「うーん、でも……ユイちゃんに検索してもらったかぎりでは、仮想空間関連でそんな大きな予算をかけてるプロジェクトは……あっ、そうか……キーワードが違う……? 仮想空間じゃなくて、人工知能……」
アスナが視線を向けると、ユイも真剣な表情で頷き、ちょっと待ってください、と言って両手を広げた。十本の指先がちかちかと紫色にまたたく。ALO内からネットワークに接続しているのだ。
三人の期待と不安に満ちた数秒の沈黙のあと、ユイは薄くまぶたを持ち上げ、数秒前と打って変わっていかにも電子の妖精然とした抑揚の薄い声を発した。
「公表されている二〇一六年度国家予算データにアクセスしました。人工知能、AI、その他三十八の類似キーワードを用いて検索中……十八の大学、七の第三セクターに該当名目で研究費が認可されていますがいずれも小額……文部科学省が介護ロボット用AI開発プロジェクトを進めていますが無関係と判断……国土交通省の海洋資源探査艇開発プロジェクト……自動運転乗用車開発プロジェクト……いずれも無関係と判断……」
その後もユイはいくつかの難解なプロジェクト名を挙げたが、いずれも無関係と続け、やがて小さく首を振った。
「……条件に当てはまるような不自然な巨額予算請求は発見できませんでした。複数の小額予算に分散・偽装しているのかもしれませんが、その場合公表データからの発見は困難です」
「うーん……やっぱり、すぐそれとわかるような穴は残してないか……」
シノンが腕組みをして唸る。藁にでもすがるような気持ちで、アスナはでも、と声を上げた。
「――いまユイちゃんが見つけたプロジェクトの中に、ラースの偽装予算が紛れてるかもしれないよね。なんとかそれを見つけられないかなあ。まあ、さすがに海洋資源とかは関係ないと思うけど……一体なんでそんな研究がヒットしたの?」
「ええと……」
ユイは再度半眼になり、どこかのデータベースにアクセスすると、ひとつ頷いて顔を上げた。
「……海底の油田や鉱脈を探すための小型潜水艇を自律航行させようという研究のようですね。その潜水艇に搭載するAIを開発するための予算なのですが、優先度に対して金額がやや大きいので検索フィルターに残ったようです」
「へえ……そんなものもロボット化されてるのね……。どんなとこで開発してるんだろう」
「プロジェクトの所在は……『オーシャン・タートル』となっていますね。今年の二月に竣工した超大型海洋研究母船です」
「あ、あたしニュースで見ました」
リーファが口を挟んだ。
「なんか、船っていうより海に浮くピラミッドみたいな感じなんですよ」
「そう言えば、聞いたことあるわね。オーシャン……タートル……」
アスナは口をつぐみ、眉をしかめ、しばらく俯いてから、さっと顔を上げた。
「ねえ、ユイちゃん……その研究船の画像って、出せる?」
「はい、ちょっと待ってください」
ユイが右手を振ると、地図のときと同じように卓上にスクリーンが広がり、それはたちまち海面の立体画像に変化した。さらにその中央に光が複雑なワイヤーフレームを描き出し、面をテクスチャーが埋めていく。
小さな海に出現したのは、確かに一見して黒いピラミッドと言いたくなる代物だった。
しかし上から見ると、正方形ではなく短辺と長辺が二対三程度の長方形だ。四角錘の高さは短辺の半分ほどだろうか。表面は、所々に細長く空いている窓を除けばつるりと滑らかで、ダークグレーの光沢を放っている。注視すると、どうやら正六角形の太陽発電パネルがびっしりと貼られているらしい。
四方の角からは操舵装置らしき突起が突き出し、そして短辺のいっぽうには小さなビルにも見えるブリッジが伸びていた。屋上にあるHマークはヘリポートだろうか。それがあまりにも小さいので、傍らに表示されているスケールメーターに目をやると、全長六百メートルという驚くべき数字だった。
「なるほど……、四本の足といい、四角い頭といい、ピラミッドの甲羅模様といいこりゃ確かにカメに見えるね。それにしても大きいな……」
シノンが感心したように言った。アスナはちらりとそちらを見てから、右手の人差し指で巨大船『オーシャン・タートル』のブリッジ部分を指差した。
「でも……ほら、頭のここんとこ、ちょっと平らに突き出してて、他の動物にも見えない?」
「あー、そうですね。ちょっと黒ブタにも見えますよね。泳ぐブタだー」
無邪気な声でリーファが言った。
直後、自分の言葉に撃たれたかのように、目を見開いた。唇を数度わななかせてから、掠れた声を絞り出す。
「亀でもあり……豚でもある……」
アスナとシノン、リーファは、無言で視線を交わしたあと、声を揃えて言った。
「――ラース!」* 機体が濃い靄のかたまりを抜けると、小さな窓の向こうに再び一面の藍色が広がった。
高高度を飛ぶ旅客機からの眺めとはまるで違う、砕ける波頭すら見て取れそうな海面の輝きに、神代凛子(こうじろりんこ)は、最後に海で泳いだのは何年前だろう、と考えた。
凛子の現在の勤め先であるカリフォルニア工科大学のキャンパスからはサンタモニカ湾まで車で一時間足らずであり、その気になれば毎週末にでも好きなだけ肌を焼ける環境だったが、職を得てからの二年間、一度として砂浜を踏んだことはない。海も陽光も決して嫌いではないものの、レジャーをレジャーとして素直に楽しめる心境に至るには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。誰も自分を知らない異国の街で、目的の無い研究に没頭することで過去を漂白する日々は、十年や二十年で終わるものではあるまいと凛子は覚悟していた。
だから、二度と帰ることはないだろうと思っていた日本の土を――わずか一日にせよ――踏み、その上捨てたはずの過去に直結する場所へと一直線に飛行している己を、凛子はどこか不思議な気分で見ていた。一週間前、思わぬ人物から受け取った長いメールを、その場で削除し、忘れ去ることもできたはずだが、なぜか凛子はそうせず、一時間足らず考えただけで要請を受諾するむねの返事を送った。思考も記憶も深く凍らせた二年間の日々をまったく無駄にする行為だとわかっていながら、なおそうしたのだった。
一体何ものが自分を衝き動かし、重い因縁の付きまとう場所へと足を向けさせたのか――。ロサンゼルスから東京へと向かう飛行機の中で、一泊した成田のホテルのベッドで、そしてこの小さな航空機に乗ってからも、なんども自問したその謎を、凛子は軽い吐息とともに頭のおくに押しやった。見るべきものを見、聞くべきことを聞けばおのずと答えは出るだろう。
とりあえず、最後に海水浴をしたのは十年前、何も知らなかった大学一年生の時だ。二年上の先輩だった茅場晶彦を無理やり誘い出し、ローンで買ったばかりの軽自動車で江ノ島に行ったのだ。自分がどのような運命に足を踏み入れつつあったのか、まるで気付きもしなかった、無邪気な十八の頃。
遠い過去に彷徨い出そうとした凛子の耳に、隣のシートの同乗者が、ローターの唸りに負けないよう張り上げた声が届いた。
「見えてきましたよ!」
長い金髪をかきあげながらサングラスの下で目を細める同乗者の視線を辿ると、確かにコクピットの湾曲したガラスの向こう、のっぺりと広がる凪いだ海面の一角に、小さな黒い矩形が見えた。
「あれが……オーシャン・タートル……?」
凛子が呟くと同時に、黒――太陽電池パネルの一面が日光を反射してまばゆく光った。飛行中ずっと押し黙っていた、コ・パイ席のダークスーツの男が、低い声で短く答えた。
「そうです。あと十分程度で着艦します」
EC130ヘリコプターは、新木場からの約450キロに及ぶ飛行の締めくくりに、サービスなのか巨大海洋研究母船『オーシャン・タートル』の周囲をひとまわりしてから着艦体勢に入った。
凛子は、そのあまりの威容に、半ば唖然としながら目を見開いた。船、とはとても思えない。海にどっしりと根を下ろした巨大な黒いピラミッドだ。全長は世界最大の空母ニミッツ級の二倍――等のデータは事前に調べていたが、数字と実物との間には月と地球ほどもの開きがある。
六百掛ける四百メートルの底面積を持つ四角錐を、光沢を持つ黒いパネルが亀甲のように覆っている。その一枚一枚が、ホバリングするヘリコプターの影の胴体部分と同じほどの大きさだ。一体、総建造費がどれくらいに上っているのか、凛子には見当もつかなかった。近年開発された小笠原沖油田からの収益のほぼ全額がつぎ込まれているという噂も、この巨躯を見ればあながち的外れとは思えない。
この船の表向きの建造目的は、次なる油田の発見・開発に主眼が置かれている――はずなのだが、実はその内部に次世代NERDLESテクノロジ、人間の魂を解読するという『ソウル・トランスレータ』の研究施設が置かれている可能性がある、と一週間前のメールは告げていた。当初凛子は半信半疑だったが、こうして実際に連れてこられれば、もう信じるほかはない。
一体何故、こんな何も無い外洋のど真ん中でよりによってマンマシン・インタフェースの研究をしなければならないのか、その理由はさっぱりわからない。しかし、この黒いピラミッドの奥で、茅場晶彦の遺したナーヴギアと、それを凛子が発展させたメディキュボイドから産まれた因縁のマシンが息づいているのは最早事実なのだ。
二年間の海外生活は、凛子の傷を麻痺させても癒すことは無かった。果たしてこの中で直面するものは、その傷を塞いでくれるのか、あるいは轢き毟って鮮血を流させるのか――。
降下を始めたヘリコプターの中で、凛子はひとつ大きく呼吸すると、ちらりと隣の同乗者を見やった。サングラス越しの視線に軽く頷きかけ、降りる準備を始める。
パイロットがよほどのベテランなのだろう、機体は大きく揺れることなく、オーシャン・タートルの艦橋構造物屋上に設えられたヘリポートに着陸した。まずダークスーツが俊敏な動作で機外に滑り出て、走りよってきた同じようなスーツ姿の男と敬礼を交し合う。
続いて降りようとした凛子は、手を貸そうとする男にかぶりを振ると、ジーンズを穿いてきて良かったと思いながらわずかな高低差をすとんと飛んだ。スニーカーの底が捉えた人工の地面は、そこが船上とは思えないほどどっしりと微動だにしない。
続けて同乗者が、金髪を眩くきらめかせながら飛び降り、サングラスを太陽に向けて大きく背を伸ばした。凛子も倣って両手を広げ、胸いっぱいに潮の香りがする空気を吸い込んだ。
ヘリポートで待っていたほうの男が、よく灼けた肌に笑みを浮かべながら、凛子に向かってさっと敬礼した。
「神代博士、オーシャン・タートルへようこそ。そちらが……」
男の視線が同乗者に向くのを見て、頷きながら紹介する。
「助手のマユミ・レイノルズです」
「Nice to meet you」
滑らかな英語とともに同乗者が差し出した右手を、ややぎこちなく握り返し、男も名乗った。
「私は、お二人のご案内を命じられました中西一等海尉です。お二人の荷物は後ほど部屋に運ばせますので、さあ、どうぞこちらへ――」
右手を、ヘリポートの一端に見える階段へ伸ばしながら、男は続けた。
「菊岡二佐がお待ちです」
艦橋ビルディング内の空気はまだ、真夏の太平洋の熱と塩気を含んでいたが、エレベーターと長い通路を経てオーシャン・タートル本体――黒いピラミッドの内部へと続く分厚い自動ドアをくぐった途端、冷たい無機質な風が凛子の顔を叩いた。
「船じゅうこんなにエアコンが効いてるの?」
思わず、前を歩く中西一尉に尋ねると、若い自衛官は上体を捻って頷きながらこともなげに言った。
「ええ、精密機械が多いですから、常に二十三度前後に保たれています」
「電力は太陽発電だけでまかなってるの?」
「まさか、発電パネルでは需要の一割も満たせませんよ。主機は加圧水型原子炉を使用しています」
「……そう」
いよいよもって何でもありね、と軽く頭を振る。
明灰色のアルミパネルを貼られた通路には、人の姿はまったくなかった。事前にざっと資料を読んだ限りでは、百近くに及ぶ数のプロジェクトが入居しているはずだが、器が巨大なぶんスペースには充分な余裕があるらしい。
右に折れ、左に折れしながら三百メートルほども歩いたとき、前方突き当たりのドアの脇に、紺色の制服を着込んだ男の姿が見えた。よくある警備会社のもののように思えるが、中西を見るやサッと敬礼したその仕草はやはり民間人のものではない。
答礼し、中西はきびきびした口調で言った。
「招聘研究員の神代博士と助手のレイノルズさんがS3区画に入ります」
「確認します」
警備員は、手にしていた金属製の端末機を開くと、直線的な視線を凛子の顔とモニタの間で往復させた。頷き、次いで凛子の背後に立つ研究助手を見るや、きれいに髭をあたった口元を動かす。
「失礼ですが、サングラスを外して頂けますか」
「I see」
大きなレイバンを持ち上げた研究助手の、艶やかな金髪か抜けるような白皙のどちらかに少しばかり眩しそうに目を細め、警備員はもう一度頷いた。
「確認しました。どうぞ」
ほっ、と息を吐き、凛子は微苦笑しながら中西に言った。
「ずいぶん厳重なのね。こんな海のど真ん中なのに」
「これでも、ボディチェック等は省略しているんですよ。金属・爆発物探知機は三回ほど潜っていますが」
答えながら、スーツの胸から外したプレートをドア脇のスリットに差し込み、右手の親指をセンサーとおぼしきパネルに押し当てる。約一秒後、ドアは圧搾音とともにスライドし、オーシャン・タートルの、おそらく中枢部への入り口を開いた。
やけに分厚いドアを抜けると、その先の通路はさらに低温の空気とオレンジがかった照明、かすかに響く重い機械の唸りに満たされていた。かん、かんと響く三人の足音を意識しながら、南洋に浮かぶ船の中ではなく地下深部の研究所としか思えない場所をなおも数十メートル歩き、中西はひとつのドアの前で再び歩を止めた。
見上げると、上部のプレートに『S機関主操作室』の文字があった。
ついに、ここまで――茅場晶彦最後の遺産が息づく場所まで来てしまった。凛子は息を詰めながら、セキュリティチェックを行う中西の背中を眺めた。
ここが、意識を凍らせあてどなく彷徨った二年間の終着点となるのか、それとも新たな無明の道の開始点なのか――。重々しく横に動いた扉の向こうは、何かを暗示するような深い闇に包まれていた。
「……先生」
背後から研究助手に声をかけられ、はっと顔を上げると、中西はすでに暗い部屋に数歩踏み込み、振り返って凛子を待っていた。よくよく見ると、『主操作室』の内部は完全な暗闇ではなく、床にオレンジ色のマーカーが瞬き、奥からはぼんやりした青白い光が伸びている。
凛子は大きく深呼吸してから、意を決して右足を前に出した。二人が入室するやいなや、背後でぷしゅっと音がしてドアが閉まる。
巨大なネットワーク機器やサーバー群の間を縫うようにマーカーを辿り、ようやく機械の谷間を抜けた途端、凛子は眼前に広がった光景に、唖然と口を開けた。
正面の壁は一面、大きな窓になっており――その向こうに、信じられないものが見えた。
都市だ。しかしどう見ても日本、いや世界中のどの近代都市でもない。建物はすべて白亜の石造りで、不思議な丸い屋根を持っている。どれも二階建て、あるいはそれ以上の規模なのに、ミニチュア風に見えるのはそこかしこに巨大な樹木が根と枝葉を広げているからだ。
同じく白い石積みの道路は、無数の階段やアーチを成して樹々の間をくぐり、そこを歩く沢山の人間たちは――これも明らかに現代人ではなかった。
一人として、背広の男やミニスカートの女は居ない。皆、ゆったりしたシルエットのワンピースや革製のベスト、地面に引きずりそうな貫頭衣といった中世風の衣装を身に着けている。頭髪は、金から茶色、黒まで様々で、目を凝らすと顔立ちは西洋人とも東洋人とも即断できない。
一体これは何処なのだろう。いつの間にか、研究船の中から本当に地下の異世界か何かに移動してしまったのか。呆然となりながら凛子が視線を動かすと、どこまでも広がる街並みの向こうに、一際純白に輝く巨大な塔が見えた。四つの副塔を従えた主塔の上部は、窓枠に収まりきれずに遥か青空の向こうへと伸びている。
塔の天辺を視界に入れるべく、数歩前に進んだところで、凛子はようやく眼前の光景が窓ではなく大画面のモニタパネルに映し出されたものであることに気付いた。直後、天井で控えめな照明が点灯し、部屋から暗闇を追い払った。
小劇場のスクリーンほどもありそうなモニタパネルの手前には、いくつものキーボードとサブモニタを備えたコンソールが扇状に広がり、そこに二人の男の姿があった。一人は背を向けて椅子に掛けたまま忙しなくキーを叩いている。もう一人の、腰をコンソールの縁に乗せ上体を屈めていた男が、顔を上げて凛子を見るや、眼鏡の奥でにいっと笑みを浮かべた。
かつて何度か見た、人懐こそうでそれでいて内面の見通せない笑顔だ。総務省に出向中の自衛官、菊岡誠二郎二等陸佐である。しかし――。
「……何なんですか、その格好は?」
二年ぶりに会う人間への挨拶がわりに、凛子は顔をしかめながら尋ねた。隙のないスーツ姿の中西と手早く敬礼を交わす菊岡は、青地に黄色い椰子の木がプリントされた派手なアロハにバミューダパンツ、その上裸足に下駄履きという出で立ちなのだ。
「それでは、私はここで失礼致します」
凛子にも敬礼して中西が去り、機械群の向こうでドアの開閉音がすると、直立していた菊岡は再びだらりとコンソールに寄りかかり、やや錆びの入ったソフトな低音で言った。
「だって、せっかくこんな海のど真ん中にいるんだよ。――神代博士、それにレイノルズさん、ようこそオーシャン・タートル……あるいは『ラース』へ。やっと来てくれて嬉しいよ、何度も声を掛けた甲斐があった」
「ま、来てしまったことだししばらくお世話になります。お役に立てるかどうかは保証できないけど」
凛子がぺこりと会釈すると、隣で助手もそれに習った。菊岡はわずかに眉を持ち上げ、助手の豪奢な金髪に目を止めていたが、すぐにまたにっと笑うと肩をすくめた。
「貴女は、僕がこのプロジェクトにどうしても必要だと考えていた三人の人間の、最後の一人なんだよ。これでついに、三人ともこの海亀の腹に集ったわけだ」
「ふうん。なるほどね……そのうちの一人は、やっぱり君だったのね、比嘉君」
凛子が声を掛けると、いままでずっと背中を見せていた二人目の男が、手を止めて椅子ごとくるりと向き直った。
長身の菊岡と並ぶと、まるで子供のように小さい。髪を剣山のように逆立て、無骨なデザインの丸眼鏡を掛けている。黒いプリントTシャツに色褪せたジーンズ、かかとを潰したスニーカー穿きという格好は、大学生の頃とまるで変わっていない。
五、六年ぶりに会う比嘉健(ひがたける)は、凛子を見ると、体格に見合った童顔に照れたような笑みを浮かべ、口を開いた。
「そりゃもちろんボクですよ。重村研究室最後の学生として、先輩方の志は継がないと」
「まったく……相変わらずね、君は」
東都工業大学電子工学部の異端と呼ばれた重村ゼミにおいて、茅場晶彦と須郷伸之というそれぞれ方向性は違うにせよ巨大な二つの個性の陰に隠れていた感のある比嘉が、このような謎めいた国家的プロジェクトに深く関わっていたことに奇妙な感慨を覚えながら、凛子は手を伸ばしてかつての後輩と軽い握手を交わした。
「……で? 三人目は、どこの誰なんです?」
再度菊岡を見てそう尋ねると、自衛官は相も変らぬ謎めいた笑みを浮かべ、短く首を振った。
「残念ながら、今は紹介できないんだ。折りを見て、数日中に……」
「じゃあ、代わりにわたしが名前を言ってあげるわ、菊岡さん」
――と言ったのは、凛子ではなく、今まで背後で影のようにひっそりとしていた『助手』だった。
「なにっ……!?」
唖然と目を見開く菊岡の顔を、してやったり、と眺めながら、凛子は一歩退いて彼女に場所を譲った。染めたばかりの長い金髪を揺らして進み出た『助手』は、大きなサングラスを外し、はしばみ色の瞳でまっすぐに菊岡を見据えながら続けた。
「キリト君を、どこに隠したの?」
恐らく、驚愕という感情にあまり馴染みがないのであろう二等陸佐は、何度か口を動かしては閉じるということを繰り返してから、ようやく囁くような声で言った。
「……研究助手の身元確認は、カリフォルニア工科大学の学籍データベースから得た写真で多重チェックしたはずだが」
「ええ、わたしも先生も、何回も嫌ってほど顔をじろじろ見られたわよ」
凛子の研究助手を勤めるマユミ・レイノルズの身元証明を隠れ蓑に、ついにオーシャン・タートルの中枢まで潜入してのけた日本の女子高校生・結城明日奈は、背筋を伸ばして菊岡の視線をまっすぐ受け止めながら答えた。
「ただ、学籍データベースの写真は一週間前にわたしの顔に差し替えさせてもらったけどね。うちには、防壁破りが得意な子がいるものですから」
「ちなみに、本物のマユミは今ごろサンディエゴで肌を焼いてるわ」
付け加え、凛子はにっこりと笑ってみせた。
「さ、これで、なぜ私が突然あなたの招聘に応じる気になったかわかって貰えたかしら、菊岡さん?」
「ああ……大変よくわかった」
こめかみを押さえながら、菊岡は力なく首を振った。突然、今まで凛子たちのやり取りをぽかんとした顔で傍観していた比嘉健が、くっくっと笑い声を上げた。
「ほら、ね、言ったでしょう菊さん。あの少年は、この計画における唯一にして最大のセキュリティホールだって」
一週間前、結城明日奈という見知らぬ差出人から届いたメールは、半ば世捨て人としてアパートとキャンパスを往復するだけの日々を送っていた凛子の心を大いに揺さぶる内容だった。
かつて凛子が、過去を清算するつもりで提供した医療用NERDLESマシン"メディキュボイド"――その設計を基にした"ソウル・トランスレーター"なる怪物の開発が、ラースという謎の機関によって進められていると明日奈は書いていた。人間の魂そのものにアクセスするというそのマシンの目的は、恐らく世界初のボトムアップ型人工知能を作り出すこと。実験に協力していた少年、"あの"桐ヶ谷和人が病院から昏睡状態のまま拉致され、その行き先は恐らく進水したばかりの巨大海洋研究母船オーシャン・タートル、そして拉致の黒幕はSAO事件に当初から深く関わり続けた菊岡誠二郎である疑いがある――という、一読しただけでは容易に信じられない話が続いていた。
『神代さんのメールアドレスは、キリトくんのPC内のアドレス帳から見つけました。神代さんだけが、私をラースへ、キリトくんの元へ至らしむるただ一つの可能性なのです。どうか、力を貸してください』――。
メールはそう結ばれていた。凛子は、激しく動揺しながらも、結城明日奈の言うことは真実であろうと判断した。なぜなら、一年ほど前から、自衛官菊岡誠二郎の名で次世代NERDLESテクノロジーの開発プロジェクトへの参加要請が再三ならず届いていたからである。
自宅アパートの窓辺から、パサデナの夜景を眺めながら、凛子は日本出国前夜に一度だけ会った桐ヶ谷少年の顔を思い描いた。須郷伸之の起こした人体実験事件の顛末を説明した彼は、最後にためらいがちに付け加えた。仮想世界内で、茅場晶彦の幻影と会話をしたこと、そしてその幻影は、何らかの意図を持って桐ヶ谷少年にシュリンク版"カーディナル"プログラムを託したということを。
思えば、茅場晶彦が自らの命に幕を引くために使った高密度・高出力の大脳パルス走査機こそがメディキュボイドの原型であり、ひいてはソウル・トランスレーターの原型である、ということになる。結局、全ては繋がっており、何も終わってはいなかったのだ。ならば、今になってこの結城明日奈からのメールが届いたのも必然なのではないか――?
