「じゃあ、その作戦で五人残ったら三人はお前に相手してもらうからな……」

そこまで言いかけて、ユージオはふとキリトの背後、三十階へと続く階段の上に視線を向けた。

そして唖然と目を見開いた。

手摺の陰から、小さな頭がふたつ覗き、四つの目がじっとこちらを凝視しているのに気付いたのだ。

ユージオと視線が合った途端、二つの頭はさっと引っ込んだ。しかし呆気に取られ眺めるうちに、それらは再度そーっともたげられ、丸く見開かれた瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返した。

ようやくユージオの異変に気付いたらしいキリトが振り向き、同じようにしばし絶句してから、こわばった声を出した。

「君ら……、誰?」

すると、二つの頭は互いに目を見交わし、同時に頷いてからおずおずとその全身を露わにした。

「子供……?」

 ユージオは無意識のうちに呟いた。現われたのは、まったく同じ墨色の服に身を包んだ、二人の少年――恐らく――だった。年の頃、十くらいだろうか。一瞬懐かしさのようなものを感じたのは、黒い服が、ルーリッドの教会で学んでいたアリスの妹シルカが常に身につけていた修道服によく似ているからだ。

しかし唯一、二人の少年の腰帯から小剣が下がっていることだけが異なっていた。それに気付いたユージオは一瞬警戒したが、すぐにその剣の柄も鞘も、赤味がかった木製で出来ているのを見て取った。色合いは違うが、修剣学院で初等練士が最初に与えられる木剣とほぼ同じものだ。

少年二人の雰囲気もまた、初等練士と共通するものがあった。両方とも、髪を短いおかっぱに切り揃えている。右側のほうは、垂れ気味の眉と目尻が気弱げな印象、対して左側は勝ち気そうに吊りあがった眦だが、瞳に溢れんばかりの不安さと好奇心を満たしているのはまったく一緒だ。

ユージオとキリトが無言で凝視する中、一歩踏み出してきたのは、やはり左側の負けん気の強そうな少年だった。

「あの……僕、じゃない私は、神聖教会修道士見習いのビステンです。そんでこっちが、同じく修道士見習いの……」

「あ……アーシンです」

二人の高い声は緊張のせいか語尾が震えていて、ユージオは反射的に安心させようと笑顔を作った。しかしすぐに、いくら見習いとは言え教会の修道士である以上こちらを敵視しているはずだ、と思い直す。

しかし、ビステンと名乗る少年が続けて発した言葉はあまりにも直接的で、ユージオを再度唖然とさせるものだった。

「あの……ダークテリトリーからの侵入者っていうのは、お二人のことですか?」

「は……?」

思わずキリトと顔を見合わせる。相棒も、この状況をどう判断したものか決めかねているようだった。眉をしかめ、唇を数回閉じたり開いたりしてから、するすると移動してユージオの背後に引っ込む。

「子供、苦手なんだよ。お前に任す」

すれ違いざまそう囁かれ、ユージオはこの野郎、と思ったが今更キリトの後ろに下がりなおすわけにもいかない。諦めて再度階上の少年二人を見やり、つっかえながら答えた。

「え……えっと、その……僕ら自身としては人間のつもりだけど……侵入者っていうのは間違いない、かな……」

今度は、それを聞いた子供たちが顔を向け合い、ひそひそと言葉を交わしはじめた。小声ではあるが、周囲があまりにも静かなので充分に聞き取れる。

「なんだよ、見た目ぜんぜん普通の人間じゃないかよ、アー。角も尻尾もないぞ」

と不満そうに言ったのはビステンという強気そうな少年のほうだ。それに、アーシンという頼りなさげな少年がたどたどしく反論する。

「ぼ、僕は本にそう書いてあるって言っただけだよ。早とちりしたのはステンのほうじゃないか」

「でも、もしかしたら隠してるだけかもよ。近づけばわかるよ」

「ええー、どう見てもふつうの人間だよう。でも……ひょっとしたら牙はあるかも……」

微笑ましいやり取りに、ついユージオは口もとを緩めた。もし、自分とキリトがあの年頃の子供で、近くに闇の国からの侵入者がいると知らされれば、同じようにこっそり見に行った可能性は高い。そしてその結果、父親や村長にこっ酷く怒られる破目になっただろう。

そう考えたところで、ユージオはふと心配になった。あの二人の子供は、侵入者と会話したりして、後で罰を受けたりしないのだろうか。そんな気遣いをする立場じゃないよなあ、と思いつつも言葉を掛けずにいられない。

「あの……君たち、僕らと話したりすると怒られるんじゃないの?」

それを聞いたビステンとアーシンはぴたりと口を閉ざし、次いでにんまりと笑った。ビステンが、少々得意げに答える。

「今日は朝から、全修道士、修道女と見習いは部屋の扉に鍵を掛け、外に出ないよう命令が出てるんです。てことは、侵入者を見物に行っても、誰にもそれがバレる心配はない道理ですから」

「は、はあ……」

これも、いかにもキリトが言いそうな理屈だ。結局バレて怒られるオチまでが目に浮かぶようだ。

少年二人は再度顔を寄せ合って何事か相談していたが、今度はアーシンのほうが口を開いた。

「あのぉ……もしよかったら、近くで見せてほしいんですが……おでこと、歯を」

「ええ? ……いや、まあ、それくらいならいいけど……」

ユージオは戸惑いつつも頷いた。教会に弓を引いた侵入者も、あくまで普通の人間なのだということを修道士見習いの子供に知って欲しいという気がしたし、それにもしかしたらカセドラル内部の情報が得られるかもしれないと思ったからだ。

ビステンとアーシンは顔を輝かせると、好奇心と警戒心がない混ぜになったような足取りでとことこと階段を降りてきた。踊り場まで達すると足を止め、それぞれ青と灰色の瞳をまじまじと向けてくる。

ユージオは腰を屈め、左手で額の髪を押し上げながら、いーっと歯を剥き出しにして見せた。子供たちは瞬きひとつせずにユージオの額と前歯を十秒近くも凝視し、やがて納得したように頷いた。

「人間だ」

「人間だね」

二人の顔に露骨なまでの失望が浮かび、思わず苦笑する。そんなユージオを見て、アーシンが首を傾げた。

「でも、ダークテリトリーの怪物じゃないなら、どうしてセントラル・カセドラルに侵入しようなんて思ったんですか?」

「え、ええと……」

どうにも調子が狂うなあと思いつつ、ユージオは今更隠すこともないかと正直に答えた。

「……ずっと昔、友達の女の子が整合騎士に攫われちゃったんだ。だから、取り戻しにきた」

こればかりは、教会の訓えに心身ともに染まっているであろう修道士見習いには受け入れがたい動機に違いなかった。アーシンの幼い顔に恐怖と反発が浮かぶのを覚悟したが、意に反して、少年は小さく肩をすくめただけだった。

「はあ……それも、普通ですね」

「ふ、普通?」

「ええ。昔から、家族や恋人を連行された人間が、教会に抗議に来た例は稀にですがあったようですね。勿論、内部にまで入り込んだのはお二人が初めてでしょうけど」

続けて、隣のビステンが言葉を継いだ。

「しかも一回投獄されたのに呪鉄の鎖を切って脱出して、しかも整合騎士を二人も倒したって言うから、これはてっきり本物の怪物が攻めてきたのかと思って待ってたんです。でもなー、まさかただの人間だとはなー」

子供たちは顔を見合わせ、「もういい?」「いいか」と短く頷きあった。再びユージオを見たアーシンが、おかっぱの髪を揺らしながら小首を傾げた。

「じゃ、最後にお名前を教えてもらっていいですか?」

こっちはまだ訊きたいことがあるんだけど、と思いながらもユージオは答えた。

「僕はユージオ。後ろのがキリト」

「ふうん……姓はないんですか?」

「あ、ああ。開拓民の子供だから。……もしかして、君たちも?」

「いえ、僕らにはありますよ」

 そこで言葉を切り、アーシンはにっこりと笑った。満面の、無邪気な――まるで、美味しいお菓子を大口開けて齧るような笑顔。

「僕の姓は、シンセシス・サーティエイトです」

その名の持つ意味を、ユージオは咀嚼することができなかった。

突然腹にひんやりとした冷気が差し込み、ユージオは視線を下向けた。

 目の前にいたのに、いつの間に抜いたのか、アーシンの右手に握られた小剣が五センほどもユージオの体に埋まっていた。柄も、鞘も木製――しかし、刀身は木ではなかった。鮮やかな緑色に染まった金属。緑は地金の色であると同時に、それを包むどろりとした粘液の色でもあるようだった。液体は、刀身それ自体から次々に染み出しているように見えた。大きな雫が刃を幾つも伝い落ち、ユージオの傷口に溶け込んでいく。

「ユー……!」

短く迸ったのはキリトの声か。妙に軋む首を後ろに向けると、相棒はこちらに飛び掛かろうと右足を一歩踏み込んだ姿勢で固まっていた。つい一瞬前までアーシンの隣にいたはずのビステンが、今はキリトの斜め後ろに立ち、同じく緑色の剣を焼け焦げの目立つ黒い上着に深く突き立てていた。少年の口もとを彩る笑みは、先ほどと同じように勝ち気で、得意げだった。

「――んで、僕がシンセシス・サーティナイン」

ユージオとキリトの体から同時に小剣が抜かれた。ビステンとアーシンは凄まじい速度で剣を一振りし、緑の粘液と赤い血液をきれいに払い落とすとそれぞれの鞘にぱちんと収めた。

腹の傷から広がった冷気は、いまや全身に広がろうとしていた。凍えるような寒さに襲われた箇所から、次々に感覚が消え失せていく。

「きみ……た……せいご……う……」

それだけが、ユージオがどうにか口にできた言葉だった。舌が痺れてぴくりとも動かせなくなると同時に、ふっと膝から力が抜け、ユージオは棒のように床に倒れた。胸と左頬を大理石に激しく打ちつけたが、痛みも、何かが触れた感覚すら無かった。今やユージオに出来るのは浅い呼吸と瞬きのみだった。

直後、どっという音とともにキリトも転がった。

 毒か――。

遅まきながらユージオはそう悟り、対抗策を思い出そうとした。

学院での博物学の講義において、自然界に存在する毒物とその解毒法については一通り学んではいた。しかしそれらは全て、植物や蛇、虫の持つ毒を受けてしまった場合の対処法に終始し、このように戦闘中に毒物で攻撃されるという事態を想定したものではなかった。

 それも当然だ。学院における――いや人間界における戦闘というものは寸止めが原則であって、いかに美しく剣舞の型を決めるかのみを競うものだからだ。刀身に毒など塗ったところで相手に当てられなければまったくの無意味だ。

よって、ユージオの持つ知識は、この毒虫に刺されたらあの草の汁を塗る、程度のものでしかない。今回は使用された毒の種類も分からなければ、周囲には薬草どころか自然物は一切存在しないのだ。最後の手段は神聖術による解毒を試みることだけだが、手も口もまったく動かないのだから術式の発動は不可能である。

 つまり、もしこの毒が体の自由を奪うだけでなく、天命を連続的に減少させるようなものだとしたら――二人の命数は、百階の塔を半ばまでも登らぬうちに尽きてしまうことになるのだ。

「そんなに怖がらなくてもいいですよ、ユージオさん」

不意に頭上から、ユージオの心を読んだような整合騎士アーシン・シンセシス・サーティエイトの声が降ってきた。毒の影響か、まるで水中に沈んでいるかのようにその声は妙に歪んで聞こえる。

「ただの麻痺毒ですから。もっとも、今死ぬか、五十階で死ぬかだけの違いですけどね」

とこ、とこと足音がして、左頬を床につけたまま身動きのできないユージオの視界に小さな茶色の革靴が入ってきた。その片方がひょいと持ち上がり、つま先がユージオの頭を踏んだ。執拗に、何度も何度も靴底を擦りつける。

「……うーん、やっぱ角はないなあ」

足は次に背中に移動し、背骨の両側を抉るように探った。

「羽根もなしか。ステン、そっちはどう?」

「こいつもただの人間だわ」

視界外で、同じようにキリトを調べていたのだろうビステンの不満そうな声が応えた。

「あーあ、ついにダークテリトリーの怪物が見られると思ったんだけどなあー」

「まあ、いいよ。こいつらを五十階に引っ張っていって、ぼーっと待ってる奴らの目の前で首を落としてやれば、僕らも神器と飛竜が貰えるはずさ。そしたらダークテリトリーまで飛んでって、怪物でも暗黒騎士でも殺し放題だ」

「だな。おいアー、どっちが先に黒騎士の首取るか勝負だぜ」

 事ここに至っても、ビステンとアーシンの声には一切の邪気が無く、それが何より恐ろしいことだとユージオには思えた。彼らは、まったくの子供らしい好奇心と功名心のみに拠ってユージオとキリトに毒刃を振るったのだ。一体なぜ彼らのような子供が整合騎士に――いや、それ以前に、なぜこのような子供が存在し得るのか。

ユージオにはアーシンが剣を抜く動作が見えなかったし、それ以上に距離のあるところにいたキリトを難なく倒したビステンの身のこなしはまさしく整合騎士の名に相応しいものだ。しかし、身体能力というものは長年の修練あるいは生死を賭した実戦を経なければ向上しない。ユージオが神器たる青薔薇を自在に操れるようになったのは、十歳の誕生日から竜骨の斧を八年間振り続けた経験もさることながら、北の洞窟でゴブリンの集団と戦いこれを撃退したことが大きい、とキリトも言っていた。

 だが、ビステンとアーシンの二人はどう見ても天職授与以前の年齢だし、口ぶりからは怪物相手の実戦も未経験のようだ。ならば如何なる理由によって、目にも止まらぬ身ごなしや、あのような――鍛えぬいたユージオの体を紙のように貫くほどの――毒剣を操れる武器装備権限を身につけたのだろうか。

心中に渦巻く疑問と混乱を、しかしユージオはまったく声に出すことはできなかった。

麻痺毒はいよいよ全身に染み渡ったようで、もはや温度も、体がそこにあるという感覚すら失われていた。だから、アーシンがユージオの右足首を掴み、引き摺りながら歩き出したのに気付いたのは、視界がぐるりと半回転して小柄な修道服の背中が目に入ってからだった。

どうにか動かせる眼球を懸命に左に向けると、キリトもまた頭陀袋のようにビステンに引っ張られていた。ユージオ同様顔までも麻痺しているのだろう、その表情は読み取れない。

幼い整合騎士二人は、凄まじい重量を持つ青薔薇の剣と黒いやつを帯剣したままのユージオとキリトを引き摺り、軽々と階段を登りはじめた。頭が段差を乗り越えるたびに激しく上下して、一瞬天命の減少を心配したが、今更なにをと口を動かさずに苦笑する。

どうにかこの苦境を脱する方策を探らねばならないのに、まるで毒に思考までも侵されたかのように、ユージオの頭は痺れたままだった。胸中に広がるこの空疎さは何だろう、としばし考えたのち、ユージオはこれは幻滅、あるいは絶望というものだと気付いた。

 秩序と正義の名のもとにアリスを連れ去り、記憶を封じてその尖兵に作り変えた神聖教会――世界をあまねく支配するその組織が、このような年端も行かぬ子供までをも手駒とし、毒剣を与え、取り返しのつかないほど歪めてしまったのだ。その"教育"を、かつて同じ位の年だったアリスも通過したのだろうか。だとしたら――果たして記憶の欠片を取り戻しても、アリスは元の人格に戻れるのだろうか……。

「不思議に思ってますよね?」

突然、かすかに笑いを含んだアーシンの声が耳に届いた。

「なんでこんな子供が整合騎士なのか、って。どうせもうすぐ殺しちゃうんだし、教えてあげますよ」

「おいおいアー、それを言うならもうすぐ殺しちゃうけど、だろう。喋るだけ無駄じゃんか、物好きな奴だな相変わらず」

「何だよ、お前だって喋りたいくせに。――僕らはね、この塔で産まれて育ったんです。アドミニストレータ様が、修道士、修道女に命じて作らせたんですよ。完全に失われた天命を呼び戻す、"蘇生"の神聖術の実験に使うために」

とてつもなく恐ろしいことを口にしているというのに、アーシンの声はあくまで朗らかだった。

「外の世界の子供は十歳で天職を貰うらしいけど、僕らは四つの時に授かりました。アドミニストレータ様御自らね。仕事は互いに殺し合うことです。この毒剣よりももっと小さい、おもちゃみたいな剣を与えられて、二人一組で交互に相手を刺すんです」

「お前刺すのがへったくそだったよなあ、アー。毎回痛くてたまらなかったぞ」

混ぜっ返すようなビステンの声に、アーシンは五月蝿そうに応じた。

「ステンが変な風に動くからだろ。――整合騎士を二人も倒したユージオさんとキリトさんならご存知だと思いますけど、人間って中々死なないんですよね。たかが四つの子供でも、それはそうなんです。早く殺してやらなきゃって焦りながら無茶苦茶に切ったり刺したりして、やっとで天命がゼロになると、アドミニストレータ様が神聖術で蘇生させてくれるんですけど……」

「これも最初の頃はぜんっぜんうまくいかなかったよなー。普通に死ぬ奴はまだマシなほうで、爆発して粉々になっちゃう奴とか、変な肉の塊になっちゃう奴とか、違う人間が入っちゃう奴とかもいたなあ」

「僕らも、いくら天職とは言え、痛いのも死んじゃうのも嫌ですからね。二人で色々研究して、なるべく一撃できれいに殺したほうが、痛みも少ないし蘇生成功率も高いって気付いたんです。まあ、その一撃でってのが難問だったんですけどね。限りなく速く、滑らかに、するっと胸の真ん中を刺すか、あるいは首を落とす……」

「だいたい完璧にそれが出来るようになったのは、七歳くらいの時だったかなー。他の奴らが寝てる間に、二人して素振りしまくったからなー」

体の感覚は相変わらず無かったが、それでも全身の肌が粟立つような寒気にユージオは襲われていた。

 この少年二人が凄まじい体術を身につけている理由――それは、取りも直さず、何年間にも渡って互いを殺し続けてきたからだということなのか。毎日、毎日、友達の命をいかに巧く断ち切るかだけを考え、剣を振るう……確かに、そのような経験を重ねれば、子供ながら整合騎士に叙せられるほどの技を備えるということも有り得るのかもしれない。しかしそれと引き替えに、この二人からは、何か大切なものがどうしようもなく損なわれている。

驚くほどの早さで大階段を登りつづけながらも、変わらず楽しそうな声でアーシンは続けた。

「アドミニストレータ様が実験を終了させた……っていうか諦めたのは、僕らが八歳になった頃でした。結局、完全な形での蘇生は不可能だったみたいですね。知ってます? 天命がゼロになると、白い光の矢がいっぱい降ってきて、なんて言うか、頭の中をどんどん削っていくんです。それに大事なとこを削られちゃった奴は、天命が戻っても元通りにはなりませんでしたね。僕らも、生き返ったら、その前何日かの記憶がなくなってたなんてこと沢山ありましたよ。――ま、そんなわけで、最初は百人いた仲間も、実験が終わったときは僕らだけになってました」

「生き残った僕らに、偉そうな司祭が次の天職を選べっつうから、整合騎士になりたいって言ってやったんだ。そしたら、整合騎士っていうのはアドミニストレータ様が神界から召還する聖なる戦士だ、お前らのような子供がなれるものではない、なんて怒りやがってさ。んで、整合騎士で一番下っ端の兄ちゃん二人と試合してみろって……何て名前だったかなあ、あいつら」

「ええと……何とかシンセシス・サーティエイトとサーティナインだよ」

「アー、その何とかのところ聞いてるんだ。まあいいや、あの気取った兄ちゃんたちの首すっ飛ばしてやったときの司祭の爺さんの顔、大爆笑だったよなー」

そこで言葉を切り、少年二人はひとしきり愉快そうに笑った。

「……で、その結果を知ったアドミニストレータ様が、特例で僕らを整合騎士にしてくれたんです、殺した二人の代わりに。でも、他の騎士みたく任地を得るには勉強が足りないからって、同時に修道士見習いとしてもう二年も歴史だの神聖術だの教わってるんですけどね……正直、うんざりなんですよ、もう」

「何とか早いとこ飛竜が貰えないかなーってあれこれ相談してるとこに、何とカセドラルにダークテリトリーの手先が侵入したって警報が流れてさ。アーと二人で、これだ! ってね。他の騎士より早く侵入者を捕まえて処刑すれば、アドミニストレータ様も僕らを正式な騎士にしてくれると思って待ってたんだ」

