強く自問した直後に、いや、そんな生易しいものではなかった、と思い直す。

そう、まるで、自分がなぜこの場所に存在するのか、自分が誰なのかすらも分からなくなったような、圧倒的な空白が意識を侵食したのだ。

「貴様……剣から、直接オレの心意を吸いやがったのか」

低い唸り声でベルクーリは問うた。

答えは、左右非対称に歪んだ微笑だった。

舌打ちして、左肩を一瞥する。かすり傷、と言うにはやや深い。

「フン……楽しませてくれるじゃあないか、皇帝陛下。剣を撃ち合えねェとは、面倒な縛りだぜまったく」

にやりと笑いながら嘯くと、ベクタは一度瞬きしてから、ちいさく首を捻った。

「……ふむ。そういえば、試したことはなかったな」

言葉の意味は、すぐに解った。

皇帝は、右手の長剣を、無造作にベルクーリに向けて突き出したのだ。

その切っ先から青黒い嫌な光が、ぬとっ、と伸びた。

 なんだと……まさか、遠間からも。

という思考が閃いたのと、光がベルクーリの胸に触れたのは同時だった。

蝋燭の炎が立ち消えるように、意識がふうっと遠ざかった。

騎士長は、するすると近づいてきた剣が、己の左腋下に忍び込むのを棒立ちのままただ見つめた。

ずちっ。

という湿った音が響き、跳ね上がった長剣が、ベルクーリの太い腕をその付け根から切り離した。


「ぐ……う……うぅッ!!」

 アスナは、喉から溢れ出そうになった絶叫を、低い呻き声のみに押し止めた。痛み――などというものではない。高温のバーナーで体を穿たれ続けているような、許容量を超える圧倒的な感覚の爆発。

 ――痛いもんか。

痛いもんか、こんな傷!!

黒光りするランスは、上腹のやや左側を深々と刺し貫いている。おそらく背中からは一メートル近くも抜け出ているだろう。

肩越しにちらりと確認すると、真後ろにいた少年衛士は、幸い切っ先に頬を掠められただけだったようだ。アスナは、蒼白な顔で自分を見上げる少年に、全精神力を振り絞って微笑みかけた。

 この子の命の重さにくらべれば――わたしの、仮想の傷なんて!!

「うぅ……あッ!!」

気合とともに、身体を貫くランスを握ったままの左手に、ありったけの力を込める。

バギン! と耳障りな音がして、直径十センチ近い金属槍が掌のなかで砕け散った。手を背中に回し、突き出た槍を掴んで引っ張る。

目の前に火花が散り、指先からつま先までを灼熱感が駆け抜けた。しかしアスナは手を止めず、無理やりにランスを引き抜くと、それを足元に放り捨てた。

腹の巨大な傷と、口の両方から凄まじい量の鮮血が迸った。しかし身体をふらつかせることもなく、口元を右手でぐいっと拭い、アスナは燃えるような視線で眼前の敵を見上げた。

ランスの持ち主だった巨漢は、ヘルメットの奥の眼を、どこか戸惑ったように激しく瞬かせた。

「オーマイゴッド」

同じ言葉がもう一度繰り返され、早口の英語が続く。

「……なんだよ……ぜんぜん楽しくないぜ、こんなゲーム。俺はもう降りる。とっとと殺してくれ」

アスナは頷き、右手のレイピアで、大男の心臓を正確に貫いた。分厚い鎧を騒々しく鳴らしながら巨体が崩折れ、命の気配が消えた。

傷の痛みでは流れなかった涙が、なぜか今になって両眼に滲んだ。

この戦場を覆う痛みは、苦しみは、そして憎しみは、本来存在する必要のなかったものだ。

アメリカ人プレイヤーたちと、人界軍の衛士たちが殺しあう理由なんて何もない。出会う状況さえ異なれば、きっといい友達にだってなれたはずの人々なのだ。自分がそうであったように。

 仮想世界は……VRMMOは、こんなことのために生まれてきたんじゃない。

「うがっ……た……たす……」

日本語の悲鳴が、アスナの一瞬の想念を停止させた。視線を向けると、地面に倒れた衛士にむけて、今まさに巨大なランスが突き下ろされようとしているところだった。

「う……ああああ!!」

激情を雄叫びに変え、アスナは地を蹴った。

右手のレイピアをまっすぐに突き出す。左手を体の脇で握り締める。

 全身を、白い光が覆った。足が地面から離れ、まばゆい彗星となってアスナは飛翔した。細剣最上位突進技、"フラッシング・ペネトレイター"。

黒い槍兵が、無数の肉片と化して飛び散った。その向こうにいた敵も、同様の運命を辿った。さらにもう一人。

四人目の体を、巨大神像の根元に縫いとめ、アスナは動きを止めた。肩で息を吐きながら振り向く。

重槍突撃の第二波でも、五人以上の死傷者が出たようだった。しかし、参道入り口ではすでに、第三波の二十人が凶悪な槍衾を構えている。

ぐったりとした骸からレイピアを引き抜き、アスナは叫んだ。

「全員、持ち場を死守!! レンリさん、中央に移動してください!!」

アスナの身体を染める鮮血を見て顔を強張らせる若い騎士に、安心させるように短く微笑みかけてからアスナは続けた。

「――わたしは、単騎で斬り込みます。討ち漏らした敵だけ、よろしく頼みます」

「あ……アスナ様!?」

 喘ぐような声を出すレンリや他の衛士たちに、ぐっと右拳を突き出して――。

アスナは、一直線に走り出した。


体の重心が狂い、よろめいたベルクーリは、地面に転がった己の左腕を踏みつけた。

痛みよりも先に、その怖気をふるうような感覚に、意識が呼び戻された。

「ぐっ……!」

再び大きく跳んで距離を取る。

左肩の傷口から振り撒かれた血が、白い岩板に深紅の弧を描いた。

 なんて――ことだ。

剣を向けられただけで意識が強制停止されるだと。

剣を咥え、右手を傷口にかざしながら、ベルクーリは全速で思考を回転させた。その間にも、無詠唱で発動した治癒術が、青い光で出血を止めていく。しかし無論、腕を再生させるほどの時間も、空間力もこの岩山には無い。

どうする。どう対抗する。

 完全支配技"時穿剣・表"はもう通用しない。宙に留まる斬撃心意を、片端から吸われるだけだ。

 ならば"裏"なら。しかしあの技を発動するには、巨大すぎる条件が二つある。ひとつは、長すぎる攻撃動作を敵が黙って見ていてはくれないということ。もうひとつは――照準すべき座標の固定が、異常に困難だということ……。

考え続けようとした騎士長は、額を伝ってきた脂汗を、瞬きで振り飛ばした。

そのあと、不意に気付いた。

オレは今、必死になっている。

いつのまにか一欠片の余裕も無くなってるじゃねえか。

 つまり――こここそが死地だ。その際の際だ。

「……へっ」

整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンは、状況を正確に認識してなお、太い笑みを浮かべた。

 視線を、ゆるゆると近づいてくる皇帝ベクタから、頂上の片隅に横たわる黄金の騎士――アリス・シンセシス・フィフティへと動かす。

嬢ちゃんよ。

オレは、嬢ちゃんが求めていたものを、満足に与えてやれなかったな。親の情、ってヤツを。

なんせ、オレも自分の親ってもんをまるで覚えちゃいないもんでな。

でも、これだけは分かるぜ。

親は、子を守って死ぬモンだ。

「貴様には……永遠に分からねぇことだろうがな、化け物め!!」

叫び、ベルクーリは地を蹴った。

 策も何もなく、ただ愚直に、己の全てを剣に込め――最古の騎士は走った。


「がっ……は……」

荒い呼吸とともに吐き出された大量の血液が、足元に飛び散った。

地面に突き刺したレイピアだけを支えに、それでもアスナは立ち続けた。

重槍突撃の第三波、及び第四波をどうにか斬り伏せたものの、全身の受傷は十箇所を超えている。乳白色だった上着も、薄い虹色に輝いていたスカートも無残に引き千切れ、濃い赤一色に染まってしまった。

 ランスの直撃を受け、穴だらけになった体が、今も動くことが信じられない。いや――実際には、理不尽なまでに膨大な天命が、アスナに力尽きることを許さないのだ。

この体が崩れ落ちるのは、心が折れたときだけ。

なら、わたしは、永遠に立ち続けられる。

全身の体感覚はすでに無かった。灼熱感と極冷感が交互に神経を苛み、視界を歪ませる。

アスナは、薄暗い視界に敵第五波を捉えると、地面からレイピアを引き抜いた。

もう、俊敏な回避動作は取れない。

ならば、ランスを体で受け止め、しかるのちに斬るのみ。

羽のように軽かったはずのレイピアが、今はまるで鉛の棒だ。それを両手で構え、上体をかがめて、アスナは敵を待った。

「GO!!」

威勢のいい号令。ドッ、と地面が揺れ、二十の鉄塊が突進を開始する。

 どっ、どっ、どどどど……。

たちまち加速する足音に。

高周波の震動音が、どこからともなく混じった。

アスナは視線だけを上向けた。

赤い空から、一本の線が降りてくる。

それは、途切れ途切れのコードの羅列。

「…………ああ……」

零れた吐息には、ほんの少しだけ、諦めの色が混じっていた。

 しかし――。

ラインの色は、見慣れた黒ではなかった。夜明け前の空のように、深い蒼に染まっていた。

その事実がどういう意味を持つのか、もうアスナには推測できなかった。両眼を見開き、ただ結果のみを待った。

ラインは、高さ十メートルほどの空中でそのコードを凝集させ、一瞬の閃光に続いて、人の姿へと変じた。

ぶんっ。

突然、人影が霞んだ。回転をはじめたのだ。ヘリコプターのローターのように、あるいは巨大な竜巻のように、猛烈な唸りを上げて再度降下を開始する。

その真下に立つ二十人の重槍歩兵たちも、いつしか脚を止めて空を見上げていた。

 彼らのまんなかに、群青の竜巻がふわりと舞い降り――。

突如の深紅を生み出した。

血だ。竜巻に巻き込まれた歩兵たちが、瞬時にバラバラに分断され、広範囲に鮮血を撒き散らしたのだ。

放射状にばたばたと倒れた槍兵の中央で、竜巻はゆっくりとその回転を減じ、ふたたび人の姿に戻った。

背を向けて立つ、細身の長身。艶のある群青色の板金鎧が、逆光を受けて煌く。左手を腰の鞘の鯉口に添え、右手は、抜刀された恐ろしく長い曲刀をまっすぐ横に振り抜いている。

 アスナは、今の攻撃――技を、見たことがあった。

ソードスキル。

 カタナ広範囲重攻撃――"旋風車(ツムジグルマ)"。

ゆっくりと身体を起こした人影は、カタナを右肩に担ぎ、ひょいっと顔を振り向かせた。

趣味の悪い漢字柄のバンダナの下で、無精ひげの浮いた頬が、にやりと動いた。

「おう、待たせたな」

「ク……ライン……?」

アスナは、自分のかすれ声を最後まで聞くことができなかった。

突然、凄まじい震動音の重奏が、世界に満ちたからだ。アメリカ人たちが出現したときとまったく同じサウンドなのに、アスナにはそれが、最上の交響楽のように聞こえた。

 空から降ってくるのは――無数の色彩に輝く、幾千ものコードラインだった。


斬りかかる。

意識が薄れる。

受傷の痛みで覚醒する。

それを何度繰り返したのか、もう分からなかった。

皇帝ベクタは、まるで戦いを長引かせようとするかのように致命傷を与えてはこなかったが、数多の傷口から流れ出た血液、つまり天命の総量が、そろそろ最大値を上回りつつあることをベルクーリは知覚していた。

だが彼は、二百数十年の生で築き上げた不動の精神力を振り絞り、何も考えず、何も恐れず、脳裏でただ一つのことだけを遂行し続けていた。

数をかぞえること。

正確には、時間を測ることを。

時刻を察するという特技を持つベルクーリだが、その超感覚を、ただ一秒を厳密に感じるためにのみ使い、ひたすらに時を刻み続けたのだ。皇帝の剣に思考を混濁させられているその最中にすら、ベルクーリは無意識下で数字を積み重ねていた。

 ――四百八十七。

 ――四百八十八。

最も困難なのは、その行為を、明確な心意にしてはいけないということだ。

心を吸われ、時を測っていることを敵に知られてしまっては、この怪物ならばあるいは目的までも悟るかもしれない。

ゆえにベルクーリは、剣には全力の殺気のみを込め、愚直な攻撃のみを繰り返した。時には、挑発的な台詞までも吐きながら。

「……どう、やら……剣技のほうは、大したこと無ぇようだな……皇帝陛下、よ」

 ――四百九十五。

「こんだけ当てて、倒せねぇようじゃ……二流、いや、三流だな」

 ――四百九十八。

「そらッ、まだまだ行くぜ!!」

気合とともに、真っ向正面から斬りかかる。

 ――五百。

皇帝の周囲に広がる、青紫色の光の撒くに剣が触れる。

ふっ、と思考が途切れる。

気付くと、地面に片膝を突いており、新たに左頬に増えた傷から音を立てて血が滴る。

 ――五百八。

もうすぐだ。もう少しだけ保ってくれ。

ゆらり、と立ち上がり、ベルクーリは背後の皇帝を見た。

これまで一切の感情を見せなかったその顔に、かすかな嫌悪の色が浮かんでいた。原因は、斬りこみとともにベルクーリが飛び散らせた血の一滴が、白い頬に飛び散ったかららしい。

指先で赤い染みを擦り落とし、ベクタは囁いた。

「……飽きたな」

ぱしゃっ、と赤い水溜りを踏んで一歩前に出てくる。

「お前の魂は重い。濃すぎる。舌にこびりつく。その上単調だ。殺すことしか考えていない」

平板な声で切れぎれの言葉を連ねながら、皇帝はさらに一歩近づいてきた。

「もう消滅していい」

すう、と持ち上げられた剣が、粘液質の光を放った。

ベルクーリは表情を変えぬまま、しかし僅かに奥歯を食いしばった。

 もう少しなんだ――あと三十秒。

「へ……そう、言うなよ。オレは、まだまだ……楽しめる、ぜ」

よろよろと、誰もいない空間に向かって数歩踏み出す。右手の剣を持ち上げ、力なく動かす。

「どこだ……よ、どこ行きゃあがった。お、そこか……?」

両眼にうつろな光を浮かべ、騎士長は力ない動作で剣を振った。

こつん、と剣先が地面を叩き、さらに大きくよろめく。

「あれ……こっち、だったか……?」

再び、風切り音すらしない一撃。ずるずると片足を引き摺り、ベルクーリは尚も動き続ける。

 大量出血により視力を喪失し、思考すらも混濁した――としか思えぬ、情けない姿。

しかしそれは、騎士長一世一代の演技であった。

おぼろに霞がかった灰青色の瞳は、あるものだけをしっかりと捉えていた。

足跡である。

十分間の無為な攻撃により、決して広いとは言えない岩山の頂上には、ベルクーリの血がほぼ満遍なく振り撒かれている。それが皇帝のブーツの底と、騎士長の革サンダルの底に踏まれることで、明らかに異なる二種類の赤い靴跡が縦横無尽に走っているのだ。

 言い換えれば、それは――両者の詳細な移動記録だ。

譫妄状態の演技とともにベルクーリが目指しているのは、もっとも乾いて黒ずんだ、皇帝の足跡だった。

最初にベルクーリの左腕を切断したときに作られたものである。

無意識下の時間計測は、その直後から開始されている。

 つまり――皇帝ベクタは、十分前そこに存在した。そして、そこからどの方向に移動したか、血の足跡は如実に記録していた。

 ――五百八十九。

 ――五百、九十。

「おっと……みつけた……ぜ……」

ベルクーリは弱々しく呟き、左右にふらつきながら時穿剣を振りかぶった。

掛け値なしに最後の一撃となるはずだった。

剣に、そして主に残された天命は、双方ともに今まさに尽きんとしていた。

その全てを費やし、ベルクーリは、神器・時穿剣の武装完全支配技を発動させようとした。


 "時穿剣・裏"。

 斬撃威力を空間に保持し、"未来を斬る"表技とは逆に、裏は"過去を斬る"力である。

アンダーワールドのメインフレームは、あらゆるヒューマンユニットの移動ログを、六百秒つまり十分間ぶん記録している。

時穿剣はそのログに干渉し、正確に十分前のたった一秒の位置情報を、現在のそれとシステムに誤認させる。

結果、ただ虚空を斬った刃は、かつてその位置に存在した者の、現在の身体に届く。回避不可能、防御不可能の、文字通りあらゆる技や努力を裏切りあざ笑う一撃。

ゆえにベルクーリは、裏攻撃の発動を忌避し続けてきた。ユージオ青年と戦い、敗れたときすら、使えば難なく勝てたはずなのに使わなかったのだ。元老チュデルキンに、神聖教会への背信行為と取られかねないと分かっていながら。

しかし、同等以上に規格外の力を操る皇帝ベクタ相手に用いるに、一切の遠慮は無い。

皇帝ベクタの飛竜を落としたとき、ベルクーリは、一直線に同じ速度で飛ぶ敵の動きを利用し、十分前に敵が存在した座標を正確に割り出した。だが、互いに接近しての混戦では、座標特定は飛躍的に困難となる。

もちろん、十分前の一瞬に敵がどこに存在したかを覚えておくことはできる。しかしその方法だと、仮に技の発動を邪魔された場合、また十分の数えなおしとなってしまうのだ。

たとえば、この瞬間のように。


「お前、何か考えているな」

 滑るように接近してきた皇帝ベクタの、全身にまとわりつく青黒い"気圏"をベルクーリは打って変わって俊敏な動作で回避した。

 ――仕損じた。

記憶解放直前だった時穿剣を構えなおしながら、ベルクーリは胸中で呟いた。

これで、掛け値なしに万策尽きた。

秘策の存在を悟られた以上、皇帝はもう二度と大技を発動させるだけの猶予を与えてはくれまい。事実、ベルクーリに向かって、長剣から次々と青紫の光を伸ばしてくる。

騎士長は、しかし、その攻撃を全力で回避し続けた。

足掻く。

足掻いて足掻いて、醜く倒れる。己の死に様はそのように迎えると、ずいぶん昔に決めたのだ。

三回。四回。

五回までも、ベルクーリは皇帝の攻撃を避けた。

しかしそこでついに、光の触腕が身体を掠めた。

 ふっ、と意識が途切れ――。

目を見開いたベルクーリが見たのは、己の腹に深々と突き立ったベクタの長剣だった。

ずるっ、と刃が引き抜かれ、最後の天命が深紅の液体へと姿を変えて勢いよく噴き出した。

ゆっくりと後ろ向きに倒れる騎士長の眸に。

遥か高みから、大気を切り裂いて急降下してくる一頭の飛竜が映った。

 ――星咬。

おいおい、どういうこった。待機しとけって言ったろう。飛竜が、主の命令に背くなんて聞いたことねえぞ。

大きく開かれたあぎとから、青白い熱線が一直線に迸った。

一撃で数十の兵を焼き尽くす威力を秘めたそれを、皇帝ベクタは、無造作に掲げた左腕で受けた。

装備された透き通る黒の装甲が、熱線を四方へと難なく弾く。飛び散った火花が、眩く宙を焦がす。

 皇帝の剣からあの光が放たれ、白い熱線を遡るように星咬の体へと達した。以前乗っていた竜を、難なく支配したその技を受けて――しかし、ベルクーリの騎竜は停まらなかった。

その命を熱と光に転換しながら、皇帝へと真っ逆さまに突っ込んでいく。

ベクタの白い顔に、わずかに厭わしそうな色が浮かんだ。

剣を大きく引き絞り、己を咬み千切らんとする巨大な竜の口へと、無造作に突き立てた。

限界優先度の武器に押し戻された熱線が、行き場を失い逆流して、飛竜の体を引き裂いた。

 星咬が命を投げ出して作り出した、たった七秒の猶予――。

それを、ベルクーリは無駄にしなかった。

背後で、数十年の時を共に過ごしてきた愛竜が絶命する気配をまざまざと感じながら、騎士長は、記憶を解放され青い残影を引く時穿剣を、六百七秒前に皇帝ベクタが存在したことを示す血の足跡目掛けて全力で斬り降ろした。


