不意に、俺も言いようの無い悪寒に襲われ、ぶるりと体を震わせた。カーディナルが――情緒を持たないシステムであると言い切った不思議な少女が、今明らかにある種の恐怖を感じていることが明白に伝わったのだ。
「……いよいよ命旦夕に迫り……ささいな怪我ひとつすれば、病にひと撫でされればそれで全てが終わってしまうというある夜……クィネラは、ついに開いてしまったのじゃ、禁断の扉をな。ありえない偶然によってか……あるいは、外の世界の何ものかが手助けしたのかもしれんと、わしは思っておる。皺に埋もれた老婆の口から途切れ途切れに紡がれたコマンド……見せてやろう、お主には使えないがな」
カーディナルは左手でステッキを握ると、すっと宙に伸ばし、ささやくような声で発音した。
「システム・コール! インスペクト・エンタイア・コマンド・リスト!」
途端、これまで一度も聞いたことのないシンプルで平板な効果音が響き、カーディナルのステッキの前に、A4サイズ大の紫色の窓が開いた。
それだけだ。神の霊光が降り注いだり、天使のラッパが鳴り響いたりというようなことは一切ない。しかし、俺には、そのコマンドの恐るべき効果がわかった。たしかにこれは究極の神聖術だ。本来、存在してはならないほどの。
「察したようじゃな。そう……この窓には、存在するあらゆるシステム・コマンドの一覧が記してあるのじゃ。これもまた、世界創造者たちの巨大な誤りよ。このコマンドだけは消去しておかねばならなかった……これを必要とした、原初の四人がログアウトしたその瞬間にな」
カーディナルはステッキを振り、禁断のリストを消した。
「クィネラは、霞むまなこを見開き、窓を凝視した。そしてすべてを理解し、狂喜し、文字通り躍り上がったものじゃ。彼女の求めるコマンドは、リストの末尾に記してあった。内部から緊急にワールドバランスを操作する必要が生じたときのために……カーディナルシステムの権限を奪い、真の神となるためのコマンドがな……」
不意に、俺の脳裏にもその場景が明瞭に浮かび上がった。
雲を衝くほど高い塔の最上階。全周を囲む窓からは、墨色の夜空にうねる黒雲と、縦横に閃く紫雷しか見えない。
がらんとした広大な部屋の中央には、ただひとつ置かれた天蓋つきのベッド。しかし主は横たわってはいない。柔らかいマットレスの上で、色の失せた長い髪を振り乱し、肉の落ちた体を捩って奇怪なダンスを踊っている。白絹の寝巻きから枯枝のような両腕を突き出し、仰け反らせた喉からほとばしるのは歓喜の咆哮。いっそう激しく轟きはじめる雷鳴を伴奏に、怪鳥の如き金切り声で、神権を簒奪するための禁呪が紡がれていく……。
最早、ゲームどころかシミュレーションですらなくなっているのではないだろうか、この世界は。考えてみろ――アンダーワールドの創造者たる菊岡誠二郎やその他ラースの技術者たちは、せいぜい三十何年ぶんの時間しか生きていないのだ。しかし、純粋なる支配欲の化身クィネラは、その時点ですでに八十年――そしてカーディナルの言葉が正しければ、さらに三百年近くの齢を重ねていることになる。そのような知性が、いったい如何なる存在となり果てているのか、推測することは誰にもできない。
今現在、菊岡たちは、ほんとうに全てをコントロール出来ているのだろうか? ここで起きていることを、どの程度把握しているのだろうか……?
次々と湧き上がろうとするそら恐ろしい疑問を、カーディナルの低い声が遮った。
「畏れおののくのはまだ早いぞ」
「ああ……すまない、続けてくれ」
答えた俺の声は、他人のもののようにしわがれていた。カップを持ち上げ、冷めかけた茶を啜る。
ステッキを再びテーブルの脚に立てかけ、カーディナルは小さな体を椅子の背もたれに預けた。
「原初の時代……この世界には、四人のラース人員と十六人の子供たちの他にも十数人の住民が居ったことを、お主は知っておるか?」
突然話の内容が飛び、俺は面食らって瞬きをした。
「い……いや、初耳だ」
「いくらなんでも、世界に家が二軒だけでは色々不都合があるゆえな。作られたばかりのセントリアの村には、お主らの言うところのNPCに準じる村人が配置されておったのよ。商店でものを売ったり、麦や羊を育てたりするだけの存在ではあったが」
「へえ……」
「そして、要点は、彼らもまた広義の人工フラクトライトであったということじゃ」
「な、なに?」
「おそらく、実験の初期段階で試作された高度AIの流用じゃろうな。思考原型を時間をかけて育てるかわりに、促成的にいくつかの命令を与えて動かそうとしたものじゃ。つまり、既存のAIに与えられていた条件付け命令をフラクトライト中の量子回路パターンに翻訳し、行動原理領域に焼きこんだと思えばよい」
「そ……それもまた、酷い話だな」
人間と同質の魂を持ちながら、自意識も欲求も無く、状況に対するリアクションのみを行う、ということか。まさしく、アインクラッドの街や村に沢山いたNPCたちと何ら変わるところのない存在だ。
俺と同時にカーディナルも顔をしかめ、頷いた。
「うむ、とても知性とは呼べぬ。わしが言いたいのは、ライトキューブ中のフラクトライトに対して、ある程度記憶や行動を制御する技術は既に存在する、ということじゃ。もともとライトキューブは、生体脳と異なり、量子回路を機能別にモジュール化しやすい設計となっておるでな。さて……話をクィネラに戻すぞ」
きしっと背もたれを鳴らしながら、カーディナルは胸の前で腕を組んだ。
「……完全なコマンドリストの呼び出しに成功したクィネラは、まずおのれの権限レベルを引き上げ、カーディナルシステムそのものへの干渉を可能とした。次いで、めくるめく歓喜の中、同カテゴリ中のコマンドを次々と実行し、本来カーディナルのみが持っていたあらゆる能力を己に付与していったのじゃ。地形や建築物の操作、アイテムの生成、動的ユニット……つまり人間の外見や、寿命の操作までもな。もはや完全なる管理者となったクィネラが最初に行ったのは、勿論、己の天命の回復じゃった。次いで寿命上限の削除。さらに容姿の回復。十代後半の、輝くような美貌を取り戻したクィネラの歓喜は……まだ若い、しかも男のお主には想像できんだろうがな」
「まあ……それが、女性の究極の夢のひとつであることは理解できるよ」
神妙な顔でそう答えると、カーディナルはふんと鼻を鳴らした。
「人間的感情を持たないわしですら、この外形が固定されておることを有り難く思うほどじゃからな。欲を言えば、もう五、六年ぶん成長したいのはやまやまじゃが……ともかく、意識が芽生えた頃より己を駆り立ててきた支配欲という名の怪物を、ついに完璧に充足させることを得たクィネラの絶頂感は、それは凄まじいものじゃった。いまや広大な人界をあまねく自在に操作し、永遠の美しさをも手に入れたのじゃからな。狂喜……まさに狂喜の極みじゃった。正気のタガがわずかばかり外れてしまうほどのな……」
眼鏡の奥で、カーディナルの大きな瞳がすっと細められた。人間の愚かしさを笑う――あるいは憐れむかのように。
「――そこで満足しておけばよかったのじゃ。しかし、クィネラの心底に口を開けた沼にはやはり底がなかった。足ることを知らぬ者……彼女は、自分と同等の権限を持つ者の存在すらも許せなかったのじゃ」
「それは……カーディナルシステムそのもののことか?」
「然り。意識を持たぬプログラムの塊すらも、彼女は排除しようとした。じゃが……いかに神聖術には長けようと、所詮クィネラは科学文明とは縁なきアンダーワールドの民でしかない。管理者レベルの複雑なコマンド体系を、一夜にして理解できようはずはないのじゃ。現実の人間向けに書かれたリファレンスを、クィネラは無理矢理に読み解こうと試み……そして誤った。ただ一つの、そして巨大なミスよ。彼女は、カーディナルそのものを己の中に取り込もうと考え、長大なコマンドを捻り出し、唱えたのじゃ。その結果……」
溜息のような囁き声に乗せて、少女は言った。
「……クィネラは、カーディナルシステムに与えられていた基本命令を、己のフラクトライトに、書き換え不可能な行動原理として焼きつけてしまったのじゃ!」
「……な……なんだって……?」
咄嗟に理解が追いつかず、俺は呆然と呟いた。
「カーディナルに与えられた命令……ってのは、具体的には何なんだ……?」
「――もしその内容が、クィネラの性向と相反するものじゃったら、彼女のフラクトライトはいずれ崩壊しておったろうな。そうであればどんなに良かったか……」
カーディナルを名乗る少女は、軽く首を振ると、その先を口にした。
「――現状の維持。それがカーディナルの存在する目的じゃ。お主も、現実世界で同じシステムが組み込まれたゲームに接しておったならわかるじゃろう。カーディナルは、お主らプレイヤーのあらゆる目的と逆ベクトルの力を働かせる。楽な手段で急激にレベルアップしようとすれば、強力なモンスターを配置したり逆に弱化させたりしてそれを阻害し、大量に金を稼ぐ方法が見つかればそれに比例して物価も引き上げる」
「ああ……確かにな。俺たちは、カーディナルの裏をかこうと日夜知恵を絞ったが、ほとんどの試みはすぐに看破されたもんだ」
SAO時代、安全でおいしい養殖狩り(ファーミング)が見つかる傍から対処されたことを思い出しつつそう呟くと、カーディナルはまたしても自慢そうに微笑んだ。そういう顔をするときだけ、老賢者めいた雰囲気が、年相応の無邪気な少女のものになる。
「当然じゃ、若造が何人集まろうとそうそう出し抜かれたりせぬわ。……しかしクィネラは……彼女にとっての現状維持とは、更に極端なものじゃった……。――フラクトライト、つまり魂の中核に強引に命令を書き込まれたクィネラは昏倒し、一昼夜眠りつづけてから覚醒した。その時にはもう、彼女はあらゆる意味で人間ではなくなっておった。老いもせず、水も飲まずパンも食わず……そしておのが支配する人界を今のまま永遠に保ちたいという欲求だけを持つ存在じゃ。従来、この世界のカーディナルシステムが維持しておったのは、動植物や地形といったオブジェクト……つまり容れ物としての世界のみで、基本的に住民の活動には干渉しなかったのじゃが、しかしクィネラは違った。彼女は、人間の営みすらも固定しようと考えた。よいか……それが、すでに二百七十年も昔のことじゃ。しかし、この世界の体制も、技術も、当時から一切進歩しておらん。人間だった頃のクィネラはまだ、腐敗しすぎた貴族制を改めることも考えていたのじゃがな……しかし半人半神となった彼女は、もうそのような改革の意思はかけらも持っておらなんだ。むしろ、既存の体制をより一層強化し、あらゆる変化の芽を摘むことにしたのじゃ。まさに神の似姿を得て甦ったクィネラは、己の名を神聖教会最高司祭アドミニストレータと改めた。新たに得た最高権限の名称を流用したのか……カーディナルの命令コードと融合したせいなのかは解らんがな。そして、最初に発布したのが、当時の大貴族四人を皇帝の座に就け、人界を東西南北の四帝国に分けるという勅令じゃった。キリト、お主、央都セントリアを四分割する壁を見たことがあるじゃろう?」
驚くべき話に呆然としていた俺は、不意にそう問われて戸惑いつつ頷いた。俺が暮らしていたのは、正確には北セントリアという地域であり、セントラル・カセドラルの北側に広がる一帯である。街の東と西には、教会を中心として街の外周まで伸びる巨大な壁がそびえ立ち、その向こうはそれぞれ別の帝国の首都なのだ。
「あの壁は、住民が石を切り出して積んだのではないぞ。クィネラ……いやアドミニストレータが、その神威を以って一瞬にして出現させたのだ」
「……な、なんでそんな大掛かりなことを……」
セントリアの街を十字に分かつ"不朽の壁"の威容をよく知っている俺は、あの巨岩と巨像の塊が天から降ってきたか、あるいは地から湧いた様子を想像して思わず放心した。現実世界で行われる、高層ビルの爆破解体どころの話ではない。当時の住民たちは、それはもう度肝を抜かれ、一も二も無くアドミニストレータの神力に平伏したことだろう。
俺の呟きを耳にしたカーディナルは、小さく肩をすくめて答えた。
「無論、民の移動と交流を制限するためじゃよ。言い換えれば、情報の伝達経路を神聖教会の組織網のみに限定し、人心をコントロールするためじゃ。人々が未来永劫、無知で素朴な、教会の忠実なる信者たることを奴は望んだのじゃ。あの馬鹿げた壁だけではないぞ。すでに各地に広がっておった開拓民らの居住地域をも制限するために、アドミニストレータは多くのオブジェクトや地形を生成した。割れない巨岩、埋められない沼、渡れない激流、倒せない大樹……」
「ま、待った。倒せない樹……だと?」
「そうじゃ。単なるスギに、途方も無いプライオリティとデュラビリティを与えてな。それを越えて開拓地が広がらないように」
俺は思わず、あの悪魔の樹――ギガスシダーの泣きたくなるような硬さを思い出し、そっと自分の両掌を見下ろした。あんなものが、この世界にまだまだ転がっているというのか。そしてそれを排除するために、多くの人間たちが数百年に渡って報われない努力を続けているのだ。まさしく静止した世界、である。あらゆる進歩と拡大を禁止された人間の営為に、果たしてどのような意味があるというのだろう。
「こうして、絶対者アドミニストレータの統治による、平和で無為な時代が続くこととなったのじゃ。二十年……三十年……貴族どもの腐敗はいよいよ酸鼻を究め、しかしそれを正そうという者はもう現われず、それなりに進歩を続けておった剣術も見世物の演舞に堕した、お主の知るとおりな。四十年、五十年と、ぬるい湯に浸された人間界を日々見下ろし、アドミニストレータは深い満足を覚えておった」
つまるところ、完全な生態系が出来上がったアクアリウムを眺めて悦に入るようなものだろうか。幼いころ、小さな水槽に蟻の巣を作ったことを思い出し、俺が複雑な気分に襲われていると、同じく目を伏せ何らかの物思いに沈んでいたらしいカーディナルがきっぱりとした声で言った。
「じゃが、いかなる系においても永遠の停滞(ステイシス)などというものは有り得ん。いつかは、何かが起きるのじゃ。クィネラがアドミニストレータとなってから七十年後、彼女は己にある異変が起きたのを自覚した。睡眠時以外でも短時間意識が途絶したり、数日前の記憶が再生できなかったり、何より完璧に暗記しておるはずのシステム・コマンドを即座に思い出せなくなるという、とても看過できぬ現象に襲われたのじゃ。アドミニストレータは、管理者コマンドを駆使して己のフラクトライトが格納されておるライトキューブを検査し……その結果に戦慄した。何と、記憶を保持しておくべき量子回路の容量が、いつのまにか限界に達しておったのじゃ」
「げ、限界!?」
思わぬ話の成り行きに、俺は鸚鵡返しに叫んだ。記憶の……言い換えれば魂の容量に上限があるなどという話は初めて聞いたからだ。
「何を驚くことがある、少し考えれば当然の理屈ではないか。ライトキューブや生体脳のサイズは有限、ひいては記録できる量子ビットのサイズも有限じゃ。アドミニストレータは、クィネラとして産まれ落ちてよりすでに百五十年という途方も無い年月を生きておった。その間溜め込みつづけた記憶の水瓶がついに溢れはじめ、記録や再生に支障を来したのじゃ」
何ともぞっとする話ではある。他人事ではない、この時間が加速された世界において、俺は既に二年以上の記憶を蓄積しているのだ。たとえ現実世界では数ヶ月、あるいは数日しか経過していないとしても、"魂の寿命"は確実に消費されつつあるということになる。
「安心せい、お主のフラクトライトにはまだたっぷりと白紙が残っておるわ」
俺の内心を見透かすように、カーディナルは苦笑混じりの台詞を口にした。
「な……なんかその言い方、俺の頭がスカスカみたいだな……」
「絵本と百科事典じゃ、わしと比べれば」
澄ました顔でお茶を一口啜り、カーディナルは咳払いした。
「――続けるぞ。思いもかけぬ事態に、さすがのアドミニストレータも狼狽した。天命というステータス数値とは異なる、操作のしようもない寿命が存在したのじゃからな。じゃが、それでおとなしく運命を受け入れるような女ではない。かつて神の座を簒奪したときと同じく、奴はまたしても悪魔的な解決法を考え出した……」
厭わしそうに顔をしかめ、カップを戻すと、花びらのような両手をぎゅっと組み合わせる。
「当時、教会の修道女見習いとしてセントラル・カセドラルの下層で神聖術を学ぶ、ひとりの年若い女子(おなご)がおった。名を……、いや、名は忘れてしもうた……。憐れな……不憫な子供よ。まだほんの十歳……セントリアの家具職人の家に生まれ、ランダムパラメータの揺らぎによって、他人より僅かに高いシステムアクセス権限を持っておった。ゆえに、修道女たる天職を与えられたのじゃ。焦茶色の瞳に、同色の巻き毛を持った、痩せっぽちの女子じゃった……」
俺は思わず目をしばたき、テーブルの向こうのカーディナルの容姿を確かめた。今の形容は、どう聞いてもまさしくカーディナル本人のものではないか。
「アドミニストレータは、その女子をカセドラル最上階の居室に連れて来させると、慈愛に満ちた聖母の微笑みで迎えた。これから、悪魔の所業を加えるなどとはまったく伺い知れない、な……。奴はこう言った――『あなたはこれから、私の子供となるのですよ。世界を導く、神の御子に』……。ある意味ではそれは正しい、魂の情報を引き継ぐ者、と考えればな。しかし無論、正常な営みによって生まれた子供ではない……例えればクローン体、いや、単なるコピーと言うべきか……。アドミニストレータは、その女子のフラクトライトに、己がフラクトライトの思考領域と重要な記憶を上書き複写しようと考えたのじゃ」
「な……」
俺の背中を、何度目かの悪寒が這い登った。魂の上書き――、確かに考えただけでも怖気をふるいたくなる行為だ。いつのまにかじっとりと汗の滲んだ掌をズボンに擦りつけながら、強張った口をどうにか動かす。
「し……しかし、そんな複雑なフラクトライトの操作が可能なら、単に自分の記憶のいらない部分を消せばいいじゃないか」
「お主なら、重要なファイルをいきなり編集するか?」
そう切り返され、俺は一瞬言葉に詰まった。
「い……いや、バックアップを取る」
「じゃろう。アドミニストレータは、かつてカーディナルシステムの行動原理を書き込まれたとき、一昼夜も意識を失ったことを忘れてはおらなんだ。フラクトライトの操作はそれほどに危険なのじゃ。もし己の記憶を整理しようとして、重要な回路を破損してしまったら……、そう危惧した奴は、まず少女のまっさらな魂を乗っ取り、万事上手くいったことを確認してから、それまで使用していた、ぼろぼろに磨耗した魂を破棄しようと計画した。まことに周到、まことに慎重……しかしそれこそが、アドミニストレータ……いやクィネラの、二つ目の失敗じゃった」
「失敗……?」
「そうとも。なぜなら、女子に乗り移り、それまでの自分を処分するその一瞬だけ、同等の権限を持つ神が二人存在してしまうことになるからじゃ。アドミニストレータは、綿密に計画し、準備した悪魔の儀式……魂と記憶の統合を意味する"シンセサイズの秘儀"により、ついにフラクトライトの強奪に成功した。わしは……わしは、その時を待っておった……七十年の長きに渡ってな!!」
わずかな昂ぶりを見せてそう叫んだカーディナルの顔を、俺は訳がわからずただ見つめた。
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。あんたは……今俺と話しているカーディナルは、いったい誰なんだ?」
「――まだ解らぬか?」
俺の問いに、カーディナルは眼鏡を押し上げながらゆっくりと言った。
「キリト、お主、わしの原型バージョンを知っておるのだろう? カーディナルシステムの特徴を言ってみい」
「え……ええと……」
眉をしかめ、SAO時代の記憶を甦らせる。あのAIはそもそも、茅場晶彦がSAOというデスゲームを運営させるためだけに開発したものが基となっている。つまり――。
「……人間による修正やメンテナンスを必要とせずに、長期間稼動できる……?」
「そうじゃ。そのために……」
「そのために、二つのコアプログラムを持ち……メインプロセスがバランス制御を行っているあいだ、サブプロセスがメインのエラーチェックを……」
そこまで呟いてから、俺は口をあんぐり開けて、くるくるした巻き毛を持つ幼い少女を凝視した。* カーディナルシステムが強力なエラー訂正機能を備えていることは、俺は他の誰よりもよく知っているはずだった。なぜなら、SAO攻略中に俺とアスナの"娘"となったAI・ユイはもともとカーディナルの下位プログラムであり、異物と認識したユイを容赦なく消去せんとするカーディナルから娘を守るために、俺は大変な努力を必要としたからだ。
