まだ完全な確証を得られたわけではないが、ここは"アンダーワールド"なのだと考えるのがもっとも自然だろう。つまり俺は現在、時給三千五百円のバイト中なのだ。

「いや、でも……ヘンだな……?」

ほっとしたのも束の間、俺はふたたび首を捻ることになった。

担当エンジニアは、確かにこう言っていたはずだ。実験データの汚染を避けるため、アンダーワールドに現実世界の記憶は持ち込めない、と。だが今の状況はそれとはほど遠い。俺が失っているのは、アスナを家に送っていくところからマシンに接続するまでのごく部分的な記憶だけだ。そもそも俺は、間近に迫った期末考査の勉強をするために、当分ラースでのバイトはしないつもりだったのだ。

 この状況がSTLのテスト・ダイブなのだとしても、何か深刻な齟齬が起きているのは間違いない。俺は、以前もらったエンジニアの名刺をどうにか思い出しながら、再び上空を振り仰いだ。

「平木さん! 見てたら、接続を中止してくれ! 問題が発生してるみたいだ!」

たっぷり十秒以上、そのまま待った。

しかし、うららかな日差しの下に緑の梢が揺れ、眠そうに蝶が羽ばたきつづける光景は何一つ変化することはなかった。

「……もしかしたら……」

俺は溜息とともに呟いた。

 もしかしたら、この状況そのものが、俺も納得ずくの実験である、ということなのかもしれなかった。つまり、自分のいる場所がSTLの内部なのかどうか確信できないユーザーは、一体どのような行動を取るのか、というデータを採取するために、ダイブ直前の記憶をブロックして身一つで仮想世界に放り込む。

仮にそうだとしたら、そんな底意地の悪い実験に軽々しく同意した自分の頭を、思い切り小突いてやりたい気分だ。自分なら的確かつ俊敏な行動によって容易く脱出してのけるはず、などと思っていたのなら噴飯ものとしか言いようがない。

俺は、右手の指を折りながら、現状を説明するに足るいくつかの可能性を、いいかげんなパーセンテージつきで列挙した。

「ええと……ここが現実である可能性、3パーセント。従来型VRワールドである可能性、7パーセント。合意によるSTLテストダイブである可能性、20パーセント。STLダイブ中の突発的事故である可能性、69.9999パーセント……ってとこか……」

心の中で、ホンモノの異世界に迷い込んだ可能性0.0001パーセント、と付け加え、俺は右手を腰に当てた。これ以上は、なけなしの知恵を絞っても無駄だろう。ある程度の確信を得るためには、危険を冒して他の人間もしくはプレイヤーもしくはテストダイバーに接触するしかない。

行動を起こすべき時だった。

 まずは、そろそろ耐えがたいほどに渇きを訴えはじめている喉を潤したい。俺は、剣はおろか棒一本差していない背中を寂しく思いながら、小さな草地をあとにした。かすかなせせらぎが聞こえてくる方角――太陽の向きからしておそらく東を目指し、巨大な自然の門柱めいた古樹のあいだへと足を踏み入れる。

びろうどの絨毯のような苔と、驚くほど大きい羊歯類に覆われた森の底は、背後の円い草地とは打って変わって神秘的な世界だった。遥か高みで生い茂る木の葉が陽光をほぼ完全に奪い去ってしまい、地表まで届くのは薄い金色の細い帯でしかない。そのわずかなエネルギーのお零れを逃すまいと、緑色の丸石のうえで日向ぼっこをしているコバルト色の小さなトカゲが目に入る。

先刻まで俺の周りを飛んでいた小さな蝶のかわりに、トンボのような蛾のような奇妙な虫が音もなく宙をすべり、時折どこからか甲高い正体不明の獣の鳴き声が届いてくる。

頼むから、今危険な獣とかモンスターとか出てくるのはナシにしてくれよ、と思いつつふかふかの苔の上を、十五分も進んだだろうか。再び前方に、たっぷりとした日差しの連なりが現われ、俺は少なからずほっとした。

もうかなり明瞭になりつつある水音からして、数十メートル先を南北に川が流れているのは間違いなさそうだった。からからの喉が発する悲鳴に引っ張られるように、自然と足が速まる。

鬱蒼とした森を飛び出ると、幅三メートルほどの草地を隔てて、きらきらと陽光を跳ね返す水面が目に入った。

「み、みずー」

情けなくうめきながら俺は最後の数歩をよろよろと踏破し、草花が生い茂る川べりへと身を投じた。

「うおっ……」

そして腹ばいのまま、思わず嘆声を上げた。

何という美しい流れだろうか。川幅はそれほど広くないが、ゆるやかに蛇行するその水流はすさまじい透明度だ。純粋な無色に一滴だけ青の絵の具を垂らしたような、清澄な色合いの流れを通して、水藻がたなびく川底がくっきりと見て取れる。

つい数秒前までは、正直、ここが現実世界である可能性がわずかに残されている以上生水を飲むのは危険かもしれないと思っていた。のだが、水晶を溶かしたようなという形容詞が相応しいこの水流を見れば、誘惑に抗しきれず右手を川面に突っ込むしかない。切れそうなその冷たさに思わず奇声を上げながら、すくい取った液体を口に流し込む。

甘露、とはこのことだろう。一切の不純物を感じさせず、それでいてほのかに甘く爽やかな味の水は、二度とコンビニ売りのミネラルウォーターに金を払う気がなくなるほどの美味さだった。堪らず、両手で立て続けに何度も掬い、仕舞には直接川面に顔を突っ込んで、得心がいくまで思うさま貪る。

 まさに命の水に陶然となりながら、俺は心の片隅で、ここが従来型NERDLESマシン内世界である可能性を完全に排除した。

なんとなれば、いわゆるポリゴンで完全な液体環境を体感させるのは不可能なのである。

ポリゴンというのは、もともとソリッドなオブジェクトと最も親和性がある代物なのだ。その正体は、立体空間上の有限個数の座標であり、動く液体のように常にランダムな分離変形を続けるものを再現するのは苦手と言わざるを得ない。見かけをフラクタルなライティング技術で表現することはできても、それを触覚信号に変換できる形で完全に再現するのは、アミュスフィアのようなコンシューマ機はもちろん最新のワークステーションでも難しい。

 よって、例えば旧アインクラッドでは、バスタブに溜めた湯に浸かっても、与えられるのは温感と圧感、それに視覚上の水面反射光だけだった。その状況は現行のALOでも変わらず、つまり俺が今両手と顔で感じている"完璧な液体感覚"は現実のものか、あるいはSTLによって想起させられた擬似現実だ、と判断することができるのだ。

高価なエリクサーを腹いっぱいがぶ飲みしたような充足感、回復感を味わいながら、俺は上体を起こした。

ついでに、ここが本物の現実世界である、という可能性も投げ捨ててしまいたい気分だ。こんな綺麗な川や、対岸にまた奥深く続いている幻想的な森や、色鮮やかで奇妙な小動物たちが、地球のどこかに実在するとはとても思えない。だいたい、自然なんてものは、人の手が触れなければ触れないほど人にとって過酷な環境になるものではないのだろうか? 先ほどからごく軽装でうろついている俺の体のどこにも、虫食い痕のひとつもないのはどうしたわけだ?

 ――などと考えているとSTLが原記憶層から毒虫の大群を召還しないでもない、と思ったので、俺は想念を振り払って再度立ち上がった。ここが現実世界である可能性を1パーセントに格下げしてから、さて、と左右を見回す。

川は、ゆるやかな円弧を描いて北から南へと流れているようだった。どちらの方向とも、その先は巨樹の群に飲み込まれ、見通すことはできない。

水の綺麗さと冷たさ、川幅からして、かなり水源に近い場所であるような気がした。となれば、人家なり街なりがもし存在するなら下流のほうが可能性が高そうだ。

 ボートでもあれば楽かつたのしいだろうになあ、と思いつつ、下流方向へと足を踏み出そうとした――

その時だった。

わずかに向きを変えた微風が、俺の耳に奇妙な音を運んできた。

硬く、巨大な何かを同じく硬い何かで打ち据えた、そんな音だった。一回ではない。およそ三秒に一度、規則正しいペースで聞こえてくる。

 鳥獣や自然物が発生源とは思えなかった。九分九厘、人の手によるものだ。接近することに危険はあるだろうか、と一瞬考えてから小さく苦笑する。ここは奪い合い殺し合いが推奨されるMMORPG世界ではない。他の人間と接触し情報を得るのが、現在の最優先オプションだ。

俺は体を半回転させ、かすかな音が響いてくる、川の上流に向き直った。

ふと、不思議な光景が見えたような気がした。

右手にさざめく川面。左手に鬱蒼と深い森。正面にはどこまでも伸びる緑の道。

そこを、横一列に並んで、三人の子供が歩いていく。黒い癖っ毛の男の子と、亜麻色のおかっぱ髪の男の子に挟まれて、麦わら帽子を被った女の子の長い金髪がまぶしく揺れる。真夏の陽光をいっぱいに受けて、金色の輝きを惜しげもなく振りまく。

 これは――記憶……? 遠い、遠い、もう二度と戻れないあの日――永遠に続くと信じ、それを守るためならなんでもすると誓い、しかし日に晒された氷のように、あっけなく消え去ってしまった――

あの懐かしい日々。


まばたきをひとつする間に、幻は跡形もなく消滅した。

俺は呆気に取られてしばらく立ち尽くした。

今のはいったい何だったのだろう。突然襲ってきた、圧倒的な郷愁とでもいうようなもののせいで、まだ胸の真ん中が締め付けられるように痛い。

 幼い頃の記憶――、川べりを歩く子供たちの後姿を見たとき強くそう感じた。右端を歩いていた黒髪の少年、あれは俺だと。

しかしそんなはずはないのだ。俺が物心つくころから暮らしている川越市には、こんな深い森や綺麗な小川は無いし、金髪の女の子と友達だったことも一度もない。そもそも、三人の子供たちは皆、今の俺のような異国の服を身につけていた。

 ここがSTLの中なら、もしかしたら今のが、先週末に行った連続ダイブ試験中の記憶の残り滓なのか? そんなふうにも思ったが、STLの時間加速機能を考えても、俺が中で過ごしたのはせいぜい十日のはずだ。しかしあの深い憧憬が、そんな短期間で作られたとはとても考えられない。

いよいよもって、事態は不可解な方向へと突き進みつつあるようだった。俺はほんとうに俺なのか、という疑いに再度取り付かれおそるおそる傍らの川面を覗き込んだが、うねる流れに映し出された顔は絶えず歪んで、判別することは不可能だった。

ちくちくと残る痛みの余韻を、これもひとまずは棚上げすることにして、俺は相変わらず聞こえている謎の音に耳を済ませた。記憶の混乱に襲われたのはこの音のせいだろうか、とも思ったが、検証することはできそうもない。首を振り、音の源目指してふたたび歩き出す。

ひたすら両足を動かしつづけ、美しい風景を楽しむ余裕をどうにか取り戻せたころ、俺は音の方向が左にずれつつあるのを意識した。どうやら音源はこの川沿いではなく、左側の森に少し分け入った場所らしい。

指折り数えてみると、不思議な硬い音は連続して鳴りつづけているわけではなかった。きっかり五十回続くとおよそ三分途切れ、再開するとまた五十回続くのだ。いよいよ、人間が作り出しているとしか思えない。

俺は三分間の一時停止を頻繁に挟みながら歩きつづけた。適当な地点で川辺を離れ、森の中へ踏み込む。ふたたび出迎えた奇妙なトンボやコガネ虫やキノコ達のあいだを、ひたすらに進む。

「……49、……50」

いつしか小声で数えていた音が止まると同時に、俺もまた立ち止まった。べつに疲労しているわけでもない身には、こうも頻繁なインターバルは気を急かされるが、闇雲に歩いて迷うよりマシだと言い聞かせながら足元の苔むした岩に腰をかける。

すぐ近くの木の根のうえを、青紫色の殻をもつ大きなカタツムリが這っていた。その遅々とした歩みをぼんやり眺めながら、音が再開するのを待った。

が、カタツムリが根っ子の橋を渡りきって幹に達し、果て無き絶壁に挑み始めるころになっても、森の空気は静謐を守りつづけた。計っていたわけではないが、三分はとっくに経過している。俺は顔をしかめ、立ち上がると、意識を聴覚に集中した。

 そのまま更に数分待ったが、音がまた鳴りはじめる様子はない。これは困ったことになった……と周囲をきょろきょろ見回す。元きた方向と、さっきまで音がしていた方向は、どうにか見分けがつきそうだった。最悪、川まで戻れればそれでいいと自分を納得させ、消えた音源めざして進んでみることにする。

うーん、もしかしたらあの音は、森に迷い込んだ愚か者を誘う魔女のワナか何かなのかなあ、とどきどきしながらも、しかしひたすらに真っ直ぐ俺は歩きつづけた。目印がわりに撒くパンを持っていないのは残念だが、どうせ撒いても鳥がみんな食ってしまうに違いない。

いつのまにか、前方の木立の隙間が明るくなりつつあるのに俺は気付いた。森の出口だろうか、ことによると村があったりするのかもしれない。足早に光の差すほうへと進む。

 階段状に盛り上がった木の根を攀じ登り、古樹の幹の陰から顔を出した俺が見たのは――

とてつもないものだった。

森が終わっているわけでも、村があるわけでもなかった。しかし失望を感じる暇もなく、俺は口をぽかんと開けて眼前の光景に見入った。

森の中にぽっかり開いた円形の空き地。先刻俺が目を覚ました草地よりもはるかに広い。さしわたし三十メートルはあるだろう。地面はやはり金緑色の苔に覆われているが、これまで歩いてきた森と違うのは、羊歯やつる草、背の低い潅木の類がまったく存在しないことだ。

そして、空き地の真ん中に、俺の視線を釘付けにしたそれが聳え立っていた。

なんという巨大な樹だろうか! 幹の直径は目算でも四メートル以下ということはない。この森でこれまで見た樹木のすべてが、ごつごつと幹を波打たせた広葉樹だったのに対して、目の前の巨樹は垂直に伸び上がる針葉樹だ。その皮はほとんど黒に近いほど濃い色で、見上げればはるか上空で幾重にも枝を広げている。屋久島の縄文杉やアメリカのセコイア杉も巨大だが、この樹の持つ圧倒的な存在感は、自然界の樹木とは思えない、王の傲慢さとでも言うべきものすら放っているように感じられた。

梢などまったく見えない巨樹の上部から、再び視線を根元に戻していく。大蛇のようにのたうつ根に注目すると、それは四方に網目のごとく広がり、俺が立つ空き地の縁ぎりぎりまで達しているのが見て取れた。むしろ、この樹に地力のすべてを奪われた結果、苔以外の植物が一切育つことができず、結果としてこの大きな空間が森に開いた、というようにも思える。

俺は、王の庭に侵入することに多少の気後れをおぼえたが、巨樹の幹に触れてみたいという誘惑に抗えず足を踏み出した。苔の下でうねる根に何度か足を取られながら、それでも頭上を見上げるのを止められないまま、ゆっくり前進する。

何度目かの感嘆の溜息を漏らしながら、巨樹の幹まであと数歩、という所まで近づいた俺は、周囲への警戒などまったく忘れ去っていた。ゆえに、気付くのがずいぶん遅くなった。

「!?」

ふと正面に戻した視線が、幹のむこうから覗く誰かの眼とまっすぐぶつかって、俺は息を飲んだ。びくっと体を弾ませながら半歩あとずさり、腰を落とす。あやうく右手を、剣など差していない背中に持っていくところだった。

しかし幸いなことに、この世界で初めて出会う人間は、敵意はおろか警戒心すら抱いていない、とでも言うようにただ不思議そうに首をかしげていた。

同い年くらいの少年と見えた。柔らかそうな濃いブラウンの髪を長めに垂らし、服装は俺と似たような生成りの短衣とズボンだ。巨樹の根元に腰を下ろし、背中を幹に預けている。

不思議なのは、その顔立ちだった。肌はクリーム色だが、西洋人とは言い切れず、かと言って東洋人でもない。線の細めな、穏やかな目鼻立ちで、瞳の色は濃いグリーンに見える。

こちらにも敵意のないことを示そうと、俺は何かを言うべく口を開いたが、さて何を喋ったものかさっぱり見当がつかない。間抜け面で何度か口をぱくぱくさせていると、先方のほうが先に言葉を発した。

「君は誰? どこから来たの?」

完璧なイントネーションの、それは日本語だった。

俺は、黒い巨樹を見たときと同じくらいの衝撃を受けてしばし立ち尽くした。別に白人が日本語をしゃべるのが珍しいというわけではなく、このどう見ても日本ではない世界で完璧な日本語を聴くとは思っていなかったのだ。中世西欧風の衣服を身に着けたエキゾチックな少年の口から聞きなれた母国語が流れ出る光景は、まるで吹き替えの洋画を見ているような非現実感を俺にもたらした。

だが、呆けている場合ではない。ここが思案のしどころなのだ。俺は、近頃錆びつき気味だった脳味噌を必死に回転させた。

 この世界がSTLの作り出した"アンダーワールド"だと仮定すると、目の前の少年は、一、ダイブ中のテストプレイヤーであり、俺と同じように現実世界の記憶を保持している、二、テストプレイヤーだが記憶の制限を受けており、この世界の住人になりきっている、三、コンピュータの動かしているNPCである、のいずれかだと推測できる。

一番なら話は早い。俺の置かれている異常状況を説明し、ログアウトする方法を教えてもらえばいい。

 しかし二番、あるいは三番の場合はそう簡単にはいかない。アンダーワールドの住民としてのみ行動している人間またはNPCに向かって、いきなりソウルトランスレーターの異常だのログアウト方法だのと彼にとっては意味不明であろう単語を口走れば、激しい警戒心を呼び覚ましその後の情報収集の妨げとなりかねないのだ。

よって俺は、安全そうな単語のみ選んで彼と会話を交わし、そのポジションを見極める必要があるのだった。掌に浮かぶ冷や汗をこっそりズボンで拭いつつ、俺は笑顔らしきものを浮かべながら口を開いた。

「お……俺の名前は……」

そこで一瞬口篭もる。果たしてこの世界では、和風と洋風どちらの名前が一般的なのだろう。どっちとも取れる響きであることを祈りつつ、名乗る。

「――キリト。あっちのほうから来たんだけど、ちょっと、道に迷ってしまって……」

背後、おそらく南の方角を指差しながらそう言うと、少年は驚いたように目を丸くした。身軽な動作で立ち上がり、俺が元来たほうを指差す。

「あっちって……森の南? ザッカリアの街から来たのかい?」

「い、いや、そうじゃないんだ」

早速の窮地に思わず顔がこわばりそうになるのを、どうにか我慢する。

「それが、その……俺も、どこから来たかよくわからないんだ……。気付いたら、この森に倒れてて……」

 おや、STLの異常かな? ちょっと待ってくれ、オブザーバーに連絡するから。――という返答を心の底から期待したが、少年は再度驚愕の表情を見せながら、俺の顔をまじまじと見ただけだった。

「ええっ……どこから来たかわからないって……今まで住んでた街とかも……?」

「あ、ああ……憶えてない。わかるのは、名前だけで……」

「……驚いたなあ……。"ベクタの迷子"か、話には聞いていたけど……本当に見るのは初めてだよ」

「べ、べくたのまいご……?」

「おや、君の街ではそう言わないのかい? ある日突然いなくなったり、逆に森や野原に突然現われる人を、このへんじゃそう呼ぶんだよ。闇の神ベクタが、悪戯で人間をさらって、生まれの記憶を引っこ抜いてすごく遠い土地に放り出すんだ。僕の村でも、ずーっと昔、お婆さんがひとり消えたんだって」

「へ、へえ……。じゃあ、俺もそうなのかもしれないな……」

雲行きが怪しいぞ、と考えながら俺はうなずいた。目の前の少年が、いわゆるロールプレイをしているテストプレイヤーであるとはどうにも思えなくなってきたからだ。最後の望みをかけて、言葉を選びつつ口を開く。

