ある程度魔術に耐性があれば抵抗(レジスト)できるのだが―ヴァシリーのそれは、アイリーンに抵抗を許さなかった。術が成立したということはそういうことだ。
ヴァシリーがその気になれば、距離を問わず強烈な呪いをかけられる―アイリーンはこの老魔術師の評価を上方修正した。やはり、年の功は伊達ではない。
『……初めて聞きましたな、そんな術があるとは』
『言ってなかったからね。いや、けっこう疲れるんだコレは』
少しテンションを下げて言うヴァシリーは、確かにどこか気だるげな雰囲気も漂わせている。邪眼はそれなりに魔力を消費するらしい。
『ともあれ、これで彼女が同行することに問題はないんじゃないかね』
『……ですな』
『それは良かった。さてお嬢さん、改めてお茶でも……』
『待ってくれ! この男はどうなる』
と、護衛のうちの一人が、ケイを指差して言った。先ほどアイリーンに下劣な視線を向けてきた男だ。
『いくら魔術師のお供でも、俺ァ草原の民と仕事なんざ御免だぜ!』
心底嫌そうな顔をする男。アイリーンは溜息をついた。
『……最初にも言ったけど、彼は草原の民じゃないわ。まったく』
……なにか問題が起きたか
言葉は分からないまでも、自身に向けられる視線に状況を察するケイ。
うん、面倒なヤツが約一名。悪いけどケイ、身分証見せてくんない?
おう
ごそごそと胸元を探り、ケイは公国の身分証を取り出してアイリーンに手渡した。ごつい丈夫な羊皮紙に、びっしりとプロフィールが記入されており、ケイの似顔絵まで描かれている。
『はいこれ、彼の身分証。ウルヴァーンの名誉市民よ。一ヶ月前にあった武闘大会の優勝者でもあるわ』
胡散臭げな顔をするゲーンリフに、押し付けるようにして身分証を渡す。件の護衛を含めた商会の男たちが、額を寄せ合って身分証の文言を読み始める。
『たしかに、名誉市民とあるが』
『クソッ公国語は苦手なんだよ……』
『うーん……大丈夫じゃないのか? 流石に素性がハッキリしないヤツは市民権なんて取れないだろう』
『いやしかし、だからといって油断は……賊じゃないという証拠にはならないぞ』
『武闘大会の優勝者か。噂では草原の民が優勝したと聞いたが、こいつのことか?』
『やっぱり草原の出なんじゃないか!』
どうやら武闘大会の件が微妙に曲解された形で伝わっているらしく、話がややこしい方向へと進んでいく。アイリーンは天を仰いだ。
『……そうだ、ヴァシリーさん。よければ彼にも、さっきの術使ってくれない?』
が、すぐに嘘看破の邪眼の存在に思い至り、アイリーンはヴァシリーへ期待の眼差しを向けた。
『……ああ。彼、我々の言葉は話さないのかね』
『雪原の民の言葉は話せないわ。公国語なら……』
『私は公国語ができないんだ。あの邪眼は言葉が通じる者同士でないと意味がない』
『……“精霊語(エスペラント)“ならどうかしら?』
『ほう? なるほど、彼も(・)か?』
意外そうに、しかしどこか得心がいった風に、ヴァシリーは頷く。
『……しかし……悪いが、少し自信がない。というのも、あまり不用意に精霊語は話したくないのだ。なんというべきか、私の精霊は融通が利かなくて、術と邪眼が干渉するかもしれないし、……率直に言うと危険だ』
忸怩たる様子でヴァシリー。転移して以来、ゲームのAIだった頃に比べケルスティンの思考が飛躍的に柔軟になったことから、『こちら』の精霊は皆そういった感じなのだとアイリーンは思っていたが、どうやらそうとも限らないらしい。
(人型と動物型の精霊の差かな……?)
はっきりとは分からないが、留意しておくべきだろう。
『なら、私が”彼の敵意のなさ”を宣言するのはどう?』
『ああ、それならいいか。まあ彼らが納得するなら、だが……ああ、疲れるなぁ』
やいのやいのと騒いでいる男らに冷めた目を向け、ヴァシリーもまた溜息をついた。
†††
結果的に、ヴァシリーがアイリーン経由で『ケイの敵意のなさ』を証明したため、次の日の同行は許可される運びとなった。
護衛のうちの一人、穏やかな口調の赤毛の偉丈夫―ピョートルという名らしい―が援護射撃をしてくれたのも大きかったかもしれない。草原の民嫌いの男がなお難色を示していた際、ピョートルはケイに向かって何事か、短いフレーズを言い放った。
ケイもアイリーンも全く理解できなかったが、どうやら草原の民の言語で酷い侮辱の言葉であったらしく、それに全く反応しなかったケイは晴れて自身が草原の民と関係がないことを証明したわけだ。
その後は、ヴァシリーが魔力の使いすぎでバテてしまったためお茶会は中止となり、次回ディランニレンに寄る際は必ず魔術談義をする、という約束を交わした上で、ケイたちはそのまま宿屋へと戻った。
翌朝、空が白みかけた頃。
ディランニレンの北門前には、ガブリロフ商会主催の隊商が集結していた。幌馬車や馬に乗った傭兵・商人たちが、出発のときを待って列を成している。
ケイは、隊長であるゲーンリフに、斥候の役を命じられた。
ケイとアイリーンの立場は、客人兼傭兵兼ただの旅人とでもいうべき、なんとも宙ぶらりんなものだ。だがぶっきらぼうな英語でケイに命令するゲーンリフには、全く遠慮というものがなかった。
ケイに対する隊商内の風当たりは決して弱くなく、それを庇った上でわざわざ仲間に入れてやったのだから、それなりに仕事をしろとでも言わんばかりの態度だった。それに対してアイリーンは隊商の真ん中で大事に守られているのだから、その扱いの差は一目瞭然といわざるを得ない。
アイリーンは不満げだったが、これ以上のトラブルを巻き起こしたくないケイは粛々とゲーンリフの指示に従うことにした。
隊商の面々の冷たい視線を浴び、針のむしろのような気分を味わいながら、サスケに跨ったケイは隊の先頭を目指す。馬車十数台に及ぶ長蛇の列―辿り着いてみれば、そこには、取り回しのよさそうな馬上槍を装備した赤毛の偉丈夫の姿があった。
やあ、また会った、ケイ
ピョートルだ。そしておそらくこの隊商内でも数少ない、ケイへの態度が普通な人物でもある。どうやら彼が同僚であるらしいことに、ケイは少なからず安堵した。
おはよう、また会ったな。ピョートルも斥候なのか
そうだ、その通りだ
そいつは嬉しいよ
肩をすくめるケイに、ピョートルも苦笑する。
きみは嫌われている。斥候は危険な仕事だ、やりたがる者はあまりいない
だろうな
ところでわたしは、あまり公国の言葉を上手く話すことはない。簡単な会話なら可能だが、難しい言い回しは分からない
大丈夫だ。俺もネイティブじゃないから、安心してくれ
それは良かった。易しい言葉で話してほしい。そうであればわたしは理解できる
任せてくれ
ケイも英語を話すようになって実に十数年が経つが、しかし所詮は後天的なものなのでネイティブの会話にはついていけないこともある。『簡単な会話』は、むしろ望むところだった。
とにかく、ケイ、今日からしばらくよろしく頼む
こちらこそ
互いに騎乗で、がっちりと握手を交わす。そのあとは、隊商の準備が整うまでの間、つたないなりにピョートルから斥候の注意点などを聞いていた。
そして朝の太陽がはっきり見えるようになったあたりで、後方からロシア語の指示が飛んでくる。
よし、行こうケイ。出発だ
ああ
斥候は、隊商よりも先行し進行方向の安全を確かめるのがその本領だ。隊商が本格的に動き出すより前に、先んじて進み始める。
振り返れば、遥か後方で、馬車の列の間からひょっこり顔を出したアイリーンが、心配げにこちらを見ていた。
アイリーンから見えているかは分からなかったが、ひらひらと手を振ってみせたケイは、おもむろにサスケの腹を蹴る。
ピョートルと街道を併走しながら、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握り直し、睨む前方。
ブラーチヤ街道を北上する旅路は、こうして静かに始まった。
40. 斥候
北の大地は起伏に乏しい。内陸部では特にそれが顕著だ。
地平の果ての険しい山脈に突き当たるまで、延々と続くなだらかな平野。生い茂る草は枯れかけているような薄茶のもので、吹き抜ける風にかさかさと音を立てている。夏の降水量が少ないため、空気が非常に乾燥しており、風も心なしか埃っぽい。瑞々しい青色が一面に広がる公国の丘陵地帯とは大違いだ。
そしてそんな乾いた大地を真っ直ぐに貫く石畳の道―ブラーチヤ街道。
ディランニレンを発ってから一時間余り。
隊商から百メートル強の距離を保ち、ケイとピョートルは警戒任務にあたっていた。
左手に”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を、右手には手綱と矢を握るケイは、臨戦態勢にありながらも程よく肩の力を抜き、良い意味で気楽に構えている。ぱかぱかと蹄の音を立てるサスケは、いつもよりキリッと、凛々しく見えた。おそらく隣のピョートルが跨っている黒毛の雌馬に、良いところを見せようと張り切っているのだろう。
二メートルほどの槍を肩に担いだピョートルは、ケイと同様、泰然としている。背中にはアイリーンのように木の丸盾を背負っており、鞍には矢筒と小型の複合弓も備え付けてあった。槍が得意らしいが、いざとなれば遠近ともに対応可能な装備だ。
普段なら、この辺りはとても平和だ
ピョートルは槍を指揮棒のように動かして、周囲を示してみせた。
水場がないので、しばらくこんな景色が続く。見ての通り、隠れる場所が少ない
そうだな
このような開けた場所での遊撃・偵察は、本来ケイの最も得意とするところだ。時折思い出したように木立が点在する他、視界を遮るものは何もなく、また仮に隠れていたところでケイの目から逃れるのは難しい。
出発して以来ずっと平野が続いており、馬賊はおろか人っ子一人見かけなかった。
ただし、しばらく進むと川や湖があって、集落も増えてくる。そのお陰で、……何と言うのだろう。木が増えてくる。あのような形で、多めに
単語を知らないのか、言葉に詰まったピョートルは近くの木立を指差す。
森か?
森もある。だが、もっと小さい
木立か
そうだ、木立だ
ぱん、と膝を打つピョートル。彼との会話は毎回こんな調子だ。しかしケイも悪い気はしない。いつもは単語を教えてもらう側のケイにとって、自分が誰かに英語を教えるのはなかなか新鮮な体験だった。
ケイの公国語は分かりやすい。とても簡単に話す
それは良かった
片や赤毛でゴツい雪原の民、片や草原の民風の重装戦士という組み合わせだが、両者ともにニコニコとしており、とても朗らかな雰囲気だ。
だから、明日以降は気をつけるべきだ。木立の中に敵が隠れているかもしれない。敵の斥候を先に見つける。そして出来れば殺す。それがわたしたちの仕事だ
……ああ、そういうのは得意だよ
己の手の得物を揺らして、ケイはシニカルに笑う。
む。待て、殺すは間違いだ。情報のために、一人は生かしておいた方が良い
分かった、気をつけよう
“竜鱗通し”の一撃は重い。近距離ならば手足を狙うなどして手加減できるが、距離が離れてくるとどうしても胴体に当たりやすくなる。慎重に狙いをつけるべきだろう、さもなくば肉の塊を量産する羽目になる―
……ん
と、そのようなことをつらつら考えていた折、視界の端に気になるものを捉え、ケイは馬足を止める。
どうした、ケイ
何かが動いた。あの木立だ
前方二百メートルほどの街道沿い。ピョートルは手をかざして目を細めた。
……遠いな。見えない
小さく見えた。兎かな、少し脅かしてみよう
矢筒から一本、質の良くない矢を選んで抜き取ったケイは、無造作につがえて放つ。
カァン! と響く快音。
風に乗った矢が高く天頂まで伸び、ゆるやかに弧を描いてすとんと木立に落ちる。がさがさと茂みを震わせて、一羽の野兎が慌てた様子で飛び出してきた。
やっぱり兎か
ふふ、と微笑みながら構えを解くケイに、隣のピョートルは呆れたような顔をする。
……ケイはとても良い目を持っている
そして、至極当然のようにやってのけたが、二百メートル前方を狙ってさらりと矢を放ち、目標地点に命中させる腕前も尋常ではない。
“ドルギーフ”の氏族を思い出す。彼の一族の戦士は皆、鷹のような目を持っていた
ほう……目が良い血筋なのか
いや、目を強くする秘術があるらしい
おそらく、『視力強化』の紋章のことだろう。 俺も同じ秘術を使っているんだ とは口が裂けても言えないが、ピョートル相手だと無性に言いたくなるケイであった。
その後も、とりとめのない話をしながら、ケイたちはのんびりと斥候を続ける。
やはり道の状態が段違いに良いな。エゴール街道とは全然違う
ブラーチヤ街道の石畳にはひび割れもほとんどなく、また仮に破損した部分があっても、石材や、セメントのようなもので補修されていた。ぼろぼろで目も当てられないエゴール街道とは、馬賊の影響があっても尚、雲泥の差がある。
エゴールは、今は使われることは稀だ。商売人は誰も行かない
だろうな……あれは……
酷かった、と言いかけてケイは言葉を飲み込む。エゴール街道周辺では『邪悪な魔法使い』作戦でひと悶着起こしている。アイリーンが”影”を操る魔術師であると公言した手前、ここで色々と線が繋がってしまうとまずい。
……ところで、この辺りは全然暑くないんだな。夏なのに涼しい
ああ、日光があまり強くないからだ
ケイとしては露骨な話題転換だったが、ピョートルは気にする風もなかった。
公国は暑いのか? ケイ
そうだな。ここに比べるとやはり暑い。こんな格好で炎天下にいたら汗だくだろう
うん? ……最後の方が良く分からなかった
ああ……このような服装で太陽の下にいたら、たくさん汗をかく
ケイは自身が羽織る厚手のマントをひらひらとさせた。主にフードで顔を隠すためのものだが、この時期に公国でこんなものまで着ていたら、暑くて堪らないはずだ。
ああ分かった。やはり暑いのだな、公国は。しかしわたしは羨ましい
ふすーっ、と鼻でため息をつくピョートル。
今はいい。……だが、冬は恐ろしいことになる。北部よりはマシだが
……ああ
ケイも思わず辺りを見回して、一面の雪景色を想像した。
……冬は、怖いな
現地人のピョートルが”恐ろしい”と形容するのが、まず何よりも恐ろしい。インフラの概念もないこの世界だ、寒さはすなわち命の危機に直結するのだろう。
雪が降るのか?
降る。たくさん降る。夏に降れば良いのに、と皆が言う
違いない。そのせいで酷い目に……遭うだろう。水がなくて困っていると聞いた
その通りだ。夏はあまり雨が降らない。この辺りは川や湖があるが、エゴールの近くは特に悲惨だ
……だろうな
引き攣った笑みを浮かべるケイ。
だが北部はもっと酷いんだろう?
そうだな。北は雨も降るが、その代わり冬の雪が凄まじい
『凄まじい』、か……
この辺りは冬でも出歩ける。外に出れば兎を狩ることもできる。だが北部は駄目だ。時期によっては吹雪で家から出られない。家ごと凍り付いて死ぬときもある
…………
確かにガスや電気による暖房がなければ、そのようなこともあり得る。しかし、あまりの過酷さにケイは閉口してしまった。
何故そんなところに住み続けるんだ
……他に場所がない
ピョートルは寂しげに肩をすくめた。
たとえば引っ越そうとして、良い所を見つける。……だが多くの場合、そこには既に人がいる
そして無理やり住もうとすれば、争いが起きるだけだ、と。
だが……北の大地は広いじゃないか
たしかに広い。だが住みやすい土地は限られている。たとえば北、“白色平野(ヴィエラブニーネン)“は、果てしなく広いと言われているが雪しかない。住めるような場所ではない
しかし……ほら、森とかあるじゃないか。東部とか……
森を切り開く、ということか?
ああ。森を開拓して畑にするんだ。時間はかかるが、土地はあるんじゃないか?
……難しい。森には怪物がいる
虚空を睨むピョートルは、途端に厳しい表情になった。
怪物(モンスター)? “大熊(グランドゥルス)“や”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“か?
いや。“大熊”や”蜥蜴”も恐ろしいが、所詮は動物だ。狩ることはできる。北の大地の森には、もっと恐ろしいものがいる
……“飛竜(ワイバーン)“とか?
“飛竜”! そうだな、南東部では出るらしい。辺境の集落が焼かれたという話も聞いたことがある。……だが森には、実体のない悪霊や、もっと恐ろしい化け物の類もいる。剣や弓が効かないような相手が……
呟くように、ピョートル。
……どんな化け物がいるんだ?
黒い悪霊を見た、また、襲われた、という話はよく聞く。深い森はあの世へ繋がっているのだと信じる者も多い。わたしが知っているのは大きな黒い鳥だ。家ほどの大きさがあって、弓で射ようが槍で突こうが死なず、人をさらっていく
悪霊は、まだ見間違いで片付けられるかもしれないが、大きな鳥は本当だとするならばどうしようもない話だ。
……それでも辺境に住み続けられるのは、俺は、凄いことだと思うぞ。普通なら土地を捨てて逃げ出してしまいそうだ
……逃げる者ももちろんいる
ピョートルはケイを見やって、哀しげに笑う。
わたしのように
†††
そのまま、何事もなく隊商は進んだが、昼過ぎの休憩で集落に立ち寄った際、やはりひと悶着あった。
ケイはフードをかぶって顔を隠していたのだが、隙間から子供に覗き見られ、草原の民と誤認されてしまったのだ。お陰で住民たちから石を投げられる羽目になった。ケイは鎧で武装しているので素人の投石程度はどうということもないが、問題はサスケだ。あともう少しで目に直撃するところだったのを、ケイが咄嗟にマントで庇い事なきを得た。
ポーションを使えば多少の傷は治せるが―サスケにあの治療の苦しみ(ジュワワワ)を、それも眼球に味わわせるのは気が引ける。
……まあ、とにかく何事もなくて良かったよ
村外れの木陰で隠れるようにして、アイリーンと一緒に昼食を食べながらケイは訥々と投石事件のあらましを語った。
ケイも大変だな……。サスケ、お前も無事でよかったな
固焼きのパンを齧りながら、傍らのサスケの顔を撫でるアイリーン。 ぼく、へいきだよ と言わんばかりにぶるぶると鼻を鳴らしたサスケは、アイリーンの頬をぺろりと舐めて草を食み始める。
斥候の仕事はどんな感じ?
今のところ、身の危険は感じないな。騎兵が二人だから融通が利くし、定点防御よりはマシかもしれん。俺としてはむしろ、隊商が襲われたときの方が心配だな……そっちはどうだ?
んー特に何も。公国の行商人と仲良くなったくらいかな。ケイのことも知ってたぜ、武闘大会の優勝者だって。オレたちの苦労話したら気の毒がって、あんまり居辛いようなら、夜はウチの馬車までおいでって言ってた
おお、それはありがたいな
その同情心が身に沁みる。敵意がないというだけで有難いものだ。
干し肉を噛み千切ったケイは、背後の木にもたれかかり空を仰ぐ。
…………
無言で咀嚼しながら、雲ひとつない青空をぼんやりと見つめていた。隣のアイリーンは、そんなケイを心配そうに見守っている。
……そうだ、なんかこの隊商さ、ヤギを連れてる人が多いんだ
ヤギ?
