アリスの胸中に、ナイフの鋭さで、ひとつの思考が閃いた。

もう、勝手にすればいい。

私も自分の好きにする。シルカとガリッタ老人、それにキリトだけ連れて村を離れ、どこか遠くで新しい住処を見つける。

ぎりっと奥歯を噛み締め、瞼を閉じ。

アリスは、でも、と思考を続けた。

でも、バルボッサや他の村人たちが愚かに見えるとすれば、それは、神聖教会の数百年に渡る治世が作り出したものだ。

禁忌目録以下、無数の法や掟で人々を縛り、ぬるま湯の安寧を与えると同時に大切なものを奪い続けた。

すなわち、考える力、そして戦う力を。

無限にも等しい年月収奪されつづけた、それら人々の見えざる力はどこに集積されたか。

わずか五十人の剣士たちの身体だ。

 整合騎士――。

つまり、アリス自身のなかに。

大きく息を吸い、吐いて、アリスはばしっと音がしそうな勢いで両の瞼を開いた。

視線の先で、バルボッサが不意に、何かに怯えるかのように顔色を失い、右手を下ろした。

対照的に、アリスは身体の奥から、何か不思議な力が満ちてくるのを感じていた。静かだが、とても熱い、青白い炎。

「……衛士長ジンクの指示は破棄します。いますぐ陣形を解き、武器を持つ者を先頭にして南へ退避するよう命じます」

穏やかですらある声だったが、バルボッサも、ガスフトも、打たれたように上体を仰け反らせた。それでも、わななく声で農民頭が言い返したのは、いっそ見上げた胆力というべきだった。

「な……なんの権限で、娘っ子が、そんな」

「整合騎士の権限です」

「なっ……なにを、馬鹿な! お前が……闇に染まった魔女が、整合騎士なんぞであるはずがっ……」

裏返った声で喚くバルボッサを一瞥し、アリスはそっと左手で外套の肩部分を掴んだ。

「私は……私の名はアリス。整合騎士第三位、アリス・シンセシス・フィフティ!!」

高らかに叫び、勢いよく外套を身体から引き剥がす。

 その下は、質素な綿の寝巻き一枚のはずだった。しかし、分厚い布が翻ると同時に、眩い金色の光がアリスの全身を包み――かつて一度だけ見た、あの現象が発生した。

両の指先から、黄金の装甲が出現し、大型の篭手となって肘までを包む。両足もまた、同色の具足にがっちりと覆われる。

金糸で刺繍をほどこした純白のスカートが閃き、その上に花弁のような装甲板が開く。最後に胸から肩にかけてを眩い鎧が包み、染みひとつない白いマントと、長い金髪が夜闇を切り裂くように舞った。

それだけは最初から腰にあった金木犀の剣が、まるで主との再会を喜ぶかのように、りぃんと刃鳴りした。

ざわめいていた村人たちが、ぴたりと押し黙った。静寂を破ったのは、ひそやかなシルカの囁き声だった。

「姉……さま……?」

 妹に視線を落とし――アリスは、優しく微笑んだ。

「今まで黙っててごめんね、シルカ。これが……私に与えられた、ほんとうの罰。そして、ほんとうの責務なの」

シルカの両眼に、ゆっくりと涙の珠が浮かび、揺らめいた。

「姉さま……あたし……あたし、信じてたわ。姉さまは罪人なんかじゃないって。綺麗……すごく……」

次に動いたのは、ガスフトだった。

がしっ、と音を立てて跪いた村長は、表情を隠しながらも太い声で叫んだ。

「御命、確かに承った、騎士殿!!」

素早く立ち上がり、背後の村人たちに向き直ると、びんと張った声で指示する。

「全員立て!! 武器を持つ者を先頭に、南門へと走るのだ!!」

うずくまる人々のあいだに、不安そうなざわめきが走った。しかしそれも一瞬のことだった。整合騎士という最大の武威を背景にした村長の命令に、抗うという思考は村人のなかには無い。

即座に、外周を固めていた屈強な農夫たちが立ち上がり、女子供を内側に守るかたちの縦列を作った。その先頭集団に加わり、自らも無骨な鋤をたずさえるガスフトの眼をじっと見て、アリスは押し殺した声で告げた。

「皆を、シルカを頼みます……お父様」

ガスフトの剛毅な視線が一瞬かすかに揺らぎ、絞るように声が返された。

「騎士殿……も、御身を第一に」

もう二度と、この男がアリスを娘として扱うことはあるまい。それもまた、与えられた力の代償なのだ。そう心に刻みながら、アリスはシルカの背を押し、隊列の中に潜り込ませた。

「姉さま……無理をしないでね」

涙を滲ませたままの妹に微笑みとともに頷き、アリスは身体を回して北を見やった。

同時に、村人たちが一斉に動き出す。

「あ……ああ……ワシの、ワシの屋敷が……」

情けない声で呻いたのは、いまだ立ち尽くしたままのバルボッサだった。整合騎士の命令と、己の財産をここまで天秤に掛けられるというのはいっそ見上げた根性と言うべきか。

もう好きにさせておくことにして、眼を閉じ、耳を澄ませる。

北側の防衛線は後退を続けているし、左右からも敵の分隊が地面を揺るがす地響きが近づいてくる。まだ広場には村人が半分以上残っており、このぶんだと全員が南へ退去する前に敵が突入してくるだろう。

とアリスが判断したとたん、北から若い男の悲鳴にも似た声が響いた。

「もう駄目だ! 退け! 退け――っ!!」

衛士長ジンクの指示だろう。それを聞いた途端、バルボッサが勢いづいたようにアリスに食ってかかった。

「ほれ……ほれ見たことか!! ここに立てこもって防ぐべきだったんじゃ!! 殺されるぞ! 皆殺しにされるぞぉ!!」

アリスは肩をすくめ、ざっと広場を見回してから、優しく反駁した。

「大丈夫ですよ、これだけ空間が開けば範囲攻撃が使えますから。ここは私が防ぎます」

「できるか!! できるわけがあるかそんなこと、娘っ子一人に!! 整合騎士なんちゅう与太話信じんぞ!! その格好も魔女のまやかしじゃろう!!」

 もう東西から殺到してくるゴブリンやオークたちの姿が間近に見えるというのに、バルボッサはなおも罵り声を撒き散らし続ける。再びそれを無視し、アリスは恐怖に顔をゆがめる村人たちを限界まで南へ詰めさせると、大きく片手を上げ――叫んだ。

「雨縁!!」

即座に上空から甲高い雄叫びが返る。

唖然と眼を剥き出すバルボッサも左手で背後に押しやり、上げた手を東から西へと振り下ろしながら、短く一声。

「――焼き払って!!」

ごおおおっ!!

という嵐のような羽音が夜空から降り注ぎ、人々と、広場に達しつつあった闇の尖兵たちが一斉に上を振り仰いだ。

 炎に赤く染まる空を翼のかたちに黒く切り取り、東から急降下してきた巨大な飛竜が、そのあぎとを大きく開いた。のどの奥に、青白い輝きが一瞬明滅し――。

しゅばっ!!

と、眩い熱線が東の大通りから、広場の中央南寄りに立つアリスとバルボッサの眼前を横切り、西の通りの奥までを薙いだ。

わずかな間を置いて。

凄まじい爆発が東西の目貫通りに膨れ上がり、夜空へと突きぬけた。飲み込まれた敵の分隊が、無数の悲鳴とともに吹き飛ばされ、あるいは地面で焼き尽くされた。

数十匹の襲撃者たちを瞬時に消滅せしめた熱線は、同時に広場中央の噴水も蒸発させ、周囲にもうもうとした白煙を広げた。その上を掠めるように飛び去った雨縁に、アリスは短く再び待機の指示を出し、ちらりと背後の様子をたしかめた。

バルボッサは腰を抜かして石畳に倒れこみ、両眼を剥き出している。

「な……なっ……なん…………」

弛んだ頬を痙攣させる中年男はもう放置して、同じく竦んだ様子の人々に声を掛ける。

「大丈夫です、この場所は必ず死守しますから、皆さんは落ち着いて、素早く移動を続けてください」

村人たちは我に返ったように頷き、南へ向き直ったが、全員が脱出するにはまだ数分かかりそうだ。

そのとき、立ち込める蒸気を割るように、北から数人の男たちが広場へと駆け込んできた。そろいの金属鎧と赤い制服に身を固めた衛士たちだ。

その先頭で必死の走りを見せた若い男、衛士長ジンクは、広場が半ば以上空になっているのに気付くと愕然とした顔を作り、裏返った声で叫んだ。

「おい……男どもはどこへ行った!? ここで守れと言ったじゃないかよ!?」

「私が南から退避させました」

アリスが答えると、はじめて気付いたように瞬きし、全身を上から下へと何度も見回してくる。

「あんた……アリス……? なんであんたが……その格好は……?」

「説明している暇はありません。衛士はこれで全員ですか? 取り残された者はいませんね?」

「あ……ああ、そのはずだ……」

「なら、あなたも皆と一緒に逃げてください。ああ、そこの小父さんもよろしく」

「逃げるって……もう、すぐそこにあいつらが…………」

 その言葉が終わらないうちに――。

「ギヒィーッ!!」

粗野な雄叫びが、広場いっぱいに響き渡った。

「どこだぁーっ!! イウムどもどこに逃げたぁーっ!!」

濃霧を突き破って、まっさきに広場に突入してきた数匹のゴブリンの恐ろしい姿に、再び衛士たちと人々の喉から細い悲鳴が漏れた。

アリスはすうっと息を吸い、右手を剣の柄にかけた。

飛竜の熱線は連発できない。あとは、アリスが単身で敵主力の相手をしなくてはならない。

ゴブリンは、アリスの輝くような騎士姿を見つけると、黄色く光る眼にすさまじい殺意と欲望の色を滾らせて乱杭歯を剥き出した。

「ギイッ!! イウムの女ッ!! 殺す!! 殺して喰う!!」

 長く太い腕に握った鉄板のような蛮刀を振りかざし、一直線に突っ込んでくるその姿を見て――。

アリスは内心で、畏れとともに呟いた。

 ああ……なんと恐ろしい力を与えられているのだろう。存在そのものが罪である、と思いたくなるほどに。

整合騎士なるこの身は。

「ギヒャ――――ッ!!」

高い跳躍から振り下ろされた分厚い蛮刀を、アリスは無造作に伸ばした左手で横合いから掴み、薄い氷ででもあるかのように握り潰した。かしゃん、と砕け散った金属片たちが地面に落ちるよりも速く、鞘から抜かれた金木犀の剣がゴブリンの身体を真横に薙いだ。

山吹色の剣風はそれだけに留まらず、さらに迫りつつあった三匹のゴブリンたちをも音もなく巻き込み、分厚い白霧の塊をも残さず吹き散らした。悲鳴すら漏らさず、四匹の敵兵の身体が真横にずれ、どさどさっと地面に崩れ落ちた。

 やはり――最高司祭アドミニストレータは間違っていた。

これほどの力をたかが一人の人間の中に集約し、その意志を封じて操り人形に仕立てた。世界に遍く満ちるべき力すべてを掌中に収めようとした。かの神人亡きいま、全整合騎士は巨大な過ちをその身に刻まれた碑でしかない。

過ちを正すことはもうできない。

 ならば、せめて――。

この力を、本来持つべきだった人たちのために、最後の一滴まで使いつくさねばならない。

神のため、信仰に殉じるためではなく。

自分で考え、自分で戦うのだ。かつて二人の名も無き剣士がそうしたように。


伏せていた視線を、アリスは鋭く持ち上げた。

 広場の北、広い大通りをいっぱいに埋め尽くすように、敵の本隊――オークを主とし、少なからぬ巨大なオーガも混じった百以上の闇の兵たちが突入してきつつあるのが見えた。

彼らと私は、いまや同質の存在。かたや殺戮の欲望のため、かたや贖罪の願望のために、その武器を振るう。

己のなかにしつこくこびり付いていた、神聖教会と最高司祭への依存心が焼き尽くされ、蒸発していくのをアリスはまざまざと感じた。かつて神への盲目的な帰依だけをよりどころとしていた究極奥義を、アリスははじめて自分の力で発動させた。

「リリース……リコレクション!!」

ビシッ!!

金木犀の剣の刀身が、陽光にも似た眩い光りを放った。

切っ先から、無数の鋭い花弁となって吹き流れ、夜闇たかく舞い散る。

敵集団主力は、黒い津波と化して広場と、そこに残る村人たちを飲み込まんと肉薄した。

圧倒的とも思える暴力の壁に向かって、アリスは一歩も退かずに右手に残る柄を高々と掲げ、もう一度叫んだ。

「嵐花――裂天!!」


無数の槌音の合奏が、青く澄んだ冬空へと舞い上がっていく。

アリスは目を細め、遠く麦畑の向こうにこんもりと突き出すルーリッドの姿に最後の一瞥を送った。

大襲撃から今日で一週間。

村は、北側の家々を中心に二割近くが焼け落ちたが、全村民の天職を一時停止して作業に当たらせた村長の決断のせいもあって再建は急速に進んでいる。残念ながら、焼け跡から数十の遺体が発見され、その合同葬儀は昨日教会でしめやかに執り行われた。

アリスは請われて儀式に出席したあと、北の洞窟の確認に赴いた。

ベルクーリの命で崩落させられたはずの長いトンネルは、巨大なオーガですら充分に通れるほどの広さに再び拡大され、その奥、もっともダークテリトリーに近いあたりにアリスは長期間の野営のあとを発見した。

襲撃者たちは、向こうの入り口を掘り返して作業を受け持つ一団を送り込んだあと、再び通路を崩しておいたのだ。整合騎士エルドリエがその入り口を確認した時点ですでに内部深くには作業班が潜んでおり、着々と全通路を再開通させていた。

 かつてのゴブリンやオークたちからは考えられない周到さと用心深さだ。その一事を取っても、今回の闇の侵攻が"本気"であることがうかがえる。

アリスは洞窟から出たあと、再び崩すのではなく中央部から湧き出すルール川の源流を一時塞き止め、内部を完全に水没させた。しかるのちに、仕掛けておいた無数の氷素を炸裂させ、岩ではなく氷で洞窟を封印したのだ。

これでもう、アリスと同等の術者がやってこないかぎり再び山脈をくぐることはできない。


彼方に白く浮かぶ果ての山脈から視線を戻し、アリスは最後の荷袋を雨縁の脚帯にくくりつけた。

「あのね……、姉さま」

涙を必死に我慢するような顔で出立の準備を手伝っていたシルカが、俯きながら口を開いた。

「……父さまも、ほんとは見送りに来たがってた。今日は朝から心ここにあらずって感じだったもの。父さま、本心では……姉さんが帰ってきて嬉しかったんだと思う。それだけは、信じてあげてほしいの……」

「わかってるわ、シルカ」

アリスはそっと妹の小さな身体を抱きしめ、囁き返した。

「私は罪人としてこの村を離れ、整合騎士として帰ってきた。でも次は……すべての役目を果たしたら、ただのアリス・ツーベルクとしてここに戻ってくるわ。その時こそ、ちゃんと言えると思うの。お父様、ただいま、って」

「……うん。きっとその日がくるよね」

短い涙声で呟いたあと、シルカは顔をあげ、袖口でぐいっと顔を拭った。

身体の向きを変え、傍らの車椅子に沈み込む黒衣の若者に、精一杯元気な声を掛ける。

「キリトも元気でね。はやく良くなって、お姉さまを助けてあげてね」

項垂れる頭をそっと包み込み、祝福の印を切ってから、歳若い少女は数歩後ろにしりぞいた。

アリスはキリトに近づくと、その腕から二本の剣をそっと抜き取り、雨縁の鞍に留めた。次いで、若者のやせ細った身体も軽々と持ち上げ、鞍の前部に腰掛けさせる。

キリトをシルカに任せ、村に残していくことを考えないでもなかった。最前線、東の大門に赴けばアリスは防衛部隊の主力として忙殺されるだろうし、今までのようにこまめに面倒を見られなくなるのは間違いないからだ。

だが、それでもやはり連れて行くと決めた。

理由はただ一つ、襲撃の夜にキリトが見せた尋常ならぬ反応のせいだ。あのときキリトは間違いなく、剣を取り村に向かおうという意思を示した。誰かのために戦う、それがこの人の本質なのだ。ならば、その心を取り戻す鍵もやはり戦場にあるはずだ。

いざとなれば、背中に括り付けてでも守り抜く。

アリスは、最後にもう一度シルカとしっかり抱き合った。

「……じゃあ、行くわね」

「うん。気をつけて……必ず帰ってきてね、姉さま」

「約束するわ。……ガリッタおじさまにも、よろしく伝えてね。……元気で、しっかり勉強するのよ」

「分かってるわよ。きっと立派な修道女になって……それで、あたしも……」

その先は言葉にせず、シルカはくしゃくしゃと泣き笑いを浮かべた。

妹の頭をゆっくり撫で、身体を離したアリスは、名残惜しさを噛み締めながらゆっくり愛竜に歩み寄り、その背中、キリトの後ろに騎乗した。

地上の妹に、深くいちど頷きかけ、視線を遥か空へと向ける。

軽く手綱を鳴らすと、竜は人間二人と剣三本の重みを感じさせない力強さで麦畑のあいだを助走しはじめた。

必ず、もういちどここに戻ってくる。

たとえこの身が戦場に朽ち果てようとも、心だけは必ず。

アリスは、睫毛に浮かんだひとつぶの涙を払い飛ばし、鋭く掛け声を放った。

「……はぁっ!」

ふわり。

浮遊感とともに、地面が離れる。

上昇気流を掴まえた雨縁は、旋回しながら一気に空へと駆け上った。

 広い畑と森、その中央に輝くルーリッドの村、そして両手を振りながら懸命に走るシルカの姿をまぶたに焼付け――。

アリスは東の空へと竜の首を向けた。


再び十人の将軍たちが横一列に並び、うやうやしく平伏している様子を、ガブリエルは満足とともに眺めた。

彼らは命令どおり、二日間で進軍の準備を完了してきたのだ。ことによると、現実世界で軍隊の上層に居座る将軍たちの大部分よりもこのユニットたちは優秀なのかもしれない。

 まったく、いっそもうこのまま"完成品"としてもいいと思えるほどだ。申し分ないタスク処理能力にくわえ、この忠誠心。戦争用のロボットに載せるためのAIとして、これ以上のぞむ物などないではないか。

 とは言え――。

 彼らの忠誠は、K組織が拘り続けた人工フラクトライトの未完成さに由来するものだということを忘れるわけにはいかない。

 つまり、"最大の力を持つものが支配する"という絶対原則を魂に焼きこまれているからこそ、この十人は皇帝のアカウントを持つガブリエルに従っているのだ。それは同時に、ガブリエルの力に疑いが生じた瞬間、この中の誰が裏切ってもおかしくないということだ。

その懸念がすでに現実のものとなっていることを、ガブリエルは知っている。

二日前の夜、寝室に忍んできた暗殺者。

 あの女は、皇帝を殺そうとした。彼女のなかには、ガブリエルよりも上位の主人が存在していたはずだ。すなわち、いまわの際に"閣下"と呼んだ、この十人のなかの誰かだ。

 暗殺者にとっては、皇帝よりも"閣下"のほうが強者だった。となれば、その男自身も、本心からガブリエルに忠誠を誓っていない可能性が高い。そのようなユニットを抱えたまま戦場に赴けば、万が一寝首を掻かれるということもないとは言えない。

 よって、眼下に跪く十人のうちから"閣下"をあぶり出し、処分するのが出陣前の最後の一仕事ということになる。

そして同時に、残る九人に皇帝の力のほどを知らしめる。誰が最強者なのかを、彼らのフラクトライトに永遠に刻み込むために。

 この時、ガブリエル・ミラーは、自分が眼下の十ユニットのどれかに遅れを取る、つまり一対一の戦闘で破れるという可能性を微塵も考慮していなかった。彼にしても、アンダーワールドはあくまでサーバー内のバーチャル・ワールドであり、そこに存在するユニットはすべて人造物であるという固定概念にいまだ捉われていたのだ――。


暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターは、跪きこうべを垂れた姿勢のまま、脳裏に師の言葉をよみがえらせていた。はるかな昔、騎士団本部の道場においての記憶だった。

『わしの師匠のそのまた師匠は、首を取られて即死した。師匠は胸を抉られ、城に戻る道なかばにして斃れた。しかしわしは、腕一本落とされはしたが、こうして生きて戻った。自慢できることでは到底ないがな』

