青薔薇の剣をユージオに返し、黒い枝を両手で掲げてガリッタ老人に差し出した。
「そのまま持っていておくれ」
言うと、老人は懐から分厚い布を取り出し、俺の手の中の枝を慎重に幾重にも包んだ。さらにその上から、革紐でぐるぐると縛り上げる。
「これで良い。もし央都に辿り着くことができたら、この枝をシルドレイという名の細工師に預けるがいい。強力な剣に仕立ててくれるはずじゃ。その、美しき青銀の剣に優るとも劣らぬ、な」
「ほ、ほんとうかい、ガリッタ爺! それは有り難いな、僕らは二人なのに剣が一本じゃあこの先困りそうだなと思ってたんだ。ねえ、キリト」
嬉しそうに声を上げるユージオに、俺もそうだなと笑いながら頷き返した。しかし、素直に諸手を上げて喜ぶには、枝の重みと発せられる冷気は少々腕に応え過ぎる気もした。
二人揃ってぺこりと頭を下げると、老人は莞爾と微笑んだ。
「なに、儂からのささやかな餞じゃよ。道中、気をつけて行くのじゃぞ。今やこの世界は、善神のみがしろしめす地ではないからな。……儂はもう少しここで、この樹を見てゆくとしよう。さらばだユージオ、そして旅の若者よ」
再び小道を辿って街道に出ると、つい先刻までは晴天だった空に、西の端から小さな黒雲が伸び上がっているのが見えた。
「ちょっと風が湿ってきたね。今のうちに進んでおいたほうがよさそうだ」
「……そうだな。急ごう」
ユージオの言葉に相槌を打ち、俺はギガスシダーの天辺の枝が入った包みをベルトに結わえ付けた。遠く遠く轟く雷鳴が、枝の重みと響き合って、俺の心をわずかに震わせた。
対となる二振りの剣。
それは何かを暗示する、未来からのサインなのだろうか?
俺は一瞬、この包みは森の奥深く埋めていくべきではないだろうか、という気がして立ち止まった。しかし、何を、何故畏れる必要があるのか、その答えはまったくわからなかった。
「ほら、行くよ、キリト!」
顔を上げると、未知なる世界への期待に輝くユージオの笑顔が目に入った。
「ああ……行こう」
俺は、わずか一週間前に友達になった、しかしどこか生来の友であるかのような気がする少年と肩を並べ、南へ――アンダーワールドの中心、全ての謎の解答が待つはずの場所へと続く道を、早足で歩き始めた。
(第三章 終)* 法と秩序の究極的体現者たる整合騎士が、同じく善性の象徴であるドラゴンを殺す。それは、これまでの十一年の人生において一度として世界の仕組みを疑ったことのないユージオにとって、容易に受けいれることのできない概念だった。飲み込むことも、噛み砕くこともできない疑問にしばらく苦しんでから、答えを要求するように傍らの相棒に視線を送る。
「……わからない」
キリトの言葉も、しかし大いなる混乱に彩られていた。
「もしかしたら……闇の国にもすごい強い剣士がいて、そいつがドラゴンを殺したのかもしれないし……。でも、そんなことがあったなら……今までに、闇の軍勢が山を越えて攻め込んできたりしててもおかしくないはずだ。――少なくとも、宝を狙った盗賊の仕業とかじゃないみたいだけど……」
言葉を切ると、キリトはドラゴンの遺骸に歩み寄り、重なり合う青い骨の底のほうから何か長い物を掴み上げた。
「うお……めちゃくちゃ重いな……」
ふらふらよろけながら両手で支えたそれを、ユージオとアリスに示す。白革の鞘と、白銀の柄を持つそれは一振りの長剣だった。鞘の口金付近には非常に精緻な青い薔薇の象嵌が施してあり、一目で村にあるどの剣よりも価値の高いものだということが分かる。
「あっ……これ、もしかして……」
アリスが息を飲みながらそう囁くと、キリトはこくりと頷いた。
「ああ。ベルクーリが、寝てるドラゴンの懐から盗み出そうとしたっていう"青薔薇の剣"だろうな。……うぐ、もう限界だ」
顔を歪めたキリトが両手をはなすと、長剣は重く鈍い音を立てて足元に落下した。分厚い氷の床にぴしりと細いひび割れが入ったところを見ると、華奢な見た目からは想像もつかないくらいの重量があるらしい。
「……どうするの、これ?」
「無理無理、俺たちじゃとても持って帰れないよ。あんな木こり斧ですら毎日ひいこら言ってるんだから。それに……他にも、骨の下にいろいろお宝があるみたいだけど……」
「……うん、とても、何か持っていく気にはならないわね……」
揃って青い骨の山を眺め、三人は同時に頷いた。寝ているドラゴンの目をかすめて何か小さなものを攫ってくる、なら他の子供たちに大いに自慢できる冒険話だが、この場所から宝物を持っていけばそれは単なる墓荒しだ。薄汚い野盗の所業である。
ユージオは改めて二人の顔を見て、こくりと頷きかけた。
「予定どおり、氷だけ持っていくことにしよう。それなら、もしドラゴンが生きてたとしても許してくれたよ、きっと」
言って、すぐそばの氷柱に歩み寄ると、その根元から新芽のように無数に伸びる小さな氷の六角柱を靴で蹴飛ばす。ぽきんと心地いい音とともに砕け落ちたいくつかの氷塊を拾い上げ、差し出すと、アリスは空になったバスケットの蓋を開け、それを中に収めた。
三人はしばらく無言で、氷の欠片を作ってはバスケットに詰め込む作業に没頭した。巨大な氷柱の根元がきれいになると、次の柱へ移り、また同じことを繰り返す。三十分も続けるうちに、大きなバスケットは、青く透きとおる宝石にも似た結晶でいっぱいになった。
「よい……しょ、っと」
掛け声とともにバスケットを持ち上げたアリスは、しばし腕のなかの光の群に見入った。
「……きれい。なんだか、持って帰って溶かしちゃうのが勿体無いね」
「それで、俺たちの弁当が長持ちするならいいじゃないか」
即物的なキリトの台詞にしかめ面を作り、アリスはバスケットをぐいっと黒毛の少年に差し出す。
「え、帰りも俺が持つの?」
「当たり前じゃない。これ結構重いんだから」
例によって軽口の応酬を始めそうになる二人を、苦笑しながら押しとどめて、ユージオは言った。
「交替で僕も持つよ。――それより、そろそろ戻らないと、夕方までに村に着けなくなりそうだ。もうこの洞窟に入ってから一時間近く経つんじゃない?」
「ああ……太陽が見えないと、時間がよくわからないな。魔法でなんかないの? 今が何時だかわかるようなの」
「ありませんよーだ!」
アリスはついっと顔をそむけると、広い氷のドームの一方に見える細い出口のほうを眺めた。
次に、振り返ると、真反対の方向にある、もうひとつの出口を見た。
そして、眉をしかめながら言った。
「――ねえ、私たち、どっちから入ってきたんだっけ?」
ユージオとキリトは同時に、自信たっぷりにもと来た方向を指差した。それぞれ、別の出口を。
三人の足跡がついているはずだ、という意見(滑らかな氷面にはくぼみひとつなかった)、湖から水が流れ出しているほうが出口だ、という意見(両方ともに流れ出していた)、ドラゴンの頭骨が見ているほうが出口だ、という意見(キリトが提唱し他の二人に却下された)などなどがおよそ十分のあいだに空しく消えていったあと、ついにアリスが見込みのありそうなアイデアを述べた。
「ほら、ユージオが踏み割った、氷の張った水たまりあるじゃない。出口からちょっと進んでみて、それがあったら当たりよ」
なるほど言われてみればそのとおりである。自分が思いつけなかったことに少しバツの悪い思いをしながら、ユージオは頷いた。
「よし、そうと決まれば、近いほうから行ってみよう」
「俺はあっちだと思うけどなあ……」
まだ未練がましくぶつぶつ言っているキリトの背中を押し、右手に持つ草穂を掲げ直して、目の前の水路へと足を踏み込む。
灯りを乱反射する氷の柱が周囲になくなると、あれほど頼もしかった魔法の光も、はなはだ心許ないものに感じられた。三人の歩調も、ついつい速くなってしまう。
「……まったく、帰り道が分からなくなるなんて、まるで昔話のべリン兄弟だな。俺たちも、道に木の実を撒いておけばよかったな。洞窟には食べる鳥もいないし」
どことなく空元気を感じさせるキリトの軽口に、この呑気な相棒でも不安になったりすることがあるのか、とユージオは逆に少し可笑しくなった。
「何言ってんだ、木の実なんて持ってなかったくせに。今からでも教訓を活かしたいなら、分かれ道ごとにお前の服を置いていこうか?」
「やめてくれ、風邪ひいちゃうよ」
わざとらしくくしゃみの真似をしてみせるキリトの背中を、アリスがどんと叩く。
「ちょっと、バカなこと言ってないで、ちゃんと地面を見てよね。もし見落としたら大変なんだから……って、言うよりも……」
そこで言葉を切り、きゅっと弓形の眉をしかめる。
「ねえ、だいたいこれくらいの距離じゃなかった? まだ割れた氷なんてないわよ……。やっぱり、反対側だったのかしら?」
「いやあ、もうちょっと先だろ? ……あ、ちょっと、静かに」
不意にキリトが唇に指をあてたので、ユージオとアリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。言われるままに、耳を澄ませる。
とうとうとひそやかに流れる地下水のせせらぎに混じって、確かに、何か別の音が聞こえた。高くなったり低くなったりする、物悲しい笛のような響き。
「あっ……風の音?」
アリスがぽつりと呟いた。確かにこの音は、樹の梢が奏でる風鳴りに似ている、とユージオも思った。
「外が近いんだ! こっちで良かったんだよ、急ごう!」
安堵とともにそう叫び、半ば走り出すように前進を再開する。
「ちょっと、急ぐと転ぶわよ」
そう言いながらも、アリスの足取りも軽やかだ。その後ろを、首をひねりながらキリトがついてくる。
「でも……夏の風があんな音出すかなあ? なんか……冬の木枯らしみたいな……」
「谷風ならあれくらい強く吹くよ。とにかく、とっととこんな所出ようよ」
右手の灯りを激しく揺らしながら、ユージオは小走りで進んだ。いつのまにか、早く村に、見慣れた家に戻りたいという気持ちが大きく膨らんできていた。アリスから氷をひとかけら貰って、母さんに見せたら、さぞかし驚くことだろう。今日一日のとんでもない冒険は、しばらく夕食の話題を独占するに違いない。
やっぱり、古い銀貨のひとつくらい持ってきてもよかったかな……と考えたそのとき、はるか前方の闇の中に、ぽつんと小さな光が見えた。
「出口だ!」
大声で叫んでから、まずいなあ、と思った。光が、どことなく赤く染まって見えたからだ。洞窟に入ったのがちょうどお昼、中で過ごしたのはせいぜい一時間と少しだと思っていたが、思いのほか長く地下世界に潜りすぎていたようだった。もうソルスが西に傾きはじめているのだとしたら、かなり急いで帰らないと夕食までに村に着けないかもしれない。
ユージオは一層走る速度を上げた。甲高い風鳴りの音は、もう川音を圧する大きさで洞窟内に反響している。
「ねえ……ちょっと、待って! おかしいわよ、もう夕方なんて……」
すぐ後ろを走るアリスが不安そうな声を上げた。しかし、ユージオは足を止めなかった。冒険はもう充分だ。今は、一刻も早く家に帰りたい――。
右に曲がり、左に曲がり、もういちど右に曲がったところで、ついに三人の視界をさあっと赤い光が覆った。数メル先に出口があった。闇に慣れた目を思わず細めながら、スピードを落とし、さらに数歩進んで、止まる。
洞窟はそこで終わっていた。
しかし、眼前いっぱいに広がっているのは、ユージオの知っている世界ではなかった。
空が一面真っ赤だ。だが、夕陽の色ではない。そもそも、どこにもソルスの姿がない。熟しすぎた鬼すぐりの汁を垂らしたような――あるいは、古い血をぶちまけたような、鈍く沈んだ赤。
対して、地上は黒い。彼方に見える異常に鋭い山脈、手前に広がる丘を覆う奇妙なかたちの岩、ところどころに見える水面までが、消し炭のような黒に染まっている。ただ、あちこちにまとまって生えている枯れ木の肌のみが、磨かれた骨のように白い。
すべてを切り裂くように吹きすさぶ風が、枯れ木の梢を震わせて、物悲しい叫び声を長く響かせた。それに乗って、どこか遠くから別の音が――もしかしたら、何か大きな獣のうなり声のようなものが、三人の足元まで届いてくる。
こんな場所が、こんなすべての神に見放されたような世界が、ユージオ達の暮らす人間の国であるはずがなかった。ならば、これは――三人がいま見ている、この光景は――。
「ダーク……テリトリー……」
わずかに震えるキリトの呟き声を、たちまちのうちに風がさらっていった。
神聖教会の威光が及ばない場所、闇神ベクタを奉ずる魔族の国、絵本や老人たちの昔話の中にしか存在しないと思っていた世界が、今ほんの数歩先にある。そう思っただけで、ユージオは、骨の髄まで竦み上がった。まるで、生まれてはじめて触れる情報が、いままで使われることのなかった心の区画に大量に流れ込むことで、自身の思考を処理することができなくなってしまった――とでも言うように。
禁忌……教会の禁忌がすぐ手の届くところにある。目録の最初のページに載っている、『果ての山脈を越えて闇の国に入ることを禁ずる』という文字列が、頭の中で凶悪なまでに輝きながらスクロールしてゆく。
「だめだ……これ以上、進んじゃ……」
ユージオは、どうにか口を動かして、言葉を絞り出した。両手を広げて、背後のキリトとアリスを下がらせようとする。
その時だった。何か、金属を打ち鳴らすような音が、かすかに上のほうから響いてきて、ユージオはハッと息をのんだ。反射的に、赤い空を振り仰ぐ。
血の色を背景に、白いものと黒いものが絡み合っているのが見えた。豆粒のように小さいが、それは恐ろしく高いところを飛んでいるせいだ。実際の大きさは、人間をはるかに超えるだろうと思われた。二つの何か――何者かは、激しく位置を入れ替えながら、離れ、また近づき、交錯した瞬間に断続的な金属音を響かせる。
「竜騎士だ……」
隣で同じように空を見上げていたキリトが囁いた。
相棒の言うとおり、二つの飛行体は、長い首と尾、三角形の両翼を持った巨大な飛竜のようだった。そしてその背には、剣と盾を構えた騎手の姿が確かに見てとれる。白い竜に乗るのは白銀の鎧、黒い竜には漆黒の鎧の騎士。握る剣すら、白の騎士のものはまばゆい光芒を、黒の騎士のものはよどんだ瘴気を放っている。
二騎の竜騎士が剣を打ち合わせるたびに、雷のような金属音が鳴り響き、大量の火の粉が宙を舞った。
「白いほうが……教会の整合騎士、なのかしら……」
アリスの呟きに、キリトが同じくかすれる声で答えた。
「だろう……な。黒いのは……闇の軍勢の騎士、なのかな……。整合騎士と、互角の強さだな……」
「そんな……」
ユージオは、我知らず、そう漏らしていた。
「整合騎士は、世界最強なんだ。闇の騎士なんかに、負けるはずないよ」
「どうかな。見たとこ、剣技には差がないぞ」
キリトが言った、その直後だった。まるでその声が聞こえでもしたかのように、白い騎士は竜の手綱を引いて距離を取った。黒い竜が追いすがろうと大きく羽ばたく。
だが、両者の距離が縮まる前に、くるりとターンした白い竜が長い首をぐっとたわめ、一瞬力を溜めるような動作をした。その首が前に突き出されると同時に、大きく開かれたあぎとから青白い炎の奔流がほとばしり、黒い竜騎士の全身を包んだ。
ごう、とかすかな音がユージオの耳を打った。黒い竜は苦しそうに身をよじり、空中でぐらりと傾く。その隙を逃さず、整合騎士は突進すると、大きな一振りで敵の剣を弾きとばし、返す刀で黒騎士の胸を深く刺し貫いた。
「あっ……」
アリスが悲鳴にも似た小さな声を上げた。
黒い竜は、翼のほとんどを炎に焼かれ、飛翔力を失ってくるくる回りながら宙を滑った。その背中から振り飛ばされた黒騎士は、流れ出る血飛沫の尾を引きながら、まっすぐにユージオ達が隠れている洞窟めざして落下してくる。
まず、黒い剣が乾いた音を立てて砂利混じりの地面に突き立った。次いで、三人からほんの五メルほど離れた場所に、どさりと黒騎士が墜落した。最後に、かなり遠いところに黒い竜が落ち、長く尾を引く断末魔の声とともに動かなくなった。
凍りついた三人が声もなく見守るなか、黒騎士は苦しそうにもがき、上体を起こそうとした。鈍く輝く金属鎧の胸部に、醜い孔が深く穿たれているのが見えた。騎士の、分厚い面頬に覆われてまったく肌の見えない顔がまっすぐユージオたちのほうに向けられた。
ぶるぶると震える右手が、まるで助けを求めでもするかのように伸ばされる。が、直後、鎧の喉元から大量の鮮血が迸り、騎士はがしゃんと音を立てて地面に沈み込んだ。みるみる赤い液体が広がり、黒い瓦礫の隙間に飲み込まれていく。
「あ……あ……」
ユージオの右側で、アリスが細い声を漏らした。まるで吸い込まれるような足取りで、ふらり、と前に出る。
ユージオは動けなかった。だが、左側でキリトが「だめだっ!!」と低く、鋭く叫び、手を伸ばした。
しかし、アリスの左手を掴もうとしたその指はぎりぎりのところで空を切った。アリスの靴が、奇妙なほどにくっきりとした、洞窟の灰色の岩と、闇の国の黒い地面の境界線を一歩踏み越え、じゃりっと音を鳴らした。
その瞬間、遥か上空を旋回していた白い飛竜が、耳をつんざくような鋭い咆哮を放った。
ユージオとキリトがハッと空を振り仰ぐ。同時に、竜の背に跨る白銀の騎士が、確かにこちらを見下ろした。兜の面頬に十字型に切られた隙間から、凍てつくような眼光が降り注ぎ自分を貫くのを、ユージオははっきりと感じた。
キリトはぎりっと歯を鳴らすと、再び手を伸ばしてアリスの腕を握り、短く叫んだ。
「走れ!!」
そのまま身を翻し、洞窟の奥目指して猛然と駆け出す。
ようやく我に返ったユージオは、いまだ頬を蒼白にしたままのアリスのもう一方の腕を取ると、キリトに並んで懸命に走った。
どのようにしてルーリッドの村まで戻ったのか、ユージオはよく憶えていない。
ドラゴンの骨が眠るドームに戻るとそこを突っ切り、反対側の出口に飛び込んで更に走った。濡れた岩に足を取られ、何度も滑りながらも、来たときの数分の一の時間で長い洞窟を駆け抜け、ようやく見えた白い光の中に飛び出すと、そこはまだ午後の陽光がさんさんと降り注ぐ森のとばぐちだった。
しかしユージオたちを捉えた恐慌は容易に消えなかった。今にも、背後の山脈を飛び越えてあの白い騎士が追ってくるのではと思うと気が気ではなかった。
小鳥たちが平和に鳴き交わす木々の下、小魚の群が行き来する透明な流れのほとりを、三人は言葉も無く懸命に歩いた。ユージオの耳にはずっと、アリスの靴が黒い瓦礫を踏み締める音と、直後の飛竜の咆哮が繰り返し鳴り響いていた。
息を切らしながら北ルーリッド橋までたどり着き、土手を上がって見慣れた古樹の下に出たときの安堵はとても言葉にできなかった。三人は顔を見合わせると、ようやく小さな笑みを交わした。――相当に強張ったものであったことも確かではあるが。
本物の夕焼けのなかを歩いて村の広場まで戻り、そこで三人は別れた。
ぎりぎり間に合った夕食の席で、ユージオはずっと無言だった。兄や姉の誰も、今日のような冒険をしたものはいないだろうという確信があったが、何故か自慢する気にはならなかった。この目で闇の王国を見たこと――整合騎士と闇の黒騎士のすさまじい戦い、そして最後に感じたあのいかづちのごとき眼光を言葉にすることはとてもできないと思えたし、またそれを話したとき、父や祖父がどのような反応を見せるのか知るのが怖かったのだ。
その夜、早々にベッドに入ったユージオは、冒険の最後に見たもののことはすべて忘れようと思った。そうでもしなければ、これまで神聖教会と整合騎士に抱いてきた畏敬と憧れが、違うものにすりかわってしまいそうだった。
ソルスが沈み、昇り――そしてまた、何も変わることのない日常へ。
いつもなら休息日の翌朝に仕事場へ向かうときは少しばかり憂鬱になるのだが、今日だけは、ユージオは何故かほっとする心境だった。冒険はもう当分いいや、しばらくは真面目に木こり稼業に励もう、と思いながらてくてくと村の南へ歩き、麦畑と森の境界でキリトと合流する。
長年付き合った相棒の顔にも、ほんのわずかな安堵感が浮かんでいるのをユージオは気づいた。そして向こうもユージオの顔に同じものを見たらしい。二人でしばし、照れ隠しの笑みを浮かべる。
森の細道に少し入ったところにある小屋から竜骨の斧を取り出し、さらに数分歩いて、ギガスシダーの根元に達した。巨大な幹にほんの少し刻まれた斧目も、今はユージオに、変わらぬこれまでとこれからの日々を思わせた。
