か、風の精霊というと、元素を司る大精霊のはずだが……

動揺するヴァルグレンに、自分の発言の迂闊さに気付く。しかし、今更否定するわけにもいかず、ケイは ま、まあ…… と呟きながら目を逸らすことしか出来なかった。

そのまましばらく呆然としていたヴァルグレンだが、終いには難しい顔で眉間を押さえて唸り始める。

閣下……この者は、ただ閣下を担ごうとしているだけなのでは……

望遠鏡のそばで手持ち無沙汰にしていたカジミールが、遠慮がちに声をかけた。ヴァルグレンはじろりとそちらを見やり、

だから、閣下はやめろというに。……まあ、おそらく本当であろうよ

そのじろりとした視線が、今度はケイに移る。

……初めて会ったときから、君は……いや、君(・)た(・)ち(・)は、年の割りに妙に魔力が強いと思っていたのだよ

今度はアイリーンの目が泳ぎだす。ケイは声には出さなかったが、自分たちの魔力が魔道具もなしに看破されていたことに驚いた。

もしや君たちの『故郷』では、精霊とは一般的な存在なのか?

いや、そういうわけではない……俺たちは、どちらかというと、例外だ

ふむ……なるほどね……

しばし不気味に沈黙するヴァルグレンに、ケイもアイリーンも戦々恐々としていたが、やがて疲れた様子で老人は溜息をついた。

……まあ、納得は出来る。あれかね、ケイ君、君の放つ矢がことごとく的を捉えていたのは、そういうこともあったのかね?

……というと?

なに、君は風の精霊の加護を受けているではないか

場を和ませるように、おどけたようにヴァルグレンが小首を傾げるが―自分の弓の腕ではなく、全てが精霊のお陰と思われているのにムッとしたケイは、

それは違う。俺の契約精霊は器が小さいからな、供物を捧げないと何もしてくれないケチ臭いヤツだ

その瞬間―空気が、ぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。

何事か、と全員が思わず空を見上げると同時。

ゴオオッ、と凄まじい音を立てて突風が吹きつけた。

うおおっ?!

なんだッ!?

閣下っ!

ケイは突風にやられてすっ転び、アイリーンが床に伏せ、カジミールがヴァルグレンに駆け寄る。

しかしそれも一瞬のこと。それ以上に何かリアクションを取る暇もなく、まるで嘘のようにぱたりと風はやんだ。あとには呆気に取られる三人と、転んだ際に後頭部を打って悶絶するケイだけが残される。

ぐうぅぉおぉ畜生シーヴのヤツ……!

だ、大丈夫かケイ……

歩み寄ったアイリーンが、ケイを助け起こす。

くっ、クソっ、がめついのは本当だろ! いつもいつもエメラルドみたいな高級な宝石しか受け付けない癖に、魔力も限界ギリギリまで吸い上げやがって……ッ!

……ってか、英語に反応できるなら、精霊語(エスペラント)いらねえじゃん……

空に向かって文句を言うケイ、その頭を撫でながら釈然としない表情のアイリーン。

……いや、すまない、取り乱した。ヴァルグレン氏は大丈夫だったか?

立ち上がって、痛みを振り払うようにこめかみを揉み解していたが、答えがない。

ヴァルグレン氏? どうかし……たの、か……

ヴァルグレンの方を見やったケイは、―固まった。

一瞬、そこに誰がいるのか分からなかった。

すぐに、その顔を見て、それがまぎれもなくヴァルグレンであることには気付く。しかし―先ほどまでのヴァルグレンとは、決(・)定(・)的(・)に(・)、異(・)な(・)る(・)点(・)が(・)あ(・)る(・)。

何もない。

そこには、何もなかったのだ。

ボ……ボルドマン(はげてる)

アイリーンが、慄(おのの)いたように呟いた。

ヴァルグレンは、ハゲていた。

トレードマークの、不自然なまでに美しかった銀色のマッシュルームヘアが、綺麗さっぱり消失していた。

…………

目を見開いて、頭に手を伸ばした形のまま、硬直するヴァルグレン。

白光の妖精が、キャッキャッと無邪気に笑いながら、その頭頂部に腰を下ろした。

輝く。輝いている。

そう、それはまさに光の精霊―

…………

ケイとアイリーンには、空気が、異様な緊張感を孕んでいるように感じられた。

……閣下、

その場で、臣下の礼を取ったカジミールが、

私は、閣下の御髪(みぐし)を探して参ります

くるりと背を向けて、屋上から退散していった。

逃げられた、と気付いたのは、数瞬遅れてからのことであった。

……ケイ君、

ヴァルグレンが再起動を果たし、何事もなかったかのように、穏やかに微笑む。

……星を、見ようか

あ……、あっ、はい

ケイも我に返り、コクコクと頷いた。アイリーンは妖精に照らされた頭部を見ないように、全力で夜空を見上げている。慌てて床に転がっていた望遠鏡一式を取りにいくケイであったが、今度は あぁ!? と絶望の声を上げる。

突風に吹かれて屋上に倒れていた望遠鏡は、レンズが粉々に割れていた。

しかも、表面の繊細な装飾が、床のレンガに擦れて傷だらけだった。

…………

その日は、それで解散となった。

ちなみに、カツラは見つからなかったらしい。

†††

別れ際に 追って沙汰をする と言っていたヴァルグレンだが、その言葉通り、後日宿に使者のカジミールが現れた。

曰く、 出来れば日を改めて占星術を教えて貰いたいが、最近は時間がなく、いつになるか分からない。先に”魔の森”に行くならば、それはそれで構わない とのことだった。

その場でどうするか決めろ、とカジミールに言われたので、ケイたちは一も二もなく返答した。

数日後、荷物をまとめ、コーンウェル商会のホランドや図書館のアリッサ嬢など関係者に挨拶して回ったケイたちは、逃げるようにウルヴァーンから旅立った。

目指すは北の大地、“魔の森”。

ケイたちがこの世界に転移してから、2ヵ月半が過ぎようとしていた。

ほのぼのパートおわり

幕間. PlayerKiller

“リレイル地方”西部―とある木立。

草原に面した森の入り口に、穏やかな午後の日差しが降り注ぐ。

吹き抜ける涼やかな風。さわ、さわと音を立てて木漏れ日が揺れ、小鳥たちがさえずり、木陰には鹿の親子が体を休める。

平和で、静かな空間。

しかし、ピクリと耳を震わせた子鹿が、何かに怯えたように、森の方を向いた。

異音。

それは最初、振動として知覚された。

だが徐々に大きくなる。ドドドッ、ドドドドッと―まるで地鳴りのように。

身の危険を感じた鹿の親子が逃げ始め、木々の鳥たちが一斉に飛び立った。

果たして、森の奥から、その一団が姿を現す。

ブルルゥオッッ!

いななきとともに、茂みを突き破って疾走する騎馬。

一、二、三―次々増える。その数、おおよそ二十。

よくよく見れば一つのまとまった集団ではなく、先頭の三騎とそれを追う残りのグループで構成されていることが分かる。

待ちやがれッ!

逃げられると思うなよ!

ドグサレどもがッ、今日こそブッ殺してやるッ!!

口汚く罵りながら、追いかける十数騎。手に手に武器を振り上げ、額に青筋を立てる様はお世辞にも上品とは言い難いが、全員が白馬に跨り、黒の十字架が描かれた白いマントを羽織っているあたり、概ね統一感のある集団だった。

それに対し、追われる側の三人は、『珍妙』としか言い様がない。

いや、そもそもそれを三”人”と形容してもよいものか。

ヴァーハッハッハ、諦めの悪ィ野郎どもだァ!

三人のうち、だみ声で笑う先頭の一騎。まだら模様の馬を駆り、時折、追跡者たちを振り返っては挑発的に中指を立てている。

そしてその姿は―“異形”の一言。

服装は、くたびれた革鎧と申し訳程度に体を覆うボロ布だ。左手には錆付いた戦棍(メイス)を握り、腰にはもう一本、予備の棍棒が差してある。

何よりも特徴的なのは、手から長く伸びる爪。そして皮膚を隙間なく覆う、こげ茶色のまだら模様の鱗だ。まるで裂け目のような赤い口からは、牙と長い舌がちらちらと覗き、ぎょろりとした金色の瞳は瞳孔が縦に割れている。

“竜人(ドラゴニア)”。

人類とは敵対状態にある、人型モンスター。人類を凌駕する身体能力や特殊能力を持つ代わりに、知能が遥かに劣る―はずだが、この個体は人語を解している上、馬にまで乗っている。

しつこい男は嫌われるわよ~?

その隣、黒毛の馬の背にしがみつくようにして跨る影が、せせら笑う。

こちらもまた異形。しなやかな肢体、メリハリのきいた体型―そのフォルムはグラマラスな女性のそれだ。しかし胸部と局所を守る革鎧を身につける他は、全身が真っ黒の毛むくじゃら。当然のように毛に覆われた顔には、頬から飛び出る細いヒゲと、深緑の瞳。長い黒髪が風になびき、頭頂部には三角形の耳がぴょっこりと生えている。

“豹人(パンサニア)”。

竜人と同様、人類と敵対状態にある人型モンスターだ。知覚に優れ、極めて瞬発力が高く、また雌の方が雄よりも筋力に優れるという種族的な特徴がある。

豹人の女は、両手に厚手の黒い布を巻いていた。その他には特に、武器らしい武器も身に着けていない。無手か、何かを隠し持っているのか、―あるいは。

…………

逃げる三人のうち、最後尾。殿(しんがり)を務めるのはボロボロのローブをまとった男だ。こちらは何の変哲もない人族の老人で、灰色の立派なあごひげを蓄えている。目深にかぶったフードのせいで表情は窺い知れず、追っ手が放つ矢を、その手に携えた杖で淡々といなしていた。

自分だけでなく馬も守り、さらに先行する二人を狙う矢までも察知して、漏れなく弾き飛ばしていく。並々ならぬ技量。煽るでも毒づくでもなく終始無言なあたり、不気味な貫禄が滲み出ている。

クソッ、埒が明かん!

まるで効果のない矢に痺れを切らしたか、追っ手のうち、赤毛の壮年の男が懐から真紅の宝玉を取り出した。

ぎらりと不穏な光を宿す宝玉。それを高らかに掲げた男は叫ぶ。

Incendiu(焼き払え)!

その瞬間、一同は空中に、燃え盛る蜥蜴の姿を幻視した。

宝玉から真っ赤な炎がほとばしり、渦巻いて杖使いの老人に迫る。

対する老人は―動じなかった。懐に手を突っ込み、粉末状の白い何かを掴んで後方へと撒き散らした。

塩の結晶だ。

Aubine. Arto, Hyo-Heki.

間髪いれずに老人は”宣之言(スクリプト)“を呟いた。散布された塩の結晶が一瞬にして気化し、きらきらと光が乱反射する。

その歪な煌めきの中に、一同は冷笑を浮かべる長衣の乙女の姿を幻視した。

バキンッ、と鈍い音とともに、空中に氷の壁が出現する。追う側と逃げる側の中間。それは突(つつ)けば簡単に崩壊するようなごく薄いものであったが、赤毛の男の火炎を相殺するには充分すぎた。

氷と炎がぶつかり合い、爆発する水蒸気。氷の壁は呆気なく融解してしまったが、逃げる三人組は無傷であった。

何ィ!?

氷の精霊だと!? 聞いてねえぞ!


追っ手たちが、特に炎を放った赤毛の男が動揺の色を浮かべる。

あっはは、見なさいよバーナード、アイツらの間抜け面!

けらけらと笑いながら、豹人の女が隣の竜人に話しかけた。

ヴァッハハ、ひでぇもんだ! おい、テメェら! 火は好きかァ!?

バーナードと呼ばれた竜人が、馬の足を緩めて最後尾まで下がる。すぅぅぅ、と大きく息を吸い込むと、その胸部と首が異常なまでに膨れ上がった。

! まずい!

いかん、散れ!

先頭の追跡者たちがそれに気付き、方向転換しようとするも、遅い。

ヴァアアアアアアァァァァッッ!

咆哮とともに、バーナードの口からオレンジ色の光が噴き出した。

炎の吐息(ブレス)―“飛竜(ワイバーン)“のそれに似た、可燃性のゲルの奔流。灼熱の舌が追跡者たちを舐め、自ら炎に突っ込む形となった先頭の男が火達磨になって落馬した。

がああぁぁ畜生ォォォッッ!

地面を転がって火を消そうと躍起になる男であったが、止まりきれなかった後続の騎馬に首を踏み抜かれ、呆気なく『肉塊』へと変わる。

あっヤベ踏んじゃった

うわああこっちにも火がッ

クソッこの馬はもうダメだ殺せッ!

燃え移ろうとする火を慌てて消し止めたり、火達磨になって暴れる馬を弓で射殺したりと、追跡者たちはにわかに大混乱の様相を呈していた。

ヴァッハハハ、ザマァねえな!!

その隙に距離を取りながら、ちろちろと舌先に炎を揺らし大笑いするバーナード。隣で馬を駆る氷の精霊使いの老魔術師は無言で腰を浮かせ、ぺんぺんと尻を叩いておちょくっている。

―ッッッッ!! クソがッ、舐めやがって!

ビチミキミチッと額に青筋を浮かべ、馬の腹を蹴り上げて加速させる赤毛の男。逃がしてなるものかとそれに仲間が続く傍ら、再び真紅の宝玉を掲げた。

Sigismund! Mi dedicxas al vi―

ボヒュッバギンという破砕音、腕に衝撃。男の”宣之言(スクリプト)“が止まる。

見れば、握っていた宝玉が、右手ごと粉々に砕け散っていた。

あ、……あああ!

あ~ら、御免あそばせ。顔を吹き飛ばすつもりだったんだけど、外しちゃった

揺れる馬上、希少な魔道具が粉砕され、手を掲げた姿のまま愕然とする男。悪びれる様子もなくテヘッと赤い舌を出すのは、黒馬を駆る豹人の女だ。その手には細長い黒い布をひらひらと風にたなびかせている。

いや。それはただの布きれではない。折り返せばちょうど真ん中にあたるところに革製の受け皿のようなものが付いている―投石紐(スリング)だ。

再びスリングの両端を握った豹女は、腰のポーチから取り出した丸石を受け皿に載せ、ヒュンヒュンと勢いよく回し始める。

―と、いうわけで。今度こそ、ちゃんと受け取って、ねッ!

ボッ、と腕がブレた。投擲。一切の殺気を感じさせずに丸石が唸る。

それは茫然とする男にとって、視界に生まれた小さな黒点に過ぎなかった。

瞬く間に、着弾。ぐしゃりと鈍い音、顎から上が丸ごと吹き飛ばされる。

ヒューッ! いつ見ても、イリスの投石はおっかねえなァ!

アンタの吐息(ブレス)ほどじゃないけどね

バーナードの歓声に、『イリス』と呼ばれた豹女は小さく肩をすくめる。

さぁて、ズラかろうぜェ! あんなザコでも囲まれたら鬱陶しいからなァ!

コウ、魔術もお披露目したことだし、足止めヨロシクね

…………

イリスにウィンクされ、ビッ、と無言のまま親指を立ててみせる老魔術師。どうやら、『コウ』という呼び名らしい。

一目散に駆け始める三人組に、ブレスの混乱から立ち直った追跡者たちが怒りの声を上げる。

なにが『ズラかる』だ! 逃がさねぇぞ!

追え、追え―ッ!

ドドドド、と地鳴りの如き蹄の音を響かせながら、騎兵たちは駆けていく。その場に元仲間であった『肉塊』を放置したまま―

†††

“Player Killer”という言葉が存在する。

その字面通り、MMORPGなどの多人数参加型ゲームにおいて、他のプレイヤーを攻撃するプレイヤーのことだ。その行為そのものは”Player Killing”と言われ、略して”PKer”、“PKing”などと表記されることもある。

相手の了解も取らずに襲い掛かり、キャラクターの殺害(キル)やアイテムの略奪を目的としている点で、ルールの定められた対人戦闘(PvP)とは厳密に区別される。

初心者狩りに繋がりかねない。

自分がやられたら困る。

理由は様々だが、基本的にはゲーム内で忌み嫌われる行為とされることが多い。

勿論それは、中世ファンタジー風リアル系VRMMORPG DEMONDAL においても、例外ではない。

全フィールド無制限対人戦闘(Free PvP)を謳うこのゲームは、実質的に何処でも彼処でもPKが可能であることに等しい。しかも死亡時にはキャラクターの肉体を含む全てのアイテムがその場にドロップする―PKerたちからすれば、まさに天国のような環境。

そしてバーナード・イリス・コウの三人組は、そんな下劣な行為に喜びを見出す筋金入りのプレイヤーキラーだ。

金品の強奪よりも誰彼構わずキルすることに重点を置き、また積極的に『悪人』を演じているあたり、PK原理主義者とでも呼ぶべき存在かもしれない。今日も今日とて、PK行為を取り締まる傭兵団(クラン)“Crusaders”にちょっかいをかけて追い回されているところだった。

あーあ、それにしても最近つまんねぇなァ

揺れる馬上。細長い舌をチロチロとさせながら、ぼやくのはバーナードだ。先ほどの戦闘から数分、バーナードたちは相変わらず”Crusaders”の追跡をのらりくらりといなしながら、木立の中を北上し続けていた。

あら、どうしたのよ急に

投石紐に丸石をセットしつつ、隣のイリスがきょとんとした顔をする。

んー。なんつーか、張り合いがねぇっつーかよォ

冷めた目で後方を見やれば、 待てやコラーッ! などと叫びながら追いかけてくる、“Crusaders”所属の十数騎。先ほどに比べ明らかに頭数が減っているが、その原因は明らかだ。

Aubine. Arto, To-Ketsu.

Darlan. Arto, Gen-mu.

殿のコウが塩をばら撒けば地面に霜が張り、懐から花びらを取り出して振りまけば、何処からともなく妖しげな虹色の霧が湧き出す。

霧の目眩ましにやられ、氷結した地面には気付かないまま、トップスピードで突っ込んできた騎馬が足を滑らせて転倒した。鞍から放り出された騎手がそのまま地面に叩きつけられ、首を妙な方向に捻じ曲げる。おそらく、即死。

馬上で後方を窺いながら油断なく杖を構えるコウの傍らには、羽の生えた小人と長衣をまとった乙女の姿が薄く透けて見えていた。

夢幻の精”ダルラン”と、氷雪の乙女”オービーヌ”だ。

普段から”昏睡の風”や”幻惑の霧”などの魔術を多用しており、下位精霊の一種である”妖精”との契約者として広く知られているコウであったが、先日、さらに氷の精霊と契約に成功し今回はそのお披露目もかねて魔術の大盤振る舞いをしていた。

バーナードがブレスで火の壁を作り、イリスが断続的に投石し、殿のコウが魔術で足止めする―三人組のいつもの手だ。

しかし。

プレイヤーの中には、そんな『いつもの手』が通じない者もいる。

やっぱりよォ、“死神日本人(ジャップザリーパー)“くらいの相手じゃねえとスリルがないんだよなァ

後方から飛んできた矢をメイスで叩き落しながら、バーナードは嘆息した。

“死神日本人(ジャップザリーパー)”―弓使いのケイ。

“Crusaders”の本拠地、要塞村ウルヴァーンの界隈では名うてのプレイヤーだ。騎射の達人で、馬上で扱いづらい大弓を難なく使いこなし、木立の中であっても多少の障害物はものともせず、針の穴を通すような正確な射撃を叩き込んでくる、まさに死神。

バーナードたちが幾度となく辛酸を嘗めさせられてきた宿敵だ。“隠密殺気(ステルスセンス)“に長けているため初撃を防ぐのが非常に難しく、また、たとえ一矢しのいだところで、即死級の威力を秘めた矢が次々に飛んでくる。バーナードは勿論、杖術に長けたコウであっても、それらの攻撃を捌き続けるのは容易ではない。

それに加えてバウザーホースの性能に物を言わせ、近づけば退避、逃げれば追撃と、騎兵のお手本のような動きをするのも厭らしいところだ。会敵すれば苦戦は必至―下手すれば、三人がかりでもやられかねない、そんな相手。

でもアイツと遣り合うのが、何だかんだで一番楽しいんだよなァ

そうねえ~

首を傾けて後方からの矢を避けながらイリス。三人組の中で唯一物理的な飛び道具(スリング)を使う彼女だが、何だかんだで彼女もケイとの戦いを楽しみにしている節がある。

しかし、ここのところバーナードたちは退屈していた。

あ~~~もう! 何でログインしねぇんだよケイよォ!!