時穿剣・裏のもうひとつの特性。

それは、システムに干渉するがゆえに、威力が対象の天命数値へと完全に届き得るということである。心意による防御もまた不可能なのだ。

ゆえに、あらゆる心意攻撃を無効化・吸収する皇帝ベクタの能力も、この瞬間だけは発動しなかった。

まず、システム上設定されたベクタの膨大な天命がゼロへと変じた。

そしてその結果として、皇帝の長身が、その左肩口から右腰にかけて完全に分断された。


ずるり、と切断面から体がずれる瞬間にも、皇帝ベクタの顔には一切の表情というものが無かった。蒼い瞳が、硝子玉のように虚ろに宙に向けられていた。

落下した上半身が、地面に接するその寸前。

漆黒の光が、心臓のあたりから炸裂し、無音無熱の大爆発を引き起こした。

それが収まったとき、地面には、皇帝の存在を示すものは何一つ残されていなかった。

数秒遅れて、ベルクーリの右手の中で、天命の尽きた時穿剣がかすかな金属音とともに砕け散った。


 ……あったかいな。

もう少し、このままでいたい。

アリスは、まどろみから目覚める寸前の心地よさに意識を漂わせながら、かすかに微笑んだ。

揺れる日差し。

身体を受け止める、大きな膝。

髪を撫でる無骨な手。

お父さん。

こんなふうに、膝まくらをして貰うのは何年ぶりだろう。この安心感を、完全に守られて、心配事なんか一つもない、何もかも大丈夫な感じを長いあいだ忘れていた。

 ああ……でも、そろそろ起きなきゃ。

そして、整合騎士アリスは、そっと睫毛を持ち上げた。

見えたのは、瞼を閉じ、微笑みながら俯いている初老の剣士の姿だった。

逞しい顔や首筋に走る幾つもの古傷。その上に、これも無数の真新しい刀傷が刻まれている。

「……小父様?」

アリスは、ようやくはっきりしてきた意識とともに、短く呟いた。

 そうだ――私、皇帝の飛竜に捕まったんだ。まったく、何て迂闊だったんだろう。背後も警戒しないで闇雲に突撃するなんて。

でも、やっぱりさすがは小父様だわ。敵の総大将から助け出してくれるなんて。この人さえ居れば、何もかも安心ね。

 微笑み、上体を起こしたアリスは――騎士長の受けている傷が、顔に留まらないことに気付き、息を詰めた。

 左腕は丸ごと斬り落とされている。白かった装束は、血で真っ赤だ。そして、はだけた胸の下に……恐ろしいほど深く、惨い傷が……。

「お……小父様……!! ベルクーリ閣下!!」

叫び、アリスは手を伸ばした。

その指先が、騎士長ベルクーリの頬に触れた。

そしてアリスは、偉大なる最古騎士の天命が、すでに尽きていることを悟った。


 ……おいおい、そんなに泣くなよ嬢ちゃん。

いつか、必ず来るときが来ただけじゃねえか、なあ。

己の骸にすがりつき、泣きじゃくる金髪の少女を見下ろしながら、整合騎士ベルクーリ・シンセシス・ワンはそう言おうとしたが、しかし声は地上までは届かなかった。

 ……嬢ちゃんなら大丈夫。もう、一人でもやってゆけるさ。

 なんたって、オレのたった一人の弟子で……オレの娘なんだからよ。

眼下の光景は、どんどん遠ざかっていく。愛しい黄金の騎士に最後の微笑みを投げかけ、ベルクーリは視線をかなたの空に向けた。

その下に居るはずの、もう一人の騎士へも思念を飛ばす。

届いたかどうかは分からなかったが、心の中にはただ、無限に続くと思われた日々の果てにも、ついに死すべきときが来たのだという感慨と満足だけがあった。

まあ、悪いくたばり方じゃねえよな。

「そうよ、泣いてくれる人がいっぱい居るんだから、幸せだと思いなさい」

不意に響いた言葉に振り向くと、そこに浮かんでいるのは、眩い裸体に長い銀の髪だけを流したひとりの少女だった。

「……なんだ、アンタやっぱり生きてたのかよ」

肩をすくめると、銀瞳を瞬かせ、最高司祭アドミニストレータは軽く笑った。

「そんな訳ないじゃない。これは、あなたの記憶のなかの私。あなたが魂に保持していた、アドミニストレータの思い出」

「ふうん、何だかよくわかんねえな。でも……オレの記憶のなかのアンタが、そうやって笑ってられてよかったよ」

ベルクーリもにやりと笑い、おっ、と横を見た。

そこには、いつのまにか愛竜・星咬がその長い首を摺り寄せていた。

銀色に透き通る飛竜の首筋を掻いてやってから、騎士長はひょいっとその背中に飛び乗った。手を伸ばし、アドミニストレータの華奢な体も自分の前に座らせる。

ただ一人の主は、振り向くと首を傾げて問うた。

「お前は、私を恨んでいないの? お前を無限に続く時間の牢獄に閉じ込めた私を?」

ベルクーリは少し考え、答えた。

「うんざりするほど長かったのは確かだが、でもまあ、面白え一生だったさ。うん、そう思うよ」

「……そう」

微笑むアドミニストレータから眼を離し、ベルクーリは星咬の手綱を鳴らした。

竜は透き通る両翼を広げ、無限の空を目指して、ゆっくりと羽ばたいた。


 遥か離れた北の空の下――。

大地に高く屹立する、かつて東の大門として知られた巨大な遺構の中央に立っていた整合騎士ファナティオ・シンセシス・ツーは、はっと眼を見開いて空を見上げた。

耳元に、愛する男の声が響いた気がしたのだ。

 ――済まねえな。どうやらもう、会えそうにない。

 ――後は頼んだぜ。その子を、幸せにしてやってくれ……。

同じ言葉を、ファナティオは、この場所で別れる直前に騎士長ベルクーリから掛けられた。

篭手に包まれた両手で、そっと下腹部を撫でる。

新しい命を授かったのは、三ヶ月前だった。これまで、百年というもの頑なにファナティオに触れようとしなかったベルクーリは、あるいはその時点から予感していたのかもしれない。

己の死を。

ゆっくりと地面に跪き、ファナティオは持ち上げた両手で顔を覆った。

自然と、嗚咽が漏れた。

ベルクーリが、ファナティオだろうと誰だろうと女性を遠ざける理由は、遥か昔に聞かされていた。

 整合騎士が異性と契りを結び、子を授かったとして――。

その子供は、天命凍結処理を受けているベルクーリやファナティオよりも、確実に先に老いて死んでしまうのだ。と言って、最高司祭に同様の処理を施してもらうのもまた残酷なことである。

ベルクーリがファナティオの気持ちを受け入れたのは、最高司祭が入寂したあとのことだ。

つまり彼は、見守ると決めたのだ。限りある時を生きる、我が子の姿を。

 ならば――。

「……御安心ください、閣下。この子は、私が立派に育てます。閣下のように、雄々しく、誇り高い人間に」

嗚咽とともに、ファナティオはしっかりと決意を言葉にした。

でも、今だけは。

今だけ、嘆く私を許してくださいね。

地面に身を投げ出し、かつて騎士長ベルクーリが駆け抜けていった土を握り締め、ファナティオは声を上げて泣いた。


「てめえらに個人的な恨みは無ぇが……」

長刀をまっすぐ黒の歩兵群に向けたクラインの、ブロークンな英語が古代遺跡に響き渡った。

「ダチをさんざ痛めつけてくれた借りは返すぜ。三倍返し……いや、億倍返しだこの野郎ども!!」

言い放つや、敵軍の壁にまっすぐ突っ込んでいく。その無謀さに、傷の痛みも一瞬忘れてアスナは呆れたが、直後クラインのすぐ隣に黒褐色のコードラインが降り注ぎ、新たな人影を作り出した。

現れたのは、大型工具のごとく無骨かつ凶悪なバトルアックスをひっさげた、チョコレート色の肌の巨漢だった。

「……エギルさん!!」

掠れた声でその名を呼ぶ。

 かつて、SAO攻略組を戦力面でも経済面でも強力にサポートし続けた"戦う商人"は、ちらりとアスナを振り返ると、魁偉な容貌ににやりと笑みを浮かべ、右拳の親指を立てた。

すぐに、地響きを立ててクラインの後から突撃していく。

三人目と四人目は、アスナのすぐ目の前に現れた。

青いワンピースの上にフリルつきの白いエプロンを重ね、腰に大型のハンマーを下げたショートカットの少女。続いて、軽快なスパッツ姿に銀灰色のチェーンメイルを装備し、二本のおさげを頭の両側に跳ねさせた小柄な女の子。

「リズ!! シリカちゃん!!」

ここでついに、アスナの両眼に涙が溢れた。

同時に全身から力が抜け、がくりと膝を突きながら、アスナは強い絆で結ばれた仲間たちに両手を差し伸べた。

「来て……来てくれたのね……」

「来るわよ、もちろん」

「当たり前じゃないですか」

同時ににっこりと笑ってから、リズベットはアスナの右手を、シリカは左手をぎゅっと握った。二人の顔が、泣き笑いに変化する。

「……こんなに無茶して……傷だらけになって……。がんばりすぎだよ、アスナ」

「あとは任せてください。みんな、来てくれましたから」

リズベットとシリカに両側から抱きしめられただけで、アスナは全身に穿たれた傷の痛みが、仄かな暖かさに溶け、消えていくのを感じた。

「ありがと……ありがとう……」

あとからあとから零れ落ちる涙を通して、コードラインの雨が、遺跡の入り口付近に降り注ぐのが見えた。

現れたのは、鮮やかな色彩を身にまとう無数の剣士たち。

一斉に剣を、斧を、槍や弓を握り、周囲の黒い歩兵たちに斬りかかっていく。

 その熟練の個人技と、見事に統制の取れた集団連携は、彼らがみなアメリカ人テスター達を上回る経験を持つVRMMOプレイヤーであることを示していた。

 ――そうか。

アスナは、ようやく再回転し始めた頭で状況を察した。

アメリカ人たちが現れた時点で、アンダーワールドの時間加速は当然一倍に固定されていたのだ。それはつまり、日本からでも、アミュスフィアによるダイブが可能だということだ。

でも、皆の身にまとう鎧や携えた剣の強い輝きからは、使用されているのがデフォルトの衛士アカウントでないことが如実に見て取れる。

 つまり――コンバートしたのだ。

 長い、長い時間と努力をつぎ込み、育てたVRMMOキャラクターを、アンダーワールドサーバーへと同等置換させたに違いない。

 もう一度、元のVRMMOに持ち出せるかどうかも定かでないのに。それどころか――アンダーワールドの法則を考えれば、"死亡"した瞬間にキャラクターがデリートされてしまうことだって有り得るのに!

「みんな……ごめん……ごめんね」

アスナは涙声で目の前の親友二人に、そして前線を押し上げていく沢山の剣士たちに謝った。

「何言ってるのよ、アスナ」

リズベットの答えは、揺るぎない確信に満ちていた。

「あたしたちがキャラを育ててきたのは、きっとこのためなんだよ。今この場所で、大切なものを守るために、あたしたちのアバターは存在したんだ」

アスナはゆっくり、深く、強く頷いた。

最後にぎゅっと二人の手を握り、立ち上がったときには、全身の傷はすべて消え去っていた。

と、背後から、おずおずと声が掛けられた。

「あの……アスナ様? いったい……あの騎士たちは……」

目を丸くして立っていたのは、整合騎士レンリだった。その後ろに、危地を救われた衛士たちも従っている。

アスナは、レンリとリズベットたちの間に視線を往復させてから、微笑みとともに答えた。

「わたしの、大事な仲間たち。リアルワールドから、助けに来てくれたの」

 レンリは数回瞬きし、リズベットとシリカに遠慮がちな視線を向け――。

その幼さの残る顔に、大きく安堵の表情が浮かんだ。

「……よかった……ほんとによかった。僕はてっきり、外の世界の人間たちは、アスナ様以外はみんなあの恐ろしい兵隊たちなのかと……」

「ちょっとちょっと、そんな訳ないじゃん!!」

少し心外そうな、しかし親しみを込めた笑顔とともに、リズベットがレンリの肩を叩いた。

「あたしリズベット。よろしくね、騎士くん」

「あ……は、はい。僕は、レンリといいます」

その光景を微笑みながら眺めていたアスナは、不意に、強い予感をおぼえた。

自分はたぶん、この光景を、一生忘れないだろう。

分かたれた二つの世界に生まれた人たちが、出会い、言葉を交わし、関係を築きはじめた、この瞬間を。

ここから続いていくはずの物語に、悲しみで幕を下ろしてしまうわけにはいかない。

大きく息を吸い、アスナは口調を変えてリズベットに尋ねた。

「リズ、コンバートしてくれた人たちの数は?」

「あ、うん。二千を少し超えるくらい、かな。がんばったんだけど……話を聞いてくれた人全員ってわけにはいかなかった……」

唇を噛む親友の背中を、軽く叩く。

「じゅうぶん過ぎるわ。でも……再コンバートの可能性を残すためにも、消耗戦は避けたいわね。あまり前線を広げないで、ヒールを厚くしよう。リズとシリカちゃんは、二百人くらい後方に下げて、支援隊を組織して」

意識を戦闘に切り替え、アスナはレンリと衛士たちにも口早に指示した。

「皆さんも、不本意でしょうが治癒術要員に回ってください。リアルワールドの剣士たちは神聖術に不慣れなので、彼らにコマンドを教えてやってくださると助かります」

「は……はい! 衛士隊、聞いてのとおりだ! 援軍のかたがたを支援するぞ!」

すぐに、この一両日の連戦に疲弊の色濃い衛士たちも、強く応の叫びを返した。

「……それで、アスナさんはどうするんですか?」

訊いてくるシリカに、アスナは片目をつぶってみせた。

「勿論、いちばん前で斬り込むわよ」


もう、負ける気はさらさらしない。

 最前線に駆けつけ、そこにアルヴヘイムで見慣れた面々――シルフ領主サクヤや、ケットシー領主アリシャ、サラマンダー将軍ユージーンらの姿を見出したアスナは、意を強くしながら彼らと深く頷きを交わした。

 いや、ALOからのコンバート組だけではない。

正確極まるクロスボウの連射で、剣士たちを強力に援護しているのはガンゲイル・オンラインのガンナーたちだろう。

 それに、密に固まって嵐のように敵をなぎ払っていくのは、かつてあまたのVRMMOを席巻した最強集団、スリーピング・ナイツの面々だ。

アスナを見つけ、にこっと笑顔を送ってくるシーエンの顔に、もう一度涙がにじみそうになるのを堪える。

彼らは皆、分身たるアバターを喪失する覚悟で助けにきてくれたのだ。ならば、ただ一人スーパーアカウントに保護されている自分が最大の危険を冒し、彼らの犠牲を最小にとどめなくてはならない。

アスナは戦場を走り抜け、広がりすぎた前線を縮小して、遺跡参道の入り口を中心とした半円形へと築きなおした。

いかにコンバートプレイヤーたちのステータスが強力と言えども、総数二千に対してアメリカ人プレイヤーたちはまだ一万を超える数が残っている。消耗戦になれば、死者つまり喪失するアバターの増加は避けられない。

幸いというべきか、アンダーワールド人界軍の少なさと必死の防戦ぶりに戸惑いを見せつつあったアメリカ人たちも、この状況に至って、これを通常のベータテストと認識しなおしたようだった。威勢のいい叫びとともに、日本プレイヤーの防御線に馬鹿正直な突撃を繰り返し、次々と倒れていく。

 残る最大の懸念は――。

 アンダーワールドに厳として存在する、リアルな"痛み"だった。

斬られ、痛みを感じたときにはもう死亡・ログアウトするアメリカ人たちと違い、負傷・後退・回復を繰り返す日本人たちは、常に強い苦痛に晒され続ける。

それが、徐々に心を折っていくのは、アスナが先刻我が身で実感したとおりだ。

 お願いみんな……がんばって。あと一万、いえ九千の敵を削り切るまで。

そうすれば、オーシャンタートルを襲撃した者たちが、アンダーワールドで行使できる戦力は尽きる。あとは、騎士長ベルクーリとシノンが足止めしていてくれるはずの皇帝ベクタに追いつき、アリスを奪還するのみ。

最前線でレイピアを振るいながら、アスナは精一杯の声で叫び続けた。

「大丈夫……勝てるよ! みんななら、絶対に勝てる!!」


広野タカシは、何度目かの、一体僕はここで何をしているんだろう、という疑問を感じていた。

 午前五時に友人からのメールで叩き起こされ、ログインしたALOでの理不尽極まるコンバート要請に応じたのは、決して演説していた女の子に共感したからでも、涙にほだされたからでもない。

正直、なんとなく、というのが一番近い。

 どんなVRMMOだろうという好奇心が少し。高校に入って初っ端の実力テストが最悪だったせいで、どうせもうすぐ親にアミュスフィア取り上げられるし、という投げ遣りな気持ちがもう少し。そして――何かがあるのかも、見つかるかも、というほんの僅かな予感。

 二年間の廃プレイで育て上げたキャラクターをコンバートし、聞いたこともないサーバーにログインしたタカシを待っていたのは、目の前に立ちはだかる黒い鎧の大男と、本場の発音による"サノバビッチ"と、振り下ろされるハルバードだった。

悲鳴を喉に詰まらせながら飛び退いたが、斧槍の先っぽが左脚の装甲にがつっと食い込んだ。

あんな痛みを感じたのは、小学生の頃に自転車で転び、スネの骨を折ったとき以来だった。

 聞いてねえよ――!! と内心で絶叫しながら、タカシはハルバードの追い討ちを懸命に掻い潜り、抜いた廃装備の片手剣で何とか大男とのタイマンに勝利し、脚の傷から流れ出るリアルな血に吐きそうになっていたところを、引っ張られるように戦域後方の回復部隊へと連れてこられたのだった。

僕はここで何をしているんだ。

という疑問に曝されつつ、もう嫌だ、ログアウトする! と口走るタカシの治療に当たったのは、薄青い僧侶服を着た、つまり僧侶なのであろう同年輩の女の子だった。

 なんだか――不思議な感じがした。

「まあ、酷い傷! すぐに治して差し上げますから、騎士様」

 細い声でそう言い、タカシの脚に両手をかざして呪文――というかコマンドを唱える女の子を見て、一瞬NPCかと思った。

しかし、灰色がかった茶色の瞳に浮かぶ懸命な色、異国風なのに何人だか定かでない顔立ち、そして、傷を癒していく白い光の暖かさ。それら全てがタカシに、この子は本物の人間なのだ、と告げていた。

 そんなことがあるのだろうか。日本語を話すのに、日本人プレイヤーではなく、NPCでもない。ならば、この女の子は一体誰なのか。そして、ここは何処なのか。

 奇妙なことではあるが、タカシは、左脚の傷とその痛みを受けたときよりも、それらが暖かな光に溶けるように癒されていく瞬間はじめて、自分が単なるVRゲームではなくある種の巨大な出来事(もしくは運命)の只中に居るのだということを強く意識した。

「さあ、これでもう大丈夫です、騎士様」

僧侶服の少女が、少しだけ誇らしげな表情で両手を離したとき、あれほど惨たらしかった傷口はすっかり塞がり、薄茶色の痕がわずかに残るのみだった。

「あ……ありがとう」

 タカシはつっかえながらも礼の言葉を口にした。何かもう少し、"騎士様"に相応しい気の利いた台詞が言えないものかともどかしく思い、しかし俯けた顔がかあっと熱くなるだけで舌はぴくりとも動こうとせず、気付くと彼は、自分でもまったく思いがけない行動に出ていた。両腕を伸ばし、少女の華奢な体を、そっと抱き寄せたのだ。

 もしこの世界が、通常のVRMMOワールドであれば、タカシの行為は"NPCへの不適切な接触"コードを侵害し、警告を受けるか強制的にログインステージまで戻されていただろう。

しかし僧侶見習いの少女は、タカシの腕のなかでぴくりと体を震わせ、驚いたように小さく息を吸い込んだだけだった。数秒後、タカシは、少女の腕がおずおずと自分の背中に回され、控えめではあるが確かな圧力をもって引き寄せるのを感じた。