「それで……どうにも困ってるんで、一度ここを出たいんだ。でも、方法がわからなくて……」

これで状況を悟ってくれ、と必死に祈ったが、少年は同情するような光を茶色の瞳に浮かべ、頷きながら言った。

「うん、この森は深いからね、道を知らないと抜けるのは大変だよ。でも大丈夫、この樹から北に向かう道があるから」

「い、いや、その……」

ええいままよ、とやや危険な単語をぶつけてみる。

「……ログアウトしたいんだ」

一縷の望みをかけたその言葉に、少年は大きく首を傾げ、聞き返した。

「ろぐ……なんだって? 今、何て言ったんだい?」

 これで確定、と見てよさそうだった。目の前の少年は、テストプレイヤーにせよNPCにせよ完全にここの住人であって、"仮想世界"などという概念は持っていないのだ。俺は失望を顔に出さないよう気をつけながら、どうにか誤魔化すべく言い足した。

「ああ、ご、御免、土地の言い回しが出ちゃったみたいだ。ええと……どこかの村か街で泊まれる場所を見つけたい、っていう意味なんだ」

我ながら苦しすぎる、と思ったが少年は感心したように頷くのみだった。

「へえ……。初めて聞くなあ、そんな言葉。黒い髪もこのへんじゃ珍しいし……もしかしたら南国の生まれなのかも知れないねえ」

「そ、そうかもしれない」

強張った笑いを浮かべると、少年もにこっと邪気の無い笑顔を見せ、次いで気の毒そうに眉をしかめた。

「うーん、泊まれるところか。僕の村はこのすぐ北だけど、旅人なんてまったく来ないから、宿屋とか無いんだよ。でも……事情を話せば、もしかしたら教会のシスター・アザリヤが助けてくれるかもしれないな」

「そ……そうか、よかった」

その言葉は本心だった。村があるなら、そこにはもしかしたらラースのオブザーバーが常駐しているか、あるいは外部からモニターしている可能性もある。

「それじゃあ、俺は村に行ってみるよ。ここからまっすぐ北でいいの?」

視線をうごかすと、確かに俺がやってきた方向とほぼ反対側に、細い道が伸びているのが見えた。

が、足を踏み出すより早く、少年が左手で制する仕草をした。

「あ、ちょっと待って。村には衛士がいるから、いきなり君が入っていったら説明するのが大変かもしれない。僕が一緒に行って事情を説明してあげるよ」

「それは助かるな、ありがとう」

 俺は笑みとともに礼を言った。同時に内心で、どうやら君はNPCじゃないね、と呟いていた。

 プリセット反応しかできない擬似人格プログラムにしてはあまりにも受け答えが自然すぎるし、俺に積極的に関わろうとする行動もNPCらしくない。

六本木にあるラース開発支部か、あるいはベイエリアのどこかにあるというラース本社のどちらでダイブしているのかわからないが、目の前の少年を動かすフラクトライトの持ち主はかなり親切な性格なのだろう。無事に脱出できた暁にはきちんと礼を言うべきかもしれない。

などと考えていると、少年が再度顔を曇らせた。

「ああ……でも、すぐにはちょっと無理かな……。まだ仕事があるから……」

「仕事?」

「うん。今は昼休みなんだ」

ちらりと動いた瞳の先を見ると、少年の足元の布包みから、丸いパンらしき固まりがふたつ覗いていた。その他には革の水筒がひとつあるだけで、昼ご飯だとするとえらく質素なメニューだ。

「あ、食事の邪魔をしちゃったのか」

俺が首をすくめてそう言うと、少年ははにかむように笑った。

「仕事が終わるまで待っててくれれば、一緒に教会まで行ってシスター・アザリヤに君を泊めてくれるよう頼んであげられるけど……まだあと四時間くらいかかるんだ」

 一刻も早く村とやらに飛んでいき、この状況を説明できる人物を探したいのはやまやまだが、また薄氷を渡るような会話を繰り返すのは勘弁という気持ちのほうが大きかった。四時間というのは短くないが、STLの時間加速機能を考えれば現実では一時間強ていどしか経過しないはずだ。

それに、何故だかわからないが、もう少しこの親切な少年と会話をしてみたいという気分もあった。俺はこくりと頷きながら言った。

「大丈夫、待ってるよ。すまないけど、よろしく頼む」

すると、少年はにこっと大きく笑い、頷き返した。

「そう、じゃあ、ちょっとそのへんに座って見ててよ。あ……まだ、名前を言ってなかったね」

右手をぐっと差し出し、少年は続けた。

「僕の名前はユージオ。よろしく、キリト君」

* 法と秩序の究極的体現者たる整合騎士が、同じく善性の象徴であるドラゴンを殺す。それは、これまでの十一年の人生において一度として世界の仕組みを疑ったことのないユージオにとって、容易に受けいれることのできない概念だった。飲み込むことも、噛み砕くこともできない疑問にしばらく苦しんでから、答えを要求するように傍らの相棒に視線を送る。

「……わからない」

キリトの言葉も、しかし大いなる混乱に彩られていた。

「もしかしたら……闇の国にもすごい強い剣士がいて、そいつがドラゴンを殺したのかもしれないし……。でも、そんなことがあったなら……今までに、闇の軍勢が山を越えて攻め込んできたりしててもおかしくないはずだ。――少なくとも、宝を狙った盗賊の仕業とかじゃないみたいだけど……」

言葉を切ると、キリトはドラゴンの遺骸に歩み寄り、重なり合う青い骨の底のほうから何か長い物を掴み上げた。

「うお……めちゃくちゃ重いな……」

ふらふらよろけながら両手で支えたそれを、ユージオとアリスに示す。白革の鞘と、白銀の柄を持つそれは一振りの長剣だった。鞘の口金付近には非常に精緻な青い薔薇の象嵌が施してあり、一目で村にあるどの剣よりも価値の高いものだということが分かる。

「あっ……これ、もしかして……」

アリスが息を飲みながらそう囁くと、キリトはこくりと頷いた。

「ああ。ベルクーリが、寝てるドラゴンの懐から盗み出そうとしたっていう"青薔薇の剣"だろうな。……うぐ、もう限界だ」

顔を歪めたキリトが両手をはなすと、長剣は重く鈍い音を立てて足元に落下した。分厚い氷の床にぴしりと細いひび割れが入ったところを見ると、華奢な見た目からは想像もつかないくらいの重量があるらしい。

「……どうするの、これ?」

「無理無理、俺たちじゃとても持って帰れないよ。あんな木こり斧ですら毎日ひいこら言ってるんだから。それに……他にも、骨の下にいろいろお宝があるみたいだけど……」

「……うん、とても、何か持っていく気にはならないわね……」

揃って青い骨の山を眺め、三人は同時に頷いた。寝ているドラゴンの目をかすめて何か小さなものを攫ってくる、なら他の子供たちに大いに自慢できる冒険話だが、この場所から宝物を持っていけばそれは単なる墓荒しだ。薄汚い野盗の所業である。

ユージオは改めて二人の顔を見て、こくりと頷きかけた。

「予定どおり、氷だけ持っていくことにしよう。それなら、もしドラゴンが生きてたとしても許してくれたよ、きっと」

言って、すぐそばの氷柱に歩み寄ると、その根元から新芽のように無数に伸びる小さな氷の六角柱を靴で蹴飛ばす。ぽきんと心地いい音とともに砕け落ちたいくつかの氷塊を拾い上げ、差し出すと、アリスは空になったバスケットの蓋を開け、それを中に収めた。

三人はしばらく無言で、氷の欠片を作ってはバスケットに詰め込む作業に没頭した。巨大な氷柱の根元がきれいになると、次の柱へ移り、また同じことを繰り返す。三十分も続けるうちに、大きなバスケットは、青く透きとおる宝石にも似た結晶でいっぱいになった。

「よい……しょ、っと」

掛け声とともにバスケットを持ち上げたアリスは、しばし腕のなかの光の群に見入った。

「……きれい。なんだか、持って帰って溶かしちゃうのが勿体無いね」

「それで、俺たちの弁当が長持ちするならいいじゃないか」

即物的なキリトの台詞にしかめ面を作り、アリスはバスケットをぐいっと黒毛の少年に差し出す。

「え、帰りも俺が持つの?」

「当たり前じゃない。これ結構重いんだから」

例によって軽口の応酬を始めそうになる二人を、苦笑しながら押しとどめて、ユージオは言った。

「交替で僕も持つよ。――それより、そろそろ戻らないと、夕方までに村に着けなくなりそうだ。もうこの洞窟に入ってから一時間近く経つんじゃない?」

「ああ……太陽が見えないと、時間がよくわからないな。魔法でなんかないの? 今が何時だかわかるようなの」

「ありませんよーだ!」

アリスはついっと顔をそむけると、広い氷のドームの一方に見える細い出口のほうを眺めた。

次に、振り返ると、真反対の方向にある、もうひとつの出口を見た。

そして、眉をしかめながら言った。

「――ねえ、私たち、どっちから入ってきたんだっけ?」

ユージオとキリトは同時に、自信たっぷりにもと来た方向を指差した。それぞれ、別の出口を。


三人の足跡がついているはずだ、という意見(滑らかな氷面にはくぼみひとつなかった)、湖から水が流れ出しているほうが出口だ、という意見(両方ともに流れ出していた)、ドラゴンの頭骨が見ているほうが出口だ、という意見(キリトが提唱し他の二人に却下された)などなどがおよそ十分のあいだに空しく消えていったあと、ついにアリスが見込みのありそうなアイデアを述べた。

「ほら、ユージオが踏み割った、氷の張った水たまりあるじゃない。出口からちょっと進んでみて、それがあったら当たりよ」

なるほど言われてみればそのとおりである。自分が思いつけなかったことに少しバツの悪い思いをしながら、ユージオは頷いた。

「よし、そうと決まれば、近いほうから行ってみよう」

「俺はあっちだと思うけどなあ……」

まだ未練がましくぶつぶつ言っているキリトの背中を押し、右手に持つ草穂を掲げ直して、目の前の水路へと足を踏み込む。

灯りを乱反射する氷の柱が周囲になくなると、あれほど頼もしかった魔法の光も、はなはだ心許ないものに感じられた。三人の歩調も、ついつい速くなってしまう。

「……まったく、帰り道が分からなくなるなんて、まるで昔話のべリン兄弟だな。俺たちも、道に木の実を撒いておけばよかったな。洞窟には食べる鳥もいないし」

どことなく空元気を感じさせるキリトの軽口に、この呑気な相棒でも不安になったりすることがあるのか、とユージオは逆に少し可笑しくなった。

「何言ってんだ、木の実なんて持ってなかったくせに。今からでも教訓を活かしたいなら、分かれ道ごとにお前の服を置いていこうか?」

「やめてくれ、風邪ひいちゃうよ」

わざとらしくくしゃみの真似をしてみせるキリトの背中を、アリスがどんと叩く。

「ちょっと、バカなこと言ってないで、ちゃんと地面を見てよね。もし見落としたら大変なんだから……って、言うよりも……」

そこで言葉を切り、きゅっと弓形の眉をしかめる。

「ねえ、だいたいこれくらいの距離じゃなかった? まだ割れた氷なんてないわよ……。やっぱり、反対側だったのかしら?」

「いやあ、もうちょっと先だろ? ……あ、ちょっと、静かに」

不意にキリトが唇に指をあてたので、ユージオとアリスは言いかけた言葉を飲み込んだ。言われるままに、耳を澄ませる。

とうとうとひそやかに流れる地下水のせせらぎに混じって、確かに、何か別の音が聞こえた。高くなったり低くなったりする、物悲しい笛のような響き。

「あっ……風の音?」

アリスがぽつりと呟いた。確かにこの音は、樹の梢が奏でる風鳴りに似ている、とユージオも思った。

「外が近いんだ! こっちで良かったんだよ、急ごう!」

安堵とともにそう叫び、半ば走り出すように前進を再開する。

「ちょっと、急ぐと転ぶわよ」

そう言いながらも、アリスの足取りも軽やかだ。その後ろを、首をひねりながらキリトがついてくる。

「でも……夏の風があんな音出すかなあ? なんか……冬の木枯らしみたいな……」

「谷風ならあれくらい強く吹くよ。とにかく、とっととこんな所出ようよ」

右手の灯りを激しく揺らしながら、ユージオは小走りで進んだ。いつのまにか、早く村に、見慣れた家に戻りたいという気持ちが大きく膨らんできていた。アリスから氷をひとかけら貰って、母さんに見せたら、さぞかし驚くことだろう。今日一日のとんでもない冒険は、しばらく夕食の話題を独占するに違いない。

 やっぱり、古い銀貨のひとつくらい持ってきてもよかったかな……と考えたそのとき、はるか前方の闇の中に、ぽつんと小さな光が見えた。

「出口だ!」

大声で叫んでから、まずいなあ、と思った。光が、どことなく赤く染まって見えたからだ。洞窟に入ったのがちょうどお昼、中で過ごしたのはせいぜい一時間と少しだと思っていたが、思いのほか長く地下世界に潜りすぎていたようだった。もうソルスが西に傾きはじめているのだとしたら、かなり急いで帰らないと夕食までに村に着けないかもしれない。

ユージオは一層走る速度を上げた。甲高い風鳴りの音は、もう川音を圧する大きさで洞窟内に反響している。

「ねえ……ちょっと、待って! おかしいわよ、もう夕方なんて……」

 すぐ後ろを走るアリスが不安そうな声を上げた。しかし、ユージオは足を止めなかった。冒険はもう充分だ。今は、一刻も早く家に帰りたい――。

右に曲がり、左に曲がり、もういちど右に曲がったところで、ついに三人の視界をさあっと赤い光が覆った。数メル先に出口があった。闇に慣れた目を思わず細めながら、スピードを落とし、さらに数歩進んで、止まる。

洞窟はそこで終わっていた。

しかし、眼前いっぱいに広がっているのは、ユージオの知っている世界ではなかった。

 空が一面真っ赤だ。だが、夕陽の色ではない。そもそも、どこにもソルスの姿がない。熟しすぎた鬼すぐりの汁を垂らしたような――あるいは、古い血をぶちまけたような、鈍く沈んだ赤。

対して、地上は黒い。彼方に見える異常に鋭い山脈、手前に広がる丘を覆う奇妙なかたちの岩、ところどころに見える水面までが、消し炭のような黒に染まっている。ただ、あちこちにまとまって生えている枯れ木の肌のみが、磨かれた骨のように白い。

 すべてを切り裂くように吹きすさぶ風が、枯れ木の梢を震わせて、物悲しい叫び声を長く響かせた。それに乗って、どこか遠くから別の音が――もしかしたら、何か大きな獣のうなり声のようなものが、三人の足元まで届いてくる。

 こんな場所が、こんなすべての神に見放されたような世界が、ユージオ達の暮らす人間の国であるはずがなかった。ならば、これは――三人がいま見ている、この光景は――。

「ダーク……テリトリー……」

わずかに震えるキリトの呟き声を、たちまちのうちに風がさらっていった。

 神聖教会の威光が及ばない場所、闇神ベクタを奉ずる魔族の国、絵本や老人たちの昔話の中にしか存在しないと思っていた世界が、今ほんの数歩先にある。そう思っただけで、ユージオは、骨の髄まで竦み上がった。まるで、生まれてはじめて触れる情報が、いままで使われることのなかった心の区画に大量に流れ込むことで、自身の思考を処理することができなくなってしまった――とでも言うように。

 禁忌……教会の禁忌がすぐ手の届くところにある。目録の最初のページに載っている、『果ての山脈を越えて闇の国に入ることを禁ずる』という文字列が、頭の中で凶悪なまでに輝きながらスクロールしてゆく。

「だめだ……これ以上、進んじゃ……」

ユージオは、どうにか口を動かして、言葉を絞り出した。両手を広げて、背後のキリトとアリスを下がらせようとする。

その時だった。何か、金属を打ち鳴らすような音が、かすかに上のほうから響いてきて、ユージオはハッと息をのんだ。反射的に、赤い空を振り仰ぐ。

 血の色を背景に、白いものと黒いものが絡み合っているのが見えた。豆粒のように小さいが、それは恐ろしく高いところを飛んでいるせいだ。実際の大きさは、人間をはるかに超えるだろうと思われた。二つの何か――何者かは、激しく位置を入れ替えながら、離れ、また近づき、交錯した瞬間に断続的な金属音を響かせる。

「竜騎士だ……」

隣で同じように空を見上げていたキリトが囁いた。

相棒の言うとおり、二つの飛行体は、長い首と尾、三角形の両翼を持った巨大な飛竜のようだった。そしてその背には、剣と盾を構えた騎手の姿が確かに見てとれる。白い竜に乗るのは白銀の鎧、黒い竜には漆黒の鎧の騎士。握る剣すら、白の騎士のものはまばゆい光芒を、黒の騎士のものはよどんだ瘴気を放っている。

二騎の竜騎士が剣を打ち合わせるたびに、雷のような金属音が鳴り響き、大量の火の粉が宙を舞った。

「白いほうが……教会の整合騎士、なのかしら……」

アリスの呟きに、キリトが同じくかすれる声で答えた。

「だろう……な。黒いのは……闇の軍勢の騎士、なのかな……。整合騎士と、互角の強さだな……」

「そんな……」

ユージオは、我知らず、そう漏らしていた。

「整合騎士は、世界最強なんだ。闇の騎士なんかに、負けるはずないよ」

「どうかな。見たとこ、剣技には差がないぞ」

キリトが言った、その直後だった。まるでその声が聞こえでもしたかのように、白い騎士は竜の手綱を引いて距離を取った。黒い竜が追いすがろうと大きく羽ばたく。

だが、両者の距離が縮まる前に、くるりとターンした白い竜が長い首をぐっとたわめ、一瞬力を溜めるような動作をした。その首が前に突き出されると同時に、大きく開かれたあぎとから青白い炎の奔流がほとばしり、黒い竜騎士の全身を包んだ。

ごう、とかすかな音がユージオの耳を打った。黒い竜は苦しそうに身をよじり、空中でぐらりと傾く。その隙を逃さず、整合騎士は突進すると、大きな一振りで敵の剣を弾きとばし、返す刀で黒騎士の胸を深く刺し貫いた。

「あっ……」

アリスが悲鳴にも似た小さな声を上げた。

黒い竜は、翼のほとんどを炎に焼かれ、飛翔力を失ってくるくる回りながら宙を滑った。その背中から振り飛ばされた黒騎士は、流れ出る血飛沫の尾を引きながら、まっすぐにユージオ達が隠れている洞窟めざして落下してくる。

まず、黒い剣が乾いた音を立てて砂利混じりの地面に突き立った。次いで、三人からほんの五メルほど離れた場所に、どさりと黒騎士が墜落した。最後に、かなり遠いところに黒い竜が落ち、長く尾を引く断末魔の声とともに動かなくなった。

凍りついた三人が声もなく見守るなか、黒騎士は苦しそうにもがき、上体を起こそうとした。鈍く輝く金属鎧の胸部に、醜い孔が深く穿たれているのが見えた。騎士の、分厚い面頬に覆われてまったく肌の見えない顔がまっすぐユージオたちのほうに向けられた。

ぶるぶると震える右手が、まるで助けを求めでもするかのように伸ばされる。が、直後、鎧の喉元から大量の鮮血が迸り、騎士はがしゃんと音を立てて地面に沈み込んだ。みるみる赤い液体が広がり、黒い瓦礫の隙間に飲み込まれていく。

「あ……あ……」

ユージオの右側で、アリスが細い声を漏らした。まるで吸い込まれるような足取りで、ふらり、と前に出る。

ユージオは動けなかった。だが、左側でキリトが「だめだっ!!」と低く、鋭く叫び、手を伸ばした。

しかし、アリスの左手を掴もうとしたその指はぎりぎりのところで空を切った。アリスの靴が、奇妙なほどにくっきりとした、洞窟の灰色の岩と、闇の国の黒い地面の境界線を一歩踏み越え、じゃりっと音を鳴らした。

その瞬間、遥か上空を旋回していた白い飛竜が、耳をつんざくような鋭い咆哮を放った。

ユージオとキリトがハッと空を振り仰ぐ。同時に、竜の背に跨る白銀の騎士が、確かにこちらを見下ろした。兜の面頬に十字型に切られた隙間から、凍てつくような眼光が降り注ぎ自分を貫くのを、ユージオははっきりと感じた。

