一瞬の驚きは、すぐに歓喜へと変わった。これで、醜い死に様を晒す敵軍の有様すらも、間近で鑑賞できるというものだ。
「焦るな!! 充分引き付けろ!! …………まだ……まだだ…………――今だ、放てぇぇぇッ!!」
ゾワアアアァァァァッ!!
怖気をふるうような唸りとともに、無数の長虫が、敵軍目指してまっすぐに飛びかかっていった。
まるで漆黒の壁のごとく峡谷を埋め尽くし、押し寄せてくる術式を視認して、一般民の衛士のみならず、上位整合騎士たちまでもが言葉を失い思考を凍らせた。
その、有り得ないほどの――恐らく、先にアリスが使った反射凝集光線術を上回る超々高優先度と、さらに術式の属性を瞬時に認識したがゆえのことだった。
闇素因系呪詛攻撃。
物理防御不可能な、直接天命損耗術。
空間力の変換効率が異常に低い呪詛術式を、なぜ敵がこれほど大規模、高密度に行使できたのか――しかも周囲の力場はほぼ枯渇しているのに――、という謎を看破できたのは、騎士長ベルクーリだけだった。
しかし彼とても、対応防御策を即座に指示することまではできなかった。
あらゆる攻撃術には、その源となった素因や、密度、範囲、速度、方向性など、多くの属性が存在する。
ゆえに防御するためには、それら属性のいずれかを相殺、あるいは逆利用する必要がある。火炎術なら凍素で打ち消す、追尾術なら囮を撒く、直進術なら己を高速回避させる、など、適切な対応を瞬時に選択実行できることが高位術者の条件であると言っていい。
だが、この場合だけは。
敵の攻撃が、あまりにも規格外だった。
闇素因術を相殺できるのは光素因のみ。しかし、光素もまた転換効率が低く、とてもあれだけの呪詛を昇華できるほどの量を生成はできない。ファナティオの記憶解放攻撃ならば間違いなく敵術式を撃ち抜けるが、天穿剣の光はあまりにも細すぎるし、そもそもこの場には居ない。
「回避!! 急上昇!!」
ベルクーリにしても、ただそう叫ぶことしかできなかった。
五匹の飛竜が、螺旋を描くように反転し、まっすぐ峡谷の上空を目指す。
ゾッ、ワァッ!!
闇色の奇蟲群も、おぞましい羽音とともに向きを転じる。
しかし。
「――いかん!!」
ベルクーリが叫んだ。
追ってくる蟲たちは、全体の半分にも満たない量だった。
残りはすべて、後方を駆けてくる衛士たちと、補給部隊目掛けて直進した。
「……っ!!」
鋭い呼吸音を漏らし、騎士アリスが飛竜を再び反転させた。下方を這い進む暗黒術の先頭めがけて突っ込んでいく。
シャッ!! と高らかな鞘鳴りとともに金木犀の剣が抜かれた。たちまち、刀身が山吹色の輝きを帯びる。
「嬢ちゃん!! 無理だ、その技では!!」
ベルクーリの叫びが上空から響いた。
そう――、一対多の戦闘に於いても、圧倒的なまでの威力を示す金木犀の剣の武装完全支配術だが、あくまでも物理金属属性なのだ。実体の薄い呪詛を斬ることはできない。
アリスにも、それはいやというほど理解できていた。
しかし、衛士たちが襲われるのをただ見ていることなどできなかった。
そのとき。
更に一頭の竜が、翼を畳み、流星のような勢いでアリスの雨縁を追い抜いた。
滝刳。
騎士エルドリエの竜だった。
師を追随して竜を上昇させる最中、エルドリエの脳裏には、ただひとつの言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。
守る。
師を、アリスを、剣を奉げ献身を誓った人を、守らなければ。
だが、同時に、まったく同じ音量で決意を嘲う声も聞こえた。
どうやって守るというのだ。お前ごとき力足らずが。あらゆる能力に於いてはるか劣り、そのくせ師の視線を、気持ちを求めてやまない愚か者が。
これまでの年月、エルドリエの剣力の源となっていたのは、ひとえにアリスに尽くさんという強烈な心意だった。それあってこそ彼は騎士団有数の力を得ることができたのだが――ゆえに、揺らいだときの反動もまた巨大だった。
自分には、師アリスを守る力も、その傍らに立つ資格もない。
そう思いつめた時点で、彼の力は、すでにほぼ喪われつつあったのだ。
すぐ眼前を飛翔するアリスの、金色の髪のきらめきを、エルドリエはただ追った。
かくなる上は、師とともに、同じ地に命を散らすのも――また良し。
そんな諦めとともに、反転するアリスを追随したエルドリエの視界に、地上を突進する衛士隊が捉えられた。
その後方。
土煙を上げて進む高速馬車。
一台の幌を貫いて、ひとつの、ささやかな青い光がちかちかと瞬いた。
脳裏に、不思議な声が聞こえた。
――あなたの決意に。
――守りたいという気持ちに。
――代価は必要ない、そうでしょう?
――愛は求めるものじゃない。ただ与え、与えつくして、なおも枯れることのないもの。そうでしょう……?
ああ……。
私は、何を、迷っていたのか。
力が足りないから。心を独占できないから。だから守れない。
なんてちっぽけな……。
アリス様は、人界すべてを救おうとしているというのに。
エルドリエは、右手で滝刳の手綱を強く鳴らし、叫んだ。
「行けッ!!」
主の心意を感じ取ったかのように、竜が翼を引きつけ、一気に加速した。たちまちアリスの竜を追い抜き、殺到する死の長虫の群れの直前に達する。
左手がひらめき、腰から白銀の鞭を抜いた。
神器"星霜鞭"は、かつて東方で神蛇と呼ばれた、巨大な蛇を源とする武器である。その記憶を解放することで、射程を五十メルに伸ばし、同時に七の目標を攻撃する。
今の状況では、そのような拡張性能は何の役にも立たない。
しかしエルドリエは、断固たる確信とともに、強く念じた。
蛇よ!!
古の神蛇よ!
貴様もくちなわの王ならば、あれらごとき長虫の群など――喰らい尽くしてみせろッ!!
「リリース・リコレクション!!」
高らかな一声。星霜鞭が、まばゆい銀の光を放った。
迸った光条は、幾百、千をも超える数となり、闇の虫群へと襲い掛かっていく。
いつしか光はすべて、輝く蛇へとその姿を変えていた。エルドリエの左手から放射状に放たれた蛇たちは、鋭い牙の煌くあぎとを大きく開け――死の長虫に喰らい付いた。
ゾワアッ!!
無数の震動音とともに、闇素の粒が舞い散った。衛士たちを襲おうとしていた一群と、上空の騎士に向かっていた一群が、すべて光の蛇を最優先の敵と認識したがごとく、瞬時に向きを変えた。
蛇たちが、たちまち無数の長虫に纏わりつかれる。闇の呪詛は、蛇の身体を覆い、さかのぼり、その源へと殺到していく。
エルドリエは、いまこの状況で唯一干渉可能な、敵術式の属性――。
"自動追尾属性"を逆利用し、己ひとりの身に、全威力を集中させたのだ。
ゾッ。
騎士の全身が、闇に呑まれた。
直前まで、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックスの天命は、数値にして5600を少し超えていた。
その値が、瞬時に、マイナス500000へと変化した。
エルドリエの体が、胸のすぐ下で、爆発するように砕け、飛び散った。
「エルドリエ――――――!!!」
アリスは絶叫した。
四年の年月を共に過ごした、ただ一人の弟子が、肉体のなかば以上を失い竜の背から滑り落ちていく。
雨縁を急降下させたアリスは、身体を乗り出し、左手を限界まで伸ばして、エルドリエを掴み止めた。そのあまりの軽さに息が詰まったが、歯を食いしばり、胸に掻き抱いて竜を上昇させる。
主を気遣うように、滝刳もすぐ隣を追ってきた。併進する竜たちの上で、アリスはもう一度叫んだ。
「エルドリエ!! 眼を……眼を開けなさい!! 許しません、このようなところで……私を、一人にするなど!!」
胸から下を失い、蒼白に色を失ったエルドリエの瞼が、わずかに震えた。
うっすらと持ち上がった睫毛の下で、紫がかった瞳が、朧な光を湛えてアリスを見た。
「……師、よ……、ご無事で…………」
「ええ……、ええ、無事ですとも、そなたのお陰で!! 言ったでしょう、私にはそなたが必要なのです!!」
不意に視界が歪んだ。エルドリエの頬に、いくつもの水滴が散った。それが己の涙だと知ることもなく、アリスは弟子の体を強く抱いた。
耳元で響く、声ならぬ声。
「アリス様……あなたは、もっと、ずっと……多くの人々に、必要とされて……おります。私は……なんと小さかったのでしょうな……あなたを……独り占め、しようなどと……」
「そなたが求めるなら何でもあげます!! だから帰ってきなさい!! 私の弟子なのでしょう!!」
「もう、じゅうぶんに頂きました」
満ち足りたような囁きとともに、腕のなかのささやかな重みが、いっそう薄れ、遠ざかっていくのをアリスは感じた。
「エルドリエ!! エルドリエ――!!」
呼びかける声に、最後のつぶやきが、ぽつりと重なった。
「泣かない……で…………かあさ……ん…………」
そして、整合騎士エルドリエ・シンセシス・トゥエニシックス、またの名を二等爵士家嫡子エルドリエ・ウールスブルーグの魂は、永遠にアンダーワールドから去った。* 愛する弟子の体が、まるで、数秒間にせよ存在し言葉までも交わしたのが奇跡であったかのように、止めようもなく空気に溶けていくのをアリスは感じた。
鎧の欠片すらも残さずからっぽになったかいなの中に、かすかに漂う温もりを一杯に吸い込んでから、アリスはきっと顔を上げた。
これは戦だ。
だから、敵がどのような攻撃を行おうと、それによってどのような損害を被ろうと、その事自体を恨むのは筋違いだ。事実、ほんの数十分前、アリス自身も無慈悲としか言えぬ巨大術式で、万になんなんとする敵軍の命を奪っているのだから。
なればこそ。
この怒りを。哀しみを。更なる力に変えて、一層の殺戮をもたらしたとしても――
「……よもや覚悟しておらぬとは言うまい!!」
右手の剣をまっすぐ前方に向け、アリスは叫んだ。
「雨縁! 滝刳! 全速突撃!!」
術式拘束によって使役される飛竜は、本来、決められた主以外の者の戦闘命令は絶対に受け付けない。
しかし、二頭の兄妹竜は、同時に鋭い咆哮を轟かせると、翼を打ち鳴らして突進を開始した。峡谷の外側、炭色の大地がどこまでも連なるダークテリトリーの光景がたちまち近づく。
瞋恚に突き動かされながらも、アリスの蒼い瞳は、敵本陣の隊形をすばやく視認した。
三百メルほど先、左側に、揃いの金属鎧に身を包んだ暗黒騎士団、約五千。右には逞しい裸形を革帯で締め上げた拳闘士団、同じく五千。これらが敵軍の主力だ。
さらに後方には、亜人の残存兵力と思しき一万以上のオーク、ゴブリン歩兵と、大規模な輜重部隊が展開している。あのどこかに、敵の総大将、暗黒神ベクタも居るはずだ。
そして、もっとも手前、騎士と拳闘士の部隊に挟まれるように密集する、黒衣の集団があった。
あれだ。あれが、先刻の大規模暗黒術を行使した術師部隊だ。数は約二千か。
突進する飛竜を見上げ、恐慌に陥ったかのようにばらばらに後退しようとしている。
「逃がさん!!」
低く叫ぶと、アリスは竜たちに命じた。
「彼奴らの後方を狙え!! 熱線……放てッ!!」
即座に首をたわめた兄妹竜の、開かれたあぎとに白い陽炎が宿る。
シュバッ!!
大気を灼いて平行に迅った二条の光線が、後退する暗黒術師たちの行く先へ突き刺さった。
大地を揺るがす爆音。吹き上がる火炎。巻き込まれた人影が、木の葉のように舞う。
炎に退路を塞がれた術師らは、完全に統制を失い、ひとところにわだかまった。
アリスは金木犀の剣を高々と掲げた。刀身が、太陽よりも眩い山吹色の光を放つ。
ジャッ!
歯切れのいい音を立てて、剣が幾百もの小片へと分離した。それら一つひとつは、アリスの心意を映して、かつてないほど鋭利に尖った姿をしていた。
馬鹿な。
有り得ん!!
暗黒術師総長ディー・アイ・エルは、峡谷から一直線に突進してくる竜騎士を見上げながら、胸中で絶叫した。
三千のオークの命を贄とし、二千の術師が詠唱した"死詛蟲"術は想定以上の威力を孕んで敵軍へと襲い掛かった。整合騎士はおろか、地上の兵どもも悉く食い荒らして尚余りある規模だったはずだ。
なのにどうしたことか、あらゆる命を貪ろうとするはずの術式が、たった一人の騎士へと集中し、まったく馬鹿馬鹿しい過剰殺戮のみを行ったあげくに消滅してしまったのだ。
あれほどの規模の術をすべて誘導し得るような、大量の擬似生命を各種素因から合成する時間も空間力もまったく無かったはずなのに。論理的ではない。まったく理屈に合わない。
この私が、世界の叡智の中心たる暗黒術師ギルド総長が知らない力など、存在するものか!!
だが事実として、敵軍はたった一人の犠牲を出したのみで再度の前進を開始し――ああ、何ということか、術師隊目掛けてまっすぐに襲い掛かってくる。
「後退!! 総員後退!!」
ディーは叫び、自ら二輪馬車の手綱を引いて向きを変え、走り出そうとした。
しかし直後、頭上を二筋の白い光が貫き、ほんの数十メル先へと突き刺さった。
轟音とともに爆炎が膨れ上がり、数十人の部下が巻き込まれて悲鳴を上げた。あわてて馬たちを制止させたディーのところまでも熱波が押し寄せ、自慢の髪をちりちりと焦がした。
「ひっ……」
悲鳴を上げ、ディーは馬車から転がるように降りた。こんなものに乗っていては、的にしてくれと言うようなものだ。
部下に紛れて右へと走ろうとしたディーの視界を、眩い黄金の光が照らした。
吸い寄せられるように見上げた先で、一頭の竜の背に跨る整合騎士の剣が、無数の光へと分離した。
その光ひとつひとつが、恐ろしいまでの威力を秘めていることがディーには直感的に察せられた。この場に薄く漂う空間力から、どのような素因を生み出そうと防げるものではないことは明らかだった。
糞ッ、畜生ッ、死んでなるものか!!
こんな下らない場所で!! 世界の王となるべきこの私が!!