 師はそう言って、肩の下から綺麗に切断された右腕をシャスターに示した。その傷を作ったのは、暗黒騎士の宿敵にして世界最強の剣客、あるいは最悪の怪物――整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンその人だ。

『これがどういう意味を持つかわかるか、ビクスル』

当時二十をわずかに出たばかりだったシャスターには首を捻ることしかできなかった。師は隻腕を着流しの下に仕舞うと、眼を閉じ、ぼそりと続けた。

『追いつきつつあるのよ、ようやくな』

『追いつく――、あの者に、ですか』

若いシャスターの声には信じられぬという響きが混ざり込まざるを得なかった。それほどまでに、数日前に目の当たりにしたベルクーリの剣技は圧倒的だった。師の腕が鮮血とともに高く飛んだその瞬間、背骨を貫いた氷柱のような冷気はいっこうに去ろうとしなかった。

『――わしは今年で五十になる。それでもまだ、剣の振りかたはおろか握り方すら極めた気になれん。おそらく、あと五年、十年経ってくたばるその時になっても同じだろう』

師は静かに語った。

『であれば、すでに二百年以上を生きているというあの不老者の境地に、短命な我ら人の子が及ぶべくもない。情けないことだが、剣を交えるその瞬間まで、わしの中にそんな諦めがあった。しかし、無様に敗れ、逃げ帰った今こそ、それが誤りであったことを知った。無駄ではなかったのだ……これまで師匠、そのまた師匠たちがあの男に挑み続けてきたことはな。――ビクスルよ、最高の剣とは何か』

突然の問いに、シャスターは反射的に答えた。

『無想の太刀です』

『そうだ。長年の修行を経て剣と一体となり、斬ろうと思わず、抜こうとも思わず、動こうとすら思わず放たれる一撃こそ究極の剣である。わしは師匠にそう教わり、わしもお前にそう教えた。しかしな……ビクスル、そうではなかった。その先があったのだ。わしはあの怪物に斬られ、それを悟った』

師の面に、かすかな興奮の色が走った。シャスターも正座のまま思わず身を乗り出し、尋ねた。

『その先……と仰いますと』

『無想の対極。断固たる確信だ。意思の力だ、ビクスル』

突然、師は板張りの上に立ち上がり、切断された右腕を大きく振りかぶった。

『見ておったろう。あの時、わしは右の袈裟懸けに斬りつけた。まさに無想の斬撃、生涯最速の剣であった。抜いた時点では、確実に彼奴の先を取っていた』

『は……、私もそう思いました』

『しかし、しかしだ。本来であれば、わしの剣に弾かれていたはずの彼奴の受け太刀は、逆にわしの剣を押しのけ、この腕を斬り飛ばした。……信じられるかビクスル、あの瞬間、わしの刃は奴の剣に触れておらなかったのだ!』

シャスターは絶句し、次いで首をぎこちなく振った。

『そ……そのようなことが……』

『事実だ。まるで……剣の軌道そのものが、奴をはるか逸れる方向へと規定し直されたのようだった。あの現象を説明するには、もうこう言うしかない。わしの無想の太刀は、彼奴が二百年かけて練り上げた意志力に敗れたのだ。彼奴があまりにも強く剣の軌道を断定したために、それが不変の事実となったのだ!』

師の言葉を、シャスターはすぐに信じることはできなかった。意思の力などというかたちのない代物が、確固として存在する重く硬い剣を退けるなどということがどうして有り得よう。

そのシャスターの反応を、師は予期していたようだった。不意に着流しの裾を正すと、黒光りする板の上ですうっと腰を落とした。

『さあ、ビクスルよ。わしがお前に教える最後の剣訣だ。わしを――斬れ』

『な……何を仰います! せっかく……』

生き延びたのに、という言葉をシャスターは飲み込まざるを得なかった。突然、師の双眼が鬼神のごとく光ったのだ。

『命を繋いでしまったがゆえに、わしはお前に斬られねばならぬ。かの者に一撃のもとに敗れたいま、お前のなかでわしは最強者ではなくなってしまった。そのわしが生きておれば、お前はかの者と対等に戦うことはできぬのだ。お前もまたわしを斬り、いや殺し、彼奴……ベルクーリと同じ処に立たねばならぬ!!』

そう言い放ち、師は立ち上がると、僅かに残る右腕を大きく構えた。

『さあ、立て! 抜くのだビクスル!!』


シャスターは師を斬り、その命を絶った。

同時に、師の言葉の意味を身を以って悟った。

 斬り飛ばされた師の右腕に握られていた眼に見えぬ刃――"意思"という名の剣は、交錯の瞬間シャスターの剣と激しい火花を散らし、実際に頬を切り裂いて二度と消えぬ傷を残したのだ。

 涙と鮮血に顔中を塗れさせながら、若き日のシャスターは"無想の太刀"を超える境地のとば口に立った。

 そして月日は流れ――五年前。

シャスターはついに彼の者、整合騎士長ベルクーリに挑んだ。齢三十七にして、己の剣が達しうる限界に達したと感じてのことだ。

師は腕一本と引き換えに生還したが、シャスターは仮に敗れたときは生きて戻らぬつもりだった。なぜなら、シャスターは後継者という意味での弟子は作らなかったからだ。師を斬り、教え子に斬られるような運命を背負わせたくなかった。自分の命と引き換えに、血塗られた連環をここで断ち切ろうと決めていた。

 あらん限りの決意と覚悟、すなわち"意思力"すべてを乗せた剣は、ベルクーリの初太刀と真っ向から切り結び、弾かれることはなかった。だがその時点でシャスターは敗北を予感した。もう一度、同じ重さの斬撃を繰り出せるとは思えなかったのだ。

しかし、ベルクーリは剣を交えたまま、太く笑って囁いた。

『いい太刀筋だ。殺意のみに拠るものではないからだ。俺の言葉の意味をよく考えて、五年後にもう一度来い――小僧』

そして整合騎士長は間合いを取り、この立会いは分ける、と宣言して剣を収めた。

ベルクーリの言わんとするところを理解するには、長い時間が必要だった。だが、四十を超え老境に差し掛かった今ならば分かる。あの時、シャスターが殺気と恨みだけを乗せて剣を振っていれば、おそらく迫り負けていただろう。それが、一合とは言え対等に斬り結べたのは、殺意よりもっと重い覚悟を肚に呑んでいたからだ。

 つまり――これまで命を落としてきた師匠たちや、自分のあとに続く騎士たちの運命すべてを。

だから、シャスターは、最高司祭死すの報を受けたとき即座に和平交渉を開始すると決断したのだ。自分がダークテリトリーの意思を纏めれば、あのベルクーリならば間違いなく申し出を受けるという確信があった。

 同じ理由で――。

突如降臨し、有無を言わせず開戦を決定した皇帝を名乗るこの男を、自分は斬らねばならない。

 跪き、頭を垂れながらも、シャスターは必殺の太刀に乗せるべき"意思力"を練っていた。

数百年の不在を経て復活した皇帝ベクタは、白い肌と金色の髪を持つ若い男だ。体躯も容貌も、迫力と言うほどのものはない。

 しかし、やけに蒼い二つの眼だけが、皇帝が凡そ人ならぬことを示している。その中にあるのは"虚無"だ。全ての光を吸い込み、何ひとつ漏らさない底なしの深淵。この男、あるいは神は、巨大な飢えを隠し持っている。

練り上げた意思力が、皇帝の虚無に飲み尽くされたならば、剣は届くまい。

そのとき自分は命を落とすだろう。だが、意思は続くものたちに引き継がれるはずだ。

 ただひとつ心残りなのは、昨夜はリピアが姿を見せなかったために自分の決意を伝えられなかったことだ。恐らくは出征前の雑務に忙殺されているのだろうが――いや、もし彼女に皇帝を斬ることを話せば、お供しますと言って聞かなかっただろう。これでいいのだ。

シャスターはゆっくりと息を吸い、溜めた。

腰から外し、床に置いた剣に触れる左手に、徐々に、徐々に力を込めていく。

玉座まではおよそ十五メル。二歩の踏み込みで届く距離だ。

初動を悟られてはならない。抜くときは無想たるべし。

限界まで高まった意思の力すべてを、触れる剣へと注ぎ込む。そして身体を空にする。

 右脚が床を蹴る――

その寸前。

皇帝が、滑らかではあるが硬質な声で、なにげないように言った。

「ときに――昨夜、余の臥所に忍んできた者が居た。短剣をその身に帯びて」

ざわ、と抑制された驚きが大広間の空気を揺らした。

シャスターの左に並ぶ九人の将軍たちも、ある者はかすかに息を詰め、ある者は喉の奥で低く唸り、またある者は分厚いローブのなかに一層身体を沈めた。

驚きに打たれたのはシャスターも同様だった。斬りつける寸前の体勢、気勢を保持したまま、瞬時に考えを巡らせる。

 己のほかにも、皇帝排すべしの結論にたどり着いた者がいたのだ。皇帝がこうして無傷であるところを見ると惜しくも失敗したのだろうが――しかしいったい、刺客を放ったのは十候のうち誰なのか。

亜人五候ではあるまい。ジャイアント、オーガはもちろん、比較的小柄なゴブリン族と言えども衛兵の目を盗んで皇域に忍び込むような真似ができるとは思えない。

人族の将軍に目を向ければ、まず闘技士の長である若きイシュカーンと、商工ギルド頭領レンギルは除外できる。イシュカーンは近接闘技を極めることだけが目的の直情径行な少年だし、レンギルは戦がはじまれば大儲けできる立場だ。

 寝所に忍び込む、という手口からして暗殺ギルドの長フ・ザはいかにも怪しいし、実際あの男は何を考えているのか掴めないところがあるが、短剣を用いたというのが解せない。暗殺ギルドが暗い穴の底でひたすら研究を重ねてきたのは、暗黒術でも武術でもない第三の力、"毒"だからだ。フ・ザの一族は、術式行使権限にも、武具装備権限にも恵まれなかったものたちが生き延びるために結束した集団なのだ。

同じ理由で、すぐ左にひざまずいている暗黒術師の長ディーも除外せねばならない。権勢欲だけで出来上がっているようなこの女ならば、皇帝の首級を挙げ一気に暗黒界の支配者に上り詰めるくらいのことは考えそうだが、ディーの配下の術師たちは皇帝の玉身を傷つけられるほどの優先度を持つ短剣を装備できるはずがないし、そもそも刃よりもっと剣呑な手妻をいくつも身につけているのだ。

しかしそうなると、刺客を放ったのが九将軍の誰でもなくなってしまう。

 残るはただ一人――暗黒騎士長シャスター自身だ。

 だが、当然身に覚えなどない。皇帝を排除するときは、命を賭して自ら剣を振るうと決めていたからだ。部下たちに暗殺を命じることはもちろん、秘めたる決意を語ったことすら、一度も――。

いや。

 いや……。

まさか。

皇帝が言葉を放ってから、ほんのまばたきほどの時間でここまでを思考したシャスターは、剣の鞘に添えた左手の指先がすうっと冷たくなるのを意識した。

 刀身に満ち満ちていたはずの、練り上げた意志力が一瞬で変質する。危惧。不安。恐怖。そして――極低温の確信へと。

ほぼ同時に、皇帝ベクタが二言目を口にした。

「刺客を差し向けた者の名を、余は詮議しようとは思わぬ。持てる力を行使し、更なる力を得ようというその意気や良し。余の首を獲りたくば、いつでも背中から斬りかかるがよい」

 ふたたび微かなざわめきに満ちた大広間を睥睨し、皇帝はその白い顔にはじめて表情――ごく薄い笑みを滲ませた。

「もちろん、そのような賭けには相応の代償が要求されると理解した上で、ということだが。たとえば、このような」

漆黒のローブが割れ、露出した手が軽く合図を送る。

と、玉座から見て東側の壁に設けられた小扉が音もなく開き、濃紺のドレスに白いレースのエプロンを重ねた召使の少女がしずしずと歩み入ってきた。両手に大きな銀盆を捧げもち、その上には何か四角いものが載っているが、掛けられた黒布に遮られて中までは見えない。

召使は銀盆を玉座の手前の緋絨毯に降ろすと、十候、そして皇帝に恭しく頭を下げてふたたび扉の奥へと去った。

しん、と張り詰めた静寂のなか皇帝は、薄く、虚無的で、どこか歪んだ笑みを唇の端に滲ませたまま、黒いトーガの裾からブーツのつま先を伸ばし、銀盆を覆う布を踏みつけるようにして払った。

 全身と、思考力までをも凍りつかせたシャスターが両の眼で捉えたのは――。

最上のクリスタルよりも透き通った、氷の正立方体と。

その内側に封じ込められた、一番弟子にして愛人、そしてもうすぐ妻になるはずだった女の、永遠に醒めない眠り顔だった。

「リ……ピ……」

ア。と、唇の動きだけでシャスターは呟いた。

全身を包んでいた冷気すらも消え失せ、どこまでも深く暗い虚ろが胸のうちを満たす。

シャスターは、暗黒騎士リピア・ザンケールがひそかに運営している孤児院のことを知っていた。親兄弟を失い、あとは野たれ死ぬだけの子供たちを、種族の区別なく庇護し育てているリピアの行いに、ダークテリトリーのあるべき未来の姿を見たつもりでいたのだ。

だからこそシャスターは、リピアにだけは自分の理想を語った。人界との慢性化した戦争状態を解消し、奪い合うのではなく、育み分かち合う世界を創りたい、という果てない夢を。

 しかし、そのことがリピアを皇帝暗殺へと走らせ、あのような痛ましい姿を晒す結果を導いてしまった。彼女を殺したのは皇帝であるが――同時にシャスター自身でもあるのだ。間違いなく。

瞬時ではあるが、ゆえに途轍もなく巨大な悔恨と自責の嵐が、シャスターの虚ろな胸腔に吹き荒れた。

それが、ひとつの黒い感情へと変質するのに、時間はかからなかった。

殺意。

殺す。玉座で脚を組み、薄笑いを浮かべるあの男だけは何があろうとも殺す。

たとえ、己の命、そしてダークテリトリーの未来すべてと引き換えにしようとも。


 さて、どいつが問題の"閣下"だろう。

ガブリエルは、尽きぬ興趣とともに、眼下にひざまずく十人のリーダーユニットたちを眺めた。

 刺客の女は、主人を心の底から愛していた。女の死に際に放射された、天界の甘露にも似た感情をあまさず味わい吸い尽くしたガブリエルは、女の思慕だけではなく、"閣下"が女に抱く愛情の質すらも理解――あくまでパターン・データとしてだが――していた。

だからこそ、このように女の首を見せてやれば、必ず動くという確信があった。刃を向けた反逆ユニットを容赦なく処分し、残りの九ユニットの忠誠ステータスを恐怖によって上昇させる。現実世界でプレイするシミュレーション・ゲームと何ら変わらない。

まったく憐れで、愉しい奴らだ。

あのような本物の魂を備えているくせに知性は制限され、その上殺しても殺しても好きなだけ再生産が可能。いずれアンダーワールドを、メインフレームとライトキューブごと我が物とした暁には、幼い頃から苛まれてきた餓えを、ついに飽くるまで満たせるに違いない。

玉座の肘掛に立てた腕に片頬をあてがい、ガブリエルはリラックスして待った。

ユニットたちとの距離は二十メートル強。どんな武器による攻撃でも、左腰に装備した剣で問題なく迎え撃てる余裕の間合いだ。

もちろん、システム・コールから始まるコマンド攻撃に対処するには不十分である。だが、ガブリエルの不安はログイン前に払拭されていた。

 スーパーアカウント・"闇神ベクタ"は、K組織のスタッフがダークテリトリーの強制操作のために設定したものだ。ゆえに、天命と呼ぶHPは膨大、装備する剣は最強、何より――ベクタには、あらゆるコマンドの対象にならないという反則じみた特性があるのだ。

これだけの条件に庇護されたガブリエルは、十ユニットの左端に座した漆黒の鎧の騎士が、ぐうっと背中を丸めたときも、

その全身が、薄い影のようなオーラに包まれたときも、

 騎士の右手が稲妻のように走って床に置かれた剣の柄を握り、同時にがばっと顔が跳ね上がって、その剛毅な相貌の中央、鋭いふたつの眦から人のものではない深紅の光が放たれているのを見たときすら――

発生しつつある事象を完全には理解できていなかった。

この世界は、半分はサーバー内で演算されるプログラムだが、もう半分は人の魂と同質のエバネッセント・フォトンで構築されていること。

 そして、自分の強襲チームが主電源ラインを切断したときに、全STLに設けられていたセーフティ・リミッターが焼き切れてしまっていること。

 それゆえに、黒い騎士が発生させた純粋かつ強烈すぎる"殺意"は、死という概念を彼のライトキューブからメイン・ビジュアライザー、そして量子通信回線を経由させてガブリエルが接続するSTLに注ぎ込み得るのだということを。


シャスターは、血の色に染まった視界の中央に、ただ皇帝の姿だけを捉えた。

生涯最速の動きで右腕が疾り、抜剣した。

 鞘から解放されたのは、彼が師から受け継いだ神器・『朧霞(オボロガスミ)』の見慣れた灰色の刀身ではなかった。その銘のとおり、夜霧にも似た濃いかすみが長大な刃を取り囲み、渦を巻いてうねっていた。

その現象のロジックが、長年研究しながらもついに解明できなかった整合騎士の究極奥義・武装完全支配と同じものであるとシャスターには気付くすべもなかったが、それはもうどうでもいいことだった。

「殺ッ!!!」

一瞬の気合とともに、シャスターはすべての怒り、憎しみ、そして哀しみを刀に乗せ、大きく振りかぶった。

* 人界の北端から、遥か東域の果てへ。

四帝国のなかでも、もっとも謎めいた土地であるイスタバリエスに足を踏み入れるのは、整合騎士アリスにとっても、西国生まれの雨縁にも初めてのことだった。

眼下に連なる険峻な奇岩のあいだを、瑠璃のように青い河水が滔々とつないでいる。時折そのほとりに現れる村や街は、北方で見慣れた石造りではなくほとんど木材だけで築かれているようだった。

空を振り仰ぎこちらを指差す人々の髪は、そろって黒い。アリスとはどうも反りが合わなかった騎士団副長ファナティオが、そういえばこっちの出身だったかとふと思い出す。

視線を目の前に戻すと、手綱を握るアリスの腕のなかでぼんやり空を眺めているキリトの髪もまた漆黒で、もしかしたらこの人も東域の生まれなんだろうか、街に降りて人々と触れ合えば、心を取り戻す切っ掛けになるだろうかと考えなくもないが、いまは一日の道草も惜しい。

 夜は安全そうな湖の岸辺で野営し、雨縁に獲ってもらった魚と干し果物だけの食事でしのいで旅路を急ぐこと三日――。

ついに、遥か前方に壁のごとく連なる果ての山脈と、その岩肌を神が斧で断ち割ったがごとき垂直の谷間が視界に入った。

「……見えたわよ、雨縁、キリト」

アリスは呟き、重荷を載せての長旅を強いてしまった愛竜の首筋をそっと撫でた。飛竜は、伝説級の魔獣がほとんど姿を消してしまった現在ではほぼ最大級の天命と優先度を備えた生物だが、それでも人間ふたりと神器三振りを荷っての飛行は大ごとだったに違いない。半年間の魚食べ放題生活で蓄積した余力もあらかた使い果たしてしまったようだ。

野営地についたら、何はともあれ新鮮な肉をたっぷり食べさせてあげようと思いながら手綱を控えめに鳴らすと、雨縁は疲れを感じさせない声で高くひと啼きし、飛翔速度を増した。

遠目からは紙一枚ぶんの極細の隙間のようにも見えた谷だったが、近寄るにつれてそんな生易しいものではないことがすぐに明らかになった。

横幅は百メルほどにも達するだろうか。オークやオーガの大軍団が横列を作って突進するにじゅうぶんな広さだ。

山脈を断ち割ってまっすぐ伸びる谷の、手前がわのとば口を包むように広がる草地には、無数のテントが整然と並んで一大野営地を出現させている。そこかしこで煮炊きの煙が立ち上り、周辺の空間では衛士たちの部隊がいくつもの陣形をつくって訓練に余念が無いようだ。ひらめく剣の輝きと、発せられる重い気勢が、アリスたちが飛ぶ高空まで届いてくる。

 懸念したよりも士気は低くないようだが――しかし、いかんせん絶対数があまりにも少ない。

ざっと見たところでは、総数は三千に届くまい。翻ってダークテリトリーの侵略軍は五万を下らないだろう。人界において、衛士がごく一部の者に与えられる天職でしかないのに対して、山の向こうでは老若男女を問わず動けるものは皆兵士なのだ。

