今は風の精霊として自由を謳歌(?)しているシーヴだが、元は DEMONDAL に実装されていたAIに過ぎない。仮にケイが地球へ帰還することになれば、彼女もただのAIに戻ってしまうだろう。自由意志を獲得した現在のシーヴにとって、おそらくそれは望むところではないはず。
ゲームの設定を考えれば、精霊とはこの世界に根ざした存在だ。あるいは彼女(シーヴ)は、この森の中に待ち受けているものを既に知っているのかもしれない。
やはり、行くしかないのか
霧の壁を見やり、ケイはぽつりと呟いた。
い、今? 今なのか? ケイ
いや、流石に今じゃないぞ。そろそろ日も傾き始めたし、明日以降だろ
何やら肩に力が入りすぎているアイリーンに、ケイは苦笑する。
ケイの精霊は、森に入るべきだと言っているんだな
おそらくな。まあ、ロープだの杭だの準備をある程度整えて、明日もう一度トライしてみたい
そうか
セルゲイは、年甲斐もなくワクワクとした表情で頷いた。
なら、話は早いな。村に戻って準備を整えよう
今日、これ以上ここでするべきことはない。ケイたちは村に戻ることにした。
木立を出る前に、ケイは今一度振り返って見やる。
灰色の霧は何事もなかったかのように、静かに森を覆い隠していた。
†††
シャリトに帰還したケイたちは、早速翌日のために準備を開始した。といっても、基本的にはセルゲイから様々な物資を借りるだけなのだが。
命綱兼帰り道の導となるロープや杭、お互いを繋ぎ止めるための鎖など、アレクセイの祖父が考案した『魔の森突撃用』の装備を借り受けチェックしていく。森の内部では方位磁針が役に立たず、方向感覚も狂ってしまうらしい。シーヴの導きが期待できるとはいえ、帰り道を把握するためにも、これらの装備は必須と言えよう。
アレクセイの話によると、無謀にも魔の森へ一人で突撃した彼の祖父は、ロープの一端を自分の腰に、もう一端を森の入口の木に括りつけて命綱としたそうだ。が、しっかりとロープを縛っていたにもかかわらず、祖父が森から出たときには『何者か』によって解かれていた、とのことだった。
その対策として、明日もセルゲイとアレクセイは森の縁まで同行し、ケイたちの命綱を監視することとなった。 新たな伝承の成立に立ち会わんでどうする とは、セルゲイの言だ。
準備が粗方終わってからは、リビングで世間話をした。隊商から離れウルヴァーンを発ったアレクセイが、その後どのようにして北の大地へ帰還したのか。一人旅で野宿をした際に狼の群れに襲われた話や、隊商に同行しようとして寝過ごし間に合わなかった話など、冷静に考えれば割と洒落にならない内容だったが、アレクセイはコメディチックに面白おかしく語っていた。
対するケイたちもその後のことを話す。ウルヴァーンで図書館に行こうとして、一級市街区に入る前に門前払いを食らったこと。武闘大会の射的部門で優勝しウルヴァーンの名誉市民となったこと。図書館で銀色キノコヘアのカツラをかぶった貴人と知り合いになり、北の大地についてあれこれ教えてもらったこと。
緩衝都市ディランニレンで聞いた馬賊の噂。エゴール街道での渇水の危機。再び戻ったディランニレンでのガブリロフ商会との合流。隊商に同行したブラーチヤ街道の旅。そして馬賊の襲撃から現在に至るまで―
その夜はちょっとした宴会となった。タチアナ・エリーナお手製の料理とともに、葡萄酒や貴重な蒸留酒なども振る舞われ、雪原の民一同とアイリーンはご満悦の様子だ。ケイは明日に響くとまずいので蒸留酒は舐める程度に留めたが、アイリーンは割とかぱかぱと盃を空けていた。
いよいよ、明日。
そう考えると、彼女も酔いに身を任せたい気分だったのかもしれない―
その後、宴もたけなわになってから、屋敷の片隅の小さな客室をあてがわれ、明日に備えて早めに就寝することにした。実に十数日ぶりのまともな寝台だ。藁を敷き詰めた箱に布や毛皮を重ねがけした原始的なタイプのものだったが、下手な宿屋の寝台よりもよほど寝心地がよく、サイズも大きめだったのでケイとアイリーンが一緒に寝ても全く問題はなかった。
―なかったのだが。
夜、暗い客室で、ケイはまんじりともせずに天井を眺めていた。
眠れない。
明日の探索行への不安もあったが―その一番の原因は音だ。
より正確に言うなら、声だった。
屋敷内、客室から少し離れた部屋から、年若い少女の嬌声が響いてきている。しばらく前までは押し殺すような抑えたものだったのだが、今は床板が軋む音とともに、色々と激しい感じだ。
声の主はおそらくエリーナだろう。あの大人しそうな少女も、夜はこんな風になるのだなぁ、とケイは意外な気持ちで考えた。アレクセイは随分と張り切っているらしい。
ちらりと隣を見れば、肩の触れ合う距離で寝転がったアイリーンも、どうやら眠れずにいるようだ。ケイの瞳は暗闇の中でも、アイリーンの耳が微妙に赤くなっていることを見て取る。
……お盛んなことで
まったくだよ
ぼそりとケイが呟くと、話しかけられるのを待っていたかのようにアイリーンも即座に答えた。
あんまり恥ずかしがらない……お国柄? なのかな
わかんない
どこかぶっきらぼうな口調で、アイリーンは答えた。そもそもロシア人と雪原の民は違うので、一概には言えないだろう。その上ここは地球とは異なる世界だ。サティナやウルヴァーンで宿屋暮らしをしていたときも、隣室から男女の営みの声が聴こえてくるのは日常茶飯事だったが(むしろケイたちもその音源の一つだった)、今日出会ったばかりとはいえ、知り合い(エリーナ)のそういう声が聴こえてくるのは、なんとも複雑な気分だ。
ごろりと寝返りを打って、アイリーンの側へ肘をついたケイはおもむろに切り出す。
俺たちも対抗してみるか?
なっ
アイリーンは顔を隠すように、掛け布団をずり上げた。
カンベンしてくれよケイ……
耳だけではなく、頬から首までアイリーンは真っ赤になっていた。もう幾度と無く体を重ねており、今更互いに恥じらうような間柄でもないが、やはり他人の家でそういうことに及ぶのには羞恥心的にダメらしい。アイリーンは変に真面目なところがあるのだ。
…………
が、ふと悪戯心のようなものが芽生えたケイは、そのままアイリーンの頬にそっと手を添える。
アイリーン……
えっ、ちょっと、
アイリーン、愛してる
あっ……って、もう! ケイってば、ちょっと! んむっ
アイリーンに口づけると、それは受け入れたまま、ケイの胸板をぽこぽこと抗議の拳が叩いた。
が、全く力が入っていない。これはイケる方のアイリーンだ、とケイは確信する。
……。もう。ケイのばか
拗ねたような顔で唇を引き結ぶアイリーン。しかし同時にどこまでも無防備だ。白い肌着に手を差し込み、脇腹をくすぐるようにして撫でると、くすくすと笑いながら身をよじったアイリーンは、お返しとばかりに強引にケイの頭を抱き寄せた。
―ケイ。愛してる
情動のままに、二人は互いを貪った。
必死で声を抑えるアイリーンがあまりに愛らしかったので、思わずケイも羞恥心を忘れ燃えてしまった。アイリーンも何だかんだで盛り上がってしまったらしく、最後の方では色々と自重するのを忘れていたようだ。
事後、明日皆に合わせる顔がないとアイリーンはいたく恥じらっていたが、旅の疲れや諸々も相まって、ケイの腕を枕にスヤスヤと寝息を立て始める。
…………
気だるげな眠気を感じながら、ケイはアイリーンの寝顔を眺めていた。
これが、最後になるのかもしれない、などと考えていた。尋常ではない魔の森に、滅多とないシーヴの自発的な行動。明日、森に踏み入れば、何らかのことがあるだろうとケイは予想している。
―正直なところ、やっぱりイヤだった。
アイリーンには帰ってほしくない。まだまだ、アイリーンを愛し足りない。
ずっと一緒に暮らしたい。どこかで平和な家庭を築いて、共に何気ない日常を過ごしていきたい―
心の内に、愛しさと、そんな欲求がとめどなく溢れ出てくる。
だが、同時にわからなくなるのだ。アイリーンの幸せと平穏を願うならば、こちらの世界よりも地球の方が良いのではないかと。常にその思いがついて回る。
『どうしたらいいんだろうな……』
囁くようにして、ケイはアイリーンにわからぬよう、日本語で呟いた。
『一緒にいてくれ。どこにも行かないで……一人にしないでくれ……』
くしゃっと顔を歪めたケイは、眠るアイリーンの額にそっと口づける。
……愛してる、アイリーン
皆も寝静まったのか、辺りは物音ひとつしない。
ケイはそっとまぶたを閉じた。
次回、魔の森へ突入。
ところで、作中の『箱ベッド』はこんな感じのものです。
マットレスに相当する麻袋の中に藁とか色々詰め込んであります。木の枠があるので端っこに行き過ぎると当たって痛い。
53. 突入
前回のあらすじ
ベッド ギシッ、ギシッ、ギシッ
サスケ 若さっていいねえ
スズカ ね
サスケ 僕もそろそろお嫁さん探そうかな
スズカ ……わたしじゃダメなの?
サスケ 僕、馬じゃないからねえ
スズカ そう……
鳥の鳴き声に、目を覚ました。
閉め切った雨戸の隙間から、高く昇った陽光が差し込んでいる。ベッドに寝転ぶケイは、ぼんやりと寝ぼけ眼でそれを眺めていた。
傍らに人肌のぬくもりを感じる。愛くるしい、いつまでも抱き締めていたくなるような温かさ。
ケイの腕に縋るようにして、アイリーンが寝息を立てている。無意識のうち、ケイの手はアイリーンの背筋をなぞっていた。白磁のような肌。しばし、指先に伝わる滑らかな感触に陶然とする。背中を往復する指に少しくすぐったそうにしながらも、アイリーンはむにゃむにゃと、まだ夢の中だ。
その穏やかな寝顔を、愛おしげに見守るケイ。
が。
(―あれ、今何時だ?)
不意に冷水を浴びせられたような感覚に襲われる。
明るい。部屋の外が明るすぎる。今日は早朝から魔の森に挑む予定ではなかったか。しかし、少なくとも、この日差しの高さは朝ではありえない。
しまったッ
ともすれば昼前。思わず跳ね起きるケイ、支えになっていたケイの腕がなくなり、枕に顔を埋めて んぎゅっ と声を上げるアイリーン。
……ん? ……ん。……ケイ、おはよ
ベッドの中、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ぱちぱちと青い目を瞬かせるアイリーン。しばし視線を彷徨わせ、ケイの姿を捉えて、安心したようにふにゃりと笑う。
あ、ああ、おはよう……
とりあえず、アイリーンに合わせて笑顔を浮かべるケイは、しかし口の端が引き攣っていた。どこか挙動不審な恋人に目を擦りながら首を傾げるアイリーンだったが、ケイの視線を辿り、―燦々と雨戸から差し込む陽光に気付いた。
すっ、とアイリーンが真顔になる。
……えっ、待って待って、ケイ、今何時?
……わからん
顔を見合わせる二人。
―寝過ごした。
転がるようにしてベッドから飛び出した二人は、大慌てで床に散らばった服を身につけ始めた。
†††
おお、起きたか
どうにか身支度を終えたケイたちがリビングに駆け込むと、テーブルで何やら帳簿をつけていたセルゲイが暢気に声をかけてきた。
すまん! 今日は朝から森へ行く予定だったのに―
なぁに、気にするな
ケイの言葉を遮って、ひらひらと手を振るセルゲイ。
旅の疲れもあっただろう? 寝かせておくことにしたんだ、別に魔の森は逃げやしないからな
急がなくていいし、今日が無理なら明日にすればいいじゃないか、と。あくまでも、のんびりとした様子のセルゲイに、ケイたちも落ち着きを取り戻す。
そうだ―何も、急ぐ必要はないのだ。
これまで、追い立てられるように旅してきたせいで、少しカリカリしすぎていたのかもしれない。そう意識してみると、前のめりになって慌てていた自分たちが滑稽に思えてきて、ケイとアイリーンは顔を見合わせて苦笑した。
そうだな、それもそうか。……今、何時くらいだ?
おいおい、こんな田舎に時計があるとでも思ってんのか?
だいたい昼過ぎだよ、とお手上げのポーズで答えるセルゲイに、ケイはますます苦笑の色を濃くする。おそらく現在、シャリトの村に存在する時計は、ケイたちの荷物に仕舞われている懐中時計ひとつだけだろう。
それにしても、ケイもアイリーンも、本当にぐっすり眠ってたな
ああ、そうだな……お陰でゆっくり休めたよ。随分と長い間、眠っていたような気がする。昔、病気でほとんど意識もなく半年以上寝込んだことがあるんだが、それに似た感じだ
額を押さえて、頭を振りながらケイ。本当に、不思議なことに、かなりの長期間に渡って眠り込んでいたような感覚があった。
意外だな、お前はそんな大病しそうな人間には見えないが。まあなんだ、とりあえず茶でも飲めよ。長旅に加えて戦いにまで巻き込まれたんだ。そうそう疲れは取れんさ
ありがとう
セルゲイに勧められて席につき、 ほれ と薬缶に作り置きされていたハーブティーを貰う。揃ってカップに口をつけるケイとアイリーン―
にしても、昨日は随分と激しかったな。結局何回ヤったんだ?
が、突然ゲス顔になったセルゲイの問いに、 ブフォ と同時に茶を噴き出した。
ゲホッ、こほっ!
な、何言ってんだあんたは!
むせるアイリーン、どもるケイ、そんな初心な二人の反応に グヘヘ とさらにゲス顔を濃くするセルゲイ。
いやいや、わかるぞぉ~、よぉ~くわかるぞぉ! 旅だと気軽にできないもんな? な? 久々だったんだろ? 我慢した分、燃えちまうってのはよくあることさ! いやぁ良いねえ良いねえ、若いねえ!
手をわきわきとさせながら、何やら一人でうんうんと頷いたり勝手に納得したり盛り上がったりと、忙しないセルゲイ。アイリーンは頬を染めてそっぽを向き、ケイは憮然と腕組みしている。そんな二人を見て、セルゲイはますます大笑いした。
……それで、今日はどうする?
ひとしきり二人をからかってから、少しばかり真面目なトーンでセルゲイ。
うぅむ……森にアタックするには……
ちょっと遅い気がするなぁ……
ケイとアイリーンは揃って難しい顔で、部屋の窓から既に高く昇り切った太陽を見上げる。森に入って何をどうするか、具体的なヴィジョンがあるわけではない。ケイたちの目的は、おそらく森のどこかに居る『賢者』―もしくはそれに類する存在―と邂逅し、元の世界への帰還が可能か確かめることだ。賢者が実在しなければ元も子もない話だが、あの怠慢で気まぐれな風の精霊シーヴがわざわざ道を示したということは、きっと『何か』があるはず。
問題は、肝心の賢者が森のどこに棲んでいるのかさっぱりわからないことだ。賢者の住処を探すため、危険極まりない魔の森を彷徨い歩かなければならない。季節は晩夏、まだ日は長いとは言え、森に入るのは早朝からにしたいところだ。
ふーむ……とりあえず試してみたらどうだ?
神妙な顔で、ぱたんと帳簿を閉じてセルゲイ。
……『試す』とは?
ぶっつけ本番で森を探索するのもおっかないだろう。一応、昨日下見に行ったとはいえ、親父の遺した『魔の森探索装備』も実際に上手く使えるかどうかもわからんしな。まず予行演習してみてもいいんじゃないか?
本格的な探索は明日以降にするとして、実際に『霧の中に踏み込む』練習をしてみてもいいのではないか、とセルゲイ。
随分と慎重な姿勢だが、彼らの語る”魔の森”の危険性を鑑みれば、妥当な判断かもしれない。どうせ、このまま村に留まっても、そわそわと落ち着かない気分でのんびりできないのだ。ケイたちはセルゲイの提案に乗ることにした。
昼食を馳走になってから、セルゲイの父親が考案した『魔の森突撃用装備』を改めて借り受ける。道標となる小さな杭、互いを結びつける革帯と鎖―中でも特に大切なのは、100メートル近い長さを誇る命綱だろう。セルゲイ曰く、これは彼の父親が長い年月をかけて編み上げたもので、村に存在するロープの中で最も長いものだという。無論、森を探索するには短すぎるが、『肝試し』程度に霧の中へ踏み込むには充分すぎる長さだ。
このロープを腰に括り付け、もう片側を森の外に待機した誰かが保持しておく。時折軽くクイクイッと引っ張って合図とし、仮に合図が返ってこなければ精神に異常をきたしたか、何らかの問題が起きたと判断。迅速に引っ張って救出することができるというわけだ。
で、それはわかってたんだが
準備を整え、再び森に出向いたケイは、背後を振り返って一言。
……なんか、多くないか?
みんな興味があるってよ
からからと笑うのはアレクセイだ。
魔の森のほとり。
セルゲイとアレクセイの親子二人以外に、ぞろぞろと列をなしてついてくるシャリト村の住人たちの姿があった。皆、サンドイッチのバスケットや酒瓶を携えており、森に着くや否や思い思いに敷物を広げて酒盛りを始め、宴会のような様相を呈している。
そんな彼らの酒の肴は、他でもない、異邦の旅人―無謀にも魔の森へ挑もうとする二人組だ。ケイは鎖帷子を装備し、矢筒と長剣を腰に下げ、“竜鱗通し”を携えた軽装。アイリーンもサーベルを背負い、黒装束を身に着けた、いつもの格好だ。
腰に革帯を着け、鎖を繋ぐフックの調子を確認し、命綱を樹の幹に括り付け―と、ケイたちが黙々と準備を進めていると、ほろ酔い加減の村人たちが騒ぎ始めた。お調子者の雰囲気を漂わせる若者が、鉢を手に見物人たちの間を飛び回っている。何やら話が盛り上がっているようだが、雪原の言葉(ロスキ)なのでケイは理解できない。
……何を話してるんだ? あれ
う~ん……賭けをやってるみたいだな
ケイの問いに、アイリーンが極めて複雑な表情で答えた。
賭け?
オレたちが戻ってこれるかどうか……戻ってこれたとして正気を保ってるかどうか、みたいな……
……ああ
ケイも、アイリーンと似たような表情を浮かべた。娯楽の少ない田舎とは言え、それが賭けとして成立する程度には無謀なことをしようとしているのが、自分たちだ。
よし。それじゃあ二人とも、準備はいいか?
大丈夫だ
問題ないぜ
セルゲイの言葉に、頷くケイとアイリーン。二人とも腰に革帯を巻き、それをニメートルほどの細長い鎖で繋いである。森の中で離れ離れにならないための措置だ。また、ケイのベルトには命綱も括り付けられており、戻る際は文字通りこれが唯一の頼みの綱となる。
魔の森では方向感覚が狂い、方位磁針も使い物にならなくなるという。帰りはシーヴを頼る、という手もあったが、霧の中では魔術も阻害されるため、ただ道を示すだけの術式でも大量の触媒を消費してしまう可能性もある。手持ちの宝石(エメラルド)は少なく、残りの魔除け(タリスマン)は二つのみ。宝石は兎も角、タリスマンは貴重なので浪費は避けたいところ―加えて、魔力の要求量が手持ちの触媒を超えてしまえば、待ち受けているのは枯死だ。いずれにせよ、霧の中では極力魔術を使わない方がいい。
……よし。行こうか
少しばかり神経質に、最後にもう一度、腰にしっかりロープが結びつけられているか確認したケイは、ぺろりと唇を舐めた。傍らのアイリーンも流石に緊張した面持ちだ。互いに目配せして、こくりと頷く。
灰色の壁。
魔の森の『霧』を前に、立つ。
ケイが手をかざすと、かすかに風がそよいだ。オオオォと大気が鳴動し、霧の壁に穴が開く。どよめく周囲の野次馬たち。
う……
が、手を挙げた格好のまま、ケイは顔をしかめて呻いた。
どうした、ケイ?