ガシガシと後頭部をかきむしり、天を仰いで吼えるバーナード。

その卓越した弓の技量から”死神”の呼び名を欲しいままにするケイではあるが、同時にVRMMORPG DEMONDAL のプレイヤーの中でも、指折りの廃人として知られている。サーバーのメンテナンス時以外は常にログインし続けている猛者で、フォーラムでも度々名指しで話題に上がっており、 最早ゲームの中に住んでいる よく出来た強NPC とまで呼ばれているほどだ。

が、そんなケイが、ここしばらく姿を見せていない。

オープンβのときから毎日欠かさず、24時間ログインし続けていた、ケイがだ。

話によると、要塞村ウルヴァーンのケイのホームで、自主トレモードに設定されているケイのサブキャラたちに話しかけても、 今、ケイは居ないよ としか答えないという。それはすなわち、ケイが DEMONDAL の何処かに姿を隠しているわけではなく、正真正銘ログインしていないことを示す。

何が起きたのか―プレイヤー界隈もネットのフォーラムも、今はこの話題でもちきりだ。引き篭もりが家から叩き出された、ケイの自宅のネット環境にトラブルが発生した、単純に飽きて引退した―などなど様々な憶測が飛び交っている。

そのログイン時間があまりに長いことから、実は寝たきりの病人だったのではという声もあり、症状の悪化なり何なりで死んでしまったのだ、とする者さえ現れる始末だ。

また、ケイとよくつるんでいた有名プレイヤー”NINJA”アンドレイも同時期から姿が見られなくなっており、こちらも騒ぎになっている。

ケイの”失踪”との関連性を疑う声もあるが―、真偽は定かでない。

……案外、あの二人がデキてたりしてね

はァ?

しばらく真剣な顔で考え込んでいたが、ふと顔を上げたイリスに、バーナードが目を点にする。

……そうよ、そう考えれば辻褄が合うわ。きっと二人とも時間を忘れて、VRルームで互いの体を貪るのに夢中なのよ。それなら DEMONDAL(こっち) にログインしないのも、説明つくでしょ?

はァァ? ないわーそれはないわァー

ぐへへ、と涎を垂らしそうな表情のイリス。呆れた顔のバーナードは、ぶんぶんと手を振った。

ええぇ~アタシ名推理だと思ったんだけど? アンドレイの美貌に見惚れ、遂に耐えられなくなってしまったケイ! 男同士、禁断の愛―! うへへ

ないないない。それに仮に、仮にだァ。ケイとあのオカマNINJA野郎がデキてたとして、それでVRルームでファックしまくってたとしてもだ……。長すぎるだろォ!! アイツらがログインしなくなってから今日で何日だァ!?

……それもそうね。いや、逢瀬を重ねてるのかも……! 二人だけの世界……?!

ないないない、それだけはない!

ぶんぶんと、手だけではなく今度は尻尾まで振り始めるバーナード。

ちなみにバーナードとイリスがお喋りする後ろで、コウは黙々と”Crusaders”への妨害を続けている。

……あ、

と、そのとき、イリスがふと気付いた。

ねぇ二人とも、あんなところに村があるわ。この間までなかったのに

そう言って、木立の奥を指差す。指先を辿って視線をやれば、成る程、森の中に小さなログハウスが何軒も建っているのが見えた。

おっ! これは立ち寄るしかねえな!

プレイヤーメイドの入植村かしら?

…………

バーナードが村の方に馬首を巡らせ、イリスとコウが自然にそれに付いていく。背後から”Crusaders”の追撃を受けながらも、茂みを掻き分けてバーナードたちは木立を突き進んだ。

近づけば近づくほどに、村の全貌が見えてくる。森を切り開いた開拓村。質素な衣に身を包んだNPCたちが木を切り、畑を耕していた。

村の入り口まで残り数十メートルといったところで、向こうもバーナードたちの姿に気付く。

化け物だー!

うわあー、化け物だ!

衛兵(ガード)! 衛兵(ガード)!

馬上でメイスを構えて突撃する竜人と、笑顔で投石紐を回す豹人の姿に、NPCたちがにわかに慌てだす。

DEMONDAL のパッケージ版を購入することで、特典として付いてくる”竜人““豹人”といったモンスター種族だが、身体能力や特殊能力の面で人族よりもアドバンテージがある代わりに、全てのNPCが自動的に敵対状態となり、街や村などの施設が一切利用できないというデメリットがある。

尤も、バーナードとイリスには関係のないことだったが。

お邪魔しまァ―す!

ドドドドッと蹄の音もけたたましく、村に入り込んだバーナードは、

ヴァアアアアァァアァァッ!!

早速、手近な納屋にブレスで火をつける。

うわあー

燃え盛る納屋から、慌てた様子で飛び出してくる子供のNPC。服に燃え移った火を消し止めようとしていたが、すぐそばに竜人(バーナード)の姿を認めて うわあー! と再び悲鳴を上げる。

こんにちは! 死ねクソガキィ!!

馬上からバーナードは容赦なくメイスを振り下ろした。メゴンッと子供NPCの頭が陥没し、赤い血飛沫(エフェクト)とともに目玉が飛び出る。

ヴァッハハハハ!

化け物め! 何をしている、化け物め!

村の奥の方から、全身金属鎧に斧槍(ハルバード)、赤いマントを装備した屈強な男が走ってきて叫ぶ。どんなに小さな村にでも最低一人はいる衛兵(ガード)だ。筋力・体格に優れ、下手なプレイヤーよりは余程強いが―

ふッ

ボッ、とイリスの腕がブレる。砲弾と化した丸石が直撃、兜ごと頭部を吹き飛ばされ衛兵はあえなく肉塊となった。

なんだァNPCだらけかここはァ! つまんねえなァ!

言葉の割には実に楽しげに、次々と家屋にブレスを浴びせかけるバーナード。その隣ではイリスが まるで鴨撃ち(ダック・ハンティング)ね などと言いながらニコニコと投石を続けていた。コウは相変わらず妨害の魔術をぶっ放す傍ら、近くに逃げてきた村人の頭を杖で叩き潰している。

“Crusaders”の面々が村に辿り着く頃には、ほとんどの家屋は轟々と燃え盛り、元NPCの肉塊が山積みになっている有様だった。そして当の下手人たちは、煙に紛れて既に遁走している。

あまりの惨状に、“Crusaders”のプレイヤーたちも一瞬呆気に取られていた。


ひでぇ……よくもまぁ短時間でここまで壊すもんだ……

ここ傭兵団(クラン)“Tester’s Camp”さんのトコの入植村だよな……

“Tester’s”にも連絡しよう、このまま逃げられたら最悪俺たちのせいにされるぞ

そいつは勘弁

肩をすくめたプレイヤーの一人が、背負っていた大きな籠の中から一羽の鴉を取り出し、放つ。

バサバサと羽ばたきながら、飛び立っていく黒い鳥。

……行こう

それを見届け、“Crusaders”の団員たちはPKたちの追跡を再開した。

木立を抜け、右手に草原を望みながら、バーナードたちは駆け続ける。

いやーなかなか楽しかったなァ

ついでにお金もちょっと稼げたわよ。あとで山分けしましょう

そいつァいいや! おっと安心しろよコウ、触媒分は多めに出すぜェ!

…………

ビッ、と無言でサムズアップするコウ。ヒゲとフードのせいで表情は分からないが、ニヤついているような雰囲気もある。

が、ぴりりと鋭い殺気を放ち、コウは天を仰ぎ見た。つられてバーナードとイリスも空を見上げる。

遥か高空、小さな黒点―鴉だ。黒々とした翼を広げ、気流に乗って滑空している。

咄嗟にコウが懐に手を突っ込み、一掴みの塩を空へと投げた。

Aubine. Rigardu supren al la cxielo, tie estas korvo, vi faru glacikonuso , kaj vi pafu lin mortigi la birdon.

半透明の長衣の乙女が浮かび上がる。塩の結晶が霧散し、ガラスが軋むような音を立てて空中に研ぎ澄まされた氷の杭が出現した。

Ekzekuciu(執行せよ).

ギンッ、と氷の杭が一条の光となり、空を引き裂きつんざいていく。

上空を旋回していた鴉が氷の杭に貫かれ、羽を散らす。そのままキラキラと血飛沫(エフェクト)を撒き散らしながら、力なく落下していった。

……見ツカッタ

片言じみた口調で、コウ。

あらら。じゃあこのままアジトには直帰できないわね

ならしばらくハイキングと洒落込もうじゃねえかァ

気楽に笑いながらバーナード、しかし弾かれたように体を逸らす。

一瞬前まで体のあった空間を、銀閃が貫いていった。

噂をすれば、また連中だァ

口の端を獰猛につり上げ、チロチロと舌を出す。後方、白マントに黒の十字架の一団。先頭のクロスボウを構えたプレイヤーが、悔しそうに顔を歪めていた。

あら、数が増えてるわね。応援呼んだのかしら

囲まれても面白くねえなァ。コウ、頼んだぞ

…………

先ほどまでと同じように逃げ始める。増援によって勢いを増した”Crusaders”たちは、後方から真っ直ぐ追い上げてきつつ、別働隊を草原に展開し半包囲網を敷いていた。

その包囲網の圧力を避けるように、バーナードたちは西へ西へと追いやられていく。走り続けること十数分、周囲の景色は徐々に草原から疎林地帯へと変わりつつあった。

こりゃあ本拠地の方にまで誘い込まれてんなァ

ウルヴァーンの近くまで来ちゃったわね

……二人トモ、見ル。様子、オカシイ

コウが前方を指差して言う。

はァ? なんだありゃ

バーナードが、ぎょろりとした黄色の目を瞬かせて、気の抜けた声を上げた。

前方、切り立った崖に挟まれた谷。

そこを覆い尽くす―白い霧。

……随分と濃い霧ね。罠かしら?

魔術かァ?

……殺気、感ジナイ。魔術、チガウ

馬の足を止め、霧の前で立ち尽くすバーナードたち。しかしその背後から追跡者たちの蹄の音が迫る。

前方は霧、左手には岩山、後方と右手には包囲網。

……ええい、ヤケクソだ! 突っ込め突っ込めェ!

まあ、ここでやられるよりマシかしらね

…………

無言でサムズアップし、賛成の意を示すコウ。

再び馬を加速させたプレイヤーキラーたちは、霧の中へと突撃していく。

その姿が、濃霧の向こう側へと。

呑み込まれて、―消える。

果たして、“Crusaders”がその場に到着する頃には―

一面を覆い尽くしていたはずの霧は、影も形もなく消えうせていた。

この日以来、バーナードたちの姿を見た者はいない。

幕間. PlayerKiller?

ゆるい、ゆるい、まどろみのなか。

あ、そろそろ会社行かなきゃ―と、そんなぼんやりした思考が流れていく。

今日は新しいプロジェクトの重要な打ち合わせがあったはずだ。起きないとまずい、いや、もうちょっとだけ―と、そんなことを思いながら寝返りを打とうとする。

だが、不意にカッと目を見開いた。

よくよく考えれば目覚ましの音を聞いていない。というより明るすぎる。これは―

―寝過ごした!?

がばりと勢いよく上体を起こし、―そこで呆然とする。

抜けるような青空。地平の果てまで続く緑の草原。

―はっ?

見慣れた自分の部屋ではない。そもそも屋内ですらない。妙に背中が痛いと思ったら、ベッドではなく草原の大地に寝転んでいた。愕然。と同時、すぐ隣で ぶるるっ という鼻を鳴らす音。

弾かれたように横を見れば、灰色の毛の馬が草を食みながらこちらを見ている。

―はっ?!

ぎょっと体を仰け反らせ、転がるようにして立ち上がった。爽やかな風の吹き抜ける草原、しばし見つめ合う。 なんでコイツ驚いてんだ とでも言わんばかりに気だるげな瞳をした馬は、ぶるると鼻を鳴らしてから再び草を咀嚼し始めた。

呆然としつつも、ふと自分の体を見下ろす。足元に転がる木製の杖。ぱたぱたと風にはためく灰色のローブ。

この体は……

ぺたぺたと肉体を触り、感触を確かめる。この杖、この服装、そして灰色の馬。正直なところ見覚えがありすぎた。

顎に手をやると、―そこに、髭はない。

……どうなってんだ

立ち尽くす、灰色のローブを身にまとった男―コウは呆然と呟いた。

……ログアウトできてない? いや、それにしてもこれは……

感覚がいつになく鮮烈だ。それに先ほどから思考操作を試みているが、メニュー画面が出てこない。第一これがゲーム内であるならば、なぜ『コウ』の蓄えていた立派な髭が消えているのか。周囲を見回せば緑の丘陵地帯、振り返れば大きな岩山に深い森、その果てに連綿と続く山脈―

ぅ……ん……

不意に、自分以外の声が聞こえてぎょっとする。

周囲の景色に気を取られて気付かなかったが、よくよく見れば背後の地面に、力なく倒れている人影があった。その傍には黒毛の馬とまだら模様の馬が、もっしゃもっしゃと草を食んでいる。

んん……

かすかに声を上げているのは、仰向けに倒れている若い女だ。浅黒い肌、ばさりと広がる黒髪、そして横になっていても分かる長身とスタイルのよさ。

そしてその女には一つ、特異な点があった。

頭頂部。黒い髪からぴょっこりと飛び出る、耳。

Nekomimi……!?

驚愕の表情でそれを凝視するコウは、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。

くてっ、と力なく伏せられている、人間としては有り得ない獣の器官。それを形容する言葉をコウは他に知らない。ジャパンのHENTAI文化について深い教養と理解を持つコウにとって、グラマラスな若い女にネコミミという組み合わせは少々刺激的すぎた。

また、女の姿もいけない。胸部と局部を守る革鎧の他は、腰と上腕部に黒い布を巻いているのみで、限りなく裸に近い格好だ。さらに胸当てを押し上げる豊満なバストが、革鎧の隙間からわずかに覗いて見える様は、なんとも悩ましく扇情的であった。眉根を寄せて時折ぴくりと目元が震えているあたり、意識が覚醒しかけているのか。

そしてその女の下には、潰されたトカゲのような体勢で、まさに”トカゲ男”としか呼びようのない生物がうつ伏せに倒れていた。皮膚を覆うまだら模様の鱗、指先には鋭い爪。うつ伏せになっているのに加え、ボサボサの白っぽい金髪が長く伸びているため顔は見えない。上に乗っかっている女より小柄だが、全身の筋肉が凄まじく発達しているのが見て取れる。

トカゲ男もまた、上に乗っかっている女同様に露出の多い格好だ。くたびれた革鎧に申し訳程度のボロ布。腰のベルトには棍棒が差してあり、傍には錆付いた戦棍(メイス)が転がっていた。

うっ……なんか嫌な予感がする、二人とも見覚えがありすぎる……!

ぺし、と額を叩いて頭を抱え、コウはひとり呟く。自身がゲーム内の『コウ』の格好をしていることも考え合わせると、この黒髪の女も下敷きになっているトカゲ男も、『コウ』の知り合いである可能性が限りなく高かった。

ぅ~ん……

と、頭を抱えるコウをよそに、猫耳の黒髪女がうっすらと目を開けた。

ん~……?

もにゃもにゃ、と口を動かしながら、寝ぼけ眼で上半身を起こす女。ぴこぴこ、と頭頂部の耳が動く。起き上がってみると明らかだが、本来人間の耳があるべき場所には髪の毛が生えているようだ。

半開きの深い緑色の瞳が、コウを捉える。

しばし、地面に胡坐をかく女と腰の引けているコウとで見つめ合ったが、やがてくわっと目を見開いた女は、

だ、誰よアンタ

あっごっゴメン

女がぎょっと身を引くと同時、きわどいところが見えそうになり反射的に謝るコウ。耳をピンと立て、警戒心も露に立ち上がろうとしたところで、女は下敷きにしていたトカゲ男の存在に気付き動きを止める。

えっ、何? ……何よコレッ!? なに!?

泡を食って、猫科の動物のような身のこなしで飛び退る女。その拍子に女の足が頭を直撃し、 んごッ と声を上げるトカゲ男。

えっ、ってかココは? アタシ何処にいんの?

周囲をキョロキョロと見やり混乱に陥る女の傍ら、トカゲ男は んんー と呻きつつボリボリと背中を爪で掻いており、それでも目を覚まさずにいる。

あー、ちょっといいかい?

ハぁ!? 何よ!

……イリス、だよね?

コウが問いかけると、ハッとした顔で黙り込む黒髪の女―イリス。

その格好……、アンタ、コウ?

うん、まあ。そうだよ

訝しげに目を細め、しげしげとコウを観察するイリス。

灰色のローブ、足元に転がる木製の杖。ゲーム内で言うところの『コウ』の特徴はそれだけだ。背格好はほぼ同じだがトレードマークの髭は生えておらず、アジア系特有の童顔をしている。年の頃は―イリスから見て20代後半といったところだが、アジア系であることを鑑みると30代なのかもしれない。

……ホントにコウ?

うん。髭がなくなってるから、分かんないかも知れないけど

いや、髭っていうか、まず顔つきからして違うじゃない。喋り方も普段みたいに片言じゃないし……

イリスの指摘に、今度はコウが意表を突かれたように自分の顔に触れた。

……顔が変わってる? どんな顔?

どんなって……童顔で、垂れ目で、くたびれたシステムエンジニアって感じ

うっ、またピンポイントな……

ぐさりとイリスの言葉が胸に刺さり、ダメージを受けた様子のコウ。しかしすぐに何かに気付き、腰の辺りをごそごそと探る。

取り出したのは短剣だった。

……何するの?

鏡の代わりにしてみようと思ってね

きらりと光る刃に、顔を映そうと試みる。思ったより刃がピカピカではなかったので鏡としては使い辛かったが、自分の顔がゲーム内のそれとは似ても似つかぬ状態にあることだけはよく分かった。

うん、どうやらリアルの顔のようだね、これは

ちょっと待って、ってことは、もしかしてアタシも……

ぺたぺたと自分の顔に触れるイリス、しかしそのまま身体にまで視線を落とし、動きを止める。

……えっ、ヤダ、この格好……

ようやく自身が半裸に近い状態であることに気付いたのか、イリスの頬がかぁっと紅潮した。胸当てと腰布を押さえ、今更のようにもじもじとし始める。よくよく見ればその背後では、真っ黒な毛に覆われた尻尾がくねくねと動いていた。

なんと尻尾まで、と衝撃を受けるコウであったが、レディーに不躾な視線を向けるのもどうかと思い直し、すぐに目を逸らす。

その、これを使うといい。ボロだけど

自分の灰色のローブを脱いで差し出した。コウはローブの下にシャツとズボンは着ているので、問題ない。

ありがと……

どういたしまして。しかし妙だな……なんでリアルの顔が……

微妙に気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、延々と続くなだらかな丘陵を眺めながら、独り言のようにコウは呟く。

実はこの時点で薄々と、アニメや漫画で見かけた”よくある設定”が頭をもたげていたのだが、それを口に出すのは憚られた。

ふぅ、びっくりしたわ。なんか身体だけ人間に戻ってるし……

ローブを羽織って人心地ついた様子で、ばさりと髪を掻き上げるイリス。しかし、その拍子に手が頭頂部の耳に触れて、再びピタリと動きが止まる。

え。何コレ。……え?

ぐにぐにと猫耳を揉んだり引っ張ったり、耳の穴に指を突っ込んで おぅっ と変な声を上げたりと忙しげなイリスであったが、がばっと身体ごとコウに向き直り、

ねえ! 正直に答えて欲しいんだけど! アタシ頭に何か生えてない!?

何か、というか、耳が生えてるね

や、やっぱり?

あとさっき見たら尻尾も生えてるっぽかったけど……

えっ!?

コウの指摘に、ローブの下、中腰になって臀部をごそごそと探るイリス。ぐい、と何かを引っ張ると同時、 ギャッ と乙女らしからぬ悲鳴を上げる。

は、生えてる!

