ほら、見えてきた

とある巨木の根っこのあたりに、青い色。薔薇にも似た豪奢な花びら。

『ヴィグレツィア・グランドフローロ』―別名、『アビスの先駆け』。ポーションの材料となる希少な霊花だ。

コイツは寄生植物の一種でな

アイリーンが解説する。

こうやって木の幹に寄生して咲くんだ。ただ寄生といっても宿主に害はない。むしろ周囲の魔力を吸収しながら、宿主に薬効成分を与えて徐々に巨大化させていく

深部 に巨大な動植物がのさばる原因の一つが、この花だ。普通の森を 深部 へと作り変えてしまう張本人、とも言える。

節くれだった巨木の幹を撫でたエリドアが、腰の剣鉈を落ち着きなく触りながら、何か恐ろしいものを見るような顔で青い花びらを覗き込んだ。

……こうしてみると、美しい花だ

ええ、本当に

ぽつり、と呟くエリドアに、うっとりとした顔のホアキンが頷く。

どうやって採取すればいい?

根ごと引っこ抜くよりかは、根本から切るのがオススメかなー。ひょっとしたら再生して、また採取しに来れるかもしれないぜ

…………

アイリーンの、冗談とも本気ともつかない返答に、エリドアが絶句する。ちなみに、アイリーンは至って真面目に答えている。

じゃ、じゃあ……

気を取り直し、剣鉈を抜いたエリドアが、アビスの先駆けを根本から切断しようとした―そのとき。

周囲を警戒していたケイが、ぴくん、と肩を揺らした。

無言で、サッと姿勢を低くする。突然のことだったが、反射的に、あるいは本能的に全員がケイに倣って身をかがめた。

何があった、とアイリーンが視線で問いかけると、ケイは緊張感もあらわに前方を睨みながら、ぺろりと唇を舐めた。

ゆっくりと”竜鱗通し”に矢をつがえ、囁くように言う。

近くに何かいる

67. 遭遇

前回のあらすじ

ケイ 近くに何かいる

ケイの言葉に、まず動いたのはアイリーンだ。

姿勢を低くしたまま、背中のサーベルを抜き放つ。

しゃらッと涼やかな音。冷たい銀色の刃が露わになる。

……どこだ?

前方、樹上。デカくはない

小声でのやりとり。“竜鱗通し”を構えたケイは、一点を見つめたまま動かない。その顔の向きから、対象(ターゲット)の位置にあたりをつけたアイリーンは、左手の投げナイフを握り直し、ケイの死角を埋めるように周囲を警戒し始める。

阿吽の呼吸の二人に対して、他三人の対応はぎこちない。マルクはどこまでも不安げに短弓を構え、エリドアはおっかなびっくりで腰の剣鉈を抜き、ホアキンはただただ息を殺している。最初から逃げるつもりで開き直っているホアキンはともかく、狩人(マルク)と村人(エリドア)も戦力にはならなさそうだ。

…………

ずっしりとのしかかるような静けさ。

頭上に雲が来たか、木漏れ日が陰る。

草葉の緑と腐葉土の黒に分かたれた世界。足元から這い上がる湿り気を帯びた空気。

……仕掛けるぞ

一応、全員が身構えたのを確認してから、ケイは弓を引き絞る。

きりきりと軋む弦。不穏な所作を悟られぬよう、身をかがめたまま腕を引いていく。緩慢にすら思える、ゆったりとした動き。

しかし不意に立ち上がり、一息に矢を放った。

カァンッ! と快音が響き渡り、木立に銀色の光が突き刺さる。

キャ―ッ!

まるで赤子のような甲高い悲鳴。五十歩も離れた樹上から、どさりと緑色の影が落ちてきた。

なっ、何だアレは!?

その正体を目の当たりにして、エリドアが思わず剣鉈を取り落としそうになる。

それは、まるで毛むくじゃらのボールに手足が生えたような、不気味な生物だった。体長は一メートルほどだろうか、緑色の長い毛に覆われた胴体にはケイの矢が突き刺さっている。胴体から伸びる土気色の筋張った細い手で、どうにか矢を抜こうと四苦八苦しているのが見えた。

すかさず、ケイは二の矢を放つ。

丸い身体の天頂―おそらく頭部―に、深々と矢が突き立った。

キイイイイイィィィィ―ッ!!