「大丈夫ですよ、異国の騎士様」

肩口で、穏やかなささやき声が発せられた。

「臨時の神聖術師の私だって、こうして……ささやかですが、自分の務めを果たせているんですもの。騎士様はその何倍も、立派に、勇敢に、戦っておいでです。いくさ場で畏れの風に惑わされたときは思い出してください……ご自分が、多くの民を、そして世界を守るために剣を取っているのだということを」

口をつぐみ、少女は、いっそう強くタカシを抱きしめた。

タカシにとって、女の子と抱き合うという経験は、現実世界と仮想世界を通して初めてのことだった。しかしたとえ、万が一現実世界で彼女ができるようなことがあったとしても、この瞬間を上回る経験は決してできまいという確信があった。

目くるめく一瞬が過ぎ去り、互いの体がそっと離されたあと、タカシは意を決して尋ねた。

「君……よかったら、名前を教えてくれないか」

幸い、今度はスムーズに口が動いた。見習い僧侶は、白い頬をほんのりと赤く染めながら頷き、言った。

「はい……。私はフレニーカと言います。フレニーカ・シェスキ」

「フレニーカ」

 不思議な響きだが、しかし目の前の少女にしっくりと馴染むその名を呟いてから、タカシははっきりとした声で名乗った。"ヴォルディレード"というキャラクター名ではなく、大嫌いなはずの本名を。

「僕は……僕の名前はタカシ。広野タカシ。……あの……この戦争が終わったら、また、会えるかな」

フレニーカは眉をわずかに持ち上げ、その下の薄茶色の瞳を微笑むようにきらめかせて頷いた。

「勿論ですとも、騎士タカシ様。戦が終わり、世界に平和がきたら、その時にはかならず。ご武運を……いつも神にお祈りしております」

膝の上に置かれたタカシの左手を、フレニーカはぎゅっと両手で包み込んでから、恥じ入るように俯き、さっと立ち上がった。

 薄い青色の僧服の裾をひるがえし、たたっと天幕の外へ走り去っていくフレニーカの姿を見送りながら、タカシは強く意識した。再び彼女の前に、胸を張って――騎士として立つためには、彼女の言うとおり、勇敢に戦い抜かねばならないと。この世界は、もはやゲームでも、そしてある意味ではアミュスフィアが作り出す仮想世界ですらもないのだ。タカシの生まれ育った現実世界と同じ質量を持つ、もうひとつの現実なのだ。

もしかしたら、ログアウトしたあと、何を馬鹿なことを考えたんだ僕は! とのたうち回る羽目になるかもしれなかったが、しかしタカシはこの瞬間だけは本気で信じた。そして決意した。

 たとえHP、いや命が尽き、この世界から放逐されるときがきても、最後の一瞬まで前を向き、剣を振りかざそう。どれほどの傷、痛みを与えられようとも。それが出来なくては、きっと二度とフレニーカと会うことはできまい。

 タカシは立ち上がり、おっしゃあ! と叫んで、再び最前線目指して走りはじめた。*「間に合った……ッスかね……」

酷使しすぎて強張った両腕をぶらぶらさせながら、比嘉タケルは呟いた。

 日本のVRMMOネットワークから急遽送り込まれてきた約二千ものアカウントデータを、わずか一時間足らずでアンダーワールド適合形式にコンバートしてのけたのだ。両手の指先に、キーボードの硬い感触が張り付いてしまったかのようだ。

「間に合ったわ。必ず」

スポーツドリンクのボトルを差し出した神代博士が言った。

受け取り、握力の失せた右手で苦労してキャップを捻ると、中身を大きく呷る。ベンダーの電源はとうに落ちているので、液体は生ぬるかったが、それでも腸に染み入るようだった。

ふうっと息を吐き、比嘉はゆっくり首を振った。

「まったく……なんて迂闊だったのか……」

 ラース六本木支部に突然現れた二人の女子高生から、メインシャフト下層を占拠する襲撃者たちが、現実世界のアメリカ人VRMMOプレイヤーたちをアンダーワールド内で戦力として利用しようとしていると告げられたときは、たっぷり五秒近く思考停止してしまったものだ。

 しかもそれを察したのが、結城明日奈の携帯端末に潜んでいた既存型AIだと言われれば、自分の目のフシ穴っぷりと脳みそのスポンジっぷりを全面的に認めるしかなかった。

 取るものもとりあえず、菊岡二佐の知己だという女子高生たちを残るスーパーアカウントでダイブさせ、しかる後に膨大なコンバート作業をこなし、どうにか"援軍"を結城明日奈の現在座標に降下させたところ――である。

五万を超えるアメリカ人プレイヤーたちに、創世神ステイシアたる明日奈と人界軍が排除されていれば、アリス確保の可能性はほぼ潰える。実際、状況を認識した菊岡と中西一尉は、オーシャンタートル外壁を人力で登攀し、衛星アンテナを物理破壊することも検討していた。

しかし、外壁に出るには、どうしても一時的に耐圧隔壁のロックを解除する必要がある。それを襲撃者たちに察知されれば、サブコントロールまで制圧されるという最悪の結果を招きかねない。

ゆえに、菊岡と比嘉は、すべてを託すことにしたのだ。女神としてアンダーワールドに降り立った三人の女子高校生たちと、アカウント喪失のリスクを承知で援軍に志願してくれた、日本の若者たちに。

この時点で、プロジェクト・アリシゼーションの機密はすでに半ば以上がネットに流出してしまったことになる。

しかしもう、そんなことは大した問題ではない。

 襲撃者たち――そしておそらくその背後にいるのであろうアメリカ軍産複合体にアリスを奪われ、来るべき無人兵器の時代を、またしても彼らに完全支配されてしまうことに比べれば。

「そうッスよ……」

比嘉はシートにぐったりと身を沈ませながら、誰にも聞こえない音量でひとりごちた。

「"アリス"はもう、ただのUAVコントローラなんかじゃない。本物の異世界に生まれた、新しい人類なんだ……君にはとっくにそれが分かっていた、そうッスよね、桐ヶ谷君」

視線を、アンダーワールド南部の地勢を表示するメインウインドウから、片隅に表示された桐ヶ谷和人のフラクトライトモニタに向ける。

ささやかに揺らぐ放射光は、相変わらずその中央に寒々しい虚無を抱え込んだままだ。失われた主体。傷ついた自己イメージ。

これ以上そのウインドウを開いておくのがいたたまれず、比嘉はマウスを操作して、窓を閉じようとした。

 そして×印をクリックする寸前、ぴたりと指を止めた。

「ん……?」

丸い眼鏡を持ち上げ、目を凝らす。おや、と思わされたのは、ウインドウ下部に横長の線で表示された、フラクトライト活性の変動ログだった。

ほんの四、五十分前。それまで殆ど動くことのなかったラインが、鋭いピークをたった一つだけ刻んでいた。慌ててログを過去にスライドさせる。するとはたして、八時間ほども遡ったあたりに、もう一つさらに大きなピークが見出された。

「ちょ……ちょっと、凛子ハカセ。これ見てくれますか」

「その呼び方やめてちょうだい」

嫌そうな声とともに、ドクター神代がメインスクリーンに顔を向けた。

「これは、桐ヶ谷君のフラクトライトモニタでしょ? この変動は何なの?」

「彼の、全喪失したはずの自己意識が一瞬活性を示した……ってことなんスが……そんなこと、あるはず無いはずなはずなんス」

「日本語おかしいわよ。――外部から、何か強い刺激があったんじゃないの?」

「と言っても、その刺激を処理する回路が吹っ飛んでる状態なんスよ。本能や反射を処理する領域の活性ならまだ分かりますけど……ええと、この時間は……」

比嘉はログ窓のタイムスケールに目を凝らした。だが、それを確認したところで、その時刻にアンダーワールド内部で何があったのかまでを知るすべは無い。

 しかし、その時――。

「ちょっと待って」

神代博士が、緊張感の増した声を出した。

「この時間。これ……どっちも、あの子たちがSTLでダイブした頃じゃないの? 明日奈さんと、六本木に現れた二人が」

「えっ、マジっスか。……うわ、マジっスよ」

比嘉も息を飲んだ。たしかに、折れ線グラフに二つの鋭利なピークが刻まれた時間は、まさしく女子高校生たちがアンダーワールドに降り立った直後に他ならない。

「えっ、どういうことなんだ……。ただ、親しい人間が現れたから強い反応を示した、ってだけなのか? いや……桐ヶ谷君のダメージは、そんなリリカルな理由で回復する代物じゃないはずだ……何か理由が……フィジカルでメカニカルな理由があるはずなんだ……」

シートから立ち上がり、比嘉はうろうろとサブコンを歩き回った。容易ならざる気配に気付いたのか、さすがにダウン気味だった菊岡や、壁際にへたりこむ技術者たちもいぶかしい視線を向けてくる。

しかしそれを意識もせず、比嘉は思考をひたすら回転させた。

「自己……主体……己を己と規定するイメージ……そのベクターデータのバックアップが、どこかにあった……? いや、有り得ない……キリト君のフラクトライトは一度もコピーしていない……仮にコピーしていたところで、それを単に書きもどすだけじゃ機能しないはずだ……生きた接続回路を持つデータじゃないと……どこだ……どこに……」

「ねえ。ねえ、比嘉くん」

ヒガくんってば、と何度か名前を呼ばれて、ようやく比嘉は顔を上げた。

「なんッスか」

「前から君が言ってる、主体の喪失、って具体的にどういうことなの?」

「ええと……そりゃつまり……」

黙考を邪魔されて、あからさまな渋面を作りながらドクター凛子に答える。

「心のなかの自分っスよ。客体に対する主体。自分ならこの場面でどうするか、を処理する回路」

「うん、それは前にも聞いたわね。でも、私が言いたいのはね……主体と客体って、そんな簡単に分割できるものなの? ってことなの」

「は?」

予想外の言葉に、比嘉は激しく目をしばたかせた。

しんと静まり返り、クーリングユニットの低音だけが響く部屋に、神代博士の艶のある声が流れる。

「私たちは理系だから、どうしても主観的予測と客観的データを厳密に切り分けようとする習い性があるけど……でも、こと心に限って言えば、自分ひとりだけで自己像を規定するなんてこと、ほんとにできるのかしら。自分のなかの自分ていうのはつまり、他の人の目から見た自分とかなり重複する部分がある……、そうは思わない?」

「他人の……なかの……自分……」

言葉にしたとたん、比嘉はその概念が、自分のもっとも忌避する種類のものであることを自覚した。

人にどう見られるか。人と比べてどうか。

 ――神代凜子にどう見られるか。

 ――茅場晶彦と比べてどうか。

 そうか……。

 僕は、自分の顔すらよく知らない。たぶん似顔絵を描けば、似ても似つかぬ代物になるだろう。それは僕が、自分の容姿を――どう足掻いても茅場先輩と比べるべくもない有様を、遠い昔から忌避してきたからだ。僕のなかの主体なんて、所詮その程度のものなんだ。

 おそらく、周囲の人間のなかの"比嘉タケル像"を集めて合成すれば、かなりのところまで再現できてしまう程度のものでしかないのだ……。

 こりゃ一本取られた、と自嘲ぎみの微笑みを浮かべようとした比嘉は――。

びくっ、と口元を強張らせた。

ここに至ってようやく、凛子博士の発言の真意を悟ったからだ。

「……セルフイメージの、バックアップ」

呟き、がばっと顔を上げたときにはもう、情けない自己嫌悪など欠片も残さず消え去っていた。

「そうか……ある、あるぞ、桐ヶ谷君が吹っ飛ばしちまった主体を補い得るデータが! 彼に近しい人たちのフラクトライトの中に……!!」

叫び、先刻に倍する速度で床上を歩き回る。

「でも、それを抽出するにはSTLが必要だ……しかも、一人だけじゃ再現性が薄い……せめて二人、いや三……人……」

大きく息を吸い、止める。

 桐ヶ谷和人をもっとも深く知り、そのイメージを魂に保存している人物。それは間違いなく結城明日奈だ。しかも彼女は、まさに今、和人の隣のSTLに接続している。

 そして六本木分室のSTLには、おそらく和人とも知り合いなのであろう女の子が、さらに二人。

比嘉は菊岡二佐に視線を向け、掠れた声で聞いた。

「菊サン。六本木からダイブしてる子たちは、桐ヶ谷君の関係者……なんスよね?」

「……ああ、無論」

菊岡も、黒縁メガネのレンズをきらーんと輝かせながら頷いた。

「シノン君は、キリト君に文字通り命を助けられた仲だ。そしてリーファ君は、キリト君の妹だよ」

一瞬の沈黙に続き、比嘉も丸メガネのレンズを光らせた。

「……来た。来たっスよこれ! できる……復元できるかもしれないッス、キリト君のセルフイメージを! 女の子たちのフラクトライトから、強固に構築されてるはずの桐ヶ谷君像を抽出・融合させて、STLを使って喪失領域に繋いでやれば……その"生きたデータ"は、桐ヶ谷君のフラクトライトに接続し得るはずだ……」

体の底から湧いてくる熱気に、比嘉はばしっと両手を打ち合わせた。

 そして――一秒後。

その熱が、跡形もなく奪われ、冷えていくのを感じた。

「あっ……ああ……うそだろ……あああっ……」

「ど、どうしたの、何なのよ比嘉君!」

早口に言い募るドクター神代の顔を見て、比嘉はうわごとのように呟いた。

「その操作が……できるのは……メインコントロールからだけッス……」

再び、重い沈黙が灰のように降り注ぎ、サブコントロールルームの床に積もった。

深いため息を漏らしたのは、指揮官である菊岡だった。

「そうだな……当然、そういうことだ……。いや、そうしょげるな、比嘉君。キリト君の治療に光明が見えただけでも良しとしよう。実際のオペレーションは、状況が終了し、オーシャンタートルから連中を追い出した後からでも……」

「それじゃあ……遅いんスよ……」

比嘉は俯いたまま菊岡の言葉を遮った。

「"ながと"からコマンドが突入してきて、メインシャフトで大規模な戦闘になったら、十中八九サブ電源も落ちるでしょう。メインコンも破壊されるかもしれない。当然、桐ヶ谷君のSTLはシャットダウンして、彼はアンダーワールドからログアウトする。そしたら……おそらく桐ヶ谷君は、もう二度とSTLダイブは出来ません。今の状態では、初期ステージを通過できないスから……。治療はなんとしても、彼と三人の女の子たちが、アンダーワールドに接続してるあいだに行わなくちゃならないんス」

淡々と言葉を続けながら、比嘉は自身のなかに、ある種の決意が満ちてくるのを感じていた。

こんな時、自分ならどうするか。

しばらく前ならば、おそらくこう答えていただろう。僕に何ができるわけもない。茅場センパイじゃあるまいし、と。

でも、そんなものは本物のセルフイメージじゃない。ただの逃げだ。言い訳だ。

 僕が知っている比嘉タケル、STLとアンダーワールドを設計した大天才ならば、きっとこう言うはずなんだ。

「……僕、行くッスよ、菊さん」

「行くとは……どこにだ」

眉をしかめる指揮官を見やり、比嘉はにやりと笑った。

「別に、下に殴りこもうってわけじゃないッス。メインコントロールから、キリト君のSTLに繋がってる主回線ダクトには、一箇所だけ点検用コネクタがあったはずッスよね。あそこに端末を繋げば、四つのSTLの操作だけなら可能ッス。残念ながら、ライトキューブクラスタは別回線ですが……」

一瞬、唖然とした顔を見せた菊岡は、鋭さを増した表情で反駁した。

「しかし、コネクタは隔壁の向こうだぞ。一瞬でもロックを解除すれば、敵に意図を悟られるかもしれん。それに、ケーブルダクトは下からもアクセスできる。あんな狭いパイプの中で、敵に発見されたら撃ってくれと言うようなものだ」

「一番目の問題は、囮作戦でいきましょう」

「オトリ、とは?」

「隔壁を解除したら、艦内通路のハッチからも下に突入させるんス。もちろん、貴重な人員をじゃなくて……アレを」

再び、菊岡の細い目が光った。

「なるほど……アレか。"ロボ三衛門"だな。すまない、誰か隣の倉庫から運んできてくれないか」

スタッフの一人が通路に走り出すのと同時に、神代博士ががくんと顎を落とした。

「な……なにそれ!?」

「凛子先輩は、人工フラクトライトのこちらでの姿をご存知ッスよね?」

「姿……つまり保存メディア? ライトキューブのこと?」

「そう、単なるこれっくらいの立方体です」

比嘉は両手で五センチ四方のサイコロ型を示しながら頷いた。

「つまり、単体では一切の動作や移動が出来ない。それでは、仮に"アリス"が完成し、現実世界にイジェクションしたところで、体が無いというストレスで崩壊してしまうのではと我々は危惧したんス。ゆえに、まあ、その、人間型のマシンボディを試作してみようと。幸い予算はタップリあるし」

ちょうどその時、ドアがしゅっとスライドし、大きな台車がごろごろと運び込まれてきた。しゃがむ形で乗っているのは、確かに人間のシルエットをしてはいるが、どこか大昔のロボットヒーローめいた外装を与えられた等身大のメカニカルボディだ。

「あっ……きれた……。国民の税金をチョロまかして、そんな物作ってたのね……」

「いやいや、バカにしたもんじゃないッスよ! 既存の制御プログラムでも、時速二.五キロで二足歩行するんスから! 人工フラクトライトは、勿論僕らと同レベルのバランサー機能を備えてますからね。こいつに搭載すれば、理論上はナマの人間に迫る動きが可能なはずッス!」

「はぁ……、まあ……いいわ」

神代博士は額を押さえながら二、三度頭を振り、表情を切り替えた。

「つまり、隔壁ロックを解除したあと、通路のハッチからその……ロボザエモンをオートプログラムで侵入させるわけね。まあ……確かに目立つ、というか悪巧み以外の何物にも見えないでしょうけど……」

「そして同時に、僕がケーブルダクトに侵入する。連中が哀れな三衛門を撃ちまくってるあいだに、コネクタからSTLを操作する」

「ねえ。ちょっと待って。ザエモンて……まさか、イチエモンとニエモンが……」

比嘉と菊岡はドクター神代の疑問を黙殺し、深刻な表情で作戦検討を続けた。

「しかし比嘉君。ロック解除はそれで誤魔化せたとしても、君が発見される危険が完全に消滅するわけじゃないぞ。やはり、護衛を数人連れていったほうが……」

「いえ、今となっては自衛官スタッフは貴重すぎる戦力ッス。それに、あんなクソ狭いダクトを移動できるのはガリチビの僕くらいッスよ。何、さっと行ってさっと帰ってきますから」

 比嘉は軽い調子でそう言った――ものの、やはり心拍が増加するのは止めようがなかった。

もし敵に発見され、拳銃で撃たれたら、と思うと胃の下あたりがきゅうっと縮む。オーシャンタートル襲撃時ですら、比嘉は直接には敵コマンドの姿を目視していないのだ。

しかし。

僕は、いやラースという組織全体が、桐ヶ谷君に巨大な借りがある。比嘉タケルは内心でそう呟いた。

 記憶をブロックしたとは言え、現実世界で三日、内部では十年以上もの時間を過ごさせて、人工フラクトライト達に重要なトリガーを与えてもらった。限界突破フラクトライトたる"アリス"が発生したのは、間違いなく彼の存在あってこそだ。

 さらにその後、治療目的だったとは言えリミッターを解除したSTLにつなぎ、結果としてフラクトライト破損という重大なダメージを被らせてしまった。しかもその原因は、彼がアリスを保全しようとしてアンダーワールド統治組織と苦しい戦いを繰り広げ、多くの仲間を失ったせいなのだ。

ならば、彼を治療できる可能性がある以上、どんなリスクを冒してでもそれに挑戦しなくてはならない。そうでなくては一生彼に顔向けできない。

比嘉タケルはぐっと両拳を握り、菊岡に頷きかけた。

 ――その時だった。

第四の声が、細々とサブコントロールルームに響いた。

「あのぉ……私も、比嘉チーフと一緒に行きますよ……」

全員の視線を集めたのは、これまで壁際のマットレスにうずくまっていた、ラース技術スタッフの一人だった。比嘉に負けず劣らず小柄で、四肢の細さではあるいは上回るかもしれない。

「私もこんなガリガリですし……でも、弾除けくらいには……なるかな、って……。それに、あのケーブルダクトの敷設監督したの、私ですから……」

これまであまり存在感のなかったその男性スタッフの顔を、比嘉はまじまじと見つめた。けっこう齢が行っている、おそらく三十代半ばか。長い髪を後ろで束ね、海のまんなかに何ヶ月もいたにしては肌が白い。勇気ある挙手をしたわりには、小さい眼をおどおどと泳がせているが、しかしこれでも確か大手メーカーの研究職ポストを蹴って偽装企業ラースに参じた志ある人物だったはずだ。

正直、道連れができるのはありがたい。比嘉はそのスタッフにまっすぐ向き直り、深く頭を下げた。

「……ほんとのトコ、コネクタの位置をいまいち覚えてないんスよね。すみません、同行お願いします……柳井さん」


ガブリエル・ミラーは、わずかな意識途絶も起こさず、スムーズに現実世界へと帰還した。

 いや、正しくは、帰還ではなく予定外の放逐と言うべきだった。STLのシートベッドに横たわったまま、ガブリエルはかすかな驚きの味を口中に転がした。

よもや自分が、仮想世界での一対一での戦闘で敗れるとはついぞ予想していなかったのだ。しかもその相手は、人間ではなく人造の擬似意識だった。

あの老いた男に敗れた理由がなんなのか、ガブリエルは貴重な数秒間を費やして考えようとした。

 意思の強さ? 魂の絆? 人と人とをつなぐ愛の力……?