“豹人(パンサニア)“にそっくりだね

うう……ゲームで慣れてたからあんまり違和感なかったけど、音の聞こえ方が何か変だと思ったのよ……

そうか……

がっくりと膝を突いてうなだれるイリスをよそに、曖昧に頷くコウは、

(ならばアレはNekomimiではなくHyo-mimiと呼称するべきか……)

などと、若干現実逃避じみたことを考えていた。

んがッ

―と。

ずっと倒れたままであったトカゲ男が、声を上げてびくりと痙攣した。そのまま地面に手を突き、ゆっくりと身体を起こす。

その顔が露になった瞬間、コウも、イリスも、はっと息を呑んだ。

体つきからして明らかだったが、顔の造りもまた、“トカゲ男”と呼称するに相応しい不気味なものであったからだ。

顔は身体と同様に鱗に覆われ、口の中の歯はギザギザに鋭く、蛇のような長い舌が口から飛び出て薄い唇をちろりと舐めた。顔の骨格も人間のそれから逸脱しており、尖った形の鼻の先、鼻腔は小さな穴になっている。

細い瞳孔を備えた金色の瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。

それは、一瞬の間隙。

トカゲ男は地面に胡坐をかいた体勢から即座に後方へと飛び上がり、四足で着地。五メートル以上の大跳躍で、瞬く間に二人から距離を取った。

―なんだ、テメェら

特徴的なだみ声。中腰の構えで油断なく二人を睨み付けながら、ベルトに差していた棍棒を引き抜いた。その際、自分がメイスを置き去りにしてしまったことに気付いたらしく、小さく舌打ちする。

……やれやれ。目を覚ましたかと思えば、いきなり喧嘩腰とは恐れ入る

ぺし、と額を叩いて、コウは呆れ顔だ。一方でイリスはおっかない殺気にビビっているのか、腰が引けており両耳が伏せられていた。

……あァ? 誰だよテメーは

そう言う君はバーナードかな。というか、そうだと言って欲しい。信じられないかもしれないが、僕はコウだ。こっちはイリス

イリスを示しながらのコウの言葉に、 あァん? と訝しげな様子のまま、クルクルと棍棒を回すトカゲ男―バーナード。

コウだと……? 髭はどうした。そっちの女の着てるローブはコウのヤツにそっくりだが……。っつーか、そっちの女がイリスだァ? アイツは”豹人(パンサニア)“だぞ

僕たちも混乱しているんだ。ここが何処か分からない上に、外見がリアルに近くなっているらしい

疑う気配は残しつつも、バーナードも警戒態勢を緩め周囲を見回す。

……チッ、見覚えのねェ地形だなァ。っつかテメェ、『外見がリアルに近くなる』ってんなら、なんで俺は”竜人(ドラゴニア)“のままなんだよ

自身の身体に目を落とし、手を握ったり開いたりしながら、バーナードがぎろりと物騒な目を向ける。そんなことを聞かれても困る、とコウは小さく肩をすくめた。

それは分からない。というか、君はバーナードでいいんだよね?

いかにも、俺ァバーナードだが

君もゲームそのままの格好じゃないぞ。顔の形が、その……ちょっと人間っぽくなってるし、髪が生えてる

んだとォ?

ボサボサの金髪に手を伸ばし、バーナードは意外そうに目を瞬いた。

……生えてんなァ。クソッ、どうなってやがる? さっきからメニュー画面が出てこねェし、現在位置もわかんねェ。ってかここはまだゲームの中なのか?

それを考えようとしているところだよ、僕らもね

はァん。そうだ、もしテメェが『コウ』なら魔術はどうなんだよ

……なるほど、その発想はなかった

ぱちんと指を鳴らし、コウは中に塩の詰めてある腰のポーチに手を伸ばす。

Aubine.

一掴みの塩をばら撒くと同時。

変化は劇的であった。

ぱきんっと乾いた音とともに、足元の草原の大地が放射線状に凍結する。一瞬遅れて冷気の波動。凍える風が頬を撫でる。

うっ……

体の芯から、何か大事なものがごっそりと抜き取られる異様な感覚。思わずその場で膝を突くコウに ちょっとだいじょうぶ……? とイリスが心配げに駆け寄ろうとしたが、すぐに足を止める。コウの背後に得体の知れない半透明の存在を幻視したからだ。

それは長衣を羽織った、痩身の乙女であった。ウェーブする長い髪、うっすら透けて見える青い色。冷や汗をかいて震えるコウの背にしなだれかかるようにして抱きつき、首筋に唇を這わせている。

―Mi naskigxis.

囁くような、それでいてはっきりと聞こえる声。氷の手で背筋を撫でられているかのような感覚。

うっすらと笑みを浮かべた乙女は、愛おしげにコウの首筋をくすぐってから、背後の空間に薄れて消えていった。

……な、るほど。成る程

額を伝う冷や汗を拭いもせずに、口の端を吊り上げるコウ。

今のが『魔力を吸われる』ってヤツか……

……大丈夫?

うん、まあなんとか。……しかし困った、こいつはゲームじゃありえない……

言葉の後半は、ぼそぼそと呟くように。

頭を振ってから立ち上がろうとするコウであったが、ふと凍結した足元の草に着目し、無造作に引っ張った。

……はは、二人とも。見てご覧よ

苦笑しながら、引っこ抜けた雑草を二人に示す。

草が抜けた。ご丁寧に土までついてる

……なんだと!?

その言葉の意味をいち早く察したバーナードが、がばりと地に伏せて手当たり次第に草を抜き始めた。雑草特有の青臭さが、草原の風に吹き散らされていく。手の届く範囲の草を抜いただけでは飽き足らずに、さらに拾い上げたメイスでガッガッと地面まで掘り始めるバーナード。

……マジだ

やがて、爪を草の汁で汚し、土だらけのメイスを握ったまま、放心したようにバーナードは呟いた。

ゲームじゃ、あり得ないね。あり得ないよこれは

ゲームじゃないって……だったら、何なのよ

コウの言葉に、傍らで立ち尽くすイリスが慄いたように問う。

あァッ!? 決まってんだろうがよォ! 現実(リアル)だよッ!!

代わりに叫ぶようにして答えたのはバーナードだ。くっくっく、と肩を震わせて笑うバーナードであったが、徐々にその笑い声が大きくなっていき、終いにはその場で腹を抱えて笑い転げ始めた。

ヒーヒヒ! 遂にやったぜェ! クーフフハハハヴァハハッハッハッハ!!

ヴァーハッハッハ、ハッハハハとけたたましい笑い声が響く、響く。

その金色の瞳に薄く涙まで浮かべて、バーナードは狂ったように笑い続ける。あまりに尋常ならざる様子に、声をかけようとしていたコウも閉口し、イリスに至っては何か見てはならないものを見てしまったかのような、困惑と怯えの表情を浮かべている。

そんな二人をよそに、今度は自分の引き千切った草を口に詰め込み、咀嚼し、歓喜の声を上げるバーナード。

ヴァッハッハハヒヒヒヒ、すげェ、すげェぞ! 草食ったら味がする! 苦エェェ! クソみたいに不味イイイィィ! フッフフィヒェヒェヒェ

そのままやおら立ち上がり、ピューゥイッ、と指笛を吹き鳴らす。離れて草を食んでいたまだら模様の馬―バーナードの乗騎が、嬉しそうに駆け寄ってくる。

うおォい、オメェも生きてんだな! すげェ! 毛の臭いもするし、ヴァッハハ、馬って思ったよりクセーんだなッ!

べろべろと顔を舐めてくる乗騎のたてがみを荒々しく撫でつけ、やたらと嬉しそうなバーナードは、

そォらッ!!

馬の顔面に、右手のメイスを叩き込んだ。

ボギュッと鈍い音とともに馬面が赤く爆発する。頭蓋骨が崩壊しピンク色の脳髄が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった傷口から、エフェクトではない血飛沫が噴き出した。

ハッハァーこいつァすげェ、リアルだッ!!

どうっと力なく倒れ伏す馬の死体を前に、全身から返り血を滴らせながらも大はしゃぎするバーナード。

呆気に取られる二人。

―と、イリスの足元に、ころころと、吹き飛ばされた眼球が転がってくる。

い、……イヤアアアアァァアァッッ!

何やってんだよ!!!!

悲鳴を上げるイリス、理解不能な行動に思わず声を上げるコウ。

だがバーナードはそれを歯牙にもかけず、ただ豪快に笑った。

あァ!? んなもん決まってンだろォーがァ! 食うんだよッッ!!

……は?

おいコウ、オメェたしかナイフ持ってたよな? ちょっと貸してくれよ、コイツ解体すっから

…………

コウ? どうした、早くしろよォ

……ああ、うん。いや、分かった

頭を振ったコウは、腰のベルトから短剣を外し、鞘ごとバーナードに放り投げる。

ありがとよッ!

うん。どういたしまして……

嬉々として解体に取り掛かるバーナードの背後、投げ遣りに答えながらコウはイリスを見やった。

…………

ドン引きした様子のイリス。それはコウも同じであったが。

……はぁ

やれやれ、とコウは小さく溜息をついた。

†††

とっぷりと日が暮れた後。

木立の中に隠れるようにして佇む、石造りの廃墟に、揺れる焚き火がひとつ。

コウたちだ。

あの後、見晴らしの良い草原は野営に向いていないということで、岩山を中心に周辺を探索し、見つけ出したのがこの場所だった。

ハッハァ、コウが塩を持ってたのはラッキーだったなァ! ありがとうよ!

平石の上に腰掛け、ジュージューと肉汁の溢れる骨付き肉に、ぎざぎざの鋭い歯を突き立てるバーナード。傍らには、解体途中の馬の遺体が無造作に横たえられている。この数百kgにも及ぶ肉塊を、バーナードはたった一人で軽々とここまで運んできたのだ。“竜人《ドラゴニア》“の特性の一つである怪力は、『こちら』でも有効であるらしい。

ちなみにこの焚き火も、バーナードの”炎の吐息(ブレス)“によるものだ。

まあ、素材が新鮮でも味がないことにはね

その対面に座るコウは、同じく肉にかぶりつきながら力なく笑みを浮かべる。身にまとうのは薄手のシャツと簡素なズボンだけなので、夜の空気が少し肌寒そうにしていた。種族としての特性なのか、あるいは寒がりなのか、はたまた単に肉を食いたいだけなのか、やたらと火に寄りたがるバーナードと同様、焚き火で暖を取っている。

…………

そんな二人から少し離れて、指先で摘んだ小さな肉の切れ端を、ちびちびとかじっているのはイリスだ。コウから借りっ放しのぶかぶかのローブにくるまり、どうにも居心地が悪そうにしている。その背後には、灰色の馬と黒毛の馬がそれぞれ落ち着かない様子で立っていた。先ほどの乗騎撲殺の一件以来、二頭ともすっかり怯えてしまい、決してバーナードに近寄ろうとしない。

もっしゃもっしゃと、男たち二人がただ肉を咀嚼する音だけが響く。

……それで、どうしようか?

あァん?

唐突なコウの問いかけに、目をぱちくりとさせるバーナード。

……この後のことかァ?

まあ、そうだね

そうだなァ。今日はもう暗いし寒いからな、とりあえずここで肉食って野営して、あとは明日にしようぜェ

その明日に何をするかって話なんだけど

ココは DEMONDAL の世界だろォ多分。なんでリアルになったかは知らんが。ともあれ、それなら村の一つや二つもあるだろ

ペッと骨の破片を吐き捨て、肉を手にしたまま、バーナードはニヤリと口の端を吊り上げた。

―適当に襲おうぜェ

……やはりそうなるか。ブレないな君は

ぺし、と額を叩いてコウは苦笑いする。その後ろの暗がりで、イリスは怯えるような気配を濃くした。

まあ、とりあえず今晩は休めるのが僥倖か……今からどうこうするには、僕はちょっと疲れたよ

俺も肉が食いたいからなァ!

好きなだけ食べるといい。肉は腐るほどあるし、元より君の馬だ

全く困った奴だ、とでも言わんばかりに、皮肉な、それでいて厭味の無い笑みを浮かべるコウ。ヴァッハッハ、と上機嫌で笑ったバーナードは膝を打って言葉を続ける。

それにしても意外だったぜェ。オメェがアジアンだったとはなァ

両親が日本人でね。国籍は英国人(ブリティッシュ)だよ

ハッ。なるほどなァ、道理でまどろっこしい喋り方すると思ったぜ

そう言うバーナードは米国人(アメリカン)かな?

おうよ

頷きながら、手を脂まみれにして肉を頬張り続けるバーナード。

その見かけと同様に、まるで化け物じみた底無しの食欲であったが、馬一頭分の肉は流石に一晩で消費するには多すぎた。

ダメだ……もう食えねェ

軟骨と筋しか残っていない骨を放り投げ、ごろりとその場に寝転がる。

よくもまぁこんなに食えたもんだ……

へっへへ、新鮮な肉だ、ついハシャイじまったよ……

バーナードの力の抜け切った全身からは、満足感が滲み出るかのようだ。その凶悪なトカゲ面に思いのほか穏やかな表情を浮かべ、あくびを噛み殺す。

ふぁ……ダメだ、食ったらクソ眠ィ……

どちらにせよ今晩はここで野営だ、しばらく眠るといい。交代で番をしよう

ごそごそと腰のポーチを探るコウは、バーナードに優しく声をかける。

ん……頼むぜェ……適当に起こして……く……

呂律が回らなくなったが最後、すやすやと寝息を立て始めるバーナード。一方、ゆらりと音もなく立ち上がったコウは、バーナードを無表情で見下ろしつつ、腰のポーチから何やら怪しげな粉末を取り出した。

Darlan. Arto, Kon-sui.

“宣之言(スクリプト)“を唱えるとともに、バーナードに粉末を振り掛ける。きらきらと輝く金色の粒子が、バーナードの身体に吸い込まれていく。

それを背後から見守るイリスは、夜の闇の向こう側に、羽根を生やした小人の姿を幻視した。

……さて。これでようやく、落ち着いて話ができる

焚き火を背に、イリスの方へと向き直るコウ。

……眠らせたの?

5回分の触媒を一度に使った。いくらバーナードでも当分は目を覚まさないよ

椅子代わりにしていた倒木に腰を下ろし、幾分か疲れた様子でため息をつく。

……改めて自己紹介といこうか。僕はコウタロウ=ヨネガワ。さっきも言ったけど、両親が日本人の英国生まれさ。よろしく

アタシは……イリス=デ・ラ・フェンテ。スペイン人よ

ほう? 実名プレイか。なかなかやるね

どうせリアルの知り合いは DEMONDAL なんてプレイしないし……

それにしても英語が上手だ。てっきり同郷だと思ってたよ

インターナショナルスクール通ってたから……

ああ、なるほどね

したり顔で頷きつつ、(金持ちのお嬢さんか?)という言葉は飲み込んだ。

……それで、これからのことなんだけど。どうする? アレ

そうね……

顎で背後のトカゲ男を示すコウに、げっそりとした表情を返すイリス。耳もその心情を表すかのように、ぺたりと力なく垂れている。

いつも一緒に行動してて、ヤバいヤツだとは思ってたけど。……正直ここまでイカレポンチだとは思わなかったわ

同感だよ。ゲームだと直接の危害がないから、笑って見てられたけどさ

顔を見合わせて、同時に深く溜息をつく。

これからどうするか、にも依るんだけど。僕の個人的な意見としては、彼とは行動を共にしたくないね

アタシもそう思う。何をするか分かんないもの

『どうするか』と問いかけて迷いなく『村を襲う』と答えるヤツだからな……

ぺし、と額を叩いて、コウは苦笑した。

とりあえず、イリスがまともでよかった。君までバーナードみたいなヤツだったら、どうしたらよかったのか

それはコッチのセリフよ。正直さっきまではコウも一緒なんじゃないか、ってちょっと心配だったんだけど。……ホントに良かったわ演技で

今一度、重い溜息をつき、イリスは両手で顔を覆う。

……ねえコウ、これってホントに現実なの? アタシ、悪い夢でも見てるんじゃないかしら?

さあてね。僕としても、これが夢であって欲しいと願ってやまないけれども

くぐもった、震えるイリスの声に、明後日の方向を見やりながらコウは答える。

だけど、こんなリアルな夢があるものか……?

ぱちっ、ぱちっ、と焚き火の中で、枝の爆ぜる音。静かな夜の森。

―しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかない。

よし。イリス、ひとつ提案がある

話に弾みをつけるため、パンッと手を叩いて口を開くと、音にビビッたのかイリスがビクリと身体を震わせる。ビンッと毛を逆立てる耳。

あ、ごめん。脅かしたかったワケじゃないんだ

いや、だ、大丈夫だケド。それで?

うん。まあこれからの行動指針だ。『ここ』が DEMONDAL そっくりの異次元世界であり、かつ僕らが何らかの原因で転移してしまった、と仮定して話すけど、僕としては『現実世界への帰還』を目標にして行動したいと思う。君は、その辺どう思う?

アタシも帰りたいわ。こんな世界ゴメンよ

だよね

思い返すのは、ゲーム内で自分たちが積み重ねてきた悪行の数々だ。あんな無法者が普通に存在しうる世界など、余程の理由でもない限り留まりたいとは思えない。

では、それを前提にした上でどうするか……さっきもバーナードに話したけど、『こちら』にも人は暮らしてる、と思う。というかそう信じたい。まずは人里を探して、最低限の身の回りのものを揃えるべきだと思うんだけど……

この格好じゃ、おちおち野営もできないものね

願わくば、ここが”竜人”やら”豹人”のエリアじゃありませんように……

バーナード(アイツ)はどうするの?

もちろん置いて行く

コウは即答した。

……このまま放っておいて、僕たちだけで去ろう

……そうね

二人ともが、神妙な顔で頷く。

―本当は。

このままバーナードを、ここに放置してよいのか、という想いはある。

仮にこの世界にも、ゲームと同じように住人が居たとして―バーナードという男が、何らかの災いをもたらすことは、火を見るよりも明らかであった。

だが―だからといって、バーナードに手を下すとか、そういったことは考えたくなかった。二人とも同じことを懸念しつつも、そしてそれを互いに薄々察しながらも、口に出すことは、なかったのだ。

……はっきり言ってトラブルの種にしかならないだろうからね、こいつは。性格的にも……外見的にも

その言葉に、ハッとした様子で思わず頭頂部に手を伸ばすイリス。

こちらの住人が、『それ』にどういった反応を示すかはわからない。しばらくフードは下げておいた方がいいよ、イリス

……分かったわ

さて、ならば当座の目標は人里を見つける、ということで。……動こう

足元に転がしていた杖を拾い上げ、やおら立ち上がる。

極力ここから……バーナードから離れよう。コイツが何をトチ狂ったかしらないが、自分の馬を殴り殺してくれたのは良かった

……なんで、殺したのかしら

さあてね。狂人の考えることは分からんよ

そんなに肉が食いたかったのかね、とただ疲れたように呟いた。

ぶるる、と鼻を鳴らし、早くこの場から去りたそうにしている、灰色の馬に跨る。

イリス、警戒は任せていいかい

ええ。アタシは、『こっち』でも夜目が効くみたい

颯爽と黒馬に跨るイリスの両の瞳が、月明かりの下で爛々と輝いて見えた。

―その代わりコウは、何かあったら魔術でお願いね?

“氷”の方は兎も角、“妖精”の方は魔力も触媒も余裕がある。任せてくれ

腰のポーチをぽんぽんと叩きながら、にやりと笑ってみせるコウ。

果たして二騎は、月下を静かに走り出す。

…………

揺れる馬上、真っ直ぐに前を見ながら、コウは表情を曇らせた。

正直なところ―バーナードを置いていくことに、罪悪感が欠片もない、といえば、やはりそれは嘘になる。

だから、コウは振り返った。

振り返って、ひとり眠る、仮初の友人を見やった。

…Good bye, Barnard…

その呟きは、ある種の手向けか―

二人の姿が、夜の闇の向こうへと消える。

ただ―

焚き火のそば、何も知らずに眠る、

異形の男を、ひとり残して。

36. Dilan’niren

お久しぶりです。北の大地編、始まります。

ダガガッダガガッと硬質な蹄の音が響き渡る。

アクランド連合公国北部。アリア川に沿って、真っ直ぐに北へと伸びる街道。

敷き詰められた赤煉瓦の道を、風のように疾駆する騎馬の姿があった。

まずは一騎。褐色の毛並みが美しい、引き締まった体つきの駿馬だ。その背には革鎧と朱色の複合弓で武装した、精悍な戦士を乗せている。

そしてそれに続くもう一騎は、がっしりとした体格の黒馬。サーベルと丸盾を背負った黒装束の少女を乗せ、同時に寝具や革袋などの物資も運んでいる。

言うまでもない―ケイとアイリーンだ。

ケーイ! オレたち、もうかなり進んできたかなー?

