篝火の下でも分かるほど、ヘルメットの下の顔が瞬時に血の気を失った。フルダイブ環境下の過剰な感情表現だが、その分相手の精神状態を如実に伝えてくる。
「……どうせトトカルチョ関係の八百長請け負ったんだろ。アンタがいくら稼ごうと知ったこっちゃないけど……許せねえんだよ!! てめえみたいな、どうせゲームだろとか、マジになってんじゃねえよとか裏で言ってる奴は!!」
そう――、この世界は、たかがゲームである。それが絶対不変の真実なのは俺も重々理解している。
恐らく、デュエルで手を抜かれたくらいで熱くなっている俺が馬鹿なんだろう。公式大会の上位カードでは、巨額の賭け金が動く。考えようによっては、八百長を請け負い大金を稼ぐことすらも、ロールプレイの一環と言えなくもない。
しかし。
俺は、準決勝でこの男と戦ったとき、おそらくSAOβに初ダイブして以来もっとも本気になった。ソードスキルの出の速さ、ディレイの短さ、あらゆるフェイントに即応してくる判断力、すべてが感嘆すべきレベルだったからだ。
それまでまったくノーマークのプレイヤーだったこともあって、こんな奴もいたのか、と――俺は、嬉しくなった。勝っても負けても、試合が終わったら声を掛けてフレンド登録させてもらおう、などと本気で思った。
タイムアップ間際に、相手がわざとこちらの技を喰らい、大仰に倒れるその瞬間までは。
間抜けもいいところだ。
青ざめる少年をねめつけながら、俺は腰のポーチに手を突っ込み、つかみ出したものをざらっと周囲にばら撒いた。
砂の上で輝くのは、すべて深紅色のクリスタルアイテムだ。
「見たことあるだろ、これ。"即時蘇生結晶"……すごい値段だったぜ、これだけ揃えるのには」
俺の意図を察したのだろう、相手の表情が一層強張る。
この高価なクリスタルは、効果範囲内で死んだプレイヤーひとりを、黒鉄宮送りになる前にその場で自動蘇生させてくれる。しかしデスペナは発生するし、装備も落とす。
それはつまり、使いようによっては、意図的な連続殺害(レスキル)も可能となるということだ。
「これから、アンタを十回連続で殺す。確実に1レベルダウン、装備も全ロスするまで。明日からどんなに必死こいても、次の……β最後の大会までにリカバリーは絶対できない。それが嫌なら……本気で戦ってみせろよ」
抑揚の失せた声でそう宣言し、俺は剣を振りかぶった。
戦いは、予想、あるいは期待したとおり激烈なものとなった。
俺の習得しているあらゆるソードスキルを、少年は的確にパリィし、あるいはステップで避け続けた。一人のギャラリーもいない深夜のクローズドエリアで、俺と彼はさきの大会を上回る熱戦を繰り広げた。
怒りは消えていなかったが、それでもなお抑えようもなく手足が、そして精神が昂ぶるのを俺は感じた。全速の攻撃を撃ち込んだ直後、鼻先を掠めるような反撃を掻い潜るタイトロープ感覚。
これほどのテクニックがあって、なぜ――。
何でなんだよ!!
と内心で叫びながら、俺は脳神経が灼き切れるほどの勢いで、現時点で最長の五連撃を放った。
ほとんど同時に、立て続けの光芒が四つ、眩く弾けた。
そして、まるでデジャヴのように、戦いは意外な結末を迎えた。
少年が、受けられるはずの五撃目を受けず、わざと胸のど真ん中に喰らったのだ。
その一撃はクリティカル判定され、半分以上残っていたHPバーが一瞬で吹っ飛んだ。俯き、よろめいた少年の身体が無数のポリゴンとなって爆砕し、直後、床に転がるクリスタルの一つが強く輝いて同じく砕けた。
いったん宙に拡散しかけたポリゴンが、ぎゅうっと再凝縮されていく。
赤い光の柱が伸び、収まったその場所には、蘇生された少年の姿があった。しかし、つい一瞬前まで被っていたヘルメットが消え失せ、金属音とともに足元に転がった。
俺は、顔をうつむけたままの少年を愕然と凝視し――。
軋り声を絞り出した。
「て……めぇ……! また……同じ、真似を……」
ほとんど自動的に、剣が動いた。真正面からの、見え見えの右袈裟斬り。
しかし、またしても少年は避けなかった。肩口から脇腹へと斬撃が疾り、赤いライトエフェクトが斜めに輝いた。
ぐらりと身体を揺らし、一歩よろめいただけで、少年は踏みとどまった。
「……僕は」
赤みがかった短い金髪に表情を隠し、少年がぼそりと呟いた。
「僕は、嬉しかったんだ。君が……キリト君が、うちのギルドに入るかも、って聞いて。すごく楽しみだったんだよ」
「な……」
一瞬言葉を飲み込み、直後それは猛烈な怒声となって俺の喉から迸った。
「……何を今更言ってやがる!! なら、なんであの時手抜きなんかした!! 俺は……俺は……ッ」
「わざと負けたのは、八百長したからじゃない!!」
少年も高い声で叫び、露わになった顔を上げた。両眼から、滝のように涙が溢れていた。
この世界では、感情を隠せないかわりに、嘘泣きもできない。ほんとうに、泣きたくなるほど悲しいと感じなければ、涙は流れない。
その、何かを訴えかけるような、すがるような眼差しを見て――俺は、短く息を飲んだ。
どこかで……この目を、どこかで見たような……。
「僕は、君と向こうでもういちど友達になってから、こっちでちゃんと名乗りたかったんだ!! 僕だよ……僕なんだよ、キリト君。いや、桐ヶ谷君……」
「な…………」
俺は言葉を失った。
目の前の、特徴のないアバターの顔が、昨夕、コンビニの駐車場で見た幼い顔と重なった。
「お……お前……なんで……。SAOβに当選したなんて、ひと言も……」
「僕は……いつも、君みたいになりたいって思ってた。VRでも、現実でも、すごく強くて、いつもクールな君みたいに……。だから、僕も自分の力であいつらを撃退して、それからもう一度……友達に、なれたらって…………」
少年が大きくよろめき、地面に剣を突いて踏みとどまった。
「僕は……あの大会で、君と戦ってるとき、心のなかで思ってた。気付いてくれたら、って……君が、僕だって気付いてくれたら、そしたら言おう、って。もう一度……僕と…………仲良く…………」
その時。
少年の口から、大量の鮮血が溢れた。
俺の剣が身体を薙いだ箇所からも、恐ろしいほどの血が飛び散った。
ずるっと音を立てて傷口から内臓がはみ出し、砂の上に次々に落ちた。
「な…………」
何だこれは。
SAOに、こんなリアルな死亡エフェクトは存在しないはずだ。
いや――リアルなんてものじゃない。噎せ返るような血の匂い。篝火を反射する臓器の色合い。そして、少年の頬に伝う涙の煌き。
ぐらりと小柄な体が傾いた。
どう、と横倒しになり、動きを止めたその姿を、俺はただ呆けたように見つめ続けた。
「……おい。……おいって」
ふらつきながら砂に膝をつき、手探りでクリスタルをひとつ拾い上げる。
「おい、とっとと蘇生しろよ。どうなってんだよ……何だよ、これ」
おそるおそる少年の顔を覗き込む。
見開かれた目に、光は無かった。
生乾きの涙に濡れる瞼をうつろに開いたまま、少年は絶命していた。
「なあ……冗談やめろよ。わかったよ……俺が、俺が悪かったから、なあ、おい、起きろよ!!」
ぼっ、と音を立て、篝火がひとつ消えた。
もう一つ。三つめ、四つめも掻き消え、闘技場は暗闇に包まれた。しかし、俺の剣によってほとんど真っ二つに分断された遺骸だけは、視界から消えようとしなかった。
「う……うぁ……」
喉からしわがれた声を漏らし、俺は後ずさった。
後ろを向き、走り出そうとしたが、いつの間にか足元が砂からタールのような粘液に変わっていて、ばしゃっと倒れこんでしまう。
うずくまり、瞼をきつく瞑って、俺は悲鳴を上げ続けた。
夢だ。
これは全部、悪い夢なんだ。
だって、こんなこと、実際には起きなかったはずだ。
俺とあいつは、闘技場から出て気まずい沈黙のうちにログアウトしたあとも、結局リアルでは何ひとつ変わらなかった。俺はあいつを無視し続け、あいつは不良グループと縁切りできずネットゲームを辞め、一ヵ月後にはSAO正式サービスが――あのデスゲームが始まり、俺はただ生きのびることだけに懸命になって……。
何だ……?
これは――記憶?
ねばつく暗闇の底で手足を縮め、悲鳴をかみ殺しながら、俺は脳裏にフラッシュする幾つもの情景に翻弄された。
浮遊城での、二年間に及んだ生存闘争。
妖精の国で目指した、果てしない空。
黄昏の荒野を飛び交う銃弾。
嫌だ――もう思い出したくない。この先を知りたくない。
そう何者かに懇願するものの、しかしシーンは容赦なく切り替わり続ける。
現実世界から突如切断され。
深い森に囲まれた空き地で目覚め。
斧音に導かれるように歩き、辿り付いた巨大な黒杉の根元で、俺は彼と出会った。
ゴブリンとの戦闘。切り倒された巨大樹。
世界の中央を目指した長い旅。学院で修練に明け暮れた二年間。
いつだって、彼は俺の隣にいた。穏やかに笑っていた。
彼と一緒なら、なんだって出来るはずだった。
肩を並べて白亜の塔を駆け上り、強敵を次々と打ち破った。
そしてついに頂上に達し、
世界の支配者と剣を交え、
長く苦しい戦いの果てに、
彼は、その、
命を――
「う……うああああああ――――ッ!!」
俺は両手で頭を抱え、絶叫した。
俺だ。俺の無力さ、俺の愚かさ、俺の弱さが彼を殺した。流れてはいけない血が流れ、失われてはいけない命が失われた。
俺が死ぬべきだった。かりそめの命しか持たない俺が。俺と彼の役目が逆になっても、何ら問題は無かったはずなのだ。
「あああ……アアアアア!!」
叫び、のた打ち回りながら、さっき近くに投げ捨てたはずの剣を手探りで捜す。自分の胸に突き立て、首を掻き切るために。
しかし、指先には何も触れない。ねっとりとした黒い粘液がどこまでも広がるだけだ。
ぐるりと向きを変え、尚も捜し続ける。這いずり、闇雲に掻き毟る指先に。
何か、柔らかいものが触れた。
はっと目を見開く。
つい数分、あるいは数瞬前、俺が闘技場で斬り殺した少年の死体がまだそこにあった。
完全に分断された胴。黒い粘液の上に、あざやかに広がる深紅の血。
吸い寄せられるように体をさかのぼった視線が、青白い顔を捉えた。
それはいつの間にか、遠い記憶にかすむ同級生のアバターではなくなっていた。
柔らかそうな、亜麻色の短い髪。繊細な目鼻の造作。
びくっ、と指先を引っ込めた俺の喉から、金属を磨り潰すような声が漏れた。
「ア……アア…………」
彼の惨たらしい死体が、そこにあった。
「ウア……アアアアア――――!!」
不協和音じみた悲鳴を撒き散らし、俺はいつの間にか身にまとっていた簡素な黒いシャツの前を引き千切った。
痩せ細った胸の中央に、鉤爪のように曲げた右手の指先を突き立てる。
皮膚が裂け、肉が千切れるが、痛みはまるで感じない。俺は両手でおのが胸を引き毟り続ける。
心臓を抉り出し、握りつぶすために。
それだけが、俺が彼のために出来る、最後の……――
「キリトくん……」
突然、誰かが俺の名を呼んだ。
俺は手を止め、虚ろな視線を持ち上げた。
彼の死体のすぐ向こうに、いつのまにか、ブレザーの制服姿の女の子が一人立っていた。
長い栗色の髪をまっすぐ背中に流し、はしばみ色の瞳を濡らして、じっと俺を見つめている。
「キリト……」
新たな声とともに、右側にもう一人少女が出現した。額の両脇で結わえた髪を細く垂らし、やや吊り上がり気味の灰色がかった瞳に、こちらも涙の粒を光らせている。
「お兄ちゃん……」
そして、さらにもう一人。
白いセーラー服の襟のすぐ上で、黒い髪をまっすぐに切りそろえた少女が、同じく漆黒の瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。
三人の少女たちの意思と感情が、強い光となって迸り、俺のなかへと流れ込んでくる。
陽だまりのような暖かさが、俺の傷を癒し、哀しみを溶かそうとする。
――でも。
でも……ああ、でも。
俺に、この許しを受け取る権利なんか……
あるはず、ないんだ。
「ごめんよ」
俺は、自分の口から静かな言葉が零れるのを聞いた。
「ごめんよ、アスナ。ごめん、シノン。ごめんな、スグ。俺は……もう立てない。もう戦えない。ごめん…………」
そして俺は、胸から抉り出された小さな心臓を、ひとおもいに握り潰そうとした。
「何でだ……なぜなんだ、キリト君!!」
比嘉タケルは、薄れようとする意識を懸命に繋ぎとめながら、低く叫んだ。
接続された三台のSTLからは、桐ヶ谷和人の傷ついたフラクトライトを補完するべく、圧倒的な量の信号が流れ込んでくる。これまで、数多の実験を繰り返し膨大なデータを収集してきた比嘉でさえ驚愕するほどの、奇跡とすら言える数値だ。
しかし、携帯端末の小さなモニタの左上に表示された三番STLのステータスインジケータは、いまだに機能回復ラインの直前で震えながら停止したままだった。
「まだ……足りないのか…………」
比嘉は呻いた。
桐ヶ谷和人の回復しかけた主体意識は、このままでは"現実"ではなく、"記憶"――あるいは"傷"とのみリンクしてしまい、そこから戻ってこられなくなる。待っているのは、永遠にリフレインする悪夢だ。これなら、まだ機能停止していたほうが幸せだと断言できるほどの。
せめて、あと一人。
もう一人、和人と大きな繋がりを持ち、強いイメージを蓄積している人間が接続したSTLがあれば!
しかし、菊岡二佐いわく、今接続している三人の少女たちが、間違いなく世界でもっとも桐ヶ谷少年を知り、愛している人間だと言う。それに、空いているSTLはもうどこを捜しても存在しない。
「くそっ……畜生……」
比嘉は奥歯を噛み締め、ダクトの壁を殴りつけようと拳を握った。
そして、その手をゆっくり解いた。
「……あれ……なんだ……? この……接続は……」
呆然と呟きながら、眼鏡をモニタに限界まで近づける。
今まで気付かなかったが、画面左上に四角く表示された三番STLのウインドウに、右、下、右下の三台のSTLから繋がるラインのほかにもう一本――ドットをごく薄く輝かせながら、画面外へと消える接続ラインを見つけたのだ。
吸い寄せられるように、解いた右手の人差し指を近づけ、ラインに触れる。
画面がズームアウトし、接続先が下からスクロール表示されてくる。
「メイン……ビジュアライザーから……? なぜ…………!?」
自分が重傷を負っていることも忘れ、比嘉は叫んだ。
メインビジュアライザーは、数十万の人工フラクトライトたちの魂を格納するライトキューブ・クラスターの中央に鎮座する巨大なデータストレージだ。
そこに蓄積されるのは、あくまでアンダーワールドを構成するオブジェクトのニーモニックデータのみであり、人の魂は一つたりとも存在しないはずだ。
だが――、しかし。
「オブジェクト……記憶としてのオブジェクト……」
比嘉は全速で思考を回転させながら、無意識のうちに呟いた。
「フラクトライトも、オブジェクトも、データ形式としては同一だ……つまり、誰かが……あるいは誰か達が、意識が焼きつくほどに強い思いを、モノに込めれば……? それが、擬似的なフラクトライトとして機能することも……ある……のか…………?」
自分でそう推測しておきながら、比嘉は半信半疑だった。もしそんなことが可能なら、アンダーワールドでは、記憶としての物体を、持ち主の意思の力で自在に制御できるということになってしまう。
しかしもう、この薄く頼りない接続ラインが、たったひとつの望みであるのは確かなようだった。
何が起きるのか、これで事態が好転するのか悪化するのか比嘉にはまったく推測できなかったが、それでも彼は意を決し、メインビジュアライザーから三番STLへと続くゲートを全解放した。
「キリト」
心臓が破壊される、その寸前――。
新たな声が、俺の名を呼んだ。力強く。暖かく。包み込むように。
「キリト」
ゆっくり、ゆっくり顔を上げた俺が見たのは。
つい一瞬前まで、惨い死体が横たわっていたはずのその場所に、しっかりと両脚で立つ"彼"の姿だった。
ダークブルーの制服には染み一つない。亜麻色の短い髪は綺麗に撫で付けられ、薄めの唇には穏やかな微笑が浮かんでいる。
そして、明るいブラウンの瞳には、いつもそうだったように、二人の絆を信じ、疑うことのない輝きがどこまでも無限に深く煌いていた。
俺は、いつのまにか傷が消えうせてしまった胸から両手を離し、それを差し伸べながら立ち上がった。
わななく唇から、彼の名を呼ぶ声が漏れた。
「……ユージオ」
もう一度。
「生きてたのか、ユージオ」
彼――俺の親友、そして最高の相棒であるユージオは――。
笑みにほんの少しの哀しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。
「これは、君が抱いている僕の思い出。そして、僕が焼き付けた、僕の心」
「思い……出…………」
「そうさ。もう忘れてしまったのかい? あの時、僕らは強く確信したじゃないか。思い出は……」
そしてユージオは、右手を広げ、自分の胸に当てた。
「ここにある」
俺も、鏡像のようにまったく同じ動作を行い、続けた。
「永遠に……ここにある」
もう一度、にこっと微笑んだユージオの隣に、アスナが進み出てきて言った。
「わたしたちとキリトくんは、いつだって心で繋がってる」
反対側に踏み出したシノンが、小さく首を傾けて笑った。
「たとえ、どんなに遠く離れてても……たとえ、いつか別れがやってきても」
その横に、ぴょんと飛び出した直葉があとを引き取った。
「思い出と、気持ちは、永遠に繋がりつづける。そうでしょ?」
ついに、俺の両眼から、熱く透明な雫が滝のように溢れ出た。
一歩前に踏み出し、俺は永遠の親友の瞳を懸命に覗き込んで、尋ねた。
「いいのか……ユージオ。俺は、もう一度、歩きはじめても……いいのかな」
答えは速やかで、揺るぎなかった。
「そうとも、キリト。たくさんの人たちが、君を待ってるよ。さあ……行こう、一緒に、どこまでも」
双方から差し出された手が、触れ合った。
瞬間、眼前の四人が白い光の波動となって、俺のなかへと流れ込んだ。
そして――――。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
深く地面に縫いとめられながらも、なおも右手で地面を引っかくクラインを、PoHは厭わしそうに見下ろした。
「ウゼェ……吐き気がするぜ。こんなぶっこわれた木偶になに熱くなってんだよ。いいやもう、お前消えろ」
そして、黒フードがアスナ達の背後の黒いプレイヤーたちに向けられ、何か指示が発せられようとした――そのとき。
いつの間にか、拘束された日本人プレイヤーたちの間に紛れ込んでいたひとりの小柄な剣士が、突如立ち上がり、PoHに向けて突進した。
「いやあああああっ!」
鋭い気合が響き、灰色のスカートと赤い長髪がひるがえった。
腰溜めに構えた簡素な直剣とともに、体当たりするがごとく突っ込んでいくのは、後方で騎士レンリと一緒だったはずの補給隊の少女だった。
「ティーゼ……!!」
目を見張るアスナの腕のなかで、ロニエが悲鳴を上げた。
ティーゼの突進は、アスナの目から見ても、飛んでいるがごときスピードだった。これは当たる、と息を飲んだ、次の瞬間。
ばさっと広がったポンチョがティーゼの目をくらませたか、突き出された剣が貫いたのは、惜しくも薄い黒レザーのみだった。
ぬるっとした動きで飛び退いたPoHが、右腰にぶら下がる大型のダガーを、音も無く抜いた。まるで中華包丁のように四角く、禍々しい赤に染まる刃に、アスナの呼吸が止まった。
"友切包丁(メイトチョッパー)"。SAOで、間違いなくもっとも多くのプレイヤーの血を吸った、呪われた武器だ。
「ティーゼさん!!」
叫びながら立ち上がろうとしたが、背後から交差して伸ばされた剣が、肩に食い込んで動きを封じた。
渾身の突撃をかわされたティーゼは、頭上に高々と振りかざされた肉厚の刃をただ見上げていた。
項垂れたその小さな頭に、容赦なく赤黒い包丁が叩き付けられ――
キィン!!