鬼神の形相で眦を吊り上げたディーは、かぎづめのように指を曲げた両手を振りかざし――すぐ前を走る二人の術師の背に突き立てた。
ずぶり、と鋭い爪が苦も無く肌を裂き、肉に潜る。握り締めた丸い柱は、背骨に他ならない。
「で、ディー様!?」
「なにを……っ!? お、おやめくださっ……」
引き裂くような悲鳴を上げる部下たちの言葉に耳も貸さず、高位暗黒術師は、凶相に笑みを浮かべながら起句を唱えた。
続く駆式は、まさしく呪詛としか言えぬものだった。
物体形状変化。それも、生きた人間の天命を力源とし、その肉体を変容させる呪わしい秘術だ。
ぶじゅる。
血と組織片を振りまきながら、ふたつの若く美しい躯が、肉色の組織へと溶けた。それらは、地面にうずくまったディーを隙間無く覆い、硬化して、弾力のある生きた防御膜を作り出していく。
直後、地上を、山吹色の死の嵐が覆いつくした。
アリスは、耳に届く悲鳴、断末魔の絶叫を、心を鬼にして完全遮断した。
もう二度とあの術は使わせない。術者も、その記憶すらも地上から抹消する。
右手に残った、光り輝く柄を振りぬくたび、その動きに従って眼下の敵部隊を鋭利な花弁が薙ぎ払っていく。金属鎧を身につけない術師たちは、抗うすべもなくその身を穿たれ、地に臥す。
二千はいたと思われる術師隊の、九割近くを殲滅したと確信するまで、アリスは記憶解放状態を維持し続けた。剣の天命はかなり損耗しただろうが、惜しむつもりはまったく無かった。
折り重なる仲間たちの骸に目もくれず、二百弱の術師たちが火炎を回り込んで後方へと逃げ延びていったが、それらまでは追わず、アリスは視線を空へと引き戻した。
左側奥、暗黒騎士団の後方から、十騎ほどの飛竜が離陸するのが見えたのだ。
空中戦へと移行するかと思ったが、敵の竜騎士はこちらを牽制するように旋回するだけで、距離は詰めてこなかった。理由はすぐにわかった。後方から、ベルクーリらの竜が追いついてきたのだ。
「嬢ちゃん……! 無理すんじゃねえ!」
エルドリエの死を気遣ってか、すぐ隣に滞空し、そう声を掛けてくる騎士長に、アリスは強張った顔を向けて頷いた。
「ええ……大丈夫です、小父様。衛士隊の離脱支援のほう、よろしくお願いします。私は、囮の役目を果たしてきますから」
「おう……だが、あんまり突っ込むなよ!」
ベルクーリは叫び、敵竜騎士に向き直った。アリスは、傍らの滝刳に滞空指示を出し、雨縁を微速で前進させた。
暗黒騎士の、拳闘士の、オーク、ゴブリンの――そして位置まではわからないが、巨大な気配を持つ何者かの意識が己に収束してくるのを、アリスはまざまざと感じた。
後方では、峡谷から出た衛士隊と補給隊が、南へ転進し全速離脱していく震動が低く轟いている。
その足音を覆いつくさんばかりの声で、アリスは高々と叫んだ。肉声は心意に乗り、天地四方に響き渡った。
「――我が名はアリス!! 整合騎士アリス・シンセシス・フィフティ!! 人界を守護する三神の代理者、"光の巫女"である!!」
直後、敵の全軍が重く震えた。無数の渇望が、触手のように伸び上がってきてアリスに触れる。やはり、敵は人界の侵略と同じかそれ以上の重さで、"光の巫女"なるものを求めているのだ。
それが真に己のことなのか、それとも自分はただの僭称者なのか、そんなことはアリスにはどうでもよかった。ただ、敵の半数が自分を追って来さえすれば。敵をこの地から引き離し、時間を稼ぐことで、エルドリエが、ダキラが、そして散った多くの衛士たちが望んだ人界防衛の望みが少しでも繋がるのなら、それでよかったのだ。
「我が前に立つもの、悉く聖なる威光に打ち砕かれると覚悟せよ!!」
「おお……」
皇帝にして暗黒神ベクタ、または魂の狩人ガブリエル・ミラーは、玉座から立ち上がると、低い声を漏らした。
「おお」
三千のオークユニットを消費した攻撃までもがどうやら失敗したこと、術師ユニットの大半が破壊されたらしいことさえも、ガブリエルに一切の動揺は与えなかったが、しかし今この瞬間だけは、彼の冷え切った魂が確かに震えていた。
かすかな、笑みらしき形を作った薄い唇から、さらに密やかな声が放たれた。
「アリス……。――アリシア」
はるか一キロ以上も彼方の空に浮かぶ、黄金に光り輝く一人の騎士の姿を、ガブリエルの両眼は詳細に捉えていた。
まっすぐに流れる金髪。抜けるような白い肌。真冬の空のように澄み切った蒼い瞳。
ガブリエルの意識のなかで、その容姿は、かつて手にかけた少女アリシア・クリンガーマンの、美しく長じたすがたへと完全に重なった。あの時つかまえそこねたアリシアの魂が、いまこの場所に再び現れたのだと、ガブリエルには何の疑いもなく確信できた。
今度こそ。
こんどこそはこの手に捕らえねば。永遠に閉じ込め、保存し、所有し尽くさねば。
竜の首を翻し、南の夜空へと飛び去っていく竜に、青い炎にも似た視線を向けながら、ガブリエルは伝令髑髏に低く、しかし熱く囁きかけた。
「全軍、移動準備。拳闘士団を先頭に、暗黒騎士団、亜人隊、補給隊の順に隊列を組み、南へ向かえ。あの騎士を、光の巫女を無傷で捕らえるのだ。捕らえた軍には、人界全土の支配権を与える」
動き出した闇の軍勢が巻き起こす土埃が、血の色の星ばかり瞬くダークテリトリーの夜空に幾筋もたなびき始めた。
晶素から生成した簡易遠視器を覗いていた騎士長ベルクーリが、顔を上げて低く唸った。
「こりゃ何と……暗黒神とやらは、随分と嬢ちゃんにご執心のようだな。ほぼ全軍で追っかけてくる気らしいぞ」
「喜ぶべき、なのでしょうね。少なくとも無視されるよりは遥かにマシです」
緊張を生ぬるいシラル水で飲み下しながら、アリスは呟いた。
人跡未踏の――あくまで人界人は、という意味だが――ダークテリトリーの荒野を、東の大門跡から真南に五千メルほども直進したところに見出した小さな丘陵で、守備軍囮部隊は最初の小休止を取っている。
衛士たちの士気は高い。
一時は全員を絶望の淵に叩き落した敵の巨大術式を、ひとりの整合騎士が身を挺して防いだことで、その意気に報うべし! という集合心意が彼らを包んでいるのだ。
しかしアリスは、と言えば、いまだにエルドリエの死を受け入れられないでいる。
ルーリッドでの半年を除けば、四年間というもの彼は常にアリスに付き従い、お勧めのワインやらお菓子やらを発掘しては味見させたり、下手かつ気障な冗談を披露したり、とにかく一日として大人しくしていることはなかった。
いったいこの者は、剣と術を学びに来ているのか、それともただ騒ぎにきているのかと首を捻ることもしばしばだった。だが、今にしてようやくわかる。エルドリエの存在が、いかに自分の心を軽くし、風通しを良くしてくれていたか。
……そこにあるときは、それが当たり前すぎて存在にすら気付けないのに、なくしてはじめてこんなに巨大な喪失を感じるなんて。
アリスは北西の空に鋭く連なる果ての山脈に視線を振りながら、右手でそっと腰の後ろに留めた一巻きの鞭――"星霜鞭"に触れた。
ユージオの剣を決して離そうとしないキリトの気持ちが、今ならばよくわかる。
一瞬瞑目したアリスが、再びまぶたを開くのを待っていたかのように、騎士長が言った。
「今後の方針だが……基本的には、囮部隊の整合騎士五、いや四と千二百の衛士の最後の一人が倒れるまで、ひたすら敵軍を引っ張り、頭数を削いでいく、ということでいいんだな?」
丘陵の突端、一際高い小岩に並んで立つ騎士長に、アリスは深く頷きかけた。
「私はそう考えています。すでに、侵略軍五万のうち半数以上を殲滅し、また最も厄介と思われた暗黒術師隊もほぼ掃討しました。あとは敵主力たる騎士と拳闘士をある程度損耗させ……そして暗黒神ベクタさえ倒せば、残敵が休戦交渉のテーブルに着く可能性は高い、と思いますがいかがでしょう」
「うむ……問題は、その時敵軍のアタマが誰になってるのか、ということだがな……。シャスターの小僧さえ健在ならばな……」
「やはり、暗黒将軍がすでに……というのは確実ですか、小父様」
「先刻、一瞥した限りではあの場には居なかった。シャスターだけでなく、嬢ちゃんと戦ったこともある彼奴の女の気配もしなかったな……」
太いため息。ベルクーリが、暗黒将軍とその弟子である女騎士に、秘かに大きな期待を掛けていたのだということをアリスは知っている。
そっと首を振り、最古の騎士は低く呟いた。
「いまは、彼奴の地位を継いだ暗黒騎士が、魂をも受け継いでいることを祈るのみだ。望み薄……だが」
「薄いですか」
「うむ。この地に生きるものたちは、禁忌目録のような成文法は一切持たない。あるのはただ、"強者に従う"という不文律のみだ。そして……残念ながら、暗黒神ベクタとやらの心意は圧倒的だ……青二才の暗黒騎士なぞでは到底太刀打ちできまい……」
確かに、先刻敵軍の上空で名乗りを上げたときアリスは、恐ろしく冷たく、底なしに暗い気配が敵の後方から伸び上がり自分に迫ってくるのをまざまざと感じた。あんな感覚は、記憶にあるかぎり初めてのものだった。最高司祭アドミニストレータの心意を銀の電光に喩えるならば、あれは永遠の虚無だ。
思い出しただけで軽く粟立った二の腕をそっとさすり、アリスは頷いた。
「そうですね……神に逆らおう、などという愚か者がそうそう居るとも思えませんし」
すると、騎士長はふっと短く笑みを漏らし、アリスの背中をぽんと叩いた。
「とは言え、我らが人界には三人も現れたわけだしな。この地にも気骨のある奴がまだ居ることを願おう」
その時、上空から強い羽ばたき音が響き、二人は顔を上げた。
旋回降下してくるのは、騎士レンリの飛竜、"風縫(カゼヌイ)"だ。竜の爪が地面を捉えるよりはやく、軽快な身のこなしで飛び降りた少年騎士は、一息つくと急き込むように言葉を発した。
「報告します、騎士長どの! この先八百メルほど南下したところに、伏撃に利用可能と思われる潅木地帯が広がっています!」
「よし、偵察ご苦労。全軍をそこまで移動させてくれ、配置は追って指示する。お前さんの竜はそろそろ限界のはずだ、たっぷり餌と水を与えて休ませておけよ」
「はっ!」
素早く騎士礼を行い、走り去っていく小柄な影を見送ってから、アリスはふと騎士長の口元にかすかな笑みが浮かんでいるのに気付いた。
「……小父様?」
問いかけると、ベルクーリは一瞬照れたように顎をかき、いや何、と肩をすくめた。
「記憶を奪い、天命を停止させて整合騎士を造る"シンセサイズの儀式"……とても許されることではないが、しかし、もうああいう若者が騎士団に入ってこないのは残念なことだ、と思ってね」
アリスは少し考え、同じく微笑みながら言った。
「記憶改変、天命凍結処理を経なくては整合騎士にはなれない、なんてことは無いと思いますわ、小父様」
右手でもう一度、星霜鞭をそっと撫でる。
「たとえ我ら悉く地に臥そうとも、魂は、意思はかならず次の誰かに受け継がれると、私はそう信じます」
「よぉし、やっとで出番か!!」
ばしぃっ、と右拳を左掌に打ちつけ、拳闘士ギルド筆頭たる若きイシュカーンは威勢よく叫んだ。
闘いの熱を間近に感じながら、ただ座して待つのみだったこの一時間の何と長かったことか。
亜人部隊を焼き払った眩い光の柱も、暗黒術師らが行使したおぞましい長虫どもも、"光の巫女"を執拗に求める皇帝ベクタの謎めいた命令すらも、イシュカーンの闘志には何らの影響も及ぼしていない。
己の肉体と、それ以外の全て。世界はそのように二分され、そしてイシュカーンの興味は、肉体を高めること以外にはまったく向けられることはないのだ。彼には、たとえ先に見たような巨大術式の標的となろうとも、拳と気合ですべて跳ね返してみせるという断固たる自信があった。
赤銅色に灼けたたくましい裸体に革の腰帯とサンダルのみを身につけた拳闘士は、くるりと振り向くと、自身が率いる屈強の男女五千と、その後ろに続く暗黒騎士団を見やった。ほんの五分ほど駆け足移動しただけなのに、拳闘士団と騎士連中との間には千メル近い距離が開いてしまっている。
「相変わらず動きが遅いな、騎士ってのは!」
毒づくと、すぐ隣に控える、イシュカーンよりも頭一つ以上も背の高い巨漢が巌のような口元に苦笑を浮かべた。
「やむを得ぬでしょう、チャンピオン。彼らは体と同じほどにも重い鎧と剣を身につけているのですから」
「何の役にも立ちゃしないのにな!」
言い切り、イシュカーンは再び前を向くと、軽く足踏みをしながら奇妙な動作を行った。右手の五指で筒をつくると、それをひょいと右眼に当てたのだ。
見開かれた炎の色の虹彩の中央で、瞳孔が拡大する。
「オッ、あいつら動き始めたぞ。こっちに……じゃ、ないな。まだ下がる気かよ」
短い舌打ち。
夜闇に沈む、五千メルも彼方の地平線上にいる敵の動向を正確に見て取ったイシュカーンは、少し考えてから言った。
「なあ、ダンパ。皇帝の命令は、追っかけて掴まえろ、だけだったよな」
「そのようですな」
「うっし……」
右手の親指を軽く噛みながら、にやりと笑う。
「少しつついてみるか。――兎隊百人、前に出ろ!!」
後半を高く張り上げた声に、即座におうっという剽悍な唱和が返った。
部隊から飛び出してきたのは、やや細身の――と言っても鞭のような筋肉をたっぷりと蓄えた――闘士たちだった。額に、揃いの白い飾り革を巻いている。
「整合騎士とやらに軽く挨拶に行くぞ! 気合入れろよ!!」
おうっ。
「十七番武舞踏、開始!!」
イシュカーンは叫ぶと同時に右手を突き上げ、両足を激しく踏み鳴らした。
まったく同じ動作を、側近ダンパと"兎隊"の百人も、一糸乱れぬ完璧な統御で繰り返す。
ズン、ザ、ザザッ。
うっ、らっ、うっらっ。
リズミカルな足踏みと唱和が鳴り響くにつれ、イシュカーンの赤金色の巻き毛から汗が迸り、肌は真っ赤に上気していく。部下らもまったく同様だ。
ほんの三十秒ほどで舞踏は終了し、百と二人の闘士たちは全身から湯気を上げながら動きを止めた。
いや、それだけではない。闇夜の底で、彼らの肌は、ごくかすかだか確かに赤い光を帯びている。
拳闘士。
それは、肉体の何たるかを数百年探求し続けてきた一族である。
騎士も、術師も、最終的には"心意によって外界に干渉する"ことを極意であり到達点と定める。言い換えれば、イマジネーションによる外部対象物の書き換え、ということになる。
しかし拳闘士はまったく逆――心意によって、己の肉体のみをオーバーライドするのだ。本来的な制約を超え、素肌で鋼を超える防御力を、素手で巌を砕く攻撃力を実現する。
そしてまた、素足で馬を追い抜く高速疾走も。
「ううううう、らあああああっ!!」
高らかな喊声とともに、イシュカーンは地を蹴って走りはじめた。ダンパと百人の闘士も続く。
ゴアッ!!
空気が裂け、大地が震えた。
「――!?」
潅木地帯目指して移動を始めた衛士隊を追いかけるべく、数歩足を進めたところで、アリスは異様な熱を感じて振り向いた。
何か――来る。
速い!!
遥か地平線を動いていたはずの敵軍から、少なからぬ一団が突出し、有り得ない速度で距離を詰めてくる。騎馬の突進などというものではない。竜騎士か、と一瞬思ったが、あまりに数が多いし、そもそも地上を移動している。
「……拳闘士か」
隣で騎士長が唸った。
「あれが……」
その名前を知ってはいたが、アリスは実際に目にするのは初めてだった。国境に出没するのは主にゴブリンと黒騎士だけで、拳闘士が人界侵略に興味を示したことはこれまでなかったからだ。
しかし最古騎士だけあってベルクーリはまみえたことがあるらしく、多少の緊張を帯びた声で続けた。
「厄介な奴らだ。生の拳でなら傷を受けるくせに、剣で斬られることは断固拒否しやがる」
「は……? 拒否……?」
鋼の刃で身を裂かれることに、否も応もないだろうに、とアリスは思ったが、ベルクーリは軽く肩をすくめただけだった。
「戦えばわかる。俺と嬢ちゃん二人で当たったほうがよさそうだ」
「…………」
アリスはごくりと喉を鳴らした。ベルクーリが、自身で足りないと言うのはよっぽどのことだ。
しかし、せっかく高まった剣気を、次の騎士長の言葉が台無しにした。
「あー、ちなみに……嬢ちゃんは、脱ぐのは抵抗あるよな、やっぱ?」
「はあ!?」
思わず両手を体の前で交差させながら、尖った声を出す。
「な、何を言い出すのですか! 当たり前です!!」
「違う、そういう意味じゃ……いやそういう意味なんだが……オレが言いたいのは、奴らの拳に鎧や衣は役に立たないというかむしろ邪魔というかだな……」
顎をがりがり擦りながら要領を得ない言葉を連ねたあげく、騎士長は、まあいいや、と首を振った。
「ともかく、そのままで戦うなら武装完全支配術の用意をしておけよ」
「は……、はい」
再び背に緊張が伝う。見たところ、接近する敵は百前後だ。その数に対して金木犀の剣の解放攻撃が必要と言うからには、やはり容易ならざる相手なのだ。
しかし、一つ問題があった。
暗黒術師を掃討したときに、記憶解放状態を長時間維持してしまったため、金木犀の剣の天命は現在かなり消耗しているのだ。通常の斬撃に用いるなら問題はないが、分離攻撃はあと何分使えるか心許ない。
そしてそれは、騎士長の時穿剣も同じだろう。数百のドローンを瞬時に墜とした凄まじい広範囲攻撃を、アリスは間近で見ていた。二人の剣はともに、最低でも夜明けまでは鞘に収めておくべき状態なのである。
だが、この数十秒の会話のあいだに、敵拳闘士の一隊はもうその逞しい裸形が見て取れる距離にまで接近している。彼らを、いまだ伏撃態勢の整わない衛士隊に接近させるわけにはいかない。
アリスは、固く唇を引き結んで騎士長に頷きかけると、岩場を北に向かって滑り降りようとした。
しかしその直前、二人の背後から、静かな女性の声が掛けられた。
「わたくしが行きましょう」
アリスはぎょっとして振り向いた。隣のベルクーリもまた目を剥いている。
いつの間にかそこに立っていたのは、囮部隊に配された上位整合騎士五名――騎士長、アリス、エルドリエ、レンリに続く最後のひとりだった。
長身痩躯を、艶の薄い、地味な灰色の鎧に包んでいる。やはり濃い灰色の髪は、額に張り付くようにきっちりと分けられ、首の後ろでひとつに束ねられている。顔もまた、良く言えば清潔感を漂わせ、悪く言うと地味だ。齢の頃はアリスと同じ二十前後か、薄い眉に一重の切れ長の眼、唇に紅は無い。
名を、シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
腰に帯びる神器は、"黒百合の剣"。
しかし、彼女がその銘で呼ばれることはめったになかった。騎士たちは、たまに彼女を話題にするときは、常にもうひとつのあざなで呼んだ。
すなわち、"無音"。
アリスとベルクーリがぎょっとしたのは、シェータが単身で敵拳闘士を防ぐと言い出したからではない。
誇張ではなく、初めて聴いたのだ。"無音"のシェータが発する声を。
溝を飛び越え、ちょっとした岩くらいなら蹴り砕き、イシュカーンと百一人の拳闘士たちは猛然たる疾駆を続けた。
もうすぐ、悪魔とさえ称される整合騎士と闘れる。その期待が、若き闘士の口元に、抑えようもなく凄みのある笑みを滲ませている。
正直なところ、この戦に駆り出されるまで、イシュカーンに敵騎士への興味は更々無かった。所詮は、鎧に身を隠し剣などという無粋な棒を振り回すやつら、と蔑んでいたのだ。事実同朋たる暗黒騎士団にも、闘者として敬意を抱けるのは威丈夫シャスターただ一人しか見出せなかった。
しかし、待機命令中、瞑想しながら感じ取った敵の闘気は、どうして馬鹿に出来ない、それどころか瞬間的には爆発じみた昂ぶりすら見せる雄々しいものだった。
無粋な鎧を剥けば、その下にはきっと見事に鍛錬された肉体があるに違いない。
イシュカーンはそう期待し、汗と拳のぶつかり合いの予感に、全身を滾らせていたのだ。
だから――。
ほんの数分前まで敵がとどまっていた小丘陵の手前に、ついにひとりの敵騎士を見出したとき、その立ち姿に拳闘士の長は唖然と口を開いた。
細い。
見たところ女のようなので、ある程度肉が薄いのは仕方ないが、それにしても細すぎる。全身くまなく金属鎧で覆ってなお、イシュカーン配下の女拳闘士の誰よりも華奢だ。装甲の下には、おそらく一束の筋肉もついているまい。腰に下がる鞘までもがまるで鉄串のようだ。
右手を上げて部下らを停止させ、自らも土煙を上げて制動したイシュカーンは、火炎のように両端が巻き上がった眉毛をきつくしかめて口を開いた。
「何だよ、てめえは。何してんだそこで」
ぴったりと頭に張り付く灰色の髪をかすかに揺らして、騎士は首を傾げた。何と答えたものか迷うように、いやむしろ答えなければいけないのかどうか考えるような仕草。
眉も眼も、鼻筋も口も鋭利な小刀でひといきに刻んだがごとき涼しげな顔に、一切の表情を浮かべることなく、女騎士はしょぼしょぼと喋った。
「わたくしはあなたの敵です。あなたを通さないためにここにいます」
ふはっ。とイシュカーンは、鼻と口から同時に大量の息を吐き出し、笑ったものか怒ったものか迷ったすえに肩をすくめるに止めた。
「そのナリじゃ、ガキ一人すら通せんぼできねえだろうに。それともあれか、手妻使いか、てめえは」
今度も、じれったいほどの間を置いて騎士は短く答えた。
「わたくしは、術式は不得手です」
体の裡に練り上げた闘気を萎えさせる敵の様に、苛立ちを感じたイシュカーンは、「ああ、いいよもう」と吐き捨てると、配下にちらりと視線を向けひとりの名を呼んだ。
「ヨッテ、相手してやれ」
「あいきた!!」
打てば響くような返事とともに、即座に集団から飛び出てきたのは、やや痩身の女拳闘士だった。それ以外の者が放つ不満げな唸りを受けながら、軽やかに武舞を踏むその顔には、敵騎士とはまったく対照的な荒々しい笑みが浮かんでいる。
ぶ、ぶぶん。
女闘士が、五メルも離れたところから空打ちした拳が風を巻き起こし、女騎士の前髪を揺らした。
この期に及んでも、その細面には闘志らしきものはひとかけらも見出せず、代わりにどこか困惑するような表情とともに小さく呟いた。
「……ひとり……」
「そりゃこっちの台詞だよ、このガリガリ!」
分厚い唇を捲り上げて、ヨッテが叫んだ。拳闘士としては細いと言っても、対峙する騎士よりは子供ひとり分ほども重いだろう。
「ぶちのめしたら、殺す前に吐くほど肉を詰め込んでやるよ! いいからさっさと抜きな!!」
女騎士は、もう何を答えるもの億劫と言いたげな仕草で、灰色の装甲を鳴らしながら左腰の柄を握った。
しゅらん。
無造作に抜かれた刀身を見て――。
「……ンだそらあ!!」
下がって腕組みをしていたイシュカーンは思わず叫んだ。
細い、などというものではない。鞘がすでに肉焼き串のようだったが、抜き身の幅はわずか半セン、赤子の小指ほども無いではないか。しかも、どうやら薄さは紙一枚以下、さらに色が艶のない黒なので、宵闇の下ではそこにあるのかどうかも定かでない頼りなさだ。
棒、などというものではない。これでは針だ。
ヨッテの顔に、朱色の怒気がみなぎった。
「……っけんなっ……」
ずざんっ。
両脚で短い武舞、というより地団太を踏んでから、赤銅色の雌豹は一直線に襲い掛かった。
イシュカーンの目から見ても、なかなかの踏み込みだった。拳闘士ギルド兎隊は、その名に反して、敏捷性だけでなく鋭い牙を持ち合わせた者達を集めた精鋭なのだ。
びばっ。
空気を引き裂いて、ヨッテの拳が疾った。
まっすぐに顔面を狙ったその打突を、騎士は避けずに極細の剣を置くように迎え撃った。
キィンッ!!