キリトはぎりっと歯を鳴らすと、再び手を伸ばしてアリスの腕を握り、短く叫んだ。

「走れ!!」

そのまま身を翻し、洞窟の奥目指して猛然と駆け出す。

ようやく我に返ったユージオは、いまだ頬を蒼白にしたままのアリスのもう一方の腕を取ると、キリトに並んで懸命に走った。


どのようにしてルーリッドの村まで戻ったのか、ユージオはよく憶えていない。

ドラゴンの骨が眠るドームに戻るとそこを突っ切り、反対側の出口に飛び込んで更に走った。濡れた岩に足を取られ、何度も滑りながらも、来たときの数分の一の時間で長い洞窟を駆け抜け、ようやく見えた白い光の中に飛び出すと、そこはまだ午後の陽光がさんさんと降り注ぐ森のとばぐちだった。

しかしユージオたちを捉えた恐慌は容易に消えなかった。今にも、背後の山脈を飛び越えてあの白い騎士が追ってくるのではと思うと気が気ではなかった。

小鳥たちが平和に鳴き交わす木々の下、小魚の群が行き来する透明な流れのほとりを、三人は言葉も無く懸命に歩いた。ユージオの耳にはずっと、アリスの靴が黒い瓦礫を踏み締める音と、直後の飛竜の咆哮が繰り返し鳴り響いていた。

 息を切らしながら北ルーリッド橋までたどり着き、土手を上がって見慣れた古樹の下に出たときの安堵はとても言葉にできなかった。三人は顔を見合わせると、ようやく小さな笑みを交わした。――相当に強張ったものであったことも確かではあるが。

本物の夕焼けのなかを歩いて村の広場まで戻り、そこで三人は別れた。

 ぎりぎり間に合った夕食の席で、ユージオはずっと無言だった。兄や姉の誰も、今日のような冒険をしたものはいないだろうという確信があったが、何故か自慢する気にはならなかった。この目で闇の王国を見たこと――整合騎士と闇の黒騎士のすさまじい戦い、そして最後に感じたあのいかづちのごとき眼光を言葉にすることはとてもできないと思えたし、またそれを話したとき、父や祖父がどのような反応を見せるのか知るのが怖かったのだ。

その夜、早々にベッドに入ったユージオは、冒険の最後に見たもののことはすべて忘れようと思った。そうでもしなければ、これまで神聖教会と整合騎士に抱いてきた畏敬と憧れが、違うものにすりかわってしまいそうだった。


 ソルスが沈み、昇り――そしてまた、何も変わることのない日常へ。

いつもなら休息日の翌朝に仕事場へ向かうときは少しばかり憂鬱になるのだが、今日だけは、ユージオは何故かほっとする心境だった。冒険はもう当分いいや、しばらくは真面目に木こり稼業に励もう、と思いながらてくてくと村の南へ歩き、麦畑と森の境界でキリトと合流する。

長年付き合った相棒の顔にも、ほんのわずかな安堵感が浮かんでいるのをユージオは気づいた。そして向こうもユージオの顔に同じものを見たらしい。二人でしばし、照れ隠しの笑みを浮かべる。

森の細道に少し入ったところにある小屋から竜骨の斧を取り出し、さらに数分歩いて、ギガスシダーの根元に達した。巨大な幹にほんの少し刻まれた斧目も、今はユージオに、変わらぬこれまでとこれからの日々を思わせた。

「よし。今日も、いい当たりの少なかったほうがシラル水をおごるんだからな」

「最近ずっとそっちが持ってるんじゃないか、キリト?」

もう儀式のごとくなっている軽口を叩きあい、ユージオは斧を構える。最初の一発が、コーン、という最高の音を響かせたので、今日はきっといい調子だ、と思う。

 午前中、二人は常にない高確率で、巨樹の幹に会心の一撃を打ち込みつづけた。その理由のなかに、もし斧打ち中に集中力を失うと、脳裏に昨日見たあの光景が甦ってしまいそうだから――というものがあったことは否定できないが。

連続五十発の斧打ちを、それぞれ九回ずつこなしたところで、ユージオの胃がぐう、と鳴った。

汗を拭いながら頭上を振り仰ぐと、ソルスはすでに中天近くにまで登っていた。いつもなら、あと一回ずつ斧を握ったところで、アリスが弁当を持って現れる時刻となる。しかも今日は、ゆっくり食べられるパイに、きんきんに冷えたミルクつきだ。想像するだけで、空っぽの胃がきりきりと痛くなる。

「おっと……」

あまり昼ご飯のことばかり考えていると、せっかくリードしているいい当たり数を減らしてしまう。ユージオは濡れた両手をズボンでごしごし擦り、慎重に斧を握りなおした。

突然、日差しがサッと翳った。

通り雨かな、面倒だなあ、と思いながらユージオは顔を上げた。

四方八方に広がるギガスシダーの枝を透かして見える青い空、そのかなり低いところを、高速で横切る黒い影が見えた。心臓が、ぎゅうっとすくみ上がる。

「ドラゴン……!?」

ユージオは思わず叫んでいた。

「おい……キリト、今のは!!」

「ああ……昨日の……整合騎士だ!!」

相棒の声も、深い恐怖に凍り付いていた。

二人が立ち尽くし、見守るなか、白銀の騎士を背に乗せた飛竜は、樹々の梢を掠めて飛び去り、まっすぐルーリッドの村の方向へと消えていった。

一体なぜ、こんなところに。

鳥や虫たちまでもが怯えて黙り込んだ完全な静寂のなか、ユージオは繰り返しそう考えた。

整合騎士は、教会に仇なすものを成敗する秩序の守護者である。帝国内に組織だった反乱集団など存在しない現在、整合騎士の敵はもはや闇の軍勢以外には居ない。ゆえに、騎士達は常に果ての山脈の外を戦場にしていると聞いていたし、実際にユージオは昨日その光景を己の目で見た。

 そう、整合騎士を実際に見たのはあれが初めてだったのだ。生まれてこのかた、村に騎士がやってきたことなど一度もない。なのに、なぜ今――。

「あっ……まさか、アリスを……」

隣でキリトが呟いた。

それを聞いた途端、ユージオの耳のおくに、あの時聞いた短い音が鮮明に甦った。じゃりっ、という、炭の燃え殻を潰すような、古いコインを擦るような、不快な音。アリスの靴が、闇の国の石を踏み締める音。冷たい水でも垂らされたかのように、背筋がぞくりと寒くなる。

「うそだろ……まさか、あんな……あれだけのことで……」

同意を求めるべく、そう言い返しながらキリトの顔を見たが、相棒は常にない厳しい表情でじっと騎士の飛び去った方向を睨んでいた。しかしそれも数瞬のことで、キリトはまっすぐにユージオの目を見、短く言った。

「行こう!」

何のつもりかユージオの手から木こり斧をもぎ取ると、もう振り向くこともなく一直線に走り出す。

「お……おい!」

何か、大変なことが起きる。そんな予感をひしひしと感じながら、ユージオも地面を蹴り、懸命にキリトの後を追った。

勝手知ったる森の小道を、木の根や穴を避けながら全力で駆け抜け、麦畑を貫く街道へ合流する。村の方向を仰ぐが、すでに晴れた空に整合騎士の姿は無かった。

キリトはわずかにスピードを緩め、青く色づく麦穂の間でぽかんと空を見上げている農夫に向かって怒鳴った。

「リダックのおじさん! 竜騎士はどっちへ行った!?」

農夫は、白昼夢から醒めたかのような顔でユージオ達を見ると数回まばたきし、ようやく答えた。

「あ……ああ……どうも、村のほうへ降りたようじゃが……」

「あんがと!!」

礼を言うのももどかしく、二人はふたたび全速力で走り出す。

街道や畑の所々で、村人たちが一人あるいは数人で固まり立ち尽くしていた。恐らく、古老たちの中にさえ実際に整合騎士を見たことがある者はいないのだろう。皆、巨大な飛竜を目の当たりにし、どうしていいのかわからない、とでも言うように混乱した表情で凍り付いている。

村の南にかかる橋を渡り、短い買い物通りを駆け抜け、もうひとつ小さな橋を越えたところで、二人はハッとして立ち止まった。

円形の教会前広場の北半分を、白い飛竜の長い首と尾が弧を描いて占領していた。

大きな翼は二つの塔のように体の両側に畳まれ、教会の建物をほとんど隠してしまっている。無数の鱗と各部に装着された鋼の鎧がソルスの光を跳ね返し、まるで氷の彫像のようだ。そこだけが血のように紅い両の眼のおくで、獣らしさのない縦長の瞳孔が地上を見下ろしている。

そして、竜の前に、さらに眩く輝く白銀の騎士の姿があった。

村の誰よりも巨躯だ。鏡のように磨かれた重鎧を一部の隙もなく全身に着込み、関節部分すら細かく編んだ銀鎖で覆われている。竜の頭部を象った冑は、額の部分から前に一本、両脇から後ろへ二本の長い飾り角が伸び、がっちりと下ろされた巨大な面頬が騎士の顔をすべて隠している。

間違いなく、昨日ユージオたちの隠れ見るなか闇の竜騎士を屠ってのけたあの整合騎士だった。面頬に切られた十字の窓から迸った氷のような眼光が脳裏に甦る。

広場の南端には、数十人の村人が押し集まり、こうべを垂れていた。その一番うしろに、バスケットを下げたアリスの姿を見つけ、ユージオはわずかに肩の力を抜いた。いつものように青いドレスに白いエプロンのアリスは、大人たちの隙間から目を丸くして騎士に見入っている。

キリトとふたり、物陰をつたうようにこっそり移動し、どうにかアリスの後ろまでたどり着くとそっと声をかけた。

「アリス……」

少女は金髪を揺らしてくるりと振り向くと、何か言おうと唇を開く。そこへキリトが自分の口に指をあて、小さくしっ!と囁く。

「アリス、静かに。今のうちに、ここから離れたほうがいい」

「え……なんで?」

同じくひそひそ声で答えるアリスは、自分の身に脅威が迫っているとはまるで考えていないようだった。もしかしたら、昨日の、あの黒騎士が目の前に落ちて息絶えた瞬間のことをあまり覚えていないのかもしれない、とユージオは考える。

「いや……もしかしたら、あの整合騎士は……」

そのあとをどう説明したものか、ユージオが一瞬迷った。そのときだった。

 村人たちのあいだに、かすかなざわめきが走ったので顔を上げると、広場の東入り口――村役場の方向から、一人の背の高い男が歩いてくるところだった。

「あ……お父様」

アリスが呟く。確かに、男はルーリッドの現村長、ガスフト・ツーベルクだった。引き締まった体を簡素な革の胴衣に包み、黒々とした髪と口もとの髭はきれいに切り揃えられている。炯炯とした鋼のような眼光は、前村長から職を引き継いでたったの四年ですでに全村民の尊敬を集める名士に相応しいものだ。

背後に助役を従えたガスフトは、臆することなく整合騎士の前まで歩み寄ると、教会の作法に従って体の前で両手を組み、一礼した。

「ルーリッドの村長を務めますツーベルクと申します」

頭を上げると、びんと張りのある声で名乗る。

ガスフトよりも拳ふたつぶんほども背の高い整合騎士は、かすかに鎧を鳴らしながらゆっくりした動作で頷くと、そこではじめて声を放った。

「ノーランガルス北方第七辺境区を統括する整合管理騎士デュソルバート・シンセシス・セブンである」

村長ほどには深みも、響きもある声ではなかった。まるで教会のオルガンの共鳴管に口をくっつけて喋ったような、いんいんとした金属質の尾を引く、どちらかと言えば不快な声だった。しかしその言葉は、耳ではなく額を突き抜けて頭のなかで響いたかのごとく体の芯まで届き、ユージオは顔を歪めた。見れば、ガスフトも気圧されたかのごとくわずかに身を仰け反らせている。

「……して、騎士殿がこの小村にいかなる御用でしょう」

流石の胆力を見せ、村長は再度堂々たる言葉を発した。

が、それも、整合騎士が次の声を響かせるまでのことだった。

「ガスフト・ツーベルクが三子、アリス・ツーベルクを、禁忌条項抵触の罪により捕縛連行し審問ののち処刑する」

村長の逞しい上体が一度、激しく震えた。ユージオの位置からわずかに見える横顔がはっきりと歪んだ。

長く続いた沈黙のあと、ガスフトの、さすがに艶を失った声が流れた。

「……騎士様、娘がいったいどのような罪を犯したというのでしょう」

「禁忌目録第一条第四項、ダークテリトリーへの侵入である」

そこではじめて、今まで声も無くやりとりに聞き入っていた村人の間にかすかなざわめきが走った。何人もの大人たちが、口々に教会の聖句を呟き、素早く聖印を切る。

ユージオとキリトは、反射的にアリスの体を騎士の視線から隠そうとした。が、それ以上動くことはできなかった。

ユージオの頭のなかでは、どうしよう、どうしよう、というその言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。なんとかしなくては、という恐慌が突き上げてくるものの、しかし何をしていいのかはわからないのだった。

村長は、整合騎士の前で深く頭を垂れたまま、しばらく動かなかった。

大丈夫、あの人なら何とかしてくれる、とユージオは思った。ガスフト村長と話したことはそれほど多くないが、静かで厳しい物腰、筋の通った知性的な考え方は、じゅうぶんに尊敬すべきものだと感じていた。

 しかし――。

「……それでは、いま娘を呼びにやりますので、本人の口から事情を聞きたいと思います」

掠れた声で、村長はそう言った。

だめだ、アリスを騎士の前に出したらいけない。ユージオがそう思ったのも束の間、整合騎士はがしゃりと鎧を鳴らして右手を上げた。その指先が、まっすぐに自分のほうを指しているのを見て、ユージオの心臓は縮み上がった。

「その必要はない。アリス・ツーベルクはそこにいる。お前――と、お前」

指を動かし、人垣の前のほうにいる男をふたり指す。

「娘をここに連れてこい」

ユージオの目の前で、さっと人の列が割れた。整合騎士と自分のあいだを遮るものが何もなくなり、ユージオはふたたび昨日の眼光を思い出して縮み上がりそうになる。今すぐ地面にうずくまり、騎士の視線を避けたい、そんな思いが湧き起こってくる。

空いた道を、顔見知りの村人ふたりがゆっくりと歩み寄ってきた。その肌は血の気を失い、また視線は奇妙なほどにうつろだ。

男達は、アリスの前に立ち塞がるキリトとユージオを有無を言わさず押しやると、両側からアリスの腕を掴んだ。

「あっ……」

アリスは小さく声を上げたが、気丈にもグッと唇を噛み締めた。いつものばら色が薄れた頬に、それでもかすかな笑みを浮かべ、大丈夫、というようにユージオたちの顔を見てこくりと頷く。

「アリス……」

キリトが言いかけた、その瞬間にぐいっと両腕を引かれ、アリスの右手からバスケットが落ちた。蓋が開き、中身が少し地面にこぼれる。

村人ふたりに引っ張り上げられるように、アリスは整合騎士の前へと運ばれていく。

ユージオは、落ちたバスケットをじっと見詰めた。

パイや固焼きパンは、きっちりと布に包まれ、その隙間をぎっしりと細かい氷が埋めている。一部は外に転がりだし、陽光を反射してきらきらと光っている。息を詰めて凝視するあいだにも、灼けた土の上で氷はたちまちのうちに溶け、ちっぽけな黒い染みへと変わっていく。

キリトが鋭く息を吸い込んだ。

きっと顔を上げ、引きずられていくアリスの後を追う。ユージオも歯を食いしばり、動こうとしない足を鞭打ってそれに続いた。

男二人は、村長の隣でアリスの腕を放すと、数歩下がり、そこに膝をついた。両手で聖印を組みながら深く頭を下げ、恭順の意を示す。

アリスは、強張った顔を父親に向けた。ガスフトは一瞬、沈痛な面持ちで娘を見下ろしたが、すぐに顔を背け、俯く。

整合騎士が手を伸ばし、飛竜の鞍の後ろから奇妙な道具を取り出した。太い鎖に、皮製のベルトが三本平行に取り付けられ、鎖の上端には金属の輪が備えられている。

騎士はじゃらりと音を立てながらその道具をガスフトに放った。

「村の長よ、咎人を固く縛めよ」

「…………」

村長が、手にした拘束具に視線を落とし、言葉を失ったその時、ようやくキリトとユージオは騎士の前に到達した。そこではじめて、騎士の兜が二人の方向を捉える。

輝く面頬に切られた十字の窓の奥は、深い闇に包まれていて何も見えなかったが、ユージオはそこから放射される視線の圧力を痛いほど感じた。反射的に俯き、すぐ左に立つアリスの方に少し顔を傾けて、何か声をかけようとしたが、やはり喉が焼きついたように言葉が出てこない。

キリトも同じように俯き、短い呼吸を繰り返していたが、やがてついに顔を上げると、震えながらも大きな声で叫んだ。

「騎士様!!」

もう一度大きく息を吸い、続ける。

「あ……アリスは、ダークテリトリーになんか入っていません! 石を、ほんの一つ踏んだだけなんだ! それだけなんです!」

騎士の答えは簡潔だった。

「それ以上どのような行為が必要であろうか」

連れて行け、というように、控えていた男二人に向かって手を振る。立ち上がった村人は、キリトとユージオの襟首を掴むと、後ろに向かって引きずりはじめた。それに抗いながら、キリトが尚も叫ぶ。

「じゃ……じゃあ、俺たちも同罪だ!! 俺たちも同じ場所にいた! 連れていくなら俺たちも連れていけ!!」

だが、もう整合騎士は二人には見向きもしない。

 そうだ……アリスが禁忌を犯したというなら、僕だって同じ罰を受けるべきた。ユージオもそう思った。心の底からそう思った。

しかしなぜか声が出ない。キリトと同じように叫ぼうとするのに、口の動かし方を忘れてしまったかのように、掠れた息しか吐き出すことができない。

アリスはちらりとこちらを振り返ると、大丈夫だよ、というふうに小さく微笑み、頷いた。

その細い体に、表情を失った父親が、後ろから禍々しい拘束具を回した。三本のベルトを、肩、腹、腰にそれぞれ固く締め付ける。アリスの顔がほんの少し歪む。最後に、太い鎖の下端についた手錠を手首に嵌め、ガスフトは娘を整合騎士に差し出した。騎士の握った鎖が、じゃらりと鳴った。

ユージオとキリトは広場の中央まで引き戻され、そこで跪かされた。

キリトはよろけた振りをしてユージオの耳に口を寄せ、素早く囁いた。

「ユージオ……いいか、俺がこの斧で整合騎士に打ちかかる。数秒間は持ちこたえてみせるから、そのすきにアリスを連れ出して逃げるんだ。麦畑に飛び込んで、南の森を目指せばそう簡単には見つからない」

ユージオは、まだキリトが握ったままだった古ぼけた木こり斧をちらりと見てから、どうにか声を絞り出した。

「……キ……キリト……でも」

 昨日、お前だって整合騎士のすさまじい剣技を見たじゃないか。そんなことをすれば、たちまちのうちに殺される……あの黒騎士のように。

声にできないユージオの思考を読み取ったかのごとく、キリトは続けて言った。

「大丈夫だ、あの騎士はアリスをこの場で処刑しなかった。多分、審問とやらをやらないと殺したりできないんだ。俺はどこかで隙を見て逃げ出す。それに……」

キリトの燃えるような視線の先では、整合騎士が拘束具の締まり具合を確認していた。ベルトを引っ張られるたびに、アリスの顔が苦痛にゆがむ。

「……それに、失敗してもそれはそれでいい。アリスと一緒に俺たちも連行されれば、助けるチャンスがきっとくる。でもここで、飛竜で連れていかれたらもう望みはない」

「それ……は……」

確かにその通りだ。

 しかし――その計画とも言えないような無謀な作戦は、つまるところ――“教会への反逆”ではないのだろうか? 禁忌目録第一条第一項に規定された、最大の背教行為。

「ユージオ……何を迷うことがあるんだ! 禁忌がなんだ!? アリスの命より大切なことなのか!?」

キリトの、抑えられてはいるが切迫した声が、びしりと耳朶を打つ。

そうだ。その通りだ。

ユージオは心のなかで、自分に向かって叫ぶ。

 キリトの言うとおりだ。僕たち三人は、生まれた年も一緒、そして死ぬ年も一緒と決めていたはずだ。常に助け合い、一人がほかの二人のために生きようと、そう誓い合ったはずだ。ならば、迷うことなんかない。神聖教会と、アリスと、どちらが大事か、だって? 答えなんか決まっている。決まっているはずだ。それは――それは――。