視界の果て、街路樹の隙間から覗く雄大な山脈。金髪のポニーテールを風になびかせながら、アイリーンが馬上で声を弾ませる。

頂が雪で覆われている山々は、北の大地と公国を隔てる自然の障壁であり、アリア川の水源でもあるらしい。随分と上流まで遡ってきたからであろう、ウルヴァーンにいた頃に比べれば川幅は格段に狭くなり、流れも速くなっている。

だいぶ山が近づいてきたな。少し休もうか?

いいな! ちょうど小腹が空いてたんだ

ケイが答えると、待ってましたとばかりにニカッと笑うアイリーン。二人はそのまま川のほとりに陣取って、しばしの休息を取ることにした。

ウルヴァーンを発ってから二日。

ケイとアイリーンは、宿場や小さな村を経由しながら、北の大地を目指してブラーチヤ街道を北上していた。

川にせり出すように枝葉を広げる木の下で、下馬したケイたちはホッと一息つく。早朝に宿場を出立してこの方、三時間ほど騎乗の人となっていた。久々の長旅ということもあって太股や腰の肉が痛む。

とはいえ、ただ乗っていただけの二人よりも、実際に走っていたサスケとスズカの方が余程疲れているに違いない。

ご苦労さん。今これ外してやるからなー

アイリーンがスズカの首をわしゃわしゃと撫でつけ、鞍に括り付けていた荷物を手際よく外していく。

サスケの機動力を確保するため、旅具の運搬はスズカの担当となっていた。元は草原の民の馬であるスズカは、最高速度こそサスケに劣るものの、がっしりとした体格からか加重に強く、長距離を走るスタミナも持ち合わせている。

毎日アイリーンがブラッシングをしたり野菜を食べさせたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いていたこともあって、今ではすっかり懐いていた。べろべろと顔や首筋を舐められて、アイリーンがくすぐったそうに笑っている。

地面に革のシートを敷きながら、微笑ましげにそれを見守っていたケイであったが―ふと視線を感じて横を見ると、 ぼくもやろうか? とでも言わんばかりに、サスケが目をぱちくりさせていた。

……いや、いいよ

苦笑して手綱と轡を外してやると、 そう? と小首を傾げたサスケは、ぺろりとケイの頬をひと舐めしてから、足元の草を食み始めた。

さて、と……

地面に下ろした山のような荷物を前に、腰に手を当てて、ぼう、と立ち尽くすアイリーン。そしてふと気付いたかのようにケイの方を向く。

どうせなら、オレたちも早目の昼飯にしちゃう?

……そうだな、そうしようか

朝のうちに距離を稼いだので、今日はこれ以上急ぐ必要もないだろう。仲良く草を食むサスケとスズカを尻目に、ケイたちもいそいそと昼餉の用意に取り掛かった。

アイリーンが荷物から木製の食器や手鍋、旅用の木炭などを取り出していく。ケイは川原で手ごろな石を拾い、簡易的なカマドを組んで火を起こす係だ。その辺に落ちていた枝なども賑やかしにしつつ、木炭に点火して手鍋でお湯を沸かす。

それじゃ粥でも作るとして……先にお茶淹れよっか

誰に言うでもなく呟き、アイリーンが荷袋から乾燥ハーブと茶漉しを引っ張り出した。二人旅という都合上、持ち運べる荷物には制限があり、鍋は一つしか持ってきていない。旅には不便がつき物なので文句は言えないが、正直なところ、ヤカンくらいは別に用意するべきだったかもしれない―とは、二人ともが考えていた。

任せるよ

生まれてこの方、食材の解体はしたことはあっても、肉を焼く以外に料理の経験がないケイはアイリーンに投げっぱなしだ。見ている限り、やってやれないことはないとは思うのだが、料理に関してはアイリーンが率先してやっている感があるので、それについ甘えてしまう。

ちなみに、代わりといっては何だが、後片付けや火の始末はケイが担当している。

……よし、俺は魚でも獲ってこよう

細い紐を矢尻に結いつけ、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手に、ケイは川のほうを示して見せた。

OK, 串は用意しておくぜ

ありがとう

火で軽く炙った小枝をナイフで削り始めるアイリーンを背に、ケイは弓に矢を番えながらきらめく川面を物色する。涼しげに泳ぐ魚たち―その中の大きめの一匹に目をつけ、水の抵抗を考慮した手加減なしの矢を放った。

派手な水飛沫が上がり、射抜かれた一匹を残して川魚たちが散っていく。場所を変えて同じ要領でさらに一匹仕留め、ついでに鱗やはらわたなどの下処理も済ませてしまう。

お茶淹れたよー!

今行くー

しゃばしゃばと手を洗ってから、エラに糸を通した魚を手にアイリーンの元へ。木陰に腰を下ろし、木のカップに注がれたハーブティーを渡されて一服。

ふぅ……

川のせせらぎや、チチチチ、と何処からか聞こえてくる鳥の声。昼前の太陽が眩しく、青々と咲き誇る草花も目に心地よい。

……いいなぁ、こういうのも

なー

木の幹に背を預け、和むケイ。隣り合ったアイリーンもすっかり寛ぎモードだ。

二人旅にも関わらず、これほどケイたちがのんびりしていられるのは、ここがまだ公国内であることが大きい。それも、比較的治安が安定しているクラウゼ公の直轄領だ。宿場ごとに警邏隊が常駐しており、街道沿いの森にも程よく人の手が入っているため凶暴な獣を警戒する必要もない。

ん~フフ~、ンッタッタ、ンッタッタ

謎な歌を口ずさみながら、再び煮立った鍋に雑穀を投入するアイリーン。ケイもカップを脇に置いて、アイリーンの用意した串を川魚に刺し、表面に塩をまぶしていく。そして焚き火の両脇の地面に突き刺し、あとはじっくりと火が通るのを待つだけだ。粥を食べ終わる頃には良い塩梅になるだろう。

よーし。お粥はどうする? 甘くする? それとも塩胡椒?

塩胡椒で

ケイって甘いお粥苦手だよな

苦手ってほどでもないんだが

日本の食生活の先入観からか、粥にレーズンが入っていたり、ジャムや砂糖で味付けされたりすると、どうにも違和感が拭えない。尤も、“粥”といっても砕いた麦や雑穀をお湯でふやかしたオートミールに近いもので、いわゆる日本の”お粥”とは全くの別物であると頭では理解しているのだが。

はい、これ

ありがとう

熱々の粥を木の器によそって貰い、丸っこい木のスプーンでいただく。栄養バランスも考慮して、コリコリとした食感の木の実や豆なども一緒に入れられていた。味付けはシンプルに塩のみ。超絶美味か、と問われると疑問な味だが、アイリーンと一緒に雄大な景色を眺めながら雰囲気を味わうのは悪くない。

―それに、これだけだと寂しいが、川魚の塩焼きもあるからな。

そんなことを考えながらスプーンを往復させていると、あっという間に食べ終わった。

ふぅ……

木の器を横に置いて、ぽんとお腹を叩いたアイリーンがコテンとその場で横になる。塩焼きの香りを楽しみながら、ケイは懐中時計を取り出して時間を確認した。

何時?

11時だった

あとどのくらいで着くかなぁ、ディランニレン

そうだな……

目を細めて、山脈を見やるケイ。あの山のふもとの峡谷に、当座の旅の目標、緩衝都市ディランニレンがある。

ディランニレンは公国と北の大地の中間に位置し、その名の通り緩衝地帯としても機能する大規模な都市だ。元々は公国が北の大地へ侵攻した際、橋頭堡として築いた砦だったらしい。現在は和平協定により、ウルヴァーンのクラウゼ公と北の大地の有力氏族との間で分割統治が為されている。

ディランニレンを除いては、あの険しい山脈を越えるほか、北の大地へ繋がるルートはなく、雪原の民・平原の民の双方にとって玄関口といえる交通の要所だ。

当初のケイたちの考えでは、ディランニレンに到着した後、魔の森を目指して山脈沿いに北東へと進むつもりであったが、“銀色キノコ”ことヴァルグレン=クレムラート氏のアドバイスにより、安全とされるブラーチヤ街道をさらに北進し、商業都市ベルヤンスクに辿り着いてから東へのルートを取ることにしている。

まあ、夕方までには着くだろう

……そっか

揃って、まだ見ぬ都市ディランニレンの方角へ視線を向けるケイとアイリーン。

あの山脈の向こう側に、北の大地が広がっている―

…………

パチッ、パチッと炭火が控えめに弾け、魚の塩焼きがシューシューと湯気を立てる。

先ほどまでとは、少し質の違う沈黙がその場を支配した。ケイも、アイリーンも、二人ともが北の大地へ、それぞれの想いを馳せていた。

行き着く先に何が待っているのかは、はっきりとは分からない。

ただ、何かしらの答えが出るであろうという、確信はあった。

……そろそろいいかな

静かすぎる空気を誤魔化すかのように、ケイは塩焼きに手を伸ばす。匂いは香ばしく、程よく火も通っているようだ。

あ、オレも食ーべよっと

起き上がったアイリーンも塩焼きを手に取り、ケイより先にかぶりつく。

ん! 美味い

それはよかった

かじりついてみれば、カリッとした皮の下に引き締まった白身の肉があり、ダイレクトな塩味にうっすらと旨みが染み渡る。泥臭さの全く感じられない、淡白な味わいだった。

この魚は美味いな、名前が分からないが

なー

今回の旅で二度三度と世話になっているが、いまだに名称が分からない。胴体に白い斑点がある辺り、イワナに似ているような気もするが、それにしても英語で何と呼ぶのかは分からなかった。

この世界に来てから2ヶ月以上が過ぎていたが、結局のところは、ケイたちはまだ”異邦人(エトランジェ)“に過ぎなかった。

次の機会、現地人に名前きいてみようぜ

うむ、そうしよう


アイリーンの提案に、何気ない顔で頷きながら、果たして次の機会なんてあるのだろうか、などと考えつつ。

しかしそれを口に出すことはなく、ケイは黙って塩焼きを平らげた。

その後、しばらくのんびりとしてから、ケイたちは再び出発した。

サスケや、特にスズカの負担にならないよう、速度をセーブした駆足で進む。それほど急がずとも、ディランニレンはすぐ傍まで迫っていた。段々と近づいてくる山脈の威容を鑑みて、日が陰る前には着くだろうとケイは予想を上方修正する。

また、北に進むにつれ、脚に手紙や小さな筒を括り付けた伝書鴉(ホーミングクロウ)を引っ切り無しに見かけるようになった。ウルヴァーンの周辺でもよく見かけていたが、ここ一帯は特にその数が多い。交通と商業の要所だけあって、通信の需要が高いのか。

ちなみに伝書鴉とは使い魔の一種で、“告死鳥(プラーグ)“と呼ばれる精霊と契約した魔術師に使役される存在だ。告死鳥は DEMONDAL のゲーム内で”妖精”の次にメジャーな精霊で、精霊としては珍しく、現界に肉体をもって顕現している。その見た目は鴉に酷似しており、少なくともぱっと見では区別することができない。

誰とも契約していない状態の告死鳥を殺害することが契約の条件であり、黒い羽を持つ鳥の使役・使い魔への憑依・告死鳥そのものへの変身など、非常に汎用性の高い術の行使を可能とする反面、契約の解除ができず、契約者に半永久的な状態異常(デバフ)―身体能力低下の呪いを付与することで知られている。

どれだけ手間隙かけて育成したキャラクターでも、告死鳥を殺した瞬間に弱化してしまうので、特にケイのような弓使いや狩人は、黒い羽の鳥には決して手を出さないのが常であった。

少なくともゲーム内では、告死鳥の契約は契約者を蝕む死の呪いである、という設定がなされていたのだが、この世界の告死鳥の魔術師たちはそれを承知の上で契約に及んだのだろうか。それとも、あるいは―

そんなことをつらつらと考えているうちにも、周囲の風景は変わっていく。川幅はいよいよ狭くなり、土壌も湿っぽい黒色のものから乾燥した褐色のものになっていった。

そして―

大きな丘を越えた先の風景に、ケイは思わずサスケの足を止める。

……あれが、ディランニレンか

ケイに追いついたアイリーンもまた、手綱を引いて隣に並んだ。

……まるでデカい壁だな

ぽつりとアイリーンのもらした呟きは、まさに、その都市を形容していた。

山と山との境目、深い峡谷に、張り付くようにして広がる灰色の街並み。それは、公国の建築様式が色濃く反映された石造りのものと、丸屋根や曲線を多用する木造建築とが入り乱れた、ある種の混沌であった。

どっしりとした年季の入った石壁が、新たなる来訪者を拒絶するかのように、冷え冷えと傷だらけの表層を晒している。がっしりと隙間無く組まれた石組み―数箇所に設けられた巨大な門を除いて、蟻の子一匹通さないような構えだ。まさに街そのものが、一つの大きな関所として、“防壁”として機能するように設計されている。

扉とは、むしろ閉ざされるためにこそ存在しているのだと。

その事実を、ディランニレンの有り様は端的に、そして厳然と告げていた。

…………

だが、この灰色の街が、北の大地への入り口であることもまた、事実だ。

……避けては通れないからな

馬上で腕組みをして、渋い顔のアイリーン。その表情を見て、彼女もまた同様に、何か気の進まぬものを感じているのだろうとケイは理解する。

まあ、折角玄関まで来たんだ、ノックくらいはしようじゃないか

……そうだな。行くか

ケイの言葉に肩をすくめて、アイリーンがぽんとスズカの腹を蹴る。

果たして、丘を駆け下った二人は、異民族のせめぎ合う街、灰色の都市の扉を叩く。

それこそが、北の大地の旅路への―真なる幕開けであった。

長くなりそうだったのでキリのいいところで投稿。今回はちょっと短めです。

緩衝都市ディランニレンのイメージです。

37. 迂回

ディランニレンの城門には、他の街と同様に、武装した門番たちが控えていた。

頑強さを重視した無骨な短槍に、動きを阻害しない板金仕込みの革鎧。篭手や脛当て、兜などはデザインが統一されておらず、各々が使いやすいように細かく調整されている。

見栄えや統一感を前面に押し出していた、ウルヴァーンやサティナの衛兵と対照的に、華やかさの欠片もない集団だ。また、門番自身も、いかにも傭兵上がりな柄の悪い男たちばかりで、頬に傷があったり片目が潰れていたりと、強面な者が勢ぞろいしている。その勤務態度はお世辞にも良いとは言えず、やる気なく壁に寄りかかる者、詰め所で酒を呷る者、パイプをふかしている者など、まるでごろつきのような有り様だった。

お揃いで身につけている赤白のたすきと、城門の上にはためく赤と白の旗がなければ、そもそも彼らが門番だと認識すら出来なかったかも知れない。

サティナの麻薬取締りのような厳しい手荷物検査はなかったが、時折『怪しい』―と門番たちが考える―通行人が止められ、やれ荷物を見せろだの身分証を出せだの、あれこれ難癖をつけられていた。

そして当然のように、ケイも止められた。

アイリーンはスルーで何故自分だけ、と考えるとケイも憮然とせざるを得なかったが、ウルヴァーンの名誉市民の身分証を提示すると、難癖をつけてきた門番は塩を撒いたナメクジのように大人しくなった。お陰で何事もなく解放されたが、身分証がなければ城門を通過できなかった可能性もある。

大会に出た甲斐もあるってもんだ

ホントだよ。何だかんだで、市民権取れてよかったぜ! 身分証見せたときの門番の顔ったらなぁ!

バシバシとケイの背中を叩きながら、快活に笑い飛ばすアイリーン。ケイを励ますような、気遣うような明るさの裏に、隠しきれない門番への憤りが滲む。それをおどけた風に誤魔化そうとするあたり、アイリーンらしいとケイは思う。

まったくだよ、権力様様さ

苦笑しながら、ケイもまた小さく肩をすくめてみせた。街中は乗馬が禁じられているので、サスケの手綱を引きながらてくてくと歩いていく。

雑多な街。

ディランニレンの、端的な印象はそれだ。

石造りの公国風の家と、曲線を多用した北の大地特有の木造建築とが、無秩序に入り乱れている。直方体の石造りの建物をベースに、強引に木材で雪原の民風に改装したものも散見された。

看板の多くにはアルファベットとキリル文字が併記されており、大通りを歩くだけで、其処彼処からロシア語の会話が聞こえてくる。平原の民と雪原の民がロシア語で親しげに談笑する姿などは、公国広しといえどもこの街でしかお目にかかれないだろう。

(……しかし、妙な感じだな)

固い面持ちで、右へ左へとケイは視線を彷徨わせる。

―落ち着かない。

ぴりぴりと、背筋が痺れるような。

あまりにも刺々しい、そして露骨な敵意があった。

ただ道を歩いているだけで、通行人が自然とケイを避ける。大通りには人が溢れているにもかかわらず、ケイの周囲だけぽっかりと穴が空いていた。商品を陳列する店主はケイの姿を認めて顔をしかめ、井戸端会議をしていた女たちも、示し合わせたかのようにぴたりと話を止める。

雪原の民も平原の民も、関係なく。

誰も彼もが、じっとりとした目を向けてきていた。

…………

ウルヴァーンに住み始めた頃も最初はアウェー感があったが―流石にこれは異常だ。ここまで来ると、不快を通り越していっそ不可解ですらあった。

なんか、ヘンな感じだな

いつの間にか隣に来ていたアイリーンが、ボソリと呟く。 ああ と曖昧に、どうしたものか測りかねたように、ケイは頷いた。

戦時下の街、と言われても納得してしまいそうな空気だ。しかし、ま(・)だ(・)特筆するような騒ぎも起こしていないというのに、ここまで敵視される理由が分からない。

……取り敢えず宿を探そうか

ここに泊まんのか?

いまだ天頂でさんさんと輝く太陽を見上げ、嫌そうな声を上げるアイリーン。言わんとするところを察したケイは、しかし渋い顔で顎を撫でた。

そりゃあ俺だって、この街が大好きってワケじゃないが。現地調査も無しに噂に名高い『北の大地』に踏み込むのは、性急すぎるんじゃないか?

……うーん

さもありなん、とばかりにアイリーンも難しい顔になった。しばし、二人して往来のど真ん中で顔を見合わせていたが、 邪魔なんだよ! という通行人の悪態に我に返り、再び歩み始める。

……オチオチ考え事も出来ないな

やっぱり宿探す? ……オ(・)レ(・)が

頼めるか?

任せろ

ニッと笑ったアイリーンが、ケイにスズカの手綱を預け、するりと人ごみへ踏み込んでいく。揺れる金髪のポニーテール―歩調を僅かに緩めたケイは、泳ぐようにして人の波をかき分けて行く少女を静かに見守った。

人懐っこい笑みを浮かべたアイリーンは、住民たちへ積極的に声をかけていく。ロシア語を生かして、主に雪原の民に道を尋ねて回っているようだ。話しかけられた者の中でも特に若い男などは、にへらとだらしなく相好を崩し、アイリーンの質問に前のめりになって答えていた。

何人かはそのままナンパモードへと突入していたが、アイリーンが何か言いながら後方のケイを示すと、途端に表情を変えるのが見ていて面白い。愕然とする者、ふてくされたようにそっぽを向く者、ため息をついて興味を失くす者、その反応は様々だ。相手を刺激しないよう、ケイはそれとなく視線を外していたが。

それから十分ほどゆっくりと歩き、市の中心部に辿り着いた辺りで、アイリーンが情報収集から戻ってきた。

……どうかしたのか?

うーん……まあな。色々わかったぜ

が、その顔色は冴えない。力なく答えたアイリーンは、周囲の人の目を気にしながら、

……ここだとちょっと話しにくい。街の外に出よう

外に?