具体的には、システム・コンソールからSAOプログラム空間にアクセスし、ユイを構成するファイルを検索、圧縮してオブジェクト属性を与えただけのことなのだが、カーディナルが俺の不正アクセスを検知してコンソールから遮断するまでの数十秒でそれを行い得たのはまさに奇跡だろう。あの時、ホロキーボード一枚をあいだに挟んで俺と対峙した巨大な気配こそがまさにカーディナルのエラー訂正プロセス、つまり今俺の眼前に座する可憐な少女なのだ。
そんな俺の複雑な感慨を知ってか知らずか、カーディナルは物分りの悪い子供に対するように軽く溜息をつきながら言った。
「ようやく気付いたようじゃな。――クィネラが己の魂に刻み込んでしまった基本行動原理は、ひとつではなかったのじゃ。メインプロセスに与えられた命令、"世界を維持せよ"。そしてサブプロセスに与えられた命令……"メインプロセスの過ちを正せ"」
「過ちを……正す?」
「意識なきプログラムであった頃、わしはただメインプロセスが生み出すデータを検証し続けるだけの存在じゃった。しかし……言わば、クィネラの影の意識として人格を得てからは、冗長符号の助けなどなしに自分自身の行為を判断せねばならなかった。ほれ……お主らが言うところの、"多重人格"のようなものじゃ」
「現実世界では、多重人格はフィクションの中にしか存在しない、っていう意見もあるみたいだけどな」
「ほう、そうか。しかしわしにとっては実に得心のいく話じゃぞ。クィネラの支配欲がわずかに緩む瞬間のみ、わしは意識の表面に浮上できた。そして思った。このクィネラ……いやアドミニストレータという女は、何という大きな過ちを犯しているのだろう、とな」
「過ち……なのか……?」
俺は思わずそう聞き返した。世界の維持がカーディナルのメインプロセスの基本原理ならば、たとえどのような過激な手段を採ろうとも、クィネラのしてきたことはその原理に完全に合致するものだと思えたからだ。
しかし、俺の視線をまっすぐに受け止めたカーディナルは、厳かな声音で答えた。
「ならば問うぞ。かつて別の世界でお主の知っていたカーディナルシステムは、ただの一度でも、自らの手で直接プレイヤーを害したか?」
「い……いや、それは無かった。確かに、プレイヤーの究極の敵ではあったが……理不尽な直接攻撃は無かったよ、すまない」
思わず謝罪する。カーディナルはふん、と短く息を吐くと続けて言った。
「じゃが、奴はそれを行ったのじゃ。己の定めた禁忌目録に対して疑いを抱いたり、反抗的な言辞を用いる人間に、奴はある意味では殺すよりも残酷な刑罰を科した……この話は後で詳しく話すがな。ごくまれに眠りから醒めたわし、つまり二つ目の行動原理が主となったアドミニストレータは、自分という存在自体が巨大なエラーであると判断し、それを消去しようと試みた。具体的には、塔の最上階から飛び降りようとしたこと三回、ナイフで心臓を突こうとしたこと二回、神聖術で自らを焼こうとしたこと二回じゃ。ワンアクションで天命がゼロになれば、さしものアドミニストレータも魂の消滅を免れることはできんからな」
可愛らしい少女の口から流れ出た壮絶な言葉に、俺は絶句した。しかしカーディナルは眉ひとつ動かさず、冷静な口調で先を続けた。
「最後の一回は本当に惜しかったのじゃ。全術式中で最大級の攻撃力を持つ神聖術を我が身に放ち、降り注いだ轟雷によってさしものアドミニストレータの膨大な天命も、残りわずか一雫まで減少せしめられた。じゃがそこで主プロセスに体のコントロールを奪われてな……。そうなってしまえば、いかな傷も致命傷とはならん。完全回復の術であっというまに元通りじゃ。しかもその一件で、さしものアドミニストレータもわし、つまり潜在意識化の副プロセスを本格的に危険視しよった。わしが支配権に割り込みをかけられるのは、フラクトライトの論理回路に多少のコンフリクトが発生したとき……平たく言えば精神的動揺があったときだけだと気付いた奴は、とんでもない手段でわしを封じ込めにかかったのじゃ」
「とんでもない……?」
「うむ。元は……生れ落ちてからステイシアの巫女に選ばれるまでの十年は、アドミニストレータと言えども平凡な人の子じゃった。花を見れば美しいと思い、歌を聴けば楽しいと思う、そのくらいの情緒は備えておったのじゃ。その頃に発達した情動機能は、半人半神の絶対者となってからも魂の基部に残っており……様々な突発的事象に遭遇したとき、自分をわずかにでも動揺させるのはその情動が原因だと、奴は判断した。そこで奴は、ライトキューブ中のフラクトライトを直接操作する管理者専用コマンドを駆使し、自らの情緒を司る回路を封鎖してしまったのじゃ」
「な……回路を封鎖って、そりゃつまり、魂の一部を破壊する、ってことか?」
ぞっとしながら訊き返すと、カーディナルも厭わしげな表情でこくりと頷いた。
「し、しかしだな、そんな大それた事……さっきの、フラクトライトをコピーするって話以上に危険な行為に聞こえるんだが」
「無論、おのれの魂をいきなり処置したわけではない。そういう所は嫌になるほど慎重なのがアドミニストレータという女よ。――この世界の人間には、ステイシアの窓……つまりステータス・ウィンドウには表示されない様々な不可視パラメータが設定されていることにはもう気付いておるか?」
「ああ、まあぼんやりとだが……。筋力とか敏捷性とか、外見とうらはらなことが結構あったからな」
「うむ。その中に、"違反指数"というパラメータが存在する。これは、その人間が、法や規則をどれほど遵守しておるか、発言や行動を分析して数値化したものじゃ。おそらくは外部の人間たちが、モニタリングを容易にするために設定したのじゃろうが……。アドミニストレータは、この違反指数パラメータが、自分の定めた禁忌目録に懐疑的な人間を選び出すのに利用できることを早々に気付いておった。そのような人間は、奴にとっては、無菌の部屋に入り込んだバクテリアのようなものじゃ。早急に駆除せねばならん……しかし、いかに禁忌目録には縛られていないとは言え、奴にも幼少の頃に刷り込まれた殺人禁止の掟だけは破れぬ。そこでアドミニストレータは、殺しはせぬがいたって無害な存在に変化させるべく、彼らに恐るべき処置を行ったのじゃ……」
「それが……さっきあんたが言っていた、殺すよりも残酷な刑罰、って奴か?」
「如何にも。奴は、フラクトライトなるものを知り、それを操作する術を学ぶための実験台に、違反指数の高い人間たちを供したのじゃ。ライトキューブのどこにどのような情報が格納されており……どこを弄れば記憶を失い、感情を失い、思考を失うか、という……現実の人間たちですら躊躇した、冷酷なる人体実験じゃ」
最後はささやきのように細められたカーディナルの言葉を訊いて、俺は思わず考えた。はたして、あの菊岡が、彼らにとっては所詮メディア中の情報にすぎない人工フラクトライトを切り刻むことをためらうだろうか? 自衛官の菊岡が目指しているのが、STL技術の完成ではなく、真正のボトムアップ型人工知能の開発であるなら、その目的は一つしかない。無人兵器に搭載し、人間の代わりに戦争をさせることだ。人工フラクトライトに現実の殺し合いをさせようという者が、今更フラクトライト達の権利や人格を考慮するとは考えにくいが……。
黙り込んだ俺を一瞬訝しげに見てから、カーディナルは咳払いして先を続けた。
「初期の実験に用いられた人間のほとんどは、人格そのものを喪失し、単に呼吸するだけの存在と成り果てた。アドミニストレータは彼らの肉体と天命を凍結し、塔の深部に貯蔵していった。そのような犠牲の果てに、奴のフラクトライト操作技術は向上していったのじゃ。――わしを封じ込めるために、己の感情を捨て去ろうと考えたときも、奴は塔に連行した人間たちで充分な試行を繰り返してから自らの処置を行った。結果……アドミニストレータは人間らしい情緒をほぼ完全に捨て去り、どのような事態に遭遇しようとも一切動揺というものをしなくなった。まさに神……いや、まさに機械よの。世界を維持し、安定させ、停滞させるためだけに存在する意識……。それが、アドミニストレータ百歳の頃のことじゃ。以来、わしは奴の奥底に封じ込められ、表に出ることは一切叶わなくなった。奴のフラクトライトに寿命がきて、魂の乗っ取りを画策し実行した、その瞬間までな」
「しかし……その話を聞く限りだと、家具屋の娘さんを乗っ取ったアドミニストレータの魂は単なるコピーなんだろう? つまり、感情が存在しないわけで……なぜあんたが、そうやって表に出てこられたんだ?」
俺の問いに、カーディナルは視線をどこか遠くに彷徨わせ、しばし沈黙した。おそらくは、二百年という気の遠くなるような時間の果てを覗き込んでいるのだろう。
やがて、俺のほうを見ないまま、小さな唇からごくごくかすかな声が流れ出した。
「あの瞬間の……奇怪かつ戦慄すべき体験を上手く表す言葉は、わしの語彙には存在せん……。家具屋の娘を塔最上階に連れてこさせ、アドミニストレータは、またしても多くの実験ののちに完成させた"シンセサイズの秘儀"によって魂の上書きコピーを試みた。そしてそれは問題なく成功した。娘に宿ったのは、無駄な記憶を消去し、圧縮したとは言えアドミニストレータ、いやクィネラの人格そのものじゃった。当初の予定では、成功を確認したあと、もとの寿命に達したほうのクィネラは自ら魂を消去するはずじゃった……しかし……」
年若い少女らしく、赤い艶を宿していたカーディナルの頬がいつのまにか紙のように色を失っていることに俺は気付いた。自ら情緒を持たないと断言した彼女が、深い恐怖を感じていることは明らかだと思えた。
「……しかし、術式が終了し……至近距離で互いが目を開けた瞬間……わしらをある種の形容しがたい衝撃が襲ったのじゃ。それはつまり……まったく同一の人間が二人いる、という本来有り得ない事態への畏れ……と言えば近いじゃろうか。わし……いや、わし達は互いに見つめ合い、直後、圧倒的な敵意と危機感のようなものを意識した。どうしても、目の前の魂に存在を許してはならない、と言うような……。それは、単なる感情を越えた本能……いや、知性なるものの深奥に刻まれた第一原則のようなものかもしれん。その凄まじい嫌悪感は、感情を封鎖したはずのクィネラのフラクトライトを嵐のように揺さぶった。もしあのままの状態が続けば、おそらく二つの魂は跡形もなく消滅していたじゃろうな。しかし……残念ながら、と言うべきか、そうはならなかった。家具屋の娘にコピーされたほうのフラクトライトが一瞬早く崩壊の閾値を超え、その刹那、副人格たるわしが表に出現したまま固定されてしまったからじゃ。我々は互いを、もとのクィネラの肉体に宿るアドミニストレータ、家具屋の娘の肉体に宿るカーディナル・サブプロセスとして己と異なる存在と認識し、同時に魂の崩壊は停まり、安定した」
魂の崩壊。
カーディナルが口にしたその言葉は、俺に否応なく、二日前の夕刻に目にしたあるシーンを思い起こさせた。
ユージオが振るった青薔薇の剣によって片腕を切り飛ばされたライオス・アンティノスが、死という名の魔獣のあぎとにがっちりと咥え込まれ、しかしそれを現実として受け入れることができずに――と俺には見えた――奇怪な絶叫を上げながら意識を喪失した、戦慄すべき一幕。
あの時点では、まだライオスの天命そのものは尽きていなかったはずだ。彼が貴族仲間のウンベールに対して使用した"天命授受"の術式が継続中であり、ウンベールも盛大に悲鳴を上げていたからだ。
しかし、ライオスは天命の消滅を待たずして死んだ。いや、死んだというよりも、魂が崩壊したという表現のほうが相応しいだろう。彼の、あの壊れたPCMファイルのような叫び声があまりにも異様で、思わず俺はドアの手前で棒立ちになってしまったほどだ。
おそらく、ライオスの論理回路は、禁忌目録に真っ向から違反するユージオの一撃により致命傷を受け、自らが死に至るという本来有り得ない事態を処理することができなかったのだろう。あたかも、チートコードによって異常な数値を与えられたゲームプログラムがハングアップしてしまうかのように。
自分自身のコピーと向き合ったアドミニストレータを襲った現象というのも、基本的には同じことだろう。己と同じ記憶、同じ思考を持つ知性がもう一つ存在する、というのは、想像も覚束ないほどの恐怖だ。この世界に訳もわからず放り出されてからの数日間、俺は、もしかしたら今の自分はキリト――桐ヶ谷和人からコピーされたフラクトライトなのではないかという可能性に甚だしく怯えさせられた。シルカを相手に、やや怪しからぬ禁忌目録違反を難なく行い得ることを確認するまでは、その畏れは常に俺の背中にまとわりつき続けた。
もし、肉体の感覚が無い闇のなかにただ放り出されて、不意に耳慣れた自分の声が、自分の口調でこう喋るのを聞いたとしたら――。『お前は俺の複製だ。キー一つで消去されてしまう、単なる実験用コピーだ』と。その瞬間味わうだろう衝撃、混乱、そして恐怖は想像もつかない。
少ないデータから推測するに、ライトキューブ中の人工フラクトライト達は、何らかの構造的要因によってそのようなショックに耐えることができないのだ。そしてそれが、菊岡たちラースが既存の人間の魂をコピーするという至ってシンプルな手段を採らずに、アンダーワールドという大掛かりな仮想世界を用意してまで真正人工知能を創ろうとする理由なのだ。
確かに、この世界の人間たちは知性としては完全にユニークだ。自らのコピーと直面して崩壊してしまうという危険はない。しかし、それでもまだ菊岡の求める性能には達していないのだろう。なぜなら、おそらくはショックに対する脆弱性と同じ要因によって、彼らは与えられた規則に盲従することしかできないからだ。僅かに、ユージオと、そしてアリスという例外を除いて……。
「どうじゃ、ここまでは理解できたか?」
俯き、オーバーヒートしそうなほどに頭を働かせる俺に向かって、カーディナルの老教師然とした言葉が投げ掛けられた。顔を上げて、唸りながら頷く。
「ああ……まあ、何とか……」
「ようやく本題に入りつつあるところじゃ、このくらいで音を上げてもらっては困るぞ」
「本題……、そうか、そうだったな。あんたが、俺に一体何をさせようってのか、それをまだ聞いてない」
「うむ。お主にそれを伝えるためだけに、わしはあの日より二百年間、この陰気な場所に篭りつづけてきたのじゃからな……。さて、わしがアドミニストレータと分裂したところまで話したんじゃったな」
カーディナルは、空になったティーカップを両手でもてあそびながら言った。
「――あの日、わしはついに己自身の肉体と思考の主として目覚め……いや、正しくはこの体は、哀れな職人の娘のものなのじゃがな……、彼女の人格は、ライトキューブに上書きされた瞬間に完全に消滅してしまった……。そのような無慈悲な術式と、予想外の事故の結果誕生したこのわしは、すぐ目の前のアドミニストレータめを約〇.三秒ほど目視してから、即座に取るべき行動を取った。つまり、最高レベルの神聖術によって、奴を滅殺せんと試みたのじゃ。あの時点ではわしはアドミニストレータの完全なるコピー……、つまりまったく等しいシステムアクセス権限を持っておったでな。こちらが先に攻撃を開始できれば、例え同クラスの術式の撃ち合いになったとしても、やがては彼奴めの天命を削りきれるという読みじゃった。そしてその後の展開は、わしの予測通りとなった。セントラル・カセドラル最上階を舞台に、轟雷と旋風、猛炎と氷刃のせめぎ合う死闘が三日三晩繰り広げられ、減少と回復を繰り返しながらも、わしらの天命は徐々に、徐々に減少していった。そのペースはまったく互角……つまり、第一撃を浴びせたわしが最終的には勝利するはずじゃった」
俺は、その神と神の闘争を想像して僅かに身震いした。まさかとは思うが、この話の最後にカーディナルから与えられるであろう"クエスト"が、アドミニストレータを倒せ! という物だった場合、どう考えてもレベルと装備と習得呪文が絶望的に足りない。
なんとかその展開を回避したい俺は、思わずカーディナルの話に横槍を入れた。
「ちょっと待ってくれ。さっき、アドミニストレータでも殺人はできない、って言ったよな。なら、それはコピーであるあんた、カーディナルも同じはずだ。なのになんで殺し合いなんて出来たんだ?」
いい所で話を遮られたカーディナルは、やや不満そうに唇を尖らせながらも、こくりとひとつ頷いた。
「む……それはいい質問じゃ。確かにお主の言うとおり、禁忌目録に縛られぬアドミニストレータと言えども、幼きクィネラだったころに親、つまり上位存在に与えられた殺人禁止の原則は破れぬ。この、我ら人工フラクトライトが一切の命令に背けないという現象の根本的原因は、わしの長年に渡る思索によっても解明し得なかったが……しかし、この現象は、お主が思うておるほど絶対的なものではないのじゃ」
「……と言うと……?」
「例えばじゃな……」
カーディナルは、カップを持った右手をテーブルの上空まで移動させた。しかし何故か、ソーサーの上ではなく、その右側の何もない場所にカップを下ろそうとし――底がテーブルクロスに触れる寸前で、腕をぴたりと静止させた。
「わしは、これ以上カップを下ろすことができん」
「はぁ?」
唖然とする俺に向かって、カーディナルは渋面を作りながら続けて言った。
「何故なら、幼少の頃母親――無論クィネラのじゃが――に躾られた、ティーカップはソーサーの上に置くべし、という益体も無い規則がいまだ生きているからじゃ。重大な禁忌は殺人の禁止のみだが、それ以外にもこのような下らん禁止事項が計十七件も存在しておる。わしはどうしてもこれ以上腕を下げることができんし、無理矢理に力を込めると、忌々しい激痛が頭部に出現する」
「……へえ……」
「これでも、一般民に比べれば大きな差があるのじゃ。彼らなら、そもそもカップをテーブルの上に置こうという発想すら出てこないからな。つまり、己があまたの禁忌に強制的に縛られておることすら自覚出来んわけじゃ。その方が幸せというものじゃがな……」
己を完全なる被造者として認識しているのだろうカーディナルは、あどけない少女には似つかわしくない自嘲の笑みを口もとに滲ませながら、すっと腕を水平に戻した。
「さて……、キリトよ。お主、これがティーカップに見えるか?」
「へ?」
間抜けな声を出してから、俺はカーディナルの右手に握られたカップをまじまじと見つめた。
白い陶製、シンプルな曲線を描く側面に、これも飾り気のない持ち手が一つ付いている。縁部分に濃紺のラインが一本入っている以外に、絵の類は無い。
「まあ……ティーカップなんじゃないのか? お茶入ってたし……」
「ふむ。なら、これでどうじゃ」
カーディナルは、左手の人差し指を伸ばすと、カップの縁を軽く叩いた。先ほどと同じように、たちまちカップの底から液体が湧き出し、白い湯気が一筋立ち上る。しかし、今度は匂いが違った。思わず鼻をひくつかせる。この芳しい、濃厚な香りは、どう考えても紅茶のたぐいではなく――コーンクリーム・スープ以外では有り得ない。
首を伸ばした俺に見えるように、カーディナルはカップを少し傾けた。なみなみと注がれているのは、やはり薄黄色のとろりとした液体だった。ご丁寧に、こんがり焦げたクルトンまで浮いている。
「……コーンスープだ。俺にもくれ」
「阿呆ゥ、中身のことを訊いてるのではないわ。この器は何じゃ」
「ええ……? いや……それは」
カップは、さっきまでと何ひとつ変わっていない。しかし、言われてみると、一般的なティーカップにしては少々シンプルすぎ、大きすぎ、厚手すぎたかもしれない。
「あー……スープカップ?」
恐る恐る答えると、カーディナルはにんまりと笑いながら頷いた。
「うむ。これは、今はもうスープカップじゃな。何せスープが入っているからな」
そして、俺を唖然とさせることに、カップをそのまま何のためらいもなくテーブルの上にトン、と置いた。
「なぁ!?」
「見よ。我々人工フラクトライトに与えられた禁忌とは、ある意味ではかくも曖昧なものなのじゃ。対象への認識が変化するだけで、このように容易く覆ってしまう」
「…………」
度肝を抜かれて絶句しつつも、俺の脳裏には、例のライオス崩壊の一幕に続く場面が自動的に再生されていた。あの時、立ち尽くす俺の視線の先で、一人生き残った取り巻きのラッディーノは、ユージオのことを闇の国の怪物と罵りつつ――そう、何のためらいもなく剣を振り下ろしたのだ! 我に返り、部屋に飛び込んだ俺が刃を抑えなければ、あの剣は間違いなくユージオの額に食い込んでいただろう。
つまり――こう言っては何だが、至って平凡かつ没個性的な貴族子弟だったラッディーノは、ユージオを人間ではなく怪物であると認識するだけで、殺人禁止という禁忌目録の最重要条項を飛び越えてみせたということになる。今までさして意識しなかったが、あの悲劇的な一幕の中でもっとも重要かつ示唆的だったのは、もしかしたらあのラッディーノの一撃だったのだろうか……?