馬鹿馬鹿しい。

 ガブリエルは、自覚することなく唇の端に仄かな冷笑を浮かべた。この世界に、目に見えぬ力があるとすれば、それはただ一つ――自分を、来るべき楽土へと導く運命の力だけだ。

つまり、敗れたのは必然だ。それが必要だったからだ。運命は、暗黒神ベクタなどという紛い物の姿ではなく、ガブリエル自身の血肉を求めている。正しいかたちで、再びあの世界に降り立つことを求めているのだ。

ならば、そうするまでだ。

思考を終え、ガブリエルは音もなくシートから降りた。

 もう一台のSTLに目をやると、意外にもヴァサゴ・カザルスがまだダイブを継続している。とっくに"死亡"し、ログアウト済みかと思っていたのだが、この男はこの男で何か求むべきものを見出したのだろうか。

まあ、好きにすればいい。

肩をすくめ、ガブリエルは隣接するメインコントロールルームへのドアをくぐった。すぐに、金色の坊主頭がコンソールからひょいっと離れ、緊張感の無い声を放ってくる。

「おつかれです、隊長ー。いやー、やられちまいましたねえー」

「状況は」

そっけなく尋ねると、クリッターはやや表情を改めて報告を返した。

「えー、ご指示のとおり、アメリカから掻き集めたプレイヤー五万人を順次投入しました。すでに半数が損耗していますが、マァ『人界軍の殲滅』という目的は達せられるでしょう。不確定要素としては、K組織側も同様の手段に出まして……戦場に、日本からの大規模接続が確認されましたが、数は二千程度なので、大きな問題にはなるまいと……」

「フムン?」

ガブリエルは片眉を持ち上げて主スクリーンを見た。

 そこには、アンダーワールド南部の地形図が表示されている。"東の大門"から一直線に南へと飛び、×印とともに途切れている赤いラインは、暗黒神ベクタことガブリエルの移動ログだろう。世界の南端に存在するシステムコンソールまではまだ半分も来ていないが、アリスは今もその場所に留まっているはずだ。

そして、赤いラインを追いかけるかたちで、青の太いラインも南下している。これが人界軍か。いまは密に固まって停止しているようだ。

 その青い人界軍を半包囲するかたちで、黒で表示されている大勢力が押し潰そうとしている。これがアメリカ人のVRMMOプレイヤーとすると、青と黒の間に防壁のように広がる白い光が、日本からの接続者二千――というわけか。

「この日本人たちが使用しているのは、人界側のデフォルトアカウントなのか?」

「だと思いますがねー。それが何か?」

「いや……」

 ペットボトルのミネラルウォーターを呷りながら考える。日本のVRMMO中毒者たちが、その半身、いやある意味では現実以上の自分自身であるキャラクターを、アンダーワールドにコンバートするなどということが有りうるだろうか?

いや、まさか。ガブリエルは再度冷たい笑みを浮かべた。

 つい一ヶ月ほど前、VRMMO"ガンゲイル・オンライン"の大会でガブリエルに苦もなく全滅させられた連中のような若者たちが、興味本位で接続することはあっても、キャラクター喪失などというリスクを冒すはずはない。

短く回想した戦闘シーンの最後、水色の髪の少女スナイパーが、遠隔起動トラップで爆死させられる寸前に見せた強い目の光だけがかすかに意識に引っかかったが、しかしガブリエルは肩をすくめて思考を打ち切った。

「よし、それでは俺は再度ダイブする。アカウントは、これをコンバートしろ」

 ちょうどコンソールに転がっていたペンで、紙切れにIDとパスワードをメモって渡すと、クリッターがぱちぱちと瞬きをした。

「おやま、隊長もですかー」

「も……とは」

「いやー、ヴァサゴの野郎も一度死に戻ったんですがねー。なんかヤケに嬉しそうに、自前アカをコンバートしてまた潜りましたよ」

「ほう」

 ガブリエルは、クリッターの手元に放置されていた包み紙に目をやった。記されていたIDの先頭に並ぶ、三つのアルファベットが視界に飛び込んでくる。

「……なるほど。なるほどな」

くっ、と珍しく本物の笑いが喉から短く漏れた。訝しげな顔をするクリッターの肩をぽんと叩き、言う。

「気にするな。ああ見えて、ヤツにもあるんだろう、しがらみってものが。では、よろしく頼むぞ」

 身を翻し、STL室に向かう間も、ガブリエルの唇には歪んだ笑みが張り付いていた。


同時刻、ヴァサゴ・カザルスもまた、フードの下でにやにやと笑いながら眼下の戦場を眺めていた。

遺跡参道の北端に立つ巨大神像の頭上からは、アメリカ人プレイヤーと日本人プレイヤーが血みどろの殺し合いを繰り広げるさまが一望できる。

いや、正確に表現するならば、それは一方的殺戮と言うべきものだろう。

参道入り口を中心に、広い半円を描いて布陣する二千人のカラフルな剣士達は、殺到する黒い歩兵群をほとんど損耗することなく斬り倒していく。装備の差も大きいが、仮想世界慣れした身のこなしや、何より後方の支援体制の厚さが決定的だ。傷を負ったものは即座に参道内部に築かれた天幕に運び込まれ、回復呪文で傷を癒してまた元気に前線へと走っていく。

痛みの存在するアンダーワールドにおいて、その士気の維持されようは見上げたものと言うべきだった。それを言うなら、二千ものプレイヤーが、自らのメインキャラクターをコンバートしてまで参戦したこと自体が大いなる奇跡と言ってよかった。

 ガブリエル・ミラーすらも、有り得ないことと退けた現状を――。

しかしヴァサゴ・カザルスは、ほぼ正確に予測していた。

アメリカからの接続が可能なら、日本からも人界の援軍がやって来るだろうこと。そしてそれは、コンバートを利用して行われるだろうということまでも、ヴァサゴは予期したのだ。

 彼は今、獅子奮迅の活躍を見せる日本プレイヤーたちの中に、"閃光"アスナ以外にも幾つか覚えのある顔を見出し、心の底から興奮していた。躍り上がらんばかりに狂喜していた、とさえ言っていい。

二度と再来するまい、と諦めていたあのデスゲームが、形を変えて再び出現したのだから。

いや、勿論この世界で死んだとて、本物の命まで取られるわけではない。

しかしアンダーワールドには、あの浮遊城には無かったものが有り、有ったものが無い。

 つまり――。

 "苦痛"があり。

 "倫理保護コード"がない。

ならば、きっと大いに楽しめるはずだ。あるいは命を奪う以上の興奮すらも。

「くく、くくくふふふふ」

堪えきれず、ヴァサゴはフードの下でひそやかな笑いを漏らした。


 ――間に合わなかった。

シノンは、言葉もなく、初老の剣士の傷だらけの骸とそれに取りすがる黄金の少女騎士を見下ろした。

傍らでは、二頭の巨大な飛竜が、嘆きを共有するかのように頭を垂れている。

 二つの世界の行く末を左右する黄金の騎士アリスと、彼女を拉致した暗黒神ベクタ、そして二人を追跡する整合騎士長ベルクーリに追いつくために、シノンは懸命に飛行した。ALOで猛特訓した随意飛行技術を大いに発揮し、システムの許す限りの速度で南を目指したのだが、ようやく追いついたときにはもう戦闘は終わってしまっていたのだ。

 いや――、讃えるべきはベルクーリの力だろう。

追いつくはずのない飛竜に追いつき、斃せるはずのないスーパーアカウントを斃したのだから。

しかし、ここに一つの巨大な不条理がある。

騎士長は死んだ。その魂は永遠に喪失した。

 しかし、暗黒神ベクタはその限りではないのだ……。

シノンは、虚脱したように座り込むばかりのアリスに、危機が去ったわけではないことを告げねばならなかったが、しかし言葉が見つからなかった。

貴重な数分の時間が沈黙のうちに流れ、先に声を発したのは、騎士アリスのほうだった。

仰向けられたとてつもない美貌に息を飲むシノンを、濡れたように輝くふたつのコバルトブルーの瞳がまっすぐに射た。

「あなたも……リアルワールドの方ですか」

「ええ……」

シノンは頷き、どうにか唇を動かした。

「私はシノン。アスナとキリトの友達。暗黒神ベクタから、あなたとベルクーリさんを助けるために来たんだけど……ごめんなさい、間に合わなかった」

跪き、こうべを垂れたシノンに向かって、アリスはそっとかぶりを振った。

「いえ……。私が愚かだったのです。赤子のように攫われてしまった私の咎です……。小父様の……偉大なる整合騎士長の御命に、到底釣り合うものではないのに」

その声に滲む、凄まじい悔恨と自責の響きに、シノンは言葉も無かった。アリスは視線を彷徨わせ、続けて尋ねてきた。

「戦況は、どうなっていますか」

「……アスナと人界軍が、アメリカの……いえ、黒い軍勢を何とか防いでいる、と思う」

「ならば、私も戻ります」

ふらっと立ち上がり、飛竜の片方に向かおうとしたアリスを、シノンはそっととどめた。

「いけない。アリスさん、あなたはこのまま南の……"世界の果ての祭壇"に向かってください」

「なぜです。皇帝ベクタはもう死んだのでしょう」

「……それが……そうではないの」

 そしてシノンは、アリスに説明した。リアルワールド人は、アンダーワールドで死んでも、その命を失うわけではないこと。皇帝ベクタに宿っていた"敵"が、今この瞬間にも新たな姿を得て襲来しかねないことを。

 反応は――これまで抑えてきたあらゆる感情が炸裂したかのような、凄まじい怒りだった。

「小父様が……命を捨ててまで刺し違えた敵が、死んでいないと!? ただ一時姿を消し、何事も無かったかのように甦ると……そう言うのですか!?」

がしゃっ、と黄金の鎧を鳴らし、アリスはシノンに詰め寄った。

「そんな……そんな、ふざけた話があってたまるものか……!! では……小父様は何のために……何ゆえに死なねばならなかったのですか!! 片方の命しか懸かっていない立ち合いなぞ……まるで、まるでただの茶番ではないですか……」

蒼い双眸から、再び涙が溢れるのを、シノンはただ見つめることしかできなかった。

自分に何を言う資格も無い、とシノンは強く思った。

これまで、仮想世界における無限回の戦闘で、無限回の死を繰り返してきた自分に。そして、この世界では、暗黒神ベクタと同じように死ねども死なない自分には。

しかしシノンは、大きく息を吸い、アリスをまっすぐ見つめて言った。

「なら……アリスさん、あなたは、キリトの苦しみも偽物だと、茶番だと言うの?」

はっ、と黄金の騎士が息を飲む。

「キリトもリアルワールド人よ。この世界で死んでも、リアルワールドでの命までは失わない。でも、彼が受けた傷は本物。彼が感じた痛みは、損なわれた魂は、本物なのよ。……私はね、キリトが好き。大好きだわ。アスナだってそう。他にも、彼のことが好きな人はいっぱいいる。その全員が、キリトのことを心配してる。元気になって、って必死に祈ってる。そして、言葉にはしなくても、何でそこまでしなきゃいけなかったの? って思ってるわ」

アリスの両肩をそっと掴み、シノンははっきりした声で言った。

「キリトが傷ついたのはね、あなたを助けるためなのよ、アリス。そのためだけに、彼はあんなになるまで頑張った。彼の、その気持ちまで、あなたは偽物だって言うの? いえ、キリトだけじゃないわ。騎士長さんだってそう。あなたを助けるために、こんなに傷だらけになって、必死で機会を作ってくれたのよ。あなたが、"敵"の手から脱するための貴重な時間を!」

いらえは、すぐには返らなかった。

 アリスは、横たわるベルクーリの骸を、しばし無言で見つめていた。その瞳から、大粒の涙がぽろりと零れ――そして騎士は、ぎゅっと瞼を瞑って、何かに耐えるように顔を上向かせた。そのまま、かすれた声で問いが発せられた。

「私は……もう一度、この世界に戻ってこられますか。愛する人たちに、もう一度会えますか」

 それに対して、確たる回答を生み出すための知識はシノンのなかには無かった。ただ一つだけ確実なのは、アリスが"敵"の手に落ちれば、アンダーワールドを内包するアーキテクチャの一切は全て破壊され尽くしてしまうだろうということだけだった。

だから、シノンはゆっくり、力強く頷いた。

「ええ。あなたが……無事でさえいれば」

「……分かりました。ならば、私は南へ向かいましょう。"世界の果ての祭壇"に何が待つのかはわかりませんが……それが小父様の、そしてキリトの意思ならば……」

アリスはふわりと白いスカートを広げて跪き、横たわるベルクーリの頬にそっと口づけた。

立ち上がったとき、その全身には、見違えるようなオーラが漲っていた。

「雨縁。滝刳。もう少しだけ飛んで頂戴ね」

二頭の飛竜にそう言葉を掛けてから、アリスはシノンに視線を向けた。

「あなたは……どうするのですか、シノンさん」

「今度は、私がこの命を使う番だから」

にこっと微笑みかけ、シノンは続けた。

「暗黒神ベクタは、おそらくこの場所に復活すると思う。私は、なんとか斃せるように……少なくとも充分な時間が稼げるように、頑張ってみる」

アリスは軽く唇を噛み、深く頭を下げた。

「……すみません。お願いします。あなたのお命……お心を、決して無駄にはしません」


南の空へと飛び去っていく二頭の竜を見送り、シノンは肩にかけていた白い長弓を手に戻した。

オーシャン・タートルを襲撃したのは、恐らくアメリカ国家機関に支援されたアサルトチームだという。その一人がスーパーアカウント04たる暗黒神ベクタに宿り、アリスを襲った。

現実世界では、単なる高校生のシノンには到底抗いようもない相手だ。

しかしこの場所でなら。仮想世界での一対一の戦闘ならば。

誰が来ようと勝ってみせる。

強く自分にそう誓い、シノンはただ、敵が再ダイブしてくるその瞬間を待った。


振り抜いた右拳から、最後の骨が砕ける音がかすかに伝わった。

拳闘士団長イシュカーンは、胸甲の真ん中を陥没させて大の字に倒れる黒い敵兵から視線を外し、己の拳を静かに眺めた。

そこにあるのはもう、あらゆる物を打ち毀してきた鋼鉄の拳骨ではなかった。粉砕された骨と肉が詰まる、ぐずぐずに腫れた皮の袋だった。

左拳は数分前から同じ状態になっている。両脚の骨にも無数の亀裂が走り、蹴ることはおろか走ることすら不可能だろう。

「……見事な闘いぶりでしたよ、チャンピオン」

副官ダンパの掠れた声に、ちらりと後ろを見る。

地面に座り込んだ巨漢は、両腕を完全に喪失したあとも頭突きと体当たりのみで戦い続けた証として、顔と胴体に酷い刀傷を縦横に受けていた。常に闘志と智慧を湛えて光っていた小さな両眼はおぼろに霞み、ダンパの天命が今まさに尽きかけていることを示していた。

イシュカーンは、勇士の魂に敬意を表すべく、砕けた拳を額に掲げてから答えた。

「まァ、これなら、あの世で先代に会っても恥ずかしくねえ死に様だろう」

脚を引き摺って副官の隣まで移動し、どかっと座り込む。

二万を超えていた黒い敵軍は、長時間の激戦を経て、すでに三千程度にまで減少している。しかしその代償として、拳闘士団も今や三百人程度が残るのみとなっていた。しかも全員が満身創痍、もう満足に陣形も組めず、ひとところに密集して座り込みただ押し潰されるのを待っているに過ぎない。

 周囲をぐるりと取り囲む三千の敵兵が、一気呵成に最後の突撃を仕掛けてこないのは――。

イシュカーンとダンパの視線の先で、鬼神の如き戦闘を続ける、一人の騎士と一頭の飛竜の存在ゆえだった。


消耗はもう完全に限界を超えていた。

整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、それでも霞む視界に敵の影を知覚すると、鉛のように重い右腕を動かし、黒百合の剣を振りかぶった。

びう、と鈍い風切り音。

極細の刀身が、敵の黒い鎧の肩口に食い込む。反動で、手首から肘にかけて無数の針に刺されるような痛みが駆け巡る。

「い……やああぁぁぁぁ!!」

 "無音"のあざなにまったく似つかわしくない、形振り構わない気合を絞り出す。剣がどうにか敵の装甲を割り、その下の身体を一直線に切り裂く。

意味の取れない罵声とともに倒れる歩兵から刀身を引き抜き、シェータは荒く息をついた。

これほどまでに疲労困憊した理由は、無限とも思われる敵の数もさることながら、黒い兵たちの奇妙な生気の無さゆえだった。

心意が通じにくいのだ。黒い鎧も剣も、シェータの神器と比べれば優先度では遥か劣る代物のはずなのに、切断に際して妙に乾いた抵抗感がある。同じことが、敵の攻撃にも言えた。剣には一切の心意を感じず、事実軽く粗雑な斬撃ばかり繰り出してくるくせに、なぜか実効力だけはあるのだ。

まるで、影と戦っているようだった。ほんとうにはこの場に居ない者たちが、どこからか映し出す影絵の軍隊と。

楽しくなかった。斬るためだけに生きているはずの自分が、この影たちを斬ることに、強い嫌悪しか感じていないことをシェータは自覚した。

 ――なんでだろう。

 ――相手が影だろう生身だろうと、それどころかただの彫像だとしても、ただ硬ければ私は満足できたはずなのに。斬ることしか知らない人形、それが私なのに。

最小の刀身に最大の優先度を秘めた神器、黒百合の剣。それは切断のためにのみ存在する道具であり、また鏡に映るシェータ自身でもあった。斬ることをやめれば、どちらの存在証明も完全に失われてしまう。

最高司祭アドミニストレータは、シェータが暗黒界の古戦場から持ち帰った一輪の百合を、一振りの剣に組成変換した。それをシェータに下賜しながら、こう言った。

 ――この剣は、あなたの魂に刻まれた呪いを形にしたものよ。性質遺伝パラメータの揺らぎが生み出した、殺人衝動という名の呪いをね。斬って、斬って、斬り続けなさい。その血塗れた道の果てにのみ、あなたの呪いを解く鍵がある……かもしれないわ。

その時は、最高司祭の言葉の意味は分からなかった。

シェータは、言われたままに、無限に等しい年月に渡ってひたすら斬り続けてきた。そしてついに、最高の好敵手に巡り合った。これまで刃を通して触れ合った、全ての人、全ての物より硬いひとりの男に。