ぴくりとケイの眉が跳ねる。しかしそれ以上の説明は求めなった。アイリーンがそう言うからにはそれ相応の理由があるのだろう。黙ってスズカの手綱を返す。

そのまま来た道を引き返し、南門から街の外へ出る。

身分証の件で顔を憶えていたのか、とんぼ返りしてきたケイたちを怪訝そうに見る門番をよそに、そそくさと城門から離れていく。

初め、余所者を拒絶するかのように見えた石壁は、振り返ってみても相変わらず無表情のままだった。口をつぐんで物思いに沈むアイリーンに、一体何が起こったのか、と胸中の不安を渦巻かせながら黙々と歩く。

やがて、道を下り、人気のない木立まで辿り着いたところで、アイリーンは肩の力を抜き溜息をついた。

はぁ~……。まったく、聞いてた話と違うぜ

いったい何がどうしたってんだ

どすんと原っぱに座り込み、ケイは問う。 どうもこうもねーよ とボヤきながら、対面の木の切り株にアイリーンが腰を下ろした。膝に頬杖をついた姿からは、どこか不貞腐れたような空気が漂っている。

一呼吸置いて、アイリーンは切り出した。

―結論から言うと、街道の西側で草原の民が暴れてるらしい

は? 草原の民?

予想だにしていなかった情報に、目を瞬くケイ。

……なんで北の大地に、草原の民が?

さあ。理由は分からねーけど。一ヶ月くらい前から出没するようになった馬賊が、街道より西側で暴れまわってるんだと。旅人やら行商人やらが襲われて、周辺の物流が滞ってるとか何とか……集落がいくつも焼かれて女子供も容赦なく殺されてるって話だ。こりゃ相当恨み買ってるぜ

……なんてこった

頭痛を堪えるように、ケイは額を押さえた。

皆が俺(・)に(・)対(・)し(・)て(・)やたらと殺気立ってたのは、そういうワケか

『こちら』においては、ケイの容姿は限りなく草原の民のそれに近い。ケイからすれば、自身の日本人風な顔立ちと、草原の民の大陸系の濃い目鼻立ちは全く異なるものなのだが、雪原の民や平原の民にその見分けはつかないだろう。

ひょっこりと街に入ってきたケイに、住民たちが何を思ったか―想像に難くない。

そうしてみるとあの門番たちも、あくまで彼らの職務に忠実だっただけかもしれない。街からそう遠くない場所で草原の民が暴れている中、草原の民の格好をした男が街に入ろうとすれば誰だって止める。ケイも立場が立場なら止めていたかも知れない。

……どのくらいの規模の賊なんだ? その馬賊とやらは

十人やそこらじゃないのは確かみたいだ。話によると百人単位だとか

百人、とその数を口の中で反芻しながら、ケイは胸元から地図を取り出しばさりと打ち広げた。羊皮紙の上、公国と北の大地を隔てる、険しい山脈をそっと指でなぞる。

……話半分に聞いたとしても五十人か。そんな大人数でどうやって北の大地まで……。まさか堂々とディランニレンを通ったってワケじゃないだろうが、海から山脈を迂回したのか、それともグループに分かれて山を越えたのか

ディランニレンは通ってないっぽいな。いきなり街道周辺に出没して暴れ始めたらしいし……“大森林”を横断してきた、ってのが専らな噂だ

地図を覗き込んだアイリーンの、白魚のような指先がくるくると西部の山岳地帯を指し示す。

地図には描かれてないけど、ここらへんの山は標高がかなり低くて、歩いて越えられるんだとさ。ちょうどディランニレンみたいな感じで

しかし、この森はたしか 深部(アビス) だろう?

深部 ―森林地帯の中でも、特に”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“や”大熊(グランドゥルス)“など化け物が闊歩する領域のことだ。 DEMONDAL のゲーム内では、入念な準備と優れた装備抜きでは、上級プレイヤーでさえ生きて帰れないような魔境であった。

少なくとも、紋章による身体強化の恩恵に与(あずか)れないこの世界の住人が、おいそれと踏み込める場所ではない。ましてや、それが大人数ともなれば。

あるいは、強力な魔術師の庇護下にでもあれば話は別かもしれないが、草原の民は魔術的な技能に乏しい。精霊信仰(シャーマニズム)の文化はあるが、精霊と対話し使役する術を持たないのだ。

まあ、だからあくまで”噂”だな。実際に森を踏破してきたのかは分からない

そう言って、アイリーンは小さくお手上げのポーズを取った。

―でも、他にルートがないのも確かなんだよな。海から上陸しようにも、沿岸部では目撃されてないらしいし、東の山越えするルート周辺でも馬賊の被害は出てないそうだ。本当にぽっと湧いて出たみたいに、いきなり街道周辺が被害にあってるんだって

う~む……謎だな

地べたに広げた地図に目を落とし、顎を撫でるケイ。

北の大地は広い。街道より西、と一口にいっても、ケイたちが旅してきたよりも遥かに広大な土地が広がっているのだ。そこには森があり、川が流れ、丘陵が続き、荒地が乾いた土を晒している。さぞかし暴れ甲斐があるのだろう、とケイは皮肉な気持ちで笑った。

だいたい孤立無援で補給はどうしてるんだ。一ヶ月前からなんだろ?

集落を焼き討ちしたときにでも、物資とか奪ってるんじゃねーの? 西部には湖も川もあるし

……血気盛んな雪原の民が、よく野放しにしてるもんだ

いや、当然、周辺の街と集落が、山ほど戦士を送り出したらしいぜ。でも規模の大きな討伐隊とは絶対に鉢合わせしないんだってさ。包囲して炙り出そうとしても、事前に察知して逃げるらしいし―逆に規模が小さかったり、合流前だったりする隊が奇襲されて大損害を受ける始末なんだと

……大した奴らだ

口の端を歪めるケイであったが、その表情は依然として固い。

孤立無援、多勢に無勢、地の利がない状況で一ヶ月間も追撃をかわし暴れ続けているとは、尋常なことではない。よくやるもんだ、と感心する一方で、なんと迷惑なことをしてくれるのだ、という憤りにも似た想いがある。

馬賊の勇猛さを称えるべきか、討伐隊の不甲斐なさを嘆くべきか―そう考えたところでケイは、ふと雪原の民の戦士・アレクセイのことを思い出した。

忘れもしない、サティナからウルヴァーンへの旅路。アイリーンとの距離感が変わり、隊商護衛の経験を積み、初めて現実(リアル)での決闘を吹っかけられた珍道中。

―ディランニレンを訪ね、ひとつ分かったことがある。

それは、たとえ北の大地であったとしても、アレクセイのような優れた戦士がありふれているわけではないということだ。大都市なだけに母数が大きく、精悍な戦士もちらほら見かけられたが、アレクセイほどの覇気を漂わせる者はそれほど多くなかった。

裏を返せば、一定数、居ることには居る。しかし、あの猪突猛進な青年が強烈に印象に残っていただけに、北の大地といえば 石を投げれば化け物じみた戦士に当たる そんな土地をイメージしていたのだが―

―あんまりにも要領がいいから、実は内通者がいて情報が漏れてるんじゃないか、と雪原の民同士でも疑心暗鬼になってるっぽいぜ

したり顔で説明するアイリーンに、我に返る。

……どうした? ケイ

……いや、

透き通るような両の瞳が、じっとケイを見つめていた。空よりも涼やかな青色を見つめ返す、すっと胸の内が穏やかになるような、そんな感覚があった。不思議そうに小首を傾げるアイリーンに、頭を振ったケイは、

雪原の民のことを考えていた。この状況で内輪揉めとは、相手の思う壺だな

だなー。街の住民も、なかなか成果を出せない討伐隊にイラついてる感じだった。特にここんところ、部族間での連携もガタガタになってるみたいだからな

成る程……

短時間ではあったが、アイリーンは必要な情報を全て集めてきたようだ。さすが母国語は自由度が違う、などと感心しながら、ケイは腕組みして考え込む。

大体の事情は把握できた。ではこれからどうするか、という話になるのだが。

……うーん

アイリーンもケイの真似をして腕を組み、唸り声を上げた。

……これ、どうするよケイ

ヴァルグレン=プランが使えなくなったな

ウルヴァーンの知識人、元(・)“銀髪キノコヘア”ことヴァルグレン=クレムラート氏のアドバイスに基づいて、ケイたちは大まかな旅のルートを決めていた。

再び地図に目を落とす。紙面の真ん中、南北に伸びるブラーチヤ街道。

当初の予定では身の安全を最優先とし、治安の悪い地域には近寄らず、極力二人旅は避ける方針であった。まずは、何とか隊商を見つけ出し、同行してブラーチヤ街道を北上。ディランニレンに匹敵する巨大都市”ベルヤンスク”を目指す。次に馬の足を活かして二人で東進、平野部を一気に駆け抜け辺境の都市”ナフェア”へ。そこからは最終的な目的地である”魔の森”―に最も近い集落、“シャリト”へ向かうつもりだったのだが。

“ブラーチヤ街道周辺は安全”―まず、その前提が崩れた

キノコ親父め……全然話が違うじゃねえか

馬賊が出たのは最近なんだろう? あの御仁を責めるのは気の毒だ、彼は魔法使いだが預言者ではない……それに今はキノコ親父でもないな

あのまんまウルヴァーン飛び出してきたけど、カツラどうしたんだろうな

さあ……

結局、シーヴに吹き飛ばされたカツラは見つかっていないそうだ。予備があればいいのだが、それがなければありのままの姿での生活を強いられることになる。

望遠鏡もブッ壊れちまったし……

正直ウルヴァーンに戻るのが怖いな。弁償させられたらどうしようか

カツラはともかくとして、あの望遠鏡は高そうだよなー……

そんな時間をおいて請求されるとは思わない……思いたくないが……

二人で顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。

ま、そんなことは、

今はどーでもいっか

若干、現実逃避の方向に思考が流れていたのを修正する。

どうする? 今回は取りやめて引き返すか?

そーだなぁ

慎重論のケイに、アイリーンは溜息をついて空を見上げた。

遠い目だ。考え事をしているというよりも、昼間の見えない星を数えようとしているかのような、ぼんやりとした表情。

……ケイはさ、今引き返したら、どうなると思う?

どうなる、とは?

あと二週間もすれば秋になる。ほとぼりが冷めるのを待ってたら、あっという間に冬になっちまう。そうしたら来年の春まで、旅を延期しなきゃならない

切り株の上で体操座りをして、両膝を抱えるアイリーン。真摯な瞳がケイを真正面から見据えた。

オレは、出直したところで、必ずしも状況が良くなるとは限らないと思うんだ

……ふむ

馬賊は、今は西側の地域で暴れてるだけだ。ここらでも『草原の民』の悪名は轟いてるけど……逆に言えばそれだけだ。ここより東には、まだそれほど話が広がってないはず

話しているうちに、徐々にアイリーンの声が熱を帯びていく。

だから、今のうちに東へ向かえば、謂れのない差別やら迫害やらを避けられると思う。逆に時間が経てば経つほど、東側にも馬賊の話は伝わっていくだろう……来年出直したらケイにとって、……その、さらに状況が悪化してた……なんてこともあり得るかも

……成る程

だから……行くなら、今のうちじゃないか、って……

つっ、とアイリーンが目を逸らした。

今のうちじゃないかって……、思うんだ

アイリーンにしては珍しく、歯切れの悪い調子だったが。

一理ある、な

ケイは真顔で頷いた。

街道周辺の治安悪化、あるいはケイ自身が敵と誤認されるトラブル。リスク回避のために、ケイは一時的に様子を見るべきだと考えていたが、アイリーンの主張も尤もだ。時間の経過とともに状況が改善される保証など、何処にもない。

そして何より―少しでも早く”魔の森”に行きたい、行ってこの転移現象の原因を探りたい、というアイリーンの強い意志を感じる。勿論、多少のリスクは承知の上で。

(アイリーンは、帰りたいんだろうか)

―分からない。だが、少なくとも帰れるかどうかを知りたがってるのは確かだ。

ケイは原因の究明を急いでいないし、特に急ぐ必要もない。

しかし、アイリーンは違う―まるで抱え込んだ何かが風化してしまうのを恐れるかのように、傍目にも焦燥感が彼女の中でくすぶっているのが見える。今、このときを逃してしまうと、二度と再びチャンスがないのではないかというような危機感も。

(ならば、俺がどうこう言う筋合いはない)

言うことなど―できない。

よし、

地図を手に取り、ケイは微笑んだ。

ルートを考え直そう。あんまり危なくないヤツを

……うん

それに応えるようにして、アイリーンもまた、微笑を浮かべて頷いた。

今にも消えてしまいそうな、儚い笑みを。

†††

地図を挟んで協議すること数十分、ケイたちは次のルートを策定した。

現時点で、ケイたちが取れる選択肢は三つ。

一つはこのまま公国内を東に進み、“オゼロ”という辺境の都市を経由して、山越えするルート。紙面上の距離は最短だが、険しい山々を越えなければならず、また登山用の装備もないため今回は断念する。

もう一つは、ディランニレンを通過した後に、街道を外れ広大な平野を北東に横断するルートだ。言葉にするとシンプルだが、平野部とはいえ道なき道をひたすら進まなければならない。また、水源の少ない痩せた土地であるためかほとんど集落が存在せず、途中で物資を補給することが困難であった。ケイたちの水や食料はまだ何とかなるが、サスケとスズカの飲み水が確保できないのは致命的だ。

よってこのルートもボツ。残された最後の一つを取ることになる。

ブラーチヤ街道よりも小規模な、“エゴール”街道。山脈に沿って東に進み、南へ流れる川に突き当たってから一気に北上するルートだ。大回りである代わりに森や木立が多く、街道沿いに小さな村や集落がいくつもあるため、物資の補給が比較的容易と考えられた。

ヴァルグレン氏の情報によると、“あまり治安のよろしくない”地域らしいが―多少のリスクは仕方がない。馬賊に襲われるのに比べればマシ、と考えるほかないだろう。

ディランニレンで食料を少しばかり補給し、一路東へと向かう。

ケイとアイリーン、馬上の気楽な二人旅だ。

公国に比べて植生はがらりと変わり、潅木や針葉樹が目立つようになった。公国側の山のふもとは森に覆われていたが、北の大地側は少し土が痩せているらしく、木々が疎らな木立が目立つ。

それでも鳥や山羊のような生物がちらほらと見かけられたので、飲料水は兎も角、いざとなれば食い物は調達できるなとケイは笑った。アイリーン曰く、常人の視力ではとても見つけられないそうだが。

サスケの手綱を握り、公国とは違う風景を楽しみながら、駆け足の速度で進んでいく。

が、しばらくするうちにヴァルグレンの 治安がよろしくない という言葉の意味が、じわじわと分かってきた。

まず、街道の状態が非常に悪い。敷設されている石畳はひび割れが目立ち、所々が馬車での通行に支障が出そうなほど欠損している。寂れている―というべきか、途中で見かける村々もじっとりとした雰囲気で、貧相な格好をした村人たちは、睨み付けるような、粘着質な視線を向けてきていた。

やっぱり、もう馬賊の話は伝わってんのかな?

不安げに、後方のアイリーンが問いかける。

分からん……どちらにせよ、歓迎ムードではないな

硬い声で答えたケイは、左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の感触を強く確かめながら、油断は出来ないと改めて気を引き締めた。

(……しかし、やはり隊商護衛は良い経験になっている)

視界全体に注意を払いながら、ふとそんなことを思う。

今、ケイは周囲を警戒しているが、決して気を張りすぎているわけではなく、適度に肩の力を抜き視野を広く持つことができていた。さほど意識していないが、視界内に動くものがあればすぐにそれとなく察知できる。

この適度な力の抜き方を、短い間ではあったが、あの隊商護衛の仲間たちから学べたのだとケイは思う。

例えば今も、道の果ての茂みに何か違和感があったかと思えば、ひょっこりと鹿の親子が飛び出してきた。頭上から視線を感じたと思えば、枝に止まってじっと見下ろしてくる白い鳥。ふと右を見れば、木陰からこちらを伺う山猫と目が合う。

一々細かいことが分かるようになったものだ、と自分のことながら感心する。

突然矢が飛んでくるかも知れず、道に罠が張ってあるかも知れず、物陰から強盗が飛び出してくるかも知れず―油断すれば命も危うい世界で、しかしそんな乾いた空気が実によく身体に馴染んでいる。

ある程度気楽に構えていられるのは、慣れているからか、それともこれも油断なのか。

客観的には判断しかねるが、少なくともそれを負担と感じないのは、悪いことではないはずだと自分に言い聞かせる。溜息をついたケイは無意識のうちに、鞍に括り付けてある矢筒を撫でていた。

それから、二時間ほど駆けていたであろうか。日が傾き始め、夜をどう過ごすか相談し始めていた頃、ケイたちは小さな集落に辿り着いた。

道の両側に住居が立ち並ぶ、路村と呼ばれる形態の田舎村だ。エゴール街道沿いの集落は、どれもこれもしみったれていたが、この村は―比較的マシであった。

少なくとも家の戸が傾いたりしていないし、蜘蛛の巣と煤に塗れている風もない。住民たちも他の集落に比べれば、いくらか好意的だった。村人はロシア語しか喋れないようだったが、アイリーン曰く、村長が善意で一晩の宿を提供してくれるらしい。

見知らぬ土地で野宿するのも不安であったので、ケイたちは有難くその申し出を受けることにした。

サスケとスズカを預け、村長宅の物置のような質素な部屋に荷物を置き、夕餉の席に招かれる。

恰幅のよい白髪の村長に、その妻の老婆、息子夫婦と思しき男女に、幼い子供が三人。ランプの暖色の明かりに照らされた居間に、家族全員が勢ぞろいしていた。さっき倉庫から引っ張り出してきた、と言わんばかりのオンボロな椅子を借りケイたちも席に着く。

『―? ―!』

『―。―、―』

村長とアイリーンがロシア語で雑談する中、手持ち無沙汰となったケイはきょろきょろと家の中を見回していた。

ここらの家は、こういう造りになってるんだなぁ……

公国では見ない茅葺屋根に、子供に家を描かせたらこうなるであろう、というような、シンプルな構造。興味深げなケイに、何やら子供たちが笑っている。

最初は、異人種の自分が珍しいのか、などと思いケイも愛想笑いを浮かべていたのだが―何か心に引っかかるものを感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。

(なんだ……? あの目は……)

年の頃は、一番上が十歳ほどで、一番下はおそらく四歳ほどだろうか。兄、妹、末っ子の弟、といった組み合わせだったが―その目に、ケイは違和感を覚える。

何か―小狡い、としか表現のしようのない、不快な光がそこにはあったのだ。

(馬鹿にされている……?)

まず、幼いが故の差別意識を疑ったが、異人種だから舐められているというのとは少し違う感触だった。

不審がるケイに気付いたのか、隣に座っていた母親が、ケイを指差す長男の手をぱしんと叩いてたしなめている。

しばらくして、食事が運ばれてきた。

そのときに気付いた。この家では、“家人”は誰も料理をしていなかったことに。

料理を運んできたのは、質素な貫頭衣に身を包んだ―

―草原の民?

呆気に取られたのは、ケイだけではないだろう。隣で雑談に興じていたアイリーンも、一瞬会話が止まっていた。

料理の皿を捧げ持ってきたのは、二人の草原の民だった。二人とも女で、顔には独特な刺青があるが、鉄製の首輪を嵌められており心なしか痩せている。二人とも、ケイを見て少し驚いた風だったが、そのまま黙々と料理をテーブルに並べ、しずしずと部屋を辞去していった。

なんだ今の……

ケイの呟きを聞いたアイリーンが村長に一言二言質問すると、彼はにこやかな顔で、

Ведомого.