「悪かったですね、毒なんか使って。でも、なるべくユージオさんたちを生かしたまま五十階まで持っていきたかったもんですから。あ、安心してください。僕ら、殺すのすごい上手いですから、痛くないですよ」

上層で防御線を張っているという整合騎士たちの前で、ユージオとキリトの首を取ってみせる瞬間を、少年二人は待ちきれないようだった。弾むような足取りはいよいよ軽く、獲物を引き摺りながらも驚くべき速さで階段を登っていく。

 何とか脱出方法を考えなければならないのに、ユージオは二人の語った内容にただただ呆然とすることしか出来なかった。例え口が麻痺していなかったとしても、言葉でこの子供たちを動かすのは絶対に不可能だと思えた。彼らの中には、法も、正義も、善という概念すらおそらく存在しないのだ。唯一従うものは、彼らを"製造"した最高司祭アドミニストレータの命令のみ――ということか。

何十度目かの方向転換のあと、見開いたユージオの目に映る天井が、上層の階段の底を作る斜めの面から水平へと変化した。続く階段が無い、ということは、カセドラルをその半ばで区切るという大回廊の入り口についに到着したということだ。

少年たちは足を止め、よし、いくぞ、と短く言葉を交わした。

 あの緑色の剣に首を切断されるまであと何分――いや何十秒だろうか。体の感覚は一向に戻る気配がなく、どれほど念じようとも指先ひとつ動く様子はなかった。

再び移動が開始され、その途端、強い白光がユージオの目を射た。

はるか頭上で弧を作る大理石の天蓋には、創世の三女神とその従者たちの精緻な似姿が色彩豊かに描かれている。天蓋を支える円柱も無数の彫像で飾られ、柱の間に設けられた大きな窓からはソルスの光がふんだんに降り注いでいた。『霊光の大回廊』の名に相応しい荘厳な眺めだ。

子供二人は、ユージオとキリトを引き摺りながらはやる足取りで五メルほど進み、そこで停まった。右足を放り出された勢いで体が半回転し、ユージオはようやく回廊の全体を見ることができた。

恐ろしく広い。カセドラル一階ぶんの面積を丸ごと使っているのだろう、色合いの異なる石を組み合わせた床の隅のほうは白い光の中で霞んで見える。中央を貫いて豪奢な紅い絨毯が真っ直ぐ引かれ、突き当たった壁にはまるで巨人が使うのかと思いたくなるほど大きな扉が聳えていた。上層に続く階段はあの先にあるに違いない。

そして、扉のずっと手前、回廊の半ばほどの位置に、デュソルバートが告げたとおり鎧兜に身を固めた十人の騎士たちが、何者をも通さぬという絶対的な威圧感を放ちつつ屹立しているのが見えた。等間隔に並んで九人。そしてそれより数歩進んだところに、一人。

後ろの九人は皆、白銀に光る揃いの重鎧と十字の孔が切られた兜を装備していた。エルドリエが纏っていたものと同じ形だ。武器もまた、一様に大型の直剣を、重ねた両手で床に突いている。

しかし、前の一人の鎧兜だけは薄い紫色の輝きを放っていた。装甲も比較的華奢で、腰に下げているのは刺突に特化しているらしい細剣だ。軽装と言っていいかもしれないが、全身から発する闘気は後ろの九人とは比較にならない。猛禽の翼を象った兜の奥の顔は見えないが、デュソルバートに劣らぬ剛の者なのは間違いないと思えた。

 最上階を目指すにあたってとてつもなく高い障壁となるであろう十人もの整合騎士――であるが、現在、彼ら以上にユージオたちの命を脅かしているのは、すぐ目の前に立つ二人の子供だった。

簡素な修道服の背中を昂然と反らし、アーシンとビステンは十人に対峙した。

「――やあ、そこにいるのは副騎士長のファナティオ・シンセシス・ツー様じゃないですか」

快活な声を発したのはアーシンの方だった。

「"天穿剣"のファナティオ様がわざわざお出ましとは、御老人たちもよっぽど慌てているようですね。それとも慌てているのはファナティオ様ご自身かな? このままじゃ、副騎士長の座を"金木犀"殿に奪われかねませんし、ね?」

緊迫感に満ちた数秒の静寂のあと、紫の騎士が金属質の残響を伴うやや高めの声で応えた。整合騎士特有の、人間らしさを感じさせぬ響きだが、その裏にある苛立たしさをユージオは確かに感じた気がした。

「……見習いの子供が何故名誉ある騎士の戦場に居る」

「へ、ばっかみてえ」

即座にビステンが遠慮のない声音で叫んだ。

「戦いに名誉だの格式だの持ち込むから一騎当千の整合騎士様が二度も負けるんだよ。でも安心していいぜ、あんたらがこれ以上醜態を晒さないように、僕たちが侵入者を捕まえてきてやったからな!」

「これから、僕らが咎人の首級を取りますから、よーく見ててその旨ちゃんと最高司祭様に報告してくださいね。まさか名誉ある騎士様が、手柄を横取りするような真似はしないと思いますけどね」

超人的な強さを持つ整合騎士十人を向こうに回して、ここまであからさまに嘲弄するアーシンとビステンの胆の据わり方に、ユージオは一時絶体絶命の立場を忘れ心の底から唖然とした。

 いや――それも少し違うだろうか。

 子供たちの小さな背中に色濃く漂う気配、これは憎悪ではないか……? ユージオは動かぬ眉を寄せ、懸命に視線を凝らした。しかし、もしそうだとしても、一体何を憎んでいるのだろうか。神聖教会に、つまり最高司祭アドミニストレータに反逆する大罪人のユージオとキリトを前にしてさえ、彼らは単なる好奇心しか見せなかったというのに。

 アーシンとビステンは憎しみと蔑みも露わに整合騎士たちを凝視し、騎士たちは苛立ちを込めて子供二人を睨み、そしてユージオは疑問を抱いて子供たちを見つめていたので――。

黒衣の人影が、音も無く、滑らかに、子供たちの背後に立ったのに事前に気付けた者は、恐らくその場には居なかった。

ユージオを縛るものと同じ麻痺毒を受けたはずのキリトが、狩をする闇豹のような動きで少年二人に後ろから飛び掛り、右手でビステンの、左手でアーシンの腰に下がる毒剣の柄を握った。そのまま前に弧を描いて抜刀するのと連続した動作で、少年たちの左の二の腕を深く切りつける。

子供たちがぽかんとした顔で振り向いたのは、キリトが緑の毒液の雫を引きながら後方に宙返りし、着地してからのことだった。

アーシンとビステンのあどけない顔が、驚きから怒りを経て屈辱へと醜くく歪んだ。

「お前――」

「なんで――」

麻痺毒の効果は即座に発揮され、それだけをようやく口にして、子供たちは軽い音を立てて床に転がった。

深く膝を曲げていたキリトが、ゆっくりと立ち上がった。毒剣二本を左手で束ねて握り、アーシンに歩み寄ると右手でその修道衣の懐を探る。すぐにつかみ出したのは、橙色の液体を封じた指先ほどの小瓶だった。

親指で栓を弾くと鼻先に持っていき、得心したように頷くとユージオの方にやってくる。おい、と言おうとしたが無論口は動かず、薄く開いたままの唇に流し込まれる液体を、ユージオは否応なしに飲み込むことになった。味もまた一切感じなかったのは、恐らく幸いなのだろう。

あまり見たことのない種類の表情を頬のあたりに漂わせたキリトは、膝をついたままごくごく微かな声で囁いた。

「数分で麻痺は解ける。口が動くようになったら、すぐに武装完全支配術の詠唱を始めるんだ。準備できたらそのまま保持して、俺の合図でぶちかませ」

す、と立ち上がり、キリトは再度少年たちの傍まで移動した。今度はびんと張った大声で、離れた場所に立ったままの整合騎士たちに向かって叫ぶ。

「剣士キリトならびに剣士ユージオ、臥してまみえた非礼を深く詫びる! 非礼ついでに、今しばし我らが不名誉を雪ぐ猶予を戴きたい! その後、存分に剣と剣を仕合わせて貰うが如何!」

相当に高位の騎士なのであろう紫色の鎧兜も、さすがに少々戸惑った様子だったが、すぐに堂々たる声音で返答してきた。

「整合騎士第二位、ファナティオ・シンセシス・ツーである! 咎人よ、吾が断罪の剣には一抹の憐憫すらも有り得ぬ故、言うべきことがあるならば鞘にあるうちに言うがよい!」

それを聞いたキリトは、肩越しに倒れた少年たちを見下ろし、騎士たちにも聞こえる位の強い調子で言葉を投げた。

「――不思議に思ってるだろう。何故俺が動けたか」

先刻の自分の台詞を奪われたアーシンの顔が、麻痺の中にあっても口惜しそうに引き攣った。

「お前らの腰の鞘、南方の"血吸樫"製だな。この"ルベリルの毒鋼"を収めても腐らない唯一の素材、ただの修道士見習いが持ってるはずのない物だ。だから、お前らが近寄ってくる前に毒分解術を唱えておいた……分解が終わるのにちょっと時間がかかったけどな」

感覚が戻り始めたのか、四肢をちくちくする痛みが這いまわっていたが、ユージオはそれをほとんど意識しなかった。相棒の表情がいかなるものなのか、ようやく思い当たったからだ。

 あのキリトが――激怒している。

しかし、その怒りは、子供たちに向けられているわけではないようだった。なぜなら、アーシンとビステンを見下ろす瞳には、少なからずいたましさが含まれているように見えた。

「それに、お前ら口を滑らせたな。全修道士は部屋から出ないよう命令されてる……ってことは、その命令に従わないお前らは修道士じゃないってことだ。剣の速さだけが強さじゃないぞ……つまるところ、お前らが愚かだったってことだ、ここで死ぬのも仕方ないくらいに」

冷たく言い放ち、キリトは左手にまとめて握った毒剣を高く掲げた。

唸りを上げて振り下ろされた手から、緑色の閃光を引いて剣が飛んだ。ががっ、と鈍い音を立てて二つの刃が食い込んだのは、アーシンとビステンの鼻先の床石だった。

「でも、お前らは殺さない。その代わりよく見とけ、お前らが馬鹿にしてる整合騎士がどんだけ強いか」

じゃりん、と音高く鞘走らせた黒い剣を、キリトはぴたりと体の前に構えた。

「――待たせたな、騎士ファナティオ!」

 無茶だ……いくらなんでも。

相棒の背中にそう声を掛けようとしたが、ユージオの唇は小さく震えただけだった。感覚は戻りつつあるもののまだ言葉を音にできる程ではない。

 呆れるほどの洞察力あるいは猜疑心を発揮して子供たちの罠から脱出してみせたキリトではあるが、一難去って――と言うより更なる危地に策もなく飛び込む破目になったのは明らかだ。十人もの整合騎士、しかもうち一人は副騎士長の位にあるという強敵と真っ向から戦わねばならないのだから。

むしろ、普段のキリトなら、ここは一も二もなくユージオを引き摺って逃走し、少しでも有利な状況を立て直そうとするはずだ。それをしないのは、やはり彼も平常な状態ではないのだ。目を凝らせば、黒衣の背中から立ち上る瞋恚の炎が青白く見えるような気がするほどの、深い怒りに衝き動かされている。

今のキリトに正面から対峙すれば、修剣学院の教官ですら気圧されずには居られないだろう。しかし、流石というべきか、ファナティオと名乗った紫紺の騎士は堂々たる仕草で右手を細剣の柄に持っていくと、涼やかな音とともに抜きはなった。まるで、刀身そのものが発光しているかのような眩い輝きがユージオの目を射る。

ファナティオに続いて、背後の九名の整合騎士たちもぴたりと揃った動作で一斉に抜刀した。途端に膨れ上がった剣気が、キリトのそれを押し返す勢いで回廊の空気をびりびりと震わせる。

緊迫した状況にあって、尚も憎らしいほど落ち着き払ったファナティオの声がいんいんと響いた。

「咎人よ、どうやら私との一対一の決闘を望んでいるようだが、残念ながら我々は、もしお前たちがこの回廊まで辿り着いたときは如何なる手段を用いても抹殺せよとの厳命を受けている。故に、お前には同時に相手をして貰わねばならん――私が手塩に掛けて鍛え上げた、"宣死九剣"のな!」

声高にそう言い放つと、続けてファナティオは、システム・コールの一句に繋げて複雑な神聖術の高速詠唱を開始した。明らかに武装完全支配式だ。対抗するにはこちらも同じ術を使うか、詠唱が終わる前に斬りかかるしかない。

キリトが選んだのは後者だった。靴底の鋲から火花が散るほどの勢いでファナティオ目掛けて突進し、黒い剣を大上段に振りかぶる。

しかし同時に、ファナティオの背後に控える九人のうち左端に立っていた騎士も突撃を開始していた。分厚い大剣を重い唸りとともに左から横薙ぎに繰り出し、キリトを迎え撃つ。

已む無くキリトは剣の方向を変え、騎士の斬撃を受けた。耳を突き刺すような大音響とともに双方弾かれ、距離が開く。

 しかし、巨大な武器を頭上高く跳ね上げられた騎士に対して、キリトの剣の返しは素早かった。着地したときにはすでに逆撃体勢に入っており、あとは敵のがら空きの懐に飛び込み一閃で仕留められる――。

「!?」

 ――と確信した直後、ユージオは思わず息を飲んだ。いつの間に突っ込んできたのか、左から二人目の騎士が、正確にキリトの着地地点を狙って渾身の水平斬りを放ちつつあったからだ。

さすがに一瞬驚きの気配を放ちつつ、キリトは再度剣を打ち下ろし、敵の攻撃を弾いた。先ほどと同様の金属音、大量の火花、そして二者の距離が四メルほど開く。

今度の騎士もまた、大きく体勢を崩した。当然だ、あれほどの巨剣で渾身の一撃を放ち、それを跳ね返されれば、どれほどの膂力の持ち主であろうとも切り返すのは用意ではない。むしろ称えるべきは、ぎりぎり最低限の動きで敵の剣を受けきり、衝撃を柔軟に吸収して即座に反撃体勢に入れるキリトの伎倆だろう。

しかし。

まさか、と思う間もなく、ユージオはまたしても着地直後のキリトに襲い掛かる第三の騎士を見た。三度繰り返される剣と剣の衝突に奪われそうになる視線を、ユージオは無理矢理その後ろに向けた。

「――!!」

そしてぐっと奥歯を噛み締めた。キリトと三人目の騎士が剣を撃ち合わせたその瞬間にはもう、四人目の騎士が突進を開始している。

しかし何故、キリトの着地点をこうまで見事に予想できるのだろうか。またしても放たれた横薙ぎの斬撃に、ついにキリトの反応が乱れ、どうにか受けには成功したものの、がきっ、と鈍い音とともに弾かれた黒衣の体が空中で揺れた。

 そうか――、と、遅まきながらユージオは気付いた。

 騎士たちの攻撃は、これまでの全てが一様に左から右への水平斬りである。それを剣で受ければ、弾かれる方向はある程度限定される。そして、続く騎士の攻撃もまた、突きや垂直斬りと違い横軸での命中範囲が広い水平薙ぎ払いなのだ。加えてあの長大な刀身――つまり突進の方向には、一点を狙う精密さは要求されない。

単独での連続剣技という発想を生来持たないはずの整合騎士たちだが、しかしこれは、全力を込めた一撃の欠点を埋め利点を生かす、言わば集団による連続技だ。やはり彼らは、型の美麗さのみを追及する学院の教官たちとは違い、ダークテリトリーでの実戦を経験している本物の戦士たちなのだ。

だが、その戦法も決して万能ではない。

 気付けキリト、そうと分かれば対処法はある――!

叫ぼうとしたユージオの喉から、しわがれた唸りが漏れた。ようやく舌や唇が動くようになりつつあるのだ。一刻も早く術式詠唱を開始できるよう、懸命に口を動かして強張った筋肉を解しながら、ユージオは相棒に掠れた声を投げかけようとした。

四人目の騎士の剣を受けたキリトは、着地に半ば失敗し、片手を突いた。

その首の高さを正確になぞりながら、五人目の騎士の剣が唸りを上げて襲い掛かった。

キリトは、咄嗟に上体を後ろに倒し、剣の下を掻い潜ろうとした。黒い前髪がひと房刃に触れ、空中にぱっと飛び散る。

 そう――襲ってくるのが水平斬りと分かっていれば、剣で受けるのではなく上か下に避ければいい。

しかしそれは、反撃と一体となった動作であるのが前提だ。あのようにただ寝そべってしまえば、次の行動に入るのが一呼吸、いやそれ以上に遅れる。

キリトの左側から迫る六人目の騎士は、その隙を逃す気はさらさら無いようだった。なぜなら、脇に構えていた剣を素早く上段に移動させ、攻撃を垂直斬りへと切り替えたからだ。

「あ……!!」

 あぶない、とユージオは、喉に鋭い痛みが走るのを無視して叫ぼうとした。避けられない、そう確信し、思わず目を逸らそうとしたその時――。

キリトの右側で剣を振り終わったばかりだった五人目の騎士の体が、ぐらりと揺れた。

キリトは、ただ寝そべったわけではなかったのだ。いつのまにか、自分の両脚で騎士の足を挟み込み、てこの要領で自分の上に引き倒していたのである。

六人目の騎士は、すでに振りはじめていた斬撃を止めることができず、その刃で味方の背中を深く抉った。驚愕の気配を放ちながら剣を引き戻そうとするその左腕を、倒れ込む五人目の下から伸びた黒い閃光が貫いた。

立ち上がりざまの一突きで正確に騎士の二の腕を切り裂いたキリトは、慌てて飛び込んできた感のある七人目の騎士に向かって、思い切り六人目を突き飛ばした。さすがに味方ごと薙ぎ払うわけにもいかず、七人目はその剣を引き戻す。

 ついに、"宣死九剣"とファナティオが呼んだ集団の連続攻撃が止まった。

その空隙を突いて、キリトが凄まじい速度で走った。九騎士には目もくれず、術式詠唱中のファナティオに猛然と打ちかかる。

 間に合え――!

