そこからは、ケイ一人に対して四方八方からの矢の雨だ。幸いなのは、ケイが仕掛けた騎射戦のせいで、馬賊たちが既にかなりの矢を使い切っていたことだろう。
外傷に対して経口摂取のポーションがどれほど有効かは不明だったが、土壇場で試す羽目になってしまった。結論としては、悪くない。少々治りが遅いが肉体の損傷はじわじわと修復されつつある。少なくとも、燃えるような激痛(ジュワワワワ)を回避できるというだけでも価値はあるだろう。
今は傷が完全に治らないのを承知で、敵を不気味がらせるために矢が身体に刺さったまま放置している。背中の矢に関しては、自力だと抜けないということもあるが。
(しかし、困った)
身体が思うように動かない。まるで熱病にでも冒されたかのようだ。
小さい頃、院内感染で患った肺炎を思い出す。体を蝕むだるさ、熱っぽさ、そしてズキズキと体全体が痛む感じ―全てがアレに似ている。かかったことはないが、インフルエンザもこういった感じなのだろうか。
原因は推測できる。おそらく告死鳥(プラーグ)の契約者による邪眼だ。 DEMONDAL に準拠した世界において、このような症状をもたらすものはこれしかない。
身体の不調は身体能力を低下させる呪い(デバフ)。全身の痛みは継続的なダメージだろう。先ほどからずっと、遠く離れた木立に赤い光を感じている。告死鳥の邪眼は目視した相手に直接作用し、視線が通る限り回避不能だが、邪眼の対象となった人物からは発生源を赤い光として知覚できる。おそらく、あの木立に邪眼の使い手が潜んでいる―しかし反撃しようにも、筋力が低下しているせいで現状のケイでは”竜鱗通し”を引くことができなくなってしまった。
幸いなことに、呪い(デバフ)で身体能力が低下しても尚、並の成人男性程度の力はあるので馬賊たちの複合弓ならば辛うじて扱うことができた。それが、ケイが弱っても馬賊たちが攻勢を仕掛けて来ない理由の一つだ。先ほどから数回、馬賊たちは騎馬の突進でケイを轢き殺そうと試みているが、そのたびに弓の連射でこれを撃退していたのだ。
その後はケイが失血死することを期待して、ぐるぐると周囲を回りながらひたすら矢を打ち込んでくるだけだ。リーダーシップが取れる者も勇敢な者も、ケイに粗方狩られている。そんな消極的な戦法しか取れない、臆病な連中だけが残されていた。
(だが、ジリ貧だ)
ポーションも残り少ないし、流石に背中の矢傷が洒落にならないことになっている。幾ら傷が治ると言っても矢が刺さったままでは限界があった。さらにマントでどうにか隠しているが、ケイも残りの矢が心許なくなりつつあり―このまま敵も弾切れになり、白兵戦を挑まれればかなり不味いことになる。多勢に無勢だ。
先んじて、まだ元気があるうちに接近戦を仕掛けてきた相手を斬殺したので、それを恐れて近づくことに抵抗があるらしいが―と、ケイは傍らに転がる死体を見やった。呪い(デバフ)も考慮して、長剣でとにかく力任せにぶっ叩いた結果、革兜ごと頭を叩き割ってしまい、まるでザクロのような酷い有様になっている。
と、再び射撃。
一本の矢は頭突きのようにして兜で弾き、数本は篭手と弓で逸し、最後の一本は胸で受ける。胸板の部分の厚い革が大幅に勢いを殺し、その下の鎖帷子に食い込むが、貫通するほどの威力はない。ただドスンッという衝撃のせいで、 ぐうぅ といかにも苦しげな声が漏れた。
いい加減に死ねええええッッ!
それを好機と見たか、背後から曲刀を抜いた馬賊が仕掛けようとするが、ケイが複合弓を構えると慌てて反転していく。
反転しようがしまいが弓の射程範囲内ではあったのだが、矢傷よりも先に邪眼のせいでダメージの蓄積が危険な領域にまで達しつつある。視界がぼやけて腕が震えるせいで、ろくに狙いを合わせることもできない。
(いかん……このままだと、呪いに削り殺される……)
意識が薄れていく。馬賊の浴びせかけてきた矢にもロクに対処できず、太腿や肩に鋭い痛みが走る。
だが、そのとき、新たな蹄の音が徐々に大きくなるのを、ケイは感じ取った。
ケ―イッッ!
そして、そこに聞き慣れた声も混じる。ハッと顔を上げれば、サスケに跨がったアイリーンと、その後ろを追随する重装騎兵の姿が目に入った。
ああ―と。心の奥底が、否応なくほぐれるのを感じる。安堵の溜息。
が、対するアイリーンは安堵と程遠いところにあった。矢が刺さってボロボロのケイを見て、アイリーンの眼尻が吊り上がる。それはまさしく悪魔か鬼かという形相で―少なくとも今までケイが見てきた表情の中で、一番おっかないものだった。
貴ッ様ッらァァァァアァッッ!
激昂したアイリーンが、サスケの鞍の上に立ったかと思うとそのまま跳躍する。
軽業、と呼ぶにはあまりにもアグレッシブな動きで馬賊の馬に飛び移ったアイリーンは、そのまま容赦なく騎手の首をサーベルで刎ね飛ばした。
それを見て、顔を強張らせたのはケイだ。
あまりの躊躇いのなさに―察する。既にもう、彼女は何人か斬っているのだと。
そして、愛しの人にそれを強いた状況に、馬賊に―ふつふつと暗い怒りが湧き出てくるのを、ケイは感じた。
『よぉ、英雄。生きてるか?』
『そう簡単にはくたばらねえようだな!』
『助太刀にきたぜェ!』
少し遅れて駆けつけた重装騎兵の三人組が、笑顔で何事か話しかけてきたがロシア語なのでわからない。しかし悪い内容ではないだろうと思ったケイは、疲れた笑みで スパスィーバ とだけ返した。気持ちは伝わったらしく、三人組はガハハと笑いながら残り少なくなった馬賊たちを追い散らしていく。複合弓から放たれる矢を物ともせず、得物で払い落とし、あるいは鎖帷子や鎧で弾き飛ばしながら突撃する様は、今のケイからすれば軍神のように頼もしかった。
ケイ! 大丈夫か!
血塗れのサーベルを片手に、サスケから飛び降りたアイリーンが駆け寄ってくる。
どうにか、な
ひどい怪我だ……ごめん、ごめんよケイ
先ほどまでの般若のような表情から一転、泣きそうな顔をするアイリーンにケイは思わず苦笑した。
だが、何よりもありがたかった。色々と思うところや、言いたいことはあったが。
助かった、アイリーン。ありがとう
これ、ポーション飲んでんのか? とりあえず、背中の矢抜くぞ
頼む。……ンぐッ
ズチュッ、と矢を引き抜かれる痛みに、思わず顔をしかめる。アイリーンは至極申し訳無さそうだったが、ゆっくりやっても痛いだけなので、手早くケイの全身から矢を引き抜いていった。
腰のポーチからポーションの瓶を取り出し、さらに飲み込んで体力の回復を図る。
しかし、まだ厄介な敵がいるぞ
ケイは木立を睨む。安心するにはまだ早い。この期に及んでも邪眼の呪い(デバフ)は解けていないのだ。邪眼を止める手段は限られている。視線を遮るか、術者を殺すかの二つ。
現に、マントを掲げることでかなり呪いを軽減はできているが、マントもケイの装備品の一つなので呪いを遮断する効果としては今ひとつだ。せめて衝立なり大盾なりを壁にできれば、ほぼ完全に視線をブロックできるのだが。
厄介な敵?
告死鳥だ。それもかなり高位の
デバフのせいで”竜鱗通し”が使えない、と言うとアイリーンはそれで全てを理解したようだった。
どこからだ?
あの木立だ
オレが片付けるッ
ピィーゥィッと指笛を鳴らしたアイリーンが、サスケを呼んで駆け出そうとするも、不意にその場でガクッと膝をついた。
代わりに、スッとケイの身体が軽くなる。
ぐっ、あっ、クッソ、キツい……!
ふらふらと立ち上がるアイリーン。どうやら敵は呪いの対象をケイからアイリーンに変更したらしい。咄嗟に足元に転がる”竜鱗通し”を拾い上げるケイだったが、その瞬間今度はケイに呪いが飛んで来る。
ぐっ……
チクショウ、あの木立だな!? それはわかるのに……!
入れ替わりで呪いから解放されたアイリーンが、悔しげな声を漏らす。
オレたちの魔術耐性を完全に貫通するなんて……
胸元の魔除けの護符(タリスマン)を押さえながら、アイリーン。
バリア型じゃないのが裏目に出たな
唸るようにして、ケイも答える。タリスマンには、『バリア型』と呼ばれる一定のダメージを防ぐ使い捨てタイプと、持ち主の魔術耐性そのものを高める永続型の二つが存在する。ケイとアイリーンが使っているのは、後者だ。バリア型よりも永続型の方が貴重で高価だが、そもそもケイたちは肉体(アバター)の耐性が強いため、そちらを強化した方が効率が良かったのだ。
だが、今相手にしているような、自分たちよりはるかに高位の魔術師に対しては、効き目が薄い。
くっ、どうするケイ!?
アイリーンがケイを見やる。先ほどから、邪眼は重点的にケイに向けられているが、アイリーンが動こうとした瞬間にそちらへ切り替えられている。幸いなことに邪眼の性質上、同時に二人は『視れない』ようだが。
……アイリーン、真っ直ぐ突っ込むんじゃなくて、横から行くのはどうだ
胸元をごそごそと漁りながら、ケイは顎で円を描くようにルートを示してみせる。
……なるほど、視線を戻すのに時間がかかるように……だな?
俺が矢を打ち込むのが先か、アイリーンが斬り込むのが先か、だ
ケイの矢が本命だろう?
まあな
首のチェーンを引っ張り、自前のタリスマンを出したケイは、ニヤリと笑う。
どうせ役に立たないんだ。一発お見舞いしてやるさ
タリスマンは、優れた魔術触媒にもなるのだ。
木立までは遠い。ここから視線の主を精確に射抜くのは、流石のケイでも不可能だが―魔術の補佐があれば、話は別だった。
手伝ってくれるか? アイリーン
言われるまでもねえ、よッ!
ケイが矢筒に手を伸ばすと同時、アイリーンが地を蹴り風のように駆け出す。
木立から注がれる邪眼が、当惑したように、アイリーンと自分との間でブレるのを確かに感じ取り―
ケイはより一層、獰猛な笑みを濃くした。
次話で決着です。
47. 反撃
―Siv.
一言、その名を喚ぶと、風が応えた。
大気の鳴動。湿り気を帯びた雨の残り香。
淀んでいた空気が、動き出す。
ぬかるんだ大地に膝を突き、泥と血に塗れたケイを慰撫するように、清浄な風が吹き抜けた。
くすくすくす、と微かに響く笑い声。
あどけなく、それでいて不釣り合いなまでに妖艶な。
風が渦を巻く。足元の水たまりがさざなみを立て、映り込んだ空が、何かを待ちわびるようにうち震えた。
自身の内面、奥深くに、魔力の励起を感じ取る。
振り仰げば、灰色の雨雲が散り散りに浮かぶ、まだら模様の蒼い空。
その澄んだ水色の世界に、ひとりの乙女を幻視する。
羽衣をまとい、艶やかに笑う風の精霊の姿を―
―
ケイもまた、微かに笑みを浮かべ、前方の木立へと視線を転じた。
薄闇の奥にちらつく赤い光。
全身を苛む疼痛―魔術師の邪眼がケイの身を焦がす。
放置すれば死に至る、邪悪な呪いだ。
が、現時点ではケイに残された唯一の反撃の導でもある。
(自分はここに居るぞ、と喧伝しているようなものだ)
視線を媒介し、呪い(デバフ)と死を撒き散らす告死鳥(プラーグ)の邪眼。それは万能のように思えるが、術を受ける者はその瞳の輝きを赤い光として知覚できる―つまり術者の居場所が露見する。
これがただの戦士であれば、敵の位置がわかったところで、手も足も出ないだろう。普通に弓を射たり石を投げたりして撃退できる距離ではない。
だが、魔術の使い手であれば話が別だ。
この光の存在により―敵を定義することができる。
少しでも呪いを軽減するために、壁のように掲げたマントの裏側で、ケイは胸元から護符(タリスマン)を引き抜いた。
Siv. Mi dedicas al vi tiun katalizilo.
魔除けの文言が刻まれた銀の円盤に、そっと口付ける。
Vi vidos la ligno. Ruĝa lumo, mi difinis kiel malamikon.
パキンッ、と音を立ててタリスマンがひび割れ、砕け、風に散って消えていく。
Mia pafaĵo estos gvidita de la vento. Ĝi mortigos la malamiko.
矢筒から矢を引き抜き、“竜鱗通し”につがえる。ふわりと、風が首筋を撫でる感触があった。周囲に満ちていた無音のざわめきが収束し、空気がぴんと張り詰める。
準備は整った。後は―
―アイリーン
視線を横にずらせば、地を這うように低い姿勢で疾駆するアイリーンの姿。
ケイに負けず劣らず、泥と血で汚れた姿だ。白磁のように滑らかな肌も、輝かんばかりの金髪も、今やくすんでしまっている。そしてその後ろには、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせながら、 僕に乗りなよ! という顔で追随するサスケの姿もあった。邪眼の脅威を知らないサスケは親切心からアイリーンを追いかけているようだ。邪眼を受ければ転倒・落馬の危険性があると承知しているアイリーンは、自力で走り続けているが。
そう―敵の魔術師の注意を引き付けるための陽動。一瞬、ほんの一瞬でいい、視線が外れて呪い(デバフ)から解放されれば、ケイは本来の筋力で”竜鱗通し”を引ける。
弱体化した現状の腕力でも引ける、馬賊の複合弓を使うことも考えたが、木立までの距離を考えると今ひとつ威力が足りない。敵の魔術師を確実に仕留めるならば、やはり”竜鱗通し”を頼りたかった。
また、このままアイリーンが殴り込みをかけ、直接魔術師の息の根を止めるという手もあるが、木立の中にまだ伏兵がいる可能性を考えるとリスクが高く、そんな危険な目には遭って欲しくなかった。
とりわけ、彼女(アイリーン)には。
―この手で、仕留める。
ケイは祈るような気持ちで、少女の背中を目で追う。
Ураааааааа(ウラアアアアアアアア)!
そんなケイをよそに、馬賊と雪原の民の戦いは激化していた。
隊商からケイの援護にやってきた戦士たち、重装騎兵の三人組が雄叫びを上げ、馬賊と正面から激突する。勢いの乗った重装騎兵の突撃(チャージ)を受け、回避しそこねた馬賊が馬上から吹き飛ばされた。
ケイの活躍で大きく数を減じたとはいえ、ここに残る馬賊はまだ二十騎近い。多勢に無勢の現状だが、重装騎兵三騎は健闘していた。
いや、むしろ現時点では圧倒していると言ってもいい。
軽装弓騎兵の馬賊たちは、重装騎兵の突撃を止める術を持たないのだ。雪原の民、隊商護衛の戦士たち。乗騎の全身を鱗鎧(スケイルメイル)で守り、自身も鎧と盾で防御している。馬賊たちの複合弓ではなかなか有効打を与えられず、距離を取れば矢は弾かれ、威力を補うため接射を試みれば馬上槍の餌食となって散っていく。
結果、程よい交戦距離を保とうと走り回る馬賊と、それを追い立てる重装騎兵という構図が出来上がる。
無論、いつまでもこの状況が続くわけではない。時間は馬賊の味方だった。このまま疾走を続ければ、重装の字の如く、装備に圧迫された騎馬が早々に息切れを起こすだろう。そうなれば数の多い馬賊が有利。突撃(チャージ)の勢いを失ってしまえば、重装騎兵など鈍亀に過ぎないのだから。
それを、この場の全員がわかっていた。故に、一時的に圧倒している重装騎兵三人組は徐々に焦りの色を濃くし、逆に軽快な機動力を活かしてのらりくらりと突撃を躱す馬賊たちは、どこか余裕のある様子を見せている。
ただ、その条理から逸脱した存在が―数の差をひっくり返し、この状況を打開できるだけの切り札(ジョーカー)が、ここにあった。
ケイだ。
魔術師の呪いから脱し、本来の異常な攻撃力(ドラゴンスティンガー)と機動力(サスケ)を取り戻せば、残る馬賊など瞬く間に殲滅できる。
殲滅してしまう。
しかしそのことを―ケイが魔術師の邪眼により、一(・)時(・)的(・)に(・)ダウンしているということを、正確に把握している者は少なかった。隊商護衛の重装騎兵三人組は、ケイが身体的・体力的な問題でこれ以上戦えないと考えており、それは馬賊も同様だった。その判断を咎めることは、誰にもできないだろう。そもそも馬賊側も、『御大将』と呼ばれる告死鳥の契約者からは『邪眼』の存在を知らされておらず、またあれだけ矢を打ち込んだケイが、まさか高等魔法薬(ハイポーション)でほぼ快復しているなど知りようがないのだから。
故にケイとアイリーンを放置した上で、重装騎兵を相手にだらだらと―時(・)間(・)稼(・)ぎ(・)を続けている。
それは、常識的には最善手だが、この状況ではどうしようもないほどの悪手だった。
何故あの男に止めを刺さぬ!
現状を正確に把握する数少ない人物―木立に潜む魔術師、『御大将』と呼ばれる邪眼の使い手は、視線をケイに固定したまま激昂した。
まずは、あの重装騎兵を片付けるのが定石かと……
今しがた、邪眼については説明を受けたが、ケイの狙いまでは把握できていない馬賊の男―襲撃隊の隊長・ローメッドは、おずおずと自身の考えを口にした。
反射的にその愚かさを罵りそうになった鴉の魔術師だが、嘴をつぐんだ。邪眼についても、予想されるケイの『奥の手』についても、自身の説明不足の責任はあると考え直したからだ。
……今一度言う。あの男は只者ではない。尋常ならざる腕前の戦士であると同時に、風の大精霊と契約した魔術師でもあるのじゃ
何ですと!?
ぎょっとした顔で、ローメッドは思わず遠方のケイを凝視した。ケイの弓の凄まじさは嫌というほど知っていたが、魔術に関しては初耳だ。
そ、それはまずいのでは……!