と、オレンジの火花を振り撒いて、赤毛に触れる寸前で跳ね返された。
「……お?」
PoHが訝しげに呟き、再度ダガーを振り下ろす。
結果は同じだった。三度目も。
無力に立ち尽くすティーゼの技ではないことは明らかだ。アスナから見える横顔のなかで、紅葉色の瞳を大きく見開いている。
と、アスナの腕のなかで、ロニエが掠れた囁きを漏らした。
「……心意の太刀」
「え……? そ、それは……?」
「整合騎士の……最高奥義です。私も……本物を見るのは初めてですが……でも、誰が……」
確かに――。
この戦場に残る整合騎士は、レンリ少年ただ一人。しかし彼は、ずっと後方で重傷を負い、倒れたままのはずだ。
アスナは、不意にある予感をおぼえ、息を詰めてゆっくりと視線を動かした。
そして、唇から、かすかな吐息を漏らした。
「ああ…………」
もう一度。
「ああ」
溢れた涙は、数十秒前のそれとは、まったく意味合いを異にしていた。
PoHの足元に、力なく倒れたままのキリトの――
右腕(・・)が動いている!
中身が存在しないはずの、黒いシャツの右袖が、徐々に、徐々に持ち上がっていく。
同時に、肩から肘にかけて、布の内側に確たる存在が満ちていく。
やがて、まっすぐ真上に伸ばされた袖口から、逞しい右手が一瞬の輝きとともに出現した。
現象に、やっとPoHも気付いたようだった。しかし、行動に移るでもなく、フードから覗く唇をぽかんと開いてただ見下ろしている。
今度は、キリトの左腕も動きはじめた。
傍らの地面に放り出されていた、白鞘の長剣を拾い上げる。それを、体の前へと持ち上げる。
右手が、青い薔薇の象嵌が施された柄を強く握った。
すう、と薄青い刃が抜き出されていく。
でもあの剣は、真ん中から……。
とアスナが思った、その瞬間。
鞘の内側から、凄まじい強さで青い閃光が幾条も迸り、それ以外のすべてを影に沈めた。光は、渦巻き、荒れ狂い、一気に収束し――。
折れた箇所から、刃を再生していく!
大きく抜き放たれた長剣は、完全にその刀身を取り戻していた。魂を抜かれるほどに美しく、凄絶な輝きが青く世界を照らした。
「…………キリト、くん」
アスナの濡れた呟きが、まるで聞こえたかのように。
バッ!!
と、痩せ細り、萎えきっていたはずの黒衣の体が、一切の予備動作なしに高く、高く空中へと飛び上がった。
アスナが、クラインが、エギルが、リズ、シリカ、ロニエ、ティーゼが……そしてPoHと無数の黒い歩兵たちが見上げるなか、黒い姿は右手の剣で光の尾を引きながら、何度も前方宙返りを繰り返し。
全員に背を向けて、ざしゃあっと音高く両脚で着地した。その反動で、足元に転がっていた黒いほうの鞘が、くるくると空中に舞い上がった。
じゃりん!!
黒衣の左手が閃き、宙にある剣の柄を握るや、一気に抜刀する。
こちらの剣は、透き通る漆黒の刀身を持っていた。黒と白、二本の剣を握った左右の手が、それらを勢いよく回転させ、高らかな金属音とともに両側に切り払った。
信じがたい現象はさらに続いた。
埃にまみれていた黒いシャツとズボンが、突然、艶やかなレザーの輝きを帯びる。骨ばかりだった五体が、一気に逞しい筋肉を取り戻す。
どこからともなく黒いロングコートが出現し、背中を包んで大きくたなびく。前髪が鋭く突き出し、額に垂れる。
その頃にはもう、アスナを含む全員が、喉の奥から堪えきれない嗚咽を漏らしていた。
今ついに甦った黒の剣士、"二刀流"キリトは、ゆっくりと肩越しに振り向くと――。
まっすぐにアスナを見て、あの懐かしい、力強く、ふてぶてしく、それでいてかすかに含羞のある笑みを、にっと浮かべた。
――キリトくんだ。
わたしのキリトくんが、帰ってきた。
アスナは、胸の奥であらゆる感情が爆発し、光となって体の末端まで広がっていくのを感じた。悲嘆と絶望が一瞬で蒸発し、無数の刀傷が作り出す痛みすらも消えた。
今なら、万の敵とも再び対峙できるという確信があったが、しかしアスナは動かなかった。この光景を、そして感情を、心のなかに永遠に焼き付けておくために。
同様に、リズベットやクラインたち、あるいは周囲のコンバートプレイヤーも、それぞれの感情に打ち震えながらただ目を見開いていた。
皆を拘束し、包囲する数万の隣国人たちもまた、成り行きを見守って立ち尽くしている。
静寂を、最初に破ったのは殺人鬼PoHだった。
殺そうとして殺せなかった赤毛の少女のことなど、もう意識から完全に飛んでしまったかのようにキリトに向き直り、赤い包丁の背で肩を叩きながら低く言った。
「オゥ――ケェ――――イ。やぁっと起きたかよ、勇者サマ。そうこなきゃな。これでやっと、お預け食ってたエンドロールが見れるってわけだ。てめぇが、やめてーやめてーって泣き喚く最高のシーンがよ」
ずい、とキリトにフードを寄せて、音になるかならない声で続きを囁く。
「手足をぶった切って、もう一度動けなくしたてめぇの目の前で、あの女をグチャグチャにぶっ壊してやるぜ。SAOじゃコードに引っかかって出来なかった、最高のメニューでな」
ククク、と喉を鳴らして身を引いたPoHは、左手を高々と掲げて、韓国語及び英語で叫んだ。
「こいつがサーバー攻撃の首謀者だ!! 拘束しろ!! 他の奴らは全員殺して、狭い島国に叩き帰してやれ!!」
戦場にくすぶっていた狂乱の余熱が、一気に再点火された。
怒声とともに、津波のような黒い軍勢が、剣を手放した人界軍へと殺到していく。キリトへも数十人のプレイヤーが走り寄り、日本人を拘束していた者たちも、我先にと剣を振り上げる――。
悲劇的結末へのカウントダウンの最中にも、アスナはただ信じ、黒衣の剣士を見つめ続けた。
キリトは、まったく気負いも何もない動作で、右手の白い剣をひょいっと半回転させ、地面に突き立て。
ひと言、静かに発音した。
「リリース・リコレクション」
世界の色が消えた。
剣の刀身が放った青白い輝きの、あまりの眩さが何もかもを塗りつぶしたのだ。
光は、円環となって剣から全方位に迸り、虜囚となった日本人たちを、人界軍を、そして三万以上の黒い軍勢を瞬時に飲み込んだ。
ほんの一秒足らず瞼を閉じたアスナは、戦場に渦巻いていた憎悪と殺意の熱気が嘘のように吹き払われるのを感じた。
清浄とした冷気を胸に吸い込みながら、ゆっくりと目を開ける。
そして、驚きのあまり息を止めた。
世界が――凍っている。
つい一瞬前まで、石炭のような黒い瓦礫だけが果てしなく広がっていたはずの大地が、深く透き通る青い氷へと変じている。見つめるあいだにも、きん、きんと音を立てながら霜の結晶が成長し、微風に舞い上がって、空気を微細に煌かせる。
溜めていた空気を大きく吐き出すと、それは白い雲へと変わった。
そのあとでアスナは、ようやく世界からあらゆる音が消えていることに気付いた。
あれほど轟々と響いていた雄叫びも、地面を揺るがす無数の足音も、それどころかすぐ背後で罵り声を上げかけていたプレイヤーの気配すらも消えているではないか。
地面に突き立てた白い剣に手を乗せたまま立つキリトから視線を外し、アスナはロニエとリズベットの身体を抱いたまま、ゆっくりと振り向いた。
そこに居た――あるいは在ったのは、五体を分厚く氷に覆われた黒い兵士の姿だった。
高々と剣を振り上げた格好で、ヘルメットのおくの両眼を見開いたまま、二センチちかくありそうな青い氷に完全に封じ込められている。
いや、それだけではない。
足元から、螺旋を描いて這い登っているのは、氷で出来た植物の蔓だ。アスナが見入るあいだにも、蔓はみるみるうちに腰から胸、腕へと成長していく。透き通った極薄の葉を次々と開かせながら、青い蔓はついに兵士の頭部へと達し、そこに大きな蕾をいくつか膨らませた。
しゃりん。
と、鈴の音のような音がかすかに響き、蕾が綻んだ。青く透ける大きな花弁が、幾重にも開いていく。これは――薔薇だ。
現実世界には存在しない、純粋なブルーに輝く薔薇の花が、血の色の陽光にもその色をいささかも濁らせることなく咲き誇った。
開いた花の中央から、白い光の粒がいくつも空中に漂いだすのをアスナは見た。同時に、爽やかな甘い香りが大気に満ちた。
「…………神聖力が……」
左腕の中で、ロニエがごくごく微かな声で囁いた。
神聖力。つまり、アンダーワールドを動かす根源法則、空間リソースのことだ。あの薔薇は、兵士に与えられた天命をリソースに変えて放散しているのか。
ようやく視線を引き離し、周囲を見る。
青薔薇の花園が、どこまでも無限に続いていた。
日本人プレイヤーを拘束していた兵士たちも、人界軍に襲いかかろうとしていた者たちも、それどころか荒野にひしめく数万の隣国人全員が、無音のうちに凍りつき、それぞれ複数の青い花を頭や胸に咲かせている。花からは一様に光の粒が次々と零れ、風に乗って舞い飛ぶ。
つまり――つまり今この瞬間――。
三万のプレイヤー全員が完全に動きを封じられたうえで、そのヒットポイントを奪われ続けているのだ。
アスナやシノン、リーファが使用するスーパーアカウントの能力を結集したとて、このような真似は到底できない。いったい、いかなる力、いかなる術理がこれほどの超現象を実現しているのか。
そんな疑問が、アスナの脳裏を過ぎったのは一瞬のことだった。
あまりにも凄絶にして、あまりにも美しすぎる光景に、アスナも、ロニエも、他の日本人たちもただ呆然を目を見開くことしかできなかった。
再び滲んだ涙を通して、アスナは空に舞い散る光の群れを追った。
と、その一部が、他とは異質な動きで寄り集まり、流れていくのに気付いた。リボンのように宙を滑る輝きを、アスナは目で追った。
それは頭上を超え、螺旋を描いて地面へと降り――
そして、不思議な光景を、アスナは見た。
PoHへの捨て身の攻撃が回避されたその場所で、いまだに膝を突いていたままのティーゼのすぐ前に、光が凝集しておぼろな人影を作り出したのだ。
それは、ティーゼやロニエが着ているのと同じ意匠の制服に身を包んだ、ひとりの青年だった。
短く、柔らかそうな髪が額に流れる。涼しげな目元と、細めの唇には穏やかな微笑が湛えられている。
白く光る人影を見上げた瞬間、ティーゼの顔がぎゅっと歪んだ。
唇が小さく何かを叫び、弾かれるように立ち上がった少女は、青年の胸に一直線に飛び込んだ。
青年はティーゼを抱きしめ、その耳に何かを囁きかけるような仕草を見せたあと、ゆっくりと顔の向きを変え、キリトを見た。キリトもまた、微笑みを浮かべて青年を見やった。
二人は同時に頷きあい――そして、人影はすうっと、空に溶けるように消えた。ティーゼが青く凍る大地に膝から崩折れ、うずくまり、低くすすり泣いた。
その声を圧して、怒りと憎しみに満ちた叫びが響き渡った。攻撃側ではただ一人、青い薔薇の拘束を受けなかったPoHの声だ。身体を折り曲げ、伸ばしながら英語の罵り言葉を幾つも連発させたあと、黒フードの殺人鬼は日本語で詰問した。
「……なんだこりゃあ!! てめぇ、何しやがった!?」
キリトは、右手を白い剣の柄に置き、左手で黒い剣をゆるりと下げたまま、微笑みを消して鋭くPoHを見返し、答えた。
「"武装完全支配"。騎士たちが三百年をかけて磨き上げた技だ。お前には理解できない」
「ぶそう……? ハッ、つまりはシステム上のインチキ技だろうが!! てめぇには似合いだぜ、"二刀流"さんよ!!」
PoHは、右手の包丁で大きく周囲を指し、吐き捨てた。
「そらどうした、早く連中を殺せ! 動けない奴らを切り刻んで、悲鳴の大合唱を聞かせてくれよ!!」
「その必要はない」
キリトの声は、あくまで静かで、それでいて強い意思に満ちていた。
「彼らの天命が尽きるまで、薔薇は咲き続ける。そして、お前が望む苦痛も憎悪も生み出すことなく散っていく」
「この……ガキがぁ…………」
突如、PoHの声が、凄まじい怨嗟の響きを帯びた。実際に、フードの下の口の付近に、悪魔の吐息のごとき火炎がちらつくのすらアスナは見た。
「てめぇの、そういう所が許せねえんだよ。人殺しの分際で勇者面しやがってよ。サルはサルらしく、食ってヤって殺しあってりゃぁいいんだ!!」
ゴッ!!
という重い震動は、PoHの右手の包丁めいたダガーが赤い光を帯びた音だった。
ぎし、ぎし、と軋みながらダガーが巨大化していく。赤黒い刀身に、生き物のように血管が這い回り、脈打ちながら膨れ上がっていく。
たちまちのうちに、包丁はギロチンの刃のごとき凶悪な代物へと変貌を遂げた。それを、右手一本でPoHは軽々と振り上げ、巨大術式を維持中のキリト目掛けて振り下ろした。
鼓膜を引き裂くような金属音とともに、刃はキリトの手前の空間で止まった。ティーゼを守ったときの数倍の火花が発生し、青い世界を赤く照らした。
二人の足元の氷がひび割れ、飛び散った。同時にPoHのフードがばさっと跳ね上がり、その中の素顔が露わになった。
SAO時代には一度も晒されることのなかった殺人者の容貌は、どう見てもアジア人のものではなかった。高い鼻筋、窪んだ顎、長く伸びる巻き毛は、まるでハリウッド俳優のように整っている。
しかし、両の眼に渦巻く憎しみの炎が、男の顔をその名のとおり悪魔じみたものに見せていた。アスナは、キリトの力に僅かの疑いも抱いていなかったが、それでも背筋に冷たいものが這うのを感じた。
PoHの唇が歪み、むき出された犬歯が、突然長く伸びた。
額に流れる巻き毛を突いて、黒く鋭い角が二本伸び上がった。
それだけではない。ポンチョの下の、どちらかと言えば小柄な体すらも、見る見るうちに逞しく膨れ上がり上背を増していく。
キリトの、不可視の"心意の太刀"に食い込む巨大包丁が、徐々に、徐々に沈みはじめる。火花はいつしか火炎へと変わり、周囲の氷を溶かし出す。
「……死ね、イエロー」
にやりと笑った悪魔の口から、低く歪んだ声が漏れた。
キリトの両眼が、すうっと細められた。これまで無表情を貫いていた口元が、こちらも強靭な笑みを浮かべた。かつて彼が、アインクラッドのフロア守護ボスや、多くの強力なプレイヤーと対峙したときに決まって見せた表情。
コートの左腕が、すう、と動いた。
握られた黒い長剣を、まっすぐ空へと掲げ――再び、あのコマンドが響いた。
「リリース・リコレクション!」
轟!!
という唸りとともに、刀身を黒く渦巻く闇が包み込んだ。
アスナは風を感じた。大気が、キリトの左手へと吸い込まれていく。同時に、戦場に咲き誇る十万以上の青薔薇から放散された光の粒――空間リソースも、一斉に揺れ、動き、寄り集まって、黒い剣に流れ込んでいく。
突如、刀身が輝いた。
純黒でありながら――黄金。
黒曜石を透かして太陽を見るかのような。
ちりちり、と空気が弾けるのをアスナは感じた。剣の優先度が、無限の高みへと昇りつめ、世界そのものを震わせているのだ。
"武装完全支配"とはつまり、整合騎士レンリの二つのブーメランが融合し、自在に飛翔するような、武器固有の性能拡張コマンドなのだろう。
白い剣は、広範囲の敵を凍結し、その天命をリソースとして空中に放散する。
黒い剣は、周囲のリソースを吸収し、威力へと変える。
とてつもなくシンプルで、それゆえに強力無比な複合技(コンボ)だ。完璧なる一対。最高のパートナー。
白い剣の本来の持ち主が、先ほど一瞬現れた幻影の青年であることをアスナは直感的に察した。
そして彼がもう、この世には居ないことも。
またしても溢れた涙の向こうで、アスナは、キリトがゆっくりと左手の剣を振り下ろすのを見た。
速度も重さもない、刃で空気を撫でるような動き。
黄金に輝く刀身が、悪魔へと変じたPoHの、赤い巨大包丁に触れた。
ぱっ。
と一瞬の閃光を残し――赤い刃が微細な粉塵と化して飛び散った。
悪魔の逞しい右腕が、筋繊維と血管を解くように、手首から肘、肩へと分解、消滅していく。
そして――。
どぐわっ!! という爆発音とともに、PoHの体が高々と空中に跳ね上がった。
深紅の空を背景に、いっそう赤い血の螺旋が描かれる。
旋風に巻かれる木の葉のように吹き飛んだPoHは、たっぷり五秒以上もかけて青く凍る地面へと戻ってきた。
無様に墜落するのではなく、両足の靴底で着地してみせたのは、最後の矜持の発露だろうか。しかし、その時にはもうあれほど逞しかった筋肉は元に戻り、悪魔の角や牙も消えうせていた。
革つなぎに包まれた細い体をよろめかせ、踏みとどまったPoHは、左手で右肩の傷口を強く抑えながら鼻筋に皺を寄せて吐き捨てた。
「……キャラの性能で勝ったのが……そんなに自慢かよ、小僧。いいさ、とっとと殺しやがれ。だがなァ……」
血まみれの左手が、まっすぐキリトを指差した。濃い眉の下の両眼が、かすかに赤い焔を瞬かせた。
「ここで死んだって、たかがログアウトするだけだってことを忘れるなよ。俺は必ず返ってくるぜ。この仕事でたっぷり稼いだ資金で、過去を買い換えて、必ずてめぇの国に戻る。光栄に思えよ、殺すサル一覧の上のほうに、てめぇとあの女の名前も書き加えといてやるからなぁ」
くっ。
クックックックッ。
歪んだ唇から響く嗤い声は、まさしく呪詛と呼ぶべきものだった。アスナは歯を食いしばり、恐れるもんか、怖がってなんかやるもんか、と自分に言い聞かせた。
鼻先に指を突きつけられたキリトは――。
表情を、まったく変えなかった。
漆黒の瞳に毅然とした光を浮かべたまま、PoHを正面から見据えている。
唇が動き、静かな声が流れた。
「……まだ分からないのか。俺がなぜ、お前だけを青薔薇の蔓に捕らえなかったのか」
「な……んだと……?」
そこでようやく、キリトの唇にもかすかな笑みが滲んだ。
「殺さないために決まってるだろ。SAO攻略組の、レッドプレイヤー対応方針を忘れたのか? "無力化、及び無期限幽閉"だ」
「きっ……さまァ……!!」
PoHの貌に凄まじい表情が浮かんだ。
怒り。殺意。そして――屈辱。
左手一本で殴りかかろうとしたPoHの胸に、キリトはいまだ強い輝きを放ち続ける黒い剣の切っ先を、軽く当てた。
アスナは、先ほどと同じく、PoHの体が瞬時に爆裂する光景を予想し息を詰めた。
しかし、直後発生した現象は、想像を絶するものだった。
剣の刀身から幾筋もの"闇"が噴き出し――PoHの五体の各所へと流れ込んでいく!