もう一度戦いたい。戦えば、何かが分かるかもしれないから。

その思いだけに衝き動かされ、シェータは人界軍と分かれてこの戦場に残ったのだ。なのに、どうやら、赤い髪の闘士との再戦は叶いそうになかった。

シェータは荒い息をつきながら、ちらりと背後を振り返った。

離れた岩の上にあぐらをかく、傷だらけの拳闘士の長が見えた。なぜか悲しそうな、済まなそうな視線で、じっとシェータを見つめる朱色の瞳と目が合った。

不意に、ずきん、と胸が痛んだ。

 ――なんだろう。

 ――私は、あの人を斬りたいはずなのに。何もかも焼き尽くすような、熱い、熱い戦いをもう一度味わいたい、そしてあの金剛石のように硬い拳を断ち切りたい、それだけが望みだったはずなのに。なのになんで、こんなふうに胸が……締め付けられるんだろう。

 ――私は、あの人を……。

きしっ。

微かな音が、右手の中から響いた。

 シェータは黒百合の剣を持ち上げ、その刀身を眺めた。あらゆる光を吸い込むような、極細の漆黒線の一箇所に――蜘蛛の糸よりも薄い亀裂が、稲妻のように走っているのが見えた。

ああ、

そうか。

シェータは大きく息を吸い込み、そして小さく微笑んだ。

あらゆる疑問が、今氷解した。アドミニストレータの言葉の意味、呪いとは何なのかを、シェータはついに悟った。

どすどすという地響きに視線を戻すと、次の敵兵が、無骨な戦槌を振り上げて駆け寄ってくるところだった。

シェータは滑らかな足取りで敵の一撃を回避し、右手の剣を黒い鎧のど真ん中に突きこんだ。

 最後の攻撃は、まったくの無音だった。すべるように、しなやかに敵の命を絶った黒百合の剣が――その中ほどから、同じく一切の音を立てずに、無数の花弁を散らすように砕けた。

手中の柄までもがはらはらと崩れ落ちていくのを、シェータは名残惜しく口元にあてて呟いた。

「……長いあいだ、ありがとう」

一瞬、さわやかな花の香りが漂った気がした。

 少し離れた隣では、騎竜である宵呼(ヨイヨビ)が、尾の一撃で敵兵を叩き潰したところだった。

竜の灰色の鱗は、流れ出た血でほぼ隙間なく濡れ、爪や牙もほとんど欠けている。熱線はもう吐き尽くし、動きは見る影もなく緩慢だ。

敵の突撃がいっとき途絶えたのを確認し、シェータは竜に歩み寄ると、その首に手を這わせた。

「あなたも、ありがとう、宵呼。疲れたね……もう、休もう」

そしてシェータと飛竜は、身体を引き摺るように、拳闘士団の生き残りが固まる低い丘に向かった。

迎えた拳闘士の長は、今にも弾けてしまいそうな傷だらけの右手を持ち上げ、シェータを迎えた。

「すまねえ……大事な剣、折らしちまったな」

詫びる言葉を、シェータは首を振ってとどめた。

「いいの。やっと、分かったから。私がなぜ斬り続けてきたのか……」

がくんと地面にひざを突くと、両手を持ち上げ、若い闘士の顔を挟み込む。

「斬りたくないものを見つけるため。守りたいものを見つけるために、私は戦い続けてきた。それは、あなた。だからもう、剣は必要ない」

一瞬、大きく見開かれた拳闘士の左眼に、透明な雫が湧き上がるのをシェータは少し驚きながら見つめた。

若者は、きつく歯を食いしばり、喉を鳴らして囁いた。

「ああ……ちきしょう。アンタと、所帯を持ちたかったな。きっと、強ぇガキが生まれたろうにな。先代より、オレよりずっと強い、最強の拳闘士になれる子がよう」

「だめよ。その子は、騎士にするわ」

二人は短く見つめあい、そして微笑んだ。優しい表情の巨漢に見守られるなか、シェータとイシュカーンは短く唇を触れ合わせ、並んで座った。

三百人の拳闘士と、一人の整合騎士、そして一頭の飛竜は、黒い歩兵たちがじりじりと包囲の輪を縮めてくるのを、ただ無言で待った。


「どうやら大勢は決した……ってヤツかな、こりゃ」

アスナは、自分とほぼ同時に後方に戻ってきたクラインの言葉に、そうねと応じた。

幾つかの手傷を負った二人を、もと魔法職の日本人プレイヤーが、覚えたばかりの神聖術で癒していく。本職のアンダーワールド人修道士の、イマジネーションを利用して効果を増幅する技までは真似できないものの、ハイレベルからのコンバートによる高い術式行使権限ゆえに治癒力はじゅうぶんなものがある。

「ほんとうにありがとう、クライン。何てお礼を言ったらいいか……」

言葉を詰まらせるアスナを見て、クラインは照れくさそうに鼻の下を擦った。

「おいおい、水臭ぇよ。お前さんと……キリトの野郎にゃ、これくらいじゃ返しきれねえ借りがあるからな。……あいつも、居るんだろ、ここに?」

声をひそめるクラインに、アスナはそっと頷いた。

「ええ。戦闘が終わったら、会ってあげて。クラインがいつもの下らないギャグかませば、ツッコミたくて目を覚ますかも」

「おい、ひでえよそりゃ」

 口元に笑みの形をつくりながらも、クラインの目は深い気遣いに満ちていた。すでに知っているのだ――キリトの受けた傷の深さを。

ああ、でも、本当に。

 すべてが無事に解決し、"敵"がアンダーワールドからもオーシャンタートルからも撃退されて、シノンや、リーファや、クラインたち元攻略組、サクヤたちALO組……そしてアリスたち人界の剣士らに囲まれれば、キリトも目覚めずにはいられないかもしれない。

その瞬間を、笑顔で迎えるためにも、今をがんばらなくては。

傷が完全に癒えるや否や、アスナは術師プレイヤーに礼を言って立ち上がった。

前線では、クラインの言うとおり、すでに戦闘の趨勢は決していると言っていい。黒いアメリカ人プレイヤーたちの数は最早日本人と同数程度にまで減少し、戦意を喪失したかのようにやけっぱちな突撃を繰り返すのみだ。

しかし、この古代遺跡での戦闘は、単なる一局面に過ぎない。

問題は、皇帝ベクタに拉致されたアリスだ。騎士長ベルクーリ、それにシノンがどうにか足止めしてくれているうちに、何とか追いついてアリスを奪回せねばならない。コンバート組から最精鋭のチームを編成し、人界軍の馬を借りて全速で南下するのだ。

 追いつきさえすれば、敵がどんなアカウントを使っていようが、日本のトップVRMMOプレイヤーを結集した選抜チームに勝てないはずはない。そう断言できるほど、彼らの力は圧倒的だ。戦う彼らの鎧や剣が、陽光を反射して放つ七色の輝きは、まさしく最高の宝石を零したようだ……。

滲みかけた涙をぐいっと拭い、アスナは視線を前線から後方へと向けた。

遺跡の参道入り口では、補給隊の馬車も奥から引き出され、即席の陣地が築かれている。傷ついた日本人たちが、アンダーワールド人たちに術式で癒されている光景は、これもアスナの目には言葉に出来ないほど貴重なものに映った。

「……大丈夫、ぜんぶうまくいくわ……きっと」

思わず囁いた言葉に、隣のクラインが力強い相づちを入れた。

「おうさ。さて、俺らももう一頑張りしてこようぜ!」

「ええ」

 頷き、再び戦線へと振り向きかけたアスナは――。

視界の端をかすめた何かに注意を引かれ、ぴたっと動きを止めた。

 何だろう……何か、黒い、いや暗い……染みみたいな……。

きょろきょろ視線を彷徨わせたアスナは、ようやく、それを見つけた。

遺跡参道に立ち並ぶ、巨大な神像。

その右側、一番手前の像の頭上に、誰かが立っている。

逆光で、よく見えない。赤いダークテリトリーの空に滲むように、揺れる黒い影。

戦場から逃げ出したアメリカ人だろうか? それとも、偵察を買って出た日本人?

いぶかしみながら目を凝らすと、その影が揺れているのは、だぶっとした黒いポンチョをかぶっているからだと分かった。フードを口元まで引き下げているために、顔はまったく見えない。

しかし。

「ね、クライン。あの人……」

走り出しかけていたクラインの袖を引っ張って、アスナは左手の指を伸ばした。

「あそこに立ってる人、なんか見覚えない?」

「へ……? ありゃ、見物してやがる。誰だよまったく……見覚えっつったって、あんなカッパ着てりゃ、顔……なんか……」

クラインの声が、急に途切れた。

アスナが目をやると、無精ひげの浮いた面長の顔が、紙のように色を失っているのに気付いた。

「ちょっと、どうしたのよ。思い出したの? 誰だっけ、あの人?」

「いや……まさか。ありえねぇよ、そんな……。亡霊を……見てるのか……? ありゃあ……あの黒いカッパは……ラフィン・コフィンの」

その単語を聞いた瞬間。

アスナも、頭の中がすうっと氷のように冷えるのを感じた。

 ラフィン・コフィン。かつて、浮遊城アインクラッドに恐怖を撒き散らした最強の殺人者(レッド)ギルド。"赤眼のザザ"や"ジョニー・ブラック"が属し、多くの一般プレイヤーをその毒牙に掛け……最終的に、攻略組プレイヤーによる合同討伐隊との死闘を経て壊滅した。

 その戦いで、ラフィン・コフィンのほぼ全てのギルドメンバーは死亡するか黒鉄宮送りとなったが、しかしただ一人だけ取り逃がした者がいたのだ。急襲したアジトになぜか姿が無かったギルドリーダー、SAOで最も多くのプレイヤーを殺した男、その名前を、"PoH(プー)"と言った。

常に黒いポンチョのフードを目深にかぶり、包丁じみたダガーのみを装備していた殺人鬼が、二年のときを経て、いま遺跡神像の上からアスナとクラインを見下ろしている。

「……嘘、よ」

アスナも、掠れた声で囁くことしかできなかった。

幻だ。亡霊を見ているのだ。

消えろ。消えてよ。

 しかし――陽炎に揺れる黒い影は、アスナの願いをあざ笑うかのように、ゆるりと右手を挙げた。そして、生気の無い動きで左右に振った。

 続く光景は――。

まさしく、悪夢の現出に他ならなかった。

黒いポンチョ姿の隣に、ひょいっと新たな人影が現れた。二人、三人。

そして、神像の背中が接する巨大な遺跡宮殿の屋上に、ごそりと黒い集団が頭を出した。左側の宮殿屋上にも、ぬっと数十人規模で影が湧き出る。

やめて。もうやめてよ。

アスナは祈った。これ以上の絶望には、もう心が耐えられそうになかった。

なのに。

 黒い集団の出現は、左右に果てしなく伸びる宮殿のふちに沿って、尽きることなくどこまでも続いた。千、五千、一万人――。おそらく三万を超えたところで、アスナは数える努力を放棄した。

有り得ない。

 アメリカ人は、五万もの大人数が苦痛とともに追い出されたばかりなのだ。これほどの大軍を、こんな短時間で用意できるはずはない。と言って、日本人のはずもない。日米のVRMMOプレイヤーの総数からしても、到底考えられない数だ。

幻だ。あれはみんな、術式で作り出された実体無き影なのだ。

いつしか、アメリカ人プレイヤーとの戦いにほぼ勝利した前線の日本人たちも、手を止めて後ろを振り返っていた。広大な戦場に、奇妙な静寂がしんと張り詰めた。

さわさわ。ざわざわ。

宮殿の屋上に密集する、途轍もない大軍勢の放つさざめきが、不吉な風のようにアスナの耳に届いた。

混ざり合い、溶け合ったそれが何語なのか、とっさに分からなかった。懸命に耳を済ませると、うち一人がやや大きな声で言った語尾が、どうにか聞き分けられた。

 ――しゃおりーべん。

 何……どういう意味なの?

その時、隣でクラインが、声にならない声で呻いた。

「ああ……やべえ……やべえぞこりゃ……。あの大軍は、日本(jp)でもアメリカ(us)でもねェ……」

アスナは、背中に冷たい汗が這うのを感じながら、続く言葉を聞いた。

「あいつらは……中国(ch)と、韓国(kr)だ」


クリッターは、中国・韓国からの大量の接続をアンダーワールドに導き終えたいまもまだ半信半疑だった。

ヴァサゴ・カザルスが再ダイブ直前に指示していったとおり、日本の北西に位置する二国のネットワークにも偽の誘引サイトを作り、接続用クライアントをバラ撒いたのだが、その作業中にも何度首を捻ったかわからない。

 ――だって、あいつらみんな同じ顔をしてるじゃないか。

 アメリカ人には、日本と韓国が地続きではないことを知らない者も大勢いる。両方とも中国の一部だと思っている者も。クリッターはさすがにそこまでという事はないが、しかし完全なる友好国なのだとは思っていた。EUのゴチャゴチャしている辺りと同じように。

だから、ヴァサゴが指定していった誘引サイトの体裁は、まったく理解不能だったのだ。

サイトは、アメリカに作ったものとは異なり、わざと急ごしらえの粗雑な出来を装っていた。実際、中国語と韓国語に堪能な隊員の手を借りて突貫作業で翻訳したのでデザインに凝る余裕は無かったのだが。

 サイトのトップには、『中韓の有志が合同で立ち上げた、初の草の根VRMMOサーバーが日本から攻撃を受けている!!』と書かれていた。

その下にやや小さなフォントで、ザ・シード連結体を独占しようとする日本プレイヤー達がサーバーをハックし、異常に強力なキャラクターを好き放題に作り出して、有志のテスターを攻撃している。サーバーにはまだ痛覚遮断機能も倫理保護コードも存在せず、ゆえに同朋たちは非常な苦痛とともに虐殺されているのだ、という意味の説明が続いた。

クリッターにしてみれば、まったく真実味も説得力もない話だった。しかし、彼を驚愕させたことに、偽誘引サイトへのアクセスは凄まじい勢いで増加し、クライアントが各所でミラーされていく速度は、アメリカの比ではなかった。

クリッターは、唖然としながら思った。

 ――これではまるで、この日本と、中国・韓国のVRMMOプレイヤーは、仲がよくないみたいじゃないか?


 ――ところがどっこい、憎みあってるとすら言っていいんだなぁ、これが。

 ラフィン・コフィンを率いていた頃のキャラクター、PoHとしてアンダーワールドに復帰したヴァサゴ・カザルスは、黒いフードの下でにやにや笑いながらひとりごちた。

 ヴァサゴは、サンフランシスコで生まれ、十歳の頃母親に連れられて日本に渡った。日本の貿易商社の社長が、まだ若く美しかった母親を見初め――いや、金で買ったのだ。籍は入れずに、住まいと生活費だけを与えたのだから。

暮らしは豊かだったが、心はいつも荒んでいた。街にひしめく、同じ色の髪と肌をした連中を見ると吐き気がした。ナーヴギアが発売され、アメリカのバーチャルネットに接続できるようになったときは、心のそこから解放された気分を味わったものだ。

 なのに、ほんの気まぐれから購入したゲームソフト、"Sword Art Online"に五万人もの日本人と一緒に閉じ込められ、ログアウトできなくなってしまったのだ。

 ――そりゃあ、殺すさ。殺すしかねぇだろ。

 最初の"殺人"は偶発的なものだった。

次のときには、仲間を誘った。

 恐怖やストレスを抱え込み、鬱屈している連中を見つけて誘惑するのは実に簡単だった。"ラフィン・コフィン"が結成され、レッドギルド・レッドプレイヤーという概念が確立されたのは、その後のことだ。

 つまり、ヴァサゴこそが、SAOに"プレイヤーによる殺人行為"を持ち込んだ張本人であると言える。

その動機は、日本人を殺したかったから、ではない。

日本人が日本人を殺すところが観たかったからだ。連中同士の殺し合いが、どうしようもなく興奮させられる最上のショウだったからだ。

そして今、長い時を経て、あの興奮がすさまじい規模で再現されようとしている。

 ヴァサゴにとっては、何人だろうと関係ない。東アジア人は皆等しくクズである。母親を金で買った日本人も――母親を妊娠させて捨てた韓国人も。

 ヴァサゴ/PoHは、高く右手を挙げ、彼が最初に覚えた言語である韓国語で叫んだ。

「あの侵入者どもに思い知らせてやれ!! 二度と同朋に手出しする気にならないように、念入りに痛めつけて、辱めて、切り刻んで殺せ!!」

 恐らく五万は下回らないだろう大集団は、二つの言葉で口々に怒りの叫びを迸らせた。彼らの目には、日本人プレイヤーたちが殺していたアメリカ人集団が、同国人のクローズドαテスターに見えていたはずだ。

ヴァサゴは、哄笑を懸命にこらえながら、勢いよく手を振り下ろした。

直後、どざあああっ! と音を立てて、大軍勢は宮殿の屋上から、洪水のように僅かな日本人たちへと降り注いでいった。

 ――さあ、殺し合え。醜悪に、無様に、滑稽に踊ってくれ。


「……来た」

シノンは、口のなかで呟いた。

赤い空から糸のように垂直に伸びてくる、漆黒の破線をついに視認したのだ。

理想を言えば、この時点でソルスの弓の最大威力攻撃をチャージし、敵の実体化直後を吹き飛ばしたい。それなら、防御も回避もできないはずだからだ。

しかし、今すべきことは時間稼ぎである。もし敵が無限に高位アカウントを生成できるなら、即死させても意味がない。

それよりは持久戦に持ち込み、まずは敵の対応を見定めるのだ。もし命を惜しむ様子を見せるなら、アカウントは貴重なワンオフ物と判断できる。その場合は全力で破壊し、二度と同じアカでログインできなくすればよい。

しかし、もしアカウントが量産タイプならば、殺してしまうわけにはいかない。限界まで戦闘を長引かせ、アリスが遠くまで逃げる時間を稼がなくてはならないのだ。

ゆえにシノンは、弓の弦を引くことなく、空中にホバリングしたまま敵の実体化を待った。

黒いデータラインは、つい数分前まで騎士長ベルクーリのむくろが横たわっていた岩山へと震動しながら降りていく。

遺体は、整合騎士アリスがコマンドによってリソースへと変え、騎士長の剣のかけらと混ぜ合わせて小さな鋼のペンダント二つに転換し、持ち去った。ひとつは、同輩である女性騎士に渡すと言う。

恋敵? と聞くと、アリスは少し微笑んで答えた。私の恋敵はあなたです、と。

 ――まったく。

そうと聞いては、簡単にログアウトしてやる訳にはいかない。キリトが目覚める瞬間までは、何が何でもこの世界にとどまらなくては。

シノンは、もう一度戦闘方針を心中で確認してから、じっと岩山に視線を凝らした。

黒い線が、頂上の中央に達し、粘性の液体となってどろどろとわだかまっていく。

それはまるで、地獄へと続く底なしの水溜りのように濃く、深い色をしていた。

 ラインが最後まで吸い込まれていき、そして――。

とぷん。

表面に小さな波紋が立ち、直後、ずるっと右手が突き出された。シノンの背に、理由のわからない悪寒が強く這った。やけに細長い五指が、うねうねと滑らかに宙を掻く。

今すぐ焼き払ってしまいたい! という渇望をこらえ、シノンは敵の実体化を待った。

ずるり。腕が一気に肩口まで伸び上がる。ついで左手が出現し、ぐっと水溜りのふちを掴む。

湿った水音を立て、ゆっくりと男の頭部が出現した。

 ――意外にも、どうという特徴のない顔だった。暗黒神ベクタを操っていた人間が再ダイブしたはずなのに、麗しくも、逞しくもない。張り付くようなスタイルの短い金髪、微かに灰色がかった白い肌、白人系のデザインではあるのだが妙にのっぺりした印象がある。

青いビー玉のような目が、きょろ、きょろと動いてから、上空のシノンを捉えた。

あれっ、と思った。

どこかで見たような眼だ。すべてを反射するような、それでいて吸い込むような、表情のない瞳。

 つり上がっても、垂れてもいない眼窩が、シノンを見据えた瞬間、少しだけ見開かれた。そして――きゅうっ、と笑うように細められた。

 ああ、間違いない。知ってる。私はこの眼を知っている。それも、つい最近――どこかで――。

シノンが呆然と見下ろす先で、どぷんっ、と音がして男の全身が一気に現れた。

服装がまた奇妙だ。ごつごつと皺の寄った灰色のジャケットとボトムス。足は編み上げブーツに包まれ、胴は硬そうなベストに覆われている。まるで、コンバットスーツのようだ。左腰に下がる長剣と、背中に装備されたクロスボウが、とてつもない違和感をかもし出している。