 この状況に、いまさらアリス一人が参じたところで何が変わるというのか。いったい、騎士長ベルクーリは世界をどう護る腹積もりなのだろう……。

沈思しながらアリスは野営地を飛び越え、谷が作り出す薄闇のなかへと雨縁の鼻先を向けた。

ソルスの光が遮られた瞬間、ぞくっとするほどの冷気が身体をつつむ。左右の岩壁は、まさしく神が削ったとしか思えない完璧な垂直平滑面だ。生き物はおろか、草木の一本も見つけられない。

 そのまま低速で飛行すること数分――。

たなびく靄のむこうから、ついに姿を現した巨大構造物を眼にとらえ、アリスは思わず息を飲んだ。

「これが…………『東の大門』…………?」

確かに、高さ五百メルを超える神聖教会セントラル・カセドラルの主塔よりは低い。それでも、天辺まで三百メルはあるだろう。何より驚愕させられるのが、左右の門がすべて継ぎ目の無い一枚岩で造られていることだ。これほどの存在物を、人の手で削り出すことはもちろん、術式での生成加工も絶対に不可能だ。世界最強の術者たる最高司祭アドミニストレータがかつて創った最大の構造物は、央都セントリアを四分割する十字の巨壁だが、あれだって連なる岩の一枚一枚はこの門扉よりはるかに小さい。

 つまりこの大門は、世界がはじまったその時から、文字通り神の手によってこの地に据えられたものなのだ。ふたつの世界を分かつために――そして、三百数十年後の惨劇を導くために。

雨縁を空中で停止させ、アリスはあらためて間近から門を見上げた。

左右の扉、というより岩板を繋ぐように、一文字が人の体よりも巨大な神聖文字でなにごとか記してある。

「ですとら……くと……あと……ざ……らすと、すてーじ……」

先頭の一文をどうにか音にしてみたが、意味までは解らない。

首をひねったその時、突然、びぎぎっ! という凄まじい軋み音が空気を震わせ、アリスも、雨縁も驚いて頭を仰け反らせた。見れば、さっきまでは滑らかだった扉の一部分に、低速の稲妻のように黒いヒビが入り下へと伸びていく。

数十メルほども続いた罅割れがようやく停止した直後、表面から幾つかの岩の欠片が剥がれ、風きり音とともに落下すると、谷底で再び重々しい衝撃音を響かせた。

ぱちぱちと瞬きしてから、そのつもりで左右を見ると、罅割れや欠落が発生しているのはそこだけではなかった。むしろ、巨大な門のほぼ全体に、網目のように黒い線が這い回っている。

ごくりと喉を鳴らしてから、アリスは手綱を軽く振り、騎竜を門ぎりぎりまで近づけた。

耳には、ごぉん、ごぉんという重苦しい響きが届いてくる。恐らく、内部で岩板の崩壊が進行する音だ。おそるおそる左手を伸ばしたアリスは、空中にステイシアの印を素早く切ってから、そっと門の表面を叩いた。

 浮かびあがった紫色の窓に記されている"東の大門"の天命は、アリスの背筋を凍らせるに充分な数値だった。

 最大値は、これまで見たあらゆる天命のなかでも最大――三百万以上という膨大なものだ。対するに、現在値は何たることか三千を割り込んでいる。しかも、その右端の数字が、目の前でさらに一つ減少した。

掌に汗を滲ませながら、アリスは口のなかで数を刻み、数字がもういちど減るまでの時間を計った。そして、天命が完全に消滅するまでの猶予を概算する。

「……嘘……」

自分の頭がはじき出した解答を信じられず、アリスは呟いた。

「……五日……あと、たったの五日しか無いの…………?」

 そんな馬鹿な――三百年以上も厳然と聳え立ってきた世界の果ての門が、たかが五日を待たずに崩壊する、などということがあり得るはずがない。

大侵攻迫るの報を受けつつも、アリスはぼんやりとそれは一年、二年先のことだろうと思い込んでいたのだ。

頭のなかに、シルカの輝くような笑顔やガリッタ老人の日に焼けたしわ深い顔、そして父ガスフトの気難しいしかめ面が順番に過ぎる。彼らを襲ったゴブリンたちを撃退し、洞窟を氷で封印したのはほんの四日前のことだ。あれでもう、ルーリッドは当分のあいだ平和だと信じていたのに。

もし、五日後に大門が崩れ去り、その何日後になるか解らないが闇の軍勢が押し寄せてきたとき、守備軍がそれを防げなければ人界に血に餓えた怪物たちが洪水のように解き放たれる。その波は時を待たずして北部辺境まで達し、ルーリッドを今度は南から呑み込むだろう。

「何とか……なんとかしないと……」

うわごとのように呟き、アリスは無意識のうちに手綱を引き絞った。崩壊寸前の岩板から距離を取り、雨縁はゆっくりと上昇していく。

三百メルの高みにまで続く大門の最上部に達するのに、数分とはかからなかった。

 門の向こうには、同じように山脈を切り裂く谷がまっすぐに続いている。しかし、その彼方に広がるのは青い空と緑の草原ではなく……ダークテリトリーの血の色の空と炭殻を撒いたような不毛の荒野だ。

 禍々しい光景からすぐに眼を逸らそうとしたアリスは――ふと眉をしかめ、眼を細めた。

わずかに見通せる黒い大地に、ちらちらと揺れる小さな光を見つけたのだ。

雨縁をさらに上昇させ、じっと視線を凝らす。

 光は一つではない。間隔を置いて規則的に並んでいる。その数十か二十――、いや、それどころか、見通せるかぎり地平線まで続いているように見える。あれは――

かがり火だ。

野営地なのだ。闇の軍勢の先鋒が、すぐ目と鼻の先に大挙して待ち構えているのだ。門が崩壊し、獲物がひしめく狩場への道が開かれるその時を。

「あと……五日……」

アリスは掠れた声で、もう一度呟いた。

しかしすぐに、現実から目を逸らすがごとく飛竜の首を回し、谷をもときた方へと後退させる。無数のかがり火を長時間見ていたら、圧迫感の巨大さに飲み込まれて単騎斬り込んでしまいそうな気がしたのだ。

 たとえそうしたところで、相手がゴブリンやオークの歩兵だけならば百や二百の首級を獲って戻る自信はある。しかし、敵陣にオーガの弩弓兵、または暗黒術師――魔女の部隊がいれば事はそう単純ではなくなる。

 いかに整合騎士が一騎当千と言えども、所詮は文字通りひとりでしかない。剣、術、あるいは記憶解放攻撃の届かない遥か後方から遠隔攻撃を集中して受ければ無傷ではいられないし、軽傷でも蓄積し続ければいずれは天命上限に達し得る。それこそが、騎士長ベルクーリが長年危惧していた整合騎士団の――ひいては人界の守りの、最大の弱点なのだ。

 戦力の一極集中に拘った最高司祭アドミニストレータはすでに亡く、カセドラルに死蔵されていた大量の武器防具は急造の守備隊に分配ずみだ。しかし残された時間があまりにも少なすぎた。せめて兵が一万、猶予が一年あれば――。

軽いためいきとともに無為な思考を切り替えて、アリスは雨縁に下降指示を出した。

守備隊の野営地は、中央の草地を広く空けてある。隣接して巨大な天幕が並んでいるのを見ると、あそこが飛竜の発着場に違いない。

弧を描いて舞い降りた雨縁は、鉤爪で下草を舞い散らせながら減速した。停止する寸前から長い首を天幕のほうへ向け、くるるるっと高い喉声を響かせる。

すぐに、少し低い鳴き声で返答があった。兄竜の滝刳だろう。アリスは、竜が止まるやいなやキリトを抱えて草地に飛び降り、両脚から重い荷袋を外してやった。とたんに雨縁はどすどすと天幕に突進し、その下から頭を突き出した兄と互いの首を擦りあわせた。

思わずかすかに微笑んでしまったアリスだが、背後から駆け寄ってくる足音に気付き、あわてて表情を引き締めた。素朴な生成りのスカートの裾を整え、風に乱れた髪を背中に流す。

振り向くよりも早く、聞きなれた軽やかな声が発着場いっぱいに響いた。

「師よ! 我が師アリス様!! 信じておりましたぞ!!」

ずざざざ、と草の上を滑るように目の前に回りこんできたのは、ほんの十日ほど前に永の別れを交わしたばかりの整合騎士、エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスだった。長期の野営中だろうに、藤色の長い巻き毛にも白銀の甲冑にも染みひとつない。

「……元気そうですね」

 やや素っ気無いアリスの言葉に、感極まったように長い睫毛を震わせ、更に何か言おうとしたエルドリエの唇が――ぴたりと凍った。

無論、アリスが左腕で抱きとめている黒髪の若者の姿に気付いたせいだ。

左頬をかすかに強張らせ、ぐうっと頭を仰け反らせて、若き騎士は信じられない、というふうに唸った。

「連れて――きたのですか。なぜ。どうしてです」

アリスも、対抗するように胸を反らせて答えた。

「当然です。私が守ると誓ったのですから」

「し、しかし……いざ開戦となれば、我ら整合騎士はつねに最前線に立たねばならぬ身ですぞ。敵兵どもと剣を交えるあいだはどうするのです。よもや背に負うわけにもいきますまい」

「必要があればそうします」

自力では立つこともできないキリトの細い体を、エルドリエの眼から隠すようにアリスは身体を少し回した。しかし、いつの間にか発着場の周囲には、休憩中の衛士たちや下位の整合騎士たちまでが三々五々集まり、アリスには眩しげな、そしてキリトには訝しげな視線を向けてくる。

波音のような低いざわめきに被せるように、エルドリエが鋭い反駁を放った。

「なりませぬ、師よ! そのような……憚りながら言わせて頂きますが、ただの荷物を抱えて戦えば、剣力が半減するどころか師の御身を危険に晒すことにもなりかねませんぞ! アリス様は彼らの――」

一瞬言葉を切り、きらびやかな銀の篭手で周囲の剣士たちをさっと示す。

「――先頭に立ち、率い導くという責務がおありなのです! その貴方が、持てる御力のすべてを出せずして何とします!」

 正論である。であるがもちろん、はいそうですねとは言えない。アリスはぎゅっと奥歯を噛み締め、自分にとってはどちらも――人界のために戦うことも、キリトを守ることも同じくらい大切なのだということをどう説明したものか言葉を探した。

と同時に、エルドリエの言い様に、ある種の驚きを覚えもしていた。

かつての、セントラル・カセドラルでアリスに剣技の手ほどきを受けていたころの整合騎士エルドリエとは、明らかな変化がある。あの頃は、まるでアリスを神格化しているが如き崇拝ぶりで、何を言われようとも一度として言い返したりすることは無かった。

 そうであって当然なのだ。この世界の人間たちは、謎めいた"外界の神々"によって右眼に封印を施され、法や上位者の命令には絶対に逆らえないようになっている。アリスの知る限り、自ら封印を破ることに成功した者は、アリス自身と、すでに亡き青薔薇の剣士ユージオだけだ。神に等しき権限を誇ったアドミニストレータとカーディナルの二人ですら、その封印にはついに逆らえなかったのだ。

 つまりエルドリエは、いまだあの封印の支配下にあるはずだ。それなのに今彼は――、いや別に、あからさまにアリスの言葉に逆らったというわけではない。強く命令すれば従うだろう。だが確実に、かつてのような"盲従状態"ではない。自ら考え、意見を述べている。

その変化を彼にもたらした原因は、もはや明らかだ。

キリトだ。それにユージオ。

世界最大の反逆者であるあの二人と、いっときにせよ触れ合ったことがエルドリエの魂を強く揺らしたのだ。

 考えてみれば、ルーリッドに暮らす妹シルカも、村の形骸化した掟や頭の固い有力者たちの言葉には事あるごとに不満を漏らしていた。あるいは――キリトとユージオをセントリアの養成学校から連行したとき、人垣から走り出てきた女子生徒二人。一般民の、しかも年端も行かない少女が、自ら整合騎士に声をかけるなど本来到底有り得ないことだ。

 そして、もちろん――アリス自身も、また。

キリトと剣を交え、カセドラルの外壁から落下するまでの自分は、世界の成り立ちにも、教会の支配にも、最高司祭の絶対神性にも、ひとかけらの疑いすら抱いたことは無かった。

 しかし、已む無く力を合わせて危機を脱し、休戦を受け入れ、外壁をよじ登るあいだに、キリトはその声と、剣と、そして眸でアリスを激しく揺さぶり続け――ついには、忌まわしい苦痛の封印を破らせしめたのだ……。

そう、キリトはまるで、この偽りの調和に満ちた世界に振り下ろされた鉄槌のようなものだった。あらん限りの肉体と魂の力を振り絞り、世界を揺るがし、震わせ、ついには神聖教会という名の、世の中心に打ち込まれた巨大な古釘をも叩き壊してしまった。

しかしその代償として、彼は友ユージオと導師カーディナルの命、そして己の心を失った。

アリスは、左腕で支えた枯れ枝のような体をぎゅっと強く抱き寄せた。そして、正面からエルドリエの目を見返した。

言いたかった。あなたが今のあなたであるのは、この人と戦ったからなのです、と。しかし勿論理解はしてもらえまい。整合騎士団にとっては、キリトは変わらず忌まわしい反逆者でしかないのだ。

無言で立ち尽くすアリスに、エルドリエはまるで鋭い痛みを堪えるかのような表情で、更に何事か言い募ろうとした。

その時だった。周囲の人垣の一部が、まるで見えない巨人の手で掻き分けられたかのように、さっと割れた。

奥から流れてきたのは、アリスにとっては涙が出るほど懐かしく、同時に痛いほどの緊張を覚えざるを得ないあの声だった。

「まぁ、そうカッカするなよ、エルドリエ」

さっ、と両の踵をつけ背筋を伸ばす若い騎士から視線をはずし、アリスはゆっくりと振り向いた。

東域風の、前で合わせるゆったりとした青灰色の衣。低い位置で結わえた帯は深い藍色。その左腰に、無造作に突っ込まれた無骨な長剣。

あとは両足に、奇妙な木製の履物を突っかけているだけだ。しかし、その鍛え抜かれた巨躯から発せられる威圧感は、まわりの完全武装の騎士たちが目に入らなくなるほどの凄まじい密度だ。

着物とよく似た氷色の、短く刈り込まれた頭髪をごしっと擦り、声の主は厳つい口元ににやりと笑みを刻んだ。

「よう、嬢ちゃん。元気そうだな、ちょっとふっくらしたかい?」

「……小父様。ご無沙汰しておりました」

 アリスは、涙が滲み声が震えそうになるのを必死に押さえ付けながら、どうにかかすかな微笑みを作り、世界最強最古の剣士――整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンに一礼した。

 整合騎士として生きた九年間、アリスがただ一人心を許し、師と仰ぎ、また父と慕った人物だ。そして同時に、この世でただ一人――キリトを除けば――絶対に勝てないと確信する剣士。

だから、今は泣き顔を見せるわけにはいかない。

もしベルクーリが、キリトを置いておけないと言えばその時は従わねばならないのだ。もちろん、今のアリスはたとえベルクーリの命令であっても強制はされない。だが、皆の前で抗えば、騎士団と守備軍の秩序が揺らぐ。いまここに集った人々は、アドミニストレータ崩御というあまりにも巨大な動揺を、ベルクーリの指導力ひとつでどうにか繋ぎとめている状態なのだから。

そんなアリスの内心の葛藤をまるですべて見通すかのような、無骨な優しさに満ちた笑みを口元に刻んだまま、ベルクーリはゆっくりと歩み寄ってきた。

まずアリスの瞳をじっと見つめ、ぐっと力強く頷く。

そして、背後でエルドリエが何か言おうとしたらしいのを一瞥で制し、騎士長は視線をアリスの腕のなかのキリトに落とした。

口元が一瞬で引き締まる。刹那、まるで別人のような青い炎が、その鋭い双眸に宿る。

すうう、とベルクーリが細く、長く息を吸った。

同時に、周囲の空気がちりちりと重く、冷たく爆ぜ始める。

「……小父様……」

何を。

アリスは、音にならない声を絞り出した。

 ベルクーリは、間違いなく剣気を練っているのだ。かつてアリスが伝授された、"無想の太刀"を超える究極の剣、"心意の太刀"を放つための。心意とは神威だ。練り上げた意思の力をすべて剣に乗せ、敵の刃を断固として押しのけ、斬る。時としてその太刀は、敵刃に接することなく弾き飛ばすことすらある。騎士長の神器・時穿剣の、"未来すらも斬る"という記憶解放技は、彼の圧倒的意思力があって初めて成立する術式なのだ。

 つまり、まさか――ベルクーリは、キリトを斬るつもりなのか。

文字通り一刀両断でこの問題にケリをつけようということなのか。それだけは絶対に受け入れられない。もしその時は、アリスが自分の剣でキリトを守らねばならない。

騎士長の圧倒的すぎる剣気に圧され、周囲の騎士衛士たちも、エルドリエも、天幕の下の飛竜たちすらもしんと黙り込んだ。呼吸もおぼつかないほどの重く圧縮された空気のなかで、アリスは必死に右手の指を動かし、左腰の金木犀の剣に意識を繋ごうとした。ベルクーリの心意の太刀に、同じ技では抗しきれない。その時は記憶解放術でキリトを守るしかない。

 だが――。

アリスが実際に腕を動かす寸前、ベルクーリの口がかすかに動き、思念にも似た声が届いた。

大丈夫だ、嬢ちゃん。

「……!?」

アリスが僅かに戸惑った、その刹那。

ベルクーリの全身は微動だにせず、しかし両の眼だけがぎらりと恐ろしいほどの光を放ち。

同時に、アリスの腕のなかで、キリトの体が一瞬激しく震えた。

ビギッ!!

何か巨大なものが軋むような音が鋭く響き、そして、ベルクーリとキリトのちょうど中間の何もない一点に、間違いなく銀色の閃光が小さく弾けた。

 ――いまのは!?