闇の奔流は、ごつごつと波打ち、分岐し、まるで樹の枝であるかのようにアスナには見えた。
「ぐおっ……な……ンだこりゃァッ……!!」
動きを止め、叫ぶPoHに顔を寄せ、キリトが一層低い声で囁いた。
「この剣の完全支配術式は俺が組んだんだけど……ちょっと手抜きでさ。ただリソースの記憶を無加工で呼び覚ますだけなんだ。陽力、地力を無限に吸い上げ、力に換える大樹の記憶を」
「樹……だと……」
「そうだ。樹の属性は……穿ち、貫くだけじゃない。取り込み、同化する力もある。見たことないか、PoH? 他のモノが、樹の根っこや幹に埋まって、一体化してるところを?」
同化……。
アスナははっと目を見開き、PoHの足元を凝視した。
銀の鋲を無数に打ったロングブーツは、もうそこには無かった。男の両足は、かわりに、いくつにも分岐して地面にもぐる樹木の根へと変貌していた。
「あっ……脚が……うごかねェ……!? 何しやがったッ……このガキがぁ……ッ!!」
PoHは吼え、左拳で再度キリトを殴ろうと高く振りかぶった。
ぎしっ。
と固い軋み音が響き、ほそい左腕が空中で動きを止めた。
艶やかな黒レザーが、ごつごつとささくれた樹皮へとみるみるうちに変質する。指が細長く伸び、裂け、たちまち完全な枝へと姿を変える。
形質変化は、脚と腕から始まり、胴体へと広がっていく。ついに恐怖の色を映しはじめたPoHの顔に、キリトはそっと最後の言葉を囁きかけた。
「お前たちが呼び込んだプレイヤー集団のHPが尽き、ログアウトしたら、すぐに時間加速が再開されるだろう。お仲間が、なるべく早くお前をSTLから出してくれるように祈れよ、PoH。たぶん、少しばかり長くなるだろうからな。あるいは……もしかしたら遠い、遠い未来、このへんに開拓村ができたら、斧を持った子供がお前を切り倒してくれるかもな」
それに対して、何かを言い返そうとしたPoHの口が――。
黒い樹皮に空いた、ちいさなウロへと変わった。整っていた目も鼻も、樹皮に刻まれた単なる皺でしかなくなった。
そこに存在するのはもう、幹を奇妙な形に捩り、一本だけの枝を高々と空に向けた、小さな黒いスギの樹でしかなかった。
キリトは、ようやく輝きを薄れさせた黒い剣を引き戻し、とん、と地面に突き立てた。
そして、ゆっくりと空を振り仰ぎ、尚も無数に漂い続けるリソースの集合光をその瞳に捉えた。
すうっと左手が持ち上がる。五本の指が、見えない楽器を奏でるように、しなやかに閃く。
続いたコマンド詠唱もまた、謳うがごとく抑揚豊かに、力強く響いた。
「システム・コール……トランスファ・デュラビリティ、スペース・トゥ・エリア」
さあああっ……。
と、かすかな、それでいて無数に、無限に広がる優しい音が世界に満ちた。
雨が降る。
リソースの星ぼしが上空に凝集し、白く、暖かく輝く光の雫となって降り注ぐ。傷つき、力尽きて横たわる二百人の日本人プレイヤーたちに染みこみ、その体を癒していく。
あるいは、心も。
ほとんど同時に、クラインの身体を剣で貫いたまま凍る二人の隣国人たちの体が、すうっと薄れ、消えるのをアスナは見た。静寂のうちにHPが完全消滅し、アンダーワールドからログアウトしたのだ。
消滅は、連鎖するように続いた。エギルを、シリカを拘束していた兵たちが消え、アスナの肩を押さえていた剣も同じく消えた。ALOプレイヤーたちを磔にしていたポールアームや、チェーン類も次々に空気に溶けていく。
全てを癒す雨の下を、ゆっくり、ゆっくりと歩み寄ってくる黒衣の剣士の姿を、アスナはただ見つめた。
立ち上がることも、声をかけることもできなかった。動いたら、すべてが幻になってしまう気がした。だから、ただただ目を見開き、唇に微笑みを浮かべ、アスナは待った。
代わりに、立ち上がったのはクラインだった。
切り落とされた片腕は、すでに完全に修復されている。胸と腹を貫かれた箇所も、滑らかな肌が見えるばかりだ。
「キリト……。キリトよう」
湿った声が、低く響いた。
「いっつも……オイシイとこ持って行きすぎなんだよ、オメエはよう……」
よろよろと進みながら発せられた言葉は、もうほとんど泣き声だった。
長身のカタナ使いは、黒衣の二刀剣士の両肩をがしっと握り、バンダナのなくなった額を、やや背の低い相手の胸に乱暴に押し当てた。背中が震え、太い嗚咽が漏れた。
「うおっ……うおおおおううう…………」
号泣する友の背中に、キリトもまた両腕を回し、強く引き寄せた。目を瞑り、きつく歯を食いしばって仰向けられたその頬にも、光るものがあった。
たっ。
と、小さな足音が聞こえた。アスナの傍から走り出したのはロニエだった。涙の粒を空中に引きながら、キリトの右肩へとぶつかっていく。すぐに、高く細い嗚咽が加わった。
身体を起こし、地面に胡坐をかいたエギルの眼も濡れていた。リズベットとシリカが、抱き合って泣きはじめた。周囲から集まってきた日本人プレイヤーたち、ALO領主のサクヤやアリシャ、ユージーン、またスリーピングナイツのシーエンやジュン、その他多くの者たちの顔にも、光の雨以外の雫が見える。
驚いたことに、前方から近づいてきた人界軍の衛士や術師たちも、一様に目元を赤くしていた。彼らはいっせいに跪くと、右拳を胸に当てながら深くこうべを垂れた。
「…………僕には分かっていましたよ、あの人と、二本の剣が、皆を救ってくれると」
不意に、背後から穏やかな声がかけられた。
振り向いたアスナが見たのは、微笑む少年騎士レンリと、その後ろに従う巨大な飛竜だった。
アスナは胸がいっぱいで、一度、二度と頷くことしかできなかった。レンリも頷くと、少し離れた場所に膝をついたままのティーゼに歩み寄り、その隣に腰を落とした。
いつしか、まわりを取り囲む氷結した兵士たちの大群は、半分以下へと数を減じていた。
彼らが皆ログアウトすれば、襲撃者たちは『外部兵力による状況制圧』を諦め、時間加速倍率を再び上限まで引き上げるだろう。アミュスフィアを用いて接続している皆は、その時点で自動切断されてしまうはずだ。
キリトもそれに気付いているのだろう、クラインの肩を叩いてそっと身体を離すと、生き残った日本人プレイヤーたちをぐるりと見渡した。
そして、深々と頭を下げ、言った。
「みんな……ありがとう。みんなの意思と、流してくれた血と涙は、絶対に無駄にしない。本当に、ありがとう」
そう――。
戦いは、まだ終わったわけではないのだ。
PoHと、アメリカ人、中国人、韓国人プレイヤーたちは排除されたが、まだ敵の首魁が残っている。アリスを拉致し、今この瞬間も、はるか南の空を飛び去りつつある。
アスナは大きく息を吸い、ようやく立ち上がった。
それぞれの感情に打ち震えながら立ち尽くすプレイヤーたちの間を、ゆっくりとキリトに歩み寄る。
身体を起こしたキリトが、まっすぐにアスナを見た。
ああ――今すぐ胸に飛び込みたい。子供みたいに泣きじゃくりたい。抱きしめ、髪を撫でてほしい。
しかしアスナは、全精神力を振り絞って感情を押さえつけ、口を開いた。
「キリトくん……。皇帝ベクタが……アリスを」
「ああ。状況は、おぼろげにだけど記憶している」
キリトも表情を引き締めて頷き、そして、まっすぐ右手を差し出した。
「助けにいこう。手伝ってくれ、アスナ」
「…………ッ……」
もう、限界だった。
アスナは走り、その手を取り、頬に押し当て、身体を預けた。
キリトの左腕が、ぎゅっと強く背中に回された。
抱擁は一瞬だったが、しかし、言葉にできないほど大量の情報が瞬時に二人の魂を行き交うのをアスナは感じた。
キリトは、まっすぐに視線を合わせながらもう一度頷き、その瞳を南の空へと向けた。
左腕も、その方向へとまっすぐに伸ばされる。指が、何かを探るように動く。
「…………見つけた」
「え……?」
アスナは瞬きしたが、キリトは答えず、小さく微笑んだだけだった。
突然、少し離れた場所に突き立ったままの二本の剣が、かすかな音とともに地面から抜け、浮き上がった。
同じく浮遊したそれぞれの鞘に、澄んだ音を立てて収まり、回転しながら飛んでくる。
黒のロングコートの背中に、ばしっと交差してぶつかると、自動的にベルトが両肩のバックルに接続された。
キリトはもう一度ぐるりと皆を見回し、クラインの肩と、ロニエの頭を軽くぽんと叩くと、言った。
「それじゃあ、行ってくる」
そして――。
そしてリズベットは、キリトとアスナの姿が、地面から屹立した光の柱に飲み込まれ、掻き消えるのを見た。
一瞬ののち、そこにはもう誰も居なかった。見開いた眼をぱちぱちと瞬きさせ、リズベットは、はぁーっと長くため息をついた。
「まったく……相変わらず無茶というか無軌道というか……」
隣でシリカが、くすっと笑った。
クラインが、ばしっと両手を打ち合わせ、叫んだ。
「おいおい、ちくしょう……――かよあの野郎。無敵じゃねえかよ。ちくしょう、オイシイよなあ、いっつもよう……」
クラインが大ファンであると常々標榜している、大昔の少年向けバトル漫画の主人公の名を出して毒づくその口調を、新たな涙がつたう表情が裏切っていた。おそらく彼にとっては、SAOで出会って以来惚れ抜いてきたキリトという存在は、まさにそのものだったのだ。無敵で、絶対的な、永遠のヒーロー。
――そして、あたしにとっても。
リズベットも、尽きぬ涙に濡れる瞳を、はるか南の空へと向けた。
ログアウトされるまで、おそらくあと数分となったこの世界を、強く記憶に焼き付けておくために。
激痛と屈辱のなか切断されていったたくさんのプレイヤーたちに、あたしたちの戦いは無駄じゃなかった、と伝えるために。*「うわっ……だ、大丈夫?」
まるで本気で心配しているが如き柳井の細い声に、比嘉は一瞬痛みを忘れた。
「じ……自分で撃っといてその言い草……!」
「いやー、当てる気は無かったのよ、これホント。ヒトゴロシとか背負う覚悟無いしさぁ。せっかくキャリフォルニアあたりにイカすコンドミニアム買っても、悪夢とか見て飛び起きたりとかしたらウザイじゃん」
どうやら本当に本気でそう思っているのだ、と理解した途端、脱力感が倍増し腕から力が抜ける。いかん、と強く瞬きしてから、おそるおそる傷を確認する。
弾はどうやら、鎖骨のすぐ下に命中したようだ。痛みというより、凍るような麻痺感が右腕全体に広がり始めている。酷く出血しており、シャツはすでに脇腹あたりまで赤黒く染まっている。
現在の状況、及び今後の展開に対する恐怖が、ようやく比嘉の胃の下あたりに重く湧き上がりはじめた。歯を食いしばる比嘉を見下ろし、柳井はなおも喋り続けている。
「ほんとは、キミの作業をチョロっと妨害して、点検コネクタを破壊してから下のメインコントロールに脱出するつもりだったんだよねえ。ボクも帰りの潜水艦に乗せてもらう手はずになってるからさぁ。幸いラース側に死人も出なかったし、これでアリスさえ回収できれば、さわやかな結末だったのにねぇ」
「死人が……出なかっただって……?」
比嘉は再び怪我のことを忘れ、軋るような声を出した。
「……今、このチャンスに桐ヶ谷君の治療が出来なければ、彼の意識はもう二度と回復しないんだぞ! 彼の魂を殺すのは、アンタだよ柳井さん!」
「あー。あー……そーね……」
柳井は、不意にすっと表情を消した。オレンジの非常灯に浮かび上がる生白い頬を、かすかな痙攣が走る。
「うん……死んでいいや、あのガキは」
「な…………」
「だってさぁ、あの小僧は殺しちゃったんだよ。ボクのかわいいアドミーちゃんをさ」
「あど……みー……?」
「神聖教会最高司祭・アドミニストレータ猊下だよ。ボクはねえ、約束してたんだ。あの子のアンダーワールド完全支配に最大限協力するって。それに、もしサーバーが初期化されることになっても、あの子のライトキューブだけ保全してあげる、ってね」
比嘉は愕然と眼を見開いた。
神聖教会――というのは、アンダーワールド内の"人界"統治組織の名称だ。凄まじく厳密な法体系と、強大な武力であまねく人界住民を完全に支配していた。
比嘉たちが、高適応型フラクトライト"アリス"の出現を察知しつつも確保できなかったのは、時間加速下のアンダーワールドで、神聖教会が迅速な対応でアリスを連行し、そのフラクトライトに独自の封印処置を施してしまったせいだ。
そう、あまりにも素早すぎ、的確すぎる手際だった。
まるで、人工フラクトライトの何たるかを完全に熟知しているかのように。
そのとおりだったのだ。神聖教会は、少なくともそのトップであったらしい"アドミニストレータ"という人工フラクトライトは、世界と人の魂の構造を知ってしまっていたのだ。
「……アンタが、汚染したのか……」
比嘉が低く呻くと、柳井はツツっと小さく舌を鳴らした。
「おっと、最初にコンタクトしてきたのはあの子のほうだよ。ボクが当直のとき、いきなりスピーカーから声が聞こえたときはそりゃあ焦ったなぁ……。あの子は、自力でアンダーワールドの全コマンドリストを発見して、システムコンソールから外部コールしてきたんだ。リスト呼び出しコマンドをサーバーに残してたアンタのミスだよぉ、元を辿ればね」
んっふふ、と笑い、柳井は何かを思い出すように、とろんとした目つきになった。
「ボクも最初は、こりゃあ完全初期化だなぁと思ってさ。どうせみんな消されちゃうならまぁいいかって、こっそりSTLでアドミーちゃんのとこにダイブしてみたんだよね。そしたらさぁ……ああ、あんな綺麗な子、ボクは見たことなかったなぁ……。性格から、声から、口調から、何もかもボクの理想どおりで……あの子は、約束してくれたんだ。協力したら、見返りに、ボクを第一のシモベにしてくれるって。いろいろ……いろいろしてくれるってさぁ……」
――違う。
汚染されたのは、この男のほうだ。
比嘉は、背中が総毛立つのを感じながらそう悟った。柳井は、馬鹿な裏切り者だが知能は高い。そんな人間を、ここまで取り込み支配する――アドミニストレータとは、如何なる存在だったのか。
と、回想に浸っていた柳井の顔から、不意に表情が抜けた。
「……でも、あの子は死んでしまった。殺されちゃったんだ。須郷さんの実験も邪魔した、あの小僧にさ。カタキ、取ってあげなきゃアドミーちゃんが可哀想だよね」
ちゃき、と金属音を立てて柳井は拳銃をまっすぐ構え直した。
「そうだよ……そうだ、やっぱりボクも一人くらいは殺さないと、あの子の供養にならないよね……」
柳井の細い眼は大きく見開かれ、小さな瞳孔が細かく震えていた。
……やばい。今度こそ、本気だ。
比嘉は思わず目をつぶった。
――間に合わないか。
リーファは、遥か離れた場所でアスナとキリトが陥っている窮地を感じ、強く唇を噛んだ。
眼前には、数千の黒い兵士たちがわだかまり、行く手を阻んでいる。
実はオーク族の長だったらしいリルピリンに要請し、アスナたちを助けるために南進をはじめたものの、やがて見出したのは目指す人界部隊ではなかった。
現実世界からのダイブ者と思しき軍勢に囲まれる、わずか数百の男女たちは、リルピリンいわくオークと同じ暗黒界軍の拳闘士団らしかった。それを聞き、一瞬も迷うことなく、リーファは救援を決めた。
「敵陣には、私ひとりが斬り込むからね。あなたたちは、拳闘士たちを守って、そっちに向かうヤツだけを迎え撃って」
そう指示すると、リルピリンは共に闘う、と猛然と抗議した。リーファは首を振り、五指にひづめの生えたオークの手をそっと押さえた。
「だめよ、あなた達に犠牲者は出したくないの。私なら大丈夫……あんな奴ら、何万人いたって負けないわ」
そう笑いかけ、リーファは単身、突撃を敢行したのだった。
自身のヒットポイントが、ほぼ無限の回復力を持つことはすでに実証されている。それに、前方のアメリカ人も、同じようにかりそめの命を持つ者たちだ。
キリト達の救援が間に合いそうもない以上、ここでオークたちの命を無為に落とさせることはリーファには出来なかった。
超ロングレンジからの二連斬を叩きこんだあと、リーファは脚を止めることなく、勢いのままに敵集団へと突入した。
いかなる理由によるものか、ALO内と比べて間合いが数倍に拡張されたソードスキルを、立て続けに放つ。地面を切り裂くような咆哮と、鮮やかな閃光が炸裂し、放射状に血風が巻き起こる。
しかし、連続技と連続技のあいだにできる隙までは消せず、わずかな硬直時間を狙って無数の剣が襲ってきた。かわしきれず、リーファの体からも大量の鮮血が飛び散る。
「ええ――いッ!!」
気合とともに、強く地面を踏む。足元から、ぶわっと緑の輝きが溢れ、全身の傷が一瞬で癒える。
四肢に反射するような痛みの余韻を振り払い、リーファは更に剣を振るった。
たとえ万の傷を受けようと、この場の敵だけは現実世界へ追い返してみせる。
ログイン座標ずれで意図せぬ場所に飛ばされてしまった自分に役目があるとすれば、それはきっと一人でも多くのアンダーワールド人たちの命を助けることだ。キリトが愛し、守ろうとしたという人々の。
左方向から、なかなかの速度で突き出されてきた剣を、リーファは腕を貫かせて止めた。
「せああ!!」
返す刃で、その持ち主を一息に切り伏せる。
リーファは、腕に突き刺さったままの剣を、口に咥えて抜き取ると、血のりとともに吐き捨てた。
第二射は、ほぼ同時だった。
二丁のアンチマテリアルライフルから放たれた巨大な弾丸は、ほとんど擦れるような距離ですれ違い、悲鳴じみた轟音とともに大きく軌道を逸らして飛び去った。
シノンは、今度は無様にくるくる回転することなく、両足で後方の空気を踏みしめながら反動を抑え切った。視線の先では、サトライザも有翼怪物を強く羽ばたかせて空中に踏みとどまっている。
このような、三六〇度完全なオープンスペースで、しかも対物狙撃銃同士で撃ち合うのはシノンには初めての経験だった。ガンゲイル・オンラインでは飛行はサポートされていないので当然と言えば当然だが、二脚を立てての伏射が常だったヘカートIIの、空中での反動の大きさは予想外だ。
この勝負――。
先に反動を抑え、同様に敵が静止した一瞬を照準できたほうの勝ちだ。排莢しながら、シノンはそう考えた。
つまり、敵にまず撃たせ、それを回避してのける必要がある。
同じことを、おそらくサトライザも考えているだろう。右方向へスライド飛行するシノンの逆へ、逆へと回り込んでくる。
何の合図が有ったわけではないが、まったく同時に、双方とも高速機動を開始した。
静止時間が発生しないぎりぎりの鋭角ラインを描きながら、ランダムに飛び続ける。銃口をぴたりと敵に追随させながらも、己もまた敵の射角に捉われ続けていることを強く意識する。
サトライザの構えるバーレットのマズルが、ついにシノンの動きを先読みしたか、ひゅっと霞むほどの速度で動いた。
――来る!!
シノンは歯を食いしばり、眼を見開いた。
巨大な銃口から火炎が迸る。
限界速度でダッシュしつつ、体を右に捻る。
胸元が焦げるほどの距離を、致死の銃弾が擦過していく。群青色のアーマーが、ぴしっと音を立ててひび割れる。
――避けた!
最初で最後の機会。サトライザが急制動し、静止する一瞬を撃つ!
ヘカートを構えかけたシノンが見たのは。
真正面から飛来する、二発目の銃弾だった。
連射――なぜ!?