驚いたことに、男の足元から、さらに出現するものがあった。

黒い水溜りがぎゅうっと広がる。それが地面から薄く剥がれ、翼のように左右へと伸びる。

いや、ほんとうに翼なのだ。ばたばた、と忙しなく羽ばたいた直後、男を乗せたまま岩山から離陸したではないか。

飛竜か、と思ったが違う。なんだか妙な生き物だった。お盆のように丸く平べったい胴体の前縁に、黒い眼球が幾つも張り付いている。左右に伸びる翼だけが、竜のような皮膜と鉤爪を備えていた。

男は、謎の有翼生物の背に乗ったまま、すうっとシノンと同じ高度まで上昇してきた。

そして、薄笑いを浮かべたまま、右手を横に挙げた。シノンは警戒しながらその動作を見守った。

男の手は、まるで何かを握っているフリのようにゆるく開かれていた。と、親指がにゅっと伸び、見えないスイッチを深く押した。

同時に男の唇が、無音のまま動いた。ボム、と発音するがごとく。

瞬間、シノンはついに思い出した。無意識のうちに掠れた声が漏れた。

「……サトライザ……」

 間違いない。あの男は――ほんの一ヶ月前に行われたガンゲイル・オンラインの大会決勝戦で、シノンを遠隔起動爆弾で吹っ飛ばしたアメリカ人だ。

しかし、なぜここに。こんな場所に。

 シノンは弓を構えるのも忘れ、愕然と眼を見開き続けた。* ピラミッド型の自走メガフロート・オーシャンタートルの中央部を、高強度チタン合金製の堅牢なメインシャフトが貫いている。

 円筒状のシャフト最下部には、さらに複層の防護壁に覆われたうえで、主機である加圧水型原子炉が格納される。その上に、占拠されたメインコントロールルームと、第一STL室が存在する。

 アンダーワールド、ひいてはアリシゼーション計画の中枢たるライトキューブクラスターとメインフレームは、さらにその上部に鎮座している。ここまでが下層(ロウワー)シャフトということになる。

 シャフトはそこで一度、水平に広がる耐圧隔壁によって分断される。上層(アッパー)シャフトと呼ばれる隔壁の上側には、巨大な冷却設備群に続いて、ラーススタッフが退避中のサブコントロールルームと、第二STL室が設置されている。

 アッパーシャフトの船首サイドを貫く狭い階段を、今ひとりの――あるいは一体の人間型ロボットがゆっくりと自力下降しつつある。人工フラクトライト格納用マシンボディ試作三号機、通称"ロボザエモン"である。ぎこちない動きを見守るように、武装した数名の自衛官があとに続く。

同時に、シャフト船尾サイドを垂直に走るケーブル格納ダクト内に、申し訳程度に設置されたハシゴを、二人の小柄な人間がゆっくりと這い下りていた。


 ――閉所恐怖症でも、高所恐怖症でもなくてほんとうに良かった。

と比嘉タケルは自分を勇気付けようとしたが、この状況に恐怖症の有る無しなど関係ないような気もした。

何せ、ダクトはまっすぐ五十メートルも真下に伸びているのだ。汗ばむ手を一度でも滑らせ、あるいは足を踏み外したら、はるか下方でダクトを封鎖している耐圧ハッチに激突して、かなり楽しくない経験を味わうはめになる。

こんなことなら、同行の柳井さんに先に行ってもらえばよかった。それなら少なくとも、眼下の底なし穴を見つづけるハメにはならなかったのに。

 ――ていうか、弾避けになるとか言っといて、いざ侵入となったら「お先にどうぞ」ってどうゆうこっちゃねん。

比嘉は少々恨めしい目つきで、数メートル上でハシゴに取り付いているスタッフ柳井をちらりと見やった。

しかし、色白の顔をいっそう青くして、必死の形相でステップを握り締めている姿を見れば文句も言えない。この危険な任務に名乗り出ただけでもアッパレと思うべきだし、柳井のベルトに差し込まれたオートマチック拳銃の存在は、多少なりとも心強くさせてくれる。

再び下に視線を戻したのと同時に、耳のインカムから低い声が流れ出た。

『どう、比嘉君。問題はない?』

頭上のダクト入り口から頭だけ覗かせ、降りる二人を見守っている神代博士の声だ。

比嘉は口元のマイクに、同じくぎりぎりの囁き声を返した。

「え……ええ、何とか。あと五分ほどで、耐圧ハッチまで到達すると思うッス」

『了解。そちらの準備が出来次第、ロボザエモン班に突入の指示を出すわ。比嘉君たちがハッチを開けるのは、敵が迎撃を開始してからよ』

「ラジャー。うわお、なんかミッション・インポッシブル感漂いまくりッスね」

『頼むからポッシブルにして頂戴。私には、アンダーワールド内部の状況がどう転ぶかも、キリト君の復活にかかってる気がしてならないのよ。……すみません柳井さん、その子のこと宜しくお願いしますね』

後半の言葉を向けられた柳井スタッフの、ラッジャーです! という裏返った声が比嘉のインカムからも聞こえた。

 ――その子って、ねえ。

比嘉は苦笑しつつ、いつのまにか汗の乾いた掌で、鋼鉄のステップをぎゅっと握った。

ハッチまでは、もうあと半分を切っていた。


中国・韓国からダイブしたプレイヤーたちが、モニタ上で巨大な黒雲となってゆらめく様を呆然と眺めていたクリッターは、不意に響いた警報にがばっと飛び起きた。

「なん……!?」

慌ててコンソールを見回すと、右側のサブモニタのひとつに赤いアラーム表示が瞬いているのに気付いた。

「おわっ……耐圧隔壁のロックが解除されてるじゃねえかー! だ、誰か通路を見にいってくれ!!」

叫ぶ言葉が終わらないうちに、壁際からアサルトライフルを掴み挙げたハンスが脱兎の如く駆け出していった。

「お……おい、いい手なんだぞ畜生!」

一声ボヤいて、色の揃ったトランプカードを床に叩きつけ、ブリッグが後を追っていく。

 まさか、装備で圧倒的に劣るK組織がやぶれかぶれのバンザイアタックを仕掛けてきたのか? それとも何かの策か……?

クリッターも思わずコンソールから離れ、コントロールルームのドアまで移動した。

階段を駆け上っていく足音に続いて聞こえてきたのは、ワァッツ、ガッデム、という驚愕の叫び声だった。

直後、ライフルの連射音がそれに続いた。


かたた、かたたたた、という乾いたその音が、自動小銃の立てるものだと比嘉はもう知っていた。

 今頃シャフトの反対側では、哀れなロボザエモンが美しいCNC切削アルミ外装を孔だらけにされているのだろう。しかし、電源とサーボ系は強靭なチタン骨格の後ろに実装されているため、しばらくは動き続けるはずだ。

『いいわ! 開けて!!』

インカムからドクターの声が響くと同時に、比嘉は全身の力を込めて、マンホール型の耐圧ハッチのハンドルを回した。ぷしっ、という音がして、油圧動力により分厚い蓋が持ち上がる。

ロウワーシャフトに続くダクトは完全な暗いオレンジの光に沈んでいた。ライフルの連射音が、一層鮮明に響いてくる。

ごくりと唾を飲み、比嘉はストラップで胸にぶら下げた小型端末の感触を確かめてから、一気にハシゴを降りはじめた。

 こういうとき、映画だと何か叫ぶんだよな。えーと確か……。

「……ゴーゴーゴーゴー!!」

口の中で呟くと、耳から凛子博士のいぶかしげな声が返った。

『え、何か言った?』

「い、いえ、何でも。……点検用コネクタまで、あと二十メートル……あっ、見えた、あれッス!」

ダクトの壁を這う、何本もの太い光ケーブルを飲み込むパネルボックスが、ずっと降りたところに確かに見えた。

 あそこに端末を繋げば、理論上はすべてのSTLを直接オペレーションできるはずだ。

待ってろよ、桐ヶ谷君。いま、君の心を目覚めさせてやるからな!

恐怖心も忘れ、懸命にステップを降りる比嘉のインカムから、最後の通信が響いた。

『じゃあ、私はサブコンで、キリト君のフラクトライトをモニタするからね。比嘉君、気をつけてね!!』

ドクター神代、いや凜子先輩のその声は、遥か遠い学生時代と何ら変わらず、比嘉は思わずはるか上を仰ぎ見ようとした。

しかし視界に入ったのは、必死の形相でハシゴを降りる柳井スタッフの姿だけだった。

やれやれ、と思いながら、比嘉はすぐ足元に迫ったパネルボックスに視線を戻した。


「おやおや……君は、GGOの。確か"シノン"だったかな? まさか、こんなところで会えるとは」

 特徴の薄い顔に、にっこりと笑顔を浮かべる"サトライザ"を凝視しながら、シノンは懸命に両手の震えを抑えようとした。

しかし指先は強張り、掌は冷たく、無理に動かすとソルスの弓すらも取り落としてしまいそうだった。

奇妙な有翼生物の背に乗ったサトライザは、温度のない笑顔を作ったまま、滑らかな日本語で続けた。

「これはどういうことかな。 日本国内にもSTLは存在するとラビットは言っていたが……君はK組織の関係者? それとも、こんな場所でまで傭兵をやってるのかい?」

シノンは、乾いて張り付いてしまったような口を懸命に開き、どうにか声を発した。

「サトライザ……お前こそ、なぜここに」

「必然だからに決まってるじゃないか」

嬉しくてたまらぬというふうに、黒と灰色の迷彩に彩られたジャケットの腕を広げ、サトライザは言った。

「これは運命だよ。私と君を引き付けあう魂の力さ」

その口調が、じわじわと変容していく。声の帯びる温度までもが、際限なく低下する。

「そう……私は君を欲した。だからこうして巡り合った。これで色々なことが分かるだろう。ライトキューブからだけでなく、STLとSTLを介せば現実世界の人間からでも魂を吸い取れるのかどうか。君とK組織の関係。そして……君の魂は、どんな味と香りを持っているのかも。さあ……こっちに来たまえ、シノン。私にすべてを委ねるのだ」

 ずっ……。

と、重い音を立てて、不意に世界が歪んだ。

空気が。音が。そして光さえも、ぐにゃりと捻じ曲げられながら、サトライザを中心に吸引されていく。

「な……」

何、これ。

という思考を最後に、シノンは己の意識までもが、奇妙な磁力に引かれていくのを感じた。

 いけない。抵抗しないと。戦わないと――。

心の片隅でそう叫ぶ声は、しかしどうしようもなく小さく無力だった。

いつしか、群青の鎧に包まれたシノンの体そのものが、広げられたサトライザの腕のなかへと吸い寄せられはじめた。

くたりと力を失った左手の指先に、ぎりぎり白い弓を引っ掛けたまま、シノンはするすると空中をスライドしていく。

数秒後、朧に霞む意識のなかで、シノンは自分の体がサトライザという名の重力源にぬるりと包まれるのを感じた。

男の左手が、虫のように背を這う。右手の指先が頬をなぞり、耳を覆い短い髪をぱさりと払う。

露わになった左耳に、サトライザのやけに赤い唇が近づき、耳介を軽く挟まれた。同時に、冷たい粘液のような声が頭のなかに滴り落ちてくる。

「シノン。君は、サトライザという名前の意味を考えてくれたことはあるかな?」

「…………?」

ぐったりと脱力したまま、シノンは首を左右に振った。

「いかにもアメリカ人ごのみの、禅の"サトリ"をもじった単語のようだろう? しかし違う。これは純然たる英単語なのだ。フランス語からの借用語ということになっているが、大本はラテン語だ。スペリングは、Subtilizer。意味は"下に隠すもの"。転じて――"盗むもの"」

呪文めいた抑揚で喋りつづける唇から忍び出た舌が、軽く耳を舐めた。同時に、指の長い両手がアーマーの継ぎ目を探りはじめる。

「私は、君を盗む。君のすべてを盗む……」


「じ……人界軍! 補給隊! 全速前進――ッ!!」

アスナは、東西の遺跡宮殿屋上を埋め尽くす大軍が動き出す寸前、声を振り絞ってそう叫んだ。

アンダーワールド人の衛士部隊と馬車隊は、遺跡参道を少し入ったところに陣を構えている。宮殿は、その参道のすぐ両側に広がっているのだ。これでは、真っ先に襲ってくれと言っているようなものだ。

「物資は捨てて!! 今すぐ参道から出て、走って!!」

さらに指示するが、到底間に合いそうにない。新たに戦場に現れた、おそらく中国と韓国からの接続者たちは、いまにも巨大神像の頭を踏み越えて、人界軍の真っ只中へと飛び降りていきそうだ。

アスナは歯を食いしばり、思念を凝らした。

 ラ――――――、という多重サウンドに続き、振り下ろしたレイピアからオーロラが一直線に迸った。

目の前に白い火花が飛び散る。すさまじい激痛が脳を焼く。

しかし同時に、参道の両側に並ぶ四角い神像たちが、地響きを立てて動き始めた。短い腕を振り回し、いかつい口を開いて、空中の黒い兵士たちを叩き落し噛み潰す。

聞きなれない言語による悲鳴と絶叫。降り注ぐ鮮血。

それに重なって、一層の激怒と罵倒の雄叫びが響き渡る。

対話と説得の可能性は最初から無かった。いったい、何をどのように説明されたのか、それほどまでに隣国のプレイヤーたちが放つ怒りの集合思念は強烈だった。

神像群を操作できたのはほんの三十秒程度だったが、その時間を利用して、どうにか数百人の人界人たちと十台の馬車は参道から脱出した。一直線に広い荒野へ突進してくるその部隊を、二千の日本人プレイヤーでぐるりと包み、応戦態勢を取る。

しかしこれでは、掩体に利用できるものは一切無く、絶望的な全周防御を強いられてしまう。数で優るアメリカ人たちを、さしたる被害もなく撃退できたのは、宮殿の壁を利用して戦線を限定し、分厚いスイッチローテーションを組めたからだ。おそらく四万から五万に迫ろうという中国・韓国人部隊に全方位を取り囲まれれば、前線崩壊は時間の問題だ。

「くっ……」

アスナは歯を食いしばりながら、もう一度レイピアを高く掲げた。

 お願い、壁を……二千人を囲むに足る防壁を、最後に作らせて。

祈りながら、思念を凝らそうとした。

しかし。

ばちっ、という一際巨大なスパークがアスナの全身を貫いた。同時に膝から力が抜け、がくりと地面に両手を突いてしまう。

喉元に熱くこみ上げてきたものを吐き出すと、それは少量の血だった。

「無理すんな、アスナ!!」

叫んだのはクラインだった。

「そうだ、ここは任せろ」

太い声でエギルも続ける。

前方から押し寄せ、日本部隊を取り囲むように左右に割れる黒い大軍勢の分厚い中央めがけ、二人の剣士が突撃していく。

炸裂するソードスキルのエフェクト光が、青く、赤く瞬いた。

 彼らの左右でも、ALOの領主たちや、スリーピングナイツの猛者たちが、それぞれに全力の戦闘を開始した。

機関銃のように突き抜ける金属音。重く響く単発の爆砕音。長剣が、戦斧が、槍が唸り、鍛え上げた連続剣技が炸裂するたびに、黒い兵士たちが鮮血とともに地に臥した。

ぎしっ、と空気が密度を増して軋み、大軍の突進が一瞬止まった。

 それは――。

決壊した堤防から襲い来る怒涛の濁流を、素手を広げて防ごうとする哀切な努力に他ならなかった。

悲鳴と喊声の渦巻く戦場の空を、かすかに流れる甲高い哄笑を、うずくまったままアスナは聞いた。

霞む眼を向けると、遥か離れた宮殿の屋上で、黒いフードの男が腹をかかえて身を捩っているのが見えた。


遠くで断続的に響く銃撃音を聞きながら、比嘉は出せる限りの速度でハシゴを降りた。

オレンジの光を受けて鈍く輝くパネルボックスにやっとで辿りつくと、強張った指先で蓋を開ける。

内部には、ごちゃごちゃと配線がひしめく端子盤が鎮座していて一瞬げんなりするが、片手でそれらを掻き分け掻き分けどうにか問題のコネクタを見つけ出した。

いよいよだ。

 大きく息を吸い、思考を落ち着けてから、持参したケーブルの片端をそっと捻りこむ。胸にぶら下げた端末を開き、LCDに光が入るのを確認してからもう一端を接続する。

 祈るような気持ちで、自作のSTLオペレーション用ツールを立ち上げ、スタートアップ表示を睨みつける。四角いカーソルの点滅間隔がやけに遅く感じられる。

 STL#3、Connect......OK。

 #4、OK。

 まず、サブコントロールに隣接する第二STL室の二台から正常な信号が返る。

続いて、数秒の間をあけて六本木分室の#5、#6との接続が確立した。

「……っし!」

 比嘉は低く呟いた。これで、桐ヶ谷和人と三人の少女たちが使用するすべてのSTLの直接操作が可能となったはずだ。

 惜しむらくは、メインコントロールから第二STL室および衛星アンテナに続く回線のみをジャックしている状態ゆえに、第一STL室の二台には手を出せないことだ。それが可能なら、#1、#2からダイブしている襲撃者の魂を焼き払うことすらできるのだが。

余分な思考を堰き止め、比嘉は作業を急ぐべく小さなキーボードに右手の五指を置いた。

 ――行くぜ!

と気合を入れるのと、頭上から甲高い囁き声が降ってきたのはほぼ同時だった。

「……うっ、動くな!!」

柳井スタッフの声だ。この状況でいきなり何を。

苛立ちながら頭上を振り仰いだ比嘉が見たのは、三メートル先で青黒く輝く自動拳銃の銃口だった。

「…………は?」

ぽかん、と放心したのは、わずか半秒足らずだった。

比嘉は瞬時に状況を把握し、その原因を推測した。

 ――こいつだ。この男が、襲撃者たちにアリシゼーション計画の情報を流していた内通者だったんだ。

しかし残念ながら、即時の対応策までは出てこなかった。

ゆえに、比嘉はただ無為な質問を発することしか出来なかった。

「……柳井さん。何でッスか」

生白い額に脂汗の玉をびっしりと浮かべた技術者は、唇をかすかに痙攣させてから、細い声を絞り出した。

「い……言っとくけど、お門違いだからな。ボクを裏切り者扱いするのは」

扱いも何も、そのものだろ!!

という比嘉の内心の叫びが聞こえたかのように、柳井は更に言葉を重ねた。

「ぼ、ボクは初志貫徹してるだけだ。ボスの遺志はボクが引き継ぐ、そのためにラースに潜り込んだんだからな」

「ぼ……ボスの、遺志? 誰のことを言ってるんスか……」

呆然とそう尋ねると、柳井は肩から垂れた長髪を払い、芝居じみた笑みを浮かべて答えた。

「き、君もよぉーく知ってる人さ。……須郷サンだよ」

「な…………」

 ――何い!?

比嘉は今度こそ目を剥いた。

 須郷伸之。比嘉や神代博士と同時期に、東都工業大学重村ゼミに在籍していた人物だ。天才・茅場晶彦にあからさまな対抗心を燃やし続け、しかしついに超えることあたわず、そのせいなのかどうか、旧SAOサーバーの接続者数千人を違法な人体実験に利用するという暴挙に出た男。

事件が明るみに出たあと逮捕され、一審の実刑判決に控訴して現在は東京高裁で係争中、のはずである。

「……死んでないッスよ」

思わずそう呟くと、柳井はヒヒッと甲高い笑いを漏らした。

「に、似たようなもんさ。最低でも十年は食らい込むでしょ。ボクも危ないとこだった、もう一人のスタッフに全部おっかぶせて、どうにか逃げ延びたけどね」

「じゃあ、あんたも……あの人体実験に関わってた……?」

「関わったなんてもんじゃないよぉ。ありゃあ楽しかったなあ……バーチャル触手プレイとかさぁ……」

 ――いったい菊岡二佐は、なんでこんな男の背景をチェックし損ねたのか!