努めて明るい声を出すアイリーン、少し興味を引かれるケイ。
そう、ヤギ。最初はペットかなって思ったんだけど、皆揃って連れてるし、全部雌でさ。聞いてみたら新鮮なミルクを搾るためと、いざというときの非常食なんだって
非常食か。それはまた
ケイも苦笑する。成る程、なかなか合理的な話だ。
オレたちもヤギ飼うべきかな。北の大地なら必須かも
……厳しいんじゃないか? 連れてるうちに情が移って絞められなくなりそうだ
食べる前提じゃなくてもいいじゃん
いや逃げるときとか……馬ほど速く走れないし、担いでいくわけにもいかないだろ
あー……それはあるなぁ
あとアイリーンは名前とかつけて可愛がっちゃいそうだしな
うっ、否定できない……
そんな下らない話をしているうちに、ケイもだいぶ元気が出てきたので、気合を入れて午後の仕事に挑む。
集落を出てからは、また代わり映えしない平野が続いた。
ただ、少しずつではあるが―緑が増えてきているように思われる。そしてそれは村を出てからおよそ二時間がすぎ、小さな川に差し掛かった辺りで顕著になった。
今から、この橋を渡る
前方、十メートルほどの長さの橋を指差して、ピョートル。
川は北東から南西にかけて流れる大河の支流であるらしく、川幅に比して非常に深いようだ。橋なしでは渡ることはできない。
ケイ、ここから森や木立が増える。気をつけろ
分かった
二人がかりで橋に異常がないことを調べてから、後方の隊商に確認の合図を送り、川の向こう側へと先行する。
これまでの道のりと川向こうとでは、植生の違いは明らかだった。木立や雑木林が至る所にあり、あるいは小規模な森にまで発達しているものも散見される。
土地としてはディランニレン近郊やエゴール街道の周辺とは比べ物にならないほど豊かだが、それでも瑞々しさや爽やかさとは無縁で、どこか乾いた空気が感じられるのは風土の違いというものだろうか。
隠れる場所が山ほどあるな
ああ。そしてこの辺りは獣も多い。たとえば狼の群れだ
“狩猟狼(ハウンドウルフ)“か?
いや、ハウンドウルフはこの辺りにはいない。冬が寒すぎる。毛が灰色で、もう少し小柄な奴らだ
ただ、小柄といってもそれは御し易いという意味ではなく、群れで狡猾に立ち回るため、時たま隊商の家畜や馬にも被害が出るらしい。油断はできないということだ。
まあ、狼が出たら俺が追い払うさ、そういうのは得意なんだ。……ところで、矢で射殺したら呪われる、なんてことはないよな?
北の大地は、どうやら公国と気色が違う。怨霊や悪鬼の類も多そうだと思ったケイは、“竜鱗通し”を掲げながら笑って問いかけた。
……。ないはずだ
その間はなんだ
軽口を叩く間にも、進行方向の木立や茂みを手当たり次第にチェックしていく。これまでとは違い植生が濃いため、ケイの目をもってしても、ある程度近づかなければ確実には見通せない。
そして、これが斥候が危険とされる所以でもある。仮に茂みで敵が待ち伏せしていたならば自分から近づいていくことになるし、敵も獲物の『目』を潰すべく、全力で殺しにかかってくるからだ。
本当は、孤独な者の仕事だ。死んでも誰も悲しまない
がさがさと茂みを槍で突きながら、ピョートルは言った。
だから危なくなったらケイは逃げるといい。死ぬと恋人が悲しむ
……言ってくれるじゃないか
冗談めかしたようなピョートルの言葉に、一方でケイは複雑な表情だ。
申し出は有難いが、置いていくような真似はしないさ。ヤバくなったら、そのときは一緒に逃げよう
……そうだな、わたしが死ぬ意味はない。はっはっは
言われてから気付いた、といった様子で額をぱちんと叩いてピョートルは笑う。それにつられて、困ったように笑うケイはふと、何故この男は斥候などやっているのだろう、と思った。
思い返せば昨日ガブリロフ商会の前で会った際も、隊長のゲーンリフと対等に話していたし、ある程度の影響力も持っているようだった。昼の休憩で見かけたときも同僚の戦士たちと普通に談笑しており、決して孤独であるようにも、また嫌われているようにも見えなかった。
この、優しすぎる赤毛の偉丈夫に、ケイはどこか危うさを感じる。
自分のことを色眼鏡で見ない、対等な付き合いをしてくれる人間というのが、これほどまでに有難い存在だとは知らなかった。彼の物静かで高潔な人間性は、それだけで尊敬に値するとケイは思う。
思うのだが―。
ただ、それが彼の生き方であるとするならば、付き合いの短すぎるケイがどうこう言う権利もないのだ。
結局、今この場において口をつぐむことだけが、ケイにできる全てであった。
(……まあ、大丈夫だろう)
少なくとも今日のうちは、とケイは心のうちでひとり呟いた。
隊商はまだ出発したばかり。北の大地でも有数の大規模都市ディランニレンに程近い地域だ。馬賊もそうそう出張ってはこられないだろう。
問題は、明日以降。
話によれば、隊商は一日で予定のルートの五分の一を消化するという。
つまり北部の都市、ベルヤンスクまでの道のりはあと四日。
その間に、ブラーチヤ街道を無事突破できるか―
行こう、ケイ。次はあの木立だ
……ああ
隊商の旅は、今しばらく続く。
41. 夜営
その日、ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めた隊商は、日が傾き始める前に夜営の準備に取り掛かった。
街道沿い、小さな木立の中。
綺麗な水の湧き出る泉を取り囲むようにして、隊商の馬車で円陣を組む。馬車と馬車の隙間には地面に杭を打ち込み、木の板を立てかけ即席の大盾とした。壊れやすい車輪には厚手の布を何度も巻きつけて衝撃を吸収できるようにし、円陣の外側にも杭を乱雑に打ち込んで反対側を尖らせる。極めつけに、ちょうど足の高さのところにロープを張り巡らせて、ついでに鳴子まで設置した。
徹底した馬賊対策。まるで小さな要塞だ。
木立の枝葉は頭上から降ってくる矢の威力を殺し、杭やロープ、木立の木々、そして馬車そのものが騎兵突撃を妨害する。
面白いのが、円陣の一箇所にのみ、わざと穴が開けられていることだ。
その『穴』の外側にはロープなども敢えて取り付けられておらず、追撃の際には隊商の騎兵が速やかに打って出られるようになっている。守りを固めるときでさえ攻めの姿勢を忘れない、雪原の民の気質がよく現れていた。
そして、それらの防御策を講じた上で、鳴り物入りで執り行われたのが―
『やあやあ、漸く私の出番か。こんばんはお嬢さん』
『こんばんは、ヴァシリーさん。ではよく見ていて頂戴ね』
円陣の真ん中の焚き火のそば、鴉に憑依したヴァシリーに見守られながら”警報機(アラーム)“を設置する。
Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo ―
触媒を捧げるアイリーンの周囲には、隊商の面々が興味津々な様子で集まっていた。
『なんでぇこりゃ?』
『敵が近づいたら知らせる魔法だとよ』
『へー。本当なら便利だな』
『俺は敵を呪い殺す術だって聞いたぞ』
憶測混じりのひそひそ話を交わしながら、野次馬の輪が、徐々に徐々に警報機の方へと近づいてくる。下手に弄られて壊されたら堪らない、と思ったアイリーンは、
『……迂闊に触ると呪われるわよ。気をつけてね』
その言葉と同時、警報機から影の触手がウネウネウネッと爆発的に飛び出した。人の波がさぁっと引いていく。
『んふっ』
すぐそばで見守っていたヴァシリーが、翼を震わせて笑いを噛み殺す。最初から術式の発動を見守っており、かつ呪いのスペシャリストでもあるヴァシリーは、アイリーンの言っていることが丸きりデタラメだと分かっているのだ。
『ほ、本当なのかヴァシリー殿?』
『うーん、否定はしない』
ただ、警報機が壊されたら困る、というアイリーンの思惑も理解していたので、余計なことは言わない。
そして、無事魔術の発動を見届け、その内容が正しく敵警戒の術式であることを確認したヴァシリーは憑依を解いて戻っていった。
結界を張っている間に日はとっぷりと暮れ、隊商の面々は夕餉の用意を始めている。全体の人数が多いので、数人ごとのグループに分かれて各自で食事を摂るのが基本だ。
昼間のうちにアイリーンが話していた通り、ケイたちは公国の商人の馬車を訪ねることにした。折角なのでケイは途中で見かけたピョートルを誘い、一緒に連れていく。
こんばんはー
お、来たか嬢ちゃん!
周りのものに比べると小型だが、造りのしっかりした荷馬車の傍ら。焚き火にかけた鍋をかき混ぜながら、ケイたちを出迎えたのは三十代前半の男だ。
印象としては顔が四角い。茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。ケイの姿を認めた男は黒っぽい瞳をくりくりとさせながら、人好きのする笑みを浮べて手を差し出してきた。
おおーこれはこれは! 武闘大会の優勝者の、ケイチ殿でいいのかな!
ああ、そうだ。ケイチじゃなくてケイイチだが……みな俺のことはケイと呼ぶ
その手を握り返しながら、ケイ。
ん? ちょっと発音の違いが良く分からないが……まあいい。おれは『ランダール』っていうんだ、見ての通り行商人だ。よろしくな!
こちらこそよろしく
随分と威勢の良い行商人だ。何というべきか、商(・)人(・)ら(・)し(・)く(・)な(・)い(・)。体格もがっしりとしているし、一体どのような商品を捌いているのだろうか、とケイは幌馬車に興味深げな視線を送った。
一方でランダールは、ピョートルに注目している。
『……えーと……こんばんは?』
『おや、君は雪原の言葉を話すのか』
『少しだけ、学びました。商売のために』
『それはいいね』
気さくに笑ったピョートルは、ランダールに手を差し出す。
……わたしも、公国語を話す。少しだけ
ああ、そりゃあ助かる
お互い何か感ずるところがあったのか、笑顔で握手する二人。
さあて、スープを作っといたんだ。じゃんじゃん食べてくれ!
ランダールが馬車から引っ張り出してきた小さな椅子に腰掛け、四人で鍋を囲む。
ありがたいな。わたしは乾パンとハチミツを持ってきた
オレはドライフルーツ持ってきたぜ!
……俺は特に何も用意してなかった
ケイは嬢ちゃんとまとめてカウントしていいんじゃないか?
各自持ち寄った器にスープを注いでもらう。何やら香ばしくて良い匂いだ。木のさじで軽くかき混ぜてみると、ソーセージや刻まれた野菜がごろごろしており、多種多様な乾燥ハーブが入っているのが分かった。口に含んでみればよく利いた塩味、濃厚な肉の旨みが疲れた体に染み渡る。ケイは思わず唸った。
うぅむ……美味い
そいつぁ良かった
晩夏、北の大地の夜は冷え込む。革鎧一式に加え、皮の外套を羽織っていても肌寒いほどだ。暖かいスープは有難かった。
これは美味しい。野営(キャンピング)の味とは思えない
ピョートルも大満足の様子。アイリーンに至っては無言で食べるのに集中している。
馬車があると、やっぱり色々と材料を持ってこれるんだなぁ。馬だけの旅だとこんな美味しいスープは作れないよ
だろうな!
しみじみとしたケイのコメントに、うんうん、と腕を組んで頷くランダール。
美味い飯は人生の楽しみ。たとえ旅でも蔑ろにはしたくないもんさ。ただし、馬車がイカれたら荷物も全部パーだ! それも怖いぞ!
……たしかにな。そういえばランダールは何の商人なんだ?
ケイが尋ねると、ランダールはひょうきんな笑みを途端に穏やかなものに変える。
主に医薬品だ。あとは香水を商っている
コトコトと音を立てる鍋を見つめながら、流れるように、歌うように答えた。驚くほどテンションに落差がある。ケイは目をぱちぱちと瞬かせた。
香水に薬か、それは―
意外だな、と言おうとして、失言であることに気付き慌てて口をつぐむ。毛皮や干し肉など、もっと大雑把なものを売っているイメージがあったが、よくよく考えれば公国からわざわざ出向いてきているのだ、『普通』な品物を扱っているわけがない。
香水?
医薬品か
アイリーン、ピョートルともに興味を示す。
ああ。嵩張らなくて、良い値で売れる品物っていったら限られてるからな
コンコン、と自身の馬車の車輪を叩きながら、ランダールはニカッと笑った。
医薬品は助かる。公国の薬はとても良く効く
馬車を見上げるピョートルの目には、どこか憧れるような光がある。しかし、ふと視線を下げてランダールを見据えたピョートルは、
ランダールは、一人か?
……ん? っていうと?
いや。普通の商人は……なんと言うべきか。手伝う人を連れていることが多い。だがランダールは独りに見える
ピョートルの指摘に、ケイとアイリーンも 確かに と頷いた。周囲の年かさの商人は大抵若い見習いを連れているし、あるいは手伝いとして家族を同伴させていることもある。だがランダールは馬車を持つ商人であるにもかかわらず、独りきりだ。
ああー……まあ、おれはなぁ
しばし目を泳がせたランダールは、クヒヒと悪ぶるような笑みを浮かべた。
弟子を取る余裕がないってトコだな!
そうなのかー? でも余裕はありそうじゃん、馬車も良いの使ってるし
ん、まあ嬢ちゃんの言う通り馬車は結構イイヤツだけどさ。仕入れと馬車の維持で金がかかるんだコレが……。見習いやら手伝いやらを連れて行くとそいつらの面倒も見ないといけないし、今のおれには荷が重いや
ふーん、そんなもんか
自分ひとりなら儲けは全部おれのもの! この身体一つで頑張ろう! ってな
ふんっ、と力こぶアピールするランダール。
で、薬はベルヤンスクで売るのか?
スープをもぐもぐと食べながら、ピョートルはマイペースだ。
お、おう。そのつもりだぞ
可能なら、東部でも売って欲しい。辺境では薬が不足している
食べる手を止めて、静かに、そして真っ直ぐに見つめるピョートルに、ランダールは調子が悪そうに目を逸らす。
辺境の話は聞いたことあるさ。でももう納品先が決まってるんだ
そうか……
少しだけ残念そうに頷いたピョートルは、乾パンをスープに浸してふやかし始めた。
……そういや、薬とか売ったあとはどうすんの? 何か別のもの仕入れたり?
代わって、今度はアイリーンが質問し始める。
まあ、そうなるなぁ。船と一緒で、荷馬車を空っぽのまま動かすのは、やっぱり馬鹿らしいや
北の大地の特産品とかあったっけ。何を買うつもり?
商人にズカズカ聞いてくるなぁ嬢ちゃん! まあいい。おれぁ取り敢えず武具だな
武具でいいのか?
アイリーンとランダールの会話に、黙って聞いていたケイも思わず口を挟む。
サティナでは最近、武器やら防具やらが売れなくて困ってるようだが……
心配げな口調だ。戦役による特需がなくなり、多くの職人があぶれているサティナの街の現状を思い出す。
ああ。公国産のは、そうだな。ただ北の大地の武具はとにかく質がいい! 銀よりも更に輝くような金属―“真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“と呼ばれているんだが、それで造られた武具は鋼の一級品より遥かに頑丈なんだよ。そして高値で売れるんだなぁコレが!
熱の篭ったランダールの説明に、ケイは瞬間的に、とある青年を思い出した。まるで嵐のように青い風をケイとアイリーンに吹きかけてきた、あの雪原の民の若き戦士を。
アイリーンを見れば、彼女も同時に思い出したのか、苦笑している。
ん、どうした、二人とも?
いや、ある雪原の民の戦士を思い出してな。そいつもその白銀の武具を使っていたよ、確かに驚くほど頑丈だった
“大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命せしめた矢を、真正面から叩き込んでも貫通させられなかったほどだ。あれに”真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“なる呼び名があったとはケイも知らなかった。
“真なる銀”の武具はとても珍しい。入手できるのか?
興味深げなピョートル。ランダールは悪戯っ子のような笑みでウィンクした。
まあ、アテはある、とだけ言っておこう!
ほう。凄いな
感心した様子で何度も頷くピョートルに、ランダールも心なしか自慢げだ。
(俺も欲しいな……)
ケイは、どちらかというと物欲がないタイプの人間だが、それでも”真なる銀”の武具は非常に魅力的だった。実際、ケイの”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の一撃を弾ける防具など、そうそうお目にかかれない。胸当てか、兜か。一箇所でもいいので、急所を守るために欲しいところ。
なあ、相談なんだが……
もしその武具が手に入ったら、予算はあるので売ってもらえないか、とケイが言おうとした、その瞬間。
野営地に悲鳴が響き渡る。
か細い女のそれだ。ケイは思わず傍らの”竜鱗通し”に手を伸ばしたが、立ち上がる前に様子がおかしいことに気付く。
周りの者たちが―特に雪原の民の商人や護衛たちが、にやにやと笑っていたのだ。皆の目はケイたちの居場所の対面、円陣の反対側に向けられていた。
その視線を辿っていくと、―ひとりの女。
この肌寒い中、ボロ布のような服しか着ておらず、何人かの男たちに手足を押さえつけられて、いやいやと首を振って必死に抵抗していた。
髪は、黒色。そしてその顔には、複雑な模様の刺青が刻まれている。
―草原の民だ。
『なんでぇ、女がいやがるのか!』
『おう、今回に備えて一人買っておいたわけよ』
冷やかすような声に、恰幅の良い中年の商人が上機嫌で答えた。そして未だ抵抗を続ける草原の民の女に視線を移し、見下すように顔をしかめたかと思えば、その手の鞭を無造作に振り下ろす。
バシンッ、バシィッという激しい音、再び絹を裂くような悲鳴が上がった。
『大人しくしねえかッ! くびり殺すぞ!!』
乱暴に髪を掴んだ男の罵声に、怯えた女は身体を縮こまらせて動かなくなる。
ただ、それでは終わらなかった。
むしろ、始まりであった。
彼女の手を押さえつけていた男の一人が、そのボロ布のような服を無理やり剥ぎ取ったのだ。焚き火の明かりに、褐色の裸身が曝される。
当然のように身体をくねらせて抵抗しようとする女だが、そこに更に鞭が叩きつけられ、ビシィッと先ほどよりも鋭い音が鳴り響く。
もはや悲鳴すら上げず、大人しくなった彼女に、周りの男たちが群がっていった。
『おい! それ終わったら、あとで使わせてくれよ』
『構わんが、金は取るぞ』
『幾らだ!』
『んん、まあ小銀1といったところか』
『高い! 銅5で上等だろう』
『アホか、流石に安すぎるわ』
やいのやいのと、周囲の傭兵たちもまた騒ぎ始める。
…………
ケイは、彼らが何を言っているのかはさっぱり分からなかったが、しかし何が起きているのかはハッキリと分かった。
対して、彼らの言葉が全て分かるアイリーンは、顔面を蒼白にしていた。目の前で、あまりにも普通に行われている『それ』のおぞましさに、ただただ悪夢を見ているような、冷たい震えが、走る。
ランダールは目を背けていた。ただ瞳に鋭利な光を湛え、どこまでも無表情に。
そして全く見向きもしないピョートルは、スープの残りをかき込んで、ふぅと小さく溜息をついた。
……普通、この大きさの隊商には、娼婦がいる
木の器を足元に置いて、ピョートルは訥々と語る。
だが、最近は馬賊のせいで、娼婦が隊商についてこない。だから―
無感動な目が。
―奴隷を買った。彼らはそういうことをしている
沈黙。
ただ向こう側から聞こえてくる男たちの声と、ひとり、押し殺すような泣き声と。
…………
ケイは動かないし、動けない。
庇い立てするようなことをしたり、あるいはひどく同情するような言動を取れば、隊商内での立ち位置が更に危うくなると容易に想像できたからだ。
それでも、胸糞は悪い。
愛の介在しない一方的な行為がここまでおぞましいものであったとは、考えれば想像の届く範囲、しかし理解の範疇を超えていた。顔から血の気の引くような感覚はある。だが心はまるで凍りついたように動かない。
隣を見ればアイリーンが、無意識の所作なのか、己の身体を抱いて震えていた。その顔は気の毒なまでに蒼い。
そしてケイは気付く。
周囲の、享楽の宴に参加していない、できていない男たちが、アイリーンに酷く粘着質な視線を向けていることに―
要塞のように頼もしかった隊商の円陣が、一転、今は蟻地獄のように感じられた。
……スープが冷めちまう
沈黙を打ち破ろうとするかのように、呟いたランダールが、器にスープを注ぎ足して黙々と食べ始める。ケイもそれに倣い、冷えかけのスープをひとさじ、口に運んだ。
…………
相変わらず、濃い味付けと肉の旨みが感じられた。
ケイは何ともいえない遣る瀬無さを、スープの具とともに噛み締め、飲み下した。
†††
結局、男たちの唾棄すべき行為はなかなか終わる気配を見せなかったが、明日に備えてケイたちは寝てしまうことにした。
ランダールの馬車のそばにテントを張る。はからずも、それはこの限られた円陣内の領域において、暴虐の現場から最も遠い場所でもあった。
ひとつだけ、この隊商に参加して、良いと思えることがある。
それはケイもアイリーンも、夜の見張りをする必要がないということだ。アイリーンは警戒魔術の対価として。ケイは翌日の斥候の任務に支障が出ないようにするため。
ちなみにケイと同様、ピョートルも夜番を免除されているらしい。
会話もないままテントに潜り込んだケイたちは、しかし、寝転がると同時に、やはり互いの存在を意識した。せざるを得なかった。
テントの布越しに、外からは男たちの声と、くぐもった呻き声のようなものがかすかに聞こえてきている。泣き声だと萎える、という意見を受けて、女の口に詰め物がされたからだ。それを『幸いにして』とは、とてもではないが言える気分ではない。
……ケイ
暗闇の中、アイリーンがそっと手を握ってきた。
こうして、彼女と肩の触れ合う距離にいても、性欲は欠片もわかなかった。どちらかと言えば 吐き気を催す という表現に一番近いものがある。
ケイも、ぎゅっとアイリーンの手を握り返した。互いに何も言わないが、少なくとも同じ気持ちを共有できている、という確信はあった。
ある種の諦めにも似た気持ちで、ケイは密かに嘆息する。この調子ではぐっすりとは眠れまい。
明日の斥候に響かねばよいが、と思いながら、ケイは静かに瞼を閉じた。
―しかし、その浅い眠りが、この日に限っては良い方向へ働いた。
真夜中のことだ。唐突に、キーンッという澄んだ金属音が響く。眠り込んでいたケイもアイリーンも、カッと目を見開いて跳ね起きた。
“警報機”が鳴ったのだ。
アイリーンは枕元のサーベルを手に、ケイは弦を外した状態の”竜鱗通し”と矢筒を引っつかんでテントから飛び出した。
『何が起きたの!』
『わ、わからねえ! これが急に……!』
アイリーンが見張り担当の男に尋ねるが、彼は”警報機”のそばでうろたえているだけだった。何か目に見えて異変が起きているわけではないらしい―少なくとも、まだ。
騒動を聞きつけたか、隊商の面々も続々と目を覚ましつつあった。取り敢えず、ケイは急いで”竜鱗通し”に弦を張る。そしてそれ終えるとほぼ同時、“警報機”から影の手が伸びて西を指差した。
西へ駆ける。
おい、どうしたんだ?