アリスは驚愕して、思わず一歩身を引いた。

その時にはもう、ベルクーリはさっきまでの剣気が幻だったかのように全身を緩め、再び笑みを浮かべていた。

「お……小父様……?」

呆然と呟いたアリスに向って、最古の剣士は、まるでかつての稽古のときのように指先で太い顎を擦りながら言った。

「嬢ちゃん、今のが見えたかい?」

「は……はい。一瞬でしたが……たしかに撃剣の光が……?」

「うむ。今オレは、"心意"の刃のみを抜き、その若者を斬ろうとした。当たっていれば、頬の皮一枚くらいは切れていたはずだ」

「当たって……いれば? ということは……」

「そうさ。受けたのだ。若者が、己の"心意"でな」

アリスは鋭く息を吸い込み、あわてて抱きかかえるキリトの顔を覗き込んだ。

しかし、期待はすぐに裏切られた。薄く開かれた黒い瞳には、虚ろな暗がりしか見出せない。あらゆる表情は抜け落ちたままだ。

 ううん――でも、さっき、確かに一瞬体が震えた。

アリスは右手でキリトの髪を撫でつけながら、視線をベルクーリに向けた。騎士長は、ゆっくり首を振りながらも、確かな声で断じた。

「若者の心は、今ここには無ぇようだ……。だが、死んじゃいねぇ。いいか、さっきそいつは、自分ではなくお前さんを守ろうとしたんだよ、アリス嬢ちゃん。だから……いつか、戻ってくる。俺はそう思う。たぶん、嬢ちゃんがほんとに危険な目にあった、その時にはな」

アリスは、再び滲みそうになった涙を、先刻の倍ほども苦労して堪えた。

 そうよ――きっと、戻ってくる。

だってキリトは、キリトこそは、ほんとうに世界最強の剣士なんだから。二本の剣を振るい、あの半神人ですら斃してみせたんだから。

 私のために……とは言わない。この世界に生きる、たくさんの人たちのために、戻ってきて……。

アリスはついに耐え切れなくなって、頭を伏せて両腕でキリトの体をぎゅっと抱きしめ、その肩口に顔をうずめた。頭上を、諭すような調子の騎士長の声が通り過ぎた。

「そんな訳だからよ、エルドリエ。そう細かいこと言わねえで、若者ひとりくらい面倒見てやろうや」

「し……しかし……」

いっそ天晴れというべき気概を見せて、階梯的には中位の整合騎士であるエルドリエは、騎士長ベルクーリにすら意見を述べた。

「たとえ僅かにでも戦力になると言うならまだしもこの状態では……それに、たとえ正気に戻ったところで、一般民の剣使いが何ほどのものなのか……」

「おいおい」

ベルクーリの声は、錆びた微笑と同時に、銘刀のごとき鋭い響きを帯びていた。

「忘れたのかい。その若者の相棒は、このオレに勝ったんだぜ。整合騎士長、ベルクーリ・シンセシス・ワンによ」

瞬時に、しんと草地全体が静まり返る。

「あの坊や……ユージオって言ったかな。強かったぜ、とてつもなく。言ってなかったが、オレは時穿剣の記憶解放までしたんだ。その上で負けた。お前さんや、デュソルバートや、ファナティオと同じようにな」

 これには、エルドリエももう返す言葉が無いようだった。当然だろう、一対一でベルクーリに勝ちうる剣士などというものが、整合騎士団にも、そして大門のむこうのダークテリトリーにも存在しようはずがない――とここ百年以上誰もが信じてきたのだから。

しかし、これはある意味では危険すぎる宣言ではないのか。

 騎士長ベルクーリは、最強者という権威ひとつでこの寄せ集めの守備軍をまとめてきたのだ。しかし、自分を打ち負かした剣士ユージオの存在を皆に知らしめ――そして、キリトがユージオと同列だと認めたということは……。

アリスがそこまで考え、顔を上げかけたときだった。

ベルクーリが、びくん、とまるで痙攣するような動きで上空を見上げた。

「お……小父様……?」

アリスの掠れた声に、返ってきた騎士長の言葉は、まるで予想外のものだった。

「でかい剣気が……一瞬膨らみ、消えた……。遠くで……誰か死んだ……」


暗黒界十候会議を構成する十人の将たちは、それぞれ性向も、人品も、裡に隠した野望のほどもまるで似通うところは無かったが、しかしたった一つだけ完全なる共通点を持ち合わせていた。

 それは、"力が全てを支配する"という暗黒界唯一の法を、十人以外の何ぴとよりも明瞭に理解している、ということだ。

 むしろ、その法を幼少から魂に刻み込み、不断の努力――自己の鍛錬にせよ、邪魔者の排除にせよ――を続けてきたからこそ、血で血を洗うこの世界においてほぼ頂点を極めることが出来たのだ、と言うべきだろう。

それ故に。

暗黒将軍シャスターとともに玉座の間に並んだ九将は、右端に座していた黒騎士が裂帛の気勢とともに皇帝に向って抜剣したときも、心底からの驚愕に打たれることはなかった。

むしろ、『ほう、敢えてここで行くのか、大胆なことだ』という理解を多くのものは感じた。三百年のあいだに言語能力すなわち知能を退化させてしまったオーク族やオーガ族の長ですらも、『これで皇帝とかいう奴の力のほどがわかる』と獣の眼を鋭く光らせた。シャスターに戦士としての敬意を抱いている若き拳闘士に至っては、『抜いたならば皇帝を斬ってしまえ』と内心で応援さえした。

そんな彼らの中にあって、この事態を数秒前から予測していた者が二人いた。

ひとりは、暗黒術師総長ディーだった。シャスターと最も激しく敵対していた彼女は、暗黒将軍の愛人の拉致を計画しており、以前からリピアの顔を知っていたのだ。

だから、むしろ驚きは、氷漬けになったリピアの首級を見たときのほうが大きかった。これはもしや、シャスターが怒りに任せて抜くか、とディーは予測し、その場合どう動くべきかを瞬時に考えた。

シャスターを背後から撃ち、皇帝に恩を売ることも検討したが、最終的にディーは傍観を選択した。力の底が見えない皇帝ベクタにシャスターが敗れればそれでよし、仮にシャスターが勝つことがあれば、その時こそ恐らく深手を負っているであろう仇敵を焼き焦がし、あらためて自らが暗黒界に覇をとなえればよい。内心でほくそ笑みながら、ディーは興奮を押し殺すために小さく唇を舐めた。

 そして、暗黒将軍の叛意を察知した者がもうひとり――。

こちらは、即座に動いた。


シャスターは、殺の一文字だけを心に抱き、愛刀を大きく振りかぶった。

 太刀に込められた"心意"の強度だけを計れば、かつて整合騎士長ベルクーリと一合撃ちあったときのそれを確実に超えていた。彼の怒りと嘆きの凄まじさは、本来長い術式を必要とする"神器の記憶解放"現象を即時に引き起こしたほどだった。

 シャスターの携える長刀オボロガスミは、VRMMOパッケージとしてのアンダーワールドが二百年ほど前に自動生成したオブジェクトである。その属性は"水"であり、いまシャスターの殺意に呼応した刀身は、必殺の威力を内包したまま実体を失って霧状の影へと変化していた。

 この記憶解放技の特性は、あらゆる剣が本来的に持つ、"鋭い刃で対象物を切断または貫通しダメージを与える"という攻撃プロセスを完全に省略することだ。柄から長く伸びる霧の帯に触れたものは、その時点で天命に直接斬撃ダメージを被る。すなわち、回避以外のあらゆる防具・防御は意味を成さない。

皇帝ベクタことガブリエル・ミラーは、シャスターが抜剣した時点で、自らの腰の剣を抜き、敵の攻撃を迎え撃つつもりで動いた。

もし事態がそのまま推移すれば、シャスターの霧の刃は、ガブリエルの剣をすり抜けて体に届き、凝縮された殺意を注ぎ込むはずだった。

だが。

 だがしかし――刀を大上段に構え床を蹴る、その寸前。

シャスターの動きが減速し、止まった。

いつのまにか、暗黒将軍の重鎧の左脇腹、分厚い装甲のわずかな継ぎ目に、一本の投げ針が深々と突き立っていた。


ゆらり、と音も無く立ち上がったのは、濃い灰色のローブに全身を包んだ痩せ細った姿だった。

暗殺ギルド頭首、フ・ザである。十候にあってもっとも存在感が薄く、会議でもほとんど発言しなかった日陰者が、おそらくその生涯で最大の注目を浴びながらするりするりと前に進み出た。

フ・ザがシャスターの挙動を事前に察知し得たのは、皮肉なことに、彼が十候のなかでもっとも臆病かつ神経質であるがゆえだった。

 暗殺ギルドは、言わば力無き者たちの寄り合い所帯である。体力、魔力、財力、ありとあらゆる力に恵まれずに生を受け、しかしただ奴隷として搾取されるばかりの生き方を拒んだものたちが、最後の力として"毒による暗殺"の技を磨くために造った集団なのだ。

アンダーワールドにおける一部の虫、蛇、果実といった毒性オブジェクトは、本来、負荷実験の一環として配置されたものである。ゆえにその効果は限定的で、住民が必要な知恵を働かせれば回復可能なレベルに留まっている。逆に言えば、とても術式や刀剣に対抗するための武器として使用できるほどの威力は無いのだ。

 だが、暗殺ギルドを作ったものたちは、ラーススタッフもまるで想定していなかった"濃縮"という技法を編み出し、長い年月をかけてひたすら毒性の強化を、言い換えればマテリアル単位量あたりの耐久度損耗力の増加を目指しつづけてきた。オブシディア城敷地内の地下深くに存在する暗殺ギルド総本部には、百年以上にも渡って毒果の汁を煮詰め続けている大釜さえある。

 だが、ついに完成した"致死毒"は、暗殺ギルド内において暗殺が横行するという悲劇をも生み出した。術式、あるいは武器と違って、毒攻撃は加害者の特定が非常に困難なのだ。

だから、必然、ギルドを束ねるものは極限まで臆病でなければ生き残れないことになった。周囲の者の視線、いや気配のうちにすら、殺意の存在を感じ取れるほどに。

フ・ザにとっては、シャスターがリピアの首を見た瞬間に撒き散らした殺気は、鮮血の臭いよりも明瞭に嗅ぎ分けられるものだった。

そしてフ・ザにとっては、暗黒将軍シャスターは、この世界で最も憎むべき人間だった。

これまで練っては破棄した毒殺計画は数知れない。殺すまでは達成する自信はある。しかし、毒で死んだということはすなわちそれは暗殺ギルドの仕業であり、明確な宣戦布告に他ならない。シャスターが息絶えたその一時間後には、強力無比な暗黒騎士団が暗殺ギルド本部を襲って皆殺しにするだろう。正面戦闘となれば勝ち目はまるで無い。

しかし、今、この瞬間ならば。

怨敵の体に、研ぎ上げた毒針を突き徹す大義名分がある。抜剣し、皇帝の首を獲るまでの数秒間は、シャスターは暗黒将軍でも十候でもなくただの反逆者なのだから。

 フ・ザがローブの懐から抜き出し投擲したのは、暗殺ギルド頭首に代々受け継がれる暗器だった。"ルベリル毒鋼"と呼ばれる稀少な鉱物から削り出された、掌に包めるほどの極細の鋼針は内側が空洞になっており、毒液を蓄えられるようになっている。

 装填されているのは、これも暗殺ギルドの技の精華である致死毒だった。野山から採取した"チグサレ"という蛭の一種を五万匹まとめて磨り潰し、幾度も濾過濃縮してわずか一垂らしの毒液を得る。蛭を繁殖飼育しようという試みはすべて失敗したため、この毒一滴を製造するのにとてつもない労苦が必要なのだ。フ・ザには知りようもないことだが、アンダーワールドのフィールドに存在する動植物は、面積あたりの規定値に従ってシステムが生成するのであり、家畜ユニットに指定された羊や牛などを除けば一切の人為繁殖はもとより不可能なのである。

つまり、フ・ザが放った毒針は、その素材も内部の毒液も、暗殺ギルドの総力を一点に凝集したと言って過言ではない代物だった。それはまた、数百年に渡って虐げられてきた弱き人々の怨念の結晶でもあった。


シャスターは、振りかぶった剣にのみ全意志力を集中していたために、体に鋼針が深々と突き刺さった痛みをまるで意識しなかった。

しかし、玉座に向って高く跳躍しようとしたまさにその瞬間、体全体が鉛と化したかのようなすさまじい重さを感じ、かっと眼を見開いた。

両脚から力が抜け、がしゃりと片膝を突いてしまってから、あらためて左脇腹の異物感に気付く。

 ――毒か。

瞬時にそう考え、氷のような痺れが左手にまで広がる前に、素早く針を抜き取る。まるでおもちゃのような小さな武器の、ぬめりのある緑色の光沢に気付いたシャスターは、それが忌まわしき毒鋼製であることを悟り、即座に麻痺対抗術を唱えようした。

しかし、冷気はすさまじい速度で左脇から浸透し、たちまち口にまで達した。システム・コールの起句すらも言い終わらぬうちに舌の感覚が失われ、歯を食いしばることすらもできなくなった。

左手もまた痺れ、零れ落ちた毒針が足元でかすかな音を放った。

最後に、振りかぶったままだった右腕がゆるゆると落下しはじめ、それと同時に長刀の記憶解放状態も解除され、灰色の霧から再び実体へと戻った切っ先ががつんと、ほんのわずかに床を抉った。

抜剣する前とまったく同じ、左の膝を突いて頭を垂れた姿勢で凍りついたシャスターの視界に、音も無く闇色のローブの裾が入り込んだ。

 ――フ・ザ。

 ――よもや、この男にしてやられるとは。

「……こんな、取るに足りない小物に。……そう思ってますね、ビクスル?」

 しゅうしゅうと擦れるような声が頭上から降ってきて、シャスターは唯一わずかに動く目元に険をつくった。――貴様に、馴れ馴れしく呼ばれるいわれは……。

「名前を呼ばれるいわれはない。そう言いたいですか? でもね、あなたをビクスルと呼ぶのはこれが初めてじゃないんですよ?」

ゆるゆるとローブが床にわだかまってゆき、同じ高さにまで身をかがめた暗殺者の顔が、シャスターの視界に半分ほど入った。しかし、深々とかぶったフードが光を遮り、尖った顎先以外は暗闇に沈んでいる。

その顎がかすかに動き、いっそう低まった声が闇から流れ出た。

「あなたは……憶えていないでしょうね。幼年学校で、自分が散々に叩きのめした多くの子供の顔など。そしてそのうちの一人が、屈辱のあまり水路に身を投げ、学校から永久に消えたことも」

 ――なんだ。この男は何を言っている? 幼年学校だと?

名も無き一騎士の子として生まれたシャスターは、木剣が握れるようになると否応無く暗黒騎士団付属の養成所に叩き込まれた。以後は、生き抜くためにひたすら修行に明け暮れた記憶しかない。あらゆる選抜試験で常に勝利しつづけ、気付けば騎士団の士官に任ぜられ、師である前騎士長に見出されてからは尚一層、剣のためにのみ生きてきた。

憶えていようはずもない。養成所で並んで木剣を振っていた子供たちの名前など。

「……でもね、私は一日として忘れたことはありませんよ。流れ着いた地の底の暗渠で暗殺ギルドに拾われ、奴隷としてこき使われた長い年月のあいだ、ずっとね。私は知識を蓄え、多くの新しい毒を開発し、ついにはギルド頭首にまで上り詰めた。その代償として様々なものを失いましたが……すべてはあなたに復讐するためです、ビクスル」

歪んだ声が途切れると同時に、ほんのわずかにフードが傾けられ、シャスターの眼にフ・ザの素顔が晒された。

記憶が蘇ることは無かった。いや、もしシャスターが往時の同級生たちを完璧に憶えていたとしても、やはり名は思い出せなかっただろう。なぜなら、フ・ザの顔は、いかなる毒の影響か、酷く溶け崩れてオークも恐れるほどの異相と成り果てていたからだ。

再び深く引き下げられたフードの奥で、二つの眼だけがぎらぎらと強烈な光を放った。

「あなたの体に巡っている毒は、私があなたを殺すためだけに開発し、一滴ひとしずく貯めたものです。実験では、天命が三万を超える岩鱗竜ですら一時間で殺しましたよ。あなたの天命量ならば、おそらくあと二、三分でしょうか。さあ……返してもらいますよ。あなたに預けてあった、私の恨みと屈辱を」

 ――恨みか。

シャスターは、フ・ザの眼から視線を外し、目の前の床に転がる毒針を見つめた。

 ――俺は怒りと恨みによってのみ皇帝を斬ろうとした。この男もまったく同じ力をこの武器に込めて俺を殺そうとした。だから、俺の太刀は止まったのだ。我執の"心意"は、大義の"心意"には勝てない。昔、あの男……整合騎士長ベルクーリと一合交えたときに掴んだ剣訣を、俺は最後の最後で忘れてしまった……。

もう膝立ちの姿勢すらも支えていられずに、シャスターは左肩からがしゃりと床に崩れ落ちた。

 おぼろに薄れた視界の中央に――。

銀盆に載せられた、氷の立方体があった。


フ・ザ、かつての名をフェリウス・ザルガティスは、ついに訪れた歓喜の瞬間をあまさず味わい尽くすべく、呼吸すらも忘れて眼を見開いた。

力と栄誉の象徴とも言うべき暗黒将軍が、いま自分の足元に瀕死の体を晒している。艶やかだった肌は土気色に変じ、鋭い眼光は消えうせて灰色の膜がかかったようだ。

醜く、情けない死に様だった。

そしてシャスターの死はすなわち、毒殺技術の、剣術と暗黒術に対する優位性を正しく証明するものでもあった。この新型複合毒を用いれば、ほんの針の一刺しで、敵を抜剣も詠唱も不可能な状態に追い込み絶息せしめられるのだ。

 玉座の皇帝も、この一幕を見れば暗殺ギルドを軍の精鋭と位置づけるはずだった。新型毒の大量生産が完了した暁には、もう騎士や術師の顔色をうかがって隠れ暮らす必要もない。捨てさせられた名前を取り戻し、己を捨てたザルガティス家に、新たな支配者として乗り込むこともできるのだ……。

悦楽の絶頂に身を震わせるフ・ザは、視界の外に転がるシャスターの剣が、その刀身を再び霧に昇華させようとしていることに、まったく気付くことはなかった。


 ――リピア。

シャスターは、天命が尽きるその寸前、心の中でただ一人愛した女性の名を呼んだ。

リピアが皇帝の暗殺を決意したのは、ただただ、シャスターが語った新時代の到来を実現させたいと願ったからに違いない。三百年来の戦争が終わり、新たな法と秩序が暗黒界を照らせば、自分ひとり守れないような孤児たちにも幸せに生きていく権利が与えられるようになると、そう信じたからに違いない。

 ――フ・ザよ。

 ――幼年学校で叩きのめされただと? 敗北に耐えられず身を投げただと?

 ――しかし、少なくとも貴様には機会はあったのだ。学費を出してくれる親が、三度三度腹いっぱい食える飯が、そして暖かいベッドと雨を遮る屋根があった。この世界には、生まれたときからそれら最低限の権利すら与えられず、襤褸屑のように扱われ消えていく幼い命がどれほど存在するか。

 ――リピアはそんな世を、命を賭して正そうとした。その心意を無に還すわけにはいかない。絶対に。貴様の個人的な怨讐ごときに――

「……邪魔はさせん!!」

完全に麻痺したはずのシャスターの口から凄まじい怒号がほとばしると同時に、灰色の竜巻のようなものが黒騎士の右手を中心に高く巻き上がった。

 それは、神器の"超解放"とでも言うべき現象だった。シャスターの強力無比な心意が愛刀を媒体として、全アンダーワールドの情報を構築演算する光量子集合体を直接書き換えはじめたのだ。

 渦巻く竜巻は、いまやあらゆるコマンドやオブジェクトを超越する純粋な"破壊力"と化していた。避ける間もなく、まともに竜巻に包まれたフ・ザの分厚いローブが、ぼしゅっと乾いた音を立てて煙のように散った。

 裸形をむき出しにした、痩せ細った中年の男は、溶け崩れた顔を隠すように両腕を持ち上げた。だが、直後、その腕が無数の肉片と化して飛び散り――続いて体全体が濃密な血煙となってばしゃりと宙に舞った。


最強の暗黒術師ディー・アイ・エルは、瀕死の暗黒将軍の体から奇妙な竜巻が巻き上がった瞬間、とてつもなく嫌な予感を感じて大きく飛び退った。

だが、その悪寒は、竜巻に触れた右足が、膝の下から跡形もなく粉砕されるのを見て生涯最大級の驚愕へと変わった。

ディーは、たとえ入浴中や就寝中であっても、数十に及ぶ防御術で身体を保護している。術式による攻撃はもちろん、飛び道具、剣、毒、おおよそありとあらゆる種類のダメージを跳ね返すはずの鉄壁の守りだ。

もちろん、同級の優先度を持つ十候の全力攻撃ならば、その防壁を貫通し肌に傷をつけることもあるかもしれない。しかし、防壁を破壊することなく、肉体ごと天命を一気に持っていく、などということは不可能だ。絶対に。

しかし、どれほど脳裏で否定しようとも、飛翔退避を上回る速度で迫ってくる死の竜巻に右脚はみるみる削られていく。ディーほどの術者となれば、どれほど肉体が傷つこうとも治癒術で完全再生できるが、それも生きていればこそだ。

「ひっ……ああっ……!!」

ついに、ディーの口から甲高い悲鳴が漏れた。

しかしその響きは、同時に撒き散らされたゴブリンの長二匹の絶叫にかき消された。

ディーのさらに左に並んでいた、山ゴブリンの長ハガシと平地ゴブリンの長クビリが、短い足を懸命に動かして竜巻から逃れようと疾駆している。しかし、全速飛行するディーにすら追いつく竜巻の膨張を回避できようはずもない。

「クギィーッ!!」

醜い叫びとともにハガシが脚を滑らせ、床に転がった。必死に伸ばされた左手が、クビリの足首を万力のように掴んだ。

「ギヒアアアッ!! 離せぇーっ!! はなぁ――っ!!」

ばしゃり。

ゴブリンの支配者二匹が、あっけなく血煙と化して飛散した。

ぞぶっ。

ディーの右脚が、根元から跡形もなく吹き飛んだ。

 恐怖と絶望に美貌を極限まで歪めた暗黒術師総長の文字通り眼前で――竜巻の膨張が、奇跡的に停止した。

倒れるシャスターの体はもう見えなかった。そのあたりを中心に屹立する逆円錐型の死の暴風は、すでに直径二十メルほどにまで拡大している。他の十候は素早く壁際にまで退いているし、広間の南側に並ぶ十軍の幹部たちも危ういところで無事だ。