と比嘉は鼻息荒く考えたが、しかしすぐに無理もないかとため息をついた。

偽装企業ラースは、アメリカにほぼ掌握されている現在の防衛技術基盤に、純国産の風穴を開けようという意図のもとに設立された。それはつまり、既存の財閥系メーカーや防衛商社の利潤をおびやかす存在となり得る、ということでもある。

 ゆえに、技術系スタッフの陣容を揃えるのには大いに難渋した。こと大メーカーからの参加者は皆無に近かったはずだ。そんななかで、レクトという大企業でNERDLES技術部門に勤めていた柳井のラース参入が、もろ手を挙げて歓迎されてしまったのもやむを得ない。

比嘉の視線の先で、柳井はしばしうっとりと回想に浸っている様子だったが、すぐに拳銃をちゃきっと構え直した。技術スタッフにまで射撃訓練を施した菊岡の周到さが、今だけは裏目に出たかっこうだ。

幸い、柳井はまだ吐き出すべき鬱屈が残っているらしく、裏返り気味の声で会話を続けた。

「ま、ボスの人生はもうエンドロールだけど、あの人が繋いだラインは生きてる。なら、ボクがそれをきちんと使ってあげなきゃ、あの人も浮かばれないよね」

「ライン……て、どことっスか」

「グロージェン・マイクロ・エレクトロニクス」

にんまりと、どこか得意そうな柳井の声。

「な、なんだって!?」

と比嘉は驚いて見せたものの、内心ではやはり、と思っていた。

 グロージェンMEは、アメリカの軍産システムに深く食い込むハイテク企業だ。須郷伸之はガンとして口を割らなかったが、違法実験データの売り込み先だったという噂は、では事実だったのだ。須郷が研究していた、NERDLESによる思考・感情操作技術への投資を回収するため、"A.L.I.C.E."の強奪までも目論んだというわけだ。

「下の連中が首尾よく"アリス"を回収すれば、ボクにもでっかいボーナスと、向こうでのポストが約束されるってワケさ。これぞまさに、須郷さんが夢見てたアメリカンサクセスストーリーだよね」

その後、世界はアメリカ軍が配備するであろう超高性能無人兵器群に震え上がるわけだけどな。

比嘉はそう反駁したいのを必死に堪えた。今は、少しでも会話を長引かせ、僅かなチャンスを拡大しなくてはならない。

 ――気付いてくれ、凛子さん!

強くそう念じたとき、無意識のうちに右手をぎゅっと握ってしまった。

「うっ動くな!!」

 柳井が叫び、銃口をダクトの壁面方向にずらし――トリガーを引いた。空気が膨らみ、鼓膜が痺れた。

おいおい、という思考が比嘉の脳裏に瞬くのと、ダクトの金属壁に火花が弾けるのと、右肩の下に強い衝撃が走ったのはほぼ同時だった。

「あれっ」

と、柳井が驚いたような声を出した。


シノンは、上体を包むブレストプレートが、音もなく前後に割れ、落下していくのをぼんやりと感じた。

明け方の夢によく似ていた。

何かをしなくてはならない。したはずなのに、それは夢なので本当にはしていない。ひたすら繰り返される幻のサイクル。

何者かのひんやりと冷たい指が、首筋を撫でる。強い嫌悪感。恐怖。しかしそれらすらも、即時に意識から吸い出され、ぼんやりとぬるい空疎が取って変わる。

腕が背中に回り、身体を持ち上げられた。ふわりと仰向けになる感覚。お盆型の有翼生物の、濡れたような背中に横たえられる。

いけない。

これは、仮想空間における非現実の出来事ではない。

その認識が、赤い警告灯のように暗い意識の片隅で瞬く。そちらへ向かって走り出そうとするが、粘度の高い液体に、いつしか腰の辺りまで飲み込まれている。

上着の胸元をゆわえる細い革紐が、丁寧に抜き取られていく。太腿を、指先がくすぐるように這い回る。

それらの感覚に反応して浮かび上がってくる感情を、男は洞穴のような両眼で、長い舌で、貪欲に吸い取っていく。

 ――やめて。

 ――盗まないで。

という懇願すらも即座に奪われ、残るのは真綿のように分厚い麻痺感のみ。

はだけられた胸元から冷たい手が忍び込み、シノンはついに諦めの涙をひとつぶ零した。

生き物のような舌がそれを舐め取る。

「やめ……て…………」

 呟いた唇に、男の舌が近づく――。

バチッ!!

という衝撃が、突如シノンの身体と意識を打った。

見開いた目の先で、開かれた上着の襟ぐりから、眩い銀色の火花が迸るのが見えた。

熱い!!

という巨大な感覚が、男の吸引力を一瞬上回った。ほんの短い時間だけ回復した思考力を、チャンバー内の炸薬のように破裂させ、シノンは男の身体の下から全力で飛び退いた。

ソルスアカウントの飛行能力をフルに発揮し、大きく距離を取る。

「…………っ……」

大きく喘ぎながら、シノンは尚も上着の内側でスパークする何かを、右手で引っ張り出した。

それは、細い銀のチェーンにぶら下がる、白っぽい小さな金属のプレートだった。薄い円形の一端に孔が穿たれ、鎖が通っている。

「な……んで、これが」

ここに。

シノンは驚愕し、息を詰めた。

これは、現実世界の自分、朝田詩乃がいつも首に下げているネックレスだ。高価なものではない。金属はただのアルミニウムである。

しかし、シノンにとっては大きな意味を持つ品だ。

 去年、シノンが巻き込まれた"死銃事件"。

 その犯人の一人だった同級生の少年が、劇薬を封入した高圧注射器でシノンを襲った際、駆けつけた桐ヶ谷和人――キリトは胸に致死の薬液を噴射された。

その薬の侵入を防いだのが、彼が胸から外し忘れていた、たった一つの心電モニター用電極だ。

 シノンはその電極からシリコン部分を剥離させ、アルミプレート部だけをペンダントヘッドに加工して、ひそかにいつも胸にぶら下げている。そのことは、キリトやアスナにも秘密にしている。勿論、STLでのダイブをオペレートした、ラースの技術者が知る道理があるはずもない。

だから、これがアンダーワールドにおいて、オブジェクト化されているなどということは有り得ないのだ。

 ――しかし。

 ラースの人は言っていた。STLを用いてダイブする限りにおいて、アンダーワールドはただのポリゴン被造物ではない、と。

 記憶とイマジネーションによって生み出される、もうひとつの現実なのだ――と。

ならばこのペンダントは、自分のイメージが出現させたものだ。

シノンは白い金属板にそっと唇をつけてから、それを服の下に戻した。

完全に回復した意識を、離れた場所に浮遊する平たいコウモリ生物に戻す。

背中では、サトライザが虚無的な視線を、自分の右手に注いでいた。その指先から、かすかな白煙が上がっているのをシノンは見た。

サトライザの顔が、かくん、と持ち上がった。

口元に、かすかな、ほんのかすかな不快の色が浮かんでいた。

「……お前は、怪物じゃないわ。ただの人間よ」

シノンは低くそう呟いた。

 確かにサトライザの力は強力だ。おそらく、凄まじいイマジネーション強度で、シノンの用いるSTLにまで干渉しているのだ。

でも、イメージ力なら負けない。

なぜなら、それこそが、狙撃手にもっとも必要とされるパラメータなのだから。

シノンは、左腕に引っかかっているソルスの弓を見下ろした。ぱしっと手中に移し、じっと思念を凝らす。

白く輝く弓の中央部が、突然青みがかったスチールの色へと変化した。

変色範囲が広がると同時に、湾曲する弓がまっすぐな直線を描きはじめる。四角いグリップが、銃床が出現し、最後に巨大なスコープがどこからともなく装着された。

手のなかにあるのは、もう流麗な長弓ではなかった。

 無骨で、凶悪で、しかし途轍もなく美しい五十口径対物狙撃ライフル――"ウルティマラティオ・ヘカートII"。

無二の相棒のボルトハンドルを、じゃきんと音高く操作し、シノンはにやりと笑った。

サトライザが厭わしげに歪めた口元から、白い犬歯が牙のようにちらりと剥き出された。


 "交戦"と呼べるものは、わずか七分間しか続かなかった。

その後状況は、三分間の防戦を経て、一方的な殺戮へと移行した。


「死守して……! アンダーワールド人部隊だけは……何としても!!」

アスナは頭の芯に居座り続ける痛みを無視し、最前線でレイピアを乱舞させ続けながら声のかぎりにそう叫んだ。

しかし、声の揃った頼もしい応答はもう返らない。

周囲では、カラフルな鎧を輝かせる日本人プレイヤーたちが一人またひとりと、モノトーンの暗黒界アカウント仕様装備に身を固めた隣国人たちに包囲され、飲み込まれ、刃で滅多刺しにされていく。咆哮、金属音、悲鳴、そして断末魔の絶叫が次々に響く。

比較すれば、アメリカ人重槍兵部隊の直線的突進のほうがまだしも対処のし様があった。

新たに出現した大軍は、二つの国からダイブしているせいか、あるいは滾らせている異様な怒りのせいか、秩序も統制もなく形振りかまわない殲滅のみを目指している。複数人で目標の脚に掴みかかり、引き倒し、圧し掛かって自由を奪う。このような戦い方をされては、数の差を戦術、あるいは士気で覆すことなど到底できない。

二千人が円形に繋いだ防御陣が、見る間に侵食され、薄くなっていく。

アスナは、尽きることなく押し寄せてくる兵士たちを闇雲に斬り払い、突き倒しながら、昨夜アンダーワールドにダイブして以来はじめて心の中で声を上げた。

 ――誰か、たすけて、と。


絶望的抗戦のなかにあって、比較的健闘を続けている部隊のひとつが、アルヴヘイム・オンラインにおいてシルフ族の領主を務める女性プレイヤー、サクヤ率いる緑の剣士隊だった。

 シルフはもともと、ALO内種族対抗戦においても、密集陣形での集団戦を得意としている。重装プレイヤーの個人技にウェイトを置くサラマンダー族に対抗するために練り上げた連携が、この場の混戦でもある程度有効に機能した。剣士たちがほとんど肩を接するように密に並ぶことで、各個に引きずり倒されるのをどうにか防いでいるのだ。

「よし、我々が後退の突破口を作るぞ! "りんどう"隊、"からたち"隊、密集陣のまま戦線を右に押し上げろ!!」

自身も最前面で細身の長刀を縦横に振るいながら、サクヤは叫んだ。

右翼方向で戦闘中のはずのサラマンダー隊と合流し、彼らの突貫力を利用して一気に敵陣を破る。支援部隊を包囲から逃がすことができれば、どうにかまともな撤退戦へと移行し得るかもしれない。

「行くぞ! 両部隊、"シンクロソードスキル"開始用意!! カウント、5、4、3……」

サクヤが、そこまで指示しかけたときだった。

耳に、遠くからかすかなひとつの悲鳴が、くっきりと明瞭に聞こえた。

「きゃああああっ!!」

はっ、と呼吸を止め、サクヤは左方向に視線を走らせた。

今しも、オレンジと黄色を基調とした装備の日本人部隊が崩壊し、黒と灰色の波に飲み込まれていくところだった。その中ほどで、両手に装備したメタルクローを押さえられ、引き倒される小柄な姿が確かに見えた。

「アリシャ!!」

サクヤは叫んだ。瞬間、彼女は勇猛果敢な指揮官から、ひとりの女子大生へと戻っていた。

「やめろ――――――っ!!」

叫び、持ち場を離れて単身左へと駆け出す。立ち塞がる敵を右に、左に斬り飛ばし、ひたすらに親友のもとへと突き進む。

ケットシー族領主アリシャ・ルーは、手足を拘束され、無数の手に装備を引き剥がされながらも、接近するサクヤを見るや激しく左右に顔を振った。

「だめっ、サクヤちゃん戻って!! 部隊を指揮してえっ!!」

そのひと言を最後に、黄色い髪から伸びる三角の耳と小麦色の肌がサクヤの視界から消えた。

「アリシャ――――ッ!!」

 悲鳴にも似た声を迸らせながら、サクヤはケットシー隊を押し包む敵の大集団にひとり突入した。あらん限りのソードスキルを繰り出し、鮮血と肉片の雨を振り撒いてひたすら前進し――。

どかっ。

という衝撃に視線を落とすと、背中から右腹を貫いて伸びる槍の穂先が目に入った。

恐るべき激痛が神経を駆け巡り、脚から力を奪った。

それでもさらに四歩前進したものの、そこで身体が意思の制御から離れ、がくんと膝が地面にぶつかった。

直後、暴虐の嵐がサクヤをも飲み込んだ。右手から長剣が奪われ、和風の二枚胴と具足が引き剥がされ、薄緑の直垂が一瞬で千切れ飛んだ。


 この場にダイブしている二千人の――急激に減少中ではあるが――jp接続プレイヤーのなかで、もっとも正確に状況を把握しているのはおそらく、ギルド"スリーピング・ナイツ"の三代目リーダーであるシーエンだった。

シーエンは、kr接続プレイヤーたちが口々に放つ怒りの言葉を断片的に聞き取り、彼らがどのような情報に煽動されたのかを察知した。

 ――私がなんとかしないと。たぶん、韓国語を話せるのは私だけだ。

そう決意し、魔法職のシーエンを守るように周囲に立つ四人のギルドメンバーに声を掛ける。

「みんなお願い、一秒だけでいいからブレイクポイントを作って!!」

すぐさま、以心伝心の仲間たちが、疑問を差し挟むことなく諒の声を返す。

先頭で鬼神の如き激戦を続ける両手剣士のジュンが、ちらりと背後を見て叫んだ。

「よし、テッチ、タルケン、ノリ、シンクロで単発大技を決めるぞ! カウント、2! 1!」

完璧に同期して繰り出された重攻撃が、天地を揺るがす大爆発と閃光を引き起こし、一瞬周囲に静寂と停滞を作り出した。

すかさずシーエンは、目をつけていたリーダー格らしき大柄な韓国人プレイヤーへと走り寄り、振り下ろされる長剣を、むき出しの左手で受け止めた。

掌が裂け、骨が砕け、血があふれ出す。

しかしその仮想の痛みは、かつてシーエンが味わった骨髄移植や治験薬カクテル療法の苦しみに比べれば、どうということはなかった。わずかに眉をしかめただけで、シーエンはじっと相手の鎧の奥の両眼を見つめ、韓国語で叫んだ。

「聞いて!! 貴方たちはだまされています!! このサーバーは日本企業のものだし、私たちはチーターじゃなく、正規の接続者です!!」

その声は、周囲の広範囲に高らかに響き、沈黙をさらに少しだけ長引かせた。

シーエンの手に刃を握られた韓国人は、やや気圧されたように仰け反ったものの、すぐに鋭い声で反駁した。

「――嘘をつけ! 見たぞ、お前たちはさっき、俺たちと同じカラーのプレイヤーを皆殺しにしていたろう!!」

「あれは、貴方たちと同じように偽の情報でダイブさせられたアメリカ人です! 日本企業の実験の妨害をさせられているのは、貴方たちなのよ!!」

再び、戸惑いを帯びた静寂。

それを破ったのは、シーエンの声でも、韓国人リーダーの声でもなかった。

「汚い日本人に騙されるな!!」

韓国語でそう叫んだ声は、重く、強く、冷たく、それでいてどこか嗤いを含んでいるように感じられた。

視線をずらしたシーエンが見たのは、いつの間にか少し離れた後方に立っていた、黒いフードポンチョ姿の男だった。

艶のある布が割れ、同じく黒いレザーにぴったりと包まれた右腕が伸びて、まっすぐにシーエンを指差した。

「正規接続者だというなら、なぜお前らだけそんな高級な装備を持っているんだ? GM装備なみにピカピカ光ってるじゃないか! チートで好き勝手に作り出したに決まってる!!」

そうだ、そうだ! という叫びが周囲から追随した。

シーエンは、必死に男の言葉を否定した。

「違います! 装備が異なるのは、私たちのメインアカウントをコンバートしたからよ!」

その途端、フードの男が高くせせら笑った。

「テストサーバーにメインキャラを移すなんて、そんな間抜けが居るかよ! 嘘だ、全部嘘だぞ!!」

「本当よ、信じて!! 私たちは、このアカウントを喪失する覚悟で、ここに……」

ひゅんっ、と空気を切り裂く音がした。

シーエンは、飛来したダガーが自分の右肩に深く突き立ったとき、痛みよりも遥かに大きな絶望を感じた。武器を投じた男が猛々しく喚いた言葉は、シーエンには理解できなかった。

ch接続プレイヤーの集団が、いっときの停戦状態を破って突撃してくるのを見て、目の前の韓国人も荒く剣を引き戻し、右足でシーエンを蹴り飛ばした。

地面に倒れこんだシーエンは、背後から仲間たちが駆け寄ってくる足音を聞きながらも、再び立ち上がることができなかった。


 ――なぜ。

整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、戦場の空に渦巻く憎しみの劫火を見上げながら、それだけを胸中で繰り返した。

 ――なぜ彼らは、同じリアルワールド人同士で、これほどまでに憎みあい、殺しあわなくてはならないんだ。

いや、己が言えたことではないのかもしれない。この世界に住まう者たちだって、人界人と暗黒界人に分かれ、何百年も血みどろの戦いを続けてきたのだから。ほんの数日前、東の大門で流された血の量は、この戦場の土に浸み込みつつあるそれと匹敵するだろう。レンリ自身、両腰に下がる神器・比翼により、数え切れないほどのゴブリンの命を絶った。

それより遥か以前に、たかが剣名と栄誉のためにかけがえのない友の血に刃を濡らしもした。

でも、だからこそ。

世界の外側に広がるというリアルワールドには、憎しみも争いもなく、ただ友愛のみが空気を満たしているのだと信じたかった。

しかし、それが幻想であるのは最早明らかだった。リアルワールド人であるアスナや、その仲間たちは人界人と同じ言葉を話すのに、新たに襲ってきた数万の軍勢が口々に放つ叫びは、レンリにはまるで理解できないものだ。言語ですらここまで乖離しているのなら、休戦や和睦の交渉すら不可能ではないか。

つまり、争いこそが人間の本質だということなのだろうか。

アスナがアンダーワールドと呼んだこの世界でも、その外側のリアルワールドでも、そしてもし存在するのならばさらにその外の世界でも、人は果てしない殺し合いだけを続けているのか。

 ――そんなはずがあってたまるか!

レンリはぎゅっと両拳を握り締め、滲みかけた涙をこらえた。

整合騎士シェータは、敵であるはずの暗黒界軍拳闘士団を守るためにひとり死地に残った。あの人は、たぶん、剣と拳を通じて暗黒界人と分かりあったのだ。血にまみれた道の向こうにだって、きっと希望はあるんだ。

ならば、今は戦わねばならない。ただ守られ、立ち尽くしているときではない。

レンリは、必死の防戦を続けるアスナ側のリアルワールド人部隊の救援に向かうべく、前線に歩き出そうとした。

と、小さな声が背後で響いた。

「騎士様。私も行きます」

振り向くと、立っていたのは補給隊に所属する赤い髪の練士、ティーゼだった。小ぶりの剣を左手にしっかりと握り、悲壮な表情でぎゅっと口元を引き締めている。

「だ……だめだよ、君はあの人を守らないと……」

「その役目は、ロニエに譲ります。私は……、私の好きだったひとは」

ティーゼは、紅葉色の瞳にうすく光るものを浮かべ、続けた。

「あの人は、大切なものを守るために命を散らしました。私も、その志を継ぎたいんです」

「…………そう」

レンリは顔を歪め、唇を噛んだ。

突然、自分でも思いがけないことに、両の腕が前に伸び、細いティーゼの身体を引き寄せていた。はっ、と強張る背中に軽く手をあて、声をかける。

「なら、君は僕が守る。絶対に守るから……だから、僕の背中から離れないで」

「…………はい。有難うございます、騎士様」

ティーゼの小さな手も、ほんの一瞬レンリの背中に触れた。

それでもう充分だった。

エルドリエさん。シェータさん。そしてベルクーリさん。

あなた達のように、僕もようやく命の使い場所を見つけられたようです。

心のなかで呟き、整合騎士レンリは少女練士ティーゼの手を取ると、悲鳴と絶望渦巻く戦域へと駆け出した。


神代凜子は、サブコントロールに駆け戻ると、つい十数分前まで比嘉タケルが座っていたオペレーター席に飛び込んだ。

正面の大モニタに幾つも開かれたウインドウのうち、下部のひとつを注視する。表示されているのは、桐ヶ谷和人のフラクトライト状態を現す立体グラフだ。

 虹色のグラデーションに彩られた星のような放射光の中央部には、"主体の欠損"を示すという黒い闇が滲んでいる。

 いま、比嘉タケルは四台のSTLを直接操作し、問題の欠損を桐ヶ谷少年と深く関わる三人の少女の記憶を用いて修復しようとしている。そのために、敵に占拠された下層シャフトに単身――いや、たった二人で潜入したのだ。

 今のところ、敵襲撃者たちは、囮としてシャフトの主通路から突入させた"ロボザエモン"の迎撃に気を取られている。しかし、ライフルで撃ちまくられればそう長くは持たない。ロボットを破壊すれば、敵も考え出すだろう。果たして、日本人たちは何をしたかったのか、と。

 ――比嘉君、急いで!

