頭の中は相変わらず冷え切っていた。ほとんど勝手に口が動き、抑揚の無い声が流れ出した。

「ライオス……お前がこのあとすることはたった一つだ。ロニエとティーゼに謝罪し、地に手をついて許しを乞い、そして残りの人生全てを己の罪を償うために生きると誓え」

「ハァ? 何を戯けたことを言っているのだ貴君は」

ライオスの唇が限界まで歪められ、最大級の蔑みを形作る。

「謝罪? 償う? なぜこの私が? 先ほど懇切丁寧に説明してやったではないか。私の行いは全て、あらゆる法に認められた当然の権利なのだよ。あの二人の初等練士ですら、一度聞いたら己が立場を理解したぞ。少々五月蝿く泣き喚きはしたが、決して拒否も反抗も……」

「黙れと言った!!」

再び目尻に涙がにじむのを感じながら、ユージオは叫んだ。自分たちが卑劣極まる陥穽に落ち込んでしまったことを、そしてもう誰も助けてくれる者はいないのだということを理解せざるを得なかったティーゼとロニエの絶望を思うと、おのれの胸を引き毟って血を全て流し尽くしてしまいたいほどの悲痛に苛まれずにはいられなかった。

「ライオス、お前は間違っている。たとえ学院則、帝国基本法、そして禁忌目録が禁じていなくとも、絶対にしてはいけないことだってあるはずだ。……彼女たちがお前に何をした? これほどの仕打ちを甘受しなくてはいけないほどの、どんな罪を犯したというんだ!?」

「貴君の暗愚もここに極まれりだな」

ユージオの言葉など煩わしい小蝿の羽音とでもいわんがばかりに、ライオスは右手をぶらぶらと振った。

「何を言い出すかと思えば……賞罰権の行使は我々上級貴族の生来の権利であるぞ。してはいけないこと? そんなものがどこにある? 禁じられていなければ、それは行っていいことなのだ、当然! あの二人の罪、それは、家系も辿れぬ山出し修剣士にうかうかと感化され、高貴なる血筋の者に苦言めいた大口を叩いたことだ! ふ、ふ、私にはわかっていた、いずれこうなるとな……。よいか、それはつまり、貴君の愚かしさでもあるのだぞ!」

この夜のライオスの言動のなかで、唯一それだけは正しいと、ユージオは思った。ライオスの企みを看破できず、ティーゼ達の行動も予測できなかった自分の愚かしさがこの悲劇の一因となったことは、疑いようもない事実だった。

 ならば、自分はどうすればいいのか? ライオスの罪だけでなく、己の罪にすら目を瞑り、全てを無理矢理忘れ去って、偽りにまみれた日々を生きていく……?

そんなことができるものか、と内なる声が叫んだ。

だが、同時に、もう一人の自分が耳もとでせせら笑う声を、ユージオは聞いた。


 ――今更そんな大言を吐く資格が、お前にあるのか? お前はもう、すでに長すぎるほどの年月を、嘘と偽りで塗り固めつづけてきたんじゃないのか? お前はなぜ、アリスが整合騎士に連れ去られるのを木偶の坊のようにただ見ていた? お前はなぜ、六年もの間、絶対に切り倒せない樹を叩きつづけることしかしなかった? お前はなぜ、央都に辿り付いたというのに教会の門に近寄ろうともせず、整合騎士を目指すなどというあまりに狭く迂遠な道を選んだのだ?


 ――だって、仕方ないだろう。法に従えば、僕にはそれら以外の選択肢は無かったんだ。


 ――それが汚らしい嘘だということに、お前はもう気付いているはずだ。お前は、本当は、怖かったんだろう、アリスが? 禁忌目録に違反したアリスを、教会への反逆者として心の底では忌み恐れ、会いたいと思うのと同じかそれ以上に、もう会えなくてもいいと思っていたんじゃないのか? お前が法に従うのは、それが法だからではなく、従っていれば楽だからだ。自分の弱さから目を背けていられるからだ。そんなお前に、今更、法の正義などという言葉を吐く権利があるのか?


その声が全き真実を告げていることを、ユージオは否定できなかった。

 なぜなら、今日この時に至るまでユージオは、どうしてあの時アリスが一歩を踏み出したのか理解できないでいるのだ。憎むべき教会の敵である闇の国の騎士を、禁忌目録に反してまで助けようとしたあの行為にどんな意味があったのか、まったく解らないままなのだ。そんな自分が、アリスにもう一度会うために整合騎士になりたいなどと――あまつさえ、アリスを教会から助けたいなどと――。

なんという欺瞞。

 なんという醜い偽善だろう。本当は、アリスを助けたいわけじゃなかった。ただ、アリスを忘れ、諦め、見捨てることの都合のいい言い訳を探していただけだったのだ。ライオスと同じだ。法を、ただ都合のいいように解釈し、自分が楽になるために利用した。そう――アリスとはまったく逆。アリスは、他人、しかも忌むべき闇の騎士を助けるために、法を犯した。法よりも大切な何かに殉じるために。

 今はじめてユージオは、法、つまり禁忌目録とそれを定めた神聖教会よりもさらに正しく、大切な"何か"の存在を明確に意識した。禁じられてはいないがしてはいけないことがある。同じように、禁じられてはいるがしなくてはいけないこともある。アリスはそれに従い一歩を踏み出した。そして今、ユージオの番が来たのだ。アリスの行為よりもはるかに呪わしく、おぞましい所業ではあるが、しかし――今のユージオが、ティーゼとロニエのためにできることは、もうそれしかないと思えた。

「ライオス」

ユージオは、寝室に足を踏み入れようとしたライオスを、背後から呼び止めた。

「例え法と教会が許しても、僕はお前を許さない。謝罪する気が無いというなら、その罪は……命で償え」

右手で握った青薔薇の剣の柄は、氷で出来ているかのように冷たかった。腰を落とし、抜刀の構えを取るユージオを、振り向いて眺めたライオスは、ほとほと呆れ返ったと言わんがばかりに両手を広げた。

「何なのだそれは? 脅しのつもりか……それとも冗談の類かな? 忘れてしまったのなら教えてやるが、その骨董品をここで抜けば学院則違反、私に毛ほども傷をつけたら禁忌目録違反なのだぞ?」

「糞食らえだ、学院則も、禁忌目録も」

聞いた途端、ライオスの目が丸くなり、次いで驚きと喜悦の叫びが迸った。

「おッ、おッ! 聞いたかウンベール、ラッディーノ!」

足早にソファーの前まで戻り、ユージオに細長い指を突きつける。取り巻き二人にもユージオの言葉は聞こえていたらしく、こちらは純粋に信じられないという仰天のみを表して口をぽかんと開けている。

「ハハハ! キャハハハハ! この山出しの言ったことは、明らかに教会への不敬行為だぞ! まさか、これほど思い通りに踊ってくれるとは! お前は終わりだ、ユージオ! 聴聞にかけられた挙句退院処分は間違いなァい! ハハハハハハ!!」

 上体を捩って哄笑するライオスを見ても、もうユージオの胸中には細波ひとつ立つことはなかった。呼吸を整え、更に腰を落とし――

一閃でライオスを切り伏せるべく、右手を疾らせた。

しかし、直後、がちん! という岩にぶつかったかのような衝撃とともに腕が止まった。

ユージオは驚愕して左腰に溜めた剣を見下ろした。鞘と柄に鎖か何かが溶接されているとしか思えない手触りだったからだ。だが、そこには何もなかった。青みを帯びた刀身が、わずかに親指の幅ほど覗いているだけで、縄も、鎖も、抜剣を阻むものは何ひとつ存在しない。

「な……」

ユージオは驚愕し、更に右腕に力を込めた。しかし剣は動こうとしない。歯を食い縛り、関節が軋むほどの力で抜こうとしても、まるで鞘と刀身が一体化でもしてしまったかのように、ぴくりとも動かない。

「くふっ……はは……ハハハハ! 何なのだ貴君は! 往来で小銭をねだる道化か何かか!?」

ライオスは、可笑しくてたまらぬと言わんがばかりに目尻に涙を滲ませ、腹を押さえて笑いつづけた。

「出来もしないことを大袈裟に! ハハハハハそれともそんな小芝居でこの私を脅かそうとでもいうつもりかなハハハハハハ!」

「ぐ……ぬ……ぁ……っ」

食い縛った歯がみしみしと悲鳴を上げるのも構わず、ユージオは唸りながら全身の力を振り絞って剣を抜こうとした。一体なぜ、この場面で、二年の長きに渡って自分を支え続けてくれた青薔薇の剣が自分を裏切るのか解らなかった。あるいはこの剣すらも、教会の支配下にあると言うのか? 禁忌に触れる目的のためには鞘から抜けないとでも言うつもりなのか?

「ぬ……ぅ……ッ!!」

 しかし、次の瞬間、ついに刀身がほんの少し――髪の毛一筋ぶんほど動いた。

同時に灼熱の鉄串にも似た凄まじい激痛が脳を貫き、ユージオは真実を悟った。自分を裏切っているのは、剣ではなく、自分自身であるということを。あれほど己の欺瞞を悔い、覚悟を決めたつもりでいたのに、尚も頭の中に巣食う何者かが禁忌目録を遵守しようとしているのだ、ということを。

「ぐ……く……!!」

毛一筋ぶんずつ剣を抜くたびに耐えがたい激痛が弾け、ユージオの目から堪えようもなく涙が溢れた。歪む視界の中で、ライオスは栓が抜けたような爆笑を続けている。

「ハハハハハハハアハアハアハ! 滑稽……これほど滑稽なものを……見たことがないぞ……キャハハハハアハアハァ!」

激痛は最早、銀色の光となってユージオの頭から足のつま先までを駆け巡っていた。十八年と少しの人生の中で、ついぞ味わったことのない痛みだった。だが、ユージオは腕を止めなかった。ここで剣を引くことはできない、それだけは絶対にできないという一念だけがユージオを駆り立てていた。

 銀色の痛みは、ついに具体的な光の線となって視界を飛び交いはじめた。花火のような閃光を縦横に残しながら、寄り集まり、また離れ、奇妙な形を描き出す。それが、ステイシアの窓に浮かぶような神聖文字に似ていることを、わずかに残された思考の片隅でユージオは意識した。"SYSTEM ALERT"、そんなような形の光が目の前一杯に広がったが、ユージオはそれに向かって、すべての力を振り絞りながら絶叫した。

「消えろおおおおオオオオ!!」

視界が銀一色に染まり、最後の、そして恐るべき痛みが右目に集中した。ばしゃっという感触とともに、涙の代わりに大量の鮮血が迸るのをユージオは見た。

「ハハハハハハハアハァアハァアハハハァァァァァァァ――――――」

白目を剥いて哄笑の尾を長く伸ばすライオス目掛けて、枷を打ち払い鞘走った青薔薇の剣が稲妻のごとく襲い掛かった。

ドッ、という重い音を残し、ライオスの右腕が根元から切り飛ばされ、高く舞った。

「アアアァァァァァ――――!?」

 笑いがそのまま悲鳴に変わった。斬り口から噴き出した大量の血液が、ウンベールの顔から、壁に掛けられた純白の制服を横切り、そして天井へと至る一直線の朱を鮮やかに引いた。* かちり、とブーツの踵が鳴らされると同時に、きびきびした声が広い部屋いっぱいに響いた。

「ユージオ上級修剣士殿、ご報告します! 本日の掃除、完了いたしました!」

声の主は、灰色の初等練士の制服に身を包んだ、わずかに幼さの残る少女だった。この春に学院の門をくぐり、上級生付きを命じられてからまだ一ヶ月と経過していないせいか、直立不動の姿勢には痛々しいほどの緊張感が漲っている。

ユージオとしては可能な限り優しく接しているつもりだが、しかし言葉で何と言われようとそうそう簡単に肩の力が抜けるものではないことは、自身二年前に嫌と言うほど経験してもいた。初等生にとって、学院に十二人しかいない上級修剣士は、ある意味では鬼教官たちよりも近寄りがたく恐ろしい存在なのだ。どうにか普通に会話ができるようになるまでは、最低でも半年はかかるものだし、ユージオだってそれは例外ではなかった。もっとも、何から何まで型破りな相棒だけはまったくその限りではなかったらしいが。

読み古した神聖術の教本を閉じ、高い背もたれのついた椅子から立ち上がると、ユージオはひとつ頷いてから言葉を返した。

「ご苦労様、ティーゼ。今日はもうこれで寮に戻っていいよ。……で、ええと……」

視線をティーゼの赤毛から左に動かし、並んで同じように背筋を伸ばしている、ダークブラウンの髪の少女に向ける。

「……ご免ね、ロニエ。あの馬鹿には何度も、掃除が終わるまでに戻ってこいって言ってあるんだけど……」

いつものようにどこかに逃げてしまった相棒の代わりにユージオが謝ると、ロニエという名の初等生は、目を丸くして何度も首を振った。

「い、いえ、報告を完了するまでが任務ですから!」

「じゃあ、悪いけどもうちょっと待ってて。ほんと、運が悪かったね、あんな奴の傍付きになっちゃって……」

北セントリア帝立修剣学院は、ノーランガルス全土から領主貴族の子弟が集まる最高峰の剣士育成機関だが、一度学院の土を踏めば、例え皇家の流れであろうとも初等練士から横一線のスタートとなる。最初の一年は実剣に触れることすら許されず、ひたすら木剣による型の練習と、教本で戦術理論の学習にあけくれることとなるが、初等生はそれに加えて学院内の様々な雑務もカリキュラムの一環として課せられる。

どのような仕事を与えられるかは、入学直後の剣術試験の点数によって決まる。九割以上の生徒は学内の清掃が任務となるが、得点上位の十二人だけが全学生のトップに立つ上級修剣士の傍付きを拝命し、同級生の羨望と約半年の緊張感を手に入れることになる。

もっとも、傍付きと言ってもやる事は他の生徒と変わらず、同級生たちが教室や修練場を掃除している時間に、同じように上級生の部屋の掃除をする、というだけのことなのだが、しかし付いた生徒の底意地が悪かったり散らかし魔だったり、あるいはフラフラどこかに消える癖を持っていたりすると、このロニエのように毎晩苦労する破目になるわけだ。

「……もし何なら、僕から先生に言ってあげるから、傍付きを他の人に代わってもらったら? アイツに付いてると、一年間苦労するよ、間違いなく」

「と、とんでもありません!」

ユージオの提案に、ロニエがぶんぶん首を振った、その時だった。ドアではなく、開け放した窓の向こうの夕闇から、聞きなれた声がした。

「おいおい、人の留守に何を言ってるんだ」

するりと音もなく、三階の窓から部屋に滑り込んできたのは、ぴったりとした修剣士の制服に身を包んだ二年来の相棒、キリトだった。ユージオの服と形はまったく同じだが、ユージオのものが濃い目の藍青色なのに対して、あちらは完全な漆黒だ。制服の色を自由に選べるのも、上級修剣士の数多い特権の一つである。

何やらいい匂いのする大きな紙袋を抱えて戻ってきたキリトを見て、ロニエは一瞬ほっとしたように息をつくと、すぐに顔を引き締め、音高くブーツの踵を打ち鳴らした。

「キリト上級修剣士殿、ご報告します! 本日の清掃、滞りなく完了しました!」

「はい、お疲れさま」

相変わらず傍付き下級生の存在そのものが苦手で仕方なさそうなキリトは、所在なげに頭を掻きながらロニエを労った。その様子に苦笑しながら、ユージオは改めて相棒の所業を追及した。

「あのなあ、外に行くなとは言わないけど、彼女たちはお前の何倍も忙しいんだから、掃除が終わるまでには戻ってきてやれよな。大体なんで窓から帰ってこなきゃならないんだ」

「カルギン通りから帰ってくるときはこの窓が最短コースなんだよ。ロニエとティーゼも覚えておくと将来役に立つぞ」

「妙なこと吹き込むなよ! ……カルギン通りってことは、その袋は跳ね鹿亭の蜂蜜パイだな」

キリトの腕のなかから漂う甘く香ばしい匂いは、一時間前に夕食を詰め込んだばかりのユージオの胃をたちまち空に戻し、きりきりと刺激した。

「……確かにあれは絶品だけど、だからってなんでそんなに山ほど買ってくるんだ」

「ふふん、欲しければ素直にそう言いたまえよユージオ君」

キリトはにやっと笑うと、膨れた紙袋から黄金色に焼けた円筒形のパイを二つ取り出し、片方をユージオに放るともう片方をくわえた。残りを袋ごと、どさりとロニエの腕に落とす。

「寮に戻っはら、部屋の皆へ食えよ。寮監に見ふかるなよ」

ロニエとティーゼは、わあ! と十五、六の少女に相応しい歓声を上げたあと、慌てたように再び姿勢を正した。

「あ、ありがとうございます上級修剣士殿! 戴いた物資の天命が減少しないよう、全速で寮に戻ります! それではまた明日!」

高速で一礼し、二人はかつかつとブーツを鳴らして部屋を横切り、外に出た。再度の礼のあと、ぱたん、と扉が閉まると、廊下からまたしても歓声が聞こえ、ばたばたと走る音がたちまち遠ざかっていった。

「…………」

ユージオは、焼きたてのパイを大きく一口齧ると、横目でじいっとキリトを見た。

「……なんだよ」

「いや、別になんでも。ただ、キリト上級修剣士殿は、なんで僕らがここにいるか、忘れておいでじゃないでしょうね、と、ええ、それだけ」

「ふん、忘れるかよ」

 たちまちパイを食べ終わったキリトは、ぺろりと親指をなめると、細めた黒い瞳を窓の外――セントリア中心部に聳える神聖教会の巨大な塔に向けた。

「あと二つ……ようやくここまで来たんだぜ。まず、他十人の上級修剣士をぶっ倒して学院代表の座につく。そして、四帝国統一大会で何としても準決勝まで残る。それで俺たちはもうお偉い整合騎士様だ。堂々と正面からあの塔に乗り込める……」

「うん……。あと一年……それで、やっと……」

 ――やっと、会える。八年前、目の前で整合騎士に連れ去られた金髪の幼馴染に。

 ユージオは遥か彼方の神聖教会から視線を戻すと、部屋の壁に掛けられた白黒二振りの剣を見つめた。二人をここまで導いた、この運命の剣たちがある限り、僕らは決して挫けることはない――、一抹の疑いもなく、そう思えた。


「まったく、何でこんなとこに来てまで試験勉強なぞせにゃならんのか……」

とげっそりした顔で言い残し、明日に迫った上級神聖術の試験の一夜漬けのためにキリトが自分の寝室に引っ込んでしまったので、ユージオは日課の夜稽古をひとりでやることにして、二年間使い込んだ木剣を担いで部屋を出た。

 確かに、ルーリッドの村を出たあの日には、よもや自分が央都で――つまりこの世界で最高の剣士養成機関に入学を許され、剣術や神聖術の勉強に毎日明け暮れることになるとは思いもしなかった。しかしやってみればどちらもとても刺激的だったし、そもそも本来であれば木こりとして一生を過ごすはずだった自分が、貴族や大商家の跡取りたちに混じって教育を受けられるだけでも、望外の幸運と言わなくてはならない。

 ――その上、こんな立派な建物の広い部屋を与えられ、専属の掃除係までいるのだ、なんてことを故郷の兄貴たちに言っても全く信じやしないだろうな。長い廊下を歩きながら、ユージオはぼんやりとそんなことを考える。

帝立修剣学院の敷地は、北セントリアの中心部にある大きな丘をまるごとひとつ占有する広大なもので、建築物も大小あわせて十を数える。うち四つが、約三百人の学生のための寮となっており、百人ずつの初等練士、中等練士、高等練士が寝起きする三棟を見下ろす丘の中腹に、わずか十二人の上級修剣士の専用棟が建っている。

もともと学院は、四帝国の一角であるノーランガルスの国民からより多くの整合騎士を輩出するという明快な目的のために運営されており、選抜試験を兼ねる統一剣術大会に送り込むための精鋭である上級修剣士には至れり尽せりの待遇が与えられる。それぞれの個室は教師たちの部屋より広いという話だし、消灯前なら外出も自由、外に食事にいくのが面倒なら寮の一階に立派な食堂がある。