落ち着け、案ずるでない
ローメッドのあまりの狼狽ぶりに、鴉はたしなめるような口調で言う。
確かに、契約する精霊の『格』はなかなかのものじゃが、一人の術者として見れば並以下よ。分不相応、と言うべきかの。若さ故じゃろうが、流石に魔力が弱すぎる。心配せんでも大した術は行使できんわい
ただ、と言葉を続ける。
先ほど、彼奴の周囲に魔力の動きを感じた。触媒を捧げて、何らかの術を発動しようとしておるようじゃ。木立ごとわしらを吹き飛ばすような大魔術は発動できんじゃろうが、何かを企んでいるのは事実……
ケイに邪眼を向けたまま、先ほど走り出した金髪の少女(アイリーン)の姿を脳裏に思い描く。
迂回してこちらに向かってくる小娘は、その布石じゃろう。おそらくわしの注意を引き付けるための陽動―つまりわしが邪眼を一瞬でもそちらに逸らすことを期待しておるはずじゃ
老獪な魔術師は、ケイたちの意図を看破していた。びっくり箱の中身まではわからないが、その存在を確かに見抜いている。
ローメッド、わしは目が離せん。あの小娘には対処できるか
大した術ではないだろうが、わざわざ発動させる隙を与える必要もない。鴉は、しわがれた声でローメッドに尋ねる。
対して、馬賊を指揮する男は、一瞬返答に詰まった。先ほどアイリーンが駆けつけてきた際の、馬から馬に飛び移って騎手の首を刎ね飛ばした姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。
あの身体能力は、驚異的であった。対して、木立に残る戦力は怪我人ばかり。
だが―と周囲を見回して、ローメッドは頷いた。
大丈夫です。一筋縄ではいかんでしょうが、数で押せば難しくないかと
一口に怪我人と言っても、起き上がれない重傷者から腕を痛めた軽傷者まで、怪我の程度は様々だ。ローメッド自身も左手を包帯で吊っているが、利き腕は無事だ。片手で剣を振るうのに支障はない。
故に、曲芸のような剣の使い手でも、あの程度の少女であれば、大の男で取り囲めば何とかなる、と判断した。
―不幸があるとすれば、木立から隊商までかなり離れており、またケイの騎射に気を取られていたせいで、アイリーンの大立ち回りが見えていなかったことか。
うむ。ならばそちらは任せた
いずれにせよ、ローメッドはそう判断し、鴉の魔術師はそれを認めた。
よし、行くぞ。剣が取れる者は俺についてこい、あの小娘を始末する
抜剣しながら木立を飛び出していくローメッドに、数人の軽傷者が続く。
樹の枝に止まったまま、視界の端にそれを見送った鴉は、顔にこそ出ないものの胸中で意地の悪い笑みを浮かべた。
何を企んでいるかは知らんが、妙な真似はさせん
実際のところ、『邪眼』の魔力の消費は激しい。並の使い手ならば数十秒も使えば枯死してしまうだろう。しかし何事にも例外はある、とりわけこの場に存在する『鴉』の術者にとって、それは大した負担ではなかった。
また、『普通』を持ち出すならば、これだけの長時間に渡り邪眼を受けても、生命力が尽きないケイも異常と言えば異常だ。抵抗しているのか、魔除けでもあるのか、あるいは単にしぶといだけか―鴉の術者の魔力と、ケイの耐久力の根比べ。これはこれで乙なものだ、と不遜な笑みを濃くする。
そのまま、そこで息絶えるがよい
ぎらりと、その赤い瞳が、妖しい光を強めた。
圧力をいや増す邪眼にケイが耐える一方で、アイリーンは木立から数人の戦士が飛び出してくるのに気付いた。
ところどころ包帯を巻いたり、腕を吊ったりしているのを見るに、負傷兵の集まりといったところか。木立の中にはおそらく、程度の差こそあれ同じような怪我人が詰めているのだろう。姿を現した負傷兵の他に、弓の使い手が潜んでいる可能性も踏まえて、アイリーンは今一度木立に注意を向ける。
こちらに向けて駆けてくる負傷兵たちを前に、焦りもしないが油断もしない。
―ましてや、手加減など。
ふっ、とアイリーンは身体から力を抜き、全力疾走から速度を緩める。それを見て、ローメッドたちは相手が怖気づいたのかと錯覚した。厳しい表情は、あるいは顔が緊張で強張っているためか、と。同時に、血生臭い戦場に似つかわしくない、アイリーンの可憐な美貌に、見惚れる。
その隙を突いて、アイリーンの動きの『質』が変わった。
ただ速度を稼ぐための直線的な動きから、なめらかな戦闘用の機動へ。
右手のサーベルをゆらゆらと揺らしながら、重力を感じさせない軽やかな足取りで距離を詰める。
右か、左か、あるいはこのまま突っ込んでくるのか、ただ地を駆ける、その一挙手一投足に絶妙なフェイントが織り交ぜられている。アイリーンを取り囲むように散開するローメッドたちは、どう仕掛けたものか迷い、互いに目配せしあう。
そんな彼らを冷たい視線が撫で―そのうち一人にぴたりと定まった。
アイリーンの左手から、目にも留まらぬ速さでナイフが投擲される。
艶消しの黒塗りの刃が、ほんの一瞬だけ、アイリーンから視線を逸らした男の喉に突き立った。
ごフっ……
何が起きた、と驚愕の表情で、血の噴き出す喉を押さえた男が倒れる。アイリーンの右手のサーベルに気を取られ、投げナイフの存在に全く気づけなかったローメッドは、理解が及ぶやいなや心胆を寒からしめられた。
―この少女は、危険だ!
見た目に惑わされれば食い殺される、と本能が警鐘を鳴らす。しかし遅すぎた。
無言のまま、サーベルを振るうアイリーンが、肉食獣のように男たちへ襲いかかる。華奢な見かけとは裏腹に、全身のバネを活かした、ぐんっと伸びるような斬撃が男の一人を捉える。
革鎧の隙間、胸部と腰部の継ぎ目が、ばっさりと斬り裂かれる。
―ああああああアア!
剣を放り出し、一拍遅れて飛び出た内臓を両手で抱えるようにして、絶叫した男が泥に沈む。アイリーンは既に新たな標的を見定め、サーベルを振るう。硬直していた若い戦士の首が刎ね飛ばされる。
もはや、恐怖すらも感じられない。ただ己が生き残るために、ローメッドはアイリーンに打ちかかっていく。
だがいざ剣を振り下ろそうとしたところで、心が挫けそうになった。サーベルを手に佇むアイリーンに、隙がない。何処にどう打ち込んでも、反撃を受けて斬られる自分しかイメージできなかった。
対峙して初めて分かる、隔絶した実力。それを相手取らねばならない理不尽に、怒りにも似た感情が湧き上がる。だがそれに駆られて猪突すれば、待ち受けるのは死。
せめて自分が注意を引いている間に、他の仲間が仕掛ければ―
僅かな希望。だが数の差はアイリーンも承知していた。相手の出方を待つという選択肢も、必要性も、アイリーンにはなかった。
仕掛ける。
踏み込み、滑るようにして接近する。ローメッドは一瞬で消失した間合いに驚愕し、どうにか牽制しようと右手の曲刀を振るった―いや、振るおうとした。
その瞬間に、アイリーンの姿が消える。
(……左!)
視界の端。銀色の光。気づいた。そして理解した。ああ、ダメだ。左手は包帯で吊っている、死角、対処できない―
その喉を、氷のように冷たく、それでいて燃えるような感覚が突き抜け―そこで意識が途切れた。
(……ええい、何をしておる!)
アイリーンに斬られた男たちの悲鳴は、木立にも聞こえていた。刃と刃を打ち合わせる音は響かず、ただ断末魔が上がり、徐々に聞こえる声が減っていく。一方的な展開ということだった。
わしは目が離せぬ。どうなっておる!
隊長が、やられました!
ケイに邪眼を向けたまま尋ねると、側に控えていた重傷者が悲痛な声で答える。
(あの小娘も、それほどまでの使い手か!)
ローメッドは、襲撃隊の隊長を担うだけあって、剣も弓もかなり腕が立つはずだ。それが、左手を負傷していたとはいえ、仲間を伴ったまま一蹴されたとなると―その事実に驚きつつ、流石に不味いという気持ちを強くする。ただ敵が木立に向かってくる程度ならばどうということはないが、それほどの使い手となると―
……チッ!
ここに来ては致し方なし、鴉の魔術師は決断した。
ケイから視線を引き剥がし、邪眼の標的を変更する。
ぐっ―!
ちょうど、残る数人に打ち掛かろうとしていたアイリーンは、木立から向けられた赤い光に苦しげな声を漏らした。強烈な、先ほどよりもさらに力を増した邪眼。身体から力が抜ける感覚があり、思わずその場でたたらを踏む。
今だ、やれッ!
それを好機と見た男たちが、剣を振り上げて一斉に襲いかかる。アイリーンも飛び退ろうとするが、全身を焼く疼痛のせいで思うように動けない―
ブルルォォッ!!
そこに、褐色の影が割り込んだ。
馬賊の一人が、吹き飛ばされる。
―サスケ!
飼い主(ごしゅじん)の一人を襲われ、怒るサスケが男たちに襲いかかった。暴れ馬を数人の、それも怪我人が御すことなどできようか。
しかもサスケは、ただの暴れ馬ではない。
ぐぁ―!!
横合いからサスケに剣を突き立てようとした男が、血飛沫を上げて倒れ込む。サスケの前脚、かかとの部分から骨のような刃が飛び出し、すれ違いざまに男の胴体を切り裂いたのだ。
―バウザーホースじゃと!!
さしもの老獪な魔術師も、今度こそ呆気に取られた。猛り狂う、馬の形をした魔物の姿を、本来ならばこの地方にいるはずのない存在を、思わず凝視する。
その、間隙。
本来ならば、アイリーンを牽制するため、一瞬だけ視線を逸らすつもりだったのだ。
―Ekzekuciu(執行せよ).
その呟きが、届いたわけではない。
だが、蒼空にカァンッと響き渡る快音、そして大気を揺るがす魔力の波動。
―しまった!
慌てて視線を戻せば、矢を放ち終えたケイが、残心の姿勢でこちらを見ている。
空へ打ち上げられた矢―それを取り囲むように渦を巻く、風の精霊の魔力を感知した鴉の術者は―
―ハハッ! 何かと思えば、子供騙しか!
むしろ、嗤った。
ケイが放ったのは、風の精霊(シーヴ)が誘導する魔法の矢だ。
魔法の矢、と言っても、目標を緩やかに追尾するというだけで、この場合は鴉の術者を精確に射抜く以外の意図はない。矢そのものは代わり映えがないので、特に追加効果もない地味なものだ。
術の発動後の魔力の余韻と、矢を取り囲む精霊の有り様を感知し、術の性質を看破した鴉は、そうであるが故に嗤ったのだ。
(もっと小賢しい術を仕掛けてくるかと思っていたが……他愛もない。ただの誘導術式とはな。期待外れじゃのう)
邪眼を止め、枝からひらりと飛び降りた鴉は、樹の幹の裏側に身を隠した。
付与された術は、ただ矢を誘導するだけのもの。
飛んで逃げれば追尾される。魔術で物理現象を引き起こして防げば、魔力の消費が激しい。
ならば、障害物の裏に隠れて、矢を防ぐのが最も合理的な判断だった。
そして、その判断は正しかった。
―常(・)識(・)的(・)に(・)は(・)。
ドゴンッ、と轟音が木立を揺らし、鴉の術者の全身を衝撃が襲った。
熱い。
灼熱が、胸を突き破った。
愕然として、視線を下に向ければ―樹の幹を貫通した鏃が、胸から突き出ている。
―
馬鹿な、という思いがあった。矢に付与された術式は、魔力量から考えても、ただ誘導する役割があるだけのもので、攻撃力や貫通力を上げるものでは―
(―いや、)
そこで、合点がいった。確かに、樹の幹で防ぐという考えは良かった。だが、それは普通の弓を相手にした場合の話―
ケイが用いたのは、“竜鱗通し”。
鴉の術者には知る由もないが、竜の鱗すら貫き通す強弓。
事前に、あの馬賊に対する蹂躙戦を見て、弓の威力は知っていたはずだった。だが、まさか樹の幹を貫くとは―いや、判断を誤った―そうか、邪眼を逸らそうとしていたのは、この強弓を引くため―
次々に理解が及ぶ。だが冷静になると同時、魂を焼くような激痛が、術者の視界を白く染めた。
ギヤああああああアァアアァァァァッッ!!!
小さな鴉の身体から、びりびりと大気が震えるような絶叫が響き渡る。
それは遠く離れた隊商にまで届き、魂も凍るような断末魔の悲鳴に、一瞬、戦場の空気さえ止まる。
……お、御大将……
愕然と、そして絶望したように。腰を抜かして傍にへたり込んでいた怪我人が、怯えたように声をかける。
だが、矢に串刺しにされ、だらりと力なく垂れ下がる鴉の瞳に、もう赤い光は存在しなかった。
よいお年を!
48. 別離
今回は色々とエグい描写などもありますので、ご注意ください……
それは、雑然とした空間だった。
石造りの薄暗い部屋。天窓から差し込む細く弱々しい光が、部屋中に所狭しと並べられた奇怪な品々をぼんやりと照らし出している。奇形の動物の剥製や怪しいアルコール漬けの標本、瓶詰めの毒々しい色の液体に粉末、無数の書物・巻物、恐ろしげな拷問器具、用途が全く予想できない道具、エトセトラ、エトセトラ……。
そしてその中に埋(うず)もれるようにして鎮座する、天蓋付きの寝台。
大の大人が四人は悠々と寝転がれるような大きさだ。手の込んだ金や銀の装飾が惜しげもなく配されており、天蓋から下げられたレースのカーテンが細やかな模様を描く。手編みであることを考えると、恐ろしく手間がかかっていた。庶民には一生縁がないような贅沢品。
そこにゆったりと、沈み込むようにして身を横たえているのは、一人の老翁だ。短く伸ばした黒い髭、刈り込んだ黒髪。手や顔の深い皺はその年齢を窺わせるが、大柄でがっしりとした体躯は加齢故の衰えなど全く感じさせず、逆に頑強さと壮健さを無言のうちに主張しているようにも見えた。
しかし、眠っている―のだろうか、両手を胸の前で交差させ、ぴたりと時間が止まったように身じろぎすらしない姿は、むしろ死人のようだ。全身を包む、喪服じみた黒衣がその印象を強くする。
部屋の四隅には給仕服に身を包んだ四人のメイドたちが控え、表情もなく、楚々として主人の命を待っていた。上品に、そして全く同じスタイルに髪を切り揃えた彼女らは、全員が息を呑むような美貌と抜群のプロポーションを兼ね揃えている。が、顔色は紙のように白く、その無表情も相まって何処か人形じみた雰囲気を漂わせていた。
彼女らの暗い瞳は、ただ一点。
寝台の老翁に固定されたまま、動かない。
……ぐッ
と、その瞬間、老翁がカッと目を見開いた。
―ッガああああアアァァァッッ!
そして思い出したかのように絶叫し、跳ね起きる。
ぐうぅぅぅヲォ、おおおおぉ……ッ!
胸を掻き毟りながら、まるでナイフで臓腑でも抉られているかのような苦痛の声を絞り出す。ごぽっ、と胸の奥から不気味な音を響かせた老翁は、そのまま咳き込むようにして喀血した。どす黒く、粘つく血液が口から溢れ出し、寝台の上で滅茶苦茶にのたうち回る。見開かれた瞳は、真紅の虹彩を囲む白目までもが真っ赤に充血しており、もはや人外の形相を呈していた。
が、主人がそれほどまでに苦しんでいるにもかかわらず、部屋の隅で待機するメイドたちは微動だにしない。ただガラス球のような瞳で、黒衣の老翁を見つめるのみ。
ぐぅぅアアアァアッ、何故だッッ……、何故だアッ!
血反吐を吐きながら、老翁は叫ぶ。
たかがッ、憑依した使い魔を殺られた程度で、何故これほどまでに……ッッ!
苦しめられるのか。
告死鳥(プラーグ)の契約―それは鴉などの黒羽の鳥を支配し、使い魔としての使役を可能とする魔術。中でも、感覚を共有することで使い魔を自在に操ることができる『使い魔への憑依』は、非常に自由度の高い術式だ。擬似的な飛行、タイムラグのない情報伝達、使い魔を通しての遠隔的な魔術の行使など、その応用性はあらゆる魔術の中でも随一と言える。
『感覚を共有する』という性質上、憑依した使い魔が傷つけばその痛みも同時に味わう羽目になるのが唯一の欠点だが、精神的な苦痛を除けば術者本人に被害はなく、その苦痛すらも修練を積めばかなり軽減することができる。
はずだった。
しかし現実には、強烈な感覚の共有(フィードバック)により、老翁は肉体的・精神的に壊滅的なまでの被害を被っている。
(あり得ぬ……あり得ぬッ!!)
シーツを引き千切らんばかりに握り締め、血走った目で老翁は虚空を睨む。引きつけでも起こしているかのように全身がぶるぶると震え、その額には何本もの血管が青筋となって浮き出ていた。
あり得ない。
いや、あってはならないことなのだ、これは。
老翁の使い魔は、あの忌々しい異邦の弓使いに射殺された。樹の幹をも容易く貫き通す強弓、その威力は凄まじいの一言。それに伴う死亡時の反動も、かつてないほどに強烈だったことは認めざるを得ない。
だが、だからといって、ここまで精神と肉体を傷めつけられた理由にはならない。
確かにあの弓使いは魔術も併用していたが、あれは矢に特別な効果を付与するものではなく、ただ風の力で標的へ向けて矢を誘導するだけの術式だった。
仮に―あの矢に、呪いや特殊な魔力が籠められていたのであれば、術者へ悪影響が出るのも頷ける。
が、今まで幾度となく、使い魔を潰されたことはあり、それが魔力の籠められた武器や呪いによって為されたことも一度や二度ではないのだ。そしてその度に、老翁は図抜けた魔術耐性をもってして、それらの攻撃を無効化(レジスト)してきた。
それが。
今回に限って。
何故だ……!
老翁の長い生を振り返ってみても、使い魔を殺された程度で、これほど甚大な被害を受けたのは初めてのことだった。
不甲斐なさ。自分自身への突き抜けるような激しい怒りがあり、苛立ちに混じって喉の奥から血臭がこみ上げる。
―久しぶりだ。血反吐を吐くほどの苦痛を味わったのも、制御できないほど感情が荒れ狂うのも。
どうにかして寝台から起き上がる。天窓から差し込む光を睨むも苛立ちは収まらず、荒ぶる感情はむしろ加熱していく。壁際、無表情でこちらを見やるメイドが目に入り、その醒めた瞳が無性に腹立たしく思えた。
老翁はつかつかと歩み寄り、その首をぐいと掴む。
……何故だ
……ご質問の意図を、理解致しかねます
メイドはただ、無表情に答えた。元より返事を期待して問うたわけではない老翁は、厳しい表情のまま思考を巡らせる。
『あり得ない』とは言うが、実際問題として、心身ともに甚大な被害を被った。となれば、そうなった原因は必ず存在する。
―使い魔を殺された衝撃、感覚の共有(フィードバック)が強烈過ぎたのか? いや、あり得ない。以前もっと酷い殺され方をしたことはあるが、大してダメージは受けなかった。
―あの矢には何か特別な仕掛けが施してあったのか? いや、それもあり得ない。この世に存在する呪いの類は、自分ならば一目で看破できる。あの矢は間違いなく、何の変哲もない普通の矢だった。
―ならば、あの男は、『自分』を傷つけうる存在だったのか?
……!
老翁の表情が険しくなり、手にぎりぎりと力が篭もる。
そうだ。
その可能性に至り、思考が加速していく。
―そう考えれば(・・・・・・)、説明はつく(・・・・・)。
老翁が思考に沈む間も、その手の中でメイドの細い首はたわんでいき、紙のように白かった顔が徐々に鬱血していく。しかしメイドは無表情を崩さず、待機の姿勢のまま呻き声一つも漏らさない。
そうか……そういうことか…… Li estas la vizitanto … se li estas ekstere de la regulo, ĝi devus ne esti bizara…!
ある種、獰猛な表情となった老翁は、歯を剥き出しにして虚空を睨む。
おのれ……大人しくしておればよいものを、Kahmui……!