とユージオは必死に念じた。

「リリース……!」

とファナティオが叫んだ。

「うおおおお!!」

キリトが吼え、剣を遠間から高く振りかぶった。

ファナティオの細剣がぴたりとキリトに向けられた。しかし、あのような華奢な武器では、もう如何なる動作を取ろうともキリトの剣を受け切るのは不可能だ。あの黒い剣は、神器たる青薔薇の剣を上回るほどの重量を備えている。それにキリトの神速と言うに相応しい斬撃が加われば、細剣如き例え三本束ねようとも叩き斬るはずだ。

 あと一刹那で、黒い刃がファナティオの兜を断つ――というその時、ちかっ、と騎士の手許で剣が光った。

いや、正しくは、剣が光り、その青白い線がまっすぐに伸びた。

伸びた光の線が、キリトの左脇腹を貫通し、そのまま空中を疾って、はるか上空にある大回廊の天井を抉ったのが、ほとんど同時と言ってもいい。それほどまでに一瞬の出来事だった。

キリトの斬撃はごく僅かにその軌道をぶれさせ、すいっと身を逸らせたファナティオの兜の、翼を象った飾りを掠めて空しく宙に流れた。

腹の傷から飛び散った血の量はごく僅かで、それほど激しく天命が減少したわけではなさそうだったが、片手片膝を床に突いて着地したキリトは顔を大きく歪めた。よくよく目を凝らせば、上着に空いた小さな穴の周辺から、細く煙が上がっている。

 火炎系の攻撃だったのか……? しかしファナティオの剣から放たれた光は、青いくらいに眩い白だった。あんな色の炎を、ユージオはこれまで見たことがない。

憎らしいほどに優美な動作で体の向きを変えたファナティオは、床にうずくまるキリトを、再び細剣の尖端でぴたりと指した。

 じゃっ、とかすかな音を放ち、再び光の線が迸った。直前に左に飛んでいたキリトの脚をかすめ伸びた光は、硬い石床に突き刺さり――真っ赤に溶けた拳大の穴を穿った。

「うそだろ……!」

 自分の口から引き攣れた声が漏れたことに、ユージオはしばらく気付かなかった。回廊の床に敷き詰められている大理石は、その艶と模様からして学院の校舎に使われていたものより更に高級な西域帝国産だ。硬さと天命は不朽と言ってもいいほどで、到底炎ごときで損なわれるものではない。その証左に、デュソルバートの"熾焔弓"が生み出した業火を浴びても焼けたのは絨毯だけだったではないか。

 つまり――ファナティオの完全支配攻撃が炎熱系のものだとした場合、その威力はデュソルバートの技の数倍、あるいは数十倍に及んでもおかしくない。そんな技の直撃を受けてしまったキリトの天命は、ことによると、既に消し飛ぶ寸前なのではないか。

いよいよ冷たい恐怖の手にがっちりと掴まれたユージオの視線の先で、キリトは一箇所に止まることなく、見事な身のこなしで左方向に跳び続けていた。その体を追って、ファナティオの剣からも立て続けに光線が閃き、石床を抉っていく。

 あの技のもうひとつの恐るべき点は、光の発射に際して、溜める、突く、といった予備動作が一切ないことだ。ただまっすぐ向けられた細剣からいつ光線が迸るのか、少なくともユージオの位置からはまるで読めない。ほぼ無限の間合い、という意味では騎士エルドリエの"星霜鞭"も同じだったが、これに比べればまだしも可愛げがあった。

ファナティオはいっそ気だるげとも言える姿勢で、左手を腰にあてがい、棒でネズミをいたぶる子供のようにキリトを追い立て続けた。五撃、六撃目までを凌いでみせたのは、キリトの超人的な運動能力と勘あってのことだろう。

しかしついに、七撃目が致命的追いかけっこに終わりを告げた。

しゃあっ! と宙を疾った光線に右足の甲を貫かれたキリトは、着地に失敗し、肩から床に落下した。さっともたげられた黒髪のすぐ下、日に灼けた額の中央を、ファナティオの剣尖がぴたりと捉えた。

 キリト……! と叫ぼうとして――ユージオはようやく、自分の喉からひりつく痛みが薄れていることに気付いた。これなら、術式が成立するくらいの声を出すことが可能かもしれない。

悲鳴を上げる代わりに、ユージオはぐっと腹に力を込め、騎士たちには聞こえないが創世神には届けられる程度の音量で術式詠唱を開始した。

「システム・コール……エンハンス・ウェポン・アビリティ……」

キリトなら、このくらいの絶体絶命は何とかしてのける。なら、自分がすべきなのはただ一つ、言われたとおりに術式を完成し、いつでも解放できるよう準備しておいくことだけだ。

必殺の剣をまっすぐキリトに向け、ファナティオは焦らすように一秒ほど沈黙したあと、陰々とした声を響かせた。

「……こういう場面で一言いわないと気がすまないのは私の悪癖だと、騎士長殿にはもう百年以上も苦言を頂戴しているのだがな……しかし、どうにも不憫なのだよ。我が"天穿剣"の霊光に平伏した者は皆、そのように間の抜けた顔しかできないのでね……一体、自分をこうまで容易く追い詰めたあの技は何なのだろう、というね」

いつの間にか、ファナティオ配下の九騎士も傷ついた者の治療を済ませたようで、大剣を片手にぐるりとキリトを遠巻きに取り巻いた。これではますます脱出が難しくなる。が、その分ファナティオのお喋りが長続きする可能性も出てきたと言える。一度の言い間違いで詠唱を台無しにしないよう全神経を集中しながら、ユージオは懸命に術式を組み立て続ける。

「咎人とは言え央都に暮らした者なら、鏡というものを知っているかな?」

いきなり飛躍した問いを投げられ、キリトが痛みを堪える中にも怪訝な表情を浮かべた。

鏡。

勿論ユージオも見たことはある。修剣士寮の浴場に小さなものが一つ据えられていたのだ。水面に映すよりも遥かに鮮明に己の姿を見ることができる不思議な道具だが、己の柔弱そうな外見が今ひとつ好きになれないユージオはあまり熱心に覗いたことはなかった。

ファナティオは油断なく剣を据えたまま、感情の窺い知れぬ声で続けた。

「鋳溶かした銀を硝子板に流して作る高価な代物ゆえ、下民は触れたことがなくとも無理はないが……あの道具は、ソルスの光をほぼ完全に撥ね返すことができるのだ。わかるかな……つまり、反射した光が当たった場所は、他のところより倍暖められるという理屈だ。今を去ること百と三十年ほど前、我らが最高司祭様はセントリア中から銀貨や銀細工を召し上げられ、全ての硝子細工師にあわせて一千枚もの大鏡を造るよう御命じになられた。無詠唱攻撃術……"ヘイキ"とか言うものの実験だったのだがな、カセドラルの前庭に半球を成して並べられた千の鏡が、真夏のソルスの光を一点に集め生み出した白い炎は、ものの数分で大岩を一つ溶かし去ったものだよ」

 ヘイキ……白い炎……?

ファナティオの言うことを、ユージオは完全には理解できなかった。しかし、アドミニストレータのその企ては、世界のことわりを覆すおぞましいものであると直感的に悟った。

「最終的に、戦に使うには仕掛けが大仰すぎると最高司祭様は判断なされた。しかし、せっかく生み出した炎を無駄にするのは惜しいと仰り、千枚の大鏡と荒れ狂う熱を神の御技にて括り、鍛えて、一本の剣を生み出されたのだ。それがこの神器"天穿剣"……わかるか、咎人よ。お主の腹と足を貫いたのは、陽神ソルスの威光そのものなのだ!」

わずかな誇らしさに彩られたファナティオの言葉を聞き、驚きのあまり、あやうくユージオは完成間近の完全支配術をつっかえるところだった。

 千もの鏡で束ねられたソルスの光――それが、あの白い光線の正体だと言うのか。

火炎術なら冷素で対抗することも可能だ。しかし光による攻撃を、どのようにして防げばいいのか。そもそも、光素を力の源とする術にはユージオの知る限り直接の攻撃力はない。ゆえに学院の講義でも対抗術は一切教わっていない。幻惑する程度の光なら闇属性術で打ち消すことも可能だが、あれほどの光線であれば、たとえ小さな闇素を百も撒いたところで容易く貫くだろう。

心中の耐え難い焦燥にもかかわらず、ユージオの口は自動的に術式を綴り続けていた。しかし、どれほど高速で詠唱しようとも、発動までは少なくともあと一、いや二分はかかる。対してファナティオはどうやら言いたいことを言い尽くしたらしく、キリトの頭に向けたままの剣をわずかに突き出した。

「どうやら、己の天命を断つ力について理解してもらえたようだな。死ぬ前に、己が罪を悔い、三神に心より帰依し、許しを乞い給え。さすれば浄化の霊光は、そなたの魂をすすぎ楽土へと導こう。では――さらばだ、若く愚かな咎人よ」

天穿剣がまばゆく光輝き、死を告げる光線が真っ直ぐにキリトの額目掛けて殺到した。

「ディスチャージ!」

という叫びがユージオの耳に届いたのは、その出来事が発生した後であり、何が起きたのかを理解したのは更に遅かった。

 キリトはファナティオの剣が光る直前、両手をパン! と打ち合わせ、まっすぐ前に向けて開いた。出現したのは――一枚の、銀色の盾だった。

いや、違う。金属の盾ではない。真四角真っ平らの板、その表面には、ユージオに背を向けて立つファナティオの兜の面頬がくっきりと映っている。

振り上げられたキリトの左右の掌中に、それぞれ色合いの違う二つの素因が握られていたのをユージオの目は捉えていた。

 右手の光は鋼素。針にして飛ばしたり、ちょっとした道具を作るのに使う、金属系術式の素因である。そして左手が握っていたのは晶素、見え難い障壁を作ったりコップにしたりする硝子系術式の素因。その二つを、板状に変形させて重ねれば、出来るのは――。

鏡だ。

超高熱を秘めた光の槍は、キリトが術式で作り出した鏡の中央に命中し、あっという間に銀を赤へと沸き立たせた。

もとより、素因から発生させた道具類の天命は短い。外見的には同じナイフでも、ちゃんと鉱石から鍛造したものが数十年以上も保つ天命を備えているのに対して、鋼素から変成されたものはわずか数時間で塵へと戻ってしまう。あの鏡とて例外ではないはずで、とても天穿剣の光を弾き返せるほどの耐久力があるとは思えない。

というユージオの一瞬の思考どおり、鏡が空中に存在し得たのはわずか十分の一秒ほどでしかなかった。硝子と銀を煮溶かした赤い液体がばしゃっと飛び散り、光線は八割がた威力を保ったままキリトへと直進した。

しかし、無理矢理創りだした一瞬の猶予を、キリトも無駄にはしなかった。ごくわずかにではあるが体を左に傾けることに成功し、光は黒い髪と頬の一部だけを灼いて後方へと流れた。

 そして、鏡によって受け止められた残り二割の光は――。

鋭角に反射し、ファナティオの兜へと襲い掛かった。

第二位の整合騎士も、やはり尋常の人物ではなかった。キリトと同じように、凄まじい反応速度で首を右に傾け、光線をやり過ごそうとする。が、少々華麗にすぎる飾りのついた兜までは守りきれなかった。左側面の留め金部分を光に射抜かれ、直後、がしゃっという音を放って兜が分解し、床に落ちた。

途端、空中に広がった漆黒の髪の豊かさに、ユージオは目を奪われた。

キリトの髪と殆ど同じくらいの闇色だ。しかし艶やかさでは圧倒的に勝っている。さぞかし日夜丁寧に手入れされているのだろうと思わせる、ゆるく波打った長髪が、大窓から差し込む午後の光を受けてあでやかに煌めいた。

 なんだこいつ、剣士のくせに……、ついそんなことを考えてしまうユージオの視線の先で、ファナティオはさっと左手を上げ、顔を覆った。

そして叫んだ。

「見たなァ……貴様ァっ!!」

 兜越しの時の、金属質に歪んだ声とは打ってかわった――優美な、張りのある高音。

 女だ――!?

その驚きで、ユージオは危く完成間近の術式を崩壊させてしまうところだった。ペースをやや落とし、神経を集中させて句式を繋ごうとする。しかし、意識の半分は、どうしても騎士ファナティオの後姿に注がずにいられなかった。

丈は高いが、そのつもりで見れば背中から腰への線がいかにも華奢だ。しかし、これまでは男だと信じて疑いすらしなかった。

いや、すでにアリス・シンセシス・フィフティという騎士の姿を見ているのだから、整合騎士の中にもそれなりの数の女性が含まれていることを否定する理由はない。そもそも、学院で学ぶ修剣士たちの半数近くがティーゼやロニエのような少女たちなのだ。彼らのうちから多くの整合騎士が造られているのだろうから、第二位の騎士が女性であっても何らおかしくない。

なのに何故こんなに驚かされたんだろう、と考えてから、ユージオはこれまでのファナティオの口調、物腰が、意識した男性的振る舞いだったのではないかと気付いた。

 とすれば、今ファナティオの背中から噴き上がる怒りの理由は、素顔を見られたからではなく――己を女だと知られたから、なのだろうか。

床に片膝をついたままのキリトも、頬に負った手酷い火傷の痛みなどすっ飛んだかのような驚きの表情を浮かべていた。

そのキリトを、左手の指の間から睨みつけながら、ファナティオが再び言葉を発した。

「貴様も……そんな顔をするのか、罪人。教会と最高司祭様に弓引く大逆の徒である貴様すら、私が女だと知った途端、本気では戦えないというわけか」

絞り出すようなうめき声でありながらなお、名手の奏でる長弓琴を思わせる、途方もなく美しい声だった。

「私は人間ではない……天界より地上に招かれた断罪の聖騎士だ……なのに貴様ら男は、剣を一合撃ち合い、女だと悟るやそのように蔑むのだッ! 同輩だけに留まらず……悪の化身たる暗黒将軍でさえな!!」

それは違う、蔑んだりしない、僕もキリトも。

脳裡でそう言い返してから、ユージオはふと気付いた。

自分たちはこれまで、学院で数多くの女性剣士たちと戦ってきている。当然その中には端倪すべからざる技の持ち主が多くいたし、破れたことだってある。その全ての戦いにおいて、ユージオは相手が女性だからと言って手心を加えたことは一切なかったし、好敵手に抱く尊敬の念にも性別はまったく関係なかった。

 しかし――もし、その戦いが寸止めの試合でなく、真剣勝負の殺し合いであったら?

 自分は果たして、躊躇なく相手の体に剣を突き立てられるだろうか……?

これまで考えたことすらなかった疑問にとらわれ、ユージオが息を詰めた、その瞬間。

床の上から、キリトが一陣の黒い突風となって飛び出した。

 何のてらいもない右上からの斬撃――しかし、ユージオの目にも刀身が霞んで見えるほどの凄まじい速度。激昂していたファナティオの受けが間に合ったのがむしろ奇跡と思えるほどだった。ガァーンという耳をつんざくような衝撃音が回廊中に響き渡り、飛び散った火花が両者の顔を一瞬明るく照らした。

細剣の篭手部分で見事キリトの刃を止めたファナティオだったが、突進の勢いは殺せず、数歩後退を余儀なくされた。鍔迫り合いに持ち込んだキリトは手を緩めることなく、ファナティオの細身にのし掛かるように圧力を強めていく。紫の具足に覆われた膝がじり、じりと曲がる。

突然、噛み締めた歯をむき出してキリトがにやりと笑った。

「なるほど、それでその剣、その技なのか。撃ち合って、自分が女だとバレなくて済むように……そうだろう、ファナティオお嬢さん」

「きっ……貴様ァっ!!」

悲鳴にも似た叫び声を上げ、ファナティオがぎりりっと剣を押し返す。

どうしても中央に吸い寄せられる視線を外に向けてみると、二人を取り巻く九人の騎士たちにも、かすかに動揺の気配があるようにユージオは感じた。おそらくではあるが、彼らの中にも、ファナティオの素顔を知らない者は多かったのではないだろうか。ユージオの右方に麻痺して倒れる子供二人は、どちらとも言えないが。

十二対の凝視に晒されながら、キリトとファナティオは渾身の競り合いを続けていた。体重そして剣の重さでは明らかにキリトが有利だろう。しかし一度体勢を押し返してからのファナティオは、細い腕のどこにと思わせる膂力で寸毫も引く様子はない。

すでに笑みを消したキリトが、再び低い声で言った。

「……言っとくけどな、俺がさっき驚いたのは、兜が壊れた途端あんたの殺気が嘘みたいに弱くなったからだぜ。顔を隠し、剣筋を隠し……自分が女だって誰よりも意識してるのはあんたじゃないのかよ」

「うっ……うるさいっ! 殺す……貴様はっ……!」

「こっちだってそのつもりだ。あんたが女だからって手を抜く気は一切ないぜ、これまで何度も女剣士に負けてるからな!」

 確かに、ユージオの知る範囲でも、キリトは傍付きをしていた頃、先輩の上級修剣士ソルティリーナに何度も稽古で一本を取られている。しかし彼の言葉は、試合での型のやり取りを指しているのではないように思えた。そうではなく、これまで実際に女性剣士と真剣を打ち合って敗れたことがある、とでもいうかのような……。

叫ぶと同時に、キリトは右足を飛ばし、ファナティオの軸足を払った。ぐらりと上体を泳がせるところに、容赦のない片手突きを浴びせる。

しかし、整合騎士は右手を神速で閃かせ、生き物のようにしなった細剣が黒い剣の側面を弾き軌道を変えた。その間に体勢を立て直し、ととんと華麗に床に降り立つ。

キリトの切り返しも速かった。一呼吸の間を置くこともなく体当たり気味に相手の懐に飛び込み、超接近戦に持ち込む。準備動作無しの光線発射という技を持つファナティオに対して、遠距離での戦いは成り立たないからだ。

ほぼ密着した間合いにおいて、超高速の剣撃が開始された。

ユージオを驚愕させたのは、キリトの目も眩むような連続攻撃に、ファナティオが一歩も引かずに対応してきたことだった。上下左右から立て続けに襲い掛かる黒い刃を、細剣を自在に閃かせて捌き、少しでも隙を見つけるや三連、四連の突き技を叩き込んでくる。

この世界のあらゆる伝統流派に連続技の概念がないのは明らかな事実なので、となればファナティオは連続剣技を己の研鑚のみで編み出した、ということになる。その理由も、恐らくは、先刻のキリトの台詞と無関係ではあるまい。

 敵を近い間合いに入らせずに倒すための天穿剣の光――つまり女性騎士ファナティオは、敵と密着し、鎧の下に隠したものに気付かれるのを畏れている。初撃を受けられても次撃、次々撃で敵を退けるための連続技なのだ。

 しかし、なぜ……? どうしてそこまで己の性を隠そうとするのか?

 新たに湧き上がる疑問に唇を噛み締め、そこでようやくユージオは、自分が武装完全支配術を組み上げ終えたことに気付いた。後は"記憶解放"の一句のみで青薔薇の剣に秘められた技が発動するはずだ。ためしに四肢の指先を動かしてみると、痺れもなく反応する。

しかし、キリトとファナティオが近接戦闘をしている間はとても使うわけにはいかない。相棒までも巻き込んでしまうことは確実だからだ。

 合図を待て、とキリトは言った。それを逃すことのないよう、ユージオは両眼を見開き、戦う二人を懸命に注視した。* 何と遠いところまで来てしまったのか――。

見上げるほどに高い天井、白亜の柱が立ち並ぶ壁、様々な材質の石材で複雑な寄木細工に組まれた床。

初めて目にする神聖教会内部の壮麗さに思わず見とれながら、ユージオはそう慨嘆せずにはいられなかった。

ほんの二年と少し前までは、自分は決して倒せない木を斧で叩きながらひっそりと一生を終えるのだと信じていた。遠い昔にいなくなってしまった金髪の少女の思い出に日々浸りつづけ、妻も迎えず、子供も作らず、やがて年経て次代の刻み手に天職を譲っても、そのまま森の奥で暮らし、いつか朽ちるのだと。

しかし、ある日突然森の中に現われた黒髪の異邦者が、ユージオを取り囲む幾つもの壁を力ずくで叩き壊してしまった。巨大な諦めと自己憐憫の象徴であったギガスシダーまでも、歴代の刻み手たちが思いもよらなかった方法で切り倒し、ユージオに選択を突きつけた。

迷いが無かった、と言えば嘘になる。あの村祭りの夜、急拵えの壇上でガスフト村長に次なる天職の決定権を与えられたとき、ユージオは思わず、家族のことを考えた。

それまで、ギガスシダーの刻み手として働くことで村から貰っていた賃金の全てをユージオは母親に渡していた。代々家のなりわいは麦作だったが、持ち畑はルーリッドの村の中でも狭いほうで、ことにここ数年は凶作続きのせいで収入は乏しかった。ユージオが毎月安定して稼ぐ金は、口には出さねど両親も兄たちもあてにしている部分はあったはずだ。

ギガスシダーが倒れたことで、その稼ぎは当然無くなる。しかし、ユージオが次の天職に麦作りかあるいは羊飼いを選べば、新しく南に広がる開墾地の、日当たりのいい場所が優先的に与えられるだろう。壇上から、陽気に騒ぐ村人たちの輪の一角に、家族の期待と不安が入り混じった顔を見つけ、ユージオは迷った。

迷ったが、それもほんの一瞬のことだった。幼馴染の少女との再会と、家族の暮らしを両端に乗せた天秤を、ユージオは無理矢理片側に傾けて、そして宣言したのだ。自分は村を出て衛士になると。

そのままルーリッドに残り、衛士隊の一員になるのならやはり村から給料は貰える。しかし村を出るということは、つまり家族のもとから独り立ちするということだ。ユージオが家に入れていた金も、新たに貰えるかもしれなかった土地も、全て消えてなくなってしまう。旅立ちの日を慌しくその翌日に決めたのは、祭りが終わり家に戻ってからの、両親の無言の失望、兄たちの腹蔵した怒りに耐えかねたからだ。

キリトと共にルーリッドを旅立ってからも、思いがけないほどすぐに、もういちど家族の望みに従いなおす機会はやってきた。南のザッカリアの村に辿り着くと、そこではちょうど毎年秋に開かれるという剣術大会の真っ最中で、キリトに無理矢理出場させられたユージオは、あれよあれよという間に勝ち上がり優勝してしまったのだ。理由の九割までは、青薔薇の剣のすさまじい威力(何せ、打ち合うだけで相手の剣がどこかに飛んでいってしまうのだ)と、道中キリトに手ほどきされたアインクラッド流なる不思議な剣術のおかげではあったが、ともあれ並み居るつわものを押し退けて勝者の座を手にしたユージオは、望めばそのままザッカリアの衛士隊の副隊長に取り立ててもらうこともできた。もちろん地位も給金も、ルーリッドの衛士とは比べ物にならない。毎月ルーリッドへ向かう行商の馬車に託して金を送れば、家族はどれほど楽になっただろうか。