「ユージオ……どうしたんだ、ユージオ!!」

キリトが悲鳴にも似た声をあげる。

アリスがじっとこちらを見ている。気遣わしそうな顔で、そっと首を横に振る。

「それは……それ……は……」

自分のものではないような、しわがれた声が喉から漏れる。

だが、その先を言葉にすることができない。胸のなかですら、続く言葉が言えない。まるで、誰かが知らないうちに、心の奥に堅固なドアを作ってしまった、とでも言うかのように。

キリトの叫びに気づいた村長が、のろのろと腕を動かし、二人の背後に立つ男たちに向かって言った。

「その子供らを広場の外に連れていけ」

途端、ふたたび襟首を掴まれ、引きずり起こされる。

「クソッ……放せ!! ――村長!! おじさん!! いいのか!? アリスを連れていかせていいのか!!?」

キリトは狂ったようにもがき、男の手を振り払うと、斧を構えて突進しようとした。

が、いつのまにか近づいてきていた、更に数人の男たちが背後から飛び掛ると、キリトを地面に引き倒した。斧が手から離れ、石畳に擦れて火花を散らした。

「ユージオ!! 頼む!! 行ってくれ!!」

片頬を地面に押し付けられ、表情をゆがめながら、キリトが叫んだ。

「あ……うあ……」

ユージオの全身ががたがたと震える。

行け。行くんだ。斧を拾い、整合騎士に打ちかかるんだ。

心の片隅から、かすかな声がそう叫ぶ。だが、それを圧倒的な力で打ち消すもうひとつの声が、割れ鐘のようにがんがん鳴り響く。

神聖教会は絶対である。禁忌目録は絶対である。逆らうことは許されない。何人にも許されることではない。

「ユージオ――!! いいのかそれで!!」

整合騎士は、最早騒ぎには目も呉れずに、握った太鎖の先端の金属環を、飛竜の脚を覆う鎧から突き出した金具にがちりと留めた。飛竜が首を低く下げ、その背中の鞍に騎士は軽々とまたがる。全身の鎧が一際大きくがしゃりと鳴る。

「ユージオ――――!!」

血を吐くようなキリトの絶叫。

白い飛竜が体を起こし、畳んでいた翼をいっぱいに開く。二度、三度、大きく打ち鳴らす。

竜の脚に縛り付けられたアリスが、まっすぐにユージオを見た。微笑んでいた。その青い瞳が、さようなら、と言っていた。翼の巻き起こした風がゆわえた金髪を揺らし、騎士の鎧にも負けないほどにきらりと輝かせた。

しかしユージオは動けない。声も出せない。

両の脚から地面に深く根が張ってしまったかのように、わずかにも動くことができない。


(第一章 終)

*第四章


十字の窓枠を持つ窓のむこうに、四分割された青白い満月が見える。

アルヴヘイム南西部、シルフ領首都スイルベーンは重い夜の帳に包まれ、殆どの商店は鎧戸を下ろし灯りを消している。メインストリートを往来するプレイヤーの数さえもごく少ないのは、いまが現実時間の午前四時、接続者数が一日でもっとも減少するタイムゾーンだからだ。

アスナは右手を伸ばすと、湯気を立てるカップを取り上げ、濃いお茶を大きくひとくち飲み下した。眠気は感じないが、ここ三日まとまった睡眠を取っていないせいで頭の芯がわずかに重い。目を瞑り、軽く頭を振っていると、隣に座る黄緑の髪の少女が気遣わしそうに言った。

「大丈夫ですか、アスナさん? あんまり寝てないんでしょう?」

「ううん、わたしは平気。リーファちゃんこそ、あちこち飛び回って疲れてるでしょう」

「現実の体はいまベッドの上でしっかり休んでますから、大丈夫ですよ」

互いの声の端に、隠せない憔悴が滲んでいるのに気付き、顔を見合わせて小さな苦笑を交わす。

 桐ヶ谷直葉のALO内キャラクター、リーファが所有するプレイヤーホームの一室である。貝殻に似た光沢を持つ建材で造られた円形の部屋は、微妙に色彩を変え続けるランプで控えめに照らされ、どこか幻想的な雰囲気を醸している。中央にはパールホワイトのテーブルと四脚の椅子が設えられ、今はうち三つが埋まっている。

二人の会話を聞き、アスナの向かいに腰掛けた青い髪の少女が、両手の指をテーブルの上で組み合わせながら口を開いた。

「無理すると、頭も働かなくなるわよ。眠れなくても、目を閉じて横になってるだけで大分違うわ」

 落ち着いたその声の主は、ALOダイブ用に作成したアカウントでダイブ中の朝田詩乃だ。キャラクターネームもGGOと同じくシノンである。アスナは視線を上げ、こくりと頷いた。

「うん……ミーティングが終わったら、ここのベッドを借りてそうさせて貰うわ。ほんと、催眠魔法がプレイヤーにも効けばいいのにね」

「あたしなんか、条件反射なのか最近は、あの魔法の効果音聞くとなんだか眠くなりますけどね……。もっとも今は無理でしょうけど」

肩をすくめながらそう言うと、リーファは手に持っていたカップを置いて表情を改め、続けた。

「さて、それじゃまずは昨日調べたことの報告から始めましょう。結論から言うと、国際中央病院にお兄ちゃんが搬入された形跡はありません。書類上の記録も一切存在しないし、スタッフでお兄ちゃんを見たという人もいませんでした。病室も、入れる範囲で全て見て回ったんですが……」

その先は、かぶりを振ることで言葉に代える。つかの間、部屋に重い沈黙が落ちた。

リーファの兄である桐ヶ谷和人が、死銃事件の逃亡犯金本某に襲撃され倒れたのはほんの四日前のことだ。だが、その四日の間に、事態は誰も想像しなかった方向へと急転していた。

和人は、意識不明のまま突如失踪してしまったのである。

 アスナの家からほど近い東京都世田谷区宮坂の路上で、金本によって劇物サクシニルコリンを注射された和人は、急速に筋肉を麻痺させる薬の作用によって呼吸停止に陥った。救急車内で人工呼吸が施されたものの、酸素の供給が途絶えた心臓までもやがて停止し、近隣の世田谷総合病院に運び込まれた時点ですでにDOA――到着時死亡と分類される状態だったのだ。

 ERの当番医師の腕が良かったのか、和人の生命力が強靭だったのか、あるいは二人ともにその日の運勢が最良だったのか、救命措置の結果かろうじて心拍が戻り、薬物が分解されるに伴って自発呼吸も再開して、奇跡的に和人は死地を脱した。処置を終えて現われた医師にそれを聞いた明日奈は、安堵のあまり失神しそうになったのだが、続いた言葉がそれを許さなかった。

 和人の心停止は五分強に及び、その結果脳に何らかのダメージが発生した可能性がある、と医師は告げた。思考能力または運動能力、ことによるとその両方に恒久的な障害が残ることは充分考えられ、最悪の場合はこのまま目を覚まさないかもしれない――、と。

 詳しいことはMRIによる検査を行わないと何とも言えないので、早急にもっと設備の整った病院に移したい、と医師は締めくくり、明日奈は再度襲ってきた不安感と戦いながら和人の妹である直葉に連絡を取って、どうにか事情を説明した。結局、駆けつけた直葉の顔を見た途端また大泣きしてしまったのだが。

 やがて取材先から直行してきた和人の母・翠とともに、その夜はICU前のベンチで明かした。翌水曜朝、担当医にもう危険な状態は脱しましたからと説得されて、明日奈と直葉は病院から程近い明日奈の家に、翠は健康保険証などの用意のために川越の自宅に一時戻ることになった。

交替でシャワーを使い、それぞれの学校に欠席の連絡を入れてから、無理にでも仮眠しようと二人はベッドに横になった。ぽつぽつと言葉を交わすうちに数時間うとうととまどろみ、午後一時ごろ、明日奈は翠からの電話で目を覚ました。飛びついた携帯の向こうで、翠は、残念ながら和人の意識はまだ戻らないけれど、精密検査のために脳外科に定評のある港区の国際中央病院に移すことになった、と告げた。これから救急車が来て和人を搬送し、自分は退院手続きを済ませ次第タクシーで移動する、と言う翠に、私達もすぐに新しい病院に向かいますと明日奈は答えた。

昏睡状態の和人は、確かに水曜日の午後一時四十分前後、緊急搬出入口より救急車に乗せられ世田谷総合病院を出ている。これは、病院の防犯カメラにもはっきりと映像で記録されている。

 しかし、その救急車は、国際中央病院には現われなかった。消防庁の出動記録上に存在しない謎の救急車は、和人を乗せたまま、六月末の煙るような小糠雨に溶けて消えてしまったのだ……。

リーファの言葉をしばらく吟味してから、アスナはひとつ頷き、言った。

「なら、これでもう、患者の取り違えみたいな偶発的事故の可能性は完全に排除してよさそうね。元の病院にも、受け入れ先にも、それどころか東京23区内の中規模以上の病院のどこにも居ないんだから」

「世田谷から芝公園に行く道のどこかで救急車が事故を起こして、それに誰も気付かなかった、なんてことは有り得ないしね」

背もたれに体を預け、胸の上で腕を組んだ格好のシノンが、現実の彼女とよく似たややハスキーな声で続けた。

「――そもそも、二十三区内であの時間に世田谷総合病院に出動した救急車は一台も存在しない、っていうんだからこれはやっぱり周到に仕組まれた拉致なんだと思う。問題の救急車とそれに乗ってた救急隊員は、キリトを攫うための偽装だった……」

「でも……隊員のユニフォームはともかく、救急車をでっち上げるなんてそんな簡単にできるものなのかしら」

アスナが首をかしげると、リーファの声が割って入った。

「車に詳しい知り合いにそれとなく聞いてみたんですけど、病院関係者まで騙されるようなものを造るのは相当に難しいしお金も時間もかかるそうですよ。つまり……お兄ちゃんがあの日あの場所で金本に襲われて、世田谷総合病院に入院するなんて予測できた人がいるはずないし、失踪事件は入院のたった十八時間後なわけで……」

「キリト君が倒れたのを知ってから準備するのはほとんど不可能、ってことね」

アスナのその言葉がテーブルに落ち、しばし訪れた沈黙の中かすかな残響を残して消えた。

「でも……となると、どういうこと……? キリトが攫われたのはあくまで偶然で、誰でもいいから偽装救急車で患者を誘拐しようと計画してた奴がいた、ってこと?」

眉をしかめてシノンがそう呟く。しかしその推測も、ゆっくり横に振られるリーファの黄緑色のポニーテールに退けられた。

「ところが、それも無さそうなんです。ふつう、患者を搬送するときは、病院から管区の救急指令センターに救急車を要請する電話を入れるんですが、あの日は誰もその電話をしていないのに問題の偽救急車がぴったりのタイミングで現われたんですね。で、病院の人はみんな、自分以外の誰かが要請したんだと思っちゃったわけです。ところが、その救急車に乗ってた偽の救急隊員は、行き先の病院も、それどころかお兄ちゃんの名前も知ってたんですよ。最初に応対した看護師さんがそれは間違いないと言っています」

「……じゃあ、やっぱり最初からキリトを狙った、計画的犯罪なわけだ。つまり……犯人は、キリトが入院した途端その情報を入手できて、その上偽の救急車と救急隊員を一日足らずで用意できるような奴……」

「この際、もう、敵と呼ばせてもらうわ。大きくて強力な敵」

アスナが断固とした響きのある声でそう言うと、シノンはぱちくりと瞬きし、次いでごくかすかに笑みを滲ませた。

「私……今日ここに来るまで、二人がすごく落ち込んでるだろうって、結構心配してたんだけどな……。リーファにとっては勿論大事なお兄さんだし、アスナにとってはその、まあ、彼氏ってわけで……その人が意識不明の上に失踪しちゃったんだから……」

 思いがけないことを言われて、アスナが、そう言えばわたし思ったより打ちのめされてないな、キリト君が倒れた夜はあんなに泣いたのに……と内心で少し不思議に思っていると、リーファが両手を胸の前でぎゅっと握りながら口を開いた。

「そりゃ……やっぱり心配です。でも、あたし、お兄ちゃんが行方不明になったことは、前向きに考えようと思ったんです。……だって、こんな無茶苦茶な状況で失踪しちゃうからには、お兄ちゃんまた何かとんでもない事件に巻き込まれてるわけですよね。で、そういう時のお兄ちゃんは、絶対あたしの想像もつかない場所で大暴れしてるに決まってるんです。SAO事件のときも、死銃事件のときだってそうだった……だから、今度もきっと……」

「そう……その通りね」

やっぱり、長年一緒に暮らしてきた妹には敵わないなあ、と胸の中で呟きながらアスナは大きく頷いた。

「キリト君は、きっとどこかでいつもみたいに戦ってる。だから、わたし達も、わたし達にできる戦いをしよう」

それはそうと、とシノンをちらりと横目で見て続ける。

「シノのんもあんま落ち込んでるようには見えないよねー?」

「え……そりゃまあ……私の場合はほら、アイツを倒せるのは私だけだって信じてるから……」

ごにょごにょ、と語尾を飲み込むシノンと互いに微妙な視線を一瞬打ち合わせてから、アスナは話題を戻した。

「ともかく……敵の規模は相当に大きい、ってことだわ」

「警察はどうだったの? 昨日翠さんと一緒に行ったんでしょ?」

「もう、話を信じてもらうのさえすごい大変だったわ」

アスナは顔をしかめて答えた。

「最初は、そんな誘拐は有り得ない、何かの間違いだろうの一点張りで……。パニック状態の世田谷病院に電話してもらって、ようやく事件として捜査してくれることになったんだけど、正直どこをどう捜していいのか見当もつかない、って顔してたわ」

「まあ、それでも人手と設備は持ってるからね、警察って。キリトが言ってたけど、東京にはNシステムっていう、どの車がどこを通ったかぜんぶチェックする仕組みがあるんだって。偽救急車のほうはそれでかなり追跡できるんじゃないかな」

「だといいけど……」

警察の窓口で散々無駄な時間を費やす破目になったアスナは、まだ疑わしい気持ちで首を傾げたが、三人のなかで最年少のリーファがしっかりした口調で言った。

「でも、あたし達には大掛かりな聞き込みとか科学捜査とかはできないわけですから、そういうのは警察に任せるしかないですよ。あたし達にあるカードは、たったひとつ、お兄ちゃんのことをよく知ってる、っていうそれだけなんです」

「うん……そうだね。キリト君のこと……最初から敵のターゲットがキリト君だったとして、その動機は何なんだろ……」

「こう言っちゃなんだけど、身代金目的ならアスナを攫うだろうし……。犯人からの連絡は無いのよね?」

シノンの問いに、リーファがかぶりを振る。

「電話も、メールも、手紙類も一切ありません。そもそも、営利誘拐にしては大掛かりすぎますよ。大金をかけて、救急車まででっち上げて病院から拉致する意味が無いっていうか……」

「それもそうか……。じゃあ……あんまり考えたくないけど、怨恨とか……? キリトを恨んでそうな相手、心当りある……?」

今度は、アスナがゆっくり首を横に振った。

「そりゃ、SAOの生還者の中には、キリト君に牢屋に叩き込まれたりして恨んだり、ゲームクリアしたことを妬んでる人はいると思う。でも、こんなことができる資金力と組織力がある相手って言うと……」

 アスナの脳裏にちらりと、かつてSAOプレイヤーの脳を実験台におぞましい研究を行い、野望半ばにしてキリトの手で警察に引き渡された須郷伸之の顔が浮かんだが、あの男はまだ拘置所の塀の向こうだ。海外逃亡の準備をしていたことが祟って保釈も却下されている。

「……ううん、ここまでするほどの人間は思い当たらないわ」

「お金でも、恨みでもない、か……」

シノンは唸りながらしばし顔を伏せていたが、やがて右手の中指で眉間のあたりを押さえながら、自信なさそうに口を開いた。

「……あのさ……まったく根拠の無い想像なんだけど……」

「……つまり、この敵は、どうしてもキリトが今すぐに必要だった、ってことになるよね。細かく言えば、キリトという人間に属する何かが、かな。アイツの持ってるもの……ゲーム用語を使えば属性、ってどんなのが思い浮かぶ?」

「剣の腕」

 アスナは考えるまでもなく反射的にそう答えた。目を閉じキリトの姿を思い描くとき、真っ先に浮かぶのは常に、黒衣をまとい二刀を手に敵を暴風のごとく斬り伏せていく旧SAO時代の彼だからだ。ALOで共に旅をした妹もそのイメージは同様のようで、間髪入れずに続ける。

「反射スピードですね」

「システムへの適応力」

「状況判断力」

「サバイバビリティ……あ」

リーファと交互にそこまで列挙したアスナは、あることに気付いて口をつぐんだ。意を得たり、といふうにシノンが頷く。

「ね。それって全部、VRMMO……仮想世界内の話でしょう」

ずばり言われて、アスナは抵抗するように小さく苦笑いした。

「や、現実のキリト君にもいいとこはいっぱいあるよー」

「そりゃいいとこはあるよ、ご飯おごってくれたりさ。でも、私たち以外から見れば、現実のアイツはこう言っちゃなんだけどどこにでもいる普通の男の子でしょう、高校生の今はまだ、ね。つまり、敵が今、こんな無茶な工作をしてまで欲しがったのは、キリトの仮想世界内における突出した能力だった、ってことにならない?」

「まさか……何かのVRゲームをクリアさせようとでもう言うんでしょうか……。でも、お兄ちゃんは、今意識不明状態なんですよ。治療も、検査すらしてないのに、そんな状態で攫っても何もできないんじゃ……」

あらためてキリトの体調を心配する表情で、リーファが唇を噛む。シノンは、テーブルに落としたスチールブルーの瞳を、標的を狙撃する時のように鋭く細め、ゆっくりといらえた。

「意識不明……って言っても、それは外から見た話だよね。もし、脳じゃなく、魂そのものにアクセスできるマシンを使えば……」

「あっ……」

何でいままでそれに思い当たらなかったのか、と愕然としながら、アスナは鋭く息を飲んだ。

「ね、私達、たった一つだけ該当する相手に心当りがあるはずでしょ。魂に接続するっていう、世界でそこにしかないマシンを持っていて、しかもまさに今キリトをパイロットにした仮想世界内テストを継続中だっていう組織……。確実な根拠のない想像だけど、でも……」

「……キリト君を拉致したのは、ソウル・トランスレーターの開発企業ラース……。確かに……そんなとんでもない機械を開発できるくらいの相手なら、救急車をでっち上げるくらいの工作は可能かも……」

「ラース……って、お兄ちゃんが最近バイトしてた会社ですか?」

リーファの言葉に、アスナとシノンはさっと顔を上げた。

「リーファちゃん、ラースのこと知ってるの!?」

「あ、いえ、詳しいことは……。ただ、会社の場所が六本木のへん、とは聞いてます」

「六本木……って言っても広いなぁ。でも、そのどこかにラースの研究所があって、キリトがそこにいるかもしれない、っていう情報を警察に伝えれば……うぅん、根拠がちょっと弱いかなあ……」

唇を噛むシノンと、不安そうに目を伏せるリーファに向かって、アスナはためらいながら口を開いた。

「……あのね、結果が出るまでは、と思っていままで言わなかったけど、実はキリト君に繋がってるかもしれない細い糸が一本だけあるの。でも、途中で切れてる可能性がほとんどなんだけど……」

「……どういうこと、アスナ?」

「シノのんにはこのあいだ説明したよね。これ」

アスナは右手の指先で、自分の左胸を突付いた。

「あ、そうか……例の心拍モニターね。あれは……確か、ネット経由でアスナの端末に情報を送ってる……」

「もうずっと信号が途絶えたまんまなんだけど、もしかしてキリト君が偽救急車で運ばれる途中の経路情報をさかのぼって追跡できれば、ある程度場所の特定ができるかもしれない、って今解析をお願いしてるところなの」