と答えた。

……奴隷だってさ

困ったような顔で、アイリーンが囁く。

そうか……

ケイも困ったような顔しか出来なかった。しかし同時に、すとんと胸に落ちるような、そんな感覚もあった。

気を取り直して、いよいよ晩餐となる。アイリーンがテーブルに並べられたスープ皿のひとつに手を伸ばしたが、村長がやんわりとそれを止め、他のスープよりも少し具が豪華な料理をケイとアイリーンに供した。

……なんか、この村の、客をもてなす伝統料理なんだってさ

……ほう

少なくとも、匂いは美味しそうだった。何やら独特な香辛料の香りがある。村長たちはケイたちの機嫌を窺うような愛想笑いを浮かべていた。

まあ、ありがたく頂こう

そうだな

ケイたちが食べ始めたのを見て、村長たちも自身の皿に手を付ける。客人が食べ始めるのを待つのが、この村の礼儀なのだろうか。

村の伝統料理とやらは、豚肉と根菜と葉野菜をこれでもかとぶち込んだクリームスープだ。ザワークラウトのような酸味があり、スープには出汁の味がよく出ていて大変美味であった。が、コリアンダーにも似たハーブの香りが、どことなく浮いているように感じられる。

その他にも、黒パンや干し果物、焼いたソーセージなども追加で供され、少量ではあったが蒸留酒まで振舞われた。田舎の村とは思えないような豪華な食事。しかしケイにとっては、言葉が通じないこともあったが、様子を窺うような―まるで観察するような―家人の視線がどうにも気になり、あまり楽しめない夕餉だった。

食後は、アイリーンも雑談を早々に切り上げ、二人して提供された部屋に引っ込む。

ふぅ。何だかんだで腹いっぱいになったなー

ああ……

明るい調子で、ぽんぽんと腹を叩くアイリーン。ぽすん、と一つしかない寝台に、二人で並んで座る。

……奴隷にはびっくりしたが

なー。聞いてみたら”戦役”のときに、奴隷落ちした草原の民が大量に北の大地に売り払われたんだってさ。それ以来、その……なんていうか、時々『入荷』するんだって、同じような奴隷が

なるほどな……

子供たちは正直だったわけだ、とケイは納得しようとしたが―それでも、何か引っかかるものがある。なぜか落ち着かない気分だった。

……なあ、アイリーン。この村の住人、どう思った?

……うーん

問いかけてみると、アイリーンもまた思うところがあったのだろう。

…………胡散臭いよな?

アイリーンもそう思うか

うん。なんか、ちょっとな……

自然と、二人の声のトーンが下がる。

ただの行きずりの旅人に、もてなしが手厚すぎると思うんだが

それはオレも思った。あとなんか、探るような目で見てくるよなアイツら

実は腹いっぱい食わせて酒を呑ませて、寝込みを襲おうとでもしてるんじゃ……

……だったら、どうする?

今更動きづらいが……まあ適当に謝礼を払って、今から村を出るのもアリか

うーん、そうだな……

しばらくうんうんと唸って考え込んでいたアイリーンだが、やがてぽんと手を打ち、

そうだ、警戒魔術でも仕掛けておこう。何かあったときはビビらせればいいだけだし、人間相手ならハッタリも有効だしな

それがいい


果たして、アイリーンはケルスティンを顕現させ、部屋の扉に対人用の警戒魔術を仕掛けた。

元々寝台が小さく、二人では満足に寝転がれなかったことから、ケイが壁にもたれかかるようにして座り、アイリーンに膝枕をした。ケイもアイリーンも武装は解除せず、万が一に備えていつでも動けるよう体勢を整えて眠る。

おやすみ、ケイ

おやすみアイリーン

布を重ねたケイの膝を枕に、すやすやと寝息を立て始めるアイリーン。ケイは体勢的にあまりリラックスできないので、(俺はそれほど深く眠れないだろうな……)などと思いつつも、睡魔に襲われずぶずぶと眠りに誘われていった。

そして深夜。

事(こと)は起きた。

『―!! ―!?』

野太いロシア語の悲鳴。ケイがカッと目を見開いて覚醒すると同時、アイリーンが毛布を跳ね除けて飛び上がる。

見れば、部屋の扉が開いており、黒い影に飲み込まれた男が床の上で転げ回っていた。

村長だぜコイツ!

やはりか!

村長の後ろには、ランプを片手に腰を抜かしたように座り込む息子夫婦の姿もあった。

―Liberigxu(解放せよ).

アイリーンの一言で、まとわりついていた影が霧散する。中からは、真っ青な顔で床に這い蹲り、怯える村長が現れた。

『―!? ―、―!』

アイリーンが厳しい口調で何事かを問うと、しどろもどろになりながら村長が弁明を始める。ケイは”竜鱗通し”を片手に、左手を腰の剣の柄に置いて背後の息子夫婦を監視するように睨み付けた。

『―ッ!』

村長がある程度弁明を終えた辺りで、アイリーンが一喝。

『―、―……』

低い声で、かつおどろおどろしい口調でアイリーンが話し始めると、冷や汗を垂らした村長と息子夫婦が震えながらその場で平伏した。状況は良く分からないが、アイリーンが高圧的な態度を崩さないので、ケイも取り敢えず隣でふんぞり返っておく。

その後、何かを命じられた息子夫婦が家を飛び出していき、アイリーンに目線で促されたケイもまた、荷物を持って外に出た。

驚いたことに、家の外には松明や鎌、棍棒などを手にした数人の村人が待機していた。皆、ケイたちの姿を認めるや否や殺気立っていたが、アイリーンが威嚇でケルスティンの影を放つと蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。

それと入れ替わるようにして、息子夫婦がサスケとスズカの手綱を引いて戻ってきた。

『―』

アイリーンが尊大な顔で言い放つと、平身低頭しながら息子夫婦は家の中へと引っ込んでいった。

よし、行こうぜケイ

お、おう

荷物をサスケの鞍に括り付け、そそくさと村から離れていく。サスケもスズカも夜目がそれほど利かないので、ケイが手綱を引いて先導する形だ。

……ぶふっ

しばらく沈黙を守っていたものの、村から充分離れたあたりで堪えきれなくなり、どちらからともなく吹き出した。

気が抜けたように、しばし二人でからからと笑い合う。

ああ。傑作だったな、あの村長たちの怯えっぷりといったら

笑いすぎで出てきた涙を拭いながら、ケイ。スズカに跨ったアイリーンはわざとらしくえっへんと胸を張り、

―なかなかの名演技だったろ?

ああ。レイフ=ファインズもびっくりな悪役っぷりだったさ―それで、村長たちには何て言ってやったんだ? 随分と怯えてる様子だったが

なぁに、大したことは言ってねーよ。『我は偉大なる闇の魔術師! 大人しくしていれば見逃してやったものを、一家揃って呪いをかけてやろうかー!』ってな具合さ

それだけか?

あとはまあ、脅しで色々。『孫三人を狂わせて、互いに共食いさせてやろうかー』とか『死して尚、屍人形として永遠にこき使ってやろうかー』とか

けっこうえげつないこと言うじゃないか

そこで、 あ、そうそう とアイリーンが思い出したように手を打った。

そういえば、あの『伝統料理』ってヤツさ。村長が勝手に白状したんだけど、アレ毒を盛ってたらしいぜ

何だと!?

思わず自分の身体を見下ろすが、―何の問題もない。

毒、っつーても眠り薬的なヤツらしいけど。でもオレらってホラ、『身体強化』があるからさ……

ああ……生半可な毒じゃ効かないか。ありがたいこった……

そんなことを話しながら、しかし一晩中歩くわけにもいかないので、街道から少し外れた木立で野宿することにした。

焚き木を拾い集め、石を組み、木炭に火をつける。

炎の暖色の明かりが、月夜の闇を吹き散らした。周囲の茂みの角度を考え、予備の毛布で即席の壁を作るなどして、明かりが極力木立から漏れないよう工夫する。

警戒魔術、ここでも使う?

頼む

OK、じゃあ”警報機”を試してみよう

荷物を漁ったアイリーンが、呼び鈴と天秤、そしてテコが一体化したような小さな機械を取り出した。

ウルヴァーンに滞在した一ヶ月間。

ケイたちは何も、調べ物だけに全ての時間を費やしていたわけではない。

この世界に転移し、精霊の思考がより柔軟になったことを踏まえ、魔術を新たな方法で応用できないかあれこれ試行錯誤を繰り返していたのだ。

その中でも、アイリーンが作り出したこの”警報機(アラーム)“は非常に画期的なものといえる。

Kerstin, kage-jitsu, naru-ko.

アイリーンが水晶を捧げると、足元の影が揺らめき四方八方へ散っていく。周囲に索敵の結界を張ったのだ。

ここまでは、隊商護衛でも使っていた警戒魔術と全く変わらない。

よし、あとはコレで……

地面に置いた”警報機”の受け皿に、アイリーンが水晶の塊を載せた。錘と化した水晶により、テコの機構で呼び鈴の上の小さなハンマーが音もなく持ち上がる。

この”警報機”の仕組みは、至ってシンプルだ。

半径五十メートル以内に”敵”が侵入した場合、ケルスティンはその侵入者へ影による威嚇動作を行う。

そしてその代償としてアイリーンは受け皿の上の水晶を、追加でケルスティンに捧げる―という契約を結ぶのだ。『捧げられた』ことになる水晶は、契約に従い自動的に魔力に還元され消滅、錘をなくしたハンマーが落ちて、呼び鈴を叩き鳴らす。

この装置、そして呪文の革新性は、限定的ながらもケルスティンに物理的な干渉を可能とした点にある。

本来、薄明かりの化身であり下位精霊にすぎないケルスティンは、低燃費な代わりに物理的干渉能力が非常に低い。故に、隊商護衛で使っていた警戒魔術では、影絵による注意喚起がせいぜいのもので、見張りが眠り込んでしまうと目を覚まさせてまで警告することができなかった。

しかし、アイリーンは下位精霊のケルスティンであっても、術式に用いる触媒に限り、魔力への還元―つまり物体の消滅が可能という点に着目した。そして、その触媒を錘に使うという発想により、『敵への威嚇』と『呼び鈴を鳴らす』という二つの目的の同時達成を可能としたのだ。

これにより交代で夜番をせずとも、片方が呼び鈴に反応できる程度の居眠りにさえ抑えておけば、外敵の侵入にスムーズに対処できるようになる。二人旅において革命的なまでに、夜番の労苦を軽減することができるのだ。

少なくともウルヴァーンで調べた限りでは、触媒をこういった形で利用する道具は存在しなかった。現時点では、術式の大本がアイリーンの魔力依存で、“警報機”そのものも魔道具とは呼べないようなただの機械だが、ゆくゆくは水晶さえ用意すれば一般人でも使える魔道具型警報機が作れるのではないか、とケイたちは踏んでいる。

コーンウェル商会と組めば、なかなか面白い商売ができるだろう。この世界に特許の概念はなく、仕組みも単純であるため他の魔術師でも再現は可能だろうが、それでも圧倒的なニーズによりアイリーンの仕事がなくなることはあるまい。

ああ、そういう意味じゃ、なんか帰るのが楽しみになってきたな

そう言ってからケイは、自分自身の『帰る』という言葉にどきりとした。

そーだな、ああ、さっき叩き起こされたからやっぱ眠いや

アイリーンは気にする風もなく、小さく欠伸をしている。

……アイリーンは先に寝るといい。俺が『夜番』をしよう

座ったまま木の幹にもたれかかり、ケイは薄く笑ってみせた。 お、そーお? と荷物から毛布を引っ張り出したアイリーンが、地面に革のマットを敷いてコテンと寝転がった。

ケイの膝を、枕にして。

……寝にくくないか?

これがいい。……おやすみ

ケイの懸念をよそに、すりすりと身を寄せたアイリーンは、そのまま静かに寝息を立て始める。

…………

暖かな炎の明かり。揺れる光と影。冷たい夜の風。知らない土地の空気。

いつか見たような半月だけが、優しくケイたちを見守っている。

ぱちぱちと音を立てる焚き火に、ケイは枯れ枝を放り込んだ。火の粉が散り、ふわりと灰が舞い上がる。

帰る、か……

思わず、ぽつりと呟いた。衝動的に、手元の金髪を、アイリーンの頭を撫でていた。その眠りを妨げないように、まるで壊れ物でも扱うかのように。

―何だかんだでこうして無事でいるが、毒を盛られた上に寝込みを襲われたわけだ。

そんな実感が、しみじみと湧いてくる。

(―アイリーンは、帰りたいんだろうか)

そしてやはり、そこに帰結する。自分が独りだと認識してしまうと、つきまとって離れない考えだった。当然のように、答えは出ない。

答えは出ない―

ふと、すぐ傍においてある、アイリーンの警報機に目を留めた。

ゆくゆくは、水晶さえあれば、誰でも使えるモデルを作るという。

それはつまり―ケイでも使えるということだ。

たとえアイリーンが、いなくなっても。

…………

頭を振ったケイは、目を閉じて、こつんと後頭部を木の幹にぶつけた。

取り敢えずは、この警報機の恩恵に与り、存分に居眠りをしようと思った。

膝の上の心地よい、アイリーンの体温を感じながら―

―今は何も、考えずに。

38. 挫折

どんよりとした曇り空の下、ケイとアイリーンは黙々と歩みを進めていた。

どちらも騎乗の人ではない。げっそりと憔悴した表情で、それぞれ手綱を引いて歩いている。二人とも全身から疲れ切った雰囲気を滲ませていたが、連れている二頭―サスケとスズカの様子はもっと酷い。うなだれたままだらりと舌を垂らして、その呼吸は荒く、今にもふらふらと倒れてしまいそうだった。

頑張れ、もうちょっとで着くからな……

苦しげにあえぐサスケに励ましの声をかけたケイは、背中の荷袋の位置を正し、自身にも改めて気合を入れ直した。元々はスズカに載せていた荷物だが、衰弱した彼女の負担を少しでも軽減するため担いでいくことにしたのだ。ケイの背後では死んだ魚のような目をしたアイリーンが、同様に少しばかりの荷袋を背負って歩いている。

北の大地へ踏み込んだ当初の、楽しげな雰囲気など欠片もない。焦燥感と疲労感に追い立てられるようにして、ただ愚直に足を動かす。忌々しげに額の汗を拭ったケイは、無意識のうちに腰の水筒へと手を伸ばしていた。歩調に合わせてゆらゆらと揺れ動くそれは、しかし全く音を立てず、軽い。

空っぽだった。中身はとっくに飲み干してしまっている。喉が渇いた―とは今更口には出さず、ケイは意識的に唾を出して渇きを誤魔化そうと試みた。

…………

案の定うまくいかず、厳しい表情のまま、足を動かすことに注力する。

どれだけ歩いただろうか。木立を抜け、平野を突っ切り、丘を越え―

―ああ

その向こう側に広がった景色に、思わずケイは足を止めた。

やっと着いた。見えたぞ、アイリーン!

……マジで!?

道の果てを指差すケイ。わずかに瞳の光を取り戻したアイリーンがバッと顔を上げる。

マジだとも。ようやくだ

……うっ

感極まったように、アイリーンはうっすらと涙を浮かべた。

う、うううっ。良かった……っ!

ああ、これでやっと―

二人揃って、噛み締めるように、

水が補給できる……!!

ぶるる、と溜息をつくように、サスケとスズカが鼻を鳴らした。

もう少しだぞ、サスケ

スズカ、あとちょっとで水が飲めるからな、頑張ろうな

ケイがサスケの首をぽんぽんと叩く傍ら、アイリーンはスズカのたてがみを撫でつけ、再び歩みを再開する。

道の果てには、山と山の間に張り付くようにして広がる石壁の街―

―緩衝都市ディランニレン。

どうにか戻ってこれた……

思わず、ケイの口から感慨深げな言葉が漏れる。

北の大地に踏み込んでから三日。

ケイたちは、エゴール街道を引き返し、ディランニレンへと戻っていた。

†††

結論から言うと、東回りのエゴール街道ルートは、とてもではないが旅の出来るような環境ではなかった。

行きずりの村で寝込みを襲われたケイたちであったが、しかしその時点ではまだ、引き返すことまでは考えていなかった。アイリーンの”警報機”もあることだし、野宿しながら住民との接触を最低限に抑えれば大丈夫だろう、ということで治安の悪い東部を突っ切ることにしたのだ。

が。

その次の日、ケイたちは早くも深刻な問題に直面した。

水不足。ケイとアイリーンの分は言うに及ばず、サスケたちの飲み水が、圧倒的に不足していたのだ。

これまで公国内を旅するとき、ケイたちは常に川沿いを進んでおり『馬に必要な水』をほとんど意識することがなかった。しかし実際のところ、馬は一日に30~40リットルの水を飲み、走って汗をかけばそれ以上の水分を必要とする。単純に大の大人の一抱えもあるような瓶一杯の水を用意しなければならないわけだが、エゴール街道周辺に河川はなく、そして数少ない水源のそばには必ずといっていいほど雪原の民の集落があった。

住民との接触を控えようにも、水のために集落には立ち寄らざるを得ない。しかしいざ水を分けて貰おうとすると、今度は価値観の差が、『一滴の水の重み』の違いが、分厚い壁となって立ち塞がった。ケイたちが集落に立ち入った時点で良い顔はされなかったが、アイリーンが水の補給を願い出ると、返ってきたのは完全なる拒絶であった。

聞けば、このところ東部地域では雨が降っていないようで、現地の住民たちでさえ渇水に陥りつつあるらしい。そこに余所者がのこのことやってきて、水を―それも人間だけではなく馬のためにも―分けてくれと言っても、到底受け入れられるはずがなかった。

ケイたちは悟った。煮沸消毒しなくて飲めるレベルの水源がごろごろしていた公国は、真の意味で『豊か』だったのだと。そして蛇口を捻れば水が出てくるのが当たり前だった現代人のケイたちは、そのありがたみを知識としては知っていても、『理解』はしていなかった。今までの環境が恵まれていたせいで、そんな基本的なことに気付けていなかったのだ。

結局、 水を分けて欲しい と聞いた時点で住民たちが ふざけるな と激昂しだしたので、ケイたちは逃げるようにしてその集落を後にした。

次の集落でも交渉を試みたが、返事はなしのつぶて。タダでとは言わない、金は払うと金目のものを取り出せば、目の色を変えた住民たちに総出で襲われる始末だった。咄嗟に反撃して何とか事なきを得たものの、住民側に怪我人を出してしまったので今後その集落の周辺には近寄れないだろう。

あの困窮ぶりでは、到底まともな治療は望めまい。矢傷が膿んだり感染症にかかったりして、何人かは死ぬかも知れないと考えるとケイは暗澹たる気分になった。

とはいえ、他人の心配ばかりもしていられない。いずれにせよこの調子では二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまう。どうやって水を手に入れるのか。そして、このまま進むのか、引き返すのか。ケイたちは決断を迫られていた。

―最終的に、現在地や天候その他を鑑みて、ケイたちは引き返すことを選択した。

水不足に陥った時点ではまだ予定のルートの五分の一も消化できておらず、その後の飲料水の目処も立たないまま突き進むのは自殺行為に等しかった。完全な手詰まりになる前にディランニレンへ引き返し、馬賊のリスクを承知の上でも、水の確保が容易なブラーチヤ街道を北上すべし、という方向で意見がまとまった。

では、ディランニレンに戻るまで道中の水はどうするのか、という話になるのだが。

真っ当な手段で水を確保するのは難しい―苦肉の策としてケイたちが考え出したのが『邪悪な魔法使い(イヴィルウィザード)』作戦。夕暮れ後や夜明け前―アイリーンが魔術を使える時間帯に集落を訪ね、水を工面して貰えるようまず交渉する。成立すればそれでよし、決裂した場合はケルスティンの影で村人をビビらせ、高圧的な態度で改めて脅迫(こうしょう)に臨む、というシンプルな作戦だ。

ケイは顔布で顔を隠してフードを目深にかぶり、一言も話さない不気味な護衛戦士の役を演じ、アイリーンは予備の外套を着込んで換金用の装飾品をじゃらじゃらと身につけ、なぜか持ってきていた口紅まで引き、尊大な魔術師として振舞った。

夕闇に浮かぶ、真っ白な肌と紅い唇のコントラスト。いわゆる一般的な”魔術師”のイメージからかけ離れたアイリーンの若さと美貌は、辺境の民の目には一際異様に映ったに違いない。寝込みを襲われた際の経験を活かしたのだが、この作戦は、思いのほか上手くいった。

アイリーン曰く、ここら一帯の住民は信心深い―迷信深いというべきか―らしく、詳しい知識がないことも相まって、呪いや魔術を極端に恐れているらしい。直接的な害がなく、それでいて得体の知れないケルスティンの『影』は、そんな彼らを脅かすにはもってこいだった。