混乱しきった思考のなかで、それでもディーの傑出した思考力は、竜巻の膨張が停止した理由をおぼろげに悟っていた。

 守ったのだ。十数名の暗黒騎士たち――己の腹心を。つまり、やはりあの竜巻は、シャスターの意思が作り出したものなのだ。

その推測を裏付けるように、竜巻の上半分が徐々にその形を変えはじめた。

出現したのは、半透明の霧で形作られた、すさまじく巨大な男の上半身。

鍛え抜かれた筋肉や、鋭く刈り込まれた髭を見ることもなく、それが暗黒将軍シャスターの写し身であることは明らかだった。


皇帝ベクタことガブリエル・ミラー陸軍中尉は、さすがに驚きらしき感情にうたれながら、圧し掛かるように屹立する竜巻の巨人を見上げた。

 暗殺者の生首を晒し、それを見た左端の騎士が剣を抜いた――ところまではまったく予想のうちだった。ガブリエルに向って斬りかからんとしたその男を、将軍ユニットの一人が麻痺毒か何かで停止させたのも意外というほどではなかった。

 反逆者の首を一撃で刎ね、それを以って残る九ユニットに絶対の忠誠心を植え込むという目論見からは外れたが、しかし自発的に皇帝を守るという行動は恭順のあらわれと判断してよかろう。そう思いながらことの成り行きを見守っていたのだが――。

 倒れた反逆ユニットから突如湧き上がった竜巻、そしてそれに包まれた将軍ユニット三個が一瞬で消滅したのには、さしものガブリエルの思考も停止せざるを得なかった。将軍ユニットは、皆同程度のステータスだったはずだ。ならば互いに戦えば、現実世界のVRMMOにおけるデュエルと同じように、HPを削ったり回復したりとだらだらした展開になるはずなのだ。

 それが、数秒で三個ものユニットのHPが吹っ飛ぶとはどういうことだ。もしや、この"アンダーワールド"には、自分の知らぬ何らかのシステムやロジックが存在するのだろうか――。

そこまで考えたとき、竜巻の巨人が口を開き、天地を揺るがすような雄叫びを放った。

『オ オ オ オ オ オ !!』

がしゃあーん!! という大音響とともに、玉座の間を飾るすべての壮麗な窓ガラスが外側に飛び散った。

 巨人がゆっくりと、フリーザーほどもありそうな右の拳を握り――。

轟、とガブリエルに向って撃ち降ろした。

剣を抜いても、回避しても無駄だと即座にガブリエルは判断した。視界の左端で、副官のヴァサゴが片眉を上げただけの表情で飛びのくのをちらりと確認してから、ガブリエルは玉座のうえで膝を組んだまま、灰色の拳が全身に叩きつけられるのを感じた。


 シャスターの、いまわの際の心意が発生させた死の竜巻は、アンダーワールドのシステム演算を超越した現象だった。数値的攻撃力によってフ・ザたちの天命を減少させ、その結果死亡させたわけではなく、おのおののライトキューブに直接"死"のイメージを叩き込むことによってまずフラクトライトを破壊し、そこから逆算するように視覚的肉体を粉砕したのだ。

ゆえに、ガブリエルに対する攻撃も、皇帝ベクタというユニットの天命には影響しなかった。

 しかし、シャスターのライトキューブで生成された殺意は、量子通信回線を経由してガブリエルがダイブするSTLにまで到達した。

 STLが万全の状態ならば、そこでフラクトライトの感覚野以外へ伝えられる信号はすべてセーフティ・リミッターによって完全遮断されるはずだった。

 だが突入チームがオーシャンタートルの主電源ラインを切断した影響で、すべてのSTLにおいてリミッターが機能不全に陥っていたのだ。

暗黒将軍シャスターという、四十数年の人生にわたって剣を練り上げてきた魂が放った必殺の意思は、リミッターを通過してガブリエル・ミラーのフラクトライトの中核、自我と生存本能を司るコアを直撃した。

この時シャスターの主観では、自身もまた己の放った渾身の一撃と完全に同化し、皇帝ベクタの内部へと突入していくように感じられていた。

本来の肉体の天命がすでに尽きているのは明らかだった。文字通り、これがシャスターの生涯最後の剣だった。

整合騎士長ベルクーリと、もう一度まみえることが叶わないのだけが心残りだ。しかし、あの男ならば理解するだろう。暗黒将軍が何を望み、何故皇帝を斬ったのか。

暗殺ギルド頭首フ・ザに加えて、十候のうちでもっとも好戦的だったゴブリンの長も両方斃した。暗黒術師総長ディーを逃したのは残念だが、あの深手では即時の再生とはいくまい。この上騎士団の長、そして皇帝までもが死ねば、残る将軍たちも整合騎士団との決戦をためらうに違いない。

 願わくば、その先に――リピアの望んだ平和な世界の到来があらんことを。

心意と同化したシャスターは、皇帝ベクタの額を貫いて、その内側に満ちる魂の中核に突入した。

そこを破壊すれば、さしもの暗黒神と言えども、フ・ザらと同じように存在の根幹からの消滅を余儀なくされるはずだ。

 声無き雄叫びとともにシャスターの意思は皇帝の魂に衝突し――。

そして、生涯最後の驚愕に見舞われた。

無い。

輝く光の雲のような魂の中核、生命力の真髄が満ちているはずのその場所に、濃密な闇が広がっている。

何故だ。世捨て人フ・ザの魂ですらも、貪欲なまでの生命への執着にぎらぎらと光っていたというのに。

 シャスターの心意は、皇帝の内部に無限に広がる"闇"に呑まれ、空しく拡散した。

消える。蒸発していく。

 こいつは――この男は――

命を知らないのか。

生命の、魂の、そして愛の輝きを知らぬ者。だから餓えている。だから他者の魂を求める。

 この男は、どれほど強力な心意であろうとも、"殺意の剣"では斃せない!

なぜなら、この男の魂は、生きながらにして死んでいるからだ!!

伝えなければ。誰かに。近い、あるいは遠い将来、この化け物と戦うさだめの者に。

 誰か――誰かに……。

しかし、そこでシャスターの意識は、皇帝の魂の深淵にかけらも余さず飲み込まれた。

 ……無念…………。

 …………リピア…………。

ふたつの思考がはじけたのを最期に、暗黒将軍ビクスル・ウル・シャスターの全存在はふたつの世界から完全に消滅した。


ガブリエル・ミラーは、あまりにも強烈な魂の輝きが己を貫いた瞬間、恐怖よりも歓喜を感じた。

 黒騎士の魂は、数日前に喰らった女暗殺者のそれよりも、一層濃密な感情に満ち満ちていた。あの女への愛――それに、理解しがたいがより広汎な対象への慈しみのようなもの。そしてそれらを動力源とする強烈な殺意。

愛と憎しみ。これ以上美味なものがこの世に存在するだろうか。

この時ガブリエルは、己が生命の危機に晒されたことなどまるで意識していなかった。黒騎士の攻撃によって、三つのユニットが肉片と化して飛び散ったのを見ていてもなお、ガブリエルは自分の安全よりも騎士の魂を喰らうことを望んだのだ。

もしガブリエルが、騎士の攻撃に恐怖し己の生存を望んでいれば、STLを経由したシャスターの殺意はガブリエルの生存本能を破壊し、連鎖的にフラクトライト全体を吹き飛ばしていたはずだ。

 しかし、ガブリエル・ミラーは"命を知らない"人間だった。彼にとっては、自分を含むあらゆる生命は、幼いころ大量に殺戮した昆虫と同様の自動機械でしかなかった。その機械の動力源である"魂"、謎めいた輝く雲の秘密を解明することだけがガブリエルの望みだった。

ゆえに、シャスターのフラクトライトが発生させた破壊信号は、ガブリエルのフラクトライトの不活性部分を空しく通過し、何にも衝突することなく消えてしまったのだ。

そのような理屈をガブリエルは知るよしもなかったが、しかし彼は騎士の魂を咀嚼しながら、ふたつのことを記憶にとどめていた。

 まず、この世界には、通常のVRMMOゲームのような武器・呪文によるもの以外の攻撃方法が存在すること。

そしてその攻撃方法は、自分には効果がないらしいこと。

先ほどの現象のロジックを、後でクリッターに調査させなくてはな。そう思いながら、ガブリエルはゆっくりと玉座から立ち上がった。


生き残った十候会議の六人は、あるものは壁に背中をもたれさせ、あるものは尻餅をつき、あるものは深手を治療しながら、ただ呆然と皇帝ベクタの姿を見上げた。

全員の心中にあるのは、もう恐怖のみだった。

 暗黒将軍シャスターの、恐るべき超攻撃――一瞬にして三人の将を切り刻み、十候のなかでも最大の実力者と目されるディー・アイ・エルの右脚を吹き飛ばした凄まじい技を、皇帝は正面からその身に受けて傷一つ負わなかったのだ。

力あるものが支配する。

皇帝ベクタは、六人の将軍と、背後に控える百人以上の士官たちを束ねても及ばぬほどの力を備えているのはもはや誰の目にも明らかだった。

細波が広がるように全員が深々と膝をつき、皇帝に恭順の意を示した。敬愛する騎士長とその副官を殺された暗黒騎士団ですら、それは例外ではなかった。

その頭上を、変わらずに抑揚のとぼしいベクタの声が滔々と響き渡った。

「……将の失われた軍は、直ちに次点の位にあるものが指揮権を引き継げ。一時間ののちに、予定どおり進軍を開始する」

反逆者が出たことを、怒ったり責めたりする言葉ひとつ無かった。それが、将軍たちの心中にいっそうの恐怖を呼び起こした。

ようやく右脚の傷を止血したディーが、指先まで伸ばした右手を高々と掲げ、叫んだ。

「皇帝陛下、万歳!!」

 一瞬の間をおいて――。

万歳、の声が城全体を揺るがすような大音声となって幾度も唱和された。


アリスは、ひとつ丸ごと与えられた野営天幕の内側をぐるりと眺め回し、軽くため息をついた。

簡易ベッドはぱりっと整えられて皺ひとつないし、敷かれた起毛革はまったくの新品で、空気も乾いた日向の匂いしかしない。それらは大いに結構だが、同時にこの天幕がアリスのために急遽空けられたものではない事も明らかだ。つまり、騎士長ベルクーリはアリスの参陣を当然のことのように予期し、騎士用天幕をひとつ余計に設営させていたということになる。

それだけ信頼されていると思えばいいことだが、あの人物を知っていると、むしろ思考の中身まで読まれているのではという気にもなってくる。

 いや――さすがにそれはないだろう。なぜなら、さしもの騎士長も、アリスがキリトを連れてくるとまでは予想し得なかったようだから。天幕に備えられた簡易ベッドは一つきりだ。

アリスは黒髪の若者の腰をそっとかかえ、ベッドのほうに誘導すると向きを変えて座らせた。とたん、若者は喉のおくから細い声を漏らしながら、左手を伸ばそうとする。

「はいはい、ちょっと待ってね」

入り口脇に置かれた荷袋に駆け寄ると、アリスは黒白二本の長剣を引っ張り出した。ベッドに戻り、それらを膝に載せてやる。するとキリトは一本だけの腕でぎゅっと剣を抱き、静かになった。

項垂れた黒い頭をゆっくり撫でながら、アリスは軽く唇を噛んで考え込んだ。

エルドリエには、必要があれば背負ってでも、等と言ってしまったが実際にはやはり少々難しい。痩せ細ったキリト一人ならともかく、超重量級の夜空の剣と青薔薇の剣までもとなると流石に動きが制限されてしまう。

雨縁の鞍に乗せっぱなしにしておくことも考えたが、敵にも飛行可能な暗黒騎士が居る以上空中戦となる場面もあろう。

結局、守備軍の後衛、輜重部隊あたりの誰かに託して面倒を見てもらうのがもっとも現実的な案だ。しかし問題は、そうそう都合よく心から信頼できる者が見つかるかどうかだ。

旧知の仲である整合騎士たちはもちろん全員が最前線に出ることとなろうし、一般民の衛士は逆に誰ひとり顔も名前も知らない。と言って、今更エルドリエあたりに適任の者を紹介してくれるよう頼むのもまったく気が進まない。

「キリト……」

アリスは腰をかがめて正面から若者の顔を覗き込み、両手でその頬をはさんだ。

キリトのことをお荷物だなどと思うつもりはまったくない。もし心を取り戻せればその瞬間、この若者は守備軍の誰よりも強力な剣士となるのだから。こうして戦場にまで伴ったのは、意識回復の手段を可能な限り模索するためでもあるのだ。

騎士長ベルクーリは、彼の放った心意をキリトが弾いたと言った。そしてそれは、アリスを守ろうとしてのことだと。

信じていいのだろうか。

 出会ったときは執行官と罪人、その次は処刑人と反逆者、そしてカセドラル最上階で最後に言葉を交わした瞬間でさえ、二人の関係はどう贔屓目に見ても"休戦協定中"でしかなかった。

 ――あの戦いの直後からあなたは心を喪ったままなのに、小父様の並々ならぬ剣気から私を守ろうとしたの?

 ――あなたはいったい、私のことをどう思っているの?

その問いは、キリトの光のない瞳にぶつかってアリスに跳ね返る。

自分は、いったいこの若者のことをどう思っているのだろう。

カセドラルでのキリトをひと言で表現すれば、憎たらしい、というのが最も適切だろう。あとにもさきにも、整合騎士アリス・シンセシス・フィフティに向って『バーカ!』などと口走ったのはこの若者だけだ。

 しかし、最後の戦いに於いて、最高司祭アドミニストレータに立ち向かったキリトの後姿――。

黒いコートの裾を大きく翻し、左右の手に一本ずつ剣を握ったあの姿を見て、アリスの心は震えた。何て力強く、それでいて突き刺さるほど痛々しいんだろう、と。

あの時の感情が、いまも胸の奥をずきずきと疼かせている。

しかし、その疼きの理由を知るのが怖くて、アリスは心に蓋をし続けてきた。

 ――だって私は、造られた意識なのだから。本来の"アリス"の体を奪い占有し続けている、戦うための人形にすぎないのだから。私には、感情を持つなどという贅沢は許されていないのだ。

 ――でも。

 ――もしかしたら、私が心を抑えつけているから、あなたに声が届かないの?

 ――もし今、ありったけの"心意"を放てば、あなたも応えてくれる?

アリスは大きく息を吸い、ぐっと止めた。

両手で挟んだ頬が冷たい。いや、掌のほうが熱を持っているのだ。

その頬を、そっと、そっと引き寄せる。自分も頭を僅かに傾けると、髪が流れて頬にかかる。

 ごく至近距離から、黒い瞳をじっと覗きこむ。まるで闇夜――でも、かすかに、ささやかに瞬く小さな星が見える気がする。

 睫毛を降ろし、瞼の裏に残るその星に向って、ゆっくり顔を近づけていく――。

不意に、ちりりんという軽やかな鈴の音が響き、アリスはびくんと飛び退った。

心臓が激しく鳴り響いている。焦って見回すが、もちろん天幕には誰もいない。ようやく、音の源は、天幕の入り口にノッカーがわりに取り付けられた紐つきの鈴だと悟る。

来客だ。わけもなく咳払いし、髪を背中に払ってから、アリスは足早に天幕を横切った。

どうせエルドリエがまた苦言を呈しにきたのだろう。何を言われようと説得されるつもりはないと、今度こそはっきり告げておかなければ。

二重になっている垂れ幕の、内側の一枚を右手ではねのけてくぐると、アリスは外側の分厚い毛皮も左手で一気に払った。

そして、開きかけた唇をぴたりと止めた。

目の前の来訪者は、まったく予想もしていなかった相手だった。思わずぱちくりと瞬きする。

「あ……あの」

怯えたような、か細い声とともに、来訪者は両手で捧げ持った小さな蓋付き鍋を差し出した。

「お……御夕食をお持ちしました、騎士様」

「あ……そ、そうですか」

アリスはちらりと空を見上げた。確かに、いつの間にか夕暮れの朱は山脈の向こうへと遠ざかろうとしている。

「ありがとう……ご苦労様」

ねぎらいながら鍋を受け取ったアリスは、改めて相手の小柄な姿を、上から下へと眺めた。

 ごく若い――十五、六だろうと思われる少女だ。

肩の下までまっすぐ伸びる髪は見事な赤毛だ。大きな瞳も同系の紅葉色。肌の白さと、すっきり通った鼻筋は北方帝国の血を示している。

身につけているのは下級衛士用の簡素な軽装鎧だが、その下の灰色のチュニックとスカートは、どうやら学校の制服らしい。

 こんな子供まで戦場に……、と眉を顰めそうになったアリスは、おや、と思った。

少女の顔立ちと制服には、どこか見覚えがある。しかし、管区を持たないカセドラル直属騎士だったアリスが、一般民と接触した機会などほとんど無いはずだ。

と、その時、まるで赤毛の少女の背後に隠れていたかのように更に小柄な少女がもう一人、おずおずという感じで姿を現した。

「あ……あの…………、お、お飲み物です……」

ほとんど黒に近い焦げ茶色の髪の、こちらは更に緊張の極致という感じだ。思わず苦笑しながら、アリスは差し出されたワインの瓶を受け取った。

「そんなに怯えなくても、取って食べたりしないわよ」

そう言いかけた瞬間、ようやくアリスの記憶が蘇った。

 この緊張し切った声――この二人は、あの時の……?

「ね……あなたたち、もしかして……セントリア修剣学院の……」

尋ねると、かちこちになった少女二人の頬が一瞬、ほっとしたように緩んだ。しかしすぐにびしっと姿勢を改め、ブーツの踵を打ちつけながら名乗る。

「は、はい! あた……私は、補給大隊所属、ティーゼ・シュトリーネン初等練士です!」

「あの、お、同じく、ロニエ・アラベル初等練士、です!」* 三百年の停滞の幕引きであり、同時に剣戟と殺戮の世の幕開けでもあるその現象は、ソルスの朱い輝きが地平に没するのと同時に訪れた。

五千の人界守備軍も、五万の侵略軍も、一様に息を潜めただただ目を見開いた。

創世の時代より地上に屹立しつづけた大門は、無限にも等しかったはずの天命のさいごの一滴が零れ落ちた瞬間、まるで死に抗うように巨獣の雄叫びにも似た地響きを世界中に轟かせた。それは不吉な遠雷となって、西は央都セントリアから、東は帝城オブシディアまでも届き、住民は皆足を止めて空を仰いだ。

数秒後。

二枚の岩板の中央に、天辺から根元まで一直線の亀裂が音高く走った。その内側から白い光がほとばしり、両側に布陣した全兵士は思わず目を瞑った。

 亀裂は凄まじい勢いで大門の隅々にまで伸び、それを追って白光も網目のごとく広がった。刻まれた神聖文字が、一瞬炎に包まれて紅く輝き――そして生き物のようにうねって形を変えた。新たに出現した文字列は、"Final Pressure Experiment Stage"というものだったが、その示す意味を理解できたものは戦場にたった二人しか居なかった。

文字が燃え尽きるのとほぼ同時に。

 亀裂から天まで届くほどの閃光が立ち上がり、ついに"東の大門"は、上部から崩壊しはじめた。


「うおっ……スゲッ……!」

御座車の手すりから身体を乗り出し、ヴァサゴが興奮した声で叫んだ。

「あーあっ、マジ録画しとくんだったぜ! ハリウッドがものすごいカネ出したろうになあ! つうか、AIだの何だのよりもこの技術を頂くべきっすよ兄貴! VFXスタジオでも作りゃ、あっという間に億万長者だ!」

ガブリエルも、眼前の一大スペクタクルシーンにさすがに目を奪われていたが、ヴァサゴの即物的な喚き声に短く息をつくと、冷静に指摘した。

「録画は出来ん。あれはポリゴンじゃないからな。STLに接続している今しか見られないショウだ」

彼方の大門は、すでに半ばちかくまで、無数の瓦礫となって崩れ落ちつつある。轟音も震動も凄まじいものがあるが、巨大な岩塊たちは皆、地面に墜落する前に光となって宙に溶けていく。あの様子なら、残骸がバリケードとなってしまう気遣いは無さそうだ。

 ガブリエルは漆黒の毛皮マントを翻して玉座から身を起こすと、ディーが置いていった大型の髑髏(スカル)に歩み寄った。

 脚高の小テーブルに据えられた、艶やかな黒色のそれは、音声伝達能力を持つ神器(アーティファクト)らしい。この親髑髏に向って話せば、たちまち将軍たちに持たせてある子髑髏へと伝わるということだ。ストライカー装甲指揮車のマルチチャンネル通信システムには劣るが、いちいち伝令を走らせるよりは遥かに即時的だ。