「……誰に?」

答えるかわりに、アスナは視線をすっと中空に向け、名前を呼んだ。

「ユイちゃん、どう?」

一秒ほどの静寂のあと、テーブルの上五十センチくらいの空間にきらきらと光の粒が現われ、凝集して小さな人の形を取った。光は一瞬だけその輝きを強め、すぐに消滅する。

 現われたのは、身長十五センチくらいの幼い少女だった。長い黒髪に白いワンピース姿、背中には四枚の虹色に光る翅が伸び、細かく震えている。少女――妖精は、閉じていた長い睫毛を上げ、くるりとした愛らしい瞳でまずアスナを、次いでリーファとシノンを眺めた。シノンを初対面の人物と判断したようで、ふわりと上体を屈めてお辞儀をする。

「へええ……この子が、うわさのキリトとアスナの"娘"ね」

「ユイです、はじめまして、シノンさん。おはようございます、リーファさん、ママ」

 旧SAO内のプレイヤー・カウンセリング用AIをその出自とする人工知能ユイは、銀糸を爪弾くような声で挨拶すると、再びアスナに向き直った。

「パパのハートレート・モニター装置からママの携帯端末IPに向けて発信されたパケットの追跡は、約九十八%終了しました」

「そのパケットが六本木周辺の公共LANスポットから発信されてれば、私達の仮説もずいぶん信憑性を増す……ってわけね」

シノンの言葉に、アスナは大きく頷いた。リーファも含め、三人の期待のこもった視線がユイに集まる。

「それでは、現時点での解析結果をお伝えします。NTTの携帯端末用基地局と違って、現在の公共LANスポットは移動中の接続をサポートしないので、残念ながら特定できた発信元は三箇所だけでした」

ユイが言葉を切り、さっと右手を振ると、テーブルの上、浮かぶユイの素足の下に水色のホログラムで東京都心の詳細な地図が表示された。ユイは翅の振動を止めて地図の上に着地し、とことこと数歩あるいて地図の一点を指差す。ポン、という音とともに赤い光点が点る。

「ここが、パパの入院していた世田谷総合病院です。そして、第一の発信元は、ここです」

さらに数歩移動して新たな光点を点す。

「目黒区青葉台三丁目、時間は二○一六年六月二十一日午後一時五十分前後。予測移動経路を表示します」

二つの光点を結ぶ道路上に、白い光のラインが伸びる。ユイは再度南西に足を進め、三つ目の光点を表示させた。ラインも追随して長さを増す。

「第二の発信元、港区白金台一丁目、同日午後二時十分前後」

世田谷から六本木に向かうにしてはコースが南すぎるかな、とアスナは少し不安に思ったが、口をつぐんだままユイの言葉を待った。

「そして……第三の発信元が、ここです」

 三人の期待を大きく裏切り――ユイが示したのは、六本木の遥か東、臨海部の埋立地だった。

「江東区新木場四丁目、同日午後二時五十分前後です。ここを最後に、パパからの信号は現在まで約八十六時間に渡って途絶しています」

「新木場……!?」

アスナは思わず絶句したが、しかし考えてみると、あの辺の新開発地区には新興の巨大インテリジェントビルが林立している。その中に、ラースの第二の支部が存在するという可能性もあるのではないか。

「ユイちゃん……そのLANスポットが設置されてるのは、どういう施設の中なの?」

動悸が速まるのを感じながらそう尋ねたが、返ってきた答えは、アスナの予想を更に裏切るものだった。

「この地番に存在する施設は、"東京ヘリポート"という名称です」

「え……それって、ヘリコプターの発着基地じゃないの」

シノンが唖然とした表情で呟いた。リーファも、さっと顔色を変える。

「ヘリコプター!? ……じゃあ……お兄ちゃんは、そこから更に遠くに運ばれた……ってことですか?」

「でも……待って」

アスナは、混乱する頭の中を懸命に整理しながら言った。

「ユイちゃん、その新木場からの発信以降、信号は一切届いていないのよね?」

「はい……」

そこで初めて、妖精のように整ったユイの白い顔が、沈鬱な表情を浮かべた。

「日本国内のすべての公共LANスポットに、パパのモニター装置が接続された形跡はありません」

「ということは……着陸したのは、公共LANの電波が届かないような山奥とか……原野ってことですか……?」

リーファの言葉に、シノンがかぶりを振る。

「たとえどこに着陸しても、最終的には何らかの施設に運び込む必要があるはずよ。最先端のベンチャー企業の入る施設に、今時LANスポットが無いなんてことは考えられない。今現在キリトが電波遮断区画に居るとしても、どこかで一度はLANに接続してていいはず……」

「日本じゃない……? 外国……なの……?」

アスナの細く震える声に、即座に答えられる者は居なかった。

短い沈黙を破ったのは、ユイの、あどけなさと落ち着きの同居する声だった。

「東京から無着陸で国外に到達できるほどの航続距離を持つヘリコプターは一部の軍用機を除き存在しません。現時点ではデータが少なすぎるので確定的なことは言えませんが、パパはまだ国内のどこかに居るとわたしは考えます」

「そうね。ラースが進めている研究は、今の仮想空間技術をひっくり返すようなものでしょう? 企業にとっては最大級の秘密なわけで、その研究施設を外国に置くみたいなことはちょっと考えにくいにね」

シノンのその言葉に、アスナも頷いた。アスナの父親が率いる総合エレクトロニクスメーカー・レクトも企業スパイの跳梁には頭を痛めており、重要な研究開発はすべて奥多摩の山奥に存在する、厳重に警備された研究所で行われていると聞いている。海外にも多くの拠点を構えてはいるが、やはり情報漏洩の発生率は国内と比べて明らかに高いようだ。

考え込む表情で、リーファが俯いたまま呟く。

「じゃあ……やっぱり日本のどこか、人里離れた僻地なんでしょうか……。でも、今の日本で、そんな秘密研究所みたいなものを本当に造れるんですか?」

「しかも、ちょっとやそっとの規模じゃないだろうしね。……ユイちゃん、ラースについては何かわかった?」

アスナが尋ねると、ユイは再び空中に浮き上がり、ホバリングしながら口を開いた。

「公開されている検索エンジン十二、非公開のもの三を使用して情報を収集したんですが、企業名、施設名、VR技術関連プロジェクト名いずれも該当するものは見つかりませんでした。また、"ソウル・トランスレーション"テクノロジーなるものについて言及した資料も、申請済みの特許を含め一切発見できませんでした。」

「人の魂を読みとるなんていう大発明を、特許申請すらしてないんだから異常なほど徹底した機密管理よね」

とてもラース側から綻びを見つけるのは無理そうだ、とアスナが溜息をつくと、シノンも呆れたように首を振った。

「なんだか……ほんとに実在する企業なのか疑わしくなってくるわね。こんなことなら、キリトにもっと詳しいことを聞いておくんだったな……。このあいだ会ったとき、あいつ何か、手がかりになりそうなこと言ってなかったっけ……?」

「うーん……」

眉をしかめ、懸命に記憶を掘り返す。金本の襲撃と、それに続く失踪事件の印象が強すぎて、直前のダイシー・カフェでの平和な会話はまるで遠い過去のように霞がかっている。

「たしかあの時は……ソウル・トランスレーターの仕組みの話だけ聞いてるうちに夕方になっちゃったのよね……。あとは……ラースっていう名前の由来は何か、って話も少ししたかな……」

「ああ……『不思議の国のアリス』に出てくる豚だか亀だか、って奴ね。考えてみると妙な話だよね、豚と亀ってぜんぜん似てないよ」

「言葉を作ったルイス・キャロル自身はどっちとも明言してないみたいね。後の世のアリス研究家たちがそう推測してるだけで……」

アスナは不意に言葉を切った。何かが脳裏を掠めた気がしたのだ。

「アリス……。キリトくん、店を出る間際に、アリスについて何か言ってたよね」

「え?」

シノンと、黙って会話を聞いていたリーファも目を丸くする。

「お兄ちゃんが、不思議の国のアリスの話をですか?」

「ううん、そうじゃなくて……ラースの研究室にいるとき、アリスって言葉を聞いたとか何とか……。単語の頭文字みたいな……ええと、何だっけ……」

「頭文字……? A、L、I、C、E、ってことですか?」

「そう、それよ。たしか……アーティフィシャル……レイビル……インテリジェン……だったかな……。CとEは聞き取れなかったけど……」

記憶のスポンジをあまりに強く絞りすぎたせいか、わずかな頭痛を感じながら、アスナはどうにかそれだけを口にした。が、聞いていた他の二人は揃って怪訝な表情で首を捻る。

「なによそれ。アーティフィシャル……って"人工の"、って意味よね。インテリジェン……ス? は"知性"として……レイビル、なんて英単語あったっけ?」

「その発音に最も適合する単語は"labile"だと推測されます。"適応力の高い"というような意味の形容詞です」

シノンの問いかけに、宙に浮いたままのユイがそう答え、三人の視線はテーブル上空の小妖精に集まった。

「強引に翻訳すれば、"高適応性人工知能"ということになるでしょうか」

「人工……知能?」

藪から棒に出てきた言葉に、アスナは思わず瞬きした。

「ああそうか……アーティフィシャル・インテリジェンスは、つまりAIのことよね、ユイちゃんみたいな。でも……仮想空間インタフェースを開発してる会社に、AIがどう関係するのかしら」

「仮想空間内で動かす自動キャラクターのことじゃないの? そのへんにいるNPCみたいな」

シノンが右手を伸ばし、窓の外に立ち並ぶ商店を指しながら言った。しかし、アスナはいまひとつしっくりこない思いで唇を引き結んだ。

「でも……ラース、っていう社名がアリスから取ったものだとして、ラース内部で言うアリスが人工知能に関係する何かだとしたら……少しおかしくない? それだと、会社の目的は次世代VRインタフェースの開発じゃなくて、その中で動かすAIのほうだ、っていうふうに取れるよね」

「うーん、そうなるのかな……。でも、ゲーム内NPCなんて特に珍しくもないし……デスクトップ用の常駐AIパッケージもいっぱい市販されてるよね。わざわざ、会社の存在そのものを隠したり、人ひとり拉致までして開発するようなものなの?」

シノンの問いかけに、アスナも即答することができない。一歩進むたびに次の壁で行き止まりになる嫌な感触に、もしかしてまったく見当違いのことを考えているのではないかという危惧をおぼえながら、それでも何か手がかりを探ろうと、アスナは顔を上げてユイに尋ねた。

「ねえ、ユイちゃん。そもそも人工知能って、どういうものなの?」

するとユイは、珍しく苦笑のような表情を浮かべ、すとんとテーブルに降下した。

「わたしにそれを聞きますか、ママ。それは、ママに向かって"人間とは何か"と聞くようなものです」

「そ、そう言えばそうよね」

「厳密に言えば、これが人工知能である、と定義することは不可能なのです。なぜなら、真正の人工知能というものは、いまだかつてこの世界に存在したことはないからです」

ポットの縁にちょこんと腰掛けながらユイが口にした言葉に、三人は呆気にとられ、ぽかんと口を開けた。

「え、で、でも……ユイちゃんはAIなんだよね? つまり、人工知能っていうのはユイちゃんのことでしょう?」

リーファが口篭もりながら言うと、ユイは小首を傾げ、生徒に向かってさてどう説明したものかと考える教師のような風情でしばし沈黙したが、やがてひとつ頷いて喋り始めた。

「それでは、現時点でいわゆるAIと呼ばれているものの話から始めましょうか。――前世紀、人工知能の開発者たちは、二つのアプローチで同じゴールを目指しました。ひとつは"トップダウン型人工知能"、そしてもうひとつが"ボトムアップ型人工知能"と呼ばれるものです」

幼い少女の口からあどけない声で語られる内容を理解しようと、アスナは懸命に耳をそばだてた。

「まず、トップダウン型ですが、これは既存のコンピュータ・アーキテクチャ上で単純な質疑応答プログラムに徐々に知識と経験を積ませ、学習によって最終的に本物の知性へと近づけようというものです。わたしを含め、現在人工知能と呼ばれているもののほぼ全てがこのトップダウン型です。つまり……わたしの持つ"知性"は、見かけ上はママたちのそれに似ていますが、実は完全に異なるものなのです。端的に言えば、わたしという存在は、『Aと聞かれたらBと答える』というプログラムの集合体でしかないのです」

そう口にするユイの白い頬に、かすかに寂しさの影のようなものが過ぎったのは目の錯覚だろうか、とアスナは考える。

「例えば、先ほどママに『人工知能とは何か』と問われたとき、わたしは"苦笑い"と分類される表情のバリエーションを表現しました。これは、自分自身に関する問いを投げかけられたとき、パパやママがそのような表情で反応することが多いことから、わたしが経験的に学習した結果です。原理的には、ママの携帯端末に搭載されている予測変換辞書プログラムと何ら変わるところがありません。裏を返せば、学習していない入力に関しては、適切な反応ができないということなのです。――このように、トップダウン型人工知能というものは、現状では真に知能と呼べるレベルには遠く達していないと言わざるを得ません。これが、先ほどリーファさんが言われた"いわゆるAI"というものだと思ってください」

言葉を切り、ユイは視線を窓の外に遠く光る月に向けた。

「……次に、もうひとつの"ボトムアップ型人工知能"について説明します。これは、ママたちの持つ脳……脳細胞が百数十億個連結された生体器官の構造そのものを、人工の電気的装置によって再現し、そこに知性を発生させよう、という考え方です」

 そのあまりにも壮大……言い換えれば荒唐無稽なビジョンに、アスナは思わず呟いた。

「そ……それはちょっと無茶じゃないの……?」

「ええ」

ユイが即座に頷く。

「ボトムアップ型は、わたしの知る限り、思考実験の域を出ないまま放棄されてしまったアプローチです。もし実現すれば、そこに宿る知性は、わたしとは本質的に違う、ママたち人間と真に同じレベルにまで達しうる存在となるはずなのですが……」

どこか遠くから視線を戻し、ユイは一息入れてから総括した。

「以上のように、現在、人工知能――AIという言葉には二つの意味があるのです。ひとつはわたしや家電製品やゲーム内NPCのような、言わば擬似人工知能。そしてもう一つは、概念としてのみ存在する、人と同じ創造性、適応性を持つ真なる人工の知性」

「適応性……」

アスナは鸚鵡返しにそう呟いた。

「高適応性人工知能」

二人とひとりの視線がさっと集まる。それを順番に見返しながら、頭のなかでもやもやと形を取りつつあるものを、ゆっくり言葉にしていく。

「もし……もし、ラースの開発しているSTLが、目的じゃなく手段なんだとしたら……? そうよ、確か、キリト君もそんな疑問を持ってるみたいだった。ラースはSTLを使って何かをしようとしてるんじゃないか、って……。もし、人の魂そのものの構造を解析することによって、本物の……世界初のボトムアップ型人工知能を創ろうとしてるんだとしたら……」

「その、真のAIのコードネームが"A.L.I.C.E."ということですか……?」

アスナの言葉を受けてリーファがそう呟き、同じくどこか呆然とした表情のシノンが続けた。

「つまり、ラースというのは次世代VRインターフェース開発企業ってわけじゃなくて……ほんとは、人工知能開発を目的とした企業なの……?」

 推理を進めるにつれ、"敵"の形と大きさがどんどん漠としたものになっていく展開に、三人は思わず黙り込んだ。ユイさえも、得たデータを処理しきれないとでもいうかのように、きゅっと眉をしかめている。

アスナは手を伸ばし、マグカップのポップアップメニューからすっきりした味のお茶を新しく淹れなおすと、それを大きく一口飲み下した。ほっ、と息をついてから、改めて敵の戦力評価をし直すつもりで唇を開く。

「もう、単なるベンチャー企業のスケールじゃなくなってきたわね。偽救急車やヘリコプターまで使って人を拉致する手口、所在すらわからない研究所にSTLなんていうお化けマシン、その上目的が人間と同じレベルのAIを創ることだって言うんだから。――キリト君にラースでのバイトを紹介したのがあの総務省の菊岡って人だったのは、あの人がVR関連業界にコネが多いからとかじゃなくて、そもそもラースが国と繋がってるからだったのかも……」

「菊岡誠二郎かぁ。見た目どおりのトボケメガネじゃないとは思ってたけど……。連絡は相変わらず取れないの?」

渋面を作るシノンに、力なく頷く。

「四日前から、携帯も繋がらないしメールも返ってこない。いざとなったら総務省の"仮想課"まで直接乗り込もうと思ってるけど、多分ムダでしょうね」

「だろうね……。前、キリトがあいつを尾行したけどあっさり撒かれたって言ってたからなあ……」

 四年前のSAO事件発生直後、総務省に置かれた"被害者救出対策本部"は、事件解決後も仮想空間関連問題に対応する部署として残された。そこに所属する黒ブチ眼鏡の公務員菊岡誠二郎は、和人とは現実世界帰還直後からの付き合いらしく、現実世界では一介の高校生に過ぎない彼をなぜか高く買っていて、死銃事件の際にも調査を依頼したりしている。

 アスナも何度か会ったことがあるが、人当たりのよいにこやかな外見の下にどこか底の知れない部分がある気がして、今ひとつ心を許せないという印象を持っている。本人は常々、閑職に飛ばされた窓際公務員を自称していたが、本来の所属はもっと別の部署なのではないか――と和人も疑っていた節がある。

謎の企業ラースでのアルバイトを和人に持ちかけてきたのがその菊岡であったということもあり、アスナは和人の失踪直後から何回も連絡を取ろうと試みているのだが、菊岡の携帯端末は常に圏外であるとの自動メッセージが応答するのみだった。

 業を煮やして直接総務省に電話をしたところ、菊岡は海外に出張中であると言われ、それなら電話が繋がらないのも仕方ない――と思う反面、こうもタイミングがいいと、まさか和人の失踪にもあの男が関わっているのではないか、とすら疑いたくなってくる。

「でも……」

その時、アスナとシノンのしかめ面を交互に見ながら、リーファがぽつりと言った。

「あの菊岡って人を通してラースと国が繋がってるとして、どうしてこうまで何もかも秘密にしなきゃならないんでしょう? 企業なら利益のために秘密を守る必要もあるんでしょうけど、国がそんな凄いプロジェクトを進めてるなら、むしろ大々的に喧伝するのが普通じゃないんですか?」

「それは……確かに……」

シノンが器用に、首を捻りながら頷く。

近年、仮想空間と並んで二大フロンティアと言われている宇宙空間の開発は各国が急ピッチで進めており、外部ブースターを使わない軌道往還船や月面有人基地の建設などが、米露中そして日本でも矢継ぎ早にアナウンスされている。それらに並ぶかあるいは上回るインパクトがあるだろう真正人工知能の開発を、国が執拗に秘密にする理由はアスナにも思いつかなかった。

 しかしもし本当に、キリトの拉致が国家的規模の極秘計画に関わっているなら、ただの高校生に過ぎない自分たちにできることはもう何もないのではないか……更に言えば、それは警察の手ですら届かない領域なのではないか。無力感に打ちのめされそうになりながら肩を落としたアスナの眼に、テーブルの上から見上げるユイの視線がぶつかった。