「よし。今日も、いい当たりの少なかったほうがシラル水をおごるんだからな」
「最近ずっとそっちが持ってるんじゃないか、キリト?」
もう儀式のごとくなっている軽口を叩きあい、ユージオは斧を構える。最初の一発が、コーン、という最高の音を響かせたので、今日はきっといい調子だ、と思う。
午前中、二人は常にない高確率で、巨樹の幹に会心の一撃を打ち込みつづけた。その理由のなかに、もし斧打ち中に集中力を失うと、脳裏に昨日見たあの光景が甦ってしまいそうだから――というものがあったことは否定できないが。
連続五十発の斧打ちを、それぞれ九回ずつこなしたところで、ユージオの胃がぐう、と鳴った。
汗を拭いながら頭上を振り仰ぐと、ソルスはすでに中天近くにまで登っていた。いつもなら、あと一回ずつ斧を握ったところで、アリスが弁当を持って現れる時刻となる。しかも今日は、ゆっくり食べられるパイに、きんきんに冷えたミルクつきだ。想像するだけで、空っぽの胃がきりきりと痛くなる。
「おっと……」
あまり昼ご飯のことばかり考えていると、せっかくリードしているいい当たり数を減らしてしまう。ユージオは濡れた両手をズボンでごしごし擦り、慎重に斧を握りなおした。
突然、日差しがサッと翳った。
通り雨かな、面倒だなあ、と思いながらユージオは顔を上げた。
四方八方に広がるギガスシダーの枝を透かして見える青い空、そのかなり低いところを、高速で横切る黒い影が見えた。心臓が、ぎゅうっとすくみ上がる。
「ドラゴン……!?」
ユージオは思わず叫んでいた。
「おい……キリト、今のは!!」
「ああ……昨日の……整合騎士だ!!」
相棒の声も、深い恐怖に凍り付いていた。
二人が立ち尽くし、見守るなか、白銀の騎士を背に乗せた飛竜は、樹々の梢を掠めて飛び去り、まっすぐルーリッドの村の方向へと消えていった。
一体なぜ、こんなところに。
鳥や虫たちまでもが怯えて黙り込んだ完全な静寂のなか、ユージオは繰り返しそう考えた。
整合騎士は、教会に仇なすものを成敗する秩序の守護者である。帝国内に組織だった反乱集団など存在しない現在、整合騎士の敵はもはや闇の軍勢以外には居ない。ゆえに、騎士達は常に果ての山脈の外を戦場にしていると聞いていたし、実際にユージオは昨日その光景を己の目で見た。
そう、整合騎士を実際に見たのはあれが初めてだったのだ。生まれてこのかた、村に騎士がやってきたことなど一度もない。なのに、なぜ今――。
「あっ……まさか、アリスを……」
隣でキリトが呟いた。
それを聞いた途端、ユージオの耳のおくに、あの時聞いた短い音が鮮明に甦った。じゃりっ、という、炭の燃え殻を潰すような、古いコインを擦るような、不快な音。アリスの靴が、闇の国の石を踏み締める音。冷たい水でも垂らされたかのように、背筋がぞくりと寒くなる。
「うそだろ……まさか、あんな……あれだけのことで……」
同意を求めるべく、そう言い返しながらキリトの顔を見たが、相棒は常にない厳しい表情でじっと騎士の飛び去った方向を睨んでいた。しかしそれも数瞬のことで、キリトはまっすぐにユージオの目を見、短く言った。
「行こう!」
何のつもりかユージオの手から木こり斧をもぎ取ると、もう振り向くこともなく一直線に走り出す。
「お……おい!」
何か、大変なことが起きる。そんな予感をひしひしと感じながら、ユージオも地面を蹴り、懸命にキリトの後を追った。
勝手知ったる森の小道を、木の根や穴を避けながら全力で駆け抜け、麦畑を貫く街道へ合流する。村の方向を仰ぐが、すでに晴れた空に整合騎士の姿は無かった。
キリトはわずかにスピードを緩め、青く色づく麦穂の間でぽかんと空を見上げている農夫に向かって怒鳴った。
「リダックのおじさん! 竜騎士はどっちへ行った!?」
農夫は、白昼夢から醒めたかのような顔でユージオ達を見ると数回まばたきし、ようやく答えた。
「あ……ああ……どうも、村のほうへ降りたようじゃが……」
「あんがと!!」
礼を言うのももどかしく、二人はふたたび全速力で走り出す。
街道や畑の所々で、村人たちが一人あるいは数人で固まり立ち尽くしていた。恐らく、古老たちの中にさえ実際に整合騎士を見たことがある者はいないのだろう。皆、巨大な飛竜を目の当たりにし、どうしていいのかわからない、とでも言うように混乱した表情で凍り付いている。
村の南にかかる橋を渡り、短い買い物通りを駆け抜け、もうひとつ小さな橋を越えたところで、二人はハッとして立ち止まった。
円形の教会前広場の北半分を、白い飛竜の長い首と尾が弧を描いて占領していた。
大きな翼は二つの塔のように体の両側に畳まれ、教会の建物をほとんど隠してしまっている。無数の鱗と各部に装着された鋼の鎧がソルスの光を跳ね返し、まるで氷の彫像のようだ。そこだけが血のように紅い両の眼のおくで、獣らしさのない縦長の瞳孔が地上を見下ろしている。
そして、竜の前に、さらに眩く輝く白銀の騎士の姿があった。
村の誰よりも巨躯だ。鏡のように磨かれた重鎧を一部の隙もなく全身に着込み、関節部分すら細かく編んだ銀鎖で覆われている。竜の頭部を象った冑は、額の部分から前に一本、両脇から後ろへ二本の長い飾り角が伸び、がっちりと下ろされた巨大な面頬が騎士の顔をすべて隠している。
間違いなく、昨日ユージオたちの隠れ見るなか闇の竜騎士を屠ってのけたあの整合騎士だった。面頬に切られた十字の窓から迸った氷のような眼光が脳裏に甦る。
広場の南端には、数十人の村人が押し集まり、こうべを垂れていた。その一番うしろに、バスケットを下げたアリスの姿を見つけ、ユージオはわずかに肩の力を抜いた。いつものように青いドレスに白いエプロンのアリスは、大人たちの隙間から目を丸くして騎士に見入っている。
キリトとふたり、物陰をつたうようにこっそり移動し、どうにかアリスの後ろまでたどり着くとそっと声をかけた。
「アリス……」
少女は金髪を揺らしてくるりと振り向くと、何か言おうと唇を開く。そこへキリトが自分の口に指をあて、小さくしっ!と囁く。
「アリス、静かに。今のうちに、ここから離れたほうがいい」
「え……なんで?」
同じくひそひそ声で答えるアリスは、自分の身に脅威が迫っているとはまるで考えていないようだった。もしかしたら、昨日の、あの黒騎士が目の前に落ちて息絶えた瞬間のことをあまり覚えていないのかもしれない、とユージオは考える。
「いや……もしかしたら、あの整合騎士は……」
そのあとをどう説明したものか、ユージオが一瞬迷った。そのときだった。
村人たちのあいだに、かすかなざわめきが走ったので顔を上げると、広場の東入り口――村役場の方向から、一人の背の高い男が歩いてくるところだった。
「あ……お父様」
アリスが呟く。確かに、男はルーリッドの現村長、ガスフト・ツーベルクだった。引き締まった体を簡素な革の胴衣に包み、黒々とした髪と口もとの髭はきれいに切り揃えられている。炯炯とした鋼のような眼光は、前村長から職を引き継いでたったの四年ですでに全村民の尊敬を集める名士に相応しいものだ。
背後に助役を従えたガスフトは、臆することなく整合騎士の前まで歩み寄ると、教会の作法に従って体の前で両手を組み、一礼した。
「ルーリッドの村長を務めますツーベルクと申します」
頭を上げると、びんと張りのある声で名乗る。
ガスフトよりも拳ふたつぶんほども背の高い整合騎士は、かすかに鎧を鳴らしながらゆっくりした動作で頷くと、そこではじめて声を放った。
「ノーランガルス北方第七辺境区を統括する整合管理騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである」
村長ほどには深みも、響きもある声ではなかった。まるで教会のオルガンの共鳴管に口をくっつけて喋ったような、いんいんとした金属質の尾を引く、どちらかと言えば不快な声だった。しかしその言葉は、耳ではなく額を突き抜けて頭のなかで響いたかのごとく体の芯まで届き、ユージオは顔を歪めた。見れば、ガスフトも気圧されたかのごとくわずかに身を仰け反らせている。
「……して、騎士殿がこの小村にいかなる御用でしょう」
流石の胆力を見せ、村長は再度堂々たる言葉を発した。
が、それも、整合騎士が次の声を響かせるまでのことだった。
「ガスフト・ツーベルクが三子、アリス・ツーベルクを、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する」
村長の逞しい上体が一度、激しく震えた。ユージオの位置からわずかに見える横顔がはっきりと歪んだ。
長く続いた沈黙のあと、ガスフトの、さすがに艶を失った声が流れた。
「……騎士様、娘がいったいどのような罪を犯したというのでしょう」
「禁忌目録第一条第四項、ダークテリトリーへの侵入である」
そこではじめて、今まで声も無くやりとりに聞き入っていた村人の間にかすかなざわめきが走った。何人もの大人たちが、口々に教会の聖句を呟き、素早く聖印を切る。
ユージオとキリトは、反射的にアリスの体を騎士の視線から隠そうとした。が、それ以上動くことはできなかった。
ユージオの頭のなかでは、どうしよう、どうしよう、というその言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。なんとかしなくては、という恐慌が突き上げてくるものの、しかし何をしていいのかはわからないのだった。
村長は、整合騎士の前で深く頭を垂れたまま、しばらく動かなかった。
大丈夫、あの人なら何とかしてくれる、とユージオは思った。ガスフト村長と話したことはそれほど多くないが、静かで厳しい物腰、筋の通った知性的な考え方は、じゅうぶんに尊敬すべきものだと感じていた。
しかし――。
「……それでは、いま娘を呼びにやりますので、本人の口から事情を聞きたいと思います」
掠れた声で、村長はそう言った。
だめだ、アリスを騎士の前に出したらいけない。ユージオがそう思ったのも束の間、整合騎士はがしゃりと鎧を鳴らして右手を上げた。その指先が、まっすぐに自分のほうを指しているのを見て、ユージオの心臓は縮み上がった。
「その必要はない。アリス・ツーベルクはそこにいる。お前――と、お前」
指を動かし、人垣の前のほうにいる男をふたり指す。
「娘をここに連れてこい」
ユージオの目の前で、さっと人の列が割れた。整合騎士と自分のあいだを遮るものが何もなくなり、ユージオはふたたび昨日の眼光を思い出して縮み上がりそうになる。今すぐ地面にうずくまり、騎士の視線を避けたい、そんな思いが湧き起こってくる。
空いた道を、顔見知りの村人ふたりがゆっくりと歩み寄ってきた。その肌は血の気を失い、また視線は奇妙なほどにうつろだ。
男達は、アリスの前に立ち塞がるキリトとユージオを有無を言わさず押しやると、両側からアリスの腕を掴んだ。
「あっ……」
アリスは小さく声を上げたが、気丈にもグッと唇を噛み締めた。いつものばら色が薄れた頬に、それでもかすかな笑みを浮かべ、大丈夫、というようにユージオたちの顔を見てこくりと頷く。
「アリス……」
キリトが言いかけた、その瞬間にぐいっと両腕を引かれ、アリスの右手からバスケットが落ちた。蓋が開き、中身が少し地面にこぼれる。
村人ふたりに引っ張り上げられるように、アリスは整合騎士の前へと運ばれていく。
ユージオは、落ちたバスケットをじっと見詰めた。
パイや固焼きパンは、きっちりと布に包まれ、その隙間をぎっしりと細かい氷が埋めている。一部は外に転がりだし、陽光を反射してきらきらと光っている。息を詰めて凝視するあいだにも、灼けた土の上で氷はたちまちのうちに溶け、ちっぽけな黒い染みへと変わっていく。
キリトが鋭く息を吸い込んだ。
きっと顔を上げ、引きずられていくアリスの後を追う。ユージオも歯を食いしばり、動こうとしない足を鞭打ってそれに続いた。
男二人は、村長の隣でアリスの腕を放すと、数歩下がり、そこに膝をついた。両手で聖印を組みながら深く頭を下げ、恭順の意を示す。
アリスは、強張った顔を父親に向けた。ガスフトは一瞬、沈痛な面持ちで娘を見下ろしたが、すぐに顔を背け、俯く。
整合騎士が手を伸ばし、飛竜の鞍の後ろから奇妙な道具を取り出した。太い鎖に、皮製のベルトが三本平行に取り付けられ、鎖の上端には金属の輪が備えられている。
騎士はじゃらりと音を立てながらその道具をガスフトに放った。
「村の長よ、咎人を固く縛めよ」
「…………」
村長が、手にした拘束具に視線を落とし、言葉を失ったその時、ようやくキリトとユージオは騎士の前に到達した。そこではじめて、騎士の兜が二人の方向を捉える。
輝く面頬に切られた十字の窓の奥は、深い闇に包まれていて何も見えなかったが、ユージオはそこから放射される視線の圧力を痛いほど感じた。反射的に俯き、すぐ左に立つアリスの方に少し顔を傾けて、何か声をかけようとしたが、やはり喉が焼きついたように言葉が出てこない。
キリトも同じように俯き、短い呼吸を繰り返していたが、やがてついに顔を上げると、震えながらも大きな声で叫んだ。
「騎士様!!」
もう一度大きく息を吸い、続ける。
「あ……アリスは、ダークテリトリーになんか入っていません! 石を、ほんの一つ踏んだだけなんだ! それだけなんです!」
騎士の答えは簡潔だった。
「それ以上どのような行為が必要であろうか」
連れて行け、というように、控えていた男二人に向かって手を振る。立ち上がった村人は、キリトとユージオの襟首を掴むと、後ろに向かって引きずりはじめた。それに抗いながら、キリトが尚も叫ぶ。
「じゃ……じゃあ、俺たちも同罪だ!! 俺たちも同じ場所にいた! 連れていくなら俺たちも連れていけ!!」
だが、もう整合騎士は二人には見向きもしない。
そうだ……アリスが禁忌を犯したというなら、僕だって同じ罰を受けるべきた。ユージオもそう思った。心の底からそう思った。
しかしなぜか声が出ない。キリトと同じように叫ぼうとするのに、口の動かし方を忘れてしまったかのように、掠れた息しか吐き出すことができない。
アリスはちらりとこちらを振り返ると、大丈夫だよ、というふうに小さく微笑み、頷いた。
その細い体に、表情を失った父親が、後ろから禍々しい拘束具を回した。三本のベルトを、肩、腹、腰にそれぞれ固く締め付ける。アリスの顔がほんの少し歪む。最後に、太い鎖の下端についた手錠を手首に嵌め、ガスフトは娘を整合騎士に差し出した。騎士の握った鎖が、じゃらりと鳴った。
ユージオとキリトは広場の中央まで引き戻され、そこで跪かされた。
キリトはよろけた振りをしてユージオの耳に口を寄せ、素早く囁いた。
「ユージオ……いいか、俺がこの斧で整合騎士に打ちかかる。数秒間は持ちこたえてみせるから、そのすきにアリスを連れ出して逃げるんだ。麦畑に飛び込んで、南の森を目指せばそう簡単には見つからない」
ユージオは、まだキリトが握ったままだった古ぼけた木こり斧をちらりと見てから、どうにか声を絞り出した。
「……キ……キリト……でも」
昨日、お前だって整合騎士のすさまじい剣技を見たじゃないか。そんなことをすれば、たちまちのうちに殺される……あの黒騎士のように。
声にできないユージオの思考を読み取ったかのごとく、キリトは続けて言った。
「大丈夫だ、あの騎士はアリスをこの場で処刑しなかった。多分、審問とやらをやらないと殺したりできないんだ。俺はどこかで隙を見て逃げ出す。それに……」
キリトの燃えるような視線の先では、整合騎士が拘束具の締まり具合を確認していた。ベルトを引っ張られるたびに、アリスの顔が苦痛にゆがむ。
「……それに、失敗してもそれはそれでいい。アリスと一緒に俺たちも連行されれば、助けるチャンスがきっとくる。でもここで、飛竜で連れていかれたらもう望みはない」
「それ……は……」
確かにその通りだ。
しかし――その計画とも言えないような無謀な作戦は、つまるところ――“教会への反逆”ではないのだろうか? 禁忌目録第一条第一項に規定された、最大の背教行為。
「ユージオ……何を迷うことがあるんだ! 禁忌がなんだ!? アリスの命より大切なことなのか!?」
キリトの、抑えられてはいるが切迫した声が、びしりと耳朶を打つ。
そうだ。その通りだ。
ユージオは心のなかで、自分に向かって叫ぶ。
キリトの言うとおりだ。僕たち三人は、生まれた年も一緒、そして死ぬ年も一緒と決めていたはずだ。常に助け合い、一人がほかの二人のために生きようと、そう誓い合ったはずだ。ならば、迷うことなんかない。神聖教会と、アリスと、どちらが大事か、だって? 答えなんか決まっている。決まっているはずだ。それは――それは――。
「ユージオ……どうしたんだ、ユージオ!!」
キリトが悲鳴にも似た声をあげる。
アリスがじっとこちらを見ている。気遣わしそうな顔で、そっと首を横に振る。
「それは……それ……は……」
自分のものではないような、しわがれた声が喉から漏れる。
だが、その先を言葉にすることができない。胸のなかですら、続く言葉が言えない。まるで、誰かが知らないうちに、心の奥に堅固なドアを作ってしまった、とでも言うかのように。
キリトの叫びに気づいた村長が、のろのろと腕を動かし、二人の背後に立つ男たちに向かって言った。
「その子供らを広場の外に連れていけ」
途端、ふたたび襟首を掴まれ、引きずり起こされる。
「クソッ……放せ!! ――村長!! おじさん!! いいのか!? アリスを連れていかせていいのか!!?」
キリトは狂ったようにもがき、男の手を振り払うと、斧を構えて突進しようとした。
が、いつのまにか近づいてきていた、更に数人の男たちが背後から飛び掛ると、キリトを地面に引き倒した。斧が手から離れ、石畳に擦れて火花を散らした。
「ユージオ!! 頼む!! 行ってくれ!!」
片頬を地面に押し付けられ、表情をゆがめながら、キリトが叫んだ。
「あ……うあ……」
ユージオの全身ががたがたと震える。
行け。行くんだ。斧を拾い、整合騎士に打ちかかるんだ。
心の片隅から、かすかな声がそう叫ぶ。だが、それを圧倒的な力で打ち消すもうひとつの声が、割れ鐘のようにがんがん鳴り響く。
神聖教会は絶対である。禁忌目録は絶対である。逆らうことは許されない。何人にも許されることではない。
「ユージオ――!! いいのかそれで!!」
整合騎士は、最早騒ぎには目も呉れずに、握った太鎖の先端の金属環を、飛竜の脚を覆う鎧から突き出した金具にがちりと留めた。飛竜が首を低く下げ、その背中の鞍に騎士は軽々とまたがる。全身の鎧が一際大きくがしゃりと鳴る。
「ユージオ――――!!」
血を吐くようなキリトの絶叫。
白い飛竜が体を起こし、畳んでいた翼をいっぱいに開く。二度、三度、大きく打ち鳴らす。
竜の脚に縛り付けられたアリスが、まっすぐにユージオを見た。微笑んでいた。その青い瞳が、さようなら、と言っていた。翼の巻き起こした風がゆわえた金髪を揺らし、騎士の鎧にも負けないほどにきらりと輝かせた。
しかしユージオは動けない。声も出せない。
両の脚から地面に深く根が張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。
(第一章 終)
* 第一章
強く握る。
振り上げる。
叩き下ろす。
たったこれだけの動作なのに、少しでも気を抜くと斧の当たりどころが狂い、硬い木質が両腕に手痛い反動を跳ね返してくる。呼吸、タイミング、スピード、体重移動、それら全てを完璧に制御してはじめて、重い斧の刃は秘めた力を全て樹に伝え、高く澄んだ心地よい音を響かせる。
と、頭では理解していても、実践となるとこれがままならない。ユージオが十歳の春にこの仕事を与えられてからもう二度目の夏になるが、そんな会心の一振りは十回に一度出せるかどうか、というところだ。斧の振り方を教えてくれた、前任者のガリッタ爺さんなどは百発百中で、巨大な木こり斧をどれだけ振り回そうと疲れた素振りなどまるで見せなかったのに、ユージオは五十回も振れば両手が痺れ、肩が痛んで、腕が上がらなくなってしまう。
「四十……三! 四十……四!」
自分に喝を入れるように、せいぜい大声で数をかぞえながら斧を大樹の幹に叩きつけるが、吹き出た汗で眼がぼやけ、手の平は滑り、命中率はみるみる低下していく。半ばやけくそのように、握り締めた木こり斧を体ごと振り回す。
「四十……九! ご……じゅ……う!!」