……シーヴに魔力を吸われた
頼んでもいないのに勝手に術を行使し、それでいてその分の魔力はしっかり徴収していくのがシーヴだ。賢者の住処まで風穴を開けて案内してくれるわけでもなし、入り口だけ開かれても、見物人たちを楽しませる以外に意味はないのだが―おそらく、それこそがシーヴの目的なのだろう。気まぐれでお調子者、それが風の精霊だ。余興で魔力を持っていかれるケイは堪ったものではないが。
……大丈夫か? やめとく?
ケイの魔力の低さは重々承知しているため、心配げなアイリーン。しかしケイはおもむろに いや と首を振った。
平気だ。……なんというか、慣れてきた
『こちら』で初めて魔術を行使した際は、枯死寸前にまで魔力を使ってしまい、反動の吐き気やら何やらで死にかけたものだが、幾度となく経験を積むうちにある程度慣れてきた。流石にシーヴが手加減しているということもあるのだろうが、今しがたの魔術の行使も少し身体がふらついた程度で済んでいる。
でも、万全を期すべきじゃないか? ちょっと休んだ方が……
いやいや、本当に大丈夫だ。もう回復したから
それでも心配そうなアイリーンに、ケイは明るく笑ってみせた。強がっているわけではない。ぺしぺしと頬を叩いて改めて気合を入れ直す。
よし。じゃあアレクセイ、セルゲイ、行ってくる
うむ。新たな伝承の誕生に立ち会えることを光栄に思う
何をどう、気をつければいいのかわかんねーけど……気をつけてな
腕組みして重々しく頷くセルゲイ、そしてケイの腰に括り付けられた命綱をしっかりと握りつつも、少々気弱な笑顔を見せるアレクセイ。
これが合図だからな。返事がなかったらすぐに全力で引っ張るぞ、ケイ
アレクセイはクイクイッと命綱を軽く二度引いてみせた。一応、命綱の末端は、何があっても外れないよう大樹に括り付けてある。安否確認の合図を送るのが、アレクセイの役目だ。
ああ。こうだな
ケイも二度、引っ張り返す。
二人とも、無事に戻ってこいよ
なーに、心配すんなって
今日は命綱の届く範囲で、軽く散歩してくるだけだからな
ひらひらと手を振るアイリーン、にやりと笑ってみせるケイ。
表情を引き締め、霧へと向き直った二人は、そのまま躊躇うことなく灰色の世界へと踏み込んでいく。
二人の背中が、とぷんと霧に呑まれ―見えなくなる。
ただ、そびえ立つ灰色の壁から、ロープが一本。ゆらゆらと揺れながら、奥へ奥へと進んでいく。アレクセイは手元の命綱越しに、二人の歩調を感じ取っていた。
ケイ、アイリーン! どうだ、大丈夫そうかー?
ロープを繰り出しながら、アレクセイは声をかける。
が、霧の奥から返答はなかった。不安に駆られ、くいくいと綱を二度引く。
するとすかさず、くいくいっと合図が返ってきた。どうやら無事らしい。霧の中には声が届かないようだ。
魔の森についての知識が増えたな、などとアレクセイが暢気に考えた、
次の瞬間。
ぶるん、と命綱が大きく揺れ―止まった。
そして不気味なまでに、動かない。
……ケイ? アイリーン?
くいくい、と合図を送るアレクセイ。
…………
返事は―
あれ? 二人とも……ぬおッ!?
突然、ぐんっと手を取られ、アレクセイは困惑の声を上げた。凄まじい勢いでロープが引かれている。まるで暴れ馬の手綱のような―
うわっ!? うおおおおおおッッ!!
綱引きのように身体を倒し、地面に踵を食い込ませてどうにか耐えようとするが、力が拮抗したのはほんの一瞬に過ぎなかった。グゥンと一際強く引っ張られ、身体が宙に浮き上がり、命綱ごと霧の中へ引きずり込まれそうになるアレクセイ。
やめろっ手を離せ!
そこで、セルゲイが体当たりするようにアレクセイを引き剥がした。二人して、もんどり打って森の腐葉土に転がる。ロープは大魚がかかった釣り糸のように、猛烈な勢いで引かれていく。
これは……一体何が!?
わからん!
迂闊に触れれば手が擦り切れてしまいそうな速さ、地面にとぐろを巻く形で放置されていたロープは、あっという間に限界に達する。
バンッ、と乾いた音を立て、張り詰める命綱。大樹に結び付けられた末端がぎりぎりと軋みを上げている。
命綱を引っ張る『何か』は、それで限界を悟ったらしい―
一瞬、綱が緩んだ。
が、一拍置いて、再び猛烈に引っ張られる。
バンッ! バンッ! バンッ! と、執念すら感じさせる乾いた音が、森のほとりに響き渡る。あまりの力に大樹の幹がぐらぐらと揺れ、ロープがみるみるうちに摩耗していく―
あ、ああ……!
アレクセイの、嘆きとも悲鳴ともつかない声も虚しく。
バツンッ! と一際大きな音を立てて、命綱が千切れた。
そして、呑み込まれていく。
命綱が―霧の向こう側へと。
とぷん、と灰色の壁が無感動に揺れ、後には何も残らない。
嘘だろ……おい、ケイ、アイリーン?!
限界まで、霧の壁に近づいて、必死で叫ぶアレクセイ。
ケ―イ!? アイリ―ン!! 返事をしろ―ッッ!
アレクセイは、叫ぶ。
しかし、魔の森は応えない。
ただ、不気味なまでに静まり返っている―
―ん?
視界が霞む。真っ白な霧の世界で、ケイはふと、足を止めた。
どうした、ケイ
緊迫した声で、アイリーン。
……いや。何か、声が聞こえた気がしたんだが
ケイは、耳を澄ませる。
無音。
……そうか? オレは気づかなかったけど
アイリーンは、囁くように。
気のせいかな
ケイは頭上を振り仰いだ。
ぼんやりとした太陽の光。
……アレクセイじゃないか?
そうかもしれない。それで、思い出した。
……そういえば次の合図を送らないと
森に入ってすぐ、そうしたように。
ケイは再び、腰の命綱を軽く二度引っ張る。
―く(・)い(・)く(・)い(・)っ(・)と(・)、合(・)図(・)が(・)返(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)。
よし
命綱は、しっかり繋がっている。
もうちょっと、進んでみよう
ああ
アイリーンが、頷く気配。
ケイは”竜鱗通し”を握り締め。
さらに、踏み込んでいく。
果てしない
霧の
世界へ と
54. 霧の中
見渡す限りの、乳白色の世界。
濃いな……
一歩一歩、足元を確かめるようにして進む。ケイは”竜鱗通し”を構えながら、周囲に神経を張り巡らせていた。
頭上から降り注ぐ、ぼんやりとした木漏れ日。森の中は思ったよりも明るいが、視界は著しく悪かった。たゆたう濃霧。立ち枯れたような木々も、その辺に転がる苔むした岩も、全てが白く霞み、背景に溶け込むようにして輪郭を失っていく。
先ほどからケイは、乳白色のヴェールからぬっと姿を現す巨木の影に、ぎょっとさせられてばかりいた。果たして本当に真っ直ぐ歩けているのか、自信がない。
静まり返った霧の森。
ブーツが腐葉土を踏みしめる音と、己の微かな吐息の他は、何も聞こえない。
しっとりとした、湿り気のある空気の流れが、頬を撫でる。
―
ふと、何者かの視線を感じた気がして、ケイは振り返った。
…………
しかし、そこには、何もない。
何があるかもわからない。
ただひたすらに、鷹の目でも見通せない、白く濁った世界が広がっているだけ―
……ケイ? どうかした?
ぴたりと動きを止めたのは、アイリーンだ。にわかに立ち止まったケイに、囁くようにして問う。腰に繋いだ鎖越しに、彼女の動揺が伝わってくるかのようだった。
……いや、なんでもない。気のせいだった
そう答えながら、ケイは腰の命綱を二度引く。
―くいくいっ、と合図が返ってくる。
合図は?
ある
……オレたち、けっこう進んだ?
おそらく。命綱(ロープ)の長さも、そろそろ限界かも知れないな
限界に近づいたときの合図も決めておくべきだった、などと今更のように思うケイ。霧の中に踏み込んで、どれほどの時間が経っただろう―自分たちの時間感覚が、随分と曖昧になっていることに気づく。
……もう、戻った方がいいかな、ケイ
アイリーンは少々心許なさそうな様子だ。しきりに、周囲を見回している。ほとんど何も見えず、何も聞こえないこの場所で、その行為に意味があるのかはわからない。
そうだな、そろそろ引き返すか
うん……それにしても、不気味だけど、なんか思ったより普通な場所だったな
ふわふわと霧をかき混ぜるように手を動かしながら、アイリーン。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。
が、確かに、一歩踏み込めば気が狂う、とんでもなく危険な場所だ、と入る前に散々脅かされていたが―実際、ケイたちはまだ正気を保っている。
そうだな―ん?
相槌を打ちかけたケイは、さっと手を挙げて注意を促す。再び、ある種の児戯のように、ぴたりと動きを止めるアイリーン。
…………。どうした?
何か聴こえた
囁くようなやり取り。耳を澄ます。
今度は気のせいではない。森の奥から、微かな音。少しかすれた、何か甲高い『声』のような―
えぇん…… ぇぇん……
はっきりと聞き取ったケイは、目を剥いた。
えぇん…… ぇぇん…… えぇぇん……
……赤、ちゃん?
茫然と呟くアイリーン。
泣き声。
それは赤ん坊の泣き声だった。聞き間違い、あるいは風の音と断ずるには、あまりにも生々しい。年端もいかない乳飲み子の―
―いや、そんなはずはない。
こんな場所に、よりにもよって『魔の森』の奥に赤ん坊が居るはずがない。
……幻聴じゃ、ないよな?
違う。俺にも聴こえる
だから尚更たちが悪い。こんな声を上げる何かが居る、ということだ。
近(・)く(・)に(・)。
……山猫とかかも知れない
発情期の猫は、赤ん坊に似た声を上げることがある。これも、その手の動物の泣き声かも知れない―と言うアイリーンだったが、すぐに口をつぐんだ。
ずる……、ずる……、と。
何かを引きずるような音。重量を感じさせる。石でも詰めた麻袋を引くような。
えぇん…… ずるっ…… えええん…… ずるっ……
何かが、這いずりながら、近づいてくる。
そろそろと足音を立てないよう後退し、大樹の陰に身を潜める。ケイは、“竜鱗通し”に矢をつがえ、構えた。
『―魔の森の近くは、妙な獣が沢山出るんだ』
霧の奥を見通そうと目を細めていると、不意に、アレクセイの言葉が脳裏に蘇る。
『身の丈ほどもある一角の大猪やら、双頭の蛇やら。どいつもこいつも、狂暴で危険なヤツらばかりさ』
やれやれだぜ、と言いながらも笑っていたアレクセイの表情が、曇る。
『……ただ、ソイツらは霧の中の化け物に比べればマシだ』
その透き通るような水色の瞳は、不安げに揺れていた―
『―刃で倒せるだけ、な』
ずるっ、ずるるっ、と重い音。
ケイの瞳は、霧の向こう側に、何か蠢くものを捉えた。
えぇん…… えぇん……
―間違いなく、『声』。すすり泣くような。その姿は、はっきりとは見えない。
しかし、思ったよりも小さな影。
…………
どくん、どくんと心臓の鼓動を意識する。
ええん…… えぇぇえええん…… えぇぇん……
泣き声は、ケイたちの存在には気づいていないようだった。
来たときと同じように、そのままゆっくりと遠ざかっていく。
じりじりと肌が焼け付くような感覚。
やがて、霧の彼方に声が消え、再び静寂が訪れたとき、ケイとアイリーンは盛大に息を吐き出して、樹の幹にもたれかかった。二人とも、知らず知らずのうちに冷や汗をかいている。
結局、ケイが矢を放つことはなかった。
……ケイ。何だよ、アレ
……わからん。……赤ん坊じゃないよな?
赤ちゃんがこんなとこにいるわけないだろ……
……だよな
ケイも、頭ではわかっている。だが―あの影の形は、赤ん坊にしか見えなかった。あの重量感のある音とは裏腹に、抱きかかえられそうなほどに小さくて、儚げな存在に見えた。とても、矢を放つ気にはなれなかったのだ。
尤も、矢を当てたところで『倒せるか』は別問題―あれは、果たして生物だったのだろうか?
ヤバいな、ここ
そうですか? 良い場所だと思いますよ
は?
アイリーンの呟きに、別の誰かが答え、間抜けな声を上げるケイ。
弾かれたように振り返ると、いつの間にか背後に、奇妙なものが立っていた。
それは本当に『奇妙なもの』としか形容しようがない。背丈はケイたちと同じくらいの、一般的な人間サイズ。卵型の胴体に長い手足。ただしその胴体は―いや、そもそも『胴体』と言って良いものか。
全て、顔だった。顔から手足が生えたような姿。
ケイは咄嗟に『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティを連想した。卵を擬人化した、ずんぐりむっくりな体型の登場人物―一般に知られているハンプティ・ダンプティとの違いは、体表がざらざらとした岩のような質感をしていることだろう。まさしく、石の卵―その重量を物語るかのように、柔らかな大地にはその小さな両足がめり込んでいる。そしてそれは、眼前のこの奇妙な『もの』が、紛れもなく実在することを示していた。
なっ
いち早く我に返ったケイは、思わず弓を構えそうになったが、寸前で自重する。その胴体(もしくは顔)ではなく、ただ威嚇として、足元に狙いを定めた。『対話可能』な存在であれば、殺すつもりで武器を向けるのはあまりに無礼だと思ったからだ。あるいはそう思わせるだけの穏やかで紳士的な態度を、その『石卵』は貫いている。見れば、アイリーンもケイと同じ考えだったらしく、背中のサーベルに手を伸ばしてはいたが、引き抜いてはいない。
―だが、この存在は本当に『対話可能』なのか?
最初に話しかけてきてから一言も発さない石卵を前に、ケイは嫌な汗が滲んでくるのを感じた。
石卵は、微笑んでいる。
アルカイックスマイル―口の端に浮かぶ無感動な微笑。よくよく見れば、その顔の造形はまるで冗談のようだった。大きな丸い目に、ひしゃげた鼻、しわの寄った、ケイを丸呑みできそうなほど大きな口。全体的に石のような質感を漂わせているが、その瞳だけが妙に生気を感じさせていて、気持ち悪い。絵画からそのまま飛び出してきたかのような非現実感。身じろぎもせず、ただ、じっとそこに立ち尽くす様は悪趣味な石像のようでもある。
ただ―なんだろう。
その瞳を睨み返していると、ケイは無性に不安を掻き立てられるのだ。
石卵は、微笑んでいる。
しかしそれはケイの認識に過ぎない。石卵が浮かべている表情を、『微笑みである』と判別しているのはケイだ。
疑問がある。
穏やかな表情に対して―この瞳の奥にあるものは何だ。
ゆっくりと、ケイは弓を構え直す。
狙いは足元から、石卵の体の中心へ。
もはや無礼だの対話だのという考えは投げ捨てていた。無感動に、じっとこちらを凝視する見開かれた両眼から、ケイはある動物を連想せずにはいられないのだ。
『蛇』
獲物に狙いを定める、肉食の爬虫類―
―
すっ、と石卵が、瞳だけ横に動かした。
視線を移す。
アイリーンに。
びくんと反応した少女は、サーベルの柄に手をかける。ケイもまた”竜鱗通し”を握る手に力を込め、即座に弦を引けるよう感覚を研ぎ澄ます。
にわかに、恐ろしいほどの緊張がその場を支配した。
“竜鱗通し”を構えるケイも、サーベルを握るアイリーンも、微笑む石卵も、それ以上は動かない。
…………
やがて、石卵がつっと視線を逸らした。まるで興味を失ったかのように。
くるりと背を向ける。
その瞬間、ケイは思わず叫びそうになった。
背面には、無数の人の顔。
一つ一つが、握りこぶし大の『顔』だった。丸みを帯びた石卵の背面を、びっしりと埋め尽くしている。男の顔もあった。女の顔もあった。老いも若きも等しく苦悶の表情を浮かべたそれらは、ケイとアイリーンの姿を認め、一斉に口をぱくぱくと動かす。
まるで助けを求めるように。
小さな口が―無数の『穴』が、蠢く。
うぅッ……
あまりの醜怪さに、顔を青褪めさせたアイリーンが口元を押さえた。ケイの全身が粟立つ。その異質さ、そして何より生理的嫌悪感に。
石卵は、もはや振り返ることもなく、歩み去っていく。
のしのしと足音が遠ざかり、その背が―人々の顔が、霧に包まれて見えなくなる。
ただ、二人の荒い吐息だけが、やけに耳についた。
……何だよ、今の
アイリーンが喘ぐようにして、呟く。
ケイはそれに答えられない。
ただ、矢を放たなくて良かったかも知れない、とだけ思った。
……戻ろう
額の冷や汗を拭いながら、ケイ。その提案に、アイリーンは一も二もなく頷いた。
そのまま命綱を辿って引き返そうとしたところで―しかし二人は足を止める。
おかしなことに気づいた。
ケイたちの命綱。
今までずっと、森のほとりから引っ張ってきたはずのそれが。
上(・)に(・)向(・)か(・)っ(・)て(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。
呆けたような顔で、ロープの先を視線で辿っていく二人。
立ち込める乳白色の壁の向こう側に、ロープの先端は吸い込まれていき、見えなくなる。ぼやけた霧の果ては、見通すことができなかった。ケイの目をもってしても。
ロープの伸びる方へ、一歩、二歩と歩み寄る。
当然、ロープはゆるんで、たるむ。
するとたるんだ分だけ、しゅるしゅると『向こう』から手繰り寄せられる。
そのままふらふらと、釣られるようにして歩いて行く二人だったが、十歩も行かないうちにケイが立ち止まった。
霧の向こう側に―ぼんやりと、何かが見えてきたのだ。
でかい。
人型―に見える。だが、サイズがおかしい。その背丈は、見上げるほど―少なく見積もっても十メートル近くある。周囲の大木に匹敵する高さ。
そ(・)し(・)て(・)ロ(・)ー(・)プ(・)は(・)そ(・)の(・)人(・)型(・)の(・)手(・)元(・)に(・)伸(・)び(・)て(・)い(・)る(・)。
それは―どことなく、犬の散歩を思わせた。
命綱がリード。
ケイたちが、犬だ。
…………
口の中が、からからに乾いていた。
そのとき、何を思ったかケイは、その巨大な『ヒトガタ』を前にして、くいくいと命綱を引っ張った。
くいくい、と合図が返ってくる。
明らかに、その動きに合わせてヒトガタが揺れていた。
そして、ケイは、とうとう気づく。―今まで、長時間に渡り合図を送っていなかったにもかかわらず、救助のため命綱が引かれなかったことに。
即座に、ナイフを抜いて命綱を切断した。
ぱたっ、と軽い音を立てて地に落ち、たるむ命綱。
しゅるしゅると、ヒトガタがそれを引いていく。手繰って、手繰って、手繰り寄せて―先端に、何もついていないことに気づいた。
―!
その瞬間、周囲に満ちた異様な気配を、なんと形容するべきだろう。
怒声、が適当かもしれない。
だが、森は静かなままだった。
静寂の中に、怒りが満ちている。
眼前のヒトガタが、駄々をこねるように暴れ始める。
あっ、うわっ
逃げるぞッ
上擦った声を上げるアイリーン。その手を引いて、無理やり引き摺るようにしてケイは駆け出した。すぐに我に返り、アイリーンも自ら走り出す。
二人の声と足音に、ヒトガタも気づいたらしい。
―!
無言の怒気を吹き上げるようにして、ズンッ、ズンッと重い足音を立て追いかける。
立ち枯れたような木々を薙ぎ倒し、大地を砕き、それでも止まらない。
ヒトガタの動きは鈍く、お世辞にも機敏な走りとは言えなかった。が、一歩の歩幅が段違いだ、いずれ追いつかれる。アイリーンだけなら逃げられるかもしれないが。
ケイは―
くそっ、アイリーン走れ!
二人の腰をつなぐ鎖を、そのフックを外した。
あっ、ケイ何を!?