しかしそこでも、ユージオは領主の誘いに首を横に振り、代わりに央都の修剣学院への推薦状を書いてもらったのだった。

 更なる長い旅路の途上で、あるいは首尾よく修剣学院の学生になれてからも、ユージオは常に気持ちの片隅で言い訳を続けてきた。このまま学院代表になり、四帝国統一大会にも勝ち抜いて、世界の剣士の最頂点たる整合騎士に任じられれば、家族には村の誰も想像したこともないほどの贅沢をさせてあげられるのだと。今度は自分が白銀の鎧をまとい、飛竜にうち跨ってアリスと二人村に帰る――そうすれば、両親は末の息子を何よりも誇りに思ってくれるはずだ、と。

しかし、あの思い出すのも辛いほどの悲劇が起こり、ライオス・アンティノスの頭上に剣を振りかざしたとき、ユージオは三たび家族を裏切った。少なくとも、一代爵士への叙任ならば相当に現実味を帯びていたはずの未来を、それどころか一般民という身分すらも捨て去り、禁忌違反の大罪人たる道を選んだ。

 いや、家族だけではない。ユージオの起こした諍いに巻き込まれ、あまりに残酷な仕打ちに見舞われたティーゼとロニエさえも、あの瞬間ユージオは裏切った。本当は、ずっとティーゼの傍について、彼女を見守り、謝罪し、過ちを償うべきだった。そう――あるいはアリスとの再会すらも諦め、爵士になることだけを目標にして、残る生涯をティーゼのために尽くすと誓うべきだったのだ。

 あの時、ユージオにはそれが分かっていた。今ここでライオスを斬れば、罪人として即座に整合騎士に連行され、何もかもを失うと。両親を喜ばせる機会、ティーゼに償う機会、すべてを失ってしまうと分かっていながら、しかしユージオは剣を振り下ろした。己の信じる正義のためでも、陵辱された少女のためでもなく、ただ心中に荒れ狂うどす黒い殺意を解放する、そのためだけに――ライオス・アンティノスなる汚らわしい生き物を抹殺する、ただそれだけを目的として刃を振るったのだ。

何もかもを捨ててしまった。

手を血に汚したあの夜から、ユージオの頭のなかではその言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。

本当に、何と遠いところまで来てしまったのか。家族を、ティーゼを捨て、栄誉に満ちた上級修剣士の座から一転神聖教会に弓引く反逆者として、今自分は世界でもっとも侵すべからざる場所の床を踏んでいる。

先刻迷い込んだ奇妙な図書室で、先の最高司祭だという少女にあらゆる歴史を記した書物の存在を教えられ、ユージオは我を忘れてその本を貪るように読んだ。なぜなら、どうしても知りたかったのだ。長い歴史のなかで、何人かは教会に刃を向け、整合騎士と戦い、その上で望みを果たしてどこか遠くに逃げ延びた人間がいたのではないか、と。

 しかし、そんな挿話は一つとしてなかった。教会の権威はあまねく世界を平らげ、あらゆる民は整合騎士の威光に伏して、どのような深刻な諍いすらも――帝国間の揉め事ですらも、教会の名のもとにいとも容易く治められた。

つまり、自分は、世界がステイシア神から初代の司祭に任せられて以来もっとも罪深い人間なのか、とユージオは考え、骨が凍るほどに慄然とした。堕ち得る最も暗いところまで堕ちた、それこそ闇の国の怪物と何ら変わるところのない極悪人。おそらく今後、自分が踏む土からはテラリアの恵みが失われ、頭上の空からはソルスの光が薄れるだろう。

 最早、あらゆる人間らしさ、正義や憐れみや慈しみは捨てるべきかもしれなかった。そう、たとえ今後どれほどの罪を重ねようと――神の代行者たる整合騎士たちの首を刎ね、腸を引きずり出してその血に両手を染めようとも、ただひとつ残された望みを成し遂げるのだ。

奪われた心の欠片を取り返し、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティをルーリッドのアリス・ツーベルクに戻して、故郷に送り届ける。その傍らには、もう汚れきった自分が連れ添うことはできないだろう。闇の国にでも落ちのび、怪物として生きるくらいのことしか許されまい。だが、それでもいい。アリスが再びあの村で幸せに暮らせるのなら、それ以外に望むことはもう何もない。

心中を吹き抜ける風の冷たさに思わず身震いしてから、ユージオは前を走るキリトの背をじっと見つめた。

 もし、僕が闇の国に行くと言ったら、君はついてきてくれるかい……?

 声に出さずにふとそう問うてから、ユージオは唇を噛み締め、答えを想像することを無理矢理に止めた。いまや、世界でたった一人同じ場所に立ってくれている人間――そう、あるいは物心ついてから、アリスのほかに初めてできた友達であるこの黒髪の相棒と、いつか道が分かれるかもしれないなどと、考えることさえ恐ろしかった。


カーディナルという不思議な少女が言っていたとおり、二人がくぐったドアからまっすぐ伸びる回廊は、思いのほか短かった。

ユージオが駆けながら物思いに沈んだのは一瞬のことで、すぐに二人は半円形のホール状の場所に辿り着いた。右手の、円弧を描く壁の中央部分には驚くほど幅の広い階段が上下に続いている。そして左手の壁には、精緻な有翼獣の彫像に囲まれて、重々しい黒檀の扉が設えられているのが見えた。

前を行くキリトが、さっと右掌をこちらに向けながら壁に張り付いたので、ユージオも雑念を拭い去り同じように石柱に背中をつけた。息を殺しながら、無闇と広いホールの様子を探る。

図書館の少女の話によれば、前方左側に見えるドアは、神聖教会の武具保管庫であるはずだった。そのような重要な場所には、当然警備の者がいるのだろうと思っていたが、予想に反してホールはしんと静まりかえり、動くものは何一つなかった。右側の大階段の両側に造り付けられている飾り窓から差し込む真昼のソルスの光すら、灰色に生気を失っているように思える。

「……誰もいないね……」

隣で息を殺すキリトにそっと囁きかけると、相棒もやや拍子抜けというように頷いた。

「武具庫なんかに、そう簡単に忍び込めないだろうと思ってたけど……まあ、そもそも教会に盗みに入る泥棒はいないってことか……」

「でも、僕らの侵入はもうバレてるんだよね? なのに、ずいぶんと余裕あるなあ」

「余裕なんだろうさ、実際。俺たちが動き出してから押っ取り刀で迎え撃ってもどうとでもなるってな……つまり、次に整合騎士が出てくるときは、よっぽどの大人数か、よっぽどの強者だってこった。せいぜい、この猶予時間を有効利用しようぜ」

ふん、と鼻を鳴らして言葉を切ると、キリトは素早く壁の陰から走り出た。ユージオもそれに続いて一直線にホールを横切る。

巨大な黒檀の二枚扉は、表面に彫ってあるソルス、テラリア両女神の似姿もいかめしく二人の前に立ちはだかり、もしかしたら押しても引いても開かないのでは、とユージオは思わず悲観的になった。だが、キリトが板に一秒ほど耳をつけてから鈍い銀色の握りに手をかけ、押すと、拍子抜けするほどあっさりと扉は両側に開いた。軋む音ひとつしなかった。

人ひとり分ほど口を開けた黒い隙間からは、数百年ぶんの静寂が凝ったかのような濃い冷気がしみ出してきて、自分が拒絶されていることをユージオはまざまざと感じたが、キリトがためらい無く身体を滑り込ませたのでやむなく続く。背後で重々しく扉が閉まると、周囲は完全な暗闇に包まれた。

「システム・コール……」

 反射的に自分の口をついて出た神聖術が、隣のキリトの声とぴたり重なっていたのでつい微笑む。ジェネレート・ルミナス・エレメント、と続けながら、ユージオは二年半前、キリトといっしょに北の洞窟へシルカを捜しに行ったときのことを思い出していた。あの頃は知っている術式など初歩の初歩だけで、暗がりを照らすにも手に持った枝を弱々しく光らせるくらいのことしかできなかった――。

右掌の上に発生した純粋なる光源が一気に濃密な闇を吹き払い、ついでにユージオの郷愁をも跡形も無く消し飛ばした。眼前に広がったのは、それほどまでに圧倒的な眺めだった。

「うお……」

隣でうめくキリトと同時に、ユージオも喉をごくりと鳴らした。

何という広さだろうか。保管庫、というからつい、ルーリッドの村の衛士詰所にあった装備置き場のようなものを想像していたがとんでもない。ルーリッドにはそもそも、これほど大きな部屋は存在しなかった。修剣学院の大講堂でも張り合えるかどうか。

窓ひとつない、滑らかな石壁に四方を囲まれた大空間には、ユージオの掌から離れて舞い上がった光源の灯りを跳ね返すありとあらゆる種類の色彩が満ちていた。

床一面に、縦横整然と並ぶのは十字の支持架に着せられた鎧だ。漆黒のもの、純白のもの、赤銅青銀黄金と目の眩むような色彩に加えて、細かい鎖となめし革で造った軽装用から、分厚い板鋼を隙間無く組み合わせた重装用まで思いつく限りの種類が網羅されている。その数、五百は下るまい。

そして四方の壁には、これまたおよそ存在し得る全ての武器がびっしりと掛けられていた。

剣だけでも、長いもの短いもの、太い細い直刀曲刀と多岐に渡る。加えて片刃や両刃の斧、長槍に馬上槍、戦槌から鞭から棍棒そして弓に至るまでの多種多様な戦闘用器具がもはや数えるのも不可能なほどに床から天井近くまで連なっていて、ユージオはただただぽかんと口を開けることしかできなかった。

「……もしソルティリーナさんがここにきたら、感極まって卒倒するかもな」

数秒後、ようやく沈黙を破ったのはキリトの囁き声だった。

「うん……ゴルゴロッソ先輩も、あの大剣を見たら飛びついて離さないよ」

ため息まじりにそう呟き、ユージオはようやく我に返って大きく息をついた。改めて広大な武具庫を見回し、二、三度首を振る。

「何て言うか……教会はいずれ軍隊でも作る気なのかな? 戦争する相手なんか居ないだろうに」

「うーん……闇の軍勢と戦うため……? いや、違うか……」

キリトはやけに厳しい顔でちらりとユージオを見、続けた。

「逆だな。軍隊を作るためじゃない……作らせないために、教会はここに武具を集めたんだ。恐らくここにあるのは全部、神器かそれに準ずるクラスの強力な装備だろう。教会以外の勢力がこれらを手に入れて、不相応な戦力を蓄えるのを嫌ったんだ、アドミニストレータは……」

「え……? どういう意味だい、それ。たとえどんなに強い武器を持ったところで、教会に歯向かおうとする集団なんてあるわけないじゃないか」

「つまり、教会の権威を一番信じてないのは最高司祭様ご本人かもしれないってことだ」

皮肉げなキリトの言葉の意味をユージオはすぐに理解することができなかったが、考え込むより先にぽんと相棒に背中を叩かれた。

「さ、時間が無いぜ。とっとと俺たちの剣を取り返そう」

「あ……う、うん。でも……見つけるのも一苦労だね、これ……」

青薔薇の剣と黒いやつは、それぞれ装飾の少ない白革と黒皮の鞘に収められているが、そんなような剣は右側の壁に幾つも見て取れる。近寄って、柄を仔細に見て回るしかないか、とユージオは思ったが、足を踏み出すよりも早くキリトがぼそりと言った。

「いや、もう見つけた」

そのままくるっと振り向き、入ってきたドアのすぐ左脇の壁を指差す。

「うわ……こんなとこに」

確かに、そこに掛けられた白黒二振りは、見紛うことなき二人の愛剣だった。ユージオは唖然として相棒の横顔を見やった。

「キリト、一度も後ろは見てないよね。神聖術も使わずに、どうして……」

「一番新しく持ち込まれた剣なら、ドアに一番近いところにあるだろうと思っただけさ」

そううそぶくキリトは、普段ならこんな時は子供のように自慢げな笑いを浮かべるのに、今はなぜか厳しい表情でじっと自分の黒い剣を睨んでいた。しかしすぐにふっと息を吐き、数歩壁に歩み寄ると右手を伸ばして黒革の鞘を掴んだ。

ほんの一瞬、何かを躊躇うかのようにそのままでいたが、すぐに自分の剣を持ち上げ、続いて左手で隣の青薔薇の剣を取ると無造作に放ってきた。ユージオが慌てて受け止めると、ずしりとする重みが手首に伝わった。

愛剣と離れていたのはほんの三日程度のことなのに、自分でも驚くほどの懐かしさと安堵感が込み上げてきて、ユージオは両手で鞘をぎゅっと握り締めた。

 故郷でギガスシダーを斬り倒したあの時から、青薔薇の剣は常に傍らにあり、常に助けてくれた。ザッカリアの街で剣闘大会に出たときも、修剣学院の入学試験を受けたときも――そう、禁忌目録に背きライオスの片腕を断ち切ったあの時ですら。だから、整合騎士の神器と打ち合おうとも、この剣は決して折れることはないはずだ。

 神聖教会が、強力な剣の蒐集、死蔵を続けていたというなら、この青薔薇の剣が北の洞窟で眠ったまま見過ごされていたのはまさに僥倖――あるいは運命なのだ。村を捨て、あらゆる障害を斬り伏せ、アリスを助けるという運命……例え、何者が立ちはだかろうとも――。

「いつまでも感動してないで、さっさと吊るせよ」

苦笑混じりのキリトの声にはっと顔を上げると、相棒はすでに鞘の留め具をベルトに繋いでいた。ユージオも照れ笑いを浮かべながら同じようにし、最後に一度かるく柄頭を叩いてから、さて、と周囲を見回した。

「……どうする、キリト。これだけあれば僕らの体に合うのも見つかるだろうし、鎧も借りてく?」

「いやあ、俺たち鎧なんて着たことないだろう。馴れないことはしないほうがいいよ。あのへんにある服だけ頂こう」

そう言って指差すほうを見ると、たしかに鎧の列の一角に色とりどりの衣服が並んでいるのが見えた。己の身につけている、捕縛から脱獄騒ぎのあいだにあちこちほつれた粗末な部屋着を眺めて、ユージオは頷いた。

「確かにこのままじゃ、そのうち服だか襤褸切れだかわかんなくなりそうだね」

頭上に漂う光源も、徐々にその輝きを薄れさせつつあった。二人は衣装の並びに駆け寄ると、手触りのよい布をばさばさとかき分け、やがて体に合いそうなシャツとズボンを見つけ出した。互いに背を向け、手早く着替える。

学院の制服に良く似た群青の服の袖に手を通したユージオは、その肌触りの滑らかさに驚いた。ボタンを留めて振り向くと、キリトも同じ感想を持ったと見え、両手で黒い布地を撫でまわしている。

「……おそらくこの服も、それなりのいわく付きなんだろうな。整合騎士の刃を多少は止めてくれるといいけどな」

「そりゃ期待しすぎってもんだよ」

相棒の、虫のいい言葉に短く笑ってから、ユージオはぎゅっと口もとを引き締めた。

「さてと……そろそろ、行こうか?」

「ああ……行きますか」

短い言葉を交わし、足音を殺して入り口まで戻る。

 ここまでは拍子抜けするほど順調だが、そうそう続きはするまい。気を抜かずに進もう――という無言の確認を込めて互いに頷きあい、ユージオは右の、キリトは左のドアの取っ手を握った。

 同時にぐっと引き、扉がわずかに開くのと――。

どかかかっ! と音を立てて、黒檀の厚板の表面に、何本もの矢が突き立ったのはほぼ同時だった。

「うわっ!」

「おわぁ!?」

その圧力で扉は勢い良く左右に押し開かれ、ユージオとキリトは揃って床に尻餅をついた。

 眼前に広がる半円形のホール、その正面奥に伸び上がる大階段の踊り場に、見覚えのある赤い鎧の騎士が単身立ち、身の丈ほどもある長弓に今まさに第二射をつがえようとしていた。しかも、同時に四本――右手の指の股すべてに鋼の矢を挟んで。

彼我の距離、およそ五十メルか。剣はどう足掻こうと届かないが、弓の達人ならばおそらく必中距離。そして無様に転がったこの体勢からは、立ち上がって回避する時間も、壁の後ろに身を隠す時間もないだろう。

だから、鎧を着ようって言ったんだ! 盾があればなおよかった!

ユージオが心中でそう喚くのと、騎士が長弓をいっぱいに引き絞るのはほぼ同時だった。

 かくなる上は、直撃を食らうことは覚悟し、せめて致命傷――いや、行動不能に陥るような深手の回避に注力するしかない。

 ユージオは息を詰めた。騎士がぴたりと矢じりの狙いを定めた。何もかもが静止したような一瞬の"溜め"――。

その空隙を、キリトのびんと張った叫び声が貫いた。

あまりに早口だったために、ユージオは咄嗟に何と言ったのか聞き取れなかった。言葉を字面で理解できたのは、そのコマンドが発動したあとだった。

「バースト・エレメント!」

突如、視界が、白一色に塗りつぶされた。

 強烈な光が周囲に炸裂したのだ、と察しつつも、ユージオは何故こんなことが!? と激しく混乱した。あらゆる属性系神聖術の起点となる素因(エレメント)、光属性のそれを変成も移動も強化もせずにただ解放しただけの単純な術だが、しかしそもそもキリトはエレメントの生成をしていない。一体どこから――。

 いや、あった。五分ほど前、武具庫内部を照らすために、二人して光素因(ルミナス・エレメント)を呼び出し、ただ空中に漂わせておいたのだ。放置されたエレメントの持続時間は術者の権限位階に拠るが、その間ずっと後続する術式の入力待ち状態も保持される。キリトは瞬間的にそれを思い出し、素因をバースト、つまり単純炸裂させたというわけだ。

数時間前、整合騎士エルドリエを拾った硝子片で牽制したことといい、まったく、周囲にある全てのものを利用する戦闘に関しては天才的な奴だ。

 ――と、それだけのことを、白光が炸裂し、直後発射されたであろう騎士の矢を、後方に転がっての回避を試みる間にユージオは考えた。

ぎぎん! と鋼矢が石床を抉る耳障りな音が、直線までユージオの両脚があった位置から聞こえた。

どうやら騎士は、致命傷ではなく行動不能を狙っていたらしい。その枷と、キリトの術式が巻き起こした光の爆発が、不利な体勢からの回避をぎりぎり成功させ得る僅かな時間を与えたのだ。

いまだ消えない白光の渦の中、ユージオは右隣で相棒も矢をかわした気配を察しつつ、とりあえず戸口の石壁の陰に身を隠そうと床についた両足に力を込めた。

しかし直後、考えを変えた。

「――前だ!」

叫びつつ、扉方向へと全力で突進する。

光エレメントが爆発したのは二人の頭上後方、つまり自分たちは光源を直接見ていないが、相対していた騎士はまともに眼に入ったはずだ。あと数秒は視力を半ば以上奪われた状態が続くに違いない。

 人間に対しては実効的攻撃力を持たないとされる光属性の術式だが、例えば武器に付与しそれを強く発光させることでの幻惑効果は学院の講義でも扱ったし、試合での決め技に用いれば見映えもいいので実際に用いる修剣士も少なくなかった。よって、敵手が光素因を発生させたときは、反属性である闇素因(ダーク・エレメント)で効果の相殺を狙うのが常道である。

あらゆる剣士の頂点たる整合騎士がそれを知らないわけはなく、つまり新たに光素因を呼び出しての眼潰しはもう二度とは奏効するまい。今は、弓使いである敵との距離を詰める最初で最後の好機なのだ。

 状況の分析と行動の選択の速さこそがアインクラッド流の兵法の極意だとキリトはこれまで何度もユージオに言った。剣技の打ち合いにせよ術式の掛け合いにせよ、典雅さを重視してゆったりとした呼吸のやり取りになりがちな修剣学院の各流派とはまったく異なる考え方だ。その極意を常に実践するために、たとえ戦闘中でもむやみと高揚せず頭を冷やしておく――そのためのまじないとして教わったのが、"ステイ・クール"。

今回は、冷えた頭での行動選択はユージオのほうが一歩先んじたようだった。すぐ後ろに続くキリトの靴音を耳の端で捉えながら、左腰の青薔薇の剣の柄を握り、一気に抜き放つ。

半円形のホールを、大階段に向かって七割方突っ切ったところで、ようやく武具庫の戸口から噴き出す光の奔流が薄れ始めた。目をすがめながら、改めて階段を登りきったところに立つ整合騎士の姿を確認する。

予想通り、騎士は視力をほとんど削がれた状態と見えた。顔は赤銅色の兜の陰で見えないが、右手で眼のあたりを覆い、盛んに首を動かしている。

更なる僥倖と言うべきか、この整合騎士はエルドリエとは違い腰に剣は無かった。単身、屋内での戦闘を挑んでくるにあたって得物が長弓ひとつとは凄まじい自負だ。接近される前に二人の足を殺せるという確信があったのだろう。

ユージオの頭は冷えていたが、それでも意識の片隅である種の炎がちろりと揺れるのを抑えることはできなかった。

 ――整合騎士とは言え、所詮はライオスと同じだ、お前も! 度し難い尊大さの塊――その報いを、僕の剣で思い知らせてやる――お前が狙った両脚を叩き斬って――。

それは、ユージオにはあまり馴染みのない感情だったが、しかし途方もなく甘美な何かだった。唇の片端がかすかに吊りあがるの自覚しながら、ユージオは大階段の一段目に右足を掛けた。

そして、ぐっと喉を詰まらせた。

赤銅の整合騎士が、右手を兜の面頬から放し、背中の矢筒に持っていくと、そこから鋼矢を引き抜いたのだ。残る、全ての本数を一度に。

掲げた右手から、びっしり針山のように突き出した矢は、どう見ても三十本はある。一体何を、と思う間もなく、騎士は左手で水平に構えた長弓の弦に、その矢の束をいっぺんに番えた。

「な……」

思わず脚を止め、ユージオは息を飲んだ。あんなもの、撃てるはずがない。

ぎりぎりぎりっ、と肌が粟立つような音が耳に届く。それが、凄まじい握力に耐えかねる鋼矢の悲鳴だと気付き、背筋に冷たいものが疾る。

 追いつき、隣で停止したキリトも、瞬間騎士の仕業を判断しかねるようだった。苦し紛れのはったりか、それとも――。

一際激しい軋み音とともに、長弓が一杯に引かれた。

「――跳んで避けろ!」

キリトが鋭く叫んだ。

びんっ!、と弦が鳴り、直後ばつんと響いたのはそれが切れる音か。しかし同時に、放射状に発射された三十本の鋼矢が、致命的な銀色の霰となって階下の二人に降り注いだ。

後ろに跳んでもだめだ!