が、それでもなお軋むような絶叫を上げ、じたばたと無茶苦茶に暴れ回る毛玉。昆虫に勝るとも劣らない、しぶとい生命力。

げえッ! 『チェカー・チェカー』!

厄介なヤツが出てきた……!

アイリーンがとても年頃の娘とは思えないような声を上げ、ケイも苦虫を噛み潰したような顔をする。さらに矢をつがえ、油断なく周囲に視線を走らせた。

あれはいったい……?

ホアキンが恐れ半分、興味半分といった様子で、未だピクピクと痙攣する緑の毛玉を見ながら呟く。

『チェカー・チェカー』という猿の一種だ。雑食性でそれなりに凶暴、相手が弱いと見れば襲いかかる。そして大規模な群れをなす習性がある……

ケイの返答に、思わずホアキンの端整な顔が引きつった。

む、群れ、ですか

こういう言葉がある。『一匹見たらあと五十匹はいると思え』ってな

ゆらゆらとサーベルの刃先を揺らしながら、後退するアイリーン。頭上からガサッ、ガサガサッと枝葉の擦れる音。複数。近づいてくる。

来るぞ

ケイの呟きと同時。

キャアアァァァ―ッッ!

樹上からチェカー・チェカーの集団が一斉に飛び出した。やたらと長い指をわきわきと蠢かせながら、眼下のケイたちに躍りかかる。

その耳障りな鳴き声に、快音が応えた。

矢筒からまとめて矢を引き抜いたケイが、目にも留まらぬ速射を見舞う。軽く弦を引いただけのコンパクトな射撃。しかしそれでも威力は充分、ガッカッカァンッと快音が響くたび、緑の毛玉が見えない拳に殴られたかのように弾き飛ばされていく。

が、それでも数が多い。流石にケイだけでは捌ききれない。取り囲むようにして無事に着地する個体も多数。

シッ!

そこへ、アイリーンが鋭い呼気と共にナイフを投擲した。投げ物が苦手なアイリーンでもこの距離ならば外さない。狙いを違わず命中―だが苔むしたモップのような長い毛に阻まれ、刃が深く通らない。

キィィィアア―ッ!

ナイフを受け、むしろ激昂したチェカー・チェカーが飛びかかってくる。アイリーンは冷静に突進をいなしながら、すれ違いざまにサーベルを振るった。

パンッ、パシッと軽い音。チェカー・チェカーの両手が半ばから斬り飛ばされる。

欠けた手を振り上げたまま、チェカー・チェカーは呆気に取られたように硬直した。一拍置いてからつんざくような悲鳴を上げ、バンザイの格好で転がるようにして逃げていく。長い毛に包まれた胴体より、剥き出しの手足の方が斬撃は通りやすい。チェカー・チェカーのわかりやすい弱点だ。

アイリーンは止まらない。

石像のように硬直したエリドアたちを庇い、軽やかに刃を振るう。

まるで重力を感じさせない激しい機動、木々の間をすり抜けるようにして跳ね回る。

『蝶のように舞い、蜂のように刺す』という言葉は、まさに彼女のためにあった。瞬く銀閃、飛び散る鮮血、その姿はさながら剣(つるぎ)の舞。洗練された美しさ、しかしその動きは冷徹にして機械的、チェカー・チェカーたちの手足がいくつも地面に転がっていく。

あまりに容赦のないアイリーンの剣気に、チェカー・チェカーたちが怯んだ。それを見逃すアイリーンではない。

ウオアアアァァッ!!

血に塗れたサーベルを振り上げ、とても年頃の娘とは思えないような声で威嚇する。近づけば殺す、と言わんばかりの荒々しい殺気。

がああああああッ!

それに続いて、ケイも吠えた。腹の底から振り絞る声に、びりびりと大気が震える。

深部(アビス) の入り口で騒ぐような真似はしたくないが、こればかりは仕方がない。

叫べ! 威嚇するんだ、割に合わない獲物だと思い知らせてやれ!

茫然としたままのエリドアたちを叱咤する。既に十匹以上のチェカー・チェカーを撃退しているが、周りを取り囲む個体だけでもざっと数えてニ十匹、そして未だ頭上にも気配がある。

チェカー・チェカーは凶暴だが、基本的に弱いものしか襲わない。今は自分たちの数が圧倒的なのでいい気になっているだけだ。相手が手強いとわかれば、我先にと遁走し始めるはず。

うっ、うおお!