突然ヒトガタに向き直ったケイに、アイリーンもまた立ち止まる。
行けっ、俺に構うな!
そう叫ぶケイは、おもむろに”竜鱗通し”を構えた。
青色の矢羽。通常のものより、さらに長い矢をつがえる。
狙うはヒトガタの頭部。
一息に引き絞り、放つ。
カァン!! と快音、見上げるような化け物に、矢が唸りを上げて突き立つ。
―!!
大気が、それそのものが動揺するかのように震えた。両手で頭を抱えたヒトガタが勢いを失い、ふらふらと足元が覚束なくなり―倒れる。
重量物が叩きつけられる衝撃に身構えるケイだったが、しかし、ヒトガタの体躯が地に触れる寸前で、弾(・)け(・)た(・)。
くッ!?
ケイは顔の前で腕を交差させ、姿勢を低く保つ。ぶわりと吹き荒れる風。いや、それはもはや『爆風』だった。あるいはヒトガタの断末魔の叫びか、無音のうちにびりびりと痺れるような、音に近い何かがケイを圧する。纏わりつく霧さえも、一瞬吹き散らされたほどだった。
だが、霧はすぐに戻ってくる。
森は再び静寂に包まれ、しっとりとした空気が辺り一面を覆い尽くす。
未だわんわんと残響すら感じる中、ケイはそれを振り払うように頭を振りながら、立ち上がった。
……無事か? アイリーン?
呼びかける。
……アイリーン?
しかし、返事がない。
慌てて周囲を見回した。だが、あの黒衣の少女は姿は、ない。ケイは霧の中にひとりぼっち、取り残されている。
霧は、ますます濃くなったようだ。もはや数歩先さえも見えない。
白くぼやけた世界で、ケイは一人、狼狽した。
アイリーン? アイリーン!?
声を振り絞って叫ぶ。そして耳を澄ます。
……ケーイ!
やがて、どこからかアイリーンの声が返ってきた。
アイリーン!? どこだ―!?
……ケーイ! どこ―!?
アイリーン!! 俺はここだー!
……ケイ? ケーイ!? なんで!? どこなの!?
アイリーンの声には、困惑の色が滲んでいた。何らかの原因で、方向感覚を失っているのか。
動くな、今そっちに行く―! 待ってろ―!
声のする方へと、ケイは足元を警戒しながら走り出す。
アイリーン!!
……けーい!!
アイリーン、大丈夫か―!?
ケーイ!
アイリーン!!
けーーい! こっちー!
そっちか! アイリーン!
ケ―イ!
アイリーン!
けーい! けーい!!
走って、走って、走って。
なぜだ。
立ち止まる。
アイリーン! 動くな、俺が行くから!
霧の向こう側へ、叫ぶ。ケイがどれだけ走っても、距離が縮まらない。
けーい! こっち、こっちー!
相変わらず、アイリーンの声は聞こえてくる。
アイリーン! 動くなよ! いいか!? 今そっちに行くから!
けいー?
さらに、走った。そして霧の向こう側に、朧気に黒い影。
良かった、ここにいたか!
その背中に、声をかける。
アイリーン、大丈夫、か……
だが、残り数歩の距離まで迫ったところで、足を止めた。
ゆらゆらと揺れる、黒い影。背中を向けているのだと思っていたが、これは―
いや―黒衣ではあっても、これはおかしい。アイリーンの髪はプラチナブロンドだ。こんな黒髪では―いや、肌の色も黒くなんか―
いや、そもそもこれは人間では
けーーーーーいーーーーー
がぱぁっとくちがひらいた
何だお前!?
躊躇いなく、弓を引く。矢をぶち込む。
一撃を受けた黒い影が、ぱぁんと弾けた。
キャーキャーと甲高い、どこか楽しそうな悲鳴を上げて―無数の、数え切れないほどの小人の影が飛び散った。
それは蟻の群れのようにも見えた。ただ、蟻とは比べ物にならない速さで、四方八方に散っていく。
ばらばらばら。
またもや、ケイは霧の中にひとり。
……アイリーン?
―俺は何を追いかけていた?
―本物のアイリーンは、どこに居る?
……アイリーンッ!!!
叫ぶ。
アイリ―ンッッ!
声が枯れるほどに。
そして耳を澄ます。目を閉じて、全神経を傾けて。
…………ケーイッ!
今度こそ、聴こえた。
けーい
けーーーーい
けーいけーい
けーーーーい
けいー
けいーけいー
そしてそれを遮るように、あらゆる方向から、声、声、声。
これだ。アイリーンが先ほど困惑していたのは―こ(・)い(・)つ(・)ら(・)の(・)せ(・)い(・)だ(・)。
クソッ舐めやがって!
ケイは胸元から乱暴に魔除け(タリスマン)を引き抜き、さらに腰のポーチから大粒のエメラルドを掴み取った。
Maiden Vento, Siv !
その名を喚ぶ、
Montru al mi la vojon al Aileen !
手に握ったタリスマンとエメラルドが砕け散り、虚空へと消えていく。
うぐぅッ!?
次の瞬間、ケイは膝をついた。凄まじい負荷。まるで肉体そのものを、雑巾のように絞り上げられるかのようだった。魔力が抜き取られていく。
―Kei, venu kun mi.
囁くような、気遣うような、優しげな言葉。風が、慰撫する。霧が渦を巻き、道が示される。ケイはそこに、羽衣を纏った少女の姿を幻視した。
ふらふらと立ち上がり、歩いて行く。
ケーイ! どこだよ、ケーイ!
……俺は、ここだ……!
ぜえぜえと息を荒げながら、それでも答える。
ケイ!? ケーイ!
やがて、風に導かれるようにして、少女の姿が。見慣れた黒衣、片手のサーベル、馬の尾のように跳ねる金色の髪―
―アイリーンだ。
ケイ!? 大丈夫か!? 顔が真っ青だ!
よろよろと力なく、今にも倒れそうな風に歩き、病人のような顔色のケイに、アイリーンもまた血相を変える。
大丈夫だ……ちょっと、魔力を……使いすぎて……
そんな……。でも、良かった……もう会えないかと思った……
ケイを抱き締め、アイリーンがくしゃっと顔を歪めた。
俺もだ……会えて良かった……
アイリーンのぬくもりを感じながら、ケイは思う。
なぜだろう
前にもこんなことが
あった気がする―
二人は、再び腰の革帯を鎖で繋ぎ、しっかりと手を握り合って、歩き始めた。ケイは満足に弓が使えないし、アイリーンは素早く動けない。それでも、離れ離れになるよりは、マシだった。
すまない……俺が鎖を外さなければ、こんなことには……
アイリーンに手を引かれながら、ケイは力なく歩く。魔力を使いすぎた。帰り道がわからないのに、もう当分、魔術が使えない。
二人は、完全に霧の中で迷子になっていた。
いや、あれは仕方ないだろ。……でもさ、ケイ。オレを逃してくれようとしたのは、ありがたいけどさ。もう自分だけを犠牲にしようとするのは、やめてくれよ
ケイを置いて逃げられるわけないだろ、とアイリーンは冗談っぽい口調で言った。
しかし言葉とは裏腹に、繋いだ手に、痛いほどの力がこもる。
……すまん。咄嗟のことでな
……ふふ。嬉しくはあるけどさ。守ってくれてありがとう、ケイ
次からは、気をつけるよ
『次の機会』なんてゴメンだぜ?
はは、そりゃそうだ
軽口を叩きながら、ただ歩いた。あの場に留まるのは、危ないように思えて。
森に入ってから、随分と時間が経っているはずだ。
歩いて、肝を冷やして、戦って、走って。
二人は、疲労と喉の渇きを覚えていた。
だからだろうか―微かな水の音に、敏感に気がついた。
吸い寄せられるようにして、そちらへ向かう。
やがて二人を出迎えたのは、錆びついた鉄の門扉だった。
これは……?
鋭い忍び返しがついた鉄の柵が、左右に果てしなく広がっている。その中央に、門。手を伸ばして触れると、キィィ……と音を立てて、何の抵抗もなく開いた。
門の内側へ、立ち入る。
まるで森に入ったときのように、霧がスッと晴れた。
―いや、よくよく見れば、足元には薄っすらと靄(もや)が立ち込めている。しかし、視界は明瞭だ。空が曇り空のように、ぼやけて見えることだけを除けば。
そして視界がすっきりしたことで、新たに見えた。
門の内側に広がっていたのは、打ち捨てられたような庭。風化した石のタイル、眼前には大きな噴水。庭の荒れように比べて、異様なまでに清涼な水が噴き上がっており、ぱしゃぱしゃと涼やかな音を立てている。
そのさらに先には―巨大な屋敷。
要塞都市ウルヴァーンの、貴族街を思わせるような、豪奢なものだった。
……ここが、まさか
……賢者の、家?
思ったよりずっと立派だな、とケイは素朴な感想を抱いた。
喉が渇いて仕方がなかったが、生水を口にするのは恐ろしかったので、後ろ髪を引かれる想いで噴水は放置。ひとまず先に、屋敷を訪ねることにする。
荒れ果てた庭に囲まれた屋敷。窓には全て、天鵞絨(ビロード)のカーテンがかかっており、中の様子を窺うことはできない。
人の気配は、ないようだったが。
噴水の水音だけが響く静かな空間で、ドアノッカーを叩き鳴らすのは、なんとなく無粋に感じられた。玄関扉を前にケイたちが躊躇っていると、扉の方が、音もなくすぅっと開いた。
うお……
わっ……
屋敷の中を目にして、ケイとアイリーンは驚きの声を上げる。
普通は、この手の屋敷ならエントランスホールが広がっているところだが、そこにあったのは無数の本棚。
それも、本や巻物でびっしりと埋め尽くされたものが、果てしなく広がっている。恐ろしいことに、ケイの視力をもってしても、その限りが見えなかった。外見からして既に巨大な屋敷だったが、その中がさらに広いとはどういうことか―
入りたまえよ
と、茫然とするケイたちに、声がかけられた。
上(・)か(・)ら(・)。
ぎょっとして天井を振り仰ぐと―二階部分の本棚の近くに、赤い人影。『彼』は、何もない空中に腰掛けるようにして、本を開いていた。
『魔の森には、奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が棲んでいる―』
その伝承が、紛れもなく真実であったことを、ケイは理解する。
賢者は、真っ赤な『スーツ』を身に纏っていた。
ケイたちの世界、すなわち地球で見慣れた、かっちりとした仕立てのスーツ。
勿論、『こちら』の世界には存在しないモノ―
やあ、よく来たね、二人とも
ぱたん、と本を閉じた『賢者』は、色白で、細面の若い男だった。
緑色の瞳が、二人を見据える。
歓迎するよ。『アイリーン=ロバチェフスカヤ』―そして、『乃川圭一』くん
名乗ってもいないはずなのに。
赤い賢者は、そう言ってニヤリと嗤った。
55. 賢者
Tili Tili Bom というロシアの子守唄が魔の森のイメージソングです。
怖い歌なので、興味がある方はぜひ検索されてみてください。
二の句が継げないケイたちは、眼前の『賢者』をまじまじと見やった。
何もない空中に、まるで椅子に腰掛けるようにして浮遊する真っ赤なスーツ姿の男。
不健康なまでに痩せぎすで、手足は長く、背は高い。病的なまでに白い肌、長い黒髪は後頭部へぴったりと撫でつけられている。いわゆるオールバックだ。
その細面に捉えどころのない笑みを浮かべた賢者は、ある種の学者のような超然とした雰囲気を身にまとい、まるで観察するように、二人の異邦人を見下ろしていた。深い緑色の瞳に浮かぶ好奇の光。
……なぜ、俺たちの名を?
開口一番、ケイは問うた。
名前だけじゃないさ。君たちが『地球』から来たことも、『DEMONDAL』というVRゲームのプレイヤーであったことも知っているよ
事も無げに答える賢者。動揺するケイたちをよそに、天井近くの本棚へ書物を仕舞った彼は、空中からふわりと床に降り立った。
まあ、立ち話も何だ。喉が渇いているんだろう? お茶はいかがかね
そうして、ケイたちに席を勧める。
いつの間にか、そこには白いテーブルクロスをかけられた丸テーブルと、ティーセットが出現していた。白磁のティーポットにミルク入れ、カップに注がれた紅茶は湯気を立て、ご丁寧にクッキーとサンドイッチまで用意されている。
……マジかよ
アイリーンが茫然と呟いた。ケイもぽかんと口を開いている。呪文(スクリプト)も唱えず、触媒を捧げた様子もなく、気がつけば、それらはそこに在った。まさしく『魔法』としか呼びようのない―『奇跡』。費やされたであろう膨大な魔力、そして本来ならば魔術の行使に必要不可欠な精霊の存在が、一切感知できないことに、二人とも戦慄を禁じ得なかった。
精霊を介さずに事象を改変せしめたということは、つまり―この『賢者』本人が、精霊、あるいはそれに類する存在であるということ。
予想はしていたが、目の当たりにするとやはり衝撃的だった。
さあ二人とも、座りたまえ。お茶会と洒落込もうじゃないか
言うが早いか、そそくさと席につく賢者。ケイとアイリーンは顔を見合わせたが、少なくとも彼からは、悪意らしいものは感じられなかった。喉の渇きも限界に近く、賢者に倣って着席した二人は、ふぅふぅと紅茶に息を吹きかけて飲み始める。
そんな二人の様子に、苦笑したのは賢者だ。
いや、喉が渇いてるところに、熱い飲み物は気が利かなかったかな
そう言って立ち上がった彼は、冷蔵庫の扉を開いた。
―冷蔵庫。
扉にマグネットやメモが貼り付けられた、やけに生活感のある『冷蔵庫』が、いつの間にかそこに在った。
えっ
ガタンッ、と椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、アイリーンが立ち上がる。その青い眼は、ケイが見たこともないほど真ん丸に見開かれていた。
えっ、なっ、なんで!? それはっ!?
冷蔵庫が出現したのにはケイも驚いたが、それにしてもアイリーンの取り乱しようは尋常ではない―よくよく見れば、メモに書きつけてあるのは全てキリル文字。
ロシア語だ。
なんで……なんでオレん家の冷蔵庫がここにあるんだよ!?
アイリーンの問いかけは、もはや悲鳴のようだった。
なに、君の記憶から引っ張り出したのさ
ぱちん、とキザにウィンクして賢者。英語で話しているはずだが、ケイはもはや、彼が何を言っているのかよくわからなくなってきた。
風情があるだろう? 冷たい飲み物を出すなら、やはり冷蔵庫からじゃないとね。尤も中身までは、君の家のものには準拠していないが。さてさて、何がいいかな
茫然とするケイたちをよそに、冷蔵庫の中身を物色する賢者。
色々あるよ。ケイはコーラがいいかな、どうやら君はペプシ派のようだ。アイリーンは何を飲みたい? なんならお酒もあるぞ。キンキンに冷えたビールやクワスなんてのは、いかがかね
冷蔵庫から見覚えのある清涼飲料水の瓶や缶が取り出され、次々にテーブルへ並べられていく―
―あなたは、いったい『何』なんだ?
喉の渇きも忘れて、思わず、ケイは問いかけていた。
両手にジュースの瓶を抱えたスーツ姿の男は、そこで我に返ったように目をぱちぱちと瞬かせる。
……そういえば、自己紹介がまだだったね。そうだね、口に出さなければ伝わらないんだった。自(・)分(・)が(・)そ(・)う(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)か(・)ら(・)、い(・)つ(・)も(・)気(・)遣(・)い(・)が(・)足(・)り(・)な(・)く(・)な(・)る(・)。僕のことは、そうさな、『オズ』とでも呼びたまえ。魔の森に住まう賢者などと呼ばれているが、僕自身は賢者になんてなったつもりはない。ただの森の居候さ
ケイにコーラを、アイリーンにはビールのような炭酸飲料を供した賢者―『オズ』は、再び椅子に腰掛け、真っ赤なブラッドオレンジジュース入りのグラスを傾けながら優雅に足を組む。
そして、僕が『何』かと問われれば― 悪魔(デーモン) かな
……悪魔?
オウム返しにするケイ。
うむ。尤も、ケイ、君の想像するものとは異なるがね。『“悪”の”魔”性のもの』とは日本語では随分と酷い言われようじゃないか。それに対してアイリーンの印象は、より嫌悪感が強いようだが、はてさてこれは地球の地域による宗教観の差かな。興味深い。いずれにせよ、我々は我々自身を『デーモン』と称しているが、固有名詞に近いので地球の『悪魔』の概念とは全く異なるものだよ。だからと言って、僕自身が善性の存在、などと言い張るつもりはこれっぽっちもないがね……
クックック、と口の端を釣り上げ忍び笑いを漏らすオズは、まさしく、旅人を迷わす悪魔そのものに見えた。
…………
オズの話の情報量に、アイリーンは目を白黒させているし、ケイはケイで頭痛を堪えるようにして額を押さえた。
そこでふと、ケイは、眼前に洒落たゴブレットが出現していることに気がついた。
手に取ってしげしげと眺める。この世界では滅多と見かけないような、透明なクリスタル・ガラス製。続いて、傍らのコーラの缶にも手を伸ばす。
よく冷えている。250mlの缶、手の中にすっぽりと収まる程よい重さ。埃をかぶった記憶が、 ああ、これは確かにこういうものだった と告げていた。現実(リアル)で缶を手にしたのは、十数年ぶりのことだろうか―いや、そもそもこれは現実なのだろうか―夢でも見ているようなぼんやりとした気持ちで、プルタブに指をかける。
プシュッ、と懐かしい音。
用意されていたゴブレットを使うのも忘れて、缶から直飲みする。しゅわしゅわと爽やかな炭酸が舌の上で弾けた。
強烈な、そして人工的(アーティフィシャル)な味。うまい、と思った。だが、最後に口にしたのがあまりにも昔のことなので、この味が懐かしいのかどうかすら、ケイにはわからなかった。
……あなたは、俺たちの記憶が読めるのか
コンッ、とテーブルに缶を置き、ケイは改めて問う。
そうだね。僕は追憶と忘却を司る者だ
首肯するオズ。
ケイやアイリーンのことを『知っていた』のは、屋敷を訪れたときから、二人の記憶を読み取っていたのだろう―そしておそらく、今この瞬間の思考さえも。
自分たちの心を奥底まで、自由に覗き見られる存在。
普通に考えれば不気味に感じそうなものだが、オズの態度があまりに飄々と、そして超然としているので逆に現実味に乏しく、畏れの感情が湧いてこなかった。驚きの連続で、その辺の感覚が麻痺しているということもあるのかもしれない。
何か縋るものを求めるように、ケイは再び缶に手を伸ばし、コーラで唇を湿らせた。
……『この世界』には、あなたのような存在が大勢いるのだろうか?
ゲームの世界には、 悪魔(デーモン) などという設定は存在しなかった。タイトルからして DEMONDAL なので、どことなくその存在を示唆しているような気がしなくもないが、少なくともプレイヤーレベルでは、そういった情報に触れたことはない。
さあ、どうだろう。多分いないんじゃないかな
しかしオズの返答は、なんとも気の抜けるようなものだった。一瞬、オズはこの世界で例外的かつユニークな存在なのかと思ったが、先ほど『我々(WE)』と言っていたからには同類がいるはず。その点を尋ねようとしたところで、オズが付け加える。
―そもそも僕は、この世界の住人じゃないからね
緑色の瞳が、笑っている。
君たちと同じように、別の世界から来たのさ。尤も、僕は己の自由意志でこの世界に『降りてきた』わけだが……
意味深な台詞に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。
順を追って説明しよう。僕は、いやしくも我々デーモンが『天界』と称する世界の生まれだ。有り体に言えば、上位世界さ。天界の下の次元には無限に並行世界が広がっている。『この世界』もそのうちの一つだ
役者のように両手を広げて、周囲を示しながらオズ。
基本的に世界を渡るのは大変な労力を要するものだが、上から下に降りる分にはそう難しくはない。僕は天界を出奔した―堕天したのさ
……なぜ?