騒ぎに目を覚ましたらしいランダールが―叩き起こされた割には全く眠気を感じさせない様子だ―尋ねかけてくる。ケイはそれに答えずに、幌を外された彼の馬車の荷台に飛び乗り、暗闇の向こうへと目を凝らした。
僅かな月明かりの下で、木立の向こう側、短い草が風に揺れている。
―いや、それだけではない。
ケイの瞳孔が拡大する。
見透かされる闇。
そう、それは視線だ。
ケイは見つけ出した。遥か前方、草むらの影に潜み、こちらを窺う一対の瞳を―
咄嗟に矢筒から矢を引き抜き、つがえ、放つ。
快音。
白羽が夜の闇をつんざいて引き裂いていく。
鋭い音が鳴り響くと同時、反射的に身を起こした『それ』の肩に矢が突き立った。風にまぎれて、かすかに ギャンッ という鳴き声。
狼……!
顔を険しくするケイの隣、同じく荷台に上がってきていたランダールが、闇の向こうから聞こえてきた悲鳴にピゥッと口笛を吹く。
凄いじゃないか、中(あ)てたのか!
いや、仕留め損なった。……サスケ!
ケイが指笛を吹き鳴らすと、馬車の近くで待機していたサスケがトットットッと駆け寄ってくる。その背中に飛び乗り、ケイは追撃を仕掛けるべく円陣の外へ出ようとした、が―
待て! 何処へ行くつもりだ!
隊商の長、ゲーンリフが厳しい表情で眼前に立ち塞がった。
追撃だ。仕留め損なった
敵が何人いるかもわからん。状況がはっきりするまで防御するべきだ、留まれ
いや、俺が見たところ敵はいなかったが、ただ―
留まれと言っている!
ケイが事情を説明しようとするも、でっぷりとした腹の肉を揺らしたゲーンリフが不機嫌な顔でその言葉を遮った。
勘違いするな。ヴァシリー殿はああ言われたが、私はそもそもお前のことを信用していない。……お前が馬賊の一員である可能性を忘れたわけではないのだ
ふん、と鼻を鳴らしてゲーンリフ。
兎に角、状況がはっきりしない以上、無闇に動くことはならん
しかし―
何度も言わせるつもりか? ……今、そこまでして外に出たいのか?
ゲーンリフは、すっと目を細める。あまりに恣意的な解釈に流石のケイも閉口したが、ここは事情を説明するべきだと再び口を開こうとして―やめた。
周りを取り囲む、隊商の面々を見たからだ。
皆、無言のうちに、ケイに疑うような目を向けていた。何人かは、剣の柄に手をかけている。
この状況で抗弁するのは、あまりに雰囲気がまずい。そして時間が経つうちに、自分の『見たもの』への確信が揺らいでくるのを感じたケイは、小さく溜息をついてサスケから降りた。
……明るくなったら、何人かつけて現場の確認に行かせてくれ
うむ、それなら許可しよう
鷹揚に頷いたゲーンリフは、周囲の面々に何か一言二言声をかけて手を振った。男たちが四方へと散っていく。大方 警戒に戻れ とでも言ったのか。
サスケの手綱を引きながら、歩いてアイリーンの元へ戻るケイは、それでも背中にチクチクと刺さる猜疑の眼差しを感じていた。
……あれは
不安げな顔で、ケイは西を見やる。
先ほどの狼。
やはり考えれば考えるほど、妙な点が多すぎる。
ピョートルが言っていたではないか。北の大地の狼は、銀色の毛で比較的小柄、かつ群れで行動すると。だが先ほどの『あれ』は一頭だけだった。
しかも、闇に溶け込む毛の色は、黒。限りなく夜に近い色。
そして、その体格―ケイの目に狂いがなければあれは間違いなく、大の大人と同等か、あるいはそれ以上のものがあった。
黒毛で、かつ巨大な狼など、ケイは一種しか知らない。
―ハウンドウルフ
ぽつりと。
ケイの呟きは、冷たい夜風に流され、そのまま消えていった。
42. 狩猟
朝の空気は冴え渡っている。
北の大地の夜明けは乾いていて、どこかよそよそしく、冷たい。これが公国であれば瑞々しい草の香りを楽しめたものを。
朝焼けの空を眺めながら埃っぽい風に吹かれていると、ケイは一日の始まりに何ともいえない疎外感のようなものを抱くのであった。
……行こうか
ケイはピョートルほか数人の戦士を連れて、狼に矢を中(あ)てた現場へと向かう。
ピョートルには既に、昨夜のハウンドウルフの件を話してある。そしてそれが単なる見間違いでなかったときの『飼い主』の懸念についても。
ハウンドウルフ、か……
話を聞いたピョートルは、頭ごなしに否定こそしなかったものの、どちらかといえば半信半疑の様子だった。北の大地にはハウンドウルフがおらず、それを飼い馴らすイグナーツ盗賊団もあまり知られていない。説明されても具体的な『脅威』としてはいまいちピンとこないのだろう。
(まあ、話を聞いてもらえるだけでも有難いもんだ)
監視を兼ねているとはいえ、こうしてついてきてもらえるのだから、とケイはひとり肩をすくめた。
木立を西に抜けて、例の狼がいた草むらへ。サスケから飛び降りたケイは、草を掻き分け地面に視線を走らせる。
……あった
かさかさに乾いた草の上、べったりと付着したどす黒い血痕。それは点々と西の方角へ続いていた。
(やはり仕留め損なったか……)
分かってはいたものの、嘆息せずにはいられない。その辺で力尽きていることを密かに期待していたのだが、そうは問屋が卸さないようだ。
すぐさまサスケに飛び乗って血痕を追跡しようとしたが、―そこで雪原の民の一人から待ったがかかった。
ケイ。彼が『本当にそれはハウンドウルフだったのか』と聞いている
心底面倒臭そうな顔をした戦士の言を、ピョートルが翻訳する。
『探す必要はあるのか』『ただの野犬と見間違えたんじゃないか』とも言っている
……ふむ
長々と説明してもいいが、こういった場合は分かりやすく力を示した方が良いだろうと考えたケイは、馬上、おもむろに”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を構え、近くの細い潅木へ無造作に矢を叩き込んだ。
ビシィッ、と鋭い音を立てて矢が突き立つ。
穿たれた幹に大きなヒビが入り、そこを基点にゆっくりと傾いた潅木は、めりめりと軋みを上げながらそのまま真っ二つになって倒れた。
ぽかん、と呆気に取られる男たち。
ただの野犬なら死んでいる、とでも伝えてくれ
……わかった
信じられないものを見た、とばかりに呆然としつつも、ある種の畏敬の念を浮かべたピョートルがケイの言葉を訳す。我に返った戦士たちはもはや面倒臭さなど吹き飛んだ様子で、今度は堰を切ったように何やら問いかけてきた。
『おい、どんな矢を使ってるんだ!?』
『ひゃーすげえ、衝撃で矢が砕けてらァ!』
『凄い弓だなぁオイ!』
ピョートル曰く彼らはそんなことを言っているらしく、 普通の矢だ 張りが強い弓を使っている などとケイも苦笑混じりに答えた。“竜鱗通し”が盗られたら嫌なので、“飛竜(ワイバーン)“や”古の樹巨人(エルダートレント)“の貴重な素材を使っているとは言わなかったが。
その後しばらくピョートル越しに質問に答えたり、少し迷ったが”竜鱗通し”を触らせたりして戦士たちとの交流を図る。皆、“竜鱗通し”の化け物じみた張りの強さと、その見た目を裏切る軽さには驚いたようで、ケイが軽々と弦を引いてみせると子供のようにはしゃいでいた。
そうしてほんの少しだけ戦士たちと打ち解けたところで、改めて血痕を辿っていく。
百メートル、二百メートルと行くうちにどす黒い点の間隔は徐々に短くなり、最後は地面を這いずっていったかのようにべったりと血のあとが続いていた。出血量から考えて、やはりこの先で力尽きているのではないかとケイは予想したが―
三百メートルほど進んだであろうか。
血痕はそこで不自然にぱったり途切れており、死体は影も形もなく、結局”狼”の正体を確かめることはできなかった。
ケイたちの帰還とともに、隊商は再び動き出す。
ゲーンリフには説明しておいた。ただ、あまり真面目(シリアス)には聞いていなかった
一旦、ゲーンリフのところへ報告に行っていたピョートルが、斥候に戻ってくるなり申し訳なさそうに告げる。
そうか
言葉少なに頷くケイは、正直なところ期待していなかったので、特に落胆する様子も見せない。死体が見つからなかった時点で何を言っても説得力がないし、あれが絶対にハウンドウルフだったという確証もないのだ。
ただ、その死体を回収した者が野営地の近くにいたのは間違いないだろう。野生動物が死肉を漁ったにしては痕跡がなさ過ぎる。『死体』を見られては困る事情があったのだとすれば―きな臭い話だ。
せめて猟犬がいれば良かった。だがこの隊商にはいない
そうだな、狩人でもなきゃ普通は連れてないだろう
そう答えてからケイはふと、今後自分も狩人としてやっていくのであれば犬を飼うのはアリかもしれない、と思った。アイリーンの言っていたペットのヤギではないが。
まあ、気をつけるしかない
その通りだ。わたしが先行しよう
器用にも馬上で、背中の丸盾を左手に持ち直したピョートルが槍を構えながら進んでいく。“竜鱗通し”に矢をつがえ、いつでも放てるようにしながらケイもそれに続いた。
何やら不穏な空気を察したのか、サスケがちらりと振り返って 飛び道具はカンベンしてよね とばかりに鼻を鳴らす。
文句なら馬賊に言ってくれ
ケイがぽんぽんと首筋を叩くと、ぶるるーと不満げに溜息をつくサスケ。
周囲の植生はますます濃く、『隠れられる場所』が目に見えて増えてきている。これはなかなか骨が折れそうだ、とケイも小さく溜息をついた。
茂みを探ったり、木立を見て回ったり。
やっていること自体は昨日とさして変わらない。しかし昨日以上に緊張した面持ちで二人は進む。
ケイは定期的に、深呼吸して肩の力を抜くよう心がけていた。そうでもしなければ、気が付くと力みすぎていて筋肉が凝り固まってしまう。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎ―
……もし馬賊が襲ってくるなら、どのタイミングで来ると思う?
薄暗い木立に目を凝らしながら、緊張に耐えかねたかのようにケイはそんな益体のないことを聞いていた。生真面目なピョートルは顎に手を当ててしばし考え、
そうだな。ゲーンリフは孤立しているときが危ないと言うし、皆もそう思っている。だがわたしは、集落の近くの方が危ないと思う
何故だ?
馬賊は人数が多い。馬のためにあまり水場からは離れられない。そして水場の近くには集落がある。集落のそばで待っていれば、隊商はいずれやってくる
成る程
馬賊の脅威が取り沙汰される割に、街道沿いの集落が全滅していないのはそういうことなのだろう。雪原の民は馬賊がいるからといって、隊商を出さなくなるような臆病な気質ではない。むしろ戦士の数を増やして迎撃する気満々だ。
相手の狙いを分かった上で、真正面から叩き潰そうとしている。
撒き餌みたいなもんか
……撒き餌? とは?
釣りをするときに、魚をおびき寄せるためにばら撒く餌のことだ
ああ。麦を撒いて鳥を呼び寄せるようなものか
そう……だな。例えるならそれが一番近いだろう
それなら分かる。実はわたしは釣りをしたことがない
成る程、と頷いたところで、ケイもはたと気付く。
(そういえば俺も釣りなんかしたことなかった)
前の世界では釣りを経験する前に入院してしまったし、『こちら』に来たあとも、魚を獲るときは専ら”竜鱗通し”を使っていた。暗い水面でも見通せるので、撒き餌を使う必要すらない。
(釣りか……)
時間があったらやってみてもいいかもな、とは思ったが、水面から魚が見えたらまどろっこしくて弓を使ってしまいそうだ。
北の大地だと、あまり釣りはしないのか?
いや、魚は貴重な食料だ。川や西の海の近くに住んでいる者は当然する。ただわたしは内陸の出身だ。あまり大きな川や湖はなかったから……
故郷を思い出したのか、すぅっ、とピョートルの目が遠くなる。
そ、そうか。まあ俺も鳥を狩る方が簡単な気がするな……
……ケイの弓の腕ならそうかもしれない。普通は罠を使う
ちなみにどんな罠を使うんだ?
基本的に狩りは弓でしかしないが、後学のために聞いておく。
うむ。その罠は、……弓に似ている。バスケットの奥に餌が置いてあって、鳥が頭を突っ込んでそれを食べようとすると、棒が外れる。すると―
もどかしげに、身振り手振りを交えたピョートルの説明を総括すると、それは弓状の器具の張力を利用して鳥の首を挟み込む罠らしい。
へえ、面白いもんだな。仕掛けておけば捕まえられるってのも良い
いや、あまりリラックスはできない。なぜなら捕まえたあとそのままにしておくと、狐や狼、他の鳥に獲物を取られてしまうからだ
ああ、結局見張るしかないわけか……
そうだ。そしてただ待っているのは結構な苦痛だ。ケイのように、すぐ狩れるのは良いことだと私は思う。どこでも生きていける
少しばかり熱の籠もったピョートルの言葉に、ケイは思わず苦笑した。しばらく前にも誰かに似たようなことを言われた気がする。 そうかな と呟いて、ケイは馬上から周囲を見渡した。
あちこちに点在する緑の木立。地平の果て、山脈に突き当たるまで延々と続く乾いた大地。そして僅かに蛇行しながら伸びる石畳の道―ブラーチヤ街道。
見上げれば、晴れ渡った空の高みにうっすらと巻雲がたなびいている。
鳥か……
目を凝らし、じっくりと観察すると、遥か前方の茂みで何かが動いたのが見えた。
ん、噂をすれば何とやらだ。あそこに鳥がいるな、何だろう
鳥? どこだ? わたしには見えない
ほら、あそこの木立の……って遠すぎるか。ちょっと近寄ってみよう
いや、その前に木立を全部見て回ろう
……そうだな、仕事を疎かにするわけにもいかないし
二手に分かれてざっと隊商の周辺をチェックして回り、何の問題もないことを確かめてから、改めて件の木立へと向かう。
街道を少し外れ、隊商からは二百メートル以上も離れていた。背後を振り返って彼我の距離を確かめたピョートルは、 参ったな とでも言わんばかりに苦笑する。
ハハッ、こんなに離れていたのか! わたしに見えるわけがなかった
シっ。静かに
唇に人差し指を当てて見せ、ちょいちょいと、茂みの奥を示す。興味深げに木立を覗き込んだピョートルが、 おっ と小さく声を上げた。
それは見事な緑色の羽根を持つ鳥だった。
頭から尾羽までは一メートルほどもあるだろうか、太い二本足でのしのしと歩きながら、餌を探して地面をつついている。頭部は鶏のとさかのような赤い肉で覆われており、ぱっちりと開いた黄色い目も相まって、存外に愛嬌のある顔つきをしていた。
Фазанじゃないか! あれは美味い
声を潜めつつも、やや興奮した様子のピョートル。
Pheasant(キジ)か……?
公国語で何と言うのかは知らない。しかしわたしたちはФазанと呼ぶ
Pheasant(フェザント)
Фазан(ファザン)
発音は似てるな……
おそらく同じ鳥だ
ということは、あれはキジか
ああ、キジだ
木立の外の来訪者二人に気付いたキジは、ぴんと首を伸ばした姿勢で、警戒しているのか落ち着きなくそわそわとしている。
あれは肉が硬いがとても美味しい。ケイ、獲れるか?
任せろ
ぺろりと唇を舐めたケイは、矢筒から慎重に質の良い矢を選り出す。
つがえて、きりきりと弦を引き絞る、流れるような一連の所作。何かまずい流れを察知したキジが、ぶわりと翼を広げて飛び立とうとするも、致命的に遅い。
カヒュンッ、と”竜鱗通し”にしては控えめな音が響く。
銀光がキジの胸に突き立ち、ぱっと緑色の羽根が散った。
よし
おお、やった!
満足げなケイ、快哉を叫ぶピョートル。馬から下りたピョートルが木立に分け入り、地面でピクピクと痙攣するキジを拾ってきた。
オスだ。たくさんの肉がある
なかなか立派な一羽だ。肉付きもよく、一人では持て余すほど食いでがあるだろう。
ニッと悪戯っ子のような笑みを浮かべて翼を広げてみせたピョートルは、矢を抜き取ってケイに返し、手際よくキジの頚動脈にナイフを差し込んだ。元々矢で致命傷を負っていたということもあるだろうが、キジは暴れることもなく静かになる。
ケイは矢に付着した血を布巾で拭い取りながら、はらはらと流れ出る赤い命の滴を眺めていた。
元来、捕食とはグロテスクな行為だ。街で暮らしていると忘れそうになるが。
よし、これでいい。あとは休憩になってからやろう
三分ほどかけて血を抜き取り、ピョートルが立ち上がる。ふと見れば、その間も進んでいた隊商が随分と近づいてきていた。これはケイの獲物だ、とピョートルがキジを差し出してきたが、サスケの鞍は矢筒で占有されておりぶら下げる余裕がない。
結局ピョートルが乗騎の鞍にキジを括り付け、二人は斥候に戻っていった。
†††
それからほどなくして、隊商はとある村に到着した。
規模はそれほど大きくないが、土壁と丸太の柵に囲まれた、小さな要塞のような集落だ。前回の反省からピョートルだけが中に入って住人たちに隊商の来訪を告げ、フードを目深にかぶったケイは村の外で待機していたため、石を投げつけられるような目には遭わずに済んだ。
今日はここに留まる
ピョートル曰く、この村を過ぎるとしばらく水源がないため、今日の旅路はここまでらしい。まだ昼過ぎだが、村の外では隊商の馬車がまたぞろ円陣を組み、野営の準備を始めていた。
ケイ~オレたちも飯にしようぜ!