 精鋭とは言え、たかが学生に対してこの厚遇なのだ。もしこれが、統一大会の上位常連の強豪なら――さらには名実ともに世界の頂点たる、ある意味では皇帝家をも上回る権力を持つ整合騎士たちなら、一体どのような豪奢な生活を送っているのだろうか。

「……っと、いけない」

ユージオは、肩に乗せた木剣でこつんと自分の頭を叩いた。最近ではここでの暮らしに慣れてきたせいか、村を出たばかりの頃のぎらぎらした目的意識をふと見失いそうでぎくりとすることがある。央都の有名な食べ物屋や、寮の食事がいかに豪華なものであろうとも、遠い昔に村はずれの黒い巨木の下でがっついて食べた質素な弁当よりも美味いと思ったことは一度もないし、思ってはいけないのだ。

「アリス……」

自分に言い聞かせるように、その名前を呟く。ここでの暮らしも、統一大会も、整合騎士を目指すことすら、全ては目的ではなく手段だ。余人の立ち入れない神聖教会のどこかにいるはずのアリスに、禁忌を破ることなく堂々と会いに行くための。

突き当たりの階段を降りたユージオは、建物の北側に設けられた修練場に向かった。これもまた、上級修剣士の特権のひとつだ。練士の頃は毎晩、寮の裏手の森の、自分の鼻も見えないような闇の中で剣を振ったものだが、ここでは十二人には広すぎる屋内の道場の、煌々とした灯りの下で好きなだけ稽古ができる。

大きな両開きの扉を押すと、修練場にいた三人の先客が振り返り、露骨に顔をしかめた。

 二人が手合わせ中で、残り一人が審判をしていたようだったが、ユージオが一歩足を踏み込んだ瞬間に木剣の音はぴたりと止まった。そんなに警戒しなくても、別に君たちから技を盗んだりしないよ――と内心で思いながら、三人から遠離れた隅っこに向かって歩き始める。

「おや、ユージオ……修剣士殿、今夜は一人なのかな」

声をかけてきたのは、審判役の男だった。長い金髪を後ろで束ね、すらりとした長身を純白の制服に包んでいる。いかにも良血といった、過不足なく整った顔にはにこやかな笑みが浮かんでいるが、『ユージオ』と『修剣士』のあいだにわざとらしく間を置いたのは、ユージオが姓を持たない開拓農民の子であることをあげつらっているのだ。

普段は、剣呑なキリトが怖くて挨拶もしないくせに、と思いながら、ユージオも笑顔を作ると小さく頭を下げた。

「今晩は、ライオス・アンティノス修剣士殿。ええ、同室の者はあいにく明日の試験に備えて勉強をしていますよ。でももしご用なら呼んできましょうか?」

「む、いや、それには及ばない」

 ライオスはもったいぶった仕草で短くかぶりを振った。ユージオはこれでも最低限の社交辞令は弁えているが、キリトはまったくその限りではない。機嫌の悪いときは、ライオスの皇家に連なる血筋など意に介せず、手合わせを申し込んでぶちのめすくらいのことは平気でやる奴だ――ということを向こうもよく知っているのだ。

「それでは、私は邪魔にならないよう隅で剣を振っています。お三方はどうぞそのまま続けてください」

我ながら卑屈な態度が上手くなったものだ、と思いながらユージオが再度頭を下げると、いつもライオスにくっついている、これも貴族の次男だか三男だかの残り二人も尊大な顔つきで頷いた。

床一面に敷かれた濃い赤のカーペットを踏んで、奥の壁沿いに並んで立つ、分厚く革の巻かれた丸太の前まで移動する。背中にライオスたちの視線を感じながら、木剣を構え、呼吸を整える。

「シッ!」

鋭い気合とともに、振り上げた剣を、ただ正面から丸太目掛けて撃ち降ろす。両手に心地よい痺れを感じながら素早く一歩下がり、また呼気と同時に剣を振る。ドシッ、ドシッという重い音だけに意識を集中していると、三人の存在など急速に消え去っていく。

ユージオが毎夜の稽古で行うのは、この何の工夫もない上段斬りを五百本だけだ。教練で学ぶ複雑華麗な型などまったくやらないし、初歩的な連続技すらも繰り出さない。すべて、ユージオの隠れた師であるキリトの指示によるところだ。

 キリトの弁では、真に剣が振れるようになるのは、剣の存在が消えてからだ――という。無限回の反復練習を通して、動作の中で己と剣の境目が無くなってはじめて剣は必殺の武器となる。道具としての剣を美しく見せるための型など百害あるのみ、と嘯く彼の言葉を、それぞれの流派を持つ達人である教師たちが聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。

しかし、こうしてキリトの指示どおりの練習をもう二年も続けているユージオだが、彼の言わんとすることを完全に理解できた気はいまだにしない。

剣技は必殺たるべし、とキリトは言うが、そもそも人間相手の勝負で必殺などという言葉は存在し得ない。いかなる勝負においても、相手を殺してしまえばそれは禁忌目録違反であり、整合騎士を目指すどころか逆に整合騎士に断罪されてしまう。

ゆえに、学院内で行われる木剣同士の手合わせも、統一大会での真剣勝負ですら、勝敗は最初の一撃が入った時点で決定する。往々にして完全に同時の相撃ちも起こるので、その場合はより美しく華麗な技を決めたほうが勝者となる。だからこそ学院では型の演舞が重要視されるのだし、それは二人の最終目標である、整合騎士の選抜基準においても変わらないはずだ。

ユージオがそう言うと、キリトはただ一言、あの洞窟でのことを思い出せ、とだけ答えた。

 確かに、ニ年前のあの日、シルカを連れ戻すために北の山脈を目指した時に体験した出来事は、ユージオの中に今も薄れない衝撃を刻み付けている。山脈を貫く洞窟で出会ったゴブリン――闇の国の住人たちには、禁忌など何一つ存在しないようだった。殺すことのみを目的としたような醜い剣を振るい、ユージオとキリトに致命傷となりうる深い傷を負わせた。

禁忌目録は、闇の国の住人は全て敵と断定し、それを殺すことはまったく禁じていない。だから、あの日洞窟で見たように、もし遠い未来に闇の軍勢が果ての山脈を越えて侵略してきたとき、それと戦うために必殺の剣を磨け、というキリトの言葉は理解できる。

 だが、本当にそんな日が来るのだろうか? 人間の国は、無敵の整合騎士に守られている。彼らはまさに一騎当千、ゴブリンたちなどどれほど押し寄せてきたところで容易く退けるはずだ――。

そう反論したユージオに、キリトは笑って言った。馬鹿だなぁ、俺たちはその整合騎士になろうとしてるんじゃないか、と。

 確かにそれはまったくその通りだ。整合騎士を目指すなら、闇の軍勢と戦える必殺の剣を身につけておかねばならないのは自明の理だ。だからユージオは毎夜愚直な上段斬りを繰り返している。しかし――正直、自分の中に、人間の世界を守ろうという理想があるのかどうか、ユージオにはよくわからない。修行の全てはただ、もう一度アリスに会うという目的のためだけのものなのだ。整合騎士に任じられ、神聖教会に囚われているアリスと再会し、もし騎士の特権を以って彼女の罪を免じてもらうことができれば、その後はもう任を辞してルーリッドに帰り、アリスと二人畑を耕したとしても何の未練もない……。

物思いに耽りながらも、ユージオの体と腕は水車のように勝手に動きつづける。

頭の片隅で数えている撃ち込みの本数がいつのまにか四百を超えた、その時だった。背後で、笑いを含んだライオスの声が響いた。

「いつもながら、ユージオ修剣士殿の稽古は奇しきものだな。あのような型も技もない棒振りに、どのような意味があるのか、知りたいとは思わないかウンベール」

「いや、まったくまったく」

追従する取り巻きの言葉に、三人の露骨な嘲笑が続いて、ユージオはおやおや、と思う。

 ――キリトが居ないとずいぶん絡むじゃないか、ライオス君。

そんなに自分は与し易しと見られているのか、と考え、すぐにまあそうかもなと内心苦笑する。注目を浴びるのが苦手な性分は央都に来てもまるで変わらず、数限りなく行った模擬戦闘においても地味な技のみで勝利するよう自然と努力してしまった結果、ユージオは十二人の上級修剣士の中でも最も目立たない存在となっているのは間違いない。

 しかし、そろそろその座に甘んじているわけにもいかなくなる。これからの一年間で行われる試合は全て学院総代表の選抜試験であり、わずか二名の枠をキリトとともに手に入れるためには、お互い以外の全ての修剣士にできるだけ派手に、美しく――つまり教官ごのみの技で勝ち続けなくてはならないからだ。

相変わらずねちっこく笑いつづけているライオス達を無視し、五百本の撃ち込みを終えると、ユージオは腰帯から抜いた手巾で額の汗を拭った。地味な割に楽な稽古ではないが、しかし故郷の森で一日中重い斧を振り回していたのを思えば何ほどの事はない。

学院の主講堂の天辺に建つ塔の鐘が、ルーリッドの教会のそれと全く同じ旋律を奏でて午後九時を告げた。消灯までの一時間で、風呂に入り明日の授業の準備をしなくてはならない。木剣を担ぎ、ユージオはまだぐずぐずしている三人に軽く会釈して修練場を後にしようとした。

「おや、ユージオ殿は丸太叩きだけで、型の修練はしないのかな」

まだ絡み足りないらしいライオスが、わざとらしい驚き顔を作って声を掛けてきて、ユージオはひそかに溜息をついた。

「ははは、ライオス殿、聞けばユージオ殿はどこぞの田舎で木こりをしていたそうな。丸太相手の技しか知っておられぬのかもしれませんぞ」

「これは教官連中に、木こり斧の型をユージオ殿に教えて差し上げろと言っておかねばなりませんな」

確かウンベールにラッディーノとかいう名前だった取り巻き二人が、事前に台本を作っているのかと疑いたくなるような台詞で調子を合わせる。こんな奴らの三文芝居に付き合っていられるものか、とユージオはせいぜい下手に出てとっとと逃げ出すべく、口を開いた。

「いやあ、田舎で叩いていた樹が人間よりよっぽど歯応えがあったおかげで、木こり剣法でもこんな立派な学院に入れました。人生、何が幸いになるかわかりませんね、それではお休みなさいお三方」

では、ときびすを返しかけたところで、ライオスが突然額に青筋を浮かべて喚いた。

「聞き捨てならんな! ユージオ修剣士殿は、我々が丸太以下だと言われるか!」

「は?」

唖然として聞き返す。どこをどう切り取ったらそんな意味になるんだ、と首を捻りかけたユージオに、取り巻きが両側から同時に怒声を浴びせた。

「無礼な!」

「許さんぞ!」

「い、いや……そんな事は誰も」

言ってない、と続けようとしたが、それに被せてライオスが更に大声を出す。

「そこまで大口を叩くからには、実力を以って証明する覚悟がおありと思ってよろしいな!」

よろしくない、と言っても収まりそうにない剣幕に、さあ面倒なことになったぞ、とユージオは密かに舌打ちした。恐らく三人は、ユージオが一人で現われたときから何やかや難癖をつけて手合いに持ち込む腹だったのだろう。

どうやったら無事に逃げおおせるかとあれこれ考えかけてから、ユージオは不意に馬鹿らしい気分に襲われた。初等生の頃からライオスらに対して不遜な態度を貫きつづけたキリトではなく、常に下手に出て相手の顔を立ててきたユージオが目の敵にされるのは理不尽としか言いようがない。アホウを相手にするだけ無駄だぜ、というキリトの声が聞こえてきそうだ。

どうせ、一ヵ月後に迫った最初の選考試合では、ライオスを完膚なきまでに打ち負かす必要があるのだ。早いか遅いかの違いでしかないなら、ここであれこれ言葉を重ねて余計な時間を取られるだけ骨折り損というものだ。

「では、証明して差し上げましょう」

ユージオはにこやかにそう言い、右手の木剣をくるりと回して相手の鼻先に突きつけた。

「な……」

一瞬ぽかんとしたライオスの顔が、みるみる真っ赤に染まる様はなかなか見ものだった。豪奢な金髪から湯気が出そうな勢いだ。

「これほどの侮辱は覚えがない! 天命を半分削られても文句は言わないでもらおう!」

学院内における双方合意の手合いであれば、寸止めではなく実際に攻撃を入れることも許されているが、しかし当然初撃で決着というルールは変わることがない。しかも今双方が携えているのは練習用の木剣であり、どれほど激しい一撃が入ったところで天命は一割も減らないだろう。修剣士なら誰もがマスターしている初歩の神聖術で容易く治療できる傷だ。

まったく大袈裟なことを言う奴だ、と思いながら、ユージオはライオスが距離を取り、芝居がかった仕草で腰から木剣を抜くのを眺めた。

望んだ手合いではないにせよこうなったからには負けるつもりはないが、しかし容易く勝てる相手ではないこともまた事実だ。傍系とは言え皇族のライオスは、幼い頃から一流の教師に剣術を学んでいるはずであり、学院の教練どおりの型による攻防なら向こうに分がある。上背も腕の長さもあちらが上、しかも華美な装飾が施された白樫の木剣までやたらと長い。

 ――しかし幸い、この場には技を採点する教官は居ない。

ユージオは呼吸を整えながら、すっと腰を落とし、剣を右に低く落ろした。いかなる伝統流派の教本にも乗っていない構えだ。

「何を珍妙な……」

 ライオスは鼻で笑い、背筋を伸ばして立つと剣を右体側に真っ直ぐ立てた。スーペリオ流長剣術・天衡の構え、繰り出される技は恐らく飛燕双翼の型……とユージオは読んだ。左右いずれかの偽打を見せてから反対側より本筋の飛んでくる厄介な技だが、知っていれば何ほどのことはない。

「それでは――始め!」

ウンベールの声とともに、ライオスの長剣が唸った。

ちかっと視界の左側で閃いた白光を、ユージオは落ち着いてやり過ごし、右から襲ってきた真打に合わせて剣を撃ち上げた。

ががばきびっ、と四つの音が連続して響いた。

 最初の二つは、ユージオの剣がライオスの剣を右下から受け止め、即座に斬り返して左上から打ち込んだ一撃をライオスがぎりぎりの所で受けた音だ。その反射速度はさすがと言わざるを得ないが、息もつかせぬ右からの三撃目には対応しきれず、横腹を打たれた白樫の木剣はばきっと悲鳴を上げて中ほどからへし折れ――そしてくるりと体を回転させての最後の右水平斬りが、びっと鈍い音とともにライオスの長い髪をひと筋千切って頬の直前で止まった。

しん、と静まり返った修練場の床に、くるくると宙と飛んだ木剣の上半分が、重い音を立てて落下した。ライオスは両目を見開いて数歩後退すると、よろめいて片膝を付いた。

「ら……ライオス殿ォ!!」

「お怪我はっ……!!」

悲鳴を上げて駆け寄る取り巻きを、邪険に振り払ってライオスは立ち上がった。いまだ信じられないという顔で、手に残った剣の下半分を眺め、再度ユージオの顔を凝視する。

「な……なんだ、今の技は……」

「ええと……」

昔キリトから教わった、珍妙な流派の名前を思い出し、なるべく厳かな声音を作って口にする。

「――アインクラッド流剣術、直剣四連撃技ホリゾンタル・スクエア」

「あ……あいん……?」

ぽかんと口を開ける三人に向かって、ユージオは教官たちのしかめ面を真似ながら言った。

「ライオス殿が受けきれなかったのも無理はない、一本ずつ型のやりとりに終始する伝統流派には連続技という発想はありませんから。これを機に研究してみるといいでしょう。それでは」

一礼して身を翻そうとしたユージオは、ライオスの顔がどす黒い屈辱の色に染まり、いつもは涼しげな両眼に滴るような憎悪が溜まっているのを見て、やりすぎたか、と少々後悔した。こうなったらこれ以上面倒なことになる前に逃げるのが最善策だ。すっかりいつもの卑屈な態度に戻って再度頭を下げ、足早に出入り口に向かう。

扉を開け、後ろを見ないままホールに出たが、首筋のあたりにいつまでも粘つくようなライオスの視線がわだかまっているように思えた。これで今後はちょっかいを出してこなくなればいいけど、と溜息をつきながら、ユージオは足早に自室を目指した。

ある程度の嫌がらせは覚悟していたが、数日が経過しても、意外なほどにライオス達は大人しかった。

以前なら、寮や講堂で顔を合わせる折に一日一度は糖衣に包んだ蔑みの言葉を下賜してくれたものだが、修練場での手合い以来それもぱったりと途絶えている。キリトには念のため一件のことを説明し、連中に気をつけるよう注意しておいたのだが、そちらにも何の音沙汰も無いらしい。

「意外だなぁ、あんな事くらいで性根を入れ替える奴らじゃないと思ってたんだけどなあ」

お茶のカップを両手で抱え、ユージオが首を捻ると、キリトは少し考えてから答えた。

「でも、考えてみるとこの学院じゃあ嫌がらせひとつするのもそう楽じゃないぜ」

ずずっと音を立てて熱い液体を啜る。

やや波乱含みの一週間が終わり、明日はようやく休息日となった夜である。すでに稽古と入浴を済ませ、いつもなら挨拶もそこそこに互いの寝室に引っ込んで朝まで死んだように眠るのだが、この夜だけは共用の居間でお茶を飲みながらあれこれ話すのが毎週の恒例となっていた。

ユージオが首をかしげて先を促すと、キリトは黒い瞳をティーカップの中に向けたまま言った。

「例えばさ、子供の頃、ルーリッドの学校じゃあどんな悪戯をしてた?」

思いがけないことを訊かれ、眉をしかめて遠い昔の記憶を掘り返す。

「そりゃあ……僕は主にやられるほうだったけど……ほら、キリトも憶えてるだろ、あの衛士長のジンクとかにはよく苛められたなぁ。靴をどこかに隠されたり、弁当の袋にイライラ虫を入れられたり、アリスと一緒のところを囃されたりさ」

「ははは、子供のやることはどこの世界でも一緒だな。……でも、肉体的な苛め、例えば殴られたりとかそういうことはなかった。そうだろ?」

「当たり前だろ」

ユージオは目を丸くして答えた。

「そんなことするわけないじゃないか。だって……」

「――禁忌目録で禁止されてるからな。『別項に挙げる理由なくして他者の身体を意図的に傷つけるべからず』……靴を隠すのは問題ないのか、そう言えば? 盗みも禁止事項だろう?」

「盗むっていうのは、他人に所属する物を無断で自らに所属させることだよ。窓を開いてみればわかるけど、物の所有者属性が移動するのは、携行するか居室に置いてから二十四時間後だ。だから、例え合意のもとであげたり貰ったりしたものでも二十四時間以内なら正当に返却を要求できるし、合意なく持ち出してもすぐにどこかに放置すれば所有することにならないから盗みにもならない……。こんなの、五歳の子供でも知ってるぞ。いいかげん記憶が戻る気配はないのかい?」

ユージオの気遣いに、キリトは頭を掻きながら笑った。

「そ、そうか、そうだった気もするな。うーん、そんなシステムだったのか……危ねえなぁもう……」

「し、しすて……?」

「いや、なんでもない。……ん? じゃああれは? お前の青薔薇の剣を、昔話でドラゴンから盗もうとしたベルクーリは禁忌違反じゃないのかよ?」

「あのねえ、ドラゴンは人じゃないよ」

「そ、そっすか……」

「話を戻すと、物を隠す悪戯は禁忌に触れないけど、誰の所属領域でもない場所に放置された物は二十四時間後から天命の減少が始まるから、それまでに返却しないと今度は『他者の所有物の損壊』になっちゃう。おかげで靴はどんなに遅くても翌日には返ってきたけどね……でも、こんな話が、ライオスたちとどう関係するのさ?」

何故かげんなりした表情で椅子に沈みこんでいたキリトは、瞬きすると、自分で始めた話を忘れていたかのように口を開いた。

「ああ、そうだった。ええと、この学院には、禁忌目録とは別に長ったらしい院内規則が山ほどあるだろう。そこに確か、他者の所有物に許しなく手を触れてはならない、ってのもあった。だから、ジンク君がひ弱なユージオ少年を苛めたように、物を隠したり虫を入れたりとかはそもそも不可能だ」