髑髏のうつろな眼窩にむかって、ガブリエルは鋼のように引き締まった声を放った。

「貴様らが待ち望んだ"刻"が来た! 殺せるものはすべて殺せ! 奪えるものは余さず奪え! ――蹂躙せよ!!」

軍勢のそこかしこから、大門の崩落音を上回るボリュームで、ウォー、ウォーという鬨の声が沸き起こる。突き上げられた無数の蛮刀や長槍が、かがり火を反射させて血の色に輝く。

右手を高く突き出し、まっすぐ前方に振り下ろしざま、ガブリエルは総司令官としての最初の命令を下した。

「第一陣――突撃開始!!」


侵略軍先陣の主力を構成するゴブリン部隊の右翼をまとめるのは、コソギという名の、山ゴブリン族の新たな長だった。暗黒将軍の叛乱に巻き込まれて死んだ先代の長ハガシの、十七人もいる息子のひとりだ。

ハガシは、歴代の長のなかでも最も残忍で貪欲と称されていた。コソギはその資質を色濃く受け継いだが、それだけではなくゴブリンにあるまじき知性をその醜い外見の下に隠し持っていた。

今年で二十歳になる彼は、もうずいぶん長いこと、なぜゴブリン族が闇の国の五種族のなかでももっとも最下層に位置づけられているのか、と考えてきた。

 たしかにゴブリンは、五族にあって最も矮躯であり、力も弱い。しかしかつてはその不利を補うに足るじゅうぶんな頭数があり、事実いにしえの"鉄血の時代"には、オークや黒イウムどもと対等の戦いを繰り広げた。

やがて全種族が疲弊するとともに戦乱は終結し、五族平等条約が結ばれ、ゴブリンの長も十候会議に席を得た。しかし実情は決して平等などというものではない。山ゴブリンも、平地ゴブリンも、与えられている領土は北方の痩せ細った土地で、子供は常に餓え、年寄りはばたばた死んでいく。

つまりは、他種族の長どもにしてやられたのだ。ゴブリン最大の強みである数を殺ぐため、広大だが地味の乏しい土地にうまいこと封じ込めた。ゆえにゴブリン族は、どれだけ時代が過ぎようとも生きのびることだけに精一杯で、文明を育てることができない。黒イウムのように、整備された養成機関で子供を訓練するどころか、口減らしのためにまとめて川船で流すような有様だ。他種族の領土に流れ着いた子供たちがどのような扱いを受けるか、承知の上で。

肥沃な土地と充分な資源さえあれば、いま兵士たちが握っているような粗悪な鉄を鋳流した蛮刀ではなく、精錬された鋼鉄製の装備を与えることもできる。養成所で剣技と戦術を学ばせ、あるいは黒イウムに独占されている暗黒術すらも習得できるかもしれない。

そうなれば、もうゴブリンを下等種族だなどとは呼ばせない。コソギの父ハガシも、常に黒イウムどもへの妬みと劣等感に苛まれていたが、そのために何をすればよいのか考える頭が無かった。この戦で武功を立て、皇帝の覚えを目出度くする程度の知恵しかなかったのだ。

武功など立てられるものか。この全軍の配置を見ればそれが解る。

 おそらく、基本的な作戦を進言したのは暗黒術師総長だろう。あの女は、はなからゴブリン族を使い捨てにするつもりで、"一番槍の栄誉"を押し付けてきたのだ。先陣切って突撃したゴブリンが、伝説の悪魔こと整合騎士にばたばた切り伏せられているところを、安全な後方から暗黒術でまとめて焼き払い、勲功をうまうまと掻っ攫う肚だ。そうはさせるものか。

と言って、もちろん命令に背くわけにはいかない。降臨した皇帝ベクタの力のほどは、ゴブリンの長二人と暗殺ギルドの長を一瞬で絶命させた暗黒将軍の攻撃を受け、毛ほどの傷も負わなかった時点で明らかだ。皇帝は明確な強者であって、強いものには従わなくてはならない。

だが、あの黒イウムの女は違う。いまやコソギも対等な十候なのだ。腹黒い姦計に諾々と従ってやる義理はない。

与えられている命令は、ただ先陣として突撃し、敵軍を殲滅せよというものだ。脚を止めて、後方から術式が降りそそぐまで戦線を支えろなどとは言われていない。そこに、あの女の裏をかく余地がある。

コソギは、大門が崩壊する直前、腹心の隊長たちにひそかにある指令を下していた。

与えられた黒髑髏がカタカタ顎を鳴らし、皇帝の突撃命令を伝えたとき、彼は革鎧の懐に手をいれ、かねて準備していた小さな球を取り出した。今頃、ほかの隊長も同じことをしているはずだ。

轟音とともに、かつて東の大門だった、最後の岩塊が崩れ落ち、光となって消えた。

眼前にまっすぐ開けた谷の奥に、たくさんのかがり火と、煌びやかな武器防具の照り返しが見えた。

白イウムの守備部隊だ。

奴らの向こうには、山ゴブリン族に栄光の時代を到来させるに充分な、豊かな土地と無限の資源、それに労働力がたっぷり満ち満ちている。

捨石になどなってたまるものか。その役は、哀れにもふたたび愚かな長を戴いてしまった平地ゴブリン族とオークどもに担ってもらおう。

コソギは、左手の球をしっかり握り締め、右手で鈍く光る鋳鉄のだんびらを突き上げて、金属質の声で叫んだ。

「てめえら、固まって俺についてこい!! ――突撃ぃぃぃぃッ!!」


「第一部隊、抜剣! 戦闘用意!! 術師隊、治癒術詠唱用意!!」

副騎士長ファナティオの鋭利な叫びが、宵闇を切り裂いた。

すかさず、じゃりぃぃん!! という鞘走りの重唱がそれに続く。数を抑えられたかがり火の赤い色が、刃に沿って流れた。

前方からは、津波のような轟きが凄まじい高速で迫る。

無数のゴブリンが発する小刻みな足音。オークのものはそれより少し間が広い。さらに、ジャイアントの大槌を打ちつけるような走行音が不規則に混じり、それら震動に甲高い鬨の声が加わる。かつてどのような人間も聞いたことのない、戦争という名の巨獣の咆哮。

大門から二百メル手前の防衛線に並ぶ、三百人の衛士に加えられた心理的重圧は恐るべきものだった。剣を一合も交えぬうちに、隊列が瓦解し散り散りに逃げ惑っても不思議は無かった。すべての衛士にとって、戦争はおろか、命の掛かった実戦すらも初めての経験なのだ。

彼らをその場にとどめ、剣を握らせ続けたのは、防衛線最前列に等間隔に立つ、三人の整合騎士の背中だった。

 左翼を受け持つのは、"星霜鞭"エルドリエ。

 中央には、指揮官でもある"天穿剣"ファナティオ。

 そして右翼を、"熾焔弓"デュソルバートが守る。

闇の底にあってなお眩く煌く全身鎧をまとった三騎士は、両足でしっかと地面を踏みしめ、微動だにせずその時を待った。

 騎士たちの心中にも、無論恐れも、怯えもあった。数十年から百年以上もの戦闘経験があると言っても、そのすべては暗黒騎士との一対一の決闘か、せいぜい十、二十の亜人族を相手にしたものでしかないのだ。これほどの圧倒的大軍を眼前にしたことは、第二位のファナティオにも――あるいは後方の第二部隊を指揮する騎士長ベルクーリにすら無かった。

その上、彼らはもう盲目的に従うべき最高司祭アドミニストレータも、教会が象徴していた絶対的正義も失っていた。実際のところ、央都に残った整合騎士の中には、最高司祭の命令なくしては指いっぽん動かせぬと言った者も居たのだ。

 この戦場に立つ騎士たちの、最後の拠り所、それは――皮肉にも、かつて"シンセサイズの秘儀"の際に破壊し尽くされたはずの、たった一つの感情だった。


デュソルバート・シンセシス・セブンは、熾焔弓を握る左手の、薬指に嵌まる古ぼけた指輪を右手の指先でそっと撫でた。

最古の整合騎士のひとりである彼は、ほぼ百年という年月を、任ぜられた北方の治安を維持することだけに費やしてきた。

果ての山脈を侵すダークテリトリーの勢力を退け、任地内に発生した大型魔獣を駆除し、まれには禁忌目録を犯した罪人を連行した。それら任務がなぜ与えられているのかを考えることは遠い昔に止めた。己を神界から召喚された騎士なのだと信じて疑わず、地上に暮らす人間たちの営みについて、一抹の興味も抱くことはなかった。

そんなデュソルバートをときおり戸惑わせたのは、目覚めの際に訪れるひとつの夢だった。

艶やかに白い、小さな手。その薬指には、簡素な銀色の指輪が光っている。

手は彼の髪を撫で、頬に触れ、そしてそっと肩を揺する。

囁き声。

 起きて、あなた。もう朝よ……。

デュソルバートは、その夢のことを誰にも言わなかった。もし元老院の耳に入れば、不具合として消去されてしまうと思ったからだ。彼はその夢を失いたくなかった。なぜなら、夢に現れる小さな手に嵌まるのと同じ指輪を、彼も騎士となったその時から自分の指に見出していたからだ。

あれは、神界での記憶なのだろうか。もしこの下界で使命を全うし、天上への帰還が許されれば、再びあの誰かとめぐり合えるのだろうか。デュソルバートは、長い間その疑問を胸に秘め、あるいはただ一つの望みとして心の奥底に仕舞い続けてきたのだ。

 しかし――半年前、カセドラルを激震させたあの事件に於いて。

デュソルバートは、反逆者たる二名の若者と戦い、武装完全支配術までも用いながら敗北した。未知の剣技で熾焔弓の炎を打ち破った黒髪の若者は、デュソルバートに向って言った。

整合騎士は、神界から召喚されてなんかいない。地上に暮らすふつうの人間が、記憶を消され騎士に仕立てられたに過ぎない。

完全無謬であるはずの最高司祭の言葉が偽りであるなどとは、とても信じがたいことだった。しかし、あの若者たちは最終的に、アドミニストレータその人に挑み、勝利してしまった。いや、それ以前にデュソルバートには解っていたのだ。彼らの剣閃には、偽りの色はひとすじも混じっていなかったと。

 となれば――あの手の持ち主もまた、天上ではなく、この地上に生きた人間であるということになる。

その考えを受け入れたとき、デュソルバートは騎士となって以来はじめてすることをした。銀の指輪を胸に抱き、滂沱の涙とともにむせび泣いたのだ。なぜなら、整合騎士と異なり、人間の天命は長くとも七十年で尽きてしまうから。つまりもう、彼を「あなた」と呼んだ誰かには、二度と会えないと解ってしまったから。

それでも彼は、騎士長の求めに応じて人界を守るため、この地に赴いた。

あの手の主が、ほんの短い年月であったにせよ、彼と生き、暮らし、目覚めを共にしたこの世界を守るために。

 つまり、騎士デュソルバートをいまこの瞬間、闇の大軍勢の前にしっかりと立たせているのは、消し去られたはずのひとつの感情――"愛"の力だった。

そして彼のあずかり知らぬことではあったが、同一線上に立つファナティオ、またエルドリエも、それぞれの愛する者のために戦おうとしていたのだ。

デュソルバートは指輪から右手を離すと、背後に据えられた巨大な矢筒から、鋼矢を四本同時に掴み出した。

それをまとめて熾焔弓につがえる。

長い術式詠唱はもう済ませてあった。エルドリエらは温存するようだが、彼の奥義は混戦のなかでは力を発揮できない。武器の天命の半ばまでは消費する覚悟で、デュソルバートは大きく息を吸い、最後の一句を放った。

「リリース・リコレクション!!」

灼熱。

吹き上がった巨大な火柱が、二百メル先に迫り来る侵略者たちの獣面をあかあかと照らし出した。

水平に引き絞られた四本の矢もまた、純粋な炎と化して紅く輝いた。

「――整合騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである! 我が前に立つもの悉く骨すら残らず燃え尽きると知れッ!!」

 名乗りの韻律は、かつて北方辺境のとある小村から――本人の記憶には残らぬことではあるが――ひとりの少女を連行した際のものとまったく同一だった。しかし十字の鉄面を外した今、声は抑揚豊かに、高らかに響いた。

 直後、限界まで張り詰めた弦が解放され――。

ズドオオッ!!

放射状に発射された四筋の火線が、この戦いの幕を開ける最初の攻撃となった。

そして、最初の犠牲者となったのは、新たな長シボリに率いられる平地ゴブリンたちだった。シボリは、山ゴブリンの新族長コソギほどの知恵も企みもなく、ただ腕力のみで長の座に就いたがゆえに、圧倒的破壊力を持つと予想される整合騎士の攻撃に対して一切の策を用意せず、ただ愚直な突撃を命じたのみだった。

火焔弾は、密集して突進するゴブリン軍を正面から貫き、最大の効果を上げた。

具体的には、合計で実に四十二人にのぼるゴブリン歩兵を焼き尽くしたのだ。その周囲の集団は浮き足だち、悲鳴が飛び交ったが、しかしもともと平地ゴブリンの突撃には秩序も隊列も意図すらも存在せず、血に餓えた蛮兵たちは斃れた仲間の死体を踏み潰して疾駆を続けた。

デュソルバートは、物も言わずに再び四本の矢を番え、放った。

今度は拡散させず、四弾をひとつにまとめて巨大な火球を作り出す。

グワアアッ!!

という爆発音とともに、敵の戦列に火柱が屹立し、空中に幾つもの矮躯が舞った。その数は五十を超えていたが、しかし、ゴブリンの突進は止まらない。止められるはずもないのだ、背後からはオーク軍がその巨体を揺らしながら追随してきており、後退などしようものなら圧倒的重量にひき潰されてしまう。

平地ゴブリンたちにも、山ゴブリンの長コソギのように具体的な思索には出来ないまでも、最下層種族として矢面を突撃させられていることへの怒りと恨みがあった。そしてその感情は、ただ、いずれ彼らよりも下位の奴隷となるはずの白い人間たちへの殺意へと転換された。

長シボリは、ゴブリンとしては図抜けて逞しい両腕に握った巨大な戦斧を振り上げ、獰猛な絶叫を放った。

「てめェら! まずあの弓使いを殺せ! 囲んで刻んで轢き潰せ!!」

殺せ!! 殺せ!! 殺せ!!

平地ゴブリンたちは一斉に咆哮した。

デュソルバートは、その殺意を一身に受けつつ三度四矢を番え、発射した。またしても五十以上のゴブリンが消し炭へと変わったが、敵部隊の総数はいまだ三千を超える。

彼我の距離が五十メルを切ったところで彼は熾焔弓の炎を収め、通常の射撃へと切り替えた。矢筒から凄まじい速度で鋼矢を掴み出しては目標も定めずに乱射する。

そのデュソルバートの両側に、抜剣した衛士たちがだだっと進み出た。

「騎士殿を守れ!! 奴等の刃を触れさせるなッ!!」

叫んだのは、いまだ二十代の若い隊長だった。見事な体躯に両手用の長剣を携え、ぐうっと大きな構えを取る。

下がれ、無理をするな、とデュソルバートは言いたかった。武技を究めた彼からすれば、半年の猛訓練を経てもなお、衛士たちの剣は実戦には心許ないものだったからだ。

しかし、彼はぐっと息を溜め、低く叫んだ。

「済まん……左右を頼む」

「お任せあれ!!」

隊長が、ニッ、と太く笑った。

 直後――。

殺到してきたゴブリン軍と、迎え撃つ衛士隊の剣が、最初の剣戟を音高く響かせた。


それより数瞬前。

峡谷の中央では、副騎士長ファナティオが、この世界の常識に照らせば奇妙としか言いようのない体勢で敵軍を迎え撃とうとしていた。

 片膝立ちで、上体をまっすぐに伸ばしている。肩の高さに持ち上げた右手には、神器"天穿剣"の柄がしっかり握られている。しかし拳の向きはいわゆる逆手で、水平に固定された剣の後端を鎧の肩当てで支えている状態だ。

 対して左手は前方にぴんと伸ばされ、掌で天穿剣の切っ先やや下を受け止めている。もしこの光景をガブリエル、あるいはヴァサゴが見れば、まったく同じ感想を抱いたことだろう、つまり――まるでライフルを構える狙撃兵のような。

ある意味ではそのものだとも言える。ファナティオは、殺到する敵軍を限界まで引き付けつつ、もっとも効果的な狙点を見定めているのだ。デュソルバートの熾焔弓は、矢の放ち方によって効果範囲を拡散させられるが、天穿剣はあくまで極細の光線を一点凝縮で発射することしかできない。ゆえに、膨大な敵軍に無闇と撃ち込んでも効果は薄い。

狙うべきは、敵軍のどこかにいるはずの指揮官、暗黒界十候の誰かだ。

ダークテリトリーの軍勢は、完全な力のヒエラルキーによって統率されている。ゆえに兵士たちは上位者の命令には絶対服従し、どんな状況でも命ぜられるまま最後の一兵までが挑みかかってくる。だがそれは、裏を返せば、指揮官が倒されたときに統制が失われるのもまた一瞬だということだ。

 ……でも、実は私たちも、かつてはそうだった。

ファナティオは、刹那の感慨を抱く。

最高司祭アドミニストレータ斃るる、の報は整合騎士団を瓦解させかけた。混乱の極みにあった騎士たちを立ち直らせたのは、ベルクーリの言葉だった。

 ――オレたちの使命、存在意義は、最高司祭と元老院の命令に従うことか?

 ――否。人界を、そこに暮らす人々を護ることだ。

 ――さらに否。護りたいという意思を、自ら発し、体現することだ。

現実には、すべての騎士がその言を理解し賛同し得たわけではない。それは、この戦場に集った騎士がわずか二十名しか居ないことが示している。

しかしその全員が、たとえ最後の一人となろうとも戦い抜く意思を秘めているはずだ。おそらくは、死地に馳せ参じてくれた三千の衛士たちもまた。そこがダークテリトリー軍とは決定的に違うところだ。

ファナティオは、百年ぶりに晒した素顔をぴたりと愛剣の柄につけ、両の眼にすべての集中力を注ぎ込んだ。

地響きを立てて突進する敵軍は、すでに百メルの距離まで肉薄している。右翼では、デュソルバートが記憶解放技による攻撃を開始したらしく、赤々とした炎と爆発音が立て続けに響きはじめている。

 その、夜闇を染めた一瞬の輝きに――。

ファナティオは、ついに探していた目標を捉えた。

両翼のゴブリン軍を追い立てるように、中央を突き進んでくる巨大な影。恐るべき体格を誇るジャイアント族だ。その先頭に立つ、周囲より頭ひとつ抜きん出た姿は、かつて一度だけ目にしたことのある彼らの長・シグロシグに違いない。

巨人族は凄まじく誇り高い、あるいは高慢な連中だ。体の大きさだけを優劣の尺度とする彼らは、暗黒界の実質的支配階級である闇人族をも内心では見下しているらしい。

 となれば、戦端が開かれる前に長を一撃で――しかも人族に――倒されれば、その動揺もまた巨大だろう。

ファナティオは大きく息を吸い、溜め、囁いた。

「リリース……リコレクション」

低く震動するような音を立てて、天穿剣の刀身全体がまばゆい白に発光した。

 柄と切っ先が作る直線上に、シグロシグの樽のような胸の中央をぴたりと捉え――短く、鋭く。

「貫け――光ッ!」

ズバァァァッ!!