響いた音は、まるで二つの鉄鉱石を打ち合わせるような、甲高いものだった。実際に、眩い橙色の火花までが散った。直後。
くにゃ、と、騎士の握った黒い針があっけなく曲がった。
イシュカーンは、唇に薄い笑みを浮かべた。
拳闘士の肌は、生半な剣では裂くことはできないのだ。
一族に生を受けた子供は、立てるようになるとすぐにギルドの修練所に叩き込まれる。そこでまず最初に行う訓練が、鋳鉄のナイフを拳のみで叩き割ることだ。
長じるに従って、鋳鉄は鍛造鋼に、ナイフは長剣へと変わっていく。叩き割るだけでなく、生身に振り下ろされもする。その課程で、若者たちは己が肉体に鋼以上の硬さを持つ自負を抱く。我が五体は、刃に対して不可侵なり、と。
現在の長イシュカーンは、眼球で直径二センの鋼針を受け止める。
一闘士でしかないヨッテは、無論そこまでの心意を鍛えてはいないが、それでも五体でもっとも強固に確信すべき拳が、どんな剣にも負けるはずはないのだ。
それがあのような戯けた極細針となればなおさら。
大きく撓んだ黒い針が、情けない悲鳴とともに折れ飛んで、女騎士の頬に鉄拳が食い込む――
様をすべての拳闘士が思い描いた。
ぴぅっ。
響いたのは、革鞭が空気を打つような、奇妙な音だった。
直突きをまっすぐ撃ち抜いた姿勢で、ヨッテが静止している。その拳は女騎士の右頬ぎりぎりを通過し、その騎士もまた右手を前方に振り抜いている。
刀身がどうなっているか、イシュカーンの位置からはよく見えなかった。
何だよ、あんなでかい的を外すなよ。長は内心でそう毒づいた。
ヨッテのやつは、この勝負には勝ったとしても、闘技場の三等控え室からやりなおしだ。いくら拳を硬くしても、敵を殴れないんじゃぁ宝の持ち腐れ……。
すっ、と音も無く、ヨッテの握り拳が中指と薬指のあいだから裂けた。
「な……」
思考を停止させたイシュカーンの眼前で、裂け目は前腕から肘、二の腕へと続き、肩へと抜けた。
骨から微細な血管までも、一切潰れた部分のない完璧な切断面をあらわにして、ヨッテの右腕の外半分が、どさっと地面に落ちた。桶でぶちまけたように鮮血が迸ったのは、ようやくそれからだった。
「っああああああ!?」
甲高い悲鳴に混じって、再びあの音がした。
ぴう。
悲鳴が中断し、拳闘士の首がころりと落ちた。
前傾姿勢で俯き、前髪に顔を隠した女騎士の口元から、小さな吐息が漏れた。
"無音"のシェータが口を開かないのは、引っ込み思案だからでも、他人嫌いだからでもない。
ただひたすら、他の整合騎士の関心を引かぬように――よもや訓練だの手合いだのを申し込まれることのないように、ひっそりと息を殺していたのだ。
もし、誰かと比武するようなことになれば、たとえそれが騎士長ベルクーリその人であろうとも、首を落としてしまう(・・・・・・・・・)かもしれない、という恐怖ゆえに、シェータは百年を超えるカセドラルでの暮らしにおいて無音を貫いた。喋ることがあるのは、身の回りの世話をする召使と、昇降係の少女くらいのものだった。
彼女は、四帝国統一大会優勝を経てシンセサイズされた、生粋の剣士だ。しかしその年の大会は、ほぼあらゆる記録から抹消されている。なぜなら、寸止めが最上の徳とされる大会において、シェータと対戦した全員が斬死するという血塗られた結果になってしまったからだ。
上位整合騎士シェータ・シンセシス・トゥエルブは、ある意味では、拳闘士ギルドの長イシュカーンとまったく好対照な精神を持っていた。
イシュカーンが殴ることだけを考えているとすれば、シェータは、斬ることにしか興味がない。
とは言え、彼女がそれを愉しんでいるかというと、まったくそんなことはない。
斬ってしまうのだ。剣を持ち何かと対峙した瞬間、シェータの眼にはすでに、その断たれるべき切断面が、いや斬られたあとの姿すらも、はっきりと見える。そうなるともう、その予感、いや予知を現実にせずにはいられない。それが動かぬ棒杭くらいなら、彼女は手刀ですら滑らかに斬ってしまう。
自身は、己のその性を、忌まわしいものとしてずっと押し殺してきた。
奥深くに秘めたその衝動を見抜いたのは、最高司祭アドミニストレータだった。
アドミニストレータは、現在でこそ常識となっている、術式行使における空間リソース理論を二百年以上も昔に究めようとしていた。
そんな最高司祭がどうしようもなく興味をそそられたのが、ダークテリトリーにおいて"鉄血の時代"の終焉となった最大最後の合戦だった。東の大門と帝城オブシディアの中間に広がる平野にて、五族が相討った悲惨な激戦において、無限にも等しいほどに放出された空間力をアドミニストレータは惜しんだ。
とは言え、用心深い彼女が自身でダークテリトリーの探索になど行くわけもなく、召喚したのがシェータだったのだ。最高司祭は、そのころすでに"無音"のあざなを得ていたシェータにそっと囁きかけた。
単身、かの地に潜行し、合戦跡にて"何か"を探しなさい。できることなら、巻き込まれずに生き残った魔獣の類を。それが無理なら普通の動物を。最低でも鳥や虫を。とにかく空間力を吸い込んだ何かを。
もし見つけてきたら、それから神器を造ってあげる。"何でも斬れる最高優先度の剣"をね?
まさに媚薬のひと垂らしだった。シェータは、飛竜すら使わずに山脈を越え、炭殻色の大地を何万、何十万メルも踏み分けて、ついに血臭漂う合戦場にたどり着いた。
亜人と人が死力を尽くして殺し合ったその地に、動くものはなかった。魔獣はおろか、鼠一匹、烏の一羽すら残らず巻き込まれ消し飛んでいたのだ。
しかしシェータは諦めなかった。何でも斬れる剣。その言葉の響きが彼女の心を捕らえ、決して離そうとしなかった。
三日三晩の探索行のすえ――。
ついに見出したのが、風に頼りなく揺れる、たった一輪の黒百合だった。
そのささやかな花が、広大な戦場で唯一生き残った、リソース吸収オブジェクトだったのだ。
自分の唇から漏れた細い呼気が、悲嘆のため息だったのか、それとも陶酔の吐息だったのか、シェータには分からなかった。
それを言えば、なぜ数分前、無音の誓いを破って騎士長らに防衛役を志願したのかもよく分からない。いやそもそも、カセドラルに於いて、守備軍への参加を募る呼びかけに手を挙げた動機が何だったのかすら自覚できていない。
他の騎士たちのように、人界を守りたいからなのか?
それとも、ただ斬りたいからか?
あるいは――、
斬ってほしいからなのだろうか?
でも、もう、どうでもいいことだ。事ここに到ってしまえば、どうあれ剣を停めることはできない。
シェータはゆるりと顔を上げ、凍りついたようになっている逞しい拳闘士たちを見やった。
一切の躊躇いも、畏れもなく、漆黒の極細剣を握った灰色の騎士は、百人の敵集団へと真正面から斬り込んだ。
「……凄まじい技ですね」
喘ぐように囁いたアリスの言葉に、騎士長ベルクーリも低い唸りで応じた。
「うむ……。ここだけの話だが、半年前にあの娘を低温睡眠槽から覚醒させたとき、オレぁ多少ビビってたよ」
「私はまったく知りませんでした。シェータ殿が、これほどの技を身につけていたなんて……」
眼下の低地で、拳闘士の先行隊約百名と、整合騎士シェータの闘いが繰り広げられている。正確には、一方的な殺戮と呼ぶべきものだろう。刀身の姿すらも定かでない微細な剣が、ぴゅん、と鳴るたびに周囲の敵の、腕が、脚が、そして首が呆気なく落ちる。
感嘆しながらも、しかしアリスは、シェータの痩せた背中が漂わせる何かに、かすかな気がかりをおぼえていた。
あれは殺気ではない。それどころか敵意、戦意のかけらすら見いだせない。
ならば、なぜあの人は、ああも鬼神のごとく闘えるのか。
「考えるな、百何十年見続けてきたオレにも、あの娘のことはわからんのだ。何一つ」
呟くように言い、騎士長は身を翻した。
「ここは任せて大丈夫だろう。やがて敵本隊も追いついてくるはずだ、オレたちはそっちへの迎撃準備に加わらなきゃならん」
「え……ええ」
頷き、眼下の戦いから視線を外すと、アリスは後を追った。
更に約一千メル南。
砂礫ばかりの荒地がようやく切れ、奇妙な形の枝葉を伸ばした潅木が密に生える一帯に、守備軍囮部隊の本隊がその姿を紛れ込ませていた。
構成は、衛士が千二百、修道士が百、補給隊が三十人。これで、まずは五千の敵拳闘士隊を迎え撃たねばならない。
整合騎士レンリは、細かく分けた衛士と修道士を、樹木の陰に隠すように待機させていった。林を貫いて伸びる一本だけの細い道には、補給隊の馬車の轍が真新しく刻まれている。これを追う敵を、なるべく深く長く引き込んだところで、左右から痛撃する作戦だ。
むろん、拳闘士に剣が効かないことはレンリもすでに騎士長から聞いていた。同時に、彼らの弱点も。
拳闘士は、術式攻撃への防御が不得手なのだ。
手前の、コケすら生えていない荒地では、とても高位術式の使用に耐えるだけの空間力は無いが、この潅木地帯ならば多少は空気が濃い。よって、主に修道士隊によって敵に一度の痛撃を見舞い、同時に幻惑して、無傷で後方へと退避することは可能なはずだ。つい先刻たらふく餌を食べた飛竜たちにも、少しだけ熱線で手伝ってもらう。
レンリはすでに、迅速な後退を念頭に置いて、補給隊の馬車を部隊の最南に遠ざけていた。
前線から離せば離すほど安全だ、と彼は判断したのだ。
夜闇に紛れた敵が、直接補給隊を襲う可能性など、若い彼にはまったく想定の埒外だった。
しかし――レンリが部隊の配置に腐心しているまさにその瞬間、十台の馬車の護衛についていた僅か五名の衛士の、最後の一人が声も出せずにひそやかに絶命していた。
光沢の鈍い真っ黒な金属鎧に全身を包み、おどろおどろしい兜まで被りながらも、まったく何の音も立てずに潅木の下を移動するひとつの影があった。
進む先には、人界守備軍の若い衛士が一人、せわしなく左右に視線を走らせている。
しかし、彼は背後にだけは視線を向けない。そちらには他の仲間がいるはずだからだ。
影は、衛士の死角を、小枝の折れる音ひとつさせずに滑るように接近していく。腰には立派な長剣が下がっているが、それを抜くこともなく、右手に握ったごく小さなナイフだけをそっと構える。
ぬ、と左腕が伸び、衛士の口と鼻を塞いだ。
同時に右手が閃き、むき出された喉を一直線に掻き切る。
まったくの静寂のうちに殺戮が終了し、ぐったりと力を失った体を、影は注意深く茂みの下に押し込んだ。
顔全体を覆う、細い覗き孔が切られた鉄面の下から、ごく密やかな声が漏れる。
「ファイブダウーン、ツー・モア・ポイント」
くっく、と喉が鳴る。
古代神聖語――ではない。
影の正体は、今現在アンダーワールドにたった三人しか存在しない現実世界人のひとりにしてオーシャン・タートル襲撃チームの一員、ヴァサゴ・カザルスだった。
一時間とすこし前、ダークテリトリー軍最後方の御座竜車でワインを喇叭呑みしながら、消耗していくばかりの自軍ユニットを眺めていた彼は、ボスであるガブリエル・ミラーに何の気なしに言ったのだ。
「ヘイ、ブロ、そろそろ任せっぱなしじゃなくて、ちっと動いたほうがよくないですかい?」
すると、ガブリエルはちらりとヴァサゴを振り向き、片眉を持ち上げて答えた。
「なら、まずはお前が動いてこい」
続けての指示は、前方の戦場ではなく、はるか南に離れた地点へ潜行することだった。
ガブリエルは、敵軍がまるでSF映画のような巨大レーザーで亜人ユニットを焼き払った時点で、敵の一部がダークテリトリー側へと突出してくることを予想したのだ。
しかしなぜ北でなく南へ進むと言い切れるのか、と訊いたヴァサゴは、ボスの「そっちのほうが広いからな」という答えを聞いたときは内心おいおいと思わずにいられなかった。しかし実際こうして目の前に敵が来てしまったのだから、降参して一働きするしかない。
いかに敵ユニットどもが強力だろうと、補給物資をすべて失えば脚は止まるだろう。ヴァサゴは、この世界にダイブして初めての暇つぶし(キリング・タイム)を継続するべく、暗い林の奥に視線を凝らした。
すぐに、枝葉でカムフラージュされた馬車のシルエットを見抜く。
鉄面の下で、ちろりと唇を舐め、黒い狩人は移動を始めた。
と、馬車の後尾に動きがあった。ぴたりと脚を止め、樹の幹に貼り付く。
持ち上がった幌から顔を出したのは、真っ白い肌に黒い髪を垂らした、うら若い少女だった。何かを感じたのか、怯えの滲んだ顔で周囲を見回している。
ヴァサゴが動かずにいると、少女はやがておずおずとした動作で地面に降り、馬車の内側に何かを囁きかけてから、ゆっくり移動を始めた。
まるでスクール・ユニフォームのような灰色の服のベルトから下がる、ちっぽけな剣に手を置いたまま、まっすぐにヴァサゴの潜む方向へと向かってくる。
ぴゅう、と口笛を吹きたくなるのを我慢して、暗殺者はにんまりと笑みを浮かべるにとどめた。
「調子にいいいいいッ」
あっと言う間に部下がばたばたと殺されていく光景を、数秒にせよ見せ付けられたイシュカーンは、我に返ると同時に怒号を発した。
「乗んなこらあああああッ!!」
ようやく出来た、敵と自分をつなぐ細い空間を、仲間を跳ね飛ばすような勢いで突進する。
握り締めた右拳に、憤激を写し取ったかのような真っ赤な光が宿った。
それを、小さく鋭い動作で引き絞り、全体重を乗せてまっすぐ撃ち出す。輝く炎の軌跡が、一直線に敵騎士の首元の急所へと伸びる。
騎士は、剣での防御は間に合わないと見てか、分厚い装甲に包まれた左手を広げてイシュカーンの拳を受けようとした。
俺の拳の前に――あらゆる鎧は紙細工だッ!!
断固たる心意に満ちた一撃が、女騎士の掌に衝突し、眩い光の線を放射状に撒き散らした。
バガァァァン!!
直後、凄まじい炸裂音とともに、灰色の手甲が吹き飛び、前腕を覆う篭手も砕け散り、二の腕から肩の装甲までもが粉々に割れ落ちた。
剥き出しになった、やはりごくごく華奢な騎士の腕の、滑らかに白い肌のそこかしこから細かい血の霧が噴いた。
しかし、驚いたことに骨は無事のようだった。それでも激痛はあるだろうに、騎士はわずかに眉をひそめたのみで、イシュカーンの手首をつよく掴むとその手を返し、動きを封じた上で右手の極細剣を閃かせた。
きぃぃぃん! という甲高い金属音が、拳闘士の肘あたりで響いた。
刀槍不入。
それが拳闘士の力の源たる大原則だ。その確信を得るためにこそ、彼らはその身にわずかな革帯しかまとわず、裸形を晒しているのだ。防具に頼った時点で、拳闘士の心意は弱まってしまうのである。
ゆえにイシュカーンも、自分の腕に叩きつけられた軟弱な剣を、意思力だけで弾き返そうとした。
しかし。
肌に食い込んでくるひんやりと冷たい密度は、これまで彼がその身で受けたどんな刃とも別種のものだった。
この剣もまた、鋼ではなく意思だ。勝利でも、剣技としての斬撃ですらもなく、ただただ事象としての切断のみを貪欲に求めている。
それを、言葉ではなく直感で察したイシュカーンは、反射的に左の拳を振りぬいていた。
ボッ。
空気を揺らして、一瞬前まで騎士がいた空間を、輝く拳が突き抜けた。
それでも、完全に外したわけではなく、灰色の胸当ての一部を掠った。飛びのいた騎士の、その部分の装甲にヒビが入り、ばかっと砕ける。
だが、イシュカーンも無傷ではなかった。
刃が一秒足らず食い込んだ、右ひじの肌に、ごくごく薄い切り傷が走っているのを彼は眺めた。小さな血の珠が、ひとつだけじんわりと浮かんでくる。たった一滴――されど、一滴。
それを舌で舐めとり、若い拳闘王は獰猛な笑みを浮かべた。
「……ほう。女、てめぇ、見かけと中身はずいぶんちげぇな」
灰色の女騎士は、困惑するように眉をひそめると、頓珍漢なことを言った。
「……わたくしのほうが、年上なのに……」
「はぁ? そりゃそうだろうよ、整合騎士ってのは何十年も生きるバケモンなんだろうが。じゃあババァって呼んだほうがいいのかよ」
「…………」
女騎士の涼しげな造作に、ぴくりと震えが走る。
だが、それはすぐに、ほんの微かな笑みへと変わった。
「……許します。あなた、硬いから。すごいですね、斬れるとこ、ほとんど見えない」
「ちっ……何を言ってやがる」
どうにも奇妙な敵の間に呑まれまい、と、イシュカーンは周囲に転がる二十以上の骸を見回した。一人ひとりの名前が脳裏をよこぎると同時に、腹の底から深紅の憤怒がふつふつと湧いてくる。
「まるで……切れ易そうだから切った、みたいな言い方しやがって。許さねえ。ブチのめす!!」
ざん、ざっ、ざん!!
素早く踏んだ武舞に、たちまち周囲を取り囲む闘士たちが追随する。それは怒りの足踏みでもあった。滾るような音韻に、高らかな喊声も重ねられる。
うっ、らっ、うららっ、うっ、らっ。
武舞踏という名の集団心理誘導装置によって、みるみる拳闘士たちの心意が高まっていく。互いに擦れ合う赤銅色の肌から汗が迸り、それは火の粉へと変わって天に昇る。
騎士は動かなかった。まるで、イシュカーンが限界まで昂ぶるのを待つように。
上等だ。
脚を止めた拳闘王の、赤金色の巻き毛と眉は炎を宿して逆立ち、全身、とくに左右の腕からは渦巻くような赤い光が噴き上がっていた。
対峙する女騎士は、あくまで静かだった。ゆるりと下げられた漆黒の細針は、闇の密度をはらんでしんしんと冷えている。
「っ……くぞおおおお女ああああァァァァァ!!」
びゅごっ!!
炎が唸り、イシュカーンは一直線に距離を詰めた。
女騎士が、あの嫌な風鳴りとともに右手の剣を振りかぶる。
ぴぅ。
極細の切断線が、イシュカーンの左肩に触れる寸前――。
間合いで勝るはずの剣よりも一瞬迅く、拳闘士の一撃が騎士の左脚を叩いた。拳ではない。蹴りだ。地面から低く跳ね上がったつま先が、炎を引きながら灰色の装甲に突き刺さった。
バガッ!!
破砕音とともに、左脚の鋼甲が、長靴だけを残してすねから太腿部まで砕けた。腰まわりを覆っていた短いスカートも、一瞬の炎を発して燃え落ちる。
「拳闘士の技が、殴りだけだと思うなよ!!」
にやりと笑い、イシュカーンは重心を入れ替え、左脚をムチのように撓らせた。
女騎士の右手中で剣が回転し、蹴りの軌道にまっすぐ斬り降ろされる。
金属同士が擦れるような、耳を劈く軋み音が炸裂した。左脚が、まるで不動の巨岩を蹴ったかのような重みに遮られた。拳闘士の長は、久しぶりに感じる鋭利な痛みを無視して、右脚いっぽんで腰を回し、渾身の拳撃を放った。
紅蓮の炎逆巻く一撃は、騎士の胸当ての中央を見事に捉えた。
ガガァァァァン!!