「ひ弱は余計だよ。うーん……そうか。今まで考えたことなかったけど、確かにここだと嫌がらせしようにもその方法が無いよね……」

「せいぜい口で嫌味を言うか……これも明確な悪罵は禁止されてるから大して効果ないしな……もしくは、正当な手合いに持ち込んでぶちのめすくらいしかないぜ。それを試して返り討ちにあっちゃあ、もうあの皇帝の又従兄の孫だかひ孫だかにはできることは無いよ。そうだな、後は考えられるとしたら……俺を金品で懐柔してユージオ君と離反させるくらいかな……」

「え……」

反射的に不安な顔を作ってからユージオはしまったと思ったが、すでにキリトはニヤニヤ笑いを浮かべていた。

「心配しなくてもいいよユージオ少年。お兄さんは君を見捨てたりしないぞ」

「ふん、どうだか。ゴットロの店の特製肉まんじゅうでも出されたら尻尾振ってついていくくせに」

「それはありうるな」

真顔で言ってからわははと大声で笑い、キリトはお茶を飲み干すとカップをソーサーに置いた。

「ま、冗談はさておき、直接的な嫌がらせに関してはそれほど心配することはないだろう。だが……」

笑いを収め、わずかに両眼を細めて続ける。

「裏を返せば、禁忌目録と学院則に触れない行為なら何をやってもおかしくない、ということでもあるな。まったく、歪んだ倫理観だな……俺も何か見落としがないか、考えておくよ」

一つ頷いてキリトは立ち上がり、黒い部屋着の腰をぱんと払った。

「さて、もうすぐ消灯だしそろそろお開きにするか。ついては明日のことだがユージオ君、俺はちょっと用事ができて……」

「だめだよキリト。今回ばかりは逃げようったってそうはいかないぞ」

翌日の休息日に、二人は傍付き初等生のティーゼとロニエから、親睦会を兼ねたピクニックに誘われているのだった。同様の申し込みを先週もされたのだが、キリトがあれこれ理由を並べて逃亡してしまったため、ユージオは気落ちするロニエを慰めるのに大いに気を使ったのだ。

「あのねえ、もう二人が付いてから一ヶ月も経つんだよ。お前だって、初等生のときに付いたソルティリーナさんに散々気を使ってもらったろう」

「ああ……あの人はいい人だったなあ……。元気でやってるかなあ……」

「遠い目をするなよ! 僕が付いたゴルゴロッソさんは豪傑で大変だったんだからな……じゃなくて、今度はお前がいい人になる番だって言ってるんだ。いいな、逃げるなよ!」

ユージオがびしりと指をさすと、キリトは岩塩でも噛んだような顔をしてへいへいと頷き、おやすみの言葉とともに自分の寝室に消えていった。

ふうっと長い溜息をつき、ユージオは二つのカップをソーサーと共に小さな流し台に運んだ。汲み置きの井戸水で手早く洗い、きちんと拭いて棚に戻す。

耳の奥で、先刻キリトが漏らした、何をやってもおかしくない、という言葉がかすかな残響となって甦った。

これまでの十八年と少しの人生において、ユージオは一度たりとも、禁忌目録の穴を探そうなどと考えたことはなかった。禁忌は遵守を強制されるものではなく、天が上にあり地が下にあるのと同様の第一原則として常にそこにあった。

 しかし、全ての人間が、例えばライオスのような人間にとっては、その限りではないということなのだろうか? 彼らは禁忌目録を意に反してやむなく守る――つまり、神聖教会によって創生の時代より定められた絶対の法を、邪魔なものだとさえ思っているのだろうか……?

まさかそんなはずは無い、とユージオは唇を噛んだ。もしそんなことが許されるなら、あの日アリスが整合騎士に連れ去られるのを黙って見送り、更に六年も法に従って黙々と木を切り続け、その間一度として禁忌目録と教会を疑うことのなかった自分は、葉っぱを食むことしかしらないイライラ虫よりも愚かだということになるではないか。

 法とは、教会とは一体なんなのだろう――と、ユージオはその時はじめてちらりと考えた。だがすぐに思考を振り払い、明日に備えて眠るために自分の寝室へと歩きだした。


高い鋳鉄の柵に囲まれた修剣学院の敷地は、その六割以上が野原と森に占められている。

ルーリッドの村よりもはるか南に位置するだけあって、棲んでいる動植物の種類も豊富だ。故郷では見たことのない、金色の毛皮を持つ小型の狐やら青緑色のやたら細長い蛇やらがそこかしこで五月の陽光を満喫しており、ユージオはここに来て三年目であるにもかかわらずつい目を奪われた。

途端、隣を歩くティーゼが、頬をぷうっと膨らませながら抗議した。

「ユージオ先輩、聞いてるんですかー?」

「き、聞いてるよ、ごめん。……で、何だっけ?」

「聞いてないじゃないですか!」

よく熟した林檎の色の長い髪を揺らして憤慨する下級生に、慌てて弁解を重ねる。

「い、いや、あんまり森が綺麗だから、つい……。珍しい動物も居るし……」

「珍しい?」

ティーゼはユージオの視線を追ってから、なぁんだ、というように肩をすくめた。

「えー、金トビギヅネじゃないですか。あんなの、街に生えてる樹にだっていっぱい棲んでますよ」

「へえ……。そう言えば、ティーゼは央都出身だったよね。家は学院と近いの?」

「んー、皇宮の向こうだからちょっと遠いですね。パ……父親が皇宮で書記をやってるもので……」

「へえ!」

ユージオは改めて、垢抜けた雰囲気をまとう都会の少女を見やった。自分が二年前に着た時はやたらと野暮ったく見えた、灰色の初等練士の制服も、彼女が着こなすと不思議と軽やかな印象になる。

「じゃあ、お父さんは貴族なんだ?」

ややかしこまった口調で尋ねると、ティーゼは照れたように首を縮めながら短く頷いた。

「一応、六等爵士なんですけど……でも下級貴族もいいとこですから。"むしろ上級貴族の賞罰権に怯えなくていいぶん街の平民のほうが楽だぞ"っていうのが口癖なんです……あ、す、すみません私ったら」

先祖代々平民のユージオに対して配慮の足らない口を利いてしまった、と思ったらしく、しゅんとした顔でティーゼは謝罪した。

「や、気にしないで。うーんそうか、賞罰権ねえ……そんなのあったなあ……」

話題を変えるべく、ユージオはそう言いながら、初等生の頃勉強した帝国基本法を思い出そうとした。

 皇宮の発布する基本法は、禁忌目録の下位規則で、主にノーランガルス神聖帝国の社会制度を定めている。それによれば、帝国のあらゆる土地に住む民はおしなべて皇帝の僕であり、それを勝手に使役したり税を課したり、あるいは褒賞することは、例え一等爵士であろうとも許されない。例外は、大貴族の私領地に住む民で、領主は自由に彼らを処罰し、または褒美を下賜する権利――もちろん大原則たる禁忌目録の許す範囲でだが――、つまり賞罰権を有する。

ユージオが不思議だと思ったのは、その賞罰権は三等級以上離れた貴族同士にも設定されており、つまり例えば一等から三等の爵士は最下位である六等爵士を皇帝に代わって裁くことが可能だ、ということだ。

法学の老教師に、なぜそんな補則があるのか訊いてみたところ、戦時に貴族によって構成される軍司令部を円滑に動かすためだと教えられた。しかし、戦争などというものは、創生神ステイシアが人の子に世界を与えたその時よりついぞ起きたことはないのだ。二百年ほど前まで、東と西の帝国と何度か国境線に関して揉めたことはあるらしいが、その時もそれぞれの国代表の剣士による試合で決着したのだと言う。

つまり、今や貴族間の賞罰権など形骸化しすぎもいいところだと思うのだが、そこはそれ、宮廷における勢力争いやつまらない苛めの道具として活用されているらしい。

「だからー、お父様は、長子の私が家を継ぐときには、せめて四等爵士に叙せられてほしいと思って、それでこの学院に入れたんです。もし学院代表に選ばれて、四帝国統一大会でいい成績を残せば、それも有り得ないことじゃないですから……。まあ、どうも無理っぽいんですけどね」

ちらりと舌を出して笑うティーゼを、ユージオはふと眩しく感じて、少し目を細めた。かつて教会に連れ去られた幼馴染と再会する、という考えようによっては女々しい動機でこの場所にいる自分と違って、家の為に剣名を上げようというティーゼの動機は至極真っ当なものであるように思えたからだ。

「そうか……ティーゼは凄いんだね。お父さんを喜ばせるためにがんばって、初等生で上位十二人に入っちゃうんだから」

「そ、そんなことないですよー。最初の試験で、運良くいくつか勝てただけですから。三歳の頃から個人教授を受けててこの程度ですもン。ユージオ先輩のほうがずっと凄いですよ、衛兵隊からの推薦枠ってとっても狭いのに、そこを楽々突破して、しかも一年飛び級して、中等錬士から上級修剣士になっちゃうんですから。私、ユージオ先輩の傍付きになれて、ほんとに光栄だと思ってるんですよ」

「い、いや、そんな……ぜんぜん楽々とかじゃなかったよ。飛び級できたのも、半分以上キリトの特訓のお陰だし……」

 むしろインチキ技……と思うがそこは口に出さない。

「へええ! じゃあユージオ先輩よりキリト先輩のほうが強いんですか?」

「…………そう訊かれると、うんと言うのも癪だけど……」

あははは、と楽しそうに笑うティーゼと同時に、少し前をロニエと並んで歩く相棒の後姿を見やる。

あの木石男は、ちゃんと傍付き下級生の相手が出来ているのか、と心配になり耳をそばだてると、意外に滑らかな口調で話すキリトの声が途切れ途切れに聞こえた。

「……だから、尖月流影の構えから派生する型のうち、実際に備えるべきものは二つしか無いと考えていいんだ。真上からか真下から、それ以外は無駄な動作が入るから見てからでも受けが間に合う。ではどうやって上か下かを見分けるかと言うとだな……」

 ――まあ、内容はさておき、ロニエも熱心に聞いているようだし良しとしよう、と小さく溜息をついてから、ユージオはふと考えた。

自分の、アリスにもう一度会いたい、という動機が不純なものだとすれば、一体キリトは何故この学院で辛い訓練や面倒な勉強に耐えているのだろう? 過去の記憶が無い彼にとって、自分や家の名誉のためといった動機は意味を持たないはずだ。二人の友誼のためだけに、二年間も行動を共にしてくれているともなかなか思えない。

 あるいは、キリトこそが最も純粋な求道者なのだろうか――という気がすることもある。あの圧倒的な身体能力に加え、アインクラッド流連続剣技という秘剣をも操る彼は、尚も更なる強さを得んがためだけにこの学院で学んでいるのだろうか……? もしそうであるなら、いつか二人の動機が道を違えるときが来てしまったら、果たして今の僕は彼に――。

「あ、あの池のほとりがいいんじゃないですか?」

ティーゼが右手を伸ばしてはしゃいだ声を出し、ユージオを物思いから引き戻した。指差すほうを見ると、たしかに綺麗な湧き水の池の岸辺に柔らかそうな下草が繁っている場所は、弁当を食べるのに最適なように見えた。

「よし、そうしよう。――おーい、キリト、ロニエ! あそこで食べよう!」

ユージオが大声を出すと、無二の相棒はくるりと振り向き、いつもの少年のような笑みを浮かべて片手を上げた。

敷き布がわりのテーブルクロスを草の上に広げ、四人は向き合って腰を下ろした。

「ああっ……ハラ減った……」

大袈裟な仕草で胃のあたりを押さえるキリトを見て、ロニエとティーゼはくすくす笑いながら持参した大きなバスケットを開いた。

「あの、私たちが作ったので、お口に合うかどうか……」

 恥ずかしそうに言い添えるロニエの様子からは、普段の"任務活動"中の緊張ぶりはほとんど感じられず、ユージオは無理矢理キリトを引っ張ってきた甲斐があったなあと考えた。これで黒衣の上級修剣士が見た目ほど怖い人物ではないと分かってもらえれば、きっと打ち解けるのも早いだろう。

バスケットに詰まっていたのは、薄焼きパンに肉や魚、チーズと香草類を挟んだサンドイッチに、スパイスの効いた衣をつけて揚げた鶏肉、干した果物とナッツをたっぷり入れて焼いたケーキ、クリームで練ったチーズを詰めたタルトといった豪勢なメニューだった。ティーゼがそれぞれの料理の天命を確認するやいなや、早速キリトが頂きますもそこそこに揚げ肉をつまんで口に放り込み、しばらくモグモグしてから学院の教師のような口調で言った。

「うむ、うまい。跳ね鹿亭に優るとも劣らない味だぞ、ロニエ君、ティーゼ君」

「わあ、ほんとですか」

ほっとした顔で少女二人が言い、互いに顔を見合わせて笑う。ユージオも負けじと手を伸ばし、魚の燻製を挟んだサンドイッチに大きくかぶりついた。はるかな昔、ギガスシダーと格闘するユージオにアリスが毎日届けてくれた弁当と違って、パンも白いしバターも贅沢に使ってある都会風の味だ。央都に来たばかりの頃は、洗練された上品な料理に馴染めず苦労したものだが、今では素直に美味いと思える。これが慣れるってことなのかな、と内心で呟きつつ、ユージオもティーゼに向かって頷きかけた。

「うん、すごく美味しいよ。でも、材料とか揃えるの、大変だったんじゃないの?」

「あ……えーと、実は……」

ティーゼは再度ロニエと目配せを交わすと、首を縮めながらかしこまって言った。

「ご承知のとおり初等生は特段の事情なく学院から出られないので、その……昨日キリト上級修剣士殿にお願いして、市場で揃えてきて頂きました」

「な、なんだって」

思わず唖然として、こちらに目もくれず料理をがっついているキリトを見やる。

「いつの間にそんなに打ち解けたんだ……僕の心配は一体……。お前なあ、そこまでしといて今更逃げようとするなよな!」

脱力感に続いてむかむかと腹が立ってきて、ユージオは一番大きく切り分けられたチーズタルトを掻っ攫うとがぶりと噛み付いた。

「ああっ、俺が目をつけていたのに……。ま、なんだ、俺としてはむしろユージオ修剣士殿に気を回したつもりなんだが」

「余計なお世話だよ、まったく。僕の方には何の問題もないぞ!」

にやにや笑うキリトに釘を刺してから、目をぱちくりさせているロニエとティーゼに向かって思わず愚痴っぽい口調になって言う。

「こいつはね、昔っからこういう奴なんだよ。二人で央都まで文無し旅をしてる頃も、最初は胡散臭がられたり怖がられたりする癖に、気付くと農家のおかみさんとか子供とかに気に入られて美味しいものを貰ったりしてるんだ。その手に乗せられないように気をつけたほうがいいよ二人とも」

しかしどうやらすでに手遅れだったらしく、俯いたロニエがかすかに顔を赤くしながら首を振った。

「いえそんな、手だなんて……。キリト先輩が、怖そうだけどほんとは優しい方なのは、すぐに分かりましたから……」

「あっ、もちろんユージオ先輩もですよ」

付け加えるティーゼに力ない笑みを返し、ユージオはタルトのかけらを口に放り込んだ。素知らぬ顔で尚も健啖ぶりを発揮しているキリトを、なんとか一度やり込めてやる方法は無いものか、と横目で睨んでいると、不意にティーゼとロニエが改まった様子で居ずまいを正した。

「あの……実はですね、お二方のその優しさを見込んで、ひとつお願いがあるんです」

「は、はい? ……どんな?」

ユージオが首をかしげると、ティーゼは赤毛を揺らして低頭した。

「大変申し上げにくいことなんですが、その……先日ユージオ修剣士殿が仰っておられた、傍付きの指名変更を教官に口添え頂きたく……」

「な、なんだって」

再度絶句してから、それではこの豪勢な料理は手切れの品だったのか、と暗澹たる気分に襲われつつユージオは念のため確認した。

「そ、それは……僕の傍付きを辞めたいという……? それともキリト……もしかして両方……?」

すると、ロニエとティーゼは伏せていた顔を上げ、一瞬ぽかんとした表情を見せてから、同時にぶんぶんと激しくかぶりを振った。

「ち、違います! 私たちじゃないです、そんな、とんでもないです。お二人の傍付き指名はむしろ代わって欲しいって子が一杯いて……いやそうじゃなくて、変更をお願いしたいのは、寮で同室の子なんです。フレニーカって名前で、すごく大人しい、いい子なんですが……その、付いた上級修剣士殿が、とても厳しい方らしくて、お部屋の掃除以外にも色々お命じになられて、それはいいんですが、ここ数日、些細な粗相に余りに厳しい懲罰を戴いたり、あるいは……学院内ではその、不適当と思われるようなお世話をお言いつけになったりと……」

言いづらそうに口篭もるティーゼの言葉に、先刻とは別種の驚きに打たれながらユージオは呟いた。

「なんだって……しかし、いくら修剣士でも、学院則に定められた範囲以外のことを傍付き練士に命じることはできないはずだけど……」

「はい、それは……院則に触れるようなことはもちろんなさらないようですが、院則もあらゆる行為を網羅しているわけではありませんから……違反にはならずとも、その、少々受容しがたいご命令を色々と……」

顔を真っ赤にして言を重ねるティーゼの様子を見て、ユージオはおぼろげに問題の修剣士がどのようなことをフレニーカという傍付き初等生に命じているのかを察した。

「いや、それ以上言わなくても大体わかったよ。確かに院則の文言だけを見てその精神を無視すれば、不埒な命令を強要することも不可能じゃない……。すぐにでも協力したいけれど……しかし、確か……」

頭の中で、二年前に暗記した学院規則の一部をなぞりながら続ける。

「ええと……上級修剣士の鍛錬を最大限支援するため、身辺の雑務役として一名の世話係を置く。世話係は、その年度の初等練士より成績順に十二名を選抜しこれに充てるが、上級修剣士とその指導教官の合意があれば、世話係を解任し、他の初等練士を再指名することを可能とす……だったかな。つまり、教官だけじゃなくてその修剣士本人の承認が要るんだよね。まあ、説得はしてみるけど……問題の修剣士の名前は?」

と訊いてから、ユージオはふと嫌な予感を覚えて眉をしかめた。ティーゼはしばらく逡巡したあと、言いづらそうに小声でその名を口にした。

「あの……ライオス・アンティノス上級修剣士殿、です」

聞いた途端、キリトが露骨な舌打ちをひとつ鳴らし、吐き出すように言った。

「あの陰険皇族め……ユージオに手も足も出なかったくせに、まだそんな腐った真似してるのか。今度は寸止めじゃなくて、ほんとにぶちのめしてやれよ」

「いや……もしかしたら、むしろ僕のせいかも……」

ユージオは唇を噛み、不思議そうな顔をしているティーゼに説明した。

「実はね、確か……六日前かな。ライオス修剣士に手合わせを申し込まれて、その……何というか、彼の誇りが大きく傷つくような勝ち方をしてしまったんだ。酷く恨まれたろうと思って気をつけてたんだけど、まさか自分の傍付き練士を苛めるなんて……」

「まったくだ、ただの八つ当たりじゃないか、下衆野郎め」

それを聞いても、ロニエとティーゼには事情がよく飲み込めないようだった。小さく首をかしげながら、覚束ない口調で呟く。

「ええと……つまり、アンティノス上級修剣士殿は、ユージオ先輩に手合いで負けたことの、ええと……何て言ったっけ……」

言葉を探すティーゼに、ロニエが同じく自信の無さそうな口調で助け舟を出した。

「腹いせ……って言いましたっけ、そういうの……」

「そう、それです。負けた腹いせに、フレニーカを辱めるような御用をお言いつけになられていると、そういうことですか……?」

おそらく、下級とはいえ貴族の長子として大切に育てられてきたのだろう少女二人には、卑劣としか言いようのないライオスの行為を理解することは容易ではないのだろう。表す語彙を持たないほどに、それは異質な思考なのだ。

彼女らに比べれば温室の花と野の雑草ほどにも違うユージオにとっても、理解も、ましてや納得のできることではなかった。

 ルーリッドの村には、ジンクのような"意地悪"な子供は何人かいたが、彼らの行動は至極単純な理屈に基づくものだった。多分アリスのことが好きだったのだろうジンクは、いつも彼女と一緒だったユージオが必然的に気に入らず、靴を隠すような嫌がらせをしたのだ。その心理ならユージオにも理解できる。自分だって、まさにライオスのことが好きではないという理由だけによって、避けることもできた手合いを受け、折らずとも済んだ相手の木剣を折り、不必要な言葉を浴びせたのだ。

 だが、それによって発生した怒り、屈辱を解消するのに、ほぼ唯一の選択肢であるはずの"剣の腕を鍛えて次はユージオに勝つ"という道を選ばず、ユージオとはまったく無関係である自分の傍付き練士――本来であれば教え導かねばならないはずの年若い少女を辱めて気晴らしするという思考はまったく理解できない。

腹いせ、八つ当たりという言葉が存在するのは知っている。ユージオも、幼い頃一度だけ、父が年長の兄にのみ買い与えた練習用の木剣が羨ましくて仕方なく、父手作りの不恰好な自分の木剣で何度も岩を叩いてそれを折ってしまったことがある。当然父親には、それは八つ当たりという最低の行為のひとつだとこっ酷く怒られ、以後二度と同じことはしなかった。

 自分の木剣を折るのは禁忌違反ではないし、法に触れない範囲で後輩を苛めるのも同じく違反ではないのだろう。しかし――だからと言って、それは"やっていい"ことなのか? あの分厚い黒革の書物は、"ここに書いてあることは全てしてはいけない"というだけではなく、"ここに書いていないことは全て行ってよい"とも言っているのだろうか……?