エリドアが剣鉈を振り上げて叫んだ。ハッと我に返ったマルクも、申し訳程度に矢を放ちながら威嚇の声を発する。

その後ろではホアキンもまた おおおおぉ! と叫んでいたが、こんな状況にもかかわらず無駄に良い声だったので、不覚にもケイは笑いそうになった。

さあ、死にたいヤツはかかってこい!!

アドレナリンで多少ハイになっていることを自覚しながら、ケイは矢筒から『長矢』を引き抜いた。かつて”大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命せしめた必殺の矢。

つがえる。

引き絞る。

解き放つ。

“竜鱗通し”の全力を、眼前のチェカー・チェカーに叩き込む。

ドバンッ、と弓矢にはあるまじき着弾音がした。緑色の毛玉が内側からめくれ上がるようにして破裂し、赤色が撒き散らされる。かつてのしぶとい生命力を物語るかのように、ばらばらと地に転がった肉の破片だけが、虚しくピクピクと痙攣していた。

一瞬、辺りが静まり返る。あれだけ騒がしかったチェカー・チェカーの群れの鳴き声が、ぴたりと止んだ。

そして次の瞬間、ケイたちを取り囲んでいたチェカー・チェカーたちは、くるりと踵を返して一目散に逃げ始めた。まるで潮が引くのように、薄汚れた毛玉の集団が森の奥へと去っていく。

数秒もしないうちに、視界からチェカー・チェカーは一匹残らず消え去っていた。

こうでもしなければ 深部 では生き残れない、と言わんばかりの鮮やかな撤退だ。尤も、アイリーンに手足を斬り飛ばされた個体は、そう長くは生きられないだろうが。

……思ったより、諦めが早かったな

ビシュッ、とサーベルを振るって血糊を払いながら、アイリーンが少しばかり意味深な視線をケイに向けてくる。

DEMONDAL のゲーム内では、チェカー・チェカーの群れはもっとしつこかった。それこそ群れを半壊させるくらいの勢いで戦わねば退かないほどに。アイリーンはその差を示唆しているのだろう。

しかし、ゲームのAIではなく、現実であればこそチェカー・チェカーたちの気持ちもわかる。たとえ猿でも自分の命は惜しかろう。ケイが最初から『長矢』を使っていれば、もっと早く逃げ始めていたかも知れない。

むしろ、アイリーンの剣には大いにビビっていたあたり、ケイの射撃が早業すぎて弓の恐ろしさを理解していなかった可能性もある。

やれやれ、どうにか切り抜けられたな

おどけた風に肩を竦めてみせたケイは、マントをめくって腰の矢筒を示す。

実は、矢が残り少なかったんだ。危ないところだった

矢筒には長矢を含めて、あと数本しか残っていなかった。こんな大盤振る舞いをする羽目になるとは思っていなかったので、普通の矢筒しか持ってきていなかったのだ。

ワオ、と呟いて冷やかすようにピゥッと口笛を吹くアイリーン。お手上げのポーズを取ったケイは、不意に真面目な顔でアイリーンを見つめた。

ありがとう、アイリーン。お陰で助かった

ケイだけでは厳しい状況だった。地上に降りてきた群れを、アイリーンが牽制し対処してくれたからこそ、持ち堪えることができたのだ。

よせよ、お互い様だろ。オレだって一人であの数はムリだぜ

ひらひらと手を振りながら、軽く笑って流すアイリーン。お互い様―そう言えなくもないが、あの規模の群れに遭遇しても、アイリーン一人だけなら生還できる可能性は高い。機動力が高く単純に足が速いアイリーンは、チェカー・チェカーたちが諦めるまで逃げ続けることもできるはず。そういう意味で足を引っ張っているのはケイの方だ。

が、それを言えば、現状で最も足手まといである同行者たちが気に病むかもしれないので、ケイは口に出すことはなく深々と頷くに留めた。

……助かったのか?

自分が命の危機にあったことさえ実感が湧かない様子で、エリドアが茫然と呟く。

おっかなびっくり 深部 の入り口を歩いていたら、危険生物の群れがやってきて、あれよあれよと言う間に撃退されていた。なんだか知らないが助かっていた、というのが正直なところだろう。

前々からとんでもない弓の腕だとは思ってたが、やはりとんでもないな……

長矢の直撃で爆発四散したチェカー・チェカーの残骸を見やり、マルクは畏敬の念を浮かべている。

いやはや、ケイの弓もさることながら、アイリーンのサーベルの冴えも凄まじいですね! 全くお見逸れしました、やはり『サティナの正義の魔女』『魔法戦士』の異名は伊達ではない!