一晩かけて心を決めた凛子は、明日奈に要請を承諾する旨の返事を送った。
危険な賭けではあったが、こうして菊岡誠二郎の驚き顔が見られただけでもはるばる太平洋を横断した甲斐はあった、と凛子は小さく笑った。SAO事件直後からあれこれ暗躍し、何もかも思うままにコントロールしてきた感のある菊岡からついに一本とったわけだが、しかしまだ手放しで喜ぶのは早すぎる。
「さ、ここまで来たら、何もかも白状してくれてもいいんじゃないかしら、菊岡さん? 自衛官のあなたが、何で総務省の窓際課長なんてカバーを使ってまでVRワールドに首を突っ込みつづけたのか、一体このでっかい亀のお腹で何を企んでるのか、そして……なぜ桐ヶ谷君をさらったのか」
畳み掛けるように凛子が言うと、菊岡は再度首を振りながら長い溜息をつき、相変わらず内心の読めない笑顔を浮かべた。
「まず、最初に誤解のないよう言っておきたいんだが……確かにキリト君を少々強引なやり方でラースに招待したのは申し訳なかった。でも、それはどうにかして彼を助けたかったからだよ」
「……どういう意味?」
腰に剣があったらもう鯉口を切っているであろう剣呑な表情で、明日奈が一歩詰め寄る。
「キリト君が襲撃され、昏睡状態に陥ったことを僕はその日のうちに知った。彼の脳が、低酸素状態による損傷を受け、そしてそのダメージは現代医学では治療不可能であるということもね」
明日奈の顔がさっと強張る。
「治療……不可能……?」
「脳の、重要なネットワークを構成していた神経細胞の一部が破壊されてしまったんだ。あのまま入院していても、彼がいつ目覚めるかはどんな医者にも分からなかったろうね。あるいは、永遠に眠ったままか……おっと、そんな顔をしないでくれたまえアスナ君。さっき、現代医学では、と言ったろう?」
菊岡は、滅多に見せない真剣な表情をつくり、ゆっくりと頷いた。
「だが、世界でもこのラースにだけ、キリト君を治療可能な技術があるんだ。S機関……と我々は呼んでいるが、君ももうよく知っているSTL、ソウル・トランスレーターだよ。死んだ脳細胞は治療できないが、しかし、STLで直接フラクトライトを賦活することで新しいネットワークの発生を促すことはできる。時間はかかるがね。キリト君は今、このメインシャフトのずっと上にある、フルスペックSTLの中にいるよ。六本木の分室にあるリミテッドバージョンでは微細なオペレーションができないので、どうしてもここに来てもらう必要があったんだ。治療が終わり、彼の意識が戻ったら、すべて説明したうえでちゃんと東京に帰すつもりだったんだよ」
そこまで聞いたとたん、ふらりと明日奈の体が揺れ、凛子は慌てて手を伸ばして支えた。
恐るべき洞察力と意思力を発揮し、愛する少年の元へと一直線に突き進んできた少女は、ここに来て緊張の糸が切れたかのように一滴だけ大粒の涙をこぼしたが、気丈にそれを拭って再びしっかりと立った。
「じゃあ、キリト君は無事なんですね? また元気になるんですね?」
「ああ、約束しよう」
菊岡の真意を見透かそうとするような、まっすぐな視線を数秒間ぶつけたあと、明日奈はごく小さく頷いた。
「……分かりました、今はあなたを信じます」
それを聞いて、ほっとしたように菊岡は笑った。そこに向かって、凛子は一歩進み出ながら尋ねた。
「でも、そもそも何故、STLの開発に桐ヶ谷君が必要だったの? こんな何も無い海の真ん中に隠すほどの極秘プロジェクトに、どうして一高校生である彼を?」
隣の比嘉と顔を見合わせてから、菊岡はやれやれ、というように肩をすくめた。
「それを説明しようとすると、すごく長い話になるんだけどね」
「構わないわ、時間はたっぷりあるんだし」
「……全部聞くからには、神代博士にはちゃんと開発を手伝ってもらいますよ」
「聞いてから決めるわ」
少々恨めしそうな顔を作った自衛官は、これ見よがしに溜息をついてから、バミューダパンツのポケットを探り小さなチューブを引っ張り出した。何かと思えば、安っぽいラムネ菓子だ。二、三粒口に放り込んでから、凛子たちに向かって差し出す。
「食べます?」
「……いえ、結構」
「これ、いけるのになぁ。……さて、と。お二人は、STLの概要はもうご存知と思っていいのかな?」
明日奈がこくりと首肯した。
「人の魂……フラクトライトを解読して、現実と全く同じクオリティの仮想世界にダイブさせる機械」
「ふむ。では、プロジェクトの目的については?」
「ボトムアップ型の……"高適応性人工知能"の開発」
ぴゅうっ、と口笛を鳴らしたのは比嘉健だった。丸眼鏡の奥の目に賞賛の色を浮かべ、信じられない、というように首を振る。
「驚いたなぁ。キリト君もそこまでは知らなかったはずだけどな。どうやってそんなことまで調べ上げたの?」
明日奈は、比嘉の人物を確かめるような視線を向けながら、固い口調で答えた。
「……キリト君が言ってたのを聞いたんです。アーティフィシャル・レイビル・インテリジェンス、って言葉を……」
「ははぁ、成る程ね。六本木の保守体勢も点検したほうがいいッスよ、菊さん」
にやにや顔の比嘉の言葉を、菊岡はしかめ面で受け流す。
「キリト君からある程度の情報漏れがあることは覚悟していたよ。そのリスクを勘案しても、彼の協力が不可欠だったことは君も納得していたはずだ……で、どこまで話したかな? そう、高適応性人工知能だったね」
もう一粒振り出したラムネを空中に弾き上げ、器用に口で受け止めてから、二等陸佐は国文の教師然とした風貌にそぐわしい口調で続けた。
「ボトムアップ型、つまり我々人間の意識の構造をそのまま模した人工知能の創造は、長い間夢物語だと思われていた。意識の構造、と言ってもそれがどのような形をしており、何で出来ているのかすらさっぱり判らなかったんだからね。――だが、かの茅場先生と神代教授の残してくれたデータをもとに、この比嘉君がひたすら解像力を高めて作り出したSTLは、ついに人間の魂……我々がフラクトライトと呼ぶ量子場を捉えることに成功したわけだ。ここまで来れば、ボトムアップ型人工知能の開発は成功したも同然だ、と我々は考えた。何故かわかるかい?」
「人の魂を読み取れるなら、あとはそれをコピーすればいい……そういうことね?」
ある種の戦慄をかすかに覚えながら、凛子はそう口にした。
「もちろん、魂のコピーを保存するためのメディアという問題があるでしょうけれど……」
「そう、その通りだ。従来の量子コンピュータ研究に用いられてきたゲート素子ではとても容量が足りないからね。そこでこれも巨費を投じて開発されたのが、"光量子ゲート結晶体"通称ライトキューブというものだ。一辺十五センチのプラセオジミウム結晶構造体の中に、人間の脳が保持する百億キュービットのデータを保存することができる。つまり……我々はすでに、人の魂の複製には成功しているんだ」
「…………」
指先がすうっと冷えていく感覚に耐えるため、凛子は両手をぐっとジーンズのポケットに差し込んだ。見れば、明日奈の横顔も色を失っている。
「……なら、もう研究は成功しているってことじゃないの。何故今更私を呼ぶ必要があったの?」
畏れを悟られないように、下腹に力をこめながら凛子は問いただした。また比嘉と視線を交わした菊岡は、唇の左端にかすかな虚無感のにじむ笑みを漂わせながら、ゆっくり頷いた。
「そう、魂の複製には確かに成功した。しかし、我々は愚かにも気付いていなかったのさ。人間のコピーと、真の人工知能のあいだには途方も無く深く広い溝が開いていることにね。……比嘉君、例のあれ、見せてやりたまえよ」
「ええー、もう勘弁してくださいよ。あれやるとめちゃくちゃ凹むんすよ」
心底嫌そうな顔で首を振る比嘉だったが、ため息をつくと、不承不承という様子でコンソールに向き直り、指を走らせた。
突然、謎の異邦都市を映し出していた巨大スクリーンが暗転した。
「それでは、ロードします。コピーモデルHG001」
たん、と比嘉がキーを叩くと同時に、スクリーンの中央に複雑な放射線型の光が浮かび上がった。中央は白に近く、先端に行くほど赤くなる光の棘が、幾つも伸縮しながらうごめいている。
『……サンプリングは終わったのか?』
不意に頭上のスピーカーから声が降ってきて、凛子と明日奈はびくりと体を震わせた。比嘉の声だ。だが、わずかに金属質のエフェクトがかかり、語尾がいんいんと反響する。
椅子に座る比嘉は、コンソールから伸びるマイクを引き寄せると、自分と同じ声に向かって答えた。
「ああ、フラクトライトのサンプリングは全て問題なく終了したよ」
『そうか、そいつはよかった。でも……どうしたんだ、真っ暗だ……体も動かない。STLの異常か? すまないが、マシンから出してくれ』
「いや……残念だが、それはできないんだ」
『おいおい、何だ、何を言ってるんだ? あんたは誰だ? 聞き覚えのない声だな』
比嘉は背筋を緊張させると、ひとつ間を置いてから、ゆっくりとした口調で答えた。
「俺は比嘉だ。比嘉健」
『…………』
赤い光のトゲトゲが、突然ぎゅっと収縮した。しばしの沈黙のあと、何かに抗うように、鋭い先端を一杯に伸ばす。
『馬鹿な、何を言ってるんだ。俺が比嘉だ。STLから出ればわかる!』
「落ち着け、取り乱すな。お前らしくないぞ」
ここにきて、ようやく凛子は眼前で展開している一幕の意味を悟った。
比嘉健は、自らの魂のコピーと会話をしているのだ。
「さあ、よく考え、思い出すんだ。お前の記憶は、フラクトライトのコピーを取るためにSTLに入ったところで途切れているはずだ」
『……それがどうした。当然だろう、スキャン中は意識がないんだから』
「STLに入る前に、お前は自分に言い聞かせた。もし、目覚めたとき周囲が暗黒で、体の感覚がなかったら、その時は冷静に受け入れなくてはならないと。――自分が、ライトキューブに保存された比嘉健のコピーだということを」
再び、ある種の海生生物のように、光が小さく縮こまった。長い静寂に続いて、弱々しく二、三本のトゲを伸ばす。
『……嘘だ、そんなことは有り得ない。俺はコピーじゃない、オリジナルの比嘉健だ。俺には……俺には記憶がある。幼稚園の頃から、大学、オーシャンタートルに乗るまでの詳細な記憶が……』
「そうだな、だがそれも当たり前のことだ。フラクトライトの保持する記憶もまたすべてコピーされたんだから。コピーとは言っても、お前が比嘉健であることは間違いない。なら、何者にも負けない知性を備えているはずだ。状況を冷静に受け入れるんだ。そして俺たちの共通の目的を達成するため、力を貸してくれ」
『…………俺たち……俺たちだって……?』
金属的なコピーの声に、生々しい感情の揺れを聞き取った瞬間、凛子の両腕が激しく粟立った。これほど残酷でグロテスクな"実験"を、凛子はこれまで見たことは無かった。
『……嫌だ……嫌だ、信じない。俺はオリジナルの比嘉健だ。これは何かのテストなんだろう? もういいよ、ここから出してくれ。菊さん……そこにいるんだろう? わるい冗談はやめて、俺を出してくれよ』
それを聞いた菊岡は、陰鬱な表情を浮かべながら身をかがめ、マイクに口を寄せた。
「……僕だ、比嘉君。いや……もうHG001と呼ばなければならない。残念だが、君がコピーバージョンだというのは本当のことなんだ。スキャンの前に、君は何度もカウンセリングを受け、僕や他の技術者と話し合い、自らがコピーであることを受け入れるための準備をしたはずだ。そしてそれが可能であるという確信を得てSTLに入ったはずだ」
『だが……だが、こんな……こんなものだとは誰も教えてくれなかった!』
コピーの激した絶叫が主操作室いっぱいに響いた。
『俺は……俺のままなんだ! コピーならコピーだと実感できてもいいじゃないか……こんな……こんなのは酷すぎる……嫌だ……出してくれ! 俺をここから出せよ!』
「落ち着け、冷静になるんだ。ライトキューブのエラー訂正機能は生体脳ほど高くない、論理的思考を失うとどうなるか、その危険性も君は知っているはずだ」
『俺は論理的だ! 比嘉健なんだぞ! 何なら、そこの偽物の比嘉と円周率の暗誦競争でもしてみるか!? そら、始めるぞ! 3.14159265、35897932、サンバチヨウログニーログヨディル、ディル、ディッディッディル、ディルディルディルディルディルディ――――――――――――』
赤い光が、スクリーン一杯に爆発したかのように広がり、中心部分から暗転して消え去った。ぶつっ、という音を残してスピーカーも沈黙した。
比嘉健は、とてつもなく長いため息をついたあと、コンソールのボタンを押しながら呟いた。
「崩壊しました。四分二十七秒」
うっ、というこもった声に、凛子はいつの間にか握り締めていた両手を開いた。掌が冷たい汗で濡れている。
見ると、明日奈が右手で口もとを押さえている。その様子に気付いた菊岡が、広いコンソールに幾つも備えられているキャスター付きの空き椅子を一脚、そっとこちらにスライドさせてきた。受け取め、真っ青な顔の明日奈をそこに座らせる。
「大丈夫?」
聞くと、少女は顔を上げ、気丈に頷いた。
「ええ……、すみません。もう平気です」
「無理しないで。少し目を閉じてたほうがいいわ」
手をかけた明日奈の肩からふうっと力が抜けるのを確認し、改めて菊岡の顔を睨みながら凛子は言った。
「……悪趣味にも程があるわね、菊岡さん」
「申し訳ない。だが、これは、直接観てもらう以外に説明は不可能だということも、もう分かってもらえたろう」
首を振りながら、自衛官は嘆息混じりに続ける。
「この比嘉君は、140近いIQを持つ天才だ。その彼のコピーにして、己がコピーであるという認識に耐えることが出来ないんだ。私を含め、十人以上の人間のフラクトライトを複製したのだが、結果は一緒だった。例外なく、三分程度で思考ロジックが暴走し、崩壊してしまう」
「俺、普段あんなふうに喚いたりすること一切ないんスよ。それは、凛子先輩なら知ってると思いますけど」
とてつもなくげんなりした顔の比嘉が言葉を繋いだ。
「これはもう、コピー元になった人間の知的能力や、ロードしたコピーに対するメンタルケアとかそういう問題じゃなくて、ライトキューブに丸ごとコピーしたフラクトライトの持つ構造的欠陥なんだと考えてます。あるいは……。――先輩は、脳共鳴って言葉、知ってます?」
「え? ……たしか、クローン技術に関係したことだったような気がするけど、詳しくは……」
「まぁ、オカルトもんのヨタ話なんですけどね。もし、オリジナルとまったく同一のクローン人間を作ることができたら、二人の脳から発生する磁気がマイク・ハウリングみたいに共鳴しあって、両方とも吹っ飛んじゃうって、そういう話っス。それは眉唾としても――もしかしたら、俺ら人間の意識は、自分がユニーク存在じゃないっていう認識には根源的に耐えることができないのかもしれません……おや、胡散臭そうな顔してますね。もしよかったら、凛子先輩もコピー取って試してみます?」
「絶対にお断りだわ」
怖気をふるいながら凛子は顔を背けた。主操作室に落ちた一瞬の沈黙を破ったのは、今まで椅子の上で瞼を閉じていた明日奈の細い声だった。
「……ユイちゃんが言ってました……あ、ユイちゃんていうのは、旧SAOサーバーで生まれたトップダウン型人工知能なんですけど……人間の意識とは構造からしてまったく違うはずのあの子でも、自分のコピーを取るのは恐ろしいそうです。もし、何らかの事故で凍結バックアップが解凍されて動き出したら、多分わたしたちは互いを消滅させるために戦わざるを得ないでしょう、って……」
「へえ、それは興味深いな。とても興味深い」
比嘉が眼鏡を押し上げながら身を乗り出した。
「今度ぜひ話をさせて欲しいな。うーん、そうか……やっぱり、完成された知性の複製は不可能ってことなんだろうな……あるいは、知性ってのはユニークであることが存在の大前提条件なのか……」
「でも、じゃあ……」
凛子は少し考えてから、両手を小さく広げながら菊岡に向かって言った。
「あなた達の研究は、まったく無駄だった、ってことなの? 幾らかかったのか知れないけど、公的資金でこれだけのものを作っておいて、何もかも失敗……?」
「いやいやいや」
菊岡は大きな苦笑を浮かべながら首と右手を同時に横に振った。
「もしそれが結論なら、今ごろ僕の首は成層圏まですっ飛んでるよ。僕だけじゃない……統合幕僚監部の偉いさんまとめて打ち首獄門だ」
またしてもラムネのチューブを掌の上で傾け、それが空だと知ると今度は他のポケットからキャラメルの箱を取り出して一粒くわえる。
「実のところ、このプロジェクトはそこが出発点なんだと言ってもいい。出来合いの魂のコピーは不可能だ、という、そこがね。……丸ごとコピーが無理なら、じゃあどうすればいいと思います、博士?」
「……私も頂戴していいかしら、それ」
菊岡が嬉しそうに差し出すキャラメルを左手で受け取り、包み紙を剥いて含むと、甘酸っぱいヨーグルトの味が広がった。アメリカでは中々味わえないフレーバーだ。糖分が疲れた脳に染み渡っていくのを感じながら、考えを整理する。
「……記憶を制限すればどうなの? 例えば……名前や生い立ちといった個人的な記憶を削除する。自分が誰だか分からなければ、さっきみたいな急激なパニックは起こらないんじゃないかしら……」
「さすが先輩、よく即座にそこまで出てくるっスね」
大学時代に戻ったような口調で比嘉が言った。
「僕らも、一週間あれこれ考えた挙句ようやくそれを思いついて、実行してみました。ただ、ね……フラクトライトの量子ビット・データというのは、ウインドウズの階層フォルダみたいに整然と保存されてるわけじゃないんス。簡単に言えば、記憶と能力は表裏一体なんですよ。考えてみれば当然で、我々の能力ってのは最初っからインストールされてるわけじゃなくて、全て学習の結果なんです。学習とはつまり記憶ですよ。初めてハサミで紙を切ったときの記憶を消せば、ハサミの使い方も忘れてしまう……言い換えれば、成長過程の記憶を削除すれば、関連した能力もごっそり消えていく。出来上がったものの悲惨さは、さっきのフルコピーの比じゃあないっスよ。一応、見てみます?」
「い……いえ、結構」
凛子は慌ててかぶりをふった。
「なら……もう、記憶も能力も何もかも消去して、改めて最初から学習させたら? いえ……それも現実的じゃないわね。時間が掛かりすぎる……」
「ええ、その通りです。そもそも、言語や計算といった基本的能力は、我々大人の発達しきってしまったアタマに学習させることは非常に困難なんス。俺もずっと韓国語を勉強中なんですけどね、あれだけシステマチックな言語でももう何年やってるか……。結局、学習というのは脳神経ネットワークっていう量子コンピュータ回路の発達過程と同期してないと効率が悪すぎるんです」
「じゃあ、記憶……つまりデータ領域だけじゃなくて、思考、ロジック領域も制限するの? STLっていうのは、そんなことまで可能なの……?」