ソルスの力を凝縮した熱線が、戦場を貫いた。


「……はじまった」

整合騎士レンリ・シンセシス・フォーティナインは、くぐもった爆発音を遠く聞きながらぽつりと呟いた。

レンリは、大門防衛の任をみずから志願した、七名の上位騎士のひとりだ。つまり守備軍の全戦力のうち、少なからぬ割合を個人で担う主力中の主力と言っていい。

しかし今彼が膝をかかえてうずくまっているのは、本来しっかと立っているべき、守備軍第二部隊左翼最前列ではなかった。そのはるか後方、遺棄される予定の物資天幕の薄暗い片隅だった。

逃げ出してしまったのだ。

ほんの十分前、夜闇と開戦直前の熱気にまぎれて遁走し、無人の天幕を見つけて潜り込んだあとは、ただひたすら息を殺し耳をそばだてていたのである。

レンリがそのような挙に出てしまった理由は、彼が守備軍に参じた動機とまったく同一のものだった。

失敗作。

最高司祭にその烙印を押され、レンリは七年間も深凍結されていた。その汚名を返上するべくこの地に身を投じたはずなのに、最後の最後で恐怖に耐えることができなかったのだ。

 レンリの記憶からは消去されていることだが、彼はかつて、南方帝国はじまって以来の天才剣士と呼ばれた少年だった。弱冠十三歳にして央都セントリアに上り、その翌年には四帝国統一大会で優勝するという快挙を成し遂げて、整合騎士へと取り立てられ――あるいは改造された。

 "シンセサイズ"を経て目覚めてからも、彼は剣に凄まじい天分を示し、たちまち上位騎士に任ぜられ最高司祭から最大の賛辞とともに神器を与えられた。

カセドラルに秘蔵される数多の神器の授受に際しては、アドミニストレータ、あるいは騎士本人が生涯のパートナーとなる相手を選ぶわけではない。実際にはその逆、神器が使い手を選ぶのだ。騎士の魂と神器のリソースとの間に発生する共振現象によって。

 レンリと彼の神器、双投刃"比翼(ヒヨク)"はたしかに強く共振した。

 しかし――ありうべからざることに、彼は一度として発動できなかったのだ。上位騎士の真価たる、武装完全支配術を。

 最高司祭の興味が離れるには半年で充分だった。彼のすぐあとに整合騎士となった"フィフティ"の、圧倒的な武才学才がそれを後押しした。

 すべてレンリの責に帰すのは酷というものだろう。フィフティ(アリス)の才能は、それをもって最高司祭に整合騎士団の完成を決断せしめ、翌年からの大会優勝者をみな素体として凍結保存させてしまったほどだったのだから。

だが現実として、レンリは失敗作の判断を下され、七年もの長い眠りを強制されることとなった。

褐色の氷へと変ずる瞬間、彼が強く意識していたのは、巨大な欠落感だった。

 自分には大切な何かが欠けている……だから、"比翼"は共振すれども解放されなかったのだ、という。


そして七年後、レンリは再び目覚めた。

あたかもカセドラルを激震させた反逆事件の真っ只中だった。常駐する騎士たちが次々と敗北し、切り札たるフィフティまでもが生死不明となるに及んで、元老チュデルキンの判断で再起動させられたのだ。

しかし、レンリは今度も責務を果たせなかった。完全な覚醒へといたる前に、チュデルキンも、最高司祭までもが斃れ、ようやく動けるようになった彼が目にしたのは、混乱の極みにある騎士団の姿だった。

ダークテリトリー全軍の一斉侵攻に立ち向かうという絶望的な任務への参加を、七年ぶりに目にする騎士長ベルクーリは求めていた。

 それに応じた騎士たちの――なんと雄々しく輝いていたことか。

彼らと共に行けば、分かるかもしれない。自分にいったい何が欠けているのか。なぜ神器は応えてくれないのか。

完全に自信を喪失していたレンリは、おずおずと手を挙げ、前に進み出た。下位騎士たちのあいだから、冷笑を含んだ視線が浴びせられたのは錯覚ではあるまい。しかしベルクーリは力強くうなずき、レンリの肩を掴み、ただひと言を口にした。頼りにしているぞ、と。

 ――なのに。

初めての戦場、いやレンリにとっては初めての実戦の重圧は、予想を遥かに超えるものだった。直接視認はできないのに、数百メル前方にひしめく闇の軍勢の殺意が、熱い鉄臭さとなって押し寄せてきて、気付けばレンリは逃げ出してしまっていたのだった。

戻らなければ。立たなければ。いま立ち上がらなければ、ぼくは永遠に失敗作のままだ。

わずかな時間に、何度そう自分を叱咤しただろう。

 だが、抱えこんだ両膝から顔すらも上げられないうちに、ついに響き渡った開戦の轟音――。

「はじまって……しまった」

レンリはもう一度呟いた。

両腰に下がる一対の投刃が、彼を責めるようにかすかに哭いた、気がした。

 もう戻れない。いまさらどんな顔で、自分を信じてくれた騎士長や衛士たちの前に立てよう。いや――そもそも、ぼくなんか居ても居なくても大差ないんだ。武装完全支配が使えない上位騎士なんて、むしろ邪魔なだけだ。

 いっそう深く、両膝のあいだに顔をうずめようとした――その時。

天幕の入り口から、小さな声が届いてきて、レンリはびくっと全身を震わせた。

「ここは……どう?」

まさか探しにきたのか!? とレンリは騎士らしくもなく竦み上がったが、しかし続いて、別の声が聞こえた。どちらも、若い女性らしい。

「うん、ここなら大丈夫そうね。先輩を奥に隠して、私たちは入り口を守りましょう」


ジャイアント族の長シグロシグは、長いあかがね色の顎鬚と細かく編みこんだたてがみ、小山のような体躯、そして数多の傷がきざまれた魁偉な容貌を持つ齢五十七の伝説的闘士だった。

 "力で支配する"というダークテリトリー唯一の法を、もっとも純粋に奉じ、実行しているのが彼ら巨人たちだろう。ほんの幼児の頃から、ありとあらゆる種類の力比べ、技比べ、胆比べで無限回の選別にかけられ、暗黒騎士団以上の厳密な序列が決定される。彼らの領地は西方の高原地帯だが、そこに豊富にスパンするはずの巨獣、魔獣のたぐいは常にほぼ枯渇状態にある。巨人たちが、さまざまな通過儀礼のターゲットに指定し、片端から狩り尽くしてしまうからだ。

なぜそこまでして、純粋な強者たらんとするのか。

そうしなければ、フラクトライトが崩壊してしまうのだ。

ダークテリトリーの亜人四種族はすべて、異形の体に人間の思考原体を封じ込めた、ひどく歪な存在だ。ゴブリンたちは、その矮躯から永続的に生じる人間への劣等感を、恨みのエネルギーに転換することで意識崩壊を抑えている。

 そしてジャイアントは逆に、人間への強烈なまでの優越感を手に入れることで、"人にして人に非ざる"ゆがみを抑え付けているのだ。

すべての巨人は、少なくとも一対一の戦いでは、人間には絶対に敗れてはならない。それが彼らの精神の拠り所であり、絶対の掟だった。だからこそ過剰なまでのイニシエーションを設定し、種族の総数を削ってまでも、個体の優先度を限界まで引き上げてきたのである。

 ゆえに――。

 この戦場に召集された五百のジャイアント族戦士は、その寡黙な物腰とは裏腹に、強烈な闘志を腹の底に滾らせていた。いにしえの"鉄血の時代"以降に生まれた世代である彼らにとって、初めての対人間族大規模戦闘という華々しい見せ場なのだ。

長シグロシグに至っては、本気で腹を決めていた。

初回の突進で敵全軍を屠り、戦争を終わらせてやる、と。

 どうやら皇帝に主力と位置づけられているらしい暗黒騎士団、暗黒術師団、拳闘士団には、一度の出番も与えない。奴ら抜きで勝利することで、この"十候時代"にあっても、巨人こそがもっとも優越した種族であることを証明するのだ――と。

与えられた伝声髑髏が、突撃命令をカタカタと発したとき、シグロシグは全身に刻まれた古傷がかあっと熱を帯びるのを感じた。それらはすべて、素手で引き裂いてきた無数の大型魔獣の力が乗り移っている証だった。

「踏 み 潰 せ !!」

発した命令はただそれだけだった。

そしてそれで充分だった。周囲の頼もしい勇士たちと同時に、右手の巨大な戦槌を振り上げ、地響きのごとき雄叫びを放ちながらシグロシグは疾駆を開始した。

前方の闇の底には、麦粒のような人間たちの群れが見える。

身長三メル半に達するジャイアントにとっては、ほとんどゴブリンと変わらないひ弱な姿だ。装備する剣など、岩鱗竜の仔の牙にも及ばない。

かたっぱしから叩き潰し、蹴り飛ばし、引き千切る。

シグロシグの魂に刻まれた、人間への優越回路が加熱し、快感のスパークを散らした。四角い顎が歪み、凶暴な笑みが漏れた。

刹那。

異質な、しかしかすかに憶えのある感覚が、彼の背骨をそっと撫でた。

何だこれは。

冷たい。痺れる。氷の針。

 昔――とおい、とおい昔、同じ感覚を。"ひよっこ谷"の奥で。はじめての試練。黒嘴鳥の卵を取りに。あのとき感じた――これは――

シグロシグは疾駆しながら目を見開き、まっすぐ前方を注視した。

谷底にひざまずく、小さな小さな人間が見えた。髪が長く、体が細い。女か。きらきらする鎧を着込んでいる。騎士。

果ての山脈の上を飛ぶ銀色の竜騎士を、かつて一度だけ見たことがあった。降りてきたら首級を取ってやるつもりだったが、シグロシグに山を越える意思無しと判断したのか、そのまま飛び去ってしまった。逃げたか、とその時は思った。

だから、あんな奴ら大したことはないはずだ。

 なのに――あの女騎士の黒い目――。

まだ百メル近い距離があるのに、シグロシグは跪く騎士から注がれる視線をまざまざと意識した。そこには、本来あるべき畏れも、怯えも、大釜の湯に落とした塩一粒ぶんほども含まれていなかった。

かわりに、獲物を見定める冷徹さだけが存在した。

狩られる。

巨人族一、つまりあらゆる種族のなかで最強の戦士たるこのシグロシグが。

「ヒゴッ…………」

のどの奥から、厳つい容貌にまったくふさわしくない、裏返った悲鳴が漏れた。

両脚が萎えたように力を失い、右手の戦槌が途方もなく重くなった。結果、シグロシグは体勢を崩し、つんのめった。

直後。

ズバァッ!! という、これまで聞いたどんな音にも似ていない唸りとともに、女騎士の腕からまばゆい光の槍が一直線に発射された。それは、シグロシグのすぐ前を走っていたジャイアントの右胸を呆気なく貫通し、しかもそこで止まらなかった。

もしシグロシグが転ばなければ、槍は正確に彼の心臓を吹き飛ばしていただろう。

その代わりに、白い光は巨人の長の立派なたてがみの右半分と、いくつもの玉環を飾った長い耳をまるごと蒸発させた。

さらに、背後に居た腹心ふたりの頭を貫き、致命傷を与えてからようやく小さな光の粒を散らして消滅した。

一瞬で天命を全損させられた三人が、重い地響きとともに立て続けに倒れるさまを、シグロシグはほとんど意識できなかった。自分の頭の右側を焼き焦がされた猛烈な痛みすらも、彼を襲ったひとつの感情の前には小虫に刺されたようなものだった。

 それはつまり――恐怖。

シグロシグは情けなく尻餅をついた格好のまま、がくがくと顎を震わせた。

数日前の、前暗黒将軍の謀反騒ぎを目の当たりにしたときですら、彼は驚きこそすれ恐怖とは無縁だった。あの男が殺したのは、所詮は虚弱な暗殺者やらゴブリンどもでしかないのだ。たしかに皇帝の力のほどは認めざるを得なかったが、あれは人間ではなく古の神なのだから問題はない。

なのになぜ、あんなちっぽけな女騎士ひとりに、これほどまでに恐怖させられるのだ。

たかが人間あいてに。このシグロシグが。怯えて。腰を抜かして。

「う……そだ……嘘だ、嘘だ、うぞだッ」

光に焼かれた側から臭い煙を上げる顎鬚を動かし、巨人の長は呻いた。

有り得ない。受け入れられない。そう念じるほどに、視界のあちこちが白く飛び、ちかちかと火花が瞬く。口と舌が、意思を離れて高速で痙攣し、奇妙な音と化した言葉が途切れることなく漏れる。

「うそだうぞだうぞうぞだ、殺す、こ、殺す殺す、うそだ、うぞでぃ、ころでぃる、でぃ、でぃ、ディディディディ」

 この瞬間、シグロシグのフラクトライト中にあまりにも強固に築かれた"主体"と、腰を抜かして立てないという"状況"が迂回不可能なコンフリクションを起こし、ライトキューブ内で量子回路の崩壊が発生しはじめた。

巨人の、鋼色をしているはずの瞳が、白眼ともども真っ赤な光を放った。

「ディッ、ディル、ディ――――――――」

 周囲で立ち尽くすジャイアントたちが呆然と見守るなか、シグロシグは突然がばっと飛び上がり――。

巨大な戦鎚を、まるで小枝のようにぶんぶんと振り回しながら、凄まじい速度で疾走を再開した。

前方にいた同族たちを左右に跳ね除け、敏捷なゴブリン部隊にすら追いつくと、勢いを緩めずなおも突進する。足元で湿った音と甲高い悲鳴が立て続けに放たれたが、意識崩壊過程にある巨人はもうそれを知覚することはなかった。

ただ、あの女騎士を殺せ、という命令だけが頭のなかで割れ鐘のように鳴り響いた。


結局のところ、平地ゴブリンの長シボリも、ジャイアントの長シグロシグも、整合騎士という存在への評価をまったく誤っていたのだ。

しかし、侵略軍先陣三部隊のひとつを率いる山ゴブリンの長コソギだけは違った。彼は、整合騎士が持つ圧倒的破壊力を、大きな犠牲を払って学んだばかりだった。

果ての山脈北方の、一度は封印された洞窟を掘り返しての人界先行侵入を企てたのはコソギなのだ。彼自身は帝城から動けなかったが、血を分けた兄弟の三人に大規模な手勢を与え、オークの一部をも唆して、他の十候には秘密のうちに作戦を実行させた。

しかし結果は惨憺たるものだった。部隊は全滅、兄弟たちも揃って戦死の報を受け愕然とするコソギに、わずかに生還した兵たちはさらに信じがたいことを口々に告げた。

 いわく――二百に上ったゴブリン・オーク連合部隊は、たった一人の騎士に敗北したのだ、と。

 騎士が自在に操る無数の小刃が、触れるだけで屈強な戦士たちの首を刎ね、胸を穿ち、悲鳴を上げる暇も与えずに天命を奪い尽くしたのだ――と。

まったく信じられないことだったが、しかしコソギは、多くの同族を失って得た教訓を無駄にするほど愚かではなかった。整合騎士に真っ向正面から挑む愚挙は二度としまい、と彼は決意した。

しかし、山ゴブリンに与えられた役目は、まさにそのものだった。

少なくとも暗黒術師長ディーは、整合騎士の恐怖を熟知していたのだ。だからこそこの作戦を立てた。ゴブリン、オーク、ジャイアントを使い捨てにし、いっときの混戦状態を作り出したところで、整合騎士ともどもまとめて焼き払う、という。

その無慈悲な作戦を皇帝が承認してしまった以上、従わざるを得ない。コソギは三日三晩知恵を絞った。どうすれば愚直な突撃命令を遂行しつつ、前方の整合騎士・後方の暗黒術師という二重の陥穽から逃れられるか。

 ようやくひねり出した奇策――それが、隊長たちに配布した、ネズミ色の小球だった。

いち早く侵略軍の先頭を突進したコソギは、たちまち前方に、輝く鎧をまとった長身の騎士の姿を捉えた。

それは、彼の部隊を壊滅させたアリスではなく、その弟子エルドリエだったのだが、無論コソギには区別のしようもない。どちらにせよ、ゴブリンにとっては無慈悲な死をばらまく悪魔であることに違いはなかった。

「よしっ……投げろ!!」

騎士までの距離が五十メルを切った時点で、コソギは次の命令を発した。

同時に、自らの左手に握った小球を強く押しつぶす。

バチッという音が弾け、球に入ったヒビから小さな炎が漏れた。勿論火薬の類ではない。アンダーワールドにその文明レベルのオブジェクトは存在しない。

 そして、術式によって生成される熱素でもなかった。球の中央に仕込まれているのは、山ゴブリンの聖地である極北の火山に生息する"燧虫(ヒウチムシ)"という小さな甲虫だ。うっかり潰すと、一瞬ではあるが高温の炎を撒き散らし、手酷い火傷を負わされる。

虫を覆っているのは、これも北方にのみ産するある種のコケを干し、粉にしてから練ったものだった。本来は、狼煙に使用するようデザインされている植物だ。しかしゴブリンたちは、暗殺ギルドと同じくオブジェクト濃縮技術を用いて、効果を数十倍に増強していた。

 結果――。

コソギらが一斉に放った小球は、強力なスモーク・グレネードとでも言うべき代物までになっていた。虫の放った火によって着火されたコケ粉は、鼻先も見えなくなるほどの濃密な煙をもうもうと吐き出し、峡谷の北側を完全に覆い尽くした。

いかに夜目の利くゴブリンと言えども、これでは視界は零に等しい。

しかしコソギの策は、煙にまぎれて敵を倒すことではなかった。煙幕に突入する寸前、彼は三つ目の命令を喚いた。

「てめえらぁ、走れェェェェ!!」

言うやいなや、蛮刀を背中に戻し、両手を地面につける。もともと矮躯のゴブリンは、この姿勢を取ると人間の膝上ほどの高さしかない。更に、地面付近は煙が薄く、かすかに敵兵たちの位置が見て取れる。

コソギと三千の山ゴブリンたちは、エルドリエと衛士隊を完全に無視して、四つん這いの姿勢で走り続けた。

皇帝の命令は、ただ敵軍に突撃すること。敵軍のどこを目指して、とは指定されていない。コソギは敵主力、ことに整合騎士とはただすれ違うにとどめ、後方にいるはずの補給部隊を襲う策を立てたのだ。

前線の向こうにもぐりこめば、やがて降り注ぐであろう暗黒術師とオーガ弩弓兵の一斉攻撃は回避できる。それで白イウムどもが全滅すればよし、そうでない場合も、無限に広がる人界の奥深くに逃げ込めばいいだけだ。

こうして、ほぼ同時にひらかれた三つの戦端のうち、北側だけはほぼ血を流さぬまましばし進行することとなった。

 そして、コソギにとっては幸運、人間たちにとっては不運なことに――。

エルドリエの背後に展開・待機する守備軍第二部隊左翼の衛士たちは、いつの間にか指揮官たる整合騎士が姿を消していることに、ようやく気付きつつあるところだった。


人界最初の犠牲者は、第一部隊右翼戦線において、デュソルバートのすぐ傍で奮闘していた初老の衛士だった。

ゴブリンが投げた手斧を、盾でぎりぎり弾ききれなかったのだ。

彼は、西方帝国近衛軍で長らく小隊長を勤めた実直な下級貴族だった。剣の腕は確かだったが、天命降下線のかなり先端にあるという事実はいかんともしがたく、首元に食い込んだ粗雑な斧は完全な致命傷を与えた。後方から放たれた修道士隊の治癒術も、そのダメージをカバーすることは出来なかった。

デュソルバートは、咄嗟に弓の乱射を止め、倒れた老人に高位治癒術を施そうとした。しかし衛士は首を振り、激しく吐血しながら叫んだ。

「なりませぬ!! これぞ、この老いぼれの天職であり天命……騎士殿、人の、世を、お任せ……します、ぞ…………」

直後、いくばくかのリソースを空間にほとばしらせながら、老剣士は絶命した。

デュソルバートはぎりりと歯を食いしばり、その命をいちどの火焔矢に変えて、目の前に躍りかかってきたゴブリンを吹き飛ばした。


その後も、ゆっくりと、しかし途切れることなく守備軍の衛士たちは斃れ続けた。その数十倍の亜人たちもまた、無慈悲な突撃命令に諾々と従い、命を散らした。

 戦場に放散される、強制中断された天命リソースのほとんどは――。

峡谷のはるか上空。

闇にまぎれてホバリングする一尾の飛竜。

その背中にしっかと立つ、黄金の騎士のもとへと渦巻きながら凝集されていった。


身を隠す暇も、そのための場所も無かった。

レンリは、背中を丸め膝を抱えたおおよそ騎士らしからぬ格好のまま、物資天幕の奥に近づいてくる複数の人影をただ見上げた。

年の頃十五、六とおぼしき少女がふたり。灰色のチュニックとスカートの上から、銀線を編んだ軽そうな防具を身に着けている。腰には、おそろいの細身の直剣。顔に見覚えはなく、また装備の等級からしても、整合騎士ではなく一般民の衛士だろう。

奇妙なのは、片方の少女が押している、金属製の椅子だった。脚のかわりに四つの車輪が取り付けられたそれに、項垂れるように腰掛けている黒髪の若者へとレンリの眼は吸い寄せられた。

 二十歳くらいか。恐ろしく痩せているうえに、右腕が肩から欠損している。一見した限りでは、少女らより遥かに弱々しい印象しか受けない。しかし、青年が左腕でしっかりとかき抱いている二本の長剣――納刀されていてなお、鞘を通して圧倒的存在感を放つそれらが、ことによると"比翼"よりも上位の神器であることをレンリは即座に見抜いた。

 いったいどういうことだろう。正式な所有権を得ることはもちろん、あのように膝に載せるだけでも、恐ろしく高い優先度が必要となるはずだ。しかし、魂の欠損を如実に示して虚ろに宙を眺める青年には、とてもそのような力があるとは思えない……。