嫌気が差したんだ。『天界』の住人、我々デーモンは、ほぼ不滅の存在だがね、ただ安穏と不死に甘んじることを潔しとしないんだ。己の存在を、さらに上位へ押し上げること―すなわち、己の魔力を際限なく肥大化させることに、心血を注いでいる。他者を蹴落とし、他者を喰らい、ただひたすらに争い続ける。天界はデーモンが果てしなく争いを続ける、地獄のような世界だよ。僕は、知識欲こそは旺盛だがね、荒事は好まないんだ。無限の闘争なんて御免だよ
―だから、逃げてきた。
オズは、そう言ってニヤリと笑う。
しかし僕のように、天界を出るデーモンは非常に稀だ。再び天界に戻ろうとすれば、魔力を大量に消費してしまう。つまり『弱く』なるわけだ。強さを至上とするデーモンの価値観からすれば、到底受け入れられない。堕天なんてのは、肥溜めにでも飛び込むに等しい行為と見做されているのさ。僕が『多分いない』と言ったのは、そういう意味だ。堕天するデーモンは、死を恐れる臆病者か、よほどの変わり者のどちらか。そしてそんな奴はそうそういない
一息に語り、オズはクイッとグラスを傾けオレンジジュースを飲み干した。
さて、僕の話は良いとして、君たちも何か聞きたいことがあるんじゃないか?
全てを見透かしたようなニヤニヤとした笑みを浮かべて、オズは問う。その視線は、特にアイリーンへ向けられていた。ビクッ、と怯えたように肩を震わせるアイリーン。
……オレたちは、
恐る恐る、アイリーンは口を開いた。
なんで、この世界にやってきたんだ? そして……元の世界に、帰還する方法って、あるのかな
とうとう聞いたか、とケイは瞑目する。
そうさな
ふむ、と腕組みしたオズは、ケイとアイリーンをそれぞれじっと見つめた。
まず、君らには記憶の混濁があるようだね。そこをなんとかしようか
くるりと指を回す。
次の瞬間、ケイとアイリーンは うっ と頭を抱えた。脳内を蛇が這い回るような、異様な感覚。走馬灯のように記憶が蘇る。ゲームでの追い剥ぎとの戦闘、ウルヴァーン近郊の濃霧、そしてその中で遭遇した―
ヨ゛ ン゛ タ゛
……そうだっ、化け物! あれは一体……!?
のっぺりとした白色の、人型をした化け物。思い出した。ゲーム内の霧の中で、あれと遭遇したことを。むしろなぜ、今まで自分は忘れていたのか。
世界を渡る際に記憶が混濁するのはよくあることだ。僕は特にそう言った方面に強いので、そういうことはないがね。と言うより、日常生活のこと、元の世界のこと等々、君らが忘れている部分は多かったぞ。自覚はなかったかもしれないが
……そうなのか?
オズの言う通り、自覚はなかった。顔を見合わせて首を傾げるケイとアイリーン。
まあ、それは置いといて、オズの旦那、あの化け物はなんだったんだ?
気を取り直して、前のめりで尋ねるアイリーン。
おそらくだが、時の大精霊『カムイ』じゃないかな。直接、相見えたことがあるわけじゃないから、確証はないが
おかわりのジュースを注ぎながら、オズはどこか投げやりに答えた。
時の大精霊?
カムイ?
この世界の時空を司る上位精霊だ。まあ『彼』の権能なら、よその世界から魂を引っ張ってくるのはそう難しくないだろう。単純な魔力なら上位のデーモンに匹敵する存在だし、この世界に似た世界からなら、親和性が高いので力の消費も抑えられる
そうだ、旦那、そもそもなんでゲームの世界と『こちら』はこんなに似てんだ?
それは、偶然、あるいは必然だよ。無限に世界があるんだよ? 世界同士が干渉することもある。ゲームという仮想世界で、この世界を再現するものがいても何もおかしいことはない。逆にゲームなり創作なりで、地球を再現しているまた別の世界も存在するだろうさ
……では、それはいいとしても、なぜ大精霊が、わざわざ俺たちをこの世界に呼んだんだ?
恐れ慄きつつも、ケイは問う。
さあ?
が、オズはただ肩を竦めた。眉をひそめるケイたちに、 仕方がないだろう とお手上げのポーズを取ってみせる。
本人に直接会えばまだ思考や意図も読み取れるが、君らの記憶越しにその存在を感知しただけだからね。それに、あのレベルの上位精霊は世界を管理維持する『仕組み(システム)』に近いから、思考が突飛すぎて何がしたいのか僕にもよくわからないんだ
アイリーンは釈然としない顔だ。ケイも、これには肩透かしの感が否めない。そんな高位の精霊が、なぜ自分たちを呼び寄せたのか―理由がはっきりしないままなのは、気持ちが悪かった。
……じゃあ、……元の世界への、帰還は?
恐る恐る、アイリーン。
オズは、捉えどころのない笑みを浮かべて、アイリーンを見据えた。
その前に、アイリーン。君の気持ちをはっきりと聞かせてほしいね
テーブル越しに―しかしアイリーンは、息がかかるほどの至近距離で、オズに顔を覗き込まれているような錯覚を抱く。
君は、そもそもどうしたいのかね? 帰りたいのかな?
……オレ、は
硬直したアイリーンは、ちらりとケイを見やる。
そしてそのまま―俯いた。
……ごめん、ケイ
えっ?
突然の謝罪に、顔色を変えるケイ。
……あっ、待って待って。そういう意味じゃない、そういう意味じゃないんだ
じわりと目の端に涙を滲ませたケイに、慌ててわたわたと手を振るアイリーン。
違うんだ……その、はっきり言うよ。オレは、帰るつもりはない。ケイを放って一人で帰るなんて、そんな……そんなこと、できないよ
……アイリーン
テーブルの上、少女は、ケイの手をしっかりと握る。ごしごしと服の袖で目元を拭いたケイは、恥じ入って赤面した。アイリーンが帰りたがるようなら笑って送り出そう、と決意していたのに、いざとなったらこのざまだ。
でも、それならなんで謝ったんだ?
……そんなあやふやな覚悟で、ケイをここまで連れてきてしまったことが、申し訳なくってさ。色々あったし……
北の大地を縦断し、魔の森を訪れるため、ケイには多大な苦労をかけた。危険な目にも遭った。
……悩まなかったと言えば、嘘になる。けど、やっぱりケイと一緒にいたいって思ったんだ。……でも、せめてパパとかママとか、姉ちゃんに、『オレは元気だよ』『幸せに暮らしていくよ』って、そんな風にメッセージを送れないかな、って
おどおどとこちらを見つめる青い瞳を、ケイはまっすぐに見つめ直した。
……謝らなくていい。気持ちはわかる。俺だって、できるならそうしたいさ。父も母も、安心させてあげたいしな……
アイリーンの手に、そっと自分の手を重ねるケイ。
……そうか、よくわかったよ
見つめ合う二人に、オズはうむうむと頷いた。
では、意志の確認ができたところで、答えよう
姿勢を正したオズは、
結論から言うと、帰還は事実上、不可能だ。メッセージを送るのも難しい
非情な宣告だった。ケイはそれを重々しく受け止める。アイリーンは表情を変えなかったが、その手にぎゅっと力がこもった。
が、オズはさらに衝撃的な言葉を紡ぐ。
―というか、君らの元の世界の肉体は、おそらくもう死んでるよ
56. 魂魄
―肉体が、もう死んでいる。
ケイたちを襲った衝撃は、『帰れない』という宣告の比ではなかった。
……どういう、こと?
声を絞り出すようにして、アイリーン。
そのままの意味だ。君らは、時の大精霊カムイによって魂を抜き取られ、この世界で再受肉した。いわば、『抜け殻』となった元の世界の肉体は、既に死んでいるだろう。『地球』はこの世界に比べて魂と肉体の結びつきが弱いようだが、それでも魂なしに、身体は生き続けられない
本当に、何でもないことのように、オズは解説する。
その言葉を咀嚼し、理解するのには、しばしの時間を要した。
『帰還は不可能』というのは、そういう意味だったのか……
やがて、顎を撫でながら、呟くようにしてケイ。完全に思考停止しているアイリーンに対して、ケイは動揺しつつもまだ落ち着いていた。
まあ、そうだね。帰ったところで身体がない、というのが理由の一つ。次に、魂だけでも世界を渡るにはやはり膨大な魔力が必要であり、人の身である君らにはそれが賄い切れない、というのが一つ
……メッセージが難しい、というのは?
霊魂だけでも、世界を渡れば枕元に立って一言二言くらいは伝えられるかもしれないが、分の悪い賭けだと思うよ。世界を渡った瞬間、早々に流転輪廻に呑まれるのがオチだろう。君らの世界は、精神と物質の結びつきが弱く、相互の干渉もほとんど起きないようだから、肉体の再構築は難しいんじゃないか。今の君たちの肉体ごと転移しようにも、相応の対価が要求されるだろうしね
……それじゃあ、今の俺たちのこの肉体は一体……?
勿論、この世界で半ば自動的に、ゼロから構築されたものだ。精神と物質の相互作用が強い『この世界』においては、それは自然に起こりうる。我々 悪魔(デーモン) のような、魂と肉体の境界が極めて曖昧な存在は例外として、基本的に魂が顕現するときはその『器』が必要になる。君らの肉体は、魂の『あり方』を忠実に反映する形でこの世界に顕現したのさ。現実の肉体と少々差異が見受けられるのはそのせいだ
そう言って、オズはニヤリと口の端を吊り上げて笑った。
その点で、ケイ、君は興味深い存在だ。僕は今まで何人も転移者を見てきたが、君のようなケースは非常に珍しい。例えば君、アイリーンを見てみたまえ。彼女は現実では交通事故で両足を失ったが、今の肉体にはしっかり足がついている
突然、名前を挙げられたアイリーンはビクンと肩を震わせる。それに構わず、オズは生徒に言って聞かせる教師のように、指を振りながら言葉を続けた。
これこそ、まさしく、彼女の魂の『あり方』が肉体に反映された証だ。足を失くしても、彼女にとっての『自分』は『足のある自分』だったわけさ。また、ゲーム内で彼女は”ニンジャ”『アンドレイ』―つまり男性として振る舞っていたが、それはあくまでロール・プレイに過ぎず、彼女は自身を『アイリーン』と認識していた。故に彼女は、ゲーム内の能力をある程度踏襲しつつも、彼女のアイデンティティ、いわば主体である『アイリーン=ロバチェフスカヤ』という少女の形を取ってこの世界に再誕した
アイリーンを見つめていたオズが、スッと視線をケイへと向ける。
だが、ケイ、君は違う
深緑の瞳は、心の奥底まで見透かすかのようだ。
普通はね、何かしら混(・)ざ(・)る(・)ものなんだよ。だが君は、完璧なまでにゲームの肉体を再現している。仮想世界に身を置きすぎたがために、君はもはや『乃川圭一』ではなく、 DEMONDAL の住人”死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》“こと『ケイ』に、魂の次元から変質してしまったのだよ。ああ、君の存在の、なんと美しく歪なことか! ……おっと、失礼、そもそも君はあまりこの二つ名を好まないのだった
くつくつと喉を鳴らして笑うオズ。
それをよそに、ケイは自分の手に視線を落とす。成る程、そういうことだったのか、という納得があった。アイリーンと自分の肉体の差異は、常々気になっていたのだ。
自分は完全にゲームの体を受け継いで運が良かった、くらいに考えていたが。
―そうか、俺はもう完全に『ケイ』になっていたのだな。
そう考えると、胸の内を満たす、感慨深さのようなものがあった。それは形容し難い不思議な感覚だったが―決して悪いものではない。
しかし、今はそんなことはどうでも良いのだ。
……アイリーン
ケイの隣、真っ青な顔で俯いた少女。アイリーンの手を、優しく握る。
声をかけたかったが、何を言うべきなのかわからなかった。ケイにできたのは、ただアイリーンに寄り添うことだけ。
ケイは、……落ち着いてるんだな
のろのろと顔を上げたアイリーンは、小さく呟いた。
こちらを見つめるケイは、アイリーンを案じて心配げな表情こそ浮かべているものの、その眼差しは湖面のように静かで、その奥に揺らぎは一切見受けられない。
アイリーンには、不自然なまでに、泰然とした態度であるように思えた。アイリーン自身、動揺していることを強く自覚しているだけに、その差が際立つ。
……ある程度、覚悟してたからな
つっと視線を逸らし、どこか自虐的な笑みを浮かべて、ケイは答える。アイリーンは押し黙った。ケイの境遇を思い出したからだ。
―いつ死んでもおかしくなかった。
きっと地球の家族たちは、そして担当医たちは、こう思ったことだろう―遂にその日が来たか、と。
彼らは、自分のために悲しんでくれただろうか。ぼんやりと遠い目で、ケイは、遥か次元の彼方、遠い故郷の人々に思いを馳せた。
ただ、こんな風に、自分も周囲も覚悟ができていたのは、ケイの環境が特殊だったからだ。それに対して、彼女は違う。
アイリーン
ひょい、とアイリーンを抱きかかえたケイは、その羽のように軽い体を自分の膝の上に乗せた。そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
あっ、ちょっと、ケイ……
オズの方を気にして、ケイの腕を引き剥がそうと、少しばかり抵抗するアイリーン。しかし頑としてケイが離さないので、やがて諦めたように脱力し、こてんとケイの肩に頭を載せた。
…………
ケイもアイリーンも、布の服だけの軽装だ。だから、お互いの体温がよく分かる。息遣いも、鼓動も。アイリーンはぎゅっと目をつぶって、深呼吸を繰り返していた。
しばらく、そうしていた。オズは腕組みをして、明後日の方向を見ている。彼の知覚の前では、ケイたちの挙動はおろか内面まで丸裸なわけだが、一応、表面上だけでも気を遣ってくれているらしい。
……ありがと。もう大丈夫
やがて、大きく溜息をついたアイリーンは、そっと体を離した。顔色は良くなっているし、目にもある程度、活力が戻っている。
落ち着いたか
……うん
こくりと頷いたアイリーンは、足をぷらぷらとさせてから、名残惜しげに立ち上がり自分の席につく。
休憩するかね?
んにゃ、もう大丈夫
小首を傾げるオズに、照れたように頭を掻くアイリーン。少なくとも、ぱっと見は、いつもの彼女に戻っていた。
オレは心配ない、ただちょっと……ビックリしちゃってさ。それより、旦那にはもっと聞きたいことが沢山あるし
何でも聞きたまえ、知っていることは教えよう
しかし、随分と親切に色々教えてくれるんだな?
ふと気になったケイは、顎を撫でながら口を挟む。オズを性悪な存在だと疑っているわけではないが、『あまりにも親切すぎること』への危惧は、口に出すまでもなく伝わっているだろう。
そもそも、オズはまるでおとぎ話の魔法使いのようにテーブルやティーセットなどを取り出しているが、これにも結構な魔力を消費しているはずだ。なぜそこまでして、手厚くケイたちをもてなしてくれるのか―ありがたいが、同時に不気味でもある。
フフフ……まあ、僕も”悪魔”を自称する者だからね、君の懸念はよくわかるよケイ。別に魂を頂戴しようだなんて言い出さないし、取って食うつもりもないさ。『対価』は既に二人から頂いているし、ね……
えっ
邪悪に笑うオズに、思わず固まるケイとアイリーン。そんな二人を見て、オズは愉快そうにからからと笑った。
なぁに、心配無用だ。二人の記憶を読み取った―これが僕にとっての対価さ。僕は記憶を糧とし、力とする者だからね。アイリーンの記憶は様々な感情に彩られていて実に美味しかったし、ケイのそれは、少々薄味だったが、類稀なる珍味だったよ。お茶や冷蔵庫やその他飲食物も、君らから頂いた対価で充分賄える範囲だから安心したまえ
ケイは言葉を失った。オズはさり気なく言っているが、記憶を読み取ってそれを力に変換できるとは、とんでもない権能だ。しかもたった二人分の若者の記憶で、虚空から物品を自在に取り出し、まだお釣りが出るほどの高効率となると―。
話を聞いた限り、オズはケイたちよりも遥かに長い時を生きている。いったいこれまで、彼はどれだけの記憶を読み取ってきたのだろう? わかっているつもりだったが、自分はひょっとすると、恐ろしく強大な存在と相対しているのかもしれない、とケイは身震いした。
……そりゃあ、その、どういたしまして?
強張った空気をほぐすように、アイリーンがおどけて肩をすくめてみせる。よく見ると口の端が引き攣っているのは、ケイと一緒だ。
―と。
ゆるやかに風が吹く。
オズの隣に、ケイたちは羽衣を身に纏った乙女の姿を幻視した。
シーヴだ。
空中で、髪と羽衣をたなびかせたシーヴは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて何事かをオズに囁いている。苦笑したオズが、胸元から大粒のエメラルドを取り出した。
瞬く間に無数のひびが入り、砕けたエメラルドが虚空へ溶けて消えていく。満足気に頷いたシーヴは、楽しそうにそよ風に乗って、屋敷のホールをふわふわと漂い始めた。
……いったい何が?
彼女に、『自分の”お茶”はないのか』と言われてね
ああ……
困ったような顔で、己の気ままな契約精霊を見上げるケイ。シーヴは我関せずと言わんばかりの様子で、心地良さげにたゆたっている。
何というか……すまない。その、ウチのが……
いやいや、僕も気遣いが足りなかっ―
と、オズが言いかけたところで、ふるふるとテーブルの下の影が揺れる。
…………
いやはや、と苦笑を濃くしたオズが、今度は胸元から大きな水晶の塊を取り出した。
そっと、床に水晶を落とす。それはそのまま、水面のような影にとぷんと呑まれて、消えていった。
えーと……
ぷるぷると嬉しそうに揺れる影―己が契約精霊『黄昏の乙女』ケルスティンの存在を間近に感じながら、ポリポリと頬を掻くアイリーン。
気にすることはない、彼女らも君らに負けず劣らず興味深い存在だ
オズは微笑みながら、シーヴとケルスティンをそれぞれ観察していた。
そうだ、俺たちはまだわかるが、シーヴたちは何なんだ?
ゲームではただのAIに過ぎなかった彼女らは今、立派な―と言うと少々語弊があるが―いち精霊として振る舞っている。
ああ、面白い現象だね。僕も長らく生きてきたが、人造(アーティフィシャル)の思念体が世界を渡った例は、初めて見た。ゲーム内では、彼女らは確固たる『人格』と呼ぶべきものを持たなかった、そうだろう? ゆえに彼女らは、君らの服装や装備のように、いわゆる『付属品』として世界を渡ったが、『こちら』は精神と物質が強く結びついた世界だ。思考力を持つ存在、それも『精霊』としてデザインされていた彼女らは、こちらの世界の修正力により、いち精霊として『肉付け』されたようだ。全く面白いね。ふーむ、君らのゲームの世界の精霊を『こちら』に引っ張ってくれば、いわゆる『召喚術』として運用できるんじゃないかな……? いや、それに消費する魔力を別の目的に、直接使った方が効率的か。わざわざ呼び出したところで大人しく従ってくれるとは限らないし、そもそも使役するのにまた別の対価も必要だし……
うーむ、と額を押さえてぶつぶつと何やら独り言を呟くオズ。
まあいい、忘れてくれ。どちらにせよ君らには縁のない話だ
あ、ああ……
そうだ、そういう意味では、君、サスケも似たような存在だよ。彼のことは大事にしたまえ。なにせ不老の名馬なんだから
は?
不老?
思わぬ言葉に、間抜けな声を上げるケイたち。
そうとも。君たちの記憶を参照していて気づいたが、君らプレイヤーには年齢と加齢という概念が設定されていたようだが、ゲーム内の動植物にまでは、それは適用されていなかったらしいね? 結果、君たちの愛馬、サスケは、半精霊とでも言うべき特殊な存在になってしまったようだ。生身の肉体を持った精霊、とでも言うべきか。兎に角、彼は老いることがなく、然るべき環境にあれば永遠に生き続けるよ
ええ……
サスケ、お前そんなに凄いやつだったのか……と絶句するケイとアイリーン。
多分、本人―いや本馬も自覚がないはずだが、 ブルブル と自慢げに鼻を鳴らすサスケの顔が目に浮かぶようだった。
ちょっと待ってくれ、じゃあ、俺の馬のミカヅキも、そうだったのか……?
転移当初、盗賊の毒矢を受けて、今は亡きものとなってしまった愛馬を思い出しながら、ケイは前のめりに尋ねる。
それは、勿論。ただ、残念ながら不死ではないからね……
半精霊というからには、復活は、再受肉(リスポーン)は可能じゃないのか?