最後の一撃は盛大に手許が狂い、幹に刻まれた斧目から遠く離れた樹皮を叩いて、耳障りな金属音を撒き散らした。眼から火花が出るほどの反動にユージオは堪らず斧を取り落とし、そのままふらふらと数歩後ろに下がると、深い苔の上にどさりと体を転がした。
ぜいぜいと荒い息をついていると、同じように少し離れた場所に寝転がっていた少年が、顔だけユージオに向けてにやっと笑った。
「いい音がしたのは五十回中三回だったな。ぜんぶ合わせて、えーと、四十一回か。どうやら今日のシラル水はそっちのおごりだぜ、ユージオ」
寝転がったまま手探りで水筒を掴み上げ、ぬるくなった水をがぶがぶあおってようやく人心地ついたユージオは、鼻を鳴らして答えた。
「ふん、そっちだってまだ四十三回じゃないか。まだまだ分からないよ。そら、お前の番だ、キリト」
「へいへい」
ユージオの幼馴染にして無二の親友、一年前からはこの憂鬱な仕事の相棒でもあるキリトは、汗に濡れた黒い前髪をぐいっとかきあげると、両足を真上に伸ばし、えいやっと体を起こした。しかし、すぐには斧を拾いに行かず、手を腰に当てると頭上を仰いだ。つられて、ユージオも視線を空に向ける。
七の月もまだ半ばの夏空は呆れるほどに青く、真ん中に張り付いた陽神ソルスはぎらぎらと容赦のない光を放っている。だが、四方八方に伸ばされた大樹の枝々にびっしりと茂る厚い葉が貪欲に陽光を遮り、ユージオ達のいる樹の根元まではほとんど届かない。
こうしている間にも、大樹は陽神の恵みを無数の葉でむさぼり、また根からは地神テラリアの恩寵を絶え間なく吸い上げ、ユージオとキリトが刻んだ斧傷を着々と回復させているはずだ。日中にどれほど二人が頑張っても、一晩休んで翌朝またここに来たときには、大樹は受けた傷の七割を埋め戻してしまっているのだ。
ユージオはふう、とため息をつきながら、視線を空から樹へと向けた。
大樹――村人の間では巨人の樹、ギガースシダーと呼ばれているそれは、幹の差し渡し四メル、てっぺんの枝まではゆうに七十メルはあるという化け物だ。村で一番高い教会の鐘楼だってその四分の一しかないのだから、今年になってようやく背丈が一メル半を超えたユージオやキリトにとってはまさしく古代の巨神にも等しい相手だ。
どだい、人間の力でこいつを切り倒そうなんて無理な話なんじゃないのか――と、その幹に刻まれた斧目を見るにつけ、ユージオは思わずにいられない。くさび型の切り込みはようよう一メルに達するかどうか、という所で、幹はまだその三倍もの厚みが健在なのだ。
去年の春、キリトと一緒に村長の家に連れていかれ、大樹の刻み手という役目を与えられたとき、ユージオは気が遠くなるような話を聞かされた。大樹ギガースシダーは、二人が暮らすルーリッドの村が拓かれる遥か以前からこの地に根を張っており、その最初の入植者の時代から村人は延々と樹に斧を入れ続けているということ。初代の刻み手から数えて、前任のガリッタ爺が五代目、ユージオとキリトが六代目であり、ここに至るまですでに三百年以上の時が費やされているのだということ。
三百年! まだ十歳の誕生日を迎えたばかりのユージオにはまるで想像もできないほどの時間だった。もちろん、それは十一になった今も変わりはしない。どうにか理解できるのは、ユージオの父親、母親の時代、祖父、祖母の時代、その前、さらにその前の時代から、刻み手たちは無限とも言えるほどの回数斧を振りつづけ、その結果作ることのできたのが、このたった一メルにも満たない斧目なのだ、という事だけだ。
なぜそこまで空しい努力を続けてまで大樹を倒さなければならないのか、その理由も村長は鹿爪らしい口調で語ったものだ。
ギガースシダーは、その巨体とありあまる生命力ゆえに、周囲のとてつもなく広い範囲から、陽神と地神の恵みを奪い去ってしまう。大樹の影が届くすべての土地では、種を植えてもいかなる作物も実らない。
神聖帝国北方辺境に位置し、三方を急峻な山稜に囲まれたルーリッドの村では畑や放牧地を広げようにも南の森を切り拓くしかなく、しかしその入り口にどすんとギガースシダーがそびえているために、まずこの厄介者をなんとかしなければ、これ以上の村の発展は有り得ない。大樹の皮は鋼鉄、木質でさえ赤銅の硬さを誇り、火をかけても煙すら出ず、掘り起こそうにもその根は梢と同じだけの深さにまで及んでいる。ゆえに、我々は村の開祖たちが残してくれた、鉄さえ断てる竜骨の斧を用いて樹の幹を刻み、また次の世代に役目を伝えていかねばならないのだ――。
使命感のあまりか声を震わせながら村長がその話を終えたとき、まずユージオがおそるおそる、それならギガースシダーは放っておいて更に南の森を切り拓いたらどうなのか、と尋ねた。すると村長は、あの樹を倒すのは先祖代々の悲願であり、その大役を二名の刻み手に委ねるのが村のしきたりである、と怖い声で言った。次にキリトが、首をひねりながら、そもそもなんでご先祖様はこんなところに村を拓いたのか、と尋ねた。すると村長は一瞬言葉に詰まったあと烈火の如く怒り、杖の先でキリトとついでにユージオの頭をぽかりと叩いた。
以来一年と三月、二人は交代で竜骨の斧を握り、ギガースシダーに挑みつづけている、というわけなのだ。しかし、まだ斧を振る腕が未熟なせいもあるのだろうが、大樹の幹に入った切れ込みはどう見ても深くなっているようには思えない。ここまで刻むのに三百年かかっているのだから、子供二人がたった一年頑張ったくらいではさしたる変化もないのは当然と言えば当然なのかも知れないが、仕事としての達成感がないことおびただしい。
いや――その気になれば、見た目だけでなく、さらに明解なかたちで気の滅入る事実を確かめることもできるのだ。
ユージオの横に立ち、無言でギガースシダーを睨んでいたキリトも同じことを考えたらしく、すたすたと幹に歩み寄ると、まっすぐ左手を伸ばした。
「おい、やめとこうよキリト。無闇と大樹の天命を覗くなって村長から言われてるだろ」
だがキリトはちらりと顔を向けると、いつもの悪戯そうな笑みを口の端に浮かべ、うそぶいた。
「前に見たのは二月前だぜ。もう"無闇"じゃなくて"たまに"だよ」
「まったく、しょうがないなあ。……おい、待てよ、僕にも見せろ」
ユージオはようやく疲れの引いた体を、先ほどのキリトと同じように振り上げた足の反動で起こすと、相棒の傍へと駆け寄った。
「いいか、開くぞ」
キリトは低い声で言うと、前に突き出した左手の人差し指と中指をぴんと伸ばし、残りの指を握った。そのまま空中に、這いずる蛇のような形を描く。生命神に捧げる呪印のもっとも初歩的なものだ。
印を切った指先で、キリトはすかさずギガースシダーの幹を叩いた。本来あるべき乾いた打撃音ではなく、銀器を弾いたような澄んだ音が小さく響く。次いで、幹の内部から浮かび上がるように、小さな四角い光の窓が現われる。
天地に存在するすべてのものには、動く、動かざるに関わらず、生命を司る始原の神ステイシアによって与えられた"天命"が存在する。虫や草花にはごくわずかの、猫や馬にはそれよりずっと多くの、そして人にはさらに多くの命が与えられている。森の樹々や、苔むした岩などは、人の何倍もの天命を持っている。それらの命はひとしなみに、生まれ出でてからある時点までは増加し、頂点を迎え、ついで減少していく。やがて命が尽きたとき、獣や人は息を止め、草木は枯れ、岩は砕ける。
その天命を、古代の神聖文字で記したのが"ステイシアの窓"だ。相応の魔力を持つ者が、印を切り対象を叩くことによって呼び出すことができる。石ころや草のようなものの"窓"はほとんどどんな人間でも見ることができるが、獣になるとやや難しく、人の"窓"に至っては初等魔術を修めるに足るだけの力が無いと引き出すことはできない。一般的に樹木の窓は人のそれよりは見やすいが、さすがに古代樹と言われるギガースシダーは難易度が高く、ユージオとキリトが窓を出せるようになったのはここ半年ほどのことだ。
聞きかじるところでは、かつて、央都の帝立魔道院において大導師の位を得た魔術師が、七日七晩に及ぶ儀式のすえに大地――つまり地神テラリアそのものの"窓"を引き出すことに成功したらしい。しかし、大地の天命を一目見たとたん魔術師は恐慌を来たし、正気を失っていずこへか消え去ってしまったという。
その話を聞いてからというもの、ユージオはギガースシダーを含む大きいモノの窓を見るのが少々恐ろしいのだが、キリトは頓着する様子もない。今も、浮かび上がった光る窓にいそいそと顔を近づけている。幼馴染の親友ではあるが時々ついていけないよ、と思いながら、それでも好奇心に負けて、ユージオもその脇から覗き込んだ。
薄い紫色に光る四角い窓には、直線と曲線を組み合わせた奇妙な数字が並んでいる。古代の神聖文字であるそれを、数字だけならユージオも読むことはできるが、書くことは深く禁じられている。
「ええと……」
ユージオは指でひとつひとつ確かめながら、数字を口にした。
「二十三万……五千五百四十二」
「あー……先々月はいくつだっけ?」
「たしか……二十三万五千五百九十くらい」
「…………」
ユージオの言葉を聞いたキリトは、大げさな仕草で両手を差し上げると、がくりと根っ子に膝を突いた。次いで、わしゃわしゃと黒い髪に指を立てる。
「たった五十! ふた月こんだけがんばって、二十三万なんぼのうちたった五十! これじゃ一生かかっても切り倒せねえよ!」
「いや、だからそりゃ無理だって」
ユージオは苦笑しながら答えるしかない。
「僕らの前に五代の刻み手が三百年がんばって、たった四分の一しか行ってないんだからさ……。単純に考えて、ええと、あと十五代、九百年くらいかかる計算だよ」
「おーまーえーは~」
頭を抱えてうずくまっていたキリトは、じろりとユージオを見上げると、突然両足にがしっと組み付いてきた。不意を突かれたユージオはバランスを崩し、苔のベッドにしたたか背中を打ち付けてしまう。
「何でそう優等生なんだ! もうちょっとこの理不尽な役目をどうにかしようと悩め!」
口では怒ったようなことを言いながら、キリトは満面のにやにや笑いを浮かべながらユージオに馬乗りになると、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてきた。
「うわっ何するこいつ!」
ユージオは両手でキリトの手首を掴み、ぐっと引っ張る。キリトがそれに抵抗しようと体を突っ張る力を利用して、ぐるんと垂直に半回転し、今度は自分が上になる。
「そら、お返しだ!」
笑い混じりに叫びながら、キリトの髪を汚れた手で引っ張るが、亜麻色のまっすぐな髪のユージオに対してキリトのは黒くつんつんと逆立っているのでこの攻撃はさして意味がない。やむなく脇腹のくすぐり攻撃へと切り替える。
「うぎゃっ、お前……それは、ひ、ひきょ……」
呼吸困難に陥りながら暴れまわるキリトを組み伏せ、なおもくすぐっていると、不意に背後からきーんと響く高い声の一撃が襲ってきた。
「こらっ! またさぼってるわね!!」
途端、ユージオとキリトはぴたりと取っ組み合いと停止する。
「うっ……」
「やべっ……」
二人してしばし首をすくめてから、おそるおそる振り向く。少し離れた岩の上で、両手を白いエプロンを巻いた腰に当て、ぐいっと胸を反らす人影を認め、ユージオは引き攣った笑みを浮かべながら言った。
「や……やあアリス、今日はずいぶん早いね」
「ぜんぜん早くないわ、いつもの時間よ」
つん、と顔を反らすと、頭の両側で結わえたゆるく波打つ髪が、まばゆい金色の光を放った。身軽な動作で岩から飛び降りたのは、青いドレスに白いエプロン姿の少女だった。右手には大ぶりのバスケットを下げている。
少女の名前はアリス。ルーリッドの村長の孫娘で、歳はユージオ、キリトと同じ十一だ。
ルーリッドの――いや、北部辺境地域に暮らす子供は全員、十歳の春に"天職"を与えられ仕事見習いに就くのがしきたりなのだが、アリスはわずかな例外としてそのまま教会の学校に通っている。村の子供ではいちばんと目される神聖魔法の才能を伸ばすため、シスター・アザリヤから個人教授を受けているのだ。
とは言え、いかに天賦の才を持ちまた村長の娘であろうとも、十一になる娘に一日中勉強をさせておけるほどルーリッドは豊かな村ではない。働けるものは全員働き、作物や家畜の天命を削り取ろうと絶えず襲ってくる日照りや長雨、害虫――つまり闇神ベクタの悪戯を退けつづけなくては、厳しい冬を村人皆が無事に越すことが難しくなる。
ユージオの家は村の南に広がる開墾地にかなり大きな麦畑を持っているが、生粋の農夫である両親は、次男であるユージオがギガースシダーの刻み手に選ばれたことを口では喜びつつ、内心は残念に思っている節がある。もちろん刻み手としての稼ぎは村の金庫から家に支払われるが、畑に出る働き手がひとり減ったことに変わりは無いからだ。
ならわしとして、各々の家の長男には必ず父と同じ天職が与えられ、農家の場合は娘や次男、三男もそれに準ずる。道具屋の子は道具屋に、衛士の子は衛士に、そして村長は村長の子が継ぐ。そのようにしてルーリッドの村は、拓かれて以来数百年ほとんど変わらない姿を維持しており、大人たちはそれこそがステイシアの加護の賜物であると言うが、ユージオはそこにほんのかすかな、名状しがたい違和感のようなものをおぼえることがある。
一体、大人たちは、村を大きくしたいと思っているのか、それとも今の形を何ひとつ変えたくないと思っているのか、それがよく分からないのだ。本当に畑を広げたいのなら、こんな厄介な樹など放っておいて、多少遠回りになるがさらに南の森を拓けばいいだけのことだ。しかし、村で一番の賢者であるはずの村長でさえも、代々のしきたりの数々を見直すことなど思いもよらないらしい。
ゆえに、ルーリッドの村はどれだけ世代が移ろおうとも常に貧しく、村長の娘アリスも勉強できるのは午前中だけで、午後は家畜の世話や家の掃除に忙しく立ち働かなくてはならない。その最初の仕事が、ユージオとキリトに昼食を届けること、というわけだ。
右腕にバスケットを引っ掛けたまま両手を腰にあて、アリスは胸を大きく反らせた。碧玉の色の瞳が、苔の上で取っ組み合いを中断したユージオとキリトをじろりと睨む。小さな唇がすうっと空気を吸い込み、そこから大きな雷が落ちる寸前に、ユージオは素早く体を起こすとぶんぶん首を振った。
「さぼってないさぼってない! 午前中の既定労働はもうちゃんと終わったんだよ」
早口にそう弁解すると、後ろでキリトが「そうそう」と調子のいい相槌を打つ。
アリスはもう一度、強い光を放つ瞳で二人をひと撫ですると、呆れたようにふっと頬を和ませた。
「仕事を終えたうえでケンカする元気があるなら、ガリッタさんに言って回数を増やしてもらったほうがいいかしら?」
「や、やめてそれだけは!」
「冗談よ。――さ、早くお昼にしましょう。今日は暑いから、悪くなっちゃう前に食べないと」
アリスはバスケットを地面に下ろすと、中から大きな白布を取り出し、ぱんと音をさせて広げた。平坦な場所を選んでそれを敷くと、待ちかねたように靴を脱ぎ飛ばしたキリトが上に飛び乗る。続いてユージオが腰を下ろすと、餓えた労働者ふたりの前に、次々と料理が並べられた。
今日のメニューは、塩漬け肉と豆の煮込みのパイ詰め、薄切り黒パンにチーズとピックルスを挟んだサンドイッチ、数種類の干し果物、朝絞ったミルク、というものだった。ミルクを除けばどれも保存性のいい食べ物だが、降り注ぐ七の月の陽光は、容赦なく料理から"天命"を奪い去っているはずだ。
料理に飛びつこうとするキリトとユージオを、アリスは犬にお預けを食らわせるように手で制すると、素早く空中に印を切り、まず素焼きのポットに入ったミルクの、次いで他の料理の"窓"を次々と確かめた。
「うわ、ミルクはあと十分、パイも十五分しか持たないわ。走って来たのになあ。――そんなわけだから、ちょっと急ぎ目で食べてね。でもちゃんと噛まないとだめよ」
天命が尽きた料理はすなわち『傷んだ料理』で、一口でも食べれば、よほど頑強な胃を持つ者でないかぎり覿面に腹痛その他の症状を引き起こす。ユージオとキリトは、いただきますを言うのももどかしく、大きく切ったパイにかぶりついた。
三人は、しばらく無言でもぐもぐと口を動かしつづけた。ハラペコの少年二人は言わずもがな、アリスも、この細いお腹のどこに入るのか、というほどの健啖ぶりを発揮して、次々と料理と片付けていく。まず六切れのパイが無くなり、九つのサンドイッチが一壷ぶんのミルクとともに流し込まれると、三人はようやくほっと一息ついた。
「――お味はどうだったかしら?」
こちらを横目で見ながら、ぽそりとそう言うアリスに向かって、ユージオは笑みを噛み殺しながら答えた。
「うん、今日のパイはおいしかった。だいぶ腕が上がってきたみたいだね、アリスも」
「そ、そうかしら。わたしはもう一味足りないような気がしたけど」
照れ隠しなのか、そう言ってアリスがそっぽを向いたスキに、ユージオはキリトにちらりと目配せして一瞬の笑いを交換した。先月から、二人の弁当はアリスが作っている、という触れ込みなのだが、正直なところアリスの母親であるサディナが手伝っているときとそうでないときの違いは歴然としている。万事につけ、技というものは長年の修練抜きには身につかないものなのだ――が、それを敢えて口にしないだけの分別はユージオもキリトもようやく身につけた、というわけだ。
「それにしても――」
と、干し果物の入った籠から黄色いマリゴの実を摘み上げながら、キリトが言った。
「せっかくの旨い弁当なんだから、もっとゆっくり食べたいよなあ。なんで暑いと弁当がすぐ悪くなっちゃうんだろうなあ……」
「なんでって……」
今度は苦笑を隠すことなく、ユージオは大げさな身振りで肩をすくめた。
「ヘンなこと言う奴だなあ。夏はなんでも天命の減りが早いに決まってるだろ。肉だって、魚だって、野菜も果物も、そのへんに置いとけばすぐ傷んじゃうじゃないか」
「だから、それが何でなんだ、って言ってるのさ。冬なら、生のハムを外にほっぽっといても、何日だって持つじゃないか」
「そりゃ……冬は寒いからな」
ユージオの答えに、キリトは聞き分けのない子供のようにぐいっと唇を曲げた。北部辺境では珍しい黒い眼に、わずかに挑戦的な光が浮かんでいる。
「そうだよ、ユージオの言うとおり、寒いから食べ物が長持ちするんだ。冬だからじゃない。なら……寒くすれば、この時期だって弁当は長い間持つはずだ」
今度こそユージオは呆れ果て、つま先でキリトの向こう脛を軽く蹴った。
「簡単に言うなよ。寒くするって、夏は暑いから夏なんだよ。古代の封禁魔術で雪でも降らせる気か? 次の日には央都の整合騎士がすっとんできて処刑されちゃうよ」
「う、うーん……。何か無いかなあ……いい方法が……」
キリトが眉をしかめ、そう呟いたときだった。いままで二人の会話を黙って聞いていたアリスが、長いおさげの先に指をからませながら口を挟んだ。
「面白いわね」
「な、何を言い出すんだよアリスまで」
「別に、禁術を使おうってんじゃないわよ。村をまるごと寒くしようとか大げさなこと考えなくても、例えばこのお弁当を入れるバスケットの中だけ寒くなればいいんでしょ?」
至極当然のことのような言葉を聞き、ユージオは思わずキリトと顔を見合わせ、同時にこっくりと頷いた。アリスはちらりと済ました笑みを浮かべ、続ける。
「夏でも冷たいものなら、いくつかあるわよ。深井戸の水とか、シルベの葉っぱとか。そういうのを一緒にバスケットに入れれば、中が寒くならないかしら?」
「ああ……そうか」
ユージオは腕を組み、考えた。
教会前広場の真ん中には、ルーリッドの村が出来たときに掘られたという恐ろしく深い井戸があり、そこから汲み上げる水は夏でも手が痛くなるほど冷えている。また、北の谷にわずかに生えているシルベの樹の葉は、摘むとツンとくる香りを放ちながらひんやりと冷たくなるので、打ち身の治療に重宝されている。確かに、深井戸の水を壷に入れたり、シルベの葉でパイを包んだりすれば、弁当を運ぶ間冷たく保つことは可能なように思われた。
しかし、同じようにしばらく考えていたキリトは、ゆっくり首を振りながら口を開いた。
「それだけじゃたぶんムリだよ。井戸水は、汲んで一分も置けばすぐにぬるくなっちゃうし、シルベの葉っぱはちょっとヒヤっとするくらいだし。とても、アリスの家からギガースシダーまで、バスケットの中を寒くできるとは思えないな」
「なら、他にどんな方法があるってのよ?」