アイリーンがスズカに跨って颯爽と駆けてくる。今日はこれで一日のんびりしていられるということで、随分と嬉しそうだ。
おう。さっき鳥を仕留めたから、今日の昼飯は豪勢だぞ
お! いいな! ……よっ、と
サスケの隣までやってきたアイリーンは、ぴょこんと鞍の上で立ち上がったかと思うと、そのまま軽業師のような動きでサスケに飛び移ってきた。
へへーん
ぽすん、とケイの背中の後ろに収まって楽しげなアイリーン。しかし、いくら彼女が軽いとはいっても、羽毛のようにとはいかない。急激な加重に ほげえ! と目を剥いたサスケが ちょっと、お客さんこまります とケイを見やる。
あとでお前にも肉食わせてやるから
ケイがぽんぽんと首筋を叩くと、 しかたないな…… と溜息をつくサスケ。こうして乗り回しているとただの馬にしか思えないが、実際はバウザーホースという雑食性のモンスターだ。肉でも野菜でもガッツリとイケる。
ピョートルが隣までやってきて、鞍に括り付けていたキジを示して見せた。
ほら、これがケイの仕留めた鳥だ
あ、それ昔なんかで見たことある! なんてヤツだっけ……
ぬーん、とこめかみに指を当ててアイリーン。
キジか?
ああそれそれ。美味いのかな?
美味しい。とても美味しい
オレ食べたことないんだよねー楽しみ! ランダールの旦那んトコに行こうぜ
皆、一様にウキウキとした気分でランダールの元へと向かった。
円陣の、村から遠い外周部分に馬車を停めていたランダールは、既に火を起こし昼餉の用意に取り掛かっている。
お、来たか兄弟!
ケイたちの姿を認め、ニカッと愛嬌のある笑みを浮かべるランダール。サスケから降り、ひょいとアイリーンを抱えて降ろしながら、ケイもニヤリと笑い返した。
今日は俺も土産があるぞ
ケイがキジを仕留めた
ほほー! これはこれは
ピョートルからキジを受け取ったランダールは、両手でしっかりとした重みを確かめながら、 見事だな! と感嘆の声を上げる。
こいつぁ料理のしがいがあるってもんだ
期待してるぜーランダールの旦那!
おう、任せとけ嬢ちゃん。とりあえず羽根毟るか……
ランダールが羽根を引っこ抜き始めたので、ケイたちもそれぞれ準備に取り掛かる。
ケイは、内臓や皮を捨てるための穴を掘る係だ。シャベルを借り受けてサクサクと地面を掘っていく。その間アイリーンはスープの具を小さく切り刻み、ピョートルは飲み物を調達しに村へと向かった。ランダールは羽根を抜いたキジを軽く火で炙って、表面の産毛を焼いている。
さぁて、どうするか。新鮮だしそのまま炙ってもいいが……
綺麗に羽根が毟られ、表面がパリッと焼けたキジを前にランダールが腕を組む。
鍋にするのも悪くないなぁ。腿肉は焼いてあとは煮込むか。今日はもうここから動かないんだろ?
たしか、そのはずだ。ピョートルはそう言っていた。あと穴掘り終わったぞ
おう、ありがとう。なら晩飯用のスープも用意しておくかな。よし、嬢ちゃん、ちょいとさばくの手伝ってくれ
あいよー
ランダールは器用にナイフを使って、見る間にキジを解体していく。アイリーンはぶつ切りにした肉を串に刺していき、ケイは剥ぎ取った皮や腸のように食べられない内臓を穴に埋める。
そうしているうちに、壷と皮袋を抱えてピョートルが村から戻ってきた。
水を貰ってきた
おう、ありがとう。ちょうど良かった、鍋で湯を沸かしてくれ
分かった
ランダールの指示にこくりと頷いて、ピョートルが皮袋の水を鍋に注ぐ。そして一抱えもある壷を指差し、
それと……酒だ
酒!! 麦酒? 葡萄酒?
ぴかーん、と顔を輝かせるアイリーン。
麦の蒸留酒だ
おおーいいねいいね!
それは、けっこう高くついたんじゃないか?
あの村には知り合いがいる。安い値段で買うことができた
心配げなケイをよそに、気にするなとピョートルは首を振る。
ハハッ! 真昼間から蒸留酒とは豪勢な話だ。ちょっと料理にも使っていいか? 香り付けに
もちろんだ
三脚の上でコトコトと音を立てる鍋、じゅうじゅうと香ばしい匂いを漂わせる串焼き肉。周囲の商人や傭兵も、乾パンや干し肉を齧りながら、何人かは羨ましげにケイたちの方を見ていた。
彼らと視線は合わせないようにしつつ、微妙に優越感を感じていたケイだが、ふと円陣の全体を見回して違和感を抱く。
(……そういえば、なんか人影がまばらだな)
記憶にあるものより、隊商の人数が明らかに少ない。
ん、どうした。ケイ
目敏くピョートルがケイの様子の変化に気付き、尋ねてきた。
いや。妙に静かだと思ってな、隊商が
……ああ。皆、村に行ってるんだろう……
村を取り囲む土壁と柵を見やり、ピョートルはどこか疲れたように答える。言われてみれば、壁越しで見えないがワイワイガヤガヤと、村の方は祭りのように何やら盛り上がっている様子だ。
やはり、顔見知りがいて皆遊びに行ってるのか
それもあるが……
言い淀んだピョートルは、ちらりと鍋をかき混ぜるアイリーンを気にして、ケイの耳にささやいた。
……昨日の奴隷の女が、村に連れて行かれた
ケイは、今一度、村の方を見やった。
壁越しに聞こえる、はやし立てるような声―
……そうか
……死ぬようなことはしないと思う。多分
顔を見合わせたケイとピョートルは、もうこの話は終わりだとでも言わんばかりに、二人して小さく肩をすくめた。
……よっし。いい感じだ。みんな、食うか!
そのとき、スープをぺろりと味見したランダールが、納得した様子で大きく頷いた。
あ~めっちゃ腹減った! 食べよう! 早く食べよう!
舌なめずりしながら上機嫌のアイリーンは、木のゴブレットにだばだばと蒸留酒を注いでいる。
はい、これケイの分な!
お、おう。ありがとう……
透き通るような蒸留酒がなみなみと注がれたゴブレットを押し付けられ、少し困り顔のケイ。酒は嫌いではないし、『身体強化』の恩恵でアルコールに耐性もあるが、ケイはどうにも、このタイプの強い酒のどこが美味しいのかよく分からないのだ。葡萄酒やビールはまだイケるクチなのだが。
そんなケイをよそに、アイリーンは男性陣に酒を注いで回っている。
これはピョートルの分
スパスィーバ(ありがとう)
そしてこれが旦那の分
ありがとうよ、嬢ちゃん
んで最後にこれがオレの分!
でん、と残った壷を抱えて笑顔のアイリーン。 それはいけねえ それはダメだ とランダール・ピョートルの両名から即座にツッコミが入る。
えー。いいじゃん
ダメだ。まだ昼間だぞー嬢ちゃん
不平等だとわたしは思う
ちょっと呑みたい気分なんだ!
『ちょっと』じゃねえだろコレは
呑みすぎはよくない
このくらい余裕だって。舐めるようなもんだよ
っつーかおれも呑みたいんだよ!
というより元々わたしの酒だ
ぬっ。ぐぬぬ
……なあ、食べていいか?
ジューシーな肉汁を垂らす串焼肉を前に、腹をさすりながらケイ。残りの三人もハッとした様子で、いそいそと串を手に取った。
そいじゃ、ケイの弓の腕に感謝して
ああ。食べよう
イタダキマス!
いただきます
一斉にかじりつく。
おお、これは……
ものすごい肉の弾力だ、まるで歯からつるりと逃げだしてしまうような。それでいてじっくりと噛み締めていると徐々に肉がほぐれていき、じんわりと舌に染み入る旨みが溢れ出てくる。味付けは塩だけだが、そのシンプルさがまた良い。臭みや癖はない、思いのほか素直な味だ。
ん~これは堪らん
やはり美味しい……
ウマイなぁ
皆、酒を片手にご満悦だ。ケイも肉を飲み込んだあと、蒸留酒をちびりと口に含んでみた。舌が焼け付くような感覚、芳醇なアルコールの香り、肉の脂の残滓が洗い流され、香ばしい匂いがほわりと鼻から抜ける。
……うん。良いものだな
これはこれで、と頷きながら串焼き肉をまた一口。先ほどの木立の中の、生前のキジの姿を思い描き、ケイは改めて自然の恵みに感謝した。
そういや、さっきケイと嬢ちゃんが言ってた、イタダキ……なんちゃらってのは、何なんだ?
早々に肉を平らげ、ガリガリとビスケットを齧りながらランダール。
ん。そうだな、俺の故郷の言葉で……なんと言うべきか。食事の前の祈り、かな?
ほう、ケイの故郷の
ピョートルが若干の興味を示す。
実際、ケイはどこから来たんだ? 草原の民でも、この辺りの出でもないってのは、嬢ちゃんから聞いてるが
……東の果て、としか言いようがないな。とても遠いところだ、俺にはなぜ自分がここにいるのかすら分からない
ランダールの問いに、ケイは肩をすくめて答えた。
……そう聞くと、まるで自分の意思じゃなくこっちに来たみたいだが
まんざらハズレでもない。霧に呑まれたら、いつの間にかこちらにいた
ゴブレットの中身、ゆらゆらと揺れる蒸留酒を見つめるケイに、ランダールは注意深く視線を注いでいる。
……その割に、言葉は通じるんだな
まあな、元々公国語は出来たんだ。あとは故郷で、高原の民の言葉も、海原の民の言葉も少しずつ学んでいた
ほう! そいつぁ凄い
残念なのは雪原の民の言葉は話せないってことだが……
少しばかり苦い笑みになったケイは、蒸留酒を口にして言葉を濁した。が、次の瞬間、後頭部の髪をぐいと引っ張られる。
何事かと慌てて振り返れば、サスケがつんつんと鼻先でこちらをつついてきていた。
……ああ、そういえば肉をやる約束だったな
手元の串から最後に一口食べて、サスケの鼻先に残りを差し出す。ふんふんと匂いを嗅いだサスケはがぶりと肉に齧りつき、 うめえ! と目を見開いて咀嚼し始めた。
……ケイの馬は肉も食うのか?
ピョートルとランダールは呆気に取られている。アイリーンがケイに視線で どう説明する? と問いかけてきた。別にこの二人になら話しても構わないんじゃないか、と思ったケイだが、面倒を避けるため適当に誤魔化すことにした。
馬もたまには肉を食うみたいだぞ
へーそうなのか。知らなかった
ほう……
感心するランダール。ピョートルは、そばで寛いでいた自身の乗騎の鼻先に、ケイの真似をして串を差し出している。が、興味を示して匂いを嗅いだ馬に、ブルヒヒと鼻息で串を吹き飛ばされ、 ああっ! と悲痛な声を上げた。
なんということだ。肉が……
地面に落ちた、土に塗れた串焼き肉を前に途方に暮れるピョートル。悲しげな顔で、しかしおもむろにそれを拾い上げたピョートルは、土や砂利を払いのけてから焚き火の中に突っ込み、改めて炙りだした。
火は浄化する。全てを
……食うのか
食べ物を無駄にしてはならない……
そうか……
ピョートルは躊躇うことなく全部食った。
その後、他愛もない話―別の種類の鳥も美味かっただとか、どこそこの酒は呑めたものではなかっただとか―を続けながら、ケイたちは心行くまで食事を楽しんだ。串焼き肉とスープ、ビスケットや乾パンも腹いっぱい詰め込み、蒸留酒でほろ酔い加減。
キジ肉はまだ少し余っており、食事がひと段落したあたりで、ランダールは余ったスープに具と水を追加して夕飯の仕込を始めていた。今度は鳥ガラで濃厚な出汁を取るつもりらしい。ピョートルは腿肉の骨に付いた軟骨をこりこりと齧りながら、馬車の車輪にもたれかかって酒を舐めるようにして呑んでいる。
満腹になったケイとアイリーンは、自分たちの荷物の山を枕にして草地に寝転がり、心地よい眠気と食後の倦怠感に身を任せていた。
あー平和だなぁケイ
そうだなぁ……
昼間から、こんなにのんびりできているのは久方ぶりだ、とケイは思う。ここ数日は斥候の任務で忙しかったし、ディランニレンに辿り着くまでの道中も、何だかんだであまり余裕がなかった。
今日は早めに野営を始めたということもあるだろうが、隊商の面々が村の方に出張っているというのも、ケイにとっては居心地の良さの遠因だ。なぜ出張っているのか、を考えると少し欝が入りそうになるが、そこはアルコールに任せて程よく忘れることにした。
このノリで無事にベルヤンスクまで着けばいいんだけどな~
……そうだな
切実なアイリーンの言葉に、思わず そういうのはやめろ と言いそうになったが、死亡フラグの概念から説明する羽目になりそうだったので同意するに留める。
……ん?
そしてそれよりも、たなびく雲の切れ間から、気になるものが見えて上体を起こす。
目を凝らし、そこにあるものを読み取る。自身の記憶と知識と照らし合わせる。
ん? どしたケイ?
……参ったな、今晩から明日にかけて雨が降るぞ
ケイの言葉に、その場の全員が え? と反応した。
雨?
たしかに雲は出ているが……
ピョートルとランダールも手をかざして空を見上げる。アイリーンはケイの星読みによる天気予報を知っているが、そうであるが故に怪訝な顔をしていた。
マジで? でもここ数日は晴れだって、前に言ってなかったっけ?
あの時はまだディランニレンの近くだったからなぁ。所変われば天気も変わる……
呟くようにしてケイ。
星読みによる天気の予測は的中率ほぼ100%だ。ただし、これには一つだけ大きな欠点がある。
それは観測者の『真上』の天気しか分からないことだ。
例えばA地点で星を読み、今後一週間の天気が晴れになると予想したとする。ではそのとき、A地点から100km北に離れたB地点の天気はどうなるだろうか。
そう、必ずしもA地点と同じ天気になるとは限らない。地理的条件によっては局所的に雨が降るかもしれないし、寒ければ雨が雪に変わる可能性もある。だが実際問題、A地点においてもB地点においても、見上げる空は同一のものだ。ではなぜ結果が変わってしまうのか。
答えは単純。実は、観測地点によって星の並びそのものが変わるのだ。
ゲーム内で『占星術』の存在を知るプレイヤーの間では、実は DEMONDAL の世界の構造は地球のそれと全く異なっており、大地にドーム状に覆いかぶさった空とその表面で自在に蠢く星や月の幻影で構築されているのではないか、と言われていた。
そしてそれは『こちら』でも変わらないようで―
ケイは、天気が分かるのか?
おれには普通の空模様にしか見えんがなぁ
ピョートルとランダールの二人も、空を見上げている。
俺は……目が良いからな。微妙な空の具合が分かるのさ
占星術のことを今ここで話すのは面倒なので、適当に誤魔化す。
そうなのか……
もし雨が降ったらなかなか厄介だな。しっかり幌かぶせとかないと……あと、寝床がない奴らは明日苦労するだろうな
あ。オレたちもヤバいじゃん、普通のテントしかないぞケイ?
アイリーンが枕代わりにしていたテントをつんつんと指先でつつく。布製のそれは朝露を凌ぐのがせいぜいな防水機能しかない。本格的な雨にも、ぬかるんだ地面にも対応していないのだ。
そう……だな。困った、村には泊めてもらえないしな……
お二人さんさえよけりゃ、おれの馬車に来るか? 狭いがあと二人が寝転がるくらいのスペースはあるぞ?
あ、マジで? ありがとう!