ぐっ、と老翁の全身に覇気が漲り。
ごきり。
鈍い音を立てて、メイドの首が砕けた。
無表情のまま身体から力が抜け、かくかくと細かい痙攣を起こす。
そこで初めてメイドの存在に気付いたかのように、老翁は手の中に視線を落として鼻を鳴らし、その体を放り捨てた。
抜け殻のようになって、どしゃり、と力なく床の上に転がるメイド。その口と鼻からつっと赤黒い液体が流れ出し、石畳に染みをつくる。
ゴミを片付けておけ
老翁が命じると、未だ身じろぎすらせずに待機していた残り三人のメイドたちが、恭しく頭を下げて動き出す。粛々と、表情を変えることなく、二人が元同僚の身体を部屋から運び出し、一人が老翁の血で汚れたシーツを取り替え始める。
それをよそに、先程までの荒れようが嘘だったかのように落ち着き払った老翁は、遠い目をして髭を撫で付けている。
……あの男、
脳裏に思い浮かべるのは、異邦の弓使いの姿。
……少々、本腰を入れる必要がありそうじゃな
ふン、と今一度鼻を鳴らした老翁は、ばさりと黒衣をはためかせ。
黒い羽根が散る。
羽音が部屋の空気を揺らし、僅かな天窓の隙間へと影が伸びる。
まるで、最初からそこに誰も居なかったかのように―僅かに数枚の黒い羽根を残し、老翁の姿は掻き消えていた。
†††
ケイが復帰し、本格的な反撃を開始すれば、馬賊の残存部隊も脆いものだった。
まず、敵味方双方とも、馬賊の魔術師のものと思われる断末魔に浮き足立っていたようで、特に馬賊側からは当初の勢いがなくなっていた。重装騎兵三人組の攻勢をのらりくらりと躱していた別働隊の面々に至っては、ケイが”竜鱗通し”での射撃を再開するや否や算を乱して逃げ始める始末だった。
馬賊たちの視点からすれば、それも無理のないことだ。散々矢を打ち込んで、(呪いのせいとは知らず)段々と元気を失くしていき半死半生にまで追い込んだと思った男が、いきなり完全復活して殺意全開で逆襲してきたのだ。高等魔法薬(ポーション)の存在を知らなければ化け物にしか見えないだろう。
無論、再びサスケに騎乗したケイがそれをみすみす逃すはずもなく、散々嬲られたお返しとばかりに、一人一矢きっちりと”竜鱗通し”をお見舞いした。
その後、アイリーンから木立に負傷兵その他が潜んでいる可能性を知らされるも、隊商の援護が先決と判断したケイは、重装騎兵三人組を引き連れてもう一隊の馬賊へと強襲を仕掛けた。文字通り、直接矢面に立たされることとなった馬賊たちはケイの騎射の腕前と”竜鱗通し”の威力に度肝を抜かれ、また遠目では見ていたものの改めて間近でそれを見せつけられた隊商の面々も同様に度肝を抜かれた。
いずれにせよ、その場のほぼ全員の度肝を抜きながら、ケイが馬賊を壊滅させるまでそう長くはかからなかった。途中でとうとう矢が尽きてしまい、死体から矢を回収しながらチマチマと戦う羽目になったが(全力での射撃だったので着弾の衝撃により折れてしまったものが多く、使い物になる矢を探すのに思いの外手間取った)、それでもケイの騎射で大幅に数を減じた馬賊たちは、隊商の面々によって順次制圧されていった。
最終的に、残り二十騎を切ったあたりで、これは敵わないと判断した馬賊たちが撤退し、ケイを含む騎兵の面々で散々に追撃して追い散らしてから、隊商はようやく一息をつくことができたのだった。
あとに残されたのは―濃厚な血臭。
傷ついた者たちの苦痛の声と、死者に対する嘆き。
そして、『生存者』に対する苛烈な私刑(リンチ)だった。
ケイが追撃から隊商に戻ったとき、最初に抱いた印象は『酷い』の一言だった。
至る所に怪我人が寝かされ、あるいは敵味方問わず死体が放置され、ある程度元気があり医療の心得がある者は怪我人の治療に奔走し、元気はあっても戦うことしかできない者は、その鬱憤をぶつけるように生かして捕らえた馬賊を痛めつけていた。
拷問、というよりは、生死を気にせずひたすら殴る蹴るといった暴行を加えている印象だった。元々、彼らが先に襲ってきたのだ。それこそ生かそうが殺そうが勝手というものだろう。後ろ手に縛られたまま泥に顔を埋め、ぴくりとも動かない男がいる。まだ少年と言ってもいい年頃でありながら、大の男に寄ってたかって蹴りつけられている者もいる。あるいは首をロープで縛られて吊るし上げられ、今まさに絶命しようとしている者もいる。
『酷い』、とケイは思った。しかし、ケイも数十人もの命を奪い去ったばかりだ。理性的に、『酷い』とは思ったが、心は固まったまま動かなかった。ただ淡々とそんな感想を抱いただけで終わった。
…………
しかしふと隣を見ると、アイリーンが悲しそうな顔をしていた。
これが正常なのだ、という思いが去来し、ケイは強張った顔からどこかぼんやりとしたような表情になった。そのまま地面に視線を這わせたケイは、血塗れの死体に目を留める。
若い女の死体だった。
顔に刻まれた黒い刺青、痩せ細った身体、両手首を拘束する鎖―草原の民の、奴隷の女だった。どうやら彼女は、襲撃に巻き込まれたというよりも、戦いの果てに死んだらしい。その瞳は空を睨み、苦しげな表情のまま大の字で地に横たわっていた。死因はおそらく失血死。胴体をばっさりと斬り裂かれ、内臓がソーセージのように溢れ出ている。右手の近くには、血塗れの短剣が転がっていた。そしてその傍には、彼女を手酷く扱っていた小太りの商人も倒れている。
勿論、と言うべきか、彼も息絶えていた。丁寧な造りのクロスボウを抱きかかえ、地面に蹲るようにして、動かない。首の辺りの刺し傷を見るに、背後からの一撃で絶命して馬車から転がり落ちたか。
馬賊の襲撃。それに乗じ、奴隷の女も隙を見て戦いに加わったのだろう。彼女が誰を相手取って戦ったか―想像するまでもない。復讐すべき相手に手を下した。要約してしまえばそんなところだろうか。
人の生き死にが、呆気なくまとめられてしまうことに、その状況に、虚しさのようなものを感じずにはいられなかった。
溜息をついて空を見上げると、雨雲は散り散りになり青空が見えている。少し、視野が広がったような感覚があり、ケイは改めて周囲を見回してみた。怪我人の手当てやリンチは相変わらずだが、疲れ果てたように地面に座り込み、ぼんやりと生の実感を噛み締めている隊商の面々の存在にも気付いた。
彼らの多くは年若い商人見習いたちで、武器を握り締めたまま地面に視線を落とし、腰を抜かしてしまったかのように座り込んだまま動かない。その他は―隊商の戦士や、商人たちだ。彼らの多くと、妙に目が合う。目が合うとすぐに向こうが視線を逸らしてしまうが。何故か、と考えて、思い当たったのは、『恐れ』、あるいは『畏怖』。そういった感情が、彼らの瞳の中にちらついていることを見て取った。
あるいは、単騎で馬賊に大打撃を与えた、ケイの馬上弓に怯えているのだろう。味方でいる分には頼もしいが―と。勿論、ケイは無闇に周囲の人々を傷つけるようなことはしない。しかしケイの見かけ―草原の民に比較的近いアジア人の風貌―や、自分たちがこれまで取ってきた、お世辞にも愛想の良いとは言えない態度を鑑みて、彼らが何を思っているのかは想像に任せるほかない。
(……面倒だな)
恐れられるのも、敬遠されるのも、今のケイにはどうでもよいことだった。ただ、疎んじられるような、それでいて全身に纏わりつく視線は鬱陶しかった。脳の中心が痺れているようで、深く考えを巡らせるのが酷く億劫に感じられる。
……疲れた
ぽつりと、ケイは地平の彼方を見て呟いた。はっ、と顔を上げて、心配げな表情になったのは隣のアイリーンだ。ケイはそんなアイリーンに気付くことなく、気にかける余裕もなく、ただぼんやりと遠くを眺めていた。
……ん
と、ひとりささくれた余韻に浸っていたところで、周囲が騒がしくなってきたことに気付く。
見れば、木立の方から、槍を構えた騎兵と戦士たちに追い立てられるようにして、とぼとぼと歩いてくる集団がある。
ぼろぼろの衣服をまとった、吹けば飛んでしまいそうな、頼りない三十人ほどの集団。よく見るまでもなく、その全員が若い女と子供だった。ぎらりと輝く槍の穂先に怯えるように身を寄せあって両手を挙げ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
あれは……
アイリーンが、慄くように呟いた。
『それで、全部か』
馬車の上で、メモ帳と睨み合いながら被害を確認していた隊商の長ゲーンリフが、集団を統率する護衛戦士の一人に問いかける。
『ああ。あっちの木立にはもう残っちゃいねえよ……生きてるヤツはな』
ゲーンリフに問われた戦士は、血塗れの槍で木立の方を示し皮肉な笑みを浮かべる。
『そうか。……こいつらは、奴隷か?』
表情を変えることなく頷いたゲーンリフが、羽根ペンを片手に、女子供の集団へ品定めするような目を向ける。悲しみも憎しみも全て飲み込んだ、合理的な商人の顔。
『うーむ……全員、首輪やら鎖やらを外した痕が残ってる。ま、十中八九奴隷だわな。馬賊の奴らに”解放”されたんだろうよ』
『ふむ……そうか。賊の所有物は、“賊を討伐した者”にその所有権が移るからな。他に何かあったか?』
『いんや、特に何も……食糧と馬の飼料くらいのもんか。あとは馬が何頭か……金目の物はほとんど残っちゃいなかったよ』
『ほう……』
肩をすくめて答える戦士に、ゲーンリフは目を細めた。『ほとんど残ってなかった』という表現に引っかかるものを覚えたのだが―
『―まあいい、あとで食糧と飼料は回収するとしよう。馬もなるたけ連れて行きたいところだな』
『おう、そうだな』
少々悪い顔で、調子よく頷く戦士。これだけの戦闘の後なので、多少の目溢しはいいだろう、というゲーンリフの判断だった。彼らは直接木立に乗り込んで、残る戦闘員を制圧し、捕虜を連行してきたのだ。多少の―つまり個人単位の―貴金属を奪い取る程度の役得はあっても罰は当たるまい。
そう結論を出したところで、さて、とゲーンリフは捕虜の一団に向かい直る。その氷のような無感情な視線に晒されて、女子供たちは一層怯えたように身を寄せ合った。
『……まあ、多少痩せてはいるが、売り払えばそれなりの値はつくだろうな』
『殺さないんだな?』
『馬賊は壊滅。移送のリスクも減ったことだし、売らない手はない』
『一人も殺さない?』
ニヤリと笑って重ねて問う護衛の戦士に、その意図を察したゲーンリフは、若干渋い顔で小さく溜息をついた。
『……まあ、二人程度ならば見逃そう。ただし歩ける程度の体力は残しておけよ』
『はっはァ! さっすが隊長、話がわかる』
ゲーンリフの許可を受け―捕虜を取り囲む護衛戦士たちの眼の色が変わる。それを敏感に察した草原の民の若い女たちが、ヒッと息を呑んだ。
『……ああ、そうだ。それと、そいつらの扱いだが』
捕虜の一団を見回し、年若い男―少年と青年の境目とでも呼ぶべき年代の層もいることを見て取ったゲーンリフは、思い出したように付け足す。
『将来、また再び何かの拍子に反乱でも起こされたら堪らん。二度と弓が引けんよう、全員の人差し指と中指を落としておけ』
その言葉に―アイリーンは、信じられないようなものを見るような目でゲーンリフを凝視し、ざぁっと顔から血の気を引かせた。その隣で、雪原の民の言語(ロスキ)の応酬をただ傍観することしかできなかったケイは、アイリーンの顔色の変化に只ならぬ雰囲気を察する。
しかしそんな二人を他所に、ゲーンリフたちの会話は続く。
『ん、女もか?』
『全員、と言ったぞ。……馬賊の中には、女の弓騎兵も居たからな。油断ならん』
何やら騒がしく男たちの声が聴こえる、後方の馬車の陰を見やってゲーンリフは鼻を鳴らした。生きて捕らえられた馬賊はそれぞれ私刑を受けていたが、捕らえられた馬賊の中には女もいたのだ。
聞くところによれば、捕らえられるまで、女と舐めてかかった戦士が何人も重軽傷を負う羽目になったらしい。今はその報いとして数人がかりで嬲られているようだ。草原の民は騎射の腕が当たり前のように良いので、たとえ女でも油断できない、とゲーンリフは考えるようになっていた。
『ん、まあ隊長がそう言うならおれは構わんがね。値段が下がるんじゃないか?』
『そう思わんでもないがな、元よりそれほど高値では売れん。売り払った先で、不穏なことを考える奴隷たちへの良い見せしめになるだろうよ』
答えるゲーンリフはあくまでも冷淡だ。あるいは彼も、殊更表情に出すことはしないが、今回の襲撃は相当腹に据えかねているのかも知れなかった。彼の馬車の周囲にも、見習いの少年たちの死体が転がっているのだから。
『ふーん、ならそういうことで。おーい、誰か手斧持って来い、鋏でもいいぞー』
男が呼びかけると、すぐさま手頃なサイズの斧が見繕われ、台となる木の箱やまな板のようなものまでもが用意され始める。
アイリーンはそれを前に―口元に手をやって、目を見開き、ただガタガタと震えることしかできなかった。
アイリーン? 大丈夫か?
不穏な空気は察しつつも、状況を理解できていないケイは、アイリーンの肩を抱いて心配げに声をかける。
しかし、そうして傍観するうちに、ことが始まり、アイリーンが震えるわけを否が応でも理解する羽目になった。
まだ年若い、刺青も入れられていないようなあどけない顔立ちの少年が引きずり出され、男たちに手を押さえつけられたかと思うと―
とんっ、とんっ、と。
まるで料理でもしているかのような、軽い音。
それを少年の絶叫が塗り潰し、ぬかるんだ地面にぽろぽろと指が転がった。それを見た子供たちが一斉に泣き出し、かばうようにして彼らを抱き締めようとした女が、護衛の戦士に軽々と担がれて連れて行かれる。
―ッ! ―ッ!
暴れて戦士の腕からどうにか脱そうとする女だったが、容赦なく顔を数発殴られて黙らされる。
『おおっと、暴れるなよ。間違えて別の指まで落としちまう』
そうしている間にも、少年はもう片方の手を掴まれて、同様に人差し指と中指を斧で切り落とされていた。
……行こう
流石に、ケイも見ていられなかった。マントの裏側で無意識のうちに手を握ったり開いたりしながら、アイリーンの肩を抱きその場を離れる。俯くアイリーンはされるがまま、ふらふらとした足取りで歩き始めた。
もう、うんざりだった。
ゲーンリフたちの会話が理解できなかったので、『アレ』がどのような意図に基づくものかは予想するしかないが、ただひとつ、ろくでもないことなのは確かだった。ケイ自身、数十人もの命を奪った手前、今更綺麗事を言うつもりはないが、それでも幼い子供が苦痛と恐怖で泣き叫ぶのを目の当たりにするのは、耐えようもなく不快だった。
クソ食らえ、と日本語で呟く。鳥でも捌くかの如く無造作に酷(むご)い仕打ちを加えたゲーンリフたちに。何もせず、見なかったことにしようとする自分自身に。そしてそれら全てを強いるこの状況そのものに。
今はただ、アイリーンを苦しめるものから、一刻も早く遠ざかりたい。
ただそんな気持ちを胸に、足を動かす。
気がつけばケイは、なんとはなしに、公国の薬商人―ランダールの馬車の前までやってきていた。
はい、はい、急がなくてもいいぞー。まだあるからなー、色々と
奇妙なことに、ランダールの馬車の周囲には人だかりができている。見れば、愛想笑いを浮かべたランダールが、隊商の面々に薬を配っていた。
隊商の馬車列に対し火矢が使われたのはケイも見ていたが、どうやらランダールの馬車はほとんど無事なようだ。ほとんど、というのは、幌が支柱ごとなくなっているので完全に無傷とは言えないことを指す。荷台が剥き出しになったままでは、次の街に着くまでに雨が降ったとき大変なことになるだろうな、とケイは他人事のように思った。
……随分と人気だな
おおっ、ケイ! 大活躍だったな、遠目からだが見てたぞ!