ああ……しまった。
バーレットは、セミオートマチックライフル……。
その思考が弾けるのと同時に、シノンの左足が、太腿の中ほどから音も無く爆砕した。
絶望的状況に抗い、戦場に最後まで立ち続けたのは、スーパーアカウントに保護されたアスナと、そしてアンダーワールド人である整合騎士レンリ、及び彼の騎竜、更に騎士と竜に守られるかたちで剣を握る少女剣士ティーゼだった。
アスナは、極限の疲労と苦痛で霞む視界に、鬼気迫る闘いぶりを繰り広げる少年騎士の姿をとらえ続けた。
小柄な騎士は、前線に現れるや巨大な十字ブーメランを自在に飛翔させ、押し寄せる敵の波を片端から薙ぎ倒した。その凄絶なる威力は、怒りに燃える隣国人たちの突撃を、数分にせよ押し返したほどだった。また、巨大な飛竜が浴びせ掛ける熱線もおおいに敵を怯ませた。一人と一頭の戦いぶりは、彼らがまさしくアンダーワールドという異世界に生まれ育った本物の竜騎士なのだということを、十二分に証明していた。
しかしやがて、敵も気付いた。騎士レンリは、その武器を投擲・操作している間、本人はほぼ無防備になってしまうということに。
何十度めかにブーメランが放たれ、黒い軍勢の最前列を横薙ぎにしかけた瞬間、その後方から長槍が無数に投擲された。アメリカ人たちと戦ったとき、アスナが秘かに恐れた戦法が、ついに実行されたのだ。
槍は、黒い雨となって空を流れ、降り注いだ。
最初の投擲は、飛び出した飛竜が、広げた翼と胴体で受け、防いだ。
銀の鱗と赤い血を飛び散らせながら、竜は細い悲鳴とともに横倒しになった。
すかさず、第二陣の槍衾が投げ放たれた。
ざあっと重い音を立て殺到する黒い穂先を一瞬見上げてから、騎士レンリは振り向くと、背後に居たティーゼの細い体をぎゅっと抱きかかえ、自分の下に隠した。
甲高い無数の反射音に混じって、どかっ、どかっ、という鈍い音を二回、アスナは聴いた。
背中の装甲の継ぎ目に二本の槍を深々と受け、レンリはティーゼを覆うようにゆっくりと前のめりに倒れた。制御を失った十字ブーメランが、一瞬の光とともに二つに分裂し、離れた地面に突き刺さった。
その頃にはもう、戦域のほかの場所でも戦闘はほぼ終了していた。
力尽き、倒れた日本人プレイヤーに、黒い姿が一斉に群がり、我先にと武器を叩きつけていく。血と肉、かすかな悲鳴が振り撒かれ、やがて途絶える。
あるいは、高優先度装備をすべて強制解除された姿で、地面に突きたてられた長柄の武器に磔にされている者も数多く見える。彼らの傷から流れる血よりも、顔を伝う屈辱と無念の涙のほうが何倍も痛ましい。
コンバート者二千人の円陣がほぼ無力化され、いままでその中央に守られていた人界軍がいよいよ露出し始めていた。
非武装の補給隊、術師隊を守るように、約六百人の人界軍衛士たちが、ぐるりと密集して剣を構えている。どの顔にも悲壮なまでの覚悟が満ち、じりじりと迫る黒の軍勢に向け、決死の突撃をかけるその時を静かに待っている。
「……やめて……」
アスナは、自分の唇から零れた声を聞いた。
それは、全身に受けた傷の痛みではなく、ただ絶望と哀しみによって心が折れた音だった。
「お願い……もうやめてよ……」
呟きとともに、右手からレイピアが落ちて地面に転がった。その傷だらけの刀身に、頬から滴った涙の粒が小さく弾けた。
眼前に立ちはだかる大柄な男が、敵意に満ちた鋭い罵声とともに、両手剣を高々と振り上げた。
その刹那。
雷鳴にも似た大音声が轟きわたり、アスナに向けて振り下ろされんとしていた刃と、全戦場で進行中のあらゆる攻撃行為を停止させた。
スト――――――ップ!! と途轍もないボリュームで叫んだのは、これまで戦域を少し離れたところから見守っていた黒フードの男だった。殺人ギルド・ラフィンコフィン頭首"PoH"――の亡霊。
隣国人プレイヤーたちは、おそらくマーカーによって黒フードを指揮官と認識させられているらしく、不承不承ながら徐々に武器を降ろしていった。アスナを斬り伏せようとしていた大男も、激しい舌打ちとともに剣を引き、代わりに無造作な足蹴を見舞ってきた。
黒い地面に倒れこんだアスナは、歯を食いしばり、萎えた腕で懸命に身体を起こした。
視線を巡らせると、黒革の裾を揺らしながらゆっくりと前進してくる黒フード男の姿が見えた。指揮慣れしたよく通る声で周囲のプレイヤーたちに何か声を掛けているが、韓国語なので理解できない。
と、周囲の黒い兵士たちが次々に頷き、周りの仲間たちに何かを伝えはじめた。
突然、傍に立っていた男がアスナの髪を掴み、引っ張りあげた。思わず細く悲鳴を漏らしてしまうが、男は聞く耳も持たず、ずるずるとアスナを引き摺っていく。
周囲でも、似たようなことが行われていた。どうやら、まだ生きている日本人プレイヤーを一箇所に集めるつもりらしい。複数人に蹴立てられ、あるいはポールアーム製の十字架に磔にされたまま、半死半生のプレイヤー達が次々と連行されてくる。
黒フードは、小規模な全周防御態勢を取る人界軍衛士隊の至近まで堂々と歩み寄っていくと、振り向いて片手を振り、再び何かを指示した。
自分を引っ立てる男に、乱暴に背中を蹴り飛ばされて、アスナは数メートルも吹っ飛んで地面に沈んだ。周りに、どさどさと立て続けに日本人が突き転ばされてくる。チェーン系の武器で磔にされた者は、そのまま一箇所にまとめて晒された。
生存者の数は、すでに二百を切っていた。
ヒットポイント量が生存率に直結したのか、やはりハイレベルプレイヤーが多く残っている。少し見回すと、すぐにALOの領主の面々や、スリーピングナイツのメンバーを発見できた。
しかし、彼らの姿に、かつての誇り高いおもかげはもう無かった。
すべての武装を強制解除され、ほとんど全員が身ひとつの有様だ。肌には惨い傷が縦横に走り、折れた刃が体に突き刺さったままの者も多い。だが、みなの顔に一様に浮かぶのは、苦痛でも怒りでもなかった。生気を失ったかのような、虚脱した絶望だけが色濃く漂っていた。
戦場に荒れ狂った憎しみの凄まじさ。
それに対してさして抵抗することもできなかった無力感。
いわば――魂に刻み込まれた、敗北という烙印。
もうこれ以上何も見たくなかった。地面に突っ伏して、最後の時まで瞼を閉じていたかった。
しかしアスナは、滲む涙をとおして、尚も仲間たちの姿を目に焼き付け続けた。
視線を一周させたところで、乱れたピンク色のショートヘアに気付いた。顔を両手に埋め、肩を震わせている。
アスナは脚を引き摺り、ゆっくりとその背中に近づくと、親友の体に両手を回した。
リズベットは一瞬全身を強張らせてから、がくりとアスナの胸に頭を預けてきた。血と涙に汚れた頬が引き攣り、掠れた声が漏れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、みんな……あたし……あたしが……みんなを……」
「違う……違うよ、リズ!」
アスナも、涙まじりの声で小さく叫んだ。
「リズのせいじゃない。わたしが悪いの……ちゃんと考えれば……予想できたはずなのに……」
「アスナ……。あたし……知らなかったよ。戦うこと……負けることが、こんなだって、知らなかった……」
返す言葉が見つからず、アスナは顔を上げると、ぎゅっと両眼をつぶった。零れ落ちた涙が、幾つも頬を伝った。
耳に届いた小さなすすり泣きに眼を開けると、地面に大の字になった褐色の肌の巨漢――エギルと、その隣にうずくまる小柄なシリカが見えた。
エギルは、よくこれで天命が残っているとすら思えるほど酷く負傷していた。おそらくはシリカを守り、よほど激しく戦い続けたのだろう。樽のような体にはスピアやハルバードが十本以上も貫通し、四肢はほとんど叩き潰されたような有様だ。髭の下で歯を食いしばっているのは、想像を絶する苦痛に耐えているからに違いない。
少し離れた場所には、背を向けて胡坐をかくクラインの姿もあった。こちらは、左腕が肩の下から斬り飛ばされ、傷口にトレードマークのバンダナが巻いてある。身体を丸め、俯いているのは、顔を見られたくないからだろうか。
生存者は皆、大なり小なり同様の状態だった。
武器も、鎧も、そして闘志も奪われ地に伏す二百人を、少し離れた位置に立つ黒フードの男はぐるりと睥睨し――そこだけ覗く口元に、にやりと大きな笑みを浮かべた。
再びぐるりと振り向き、アンダーワールド人部隊へと正対する。
右手が持ち上がり、皆殺しにしろ、という指示が発せられる瞬間を、アスナは恐怖とともに待った。
しかし、響いたのは意外な内容の日本語だった。
「武器を捨て、抵抗を止めろ。そうすれば、お前らも、後ろの捕虜も殺しはしない」
衛士隊長たちの顔に、一瞬の驚きに続いて、朱色の憤激が走った。
「……ふざけるな!! 今更我らが命なぞ惜しむと……」
「言うことを聞いて――ッ!!」
衛士の言葉を遮り、叫んだのは、アスナだった。
リズベットの身体を抱きしめたまま、涙に濡れた顔を上げ、アスナはさらに懇願した。
「お願い……あなたたちは生きて! どんな屈辱を味わおうとも、生きのびてください!! それが……それが、私たちの……たった一つの…………」
希望なのだから。
胸が詰まり、そこまでは言葉にできなかった。
しかし、衛士たちはぐっと歯を噛み締め、顔を歪め、やがて――ゆっくりと項垂れた。
がしゃ、がしゃんと音を立てて投げ捨てられる剣を見て、周囲の、いまだ三万以上残るプレイヤーたちの間から、高らかな勝利の叫びが湧き上がった。それらはすぐに、リズミカルな自国名の連呼へと変わっていく。
黒フード男は、さっと片手を上げて数人の黒い歩兵を呼びつけ、何かを指示した。即座に兵らは頷き、降伏した人界軍部隊のなかへと足音高く分け入った。
一体、何を……と思ったのも束の間、黒フードがざくざくと音を立てて歩み寄ってきて、アスナの視界を塞いだ。
目の前で立ち止まった男を、なけなしの力を込めた両眼で見上げる。
フードの奥の闇は、この距離でも見通せなかった。逞しく割れた顎や、首元にのぞく巻き毛がかろうじて見える。
その顎が動き、低く湿った笑いを含む声が漏れ出た。
「……よう、"閃光"」
――やはり!!
息を飲み、アスナは胸の奥から言葉を絞り出した。
「……お前……PoH……!」
「おおっと、懐かしい名前だな。知ってたか? それ、"Prince of Hell"の略なんだぜ?」
そのとき、片手を地面に突いてにじり寄ってきたクラインが、燃えるような目で黒フードを見上げた。
「てめェ……てめェかよ。この……人殺しが!!」
掴みかかろうとしたクラインを、男のブーツが無造作に蹴り飛ばした。たちまち、周囲の人垣から数名が走り出てきて、剣や槍でクラインの動きを封じる。
アスナはぎりっと奥歯を噛みながら、PoHに低く尋ねた。
「これは……復讐なの? ラフィン・コフィンを壊滅させた私たち攻略組への……?」
「…………」
PoHは、しばし無言でアスナを見下ろしていた。その肩が細かく震えているのにアスナは気付いた。
やがて、男は――ぷっ!! と盛大に吹き出した。
ポンチョの下で細い身体を折り曲げ、くくく、ひひひと笑い続ける。
発作のような嘲笑をようやく収め、ポンチョから細い右手を突き出すと、PoHは朗らかな声で続けた。
「あー、ええっと……こういう時、日本語でなんて言うんだったかな……」
くるくると回された指が、パチン! と鳴った。
「そうそう。"お目出度ぇな"? まったくウケるぜ。あのな……」
かくん、と膝を折り曲げた男は、至近距離からアスナを覗き込んできた。フードの奥に、ぎらぎらと輝く眸だけが見えた。
「……教えてやるよ。ラフィン・コフィンの隠れアジトを、てめぇら攻略組様に密告したのは……このオレなんだぜ?」
「な…………」
アスナも、クラインも、そして瀕死のエギルまでもが目を見開いた。
「なぜ……そんな…………」
「あのアホどもと付き合うのも飽きてたしなァ。サル同士殺しあうのが見たかったっつぅのもあるけど……一番の理由は、やっぱこれだな。オレはな……お前らを、"人殺し"にしてやりたかったんだよ。お偉い勇者ヅラして最前線に篭もってる攻略組ご一行様をよ。お膳立てには苦労したぜ。ラフコフの奴らにも直前に警告して、"逃走はムリだが迎撃は間に合う"タイミングをびったし作ってさ」
――そうか。あのアジト急襲が事前に漏れていた形跡があったのは、そういう訳だったのか、とアスナは愕然としながらも思った。
そのせいで、戦闘の初期にはレベルで優る攻略組のほうが押され、数名の死者まで出したのだ。劣勢を覆したのは、当時すでに抜きん出た実力を示していたキリトの奮戦であり、彼がラフィンコフィンの切り込みプレイヤー二名を斬り倒したことで――状況が逆転し……。
「……あれが……狙いだったの?」
アスナは、ほとんど音にならない声で囁いた。
「キリトくんに……PK行為を、背負わせるために……?」
「イエス。アブソリュートリィ・イエス」
PoHの声も、熱を帯びた囁きにまでひそめられた。
「オレは、あの戦いを近くからハイディングして見てたんだよ。"黒"の熱血バカが、ブチ切れて二人もぶっ殺したときは、思わず爆笑してハイドが破れるとこだったぜ。理想としてはよ、のちのちあいつとアンタを無力化のうえ拘束して、あん時のことをロング・インタビューしてやろうと思ってたんだけどよ……まさか七十五フロアでエンディングとはなぁ」
瞬時に沸騰した怒りが、アスナに傷の痛みをいっときにせよ忘れさせた。
「き……キリトくんが、どれだけあの時のことを、悩んで、苦しんでると思うの!?」
「ほ、そりゃよかった」
PoHの声は、対照的に氷のような冷たさを帯びていた。
「でも、そいつは怪しいもんだな? ほんとに後悔してるならよ……普通、VRMMO辞めるんじゃねえの? 殺したヤツに申し訳なくてさぁ。分かってんだぜ、あいつも居るんだろ、ここに。感じるんだよ。なんで馬車に篭もってんのかは知らねえが……まあ、直接聞くさ」
言葉を失ったアスナの頬を、指先でそっと撫で、PoHは勢い良く立ち上がった。
いまだ周囲でうねり続ける大歓声の底に、低く湿った声が流れた。
「イッツ・ショーウ・タァ――――イム」
くるりと振り向いたPoHの向こうに――。
人界軍部隊をふたつに割って、黒い歩兵の手でごろごろと運ばれてくる車椅子と、拘束されたまま付き従う、灰色の制服姿の少女が見えた。
ああ……。
やめて。
それだけは。
アスナの胸中に、悲痛な懇願が溢れた。クラインが跳ねるように立ち上がろうとし、すぐに押さえつけられた。
PoHは、目の前まで押されてきた車椅子を、身体をひょいと傾けて覗き込んだ。
「……ンン?」
訝しそうな唸りとともに、つま先でこつんと、椅子からぶら下がる脚をつつく。
「何だこりゃあ……? おい、"黒の剣士"、起きろよ。"二刀流"、聞こえてんのかぁ?」
かつてのあざなで呼ばれたキリトは――しかし、まったく反応しなかった。
黒いシャツの上からも如実に分かる、痩せ細った体を背もたれに斜めに預け、顔をかくんと俯かせている。中身のない右の袖が風に揺れ、二本の剣をきつく抱く左手も、骨ばかりが目立つ。
アスナの隣に突き飛ばされてきたロニエが、真っ赤に泣きはらした目をしばたかせ、小さく言った。
「キリト先輩……戦いのあいだ、何度も、何度も立ち上がろうとして……そのうち、力尽きたみたいに静かになって……でも……涙が……涙だけが、いつまでも……」
「ロニエさん……」
アスナは左手を伸ばし、しゃくりあげるロニエの華奢な身体を引き寄せた。
きっと顔を上げ、PoHに鋭い言葉を投げる。
「分かったでしょう。彼は戦って、戦いぬいて、傷ついたの。だからもう構わないで! キリトくんをそっとしておいて!!」
しかし黒フードの男は、アスナの声など耳に入らぬ様子で、キリトの顔を至近距離から覗き込み喚き続けた。
「おいおーい、嘘だろ! 締まらねえよこんなんじゃよ! おい、起きろって! ヘイ、朝だよー! おーい!! グッド・モー……ニン!!」
突然、PoHは右足を銀の車輪に掛け、容赦なく蹴り倒した。
騒々しい金属音とともに横倒しになった車椅子から、痩せた体が地面に投げ出された。
アスナとクラインが、同時に立ち上がろうとして背後の剣に押し止められた。エギルも、血の泡が混じった低い怒りの声を漏らし、リズベットとシリカ、それにロニエが細い悲鳴を上げる。
PoHは、背後の様子にはもう目もくれず、キリトに歩み寄るとつま先で乱暴に身体を仰向けさせた。
「なんだよ……マジで壊れちまってるのかよ。あの勇者サマが、ただの木偶かぁ?」
いまだ、しっかりと二本の剣を抱えたままの左腕から、白いほうの鞘を奪い取る。じゃきっと引き抜かれたその刀身は、半ばほどで痛々しい折れ口を晒している。
盛大な舌打ちとともに、PoHは剣を鞘に戻した。と――。
「ぁ……。ぁー……」
キリトが、細いしわがれ声とともに、左腕を白い剣へと弱々しく伸ばした。
「おっ!? 動いたぜ!! なんだ、コイツが欲しいのか?」
PoHは、じらすように空中で白い剣を動かしてから、それを無造作に投げ捨てた。空中でそちらに動こうとするキリトの左腕を、ぐいっと右手で掴み、引っ張り上げる。
「ほら、何とか言えよ!!」
ぱし、ぱしん! と音を立て、PoHの左手がキリトの頬を張った。
アスナの視界が、憤怒のあまりか薄赤くそまった。しかし、再び立ち上がろうとするより早く、クラインの血の滲むような絶叫が響き渡った。
「てめえが!! てめえがキリトに触るんじゃねえ――――!!」
片腕で掴みかかろうとするその背中を、背後から太い剣が貫き、容赦なく地面に縫いとめた。
がっ、と大量の血を吐き出し、突っ伏してなお、クラインは己の身体を引き裂きながら、前に進もうとした。
「てめえ……だけは……!! 許さ……ね……」
どかっ!!