「ユイちゃん……?」

「元気を出してください、ママ。この世界でママを探しているときのパパは、ただの一度も諦めたりしませんでしたよ」

「で……でも……わたしは……」

「今度はママがパパを探す番です!」

先ほど、自分の反応はすべて単純な学習プログラムの結果だ、と言い切ったユイは、その言葉が信じられなくなるほどに優しく暖かい笑みを浮かべてみせた。

「パパへと繋がる糸は絶対に残されています。たとえ相手が日本政府でも、ママとパパの絆を断ち切ることなんてできないとわたしは信じます」

「……ありがとう、ユイちゃん。わたし、諦めたりしないよ。国が敵だって言うんなら……国会議事堂に乗り込んで総理大臣をぶんなぐってやるわ」

「その意気です!」

愛娘と笑いあうアスナを、微笑みながら見ていたシノンが、不意にきゅっと眉を寄せた。

「……? どうしたの、シノのん?」

「いや、その……現実問題として、もしラースが国家主導の研究機関なんだとしても、首相とか議会が全部了承してるってことはないと思うのよ。本気で秘密を守る気なら、ね」

「うん……それで?」

「もしこれが、どこかの省庁の一部で極秘に進められてる計画なんだとしたら、絶対に隠し切れないものが一つあると思わない?」

「何……?」

「予算よ! 研究施設にしても、STLにしても、巨額の予算が必要なのは間違いないよね。何十億だか何百億だか、そのもっと上かはわからないけど、そんな金額を国庫……税金からこっそりちょろまかすなんて無理だと思うわ。つまり、何らかの名目で、今年度の予算に計上されてるんじゃないのかしら」

「うーん、でも……ユイちゃんに検索してもらったかぎりでは、仮想空間関連でそんな大きな予算をかけてるプロジェクトは……あっ、そうか……キーワードが違う……? 仮想空間じゃなくて、人工知能……」

 アスナが視線を向けると、ユイも真剣な表情で頷き、ちょっと待ってください、と言って両手を広げた。十本の指先がちかちかと紫色にまたたく。ALO内からネットワークに接続しているのだ。

三人の期待と不安に満ちた数秒の沈黙のあと、ユイは薄くまぶたを持ち上げ、数秒前と打って変わっていかにも電子の妖精然とした抑揚の薄い声を発した。

「公表されている二〇一六年度国家予算データにアクセスしました。人工知能、AI、その他三十八の類似キーワードを用いて検索中……十八の大学、七の第三セクターに該当名目で研究費が認可されていますがいずれも小額……文部科学省が介護ロボット用AI開発プロジェクトを進めていますが無関係と判断……国土交通省の海洋資源探査艇開発プロジェクト……自動運転乗用車開発プロジェクト……いずれも無関係と判断……」

その後もユイはいくつかの難解なプロジェクト名を挙げたが、いずれも無関係と続け、やがて小さく首を振った。

「……条件に当てはまるような不自然な巨額予算請求は発見できませんでした。複数の小額予算に分散・偽装しているのかもしれませんが、その場合公表データからの発見は困難です」

「うーん……やっぱり、すぐそれとわかるような穴は残してないか……」

シノンが腕組みをして唸る。藁にでもすがるような気持ちで、アスナはでも、と声を上げた。

「――いまユイちゃんが見つけたプロジェクトの中に、ラースの偽装予算が紛れてるかもしれないよね。なんとかそれを見つけられないかなあ。まあ、さすがに海洋資源とかは関係ないと思うけど……一体なんでそんな研究がヒットしたの?」

「ええと……」

ユイは再度半眼になり、どこかのデータベースにアクセスすると、ひとつ頷いて顔を上げた。

「……海底の油田や鉱脈を探すための小型潜水艇を自律航行させようという研究のようですね。その潜水艇に搭載するAIを開発するための予算なのですが、優先度に対して金額がやや大きいので検索フィルターに残ったようです」

「へえ……そんなものもロボット化されてるのね……。どんなとこで開発してるんだろう」

「プロジェクトの所在は……『オーシャン・タートル』となっていますね。今年の二月に竣工した超大型海洋研究母船です」

「あ、あたしニュースで見ました」

リーファが口を挟んだ。

「なんか、船っていうより海に浮くピラミッドみたいな感じなんですよ」

「そう言えば、聞いたことあるわね。オーシャン……タートル……」

アスナは口をつぐみ、眉をしかめ、しばらく俯いてから、さっと顔を上げた。

「ねえ、ユイちゃん……その研究船の画像って、出せる?」

「はい、ちょっと待ってください」

ユイが右手を振ると、地図のときと同じように卓上にスクリーンが広がり、それはたちまち海面の立体画像に変化した。さらにその中央に光が複雑なワイヤーフレームを描き出し、面をテクスチャーが埋めていく。

小さな海に出現したのは、確かに一見して黒いピラミッドと言いたくなる代物だった。

しかし上から見ると、正方形ではなく短辺と長辺が二対三程度の長方形だ。四角錘の高さは短辺の半分ほどだろうか。表面は、所々に細長く空いている窓を除けばつるりと滑らかで、ダークグレーの光沢を放っている。注視すると、どうやら正六角形の太陽発電パネルがびっしりと貼られているらしい。

 四方の角からは操舵装置らしき突起が突き出し、そして短辺のいっぽうには小さなビルにも見えるブリッジが伸びていた。屋上にあるHマークはヘリポートだろうか。それがあまりにも小さいので、傍らに表示されているスケールメーターに目をやると、全長六百メートルという驚くべき数字だった。

「なるほど……、四本の足といい、四角い頭といい、ピラミッドの甲羅模様といいこりゃ確かにカメに見えるね。それにしても大きいな……」

シノンが感心したように言った。アスナはちらりとそちらを見てから、右手の人差し指で巨大船『オーシャン・タートル』のブリッジ部分を指差した。

「でも……ほら、頭のここんとこ、ちょっと平らに突き出してて、他の動物にも見えない?」

「あー、そうですね。ちょっと黒ブタにも見えますよね。泳ぐブタだー」

無邪気な声でリーファが言った。

直後、自分の言葉に撃たれたかのように、目を見開いた。唇を数度わななかせてから、掠れた声を絞り出す。

「亀でもあり……豚でもある……」

アスナとシノン、リーファは、無言で視線を交わしたあと、声を揃えて言った。

「――ラース!」* 一撃を腹に受け、高く宙を吹き飛んだユージオは、音を立てて俺のすぐ横に落下した。反射的に体を起こし、にじりよろうとすると左肩が目のくらみそうなほどに痛んだが、喉から情けない嗚咽を漏らしてどうにか堪える。

ユージオの傷は酷い有様だった。上腹部を横一直線に切り裂かれ、ギザギザの傷口からごぽり、ごぽりと恐ろしいほど大量に血が溢れている。いまだ左手に握られたままの草穂に照らされ、傷口の奥で不規則に動く臓器が否応無く見て取れた。

ごぼっ、と重い音がして、ユージオの口からも泡混じりの血が噴き出した。茶色の瞳はすでに光を失いかけ、虚ろに宙を睨んでいる。

しかし、ユージオは尚も体を起こそうとするのを止めなかった。口と鼻からひゅっ、ひゅっと赤い飛沫混じりの空気を吐き出しながら、震える両腕を突っ張る。

「お前……なんで、そこまで……」

俺は思わず呻いた。ユージオを襲っている苦痛は、俺の比ではないはずだ。人の魂が耐えられる範疇とはとても思えない。

ユージオは、焦点のぼやけた瞳で俺を見ると、赤く染まった口を動かして言った。

「こ……子供の頃……約束したろ……。僕と……キリトと……アリスは、生まれた日も……死ぬ日も一緒……今度こそ……守るんだ……僕が……」

 そこで、がくりとユージオの腕から力が抜けた。俺は咄嗟にその体を両手で支えた。細身だが筋肉質なユージオの重さを、ずしりと感じた瞬間――。

視界が断続的に白い閃光に包まれ、そのスクリーンの奥に朧な影が浮かんだ。

真っ赤な夕焼け空の下、麦畑を貫く道を歩いている。俺の右手を握るのは、亜麻色の髪の幼い少年。左手を握るのは、金髪のお下げ髪の少女。

 そうだ……世界は永遠に変わらないと信じていた。三人、いつまでも一緒だと信じていたんだ。なのに守れなかった。肝心なとき、何もできなかった。あの絶望、無力感を忘れるものか。今度こそ……今度こそ俺は……。

もう肩の痛みは感じなかった。俺はぐったりとしたユージオの体をそっと氷の上に横たえると、右手を伸ばし、転がっていた直剣の柄を握った。

そして頭上に掲げ、今まさに振り下ろされつつあった隊長ゴブリンの蛮刀を横一閃に弾き落とした。

「ぐるらっ」

驚いたような声を上げ、わずかに体を泳がせた敵の腹に、立ち上がりざまのタックルをぶちかます。ゴブリンは更によろけて、二、三歩後退する。

右手の剣をぴたりと相手の正中線に据え、大きく息を吸い、吐き出す。

俺は確かに、肉体的な痛みに関してはまるで素人だ。だが、そんなものを遥かに上回る絶対的苦痛ならよく知っている。大切な人を失う痛みに較べれば、こんな傷などいくつ負おうがものの数ではない。喪失の痛みだけは、機械で記憶をいかに操作しようと絶対に消えることはないのだ。

最早我慢ならん、と云わんがばかりに隊長ゴブリンが大音響の咆哮を轟かせた。周囲で喚いていた手下どもがぴたりと押し黙る。

「イウムがぁ……調子に乗んじゃねぇッ!!」

 暴風のような勢いで突っ込んでくる隊長の、蛮刀の先端だけを俺はじっと凝視した。きいいいんという耳鳴りとともに、視界の余計な部分が放射状に流れて消えていく。久しく忘れていた、脳神経が赤熱するかのような加速感覚。いや――この世界では、魂が燃えるような、と言うべきか。

袈裟斬りに振り下ろされる蛮刀を、俺は一歩前に踏み込んでかわし、左下からの一刀で敵の右腕をほぼ付け根から斬り飛ばした。巨大な腕を付けたままの蛮刀は、ぶんぶん回転しながら周囲のゴブリンの輪に飛び込み、複数の悲鳴が上がった。

両腕を失った隊長ゴブリンは、黄色い両眼に怒りと、それ以上の驚きを浮かべ、よろよろと後ずさった。傷口から黒い体液がばしゃばしゃと迸り、氷に落ちて湯気を立てる。

「……イウムに……イウムごときに俺様が負けるわけがねぇっ……」

その言葉が終わらないうちに、俺は全力で突進した。

「ゴブリンごときに……」

無意識のうちに、獰猛なセリフが口を突く。左足のつま先から右手の指先、直剣の切っ先までが一本の鞭のようにしなり、たくわえた威力を解き放つ。

「この俺が斬れるかッ!!」

ぴうっ、と空気を裂く音が耳に届いたのは、隊長ゴブリンの巨大な首が宙を舞った少し後だった。

ほぼ垂直に高く上昇し、次いでくるくる回転しながら落下してきたそれを、左手で受け止める。鶏冠のように立てられた飾り羽を鷲掴みにして、いまだ鮮血の垂れる首級を高く掲げ、俺は叫んだ。

「お前らの親玉の首は取った! まだ戦う気がある奴はかかってこい、そうでない奴は今すぐ闇の国に帰れ!」

ユージオ、もう少しがんばれ、と心の中で唱えつつ、両目に最大限の殺気を込めて集団を見回す。ゴブリンたちは、隊長が死んだことで相当に浮き足立ったようで、互いに顔を見合わせながらぎっぎっと忙しなく声を上げている。

やがて、前列にいた一匹が、肩に担いだ戦棍をゆらゆらさせながら進み出てきた。

「ぎへっ、そういうことなら、手前ェを殺ればこの俺が次の頭に……」

口上を最後まで聞くほどの忍耐力は、今の俺には無かった。左手に首をぶら下げたまま猛然とダッシュし、そいつの右脇から左肩までを一刀で両断する。どっ、と重い音に続いて血飛沫が散り、やや遅れて上半身がずるりと滑り地面に落ちた。

それで、ようやく残る連中の意思決定も終わったようだった。甲高い悲鳴が一斉に上がり、我先にとドームの一端に走り出す。俺たちが入ってきたのとは別の出口に、数十匹のゴブリンたちが周囲の者を突き飛ばし蹴飛ばししながら吸い込まれていき、たちまちのうちに見えなくなった。反響する足音と、具足の金属音が徐々に遠ざかり、消えると、氷のドームは先刻の熱気が嘘のような冷たい静寂に包まれた。

俺は今更のように戻ってきた恐怖と左肩の痛みを深呼吸ひとつで脇に押しやり、剣と首級を同時に放り投げた。振り向き、横たわったままの友の傍らに駆け寄る。

「ユージオ!! しっかりしろ!!」

声を掛けるが、紙のように白い顔は瞼を閉じたまま動こうとしない。口の端でピンク色の泡混じりの呼吸が繰り返されてはいるが、今にも停止してしまいそうな弱々しさだ。上腹の凄惨な傷口からは相変わらず血が流れ出ており、それを止めなくてはならないのはわかるがどうやって止血していいのか見当もつかない。

強張った右手で素早く印を切ると、俺はユージオの肩を叩いた。浮かび上がったウインドウを、こわごわ覗き込む。

 生命力――デュラビリティ・ポイントの表示は、『244/3425』となっていた。しかも、左側の数字がおよそ二秒毎に一という恐ろしいペースで減少していく。つまり、ユージオの命が尽きるまで、あとわずか八分しかないということだ。

「……待ってろ、すぐ助けるからな! 死ぬなよ!!」

俺はもう一度声を掛け、立ち上がった。今度は、ドームの隅に放置されたままの四輪台車に向かって全力で走り寄る。

荷台には、中身のわからない樽や木箱、雑多な武器類と一緒に、縛られ転がされたシルカの姿があった。手近な箱から適当なナイフを掴み出し、手早くロープを切る。

小さな体を抱き上げ、広い床に横たえてざっと調べたが目立つ外傷は無いようだった。呼吸もユージオと較べればはるかにしっかりしている。氷に突いていたせいで冷えた左手で、頬をぴたぴた叩きながら大声で呼びかける。

「シルカ……シルカ! 目を醒ましてくれ!!」

すぐに、弓形の眉が顰められ、長い睫毛が震えて、ばちりと音がしそうな勢いでライトブラウンの瞳が見開かれた。離れた池のほとりに転がる草穂の光だけでは、咄嗟に俺を認識できなかったようで、喉の奥から細い悲鳴が漏れる。

「やっ……いやぁぁっ……」

両手を振り回し、俺を押し退けようとするシルカの体を抑えて更に叫ぶ。

「シルカ、俺だ! キリトだ! もう心配ない、ゴブリンは追い払った!」

俺の声を聞いたとたん、シルカはぴたりと暴れるのを止めた。おそるおそる伸ばしてきた右手の指先で、そっと俺の頬をさわる。

「……キリト……キリトなの……?」

「ああ、助けに来たんだ。お前大丈夫か? 怪我してないか?」

「う……うん、平気……」

シルカの顔がくしゃっと歪み、直後ものすごい勢いで俺の首に飛びついてきた。

「キリト……あたし……あたし……!」

 すううっと耳もとで息を吸う音がして、幼子のような号泣が――始まる前に、俺はシルカの体を両腕で抱え上げるとくるっと振り向き、また走り出した。

「ごめん、泣くのはちょっと後にしてくれ! ユージオが大怪我をしたんだ!!」

「えっ……」

腕の中の体が即座に強張る。氷の欠片だのゴブリンどもが置いていったガラクタだのを蹴り飛ばしながら一目散にユージオのところまで引き返し、シルカをその隣に下ろす。

「もう、普通の治療じゃ間に合いそうにないんだ! シルカの神聖術でなんとかならないか!?」

俺が捲し立てると、シルカは息を飲みながらひざまずき、おそるおそる右手を伸ばした。ユージオの深い傷のそばに指先が触れると、びくりとその手を引っ込める。

やがて、三つ編みに結った髪を揺らして、シルカは大きくかぶりを振った。

「……無理よ……こんな……こんな傷……あたしの魔法じゃ、無理……」

指先を、今度は蒼白になったユージオの頬に当てる。

「ユージオ……嘘よね……あたしのせいで……ユージオ……」

シルカの頬をつうっと伝った涙が、氷の上にできた血溜まりに落ちて小さな音を立てた。戻した両手で顔を覆い、嗚咽を漏らそうとする少女に向かって、俺は酷と思いつつ大声で言った。

「泣いてもユージオの傷は治らない! 無理でもいい、やってみるんだ! 君は次のシスターなんだろう!? アリスの後を継いだんだろう!?」

シルカの肩がぴくりと震え、しかしすぐに力なく落ちる。

「……あたしは……姉さんにはなれない……。姉さんが三日でマスターした術を、あたしはひと月かけても覚えられないのよ。今のあたしに治せるのは、ほんの……ほんのかすり傷くらいで……」

「ユージオは……」

俺は喉に込み上げてくる様々な感情を無理矢理飲み込みながら口を動かした。

「ユージオは、君を助けにきたんだぞ、シルカ! アリスじゃない、君を助けるために、命を投げ出したんだぞ!」

もう一度、シルカの肩が、さっきより大きく揺れた。

こうしている間にも、ユージオの天命はゼロに向かって突進しつつある。残り時間は二分、それとも一分だろうか。身悶えするほど長くもどかしい一瞬の沈黙。

不意に、シルカが顔を上げた。

「――もう、普通の治癒術じゃ間に合わないわ。危険な高位神聖術を試してみるしかない。キリト、あなたの助けが必要だわ」

「わ、わかった。言ってくれ、何でもやる」

「左手を貸して」

即座に伸ばした俺の手を、シルカは自分の右手で強く握った。次いで、氷の上に投げ出されたユージオの右手を左手でしっかり掴む。

「もし術が失敗したら、あたしも、あなたも命を落とすかもしれないわ。覚悟はいいわね」

「その時は俺の命だけで済むようにしてくれ。――いつでもいいぞ!」

シルカは一瞬、強い光を湛えた瞳で俺をまっすぐ見つめた。すぐに目を閉じ、すうっと息を吸い込む。

「システム・コール!」

高く澄んだ音声が、氷のドームいっぱいに響いた。

「――トランスファー・ユニット・デュラビリティ、ライト・トゥ・レフト!!」

 声の反響を追いかけるように、きぃんという鋭い音が高まり、膨れ上がった――と思ったその瞬間、シルカを中心として青い光の柱が屹立した。

草穂の光を遥かに上回る、凄まじい光量だ。巨大なドームの隅から隅までをライトブルーに染め上げている。俺は思わず目を見開いたが、それも束の間、突然シルカに握られた左手が異様な感覚に襲われ歯を食い縛った。

まるで、全身の構成物が光に溶け、左手から吸い出されていくようだ!

見れば、実際、俺の体から小さな光の粒が浮き出しては、左腕を滝のように流れ落ち、シルカの右手に注ぎ込まれていく。ぼやける視線でその先を追うと、光の奔流はシルカの体を通過して、ユージオの右手からその体へと流れ込んでいる。

トランスファー・デュラビリティ、つまり人から人へと天命を移動させる術なのだろう。おそらく、今俺のウインドウを開けば、数値が目まぐるしく減少しているはずだ。

構わないから全部使ってくれ、そう念じながら、俺は左手に一層力を込めた。見れば、エネルギーの導線となっているシルカも相当に苦しそうだ。あらためて、この世界に厳然として存在する、力の代償としての痛みの大きさを意識する。

痛み、苦しみ、そして悲しみ。仮想世界には必要ないはずのそれらが、これほどまでに意図的に強調されていることが、アンダーワールドの存在理由と深くリンクしているのは最早明らかだ。魂たちを苛むことで、ラースの技術者たちが何らかのブレイクスルーを目指しているなら、予期せぬ闖入者の俺がここでユージオを助けようとするのは明白な妨害行為ということになるのだろう。

だが、言わせてもらえば、そんなもの糞食らえだ。たとえ魂だけの存在であろうとも、ユージオは俺の友達なのだ。絶対にこのまま死なせたりしない。

一体いかなる情報が俺の魂に与えられているのか、天命の移動が進むにつれ、全身を異常な寒気が包み込みはじめた。徐々に暗くなる視界で、懸命にユージオの様子を確かめる。腹の傷は、術の開始前と較べれば明らかに小さくなってきているように見えた。しかしまだ完全な治癒には程遠い。流れ出る血も止まっていない。

「き……キリト……まだ、だいじょうぶ……?」

苦しそうな息の下で、シルカが切れ切れに言った。

「問題ない……もっと、もっとユージオにやってくれ!」

即座にそう答えたものの、すでに俺の目はほとんど視力を失いつつあった。右手、右足の感覚も消失し、唯一シルカに握られた左手だけが熱く脈打っている。

ここでこの世界における命を失おうとも、それはまったく構わない。ユージオの命が救われるなら、先刻に倍する痛みにだって耐えてみせる。しかしひとつだけ心残りなのは、世界の行く末を見届けられないことだ。恐らく、あのゴブリン集団を端緒とするのであろう闇の軍勢の侵攻に、真っ先に晒されるであろうルーリッドの村が気がかりで仕方ない。俺はログアウトとともにここでの記憶を失ってしまうだろうから、舞い戻ることも不可能だろう。

 いや――きっと、自分の眼でゴブリン達を見たユージオが何とかしてくれるはずだ。村長に警告して衛士を増強させ、更に世界の危機を知らせるために央都へ向かう。彼ならきっとそうする。

そのためにも、今ここでユージオを死なせるわけにはいかない。

 ああ、だが、しかし――俺の命は、もうすぐ尽きてしまう。なぜか、それがはっきりと分かる。ユージオはまだ目を開けようとしない。彼の傷を癒し、死の際から呼び戻すためには、命をすべて費やしても足りないというのか。

「……もう……だめ……これ以上続けたら、キリトが……っ」

シルカの悲鳴が、遥か遠くからかすかに聞こえた。

止めるな、続けるんだ、そう言おうとしたがもう口も動かない。思考を続けることすら困難になりつつある。

 これが、死なのだろうか? アンダーワールドにおける魂の擬似的死……それとも、魂の死は、現実の肉体すらも殺すのだろうか。そんなふうに思えてくるほどに、たまらなく寒い……そして恐ろしいくらい孤独で……。

ふと、両肩に、誰かの手を感じた。

暖かい。氷が詰まった俺という殻を、じんわりと溶かしていく。

 アリス――!?