瞬間的に判断し、ユージオは右足が折れるかと思うほどの力を込めて左に身体を投げた。同時に、体の正中線を抜き身の腹で防ぐ。

恐らく、騎士の視力が万全ならば、二人の体は穴だらけになっていたに違いなかった。

ほんのわずかに狙いが下向きだったのが幸いし、矢の半分以上は階段に突き立った。

甲高い音を立て、一本が青薔薇の剣に当たり弾かれた。一本がユージオのズボンの右裾を縫い、一本が左脇の布地を貫通し、一本が左頬を掠めて髪を何本か引き千切った。

どうっと肩から床面に落下し、ユージオは縮み上がった心胆に歯を食い縛りながら自分の体を見下ろした。深手の無いことを確かめてから、顔を上げて右方向に跳んだキリトを凝視する。

「キリト! 無事か!」

かすれた声で叫ぶと、黒髪の相棒はこちらも食い縛った歯の間から息を漏らし、頷いた。

「あ……ああ、指の間を抜けたらしい」

見れば、左の靴のつま先に矢が一本突き立っている。相棒の反応だか強運だかに簡単しつつ、ユージオはふうっと息を吐いた。

「……脅かすなよまったく……」

呟きながら、素早く立ち上がる。

再度剣を構えながら階上の整合騎士を見上げると、流石の整合騎士も動きを止め、ただ棒立ちになっているようだった。背中の矢筒は空になり、弓の弦も切れて力なく垂れ下がっている。矢尽き弓折れ、とはまさにこのことだ。

「……後退させてまた出てこられたら面倒だ、一気にケリをつけよう」

相棒に声をかけ、ユージオはひといきに階段を駆け上るべく腰を落とした。しかしキリトは眉を顰め、靴から抜いた矢を握ったままの左手でユージオを制した。

「あ、ああ……いや、待て」

「え……?」

「あの騎士、術式を……これ……やばい、"完全支配"だ!」

「なっ……」

絶句し、耳を澄ませる。すると確かに、耳にはある種の虫の羽音のような、抑揚の薄い低音のうねりが届いてきた。声質は異なるが、間違いなくエルドリエの使っていたのと同じ技、高速術式詠唱だ。

 ――しかし、いかに武器の性能を解放しようとも、弓矢は弓矢じゃないのか!? 弦が切れて矢も無い状況で何をしようと……。

ユージオが唖然としてそう考えるうちにも、騎士の詠唱は完了に近づいて徐々に高まり、一際力強い叫びとともに終わった。

「……記憶解放(リリース・リコレクション)!」

 先ほど、図書室で教わったとおりの完全支配術の発動句。その直後――。

ぽっ、とかすかな音とともに、切れて垂れ下がった二本の弦の先端に、橙色の炎がともった。見る間にそれは弦を這い上がりながら焼き尽くしていき、そして弓本体の両端に達した瞬間。

ごうっ! と激しい音を立てて、銅がねの長弓全体から真紅の劫火が噴き出した。

まだ彼我の間には相当の距離があるのに、ユージオは一瞬、猛烈な熱波が吹き付けてきたような錯覚にとらわれ顔を背けた。騎士の手中に生まれたのはそれほどまでに巨大な炎だった。もとより身の丈ほどもあった長弓が、今はその倍近くも伸びたように見える。

あまりにも想像の埒外である超現象に、咄嗟にどう対処すべきかユージオは迷った。矢が尽きた以上、どれほど派手な技を使おうとも攻撃能力は無いと判断し突撃すべきか? あるいは、直前の攻撃で騎士が矢を使い切ったのは、完全支配状態ならばそれが必要ないからなのか?

こういうときの直感ではどうしても一枚上手である相棒はどちらと見たのか、と右隣にちらりと視線を流すと、そのキリトはまるで旅芸人の離れ業に魅せられる子供のように目を丸くし、口もとにかすかな笑みを形作っていた。

「こりゃあすげえな……。あの弓の元になったリソースは何なんだろうな」

「感心してる場合じゃないよ」

後頭部を思い切りどつきたくなるが、我慢して再び騎士をじっと睨む。突っ掛けるにせよ退くにせよ、すでに機を逸してしまった観は否めない。あとはもう、敵の出方に合わせて対処するしかないとユージオは腹をくくったが、どうやら整合騎士のほうもここで間を置くつもりらしく、燃える弓を握った右手を垂らしたまま左手でがしゃりと兜の面頬を上げた。

鋭く前に尖った兜の意匠のせいで、顔は翳に沈んで見えなかったが、それでも冴えざえと冷えた眼光をユージオは強く感じた。続いて、陰々と尾を引きながら響いた声もまた、一切の揺るぎを削ぎ取った剛毅さに満ちていた。

「――『熾焔弓』の炎を浴びるのは実に四年振りである。成る程、我が弟子トゥエニシックスと渡り合うだけの腕はあるようだな、咎人共よ。しかし、ならば尚のこと許せん。堂々たる剣士の戦いではなく、穢れた黒き術によってエルドリエを惑わしたことがな!」

「で……弟子だぁ?」

隣でキリトが愕然としたように呻いた。まったく同感というしかない、二人を散々痛めつけたエルドリエの、あの赤銅の騎士は師だということなのか。

しかしそれ以前に、ユージオは騎士の口ぶりに受け入れがたい反発をおぼえ、夢中で叫び返していた。

「ち……違う、僕らは暗黒術なんか使ってない! ただ、エルドリエさんの過去の話をしただけで……!」

「過去だと! 我ら神と秩序の使徒に過去などあるものか! 我らはこの地に降り立った時より、再び天に召されるその時まで、常に栄光ある整合騎士である!」

即座に鋼のような怒声が階段ホールに鳴り響き、ユージオはうっと息を飲みこんだ。師というだけあって、今度の騎士はすさまじく強烈な自負心で己を括っているようだった。カーディナルという少女の言葉によれば、行動原則キーなるものが埋め込まれている記憶の周辺を刺激すれば整合騎士の心を動揺させられるらしいが、あの騎士に関してはその取っ掛かりすら掴めそうにない。

燃えさかる弓を握る左手をぶんっと振り、周囲に無数の火の粉を撒き散らしながら、騎士が口上の締めを唱えた。

「――生かして捕らえろと命じられておる故、炭屑にまではせぬが、熾焔弓を解放した以上腕、脚の一本なりとも焼け落ちること覚悟せよ。断罪の炎を掻い潜り、その貧弱な剣を吾まで届かせられるかどうか、試してみるがよい!」

 高く掲げた弓の、本来弦があるべき位置に、騎士の右手がぴたりと据えられた。指先が何かを握る仕草に、まさか、と思う間もなく――ひときわ強烈な炎が前方に噴き出し、それはたちまち一本の矢へと形を変えた。その眩さと轟く唸りからは、内包された威力がありありと感じられ、反射的に下腹がぎゅうっと縮み上がる。

「やっぱりかよ、畜生」

キリトが低く毒づいた。しかしその声からは常の不敵さが消えてはおらず、ユージオは僅かながら頭の芯を冷やすことに成功した。

「何か策はあるかい」

震えそうになる顎にぐっと力を入れそう訊くと、相棒は即座に早口で囁き返してくる。

「連射は不可能、そう信じる。一本を俺がどうにか止めるから、お前が斬り込むんだ」

「信じる、って……」

 ため息をつきそうになりつつも、つまりはあの炎の矢を連射されたら最早為す術なし、ということなのだろうとユージオは察した。しかし単発であるならば、それはそれで一撃必殺の威力をあの矢は有しているということにならないか。そんなものをどう防ぐのか――という危惧が続いて湧き上がるが、ユージオはその感情を強いて振り捨てた。

キリトが止めると言うなら止めるだろう。ギガスシダーを倒すと言って倒した無茶に比べれば、まだしも現実味があろうというものだ。

ちらりと視線を交わし、それぞれの剣をがしゃりと構えなおした二人を、玉砕の覚悟を決めたと見て取ったか整合騎士は至極ゆっくりとした動作で弓を引きはじめた。

両肩を大きく怒らせ、右腕で円弧を描きながらぎり、ぎり、と見えない弦を絞っていく。弓矢全体を包む炎の荒れ狂い方はいまや凄まじいほどで、見れば階段に敷かれた緋の絨毯はすでに騎士を中心に円く焼き尽くされている。

ユージオの頬を撫でる熱気は、最早錯覚ではなかった。成る程たしかに、この攻撃は激甚なる威力を備えた単発技なのだろう。騎士は伊達でゆっくりと右手を引いているのではなく、全膂力を振り絞ってあの速度なのだと思えた。

キリトが動いたのは、騎士の動作が最後の一溜めに入る、その直前だった。

雄叫びを上げるでもなく、激しく床を蹴りすらしない、木の葉が早瀬に吸い込まれるような滑らかかつ鋭い突進。つい一呼吸遅れてしまい、ユージオは慌ててその後を追った。

 黒衣の相棒は、広い階段を三段飛ばしですべるように駆け上っていく。その、硬く握られた左拳から、わずかに薄青い光が漏れているのにユージオは気付いた。恐らく騎士が口上を述べている間に発生させたのだろう、間違いなくそれは冷素因(クライオゼニック・エレメント)の輝きだ。

二人の突撃に慌てるふうもなく、騎士はついに弓を完全に絞り切った。同時に、キリトの口から神聖術の高速詠唱が迸った。

「フォームエレメント・シールドシェイプ! ディスチャージ!」

鋭く突き出した左掌から一列になって射ち出されたエレメントは、キリトの素因同時生成数の上限であろう五個。それら青い輝点は、先頭のものから次々に大きな円盾型に変じ、二人と整合騎士の間を密に遮る。

それを見た騎士の口から、再度怒声が轟いた。

「笑止! ――貫けいッ!!」

 千のふいごが同時に猛ったような耳をつんざく衝撃音とともに、ついに炎の矢――いや槍、あるいは柱とでも言うべき火焔の凝集が発射された。見上げるユージオには、それはもう天より放たれた神威以外の何ものでもなかった。

キリトも、騎士の技の脅威を予感していたのだろう。先に発射した五個の素因に続けて、詠唱を止めることなく更に五個を生み出し、盾へと変えて撃ち出している。初級階梯の術者としては、こちらも驚くべき早業だが、それでも決して十分な護りだとは、残念ながらユージオには思えなかった。

須臾の間を置いて、先頭の氷障壁と火焔矢が接触した。

あまりにも呆気ない消滅。薄い氷の盾は硝子質の悲鳴とともに四散し、その欠片も即座に蒸気と化した。

 二、三、四枚――と貫かれたのは、破砕音を数えるのも難しいほどに一瞬の出来事だった。ユージオは全身を恐怖と戦慄が包むのを覚えながら、五枚目が僅かに持ちこたえ、しかし堪らず砕け散る音を聞いた。六枚目、七枚目もそれぞれ瞬き一つする間もなく叩き割られ、八枚目は矢を受けた中心がぐうっと撓んでからやはり散った。残る二つの氷盾を透かして、もう目の鼻の先にまで迫った火焔矢の赤熱する輝きがユージオの目を射た。

荒れ狂う炎は、少しなりとも減殺されているように見えはしたが、しかしそれが二人を焼き焦がすには充分すぎるほどの熱量を保っているのは明らかだった。九枚目の障壁にその尖端を阻まれると、矢は激怒するようにその身をたわめ、一拍置いてから容赦なくそれを引き裂いた。

ついに最後の氷盾が残るのみとなり、ユージオは階段を蹴る足が萎えそうになるのを懸命に堪えた。すぐ目の前を、相棒が畏れを知らぬ足取りで突き進んでいくのに遅れを取るわけにはいかない。

ユージオが祈りながら凝視する先で、十枚目の盾と衝突した炎の矢は、とうとうその飛翔を止めた。

相容れない属性に基づく二つの力は、中空で赤い火の粉と青い氷晶を激しく振り撒きながら互いを退けようと身悶えた。

「――!?」

 ユージオは息を飲んだ。半透明の氷盾の向こうで、一瞬、火焔矢が蛇のようにのたうったように見えたからだ。いや――大きくあぎとを開き、翼を広げたその姿は、竜――?

がしゃーん、と悲鳴を上げ砕け散ったのは氷の盾だった。

途端、息も出来ないほどの熱気が押し寄せ、ユージオは歯を食い縛った。すべての障壁を貫いた火焔矢、いや炎の竜は残虐な殺意を振り撒きながらキリトに襲い掛かった。

「うおおおおお!!」

ここにきて、ついにキリトの口から裂ぱくの気合が迸った。黒い剣を握る右手を大きく振りかぶる。

まさかあの竜を斬ろうというのか、とユージオが思った、その直後。

炎の塊目掛けて突き出されたキリトの腕の先で、剣が不思議な動きをした。五本の指を中心に、風車の如く回転したのだ。

しかしその速度が尋常ではなかった。一体どのような技なのか、見ることが不可能なほどの勢いで刀身が旋転し、まるで透き通る黒い盾が出現したようだった。

火焔竜の頭部がその盾に接触した。

 ごわっ!! という轟きは、炎の猛りか、あるいは竜の断末魔か――。

十枚の氷盾を食い破った必殺の火焔は、キリトの手許で幾千にも引き千切られ、放射状に飛び散った。しかしそのうち、少なくない量が剣の円盾を突き抜けてキリトの全身を押し包み、次々と小爆発を引き起こした。

相棒の体が弾かれたように宙に舞うのを見て、ユージオは絶叫した。

「キリト――!!」

無数の火の粉を散らしながら、それでもキリトは空中で叫び返してきた。

「止まるな、ユージオ!!」

僅かな躊躇いののち、軋むほど奥歯を噛み締め、ユージオは前方を睨んだ。キリトなら、ここで足を止め千載一遇の機を逃したりはするまい。彼は言ったことを果たした。ならば自分もそうしなくては。

右上空を落下していく相棒とすれ違い、ユージオは残る段数を全力で駆け上りつづけた。

背後で、ど、どうっ、とキリトの体が階段に叩き付けられる音がした。

いまだ宙を舞う火焔の残滓を一気に突っ切ると、騎士が立ちはだかっている踊り場までは、もう十数歩の距離だった。

 絶対の自信を示していた武装完全支配からの必殺の一撃を、無傷でとはいかぬまでも退けられたのは、整合騎士にとっても予想外のことなのだろう。肉薄しても素顔は見えないが、甲冑の奥にかすかな驚きの気配が感じられた。先ほど、構えから火焔矢の発射まで騎士はどう少なく見積もっても十秒の時間を要したが、ユージオが剣の間合いに入るには五秒もあれば充分だ。帯剣していない以上、この距離まで接近を許した時点で――。

あんたの負けだ!

声に出さずそう叫びながら、ユージオは右手に握る青薔薇の剣を高く振り上げた。

「嘗めるな小僧!!」

ユージオの思考が聴こえたかのように、騎士が吼えた。

際前の動揺は瞬時に消え去り、圧倒的な闘気が赤銅の重鎧全体を包んだ。燃える長弓を握ったままの左腕が頭上高く掲げられ、再び凄まじいほどの炎が拳を中心に巻き起こる。

「どあああっ!!」

灼けた空気をびりびり震わせる気合とともに、騎士の左拳がはるか高みから撃ち降ろされてきて、ユージオはぎりっと奥歯を軋ませた。

どうする!?