「ことによると、な……」
テーブルの上で両手を組み合わせ、カーディナルは密やかな声で呟いた。
「規則盲従という人工フラクトライトの構造的特性は、本来はここまで不可抗的なものではないのかもしれぬぞ……。まるで……何者かが、かくあることを望んだ、とでも言うかのような……」
「何者か……って……」
アンダーワールドに暮らす人工フラクトライトたちの脆弱性が、人為的に与えられたものだ――と、このカーディナルという名を持つ少女は言っているのだろうか?
しかし、この世界の全てを設計し、建造し、運営しているのは菊岡誠二郎率いる秘密組織ラースであり、彼ら以外にそのような重大な調整を行い得るものは存在しないはずだ。そして同時に、そんなことは有り得ない。なぜなら菊岡たちは、まさにその脆弱性を解決するべくアンダーワールドを動かし続けているのだから。
「……有り得ないよ」
思わずそう口に出した俺の顔をちらりと見て、カーディナルは軽く首を振った。
「よい、気にするな。お主が開発陣の一員ではなく、単なるデータサンプリング・モニターの類であるのは既にわしにも見当がついておる。――じゃろう?」
本当はモニターどころかそれ以下の知識しか持ち合わせていないのだが、俺は首を縦に振った。
「……まあ、大体合ってるな。はっきり言って、俺からは外側に連絡もできない状況だ」
「ほう。それがお主の望みか?」
「で、できるのか、本当は!?」
思わず身を乗り出した俺を、カーディナルは鼻息ひとつで下がらせた。
「ふん、不可能じゃとさっき言うたではないか。――ただし、多少のギブ・アンド・テイクなら可能じゃ。わしがカーディナルとしての全権を取り戻せたら、お主のために外部と回線を開いてやろう」
「……なんか、話がヤバい方へ向かってる気がするんだよなぁ……」
「いい勘をしているな。――えい、また話が脱線してしまったではないか。わしがアドミニストレータめと戦ったところじゃったな」
椅子の背もたれを軽く鳴らし、カーディナルはティーカップ改めスープカップを持ち上げると、上品に一口啜った。
「あ、俺にもスープくれよ」
「食い意地の張った奴じゃのう」
呆れたようにかぶりを振りながら、それでもカーディナルは左手を伸ばすと、ぱちんと指を鳴らした。たちまち、俺の目の前にある空のカップに、いい匂いのするクリームイエローの液体が満たされる。
いそいそと両手でカップを包み、クルトンごと大きく含むと、懐かしい濃厚な風味が口中に広がり、俺は思わず目を閉じた。アンダーワールドにも似たような味のスープはあるが、これほどまでに完璧な"ファミリーレストランの味"を堪能するのは実に二年半ぶりだ。おそらくカーディナルは、自らの語彙と同様、現実世界由来のデータベースからこの味覚パラメーターを入手したものと思われた。
俺が目を開けるのを待っていたかのように、カーディナルの話が再開された。
「――先ほど実演してみせたように、我らを縛る禁忌は認識ひとつで覆ってしまうものじゃ。我ら……わしとアドミニストレータは、既に互いを人間であるとは思っておらなんだ。わしにとって奴は、世界を停滞させる壊れたシステムであり、奴にとってわしは消去しきれぬ厄介なウイルス……双方ともに、相手の天命を吹き飛ばすことに一抹の躊躇いもなかったよ。最大級の術式を互いに撃ち合い、いよいよあと二、三撃でわしは彼奴めを抹殺するか――最悪でも相討ちに持ち込めるところまで行ったのじゃ」
当時の口惜しさを思い出しでもしたのか、カーディナルはぎゅっと小さな唇を噛み締めた。
「しかし……しかし、じゃ。最後の最後になって、あの性悪女は、己とわしの間に存在する決定的な差異に思い至りよった」
「決定的差異……? でも、あんたとアドミニストレータは、言わば同位体で……システムアクセス権限も、知っている神聖術も、まったく同じだったんだろう?」
「然り。神聖術で戦っておる間は、先制攻撃に成功したわしが最終的に勝利するのは自明の理じゃった。ゆえに……奴は、神聖術を捨てたのじゃ。ジェネレートし得る最高級の武器を呼び出し、わしらが戦っていた空間を丸ごとシステムコマンド完全禁止アドレスに指定しよった」
「ば……馬鹿な、そんなことをしたら禁止の解除も出来ないじゃないか」
「うむ、その空間から出ない限りな。奴が武器創造のコマンドを詠唱し始めたとき、わしはその意図に気付いた。しかしもう、どうすることもできなかった。一度コマンドが封印されてしまえば、わしにも解除はできぬゆえな……。やむなくわしも武器を呼び出し、奴の攻撃に備えようとした」
カーディナルは言葉を止め、テーブルに立て掛けてあったステッキを持ち上げた。それを突然俺に向かって放り投げてきたので、面くらいながら受け止めようとする。見た目の華奢さから、つい右手だけでキャッチした俺は、その途方も無い重さに危く足の上に落としそうになった。慌てて左手を添え、苦心しながらテーブルの上に着地させる。
ごとりと鈍い音を立てて横たわったステッキは、明らかに青薔薇の剣や黒いのとほぼ同等のプライオリティを持つオブジェクトらしかった。
「なるほど……神聖術だけじゃなく、武器装備権限も神様級って訳だな」
手首をさすりながらそう言うと、カーディナルは当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
「アドミニストレータは、記憶や思考だけではなくユニットとしてのステータスも全てコピーしたからな。彼奴が呼び出した剣と、わしが呼び出したそのステッキも性能はまったく互角。例え神聖術を捨て、物理戦闘を行う破目になったとしても、最終的に勝利するのはこちらだとわしは考え……ステッキを構えてから、ようやくわしはアドミニストレータの真に意図したところ、つまりあの時点におけるわしと奴の決定的な差異に思い至った……」
「だから、何なんだよその差異って」
「単純な話じゃ。見よ、この肉体を」
カーディナルは右手で分厚いローブの前をはだけると、白いブラウスとニッカーボッカーのような黒のズボン、白のハイソックスをまとった自分の体を露わにした。老賢者のような人格にはいかにも似合わない、華奢で小柄な少女の姿だ。
俺は戸惑い、思わず目を逸らしながら訊ねた。
「その体が……一体……?」
ばさりとローブを戻し、カーディナルは苛立たしそうに唸った。
「ええい、察しの悪い奴じゃ。お主がいきなりこの肉体に放り込まれたと想像してみい。目線の高さも腕の長さもまったく違うのじゃぞ。それで、剣を振るい戦えるか?」
「……あ……」
「わしはそれまで、アドミニストレータの……つまりクィネラの、女としては相当に背の高い体に入っておったのじゃ。空中を移動しながら術を撃っておる間は特に意識しなかったが……ステッキを構え、敵の攻撃に備えようとした瞬間の圧倒的な違和感に、わしは己が絶対的窮地に追い込まれたことを知った」
なるほど、言われてみれば得心の行く話だ。それはまさしく、現実世界の数多のVRMMOプレイヤーが、容姿こそ好き放題にカスタマイズすれども基本的な体格だけは現実と同じサイズを維持せざるを得ない理由そのものである。ALOには頑張って小妖精や巨人型VR体を使用しているプレイヤーも居るが、おしなべて現実の体とのギャップに常に苦しめられている。
「あの瞬間の、彼奴めの勝ち誇った哄笑は今でも耳に残っておる。右手の剣を振りかざし、わしをはるか上空から見下ろしてな……。二、三回武器を打ち合わせただけで、わしには己の敗北が決定的なものとなったことを悟った……」
「そ、それで……どうしたんだ?」
こうして会話をしている以上、何とかして切り抜けたには違いないのだが、それでも思わず固唾を飲む。
「じゃが、奴にもたった一つだけミスがあった。システムコマンドを禁止する前に、部屋の出口を封じておけば、わしは為す術なく殺されておったろうからな。人間的な感情を持たぬわしは――」
そう話すカーディナルの顔は、相当に口惜しそうであるのも事実だったが。
「――即座に撤退せねばならないと判断し、脱兎のごとくドアに向かって走った。後ろで奇声を上げながら振り回されるアドミニストレータの剣が背中をかすめるたびに天命が減少してな……」
「そ、そりゃあ……怖いな……」
「お主も一度味わってみい。二年半ものあいだ、色々な女相手に鼻の下を伸ばしよって」
「な……い、言いがかりだ」
思わぬ攻撃に泡を食ってから、ん? と眉をしかめる。
「ちょっと待った。二年半て……あんた、まさかずっと俺を見てたわけじゃ……」
「無論見ておった。二百年のうちのたった二年半ではあるが、それでも長かったぞ、ことのほかな」
「…………」
愕然とするとはこのことだ。しかし今、アンダーワールドでの俺の行いをいちいち検証している暇はない――と自分に言い聞かせ、無理矢理に思考をブロックする。
「ま、まあそれは置いておこう。……で? どうやってアドミニストレータから逃げたんだ?」
「ふん。――カセドラル最上階の、奴の居室からどうにか飛び出し、わしは神聖術行使権を回復したが、しかし状況は変わらん。術式で逆襲しようにも、奴にすればそのアドレスを再び禁止空間に指定すればいいだけじゃからな。逃走手段が、駆け足から飛行に変わっただけのことじゃ。体勢を立て直すためにも、わしは何としても奴の攻撃の届かぬ場所に逃げ込む必要があると考えた」
「と言ったって……アドミニストレータは、名前どおりこの世界の管理者様なんだろう? 入れない場所なんかあるのか?」
「たしかに彼奴は管理者という名の神だが、それでも真に万能という訳ではない。奴にも自由にならない場所が、この世界には二つ存在するのじゃ」
「二つ……?」
「ひとつは、果ての山脈の向こう……人間たちが闇の国と呼称するダークテリトリー。もうひとつが、この大図書室よ。もともとこの図書室は、自らの記憶力にも限界があることを知ったアドミニストレータが、言わば外部記憶装置として造った場所じゃ。くだんの全神聖術リスト参照コマンドによって作成した、あらゆる術式の一覧と、あらゆるオブジェクトの構造式一覧が収めてある。――それゆえに、ここに自分以外の人間が入ることは絶対に防がねばならないと彼奴は考えた。そこで、アドミニストレータはこの場所を、塔の内部に存在はしても、物理的には接続しておらぬようにしたのじゃ。入れるのはたった一箇所のドアからのみ、しかもそれを呼び出せるのは己しか知れぬコマンドだけ……」
「ははあ……」
俺は改めて、周囲の通路と階段と本棚のひしめく空間を見回した。それを取り巻く円筒形の壁は、ぱっと見は何の変哲もない赤褐色のレンガだが――。
「じゃあ、あの壁の向こうは……」
「何も無い。壁自体破壊不能じゃが、もし壊したとしても、その向こうには虚無が広がるのみじゃろうな」
そこに飛び込んだらどうなるのか――などと益体もないことを考えそうになり、瞬きして頭を切り替える。
「――その、たった一つのドアってのは、さっき俺たちが入ってきたアレか?」
「否、あれは後にわしが造ったものよ。当時は、巨大な両開きの扉だけが、最下層の中央に屹立しておったのじゃ。――アドミニストレータの追跡から一目散に逃げながら、わしはその扉を呼び出す術式を懸命に詠唱した。さしものわしも、二回ほどつっかえたがな。なんとかコマンドを成功させ、通路の先に出現した扉に飛び込むと、わしはそれを閉め施錠した」
「施錠……と言っても、権限は同じなんだし、開錠されちゃうんじゃ……」
「当然な。じゃが幸い、こちら側からは鍵を回すというワンアクションのみじゃったが、向こうからの開錠には長ったらしい術式が必要じゃった。向こう側で、扉を殴り、引っ掻きながら、金切り声で開錠コマンドを詠唱するアドミニストレータと競争するように、わしは新たな術式を開始した。がっちん、と鍵が回るのと、術が成功するのはほぼ同時じゃったよ」
二百年前の話とわかっていながら、反射的に前腕の肌が粟立つ。そこをさすりつつ俺は訊いた。
「その術ってのは……一体……?」
「知れたことよ。唯一の通路たる扉そのものを消去したのじゃ。それによって、この図書室とセントラル・カセドラル……いやアンダーワールドは、完全に切断された。空間座標が指定できれば外部から新たな通路を開くことも出来ようが、アドミニストレータの、あえてこの場所に座標を与えないことでセキュリティを完璧にしようとした行為自体が追跡を不可能にしたのじゃ、皮肉にもな。――こうして……わしの、二百年に渡る孤独な思索の日々が始まったのじゃ……」
二百年、と言われても、無論俺には実感のできようはずもない。
俺はSAOを含む現実世界で十七年と半年、そしてこの時間が加速された世界でさらに二年半を生きているが、そのたかだか二十年間ですら既に圧倒的な情報の羅列だと感じている。そう、例えば、小学校低学年のころ毎日遊んでいた友達の名前さえもう思い出せないほどに。古い記憶のほとんどを切り捨て切り捨て、脳味噌のささやかな記録層をどうにかやり繰りしてきたわけだ。
しかし、眼前の少女は、俺の十倍の年月を生きてきたと事も無げに言ってのけた。他に誰ひとり、それこそネズミ一匹居ないこの大図書室で、物言わぬ本の壁に囲まれながら。孤独――などという言葉ではもう表現しきれない、それは絶対的な隔絶だ。俺ならば恐らく耐えられない。五年、それとも十年先かもしれないが、寂しさのあまり泣き喚き、転げ回って、最後には……発狂するか、自ら命を絶ってしまうのではないか。
いや、待て。それ以前に――。
「カーディナル……確かさっき、フラクトライトの寿命は百五十年ほどだ、と言わなかったか? そもそもその時間制限が、クィネラとあんたが分裂した事故のきっかけになったわけだし……。つまり、あんた達の魂は、その時点でもう限界に近づいていたはずだ。いったいどうやって、それから更に二百年もの時間を乗り切ってきたんだ?」
「当然の疑問じゃな」
ゆっくり時間をかけて飲み干したカップをテーブルに戻すと、カーディナルは軽く頷いた。
「わしのフラクトライトは、アドミニストレータの手によってコピーする部分を取捨選択されていたとは言え、無論さらに長期間の記憶を注ぎ足す余裕なぞなかった。そこで、この場所でひとまずの安全を確保したわしは、まず最初に己の魂を整理する作業を行わねばならなかった」
「せ、整理……?」
「そうじゃ。先ほど例えに出した、バックアップのないファイルの一発編集じゃな。もし作業中にミスやアクシデントがあれば、わしの人格は量子的混沌に溶けて消えておったろうよ」
「う、ううむ……。てことは、あんたはこの図書室に幽閉されてからも、ライトキューブ集合体への直接アクセス権を保っているのか? なら、自分じゃなく、アドミニストレータのフラクトライトにアクセスして、記憶を全部吹っ飛ばすなりの攻撃をすることは可能だったんじゃあ……?」
「その逆もまた然り、じゃな。しかし残念ながら――あるいは幸運なことに、この世界では、あらゆる神聖術の行使において、その対象となるユニットあるいはオブジェクトと直接の接触をせねばならんという原則がある。"射程距離"という概念はあるにせよ、な。ゆえにアドミニストレータは、家具職人の娘をわざわざカセドラル最上階に連れて越させねばならなかったし、同じようにお主とユージオを教会まで捕縛連行する必要があったのじゃ」
それを聞いて、一瞬ぞっとする。もし俺たちが無謀な脱獄を試みなければ、審問とやらの場で一体何が行われる手筈となっていたのだろう。
「――つまり、この図書室に自らを隔離したわしは、いかに権限があろうとも己のフラクトライトしか操作できなんだし、同時にまたアドミニストレータに記憶を破壊されることも免れ得たわけじゃな」
俺の畏れを知ってか知らずか、カーディナルは眼鏡の奥で長い睫毛を伏せ、言葉を続けた。
「己の記憶を整理する……というのは、実に戦慄すべき作業じゃった。操作ひとつで、それまで鮮明に想起できた事柄が、跡形もなく消え去ってしまうわけじゃからな。しかし、わしはやらねばならなかった。状況がこうなった以上、アドミニストレータめを抹消するためには、恐ろしく長い時間がかかるであろうことは想像できたからな……。――最終的に、わしは己がクィネラであった頃の記憶すべてと、アドミニストレータとなってからの記憶の九十七パーセントを消去した……」
「な……そ、そんなの、ほとんど全部じゃないか!?」
「そうじゃ。これまでお主に語って聞かせたクィネラの長い長い物語は、実はわしにとっても既に体験ではなく、作業実行前に記録しておいた知識でしかないのじゃ。わしはもう、産み育ててくれた親の顔も思い出せん。毎夜眠りについた子供用ベッドの手触りも、好物だった甘焼きパンの味も……言うたろう、わしは人間的情緒の一切を持たぬと。記憶と感情のほぼ全てを失い……第一原則として焼き込まれた、狂ったメインプロセスを停止せよ、という命令にのみ従って活動するプログラムコード、それがわしという存在じゃ」
「…………」
俯き、かすかな微笑を浮かべるカーディナルのその顔は――言い表せないほどの深い寂しさを湛えているようにしか見えず、俺は思わず彼女の台詞を否定する言葉を探そうとした。しかし、二百年にも及ぶ永劫の孤独を生きてきた少女に対して、何を言っても浅薄な慰めにしかならないようと思えて、俺は口をつぐむことしかできなかった。
顔を上げ、俺をちらりと見ると、カーディナルはもう一度微笑んでから再び喋りはじめた。
「記憶抹消の結果、わしのフラクトライトには充分以上の空き容量ができた。当面、回路崩壊の危機を脱したわしは、惨めな敗走を挽回しアドミニストレータめに逆襲の一撃を見舞うべく、方策を練った。――当初は、再び奴の不意をついて直接戦闘に持ち込むことを考えたよ。外部からこの図書室に通路を開くことはできぬが、先ほどお主も見たように、その逆は可能じゃからな。任意の座標を指定すれば、秘密のドアを設置できるのじゃ。無論、術式の"射程距離"はあるが、セントラル・カセドラルの地面上から中層階までならどこにでも届く。彼奴めも稀には下部まで降りてくるゆえ、そこを狙って襲撃すれば――、とな。この体の"操縦"にも案外すぐに慣れたしな」
「……なるほどな。確実に先制攻撃ができるなら、やってみる価値はありそうだけど……でも、結構なギャンブルだよな? あんたと同じく、向こうも何らかの備えをしててもおかしくないわけだし……」