長い沈黙のなかで、恐らくユージオと同じ疑問に翻弄されていたのだろうティーゼが、自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。

「私には……私には、わかりません」

幼さの残る頬を強張らせ、細い眉をきゅっと寄せて、六等爵士の跡取りである少女は懸命な様子で言葉を続けた。

「アンティノス家と言えば、傍系とは言え皇位継承権を持つ三等爵家です。私やロニエ、フレニーカの家よりもずっと大きなお屋敷を構えて、領地には私有民だって沢山暮らしてるんです。つまり……ええと、その……」

しばらく唇を震わせ、また話しはじめる。

「……私のお父様は、いつも言ってました。うちが貴族なのは、遠いご先祖様が、今平民と言われている多くの人たちよりほんの少し早くこの土地に家を建てたからに過ぎない、って。だから私達は、平民の人たちより少し大きな家に住み、少しいいものを食べ、平民の人たちが収める税金の中から毎月お金を貰っているのを、当たり前と思ってはいけない……貴族であるということは、貴族でない人たちが楽しく暮らせるよう力を尽くし、そしてもし戦が起きたときは、貴族でない人たちより先に剣を取り先に死ななければならないということなんだ、って……。だから……だから、つまり、六等、五等、四等爵士よりも大きな家と沢山のお金を持っているライオス殿は、私達よりももっと平民の、そして下級貴族のことを考え、その人たちの幸せのために尽くさなければならないのではないのですか? 例え禁忌目録に書いていないことでも、それが民を不幸にすることであれば絶対に行ってはならない、とお父様は言いました。ライオス殿の行いは、確かに禁忌にも学院則にも触れないかもしれませんが……でも……でも、フレニーカは昨夜、ベッドでずっと泣いてました。なんで……なんでそんなことが許されるのでしょう……?」

痛々しいほど一生懸命に長い言葉を口にし終えたティーゼの両目には、大粒の涙が浮かんでいた。しかし彼女とまったく同じ疑問に突き当たったユージオは、彼女にどう答えてよいのか分からなかった。

「素晴らしいお父さんだな、一度お会いしてみたいよ」

その声があまりにも穏やかな響きを帯びていたので、ユージオはそれがキリトの口から出たものだということがすぐには分からなかった。

日ごろ剣呑な眼光で同期の生徒たちにすら恐れられている黒衣の修剣士は、樹の幹に上体を預け、胸の前で腕を組んで、いたわるような視線をティーゼに向けたまま続けた。

「ティーゼのお父さんが言っているのは、ノーブレス・オブリージという、文字にはなっていないがしかし何より大切な精神の在り様のことだ。貴族、つまり力あるものは、それを力なき者のためにのみ使わなくてはいけない、という……そうだな、誇りと言ってもいい」

初めて聞く異国風の言葉だったが、しかしその意味するところはユージオにもすぐに理解できたような気がして、思わず頷いた。キリトの声は、春風の中に尚も穏やかに流れ続ける。

「その誇りは、法よりも大切なものだ。例え法で禁じられていなくても、してはいけないことは存在するし、また逆に、法で禁じられていても、しなきゃいけないことだってあるかもしれない」

 その、言わば禁忌目録を――つまり神聖教会を否定するような発言に、ロニエとティーゼがはっと息を飲んだ。キリトは二人をじっと見詰め、尚も口を動かした。

「ずっとずっと昔にいた聖アウグスティヌスという人がこう言ってる――正しくない法は法ではない、ってね。どんな立派な法や権威でも、盲信しちゃだめだ。例え教会が許していたって、ライオスの行為は絶対に間違ってる。罪の無い女の子を泣かせるような真似が許されていいはずがないよ。だから誰かが止めさせなきゃいけないし、この場合その誰かというのは……」

「ああ……僕らだろうね」

ユージオはゆっくり頷き、しかしいまだ飲み込めない疑問をキリトにぶつけた。

「でもキリト……法が正しいか正しくないか、誰が決めるんだ? 皆が好き勝手に決めたら、秩序なんてなくなっちゃうだろう? それを皆に代わって決めるために神聖教会があるんじゃないのか?」

教会が間違うなんてことがあるはずがない、とユージオは胸中で呟いた。確かに万能ではないのかもしれない、だからライオスの非道な行為を見逃してしまった。しかしそれは、ユージオの靴を隠すジンクの意地悪を見逃したのと、本質的には同じことではないのだろうか? ジンクの悪戯をシスター・アザリヤが叱り付けたように、ライオスの行為は自分とキリト、そして多分学院の教官が法の許す範囲で処断する。それは、教会の無謬性を疑うのとはまったく別の事であるはずだ。

ユージオの問いに答えたのは、キリトではなく、今までずっと俯いたまま黙していたロニエだった。常に控え目な黒髪の少女が、瞳に力強い光を浮かべてきっぱりした口調で言ったので、ユージオは少し驚いた。

「あの……私、キリト先輩の仰ったこと、少しだけわかった気がします。禁忌目録に載ってない精神……それって、つまり、自分の中の正義ってことですよね。法をただ守るんじゃなくて、なんでその法があるのか、正義に照らして考える……そう、疑うんじゃなくて、考えることが、大切なのかなって……」

「うん、その通りだロニエ。考えることは人の一番強い力だ。どんな聖剣よりも強い、な」

そう言って微笑むキリトの眼には、感嘆と、そしてそれ以外の何か奥深い感情が漂っているように見えた。二年付き合ってもまだ謎の多い相棒に、ユージオはふと湧いた疑問をぶつけてみた。

「しかしキリト、さっき言ってた聖アウグス何とかって奴は何者なんだ? 昔の司祭……それとも整合騎士かい?」

「うーん、司祭かな。別の教会の、だけどな」

そう答えてキリトはにやりと笑った。

空になったバスケットを一つずつ下げ、何度も手を振りながら初等生寮のほうへ去っていくロニエとティーゼを見送ったあと、ユージオは短く息を吐きながら相棒の顔を見た。

「……お前、何か考えあるか?」

尋ねると、キリトも口をへの字に曲げてしばし唸る。

「ライオスの件か……。俺たちが、下級生を苛めるのはやめろと言ったところで、素直にやめる奴じゃないのは確かだよな……しかしなあ……」

「しかし……何だよ?」

「いや……ライオスは確かに鼻持ちならない奴だけど、馬鹿じゃないよな……上級修剣士に選抜されるからには、剣の腕だけじゃなくて、神聖術とかその他学科の成績だっていいはずなんだ」

「まあね、腕っ節だけで選抜された誰かさんよりはね」

「そういう奴は二人いたって話だぜ、実は」

ついいつものように軽口の応酬を始めかけてから、そんな場合じゃないと思い直し、ユージオはキリトに先を促した。

「それで……?」

「だから、ライオスの奴は、本当に自分の傍付き練士に八つ当たりして満足するような馬鹿ったれなのか、って事さ……。確かに一時の気晴らしにはなるのかもしれないけど、長期的に見れば損失のほうが多いだろう? 悪い噂だって立つだろうし、教官の耳に入れば懲罰は無くとも注意くらいされてもおかしくない。体面に拘るあいつが、そんな危険を冒すかな……」

「でも……フレニーカって子に酷いことしてるのは事実なんだろう? 損得を計算できないくらいに、僕に負けたことに腹が煮え繰り返ってるってことじゃないのか? やっぱりこのままにはしておけないよ、僕にも原因があるなら、どうしたってひとこと言ってやらないと……」

「だからさ、そこだよ」

キリトは、ニガチグリの実を生で齧ったような顔で言った。

「もしかしたらこれは、俺たちを狙った手の込んだ罠なんじゃないのか? 俺たちが奴の仕業を抗議に行く、そこで何らかのやり取りがある、結果として俺たちが学院則に違反してしまう……みたいな仕掛けになってるとしたら……」

「ええ?」

ユージオは、予想外の言葉に思わず眼を丸くした。

「まさか……そんなこと有り得ないだろう。僕たちとあいつは同格の修剣士だよ、具体的な侮辱の言葉を口にしたりしない限り、何を注意したって逸礼行為にはならないはずだ。お前も、挑発されたくらいであいつのことをその……餌の食いすぎで飛べない灰色鴨を意味する単語呼ばわりするほど馬鹿じゃないだろ?」

「逸礼行為……ああ、上級生に対してのみ発生するあれか……あったなぁそんなの、すっかり忘れてたよ」

「おいおい、危ないなぁ。ライオスに会いにいくときは僕が喋るからな、お前は黙って怖い顔だけしてろよ!」

「おう、それなら得意だ」

はあっ、と溜息をついて、ユージオは結論を出すべく呟いた。

「ともかく、ティーゼ達に約束したんだ、放っておくわけにはいかないよ。まずライオスに口頭で注意して、それでだめなら指導教官に書面でフレニーカの配置換えを要請しよう。ライオスを聴聞くらいはしてくれるだろう、それだけでもあいつにはいい薬になるはずだ」

「ああ……そうだな……」

まだ浮かない顔のキリトの背を叩き、ユージオは丘の上に見える修剣士寮に向かって歩き始めた。ティーゼ達の話を聞いたときに感じた憤りは容易に去ろうとせず、自然とユージオの歩みを急きたてる。

二年前の春、何がなんだかわからないままに初等練士第六位の席次を与えられたユージオを丘の上の修剣士寮で待っていたのは、ゴルゴロッソ・バルトーという名の、とても二十歳前には見えない威丈夫だった。ユージオよりも頭一つ以上大きい体躯はがっちりとした筋肉に覆われ、口もとの整えられてはいるが黒々とした髭と相まって、最初は間違えて教官の部屋に入ってしまったかと思ったものである。

 ゴルゴロッソは、萎縮の極みで立ち尽くすユージオを炯炯とした眼光でじろりと一瞥し、野太い声で短く「脱げ」と命令した。ユージオはまず唖然とし、次いで暗澹たる気分に襲われたが、逆らうわけにもいかず灰色の制服を脱いで下着一枚になった。再び強烈な視線が全身に浴びせられ――そしてゴルゴロッソは髭面をにかっと破顔させると、大きく頷いて「よし、よく鍛えているな」と言ったのだった。

心の底からほっとしながら再び制服を着たユージオに、ゴルゴロッソは自分も貴族ではなく衛兵隊上がりであるということと、席次順の振り分けではなくあえてユージオを指名したことを教えてくれた。以降一年間、彼はその豪放磊落ぶりで時折ユージオを困らせたが、決して理不尽なしごきをするようなことはなく、むしろ親身になって剣術の指導をしてくれたものだ。自分が上級修剣士にまで到達することができたのは、キリトのアインクラッド流実戦剣法と同じくらい、ゴルゴロッソの手ほどきになるバルティオ流の勇壮な型のお陰もあると、ユージオは今でも思っている。

 ゴルゴロッソが惜しくも代表の選に漏れて央都を去るその日、ユージオは一年間秘めつづけてきた疑問を彼にぶつけた。何故、同じ衛兵推薦枠のキリトではなく自分を指名したのか――と。

 刈り込まれた髭を撫でながら、ゴルゴロッソは答えた。――確かに、お前さんよりもあいつのほうがわずかに剣の腕は上だと、最初の選考試合を見たときに分かったさ。だがな、だからこそ俺はお前さんを指名したのよ。上を睨んで必死に足掻く奴だと思ったからな、俺のようにな。……まあもっとも、リーナの奴にキリトを譲れって言われたせいもあるがな。

がははは、と豪快に笑ってから、ゴルゴロッソは分厚い手でユージオの頭をごしごし撫で、言った。絶対に修剣士になれよ、そして自分の傍付き練士を大事にしてやれ、と。ユージオは嗚咽を堪えながら何度も頷き、去っていくゴルゴロッソが見えなくなるまで直立不動で見送った。

 修剣士と傍付き練士というのは、単に上級生とその世話係というだけのものではないことを、彼は教えてくれたのだ。そこにあるのは、真の剣士の在り様を連綿と伝える魂の交流なのである。恐らく自分はゴルゴロッソ程の指導役にはなれまい、とユージオは思う。しかしそれでも、彼に教わったことの何分の一かでもティーゼに伝えるべく、全力を尽くさなくてはならない。そう――これこそ、さっきキリトが言っていた、“規則には書いていないが何より大切なこと”そのものではないか。

ライオスには分からないのかもしれない。傍付きになるのが嫌で選考試合で手を抜き、初年の席次を十三位に留めたあの男には。だとしても、言うべきことは言わなくてはならない。

 正面のドアを両手で押し開き、寮のメインホールに入ると、ユージオはブーツを音高く鳴らしてそのまま三階のライオスの部屋を目指した。* 有り得べからざる禁忌への冒涜を畏れてか、雷鳴すらも沈黙した一瞬の静寂のなかを、ライオスの右腕は回転しながらゆっくりと飛翔し、テーブルに落下すると同時に卓上の瓶とグラスを全て叩き落とした。硝子が砕け散る盛大な音に、ライオスはようやく驚愕から覚めたらしく、改めて口を開くと甲高い絶叫を迸らせた。

「アアアアアアッ! 腕がアアアアアッ! 私の右腕がアアアアアアッ!!」

左手で傷口を鷲掴みにするが、指の隙間からは尚も血液が勢いよく噴き出し続ける。

「血がっ! 血が出てるぞぉぉっ! 天命がっ! 私の天命がアアアアアアッ!!」

右半分が赤く染まったユージオの視界の中を、ライオスは糸の絡まった操り人形のようにぎくしゃくと飛び跳ね、恐ろしいほど大量の血をいたる所に撒き散らした。一部はユージオの顔から体にも振り掛かったが、その感触も、温度も、全く意識されることはなかった。

「止まっ! 止まらないイイイイイッ! しっ、神聖術っ……教官を呼べっ……ウンベールッ! 早く教官を呼んでこいイイイイイッ!」

恐慌を来したライオスの声に名指しされても、ウンベールも、ラッディーノも、目の前で起きていることが理解できない様子でぽかんと呆け顔を浮かべ、動こうとしない。

「アアアアアッ! この薄のろ共めらッ!」

ライオスは床に転がったまま金髪を振り乱して咆哮すると、突然傷口から左手を離し、鮮血の滴るその掌でウンベールの右腕を掴んだ。

「ヒ、ヒイイイイッ!!」

途端、ウンベールは悲鳴を上げてライオスの手を振り解こうとしたが、万力のようにがっちりと食い込んだ指は緩みもせず、逆にウンベールをソファーから引きずり下ろす。

「ウンベールゥゥゥッ!! 私を助けろッ!! 天命の授受に同意せよッ!!」

のしかからんばかりに喚くライオスの剣幕に圧されたかのように、ウンベールは短く漏らした。

「ハッ、ハイイッ」

それを聞いた瞬間、ライオスは獣じみた笑みを顔中に浮かべ、背筋を仰け反らせて叫んだ。

「システムコォォォォル!! トランスファ・ユニット・デュラビリティィィィィ!! レフト・トゥ・セルフゥゥゥゥゥゥッ!!」

怪鳥じみた声が術式を唱えると同時に、平等なるステイシア神がその祈りを聞き届け、ウンベールの丸い体が青白く発光した。光はたちまち一方向に移動を開始し、ウンベールの右腕から、そこを掴むライオスの左手に流れ込んでいく。

「オオオオオホォォォォォォッ! 来たぞォォォォ……天命……私の天命ィィィィ……」

ライオスは、まるで天井の板張りにステイシア神その人の姿を見てでもいるかのように恍惚とした笑みを浮かべた。しかし、その右肩の傷口からは、青い光を帯びた赤い血液が尚も太い筋を作って流れ落ち、絨毯に吸い込まれていく。

五秒近く経ってから、ようやくウンベールが己の天命の無為な浪費に気付き、引き攣った表情でわめき声を発した。

「アアッ! やめっ……ライオス殿、止めてくださいいっ! 先に傷を治療しないとっ……私の天命までなくなってしまっ……」

しかし、ライオスの耳にはまるで届いていないようで、上級貴族の蕩けたような笑みは消えない。

「オホオォォォォ……暖かいィィィィ……神が私をォォォォ……癒してくださるゥゥゥゥ……」

「は……離してくださっ……手をっ……手を離してっ……」

ウンベールは右手でライオスの左腕を掴み、引き剥がそうとするが、細く生白い腕はある種の寄生生物のようにがっちり食いついてまるで離れようとしない。

「はなっ……! 離せえええええっ!」

「おおおお……おおおおお……」

ようやく痛みの薄れはじめた右目を左手で覆い、ユージオは重い体を引き摺るように数歩進み出た。足元に横たわるライオスを、無言で見下ろす。

禁忌を侵した衝撃はいまだ去らず、ユージオから何かを考える能力をほぼ完全に奪い去っていた。それでも、ただ一つだけ、このライオス・アンティノスという名の忌まわしい存在を消し去りたいという欲求だけが頭の中に粘っこくまとわりつき、ユージオを動かしていた。

「消えろ」

意識せず唇から掠れた声が漏れた。右腕がのろのろと動き、鮮血の絡みつく青薔薇の剣を持ち上げると、ライオスの心臓の真上にぴたりと切っ先を擬した。

「おひいっ!」

 ライオスの短い悲鳴を無視し、最後の一突きのために力を込めようとしたその瞬間――。

これまで感じたことのない種類の痛みが胸の中央を貫き、ユージオは手を止めた。

「やっ……やめっ……わかったっ、貴君の要求はわかったっ、あの二人には謝罪しよう、そうだ、かっ……金も払う、言い値で払うぞっ……」

甲高いライオスの声を聞きながら、ユージオは、自分を襲うこの痛みは一体なんだろうと考えた。あれほど圧倒的だった憎しみをも上回る、やるせない痛みだった。数分にも感じられた一瞬の戸惑いののち、ユージオは、自分が感じているのが憐れみであることに気付いた。

 剣の下で必死に命乞いをするライオスが、汚らわしく、厭わしく、そして途方もなく憐れだとユージオには思えた。この人間には、もしかしたら自分の意志というものが、本当の意味では存在しないのではないか――、そんな気すらした。

 上級貴族という生まれと法によって認められた権利を最大限利用せよ、という命令に従って動くことしかできない、憐れな生き物。つまり、ある意味では、ライオスもまた教会と禁忌目録の犠牲者と言えるのではないか? 自分が今ここで、怒りと憎しみのみによってライオスの命を奪ったとして、それで何かが正されるのか……?