紛れもない爆発が炸裂し、両者の体が前後に弾き飛ばされる。
無理な踏み込みだったせいか、手応えがやや浅かった。イシュカーンは軽く舌打ちをしながら踏みとどまり、己の左脚を確かめた。
大腿部外側に、鮮やかな刀傷が深さ一センほども刻まれている。たちまち真っ赤な血があふれ出し、黒い地面に滴る。
フン、かすり傷だ、と鼻を鳴らして顔を上げ、今度は敵を見た。
灰色の騎士は、地面に片膝を突いて、こほ、こほと小さく咳き込んでいる。いくらかの威力は徹ったようだが、しかし華奢な姿はすぐにすうっと立ち上がった。
もとから損傷していた胸甲は、いまの一撃で完全に吹き飛び、上半身は胸に残る僅かな布と、右の篭手以外完全に露出している。下半身もまた、腰周りに焼け残ったスカートと、右脚の装甲だけが健在だ。
人界人特有の雪色の肌が、夜闇のなかでも眩しく輝くのに僅かに眼を細めながら、イシュカーンは嘯いた。
「なかなか闘士らしいナリになってきたじゃねえか。だが肉が足りねえな。もっと喰って鍛えろ女」
周囲から一斉に浴びせられる揶揄の叫びを無視し、騎士は肩のあたりに僅かに残った布切れを引き剥がして捨てると、ぴゅんっと右手の剣を振った。
「……あなたこそ……いま、ちょっと、柔らかくなった」
「……ンだと、てめぇ」
鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出す。
凶相をつくりながらも、イシュカーンは一瞬おのれの呼吸がわずかに浅くなるのを感じた。
馬鹿な、あるはずがない。たかだかあの程度の半裸を見せ付けられたくらいで、闘気が弱まるなどと。一族の女たちは平常あれよりずっと肌を露出しているし、そんなものを見て動揺するのは修練所初等課程のガキだけだ。
世界には、握った拳固と、それでぶちのめすべき相手しか存在しない。
たとえ目の前にいるのが、風にも折れそうなほど細く、眩しいほど白い肌をした、異人種の女だとしても。
「もうタダじゃおかねえ……見せてやるぜ、俺様の全力って奴をよ」
威嚇する狼のようにそう唸ってから、イシュカーンは女騎士に人差し指を突きつけ、吼えた。
「だからてめぇも全力で来い!! いつまでもネムたいツラしてんじゃねえ!!」
すると、騎士は再び困ったような顔をし、左手でしばらく頬だの眉間だのを触れたあげく、ほんの少しだけ眉の角度をきつくして、言った。
「ジョートー、です」
「…………おお、上等だぜ」
この間に呑まれるからどうでもいいことを考えてしまうのだ。
イシュカーンは大きく息を吸い、溜め、ぐっと腰を落とした。
右拳の甲を相手に向けて正中に構え、がふううううっ、と長く呼気を吐き出す。大きく開いた両脚が、大地の力を吸い取ったかのようにごおっと炎を上げ、その熱は身体を通って拳へと集まっていく。
赤く燃え盛る炎が、やがて黄色く輝き、さらに青みを帯びた白へと変わる。
いまやイシュカーンの右拳は、大気さえも焦がすほどの超高熱を蓄えて、きん、きんと鋭い高音だけを放っている。
対する女騎士は、こちらは半身になって腰を落とした。左手を、掌を上にしてまっすぐ前に伸ばし、右手の極細剣を体の後ろで水平一直線に構える。まるで、限界まで撓められた投石器のような力感。
すでに自分の体が頭頂から下腹部まで真っ二つになってしまったかの如き緊張感に、イシュカーンはニヤリと笑った。
こんな相手は初めてだ。まったく燃えさせてくれる。
動いたのは、双方同時だった。
純黒の半月と、蒼炎の流星が激突した瞬間、透明な水晶の壁にも似た密度の衝撃波が発生し、地面を砕きながら周囲に広がった。取り囲む拳闘士たちが、ひとたまりもなく真後ろに押し倒される。
騎士の剣と、闘王の拳は、針先ほどの一点で触れあい、鬩ぎ合った。限界を超えて圧縮された力が七色の光となって迸り、夜空に駆け上った。
シェータの技量を以ってすれば、実はこのような馬鹿正直な力比べをせずとも敵を倒すのは容易い局面だった。
若い拳闘士は、全ての心意を右拳だけに集中させて飛び込んできたので、それ以外の部分は実に斬り易そうにシェータには見えたのだ。けれんのない一直線の拳打を回避し、ひといきに首を落とすこともできた。
だがシェータはそうせず、敢えて敵の、全ての力が結晶化したかのように輝く拳を迎え撃った。意識してのことではない。体が、剣がそれを求めたのだ。
自身の選択を、意外だとシェータは感じた。おのれが、騎士としての誇りだの、高潔さだの、その手の精神性とは無縁な存在だということは百年も前に自覚している。斬りたいから斬る。あるのはそれだけ。
それは、殺したいから殺す、と同義だったはずだ。他の整合騎士が内心では忌避する山脈警護任務のあいだだけ、シェータは自己の存在を確認できた。首を刎ね、あるいは唐竹割りにしてきた黒騎士や亜人は数知れない。
その衝動を、忌まわしいものとしてひた隠し、"無音"と呼ばれて生きてきた自分が、なぜ今殺すことを――しかも敵は暗黒界の大将首なのに――選択しなかったのか、シェータにはまったく不思議だったのだ。
でも、ああ、もう考えるのも煩わしい。
在るのは、右手の剣と、目の前の輝く拳だけ。
なんて硬いの。斬れるかな。
楽しい。
敵騎士の、びっくりするほど小ぶりで、色の薄い唇に、ふたたび微かな笑みが浮かぶのをイシュカーンは見た。
それが、自分を――あるいは闘いを嘲弄するものでないことは、もう理解できた。
なぜなら、己の唇にも、今まったく同質の笑いが刻まれているからだ。
なんだよ、なよっちいナリしてるくせに、異界人のくせに、てめえも同種じゃねえか。
ぴしっ。
ごくささやかな震動が、拳の内側に響いた。
それが、敵の黒い刃が欠けたものではなく、自分の右拳の骨に罅が入った音だとイシュカーンは察した。
だめか。押し負けるか。
しかし、まあ、しゃあねえ。
拳が断たれれば、剣圧はそのまま体をも割るだろう。そう推測しながらも、イシュカーンに懼れはなかった。これほどの敵とまみえる機会は、おそらくこの戦のあとには二度とあるまい。ならば、まあ、悪い死にざまじゃねぇ……
そう考え、目を閉じようとしたその瞬間。
拳にかかる圧力が弱まった。
グワッ!!
押さえ込まれていた衝撃が一気に解放され、イシュカーンと敵騎士を木の葉のように吹き飛ばした。敵の心意が逸れた理由は、衝突する二人の間に割り込もうとした巨大な人影だった。
同じように打ち倒されたその影に、イシュカーンは尻餅をついたまま獰猛に吼えた。
「ダンパ!! てっめぇ……!! 何しやがんだ!!!」
「時間切れです、チャンピオン」
身体を起こした巨躯の副官は、ただでさえ小さい眼を糸のように細めながら、言った。ごつごつした腕を持ち上げ、短い指で北を示す。
イシュカーンがそちらに眼を向けると、いつの間にか拳闘士団の本隊と、その後ろの暗黒騎士団が目視できる距離にまで接近していた。確かに、集団戦が始まるというのに長が私闘に明け暮れている場合ではない、のだが――。
激しく舌打ちしながら視線を戻すと、巻き上がる土埃の向こうで、もうほぼすべての防具衣服を失った敵騎士が、しかしそれを気にする様子もなく細い剣を鞘に収めようとしていた。
「女! これで勝ったつもりじゃねえだろうな!!」
少し前に斬死を覚悟したことも忘れ、若い拳闘士は叫んだ。
灰色の髪を揺らし、騎士はちらりとイシュカーンを見ると、言葉を探すように短く首を傾げてから言った。
「その、女、っていうの……やめて欲しい」
「あのな……大体、てめぇこの状況で、どうやって逃げようって……」
その時、ごうっ、という突風が南から吹き寄せて、騎士を取り囲む数十人の部下たちが一斉に顔を背けた。
思わず瞬きしたイシュカーンの視界に、高々と左手を差し伸べる騎士と、急降下してくる一頭の飛竜の姿が朧に映った。
騎士は飛竜の脚に手を掛け、ふわりと空へ舞い上がっていく。のやろう、と歯噛みした拳闘王は、思わず叫んでいた。
「てめぇ、そんなら名乗っていきやがれ!!」
打ち鳴らされる羽音に混じって、微かな声だけが降ってきた。
シェータ。
シェータ・シンセシス・トゥエルブ。
たちまち夜闇に紛れて消えた白い裸身を、イシュカーンは立ち上がりながら見送り、もう一度舌打ちした。
許されるならば――あの強敵との再戦は、二年、せめて一年の修練ののちにしたい。自分にもまだまだ鍛えるべき部分があることが分かったからだ。
しかし、いくさ場でそんな我が侭が通らないことが理解できるくらいには、イシュカーンも子供ではなかった。
北から合流してくる五千の部族と、さらに五千の騎士で、敵本隊を蹂躙せねばならない。その過程であの女とふたたび拳を交える機会があるかどうかすら定かではないのだ。
"光の巫女"とやらを掴まえれば。
一瞬、そんなことを考えた自分に、イシュカーンは更なる舌打ちを見舞った。
何を馬鹿なことを。その褒美として、あの女の助命を皇帝に願う? 一族の者全員から、気が狂ったと思われるだろうさ。
踵を返し、イシュカーンは左脚の傷を手当させるために、薬草壷を腰に下げる部下へと歩み寄った。
そうだ。
そのまま、まっすぐこっちに来い。
潜伏からの奇襲(アンブッシュ)の醍醐味を、口腔内でキャンディのように転がしながら、ヴァサゴは念じた。
隠蔽(ハイディング)は完璧だ。金属鎧のマイナス補正など物ともせず、潅木の作り出す暗がりに溶け込んでいる。
黒髪の少女は、周囲を懸命に警戒しているが、その視線はヴァサゴの潜む茂みをただ通り過ぎるのみだ。あと七メートル。五メートル。
ああ、いいね。実にいいね、この感じ。まったく久しぶりだ。
更に一メートル、無警戒に近づいてきた少女が、くるりと右に向きを変え、ヴァサゴが隠してきた死体のほうへ進み始めた。
もう一息引き寄せたかったが、まあ、大した差じゃない。
ヴァサゴはまったくの無音のうちに暗がりから滑り出て、左手を伸ばしながら少女の背中に迫った。
口を塞ぎ、驚愕に収縮する身体を、一気に切り裂く――
その予感があまりにも迫真かつ甘美だったために、ヴァサゴは、目の前にきらりと光った白刃を見たとき一瞬ぽかんと立ち尽くした。
「……ワゥ!」
首元数センチを剣先が横切ってから、慌てて飛びのく。
まったくこちらに気付いていないはずだった少女が、左腰の剣を滑らかに抜き打ったのだ。実に見事な一撃。あと一歩踏み込んでいたら、喉を裂かれていたか。
かしゃり、と両手で剣を構えなおす少女の黒い瞳に、恐怖と敵意はあれど驚きの色が無いことを見てとり、ヴァサゴは潜伏が見破られていたことを不承不承受け入れた。
ナイフを右手でくるくる回しながら、口を開く。
「ヘイ、ハニー……」
そこで気付き、英語をネイティブと遜色ない日本語に切り替える。
「お嬢さん。何故わかった?」
少女は、油断なく剣を中段に据えながら、硬い声で答えた。
「……何も無いと思えるところを一番警戒しろって、先輩が教えてくれたもん」
「せ、先輩だぁ……?」
瞬きしながらも、ヴァサゴは何か記憶に引っかかるものを感じていた。はて、その台詞、どこかで聞いたような……。
しかし、思考がどこかにたどり着く前に、少女がすうっと息を吸い、物凄い大声で叫んだ。
「敵襲!! 敵襲――!!」
ちっ、と舌打ちし、ナイフを右腰に収める。
仕方ない、遊びもここまでか。
ヴァサゴは、大きく左手を上げると、同じく叫んだ。
「お前ら……仕事だ!!」
今度こそ、少女が驚愕のあまり瞠目した。
ヴァサゴの後背、数十メートル離れた茂みから、ざ、ざざざ……次々にと身体を起こしたのは、暗黒騎士団から引き抜いてきた革鎧装備の軽装偵察部隊百名。
少女の警告に反応し、前方の馬車から飛び降りたもう一人の少女も、北側から駆けつけた数十名の衛士たちも、一様に凍りついた。
「な……後ろに敵が!? 百人規模!?」
整合騎士レンリは、術師による急報が信じられずに叫び返した。
まずい、まずい!
補給部隊が全滅し、物資が失われたら全軍が動けなくなる。それに、後ろにはあの練士たちもいるのだ。絶対に守ると誓った二人の少女と、ひとりの若者が。
救援を百、いや二百は送らなければ……しかし、今本隊を動かせば、北から肉薄しつつある敵拳闘士隊に伏撃がバレるかもしれない。そうなったらもう、数ではるか優る敵にひとたまりもなく殲滅されてしまう。いや、すでに奇襲計画は露見していると考えるべきなのか? ならば全軍を南に動かして、再度の機会を待つか?
即座に結論が出せず、立ち尽くすレンリに、背後から太い声が掛けられた。
「まさか、俺たちの南進が見抜かれてたたぁな……」
丘陵から戻ってきた騎士長ベルクーリとアリスだった。レンリからすれば、雲の上とも思える実力者のふたりだが、その顔にももう余裕はまったく無い。ことにアリスは、今にも補給部隊のいる森の南へと飛んでいきそうだ。
ベルクーリの威躯の後ろに眼を向けると、千メル北の丘陵地帯のむこうには、すでに大軍が立てる地響きと、立ち上る土煙が色濃く迫りつつある。
騎士長は、一瞬瞑目すると、すぐに灰青の瞳をかっと見開いて指示した。
「レンリ、本隊を後退させろ。嬢ちゃん、すぐに補給隊の救援に向かえ。北からの敵はオレが食い止める」
「止めると言っても……小父様、敵は五千を超えます! それに、拳闘士に剣は効かぬと……」
「まあ、何とかするさ。早く行け!! 最後の一兵までも費やして敵軍を削ると決めたのは嬢ちゃん……いやアリス、お前だろう!!」
騎士長は、それだけ言うとくるりと北を向いた。
腰の時穿剣を、ゆっくりと抜き出す。
その、時経た鋼色の刀身に宿る輝きの薄さを見れば、剣に残された天命が僅かであるのは明らかだった。
ガイン!
ギャッ!!
カァァァァン!!
ヴァサゴの渾身の剣撃を、少女の細腕で三合とは言え防いだことを、むしろ称えるべきだろう。
しかもヴァサゴは連続剣技を使ったのだ。だから、少女の手から弾かれた剣が背後の幹に突き立ったとき、暗殺者の唇からは紛れも無い賞賛の口笛が漏れた。
なおも健気に拳を構えようとする黒髪の少女を、容赦なく地面に引き倒し、剣を突きつける。
「ロニエ――――!!」
馬車から新たに現れた、赤毛の少女が悲鳴にも似た声を上げて駆け寄ってきた。
ヴァサゴは右手の剣をぴたりと、ロニエという名らしい少女の首元に据え、近づく少女の動きを牽制した。すくんだように、細い二本の脚が止まる。
「くっ……くっく」
鉄面の下で、抑えようも無く含み笑いが漏れた。
これだよ、この感じ。
他人の命を、絆を、愛を剣先で弄ぶこの愉悦。
「……殺しゃしないよ、そこで大人しく見てればな」
赤毛のほうにそう囁いておいて、組み伏せた黒髪の少女の頬を指先で撫でる。
背後からは、血に飢えた百人の戦士たちがひたひたと近寄ってくる足音が響く。
間近で見開かれた、大きな黒い瞳に満たされていた決意が、徐々に、徐々に、絶望の闇に沈んでいく――。
……?
不意に、その瞳の焦点が、ヴァサゴの顔から逸れて、空へと向かった。
濡れた虹彩に、何かが反射している。
光。
降り注ぐ。
乳白色の光の粒が、ふわり、ふわりと舞い降りてくる。
ヴァサゴは、奇妙な戦慄を背中に感じながら、ゆっくりと顔をあげた。
漆黒の夜空。血の色の星々。
それらを背景に、浮かぶ小さな――それでいて凄まじく巨大な何かを秘めた影。
人。女だ。
真珠で出来ているかのように輝くブレストプレート。篭手とブーツも同色。
ドレープの多いスカートは、翼のようにいくつもの細片が寄り集まってできている。夜風になびく、腰より長い髪は、艶やかな栗色――。
「ステイシア……さま」
腕の下で、黒髪の少女が呟いた。
その声は、ヴァサゴの意識には届かなかった。空に浮遊する女の、小さな顔がちらりとかいま見えた瞬間、漆黒の狩人は吸い寄せられるように身体を起こし、立ち上がった。
解放された少女が、即座に走り去ったが、それを眼で追うことすらしなかった。
天に浮く人影が、すう、と右手を伸ばした。
優美な五指を、ゆるりと横に振る。
ラ――――――――――。
まるで、幾千もの天使が同時に唱和したかのような、重厚な和音が世界を揺るがした。
人影の指先から、オーロラのような光が放たれて、ヴァサゴの背後へと降り注く。
ゴッゴゴゴゴゴゴ……。
地響き。そして悲鳴。
振り向いたヴァサゴが見たのは、大地に口をあけた底なしのクレヴァスと、そこに飲み込まれていく百人の手下たちの姿だった。
ぽかんと眼を見開いたまま、視線を空に戻す。
女は、今度は左手を、北の空へと振った。
再びあの天使の歌声。
先刻の、数十倍もの規模で降り注いだオーロラが、その先でいかなる現象をもたらしたのかはもう想像の埒外だった。
最後に、空に浮く女は、まっすぐ足下のヴァサゴを見下ろした。
右手の人差し指が持ち上げられ、ぽん、と一度宙を弾く。
ラ――――――――。
虹色の光の幕がヴァサゴを包んだ。
足元の地面が消えた。
ひとたまりもなく無限の暗闇へと落下しながら、ヴァサゴは両手を空へと差し伸べた。
「マジかよ……おい、マジかよ」
口から震える声が漏れた。
あの顔。
あの髪。
あの気配。
「ありゃあ………………"閃光"じゃねえか」* 騎士長ベルクーリは、愛剣を右手にぶら下げ、ただ立ち尽くした。
目の前に、幅百メルはあろうかという巨大な地割れが口を開けている。左右はそれぞれ遥か地平線にまで続き、深さはもう推測することもできない。縁からは断続的に石片が剥がれ落ちていくが、どれほど耳を澄まそうと、それらが底にぶつかる音がしないのだ。
そして、この大地の裂け目は、数十秒前にはまったく存在していなかった。天空から、壮麗な和音とともに七色の光が降り注ぎ、それを追うように地面が割れた。
たとえ千人、いや一万人の術師を投じようとも、そう――それこそ最高司祭アドミニストレータその人であろうとも、とうていこれほどの事象は引き起こせまい。
神威だ。神の御業だ。
暗黒神ベクタに続いて、さらなる神が地上に降臨したのだ。
ベルクーリは畏怖とともにそう考えたが、しかし、直後それを否定した。
巨大な地割れの向こう岸には、行く手を遮られた五千の敵拳闘士団が、呆然と立ち竦んでいる。
万物に天命を与え、また滅する権限を持つ神ならば、あの闘士たちの足下を引き裂き、容赦なく地の底に墜としていただろう。しかし地割れは、全速で疾駆していた彼ら全体が安全に停止できる余裕を取って生じた。
騎士長はそこに、多くの命を消し去ることへの躊躇いを感じた。
つまりこれは、人の意思が作り出したものだ。
結城明日奈/アスナ/スーパーアカウント01"創世神ステイシア"は、初ログイン時のみに許される微速落下保護に身をまかせながら、はやく、はやく地上へ、とそれだけを念じた。
ログインは、ようやく特定したキリトの現在座標上空で行われたはずだ。だから、舞い降りる先に、愛する人が、その魂が、間違いなく待っている。
狂おしいほどの思慕と同時に、スパークにも似た激痛がアスナの頭を駆け回った。思わず顔を歪め、歯を食いしばる。
ステイシアアカウントに付与された管理者権限、"無制限地形操作"を使用することの弊害は事前に警告されていた。フィールドという膨大な量のニーモニック・データが、STLを介してメイン・ビジュアライザーとアスナのフラクトライトを瞬時に往復する過程で、脳に過大な負荷が発生するのだ。
比嘉タケルからは、もし頭痛を感じたら、その時点で必ず使用を中止するようにと強く言われていた。
しかしアスナは、ログインした瞬間、ささやかな"人界人"とそれに前後から迫る膨大な"暗黒界人"のライトマーカーを認識するや、躊躇いなくコマンドを唱え腕を振った。
北から接近する大集団は、その手前に長大な谷を刻むことで進行を止めた。しかしキリトの居るであろう座標に、戦慄するほど肉薄していた百人ほどは、直下の地面を消し去るしかなかった。
彼らは皆、ほんものの魂を持つ"人間"だったのだ。キリトがどうにかして守ろうと、二年半もの間苦闘し続けた、真のボトムアップAIたち。
あるいは、死に行く彼らの恐怖と怨念がSTLを逆流し、耐え難い痛みをもたらしているのかもしれない。
しかしアスナは強く一度眼をつぶり、音を立てるほどに見開いて、迷いを打ち消した。
自分のなかの優先順位は、もう何年も前に決定している。
キリト――桐ヶ谷和人のためなら、どんな罪も犯す。どんな罰だって受け入れる。
永遠とも思えた数十秒を経て、パールホワイトのブーツのつま先が湿った地面を捉えた。
背の低い、捻くれた潅木が密生する森の底だ。夜空に月はなく、朧な赤い光だけがかすかに降り注いでいる。
ようやく薄れ始めた頭痛を、何度か頭を振って意識から追い出すと、アスナはまっすぐ背を伸ばした。馬のいななきが低く聞こえて、視線をめぐらせると、茂みに隠すように大型の馬車が何台も停まっているのに気付く。
どこ……? どこにいるの、キリトくん?