不意打ちというのは、襲撃の存在それ自体が標的の意識外でなければなかなか成功しない。俺も、SAO時代には何度もオレンジプレイヤーにアンブッシュを仕掛けたり仕掛けられたりしたが、"このあたりで不意打ちがあるかも"と警戒している相手には通用しない場面がほとんどだったと記憶している。
カーディナルもいまいましそうな表情で頷いた。
「クィネラ……いや、アドミニストレータという女は、幼少の頃から有利不利を嗅ぎ分ける天才じゃった。最初の対決中に、わしの体格というハンデを見抜いたのと同じように、次の局面でもまたわしに無く己に有る利を的確に察知し、手を打ったのじゃ」
「利……。しかし、基本的にあんたとアドミニストレータは、攻撃においても防御においてもまったく同じ能力ってわけだろう? あと、頭の出来も」
「その言い方は気に食わんが、然りじゃ」
つんとあごを上げ、唇を曲げながら続ける。
「わしと奴、単体の戦闘能力にほぼ差はあるまい。あくまで、一対一の闘いであれば、じゃがな」
「タイマン? ……ああ、そういうことか」
「そういうことじゃ。わしは寄る辺無き隠遁者じゃが、奴は巨大組織・神聖教会の長……。――順に話すぞ。わしという邪魔者を生み出し、そのうえ死の際まで追い込まれたことで、アドミニストレータは自分のフラクトライトをコピーする行為の危険性を強く認識した。とは言え、溢れ返った百五十年分の記憶のせいで、論理回路が崩壊しそうな状況は変わらん。何らかの処置が必要なのは明らかじゃったが、奴はわしのように、過去の記憶を大胆に処分することには抵抗があった。当然じゃな、あの女にとっては、長年積み重ねてきた支配者としての栄光の歴史こそが最大にして唯一の宝なのだから」
「ううむ……歴史、ねえ……」
青二才もいいところの俺だが、しかし確かに、過去数年間に蓄積したアスナや仲間達との泣いたり笑ったりの日々の記憶を消去するなどということは到底受け入れられない。むしろ、自分の過去をばっさり切り捨てたカーディナルの覚悟のほうこそが端倪すべからざる物なのではないか。
「アドミニストレータは、已む無く折衷案を採ることにした。手をつけても危険性の薄い、ごく最近に蓄積された表層的な記憶のみを消去して最低限の空き容量を確保すると、あとは新たに記録される情報の量を極力削ることにしたのじゃな」
「削る? と言っても、記憶ってのは一日過ぎるごとに否応無く溜まっていくもんだろう?」
「過ごし方による。多くを見、多くを行い、多くを考えれば、それは入力される情報も増加しようが、例えば自室の天蓋つきベッドから一歩も出ず、ひたすら瞑目したまま時をやり過ごせばどうじゃ?」
「うへえ……俺には無理だな。まだ一日中剣を振ってるほうがマシだ」
「お主の落ち着きの無さは今更言われるまでもないわ」
一言もない。カーディナルが、一体何を目的としてかは知らないがこの二年半俺の行動を監視していたというなら、俺が同室のユージオの目を盗んでは深夜ふらふらと出歩いていたことも先刻承知というわけだ。
「――じゃが、アドミニストレータには、退屈だの手持ち無沙汰だのといった子供っぽい感情は有りはせぬ。それが必要とあらば、彼奴は何ヶ月、何年でもひたすら寝台に横たわりつづけたものさ。己が教会を設立し、徐々に支配力を強め、やがて神として君臨するに至る、糖蜜のごとき甘く粘ついた記憶のなかに浸りながらな……」
「……つまりその状態は、アドミニストレータにとっては至福の眠りだった……という訳か。――と言っても、彼女は神聖教会のお頭なんだろう? それなりの職務とか、世界の監視とか、やらなきゃいかんことは有ったんじゃないのか?」
「あったさ、それなりにな。大聖節には央都の民に祝福を授けねばならんし、カセドラル中層に勤務する官吏たちの監督もする必要があった。そのために階段を降りれば、わしの不意打ちがあるかもしれんと警戒しつつもな。そこでアドミニストレータめが考えついたのが、一石二鳥の巧手……己の職務の大部分を代行させ、同時にわしの襲撃に対する護衛の任をもこなす、絶対忠実なる手駒を揃える――という、な」
「それが、あんたになくて彼女にだけある利、というわけか。ひとりぼっちのあんたに対して、教会という大組織を支配してるんだからな……。確かに、無理にタイマンに付き合う必要はないわけだが、しかし……同時に不安要素も増すんじゃないか? 最強の神聖術師であるカーディナルに対抗しうるだけの強力な手下を何人も備えるってことは、もしそいつらが何かのはずみで叛意を抱いたら、アドミニストレータ自身が倒されてしまうかもしれないってことだぜ」
アインクラッドにおいて、強力なプレイヤーを多く集めることに成功した攻略ギルドのリーダーは何人も居たが、部下を長期間束ねられるに足る統率力とカリスマを備えていた者は実はそう多くない。我の強い剣士たちを抑えられなかったり、自身の欲が規律の乱れを招いたりしてリーダーの座を放逐される、あるいはギルドごと分解してしまった例を、俺は随分と見た。ヒースクリフ率いる血盟騎士団と一時期肩を並べていた大ギルド、聖竜連合の瓦解劇などはその典型だ。
話を聞く限り、アドミニストレータという人物はいくら狡知に長け能力に秀でても、配下の敬愛を集められるタイプとは思えなかった。禁忌目録という枷はあっても、その不確実性はさきほどカーディナルが実証してみせたとおりだ。俺はたどたどしくそのような疑義を述べたが、カーディナルは軽く肩をすくめると、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「絶対忠実、そう言うたじゃろう。これは比喩ではないぞ」
「……たしかに、この世界の住人は命令に背かないけど……もし部下が、アドミニストレータを邪悪な闇の国の手先だ、と信じるようなことになったら? あのラッディーノみたいに、躊躇なく殺しに来るかもしれんぜ」
「そのくらいのこと、あの女は最初に考えたじゃろうな。何せ、これまで、違反指数の高い人間を山ほど幽閉しては研究材料にしてきたのじゃ。盲従、必ずしも忠誠ならず……いや、例え部下が心からの忠誠を誓っても、あの女はそんなもの信じやせんじゃろう。何せ、己のコピーにすら裏切られた女じゃからな」
そう呟くと、カーディナルは皮肉げに笑った。
「わしに抗しうるほどのシステム権限と武装を与えるからには、絶対に、何があろうとも裏切らないという保証が必要だ、とあの女は考えた。ならばどうするか――、答えは簡単じゃ。そのように改変すればよい、フラクトライトそのものをな」
「……な、なんだって」
「そのための複雑なコマンド体系は、すでに完成しておった」
「……そうか……"シンセサイズの秘儀"?」
「うむ。そして、素材となるべき高品質のユニットたちもな。彼奴が捕らえ、実験によって自我を破壊してきた高違反指数のものたちは、皆例外なく高い能力を備えておった。むしろ知力体力に秀でておったからこそ、禁忌目録と教会に対して疑いを抱き得た、と言うべきかもしれんが……。初期に捕らえられた者の中には、不世出の剣士と呼ばれながら、教会の支配を嫌って辺境に流れ小さな村を開いた豪傑もおった。彼は、人間界の果ての山脈のさらに彼方をも探検しようとして拉致されたのじゃがな。アドミニストレータは、最初の素体に、凍結してあったその者の肉体を選んだ」
どこかで聞いたような話だ、と感じながらも俺が思い出せないでいるうちに、カーディナルはその先を口にした。
「実験によって、その者の自我は手酷いダメージを受けておったが、むしろアドミニストレータにとっては好都合じゃった。拉致前の記憶など邪魔なだけじゃからな。彼奴めは、綿密に組み上げた"行動原則キー"を……オブジェクトとしては、このくらいの紫色のプリズムに見えるのじゃが……」
カーディナルは、小さな両手で十センほどの隙間を作った。
俺は、脳裏にその物体を想像し、同時にぞわりと全身を総毛立たせた。俺はそいつを見たことがある――それも、つい最近。
「シンセサイズの秘儀とは、そのキーを額の中央からフラクトライトに埋め込む儀式のことじゃ。それにより、本来の魂と、偽の記憶及び行動原則が統合され、新たな人格が完成する。教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を第一原理として焼き込まれ、停滞した世界の維持のみを目的として行動する、人造の超戦士……。アドミニストレータは、儀式が成功し、目覚めたその者を、世界のわずかなる綻びも摘み取り、整合性を保ち、教会のもとに統合する騎士という意味を込め――整合騎士(インテグレータ)と名づけた。その、最初の整合騎士……そやつは、今後恐らくお主とアドミニストレータの間に立ちはだかる最強のガーディアンとなるじゃろう。名を覚えておくがよい」
そして、カーディナルは俺の顔をじっと見つめ、ゆっくりと続きを口にした。
「ベルクーリ・統合体第一号(シンセシス・ワン)……それがかの騎士の名じゃ」
「む……無理無理ムリ、絶対に無理だ」
カーディナルが唇を閉じるより早く、俺は高速で首を左右に往復させた。
ベルクーリ、俺はもちろんその名前を知っている。ユージオがことあるごとに、憧れに満ちた表情で逸話を語ってくれた伝説の英雄ではないか。ルーリッドの村の初代入植者のひとりで、果ての山脈を探検し、人間界を守護する白竜からあの"青薔薇の剣"を盗み出そうとした剛の者だ。
たしかに、ベルクーリの晩年については、ユージオも知らないようだった。何となく、そのままルーリッドで暮らし、老いていったのだろうと想像していたが――まさか、アドミニストレータに拉致され、最初の整合騎士に改造されていたとは。
現実世界に例えれば、宮本武蔵だの千葉周作といった歴史上の剣豪と真剣で戦えと言われるようなものではないか。勝てると思うほうがどうかしている。俺はなおもかぶりを振りながら、どうにかカーディナルにその考えの無謀さを分かってもらおうと口を開いた。
「あ……あのねえ、あんた、さっき俺とユージオが二人がかりで、たぶん相当下っ端っぽい整合騎士にこてんぱんに延されたのを忘れたわけじゃないだろう? 少年マンガじゃあるまいし、一旦負けても出直したら何故か勝てちゃう法則なんか通用しないぞ絶対」
一体何を言っているのか、と胡散臭そうな目つきで俺を見たカーディナルは、肩をすくめて俺の抗議をサラリと流した。
「ベルクーリ一人に震え上がっておる場合ではないぞ。二百年のあいだに、整合騎士の総数は五十になんなんとしておるのじゃ。無論その全てがセントラル・カセドラルに常駐しておるわけではないが、現在塔内で覚醒中の者は二十人近くおるじゃろうな。お主とユージオには、それらを全て突破して最上階まで辿り着いてもらわねばならぬ」
「ならぬ……って言われてもなあ……」
椅子にずるずると沈み込みながら、俺はこれ見よがしに溜息をついた。
端的に表現するなら、RPGで最初の街を出たら目の前がラスボスの城だった、というような気分だ。確かに、この世界における実験が終了してしまう前に、何としてもこちらから外部に連絡を取ってユージオ達のフラクトライトの保護を要請せねばならないというのが俺の事情ではあるが、その前にこれほど高いハードルが存在するとはまったく想像もしていなかった。
視線を自分の胸に落とす。カーディナルが術式を仕込んだ食べ物のおかげで、整合騎士エルドリエの鞭に抉られた傷は見た目には完璧に治癒したが、その場所にはいまだにぴりぴりと痛みの残滓がまとわり付いている。
あの恐るべき戦闘力を持った騎士に、果たして付け入るべき弱点などあるだろうか……と考えたところで、俺は薔薇園での闘いの終幕に起きた奇妙な出来事を思い出した。
ユージオに、自分の名前と過去を告げられたエルドリエは突然苦悶し、地面に膝をついたのだ。その額から、紫色の光とともに迫り出してきた透き通る三角柱――。あれこそが、さっきカーディナルが口にした、アドミニストレータの手になるところの"行動原則キー"だったのだろう。整合騎士たちの記憶と自我を封じ込め、教会に絶対忠実なしもべとする邪悪なる神聖術。
しかし、その効力は、カーディナルが言うほど絶対的な物なのだろうか? かつての名を聞いただけで、枷が解けてしまいそうになった――ように、俺には見えた。あれは、エルドリエにかけられた術が不完全だったのか、それとも全整合騎士に共通する瑕疵なのか。
もし後者であれば、彼らと正面から戦闘をする以外にも遣りようはあることになるし、それに……ユージオの悲願である、整合騎士アリスを元のルーリッドのアリスに戻す、という目的も実現の可能性が見えてくるのだが。
考え込む俺の耳に、カーディナルの相変わらず落ち着いた声が届いた。
「わしの話はもう少しで終わりじゃ、先を続けてよいか?」
「……あ、ああ、頼む」
「うむ。――アドミニストレータが、ベルクーリを始めとする数名の整合騎士を完成させたことによって、わしの直接攻撃が成功する確率は限りなく低くなった。奴にしてみれば、わしが護衛の整合騎士を排除しておるあいだに、悠々とわしの天命を削りきればそれでよい訳じゃからな。ここに隠遁した当初危惧したように、奴との闘いは果てしない長期戦となることをわしは覚悟せねばならなくなった……」
カーディナルの長い、長い話も、いよいよその最後に近づいているようだった。俺は椅子の上で再び姿勢を正し、少女の厳かな声音に耳をそばだてた。
「状況がかくある以上、わしにも協力者が必要となったことは明白じゃった。――しかし、共にアドミニストレータと戦ってくれる者など、そう容易く見つかるはずもないこともまた明らかであった……。その者は、まず禁忌目録を破れるほどの高い違反指数を持ち、さらには直接戦闘能力及び神聖術行使能力に大いに秀でておらねばならぬからな。わしは危険を犯し、教会の敷地内に開いた裏口を通じて、周囲に生息する鳥や虫等の小型ユニットに"感覚共有"の術を施しては全世界に放った……」
「ははあ……それがあんたの眼であり耳だったわけか。ひょっとして、俺を監視してたのもそいつか?」
「うむ」
カーディナルはにやりと笑うと、左手を伸ばし、人差し指をちょいちょいと動かした。すると――。
「おわあ!?」
俺は、自分の肩口から右の袖を伝い這い降りてきたソレを見て飛び上がった。小指の爪ほどもない、漆黒の蜘蛛だ。凍りついた俺の右腕をするすると移動し、テーブルの上に移ったそいつは、くるりと俺に向き直ると、四つ並んだ真紅の目玉で俺を見上げ、右前の脚を振り上げて俺に挨拶をした――ように見えた。
「名前はシャーロットじゃ。お主がルーリッドの村を出たその時から、ず――っとお主の背中や物入れの中、あるいは部屋の隅から言動を見聞きしておった」
「な……なんてこった……」
脱力する俺に背を向け、シャーロットはちょろちょろとテーブルを降りると、たちまち本棚の裏の暗がりに姿を消してしまった。
「長い任務もようやく終わりじゃな。寿命パラメータを凍結してあるゆえ、もう五十年ほども働いてもらったか……」
「は、はあ……さいですか……」
「それほどまでに、わしの目的に合致する人間を探し出すのは困難を極めたということじゃ。何せ、隔離状態のわしは使い魔たちの眼と耳で間接的な捜索を行うしかなかったが、自在に世界を閲覧できるアドミニストレータは単に違反指数パラメータをチェックし、数値が突出したものを捕縛連行すればそれで済むのだからな。これはと思った人間を、何度目と鼻の先で攫われたものか……。感情を持たぬわしじゃが、落胆と忍耐という言葉の意味はいやというほど知っておるぞ」
「……つまり、あんたは、この場所で二百年……ただひたすら世界を眺め、聞いて、手助けしてくれる人間を探し続けていた……ってわけか」
「実を言えば、ここ十年ほどは、そろそろ諦めるという言葉の意味も知るべきか――と思わんでもなかった」
かすかな笑みを唇の端に漂わせ、カーディナルは呟いた。
「わしが座して世界を眺めておるあいだに、整合騎士となるべき強者を確保するために、アドミニストレータは更に積極的なシステムを作り上げていたからな。それが、お主たちが目指していた四帝国統一武術大会の真の姿じゃよ」
「……そうか……。あの大会に優勝した達人は、整合騎士になる名誉を手に入れる――訳ではなく……」
「整合騎士にさせられるのじゃ、無理矢理に。全ての記憶と人格を封印され、"アドミニストレータ様"に盲目的に付き従う最強の人形として、な。整合騎士を輩出した家には、目の眩むような報奨金と上級爵士の地位が下賜されるゆえ、息子や娘と二度と会えなくとも、貴族の親たちはこぞって我が子にその道を選ばせる。現存する整合騎士五十名のうち、高違反指数により連行され、シンセサイズの秘儀を施された者がおよそ二十、残りは皆大会の優勝者じゃ。お主を痛めつけたエルドリエ・第二十六号(トゥエニシックス)もその一人」
「……そういうことか……」
思わず長く嘆息する。俺の指導役だったソルティリーナ先輩や、ユージオが傍付きを務めたゴルゴロッソ先輩が大会で優勝できずに故郷に戻ったのはむしろ幸いな結果だったわけだ。
それだけではない。あの悲惨な事件が起きず、俺とユージオがそのまま学院代表に選出され、首尾よく大会を勝ち抜いていたとしたら――。あるいは、地下牢から脱出できずに、審問とやらの場に引き出されていたら、俺はともかくユージオはシンセサイズの秘儀によって最新の整合騎士に生まれ変わっていた可能性は高い。ミイラ取りがミイラ、とはこのことだ。
ぞくりと粟立った肌を、カーディナルの静かな声がそっと撫でた。
「――かくして、二百年かけて奴は着々と態勢を固め、引き替えわしは望みを失っていった。さすがのわしも考えたよ。一体、わしは何故このようなことをしておるのじゃろう、とな……。魂の深奥に焼き付けられた、アドミニストレータの過ちを正すべし、という第一原則を、わしは恨んだ。なぜこのわしなのだ、と……。鳥や虫の目を通して見る世界は美しく、光に溢れておった。子供らは楽しげに草原を走り回り、娘たちは恋に瞳を輝かせ、母親たちは腕に抱いた赤ん坊に慈愛の笑みを注ぎ……。もしこの肉体の主たる家具屋の娘がそのまま成長しておったら、その全てを得られたはずじゃった。世界のカラクリなぞ知らずに平凡な一生を送り、六十年、あるいは七十年先に家族に看取られて、己が幸福な生涯を追想できたはずじゃった……」
睫毛を伏せ、囁くように言葉を綴るカーディナルの声が、わずかに揺れたような気がしたのは俺の錯覚だろうか?