俺はこの手を知っている。小鳥の羽のように華奢で、しかし誰よりも力強く未来を指していた手。

 アリスなのか……?

声にならない声でそう尋ねると、左の耳にふっと優しい吐息の感触が訪れ、そして、泣きたくなるほど懐かしく思える声が聞こえた。

『キリト、そしてユージオ……待ってるわ、いつまでも……セントラル・カセドラルのてっぺんで、あなた達をずっと待ってる……』

黄金色の光が恒星のように輝き、俺の内部を満たした。圧倒的なエネルギーの奔流は、すべての細胞に染み渡ったあと、行き場を求めて左手から溢れ出していった。


五十回目の綺麗に澄んだ斧音が、春霞の空高く拡散していった。

額の汗を拭いながら斧を下ろしたユージオに、俺は背後から声をかけた。

「傷の具合はどうだ? 痛んだりしないか?」

「ああ、丸一日休んだら、もうすっかり治ったみたいだよ。少し痕は残ったけどね。それどころか……気のせいかな、なんだか"竜骨の斧"がやけに軽く思えるんだ」

「気のせいってわけでもなさそうだぜ。今の五十回、真芯の当たりが四十二回もあった」

それを聞いたユージオはひょいっと眉を持ち上げ、次いでにっと大きく笑った。

「本当かい? なら、今日の賭けは僕が頂きだな」

「そりゃどうかな」

笑い返しながら、俺は受け取った竜骨の斧を右手一本で軽く振ってみた。確かに、記憶にあるよりは手首に感じる反動がずいぶんと少ない。

果ての山脈地下の洞窟で、最早夢だったかとさえ思えるほどに恐ろしい体験をしてから、すでに二晩が過ぎ去っていた。

シルカの神聖術によってからくも息を吹き返したユージオに右肩を貸し、左手に隊長ゴブリンの醜悪な首級をぶら下げて、どうにかルーリッドの村まで帰り着いたときにはとうに日没は過ぎ去っていた。村では大人たちが、捜索隊を出すかどうか広場で協議しており、そこに俺たち三人がひょっこり現われたものだから、短い安堵の溜息に続いて主に村長ガスフトとシスター・アザリヤによる叱責が轟雷のごとく降り注いだ。

しかしそれも、俺が左手の生首を大人たちの足元に転がすまでのことだった。人間の頭より遥かに巨大で、黄緑色の眼と長い乱杭歯を剥き出した隊長ゴブリンの首に睨まれて、大人たちはしんと黙り込んだあと盛大な悲鳴を上げた。

あとは主にユージオとシルカが、北の洞窟に野営していたゴブリンの大集団のことと、それが恐らく闇の軍勢による大侵攻の尖兵であることを説明した。村長たちはいかにも子供のたわ言と笑い飛ばしたそうだったが、誰一人本物を見たことのない怪物の生首が石畳に転がっていればそういう訳にもいかない。議題はすぐに村の防衛をどうするかに移り、俺たちは無事放免されて、疲れた足を引きずりながら家に戻った。

教会の部屋でシルカに左肩の傷を手当てしてもらい、俺はベッドに倒れこんで泥のように眠った。翌日の仕事はユージオともども免除され、これ幸いと惰眠を貪り、さらに一晩明けて今朝には肩の痛みも全身の疲労感もすっきり抜けていた。

 朝食後、こちらも元気な顔で現われたユージオと連れ立って森へと歩き、最初の一セットを彼が打ち終えたところ――である。

俺は、右手に握った斧を眺めながら、少し離れた場所に腰を下ろしたユージオに向かって言った。

「なあ、ユージオ。覚えてるか……あの洞窟で、お前がゴブリンに斬られたときのこと……。お前、妙なこと言ったよな。俺が、ユージオとアリスと、ずっと昔から友達だった、みたいな……」

答えはすぐには返ってこなかった。しばらく沈黙が続いたあと、ざあっと心地よい風が梢を鳴らして通り過ぎ、その尻尾に乗るようにして心許なそうに揺れる声が俺の耳に届いた。

「……覚えてるよ。そんな訳はないんだけどね……なんだか、あの時は、すごくはっきりそう思えたんだ。僕と、キリトと、アリスはこの村で生まれて一緒に育って……アリスが連れていかれたあの日も、その場に一緒にいたような……」

「……そうか」

頷き、しばし考え込む。

 極限状況における記憶の混乱、そう説明することは容易い。ユージオという人格を構成するのが俺のそれと同じ"不確定な光"フラクトライトなら、生死の瀬戸際において情報の誤った接続が発生しても不思議ではない。

 しかし、問題は――あの場で、俺にも同じような記憶の捏造が発生した、ということだ。目の前で死にゆくユージオを見たとき、確かに俺も、彼と一緒にルーリッドの村で育った、というような生々しい感覚を得たのだ。それに、眩い金髪を持つ少女、俺は会ったことすらないはずのアリスの思い出さえも。

そんなことは有り得ない。この俺、桐ヶ谷和人には、埼玉県川越市で妹の直葉と一緒に今日まで(正確にはこの世界で目覚めるまで)暮らしたというクリアな記憶が存在する。それが捏造されたものだとはどうしても思えないし、思いたくない。

やはり、あの現象は、俺とユージオを同時に同種の幻視が襲った、というそれだけのことなのだろうか?

 だとしても、唯一、説明のつけられないことがある。シルカの神聖術によって俺の天命をユージオに移動し彼を救おうと試みたあの時、俺は薄れゆく意識の中で、確かに背後に何者かの気配を感じたのだ。いや、何者か、ではない――あの瞬間、俺は彼女がアリスだと確信していた。そしてアリスは言ったのだ。キリト、そしてユージオ、セントラル・カセドラルの天辺で待っている、と。

 あの声までもを、俺の混濁した意識が生み出した幻だ、と切り捨てることはできない。なぜなら俺は"セントラル・カセドラル"などという単語をこれまで聞いたことはないからだ。現実世界には勿論、様々なVR世界においても、そんな場所あるいは建物の存在を噂にも聞いたことは無いと断言できる。

 ならばあの声は、六年前央都に連行されたはずの本物のアリスが、何らかの方法によって俺に送ってきたメッセージである、ということになる。しかし、彼女は俺を知っているようだった。そう――まるで、あの存在し得ない記憶、俺とアリスとユージオが、ルーリッドの村で生まれ育った幼馴染同士である、という思い出が真実である、とでもいうかのように……。

俺は、昨日の朝目覚めてから頭の中で何度も堂々巡りさせているこの思考を中断し、口を開いた。

「ユージオ。洞窟で、シルカがお前に神聖術を使ったとき、誰かの声を聞いたか?」

今度の答えは早かった。

「いいや、僕はもうまったく意識が無かったから。キリトは何か聞いたのかい?」

「いや……気のせいだ、忘れてくれ。――さて、仕事をしないとな。俺は四十五回超えを狙うぜ」

頭の中から渦巻く想念を追い払い、俺はギガスシダーに向き直った。両手でしっかりと斧を握り、全身の神経の隅々にまで意識を行き渡らせる。

振りかぶった斧は、イメージした軌跡を寸分たがわずトレースし、幹に刻まれた半月形の中心に吸い込まれるように命中した。


午前のノルマの、二人合わせて千回の斧打ちは、普段より三十分近くも早く終わった。二人ともに疲労が少なく、休憩をほとんど必要としなかったせいだ。会心の一撃も先週と較べると激増し、気のせいか巨樹の刻み目も、見てそれとわかるほどに深さを増したようだった。

ユージオは、満足そうに大きく伸びをすると、ちょっと早いけどお昼にしようと言いながらいつもの木の根に腰を下ろした。俺が隣に座ると、傍らの布包みからいつもの丸パンを取り出し、俺に二つ放ってくる。

両手でひとつずつ受け止め、俺は相も変らぬその石のような固さに苦笑いしながら言った。

「斧が軽くなったみたいに、このパンも柔らかくなってるといいんだけどな」

「あははは」

愉快そうに笑い、ユージオは大きく一口齧りとって首を振った。

「モグ……変わってないね、残念ながら。それにしても……なんで急に斧を軽く感じるようになったのかなあ……?」

「さてなあ」

 そう言いながらも、しかし俺はこの現象を、昨夜自分の"窓"を開いてみたときからある程度予想していた。問題のオブジェクトコントロール権限と、それにシステムコントロール権限、おまけに天命値までが数日前と較べて大きく上昇していたからだ。

 理由も見当がつく。あの洞窟で、ゴブリンの大集団を撃退したことによって通常のVRMMOおけるレベルアップ的現象が発生したのだろう。二度やれと言われても絶対に御免だが、困難な戦闘に挑んだ見返りはそれなりにあったというわけだ。

 今朝方、シルカにもそれとなく尋ねたみたが、やはり先週までは失敗率の高かった神聖術が妙に上手くいくような気がする、ということだった。実際には戦闘を行っていないシルカにも"レベルアップ効果"が及んでいるのは、多分俺たち三人がパーティー扱いされ、全員に経験値が入った、と考えれば納得がいく。

 恐らく、ユージオのオブジェクト権限も俺と同程度、48前後にまで上昇しているはずだ。となればもう一度アレを試してみない手はない。

俺は、大急ぎで二つのパンを水と一緒に胃に流し込み、立ち上がった。まだゆっくり顎を動かしているユージオの視線を感じながら、ギガスシダーの幹に空いたウロのひとつに歩み寄り、先日以来そこに置きっぱなしだった青薔薇の剣の包みに手を伸ばす。

半ば確信し、半ば祈りながら、革包みを両手で握り、腰を入れて持ち上げた。

「おっと……」

途端、後ろにひっくり返りそうになり、慌てて足を踏ん張る。記憶にある、ウェイトをたっぷりつけたバーベルのようなとんでもない重さが、せいぜい肉厚の鉄パイプ程度にまで激しく減少していたからだ。

手首にずしりと応えることに変わりはない。しかしその重みは、どちらかと言えば心地よい、まさに旧アインクラッド末期の我が愛剣を思い起こさせる手応えだ。

俺は、左手一本で持った革包みの紐をほどき、露わになった美しい細工の柄を右手で握った。パンを咥えたまま目を丸くするユージオに短くにやっと笑いかけてから、しゃりーんと背筋の震えるような鞘走りとともに剣を抜き放つ。

 青薔薇の剣は、先日の暴れ馬っぷりとは打って変わって、深窓の美姫の佇まいで俺の手にしっくりと収まった。改めて、見れば見るほど見事な剣だ。そこらのVRゲーム中のポリゴン製武器には有り得ない、吸い付くような柄の質感、わずかに透明感のある刀身の艶、薔薇の蔦を象った鍔の細工の見事さ、昔話のベルクーリとやらが竜から盗もうとしたのもむべなるかなと思える。

「お……おいキリト、持てるのか、その剣が?」

唖然としながらそう言うユージオに、俺はひゅひゅんと剣を左右に切り払って見せた。

「パンは柔らかくならなかったけど、この剣は軽くなったみたいだぜ。まあ、見てろって」

改めてギガスシダーの斧目の前に立ち、すっと腰を落とす。左手を前に出し、見えない弓につがえた矢のように、剣を握った右手をいっぱいに引き絞る。

「シィッ!」

 かの世界で何千回と繰り返した一番の得意技、シングル・スラスト剣技"ヴォーパル・ストライク"を、俺は鋭い気合とともに全体重を乗せて放った。

水平に疾る稲妻のように宙を切り裂いた青薔薇の剣は、狙ったピンポイントを寸分違わず貫き、轟雷にも似た炸裂音を周囲に響かせた。周りの木々でさえずっていた鳥たちが瞬間押し黙り、次いで一斉に飛び立った。

久々に、剣人一体、とでも言うべき境地を味わえたことで恍惚となりながら、俺は伸びきった右手の先を目で追った。青薔薇の剣の切っ先は、小指の長さほどにまで深く、ギガスシダーの黒光りする木肌に埋まっていた。

 悪魔の杉、森の暴君、黒鋼の巨樹ギガスシダーがついに――あるいは呆気なく倒れたのは、俺とユージオが竜骨の斧に換えて青薔薇の剣を振るいはじめてからわずか五日後のことだった。

実際には、膨大な樹の天命を律儀にゼロにする、つまり太い幹の全直径を刻みぬく必要は無かったのだ。くさび型の切り込みが、直径の八割に迫ろうとしていたとき、ユージオが繰り出した水平斬りの一撃を受けた巨樹がそれまでにない不気味な軋み声を発した。

俺たちは唖然として顔を見合わせ、次いで遥か頭上に伸びるギガスシダーの幹を振り仰いで、驚愕のあまり凍りついた。樹が、徐々に俺たちに向かって倒れ込んでくるのが見えたからだ。

もっとも、その時はむしろ樹ではなく、俺たちの立っている地面が前方に傾斜していると錯覚したものだ。それほどまでに、直径四メートルを超える巨樹が重力に屈して頭を垂れる光景は非現実的なものだった。

まだ一メートル近く残っていた幹の厚み部分が、のし掛かる重さに耐え切れず、石炭のような欠片を撒き散らしながら圧潰していった。巨樹の断末魔は雷が十発次々に落ちた以上の凄まじさで、破壊音は村の中央広場を突き抜けて北の端の衛士詰め所まで鮮明に届いたらしい。

俺とユージオは同時に悲鳴を上げ、それぞれ右と左に逃げ出した。オレンジ色に染まり始めた空を黒々と切り裂きなからギガスシダーはゆっくり、ゆっくりと倒れていき、とうとうその巨体を大地に横たえた。途方もない衝撃で俺は空高く放り上げられ、尻から岩の上に落下して天命が百ほど減少した。


「驚いたな……この村、こんなに人がいたんだなあ」

俺は、ユージオが差し出す、泡立つりんご酒のジョッキを受け取りながらそう呟いた。

ルーリッド村中央広場には、赤々としたかがり火が幾つも焚かれ、集った村人の顔を明るく照らし出していた。噴水の傍らでは、バグパイプに似た楽器やえらく長い横笛、獣の皮を張ったドラムを携えた楽団が陽気なワルツを奏で、それに合わせて踊る人々の靴音や手拍子が夜空へ舞い上がっていく。

喧騒から少し離れた片隅のテーブルに陣取り、足でリズムを取っていると、なんだか自分も村人の輪に飛び込んで踊りまくりたくなってきて思わず苦笑いを浮かべる。

「僕も、村の人がこんなに集まるのを見たのは初めてかもしれないな。年末の大聖節のお祈りよりも多いよ、絶対」

そう言って顔をほころばせるユージオに向かって、俺は右手のジョッキを突き出して何度目かの乾杯を交わした。アップルサイダーに似た味の酒は、この村では一番弱いものらしいがそれでも一息に呷ると顔がかーっと熱くなる。

 ギガスシダーが切り倒されたことを知った村長以下の顔役たちは、六日前の安息日に引き続いて村会議の開催を余儀なくされた。そこでは、"巨樹の刻み手"ユージオ(とついでに俺)の処遇をどうするか喧喧諤諤の議論が交わされ、恐ろしいことに、予定より少々――具体的には九百年ほど――早くお役目を果たしてしまったことを罪として処罰する案も出されたそうだが、最終的には村長ガスフトの鶴の一声により、何はともあれ村を挙げての祭りを催しユージオについては掟どおりに遇する、という結論に達したそうだ。

掟どおり、というのが実際には何を指すのかが俺には見当もつかず、ユージオに尋ねてみたのだが、彼はどうせすぐにわかるよ、と笑うだけだった。

まあ、その顔を見れば、少なくとも困った目に合うわけではなさそうだという事だけは察せられる。俺はジョッキを干すと、傍らの皿から肉汁したたる巨大な串焼きを掴みあげ、がぶりと噛み付いた。

考えてみると、この世界に来てから食べたものと言えば、もう相当にうんざりしつつあった例の固丸パンと教会で出る野菜中心の質素な料理だけで、肉と名のつくものを口にするのは初めてだ。濃厚なソースのかかった柔らかい牛肉(たぶん)は、ここが仮想世界だと信じられなくなるほど芳醇な香りと旨味に満ちていて、この一口のためだけでもギガスシダー相手に苦闘した甲斐はあったと思える。

もっとも、勿論これで全てめでたしめでたしという訳には行かない。むしろ、ここでようやく全ての端緒に辿り付いたのだと考えなくてはいけないのだ。視線を動かし、ユージオの腰に誇らしげに吊られたままの青薔薇の剣をちらりと眺める。

彼にはこの五日間、ギガスシダーを標的として俺が身につけた片手直剣技のほぼ全てをみっちりと練習させた。その剣技の出自は、ソードアートオンラインという一ゲーム内の動作にすぎないのだが、イメージ力が重要なこの夢世界では有効に機能することをゴブリン隊長相手に実証ずみである。更にユージオは俺が舌を巻くほどの素質と吸収力を持っており、剣の性能と併せて今では堂々たる強力な剣士であると太鼓判を押してもいい。

あとは、その事実をどうにかして彼の自信へと変え、村を出て央都を目指す計画に同意させなくてはならない。

金串に刺さった肉と野菜を全て平らげると、俺は意を決して声をかけた。

「なあ、ユージオ……」

「ん?」

同じく串焼きを頬張っていたユージオが、もぐもぐ口を動かしながら顔をこちらに向ける。

「お前、この後……」

だが、続きを口にする前に、高い声が俺たちの間に降ってきた。

「あっ、こんな所にいた! 何やってんのよ、お祭りの主役が」

両手を腰に当て、胸を反らせて立っている女の子がシルカだと気付くのにすこし時間がかかった。髪をほどいてカチューシャを飾り、いつもの修道服ではなく赤いベストと草色のスカートを身につけていたからだ。

「あ、いや、僕ダンスは苦手で……」

もごもごと言い訳するユージオに倣って、俺も首と右手を振る。

「ほら、俺も、記憶喪失だし……」

「そんなもの、やればなんとかなるわよ!」

俺とユージオは同時に手を掴まれ、ずるずると椅子から引き起こされてしまった。シルカは俺たちを有無を言わせず広場の真ん中まで引っ張っていき、どーんと威勢良く突き飛ばした。途端、周囲からわっという歓声が上がり、たちまち踊りの輪に飲み込まれてしまう。

幸い、ダンスは学校の体育祭でやるような簡単なもので、パートナーが三回替わる頃にはどうにか見よう見真似で踊れるようになった。するとだんだん、素朴なリズムに乗って体を動かすのがなんだか楽しく思えてきて、ステップを踏む足も軽くなってしまう。

 健康的な赤い頬で陽気に笑う、東洋人とも西洋人ともつかない顔立ちの娘さんたちと手を取りあって踊りまくっていると、なんだか自分が本当に記憶を無くした風来坊だというような気がしてきて、このままこの村で職を見つけ家を構えずーっと暮らしていくのも悪くないのかなあ――。

などとボーっと考えていた時、不意に音楽が高まりつつペースを上げていき、そして突然終わった。なんだもう終わりか、と楽団のほうを見ると、並んだ楽器の隣に設えられた壇に、見事な髭を生やした威丈夫が登ったところだった。ルーリッド村長にしてシルカの父、ガスフトだ。

村長は両手をぱんぱん叩き、よく通るバリトンで叫んだ。

「みんな、宴もたけなわだが、ちょっと聞いてくれ!」

村人たちは、ダンスで火照った体を冷やすためのエールやらりんご酒のジョッキを掲げて村長に歓声を送ったあと、さっと静かになる。

「ルーリッドの村を拓いた父祖たちの大願はついに果たされた! 肥沃な南の土地からテラリアとソルスの恵みを奪っていた悪魔の樹が倒されたのだ! 我々は、新たなる麦畑、豆畑、牛や羊の放牧地を手に入れるだろう!」

ガスフトの大音声を、更なる歓声が掻き消す。村長は両手を上げてふたたび静けさが戻るのを待つと、更に続けた。

「それを成し遂げた若者――オリックの息子ユージオよ、ここに!」

村長が村人の輪の一角を指すと、その先に、緊張した顔で進み出るユージオの姿があった。照れくさそうに頭を掻きながら、村長の隣の壇上に登る。彼がこちらに向き直ると、三度目の、そして最大の歓声が浴びせられた。俺も、負けじと両手を打ち鳴らし、ぴいぴいと口笛を鳴らす。

「掟に従い――」

村長の声が響き渡り、村人はまた口を閉じて耳を澄ませた。

「天職を成し遂げたユージオには、自ら次の天職を選ぶ権利が与えられる! このまま森で樵を続けるもよし、父親の後を継いで畑を耕すもよし、牛飼いになろうと、酒を醸そうと、商売をしようと、なんなりと己の道を選ぶがいい!」

なんだって!?