焦燥のあまり、その名前を叫ぼうとしたとき、背後から震える声が掛けられた。
「ステイシア……さま……?」
振り向くと、そこに立ち尽くしているのは、学校の制服のようなグレイのジャンパースカートを身につけた二人の少女たちだった。
不思議な顔立ちだ。日本人とも、西洋人とも言えない。肌の色はなめらかなクリーム、髪は右の子が紅葉のような赤、左の子がごく深い焦げ茶。
そして何より、二人の腰のベルトに下がる使い込まれた長剣が、この世界の構造と現在の状況を強く象徴している。
赤毛の少女が、微かに開いた唇から、ふたたび声を漏らした。
「あなたは……かみさま……ですか……?」
完璧な日本語。しかし、少し、ほんの少しだけ異国風のイントネーションが含まれている。そこにアスナは、アンダーワールドが歩んできた三百年という歴史を、まざまざと感じ取った。
なんてものを――創ったの。菊岡さん。比嘉さん。
あなたたちラースにとっては、ただの試行実験のひとつだったのかもしれないけれど。
この世界は、間違いなく生きている。
「……いえ……ごめんなさい。わたしは神様じゃないわ」
アスナは、ゆっくり首を振って、そう答えた。
黒髪の少女が、胸元できゅっと両手を握り、でも、でも、と呟く。
「奇跡を起こして……私を助けてくれた。みんなも、助けてくれるんですよね……? 衛士さんたちや、騎士さんたちや、人界の人たち……それに、キリト先輩も」
その名前を聞いたとたん、胸の奥を貫いた疼きのあまりの鋭さに、アスナは喘いだ。
ふらつく脚を踏みとどまり、何度か唇を動かしてから、ようやく囁き声を絞り出す。
「わたしは……わたしはただ、その人に会いにきただけなの。キリトくんに。お願い……どこにいるの? 会わせて……連れていって」
滲みそうになる涙を必死に堪え、アスナは懇願した。少女ふたりは、唖然としたように目を見開いたが、やがて、おずおずと脚を踏み出した。
「……はい。こっち、です」
距離を取って呆然と見守る、逞しい剣士たちの輪のなかを、少女たちに導かれてアスナは歩いた。
たどり着いたのは、一台の馬車の後尾だった。分厚いカンバス地の幌が垂れ下がり、中は見えない。
「キリト先輩は、ここに……」
黒髪の少女の言葉が終わるのを待たず、アスナは息を詰めながら馬車の荷台に飛び乗った。両手で幌をかきわけ、よろめくように中へ進む。
幾つもの木箱や樽が積まれた荷台は、たった一つの蝋燭の灯に、ささやかに照らされていた。
木箱の間を縫い、奥へ。奥へ。
かすかに、懐かしい匂い。お日様のような。森と草原を渡る風のような。
暗がりに馴れたアスナの瞳を、きらりといくつかの光が射た。
細身のフレームを組み合わせた車椅子。華奢な銀輪。
その上に、影のようにひっそりと身を沈める、黒衣の姿――。
「………………」
圧倒的な感情の大嵐に打ち据えられ、アスナは立ち尽くした。あれほど沢山考えてきた、再会の言葉はひとつも出なかった。
オーシャン・タートル上部シャフトのSTLに横たわる体から奪われ、囚われた、愛する人の魂がそこにあった。
傷つき、損なわれ、それでも確かに息づく命が。
おそらく――。
SAO世界から解放され、しかし目覚めることはなかったアスナを所沢の病院のベッドに見出したとき、キリトもまったく同じ痛みを、哀しみを、そして決意を感じたに違いない。
今度はわたしが。必ず、どんな代価を払おうとも、ぜったいに助ける。
ようやく呼吸を取り戻し、アスナはそっと囁いた。
「…………キリトくん」
痛々しいほどに痩せ細ったその体からは、右腕がまるごと失われていた。白黒二本の剣を抱える左腕が、アスナの声が響いたとたん、ぴくりと震えた。
俯けられたままの顔と、うつろな黒瞳にも、細波のような痙攣が走った。
「ぁ…………」
ひび割れ、掠れた声が、唇の奥から漏れる。
「ぁ……あー……あぁ…………」
かたかた、と車椅子が小さく震動した。左手が、真っ白になるほど強く握り締められ、肩から腰にかけても軋むような強張りが走った。
俯いたまま動かない両頬に、すう、と二筋の涙が流れ、剣へと滴った。
「キリトくん……いいよ、もういいよ!!」
アスナは叫び、跪くと、愛する人の枯れ枝のようになった体を強く抱き締めた。自分の両眼からも、熱いしずくがとめどなく溢れるのを感じた。
再会したその瞬間、キリトの魂が癒され、意識が戻る――。
そんな奇跡を、期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし、キリトのフラクトライトに加えられた損傷が、純粋に物理的なものであることをアスナは認識していた。彼はいま"主体"を、自分のなかの自己を完全に喪失しているのだ。それが何らかの手段で再構築されない限り、いかに外部から激烈な入力があろうとも、自発的出力に変えることはできない。
耳裏に、比嘉の言葉が蘇る。
『彼は、激しく自分を責めていた……』
キリトは、この世界と、そこに暮らす人々を守るために戦った。その果てに、心を繋いだ仲間を、友を失った。
巨大すぎる喪失感と悔恨が、彼の心に穴を開けてしまったのだ。
でも、たとえその穴が無限に広がる虚無であろうとも、わたしが埋めてみせる。わたし一人で出来なければ、心を繋いだ沢山の人たちの力を借りて。
愛で満たせない喪失が、あってたまるものか。
アスナは、強い決意が自分のなかに満ちるのを意識した。これ以上、キリトにはひとかけらの哀しみだって感じさせない。
――キリトくんが愛し、生きたこの世界は、わたしが守るんだ。謎の襲撃者たちから、そしてラーススタッフからも。
最後にもう一度、強くキリトを抱擁してから、アスナは立ち上がった。
振り向き、涙ぐみながらこちらを見ている二人の少女たちに微笑みかける。
「ありがとう。あなたたちが、キリトくんを守ってくれたのね」
ゆっくり頷いた黒い髪の少女が、震える声で問いを発した。
「あの……あなたは……? ステイシア様でないなら……誰なんですか?」
「わたしの名前はアスナ。あなたたちと同じ人間よ。キリトくんと同じ世界から来たの……同じ目的を果たすために」
おそらく、これが、生体脳に魂を持つ現実世界人と、ライトキューブに魂を持つアンダーワールド人が、真の意味ではじめての邂逅を遂げた瞬間だった。
「こりゃぁ何とも……たまげたとしか言えませんな」
御座竜車の先端から、突如出現した地割れを見下ろしていたガブリエルに、どこかのん気な声が掛けられた。
視線を向けると、デッキの片隅に設けられたハッチから、恰幅のいい中年男が顔を出したところだった。たしかレンギルという名の、商工ギルドの頭領だ。幅広の袖を体の前で合わせ、深々と一礼する。
いまや残り少なくなった将軍ユニットの一人だが、この男自身には大した戦闘力はないらしい。何用か、という意味を込めて片眉を動かすと、レンギルは両手を合わせたまま告げた。
「陛下。間もなく紫の月が昇りますれば……即時の行動命令が御座りませぬようでしたら、全軍に食事と休息のお許しを頂きたくまかり越しました」
「ふむ」
再び、黒々と口を開けるクレヴァスに視線を向ける。
あの地割れが、東西どこまで続いているのか確認させるために放った偵察兵からはいまだ報告がない。つまり、一マイル二マイルのオーダーではないということだ。さりとて、人力での土木作業で埋め尽くせる深さではないことも見ればわかる。
となれば、航空ユニットの使いどころであるはずだが、暗黒騎士団の飛竜とやらはわずか十頭しか居ないらしい。二万の歩兵を運ぶのに、何往復させればいいのか見当もつかない。
術式ならば何とかなるのかと、わずかに生還した暗黒術師に検討させもしたが、あの規模の峡谷に軍隊が渡れるほどの耐久性のある橋を掛けるのは不可能という返事だった。総長ディー・アイ・エル級の術者が、再び多数のオークを生贄に用いればあるいは、と言うことだったが、彼女は敵騎士の反撃により骸も残さず戦死との報が届いている。
野心に満ち満ちていたわりには、呆気なく退場したものだ。ガブリエルは一瞬そのような感慨を抱いたが、所詮はAIの駒だ、とすぐに意識から消し去った。
つまるところ――。
あの巨大な地割れは、この世界の"ゲームバランス"から逸脱した代物だ、ということだ。ダークテリトリーのAIに修復不可能な操作を、ヒューマンエンパイアのAIが実現できる道理はなかろう。
ならば、あれは恐らく、現実世界からの干渉だ。K組織のスタッフが、ガブリエルと同じようにスーパーアカウントでログインしてきたに違いない。目的もまた同じだろう。"アリス"を回収し、システムコンソールを用いてこの世界からイジェクトさせる。
厄介な局面になったのは確かだが、そうと分かっていれば、まだ対処のしようはある。
むしろ――面白くなってきた、とすら言えよう。
ガブリエルは、ごく微かな笑みを薄い唇の端に一瞬浮かべ、消し去ってから、レンギルに向き直った。
「よかろう。本日はこの地点で野営する。兵にはたっぷり食わせておけ、明日は忙しくなるからな」
「はっ。陛下の御厚情、真に痛み入ります」
再び深々と平伏し、商人の長はいそいそと姿を消した。
「キリト先輩と……同じ、世界?」
つぶらな瞳を見開き、少女たちは声を揃えて呟いた。
「そ、それは……神界のことなのですか? 創世三神や……素因を司る神様たちや、天使たちが暮らしている天上の国……?」
「違うわ」
アスナは慌てて首を振った。
「確かに、この国の外側にある世界だけど、決して神様の国じゃない。だって……ほら、このキリトが、神様だの天使だのだなんて思える?」
すると、少女ふたりは車椅子に視線を向け、互いに眼を見交わしてから、短くくすっと笑みを漏らした。すぐに慌てた様子でそれを消し、こくこくと頷く。
「は、はい……確かに、毎晩学院を抜け出して買い食いにいく神様なんていない……と思いますけど……」
赤毛の少女の言葉に、今度はアスナが唇をほころばせた。まったく、この世界でまでそんなコトしてたのね、と呆れるやら嬉しいやらで、またしても目頭が熱くなりかける。
瞬きでそれを抑え、ね? と頷きを返すと、今度は黒髪の子がおずおずと口を開いた。
「なら……その、外側の世界、っていうのは、いったい……何なのですか?」
アスナは少し考え、答えた。
「それは、ひとことでは言い表せないの。この場の指揮を執っている人たちにも同時に説明したいから……案内してもらえるかしら?」
「は、はい。分かりました」
緊張した面持ちで了承した少女たちを追い、大型馬車の後端に向かおうとしたアスナは、一瞬脚を止めてキリトを見た。
俯けられた顔には、いまだ細く涙の筋が光っている。
だいじょうぶ、もう大丈夫よ、キリトくん。
あとはわたしに任せてね。
心の中でそう囁きかけ、きゅっと左手を握ってから、アスナは身を翻した。
木箱の間をすり抜け、少女たちに続いて、荷台から飛び降りる。
ブーツが、地面を捉えたその瞬間。
黄金の煌きが、尾を引いて降りかかった。
剣光。
そう判断する前に、体が反射的に動いていた。右手が閃き、左腰に装備された細剣を抜き撃つ。
キャリイィィン!!
甲高く澄んだ剣戟が、夜の森を貫いた。
あまりの衝撃に、右手が肘まで痺れた。なんという重い剣か。
飛び散った大量の火花が白く焼きついた視界に、息もつかせぬ次撃の軌道のみが見えた。
単発技では押し切られる!
瞬時に判断し、アスナは細剣を敵の斬撃に向かって連続して突き込んだ。
カキャキャァン!!
三発目で、ようやく刃が止まった。全力の鍔迫り合いに移行しながら、アスナはようやく襲撃者の姿を確認した。
息を飲む。
とてつもなく美しい、同年輩の女剣士が、雪のような肌に血の色を滾らせてアスナを睨んでいた。矢車草の色の瞳に、電光にも似た怒りが迅っている。
黄金を細く鋳溶かしたかのようなストレートのロングヘアが、せめぎ合う剣圧に翻る。上半身を覆うブレストプレートと、そして握られた長剣もまた、深く透き通る山吹色。
少し離れた場所で、目を丸くして立ち尽くしていた少女たちが、ようやく細い悲鳴を上げた。
「き……騎士様!!」
「違います、この方は敵ではありません、アリス様……!!」
――――アリス!
それでは、この凄絶なまでの美貌を持ち、巨岩のように重い剣を振るう剣士こそが――世界初の真正ボトムアップAI、高適応性人工知能A.L.I.C.E.たる"アリス"なのか。プロジェクト・アリシゼーションの目的そのものであり、ラースと襲撃者たちの双方が希求する、一連の事件のまさに核心。
しかし、なぜこれほどの敵意を。この状況で。
全力で刃を噛み合わせながら、アスナが何かを言おうとしたその寸前、"アリス"の桜色の唇から、名手の奏でるヴァイオリンのように艶やかな響きの声が鋭く迸った。
「きさま、何者だ!! なぜキリトに近づいた!!」
その台詞を聞いた途端。
アスナの中で、あらゆる事情を脇に押しやる、一つの感情が音を立てて弾けた。
具体的には、ものすごくカチーンと来た。
反射的に返した言葉は、事態にドラム缶数本ぶんのガソリンをぶちまけるに等しいものだった。
「なぜって……わたしの、だからよ」
「なにを言うかっ、狼藉者が!!」
アリスが、真珠色の歯をきりっと鳴らしてから叫んだ。
ギャリッ、と火花を振り撒きながら、二本の剣が離れる。
ふわりと飛びのいた黄金の剣士は、ブーツが地面を捉えるや、再び猛烈な左上段斬りを撃ち込んできた。しかし、アスナも今度は気後れ無く、右手に浸み込んだ連続技を放っていた。
夜闇のなかで、巨大な弧月と、幾つもの流星が激突し、眩く輝いた。
肘から肩までを貫く衝撃に、アスナは、個人的感情はさておきまったく瞠目すべき剣技だ、と改めて息を飲んだ。正直、実力では少々劣ることを認めなければならない。互角に撃ち合えるのは、ステイシアアカウントに付与された、つまり"GM装備"であるこの細剣がアリスの黄金の長剣よりも高優先度だからだ。
再び鍔迫り合いとなり、短い間隙が生まれた。
その静寂を、渋く錆びた男の声が破った。
「うーむ、こりゃ実に何とも、見事な眺めだね。咲き誇る麗しき花二輪。いや絶景絶景」
直後、それまで誰も居なかったはずの空間から、ぬう、と二本の逞しい腕が伸び、アリスとアスナの剣の腹を、指先でひょいと摘んだ。
「!?」
まるで万力に挟まれたかのごとく剣が動かなくなった。唖然とするアスナを、細剣ごと軽がると吊り上げた腕は、争う二人の剣士をふわりと引き離して再び着地させた。
立っていたのは、見上げるような体躯を持つ、四十過ぎの男だった。
前あわせの、着物に似た装束の上から最低限の防具を身につけている。腰に下がる鋼色の長剣も、袖口から伸びる前腕も、そして鋭くも重厚な貌にも沢山の細かい瑕が走り、古強者という形容がすぎるほどにぴったり来る。
その男が現れた途端に、何歳か幼くなってしまったかのような印象を帯びたアリスが、ふくれ顔で抗議した。
「なぜ邪魔をするのですか小父様! この者は恐らく敵の間者……」
「ではない、と思うぞ。おっ死ぬところだったオレを命拾いさせてくれたのは、こちらのお嬢さんなんだからな」
君らもそうだろ、という男の言葉は、目を丸くして立ち尽くす灰色の制服の少女たちに向けられたものだった。
二人は、恐る恐るというふうに頷き、交互にか細い声を発した。
「は……はい、騎士長閣下。その方は、私たちを助けてくれたのです」
「腕の一振りで、敵の大部隊を奈落に落として……まさしく、神の御業でした」
騎士長と呼ばれた男は、さいぜんアスナが地面に穿った亀裂の方向にちらりと目をやると、アリスの肩に手を掛けながら言い含めるように説いた。
「オレも見たさ。天から七色の光が降り注ぎ、大地がばっかりと百メルも裂けた。さしもの拳闘士団も飛び越えられずに泡を食ってたよ。一息に蹂躙されるところだった我が軍を、このお嬢さんが救ってくれたのは間違いない事実だ」
「…………」
いまだ、右手に華麗な黄金剣をぶら下げたまま、アリスが胡散臭そうな視線でじろりとアスナをねめつけた。
「……ならば、小父様は、この者が敵の間者でも、神画の装束を模倣した不心得者でもなく、本物のステイシア神だなどと仰るおつもりですか」
アスナは、黙したまま軽く唇を噛んだ。ここで、この場の総責任者らしい"騎士長"に、神様なりと認定されでもしたらまた厄介なことになる。
しかし幸い、男は逞しい口元を僅かに緩めると、いいや、と言った。
「そうは思わん。オレの知ってる神サマとやらは、もっと無慈悲な存在だからな。たとえば、いきなり斬りかかってきた乱暴者なぞ容赦なく地の底に突き落とす、くらいにはな」
これにはアリスも、唇を尖らせながらも反論はできないようだった。尚も敵意の消えない青い瞳でアスナに火花の出そうな一瞥を呉れてから、右手の剣を鯉口にあてがい、シャキン! と一気に鞘に落とす。
実のところ、アスナにも大いに言いたいことはあった。要約すれば、えっらそーに、あなたキリト君のなんなのよ、ということだが、深呼吸ひとつでどうにか憤慨を意識から押し出す。これから、このアリスを説得して遥か南の果てにあるという第三のシステム・コンソールまで連れていかねばならないというのに、ケンカしている場合ではまったくない。
同じように剣を収め、アスナは現状で最も頼れそうな騎士長に視線を向けると、口を開いた。
「ええ……仰るとおり、私は神などではありません。あなた方とまったく等しい人間です。ただ、あなた方のおかれた状況について、幾ばくかの知識を持っています。なぜなら私は、この世界の"外側"から来たからです」
「外側……ね」
騎士長は、短い顎鬚をざらりと擦りながら、太い微笑を浮かべた。
対照的に、アリスのほうは、目を見開いて鋭い呼吸音を発した。
「外の世界……!? キリトのやってきた場所から、お前も来たというの!?」
これにはアスナも驚いた。では、キリトは、アンダーワールドの構造についてある程度アリスに話していたのか。
STRA――主観時間加速機能の倍率を考慮すれば、キリトはすでにこの世界で三年近い年月を過ごしている計算になる。いったい、そのうちどれくらいをこのアリスと共有したのだろう、とつい考えてしまう。
アリスのほうも、同系統の思考に辿りついたらしく、再び一歩詰め寄ろうとしたが騎士長の腕がそれを制した。
「ここから先は、他の騎士や衛士長たちにも聞いてもらったほうがよかろう。茶でも飲みながら話そうや。敵軍も今夜はもう動けまい」
「……そう、ですね」
眉のあたりに険を漂わせたまま、アリスも頷いた。
「よし、そうと決まれば……そこの君たち、熱い茶と、オレには火酒を用意してくれないか。君たちも一緒に話を聞くといい」