ケイが声をかけると、ランダールは疲れたような笑みを浮かべて答える。押し合いへし合いする隊商の面々をなだめ、額の汗を拭って一息ついたランダールは、傍らの水筒から喉を鳴らして水を飲んでいた。
それを見て、ケイも突然、猛烈な喉の渇きを自覚する。考えてみれば当然のことだ、朝に村を出てからずっと斥候の任についており、それから今に至るまで全力で戦っていたのだから。
俺も水をもらっていいか。喉がからからだ
おう、好きなだけ飲め英雄! こっちに上がってこいよ、それとついでと言っちゃなんだが、薬を配るのを手伝ってくれないか。おれ一人じゃなかなか手が回らなくてな
ランダールの馬車には金属製の瓶が備え付けられており、数人分の飲料水でたっぷりと満たされている。未だ呆然としたままのアイリーンを伴い馬車へと上がったケイは、再び薬を配り始めるランダールを尻目に、瓶の水をカップにすくって思う存分に喉の渇きを癒やした。
それにしても、大盤振る舞いだな。非常時とはいえ薬を配るなんて……
際限なく、怪我薬や消毒剤、解熱剤などを求めてくる隊商の面々と、それに応えるランダールを見ながら、ケイは思わず呟く。
いや、だってよ……
それを耳にして、ランダールは渋い顔だ。ケイの耳元に口を寄せ、他には聞こえないような小さな声で、
この状況で出し渋ってみろ。……殺されて奪い取られるよりはマシだろ、おれなんてしがない公国出の商人で、ただでさえ後ろ盾がないんだからよ……
……成る程
馬車の周囲で必死に薬を求める面々を見やり、ケイは納得して頷いた。確かに、ここで薬を出し渋ればタダでは済まされないだろう。命があればまだ良い方で、最悪、罪を全て馬賊にかぶせた上で身包みを剥がされ、闇に葬り去られる可能性すらある。
一応、保険はかけてあるんだけどな。流石に全部は補填できないだろうし、何より目的地のベルヤンスクについても売る品物がねえ……おれは一文無しになっちまう……
トホホ、といった様子で肩を落とすランダール。 まあ、まあ とケイは慰めるようにその背中を叩いたが、何となく、ランダールから切羽詰まった雰囲気が感じられなかったので、それほど熱のこもった励ましの言葉は出てこなかった。
それにしても、と水で喉を潤しながら、ケイは改めて周囲の面々を観察する。仲間のために、あるいは友人のために、皆が血走った目で薬を求めている―その鬼気迫る雰囲気は、確かに尋常ではない。おそらく予断を許さない状況下にある怪我人も多いのだろう。
いつまでものんびりはしていられない、と思ったケイは、ランダールの指示の下、薬を手渡す作業を手伝い始めた。少し遅れて復帰したアイリーンも、のろのろとした動きではあるが、それに加勢する。
しばらく、無料での大盤振る舞いが続いた。しかしどれほど手伝っただろうか、薬が残り少なくなってきたところで、見知った顔が現れる。
周囲を取り囲む人々を押し退けるようにして、強引に馬車に近づいてくる男。順番は守れ、とケイは口を開きかけたが、やめた。
男は、先ほど共に戦った重装騎兵三人組の一人だった。相変わらず板金仕込みの鎧を身につけたままで、武装は解除していない。付着した返り血すら拭き取らず―その表情は、ケイが初めて見るような厳しいものだった。いつも仲良し三人組でつるんでいる彼は、戦闘時においてすら、何処か余裕のある笑みを崩していなかったと記憶しているのだが―
少なくとも、彼の目的は薬ではないようだった
真っ直ぐに、真摯な瞳がケイを見据える。
ケイ。……ピョートルが、呼んでル
短い、片言の公国語。
たったそれだけの、言葉が。
ケイにはどうしようもなく、不吉な響きを孕んでいるように聞こえたのだった。
†††
やあ、ケイ
まるで散歩の途中、道端でたまたま出くわしたかのような気軽さで、ピョートルは声をかけてきた。
……、……
ケイは、口を開いたが、言葉が出てこない。ただ、立ち尽くした。
ピョートルの顔は真っ青だ。
そしてそれに反比例するように、腹に巻かれた包帯が、鮮烈な赤に染まっている。
隊商の後列、大型テントの布を用いて負傷者がひとまとめに寝かされた場所。そこは今、まさに野戦病院のような様相を呈していた。ランダールから提供された質の良い医薬品を手に、医療知識のある戦士や商人が怪我人たちの間を飛び回っている。皆に手足を押さえつけられ、傷口を縫合されている男がこの世の終わりが訪れたような顔で泣き叫び、逆にある程度の治療を施された者は疲れ果てたのか、死んだようにこんこんと眠り込んでいる。
それ以外にも、―手遅れだったのだろう、顔に布を被せられ、安置されている者もいた。そんな彼らの中で、ピョートルは、比較的静かに過ごしているようだ。
―つまり。
助かる見込みはない、と。
もう治療は意味がない、と、見放されているのだ。
その証拠に、ピョートルに施された手当ては、どうやら簡単な消毒と、包帯をキツく巻きつけるだけの止血のみのようだった。実際、人体解剖学について造詣の深いケイから見ても、ピョートルは生きているのが不思議なほどの傷を負っていた。脇腹を深く抉るような一撃。おそらくは槍やそれに類する刺突武器によって、鎧の隙間を突かれたのだろう。
どう見ても、致命傷だった。
少し……無茶をした。最善を尽くそうと、した。しすぎた
ところどころ、言葉に詰まりながらも、しかしピョートルは場違いなほどに穏やかな表情を浮かべていた。それ以上、立っていられなかったケイは、かくんと膝を折って、ピョートルの傍らに力なく座り込む。
呆然とするケイに、寝転がるピョートルは儚く笑いかけた。
……そんな顔をするな。ケイ
いや、だが、ピョートル……
どうして、こんな、と。ピョートルは、直接手合わせして力量を確かめたわけではないが、それでもかなりの使い手だと、ケイは勝手に思っていた。確かに馬賊の数は脅威的だったが、完全武装のピョートルが、そう易々と遅れを取るとも思えない―
ピョートルは、
アイリーンが、震える声で口を開いた。
オレが、ケイを助けに行ったとき……一人で、追手を……
その言葉は尻すぼみになってしまったが、それだけでケイは全てを理解した。
……すまない。すまない、ピョートル
……いいんだ。……謝るな、わたしが……やりたい、ことだった
声を絞り出すようなケイに、微かに首を振ってピョートルは答える。
満足気だった。どこまでも、自分勝手に。清々しいまでに。
…………
ピョートルの手を握り締めたケイは、その腹部の傷口に視線を落とし、下唇を血が滲み出るほど強く噛み締めた。
致命傷、ではある。それは確かだ。
しかしケイには―何とかする手段が、残されている。
―高等魔法薬(ハイポーション)。
命に関わるような怪我でもたちどころに回復させてしまう、文字通り魔法の薬があるのだ。残り数少ないとはいえ、ケイのポーチやアイリーンの懐に、しっかりと収まっている。
それを使えば、助けられる。
しかし―
(ポーションは……生命線だ)
今回の戦いもそうだが、『こちら』の世界に来て以来、何度その奇跡に命を救われたかわからない。
アイリーンが毒矢を受けたときも、盗賊との戦いでケイが負傷したときも。
ポーションがなければ、確実に死んでいた。
故に、ケイは自分たちの所有物の中で、ポーションの優先順位を『最高位』に設定している。“竜鱗通し”と手持ちのポーション、どちらかを選べと言われれば、迷いなくポーションを選び取るほどに。
“竜鱗通し”は、なくなっても普通の弓である程度代用できる。しかし、ポーションに代わるものはない。それがわかっているだけに、どうしても必要に迫られなければ使うことさえなかった。そうであるが故に、たとえタアフ村の呪い師の老婆(アンカ)に、赤子を救うためと理由をつけて懇願されても、譲渡することはなかったのだ。
冷静になれ、と。
自分の中で、声がする。聞き慣れた声だ。
それは、『乃川(のがわ)圭一(けいいち)』の声。ケイの中で、生きることに執着し続け、これまで共に半生を歩んできた、ケイ自身の声。
その声が告げている。たかだか出会って数日程度の男に、貴重な霊薬を使ってしまうのはあまりに勿体ない、と。それよりも万が一のときのために、温存しておくべきだ、と。
合理的に考えれば、その通りであるに違いない。かつて、タアフ村でアンカを見放したときのように、今このときもまた、見て見ぬふりをすればいい。
また、それ以外にも一つ、大きな問題がある。仮にここでポーションを使い、ピョートルを回復させたとしよう。そうすれば、周りの皆はどのように反応するだろうか。
ケイは、おもむろに周囲を見回した。既に事切れている者たちを除いて、ピョートルは最も重篤な怪我人だったが、他にも危険な状態の者は沢山いる。
そんな彼らに。あるいは、彼らの友人に。
―ポーションの存在が知られれば、どうなるか。
思い出すのは、先ほどのランダールの言葉だ。
『この状況で出し渋ってみろ―』
命があれば、運の良い方だ。普通の医薬品ですら、皆が血相を変えて殺到する有様だった。ましてやそれが、どんな怪我でも一瞬で治してしまう霊薬ともなれば。
何が起きるかなど―想像に難くない。
もし、隊商の皆にポーションを明け渡すのを拒否するならば、必然的にここにはもう居られなくなるだろう。戦うか、逃げるか―ここで殺し合いに発展するのは流石に本末転倒なので、ケイとしては逃げの一手を打ちたいところだが、そこにも問題がある。
今ここで隊商から離脱して、無事に目的地のシャリトの村に辿り着けるのか。
ブラーチヤ街道周辺の地図は持っているが、土地勘はなく、地図の情報も古いため現在でも使える水場があるか不明瞭だ。仮に隊商から離脱するならば、見知らぬ土地で水不足や物資不足に怯えながら、独力で北の大地を横断する羽目になる。
果たして、―それは可能なのか。
そのリスクの大きさに、慄く。今回の隊商護衛の旅の直前に、エゴール街道で辛酸を嘗めさせられているだけに、尚更のこと。
ポーションも大切だが、道に迷えば、あるいは野営の設営場所の選定に失敗すれば、命の危険も出てくる。それこそ、本末転倒ではないのか。ポーションを奪われないために集団を離れ、逆に窮地に陥るようでは―
……ケイ
そっと。
アイリーンが、ケイの肩に手を載せた。
…………
片手をアイリーンの手に重ねて、ケイは考える。
アイリーンは、どう思うのかを。
(……いや)
思わず、ほろ苦い笑みが口の端にこぼれた。
考えるまでもないことだ。
仮にここでポーションが一つ減り、将来窮地に陥ることがあったとしても。
アイリーンはむしろ、この選択を誇るだろう。
仮にここで隊商を離脱することになり、苦難の旅が始まることになったとしても。
アイリーンは、この選択を後悔しないだろう。
それが、考えるまでもなくわかる。
そして―それは、ケイのくすんだ心に澄んだ風を吹き込み、ケイには眩しすぎるほどの、あたたかな希望の光を灯した。
合理的ではない。惜しい。取り返しがつかない。
考えれば、その通りだ。きっとそうなのだろう。
だが―
思い出す。脳裏をよぎる。ここ数日の短い旅路が。ピョートルとともに過ごした思い出が、目まぐるしく移り変わっては、消えていく。
儚くも切ない。そんな想いとともに。
ケイは、決断した。
……アイリーン、
顔を上げる。透き通るような、蒼い瞳と正面から視線がぶつかった。
悲しむような、ケイを案じるような。それでいて何かを、期待するような。
アイリーンのまっすぐな瞳を見つめ返しながら、ケイは口を開く。
……荷物の用意を、頼めるか
真剣な表情のケイの問いに。
―アイリーンは、花開くような、心底嬉しそうな微笑みを浮かべた。
うん。……任せろ、すぐに用意してくる
力強く頷き、するりと人ごみをすり抜けて、ランダールの馬車の方へと駆けていく。
―たったこれだけで、全てが通じた。
アイリーンもやはり、同じことを考えていたのだ。
そのことが無性に嬉しく―ケイは、アイリーンと同じ考えに至った自分が少しだけ誇らしくも感じた。
ピョートル
……なんだ?
ありがとう。ピョートルのお陰で、色々と助けられた
両手をピョートルの手にしっかりと重ね合わせ、目を見て言葉を紡ぐ。
―良くしてくれて、ありがとう。色々と教えてくれて、ありがとう。本当に楽しかった。短い間だったが、ピョートルと出会えて本当に良かった
ゆっくりと、噛み締めるように。そして公国語が不自由なピョートルにも、自身の気持ちが十全に伝わるように。ケイは平易な言葉で、しかし万感の想いを込めて、言う。
一瞬、きょとんとしたピョートルは、それでも、ケイの手を握り返しながら朗らかに笑った。
わたしもだ。ケイと会えて良かった。そして、楽しかった。一緒にいられて、斥候の仕事をできて、良かった……ありがとう、ケイ。ありがとう……わたしも、きみと出会えて、本当に良かった……
そこまで告げてから、ピョートルは眠たげに、目を瞬いた。
少し……疲れた。眠くなってきた……
青褪めていながらも、穏やかだった表情に、陰りが差す。
今まで数十人となく命を奪い去ってきたケイは、本能的に、ピョートルに忍び寄りつつある濃厚な死の気配を、確かに感じ取った。
(……あまり時間に余裕がない)
―明らかに、死に喚ばれている。治療は一刻を争うだろう。ポーチの中のポーションを強く意識しつつ、ケイはぺろりと唇を舐めた。
どうするべきか。
『ピョートル……』
『嘘だ、こんなこと……』
『また一緒に、美味い酒を飲もうって……約束したじゃねえかよぉ』
あるいは、そろそろ危ないと聞きつけたのか、周囲にはピョートルとの別れを惜しむ人が続々と集まりつつあった。皆、涙を堪えながらも寄ってきては、口々に何事かを話しかけている。ピョートルは段々と意識が薄れてきているのか、寝ぼけたような口調で彼らに答えていた。隊商内におけるピョートルの人望が窺い知れる一幕だが、しかし、今のケイには少々都合が悪い。
(どうにかして、ポーションを飲ませたいんだが……)
傷口に直接かける手は、使わない。経口摂取とは比べ物にならない即効性があるが、やはり治癒の苦痛が尋常ではないし、何よりピョートルは傷口を包帯でギリギリ巻きにすることで辛うじて止血している状態だ。下手に包帯を外すと再び血が噴き出して、失血死してしまう可能性もある。自分で試してみてわかったが、経口摂取でも充分に傷を癒やし、体力を回復させることは可能だ。一瓶分のポーションを飲ませられれば問題なく快癒するだろう、というのがケイの見立てだった。
だが現状、ピョートルは十数名を超える仲間に取り囲まれており、密かにポーションを飲ませることなどできそうになかった。終いには、話を聞きつけてゲーンリフまでもが様子を見に来る始末だ。
(……どうする)
この場にいる全員にバレずに、ピョートルにポーションを飲ませる方法。
あるいは―この場にいる全員に、ポーションの存在を悟らせない方法。
考えを巡らせ、一つの手を思いつく。
あれやこれやと勘案した結果、最終的にそれしかないという結論に至った。
……今、助ける
小さな声で呟き。今一度ピョートルの手をギュッと握ったケイは、おもむろに立ち上がって周りを取り囲む人の輪を抜けた。
そして、近くの馬車の陰。皆がピョートルに注目しており、誰にも見られていないことをよく確認してから、ポーチからポーションの瓶を取り出し中身をあおる。
口の中、しゅわしゅわとしたポーション独特の微炭酸のような刺激を感じながら、覚悟を決めたケイは再び人混みに割って入った。
ピョートルの傍で跪いたケイは、覆いかぶさるようにして―
えっ
その場の全員が、困惑の声を上げた。
突然、それも無言のまま、ケイが自らの口でピョートルの唇を塞いだからだ。
凍りついたような空気を感じながらも、ケイは口移しでピョートルにポーションを飲ませていった。半ば意識を失いつつあったピョートルは、ほぼ無意識で、コクコクと命の雫を飲み干していく。
……ぷはっ
時間にして数十秒は経っただろうか。ポーション一瓶分を、ケイは周囲の誰にも悟らせることなく、ピョートルに飲ませることに成功した。見れば青褪めていたピョートルの頬にうっすらと赤みが差し、少し苦しげだった呼吸も安定しているようだ。おそらく、腹の傷も修復が進んでいることだろう、とケイは満足気に笑う。完治するのにポーションが足りているかは分からないが、少なくともこれで死の危険はなくなったはずだ。痛みがなくなり、体力の消耗と疲労がピークに達したためか、ピョートルは微睡みに誘われるようにして規則正しい寝息を立て始めた。
……今、何をした?
公国語で、困惑したままのゲーンリフが尋ねてくる。それは、この場にいる全員の総意だったことだろう。傍から見れば、ケイが突然濃厚な口づけをお見舞いし、それでピョートルが劇的な回復を遂げたようにしか見えなかったのだ。
…………
ケイは何も答えずに立ち上がり、ピゥッと指笛を吹き鳴らした。
ブルルッ、と楽しげにいななきながら、サスケが駆けてくる。再び強引に人の輪を抜けたケイは、“竜鱗通し”を片手にサスケへ飛び乗った。
アイリーンは、この短時間でしっかりと出立の用意をしてくれていたらしい。ランダールの馬車に積ませてもらっていた予備の矢がしっかりと補充されており、サスケの負担にならない程度に夜営の道具などが鞍に括りつけられている。
サスケから少し遅れて、荷物を背負ったスズカに跨がりアイリーンも駆けてくる。スズカもまたフル装備だ。準備万端、いつでも出発できる。
ケイとアイリーン、そしてその乗騎の姿に、只事ではないと察した隊商の面々がざわついた。
……ゲーンリフ殿。悪いが、俺たちはここで離脱させてもらう
何ッ!?
ケイの思いもよらぬ言葉に、ゲーンリフは驚いた。と、同時に焦った。たった今、ピョートルを一瞬で回復させた奇跡の業について、聞きたいことが山ほどあったからだ。
まっ、待って欲しい! 今のは、ケイ、いやケイ殿が今なされたのは、一体……!
元々、隊商に加えてもらうのは、馬賊から身を守るためだった。しかしこうして馬賊は壊滅させたし、もう同行する必要を感じないんだ。俺たちは、先を急ぐんでな
『……まあ、そういうことね。悪いけど、先に行かせてもらうわよ』
慌てるゲーンリフをよそにケイは淡々と告げ、アイリーンが肩をすくめながら母国語で今一度告げる。
きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせたゲーンリフは、必死に次の言葉を考えているようだった。
今、ピョートルに使った御業は、まだ使えるのだろうか!?
いや、もう使えない。一度きりだ
前のめりになったゲーンリフの問いに、ケイは素っ気なく、そして淡々と答えた。元より隠すつもりもそれほどなかったため、ゲーンリフはそれが嘘だと一瞬で見抜く。どの辺が嘘かは分からないが、少なくとも本当のことは言っていないと、看破した。
……恥を忍んでお願い申し上げる! 隊商には、まだ重傷者が沢山いるのだ! どうか彼らの怪我も見てやっては頂けないものか!
だから、無理だ。すまないな。失礼させてもらう
『馬賊の報奨金は、そっちで好きにしておいて。私たちは途中で抜けさせて貰うけど、迷惑料はその分でチャラってことで』
あくまで素っ気ないケイ、畳み掛けるように話をまとめようとするアイリーン。それぞれの乗騎の腹をぽんと足で蹴り、ゆっくりと駆け始める。
まっ、待って……待ってくれ!
ゲーンリフは一瞬躊躇ってから、
『行かせるな! どうにかして止めるんだ!』
護衛戦士の騎兵に命じようとしたが、その足元にビシュッと鋭い音を立てて、白羽の矢が突き立った。
ケイだ。
言ったはずだ。今のが最初で最後。俺はもう『あれ』は使えない……これ以上追ってくるのならば、それ相応の(・・・・・)対応をさせてもらう!
矢をつがえた”竜鱗通し”をこれ見よがしに見せつけながら、ケイは叫んだ。それをすかさずアイリーンが雪原の民の言葉に翻訳して叫び、ケイの正確無比な騎射の腕と、“竜鱗通し”の化け物じみた威力を思い出した騎兵たちは、ゲーンリフの命令に従う気を一瞬で喪失した。
もはや誰にも邪魔されずに、平野を駆け始める。
揺れる馬上で、ケイは振り返った。呆気に取られたように立ち尽くす隊商の面々、そして彼らに囲まれた中心で、穏やかに寝息を立てるピョートル。
このような別れ方になってしまったからには、もう会えるかどうかはわからない。
……さようなら
一抹の寂しさを感じながら。
別れの言葉を風に乗せたケイは、ピョートルの姿を目に焼き付けながら、微笑んだ。
前方に向き直る。
そして、二人は北東へと突き進み、
やがてその姿は、隊商からは見えない、地平の果てへと消えていった。
49. 行方
隊商から離れ、ひたすら北東へ駆け続けること数時間。
ケイたちの行く手に、小さな川が現れた。
幅は数メートルもない、ささやかな水の流れ。ここ最近の雨の影響か、川面は土色に濁っていたが、見たところ沸騰させればどうにか飲用に耐えそうな水だ。普通の現代人なら腹を下す可能性もあったが、幸いなことにケイたちの肉体は頑強なので、泥臭い風味にさえ目を瞑れば何とかなる。
―これでもう乾きに怯える必要はない。
旅の序盤、エゴール街道での苦難を思い出しながら、二人は胸を撫で下ろした。
サスケとスズカに水を飲ませながら、ビスケットやサラミなどで遅めの昼食を摂る。戦闘の直後は食欲など微塵も感じられなかったが、一口噛み締めるごとに滋養が全身に染み渡るようだ。生ける肉体(からだ)のなんと貪欲なことか―と、口に食料を詰め込みながらケイはまるで他人事のように思った。
その後、休憩もそこそこに、川に沿って東へ進む。この川のお陰で、大まかな現在位置は把握できていた。地図によると、このまま進めばやがて街道に合流するはず。
それを信じて、駆け続ける。
隊商から追いかけてくる者はなく、周囲に人影も見えず。代わり映えしない雨上がりの風景、湿り気を失いゆく土の匂い。地平線まで白茶けた平野が延々と広がり、時折、思い出したかのように緑の木立が現れては、視界の果てに流れ去っていく。会話もない、ただ川の流れる音と風のさざめきだけが響く静かな旅路。
そんなケイたちが足を止めたのは、日が傾き始めた頃だった。川沿いの小高い岩山に、たまたま洞穴(ほらあな)を見つけたのだ。
ちっぽけな洞穴だった。崖のような岩山の斜面に、ぽっかりと口を開いている。
鷹のようなケイの目がなければ、まず見逃していただろう。川にほど近く、鬱蒼とした木々の奥に隠れ、大きさも手頃な洞穴―『巣穴』、という言葉を連想する。あまりにも条件が整いすぎているため、ケイたちは当初、それがまさに野生動物の巣であることを疑った。
しかし『洞穴』と言っても奥行きはせいぜい数メートルで、人間が雨風を凌ぐ分には充分だが、例えば熊のような大型の獣が住処とするには狭すぎる。そして周辺に獣が棲んでいる気配―足跡や毛、獣臭、皮や骨などの獲物の食べ滓―は全く見当たらず、特に危険はないように思われた。
相談の結果、二人はそこを今夜の野営地に定めた。この手狭な洞穴は、ケイたちにとって快適な仮宿となるだろう。隊商から離れた今、寝床の確保から周囲の安全確認、夕餉の支度に至るまで、全て自分たちの手で行わなければならない。日が暮れる前に就寝の用意まで終える、くらいの気概でやらねば間に合わないはずだ。
追い立てられるようにして、二人は慌ただしく野営の準備に取り掛かった。
よし。んじゃオレは洞穴ん中、片付けとくから
頼んだ。俺は川に行ってくる
アイリーンが軽く洞穴を掃除する間に、ケイは水を汲みに行く。とは言っても、実際に運搬役を担うのはサスケだ。ケイが防水性の革袋に水を入れ、それをサスケに背負ってもらう。人力でやれば一仕事だが、サスケは日頃から完全武装のケイ(もっと重いもの)を乗せているだけに、それほど苦にした様子も見せない。
いつも世話になりっぱなしだな
ありがとう、とケイが首筋を撫でると、得意気になったサスケは でしょ? と言わんばかりに鼻を鳴らした。そのドヤ顔に 敵わないな と笑うケイ、労りの気持ちを込めてわっしゃわっしゃとそのたてがみを手櫛で梳いてやると、サスケは耳をピクピクさせながら心地良さげに目を細める。
本当に、転移当初から今日に至るまで、サスケはいつでも頼りになる相棒だ。ケイもアイリーンも、何度命を救われたかわからない。その駿足は他の追随を許さず、戦闘時は勇猛果敢な騎獣として振る舞い、人参や肉類を多めに出してやれば日々の雑用も厭わない。まさに愛すべき、大切な存在。
笑いが収まってから、ふと、ミカヅキのことを思い出した。
遠い目をしたケイは、懐に手を入れ、なめらかな皮の財布をそっと撫でつける。
労るように。
そして、ひとかけの苦い想いを噛み締めるように。
川から戻ると、アイリーンはひとしきり洞穴の掃除を終え、荷物の片付けを始めていた。ケイはついでに拾い集めていた適当な石で、洞穴の中に簡単なかまどを作り始める。火打ち石での点火も手慣れたもの―のはずだったが、木炭が湿気ていたせいで、火勢を安定させるのに少々手間取った。
どうにか起こした焚き火でお湯を沸かしながら、今度は洞穴の入り口を覆い隠すようにしてテントの布を張る。日没後、明かりで目立たないようにするための工夫だ。換気を考慮して完全には塞がないが、これでかなり焚き火の光が漏れにくくなるだろう。
ケイは『こちら』の世界に転移した初日、アイリーンが毒矢で死にかけた経験から、野営の明かりの管理にはかなり神経質になっていた。魔法仕掛けの”警報機(アラーム)“があるからといって、油断するわけにはいかない。“警報機”に頼らずに済む状況―すなわち、そもそも『敵』に見つからないことこそがより望ましい。
テントの布を張り終えた後も、念入りに、せっせと周囲の木々の枝を伐採しては入り口に立てかけ更なる偽装を進めるケイ。その執念さえ感じさせる―しかし状況を鑑みればあながち間違ってもいない―行動に、アイリーンは一瞬、申し訳なさとやるせなさの滲む何とも言えない顔をしたが、すぐに表情を明るいものに切り替えて手伝った。
なかなか悪くないな
すっかり枝葉で覆われた洞穴の入り口を前に、腕組みをして満足気なケイ。明るいうちに見れば違和感しかないが、夜の帳が降りれば、洞穴の明かりを程よく隠してくれるはずだ。隣のアイリーンもケイの真似をして腕を組み、 ふむ としばし考える素振りを見せた。
……そうだな。シャワー無し、ベッド無し、トイレ無し。コーヒーメーカーも置いてない。ホテルとしちゃ最低レベルだが、簡易かまど(ミニ・キッチン)はついてる。オレ的にはギリ一つ星ってトコかな
そいつは良かった
わざと偉そうに評するアイリーンに、ケイもおどけてお手上げのポーズを取る。そしてそのまま洞穴のテントの布を持ち上げてドアボーイのように一礼し、
どうぞ、お嬢様
あら、ごめんあそばせ
しゃなりと令嬢のように膝を折ったアイリーンは、そそくさとケイの腕の下をくぐり洞穴に入っていく。
口元に朗らかな笑みを浮かべたまま、今一度周囲に鋭い視線を走らせたケイは、異常がないことを改めて確認し、その後に続いた。
そうして、とっぷりと日が暮れる。
“警報機”を設置し、粥やサラミ、干し果物など、これまた代わり映えしないメニューの食事を終え、ケイたちはようやく一息つくことができた。入り口をテントの布と枝木で塞いだことにより、洞穴は一つの独立した空間となり、心細い二人旅の状況では思いのほか居心地が良い。
ぱちぱち、と火の中で薪が弾ける。
微かに吹き込む風にあわせて、ゆらゆらと二人の影が揺れる。
……はい、これ。お茶
ありがとう
ケイが壁面に背を預けてぼんやりしていると、隣り合って座るアイリーンがカップを手渡してきた。城郭都市サティナで買い、『こちら』で生活する間に、すっかり手に馴染んだ木製のカップ。すぐには口をつけず、ケイは手の中で揺れる薄茶色のハーブティーに視線を落とした。ほのかに香るカモミール―アイリーンも自分のカップに残りを注ぎ、空になった手鍋に水を足してかまどの三脚に戻す。
沈黙。
ふぅ、と息を吹きかけ、少し冷ましてからケイはお茶をすすった。
くつくつ、と手鍋の立てる音に外の静けさを意識する。自身の神経がまだ張り詰めていることを、ケイはおぼろげに自覚した。
んー。なかなか悪くないな
ちゃぷちゃぷとお茶を揺らしながら、やけに暢気な口調でアイリーン。
ん?