アイリーンが影をけしかければ住民は老若男女を問わず恐れおののき、こちらの要求がすんなりと通るという状況。ケイもアイリーンも、多少悪ノリしていた感は否めないが、やはり脅迫まがいの行為に手を染めるのには罪悪感があった。水の対価は現金で払う、必要以上に脅かさない、などと線引きをして、ケイたちは道中の村々に立ち寄り水を手に入れていった―のだが。

ディランニレンが目前にまで迫ったところで、とうとう問題が起きた。

とある村の住民たちが、よほど切羽詰っていたのか、アイリーンの魔術を恐れながらも強固に抵抗してきたのだ。まさか皆殺しにするわけにもいかず、また、あまり騒ぎすぎると街の警備隊が駆けつけてくる可能性があったので、ケイたちはそのまま水を補給せずに村から逃げ出した。

そして―仕方がなく、ディランニレンまで歩き通したわけだ。

あああ……生き返るぅ……

ピッチャーに直接口をつけて、冷たい水を飲み干したアイリーンが、ぷはっと満足げに息をつく。

ディランニレン、宿屋の裏手。厩舎で桶の水をがぶがぶと飲むサスケとスズカの横で、ケイたちもまた喉の渇きを癒していた。

人間、水がないと生きていけない……本当によく分かった……

しみじみと呟くケイは、アイリーンとは対照的に水筒の水を一口一口味わうようにして飲んでいる。ただの水をこれほど美味いと思ったことはない。清涼な命の滴が、血流に乗って体の隅々にまで染み渡っていく。

思う存分に水を飲んでから、二人ともしばらくピッチャーや水筒を片手に放心状態になっていたが、ふと我に返って顔を見合わせる。

……で、どうする、この後

……そうだな

謎の達成感があったが、旅はまだ始まったばかりだ。ディランニレンはあくまで出発地点に過ぎず、目的地は北の大地のさらに辺境、魔の森。

ブラーチヤ街道を北上するのは既定路線としても……どう行くか

馬賊がなぁー。この三日間でどうなったんだろ

ぼりぼり、と頭をかきながらアイリーン。

ここ数日でそれほど劇的な変化があるとは思えないが、ケイたちは基本中の基本、まずは聞き込みから始めることにした。

サスケとスズカを宿屋の厩舎に預け、街に繰り出す。相変わらず、ケイ―草原の民に見える男―に向けられる住民たちの視線は刺々しい。ディランニレンに到着した初日のように、アイリーンが先行して雪原の民に聞き込みを試みていたが、その間ひとりきりのケイに荒っぽい男が絡んできたり、衛兵が怪しんで近寄ってきたりという事態が多発したため結局二人で行動する羽目になった。

これじゃオチオチ散歩もできないな

う~ん……少なくとも状況は、良くはなってねえな

開き直った様子でシニカルに笑うケイに、アイリーンは渋い顔だ。

聞き込みはあまり捗らない。ケイがセットになったことで、アイリーンに対する通行人の態度が目に見えて悪くなった。笑みを浮かべて話しかけても、胡散臭げにじろりと一瞥されるだけで無視されることもしばしばあり、アイリーンは少し凹んでいるようだ。そういえば彼女はハブられたり疎外されたりするのが苦手だったな、と思い出したケイも、やはり良い気持ちはしない。

しばらく歩いていると小さな広場に行き当たり、そこでは市場が開かれていた。ただの通行人よりは商人の方が愛想も良かろうと、携行食などの小物を買い足しながら、露天商たちに話しかけていく。

馬賊? ああ、最近は被害が酷いらしいねえ

この頃はブラーチヤ街道の近くにも出始めたと聞くが

対策に大規模な隊商が組まれるらしいな……

その男は草原の民じゃないんだろうな? ん、それは公国の身分証……いや、失礼

雪原の民に比べ平原の民―公国出身の商人たちは、まだケイに対する風当たりも強くなかった。疑われるたびに提示したウルヴァーンの身分証も、それなりに効果があったらしい。断片的にではあるが徐々に情報を集めていく。

なんてこった……馬賊の連中、ブラーチヤ街道沿いにも出始めたのか……!

一通り商人たちに話を聞き終えたあと、市場の片隅でアイリーンは頭を抱えた。

状況はむしろ悪化してるな

ガッデム! こんなことなら最初っからブラーチヤ街道進んでおくんだったー!

ケイの端的なコメントに、自身のポニーテールをガシガシ引っ張りながらアイリーン。こういうとき、無駄だとは悟りつつも取り敢えず地団駄を踏むのが彼女だ。ケイもいつものように生温かい目で見守る。

で、どうするアイリーン

隊商が云々……ってさっき誰かが言ってたよなぁ。合流するべきか?

出来るならそれに越したことはないだろうが

……出来るなら、だよな。二人で一気に駆け抜けるって手もあるとは思うんだけど

俺もそれは考えた。二人の方が身軽だし、いざ馬賊に遭遇しても魔術を使えば高確率で逃げられると思う……だがリスキーなのは変わらないし荷物を捨てる羽目になるぞ

仮に馬賊の襲撃をかわすとなると、現状ではスズカの足が遅すぎる。身軽にするために彼女に積載した荷の大部分は犠牲にする必要があるだろう。

その場を凌いでも、荷物がなくなったらヤバいよなぁ……

アイリーンの目が遠くなった。今回のエゴール街道ぶらり二人旅で、物資の大切さは身に染みて分かっていた。ブラーチヤ街道沿いは水源が豊富なので、地図さえあれば水場は見つけられるだろうが、やはりテントや食糧がなくなるのは辛い。加えて”警報機”を失うことにでもなれば、二人きりでの野営はさらに苦しくなるだろう。

どうしたものかね……

そーだなぁ……

広場の端っこで建物の壁にもたれたまま、二人してぼんやりと通行人を見やる。からりと晴れた空で市場を行き交う人々、客引きに声を張り上げる露天商たち。いずれも、ちらちらとケイたちに視線を向けていた。

主にケイのせいだ。これではどっちがどっちを観察しているのか分からない。

仮に、二人きりでブラーチヤ街道を北上するならば、こうしてボヤボヤしている一分一秒も無駄なわけだが、どうにも考えが上手くまとまらない。エゴール街道で苦しい思いをしただけに、尚更のこと。

あ~……アタマ痛くなってきた

溜息をついたアイリーンが、ぐりぐりと眉間を揉み解す。

奇遇だな、俺もだよ

ふふっ。ゲームん時は、即断即決がオレたちのモットーだったのにな

心底懐かしげなアイリーンの言葉に、ケイは複雑な笑みを浮かべた。

流石に今は命がかかってるからな、気軽には決められないよ

だよなぁ……ゴメンなぁケイ、付き合わせちゃって……

いや、そういうワケじゃないんだが

アイリーンがしょんぼりと元気をなくしてしまったので、わしゃわしゃと手を蠢かせながらケイは狼狽する。そういうことが言いたかったワケではない。

なに、アイリーンのためなら、命の一つや二つ張ってみせるとも

ドンッと胸を叩いて、歯の浮くような台詞を口にした。気障なことを言った自覚はあるのか、ケイの頬もかすかに赤い。一瞬きょとんとしたアイリーンであったが、すぐにその場の空気に耐え切れなくなってプッと吹き出した。

あはは、何だよそれ

う、うむ……

……でも、ありがとう

……うむ

くすくすと笑ったあと、穏やかな微笑を浮かべたまま、心地のよい沈黙が訪れた。

すぐ傍の平原の民の露天商が なに二人の世界作ってんだ と冷めた目を向けていたが、幸いにして二人とも気が付かなかった。

ふぅ。まあここでウダウダやってても始まらねえ、取り敢えずケイ

なんだ

糖分補給しよう。さっき、あっちでウマそうな干し果物売ってたんだ

あっ、おい!

言うが早いかさっさと歩き出すアイリーンを、ケイは慌てて追いかけた。

市場のほぼ反対側。木の棒に布を引っ掛けただけの簡素な天幕の下で、中年の男がドライフルーツや砂糖漬けを売っている。現代の地球に比べると砂糖が高価なので砂糖漬けはなかなか良い値段をしていたが、非常食と考えると魅力的だな、とケイは思った。

おっちゃん、この干しブドウもらえる? この袋に入るだけ

あいよ。銅貨十五枚、公国ので

アイリーンから巾着袋と小銭を受け取った店主が、壷から大匙で干しブドウを掬い取り始める。が、ふとケイに目を留めてその表情を険しくした。

おい! なんで汚らしい蛮族風情が、こんなところにいやがる!

早速罵声を浴びせかけられたが、ケイも慣れたもので なんだ、またこの手合いか と反応する気にもなれなかった。むしろ構うと相手が白熱する傾向があるので、こういった場合の最善手は”完全無視”だ。

まあまあ、彼はああ見えて草原の民じゃないんだよ

……んだぁテメェ、庇い立てする気か!

知らん振りをするケイをよそに、アイリーンが宥めようとするも今度は店主の怒りの矛先がそちらに向く。

おれはなぁ! 姪っ子が馬賊のクソどもに殺されてんだ! 草原の土人どもは許さねえし、その肩を持つヤツもそうだ! 出て行けこの売女が! 雪原の恥晒しめ!

口角泡を飛ばす勢いで罵りながら、アイリーンの顔にめがけて小銭と袋を投げつける店主。アイリーンは咄嗟に小銭を回避したが、続いて飛んできた巾着袋が顔面を直撃し へぶっ! と声を上げる。

中に詰められていた干しブドウがぱらぱらと地面にこぼれ落ちた。

―おい

ケイは二人の間に割って入る。

こういった場合は下手に反応しないのが最善手―だが、向こうが手を出してくるとなれば話は別だ。無言のまま、険しい顔で店主を見下ろす。

な、なんだ……やろうってんのか……

ごそごそと足元を探った店主が、小ぶりな棍棒を取り出した。街中で剣を抜くわけにもいかず、ケイは咄嗟に、近くの柱に立てかけてあった火かき棒を手に取った。

鉄製の、長さ一メートルほどの火かき棒。がっしりとした造りでかなり頑丈そうだ。軽く振ってみると、ビッ、ビゥと小気味の良い音を立てる。ちょっとやそっとでは折れ曲がりもしないだろう。

不穏な空気を感じ取り、周囲に野次馬が集まってきた。今のところはまだ衛兵を呼びに行く声は聞こえないが、あまり騒ぎが大きくなる前に決着をつけるべきだな、とケイは改めて店主に向き直る。

棍棒を手に臨戦態勢の店主だが、火かき棒と棍棒を見比べてリーチの違いに心細そうにしていた。が、ケイとしては本気で殴り合うつもりなど毛頭ない。この手の人間は感情が先走っているだけなので、少しビビらせてやれば大抵は大人しくなる。

右手で火かき棒の真ん中を掴み、店主の眼前に突き出した。何をするのか、と怪訝な様子の店主をよそに、ぐっと棒を握る手に力を込める。ぎりぎりぎり……と鉄が軋む音。

おお、と野次馬がどよめく。店主は呆気に取られたまま、片手の握力に屈し、ゆっくりと捻じ曲がっていく火かき棒を見つめていた。

やがて、完全にくの字に折れ曲がった火かき棒を、ケイは店主の足元に放り投げる。からんからん、と石畳を鉄が転がる音。

貴様もその火かき棒のようにしてやろうか

大げさに指の関節を鳴らしながらケイが凄むと、店主は足元の火かき棒とケイを交互に見やり、すっかり顔を青褪めさせていた。 効いてる効いてる というアイリーンの呟きが背後から聞こえ、不覚にも吹き出しそうになったケイは必死で怖い顔を保つ。

―おいコラ

と、そのとき、何者かが声をかけてきた。険しい表情をキープしつつぎろりと横を見れば、干し果物屋の隣でクレープを売っていた初老の男が腕を組んで憮然としている。

クイッ、と折れ曲がった火かき棒を顎で示した初老の男は一言、

火かき棒(ソレ)、ウチのなんだが

えっ

確かに、よくよく見れば火かき棒の立てかけられていた支柱は、隣のクレープ屋のものであった。冷静に考えれば、成る程、干し果物屋は火を扱わないので火かき棒を置いておく必要もない。

す、すまない……! てっきり干し果物屋のものかと

慌てて火かき棒を拾い上げたケイは、すっかりくの字に曲がってしまったそれに眉を下げる。

戻せるかこれ……? いや! 御老体、しばし待って頂きたい。どうにかする

捻じ曲がった部分を両手で掴み、反対側に曲げ始める。両手を使う分、よりスムーズに矯正できたが、しかし今度は勢い余って曲げ過ぎてしまう。ケイは四苦八苦しながら、不器用に火かき棒の形を整えた。

……よし。これでどうだろうか

…………

くねくねと微妙に蛇行する火かき棒を受け取って、クレープ屋の老人は渋い顔だ。

……まあ、使えんことはないが

ぷすー、と溜息をついて、そのまま傍らに火かき棒を置く老人。ほっと胸を撫で下ろすケイの横で、アイリーンがくすくすと可笑しそうに笑っている。

いつの間にか、野次馬たちも散っていた。近隣の露天商はなんとも締まらないオチに苦笑しているようだ。件の干し果物屋もそっぽを向いて知らん振りを決め込んでいる。

で? もちろん何か買っていってくれるんだろ? なあ

コンコン、とクレープ用の伸ばし棒で鉄板を叩きながら、老人。 も、勿論 とケイは引き攣った笑顔で頷くほかなかった。

ケイは軽食としてハムとチーズのクレープを、アイリーンは果物と蜂蜜を使った甘めのものを注文し、老人が作っている間に、自分たちの境遇などを大まかに説明した。

……成る程なあ、お前たち”シャリトスコエ”に行きたいのか。物好きなことだ

“魔の森”に最も近い小さな村―シャリトスコエの名を聞いて、老人はしたり顔で頷いていた。

ん、知ってんのか爺さん

ああ。ワシの生まれはシャリトの近くでな。何だかんだあって、こんなところ(ディランニレン)まで流れ着いてしまったがなぁ……

昔を思い出したのか、何やら悲しげな顔でズズッと鼻をすすって、ぐりぐりと右手で鼻の下辺りを擦る老人。そのままの手でクレープ作らないで欲しいな、とケイは思ったが、儚い祈りは届かなかった。流れるような所作でチーズとハムを摘み、クレープ生地で包む老人。食欲の減退する光景にケイもまた悲しげな顔をする。

―いや、『こちら』ではこの程度のことは日常茶飯事だ。食堂や酒場などの衛生環境はお世辞にも褒められたものではないし、異物混入などもいちいち気にしていたらきりがない。『身体強化』の紋章があるから大丈夫、大丈夫……とケイは自分自身に言い聞かせ、努めて気にしないことにした。

ほれ、チーズとハムのクレープな

ありがとう……

でもさー、オレたちもちょっと困ってんだよね

ケイが物思いに沈んでいる間も、アイリーンは老人との会話を続けていた。

ブラーチヤ街道北上したいんだけどさ、最近馬賊出てるらしいじゃん?

らしいなぁ

老人は一瞬、ケイをちらりと見て悪戯っ子のような笑みを浮かべる。

……何度も言うが、俺は関係ないぞ

なぁに、さぞかし苦労が多かろうと、そう思っただけのことよ。異民族は生きにくい、なあ?

でさでさ、オレたちも隊商に合流できたらなーとか考えてるんだけど、コネもツテもないし―

話が妙な方向に逸れる前に、アイリーンが強引に言葉をつなぐ。

爺さん、何か耳寄りな情報ない? 年の功でさー

年の功は余計だっ小娘が

めっ、と怒ったような顔でアイリーンを睨んでみせた老人は、蜂蜜のクレープを作りながら そうさな…… と考え込む。

たしか……『ガブリロフ』商会だったか。明日あたりに隊商を組むらしいと聞いた

おっ、マジで! オレたちも飛び入り参加できるかな?

どうだか。あそこの商会は閉鎖的だからなぁ……

ふーん。でもまぁ、試してみる価値はありそうだ。なあ爺さん、そのガブリロフ商会っての、どこにあるか知ってる? あと口添えとかしてくんない?

毎度のことながら、愛想の良さを全開にしてガツガツと攻めていくアイリーンの姿勢には、ケイも感心するやら呆れるやらだ。老人は蜂蜜のクレープをアイリーンに差し出しながら、ガッハッハと大声で笑った。

たったクレープ一つで、なんと厚かましい娘だお前さんは! ……すまんが、ワシには口添えなんざ大それたことはできんよ。ただ商会の場所は知ってる。あの通りを真っ直ぐ行って、三番目の角を左に進むといい。そうすれば突き当たりの小さな広場に獅子の銅像があって、商会の本部はその目の前だ。大きな看板があるから一目で分かるだろうさ

おおー、ありがとう爺さん! あ、オレ、アイリーンっていうんだ。爺さんは?

ワシは、スパルタクよ。よろしくな

一瞬、会話の流れが止まり、二人の視線がケイに集中する。慌てて口の中のクレープを飲み込んだケイは、革兜を脱ぎ老人―スパルタクに一礼した。

ケイだ。情報提供ありがとう、スパルタク氏

ふん、野郎に礼なんぞ言われても嬉しくないわ

カシャカシャッ、と鉄板の上の小麦粉のクズを払い落としながら憎まれ口を叩くスパルタクに、思わず苦笑する。

クレープを片手に、ケイたちは今一度スパルタクに礼を言ってから、教わった道の方へと歩き出した。

ここにきてようやく進展があったな、流石だぞアイリーン

ふふん、任せろ。……あ、これ美味しい

もっぎゅもっぎゅとクレープを頬張りながら、アイリーンが幸せそうに目を細める。微笑ましげにそれを見守るケイであったが、ふとスパルタクについて、気になる点に思い至った。

なあ、アイリーン

ん?

さっきのスパルタク氏だが、随分と綺麗な英語を話していたな

スパルタクは顔つきから雪原の民のように見えたが、その英語は流暢で一切のロシア語訛りが入っていなかった。

ああ。なんかポロッと漏らしてたけど、平原の民とのハーフなんだってさ

……ほう

ケイは、ちらりと振り返る。視界の果て、広場の片隅でクレープを焼く老人。

―異民族は生きにくい、なあ?

そんな声を聞いた気がして。

†††

で、だ。……最終的に、どうだろう。ケイは隊商に合流した方がいいと思うか?

そうだな、条件にも依るが俺は良いと思うぞ

クレープを食べ終わったケイたちは、歩きながら話し合いを続ける。

ただ、スパルタク氏曰く閉鎖的な商会らしいが……

う~ん。やっぱりそれ相応の『価値』を示さないといけないよな。仲間に加えたい、と思われるような……

指先で唇をなぞりながら、アイリーンが考え込む。

……よし。魔術で売り込みをかけよう。オレの魔術と”警報機”があれば、対価なしで隊商に入れてもらえるんじゃないかな

ほう、思い切るな

他に切れるカードがないんだ。ケイのシーヴも悪くないけど、常用できないし

だな……

ケイの契約精霊”風の乙女”シーヴは、あくまで奥の手だ。アイリーンとは違って気軽に魔術を運用できるわけでもなし、必要に迫られるまでは伏せておくのが吉だろう。

魔術を提示するなら、どんな排他的な連中でも諸手を挙げて歓迎するだろうが……問題は俺だな。最悪アイリーンだけ隊商に加わって、俺とサスケが別行動―

そりゃあないぜケイ! か弱い乙女を野獣どもの中に放り出そうってのかよ!

いやん、と頬に手を当てたアイリーンがしなを作ってみせるが、 よく言う とケイは苦笑した。素手での近接格闘なら、アイリーンの方がよほど強い。

まあ実際、ケイだけハブられるくらいなら参加しない方がマシだ。そんときゃ諦めて二人旅と洒落込もうぜ? ……ふふふ

なんだ、その笑みは。まあ、それも悪くはないな……俺は弓の腕前で売り込みをかけるしかないか。あとは公国の身分証が上手いこと働いてくれるといいな

軽口を叩きながら歩いていくと、やがてケイたちは、獅子の銅像が鎮座する小さな広場に辿り着いた。

あれがガブリロフ商会とやらか

ケイは看板に書かれたキリル文字が読めないが、しかしガブリロフ商会の本部はすぐにそれと分かった。銅像の真正面に佇む、北の大地風な丸屋根の建物。周囲の家屋に比べれば格段に立派な造りだ。本部の前では、数人の雪原の民の男たちが小型の荷馬車を取り囲んで何やら話し合っている。

アイリーンが空を仰いだ。夕刻、日は既に傾いている―

― Kerstin.