そうしてもらえるならありがたい
おう、良いってことよ。……ただし、寝てる最中、二人でおっぱじめるのは勘弁してくれよ
ぐへへとゲスい笑みを浮かべ、何やら手で卑猥なジェスチャーをするランダール。
なっ
ばっ
思わず顔を紅潮させたケイたちは するわけないだろ! と叫んだが、その完全にシンクロした叫びがツボに入ったらしく、ランダールは腹を抱えて笑い出す。
……若いとはいいことだ
ふっと笑ったピョートルが馬車の車輪にもたれかかり、再び杯を傾け始めた。
†††
夕暮れ。
日が沈む前に、ランダールは馬車の幌を張り直して雨に備え始めた。
ついでに予備の幌を出してそばの木に引っ掛け、サスケを初めとする馬たちが濡れずに済むよう、簡易的なテントも設営する。ケイたちが持ってきたテントとは違い、幌にはしっかりと水避けの油が塗りこまれており、かなり強固に水を弾く。
この時点で、まだ空は晴れていた。雨に備えるランダールを不思議がって、周囲の商人たちが理由を尋ねてきたが、雨が降るという予測、そしてその情報の出所がケイであるということで、大半の商人は一笑に付して何の対策もしなかった。
ケイは自身に何のメリットもなかったので、特段信じさせようと努力もしなかったが、一部 それほど手間ではないからと 一応の備えをした商人もいたようだ。
とりあえず明日の旅路がハードなものにならないことをただ祈りながら、ランダールの馬車にお邪魔して、ケイはアイリーンとともに床に就いた。
そして、その夜半。
しとしとと、雨が降り始めた。
次回 43. 雨天
はねる泥、ぬかるむ道、白く霞む視界。
雨に打たれる男は、ひとり何を思う。
43. 雨天
前回のあらすじ
ケイ 今夜から明日にかけて雨降るわ
一同 マジか
隊商の面々 降るわけねえだろ
サスケ キジうめえ
夜中、ケイが目を覚ましたのは、馬車の外が騒がしかったからだ。
ポロポロポロ、と幌を打つ雨音。わいわい、がやがやと男たちの声が聞こえる。が、さして緊張感のあるものではなかった。何か毒づいているようにも聞こえたが、雪原の民の言葉なので詳しい内容は分からない。
……ん
ケイの身じろぎに、同じ毛布の中、猫のように丸まっていたアイリーンがうっすらと目を開く。
……どしたの
ああ、すまん起こしたか
寝ぼけ眼のアイリーンに、囁き返すケイ。
敵? じゃないよな? ……雨か
騒いでるみたいだな、何と言ってるかは分からんが
ん……『幌かぶせないと商品が駄目になる~』とか言ってる
ああ……
肩をすくめるケイ。それ見たことか、とせせら笑う意地悪な自分がいることも自覚しつつ、それ以上に明日の旅路が心配になった。
止むといいんだがな……
なー
半ば諦めが混ざるケイ、それを察しながらも相槌を打つアイリーン。湿気が出てきたためか、今宵は少し冷える。
おやすみアイリーン
おやすみ、ケイ
ケイたちは毛布の中、身を寄せ合って再び眠りについた。
…………
木箱を隔てた荷台の反対側、聞き耳を立てていたランダールもまた、静かに瞳を閉じて寝息を立て始めた。
†††
夜が明けても尚、雨は降り続いている。
降り始めに比べると雨脚は弱くなっているが、一向に止む気配は感じられなかった。馬車の幌から顔を出して辺りの様子を窺うと、隊商の面々は馬車に避難しているか、あるいは村に雨宿りに行ったようで、外に出ている者もほとんどいない。ただ一部、行く宛てが見つからなかったのか、木の下で馬共々濡れ鼠になっている者もいた。
ケイの言う通りになったなぁ
口の端を吊り上げて、おどけたような笑みを向けてくるランダール。
……まあな。しかし、昼過ぎまで降り続けるだろうなこれは
灰色の空を見上げてケイは溜息をつく。予報を的中させた喜びなど欠片もない。この雨の中を進むのか、と考えると、馬車の外に出るのすら億劫になる。
……よっ、と
しかしいつまでも管を巻いているわけにも行かないので、皮のマントを羽織り、ケイは意を決して荷台から飛び降りた。
ばしゃりと足元で跳ねる泥、フードに当たって弾ける雨粒。水はけが悪い土質なのか、野営地の地面はぬかるんでグズグズになっていた。続いて降り立ったアイリーンは、勢いがありすぎたのか泥水が顔にまで跳ねて うえ~! と服の袖で頬を拭っている。
馬車横の簡易テントで寛いでいたサスケが、 まさかこの天気で出かけるんすか? とびっくりしたような顔をしているが、現実は非情だ。 諦めろ とケイが首を振って見せると、呆然としたサスケの口の端からぽろりと食べかけの草が落ちた。
実は、この世界に降り立っておおよそ八十日が経過しようとしているが、ケイたちが雨の中で行動するのは今日が初めてだ。公国においても雨は幾度となく経験していたが、そういった日は積極的に遠出しようとは思わなかった。せいぜい、レインコート代わりのマントを引っ掛けて、少し外を出歩いたぐらいのもの。
今回の旅路に備えて、一応ブーツもマントも防水性能が高いものに新調してある。それがどこまで通用するかだな、とケイは今一度空を見上げた。
雨が降っている。ケイの言った通りだった
と、村の方からピョートルが歩いてきた。彼は知り合いの家に泊まっていたらしい。普段の鎧一式の上にゆったりとした皮の外套を羽織っており、背中に丸盾を背負っているのも相まって、その姿はまるで大きな亀のようだ。
おはようピョートル。鬱陶しい天気だよ
おはよう。雨は本当に珍しい。人々にとっては水のために良いことだが
困ったように肩をすくめて見せるピョートル。
軽く朝食を摂ってから、四人は出発の準備を始めた。村に泊まり込んでいた面子も続々と集結しつつある。その中に、ケイは例の奴隷の女を見かけた。憔悴して引きずられるように歩いていたが、少なくとも生きてはいる。
…………
ケイー、そっちのロープ引っ張ってくれ
ん、ああ
ランダールの声に呼び戻されたケイは、女から視線を外してロープを手繰る動きに意識を集中させる。二人がかりで木に引っ掛けていた幌を回収し、地面に触れないよう気をつけながら折り畳んでいく。
簡易テントを片付ける際、濡れたくなかったのかサスケが いやん と駄々をこねたが、スズカを始めとする他の馬たちが気にせずそそくさと外に出ていったので、渋々といった様子で自分も続いていた。
……そんな顔するなって、どうせ今日中には止むさ
濡れそぼって、どこか憮然とした表情のサスケ。ぽんぽんと優しくその首筋を叩いて慰めの言葉をかけたケイは、 よっ と勢いをつけて鞍によじ登った。
気をつけてな~
ありがとうアイリーン、また後で
ひらひらとハンカチを振るアイリーンに見送られながら、ケイはピョートルとともに一足先に出発する。
隊商の円陣を抜け出し、村の土壁の横を通り過ぎる際、ドン、ドドン、と響く太鼓の音を耳にした。
なんだ? これは
壁の内側、村の方から響いてきている。それにかすかな歌声と、鈴の音。
雨が降ったから、祝っているのだろう。小さな祭りだ
右手の槍で空を示して、ピョートルが解説する。
大地と、空の精霊、そして祖先の霊に感謝している。雪原の民はそうする
……成る程
頷いたケイは、今一度、村と外界を隔てる壁を見やった。
ドドン、ドンドドンと独特なリズムを刻む太鼓。歌声は徐々に大きくなり、人々の踊る足音が聞こえる。楽しげな子供らの笑い声、彼らの姿は見えないが、喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
彼らも自然に感謝することを知っているのだな、と。
ケイはふと、そんなことを思った。北の大地を訪れて以来、雪原の民に対するイメージは総合的に悪化しつつあったが―初めて、そんな彼らが少しだけ身近に感じられた瞬間であった。
視線を前に向ける。降り続ける雨のせいで、視界は白く霞み索敵もままならない。
ただ、こういう気分になれるなら、悪くはなかったかもしれないな、と。
“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“に矢をつがえながら、ケイは小さく笑みを浮かべた。
†††
が、十分も過ぎる頃には、そんな気分など吹き飛んでいた。
やはり雨は駄目だ。視界が悪くなるのは当然としても、時折フードから顔に垂れる雨粒が鬱陶しくていけない。水滴が目に入るとそれだけで集中力が削がれるし、かといってフードを深くかぶり過ぎると、ただでさえ悪い視界が更に狭まってしまう。
また、新調したマントは遺憾なくその防水性能を発揮していたが、やはり限度があるのか革鎧の隙間から水が染み込んできていた。特に首元から胸にかけて、じわじわと湿っていくのがたまらなく不快だ。無性に肌着を引っ張り出したくなる。
一方、最初はテンション低めだったサスケは、しばらく走るうちに開き直ったらしく今は足取りも軽やかにぱしゃぱしゃと泥を跳ね上げていた。そう、石畳で舗装された街道の上を行くだけではなく、ケイたちは斥候として不整地を走り回る。お陰で跳ね返りの泥が酷く―ケイは早々にブーツやマントの裾を気にするのをやめた。
大丈夫か、ケイ
ケイの不慣れな雰囲気を察したらしく、ピョートルが声をかけてくる。
ああ、なんとかな
そうか。わたしの後についてくるといい。泥に入ると動けなくなることがある
分かった、ありがとう
ピョートルの誘導を受けながら手綱を捌く。この手のぬかるみは危ない、あのような色の水溜りは大丈夫、といった具合に、ノウハウを教わりながら慎重に進んでいく。幸い、ケイも目が良いので、危険なぬかるみとそうでないものの区別くらいはすぐにつくようになった。
けっこう冷えるな
誰に言うとでもなく一人ごちる。曇り空と雨のせいか、夏の癖に妙に寒い。夏、といっても秋が近づきつつある晩夏ではあるが、それにしても公国に比べると気温がかなり低いようだ。
(夏でこれなら冬はもっと酷そうだ……)
あと一ヶ月―いや数週間、旅の出発が遅れていたら北の大地に踏み込むことすらできなかったかもしれない。
(風邪でも引いたら大事だな)
『身体強化』の恩恵はあるが、あれは絶対の健康を保証するものではない。振り返れば、遥か後方にゆっくりと進む隊商の馬車の一群が見える。あの中ほどで自分と同じく雨に打たれているであろうアイリーンを思って、ケイは少し心配になった。
―その頃、アイリーンはちゃっかりランダールの馬車に同乗して雨風を避けていたのだが、ケイには知る由もなく。
ケイ、次はあっちだ
了解
目を凝らす。白く霞がかって見える雨粒のカーテンの先―鬱蒼とした茂みを見透かすように。
木立の中は薄暗い。枝葉を伝って滴り落ちる水滴が、外の雨音とはまた違ったリズムを刻む。しと、しと、と。柔らかな土に水の染み込む音。そよぐ風、弾ける雨粒、無数のさざめきに満ち溢れながら、静かな空間。
まるで、別の世界だ―平和で、ゆったりとした時間の流れ。
ごてごてと弓や鎧で武装して、敵がいないか覗き込んでいる自分自身が、酷く歪な存在に感じられた。
(この先に何があるんだろうか……)
ふと、そんな思いが去来する。あまり、考えたくないことでもあった。この旅路の果てに何が待ち受けているのか。
何もないということはあるまい、とケイは思う。
ウルヴァーンの図書館で調べた限り、ファンタジックな『こちら』の世界においても、“魔の森”は異質な存在であった。また、あの森と併せて語られる伝説―霧から現れる異邦人の話は、あまりにケイたちの境遇に合致しすぎている。行けば何かしら見えてくるものがあるだろう、という確信があった。
だからこそ、怖い。
仮に『何か』が判明した場合、アイリーンはどうするのか。元の世界に『帰れる』と分かった場合、彼女はそれでも尚、『こちら』に留まることを選ぶのか。
選んでくれるのか―。
思い返すのは、これまでのことだ。まず『こちら』に来て早々、彼女は毒矢を受けて死に掛けた。その後も草原の民に襲撃されたり、“大熊(グランドゥルス)“に遭遇したりと、度々危険な目には遭っている。北の大地に踏み込んでからも、田舎の村では寝込みを襲われ、今ではこうして馬賊の脅威にまで曝されている。
地球も決して楽園と呼べるような世界ではなかったが、それでも彼女が日常生活に戻れば、そこはきっと、平和で、豊かで、便利で―。
―果たして、彼女が『こちら』に留まる理由はあるのか?
そう自問したとき、ケイは言葉に詰まるのだ。
正直な話、ケイはアイリーンとずっと一緒にいたい。彼女の存在は、もはやケイの中で大部分を占めている。元々、仲が良かったこともあるだろう。『こちら』に来てからは唯一の同郷の士であったこともあるだろう。互いに惹かれあい、今では恋人同士だ。彼女がいない生活など想像したくもない。
それでも、もし。
彼女が『帰る』と言ったならば、自分は―
…………
ぎり、と手綱を握る手に力がこもる。
ケイ、どうした?
いや、なんでもない
ピョートルが問いかけてくるが、首を振って答える。
……いかんな
こうして冷たい雨に打たれていると、どうにも思考が暗い方へと引きずられてしまう。革兜越しに、こつんとこめかみを叩く。悪い考えを追い出そうとするかのように。
…………
そうさ、なんでもないことさ、と呟いた。
ざあぁっ、と横薙ぎの雨がケイを打つ。
元々、思い悩んでも、それほど意味はないのだ。
この世界に残るのか、あるいは帰るのか。それはアイリーン自身が決めることだし、それが幸せかどうかも、アイリーン本人が判断するべきことだ。
確かに、 一緒にいてくれ と一言告げて、彼女の心に楔を打ち込むのは容易い。あるいは、そうするべきだと言う男も、世の中にはいるかもしれない。
ただ―やっぱりケイは、それは何か違うと思うのだ。
この旅が始まる前から、常日頃考えていたことだった。彼女の自由意志に任せる、とうそぶきながら、一緒にいてくれることを期待するのは傲慢ではないかと。今までは、そう思ってしまうのも仕方のないことだと、考えるのを途中でやめていた。
ただ、今は違う。今回の旅を通して、ケイの心構えも変わった。
なぜ自分はここにいるのか。それを考えると、答えはひとつしか出てこない。
愛ゆえだ。
アイリーンのために、自分にできることをしたかった。そして、その想いをじっくりと見つめなおすと、おのずと見えてくるものがある。
やはりアイリーンには幸せになって欲しい。自分がこの世界にやってきて救われたように、屈託なく笑っていて欲しい。そのためなら、何だってできる。何だってやってやる、と叫ぶ心が。
だから―
もし、旅路の果てに、答えが見つかったならば。
そしてその上で、彼女が本当に元の世界に帰りたいと願うならば。
笑って見送ろう、と。
ケイは静かに覚悟を決めた。
(……まあ、土壇場でどうなるかは分からんが)
思わず苦笑する。泣きながら 行かないでくれ と縋り付く自分の姿が、容易に想像できてしまったからだ。
ただ、何はともあれ、アイリーンが幸せでいて欲しいと、そう願う気持ちは本物だ。それゆえにこうして北の大地くんだりまで態々やってきた。そのことに、少しくらいは胸を張ってもいいだろうと、ケイは気持ちを切り替える。
心なしか、目の前が明るくなってきた。
いや、目の錯覚や、気持ちの変化によるものではない。前方、遥か彼方に雲の切れ間。わずかに青い空が覗いていた。
“天使のはしご”と呼ぶのだったか―陽光が幾条もの線となって降り注いでいる。そしてケイは、そこにうっすらと浮かび上がる虹色の光に気付いた。
やあ、これは
前を進んでいたピョートルが、槍を掲げて子供のような笑みで振り返った。
ケイ。虹だ
……みたいだな
ぽかんと、間の抜けた顔でケイは答える。肉眼で虹を見るのは、実に十数年ぶりのことだった。最後に見たのは―病院の窓から、外を眺めたときだっただろうか。
いつの間にか、雨もぱらぱらと小降りになっている。そういえば、こんな天気の日は虹が出やすいのだった、とケイはおぼろげに思い出した。鷹のそれより優れた両眼は、七色のグラデーションを克明に映し出す。幼い頃の記憶よりも、ずっと色鮮やかに。
ケイは、虹を見るのは初めてか?
あまりにもケイが呆然としているので、面白がるように問うピョートル。
……いや、初めてじゃないが。随分と久しぶりのことだったから
我に返ったケイは、少し気恥ずかしげに笑って、再び虹に視線を戻した。
……綺麗だな
公国では、雨の日には屋内にこもっていることが多かった。街中で過ごしていたこともあり、虹を見かけるような機会にはとんと恵まれていなかったのだ。
雨の日に出歩くのも悪くないじゃないか、と。そう思えた。
……ん
しかし、視界の端に、小さな違和感を覚えてケイは声を上げる。
―黒点。
それは、鳥だった。一羽の黒い鳥が、ゆっくりと上空を旋回している。そのフォルム、濡れたような闇の色―鴉だ。
じりっ、と首筋に焼け付くような、かすかな感覚が走る。
ケイが眺めているうちに、急降下した鴉は、そのまま吸い込まれるようにして前方の木立へと消えていった。
鬱蒼と茂みが生い茂る、まるで小さな森のような暗い木立。
……ケイ? どうした?
…………
注視する。
彼我の距離は五十メートルほどか。ケイの目を以ってしても、何か不審なものは捉えられない。
ただ、なんだろう。
のっぺりとした、澱んだ空気を感じる。
ケイは無言で、矢筒から一本の矢を抜き取った。“竜鱗通し”につがえ、構える。引き絞って狙うのは、もちろん前方の木立だ。ふるりと、動揺するような気配を感じ取った―気がした。
放つ。快音。銀閃が弧を描き、木立に吸い込まれ―
ぐわん、と音すら錯覚させる勢いで、木立の闇が討ち払われた。
なっ
ケイは目を見開く。
数十の瞳。
その視線に曝されて。
偽装、隠蔽、認識阻害。そういった類の術式を自身が『破った』ことに気付き、全身が総毛立つ。
そして次の瞬間、
ヴヴヴヴヴンと、
一斉にウッドベースをかき鳴らすような音が。
木立から銀色の光が飛び出した。その数、少なく見積もっても五十。
ヒゥウウゥゥと背筋が寒くなるような音を立てて、無機質な矢の群れが、まるで横殴りの豪雨のように―
あ、あああ……!
咄嗟に盾を構えながらも、ピョートルが絶望したような声を上げる。多すぎる。とてもじゃないが、避けきれない―
シーヴッ!!
ケイはそれに構わず叫んだ。
Arto, Zetsu!
サスケの額当て。魔除け(タリスマン)が砕け散ると同時、緑色の風が吹き荒れる。
ズチュッ、ドチュンと音を立てて周囲に矢が突き立つ。しかし一本たりとてケイたちを傷つけることはない。不自然な風に押し流され、悉く逸らされたのだ。
くすくすくす、とかすかに響く、あどけない少女の笑い声―
ケ、ケイ……
戻るぞ!!
何が起きたのか分からない、といった様子で驚愕に打ち震えるピョートル、叱咤するように叫ぶケイ。いななきを上げて、隊商の方へ向かって猛然と駆け出すサスケ、ハッと我に返ったピョートルも乗騎に鞭を入れてその後を追う。
背後で雄叫びが上がった。振り返れば、木立から続々と姿を現す騎馬の一群。
褐色の毛並みの馬、跨る男たちは革鎧を身につけ、その手には小型の複合弓。
そう、間違いない―
『敵襲、敵襲―ッ!』
あらん限りの声で、ピョートルが叫ぶ。
激しく揺れる馬上、ケイは矢筒から鏑矢を引き抜き、放つ。
ビイイィィィと鋭い音が、灰色の空を引き裂いた。
44. 馬賊
前回のあらすじ
ケイ あの木立怪しいな……矢打ち込んでみる
隠蔽魔術 ぬわーーっっ
馬賊A なぜバレた!
馬賊B それより隊商だ! 殺せッ!
ピョートル ウワァー馬賊だァ!
サスケ 飛び道具はやめて!
鏑矢 ビイイィィィィィィッッ!!
雨上がり。
灰色の雲が浮かぶ、まだら模様の青空。
ざあっ、と平原を吹き抜ける風が、草葉の露を散らす。
きらきらと舞い散る水滴のヴェール―
そしてそれを勢い良く突き破る影。
サスケだ。
ぬかるんだ地面を物ともせず。
泥を跳ね上げながら、稲妻のように疾駆する。
ケイは目を細め、遠方の隊商を睨んだ。揺れに揺れる騎乗、鞍越しにサスケの筋肉の躍動が伝わってくる。響き渡る蹄の音、ごうごうと耳元で唸る風、未だ疎らにぱらぱらと降る雨が皮のマントにぶつかっては弾けていく。顔面に水滴が散り鈍い痛みすら走るが、今はそんなことを気にする余裕もない。
ただ、すがるように、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を強く握り締めた。
『敵襲、敵襲―ッ!』
栗毛の馬を駆り並走するピョートルがあらん限りの声で叫ぶ。“雪原の民(ロスキ)“の言葉なので意味は分からなかったが、最大限の警戒を呼びかけるものであることくらいは流石のケイにもわかる。びりびりと伝わってくる逼迫した空気、焦りの色。
おオオオオォォォッッ!!!
鬨(とき)の声。
振り返った。
遥か後方、迫り来る馬賊の一群。控えめに見積もってもその数は優に五十騎を超える。ケイの乗騎(サスケ)に似た褐色の毛並みの馬に跨がり、取り回しの良い小型の複合弓を携えた草原の民。
ケイの卓越した視力は、彼らの顔を捉えた。
草原の生まれを示す、顔面の黒い刺青。満足な食も得られていないのか、病的なまでに痩せこけた頬。しかし弱々しい雰囲気など微塵も感じられない。凶悪な笑みに彩られた口元、並々ならぬ憎悪と殺意を湛え、幽鬼のように爛々と輝く瞳。
それが、一丸となって追いかけてくる。
地鳴りのような蹄の音、男たちの雄叫び、それらが暴力的な現実感を伴ってケイの耳朶に叩きつけられる。
ぞくりと背筋が震えた。現実(リアル)においても DEMONDAL の仮想(ゲーム)の世界においても、一度にこれほどの数の『敵』と相対するのは初めてのことだ。少なくともこの規模の、組織だった戦闘を可能とする集団とは。
カシュ、カヒュンと掠れた音を立てて、散発的に飛来する幾本もの矢。その多くはケイたちを捉えることなく、周囲の大地に虚しく突き立つのみ。しかし時折こちらの背を射抜かんとする精確な射撃もあり、ケイはそのたびに”竜鱗通し”を振るって空中の矢を払い落とした。彼我の距離はおおよそ百メートル、吹き荒れる風を鑑みれば、馬賊の射手の腕前はそれなりと言えるだろう。
問題は、その腕前の射手が何十人といることだ。
ごうっと風が渦を巻く。
ハッ、ハッ、と荒いサスケの呼吸が、やけに生々しく聴こえる。
前方に視線を戻す。隊商が徐々に近づきつつあった。護衛の戦士や商人たちが慌ただしく迎撃準備を進めているのが見える。馬車の周りに木の盾や衝立を配置し馬を守ろうとしているようだが、正直なところどれほど効果があるかは疑問だ。
話に聞く限り、馬賊は人質や物品の強奪ではなく、隊商それそのものの『殲滅』を目的としている。ならば、まず馬を殺して移動力を削ぎにくるはずだ。衝立や盾は馬たちを隠しきれておらず、ある程度の弓の腕前があれば馬を狙うのは難しくない。加えて円形の防御陣を組んでいた夜営時と違い、隊商の車列は道なりに長く伸びている。機動力の高い弓騎兵を相手取れば、されるがまま四方八方から射られ放題だろう。
嬲り殺し―そんな言葉が脳裏をよぎる。
(このままぶつかるのは不味い!)
隊商と馬賊の間で、刻々と狭まりつつある両者の距離を測りながら、ケイの胸に焦燥感が募る。隊商の護衛たち―雪原の民の戦士を軽んじるわけではないが、この数と機動力の差はあまりにも分が悪い。
速いのだ。
馬賊の馬の『性能』が、想像以上のものだった。
些か不健康でやつれた感のある馬賊たちだったが、彼らの馬のコンディションは非常に良い。あるいは己の食料より馬の飼料を優先しているのか―褐色の毛並みは艷やかで、足取りも軽快に生き生きとしている。
現に、全力疾走するピョートルの馬に対し、馬賊たちはじりじりと距離を詰めつつあった。ピョートルの駆る馬は隊商内でも指折りの駿馬らしいが、それでも速度が劣っている。つまり隊商内には、馬賊に対抗できる馬がいないということ。
護衛の戦士が総出で打って出たところで、追いつけないし振り切れない。馬賊は遠距離戦を得意とし、数の面でも劣勢、かと言って防御に回ってもジリ貧にしかならない。
―どうするか。
いや、考えるまでもない。
(俺が何とかするしかない、か……!)
