう。ひたすらレイピアを閃かせながら、アスナは考える。
定石としては、後方からの遠隔攻撃だ。だが、敵に魔術師は居ないし、そもそも術式コマンドのチュートリアルを受けているかどうかすら怪しい。
となれば弓だが、弓兵のアカウントが用意できなかったのか、これも装備した兵を見た記憶はない。あとは手持ちの武器を投げるくらいだが、それは心理的抵抗が大きかろう。投げたものは、その後戦闘に参加できなくなってしまう。
どうやら、打開策ナシと判断してよさそう――か。
ならば、当初の予定どおり一万の敵を削り切るのみ!
アスナが、決意を新たにしたのと、ほとんど同時に。
参道の入り口が、不意に黒く翳った。
差し込む朝日が遮られたのだ。横一列に並ぶ巨大な盾と――旗ざおのように林立する、長大なランスに。
重槍兵!
「た……対突撃用意!! 槍の穂先をしっかり見て回避してください!! 懐にさえ入れれば倒せる敵です!!」
アスナが叫ぶと同時に、ガシャッ! と金属音が轟き、巨大なランスが一斉に構えられた。
二十人近くもぎっしり並んだ重装歩兵たちが、太い雄叫びとともに突進を開始する。
その威圧感に、衛士たちが浮き足立つ気配がした。お願い、落ち着いて! と念じながら、アスナは自分の正面を走る槍兵を凝視した。凶悪に黒光りするランスが、一直線に迫ってくる。
ぎりぎりまで引きつけ――パリィ・アンド・ステップ。
ぎゃいっ、と火花を散らしながら、レイピアが槍の側面を滑っていく。
「……せああっ!!」
気合とともに、見上げるように巨大な敵の、鎧の首元に剣尖を突き上げる。重い手応えとともに、ヘルメットのバイザーから鮮血が噴き出す。
響いた悲鳴は、しかし、アメリカ人のものだけではなかった。
左を護る衛士数名が、ランスを回避しきれず身体を貫かれたのだ。
「こ……のおッ!!」
叫び、アスナは持ち場を離れて左へ走った。全体重を乗せたシングル・スラストで、一人の胸板を鎧ごと突き破る。血に濡れる刃を引き抜き、その向こうの敵の両腕を、二連撃スラッシュで切り落とす。
さらにもう一人が、衛士の体から抜き取ったばかりのランスを、アスナは駆け上った。二メートル近い巨躯の肩に着地すると、左手でヘルメットを無理やりずらし、露出した首筋に逆手のレイピアを叩き込む。
悲鳴も上げられずに地に沈んだ敵の背中に乗ったまま、アスナは叫んだ。
「負傷者を後方へ!! 最優先で治癒して!!」
荒く息をつきながら確認すると、いまの突撃で六人もの衛士がランスの直撃を受けたようだった。すでに絶命したとしか見えない者も混じっている。
いけない……これでは、狭い参道は逆に敵を利してしまう。
瞬時に対応策を見つけられず、立ち尽くしたアスナの耳に、再びの地響きが届いた。
数秒の間も置かずに、次の重槍兵二十人が突進を開始したのだ。
アスナは、二、三秒ほども迫りくるランスの列を見てしまってから、視線を自分が本来立っているべき戦列の中央へと戻した。
そこには、まだ幼い顔をしたうら若い衛士が、がくがくと両膝を震わせながら剣を構えていた。
「あ…………!」
細く叫び、アスナは走った。
飛び込むように少年の前に駆け込み、左側を見る。
ぎらつく鋭い穂先が、すぐそこにあった。
アスナは左手でそれを掴んだ。しかし。
滑らかな表面に手袋が滑り――。
ドカッ。
という鈍い衝撃が、全身を叩いた。声も出せぬまま、アスナはただ、自分の上腹部を深々と刺し貫いた巨大な金属を見下ろした。
最小限。
いや、最大効率の剣、と言うべきか。
騎士長ベルクーリは、これまで見たどんな流派とも異質な皇帝ベクタの剣技を、そのように感じた。
まず、ほとんど足が動かない。踏み込みも、回り込みも、ごく僅かに地面を滑るだけで行われる。さらに、攻撃に際しても予備動作が無いに等しい。空中にだらりと掲げられた剣が、突然ぬるっと最短距離を飛んでくる。
つまり予測が不可能に近いのだ。ゆえにベルクーリは、皇帝の決して素早くも力強くもない攻撃に、五回までもただ退がることを強いられた。
そして、五回で充分だった。
膨大な戦闘経験から、予兆のないベクタの剣技ですらも間を盗み、ベルクーリは反撃に転じた。
「シッ!」
敵に付き合ったわけではないが、最低限の気合とともに、上段斬りをベクタの六撃目に合わせる。
強く歪んだ金属音を、青い火花が彩った。
敵の水平斬りを、全力の斬り降ろしが抑え込み、押し返した。
大した抵抗もなく、ぐぐぐっと刃が沈んでいく。ベクタの長身が、くにゃりと撓む。
口ほどにも無ぇ!!
ベルクーリは、このまま肩から腹まで斬り下げてやる、と練り上げた心意を刀身に注ぎ込んだ。時穿剣が鋼色の光でそれに応える。ベクタの長剣を、断ち割らん勢いで押し下げていく。切っ先が敵の肩に触れ――装甲に僅かに食い込み――。
瞬間、ベクタの剣が怪しく輝いた。
青紫色の燐光がその厚みを増し、ぬるぬると時穿剣に絡みつく。同時に、力強く漲っていた白銀の煌きが、萎れるように消え去っていく。
なんだ、これは。
いや……。
そもそも、オレは、何を……しようと……。
ビシッ、という鋭い音とともに左肩に凍るような痛みを感じ、ベルクーリははっと目を見開きながら大きく飛び退いた。
胸を膨らませて激しいひと呼吸を行い、一瞬失われそうになった意識を立て直す。
――今のは、一体。
戦いの最中に、己が何をしているか分からなくなった……だと!?