「やれば不可能ではないでしょう。ただ、途方も無い時間をかけてフラクトライトを解析し、百億キュービットのどこが何を受け持っているということを完全に突き止める必要があります。何年……何十年かかるか知れたもんじゃないっスよ。でもね……もっとシンプルでスマートな方法があることを、このオッサンが思いついたんです。俺ら科学者には多分思いつけない方法をね……」
凛子は瞬きして、コンソールに尻を乗せたままの菊岡の顔を見た。相変わらずその表情は穏やかで、それでいてこの人間の内面性を見透かすことを拒否している。
「え……? シンプルな方法……?」
首を捻るが、さっぱり分からない。降参して尋ねようとしたとき、少し離れた椅子で休んでいた明日奈が、がたん、と音を立てて立ち上がった。
「まさか……まさか、あなた達、そんな恐ろしいことを……」
相変わらず頬は蒼ざめているが、目には力強い光が戻ってきている。日本人離れした美貌に強い憤りを浮かべながら、明日奈はキッと自衛官を睨みつけた。
「……赤ちゃんの……生まれたばかりの赤ちゃんの魂をコピーしたのね? 何も知らない、無垢なフラクトライトを手に入れるために」
「いよいよ、驚くべき洞察力だね。もっとも、キリト君と二人でSAOをクリアした……つまり、かの茅場晶彦をも出し抜いた勇者なんだから、こんな言い方は失礼というものかな」
賛嘆の色を隠そうともせず、菊岡が微笑む。
思いがけないところで茅場の名前を聞いたことで、凛子の胸の奥はずきんと疼いた。知り合ってからのたった数日のうちに、結城明日奈に対しては非常な好感を抱くに至っている凛子だが、厳密に言えば明日奈は凛子を大いに糾弾し、罵り、断罪してよい立場なのだ。様々な事情があったにせよ、凛子は茅場晶彦の恐ろしい計画に協力し、その結果明日奈は残酷なデスゲームのなかに二年間も囚われることになったのだから。
だが、明日奈も、そしてずっと以前に会った桐ヶ谷和人も、一言たりとも凛子を責めようとはしなかった。まるで、すべては起こるべく決められていたことだったのだ、と言わんがばかりに。
ならば明日奈は、この一連の"ラース事件"もまた必然だと考えているのだろうか? ――思わずそう考えながら、じっと見守る凛子の視線の先で、明日奈はさらに一歩菊岡に詰め寄った。
「あなたは……自衛隊なら、国なら何をしてもいいと思っているの? 自分の目的がすべてに優先するとでも?」
「とんでもない」
菊岡は本気で傷ついたような顔をし、盛んに首を横に振った。
「確かにキリト君を拉致したことはやりすぎだった。しかしあの時点で、君やキリト君のご家族に機密を洗いざらい説明することはできなかったんだ。一刻も早く、ここのSTLでキリト君の治療をしたいがための非常手段だったんだよ。僕も彼のことが好きだからね。――それ以外の点では、僕は法と道徳を守りすぎるほど守っていると思うよ……現在、世界で同種の研究を行っているいくつかの企業や国家に比べれば。今、君が問題にしている点に関してもそうだ。STLによる新生児フラクトライトのスキャンを行うにあたっては、当然両親の承諾を得、充分な謝礼を支払ったよ。そもそも六本木の開発分室は、そのために作られたんだ……病院の隣にね」
「でも、赤ちゃんの両親には、洗いざらい説明したわけじゃないんでしょう? STLがどんな機械なのか」
「ああ……それは確かに、脳波のサンプルを取る、としか言えなかったが……しかし、まるで出鱈目でもないよ。フラクトライトは、脳内の電磁波であることには違いないんだから」
「詭弁だわ。それは、それと知らせずに赤ちゃんのDNAを採取して、そこからクローン人間を作るようなものでしょう」
不意に、やり取りをだまって聞いていた比嘉が、短い笑い声を上げた。
「分が悪いッスよ、菊さん。確かに、新生児のフラクトライトを秘密裏にコピーしたことには一定量の倫理的問題はあると俺も思うよ。でも……結城さんだっけ? 君の理解にも少々誤謬があるかな。フラクトライトというのは、遺伝子ほどには個人による差が無いんスよ。特に、生まれたばっかりの時はね」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、言葉を探すように目を泳がせる。
「そうだな……こう説明すればいいかなぁ。例えば、メーカー製の同モデルのパソコンは、出荷されるときには、性能も外見もまったく同一の個体ッスよね。でも、ユーザーの手に渡り、半年、一年と使用されるうちに、新しいハードウェアやソフトウェアをインストールされていって、やがてまったく別物と言っていいくらいに変わってしまう。人間のフラクトライトもそれと同じなんス。俺たちは、最終的に十二人の赤ん坊からフラクトライトをコピーしたんスけど、比較したところ、大脳の容積にかかわらず、なんと99.98%まではまったく同一の構造でした。0.02%の違いは、胎内と出産直後に蓄積した記憶だと考えてます。つまり、人間の思考能力や性格ってのは、全部生まれたあとの成長過程で決定されるってことッス。能力性格が遺伝するって説は完全に否定されたわけッスね。優生学の信奉者連中のケツの穴に、この事実を片っ端から突っ込んでやりたいッスよ」
「プロジェクト完了の暁には、好きなだけ突っ込みたまえ」
どこか疲れたような顔で菊岡が言った。
「ともかく、比嘉君が説明してくれたとおり、新生児フラクトライトには個人を特定するコードは含まれていないという結論となった。そこで、十二のサンプルから0.02%の差異を慎重に削除して、得られたそれを、僕らはこう呼ぶことにした……"思考原体"とね。全ての人間が共通して生まれ持つCPUコア、とでも考えてくれればいいかな。僕ら人間は、成長する過程でそのコアに、様々なサブプロセッサやメモリを増設していく。そしてやがてはコアそのものの構造も変化していってしまう……。その"完成品"を単にライトキューブにコピーしただけでは、我々の求める高適応性人工知能足りえないことは先ほどお見せした通りだ。ならば、思考原体を最初からライトキューブ中……つまり仮想世界内で成長させればどうだろう、と考えた訳なのさ」
「でも……」
まだ納得できないような顔で明日奈は眉をしかめたが、その肩に手を掛けてそっと椅子に座らせ、凛子は口を挟んだ。
「成長させる、って言ってもペットや植物とは訳が違うでしょう。人間の赤ちゃんと同じなんでしょ、その思考原体って。なら、必要とされる仮想世界の規模は膨大なものになるはずよ。現実社会と、まったく同じレベルのシミュレーション……そんなものが作れるの?」
「不可能だね」
菊岡が、溜息まじりに頷いた。
「いくらSTLによる仮想世界の生成が、既存のVRワールドと違って3Dオブジェクトデータを必要としないと言っても、さすがにこの複雑怪奇な現代社会をそっくり作り上げることは難しい。――明日奈君が生まれた頃の映画に、こんな奴があったんだけど覚えているかな? 一人の男の、生まれた瞬間からの人生の全てをテレビショーとして放送するべく、巨大なドームの中に一つの町のセットをまるごと建て、何百人ものエキストラを配置して、そうと知らないのは主役の男だけ……という状況を作り上げる。だが、男が成長し、世界というものを学ぶに伴って、様々な齟齬が露見し、やがて男も真実に気付く……」
「観たわ。けっこう好きな映画だった」
凛子が言うと、菊岡はひとつ頷き、続けた。
「つまり……この現実世界の精巧なシミュレーションを作ろうとすれば、それが必然的に含む情報自体……地球は巨大な球体であるとか、その上には沢山の国が存在するとか、そういう知識が、シミュレーション内の人間に世界に対する違和感を生じさせてしまうというアンビバレンツがあるんだ。いくらSTLでも、地球を丸ごと複製するなんてことはとても無理だからね」
「じゃあ、シミュレーションの文明レベルを大きく過去に遡らせたら? 人間が、科学だの哲学だのと考え出す前の、一つの地方だけで生まれて死んでいった頃の時代に……。それでも、思考原体を成長させるっていうあなた達の目的は達せられるんじゃないの?」
「うん。迂遠な話ではあるが、時間はたっぷりあるんでね……STLの中では。とりあえず、神代博士の仰るとおり、非常に限定的な環境の中で第一世代の人工知能を育ててみようと僕らは考えた。具体的には、十六世紀ごろの日本の小村だね。だが……」
そこで言葉を切り、手を広げながら肩をすくめる菊岡に代わって、比嘉が口を開いた。
「これが、思ったほど簡単な話じゃないんスよ。何せ俺らは、当時の習俗やら社会構造についてまるで門外漢なんスから。家一つ作るにも膨大な資料が必要だってことが分かって、頭を抱えて……そこでようやく気付いたんス。別に、本物の中世を再現する必要なんか無い、ってことにね。俺らが求めていた、限定的な地勢で、習俗なんかも好き勝手に設定できて、厄介な科学的問題なんかは丸ごと"魔法"の一言で片付けられる世界は、実はもう山ほど存在したんスよ。そこの結城さんや桐ヶ谷君が慣れ親しんでいるネットワークの中にね」
「VRMMOワールド……」
掠れた声で呟いた明日奈に向かって、比嘉はぱちんと指を鳴らした。
「俺も実はそこそこ遊んでたもんで、すぐにあれこそ打ってつけだと分かったッスよ。しかも、誰が作ったのかは知らないけど、最近じゃあフリーのゲームビルド支援パッケージまであるって言うじゃないスか」
「……!」
比嘉の言っているのが、『ザ・シード』、つまり茅場晶彦が作り、桐ヶ谷和人が公開したシュリンク版カーディナル・システムのことであるとすぐに気付き、凛子は鋭く息を吸い込んだ。だが、どうやら比嘉は――そして菊岡も、あのプログラムの出自についてまでは知らないらしい。
瞬間的に、その件はまだ伏せておこうと考え、凛子は何気なさを装って明日奈の肩に指を触れさせた。言いたいことは伝わったようで、明日奈も無言のままかすかに頭を動かす。
そんな二人の様子は気にもとめず、比嘉は闊達な口調で続けた。
「STLのメインフレーム内に仮想世界を作るだけなら別に3Dデータは要らないんスけど、それだと外部からモニタ出来るのが単なる文字データだけなんでつまんないんスよね。そこで、早速あのザ・シードって奴をダウンロードしてきて、付属エディタでちょこちょこっと小さな村と周囲の地形を作って、それをSTL用のニーモニック・ビジュアルに変換したんス」
「紆余曲折を経て、ようやく最初の箱庭が完成したというわけだ」
まるで遠い過去を懐かしむように視線を宙に浮かせながら、菊岡が言葉を繋いだ。
「一番最初に作った村では、二つの農家で合わせて十六の思考原体を十八歳程度まで成長させた」
「ちょ、ちょっと待って。成長って……育てた親は誰なのよ? まさか既存のAIだとでも言うの?」
「それも検討したんだが、いかにザ・シード付属のNPC用AIが高度と言っても、さすがに子育てまでは到底不可能だったんでね。第一世代の親を務めたのは人間さ。四人の男女スタッフが、STL内部で十八年間に渡って農家の主とその妻を演じたんだ。いかに内部での記憶は最終的にブロックされると言っても、実験中は途方も無い忍耐を強いてしまった。ボーナスを幾ら払っても足りないくらいだよ」
「いやぁ、案外楽しんでやってたみたいっスよ」
呑気な会話を交わす菊岡と比嘉の顔をしばし呆然と眺めたあと、凛子はどうにか言葉を唇から押し出した。
「十八年ですって……? ソウル・トランスレーターには主観的時間を加速させる機能があるとは聞いたけど……それは、現実世界ではどれくらいの期間だったの?」
「ざっと一週間ッスかね」
即座に帰ってきた言葉に、再び驚愕させられる。十八年と言えばおよそ九百四十週だ。つまり、STLの時間加速倍率は千倍という凄まじい数字に迫っていることになる。
「に……人間の脳を普段の千倍も速く動かして、問題は出ないわけ?」
「STLが駆動するのは、生体としての脳じゃなくて、魂を構成する素粒子そのものなんスよ。電気的スパイクがニューロンに神経伝達物質の発生を促して……とかそういう生理的プロセスは全部すっとばせるんス。つまり、理論的には、思考クロックをどれだけ加速しても脳組織が損傷することは有り得ないと考えていいんです」
「上限が無いって言うわけ……?」
ソウル・トランスレーターの時間加速機能"STRA"について、事前に受け取っていた資料で簡単な予備知識は仕入れていたものの、具体的な数字までは知らなかった凛子は言葉もなく立ち尽くした。今まで、STL最大の機能は人の魂をコピーできることだと思っていたが、インパクトは時間加速も負けず劣らず大きい。なぜならそれは、仮想空間で行うことが可能なあらゆる作業の効率を事実上無限に引き上げられるということに他ならないからだ。
「ただ……まだ未確認の問題が無いでもないので、今のところは最大でも千五百倍ほどに制限してるんスけどね」
衝撃に痺れた凛子の頭を、やや陰鬱な表情の比嘉の言葉が冷やした。
「問題?」
「生体組織としての脳とは別に、魂自体にも寿命があるんじゃないかっていう意見が出てまして……」* すぐには理解できず、凛子が首をかしげると、比嘉は、この先を話していいかと問うように菊岡の顔を見上げた。それに向かって、まるで舐めているキャラメルが急に苦くなったかのごとく渋面を向けた自衛官は、しかしすぐに肩をすくめながら口を開いた。
「まあ、まだまったく仮説の域を出ない話なんだ。簡単に言えば、フラクトライトと呼ぶ量子コンピュータには、情報の蓄積容量と計算能力に限界があって、そこを超えると構造の劣化が始まっていく……ということだね。検証のしようが無いので確たることは言えないんだが、安全を優先してSTRA倍率に上限を設けた訳だ」
「……つまり、肉体的には一週間足らずの時間でも、内部で何十年も過ごせば、魂の老化が始まる……? ってことは……ちょ、ちょっと待ってよ。さっきあなた、思考原体の育成をするために、スタッフが十八年をSTLの中で過ごした、って言ったわよね? 彼らのフラクトライトはどうなるのよ? 今後の人生で、本来より十八年早く、知的能力の衰えが訪れるってことじゃないの?」
「いや、いや、そうはならない……はずだよ」
はずぅ? と胸中で繰り返しながら、凛子は菊岡を睨んだ。
「フラクトライトの総容量と、それを消費していくペースから概算して、我々は"魂の寿命"をおよそ百五十年と見ている。つまり、仮に我々が完璧な健康を維持し、幸運にも脳が様々な病変から逃れつづけられた場合、最大で百五十歳くらいまでは思考能力を保ち続けうる、というわけだ。だが無論、僕らはそんなに長くは生きられないからね。安全マージンを充分取っても、三十年程度ならSTL内部で消費しても問題はないと考えている」
「これからの一世紀に、何か画期的な長命技術が開発されたりしなければね」
皮肉っぽく凛子がそう言うと、菊岡は事も無げに答えた。
「もしそんなものが開発されても、僕ら庶民がその恩恵に預かれるはずがないさ。まあ、その意味ではこのSTLも同じことだが……。――ともかく、魂の寿命の件は納得してもらって、先に進ませて戴くよ。四人のスタッフの献身的努力によって"成人"した十六のフラクトライトの出来栄えは、相当に満足すべきものだった。彼らは言語力――むろん日本語だ――と基本的な計算やその他思考能力を獲得し、僕らの作り出した仮想世界において立派に生活していけるだけの水準に達した。実にいい子たちだったよ……両親の言うことにをよく聞き、朝から水を汲み、薪を割り、畑を耕し……ある子はおとなしく、ある子はやんちゃと言った個性を示しつつも、基本的には皆とても従順で善良だった」
そう言いながら微笑む菊岡の口もとに、かすかな苦々しさが漂っているように見えたのは眼の錯覚だろうか。
「成長した彼ら……二軒の家に男女四人ずつの兄弟姉妹たちは、互いに恋さえするようになった。そこで、最早彼らは自らの子供を育てることも可能だと判断した僕らは、実験の第一段階を終了することにした。十六人の若者たちを八組の夫婦とし、それぞれの家と農地を持たせて独立させたんだ。親をつとめた四人のスタッフは、その後に流行り病によって相次いで"死去"し、STLから出た。彼らの十八年間の記憶はその時点でブロックされ、一週間前にSTLに入ったときとまったく同じ状態で現実に帰還したわけだが、外部モニターで、自分たちの葬儀で泣く子供たちを見て彼らも涙したものだよ」
「あれはいいシーンだったッスねえ……」
しんみりした様子で頷きあう菊岡と比嘉に向かって、凛子は咳払いをしてその先を促す。
「……で、人間のスタッフが出た以上、STRAの倍率を気にする必要も無くなったので、僕らは内部世界の時間を一気に現実の五千倍にまで引き上げた。八組の夫婦にはそれぞれ十人前後の赤ん坊、つまり思考原体を与えて育てさせ、彼らはあっという間に成人してまた新しい家庭を持った。村の住民を演じさせていたNPCも徐々に取り除き、ついには人工フラクトライトだけで村を作ることができるようになった。世代交代が進み、彼らの子孫は増えつづけ……現実世界での三週間、内部世界での三百年に及ぶシミュレーションが経過した頃には、なんと人口八万人という一大社会が形成されるに至ったんだよ」
「八万!?」
凛子は思わず絶句した。何度か唇を動かしてから、ようやく探し出した言葉を絞り出す。
「……それじゃあ……それはもう、人工知能っていうよりも、ひとつの文明のシミュレートじゃないの」
「そうだね。だが、ある意味ではそうなるのは当然なんだ。人間というのは社会生物だ……他者との関わりの中でのみ向上していくことができる。フラクトライトたちは、三百年の時間で、小さな村ひとつからまたたく間に広がっていき、僕らの設定した広大なフィールド全体を支配するに至った。血なまぐさい争いひとつ無しで立派な中央集権構造を築き上げ、宗教までも見出した……もっともこれは、実験の当初から世界のシステムを子供らに説明するのに、科学ではなく神という概念を使わざるを得なかったせいもあるがね。比嘉君、モニタに全体マップを出してくれたまえ」
菊岡の言葉に頷き、比嘉は素早くコンソールを操作した。先刻のグロテスクな実験からブラックアウトしたままだった巨大スクリーンが明滅し、そこに航空写真じみた詳細な地形図が浮かび上がった。
当然ながら、日本、いや世界のどの国とも似ていない。海は無いようで、ほぼ円形の平野の周囲を、ぐるりと高い山脈が取り囲んでいる。全体に森と草原が多く、湖や河川もそこかしこにあって、肥沃な土地のようだ。マップ下部の縮尺スケールを見ると、山脈に囲まれた平野の直径は千五百キロメートルほどもあるらしい。
「この広さで人口八万人? ずいぶんと余裕のある人口密度ね」
「むしろ日本が異常なんスよ」
凛子に向かってにやりと笑い、比嘉はマウスを操って、カーソルをマップ中央のあたりでぐるぐると動かした。