せっかくの名案にケチをつけられたアリスが、唇を尖らせながら訊き返した。キリトはしばらく、黒い髪をわしわし掻き混ぜながら黙っていたが、やがてぼそりと口にした。
「氷だ。氷がいっぱいあれば、じゅうぶんに弁当を冷やせる」
「あんたねえ……」
ほとほと呆れた、というように、アリスが首を振った。
「今は夏なのよ。氷なんか、どこにあるってのよ。央都の大マーケットにだってありゃしないわ!」
まるで、聞き分けのない子供を叱る母親のような口調で捲し立てる。
が、ユージオはひしひしと嫌な予感を覚えつつ、口をつぐんだままキリトの顔を見ていた。この幼馴染が、こういう眼の光を浮かべ、こういう口調でものを言うときは、大抵ろくでもないことを考えているのだということを長年の経験から知っているからだ。頭のおくに、東の山まで皇帝蜂の蜜を取りに行ったときのことや、教会の地下室で黒妖精の封じられた壷を割ってしまったときのことなどが立て続けに浮かんでは消えた。
「ま、まあ、いいじゃないか、急いで食べれば大丈夫なんだからさ。それより、そろそろ午後の仕事にかからないと、また帰りが遅くなっちゃうよ」
手早く空いた皿をバスケットに戻しながら、ユージオはそう言って、この不穏な話題を打ち切ろうとした。が、キリトの瞳が何らかの思いつきにきらりと輝くのを見て、危惧が現実になりつつあるのをいやおうなく悟る。
「……なんだよ、今度はいったい何を思いついたんだ」
やや諦め混じりにそう尋ねると、キリトはにいっと笑みを浮かべながら答えた。
「なあ……ずーっと昔、ユージオの爺ちゃんにしてもらった話、憶えてるか?」
「ん……?」
「どの話……?」
二年前に天命天職を果たしてステイシアのもとに召されたユージオの祖父は、色々な昔話をたっぷりと白い髭の奥に詰め込んでいて、庭の揺り椅子に腰掛けパイプをくゆらせながら、足元にうずくまる三人の子供に聞かせてくれたものだ。不思議な話、わくわくする話、怖い話などその数はたっぷり数百に及び、ユージオはいったいキリトがどれのことを言っているのかわからず、アリスと同時に首を傾げて尋ね返した。
「夏の氷、と言えばあれしかないだろう。『ベルクーリと北の白い……』」
「おい、やめてくれ、冗談だろう!」
ユージオは最後まで聞かず、両手と首を振りながらそう叫んで遮った。
ベルクーリ、というのは、ルーリッドの村を拓いた入植者たちの中で一番の使い手だった剣士で、初代の衛士長を務めたと言われている人物だ。なにぶんもう三百年も前のことなので、口伝てにいくつかの神話的武勇譚が残っているだけだが、その中でももっとも奇想天外なのが、キリトが言いかけた題を持つ話だった。
ある夏の盛りの日、ベルクーリは村の東を流れる川に、大きな透明の石が流れてくるのに気付く。拾い上げてみるとそれはなんと氷の塊で、不思議に思ったベルクーリは、ひたすら川沿いにさかのぼって歩き続ける。やがて彼は、地の果てと考えられている北の山脈に彷徨いこみ、尚も細い流れを追って谷を登っていくと、そこには巨大な洞窟が口を開いていた。吹き出してくる、凍えるような風に逆らってベルクーリは洞窟に踏み込み、いろいろな危険を乗り越えて一番奥の大広間までたどり着くと、そこで彼を待っていたのは……という筋で、タイトルは『ベルクーリと北の白い竜』というものだった。
いかな悪戯好きのキリトと言えど、まさか禁を犯して北の峠を越え、本物のドラゴンを探しに行こうなどと考えているわけではあるまい――と半ば祈りながら、ユージオはおそるおそる尋ねた。
「つまり、ルール川を見張って、氷が流れてくるのを待とう……っていうこと?」
だが、キリトは馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、あっさり言い放った。
「そんなの待ってるうちに夏が終わっちゃうぜ。別に、ベルクーリの真似してドラゴンと戦おうってんじゃないよ。あの話じゃ、洞窟に入ったらすぐにでっかいツララがいっぱい生えてたって言うじゃないか。そいつを二、三本折ってくれば、じゅうぶん間に合うはずだ」
「だからってお前……」
ユージオは数秒間絶句してから、傍らを振り返って、かわりにこの無鉄砲小僧を諌めてくれないものかとアリスを見た。そしてその碧い瞳の奥に、きらきらと常ならぬ光が宿っているのに気付き、内心でがくりと肩を落とした。
甚だ不本意ながら、ユージオとキリトは、村一番の悪餓鬼コンビとして、厳格な老人たちから溜息苦言叱責等々を日常的に頂戴する身である。しかし、二人の数々の悪行の裏に、村一番の優等生アリスのひそかな扇動があることを知る者は少ない。
そのアリスは、右手の人差し指をふっくらとした唇にあて、さも迷っているふうに数秒間首を傾げてから、ぱちりとひとつ瞬きをして明るい声で言い放った。
「――悪くないアイデアね」
「あ、あのねえアリス……」
「確かに北の峠に行くのは村の掟で禁じられているわ。でもそれは、峠の先にある『果ての山脈』を越えることが神聖教会の禁忌目録に触れるからでしょ? 私たちはなにも、果ての山脈のてっぺんに登ろうってんじゃないのよ。そのふもとのどっかにある洞窟を捜そうっていうだけよ。それにだいたい、峠道じゃなくて川のほとりを進むんだから、村の掟だって破るわけじゃないわよ」
流れる水のごとくそうまくしたてられると、いつものことながらユージオは異を唱える隙間さえ見つけることができない。それに、聞いているうちになんとなく、アリスの言っていることが正論のように思えてきてしまうのだ。
禁忌目録、とは、遥か央都に天まで貫く巨塔を構える世界中央神聖教会が発行する分厚い黒革装の書物だ。ユージオたちの暮らすノーランガルス神聖帝国だけでなく、東方や南方、西方のあまねく異国のあらゆる町や村の長の家にかならず一冊備えられ、その中には教会が定めた「してはいけないこと」がびっしりと列挙してある。第一項にある「教会への反逆」から、末項の「山羊に干したオリシュ麦を与えること」まで禁忌の数は軽く千を越えるが、それを全て暗記するのが学校の授業のうちでも最重要の科目となっている。
禁忌目録の威が及ばないのは、世界を囲む果ての山脈の向こうにあるという闇の王国だけだ。ゆえに、山脈を越えることは禁忌の中でもかなり最初のほうに記してある。確かに厳密に解釈すれば、山脈のふもとをうろつくくらいなら禁忌には触れないと思われる――ものの、ユージオはおぼろな不安を感じてごくりと喉を鳴らした。
だが、もう一度だけアリスを諌めてみようとしたその矢先に、キリトが大きな声で言った。
「ほら、村で一番ちゃんと目録を暗記してるアリスがそう言うなら間違いないって! よし決まり、次の休息日はドラゴ……じゃない、氷の洞窟探しだ!」
「お弁当は保ちのいい材料で作らないとかなー」
顔を輝かせる二人の親友を交互に見やって、ユージオは内心でふかい溜息をつき、次いで「そうだね」と弱々しい笑みを浮かべながら相槌を打った。
七の月三回目の休息日は、どうやらいい天気になりそうだった。
すでに天職を与えられている十歳以上の子供たちも、この日ばかりは幼い頃に戻り、夕食の時間まで遊びまわることが許されている。ユージオとキリトもいつもは他の男の子らと一緒に魚を釣ったり剣術の稽古のまねごとなどをして過ごすのだが、今日はまだ朝靄も消えないころから家を抜け出し、村はずれの古樹の下で落ち合ってアリスを待っていた。
「……遅い!」
自分もユージオを数分待たせたことを棚に上げ、キリトがぶつぶつと毒づいた。
「まったく女ってのは、約束の時間よりも身支度のほうが優先なんだからなもう。そんであと二年もすれば、お前んとこの姉ちゃんみたく、服が汚れるから森になんか入れないとか言い出すんだ」
「しょうがないよ、女の子なんだからさ」
苦笑混じりにそう言いつつ、ユージオはふとキリトの言う二年先のことを考えた。
アリスはまだ、身分的には天職に就かない子供の範疇なので、周囲も彼女が好んでユージオたちと行動を共にすることを黙認している。しかしもともと彼女は村長の娘という、村の女性たちの規範的存在となることが半ば決定している立場なのだ。そう遠くない未来には、男の子と遊ぶことも禁じられ、神聖魔法だけでなく立ち居振舞いや作法のレッスンも受けるようになるに違いない。
そして……その後はどうなるのだろう。彼女も、一番上の姉のスリニャのように、どこかの家に嫁ぐのだろうか? もしかしてその相手が、ユージオあるいはキリトだというようなことは有り得るのだろうか? 一体そのへんのことを、この相棒はどう考えているのか……?
「おい、何ぼんやりしてるんだよ。昨夜ちゃんと寝たのか?」
いきなり怪訝な表情でキリトに顔を覗き込まれ、ユージオは慌ててこくこく頷いた。
「う、うん、大丈夫。……あ、来たみたいだよ」
たったっという軽い足音を耳にとらえ、村のほうを指差す。
濃い朝もやをかき分けるように現われたアリスは、キリトの言ったとおり、綺麗に梳いた金髪をリボンで結わえ、染みひとつないエプロンドレスを揺らしていた。ユージオは思わずキリトと顔を見合わせて笑みを噛み殺し、向き直って同時に叫んだ。
「遅い!」
「あんた達が早すぎるのよ。まったくいつまでも子供なんだから」
済まし顔でそう言ってのけ、アリスは右手のバスケットをユージオに、左手の水袋をキリトに向かって突き出した。
二人が反射的に荷物を受け取ると、くるっと後ろ――村から出てゆく細道のほうを振り向き、腰をかがめて足元から草穂を一本摘み取る。丸く膨らんだその先端でびしっと彼方にそびえる岩山を指し、アリスは元気よく叫んだ。
「じゃあ……夏の氷を探して出発!」
どうしてこういつも、"お姫様と従者二人"みたいになっちゃうんだろうなあ、と思いつつ、ユージオはもう一度キリトと視線を交換し、歩き出したアリスの後を追った。
村を貫いてのびる道は、南側は人や馬車の往来も多くしっかりと踏み固められているが、北へ向かう人間はほとんど居ないため樹の根や石が多く歩きづらい。しかしアリスは道の悪さなど感じさせない軽やかな足取りで、鼻歌をうたいながらユージオの前を進んでいく。
何て言うか、身のこなしが綺麗なんだよな、とユージオは思う。数年前までアリスは村の悪餓鬼連中に混じって剣の練習(のようなこと)をすることがたまにあったが、彼女の持つ、良くしなる細枝にユージオもキリトも何度ぴしりとやられたことか。そのくせこちらの棒は、風の精でも相手にしているかのように無様に空を切ってばかりなのだった。もしあのまま修行を続けていたら、アリスはひょっとしたら村ではじめての女剣士にすらなれていたかもしれない。
「剣士か……」
ユージオはぼそりと口のなかで呟く。
巨樹の刻み手という天職を与えられる前まで、もしかしたら、と漠然と考えていた途方もない夢。村の男の子なら皆が憧れる衛士にもしも抜擢されたなら、生木の皮を剥いだ不恰好な木剣ではなく、時代ものではあろうが本物の鋼剣を与えられ、日々ほんとうの剣術を学ぶことができる。
それだけではない。北辺の村々の衛士は、毎年秋になると南のザッカリアの街で開かれる剣術大会に参加することができる。そこで上位に入賞したりすれば、街の衛兵――名実ともに本物の剣士と認められ、央都の鍛冶工房で鍛えられた制式剣が貸与される――に取り立てられることもあるという。夢はそこで終わらない。衛兵隊で出世すれば、央都に上り、皇帝の御前で開かれる武術大会に参加する機会が与えられる(昔話のベルクーリは、この大会で準々決勝まで進んだということだ)。
そしてその次にして究極が、真の英雄のみが集うという、神聖教会そのものが催す四帝国統一大会だ。神々すら照覧するというこの戦いを勝ち抜いた者だけが、あらゆる剣士の頂点、世界の秩序を守る神命を帯び、ときに"闇の王国"に棲まう悪魔とすら戦うという、飛竜を駆する整合騎士に任じられる――。
そこまではさすがに想像すらも覚束ないが、でも、もしかしたら、とユージオも思っていた頃があった。もしかしたら、アリスは、剣士ではなく神聖術士の見習いとして村を出て、ザッカリアの街の学校へ、あるいは央都の魔術院にすら行けるかもしれない。その時その隣には、護衛として、緑と薄茶の衛兵隊制服に身を包み輝く制式剣を吊った自分が……。
「まだ終わった夢じゃないぜ」
突然、横を歩くキリトがぼそりとそう呟き、ユージオは吃驚して顔を上げた。どうやらかすかな嘆息から空想をすべて読まれたらしい。相変わらずの勘の鋭さに苦笑いしてから、呟き返す。
「いいや、終わったさ」
そう、もう夢見る時期は終わってしまったのだ。村の衛士の天職を与えられたのは、現衛士長の息子ジンクとその子分二人(全員、剣の腕ではユージオとキリト、そしてもちろんアリスにまったく及ばなかったのに!)だった。少しの苛立ちと、倍量の諦めを込めて吐き出す。
「一度決まった天職は、村長にだって替えられないよ」
「たったひとつの例外を抜けばな」
「例外……?」
「仕事をやり遂げた場合だ」
今度はキリトの頑固さに呆れてもう一度苦笑する。この相棒は、鉄より硬いギガスシダーを自分の代で切り倒すという大それた野望をまだ捨てていないのだ。
「あの糞ったれな樹をぶっ倒せば、俺たちの天職はきれいさっぱり完了だ。そしたら次の仕事は自分で選べる。そうだろ?」
「そりゃそうだけどさ……」
「俺は、羊飼いとか麦造りとかの天職でなくて良かったと思ってるぜ。そういう仕事には終わりって無いけど、俺たちのは違う。絶対何か方法があるはずだ、あの樹をあと三……いや二年で切り倒して、そしたら……」
「街の近衛兵登用試験を受ける」
「何だよ、お前もその気なんじゃないかユージオ」
「キリトにだけいい恰好はさせられないからね」
軽口の応酬をしているうちに、何となくそれほど大それた夢ではない気がしてくるのが不思議だった。制式剣を拝受して村に戻り、ジンクたちの目を丸くさせるところを想像してキリトと二人にやにやしながら歩いていると、前を歩いていたアリスがじろりとこちらを振り向いた。
「こら、なに二人で内緒話してるのよ」
「い、いや、何でも。昼飯はまだかなーって、さ。なあ」
「う、うん」
「あっきれた、まだ歩き始めたばっかじゃない。それより、ほら、川が見えたわよ」
アリスが草の穂先で指す方を見ると、道の先に大きめの木の橋が姿を現していた。ルール川をまたぐ北ルーリッド橋だ。あれを渡り、さらに進むとやがて北の峠に行き着く。が、三人が目指すのは峠ではなく、川の源流だ。
橋のたもとからは、川辺の草むらに降りる細道が伸びていた。よく釣りにくる場所なので、勝手知ったる足取りでひょいひょいと下っていく。
ユージオは水辺でひざまずくと、さらさらと鳴る透明なせせらぎにざぶりと右手をつけてみた。さすがに真夏だけあって、春先には凍るようだった水はかなり温んでいる。服を脱ぎ捨てて飛び込んだらさぞ気持ちいいだろうが、アリスの前でそんな真似もできない。
「とても氷が流れてくるような水温じゃないよ」
振り向いてそう言うと、キリトは唇ととがらせて反論した。
「だから大元の洞窟まで行こうってんじゃないか」
「それはまあいいんだけど、夕方の鐘までに帰れなくなったら大目玉だからね。ええと……ソルスが空の真ん中まで来たら、その時点で引き返すことにしよう」
「仕方ないわね。そうとなれば、急ぐわよ!」
柔らかい下草をさくさく踏んで歩き出すアリスの後を、二人も早足で追いかける。
左側から天蓋のように張り出す樹々の枝が日差しを遮り、また右の川面から立ち上る涼やかさのせいもあって、ソルスが空高く登ったあとも三人は心地よく歩くことができた。幅一メルほどの岸辺は短い夏草に覆われ、足を取るような石や穴もほとんどない。
これだけ歩きやすい場所なのに、考えてみると北ルーリッド橋から先には一度も足を踏み入れたことがないんだな、とユージオは少し不思議に思った。村の掟、さらには教会の禁忌目録への畏れが、いつのまにか胸の深いところにまで刻まれてしまっているのかもしれなかった。いつもキリトと二人、大人たちはしきたりばかり気にして、と文句を言っているのに、思えば自分たちも実際に掟や禁忌を犯したことは一度もないのだ。今日のこのささやかな冒険が、かつてもっとも禁に迫る行為なのは間違いない。
今更ながら少しばかり不安になり、前を歩くキリトとアリスを見るが、二人は呑気に羊飼いの歌など合唱している。まったくこいつらは、何かを心配したりということがないんだろうか、と溜息をつきたくなる。
「ねえ、ちょっと」
声をかけると、二人は足を動かしたまま揃って顔をユージオに向けた。
「なーに?」
首をかしげるアリスに、しかめつらを作ってみせながら、少し脅かしてやろうと尋ねる。
「もうけっこう村から離れたけどさ……このへんて危ない獣とか出たりしないの?」
「えー? 私は聞いたことないけどなあ」
アリスがちらりと視線を向けると、キリトも首を傾げた。
「うーん……ドネッティのとこの爺さんがでかい長爪熊を見たってのは、あれはどのへんの話だっけ?」
「東の大林檎の樹のあたりでしょ。しかも十年前の話よ、それ」
「このへんじゃあ、出ても赤毛狐くらいだよなあ。まったく、ユージオは怖がりだな」
揃ってアハハと笑われてしまい、がくりと肩を落としたくなる。
「そ……そんなこと言ったって、二人とも村の北に出たのは初めてじゃないか。少しは気をつけたほうがいいって言ってるんだよ」
そう抗弁すると、不意にキリトが悪戯そうに目を輝かせた。
「うん、そう言やそうだよな。知ってるか? この村ができたばっかりの頃は、たまに闇の国からゴブリンだのオークだのが山を越えてきて、子供をさらったりしたんだぞ」
「何よ、二人して私を怖がらせようとして。知ってるわよ、最後には央都から整合騎士が来て、ゴブリンの親玉を退治してくれたんでしょ?」
「――『それからというもの、晴れた日には、果ての山脈のはるか上を飛ぶ白銀の竜騎士が見えるようになったのです』」
キリトは、村の子供なら誰でも知っているおとぎ話の最後の一節を口ずさむと、ふいっと振り向いた。ユージオとアリスも、いつの間にか視界のかなりの部分を覆うほどに近づいていた巨大な岩山の連なりと、その上の青い空をじっと見詰める。
もしかしたら雲の間にきらきら光る飛竜の姿が見えるかも、と一瞬思ったが、どんなに目を凝らしても空には染みひとつなかった。三人は顔を見合わせると、ふひっと笑った。
「――おとぎ話、よね。きっと、洞窟にいる氷の竜ってのも後から作った話なのよ、ベルクーリが」
「おいおい、村でそんなこと言うと村長の拳骨が落ちるよ。ベルクーリは村の英雄なんだから」
ユージオの言葉にもう一度笑うと、アリスは歩くスピードを上げた。
「行ってみればわかるわよ。ほら、のんびり歩いてると、お昼までに洞窟につかないよ!」
――とは言え、実際には、とても半日歩いたくらいで『果ての山脈』にまでは着かないだろうとユージオは思っていたのだ。果ての山脈はほんとうの世界の果て、つまりこの神聖教会と四帝国によって成り立つ人間の国の終わりであって、いくらルーリッドの村が北部辺境のなかでもいちばん北にあると言ったってそう簡単に子供の足で辿り付ける場所ではないだろう、と。
だから、太陽が中天に達するほんの少し前、かなり幅を狭めていたルール川が、崖の根元にぽっかり口を開けている洞窟にその姿を消しているのを目にして、ユージオは本当に驚いた。
ついさっきまで左右に深く広がっていた森は突然切れてなくなり、眼前では灰色の岩がごつごつと伸び上がっている。見上げてみれば、まだ天を切り裂く稜線までは相当の距離があるだろうが、この岩の連なりが山脈の端っこであるのは間違いないようだった。
「これが……果ての山脈なのかよ?」
キリトも見ているものが信じられない様子で、ぽかんと開けた口で低くそう呟いた。同様に、アリスも青い瞳をいっぱいに見開いたまま、わずかに唇を動かす。
「ほんとに……あの山の天辺のむこうが、闇の王国なの? だって……私たち、まだ五時間くらいしか歩いてないよね。その程度じゃザッカリアの街にだって着かないわよ。ルーリッドって……ほんとうに、世界の端っこにあったのねえ……」
実際、何でこんなことを僕たちは知らなかったのか、とユージオは愕然とせざるを得ない。いや――もしかしたら、村の大人たちも、誰ひとり果ての山脈がこんなにも近いということを知らないのではないだろうか? 三百年の歴史の中で、村の北に広がる森を抜けたのは、ベルクーリのほかには僕たちしか居ないのでは……?