しかし、だとしたら、理不尽に傷つけられたロニエとティーゼの魂を、誰がどのようにして償えるというのか。

「う……うああああ!」

ユージオは叫んだ。再び両目から、理由のわからない涙が溢れるのを感じた。ライオスの胸にわずかに触れた剣尖が震え、滑らかな肌に小さな窪みを作った。今、腕にほんの少し力を込めれば、凄まじい重さを持つ青薔薇の剣は容易くライオスの心臓を貫き、その天命を完全に消し去るだろう。

「やめっ、やめてっ、助けてくれっ、殺さないでくれえええっ」

いまだウンベールから天命を奪い続けながら、ライオスがか細い声で喚いた。ウンベールのほうは、長い術式の神聖術を必死の形相で唱え、ライオスの右肩の傷口を塞ごうとしている。

ユージオの腕は動かなかった。己に、そのまま突き刺せ、とも剣を引け、とも命ずることができず、ユージオはただ歯を食い縛り、深い葛藤の渦に翻弄されていた。

一際大きな稲妻が近くの木立に落ち、轟音が天地を揺るがした、その次の瞬間、いくつかのことが連続して起こった。

雷鳴に、反射的に身を痙攣させたライオスの胸に、剣の鋭い切っ先が浅く突き刺さった。

「ああああああっシッ死ぬうううっ嘘だああああっ私がっこの私がああああっ」

絶叫したライオスの両目が、ほとんど飛び出さんばかりに見開かれた。

「ああ有り得ないいいいいこんなことがああああアアアアアア何故だあああああアアアアディルルルルディル、ディルディルディル、ディルディルディルディ――――――――」

奇怪な叫びを一際高く響かせ、直後、ライオスの両目からふっと生気が消滅した。もたげられた頭がごつんと床に落下し、そしてもう二度と動こうとしなかった。

直前までライオス・アンティノスだった存在が、一瞬にしてライオスの死骸という名の物体に変化したことを、ユージオは直感的に悟った。しかし、何が原因でそうなったのかは、まったく解らなかった。

「あああっ!? らっ、ライオス殿ぉっ!!」

一瞬遅れて、ウンベールも驚愕の叫びを発した。その口が閉じられる前に、全身が一層激しく発光し、その青白い輝きは滝のように最早生命なきライオスの左手に吸い込まれ始めた。

「ああああぁぁぁぁぁ――――…………」

わずか数秒で、渇いた砂にこぼれた一掬いの水のようにウンベールの天命も尽き、再度ごとんと重い音を発してその体も床に崩れ落ちた。

驚愕と混乱にとらわれ、ユージオは喘ぎながら数歩後ずさると、がくりと膝をついて眼前に転がる二つのむくろを見つめた。ライオスの傷は深手だったが、あのままウンベールの天命を貰いながら治療を続けていれば、命を落とすまでは行かなかったはずだ。ならば一体何ものがライオスの天命を奪い去ったのだろうか。

 いや、そうじゃない、やはりライオスを殺したのは僕だ――とユージオは自分に言い聞かせた。そんなことが起こりうるのかどうか確信は持てなかったが、ライオスはおそらく、突きつけられた剣への恐怖のあまり自らの魂を殺してしまったのではないか。ならば、その死をもたらしたのはユージオ以外の何者でもない。

 禁忌を犯し、人を殺した。ユージオはその意味を懸命に考えようとした。だが、以前の自分と、どこがどのように変わってしまったのかを自覚することは不思議に出来なかった。漠然と、教会への反逆者、大罪人となった自分に何らかの裁きが――天を裂くいかずちや底の無い地割れのような神罰が下るのではと考えそれを待ったが、窓の外では変わらず大粒の雨が吹き荒れるのみだった。

何かが動く気配を感じて顔を上げると、今までソファーで腰を抜かしていたラッディーノが、顔を蒼白にして立ち上がったところだった。震える指がユージオに突きつけられ、しわがれた声が漏れた。

「ひ……人殺し……禁忌違反者……お前……人間じゃないな? 闇の国の怪物だったんだな?」

思わぬ糾弾に唖然とするユージオの視線を受けながら、ラッディーノは痩躯をぎくしゃくと動かして壁に近寄ると、そこに掛けられていたライオスの装飾華美な長剣を外した。

「こ……殺さないと……闇の軍勢が……こんな所まで……」

うわ言のようにぶつぶつ呟きながら、ユージオの前までよろよろと移動し、ラッディーノは長剣の鞘を払った。鏡のような刀身が、ランプの明かりを受けて眩く輝く。

頭上に振り上げられた剣を見ながら、ユージオは、こんなものが神罰なのか、と考えた。小刻みに震える刃は、とても一撃で首を落とせるとは思えなかったが、避ける気にも、右手の剣で受ける気にもならず、ユージオはただそれが降ってくるのを待った。

ラッディーノは、全練士の頂点に立つ十二人に名を連ねているにしては腰の引けた、不恰好な動作で断罪の一撃を繰り出した。しかし、その剣は、ユージオの額を割るはるか手前で、ユージオの背後から黒い蛇のように伸びた一本の腕によって制止させられた。

わずか親指と人差し指のみで、こともなげに剣の腹を掴んでのけたその腕を、ユージオは呆然と視線で辿った。いつの間にか、跪くユージオのすぐ後ろに、全身濡れそぼった黒衣のキリトが幽鬼のごとく立っていた。

部屋に転がる二つの死体と一着の制服を見ただけで、キリトはここで起きたことをほぼ察したようだった。唇までを蒼白にしたその顔には一切の表情が無く、ただ両の眼だけが異様な光を放っていた。

「きっ……貴様も仲間かっ……! 闇の国の化け物かあっ!」

ラッディーノは完全に恐慌を来した裏声でわめき、掴まれた剣を再度振り上げようとした。しかしその時にはすでに、キリトの右手が五本の指で刀身をがっちりと握り、刃が掌を切り裂くのも構わずに強引にラッディーノの手から柄を引き抜いていた。飛び散った血の玉のいくつかが、ユージオの顔を叩いた。

剣を奪われ、ラッディーノは前のめりに体勢を崩した。突き出されたその顔を、唸りを上げて閃いたキリトの左拳が真正面から撃ち抜いた。鈍い衝撃音に重ねて甲高い悲鳴を撒き散らしながら、ラッディーノは襤褸人形のように吹き飛び、元のソファーに尻から落下した。

「ぶっ! ぶほっ!」

一瞬遅れて、その口から、霧のような血に混じって折れた歯がいくつも吐き出され、床板に音を立てて転がった。ほぼ完全な思考麻痺状態にあって、それでもユージオは、自分とは違い何の葛藤も見せずに禁忌目録を破ってのけた相棒の所作に息を飲んだ。

ラッディーノのほうは、それどころではない恐怖をその顔に刻み、改めて切れ切れの悲鳴を発した。

「ひ……こっ……殺されるうううっ!!」

両手を前に突き出しながらソファーから転がり落ち、そのままずるずるとドアのほうに後ずさっていく。キリトにこれ以上攻撃の意思が無いと見るや、くるりと後ろを向き、四つん這いになって開け放たれたままの戸口ににじり寄る。

「だ……誰か……誰かあああっ! 誰か助けてええええっ!!」

敷居から半身が出た瞬間そう絶叫し、ラッディーノは両手両足を遮二無二動かして廊下の暗がりへと脱した。ひいいい、と長く尾を引く悲鳴がたちまち遠ざかり、嵐の音に紛れて消えた。

ユージオは視線を戻し、再度キリトを見上げた。

 右手に握っていたライオスの剣を、キリトは自分が作った血溜まりの中に落とし、そこではじめてユージオの目を見た。唇がわななくように震えてから、ぎゅっときつく噛み締められた。次いで、キリトは、まるで何者かの――もしかしたら神の声を待つかのように頭上を振り仰ぎ、そのまま数秒間身じろぎ一つしなかったが、いかなる審判も降りてこないのを知ると、もう一度ユージオに視線を戻した。

今度は、その唇から、掠れた声が零れ落ちた。

「……すまない……。甘く見ていた……まさか……まさかこれほどの……」

その先は言葉にならないようだった。ユージオは、自分の口が動き、消え入るような声が漏れるのを聞いた。

「キリト……僕……ライオスを殺しちゃったよ……」

言った途端、右目が再度ずきんと疼いた。

「あいつ……ティーゼとロニエに酷いことしたんだ……だから……だから殺した……ウンベールも殺した……僕……僕は……」

ラッディーノの言ったとおり、僕は人間ではなかったのだろうか? 闇の国の住人だったのだろうか? そう続けようとしたが、もう声が出なかった。息を詰まらせながら俯くと、少し離れた場所に転がったライオスの死骸の、虚ろに見開かれた眼と視線が合った。

人殺し、人殺し、生命なき眼がそう誹る声をユージオは聴いた。幼い頃、ユージオや兄たちを大いに怯えさせた祖母の寝物語に出てきた言葉。闇の国に棲む者には守るべき法も禁忌も無く、捕らえた人間を戯れに殺すだけに飽き足らず、同じ一族ですら欲望のために殺し合うと。それが事実であることを、ユージオは二年前、果ての山脈の地下洞窟で身をもって知った。

そうだ、僕はあのゴブリン達と何ら変わらない。同じ人間であるライオスを、怒りに任せて斬った。あの瞬間、教会も、禁忌目録も糞食らえだと、本気で思った。

 せめて――せめて一つだけゴブリンと違うところを証明するために――僕は自分自身を裁かなくてはならないのではないだろうか……?

不意に、右手に握ったままの青薔薇の剣の柄が、途方も無く冷たく感じられて、ユージオは全身を強張らせた。だが、次の瞬間、キリトの左手がぐっとユージオの肩を掴んでいた。力強く、暖かい手だった。

「お前は、人間だ、ユージオ。俺と同じ……愚かで、間違いばかり犯し、その意味を探して足掻きつづける……人間なんだ」

もう一度ぎゅっと力を込めてから、キリトは手を離し、寝室のドアに向かって歩を進めた。落ちている灰色の制服を拾い上げ、ドアをそっと開き、奥の暗闇へと姿を消す。

ユージオは動けなかった。キリトの言葉はユージオに更なる混乱をもたらし、窓の外の嵐のように様々な想念が押し寄せては去っていく。

 この部屋から逃げ出したかった。学院からも、央都からも――この世界そのものから逃げてしまいたいとユージオは思った。自分も寝室に行き、ティーゼ達を介抱しなくてはならないと分かってはいたが、彼女たちの瞳に、ラッディーノと同じ恐怖の色が浮かんだら、と思うとどうしても立ち上がることが出来なかった。

彫像のように固まったまま数分間が過ぎ去り、やがて、寝室のドアがゆっくりと動いた。びくりと肩を震わせてから、ユージオは恐る恐る顔を上げた。

まず、制服を身につけているが気を失ったままらしいロニエを両手に抱えたキリトが姿を現した。その後ろに、同じく服装は整っているものの赤い髪に乱れの残るティーゼが続き、一歩居間に足を踏み入れたところで立ち止まった。

輝きの薄れた紅葉色の瞳が、ライオスとウンベールの死体をしばらく眺め、次いで、半身を返り血に染めたまま跪くユージオを映した。

紙のように白いその顔に、いかなる表情も浮かべることなく、ティーゼはただ凝っと、いつまでもユージオを見つめていた。その瞳にやがて生じるであろう恐怖と嫌悪から、せめて目を逸らせることはするまいと、ユージオは只管その時を待った。

不意に、虚ろな表情を貼り付かせたまま、ティーゼがのろのろと歩き始めた。二、三歩進んではふらりとよろけ、踏みとどまると、また足を前に出す。長い、長い時間をかけて部屋を横切り、ユージオの前にたどり着くと、そこで糸が切れたようにティーゼはがくりと膝をついた。

間近で見ると、滑らかな頬にはいまだ涙の跡が残っていた。一緒に全ての感情までも流しだしてしまったかのように、赤紫色の瞳は一切内面を映し出すことなく、鏡のようにユージオの視線を跳ね返した。

かけるべき言葉はどうしても見つからなかった。いかなる謝罪も、慰めも、殺人者に堕した自分の口から出た途端空疎な偽りになってしまいそうで、ユージオは無言のまま待つことしかできなかった。

 永遠とも思えた数秒が過ぎ去り――そして、ティーゼの右手が、ゆっくりと動いた。指先がスカートのポケットに差し込まれ、何度か中を探ってから抜き出されたその手には、小さな白いハンカチが握られていた。

右手をのろのろと伸ばすと、ティーゼはそのハンカチで、ユージオの左頬に伝う血をぎこちなく拭った。わずかに首を傾げ、何度も、何度も、赤子を撫でる母親のように、飽くことなく手を動かした。

ユージオは、この日何度目かの涙が頬に流れるのを感じた。ハンカチに染み込むそばから溢れ出すユージオの涙を、ティーゼはいつまでも拭い続けた。


指導教官と数名の上級修剣士が部屋に駆け込んできたのは、およそ十分後だった。

ティーゼとロニエは女性の修剣士に引き取られゆき、ユージオとキリトは今まで一度も使われたことがないという懲罰房で別々に一夜を過ごすこととなった。

一睡もできぬまま夜が明け、房から引き出されたユージオは、キリトと共に、しんと静まり返った学院を主講堂まで連行され、その前の広場に居るものを見て息を呑んだ。

 春の嵐が過ぎ去ったあとの、溢れるようなソルスの光を受けて白銀に輝く巨大なそれは――見紛うことなき、整合騎士の駆る飛竜だった。しかも二騎。鏡のような鎧を全身に纏い、畳んだ羽を高く掲げて、周囲の建物の窓から恐る恐る覗く練士たちを睥睨している。

主講堂の巨大な正面扉前まで達すると、二人を連行していた指導教官は、低い声でぼそりと呟いた。

「お前たちのしたことは、学院の……いや、帝国の長い歴史にも見当たらない、恐るべき大罪だ。学院内での処分は不可能なため、神聖教会が直々に裁くこととなった。……このようなことになって……残念だ」

ユージオははっとして、伝統流派の達人である壮年の教官を見上げた。いかついその顔には一切の感情が見て取れなかったが、ユージオとキリトが無言で敬礼すると、短く返礼し、そのまま踵をかえして去っていった。

「…………」

しばらく相棒と顔を見合わせたあと、ユージオは振り向き、そっと主講堂の扉を押し開けた。

無数の長机が並ぶ講堂の内部は薄暗く、しんと静まり返っていた。目を凝らすと、正面に建つ巨大なステイシア神像の前に、暗がりにあって尚ぼんやりと輝く二人の騎士の姿があった。

ユージオは大きく息を吸い、もしかしたら最後の歩行となるかもしれない道行きを、ゆっくりと一歩踏み出した。一晩ではとても思考の整理はつかなかったが、気持ちはなぜか穏やかだった。

正面の講壇は、三段の階段状となっており、その一番下にこちらを向いて一人、最上段に背を向けて一人の整合騎士が立っていた。下に立つほうの騎士の鎧には、確かな見覚えがあった。まばゆい銀に輝く一分の隙もない装甲、長い純白のマント、そして十字に窓の切られた面頬付きの兜は、間違いなく、遥か昔アリスを連れ去った整合騎士と同じものだ。

上段に立つ騎士も、鎧は同一のようだが、こちらは兜をつけていなかった。マントの上に、ライオスのものよりも遥かに艶やかな金髪をまっすぐに垂らし、腰には同じく豪奢な金製の鞘を下げている。ユージオ達が近づいても身じろぎひとつすることなく、眼前のステイシア像を見上げたまま動こうとしない。

ぎゅっと両拳を握り締め、ユージオは最後の数メルを歩き終えると、下段の騎士の前で跪き、頭を垂れた。隣でキリトが同じ姿勢を取るのを待って、口を開く。

「上級修剣士ユージオ、及び上級修剣士キリト、出頭致しました」

しばしの沈黙のあと、金属質の倍音が混ざる威圧的な声が、頭上から降ってきた。

「……ノーランガルス第二中央区を統括する整合管理騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスである。オリックが三子ユージオ、無登録民キリト両名、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する。なお……第二条重要補則第一項を適用すべき罪状のため、連行を整合管制騎士一名が監視する」

言葉を切り、兜の整合騎士が一歩脇に退く気配がした。ユージオが顔を上げると、最上段に立つ騎士が、背を向けたまま凛と響く声を発した。


「セントラル・カセドラル所属、整合管制騎士……アリス・シンセシス・フィフティである」


ユージオの心臓が跳ねた。

この声を、聞き間違えるはずが無かった。生まれたときから十一年間、毎日のように聞いていた声。金髪の眩い煌めき。気のせいか、懐かしい、爽やかな香りまでが漂ってくるようにすら思えた。

「……あ……アリス……? アリスなのか……?」

どうにか絞り出した声は、自分にも聞こえないほどにかすかだった。自分でも意識せず、ユージオはふらりと立ち上がると、一歩、二歩と壇を登り、金髪の整合騎士の背中に近寄っていた。

 騎士は、思いのほか小柄だった。そう――アリスがあのままユージオの隣で成長していれば、ちょうどこの位だろうと思える背丈。

「アリス……!」

 もう一度、今度はもう少しはっきりした声で呼びかけながら、ユージオは騎士の肩に手を掛けようとした。振り向いた騎士が、あの悪戯っぽい、それでいてつんと澄ました笑顔を浮かべてユージオを迎える――

という予感めいた幻を、視界を切り裂いた黄金の光が一閃で打ち砕いた。

 左頬にすさまじい熱が弾け、直後、ユージオはぐるぐると回転しながら五メルほども吹き飛んで、先ほどまで跪いていた床の上に背中から落ちた。アリスと名乗る騎士が、こちらに背を向けたまま、鞘ごと外した黄金の剣で凄まじい速度の一撃を叩き込んだのだ――と気づいたのは、キリトに助け起こされた後だった。

痛みを痛みとして感じられるほどの余裕すらもなく、ユージオはただ、呆然と騎士の後姿を見上げた。

背後に高く伸ばした剣を、騎士はゆっくりと降ろし、石突で足元の磨き上げられた床板を叩いた。鞘に収まったままの刀身が、かしゃりとかすかな音を立てる。

「……振る舞いには気をつけなさい。私にはお前たちの天命の七割までを減少せしむる懲罰権がある。次に許可なく触れようとしたら、その手を斬り落とします」

美しく穏やかな声で淡々と、戦慄すべき言葉を口にしてから、騎士はゆっくりと振り向き、ユージオたちを見下ろした。

「…………アリス……」

その名がもう一度、小さく口から漏れるのを、ユージオは止められなかった。

 黄金の剣を携える整合騎士は、見紛えようもなく、かつてルーリッドの村から連行されたユージオの幼馴染、村長ガスフトの娘にしてシルカの姉、アリス・ツーベルク本人――その成長した姿でしか有り得なかった。

癖の無い艶やかな金髪。透明感のある白い肌。何よりも、少し目尻の切れ上がった大きな瞳の、澄んだ湖のような深い青色は、アリス以外の人間には一度として見たことのないものだった。

しかし、その瞳に浮かぶ光だけが、昔と違っていた。ルーリッドの村で暮らしていた頃の、生命力と好奇心に溢れた輝きは完全に消え失せ、ただひたすらに冷徹な、対象を分析し見定めるような視線のみがユージオに注がれていた。

桜色の唇が小さく動き、再び、可憐にして冷淡な声が流れた。

「ほう……天命を三割減らすつもりで撃ったのですが、その半分しか減っていない。当たる瞬間受け流しましたか。修剣学院の代表を争うだけは……あるいは殺人の大罪を犯すだけはあるということですか」

ステイシアの窓を出すこともなくユージオの天命値が見えている、としか思えない口ぶりだったが、その意味を考えることすらできなかった。耳に流れ込んでくる言葉は、ユージオにはどうしても受け入れがたいものだった。あの優しいアリスが、そんなことを言うはずはない。いや、それを言うなら、アリスがユージオを見ても何の反応も示さないこと、ユージオに避ける間も与えない斬撃を事も無げに放ったこと、そもそも整合騎士として眼前に立っていること自体が信じられなかった。