ぎり、と”竜鱗通し”を握る手に、力がこもる。
相手の数が多すぎる。ならば、削ればいい。酷く単純なロジック。そしてそれを現実的に遂行できるのは、隊商内でもおそらくケイのみ。
わかっている。
わかってはいるが。
撤退のため全力で駆ける今、サスケの手綱を引き反転するのには、思ったよりも勇気が必要なことがわかった。
何しろ、敵の数が多い。相手が五人ならば、躊躇わなかっただろう。十人でも余裕だったはずだ。二十人でも、少々手間が掛かるが、それだけだ。
しかし、五十騎。
流石に、多い。
それは確率の問題だった。一斉に矢を射かけられた場合、そのうちの何本が精確な狙いでこちらに飛んで来るか。回避するにしろ叩き落とすにしろ、限度というものがある。運良く矢の大多数が風に流されてしまえばこちらのものだが、現状の距離である程度の精度で矢を放つ腕前の持ち主たちだ。『甘え』はおそらく許されない。
魔術―ケイが契約する”風の乙女”『シーヴ』の力で、矢を弾き飛ばすことも可能ではある。しかし、ケイがそれを行使できるのは、おそらくあと二回が限度だ。
先ほど魔術で矢を防いだときは、サスケの額当てにつけていた護符(タリスマン)を代償とした。タリスマンは魔力を練り込んで作られる、非常に強力な魔除けだ。故に有用な触媒となりうる―裏を返せば、ケイが行使した術式はそれほどまでに高燃費なものであるということ。残すタリスマンは、ケイが胸に下げるものがあと一つあるのみ。それを使い切った場合、手持ちの宝石(エメラルド)を全てと、ケイ自身の魔力も捧げれば、辛うじて風の結界を発動させられるだろう。
だが、それで打ち止め。
魔力の反動―凄まじい吐き気や倦怠感―を考慮すれば、二度目の行使のあと戦闘が継続可能かどうかも定かでない。
常人ならどうしようもない命の危機を、二回も凌げると考えれば大したものではある。それをたった二回だけ、と捉えるかどうかは考え方の違いというやつだ。
二回、あるいは一回のみの『切り札』があるうちに、敵を何(・)と(・)か(・)する。
すなわち、殺す。
馬上、ケイの息がにわかに荒くなる。それは、これから己が為さんとすることへの慄きか。人を手に掛けるのは、久しぶりのことになるだろう。ケイがわかりやすい形で葬り去ったのは、『こちら』の世界に転移してから数日後、タアフ村からサティナの街に移動する道中で、草原の民の強盗とやりあったのが最後だ。その後、諸々のトラブルでも弓を使ったので、ケイの矢が原因で死んだ者も他にいるかも知れないが。
いずれにせよ、事実は変わらない。ケイは人を手に掛けたことがあるし、それがまた再び、今日という日に訪れようとしている。
―陰鬱なものが、どす黒いものが胸中に満ちていく。
だが、やるからには。
ケイが手綱を放し、右手を矢筒に伸ばそうとした、そのとき。
わぁっ、という声がさらに右手側から響いてくる。
弾かれたように見やれば、遠く、隊商の向かって右手に位置する木立から、数十騎の騎馬が飛び出していた。
ケイの顔から血の気が引く。褐色の騎馬を駆る彼らは、間違いなく草原の民だ。
別働隊。
それも、ほぼ同数の。
後方に五十騎、右手側にもさらに五十騎以上。
合計、百騎。
『嘘だろ……クソッタレ!』
ケイの傍ら、ピョートルが呻くようにして毒づく。隊商の構成員もまた、合わせて百名を下らない。しかしその半数以上が商人とその見習いたちだ。辛うじて装備は馬賊たちのそれよりも優れているかも知れないが、人一人が身につけられる武具が、矢の雨の前でどれほど頼りになるだろう。
隊商は、もう目前にまで迫っている。まだ距離はあるが、襲歩(ギャロップ)の馬ならば瞬く間に駆け抜けられる程度の間隙。
半ば無意識のうちに。
追い求めるように、彷徨ったケイの視線は、ひとりの少女を捉えた。
隊商の中ほどで、幌を張った馬車の荷台からこちらの様子を窺い、顔を青褪めさせた金髪の少女。
―アイリーン。
ケイの愛してやまない、この世界でたった一人の大切なひと。
二人の視線が交差する。
彼女から、こちらがよく見えたかはわからない。
しかし、それでも。
視界の果て。
唇を引き結んだ少女は、小さく頷き。
背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。
銀色の刃が陽光を受けて、きらりと輝く。
それを見た瞬間。
アイリーンの、凛々しいとさえ言える悲痛な表情を瞳に映した瞬間―ケイの胸の内に、かっと熱いものが溢れた。
そしてそれは、すぐに氷のような冷たいものに取って代わる。
―俺は、何のためにここにいる?
……そうだ
―彼女のためでは、なかったか。
揺れていた心が、恐ろしいまでに定まった。
引きつったような、乾いた笑みを浮かべたケイは、突如としてそれを獰猛なものとし、首元の顔布に手をかける。
ピョートル! 先に行け!
サスケの手綱を引き、急激に旋回する。ケイの声に振り返ったピョートルは、あっという間に距離を離していくケイに目を剥いた。
ケイ! 何をやっている!
俺が時間を稼ぐッ!
ばっ……馬鹿な! やめろ! 無茶だ、ケイ!
後方の馬賊とケイを見比べ、ピョートルは悲鳴のように叫ぶ。しかし、流石に自分まで反転して、ケイを連れ戻そうという気にはなれないようだ。
ケイ! 戻れッ! ケ―イッ!
それでもこちらに手を伸ばして叫ぶピョートルに。
ケイは、にやりと笑ってみせた。
そして顔布を引き上げる。前へ向き直る。“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“の革兜で守られた頭部、顔の下半分は白い布で覆い隠され、露出するのは目元のみ。
顔布の端で、手縫いの赤い花の模様が踊る。
さらに旋回する。
前方を睨む。
やがて、夜のような真っ黒な瞳は―行く手に五十騎の騎馬を捉えた。
まるでピョートルに向けた笑顔とともに、全てを置き去りにしてしまったかのように。
乾いた心からはごっそりと、温かなものが抜け落ちていた。
代わりに、共にあるのは、身を切るような高揚と、冷え切った思考のみ。
ここに来てさらに勢いづいたサスケが、猛烈なまでに駆ける。
その軸が、ぴたりと馬賊の一群へ定められた。
逆に意表を突かれたのは、馬賊の方だ。
……一騎駆けかッ!
嘲笑うように、それでいて感心したように、先頭を駆ける男は笑った。突然の反転には面食らったが、所詮は捨て身の時間稼ぎと判断して鼻で笑い、あるいはその身を顧みない、ひとりの戦士の蛮勇を称えたのだ。
―その意気や良しッ!
高らかな男の声に、周囲の襲撃者たちも忍び笑いを漏らす。周囲の者たちが続々と弓に矢をつがえるのをよそに、先頭を駆ける男だけは、腰の曲刀をしゃらりと抜き放っていた。
多勢に無勢でありながら、それでも僅かばかりの時間稼ぎのために、真正面から突っ込んでくる一騎。
無謀ではあるが、一人の戦士として、その勇気に敬意を表するべきだと感じたのだ。
相手が、自分と同じように剣で応戦することは期待していない。弓を使ってきたところで所詮は一人、この距離でも矢を捌き切る自信があった。
さあ、来い―ッッ!
馬賊の先頭、曲刀を掲げて雄叫びを上げる男。
それに対し、ケイは静かだ。冷淡とさえ言っていい。
ただ―まるで次の選曲を迷う即興のピアニストのように、しばしその右手が、鞍に備え付けられた矢筒の上を彷徨う。
ほんの一瞬のことだ。やがて、ケイは一本の矢を抜き出した。
長く、鏃(やじり)は太く鋭く、青い矢羽を持つ―それを。
ケイを無謀と嗤いながら、戦士として評した男であったが。
ひとつ、決定的な思い違いをしていた。
今、少なくともこの場において。
―ケイは、狩人だ。
矢を、つがえる。
引き絞る。
朱色の弓が、ぎりぎりとしなる。
陽光を受けて妖しくきらめき―
カァン! と唐竹を割るような、甲高い音が。
銀色の、光。
風が、唸る。
先頭の一騎が、爆(・)発(・)し(・)た(・)。
ごぼァッ!
曲刀を構えていた男、その胸部に、突き刺さる銀光。反応など許しもしない、音が響いたあとにはただ結果がついてきた。“大熊(グランドゥルス)“さえも一撃で屠った矢を、その直撃を、人の身でありながら真正面に受けたのだ。革鎧など濡れた紙ほどの役にも立たなかった。
胸骨は一撃で砕け散り、えぐり込む矢に巻き込まれるようにして胸部が内側に破裂する。あまりの威力に身体は仰け反りもしない、胸部を完全に陥没させた男は、背中から臓物と脊髄を撒き散らし、壮絶な死を遂げた。
しかし、それでも無慈悲な矢は止まらない。
たった人一人の命を捧げたところで、“竜鱗通し”が満足できようか。背後の馬の頭部を撃ち抜き、さらにその乗り手をも食い破る。
血飛沫に矢羽を紅く染め上げながら、それでも尚、矢はまっすぐ突き進む。三人目の首を千切り飛ばし、四人目の胴に風穴を開け、最後に五人目の胸に突き立って馬上から吹き飛ばし―ようやくそこで止(・)ま(・)る(・)。
―?
絶句。
たった、一矢。
それの齎(もたら)した結末に。
騎馬の陣形に、ぽっかりと穴が空いていた。
まるで見えない竜の爪にでも薙ぎ払われたかのように。
あるいは雄叫びの形に口を開けたまま、あるいは弓に矢をつがえ、引き絞ろうとする直前で呆けたまま。
誰もが振り返り、吹き荒れた血風を見送るようにして、ただ硬直していた。
その、一瞬。
致命的な一瞬。
ケイは新たに、次なる矢をつがえていた。
カァン! と小気味良い音が響き渡るのと、ハッと我に返った馬賊たちが、再び銀の光と相見えるのとが同時。
血の色をした暴風が吹き抜ける。
人馬合わせて七つの命が、たちどころに吹き飛んだ。
散開ッ!
射掛けろ!
慌てて指示が飛び、魚の群れのように密集していた馬賊たちは、ぐんと騎馬同士の間隔を開く。ケイが真正面から突撃した理由がこれだった。細長い魚鱗隊形で密集していたため、貫通力のある『長矢』を使うならば正面から撃ち込むのが一番効果的だったのだ。
散開した馬賊たちから、ぱらぱらと射掛けられる迎撃の矢。それらは射手の心境を反映したかのように、ふらふらと狙いが定まらず、力のないものだった。それでも比較的狙いの精確だった矢を難なくいなし、ケイは再び前方の標的を見据える。
その、黒い瞳は、『標的』に対し、さぞかし冷徹に映ったことだろう―
全力で駆ける双方の相対距離は、まもなく零になろうとしていた。
互いの眉間の皺すらも数えられそうな近距離。顔を引きつらせた馬賊の面々にざっと視線を走らせ、素早く矢筒から矢を抜き取ったケイは、コンパクトな射撃を続けざまに放つ。
コンパクトな、というのは、先ほどに比べての話だ。人の命を奪い去るには十分すぎる威力。それでいて狙いは針の穴を通すように精確で、放たれた矢の数だけ馬上からぽろぽろと肉塊が転がり落ちた。
そしてそれには一瞥もくれず、ケイは一気に左へ馬首を巡らせる。
同時に、“竜鱗通し”を右手に持ち替えるのも忘れない。
至近距離を、馬賊の右手側を、ケイを乗せたサスケが勢い良く駆け抜ける。
やれッ!
射殺せ!
怒号が上がるが、即応の矢は放たれない。ケイが見たところ、馬賊の多くは右利きで、右手に矢を、左手に弓を握る者が大半だった。故に馬上弓において、右手側は射角が制限され死角となる。そして数少ない左利きの射手は、先ほどのケイの『コンパクト』な射撃で、そのほとんどが絶命していた。
左利きの射手がやられていることに気付いた者たちが、慌てて右手に弓を持ち替え矢を放つ。が、吹き荒れる風、慣れない右手側への射撃、そして未だ冷めやらぬ動揺、万が一にも標的に命中させられる要素がなかった。
まるで見当違いの方向へ飛んで行く矢をよそに、悠々と駆けるケイはむしろすれ違いざまに馬賊を射殺していく。弓に関して言えば、ケイは両利きだった。利き手での射撃に比べれば若干精度は落ちるものの、この距離ではあってないような誤差にすぎない。
気がつけば、馬賊は三十騎弱にまで数を減らしている。ケイはサスケを減速させることなく、真っ直ぐにそのまま駆け続けた。
逃がすか!
追えーッ!
想定外の大被害を受け、怒りに呑まれた男たちは乗騎を反転させその後を追う。一部冷静に、隊商への攻撃と天秤にかけた者もいたが、結局そのまま周りに合わせて追跡を開始した。
馬には、自信があったのだ。厄介な騎兵を処理してから、じっくり鈍亀を始末すればいい。そんな考えもあった。
しかし―
バカなッ、速い!
離されてるぞ!
ぐんぐんと彼我の距離が開いていく。一目散に逃げるサスケは、速い。先ほどまでとは比べ物にならないほど速い。
ピョートルと並走していたときと違い、今はサスケ一騎だ。もはや『普通の馬』にペースをあわせる必要がない。そしてサスケは、本来は凶悪なポテンシャルを秘める『バウザーホース』という名の魔物。むせるような血臭に、彼もまた昂ぶっていた。
その背に揺られるケイはというと、勿論ぼんやりしているわけではない。サスケの背に仰向けに倒れこむようにして、反転した視界の中、次々に矢を射かけていた。無理な体勢のせいで狙いは甘くなっているが、一騎、また一騎と人馬がぬかるんだ大地に倒れていく。
クソッ、追いつけん!
また一人やられたぞ!
そっちは後回しだ! 先に隊商をやる!
とうとう半数にまで数を減らされてしまった馬賊たちは、歯ぎしりしながらケイの追跡を取りやめ反転、隊商の方へと戻っていく。
……意外と何とかなるもんだな
遠く、一人と一頭で残されたケイは、手綱を引いてサスケを休ませながら他人事のように呟いた。久々の全力疾走に、ゼエ、ゼエと荒い息をつくサスケの首筋を優しく撫でて、その労をねぎらう。
人馬ともに傷一つないどころか、シーヴの魔術に頼る必要さえなかったのにはケイも驚いた。やはり最初に一当てした際、先頭の一騎が抜刀したお陰で一斉射撃を喰らわずに済んだのが大きい。酔狂な真似に助けられた、と考えるべきだろうか。その助けとなった人物が真っ先に死亡する結果となったのには、皮肉な笑みを禁じ得ないが。
顔布の下で、ケイは乾いた笑みを浮かべた。見れば、そこら中にごろごろと人馬の死体が転がっている。食物のための狩りとは全く違う、格段に濃い血の匂いに頭がくらくらしていた。
……すまん、サスケ、もう一頑張りしてもらうぞ
ケイがそう言ってぽんと首筋を叩くと、 しかたないな と言わんばかりにサスケは鼻を鳴らした。チラッ、と首を巡らせて意味ありげにケイを見やったのは、終わったあとでのご褒美の催促だろうか。体力を消耗したことだし、何かの肉とたっぷりの水を上げよう、とケイは思った。忘れがちだが、サスケは雑食性の魔物だ。
よし、行けッ
ケイがぽんと足で合図すると、サスケは再び滑るようにして走り出す。
前方、隊商目掛けて駆けながらもちらちらと背後を窺っていた馬賊たちが、迫り来るケイの姿に血相を変えて馬を加速させる。
―逃がすものか。
そんな想いを獣のような笑みに変えて、血臭に酔うケイもまた弓を構える。
果たして、死神の追撃が始まった。
バウザーホースの性能に物を言わせてあっという間に距離を詰め、馬賊たちの背中に容赦なく致死の矢を見舞う。
散開し―ぎゃぁァッ!
慌てるな、落ち着いて―ぐえッ!
旋回して反げ―あガぁッ!
馬賊たちもどうにか組織だって抵抗しようとするが、無慈悲な矢がその生命を刈り取っていく。
聡い者は、すぐに気付いた。皆をまとめようと声を張り上げる者から先に、死神に目をつけられていることに。
気付かずに声を張り上げる者は、当然のように死んでいった。気付いても尚、現状を打開しようと試みた者は、続いて葬り去られていく。それを目の当たりにした、目端の利く臆病な者は口をつぐんだ。そもそも気付かず、リーダーシップも取れない者は、端から脅威足り得ない。
結果的に、烏合の衆だけがその場に残される。
まとまりもなくただ逃げることしかできず、それでいて各自自由に散開することもできない。何故ならば、群れから離れようとした者から真っ先に死んでいくからだ。己の命惜しさに、小魚のように群れることしかできない。
そしてそれは、―ケイからすれば、もはやただの鴨打ち(ダックハント)だった。
当初、五十騎以上もいた馬賊の一群は呆気ないほど簡単に壊滅し、今やケイただ一騎に追い回されるだけの、惨めな存在に成り果てたのだった。
そして、それを遠巻きに、驚愕をもって見守る者たちが居る。
奴は鬼神か……!?
その中の一人は、隊商の責任者の中年親父、ゲーンリフだ。思わず迎撃の準備の手も止めて、愕然とケイの猛攻を眺めている。だがそれを咎める者は、その場に一人もいなかった。ゲーンリフが最高責任者ということもあるが、何より周囲の者たちもケイの凄まじい馬上弓に度肝を抜かれていた。
元々、ゲーンリフはケイを信用していなかった。経歴も、敵ではないという意志表明も、その弓の腕前さえも。ケイの何から何までもだ。
最初にケイがピョートルを残して反転したときは、 裏切り者が尻尾を出した と激怒していた。敵の部隊に合流する動きと見たからだ。
だが、蓋を開けてみればどうだ。
死屍累々。まさにその一言に尽きる。あまりに現実離れした光景に、この短い間に何度目を擦ったかわからない。
―そう、短い間に。
ケイの弓で死体の山が築かれるまで、本当にあっという間だった。ケイが戦闘状態に移行した直後は敵の演技や自作自演さえも疑ったゲーンリフだが、あまりの死体の多さにその考えを改めざるを得なかった。いくらなんでも、胴体と首を切り離すふ(・)り(・)ができる人間はいないし、こちらを油断させる罠にしては死人が出すぎているし、そもそもそんな罠を張る必要性もないと理性で判断できる。
だからこそ、恐ろしかった。
目の前で起きていることが―全て現実であると、認めざるをえなかったから。
そしてそれは、おそらく周囲の面々も同じであった。これまでケイに敵対的であった者たちも、ピョートルを含む極少数の友好的・中立的であった者さえも。
あの弓が自身に向けられていたら―そう考えてしまうのは、ある種の生物としての本能だろう。それと同時に、馬賊の一群が壊滅しつつある現状に安堵も覚えつつある。その相反する感情は、思考停止という形で表れた。
しかし、それも長くは続かない。
ゲーンリフたちと同様に、あるいはそれ以上に衝撃を覚えていた馬賊の別働隊がすぐそばまで迫ってきたからだ。自身を鼓舞するような雄叫びが、地鳴りにも似た蹄の音に混じって聴こえてくる。
ゲーンリフ隊長、連中が来ます!
……迎撃態勢に入れ! 弓が使える者は構えろ、射程に入ったら順次放て! 馬を狙えよ! 手が空いてる奴は一枚でも多く盾と板を並べろ!