と鈍い音が響き、二本目の刃がクラインを貫いた。
いまだ枯れないことが不思議なほどに、止め処も無い涙がアスナの頬に溢れた。
片脚がまるごと吹き飛んだ痛みより、はるかに強く濃い恐慌を、シノンは感じた。
これまでシノンは、脚で空気を蹴る感覚で随意飛行を制御してきたのだ。はたして、右脚だけで試みた急速回避は、ぶざまな錐揉み旋回へと変わってしまった。
「く…………」
歯噛みをしながら、シノンは唯一可能な機動、つまりひたすら真っ直ぐな後退に移った。空中に、左脚から漏れ出る血が鮮やかな赤のラインを引く。
可能な限りの速度で距離を取りつつ、サトライザを照準し、三発目の弾丸を発射した。
しかし、まったく同時に、余裕の表情で追ってくる敵のライフルも火を吐いた。
同一直線上を突進するふたつの12.7ミリ弾は、交錯した瞬間、甲高い不協和音と鮮やかな火花を撒き散らして軌道を逸らし、それぞれ遥かな虚空へと飛び去った。
胸中に忍び込む懼れを、ボルト操作で薬莢と一緒に払い捨て、シノンは第四射を敢行した。
またしても、二つの雷鳴が重なって轟く。弾丸たちは齧り合った瞬間、巨大なエネルギーを空しく宙に放散し、螺旋を描いて飛び去っていく。
第五射。第六射。
結果はまったく同じだった。サトライザが、わざとシノンの射撃にあわせて自らもトリガーを引き、弾丸を相殺させ続けているのは明らかだ。
現実世界ではもちろん、GGO内でもこんな芸当は出来るまい。しかし、この世界ではイマジネーションが全てに優先する。意図しているサトライザはもちろん、シノンまでもこの結果を予想してしまっているゆえに、超音速で飛行する弾丸の相撃ちという有り得ない現象が現実となるのだ。
それでもシノンにはもう、ボルトを引き、照準を合わせ、トリガーを絞るという三動作以外のことは何ひとつ出来なかった。
七発目の弾丸が、哀切な悲鳴を撒き散らしながら大きく右へと逸れ、消えた。
排莢。照準。
――カチン。
かちん、かちんと、シノンの指の動きに合わせて撃針が空しく鳴った。
ヘカートIIの装弾数は、ワンマガジン七発。予備の弾倉は無い。
対して、バーレットの装弾数は十。まだ、あと二発残っている。
百メートル離れた場所で、サトライザが浮かべた冷たい笑みを、シノンははっきりと視認した。
構えられた黒い銃が、ぱっと炎を吐いた。
シノンの右脚が付け根から吹き飛んだ。
途端、一直線の飛行すらままならなくなり、シノンの身体は徐々に落下し始めた。
反動を抑えたサトライザが、最後の一撃を放つべく、右眼をスコープに当てた。レンズいっぱいに広がる青い硝子のような虹彩が、シノンの心臓をまっすぐに射抜いた。
――ごめんね。
ごめんね、アスナ。ごめんね、ユイちゃん。ごめんね……キリト。
シノンが口の中でそう呟いた直後、バーレットが十発目の弾丸をそのあぎとから解き放った。
赤い炎の螺旋をあとに引き、サトライザの視線を正確にトレースして飛来した弾が、シノンの青い装甲を粉砕し、上衣を蒸発させ、その捻転する尖端を肌に――。
バチッ!!
と、再びあの火花が迸った。
閉じかけた両眼を見開いたシノンの目の前で、高速回転する細長い弾丸を、ちっぽけなアルミのメダルが食い止めていた。
渦巻く白いスパークの中心で、厚さ一ミリもない円盤が、断固たる意思を示して光り輝いているのを見た瞬間、シノンの両眼から涙が溢れた。
――諦めない。
絶対に諦めたりしない。信じるんだ。私を。ヘカートを。そして、このメダルを通して繋がる、ひとりの男の子を。
一際激しい閃光とともに、金属円盤とライフル弾が同時に蒸発した。
シノンはヘカートIIを力強い動作で構え、トリガーに人差し指を掛けた。
たとえイマジネーションによって変形したとは言え、この武器に与えられたシステム上の性能は持続しているはずだ。周囲の空間からリソースを自動吸収し、攻撃力としてチャージする"ソルスの弓"の力が。
ならば撃てる。マガジン内の弾が尽きていようが、絶対にヘカートは応えてくれる。
「いっ……けええぇぇ――――!!」
トリガーを引いた。
発射されたのは、金属をまとった徹甲弾ではなかった。
無限のエネルギーを凝縮した純白の光線が、マズルブレーキから七色のオーロラを放散させながら、一直線に宙を疾った。
サトライザの顔から笑みが消えた。右へとスライド回避しかけた瞬間、白い光線がバーレットの機関部を直撃した。
オレンジ色の火球が膨れ上がり、サトライザを完全に飲み込み――。
轟音。爆発。
押し寄せる熱い突風を肌に感じながら、シノンは石のように落下し、数秒後、岩だらけの地面に激突した。
もう、飛ぶことはおろか、這いずることも出来そうになかった。吹き飛ばされた両脚の痛みは凄まじく、意識を保つことすら至難だった。
それでも、シノンは瞼を持ち上げ、かすむ視界を懸命に見通そうとした。
遥か中空にわだかまる黒煙が、徐々に風に運ばれていく。
やがて現れたのは――いまだホバリングを続ける、サトライザの姿だった。
しかし無傷ではない。ライフルの爆発に巻き込まれた右腕は完全に消し飛び、肩口から薄い煙がなびいている。滑らかだった顔の右側も焼け焦げ、唇からひと筋の血が垂れている。
サトライザの顔に、ついに凶悪な殺意が浮かんだ。
……いいわよ。何度だって相手してあげるわ。
シノンは、残された全ての力を振り絞り、ヘカートを持ち上げようとした。
数秒後、サトライザの視線がふっと外された。有翼生物がぐるりと向きを変え、黒衣の男は細い煙の筋を引きながら、一直線に南に向かって飛び去った。
シノンは、もう保持しているのも限界だった巨大な対物ライフルを、そっと地面に降ろそうとした。接地した瞬間、それはもとの白い弓へとその姿を戻した。
最後の力で、シノンは右手を持ち上げ、胸元に残されたチェーンの切れ端に触れた。
「……キリト」
呟くと同時に、涙が頬にすうっと流れた。
身体に突き立つ幾つもの刃を、抜き捨てる余裕すらもうリーファには無かった。
全身の痛みが融けあい、まるでむき出しになった全神経を直接針で突き刺されているかのようだ。
幾つかの傷は、明らかに致命傷と呼べるものだった。腹部を貫く二本の剣は動くたびに内臓を切り刻み、背中から胸に抜ける一本は確実に心臓を直撃している。
しかしリーファは止まらなかった。
「う……おおあああッ!!」
大量の鮮血とともに気合を迸らせ、何十度――あるいは何百度目かのソードスキルを開始する。
長剣が黄緑の輝きを帯び、縦横に空を裂く。身体の周囲に留まった幾つもの光の円弧が、一瞬の溜めのあとにパッと周囲に拡散し、それを追うように無数の敵兵がばらばらっと身体を崩壊させる。
大技を放ったあとの硬直時間を狙い、数人の敵が殺到してきた。ぎりぎり飛び退き、攻撃の大半は避けたものの、長いハルバードの一撃に左腕を叩き斬られた。
勢いで倒れそうになるのをぐうっと踏みとどまり、
「ぜあああッ!!」
横薙ぎの一閃で三人の身体を分断する。
リーファは、地面に落ちた左腕を拾い上げ、傷口に押し当てながら強く右足を踏んだ。
緑の閃光とともに、地面に草花が萌え出で、消えていく。天命が上限まで回復し、惨い傷は残ったものの、左腕も再度接続される。
この状況では、テラリアに付与された無限回復能力は、もう神の恩寵などと呼べるものではなかった。
むしろ、呪いと言うのが相応しい。どれほど傷つき、激痛を味わおうとも、倒れることは許されないのだ。不死ではあるが不可侵ではない矛盾ゆえの、想像を絶する責め苦。
リーファを支えているのは、ただひとつの信念だけだった。
――お兄ちゃんなら。
絶対に、こんな傷くらいで倒れたり、しない。
なら、私も倒れない。たかが三千人、一人で斬り伏せてみせる。だって私は……お兄ちゃんの……
「――――妹なんだからああああッ」
左手につがえられた長刀の切っ先が、真紅の輝きを迸らせた。
がしゅっ!! という重い金属音とともに突き出された刀から、巨大な光の槍が解き放たれ、百メートル以上もまっすぐに戦場を貫く。ばしゃあっ! と円状に敵兵の身体が捩れ、引き千切られ、飛散する。
「……はっ……はあっ…………」
荒く吐いた息は、すぐに大量の鮮血へと変わった。
口元を拭い、ふらりと立ち上がったリーファの左眼を、唸りを上げて飛来した長槍が貫き、後頭部へと抜けた。
数歩後ろによろめき――しかしリーファは倒れなかった。
左手を後ろに回して、槍を一気に引き抜く。頭の内側を、痛みとはちがう異様な感覚が突き抜ける。
「う……うううおおお!!」
だん、だん!! と足踏みし、天命を回復させる。欠けた左の視界が、テレビのようにぶつっと音を立てて復活する。
見れば、いつしか敵はもう百人ほどしか残っていなかった。
にやり、と笑いながら、リーファは血まみれの左手を持ち上げ――掌を上向けると、そろえた指先をくいくいと動かした。
やけっぱちな雄叫びを上げて突進してくる集団に向け、ずうっと重い動作で長刀を振りかぶる。
「いぇ……ああああああッ!!」
一閃。
鮮血を吹き上げ、分断された敵集団のただ中へ、リーファは恐れることなくその身を投じた。
約三分後に、最後の敵兵が倒れたとき、リーファの身体に突き立つ金属は十本に増えていた。
四肢から力が抜け、後ろに倒れこんだが、背中に貫通した剣や槍がつかえて途中で止まった。
悲鳴のような声で名前を呼びながら駆け寄ってくるオークたちの足音を聞きながら、リーファは瞼を閉じ、小さく呟いた。
「私……がんばったよね……、お兄ちゃん……」
左耳のインカムから、低い囁き声が聞こえたのは、柳井の銃のトリガーが動き始めたのと同時だった。
『比嘉君、避けて!!』
え。
避けてって……弾を?
と間抜けなことを考えた直後に、ずっと高いところから、何かが空気を切り裂いて落下してくる音を比嘉は聴いた。
ガァン!!
と響いた音は、拳銃の発射音ではなかった。遥か頭上の、ケーブルダクト進入口から投げ込まれた巨大な何かが、柳井の脳天を直撃した音だった。
柳井の見開かれた目が、ぐりんと上を向いた。ステップを握っていた左手が、ずるりと滑り落ちる。
「うわ……ちょっ……」
比嘉は、肩の痛みも忘れて右腕を上げると、両手でステップを握り、限界まで身体をダクトの壁面に押し付けた。
まず落下してきたのは、一体どこから持ち出したのかと言いたくなるほど馬鹿でかいモンキーレンチだった。続いて、まだ硝煙の匂いをこびり付かせた小型の拳銃が目の前を横切った。
最後に、意識を失った柳井の身体が、ずぼっと比嘉の身体とダクト壁の間に挟まり、停まった。
「ひ……ひぃっ!」
思わず肩を縮め、一層身体を引っ込めてしまう。
柳井の身体が徐々にずれ始め、汗とコロンの匂いを擦りつけながら眼前を通過し――。
「…………あ」
比嘉が呟くと同時に、足下に五十メートル続く空間へと落下していった。何度か、壁やハシゴにぶつかる音が響いたのに続いて、最後にどすんという一際重い衝突音が伝わってきた。
「…………うーん……」
死んじゃった……かな? いや、あの感じだと骨が二、三……いや五、六本イッたくらいかな……。
という、半ば停止気味の比嘉の思考を、インカムからの悲鳴じみた声が破った。
『比嘉君……ねえ、比嘉君!! 無事なの!? 答えてよ、ねえ!!』
「…………いや、ちょっと、ビックリして……。凛子さんでも、そんな声出すんスねえ……」
『な……何のんきなこと言ってるの!! 怪我は!? 撃たれてないの!?』
「あー、えーっと……」
比嘉は、あらためて肩の傷を眺めた。
出血量はちょっと恐ろしいことになりつつある。右腕は、動くものの表面感覚はないし、それにやけに寒い。思考もちょっといつもどおりではない気がする。
しかし、比嘉は大きく息を吸い、腹に力を溜めてから、可能なかぎり元気そうな声を出した。
「いや、ぜんぜん平気ッス! かすり傷ッスから。僕はオペレーションを継続します、先輩はキリト君のモニタリングのほう、よろしくッス!!」
『……ほんとうに、大丈夫なのね? 信じるわよ!? 嘘だったら許さないからね!?』
「いやもう……ばっちり、バッチグー、ッス」
比嘉は上を仰ぎ、はるか頭上に見える小さなシルエットに向けて慎重に手を振った。この距離でこの暗さなら、神代博士からは出血の様子までは確認できないはずだ。
『じゃあ……私は戻るけど、グラフに変化があり次第飛んでくるからね! 頼むわね、比嘉君!!』
シルエットが引っ込みかけた瞬間、比嘉は思わず小さく呼びかけていた。
「あっ……り、凛子さん」
『何、どうしたの!?』
「いや……その、ええと……」
――学生時代、茅場先輩や須郷サンだけじゃなく、僕もあなたに夢中だったって知ってました?
と、比嘉は言おうとしたものの、そんなことを口にしたら生還の確率が大幅に減少する気がしたので、かわりに適当な台詞でお茶を濁した。
「あの、この大騒ぎが全部片付いたら、食事でもどうッスか?」
『……分かったわ、マクダでも星牛でも奢ってあげるから、がんばって!!』
そして、神代博士の姿が比嘉の視界から消えた。
――やっすいなぁ。
て言うか、"死ぬやつが言うっぽい度"では大差なかったなあ。
比嘉は苦笑し、端末のモニタに視線を戻した。指先の痺れた右手をキーボードに載せ、慎重にコマンドを打ち込み始める。
三番STLに……四番を接続。五番、六番……接続。
ふっ、とフォントが二重に霞み、比嘉は両眼をしばたいた。
さあ……キリト君、そろそろ起きる時間だぜ。
アスナは、涙のベールを通して、ただひたすらに愛する人の姿を見つめ、祈った。
お願い、キリトくん。私の心も、命も、なんでもあげるから……だから、目を覚まして。
――キリトくん。
――キリト。
――お兄ちゃん。
………………キリト……。
キリト。
誰かが、名前を呼んだ気がして――
俺は、浅いまどろみから引き戻された。
瞼を持ち上げると、オレンジ色の光の帯に浮かぶ、いくつもの粒子が見えた。
朧な視界が、徐々に焦点を結んでいく。
揺れる白い布。カーテン。
銀色の窓枠。古びたガラス。
揺れる梢。傾き始めた太陽の色に染まる空に、ゆっくりと伸びる飛行機雲。
埃っぽい空気を大きく吸いながらのろのろと身体を起こすと、深緑色の黒板を大儀そうに擦るセーラー服の背中が目に入った。しゅっと音を立てて滑った黒板消しが、白いチョークで大きく書かれた文字の最後のひとつをかき消した。
「……あの、桐ヶ谷君」
再び名前を呼ばれ、視線を動かすと、気後れしたような、苛立ったような表情で俺を見下ろす、別の女子生徒が目に入った。
「机、動かしたいんだけど」
どうやら俺は、ホームルーム中に居眠りして、そのまま掃除時間へと突入してしまったらしい。
「ああ……悪い」
呟き、机にぶら下がるぺたんこのザックを指に引っ掛けると、俺は立ち上がった。
頭の芯が重い。
長い――とてつもなく長い映画を見たあとのような疲労感があった。筋もなにも思い出せないのに、巨大な感情の残滓だけが身体の中にこびり付いている気がして、強く頭を振る。
訝しそうな顔つきになる同級生から視線を外し、教室の後ろの出口に向けて歩きだしながら、俺は小さく呟いた。
「なんだ……夢か…………」
学校を出て、青みを増しはじめた空に浮かぶ黄色い雲を見上げると、ようやく僅かばかり思考が冴えた。ひんやり乾いた秋の空気を、大きく吸い込む。
毎朝四時にベッドに倒れこみ、八時には起床して登校、その後ひたすら続く授業中に補填的な睡眠時間を稼ぐ生活を送る俺にとって、一日がピークを迎えるのは夕刻以降のことだ。秋分の日が過ぎ、夜が長くなるこれからの季節は気分も軽くなる。逆に、明かりを消す頃にはすでに窓の外が白み始めている六月、七月などは、寝入り端の憂鬱さを日中も引き摺ってしまう。
と、言ってもべつに、再来年に待ち構える高校受験の勉強に明け暮れているわけではない。
前後を歩く中学生たちの、夢と希望、恋と友情に溢れた会話を遮断するためにオーディオプレイヤーのイヤホンを両耳にねじこみ、背中を丸めて、俺は家路を辿った。
途中にあるコンビニで、これから朝四時まで続く戦いのための補給食を買い込み、ついでに電子マネーアカウントに幾らかチャージする。
ゲーム情報誌をぱらぱら捲ってから自動ドアを抜けると、駐車場のすみの薄暗がりに輪になって座り込む四、五人の同級生の顔が見えた。周囲にはカップ麺やおにぎりの包装が散乱し、傍若無人な笑い声を響かせている。
無視して通り過ぎようとしたとき、中の一人が俺に向けた、すがるような視線と目が合った。
ブレザー姿でなければ小学生にしか見えないその男子生徒とは、去年一年間そこそこ仲良くしていた。当時、同じネットゲームにハマっていたせいだ。
そして、いかにも文科系の極みのような二人組に、不良連中が目をつけるのも当然の流れと言えた。今、彼の周囲で馬鹿話に興じている連中だ。使いっぱしりを強要するところから始めて、ジュースやパンを奢らせるようになり、やがてダイレクトに金銭を要求し出すに及んで俺は行動に出た。剣道場から持ち出した竹刀で、リーダー格をしたたかブチのめしたのだ。
たった二年で辞めてしまった剣道だが、思わぬところで役に立ったものだ。双方の親が学校に呼ばれ、大ごとになりかけたが、俺が超小型レコーダーで録画しておいた恐喝シーンを会議室の大モニタで再生してやったら即座にウヤムヤな決着を迎えた。
その後、ヤンキー連中はしばらく大人しくしていたようだが、どうやら懲りずにパシリだの恐喝だのを再開したらしい。
脚を止め、顔を向けていると、しゃがみ込む一人が鼻筋に皺を寄せて唸った。
「んだよキリガヤ、何見てんだよ」
俺は肩をすくめ、答えた。
「別に」
そして、そのまま歩行を再開した。かつて友達だった生徒の視線を強く背中に感じたが、もう二度とあんな面倒な真似をする気はない。今年になってからは話もしていない相手だし、そもそも武闘派のネトゲ廃人なんて笑い話にもならない。
白いビニール袋をほとんど空のバックパックに押し込み、インナーヘッドフォンのボリュームを上げて、夕暮れに染まる世界を掻き分けて歩く。こっち側で誰かとルーティーンではない会話をしたあとは、決まってこんな乖離感覚が押し寄せてくる。
早く接続したい。世界に繋がりたい。
強い焦燥に急かされるように、ダークグレイとオレンジに塗り分けられた住宅街をひたすら歩く。
やがて、古めかしい竹垣に囲われた自宅が、設定視野に入った地形オブジェクトのように前方に浮かび上がる。
屋根つきの門をくぐり、砂利を踏んで玄関へ向かう。
と、鋭く空気を切る音と、歯切れのいい掛け声が耳に届いた。
裏手の広い芝生のうえで、竹刀の素振りをする緑色のジャージ姿の女の子が目に入る。短く切りそろえられた髪、飛び散る汗、見事なまでに制御された動作のすべてが眩しく、思わず歩みを止める。
俺が立ち尽くしていると、女の子はすぐに気付き、素振りをとめてにっこりと笑った。
「おかえり、お兄ちゃん!」
屈託無く掛けられた言葉に、反射的に視線を逸らせてしまう。
凄まじい隔絶感。俺が遠ざけてきたあらゆるものが、薄膜一枚へだてた向こうに光り輝いている気がする。いったいいつから、こんな感覚が生まれてしまったのか。同時に習い始めた剣道を、俺だけさっさと辞めてしまった時だろうか。それとも――その少し前、生前の祖父にしたたか叱られた時か。
あれは何が原因だったんだっけ。
祖父の道場に通っていた、年上の近所の男の子に、ネットで調べた立ち関節技を使って勝ったせいだったか……。
瞬時の物思いに囚われた俺を、ジャージの女の子は大きな瞳でじっと見つめ続けている。
「……ん」