すでに斬撃体勢に入っていたが、頭の芯でいくつかの瞬間的な思考が閃く。

剣と拳、間合いでも武器の優先度でもこちらが有利だ。しかし騎士の殴打は伝説の赤竜が吐くという火球にも似て、華奢な青薔薇の剣で押し勝てるかどうか定かでない。ここは一度距離を取りなおし、敵の余力を見極めるべきか。

 いや――。

キリトなら、ユージオにとっての剣の師でもあるあの親友ならば、一度剣を振りかぶったからにはもう余計なことは何一つ考えないだろう。斬撃の威力を決めるのは、武器の性能やそれを握る者の体力以上に、万物を斬り伏せるという鋼の意思なのだ、と稽古のおり彼はよく口にした。この世界では、最後の最後には心の力がすべてに勝るのだ、と。

信じるんだ。自分と、青薔薇の剣を。カーディナルという少女は、青薔薇の剣の基となったのは北の山脈深くに眠っていた永久に溶けない氷だと言った。ならば、その絶対の凍気を以ってあの炎の塊を切り裂くのみだ。

柄を握る右手のみならず、そこに添えた左手にも、刺すような冷たさが急激に発生したのをユージオは知覚した。それは決して錯覚ではない。その証左に、視界の隅はいつしか白い靄に覆われ、きらきらと光る極小の氷片すら無数に踊っている。長い弧を描く上段からの斬撃が、落下してくる騎士の拳に近づくにつれ、逆巻く炎が左右に押し分けられていくのが見える。

「せああああっ!!」

滅多に発しない気合とともに、ユージオは全霊を込めた一撃を振り切った。

ぎいいん! という凄まじい衝撃音とともに、剣尖と拳が衝突した。

瞬間、拳を包んでいた炎のすべてが掻き消され、かわりに青い霜が八方に飛散した。真っ白く凍りついた騎士の拳は真上に弾き返され、ユージオの剣も軌道を左に逸らされて階段の大理石を抉った。

学院での試合であれば、ここで一合のやり取りが決着し、両者距離を取り直したあと再度の撃ち込みとなる。そうしなければ審判に採点されないばかりか、醜い追撃は減点対象ともなり得る。

しかしこれは優美さを競う勝負ではない。敵を倒すことがすべての真剣勝負なのだ。

ユージオは、床を抉った剣が跳ね返る勢いを利用し、そのまま連続して第二撃を左下から右上へと斬り上げた。

「――いええっ!!」

青い霜の軌跡を引きながら伸びてくる剣に、整合騎士は完全に虚を突かれたようだった。

「ぬおっ!」

唸り声とともに身体を捻って回避しようとするが、体勢を崩していたせいで足がついてこなかった。ガッ、と短い音を立てて剣の切っ先が赤銅の鎧の胸当てを掠める。

騎士はさらに上体を泳がせながらも、左足を踏ん張り後方に大きく跳ぼうとした。

だが、ユージオの連続攻撃は終わった訳ではなかった。体重の乗らない二撃目は牽制でしかない。右に高く上がった剣を、くるりと小さな円を描かせて正中線に引き戻し、左足で深く踏み込みながら最後の斬撃へと繋げる。

「せええええいっ!!」

ライオスを斬ろうとしたときに襲ってきた右目の痛みも、奇妙な紫色の文字も、もう僅かにも現われなかった。迷いや躊躇いもなかった。斬るべき敵を斬るのだという一念のみがユージオの全身を動かしていた。

振り下ろされた青薔薇の剣が、騎士の右肩を直撃した。鎧の肩当てが断ち割られる金属音に続き、鈍く重い衝撃がユージオの右手に伝わった。それは間違いなく、己の放った斬撃が分厚い筋肉を引き裂き、骨を打ち砕く感触だった。

胸まで達する深い傷を受け、整合騎士は背中から床に叩き付けられた。

「ごはっ!」

篭った声が兜の下から漏れ、直後、面頬の隙間から鎧の赤銅よりも一層赤い血液が大量に噴き出した。

人を斬るのは初めてではないが、それでもユージオは一瞬息が詰まるのを感じた。右手に残る忌まわしい手応えに、腹の底が締め付けられるような感覚が襲ってくるが、懸命に飲み込む。

そんなユージオの嫌悪感に同調するように、青薔薇の剣は最後にもう一度強い冷気を放ち、刀身にまとわりついていた返り血をすべて霜に変じさせ振り落とすと、普段の状態へと戻った。見れば、切り裂かれた騎士の右肩も真っ白く凍りつき、滴りかけた血が小さな氷柱を幾つも作っている。

「ぐ……」

整合騎士は、吐血が落ち着くと弓を握ったままの左手を持ち上げ、傷口へ近づけようとした。それを見て、ユージオは再び剣を持つ右手に力を込めた。もし騎士が神聖術の詠唱を始めたら、倒れた相手をさらに斬りつけねばならない。高位の術者であれば、周囲の空間にソルスもしくはテラリアの恵みが残存する限り天命の回復が可能であり、つまり絶命させる以外に無力化する手段は無いからだ。

しかし騎士は、左手が完全に凍りつき、既に炎を失った弓を拳から離せないことに気付いて術による治癒を諦めたようだった。苦笑めいた吐息を漏らし、がしゃっと腕を床にもどす。

これからどうしたものか、ユージオは迷った。青薔薇の剣は、斬撃部位を氷結させることで攻撃の威力を上げたものの、同時に失血による天命の連続的減少をも防いでしまったようだ。騎士はもう戦えないほどの深手を負っただろうが、このまま死にもするまい。放置していけばやがて凍結状態も解け、神聖術で完全回復を果たして追撃してくるのではないか。

奥歯を噛んで立ち尽くすユージオに、先に言葉を掛けたのは整合騎士のほうだった。

「……小僧……」

血の絡まるしゃがれ声に、ユージオはハッと身を硬くしたが、続く内容は少々予想外のものだった。

「さっきの……技の名前は……何という……」

「…………」

しばし戸惑ったあと、ユージオは乾いた唇を湿らせてから答えた。

「……アインクラッド流剣術三連撃技、『シャープネイル』」

「三……連撃技、か」

繰り返し、騎士はわずかに沈黙したが、すぐに続けて問うた。

「そっちの……貴様の使った技は……?」

騎士の兜が右側に動いたのを見て、ユージオも肩越しに振り向いた。すると、全身に火け焦げを作ったキリトが、特に燃え方の激しい左腕を押さえ、右足を引きずりながらゆっくり階段を登ってくる姿が見えた。

「キリト……怪我は!?」

慌てて訊くと、相棒はかすかに唇を歪ませて笑った。

「大丈夫、酷い傷はあらかた塞いだ……騎士のおっさん、俺が使ったのはアインクラッド流武器防御技『スピニングシールド』だよ」

「…………」

それを聞いた騎士は、もたげた頭を再度がしゃりと床に落とし、しばらく沈黙した。やがて流れた声は、二人にではなく、自分自身に聞かせているかのようにごくひそやかだった。

「……人界の端から端まで……その果てを越えた先までも見尽くしたつもりでいたが……世にはまだ吾の知らぬ剣、知らぬ技があったのだな……。――貴様らが……穢れた術によってエルドリエを惑わせたと言ったのは……吾の見誤りであった……」

整合騎士は、もう一度首を動かし、面頬の奥からユージオに視線を向けた。

「……名を……教えてくれ」

キリトとちらりと視線を見交わしてから、ユージオは短く名乗った。

「……剣士ユージオ。姓は無い」

「剣士キリトだ」

二人の名前を噛み締めるように騎士はしばし口を閉ざし、続けて、ユージオにとってはまたしても予想だにしていなかった言葉を発した。

「……カセドラル五十階、『霊光の大回廊』にて十二名の整合騎士が貴様らを待ち受けている……生け捕りではなく、天命を消し去れとの命を受けてな……先刻のように真正面から相対してはとても抗し得ぬ剛の者たちだ……」

「お……おいおっさん、大丈夫なのかそんなことを言って? 禁忌に触れちまうぞ」

キリトが少々泡を食ったように口を挟んだ。しかし騎士は再び笑みににた気配を漂わせ、呟いた。

「アドミニストレータ様の命を遂行できなかった以上……吾は整合騎士たる資格を失い無期限凍結刑となる……そのような辱めを受ける前に、天命を断ってくれ……貴様らの手で」 

「…………」

思わず絶句したユージオに向かって、騎士はさらに言葉を重ねた。

「迷うことはない……貴様らは正当なる勝負で吾を倒したのだ……吾……」

 続く名前を聞いて――ユージオは息が止まるほどの衝撃を受けた。

「……整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンを」

聞き覚えがある、などというものではない。

その名は、この九年間というもの、ユージオの魂の奥深くに刻み込まれ一瞬たりとも薄れることはなかったのだ。深い悔恨と絶望、そして怒りとともに。

「デュソル……バート? あんたが……あの時の……?」

自分でもぞっとするほどひび割れた声が喉から搾り出されるのを、ユージオは聞いた。

 鎧の色が違うし、兜を被っていると整合騎士の声はみな同じように聞こえるので今までまったく気付かなかったが――では、今深手を負って目の前に倒れている騎士こそが、かつてユージオの眼前で――。

ある種の衝動に背を押され、ユージオはよろよろと数歩前に進み出た。

左足で、騎士の投げ出された右腕を踏みつけて立ち止まる。

「ユージオ……?」

訝しむようなキリトの声は、もうほとんど耳に届かなかった。上体を屈めて、間近から面頬の奥の騎士の顔を覗き込む。

兜に何らかの術式が掛けられているのか、数十センの距離まで近づいても騎士の素顔は闇に隠れていた。だが、天命の殆どを削られても尚力を失わない二つの眼だけははっきりと見てとれた。若いとも、年経ているとも思える鋭い眦だった。

乾ききった口を動かし、ユージオは軋むような囁き声を騎士に投げた。

「天命を……断ってくれだって……? ……高潔ぶった口を利くんじゃない……正当なる勝負だ……?」

右手が激しく痙攣すると同時に、握られたままだった青薔薇の剣が再び猛烈な冷気を放射させはじめた。ユージオの嵌めた革手袋や、切っ先のすぐ下にある整合騎士の重鎧を、たちまち白い霜が覆っていく。

急激に胸の奥に込み上げてきた熱い塊を、ユージオは喉も裂けよとばかりに一気に吐き出した。

「たった! たった十一歳の女の子を鎖で縛り上げて……竜にぶら下げて連れ去った卑怯者が口にすることかあああっ!!」

 逆手に握った青薔薇の剣を高く振り上げ――ユージオは、凍てつく剣尖を騎士の口元目掛けて全力で突き下ろした。

とても許容できない台詞を吐いた倣岸な舌を床まで縫い止め、同時に残る天命も吹き飛ばしてやるつもりだった。しかし、剣が騎士の兜に触れる直前、視界の右側で黒い影が一瞬閃き、同時に小さな火花が散って、青薔薇の剣の切っ先が左に流れた。必殺の刃は兜の側面を削いだだけで、大理石の床石をむなしく抉った。右手に込めた怒りが、冷気に形を変えて吹き荒れ、床の上にびっしりと放射状に薄青い霜を生やした。

ユージオはのろりと首を右に回し、自分の攻撃を妨げたのが、キリトの右手に握られた黒い直剣による神速の一薙ぎであると理解した。

「なんで……なんで止めるんだよ、キリト……」

あらゆる思考も感情も灼き切れた空疎な白さのなか、ユージオは世界で最も信頼する相棒に呆然と尋ねた。

キリトは、どこかいたましいものを見るような色の眼でじっとユージオを凝視し、ゆっくりと首を振った。

「――そのおっさんはもう戦う気は無いよ。そういう相手に剣を振るっちゃだめだ……」

「でも……でも、こいつは……こいつがアリスを連れていったんだよ……こいつが……」

駄々っ子のように首を振り、言い募りながら、ユージオは意識のどこかでキリトの言わんとする所を理解してもいた。整合騎士も、所詮は神聖教会の命令によって動く存在に過ぎないこと。真に倒すべきは教会そのものであり、ひいてはこの世界を縛る歪な法と秩序であること。

しかし、それが正しい物の見方であると思えば思うほど、そんなもの糞くらえだと叫び、横たわる騎士を滅茶苦茶に斬り刻んでしまいたい衝動も膨らんでいくようだった。十一のあの夏の日から、ユージオが胸中に積もらせてきた怒りと無力感、そして罪悪感は、今更世界の仕組みなどを知ったところで晴らせるようなものではなかった。

足元に転がるバスケット。砂に塗れたパンやチーズ。アリスの青いワンピースを締め上げる鎖の鈍い輝き。そして、根が生えたように動かない、自分の二本の足。

 ああ――キリト――キリト。君なら、あの時、整合騎士に斬りかかってでもアリスを助けようとしただろう。たとえそれで一緒に捕縛され、審問に掛けられるとわかっていてもそうしただろう。凄まじいほどの剣の技を持ち、誰よりも自由に振舞い、出会う人皆に好かれる君なら。でも、僕にはできなかった。アリスはたった一人の友達、誰よりも大切な女の子だったのに、僕はただ見ていることしかできなかったんだ。今足元に転がるこの男が、アリスを縛り、連れていくのを。

そのような断片的な思考を孕んだ感情の嵐が一瞬ユージオの脳裡を吹き過ぎた。右手が強くわななき、勝手に動いて青薔薇の剣を床から引き抜いた。

しかし、腕が次の動きに移るよりも早く、キリトの左手が強くユージオの右手を掴んだ。

続いた言葉は、またしてもユージオがまったく予想していないものだった。

「それに……このおっさんは、多分憶えていないよ。ルーリッドの村からお前のアリスを連行した時のことを……。忘れたんじゃない、記憶を消されたんだ」

「え……?」

ユージオは愕然として、横たわる騎士の兜を見下ろした。

これまで、青薔薇の剣が振り下ろされたときすらも身じろぎ一つしなかった整合騎士が、二人の視線を受けてはじめて動いた。ようやく凍結が解けかかったらしい左拳を強引に動かし、ぴきぴきと氷の小片を散らしながら長弓を離すと、その手を兜の顎部分に掛ける。

すでに片側を大きく切り裂かれていた兜は、そこから上下に割れるように騎士の頭から剥がれた。現われたのは、年の頃四十程と見える、いかにも剛毅を絵に描いたような男の顔だった。短く刈られた髪と、太い眉は鉄錆に似た赤灰色。高い鼻梁と引き結ばれた口もとは一刀彫りのように真っ直ぐで、両眼もまた鋭く切れ上がっている。

しかし、濃い灰色の瞳だけが、心中の動揺を映してか僅かに揺れていた。吐血の跡を残す唇が動き、流れ出た声は、先刻とはまったく異なる深い低音だった。

「……その黒髪の小僧の……言うとおりだ……吾が、少女を捕縛し、飛竜で連行したと……? そのような記憶はない……全く存在しない」

「き……記憶はないだって……たったの九年前なんだぞ」

呆然と呟き、ユージオは左足を騎士の右腕から離して一歩あとずさった。ユージオの右腕から外した手で、考えこむように顎の先を撫でながら、キリトが再び言った。

「だから、消されたのさ……前後の記憶ごとな。おっさん……いやデュソルバートさん、あんた以前はノーランガルスの北の辺境を守る整合騎士だった、それは間違いないよな?」

「……然り。ノーランガルス北方第七辺境区が……我が統括区であった……九年前まで……」

騎士の眉が、記憶の底を浚うようにぎゅっと顰められた。

「そして吾は……功大なりとして……セントラル・カセドラル警護任務とともにこの鎧と熾焔弓を与えられた……」

「その功とは何だか、憶えているか?」

キリトの問いに、騎士は即答しなかった。ただ唇をぎゅっと結び、視線を宙に彷徨わせている。短い沈黙を破ったのは、再びキリトの言葉だった。

「俺が答えてやるよ。あんたの功とは、現在あんたらを束ねる立場にいる、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティを見出したことだ。ルーリッドなんていう、央都じゃ誰も知らないような北の果ての村からな。最高司祭アドミニストレータは、アリスをこの塔に連行したことをあんたの手柄としながらも、その件に関する記憶は消さなければならなかった……。その理由も、あんたさっき自分で言ってたぜ」

最早ユージオと整合騎士にというよりも、自分に聞かせるが如く早口でキリトは喋りつづける。

「整合騎士は、生まれたときから整合騎士だ……あんたはそう言った。恐らくアドミニストレータは、あんたら騎士は、人の世を守るために自分が神界から召還したとか何とか言ってるんだろう。騎士となる以前の記憶がないのはそのせいだと納得させるためにな。でもその無茶な説明をごり押すためには、整合騎士に、自分だけじゃなく他の騎士の誕生に関する記憶も残してもらっちゃ困るわけだ。自分が連れてきた大罪人のはずの女の子が、次の日騎士様で御座いと出てきたら大混乱だからな……案外そのへんか、最高司祭様の弱みは……」

猛烈な速さで何事か考えているのだろう、キリトは俯いたまま左右に歩きまわりはじめた。そんな相棒の様子にすっかり気勢を削がれ、ユージオは長く息を吐き出しながらもう一度床の上の騎士を見やった。

整合騎士デュソルバートも、虚ろな表情で何らかの思考を巡らせているようだった。

 怒りや憎しみが消えたわけではないが、アリスに関する記憶を消されているという話が真実なら、認めざるを得ないのか、とユージオは思った。確かにこの男は、教会の最高司祭であるというアドミニストレータなる人物に操られる手駒にすぎないことを。自分からアリスを奪い、アリスから記憶を奪って整合騎士に仕立てた憎むべき敵は、そのアドミニストレータ一人に他ならないということを――。

デュソルバートは、やがてじっと見下ろすユージオの視線に気付き、瞳を彷徨わせるのをやめた。その胸中に渦巻いているであろう感情は読み取れなかったが、流れ出した声は、本当に先刻二人の前に立ちはだかった強敵と同じ人間のものかと思いたくなるほどの揺らぎに満ちていた。

「本当なのか……吾ら整合騎士が、そうなる以前は市井に生きる民……人間であったという話は?」

「…………」

言葉に詰まったユージオに替わって、再びキリトが答えた。

「そうさ、あんただってさっき自分から赤い血が嫌ってほど流れたのを見たろうが。エルドリエが倒れたのだって、妙な術を掛けたからじゃない、あいつの奪われた記憶を呼び覚まそうとしたからだ。出来なかったけどな……あんただって同じだぜ。あんたがどんな経緯で……統一大会で優勝したのか、禁忌目録を軽んじたのかは知らないが、あんたはアドミニストレータに大事な記憶を奪われて、代わりに教会への忠誠を埋め込まれ整合騎士に仕立てられたんだ。いま忠誠心が薄れてるのは、あんたが俺たちに敗れ、任務に失敗したと自己認識しているからだ。凍結刑になるとか言ってたけど、実際はその間にまたアドミニストレータ様があんたの記憶をいじくりまわしてもう一度自分に絶対服従の騎士に仕立てちまうはずだぜ、賭けてもいいね」

言い回しは冷たいが、キリトの声にはどこかやるせなさと、そしてデュソルバートを慮るような響きが混じっているように思えた。騎士もそれを感じたのかどうか、瞼を閉じ唇を噛んでしばらく沈黙していたが、そのうちごくかすかな掠れ声で呟いた。

「はるか以前より……何度も同じ夢を見た……。吾を揺り起こす小さな手と……その指に嵌った銀の指輪……しかし目覚めると……そこには誰も……」

デュソルバートはぎゅっと眉根を寄せ、左手で額を強く押さえた。その様子をキリトは同じく眉をしかめて見ていたが、やがて首を振りながら言った。

「思い出せないよ。あんたはその手の持ち主の記憶をアドミニストレータに奪われているからな……」

一瞬口をつぐみ、右手に下げたままだった黒い剣を左腰の鞘にかちんと音を立てて戻す。

「……これからどうするかはあんたが決めることだ。アドミニストレータの元に戻りおとなしく処置を受けるか……傷を治療して俺たちを追ってくるか、それとも」

その続きを言うことなく、キリトは右側の上り階段目指して歩きはじめた。肩越しに振り向き、ユージオをまっすぐ見る。

それでいいだろう?