一難去って、ホアキンは大興奮だ。そんな彼に感化されたように、マルクとエリドアも口々に ありがとう 助かったぜ などと礼を言い始める。

感動しているところを悪いけど、取るもん取ってズラかった方がいいと思うぜ

が、アイリーンの冷静な言葉に、全員が冷水を浴びせられたような顔をした。

そうだな。チェカー・チェカーの群れがいたということは、この辺りに危険な大物はいないはず……だが、それにしても騒ぎすぎたし、血の匂いもするだろう。アイリーンの言う通り、さっさと離れた方がいい

すん、と鼻を鳴らしてケイ。ひどい血の匂いだ。そして獣臭。何日も洗っていない犬と豚小屋を混ぜたような臭気が漂っている。チェカー・チェカーたちはお世辞にも綺麗好きには見えなかった。

地面に転がったチェカー・チェカーの手足や、矢を受けて未だ悶え苦しむ個体を一瞥し、ケイは索敵を再開する。

そ、そうだな。早く戻ろう

『アビスの先駆け』を採取せねば……村の皆のため、一輪でも多く……

そういえば、この獣……チェカー・チェカーは、何かの役に立つんですか?

一刻も早く帰りたそうなマルク、厳しい現実に立ち返り悲痛な表情のエリドア、そして相変わらず興味津々のホアキン。

とりあえず、一同は二手に分かれて撤収作業を開始した。

アイリーンとエリドアは、見える範囲の『アビスの先駆け』を採取。

ケイと残りの二人は矢の回収がてら、まだ息のあるチェカー・チェカーにとどめを刺していき、役に立つ部位を剥ぎ取っていく。

こうしてみると、やはり不気味な獣だ。薄汚れた緑色のモサモサとした長い毛が胴体を覆い、毛の隙間から僅かにぎょろりとした赤い目が覗いている。体毛が濃すぎるので顔つきなどはわからないが、少なくとも愛嬌はない。そして臭い。だらりと開いた口には、頑丈そうな黄ばんだ臼歯が並んでいるのが見えた。雑食性で、食べられるものは何でも食べる。 深部 の外でも生きていける生物だが、昆虫なり植物なり、 深部 の方が栄養価の高い食物が多いので、よほど追い詰められない限り外に出ることはない。

しかし、チェカー・チェカー自体にはほとんど価値がないんだよな……

念のため距離を取って、倒れたチェカー・チェカーの頭を矢でぶち抜きながら、独り言のように呟くケイ。

チェカー・チェカーの肉は不味いし、毛皮はごわごわで使い物にならず、内蔵が薬の材料になるわけでもない。

唯一、役に立つと言えるのは手の親指の爪だけだ。いかなる生態によるものか、親指の爪だけがコブ状に丸く発達しており、薄汚れたチェカー・チェカーの肉体の一部とは思えないほど美しい緑色の光沢を帯びている。これを剥ぎ取って磨けば、洋服のボタンや装飾品などに重宝されるという。少なくともゲーム内ではそうだった。

確かに、爪単体を切り取れば、それなりに美しい宝玉に見えなくもなく、加工も容易なので需要はあるだろう。あるだろうが―チェカー・チェカー本体の姿を知っていると、珍重したいとは思えないな、というのがケイの正直な感想だ。

何が役に立つかわからないもんだ……

絶命したチェカー・チェカー、その手の親指を狩猟用ナイフでごりごりと切り取りながら、マルクが複雑な表情でごちる。爪だけを剥ぎ取るのは時間がかかるので、指ごと切り取って残りの作業は村でやることにしたのだ。マルクの隣では保存用の革袋を持ったホアキンが手持ち無沙汰に立っている。

当初、マルクもホアキンも生き残りのチェカー・チェカーにとどめを刺す作業を手伝おうとしていたのだが、危険だったので取りやめた。マルクの短弓では確実に頭蓋骨を撃ち抜くことができず、ホアキンは―言わずもがな、お手上げだ。

チェカー・チェカーは非常に力が強く、ただ掴みかかるだけで人間の骨程度ならへし折ることがあるため、極力近づかない方がいい。また、顎も頑丈で、細い鎖ならば噛み千切るほどの咬合力を誇り、『窮鼠猫を噛む』の言葉通り瀕死の個体相手でも油断はできなかった。