なんだか妙だ。ふとユージオはそう感じる。だが、何がおかしいと思うのかがよくわからない。
毎日毎日、決まった時間に起き、同じ朝食を食べ、同じように畑や牧草地、鍛冶場や糸繰り場へ出かけていく大人たち。さっきアリスは、五時間じゃザッカリアの街にだって着かない、と言ったが、もちろんアリスもキリトもユージオも、実際に街に行ったことがあるわけではない。大人が、南の街道を馬で朝から夕方まで進むとザッカリアの街がある、と言っているのを聞いただけだ。だが、その大人たちにしたって、ほんとうにザッカリアまで行ったことがある者が、果たして居るのだろうか……?
ユージオの中でもやもやと渦巻く考えがまとまった形になる前に、とにかく、というアリスの声がそれを吹き払ってしまった。
「――とにかく、ここまで来たならもう中に入ってみるしかないよね。その前に、お弁当にしましょう」
そう言うと、ユージオの手からバスケットを取り、短い下生えが灰色の砂利に変わるぎりぎりの場所に腰を下ろす。待ってました、もう腹ぺコだよ、というキリトの歓声に促されるように、ユージオも草の上に座り込んだ。香ばしいパイの匂いが疑問の残り滓を拭い去ると、思い出したように胃が空腹を訴えはじめる。
我先にと伸ばされたユージオとキリトの手をぺしぺしと叩いて撃退し、アリスは料理の"窓"を次々に引き出した。すべてにまだ余裕があるのを確かめてから、魚と豆のパイ、林檎とくるみのパイ、干したすももを配ってくれる。さらに、水袋に詰められたシラル水を木製のカップに注ぎ、これもまた悪くなっていないか確認する。
ようやくお許しが出た午餐に、いただきますももどかしくかぶりつきながら、キリトが聞き取り難い声で言った。
「そこの洞窟で……つららを見つければ、明日の昼飯はこんな慌しく食わなくてもよくなるな」
口の中のものを飲みくだしてから、ユージオは首をひねりつつ答える。
「でもさ、よく考えてみると、うまく氷を手に入れても、それ自体の"天命"はどうやって保たせるんだよ? 明日の昼までに溶けてなくなっちゃったら何の意味もないんじゃない?」
「む……」
それは考えてなかった、というようにキリトが眉をしかめると、アリスがすまし顔で言った。
「急いで持って帰って、うちの地下室に入れておけば一晩くらいは大丈夫でしょう。まったくあんたたちは、それくらい最初に考えておきなさいよ」
またいつものようにそそっかしさを指摘されてしまい、ユージオとキリトは照れ隠しにがつがつと食事を頬張った。それに付き合ったわけでもないだろうが、アリスも普段より早いペースでぺろりとパイを平らげ、シラル水を飲み干す。
綺麗に空になったバスケットに、料理を包んでいたナプキンをきちんと畳んで収めると、アリスはすっくと立ち上がった。三つのカップを持ってすぐそばの水面まで歩き、川水で手早く洗う。
「うひゃっ」
妙な声を上げながら作業を終え、戻ってきたアリスは、エプロンで拭いた手をユージオに向かって広げた。
「川の水、すっごい冷たいよ! 真冬の井戸水みたい」
見れば、小さな掌はすっかり赤くなっている。思わず両手を伸ばし、アリスの手を包んでみると、確かにひんやりと心地よい冷たさが伝わってきた。
「ちょっ……やめてよ」
少しばかり頬を掌と同じ色にさせながらアリスがすぽんと両手を引き抜いた。それでようやく、ユージオも自分が普段なら決してしないようなことをしてしまったことに気付き、泡を食う。
「あっ……いや、その」
「さて、そろそろ出発しようか、お二人さん」
それでも助け舟のつもりなのか、ニヤニヤしながらそんなことを言うキリトの足を軽く蹴り、ユージオは照れ隠しに乱暴な動作で水袋を拾い上げると肩にかつぎ上げた。そのまま後ろを見ずに、洞窟の入り口へと歩を進める。
ここまで三人が追いかけてきた透明なせせらぎは、これが本当にあのルール川の源流かと思うほどにささやかなものになっていた。差し渡しは一メル半ほどしかあるまい。高い崖に穿たれた洞窟から溢れ出す水流の左側には、同じくらいの幅で剥き出しの岩肌が伸びており、どうにか歩いて中に入れそうだった。
三百年前、衛士長ベルクーリも踏んだとおぼしき灰色の岩に右足を乗せ、しばし躊躇してから、ユージオは思い切って洞窟の内部へと踏み込んだ。いきなり周囲の気温が下がり、思わず剥き出しの両腕をこする。
後ろから二人の足音がついてくるのを確認しながら、さらに十歩ほど進んだ。
そしてユージオは、またしても肝心なことを忘れていたことに気付き、肩を落としながら振り返った。
「しまった……僕、灯り持ってきてないよ。キリトは?」
入り口からわずか五メルほどしか入り込んでいないのに、すでに二人の表情が判別しにくいほどに周囲は暗くなっている。洞窟の中は真っ暗だなどという、あまりに当然のことを忘れていた自分に幻滅しつつ、相棒の機転に望みを託すが、返ってきたのは、「お前が気付かないことに俺が気付くわけがない!」という情けないものだった。
「あ……あのねえ、あんたたち……」
一体今日何度目に聞くアリスの呆れ声だろう、と思いつつ、わずかな光にも輝く金髪に目を向ける。アリスは数回左右に首を振ってから、エプロンのポケットに手を差し込み、何か細長いものを取り出した。よく見ると、冒険に出るときに摘み取った草穂だ。
右手に持った草の先端に左の掌を添え、アリスは目を閉じた。小さな唇が動き、"窓"を引き出すときの聖句に抑揚が似ているがずっと長い、不思議な音の羅列を空中に奏でる。
最後に左手が素早く複雑な印を切ると、丸く膨らんだ穂の先にほわっと青白い光が灯った。それはたちまち強さを増し、洞窟の中をかなりの距離まで照らし出した。
「うおっ」
「おお……」
キリトとユージオは、思わず異口同音に嘆声を漏らした。
アリスが聖術を学んでいるのは知っていたが、こうしてその実例を目にしたのはほとんど初めてと言っていい。シズター・アザリヤの教えによれば、すべての魔術、つまり生命神ステイシアに祈る聖術と、七元素神の力を源とする精術は――闇神ベクタに帰依する魔物が使う闇術は例外だが――世界の平穏と安息を守るためにのみ存在するのであって、みだりに使用してはならない、ということになっているからだ。
シスターとその生徒アリスが聖術を使うのは、村に薬では治せない病人や怪我人が出たときだけだ。とユージオは理解していたので、草穂に魔法の光を灯すアリスに向かって、思わず尋ねてしまった。
「あ、アリス……こんなことに魔法使って、平気なの? 罰が当たったりとか……」
「ふん、この程度で罰が当たるなら、私なんか今ごろ十回くらい雷に撃たれてるわよ」
「…………」
それってどういう、と聞こうする前に、アリスは右手の光る草をぐいっとユージオに向かって突き出してきた。思わず受け取ってしまってから、ひええ、と思う。
「ぼ、僕が持つの!?」
「当たり前じゃない。か弱い女の子に先頭を歩かせる気? ユージオは私の前、キリトは後ろよ。時間が勿体無いわ、とっとと先に進むわよ」
「は、はい」
勢いに押されるように、ユージオは振り向くと灯りを掲げ、洞窟の奥へとおそるおそる進み始めた。
内部は、曲がりくねりつつも一定の広さで続いているようだった。青みがかった灰色の岩は濡れたように光り、時折、灯りの届かない暗がりでかさかさと小さな何かが動き回る気配がする。天井からは、不思議な形の尖った岩が垂れ下がり、それと同じ場所に地面からも石のトゲが伸び上がっている。
が、どれほど目を凝らしても、氷らしきものは一切視界に入らなかった。
さらに五分ほど足を動かしたところで、ユージオは振り向くと口を開いた。
「ねえ……確か、洞窟に入ったすぐのところに氷のツララがあるって、キリト言ってたよねえ?」
「言ったっけ、そんなこと」
「言った!」
とぼけるように目を逸らす相棒に詰め寄ろうとするが、アリスがすっと右手を上げてユージオを止めた。
「ねえ、ちょっと、灯りを近づけて」
「……?」
言われるままに、右手の魔法の光をアリスの顔に寄せる。アリスは唇を丸い形にすると、光に向かってほうっと息を吐き出した。
「あ」
「ね、見えたでしょ? 冬みたいに、息が白くなってる」
「うえ、ほんとかよ。どおりでさっきから寒いと思ってたんだよ……」
勝手な文句を言うキリトを無視して、ユージオとアリスはこくりと頷きあった。
「この洞窟の中は、冬と同じなんだわ。きっと氷だってあるはずよ」
「うん。もう少し、進んでみよう」
体の向きを変え、少しずつ広がっているような気がする洞窟の奥のほうに魔法の灯りを向けて、慎重に前進を再開する。
聞こえるものと言えば、三人の革靴が岩をこするかすかな音のほかは、とうとうと流れる地下水のせせらぎだけだった。これほど源流に近づいてもその勢いは弱まらない。
「……もし舟があったら、帰りは楽だよなぁ」
最後尾で呑気な声を上げるキリトを、ユージオは、静かにしてろとたしなめた。すでに、予定を遥かに越える深さで洞窟に入り込んでいる。まさかとは思うが――
「――ねえ、ほんとにドラゴンに出くわしたら、どうするの?」
ユージオの思考を読んだように、アリスが囁いた。
「そりゃ……逃げるしか……」
同じくひそひそ声で答えるが、それに被さるようにまたキリトの脳天気な言葉が反響する。
「だいじょーぶだって。ベルクーリがドラゴンに追っかけられたのは、宝剣を盗もうとしたからだろ? いくらなんでもつららを取るくらい許してくれるさ。――うーん、でもなあ、できれば剥げたウロコの一枚くらいほしいよなあ……」
「おい、何考えてるんだよキリト」
「だってさぁ、本物のドラゴンを見た証拠を持って帰ったら、ジンク達が死ぬほど羨ましがるぜ」
「冗談じゃないよ! 言っとくけど、もしお前がドラゴンに追っかけられたら、僕たちは見捨てて逃げるからな」
「おい、声が大きいぞユージオ」
「あのな、お前がおかしなことばっかり言うから……」
不意に足元で妙な音がして、ユージオは口をつぐんだ。ぱりん、という、何かを踏み割ったような響き。慌てて右手の光を近づけ、右足の下を確かめてから、思わず声を漏らす。
「あっ、これ見てよ」
腰をかがめるアリスとキリトの視線の先で、つま先を動かす。灰色の滑らかな岩肌に溜まった水が、表面に薄い氷を張らせていた。指を伸ばし、透明な薄膜の一片を摘み上げる。
掌に載せたそれは、数秒のうちに溶けて小さなしずくに変わってしまったが、三人は顔を見合わせて思わず笑みを漏らした。
「間違いない、氷だよ。この先にもっとあるはずだ」
ユージオがそう言いながら周囲を照らすと、同じように氷結した水たまりがいくつも青い光を跳ね返した。それに、真っ暗な闇に沈む洞窟の、ずっと奥のほうに……。
「あ……なんか、いっぱい光ってる」
アリスの言葉どおり、ユージオが右手をうごかすと、それにつれて無数の小さな光点がちかちかと瞬くのが見えた。もうドラゴンのことなどすっかり忘れ、半ば駆け出すようにその方向を目指す。
さらに百メルほども進んだか、と思えた時だった。突然、左右の岩壁が無くなった。
同時に、息を飲むような幻想的な光景が、三人の前に出現した。
広い。とても地下の洞窟とは思えない、あまりにも広大なドームだ。村の教会前広場の、ゆうに五倍はあるに違いない。
ほぼ円形に湾曲する周囲の壁は、さっきまでのような濡れた灰色ではなく、薄青い透明な結晶にびっしりと覆われているようだった。そして床面は、なるほどこれがルール川の源だったのかと納得させられる、巨大な池――いや湖になっていた。ただし、水面はぴくりとも揺れていない。岸辺から中央までが、分厚く氷結しているのだ。
白いもやのたなびく氷の湖のそこかしこからは、ユージオたちの背丈などゆうに上回る高さで、不思議な形の柱が突き出している。先端の尖った、角張った氷の柱だ。まるで、昔ガリッタ爺さんに見せてもらった水晶の原石のようだとユージオは思った。ただし、こちらのほうがずっと大きく、美しい。無数の、深い透明な青色の柱たちが、ユージオの握る草穂が放つ魔法の光を吸収して、六方向に放射し、それをまた反射させることで、広大なドーム全体をぼうっと照らし出している。氷柱は湖の中心に近づくほど数を増し、真ん中まではまったく見通せない。
氷だった。すべてが氷でできている。見れば、周囲の壁もまた分厚い氷の板なのだった。それが高く伸び上がり、はるか頭上で天蓋のように丸く閉じている。
三人は肌を刺す寒さも忘れ、白い息を吐き出しながら、たっぷり数分間も立ち尽くしていた。やがてアリスが、かすかに震える声で言った。
「……これだけ氷があったら、村中の食べ物を冷やせるわね」
「それどころか、しばらく村を真冬にだってできるぜ。――なあ、奥のほうに行ってみよう」
キリトは言い終える前に、数歩進んで湖の氷の上に乗った。かなり分厚く凍り付いているようで、軋む音ひとつ聞こえない。
いつもだったら、ここで諌めるのがユージオの役回りなのだが、今回ばかりは好奇心が優った。もしかして、本当にあの奥にドラゴンがいるんじゃ……? と思うと、どうしても覗いてみたくてたまらなくなる。
魔法の灯りを高く掲げ、ユージオはアリスと並んでキリトの後を追った。足音を立てないよう慎重に、巨大な氷柱の影から影へと伝うように湖の中心を目指す。
すごいぞ、もしドラゴンを見たら――。ユージオは考える。そうしたら、今度は僕たちの話が、何百年も続く物語になるんだろうか? もし、もしもだけど、ベルクーリにできなかったこと……ドラゴンの宝を何かひとかけらでも持って帰れたら、村長も僕たちの天職を考え直してくれるんじゃないだろうか……?
「むぐ」
歩きながらいつのまにか夢想をふくらませていたユージオは、突然立ち止まったキリトの後頭部に鼻をぶつけてしまい、顔をしかめた。
「おい、急に止まるなよキリト」
だが、相棒は返事をしなかった。いぶかしむうち、その喉から低い呻き声のようなものが漏れる。
「……なんだよこれ……」
「え……?」
「なんなんだよ、これ!」
隣のアリスと同時に首を傾げ、ユージオはキリトの横から前方を覗き込んだ。
「一体どうしたって言うのよ……」
ユージオと同じものを見たアリスが、言葉の尻尾を飲み込んだ。
骨の山がそこにあった。
青い、氷の骨だ。氷というより、水晶の彫刻のようでもある。ひとつひとつがあまりに大きな、様々な形の無数の骨が積み重なって、三人の背丈より高い山を作っていた。山の中央に、それが何の骨なのかを厳然と語るひとつの巨大な塊があった。
頭骨だ、と一目でユージオも理解した。虚ろな眼窩と、鼻の孔。後ろ側には角のような突起が長く伸び、迫り出した顎骨には剣のような牙が無数に並んでいる。
「ドラゴンの……骨?」
アリスが低く囁いた。
「死んじゃったの……?」
「ああ……でも、ただ死んだんじゃない」
答えたキリトの声は落ち着きを取り戻していたが、普段相棒があまり見せることのない、ある種の感情に彩られているようにユージオは感じた。
キリトは数歩進み出ると、足元からドラゴンの前足と思われる巨大な鉤爪を拾い上げた。
「ほら……いっぱい傷がついてるし、先っぽも綺麗に欠け落ちてる」
「何かと戦ったの……? でも、ドラゴンを殺せる生き物なんて……」
ユージオの心中にも、アリスと同じ疑問が浮かぶ。ドラゴンと言えば、世界を囲む果ての山脈の各地に棲み、闇の勢力から人間の国を守る、世界最強の善なる守護者ではなかったのだろうか? 一体何者がそれを殺すというのか……?