騎士長にそう言われた制服の少女たちは、は、はいっ! と畏まって敬礼した。
アスナは、この場所を離れる前にもういちどキリトに会いたい、と思ったが、身動きひとつする前にアリスの鋭い言葉が飛んできた。
「言っておきますが、今後私の許可なくその馬車には立ち入らないように。キリトの安全を確保するのは私の責任範囲ですから」
むかっ。
と頭をもたげる感情をどうにか寝かしつける。
「……あなたこそ、わたしのキリトくんを呼び捨てにするのやめなさいよ……」
「何か言いましたか!?」
「……いいえ、なにも!」
ふん、と同時に顔を逸らし、アスナとアリスは騎士長の背中を追った。
その場に残された二人の少女――ティーゼとロニエは、同時にふう、と息を吐いた。
「なんか……凄いことになってきちゃったね」
ティーゼは勢いよくぱちんと両手を合わせると、親友に言った。
「さ、急いでお湯沸かさなきゃ! あと、火酒ってどの馬車だっけ?」
たたっ、と走り出す赤い髪を追いかける直前、ロニエが口の中で呟いた言葉を聞いたものは、誰もいなかった。
「……私の、なのになぁ……」
ぱちぱち、と音を立てて燃える焚き火を、お茶のカップ片手にアスナはしばし見つめた。
なんとリアルな炎だろうか。
SAOやALOで幾度となく目にした、グラフィックエンジンによって描画されるエフェクトとしての火炎とは根本的に次元が異なる。生乾きの薪が爆ぜるたびに飛び散る火の粉、濃密に漂う焦げ臭さ、顔や手の表面をかすかにあぶる熱までが、現実以上の現実感を備えてアスナの五感を刺激する。
アンダーワールドにログインしてから、こうして折りたたみの布張り椅子に腰を降ろすまで、劇的状況の連続で"世界を味わう"暇などまったくなかった。あらためて感覚を総動員させると、STLによって与えられる"ニーモニック・ビジュアル"の凄まじいクオリティに圧倒されざるを得ない。
これでは、ここが仮想世界なのだと知らずにログインさせられたキリトは、当初それを確認するのに大変な苦労をしたことだろう。何せ――この世界には、いわゆる"NPC"は一人たりとも居ないのだから。
アスナは、焚き火から視線を移し、森に開けた円形の広場に集う人々を順繰りに眺めた。すでに、簡単な紹介だけは受けている。
すぐ左にどっかと座り、古めかしい酒瓶を独り占めしているのは整合騎士長ベルクーリ。その隣に、整合騎士アリス。オレンジの灯りに照らされ、深みを増した金髪の美しさには、同性ながらため息をつきそうになる。
アリスの向こうで、どこか所在なさそうに腰を下ろした十五、六の少年も、やはりこの世界で最強のクラスである整合騎士らしい。名前はレンリと言ったか。
さらに視線を移すと、まるで影のようにひっそりと座る細身の女性騎士が目に入る。真新しい鎧が体に合わないようで、しきりに革帯を引っ張ったり緩めたりしている様はあたかもVRMMO初心者だが、シェータという名で紹介されたとき、一瞬アスナと視線を合わせた切れ長の瞳には、得も言われぬ迫力があった。
彼女の左側、アスナから見て焚き火の向こうには、衛士というクラスの者たちが十人ほど椅子を並べている。いずれも剛毅な面構えの、いかにもつわものという雰囲気たっぷりだ。
そして、アスナのすぐ右に、先ほどの制服の少女らが、限界まで身を縮めてちょこんと座っている。赤毛の子がティーゼ、黒髪の子がロニエと名乗った彼女らは、何とキリトが二年も籍を置いていた学校の後輩なのだそうだ。
以上、十数人の剣士たちの顔をひととおり見渡して、アスナはひとつの感慨を深く噛み締めた。
彼らは、まさしく、本物の人間だ。
その容姿、所作、漂わせる気配まで、作り物めいた部分は欠片も見出せない。この中で、"法や命令に逆らえない"という人工フラクトライトの限界を突破したのがアリスただ一人である、という前提すらもいっそ信じられないほどだ。
キリトの、彼ら全員を守らんという心情も、今ならば深く理解できる。
その志を、わたしも共有するんだ。
アスナは強くそう決意しながら、大きく息を吸い、言葉を発した。
「皆さん、はじめまして。私の名前はアスナ。"世界の外側"からやって来ました」
今や懐かしくすらあるほどに遠ざかってしまった、辺境の村ルーリッドでの短い隠遁生活のあいだ、アリスはよくキリトの車椅子を押しては近くの牧場を見に行った。
白木の柵に囲われた緑の草地では、沢山のふわふわした羊たちが大人しく草を食み、その間を真っ白い子羊が元気に駆け回っていた。
アリスは、何て幸せそうなのだろう、と思ったものだ。柵の外のことなど何も考えず、閉ざされ、守られた世界でただ安穏な日々を送っている。
よもや――。
この世界の人間も、まったく同じ状況にあろうとは。
アスナと名乗る不思議な女性の語った言葉は、すべての騎士と衛士隊長に、天地が割れ砕けんばかりの衝撃を与えた。さすがの騎士長ベルクーリは飄々とした顔を貫いてみせたが、それでも内心大いに思うところはあっただろう。
なにせ、アスナという栗色の髪の剣士は、この世界全体が、柵に囲われた牧場、あるいは硝子でできた水槽であると告げたのだ。
彼女は、世界を"アンダーワールド"という神聖語で呼んだ。そして、その外側――地勢的にではなく、観念的な外部――に、"リアルワールド"なる異世界が広がっているのだという。
当然ながら、それは神界とはどう違うのか、という疑問が衛士たちから発せられた。
来訪者は答えた。リアルワールドに暮らしているのも、感情と欲望、そして有限なる天命を持つ人間なのだ、と。
そして今、リアルワールドのごく限られた場所において、二つの勢力が、アンダーワールドの支配権をかけて争っているのだという。
アスナはその一方の使者であるらしい。目的は、アンダーワールドの保全。
そしてもう一方の勢力の目的は――アンダーワールドから、たったひとりの人間を回収し、しかる後に世界すべてを破壊し無に帰すこと。
それを聞いた衛士たちは不安げにざわめき、若い騎士レンリも低いうめき声を漏らした。
動揺を鎮めたのは、ベルクーリの喝破だった。
同じこったろう、と二百年以上を生きた豪傑は断じた。人界の外側に広大無辺のダークテリトリーがあり、何万もの軍勢が侵略のときを手ぐすね引いて待ってたって事実を、これまで真剣に考えてきた奴なんざいねえんだ。今更、その外側にもうひとつ世界が増えたくれえでおたつくな。
甚だ暴論ではあるが、頼もしい錆び声でそう言い切ってから、騎士長はアスナに向かって、誰なのだその、お前さんの敵方が欲しがる"ひとり"とは、問うた。
異邦人の明るい茶色の瞳が、ベルクーリから逸れ、まっすぐにアリスを射た。
「じょ……冗談ではありません!!」
アリスは、思わず叫んだ。椅子を蹴って立ち上がり、右手を胸当てにバシッと当てて、さらに言い募る。
「逃げる!? 私が!? この世界と、そこに暮らす人々、それにこの守備軍の仲間たちを見捨てて……リアルワールドとやらに!? 有り得ない! 私は整合騎士です! 人界を守ることが最大にして唯一の使命なのです!!」
すると、今度はアスナが勢いよく立った。まっすぐ長い髪を大きく揺らし、名匠の拵えた銀鈴を思わせる声で反駁してくる。
「ならば尚のことだわ! もし"敵"……暗黒界人ではなく、リアルワールドにおける強奪者たちが、あなたを捕らえこの世界から引きずり出せば、残る人々や……それだけじゃない、大地も、空も、何もかもが消滅させられてしまうのよ! 敵はもう、いつここを襲ってきてもおかしくないの!」
「おっと、その点については情報が古いな、アスナさん」
悠揚迫らぬ声を挟んだのは騎士長ベルクーリだ。
「どうやら、もう来てるぜ。お前さんの敵とやらは」
「えっ……」
絶句するアスナを、焦らすように火酒の壷をぐいっと呷ってから、騎士長は続けた。
「これで合点が行ったってもんだ。"光の巫女"。そしてそれを求める"暗黒神ベクタ"。いま敵軍を指揮してるベクタ神とやらも、間違いなくあんたと同じくリアルワールドから来た人間だろう」
「暗黒……神」
顔を青ざめさせてそう呟いたアスナは、続けて少々意味不明な言葉を漏らした。
「なんてこと……ダークテリトリー側のスーパーアカウントは、ロックされてなかったんだわ……」
「あの……ちょ、ちょっといいですか」
生まれた一瞬の間隙をついて、少年騎士レンリがおずおずと手を挙げた。
全員の視線が集まったのを意識してか、頬を赤らめながら若者はか細い声で尋ねた。
「そもそも、光の巫女って何なんですか? その、リアル……ワールドの"強奪者たち"って連中は、いったい何故アリス殿をそんなに欲しがるんです?」
その質問に答えたのは、この会議でも当然"無音"を貫くと思われていた灰色の騎士シェータだった。
「右眼の……封印」
これには、アリスもぎょっとして、一瞬憤りを忘れた。
「し……知ってるんですか、シェータ殿!? なぜ!?」
「考えると……痛くなる。世界で一番硬いもの……"破壊不能属性"のカセドラル、切り倒したら……楽しいだろうな、って」
しーん。
という誰もが何も言えない沈黙を、無かったことにしたのはベルクーリの咳払いだった。
「あー、この場にも、秘かに身に覚えがある者はほかにも居ようかと思う。帝国法や、禁忌目録、あるいは神聖教会への忠誠に、わずかなりとも不満なり反意を抱くと、その瞬間右の目ン玉に赤い光がちらつき、同時に刺すような痛みに襲われる現象だ。普通はその瞬間、あまりの激痛にそれまで考えていたことを忘れる。しかし、なおも不穏当な思考を続けると、痛みは際限なく強まり、右の視界すべてが赤く染まり――しまいにゃぁ……」
「右眼そのものが、あとかたもなく吹き飛びます」
アリスは、あの忌まわしい一瞬を鮮明に思い出しながらそう呟いた。
一同の顔に、濃淡はあれ等しく恐怖の色が浮かぶ。
「では……アリス殿は…………」
畏れをはらんだレンリの声に、ゆっくり頷いて、アリスは続けた。
「私は、元老チュデルキン、そして最高司祭アドミニストレータと戦いました。その決意を得るために、一時右眼を失いました」
「あ、あの…………」
レンリよりも更に細い声で発言機会を求めたのは、これまで目を丸くして話を聞いているだけだった、補給部隊の少女ティーゼだった。
「ユージオ先輩も。私の……私たちのために剣を振るい、罪を犯したとき、右眼から……血が……」
さもありなん、とアリスは頷いた。一般民でありながら、幾多の激闘を乗り越え、騎士長をも退け、アドミニストレータ相手に見事な心意の発露を見せたあの若者なら、右眼の封印くらい乗り越えただろう。
そうだ、そういえば、あの時アドミニストレータが、封印について何かを……。
「ふむ……」
腕組みをしたベルクーリが、双眸を半眼に閉じて唸った。
「つまり、"敵"とやらは、封印を自ら打ち破った者を欲しているというわけか。アスナさん、ちょいと訊くが、あんたたちリアルワールド人にも、同じ封印があるのかい?」
「…………いえ」
わずかな逡巡ののちに、栗色の髪が横に揺れた。
「おそらく、法や命令を破れるかどうか、というその一点だけが、リアルワールド人とアンダーワールド人の差異なのだと思います」
「ならば、つまりアリス嬢ちゃんは、今や完全にあんたらと同じ存在ってわけだな? だがおかしかないか? 同じものを、なぜそうまで強く求める? リアルワールドにも人間はわんさと住んでるんだろうに」
「それは…………」
再び、先ほどよりも強い迷いの色を見せ、アスナは口篭った。
しかしアリスは、記憶にひっかかっていた逆棘が抜けた瞬間、大きく叫んでアスナの言葉を遮ってしまった。
「そうよ! "コード871"!」
両手を握り締め、あふれ出す記憶を声に乗せる。
「最高司祭は、右眼の封印のことをそう呼んでいたわ、コード871、って。 "あの者"が施した、って! その時は意味がわからなかったけど……これも、リアルワールドの言葉じゃないの!?」
アスナの顔に、再び驚愕の色が迅った。
小ぶりな唇がわななき、掠れ声が絞り出される。
「……まさか……封印は、向こうの人間が……? あっ……"深刻なレベルの……情報漏れ"……」
よろり、と椅子に沈み込んだ異界人が続けて漏らした囁きの意味は、アリスには分からなかった。
「…………いけない……スパイは自衛官じゃないわ……ラースの技術者に……いまも隔離されてない……!」
アスナは激しく動揺した。
上位存在への盲従、という人工フラクトライト唯一の瑕疵を取り除くために、菊岡や比嘉らラーススタッフは多大な努力を重ねてきた。なぜなら、現状の人工フラクトライトは、与えられた命令を善悪や妥当性によって検証できないということになるからだ。彼らをAIとして戦闘兵器に搭載した場合、仮に命令系統のハッキング等により所属部隊に対する攻撃や民間人の無差別殺傷指示が発令されれば、それは再確認もなしに実行されてしまう。
ゆえにラースは、その限界を突破し得る人工フラクトライトを生み出すために、"人界"と"ダークテリトリー"からなるアンダーワールドという強負荷実験装置を創造した。
しかし、まるで実験の成功を妨げるかのような"右眼の封印"が、現実世界の何者かによってひそかに施されていたとするならば。
そのサボタージュの目的は恐らく、あの武装襲撃チームが準備を整え、移動を完了するまでの時間稼ぎだろう。
つまり、比嘉が存在を示唆していた内通者は、アンダーワールド・メインフレームにかなり高位の管理者権限をもつ者ということになる。具体的には、ラースの中枢エンジニアの誰かだ。
そしてその何者かは、いまもオーシャンタートルのアッパーシャフトを無制限に闊歩している。入ろうと思えば、他のスタッフの目を盗んで、アスナとキリトが横たわる第二STL室にだって侵入できるのだ……。
ぞっ、と肌を撫でる寒気を払い落とし、アスナはさらに考えた。
この情報を、可及的速やかに現実サイドに伝える必要がある。しかし、システムコンソールから遠く離れた座標にログインしてしまった以上、アスナから外部を呼び出す手段は無い。たった一つだけ、今使用している"創世神ステイシア"のHPをゼロにする――つまり死亡するという方法があるにはあるが、その場合もうこのスーパーアカウントではログインできない。メインコンソールがロックされている今、アカウントデータのリセット操作もできないからだ。
襲撃者たちが、暗黒神ベクタという同レベルのアカウントを利用している以上、一般民相当のステータスでは対抗できまい。アリスを守り、無事にログアウトさせるためには、今のアカウントが必須なのもまた確かなのだ。
どうする。どちらを優先すれば。
ここまでを瞬時に思考したアスナは、たった一度の深呼吸を経て、意思を決定した。
今はアンダーワールド内部を優先する。この世界は、STRAのリミット上限、現実世界比1200倍という超高速で駆動しているのだ。むこう側で内通者が動き出すまでに、いくばくかの時間的余裕はあるはずだ。
そのあいだに、何としても敵の指揮するダークテリトリー軍からアリスを守り抜き、現実サイドへとイジェクトさせる。もしそれに失敗し、アリスが敵の手に落ちたら、連中は真正AIを独占するために残るライトキューブ群を容赦なく破壊し尽くすだろう。キリトが命を賭けて守ろうとしたこのアンダーワールドを。
結城明日奈が下した判断は、現在得られる情報に照らせばまったく正しいものだった。
しかし、彼女も、そしてオーシャンタートルの比嘉タケルや菊岡誠二郎すらも、ひとつの重大な事実に気付いていなかった。
STRA倍率は、現実時間でおよそ二時間前から、最低の1倍にまでダウンさせられていたのだ。操作したのはクリッターであり、命じたのはガブリエルだった。
約二十時間後にはイージス艦が突入してくる、という状況にある襲撃チームが、まさか倍率を下げて自らの首を絞めるなどと、ラースの人間にはまったく予想できなかったのも無理はない。
当然、倍率ダウン操作の狙いに到っては、はるか想像の埒外だったのだ。
だが――。
この時点で、たった一つの、人間ならぬ存在だけがガブリエルの狙いを看破していた。
結城明日奈が持ち込んだ携帯端末に潜む、世界最高レベルのトップダウン型擬似人工知能である"彼女"は、ある意思を秘めて自分をオーシャンタートルの大口径アンテナから外部ネットワークへと飛翔させた。
「どうか……したの?」
いつの間にか敬語でなくなっているアリスの言葉に、アスナははっと顔を上げ、首を振った。
「いいえ……大丈夫。ごめんなさい、話の腰を折って」
「折られてはいないわ。あなたの答えを待ってるんだから」
アリスが、相変わらずとげとげしい口調で問い質してくる。
「どうなの? コード871、って名前に思い当たるところはないの?」
「あるわ。これから説明するところよ」
つい、反射的につっけんどんな声を出してしまう自分がアスナには不思議だった。
これまでアスナは、あまり誰かとケンカしたという記憶がない。周囲の友達――リズベットやシリカ、リーファ、シノン達とはいつも楽しく遊んでいるし、学校でも皆と仲良くやっている。
いったい、最後にこんなふうにやりあった相手は誰だろう、と思い出を辿ったアスナは、思わずぷっと噴き出しそうになった。その相手は間違いなく、誰あろうキリトだ。
SAOに囚われて一年何ヶ月か経った頃だったか。ある層のフィールド・ボスモンスターの攻略方針を巡ってアスナはキリトと激しく対立し、まさに今のような尖った言葉をぶつけまくった挙句にデュエルオファーまで叩きつけた。その敵意が、恋心に変わるまでは一ヶ月も無かった気がする。
となれば、このアリスという女の子とも、いずれ同様に仲良くなる時が来るのだろうか。
いや、それはなかなか薄い可能性ね。
そう思いながら、アスナは口を開いた。
「間違いありません。あなたの言う、コード871という封印を仕掛けたのは、リアルワールドの人間……"敵"に与する者です」
来訪者アスナの言葉を聞きながら、アリスは、いったいなんでこんなに苛々するんだろうと考えた。
無論、第一印象は最悪だ。何のことわりもなく、車椅子のキリトに近づかれていい気分がするわけがない。傷ついたキリトを、この半年間守り、世話してきたのは自分なのだから。
しかしあのアスナという娘は、キリトと同じくリアルワールドからやってきた。言動からして、その世界でキリトと何らかの関係があったのは間違いない。となれば、異世界にまで追いかけてきたのだし、一目会うくらいの権利はあるのかもしれない。
それがこのイライラの原因なのだろうか。世界でいちばんキリトに対して義務と責任があるのはこの私だ、と思ってきたのに、突然新たな関係者が現れたからか。
あるいは、アスナの恐るべき剣技への対抗心だろうか?