「このあたりに首都があります。人口二万人、我々の感覚だとたいしたことないように思えるッスけど、どうしてなかなか立派な大都市ですよ。フラクトライトたちが"神聖教会"と呼ぶ行政機能もここに存在します。"司祭"という階級によって統治が行われているようですが、その支配力は見事なもんです。この広大な世界を、争いごとひとつ起こさず治めている。――この時点で、俺はこの基礎実験は成功したと考えました。仮想世界内でなら、フラクトライトは人間と同レベルの知性へと成長しうる。これなら、我々の目的にそぐう能力を持った"高適応性人工知能"を育成するという次の段階へ進むことができると喜んだわけです。しかし……」
「……僕らは、そこでようやくひとつの重大な問題に気がついた」
モニタを眺めながら、菊岡が言葉を引き取った。
「……話を聞く限り、何も問題なんてなさそうだけど?」
「問題の無いところが問題……と言えばいいかな。この世界は、あまりにも平和すぎる。整然と、美しく運営されすぎるんだ。最初の十六人の子供たちが、驚くほど親に従順だった時点でおかしいと思うべきだった……。人間なら、互いに争っておかしくない。むしろそれこそが人間のひとつの本質だと言ってもいい。だが、この世界に争いは無い。戦争など一度も起きたことはないし、それどころか殺人事件すら起こらない。やけに人口の増えるペースが速いと思ったら、そういうことなんだ。病死や事故死など殆ど起きないように設定していたので、人が寿命でしか死なない……。彼らにも我々と同じような欲望はあるはずなのに、なぜそんなことが起きるのか、僕らは調べてみた。すると、この世界には、ひとつの厳格な法が存在することに気付いた。神聖教会の司祭たちが事細かに作り上げた、"禁忌目録"と呼ばれる長大な法律だ。そこには、殺人を禁じる一項もあったよ。同じ法律は、もちろん僕らの暮らす現実世界にもある。だが、僕らがいかにその法を守らないかは、毎日のニュースを見ていればわかるだろう。ところが、フラクトライトたちは法を守る……守りすぎるほどに守る。こう言い換えてもいい……彼らには、法を、規則を破ることはできないんだ。生来的な性質として」
「……? 結構なことじゃないの?」
菊岡の厳しい表情を眺めながら凛子は首を捻った。
「それだけ聞くと、むしろ私達より優れているように思えるけど」
「まあ……一面ではそう言えるかもしれないがね。比嘉君、モニタを戻してくれないか」
「へい」
比嘉がコンソールのキーを叩くと、大モニタは再び、凛子たちがこの部屋に入ってきたときと同じ異邦の都市の映像を映し出した。大樹の根が絡む白亜の建築物のあいだを、簡素だが清潔な服装をした人々がゆっくりと行き交っている。
「あ……、じゃあ、これが?」
思わず画面に見入りながら凛子が訊くと、比嘉は少々得意そうに頷いた。
「ええ、これがアンダーワールドの首都、"央都セントリア"っす。もっとも、これは僕らにも見えるように通常のポリゴン映像に変換したものですから解像度はけた違いに低いし、表示もスロー再生ですけどね」
「アンダーワールド……」
"不思議の国のアリス"から採ったらしいというその名前を、凛子はすでに明日奈から聞いていた。恐らく比嘉たちは、本来の"地下世界"ではなく"現実の下位世界"という意味合いで用いているのだろうが、画面上の都市の幻想的な美しさはむしろ天上の国かとも思える。
そんな凛子の感想を読み取ったように、菊岡が言った。
「確かにこの都市は美しい。我々が当初与えた、素朴なプラスター造りの農家から、よくもここまで建築技術を進化させたものだと思うよ。しかしね……僕に言わせれば、この街は美しく整いすぎている。道にはゴミ一つなく、泥棒など一人もおらず、無論殺人など一度たりとも起きたことはない。それもすべて、あの遠くに見える"神聖教会"が定めた厳格な法を、何人も破ろうとしないからだ」
「だから、それのどこが問題なのよ」
眉をしかめて再度問うたが、菊岡な何故か口を閉じたまま、珍しく言うべき言葉を探しているようだった。比嘉はというとこちらも不自然に視線を逸らし、発言する気はないようだ。
広い主操作室に落ちた静寂を破ったのは、今まで沈黙を続けていた明日奈だった。その場では最年少の女子高校生は、抑制された静かな口調で、囁くように言った。
「それでは、この人たちは困るんですよ。何故なら、この巨大な計画の最終的な目的は、単に適応性の高いボトムアップ型人工知能を作ろうということじゃなくて……戦争で敵の兵士を殺せるAIを作ることだから」
「な……」
三者三様の表情で絶句する凛子、菊岡、そして比嘉の顔を、明日奈は順番にじっと見てから、続けて唇を動かした。
「わたし、なんで菊岡さん……つまり自衛隊がそんなに高度な人工知能を作ろうとしてるのか、ここに来るまでのあいだずっと考えてました。今まで、わたしとキリト君は、菊岡さんがVRMMOに興味を持つのは、その技術が軍隊の訓練に転用できるからだと推測してたんです。だから、人工知能を作るのもその延長線上で、訓練で敵の兵隊の役目をさせたいからかなって最初は思いました。でも……よく考えてみれば、VRワールド内での訓練なら現実の危険は何もないんだし、人間同士チームに分かれて戦えばいいんです。わたしたちもよくそうやって模擬戦をしますから」
一瞬言葉を切り、周囲の機械群と正面の大モニタを見回す。
「――それに、訓練プログラムの開発のためにしては、この計画は大きすぎます。菊岡さん、あなたは、いつ頃からは知りませんけど、その次を考えてたんですね。仮想世界内で育てたAIに、本物の戦争をさせることを」
少女の、茶色の瞳にじっと見詰められた幹部自衛官は、一瞬の驚きの表情をすぐにいつもの謎めいたポーカーフェイスに隠してかすかに微笑んだ。
「最初からだよ」
ほんの少し錆びのある、柔らかい低音で菊岡は答えた。
「VR技術を軍事訓練に転用することそのものは、NERDLESテクノロジが開発される以前の、HMDとモーションセンサーの時代からすでに盛んに研究されていた。当時の米軍が開発した骨董品が、今もまだ市ヶ谷の設備部にあるよ。――五年前、ナーヴギアという機械が発表されたその時点で、我々と米軍は共同であれを使用した訓練プログラムの開発を始めることになった。だが、その後すぐに開始されたSAOのベータテストを見学して、僕は考えを変えたんだ。この世界、この技術にはもっと大きな可能性がある。戦争という概念を、根底から一変させてしまうほどの……、とね。あのSAO事件が起きたとき、僕は自ら志願して総務省に出向し、対策チームに加わって、事件を間近で見守りつづけた。それも全て、このプロジェクトを立ち上げるためだ。五年かかってようやくここまで来たよ」
「…………」
まったく予想していなかった方向に話が進み、凛子はしばし呆然と目を見開いた。混乱した思考をどうにか整理して、渇いた喉から言葉を絞り出す。
「……イラク戦争と、その後のイラン戦争のときは私はまだ学生だったけど、よく覚えてるわ。アメリカ軍が無人の小型飛行機とか、小型戦車とかを遠隔操作して敵を攻撃する映像が盛んにテレビに流れてた。つまりあれね? ああいうものにAIを搭載して、自律的に攻撃する兵器を作ろうと、あなたは考えてるのね……?」
「僕だけじゃないがね。この種の研究は、すでに各国、とくにアメリカでは何年も前から続けられている。明日奈くんにとっては辛い記憶だろうが……」
菊岡はわずかに言葉を切り明日奈を見たが、彼女が落ち着いているのを確かめ、続けた。
「……君を仮想世界内に監禁し、数千人のSAOプレイヤーを実験台に用いた須郷伸之が、アメリカの企業に、研究成果を手土産にして自分を売り込もうとしていたのは覚えているかな? 彼が接触していたグロージェン・テクノロジーはIT分野では一流企業だが、そんな非合法取引に応じようとするくらい、NERDLES技術の軍事利用は隠れた花形産業だということだよ。そんなアメリカの軍産複合体が、今もっとも注目しているのが、さっき神代博士の言った無人兵器、そのなかでも特に航空機――アンマンド・エアー・ビークル略してUAVと呼ばれるものだ」
気を利かせたのか、比嘉が無言でマウスを動かし、再度モニタを切り替えた。映し出されたのは、妙に平たく細長いくさび型の胴体に、大きな翼をつけた小型の飛行機だった。翼下には沢山のミサイルらしきものがぶら下がっている。
「アメリカが開発中の無人偵察攻撃機だよ。コクピットが要らないのでものすごく小さいし、ステルス性を追求した形状だからレーダーにはほとんど映らない。これの一世代前の機体は、操縦者が小さなモニタを見ながらジョイスティックで苦労して飛ばしていたんだが、こいつは違う」
言葉とともに画面が変わり、操縦者らしき兵士の姿を映し出した。だが、シートに座るその兵士の両手はだらりと肘掛けに乗ったままで、瞼も閉じられている。そして頭は、凛子も見慣れた流線型のヘルメット――ナーヴギアに覆われていた。よく見れば色や細部の形状は違うが、明らかに同型の機械だ。ちらりと視線を動かすと、明日奈の顔には明らかな嫌悪の表情が浮かんでいるのが見て取れた。
「この状態で、操縦者は仮想コクピットから、まるで実際に搭乗しているかのように機体を操作し、敵を偵察したりミサイルを撃ち込んだりすることができる。だが問題は、いかんせん電波を使った遠隔操作なので距離に限界があるし、ECM……電子妨害にものすごく弱いということだ」
「そこで人工知能……ということなのね? この飛行機を自律的に動かすために……」
菊岡は視線をモニタから凛子たちのほうに戻し、ゆっくりと頷いた。
「最終的には、人間のパイロットが操る戦闘機を空中戦で撃墜し得るレベルを目指す。恐らく、現状の人工フラクトライトでも、適切な成長プログラムを与えれば実現可能なことだと思うよ。ただ、そこには一つ大きな問題がある。それは、肉体無き兵士である彼らに、いかにして"戦争"という概念を理解させるか、ということだ……。殺人は原則として悪、だが戦時下においては敵兵を殺すのもやむなし、という矛盾する思考を、恐らく今の人工フラクトライト達は受け入れることができないだろう。彼らにとっての法とは、たったひとつの例外でもあってはならないものなんだ」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、眉間に深く谷を刻む。
「――僕らは、アンダーワールドの住民たちの遵法精神を試すべく、ある種の過負荷試験を行った。具体的には、孤立した村を一つ選び、畑の作物と家畜の七割を死滅させたんだ。村の全住民が冬を越すのは到底不可能な状況だった。総体としての村が生き延びるためには、一部の住民を切り捨て、食料の分配を偏らせるしかない。禁忌目録の殺人禁止条項に背いて、ね。だが、結果は……わずかな収穫を、老人や幼児に至るまで村人全員で分配することを彼らは選んだ。春が来る前に、全員が餓死したよ。彼らは、何があろうと法や規則に背くことのできない存在なんだ。その結果、どんな悲惨な事態が出来しようと、ね。つまり……現状の彼らをパイロットとして兵器に搭載しようとすれば、敵、すなわち味方マーカーの無い人間は全て殺すべし、という原則を与えるしかない。それがどんなに危険なことかは、さすがに僕にだって分かるからね……」
派手な原色のアロハの袖から出る筋肉質の腕を胸の上で組み、自衛官は力なく首を振った。
凛子は、思わず想像した。空飛ぶエイのような流線型のフォルムを持つ無人戦闘機の群れが、兵士と民間人の区別無くミサイルを次々に撃ちこみ殺戮していく光景を。粟立った二の腕を両の掌で何度も擦る。
「……冗談じゃないわ、そんなこと。一体、なんで、そんな危険をおかしてまで兵器にAIを載せなきゃいけないの? 多少の制限はあっても、遠隔操作でいいじゃないの。ううん、そもそも……無人の兵器っていう存在自体が、私にはなんだか受け入れがたいものに思えるわ」
「まあ、その気持ちはわからなくもないよ。僕も、初めて米軍の大口径狙撃ライフル搭載型無人車両を見たときは実にグロテスクだという感想を禁じ得なかった。だがね……兵器の無人化、これはもう、少なくとも先進国では抗しがたい時代の要請なんだ」
世界史の教師めいた仕草で菊岡は指を立て、続けた。
「それでは、世界一の軍事大国アメリカを例に取ってみよう。あの国が、第二次世界大戦で失った兵士の数は実に四十万人だ。それだけの戦死者を出しながら、時のルーズベルト大統領は国民から熱狂的な支持を得て、脳卒中で死ぬまで四期十三年ものあいだ最高権力者の座に留まった。僕は時代精神という言葉は嫌いだが、七十年前は、兵士がどれだけ死のうと国が勝利すればよいというのがまさに時代の精神だったんだ。続くベトナム戦争では、学生を中心に反戦運動が広がり、ジョンソン大統領は次期選挙不出馬に追い込まれるもののそこに至るまでに六万人の戦死者が出た。反共という錦の御旗のもとに、兵士は次々と戦場に送られ、死んでいった。――だが、冷戦という名の長い暫定的平和の中で、国民感情は少しずつ変化していき……そしてソ連の崩壊とともに一つの時代が終わった。共産主義という敵を失ったアメリカは、国に深く根を張った軍産複合体を維持し続けるために、戦争のための戦争に乗り出していくことになる。だが、その戦場にはもう、兵士の死を国民に納得させる旗印は無かったんだ。今世紀初頭のイラク戦争における米軍の死者は二千人。その数字によって当時のブッシュ政権は大きく揺らぎ、任期の終わりには支持率は見る影もなく低迷していた。そして2010年のイラン戦争では、五百人の戦死者のためにチェイニー大統領が二期目落選の憂き目を見たのは君達も覚えているだろう。ちなみにあの戦争では、我が自衛隊にも五人の負傷者が出て、政府が大揺れに揺れた。――つまりだ……」
一息入れてから、菊岡は長い講釈を締めくくった。
「もう、人間が戦う戦争ができる時代じゃない、ということなんだ。しかしあの国は戦争を、というか防衛予算という巨大なパイの分配を止めることができない。結果として、これからの戦争は、無人兵器対人間、あるいは無人兵器対無人兵器というスタイルにシフトしていくことになる」
「……アメリカの事情は分かったわ。納得できるかどうかはともかく」
クリーンな戦争をするための無人兵器、という発想に一層のおぞましさを感じながら、凛子は短く頷いた。次いで、菊岡をきつく睨みながら、改めて追及する。
「でも、なんで日本の自衛官のあなたが、そんな馬鹿げた開発競争の尻馬に乗らなきゃいけないのかしら? それとも、この研究は米軍主導なの?」
「とんでもない!」
菊岡は珍しく大きな声で否定した。しかしすぐにいつもの微笑を取り戻し、大袈裟に両手を広げてみせる。
「むしろ、米軍からこの研究を隠すためにこんな海のど真ん中を漂ってる、というほうが正しいよ。本土の基地はどこも向こうさんに素通しだからね。――なんで僕が自律型無人兵器開発に血道を上げてるのか……その理由を説明するのは簡単じゃないな。茅場先生に、なぜSAOを作ったのか、と訊くようなものだ、と言っても納得はしてもらえないだろうね?」
「当たり前だわ」
素っ気無く凛子が言うと、菊岡は大きな苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「失敬、ちょっと不謹慎な発言だったね。そうだな……とりあえず、分かりやすい理由は二つあるよ。まずひとつは、現在の日本には、自前の防衛技術基盤というものがあまりにも不足し過ぎている、ということかな」
「防衛……技術基盤?」
「兵器をゼロから開発、生産する能力と言えばいいかな。しかしこれはある意味では当然のことで、日本では兵器の輸出が一切できないからね。メーカーも、巨額の開発予算をかけたところで取引先が自衛隊だけではとても利益は見込めない。結果として、最新の装備はアメリカから購入するか、せいぜい共同開発ということになる。だが、これが何と言えばいいか……屈辱的な代物でね。例えば現在配備されている支援戦闘機はアメリカと共同で開発したものだが、その実、先方は自分の手の内は隠したまま、日本メーカーの先端技術だけを攫っていったよ。購入する兵器に至っては何をかいわんや、近頃納入された最新型の戦闘機からは、その頭脳とも言うべき制御ソフトウェアがごっそり抜き取られている有様だった。米軍に言わせれば、我々は彼らが与えるテクノロジーのおこぼれを有り難く頂戴していればいい、ということらしいね。……おっと、この話をするとつい愚痴っぽくなってよくないな」
もう一度苦笑して、菊岡はコンソールデスクの上で足を組むと、つま先に引っ掛けた下駄を揺らした。
「この状況に、僕ら一部の自衛官と、中小の防衛関連メーカーの一部若手技術者たちは以前から強い危機感を抱いてきた。いつまでも防衛技術の中核をアメリカに握られたままで本当にいいのか、とね。その危機感こそがラース設立の原動力となったわけだ。何か一つでいい、日本独自のテクノロジーを生み出したい。我々はそう思っているだけなんだよ」
殊勝とも思える菊岡の言葉を、どこまで額面どおり受け取っていいものか、と考えながら凛子はじっと眼鏡の奥の切れ長の目を見据えた。が、相変わらず自衛官の瞳は鏡のようにその内面を晒そうとしない。
「……もう一つ理由があるって言ったわね?」
「ああ……まあ、今言ったことと密接に関係する理由なんだけどね。北朝鮮の中国国境付近に新しいミサイル基地が建設中だってニュースは君も見たろう? 恐らくアメリカは、そう遠くない未来に北朝鮮侵攻に踏み切るだろう。第二次朝鮮戦争……とでも呼ばれるのかな。その時は、改正憲法のもと、自衛隊も初の集団的自衛権行使……つまり実際の戦闘を行うことになる可能性が高い。だが……これを市ヶ谷に聞かれると首が飛ぶが、僕はまだ、自衛隊は戦うべきではないと考えている」
そう言ってから一瞬だけ口をつぐみ、すぐに菊岡は自分の言葉を訂正した。
「いや、まだ、ではなく――その状況下で、かな。アメリカの振る旗に従って、自衛隊員が他国の土を踏み、他国の兵士と戦う……国民はそれをテレビで、自衛隊の初の軍事行動として目の当たりにする。引き起こされる反応が望ましいものだとは、とても思えないよ。我々の最初の戦闘は、名づけられたとおり国土防衛のためのものであるべきだ。そうであってこそ、我々は軍隊無き国に置かれた戦力であるという矛盾を正す機会を得ることができる……」
凛子と明日奈を全面的に信用しているのか、それとも逆にまるで信用していないからなのか、菊岡は声に出すには危険すぎる意見を至極何気ない調子で口にした。
「だが、仮にアメリカが北朝鮮に侵攻することになれば、今度こそ日本は全面的に同調せざるを得ないだろう。この行動は日本の安全を保障するためのものだ、とアメリカは主張するだろうからね。自衛隊も、これまでの戦後処理のための駐留だけではなく侵攻の当初から戦力として投入されることになる。だが――もしその時、我々が、米軍にも無いテクノロジーを持っていれば……完全自律型無人兵器という切り札を完成させていれば、人間の兵士の替わりにそれを危険地域に送ることで、自衛隊初の戦死者が、あえてそう呼ぶが、侵略作戦において出るという事態を回避できるかもしれない」