自身も弓を構えながら、ゲーンリフは指示を飛ばす。護衛の戦士や商人たちが弓と弩を構え、見習いたちが板や盾を手に走り回っている。
そして、ゲーンリフのだみ声は、隊商の真ん中までハッキリと届いていた。
……嬢ちゃん、隠れてた方がいいんじゃないか? 荷箱の間に隙間を作っといたから、ここに潜り込んでりゃ流れ矢くらいなら防げるぜ
公国の薬商人ランダールが、緊張した面持ちで円盾を構えながら荷台のアイリーンに声をかける。
気持ちはありがたいけど、オレも戦うぜ
サーベルを片手に、しかしアイリーンは毅然と答えた。
……つってもよ、嬢ちゃん
勇ましいのはいいが、と何とも言えない顔をするランダール。彼からすれば、可憐な少女が無理して粋がっているようにしか見えないのだろう。
女だということもあるが、それ以上に見かけのせいで過小評価されるのはいつものことだ。アイリーンも慣れたもので、溜息をつくことすらせずに、ただ右手のサーベルを軽く振るって見せる。
ピッ、ビシュッと腕の先がブレて見えるような、鋭い剣閃。決して力任せに振り回しているわけではない、無駄を削ぎ落とし、洗練された斬撃だった。
……なるほどな。お飾りじゃなかったのか
ランダールも、力量を推し量れるだけの目は持っているらしい。気負う風もなく斬撃を披露したアイリーンに、神妙な顔で頷き、それ以上はとやかく言わなくなった。
嬢ちゃんはなかなかできそうだな。期待してるぜ
護身程度さ。自分の身は自分で守ってくれよな
軽口を叩きながら、アイリーンは空いた左手で腰のベルトから投げナイフを取り出し―自分の手が震えていることに気付いた。ランダールから見えないよう、背後に手を隠しながら、苦笑する。
ランダールの言うことも、あながち間違っていなかったかも知れない、と思ったのだ。
だが。
ここで、自分だけ隠れるわけにはいかなかった。
遠く前方を見やれば、馬賊を追い回す騎兵―ケイの姿が見える。
(……ケイが、あれだけやってるんだ)
周囲の人間はケイの武威に恐れ慄いているようだが、それ以上にアイリーンからすれば、その姿は痛々しかった。
好きで、やっているわけではない。
顔布の下がどのような表情であれ、今この瞬間に何を考えていようとも、それはケイが自分自身に冷徹な殺人機械であることを強いているだけなのだ。
わかるだけに、痛々しい。
だからこの痛みを、ケイにだけ押し付けるわけにはいかない。
サーベルを握る手が震えて、カタカタと音が立っている。
馬賊の雄叫びと蹄の音に、かき消されて聞こえないのは幸か、不幸か。
……やってやるさ
深呼吸し、誰にも聞こえないよう小さく呟く。
いよいよ迫りつつある馬賊を、アイリーンはただ、キッと睨みつけた。
45. 迎撃
隊商の面々にすら畏怖の念を齎(もたら)したケイだが、『当事者』たる馬賊たちの受けた衝撃はその比ではなかった。
いっ……いったい何なんだアイツはッ!
木立の中、一人の男は絶叫する。
羽飾りを多用した革鎧をまとい、複合弓と長剣を装備した男。顔には複雑な紋様の刺青が刻まれており、ひと目で草原の生まれと見て取れる。年の頃は三十代前半といったところか、太い眉にきつい三白眼、苛烈な人格を窺わせるような顔立ちだ。しかしその相貌は紙のように白く、今にでも卒倒してしまいそうな雰囲気を漂わせていた。左腕を黒ずんだ包帯で吊っているせいで、尚のこと頼りなげに見える。
ああ、あああ……!
口から漏れるのは、もはや意味を成さない呻き声のみ。
仲間が死んでいく。
次々に討ち取られていく。
―いや、むしろ狩られていく。
たった一人の、化け物じみた弓騎兵によって。
つい先ほどまで五十騎を数えた襲撃隊は、今や半数以下になってしまった。馬鹿な、あり得ない、信じられない―愕然とした男の表情はそんな心の内をありありと語る。
わなわなと震える男の周囲には、同様に包帯で手当てが施された草原の民の姿があった。湿った地面に身を横たえ死んだように動かない者や、木にもたれかかって上体を起こすのもやっとという者もおり、木立の中はまさに野戦病院といった様相だ。
が、今は病院というより墓地のように静まり返っていた。意識がある者は等しく顔の色を失い、茫然自失している。
悪夢にでもうなされているように、釘付けになったまま視線を外せない。
二十騎あまりの襲撃隊を、たった一騎で追い回す悪魔のような弓騎兵。
朱色の弓が乾いた音を奏でるたびに、馬上から誰かが叩き落とされる。もはや組織だった反抗さえできず、怯え、ただひたすらに逃げ惑う仲間たち。
それは、まるで牧羊犬に追い回される羊の群れのようで―
かぁん、と。
甲高い音が響き渡り、またひとり、仲間の命が赤い血飛沫に消えた。
ローメッド隊長……
顔の右半分を包帯で覆った若者が、傍らの男に縋るような目を向ける。
俺たちは、どうすれば……
……くっ、
左腕を吊った男は、何も答えられずに歯噛みするほかなかった。
男の名を『ローメッド』という。本来ならば襲撃隊のまとめ役を担う戦士だ。しかし今は腕を負傷して戦力にならないため、木立に身を潜めている。そしてそれは周りの男たちも同様だった。
つまり、この場には足手まといしか残っていない。
騎馬をまるで己の分身のように扱う、熟練した草原の民の弓騎兵が五十騎がかりでも歯が立たない相手だ。たかが十数名程度の怪我人が徒歩で打って出たところで、何ができるだろう。
…………
沈黙するローメッドに、聞くまでもなく答えはわかっていたのだろう、若者は諦めたように肩を落とす。それが自身に向けられた失望であるように感じられて、ローメッドはますますその表情を険しくした。
実際のところ、相手は単騎。大型の矢筒を鞍に括りつけているようだが、持ち運べる矢の本数には限界がある。せめて自分たちが囮となって矢を無駄遣いさせるという手も考えたが、今までの戦いぶりを見るに、脅威度が低い自分たちを無視して騎兵を攻撃し続ける可能性が高い、とローメッドは睨んでいた。
騎兵を全滅させてから改めて自分たちを『狩り』に来るか、あるいはそのまま無視して隊商に戻り補給を優先するか。いずれにせよ、ローメッドたちが犠牲になろうとしても、現時点では向こうは構ってくれないだろう。
(クソッ! 何か、何かできることはないか……!)
死にゆく仲間たちを血走った目で見ながら、ローメッドは必死に考えを巡らせようとする。しかし空回りする思考は、一向に手立てを見つけられずにいた。どうしてこんなことに―などと、現実逃避じみた想いだけが浮かんでくる。奴隷として売り飛ばされた同胞たちを救うため北の大地までやって来たというのに、目の前で仲間が蹂躙されるのを、ただ指をくわえて見ているしかないというのは何たる皮肉か。
怒りと情けなさで、先ほどとは一転、顔を紅潮させるローメッド。視界が真っ赤に染まっていくのを感じたが、バサバサッという羽音に思考を中断させられる。
見れば、傍らの止まり木で翼を休めていた伝書鴉(ホーミングクロウ)が、細かく体を震わせていた。ぶわりと、その小さな身体が膨れ上がるかのような錯覚、鴉の薄い赤色の瞳が血のような真紅に染まり、存在感がず(・)し(・)り(・)と重くなるのを肌で感じる。
……カッ、カッカ。うぅむ、久しいな。ローメッド、その後はどうじゃ
まるでそれが当たり前であるかのように―首を巡らせてローメッドを見据えた鴉が、しわがれた声で話し出す。
御大将!!
思わず叫んだ声には、僅かな安堵の色が滲んでいた。咄嗟に止まり木の前で跪くローメッド、周囲の怪我人たちも おお とざわついている。
御大将―少なくともローメッドたちはそう呼んでいる―は、告死鳥(プラーグ)と契約した強大な魔術師だ。ローメッドたちが怪物(モンスター)の闊歩する 深部(アビス) を横断して北の大地に侵入できたのも、時折必要な武具や糧食などを補給できているのも、雪原の民の討伐隊を察知し撃退できているのも、全て彼のお陰だった。
奴隷にされた同胞たちを救いたい、という自分たちの心意気を買って支援してくれている―というのは御大将の言だが、ローメッドはあまり信用していない。これほどの力を持つ魔導の探求者が、そんな甘い理由で力を貸すはずがないからだ。おそらく彼にとっても何らかの利益(メリット)があり、独自の思惑に基いて行動しているのだろうが―ローメッドたちもそんなことは承知の上だった。仮に、手駒として利用されているだけだとしても構わない。現に少なくない数の同胞を救い、うち何人かは別働隊の手より 深部(アビス) 経由で故郷に帰すことにも成功しているのだから。
いずせにれよローメッドは、少なくとも彼の能力には全幅の信頼を置いており、それを自在に操る彼自身にも畏敬の念を抱いている。そして、最近は忙しいらしく、滅多と『憑依』していなかった彼が、このタイミングで様子を見に来たことには運命を感じずにいられなかった。
御大(おんたい)、状況は芳しくありません。あちらを
切羽詰まった表情で、ローメッドは『戦場』を示す。つられてそちらを見やった黒羽の魔術師は―そのまま硬直した。
……御大将?
剥製のように動かない鴉に、怪訝な顔で声をかけるローメッド。
……かっ
それに対し、赤い眼を見開いた鴉は壊れた玩具のように、
―かっ、かかかっ、くはははハハハッ!! カッハッハッハッ!!
哄笑。
おおよそ状況には似つかわしくない、そして何より仲間たちが死していく現場を前にしての奇妙な反応に、ローメッドは眉をひそめる。
カッハハハ、これは傑作! 彼奴め、よりにもよって何故このような場所におる!
あの者をご存知なのですか!?
が、続く魔術師の言葉に、思わず前のめりになって尋ねざるを得なかった。
ふっ、くくく。そうじゃ、そうじゃな。知っていると言ってもいいじゃろう、わしにとっても『敵(かたき)』に相当する男じゃ
肩を、というよりも翼を震わせて、面白可笑しそうに魔術師は答える。しかしその瞳はぎらぎらと、おぞましいばかりの輝きを放っていた。
ふむ、ふむ。押されておるな。単騎でよくもあそこまでやるものじゃ……Se vizitanto, tio ne nepre bizara……よい。いずれにせよ、お主の言わんとすることはわかるぞローメッド
ぎょろりと蠢いた赤い双眸が、ローメッドを捉える。見かけはただの鴉に過ぎないにもかかわらず、にやりと口の端が釣り上がっている―そんな邪悪な表情を連想させる怪鳥の顔。
畏怖とも、本能的な嫌悪感とも知れぬ感情を抱きながら、それでも敬意をもってローメッドは頭を垂れた。
はっ。……あの者を倒すため、御大のお力をお借りしたく
よかろう。無駄な力は使いたくはなかったがの、これは仕方があるまいて
ばさばさと翼を羽ばたかせながら、止まり木の上で鴉は体勢を整えた。
見据える。
遥か彼方、襲撃隊を追撃する異邦の狩人を。
その真っ赤な瞳が、微かな燐光を放ち始める。それは美しく、それでいて何処か退廃的な、そして不吉な色だった。
ローメッドよ。あの男を生かすも殺すもお主次第じゃが、殺す場合は少なくとも遺体は五体満足で確保せよ
五体満足、……ですか
彼奴めの肉体は使い道があるのでな
カッカッカ、と乾いた笑い声を漏らす鴉。この強大な魔術師に肉体を必要とされるとは、一体何者なのだろうかと思いつつ、ローメッドは首肯する。あの凄まじい馬上弓を見るに、只者ではないことだけは確かだったが。
わかりました。必ずや
任せた。では彼奴めを弱らせるぞ。これでお主の仲間もやりやすくなるじゃろうて
ばさりと。
鴉は、翼を打ち広げる。
ただそれだけの行為が、何処までもおぞましい。
Rigardo de detruo.
しわがれた声が呪文を紡ぎ。
ぎらりとその瞳が一際強く、そして不吉に輝いた。
†††
大地を叩く無数の蹄の音が、びりびりと空を震わせる。
次第に大きくなる鬨の声―遠景に望む馬賊はじわじわと接近しているように見えて、その実襲歩(ギャロップ)による突撃は風のように疾い。
ランダールの馬車で、アイリーンは荷物の陰から敵の様子を観察していた。
散開しながら先を争うようにして距離を詰める、五十騎近い褐色の騎馬の群れ。
複合弓に矢をつがえ、いつでも放てるように身構えている馬賊たち。ちらほらと二人乗りしている騎馬も見かけられ、さらには火の点いた松明をその手に携えた者もいるようだった。
……準備のいいこった
こんな真っ昼間に、松明の使い道など限られている。ずらりと並ぶ隊商の馬車を見やりながら、思わずアイリーンはハッと乾いた笑みを浮かべていた。
のっぺりと時間が引き伸ばされていくような感覚。誰かがごくりと生唾を飲み込む音。隊商の面々は馬車を盾として、それぞれ弓やクロスボウを手に待ち構える。
殺伐とした緊張感がきりきりと神経を蝕む。『戦場』において有効な飛び道具を持たないアイリーンは、ただただそれに耐えるほかない。
そして。
時は来た。
複合弓の射程にまで接近した馬賊が、一斉に矢を放つ。
空中にきらきらと輝く鏃(やじり)は、さながら白昼の流星群。
美しく暴力的な豪雨が、隊商の車列に降り注いだ。
アイリーンは荷物の裏で身を縮める。木箱越しに感じる軽い衝撃、無数の釘を打ち付けるような音、荷台の幌を矢が勢い良く突き破っていく。それに一瞬遅れて、馬の鋭いいななきや、男たちの怒号が上がる。しかし大混乱に陥る馬に対し、人の悲鳴は驚くほどに少ない。みな馬車を盾として事なきを得たのだ。
放てェ!
代わりに、ゲーンリフのだみ声が響く。
お返しだと言わんばかりに隊商側から飛び道具が放たれた。商人がクロスボウで狙撃し、護衛の戦士が助走をつけて投槍を投擲、商人見習いの少年たちも投石器(スリング)や弓矢で各個に反撃している。
中でも目覚ましい戦果を上げたのはクロスボウだ。他の投射武器とは弾速が段違いで、回避が間に合わずボルトを受けた馬賊や馬が断末魔の叫びを上げて倒れ込む。草原の民の女奴隷を連れていた裕福そうな商人などは、クロスボウをいくつも準備していたらしく、使った端から見習いに渡して次弾を装填させていた。
―ッ!!
―、―ッ!
苛烈な隊商側の反撃に、何事かを叫んだ馬賊たちが少しばかり距離を取る。緩やかに隊商を包囲しながら、再び弓での一斉射撃を仕掛けてきた。だが隊商の面々も即座に馬車や大盾の裏に隠れ、矢の雨をほぼ無傷でやり過ごす。
これが仮に、現状に倍する数で隊商の両側面から攻撃されていれば、こうも簡単には防御できなかっただろう。本来ならば馬賊も、二つに分けた襲撃隊による挟撃を想定していたはずだ。
しかしその思惑は土壇場で打ち砕かれた。
ひとりの、化け物じみた異邦の狩人によって。
再び荷台の幌から顔を出し、アイリーンは見やる。隊商から遥か遠く、二十騎以下にまで数を減らした草原の民たちが、たった一騎の弓騎兵に追い回されているのがはっきりと見えた。
ケイだ。
DEMONDAL において『死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》』とまで呼ばれ恐れられた馬上弓は、この世界においても健在らしい―いやむしろ、より一層磨きがかかっている。
流石はケイだ、―と不安な気持ちを信頼で塗り固め、アイリーンは頷いた。
ケイもしっかりしているのだ、自分も最善を尽くさねば、と。
そう言い聞かせて、無理やり視線を外す。
ケイが別働隊を引きつけ壊滅させたお陰で、奇襲であったにもかかわらず、隊商はある程度の余裕をもって対処できていた。しかし馬賊は馬賊で、これまで孤立無援でありながら北の大地を荒らし回ってきた強者(つわもの)たちだ。ただの一斉射撃では効果が薄いと見るや、すぐさま次の手を打ってきた。
松明を手にした複数の騎馬が、動きを止めた馬賊たちの間を駆け回る。ぽつぽつと、火の数が増えていく。
矢の先端部に、油を染み込ませたボロ布を巻きつけたもの―
火矢だァ!
誰かの、悲鳴のような叫び声。
おいおい……こいつぁヤバイぞ
荷台から空を見上げてランダールが呟いた。アイリーンも天を振り仰ぐ。先ほどまで雨がぱらついていた空は、今は憎々しいまでに晴れ渡りつつあった。
バババヒュンッ、と鈍い音を立てて、一斉に火矢が放たれる。それらは大盾に突き立ち、人馬を傷つけ、馬車の幌に火を放った。防水のために脂を塗りこんだ幌は、乾いた干し草よりもよく燃える。
そしてそれはランダールの馬車も例外ではない。
旦那ッ!
外してくれ! 支柱ごとやっても構わねえ!
めらめらと火の手を上げる幌に、アイリーンが切迫した声で指示を仰ぐと、手近にあった斧で幌の支柱を叩き切りながらランダールが返す。右手に握りっぱなしだったサーベルを閃かせ、アイリーンも細い木の支柱を全て切断した。
ッ、!
その瞬間、ピリッとした殺気を感じ取りサーベルを振るう。燃える幌を突き破って、真っ直ぐに飛んできた矢をすんでのところで切り払い、事なきを得る。
それを目にしたランダールがピゥッと口笛を鳴らしたが、それ以上はお互いに軽口を叩く余裕もなく、燃える幌を車外に投げ捨て火の粉を払う作業に集中した。
アイリーンたちは幸いなことに迅速に対応することができていたが、既に隊商内には取り返しがつかないほど火が回ってしまった馬車も見かけられた。燃え上がる馬車を前に商人が頭を抱え、護衛の戦士たちが弓を引きどうにか馬賊を牽制しようと試みる。しかし、そこに浴びせかけられる矢の集中砲火、馬車という盾を失った見習いの少年がハリネズミのようになって倒れ伏す。人馬の悲鳴が入り乱れる様はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
焦げ付く煙の匂い、泥水の跳ねる音、馬のいななき、男の悲鳴、戦士の雄叫び、矢の風切り音、そして濃厚な血臭。
五感を圧倒する暴虐。木箱にぴったりと背をつけて死角を殺したアイリーンの顔は、すっかり血の気を失っていた。
だが、このような状況で、ただ呆然としているだけの『贅沢』は許されない。
バオン、ウォンという野太い吠え声。アイリーンはハッとした、どこか聞き覚えのあるタイプの吠え声だ。
なんだあれはッ!
狼だ! 馬鹿みたいデカいぞ!
護衛の戦士たちの困惑の声が聴こえる。黒い毛並みの巨大な狼が数頭、隊商に向かって真っ直ぐ突っ込んできている。
狩猟狼(ハウンドウルフ)!!
アイリーンとランダールの声が重なった。ぬかるんだ地面を物ともせず、風のように駆け抜けたハウンドウルフたちは、そのままの勢いで獲物に食らいつく。荷台に飛び乗ってきた一頭に喉元を噛み千切られた商人が血溜まりに沈み、至近距離にまで迫られた馬たちが恐慌状態に陥り暴れ始める。馬を宥めようと試みた見習いの少年が、後ろ足に蹴り飛ばされて大盾の向こうへ吹き飛んでいった。護衛の戦士たちもこの凶悪な獣に対処しようとしていたが、馬車が燃え上がり四方八方から矢が飛んで来る状況では万全の戦いなど望むべくもない。かなりの苦戦を強いられていた。
さらに、その隙を突いて、二人乗りをしていた騎馬のうち、片方の草原の民が下馬し混乱が大きい箇所に斬り込みを開始している。円盾と曲刀を装備した草原の民の戦士と、重装の雪原の民の戦士がそこかしこで打ち合っていた。
そして一頭のハウンドウルフが、ランダールの馬車にも接近しつつある。どうやら大盾の内側、幸いなことにまだ一矢も受けていない元気な馬を狙っているようだ。
スズカ!!
怯える黒毛の乗騎の名を呼びながら、アイリーンは荷台から飛び降りる。背後で 嬢ちゃん! とランダールが呼ぶ声がするが、顧みない。ハウンドウルフ一頭など、アイリーン単独で対処可能な相手だ。
地を這うように、そしてフェイントをかけるようにジグザグに走るハウンドウルフ。その黄色い瞳が狡猾に、獰猛に、アイリーンの隙を窺っていた。
来いよ
対するアイリーンは、ゆらゆらと身体を揺らしながら、右手のサーベルをだらりと下げて不自然なまでに脱力して見せる。
と、真横から飛来する矢。
上体を逸らして回避。それを隙と見たか、グルルと唸ったハウンドウルフが一気に加速して飛びかかってくる。
しかしアイリーンからすればあまりにお粗末な突撃だった。まるでそれそのものが一つの生命体であるかのように、くんっと跳ね上がるサーベル、空中のハウンドウルフの胴体を銀閃が薙いだ。
ギャインッ!