あんな超高速の連撃を、アリスは間違いなく初めて目にした。速度で言えば、副騎士長ファナティオすら問題にならない。連続技、というよりまるで同時に複数の突き技が放たれたようにすら感じた。もし撃ち合わせた剣が少しでも弾かれていれば、切り替えしは向こうのほうが速かっただろう。同年代、同性の剣士にここまで戦慄させられたことは無い。
もしくは――。
アスナが、こうして見つめているだけでため息が出そうなほどに美しいから、か。
険しい部分がひとつもない、優美という言葉が結晶したかのような異国風の顔立ち。ミルク色の肌は焚き火の色に艶やかに照り映え、栗色の長い髪が柔らかに揺れるさまは、まるで極上の絹を選び抜いて束ねたかのようだ。衛士長たちの目には、陶酔にも似た賛嘆の色が浮かんでいる。彼らは、アスナがステイシア神その人なりと名乗ったところで、疑いも無く信じただろう。
知りたい。
リアルワールドとか、敵とかそういうことではなく、アスナという個人について。キリトとの関係について。その剣技について。
いつしか自分がぼんやり思考を彷徨わせていたことに気付き、アリスは我にかえるや慌てて耳を澄ませた。
アスナの涼やかな声が夜気を震わせている。
「……"敵"は、アンダーワールドにおいて封印を破る者……つまり"光の巫女"が現れ、彼ら以外の勢力がその者を取り込むことを恐れたのです。なぜなら、光の巫女は、リアルワールドにおいてとてつもなく貴重な存在となり得るからです」
「そいつが解らんのだよなぁ」
騎士長ベルクーリが、酒壷をちゃぷちゃぷ回しながら唸った。
「光の巫女、つまりアリス嬢ちゃんは、リアルワールド人と同等の存在ってわけだろ? さっきも訊いたが、同じものになぜそれほど固執するんだ? "敵"にせよアスナさんの陣営にせよ、いったい、アリス嬢ちゃんを連れ出して何をさせるつもりなんだい?」
「それは……」
アスナは、言葉に詰まったかのように唇を噛んだ。
長い睫毛が伏せられ、沈痛な色がその頬に浮かぶ。
「…………ごめんなさい、今は言えません。なぜなら、わたしは、アリスさんに自分の目でリアルワールドを見て、判断してほしいのです。向こう側は、決して神の国でも理想郷でもない。それどころか、この世界と比べれば遥かに醜く、汚れています。アリスさんを欲しがる人たちの動機もそう。今ここでそれを話せば、アリスさんはリアルワールドを、そこに暮らす人間たちを許せないと思うでしょう。でも……そんな部分ばっかりじゃないんです。この世界を守りたい、皆さんと仲良くしたい、って思う人も、きっと沢山います。そう……キリト君のように」
どこか必死な響きのある、長い言葉を、アリスは黙って聞いた。
そして、自分でも驚いたことに、ゆっくりと頷いた。
「……いいわよ。今は聞かないわ」
両手を軽く広げ、肩をすくめる。
「どうあれ、私はしたくない事をするつもりなんてないしね。それ以前に、行くって決めたわけでもない。外の世界を見てみたい気はするけど、それは目の前の敵を……暗黒神ベクタ率いる侵略軍を打ち破って、ダークテリトリーとのあいだに和平が成立してからのことよ」
すると、また強行に反撃してくると思ったアスナは、こちらも短い沈黙ののちに小さく首肯した。
「……ええ。あのダークテリトリー軍を、リアルワールド人が指揮している以上、私とアリスさんが単独でこの部隊を離れるのは危険かもしれない。敵も当然それくらい予想してくるでしょうから。私も……皆さんと一緒に戦います。"暗黒神ベクタ"の相手は、私に任せてください」
おおっ、という声が衛士長たちから上がった。彼らにとってアスナは、本人がどう言おうとステイシア神とさほど変わらぬ存在なのだろう。何より、大地を裂くほどの超攻撃力があれば、残る敵軍の二万が十万でもさほどのことはないのかもしれない。
同じことを騎士長も考えたらしく、うーむと腕組みをしてから訊ねた。
「ま、事情はおいおい、ということにしとくか。話を目先のことに戻すが……アスナさんはアレかい? あの地面をばかっといく奴は、無制限に使えるのか?」
「……残念ながら、ご期待には沿えないかもしれません」
アスナは、肩をすぼめながらゆっくり首を振った。
「あの力は、脳……というか意識に、巨大な負荷をかけるようなのです。苦しさだけならいくらでも耐えますが、あまり乱発すると、意識を保護するために、この世界から強制的に弾き出されてしまう可能性があります。そうなっては、わたしはもう戻ってこられなくなる。おそらく、大規模な"地形操作"は使えてあと一度か二度でしょう」
期待が大きかったぶん、焚き火を囲む面々に失望の色が広がった。それを感じたアリスは、思わずもう一度立ち上がっていた。
「私たちの人界を守るのに、異世界人の力ばかりアテにしてどうするの! もう、充分に助けてもらったじゃないの。今度は、私たち騎士と衛士が異界人にその力を見せる番だわ!」
激しい身振りで力説してしまったが、アスナの意外そうな視線を受けて、気恥ずかしくなり目を逸らす。
真っ先に同意したのは、この場では最年少であろう騎士レンリだった。
「そう……そうですよ! 彼女は神様じゃない、僕らと同じ人間だって聞いたばっかりでしょう! なら、僕らだって同じくらい戦えるはずじゃないですか!」
両腰の神器を鳴らしてそう力説する少年騎士の視線が、アスナから離れてその隣の赤毛の練士に向けられるのを見て、アリスはおやおやと内心微笑んだ。
次いで、"無音"のシェータまでもが、ぼそりと言葉を発した。
「私も……また、あの人と戦いたい」
顔を見合わせていた衛士長たちが、口々に追随するのにそう時間はかからなかった。
そうとも、やってやろう、俺たちが守るんだ――という意気軒昂な叫び声に、いつのまにか草地の周囲に集っていた多くの衛士らが一斉に唱和した。大勢の意思を感じてか、焚き火の炎が一際激しく燃え上がり、赤く夜空を焦がした。
これで――よかったのだろうか。
与えられた天幕の中で、真珠色のアーマーを外しながら、アスナは考えた。
ラーススタッフの思惑としては、アスナが一刻も早くアリスをシステムコンソールに連れて行き、サブコントロール室にイジェクトすることを願っているだろう。
しかしその後はどうなる。菊岡らにしてみれば、アリスのフラクトライトさえ手に入れれば、あとはそれをコピーし、構造解析して、無人兵器搭載用AIの礎とすればいいのだ。残る数十万の人工フラクトライトはもはや用無しということになる。膨大な電力とスペースを消費するアンダーワールドを、現状のまま維持するメリットなど彼らにはない。
さらに、アスナにしてみれば、この世界に来たのはアリスの保護と同時にキリトの意識との接触を願ったためでもある。
彼と触れあい、言葉を掛け、どうにか回復のきっかけを探す。一度アンダーワールドから切断されてしまえば、再び現状のダイブを再現できる保証などないのだから、キリトのフラクトライトと触れ合うのはこれが最後の機会となるかもしれないのだ。比嘉も言っていたではないか。かくなる上は、アンダーワールドに於いて何らかの奇跡がキリトを癒すことに期待するしかない、と。
今すぐにでも、彼のいる補給隊の天幕に駆け込み、抱きしめ、言葉を掛けたい。許されるなら、ダイブしている間ずっとそうしていたい。キリトを置き去りにして、はるか南のコンソールを目指すなんて、絶対にいやだ。
――せめて、この一夜だけでも、無駄にはできない。
すべての装備を外し、軽快なチュニックとスカート姿になったアスナは、大きく息を吸い込み、耳を澄ませた。
個人用天幕には、散々辞退したのに警備の衛士がひとり付けられてしまった。神の護衛をするというので張り切った若者は、居眠りする様子もなく律儀に天幕のまわりを周回している。
その足音が、ざくざくと下生えを踏みしめながら正面を通り過ぎ、真後ろに差し掛かったあたりで、アスナは素早く天幕を出た。無音の跳躍を三度繰り返し、一瞬で十メートル先の大木の裏に潜り込む。
そっと窺うと、若い衛士はまったく気付いた様子もなく天幕の後ろから現れ、周回を継続した。ごめんなさいね、と内心で謝り、アスナは木立の奥を目指した。
大規模な会戦の疲れから人々は早々に眠り込んだようで、わずかな見張りを除いて気配はない。見張りの意識も森の外のみに向いており、アスナは見つかることなく補給隊の野営天幕群に紛れ込んだ。
目をつぶり、意識を研ぎ澄ませる。
愛する人の気配は、すぐに感じられた。
そちらへ向け、トトッと数歩移動したアスナは、視界の隅できらりと光った金色に息を詰めた。
げー、と思いつつ恐る恐るそちらを見る。
ひとつの天幕に背中を預け、腕組みをして立つ姿があった。アスナと同じような生成りのワンピースに、毛糸のショールだけを羽織っている。じろり、と睨む瞳は深いブルー。
「……来ると思ったわ」
束ねた金髪の先を揺らして、アリスがふふん、と小さく鼻を鳴らした。
自分とほとんど同じ身長、同じ体型、同じ年齢の相手をまっすぐ見つめ、アリスは準備していた言葉を投げつけようとした。
近づくな、と言ったでしょう。大人しく自分の天幕に戻りなさい。
しかし、胸に吸い込んだ空気は、容易に喉から出ていこうとしなかった。
異界人アスナの瞳に、過ぎるほどに明らかな感情の色を見出してしまったからだ。
思慕。それゆえの苦悩。それゆえの決意。
ふうっ、と長い息だけを吐きながら、アリスは自分に言い聞かせた。
譲るわけじゃない。キリトを蘇らせる責務を最も強く負う者が私であるという事実は変わらない。なぜならキリトは、私とともに戦い、ともに傷つき、私の目の前で力尽きて倒れたのだから。
だから、これはあくまで――キリト復活のための努力の一環に過ぎないのだわ。
「……取引よ」
アリスが発した短い言葉を聞いて、アスナがぱちくりと瞬きをした。
「キリトには会わせてあげる。私が知るかぎりの情報も教える。だからあなたも、あなたが知るキリトに関する全てを私に教えなさい」
一秒足らずの驚き顔に続けて、アスナはその唇に、どこか自信たっぷりな微笑を浮かべた。
「いいでしょう。でも、すごく長くなるわよ。一晩じゃ終わらないかも」
まったく気に入らない、と改めて唇を尖らせてから、アリスは一応尋ねた。
「情報の質と期間は?」
するとアスナは、橙がかった茶の瞳をちらりと夜空に向け、両手の指を折る仕草を見せながら答えた。
「えーと……顔見知りくらいの時期が一年。お付き合いが一年。それと、一緒に暮らしたのが二週間」
ぐっ。と思わず言葉に詰まる。予想外に長い。
しかしアリスは、ここで萎れてなるものかと胸を張り、言い返した。
「私は……肩を並べて戦ったのが丸一晩。そのあと、一つ屋根の下で半年間、二十四時間付きっ切りで世話をしたわ」
今度はアスナがやや仰け反った。だがすぐに体勢を戻し、ふうんそう、などと呟く。
両者は、まるで完全武装のうえ抜剣済みであるかのごとく闘気を全開にして、しばしにらみ合った。夜気がびりびりと震え、二人の間に舞い落ちた運の悪い枯葉が、ピシ、ピシと音を立てて弾ける。
無刀の鬩ぎ合いに、果敢にも割り込んだのは――不意に響いた、ささやかな声だった。
「あのぉ……」
アリスは、ぎょっとしてそちらに視線を向けた。眼前のアスナも、鏡に映るがごとく同じ行動を取る。
黒髪を短く編んで、灰色の寝巻きの上に垂らした、補給部隊の少女練士ロニエの姿がそこにあった。両手を絞るように胸の前で握り、再び口を開く。
「あの、わ、私、一ヶ月キリト先輩のお部屋を掃除して、あと剣技とかも教えてもらいました! お二人と比べると、だいぶ少ないですけど……その、私も、情報交換を……」
思わず数度まばたきしてから、アリスはふたたびアスナと視線を合わせた。同時に口元に浮かんだのは、ため息にも似た微苦笑だった。
「いいわよ。あなたもお仲間ってわけね、ロニエさん」
アリスは肩をすくめて小柄な少女に頷きかけた。ほっとしたように笑顔を浮かべる年若い練士に、なかなか大した度胸だわね、とつい感心してしまう。
微妙な空気を漂わせつつ、三人は足音を殺して移動し、アリスを先頭にひとつの小型天幕に潜り込んだ。敷き革のうえに二つ並んだ簡易寝具のうち、片方は空で、もう一方に黒髪の若者が瞼を閉じて横たわっている。毛布の端から覗くのは、二本の長剣の柄だ。
それを見たアスナの唇に、どこか懐かしそうな感傷が滲むのを、アリスは見逃さなかった。
「……どうかした?」
訊くと、敵意を一瞬で忘れ去ってしまったかのような無垢な笑顔を見せ、異世界の娘は答えた。
「"二刀流"のキリト。この人、一時期そう呼ばれてたの」
「……へえ……」
そう言えばキリトは、アドミニストレータとの最後の決戦において、己の黒い剣とユージオの白い剣を両手に握り自在に操った。
アリスは、眠るキリトの向こうに回りこみ、すとんと腰を下ろすと、二人にも座るよう手振りで示しながら言った。
「じゃ、まずはその話から聞きましょうか」
黒い荒野の夜はしんしんと更けていき、紫色の月だけがささやかに地上を照らした。
守備軍の剣士たちも、真新しい峡谷を挟んで野営するダークテリトリー軍も、やがて夢よりも深い眠りに落ちた。
双方の総力戦を目前に控えた、最後の穏やかな夜の片隅で、たった一つの天幕の蝋燭だけがいつまでも消えることはなかった。時折、厚織布の内側からひそやかな笑い声が響いたが、それを聞いているのは高い梢にとまる一羽の梟だけだった。
"死"を予感したことはある?
不意に、耳奥で鮮やかに蘇った声に、ベルクーリ・シンセシス・ワンはぱちりと瞼を開けた。
不吉な色の朝焼けが、暗い天幕の中にもごく微かに忍び込みつつある。空気は氷のように冷え、吐く息を受けるとほのかに白く色づく。
午前四時十分、と彼は読んだ。かつては大時計の針であった神器・時穿剣と精神を一体化させているベルクーリには、時刻を正確に察知するという特技がある。もう十分もたったら、伝令兵に全軍起床の角笛を吹かせねばならない。
太い両腕を頭の後ろにまわし、年経た剣士は眠りを破ったひと言を脳裏に反響させた。
――死を予感したことはあるか。
そう彼に尋ねたのは、彼の唯一の上位者、最高司祭アドミニストレータだ。
いつ頃の記憶なのかはすでに定かではない。百年前か――百五十年か。かつて、魂の崩壊を防ぐための不要記憶消去処置を施されたベルクーリにとって、遠い過去の記憶は時系列どおりに整理できるものではないからだ。
銀髪の支配者は、その裸体を惜しげもなくびろうど張りの長椅子に横たえ、しどけない仕草でワインの杯を弄びながら問うた。
床の上にどっかと胡坐をかき、酒肴のチーズをひとかじりした所だったベルクーリは、顎を動かしながら、はてと首を捻った。
無限に繰り返される日々に――それは自ら望んだものであるはずなのだが――少々倦むこともあったのか、アドミニストレータは、たまに自身に次ぐ長命者であるベルクーリを居室に呼び出しては酒の相手をさせた。
支配者の気まぐれにも馴れていたベルクーリは、機嫌取りを考えるでもなく、思いついたことを口にした。
――まだヒヨッコだった頃、先代だか先々代の暗黒将軍に捻られた時は、さすがにやべぇかと思いましたがね。
すると最高司祭はにやりと笑い、軽く水晶杯を振った。
――でも、そいつの首はずいぶん前に取ってきたじゃない? 確か、そのへんに転がってる宝石のどれかに転換したような気がするわ。それ以降はもうないの?
――うーむ、ちょいと思い出せませんな。しかし何故そのようなことを? 猊下には無縁の感覚でしょうや。
問い返すと、悠久の時を生きる少女は、長い脚を組み替えながらうふふと微笑んだ。
――んもう、わかってないわねえベリちゃん。毎日よ。私は毎日感じてる。朝、目を醒ますたびに……ううん、夢のなかですらも。なぜなら、私はまだすべてを支配していないから。まだ生きてる敵がいるから。そして、未来のいずれかの時点において、新たな敵が発生する可能性があるから。
なるほどね。
その会話から百数十年後、人界を遥か離れたダークテリトリーの森の片隅で、ベルクーリはにやりと不敵に笑った。
今、ようやくアンタの言葉の意味が分かったよ。
死を予感するとは、つまり、自ら死の可能性を追い求めていることの裏返しだ。
得心のいく終着点を、ふさわしい死に様を、全力で足掻いても抗えぬ強力な敵を――結局は、アンタも求めていたのかな。
今のオレのように。
今この瞬間、間近に迫る死をありありと予感しているこのオレのようにね。
アドミニストレータ亡き今、世界最長命の人間となった騎士長ベルクーリは、寝床から一息に起き上がると逞しい体に白の着物を羽織った。帯を締め、履物を突っかけ、腰に愛剣を差す。
早朝の冷気のなかに踏み出し、起床の指示を伝えるために、伝令兵用の天幕に向けてベルクーリは歩きはじめた。
ほぼ同時刻、数千メル北のダークテリトリー軍野営地付近から、地平線を微かに染めはじめた曙光を頼りに十頭の飛竜が飛び立った。
その背に跨る暗黒騎士たちの腕には、それぞれ一巻きの太い荒縄が掴まれていた。一端は、すでに巨大峡谷の縁に打ち込まれた木杭に固定されている。
引き出される綱をびょうびょうと風に鳴らしながら、竜たちは幅百メルの谷を飛び越え、南岸に着地した。飛び降りた騎士たちは、剣の替わりに大きな槌を握ると、馴れぬ手さばきで新たな杭を地面に打ち込みはじめた。
皇帝ベクタが下した命令は――。
拳闘士団と暗黒騎士団一万は、峡谷に張られた十本の綱のみを頼りに、向こう側へ渡るべし。
敵の妨害攻撃が予想されるが、構わず渡峡を強行するべし。
落下した者の救助は行わない。
糧食その他の物資は運ばない。
つまるところそれは、大量の犠牲者を織り込み、しかも補給は無しという無慈悲極まる決死作戦だった。拳闘士団長イシュカーン、そしてシャスターの後を継いだ若き暗黒騎士団長は、やるかたない憤懣を覚え歯を食いしばった。
しかし、絶対支配者たる皇帝に逆らうという選択肢は彼らにはなかった。
せめて敵軍が気付かぬうちに渡峡を完了したい――という将たちの願いも空しく、夜通しダークテリトリー軍を警戒していた人界側の偵察騎兵が、遥か離れた丘の上で馬首を南に巡らせた。* 拳闘士団長イシュカーンは、身のうちに滾る憤怒を、一瞬にせよ忘れた。
あれは、何だ。
巨大峡谷の対岸では、大綱を渡り終えた五百の暗黒界兵と、五人の整合騎士、そして一千の人界兵がまさに激突せんとしていた。
しかし、突如彼らの動きが止まり、愕然とした様子で視線を戦場の外側へと向けたのだ。
引き寄せられるように自らも顔を動かしたイシュカーンが見たのは、峡谷南岸に巨大な半円を描いて降り注ぐ、漆黒の雨だった。
天から、奇妙な震動音を放ちながら無数の黒線が落ちてくる。
それらは、地面に接すると同時にぶわり、ぶわりと膨れ上がり――たちまち、人間の形へと変化した。
出現したのは、艶のない黒の全身鎧に身を固め、長剣や戦斧、長槍で武装した戦士たちだった。
一見、暗黒騎士団の歩兵のように見える。
だが、直後、言いようの無い違和感がイシュカーンを襲った。
黒い歩兵たちの、緊張感のないだらりとした立ち姿。それでいて、濃密に立ち上る生々しい欲望。
何より――その数!
主戦場から五百メル以上の距離をあけて出現したというのに、歩兵集団は黒い壁に見えるほど密だ。ざっと概算しただけでも、一万人は軽く超える。二万、いや三万にすら達するか。
暗黒騎士団にそれほどの戦力があったのなら、十候合議体制などとうに破棄され、ダークテリトリーは彼らの統べる地となっていただろう。
それに、峡谷のこちら側に並んで陣取る暗黒騎士たちの間からも、驚きと動揺の声がさざめきとなって湧き上がっている。彼らも知らないのだ。あの軍団が何なのか。
そもそも、彼らはどこから現れたのか。黒い雨に身をやつして移動する術式など聞いたこともない。また、三万の歩兵を自在に転移させる力は、暗黒術師ギルドにだってあるはずがない。
となれば――。
あれは、皇帝にして暗黒神たるベクタその人の成したことに違いない。
漆黒の歩兵らは、皇帝が地の底より召喚した、本物の"闇の軍勢"なのだ。
イシュカーンの驚きは、一秒後、更なる憤りへと変化した。
あんな大軍の召喚が可能なのならば!
なぜもっと早く実行しなかったのか。これでは、無謀な渡峡作戦によって命を散らした拳闘士と暗黒騎士たちは、ただ敵をおびき寄せるための囮ではないか。
いや――事実そのとおりなのか。
皇帝は、自らの配下を呼び出す時間を稼ぐためだけに、あのような、まるで殺してくれと言わんがばかりの作戦を強行させたのか。
……違う。
この作戦だけではない。東の大門での攻防も含めて、暗黒界軍の戦力損耗ぶりは異常だった。亜人混成軍を、オーク予備戦力を、そして暗黒術師団をほぼ全滅させておきながら、皇帝は彼らの死を悼むどころか、眉ひと筋動かすことさえしなかったのだ。
つまり、最初から、皇帝ベクタにとっては五万の暗黒界軍すべてが捨石だったのだ!