「……ガチガチのリアリストだと思ってたけど、案外夢想家だったのね、菊岡さん。私には、藁山の中から一発で針を拾い上げようとするみたいな話に聞こえるわ。超えなければならないハードルが多すぎる」
思わず左右に首を振りながら凛子は呟いた。菊岡は肩をすくめ、弁解するように答えた。
「だから、この二つ目の理由は、あくまで可能性を一つでも増やしておきたいという、それだけの話だよ。米軍とは切り離された独自の防衛技術を開発するという我々の悲願の、ひとつの動機――だと受け取って欲しいな」
「…………」
凛子は視線を動かし、菊岡の隣に座る比嘉健を見た。
「……比嘉君がこの計画に参加した動機も同じなの? 君がそんなに国防意識が高かったなんて知らなかったわ」
「いやあ……」
比嘉は、凛子の言葉に、照れたように頭を掻いた。
「俺の動機は何ていうか、個人的なもんスよ。俺、学生の頃から韓国の大学にダチがいたんスけど、そいつ兵役中にイランに派兵されて、爆弾テロで死んじゃったんス。そんでまあ……この世界から戦争が無くなることはないとしても、せめて人間が死なずにすむようになるんなら、って……ガキっぽい理由っスけどね」
「……でも、そこの自衛官さんは、無人兵器を自衛隊独自の技術にしようと考えてるのよ?」
「や、菊さんの前でこう言うのも何ですけど、技術なんてそうそう長い間独占できるもんじゃないっスよ。それはこのオッサンも分かってるはずです。独占が目的じゃなくて、一歩先を行ければいいと考えてる……そうっスよね」
比嘉の直截な物言いに、自衛官が何度目かの苦笑いを浮かべた、その時だった。三人の話を黙って聞いていた明日奈が、美しい、しかし冷たく透き通った声で言った。
「あなた達のその立派な理念は、キリト君には一切話してない、そうですよね」
「……なぜそう思うんだい?」
ひょいっと首を傾げる菊岡を、明日奈は小揺るぎもしない視線で正面から見据える。
「もしキリト君に話してれば、彼があなた達に協力するはずがないわ。あなた達の話には、大切なことが一つ抜けてる」
「……それは?」
「人工知能たちの権利」
菊岡は眉をぴくりと持ち上げ、短く息を吐いた。
「……いや、確かにキリト君にはさっきの話はしていないが、それは彼と会う機会がこれまで無かったからだよ。彼こそ、筋金入りのリアリストだろう? そうでなければSAOをクリアなどできなかったはずだ」
「分かってないわね。もしキリト君が、アンダーワールドの真の姿に気付いてれば、きっとその運営者に対してものすごく怒ってるわよ。彼にとっては、自分のいる場所こそが現実なんです。仮の世界、仮の命なんてことは考えない……だからSAOをクリアできたんだわ」
「分からないな。人工フラクトライトに生身の肉体はない。それが仮の命でなくてなんだと言うんだい?」
明日奈は、どこか悲しそうな――いや、あるいは目の前の大人たちを憐れんでいるような光をその目に浮かべ、ゆっくりと言葉を続けた。
「……話しても、あなたには分からないかもしれないけど……アインクラッドで初めてキリト君と会ったとき、わたしも今のあなたみたいなことを彼に言ったわ。どうしても倒せないボスモンスターがいて、それを攻略するのに、NPC、つまりAIの村を囮にする作戦を主張した。モンスターが村人を襲ってるところをまとめて攻撃する作戦だった。でもキリト君は絶対にだめだと言ったわ。NPCだって生きてる、他になにか方法があるはずだ、って。わたしのギルドの人はみんな笑ったけど……結局、彼が正しかった。たとえ人工フラクトライトが、大量生産されたメディアの中の模造品だとしても、戦争の道具として殺し合いをさせるなんてことに、キリト君が協力するはずはないわ、絶対に」
「――言いたいことは、僕にも分からなくもないよ。確かに人工フラクトライト達は、僕ら人間と同等の思考能力がある。その意味では彼らは確かに生きている。だがこれは優先順位の問題なんだ。僕にとっては、十万の人工フラクトライトの命は、一人の自衛官の命より軽い」
答えの出ない議論だ、と凛子は思った。人工知能に人権はあるか否か――それは、真のボトムアップ型AIが発表されたその時から、世界中で年単位の議論を尽くしたとしても容易に結論の出せない命題だろう。
果たして自分はどう感じているのか、それすらも凛子にはよく分からなかった。科学者としてのリアリズムは、コピーされた魂は生命ではない、と告げている。だが同時に、あの人なら何と言うだろうか、と考えている自分も居る。いつも"ここではない現実"を望み、ついにはそれを創造し、二度と還ることのなかったあの人なら――?
自分を過去に引き戻そうとする思考の流れを断ち切るように、凛子はその場の沈黙を破った。
「そもそも、何故桐ヶ谷君が必要だったの? あなた達にとって最大級の機密が漏れる危険を冒してまで、どうして彼を……?」
「――そうか、それを説明するためにこんな話をしていたんだったね。あまりにも回り道をしすぎて忘れてしまった」
菊岡は、明日奈の磁力的な視線から逃れるように笑うと、咳払いをひとつして続けた。
「なぜ、アンダーワールドの住民たちは禁忌目録に背けないのか……それはライトキューブに保存されたフラクトライトの持つ構造的な問題なのか、あるいは育成過程に原因があったのか、僕らは議論を重ねた。前者であれば、保存メディアの設計からやり直す必要があるが、後者ならば修正することができるかもしれないからね。そこで、僕らはひとつの実験を試みた。スタッフの一人、つまり本物の人間の記憶を全てブロックし、擬似的な思考原体として、アンダーワールドの中で成長させる。その行動パターンが人工フラクトライトと同一なものになるか否か、それを確かめるために」
「そ……そんなことをして、被験者の脳は大丈夫なの? 人生をもう一回やり直すようなものでしょう……記憶領域が足りなくなっちゃわないの?」
「問題ない。フラクトライトには、およそ百五十年ぶんの記憶に耐える容量があるという話はさっきしたろう? なぜそんなに過剰なマージンがあるのか、その理由は分からないがね……聖書によれば、ノアの時代の人間は数百年生きたという……なんて話を思い出すね。とりあえず、成長と言っても最大で十歳くらいまでだよ。禁忌目録を破れるかどうか知るにはそれくらいで充分だからね。無論内部での記憶は再びブロックされるため、現実に戻った時には、STLに入る前とまったく同じ状態が保たれる」
「……で、結果は……?」
「スタッフから八人の被験者を募り、アンダーワールドで様々な環境のもと成長実験を行った。結果は……驚くべきことに、十歳になり実験が終了するまで、禁忌目録を破ったものは一人も居なかった。むしろ予想とは逆……人工フラクトライトの子供たちよりも非活動的で、外に出ることを嫌い、周囲と馴染めない傾向を示した。我々は、それを違和感のせいだと推測した」
「違和感?」
「生まれてからの記憶をブロックしても、それが消滅するわけではない。そんなことをしたら現実に戻ってこられなくなってしまうからね。つまり、知識ではない、体の動かし方に代表される本能的な記憶が、被験者がアンダーワールドと馴染むことを阻害するんだ。いかにリアルとは言っても所詮はザ・シードで作成した仮想世界であることに違いは無い。中に入ってみればわかるが、現実世界での動作とは微妙に感覚が違うんだよ。僕が初めてナーヴギアを使い、SAOのベータテストを体験してみた時に感じたものと同種の違和感だ」
「重力感覚のせいよ」
明日奈が短く言った。
「重力……?」
「視覚や聴覚の信号と違って、重力や平衡を感じる部分の研究は遅れてるの。信号の大部分が、視覚からわたし達の脳が補完する重力感覚に頼ってるから、慣れてない人はうまく動けない」
「そう、その慣れだよ」
菊岡は指をパチンと鳴らし、頷いた。
「散々実験を繰り返してから、仮想世界内での動作に慣れている被験者が必要だ、と僕らもようやく気付いた。それも、一週間、一ヶ月ではなく年単位の経験がある、ね。これでもう分かったろう。僕が、日本中でも最も仮想世界に順応している人間に協力を仰いだ理由が」
「――ちょっと待って」
固い声で、再び明日奈が菊岡の言葉を遮った。
「もしかして、それが、キリト君の言ってた"三日間の連続ダイブ試験"なの? ……でも、キリト君はわたし達に、STRA機能は最大三倍だから、内部時間でも十日だけだ、って言ってたわ。彼に嘘をついたの? 本当は、十年……?」
鋭い視線を浴びせられた菊岡と比嘉は、バツの悪そうな表情を作って頭を下げた。
「すまない、その件に関しては六本木支部の独断だ。僕らは、STRA倍率は完全に伏せるよう指示していたんだが……」
「なお悪いわよ! キリト君の……"魂寿命"を十年分もそんな目的に使って、これで彼の治療に失敗したら、わたしはあなた達を絶対に許さないわ」
「言い訳にはならないが、僕も比嘉君も二十年以上実験に提供しているんだよ。――だが、キリト君に貰った十年は、スタッフ全員が消費したフラクトライト寿命を合算しても遠く及ばないほどの成果をもたらしてくれた」
「つまり、彼は、アンダーワールド内での成長過程で、禁忌目録に違反する行動を取ったのね?」
思わず凛子がそう口を挟むと、菊岡はにこりと笑みを浮かべ、大きくかぶりを振った。
「厳密にはそうではない。だが、結果としてはこちらが望む以上の形だったと言える。キリト君は、幼児期から他の被験者には見られなかった旺盛な好奇心と活動性を示し、何度も禁忌目録違反の寸前まで行ってはお仕置きを受けていたよ。――無論、彼のフラクトライトが禁忌を犯したところで、それは人工フラクトライトの構造的欠陥を示すだけなので喜んではいられないんだが、それでも我々は注意深く彼の行動を観察し続けた。内部時間で七年ほど経過した頃だったかな……。この比嘉君が、ある興味深い事実に気付いた」
菊岡の言葉を引き取り、比嘉が続けた。
「ええ。俺は元々、桐ヶ谷君を実験に参加させることには、道義的にも保安面からも反対だったんスけどね、それに気付いたときは菊さんの慧眼に感服せざるを得なかったっスよ。俺らは、禁忌目録のそれぞれの条項の重要性を数値化して、住民ひとりひとりがどれくらい禁忌違反に近づいたかを指数に表してチェックしてたんスけど、桐ヶ谷君といつも一緒に行動してた人工フラクトライトの少年と少女の違反指数が、突出して増大しはじめたんです」
「え……? つまり……」
「つまり、桐ヶ谷君は、現実世界の記憶と人格を封印された状態でありながら、周囲の人工フラクトライトの行動に強い影響を及ぼしていたんス。もっと噛み砕いて言えば、彼の腕白っぷりが他の子供に伝染してた、って感じスかね」
比嘉の分かりやすい比喩を聞いた明日奈の口元に、ごくごくかすかな笑みが浮かんだのに凛子は気付いた。おそらく明日奈にとっては、それはたやすく想像できる話だったのだろう。
「……現在でも、なぜ人工フラクトライトが与えられた規則に違反しないのか、その理由が完全に判明したわけじゃあないっス。恐らくは何らかの構造的要因に拠るものなんでしょうけど、俺らはもう、その解明は最優先課題ではないと考えてます。俺らには、問題の全面的解決じゃなくて、たった一つの例外があればいいんス。たった一つだけでも、"規則の優先順位"という概念を得た真の高適応性人工知能を手に入れられれば、あとはそれを複製加工することで一定の成果は得られるはずですから」
「あんまり好きじゃないなあ、そういう考え方。……でも、往々にしてブレイクスルーっていうのはそんな手法で達成される、ってことかしらね」
短く息を吐き、凛子は比嘉に先を促した。
「で、その例外は得られたの?」
「一度は確かに俺らの手に落ちてきましたよ。少年桐ヶ谷君と最も近しい存在だったある少女が、実験が終了する直前、ついに禁忌目録に背いたんでス。しかも"移動禁止アドレスへの侵入"っていうかなり重大な違反っスよ。後でログをチェックしたら、少女の視界内の禁止アドレスで他の人工フラクトライトがひとつ死亡しているのが確認されました。恐らく、それを助けようとしたんでしょう。いいっスか、つまりその少女は、禁忌目録よりも他者の救助を優先したんです。それこそがまさに、俺らが求める適応性って奴っスよ。まぁ、兵器として実用化の暁に求められるのはまったく逆の、"倫理に背く殺人"だってのは皮肉な話ですが」
「……一度は、って言ったわね?」
「あー、ええ。情けない話ですが……手に落ちてきた珠を、掴みそこねたとでも言いますか……」
比嘉は肩を落とすと、何度も首を左右に振った。
「……さっき説明したとおり、アンダーワールド内は対現実比約千倍という凄まじいスピードで時間が経過しています。それを外側からリアルタイムに監視するのは不可能なので、記録した事象をコマギレにして、それを言わばスロー再生で複数のオペレーターがチェックしてるわけっス。結果、必然的に内部時間とわずかなラグ発生してしまうんス。俺らは、少女が禁忌目録に違反したのを発見した時点でサーバーを停止し、彼女のフラクトライトをコピーしようとしたんスが……その時にはすでに内部時間で約二日が経過していました。そして、驚いたことに、神聖教会はそのたった二日のあいだに少女を央都に連行して、フラクトライトにある種の修正を施してしまったんス」
「しゅ……修正ですって? 君たちは観察対象にそこまでの権限を付与してるの?」
「そんなわけないっスよ。……ない筈、でした。秩序維持のためにアンダーワールドの全住民にはある種の権限レベルが設定してあって、それが高い住民は"神聖魔法"と呼ばれるシステムアクセス権を行使できるんですが、最高レベルの神聖教会の司教たちだって可能なのはせいぜい寿命の操作くらいなんスよ。でも連中はいつのまにか、システムの抜け道的手法を見つけて……、まぁ、この先は後で実際に映像をお見せします。"アリス"の過去と現在の姿をね」
「アリス……?」
さっと顔を上げ、そう囁いたのは明日奈だった。凛子もその単語の意味は事前に聞いていた。確か、菊岡と比嘉が追い求めている"高適応性人工知能"のコードネームとでも言うべき名称だったはずだ。
二人の疑問を察したように、菊岡がひとつ頷いた。
「そう、それが、キリト君とそしてもう一人の少年といつも一緒にいた、問題の少女の名前なんだよ。もともと、アンダーワールドの住民の名前はそのほとんどが、ランダムな音の組み合わせとしか思えない奇妙なものばかりだ。だから、少女の名前がアリスだと知ったとき、我々はその恐るべき偶然に驚愕したよ。なぜなら、それは、このラースという組織を含めてすべての計画の礎となったひとつの概念に与えられた名称でもあったからだ」
「概念……?」
「人工高適応型知的自律存在、アーティフィシャル・レイビル・インテリジェント=サイバネーテッド・イグジスタンス。頭文字を取って"A.L.I.C.E."……。僕らの究極の目的は、ライトキューブに封じられたフォトンの雲を一なる"アリス"に変化させることだ。スタッフ達は、短く縮めて"アリス化"と呼んでいる」
菊岡誠二郎は、凛子と明日奈を順番にじっと見つめ、ほぼ全ての秘密を明らかにしながら尚もどこか謎めいて見える笑みを浮かべつつ言った。
「我らが"プロジェクト・アリシゼーション"へようこそ」
何度かの逡巡のあと、凛子は左手を持ち上げ、『呼出』と刻印してある金属のボタンを押した。数秒後、小さなスピーカーから明日奈の短い応答があった。
「どなた?」
「私、神代です。少しだけ、話をさせてもらっていいかしら」
「……どうぞ」
ほんのわずかに躊躇いの響きを帯びた声が返ってくると同時に、スピーカーの下のインジケータが赤から青に変わり、モーター音とともにドアがスライドした。
凛子が部屋に入ると、ベッドに腰掛けていた明日奈はリモコンを傍らに置き、代わりにブラシを取り上げてつややかな髪を梳りはじめた。背後で再びドアが閉まり、小さなアラームが再度ロックされたことを教えた。
明日奈に与えられた客室――あるいは船室は、通路を隔てた向かいの凛子の部屋と全く同じつくりだった。ほぼ六畳ほどの空間は無機質なオフホワイトの樹脂パネルで装われ、調度は固定されたベッドと小さなテーブル、ソファー、艦内ネット接続用の小型端末一つだけ。二人を案内した中西一尉は『一等船室ですよ』と言っていたので、凛子は思わず豪華客船のスイートキャビンを想像してしまったのだが、どうやら各部屋ごとに小さなユニットバスが備えられているというのが唯一の一等たる所以だったらしい。
ただ、明日奈の部屋は凛子のものとは違い、ベッドの奥に細長い窓が設けられていた。つまりここはオーシャンタートルの最外周部、発電パネル層と接する場所だということになる。エレベーターでかなり登ったので、夕刻には窓から美しい南洋の落日が望めたはずだが、午後九時を回った今では漆黒の闇が広がるばかりだ。生憎の曇天で星もまったく見えない。
右手にぶら下げていた、エレベーター脇の自販機で買ってきた缶入りウーロン茶の片方をテーブルに置き、凛子はソファーに腰を下ろした。思わずいつもの癖で「どっこいしょ」と言ってしまいそうになり、危く口を閉じる。自分ではまだまだ若いつもりでいるが、風呂上りでTシャツにショートパンツ姿の明日奈の、輝くような美しさを目の当たりにすると、迫りつつある三十路の声を意識せざるを得ない。
明日奈はブラッシングの手を止め、ちらりと微笑みながら頭を下げた。
「ありがとうございます、丁度喉が渇いてたんです」
「洗面台の水は味見してみた?」
悪戯っぽく笑いながら尋ねると、明日奈も目をくるりと回してみせる。
「東京の水道水といい勝負ですね」
「まあ、海水を濾過脱塩した水らしいから、少なくともトリハロメタンは入ってないわね。案外、コンビニで売ってる海洋深層水より体にいいかもよ。私は一口でもうご免だけど」
ウーロン茶のプルトップを引き開け、冷えた液体を大きく飲み下す。本当はビールが欲しかったのだが、下層の食堂まで行かないと売ってないらしく断念した。
ふうっ、と息をつき、凛子はもう一度明日奈を見た。
「……桐ヶ谷君には会えた?」
「ええ、なんだか元気そうでしたよ。楽しい夢でも見てるみたいでした」
微笑む明日奈の顔は、ここ数日彼女を苛んでいた焦燥がようやく抜け落ちたように見えた。
「まったく困った彼氏ね。突然失踪した上に、こんな南の海でクルージング中だなんて。首に縄でもつけておいたほうがいいわよ」
「検討しておきます」
にこっと笑顔を見せてから、明日奈は口もとを引き締め、深く頭を下げた。
「ほんとうに、神代先生には感謝しています。こんな無茶なお願いをきいて戴いて……。お礼の言いようもないくらい」
「やめてやめて、凛子でいいわよ。……それに、こんなことくらいじゃあ、あなたと桐ヶ谷君への罪滅ぼしにはぜんぜんならないわ」