アイリーンがぱちんと指を鳴らすと、その足元の影が微かにさざめく。

うん。イケるな

よし

ケイとアイリーンは、顔を見合わせて、小さく笑った。

―それじゃあ、交渉と行こうか

商会本部に向け、二人は足を踏み出した。

39. 商会

ガブリロフ商会本部の前で何やら議論していた男たちは、ケイとアイリーンの姿を認めるや否やぴたりと話を止めた。

太めな中年親父が一人に、武装した屈強な男が三人。

胡散臭げにケイとアイリーンの間で視線を彷徨わせた彼らは、こちらが挨拶するよりも先に動いた。

中年親父が一歩後ろへ下がり、屈強な男の一人―赤毛の偉丈夫が庇うようにその前に立つ。他二人はゆらりと左右に広がりつつ、さり気無く腰の剣の角度を調節した。

無言のまま、自然な、それでいて完璧な連携。

真ん中の赤毛の男はケイの視界から中年親父を隠し、双方を結ぶ直線上に立ち塞がっている。左右の二人は如何様に剣を抜いても互いに干渉しない、絶妙な間合いを保っていた。

いっそ、清々しいまでの警戒ぶり。 やあ と声をかけようとして口を開けたまま、アイリーンは笑みを引き攣らせて固まった。

『……何の用だ』

後ろに下がった中年親父―おそらくこの場で最も立場が上と見える―が、苛ついたような低い声で問いかける。

“雪原の民の言語(ルスキ)“だ。“公国語(イングリッシュ)“で話すつもりはないらしい。アイリーンは一瞬ケイを気にしたが、ここは自分が話した方が良かろうと判断してぺろりと唇を湿らせる。

『……そんなに構えないで欲しいわ。別に喧嘩をしにきたわけじゃないの』

アイリーンもまたロシア語で答えると、中年親父はケイに向けて顎をしゃくった。

『草原の民を連れている。それだけで、我々にとっては充分に警戒の対象だ』

『彼は草原の民じゃない。私のツレだけど、それは保証する』

『そんなことは聞いとらん。何の用だ』

不機嫌な表情のままそう繰り返す男に、これは先が思いやられるとアイリーンは肩をすくめた。

『明日、ガブリロフ商会が隊商を出すと聞いたわ』

『それがどうした』

『……単刀直入に言うと、貴方たちの隊商に同行させて欲しい。私たちもベルヤンスクを目指しているの』

『なに?』

しばし目を瞬いた男は、そのまま鼻を鳴らして首を横に振った。

『話にならん。帰れ』

『もちろんタダでとは言わない。貴方たちにとっても得になる話』

『ほう、何をしてくれるつもりだ? まさか身体でも売ろうってか』

左右に控えていた護衛の一人が、下卑た笑みを浮かべてアイリーンの肢体に舐めるような視線を向けた。アイリーンはそれに答えず、ただパチンと指を鳴らす。

―Kerstin.

ぞわりと空気が異様な気配を孕んだ。アイリーンの足元の影が震える。

まるで無数の蛇のように、あるいは何かを探る手のように。

おぞましくのた打ち回る黒い影―

四人は少女の背後に、淑やかに微笑む貴婦人の姿を幻視した。

『……魔術師か』

僅かな動揺をふてぶてしさで塗り固め、中年親父は鼻を鳴らす。他の男たちも一瞬身を固くしたが、すぐに肩の力を抜いて自然体に戻った。内心は分からないが、少なくとも平常心を保っているように見える。

『あら、あまり驚かないのね』

『我々商会も魔術師を抱えているからな。……ここまでおぞましくはないが』

強がるように言いつつも、蠢く影に気味が悪そうな中年親父。

ここ数日の『邪悪な魔法使い』作戦を経て、演出に目覚めたらしいケルスティンは、影をどんどん過激なものへと進化させていった。お陰で、ただの虚仮威しに過ぎないくせに、今では触れただけでも呪い殺されそうなほど邪悪なオーラを漂わせている。

(しかし……魔術師か、厄介だな)

アイリーンは考える。商会で魔術師を囲っているとなると、彼らが直に魔術に触れる機会も多いことだろう。能力の限界をぼかしたいところだったが、あまり適当なことは言えないかもしれない。

(いや、どんな種類の魔術師かによって変わってくるか)

ゲームのように攻略wikiで情報共有できているならば兎も角、こちらの世界の魔術師はそう簡単に自分の手札を明かさないだろう。そして彼らが閉鎖的であればこそ、他人の契約精霊にも疎いと考えられる。

つまりケルスティンと全く同系統の精霊と契約していない限り、多少のことは誤魔化してもバレない可能性が高い。

では、仮に商会が雇うとすればどのような魔術師になるだろうか。事前に調べた情報を振り返る限りでは、馬賊が出没する以前、街道周辺の治安は比較的良かったはずだ。そして隊商の護衛にわざわざ魔術師をつけるような”贅沢”は、やろうと思ってもそう簡単にはできない。もっと裏方で役に立つような魔術。そしてそれほど珍しくもない契約精霊となると―

アイリーンは改めて、ガブリロフ商会の本部を見やった。二階の壁面にポツポツと開けられている四角い穴。小動物ならば出入り口として利用できそうだ。そう、例えば鳥のような―

『鴉でも飼ってるのかしら』

アイリーンはにこりと微笑んでみせたが、中年親父は表情を変えず、何も答えない。

(ビンゴ)

しかしアイリーンは瞳の奥を見透かす。ガブリロフ商会が抱えている魔術師は、十中八九”告死鳥(プラーグ)“の契約者だろう。ウルヴァーンからディランニレンに向かう途中でも、手紙を運ぶ鴉を度々見かけていた。伝書鴉を運用して儲けているに違いない。

『……それで、魔術師様は俺たちに何をしてくれるって言うんだい?』

会話が停滞しかけたところで、真ん中の赤毛の偉丈夫が穏やかに話の続きを促した。

『そうね、見ての通り私は影を操るわ。そしてそれは夕暮れ後に真価を発揮する……』

ふわりと外套を翻し、アイリーンは優雅に一礼してみせる。艶やかな笑みに、ひらりと舞い散る影の花。

『あなた方の眠りに安寧を。夜の帳は我が眷属となり、不埒な輩を打ち払いましょう。……私は夜営で襲撃されるリスクを大幅に減らせるわ。具体的には、夜闇に紛れて野営地に近づく敵の早期発見、及びその撃退ってところかしら。近頃の情勢下ではなかなか魅力的な提案だと思うのだけど』

どうかしら? と小首を傾げる。

『夜だけなのか?』

真ん中の赤毛の偉丈夫が、存外につぶらな瞳で問いかけた。クリティカルな質問に、アイリーンは一瞬息を詰まらせる。

『……夜だけね。昼間は明るいからあまり意味がないわ』

何がどう、とは説明せずに、曖昧な笑みで誤魔化す。

『明るいから意味がない?』

『ええ』

『その言葉の意味が、よく分からないな』

『……明るいうちは術の効力が薄いということ』

『しかし、明るい方がむしろ影は濃くなるのではないか?』

『そうなんだけど、昼間は私の精霊が働きたがらないのよ』

『ということは、昼間は魔術が使えないと?』

『使えるわ。……使えるけど、代償が高くつく』

赤毛の男の純粋な、それでいて核心を突く問い。 できないこと を できる と言い切ってしまうと、いざ仲間となったときに痛い目を見るので、ある程度正直に話さざるをえない。笑顔は維持しつつも、ぐぬぬ、と歯噛みするアイリーン。

そんな二人のやりとりをよそに、しばらく目を閉じて思案顔だった中年親父は、おもむろに口を開いた。

『……確かに近頃の馬賊の被害を考えると、夜の安全が保障される意味合いは大きい』

『でしょう?』

『ただ、致命的なまでに、そちらに信用がない』

ばっさりと、切って捨てる。

『その話が本当ならお前の……いや魔(・)術(・)師(・)殿(・)の能力は非常に有用だ。しかし隊商の安全保障、その中でも特に重要な夜の警備をぽっと出の余所者に任せるわけにもいくまい。そして信頼関係を築こうにも、目下のところは時間が足りんのだ』

だいぶん、ふてぶてしさが抜けた表情で、中年親父は肩をすくめて見せた。余所者を警戒する顔から商人の顔に変わっている。

『そういうわけで、明日の隊商にすぐ同行、というのは難しい。信頼関係を築くために幾らか期間を置き、然るべき契約を結んだ後に、改めてお願いできないだろうか』

『そうねえ……』

アイリーンもまた思案顔を見せるが、内心ではしめしめとほくそ笑んでいた。やはり何だかんだいって、この男も魔術師とのコネを作りたいのだ。超常の力を操る者はどのような形であれ金を生む。

(あと一押しってトコだな)

“仲良くなるとどんな利益がもたらされるか”をはっきりと示してやれば、人間、心を開いて打ち解けようというものだ。商人であるなら尚更のこと。

ケイ、ちょっと”警報機”出してくれない?

分かった

これまでちんぷんかんぷんなロシア語会話に案山子と化していたケイは、アイリーンの指示を受けて腰の荷袋を漁る。荷物のほとんどは宿屋に置いてきたが、失くすと取り返しのつかないものや再調達が難しいもの―貴金属やポーションの類―は肌身離さず持ち歩いていた。

アイリーンの”警報機”もその一つだ。

『……それは?』

『試作品の魔道具(マジックアイテム)……とは少々言い過ぎね。まあ将来的に魔道具にして売ろうと考えているものよ。私たちは”警報機”と呼んでいるわ』

『ほう……』

中年親父は平静を装っているが、その目は警報機に釘付けだ。そしてふと、気付いたように視線を上げる。

『そういえば、名前を聞いていなかった』

『アイリーンよ。こっちはケイ。よろしく』

『私はゲーンリフだ。よろしく』

中年親父―ゲーンリフとほんの少しだけ歩み寄ったところで、アイリーンは警報機の概要を説明する。

『―というわけで、まあ簡単に言うと、半径百歩以内に踏み込んだ外敵を威嚇しつつ、ベルで知らせてくれる機械よ』

『ほうほう……その”敵”の定義は?』

『使用者―現時点では術者、つまり私に直接的・間接的にかかわらず害意を持つ者ね。精霊の前で嘘はつけないから、自覚なく危害を加える人間でもいない限り、盗賊から獣の類まで幅広く対応できるわ。まあ私がこの機械を対象に術をかけるだけだから、条件はある程度融通が利くけど』

折角なので、実演してみせることした。

広場に警報機を設置し、警戒範囲を十歩に設定して術を起動する。そしてゲーンリフの護衛三人に、アイリーンには秘密で『敵役』をひとり決めてもらい、三人同時に結界内へ踏み込ませる。

数回敵役を変えて同じ実験を繰り返したが、ケルスティンの影はアイリーンへの敵意を意識していた者にのみ、ことごとく反応を示した。

『将来的には、私抜きで触媒だけ設置すれば起動する魔道具にしようと思ってるわ』

得意げなアイリーンの説明に、ゲーンリフたちは唸る。

『……これかなり使えますよ』

『言われんでも分かっとるわ』

『完成したらウチでも欲しい』

何やらヒソヒソと話し合う男たち。ふふん、と腕を組んでドヤ顔のアイリーン。話の内容は良く分からないが、悪い流れではなさそうだと察するケイ。

『確かに。確かにこの警報機は素晴らしいものだ。叶うことなら我々の商会でも是非扱わせて頂きたい。しかし……!!』

やがて、ゲーンリフは苦虫を噛み潰したような顔で、

『しかし……それとこれとは話が別。明日の隊商にすぐに加えられるかというと……』

『駄目?』

『この魔道具の性能を疑うつもりがないが、やはりアイリーン、あなたの信用の問題なのだ。この道具の機能は、現時点ではあなたの術に依存する。それはつまり、あなたの気分次第でどうとでも細工が可能だということだ。あなたが実は馬賊の一味で、我々に夜の警戒は万全と油断させ、仲間を呼び寄せようとしている可能性も否定できない』

『うーん確かにそれはそうだけれども……』

両者ともに困り顔だ。やはり肝心の警報機の機能が、ゲーンリフたちに対しブラックボックスとなっているのがネックであった。

辺りはいつの間にか暗くなりつつある。どうしようもない沈黙。

『―ほう、何やら面白いことをしてるじゃないか』

しかし完全に話が流れてしまう前に、“上”から声がかかった。仰ぎ見れば、ガブリロフ商会本部の壁に開いた穴から、鴉が一羽顔を出している。

真っ赤な瞳の鴉は小首を傾げ、

『是非、私も混ぜて欲しいな』

ばさばさと翼を羽ばたかせながら地上に降り立った。

ぶわりと、その輪郭が歪に膨れ上がり―

まばたきの後、そこには臙脂色のローブを羽織った白髪の老人が立っていた。上背はあるが病的に痩せており、その瞳は鴉と同様に赤い。

『ヴァシリー殿!』

ガブリロフ商会の面々はぎょっとしていたが、アイリーンは大して驚かなかった。ゲーム内でも散々目にしてきた、告死鳥の契約者が得意とする”変化”の魔術の一種。ただし、話の流れが分からなかったケイは少し意表を突かれている。

『魔力の流れを感じたものだから、つい顔を出してしまったよ。それにしても、やあ、これはまた可愛らしい魔女もいたものじゃないか……』

痩身の老魔術師は、アイリーンを見てニチャァリと笑い―そう表現するほかない、どこか粘着質な笑み―、一礼する。

『初めてお目にかかる、私はガブリロフ商会所属の魔術師ヴァシリーという』

『私は、アイリーン。まあ見ての通り流れの魔術師よ』

簡単な挨拶のあとに、しばしの沈黙があった。互いに互いを観察するような時間。

やがて、不自然なまでに皺だらけの顔を歪めて、ヴァシリーはくつくつと嗤った。

『……不思議だな。この若さでこの魔力とは。自信を失くしそうだ』

ヴァシリーの言葉に、アイリーンはまたしても困ったような顔になる。ゲーム内では自主トレモードに設定したキャラに瞑想させたり魔導書を読ませたりして、労せず魔力を育てただけだ。こうして『本物の』魔術師と相対すると、どうしても自分がずるをしているような罪悪感に襲われてしまう。

ましてや、“告死鳥”は契約者に力を与える代わりに凶悪な呪いをかける精霊だ。一目で健康を害していると分かる―多大な犠牲を払っているのが明らかなヴァシリーを前に、引け目を感じてしまうのも当然といったところか。

ヴァシリーは、ばつの悪そうなアイリーンを見、一瞬その傍に立つケイにも視線を向けてから、おどけるようにお手上げのポーズを取った。

『まあ、そんなことはどうでもいい。それより私はその機械と術式に興味があるんだ』

アイリーンの心のうちを察したか、飄々とした態度で話を戻すヴァシリー。すぐさま説明に口を開きかけたアイリーンは、しかし、それで口が軽くなるように仕向けたのなら大した老人だ、と直感的に思った。

警報機の詳細を語れば、この老魔術師は再現できるだろうか。仕組みそのものは難しくも何ともない、ただ術式の代償として消費される触媒を、機械を作動させるために利用する、という発想がこの道具のキモだ。

どうせ商品化して売り出せば、特許もクソもないこの世界のことだ、すぐにコピーが作成されるだろう。ならばここで情報を伏せるより、『この世界の魔術師』がアイリーンの発想をどう受け止めるのか見てみたい、という想いがあった。

結局アイリーンは、警報機の仕組みをある程度詳しく、ヴァシリーに語ってみることにした。

基本的な術式の説明にはさして驚きも見せなかったヴァシリーだが、『消失する触媒を錘として利用する』というくだりを聞き やられた! という表情で額を叩く。

『その発想は! その発想は……なかった。そもそも私の術は、そういった道具を作るのには向いていないからね、その手のからくりを作ろうとしたことなんて、数えるほどしかなかったんだが……いやはや、これはかなり幅が広がりそうだ……』

『ということは、ヴァシリー殿もこの警報機を作れると?』

感心しながらぶつぶつと呟くヴァシリーに、何やら小狡く目を光らせたゲーンリフが遠慮がちに尋ねる。

『いや。似たようなものは出来るけど、コレそのものはちょっとムリだ』

が、あっさりと否定され、ずっこけた。

『で、できないのか……』

『相性の問題だがね』

ゲーンリフのあからさまに落胆した言い方に、自尊心を傷つけられたのか、若干ムッとした様子でヴァシリー。

『私の魔術は鳥を介する。闇そのものを媒体とする彼女の術とは根本的に異なるのだ。特に夜目が利く鳥は限られているからね……まあ、昼間に限定するなら似たような物が作れるんじゃないだろうか。ただし専用の鳥も一緒に連れて行かないとだから、その辺は面倒になるだろう』

『は、はぁ……』

『いや、それにしても面白い。良かったらお嬢さん、こんなところで立ち話もなんだし、中でお茶でも如何かね』

『喜んで、と言いたいところだけど、まだ用事が済んでないのよね……』

『ふぅん? というか、何故こんなところで立ち話なんてしてるんだ君たちは』

不思議そうなヴァシリーに、改めて隊商に同行したい旨を伝える。

『なんだ、そんなことか。ゲーンリフくん、そんなに術式の中身が不安なら、警報機を使う前に私が確かめれば万事解決なのではないかね』

『……と、いいますと?』

『夕暮れ時に私が鴉に憑依して、遠隔的に術式を確かめるのだよ』

話によると、ヴァシリーの魔術の恩恵に与り、ガブリロフ商会の隊商は常に伝書鴉を数羽連れているらしい。基本的には緊急時の連絡用だが、ヴァシリーがその気になれば憑依してリアルタイムの会話が可能なのだという。

『まあそういうわけで、明らかに変な真似をしたら私が教えて上げられるんだが』

『う、う~む……』

『それに今後のことを考えると、試験運用と考えてもいいんじゃないか。警報機を使いつつ、平素よろしく夜番もすればいい』

『まあ、それは確かに……しかし……』

『まだ何かあるのか? 私は君が何故迷っているのか図りかねるのだが』

渋るゲーンリフに、ヴァシリーが首を傾げる。

『……やはり、信用の問題だ。彼女がかなりの魔術の使い手であることは疑う余地がないが、だからこそ敵であったときが恐ろしい』

『ああ、なんだそんなことか』

得心した様子のヴァシリーは改めてアイリーンに向き直り、

『お嬢さん。確認するが、きみは我々に害を為す者ではないのだね?』

『違うわ』

『誓えるかね?』

『もちろん』

『ならば、お手を拝借』

すっと、ヴァシリーはアイリーンの手を取った。

―Wohlfart, la sekreto estas elmontrita.

と同時に、唱える。

ヴァシリーの瞳が赤く輝き、アイリーンはその背後に漆黒の翼を幻視した。

ズグン、と胸の奥が鈍く脈動する異様な感覚。

『……うん。彼女は嘘をついていないよ。私が保証しよう』

手を離して、ローブの袖の中で腕を組みながらヴァシリー。

『……今のは、嘘を看破する魔術? いや、邪眼?』

『ほう、これは驚いた。お嬢さんは告死鳥の魔術にも精通していると見える』

気味が悪そうに胸を撫でさするアイリーンに、ヴァシリーは愉快そうに笑った。ゲーンリフらが怪訝な顔をしている。

『ヴァシリー殿、今の術は?』

『ん、まあ邪眼の一種だ。端的に言えば、嘘をついたら呪われる』

ヴァシリーは楽しそうに解説するが、一方でアイリーンは渋い顔だった。

(今の邪眼、オレの耐性を貫通しやがった……)

邪眼―それは告死鳥の術の一つ。ゲーム内では、術者の視線上にいる存在に身体能力低下のデバフや継続ダメージを与える技であった。術者の瞳が赤く発光するのが特徴で、視線を浴びてしまえば距離に関係なく効果が発揮される。

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