挨拶にもならない短音を返し、俺はすぐさまきびすを返した。玄関に向かう背中に、やはり物言いたげな視線だけが残った。
広い家のなかは無人だった。
父親は海外に赴任中だし、母親は仕事柄、俺より不規則な生活を送っている。そのことに文句はまったくない。むしろ有り難いほどだ。
ネクタイを引き抜きながら階段を駆け上り、自室へと飛び込む。ふう、と大きく息を吐き、ザックを放り出す。
ほんとうに中学二年男子の部屋か、と言いたくなるほどに殺風景だ。シンプル極まるデスクには自作のパソコンとELモニタ。本棚にはプログラミングやアプリの解説本。あとはタンスとベッドしかない。
そのベッドの上に鎮座するモノが、この部屋と俺の生活を支配する主だ。
艶やかなダークブルーの外装をまとうヘルメット型ヘッドギア。
そしてもう一つ、細いケーブルで接続するキューブ型のマシン本体にマウントされた、一枚の光学ディスク。
"ナーヴギア"と、"ソードアートオンライン・βエディション"。
俺は制服を蹴散らすように脱ぎ捨て、楽なスウェットに着替えると、コンビニで買ってきたブロック栄養食を一本貪るように胃に詰め込んだ。水分を取り、トイレを済ませ、ある種の中毒患者のように息を浅くしながらベッドへと倒れこむ。
ナーヴギアを被り、ハーネスをロックして、電源を入れる。かすかなドライブ回転音。ファンの排気音。
遮光シールドを降ろし、スタンバイ完了を示すビープ音が鳴るや否や、きょう一日に出したすべての声のなかで、もっとも明確な発音で接続プロセス開始コマンドを口にする。
リンク・スタート。
俺が降り立ったのは、当然ながら、昨日――正確には今朝ログアウトした座標だった。
浮遊城アインクラッド最前線、第10層主街区。その中央に高く聳える、鐘楼の最上部。頭上には、くっきりと上層の底が見える。
俺は、目の前の窓ガラスに映る自分の姿を確認した。
現実の俺より、二十センチは背が高い。胸も腕も逞しく、しかし腹は削いだようにくびれている。その完璧なバランスの身体を包むのは、純白の地にコバルトブルーのトライバルパターンが入った華麗なハーフアーマーだ。メンテしたばかりなので、ワックスを掛けたような光沢が日光を眩く反射している。背中に流れるマントは純銀の毛皮製。腰には、クリスタルのように透きとおる柄を持つ大型の片手剣。
すべての装備が、現時点で入手可能な最高性能を備えている。とは言え、週末には次の層が開通するだろうから、また一式更新する必要があるだろう。どうせ、金(コル)は口座に腐るほど溜まっている。
最後に、これも瑕疵ひとつ無いデザインの顔を確認する。βテスト開始当初に、無限とも思えた数値パラメータをいじり込んで造り上げた自信作だ。実は"かわいい女の子"を作るよりも、"かっこいい男"を造るほうが十倍は難しい。ここまでのレベルに達している男アバターは、アインクラッドには存在しない確信がある。
背中に垂れる青銀の長髪を一振りし、俺はガラスから視線を外した。
黒のレザーパンツのポケットに両手を突っ込み、鐘楼の手すりに白いブーツを乗せ――ひと息に空中に飛び出す。
眼下の中央広場までは、たっぷり三十メートルはあるだろう。その高度を、マントと長髪をなびかせながら、俺は矢のように落下する。敷石に衝突する直前でくるくると二回転し、物凄い大音響とともに両脚から着地する。
高い敏捷度、筋力パラメータおよび軽身スキルはもちろん、熟練のプレイヤースキルとおまけに度胸がなくてはできない芸当だ。俺のステータスでも、この距離を頭から落下したらヒットポイントが吹っ飛び、はるか下層の黒鉄宮で気まずい蘇生をすることになる。
見事着地を決め、立ち上がった俺を、周囲で目を丸くしていたプレイヤーたちが笑顔で迎えた。「キリト、おはー!」「キリトさん、こばーっす」と次々に掛けられる統一感の無い挨拶に、こんばんはーっす! と、現実世界の俺が口にしたこともない元気な声を返す。
たちまち殺到するパーティー狩りの誘いを、一つずつ丁寧に断り、俺は街区のはずれにある宿屋へと向かった。
事前に指定されていたのは、二階の一番奥の部屋だった。カウンターのNPCから古めかしい真鍮のキーを貰い、素早く階段を登ると奥の扉の鍵を外す。
中で待っていたのは、俺に負けず劣らず高価かつ派手な装備に身を固めた、二人の男性プレイヤーだった。一人が大柄な両手剣使い、一人は華奢なナックル使いだ。
「ちわ」
と、短く頭を下げたのはナックル戦士のほうだった。俺も、どもっすと答え、ドアを閉める。ロックされたのを確認してから、索敵スキルを使い、部屋と壁の向こうを丹念にチェックする。
「やー、ハイドしてる奴なんかいないっすよー」
と苦笑する男に、俺も薄く笑いながら肩をすくめて見せた。
「念のためですよ。それと……もちろん、記録系クリスタルも無しですよね」
「もち、当然っす。キリトさんを引っ掛けるようなこと、うちのギルドがするわけないっすよ」
鵜呑みにするわけには行かないが、それでも俺は一応納得し、空いている椅子に腰を下ろした。
それを待っていたように、これまで無言だった両手剣が、ずいっと身を乗り出してきた。
「改めて、はじめまして、よろしくです」
「はじめまして」
俺も再び頭を下げる。
初対面ではあるが、互いに知らない間柄ではない。この二人は、SAOβで現在最大勢力を誇るギルドの、副長と参謀なのだ。そして俺は、つい二週間前まで第二勢力ギルドに属していた。
フリーになった途端、数多のギルドから加入の誘いが舞い込んだが、たっぷりともったいつけた上で今日この二人との会談に応じたのには、訳があった。
しかし俺は、内心を隠したままポーカーフェイスで交渉に就いた。
二人は、準備金として用意できるコルの額や、ギルドで蓄積しているレアアイテムの一覧などをウインドウで示し、熱心なリクルートを開始した。それをひととおり聞いたところで、俺は脚を組み、にこやかに言った。
「うーん、正直、金には困ってないですし、アイテムもこれと言って……って感じですかねえ」
「いや、勿論これは叩き台ってことで、ここからも交渉の余地は……」
早口でそう言い募る副長の目をじっと見て、俺は囁いた。
「金とかアイテムはいらないです。ただ……たった一つだけ、条件を飲んでくれれば、あとは何も無しで加入しますよ」
「じ……条件……とは?」
つり込まれたようにひそひそ声になった男に、俺はニッと片頬を歪めて笑いかけ、言った。
「おたくのギルドのリーダー職に、すごい地味な装備の片手剣使いの男がいるでしょう」
「え……、ええ」
「あいつ……狩らせてもらえませんか」* クリッターは、思わずコンソールに身を乗り出し、短い罵り声を上げた。
数万規模の黒い集合ドットが、中心から外側へ向けて急速に消滅していく。
つまり、ヴァサゴの秘策によってアンダーワールドに投入された中国及び韓国のVRMMOプレイヤーたちが、何らかの手段によって殲滅され、自動ログアウトしているのだ。
黒い円環の中央部には、いまだに青で表示される人界軍と、乳白色の日本人部隊が一千人規模で残存している。無視するには大きすぎる数だし、この千人に、三万の中韓連合軍を撃破する力があるというのなら尚更危険だ。
「……ヴァサゴのアホは何やってんだ……」
ちょっちょっと舌打ちしながら、クリッターはメインモニタをさらに凝視した。
日本人部隊の至近には、強く輝く赤ドットが一ついまも残存している。2番STLから、自前のアカウントをコンバートしてダイブ中のヴァサゴだ。
捕虜か何かになって身動き取れないのか? それとも、単身で千の敵軍をどうにかする手段がまだあるのか?
いますぐ隣のSTL室に駆け込み、ヴァサゴを叩き起こして襟首をがくがく揺さぶりたいという衝動をクリッターは堪えた。
サーバーに対するGM権限操作がロックされている現状では、アカウントの初期化もできない。つまり、ヴァサゴを強制ログアウトさせた場合、今のアカウントは二度と使えないのだ。どうにか可能なのは、ザ・シードプログラムとは切り離された機能である内部時間加速倍率の操作だけだが、それをするにも慎重にタイミングを図る必要はある。
大きく深呼吸してから、クリッターは視線を下に動かした。
アンダーワールドの深南部に、今も高速で移動中の赤ドットがもう一つ。襲撃チーム隊長、ガブリエル・ミラー中尉だ。
今考えるべきは、アリスを確保、あるいは追跡中のミラー中尉に、人界軍が追いつき邪魔をする可能性が依然としてあるかどうか、である。
アメリカ、中国、韓国から総数十万になんなんとするプレイヤーを送り込んだ結果、敵性勢力の南進は大きく阻害された。今やミラー中尉は、内部距離にして数百マイルも先行している。むろん、ジェット戦闘機ならばひと息に飛べてしまうが、アンダーワールドにそんなものが有るとは考えにくい。せいぜい、有翼の生物ユニット程度だろう。
――追いつきはするまい。
クリッターは、三秒ほどの長考のすえにそう判断した。
イージス艦突入のタイムリミットまで、もう現実時間にして十時間を切っている。ミラー中尉の指示は、残り八時間に達したところで加速再開だったが、外部から投入したプレイヤー集団がほぼ全滅した今、等速倍率を維持している意味は無い。
ならば、ふたたび内部を一千倍に加速し、ミラー中尉のアリス捕獲任務に充分な時間的猶予を作り出しておくべきだろう。
「しゃあねえ……ヴァサゴ、もうちっと根性見せとけー」
いまだ微動だにしない北部戦場の赤ドットにそう呟きかけ、クリッターはSTRA倍率操作レバーへと指を伸ばした。
レバーと連動する仕組みの、メインモニタ上のスライダーウインドウを見上げたところで、ふと横の目盛りに視線が停まる。
いまは、スライダーの針は一番下、×1のところに存在する。そこから、100刻みでスケールが切られ、×1000のところでいちど横に区切り線が引いてある。
実際には、目盛りはさらにその上にも続き、×1200でもう一度区切られる。どうやらそこが、STLを用いて生身の人間がダイブしている場合のセーフティラインらしい。
ところが、スライダーウインドウはまだまだ伸び、最終的には×5000にまで達しているのだ。住民がライトキューブ中の人工フラクトライトだけならば、内部時間はそこまで加速できるということだろう。
時間加速倍率は、レバーを操作し、その隣の開閉式カバーつきボタンを押し込むことで決定される。クリッターはボタンに触らぬよう注意しながら、そっとレバーを上に押し上げてみた。
モニタ上のスライダが滑らかに上昇し、隣でデジタル数字が目まぐるしく切り替わる。
×1000のところで、がくんという抵抗感。
強く押し込むとレバーはさらに動き、×1200で再び止まった。そこからはもう、どれだけ力を入れようともぴくりとも動く気配はなかった。
「ふうむ…………」
クリッターは好奇心を刺激され、飛行機のスロットルに似たかたちの大型レバーをじっと観察した。
するとすぐに、決定ボタンの反対側に、銀色に輝くキーホールがあることに気付いた。
「なるほどね」
坊主頭を一本指でこりこり掻きながら薄く笑う。
安全リミットが千二百倍、ということは、実際の危険域はもう少し上のはずだ。仮に内部時間がぎりぎりまで逼迫したような場合に備えて、安全装置の解除を試みておくのも悪くはあるまい。
くるりと振り向いたクリッターは、銃撃で孔だらけになった人型ロボットを取り囲みワイワイ言っている部隊員たちに、ぱちんと指を鳴らした。
「おおい誰か、ピッキングのスペシャリストはいないかー?」
なんて柔らかくて……いい匂いなんだ……。
それは間違いなく、ここ数ヶ月で最上の眠りだった。ゆえに比嘉タケルは、彼を揺り動かし目覚めさせようとする外部刺激に、限界まで抵抗した。
「……っと、比嘉君! ちょっとってば! 眼を開けてよ、ねえ!!」
しかし、それにしてもやけに必死だなあ。
まるで僕が死にかけてでもいるみたいじゃないか。
いくらなんでも大袈裟すぎるだろう。まさか刺されただの、撃たれただのって訳でもあるまい……し…………
「――――うお!?」
覚醒とともに一気に記憶が甦り、比嘉は喚きながら目を開けた。
すぐ眼前にあったのは、黒縁眼鏡を強烈に光らせた三十男の顔だった。
「うおわ!!!」
もう一度叫ぶ。
飛び退ろうとしたが、体が命令を拒否した。代わりに、右肩に凄まじい痛みが走り、比嘉は三度目の奇声を上げた。
――そうだ。
僕は、ケーブルダクトであの男に撃たれて……。
血がすんごい出たけど無かったことにして、STLの操作を優先したんだ。三人の女の子のフラクトライト出力を、桐ヶ谷君のSTLに直結したけど覚醒には至らず……その後、何かがあって……。
「……き、キリト君は」
打って変わって弱々しく掠れた声で、比嘉は聞いた。
答えたのは、清涼感のある女性の声だった。
「フラクトライト活性は……完全に回復したわ。それどころか、活動的すぎるくらい」
「そ……そうっ、スか……」
比嘉はふううっとため息まじりに呟いた。
あの状態から回復するとは、まさに奇跡だ。そして、自分があの出血で生きているのもまったく奇跡的――。
そこで、ようやく己の置かれた状況を確認する。
寝かされているのは、サブコントロールルームの床の上だった。右肩には包帯。左腕には輸血パック。
そして、体の左側に、覚醒時に見た眼鏡の男。菊岡二佐。右側に、白衣を脱いだ神代博士がそれぞれ座っている。
菊岡が、こちらもはあーっと息を吐きながら、首を左右に振った。
「まったく……あれほど無茶をするなと……いや、スパイが技術スタッフに居たことを看破できなかった私の失点だが…………」
いつも丁寧に梳かされていた前髪は乱れ、眼鏡のレンズには汗の雫が伝っている。見れば、神代博士のほうも汗だくだ。どうやら、二人で比嘉の救命措置にあたっていたらしい。ならば、夢うつつに感じた好ましい感触は、その時の……。
――ん?
どっちが心臓マッサージで、どっちが人口呼吸だったんだ?
比嘉は思わずそれを尋ねそうになったが、あやういところで口をつぐんだ。世の中には、追求すべきでない真実というものもある。
比嘉は、力の入らない身体をぐったり横たえたまま、眼を閉じて別の質問を口にした。
「アンダーワールドは……アリスは、どうなってますか」
菊岡が、比嘉の左腕を軽く叩き、答えた。
「アメリカ、中国、韓国からの接続者はすべて撃退された。ことに、中韓プレイヤーはどうやらキリト君が一人で片付けたらしい。流石というか矢張りというか、凄まじい力だね……それも、比嘉君の頑張りがあったればこそだが」
「えっ……中国と韓国からも来たんスか!? 援軍でなく……敵として!?」
思わず身体を起こそうとしてしまい、右肩から指先まで走った激痛に喘ぐ。
「ちょっと、無理しちゃだめよ! 弾は貫通したけど、神経をぎりぎりのとこで避けてたんだから……。中国、韓国に関しては、ネチズン間の緊張をうまく煽って接続させたみたいね。戦場トランス効果も、もちろんあったでしょうけど……」
「そう……ですか……」
比嘉は小さく慨嘆した。もともと、このアリシゼーション計画に身を投じたのは、イラン戦争で散った韓国人の親友のためという動機も何割かを占めている。なのに、計画がなりゆきとは言え日韓の若いネットワーカー達の対立を加熱させてしまったならば、不本意以外の何者でもない。
そこだけはどうにか動かせる首を小さく振り、比嘉は思考を切り替えた。
「中韓からは……どれくらい来たんッスか?」
「四万を超えていたようだ。日本本土から応援に来てくれたプレイヤーたち二千人は、ほぼ全滅した……」
菊岡が、錆び色を深めた声で呟いた。
「その時点で、中韓プレイヤーはまだ三万以上が残っていたが、幸いそこでキリト君が」
「えっ、なんですって」
比嘉は思わず指揮官の言葉を遮った。
「三万の大軍勢を、キリト君が一人で!? ……有り得ない。アンダーワールドに、そんな大規模かつ高威力な攻撃が可能な武器も、コマンドも存在しないッスよ。しない……はず、ッス……」
そこまでを口にしたとき、比嘉はようやく、あのスパイ――柳井に撃たれた前後のことを鮮明に思い出した。
柳井は、"最高司祭アドミニストレータ"なるアンダーワールド人に深く取り込まれていたようだった。いったいいかなる経緯で、そのような事態に至ってしまったのか。
それに、桐ヶ谷和人のSTLに接続していた、メインビジュアライザー内のイレギュラー・フラクトライト。ただのオブジェクトが、擬似的にせよ人の意識として機能するなどと、まったく想定もしていなかったことだ。
「……ねえ……菊さん…………」
比嘉は、大量失血によるもの以外の寒気を背中に感じながら、指揮官に呟きかけた。
「もしかしたら……僕らは……何か、とんでもないものを……」
その時だった。
コンソールのほうから、鋭いアラーム音が部屋中に響いた。
それは、比嘉が設定した、時間加速倍率の変動警報に他ならなかった。
アンダーワールドで最も高速に移動しうる属性である光素因に、肉体と装備のすべてを組成転換し、俺とアスナは飛んだ。
とは言え、そのスピードは現実世界で言うところの光速には程遠い。はるか南を行くアリスに追いつくには、最低でも三分はかかりそうだ。
この時間を利用して、アスナに言いたいこと、謝りたいこと、感謝したいことは山ほどあった。しかし俺は、手をつないで右側を飛翔するアスナの光り輝く姿を、どうしても直視できなかった。
理由は――。
覚醒直後の、全身の血液が炎に変わってしまったかのような全能感覚が薄れるにつれて、直近の記憶がみるみるうちに整理整頓鮮明映像化していったからだ。
問題は、昨日の深夜の光景である。
馬車の荷台に寝かされた俺の周りに、アスナとアリスとロニエが輪になって座り、全員が順番に俺の思い出あるいは悪行の数々を披露し続けるというあの一幕を、生き地獄と言わずして何と言おう。
――キリト先輩ったら、傍付きをしてたすっごい美人の上級生さんが卒業するとき、西部帝国にしか咲かない花のブーケ贈って大泣きさせたんですよー。
――そういえば、整合騎士団の女副長もやたらと気に入ってたみたいだわ。"坊や"とか呼んでたわよあの人。
「うっ…………」
思わず両手で頭を抱えてしまう。
「うぎゃ――――――」
これが呻かずにおれようか。
しかしその瞬間、意識集中が途切れ、体の属性がたちまち元に戻った。物凄い風圧が全身を叩き、ひとたまりもなくく錐揉み落下状態に陥る。
やべ、と呟きながら、とりあえずロングコートの裾を飛竜の翼に形状変化させ、姿勢を制御する。と――。
「きゃあああああ!!」
はるか上空から、スカートの裾を押さえながらアスナがまっすぐ落ちてきた。
もう一度、やばっと口走りつつ慌てて両手をいっぱいに伸ばす。
危ういところでキャッチした瞬間、アスナの真ん丸く見開かれたはしばみ色の瞳と、ばっちり眼が合った。ここだ。謝るならここしかない。
「アスナ……ちがうんだ!!」
ってこれじゃあ謝罪でなく言い訳じゃないか。しかしもう後戻りはできない。
「ソルティリーナ先輩やファナティオ副長とは、まったく何にもなかった! ステイシア神に誓って、なん~~~にもなかった!!」
俺の必死の弁解を聞いたアスナの顔が――。
ほにゃ、と緩んだ。小さな両手で俺の頬を挟み、どこか呆れたように言う。
「……変わってないねえ、キリトくん。こっちで二年もがんばってたっていうから、少しは大人になったのかな……って……思ったけど…………」
突然、アスナの両眼から、透明な雫が溢れた。唇がわななくように震え、掠れた声が押し出された。
「よかったぁ……キリトくんだ……何にも、変わってない……わたしの……」