混乱と驚愕の大渦に翻弄されるユージオの耳もとで、ごくごくかすかに、キリトの囁き声がした。

「彼女がお前のアリスなんだな」

その声は、この事態にあっても、糞度胸と言うよりない落ち着きぶりで、ユージオにほんのわずかな冷静さを取り戻させた。どうにか一度小さく頷くと、再度キリトが囁いた。

「……この場は大人しく指示に従おう。罪人としてでも、教会に入れさえすれば、何か事情が分かるはずだ」

「…………ああ……そうだな。ここに来たばかりの頃、お前がそう主張してたみたいにね」

 そう答えられるだけのささやかな余裕を回復し、ユージオはもう一度頷いた。二人の様子を、一切の感情を表さず眺めていたアリス・ツーベルク――いや整合騎士アリス・シンセシス・フィフティは、左手に握った鞘を再び腰の剣帯に吊ると、下段に立つ騎士に短く命じた。

「拘束せよ」

「は」

白いマントに隠されていた騎士の左手には、見覚えのある鎖付きの拘束具が二つ握られていた。甲冑を鳴らして歩み寄ってきた整合騎士は、面頬の覗き窓の暗闇からユージオとキリトを一瞥すると、金属質の声を発した。

「立って後ろを向き、両手を背中で交差させよ」

キリトに助けられて立ち上がり、ユージオが指示に従うと、整合騎士はまず二の腕に順番に革手錠を嵌め、次いで腰に太い革帯をまわすと息が詰まるほどきつく締め上げた。ぐいっと一度引っ張って締まり具合を確認すると、キリトにも同じように拘束具を嵌める。

仕事が済むと、エルドリエと名乗った騎士は、二人の腰から垂れ下がる鎖を右手でまとめて掴み、壇上のアリスに報告した。

「拘束しました」

「よし。連行し、両名とも私の騎竜に繋ぎなさい」

「は」

じゃらっと鎖を鳴らし、二人に背後から命じる。

「歩け」

 上半身を容赦なく締め付ける拘束具の痛みを感じながら、ユージオは、結局同じことだったのか、とぼんやり考えた。あの時――幼いアリスが整合騎士に連れ去られた時、斧を手に騎士に打ちかかっていれば、おそらくユージオも一緒に拘束されて央都まで運ばれただろう。そしてそこで……何が起こったのだろうか? 罪人として裁かれるはずの人間を、法の守護者たる整合騎士に変えてしまう"何か"……。

いいや、同じではない。アリスは闇の騎士を助けるために罪を犯し、自分は憎しみに駆られて人を殺めたのだから。ライオスの腕を切り落としたときのおぞましい感触、浴びせ掛けられた返り血の生々しい匂い、それらは事あるごとに鮮明に甦り、ユージオに犯した罪の忌まわしさを再認識させる。

 しかし、もし自分に下される処分がアリスの受けたものとは異なる――例えば苦痛と恐怖の末の死であったとしても、それを受け入れる前に一つだけしなくてはならないことがある。アリスの身に起きたことを知り、そしてもし彼女を元に戻すことが出来るなら、そのためにあらゆる努力をするのだ。更なる罪を幾つ重ねることになろうとも。

 ライオスを殺した直後から己を苛んでいた、四肢をばらばらに引き千切るような恐怖と惑乱の嵐に、ユージオはようやくすがりつくべき縄を見出したような気がしていた。アリスのために――そう、長年の望みどおり生きていてくれたアリスのためなら、あらゆる罪も悪も許される、ユージオは懸命に、そう自分に言い聞かせた。

無人の主講堂を横断し、再び正面扉から外に出ると、まばゆい陽光が目を射た。が、降り注ぐのはそれだけではなかった。円形の大広場を取り巻く幾つかの建物の窓の奥、植え込みや生垣の陰から、大勢の練士たちが自分らを覗き見ているのをユージオは感じた。恐れや憎しみ、困惑から侮蔑に至る、あらゆる種類の負の感情が針のように肌を刺す。

鎖を握る騎士エルドリエは、無数の視線を意に介す気配もなく広場中央に蹲る飛竜の前まで二人を連行し、一匹の右足をよろう装甲の留め金にユージオの鎖を、左足の留め金にキリトの鎖を繋いだ。

遥か頭上から運搬物を見下ろす竜の、巨大な黄色い眼を見上げてしまってから、ユージオは慌てて俯いた。すると、少し離れた石畳の上に、大きな革袋が二つ転がっているのに気付いた。きつく縛られたその口からはみ出しているのは、間違いなく青薔薇の剣と、キリトの黒い剣の柄だ。どうやら中身は、いつのまに纏めたのか二人の自室にあったわずかな私物らしい。多分、二振りの剣を運ぶのは数人がかりでも大仕事だったはずだ。

かつかつと音高く石畳を鳴らしながら歩み寄ってきた騎士アリスが、作業を終えたエルドリエに更に命じた。

「罪人の荷物はそなたの竜で運びなさい」

言いながら腰を屈め、青薔薇の剣の入った大袋を右手でひょいっと持ち上げる。まるで重さなど感じていないふうに、足早にもう一匹の飛竜に近づくと、その脚に革紐を留めた。エルドリエのほうは、多少苦労を滲ませながらキリトの袋を運び、反対側の脚に繋ぐと、鐙に右足を掛け、ひらりと竜の背中の鞍に跨った。

アリスは最早一瞥もくれることなくユージオの目の前を横切り、同じように軽やかな動作で騎乗すると、手綱を取った。ばさり、と音を立てて巨大な翼が広げられ、日差しを遮る。

その時だった。

背後から、二つの足音が駆け寄ってくると同時に、震えを帯びた声がユージオの耳朶を叩いた。

「お待ちください、騎士様!」

息を呑んで振り向くと、走ってくるのは間違いなく、ロニエとティーゼの二人だった。左頬の疼きを作ったアリスの苛烈な一撃を思い出しながら、ユージオは必死に叫んだ。

「やめろ、来るんじゃない!」

しかしティーゼ達は足を止めることなく、アリスの騎竜の正面まで走ると、深々と頭を下げた。

「き、騎士様……どうか、上級修剣士殿にご挨拶するお許しを頂きたく……」

一瞬の沈黙のあと、アリスの素っ気無い声が響いた。

「二分に限り許可します」

わずかに表情を緩め、再度一礼すると、ティーゼはユージオに、ロニエはキリトに向かってたたっと駆け寄った。

後ろ手に捕縛されたユージオの目の前で、よろけるように立ち止まり、ティーゼはぎゅっと両手を胸の前で握った。

一点の染みもない制服姿だったが、その頬にはいまだ血の気がなく、目のまわりは泣き腫らしたように赤く腫れていた。それも無理もない、ライオスらの辱めを受け、直後その死骸を目にするという衝撃を味わってから、まだたった一晩しか立っていないのだ。心に受けた傷の癒えようはずもないティーゼが、こうして衆目の中、大罪人たるユージオに近寄り、あまつさえ整合騎士に面談の許しを乞うなど、どれほどの無理をしているのか想像すら出来なかった。

「……ティーゼ……」

ユージオは掠れた声で呟いたが、どう続けていいのか分からず、唇を噛み締めた。昨夜、ラッディーノは、ライオスを殺したユージオのことを闇の怪物と呼んだ。無理もない、人間が禁忌目録を破るはずもなく、もしも破るものが居ればそれは人間ではないのだ。ティーゼだってそう考えても何の不思議もない。

ユージオが目を伏せようとしたその時、ティーゼの紅葉色の瞳に大粒の涙が盛り上がり、溢れて頬を伝った。

「ユージオ先輩……ごめんなさい……私の……私のせいで……」

両手をぎゅっときつく握り締め、か細い声を絞り出すように続ける。

「……ごめんなさい……私が……愚かなことを……したせいで……」

「違うよ……違うんだ」

ユージオは驚きにうたれながら、何度も首を振り、言った。

「君は何も悪くない……君は、友達のために正しいことをしたんだ。……こうなったのは、全部僕のせいだ。君が謝ることなんて何もないんだ」

 そう――違うのだ。ユージオは、口を動かすと同時に胸中で呟いていた。

 僕がライオスを殺したのは、何もかも自分のためにしたことだ。禁忌目録を言い訳にして八年もの間無為な時間を過ごしたことへの言い訳のために、そしてそんな自分への嫌悪のあまり、剣を振るってしまったに過ぎないんだ――。

ティーゼは、ユージオの魂の奥底まで見とおすようにまっすぐ視線を合わせ、痛々しさすら感じさせる懸命な笑みを小さく浮かべた。

「今度は……」

震えているが、きっぱりとした口調で、年若い見習い剣士は言った。

「今度は、私がユージオ先輩を助けます。私……がんばって、きっと整合騎士になって、先輩を助けにいきますから……だから、待ってて下さいね。きっと……きっと……」

嗚咽が、続く言葉を飲み込んだ。ユージオは、繰り返し頷くことしかできなかった。

飛竜の反対側では、短い会話を終えたロニエが、手に持っていた小さな包みをキリトの縛られた手に握らせながら泣き声混じりに言っていた。

「あの……これ、お弁当です。おなかが空いたら、食べてください……」

それに対してキリトが発した言葉を、再び大きく広げられた飛竜の羽音が遮った。

「時間です」

アリスの声と同時に、ぴしっと手綱が鳴り、竜が太い脚を伸ばした。鎖が動き、ユージオの体をわずかに宙に浮かせる。

とめどなく涙を溢れさせながら、ティーゼが数歩後ろに下がった。翼が打ち鳴らされ、巻き起こった風が赤い髪を揺らした。

どっ、どっ、と地面を震わせ、飛竜が助走を始めても、ティーゼは懸命に走って追いかけてきたが、やがて脚を縺れさせて石畳に手を突いた。直後、竜が大きく地を蹴り、翼を羽ばたかせて、宙に舞い上がった。

 飛竜は螺旋を描きながらすさまじい上昇力で空に駆け上り、眼下のティーゼとロニエをみるみる小さくしていった。やがてその姿は石畳の灰色に紛れて消え、北セントリア修剣学院の全体像を一瞬ユージオに見せたあと、二騎の飛竜は一直線に央都の中心――神聖教会の巨大な塔目指して飛翔しはじめた。


 (第五章 終)* 翌朝。

日課となっている基地一周のジョギングを終え、シャワールームに入ろうとしたガブリエルを、司令の副官をつとめる女性大尉が呼び止めた。

「ミラー中尉、ジェンセン大佐があなたに話があるそうよ。一〇〇〇に司令官室に出頭すること、いいわね」

ブルネットの髪を短く切り揃えた美人士官は、事務的にそこまで口にしたあと、やや心配そうに眉をひそめ、声を落とした。

「……司令にしては珍しく、ベイクド・アップルみたいに赤くなって湯気を立ててたわよ。あなた、何かやらかしたの?」

「なんだって?」

ガブリエルは、大袈裟に両手を広げると、とんでもないというふうに目を回してみせた。

「勲章の一つもくれるならわかるが、怒らせた覚えはないよ。……君のベッドから出てきたところを誰かに見られたなら別だがね、ジェシカ」

「つまらない冗談を言ってるとわたしがあなたをオーブンに入れるわよ。ともかく、思い当たるふしがあるなら気をつけておくことね」

かつかつとヒールを鳴らして去っていく大尉を敬礼とともに見送ってから、ガブリエルは顔に貼り付けていた野卑な笑みをすっと消し、思い当たるふしについて意識を巡らせた。

 プライベートでジェンセンの気に障りそうなことと言ったら、やや長時間に及ぶVRMMOへのダイブくらいだが、今時の兵士としてはさして珍しいレジャーでもないし、そもそもガブリエルの場合は訓練の一助という大義名分もある。ドラッグの類は一切やっていないし、金銭的にもきれいなものだ。

 あるいは、一年前まで行っていた"実験"が露見したのだろうか――と一瞬危惧したが、すぐにそんなはずはないと否定する。ガブリエルの裏の顔が、稀に見るシリアル・キラーなのだなどということを知ったら、熱血正義漢のジェンセンとしては湯気を立てるくらいではとても収まるまい。みずから特殊部隊用のMP5サブマシンガンを振りかざし、ガブリエルを処刑せんと兵舎に乗り込んできてもおかしくない。

つまり、論理的に考えればジェンセンの怒りの原因は自分以外のところにあると見るべきだろう。そう結論づけると、ガブリエルは小さく肩をすくめ、汗を流すべくシャワールームへ向かった。


久しぶりにぱりっと糊の利いた開襟シャツとスラックスを身につけたガブリエルは、肩章と靴がぴかぴかに輝いているのを確認してから、司令官室のマホガニー製のドアを叩いた。

即座に返って来たカミン! の声に、ドアを押し開けて一歩踏み込むと、これ以上ないほど背筋を伸ばして右手を額に持っていく。

「ミラー中尉、命令により出頭いたしました!」

大声で叫ぶと、デスクの向こうで立ち上がったジェンセン大佐は顰め面で敬礼を返し、言った。

「楽にしていい。……昨日の今日ですまないな、中尉。もっとも君のことだから、酒が残っているなどということは有り得んだろうが」

自身は二日酔いの頭痛に苛まれているような顔で髭をしごくと、司令官はじっとガブリエルを見た。

「中尉、君に客が来ている」

顎で示したのは隣接する応接室の扉だ。

「……客、ですか?」

よもや警察だろうか、と一瞬考え、仮に刑事がガブリエルを逮捕に来ていた場合、その拳銃を奪ってジェンセンを人質に基地を脱出できる可能性はいかほどか、と計算しかけたが、続く大佐の言葉にガブリエルは珍しく戸惑わされた。

「国家安全保障局の人間だ」

「は……? NSA(フォート・ミード)が私に何の用なのでしょう?」

「君を貸せと言ってきておる。とんでもない話だ。わが部隊を人材派遣会社か何かと勘違いしてているようだ」

吐き捨てたその口調から、ジェンセンが腹を立てているのはその客に対してなのだと悟り、ガブリエルは猛烈に頭を働かせながら答えた。

「つまり、出動任務ということですか?」

「そんな結構なものではない! どうせ公にできん汚れ仕事だろう。私としては、隊のエースである君の経歴に、おかしな横槍で汚点をつけたくない。しかし連中は、SOCOMの上のほうの命令書を取り付けてきていて、私のレベルでは拒否することができない。……が、公式な出動命令が存在しない以上、君の拒否権まで取り上げることはできんはずだ。いいな、少しでも臭いと思ったら遠慮なく断って構わんぞ。そのことで経歴に傷はつかん。それは私が保証する」

「は、ありがとうございます司令官殿」

神妙な顔で礼を言ったガブリエルは、これは何かの罠なのか、あるいは運命の導きなのかと考えながら、続けて言った。

「ともかく、NSAの話を聞いてみます。まさか私に、ヒラリー・クリントンを護衛しろとは言わんでしょう」

「どうかな。あるいはその逆かもしれんぞ」

ようやくいつものにやりとした笑いを口もとに滲ませ、ジェンセンは頷くと隣室に向かって歩を進めた。ガブリエルもそれに続く。

ろくに使われないために埃っぽい応接室のソファーに腰掛けていたのは、ひと目で上等な仕立てと知れるブラックスーツに身を固めた二人組みの男たちだった。大佐に続いて部屋に入ったガブリエルを認めると、うっそりと立ち上がり、右手を伸ばしてくる。

 NSAこと国家安全保障局は、FBIやCIAと比べて知名度は低いが、その実、与えられた力の大きさでは二者を上回るものがある。活動は、通信と暗号にかかわる全ての分野に及び、例えば国内を行き交う全通信を検閲する"エシュロン"なるシステムを運用したり、独自に武装した諜報員を多数抱えていたりと、全容が知れない。

ガブリエルの手を順に握った男達の右手は、鋼の骨でも入っているのかと思えるほどにがっちりと硬く、なるほどただの事務屋ではないと思わせるものがあった。

どうやら、右側の、ブラウンの髪を丁寧に撫でつけた灰色の眼の男がしゃべり役らしく、大きな笑みでそれまでの剣呑な雰囲気を消すと、闊達に自己紹介を始めた。

「バリアンスのスペシャル・エースにお会いできて嬉しいですよ、ミラー中尉。私はアルトマン、こっちのでかいのがホルツです。訓練の邪魔してしまって、いや、申し訳ない」

アルトマンの隣でさっさとソファーに座った坊主頭の大男は、当面口を開く気はないらしく、さっさとサングラスをかけると巨大なバブルガムを噛み始めた。その様子を見たジェンセンがまた沸点に近づきはじめたのを察して、ガブリエルはとっとと本題に入るべく、挨拶抜きで問いただした。

「何でも、私にしてほしいことがあるとか?」

「そう、その通り」

細身で、一見セールスマンのような軽薄な明るさを身にまとうアルトマンは、ぱちりと指を鳴らすと、にこやかにジェンセンに向かって言った。

「大佐、すみませんがお人払いを」

「……ここには私たちしかいないが」

ぶすっとした顔で答える司令官に、物怖じする様子もなく再度繰り返す。

「ええ、ですから、お人払いをお願いします」

ようやく、自分に出て行けと言っているのだと悟ったジェンセンは、眼を剥き、視線でアルトマンを焼き殺そうとでもするかのように数秒睨みつけたあと、盛大に鼻を鳴らして身を翻した。

「隣に居るからな、中尉」

 ガブリエルに頷きかけ、バターンとドアを響かせて大佐が姿を消すと、NSAの男はやれやれ、というかのように首を振りながら、座るよう身振りで示した。

ソファーに腰を沈め、足を組むと、ガブリエルは肩をすくめながら言った。

「アルトマンさん、あんた帰るとき、車に爆弾が仕掛けられてないか確かめたほうがいいよ」

「我々のシェヴィには磁石はくっつきません」

冗談なのか本気なのかポーカーフェイスで答えると、アルトマンは自分もソファーに座り、ひざの上で手を組んだ。

「さてさて、ガブリエル・ミラー中尉。あなたは、"脳まで筋肉"が身上の陸軍出にしては実に特異なキャラクターですな」

「カウンセラーなら間に合っている」

ガブリエルは素っ気無く答えたが、めげる様子も無くアルトマンは続ける。

「ハイスクールの成績は抜群、どの大学でも好きに選べたのになぜか卒業と同時に陸軍に入隊。陸軍士官学校(ウエストポイント)から始める道もあったのに二等兵として泥まみれの訓練に明け暮れ、イランへの派遣部隊には自ら志願。対ゲリラ戦で華々しい戦功を上げて、帰国後はどんな楽な配置も希望できたのに、今度は全特殊部隊のなかで最もキツいと評判のバリアンス部隊へ転属ときた」

「合衆国と国民を守るために、最も厳しい環境で奉仕するのは兵士として当然のことだと思うが」

「フムン」

アルトマンはにっと笑うと、ある種の石英のような灰色の眼でガブリエルをじっと見た。

「――そんなマッチョ志向のスーパー・ソルジャーかと思えば、休日はろくに外出もせず、バーチャル・ゲームに耽溺する一面もある。我々の統計では、あのゲーム機にハマる兵士は、大概落ちこぼれ組と相場が決まっているんですがね」

「全感覚VRシミュレーションは戦闘訓練としては実戦の次に有効だ。休日を有効利用しているだけだよ。……こんな精神分析めいたたわ言を聞かせるために呼んだなら、私はもう戻らせてもらう」

「いやいやいや、我々としては、あなたがいかに我々の求める理想的な人材かということを言いたかっただけでして。実戦経験が豊富で、知能も身体能力も高く、その上ガンゲイル・オンラインではほぼ無敗の伝説的ガンスリンガー。いや、実に素晴らしい」

「たわ言はいい加減にしてくれ。一体、俺になにをさせようってんだ」

口調を変えたガブリエルの眼前に、アルトマンはスーツの内ポケットから取り出した一葉の写真を滑らせてきた。

ちらりと眺め、ガブリエルはわずかに首を捻った。

「……なんだこれは? 船……にしては妙な形だな」

「この先をお話する前に、この機密保持誓約書にサインを頂く必要があるんですがね」

すぐに答えず、ガブリエルは写真を取り上げると、詳細に眺めた。

はるか上空から超望遠撮影したと思しき、粒子の粗い画面に捉えられているのは、青い海面に浮かぶ奇妙な構造物だった。長方形の黒いピラミッド、としか表現のしようのないそれを見た瞬間、ガブリエルは、確かに何か電流のようなものがかすかに脳内を走ったのを知覚していた。