「これは、獣や他のドラゴンと戦ってできた傷じゃない」
キリトが、指先で青い鉤爪をなぞりながらぽつりと言った。
「え?」
「これは剣の傷だ。このドラゴンを殺したのは人間だ」
「え……ええ? でも……だって、央都の御前大会で何度も勝った英雄ベルクーリでさえ逃げることしかできなかったのよ。そこらの剣士じゃ、そんな大それたこと……」
不意に、アリスは何かを思いついたように黙り込んだ。しばしの静寂が、今は巨大な墳墓となった氷の湖の表面に落ちる。
「……整合騎士……? 教会の整合騎士が、このドラゴンを殺したの……?」
やがて、ついにアリスがそう口にした。*第二章
ほんの少しミルクを入れた水出しのアイスコーヒーを一口含み、芳醇な香りを楽しみながらゆっくり嚥下すると、朝田詩乃はほうっと長い息を漏らした。
視線を古めかしいガラス窓に向けると、忙しなく行き来する色とりどりの傘の群が水滴の向こうにぼんやりと透けて見えた。雨は嫌いだが、この路地裏の隠れ家のような喫茶店の奥まったテーブルに沈み込み、灰色に濡れた街を眺めるのは決して悪い気分ではない。テクノロジーの匂いを一切排した店内の調度や、奥のキッチンから漂ってくる甘くどこか懐かしい匂いの効果で、まるで自分がリアルワールドとバーチャルワールドの境界に落ち込んでしまったかのごとき錯覚をおぼえる。つい一時間前まで聴いていた教師の講義が、どこか異世界の出来事のようだ。
「よく降るね」
カウンターの向こうからぽつりと投げられたバリトンが、自分に向けたものだと気付くのに少し時間がかかった。店内には詩乃のほかに客は居ないのだから、勿論そうに決まっている。
顔を動かし、丁寧にグラスを磨いているカフェオレ色の肌の巨漢をちらりと見てから、詩乃は短く答えた。
「梅雨ですしね」
「英語で言うとプラム・レインだな」
強面のマスターが鹿爪らしい顔でのたまう台詞に、思わず小さく苦笑する。
「……冗談を言うときはもっとそれらしい顔しないとウケませんよ、エギルさん」
「む……」
エギルは、"それらしい顔"を模索しているつもりなのか眉間や口もとをあれこれ動かしたが、どれも五歳までの子供なら即泣きするような凶相ばかりで、詩乃は思わず小さく吹き出した。あわててグラスに口をつけ、笑いを一緒に飲み下す。
詩乃の反応をどう解釈したのか、エギルが妙に満足そうに一際ヒールレスラーめいた面相を作ったまさにその瞬間、入り口のドアがかららんと鳴った。店内に一歩足を踏み入れた新たな客は、マスターの顔を見るや唖然とし、次いで溜息をつきながら首を振った。
「……あのなエギル、もしその顔で毎回客を出迎えてるなら、近いうち潰れるぞこの店」
「ち、ちがう。今のはジョーク用のとっておきだ」
「……いや、それも間違ってる」
つれなく駄目出しをすると、桐ヶ谷和人は水滴を切った傘を傍らのウイスキー樽に突っ込み、詩乃を見て軽く右手を挙げた。
「っす」
「遅い」
極短の挨拶に、詩乃も一言で答える。
「わり、電車乗るの久しぶりでさ」
言い訳しながら和人は詩乃の向かいにどっすと座ると、ネクタイを引っ張って緩めた。
「今日はバイクじゃないの」
「雨ん中乗る元気が無かった……エギル、俺、モカフィズ」
胡散臭い飲み物をオーダーする和人の、くつろげた襟元から覗く首筋はたしかに骨ばって、見れば顔色もどことなく生彩を欠いている。
「……あんたまた痩せた? 食いなよもっと」
顔をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱたぱた手を振った。
「いやいや、こないだまでは、もう標準体重に戻ってたんだよ。でも、この金土日で一気に落ちた……」
「お山で修行でもしてたの」
「いいや、ひたすら寝てた」
「それでなんで痩せんのよ」
「飲まず喰わずだったから」
「……はぁ? 悟りでも開こうっての?」
まぁ、おいおい説明するよ、と言いながら和人がずるずる椅子に沈み込んだその時、エギルがトレイに乗せたグラスを持ってきた。テーブルに置かれたそれは、濃厚なコーヒーの香りがするにもかかわらず、コーラのように底からぷちぷちと泡が立っている。
「なあにこれ、炭酸コーヒー?」
和人が指先で滑らせてきたグラスを受け止め、詩乃はちびりと舐めた。途端、思わずむせそうになる。
「おっ、お酒じゃないの!」
「気付け気付け。エギル、この匂い何だ?」
にやりと笑ってから、和人は鼻をうごめかせつつ傍らの店主を見上げた。
「ボストン風ベイクド・ビーンズ」
「へー、奥さんの故郷の味か。んじゃそれもひとつ」
エギルが頷いてどすどす去っていくと、和人は詩乃からグラスを奪い返し、放り込むように一口飲んだ。
「……彼は、どんな様子なんだ?」
ぽつりと訊かれたその言葉が、何を指しているのかはすぐにわかった。が、詩乃は即答せず、和人の手のグラスをもう一度奪取すると今度は大きく飲み下した。香ばしいコーヒーの風味が炭酸の泡とともに鼻の奥で冷たく弾け、直後にじんわりと熱く甘いアルコールが喉を灼いていく。その刺激たっぷりの飲み物が、浮かんでくる断片的な思考を攪拌し、短い言葉へと繋ぎなおす。
「うん……だいぶ、落ち着いてきたみたい」
半年前に詩乃を襲った"死銃"事件、その三人の実行犯のひとりであり、当時の詩乃のただ一人の友人でもあった新川恭二は、少年事件としては異例の長さの審判を経て、先月医療少年院に収監された。審判中は頑なに沈黙を貫きとおし、精神鑑定を行った専門家相手にもほとんど口を開こうとしなかったそうだが、事件から六ヶ月が経過したある日から、ぽつりぽつりとカウンセラーの問いかけに応ずるようになってきているとのことだった。詩乃にはその理由がおぼろげに察せられた。六ヶ月――つまり百八十日というのは、ガンゲイル・オンラインの料金未払いアカウント保持期限である。それだけの時間が過ぎ去り、新川恭二の分身、いやある意味では本体とも言えたキャラクター"シュピーゲル"がGGOサーバー上から消滅したことによって、ようやく恭二は現実と向き合う準備を始めるに至ったのだ。
「もう少ししたら、また面会に行ってみるつもり。今度は、会ってくれそうな気がするんだ」
「そっか」
詩乃の言葉に短いいらえを返すと、和人は視線を降りしきる雨に向けた。数秒の沈黙を、詩乃は不満そうな顔を作りつつ破った。
「――ねえ、普通はそこで、あたしは大丈夫なのか聞くもんなんじゃないの?」
「え、あ、そ、そうか。――えーと、シノンは、どう?」
珍しく和人を慌てさせることに成功し、密かな満足感を抱きつつにっと笑ってみせる。
「あんたが貸してくれた"ダイ・ハード"のBDVD、こないだついに全部観れたわ。いやー、かっこいいわブルース。あたしもハンドガンいっちょであんなふうにバリバリ正面戦闘してみたいよー」
「そ……そう。そりゃよかった……けど、その感想は女子高生的にどうなんだ……?」
引き攣った笑いを見せたあと、和人はふっと素直な微笑みを浮かべ、頷いた。
「じゃあ……死銃事件は、これで何もかも終わった……のかな」
「うん……そう、だね」
詩乃もゆっくり頷こう――として、ふと口をつぐんだ。何か、記憶のすみに引っかかるものがあるような気がしたが、それをつまみ出す前に、キッチンから現われたエギルが湯気の立つ皿をふたつテーブルに置いた。
つややかな飴色に煮込まれた豆と、その中央にごろりと転がる柔らかそうな角切りベーコンという光景は、お昼の弁当などとうの昔に消化しきった胃に暴力的なまでの空腹感を発生させ、詩乃は吸い寄せられるようにスプーンを握った。そこでようやく我に返り、慌てて手を戻しつつ言う。
「あ、わ、私頼んでませんから」
すると巨漢マスターはいかつい顔にうっすらと悪戯っぽい表情を浮かべた。
「いいや、奢りだよ。キリトの」
対面の和人が唖然としている間に、どすどすとカウンターの向こうへ戻っていく。詩乃はくくっと喉の奥で笑ってから、再度スプーンを手にとり、和人に向かって軽く振った。
「どーも、ごちそーさま」
「……まあ、いいけどさ。バイト料入って、今ちょっとフトコロあったかいから」
「へー、バイトなんかしてたの? どんな?」
「ほら、三日間飲まず喰わずって奴さ。まあ、その話は本題を片付けてからにしようぜ。とりあえず熱いうちに食べよう」
和人は卓上の小瓶からマスタードをたっぷり掬うと皿の縁に落とし、詩乃にまわした。同じようにしてから、大ぶりなスプーン山盛りに豆を取り、口に運ぶ。
芯までふっくらと煮えた豆は、柔らかな甘味をたっぷり吸い込んでいて、洋風ながら素朴な懐かしさを感じさせる味だった。分厚いベーコンも余計な脂が抜けて、舌の上でほろほろと崩れていく。
「おいしい」
思わず呟いてから、向かいでがつがつ食べている和人に尋ねる。
「ボストン風、って言った? 味付けは何なのかしら」
「ん……えーとたしか、何とか言う粗製の糖蜜を使うんだよ。何だっけ、エギル?」
ふたたびグラス磨きに戻った店主は、顔を上げずに答えた。
「モラセス」
「だ、そうだ」
「へええ……。アメリカの料理なんて、ハンバーガーとフライドチキンだけかと思ってたわ」
後半部分をひそひそ声にしてそう言うと、和人は小さく苦笑した。
「そりゃ偏見だ。あっちのVRMMOプレイヤーも、付き合ってみりゃいい奴ばっかじゃん」
「うん、それは確かに。こないだ、国際サーバーでシアトルの女の子とスナイピングについて三時間も話しちゃった。あー、でも……アイツとだけは分かり合えそうにないな……」
「アイツ?」
すでに皿を半分以上空にした和人が、もぐもぐ口を動かしながら繰り返した。
「それが今日の本題なんだけどね。先週、GGOで第四回バレット・オブ・バレッツの個人戦決勝があったのは知ってるでしょ」
「うん、中継見てたしね。そういやまだおめでとうを言ってなかった。……まあ、シノンにとっては悔しい結果だろうけど。ともかく、準優勝おめでとう」
「ありがと。中継見てたんなら話はやいわ。優勝した、サトライザって名前の……アイツ、アメリカから接続してるのよ」
眉をしかめながら詩乃が言うと、和人はぱちくりとまばたきをした。
「でも、BoBをやった日本サーバーは、JPドメイン以外接続不可だろう? プロクシ経由も弾かれるって聞いたけどなあ」
「うん、そのはずなんだけど、どうにかしてブロック回避してるんでしょうね。大会直前の待機ルームでいきなり、俺はアメリカから参加してる、日本人に銃の使い方を教えてやる、授業料はお前らの命だ、って英語で宣言してさ」
「うわぁ……。そういう奴が強かったためしが無いけどなぁ……」
苦笑いしながら肩をすくめる和人に向かって、詩乃は手にしたスプーンをぶんぶん振った。
「他の決勝出場者二十九人もそう思ったわよ、あたしも含めてね。本場野郎に日本人のタクティカル・コンバットを見せ付けてやる、って意気込みつつステージに突入して、でも蓋を開けてみれば……」
「そいつに優勝をさらわれた訳か」
「あっさりと、ね。しかもふざけたことに、そんな事言いながらそいつ銃を持たずに開始したのよ」
「へえ」
「決勝は市街地フィールドだったんだけどさ。そいつ、武器はコンバットナイフ一本で、あとは重量制限いっぱいグレネードとマインを抱えて、トラップとストーキングだけで殺す殺す。まったく、アメリカ人ならウィリス様みたく正面からガンガン来いってのよ」
詩乃は大口を開けて最後の一匙を放り込み、腹立ちといっしょにもぐもぐ咀嚼した。とっくに食べ終わった和人は、モカフィズを啜りながら、ふぅん、と呟いた。
「ナイフ使いか。屋内だと結構いけるのかな……」
「後から他の参加者に訊いてみたら、アイツをまともにサイトに入れられたのはあたしだけなんだわ。みんな、トラップで吹っ飛ばされるか、後ろから……」
喉の前で親指をぐいっと横に動かす。
「残り人数ががりがり減ってくから、あたしもこれは動いたらやられると思って、無移動ペナルティ食らう覚悟で、ここしかない! って狙撃ポイントにこもってひたすらアイツが建物から出るの待ってさ……。ついに、道路を渡ろうとするところをスコープに捕まえて、勝った、と思いながら撃とうとしたらあんにゃろうこっちに向かって手を振るのよ。その手に持ってたのが、遠隔起爆スイッチ」
「へええーっ」
「あっ、と思ったときには、あたしの潜んでた部屋がドカーン、よ。読まれてたのよ、全部。……正直なとこ、こりゃあ歯が立たないと思ったわ。日本サーバーのGGOプレイヤーって、ほとんど全員がアサルトライフルで派手に撃ちまくる派だから、あたしも含めてああいう……サイレントキル? の技に長けてるタイプって初めて見たのよね……。みんなは、アイツ絶対グリーンベレーだぜ、なんて言ってたけどさ」
ふふ、と笑ってから和人の顔を見ると、同い年の少年はグラスの縁を指で擦りながら何か考え込むような目つきをしていた。やがて視線を上げ、冗談じゃないかもよ、などととんでもない事を言う。
「ええ? アイツが本物の特殊部隊だっての?」
「あくまで噂なんだけどさ。もう、一部の国の軍隊じゃ、訓練にNERDLESマシンを取り入れてるのは知ってるだろ? GGOを運営してるザスカーにも、米軍からGGOエンジンをリアルチューンしたバージョンの発注が来たとか……。グリーンベレーは行き過ぎとしても、VRワールドでサイレントキルの訓練を積んだ軍人が、遊び心で日本のゲーマーをからかいに来た……なんてことは有り得るかもしれないぜ」
「まさか……」
詩乃は一笑に付そうとしたが、ふと、スコープの中央に捉えたサトライザの顔を思い出し、わずかに胸のうちにざわつくものを感じた。詩乃に向かって手を振りながら、男の眼はまるで笑っていなかった。あのジェスチャーは何を意図したものだったのだろうか。
「まあ、でも、プロフェッショナルって感じじゃないよな。手を振るなんてな」
和人の呟きに、詩乃は瞬きして顔を上げた。
「え?」
「だってさ、そいつはシノンを仕留めるのに、姿を現す必要なかったわけだろ。どっかに隠れたまま爆弾を起爆するほうが、安全で確実だ。なのにわざわざ出てきて、シノンに向かってジェスチャーをするってことは、つまり、何らかのメッセージを伝える意図があった、ってことだ。たぶん……"お前は今から俺に殺される"」
「ちょっと、嫌なこと言わないでよ。……たしかに、あたし、あの一瞬でそれっぽいこと考えたけどさ。ああ、しまった、こいつの罠にやられる、って」
「今から殺す相手の思考を吟味する余裕のある奴なんて、ベテランのPvP専門プレイヤーにもなかなか居ないぜ。俺のささやかな経験からすると……そういうのは大抵、軍人というより快楽殺人者っぽい傾向のある奴だ。あるいは……その両方ってこともあるかもしれんけど……」
和人の言う"経験"が、かつて長い時間を過ごした、仮想であり現実である場所のものだということは詩乃にもわかった。俯く和人の表情にかすかな翳が落ちるのを見て、詩乃は咄嗟に大きい声を出した。
「ともかく! 一度の負けにくよくよしててもしょうがないわ。問題は、あんにゃろうが来週のBoBチーム戦にもエントリーしてるってことよ」
「ええ? そりゃ意外だな」
詩乃の言葉に、和人は目を丸くした。
「一匹狼っぽい印象なのになあ。チームメンバーもアメリカ人なの?」
「そうっぽいよー、どうも。これはもう、何がなんでもリベンジするしかない、ってことになってさ。ダインとか闇風とかのトップ連中は、サトライザチームを潰すまでは共同戦線張るらしいよ。あたしはチーム戦にはエントリーする気無かったんだけど、このままやられっぱなしなのも癪だからね。そこでこうして、あんたを呼び出してる訳」
「い、いやしかし、俺のガンさばきがさっぱりなのはシノンも知ってるだろう」
「たぶん、オーソドックスな小隊組んでも遭遇戦じゃ歯が立たないと思うのよ。そこで目には目を、剣には剣を、よ。あんたが光剣振り回してあいつの足を止めてくれれば、あたしが――」
ずどーん、といように右手の人差し指を弾いてみせる。和人は尚も首をひねりつつ、ぼそぼそ言った。
「でもさ、相手は複数なんだろ? いくらなんでも俺一人で何人も相手できないよ」
「だからあんたに、助っ人のアテが無いかメールで聞いたんじゃない。"GGOにコンバートできるハイレベルキャラ持ちで、剣の接近戦のセンスがある人"。今日、ここに来てくれるんでしょ?」
「ははぁ、なるほどね。一応声はかけたけど……そろそろ来るんじゃないかな」
和人はポケットから携帯端末を取り出すと、素早く操作し、テーブルに置いた。ELパネルには、この喫茶店を中心とした御徒町界隈の地図が表示されている。よく見ると、駅から店に至るルート上に、点滅する青い輝点があった。
「これは?」
「待ち人来る、さ。あと二百メートルってとこかな」
輝点はまっすぐ店を目指して移動している。呆気にとられつつ見守るうち、交差点を渡り、路地に入り、地図中心の十字線に接触した。
かららん、とドアベルが鳴り、詩乃は顔を上げた。傘を畳みながら入ってきた人物は、栗色の長い髪を一払いして水滴を落とすと、まっすぐ詩乃を見て、まるでそこだけが一足先に梅雨明けしてしまったかのような笑顔を浮かべた。
「やっほー、詩乃のん!」
詩乃も思わず口もとをほころばせながら立ち上がり、手を伸ばした。
「明日奈! 久しぶりー!」
磨きぬかれた床板を軽快に鳴らして歩み寄ってきた結城明日奈と、互いの指先を絡めて、再会を喜び合う。ようやく向かい合った椅子に腰を下ろすと、呆気にとられた表情で和人が呟いた。
「君ら……いつのまにそんな仲良しになったの?」
詩乃は明日奈と目配せを交わして、また笑った。
「あら、あたし先月、明日奈の家にお泊りもしたのよ」
「な、なんだって。俺だってアスナんちには行ったことがないというのに」
「なによ、心の準備が、とか言って逃げてるのはキリト君じゃないの」
じとっと明日奈に横目で睨まれ、和人はばつが悪そうにカクテルを啜った。
明日奈はくすりと微笑むと、お冷やを持ってきたエギルを見上げ、ぺこりと会釈した。
「ご無沙汰してます、エギルさん」
「いらっしゃい。――なんて言うと、思い出すね、ふたりがうちの二階に下宿してた頃を」
「あら、じゃあまたアルゲードの新しいお店に居候しちゃおうかな。……ええと、今日は……何にしよっかな……」
容貌魁偉な店主とは旧知の仲であるらしい明日奈が、コルク装のメニューを眺めているあいだ、詩乃はテーブルに置きっぱなしになっていた和人の携帯端末を取り上げてもういちど画面を見詰めた。青いブリップは喫茶店の位置に重なって静止している。
「……っと、じゃあ、ジンジャーエール。甘くないほう」
オーダーを受けたエギルが去っていくのを待って、詩乃は、それにしても、と口を開いた。
「あなた達、互いのGPS座標をモニタしてるの? 仲が良くてよろしゅうございますねえ」
そこはかとない揶揄を込めて言うと、和人は目を丸くし、イヤイヤイヤ、と手を振った。
「俺の端末でモニタしてるのはアスナの端末の位置だけで、それもアスナの操作で不可視にできるけど、俺のほうはそんな生易しいもんじゃないぜ。アスナ、見せてやってよ」
「うん」
明日奈はにこりとしながらスカートのポケットから携帯端末を取り出し、待ち受け画面のまま詩乃に差し出した。受け取り、パネルを覗き込むと、そこにはいかにも女の子らしい可愛らしいアニメーション壁紙が表示されていた。
画面中央には、赤いリボンがかかったピンク色の大きなハートマークが描かれ、およそ一秒ごとに規則正しく脈動している。上部には、見慣れた日付け、時間とアンテナ状況のインジケータが表示されているが、ハートの下部には何を示しているのか咄嗟にはわからない数字がふたつ並んでいた。