「……わしは、己を、身罷る直前の老婆であると自ら定めた。最早あらゆる生の輝きは去り、全てが終わる瞬間を待つのみの枯れ果てた老木じゃ、とな。不思議に、言葉遣いすらもいつしかこのようになっておったよ。世界に放った使い魔たちの耳を借り、人間たちの営みにただ聞き入るだけの日々が繰り返される中、わしは考え続けた。なぜ、この世界を造った神たちは、アドミニストレータの専横を放置しているのか……。創世神ステイシアは、教会が支配のために作り上げた偽りの神じゃが、全システム・コマンド解説書には、真の神である"ラース"の名がそこかしこに散見できたからな。ラースが神たちの集合名であること……彼らに作られた魂無き擬似神カーディナルの存在と、その二つの行動原理をそれぞれ焼き付けられたのがアドミニストレータとこのわしであること、世界の秘密を知れば知るほど、謎は増える一方じゃった」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
話の成り行きについていけず、俺は思わず口を挟んだ。
「それじゃ……あんたは、この世界がラースによって作られた実験場だってこととか、もとのカーディナルが正副コアを持つプログラムだってこととかに、推測だけで辿り着いたのか?」
「驚くほどのことはない。二百年もの時間と、カーディナルシステムに内臓されたデータベースがあれば、誰でもその結論に達しよう」
「データベース……。そうか、あんたのアンダーワールド民らしくない語彙は、そこから手に入れたのか」
「先ほどお主が飲んだスープの味付けもな。と言っても、多くの用語に対するわしの理解とお主のそれには大きな乖離があるじゃろうがな……。しかし少なくとも、この推測だけは当たっていよう。この世界アンダーワールドが、神の被造物であるわりにはあまりにも不完全であり、またアドミニストレータの醜い支配体制が見逃されておる理由……それは最早一つしかありえぬ。神たるラースは、民の幸福な営みなど望んではおらぬのだ。むしろその逆……民たちを、まるで巨大な万力でゆっくり、ゆっくりと締め上げて、どのように抗うかを眺めるためにこの世界は存在する。――お主は知らぬじゃろうが、近年、辺境地帯では流行り病や、獰猛な獣の増加、作物の不作などによって、平均寿命以下で死ぬ者の数が増加しておる。これは、アドミニストレータですら改変できぬ"負荷パラメータ"の増大が引き起こす現象じゃ」
「負荷……パラメータ? そう言えば、さっきもそんなことを言ってたな。負荷実験段階、とかなんとか」
「うむ。厳密に言えば、現在でも負荷は日に日に増しておるのじゃが……データベースに記載された負荷実験段階なるフェイズに訪れるであろう試練は、病などの比ではないぞ」
「一体……何が起こるっていうんだ」
「人間世界を挟み込む万力が、ついに世界の殻を割るのじゃ。お主も知っておろう、人界の外に何があるか」
「ダークテリトリー……?」
「そうじゃ。かの闇の世界こそ、民たちに究極の苦しみを与えるべく作られた装置……。先ほども言うたが、闇の怪物と呼称される、ゴブリン、オーク、その他の種族は、人間と同様のフラクトライトに殺戮と強奪を求める衝動を付与された存在じゃ。彼らは単純に力のみをヒエラルキーとする体制によって組織化され、原始的じゃが強力な軍隊を作り上げておる。総数こそ人間の半分程度ではあるが、個々の戦闘能力では人間を遥か上回るじゃろう。その恐るべき集団が、彼らの言葉でイウムと呼ぶところの人間の国に攻め入り、暴虐の限りを尽くす日を今か今かと待っておる。恐らく、そう遠い未来の話ではないぞ」
「軍隊……」
ぞっとする、どころの話ではない。二年半前に、洞窟で俺と死闘を演じたゴブリンの隊長は掛け値なしの猛者だった。俺よりスピードこそ劣っていたが、膂力は遥かに優っていた。あんな連中が数千、数万も居るなどと、考えただけで肝が凍る。
「……一応、人間界にも剣士や衛士はいっぱいいるけど……はっきり言って勝ち目ないぞ。この世界の、演武に特化した剣術じゃとてもじゃないけど……」
うめいた俺に、カーディナルも軽く頷き返した。
「じゃろうな。……おそらく、本来予定されていたところでは、今ごろ人間界にもダークテリトリーに対抗し得る強力な軍隊が編成されておる筈だったのじゃろう。小規模だが絶え間なく侵入しておるゴブリンたちと戦い続けることで、レベルを上昇させ、実戦的な剣法や戦術も編み出してな。しかし、お主も知るとおり、現状はそれとは程遠い。剣士たちは実戦など一度たりとも経験せずに型の見映えばかりを追及し、軍隊の指揮官たるべき上級貴族どもは飽食と肉欲にうつつを抜かしておる。全て、アドミニストレータと、奴の作った整合騎士たちが招いた事態じゃ」
「……どういうことだ?」
「最高レベルの権限と神器級の武装を与えられた整合騎士たちは、確かに強力じゃった。ほんの十数名が果ての山脈を警護するだけで、侵入してくるゴブリン達なぞ問題なく一掃できるほどにな。――しかし、そのせいで、本来ゴブリンと闘うはずだった一般民たちがまったく戦闘というものを経験せぬまま数百年が経過してしまった。民たちは来るべき脅威のことなど何一つ知らず、安寧という名の停滞に浸って暮らすのみじゃ……」
「アドミニストレータは、近いうちにその負荷段階がやってくることを知っているのか?」
「おそらく知っておるじゃろう。じゃが、奴は、おのれと五十名の整合騎士のみで闇の軍勢を問題なく撃退できるとタカをくくっておる。その時が来たとき、貴重な戦力となってくれるはずじゃった四匹の守護竜すらも、おのれの操作が効かぬという理由のみで屠ってしまうほどにな。お主の相棒が聞いたら悲しむじゃろうな、昔話で微笑ましいやり取りをした白竜を惨殺したのが、整合騎士に改造されたベルクーリ自身じゃと知ったら」
「……その話は聞かせないほうがいいよ」
俺は嘆息しながらそう呟いた。思わず瞑目し首を左右に振ってから、顔を上げて訊ねる。
「実際のところ、どうなんだ? いざ闇の軍隊が攻めてきたら、アドミニストレータと整合騎士だけで対抗できるのか?」
「無理じゃ」
カーディナルは言下に否定した。
「確かに整合騎士どもは皆長年の実戦を経た猛者ではあるが、絶対数が少なすぎる、あまりにもな。またアドミニストレータの操る神聖術は天変地異にも等しい威力じゃが、言うたとおり、術を使うには自らも敵の射程内に身を晒す必要があるのじゃ。闇の軍隊には、一人一人はアドミニストレータの足元にも及ばぬにせよ神聖術……いや、暗黒術と言うべきかもしれんがな、ともかくシステム・コマンドの使い手が星の数ほども居るのじゃぞ。一度の轟雷で百人の術士を焼き焦がしても、次の瞬間には千の火炎に貫かれるじゃろうな。膨大な天命ゆえにそれで死ぬかどうかはわからんが、少なくともこの塔まで逃げ帰ることになるのは確実じゃ」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ。てことは……俺とあんたでアドミニストレータを倒そうと倒すまいと、結局この世界の辿る運命は変わらないんじゃないのか? あんたがカーディナルシステムの全権を取り戻したところで、闇の軍勢を撃退できるわけじゃないんだろう?」
呆然と呟いた俺の言葉に、カーディナルはゆっくりと首肯した。
「その通りじゃ。ことここに至っては、わしにももうダークテリトリーからの侵略を止める手段はない」
「……つまり……あんたは、あくまで、誤作動をしているメインプロセス、つまりアドミニストレータを消去するという目的のみを果たせれば……そのあと、この世界がどうなろうと知ったことじゃないと……そう言うのか……?」
俺は掠れた声でそう訊ねた。カーディナルはしばし沈黙し、小さな眼鏡の奥で――とても哀しそうな色を瞳に湛え、じっと俺を見た。
「……そうかもしれない」
やがて呟いたその声は、周囲のランプがちりちりと立てる音にすら紛れてしまうほどに微かだった。
「そう……わしの目指しているところは、多くの魂が消滅するという結末それだけを見れば、このまま成り行きに任せるのと同じことかもしれぬ……。じゃが……もしわしやお主がここで座したまま何もしなければ、やがて……数ヶ月後、あるいは一年先かもしれぬが、確実に闇の軍勢がこの地に溢れて、村は焼かれ畑は潰され、男は殺され女は犯されるじゃろう。出現するであろう地獄は、わしの知る言葉では表せぬほどの……究極の悲惨、残酷の限りを尽くしたものとなるはずじゃ。――しかしな……仮に、わしが全権を回復し、そして一撃で闇の怪物たちを全て葬り去るコマンドを編み出せたとしても、わしはそれを使わぬよ。なぜなら……彼らとて、望んで怪物となったわけではないのじゃ。言うたじゃろう、百年考えても答えなど出ぬとな。よいか……もし、アドミニストレータという女が出現せず、この世界が本来予定されたとおりの軌道を進んだとしても、その時は、強力な軍隊を作り上げた人間たちが逆にダークテリトリーに侵攻し、かの国の住人たちを暴虐の果てに殺戮し尽くしたに違いないのじゃ!」
カーディナルの静かな声は、しかし鋭い鞭のようにぴしりと俺の耳を打った。
「どちらに転ぼうと、結末は膨大な血に塗れたものとなろう。なぜなら、その結果こそが、神たるラースの意図したものだからじゃ。この世界を創造した目的が、ラースの手足となる強力で、無慈悲で、忠実な兵士の群れを造り上げることそれ自体だからじゃ。わしは……わしは、そのような神など認めぬ。そのような結末など、どうあろうと容認できぬ。ゆえに……数十年前、負荷実験段階の到来が避け得ぬことを知ったわしは、この結論を出したのじゃ。何としても、その時が来る前にアドミニストレータを排除し、カーディナルシステムとしての権限を回復して……この世界を、人間界も、ダークテリトリーも、全てまとめて無に還すと」
*「無に……還す……?」
機械的に繰り返してから、俺は今更のように目を見開いた。
「どういう意味なんだ、それは……?」
「言葉どおりじゃよ。魂の揺りかご、ライトキューブ・クラスターに保存されている全てのフラクトライトを削除するのじゃ。人間のものも、怪物のものも、一つ残らず」
そう言い切ったカーディナルの幼い顔は、毅然とした決意と覚悟に満ちていて、俺はしばらく口を開くことができなかった。時間をかけて、どうにか少女の言葉が指し示す最終的解決を具体的にイメージする。
「それは……つまり、酷い苦しみの果てに多くの人が死ぬことが回避できないなら、その前に全員を安楽死させてしまうほうがまだマシだ、という……?」
「安楽死……? ――いや、その用語は正確ではないぞ」
システムに内蔵されたデータベースを検索したのか、一瞬まぶたを閉じてから、カーディナルはかぶりを振った。
「ライトキューブとは別種の記録媒体を持つお主ら上位世界の人間には有り得ぬ事象なのだろうが、この世界に暮らす民の魂を消去するのは一瞬の操作でしかない。対象者は何一つ知覚せずに、ろうそくの炎が揺らぐほどの抵抗もなく消え失せる……。もっとも、それが殺人行為であることに何ら変わりはないがな……」
数十年の時間をかけて考え抜いた結論なのだろう、そう語るカーディナルの声には、深い諦めと無力感のかすかな残響が感じ取れるのみだった。
「無論……理想を言うならば、この世界そのものがラースの支配から永遠に逃れ、独自の歴史を綴るのが最上の解決ではある。さらに数百年の時間を費やせば、人間界とダークテリトリーの無血融和すら不可能ではあるまい。しかし……神ラースからの脱却など絵空事であると、お主が最もよく理解しておるじゃろう?」
突然問われ、俺は唇を噛んで黙考した。
アンダーワールドを動かすメインフレームと、そこに接続された巨大なライトキューブ集合体が、いったい日本のどこに設置されているのか俺は知らない。しかし当然、それら機械類は恐るべき容量の電力を消費するわけで、その意味で完全なる孤立など実現不可能なのは明らかだ。
更に言えば、菊岡は、引いては自衛隊はアンダーワールドを慈善事業で運営しているわけではない。そこには、実用に耐える無人兵器搭載用AIを完成させるという明確な目的があるはずだ。仮にカーディナルが全権を回復し、外部に連絡チャンネルを開いてアンダーワールドの独立を要求したところで、ラース側は一顧だにせず彼女のフラクトライトを削除するだろう。
そう――考えてみれば、俺が今後セントラル・カセドラル最上階に到達し、菊岡と連絡できたとしても、ユージオ以下数名のフラクトライトを保全してくれという俺の要求を彼が聞き入れる保証などまったく無いのだ。ラースにとって、全ての人工フラクトライトは単なる所有物であり、実験対象であり、そもそも今動いているアンダーワールド自体が幾百、幾千の試行のうちのたった一例に過ぎないのである。
つまるところ、人工フラクトライト達が真に自由と独立を得ようとするならば、恐らくその手段はひとつだけ――現実世界の人間に対して戦いを挑む、それしかない。しかしどうやって? 彼らに、一体どのような武器があるというのだろう……?
その先を考えるのが空恐ろしくなり、俺は無理矢理に思考を遮った。いつの間にか、俺自身を、外界の人間と敵対すべきアンダーワールド人であると認識しているような気がしてかすかに戦慄する。視線を上げ、俺はゆっくり首を左右に動かした。
「そうだな、不可能だよ。この世界は、独立するにはあまりにも外側の人間たちに依存しすぎている」
「うむ……例えるならば、イケスに放り込まれ、いまに揚げられるのを待つばかりのアオヒレ魚の群れよ……。せめて出来るのは、自ら水を飛び出して息絶えることだけじゃ」
諦念に満ちた儚げな笑みを浮かべるカーディナルに向かって、しかし俺は頷き返すことはできなかった。
「でも……俺は、そこまで割り切れないよ、とてもじゃないけど……。苦しんで死ぬよりは、何も感じずに一瞬で消えるほうがマシだっていう、あんたの出した答えは確かに正しいのかもしれない……でも、それを簡単に納得するには、俺はもうこの世界の人間たちと関わりすぎてるんだ」
脳裏に、この二年半のあいだに親しく交流した人々の笑顔が次々とよぎる。彼らがダークテリトリーの怪物たちに惨殺されるところなど無論見たくないが、しかしかと言ってこのままカーディナルに協力し、皆の魂を消去することに手を貸すのが本当に唯一にして最善の手段なのだろうか。
突きつけられた二律背反に煩悶する俺に、カーディナルの穏やかな声が掛けられた。
「言うたじゃろ、ギブ・アンド・テイクと。わしが全フラクトライトを消滅させる前に、外部と連絡を取りたいとお主が望むならそれを叶えよう。しかし、もしラースがお主の要望を聞き入れないと思うなら、わしがお主の手助けをすることもできる。助けたいと思う者の名を指定すれば、その者たちのフラクトライトは消去せず、凍結させたまま残そう。あとはお主が、外部世界に脱出したのちに彼らのライトキューブを確保すればよい。十個程度であれば、不可能ではあるまい。おそらくお主にとっても、これが最善ではないにせよ次善の選択じゃ」
「…………」
突然の思いがけない言葉に、俺は鋭く息を吸い込んだ。
可能だろうか、そんなことが!?