心のなかでそう呼びかけたとき、しゅっとドアがスライドし、がこがこ下駄を鳴らしてアロハシャツ姿の男が駆け込んできた。

「ど……どうだい、キリト君のほうは!?」

「今のところは、まだ。囮のほうはうまく行ってる?」

訊き返すと、菊岡は肩で息をつきながら、ずれた眼鏡をくいっと持ち上げた。

「ザエモンに即席で搭載したスモークグレネードは全部撃ちつくした。煙が通路から排出されるまではもう少し引っ張れるだろうが、その後は再び隔壁をロックしないと危険だ。あまり時間はないぞ」

「比嘉くんは、長くても五分で終わるって言ってたけど……」

口をつぐみ、凛子は再びモニタに視線を戻した。

桐ヶ谷少年のフラクトライトには、相変わらず変化はない。ぎゅっと両手を握り締め、アメリカの主婦が口にする『鍋の湯を見つめていると沸騰が遅くなる』という諺に従う心境で目を上に向ける。

 するとそこには、まるで架空のファンタジー地図のような――いやある意味その物である、アンダーワールドの地形概略図ウインドウが開かれたままになっていた。

つい、じっと凝視してしまう。

 数日前、オーシャンタートルに到着してすぐに見せられた"人界全図"の、さらに外側が表示されている。人界を取り囲む円形の山脈から、南東方向にずっと下ったところに、四角を二つ並べたような人工地形が見て取れる。そこには、結城明日奈を示す白い光点と、人界側アンダーワールド人集団を示す青いモヤ、日本から接続中のプレイヤー集団を示すクリーム色のモヤが密に固まっている。

 そして、彼らを取り囲む黒いモヤが、襲撃者たちに誤誘導されてダイブしたアメリカ人集団――のはずなのだが、しかしやけに規模が大きい。日本人たちの二十、いや三十倍ほどもいるのではないか。

これでほんとうに大丈夫なのだろうか、明日奈以外の二人はどこに行ってしまったのだろうと画面を見回すと、その人工地形から遥か南に下ったところに、水色の光点を一つ発見した。おそらくこれが朝田詩乃か。

 となると桐ヶ谷直葉はどこに。更に地図を詳細に眺め、ようやく見出した黄緑色のドットは、主戦場から随分と北で輝いていた。たしか比嘉は、二人とも明日奈の座標にダイブさせたと言っていたのに何故、と眉をしかめた凜子は――。

ふと、直葉の光点の強い輝きにほとんど隠れるように、もう一つ赤い光が瞬いているのに気付いた。

「…………?」

 もう、ラース側からSTLダイブしている人間は居ないはずだ。となるとこのドットは何だろう。

反射的にマウスを滑らせ、カーソルを慎重に赤いドットにあわせてクリックすると、はたして、新たなウインドウが開いた。眼を凝らし、連なる微細な英字フォントを読み取る。

「ええと……制限、対抗指数……検出閾値……報告? 何なのこれ……」

意味が分からない、と続けようとした、その時だった。

「な……なにィ!?」

今まで桐ヶ谷和人のグラフに注視していた菊岡がいきなり大声を出し、凜子は飛び上がった。

「な、なによ!?」

しかし菊岡は何も言わず、凛子の手の上からマウスを操作し、新たなウインドウを引っ張り出す。

「ぐっ……間違いない、新たな限界突破フラクトライトだ……なぜこのタイミングで……!」

がりがりと髪をかき回す菊岡の顔を、凛子も思わず目を丸くして見上げた。

「えっ……それってつまり、第二の"A.L.I.C.E."ってこと?」

「そう、その通り……ああ、いや、待った……これは……」

菊岡は、詳細なログが表示されているウインドウを高速でスクロールさせ、喉の奥で長く唸った。

「……厳密には、"アリス"と同じレベルとは言えない……。論理回路ではなく、情動回路を生成して制限を突破したようだが……しかし貴重なサンプルなのは間違いない。このまま大人しくしてくれていればいいが……ああ、いかん、すぐ南のアメリカ人集団に向かっている!」

両手で頭を抱える菊岡からマウスを奪い返し、凜子も問題の人工フラクトライトが限界を突破したときの詳細ログを注視した。

「はあはあ……確かに、感情フィールドに新しいノードが連鎖反応的に発生してるわね……そうか、まるでこれは……薄膜上のバイオチップの成長過程に似て…………ん? ねえ、菊岡さん?」

「な……なんだい」

おっおおお、と身を捩っていた菊岡は、仰け反らせた首だけをモニタに向けた。

「この、ここんとこに挿入されてるルーチンは何なの? なんだか、やけに違和感があるって言うか……人工的な……まるで、回路の新生を阻害するみたいな……」

凛子は、目を細め、懸命に長大なプログラムコードを追った。

「右視覚領域に……擬似痛覚注入? これじゃ、せっかく人工フラクトライトが発生させかけた論理や情動も、痛みでかき消されちゃうわよ。あなたたちは、わざと限界突破にこんな障壁まで設けていたの?」

「い……いや、そんなことはしていない。するわけないじゃないか、目的と真逆の行為だ……というか、明白に妨害してる」

「そう……よね。それに、このコードのクセ、比嘉くんのと違う……あ、最初のとこにコメントアウトがあるわ、消し忘れかしら……。"コード871"? 871って何?」

「ハチナナイチ? 聞いたこともないよ……いや、待て……待てよ、つい最近、どこか……で……」

突然菊岡はがっこがっこと駆け出し、すぐ傍の椅子に掛けられたままになっていた薄汚れた白衣を掴みあげた。ばんっと音をさせて広げ、襟のあたりを凝視している。

「ちょっと、何よ、どうしたの?」

凛子が尋ねると、黒縁眼鏡の下で両目をぐりんと見開いた菊岡が、白衣の襟タグを突き出すように示した。

 そこには、黒の油性マジックで、"871"の数字がくっきりと記されていた。

「その、白衣は……さっき、比嘉くんと一緒に下に行った、スタッフの柳井さんが……」

呟いた凜子は、自分の声が尻すぼみに消えていくのを聞いた。

柳井。871。

「……ヤナイ!?」

凜子と菊岡は、同時に声を上げた。


拳闘士団長イシュカーンは、近づく黒い死の姿を、片方だけの瞳で眺めた。

皇帝の召喚した奇妙な兵士たちは、包囲の輪をほんの二十メルの距離まで縮めると、もう拳闘士たちに戦意が無いのを確認したのか、互いに頷き合った。

直後、意味の取れない、やけに威勢のいい雄叫びを口々に放ち、一斉に地面を蹴った。

地面と空気が揺れるのを感じながら、イシュカーンは壊れた左手で、隣に座る女騎士の右手を強く握った。すぐに握り返される感覚があり、痺れきった神経に、甘い痛みが一瞬かよった。

 最後のときを迎えるため、目をつぶろうとした、その瞬間――。

震動と雄叫びが、一気に倍に増えた。

「……イシュカーン。あれ」

シェータの声に、視線を巡らせる。

見えたのは、戦場の北に広がる巨大峡谷の向こうから、土煙を上げて殺到する大軍勢だった。

丸く、巨大な身体。突き出た平たい鼻と、垂れ下がった耳。

オークだ。

「……なんでだ」

イシュカーンは呆然と呟いた。オーク軍は、ずっと北の大門前で皇帝ベクタから待機を命ぜられたままのはずだ。皇帝が姿を消したままである以上、その命令が解除されるはずはない。事実、五千の暗黒騎士団は、峡谷のすぐ向こう岸で愚直な待機をひたすら続けている。

わけがわからず、ひたすら目を凝らしたイシュカーンは、オーク軍の先頭をつっ走るひとつの小さな姿にようやく気付いた。

 肩のあたりで切りそろえられた深緑色の髪を揺らし、裾の広がった短いズボンから、真っ白な脚をのぞかせている。間違いなく人間――人界人――の娘だ。

しかし、あれではまるで、あのちっぽけな女の子が、オーク部隊全軍を率いているようではないか!

殺到する大軍に気付いたのか、拳闘士団を取り囲む黒い歩兵たちの動きも止まった。

直後、オーク軍の先頭を走る娘が、峡谷にかかる石橋へと突入した。

きらっ、と眩い輝き。

全身を緑色の装備に包んだ小さな娘が、背中から恐ろしく長い刀を抜き放ったのだ。

瞬間、何かを感じたのか、イシュカーンの手の中でシェータの手がぴくっと震えた。

緑の娘は、まだ橋を渡りきらないうちから、すうっと長刀を両手で高く振りかぶった。黒の歩兵たちまでは、まだ百メルちかい間隙がある。

 だが――。

ふっ、と娘の刀が煙った。イシュカーンの眼にすら、その斬撃は視認できなかった。緑色の閃光が一瞬閃き、そして直後、凄まじい現象が発生した。

振り下ろされた刃から、黒い地面にまっすぐに光が走り、その直線状に存在した黒の歩兵団から鮮血の幕が高く、高く吹き上がった。

ぴっ。

振り切られた位置から、返された刀が今度はまっすぐ跳ね上がった。再度、光の直線が黒の軍勢を貫いた。先の血飛沫がまったく収まらぬうちに、やや角度を変えて新たな真紅の幕がそそり立つ。

「……すごい」

シェータが、音にならない声で囁いた。


 出現した愛銃ヘカートIIを、シノンは即座に頬づけして構えた。

サトライザとの距離は五十メートルも無い。対物ライフルで狙撃するには、いかにも近すぎる。この距離で、動く敵を照準し続けるのは至難だ。

ゆえにシノンは、サトライザが状況に対応してくる前に勝負をつけるべく、スコープのクロスヘア上に黒い影を捉えた瞬間迷わずトリガーを引いた。

閃光。轟音。

凄まじい反動に、空中に浮いたままのシノンは、ひとたまりもなく木の葉のように吹き飛ばされた。くるくる回転する世界を、懸命に制動する。イマジネーションで作り出した銃なら反動をゼロにすることもできるか、と一瞬考えるが、しかしそれでは恐らく威力もゼロに減じられるだろう。

どっちにせよ、今の一撃が当たっていればそれで終わりだ。

どうにか体にブレーキをかけ、シノンはサトライザの居る方向を見やった。

そして、信じがたい光景を目にした。

複眼有翼の怪生物の背に立つ男は、黒ファティーグの左腕を持ち上げ、その掌をぴんと立てている。

 掌の前には、闇と光が入り混じって激しく渦巻いており、その空間を挟んで小さく、強く輝いているのは――間違いなく、シノンが放った弾丸だった。

吸おうというのか。

五十口径ライフルから放たれた、戦車の装甲すら貫く徹甲弾を。

一瞬、シノンの心に怯えが走った。それと同期するように、渦巻く闇がその勢いを増した。白く輝く光弾に、黒い触手の如くまとわりついていく。

「負けるな……」

シノンは無意識のうちに呟いた。続けて、叫んだ。

「負けるな、ヘカート!!」

ズバッ。

と微かな音を立てて、光が闇を貫いた。

サトライザの左手から、指が三本瞬時に消し飛んだ。ファティーグの袖も引き千切れ、むき出しになった腕からぱぱっと鮮血が飛び散る。

 ……行ける!!

 シノンはぐっと歯をかみ締め、ヘカートIIのボルトを引いた。排出された空薬莢が、きらきら輝きながらはるか地面へと落下していく。

サトライザは、しばし傷ついた己の手を見ていた。その滑らかな眉間に、ひと筋の谷が刻まれた。

ぎろり、と青い眼がシノンを睨んだ。

同時に右手が動き、背中から大型のクロスボウを抜き出す。

「……ふん」

 シノンは微かに息を吐いた。あんなもので、対戦車ライフルに対抗しようとは――……。

ぐにゃ。

突然、黒い石弓が歪んだ。

左右に広がる弓部が折りたたまれるように消えていく。同時にズルリと湿った音を立て、全体の長さが倍以上に伸びる。木製だったはずのフレームが、黒い金属の輝きを帯びる。

ほんの一秒後、サトライザの右手には、巨大なライフルが握られていた。シノンはその銃の名前を瞬時に想起した。

 バーレットM82A1。

 ヘカートIIと同じ、五十口径対物狙撃銃だ。

サトライザの口元が、薄い笑みの形に歪んだ。

「……上等じゃない」

 シノンも呟き、ヘカートの銃床をぐっと右肩に押し当てた。*「狩る、って……どういう……?」

「べつに、フィールドでPKしようってわけじゃありません。俺もいまさらオレンジになりたくないですしね」

二人を安心させるように、笑顔を当たり障りないものへと変える。

 本音では、PKも辞さないくらいの気分ではあるが、オレンジネームを人知れず白に戻すのは大変な苦労だし、そもそも人口過密な上層の狩場でプレイヤーを襲うのはよほどタイミングに恵まれなければ不可能だ。

「……ただ、何か理由をつけて、鍵つき(クローズド)の闘技場にあいつが一人になるようにセッティングしてもらえればそれでいいです。あとは俺がケリつけますから」

「闘技場……ですか」

副長のほうが、考え込む仕草を見せる。

 SAOβにおいて、街区圏内で対人戦闘を行うには、デュエルを申し込んで受諾されるか、あるいは第1層はじまりの街にある闘技場を利用するしかない。もちろん、いきなり開いたデュエル窓のYESボタンを闇雲に押す人間などいるはずはないが、闘技場ならばゲートをくぐった時点であらゆる保護は消滅する。設定次第で、デスペナルティも装備のランダムドロップも発生するのだ。

「うーん……。彼は、ウチにとってもかなりの戦力ですしねえ……。それにしても、なんでそんなことを? キリトさんは確か、前の大会の個人戦で彼と当たって、勝ってますよね?」

「や、まあ、そうなんですけどね。ちょっと事情がありまして」

俺は語尾を濁しておいて、表情を改めると言葉を続けた。

「……これさえOKしてもらえれば、すぐにそちらに加入させてもらいますし……それに、本サービス開始後もお世話になれるといいなと思ってるんです」

途端、二人の目つきが変わった。

 正直なところこのゲームでは、俺程度のプレイヤースキルがあれば、ソロプレイのほうが経験値的にも金銭的にもずっと効率がいい。"不可避の魔法攻撃"が存在しないゆえに、反応速度いかんでは、一人で同時に複数のMobを相手にすることも可能だからだ。ろくにスイッチもできず、経験値とドロップだけ吸っていくPTメンバーなど邪魔物以下の存在だ。

だからこそ、ギルド運営に燃えるタイプの連中は、強力な前衛プレイヤーの確保に血道を上げることになる。俺は、彼らが口を開くまえから、答えの内容を確信していた。

「……まぁ、あくまで事故、って体裁にしてもらえるなら……なあ?」

語尾は、ナックル男に向けられたものだった。そちらもかくかくと頷き、おもねるように続けた。

「ぶっちゃけ、あの人最近IN率低いんですよね。リーダー職がそれじゃあ、ちょっと、ねえ」

「じゃ、決まりですね。一件が片付き次第、すぐに加入させてもらいますから」

俺も笑顔で調子を合わせ、右手を差し出した。


よほど話を急いでいたのだろう、彼らはその夜のうちにセッティングを終え、闘技場のクローズドルームの入室パスとなる鍵をメッセージに添付して送ってきた。

俺は、オブジェクト化した大型の鍵を指先でくるくる回しながら、はじまりの街の裏通りだけを選んで闘技場を目指した。

 指定された時刻は午前三時。さすがにプレイヤー達も続々ログアウトしていく頃合で、裏道にはNPCの黒い影しか見えない。

今日一日、どこで何をしていたのかすらよく思い出せないほど、俺は気を昂ぶらせていた。指先にまで負の感情が満ち溢れ、今にも黒く滴りそうだ。

前方の夜闇をついて、ぬっと聳え立つ遺跡めいた闘技場に、ほとんど駆け足で踏み込む。

 毎月開催される公式大会や、大規模なGvG戦で使用されるメインコロシアムの入り口を通り過ぎ、奥に幾つも並ぶ小コロシアムの、一番奥のドアの前で立ち止まる。

 張り出されている羊皮紙には、CLOSEDの大フォントと、無制限ルールの但し書きが黒々と連ねてある。鍵穴に右手のキーを差込み、重い金属音を響かせながら回す。

内部も薄暗かった。照明は、四隅の鉄籠で揺れる篝火だけだ。小部屋とは言うが、そこは遠距離職同士のデュエルにも対応した空間なので、縦横とも三十メートルはある。周りは黒ずんだ石壁に囲まれ、床は白い砂が敷き詰められている。

その中央に、所在なげにぽつりと立つ人影があった。

赤い篝火を反射するのは、ただ打ち出した鋼鈑を連ねただけのような、簡素なバンディッドメイル。頭には、同じく鋲打ちスチールのオープンヘルメット。マントは無く、服は茶色のなめし革。

そして左腰に、実用一本やりの無骨な片手用直剣が下がっている。

 あらゆる武装が、まるでログイン直後の初期装備だが、しかしもちろんそれは見た目だけだ。数値的性能では、俺の純白と藍青のアーマーと遜色ないはずだ。そういうところが――気に食わない。

まったく、気に入らない。

バンディッドメイルの男は、闘技場に入ってきた俺に気付くと、少年とすら言える幼い顔に怪訝そうな表情を浮かべた。その容貌すらも、やる気あるのかと言いたくなるほど地味な、特徴の無いデザインだ。

「あれっ……キリトさん?」

暗がりから、砂の上に進み出た俺を見て、少年は目を丸くした。

「あっ、ども……ひ、久しぶりです。あれ……今日は、新しいギルメンの顔合わせイベントって聞いてるんですが……他の人はどうしたんだろう」

「どうも」

俺も軽く頭を下げ、低い声で続けた。

「他の人には、今日は遠慮してもらったんですよ。ちょっと、二人だけで話がしたいな、って思って」

「え……?」

 怪訝そうながらも笑顔を浮かべる少年に、俺はゆっくり歩み寄った。こちらも、にこりと笑顔を浮かべ――。

ノーモーションで放った抜き打ちを、ぎりぎりのところで防いでみせたのは、流石と言うべきか、食わせ者と言うべきか。

ギャリン!! と軋むような金属音が響き、相手の鈍色の剣と、俺の半透過色の剣が激しく火花を散らした。そのまま、小柄な少年に圧し掛かるように鍔迫り合いを続けながら、俺は打って変わった口調で囁いた。

「キリトさん、じゃねえよ。俺がアンタに何の用なのか、とっくに分かってるだろう」

「え……ぼ、僕は何も……」

小刻みに首を振る相手の顔を間近で見た途端、腹の底に押さえつけていた怒りが爆発し、俺は叫んだ。

「ざけんな!!」

両手で握っていた剣の柄から、左手を離して固く握り、体術スキルの単発重攻撃を思い切りバンディッドメイルの腹に叩き込む。黄色いライトエフェクトが炸裂し、小柄な体がひとたまりもなく吹っ飛ぶ。

 砂地の上を転がる少年を追うように、片手剣の長距離ソードスキルを発動させる。緑色の円弧を描いて襲い掛かる刃を、相手――敵はごろごろ転がって避けた。白い砂が爆発したように飛び散り、俺はそれ以上は追わず、敵が立ち上がるのを待った。

唇を震わせる相手の顔を凝視し、吐き捨てる。

「つい先月のことを、忘れたわけじゃないだろうが。個人戦のセミファイナルで俺と当たったときの話だよ。気付いてないとでも思ってたのか。アンタが、手ぇ抜いて、わざと負けやがったことに」

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