臓物をぶちまけながら泥水に突っ込む黒い獣。アイリーンは返り血どころか、跳ねた泥すら浴びていなかった。ジタバタと暴れるハウンドウルフに止めを刺そうとしたところで、その頭部にビスッと矢が突き立つ。
嬢ちゃん、あんまり無茶はすんなよ
ランダールだ。緊張感で彩られた顔、荷台で構えていた複合弓を下ろす。
無茶じゃねえよ、このくらい
思わず苦笑して答えるアイリーンだったが、その顔がハッと強張る。
旦那! 後ろ!!
いつの間にか、ランダールの背後、荷台に馬賊の戦士が二人も乗り込んできていた。一人は曲刀を掲げ、もう一人は短槍を手に、無言でランダールに襲いかかる。
うおォッ!?
アイリーンの視線と表情の変化でそれを察し、咄嗟に振り返ったランダールが槍の刺突を回避する。ぐらりと姿勢を崩して倒れ込みそうになるランダール、苦し紛れに左手の複合弓を投げつけて時間を稼ごうとするが、曲刀であえなく叩き落とした戦士が踊るように斬りかかる―
旦那ァ!!
時間がゆっくり流れていく。咄嗟に左手を腰の投げナイフに伸ばすアイリーンだが、相手は二人、どうしても間に合わない―と思ったその瞬間。
ランダールの動きが、ブ(・)レ(・)た(・)。
疾い。目にも留まらぬ抜刀、斬りかかってきた戦士の首を長剣で刎ね飛ばす。
さらに、荷台の縁に体当たりして、その反動で無理やり体勢を立て直し、短槍持ちの戦士目掛けて稲妻のような突きを放った。
突然の相方の死、そして予想外の反撃に硬直していた短槍使いの喉を長剣の刃が無慈悲に抉る。信じられない、という顔でぱくぱくと口を動かした戦士は、そのまま喉を押さえて倒れ伏した。
なっ……
ランダールの豪剣に、アイリーンは思わず絶句する。ゆっくりと振り返った、一介の公国の薬商人―であるはずの男は、鮮血を滴らせる長剣を手に、どこかバツの悪そうな顔をした。
いや……まあ、その、なんだ。昔とったなんちゃらってヤツよ
何かを尋ねたわけでもないのに、ひとり言い訳がましいことを口にするランダール。が、アイリーンが口を開くよりも前に、 うおおお! という雄叫びが聴こえてくる。
馬車の横をすり抜けるようにして、一人の草原の民の戦士が襲いかかってきた。得物は奪い取ったものだろうか、草原の民よりもむしろ平原の民が好んで使う長剣。痩せこけて無精髭を生やした中年の男だが、アイリーンの美貌を見るや、その瞳にぎらりと欲望の炎をたぎらせる。
そのことに何の感慨も抱かず、おそらく致命傷を避けるために肩を狙った突きを難なく回避し、アイリーンもサーベルを閃かせた。半ば反射的に、最適解をもって男の首筋へと伸びた刃は―アイリーンが表情を曇らせると同時にぶれ、頬を切り裂いて怯ませてから、手足の腱を軽くなぞった。
そして悲鳴を上げて倒れ込む男を、間髪入れずに回し蹴りで吹き飛ばす。男は泥まみれになってゴロゴロと転がっていき、そのまま馬車の車輪に頭をぶつけて気絶した。
嬢ちゃん……
事の顛末を見届けたランダールが、呆れたような声を出す。アイリーンの手加減―手抜きと言い換えてもいい―を見逃さなかったのだ。先ほど豪剣を繰り出し一瞬で二人を屠ったランダールから見ても、今のアイリーンの剣閃は知覚するのがやっとな速さだった。しかしそれほどの一撃を放っておきながら、直前で迷い、無理やり殺人剣を活人剣にしてしまったアイリーンの思考プロセスに、呆れる。この隊商の戦士の中でも指折りであろう、抜きん出た高次元の剣術を実現しておきながら、そこにいまさら躊躇う余地があること自体が、ランダールとっては不可解でしかなかった。
まあ、その、アレだよ
アイリーンは先ほどのランダールよろしく、口の中でもごもごと言いながら、小さく肩をすくめてみせた。実は、アイリーンも自分自身に呆れていたのだった。あれほど前もって覚悟を決めておきながら、土壇場になって迷ってしまった自分に。
(全然ダメじゃん)
はは、と力のない笑みがこぼれた。タン、タンッと軽く地面を蹴って荷台に戻る。
ランダールが斬った二人の死体が転がっていた。
…………
グロテスクな生の死体を見るのは、これが初めてではない。そう、あれは『こちら』の世界に来て数日後のことだった、タアフ村からサティナの街に向かう途中で、草原の民に襲われたときのこと。ケイが撃退した連中から、色々と物品を剥ぎ取ったのだ―
―ケイ。
死体から視線を外して、アイリーンは無意識のうちに彼の存在を求めていた。
荷台の外、遥か遠くを見やって。
―え?
しかし、その青い目が見開かれる。
―ケイ?
先ほどまで、あれほど苛烈に馬賊の別働隊を攻め立てていたケイが。
―なんで
今は力なく、サスケの背に縋り付くようにして。
逆に、十数騎の馬賊に追い立てられている。
何が起きたのか、わからない。
だが―普通ではない。目を離した隙に、何かが。
そんな、
魔法もある。“竜鱗通し”もある。サスケの速力もある。負ける要素はないはずだ。
―だから『絶対に大丈夫だ』と信じていたのに。
混乱するアイリーンを嘲笑うように、ケイは力なく。
そのままサスケの背中からずり落ちて、泥の中に倒れた。
そこに、ハゲタカのように群がろうとする馬賊たち―
―
アイリーンの頭の中が、真っ白になった。
ケイッッ!!!
気がついたときには、アイリーンは馬車を飛び出して走りだしていた。
ランダールの制止の声にも耳を貸さずに。
ケイの名を叫びながら。
―が、単身で隊商を飛び出したアイリーンを、馬賊が放っておくはずもない。四方八方から矢が飛んでくる。
この―ッ!
体を捻って極力回避し、避けられないものはサーベルで払い落とす。しかし矢の雨を突破したあとに待ち構えていたのは、弓や槍を構えた馬賊たちだった。
ぎり、とサーベルを握る手に力が篭もる。
―邪魔をするな。
アイリーンの瞳に、剣呑な光が宿る。
どけえええェェェェッッ!
余裕というものが全て吹き飛んだ表情で、少女は、吠える。
だが馬賊は止まらない。全力の突撃。
激突。
―サーベルは、一切の躊躇なく振り抜かれた。
46. 剣閃
馬に罪はない。
だが無慈悲なサーベルが唸る。
褐色の騎馬の首に、びしりと赤い線が走った。
撒き散らされる鮮血、悲鳴のようないななきを聞き流しアイリーンは駆ける。突進の勢いもそのままに転倒する騎馬―大質量の肉体が大地に叩きつけられる衝撃をブーツ越しに感じ取る。
騎乗していた馬賊も何かを喚き散らしながら鞍から放り出され、どしゃりと地に落ちた。それに一瞥もくれることなく、アイリーンは眼前を睨む。
迫る銀色の刃。
続く一騎が、アイリーン目掛けて容赦なく槍を繰り出す。
身体を仰け反らせ、紙一重での回避。空を抉る穂先、風圧が髪を揺らす。
そしてただ避けるだけでなく、槍の柄に左手を添えて思い切り引いた。引き込む動きは、アイリーンに更なる加速を。逆に使い手の馬上での体勢を大きく崩す。
うわ―
ぐらりと倒れ込む馬賊の顔面に、右手のサーベルの柄を叩き込んだ。
ゴリュンッという嫌な感触。砕けた歯の破片が混じるどす黒い血を吐き出し、地面に転がる馬賊。その体を踏みつけて、がら空きになった鞍に飛び乗る。
どう、どう!
突然主が入れ替わり混乱する馬を宥めようと、アイリーンは手綱を引いてその制御を試みた。が、すぐに露骨な殺気を感じ取り、鐙に全体重を預けて曲芸師のように馬の左側面にぶら下がる。
ドッ、ドスッと鈍い音を立て、騎馬の右胴体に矢が突き立つ。ぐらりと倒れる騎馬の下敷きになる前に、アイリーンは素早く飛び下がり距離を取った。
容赦のない射撃。
新たに数騎が、複合弓に矢をつがえこちらを狙っている。
舌打ちしたアイリーンは、さらに駆ける。
敵の只中に一人。動きを止めることは即ち死を意味する。
飛来する矢をサーベルで叩き落とし、ちらりとケイの方を見やった。自分と同じように弓騎兵に囲まれ、攻撃されている。アイリーンとの決定的な違いはケイ自身にはそれほど機動力がないことだ。サスケは既に逃がしたらしく、その姿はない。
しかし遠目にも。
ケイの身体に幾本かの矢が突き立っているのが、わかった。
―!!
目の前が、真っ赤に染まるような錯覚。
―ああアアアアァァッッッ!
雑兵に囲まれ思うように動きがとれない現状、それに対する怒り、苛立ち、ケイを心配する気持ち、悲しみ、全てが混ざり合い獣のような叫びが口を衝いて出る。
テメェらァッ、邪魔なんだよォォッッ!!
吠える。しかし構うことなく、アイリーンを押し潰そうとするかのように、馬賊が並んで突撃してきた。その間をすり抜けアイリーンは怒りのままに刃を振るう。脚を切り飛ばされた騎馬が地面に転がり、騎手たちがすっ飛んでいく。
だが、きりがない。
次から次に騎兵が寄ってくる上に、落馬した馬賊たちもそれぞれの武器を手に、続々と周囲に集まりつつある。
四方八方から飛来する矢を、まるで剣舞のように回避し、叩き落とし、アイリーンは首を巡らせて戦況を把握しようと努めた。
馬賊は数を減らしているが、それは隊商側も同じだった。幾つもの馬車が松明のように燃え上がり、矢が突き立ってハリネズミのようになった死体がそこら中に転がっている。護衛の戦士たちも奮闘しているようだが、死兵と化した馬賊の斬り込み要員の気迫も凄まじい。
―このまま走るか。
そんな考えも頭をよぎったが即座に打ち消す。確かにアイリーンの全力疾走は下手な馬より速い。だがそれではケイの元に辿り着く頃にはへとへとになっているだろうし、何より敵をそのまま引きつけていくことになる。
ならば、どうするか。
―決まっている。
いつの間にか、矢の雨が止んでいた。アイリーンの四方を取り囲む徒歩(かち)の馬賊たち。盲滅法に矢を放つだけでは仕留められないと察したのだろう。そして矢の雨の中では、戦士たちが白兵戦を挑むことができない。
つまり、そういうことだ。
次々に抜刀する草原の民の戦士。
白日の下で、曲刀がぎらりと輝く。
アイリーンは、ぎり、と歯を噛み締めた。
……テメェらが選んだことだ
そう、これは天秤だった。
片方には馬賊たちの命。もう片方にはケイの命。
―比べるまでもない。
―邪魔をするなら
サーベルを握る手に力が篭もる。
びしりと空気が凍りつくような錯覚。
アイリーンを取り囲む馬賊たちは一様に顔を強張らせた。
先ほどからの立ち回りで、目の前の少女が只者でないことはわかっている。
だが、それでも。
ただの手強い敵という存在から、もう一段階、踏み込んだような感覚が―
―死ね
氷のような蒼い瞳が、見据える。
足元の泥が爆ぜる。
ひゅぅん、と。
銀色の光。
―断ち切る。
草原の民の戦士、そのうちの一人の首が、刎ね飛ばされた。
!!
何の予備動作もなかった。ただ、黒衣と長い金髪が翻ったように見えた。殺気すら感じさせずに、ただ、ゆっくりと傾いていく首無しの体の前で、サーベルを携えた少女の姿だけが、何が起きたかを如実に物語る。
ぴぃん、と―張り詰めた空気。
それは、本当に一瞬のこと。
澄んだ水に一滴、墨を垂らしたかのように僅かな殺気が滲み、
速い!
愕然とする傍らの戦士、それが遺言となった。
再び吹き抜ける黒い風に首を刎ねられる。血飛沫が噴き上がるより速く、アイリーンは次なる獲物を狙う。
こいつッ!
アイリーンの前に立ちはだかった若い戦士が、曲刀で一撃を受けようと試みる。だが刃と刃が打ち合わされようとする直前、サーベルの軌道がねじ曲がる。細かな光が目の前で瞬いた。
曲刀が、宙を舞う。
―何が起きた。
まさか、打ち負けたか、と思う。それにしては妙だ。刃と刃が打ち合ったような感覚が、手にない。
―いや、違う。
手がない。
からんからんと地面に転がる曲刀の柄には、それをしかと握る自分の手が。
呆気に取られる間に、黒衣の少女は眼前にまで迫っていた。痛みすら間に合わない、我に返り予備の短剣に左手を伸ばすが、そこには何もない。何故だ。混乱の局地。ふと見れば、いつの間にかアイリーンの手に収まったそれが、喉元に―
ぐじゅりと、抉る音。
水気の混じった呻き声を上げ、若者は喉を無事な手で押さえながら泥土に沈む。それでもアイリーンは止まらない。倒れる者に一瞥をくれることさえない。ただひたすらに、速さを、効率を求める。
さながら、 DEMONDAL の世界にいた時のように。
ただあの頃とは、決定的に異なる、必死な形相をその顔に。
退(ど)けええええェェェッッ!!
アイリーンの叫びは、もはや悲鳴のようであった。
吹き荒れる銀と赤の旋風。
首を切断され、腹を裂かれ、心臓を抉られ―戦士たちは血風の中で散る。
アイリーンは走る。一度たりとて止まらない、止められない。常に動き、翻弄し、目の前の敵をただ置物か何かのように、無造作に刈り取っていく。
一瞬で戦士たちの包囲を突破したアイリーンは、ケイの方へ向けてひた走る。
待てェ!
この小娘がァ!
前方から二騎、突っ込んでくる。槍を手にした一騎と弓を構える一騎。
鈍い殺気。サーベルを振るい、飛来する矢を叩き落とす。
―自分なら大丈夫だと思ってるのか。
何の根拠もなく? まだわからないの、とアイリーンの口の端に冷たい、そしてあまりにシニカルな笑みが浮かんだ。
ばしゃっと泥を跳ね上げながら、逆に加速したアイリーンは真正面から突っ込んだ。血塗れのサーベルを躊躇うことなく口に咥え、両手で腰のベルトから投げナイフを抜き取る。
投擲。
飛来する銀色の光が、寸分違うことなく二頭の騎馬の額に突き立つ。
悲鳴もなく倒れる騎馬と、空中に投げ出される騎乗の二人。
アイリーンはすれ違いざま、くるくると空中に舞う。投げ出された二人をまとめて叩き切り、そのまま減速することなく駆け抜ける。
背後からは蹄の音と、複数の足音。性懲りもなく追い縋ろうとしているらしい。
苛立ちは、頂点に達しつつあった。
視界の果てでは、騎馬に取り囲まれたケイが矢を受けながらも奮闘しているのが見える。どうやら敵の複合弓を奪い戦っているようだ。なぜ”竜鱗通し”を使わないのか。
いや。
今はそんなことはどうでもいい。
一刻も速く、ただ速く―
!? あれはッ
しかし、それ以上、アイリーンが走る必要性はなくなりそうだった。
前方から、褐色の毛並みの騎馬。
空馬だ。誰も乗せていない。
主を失った馬賊のものかと思ったが、違う。特徴的な額当て。
サスケ!!
ぱっかぱっかと駆けてくるのは何を隠そうサスケだった。 ぼくの力が必要だね! と言わんばかりの様子だが、ふとその顔色が曇ったように感じられる。
逃がさんッ!
弟の仇ッ!
背後から追い縋る馬賊たちのせいだ。 飛び道具はちょっと…… と弱気なサスケを尻目に、アイリーンは急停止して迎撃の構えを取る。
追手は三騎の弓騎兵と、徒歩の戦士が五名ほど。少々手間が掛かるがやれない相手ではない―と表情を引き締めるアイリーンだったが、ふと、そのさらに背後を見やり苦い笑みを浮かべた。
―遅いぜ、まったく
重い、蹄の音。そして馬賊たちの悲鳴。
なんだッ!? ぐおッ
追手の弓騎兵、最後尾の一騎が振り返ろうとした矢先、その胸に突然槍が生(・)え(・)る(・)。力なく地に落ちた馬賊の胸から、槍を引き抜いて回収する投擲手。
『―済まないな、準備に手間取った!』
アイリーンを追うように後方から駆けてくるのは―数騎の重装騎兵。
ピョートルと、その仲間たちだった。
それぞれが跨る乗騎は胴体のほとんどが鱗鎧(スケイルメイル)で覆われ、額当てなどもつけられて防御力がかなり強化されている。重すぎて馬の負担が激しく普段は使っていられないが、対弓騎兵を想定して用意だけはしていたのだろう。斥候に出ていたときとは違い、ピョートルも兜をかぶり板金仕込みの鎧をつけ、予備の槍を馬の鞍に備え付けている。
ピョートルの馬上槍と仲間たちの追撃により、アイリーンを追いかけてきていた馬賊たちは瞬く間に殲滅された。
『ありがとう、助かる!』
サスケに飛び乗りながら、礼もそこそこにアイリーンはケイの方へと駆ける。まさに一刻一秒が惜しい。そんな状況。それをわかっているだけに、ピョートルも小さく頷いただけだった。
―ただ、やかましくなる周囲に表情を険しくする。
『お前たちも行け。ここは俺が抑える』
馬上槍を構え、周囲の戦士たちにアイリーンを示す。隊商から飛び出した重装騎兵と腕利きの軽戦士。それが別働隊を殲滅した異邦の弓騎兵を援護しに行くとなれば、馬賊たちが黙って見送る道理はない。
『おう! お前も死ぬなよ!』
『嬢ちゃんだけ放っとくわけにはいかんわなァ!』
『あれだけ活躍したヤツ(ケイ)を見捨てるのも癪だからな!』
ピョートルについてきたのは、奇しくも数日前、ケイがハウンドウルフを仕留めたと主張した際に検分に同行した三人組だった。
アイリーンの後を追って駆ける三騎を見送り、ピョートルもまた走り出す。
飛来した矢を槍ではたき落とし、睨むは前方。先ほどから散発的に矢が飛んでくるが、馬賊の複合弓ではよほど当たりどころが良くない限り馬の鎖帷子を貫通できないようだ。
『ふん……貴様ら、生かして通さんぞ』
馬上、次々に抜刀する馬賊たちを見て、ピョートルは不敵に笑う。
ケイの援護に向かうアイリーンたちを背に、ピョートルの雄叫びは金属が打ち合わされる激しい音にかき消された。
†††
クッ、ソッがァ
ぜえ、ぜえと肩で息をしながらケイはふらふらと足元もおぼつかない様子だった。敵の死体から奪った複合弓を手に、周りを取り囲む馬賊たちを睨む。
既に、全身には何本もの矢が突き立っている。背中に数本、太腿に三本、胸に二本、両腕にそれぞれ二本ずつ。包囲する馬賊たちも、 なんでコイツ倒れないんだ と言わんばかりに引き攣った顔をしていた。
それもそうだろう。普通ならば倒れるどころか死んでいる傷だ。ケイが死なずに済んでいるのは、致命的な箇所をかばっていることもあるが、ひとえに高等魔法薬(ハイポーション)のお陰だった。
突然、身体が動かなくなってサスケから落ちてしまった直後。馬賊たちの追撃を予想したケイは、あらかじめある程度のポーションを口に含んでおいたのだ。
倒れたケイに数本矢を打ち込み、止めに槍を突き刺そうとした馬賊だったが―ケイは逆にこれを利用した。刺される寸前で無理やり身体を起こし、逆に槍を引っ張って落馬させ長剣で逆襲。ついでに付近の馬賊数名も弓矢の餌食とした。