凛子は大きく何度もかぶりを振り、意を決して、じっと明日奈を見つめた。
「……私、あなたに話しておかなくちゃならないことがあるの。ううん、あなただけじゃない……旧SAOプレイヤーの全員に、告白しなきゃいけないことが……」
「…………」
わずかに首を傾げ、まっすぐに見返してくる明日奈の瞳を、凛子は懸命に受け止めた。大きく息を吸い、吐き出してから、身につけていたコットンシャツのボタンを二つ外す。襟元を大きく開き、細い銀のネックレスを持ち上げると、左の乳房の上を斜めに走る切開痕が露わになった。
「この傷痕のことは……知ってるわよね……?」
明日奈は目を逸らすことなく凛子の心臓の真上を凝視し、やがてかすかに頷いた。
「ええ。遠隔起爆型マイクロ爆弾が埋め込まれていた場所ですね。それで先生……凛子さんは、二年間も脅迫されていた」
「そう……それによって私はあの恐ろしい計画に協力を強いられ、長期ダイブ中のあの人の肉体を管理していた……。――世間ではそういうことになっているわ。だから私は起訴されなかったし、名前すら公表されずに、のうのうとアメリカに脱出できた……」
シャツとネックレスを戻し、凛子は気力を振り絞ってその先を続けた。
「でも、本当は違うの。警察病院で摘出された爆弾は確かに本物だったし、実際に起爆も可能だった。でも、それが決して爆発しないことを、私はよく知っていた。――カモフラージュだったのよ。事件が終わったあと、私が罪に問われないように、あの人が埋め込んでくれたまやかしの凶器。あの人が私にくれたたった一つのプレゼント」
その言葉を聞いても、明日奈の表情は変わらなかった。心の底まで見透かすような澄んだ瞳を微動だにさせず、ただじっと凛子を見つめている。
「――私と茅場君は、私が大学に入った年から付き合い始めて、修士課程が終わるまで六年のあいだ恋人同士だったわ。……でも、そう思っていたのは私だけだった……。今のあなたよりも年上だったのに、今のあなたより遥かに愚かだった私には、茅場君の心の内側がまるで見えてなかった。彼がただひとつ求めていたものに、まったく気付かなかった……」
視線を窓の向こうに広がる無限の夜に向け、凛子は四年間抱えつづけていたことをゆっくり言葉に変えはじめた。常なら思い出すだけで鋭い痛みをもたらすその名前は、意外なほど滑らかに唇からこぼれ落ちていった。
日本で有数の工業系大学に、ストレートで進学したその時点で、茅場晶彦はすでに株式会社アーガスの第三開発部の長たる立場だった。茅場が高校在学中にライセンス契約したいくつかのゲームプログラムによって、アーガスは弱小三流メーカーから世界に知られるトップメーカーへと飛躍したのだから、大学入学直後の彼をいきなり管理職待遇で迎えたのも当然と言えよう。
十八歳の茅場の年収はすでに億を越えていると言われ、それまでのライセンス料を合わせれば総資産は恐るべき金額になるはずだった。自然な成り行きとして、キャンパスでの彼は無数の女子学生から有形無形のアプローチを受けたらしいが、興味のないものに彼が向ける、あの液体窒素よりも冷たい視線を浴びせられて立ち直れた者は居なかった。
だから、凛子には、なぜ茅場が一歳年下の冴えない山出し娘を拒絶しなかったのか、今でもよく分からない。彼の名声をまるで知らなかったから? 一年時から重村ゼミに出入りすることを許される程度の頭はあったから? 少なくとも容姿に惹かれたわけではないことだけは確かだ。
凛子の抱いた茅場の第一印象は、養分の不足した豆もやし、である。いつも青白い顔をしてよれよれの白衣を羽織り、観測装置にまるで備品のように貼り付いている彼を、無理矢理おんぼろの軽に乗せて湘南まで引っ張り出した時のことは、昨日の出来事のように鮮明に憶えている。
「たまにはお日様さ見ないと出るアイデアも出ね!」
――とお国言葉丸出しで叱る凛子を、茅場は助手席からどこか呆然としたような顔でしばらく眺めていた。やがてぽつりと、自然光が与える皮膚感覚のエミュレーションも考えないとな、と呟いて凛子を大いに呆れさせた。
のちに凛子は、茅場の若きセレブリティというもう一つの顔を知ったが、だからと言って付き合い方を変えられるほど器用な育ち方はしていなかった。凛子にとって茅場は、いつだって栄養の足りていないもやしっ子で、部屋に行くたびに叱り付けて持参の郷土料理を食べさせた。あの人が私を拒絶しなかったのは、つまり助けを求めていたのだろうか、私がそれに気付かなかっただけなのか、と凛子は後に何度も自問したが、しかしその答えは常に否だった。茅場晶彦という人間は最後まで自分以外に恃むものは無く、彼が欲していたのはただ一つ、"ここではない世界"という、神ならぬ人の子には触れることさえできないはずのものだけだった。
茅場は何度か、寝物語に空に浮かぶ巨大な城の話をしてくれたことがある。その城は、無数の階層からできていて、層ひとつひとつに街や森や草原が広がっているのだそうだ。長い階段を使って層をひとつひとつ登っていくと、天辺には夢のようにきれいな宮殿があって――。
「そこには誰がいるの?」
と問う凛子に、茅場はかすかに笑いながら、分からないのだ、と答えた。僕はすごく小さな頃は、毎晩夢のなかでその城に行けたんだ。毎晩ひとつずつ階段を昇って、少しずつ天辺に近づいていった。でも、ある日を境に、二度とその城には行けなかった――と。くだらない夢さ、もうほとんど忘れてしまったよ。
しかし彼は、凛子が修士論文を書き上げたその翌日に、空の城に旅立ち二度と帰ることはなかった。己の手だけで浮遊城を現実のものとし、五万の人間を道連れに、凛子だけを地上に置き去りにして――。
「ニュースでSAO事件を知って、茅場君の名前と顔写真を見てもまだ、私には信じられなかった。でも、車で彼のマンションまで飛んでいって、そこにパトカーが山ほど詰め掛けてるのを見て、初めてほんとなんだって分かったわ」
凛子は、久しぶりに長時間声を出したせいでわずかな喉の痛みを感じながら、ぽつりぽつりと話し続けた。
「あの人は、最後まで私には何も言わなかった。メール一つ寄越さなかったわ。ううん……私が大馬鹿だったのね。私はナーヴギアの基礎設計にも協力したし、彼がアーガスで作ってたゲームのことも知ってた。なのに、彼が考えてることにまったく気付かなかった……。茅場君が行方不明になって、日本中が血眼になって彼を探してるとき、私、奇跡的に思い出したの。昔、彼の車のカーナビの履歴に、長野の山奥の座標が残ってて、変だな、って思ったことを。直感的に、そこだ、って思ったわ。その時点でそれを警察に教えてれば、SAO事件はもっと違った経過を辿ったかもしれない……」
あるいは警察があの山荘に踏み込んだら、茅場は事前の宣言どおり五万のプレイヤー全員を殺したかもしれなかった。しかし自分がそれを言葉にすることは許されないと、凛子は思った。
「――私、警察の監視を撒いて、一人で長野に行った。記憶を頼りに山荘を探し出すのに一週間もかかったわ。見つけたときはもう全身泥だらけで……でも、そんなに必死になったのは、彼の共犯者になりたいからじゃなかった。私……茅場君を殺すつもりだった」
最初に会ったときとまったく同じ、戸惑ったような顔で茅場は凛子を出迎えた。その時、後ろ手に握っていたサバイバルナイフの重さは、今でも忘れられない。
「でも……ごめんなさいね、明日奈さん。私、殺せなかった」
抑えようもなく声が震えたが、しかし涙を流すことだけは懸命に堪える。
「これ以上、あの時のことをどう言葉にしても嘘になっちゃうと思う……。茅場君は、私がナイフを持ってるのを知ってて、いつもみたいに、困った人だなあ、ってだけ言って、またナーヴギアをかぶってアインクラッドに戻っていった。それまでずっとダイブしっぱなしだった彼は、髭ぼうぼうで汚れ放題で、腕に点滴の痕がいくつもあった。私……私は……」
それ以上言葉が出ず、凛子はただ何度も呼吸を繰り返した。
やがて、静かに、明日奈が言った。
「わたしも、キリト君も、凛子さんを恨んだことは一度もありません」
はっと顔を上げると、十歳年下の少女は、かすかに微笑みながらじっと凛子を見ていた。
「……それどころか……キリト君は違うかもしれないけど、わたしは……団長のことを恨んでいるのかすら、今でもよくわからないんです」
明日奈が、あの世界の中で、茅場の作ったギルドに属していたことを凛子は思い出していた。
「確かにあの事件で、多過ぎる人が亡くなりました。どれだけの人が、恐怖と絶望の中で死んでいったか……それを想像すると、団長のしたことは許されることではありません。でも……物凄くわがままな言い草ですけど、多分わたしは、あの世界でキリト君と暮らした短い日々を、これからも人生最良のひとときとして思い出すでしょう」
明日奈の左手が動き、腰のあたりで何かを握るような仕草を見せた。
「団長に罪があるように、わたしにも、キリト君にも、そして凛子さん、あなたにも罪はある……。でもそれは、誰かに罰してもらえば償えるようなものじゃない、そう思います。おそらく、永遠に赦しを得られる日は来ないのかもしれません。だとしても、わたし達は、自分の罪と向き合いつづけていかなければならないんです」
その夜、凛子は、久しぶりにあの頃――何も知らない学生だった頃の夢を見た。
眠りの浅い茅場は、いつも凛子より先にベッドから抜け出して、コーヒーカップ片手に朝刊を読んでいた。完全に日が昇ってから凛子がようやく目を醒ますと、寝坊した子供に対するように小さく苦笑し、おはよう、と言った。
「本当に、困った人だな。こんなところまで来るなんて」
穏やかな声に、凛子が薄く目を開けると、暗闇のなか、ベッドの傍らに長身の人影が立っているのが見えた気がした。
「まだ夜中よ……」
微笑みながら呟き、凛子はもう一度目を閉じた。かすかに空気が動き、硬い足音が遠ざかり、ドアの開閉音がそれに続いた。
再度の眠りの淵に落ちていく、その直前に――。
「――!!」
凛子は息を詰めながら飛び起きた。心地よいまどろみは一瞬で消え去り、心臓が早鐘のように喚いている。どこまでが夢で、どこからが現なのか、とっさに判断できなかった。手探りでリモコンを探し、部屋の照明を点ける。
窓のない船室は、当然のように無人だった。だが、凛子は、空気中にかすかに何者かの残り香が漂っているのを感じた。
ベッドから飛び降りると、素足のままドアまで駆け寄る。操作パネルをもどかしく叩き、ロックを外すと、スライドしたドアの隙間から通路に走り出た。
オレンジの薄暗い照明に照らされた通路は、右も、左も、視界に入る限りどこまでも無人だった。
夢……?
そう思ったが、しかし耳の底には、確かにあの低くソフトな声の残響が漂っていた。無意識のうちに、凛子は右手で、常に身につけているネックレスの先端にぶら下がるロケットペンダントを握り締めていた。ろう付けされて二度と開くことのできないその中に封入されている、凛子の心臓直上から摘出されたマイクロ爆弾が、かすかな熱を放っているかのようにほんの少し掌を灼いた。
(第四章 終)* 円筒形の修剣士寮は、二階と三階が学生の居室となっている。それぞれ六人ずつの修剣士が寝起きしており、一つの共用居間を挟んで二つの個人用寝室が連結した構造を持つ。
三階南面に位置するライオスの部屋のドアをユージオがノックしたとき、それに応えて誰何したのは同室のウンベールの声だった。
「ユージオ修剣士とキリト修剣士です。ライオス殿に少々お話が」
気負わないよう意識しながらユージオがそう言うと、内部はしばらく沈黙し、やがてドアが乱暴に押し開けられた。しかめ面で二人を迎えたウンベールは、穴掘ネズミを思わせる甲高い声で半ば叫んだ。
「事前に伺いも立てず押しかけるとは無礼な! まず押し印つきの書状で面会の許しを求めるのが筋であろう!」
ユージオが何かを答える間もなく、ウンベールの背後から鷹揚な調子でライオスの声が響いた。
「よいよい、私とユージオ殿の仲ではないか。お通ししたまえウンベール。こう突然では残念ながらお茶の用意はできないが」
「……ライオス殿のご厚情に感謝するのだぞ」
唇を突き出してそう言い、一歩退くウンベールの脇を、一体これは何の寸劇だと思いながらユージオはすり抜けた。
「一体こりゃ……」
後ろに続きながら、実際にその感想を口に出そうとするキリトの脛を踵で蹴って黙らせておいて、ソファーに身を沈めるライオス・アンティノスの前まで歩く。
三等爵家の跡取り息子は、既に貴族気取りなのか何なのか、いつもの純白の制服ではなくゆったりとした薄物のガウンのみを身につけていた。赤紫色の生地は悪趣味以外の何ものでもないが、艶やかな光沢は高級な南方産の絹特有のものだ。右手に持った、これも上等のカップから漂う香りは東域の白茶だろう。それに口をつけてゆっくりと啜ってから、ライオスは顔を上げてユージオを見た。
「……それで、我が友ユージオ修剣士殿におかれては、休息日の宵時に一体どのような急用かな?」
ユージオ達の部屋にある物とはこれもまるで違う革張りのソファーを勧める気はまるで無いようだった。その方が好都合だと思いながら、ユージオはライオスをでき得る限りの厳しい顔で見下ろし、言った。
「少々好ましからざる噂を耳にしましたのでね、ライオス・アンティノス修剣士殿。友がその芳名を汚す前にと、僭越ながら注進に参った次第です」
「ほう」
ライオスはやけに紅い唇の端をわずかに歪めて笑うと、再びカップを傾け、その湯気越しに切れ長の眼を細めた。
「これは意外でもあり望外のことでもあるな、ユージオ殿に我が名を案じて戴けるとは。しかし惜しむらくはその噂とやら、まるで思い当たらない。不明を恥じつつお教え願うよりないようだ」
これ以上こんな芝居に付き合っていられるか、とばかりに、ユージオは半歩にじり寄ると直截に言い放った。
「ライオス殿が傍付きの初等練士に卑しい行いをなさっておいでだとの話を聞き及んだのです。心当りがおありでしょう!」
「無礼であろうッ!」
半ば裏返った声を返したのは、いつの間にかライオスの右斜め後ろに従者のごとく控えていたウンベールだった。
「家系も持たぬ開拓民が三等爵家長子であられるライオス殿に、こともあろうに卑しいなどとッ」
「よいよい、構わぬウンベール」
目蓋を閉じ、ライオスは左手をひらひら振って子分を黙らせた。
「たとえ生まれは違おうとも、今は共に同窓に学ぶ一修剣士ではないか。何を言われようとも逸礼を責めることはできまいよ、この学院の中ではな。……しかしまあ、それが根も葉もない中傷ということになればまた別の話ではあるがな。ユージオ殿は一体どこからそのような珍妙な噂を聞きつけてきたのかな?」
「互いに無為な時間を過ごしたくはないでしょうライオス殿、惚けるのは無しにしましょう。根も葉もないことではありません、ライオス殿の傍付き練士と同室の者たちから直接話を聞いたのです」
「ほう? それはつまりこういうことかな? フレニーカが自らの意思で公式に、同室の練士を通じてユージオ殿に私への抗議を要請したと?」
「……いや、そうではありませんが……」
ユージオは思わず唇を噛む。確かにフレニーカという初等生から直接口添えを頼まれたわけではないので、根拠のない中傷と言い張られれば否定するのは難しい。
しかし、今や愉悦を隠そうともせず脚を組んでニヤニヤ笑っているライオスを前に引き下がることなどできる訳もなく、ユージオは鋭い声で問い返した。
「……ならば、ライオス殿こそ今公式に否定なさるのですね? ご自分が、フレニーカという傍付き練士にいかなる逸脱行為も命じておられないと?」
「ふむ、逸脱。奇妙な言葉だなユージオ殿。もっと分かりやすく、学院則違反と言ったらどうかな?」
「…………」
思わず歯噛みする。学院内規則とは言え、それは学生及び教官にとっては禁忌目録と同じくらい重要な規範であり、敢えて破ろうとする者など居ようはずもないからだ。いかに高慢なライオスでもそこまではしない、いやできないことはユージオにも分かりすぎるほど分かっている。しかし、だから尚のこと許せないのだ。院則違反でなければ何をしてもいい――と言わんがばかりの彼の行為が。大きく息を吸い、ユージオはさらに言い募った。
「ですが、学院則で禁じていなくとも、初等練士を導くべき上級生としてすべきでない事というのはあるでしょう!」
「ほう、それではユージオ殿は、いったいこの私がフレニーカに何をしたと仰るのかな?」
「……そ、それは……」
ティーゼ達に詳細な説明をさせるのが忍びなく、辱めの具体的な内容を聞かなかったユージオは、思わず口篭もった。するとライオスは大仰な仕草で両手を広げ、首を左右に振りながら溜息混じりに言った。
「やれやれ、さすがにそろそろ付き合いきれなくなって参りましたぞ、ユージオ殿。これではいくら私がよくとも、このウンベールが教官に明白な侮辱行為があったと報告するのを止めさせるのは、少々難しいと言わざるを得ないな。――言っておくがねユージオ殿。私はフレニーカが嫌がるようなことは一切していないと断言できるよ。何故なら彼女は一度も嫌だと言ったことがない」
ライオスは毒が口もとのカップに滴るような笑みを浮かべ、続けた。
「そう、いくつか他愛ないことを命じはしたがね。貴君も覚えておいでだろうが、先日修練場で手酷く敗北を喫してから私も心を入れ替えて鍛錬に打ち込んでいてね、それまで醜い筋肉がつくような稽古を控えていたせいもあって全身が痛くて仕方ない。已む無くフレニーカに毎夜、湯浴みの折に体を揉み解して貰ったまでのこと。どうかな、聞いてみればまったく他愛の無い話とユージオ殿もお思いだろう。その上、制服が濡れては困ろうと、フレニーカにも裸になることを許す寛大さ、わかって頂きたいな」
クックッと喉を鳴らして笑うライオスの顔を呆然と見やりながら、ユージオは心底にあまり覚えのない感情が湧いてくるのを意識していた。このような人間を言葉だけで、つまり学院則にも禁忌目録にも触れることなく説得することが果たして可能だろうか――という疑問。
木剣をその顔に突きつけて即座の手合いを申し込むべく右手をぴくりと動かしてから、ユージオは腰が空であることに気づいた。大きく何度か呼吸して無理やりに気を鎮め、可能な限り抑制した声を出す。
「……ライオス殿、そのような事が許されるとお思いなのですか。確かに……確かに院則に規定はありませんが、それは規定するまでもない事だからでしょう。傍付きに服を脱ぐよう命令するなど、なんと恥知らずな……」
「ハハハハハ!」
突然ライオスが口の端を大きく吊り上げ、けたたましい笑い声を発した。まるでユージオがその言葉を口にするのを待っていた、とでもいうように。
「ハハハ! ユージオ修剣士殿からそのような苦言を頂戴するとは思いませんでしたぞ、ハハハハハ! 聞けばユージオ殿はご自分が傍付き練士であった頃、あの人だか熊だかわからぬ修剣士に夜な夜な服を剥かれておったそうではないか!」