左に、大きめのサイズで"63"、右にすこし小さく"36.2"。詩乃が首を捻りながら眺めるうち、左の数字が"64"に上昇した。
「いったい……」
なんなのこれ、と訊こうとしたところで、和人がどこか気恥ずかしそうに「あんまりじっと見るなよ」と言った。それでようやく、詩乃はこの待ち受け画面が表示しているものがなんなのかを悟った。
「ええっ……これ、まさかキリトの脈拍と体温なの?」
「あったりー。すごい、詩乃のんカンがいいね」
明日奈がぱちぱちと手を叩く。詩乃は、端末の画面と和人の顔に何度か視線を往復させたあと、少々呆然としながら呟いた。
「で、でも……どうやって」
「俺のここんとこの皮下に……」
和人は右手の親指で、自分のシャツの左胸を突付いた。次いで、その手を詩乃に向けて伸ばし、二本の指のあいだに五ミリほどの隙間を作る。
「これくらいのセンサー・ユニットがインプラントされてるのさ。そいつがハートレートと体温をモニタして、無線で俺の端末にデータを送る。んで、端末がネットを介してアスナの端末にGPS座標と合わせてリアルタイムで情報を渡すっつう仕組みだ」
「ええ? 生体チップぅ?」
今度こそ詩乃は大いに驚き呆れ、吐息混じりに言った。
「なんでそんな大層な……。あっ、まさか浮気防止システムなのかー?」
「ち、ちがうちがう!」
「ちがうよう!」
和人と明日奈は同時にぶんぶん首を振った。
「いやあ、俺が今のバイト始めるときに、先方から勧められてさあ。毎回電極をべたべた貼るのは大変だろうから、って。で、その話をアスナにしたら、強硬にデータの提供を要請されましてね。やむなく自分でアプリ組んで、アスナの端末にインストールしたというわけ」
「だってさあー。キリト君の体のデータを会社のヒトに独占されるなんてヤじゃない。わたしはそもそも、妙なモノを体に埋め込むなんて反対だったのよ」
「あれ、こないだ嬉しそうに、ヒマがあるとついモニター眺めちゃうのよねー、なんて言ってたのは誰だよ」
和人の言葉に、明日奈はかすかに頬を赤らめると俯いた。
「やー、なんか……なごむのよねえそれ見てると。ああ、キリト君の心臓が動いてるーって思うと、こう……ちょいトリップしちゃうって言うか……」
「うわあ、なんか危ないよ明日奈、ソレ」
詩乃は笑いながら、もう一度手の中の端末に視線を落とした。いつの間にか、脈拍は67に、体温もわずかに上昇している。ちらりと見ると和人はポーカーフェイスで氷をがりがり噛んでいるが、モニタは彼が内心やや照れていることを如実に示している。
「ははあ、なるほどねえ……。そっか……なんか……いいなぁ……」
思わずぽろりとそう呟いてしまい、詩乃は慌てて顔を上げると、目をぱちくりさせている和人と明日奈に向かってぶんぶん首を振った。
「あ、いや、そんな、変な意味じゃないよ、ぜんぜん。その……じ、GGOにもこういう機能があったら、パーティーメンバーがどれくらい冷静かとかわかっていいなぁって、そういう」
端末をびゅんと明日奈の手に戻し、早口で続ける。
「そそうだ、本題のことをすっかり忘れてた。じゃあ……BoBチーム戦の助っ人してくれるっていうのは明日奈だったの。あたしは嬉しいけど……でも、明日奈、ALOのキャラをGGOにコンバートできるの?」
「あ、うん、それは大丈夫だよー。わたし、二キャラ持ってるから。サブアカウントのほうも、レベル的にはメインと大差ないし」
「ああ、それなら安心だね。明日奈が手伝ってくれるなら、鬼に金棒、トーチカに重機関銃だわ。何日かフォトンソードの練習するだけで充分だと思う」
「うん、今夜からもうダイブできると思うから、街とか案内してね」
「もちろん。GGOの食べ物も案外捨てたもんじゃないよ」
詩乃はにっこり笑って明日奈に右手を差し出した。互いの手をきゅっと握りあってから、さて、と胸の前で指先を打ち合わせる。
「じゃ、本題はこれで終了。さて……」
和人に顔を向け、じろーっと軽く睨む。
「じっくり聞かせてもらいましょうか。あんたのその怪しいバイトは、一体なんなの?」
――と、言っても、と間を置かずに続ける。
「どうせ、キリトのことだから新しいVRMMOゲームのアルファテストとかそんなんでしょうけど」
「まあ、当たらずとも遠からずだな」
苦笑いしながら和人はうなずき、センサーが埋め込まれているという左胸のあたりを指先でなぞった。
「テストプレイヤーをやってるのは間違いないよ。ただ、テストしてるのはゲームシステムじゃなくて、マンマシン・インタフェースそのもののほうだけどね」
「へえ!」
詩乃は驚き、軽く目を見張った。
「てことは、いよいよアミュスフィアの次世代機が出るのね? もしかして、明日奈のお父さんの会社で作ってるの?」
「いいや、レクトとは無関係のとこ。というか……なんか、いまいち全容がよくわからない会社なんだよな……。名前も聞いたことないベンチャーのわりに、資金力が異様に豊富でさ。もしからしたら国の外郭が絡んでるのかもなぁ……」
釈然としない表情の和人につられて、詩乃も首を右に傾ける。
「へえ……? 何て名前の会社?」
「RATH、と書いて“ラース”。」
「知らない会社ね、確かに。……んん、そんな英単語あったかな……?」
「俺もそう思ったら、アスナが知ってた」
和人の隣でジンジャーエールのグラスを傾けていた明日奈は、ぱちりと瞬きをして答えた。
「『鏡の国のアリス』の中に『ジャバウォックの詩』ってのがあって、そこに出てくる名前だよ。豚とも亀とも言われてるんだけど……どういうつもりでつけたんだろうねー」
「へええ……」
大昔に読んだはずの本だが、そんな単語はまったく憶えていなかった。
「ラース……。じゃあ、そこが単独で次世代NERDLESマシンを発売するの? アミュスフィアみたいにいろんな会社の共同開発とかでなく?」
「いや、どうかな……」
和人は、相変わらず煮え切らない口調で呟いた。
「マシン本体がでかいんだよ、兎に角。モニター類とか冷却関係まであわせるとこの店が一杯になるくらいあるんじゃないかな……。初代のNERDLES実験機もそれくらいあったらしいけど、そこからナーヴギアのサイズになるまで五年くらいかかってるんだぜ。レクト他で開発してるアミュスフィア2はもう来年内には発売になろうってのに……って、こりゃヒミツなんだっけ」
和人が首をすくめると、明日奈は小さく笑って言った。
「大丈夫よ、もう来月の東京ゲームショウで発表されるらしいから」
「あ、そっちからも出るんだ。……あんま、高くないといいな……」
上目遣いに明日奈を見る。社長令嬢は、深刻そうな顔を作ると深々と頷いた。
「ほんとだよねー。さすがに値段までは教えてくれなくって。まあ、わたしはALOで満足してるからすぐに新機種買うつもりはないけど、反応速度とか段違いって言われるとぐらっとくるよね。ソフトは下位互換もするらしいし」
「う、そうなんだ。くうー、あたしも何かバイトしよっかな……」
詩乃は一瞬、家計簿データを頭の中で展開しそうになってから、改めて和人に尋ねた。
「……じゃあ、その会社のでっかいNERDLESマシンは家庭用じゃないってこと? 業務用とか?」
「いやあ、まだそれ以前の段階なんじゃないかな。そもそも、厳密にはNERDLESテクノロジーとは別物なんだよな」
「別……? 仮想世界を生成して、そこにダイブすることに違いはないんでしょ? 中の世界はどんな感じなの?」
「知らないんだ、俺」
和人はひょいっと肩をすくめる。
「機密保持のためなんだろうけど、仮想世界内の記憶は、現実世界には持ち出せないんだ。俺がテスト中にどんなモノを見てナニをしてたのか、今の俺は全部忘れてる」
「はあ!?」
和人がさらりと口にした言葉に、詩乃は思わず絶句した。
「記憶を……持ち出せない? そんなこと……可能なの? もしかして、バイトの最後に催眠術でもかけられるの?」
「いやいや、純粋に電気的な仕組みで、さ。いや……量子的、と言うべきかな……」
和人はしかめっ面で長い前髪をぐいっとかきあげると、ちらりと卓上に置きっぱなしの携帯端末を一瞥した。
「四時半か。シノンとアスナは、時間まだ大丈夫?」
「うん」
「わたしも平気だよ」
ふたりが同時に頷くと、和人はぎしっとアンティークな椅子の背もたれを鳴らし、言った。
「じゃあ、大元のところから始めようか。問題の……"ソウル・トランスレーション"テクノロジーについて」
「ソウル……トランスレーション」
詩乃は、その、どこかロールプレイングゲーム内の呪文名のような響きを持つ単語を小声で繰り返した。明日奈も軽く首を傾げ、呟く。
「ソウル……魂……?」
「まあ、な。俺も初めて聞いたときは、なんつう大袈裟なネーミングだ、って思ったけどな」
和人は片頬で軽く笑うと、続けた。
「ふたりとも、人間の心ってどこにあると思う?」
「ココロ?」
唐突にそう尋ねられ、反射的に胸の中央に触れてしまいそうになってから、詩乃は軽く咳払いして言った。
「頭……脳でしょ」
「じゃあ、脳ミソを拡大して見たとして、そのどこに心はあるんだろう」
「どこ、って……」
「脳、ってのはつまり脳細胞のカタマリだよな。こう……」
和人は詩乃に向かって、ぴんと指を伸ばした左手を差し出した。掌の中央を右手の人差し指で突付き、次に掌全体をぐるりとなぞる。
「まんなかに細胞核があって、それを包む細胞体があって……」
五本の指を順番に叩いて、最後に手首から肘まで線を引く。
「樹状突起があり、軸索があって、次の細胞に繋がっている。こういう構造の脳細胞のどこに、心は存在するんだろう? 核? ミトコンドリア?」
「えっと……」
口篭もった詩乃に代わって、明日奈が答えた。
「キリト君いま、"次の細胞に繋がってる"って言ったけど、つまりそうやって脳細胞がいっぱい繋がったネットワークそのものが心なんじゃないの? ほら……"インターネットって何"っていう質問に、個々のコンピュータにだけ注目しても答えにならないみたいに」
「うん」
意を得たり、というように和人は大きく頷いた。
「脳細胞ネットワークこそが心、現状ではそれが正しい答えだと俺も思う。でも……例えば、今の"インターネットとは何か"っていう質問をつきつめていくと、解答はいろいろ出てくるよな。世界中のコンピュータが共通規格のもとに繋がった構造自体がインターネットだし――」
テーブルの上に並ぶ和人と明日奈の携帯端末を順番に指先で叩く。
「こういう、一台一台のコンピュータだって構成要素としてのインターネットだ。更に言えば、コンピュータの前のユーザーだってネットの一部ってことになるかもしれない。これらをひっくるめてインターネットと呼んでるわけだ」
和人はそこで一息つくと、ちょっと頂戴、と言って明日奈のジンジャーエールを口に含んだ。途端、眼を白黒させて唇をすぼめる。
「うわ、何これ。凄い……マジ生姜の匂いだな」
「ふふ、コンビニで売ってるのとは全然違うでしょ。ふつうはカクテルに使う本格派のヤツよ。前に頼んで飲ませてもらったら美味しかったの。言わば裏メニューね」
にやにや笑いながら、明日奈は詩乃にもグラスを回した。
「詩乃のんも味見してみる?」
言われるままに一口飲んでみると、舌にびりっとくる強烈な辛さと生姜の香りが、頭のてっぺんまで突き抜けた。思わず涙を滲ませながら、グラスを返す。
「た……たしかにこれは凄い。でも……うん、おいしいね、甘くなくて」
帰りに商品名を訊いておこう、と思いながら詩乃は和人に話の続きを促した。
「で……人間の心とインターネットが、どう関係するの?」
「うん。――で、その、サーバやルータやパソコンやケータイが網目みたいに繋がった構造は、インターネットの"カタチ"なわけだ」
「カタチ……」
「なら、"本質"は何なんだろう?」
詩乃は少し考え、口を開いた。
「つまりそのカタチ……ネットワーク構造の中を流れるもの……? 電気信号……?」
「電気や光の信号は媒体だ。ネットの本質とはつまり、その媒体によって伝えられる、言語化された情報のことだ……と、仮にここで定義しよう」
和人はテーブルの上で、骨ばった両手の指を組み合わせた。
「さて、さっき話した、脳細胞が百何十億個繋がったネットワーク、これを心のカタチと見たとき……心の本質を何に求めるべきだろう?」
「媒体……つまり、脳細胞を流れる電気パルスによって伝えられる……情報?」
「いや、電気パルスというのは、こう……」
和人は右手を拳に握り、広げた左の掌に近づけた。
「ニューロンとニューロンの隙間つまりシナプスに、伝達物質を放出させるトリガーにすぎない。あるルートに沿って脳細胞が連続発火するという、その現象だけをもって心の本質であるとは言えないよ」
「ええー……っと……」
詩乃が眉をしかめるのと同時に、明日奈が困ったように笑いながら言った。
「これ以上は無理だよキリト君~。だいたい、心とは何か、なんて今の科学でも答えは出てないんでしょ?」
「まあ、な」
和人はにやっと笑いながらうなずいた。
「は、はあ!? ちょっと、ここまで考えさせといてそれはないでしょう」
詩乃が猛然と抗議しかけたそのとき、和人はふっと視線を濡れた窓のほうに向け、呟くように続けた。
「でも、ある理論を用いてその答えに迫った人間がいる」
「ある……理論?」
「"量子脳力学"。もとは、前世紀の末ごろにイギリスの学者が提唱したものらしいんだけどな。長い間キワモノ扱いされたその理論を下敷きに、ついにあんな化け物みたいなマシンを作った……。――ここからは俺もほとんど理解しちゃいないんだけどな。さっき、脳細胞の構造の話をしたろ」
詩乃と明日奈は同時に頷く。
「細胞にも、その構造を支える骨格がある。"マイクロチューブル"って言うらしいんだけどな。しかしどうやらその骨は、ただの支えじゃなくて、頭蓋骨でもあるらしい。脳細胞のなかの脳だな」
「は、はあ……?」
「チューブ、つまり中空の管なんだ、その骨は。超微細なその管の中に封じ込められているモノ……それは……」
「何が、あるの……?」
「光だ」
和人の答えは短かった。
「光子……エバネッセント・フォトン、って言うらしい。光子ってことはつまり量子だ。その存在は非決定論的であり、常に確率論的なゆらぎとしてそこにある。そのゆらぎ、それこそが、人間の心なんだ」
その言葉を聞いた途端、詩乃の背筋から二の腕までを、理由の判らない戦慄がぞくぞくと疾った。心とは、揺らぐ光。そのイメージは神秘的な美しさに満ちていると同時に、まさしくそこはもはや神の領域なのではないのだろうか、との思いを起こさせるものがあった。
同じような感慨を明日奈も抱いたのだろう、薄い色の瞳にどこか不安そうな光を湛えて、少し掠れた声で呟いた。
「ソウル……魂。その光の集合体が、人間の魂なの……?」
「量子場、と言うべきかな。人間だけじゃない、動物にだってある。この理論が発表されたら、動物には魂はない、って言ってきたキリスト教原理主義者たちは怒るだろうな。実験によれば……この量子場は、持ち主が肉体的死に至ったあとも、しばらくその形を保つ。いわゆる臨死体験というのはそれが原因だ、って言ってたスタッフもいたよ。脳細胞が死に、量子が拡散するあいだに、人間は死後の世界を見るんだ、って」
「拡散……した量子は、どこにいくの?」
詩乃がおそるおそるそう尋ねると、和人は微かに笑って首を振った。
「わかってない。それを検出するには、今の数十倍の規模のマシンを開発しないとだめなんだそうだ。ただ、霞のようにランダムに消滅するというより、一定の凝集力を保ったままある方向へ向かうらしいけど……そこから先は、あんまり科学の立ち入る領域じゃないような気もするなあ……」
「わたしにはもう充分オカルトな話に聞こえるよ~」
明日奈は細い声で言い、きゅっと肩を縮めた。
「じゃあ、つまり、キリト君がテストしてるってマシンは、その……光子でできた魂そのものにアクセスするものなの……?」
「そう言うとなんかゲームのマジック・アイテムみたいに聞こえるけどな。――もうちょっと突っ込んだ話をすると、マイクロチューブル中の光子ひとつは、そのベクトルによって"一キュービット"という単位のデータを保持しているんだ。つまり、脳細胞は、これまで考えられてきたような単なるゲートスイッチではなく、それ自体がひとつの量子コンピュータだと言える……このへんで、もう俺の理解は限界にきてるんだけど……」
「大丈夫、私もそろそろ限界だから」
「わたしも……」
詩乃と明日奈がそろってギブアップ宣言をすると、和人はほっとしたように息を吐いた。
「まあ、守秘義務契約もあるからマシンの仕組みについては細かく話せないんだけどね。ともかくその、計算機でありメモリでもある光子の集合体、人間の意識、魂……プロジェクトでは"フラクトライト"と呼んでるんだけど、そいつが保持している数百億キュービットのデータを、俺たちに理解できるカタチに翻訳するのが例の化け物マシン、"ソウル・トランスレーター"だ。考えてみるとおかしな話だよな……。俺たちの魂を苦労して解読して、それを読むのも結局また俺たちの魂なんだからな」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ。なんか……鏡に映った自分の姿を見て石になっちゃう怪物の話とか思い出すじゃない」
「いつかそんな目に会わないとも限らないって気はするよ」
「やめてってば」
詩乃は今度こそ本格的にぞっとしない気分を味わい、半そでの開襟シャツから伸びる腕をさすった。視線を動かすと、明日奈も同じように顔をしかめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「その機械……ソウル・トランスレーターは、意識を読むだけじゃないんだよね?」
すると、和人はほんのわずかに口篭もり、一度唇を閉じてから、低い声で答えた。
「ああ……もちろん、書き込むこともできる。そうでないと、仮想世界にダイブできないからな。フラクトライトの、視覚、聴覚と言った五感情報を処理する部分にアクセスして、マシンの生成する環境を接続者に与えるわけだ」
「じゃあ……記憶も? キリト君、さっき言ったよね。ダイブ中の記憶が無いって。それってつまり、記憶の消去や上書きもできるってことなの?」
「いや……」
和人は、安心させるように明日奈の左手に短く触れた。
「記憶データを保持している部分は、あまりにも膨大かつアーカイブ方法が複雑で、現状では手が出せないと聞いた。ダイブ中の記憶が無いのは、単にその部分への経路を遮断しているから、らしい。つまり、完全に記憶が無いわけじゃなくて、思い出せないだけ……なんだろうな」
「でも、わたし……怖いよ、キリト君」
明日奈の不安そうな表情は消えない。
「ねえ……何でそんなバイトするの? その話を持ってきたのって、あの総務省の菊岡って人なんでしょ? 悪い人じゃないとは思うけど……あの人、なんだか心の底が見えない感じがする。どこか、団長と似てるのよ。なんだか……また、良くないことが起こりそうで……」
「……確かに、あの男には気の許せないところがある。本当の身分とか職務とか、いまいち判らないしな。でもな……」
少し言葉を切り、和人はふっと瞳の焦点をどこかここではない場所に向けた。