 何かある、と思った。この男達が運んできたのは、いずれ途方も無い厄介事なのは間違いないだろうが、しかし自分は、この先を聞かなくてはいけない――という確信がガブリエルの背を押した。

 短く頷くやいなや、アルトマンがさらに一枚の書類を万年筆つきで送って寄越した。NSAの透かしが入ったICペーパーだ。ガブリエルは、芥子粒のようなサイズで並んでいる文字にろくろく目を通さず、末尾にサインを書き殴ると、指先で押し戻す。

紙を丁寧にフォルダーに挟み、アルトマンはにっこりと笑いながら口を開いた。

「やあ、受けてもらえると思ってましたよ、ミラー中尉」

「勘違いするな、俺が同意したのはあんたらの話を聞くことだけだ」

「聞けば、降りようとは思いませんよ、絶対にね。……煙草、構いませんかね?」

ガブリエルの返事を待たずに、卓上の灰皿を引き寄せると、アルトマンはスーツのポケットから皺くちゃのウインストンを引っ張り出し一本咥えて火をつけた。近年、政府系機関のホワイトカラーには喫煙者はほぼ絶滅しつつあることを考えると、やはりこの男たちは特殊なポジションに位置しているらしい。

美味そうに紫煙を吐き出し、アルトマンは唐突に訊いてきた。

「ミラー中尉は、日本の軍(アーミー)……いや、自衛隊(セルフ・ディフェンス・フォース)という組織に関してどの程度ご存知ですかね?」

さすがに少々意表を突かれ、ガブリエルはわずかに眉を顰めてから、わずかな知識を開陳した。

「JSDF? 確か……専守防衛(エクスクルーシブ・ディフェンス)とかいう奇妙なポリシーを掲げた軍隊だろう? イランにも部隊が展開していたが……戦闘区域には一切出てこなかった」

「イエス、そのポリシーは、戦争放棄を謳った憲法に配慮して捻り出されたものらしいですがね。しかし同時に、あの国が二度と不遜な真似をしでかさないための首輪の役目も果たしている。言わば、JSDFというのは……合衆国の、五十一番目の州の州兵のようなものと思ってください。その編成から装備まで、この六十年間、すべて我が国が適切にコントロールしてきたのです。しかし、今世紀に入ったあたりから、どうやら組織の一部に、憂慮すべき志向を持った集団が発生したようなのですな」

「ほう?」

「簡単に言えば、連中は、合衆国のコントロールの及ばない戦闘力を保有することを……いや、究極的には、我が軍に対抗し得るだけの軍事技術を開発してのけることを目指しています」

ナショナリズムなど欠片も持ち合わせていないガブリエルにとって、極東の同盟国の軍内部にどのような動きがあろうと、それはまったく興味の埒外だった。しかしここは、模範的兵士として不快感を示しておくべきだろうと考え、鼻筋に皺を寄せると呟いた。

「気に食わない話だな」

「まったくです」

「しかし、ひとつ解せないことがある。その台詞が、ペンタゴンの偉いさんの口から出てくるならわかるが、なぜNSAのあんたが日本の軍隊のことなどを気にする? あんたらの仕事は内緒話の盗み聞きだけだと思っていたが」

アルトマンは苦笑すると、短くなった煙草を灰皿に擦りつけた。

「ま、確かに、連中が開発しているのが戦車やらミサイルなら我々の出る幕はありませんな。それこそ情報を国防省に丸投げして終わりです。だが、困ったことに、開発されているモノというのは単なる兵器ではないのです。軍事を含む、あらゆる産業分野を変革してしまう可能性をはらむテクノロジーなのですよ」

「時間もないんだろう、遠まわしな言い方はやめてくれないか。一体何なんだ、そのテクノロジーという奴は」

「無人兵器制御用のAIプログラムです」

アルトマンの返答に、ガブリエルはやや肩透かしな気分を味わった。

「……そんな物、今更珍しくもあるまい。イランでも無人偵察機を山ほど飛ばしたぞ」

「能力のケタが違うのです。連中が作り出そうとしているのは、無人戦闘機を操縦しうる……つまり、有人の戦闘機を撃墜するだけの能力を持ったAIなのです」

「……ほう」

ようやく、僅かながら興味を惹かれ、ガブリエルは組んだ足をほどいた。

「それは要するに、人間と同じだけの状況判断力を持つ人工知能、ということか?」

「判断力……と言うよりも、こう表現すべきでしょうな。人間と同じか、あるいはそれ以上の思考力を備えた人工知能、と」

「人間以上だと?」

思わず鼻を鳴らす。

「この基地に導入されたVRシミュレータを動かしているのは最新最速のスパコンらしいが、そいつが操作する敵兵のお粗末さときたら、まだGGOで初心者(ニュービー)を相手にしてるほうがマシというものだぞ」

「そう、その通り」

アルトマンは、パチンと鳴らした右手の指をまっすぐガブリエルの顔に向けた。

「既知のアーキテクチャを持つコンピュータが、人間並みの思考を身につけるのはおそらく不可能でしょう。ウチには、それを認めようとしない技術者ばかりですが、JSDFの問題の集団……首謀者の名前を取って我々はK組織と呼んでいますがね、彼らは従来型コンピュータに早々に見切りをつけ、まったく新しいアーキテクチャを作り上げたのです。いや、作り上げた、ではなく……コピーした、と言うべきか」

「コピー? 一体何をだ?」

 ガブリエルのその問いに対して、新しい煙草を咥えようとしながら、何気ない様子でアルトマンが発した言葉――。

それを聞いた瞬間、全身を襲った激しい震えを抑えつけるのに、ガブリエルは全精神力を必要とした。

「人間の魂(ヒューマン・ソウル)ですよ」

「……何だと?」

平静な声を出せたことに自分でも驚くほどに、ガブリエルの脳は一瞬にしてレッドゾーンにまで回転を上げていた。

 わずかな時間のあいだに、改めて状況を再点検する。やはりこの男達は、NSAのエージェントというのは偽装で、本当は自分を逮捕しにきたFBIの捜査官なのではないか? だとしたら今すぐ二人を制圧し、武器を奪って脱出すべきか――と考え、右手の指先がぴくりと動いたが、そこでようやくガブリエルはあることに気付いた。

 つまり、仮にFBIにガブリエルの連続殺人が露見していたとしても、彼らが、その動機までを知っているはずはないのだ。人間の魂、などという単語をガブリエルはこれまで一度として口に出したことはないし、キーボードでタイプしたこともない。どんな凄腕のプロファイラーにも、この動機だけは推測することはできない。絶対に。

 ならば、これはやはり偶然――あるいは必然によって掌中に落ちてきた果実なのだ。毒があるかどうかまではまだ分からないが。

「……人間の魂だって?」

一瞬の殺意を完璧に包み隠し、ガブリエルは口の端に乗せた笑みとともに訊き返した。二本目の煙草を深々と吸い込んだアルトマンは、ゆっくりと頷き、さらにガブリエルを驚かせるようなことを言った。

「中尉は、"脳量子論"というヤツをご存知ですかね?」

反射的に否定しそうになるが、自宅のパソコンでそれを検索したことがあるのを思い出し、やや頭を傾げてみせながら首肯する。

「まあ、大雑把にはな。人間の意識は、脳の中の光量子から発生するという仮説だろう」

「ところがどうやら仮説ではなかったようなんですな、これが」

知っているよ、とガブリエルは内心で呟く。自宅の寝室には、その光量子が焼きついた写真が飾ってあるのだから。

「K組織は、中尉もご存知のアミュスフィアに使用されているNERDLESテクノロジーを極限まで拡張したシステムを開発し、脳中の光量子へのダイレクトアクセスを可能としたのです。彼らはその、人間の意識を発生させている光を、フラクトライト……波動光(フラクチュエイト・ライト)の略らしいですがね、そう呼んでいますが、要は人間の魂ですな。そいつを読み取り、なおかつコピーすることすら達成したと……まあ、簡単に言えばそういうことです」

今度は、危機感ではなく、大いなる期待の震えがガブリエルの背中を疾った。渇いた舌を紙コップのコーヒーで湿らせ、ガブリエルはゆっくりと訊き返した。

「コピーするだって? 人間の魂を? それは……つまり……」

わずかに間をおき、

「媒体が存在するということか? 人間の魂を保存するための?」

「理解が早いですな、中尉。助かりますよ。ええ、その通りです。何とか言う希土類の結晶を成型したもので、ライトキューブとか呼ばれているようですが……これくらいの」

アルトマンは両手で五インチほどの幅を作ってみせた。

「大きさの立方体です。いや実に、とんでもない話ですなあ。私のお袋はガチガチのカトリックですがね、この話を聞いたら泡を噴いて卒倒しますよ」

「本当だな、とんでもない話だ」

 機械的に繰り返しながら、ガブリエルは内心で叫んでいた。まったくとんでもない――とんでもなく素晴らしい話だ! 魂を読み出し、保存する技術。ガブリエルが目指していた"死者の魂の捕獲"を一気に飛び越え、生者の魂を、その意識を保ったまま抜き取れる……?

 なるほど、日本人か。彼らは確か、特定の宗教を持たない民族だったはずだ。つまり、欧米人が原体験的に刷り込まれている、生命と魂の神秘へのタブー意識と無縁だからこそ、そのような不遜極まりない"神の御業"の強奪を可能ならしめたのだろう。

自分を襲う深い感動を、目の前の男達に気取られないよう注意しつつ、ガブリエルは尋ねた。

「つまりこういうことか? そのK組織とやらが作り出そうとしている超人工知能というのは、コンピュータではなく、人間の意識と同質の存在であると?」

「まあ、広義の量子コンピュータとも言えるでしょうがね。そんなものが量産されて、戦闘機だの戦車だの魚雷だのに搭載されたら、世界の軍事バランスはいっぺんに引っ繰り返りますよ。どうあろうと放置はできない、それはあなたにも理解してもらえると思いますが、ミラー中尉」

「フム……危険だな、確かに」

そう相槌を打ったものの、しかし知ったことではない、勿論。日本が利口な無人兵器を売り出して世界の軍需産業を牛耳ろうと、あるいは機械の大軍勢をもってもう一度合衆国に戦争を仕掛けようと、自分にはどうでもいいことだ、とガブリエルは胸中で呟く。

 ただ、人間の魂を複製し、小さなメディアに閉じ込めるというテクノロジー、それだけは何としても手中に収めなければならない。NSAの男たちが、自分をその目的の実現へと近づけてくれるなら、ここは"米軍兵士として憤り"、"しかし冷静な判断力を失わない"ところを見せておくべきだろう。

「どちらが飼い主なのか、黄色い連中にしっかり判らせてやる必要があるようだな。――だが、現実的に、どういう対応を行うつもりなんだ? そのK組織とやらの本拠に巡航ミサイルでも撃ちこもうというのか?」

「それができれば話が早くていいんですがね」

アルトマンはニヤっと笑うと、二本目の煙草を揉み消した。

「だが、何もかも破壊してしまうには少々勿体無い技術だ、そうでしょう?」

「無傷で奪取したい、という訳だな。――なるほど、超高度な人工エージェントなんてものが存在するなら、あんたらの大事な"エシュロン"の通信検閲能力も大幅に強化できるからな」

「なんです、それは? 聞いたことが無い名前ですな」

平然とうそぶき、黒服の諜報員はもう一度唇を歪めて笑った。

「まあ、手に入れたいと思っているのは我々だけではありませんよ。実のところ、NSAよりも、とある軍事関連企業のほうが熱心なのです。この情報は彼らが持ち込んできたものでしてね、今回の作戦にかかる諸費用も彼らの財布から出ます」

「ほう。政府のスパイより先に、自衛隊の極秘計画を探り出すとは、随分と鼻の利く企業もあったものだ」

「実は、その企業というのが、以前一度日本の産業スパイに煮え湯を飲まされていましてね。当時の経費を何としても回収する気でいるんじゃないですかね。グロージェン・マイクロエレクトロニクス、聞いたことありませんか?」

「グロージェン?」

ガブリエルは、記憶のどこかに引っかかるものを感じて首を傾げた。しかし、思い出すより早く、アルトマンがまたしてもガブリエルを驚かせるようなキーワードを発した。

「アミュスフィア・ユーザーのミラー中尉なら詳しくご存知だと思いますが……四年前、日本で起きた"SAO事件"というものを?」

「……ああ、知っている」

「あれが一応の解決を見てから、数ヵ月後に露見した付随的な事件があったのです。我が国ではほとんど報道されなかったのですがね。例のナーヴギアという機械のメーカー、レクトの技術者数名が、SAO事件の被害者の脳を利用して違法な人体実験を行いました。感覚信号のレンジを拡大して、感情や記憶の操作を試みるという、これも我々にはそれなりに興味深い実験なのですがね。その技術者から研究成果を買い受ける約束をして、前金までたっぷりと払っていたのが、グロージェンMEですよ。――しかし、首謀者のスゴウという男は研究半ばにして逮捕され、グロージェンも投下した資金を全く回収できなかった。その上、マスコミに会社の名前が出るのを抑えるのに、目の玉が飛び出るような口止め料をばら撒く破目になったようですな。あそこの社長は執念深い男でね、事件以後もレクト内部にスパイを飼い続けて、その線からK組織の活動を知ったようです」

「ああ……その事件の話はどこかで読んだ記憶があるな。グロージェンの名前は、一般のウェブログでは見かけた気がするが、噂レベルを出なかったのはそういう訳か。それで、大損した金をさらにダーティーな手段で回収しようと? 阿呆だな、その社長は」

法を逸脱することで目的を達しようとする者は、常に引き際を見極めなければいけない。それを誰よりもよく知っているガブリエルがそう呟くと、アルトマンは薄く苦笑した。

「たしかに相当にヤバいギャンブルですが、当たればデカいですよ。今後一世紀の軍需産業を支配できるかもしれないんですからね。だからこそ我々の上役も一口乗ろうという気になったのです。勿論、失敗したとき首を括るのはグロージェンの社長だけですがね」

「いかにもスパイらしい言い草だな。――で? 具体的には、どうやってK組織の研究を盗み出そうというんだ?」

「もちろん、最初は穏当な手段を検討しましたよ。CIAが自衛隊内にも相当数の協力者(アセット)を飼ってますからね。K組織の実験施設が、自衛隊の基地のどこか、あるいは偽装した工場などに存在すれば、非武力的(ドライ)な作戦で奪取することも可能だったでしょう。だが、連中も馬鹿じゃない、とんでもない場所に本拠を構えてましてね……いや実際、ぶったまげますよ」

「いい加減持って回った言い方はやめてくれないか。どこなんだ?」

「中尉はもう見てますよ。それです」

アルトマンが顎をしゃくった先には、テーブルの上に乗ったままの写真があった。ガブリエルは改めて、海洋に突き出す謎の黒いピラミッドを凝視した。

「……何なんだ、これは?」

「自走型メガ・フロートです。長辺六〇〇メートルという化け物ですよ。名前は"Ocean Turtle"……日本政府のプレスリリースでは、総合海洋研究施設ということになっていますがね、その実、自衛隊の占有物と我々は分析しています。その中枢部分に、K組織の研究機関、コードネーム"Rath"が存在するという訳です」

「……六〇〇メートルだと」

 ガブリエルは少々の驚きをこめて呟いた。つまりこのピラミッドは、米海軍最大の空母ニミッツ級の二倍近い大きさだということになる。こんなものを建造してまで守ろうとしているなら、K組織の超人工知能とやらは掛け値なく世界を変革し得るテクノロジーなのだ。

可能だろうか?

 K組織と、グロージェンME、そしてNSAをも出し抜き、そのテクノロジーを自分だけのものにすることが?

 それを実現するためには、目の前の二人を含めて、ほぼあらゆる関係者を殺して回り、尚且つ地の果てまで――それこそ地球の裏側まで逃げ切る必要がある。数分前、グロージェンの社長のことを引き際の見えない奴だと嗤ったが、この計画に比べれば、社長のギャンブルはまだしも現実的な賭け率というべきだろう。

 しかし、ガブリエルには、自分がそれを成し遂げるだろうということが分かっていた。魂の捕獲を目指して生きてきたこれまでの二十八年間、あらゆる局面で正しい選択をし、あらゆる危機を苦も無く回避してきたのだ。なぜなら、自分は、この"人間の魂"を巡る物語の主人公なのだから。

いずれ殺すと決めた男の顔を無表情に見やり、ガブリエルは話の続きを促した。

「なるほど、確かに海の上では諜報員の潜入は難しいだろうな」

「その上、日本人はみんな同じ外見ですからな。NSAにもアジア系の局員はいますが、日本人に化けきるのは難しい。補給物資を運ぶヘリの要員や、研究員に偽装して潜入するのは不可能と判断しました。となると、あとは武力攻撃作戦(ウェット・オペレーション)を実行するしかない。――ここから先は、強襲作戦担当のホルツが説明します」

ガブリエルは、こいつにも役目があったのかと思いながらサングラスの巨漢に視線を向けた。ホルツと呼ばれた男は、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、聞き取りにくい濁声で唸った。

「まず、あんたならどうするか聞きたい」

その居丈高な口調に、一瞬ムッとするが、感情を抑えて事務的な口調で訊き返す。

「敵味方の戦力と配置は」

「間違ってもステイツの関与を示す証拠は残せないからな。こっちの戦力は二小隊十二人、全員が、グロージェンMEの契約している警備会社の飼い犬だ。顔でも指紋でも追跡できないから死体を残しても問題ない。武装はサブマシンガン、アサルトライフルまで。あとは、技術者が若干名同行するが、戦力には数えられない。オーシャンタートルの警備は、自衛隊員が十名前後配備されているが、武装は拳銃だけだ」

「……フン、警備会社だと? そいつら、実戦経験はあるのか?」

ガブリエルが疑わしそうに鼻を鳴らすと、ホルツは大袈裟に肩をすくめた。

「あんたのように砂漠でドンパチした経験は無いだろうが、顔を変えなきゃならんくらいのヤバいヤマは踏んできた奴らさ。充分な戦闘訓練も積んでいる」

「どうだかな。練度はアテにならないが……しかし武器をまともに扱えれば、装備の差で何とかなるだろう。夜中にヘリで急襲、制圧するのは難しくあるまい」

「教科書どおりだな」

何が嬉しいのか、ホルツはにんまりと笑うと、ブリーフケースからさらに一枚の写真を引っ張り出し、黒い巨船の隣に置いた。見れば、グレイ一色のやけに角張った船が写っている。

「海上自衛隊の新鋭イージス艦、"ナガト"だ。常時、オーシャン・タートルから二マイル以内に張り付いている。こいつのフェーズドアレイ・レーダーを掻い潜ってヘリで接近するのは不可能だ」

「先に言ってくれ」

唸ってから、ガブリエルは少し考え、付け加えた。

「その護衛艦を沈めるわけには行かないんだろうな?」

「さすがにそこまではな。K組織は自衛隊の鬼子(チェンジリング)だ、襲撃を受けても大々的に追及はできまいと我々は予想している。だが、軍艦を一隻沈められれば、事はもう自衛隊だけでは収まらないからな」

「では、ヘリでの接近は不可能か。ならボートか? SEALで使っているゾディアックならかなりの距離を航走できるはずだが」

しかしこの案も、ホルツは噛み終えたガムと一緒に放り捨てた。

「確かに突入までは成功するかも知れん。だが、脱出が難しい。恐らくすさまじく重い機械を乗せることになるはずだからな。イージス艦が搭載している対潜ヘリに追跡されたら逃げ切れないだろう」

「空中も駄目、海上も駄目、ではどうしろと言うんだ。海に潜っていけとでも?」

ホルツの教官じみた口調にいい加減うんざりしながら、ガブリエルは吐き捨てた。が、その途端、スキンヘッドの異相をにんまりと崩し、ホルツが大きく頷いた。

「そう、それしかない。オーシャン・タートルは表向き海洋研究船だということは説明したな。実際に各種の海洋研究プロジェクトが同居していて、その中に海底探査用無人潜水艇の開発という奴がある。そいつ用の水中ドックが船底に設けられているんだ。うってつけじゃないか、お邪魔するのに」