そこまで考えたとき、少女らも暗がりにうずくまるレンリに気付いたらしく、ハッとした表情で脚を止めた。

前に立つ、長い赤毛の少女が、意外なほどの疾さで右手を剣の柄に伸ばす。

抜刀されてしまう前に、レンリは両手を軽く持ち上げ、掠れた声で言った。

「敵じゃないよ。……驚かせて済まない」

卑劣な敵前逃亡の身にしては、案外滑らかに舌が動いた。もうどうなったって知るもんか、という自暴自棄ゆえのことかもしれないが。

「立っていいかな? 手は見せておくから」

「……はい」

警戒の色濃い声で少女が頷くまで待って、レンリはゆっくり腰を上げた。肩をすぼめ、両手を掲げたまま、一歩、二歩前に出ると、天幕入り口からかすかに差し込む篝火の光が最上級の鎧と両腰の神器にまばゆく反射した。少女ふたりが鋭く息を飲み、次いでまっすぐ背筋を伸ばす。剣と車椅子から離れた右手が、左胸の前で礼のかたちを取る。

「き……騎士様! し、失礼致しました!!」

青ざめた顔で謝罪を続けようとする赤毛の少女を、レンリは首を振って制した。

「いや……脅かした僕が悪い。それに、僕はもう……整合騎士じゃぁない……」

後半は、半ば呟き声になってしまったが、少女らはきょとんとした顔で首を傾げた。戸惑うのも無理はない、レンリの背に垂れる豪奢な縁取りつきの白マント、それに胸当ての中央に輝く、十字に円を組み合わせた教会徽章は見違えようのないものだ。

 レンリは、降ろした手の指先でその徽をそっと撫で、自虐的な――いっそ、もう墜ちるところまで墜ちてしまえという心境で、呆気なく真実を吐露した。

「持ち場を放り出して、逃げてきたんだよ。もう最前線では戦闘が開始されている。今頃、僕が指揮するはずの部隊は大騒ぎだろう。出なくていい死者だって出てるはずだ。そんな僕が、騎士でなんかあるものか」

唇の端をゆがめて微かに笑いながら、顔を上げた。

少女の大きな紅葉色の瞳に、小さく自分が映っているのが見えた。

 額に短く垂れる、灰桃色の髪。丸みを帯びた柔弱な輪郭。そして、剛毅さなど欠片も見出せない、まるで女の子のような薄青の眼――。十五歳の幼さのなかに凍結された、"失敗作"の騎士。

大嫌いな自分の容姿から、素早く眼を逸らす寸前。

赤毛の少女が、何か新たな驚きに打たれたかのように、はっと口元を押さえるのが見えた。

「…………?」

上目づかいに、探るような視線を向けるレンリに、少女は慌てたように首を振った。

「あ……、す、すみません。な、なんでも、ありません……」

俯いてしまった赤毛の少女をかばうように、いままで後ろにいた黒髪の少女が一歩進み出て、細い声で言った。

「申し遅れました……私たちは、補給部隊所属のアラベル練士とシュトリーネン練士、それにこちらがキリト修剣士どのです」

キリト。

その名を聞いて、レンリは鋭く息を吸い込んだ。

知っている。忘れようもない、半年前にセントラル・カセドラルに僅か二人で斬り込んだ反逆者の名前ではないか。レンリが防衛のために再覚醒させられ、しかし持ち前の鈍臭さで戦いそこねた、その当人。

 それでは――この青年が、至聖者、最高司祭アドミニストレータを斃したのか。欠損した右腕はその傷痕なのか。

痩せ細り、虚ろな表情を下向けるだけの剣士に、レンリはどうしようもなく気圧されるものを感じて半歩足を引いた。しかし、そんな心情に気付く様子もなく、アラベルという姓らしい小柄な少女は、どこか必死そうな口調で続けた。

「あの……私たち、騎士様の御事情については何を申し上げることもできません。なぜなら、私たちだって、守備軍の一員でありながらこうして前線ではなくはるか後方に身を隠しているのですから……。でも……今は、それが私たちの任務なのです。騎士アリス様から託された、この方を護りぬくこと」

アリス。

 シンセシス・フィフティ――あらゆる面でレンリと対照的な、若き天才騎士。いまは最前線に単騎で留まり、乾坤一擲の巨大術式を準備中のはずだ。

一層の心理的圧迫に襲われるレンリを、まるで追い込むように、必死の色を瞳に浮かべたアラベル練士が言葉を連ねた。

「ここでお会いしたのも何かの縁。騎士さま、私たちに手を貸してくださいませんか。正直、私たち二人では、一匹のゴブリンの相手すらも覚束ないのです。なんとしても……なんとしても、私たちはキリト先輩をお護りしなくてはならないのです!」

なんと眩く、なんと強い意思の輝きだろうか。

己の使命をしかと心に刻み、身命を投げ打ってでも遂行しようと決意した人間だけが持つ、貴い光だ。

 こんなうら若い一般民の女の子ですら秘めているものを、僕はどこに置き忘れてきてしまったのか。あるいは、整合騎士としてこの人界に落ちてきたその時すでに欠落していたのか。失敗作……。

自分の口から、どこか投げやりな声が流れるのを、レンリは聞いた。

「ここにいれば、大丈夫……だと思うよ。守備軍第二部隊を総指揮するのは騎士長ベルクーリ閣下だし、あの人の護りが抜かれるようなことがあれば、それはもう人界の終わりと同じことだ。どこに逃げても、結末は一緒さ。僕は、すべてが終わるまでここで座ってることにしたんだ。隣にいるって言うなら、邪魔しやしないよ……」

語尾を無音の吐息に溶かし、レンリは再び柱のかげに腰を下ろそうとした。

 しかし――まさに、ちょうどその瞬間。

整合騎士エルドリエが護る最前線左翼では、山ゴブリン族長コソギらが投じた煙幕弾が連鎖的に炸裂していた。立ち込めた濃密な煙に乗じて、大量のゴブリンたちが、荒い布目から零れる水のように防衛線をすり抜けはじめた。

彼らの目指す目的が、まさに人界守備軍最後方・補給部隊の殲滅であることに、レンリも、同年の少女ふたりも、気付けようはずもなかった。


ジャイアントの長シグロシグのフラクトライト崩壊は、急速に進行した。

 しかし、それは全的なものではなく"主体"の一部を深く冒すものであったがゆえに、存在の完全消滅に至るまでにはしばしの猶予があった。

そしてその現象は、ある副産物を生み出すことになった。

心意である。

 副騎士長ファナティオの超攻撃によって惹起・抽出された、"弱い自己"というイメージが一片残らず破壊された結果、シグロシグのフラクトライト中には、これまで数十年間制御されてきた人間への怒りが一気に解き放たれることとなった。

それは、ファナティオへの純粋な殺意となってシグロシグのライトキューブから迸り、メイン・ビジュアライザーを経由して、その先へまでも溢れ出した。

 具体的には――。

シグロシグの、赤く輝く双眼に捉えられたファナティオの身体を凍りつかせたのだ。

体高四メル近い巨体を、颶風のような勢いで突進させながら、巨人の長は右腕の大鎚を高々と振り上げた。


 なぜ――動けない!!

ファナティオは、言うことを聞かない右脚を叩きつけようとした拳にすらも力が入らないことに激しい驚愕をおぼえた。

自分が、この整合騎士団副長たるファナティオが、たかだか巨人族の長あいてに竦み上がるなどということは有り得ない!

そう胸中で叫ぶものの、体は重く、脚は萎え、跪いた狙撃姿勢から立ち上がることすらできない。

似たような現象が、薄らかな記憶として残っている気はした。

 騎士長ベルクーリとの手合いにおいて、どうしても抜きつけられない、右手が動かない、そんな経験だ。しかしその時感じた、重く、稠密で、それでいてどこか柔らかく包み込んでくる気配とはまるで異なる――無数の逆棘が生えた革帯で無慈悲に締め付けられるような痛みが、ファナティオの全身を苛んでいる。

惜しくも狙撃しそこねたシグロシグは、一時倒れこんだようだったが、直後異様な勢いで跳ね上がり、突進を開始した。その距離はもう六十、いや五十メルを切る。

 一対一であれば、敵ではない――はずだった。

暗黒界十候のうちで、ファナティオがその力を認めるのは暗黒将軍シャスターひとりだけだ。数年前に手合わせしたときは、三十分にもわたる撃剣のすえに迂闊にも兜を割られ、ファナティオの素顔を見たシャスターが剣を引くという屈辱を舐めさせられた。

しかし、あの時ですら負けたとは思っていない。ベルクーリの厳命により、暗黒騎士との手合いにおいては武装完全支配術の使用を禁じられていたのだから。

 そして、ベルクーリも確かに言っていた。こと剣力に於いては、十候にあってシャスターは抜きん出ている、と。ならば、それ以外の者に遅れを取るはずはない。ましてや――睨まれただけで竦み上がるなどと!

しかし、ファナティオの理解を超えた現実が、刻一刻と眼前に迫ってくる。

巨大な鉄鎚が振り下ろされるまで、あと五秒、それ以下か。はやく立ち、迎撃の初動を開始せねば。打ち合いさえすれば、世界有数の神器・天穿剣があのような無骨な金属塊を叩き毀せぬ道理はない。

 なのに――体が――指先まもでが。氷のように。

「ニンゲンコロディルディルディ――――――」

野太い、異様な絶叫がシグロシグの喉から迸った。

眼だけでなく、鉄鎚全体までもが、赤黒い光をどろりと放った。

 ああ……閣下。

ファナティオは動かない口で小さく呟いた。


下位整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーは、その長い生涯のすべてを、たった一人に捧げて生きてきた。

支配者たる最高司祭ではない。騎士団の長ベルクーリでもない。

副長ファナティオこそがその相手だ。彼女の苛烈なまでの激しさと、その裏に隠された苦悩に、ダキラは強く惹かれた。

 下界の基準に従えば、その感情はまさしく恋慕に他ならない。しかし様々な理由によってダキラは完全なまでに己の感情を封じ込め、ファナティオの直属部隊"宣死九剣"の一員として顔と名前すらも棄て去った。直属となれたことだけで、ダキラにとっては望外の幸福だったのだ。

九剣は、決して下位騎士内の精鋭部隊などではない。ファナティオが、単騎で前線に出すのは不安と判断した実力不足の騎士を集め、連携戦法を叩き込むことで生存率を高めようとした、いわば落ちこぼれ部隊というのが正しい。

ゆえに騎士団内部でも少なからず蔑視されており、事実半年前の動乱では、一般民の反逆者ふたりを相手に全員まとめて重傷を負わされるという失態を演じた。だがそのことよりも、ダキラには、主たるファナティオを護りきれなかったことのほうが何倍も辛かった。いっそ、あの時命を落としているべきだったと、カセドラル医療院のベッドで何度も思った。

しかし、傷癒えたダキラたち九剣に、ファナティオは叱責どころか労いの言葉を掛けたのだ。

公の場では一度も外したことのなかった銀面を外し、怜悧な美貌を優しく微笑ませた副騎士長は、順番に九剣の肩を叩きながら言った。

 ――この私も死に掛けたのだ、諸君らが恥じることなど何もない。それどころか、良く戦ったと思うぞ。あのときの"環刃旋舞"の連携技はこれまでで一番見事だった。

その時、九剣揃いの兜の下で、ダキラは涙を滲ませながら決意した。

 次こそ――。

今度こそ、二度とこの方を傷つけさせぬ、と。


 "次"はまさに今、この時だった。

指示なくして決して動いてはならぬ、と命令されていたにも関わらず、ファナティオの様子がおかしいと見てとるやダキラは地を蹴り、戦列から単身飛び出していた。

本来の戦闘能力から考えれば、届くはずのない間合いだった。しかしダキラは、その体が光の筋となって霞むほどの速度で疾駆し、ファナティオの直前に割り込むと、巨人の長が振り下ろす鉄鎚を横にした両手用大剣で受けた。

ガガァーン!! という轟雷にも似た衝撃音と、赤に白が混じった閃光が激しく散った。

 ダキラの剣は、神器などにはほど遠い、せいぜいが業物という程度のものだ。対して、この時シグロシグの得物は、流れ込んだ"殺"の心意によって恐るべき優先度に高められていた。

わずか半秒ののち、大剣の中央に深い罅割れが走り、そこから幾筋もの光条が伸びた。己の愛剣が砕け散ると同時に、ダキラは柄と峰を離し、頭上に圧し掛かる鉄鎚の縁を両手で支えた。

ごき、めきり、という鈍い音がダキラの身体を通して響いた。

手首から二の腕までの骨が一瞬で圧し折れたのだ。

視界が白く飛ぶほどの激痛。鎧の継ぎ目から噴き出した鮮血が、兜の表面に飛び散った。

「ぐ……うぅ……!!」

すべての歯を食いしばり、漏れそうになる悲鳴を気合に変えて、ダキラは更に落下してくる鉄鎚の中心を兜の額で受けた。

鋼鉄の十字面が呆気なく粉砕され、露出した額、首、さらに背骨と両膝からも嫌な音が聞こえた。痛みは灼熱の炎と化して全身を駆け巡り、視界すべてが赤く染まった。

しかし下位騎士ダキラは倒れなかった。

すぐ後ろには、ファナティオがいまだ立てずにいるのだ。この醜い武器を振り下ろさせるわけにはいかない。

守るんだ。今度こそ。

「い……ぃああああああ!!」

高い雄叫びが唇から迸った。

全身から漏れ出ていく天命が、一瞬の青白い燐光と化してダキラを包んだ。

光は砕けた両腕に集まり、眩く炸裂した。同時に、巨大な鉄鎚は上空に弾き返され、シグロシグの巨体を道連れに数メルも後方へと吹き飛んだ。

重い地響きを聞きながら、ダキラもゆっくりと背中から崩れ落ちた。

「……ダキ!!」

すぐ耳元で、悲鳴のような叫びが放たれた。

 ああ……ファナティオ様が、名前を呼んでくれた。

いったい、何年ぶりかしら。

兜を失い、麦わら色の短いおさげ髪と、そばかすの残る頬を露出させたダキラは、主の伸ばした腕の中に倒れこみながらかすかに微笑んだ。


南方の小さな漁村に生まれたダキラは、姓を持たない貧しい漁師の娘として育った。

そんな彼女が、十六の齢に犯した禁忌。それは、一つ年上の、同性の親友に恋してしまったこと。

 無論告白などできようはずもない。苦しみのあまり、ダキラは深夜、村の教会の祭壇で懺悔し赦しを乞うた。しかしその祭壇は、セントラル・カセドラルの自動化元老機関と直結しており、禁忌違反者として検出されたダキラは教会へと連行され――すべての記憶を奪われた。

もう名前も思い出せない、ダキラの恋した相手は、少しだけ副騎士長に似た面影を持っていた。


おぼろに霞む視界のなかで、ファナティオの美貌が強く歪み、その長い睫毛から涙が滴るのを、ダキラは穏やかな気持ちで見つめた。

 あの副騎士長さまが、自分のために泣いてくださっている――。

これ以上の幸福は考えられなかった。無限にも思えた生の果てに、ついに成すべきことを成し、死すべき時宜を得たのだという充足感だけがあった。

「ダキ……なんで……なぜこんな……!」

悲痛な囁きが耳元で零れた。

ダキラは最後の力で砕けた左手を持ち上げ、指先でファナティオの頬を伝う雫をそっと拭った。

にっこりと微笑み、ダキラは、秘め続けてきたひと言を掠れた声で呟いた。

「ファナティオ……さま……、お慕い……もうして、おりま……す…………」

その瞬間、整合騎士ダキラ・シンセシス・トゥエニツーの天命が完全に尽きた。

騎士団最初の犠牲者は、こうしてその瞼を永遠に閉じた。


 私は――私は何をしているのだ!!

ファナティオは、自分よりもさらに小柄な、傷だらけの躯を強くかき抱きながら胸中で絶叫した。

 涙に歪む視界には、倒れた巨人の長と、その背後から迫るほかの巨人たちに飛びかかっていく残りの"宣死九剣"の姿が映る。

 自分が守るために集めた者たちだ。厳しい言葉しかかけなかったが、皆が愛する弟であり、妹だ。なのに――逆に守られ、あまつさえ命を落とさせてしまうなど――

「……赦さぬ!!」

それは、シグロシグとともに、己にも向けた言葉だった。

これ以上の犠牲者は絶対に、ぜったいに出さない。彼らの誰よりも先に、こんどは私が死ぬ。

 その決意は、シグロシグが放射する不正強度の殺意を上回る、"大義"――あるいは"愛"の心意となってファナティオの魂から迸った。

全身を縛っていた氷の棘が消えた。

ダキラの遺骸を横たえ、立ち上がったファナティオの右手に、地面からふわりと浮き上がった天穿剣ががしっと収まった。

前方では、飛びかかった二人の騎士を右腕の一薙ぎで振り払ったシグロシグが立ち上がったところだ。

両眼から屹立する赤い光は、もう爆発寸前の溶鉱炉のごとき眩さに達している。

「ゴロッ……ゴロッ……ゴロオオオオオ!!」

異様な雄叫びは、世界中を震わせるほどの音量だ。

しかしファナティオの心中には、もう一片の怯えも畏れも無かった。

 す、と片手上段に構えた天穿剣が――。

ヴォォォン!! という震動とともに白い光をまとった。その眩い輝きは、まっすぐに五メル以上も伸長すると、そこで状態を保った。

シグロシグが、鉄鎚を両手で振りかぶりながらぶわっと高く跳ねた。

 一見無造作に、しかし恐るべき速度でまっすぐ振り下ろされた天穿剣が、空中に巨大な光の帯を描いて鉄鎚の打撃面と接し――

ズ、バァッ!!

呆気なく巨大な武器を左右へと分断した。真っ赤に灼けた断面から飛び散る、溶けた金属の雫よりも速く、長大な光の剣はそのまま巨人の長の頭頂に食い込み、勢いを僅かにも衰えさせることなく一気に地面までも斬り下げられた。

世界最大の巨躯を誇る闘士が、空中を飛翔しながら真っ二つに分断される光景に、残りのジャイアント族も、人界の衛士たちも、一様に言葉を失った。

凄まじい衝撃とともに墜落した、かつてシグロシグだったふたつの肉塊の中央で、ファナティオはブンッと小気味よい音を立てて光の刃をふたたび振りかざすと、高らかに叫んだ。

「総員前進!! 敵を殲滅せよ!!」* 反射的に返礼しながら、アリスはやはりそうか、と内心で頷いた。

キリトとユージオを学院から連行したとき、彼らに別れの挨拶をする許可を求めてきたのがこの二人だ。

いくら守備軍が人員不足に窮していようとも、まさか学生の徴用まではしているまい。となると二人は、自ら志願して住み慣れた央都からこんな東の辺境までやってきたのか。

 如何にあのキリトと交流があったとは言え、まだ幼さの抜けきらない少女二人がいったい何故そこまで……。

思わずアリスがまじまじと二人を眺めると、その視線を受けて、黒褐色の髪の少女は、再び赤毛の少女の背中に隠れてしまった。ティーゼと名乗った赤毛の子もぎゅうっと身体を縮こまらせ、逃げ場を探すように眼を伏せたが、やがて決死の覚悟とでも言うべき表情を作って口を開いた。

「あっ……あの……き、き、騎士様……た、大変なご無礼であると、その、じゅ、重々承知しておりますがっ……」

これにはアリスも再び苦笑せざるを得ず、それを可能なかぎりの柔らかい微笑みに変えるよう努力しながら言葉を挟んだ。

「だから、あのね、そんなに畏まる必要はぜんぜんないのよ。この野営地では私も、人界を守るために集まった一人の剣士に過ぎないんだから。私のことはアリスと呼んで頂戴、ティーゼさん、それに……ロニエさん」

すると、ティーゼと、その背中からぴょこっと顔を出したロニエの二人は同時に唖然としたように口を開いた。

「……ど、どうしたの?」

「い、いえ……その……。以前、学院でお見かけしたときと、随分……御印象が、ちがって……」

「そう……かしら」

はて、と首をかしげる。自分ではまったく自覚は無いが、ルーリッドで暮らした半年のあいだに、それなりの変化はあったのだろうか。騎士長は、ふっくらしたなどと事実無根の感想を口にしていたが。

 いや、確かに、シルカが作ってきてくれる料理があまりに美味しくてつい食べ過ぎてしまったのは否めないが……まさか外見に出るほどの……。

Загрузка...