 黒い瞳がそう言っていた。ユージオはもう一度、横たわり瞑目したままの整合騎士に視線を向けた。右手の青薔薇の剣をゆっくりと持ち上げ――切っ先を左腰の鯉口に合わせて、そっと鞘に落とし込む。

「おい、待てよ」

 キリトの背に声を投げかけながら、早足に階段に向かった。あのままにしても、デュソルバートが二人を追ってくることはもうないだろうと、ユージオは強く予感した。* それにしても、何という――。

何という見事な戦いなのか。

零距離で双方とも足を止め、雨霰と飛び交う斬撃と刺突を、体捌きと打ち払いのみで防ぎ続けている。その有様は、まるで二人の周囲で幾つもの星が次々と流れ、弾け、消えていくかのようだった。鋼と鋼が打ち合わされる衝撃音すら、ある種の壮麗な打楽器の共演と思える。

キリトは、蒼白に昂じた顔に凄みのある笑みを滲ませ、黒い剣と完全に融合してしまったが如き勢いで技を繰り出していた。敵にソルスの光を使わせないための接近戦であるはずだが、今の彼は単純に、鍛え研ぎあげた剣技を思う存分ぶつける悦びに浸っている。

しかし、対するファナティオのほうには相手に付き合う理由はないのだ。これほど広い大回廊なのだから、いくらでも後退し、距離を取ることはできる。その後再び光線を放てば、今度こそキリトにそれを防ぐすべはない。

 なのに、黒い長髪をなびかせた整合騎士は、一歩たりとも下がることなく、あくまで細剣による直接攻撃で雌雄を決しようとしているようだった。そのわけまでは、ユージオには推し量れなかった。キリトの挑発的な言辞への怒りゆえか? 下がることは騎士の誇りが許さないのか? それとも――彼女もまた、連続技の応酬という極限の戦いに何かを見出したのか? ユージオの位置からはいまだファナティオの背中しか見ることができず、その顔にいかなる表情が浮かんでいるのかはまるで分からない。

幾つかの言葉から推測するに、ファナティオは最低でも百三十年、恐らくはそれよりも数十年は長く整合騎士として教会に仕えていると思われた。ようやく二十歳になるやならずのユージオは想像もつかない、恐ろしいまでに長い時間だ。

その生のどの時点で彼女が顔と性別を隠すようになったのかは知るすべもないが、独力であれほどの連続剣技を編み出したというなら、その修練は十年二十年のものではあるまい。今キリトがファナティオの至近距離に立ち続けていられるのは、ひとえに彼もまたアインクラッド流という類い稀な連続技の使い手だからだ。これが他の剣士であれば、恐らく刃圏に一歩たりとも入れずに地に伏しているだろう。

だから、多分、ファナティオにとってもこのような戦いは長い人生で初めてなのではあるまいか。整合騎士と言えども一撃の技の美麗さ豪壮さを最も尊ぶことはエルドリエやデュソルバートの戦い方を見れば明らかだ。ゆえに、騎士同士の訓練でファナティオが連続技という、伝統流派に照らせば卑しむべき無型の剣を披露していたとは思えない。長い、長い間、独り稽古における影でしかなかった自分以外の連続剣の達人、それがついにキリトという実体を持って現われたのだ。

二人の超絶的な剣の応酬を見るうち、いつしかユージオの全身には鳥肌が立ち、目には涙が滲んでいた。キリトにアインクラッド流の手ほどきを受け始めて以来、脳裡に思い描いていた究極の戦いが今眼前にある。見映えを求め続けた型としての美しさではなく、ただ只管に敵を斬り倒すことのみを追及した結果としてのみ存在し得る、凄絶な美。

ファナティオの五連突きが、キリトの五連斬りとまるで呼吸を合わせたかのように空中で噛みあい、弾かれたそれぞれの剣を二人は裂帛の気合とともに振り下ろした。

「いえええええっ!」

「せあああああっ!」

剣の交錯点から発生した衝撃波は、遠く離れた床に伏せるユージオの肌にも熱く感じられるほどだった。キリトとファナティオの黒い髪が激しくたなびき、余勢のためか、ぎゃりんと刃を軋ませながら二人は体を入れ替えた。

ついに視界に入ったファナティオの相貌に、ユージオは一瞬息を詰めた。

 御伽話に出てくる救世の聖女がもしも実在したらかくあらん、と思わせる、一点の瑕疵もない清らかな美貌だった。どう見積もっても二十代半ばとしか思えない、ミルクをたっぷり入れた紅茶色の滑らかな肌。弓型の眉も長い睫毛も黒だが、瞳の色はほぼ金に近い茶褐色だ。おそらく東域の生まれと見えて鼻梁は控えめな高さ、顎の線も丸みを帯びて、それが一層包み込むような優美さを生み出している。そして、やや薄い唇には――ごく控えめな色の紅。

表情には、つい先刻の殺気立った怒りを思わせるものはすでに無かった。代わりに、ある種の痛みに満ちた覚悟のようなものがそこにあった。

「――なるほどな」

唇が動き、低いが尚も艶やかな声が流れた。

「咎人、貴様はこれまで私が戦ってきた輩とは少し違うようだ。この忌むべき面相を見て、尚本気で斬ろうとした男はこれまで居なかった」

「忌むべき――ね。ならあんたは誰のためにその髪に櫛を入れ、誰のために唇に紅を差しているんだ」

またしても逆撫でるようなキリトの物言いだが、ファナティオはかすかな苦笑めいた気配を浮かべたのみだった。

「恋うた男が、いつか剣の技と獲った首級の数以外のものを私に求めるやもと待ち続け早や百有余年……鉄面の下で想い焦がれた挙句、私よりも美しい顔を晒したぽっと出の子供に剣ですら後塵を拝すれば、せめて化粧の一つもしたくなろうというものだ」

 ファナティオよりも美しく、強い子供――少女? そんな相手がまだこの塔の上に居るのか、と一瞬呆然としてから、ユージオはその条件に該当する整合騎士に一人だけ心当りがあることに気付いた。つい近年に騎士となり、顔と声を隠す兜を被らず、ユージオを反応することさえ許さずに打ちのめした――アリス・シンセシス・フィフティ。

 アリスが、ファナティオさえも上回る剣の腕を身につけている……? しかし、何故? 改めて考えてみると、そんなことが有り得るとはとても思えない。ルーリッドにいたころの彼女は、神聖術の腕前こそ教師顔負けだったが、剣など触ったこともなかったはずだ。

今まで意識して整合騎士としてのアリスのことに深く思いを致さないようにしていたユージオだが、さすがに浮かんでくる疑問を抑えることはできなかった。

キリトも、ファナティオの言葉には何がしか考えるところがあった筈だが、そんな気配は微塵も漏らさずなおも言い返した。

「――あんたにとって一番大事なことってのは何なんだよ。整合騎士が最高司祭の命令にただ従うだけの天界の剣士とやらなら、そんな恋とか妬みに悩む心なんてそもそも必要ないだろ。その男が誰だか知らないが、そいつに百年も片思いしてるなら……そりゃあんたが人間だからだ。俺とおなじ人間だ。俺は、教会と最高司祭をぶっ倒して、あんたみたいな人間が普通に恋して、普通に暮らせるようにするために戦ってるんだ!」

ユージオをも心底驚かせるキリトの台詞だった。常に飄々とした彼がそんなことを考えていたとはついぞ知らなかったのだ。しかし同時に、長年連れ合った相棒の声に、かすかに矛盾に苦しむような痛切な響きがあることにもユージオは気付いていた。

その言葉を聞いたファナティオの顔もまた、一瞬ではあったが歪んだ。

滑らかな眉間に深い谷が刻まれるのを見て、ファナティオからもまたエルドリエのように行動原則キーとやらが抜け出すのかと思ったが、しかし第二位の騎士に現われた変化はそこまでだった。

「……子供よ、貴様は知らんのだ。教会の法と力が失われれば、この世界がどのような煉獄へと突き落とされるか……。ダークテリトリーの軍隊は日々その勢いを増し、果ての山脈一枚隔てた向こうにひしめいている。ああ……認めよう、貴様は強い、そして元老どもが言っていたような闇の手先、邪悪な侵入者ではないようだ。しかし甚だ危険だ、その剣だけでなく、言葉で教会と騎士たちを揺るがしかねんほどにな……。教会と世界を守る、我ら整合騎士に与えられたその唯一最大の任務の前では、私の恋心などほんの……ほんの些細な麦屑に等しい」

迷いを振り切ったような、厳しい顔つきでそうファナティオが告げる間にも、二人の間で交差した天穿剣と黒い剣は限界とも思える軋みを上げ続けていた。どちらかが僅かにでも力を抜けばその瞬間弾き飛ばされるのは明らかだ。

 いや、こうしている間にも二本の剣の天命は減少を続けているはずだ。そしてこのままなら先に命尽きるのは――恐らく天穿剣だろう。武器としての位が同程度なら、単純に太く重いほうがより多い天命を備えているのだから。

ファナティオがそれに気付いていない訳はなかった。そして、己の剣が圧し負け、そこに隙が出来たならば、キリトが容赦なく自分を斬り伏せるであろうことも。

「だから――私は貴様を倒さねばならん。例え騎士の誇りを踏みにじってもな。このような無様な技で勝利する私を嘲いたければ嘲え。貴様にはその権利がある」

静かにそう言い放つと、ファナティオは続けて叫んだ。

「天穿剣に秘められた光よ……今こそ、その枷から放たれよ!!」

銀色の刀身がこれまでにないほど眩く輝いた。

直後。

しゅばあっ! という音とともに、剣尖から放射状に無数の光線が放たれた。

目眩ましか、とユージオは反射的に考えた。キリトの視力を一時的に奪い、体を崩してから斬る。

しかしその判断は、天穿剣が無作為に発射した光の一筋がユージオの顔のすぐそばの床に命中し、大理石を深々と抉ったことで完全に否定された。

 幻惑ではなく――あの光の全てが!

キリト!! と内心で絶叫し、ユージオはたまらず上体を起こした。目を凝らすと、今まさに至近距離から射かけられた光線がキリトの右肩を貫くところだった。それだけではない、すでに背中の右下部分と左脚の太腿にも黒々とした貫通痕が見て取れる。

そして、超高熱の光をその身に受けているのはキリトだけではなかった。

主たるファナティオもまた、腹と肩、両脚の装甲に丸く溶解した孔をうがたれている。傷の深さではキリトを上回るほどだ。それでも、その麗しい顔に浮かんだ覚悟の表情は微塵も揺らいでいなかった。

 整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは――キリトを道連れに、己の天命をも吹き飛ばすつもりなのだ。

解放された天穿剣は、最初の一斉射で至近距離の二人にほとんど致命的な傷を負わせ、離れて取り囲む九人にも少なからず損害を与え、大回廊の神々しい装飾を至るところで無惨に焼き焦がしていた。しかしそれでも尚、千枚の鏡から鍛えられたというその刀身は沈黙する様子はなかった。ほぼ一秒毎に剣尖が輝き、その度に方向を選ばず短い光線が撃ち出される。

半数は誰も居ない上空へと放たれ、壁や柱、天蓋を灼くだけだったが、下方向へ伸びるもう半分のうちかなりの数が、当然ながら発射点のすぐ傍にいる二人の体を捉えることとなる。

交差させた剣を外せぬまま、キリトが限界まで首を反らせ、脳天を貫通しかけた光をぎりぎりでかわした。続く光はファナティオの顔に向かったが、整合騎士は微動だにしなかった。頬を掠めた光線が、染みひとつない滑らかな肌に赤黒い溝を焼き付け、さらに豊かな黒髪の少なくない量を一瞬で燃やし尽くす。

「この……馬鹿野郎!!」

叫んだのはキリトだった。声とともに、口のあたりから鮮血の霧が散ったのをユージオは見た。いかにキリトの天命が多かろうとも、あれだけの光線を身に受ければその数値は尽きる寸前であろうことは容易に想像できた。しかし黒衣の剣士は頑として倒れることを拒否し、あまつさえ、ぎゃりっと剣を滑らせて光線の発射点である天穿剣の切っ先を黒い剣の横腹で覆った。

その結果、刹那の猶予であるにせよ、二人に向かって撃ち出される光の全てが黒い剣に遮られる形になった。

 今だ――今しかない!

キリトの合図は無かったが、ユージオはまさにその瞬間がやってきたことを理性と直感の双方で悟った。

ファナティオは無論、配下の九騎士も大剣を盾にして光を防ぐのに必死で、とても残る一人の罪人のほうまで注意を向ける余裕はない。発動の瞬間に隙が大きいユージオの完全支配術も、今ならば止められる者は居ない。

猛烈な勢いで跳ね起き、ユージオは腹の下でずっと握っていた青薔薇の剣を一気に抜き放った。

「リリースゥゥゥ――」

空中でくるりと逆手に持ち替え、柄に左手も添えて、全身の力を込めて大理石の床へと突き立てる。

「――リコレクション!!」

薄青い刀身は、その半ば近くまでが深々と床に埋まった。

バシィィィッ!! と鋭く破裂するような音を伴って、剣を中心として石床が一瞬にして真っ白い霜に覆われた。

水晶のような霜柱を鋭く突き上げながら、氷結の波は凄まじい速度で前方へと広がっていく。もし視線を横向ければ、転がされたままのビステンとアーシンまでも氷に覆われている様が見えるはずだが、とても構ってはいられない。

 発動から約三秒――わずかではあるが、整合騎士級の剣士であれば妨げるのに充分な時間だ――で、霜の環はキリトとファナティオの足下を飲み込み、大回廊の床一杯にまで広がった。

さすがに、騎士たちも異変に気付いたようだった。兜に包まれた顔をさっともたげ、視線をこちらに向けてくる。

しかし、もう遅い。

ユージオは両手に一層力を込めながら、最後の一句を叫んだ。

「咲け――青薔薇ッ!!」

九騎士と、ファナティオ、そしてキリトの足許から、無数の薄青い氷の蔓が一瞬にして伸び上がった。

一本一本は小指ほどの太さしかない。しかし全体にびっしりと鋭い棘が生え、それが獲物の脚にがっちりと食い込んでいく。

「ぬおっ……」

「こ、これはっ!?」

騎士たちが口々に叫ぶ声がした。その時にはもう、何本もの氷の蔓が脚から腰、腹へと這い登っている。遅まきながら大剣で蔓を切り払おうとする者もいるが、触れたそばから蔓は刀身を幾重にも巻き込み、床へと繋ぎ止めてしまう。

胸から頭、そして指先が蔓に覆われた騎士たちは、最早身動きすらも叶わぬ氷の彫像と化していた。キン、キンと高い軋み音を放ちながら執拗に獲物を絡め尽くした蔓は、最後に一際澄んだ音を放ち、そこかしこから深い青に彩られた大輪の薔薇の花を咲かせた。

 無論、それらもまた冷たい氷だ。硬く透き通った花弁からは蜜も芳香も生み出さないが、しかしその代わりに無数の薔薇たちは一斉に白い凍気を撒き散らしはじめた。たちまち回廊じゅうの空気がキラキラと光る濃密な靄に覆われていく。凍気の源は――捕らえた騎士たちの天命。

その減少速度はいたってゆっくりとしたものだが、氷薔薇に全身から天命を吸い出される獲物は縛めを破るだけの力を出すことができない。もともとこの術式は、敵の殺傷を目的とした物ではないのだ。ユージオはこの術を、ひとえに、整合騎士アリスの動きを止めるためだけに組み上げたのである。

九騎士は完全に無力化されたが、さすがに彼らを束ねる騎士ファナティオは、足許の霜を突き破って蔓が伸びた瞬間に技の性質を見切ったらしく、宙に跳んで逃れようとした。

しかし、反応の速度はやはりユージオの術を知っているキリトのほうが速かった。ファナティオよりも僅かに先んじて高く跳び上がったキリトは、こともあろうにファナティオの肩あてを踏み台にして更に空中へと脱出した。そのまま後方に宙返りし、氷の蔓の追跡を回避する。

彼の身代わりに地面に押しやられたファナティオは、片膝を突いた姿勢で全身を蔓に巻きつかれた。

「く……!」

動揺し意識集中が途切れたか、天穿剣から無差別に発射されていた光線も、いくつかの蔦を切り裂いたのを最後に沈黙した。惨たらしく損傷した紫の鎧に、みるみる細い氷線が撒きつき、厚く覆っていく。

足許から次々と開いていく青い薔薇の、最後の一輪は、ファナティオの頬に刻まれた傷痕の上に咲き誇った。同時に第二位の整合騎士は、その神器とともに完全に動きを止めた。

全身に手酷い傷を負っているにも関わらず、軽々とした身のこなしで後方宙返りを繰り返し蔓の環を抜け出したキリトだが、最後の着地を失敗してユージオの隣にどさりと落下した。

「ぐふっ……」

喉の奥から咽るような声を漏らし、直後ばしゃっと大量の鮮血を吐き出す。それがたちまち真紅の霜となって凍りつくのを見て、ユージオは思わず叫んだ。

「キリト……待ってろ、すぐ治癒術を……!」

「だめだ、技を止めるな!」

蒼白に血の気を失いながらも、尚ぎらぎらと眼を光らせてキリトが首を振った。

「あいつはこれくらいじゃ倒れない……」

唇の端から血の糸を引きながら、黒い剣を杖にしてずたぼろの体を持ち上げる。

左手でぐいっと口を拭い、瞑目して数回呼吸を整えたキリトは、かっと両眼を見開くと黒い剣を高々と差し上げた。

「システム……コール! エンハンス……ウェポン・アビリティ!!」

気力を振り絞るような開始句に引き続いた術式詠唱は、肉体の状態を考えれば奇跡的な速さだった。

一句一句の間には血の絡まるような喘鳴が挟まり、時折唇の端から鮮紅色の飛沫が散るが、それでもキリトは膨大な行数の式を一度も引っかかることなく唱え続ける。

至近距離から注視すると、彼の負った傷はぞっとするほどの惨たらしさだった。天穿剣の光は鍛え上げた肉体を何度となく貫き、その痕は完全に炭化している。僅かな救いは、あまりの高熱によって傷が灼かれたせいか出血がさほどではないことだが、左の脇腹と右胸を襲った光線は内臓に手酷い損傷を与えたのは明らかだ。現在でもキリトの天命は、氷薔薇に捕われた騎士たちを上回る速度で減少しているはずで、今すぐに応急処置を施さなければ命も危い。

しかし、ユージオは青薔薇の剣の解放状態を継続するために、柄から手を離すわけにはいかなかった。せめてキリト本人が、完全支配術より先に自分に治癒術を使ってくれれば少しは安心なのだが、鬼気迫る形相で詠唱を続ける相棒にはそんな気は更々ないようだった。

 そこまで焦らなくても、獲物を完璧に捕らえた氷の檻はそう簡単に破れやしない――。

ユージオがそう考え、キリトに向けた視線を再び前方の整合騎士たちに戻した、その瞬間。

咲き誇る青い薔薇の苑の中央から、一条の白光が迸り、空中を薙いだ。

「なにっ……」

思わずそう口走り、ユージオは目を見開いた。

 光の源は――全身を幾重にも氷の蔓に巻き取られ、完全に動きを封じられたはずの、騎士ファナティオの右手だった。

武装完全支配術は、術式を失敗せずに唱え終わればそれで後は使い放題、というわけではない。

長い式を大まかに三つに分けると、武器の内包した過去の記憶に接触する第一段階、そこから求める特性を取り出し形にする第二段階、そして第三段階では武器そのものを、それを使う者の心象と直接結合する。そこまでして始めて、記憶を解放された武器は使用者の意のままに超絶的な力を発揮できるのである。

しかしそれは同時に、解放された武器を操るには、使用者の全精神力を注ぎ込んだ高度な集中が必要だということでもある。ユージオにしても、床に突き立てた剣の柄を握り締め、咲き乱れる氷の薔薇をイメージし続けていなければ、騎士たちの捕縛を維持することはできないのだ。

 騎士ファナティオは、天穿剣を完全支配してから何度となく光線を放ち、キリトと超高速の剣戟を演じ、更には制御を外した光線の乱射という大技を繰り出し自らの体にもほとんど致命的な傷を負わせたうえで氷の薔薇に拘束されているのである。もうとっくに意識の集中は失われ、天穿剣の支配も解除されたはず――と、ユージオは予想していたのだ。

だが。

片膝を突き、全身余すところ無く凍りつかせたファナティオの、高く掲げられた右腕が、ぴき、びきん、と破砕音を響かせながらゆっくりと動いているではないか。

俯いた顔は靄に隠れてよく見えない。しかし、見開いたユージオの目には、騎士の小柄な体躯から立ち上る闘気がかげろうのように揺れるのがはっきりと映った。

「くっ……!」

唇を噛み、ユージオは柄を握る両手に一層力を込めた。心象に誘導され、ファナティオの周囲から新たな氷の蔓が十本近く突き上がる。びしっ、びしっと鋭い音を放ち、蔓は鞭のごとくファナティオの右腕を打つとそのまま隙間無く巻き付き、動きを止める。

しかし、それもほんの一秒ほどのことだった。

食い込む氷の棘などまるで意に介していないかのように、整合騎士は右手をさらに前に倒し、同時に氷の縛めが砕けて周囲に舞い散った。

ユージオの背中を、ファナティオと対峙して以来最大の悪寒が疾った。

化け物だ。

 喀血しながら高速詠唱を続けるキリトの胆力も凄まじいが、あの女性騎士はそれ以上だ。光線の無差別攻撃によって全身に幾つもの孔を穿たれ、そこに根を張った氷の薔薇に容赦なく天命を吸い上げられて尚倒れず――それどころか、配下の九人が手も足も出ない氷蔓を右腕の力だけで次から次へと引き千切っていく。

その手に握られた天穿剣が、徐々に、徐々に角度を変え、自分たちのいる場所を指し示そうとするさまを、ユージオは恐怖とともに凝視した。

いったい、何がファナティオにここまでの力を与えているのか?

 法を守護する整合騎士としての、罪人への怒り? 百年も想い続けているという、どこかの男への恋心? それとも――最前、彼女が僅かに口にした言葉の……。

今、教会の力が失われたら、ダークテリトリーの軍勢に人間の世界は蹂躙されるだろう、とファナティオは言った。

 ならば、彼女は、人間を――ユージオの知る限り、あらゆる整合騎士たちが家畜なみに軽んじ、下民と蔑み、鞭打つ対象としてしか見ていないはずの人間を守るために、今底知れぬ死力を引き出している、ということになる。

 それは――それはつまり、正義じゃないか。

 己を捨て、正義を、善を、為すべきことを断じて遂行するという覚悟のもとにファナティオは今戦っている……?