いや……二人旅もやっぱ、良いなって
ああ―
頬を緩めて、肩の力を抜いて―ケイも頷いた。
―そうだな
異論は、なかった。馬賊の脅威がなくなった今、他人に気兼ねせずに二人で過ごせるのは楽だし、アイリーンと一緒に居られる時間が増えたのは純粋に嬉しい。
唯一、隊商から離れると水が安定供給しにくくなるのが最大の懸念だったが、こうして川に行き当たったのは僥倖であった。最悪、水源が見つからなければ、大きく迂回してブラーチヤ街道に戻り隊商に先行する形で既知の水場を利用していく予定ではあったものの、トラブルの可能性を考えるならば、他者との接触は極力避けた方が望ましい。鳥や野生の獣は道中で何度も見かけたので、水さえ手に入るなら食料に関してはどうにでもなるのだ。
そろそろ何か別の物も食べたいところだ。このメニューも悪くはないが
最早旅のお供となりつつある、食べ終わった粥の皿と、サラミの切れ端を見やりながらケイ。 だなー! とアイリーンも調子よく相槌を打った。
オレも飽きてきた。別のもんも食いたいよなー……うん……
が、言ってる途中で勢いを失って、言葉は尻すぼみになっていく。両手で包み込むようにしてカップを持ち、底をじっと覗く彼女は、遠い目で。
ケイの知らない、何か別の物を見出しているようだった。
しかし、夢を見るようなぼんやりとした顔も束の間。ケイが眺めているうちに、突如として眉をひそめ、表情を険しいものとするアイリーン。動悸を起こしたかのように、呼吸がかすかに荒くなる。体操座りで小さく背中を丸め、その顔は、焚き火の明かりに彩られて尚、青白い。
……はは。割と冷えるな
ケイの視線に気づいたアイリーンは、誤魔化すように笑った。
その取ってつけたような笑みに、ケイの胸の奥底がざわつく。先ほどからずっと感じていた、不協和音のような違和感を無視できなくなる。
……アイリーン
唇を引き結んだケイは、カップを傍らに置き、アイリーンの肩を抱き寄せた。
アイリーンは一瞬、びくりと震えた。
だが―そのまま力を抜いて、身を委ねてくる。
…………
華奢な体だった。軽いし、細いし、柔らかい。それでいて並の男などものともしない膂力を誇り、ケイでは逆立ちしても勝てないような剣撃をこの細腕から繰り出す。事実として知っていながらも、半ば信じがたい気分だ。
本来なら、この腕の中にある印象こそが正しい姿なのだと思う。
ゲーム時代の能力をほぼ受け継いでしまったからこそ、良くも悪くも今のアイリーンがある。少女の人格とは乖離した、あまりに洗練された戦闘技術。そしてそれを可能とする身体能力。
アイリーンの髪の端にこびりつく、黒ずんだ汚れに気づき、ケイは瞑目した。
この日、彼女はその力を十全に行使したのだ。己を守るため。ケイを助けるため。
ケイ独りには不可能だったのだ。全てを守り切ることなど。
どうしようもなかった―
はぁ……と、抑えきれないケイの微かな嘆息が、アイリーンの金髪をくすぐる。
アイリーンはちらりと物憂げに視線を動かし、口を開きかけたが、結局は何も言えずに俯いた。
語るべき言葉が見つからない。
互いの鼓動を間近に感じながら、じっと焚き火を見つめていた。
ただ、沈黙に沈み、揺らめく炎を眺めていると、心の内、影絵のように黒々と炙り出されていくものがある。
さながら走馬灯のように。
誰かの顔。
思い出す。死を目前にした人々の表情。
不思議と、“竜鱗通し”の餌食となる者は、最期に皆似たような顔をすることが多い。何が起きたのか、起きようとしているのか、わからぬまま死んでいく。呆気に取られたような、およそ死の直前には似つかわしくない、きょとんとした顔はユーモラスであるようにさえ感じられて、ケイの記憶にこびりつく。
そして時折、思い出す。ひどく薄ら寒い感覚と共に―
アイリーンは、と。
壁面に虚ろな視線を這わせ、ケイは思う。
この、腕の中で震える少女は、いったい何を想っているのだろうか。
アイリーンが? と、未だに信じ切れない思いさえある。ただ、ケイはしかと見たのだ。アイリーンのサーベルが馬賊の首を刎ね飛ばす瞬間を、はっきりと。
確かに、アイリーンはサティナの誘拐事件で、誘拐犯を傷つけた経験はある。しかし人を殺めたのは、今日が初めてのはずだ。
ずきりと、ケイの胸がうずく。アイリーンの心にくすぶっているであろう懊悩を想像すると、胸が引き裂かれるような想いだった。先(・)達(・)としてアドバイスできることなど何もない。死体の山を築いて尚、まだ良くわかっていないのだ。あるのは、底なし沼に徐々に嵌っていくような焦燥感と、後味の悪さだけ―。
そしてそれは未だに解決していない。
―ケイ
突然。
アイリーンの呼び声に、はっと顔を上げた。
……どうした?
一拍置き、努めて平静を装って答える。
しかし、アイリーンはなかなか切り出さなかった。俯いたまま、自分の足のつま先をじっと見つめている。
夜の空気はいよいよ静かだ。ケイはただアイリーンの言葉を待つ。のっぺりと、時が引き伸ばされていくような感覚。彼女が何を想うのか。少し恐ろしくもあったが、ケイは知りたかった。
やがて、切り出したときと同じように、唐突に。
……ごめんね
アイリーンはぽつりと呟くようにして、言った。
ゆっくりと、ケイは目を瞬く。純粋に、その意を測りかねた。人を手に掛けたことを思い悩んでいるのだろう、と考えていただけに、何故自分に謝るのかがわからない。
……なぜ?
それを直接、問うことは憚られた。説明を強いれば、それがアイリーンを苦しめるとわかっていたから。だがその真意が読めない以上、尋ねざるを得なかった。
怖れたとおり、アイリーンは歯を食いしばって、絞り出すように、
ケイに……また、戦わせてしまった
ぽかん、とケイは呆気に取られた。
アイリーンのせいじゃない……!
即答。声を荒げぬよう、自制するのは容易ではなかった。突然、心に湧いて出た怒りの矛先を、どこに向ければよいのか、自分でもわからない。ただその相手がアイリーンでないことだけは確かだった。
そんなケイの心情を察してか、アイリーンは疲れたように低く笑い、自嘲の気配を漂わせる。
オレが……
言葉は、血が滲むようだった。
オレが……北の大地(ここ)に来るなんて、言い出さなければ……
―
理屈としては確かに、その通りだ。あまりに当然のことに、虚を突かれて一瞬、納得してしまう。
だから、沈黙は雄弁な肯定となった。そしてそれは、アイリーンの言い分を認めるということでもある。
ケイはガラス細工を床に取り落としてしまった職人のように、俄(にわか)に慌てた。
……俺は大丈夫だ(I’m fine)。問題ない(No problem)
硬い声で、言い切る。気まずい沈黙の気配を振り払うように。
俺はむしろ、アイリーンが心配なんだ
その金髪を、頭を撫でながら、やや強引にそう続けた。子供をあやすように、ぎこちない笑みを浮かべて。
ぐるりと首を巡らせ、斜めにケイを見やるアイリーン。
蒼い瞳が、ケイの顔を捉える。
揺れる、視線。
ふと―少女の表情に、寂しげな影が落ちる。
……大丈夫さ(I’m fine)
返答は言葉少なに、短く。
それきり、焚き火に向き直って、内側に沈み込んでしまう。
…………
今度こそ、本当の沈黙が訪れる。
―大丈夫なはずがないじゃないか。
咄嗟に出かかった声を、ケイはどうにかして飲み込んだ。明らかに、普通じゃないし、アイリーンが苦しんでいるのは一目瞭然だった。
大丈夫だと、口では言うが。
だったらなぜ、こんなにも震えている?
そして、なぜ―それを言ってくれないのか。
アイリーンの頭を撫でながら、ケイは深い悲しみに襲われた。
これ以上の詮索はしないし、できない。
ここで、 本当に? と問いかけても、アイリーンは 本当に大丈夫だよ と答えるだけだろう。それがわかっていたから。
―互いの距離は、こんなにも近いのに。
とくん、とくん、とアイリーンの鼓動が、伝わってくる。
これ以上、近づけない―
悲しかった。
アイリーンに気取られないよう、細く長く息を吐いて、俯いた。
ケイもまた、内向きの思考の渦に囚われそうになる。
だが、ふと。
傍らに置きっ放していたカップに、目を留めた。
揺れる薄茶色のハーブティー。そこに映り込む、自分の顔。
沈んだ、顔。
それを目にした瞬間、ケイは雷に打たれたように固まった。
衝撃を受けた。
今の自分もまた―アイリーンには、『そう見えているのかも知れない』、と。
気付かされたから。
ああ、と。
すとん、と心に落ちてくるものがある。
ケイは、アイリーンを傷つけたくない一心だった。
そもそもケイ自身、己がどう思っているかなど、いまいち判断がついていない。
そんなことよりも、ただアイリーンが心配だった。
だから言ったのだ。 大丈夫だ と。
だが―それは、アイリーンからしたらどうなのだろう。
先に表情を塗り固めていたのは、ケイの方ではなかったか。
距離を取っていたのは、むしろ―。
アイリーンは、ケイが苦しんでいると思っている。
なぜなら、自分のせいでケイが戦う羽目になったからだ。
命がけで。傷ついて。死にかけながら、殺して。
そんな過酷な状況に曝され、傷つかないはずがないと。
ケイは、アイリーンが苦しんでいると思っている。
なぜなら今日、彼女は初めて人を斬ったからだ。
血みどろの惨劇と、人間の悪意の暴風に曝されて。
傷つかないはずがない。彼女は優しすぎるから。
それでも、アイリーンは 大丈夫だ と言った。
でもきっとそれは、ケイに嘘をつきたいからじゃなくて、ケイを心配させたくなかったからだ。
あるいは、ケイが苦しんでいるのに、自分に苦しむ権利がないと思っている。
アイリーンは真面目だ。
苦しんではいけないと思いながらも、苦しんでいる。
きっと―
本当は、つらくて堪らないはずだ。
今のケイと同じように。
互いが互いを心配して
傷つけたくなくて
遠ざけようとして 近づこうとして
でもそれはできなくて
―悲しかった。
ただ、悲しいだけではなく、熱くこみ上げてくるものがあった。
……ケイ?
頭を撫でる手も止めて、黙りこんだままのケイに、アイリーンが振り返る。
そして青い目を見開いた。
ケイの瞳からこぼれ落ちる、一筋の涙に気づいた。
―ケイ!? どうしたんだ!? どこか痛むのか!?
動転し、ケイの全身をぺたぺたと触りながら、こちらを覗き込んでくるアイリーン。ただひたすら、心から、ケイのことだけを心配している顔だった。
……違うんだ
ゆっくりと頭(かぶり)を振って、思わず手を伸ばしたケイは、アイリーンを抱き締める。
違うんだ……
今一度、呟く。
どうやら痛みのせいで泣いているわけではないらしい、と理解したアイリーンは、少しばかり落ち着きを取り戻しつつも、心配げな様子を崩さない。
……ケイ?
抱き締められたまま、ちらりと上目でケイの様子を窺うアイリーン。また心配させている、と思いながらも、はらはらと溢れる涙は止まる気配がなかった。
何かを言おうとはするが、なかなか言葉が出てこない。今度は、ケイがアイリーンを待たせる番だった。
……わからないんだ
ぽつりと。
さっきは、『大丈夫だ』って言ったが……本当は、自分でもわからないんだ。人を殺したのは、今日が初めてじゃない。それに……先に襲ってきたのは、奴らだ。状況的に他に手はなかった。納得はしている、と思う。でも……だからと言って何も感じないわけじゃない……
一度口を開けば、訥々と。
理屈じゃわかってるんだ。選択肢がなかったって。あそこで誰も殺さずに済む手段があったなら、俺はそれを選んだと思う。だが、そんなものはなかった。これは……辛いのかな。やっぱり良い気持ちはしない。今夜は悪い夢でも見るかもしれない。でもな、アイリーン
ぐいと涙を拭って、アイリーンを見据えた。
でも、それ以上に、お前のことが心配なんだ
自分のことは―アイリーンに比べれば、ちっぽけなことだ。
俺は良いんだ。こうして元気に生きてるし、暗い気持ちも、寝てりゃそのうち忘れるって経験でわかってる。でもアイリーンは……俺とは事情が違う。初めて『こっち』で人を手に掛けたときは、……今となっちゃあんまり憶えてないが、やっぱり数日は引きずった。『あんなこと』のあとじゃ……普通ではいられないよ
いられるはずがない。
だから、辛かったら、苦しかったら、遠慮せずに言って欲しい。泣きたいなら泣いてもいい。……俺に、泣きながら言われるのも、変な話かも知れないけどさ
抱きとめた胸元で、アイリーンの頭を撫でながら、ケイはしみじみと言う。
一人で抱え込むのは……色々と、辛いから
アイリーンは、半ば茫然とケイの言葉に聞き入っていたが。
……ケイ
きゅっと表情を歪めて、俯いた。
……オレも、わかんないんだ
ぼんやりと、アイリーンは自分の手に視線を注いでいる。
ケイの言ってること、よくわかるよ。でも、あんまり、現実味がないっていうかさ
……ああ
……感触は、割と印象に残ってるっていうか。意外と手応えないんだな、とか、そういうの。はは、変だよな。もっと他に手が、とか、別の方法が、とか、誰でも似たようなこと、きっと考えるんだろな……
泣き笑いのような表情をしたアイリーンは、こちらを見つめ―そのままぐりぐりと顔をケイの胸板に押し付けてきた。
ごめん……! ホントにごめん……!
押し殺すような、引き裂かれるような。
静かだが、悔恨にまみれた、どこまでも悲痛な声だった。
ケイは目を閉じて、アイリーンの背中をさする。
いいんだ。本当に。気にするな、って言っても、難しいだろうが……
でも……っ、オレが言い出さなきゃ……っ
そうやって、自分を責めないでくれ……アイリーンが落ち込んでたら、俺も悲しい
そうは言っても、無理があることくらい、ケイにもわかっている。 それじゃあまあいいか とすぐに開き直れるなら、誰も最初から苦労はしない。アイリーンは自責の念に駆られるだろうし、それまでするな、と言えば心の出口を塞ぎかねない。
だが、これがケイの素直な気持ちだ。
来る前から、リスクは重々承知していた。二人で決めたことだ。だから、自分だけを……あまり責めないでくれ
しばらく答えはなかった。アイリーンの性格上、到底すぐには納得できないだろう。
だがやがて、アイリーンは、 ……うん と、消え入りそうな声で答えた。
それに、考えてもみろ。俺たちが居なければ、多分隊商は全滅してたぞ
……そう、だな
ピョートルやランダール、まあ、あと……諸々、隊商の皆を助けられたんだ。結果としては、悪いことじゃなかったはずだし、それは誇ってもいいだろう
全てを肯定して良いわけではない。だが、肯定的側面というものも確かに存在する。
アイリーンの反応は芳しいとは言えないが、心の片隅にでも、それを留めておいて欲しいとケイは思う。何よりも、今は時間が必要だ。自分の中で整理をつけるだけの時間が―外からとやかく言うよりも、それが一番の特効薬となる。
ただ、その一助となれば、と。
自身の経験を振り返りながら、ケイは切に願った。
ゆっくりと、腕の中のアイリーンの背をさすりながら、焚き火を眺める。アイリーンは、泣いていなかった。ただ表情を消して、自責と後味の悪さに苦しんでいる。
なぜ、こんなにも彼女が苦しまねばならないのか。ひとり嘆くケイは、
……なんで、馬賊の連中は、わざわざ北の大地(こんなとこ)まで来たんだろうな
自然、心に浮かんだ疑問をそのまま呟いていた。連中さえいなければ、というそんな単純な思考。
びくりと体を震わせたのは、アイリーンだ。
ケイは、雪原の民の言葉(ロシア語)を解さない。
だから、これまでの道中で出会った人々や、隊商の皆の会話を、ほとんど把握できていないのだ。
対するアイリーンは、大体の事情に通じている。
北の大地。公国との紛争。売り払われた奴隷。草原の民の女子供たち。
ケイは―言っていた。
自分たちがいたことで、馬賊を撃退できたと。そして隊商の皆を救えたと。
それを誇っていいはずだ、と。
そう語るとき、彼の口調は確かに軽かった。肯定的側面。ケイにとってそれは、今回の殺人を肯定する、よすがであるに違いなかった。
では―どうだろう。
もし、ケイが、知ってしまったら。
ケイが何十人と手をかけた馬賊たちは、実は奴隷として売り飛ばされた同胞の女子供たちを救うため、公国から遠路はるばるやってきたのだ、と知ったのなら―
ケイは、どう思うだろう―?