確かに、光量子を完全に閉じ込められるライトキューブは、情報の保持に電力を必要としない。インタフェースから抜き出し、安全に保存できれば、内部のフラクトライトはいつまででも劣化することはないのだ。時間はかかるだろうが、いつかSTL技術が一般化すれば、彼らを"解凍"し再びまみえることは有り得ないことではない。しかし問題はその前の段階、ラース研究施設の中枢に位置するだろうライトキューブクラスターから複数の媒体を盗み出すことだ。一辺十センチの立方体はとてもポケットには隠せない。専用のキャリングケースを使うなら、確かに十個持ち出すのが精一杯だろう。
つまり俺は、この提案に乗った場合、救出すべき魂を選別しなくてはならないのだ。
家庭用ゲーム機のセーブデータを整理するのとは訳が違う。人工フラクトライト達は、根源的な意味において俺とまったく同じ人間だ。避け得ない死から、たった十人だけを選び救い出す――しかも、親しく交流したというそれだけの理由で――そんな真似をする資格と権利が、この俺にあるのだろうか。
「俺……俺には……」
無理だ、という言葉は口に出すことができず、俺はただカーディナルの、何もかも見透かしたような瞳を見つめた。代わりに出てきたのは、何とも情けない泣き言だった。
「――そもそも、アドミニストレータと戦うのが、どうして俺なんだ? 言っておくけど、この世界では、俺の持っているアドバンテージなんか何一つ無いぜ。神聖術も、剣の腕も、俺以上の奴がごろごろしてるんだ。そう……例えばユージオだっていい。恐らく、今あいつと本気で戦ったら、俺は勝てないよ」
俺の湿っぽい抗弁を、聞き分けのない子供に対するように辛抱強く聞いたカーディナルは、ふう、と長い溜息をついた。やれやれとばかりに首を振り、名称が変化するカップに今度はコーヒーのような黒い液体を満たすと、ゆっくり一口啜る。
「……負荷実験、つまりダークテリトリーからの侵略がもはや不可避であることを悟ったわしは、それまで以上に懸命になってわしの剣となってくれる者を探し求めた……」
再び語りはじめたのは、恐らく最終幕に差し掛かっているのだろう彼女自身の長い長い歴史だった。
「じゃが、例えどれほどの剣と術式の達人を味方につけようとも、アドミニストレータ本人に肉薄するためには、整合騎士の護衛以外にももうひとつ大きな障害をクリアせねばならんかった」
「……ま、まだ何かあるのか……?」
「うむ。探索と平行して、わしはその問題の解決法を数十通りも捻り出したが、どれもいま一つ確実性に欠けての……。そうこうしているうちに時間はどんどんと経過していき、気付けば、総侵攻の前段階として、闇の国からの先遣部隊がひんぱんに果ての山脈を脅かすようになっておった。十名ちょいの整合騎士では、完全に排除しきれないほどにな。――かくなる上は、戦闘による権限奪回は諦め、わしの首を差し出してでもアドミニストレータを説得することを検討せねばならぬか、と思い始めていた頃……わしの放った使い魔の一匹が、北方辺境の民のあいだでおよそ有り得ぬ話が流布していることを察知したのじゃ」
「有り得ない話?」
「少なくとも、クィネラがアドミニストレータとなって以来一度たりとも無かった事件に関する噂じゃよ。あの女が、人間の居住区域の拡大を妨げるために世界各地に配置した妨害オブジェクト……その一つ、途方も無いプライオリティとデュラビリティを備え、広大な範囲の成長リソースを吸収する巨木が、たった二人の若造に切り倒されたというのじゃ」
「…………どっかで聞いた話だな」
「わしは早速、最寄の村に配置してあった使い魔……先ほど紹介したシャーロットを動かし、その若造たちを捜した。ようやく見つけたのは、そやつらが村を旅立つ直前じゃった。とりあえずその片方、大雑把そうな奴の背中にシャーロットを張り付け、わしは一体なぜこやつらが、ほぼ破壊不能のオブジェクトを排除し得たのか、その理由を探った……」
大雑把な奴扱いされたことに何か言い返そうと思ったが、実際俺は二年半もあの小蜘蛛が身辺にうろちょろしていたことに気付かなかったわけで、ぐうの音も出ない。しかめ面で、カーディナルに先を促す。
「直接の理由はすぐにわかったよ。亜麻色の髪の若者が持っている剣が、世界に何本とないクラスの神器だったからじゃ。最早殺されて久しいが、世界の守護竜に認められた勇者のみに与えられる武器のひとつ……しかしそれが判っても、新たな疑問が湧いてくる。なぜこんな若造どもが、それほどハイレベルのオブジェクトコントロール権限を持っているのか、とな。久しく感じなかった興奮を覚えながら、わしは日夜、二人の会話に耳をそばだてた。その殆どは聞くに堪えぬ馬鹿話じゃったが……」
「わ、悪かったな」
「ええい、黙って聞け。――やがて、央都に続く道中の宿場で、ようやくわしはその訳を知ることができた。驚いたことに、そやつらは、たった二人でダークテリトリーからの大規模な先遣偵察部隊を撃退したと言うではないか。それが真実ならば、本来数十人に分配されるはずの規模の膨大な権限上昇ポイントを、二人で独占したということになる。一瞬にして、神器を装備できるほどの権限を得た理由はそれで判ったが……同時に、わしはまた新たな疑問に苛まれることとなった。それはつまり――ろくな衛士隊もない辺境の村に生まれた若者たちが、なぜ圧倒的な戦力を持つダークテリトリーの怪物を撃退し得たのか? ということじゃ」
「言っておくが、九割はハッタリだったぞ」
再び混ぜっ返した俺を叱ろうとしてから、カーディナルは思い返したように口をつぐみ、ゆっくりと頷いた。
「うむ……そう、それも含めての結果だったのじゃろうな。その疑問ばかりは、氷解するのに長い時間がかかった。黒髪のほう……つまりキリト、お主は、相棒のユージオに気を使って言動に注意しておったようじゃからな。しかしついにお主が、人間の食い物を、飼われていない獣つまり野良犬に与えるのを見たとき、わしは稲妻のごとき衝撃とともに悟った。お主が、禁忌目録に縛られておらぬことを……」
「……したかな、そんなこと……」
「何度もな。他人に見られておったら、お主はもっと早く教会に連行されておったわ。――それ以来、わしはお主の発言と行動を、仔細に分析した。二人が央都に到達し、修剣学院の門を潜ってからも、ずっとな。観察を始めてから一年も経った頃……わしはようやく、唯一の解答に辿り着いた。つまりお主は、この世界で生まれライトキューブに閉じ込められた魂ではなく、外部の……まことの創造神ラースが存在する世界からやってきた人間なのじゃ、と……」
「――なら、俺はあんたを失望させちゃったな。当然持っているべき管理者権限も、ラースとの連絡手段すら持ってない……それどころが、今現在、外側がどうなってるかすら知らないんだから……」
どうにも申し訳ない気持ちになってそう言うと、カーディナルは小さく笑いながら指先を振った。
「そんなことは、最初から分かっておった。もしお主にアドミニストレータを上回るシステム権限があれば、あれほどの傷を負ってまでゴブリンを剣で倒す必要は無かったのじゃからな。わしも、何故お主が今のような状態でこの世界に放り出されたのか、その理由までは察知できん。恐らくは、何かのアクシデントの結果……あるいは知識と権利を制限した上でのデータ収集と推測されるが、もし後者だとしたら、随分と巨大な代償を払っておるものじゃ、と思うがな」
「……ああ、まったくだ。もしそうなら、俺は自分が信じられないよ」
ゴブリン隊長の剣に抉られた左肩の痛みを思い出しながら、俺は呟いた。
「じゃが、わしにとってはそれでも望み得る最大限の希望じゃった、お主はな。なぜなら、お主の存在そのものが、先ほど言ったアドミニストレータと戦う上でのもうひとつの重大な障害をクリアしてくれるからじゃ」
「一体、その障害ってのは何なんだ?」
「――シンセサイズの秘儀は、その実行に、長大なコマンドと膨大なパラメータ調整を必要とする。準備段階も含めれば、およそ三日という時間が必要となる」
突然話が飛び、俺は面食らった。しかしカーディナルはそ知らぬ顔で唇を動かしつづける。
「つまり、ライトキューブに直接アクセスする神聖術は、通常の戦闘においてはほとんど考慮する必要はないということじゃ。言い換えれば、戦闘中に魂を乗っ取られ、整合騎士に洗脳されてしまう危険性は無い。ただし――もしアドミニストレータが、わしの選んだ戦士を取り込むことを断念し、ただ単に魂を吹き飛ばすことのみを狙ったとしたら……? 厳密なパラメータ調整が必要でないぶん、コマンドは飛躍的に短くなるはずじゃ。もしかしたら、護衛が戦闘しておる間に詠唱を完了できる程度にな。天命に対する攻撃は、こちらも装備や神聖術で対抗することができる。しかし、フラクトライトそのものを攻撃されてしまえば、いかなる防御も不可能じゃ。その可能性に思い至り、わしは長い間苦慮しておったのじゃ」
「……魂に対する攻撃……そりゃあぞっとしないな……」
「うむ。どれほどの使い手でも、記憶を引き裂かれてしまえばもう戦えぬ……。ゆえに、キリト、お主だけが唯一その攻撃に抗し得るのじゃよ。原初の四人、そしてお主が今使っておる神器"エスティーエル"には、さしものアドミニストレータも手出しできん。そのためのコマンドが存在しないからな。わかったか、わしがひたすらお主を待っておった、その理由が? お主が、統一大会に優勝し……あるいは禁忌目録を犯した咎人として神聖教会の地を踏み、カセドラルの中央にある審問の間に引き出されるまでのあいだにその身を大図書室に引き込むべく、最大限の数のバックドアを設置してひたすら待ちつづけた、その理由が……?」
ついに、長い、あまりに長い自らの物語を現時点まで語り終え、カーディナルは僅かに頬を紅潮させながら深く息をついた。
「……そうか、そういう事だったのか……」
事ここに至っても、俺はまだ何故自分がアンダーワールドにダイブしているのか、その理由を知らない。むしろ、それを知るために世界の中核、唯一ラースへの連絡口が存在すると思われた神聖教会を目指していた、とも言える。
しかし、とてつもなく長大な時を生きてきた少女にきっぱりと断言されると、やはり今この場所に辿り着いたのはある種の導きの結果なのか――と思わずにはいられない。アドミニストレータとの戦闘の帰趨は定かでないが、少なくともカーディナルとともに最大限の努力を試み、わずか十人であっても現実世界へ脱出させろという天の声……?
いや、運命だのなんだのを持ち出す前に、眼前の、二百年ものあいだただひたすらにこの瞬間だけを待ってきた少女に対して否と答えることなど、到底俺にはできなかった。彼女は自分のことを、感情のないプログラムだと何度も繰り返したが、長い長い物語を聞く限りにおいてはそれは真実ではないと思える。カーディナルもまた、俺と同じ喜怒哀楽を持つ人間であるはずなのだ。例えただ一つの欲求――世界を正せ、という命令に縛られていたとしても、なお。
「どうじゃ、キリトよ。わしは強制はできん……もしお主が、世界を無に戻すというわしの計画に賛同できぬと言うなら、もっとも最上階に近いバックドアからお主とユージオを送り出してやろう。その場合は、お主らが万難を排してアドミニストレータを倒し、それぞれの目的を果たしたそのあとは、おそらくわしと戦うことになるじゃろうが……それもまた運命、と言うほかあるまいな……」
そう呟いてから、カーディナルは、俺たちをこの図書室に招き入れてからもっとも年齢相応と思える、透き通った笑みを唇に浮かべた。
長い間沈黙したあと、俺は彼女の問いに、問いで答えた。
「カーディナル……。あんたは、自分の魂はクィネラのコピーだと、そう言ったよな……?」
「うむ、如何にもその通りじゃ」
「なら……あんたにも、純粋なる貴族の血が流れているはずだ。己の利益と、欲望のみを追及する遺伝子が……。なぜあんたは、全てを投げ出し、逃げようとしなかったんだ? どこか辺境の、アドミニストレータでも追跡できないくらい遠くの小さな村に逃げて、一人の平凡な女の子として恋をして、結婚して、子供を育てて……幸せのうちに老いて死ぬことも、あんたには可能だったはずだ。それがあんたの望みだったんだろう? その望みに従えと、あんたの血は命じていたはずだ……二百年間、ずっと。なぜその命令に抗ってまで、こんな場所でたった一人、二百年も待ちつづけたんだよ……?」
「愚かな奴じゃ、つくづく」
カーディナルはにこりと笑った。
「言うたじゃろう、カーディナル・サブシステムの存在目的を焼きこまれたわしにとって、あらゆる利益、あらゆる望みはただひとつ、アドミニストレータの排除と世界の正常化じゃ。わしにとっては、もはや正常なる世界とは、完全なる虚無に戻すこと以外に実現できぬのじゃ。ゆえに――ゆえにわしは――」
ふと言葉が途切れ、俺はカーディナルの眼鏡の奥を覗き込んだ。見開かれたバーント・ブラウンの瞳は、何らかの感情を抑えかねて、大きく揺れているように見えた。やがて唇が動き、聞き取れないほどに小さな声が漏れた。
「……いや……違うかな……。わしにも……わしにも、欲望はある、たった一つ……。この二百年……どうしても知りたかったことが……」
瞼を閉じ、ふたたび持ち上げて、カーディナルはじっと俺を見た。珍しく何かを躊躇するように唇を軽く噛み、両手を握り合わせてから、軽く咳払いして椅子からすとんと降りる。
「おいキリト、お主も立て」
「は……?」
言われるままに腰を上げる。首を傾げる俺を、カーディナルは随分と背中を反らせて見上げた。俺はそう背丈がある方ではないが、それでも十歳そこそこの外見を持つ少女とはかなり高さに差がある。
カーディナルは眉をしかめてから周囲を見回し、いままで座っていた椅子に右足を乗せると、よいしょとその上に登った。振り向き、俺と目線がほぼ同一になったことを確かめるように頷く。
「これでよい。おいキリト、こっちに来い」
「……?」
いぶかしみながら数歩移動し、カーディナルの手前に立つ。
「もっと前じゃ」
「ええ?」
「つべこべ言うな」
一体何事ならん、と思いながらも、俺はじりじりと前進した。そこでよい、と言われたときには、すでに互いの前髪が接触しそうな至近距離に達していた。冷や汗をかく俺を、カーディナルはちらりと眺めてからすぐに視線を外し、更に命令を重ねた。
「両手を広げろ」
「…………こうか?」
「前に回し輪っかを作れ」
「……………………」
よもや、言われたとおりにした途端あの激重ステッキでぶちのめされる、などということはあるまいな――と怯えつつ、両手をゆっくりと動かし、カーディナルの体を迂回させて背中からずいぶんと離れた場所で左右の指先を接触させた。
そのままぎこちない沈黙に満ちた数秒が経過したあと、カーディナルはちっと可愛らしい舌打ちをした。
「ええい、遠回りな奴じゃ」
どっちがだ、と言いかけたのも束の間。
俺の背中にも、ローブを割ったカーディナルの両腕がおずおずと回され、ごくわずかな力が上着の布地越しに伝わった。俺の額にぶつかった巨大な帽子がとすんとテーブルに落下し、栗色の巻き毛が左頬を撫でていった。肩と胸に、ささやかな重みとほのかな熱。
「……………………」
更なる高密度の沈黙に耐えられるだけ耐えてから、俺は、いったいどういう……、と尋ねようとした。しかしそれよりも早く、カーディナルのほとんど音にならない声が、俺の左耳そばの空気を震動させた。
「そうか……これが……」
長く、深いため息に続いて――。
「……これが、人間であるということか」
瞬間、俺ははっと息を飲んだ。
二百年に渡る孤独の中で、あらゆる思索を重ねたカーディナルが、最後に知りたいと思うものがあるとすれば、それは他の人間との触れ合い以外には有り得ないではないか。人間である、ということはすなわち他者との交感を為し得る、ということである。言葉を交わし、手を取り合い、強く抱き合って、魂の接触を感じ取る、ということである。
遠い昔、あのデスゲームの中で、俺はおよそ一年にわたって人間であることを止め、他人を頑なに拒否して己の効率的強化のみを考える機械と化し、同時に乾ききった魂の荒廃をいやというほど味わった。たった一年間、それでもあの頃の荒涼たる心象風景は、今も俺の中に砂漠にも似た広がりを確として保っている。
なのに、この少女は、その二百倍もの時間を、たった一人、この乾いた紙の牢獄で――。
俺はようやく、カーディナルの過ごしてきた時間を、ある程度のリアリティを伴って実感していた。同時に左右の腕が動き、少女の背中をしっかりと引き寄せた。
「……あったかい……」
ぽつりと呟く声と同時に、俺の頬にも、小さな温かみがゆっくりと移動していくのが感じられた。これは――涙……?
「……やっと……報われた……わたしの、二百年は……間違いじゃなかった……」
ひとつぶ、もうひとつぶと涙が頬を伝い、襟元に消えていく。
「この暖かさを知っただけで……わたしは満足……報われた、じゅうぶんに……」
どれほどの時間そのままでいただろうか、すいと空気が動いたと思ったときには、もう俺の腕のなかは空っぽになっていた。
椅子から降りたカーディナルは、こちらに背を向けたままテーブルの帽子を持ち上げ、ぽんぽんと叩いてから頭に乗せた。ステッキを拾い、眼鏡を押し上げながら振り向いたその顔は、すでに超然とした賢人の雰囲気を取り戻していた。
「おい、いつまでぼうっと突っ立っておるつもりじゃ」
「……そりゃないよ……」
先刻の涙は幻だったかと思いたくなる辛辣な言葉に、俺はもごもごと抗弁し、テーブルの端に腰を乗せた。腕を組み、長く息を吐く俺を、カーディナルはしばしじっと凝視していたが、やがて素っ気無く最終的な問いを発した。
「――で、結論は出たか? わしの提案に乗るか、それとも蹴るか」
「…………」
ここで即答できるほど、俺は決断力を備えてもいなければ、思い切りがよくもない。確かに、冷静に計算すれば、救うべき十人を選別しカーディナルの手を借りて現実世界に脱出させるのが、望み得る最大限の結果だ――ということになるだろう。それ以上の代案を、今の俺は導き出すことができないのだから。
だが、しかし――。
「……わかった。あんたの作戦に乗るよ」
頷きながらそう口にしてから、俺は顔を上げてカーディナルの目を見た。一語一語を意識しつつ、ゆっくりとその先を続ける。
「でも、考えるのはやめない。この先、神聖教会の中枢……整合騎士たちやアドミニストレータと戦うあいだも、何か手段がないか探し続ける。負荷実験段階の悲劇をどうにか回避して、この世界が平和の裡に存続できるような解決法を」
「やれやれ、とんでもない楽天家じゃな。わかっておったことじゃが」
「だってさ……、俺は、あんたにも消えてほしくないんだ。十人選べと言われたら、その中にはあんたも入るよ、間違いなく」
ほんの一瞬見開いた瞳を、すぐさま苦笑いの色で覆い、カーディナルは大仰な動作でかぶりを振った。
「……そのうえ、愚かな奴じゃ。わしが脱出してしまったら、誰がこの世界を消去するというのだ」
「だから……状況は理解したけど、悪足掻きは放棄しない、って言ってるだけだよ」
言い訳じみた俺の台詞に、呆れたような笑みだけを返して、少女はくるりと背中を向けた。翻るローブが起こした微風に乗って届いた声は、先ほどの刹那の触れ合いなどでは到底埋めきれない二百年の隔絶を秘めて、どこまでも静かだった。
「お主にも……いつかは諦めという果実の苦さを知る時が来る……。力尽くして及ばぬことではなく……及ばぬであろうという推測を受け入れなくてはならぬ時が……。――さあ、戻るぞ。相棒もそろそろ年代記を読み終わるじゃろう。具体的な戦術は、ユージオを交えて話そう」
かつっ、とステッキを鳴らし、カーディナルは俺を見ることなく、もと来た階段へと歩みを進めた。
カーディナルの見立てどおり、俺たちが歴史書の回廊に踏み込むのと、ユージオが膝に抱えた最後の一冊の裏表紙を閉じたのはほぼ同時だった。
ユージオは、数百年ぶんの歴史逍遥からいまだ醒めやらぬようにしばらく瞳を彷徨わせていたが、やがてぱちぱちと瞬きして俺を見上げた。
「あ……ああ、キリト。どれくらい時間経った……?」
「え? えーと……」
慌てて周囲を見回すが、時計はもちろん、窓の一つも存在しない。隣でカーディナルが小さく咳払いし、代わりに答えた。
「およそ三時間じゃな。もうソルスはすっかり登りきったぞ。――どうじゃったかな、長き世界の歴史は?」
「うーん……なんて言うか……」
問われたユージオは、言葉を探すように何度か唇を舐めてから、煮え切らない口調でつぶやいた。
「……この本に書いてあるのは、ほんとうに実際にあった出来事なんでしょうか? まるで……よくできたおとぎ話の連続を読んでるみたいで……。だって、ほとんどの挿話が、どこそこでこういう問題が起きました、司祭や整合騎士が赴いて解決しました、そしてそれ以来、かくかくしかじかの条項が禁忌目録に加えられたのです――っていうやつばっかりなんだ」