「そんな……俺は、俺だよ。変わるわけない」
「だって……なんだか、神様みたいだったんだもん。あんなすごい大軍を、一瞬で片付けちゃうし……二百人を一発ヒールするし……おまけに、空飛ぶし……」
これには思わず苦笑してしまう。
「この世界の仕組みに、他の人よりちょっと詳しいだけさ。飛行くらい、慣れればアスナもすぐできるようになる」
「できなくていい」
「え?」
「こうして、抱っこして飛んでもらうからいい」
アスナは泣き笑いの顔でそう言うと、両手を俺の顔から背中へと移し、ぎゅっと抱きついてきた。摺り寄せられる頬に、俺も強く抱擁を返し、改めて口にする。
「ほんとに……ありがとな、アスナ。あんなに傷だらけになってまで、人界の人たちを守ってくれて……痛かったろうに……」
この世界における苦痛の鮮明さを、俺は二年前、果ての山脈で隊長ゴブリンに斬られたときに知った。あの時は、たかが肩を掠められただけだったのに、痛みのあまりしばらく立ち上がれなかったほどだ。
なのにアスナは、外部接続者の大軍を向こうにまわし、全身に惨い傷を受けながらも戦い抜いた。アスナのがんばりがなければ、ティーゼやロニエたちの人界部隊は、ずっと早く全滅していただろう。
「ううん……わたしだけじゃないよ」
俺の言葉を聞いたアスナは、触れ合う頬をそっと横に動かした。
「シノのんや、リーファちゃんや、リズや、シリカちゃん、クライン、エギルさん……それに、スリーピングナイツやALOのみんなも、ものすごく頑張ってくれた。それに、整合騎士のレンリさんや、人界軍の衛士さんたちや、ロニエさん、ティーゼさんも……」
そこまで言いかけて、アスナははっとしたように身体を強張らせた。
その理由を、俺は続く言葉を聞くまえに察していた。
「あっ……そうだ、キリトくん! 騎士長さんが……ベルクーリさんが、敵の皇帝を追いかけて、ひとりで……」
「…………」
俺は――ゆっくりと、首を左右に振った。
ついに直接言葉を交わす機会のなかった最古騎士ベルクーリの巨大な剣気が、すでにこの地上に存在しないことを知覚したからだ。
彼とは、この戦争が始まる直前、たった一度だけイマジネーションの刃――彼は"心意"と呼んでいた――を打ち合わせた。徐々に蘇っていく俺の記憶のなかでは、ベルクーリはすでにそのとき己の死を予感していた。
彼は三百年の生の終着点に、アリスを守るための戦いを選んだのだ。
俺の動作の意味を悟り、アスナは両腕に一層の力を込めると、小さく啜り泣いた。しかしすぐに嗚咽を押し殺し、尋ねた。
「……アリスさんは……無事なの……?」
「ああ。まだ捕まってはいない。もうすぐ、世界の果てに……三つ目のシステム・コンソールに到着する」
「そう……なら、わたしたちが守らないと。ベルクーリさんのために」
そっと離されたアスナの顔は、涙に濡れてはいたが強い決意に満ちていた。俺も、ゆっくりと頷き返した。と、アスナの瞳が、わずかに揺れた。
「でも、いまは……少しだけ、もう少しだけ、わたしだけのキリトくんでいて」
囁きとともに近づいた唇が、強く俺の唇を塞いだ。
異世界の赤い空の下、ゆっくりと黒い翼を羽ばたかせながら、俺とアスナは長い、長いキスを交わした。
この瞬間――俺はようやく、なぜ二年半前に俺がこの世界に落とされたのかを思い出した。
あの、六月の雨の日。
アスナを自宅に送る道すがら、俺たちは"死銃事件"の最後の主犯にして"ラフィン・コフィン"の幹部、ジョニー・ブラックに襲われたのだ。筋弛緩薬を大量に注射されたところで記憶は完全に途切れる。おそらく俺は呼吸停止に陥り、脳になんらかのダメージを負い、その治療のためにSTLとアンダーワールドが使われたのだろう。
SAO時代の怨霊と言うべき、赤眼のザザとジョニー・ブラックは逮捕され、なんの因果かオーシャンタートルの襲撃者たちに紛れていた頭首PoHも今や小さな樹の姿で拘束されている。時間加速が再開すれば、外部から強制切断されるまでにあのまま感覚遮断状態で何日、何週間過ごすことになるのかは定かでないが、精神には少なからぬダメージはあるはずだ。少なくとも、この半年間の俺と同じくらいの。残酷だとは思うがやりすぎとは思わない。絶対に。
奴は、アスナを狙うと言ったのだから。
存在が溶け合うほどの、めくるめく時間が過ぎ、俺とアスナは唇を離した。
「思い出すね、あのときを……」
アスナが、そう言いかけ、不意に唇をつぐんだ。その理由はすぐに分かった。
あのとき――とは、SAOクリア後の浮遊城崩壊のさなか、赤い夕焼け空の下で交わしたキスのことだ。あれは、そう、別れのキスだった。
俺は微笑み、不吉な予感を振り払うようにしっかりと言った。
「さあ、行こう。敵を倒し、アリスを助けて、みんなで現実世界に……」
その言葉が終わる前に。
頭の中央に直接、切迫した大声が鳴り響いた。
『キリト君!! 桐ヶ谷君!! 聞こえるか!? キリト君!!』
この、錆びた声は――。
「え……あんたか? 菊岡さん?」
『そうだ、聞こえてるな! すまん……大変なことになった!! 時間加速倍率が……やつら、STRAのリミッターを……!!』
額に血管を浮き上がらせ、キーホールに突っ込んだ二本のワイヤをこねくり回すブリッグの髭面を、少々の不安を感じつつクリッターは見守った。
鍵開けならまかせてもらおう、と威勢のいい台詞とともに立候補したものの、さすがにSTRA操作レバーのセーフティだけあって安アパートの旧式シリンダー錠とは訳が違ったらしい。指先の動きはどんどん乱暴になり、吐き出される罵り言葉のボリュームも上昇する一方だ。
ブリッグのすぐ後ろに立つハンスが、左手首のクロノメータを覗き込みながら楽しそうに言った。
「はーい、三分経過よぉ。あと二分で五十ドルだからねぇ~」
「うるせえ、黙ってろ! 二分ありゃ……こいつを開けたあと、ハワイで一泳ぎして、帰って……これるぜ……」
ワイヤが立てるがちゃがちゃ音が、解錠と言うより破壊行為じみてきたところで、クリッターは「やっぱもういい」と口を挟もうとした。が、この二人がギャンブルを始めてしまった以上、決着を見るまでもう誰にも止められない。
「はいあと一分~。そろそろサイフの準備しといたほうがいいわよぉ~」
「ホーリー・シット!!」
巨大な喚き声とともに、突然ブリッグが立ち上がり、ワイヤの切れ端を床に叩きつけた。
やっと諦めてくれたか、とクリッターが内心ほっとした、その時。
顔面を赤黒く染めた兵士は、無言で腰のホルスターから馬鹿でかいハンドガンを抜き出し、銃口をキーホールに向けた。
「おい……ま…………」
轟音。もう一発。
彼以外の全員が呆然と黙り込むなか、ブリッグはデザート・イーグルを腰に戻し、まずハンスを、次いでクリッターを見てから肩をすくめた。
「開いたぜ」
クリッターは口をぽかんと丸くしたまま、視線を動かして、今や直径二インチの黒い孔になってしまった鍵穴を眺めた。
暗闇の奥で二、三度火花が散り、直後、斜めの状態で静止していた操作レバーがゆっくりと傾きはじめた。五インチほど動いたところで、がこ、とかすかな音とともに停まる。モニタのデジタル表示を確認すると、クリッターが意図した1200倍のちょっと上――どころか、設定上限の×5000という数字がこうこうと輝いている。
その時、再びがこんという音が響いた。
レバーが、更に奥へと傾いていく。
「う……うそ…………」
呟いたクリッターの眼前で、デジタル数字も5000を超え――10000を超え……。
いや、まだ大丈夫だ。処理実行ボタンに触れなければ、実際に倍率が変動することはない。そっとレバーを戻し、無かったことにするのはまだ可能だ。
「おい……触るなよ!! 誰も触るなよ!!」
裏返った声でそう喚きたて、クリッターはハンスとブリッグを手振りでコンソールから遠ざけた。
振り返り、そっとレバーに右手を伸ばす。
ボンッ。
というささやかな爆発音は、クリッターの手がレバーに触れる直前に響いた。
ハッカーのすぐ眼前で、赤いボタンが、透明カバーごと吹っ飛んだ。
メインコントロールルーム正面の壁いっぱいに広がる大モニタ全体が真っ赤に染まり、スピーカーから耳障りなアラームが響き渡った。
時間加速機能が再び操作されたことを教える警報が耳に届いた瞬間、比嘉は再び起き上がろうとしてしまい、激痛に顔をゆがめた。
「ひ……比嘉くん! だから、ムリは……」
神代博士が駆け寄り、比嘉の体に手をかけた、その直後――。
サブコントロールルームのメインモニタが、一気に赤く染まった。
「な……なんだ!?」
叫んだのは菊岡だった。コンソールに飛びつく指揮官の肩ごしに、助け起こされた比嘉も懸命に目を凝らした。
巨大なフォントで表示されているのは、STRA機能に三段階に設けられたリミッターがすべて解除され、アンダーワールド全体が限界加速フェーズへ突入することを知らせるカウントダウンだった。
「な…………」
絶句し、喘ぐ比嘉に代わって、神代博士が鋭い質問を発した。
「限界加速、ってどういうこと!? STRA倍率は上限千二百倍じゃなかったの!?」
「そ……それは、ナマの人間がダイブしてるときのリミットで……人工フラクトライトだけなら、五千倍が……上限ッス……」
ほとんど自動的に比嘉が答えると、博士の涼しげな目元が強張った。
「五千!? てことは……こっちの一秒が、内部では約八十分……十八秒で一日経っちゃうじゃないの!!」
その声を聞き、比嘉と菊岡は顔を見合わせ――同時に、軋むような動作でかぶりを振った。
「え……何、なにが違うのよ?」
「千二百倍は、現実世界の人間の魂寿命を考慮した安全上限……五千倍は、外部からのアンダーワールドの観察が可能な上限で……どちらも、ハード面での限界ではないんです……」
比嘉は、からからに乾いて焼け付く喉から懸命に言葉を押し出した。背中を支える神代博士の腕が、びくっと震える。
「な、なら……ハード的な上限って……いったい……」
「ご存知のとおり、アンダーワールドは、光量子によって構築され、演算されているんです。その通信速度は、事実上無限……つまり限界は、下位サーバーに搭載されたアーキテクチャによってはじめて規定されるわけで……」
「いいから早く! 何倍なのよ!?」
比嘉は目を瞑り、言った。
「限界加速フェーズでは……STRA倍率は、五百万倍(・・・・)をわずかに超えます。衛星回線で接続してる六本木の二台は、そんな速度には対応できないッスから自動切断しますが……こっちの二台を使ってる二人にとっては……」
現実世界での一分が――内部における十年。
その暗算を瞬時にこなしたのだろう、神代博士の見開かれた両眼が軽く痙攣したように見えた。
「な……んてこと……。早く……はやく明日奈さんと桐ヶ谷君を、STLから出さないと!!」
立ち上がりかけた博士の腕を、こんどは比嘉が押さえた。
「だめです凜子さん! もう初期加速フェーズに入っている、むりやりマシンから引き剥がしたら、フラクトライトが飛んじまう!!」
「なら、さっさと切断処理を始めてよ!!」
「僕がさっき、なんでわざわざケーブルダクトを這い降りたと思ってるんスか! STLのオペレーションは、メインコントロールからしかできないんだ!!」
比嘉も裏返った声でそう喚いてから、視線をコンソール前の指揮官へと動かした。
菊岡はすでに、比嘉の言おうとしていることを察しているようだった。
「……菊さん。僕、もう一度下に行きます」
その言葉を聞いた途端、指揮官も頷き、答えた。
「わかった。私も行こう。君を背負ってハシゴを降りるくらいの体力はあるつもりだ」
「い……いけません二佐!!」
叫んだのは中西一尉だった。血相を変え、ごつごつとブーツを鳴らしながら数歩進み出る。
「危険です、その任務は小官が……」
「隔壁をもう一度開放するんだ、君らには通路の防衛をして貰わなければならない。時間がない、これは命令だ!」
これまで見せたことがないほど鋭い表情で菊岡が言い放った言葉に、中西はぐっと下顎を強張らせ、視線を落とした。
比嘉は、右手をおそるおそる持ち上げ、痛みはするものの指先がちゃんと動くことを確認しながら、尚も必死に考えた。
モニタに表示されている、限界加速フェーズ突入カウントダウンは残り十分足らず。
しかし、今から耐圧隔壁を再開放し、あの延々続くハシゴを降り、コネクタからSTLを切断操作するにはどう見積もっても三十分はかかる。
その二十分の時間差のあいだに、アンダーワールドで経過する時間は――実に、二百年。
人間の魂寿命である百五十年を、遥か超える年月だ。
それ以前に、そのような無限に等しい年月を、アンダーワールド内部で過ごすことなど……現実世界人には、とても耐えられるものでは……。
アンダーワールド内部……。
「そ……そうか!!」
比嘉は叫び、左手を菊岡に向かって振り回した。
「き、菊さん!! さっきSTLを操作したとき、僕、キリト君との通信チャンネルを確保しといたんス! C12番回線で呼びかけてください!!」
「し、しかし……何を言えば……」
「内部から脱出するんスよ!! あと十分のあいだにシステムコンソールまでたどり着くか、もしくは天命を全損すれば、STLが自動的に切断処理を開始するッス!! ただ、限界フェーズに突入したあとはコンソールは機能しませんし、死ぬのはもっと最悪だ!! 全感覚遮断状態で二百年過ごすことに……それだけは強く警告してください!!」
「に…………」
二百年だって!?
と口走りそうになり、俺はあやうく言葉を飲み込んだ。
すぐ目の前で、アスナがきょとんとした表情で俺を見ている。菊岡の声は、彼女には聞こえていないのだ。
『いいかキリト君、あと十分だ! それまでにコンソールまでたどり着き、自力ログアウトしてくれ!! どうしても不可能なら、自ら天命を全損するという方法もあるが……これは不確実なうえに危険が大きい、理由は……』
擬似死状態で二百年過ごさなければならない可能性があるから。
それを悟った俺は、菊岡の言葉を遮り、尋ねた。
「わかった、なんとかコンソールからの脱出を目指してみる! もちろん、アリスも連れていくからそのつもりで準備しといてくれ!」
『……すまん。だが、この際アリスの確保よりも、君たち二人の脱出を優先してくれ! いいか、たとえログアウト後に記憶を消去できるとしても、二百年という時間は人間の魂寿命をはるかに超えている! 正常に意識回復できる可能性は……ゼロに等しい……』
苦しさの滲む菊岡の声に――。
俺は、静かに応えた。
「心配するな、必ず戻るよ。それと、菊岡さん。半年前……いや、昨夜は酷いこと言って悪かったな」
『いや……我々は、誹られて当然のことをした。こっち側で、君にぶん殴られるときのために絆創膏を用意しておくよ。……比嘉君の用意ができたようだ、私はもう行かねば』
「ああ。じゃあ、十分後にな、菊岡さん」
そして、通信が切れた。
俺は、コートの裾を羽ばたかせてホバリングしながら、腕のなかのアスナをじっと見つめた。
「……キリトくん、菊岡さんから連絡があったの? 何か……大変なこと?」
ゆっくりと首を左右に振り――俺は、答えた。
「いいや……十分後に時間加速が再開するから、なるべく急いでくれっていう話さ」
アスナはぱちぱちと瞬きし、小さく微笑みながら頷いた。
「そうね、いつまでもこんなことしてちゃ、アリスさんに悪いもんね。さ、助けにいこ!」
「ああ。もう一度飛ぶよ」
ぎゅっとアスナを抱きしめ、再び光素へと二人を組成転換する。あらゆる色が金色の輝きへと置き換わる。
遥か南を往くアリスと、それを追う巨大かつ異質な気配を捕捉し――俺は、飛んだ。
追いつかれる。
雨縁の鞍上で後方を振り返ったアリスは、小さく唇を噛んだ。
赤い空を背景に、ぽつんと浮かぶ黒点は、五分前より確実に大きくなっている。敵の速度が増したというよりも、ついに二頭の飛竜が力尽きつつあるのだ。
まったく休息もせずに飛びっぱなしなのだから当然、と言うより、ここまで頑張ってくれたことが奇跡に近い。人界の直径に数倍する距離を、たった半日で天翔けたのだ。二頭ともに、天命そのものを消費しての限界飛行を続けているのは明らかだ。
しかし――となると、あの追跡者は何なのか。
遠視術で確認したところ、飛竜とは異なる奇怪な有翼生物の背に乗っているようだ。だが、あんな生き物は、人界はもちろんダークテリトリーでもついぞ見たことはない。
追いすがる男は、暗黒神ベクタの姿を借りていたリアルワールド人なのだと言う。
そして、一度は騎士長ベルクーリの捨て身の剣に斃れた。しかし再び新たな命を得てこの地に降り立ち、アリスを追ってきた。
ベルクーリの死を貶めるその仕業に対して、断じて許せないという怒りはまだある。
だが、アリスはこの数時間の飛行のあいだに、ようやく成すべきことを見出していた。
敵が、この世界では不死だというのなら――。
リアルワールドで斬るまでのこと。
そのためにも、何としても"世界の果ての祭壇"まで辿り着くのだ、といちどは決意したのだが、どうやらそれは叶わないらしい。
視線を前方に戻すと、まっすぐ前方の赤い空を透かして、凄まじい規模の断崖絶壁がはるか天までそびえているのがうっすらと見える。伝説に聞く、"世界の終わり"だ。飛竜で超えることが可能な"果ての山脈"とは異なり、ダークテリトリーをぐるりと囲むあの断崖は、無限の高みにまで続いているらしい。
その壁面の手前、飛翔する竜たちとほぼ同じ高度に――。
小さな浮島がひとつ、ぽつんと漂っていた。
底のとがった杯のような形をしている。いったい、いかなる力で虚空に浮遊しているのかは推測もできない。
眼を凝らすと、平らな上面の中央に、何らかの人工的構造物が見て取れる。おそらく、あれこそが目指す"果ての祭壇"なのだろう。世界の出口。リアルワールドへの入り口。"真実"の在り処。
惜しむらくは、わずかに遠い。
背後に迫る敵と比べて。
アリスはそっと眼を閉じ、息を吸い、長く吐いた。
右手で軽く愛竜の首を撫で、命じる。
「ありがとう雨縁、それに滝刳。ここまででいいわ、地上に降りてちょうだい」
二頭は、弱々しい声でかすかに鳴き、並んだまま螺旋降下に入った。
眼下の地形は、すこし前から、まるで虚無の具現化のごとき黒い砂漠へと変わっている。神が創造に飽いたかのような、茫漠と続く砂の海に長い軌跡を引きながら、竜たちは倒れこむように着地した。
ふるるるる、と喉の奥から掠れ声を漏らして身体を横たえた雨縁の背から、アリスは即座に飛び降りた。腰のポーチを探り、最後の霊薬の小瓶を取り出す。
竜の、半開きになった口のなかに、青い液体を正確に半分だけ注ぎ入れ、ついで隣の兄竜の口にも一滴残さず流し込む。いかに神聖教会製の霊薬とは言え、飛竜の膨大な天命を癒すにはまるで足りないが、それでももう一度離陸するだけの力は戻ったはずだ。
アリスは、左右の手で竜たちの和毛の生えた顎下をそっと撫でた。
「雨縁。滝刳」
呼びかけた途端、自然と両眼に涙が浮いた。それを懸命に堪え、続ける。
「ここでお別れです。最後の命令よ……人界まで飛び、西域の竜の巣に戻って、雨縁はだんなさん、滝刳はお嫁さんを見つけなさい。子供をいっぱい生んで、立派に育てるのよ。いつかまた、騎士を乗せて飛べるくらい、強い、強い子供たちを」
不意に、雨縁が頭を持ち上げて、アリスの頬を舐めた。
滝刳は腰に鼻面を摺り寄せて、そこに下がる星霜鞭の匂いを嗅いだ。
二頭が頭を離すと同時に、アリスは強く命じた。
「さあ、行って!! 振り返らないで、まっすぐ飛びなさい!!」
くるるるっ!!