……ッッ!!
言えるはずがない。
そんなこと、今のケイに言えるはずがなかった。
アイリーンは、ケイの胸に顔を埋めたまま、歯を食いしばる。
なんで、だろうな
答える声は、震えていた。己の罪深さに押し潰されてしまいそうだった。
こんなことなら、初めから、北の大地になど来るべきではなかったのだ。断固として地球に帰還する、という意志があったならまだしも、ただ迷いがあった程度で、ケイをこんなことに巻き込む権利があるはずもない。
なのに―自分は―
わかんないよなぁ……
一方で、アイリーンの言葉をそのまま受け取ったケイは、ぼんやりと、そして、どことなくのんびりと首肯する。
それを聞いて、アイリーンの中で、何かが弾けた。
くっ、ぅぅぅ……
食いしばった歯の隙間から、声が漏れる。胸がきしみ、頭に血が上り、両目に熱い涙が溜まっていくのが抑えられなかった。
泣きたくない。
辛いとき、ただ泣いて縋るだけの女になりたくなかった。
だから、意地でも泣くまいと思っていた。
でも、もうダメだ。あまりにケイに申し訳なくて、悲しくて、情けなくて。
それでも、優しく撫でてくれる手が愛おしくて。
色んな感情がごっちゃになって、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。もう何も考えられなかった。
アイリーン……
ケイは名前を呼ぶだけで、何も言わない。ただそっと抱き締める。
ごめん……
自然と、口に出していた。
ごめんね……ごめんね、ケイ……!
むせび泣くことしか、できなかった。
―いいんだ。
耳元で、ケイのささやきを聞いて。
アイリーンはどうしようもなくて、泣いた。
†††
その夜。
泣き疲れたアイリーンと一緒に、ケイは眠った。
洞穴の外にはサスケとスズカがおり、“警報機”もあるので、二人揃って寝ても大丈夫だろうという判断だった。それでも、万が一の際はすぐに行動できるよう、ケイは洞穴の壁に背を預けて眠りについた。疲れのせいもあり、一瞬で意識は途絶える。
浅いようで、深い眠り。
そのせいだろうか。妙な夢を見た。
夢の中で、ケイは地球の実家にいた。なぜか今と同じように、ゲームのアバターそのままの、健康な肉体で日常生活を送っていた。
早朝、自室で目を覚まし―幼い頃から入院生活を送っていたケイには、実家に自室などなかったのだが―おそらく休日だったのだろう、リビングで両親や弟と一緒に、朝食を食べる。
本来なら、ケイは弟と絶縁状態にあった。昔、 俺も兄ちゃんみたいな身体だったら、いくらでもゲームできたのに と言われ、ケイがブチ切れたためだ。しかし夢の中ではそんな過去もなかったことになっていて、普通に仲の良い兄弟として、一緒にテレビを見たり、他愛のないことを話しながら過ごした。最後に直接見た、おそらく十歳ほど若いままの姿の両親も、そんなケイたちを微笑ましげに見ていた。
ケイの想像する、『普通の家庭』。
そんな夢だった。
朝、洞穴で、鳥の鳴き声を聞き、目を覚ましたとき―ケイはまだ、夢の現実感を引きずっていた。自分が地球の、あるはずもない自室で目を覚ましたような、そんな錯覚に囚われた。
それが夢であった、と気づいた瞬間、ケイの心を満たしたのは、寂しさだ。
おそらく、久しく感じたことのない、郷愁というものだった。
実際、ケイには選択肢がない。地球への帰還が可能だったとしても、ゲームの肉体のまま戻れないなら、待っているのは遠くない未来での死だ。
ケイは死にたくはない。まだまだ生きたいと願っている。
ならば、『こちら』の世界に留まるしかない。
そう考えると、心はぴたりと定まり、迷いは一片もない。
しかし―どうだろう。
帰ったとき、そこに、それなりに日常生活を送れる肉体があったとしたら。
そう仮定して考えてみると、一気に決心が揺らぐのを感じた。
地球の生活は魅力的だ。少なくとも日本ならそれなりに安全だし、物は豊富にあり、インフラも整っている。
ロシアも、それは大して変わらないはずだ―
少なくとも、一歩間違ったら馬賊に襲撃されて、血みどろの殺し合いに巻き込まれるような、そんな物騒なことは、概ねない。
アイリーンは以前、自身の気持ちを『迷いがある』と表現していたが、それも納得だった。ケイでさえ、想像するとこれほどまでに心が揺れるのだ。いわんやアイリーンなら―推して量るべしだ。迷うのも当たり前だろう。
果たして、この世界に留まることが、普通の人にとって『幸せ』なのか。
ケイにはわからない。それが、アイリーンにとって、どうなのかは―正直なところ、今はまだ、あまり考えたくない。
だが、答えは近いうちに出るだろう。
ケイに続いてアイリーンも目を覚まし、朝食を摂った二人は、すぐに洞穴を発った。
目指すは、当初の目的地。“魔の森”に最も近いとされる、シャリトの村だ。昨夜はあんな話をしたが、ここまで来て今更引き返すわけにはいかない。行けるところまで行くまでだった。
アイリーンの顔色は依然として冴えない。
まあ、それはそうだろうな、とケイは思う。一日二日でけろりとしてしまうのは、それはそれで恐ろしいような気もする。
アイリーンの内なる葛藤など知る由もないケイは、彼女の反応は至極まともである、とそんな風に認識していた。
ただ、塞ぎこんでいるアイリーンを見ていると、否応なくケイは、彼女にとっての『幸せ』を考えてしまう。
悩み、考えるケイたちを他所に、それでもサスケとスズカは進む。
その後は、特に支障はなく、思いの外順調な旅路となった。
川を辿って新たな街道に合流し、中間目的地であった都市”ベルヤンスク”をスキップして、直接”シャリトスコエ”に向かう。充分な水源と点在する村々のお陰で物資の補給にも事欠かない。ケイの容姿のせいで現地民との交流が難しくなる恐れもあったが、北の大地の北東部では馬賊の悪評はそれほど広まっておらず、事なきを得る。
ケイたちがシャリトの村に到着したのは、隊商から別れて四日後のことだった。
事前の情報で、『小さな辺境の村』というイメージを持っていたが、実際の村の様子は想像とは大分異なっていた。
まるで小さな要塞だな……
森と平野の境目に位置する集落を遠目に見て、ケイは感心したように独り呟く。丸太を地面に直接打ち付けたような、頑丈な木の壁にぐるりと囲まれた村だ。親指を立てて高さを測ると、壁は優に三メートルはありそうだった。大抵の獣や野盗ならば、簡単に跳ね除けられそうな防備だ。
要塞村、って他の村の住人が言ってたな
ここ数日で大分調子を取り戻しつつあるアイリーンが、ケイの独り言を聞きつけて補足する。
成る程。言葉通りだな
シャリトは人口百名ほどの辺境の集落らしいが、建物などはそれぞれ立派な造りであることが看て取れる。何か特産でもあるのだろうか―少なくとも、公国の書物では具体的には触れられていなかったが。
スムーズに入れると良いんだが
見るからに『開放的』じゃなさそうだもんなー
二人して顔を見合わせる。
果たして、その懸念は現実のものとなった。
『止まれ! 何者か!』
ケイたちが村まで近づいた時点で、入口の門の傍、見張り櫓のような建物の上から、弓を手にした村人が誰何(すいか)してきた。
村人―と、この場合は表現する他ないのだろうが、筋骨隆々の中年の男が、板金仕込みの革鎧で武装している様は、まさに戦士だ。一目で猛者とわかる立ち居振舞い、威容。ようやく『北の大地』らしい雪原の民が出てきたな、と顔布の奥でケイは皮肉に笑う。
『怪しい者じゃないわ! 訳あって”魔の森”に用があるの。貴方のところが、一番近い村でしょう?』
アイリーンが答えると、門番は はぁ? と訝しげな声を上げる。しばし、自分たちの境遇―霧の異邦人(エトランジェ)のことをそれとなく伝えると、門番の男は『ちょっと待て、人を遣る』と言い、櫓を降りていった。
さて、どうなるか……
というか、昼間でも門を閉じてるんだな、この村は
気を揉むアイリーンに、村を仔細に観察するケイ。
待たされること数分。
ギギギィッ、と重い軋みを上げて、村の門が開かれた。
『貴様らか、旅人というのは』
そして、その奥から独りの偉丈夫が姿を現す。
“獅子”。
ケイたちが、真っ先に連想したのは、その言葉だ。
壮年の男だった。がっしりとした体格。ぴったりとした革の服の下には筋肉の線が浮かび、白髪交じりの長い金髪と立派に蓄えたあごひげは、まさにたてがみのようだ。見るからに、強い意志の光を湛える双眸は、アイリーンのそれよりも薄い水色。腕を組み、門の真下で仁王立ちにした姿からは覇気が滲み出ており、一目で只者でないことがわかった。
『ええと……貴方は?』
若干、引き攣った笑顔を浮かべて、アイリーン。
『この村のまとめ役をやっておる者だ。セルゲイという』
『よ、よろしく……わたしはアイリーン』
馬から降りて会釈するアイリーン。ケイも続いてサスケから降り、フードを跳ね上げて顔布を取り去る。
ケイのアジア人的な相貌を目にしても、男―セルゲイの厳つい表情は、微塵も動揺を見せない。
Nice to meet you. My name is Kei
ただ、ケイが公国語で話すと、ぴくりと眉を動かした。
……なんだ、貴様は草原の民か?
流暢な公国語。ケイとアイリーンは思わず顔を見合わせた。
どうした、何がおかしい?
ああ、いや……流暢な公国語で、少々驚いた
今までの村々でも、ここまでスムーズに英語が話せる雪原の民は、早々お目にかかれなかった。まさかこんな最果ての村に、外国語を使いこなす住民がいるとは思ってもみなかったのだ。
ケイたちの反応に、セルゲイは少し得意げになって、フンと鼻を鳴らした。
ワシも若い頃は、武者修行で各地を回っておったからな。公国語なんざお手の物よ。……で、貴様は草原の民か?
最初の質問に戻る。ケイはゆっくりと首を横に振った。
いや。よく間違えられるが、Japaneseという別の民族だ。彼女(ツレ)が話した通り、訳あって遠くからやってきてな……一応、公国、というか要塞都市ウルヴァーンの市民証もあるが、兎に角草原の民ではない
……最近では、草原の民が物騒なことをしておると、風の噂に聞いたからな
じろりと、ケイの頭からつま先まで、胡乱な目で睨めつけるセルゲイ。
ウチの村では下手な真似はしないことだ。皆、それなりに腕に覚えはあるからな。ただし行儀よくするならば客としてもてなそう。立ち話も何だ、まあ入れ
くるりとケイたちに背を向け、さっさと歩き出すセルゲイ。しかし何かを思い出したかのようにすぐに振り返り、
Welcome to(ようこそ) Сяльто(シャリトへ)
サッ、と手を広げて一言。そしてそのまま再び歩き出す。
…………
ケイたちは、今一度顔を見合わせた。
まだ油断ならないが、意外と茶目っ気のある人物なのかも知れない。
サスケとスズカを連れて、ケイたちも村に入る。
成る程、セルゲイが言っていたのは事実だろう。先ほどの門番とセルゲイ本人を見た時点で薄々察していたが、この村の住人はかなり鍛えられているようだった。
村のあちこちで見かける男衆は、例外なくがっしりとした体つきで、アイリーン曰く重心の安定度から何らかの武術を修めているのはまず間違いないだろうとのことだった。女衆でさえ、時たまケイより強そうな雰囲気を漂わせている者がいる。例えば今しがた通りがかった軒先の中年女性などは、ケイの太腿ほどの腕の太さを誇り、生半可な木ならば一撃で叩き折れそうな貫禄を備えていた。
皆、余所者であるケイたちに、物珍しげな視線を向けている。所謂、排他的な刺々しさは感じなかったが、ケイやアイリーンの力量を推し計ろうとするかのような気配があった。只者でない、という点では、ケイたちも大概だ。しかし一目でそれとなく察するとなると、つまり村人たちも尋常ではない、ということなのだろう。
どんな不届き者も、この村に入れば悪さをする気を失おうというものだ。少なくとも治安は安定しているように見える。逆に、村ぐるみの追い剥ぎに遭おうものなら、魔術でも使わないかぎり勝ち目がなさそうだったが。
セルゲイに案内されたのは、村の端に位置する大きな屋敷だ。村長の家、ということらしい。
『タチアナ! 茶を淹れてくれ。客人だ』
『あらあら、珍しい。これはまた別嬪さんといい男じゃないかい? とっておきの茶菓子もつけようかね』
セルゲイの妻だろうか、恰幅の良い肝っ玉母さん風の女性が炊事場へと小走りで飛んで行く。リビングに通されたケイたちは、荷物を置きながら薦められるがままにテーブルについた。
そういや、公国の市民証があるって話だったか?
ああ、一応。名誉市民だがな
ほーう、そいつァまた珍しい。かれこれ数十年生きてるが、本物にはお目にかかったことがないんだ、良かったら見せてくれ
お安いご用さ
言葉が通じるのはなんと素晴らしいことだろう、としみじみ思いながら、ケイは懐から市民証を取り出す。アイリーンのお陰で慣れているので、雪原の訛りも聞き取りには全く問題ない。
物珍しげにしげしげと紙面に視線を落とすセルゲイ。会話が途切れたケイたちは、さてこれから何をどう話したものか、と思索を巡らし始めた。
が。
そのとき、リビングの扉がバタンと開いて、金髪の青年が颯爽と入ってくる。
『親父! 今度の狩りの件なんだが―』
ハキハキとした声でセルゲイに話しかけようとしていた青年は、ふと、リビングで寛ぐ客人(ケイ)たちに視線を向けて、その水色の目をまん丸に見開いた。
あぁ!!
はっ?!
えっ!?
青年、ケイ、アイリーンと、三者三様に素っ頓狂な声を上げる。
…………!!
全員、二の句が継げない。
ケイの市民証から顔を上げたセルゲイは、呆気に取られて硬直する三人を見やって、訝しげに首を傾げた。
なんだ、知り合いか? アレクセイ
父親の声に、はっと我に返った金髪碧眼の青年は―引き攣った笑みを浮かべ、ぎこちなくケイたちに手を振った。
よ、よお……久しぶり
アレクセイだった。
50. 再会
ガッハッハッハ、と豪快な笑い声が響き渡る。
いやはや、まさか貴様が例の弓使いだったとはなぁ!
屋敷のリビングにて、笑いながらケイの背中をバンバンと叩くのはシャリト村の長、セルゲイその人だ。あまりの馬鹿力に座ったまま前へつんのめるケイ、隣でどう反応したものか困り顔のアイリーン。テーブルを挟んで反対側のアレクセイは、腕を組んでなんとも渋い顔をしている。
ほほー……アンタがねえ……
彼女、美人さんじゃない? ねえエリーナ
な、なんで私に振るんです?
値踏みするようにケイを見やる肝っ玉母さん風の女性、金髪を長く伸ばした吊り目の美女、そして亜麻色の髪を三つ編みおさげにした大人しそうな少女。
現在、騒ぎを聞きつけて、屋敷にはセルゲイの家族たちが集まっている。
よぉし、では紹介しよう!
やたら上機嫌でノリノリのセルゲイが、家族を紹介し始めた。
まず、妻のタチアナだ
よろしく。ウチの倅が世話になったらしいねえ
タチアナ―件の肝っ玉母さん風の女性は、やはり肝っ玉母さんだったらしい。両手を腰に当てた、恰幅の良いマダムに正面からギロリと睨めつけられ、 その…… と思わず返答に詰まるケイ。アレクセイは手で顔を覆っていた。
が、ケイが口を開く前に、タチアナは一転、表情を緩めてからからと笑い出す。
冗談さね、男ならシャキッとしな! 切った張ったは雪原の男に付き物、いちいち気にしてたらキリがないよ
は、はぁ……
取り敢えず気にはしていないらしい、と安心しつつ、ケイは阿呆のように頷く。
うむうむ、と同意するように首肯したセルゲイは、続いて吊り目の美女を示した。
で、こっちが娘のアナスタシアだ
ハァイ。わたし、公国語はそんなにできないの。お手柔らかにね
ぱちりとケイにウィンクして手をひらひらとさせる美女―アナスタシア。公国語はできない、と言う割にはしっとりと滑らかな喋り方だ。おそらく二十代前半、アレクセイの姉だろうか。
ケイの顔から胸部にかけて、舐めるような視線を向けたアナスタシアは一言、
そそるわ……
お、おねえさん、夫を持つ身でそういうことは……
アナスタシアの隣りに座る、三つ編みおさげの少女がわたわたと慌てている。
だってしょうがないじゃない。彼ったらもう一週間も家に帰ってないのよ
飄々とした表情に若干の憂いの色を滲ませて、溜息をつくアナスタシア。ケイたちと同年代とは思えないほど、色気のある表情をしていた。
こいつの旦那は村の商家の跡継ぎでな。たまに行商で他の村々を回るから、家を長く空けることがあるんだ
そう。だからこうして実家にも遊びに来れるってワケ……足繁くね
横から補足するセルゲイ、アナスタシアは皮肉げに笑った。
なるほど、既婚か
あらぁ、興味がおあり?
いや、まあ、そういうわけでは……。俺には愛する人がいるのでな
真面目くさったケイの言葉に、アナスタシアはころころと笑う。はにかんだような笑みを浮かべるアイリーン。苦笑するアレクセイと、その隣で少し表情を曇らせる三つ編みおさげの少女。アナスタシアはおさげの少女に流し目を送った。
ほんと、聞いていた通り生真面目な人ね。ですってよエリーナ
だからなんで私に振るんですかっ
エリーナと呼ばれたおさげの少女は、頬を赤らめてケイとアイリーンを交互に見やり、何故か動揺している。
嫌気が差したらいつでも帰ってきて良いんだぞ、とは言ってたんだがなあ……嫁入り後も愛娘と会えるのは良いとしても、こんなにしょっちゅう帰ってくることになるとは思わなんだ
周囲の微妙なニュアンスのやり取りには我関せずといった様子で、マイペースに話を続けるセルゲイ。複雑な父親の心境を覗かせる言葉に、アナスタシアも溜息をついた。
それはこっちのセリフよ
まあいい、それで、次が息子のアレクセイだ。紹介するまでもないだろうが
ヘーイ、ナイストゥミーチュー
開き直った様子で、姉よろしくひらひら手を振ってみせるアレクセイ。苦笑するケイたちに、お手上げのポーズを取って 他にどうしろってんだよ とわざとらしく嘆く。
アレクセイは、最後に見たときからそれほど変わっていなかった。強いて言えば、擦り切れた旅装ではなく、それなりに仕立ての良い毛皮のベストやら何やらで、リラックスしたラフな格好をしていることだろうか。耳のピアスも相変わらずだった。
そして、……『娘』のエリーナだ
最後に、セルゲイが三つ編みおさげの少女―エリーナを手で示した。『Daughter(むすめ)』の部分に何か含みが感じられる言い方。
は、初めまして
紹介されたエリーナは姿勢を正し、少し緊張気味に会釈した。やはり、あどけない顔つきの少女だ。年の頃は十代前半といったところか。両親のどちらに似たのだろう、とケイはさりげなくセルゲイとタチアナを見比べる。だが、どちらの血が濃く出ているのかは判然としなかった。一家の中で一人だけ亜麻色の髪の毛、ハキハキした性格の他の家人とは違い、どちらかと言うと大人しめの人物であるように見受けられるが―
へー、妹いたんだ
アイリーンが意外そうに呟くと、アレクセイが答える前にエリーナ本人が何故かムッとしたように答えた。
妹じゃありません! 妻です!
―その言葉の意味を理解するのに、しばしの時間を要した。
えっ?
二人が、まじまじとエリーナの顔を凝視してしまったのも、致し方ないことだろう。
若い。
あまりに若い。
えっと……エリーナは、今幾つなんだ?