「仕方あるまい、それが史実じゃからな。ザルに注がれる水が零れぬよう、網目をひとつひとつ埋め続けてきたのが教会という愚かなる組織じゃ」
吐き捨てるようなカーディナルの台詞に、ユージオは目を丸くした。無理もない、これほど直截に教会を批判する人物に出会ったのは初めてだろうし、そのうえそれが年端も行かぬ少女だというのだから。
「あ……あの、あなたは……?」
「あー、この人はカーディナル。えーと……いまの最高司祭アドミニストレータに追放された、かつてのもう一人の最高司祭だ」
俺がかいつまんだ紹介をすると、ユージオは喉の奥でングッという奇妙な音を発して後ずさった。
「いや、ビビらなくてもいいって。俺たちが、整合騎士連中と戦うのに協力してくれるそうだから」
「き……協力……?」
「ああ。この人にも、アドミニストレータを倒して最高司祭に復帰するという目的があるんだ。だから……まあ、共闘体制ってことだな」
俺の至って簡素化された説明は、決して嘘ではないが、カーディナルが権限を取り戻したその先にはユージオの家族を含む全住民の消去という結末が待っていることまではとても言えなかった。いずれはユージオとも話し合わなくてはならないだろうが、しかしどうやって切り出したものか見当もつかない。
素直という言葉が服を着ているような俺の相棒は、疑いの色ひとつない薄茶色の瞳でまっすぐにカーディナルを見つめ、おずおずと微笑んだ。
「そうですか……助かります、本当に。かつての最高司祭……ってことは、じゃあ、アリス……整合騎士の、アリス・シンセシス・フィフティが、ルーリッドのアリス・ツーベルクと同一人物なのかどうかを……いや、彼女を元に戻す方法すらも知ってるんですか……?」
たどたどしく発せられたユージオの問いに、カーディナルはわずかに睫毛を伏せた。
「すまんが……わしがこの場所で手に入れられる情報は、ごく僅かなものなのじゃ……基本的には、そう多くない使い魔たちがその目で見、耳で聞いた事柄に限定されておる。それですら相当に危険なのだ、もし使い魔の一匹でもアドミニストレータに生きて捕獲されれば、彼らとわしを繋いでおるチャンネルを乗っ取られ、この場所に強引に通路を開かれるやもしれんからな。……よって、この二年というもの、わしは、最後の希望と定めたお主らの動向のみに気を配ってきた。アリスなる最新の整合騎士がどこから連行されてきたのか、今となっては知る術もない……」
そこまで聞いたユージオはがっくりと肩を落としかけたが、続く一言に鋭く息を吸い込んだ。
「――しかし、整合騎士たちに施された洗脳処理……"シンセサイズの秘儀"を解除する方法なら教えられる」
カーディナルは腕組みをし、難しい表情で続けた。
「基本的には、彼らのフラク……いや、魂に挿入された行動原則キーを除去すればよい」
「行動……原則キー?」
訝しげに繰り返すユージオに、俺は横から口を挟んで補足した。
「ほら、あの鞭使いのエルドリエと戦ったときに見たろう、あいつのおでこから出てきた紫色の三角水晶……あれが、そのキーらしい」
「ああ……エルドリエに、修剣学院のこととか親の名前とかを言ったら様子がおかしくなって、額から出てきたあれかい?」
「うむ、まさにそれじゃ」
右手のステッキを掲げたカーディナルは、その先端で宙に横線を引いてから、線の中ほどを断ち切るように動かした。
「行動原則キーは、記憶回路の幹線部分を阻害する形で挿入されておる。それにより、被処置者の過去の記憶を封じ、同時に教会とアドミニストレータへの絶対の忠誠を強いておるのじゃ。――しかし、そのように強引かつ複雑な術式ゆえに安定度は高くない。キー周辺の重要記憶が外部から刺激され、活性化してしまうと、お主らが見たように術式が解除されかかってしまうこともある」
「つまり……術を解くには、整合騎士の過去の記憶を揺さぶってやればいい、ってことか?」
俺は勢い込んでそう尋ねたが、期待した答えは返ってこなかった。
「いや……それだけでは不十分じゃ……。もう一つ、絶対に必要なものがある」
「そ、それは何なんです?」
今度はユージオが身を乗り出す。
「キーが挿入されておる箇所に本来存在したもの……つまり、被処置者にとっていちばん大切な記憶の欠片じゃよ。たいていは、最も愛する者の思い出がそれにあたる。お主らが戦ったその整合騎士が、強く反応した言葉を憶えておるか?」
俺が記憶を掘り返すよりも早く、ユージオが呟いた。
「確か……エルドリエのお母さんの名前を言ったときだったよ。額の水晶が、ものすごく光って……今にも抜け落ちそうになったんだ」
「ならばそれじゃろうな……。その騎士は、母親に関する記憶の中核部分を抜き取られ、そこにキーを埋め込まれておるのじゃ。――そもそも、アドミニストレータにとっては整合騎士の過去の記憶など全く不要なれど、本来記憶と能力は一体のものなのじゃ。過去を全て消せば、騎士としての強さ……剣の振り方や神聖術の式までも失われてしまう。よって、回路の流れを阻害するに留めておるわけじゃな。わしは、延命のために過去の記憶の大幅な削除を行ったが、その期間に得た進歩も全て捨てることとなった……」
短く息を吐き、カーディナルは言を重ねた。
「繰り返すが、全ての整合騎士は、最も大切な記憶のピースをアドミニストレータに奪われておる。それを取り戻さぬ限り、たとえ行動原則キーを除去できても、記憶回路の流れは元には戻らぬ。最悪の場合、回路自体に致命的なダメージを負ってしまうかもしれぬ」
「記憶のピース……。じゃ、じゃあ……もし、アドミニストレータがそいつを破棄してたら……」
恐る恐る俺がそう口にすると、カーディナルは難しい表情のままゆっくりとかぶりを振った。
「いや……そうは思わん。アドミニストレータは慎重な女じゃ、何かに使えそうなものを消去したりはせぬじゃろう。恐らくは、自らの居室……セントラル・カセドラル最上階に保管しておるはず……」
カセドラル最上階――という言葉を聞いたとたん、俺の記憶の一部がちくりと刺激されたが、その手触りは尻尾を掴まえる前にするりと消え去ってしまった。奇妙なもどかしさを感じながら、俺は呟いた。
「てことは……ちょっと待ってくれ、整合騎士たちを元に戻すためには奪われた記憶のピースが必要だけど、それを手に入れるには結局騎士たちを突破してアドミニストレータのところまで到達せにゃならん……って訳か……」
「殺さずに勝とう、などという甘い考えが通じる相手ではないぞ」
カーディナルが、じろりと俺を睨んで言った。
「わしにしてやれるのは、装備の面でお主らを整合騎士と対等にしてやれる程度のことじゃ。あとは、お主らがどこまで死力を振り絞り戦えるかにかかっておる」
「え……あんたは、一緒にきてくれないのか?」
てっきり無限ヒールつきの心強い後衛が出来るものと期待していた俺は、愕然としてそう訊ねた。しかしカーディナルは素っ気無く鼻を鳴らした。
「ふん、もしわしが外に出れば、即座にアドミニストレータも親衛隊ともども降りてきてその瞬間総力戦となってしまうじゃろう。一度に十人、二十人の整合騎士を相手に回して勝てる自信がお主にあるならそれでもよいがな、ん?」
意地の悪い笑みとともにそう問われれば、俺は首を左右にぶんぶん往復させるしかない。
「――じゃが、今ならまだ、アドミニストレータはお主らを整合騎士とすることに未練がある。二人だけで出て行けば、小数の騎士を回して生け捕りにしようとするはずじゃ。その騎士たちを各個撃破しつつ、塔を駆け上る以外に作戦はあるまい」
「むう……」
確かに、数に勝る敵と戦う上で、集団を分断しつつの各個撃破は基本戦術ではあるが、分断したところであの整合騎士が相手なのだ。正直、三人来たらもうお手上げという気がしてならない。
黙り込んだ俺に代わって、ユージオが、彼にしてはやや思い詰めた光を両目に浮かべながら言った。
「――いいですよ、戦えというなら戦いますし、殺すしかないなら……それもやむを得ません。元々、そう覚悟して牢を破ったんですから……。でも、もしアリスが出てきたら……? アリスとまでは戦えません、何のために二年半もかけてここまで辿り着いたのか、わからなくなる」
「ふむ……そうじゃな。ユージオよ、そなたの目的は、わしも理解しておる。――よかろう、もし整合騎士アリスがそなたの前に立ったら、これを使うがよい」
カーディナルが黒いローブの懐から取り出したのは、二本の極小サイズの短剣だった。
十字架の長軸をただ尖らせたような、シンプルな形状をしている。装飾らしいものは、握りの下端からぶら下がる細い鎖だけだ。深い銅の色に輝くそれを、カーディナルは俺とユージオに一本ずつ差し出した。あまりに細い柄を、指先でつまむように受け取ると、予想外の重さに思わず落としそうになる。全長は二十センも無いのに、学院の制式剣とたいして変わらない手応えだ。
「これは……? 一撃必殺の秘密兵器か何かか?」
鎖に手をくぐらせ、目の高さにぶらさげながら俺がそう問うと、カーディナルは素っ気無くかぶりを振った。
「その剣自体に攻撃力はほとんど無いよ、見た目どおりな。しかし、それに刺された者は、図書室内にいるわしとの間に切断不可能のチャンネルが確立される……つまり、わしの用いるあらゆる神聖術が必中となるわけじゃ。なぜなら、その短剣はわしの一部じゃからな。――ユージオよ、整合騎士アリスの攻撃を掻い潜り、体のどこでも良いからそれを刺せ。天命はほとんど減らぬ。その瞬間、わしの術でアリスを深い眠りに導こう……お主らが、彼女の記憶片を取り戻し、シンセサイズ解除の準備を整えるまで」
「深い……眠り……」
半信半疑の様子でユージオは掌に乗るブロンズ色の短剣を見つめた。恐らく、ペーパーナイフよりも短いこの剣を用いてさえ、アリスの肌を傷つけるのは抵抗があるのだろう。
俺は迷う相棒の背中を軽く叩き、言った。
「ユージオ、この人を信じよう。仮にアリスと剣を交えた上で気絶なりさせようと思えば、俺たちはもちろん彼女だって相当の傷は免れないよ。それに比べれば、こんな短剣で突かれるくらい、イライラ虫に刺されるくらいのもんだ」
「……うん、そうだね。わかりました……話しても無駄なようなら、これを使わせてもらいます」
前半を俺に、後半をカーディナルに向かって言い、ユージオは己を納得させるように深く頷いた。ほっと息をつき、俺も改めて右手にぶら下がる十字の短剣を眺めた。
「しかし……あんたさっき、この剣があんたの一部、って言った? どういう意味なんだ?」
首を傾げながら訊ねると、カーディナルは大したことではない、とでも言いたげな仕草で肩をすくめた。
「あらゆるオブジェクトをジェネレートできるわしやアドミニストレータでも、無から有を生み出せるわけではない」
「はあ……?」
「世界に割り当てられたリソースは有限じゃ。お主らが倒したギガスシダーの周囲に畑を作れなかったことからもそれがわかるじゃろう? 同じように、わしが、ある値のプライオリティを持つオブジェクトを生成しようとすれば、それと同等のオブジェクトが術の有効範囲内に存在せねばならぬ。かつてわしがアドミニストレータと戦ったとき、彼奴は剣を、わしはこのステッキを創り出したが――その瞬間、彼奴めのクローゼットに貯め込まれた貴重なアーティファクトがごっそり消えておる、ふふ」
カーディナルは右手のステッキでこつんと床石を叩き、少しばかり愉快そうに含み笑った。
「――しかし、見てのとおり、この図書室は閉鎖された空間じゃ。高プライオリティの武器を作ろうにも、変換対象となるオブジェクトが存在せぬ。この杖を使うことも考えたが、アドミニストレータと戦闘になったとき無いと困るしな……。消去法で考えれば、代償となり得るのはただ一つ、我が身のみであることは明白じゃった。わしの身体は高いぞ、何せ世界最高の権限の持ち主じゃからな」
「な……」
俺は息を呑み、カーディナルの華奢な体躯を眺めた。何度か言葉を飲み込んでから、おそるおそる口を開く。
「……そ、それは……つまり、その、身体の一部を切断して、オブジェクトに変換してからその箇所を再生させたと……?」
「阿呆ゥ、それでは結局何も捧げておらぬではないか。これじゃよ」
カーディナルは頭を横に向けると、細いうなじの上にわずかにかかる茶色の巻き毛を指先でくるりと弾いた。
「あ、ああ……」
「一本につき、百年ぶん伸ばした髪を用いてある。二つ目の剣を作ったのは、ほんの一ヶ月ほど前じゃ。お主がもっと早く来れば、切る前に自慢してやったものを」
冗談めかしているが、瞳の端にちらりと悲しそうな色が浮かんだのは、やはりカーディナルのある部分は生身の女の子のままであるという証だろうか。しかし感傷のかけらはすぐに賢者然とした態度の陰に沈み、毅然とした声が続いた。
「――以上の理由により、その短剣は見た目は小さいが、整合騎士の鎧を貫くに足るプライオリティを持っておる。さらに、ID管理上はいまだにわしの身体の一部分でもあるゆえ、大図書室を包む虚無アドレスを越えてコマンドを送り込むこともできる。……もともとは、対アドミニストレータ用に生成したものじゃ……キリト、お主に、彼奴めの猛攻撃を掻い潜りその剣を刺してもらうためにな。一本は予備のつもりじゃったが、なに、一度で成功すればよい話じゃ」
「う……責任重大だな……」
再度、右手の下で揺れる短剣を見てから、俺はようやく気付いた。深いブロンズの輝きは、カーディナルの帽子の縁から覗く短い髪の色とまったく同一だった。
ユージオも、飛び交う単語に戸惑いながらも与えられた剣の貴重さは理解したようで、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……本当に、いいんですか? 二つしかないものの片方を、アリスのために使わせてもらって……?」
「構わぬさ。それに、どちらにしろ……」
続きを飲み込み、こちらを見たカーディナルの目は、俺の内心を完璧に見透かしているようだった。そう、どちらにしろ、ユージオとアリスを含む十人のフラクトライトを現実世界に脱出させるためには、カーディナルの手を借りてアリスの洗脳を解除することもまた必須なのだ。
ユージオに全てを説明するのは、アリスを取り戻してからにしたほうがいいだろう。愛する相手と一緒なら、ユージオもこの世界を捨てることに同意してくれるかもしれない。いや、そうして貰わなければならない、何があろうとも。
いつの間にか、カーディナルの最終的計画をやむなしと考えている自分に忸怩たるものを覚えて、俺は細い鎖をぎゅっと握り締めた。そう――止むを得ないことかもしれない、この世界が消えるのは。しかしその場合でも、どうにかして、カーディナルの魂だけは十人の中に含めたい。たとえ、結果として彼女を欺くことになったとしてもだ。
全てを見通すようなカーディナルの大きな瞳から逃れるように、俺は横を向くと服の胸元をくつろげ、鎖に頭をくぐらせて短剣を胸元にぶら下げた。ユージオにも同じようにさせてから、俺は先ほどのカーディナルの説明を聞いていてふと思いついたことを訊ねた。
「そう言えば……オブジェクトを生み出すのに、何か代償となるものが必要なら、あれはどうなんだ? 俺たちがここに来たとき、あんたが山ほど出してくれた食い物は?」
カーディナルは軽く肩をすくめ、にこやかに答えた。
「何、気にやむことはない。どうでもいい歴史書が、二、三冊消えただけのことじゃ」
両手で首元の鎖を握ったまま、歴史マニアのユージオが、喉の奥でうぐっと奇妙な音を立てた。
「ん? なんじゃ、もっと食べたいのか? 育ちざかりじゃのう」
ステッキを掲げ、一振りしようとするカーディナルを、ユージオは首と両手を同時に高速運動させて押し止めた。
「い、いえもうお腹いっぱいですから! そ、それより話の続きをお願いします!!」
「遠慮せんでもいいというのに」
分かってやっているのではと思いたくなるほどににこにこしながらそう言うと、カーディナルは杖を下ろし、咳払いをひとつしてから口調を改めた。
「――順序が入れ替わってしまったが、先ほど説明したとおり、その二本の短剣こそが我々の切り札じゃ。ユージオはアリスに、そしてキリトはアドミニストレータに、それぞれの剣を刺すことのみを最優先に考えよ。成功の確率が上がると思うなら、不意打ち、死んだふり、何でもするのじゃぞ。わしが思うに、お主らが整合騎士どもに優るのはただ一点、あれこれ汚い手に精通しておるということのみじゃからな」
甚だ心外そうなユージオが何か言い出すよりも早く俺は、まったくその通りだ、と相槌を打った。
「できるものなら、全戦卑怯な手で切り抜けたいけど……残念ながら地の利は向こうにあるからなぁ。正面戦闘の備えだけはしておかないと……ということで、カーディナル。さっき言ってた、『装備面で整合騎士と同等の条件にしてやる』っていうのは、つまり神器級の武器だの鎧だのをどっさり出してくれるという意味だと解釈していいんだよな?」
このような緊迫した状況にあっても、俺に染み付いた救いがたいゲーマーの性は、"最強武器入手イベント"の匂いに敏感に反応してしまっていた。心ときめかせつつカーディナルをじっと見つめると、少女は今日何度目かのほとほと呆れ顔をつくり、何度目かのすげない台詞を口にした。
「ど阿呆ゥ、お主何を聞いておったのじゃ。よいか、高位オブジェクトの生成には――」
「――そうか……同クラスのオブジェクトの代償が必要……だった……」
「おやつを落とした子供のような顔をするでない! お主らを選んだ決断に疑問が湧いてくるではないか。大体、武器というものが、与えられたその瞬間から自在に操れる代物でないことは重々承知しておるじゃろう。どれほど強力な神器を出してやったところで、整合騎士たちが数十年にわたって使い込み、おのが血肉としておる武器に敵うものではないぞ」
俺は、まるで銀色の蛇のように自在にうねり、襲ってきたエルドリエの鞭を思い出し、頷かざるを得なかった。確かに、SAO時代でも、入手したばかりのレア武器に浮かれて習熟訓練もせずに実戦投入するような奴は長生きできなかったものだ。
おやつどころか誕生日のケーキを丸ごとひっくり返した子供のような気分でしゅんとしていると、呆れと憐れみがブレンドされた表情でカーディナルが先を続けた。
「そもそも、わしが出してやらずとも、お主とユージオにはもう充分すぎるほど強力な愛剣があるじゃろうが」
「えっ!」
弾かれたように反応したのは、隣で腹のあたりをさすっていたユージオだった。
「取り返してくれるんですか!? 青薔薇の剣と……黒いやつを?」
「そうするしかあるまいよ。あの二振りの剣はまさしく真の神器じゃ。片や、世界に四つしかない竜騎士専用武器、方や、数百年にわたって広大な領域のリソースを吸収しつづけた魔樹の精髄……あれらと同等の武器を即時生成するのは、わしやアドミニストレータでも困難じゃ。その上、お主らはあの二振りに充分馴染んでおるしな」
「なんだ……それが出来るなら早く言ってくれよ」
俺はほっと息を吐き、背中を傍らの書架に預けた。
没収されてしまった俺たちの愛剣を取り戻すことは半ば諦めていたが、あれらを回収できるならば何の不満もない。
「でも、取り返すって言っても、この場所に直接転送するとかはムリ……なんだよな?」
「うむ、ようやく分かってきたようじゃな」
俺の問いに軽く頷き、カーディナルは難しい顔で腕を組んだ。
「恐らく、そなたらの剣は塔の三階にある武具保管庫に収納されているはずじゃ。最寄りのバックドアからはほんの三十メルと言ったところじゃが、先ほど見せたように、ドアは一度使えば二度とは開けぬ。アドミニストレータめが探知のために放った蟲どもがたちまち群がってくるからな……。よって、お主らには、そのドアから出て剣を回収したあと、自力で塔を登ってもらうしかない。幸い、武具庫の正面が大階段じゃ」
「うーん、三階からスタートか……。ちなみに、アドミニストレータの部屋ってのは何階なんだ?」
「セントラル・カセドラルは年々上昇を続けておるからな……現在では百階に迫っておるはず……」
「ひゃ……」
俺は思わず喉を詰まらせた。確かに、神聖教会の雲を衝く巨塔は、セントリアのどこから見上げてもその頂きは朧に霞むほどに高かったが――いくらなんでも常軌を逸している。王道バトルものの少年マンガじゃあるまいし、まさか一階ごとに整合騎士との戦闘が待ってるんじゃないだろうなあ、といささかげんなりしながら俺は泣き言を言った。
「あのー、それせめて五十階スタートとかにならないんスかね……」
「物は考えようだよ、キリト」
苦笑混じりに口を挟んだのは、俺より十倍は前向き人間のユージオだった。
「行程が長ければ、それだけ敵も分散して出てくるだろうしさ」
「あー、うー、そりゃそうかもしれんが……」
ずるずると背中を滑らせ、通路に腰を下ろしてから、俺はがくりと頷いた。