この瞬間まで、弱冠十七歳の拳闘士長イシュカーンは、己が体の鍛錬と技の向上、そして部族の躍進にしか興味のない若者だった。
しかし今、彼ははじめて自らが属する暗黒界と、そして人界をも含む世界全体を俯瞰する視点を得た。
その観念は同時に、圧倒的な矛盾を彼の意識中に生み出した。
皇帝は強者である。強者には従わねばならない。
しかし。
しかし――。
右眼が、これまでないほどの激痛に見舞われ、イシュカーンは呻いた。
よろめき、跪いた彼の視線の先で、三万を超える黒の兵たちが、人語ならぬ喊声を轟かせながら、一斉に地を蹴った。
半円の環が縮まっていく。
約一千の人界兵たちが、整合騎士らと合流し、方陣を作って迎撃態勢を取る。
その西側では、五百の拳闘士と暗黒騎士たちが、どうしていいか分からないように立ち尽くしている。
いかに皇帝ベクタの策が無慈悲極まるものであろうとも、しかしこれで、少なくともあの五百人の命は救われたことになるのか。
イシュカーンは、右眼を強く抑えながら、意識の片隅でそう思った。
しかし彼は、無慈悲という言葉の本当の意味を知らなかった。
五百の暗黒界兵は、人界兵らより先に、召喚された闇の大軍と接触した。
無数の剣が、斧が、槍が振りかざされ――。
血に飢えた叫びとともに、味方であるはずの拳闘士たちに振り下ろされた。
「な……なんだあの連中は!?」
アスナは、初めて聞く騎士長ベルクーリの驚愕の叫びに、何と答えていいか分からなかった。
数万にも上る軍勢の突如なる出現が、皇帝ベクタのアカウントを乗っ取った襲撃チームの仕業であることは明らかだ。
しかし、どこからこれほどの数の戦力を引っ張り出したというのか。
モンスター扱いの自動操縦キャラクターを生成したのだろうか。しかし、メインコンソールはロックされ、そのような管理者権限操作は不可能だ。せいぜい、アスナのように座標を指定しての直接ダイブしか手段はないはずで、しかも襲撃者たちに使用できるSTLはたったの二機。
アスナを襲った一瞬の混乱を――。
ほんの百メートル先まで迫った、漆黒の剣士たちの叫び声が氷解させた。
「Shake it up!」
「Kill 'em all!!」
英語!!
あれは現実世界の人間――しかも発音からしてアメリカ人だ!
だが、なぜこんなことが……ここは、隔離された真の異世界……。
いや。
いや――。
アンダーワールドは、STLを使用してダイブした者にとっては、"ニーモニック・ビジュアル形式"という現実以上のリアリティを持つ異界だが、しかしその設計には汎用VRMMOパッケージ、ザ・シードが用いられているのだ。つまり、アミュスフィアされあれば、ポリゴンレベルの下位層にはダイブ可能であり……そしてオーシャンタートルには、軍事レベルの大容量衛星回線が備えられている。
ならば、アンダーワールド・メインフレームのアドレスと、ダイブ用アカウントを付与したクライアントプログラムを作成し、現実世界にばら撒けば。
可能なのだ。何万人――それこそ何十万人にも及ぶ軍勢を作りだすことは。
あのアメリカ人たちは、この戦いの真実など何も知らず、おそらく新VRMMOタイトルのオープンβテストとでも信じ込まされてダイブしたのだろう。
それなら、剣を振り下ろすことに一切の呵責は無いはずだ。彼らにとっては、眼前の兵士たちは、人間と同じレベルの意識体などではなく、単によく出来たNPCでしかないのだから。
彼ら一人ひとりに悪意があるわけではない。現実世界でなら、同じサーバーに接続し、パーティーを組むことだってある気のいいVRMMOプレイヤーたちなのだ。おそらく、時間をかけてアンダーワールドと人工フラクトライトの真実を話せば、剣を引いてくれる者が大半なのではないか。
しかし――いまはその時間がない。もし、倒した敵のポイントに応じて、正式サービス稼動後にレアアイテムが分配される、等とでも説明されていれば、日本人だって同じことをするだろう。
もはや、一切の説得も、説明も通じまい。
守らなければ。この場でただ一人、かりそめの命を与えられている自分が。
アスナは右手の細剣を振り上げると、口のなかで素早くコマンドを唱えた。
「システム・コール! ジェネレート・フィールド・オブジェクト!!」
剣に、七色のオーロラが宿る。
昨夜と同じように、底なしの峡谷を作るわけにはいかない。人界軍の退路まで断たれてしまう。
かわりに、槍のように鋭い巨岩をイメージしながら、アスナは剣を大きく振った。
ラ――――、という荘重なサウンドエフェクトが響き渡る。虹色の光が切っ先から迸り、地に突き刺さる。
ゴ!!
突如、前方の地面が震動し、険峻な岩峰が頭をもたげた。それはたちまち、三十メートル近くも伸び上がり、その場所にいた黒い歩兵たちを数十人も高々と跳ね飛ばす。
ゴン! ゴッ!! ゴゴォォン!!
続けて、更に四つの岩山が並んで出現し、一気にせり上がった。大地が揺れ、更に数百単位で黒い鎧兜が空に舞った。英語の罵り声を甲高く喚き散らしながら、ある者は岩に磨り潰され、ある者は地面に激突して、大量の血と肉片をばら撒く。
アスナには、彼らが己の"死"をどう知覚したのかを推測する余裕は無かった。
いきなり、猛烈な激痛が頭の芯を貫き、その場に膝を突いてしまったからだ。
目の前に白い火花が飛び散り、息もできずに喘ぐ。昨夜、巨大峡谷を作ったときよりも遥かに強烈な痛みだ。膨大な地形データが通過する過程で、フラクトライトが――あるいは脳細胞が損耗していく生々しい感覚。
でも、ここで倒れるわけにはいかない!!
これでキリトと同じ傷を負うなら本望だ。アスナはそう念じながら、歯を食いしばり、剣を杖にして立ち上がった。
東側から押し寄せる兵士たちの足は、多少鈍った。西側では、アスナの推測を裏付けるかのように、アメリカ人たちがダークテリトリー軍にまでも襲い掛かっている。考えてみれば、彼ら暗黒界人こそ哀れと言うべきかもしれなかった。しかし今は、憐憫にかられている余裕はない。
残る一方、南に突破口を作り、そこから人界軍を脱出させる。
荒く息をつきながら振りかざした右腕を――。
曙光を受けて煌く篭手が、そっと抑えた。
「……アリス……!?」
掠れ声で叫ぶ。
黄金の騎士は、その白い美貌に確たる決意を浮かべ、小さく首を振った。
「無理をしないで、アスナ。あとは私たち整合騎士に任せなさい」
「で……でも、あいつらは……リアルワールドの……私の世界からやってきた敵なの……!」
「……分かります。覚悟なき欲望……血に飢えた刃。あのような奴ばら、何万いようと物の数ではない」
「そうだとも。オレたちにも少しは出番を分けてくれや」
アリスの言葉を引き取り、ベルクーリが太く笑った。
この状況でも、余裕に溢れた騎士たちの言葉だが――その表情には、これまで以上の悲壮なる覚悟がみなぎっていることを、アスナは察した。
黒い津波となって押し寄せる敵の数は、人界軍の三十倍以上。
もう、気迫でどうなるレベルではないのだ。
しかし、騎士長はその使い込んだ長剣を高々と掲げると、強靭な声を響かせた。
「よおォし!! 全軍、密集陣形!! 一点突破でずらかるぞ!!」
「オ……オ、オ……」
イシュカーンの口から漏れたのは、人の言葉ではなかった。
「オ……オオオオォォォォォ――――!!」
体の両側で握り締めた拳から、ぽたぽたと血が垂れた。しかしその痛みを自覚することもなく、若い闘士は獣の咆哮を放ち続けた。
死んでいく。飲み込まれていく。
状況が分からず、戦うことすらもできない一族の闘士たちが、闇雲に振り下ろされる刃のしたで悲鳴と鮮血を次々と撒き散らしていく。
なのに、残された五本の太縄を渡る兵たちは動きを止めることはない。対岸に渡れ、というのが皇帝の命令だからだ。絶対者に命ぜられたままに、諾々と綱を渡りきり、その直後に黒の軍勢にわっと集られ、切り刻まれる。
なぜ――どうして皇帝は、渡峡の中止と、ダークテリトリー軍への攻撃停止を命じてくれないのか。
これでは、部族の兵たちは囮ですらない。
召喚された黒い軍勢に捧げられる生贄ではないか。
「こ……皇帝に……」
上申せねば。作戦を停止してくれるよう要請しなくては。
怒りと絶望、そして視界の右側を染める赤光と右眼の激痛に苛まれながらも、イシュカーンは後方の御座竜車に向かおうと足を一歩動かした。
その瞬間。
上空を、ひとつの巨大な影が横切った。
飛竜。
黒い装甲によろわれたその背に乗るのは――豪奢な毛皮のマントと、長い金色の髪を翻した、まさしく皇帝ベクタその人だった。
「あ……あ……!!」
イシュカーンが無意識のうちに発した言葉ならぬ叫びが聞こえたか、竜の鞍上で、皇帝がちらりと地上に視線を投げた。
その闇色の瞳には、一切の表情はなかった。
無為に死にゆく兵たちに、ひとかけらの憐憫も、それどころか興味すらも抱いていない、氷のような一瞥だった。
皇帝ベクタは、イシュカーンからすっと視線を外し、峡谷の南へと竜を飛翔させた。
あれが――神。あれが支配者。
しかし、支配者ならば。何ぴとも及ばない力を持つ強者ならば。
それに応じた責務だってあるはずではないか!
統べる軍を、治める民を導き、一層の繁栄をもたらす、それが支配者の務めであるはずだ。何千何万の命をただ使い捨て、そのことに何ら感情を動かさない者に――皇帝を――右眼が――支配者を名乗る――右眼が痛い――資格など…………!!
「うっ……お……おおおああああああ!!」
イシュカーンは、高々と右拳を突き上げた。
そして、その指先を鉤づめのように曲げ。
思考を妨げる灼熱の発生源である、おのれの右眼に突き立てた。
鮮血が飛び散り、ぶち、ぶちという嫌な音が響き渡った。
「お……長よ!! 何を!?」
駆け寄ろうとするダンパを左手で押しのけ、短い絶叫とともに、若き闘士は右の眼球を一気に引き抜いた。その白い球体は、拳のなかで奇怪な閃光を放っていたが、ぐしゃりと粉砕されると同時に光も消えた。
この時点でイシュカーンは、アリスやユージオのように"コード871"の自力解除にまで到ったわけではなかった。
ゆえに彼は、皇帝に対する直接的叛意を形成することはできず、現状与えられた命令である、「渡峡作戦の継続」及び「自身は綱を渡ってはいけない」という二つの指示は破棄できなかった。
しかし、彼はほとんど反逆に等しいレベルで、皇帝の命令を回避する手段を無理やり見出すことには成功した。
イシュカーンはゆっくり振り向き、唖然とした顔で見下ろすダンパに、低い声で語りかけた。
「皇帝は、あの黒い兵どもに関しちゃ何も命令してねえ。そうだな?」
「は……それは、そのとおりですが」
「なら、俺達があいつらをブチ殺すぶんには皇帝にゃ関係ないってことだ」
「……チャンピオン…………」
絶句するダンパを隻眼でぎろりと凝視し、イシュカーンは命じた。
「いいか……橋がかかったら、部族全軍で突撃してこい。何がなんでも、仲間を助けるんだ」
「は……!? 橋なぞ、ど、どうやって……」
「知れたことだ。頼むんだよ」
静かに言い放ち、イシュカーンは峡谷に向き直った。
突如、その逞しい両脚を、強烈な炎が包み込んだ。
赤々と燃える足跡を残しながら、拳闘士王は谷に向けてゆっくりと走り出した。速度はすぐに高まり、やがて一条の火焔となるまでに加速する。
綱を渡っちゃいけねえなら……飛びゃぁいいんだろうが!!
胸中でそう絶叫し、彼は幅百メルの奈落へと向けて、左脚を思い切り踏み切った。
"跳躍"は、拳闘士の重要な鍛錬の一つである。
修行は、砂地での安全な幅跳びに始まり、やがては並べた刃や煮えたぎる油を飛び越すことで心意を形成する。
その距離は、一流闘士では最終的に二十メルを超える。それは、人間の飛行が禁じられたこの世界においては、生身での跳躍の上限でもある。
しかし今、イシュカーンが体を投じたのは、限界距離の五倍にも達する幅をもつ底なしの峡谷だった。
宙に火炎の尾を引きながら、拳闘士はひたすらに前だけを睨み、空気を蹴った。
十メル。二十メル。体はまだ上昇していく。
三十メル。三十五メル。谷から吹き上がる強風に乗り、見えない翼に後押しされるように、さらに高みに駆け上る。
四十メル。
もう少し――あとほんの一息昇れれば……そこから先は惰力で向こう岸まで届く――。
しかし。
谷の真ん中の、ほんのわずか手前まで達したとき、無情にも風が止んだ。
がくり、と体が勢いを失う。跳躍軌道が頂点に達し、下向きの曲線へと移行する。
五メル……足りねえ。
「うおおおお!!」
イシュカーンは叫び、何かを掴もうとするかのように右手をまっすぐ伸ばした。しかし手がかりも、足がかりもあるはずはなく、足下の暗闇から這い登る冷気だけが彼の体を撫でた。
その時――。
「チャンピオオオオオン!!」
凄まじい雄叫びがイシュカーンの耳を打った。
ちらりと後方を見る。
副官ダンパが、己の頭よりも大きい巨岩を右腕で掴み、今まさに投擲体勢に入ったところだった。
長年付き合った忠実なる部下の意図を、長はすぐに察した。しかし――あれほどの大岩を、五十メル以上も投げるなど、人間に出来ることではない……。
ごわっ。
と、突如ダンパの右腕が膨らんだ。全身の力がそこだけに集中したかのように、筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がる。
「オオオオ!!」
巨漢が吼え、数歩の助走に続いて、右腕が振り抜かれた。
まるで投石器のように、空気を震動させて岩の塊が射出され――直後、腕全体が、鮮血と肉片を振り撒いて爆裂した。
どさりと倒れるダンパの姿を左眼に焼きつけ、イシュカーンは歯を食いしばって、一直線に飛来する岩のみに意識を集中させた。
「……いぇああああ!!」
気合とともに、左の足裏で思い切り岩を踏み抜く。
バガァァン!!
と岩が四散し、その反動でイシュカーンの小柄な体は弾かれたように再度加速した。対岸で戦う剣士たちの姿が、もう目の前にあった。
盛大な罵り声を上げてばったりと倒れるアメリカ人歩兵の体から細剣を引き抜き、アスナは荒く息をついた。
暗黒界人を相手にするときのような、命を奪うことへの心理的重圧はない。かつての"閃光"、その後の"バーサクヒーラー"の二つ名のとおりに容赦ない連続剣技を繰り出し、屠った黒い兵たちの数はすでに十を超えた。
しかし――いかんせん、敵が多すぎる!!
アスナだけでなく、人界軍の衛士たち、そしてことに四人の整合騎士の奮戦はまさに鬼神の如しだ。方形に密集陣を組む衛士たちの先頭に立ち、なんとか南に血路を切り開くべく、屍の山を築いている。
だが、あとからあとから押し寄せる黒い歩兵の壁を押し戻すことができず、足を止めて鬩ぎ合うのが精一杯の状況だ。
何より、いずれ彼らも気付くだろう。切り倒した敵の死骸が、数十秒後にあとかたもなく消滅し、その場に血の一滴すらも残らないことに。自分たちが、命を持たぬ幻の軍隊を相手にしていることに。
「うわ……だめだ……うわあああ――!!」
突如背後から響いた絶叫に、アスナはハッと振り向いた。
衛士たちの戦列の一部が破られ、漆黒の泥水のように、アメリカ人たちがなだれ込むのが見えた。
甲高い罵声を迸らせながら、手当たり次第に衛士たちに襲いかかり、数人で取り囲んで切り刻む。血が、肉が飛び散り、悲鳴が断末魔の絶叫に変わる。
そのあまりにもリアルな死に様に、一層の欲望を掻き立てられたかのように、黒の兵士たちは新たな得物へと群がっていく。
「やめて……やめて……!!」
アスナは叫んだ。
今は、一部の犠牲は無視して、ひたすら南へと斬り進むときだ。理性ではそう分かっていたのに、しかし体が勝手に向きを変え、北へと走り出すのを止められなかった。
「やめてえええええええええ!!」
血を吐くような苦鳴とともに、押し寄せる黒い奔流へと単身斬り込む。
アメリカ人プレイヤーたちに悪意はない。ただ利用されているだけ――という認識も、吹き荒れる激情を止めることはできなかった。
ズカカカッ!!
右手が閃き、真珠色の細剣が立て続けに黒いヘルメットのバイザーを貫いた。頭部にクリティカルヒットを負った四人が、剣を取り落とし、喚き声を上げながらのたうち回る。
その反応からして、アミュスフィアを利用してダイブしているはずの彼らが、ペイン・アブソーバ機能で保護されていないことは明らかだ。すでにそうと察していたアスナは、これまでなるべく一撃で心臓を破壊し即死・即ログアウトさせるようにしていたのだが、そんな理性もいつしか失せていた。
剣の高優先度に任せ、鎧の上から突き、切り裂き、時には敵の剣ごと断ち割る。
アメリカ人たちが見ているのは、あくまでポリゴンの敵であり、エフェクトの血液だ。しかしSTLダイブしているアスナには、彼らもまた生身の人間であり、飛び散る返り血は鳥肌が立つほどに生暖かく、噎せ返るほどに鉄臭かった。
いつしか足元に溜まっていたその血に――ずるりと右足が滑った。
どうっ、と横倒しになったアスナの眼前に、巨躯の歩兵が圧し掛からんばかりに立ちはだかった。
「fucking bitch!!」
振り下ろされるバトルアックスの下から逃れようと、アスナは右に転がった。
しかし、地面を突いた左腕を引き戻すまえに、分厚い刃が前腕を捉えた。
かつっ。
あまりにも軽い音とともに、腕が肘の下から切断され、宙に舞った。
「っ……あ…………ッ!!」
凄まじい激痛に、目の前に白い火花が散った。呼吸が止まり、体が硬直した。
滝のように血を振り撒く左腕を抱え込み、アスナは喘いだ。抑えようもなく溢れた涙を通して、自分を取り囲み、武器を振り上げる四、五人の黒い影だけが見えた。
突然――。
バトルアックスの大男の頭部が、爆発したかのように飛散した。
ボッ、ボガガガン!!
鈍い打撃音だけが連続して響いた。機関銃のようなその響きひとつで、アスナに止めを刺そうとしていた歩兵たちの体が次々に粉砕され、視界外に消えた。
「へっ……ヤワい連中だ」
激痛を堪えながら、どうにか上体を起こしたアスナが見たのは、精悍な容貌と炎のように逆立った髪を持つ、小柄な若者だった。
――ダークテリトリー人!
一瞬痛みを忘れ、アスナは息を吸い込んだ。肌の色、革の腰帯ひとつのその装束、間違いなくつい先ほどまで剣を交えていた拳闘士の一族だ。
しかし、なぜ皇帝ベクタの支配下にあるはずの者が、同じくベクタに召喚された黒歩兵を攻撃したのか。まるで、アスナを助けようとするかのように。
見下ろす拳闘士の、朱色の眼は片方しかなかった。右の眼窩は醜い傷痕に潰され、まだ新しい血の筋が涙のように頬で乾いている。
若者は、更に押し寄せようとするアメリカ人たちを、その隻眼でぎろりと睥睨すると、右拳を高々と掲げた。
ゴッ!!
そのごつごつした拳骨を、突然赤々とした炎が包んだ。
「ウ……ラアァァァッ!!」
裂帛の気合とともに、拳が地面へと叩き込まれる。
ドッ……グワッ!!
炎の壁にも似た衝撃波が半円形に発生し、前方の黒歩兵たちをひとたまりもなく吹き飛ばした。
――なんという威力だ!
アスナは瞠目した。今戦ったら――あるいは負ける……。
ずいっ。
突き出された左腕が、アスナの鎧の首元を掴んだ。強引に立たされたアスナを、一つだけの瞳が間近で睨み付けた。
「……取引だ」