今年で十六になりました
ええ……
お前マジか、とケイがアレクセイを見ると、青年は精悍な顔を照れ笑いに緩めて頭を掻きながら頷いた。
ああ。エリーナはおれの嫁だよ。この間結婚したばかりでな……
改めて、アレクセイとエリーナを見比べる。片や金髪碧眼でピアスだらけの野性味溢れる青年。片や子供にしか見えないあどけない少女。
いや、エリーナが実年齢よりさらに幼く見えるのは、髪型や少しおどおどとした言動のせいもあるのかも知れないが―いずれにせよ、
((犯罪臭がヤバイ……))
口には出さなかったが、ケイとアイリーンの思考は見事に一致していた。だが、当人たちは全く問題視しておらずむしろ納得しているようだったので、部外者が口を挟むことでもない。そもそも、文化どころか世界が違うのだ。
ええと、……おめでとう
末永くお幸せにね……
とりあえず口々にお祝いの言葉を述べる。 ありがとう、ありがとう と完全に吹っ切れた様子でそれを受けるアレクセイと、先ほどとは対照的に、はにかんだ笑みを浮かべるエリーナと。
その場に、気まずさとは少し違う、何とも言えない小っ恥ずかしいような空気が降りてきて話が続かないケイたちを見、セルゲイは大いに笑った。
ハッハッハ! 諸国遍歴は嫁探しも兼ねてたんだが、皆が皆嫁を連れて帰ってこれるわけではないからな。嫁探しができなかった場合は、そのまま村の年頃の娘と結婚するものさ。そして武者修行から無事に帰ってくる若い衆は、大抵は自分が世界で一番強いとでも思ってるんだが、アレクセイは妙に落ち着いていた。調子に乗っていれば一発シメてやろうとでも思ってたんだが……話を聞けばなかなか『良い経験』を積めたみたいじゃないか。そういう意味では、貴様には感謝しておるとも
ある種、含みのある顔でセルゲイがケイに笑いかける。ここに来てケイの中の気まずさも臨界状態に至り、取ってつけたような愛想笑いを浮かべることしかできなかった。アレクセイは、また違った意味合いで恥ずかしそうにしている。
ところで、決闘の件は倅から聞いたぞ。なんでも、得物は凄まじい強弓らしいな? もし良かったら見せてもらえないか?
ケイの内心を慮ってか、セルゲイはさらに話を変える。部屋の壁際に置いた荷物のうち、弓ケースにチラチラと視線を向けて落ち着きなくしているあたり、ケイを思いやってのことではなく、純粋な好奇心による話題転換かも知れない。そのきらきらと輝く瞳に、(まるで真新しい玩具に興味津々の子供じゃないか)と苦笑しながら、ケイは もちろん、構わない と頷いた。場の空気を変えるにはもってこいだろう。
“竜鱗通し”に弦を張り直し、セルゲイに手渡す。
おおっ、これが!
喜々として受け取るセルゲイ、 おおーいいな とテーブルに肘をついて興味深げなアレクセイ―二人の顔を見ると、なるほど確かに親子だと思わされた。
“竜鱗通し”を手渡された瞬間、セルゲイの腕がクンッと跳ね上がる。馬賊が使う複合弓よりも遥かに大型で厳つい造りをした”竜鱗通し”だが、その見た目を裏切る軽さには意表を突かれたようだ。 なんだ、随分と軽いな! とセルゲイは笑ってはしゃいでいたが、一度(ひとたび)弦に指をかけると顔色を変える。
なんだこの張りは
軽く弦を引こうとして、びくともしない”竜鱗通し”に驚く。思わず真顔になったセルゲイは呼吸を整え、改めて力を込める。
ぬっ……ぐぬぅ……!
腕の筋肉が盛り上がり、ギリギリと音を立ててしなっていく朱き強弓。ほう、と感心しながら、ケイはそれを眺めていた。今まで数々の男たちが”竜鱗通し”を引こうと試みたが、胸元まで弦を引けた者はほんの一握りだ。セルゲイは、その中の数少ない一人になれるかも知れない―
ぐっ、うおおおおおォッ!
そして、裂帛の気合とともに、セルゲイは頬のあたりまで弦を引ききった。ガチガチに身体を強化しているケイでさえ、かなり力を込めなければ引けず、長時間保持もできない位置。常人としてはあり得ないレベルの馬鹿力と言えるだろう。
が、それと同時、 ブボボォッ という異音が響き渡る。
あらまッ
うわっ臭え!
ちょっと父さん!
セルゲイの傍にいたタチアナ、アレクセイ、アナスタシアが一斉に距離を取る。力みすぎたセルゲイが豪快に放屁したのだ。
一瞬きょとんとしたセルゲイだが、理解が及ぶや否やガッハッハッと爆笑し、“竜鱗通し”をケイに返しながら、
いやはや、凄まじい強弓だ! 全盛期のワシでも使いこなすのは難しいな。ついつい力を入れすぎたわ!
危うく実も出るところだったわい、と言われてはケイも反応に困る。というかそれより何より臭かった。アイリーンも若干、テーブルから椅子を離して距離を取っており、エリーナはしかめ面で鼻を摘んでいた。
が、周囲の反応を一顧だにしないセルゲイは、ケイが壁に立てかけた”竜鱗通し”を眺めながら、ひとり神妙な顔で頷いている。
ううむ……この弓を使いこなすとは、只者ではないな。まずまともに引ける者がウチの村に何人いるか
言いながら、それとなくアレクセイを見やるセルゲイ。水を向けられたアレクセイは、 ……試しても? とケイに問う。
断る理由は特になかった。 もちろん と”竜鱗通し”を手渡すケイ、気負わず受け取るアレクセイ、交錯する二人の視線。
……こりゃキツいな
弦を指で弾き、ぽつりと呟くアレクセイだったが、 ふンッ と力を込め、胸元までグイッと弦を引いてみせた。
ほう、やるな
まーな。というか、ケイの腕力が異常だ。これでも村の中でも指折りの力自慢なんだぜ、おれ
半笑いで弓を返しながらアレクセイは―ふと表情を消して首を傾げた。
ひょっとすると、ケイも『紋章』持ちか
アレクセイの言葉に、セルゲイたちがぴくりと眉を跳ねさせる。ケイとアイリーンは無言を保った。
『紋章』関連の話題は非常に繊細だ。雪原の民の秘奥とされている業を、異民族であるケイが身につけてしまっている―そしてそれはゲームだからこそ可能であったのだ。この世界の住人に『ゲーム』の事情を説明するのはなかなか難しいし、場合によっては危険すら伴う可能性がある。
アレクセイ
構わねえよ、親父。ケイたちは『紋章』のことをかなり詳しく知っている
セルゲイの咎めるような声に、アレクセイは首を振って答えた。ウルヴァーンに辿り着いて別れる際、ケイはアレクセイがその身に刻んでいる『紋章』の種類を言い当てたことがある。本来なら『秘奥』とされる紋章の詳しい知識があり、紋章を持つ雪原の民の戦士と同等の筋力を誇る―となれば、ケイもまた紋章の恩恵に与っているのではないか、という推察は決して的外れではない。
……そうなのか?
まあ、そうだな
探るようなセルゲイの問いに、ケイは少し悩んだが、素直に首肯した。
その辺は話せば長くなる。俺たちがここまで旅をしてきた理由にも絡むことだ
そうだ、それにも驚いたぜ。もう二度と会うこともねーだろ、って思ってたのに……二人とも、なんだってこんな辺鄙な場所に来たんだ?
アレクセイの質問は核心を突く。ケイとアイリーンは目配せし合った。
シャリトの村がアレクセイの故郷だったのは全くの想定外だが、『知り合いが存在したこと』それ自体は悪くない。色々といざこざもあり、決闘では殴り合いまで演じた仲だが、少なくとも極悪人でないことはわかっている。
……俺が話すより、アイリーンが説明した方が早いかも知れないな
ケイが公国語で話すより、アイリーンが雪原の言葉(ロシア語)で使った方が、双方ともに色々と都合が良いだろう、という判断だ。それに母国語ならば、話すべき事柄とそうでないものをより柔軟に区別して説明できるはず。
全部、アイリーンに任せる
わかった
おそらくケイの意図は伝わったのだろう。しっかり頷いたアイリーンは、言語を切り替えて諸々の事情を説明し始めた。ゲームや異世界という概念は程々にぼかしつつ、理解しやすいように順序立てて話していく。
全てロシア語なのでケイにはちんぷんかんぷんだったが、セルゲイたちの顔を見ていればどういった内容なのかは大体想像がつく。アイリーンが『Greensleeves』を歌ってみせたときの驚きようは、なかなか見ものだった。
異邦人……か
ケイたちがそうだったのか……なるほどなぁー。故郷が遠くて帰れないかもしれない、って言ってたのはそういうことだったか
いまいち信じ切れない、と言うより、情報を消化しきれていないのか、言葉を噛みしめるように唸るセルゲイに対し、アレクセイは理解も納得も早かった。
それで、お前らは魔の森に手がかりがあると?
公国の図書館で調べた限りでは、そういう結論に至った。少なくとも、件(くだん)の魔の森の伝承と、俺たち自身の状況とでは類似点が多すぎるんだ
ふーん……
顎を撫でたアレクセイは、ケイの目をまっすぐに見つめる。
じゃあ、手がかりがあったとして、ケイたちは故郷に帰るのか?
何気ない問いだったが、それはケイにとってナイフのように鋭く感じられた。
……俺は(・)帰らない
低い声で、ケイは答える。
へ? そりゃなんでまた
……実は俺は、故郷だと不治の病に冒されていてな。それこそ、いつ死んでもおかしくないような状態だった
ケイの言葉に、 冗談だろ とでも言いたげに目を瞬かせるアレクセイ。セルゲイたちも、健康どころか生気に満ち溢れているケイの肉体を見て、 どの口で言うのか とばかりに疑わしげな顔をしていた。
ふっ、とケイの微笑みが、儚いものとなる。
不思議なことに、『こちら』に来るとそれが治ったんだよ。本当に不思議なことに、な……。だが、帰ったら多分、病気も元に戻ってしまうと思うんだ。だから、俺は……帰らないよ
……じゃあ、アイリーンは、どうすんだよ? 帰りたいんだろ?
続けて投げかけられた問いは、ケイが最も知りたくて、そして恐れるものであった。
皆の視線が、アイリーンに集中する。
……オレは、
俯いて、テーブルの上の自分の手に視線を落としたアイリーンは、なかなか答えられないようだった。
ケイの方を気にして―でも、直接視線を向けられなくて。
……ハッキリ言って、……本当に、よくわかんないんだ。ふざけてんのかって、思われそうだけどさ……
やがて、消え入りそうな声で、アイリーンは言った。
おどおどと、気弱にケイを見やる。 ……ホントごめん と、小さな呟き。
でも、……でも、オレは、ケイを一人で残してまで―
……いや、いいんだ、アイリーン
アイリーンの言葉を遮って、ケイは頭(かぶり)を振った。
迷う気持ちもわかるさ。俺だって、同じ状況だったら死ぬほど悩むと思う。……それをハッキリさせるために、俺たちはここまでやってきたんだろう
そう言って微笑みかけると、アイリーンは言葉に詰まった。
口を開いて―何かを言いかけて、しかし結局、俯いてしまう。
よし
と、場を静観していたセルゲイが、そのとき頷いた。
何が よし なのかわからないが、とにかく頷いた。
そういうことなら話は早い。行くぞ
……親父、行くって何処へ?
アレクセイの問いに、席を立ったセルゲイは、事も無げに答えた。
決まってるだろ。魔の森だ
次回 ちょっと魔の森行ってくる
―
*Dear foreign readers
Hi guys, I found my novel translated in English and have read it. It’s really a great job! However, in that translation, the Kei’s another name in DEMONDAL 『死神日本人』 was written “Jap the Ripper” but it is actually “Jap the Reaper”. Not “Ripper”. =) Of course it comes from “Jack the Ripper” but in this case… little bit different xD
51. 下見
前回のあらすじ
セルゲイ よし、魔の森行くぞ
一同 えっ
セルゲイの提案には驚かされたが、その真意は 取り敢えず『魔の森』を見に行ってみよう という軽いものだった。
屋敷でタチアナから簡単な食事を振る舞われ、セルゲイ・アレクセイの両名と共に村を出る。森は存外近くに位置するらしく、徒歩での移動だ。緑広がる草原をのしのしと縦断していく。
流石に今から森に入るのは無謀だ
ケイたちと隣り合って歩くセルゲイが、空を見上げながら言う。
八月も末、昼下がりの太陽は徐々に傾きつつある。あと数時間もすれば夜の帳が降りてくるだろう。森を外から眺めるだけならば兎も角、中に入るならそれなりの準備と―相応の『覚悟』が必要になる、とセルゲイは言っていた。
準備、か?
覚悟はわかるが、準備とは。森に踏み込むのに何らかの装備が必要とされるのだろうか。“竜鱗通し”を手に、周囲を警戒しながらケイは問うた。
森の周辺は狼の群れや得体の知れない獣が出現することがあるらしく、それらは例外なく凶暴なので気が抜けないとのことだった。曰く、双頭の大蛇。曰く、鋭い一本角の猪。 刃で倒せるだけ化け物よりマシ というのはセルゲイの言だ。
そう、準備だ。杭、ロープ、鎖……色々とな
ロープはわかるけど、杭と鎖ってのは?
投げナイフを差したベルトを指先で弄びながら、アイリーンが首を傾げる。
ロープと似たような使い道になるだろうよ。要は迷わないようにするための道具……だろうなぁ、多分
セルゲイの答えは、判然としない。
多分ってどういうことだよ
具体的にどうすりゃいいかなんざ、誰もわからねえんだよ。そもそも、あ(・)の(・)森にわざわざ踏み込むヤツはそういねえ。生きて帰ってくるヤツはもっと少ねえ
白銀色の大剣を担いだアレクセイが、アイリーンに肩をすくめてみせた。
一番最近、森に入って生還できたのは五十年前に挑戦した一人だけさ。あとはみんな行方不明か、昔過ぎて曖昧な言い伝えしか残ってない
へえー。でもいることはいるんだな、無謀なヤツってのも
ああ
アイリーンの言葉に、親子二人は揃って頷いた。
ウチの爺様だ
ケイとアイリーンは顔を見合わせる。この親にしてこの子あり、とは言うが―妙な説得力があった。
あれ? でも、そのお爺さんってのは……
頬に指を当てて、アイリーンが再び首を傾げる。先ほど紹介されたのは妻と娘たちだけで、祖父らしき人物は屋敷に見当たらなかったのだ。
ああ、おれがガキの頃ポックリ逝ったよ
アイリーンの疑問をいち早く察したアレクセイが答えた。
大往生だったなぁ、親父は。そもそもお袋より長生きだったしな。あの日、一緒に酒盛りしてたんだが、ワシが先に寝て、翌日起き出したらリビングで椅子に座ったまま死んでいた。酒が入ったカップを握ったまま、なぁ。最初はただ眠ってるだけかと思ってたんだが……あれには驚いた。だがああいう死に方も悪くはない
獅子のたてがみのような髭を撫でつけながら、空を見上げて感慨深げにセルゲイ。
そういえば、とその顔を見てケイはふと思う。アレクセイが確か二十代頭。セルゲイは見たところ五十代前半といったところだ。この世界の住人にしては、かなり遅めに子供を持ったようだ。
いや、―とケイは思い出す。ウルヴァーンの図書館で調べた北の大地と公国の歴史を。よくよく考えれば、セルゲイが若かりし頃は公国との間で紛争が起きていたはず。あるいは当時、彼はまだ結婚していなかったのかもしれない。たてがみのような金色の髪と髭の奥、ケイは、セルゲイの顔面に走る細長い傷跡を見て取った。
この獅子のような男もまた、かつては戦乱に身を投じていたのだろうか―
―ん?
過去に思いを馳せ、ぼんやりとしていたケイは、しかし視界の端に違和感を覚える。
遠方へ、焦点を結ぶ。
―何かいる
“竜鱗通し”に矢をつがえながらの言葉。唐突だがそこに確かな緊張を感じ取り、全員が自然に身をかがめた。
どこだ
護身用の短刀を引き抜きながら、周囲へ鋭い視線を走らせるセルゲイ。
あの木立の陰だ。今も動いてる
ケイの言葉に、そのまま視線を辿ったセルゲイは―ケイの言う『木立』が三百メートル以上離れていることを悟る。
……遠いな。狼か?
わからん。だが人ではない。大きすぎる
左手で矢と弓を保持したまま、右手で筒を作り望遠鏡のように覗き込む。周囲の光を遮断し、遠方を見やすくするテクニック。続いて親指を立てて距離を測り、大体の目測が合っていたことを確かめる。
……二メートルはあるな。姿勢が低い、狼かもしれん……しかし、北の大地の狼って確か灰色で小柄なんじゃなかったか?
そうだな、ワシもそこまでデカい狼はここらじゃお目にかかったことがない
気味が悪いな。正体がよくわからない
しばしの沈黙―
キンッ、とアレクセイが、大剣を指で弾いて音を立てる。
ケイたちは風下におり、距離も離れているので、『獣』にはまだ勘付かれてはいないはずだ。ぺろりと唇を舐めたケイは、“竜鱗通し”の弦に指をかける。
……少し脅かしてみるか
構わないか? と視線を向けると、セルゲイは頷いた。
やってみろ
了解
膝立ちの姿勢を取るケイ、その黒髪が草原を吹き抜ける風になびく。
彼我の距離、そしてこの向かい風―狙った方向に矢を飛ばすのは、容易ではない。
しかし、ケイにとっては不可能でもない。
目を凝らせば、見える。
風にそよぐ草原―それはまるで打ち寄せる波のように。
空気のうねりを、ケイに教えてくれる。
ざぁっ、と一陣の風がまた、吹き抜けた。
見えた。
一息に弦を引き絞る。
カァン! と快音。
放たれた矢は風に乗って、ゆるやかな弧を描きながら。
目標の木立に、吸い込まれるようにしてすとんと落ちた。
出てきた
直ちに、木立から飛び出してくる黒い影。
目を凝らす。それはしなやかな体つきの、全長は二メートル以上にもなるだろうか、猫に似た黒毛の四足獣だった。
なんだアレは……虎、か? いや、それにしちゃ細身だ。黒豹か?
よくわからんな。小さめの虎か?
黒い獣ってのはわかるが……
ってかそもそも見えないんだけど。どこ? どこにいんの?
取り敢えずとんでもない化け物ではなさそうなので、皆も立ち上がってケイよろしく目を凝らす。セルゲイ・アレクセイはまだ輪郭を捉えられているようだったが、アイリーンはそもそも何処にいるかさえよくわかっていないようだ。目の上に手をかざして、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
ほら、あっちだアイリーン
……見えねえ
俺の指の先を見ろ
アイリーンの顔の横に手を添えて、ケイ。その腕を掴み、片目を閉じたアイリーンが頬をグイグイと押し付けどうにか見ようとするが、
あ、逃げた
えーマジかよ、結局見えなかったんだけど
まあ仕方ないな
どの木立? いくつかあるけど
あれだ、右から三番目の……
まず一番目ってどれだよ
密着したままイチャイチャし始めるケイたちに、地面に大剣を突き立てたアレクセイは、剣により掛かるようにして酷くつまらなさそうな顔をしていた。息子の様子に、くつくつと笑いを堪えるセルゲイ。
おい、若いの。乳繰り合うのもいいが日が暮れちまうぞ
セルゲイが声をかけると、ケイとアイリーンはそそくさと離れた。
すまん
別に、ただどこらへんにいたのか知りたかっただけだし
バツの悪そうなケイと、ぷんすか文句を言うアイリーン。ガッハッハ、と一笑いしたセルゲイは、今一度木立の方を見やり、
矢は回収せんでいいのか? 随分と良いものを使ってるようだが
……そうだな
問われたケイは、はたと考え込む。
手持ちの矢筒には、北の大地に持ち込んだ矢の中でも、選りすぐり質の良い矢ばかりを詰めてきていた。サティナの矢職人・モンタン謹製の一矢。確かにそんじょそこらの矢よりは信頼の置ける逸品だが―
いや、いい。探すのも手間だ。それにあの辺りにまだ獣がいるかもしれん
そうか、ならいいだろう
セルゲイも軽く頷いて流し、一同は再び歩き出した。
……それにしても、良い腕をしている
しばらくして、ちら、とケイを振り返ったセルゲイが野性味のある笑みを浮かべる。
そいつはどうも
そして素晴らしい眼を持っている。ドルギーフの氏族を思い出すな
腰の短刀の柄を撫でながら、セルゲイはどこか懐かしそうだ。
ドルギーフ?