「奇しなる話ですなあ! 己は好んで裸になりながら、他人を恥知らず呼ばわりなどと、はっはっ!」
ウンベールがすかさずキイキイと追従の笑いを振り撒く。
再度襲ってきたある種の名状しがたい衝動に、ユージオの右手が大きく震えた。危うく明白な悪罵を口にしてしまいそうになった瞬間、背後のキリトが踵をこつんと蹴ってきて我に返る。
確かにゴルゴロッソは月に一度ほど、ユージオに上着を取るよう言うことがあった。しかしそれは筋肉のつき方を見て不足している修行を指摘するためで、ライオスの言うような後ろ暗い行為は一切無かった。だがそれをここで抗弁しても、ますますライオスらは調子づき、更にユージオ、そしてゴルゴロッソを言外に侮蔑しようとするだろう。だからユージオは全精神力を振り絞って衝動に耐え、静かに声を発した。
「私のことはこの際関係ありますまい。確かなのは、命令に抗いはせずとも、ライオス殿の傍付き練士はあなたの行為に苦悩しているということです。今後改善が見られないようなら、教官に公式に訴えて出ることも考えなければならないので、どうぞそのお積もりで」
ご自由にされるがよかろう、という言葉と更なる笑い声を背に受けながら、ユージオは足早にライオスの部屋を出た。
背後でドアが閉まるや否や、ユージオは右手を壁に叩き付けるべく振り上げたが、鍛え上げた今の腕力でぶちかませば建物自体の天命を減少させて――つまり壁にへこみを一つ作ってしまうかもしれないと気付き、やむなく腕を下ろした。学院内の建物や器物を意図的に損傷させるのは明白な禁忌違反である。鬱憤を斧に込めてどれだけぶつけても、まるでびくともしなかったギガスシダーが少しばかり懐かしい。
ささやかな代替行為として、ブーツをガツガツ鳴らしながら早足に階段を目指していると、背後からキリトの声がした。
「そう熱くなるなよ、ユージオ」
「……ああ。ステイ・クール」
「ステイ・クール」
昔キリトに教わった異国のまじないを交互に口にすると、パン屋の大釜のように赤く燃えさかっていた頭の中がほんの少しだけ冷えて、ユージオはふうっと長い息をついた。歩調を緩め、相棒と並ぶ。
「……しかし、意外だな。僕より先にお前のほうが切れると思ったけどな」
ユージオの言葉に、キリトはにやりと笑いながら左手で腰を叩いた。
「剣があったら危なかったな。ただ……さっき言ったとおり、何か裏があるんじゃないかと思って、我慢して様子を見てたんだ」
「そういえばそんな事言ってたな。すっかり忘れてたよ……で、どう思った?」
「やっぱりあいつら、意図的にユージオを挑発してたな。ティーゼ達から話がお前に伝わるのも計算済みで、あそこでユージオがライオスに何か言ってたら、それを"明白な侮辱行為"に仕立てて教官に訴えるつもりだったんだろう。結果お前は退院処分になり、奴らは祝杯を上げるって寸法だ。中々どうしてフラ……いや、貴族にも悪知恵の回る奴がいるもんだな……」
「つまり……フレニーカって子は、ライオスが僕を罠にかける餌に使われたのか……。なんてこった……」
ユージオはきつく唇を噛み、拳を握った。
「全部、僕があいつに手合いで恥をかかせたせいだな……目立つとろくなことは無いって、何度もお前に言われてたのに……」
「そう自分を責めるな」
キリトは、ユージオの右肩にぽんと手を置き、珍しく慰めるような声を出した。
「どうせ来週には、最初の選考試合があるんだ。代表になるためにはそこでライオスにも勝たなきゃならないんだから、早いか遅いかの違いだけだったよ。多分ライオスも、あれだけお前を嘲笑えば満足したろう。もし今後もフレニーカを辱めるようなら、すぐに教官に指導を要請できるよう書状の準備だけはしといたほうがいいけどな」
「ああ……ならいっそ、奴の前でヨツトゲバチに刺された子供みたいに泣いてやったほうがよかったかもな」
キリトの手を軽く叩いて謝意を告げ、ユージオはようやく肩の力を抜いた。
ライオスはおそらく、堂々たる外見に反して中身はまだ子供なのだ。自分にも手に入らないものがあるということが理解できず、昔のジンクのように無為な嫌がらせをしている。学院の多くの生徒の、ことに上級貴族出の者たちに、そのような傾向があることはユージオも気付いていた。自分の力を全て振り絞っても、どうにもならないこともある――ということを知らないせいだろう、とはキリトの弁だが。
次の選考試合で、多くの修剣士や教官の見守る中、連続技ではなく伝統的な型を用いて完膚なきまでに勝てば、おそらくライオスも目を醒ますのではないだろうか。だからと言って、もちろんこれまでの所業が洗い流されるわけではないが。自分はともかく、フレニーカにはきちんと謝罪してもらわなくてはならない。ライオスがあのような人間のまま学院を卒業し、三等爵士に任ぜられて帝国のそれなりの要職に就くなどと、考えただけでも恐ろしい。
階段を降りて二人の部屋に戻ると、ユージオは相棒がどこかへ消えてしまう前にきっぱりと言った。
「おいキリト、今日はちゃんと稽古に付き合ってもらうからな。最低五十本は相手をさせるぞ」
「なんだよ、やけにやる気じゃないか」
「ああ……もっと、もっと強くならなきゃいけないからね。ライオスに、稽古もしないで勝てるほど剣は甘くないって教えてやるために」
キリトはにっと唇の端を持ち上げ、その意気だ、と笑った。
「それじゃ今日は、ユージオ修剣士殿にも現実の厳しさを教えてやるか」
「ふん、言ってろ。負けたほうが明日ゴットロの店で特製肉まんじゅう大をおごるんだからな」
翌日午前の剣術実技の間も、午後の学科講義中も、ライオスはもうユージオとは目も合わせようとしなかった。ここ一週間の憎々しげな視線が嘘のように消え、以前の"道端を走るチュロスク"程度の扱いに戻ったことにユージオは少なからずほっとした。
選考試合のあとが心配と言えば心配だが、昨夜キリトと文面を相談して、指導教官宛の告発状の用意は済ませてある。あとは修剣士の押印を付けて提出すれば学院側も無視できず、ライオスとユージオ達双方の聴聞が行われることになる。そうなれば、めったにない事だけに全学院の噂に上ることは避けられず、それだけでも体面ばかり重んじるライオスには手痛い打撃となるはずだ。
退屈な帝国史の講義が終わると――何せ事件らしい事件はほとんど起きていないのだ――、ユージオはとっとと寮に戻り、フレニーカの件を注意しておいたことを報告するべくティーゼとロニエを待った。
ほどなく二人は、毎日の定刻である四時の鐘とともにぱたぱたと駆けてきて、敬礼するのももどかしく部屋の掃除を始めた。その間ユージオは自分のベッドに腰掛け、大人しく作業を見守る。
以前、何度も掃除を手伝おうとしたのだが、その度にティーゼに「これは私の重要な任務ですから!」とすごい剣幕で断られてしまった。思い返せば自分もゴルゴロッソに同じようなことを言った記憶があり、やむなくせいぜい部屋を散らかさないように気をつけているのだが、少女たちはそれも不満らしく、いつも掃除のし甲斐がないと唇を尖らせる。
銅のバケツと雑巾を手にくるくると駆け回り、きっかり一時間で居間と寝室の掃除を終えたティーゼは、ユージオが所在無く待つ部屋に入ってくると後ろ手にドアを閉め、かちっとブーツの鉄張りを打ち合わせた。
「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了しました!」
いつの間にかキリトも戻ってきたようで、閉じたドアの向こうからかすかにロニエの声もした。昨日のピクニックの時とは打って変わって緊張感に満ちた少女の顔に、思わず笑みを浮かべそうになるのを我慢しながら立ち上がり、敬礼を返す。
「はい、ご苦労さま。ええと……座らない?」
ベッドを指すと、ティーゼは一瞬目を丸くし、次いでかすかに頬を赤くしながら言った。
「はっ……そ、それでは、失礼致します」
とことこ歩き、ユージオからかなり離れた場所にちょこんと腰掛ける。
自分も腰を下ろし、上体だけをティーゼのほうに向けて、ユージオは口を開いた。
「例の件だけど……昨日、ライオスには抗議しておいたよ。あいつもこれ以上大事になるのは嫌だろうから、多分もうフレニーカに酷いことはしなくなると思う。近いうち、きちんと謝罪もさせるようにするから……」
「そうですか! ……よかった、ありがとうございます、上級修剣士殿。フレニーカも喜ぶと思います」
ぱっと顔をほころばせるティーゼに、ユージオは苦笑まじりに言った。
「もう仕事は終わったんだからユージオでいいよ。それに……僕も謝らないといけないことがあるんだ。昨日も少し話したけど……ライオスが今回みたいな卑劣な真似をしたのは、やっぱり僕を挑発するためみたいだった。僕が抗議に来たところを、あわよくば侮辱行為で告発する計画だったらしい……。つまり、そもそもの原因は僕がライオスを手合いでやりこめたことで、フレニーカはそのとばっちりを食っただけなんだ。一度、僕からもちゃんとフレニーカに謝りたいんだけど、機会を作ってもらえるかな……?」
「……そう……ですか……」
ティーゼは赤毛を揺らして顔を伏せ、何事か考えている様子だったが、やがてユージオを見てかすかにかぶりを振った。
「いえ、ユージオ上……先輩は悪くないです。フレニーカにはお言葉だけ伝えておきます。あの……す、少し、お傍に行ってもいいですか?」
「え……う、うん」
ユージオがどぎまぎしながら頷くと、ティーゼは一層頬を染めつつ体をずらし、わずかに体温が感じられるほどの距離まで近づいてきゅっと身を縮めた。唇が動き、囁くような声が漏れる。
「ユージオ先輩……私、ゆうべ眠る前に、一生懸命考えてみました。ライオス・アンティノス殿はどうしてフレニーカに酷いことをするんだろう、フレニーカが憎いわけでも恨みがあるわけでもないのに……どうしてそんなことができるんだろう、って。キリト先輩は、貴族は誇りを持たなきゃいけない、って仰いました。でも……私、ほんとは知ってるんです。上級貴族の中には、自分の領地に住む私有民の女の人を、その……弄ぶようなことをする人がいるって……」
ティーゼはさっと顔を上げ、秋に色づいた水樫の葉の色の瞳に薄く涙を滲ませながらユージオを見つめた。
「私……私、怖いんです。私は、学院を卒業したらそう遠くないうちに家を継ぎ、同格の貴族の次男か三男を夫に迎えることになると思います。……もし、私の夫となった人が、ライオス殿みたいな人だったら……? 誇りを持たない、周りの人に酷いことをしても平気な人だったらどうしようって思うと……怖くて……私……」
ユージオは息を詰めて、うるむティーゼの瞳を見返した。ティーゼの恐れは理解できると思ったが、しかし同時に、自分と彼女の間に存在する深く広い隔絶をも意識せずにはいられない言葉だった。ティーゼ・シュトリーネンという立派な名を持つ六等爵士の長女に対し、己は公式に姓を持つことすら許されない開拓農民の子なのだ。貴族社会に関する知識など、おそらく央都に暮らす十の子供よりも少ないだろう。
視線を逸らすと、ユージオは自分でもその空虚さにうんざりしたくなるような言葉を発した。
「……大丈夫だよ、ティーゼなら。きっと、優しくて誠実な人とめぐり合えるよ」
「…………」
ティーゼは長い沈黙を続けたあと、意を決したかのようにユージオの右腕にすがり、肩に額をおしつけて、ごくごくかすかに囁いた。
「ユージオ先輩……お願いがあるんです。絶対に学院代表になって、統一大会に出てくださいね。そこで上位に入れば、一代爵士に叙任されると聞きました。あの、それで……こんなこと言っちゃだめなんでしょうけど……もし、整合騎士になれなかったら……私……私の……」
それ以上は言葉にならないらしく、石のように固くした体を震わせるティーゼの小さな頭を、ユージオは唖然として見下ろした。
ティーゼが何を言っているのか、今度ばかりは理解するのに時間がかかった。飲み込むと同時に浮かんできた言葉――自分がこの場所にいるのは、ただ、アリスという名の女の子ともう一度会う、それだけのためなんだ――。
それを口にする代わりに、ユージオは左手でティーゼの頭をそっと撫でながら、短く呟いていた。
「うん……わかった。もし整合騎士になれなかったら、きっと君に会いにいくよ」
ティーゼはそれを聞くと大きく肩を震わせ、やがておずおずと顔を上げた。涙の光る頬に、早春の固い蕾がほころぶような笑みを浮かべ、年若い少女は小さな唇を動かした。
「……私も、私も強くなります。ユージオ先輩のように……正しいこと、言わなきゃいけないことをきちんと言えるくらい、強く」
さらに明けた翌日は、その春初めての荒れた空模様となった。
時折吹き寄せる、渦を巻くような突風に乗って大粒の雨が激しく窓を叩く。ユージオはふと剣を磨く手を止め、講義が終わったばかりだというのにすでにソルスの光を失いつつある空を眺めた。幾重にも連なる黒雲が生き物のようにうねり、その隙間を紫色の稲光が切り裂いていく。ルーリッドの村では、蒔いたばかりの麦の種籾を洗い流す春の嵐は忌み嫌われる存在で、アリスが子供ながらにして天候予測の神聖術を成功させたときはほとんどお祭り騒ぎだったものだ。もっとも、その恩恵に預ることができたのはわずか二年だけだったのだが。
学院で神聖術を習うようになって、ユージオはアリスの異才を今更ながらに実感させられている。天候をはじめ自然界に作用する術は、術式だけでも数十行から百行以上にも及ぶ高位術の代表格で、今のユージオでは明日が晴れか雨かをさえ予測することも覚束ない。一週間も前から嵐の到来を言い当てたアリスなら、今ごろ天候操作の術すらも習得しているのではあるまいか。だとしたらこの荒天は、いつまでも自分を迎えにこないユージオに腹を立てたアリスの怒りの嵐だろうか――。
「はーっ」
とりとめの無い想念を息と一緒に吐きかけ、さっと曇った青銀の刀身を油革で丁寧に磨く。週に一度の"青薔薇の剣"の手入れは欠かしたことのない習慣だが、学院に籍を得てからというもの、鞘から抜く機会があるのはこの時だけだ。日々の鍛錬は木剣で行うよう定められているし、選考試合では公平を期すためにまったく同一性能の剣を用いる規則になっている。神器に属する青薔薇の剣と比べると学院制式剣は玩具のように軽く、全力で振ると刀身が抜けて飛んでいってしまうのではと不安になるほどだが、入学試験のときに対戦相手の高価そうな剣を粉砕してしまったことを考えればおいそれとこの愛剣を振り回すわけにも行かない。
それでも、まだ実際に使ったことがあるだけマシか、と思いながらユージオは顔を上げ、向かいのソファーでキリトが気だるそうに磨いている黒い剣を見やった。
ギガスシダー最頂部の梢を切り取り、青薔薇の剣以上に重いそれを苦労して――キリトは最低三十回は「もうそのへんに植えていこうぜ」と言った――央都まで携え、ガリッタ爺さんに言われた細工師の店をこれまた苦労のすえ探し出して託し、剣の形に研ぎあがったのが何と一年後という代物である。偏屈を絵に描いたような細工屋の親爺は、これ以上はないという顰め面で、十年は保つはずの鉄鬼岩の砥石が三つも駄目になった、あんたらは二度と来てくれるなと噛み付いたが、一生に一度の仕事が出来たからと代金は取らなかった。
完成した剣は、漆黒の刀身に元が木の枝とは思えない深い光沢をまとっていた。キリトは二、三度振ってから一言「重いな」とだけ感想を述べ、スギの樹の意匠が施された黒革の鞘に収めたそれを寮の部屋の壁に掛けっぱなしにして、以後は手入れの時にしか触っていないはずだ。つまり実戦はおろか一度の試合すらも経ていないことになる。
あるいは、僕らはこの二振の剣をもう使うことはないのかもしれない――、とユージオはこの頃思いさえする。学院内の試合で使うことがないのは確定的だし、他十人のライバルに競り負けて学院代表の選に漏れればその後真剣勝負の機会など永久にあるまい。もし代表となれれば統一大会で使うことになろうが、そこで破れればやはり一度きりの出番だ。
つまり、この剣を今後実戦で使う場面が来るとすればそれは、針穴ほどの狭き門を突破して整合騎士に任ぜられ、飛竜に打ち跨って闇の軍勢と戦うとき以外に無いわけで、そんな状況はユージオには子供の頃聞いた御伽噺よりも現実味のないものに思えて仕方ない。剣の手入れをしていると常にとらわれるこの物思いの行き着く先は、果たして自分は何のために剣の修練をしているのだろう――という答えのない疑問だ。整合騎士として神聖教会の白亜の塔に至り、そこにいるはずのアリスと再会する、という目的があるにせよ。
「おい、キリト」
刀身を磨き終わり、新しい油革で鍔の掃除に取り掛かりながら、ユージオは相棒に声を掛けた。
「ん?」
こちらは何も考えていなかったらしい眠たげな顔に、何度目かの問いを投げかける。
「その剣の銘、いいかげん決めたのか?」
「うんにゃ……まだ」
「早いとこ決めろよ。いつまでも"黒いの"じゃあ剣が可哀想だろ」
「うーん……俺の国じゃあ剣の名前ってのは最初っからついてたんだよ……そんな気がするなぁ」
適当なことをぶつぶつ言うキリトに、苦笑混じりに更なる苦言を呈そうとしたその時、さっと目の前に片手が上げられてユージオはぱちくりと瞬きをした。
「なんだよ?」
「ちょっと待て、今の四時半の鐘じゃないか?」
「え……」
耳をそばだてると、確かに風の唸りに混じって、途切れ途切れの鐘の音が聞こえた。
「ほんとだ、もうそんな時間か。四時の鐘、聞き落としたな」
すでにほとんど闇に包まれている窓の外を見ながらユージオが呟くと、キリトは尚も厳しい表情のまま短く言った。
「遅いな、ロニエ達」
ユージオははっと息を飲んだ。言われてみれば、ティーゼとロニエが四時の鐘までに部屋の掃除に来なかったことは、傍付きに任ぜられてから一度もない。じわりと湧きあがる不安感をごくりと飲み込んで、無理矢理に笑みの形を作る。
「まあ、この嵐だからね。雨が止むのを待ってるんじゃないか? 別に掃除の時間まで院則で決まってるわけじゃないし……」
「あの二人が、雨くらいでいつもの時間に遅れるかな……」
キリトは何事か考えるように視線を落とし、すぐに続けた。
「何か嫌な感じがするな。俺ちょっと初等生寮まで様子を見に行ってくるよ。ユージオはここで二人を待っててくれ」
手入れ途中の黒い剣をぱちりと鞘に収め、それをテーブルに置いて、キリトは立ち上がった。雨避けの薄い革マントをばさっと羽織り、留め金をはめるのももどかしく、窓の一つを開け放つ。
「おい、表から行けよ」
ごうっと吹き込む湿った風に顔をしかめながらユージオは言ったが、その時にはもう黒衣の姿は張り出した木の枝へと身軽に飛び移り、がさりがさりという音だけを残して消え去っていた。まったく、という言葉を噛み殺して立ち上がり、ユージオは足早に駆け寄ると窓を閉めた。
再び嵐の音が遠のいた部屋に一人残され、ユージオは言いようのない不安が腹の底を這いまわるのを懸命に押し退けようとした。ソファーに戻り、手入れの終わった青薔薇の剣を白革の鞘に収めて膝に乗せる。