無理だね
一縷の望みをかけたケイの問いを、オズはばっさりと切り捨てた。
いやだって、君、半精霊とは言っても命あるものだよ? 治療なら兎も角、『復活』となるとね……。再三言うが、『こちら』は物質と精神の結びつきが非常に強い。肉体が滅びれば、魂も滅びようというものだ。今頃は流転輪廻に呑まれて、この世界、あるいは別の生命の一部になっているだろう
オズの説明に、ケイはがっくりと肩を落とす。懐に収めた、お守り代わりの革財布を服越しにそっと撫でた。渋い顔でケイの肩を叩くアイリーン。
まあ、運が悪かったと思って諦めたまえ
運、か……確かに、そうかもしれないな……
諭すようなオズに、ケイも苦々しく頷く。この世界に転移した直後に盗賊に襲われたのは、ツイていなかったと言われればその通りだ。しかしミカヅキを死なせてしまったのは他ならないケイ自身。一瞬、再会を期待してしまっただけに、落胆も大きい。
せめてその場に居合わせていればね、何とかなったかもしれないが。尤もそれ相応の対価は頂いただろうけど
……悪魔に対価とは、ぞっとしないな
高くつくよ? ……しかし今この場において、君らの記憶と僕の知識は等価だ。存分に活用したまえ。この世界のこと、転移のこと、珍しい動植物の効能や、何なら魔術の秘蹟なんてのでもいい。と言っても、その辺の知識は君らにはあまり魅力的ではないかもしれないね。薬品類には詳しいようだし、魔術も、君らは『こちら』の術者に比して充分過ぎるほどの知識があるらしい。人の身で実行できる術式は、既に知り尽くしていると言っても過言ではないだろう
まあ、多少はな
俺の場合は宝の持ち腐れだが
魔法戦士としての自負はあるが、オズのような『大物』の前では鼻にかける気にもなれないアイリーンと、そもそも己を脳筋戦士と認識しており、あっても意味がないと肩をすくめるケイ。
ところが、オズは腕組みをしたまま、きょとんとした顔でケイを見やった。
……ああ。そうか、君、気づいていないのか
……何か?
オズに見つめられ、自分が何かとんでもない見落としをしているのかと、無性に不安な気持ちに駆られるケイ。
いや、なに。君らはゲームのキャラクターに準拠した能力を受け継いでいる―それは確かだが、ゲームバランスのためにかけられていた制限は、もはやこちらには存在しないんだよ
再び、生徒に言って聞かせるように、オズは指を振りながらとくとくと語る。
だからケイ、君は、ゲーム内では騎射に特化したビルドの『完成された』戦士だったが、今やそれ以上に成長の余地があるんだ。……身体的にも、魔術的にも、ね。本当に気づいていないのかい? 幾度となく彼女に魔力を吸われ続けてきただろう
オズは、空中をふわふわと漂う、風の精霊を親指で示した。
―君の魔力は、既にひよっこ魔術師程度には増大しているよ?
57. 恵与
前回のあらすじ
シーヴ わたしが育てた
俺の魔力が……!?
信じられないとばかりに、思わずケイはシーヴを見やった。
頭上をふわふわと漂う風の精霊は、そのあどけない容姿には不釣り合いなまでに妖艶な笑みを浮かべている。 感謝しなさいよ? と言わんばかりの得意げな顔。有り体に言えば、ドヤ顔だ。
確かに―ここのところ、シーヴに吸われるのにも慣れてきたとは思っていた。この森に突入する直前にも勝手に術を行使され幾ばくかの魔力を吸い取られたが、一瞬立ち眩みに襲われたくらいのもので、少し休むだけで体調は回復していた。
まさか魔力が育っていたお陰だったとは。
物理特化の脳筋戦士を自負していたケイにとって、あまりにも衝撃的な事実だった。
普通、気づきそうなものだけどねえ……魔力枯渇の反動は、慣れでどうにかなるものではないだろうに
腕組みをしたまま、呆れた顔をするオズ。
いや、そんなことを言われても……魔力を扱う感覚なんて、『こちら』に来るまで知らなかったし……
まあ、君らの世界なら仕方ないかもしれないが
すげーな、やったじゃんケイ!! 魔力が育つんなら、シーヴのポテンシャルを存分に活かせる!
困惑気味のケイの代わりに、アイリーンは大興奮の様子だ。が、 ん? と何かに気づいた様子で首を傾げるアイリーン。
ちょっと待て、それってオレ損してないか?
……と言うと?
だって、オレって魔力もある程度育ててたわけじゃん? でも今からゲーム並に身体を鍛えるのは難しいからさ……肉体が限界まで強化されていて、これから魔力も鍛えられるケイは得したんじゃないかな、って
DEMONDAL において、ニンジャ『アンドレイ』ことアイリーンは、魔法戦士として身体能力の強化はそこそこに留め、魔術関連の適性を高めてあった。つまりキャラクターのポテンシャルのかなりの部分が、魔術技能のために割かれているのだ。
アイリーン自身も今後、諸々の方面で更なる成長が見込めるとはいえ、ケイのように物理を極めておいた方が効率が良かったかもしれない―そんな思いを滲ませる発言は如何にも元ゲーム廃人らしいものだ。
いやしかし……魔力を鍛えると言っても、決して楽ではなかったぞ
だが、現実を知るケイは渋い顔だ。『こちら』の世界に転移した直後、アイリーンを侵す毒の種類を呪い師の老婆(アンカ)に知らせるため、初めてシーヴを顕現させたときのことを思い出す。とっておきの大粒のエメラルドを触媒として捧げたが、それでも死を覚悟するレベルで魔力を吸い取られた。正直なところ、体の奥底から大切な何かが抜け落ちていく、あの身の毛もよだつな感覚には未だ慣れない。
筋力と魔力、どちらの方が鍛えるのに楽かと問われれば、ケイは迷わず筋力と答えるだろう。少なくとも、よほど無茶をしなければ筋トレで死ぬことはないが、魔力は加減を間違えれば容易く死ぬ。その精神的重圧に起因する疲労は―筋トレのそれとは比べ物にならない。
まあ魔術適性はアイリーンの方が高いのは確かだからな。アイリーンこそ、魔力の限界値が上がるから、もっと魔術の幅が広がるんじゃないか?
それもそうだな。これからも頼りにしてるぜ~ケルスティン
アイリーンが声をかけると足元の影が手の形を取り、ビッ!と親指を立ててみせる。
ケイは努めて、ケルスティンと戯れるアイリーンの方を向いていたが、件の風の精霊がテーブルの上に寝転がるようにしてこちらを覗き込んでくる。 私には何か言うことはないのかな? ん? ん? と言わんばかりに、ニマニマと笑いながら空中で頬杖をついて、終いには顔から数センチの距離まで迫ってきたので、ケイも観念し 頼りにしてるよ とため息交じりに声をかけた。
クスクスと笑いながら、くるくると空中を泳いでいくシーヴ。
随分と仲が良いようだね
付き合いが長いからな
からかうようなオズの言葉に、ケイは肩をすくめてみせる他ない。
いやはや、実に興味深いね。ついこの間、個性を獲得した存在とは思えないほどに感情が豊かだ……ケイの、ゲーム内におけるイメージも影響しているのかもしれないね
そう言われてみれば、風の精霊だから、こういう自由な奴なんだろうな、とは思っていたかもしれん
彼女の存在の『肉付け』に君の意志が介在したのは面白い現象だ……以前の転移者は魔術師ではなかったからね。初めてのケースだよ
あっ、そうだ。オレたち以外にも転移者っていたんだよな、旦那? この森の近くの村に、地球の歌が伝わってるみたいなんだけど?
突然思い出し、パシッと膝を打って話を変えるアイリーン。
そうだね。この世界の時間で、大体、二百年ほど前と、百年ほど前だったかな? 君たちと同じようにゲームのプレイヤーが森に現れたね。二人とも森の外に送り出して、その後は知らないけれども。僕の把握している限りでは、転移者はその二人だけかな。彼らの場合はカムイの干渉というより、魂がこの次元に自然に引っ張られた、という感じだったよ
……二百年? 随分と昔だなー。地球と『こっち』って時間ズレてんの?
魂が自然と引っ張られて抜け落ちるとは、恐ろしい話だ……
首を傾げるアイリーン、おそらくは現実世界で『変死』を遂げたであろう、名も知らぬプレイヤーたちのことを思い顔を引き攣らせるケイ。
君らのゲームとこの世界は極度の相似関係にあるからね。互いに引き合うような性質があるのさ。それに、精神が物質世界に対して優位に働くVR技術は、君らが思っているよりも『危険な』代物だよ。まあ、今更知ったところで時既に遅しだが……
手品のようにティーカップを取り出して、紅茶を味わいながらオズは笑う。
ところで時間のズレに関しては、君らの記憶と『彼ら』の記憶を比較するに、どうやら『地球』の次元とこちらの世界は急激に接近し始めていたようだ。最初の一人が転移してきたのは、『こちら』ではおおよそ二百年前のことだったが、君らの世界では三年ほど前、 DEMONDAL のサービス開始直後だったらしい。対して、二人目は『こちら』では百年前、君らの世界では―二年ほど前のことか。『地球』の時の流れは、『こちら』に比べて格段に遅いようだね。しかし両者のそれが、ごく僅かではあるが、揃いつつある
……時間のズレが変動するなんてことが、あり得るのか?
もちろんあり得るとも、ケイ。君らにはわかりにくいかもしれないが……世界と世界の間に、相対的な『距離』とでも呼ぶべきものがあるのだよ。あらゆる世界が、互いに近づいたり遠のいたりを繰り返している。世界同士が接近すればするほど、時の流れも足並みが揃う傾向があるし、例えば僕が世界を渡るときも、『近く』の世界の方がより少ない労力で次元の壁を突破できる。ちなみに僕の故郷たる天界は、他のあらゆる世界に対して常に時の流れが遅い傾向にあるよ。天界の時間基準で魔力の消費が早くなってしまうのも、『堕天』が厭われる理由の一つだねえ……ふむ
ふっと視線を逸らしたオズは、頬に手を当てて何やら考え込む素振りを見せた。
成る程……となると、『地球』と『この世界』は、今おそらく、最も接近しているのかもしれないね。流石の僕も、現世界と任意の外世界との距離を観測・予測することはできないが、時空を司る大精霊であるカムイならば可能だろう。奴に何の目的があるのか、あるいはあったのか謎だが、君らの召喚に際して魔力の消費を極力抑えるために、二つの世界が最接近したタイミングを狙った可能性は非常に高い
……そこまでして、何のために俺たちを呼んだんだ……
さあ。本人に聞いてみたらどうだい? 案外呼べば出てくるかもしれないよ?
オズの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。
……カムイの旦那ー?
アイリーンが虚空に向かって呼びかけた。
…………
当然のように、何の反応もない。
出てこないじゃん
実は、僕も少し期待してたんだけどね。やはり駄目か。素晴らしい記憶を読み取れると思ってたんだが、残念だねえ
責めるように頬を膨らませるアイリーンに対し、悪びれる風もなくオズ。
実際のところ、世界を調整する『神』にも等しい存在が、おいそれと姿を現すことはないだろう、とオズは語る。
あそこまで存在が大きくなると、ただ『身じろぎ』をするだけで膨大な魔力を消費するし、よほどのことがない限り顕現しないだろうね
結局、目的はわからずじまい、か……
君らを呼び寄せること自体が目的だったのか、あるいは君らがこの世界に及ぼす影響を期待しているのか……わからないねえ。ま、仮に『やって欲しいこと』があるなら、流石にもう少しわかりやすい形で頼んでくるはずだ。君らは、君らがやりたいようにのんびり過ごすといいさ。それだけのために、『こちら』の世界に呼びつけられたのは、災難としか言いようがないかもしれないが
俺はまだ、健康な体が手に入ったから良いんだが……
唸るようにして言ったケイは、心配げにアイリーンを見やる。こちらを見つめていた彼女は、健気に微笑んだ。
……大丈夫だよ。オレも……こっちで暮らしていくなら、けっこう充実してると思うし。家族は心配だけど、さ
そう言えば、地球の方が時間の流れが遅いなら、まだ俺たちの体は死んでないんじゃないか? 今すぐ帰れば間に合うとか、そういうことは?
世界を渡るときにどれだけ時間がズレるか、だね。ひょっとすると君らの世界との距離が再び離れつつあるかもしれないし、ある日を境に地球の方が時の流れが早くなっている可能性なんてのもある。いずれにせよ、大博打だろう。君らにとっては
そうか……
ま、どっちにせよ世界を渡る魔力なんて捻出できないけどなー。どんくらい必要なのか見当もつかねーし。それとも、旦那にお願いすれば一肌脱いでくれるのかい?
頭の後ろで手を組んで、茶目っ気たっぷりに尋ねるアイリーン。なんとなく、その笑顔は、ケイの目には痛々しいもののように映った。
いや、頼まれておいそれとできるようなものではないね、なにせ、とんでもない魔力を消費してしまうから……対価を要求しても君らに払いきれないだろう。まだこの大陸全土を一晩で耕せと頼まれた方がマシなくらいだよ
そんなにか
大陸をくまなく掘り返すのに、どれほどの魔力が必要だろうか―まず数十メートル四方の土地をシーヴの力で耕すことを想定したケイは、それを大陸に適用しようとして要求されるであろうとてつもない触媒の量に呆れた。
無理だな
まあ、人の身では厳しいだろうね
しかしオズの旦那は、『無理』とは言わないんだな……
かなり苦しい、と言っておこう
飄々と答えるオズは、言葉とは裏腹に、鼻歌交じりにやってのけそうな雰囲気を漂わせている。
まあ、世界渡りは無理だが、それ以外のことなら善処しようじゃないか。遠路遥々、別の次元から、せっかく我が家を訪ねてくれたんだ。多少お話をして終わりというのも芸がない。記念に何か、ささやかな『願い』を一人一つ、叶えてあげよう。『こちら』での君らの暮らしが、充実するようなことを頼むといい
ニヤリ、と捉えどころのない笑みを浮かべるオズに、ケイたちは不安げに顔を見合わせた。申し出自体はありがたいのだが―
……それって、あとで魂取られたりしない?
取るつもりならもう取ってるよ
うまい話には裏がある。半信半疑のアイリーンに、オズはさらりと答えた。
なに、貴重な異界の記憶を貰ったからね、あくまでそのお礼さ。心配せずとも、あまりに大それたことを頼まれたら、それは断るつもりだよ
例えば、どんな願いなら良いんだ? あ、この質問は願いじゃないぞ
予防線を張るケイに、オズは愉快そうにくつくつと喉を鳴らして笑う。
そうだね、どんな傷でも癒やすハイポーションでもいいし、あらゆる毒や病の特効薬でもいい。もちろん、望むならある程度まとまった量の金銀財宝でもいいよ
……『ささやか』じゃない気がするんだが
僕にとってはジュースと大差ないのさ
チンッ、とテーブルの上のジュースの瓶を指で弾いてオズ。
……別に、『物品』じゃなくても良いのか? お願いでも?
アイリーンが確認する。
もちろん、良いとも
オズはどこか含みのある様子で頷いた。その緑色の眼は、観察するように、そして楽しげにケイたちを見据えている。
……どうする? ケイ
……困ったな
選択肢が多すぎて、どうしたものかわからない。二人は再び顔を見合わせた。
ハイポーションは魅力だよなぁ……
腰のポーチを撫でながら、ケイ。ハイポーションには、今まで何度命を救われたかわからない。しかしそれも残すところ僅か数瓶だ。
ハイポーションならお安い御用さ。一人の願いでダース単位で上げよう
魔法の武具も可能か?
うーん、それは物に依るね。『何でも斬れる剣』や『あらゆるものを防ぐ盾』なんてのは無理かな、せいぜい矢避けの羽衣とか、姿を隠せる指輪とか……
……それはそれで凄いな
思わず興味をそそられるケイ。ゲーム内にもそういった伝説級(レジェンダリ)アイテムは存在していたが、盗難や紛失を恐れるあまり、貴重すぎて使う機会がなく、専ら銀行に仕舞い込まれているのが常だった。
うーん、でも物品よりもっと抽象的な願いの方がいいんじゃねーかな。汎用性が高くなるし
調子良く物品を勧めようとするオズに対し、アイリーンは冷静に考え込んでいる。
金銀財宝……は、要らない。ケルスティンやシーヴの力を利用した魔道具なら幾らでも作れるし、商会のツテもあるから販売経路は心配ない。多分、今後オレもケイも稼ぎには困らないはずだ。それにケイ、矢避けのマントなりアミュレットなりなら、魔力が育ってきたら自力で作れるんじゃね?
……確かにそうだった
アイリーンの指摘に、ペシッと額を叩くケイ。現時点でも、貴重な触媒を消費すれば矢の雨を逸らすことくらいはできる。オズが与えてくれるような、伝説級のアイテムの再現は流石に無理だろうが、小粒の宝石を担保に不意の矢を逸らす程度の魔道具なら、自力で作成できるようになるはずだ。
それと、ポーションは確かに魅力的だけど、保存・運搬に難があるし……いや、待てケイ! もっと良い『答え』を思いついた!
何?
ここは……保留だ! 願い事を聞いてもらえる権利を保持しておいた方がいい。何か手に負えないことが起きたとき、臨機応変に助けてもらおうぜ!
どうだこれが正解だろう、と言わんばかりに得意げな顔でアイリーン。ぱちぱちと目を瞬くケイに、苦笑するオズ。
……それもそうだな。それが一番汎用性が高いな
ケイも納得した。今この場で答えを出す必要はない、ということだ。例えばポーションが追加で欲しくなるような事態や、独力では解決できない事件が発生したときに、改めてオズに助けを求めればいい。
じゃあ、願いはそれでいいか
だな!!
……二人とも物欲がないねえ。いやはや、困ったものだ
苦笑の色を濃くして、オズは髪の毛をいじっている。
しかし二人とも、権利を保持するのは自由だけれども、何か困ったことが起きたときに、またわざわざこの森を訪ねるつもりかい?
えっ
意地の悪い笑みを浮かべるオズに、二人とも固まった。
……じゃあ、『困ったときにオズを呼んだら助けてもらえる権利』で!
いやいやアイリーン、それは駄目だよ
即座にアイリーンが言い換えるが、オズは否定する。
君らもお察しのように、その願いは二つの願いを内包している。『困ったときに呼べば僕がその場に出向く』という願いと、そこで『僕が君らを助ける』という願いの二つだ。……それを一つにまとめるのは、認められないねえ
……そこを何とか! 頼むよオズの旦那!
アイリーンが愛嬌たっぷりにウィンクするが、オズは捉えどころのない半笑いのような表情を一ミリたりとも崩さなかった。
駄目だね
クソッ、オレも所詮はただの人、上位者に下等生物の媚びは通じない……!
おいおい、僕を誰だと思っているんだい? 下等生物云々はさておくとして、表面的な媚びが通じるわけないだろう。君が心の底から愛しているのはケイだけじゃないか
なっ
オズの返しに、絶句するアイリーン。口をぱくぱくとさせたまま、頬を染めている。隣でなぜか被弾してしまったケイも、照れたように後頭部に手をやった。
いや……まあ、……そうだけど……
アイリーン……
ふふふ。じゃあ願いはそれでいいかな
何やら見つめ合う二人を前に、笑いを噛み殺すオズは懐を探った。
それでは、こうしよう。君らにはこの指輪をあげる
オズが取り出したのは、シンプルな赤銅色のリングだ。
これは、一度使えば消えてしまう連絡用の魔道具みたいなものだ。この指輪に僕の名を呼べば、世界のどこへでも一瞬で駆けつけよう。そして願いを言えば、一度だけそれを叶えてあげる
テーブルの上にそれを置き、スッとケイたちに差し出す。
風情があるだろう? 本当は、キュッキュと擦れば僕が飛び出す魔法のランプにでもしようかと思ったんだがね。指輪の方が持ち運びに便利だろうから
ランプの先端からオズがニュルッと飛び出す様を想像し、それはそれで面白いな、などと考えてしまうケイだった。
う……ぐぬぬ……ううっ、ケイ、本当にこれでいいのか!?