「俺は、業務用NERDLESマシンの初代機が新宿のアミューズメントパークでお披露目されたその初回に、始発で行って並んだんだ。まだ小学生だったけど……これだ、と思ったよ。俺をずっと呼んでいた世界はここなんだ、って。小遣いを貯めてナーヴギアも発売日に買って……いろんなVRゲームに何時間も潜り続けたな。ほんと、あの頃の俺は、現実世界なんかどうだっていいと思ってたよ。そのうちSAOのベータテストに当選して、あの事件が起きて……。凄く沢山の人が死んだ。二年もかけて戻ってきてからも、須郷の事件や死銃事件が立て続けにあって……俺は……知りたいんだ。VR技術は、一体どこに向かっているのか……あれらの事件に、一体どんな意味があったのか……。ソウル・トランスレーターは、その方向性こそまったく新しいものだけど、アーキテクチャ自体はメディキュボイドの延長線上にある。開発の基礎データとなった、最初のフラクトライトは"彼女"のものなんだよ」
俯きながら和人の言葉を聞いていた明日奈の両肩が、ぴくりと震えた。低いが、しっかりした声はなおも続く。
「予感がするんだ。ソウル・トランスレーターの中には何かある。単なるアミューズメントマシンだけじゃ終わらない何かが……。確かに、危険な面もあるかもしれない。でもな……」
少しおどけるように、和人は剣を握り、振り下ろす真似をした。
「俺は、今までどんな世界からもちゃんと帰ってきた。今度だって、ちゃんと戻ってくるよ。まあ……現実世界じゃ、無力で虚弱なゲーマーだけどさ」
「……わたしのバックアップなしじゃ、背中が隙だらけのくせに」
明日奈は少し笑うと、ふう、と短く息をつき、詩乃の顔を見た。
「まったく、なんでこう自信家なんだろうね、このヒト」
「うーん、まあ、何と言っても伝説の勇者様だからねー」
ふたりの会話には判る部分もあれば、初めて聞く単語もあったが、詩乃は深く立ち入るのはやめようと思いながら、からかうように言った。
「先月出た"SAO事件全記録"読んだけどさー、あの本に出てくる"黒の剣士"がこいつだなんてちょっと信じられないよねー」
「お、おい、やめてくれー」
和人は両手を振りながら上体を仰け反らせたが、明日奈はくすくす笑うと、ほんとだよね、と頷いた。
「あの本書いたの、攻略組ギルドの中でも大きかったとこのリーダーだから、けっこう記録自体は正確なんだけど、人物描写にすごいバイアスかかってるよねえ。キリト君が、オレンジプレイヤーと戦ったとことか……」
「『俺が二本目の剣を抜いたとき――立っていられるヤツは、居ない』」
きゃははは、と二人が盛大に笑うと、和人は虚ろな眼をしてずるずると椅子に沈み込んだ。ようやく明日奈に笑顔が戻ったことにほっとしながら、詩乃は追い討ちをかけるように続けた。
「あの本、なんか翻訳されてアメリカでも出版されるらしいよねー。そしたらもう、勇者サマの世界ランカーだよね」
「……せっかく忘れてたのに……。印税を俺にも寄越せって話ですよまったく」
ぶつぶつ言う和人にまたひとしきり笑ってから、詩乃は少々疑問に思っていたことを尋ねようと、話を戻した。
「でもさ。その、ソウル・トランスレーターって、結局やることはアミュスフィアといっしょなの? VRワールドをポリゴンで生成して、そこに接続者の意識をダイブさせるだけなら、そんな大掛かりな仕組みにすることにどんな意味があるの?」
「お、いい質問」
和人は椅子の上で体を起こすと、ひとつ頷いた。
「アミュスフィアを使ってるとき、ユーザーは、現実世界では寝ているように見えるけど、実際はそうじゃないよな。現実の感覚を遮断されているだけで、脳はちゃんと覚醒している。結局、外界の情報を自前の感覚器官から得るか、アミュスフィアの信号素子から得るかの違いがあるだけで」
「それはそう……だよね。便宜的に"ダイブする"なんて言ってるけど、実際には現実世界でヘッドホンしてテレビ見てるのと、本質的な違いは無いんだもんね」
「うん。しかし、ソウルトランスレーターの場合は少し違う。魂、フラクトライトを現実世界の入力から完全に切り離された接続者の脳波パターンは、どちらかというと睡眠時のそれに近くなるんだ」
「睡眠……眠ってる、ってこと……?」
詩乃は少し考えてから、首を捻りつつ言った。
「でも、そしたら、ユーザーはどうやって仮想世界で活動するの? 見たり聞いたり、動いたりとか出来ないんじゃないの?」
「完全に眠ってるってわけじゃない。フラクトライトの、現実の肉体を制御する部分は睡眠状態に入るが、記憶領域と思考領域は覚醒している。その状態でも、ユーザーは仮想世界を見ることができるんだ。別にソウルトランスレーター……長いからSTLって呼ぶけど、それを使ってなくても、普段自分のベッドで寝てるときだって、俺たちは見てるんだぜ、現実じゃない世界を」
「それって……夢のことを言ってるの?」
そう尋ねたのは明日奈だった。和人はにっと短く笑うと頷いた。
「その通り。睡眠と夢のメカニズムについてはまだまだ未解明の部分も多いんだけど、STLを使った解析によれば、どうも人間は夢を見ているときに、記憶の整理をしているらしいんだな。短期記憶領域にごちゃごちゃと蓄積された雑多な記憶パーツを、重要性によって取捨選択し、アーカイブして、長期記憶領域に収納する。その過程で、思考領域は、取り出された記憶を感覚的に再生するわけだ。つまり……夢を見ているとき、俺たちは、脳の感覚野を使用せずに物を見、音を聞いている。もし、夢で見たいものを選ぶことができたとしたら……」
そこで一拍置いてから、和人は少しばかり衝撃的なことを言った。
「――STLによって生成されるVRワールドは、アミュスフィアのそれとは根本的に違う。コンピュータで作られたポリゴンデータじゃないんだ。人間の膨大な記憶アーカイブからマシンによって抽出される、記憶のフラグメントを組み合わせたものなんだよ」
詩乃は、明日奈と同時に眉をしかめ、頭を傾けた。
「ええ……? ポリゴンじゃない……って……」
「ほら、つまりさ……。例えばこの喫茶店の中をアミュスフィアで再現しようと思うと、山ほどの3Dオブジェクトが必要になるよな。座ってる椅子、テーブル……この上の皿やグラス、塩や砂糖の容器、壁、窓、床、天井、エトセトラ。これだけの、膨大な視覚情報がマシン本体で生成され、ヘッドギアを通して脳に流れ込むわけだ。とても、ひとつひとつのオブジェクトを本物なみに細かく再現することはできないから、例の"ディティール・フォーカシング・システム"なんて苦肉の策が採用されてたりする。しかし、STLで同じことをする場合、マシンがフラクトライトに送るデータは恐ろしく小さい。"古ぼけた椅子に座ってる""揃いのテーブルがある""その上に白い皿が乗ってる"……これだけだ。それらのオブジェクトの視覚、触覚的情報は、俺たちの自前の記憶アーカイブから呼び出され、配置されるわけだ。しかもそれらは恐ろしくリアルだ。なぜなら、意識にとっては本物と一緒なんだからな」
「…………ええー?」
何となく騙されているような気分にとらわれ、詩乃は唸った。
「記憶……なんて、そんなアテになるものなの? 例えばさぁ……」
和人の前でぎゅっと両目を瞑ってみせる。
「こうして眼ぇ閉じて、今座ってる椅子を思い出そうとしても、細かいとことかすごいアヤフヤだよ。一日たったら形も思い出せないよ、たぶん」
「それは記憶を再生できないだけだ。椅子の詳細な情報は、きちんとアーカイブされてシノンの頭の中にある。STLは、本人の意思ですら簡単に呼び出せない情報を、フラクトライトを半覚醒状態に置くことによって正確に引き出すことができるんだ。これは聞いた話だけど、基礎実験のとき、あるスタッフの記憶アーカイブから出てきた猫の数はなんと二千匹を超えたそうだよ」
「にせ……」
詩乃は一瞬その猫天国を想像して口もとを緩めてしまってから、短く首を振って妄想を払い落とした。明日奈はと見れば、こちらは真剣に何かを考えているふうだったが、やがて言葉を確かめるようにゆっくりと口を動かした。
「でもさ……キリト君、それだと、ユーザーが見たことのないものは生成できない、ってことになるんじゃないの?」
もっともな疑問だ、と思ったが、和人はふたたびニヤっと笑い、逆に明日奈に尋ねた。
「例えば、どんなもの?」
「えっと……ほら、今の猫にしても、羽根の生えた猫とか……毛皮が青い猫とか。現実世界には居ない動物……実在しない機械、世界のどこでもない都市、そういうものはVRゲームには必須だと思うけど……」
「ところがどっこい、なんだな。人間の意識の柔軟性というのは驚くばかりさ。"翼の生えた猫がいる"、そう指定するだけで、ダイブ中のユーザーはちゃんとそれを見るんだ。記憶アーカイブから抽出した"猫"と"翼"を組み合わせて。既存の空想的動物……ドラゴンとか悪魔まで、生成できなかったものはほとんど無かったそうだよ。さすがに、言葉では形容できないようなヤツは難しいだろうけど……。奇妙な機械とか幻想的都市とかも、結局原型となるイメージは記憶アーカイブに何かしら収納されてるのさ。それを組み合わせ、変形させるだけで、ほとんどあらゆるパターンのものを作り出すことができるんだ」
和人は一瞬口を閉じ、テーブルをとん、と叩いて続けた。
「これが、NERDLESには無い、ソウル・トランスレーション・テクノロジーの第一の利点だ。VRワールドを作るのに、膨大なマンパワーを費やして3Dオブジェクトを組む必要がない。極論すれば、コンピュータに世界生成をすべて任せることだってできるんだ」
* 見た目よりもしっかりと硬く力強い手を握り返しながら、俺は少年の名前を何度か口中で転がした。聞きなれない響きだが、しかしどこかしっくりと舌に馴染む気がする。
ユージオと名乗る少年は、手をほどくと再び巨樹の根元に座り込み、布包みから取り出した丸パンの片方を俺に差し出した。
「い、いいよそんな」
慌てて手を振ったが、引っ込める様子はない。
「キリト君だってお腹空いてるんじゃないの? 何も食べてないんでしょ」
言われた途端、俺は強烈な空腹感を意識して思わず苦笑いした。川の水は美味かったが、腹持ちがいいとはとても言えない。
「いや、でも……」
尚も遠慮していると、手にぐいっとパンを押し付けられてしまい、俺は已む無く受け取った。
「いいんだ。僕、あんまり好きじゃないんだこれ」
「……じゃあ、ありがたく頂くよ。ほんとは腹へって倒れそうなんだ」
あははと笑うユージオの前の木の根に、俺も腰を下ろしながら言い添えた。
「それと、キリトでいいよ」
「そう? じゃあ、僕もユージオって呼んで……あ、ちょっと待った」
ユージオは左手を上げ、さっそく丸パンを口もとに運ぼうとしていた俺を制した。
「……?」
「いや、長持ちするしか取り得のないパンなんだけど、まあ一応ね」
言うと、ユージオは左手を動かし、右手に持ったパンのうえにかざした。人差し指と中指だけをぴったり揃えて伸ばし、他の指は握り込む。そのまま、指先は空中にSの字とCの字を組み合わせたような軌道を描く。
唖然として見つめる俺の目の前で、二本の指が軽くパンを叩くと、金属が震動するような不思議な音とともに、パンの中から薄紫に発行する半透明な矩形の板が出現した。幅二十センチ、高さ八センチといったところか。遠眼にも、その表面には慣れ親しんだアルファベットとアラビア数字がシンプルなフォントで表示されているのが見えた。見紛うことなき、オブジェクトのステータスウインドウだ。
俺は口を大きくあんぐりと開き、しばし放心した。
――これで確定だ。ここは現実でも、本物の異世界でもなく、仮想世界だ。
その認識が腹の底に落ち着くと同時に、安堵のあまりすうっと体が軽くなるのを意識した。九十九パーセント確信していたとは言え、やはり明白な証拠が無いという不安が薄皮のようにまとわりついていたのだ。
相変わらず経緯は不明のままだが、ともかく慣れ親しんだ仮想世界に居るのだと思うことで、ようやく俺にも状況を楽しむ余裕が出てきたようだった。とりあえず、ユージオの真似をして俺もウインドウを呼び出してみようと、左手の指二本をまっすぐ伸ばす。
見よう見真似でSとCの形をなぞってから、おそるおそるパンを叩くと、はたして効果音が鳴り響き紫に光る窓が浮かび上がった。顔を近づけ、食い入るように眺める。
表示された文字列は非常にシンプルなものだった。DurabilityPoint:7、とそれだけだ。おそらく、このパンに設定されている耐久値なのだろうことは容易に想像できる。これがゼロになったとき、一体パンはどうなるんだろう、と思いつつ数字を凝視していると、傍らからユージオの不思議そうな声があがった。
「ねえ、キリト。まさか、"ステイシアの窓"を見るのまで初めてだなんて言わないよねえ?」
顔を上げると、ユージオはすでに窓が消えたパンを片手に首を傾げていた。慌てて、そんなバカな、というように笑顔を作ってみせる。当てずっぽうに、窓の表面を左手で触れるとそれは跡形もなく消え去り、内心で少しばかりほっとする。
ユージオは特に疑った様子もなく頷くと、言った。
「まだ"天命"はたっぷりあるから、急いで食べなくてもいいよ。これが夏だと、とてもこんなに残ってないけどね」
"天命"とは数値で示された耐久力のことで、それを表示したステータスウインドウが"ステイシアの窓"なのだろう。その口ぶりからして、ユージオは今見たものをシステム上の機能ではなく、何らかの宗教的あるいは魔術的現象と認識しているようだった。
まだまだ考えるべきことは多そうだったが、とりあえず棚上げして、目先の食欲を満たすことにする。
「じゃあ、いただきます」
言って、大口を開けてかぶりついた俺は、パンの硬さに思わず目を白黒させた。しかしまさか吐き出すわけにもいかず、力任せに噛み千切る。仮想世界とは思えないほどリアルな"歯がぐらつきそうな感覚"に図らずも感嘆させられる。
いわゆる全粒粉のような挽きの荒い麦を使ったパンで、必要以上の歯応えがあるものの噛んでいるとそれなりに素朴な味わいがあって、腹が減っていた俺は懸命に顎を動かして咀嚼し、飲み込んだ。バターを塗ってチーズでも挟めばもっと美味くなるだろうに、等と恩知らずなことを考えていると、同じように顔をしかめてパンに噛み付いていたユージオが笑い混じりに言った。
「おいしくないでしょ、これ」
俺は慌てて首を横に振る。
「そ、そんなことないって」
「無理しなくてもいいよ。村のパン屋で買ってくるんだけど、朝が早いから前の日の売れ残りしか買えないんだ。昼に、ここから村まで戻るような時間もないしね……」
「へえ……。じゃあ、家から弁当を持ってくればいいんじゃ……」
そこまで言ったところでユージオがふっと視線を伏せるのを見て、無遠慮すぎることを口走ったかと首を縮める。が、ユージオはすぐに顔を上げると、小さく笑った。
「ずーっと昔はね……昼休みに、お弁当を持ってきてくれる人がいたんだけどね。今は、もう……」
ブラウンの瞳に揺れる深い喪失感をたたえた光に、俺は瞬間、この世界が作り物であることを忘れて身を乗り出した。
「その人は、どうしたんだ……?」
訊くと、ユージオは遥か頭上の梢を見上げながらしばらく黙っていたが、やがてゆっくり唇を動かした。
「……幼馴染だったんだ。同い年の、女の子で……毎日、朝から夕方まで一緒に遊んでた。天職を与えられてからも、毎日お弁当を持ってきてくれて……。でも、六年前……僕が十一の夏に、村に整合騎士がやってきて……央都に、連れていかれちゃったんだ……」
セイゴウキシ。オウト。正体不明の単語だったが、それぞれある種の秩序維持者とこの世界の首都のことだろうと見当をつけ、黙ったまま先を促す。
「僕のせいなんだ。安息日に、二人で北の洞窟までドラゴンを探しにいって……帰り道を間違えて、果ての山脈を闇の王国側に抜けちゃったんだ。知ってるだろ? 禁忌目録に、決して足を踏み入れることならず、って書いてあるあの闇の国だよ。僕は洞窟から出なかったんだけど、彼女はほんの一歩だけ、闇の国の土を踏んじゃって……たったそれだけのことで、整合騎士は、皆の見てる前で鎖で縛り上げた……」
ユージオの右手の中で、食べかけのパンがぐしゃりと潰れた。
「……助けようとしたんだ。僕も一緒に掴まってもいいから、あの騎士に斧で打ちかかろうと……でも、手も、足も、動かなかった。僕はただ、あの子が連れていかれるのを、黙って見てた……」
表情を失った顔でユージオはしばらく空を見上げつづけていたが、やがてその唇にかすかな自嘲の色が浮かんだ。ひしゃげたパンを口に放り込み、俯いてもぐもぐと噛みつづける。
俺は何と声をかけていいか分からず、同じようにもうひとかけらパンを噛み千切り、それを苦労して飲み込んだあとようやく口を開いた。
「……その子がどうなったか、知ってるのか……?」
ユージオは目を伏せたままゆっくり首を振った。
「整合騎士は、審問ののち処刑する、って言ってた……。でも、どんな刑に処せられたのか、ぜんぜんわからないんだ。一度、お父さんのガスフト村長に聞いてみたんだけど……死んだものと思えって……。――でもね、キリト、僕は信じてるよ。きっと生きてる。アリスは、央都のどこかで、かならず生きてる」
俺は息を飲んだ。
アスナは言っていた。STLの開発企業である"ラース"、そして仮想世界"アンダーワールド"、それらの名前は小説『不思議の国のアリス』から取ったものではないか、と。ならば、今ユージオが口にしたアリスという名は果たして偶然によるものなのだろうか?
いや、そんなはずはない。現実世界ならいざしらず、万物に意味のある仮想世界において、都合のいい偶然などというものは存在しない。つまり、ユージオの幼馴染にして六年前に連れ去られたという少女アリスは、おそらくこの世界における重要なキーパーソンなのだ。
そして、もうひとつ驚くべきことがある。
先ほど、ユージオは六年前に十一歳だった、と言った。つまり彼は今十七歳で、しかもどうやら、そのあまりに長大な時間の記憶をすべて保持しているらしい口ぶりだ。
だがそんな事は有り得ない。STRA機能による三倍の加速を考えても、この世界で十七年という時間をシミュレートする間に、現実世界でも六年もの年月が過ぎ去っているということになる。しかし、STLの第一号機がロールアウトしてから、まだたった半年程度しか経っていないはずだ。
これをどう考えればいいのだろうか。
ここは俺の知るSTLではなく、未知のバーチャルワールド生成システムの中で、しかもそれは最長で十七年もの昔から稼動していた。あるいは、俺の聞かされていたSTRA機能の三倍という倍率が間違いであり、実は三十倍以上の加速を実現している。どちらも、おいそれと信じられない話だ。
俺の中で、不安感と好奇心が急速にふくれ上がる。今すぐログアウトし、外部の人間に事情を聞きたいと思う反面、この内部に留まって可能な限り疑問を追いつづけてみたいという気もする。
パンの最後の欠片を飲み込んでから、俺はおそるおそるユージオに尋ねた。
「なら……行ってみたらどうなんだ? その、央都に」
言ってから、しまった、と考える。その言葉は、ユージオから思わぬ反応を引き出してしまったようだった。
栗毛の少年は、たっぷり数秒間もぽかんと俺の顔を眺めていたが、やがて信じられない、というふうに頭を振った。
「……このルーリッドの村は、帝国の北の端にあるんだよ。南の端にある央都までは、馬でひと月もかかるんだ。歩きだと、一番ちかいザッカリアまでだって二日。安息日の夜明けに出たってたどり着けないんだよ」