神聖術を使えば、二人が今居る方向くらいは知ることも可能ではある。しかし許可なく他の生徒を対象とした術を使用することは学院則で禁じられていた。こんな時に使えないなら、何のための術、何のための院則なのかと舌打ちの一つもしたくなる。
そのまま、やけに長い数分が過ぎ去った。不意に、こん、こん、という小さなノックの音が鳴り響き、ユージオは思わずほーっと長い溜息をついた。それみろ、窓から出たりするから行き違いになるんだ、と内心で呟きながら弾かれるようにソファから立ち上がり、早足で部屋を横切るとドアを押し開ける。
「よかった、心配した――」
そこまで言ってから、ユージオはぎょっとして言葉を飲み込んだ。視界に飛びこんできたのは、見慣れた赤毛と黒髪ではなく、風に乱れた桧皮色の髪の毛だった。
廊下にぽつんと立っていたのは、ロニエよりも更に小柄な、初等練士の制服を来た少女だった。短く切り揃えられた髪と灰色の上着はぐっしょりと雨に濡れ、しずくの垂れる頬にはまったく血の気がない。小鹿を思わせる大きな瞳は憔悴のみを宿して見開かれ、薄い唇はわななくように震えている。
唖然とするユージオを見上げ、少女はか細い声を絞り出した。
「あの……ユージオ上級修剣士殿でしょうか……?」
「あ……う、うん。君は……?」
「わ……私は、フレニーカ・シェスキ初等練士です。ご、ご面会の約束もなしにお訪ねして申し訳ありません……でも、私、ど、どうしていいのかわからなくて……」
「君が……フレニーカか」
ユージオは息を詰めながら、悄然と立つ初等練士を凝視した。およそ剣士らしくない、華奢と言うよりない体つきや、花冠を編んでいるほうが相応しそうな小さな手を見るにつけ、こんな子をいいように辱めたライオスへの怒りが改めて湧いてくる。
しかし、ユージオが言葉を続けるより先に、両手を胸の前でぎゅっと握り合わせたフレニーカが狼狽しきった声を出した。
「あの……ユージオ修剣士殿には、このたび私とライオス・アンティノス殿のことでご尽力頂きまして、真にありがとうございます。それで……これまでの事情はもうご存知のことと思いますので省きますが……ライオス殿は本日夜、私に、その、この場では少々説明の難しいご奉仕を命じておられまして……」
言葉にするだけでも身を焼かれるような恥辱を味わっているのだろうフレニーカは、蒼白の顔のなかで頬だけを痛々しいほどの血色に染めて、口を動かしつづけた。
「わ、私、このようなご命令が続くくらいなら、い……いっそ学院を辞めようと、そうティーゼとロニエに相談したのですが、それを聞いた二人は、直接ライオス殿に嘆願すると言って寮を出ていって……」
「なんだって」
ユージオは掠れた声で呟いた。両手足の指先がすうっと冷えていく。
「それで、二人が戻らないので、私、ど、どうしていいのか……」
「二人が出ていったのは、いつ頃……?」
「あの、三時の鐘が鳴ったすぐ後だったと思います」
すでに一時間半以上が経過している。ユージオは思わず天井を振り仰ぎ、唇をきつく噛んだ。ならばこの板一枚上に、ずっと二人は居たということなのか。抗議や嘆願をするにしても、余りに長すぎる。
さっと振り向き、相変わらず風雨に叩かれている窓を見るが、キリトが戻ってくる気配は無かった。この天気では、初等生寮と往復するだけでも十五分はかかる。とても待っている余裕はないと判断し、フレニーカに早口で告げる。
「わかった、僕が様子を見てくるよ。君はこの部屋で待ってて。手拭いとか自由に使っていいから……それで、キリトが戻ってきたらライオスの部屋に来るよう伝えてくれ」
不安げに頷くフレニーカを残し、ユージオは身を翻すと駆け出した。寄木細工の廊下を一気に走り抜け、階段に達したところで左手に青薔薇の剣を握ったままであることに気付いたが、今更置きに戻ることはできない。そのまま一段飛ばしに三階に向かう。
一歩ごとに、黒い不安の塊が胸の奥で増大していくようだった。
ティーゼとロニエが、こんな無謀な挙に出た理由は明らかと思えた。ユージオとキリトが抗議しても効果が無かったことと、それにもう一つ、昨日ユージオの部屋でティーゼが発した言葉――強くなる、正しいことを言えるように、という一言のためだ。彼女は、自らの誇りにかけて、苦しむ友人を助けようとしたのだ。
だが――もしかしたら、それこそが……。
「最初からそれが目的だったのか……? 僕じゃなく、ティーゼ達を……?」
走りながらユージオは呻いた。
同格の修剣士同士なら、ほとんどの言葉は問題とならない。だが、初等練士が修剣士に抗議するとなれば話は別だ。よほど真剣に言葉を選ばないと、学院則に定める逸礼行為に該当してしまう。そしてその場合、上級生には指導者格としての懲罰権が発生する。
「懲罰権……」
ユージオは懸命に頭の中で院則の頁を繰る。"上級生が下級生に下す懲罰として、以下の命令より一つのみを許可する。一、居室の清掃、二、木剣を用いた修練(別項に詳細を記載す)、三、三十分以内の直立不動姿勢。但し、全ての懲罰において上級法の規定を優先す"……。
上級法――とはこの場合帝国基本法及び、言わずと知れた禁忌目録だ。つまり、他者の天命を減少させてはならないという禁忌が何より優先するという原則は変わらない。ライオスもそれを無視するのは不可能で、だからもし懲罰権を行使されたところで心配するほどのことはないはずなのだ。
なのに、突き刺さるような不安感は一向に去ろうとしない。
閉ざされたドアの前で立ち止まると、ユージオは息が整うのも待たず、右拳を乱暴に叩きつけた。
すぐに、奥からくぐもったライオスの声が応えた。
「おや、随分遅いお出ましだな、ユージオ上級修剣士殿。さあ、さあ、どうぞ入ってくれ給え」
来るのを待ちかねていた、とも取れるその言い回しに一層の憂慮を募らせながら、ユージオは我知らず呼吸を止め、一気にドアを引き明けた。
いくつものランプに照らされた共用居間に、ティーゼとロニエの姿は無かった。すでに辞去したあとか、とわずかに胸を撫で下ろす。
部屋中央の豪奢なソファーセットに、先日と同じ絹のガウン姿のライオスが深く身を沈めていた。が、今日は赤紫の薄物をだらしなく着崩し、同色のサッシュでかろうじて前を合わせているだけだ。はだけた布から、生白い肌が腹近くまで覗いている。右手には細長いグラスを持ち、満たされているのは赤葡萄から作った酒らしい。
向かいには、ウンベールともう一人、別室に居住しているはずの取り巻きであるラッディーノの姿もあった。こちらはライオスよりも更に見苦しい格好で、ラッディーノは修剣士の制服の上着を脱ぎ、白いシャツをボタンも留めずにただ羽織っている。ウンベールに至ってはズボンを穿いているだけで、修練の気配もない痩せた上体を露わにしていた。
取り巻き二人は、ソファーにほとんど寝転がるように浅く腰掛け、ユージオには目もくれずぼんやりと天井を見ていた。ウンベールの、どこか魂の抜けたような呆け顔を見ているうち、ユージオは先刻に倍する不安が背筋を這い上りはじめるのを感じた。何かがおかしい、何かがあったのだ、とてつもなく悪い何かが――という、拭いがたい直感。
ユージオは改めてライオスに視線を向けると、鉄錆に似た味の広がる舌を苦労して動かした。
「ライオス・アンティノス上級修剣士殿――つかぬことを伺いますが、本日ここに、私の傍付きであるティーゼ・シュトリーネン初等練士と、キリト修剣士の傍付きのロニエ・アラベル初等練士が訪ねて参りませんでしたか?」
ユージオの掠れ声に、ライオスは即答せずにやけに濁った両眼だけを動かし、薄い笑みが貼り付いたままの唇にグラスを当てると、紅い液体を一気に干した。卓上からさぞ高級品と思しきラベルのついた瓶を取り上げてグラスを満たし、さらにもう一つのグラスにも酒を注ぐと、それをユージオに向かって差し出す。
「……ユージオ修剣士殿、お顔の色が優れないようだ。どうだね、気付けに一杯。上物だよ」
「お気遣い無用。質問に答えて頂けませんか」
左手に握ったままの剣の鞘に、じっとりと汗が滲んでいるのをユージオは意識した。ライオスは、まるでそんなユージオの様子を肴にするかのようにじろじろと眺めながら、己のグラスをちびりと嘗め、テーブルに戻した。
「ふむ。……あの二人は、ユージオ殿とキリト殿の傍付きであったか」
変わらず粘つく口調でそう言うと、舌先で唇についた滴を嘗めとり、続けた。
「誉れある上級修剣士と相対するにしては、少々元気の良すぎる初等練士ではあったな。ただ、気をつけねばならないよ。威勢の良さは、時として非礼ともなり、不敬ともなる。そうは思わないか、ユージオ修剣士殿。……いや、これは私も失敬だったか。ユージオ殿に貴族の礼儀を問うなど、少々意地が悪かったかな、ふ、ふ」
やはり、ティーゼとロニエはここに来たのだ。ユージオは、ライオスの襟首を締め上げたくなる衝動に耐えながら、更に鋭く問いただした。
「ご高説は又の機会に拝聴します。ティーゼとロニエは、今どこにいるのです」
ユージオの声と表情を味わうがごとく、ライオスは更に一口酒を含み、ごくりと嚥下した。どろりと濁った視線でユージオを舐め、更に煙に巻くようなことを呟く。
「……いや、そもそも、ユージオ殿には荷が重かったのではないかな? 失礼ながら遥か辺境で木など挽いていた輩が、下級とはいえ爵家の息女を導こうなどと? そうだとも……ユージオ殿の指導が足りないから、あの二人は伏して尊ぶべき三級爵家長子の私に、礼の足りないことを言ったりするのだ。なれば私としても、意に染まぬことながら、己が義務を果たさねばならぬ。分かって頂けるかな、ユージオ殿。私は貴君になり代わり、上級修剣士として正しき躾を施したまで」
「ライオス殿……! いったい……」
何をしたのだ、と言い募ろうとしたユージオを制するように、ライオスはグラスを持ち上げた。満たされた酒をちゃぷんと鳴らしながらその手を動かし、居間から自分の寝室へと続くドアのほうを指し示す。
「初等練士二名は、法に則った賞罰権の行使の結果、少々疲労した様子であったゆえ隣室で休ませている。引き取るというのなら、どうぞご自由に」
学院則ではなく法、懲罰権ではなく賞罰権という言葉をライオスが選んだことにどのような意味があるのか、ユージオにはすぐに察することができなかった。ただその言葉に、とてつもなく悪い何かが絡みついていることだけは解った。
動こうとしない首を無理矢理に回し、ユージオは寝室のドアを見た。
ぴったり閉じられたその扉の手前の床に、ひとかたまりになった布がわだかまっているのにユージオははじめて気付いた。厚手の灰色の布が何なのか悟ったのは、折り重なったその隙間から覗く橙色のスカーフが目に止まった後だった。
それが、初等練士の制服であるのは最早疑いようもなかった。そして鮮やかな橙は、上位十二名の傍付き練士の証。
自分の一挙手一投足をも見逃すまいとするようなライオスの視線を頬のあたりに感じながら、ユージオは悪寒に震える体を動かし、のろのろとドアに歩み寄った。落ちた制服をまたぎ、ドアノブに手を伸ばす。
鋳銅製の握りは、掌に貼り付くほどに冷たく感じられた。一瞬の躊躇を振り払い、ユージオはノブを回して、わずかにドアを押し開いた。
内部に灯りはなく、ほぼ完全な暗闇だった。半分ほどカーテンの開いた窓から、厚い雲に遮られたソルスの灰色の光がほんのわずか差し込んでいる。ユージオは目を細め、懸命に暗がりを見通そうとした。
動くものはなかった。部屋の右側には無闇と大きな衣装箱が並び、奥の壁際には華美な形の文机が据えてある。中央には、これも巨大としか言えない天蓋つきのベッドが鎮座し――そして毛足の長い絨毯の上に、灰色の制服がもう一着投げ出されているのが見えた。更にいくつかの、小さな布の塊も。
その時、窓の向こうで一際激しく稲妻が空を裂き、部屋の中を一瞬明るく照らし出した。直後訪れた凄まじい雷鳴を、しかしユージオはまったく意識することはなかった。切り取られた光景が目の奥に焼きつき、ユージオの思考を完全に奪い去った。
ベッドの上に、雷光に青白く輝く二つの姿があった。ユージオはおこりのようにがたがたと震える右手を懸命に動かし、ドアを大きく開いて居間の明かりを寝室へと導いた。
広大なベッドを覆う白絹のシーツに、一糸纏わぬ姿の二人の少女がその身を横たえていた。黒髪の少女は半ばうつ伏せの格好で顔を枕に埋め、ぴくりとも身動きをしていない。赤毛の少女は仰向けに四肢を投げ出し、薄い裸の胸を浅く上下させていた。
「……なん……で……」
何だこれは、とユージオはぼんやりと考えた。こんなことがある筈が無い、とその一言だけを頭の中で何度も繰り返し、眼前の光景を否定しようとした。
しかし、ティーゼの紅葉色の瞳が――ほんの一日前、ユージオに縋り付き、溢れんばかりの感情をきらきらと輝かせていたあの美しい瞳が、今は虚ろに宙に向けられ、光を失っているのを見たとき――その下の白い頬に半ば渇いた幾筋もの涙の跡を見たとき、ユージオはこの部屋で行われたことを、その非道と残酷の全てを、完全に悟った。
相変わらず轟く雷鳴が部屋に満ちていたが、ユージオにはもう甲高い耳鳴りしか聞こえなかった。ふらふらとよろめくように数歩あとずさり、ティーゼの、あるいはロニエの制服に足を取られて、無様に尻餅をついた。
その格好のまま、ユージオはこちらに向けられ続けているライオスの顔を見上げた。
三等貴族の跡取りは、今や整った白皙に、隠そうともせず満面の興趣と愉悦の笑みを張り付かせていた。しばし呆然とその表情を眺めたあと、ユージオは割れた声で呻くように訊ねた。
「なぜ……どうしてこんなことを……? 懲罰権を……逸脱した……学院則違反では……」
それを聞いたライオスの赤い唇の端が、裂けんばかりにきゅうっと吊りあがった。喉が激しく上下し、次いで必死に抑えていたものが溢れ出したかのように、甲高い笑いが迸った。
「く、くく……くっ、くはは……ハ、ハハハハッ……ハハハハハハ! キャハハハハハハ!!」
手のグラスから葡萄酒の飛沫がガウンに散るのも構わずに、ライオスは身を捩り、足を踏み鳴らして哄笑を続ける。
「キャハハハハハ! だ……だから貴君は山出しだと言うのだ!! 大人しく故郷で薪でも割っておればよいものを……ハハハハッ……のこのこ央都に上って、貴族の真似事などしようとするから痛い目に……キャハハッハハハハ!! よ、よいか、教えてやろうこの山ザ……おっと、うむ、山に棲む毛だらけの人っぽいもの、これならいいかな、ハハハ! 貴君の傍付きは、この私、三等爵家長子たるライオス・アンティノスに不敬甚だしい物言いをしたァ! ゆえに私には学院則にのっとり懲罰を下す権利があァる!」
ライオスはがばっと立ち上がると、絨毯に尻をついたままのユージオを見下ろすように上体を屈めた。
「しかし学院則の懲罰権規定にはこうある! 全ての懲罰において上級法の規定が優先すると! いいか山出し! つまり、帝国基本法を適用することが可能ということなのだ! 私は三等爵士の長子、そして貴君の傍付きは六等爵士の娘だァ! 貴族の子弟間の不敬行為は親同士のそれに準ずる! よって私には、帝国基本法に定められた、貴族賞罰権を行使する権利があるのだァ!!」
「……な……何だと……」
ユージオは愕然として、そう漏らすことしかできなかった。ライオスの勝ち誇った長広舌は更に続く。
「賞罰権はいいものだぞォ、平民! 学院則のような掃除だの稽古だのといったケチ臭い規定は一切無しッ! 禁忌に触れない限り――つまり天命を減少させない限り、何をしようと、何を命じようと自由なのだッ!! 我が父など、私領地の麗しき蕾をいくつ摘み取ったか知れぬわ! よいか、これが貴族ッ!! これが権力というものだッ!! 分かったかァ無姓の輩あッ!! み、みの……みのっ、みのォ……」
ここ一週間――いや、もしかしたら入学当初から二年間に渡って醸しつづけてきた鬱憤を晴らす悦楽のせいだろうか、ライオスはぐるんと白目を剥き、陶然と体を震わせながら言い放った。
「身のほどをォォォッ! 知れェェェェッ! キャハッ、キャハハハハハハ!!」
ユージオは、頭の中が妙に冷たく静かなのを不思議に思った。怒りも、憎しみも、悲しみすらもそこには無いようだった。しかしすぐに、そうではなく、一つのある感情が余りに巨大すぎて他を完全に圧しているのだと自覚した。
その感情の名前を、ユージオは知らなかった。ただ、単純に、目の前の汚らしく、卑劣で、厭わしい存在を未来永劫消し去りたいという欲求だけがそこにあった。
ライオスの言葉が真実だとは――年若いティーゼとロニエに、複数人で陵辱の限りを尽くした行為が法で認められたものだなどとは、どうしても信じたくなかった。しかし、皮肉なことに、ライオスがそれを成し得たという事実そのものが、その行為の合法性を追認しているのだった。
そしてその事実は同時に、己にライオスを処断するいかなる権限も無いのだということを冷厳に告げてもいた。左手の剣で斬りかかることは勿論、哄笑するその口に拳を叩き込むことも、いや、言葉で罵ることすらも、ユージオには許されないのだ。
しかしならば――ならば法とは何なのか!?
人々の暮らしを守り、世界の秩序を守るためにあるのが禁忌目録であり、帝国基本法なのではないのか。ルーリッド教会のシスター・アザリヤは、子供のユージオに向かって確かにそう言った。ではなぜ、法はティーゼとロニエを守れなかったのか? なぜ、友人を助けようと勇気を振り絞った少女たちにあのような残酷を許し、そして今ユージオに剣を抜くことを許さないのか? これらすべてが法の定めた結果なのならば、正義は一体どこに存在するというのだ?
いつしかユージオの視界は千々に乱れ、大きく歪んでいた。それが溢れ出した涙のせいだと気付くには少し時間がかかった。
そんなユージオの顔を見下ろして更にひとしきり高笑いしたあと、ライオスは右手の葡萄酒を干し、溢れた赤い液体を左手で拭いながら空いたグラスを床に放った。
「さて……それでは、せっかく指導者たるユージオ殿がおいでなのだ。引き渡す前に、傍付きの躾け方というものを、もう一度きっちりとお見せしようではないか。さあさあ、立って我が寝室に入り給え」
ユージオは左手の剣を支えにして、よろけながら立ち上がった。袖口で涙を拭い、何度か大きく呼吸をしてから、ぼそりと呟いた。
「こ……これ以上何か言ってみろ。その汚らしい舌を……根元から切り取ってやる」
それを聞いたとたんライオスはぴくりと眉毛を動かし、一層興が乗ってきたと言わんがばかりに薄く笑った。
「おやおや、気をつけたほうがいいですぞユージオ殿。いかに同格の修剣士とは言え、脅迫的な言辞は危ない、危ない。貴君を告発するような真似は、私としても不本意……」
「黙れ、ライオス・アンティノス」
嘲弄めいた台詞を途中で遮ると、ライオスはさすがに鼻白んだように口を閉じた。ユージオは一歩前に出、それだけで非礼行為となるほどの近距離から相手の眼を凝視した。