鈍く輝きを放つ指輪を前に、悔しそうなアイリーン。一度それを手に取れば、負けを認めることになってしまう、とでも思っているかのようだった。
……まあ、仕方ないんじゃないか。実際、北の大地(ここ)まで来るのは結構な手間だったしな……それを短縮できて、かつピンチで助けてもらえると考えれば、願ってもない幸運だろう
そりゃそうだけどさ……。くぅ~ッ! なぜ! なぜオズの旦那はこんな僻地で暮らしてるんだ! もうちょっと街中に引っ越す予定はないのか!? いろんな人間の記憶を読み取り放題だぜ!?
ぺしぺしと控え目にテーブルを叩きながらアイリーンは問う。往生際の悪いアイリーンに笑いながら、オズは答えた。
いや、僕も極々稀に人里へ足を伸ばしたりもするんだがね。でも基本的に僕は引きこもりだし、逆に一度そこの住人の記憶を読み取ってしまえば、しばらくそれで満足なんだ。そういう意味で人里に定住するメリットはあまりないね
屋敷の窓の外、霞がかかったような灰色の森を手で示して、オズは ああ とどこか恍惚とした溜息をつく。
その点、この森は良い。僕にとって存外に居心地が良いんだ。ここは、世界の魔力の吹き溜まりのような場所。外に比べて時空が少々不安定でね。お陰で、妙なモノがよく紛れ込んでくる……この世界のものに限らず、ね
そいつらの記憶がまた珍味なんだ、とオズは悪魔的な笑みを浮かべた。
あの霧の中の化け物どもか……!
やっぱり別世界の住人だったんだ……
道中で遭遇した怪異を思い出し唸るケイ、アイリーンも少々顔色を悪くしている。
DEMONDAL に酷似しているこの世界において、連中はあまりに『馴染み』のない、異質な存在だとは思っていたのだ。別世界から紛れ込んだもの、と聞けばそれも納得だった。
『彼ら』の多くは肉体と魂、あるいは物質と精神の境があやふやな世界から来たモノだね。だから魔力が濃く、世界の法則が歪みやすいこの森では存在を保っていられる
彼らにとってもまた居心地が良い場所なんだろうさ、とオズ。彼ほどの存在ともなれば、霧の中の怪異も全く無害なのだろうが、生身の人間からすれば堪ったものではない。
しかし他ならぬ彼の言葉により、霧の中の化け物は外に出られないことが証明されたので、それは思わぬ収穫だったと言うべきか。
おっと、もうこんな時間か。お茶もいいけど、そろそろ夕食の時間かな
未だ手付かずのまま放置されていたサンドイッチの類をちらりと見やり、オズ。彼がパチンッと指を鳴らすと、ティーセットが嘘のように消え去った。
二人とも疲れているだろうし、今日は泊まっていくといい。とりあえず夕食だ
ぱんっ、とオズが手を鳴らすと、テーブルの上にキャンドルが現れる。 メニューはどうしようかな と考え始めるオズをよそに、ケイは卓上の指輪を手に取った。
これは、アイリーンが持っておくと良い
いや、いいよ。ケイが持っといて
しかし……
いいんだって
テーブルに肘をついたアイリーンは、いたずらっぽくケイを見つめる。
―どうせ指輪なら、別のが欲しいな
キャンドルの光に照らされた笑顔は、艶やかで。
ケイは、どきんと心臓が跳ねるのを感じた。
……わかった
左手の小指に指輪をはめながら、ケイはこれ以上ないほどに、真摯な表情で頷く。
真面目くさったケイが可笑しかったのか、アイリーンは花開くように笑った。
ころころと表情の変わる感情豊かなアイリーンを、いつまでも見つめていたいと。
ケイは、心からそう思った―
その後、ケイたちはオズに夕食を振る舞われた。
メニューは、ハンバーグに味噌汁、白米、ボルシチ、ピロシキ、サラダ、その他ソフトドリンク、等々、てんでまとまりのないものだ。それぞれ、ケイとアイリーンの記憶から再現されたものだった。ハンバーグの焼き加減、味噌汁の具、それらはケイがうっすらと憶えている母の味そのもので、―きっとそれは、アイリーンの食べた料理も同じだったのだろう。
必然、夕食は、どこかしんみりとした空気を漂わせていた。
食後はオズが二階に用意した客室に案内される。地球の高級ホテルを思わせる、近代的な内装の立派な部屋。
久しく目にしていなかった、スプリングつきの立派なダブルベッドがあり、はしゃいだアイリーンは思わず大の字になってダイブしていた。
ケイーッ! これ凄いぞーッ、ふかふかだーッ!
ボヨンボヨンとベッドの上で跳ね回ってはしゃぐアイリーンに、いつか家を構えることになったら、立派なベッドを手配しようと決意するケイであった。
客室とは別に、風呂場も用意されていた。
それも、二つもだ。一つは日本風。もう一つは―普通の、西洋風の浴室。ただその内装は、やはりケイとアイリーンの記憶にあった、『実家の風呂場』そのものだった。
蛇口を捻れば、すぐに清潔なお湯が出てくる便利さ。ここを離れたら、『こちら』の世界が酷く不便に感じられそうで恐ろしい。
日本風の浴室で、熱々の湯に肩まで浸かりながら、ケイはひとり思った。
……これは、やりすぎじゃないかな
オズの思いやりが伝わってくるが―しかし、逆に酷ではないか、と。
自分はまだいい。思い出も郷愁も、未練さえも、全てが次元の遥か彼方だ。それらとの決別はもう済んでいるし、事実、地球に帰っても長生きできないという如何ともしがたい事情を抱えている。
だがアイリーンは―
隣の浴室から微かに響く、押し殺すようなすすり泣きの声に、ケイは瞑目した。
天井を見上げれば、電灯の光が煌々と浴室を照らしている。
ケイの瞳には眩しすぎるほどだった。
頭まで湯に身を沈めたケイは、子供のようにブクブクと息を吐いて遊んだ。
記憶にあるよりも、浴槽はずっと狭く、そして小さく感じられた。
†††
ケイたちが風呂から上がる頃には、窓の外はとっぷりと夜闇に沈んでいた。
ただ、屋敷の窓から漏れる薄明かりだけが、庭に漂うもやを照らしている。
いやーヤバイな。願い事、『ここで暮らす』ってのもアリだったかなー
ベッドに寝転び、ドライヤーで乾かした金髪をさらさらと撫でながら、アイリーンはぼやくようにして言った。髪の長い彼女は、こちらの世界で一風呂浴びるたび、髪がなかなか乾かず苦労していたのだ。今はまだ夏なので良いが、冬は困ったことになる。
……そうだな。ちょっと便利すぎて怖いくらいだ
アイリーンの隣に寝そべったケイは、天井の電灯のような明かりを見やって頷く。
―ここで暮らす、か。
それもアリかもしれないな、とは真面目に思った。少なくとも、便利だし、命の危険もないだろうし、オズの図書館があれば退屈することもないだろう。
……あ、冗談だからな?
何やら真剣に考え込み始めたケイに、アイリーンは慌てた様子だ。
そうか? 今なら指輪を返せば何とかなる気もするぞ
…………確かに、さ。もしここで暮らせるんなら、便利だし、安全だし、凄く良いとは思うんだけど
寝転んだまま、アイリーンは悲しげに笑う。
でも、なんか、ここにいたらダメになる気がする
……アイリーン
ケイは、どんな顔をすればいいのか、わからなくなってしまった。
ただ、アイリーンの言っていることには、何となく共感できる。
この、外界から切り離されたぼやけた霧の世界で、保護されるように、壁の内側で生きていくことは―多分、ケイが望んでいる人生ではない。
そしておそらく、それはアイリーンも同じだ。
ケイは改めて、愛しい人を見つめた。
彼女の目は、泣きはらしたのか、少し赤くなっている。
その頬にそっと手を当てたケイは、宝石のような瞳を覗き込んだ。
アイリーン
……うん?
オズがアイリーンに、帰るつもりがあるのか訊いたとき。俺と一緒に、残ってくれるって。アイリーンがそう言ってくれて……俺、本当に嬉しかった
ありがとう、と囁くように。
ケイはアイリーンをそっと抱きしめる。
だから、今なら言えるんだ……一緒にいてくれて、ありがとう
ごつごつとした腕は、このとき、なぜか弱々しい。
俺と、ずっと一緒にいてほしい
まるで縋りつく幼子のようだ、とアイリーンは思った。
……シーヴの力を借りれば、ドライヤーだって作れると思う。自然のいっぱいあるところに、大きな家を買おう。二人で力を合わせれば、きっと現代に負けないくらい便利な暮らしが―
それから、なおも話し続けようとするケイの唇を、アイリーンはそっと塞いだ。
ついばむような口づけ。
……ケイ、愛してる
アイリーンもまた、愛しい人を抱きしめ返した。
涙をたたえた蒼い瞳が、きらきらと輝いている。
呆けたような顔をしていたケイは、視界がぼやけて、霞んでいくのを感じた。
……俺もだ
ケイも、泣きながら笑った。
愛してるよ
そうして二人は、もう一度、唇を重ねた。
―翌朝。
屋敷の玄関口で、オズが笑って立っている。
さて、二人とも。忘れ物はないかね
支度を整えていた二人は、わざとらしく持ち物をチェックした。
……大丈夫なようだな
悪いけど、ホームシックだけは置いてくぜ
真面目くさって頷くケイに、ニカッと笑うアイリーン。
そうかい。それは良かった。……では、約束通り、その指輪に名を呼ばれたとき、僕は即座に駆けつけて願いを叶えよう。ただしそれは一度きりのチャンスだ。使いどころはよく考えるように
ああ。せいぜい、最大限に効果を発揮するときに使わせてもらうよ
……お手柔らかに頼むよ
どこかすっきりとした顔で言い切るケイに、オズは苦笑する。
さて、この屋敷を出たら、すぐに森の入口に繋がるようにしてある。二歩も歩けば霧の外だから、安心して帰るといい
そいつは助かる、もう命綱もないからな
そっと、ケイはアイリーンの手を握る。命綱の代わりだ。
アイリーンも微笑んで、ぎゅっと力強く握り返してくる。
ふふふ。それでは、君たち二人の門出に、幸多からんことを。……『悪魔』が祝福というのも、おかしな話だがね
ご利益がありそうじゃないか。……オズ、ありがとう
世話になったな、オズの旦那! また会う日が、来るかどうかはわかんないけど
二人はオズに一礼して、歩き出す。
一歩一歩、もやのたゆたう庭を進んで行く。
オズは扉にもたれかかって、二人を見送っていた。
いやー、村の皆、心配してるだろうなー。オレらが帰ってきたら腰抜かすかも
そうだな……質問攻めにされそうだ
……それにしてもデーモンか。とんでもない存在に会っちゃったな
おそらくは気の遠くなるような長い年月を生きている、記憶と忘却を司る上位者。想像もしていなかった『大物』だ、村の住人たちも話を聞けばさぞ驚くことだろう。
おいおい……本人に聞こえるぞ
聞かせてるんだよ。……あっ
しかし軽口を叩いていたアイリーンは、不意に立ち止まる。
―何か、心に引っかかっていたものがあった。
昨日のことだ。アイリーンがまず、地球への帰還が可能なのかオズに尋ねたとき。
オズは答える前に、アイリーンに逆に問うた。『君はどうするつもりなのか』、と。
あのとき、唐突に水を向けられて驚いたものだが、そのときに感じた違和感の正体が今になってわかった。
そもそも、オズはケイたちに何かを問う必要がなかったのだ。ケイたちの思考と記憶を探れば、口に出して問うまでもなく、自然と答えはわかるのだから。
では、なぜあのときオズは、わざわざアイリーンに『質問した』のか。
『一緒にいてくれて、ありがとう』
昨夜のケイの言葉を思い出す。
―そう、それは、ケイに聞かせるため。
アイリーンが『こちらに留まる』という自身の覚悟を表明するのが、『地球への帰還が不可能』と判明する前と後では、ケイの印象が全く異なる。
もし、『帰還できない』と聞いた上でアイリーンが『残る』と答えていたら、それではまるで他に道がないから仕方なく、そう言っているように聞こえてしまうだろう。
それは、後々二人の関係にしこりとなって残ってしまったはずだ。
だから、それを避けるために。
オズは敢えて問うたのだ。
そしてアイリーンに、覚悟を言葉にさせた。オズが真実を明かす前に。
…………
アイリーンは振り返る。
真っ赤なスーツに身を包んだ、胡散臭い見かけの悪魔は、すべてを見透かしたような顔で笑っていた。
『……ありがとう、優しい悪魔さん』
アイリーンもまた、クスリと笑う。
その言葉が届いたかはわからない。ただ、悪魔は笑うのみ。
アイリーン?
ん。いや、いいんだ
首を振って、アイリーンは前に向き直る。
……行こう。ケイ
ああ。行こう、アイリーン
手を繋いだ二人は、踏み出した。
霧の外へと。
燦々と陽の降り注ぐ、明るい外の世界へと。
これにて魔の森編、完ッ!
次回は幕間となる予定です。
その後は移住編、始まります。砂糖菓子の蜂蜜がけみたいな感じになると思います。
幕間. Tahfu
月夜だ。
馬上で揺られながら、男は天を仰いだ。
絵に描いたような三日月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいる。あれは、果たして欠けつつあるのか、それとも満ちつつあるのか―? 今の自分には知る術もない、そして知ったところで何の意味もない、などと詮無きことを考え、気を紛らわせる。
そう、男は気を紛らわせる必要があった。
肌寒い。
季節は晩夏。夜の草原は、ひんやりと冷え込んでいる。そこを、半袖シャツに粗雑な麻のズボンだけという格好で、馬を駆り、文字通り風を切って進んでいるのだから、体からは面白いように熱が奪われていく。
同(・)伴(・)者(・)には聞こえないよう、控え目に鼻をすすった男は、独り思う。
(いったい、いつまで駆け続ければいいんだ―)
あてのない放浪、そんな言葉が頭をよぎる。しかしそう思った矢先、数メートル先を黒馬に跨って進んでいた同伴者が、 コウ! と呼びかけてきた。
あっち、森の近くに村が見える!
灰色のローブを身に纏った、黒髪の美女。月下、彼女の瞳は、爛々と輝いて見える。比喩表現ではなく、本当にネコ科の動物よろしく、光を反射しているのだ。そしてその頭頂部には、まさしくネコのような獣の耳がぴょこんと生えていた。
彼女の名を、『イリス』という。
何の因果か、 DEMONDAL 内での彼女の種族『豹人(パンサニア)』の特徴を、中途半端に受け継いでしまったゲーム仲間の一人だ。
そいつは良かった!
男―『コウ』は、そのアジア系の童顔におどけた笑みを浮かべて答える。
ちょうど、そこらに気の利いたホテルでもないかと考えていたんだ!
コウの皮肉に、イリスは困ったような顔で笑った。未だ、夢でも見ているような感覚は抜けないが―状況を鑑みると、イリスもコウも DEMONDAL のゲームに酷似した世界にいることは明らかだ。
そして DEMONDAL の世界には、残念ながら『平穏』の二文字はない。
村があるからといって、温かく迎え入れられるとは限らないのだ。
ましてや深夜、旅人のふりをして立ち寄っても、むしろ―
……さて、どうしたものかね
鼻声で、コウはぼやくようにして呟く。その視線の先には寝静まった村。さほど夜目の利かないコウでも、月明かりで目視できる程度の距離。下馬した二人は、木立に身を潜めていた。
木造の簡素な家々が建ち並ぶそこは、まさしく慎ましやかな辺境村といった風情だ。ゲーム内の村に比べると、荒んだ雰囲気は感じられず、家々の建て付けの良さや軒下のちょっとした装飾などを見るに、それなりに豊かな暮らしを送っているのではないか、という印象を受ける。
村の中に明かりはない。住民たちは皆、床に就いているのだろう。人の気配はあるが、物音一つしなかった。
見張りはいないわね
隣でイリスが呟く。まるで夜襲を企てるならず者のような台詞に、思わずコウは苦笑した。自分もまた、ゲームの習性で、無意識のうちに侵入経路を考えていたことに気づかされたからだ。
襲いに来たわけじゃないんだぞ
あっ、当たり前でしょ。バーナードじゃあるまいし
からかうようなコウの言葉に、噛みつくようにして答えたイリスは、己の出した名前に沈黙した。
『バーナード』―もう一人のゲーム仲間。
正確には『元(・)仲間』と言うべきか。今や二人が置き去りにしていった男だ。ゲーム内の種族『竜人(ドラゴニア)』の特徴をほぼそのまま受け継いだ彼は、その外見に相応しい残虐性と、頭のネジが数本外れたような『ブッ飛んだ』思考回路の持ち主だった。
この後どうするか とコウに尋ねられて、 村でも襲おうぜ と即答したヤツだ。
もしもあいつが、こんな寝静まった村などという獲物を見つけたら―どうするか。
そう考えると、コウは暗澹たる思いを禁じ得なかった。
確かにコウもイリスも、ゲーム内では極悪非道なならず者として振る舞っていたが、それはあくまで『ロールプレイ』に過ぎない。ゲーム内ならまだしも、『現実』と思われるこの状況下で、なおも悪事に手を染めようという気は起きなかった。
ましてや人里の襲撃など。
置き去りにする際、バーナードが寝付いたのを見計らって、コウがありったけの触媒を使い眠りの術をかけたので、しばらくは目を覚ますことはないだろうが―それでも明日の昼には術の効果も切れるはずだ。
一番の問題は、置き去りにした場所からこの村まで、それほど離れてないということだった。
一応、バーナードに追跡されにくいよう、一度川に入って馬の足跡を消すなどの対策は施してあるが、それがどれほど役に立つかはわからない。もしこの村にヤツがやってきたら、どうすればいいのか―
(いや、まずは自分のことが先だな)
コウは頭を振って、不穏な考えを打ち消した。そもそも、不審者として門前払いを食らうかもしれないし、逆に村ぐるみの追剥にあう可能性すらある。全てはこの村の対応次第だな、と結論を出し、コウはやおら立ち上がった。
……どうするつもり?
とりあえず、正面から訪問かな。情報も欲しいし、物資も揃えないとね
不安げなイリスに、コウは小さく肩をすくめて見せた。
とりあえず現実世界への帰還を目指して動こう、という結論には達したものの、それを為すためには全てが不足している。そもそもこの村の住人が人間なのかもわからないし、言葉が通じるかも未知数だ。まずは、それらを確かめなければならない。もし交流が可能ならば、食料に着替えに位置情報に―欲しいものは山とある。
そして幸いなことに、コウたちはわずかながら金目の物を所持していた。『こちら』に来る直前、ゲーム内で村を襲って金品を強奪していたお陰だ。ならず者として、普段は失っても惜しくない程度の最低限の武具と、ボロ布のような服しか持っていなかったコウたちにとって、これは望外の幸運と言えた。
(こちらの通貨はどうなってるか、だなぁ。金貨と銀貨なら最悪、貴金属としても取引には使えるか……言葉が通じればの話だけど)
ゲーム内に酷似している、というのはあくまでコウたちの見解だ。実際は似ても似つかない、全くの別世界という可能性もある。言葉が通じなければかなり厳しいな、などと胸の内で呟きながら、小さく溜息をついたコウは、その場で軽くストレッチして手に握った杖の感触を確かめた。
杖―その辺の木を荒く削り出しただけの自作の棒だ。一応、自分の魔力を馴染ませてあるので、ただの棒よりは頑丈で、魔術の反動を軽減する効果もある。
コウは、他プレイヤーとは戦闘以外の交流を持たない、完全な無法者(アウトロー)としてゲームをプレイしていたので、武器を自給自足するための最低限の木工作、移動手段のために騎乗、そして近接戦闘用に杖術を育て、キャラクターの残りのリソースは全て魔術に割り振ってある。有り体に言えば、そこそこ手先が器用で、長時間の乗馬が苦にならない程度に足腰が丈夫で、杖を思った通りに振り回す筋力と体力がある魔術師だ。
正直なところ、魔術師と呼ぶにも魔法戦士と呼ぶにも、かなり中途半端なキャラだ。元々はただ棍棒を振り回すだけの荒くれ者にする予定だったのだが、思いがけず妖精と契約できてしまったので、急遽魔術寄りに育成方針を変更したという事情もある。課金で加齢させて無理やり最大魔力を確保してあるのだが―そういえば、この体の年齢はどうなっているのだろう? と首を傾げつつ、コウはおもむろに杖を振るった。
仮想敵を思い描き、剣や槍の攻撃を払う動きをなぞる。頭を打つコンパクトな突き、側頭部を叩き割るアグレッシヴな薙ぎ払い。
……突けば槍、払えば薙刀、持たば太刀ってね
ゲーム内と遜色なく身体は動く。よし、と一人頷いた。
……何してるの?