そんなはずはない。整合騎士は、罪なきアリスを捕縛し、連れ去って、彼女の記憶までも弄んだ神聖教会最高司祭の手先だ。唾棄すべき走狗、傲慢な圧制者、これまでユージオは彼らをそのように憎み、可能ならば全員を斬り殺さんという決意のもとここまで駆け上ってきたのだ。

 なのに、今更そんな、実は皆良い人でしたなんてことがあって……あってたまるものか。

「お前に……お前らに正義なんか無い!!」

ユージオは押し殺した声で叫び、心の奥底からありったけかき集めた憎悪を青薔薇の剣に注ぎ込んだ。

再び、ファナティオの周囲から黝い氷蔓が無数に飛び出し、今度はその尖端を鋭い棘に変えて騎士の右腕を次々に貫いた。

「止まれ……止まれよ!!」

心中には圧倒的な憎悪が渦巻いているはずなのに、なぜかユージオは、両目から熱い液体が溢れるのを感じていた。しかし、それを涙だと認めることはどうしても許せなかった。怒りと憎しみが形を変えた氷の棘に無数に貫かれながらも、愚直なまでに右腕の動きを止めようとしないファナティオの姿に心を動かされているなどということは、どうしもて認めるわけにはいかなかった。

整合騎士の腕はもうぼろぼろだった。折れた棘が針山のように突き刺さり、滴る大量の血が赤いつららとなって垂れ下がる。しかしそれでも、前髪と氷薔薇の陰に隠れた顔には一片の憎悪も浮かんではいるまいとユージオは思わずにいられなかった。

ついに、垂直に掲げられていたファナティオの右手が水平へと角度を変え終え、ユージオとキリトを真っ直ぐに剣の切っ先で捉えた。

天穿剣の刀身が、かつてないほど眩く輝くのを、ユージオは滲む涙の向こうに見た。

まさしく、ファナティオの残る天命すべてを燃焼させているとしか思えないほどに凄まじい光だった。ソルスそのものがこの大回廊に降りてきたかのような純白の光に、ユージオは濡れた瞼を細めた。

勝てない。

それは、アリスを取り戻す旅に出て以来、初めてユージオが抱いた諦念だったかもしれない。発射される前の光に曝されただけで脆くも溶け崩れていく氷の薔薇たちを眺めながら、ユージオはそっと、小さな息を吐いた。

 しかしここで潔く目を閉じ、死を告げる光を待つなどということは許されない、とユージオは思った。そのような形でファナティオの"正義"に屈することだけはどうしても嫌だった。

 せめて、最後に薔薇の一輪なりとも咲かせて意地を見せたい、そう決意して、心の底から憎悪を残り滓をかき集めようとした――その時。

隣で、キリトが小さく呟いた。

「憎しみじゃ、あいつには勝てないよ、ユージオ」

「え……」

首を回し、見上げると、相棒は血の滲んだ唇にかすかな笑みを浮かべて続けた。

「お前は、整合騎士が憎くて憎くて、それでここまで来たわけじゃないだろ? アリスを取り戻したい、もう一度会いたい……アリスが好きだから、愛しているから今ここに居るんだろう? その想いは、あいつの正義と比べたって決して劣るもんじゃない。俺だってそうだ……俺も、この世界の人たちを、お前を、アリスを、あいつだって守りたい。だから今は、あいつに負ける訳にはいかないんだ……そうだろ、ユージオ」

かつて聞いたことのないほど穏やかなキリトの声だった。謎多き黒衣の剣士は、もう一度小さく笑うと頷き、一瞬目を閉じて顔を前に向けた。

天穿剣のおそらく最終最大の光が発射されたのは、その瞬間だった。

もはや、光線などという言葉では現せない、それは巨大な光の槍だった。創世の時代、闇神ベクタを退けるためにソルス神その人が投げたという天の霊光そのものが、あらゆるものを灼き尽くさんと殺到した。

かっと瞼を開けたキリトの黒い瞳は、圧倒的な白光を受けてなお爛々と輝いていた。最後の一句を唱える声は、絶望的な状況にあって、ゆるぎない決意に満ちていた。

「リリース・リコレクション!!」

まっすぐ前に向けられた黒い剣の刀身が、どくんと脈打った。

 直後、刃のいたる所から、幾筋もの"闇"がほとばしり出た。

あらゆる光を吸い込むような漆黒の奔流が、うねり、よじれ、絡まり、また離れながら前へ前へと殺到していく。それらは、剣の十メルほど先で大人が二人でも抱えきれないほどの太さに膨れ上がると、そこで互いにがっちりと結びつき、一本の円柱へと形態を変えた。

よくよく見ると、闇が凝集した柱はそこで硬く実体化しているようで、表面には黒曜石のような光沢があった。しかしつるりと滑らかではなく、縦方向に細かい溝が刻まれている。

 円錐状に先端を尖らせた黒柱は、あとからあとから噴き出す闇の激流に後押しされ、猛烈な速度で前方へとその身を伸ばしていく。一体これはどのような技なのか? 瞬間、すべてを忘れ、ユージオはキリトの完全支配術に目を奪われた。闇を大槍に変える術式? しかし、黒い槍、と言うより柱は余りにも太く――直径は二メルを超えているだろう――とても微細な制御が出来るとは思えない。狙われた者は横に飛ぶだけで、槍の攻撃を楽に回避できよう。

とユージオが思ったのも束の間。

黒い柱の側面から、数十本のやや細い柱が同時に飛び出した。

それらは更に細く分岐しながら、先端を鋭くきらめかせ、周囲の空間へと広がっていく。下方向に突き出した柱たちが、大理石の床を容易く貫き、ひび割れさせるのをユージオは見た。

後からあとから新しい槍を生み出しながら、黒い巨柱は凄まじい勢いで伸長していく。

 それはもう柱と言うよりも、とてつもなく太い枝――。

いや、樹だ。

そう思った瞬間、ユージオは、眼前で進行している現象の正体を悟った。

 これは、遥か昔よりルーリッドの村の南に屹立し、森の王として君臨し続けたあの巨樹――ギガスシダーそのものだ。

キリトは、術式によって黒い剣に眠る記憶を呼び覚まし、それがかつて誇示していた姿、数百年に渡って何人にも切り倒されることのなかった巨大樹をこの場に出現させたのだ。

 何という無茶な……、ユージオは痺れた頭のなかで呻いた。

 青薔薇の剣を含め、これまで目にした整合騎士三者の武装完全支配術はすべて、武器の記憶中に存在する特性を攻撃力として適切な形に抽出・加工していた。確かにその過程において、武器の潜在力そのものは縮小されるがそれは仕方ないことだ。そうしなければ、呼び出された特性は無制御のまま荒れ狂い、技と呼べるものではなくってしまうからだ。キリトの黒い剣とて、決して例外では――。

何よりも大きく、重く、何よりも硬かったギガスシダー。

存在そのものが、究極最大の武器となり得るほどに。

ユージオの鼓動が、どくんと大きく跳ねたその瞬間。

過去から召還された漆黒の巨樹の先端が、同じく過去より投射されたソルスの光の凝集と接触した。炸裂した純白の渦が、大回廊じゅうを眩く照らした。

想像を絶するほど高熱、高密度の光の槍に、さすがの超硬樹も圧されたか、突進するその勢いが止まった。しかしキリトの手許の黒い剣からはなおも無数の闇が噴出しつづけ、あくまで樹を前へ前へと押しやろうとする。

ファナティオの手に握られた天穿剣も、退く気は一切ないようだった。吹き荒れる光の奔流は刻一刻とその勢いを増し、既にファナティオの前方の氷薔薇は漏れる熱によって完全に溶け去っている。それどころか騎士自身の右の手甲すらも真っ赤に焼け、白い煙をまとっているのが見える。

光と闇の激突は、大回廊の中央で数瞬の拮抗を続けた。

しかし、これほどの超攻撃力の衝突が、完全に相殺・消滅するということは有り得ない。必ずどちらかがどちらかを退け、狙った敵を完膚なきまでに破壊し尽くすはずだ。

 この勝負――分が悪いのは、やはりキリトか、とユージオは思った。

ギガスシダーがいかに硬いとはいえ、あくまでそれは実体のある樹なのだ。本物が、何度も何度も叩くことによってついには切り倒されてしまったように、限界以上の力を受ければ損傷もするし消滅もする。

しかし天穿剣の光は、純粋なる熱の塊だ。実体なき攻撃力などというものを、どのように破壊すればいいというのか。

 対抗手段があるとすれば、キリトが一度見せたように鏡によって弾くか、青薔薇の剣が生み出す以上の絶対的凍気で相殺すると言った、対抗するに足る特性を持った力が必要となるはずだ。しかるに、ギガスシダーの特性と言えば、とてつもなく硬く、重いというその二点――。

いや、もう一つあった。

ソルスの光を、貪欲なまでに吸収し、己の成長力へと変えてしまうこと。

 バアァァァ――ッ! と石床が震えるほどの轟音を発し、白い光の槍が千もの細流へと引き裂かれた。

均衡を破り、突進を再開したのは、闇色の巨樹だった。

さすがに最先端の一枝は眩いほどに赤熱しているが、それでも光の奔流に屈することなくそれを抉り、千切り、発生源へと襲い掛かっていく。

幹から周囲へと分かたれる無数の枝が、ガガガッと立て続けに床を粉砕し、そこに繋ぎ止められたままの九人の騎士を有無を言わせず巻き込んだ。

巨人の投げる槍のごとき勢いで伸びる枝に触れた瞬間、騎士たちは、ある者は床に叩きつけられ、ある者は水平に吹き飛ばされて壁に激突した。折れた剣と割れた鎧が銀色の細片となって宙に舞った。

それほどの凄まじい威力を秘めた巨樹が、黒い竜巻のごとく己に迫る中、ファナティオはただ顔を上げたのみで一歩たりとも動こうとしなかった。ユージオの想像したとおり、その美しい顔にはいかなる怒りも憎しみも浮かんではいなかった。ゆっくりと閉じられたまぶた、かすかに動いた口もと、それらの動きには何らかの感情が込められていたはずだが、ユージオにはそれがいかなる物なのか察することはできなかった。

ギガスシダーの鋭い尖端が、ついに光の激流をその源まで遡り、剣の切っ先に正確に命中した。

まず、天穿剣がしなりながら弾き飛ばされ、きらきらと回転しながら宙を飛んだ。

直後、騎士自身もまた、ぞっとするほどの勢いで空中に跳ね上げられた。

体を覆っていた氷の欠片を散らしながら、一直線に天蓋まで達し、轟音とともに激突して、そこに描かれていたソルス神の顔を粉々に砕いた。

落下はゆっくりとしたものだった。幾つもの石の塊とともに、糸を引くようにすうっと落ちてきたファナティオの体は、大回廊後方の大扉のすぐ手前にがしゃりと音を立てて転がった。そのまま、第二位の整合騎士は、もう立ち上がることはなかった。

巨樹の前進は、すべての整合騎士が斃れたのち五秒ほどでようやく停止した。

ユージオは、剣から手を離すのも忘れ、ただ眼前の圧倒的な破壊の痕跡へと見入った。

染みひとつなかった大理石の床や真紅の絨毯は、回廊の中央に水平を向いて横たわるギガスシダーの数百に及ぶ大枝に貫かれ、抉られ、引き裂かれて最早見る影もない。さすがに左右の壁や天蓋までには枝は届いていないが、かわりに天穿剣の光がその各所を縦横に灼き溶かしている。

 神々しいまでの荘厳さを漂わせていたセントラル・カセドラル五十階"霊光の大回廊"だが、今やまるで古の巨竜が大暴れしたかの如き惨憺たる有様だった。これを引き起こしたのが、たった二人の学生剣士だなどとは、実際に居合わせた者しか信じまい。

でも、やったんだ、僕たちが。

 ユージオは内心でそう呟いた。人の世の始まりより存在し、絶対なる権威を以って世界を支配しつづけてきた神聖教会――神と同義とさえ思っていたその教会の騎士十名と、僕らは戦い、勝ったんだ。

 これで、エルドリエから数えて何と十四人もの整合騎士を退けてきたことになる。カーディナルの話によればカセドラル内に駐留する騎士は二十人前後ということだった。つまりあと、ほんの――数人の騎士を斃せば……。

ユージオがぐっと奥歯を噛み締めたのと、ほぼ同時だった。

隣で、がくりとキリトが両膝を床に突いた。右手から、重い音を立てて黒い剣が零れ落ちた。

刃から溢れていた闇が消え去ると同時に、横たわるギガスシダーが、鋭い枝々の先端からぴき、ぱきと硬い音を放ちながら崩れ始めた。割れ落ちる黒曜石のような小片は、空中にあるうちに砂よりも細かく分解し、そのまま宙に溶けて消えていく。崩壊の勢いはみるみる増し、巨大なギガスシダーは数秒と待たずに過去へと還っていくようだったが、ユージオにその有様を眺める余裕はなかった。

床から青薔薇の剣を引き抜き鞘に戻すのももどかしく、ユージオはぐらりと上体を泳がせる相棒に駆け寄った。

「キリト!」

叫んで手を伸ばす。危く受け止めた黒衣の体は驚くほど軽く、流れ出した血と天命の膨大さを否応無く悟らせた。顔は床の大理石よりも白く、閉じた瞼が持ち上がる様子もない。身体に素早く目を走らせ、最も深そうな右胸下の傷に左手を当てる。

「システム・コール! リカバリー・パーシャル・ダメージ!」

手が柔らかい青に発光し、惨たらしい貫通痕がじわじわと塞がっていく。内部での出血が止まったと判断した時点で手を外し、今度は左脇腹の傷に同様の処置を施す。

これで、出血と重要部位の損傷による天命の連続的損耗は防いだはずだが、これほど激しく減少した天命は、空間神聖力を源とする通常の回復術ではとても癒せない。屋外で充分な陽光を受けるか、肥沃な地面に接していればまた別だが、このように厚い石壁の中では気持ちばかり回復したところで周囲の神聖力を使い尽くしてしまう。

ユージオは迷うことなく左手でキリトの右手をきつく握り、新たな術式を唱えた。

「システム・コール! トランスファー・デュラビリティ、セルフ・トゥ・レフト!」

今度はユージオの体全体がぼんやりと青い光の粒に包まれ、それらはたちまち左手へ集まるとキリトの体へ流れこんでいく。

思い返すと、デュソルバートと戦ったときも今回も、キリトばかりが傷を受けユージオはほとんど天命を減らすことがなかった。それを考えれば、このような無痛の天命譲与程度ではとても借りは返せない。せめて自分が倒れるぎりぎりまで術を続けなくては。

とユージオは思ったのだが、体感でようやく半分ほど天命を流し込んだところでキリトが眉をしかめながら目を開け、左手でユージオの手を掴むと自分から引き離した。

「……ありがとうユージオ、俺はもう大丈夫だ」

「無理するなよ、それだけやられれば窓じゃ見えない傷が残ってるはずだよ」

言葉とは裏腹に弱々しい相棒の声に、慌てて押し留めようとしたが、キリトは首を振って身体を起こした。

「ゴブリン連中にやられた時よりマシさ、それよりあいつが心配だ……」

黒い瞳が向けられた先が、はるか回廊の反対側に倒れるファナティオであることを察し、ユージオは思わず唇を噛んだ。

「……キリト……、本気の殺し合いをした直後にそういうことを言えるのがちょっと信じられないよ」

苦笑に紛れさせながらも、それはユージオの本心だった。しかし同時に、耳の奥で、完全支配術を解放する直前のキリトの台詞が甦っていた。

「憎しみじゃ勝てない……、それは、確かにそうかもしれない。あの整合騎士は、個人的な恨みとか憎しみとかそんな次元で戦ってたんじゃなかったからね……。でも……でも僕は、やっぱり教会と整合騎士を許せないよ。物凄い強さだけじゃなくて、あんな……志を持ってるなら、どうしてその力を、もっと……」

その先をなかなか言葉に出来ず、ユージオは口篭もった。しかし、大儀そうに立ち上がり、床から剣を拾ったキリトは、わかっているというふうに頷いた。

「あいつらだって、恐らくあいつらなりの迷いの中にあるのさ。騎士長って奴に会えば、もう少しそのへんのことも分かるだろう……。ユージオ、お前の技は凄かった。あの騎士達に勝ったのはお前だ、だからもう、人間としてのファナティオ達まで憎む必要はないよ……」

「人間……。うん……そうだね、戦ってるときにそれだけは分かった。あの人は人間だった、だからあんなに強かったんだ」

ユージオが呟くと、キリトは軽く笑い、そのとおりだ、と言った。

「あいつらは自分たちのことを絶対の善と言い、お前にとっては絶対の悪だったんだろうけどさ、俺たちもあいつらも生身の人間なんだ。そんな、絶対の善悪なんてもの無いんだよ、たぶんな」

その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえて、ユージオはふと考えた。

 君がさっき、あれほどまでに怒っていた最高司祭アドミニストレータ……その教会の、ひいては世界の絶対支配者に対しても、君はそう思っているのかい?

しかし、それを訊ねる前にもう、キリトは大扉前に倒れるファナティオ目指して歩きはじめていた。

五、六歩進んだところでひょいと振り返り、ポケットを探ると小さな瓶を取り出す。

「おっと、忘れてた。お前はこいつで、子供たちの毒を抜いてやってくれ。飲ませる前に、毒剣は折って、もう妙なもの持ってないか確認しとけよ」

そういや僕も忘れてた、と思いながらキリトが放った小瓶を受け取り、ユージオは頷いた。

立ち上がり、後ろを向くと、少年騎士ビステンとアーシンは変わらず麻痺し床に転がったままだった。周囲を覆っていた霜はすでに消え去り、凍結による負傷も残っていないようだ。ユージオと目が合ったとたん、二人揃って不貞腐れたように視線を逸らす。

こりゃあファナティオとは別の意味で分かり合えそうにないぞ、と思わず苦笑しながらそちらに歩み寄り、腰を屈めると、二人の鼻先に突き立った二本の毒剣を両手で抜いた。ひょいっと空中に投げ上げ、回転しながら落ちてくるところを、青薔薇の剣で抜きざまに一薙ぎする。

短剣は二つともあっけなく粉砕され、緑色の粘液とともに遠く離れた床に散らばった。青薔薇の剣に付着した毒液も、刀身を侵す前に凍り、剥がれ落ちた。

続いて、不特定物体感知の術式を使い子供たちが危険なものを隠し持っていないことを確認すると、ユージオは左手に持っていた小瓶の栓を抜き、七割がた残っていた中身を半分ずつビステンとアーシンの口に注いだ。これで彼らも、ユージオのように十分足らずで麻痺から回復するはずだ。

そのまま放っておいてもよかったのだが、こんな時キリトなら何か一言いうんだろうなあ、と思ったユージオは、少し考えてから口を開いた。

「……君らのことだから、ファナティオさんやキリトがあんなに強いのは神器と武装完全支配術を持ってるからだ、って思ってるかもしれないけど、それは違うよ。彼らはもともと強い……技や体だけじゃなくて、心が強いから、あんなになっても戦えるし物凄い術式も使えるんだ。君らは……確かに、誰よりも殺す技には長けてるかもしれない。でも、殺すことと勝つことはまったく違うんだ。僕も、今日になってようやくそれに気付いたんだけどね……」

ビステンたちは相変わらず目を逸らせたままで、自分の言葉がどれほど届いているのかユージオにはさっぱり分からなかった。もとより、子供の相手は苦手中の苦手なのだ。

それでも、少なくともあの戦いには、彼らなりに感じるところがあったはずだ、絶対に。そう考え、ユージオはこれ以上何を言う必要もないだろうと思った。ビステンとアーシンの無邪気な軽口を思い出せば、彼らもまた絶対の悪ではないのだと信じられそうな気がした。

きびすを返しキリトのほうに駆けよりながら、ふとユージオは、もし自分とキリトが子供の頃から友達だったらあの二人みたいな感じだったかもしれないな、と考えた。勿論、アドミニストレータの子供として生まれるのはご免こうむるけれど。

破壊の痕跡著しい回廊を移動するあいだ、ユージオは素早く左右に眼を走らせ、ファナティオ配下の九騎士の状態を確認した。

すでに消滅したギガスシダーの枝によって全員が相当の深手を受けたらしく、一様に倒れたまま立ち上がる気配はない。しかしさすがに、神器持ちより一格落ちるとは言え整合騎士だけのことはあるようで、天命を全喪失してしまった者は見当たらなかった。天界に召された人間が残す骸は、あらゆる色彩を失い薄黒く煤けて見えるのですぐにそれと判る。

しかし、枝に巻き込まれた配下とは違い、突進するギガスシダーの全攻撃力をその身でまともに受けたファナティオが到底無事とは言えない状況であることは、倒れた彼女の周囲に広がる大量の血溜まりを見るまでもなく明らかだった。

騎士の傍らに片膝をつくキリトの斜め後ろで足を止め、ユージオは息を殺しながら相棒の肩越しに覗き込んだ。

間近で見ると、ファナティオの全身の傷は目を背けたくなるほど酷いものだった。熱線に貫かれた孔が胴と両脚に四箇所、右腕は氷薔薇の棘に引き裂かれた上に天穿剣の最終攻撃の余波に焼かれて、肌が無事な箇所が無いほどだ。

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