「……アクアラングを背負って泳いでいくのか?」

「そうしたければそれでもいいぞ、でかい鮫が苦手でなければな」

さらにケースを探り、ホルツは三枚目の写真を弾いて寄越した。

「最高級のリムジンを用意した。シーウルフ級三番艦、"ジミー・カーター"……聞いたことくらいはあるだろう」

ガブリエルは、写真を摘み上げて眺めた。のっぺりとした黒い物体が、海面からわずかに顔を出し、白い航跡を引いている。

シーウルフは、冷戦時代に設計された攻撃型原潜の名前だった。ソビエトの新鋭艦、シエラ級に対抗するために最高の技術が詰め込まれ、結果として建造費がとてつもない金額に上り、わずか三艦しか造られなかったといういわくつきの船である。

 現在でははるかに低コストなヴァージニア級に前線配備を取って代わられ、活躍の場を与えられぬまま引退していく運命のシーウルフを、NSAの男たちは武装強盗団の足に使うつもりらしかった。

「このジミー・カーターは、一、二番艦にない特徴として、強襲揚陸用の小型潜水艇を搭載可能だ。こいつなら、オーシャン・タートルの船底ドックにそのまま突入することができる。しかもドックから、問題のマシンが設置されているメインシャフト下部まではごく近い」

「……だが、イージス艦が問題になるのはヘリの場合と同じじゃないのか?」

「シーウルフのジェットポンプ推進システムは、十万ドルのメルセデス並みに静かさ。オーシャン・タートルを挟んだ方向から接近すれば、どんなソナーにも見つかりはしないね。また離脱も容易だ。深海に潜った原潜を見つけられるのは同じ潜水艦だけだが、周囲には配備されていない」

「なるほどな」

 ガブリエルは頷き、確かにこれなら成功するかもしれない、と考えた。もっとも、"テクノロジー"の話を聞いてしまった以上、どんな無茶な作戦であっても撥ねつけることはもうできなかったのだが。

「――概要は理解した。しかし、あんたらはまだ、真っ先に説明するべきことを喋っていないな」

ホルツから視線を外し、ガブリエルは三本目の煙草をくゆらせているアルトマンをじっと見た。

「なぜ機密保全上のリスクを冒してまで俺のところに来た? もし俺がこの話を隣のジェンセン大佐に全部ぶちまけたら、あんたらの首だけじゃ済まないぞ」

アルトマンは、表情の無い灰色の眼でガブリエルの視線を受け止め、口元だけで薄く笑った。

「作戦の性格上、ことによると仮想空間内での活動が要求される可能性がありますのでね。グロージェンの雇った犬どもは、VRシミュレーター訓練などという結構なものは受けていない。かと言って、ガンゲイル・オンラインの中毒者(アディクト)を雇うわけにも行かない。毎日ベッドとタコベルを往復するだけみたいな連中ですからな。そこで、国防総省のほうに手を回して、SOCOMの誇る各特殊部隊の精鋭たちの中でもっともVR訓練に適応した隊員をリストアップしてもらったのですよ」

「……で、昨日の統合訓練でゴールドメダルを攫った俺をスカウトに来たのか。安直な話だな」

「ええ、我々も、中尉があまりにもうってつけの人材なので、逆にどこぞの諜報機関の工作なのかと疑ったくらいですからね。何せ、家族係累は一切なし、特定の女性あるいは男性との交際なし、基地内にもプライベートで親しくしている人間はいない」

「つまり、もしもの時は処分もしやすいという訳か。よく調べているな」

 だが、いかにNSAでも全てを見通せるわけではない。自分たちが、どれほど最適な人間を選んでしまったのか――それを知ることができるのは、全てが終わった後のことだろう。

 突入用潜水艇ね、とガブリエルは考えた。ヘリならばブラックホークでもペイブロウでも操縦訓練を受けているが、さすがに潜水艇を動かした経験は無かった。しかし、基地でVRマニュアルに触れる機会くらいはあるだろう。問題のマシンを積み込んだあと、強襲チームを全員殺し、そのまま第三国まで航行する能力が船にあればいいのだが。

「――で、仮に俺があんたらのヤバい話に乗ったとして、何か具体的な見返りはあるのかな」

口もとにわずかに野卑な笑みを作ってみせながらそう訊ねると、アルトマンも薄く笑い返し、スーツの内ポケットから小さな紙片をつまみ出した。

「無論、公式にはボーナスも勲章もありませんがね、作戦が成功すれば、グロージェンMEのCEOから私的な謝礼が送られるかもしれませんな」

記されていたのは、軍人としてのガブリエルの給与のほぼ一年分に相当する金額だった。ということはつまり、ガブリエルが海外の口座に秘匿している資金と比べれば何ほどのこともないのだが、そんなことはおくびにも出さず、下品な口笛を低く鳴らした。

「ちょっとしたもんだな、え?」

「私なら、この金でグロージェンの株を買いますね」

紙片を懐に戻したアルトマンに向かって、ガブリエルは笑みを消しながら訊いた。

「いつ、どこに行けばいいんだ」

「そう言っていただけると思っていましたよ。一週間後、宿舎まで車でお迎えに上がります。その後飛行機に乗り換えますが、少々長旅になるでしょうからそのつもりで」

「慣れているさ」

頷き、写真を回収すると男達は立ち上がったが、握手を求める気は無いようだった。ガブリエルも体を起こし、ふと思いついたふうを装って口を開いた。

「そう言えば、問題の機械だが――」

「STLとかいう略称で呼ばれているようです」

「そうか、そのSTLだが、そいつに魂をコピーされた人間はどうなるんだ?」

妙なことを聞く、というようにアルトマンは首を傾けたが、さして訝しむ様子もなく答えた。

「どうもなりはしないようですよ。もしどうかなるようでしたら、幾ら実験台がいても足りない」

「それを聞いてほっとした」

言いながら、それは少々残念だな、とガブリエルは思った。オリジナルがそのまま残ってしまっては、せっかく抜き取った魂の価値も半減だ。

だが、機械にかけ、しかるのちにオリジナルを殺せば同じことだ、勿論。

 隠遁先は、できるならアジアではなくヨーロッパがいい。閑静な、森の多い郊外に居を構え、秘密の部屋にSTLという名の機械を設置して、ライトキューブに永遠に保存された魂たちと穏やかな暮らしを送れたら、物心ついた頃から自分を苛んできた餓えと渇きがついに満たされるに違いない。

手許に置く魂は厳選に厳選を重ねなくては。あの水色の髪の少女の身元を調べることはできるだろうか。そう言えば、一週間後に出発ということは、ガンゲイル・オンライン日本大会のチーム戦にエントリーすることは諦めなくてはならないようだ。

だが、いずれまたまみえることはあるだろう。それが自分と、出会うべき魂たちの運命なのだから。

 NSAの男たちに続いて応接室を出ながら、ガブリエルは内心でそっとひとりごちた。そして一度瞬きをし、想念を仕舞い込むと、ジェンセンにどう言って説明したものか考えはじめた。


 米海軍所属原子力潜水艦、シーウルフ級三番艦"ジミー・カーター"の艦長を務めるダリオ・ジリアーニ大佐は、魚雷管の掃除係からここまで登りつめた、骨の髄からの潜水艦乗りだった。初めて乗った船は年代物のバーベル級ディーゼル潜で、殺人的に狭い艦内のどこに行こうと、軽油臭さと歯が抜けそうな騒音に付きまとわれたものだ。

 あれに比べれば、この合衆国――いや世界中のどの海軍に所属する潜水艦よりも金の掛かった船はまるでロールスロイスだ。ジリアーニは、二〇一〇年に艦長を拝命して以来、このジミー・カーターとその乗員たちに惜しみなく愛情を注いできた。絶え間ない訓練の成果で、今では高張スチールの船体とS6W型原子炉、そして百四十名の乗組員たちはまるでひとつの生き物のように結びつき、どんな海でもそこに水さえあれば自在に泳げるほどの練度に達している。

そう、まさにこの船はジリアーニの子供に等しい存在だ。残念ながら、間もなく自分は現役を退き、陸の上でデスクワークに就くかあるいは早期退職を選ばなくてはならないが、後任に推薦している副長のガスリーならきっと立派に後を継いでくれるだろう。

 なのに――。

ほんの十日前、まるで晩節を汚そうとするかのようにひとつの奇妙な命令が下されたのだ。しかも、太平洋艦隊司令長官の頭越しに、ペンタゴンから直接発令されたものだ。

 確かに、ジミー・カーターは特殊作戦支援用に設計された艦で、海軍特殊部隊SEALと連携するための様々な仕様を持つ。今後甲板に背負っている揚陸用小型潜水艇もそのひとつだ。

 これまでにも、軍内ですら口外してはならない作戦を遂行するために、そこにSEALのコマンドたちを乗せて他国の領海を犯したことは何度かあった。しかしその目的は常に合衆国の、ひいては世界の平和を保つことだったし、死地に赴く寡黙な男たちは、間違いなくジリアーニの部下と同じ使命感を持つ海の男だった。

 だが、数十時間前、パール・ハーバーで乗り込んできたあの連中は――。

 ジリアーニは一度だけ、後部の待機室に"客"たちの顔を見に行ったが、その有様を見てあやうく深海に叩き出せと部下に命令しそうになった。十数人の男たちが、規律も何もなく床に寝転がり、ヘッドホンから騒音を漏らす者あり、カードや携帯ゲーム機に興じる者あり、おまけに持ち込んだビールの空き缶がそこかしこに散乱していた。

あの連中は絶対にまともな船乗りではない。それどころか、軍人なのかどうかさえ怪しい。

 唯一まともそうだったのは、ジリアーニに規律の乱れを詫びた長身の男だった。Tシャツの上からでも分かる鍛えぬかれた肉体といい、きびきびした所作といい、あの男だけはかつてみたSEALの隊員と同じ雰囲気を放っていた。

しかし。

 男のあの青い眼――。握手を求める右手を握り返しながら、ふとその奥を覗き込んだジリアーニは、長らく覚えのない感情を味わった気がした。あれは、そう……海軍に入るずっと以前、生まれ育ったマイアミの海でシュノーケリングをしていて、突然真横を通り過ぎていった巨大なホオジロザメの眼を間近から見てしまったときと同じ……あらゆる光を吸い込むような、完全なる虚無――。

「艦長、ソナーに感!」

不意に耳に届いた、ソナー員の鋭い声が、ジリアーニを物思いから引き戻した。

戦闘発令所の艦長席で、ジリアーニは素早く上体を起こした。

「原子炉のタービン音、目標のメガフロートに間違いありません。こいつは……でかい、とてつもなくでかいです。距離八千」

「よし、エンジン停止、バッテリーに切り替えて無音微速航行」

「エンジン停止!」

命令がすばやく復唱され、艦内に響いていた原子炉の鼓動が消滅した。

「護衛のイージス艦の位置はわかるか」

「待ってください……目標の向こう、距離一万二千にガスタービンエンジン音……音紋一致、海上自衛隊の"ナガト"と確認」

正面の大型ディスプレイに表示された二個のブリップを、ジリアーニはじっと睨んだ。

イージス艦はともかく、メガフロートは武装を持たない海洋研究船と聞いている。そこに、武装したごろつきどもを突入させるというのが今回の命令なのだ。しかも、同盟国であるはずの日本の船に。

とても、大統領や国防長官が承認した正規の作戦とは思えなかった。いや、あるいはそうなのだろうか。もしそうなら、これまで疑いすらしなかった合衆国海軍の名誉と誇りを、これからどのようにして信じていけばよいのだろうか。

 ジリアーニは、ペンタゴンから命令書を携えてきた黒スーツの男の言葉を脳裏に再生した。日本は、あのメガフロートで、合衆国と再び戦争を始めるための研究を行っている。両国の友好を保つためにも、その研究は、秘密裏に葬り去るしかないのです――。

その言葉を鵜呑みにできるほど、ジリアーニは若くも愚かでもなかった。

同時に、結局、自分には従う以外の選択肢はないのだということが理解できるほどに年老いてもいた。

「"客"の準備はいいか」

傍らに立つ副長に低い声で尋ねる。

「ASDS内で待機中です」

「よし……メインタンクブロー! 目標より距離三千、深度五十につけろ!」

「アイアイ、アップトリム一〇で浮上します!」

圧搾空気がバラストタンク内の海水を押し出し、生じた浮力がジミー・カーターの巨体を持ち上げた。ブリップとの距離は、ゆっくりと、しかし確実に減少していく。

民間人に死傷者は出るのだろうか。おそらくそうだろう。彼らの全員が、強制収容所で人体実験を繰り返したナチの科学者のような連中であればいいのだが。

「目標との距離三千二百……三千百……三千、深度五十です!」

一瞬の躊躇いを振り払い、ジリアーニは毅然とした声で命じた。

「ASDS、切り離せ!」

かすかな振動が、後甲板の荷物が艦から離れたことを告げた。

「切り離し完了……ASDS、自走開始」

野犬の群れと一匹の鮫を乗せた潜水艇は、みるみる速度を増し、海面に浮かぶ巨大な亀目掛けて一直線に突進していった。


 (第六章 終)* 武装テロリスト八名が立て篭もったのは、今にも倒壊しそうな地上六階のアパートメントだった。

 アメリカ統合特殊作戦軍(SOCOM)直轄の新設カウンター・テロ部隊、"バリアンス"第二小隊チームB(ブラボー)リーダーを務めるガブリエル・ミラー中尉は、隊員二名と共に建物の裏手に回りこむと、まるで蹴飛ばさせるために巧妙に配置されているとしか思えない空き缶や割れガラスの山を注意深く回避しながら、侵入口に設定された窓に向かって中腰で走った。

三十秒足らずで首尾よくたどり着き、窓の直下の壁に身を潜めると、装着した多機能ゴーグルからサーモセンサーのプローブを引き出し、極細の尖端を窓ガラスの割れ目から内部に挿し込む。赤外線を捉える機械の眼は、暗闇に沈む部屋の中に三人が潜んでいることをたちまち暴き出し、ガブリエルは背後の部下に指サインでそれを伝えるとセンサーを戻した。

消音器付きサブマシンガンのセーフティが解除されていることを確かめ、ベルトからスタングレネードを一つ外す。歯でピンを咥えて抜くと、先ほどの割れ目から無造作に放り込む。

ごろごろと床を転がる音、何語だかわからない叫び声に続き、密度のある眩い白光が迸った。ゴーグルが自動的に感度を絞って目を保護してくれるが、念のために視線を下に向けて三つ数える。立ち上がりざま思い切りジャンプして窓枠の上部を掴むと、腕だけで体を持ち上げて、ブーツで窓を蹴破りながら体を放り込んだ。

靴底が床に触れる前から、ガブリエルは、視力を奪われた二人の男が、髭面を歪めて罵り声を上げ、旧式のアサルトライフルを闇雲に窓に向けつつあるのを確認していた。着地と同時に身を屈め、マシンガンを構えてトリガーを引く。三連射で右側の男の額に二つの穴を開け、大きく一歩飛んで左側の男の射線から外れると、そちらにも弾をたっぷりと見舞う。

残る一人の姿を探してガブリエルが首を回すのと、ぼろぼろのソファーの裏から拳銃を手にした小柄な人影が立ち上がるのはほぼ同時だった。慌てずにそちらにマシンガンの銃口を向け、引き鉄を絞るべく右手の人差し指がぴくりと震えた瞬間、ガブリエルは銃を天井に向けて跳ね上げた。

「……おっと」

みじかく呟く。人影は、長いスカートを穿き、髪をスカーフに包んだ女性だった。『パニックのあまり銃を拾ってしまった人質住民』だ。撃ってしまえば得点は大幅にマイナスとなる。もっとも、わずかながら『人質住民を装う女性テロリスト』の可能性も残されているので、ガブリエルは油断なくマシンガンを構えたまま、左手でゴーグルを持ち上げて作り笑いを浮かべた。

「大丈夫、もう心配ありません」

 ポリゴンで作られAIに動かされる人質女性に、簡単な英語で言葉を掛けながら、ガブリエルは胸中で、まったく馬鹿馬鹿しいことだと吐き捨てていた。もしこれが現実の作戦行動中なら、銃を手にしている時点で容赦なく撃ち倒しているだろうし、その判断を責められることも、いやそもそも問題にされることすらあるまい。強行突入を選択した時点で人質にある程度の犠牲者が出るのは折込済みだし、そしてそれは常にテロリスト側の非として処理されるのだ。

ならば、仮想訓練でこんな意地の悪い引っ掛けにいちいち気を遣わされることにどんな意味があるというのだろう。むしろ訓練であるなら、動くもの全てを問答無用で撃ち殺させるべきではないのか。それくらいしなければ、今頃こわごわと窓から顔を出しているような新米隊員たちが実戦で使えるようになるまでに、どれ程の時間がかかるか知れたものではない。

女性の拳銃を取り上げ、ここでおとなしくしているよう指示してから、ガブリエルはドア下の隙間から再び熱センサーで表の様子を探った。人の気配がないことを確認し、更に意地悪いオペレーターがドアにブービートラップを仕掛けていないかどうかチェックしてから、そっと押し開く。

ブリーフィングで示された内部の見取り図によれば、上に続く階段は廊下の両端に一つずつあった筈だ。部下二人には東側から上るよう手で指示し、自分は西へ向かう。

 靴底から伝わる砂埃の感触、隅をちょろちょろ這いまわるゴキブリの動き、確かにこの、日本の自衛隊と共同開発した――その実態は向こうの技術の一方的無償供与だが――NERDLES型シミュレーターは恐ろしいまでのリアリティを備えている。しかし、仮想世界を見慣れたガブリエルの眼には、いくつかの粗も浮かび上がって見える。

 その最たるものが、"ポリゴンで人間をリアルに作ろうとすればするほどその違和感は増大する"という原則が無視されていることだ。先ほどのアラブ系テロリスト達も、人質の中年女性も、一見ぞっとするほどの精細さで顔を造り込まれていたが、それゆえに動いたり喋ったりしたときのいわく言いがたい気持ち悪さも鳥肌ものだった。動かすのなら、むしろある程度デザインはデフォルメーションしたほうがいい、というのが日米の最先端を行くVRMMOメーカーの共通認識になりつつあるのだ。

 しかし、その方向性には、太平洋以上の開きがある。アメリカで運営されているVRMMOゲームのほとんどが、伝統的な過剰カリカチュアライズに則ったデザインを採用していて、異常に上腕の発達した大男や、蜂のようにウエストのくびれたグラマー女、あるいは人間ですらないモンスターの姿をしたプレイヤーばかりが闊歩することになる。ゲームとしてはそれが正解なのだろうが、ガブリエルには物足りない。

 ガブリエルが休暇のたびに基地内の宿舎に閉じこもり、VR世界に耽溺しているのは、ひとえに剣や銃で戦うポリゴン体の向こうの、生身のプレイヤーを感じるためだ。圧倒的なガブリエルの戦闘力に屈し、怒り、憎しみ、恥辱、そして恐怖に沈んでいくプレイヤーの魂を余すことなく体感する――、その目的のためには、アメリカ製ゲームのいかにもコミック然としたキャラクターデザインは少々具合が悪いと言わざるを得ない。

 その点、日本のVRMMOのデザインは申し分無い。ポリゴン体は皆、違和感を覚えさせない程度にデフォルメされおり、感情表現を阻害しない程度にリアル、尚且つ肌の質感はフレッシュで美しい。大抵のゲームはアメリカからのログインを許可していないため、アカウントを取るにはそれなりの金と手間が必要となるが、恐らく現実のプレイヤーと年齢的には大差ないのだろう若々しい外見の少年少女たちがガブリエルの武器の下に、生々しい感情の発露とともに絶命していく瞬間の快感は苦労に見合って余りあるものだ。

 一個の戦闘機械と化し、正確無比な手順でシミュレーター訓練を攻略しながら、ガブリエルの想念は、数日前に参加したVRMMOゲームのトーナメント大会へと戻っていた。

ガンゲイル・オンラインという名のそのゲームは、運営体はアメリカの企業だが、使用されているモジュールは日本で無償配布されているもので、キャラクターデザインも日本市場向けのものとなっている。ガブリエルは非公開のプロキシサーバを経由してその大会にエントリーし、ゲームが慣れ親しんだタクティカル・コンバットタイプのものだったせいもあって、大いに殺戮を愉しんだのものだ。

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