竜たちは同時に頭をもたげ、高らかに鳴いた。
命令どおり、後ろを見ることなくまっすぐ西に向けて助走を開始する。
どっどっどっという重い足音に続いて、広げられた翼が砂漠の風をはらみ、ふわりと巨体が宙に浮いた。
兄妹竜は、翼端が触れ合うほどの近さで大きく空気を打ち、一気に高度を取った。
と、そこで――。
雨縁が、その長い首をくるっと振り向かせた。
愛竜の、銀色の瞳がまっすぐにアリスを見た。その縁に、大きな雫が溜まり、きらっと輝いて空に散った。
「雨……縁……?」
アリスの呟きが終わらぬうちに。
頭を前に戻した飛竜とその兄は、左の翼だけを激しく打ち鳴らし、体の向きを九十度転換した。
猛々しい雄叫びを響かせ、全速で空に駆け上がっていく。まっすぐ一直線に――もうはっきり視認できるほどにも近づきつつある、追跡者目指して。
「だめ……だめよ! 雨縁、だめ――――ッ!!」
アリスは絶叫し、走った。
しかし、砂漠の黒い砂が重くブーツに絡みつく。
手をついて倒れこんだアリスの視線のさきで、雨縁と滝刳は、二重の螺旋を描きながら不死の敵が待ち受ける高空へと突進していった。
銀色の鱗が、赤い陽光を受けて炎のように輝く。
鋭い牙の並ぶあぎとが、一杯に開かれる。
二頭の竜たちは、追跡者が射程距離に入るやいなや、渾身の熱線を吐き出した。空を貫く純白の光は、まるで飛竜の命そのものの燃焼であるようにアリスには見えた。
怪生物の背に乗る敵は、迫り来る超高熱を見ても、その軌道を一切変えようとしなかった。
ただ、無造作に左手を伸ばし、五指を広げる。
防げるわけがない。飛竜の熱線は、整合騎士の記憶解放攻撃と、高位術者の集団多重術式を除けばこの世界で最も高い優先度を持つのだ。それが二条。あんな短時間では、とても対抗し得る防御術など組む余裕はない。
アリスはそう推測し、あるいは願った。
しかし。
甲高い共鳴音を響かせながら殺到した二本の熱線が、敵の身体を飲み込み焼き尽くすと見えた、その寸前。アリスの理解を超えた、奇怪な現象が発生した。
追跡者の左手を中心に、漆黒の闇が渦巻きながら広がったのだ。
周囲の光景が、まるで闇に向かって落ち込むかのようにくにゃりと歪んだ。凄まじい威力を内包するはずの、飛竜の熱線ですらもその例外ではなかった。直進軌道がたわみ、色が青紫へとくすむ。そのまま、男の左手へと吸い寄せられていき――。
幾つかの光芒を散らしただけで、音も閃光も爆発もなく、二条の光線は闇へと飲まれた。
どんな術も剣技も届かない遥か高空を飛ぶ、黒い点でしかない敵の口元に、薄い笑みが浮かぶのをアリスは確かに見た。
直後。
ジャッ!! という耳障りな響きとともに、男の左手にわだかまる闇から、幾本もの漆黒の稲妻が迸った。
まるで、竜たちの熱線を飲み込み、咀嚼し、己の力へと消化してから吐き出したかのようなその攻撃が、飛翔する雨縁と滝刳の体を容赦なく貫いた。二頭の体ががくんと揺れ、鮮血と白煙が空に色濃くたなびいた。
「あ……あ…………」
アリスは喘ぎ、空に高く手を差し伸べ、叫んだ。
「雨縁――――ッ!! 逃げて!! もういいから、逃げて――――ッ!!」
悲鳴は、確かに竜たちに届いたはずだった。しかし二頭の飛竜は、まるでアリスの声に決意を新たにしたかの如く両翼を激しく打ち鳴らし、再び突進を開始した。
口が大きく開かれる。牙の隙間から、陽炎のような熱気が立ち上り、ちらちらと白炎が瞬く。
ズバッ!!
二撃めの熱線が、空を灼いた。
今度もまた、男は闇の盾を展開させ、光の矢を受けた。
先刻と同じ反撃がくるのは明らかだったのに、竜たちは果敢にも突撃を続けた。あぎとから光線を放ち続けたまま、翼を猛然と羽ばたかせ、一直線に敵に向かって突っ込んでいく。
二頭の体に穿たれた傷口から飛び散る血が、炎へと変わった。銀の鱗が次々と剥離し、光の粒となって空に舞った。
竜たちの、存在そのものが光に転換されていく。
命を燃やして放たれつづける熱線が、闇の渦を満たし、飽和させていく。荒れ狂う熱気に耐えかねたか、男の左手からも白煙が上がりはじめる。
だが――そのとき。
敵の全身が、青黒い闇のベールに包まれた。左手から放たれる虚無の渦も勢いを増し、直後、その中央から放たれた黒い稲妻が白い熱線を押し戻しはじめた。
衝突する白と黒の力は、両者の中間でほんの一秒ほど拮抗し。
あっけなく逆転した。
力尽きたように翼の勢いを緩める雨縁と滝刳にむかって、無数の黒い稲妻が躍りかかる――。
「いやぁ――――ッ!! 雨縁!! あまより――――――ッ!!」
アリスの絶叫が、涙とともに砂漠の空気に散った、その瞬間だった。
星が降った。
天から、ふたつの煌く光が、恐ろしい速度で落下してくる。
ひとつはそのまま地上を目指し。
そしてもう一つは、竜たちと追跡者の中間地点で、なんの反動もなくぴたりと静止した。白い光がぱっと飛び散り、そのうちに隠していたものの姿を露わにした。
人。
剣士だ。
尖った黒髪と、同じく漆黒のコートが風になびく。背中には、交差して装備された白黒二本の長剣。両腕を胸の前で組み、迫りくる闇の雷閃を、傲然と見つめている。
バン!! バシィッ!!
という衝撃音とともに、稲妻が剣士を打った。いや、正確には、触れることなく弾かれた。腕組みをしたまま空中にすっくと立つその姿の直前で、不可視の障壁に遮られて空しく威力を散らしたのだ。
アリスはただ、息を止め、眼を見開いて空を見上げた。
黒衣の剣士が、ゆっくりと振り向き、地上のアリスを見た。
わずかに少年らしさの残る、鋭利な容貌が小さくほころび、漆黒の双瞳が強く煌いた。アリスは、胸のおくに強い火花が散るのを感じた。それは、感情というよりも、実際の着火力であったかのようにアリスの心を激しく燃え立たせた。
両眼から新たな涙が溢れるのを意識しながら、アリスは呟いた。
「キリ……ト…………」
半年の長い眠りから醒めた青年は、力強い、しかしどこか照れたような笑みを一瞬浮かべて頷くと、身体を反転させて右手をまっすぐ掲げた。
彼の背後では、瀕死の竜たちが最後の力で翼をはばたかせている。その翼端と、長い尾の先端は、すでに光に溶けるように消滅を始めている。
雨縁が、ルーリッド郊外の家で半年間ともに暮らしたキリトを見て、首をかたむけ、小さくくるるっと鳴いた。
キリトも頷きを返し、眼を閉じた。
不意に、虹色の光の膜が二頭の竜を覆った。まるで、巨大なしゃぼん玉に包まれたかのようだ。
しかし竜たちは恐れるでもなく、翼を畳み首を曲げて、小さく身体を丸めた。
ふたつの光球が、アリスの頭上に、ゆっくりと舞い降りてくる。
呼吸も忘れて見上げるアリスの視線のさきで、不思議な現象が生起した。
七色の光をまとう雨縁と滝刳の巨体が、みるみるうちに小さくなっていく。いや、小さくと言うよりも――若く、幼くなっていくのだ。
鋭い鉤爪が丸みを帯びる。銀鱗が、柔らかいにこ毛に置き換わっていく。尾も首も短くなり、翼が薄い皮膜から、長い羽毛の集合へと変化する。
差し伸べたアリスの両腕のなかにふわりと収まったとき、竜たちの体はもう全長五十センもなかった。青みがかった白の毛皮に包まれた滝刳は、眼を閉じすやすやと眠っているようだ。
そして、緑がかった柔毛の球のような雨縁が――かつて、二頭の母竜がその天命を終えたとき、腕のなかで悲しげに啼いていたときとまったく同じ姿に戻った愛竜が、まっすぐアリスを見上げ、真珠粒のような歯のならぶ口を開いて短く声を発した。
「きゅるっ」
「あま……より……」
呟いたアリスの頬を伝い、こぼれた涙が、竜の毛皮に弾かれてきらきらと光った。
直後、二頭の幼竜を包む虹色の光が、一気にその強さを増した。アリスの腕を、現実的な固さで押し返してくる。何度か瞬きしたとき、そこにあるのは二つの大きな卵になっていた。
白銀色の卵は、どんどん小さくなっていき、最終的に掌に並んで載るくらいにまでなってからようやく七色の輝きを消した。
アリスは、二つの小さな卵にそっと頬を寄せながら、この現象の意味をおぼろげに推測した。雨縁と滝刳の天命が、その膨大さゆえにもう術式では回復しきれないほど損耗していると判断したキリトは、天命上限そのものを最小限に縮小する――つまり幼竜から卵にまで還元することで消滅を免れさせたのだ。
如何様に術式を組めばそのような効果を実現できるのか、いまや世界最高の術者でもあるはずのアリスにすら想像もつかなかった。しかし、訝しく思う気持ちはかけらも無かった。
卵たちを優しく両手で包みこみ、アリスはまっすぐ空を見上げた。
「ありがとう……おかえりなさい、キリト」
涙混じりの声でそう囁きかける。
遥か高空までは届くはずもなかったが、黒衣の人影はしっかりと頷き、微笑んだ。
耳に、懐かしいあの声が聞こえた。
――俺のほうこそ……長い間、心配かけたな。
――ありがとう、アリス。
――次は、リアルワールドで会おう。
そして、キリトはゆっくりと体の向きを変え、闇をまとう追跡者と正対した。
両者のあいだの空間が、せめぎあう心意に耐えかね、白く火花を弾けさせた。
「……キリト……」
その敵は、たとえあなたでも、尋常の攻撃では斃せない。
アリスはそう危惧し、唇を噛んだ。
と、不意に傍らから声がした。
「だいじょうぶよ、アリスさん」
振り向くと、立っていたのは真珠色の装備に身を包むリアルワールド人の少女だった。
「アスナ……さん……」
柔らかい茶色の髪を風になびかせながら、アスナは微笑み、アリスの背に触れた。
「キリトくんを信じましょう。わたしたちは、"果ての祭壇"に急がないと」
「え、ええ……」
頷いたものの、今やそれはそう容易いことではない。
アリスは真南に向き直り、遥か地平線から屹立する"世界の終わり"の断崖と、その手前に浮遊する白い浮島を見上げた。
「"果ての祭壇"は、たぶんあの浮島にあると思うけど……もう竜たちには乗れないし、どうやってあんな高いところまで……」
「大丈夫、私に任せて」
アスナは頷くと、腰から華麗な細剣を抜いた。
それをまっすぐ彼方の浮島に向け、長い睫毛を伏せる。
突然、昨夜も聞いたあの天使の重唱が、ラ――――――、と高らかに響き渡った。
七色の光が空から黒い砂漠へと、一直線に降り注ぐ。
ごん!!
重い音とともに、すぐ目の前の砂のなかから、白い石版が浮き上がった。
ご、ごごごん!
その向こうに、少し高さを増してもうひとつ。さらにひとつ。
息を飲むアリスの眼前に、はるか天まで伸び上がる白亜の階段が出現し、浮島までつながるのに二十秒とかからなかった。
地形操作を終え、剣を降ろしたアスナが、がくりと砂に膝をついた。
「あ、アスナさん!!」
「だい……じょうぶよ。急ぎましょう……祭壇が閉じるまで、あと八分くらいしかないわ……」
閉じる――?
言葉の意味が、アリスには咄嗟に理解できなかったが、尋ねるまえに強く右手を掴まれた。
立ち上がり、物凄い速さで階段を駆け上りはじめたアスナに手を引かれ、アリスも走った。走りながら、もう一度だけ振り向き、高みで敵と対峙する黒衣の剣士を見上げた。
――キリト、言いたいこと、聞きたいことが、山ほどあるんですからね!!
――絶対に勝って。勝って、もういちど私の前に戻ってきて。
漆黒の砂漠につらなる大理石の浮き階段と、その上を飛ぶような速度で登っていく二人の少女剣士の姿は、ため息が出そうなほどに美しく、詩的で、かつ象徴的だった。
俺は、その光景を脳裏に焼きつけ、胸のうちで呟いた。
――アリス。アスナ。
――これで……お別れだ。
アスナに、次の時間加速は五百万倍に達することと、もしそれまでに自力脱出できなければこの世界で二百年を過ごさねばならないことを伝えなかったのには理由がある。
それを知れば、アスナも、アリスも、俺とともに戦おうとするに違いないからだ。たとえそれで、タイムリミットである十分のうちに脱出できなくなったとしても。
俺は、アリスを追う敵の気配を知覚した瞬間、その異質さに戦慄した。いや、気配という表現は相応しくない。そこに在るのは無それのみだからだ。あらゆる情報を呑み込み、光ひとつぶすら逃がさないブラックホール。
そのような相手をタイムリミット前に撃破し、尚且つ三人そろって無事に脱出できる可能性はごく低い。となれば、俺のなかの行動優先順位はおのずから定まる。
アスナとアリスを確実にログアウトさせること。
それ以外に優先されるものなど無い。何一つ。
俺は、一枚絵のように美しい光景をしっかりと記憶に刻みこみ、顔の向きを変え、まっすぐに"敵"の姿を見た。
ついに邂逅したそいつ――いや、それは、まったく奇妙としか言えない存在だった。
男だ。それは分かる。
そして、それしか分からない。
顔の造作は、これが自作のアバターなのだとしたら、おそらく"白人男性の平均的容貌"の再現を意図したのだろう。眉にも、眼にも、鼻筋、口元、輪郭にもいっさいの特徴というものがない。ただ、肌が白く、瞳が青く、髪が薄い金色としか表現のしようがないのだ。
体格も、白人種としては至って普通だ。太っても、痩せてもいないその体を、ミリタリージャケットめいた服に包んでいる。ならばこの男は軍人なのか、というとそれも定かでない。なぜなら、ジャケットの上下に施された黒と灰色の迷彩模様が、ある種の粘液のように絶えず動き回っているからだ。それが、男の"不定"という特徴を強く表していると思えてならない。そもそも、左腰に装備されているのは銃ではなく長剣だ。
この男が、オーシャンタートルを襲撃した特殊部隊――おそらく米軍関連――の一員であることは移動中にアスナから聞いた。ならば、人工フラクトライト関連技術の奪取を目論んだ組織なり企業に、金で雇われた傭兵であるはずなのだ。しかし、少し離れた場所から、ガラスのような眼で俺を見ている男が、そんな現実的利益を求めている人間とはとても思えない。いや、そもそも人間である気すらしない。
約一秒の観察と思考を終え、俺は口を開いた。
「……お前は、何者だ」
答えは即座だった。滑らかな、それでいてどこか金属的な響きのある声で、男は言った。
「求め、盗み、奪う者だ」
途端、男の全身を取り巻く青黒い闇が、その蠕動の勢いを増した。俺は頬にかすかな微風を感じた。空気が、いや情報が闇に吸い込まれているのだ。
「何を求める」
「魂を」
問答を交わすにつれ、吸引力も増していく。空間を構成する情報だけではない。俺の意識そのものもまた、虚無的な重力に引かれるのを感じる。
と、はじめて男の口元が表情めいたものを浮かべた。希薄な気体を思わせる笑み。
「オマエこそ何者だ。なぜそこに居る。何を根拠として私の前に立つのだ」
逆に、問い。
俺が――何者か、だって?
アンダーワールドに降臨した勇者? ――まさか。
人界を守護する騎士? ――違う。
脳裏に否定の言葉を浮かべるたびに、何かが俺のなかから吸い出され、奪われていくのを感じる。しかし、なぜか思考を止めることができない。
SAOをクリアした英雄? ――否。
最強のVRMMOプレイヤー? ――否。
"黒の剣士"? "二刀流"? ――否、否。
どれも、俺自身が望み描いた存在ではない。
ならば、俺はいったい何者だ……?
すう、と意識が薄れかかったその瞬間。
あの懐かしい声が、心の奥底で俺の名を呼んだ。
俺は、いつの間にか俯けていた顔をさっと持ち上げ、呼ばれたままに強く名乗った。
「俺はキリト。剣士キリトだ」
ばちっ!!
と白いスパークが弾け、俺にまとわりつこうとしていた闇の触手を断ち切った。思考が即座に鮮明さを取り戻す。
今の現象はいったい何だ!?
この男は――二台のSTLを介して、直接こちらの意識に干渉できるのか。
俺は、イマジネーションの防壁を強く張り巡らせながら男の眼を凝視した。そこにあるのはまさしく虚無だ。他人の心を吸い取る、底なしの暗闇。
この戦いはおそらく、いかに自分を強く規定し、そして相手にも自己を規定させるかで決まる。
「お前の名は」
無意識のうちに俺は誰何していた。
男はわずかに考え、名乗った。
「ガブリエル。私の名はガブリエル・ミラー」
それがキャラクターネームやハンドルネームではなく、男の本名であることを俺は直感的に察した。
なぜなら、途端に男の容貌が変化したからだ。目つきが異様に鋭く、氷のような冷酷さを帯びる。唇が薄く引き締まり、頬が削げる。
同時に、全身から噴き出す闇のオーラが一気にその厚みを増した。
この段階で、俺ははじめて男の右腕が肩から欠損しているのに気付いた。これまで、腕のように蠢いていた不定形の闇が、ずるずると伸びて腰の剣に触れた。
湿った音を立てて抜かれた剣に、確固とした刀身は存在しなかった。
青黒い闇だけが、一メートルほども炎のように立ち上っている。まさしく、非存在の存在だ。
右肩から伸びる影の腕で握った闇の剣を、男は奇怪な震動音とともに切り払った。
俺も、わずかに距離を取りながら、両肩の剣を同時に抜刀した。左手に青薔薇の剣、右手に夜空の剣。
闇色、ということならギガースシダーの枝から削り出した夜空の剣も負けてはいない。しかし、その刀身が黒曜石のように陽光を反射しているのに対して、男の剣はまるで空間がそこだけ切り取られているかのようだ。リソース吸収属性、などというレベルではあるまい。おそらくは……
「――行くぜ、ガブリエル!!」
敢えて敵の名を叫び、俺は翼に変形させたマントの裾を羽ばたかせた。
高く舞い上がりながら剣を体の前で交差させる。
「ジェネレート・オール・エレメント!」
全身の体表面を端末とするイメージで、全属性の素因をそれぞれ数十個ずつ同時に生成すると、俺は急降下と同時にそれらすべてを発射した。
「ディスチャージ!!」
炎の矢が、氷の槍が、その他幾つもの色彩が光線となって宙を疾る。
術式を追いかけるように、左右の剣を振りかぶる。
ガブリエル・ミラーは、一切の回避行動を取ろうとしなかった。
薄笑いを浮かべたまま、ただその場ですっと両手を広げただけだった。
青い闇を纏うその体に、八色の光が突き刺さる。
わずかに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、俺は右手の剣で薙ぎ払い、左手の剣で貫いた。ボッ、と闇が飛び散り、交錯した俺の肌に冷気を残した。
そのまま全力で飛翔を続け、上昇と同時に振り向く。
俺の視線が捉えたのは――。
流出した闇を、ずるすると引き戻し、何事もなかったかのようにこちらに振り向くガブリエルの姿だった。その身体を包む黒いジャケットには、傷一つ残っていない。
やはり。
あの男の属性は、斬撃、刺突、火炎、凍結、旋風、岩弾、鋼矢、晶刃、光線、闇呪に対して吸収(ドレイン)だ。
交錯の瞬間、虚無の刃に撫でられた俺の右肩から、抉られるようにコートと筋肉が消滅し、ぶしゅっと鮮血が飛び散った。* ガブリエル・ミラーは、長い空中階段を駆け上っていく"アリス"ともう一人の少女の姿をちらりと確認し、二人がシステムターミナルに到達するまでの残り時間を五、六分と見積もった。
となれば、唐突に出現した邪魔者との戦闘にかまけている余裕は無い。即刻無力化し、浮島へと急行するのが論理的な判断というものだろうが、新たな敵にほんのわずかな興味を覚えて、彼はその場に滞空し続けた。
一瞥したところでは、ただの子供にしか見えない。
先に戦い、相討ちとなった初老の騎士と比べれば、威圧感など無に等しい。おそらくは、"シノン"と同じくK組織に協力する現実世界人のVRMMOプレイヤーなのだろうが、圧力という点ではあの少女にすら劣る。
なぜなら、眼前の黒衣の若者は、闘気のたぐいをほとんど放散していないからだ。
何者か、と尋ねたその瞬間だけ、僅かに意思を吸い出すことができたものの、その回路もすぐに遮断されてしまった。以降は、まるで透明な殻に包まれているかのようにガブリエルの思考走査を弾き続けている。心を味わえぬ敵などとは、戦っても何も面白くない。