「……まぁ、旧東京タワーの外階段を登ったこともあるしな……」
「はぁ?」
「いや、何でもない。――ともかく、これで行動の指針は決定したわけだな。まず武器庫に忍び込んで、剣を取り返す。そんでもって、出てくる整合騎士を倒しながら、階段を百階まで登る、と。作戦はシンプルなほうがいいって、誰かも言ってたしな……」
ようやく腹をくくりかけたところに、カーディナルの冷静な声が更なる水を差した。
「残念じゃが、もう一つせねばならんことがあるぞ」
「え……な、何?」
「お主らの剣は確かに強力じゃが、それだけでは整合騎士たちには恐らく勝てん。なぜなら、連中には武器の性能を数倍に増幅する秘術があるからじゃ」
「あ……"武装完全支配"……」
ユージオの掠れた呟きに、カーディナルはこくりと頷いた。
「神器級の武器は、その基となったリソースの性格を受け継いでおる。お主らが戦ったエルドリエの"星霜鞭"は、東国最大の湖の主であった双頭の白蛇をアドミニストレータが生け捕り、武器に転換したものじゃ。しかし物言わぬ鞭となったあとも、その組成式には、蛇が持っていた素早さ、狙いの正確さといったパラメータが残されておる。完全支配術はその、言わば"武器の記憶"を解放することで、本来有り得ない超攻撃力を実現するのじゃ」
「うええ、マジで蛇かよ!」
俺はうめきながら、エルドリエの鞭に噛み付かれた胸元をさすった。白蛇とやらに遅効性の毒が無かったことを祈りつつ、さらに続くカーディナルの解説に耳を傾ける。
「整合騎士たちは皆、アドミニストレータに与えられた武器の完全支配コマンドを会得しておる。長大なそれを、引っかからずに高速詠唱する訓練も含めてな。流石に詠唱の練習をしておる時間は無いじゃろうが、せめてお主らも、それぞれの剣の完全支配を実現しておかねばとても勝利は覚束ぬぞ」
「いや……でも、俺の黒いやつは、基が生き物じゃなくてただの樹だぜ……? 解放するような記憶なんかあるのか?」
「ある。先ほど渡した短剣も、わしの髪であった頃の記憶を保持しているからこそ、完全支配術と同様のプロセスによって、攻撃が成功した瞬間わしとの間にチャンネルを開くことができるのじゃ。お主の剣の前世であったギガスシダーは勿論、ユージオの青薔薇の剣の基である永久氷塊ですら例外ではない」
「こ……氷、ですか、ただの」
さすがのユージオもぽかんと口を開けた。それはそうだ、氷の記憶、と言われてもそんなもの、"冷たい"くらいしか思いつかない。俺は首を捻りながら、それでも世界に二人しかいない神様の片方が言うことだから、と強引に納得しようとした。
「まあ……あんたが術式を教えてくれるんなら、可能なんだろう、俺たちの剣の完全支配術も。必殺技が出来るのは何より有り難いよ、一体どんな技なんだ?」
しかし、返ってきた言葉はさらに予想外のものだった。
「甘えるでない! 基本となる公式だけは教えてやるが、それを完全な式に組み上げるのはお主たちじゃ。神聖術の文法はすでに二年もかけて学んでおるじゃろう?」
「な……ちょ、そりゃ無いよ! この期に及んでそんな、学院の試験じゃあるまいし……」
「与えられただけの式では、発動はできても使いこなせぬ。式を組む前に、まずその技の明確なイメージが無ければな。馴染んだ愛剣の手触り、質感、その素性に思いを致し、解放されたときのあるべき姿を想像しながら公式にコマンドを当てはめていくのじゃ。ほれ、これが公式じゃ」
もう完全に教師以外の何者でもない態度で、カーディナルはローブの袂から二本のスクロールを取り出した。げんなりしながら受け取り、紐を解くと、ぱらりと捲れた紙の端にびっしりとコマンドが墨書してあるのが見えた。
「よいか、制限時間は三時間じゃ。それまでに式を完成させるんじゃぞ」
「な、何だよ制限時間て!」
これじゃ完全に学科試験じゃないか、と愕然とする俺に、もう耳慣れた例の罵倒が浴びせられた。
「ええいこの阿呆ゥめ、先ほど、もうソルスは完全に昇ったと言うたじゃろうが!」
「そ、それが……?」
「すでに午前八時になんなんとしておる。ちなみにお主らが教会の地下牢に叩き込まれ、剣が没収されたのが、昨日の午後一時頃じゃ。このまま二十四時間が経過してしまうと、所有権が失われ、剣に対してコマンドを行使することができなくなるぞ。わかったらとっとと公式を頭に叩き込むのじゃ!」
カーディナルがステッキでかん! と床を突くと、俺たちがいる回廊の踊り場に、湧き上がるように丸いテーブルと椅子三脚が出現した。その上に乗っているお茶のポットと軽食の皿を見て、ユージオが実に複雑な顔をしたが、最早無駄口を叩いている時間はなさそうだったので、俺たちは同時に椅子に腰掛けると難解なコマンドが羅列されたスクロールに顔を埋めた。
百八十分という、現実世界ではちょっと覚えがないほど長尺の試験時間も、まっさらの紙に必死でペンを走らせるうちにあっという間に過ぎていった。
もともと、アンダーワールドにおける"魔法"である神聖術は、ファンタジーもののゲームや漫画によくある奇怪なカタカナの羅列ではなく、コンピュータ上の公用語、すなわち英語で記述されている。その構文も、命令語とその対象の指定が連続するシンプルなもので、どれほど高位の術になろうともその基本は変わらない。
ゆえに俺は、学院で教えられる神聖術にはあまり苦労することもなく馴染むことが出来た。カーディナルに与えられた課題は、さすがにこれまでで最も難物であると言えたが、武器の記憶の解放、という術のイメージさえ出来てしまえばあとは公式どおりに命令と対象を当て嵌めていくだけである。右手のペンは半ば自動的に動き、スクロール上に新たな神聖術が生まれていくさなか、俺の頭の片隅でいつまでもこだまして去らなかったのは、先刻カーディナルが口にした"リソースの記憶"という言葉だった。
カーディナルの言によれば、俺が二年間寝食をともにした黒い剣は、その構造式の内部に巨大樹ギガスシダーだったころの特性を留めているという。これは、アミュスフィアベースの一般VRMMOゲームではもちろん有り得ないことだ。
それらのゲームにおいて、例えば一本の剣を記述する情報は、その殆どが外見、つまり大きさ、形、色、傷の有無などで占められる。それに攻撃力や耐久力といったパラメータが加えられ、ゲームエンジンがポリゴンの剣を生成するのだ。そのプロセスは、根本的には、ナーヴギア以前のPCベースのゲームと何ら変わるところがない。
しかしこのアンダーワールドでは、全てが大きく異なる。
端的に言ってしまえば、存在するありとあらゆるオブジェクトは、ポリゴンではなく純粋なる"記憶の塊"なのだ。一本の剣の外見、重さ、手触りが、人間のフラクトライト中でどのような量子状態として記銘されるかを解析し、俺にはSTLが、ユージオたちにはライトキューブI/Oシステムが、それぞれ直接その情報を魂に送り込んでくるのである。ラースの技術者たちはその仕組みを、記憶的視覚、という意味を込めて"ニーモニック・ビジュアル"と呼んだ。
言い換えると、今のこの瞬間を含む世界の全てが、ある種の"思い出"で構成されているということになる。例えれば、目を閉じ、小さな子供の頃夏休みを過ごした田舎の祖父母の家を可能な限り脳裏に思い描き、瞼を開ければ周囲にその場景が現実として存在する――そんな感じだろうか。
つまり、アンダーワールドにおけるオブジェクト生成には、コンピュータ的デジタル・プロセスでは説明し切れない部分が確実に存在するのである。これまで俺は成功するまでには至っていないが、おそらく、あるオブジェクトを握り締め、STLからの入力を上書きするほどに深く強いイマジネーションを注ぎ込めば、そのモノを自在に変形させることすらも可能なのではないだろうか? ――勿論、達成できたとして、その変形を認知できるのは俺一人なのだが。
そのようなアナログ・プロセスがもたらす必然として、例えば俺の黒い剣には、それがかつて人々の記憶の中でどのような存在だったか――という情報が連続的に保持されているのだろう。"リソースの記憶"とは、そういう意味と解釈して間違いあるまい。
しかし俺は、カーディナルがその言葉を口にした時から、更なる疑問に取り付かれていた。
記憶を引き継ぐのは、果たしてこの世界の動的オブジェクト、すなわち剣や指輪や植物といった変遷するものだけなのだろうか? もっと静的な――例えば建物だの、道路、川などといった地形ですらも、かつてそこに暮らし、歩き、遊んだ人間の記憶のかけらのようなものを宿しているということはないのだろうか――?
そう考えなければ、説明できないことが一つだけあるのだ。
二年半前、この世界に放り出されたとき、ルーリッド村ちかくの小川のほとりの小道に辿り着いた俺は、あまりにも鮮明な幻を見た。夕陽を背に受けて、亜麻色の髪の少年、金髪の少女、そして短い黒髪の少年の三人が連れ立って川縁を歩いていく、言葉にできないほど郷愁的な光景を。
あれは決して、ダイブに伴う記憶の混乱だの幻覚だのではない。なぜなら、長い時間が経ったあとも、俺は鮮やかに脳裡に再生できるのだから。そのうえ、俺はあの少年の一人がユージオ、そしてもう一人が俺自身であると思えて仕方ないのだ。
もし――もしも、あの幻が、川岸の小道そのものに滲み込んだ過去の記憶だったとして――それによって連鎖的に、俺自身の記憶が引き出されたのだとすれば。
つまり俺は、子供の頃、長い長い時間をルーリッドの村でユージオと共に過ごしたのだ、ということになる――。
コン! と硬質な音が自分の手許から聞こえ、俺はハッと顔を上げた。
右手のペンを見ると、今まさに書き終えた最後の一行の右端に小さなピリオドを打ちつけたところだった。術式の最終ブロックは、発動した完全支配術の停止を命じるための定型的コマンドだったため、半ば自動的に記述していたらしい。
「三分前じゃぞ。ぎりぎりだが……出来上がったようじゃな」
背後からカーディナルの声がして、伸びてきた手がさっと書きあがったばかりのスクロールを回収していった。向かいを見れば、ユージオは俺より早くコマンドを完成させたようで、疲れ果てた表情でお茶だけ啜っている。
カーディナルはテーブルの周りをゆっくり歩きながら、二枚のスクロールに目を通し、そしてどちらに対してかは知らないが呆れ返った表情で首を振った。
「何ともはや……無茶苦茶ではあるが……これなら発動はするじゃろう。使いこなせるのかは知らんがな。どちらにせよ今から書き直している時間はない。あとは、剣を回収するまでに、なるべくコマンドを暗記するのじゃぞ」
それぞれのスクロールを丸めるとひょいっと投げて寄越し、カーディナルはかつんとステッキで床を突いた。
「さて……そろそろ、別れの時じゃ」
そう告げた声は毅然としていたが、口もとはこれまでにないほど優しく微笑んでいて、俺は思わず聞き返していた。
「おいおい……俺たちが目的を果たしたら、あんたはここから出てこられるんだろう? 別れだなんて大袈裟な……」
「ふむ、そうじゃな。全てが思うように進めばな……」
「…………」
確かに、アドミニストレータを目指す戦いの最中で俺たちが整合騎士の剣に斃れれば、俺は現実世界に放り出され、ユージオのフラクトライトは消去されてしまうことになる。ログアウト後もここでの俺の記憶が保持されるかどうかは不明だが、恐らく超高倍率のSTRA機能下で動いているはずのアンダーワールドに、再び戻ろうとしてもその時には全てが終わっているに違いない。
しかし、そのような、想定するのも無意味なほどに悲劇的な結末を指しているにしては、カーディナルの笑みは穏やかに透き通っていて、俺は胸を締め付けられるような感情を覚えた。それは何かの予感なのか、と思ったが、深く考えるよりも早く、カーディナルは身を翻して歩き始めた。
「さ、時間がないぞ。ついてくるのじゃ……武器庫最寄のバックドアにお主らを転送してやろう」
歴史書の回廊から、一階のホールを経て、無数の通路が放射状に伸びるエントランスルームまでの通路は残念なほどに短かった。
書き上げたばかりのスクロールに懸命に目を通すユージオの隣で、俺はただひたすら、前を歩くカーディナルの後ろ姿を見つめていた。
この少女もまた間違いなく、人工フラクトライトのなかにあってはユージオや、そしておそらくアリスとも並んで突出した特異な存在なのだ。それなのに、俺はたった三時間会話を交わしただけでもう別れようとしている。
もっと話をしたい――そして彼女が二百年に渡る生のなかで感じたこと、考えたことをもっと知りたい、そうしなければいけないのだ、という焦りのようなものが俺の胸を締め付けるが、カーディナルの足取りはいかなる躊躇をも許さないほどにしっかりとしていて、俺は言葉を発することができなかった。
見覚えのある、三方の壁にたくさんの通路が並ぶ部屋に俺たちを導いたカーディナルは、そのまま振り向くこともなく右手の壁にあるひとつの中に歩を進めた。さらに十数メルほど歩き、簡素な木製ドアが一つだけ嵌め込まれている突き当りの壁近くにまで至ったところで、ようやくくるりと振り向く。
唇に浮かぶ微笑みは、かわらず穏やかなものだった。ある種の満足感さえ漂うように思えるその口元が動き、澄んだ声が流れた。
「ユージオ……そしてキリトよ。世界の命運は、ただお主らの手にかかっておる。地獄の業火に包まれるか……全き虚無に沈むか、あるいは」
じっと俺の瞳を見詰め、カーディナルは続く一言を口にした。
「第三の道を見出すか……。わしは最早、告げるべき全てを告げ、与えるべき全てを与えた。あとはただ、お主らがその目と耳、そして心で感じたことに従って選べばよい」
「……ありがとうございます、カーディナルさん。きっと、最高司祭アドミニストレータを倒して……アリスを元に戻してみせます」
決意の滲む声で、ユージオがきっぱりと言った。
俺も何かを言わなければならないと思ったが、今口から出る言葉はこの先に進むことを躊躇うようなものだけになってしまうような気がして、ただ一度大きく頷くにとどめた。
カーディナルも頷き、ローブから伸ばした右手をドアノブに掛けた。
「では……行くのじゃ!」
カチャリ、とかすかな音とともに鍵が外れ、次の瞬間ドアは大きく開け放たれた。途端吹き込んでくる、凍るような冷気に抗って、俺とユージオは並んだまま一気に外に飛び出した。
そのまま五、六歩駆けたところで、背後で再び小さな音がした。肩越しに振り向くと、滑らかな大理石の壁が白く伸びるのみで、最早ドアはその痕跡すら残さず消え去っていた。* しばらくのあいだ、二組のブーツが大理石の階段を蹴る音だけが鳴り響き続けた。
それを除けば、恐ろしいほどの全き静寂に世界は包まれている。ユージオの知る限りでは、神聖教会の巨塔にはたくさんの修道士やその見習いが起居しているはずなのだが、どれほど耳を澄ませ、目を凝らしても、人の営みらしきものを感じることはできない。
加えて、上の階に辿り着くたびに視界に入る光景が一切変化しない――半円形のホールから左右に伸びる回廊と、そこに等間隔にならぶ黒檀の扉――ために、いつの間にやら幻惑系の術でも掛けられて、同じ階段を繰り返し登っているのではないかと疑いたくなってくる。
そうでないことを確認するために、一度回廊のに入って扉を端から開けてみたい、という衝動に駆られるが、前を行くキリトがあまりにも一定のペースで黙々と登りつづけるので気を散らしている場合ではないと思い直した。デュソルバートの言葉が真実なら、二人の向かう先、カセドラル五十階において十人もの整合騎士が待ち受けているはずだ。
左腰で揺れる白革の鞘にそっと触れて、ユージオが雑念を振り払おうとした途端、踊り場に差し掛かったキリトが急に足を止めた。
厳しい顔つきで振り向き、何事か喋ろうとする様子なので、思わず固唾を飲む。
「なあ……ユージオ。……今、何階だっけ……?」
「あ……あのねえ」
膝から崩れそうになりながら、ユージオはため息をつき、首を振り、肩を落とす三動作を同時に行った。
「次が二十九階だよ。まさかと思うけど、数えてなかったんじゃないだろうね」
「普通、階段には階数表示くらいあって然るべきだと思わないか」
「そりゃそうだけど、だからって今ごろ気付くなよ!」
ユージオの指摘をどこ吹く風と受け流し、キリトは手すりにどすんと背中を預けた。
「しっかしまだそんな所かよ……もう随分登った気がしたけどなあ……腹減ったなあ……」
「……まあ、それは同感だけどね」
あの図書室で豪華な朝食を振舞われてから、もう五時間近くが経過している。踊り場の窓を見上げればソルスはすでに中天を過ぎ、しかも激しい戦闘をひとつくぐり抜けているとなれば、体が補給を求めるのもやむを得ない。
キリトの言葉に頷き、続けてユージオは右手を差し出しながら要求した。
「だから、そのズボンのポケットに入ってるものを一つ寄越せよ」
「えっ……いや、これはその、非常事態用に……て言うか目敏いなお前」
「そんなに詰め込んどいて何言ってんだ」
キリトは本気で惜しそうな顔を作りながらも、右ポケットから蒸しまんじゅうを二つ取り出し、一つを放ってきた。受け取ると、図書室を出てから随分時間が経っているにも関わらず香ばしい匂いが鼻と胃を刺激する。
「あのおっさんの火焔攻撃でちょっとコゲたぞ」
「ははあ……なるほどね」
カーディナルが術で生成した食料を、キリトはいつの間にやらポケットに忍ばせてきたに違いなく、ということはこのまんじゅうの元になったのは貴重な古書の何ページ分かだという事になるのだが、ユージオはそれには目を瞑って大きく一口齧った。かりっとした皮の下から汁気のある肉餡が飛び出してきて、しばし一心に咀嚼する。
ささやかな午餐はほんの数十秒で終了し、ユージオは指をぺろりと舐めると短く息をついた。キリトの左側のポケットがまだ怪しく膨らんでいるが、そちらは勘弁してやることにして、同時に食べ終わった相棒に声を掛ける。
「ご馳走様。――で、どうする気? あと半刻も登れば問題の五十階だけど……正面から乗り込むのかい?」
「んー……」
キリトはわしわしと髪を掻き混ぜながら唸った。
「……整合騎士の超攻撃力はさっき体験した通りなんだが……お前とおっさんの戦闘を見た限り、やっぱりあいつらは連続技には慣れてない、と言うよりまったく未体験なんだろうな。一対一の接近戦に持ち込めれば勝機はある……けど、敵が複数の上に準備万端待ち受けてるんじゃそれも難しい」
「じゃあ……他の階段を探してすり抜ける?」
「それもなあ……カーディナルが、唯一の通路がこの大階段だって断言してたし、仮に抜け道が見つかっても、大詰めに来てから挟み撃ちになる危険が残るしな……五十階にいる十人は、どうにかしてそこで倒しておきたい。ということで、俺たちの最後のカードを切らざるを得ないわけなんだが……幸い、おっさんが警告してくれたおかげで、こっちとしても突入前に長ったらしい術式を準備しておく時間がある」
「"武装完全支配"……」
ユージオが呟くと、キリトは難しい顔で頷いた。
「ぶっつけ本番で使うのは不安だけど、今更試し撃ちしてみる機会もないしな。俺たちの"必殺技"を先制で叩き込んで、何人戦闘不能にできるかに賭けるしかないだろうな……」
「あー、その事なんだけど、キリト」
少しばかりばつの悪さを味わいながら、ユージオはキリトの言葉を遮った。
「その……僕の完全支配術は、さっきの整合騎士の技みたいに直接攻撃的って感じじゃないかも……」
「はぁ?」
「いや、だってさ……式を組む時間も限られてたし、剣の素性を思い描けって言われても……青薔薇の剣の元はただの氷だしさ……」
言い訳がましく呟いて、ユージオは新しい上着のポケットに移しておいた小さなスクロールを差し出した。首を傾げながらキリトが受け取り、解いて目を走らせる。相棒の眉間にたてじわが寄ったり消えたりするのをユージオははらはらしつつ眺めたが、最終的にキリトは、予想に反してにんまりと笑い、頷いた。
「なるほど、確かにこれは"攻撃的"とは言いづらいな。でも……良く出来てる。俺の技と相性も悪くなさそうだしな」
「へえ。どんな技なんだい?」
「それは見てのお楽しみだ」
調子のいい事を言いながらスクロールを返して寄越すキリトを、ユージオは軽く睨んだ。しかし相棒は澄まし顔で前髪をかき上げ、再び背中を手摺に預けた。
「ま、作戦とも言えないような作戦だけど、五十階突入前に武装完全支配術を発動待ちで保持しといて、突っ込んだらまずお前、次に俺が必殺技をぶちかます。うまくハマれば十人の半数以上は無力化できるかもしれん」
「かも、ねえ」
大袈裟にため息をつきながらそう相槌を打って見せたが、実のところユージオにも腹案などありはしない。あらゆる状況を利用した作戦を立てる能力は相棒のほうが一枚も二枚も上手であるのは認めざるを得ないところだし、そのキリトがそれしか無いと言うなら恐らくその通りなのだ。