どこかで聞いたような名前だったが、思い出せない。
北の大地でも、特に有力な氏族の一つだ
再び大剣を肩に担いでアレクセイ。
ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ。それが雪原の民を代表する八氏族だな
とくとくと語るアレクセイに、ケイも思い出す。確か公国の図書館で調べ物をしていたときに何度か目にした名前だ。
ウチの村は、北東部一帯を勢力下とするネステロフの系譜だ
アレクセイの言葉を引き継いだセルゲイが、ぐっと腕の力こぶを見せる。
我々は狼のようにしぶとく、猛牛のように強い。それに対しドルギーフの戦士は皆、鷹のような眼を持っている―ケイのようにな
ここに来て、ケイはセルゲイの意図に気付いた。
―『視力強化』か
フフッ。ドルギーフの戦士は特(・)に(・)誇り高い。奴らに会ったらその眼のことは隠した方がいいかも知れんな。連中は自分たちの眼を自慢に思っている、異民族で同じ眼を持つ者がいるとなれば……目玉をくり抜かれかねんぞ
ぐりぐり、と指で抉るような仕草をしてから豪快に笑うセルゲイだったが、冗談なのか本気なのか判断に迷うところだ。
が、それも大切だが、ケイにはもう一つ気になることがあった。
ひょっとして、氏族ごとに持つ紋章が決まってるのか?
何気ないケイの問いに、 は? とセルゲイ・アレクセイの両名が固まった。
……ケイ、それって自分が好きに選べてるって言ってるようなもんだぜ
腰に手を当てたアイリーンの言葉には、たしなめるような色があった。
その声に再起動を果たしたセルゲイたちは、顔を見合わせる。
まさか……ケイの故郷では、選べたのか?
ああ、……うん。まあな
確かに軽率な問いであった、というかそもそも訊くまでもなかった、と後悔するも、時既に遅し。ケイは気まずげに首肯した。
……どうなってるんだお前らの故郷は
まあそれなら、ケイのような異民族でも紋章の恩恵に与れるのは当然か……
セルゲイは嘆くように、アレクセイは納得するように。
いずれにせよ、自分たちが脈々と受け継いできた秘術が、選び放題だったというのは衝撃的であったらしい。二人ともどこか茫然とした顔をしている。
ケイの故郷では、どんな風に紋章を手に入れるんだ
直球。続けて放たれたセルゲイの質問は、おそらくは今まで敢えて避けていたひどく具体的なものだった。
アレクセイが 親父…… と少し咎めるような声を上げたが、ケイは構わず答える。
俺の故郷の場合、とある山に『Elders(長老たち)』と呼ばれる呪術師の集団がいてな。その山に辿り着き、特定の試練を突破した者に限り、試練に対応した紋章が与えられていた
……なるほど、その辺はワシらと変わらんな。ちゃんと試練はあるんだな。……ならば、まあ、よし!
腕を組んで、うむうむと頷くセルゲイ。
…………
課金アイテムで難易度を落としたとは、口が裂けても言えないケイであった。言ったところでそもそも理解できないであろうが―いや、賄賂を贈ったとでも受け取られかねない。いずれにせよこれ以上ボロを出さないようにと、口をつぐむ。
アイリーンは、そんなケイを若干呆れたように、それでいてある種、微笑ましげな目で見ていた。
……まあ、いくら優れた紋章をその身に刻んでいたところで、最後に物を言うのは個人の修練だ
真っ直ぐにケイを見て、セルゲイは言う。
ケイの弓も、修練の賜物なわけだろう
……そう、だな
仮初の世界(VRMMO)ではあったが―そこでの経験と修練は、確かにケイの中で息づいている。恵まれた環境、恵まれた肉体(アバター)、そして恵まれた紋章。これらを全て踏まえた上で、自らが積み重ねてきたものを『努力』と呼ぶのは、この世界の人々に対しあまりにおこがましい気もしたが。
だが―そう言うしかないのだ。
ケイは儚く微笑んだ。
が、次の瞬間、セルゲイは予想外のことを言い出した。
どうだ、ケイ。事が終わったら、ウチの村に住まんか?
えっ?
はっ?
間抜けな声を上げるケイ、そしてアレクセイ。
ケイは、いずれにせよこちらに残るんだろう? もし行先を決めてないんなら、ウチの村は悪くないぞ。冬は多(・)少(・)冷えるが、食べ物は豊富だ。森の獣もむしろケイにとっては獲物にしかならんだろう。ワシらは強い戦士を歓迎するぞ
セルゲイの言葉に、ケイは答えられなかった。
これからのこと―
漠然と、狩人になって日々の糧を得たり、危険な獣から人々を守ったりする生活ができれば、とは考えていたが。
しかし―どこで、どのように。
そんな具体的なことは、全く考えていないことに気付かされた。
…………
思わず黙考するケイ。
そして、その隣で、黙ってケイを見守るアイリーン。
……すまん、今はちょっとわからない。だが、
晴れ渡った空を、青々と広がる草原を、その果ての森を、視界の彼方の山脈を―
ざっと見渡したケイは、セルゲイに静かな眼差しを向けて、微笑んだ。
もし、行く宛が見つからなかったら―お願いしてもいいかな
構わんとも、こちらからお願いしたいくらいだ
……うん、そうだな。ケイならいいな
破顔一笑するセルゲイ、開き直ったように腕組みをして笑うアレクセイ。
―でも寒いのはちょっと苦手だな。
笑いながら、ケイはそんなことを考えた。しかし、心のなかにあったのは、ほのかな温かみだ。
男たち二人に肩を叩かれるケイを、アイリーンは、ただ眩しげに見つめていた。
おっ、見えてきたぞ
と、そのとき、セルゲイが前方を指差す。
見やる。
ケイの眼は、遥か彼方、鬱蒼と茂る森の威容を捉えた。
巨大な、そして黒々とした針葉樹の森。
太陽はまだ高くあるにもかかわらず、その奥を見通すことはできない―
あれが、
セルゲイの声に、かすかな畏(おそ)れの色が滲む。
―あれが、魔の森だ
~一方その頃~
サスケ この村の人参美味しいね
スズカ ね!
52. 魔境
『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深く怖(おそ)ろしきものどもよ。
遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。
まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように―』
“北方紀行”より、著者・ハーキュリーズ=エルキン。
†††
雲のたなびく晴天のもと、霧の漂う黒い森。
異様だ。
一歩また一歩と近づくほどに、その不気味さをいや増していく。
森の入口にはまばらな木々。穏やかな気配の漂う緑の木立。風に合わせて幹は揺れ、涼やかな葉擦れの音を奏でる。木漏れ日も眩しく、落ち葉の混ざる腐葉土は、足取りに合わせてさくさくと軽やかに―訪問者の歩みをより楽しませ、奥へ奥へと誘(いざな)うかのようだ。
だが、十歩踏み込めばそこは別世界。
眼前を塞ぐ針葉樹の群れ。乱雑に、無秩序に、それでいて真っ直ぐに。寂寥感を湛え立ち並ぶさまは、まるで打ち棄てられた墓標のよう。
生命の息吹を感じない。
全てが死んだように静かだ。
孤立した領域。その境界線は明らか。
霧だ。
うごめき、たゆたうそれは、空に溶け込む灰の色。森を覆い、鷹の目を以(もっ)ても見通せず、石壁のように寒々しくそびえる。おだやかな晩夏の風も、あたたかな午後の陽光も、外界の尽(ことごと)くを寄せ付けない。
沈黙は、濃霧のヴェールに抱(いだ)かれて。
しっとりとした無音の世界は、鼓動と吐息を浮き彫りにする。
森から滲み出る、湿り気を帯びた空気は、ひしひしと肌に染み込むかのようだ。
しかし、全てを拒絶するように見えて、それは不思議と視線を惹きつける。
不気味さに圧倒されながらも、徐々に慣れていけば、刺激されずにはいられない。
これに触れればどうなってしまうのか? と。
そんな無邪気な好奇心を―
―ケイ!
アイリーンの声に、ケイはハッと我に返った。
眼前、霧の壁が手の届きそうなところにまで迫っている。
いや違う。
ケイ自身が、いつの間にか木立に深く分け入っていた。
おい、ケイ! しっかりしろ!!
アレクセイが背後から、ケイのマントの首根っこを掴んで引きずり寄せる。ふらふらと尻もちをつきそうになりながら、ケイは転がるようにして後ずさった。
ケイ、大丈夫かよ! どうしたんだ!?
あ、ああ……。すまん、大丈夫だ
頭(かぶり)を振りながら、ぱちぱちと目を瞬く。駆け寄ってきたアイリーンが、心配げにケイの頬に手を添えて、その顔を覗き込んだ。
……俺は、どうしてたんだ?
どうしたもこうしたもないぜ! オレたちが近づくの躊躇ってたら、ケイだけ勝手にズンズン進んでいくんだもん。びっくりした……
ケイの瞳に理性の光があることを確認し、ホッと胸を撫で下ろしたアイリーンは、そのままへなへなと座り込んでしまいそうだった。
いやービビったぜ、あのまま森に入っちまうかと思った。何の準備も無しに突っ込むのはいくらなんでもおっかねえや
濃霧とケイとを交互に見やりながら、額の汗を拭うアレクセイ。
まるで魅入られているようだったな
唸るようにして言ったセルゲイは、ぼりぼりと頭を掻いて申し訳なさそうだ。
すまん。なにぶんあっという間のことで、止めるのが遅れた
オレたちもボーッとしてたけどさ……もう、……ホントびっくりした
ほう、と溜息をついたアイリーンは、捨てられた子犬のような顔でケイを見やった。そしてケイが再びふらふらと独りで歩いて行ってしまうのを恐れるように、マントの裾をちょこんと指でつまむ。
いや、俺こそすまん、だがもう大丈夫……だと思う
とは言ったものの、よく憶えていない―というより全く自覚のなかったケイは、我ながら半信半疑だ。
今一度、落ち着いて森を眺める。
影を落とす巨大な針葉樹のせいで、昼間であるにもかかわらず辺りは薄暗い。木々の合間を漂う濃霧、目の前に灰色の壁が立ち塞がっているかのような圧迫感。霧は森の外には一寸たりともはみ出してこず、実はガラスで隔てられてるんじゃないか―などと考えてしまうほど、異様な光景だった。
じっと見つめていると、胸の奥がざわついて仕方がない。
ただ、今も尚、森に何か惹かれるものを感じているのは、確かだった。
……なかなか素敵な場所じゃないか
場を和ませようと冗談交じりに口にしてみたが、笑える気分ではないらしく、皆一様に硬い顔で反応はなかった。
……ここに、手がかりがあるのかな
しばらくして、ケイのマントを掴んだままのアイリーンが、独り言のように呟いた。
ケイは、それに答えられない。ケイ自身もまさに同じことを考えていたからだ。北の大地、魔の森に来れば転移の謎が解けるはず、と―そう信じてここまでやってきたはいいものの、いざ実物を目の前にしてみると、どうするべきかがわからない。
……俺たちが、『ここ』に来る直前に見た霧に似ているな
ゲーム内、要塞村ウルヴァーンに向かう道中に湧いていた霧を思い出しながら、ケイはアイリーンを見やった。
そう、だな。ってことは……
それに首肯し、アイリーンは緊張の面持ちで口をつぐむ。
―あの中に入ったら、元の世界に帰ることに?
アイリーンの心の呟きが、聞こえた気がした。
……うぅむ
難しい顔で、ケイは唸る。霧の中に入れば元の世界に帰れる―その仮定は、ケイにとってはむしろ都合の悪いものだ。ケイ自身は地球に帰るつもりがない。この肉体(アバター)を維持できるなら喜び勇んで帰ろうというものだが、実際はゲームの中に戻るか、生命維持槽の中で目を覚ますのが関の山だろう。
それは、御免だ。
動かない四肢、骨が筋肉を蝕み侵していく痛み―不意に、幻肢痛のような感覚に襲われたケイは、嫌な記憶を振り払うようにぐっと拳に力を込める。
もう二度と、あんな思いはしたくなかった。今ある『奇跡』にケイが感謝を欠かしたことはない。仮にこれを失うとなれば、余命云々の前に生きる気力をなくしてしまう。
だが、だからといってこの霧の中にアイリーンを一人で送り出すわけにもいかない。
思い悩むケイだったが、そこでふと『森の賢者』の話を思い出した。
なあ、アレクセイ。『霧の森には賢者が住んでいる』っていうのは、ここのことなんだよな?
ん? ああ、そうだな。そんな言い伝えもある。この森の何処かに屋敷があって、奇抜な赤い衣を身にまとった賢者が隠れ住んでいる―って話だろ?
それは言い伝えに過ぎないのか? それとも、ある程度信憑性があるんだろうか
……さあな
腕組みをしたアレクセイは、困り顔で森を見やった。
『森の中の屋敷があって、そこで賢者と出会った』って言い伝えは古くからあるんだが、……何様ものすっごく昔のことだからな。一番新しい言い伝えで、大体百年前くらいか? 仮に屋敷があったとしても、賢者本人はもう死んでるんじゃねえか
……確かにな
言われてみればその通りだ。件の『賢者』が不老不死の存在ならば話は別だが―そうでもなければ、今頃骨になって転がっているだろう。 DEMONDAL の知識と照らし合わせても、ケイの知る限り、ゲーム内に『不老不死』とされるNPCは存在しない。
ある種の『この世ならざるもの』である精霊たちだけが、その唯一の例外だ。
(精霊か……)
ひょっとすると、上位精霊が戯れに賢者の真似事をしているだけかも知れない、と。ケイはその可能性に思い至った。そもそも生身の人間であれば、こんな不気味な森に居を構えて生きてはいけないだろう。
なぜそんなことを? なぜこの森で? 等々、疑問を挙げだせばきりがないが、仮にその賢者が『生物』でないなら、今も尚ここに暮らしていてもおかしくはない。
おかしくはない―
(とはいえ、肝心なのはこの霧の性質なんだよなぁ)
ゲーム内には、このような形でマップ広域を埋め尽くす霧が存在しなかったので、予想のつけようがないのがネックだった。『こちら』の世界に転移する際、霧の中で何がどうなったのか、記憶が曖昧ではっきり思い出せないのも痛い。
……なあ、アイリーン。魔術で森の中を探れないか?
この濃霧の向こう側がどうなっているのか。ケルスティンの『影』で内部を探ることができれば、何かわかるかもしれない。ケイが話を振ると、アイリーンは う~ん と冴えない顔で頭を掻いた。
それはオレも考えたんだけど―
なんだ、嬢ちゃんは魔法使いなのか?
アイリーンの言葉を遮り、目を丸くするセルゲイ。すかさずアレクセイが口を挟む。
親父、前に話しただろ。こう見えてもアイリーンは魔術師だ。村の呪い師の婆様なんて目じゃないぜ
ほう! 若いのに大したもんだ……お前もまたデカイ魚を逃がしたもんだな!
だーかーらッその話はもういいって!
ぽん、と励ますように肩を叩いてくるセルゲイ、鬱陶しそうにその手を振り払うアレクセイ。
―それはオレも考えたんだけど、
アイリーンは何事もなかったかのように話題を再開。
ケルスティンに頼むなら、日が暮れるまで待つ必要があるぜ
……それは問題だな
アイリーンの契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンは、実質的に太陽が沈んだ後でしか使役できない。しかしこの不気味な森を前にして暗くなるまで過ごすのは、なかなか勇気が必要だ。重要度からすれば、多少の気味の悪さや獣の襲撃を覚悟してでも実行する価値はあるかもしれないが、アレクセイとセルゲイは 夕暮れ後もここに留まる と聞いただけで顔色を悪くする有様だった。仲間としては頼れそうもない。
その上、ウルヴァーンの図書館で調べたことが本当なら、森の中は魔術が阻害されるはずだぜ。少なくとも低位精霊のケルスティンじゃ手が出せない……試してみないことには、なんとも言えないけどさ
うーむ、そういえばそんなことも書いてあったような
確か、数十年前この森に派遣されたという、ウルヴァーンの魔術師団による調査結果だ。“妖精”程度の低位精霊では森の霧に干渉できなかった、という趣旨のレポートを目にした記憶がある。
……どうする? アイリーン
個人的には試してみたいけどなー。でも夕方までここにいるのは正直やだ
アイリーンの言葉に、セルゲイ・アレクセイ親子がぶんぶんと頷いている。
手詰まり―だろうか。結局、霧の中に入ってみなければ、何が起こるかさえわからないのか。
唸るケイだったが、ふと、怪訝な顔で周囲を見回した。
? どうした、ケイ?
今、何か聞こえなかったか?
どこからか、声が聞こえた気がした。
最初は気のせいかと思ったが、どうも違う。あるいは幻聴か。それはか細く、高く、どちらかと言うと女性の声のようだ。一瞬、アイリーンが独り言でも呟いたのかと思ったが、彼女のハスキーボイスとは異なり、もっと軽やかで、鈴を鳴らすような―
―Kei,
また、聴こえた。
今度ははっきりと、耳元で。
微かな風が頬を撫でる。
……シーヴ、か?
ケイの呟きは、どこか疑わしげに。
“風の乙女”シーヴ。ケイの呼びかけもなしに、彼女が自ら進んで行動を起こすことなど、滅多とないことだった。
ケイの傍らを駆け抜けていった風は、木立の枝葉を揺らし、霧の壁へと吹き付ける。
…………
シーヴの笑い声に誘われるようにして。
しっかりとした足取りで、ケイは少しずつ森へ歩み寄っていく。
ちょっと、ケイ!
大丈夫だ、トチ狂ったわけじゃない
慌てるアイリーンを宥め、霧の壁に迫る。
眼前、手を伸ばせば触れられる距離。
―Vi povas tuŝi ĝin.
シーヴが耳元で囁く。
おもむろに、右手を掲げ―そっと霧に触れた。
オオ、と渦を巻く風。
濃霧は、吹き散らされた。それが当然と言わんばかりに。
灰色の壁に風穴が開き―ケイの前に道が現れる。
…………
アイリーンも、セルゲイとアレクセイも、そしてケイ自身も、呆気に取られてしまい動けない。
―Por trovi la veron.
クスクスクス、と弾むような笑い声を残して、シーヴの気配が消え去った。くらり、と目眩のようなものを感じる。シーヴが魔力を勝手に抜き取っていったらしい。ケイが手を引っ込めるのと同時、霧の壁に空いた穴もゆっくりと閉じていく―その動きは、まるで傷跡が修復されていくかのようで、どこか生物的な印象をケイに投げかけた。
いやはや……たまげたな
ぱん、と額を叩いたセルゲイは、いたく感心したような、面白がるような視線をケイに向けた。
言い伝えに新たな一ページが加わったな。霧の異邦人が手をかざせば、森に道が開かれるらしい
やーっぱりケイも魔術師だったのかよ。ま、精霊語がペラペラっぽかった時点でそうじゃないかとは思ってたけどな……
アレクセイは腕組みをして何やら難しい顔をしていた。
今のは何が起きたんだ? ケイ
茫然自失から再起動を果たしたアイリーンが、前のめりになって尋ねてくる。
……わからん。シーヴは、『行け』と言ってるようだった
直接そう言われたわけではないが―と。右手を不思議そうに握ったり開いたりしながら、ケイは心ここにあらずといった様子だ。
シーヴは腐っても中位精霊。その現世への干渉力はケルスティンのそれとは比べ物にならない。現に、魔の森の霧をものともせずに風穴を開けてみせた。
魔術の触媒としてエメラルドしか受け取らず、使役する際も枯死する寸前まで魔力を搾り取ってきて、ケイからすれば業突く張りで我儘な精霊という印象のシーヴだが―彼女なりに契約者を思いやって行動している節もある。今も、勝手に力を行使し、その上頼んでもいないのに代償として魔力を抜き去っていったものの、致命的なまでに不都合なことを押し付けたりはしない。
そのシーヴが、霧の中へ進めと言うのなら。
おそらく、ケイの求める答えがそこにあるのだろう―
(……霧の中に踏み込んでも、即座に転移は起きない、ということか?)