相手が友好的とは限らないから。護身術のおさらい、かな
イリスの問いに、事も無げに答えてコウ。イリスの顔が強張るのに気づいて、どうしたものかと頭を悩ませる。ゲーム内では豪胆な女豹だったのが、一転、実際は気の弱いお嬢様のようだ。この調子では蚊の一匹も殺せるか怪しい。
まあその点では自分も大差ないが、と自嘲しつつ、杖を地面に立てて高さを測る。
身長は変わらず、と
ゲーム内の『コウ』の身長は、現実と同様170cm後半に設定してあった。横に立てた杖の長さに違和感を感じないということは、身長もゲーム内に準拠しているはず。これで間合いなどの感覚は、普段通りで構わないということがわかった。
最後に、腰のポーチを再確認。そこに収められているのは、魔術に必要不可欠な触媒の数々だ。満月の光に晒した清浄な砂、摘み取ったばかりの花びら、とっておきの砂糖菓子、水晶の塊、そして塩。
イリスは、どうだい? 体の調子は
コウが尋ねると、イリスはおずおずと立ち上がった。
彼女のゲーム内での種族―『豹人(パンサニア)』は、メスの方がオスよりも力が強いという設定で、身体能力に非常に優れているのが特徴だ。実際、素の状態での筋力は、並の物理特化のプレイヤーよりも強く、ゲーム内では石ころを素手で砕くことすら可能だった。
その腕力で振るわれる投石器(スリング)の威力は尋常ではなかったのだが―『こちら』では、なぜか現実準拠の見かけ(豹耳を生やした若い女)になっているせいで、そんな怪力の持ち主には到底見えなくなってしまっている。
身体のコンディションを確かめるように、その場で軽く飛び跳ねるイリス。
んっ、と
身をかがめ、イリスはひょいと跳び上がった。全く力のこもっていない垂直跳びだったが、軽々とコウの身長を超える高さまで到達する。
身体は……なんだか、軽く感じる。ゲームのときよりも。力はあんまり変わってないかな? ちょっと弱くなってるかもしれないわね
何かしっくりこないのか、首を傾げたイリスは、おもむろに前腕部に巻きつけていた黒布をはらりと解いた。無論、ただの布切れではない。折り返せばちょうど真ん中にあたる部分に、革製の受け皿のようなものがついている。
投石器(スリング)だ。
ゲーム内では製造・入手が容易であったことから、無法者御用達の飛び道具だった。使いこなすのは弓よりも難しいが、その威力は折り紙つきだ。
特に、豹人の筋力があれば―
足元から適当な拳大の石ころを拾い上げたイリスは、受け皿にそれをセットし、スリングの両端を握って無造作に振り回し始める。
ヒュン、ヒュンと風を切る音が、段々とブゥンブゥンと鈍い音に変わっていく―
勢いをつけ、イリスはスリングの片端を離した。
ボヒュッと解き放たれた石ころが、夜暗に吸い込まれていく。一拍遅れて、カツーンと何かが砕ける音。コウは知る由もなかったが、イリスはその輝く瞳で、遠くの木の幹が揺れ、森の鳥たちがバサバサと羽ばたいていくのをしかと見届けた。
ん。投石の方は大丈夫みたい
しっかりと狙い通り命中させられたことで、イリスは気を良くしたようだった。少なくとも、先ほどまでのようなオドオドとした雰囲気は鳴りを潜めている。実際に荒事に巻き込まれればどうなるかはわからないが―
(ま、あまり期待はしないでおこう)
最初からアテにしていなければ、足元を掬われることもないのだから、とコウは心の中で呟いた。
良かったよ、調子が出てきたなイリス
ま、足手まといにならない程度に頑張るわ。頼りにしてるわよコウ
ひらひらと手を振りながら斜に構えるイリスは、少々強がっているようにも見える。
一方で、村にも、少しばかり動きが出てきたようだ。イリスの投石の音、そして突然飛び立っていった野鳥の群れを訝しんだ者がいるらしい。何やら人が動いているような気配がある。
さて……じゃあ初接触(ファーストコンタクト)と行きましょうかね。僕が話すよ。イリスは、フードをしっかりかぶっておいて。そ(・)れ(・)がどう反応されるかわからないから
……わかったわ
ちょいちょいと、頭の上の耳を示しながらコウ。神妙な顔で頷いたイリスは、ばさりと目深にフードをかぶった。
馬の手綱を引いて、木立を出る。村の入り口まで辿り着いたところで、馬の手綱をグイッと引いて、敢えていななかせた。
…………? なっ、おいっ、誰だお前ら!?
と、近くの民家からランタンを手にした男が顔を出し、コウたちの姿を認めてぎょっとしたように叫ぶ。
それは、英語だった。
(言葉は通じる!)
住民が普通の人間だったことに安堵しつつ、まずは第一関門突破、と心の中で快哉を叫んだコウは、しかしそんな様子をおくびにも出さず、神妙な顔で口を開いた。
すまない、旅の者なのだが、道に迷ってしまった。この村で宿を取ることはできるだろうか?
宿は取れるか などとわざとらしく聞いたが、もちろん話を切り出すための口実にすぎない。こんな田舎の村に宿屋があるとも思えない―というより、そもそもまともな商店があるかどうかすら怪しい。
はぁ? 旅? 宿ぉ?
じろじろと無遠慮な視線を向けてくる村人。それはそうだろうな、とコウも内心苦笑する。半袖シャツに粗雑な麻のズボンという格好で、荒削りな杖だけを手にした男と、灰色のボロ布のようなローブを身にまとい、フードで顔を隠した女。
あからさまに不審者だ。
旅をしているには軽装だし、夜中に訪ねてくるのも不気味すぎる。
……ちょっと待て
警戒心も露わに、村人は隣家へと走った。ドンドンドンッと遠慮のないノック、隣人を叩き起こす。そして寝ぼけ眼で顔を出した隣人も、ランタンと月明かりに照らされた訪問者二人の姿にぎょっと目を見開いた。
なんだアイツら!
曰く旅(・)の(・)者(・)だそうだよ。村長呼んできてくれ
わかった。ってか前もこんなことあったな……
ランタンを掲げて第一村人がコウたちを監視する中、叩き起こされた隣人が走って村の奥へと向かう。村長を呼ぶ、という言葉は、コウにも辛うじて聞き取れた。
(はてさて、どうなりますやら)
杖をトントンと指先で叩きながら、月を見上げるコウ。
……イリス
……ん?
僕に合わせてくれ
端からそのつもりよ
小声でのやり取り。コウは臨機応変に行くつもりだ。
そのまま待たされること十分近く。周囲に見張り、あるいは野次馬の村人が増えてきたところで、村の奥からザッザッと足音。
それで、貴方が旅の者とやらか
気持ちよく寝ていたところを叩き起こされたのだろう、流石に少しばかり不機嫌な様子の、腰の曲がった白髪の老人と恰幅のいい中年男性が姿を現した。
この”タアフ”村のまとめ役をやっておる、ベネットだ
その息子、ダニーという
老人の方は『ベネット』、太った男は『ダニー』とそれぞれ名乗った。
……夜分にお休みのところ、大変申し訳ない。僕はヨネガワという
コウが言葉通り、大変恐縮した様子で一礼すると、老人―ベネットもまた愛想笑いを浮かべて礼を返した。一方で、その息子のダニーとやらは、鼻を鳴らしてコウを一瞥し、興味を失ったように視線を逸らす。
その態度の違いを看て取ったコウは、話し相手をベネットに定める。しばし、互いが互いを観察するような時間。
……改めて、僕はヨネガワという。コウタロウ=ヨネガワ。コウタロウが名、ヨネガワが家名だ。こちらは連れで、イリスという
ほほう、これはこれは……して、ヨネガワ殿は我らが村にどのような御用で?
曖昧な笑みを崩さぬまま、ベネット。
説明すれば長くなるが、旅の途中で道に迷ってしまったんだ。ご覧の通り、衣服にすら不自由する始末でね。一晩の宿を―できれば、食料などを融通してもらえないものだろうか。無論、それ相応の対価は払う
ふんっ、『旅の途中』だと! 戯言もいい加減にしろ!
と、ここでダニーが声を荒げる。
そんな軽装で、ろくに荷物すら持たずに旅などと、片腹痛いわ! その服も、まるでその辺の死体から剥ぎ取ってきたような酷いものじゃないか! 貴様ら、まさか野盗の一味ではあるまいな!
剣呑な視線を向けるダニー。コウは思わず言葉に詰まった。今着ているシャツもズボンも、まさしくゲーム内で村人を襲って剥ぎ取ったものだったからだ。
しかも、一晩の宿、だと!? 貴様もそうだが、その隣の女もだ! 顔さえ見せないような怪しい輩を、村の中に入れるわけにはいかん! 頼み事をするなら、まずは最低限の礼を尽くすことだな!
と、ダニーが矛先をイリスへ向ける。突然、村人たちの剣呑な視線に晒されたイリスは、フードをかぶったままビクンと震えた。
うーん……
予想はしていたが、あまり村人たちの反応は良くない。額を押さえたコウは、考えを巡らせる。
(ゲーム内に酷似した世界なのは間違いない……ここの連中の話し方はゲームのNPCそっくりだ)
コウが着目したのは、村人たちの英語の『訛り』だった。日系ではあるが、生まれも育ちも英国のコウは、生粋の英語話者だ。故に村人たちの使う英語の微妙なアクセントが、ゲーム内で『公国語』とされていたものと同じであることに気づいていた。
また、村人たちを改めて観察し、服飾品などの文化から、自身の現在位置は、ゲーム内で言うところのリレイル地方辺りではないかと見当をつける。
間違いない。ここは『ゲームの世界』だ。
つまり―ゲーム内での常識が、『こちら』でも通用する可能性が高い。
さあ、何とか言え! さもなくば貴様らを不届き者として領主に突き出すぞ!
黙り込んだままのコウたちに対し、何やらヒートアップし始めるダニー。周囲の村人も同調しつつあるが、唯一、ベネットだけは冷静に見守っているようだ。
コウは、状況を打開するため、自らの最大の手札を切ることを決断した。
―Darlan.
トン、と軽く杖を地面に打ち付け、内なる力を解放する。
騒いでいた村人たちが一斉に押し黙る。コウの背後、夜の闇に、悪戯っぽく笑う羽を生やした小人―妖精の姿を幻視したからだ。
……実は、こう見えて魔術師でね
ニヒルに笑ったコウは、ダニーを見据える。太っちょの中年男性は、目玉が飛び出るほどに驚愕していた。
(ま、ゲーム準拠なら魔術師なんてそうそういないよね)
コウはほくそ笑む。
僕は、とある目的のために、旅をしているんだ。……イリス
なっ、なに?
フードを取って
……えっ、でも……
突然のコウの要請に、躊躇するイリス。コウはしっかりと彼女を見据え、頷いた。
大丈夫だ。僕を信じて欲しい
……わかった
腹を括った様子で、というより半ばヤケクソ気味に、イリスがばさりとフードを取り去る。再び、村人たちがどよめいた。フードの下から現れたのは、なんと頭に獣の耳を生やした黒髪の美女だったからだ。
なっ、ヨネガワ殿、これはいったい……!?
僕の目的は一つ。……彼女の呪いを解くことなんだ
動揺するベネットに、コウは神妙な顔で語り始めた。
それは、高貴な生まれの令嬢の物語。
彼女は、その美しさゆえ、ある日邪悪な魔法使いに目をつけられてしまった。
求婚され、当然のようにそれを拒んだ彼女は、怒り狂った魔法使いにより呪いをかけられてしまう。
生きながらにしてその肉体を獣に変えてしまう呪い―
たまたま立ち寄った旅の魔術師が、その魔法使いを追い払ったことで、呪いが完遂される前にどうにか止めることはできたものの、一度生えた耳と尻尾はどうしても消し去ることができなかった。
そして、街を放逐された彼女と共に、呪いを解くための放浪の旅が始まったのだ。
しかし旅の途中で霧の中に迷い込んでしまった結果、荷物さえも失い、霧が晴れる頃には現在位置すらわからなくなってしまった。
夜闇の中を彷徨ううちに、こうして、この村に辿り着いた―と。
コウの真に迫った滑らかな語り口に、村人たちはすっかり引き込まれていた。ベネットや、先ほどまで不信感を露わにしていたダニーも感心しているし、真実を知るイリスさえ そうだったのか…… と言わんばかりの顔をしている。
……そういうわけで、我々に、この村で旅の疲れを癒やすことを、どうかお許し願えないだろうか。幸い、相応の対価は持ち合わせているし、もしそれが不十分であるようならば、何かをお手伝いしよう。僕の『力』でできること、であれば……
それは、魔術師殿をここで放り出すわけにはいきませんな
すっかり態度を改めたベネットが、何やら考え込みながら首肯する。
と、腰からナイフを抜き取ったベネットは、顔の前に掲げて、厳かな口調で、
……我々、タアフの村人は、ヨネガワ殿、イリス殿に悪事を働くことなく、心から歓迎することをここに誓いましょう
と宣誓した。ちらり、とベネットがコウの様子を窺う。
(成る程、力ある者を容易く招き入れるわけにもいかないもんな)
納得したコウもまた、腰のベルトから短剣を抜き取って、同様の宣誓を―『悪意を持たないこと』を、刃に誓う。
ありがとうございます、ヨネガワ殿。これで村人たちも安心しましょう
いやいや、こちらこそお騒がせして申し訳ない限り。ベネット村長のお心遣い、感謝致します
はっはっは、過分なお言葉です……ささ、こちらにどうぞ。何もない田舎村ではありますが、精一杯おもてなしをさせて頂きますぞ
好々爺然とした顔のベネットが、自らコウたちを村へ案内する。ベネットについていくコウたち二人をよそに、周囲の村人たちは 旅の魔術師か…… 凄いな…… なんか前にも似たようなヤツ来たよな…… などと話しながら、三々五々に散っていった。
どうにか上手くいった、と胸を撫で下ろすコウ。すると、その顔の横にふわりと燐光が舞う。
よくよく見れば、コウの契約精霊―“幻惑の精”『ダルラン』が、にこにこと笑いながら空中を泳いでいた。
(……なんだか、ゲーム内とは違う雰囲気だな)
融通が利かないAIに過ぎなかったゲーム内に比べ、なんというか、感情豊かな印象を受けた。
Se estas iu havas meliceco kontraŭ ni, diru al mi.
コウがそっと囁くと、ダルランは首肯してふわりと消えていった。同時に、魔力が少しばかり持っていかれるような感覚もある。
『もし自分たちに悪意を抱く人物がいるならば、知らせろ―』
この曖昧なコウの『頼み』を、ダルランは受けたのだ。ゲーム内では不可能な所業。
やはりここは現実なのだなぁ、と感心しつつも、難しい顔をするコウ。
(どうやったら現実世界に帰れるんだコレ……)
この世界が現実感に溢れていれば溢れているほど―元の世界が遠く感じられる。何やら突然暗い雰囲気を漂わせるコウに、イリスは心細い様子を見せていた。
その後、村長宅で、ささやかながら歓待を受けるコウとイリス。
黙り込んでちびちびと葡萄酒を飲むイリスをよそに、調子を取り戻したコウとベネット、そしてダニーの話は弾みに弾んだ。
盃を重ねるにつれ、コウもベネットも饒舌になる―
そして、コウたちと同じように、二ヶ月ほど前に、突然村を訪ねてきた旅人として。
『ケイ』の名が話題に上るまで、そう時間はかからなかった。
幕間. Barnard
本作の R-15 残酷な描写あり タグは保険ではありません。
ご注意ください。
かつてないほど、清々しい目覚めだった。
……んぁ゛?
水底から水面へ、ゆっくりと浮かび上がるような感覚。穏やかな陽光に、うっすらと目を開く。
爽やかな風、程よい暖かさの空気。眠気が身体からスッと抜けていく。目元をこすりながら、上体を起こした。倦怠感にも似たある種の心地良さ、自然と盛大な欠伸が出てくる。もう一度地べたに寝転がり、思い切り体を伸ばした。全身の筋肉をほぐす。まるで獣のように。
『獣』―いや、むしろ『怪獣』と呼ぶべきか。
全身を覆う褐色の鱗、ぎょろりとした黄色の瞳、筋骨隆々の体つきに、赤子を丸呑みにできそうなほど大きな顎。口腔にはナイフのように鋭い歯がずらりと並ぶ。歯の隙間から飛び出た細い舌が、ちろちろと空気を舐めた。顔つきも、明らかに人間のそれではない。逆三角形の、どこか爬虫類を連想させる輪郭―蜥蜴あるいは『竜』。臀部から伸びる太く長い尻尾は、上機嫌にゆらゆらと揺れている。
まさしく、『人外』と呼ぶに相応しい容姿だ。ただ、地面にあぐらをかいて座る姿勢と、寝ぼけ眼のままボリボリと頭部の金色の毛髪を掻く仕草だけが、妙な人間臭さを漂わせている。
……ん? どこだココ
と、竜人(ドラゴニア)『バーナード』は、そこでふと我に返り、少しばかり慌ててきょろきょろと周囲を見回した。
日当たりの良い、のどかな木立。そして生い茂る木々の間に、ひっそりと隠れるようにして佇む石造りの廃墟。
しばし、呆気に取られて目を瞬かせる。が、少しして、傍らに燃え尽きた焚き火の跡を認め、昨夜の記憶が蘇った。
ゲーム内での追い剥ぎ。他プレイヤーとの戦闘。要塞村ウルヴァーン近郊に現れた謎の霧。そして―そして、何があったのか。まるで靄がかかったように、はっきりとは思い出せない。
だが、霧の中で何かが起きた。
故に自分は今、『ここ』にいる。
そうだ、そうだ、なんか変なことになったんだ! 思い出したぜ
バシンと膝を打ってバーナード。その後、自分の馬をついうっかり殴り殺し、その肉を焼き、腹いっぱいになるまで食べて、満腹感のあまり眠り込んでしまったのだ。
『仲間』たちと共に―
久々にぐっすり寝ちまったぜェ……おい、コウ! イリス!
尻尾の力を利用して、バーナードはぴょこんと立ち上がる。 いくらなんでも寝すぎだぜ、起こしてくれりゃいいのによ― そう言おうとしたところで、口をつぐんだ。
『仲間』たちの姿は、どこにもなかった。
チチチ……と鳥の鳴き声だけが、木立に響く。
……あ゛?
怪訝な表情。その爬虫類じみた顔を歪めるバーナード。先ほどと一転、尻尾は落ち着きなく揺れている。そこに残されていたのは、焼け焦げたような焚き火の跡、食べきれなかった馬の肉、そして手持ちの粗雑な武具だけ―
バーナードは、独りだった。
…………
―置いて行かれた。
そのことに理解が及んだとき。
木立に、形容し難い怪物の咆哮が響いた。
†††
それからバーナードが落ち着くまで、しばしの時間を要した。
クソッ、アイツらふざけやがってッッ!
馬肉の残りを貪り食いながら、バーナードは『元仲間』の足取りを追う。
ひとまず落(・)ち(・)着(・)い(・)た(・)彼にとって、野営地から南へまっすぐ伸びる馬の蹄の跡を見つけるのは、さほど難しいことではなかった。
不自然なまでに深い眠り―あれがコウの契約精霊、“夢幻の精”『ダルラン』による昏睡の呪(まじな)いだったと考えれば、納得がいく。納得はいくが、油断してまんまと術中に嵌った自分には腹が立つ。そして腹が立つのはどうしようもなかった。
クソッ、クソッ、アイツら絶対に後悔させてやる……!