俺は、ダンスの余韻が急激に冷めるのを感じた。しまった、娘さんたちの手を握って浮かれている場合ではなかったのだ。やはり早いところユージオを説得し念を押しておく必要があった。ここで、僕は麦を育てますなどと宣言されてしまったら万事窮する。

 息を飲みながらユージオの様子を注視していると、彼は困ったようにうつむき、ぐしぐしと頭を掻き、左手を何度も閉じたり開いたりした。いっそ俺も壇上に乱入し、彼の肩を叩いて、俺たち央都に行きまーすと宣言してやろうか――と考えたとき、すぐ隣で小さな声がした。

「ユージオ……村を出るつもりなのね……」

いつの間にか俺の横に立っていたシルカは、そう呟くと、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。

「そ、そうなのか?」

「そうよ、間違いないわ。それ以外に、何を迷う理由があるのよ」

まるでその声が聞こえたかのように、ためらいがちに動いていたユージオの左手が、腰の青薔薇の剣の柄をぐっと握った。顔を上げ、まず村長を、次いで村人たちの輪を見回したあと、大きなはっきりした声で言った。

「僕は――剣士になります。ザッカリアの街で衛兵隊に入り、腕を磨いて、いつか央都に上ります」

しんとした静寂のあと、村人の間に、さざ波に似たどよめきが広がった。しかしそれは、あまり好意的なものではないように思えた。大人たちは皆、眉をしかめて周りの者に首を寄せ、ぼそぼそと何か言い合っている。

その声を静めたのは、今度もガスフト村長だった。片手を上げて村人を黙らせると、彼も厳しい顔を作り、口を開いた。

「ユージオ、君はまさか――」

そこで一度言葉を切り、あご髭を撫でてからまた続ける。

「……いや、理由は問うまい。天職を選ぶのは教会の定めた君の権利なのだからな。よかろう、ザッカリアの長として、オリックの息子ユージオの新たなる天職を剣士と認める。望みのままに流離い、その腕を磨くがよかろう」

ほうーっ、と、俺の口から長い吐息が漏れた。これでようやく、この世界の核心を自分の目で確かめることができる。もしユージオが農民になってしまったその時は単身央都を目指すつもりでいたが、知識も路銀も無い身で行き当たりばったり進むのでは何ヶ月、何年かかるか知れたものではない。ここ数日の苦労が報われた思いで、すうっと肩が軽くなる。

村人たちも、村長の決定ならばと納得したようで、思い出したように手を叩き始めた。が、その音が大きくなる前に、鋭い叫びが夜空にこだました。

「待ってもらおう!」

人垣を割って壇の前に飛び出したのは、ひとりの大柄な若者だった。

朽葉色の短い髪といかつい造作、そして何よりその左腰に吊られたシンプルな形の長剣に見覚えがあった。いつも北門の詰所にいる衛士だ。

若者は、壇上のユージオと村長に張り合うように胸を張り、太い声で叫んだ。

「ザッカリアの衛兵隊を目指すのはまず第一にこの俺の権利だったはずだ! ユージオが村を出ることを許されるのは、俺の次じゃないとおかしいだろう!」

「そうだ、その通りだ!」

追随する叫び声を発しながら続いて進み出てきたのは、若者とよく似た髪色、顔立ちをした、しかしこちらは相当に腹の出た中年の男だった。

「……あれは?」

シルカに顔を寄せて尋ねると、渋面とともに答が返ってくる。

「前の衛士長のドイクさんと、その息子で今の衛士長のジンクよ。村で一番の使い手、が口癖の一家なの」

「なるほどね……」

さてどうしたものか、と思いながら見守るうち、ジンクとその親父の言い分を一通り聞いたガスフト村長が、なだめるように手を挙げながら言った。

「しかしジンクよ、お前はまだ衛士の天職に就いて六年だろう。掟では、あと四年経たねばザッカリアの剣術大会に出ることはできんぞ」

「ならばユージオもあと四年待つべきだ! 剣の腕が俺より下のユージオが、俺を差し置いて大会に出るのはおかしい!」

「ふむ。しかしそれをどうやって証明するのだ? お前のほうがユージオより腕が立つことを?」

「なっ……」

ジンクと親父の顔が、見る間にまったく同じ赤に染まった。今度は親父のほうが、湯気を立てながらガスフトに詰め寄る。

「ルーリッドの長と言えどその暴言は聞き捨てなりませんな! 息子の剣が、木こりごときに遅れを取ると申すのなら、この場で試合わせてみればよいでしょう!」

それを聞いた村人の間から、そうだそうだ、の声とともに無責任な野次が盛んに飛んだ。思いがけぬ祭りの余興を楽しめそうだと見るや、ジョッキを掲げ、足を踏み鳴らして、試合だ試合だと喚き散らす。

俺が呆気に取られて見守るうち、あれよあれよという間にジンクがユージオに立会いを申し込み、ユージオもそれを受けざるを得ず、壇の前に作られたスペースで両者が向き合うという流れになってしまった。マジかよ、と思いながらシルカに耳打ちする。

「俺ちょっと行ってくら……」

「ど、どうする気なの」

それには答えず、人波を掻き分けてどうにか噴水前まで出ると、ユージオに走り寄る。悍馬のように入れ込んでいる相手とは対照的に、いまだに何が何やらと言いたそうなユージオは、俺を見ると短く苦笑した。

「ど、どうしようキリト、なんかとんでもないことになっちゃった」

「ここまで来てごめんなさいじゃ済まないだろうなあ。それはともかく、試合って本気の斬り合いなのか?」

「まさか、剣は使うけど寸止めだよ」

「ふうん……。でも、その剣はもし止まらないで当たっちゃうと、それだけで相手を殺しかねないからな。いいか、ジンク本人じゃなくてあいつの剣を狙え。出会い頭に"バーチカルアーク"を一発当てればそれで終わる」

「ほ、ほんとに?」

「絶対だ、保証する」

ユージオの背中をばんと叩くと、少し離れた場所で俺を胡散臭そうに見ているジンクとその親父にぺこりと頭を下げ、観客の列まで退いた。

壇の上でガスフト村長が両手をたたき、静粛に! と叫んだ。

「それでは――予定には無かったが、この場で衛士長ジンクと剣士ユージオの立会いを執り行う!」

ジンクがじゃりんと音を立てて腰の剣を抜き、少し遅れてユージオがゆっくり抜剣する。村人の間からほおうという嘆声が漏れたのは、かがり火の下で美しく映える青薔薇の剣の輝きのせいだろうか。

ジンクも一瞬、相手の剣がまとうオーラに気圧されたようだったが、すぐに両手にぺっと唾を吐き、自分の武器を大上段に構えた。

対してユージオは、右手一本で握った剣をぴたりと正眼に据え、左手左足を引いてすっと腰を落とす。

数百の村人が息を飲んで見守るなか、ガスフトが右手を高く掲げ、

「始め!」

の声とともに振り下ろした。

予想通り、即座に突っ掛けたのはジンクのほうだった。本当に止まるのかよと思いたくなる勢いで真っ向正面の一撃を繰り出す。

 ユージオも、わずかに遅れて動いた。流れるような足捌き、体重移動、右手の振り、そして何よりその間合いと呼吸を見て――

俺の背中に圧倒的な戦慄が走った。

何もかもが完璧だった。五日前、初めて剣を握った人間の動きではなかった。一条の青い光線と化したユージオの剣が、ジンクの剣と接した瞬間、それをまるで飴細工ででもあるかのように粉砕するのを眺めながら、俺は内心で自問していた。

 彼がこの先研鑚を積み、数多の技を会得し、実戦の修羅場をも経たとき、いったいどれほどの剣士となるのだろうか? もしその彼と本気で剣を交える場面に至ったとしたら、果たして俺は彼の前に立てるのか――?

あまりにあっけない、しかし見事な決着に大いに湧く村人たちに混じって、両手を盛んに叩きながら、俺は背中を伝う冷たい汗を意識した。


ジンク親子が茫然自失の体で引き上げていったあと、すぐさま音楽が再開されて祭りは前以上に盛り上がり、ようやくお開きとなったのは教会の鐘が夜十時を告げる頃だった。

りんご酒をさらに三杯飲んでやっと理由のない不安を忘れた俺は、心地よい酩酊に任せてまた散々踊りまくってしまい、仕舞いにはシルカに引きずられるようにして教会に戻る破目になった。門のところで、俺の有様を散々笑ってくれたユージオと明朝の旅立ちを約束して別れ、どうにか自室に辿り付いて、ふらふらとベッドに倒れ込む。

「まったく、ちょっと飲みすぎよ、キリト。ほらお水」

シルカの差し出す冷たい井戸水を一息に呷り、ふう、と息をつくと、改めて傍らに立つしかめっ面の少女を見上げた。

「……な、何よ」

「いや……悪かったな、って思って……。もっと、ユージオと話したいこととかあったんじゃないのか……?」

途端、軽い酒で上気したシルカの頬が更にさくらんぼ色に染まる。

「何言い出すのよ、急に」

「……謝らなきゃいけないのは、それだけじゃないな。ごめんな、俺がユージオを遠くに連れてくみたいなことになっちゃって……。もしあいつがずっとこの村で木こりを続けてたら、そう遠くないうちにシルカと結婚するようなことにもなってたかもしれないのにな……」

ふううー、ととても長い溜息をついて、シルカはベッドにすとんと腰を下ろした。

「あんたって、ほんと、何て言うか……」

呆れかえったと言わんばかりに数回頭を振ってから、続ける。

「……まあ、いいわ。――そりゃ、ユージオがいなくなっちゃうのは寂しいけど……でも、あたし、嬉しいのよ。アリス姉さんがいなくなってからずっと、何もかも諦めたみたいにして生きてたユージオが、あんないい顔で笑うようになったんだもの。自分から、村を出て姉さんを探しにいくって決めてくれたんだもの。ああ見えて、父様も心の中じゃすごく喜んでたわ。ユージオが、姉さんを忘れてなかったことをね」

「……そっか……」

シルカは頷き、ついで視線を窓の向こうの見事な満月に向けた。

「あたしね……別に、姉さんの真似して闇の国の土を踏むためにあの洞窟に行ったわけじゃないの。そんなこと、あたしにできっこないのは判ってた。判ってたけど、それを……できないのを、確かめたかったの。あたしは、アリス姉さんの代わりにはなれないってことを、確かめたかった」

俺はしばらくシルカの言葉の意味を考えたあと、首を横に振りながら言った。

「いや、君はすごいよ。普通の女の子なら、村を出る橋のところで、森の道の途中で、洞窟の入り口で引き返したはずだ。なのに、あんな暗い洞窟のずっと奥まで入っていって、ゴブリンの偵察隊を見つけちゃったんだからな。君は、君にしかできないことをしたんだ」

「あたしにしか……できないこと……?」

目を丸くし、首をかしげるシルカに、大きく頷きかける。

「君はアリスの身代わりなんかじゃない。シルカには、シルカだけの才能があるはずだ。ゆっくりそれを見つければいいんだ」

実際に、これからのシルカは以前よりはるかに神聖術の才能を増していくだろうという根拠がある。彼女も、俺やユージオと一緒にゴブリンを撃退し、そのせいでシステム上の権限レベルが上昇しているはずだからだ。

しかし、それは本質的な問題ではない。彼女は、自分とは何者なのかという問いに挑み、答えを手に入れた。そのこと自体が強力なエネルギーを彼女に与えていくだろう。自分を信じること、それこそが、人の魂の生み出す最大の力の源なのだから。

そろそろ、俺も、今まで先延ばしにしてきた恐るべき疑問の答えを見つけるべき時だった。

 果たして、この意識――キリトあるいは桐ヶ谷和人という名の自我は、一体何者なのか? 生物的な脳に宿るフラクトライトによって構成される、つまり"本物の俺"なのか。それとも、STLによって作成された複製――コピーされた魂なのか。

それを確かめる方法が、たった一つだけある。ユージオやシルカたち、人工フラクトライトには絶対に不可能なある行動が、俺に可能かどうか知るのだ。

俺は体を起こすと、隣に座るシルカの顔を見つめた。

「……?」

不思議そうに首を傾げるその頬に手を伸ばし、引き寄せ、白く広い額にそっと唇を付ける。

シルカはぴくっと体を震わせ、三秒ほどそのままじっとしていたが、急に凄い勢いで立ち上がると両手で口もとを覆い、見開いた目で俺を凝視した。

「……あなた……今、何したか……知ってるの……?」

顔中真っ赤に染めて、ごくごくかすかな声でささやくシルカに向かってこくりと頷く。

「知ってる。"教会によって婚姻を認められた男女以外の者は、箇所を問わず互いに口づけしてはならない"……禁忌目録違反」

「ほんとに……信じられない……信じられない人ね」

「今のは、誓いの印さ。俺は絶対に、ユージオとアリスをこの村に連れて帰る。信じていいぜ……俺は……」

少し間を置いて、俺はゆっくりとその先を口にした。

「俺は、剣士キリトだからな」


翌朝は、見事な快晴だった。

シルカが作ってくれた弁当のバスケットの重みを右手に感じながら、俺とユージオは長い間帰らぬであろう道を南に歩いていた。

ギガスシダーの森へと入る細道の分岐点まで来たとき、俺はそこに一人の老人が立っているのを見つけた。皺深い顔は見事な白髭に覆われているが、背がぴんと伸びた体は逞しく、眼光は炯炯としている。

老人を見た途端、ユージオは嬉しそうに顔をほころばせ、走り寄った。

「ガリッタ爺さん! 来てくれたの、嬉しいよ。昨日会えなかったからね」

 その名前は聞覚えがあった。確か、前任の"ギガスシダーの刻み手"だ。

ガリッタという名の老人は、髭の下で顔をわずかにほころばせると、ユージオの肩に手を置いた。

「ユージオよ、儂が指の長さほどにしか刻めなかったギガスシダーを、よもや倒すとはなあ……。教えてくれんか、一体どうやって……?」

「この剣と……」

ユージオは、左腰の青薔薇の剣をわずかに抜いてからチーンと音をさせて鞘に収め、次いで振り返って俺を見た。

「何より、彼のおかげだよ。名前はキリト……ほんとに、とんでもない奴なんだ」

どういう紹介だよと思いながら慌てて頭を下げる。ガリッタ老人は鋭い眼光で俺を射抜かんばかりに見据えると、すぐに破顔した。

「そなたが噂の"ベクタの迷子"か。なるほど変動の相じゃな」

そんなことを言われたのは初めてで如何なる意味かと首を捻っていると、老人は続けて言いながら左手で森を指した。

「さて、せっかくの旅立ちを邪魔して悪いが、少々付き合ってもらえるかな。何、そう手間は取らせん」

「え、ええ。いいよね、キリト」

特に拒否する理由も無いので頷く。老人はもう一度笑い、それでは付いてきなされ、と森へと続く道に足を踏み入れた。

この道を毎日通ったのは一週間程度のことだが、それでも懐かしさに似た感慨を覚えながら二十分ほど歩いて、広い空き地へと到着する。

数百年の長きに渡って天を衝かんばかりに聳え立っていた森の支配者は、今やその巨体を静かに横たえていた。漆黒の樹皮には、すでに細い蔦が這い登りつつあり、いずれ遠い未来には朽ち果てて大地に還って行くのかと思わせる。

「……ギガスシダーがどうかしたの、ガリッタ爺?」

ユージオの声に、老人は無言で倒れた幹の先端方向を指差し、そちらにすたすた歩いく。慌てて後を追うが、途中からはギガスシダーの枝やそれが薙ぎ倒したほかの木々が絡み合って迷路のごとき有様だ。よくよく見ると、ギガスシダーの黒い枝はどんなに細いものでも一本たりとも折れておらず、改めてその強靭さに舌を巻く。

引っかき傷を作りながら苦労して枝を掻い潜り、涼しい顔ですでに立ち止まっていたガリッタ老人の隣に辿り着いた。掌で汗を拭いながら、ユージオがぼやくように言った。

「一体なんなのさ?」

「これじゃ」

老人が指差したのは、倒れたギガスシダーの幹のまさに最頂点、真っ直ぐに伸びた梢だった。かなりの長さに渡って小さな枝ひとつ生えておらず、その先端はレイピアのように鋭く尖っている。

「この枝が、どうかしたんです?」

俺が尋ねると、老人はそっと手を伸ばし、太さ五センチほどのその梢部分を撫でた。

「ここは、ギガスシダーの全ての枝のなかで最も古く、最も結晶化し、最もソルスの恵みを吸い込んだ部分じゃ。さあ、その剣で、ここから断ち切るのじゃ。一刀で落とすのだぞ、何度も打つと裂けてしまうかもしれんでな」

老人は先端から一メートルと二十センチほど下の部分に手刀をぽんと当ててから、数歩退いた。

ユージオと俺は顔を見合わせ、とりあえず言うとおりにしようと頷いた。ユージオの弁当を預かり、俺も後ろに下がる。

 青薔薇の剣が鞘から抜かれ、陽光を受けて薄青く輝くと、隣で老人がわずかな嘆息を漏らした。そこには、もしあの剣を若い頃に手にしていたら全てが変わっていた――という慨嘆の響きがあったように思えたが、ちらりと見た老人の横顔は穏やかで、心中を見透すことはできなかった。

ユージオは、剣を構えたもののしかし中々動かなかった。切っ先が、内心の迷いを映してかわずかに揺れている。手首ほども太さのある枝を一撃で断ち切れるかどうか、自信が持てないのだろうか。

「俺がやるよ」

前に出て手を伸ばすと、ユージオは素直に頷き、剣の柄を差し出してきた。弁当と交換に受け取り、彼と場所を入れ替えて立つ。

何も考えず、何も見ずに、俺はただ剣を振り上げ、まっすぐに斬り下ろした。きしっ、という澄んだ音とわずかな手ごたえを残して刃は狙った箇所を通り抜け、少し遅れて落下した黒く長い枝を返す刀で受け止めて、跳ね上げる。

宙をくるくる回りながら落下してきたそれを、俺は左手で受け止めた。ずしりと響く重さと、氷のような冷たさに少々よろける。

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