ぐつぐつと胸の奥で煮えたぎる感情を吐き出そうとするかのように、走りながらバーナードは唸る。身体のコンディション、そして残されていた馬肉の傷み具合からして、コウたちが出立してからまだそんなに時間は経っていないはずだ。
馬の足は速いが、竜人の身体能力ならば追いつける、とバーナードは踏んだ。
幸い、ぐっすり眠ったお陰で、体調は(・)万全だ。絶対に逃がさない、と固く決意する。
―なぜ、コウたちはバーナードと袂を分かったのか。
実は、理由についてはそれほど興味がない。というより、薄々察しがつく。
おそらく二人とも『平和な生き方』を選んだのだろう―ゲーム内ではそれなりに気の合う奴らだと思っていたが、所詮は上辺だけの関係だった、ということだ。
それに関して、バーナードは何とも思わない。コウたちとは DEMONDAL で出会い、なんだかんだで二年ほどの付き合いではあったが、互いのリアルは知らないし、知ろうとも思わなかった。それにゲーム内でも、『こいつらは俺と違う』という感覚は、いつも何かしらついて回っていた。ゲームのアバターが剥ぎ取られてみれば、姿を現したのはただの人だった―それだけの話。
裏切られたところで、被害者意識はない。
ゲームだけの関係だったと、嘆くつもりもない。
ただ、一つだけ許せないことがある。
それは、何も言わずに自分を置いていったこと。
見捨てられ、『置いてけぼりにされた自分』が―
その、『惨めさ』が、バーナードには許せない。耐えられない。
自尊心が酷く傷つけられていた。なんという屈辱。なぜ自分がこんな惨めな思いをしなければならないのか。そしてなぜ自分はこれを『惨めだ』と認識しなければならないのか。全てが腹立たしい。竜人の力そのままに、この場で火の息を吐いて暴れ回りたいほどに怒り狂っていた。
この思いを拭い去るには―元凶を取り除くしかない。
『こんな思いをすることを強いた』あの二人だけは、許さない。
絶対に報いを受けさせてやる、と。
復讐心だけを胸に、今はただひた走る。
馬で逃げようってもそうはいかねェ! 休むよなァ!? どっかでよォ!
『独り言』というにはデカすぎる怒鳴り声。バーナードは道なき道を突き進む。地面に転がる尖った石ころも、茂みの枝も、棘の生えた蔦の類も、みな彼の鱗を傷つけるには至らない。
竜人(ドラゴニア)の特徴は圧倒的な筋力(パワー)、そして持久力(スタミナ)だ。身体が重いので豹人(パンサニア)ほどの敏捷性はないが、それでも一定の速度で長時間走り続けられる。一日あたりの移動可能距離なら竜人も馬も大差ないのだ。
コウたちはおそらく、全力で距離を取ろうとしているが、当然、どこかで馬の体力に限界が来る。あるいは人里―そんなものが在(あ)ればの話だが―に辿り着けば、そこに立ち寄ろうとするはずだ。バーナードが体力の許す限り、ひたすらに走り続ければ、確実に距離を詰められる。
そして追跡し始めてから気づいたが、バーナードは新たに鋭い嗅覚も獲得していた。それは本来、ゲームでも設定はあったが、プレイヤーへのフィードバックまでは再現されていなかった竜人固有の性質の一つだ。
それが現実化したことで、今やバーナードは、馬の蹄の跡とともにその場に残された濃い獣臭をも嗅ぎ取ることができていた。昨日、自分の乗騎を『臭い』と感じたのは、この嗅覚のせいもあったらしい。
これで、万が一にも逃がすことはない、と。
バーナードはそう思っていた。
―木立を抜け、川に行き当たり、足跡が水の中に消えていくのを見るまでは。
なっ……
さらさらと流れる小川を前に、バーナードは呆然と立ち尽くす。
足跡が川の中に吸い込まれ、綺麗に洗い流されていた。水のせいで臭いを辿ることもできない。慌てて上陸地点を探そうとしたが、少なくとも歩いて回れる範囲には見受けられなかった。どころか、川は下流で幾つかに分かれていた。これら全てを調べて回るのは今日中には難しい。そして、そうするうちにも、コウたちは遠ざかっていく―
コウたちの方が、一枚上手だったというわけだ。そう思い至り、再び頭に血が上る。
……ガアアアアアアァァッ、クッソがあああああァァァァッッ!
バーナードは吠えた。怒りが抑えられず、そのまま口から炎を吐く。
竜人最大の特徴、『炎の吐息(ブレス)』。“飛竜(ワイバーン)“よろしく、特殊な歯を打ち合わせて火花を出し、体内で生成される可燃性のゲルに引火させて吐き出す物理的な火炎放射だ。少なくとも、今のバーナードの感情を表すのに、これ以上相応しいものはなかった。
ヴァアアアアアアアァァァ―ッッ!
炎の舌が水面を撫でる。川岸の倒木が黒煙を吹いて燃え上がる。鱗に覆われた異形が火を撒き散らしながら暴れ回る様は、まさに心胆を寒からしめる光景だ。
だがそんな狂乱の時も長くは続かない。限界まで火を吐き、文字通り燃料切れとなったバーナードは、虚脱状態で座り込む。
……クソが
右手の古びた戦槌(メイス)でガリガリと地面を削りながら、毒づく。
……クソッ、腹が減ったッ!!
やおら立ち上がるバーナード。火を吐いたせいか、無性に空腹を覚えていた。これはゲーム内にはなかった感覚だ、などと思いつつ水面を睨む。そのまま飲用に耐えそうな透き通った水の中には、魚が元気に泳いでいる。
……食うか。カハハッ、焼き魚なんてしばらく食ってねえなァ!!
獰猛に笑い、傍らの岩を拾い上げる。ボウリング玉ほどの大きさのそれを、振りかぶって思い切り川面に叩きつけた。
まさに、豪速球。ド派手な水しぶきが上がり、衝撃で気絶した魚がぷかぷかと浮かび上がる。怒りも忘れ、バーナードは子供のように、喜々として獲物を手掴みした。
よっし、串は……無(ね)えから枝を刺して、っと。鱗も食いたくねーよなぁ、内臓も引っ張り出すか
指先の鋭い爪を使い、適当に下拵えする。幸い、というべきか火には困らなかった。燃え盛る倒木の近くに何本も枝を刺し、適当に焼き上げていく。幾つかは火に近すぎて黒焦げになってしまったが、バーナードは気にしない。
鋭くなった嗅覚で香ばしい匂いを楽しみ、大顎を開けてかぶりついた。
…………。まァこんなもんか
もごもごと小骨ごと魚肉を味わい、少し白けた様子でバーナード。
美味いことには美味いのだが、いかんせん味が薄かった。コウがいれば塩があったのだが、と思ったところでまた腹を立てる。数分前までの機嫌の良さはどこへやら、尻尾をゆらゆらと振りながら、再び不機嫌顔になったバーナードは無言で魚を食べ始める。怒るのにも、エネルギーは必要なのだった。
……あー食った食った。でもやっぱ肉の方がいいよなァ。クソッ、鳥ならそこら中にいるのに、俺ァ飛び道具は苦手なんだよなァ~
魚の串焼きを全て平らげ、それでも不満そうに、バーナードは木々の間を飛び回る鳥に視線をやった。野鳥たちは敏感に、不穏な気配を察したのか、すぐにその場から遠ざかっていく。
チッ、まあいい、行くか
栄養は補給できた。無論のこと、追跡を諦めたわけではない。仕方がないので、己の勘に賭けることにした。
……下流にすっか
仮に自分がコウたちなら、どうするかという話だ。平和な生き方を模索しようとするなら、人里に行こうとするだろう。バーナードはこの時点で、自分がゲームに酷似した世界にいると信じて疑わなかった。故に、全ての考え方にも、ゲーム内及び人間社会の常識を適用する。
清涼な川があるなら、人が集まるはず。
木々の生い茂る、森のようなこの地形を鑑みたとき、集落が発生しやすいのはどちらだろうか? ―考えるまでもない、確率的には下流だ。
バーナードはもはや迷うことなく、胃に負担にならない程度の速度で走っていく。
そして川が枝分かれするごとに、自分の勘と、嗅覚―第六感に近いもの―が導く方向へとさらに進んだ。
―それから、どれだけ走ったことだろう。
いつしか辺りは薄暗くなりつつあった。しかし行けども行けども、馬の足跡は見当たらない。どころか、周囲の植生は濃くなり、人里から離れつつあるような気がする。
コイツは失敗したかァ……?
これ以上ないほど、静かに不機嫌なバーナードは、思わず舌打ちした。引き返すべきか考えるが、それではこれまでの道程が全て無駄だったと認めることになる。
気に入らない。全てが気に入らない。落ち着きなく、ベルトにぶら下げたメイスと棍棒を弄ぶ。
だが苛立ちが頂点に達しかけたところで、やおら立ち止まった。
―匂い。どこか、人工的な。
ふと見上げれば、夕暮れの空にたなびく細い煙。火事のそれではない。白い、おそらくは煮炊きをするための―
村だッッ!
頭部の金髪を逆立たせ、バーナードは走り出す。その足取りは軽い。竜人らしからぬ俊敏さで、風のように駆ける。
やがて、視界が開けた。
森のほとり、ひっそりと隠れるように、小さな集落。
……ヒ、ヒ、ヒ……ッ!
茂みに伏せって身を隠したバーナードの口から、抑えきれず、引きつったような笑い声が漏れる。胸がときめくのを感じた。まるで―ゲーム内で初めて、他のプレイヤーを襲おうとしたときのように。
いや、こ(・)っ(・)ち(・)の(・)方(・)が(・)ず(・)っ(・)と(・)い(・)い(・)。
ぎょろりとした、爛々と輝く黄色い瞳が、村の外れで薪割りに勤しむ村人を捉える。
中年の、貧相な格好の男だ。色の褪せた服、吹けば飛びそうな痩身、見るからに頼りないが―『生きた』人間。
ゲーム内のNPCとは違う。疲れたような表情も、その額に浮かんだ汗も、時折痛そうに斧を持った手をプラプラとさせる動作も―その全てが、愛おしくすら感じる。
あまりの興奮に、バーナードは視界がきらきらときらめくのを感じた。
その瞳孔が、ギュウッと極限まで切れ長に、縦に収縮する。
……ハハッ
小さな村だ。あまりにも。片(・)手(・)で(・)捻(・)り(・)潰(・)せ(・)そ(・)う(・)な(・)ほ(・)ど(・)に(・)―
もはや、隠れる必要もない。
―ッ?! なっ、なっ!? 化け物(Monster)ッ!!
薪割りをしていた村人は、仰天して目を剥いた。突然、近くの茂みから、異形の影が飛び出してきたからだ。
バーナードは嬉しかった。村人の叫びが英語だったからだ。
―言葉が通じる。
ごきげ(Good)んようゥッ(afternoon)!!
だみ声で挨拶しながら、蛇に睨まれた蛙のように硬直して動けない村人へ駆け寄る。感動的な出会いだった。バーナードにとっては。
眼前まで怪物が迫ったところで、我に返った村人が仰け反るが、バーナードは構わずそのまま首根っこをひっつかんで引き寄せる。
Nice to meet you!
叫びながら、唾が飛びそうなほどの至近距離でその顔を覗き込む。
しかし返事はなかった。
思わず力が入りすぎて、首の骨を折り砕いてしまったからだ。
ぶくぶくと口の端から血の泡を吹く村人の男は、恐怖の表情を顔に貼り付けたまま、今まさに息絶えようとしていた。徐々に生命の輝きを失いつつある両眼はカッと見開かれ、声なき悲鳴とともにバーナードを見つめている。
なんてこった……なんてリアルなんだ!!
手に伝わる細かな死の痙攣、肉の温かみ、ねっとりとした血の匂い、微細な表情筋の動きも、救いを求めるように彷徨う視線も、全てが、夢にまで描いた現実(リアル)。
思わず恍惚としていたが、からんっという乾いた音に、バーナードは引き戻された。
……父ちゃん?
見れば民家の陰から、少年が一人、こちらを覗き見ている。十代前半だろうか。そばかすの多いその顔は、どことなく先ほどの村人の面影がある。その手からこぼれ落ちたらしい数本の薪が、地面に転がっていた。
よォ
バーナードは朗らかに声をかける。その手に、痙攣する村人の死体を握ったまま。
……あ……あっ、ああッ!
サッと顔面から血の気を引かせた少年が、ふらふらと覚束ない足取りで逃げようとするが、もちろんバーナードが逃がすはずもなく。
死体を放り投げ、跳躍。ドンッと民家の壁に手をつき、自分の体と壁で挟み込むようにして少年の退路を塞ぐ。
ヒッ、ギッ、いいいいッ……!
言葉にならない悲鳴を上げた少年は、そのまま腰を抜かしズルズルと尻もちをついてしまった。見上げるほど大柄な、筋骨隆々な爬虫類の化け物に、生臭い息がかかるほどの距離まで迫られれば誰だってそうなる。
一方で当のバーナードは、兎のように無力な獲物の姿に、恍惚としていた。あまりにも脆い存在だ。大(・)切(・)に(・)し(・)た(・)い(・)。
よォ、坊主
自分では猫撫で声のつもりの、気色の悪い優しいだみ声で、バーナードは口を開く。ついでに、かがみ込んで視線の高さを合わせる気遣いを見せたが、それは少年の更なる恐怖を煽っただけだった。
……ヒッ、ヒイィ
聞きたいことがあるんだ。俺の言ってることはわかるか?
はっきりとしたバーナードの問いに、視線を逸らすこともできない少年は、半泣きでコクコクと頷いた。
そうかそうか。そいつァ良かった。……俺が聞きてェのは、旅人についてだ。最近、この村に、旅人は来なかったか?
バーナードが聞き出そうとしていたのは、他でもない、コウとイリスについて。
黒髪の童顔の男とよォ、頭にネコみてェな耳を生やした若い女だ。……どうだ?
少年はブルンブルンと勢い良く首を横に振った。正直にそう答えれば、わかってもらえば、自分が助かると思っているかのように。
そっか、そっか……来てないか……
相槌を打つバーナード。それが本当なら、残念ではあった。
だがまあ、ひとまずそんなことは脇に置いておく。
じゃあ教えてくれ。この、素晴らしい村の名前は、何てェんだ?
……ヒッ……んぐっ、らっ、らッ
んン?
……ら、ラネザ……
おうおう、ありがとうよ、教えてくれてよォ
口の端を釣り上げたバーナードは―笑顔のつもりだ―ゆっくりと立ち上がった。
親切に教えてくれたお礼によォ。坊主、オメーは見逃してやるよ
……? へっ、えっ
突然の言葉に目を白黒させる少年だったが、少しして言葉の意味を理解したのか、若干の安堵の色を見せる。
しかしその瞬間、バーナードの気配が豹変した。
……。ヴァアアアッやっぱり我慢できねェ!
ゴウンッと唸る拳が、少年の顔に叩きつけられる。
民家の壁と、石の塊のような拳の間に勢い良く挟み込まれた頭が、まるで風船のように弾け飛んだ。
ビチャビシャァッと飛び散る脳髄、血液、そしてピンク色の肉塊。
フウウウゥ! すっげ、やっぱりすげェェ!
灰色の民家の壁に咲いた鮮やかな赤い花に、血濡れた拳を掲げるバーナードは興奮を隠せない。その瞳はきらきらと輝き、呼吸が荒く、激しくなる。
アッ、ガアアアッ……オアアアアアッ!!!
その場で己の身体を抱きしめるようにして、怪物は軽く数度、痙攣した。
……ハァッ……ハァッ……クヒヒッ、やべえよ、出ちまった。マジで、すッげェよ、ゲームじゃこんなの味わえねェ
己の股間に視線を落としながらバーナード。ボロ布のようなズボンを盛り上げる何かがそこにあった。そしてそれは、一向に萎える気配を見せない。
……ハハッ、ガハハハハァッ! 楽しもうぜェ、みんなァ!!
ぐしゃりと倒れる少年の躰にはもはや見向きもせず、ベルトの棍棒とメイスを引き抜いて、バーナードは村の中へと走り出した。
ドタンッドタンッと異様な足音に、そしておぞましい笑い声に、村人たちが何事かと民家から顔を出しては、悲鳴を上げて中に引っ込んでいく。
ただいまァ! なぁんてなッ!
民家の一つのドアを真正面から蹴破り、バーナードは侵入を果たした。中にいた若い女と男が揃って悲鳴を上げる。
跳躍。メイスを振り上げ、振り下ろす。男が飛び散る。撒き散らす。血飛沫を浴びた女が、手で顔を覆って絶叫した。盛大な失禁、床を濡らしながら尻もちをつこうとしたところで、それより速く怪物の手が首を掴む。そのまま持ち上げ―ああ、不幸なことに怪物の方が遥かに上背が高い―まるで肉屋の商品のように、ぶら下げる。
宙吊りにされ、もがき苦しみ、足をばたつかせる哀れな姿を、バーナードは高らかに笑いながら楽しげに観察した。
そして穴という穴から体液を垂れ流して絶命するさまを楽しんだところで、肉塊を放り投げ、次なる家へ。
まさしく、バーナードにとっては薔薇色の時間だった。
それは酷く生臭く、どろどろとしていたが。
イヤアアアァ!
やめてええええ
来るなァ化け物ォッッ!
助けてえええッッ!
老若男女問わず、悲痛な叫び声が木霊する。村人たちは、あまりの異常事態に、そのほとんどが家に引きこもることを選択していた。まるでおとぎ話に伝わる化け物のように、目をつぶって息を潜めていれば、いつかは過ぎ去ると信じているかのようだった。
だが、違う。
これは、化け物であり、そして人だ。
残虐性とともに、高度な知性と、理不尽な目的意識を兼ね揃えた存在だった―
バーナードは全力で遊んだ。ぬいぐるみを抱きかかえた幼い娘が泣き叫ぶ前で、両親を棍棒で散々にいたぶって肉塊に変え、最後は娘自身も股から真っ二つに引き裂いて、鮮血のシャワーを浴びた。痩せ細った老人を砲丸投げの要領で壁に投げて叩き殺し、村から逃げようとしていた恋人同士と思しき男女を、お互いの顔と顔とを熱烈にキスさせて捻り潰し、箱の中に隠れた子供を箱ごと井戸に落として沈んでいく様子を楽しんだ。
中には、抵抗する者もいた。それはなんと幼い男の子だった。おんぼろな納屋の前で小さな包丁を手に、真っ向から歯向かってきたのだ。
気の毒なほどに震え今にも倒れそうではあったが、 これ以上近づくな、化け物! と啖呵を切る姿はあっぱれと言わざるを得なかった。面白いことに、ちらちらと背後の納屋を気にしており、そこに『何か』を隠していることだけは一目瞭然だった。
なので、バーナードは納屋に炎の吐息(ブレス)を吐きかけた。
枯れ木のように燃え上がる納屋に、子供は包丁を取り落として悲鳴を上げた。中からも何者かのか細い、そして幼い悲鳴が聞こえてきていた。 アリスーッ! と火の中に飛び込もうとする子供を、親(・)切(・)に(・)も(・)引き止めたバーナードは、それ以上危ないことをしないようにと、その両手両足を丁寧に砕いた。
それでも、焼け落ちていく納屋に近づこうとして芋虫のように這いずりながら、その子があんまりにも泣いて感謝するものだから、バーナードは面白すぎて笑い転げてしまった。終いには笑いすぎて腹が痛くなってきたので、皮肉にも、その子供がバーナードに一番の被害をもたらしたと言えるかも知れない。
そんなこんなで、全力で遊び終わる頃には、すっかり日が暮れようとしていた。
しかし村は明るい。何軒もの家が燃え盛っているからだ。
やっぱりバーベキューに限るなァ
拾い物のハムを民家の焼ける炎で炙りながら、満足げに頷くバーナード。炎に照らされるラネザ村の光景は、凄惨の一言に尽きる。少なくとも村の大部分が壊滅し、血の色で彩られ、焼け焦げていた。
んでもまだ全部じゃねェんだよなァ、村外れにも何かあるっぽいし、ここはもっと楽しまねェと。なんてったって最初の村だからなァ!!
グハハハッと大声で笑うバーナードだったが、しかし次の瞬間、ハムを放り捨てて飛び退った。