そんなわけで、マルクとホアキンの二人は死体からの剥ぎ取りに専念している。ケイがチェカー・チェカーの恐ろしさを語った時点で、二人とも息がある個体に近づく気を失ったようだ。

(それにしても、アイリーンには頭が下がる……)

こんな怪物の群れを相手に大立ち回りをやってのけたのだ。ゲーム時代から、『白兵戦の訓練』と称して散々コテンパンにされているので、アイリーンの剣の腕はよくわかっているし、『こちら』に来てからは実戦経験も積んでいるので隙がない。ケイがとやかく言えるほど、アイリーンは弱くないのだ。

それを頼もしく思う反面、アイリーンを盾にするような戦い方しかできない自分が、歯痒くもあった。

もちろん、北の大地での馬賊との戦闘のように、騎馬が駆け回る大平原などではケイの方が強い。元々森林はアイリーンの得意なフィールドの一つ。向き不向きの問題と言えばそれまでだ。それまでだが―

(―近づかれたら弱い、というのはやはり頂けないな)

ケイは弓騎兵だ。サスケの存在なしで接近戦に弱いのは当たり前。

しかし『死んだら終わり』な世界で、今までのような甘えは許されない。これでケイがただの脳筋戦士なら諦めていただろうが、実際は違う。

ふわりと、森の中で不自然な風がケイの首筋を撫でる。

―Mi estas ĉiam kun vi, ĉu ne?

幼い、それでいてどこか妖艶な声。

“風の乙女”シーヴ。何だかんだ言って、彼女はいつもケイのことを見守っている。

(……ぼちぼち魔術の鍛錬も始めるか)

旅の間、体調を崩したら拙いので先延ばしにしていたが、次にサティナ辺りで落ち着いたら魔力を鍛えよう、とケイは改めて決意する。ゲーム内ではキャラクターのポテンシャルを全て弓や乗馬の技術に割り振っており、これ以上の成長が望めなかったので考えもしなかったが、現状では鍛えれば鍛えるほど魔力の技能も伸びていく(あくまで常識的な範囲で、だが)。

(とりあえず、『矢避け』の護符はいくらでも必要だな。接近してきた相手を吹き飛ばす『突風』も欲しい……)

ケイの現時点での目標は、使い捨ての護符や魔道具を量産できるレベルまで己の魔力を高めることだ。シーヴは強大な精霊だが、コストパフォーマンスが悪く、魔力や触媒をバカ食いするという欠点がある。せめて、粗悪な触媒を大量に用意して代替できれば良かったのだが、高価な宝石や魔力のこもった品などしか受け取らないという筋金入りの『お高い』精霊だ。

そして触媒抜きの僅かな魔力で何ができるか、と問われれば―そよ風を吹かすことくらいしかできない。そもそもシーヴ、というより風の精霊は良くも悪くも大雑把で、細かく繊細な作業が苦手だ。 追跡 や 顕現 などといった補助的な用途を除けば、竜巻を起こしたり突風で家屋を薙ぎ倒したりと、豪快な術を得意とする。

一応、ファンタジーでよくある風の刃やカマイタチといった芸当も可能だが、刃だの真空だのを作るのはかなり効率が悪いらしく、消費魔力に効果が釣り合わない。そしてケイの場合、矢を放った方が早いし強いというオチがつく。

とりあえずケイの特訓は、ロウソクの火をそよ風で吹き消すところから始めることになるだろう。それ以上を望めば、魔力を吸われすぎて寝込むか、最悪枯死する。

自分の魔力が使い物になるまで、一体何日かかるんだ―と遠い目をするケイだったが、ふと思い出したのはアイリーンの契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンだ。

シーヴと違い、ケルスティンは夜限定で非常に高いコストパフォーマンスを誇る。それこそ、一般人でも触媒なしで術を行使できるほどに。

(ごくごく僅かな魔力消費で影を操る魔道具をアイリーンに作ってもらって、じわじわと訓練した方が早そうだな)

ロウソクの火を吹き消す魔術。ケイが触媒なしで行使するのは、一日に一度か二度が限界だろう。しかし影を少しだけ操るくらいなら、日が暮れた後から就寝するまで何度か訓練できる、はず。

あるいは、余裕がある日なら、早朝にシーヴのそよ風訓練を敢行し、日中魔力を回復させてから、夜のケルスティン訓練をするという手もある。これがゲームなら、ログアウトしている間にキャラクターを自動モードに切り替え、飲まず食わずで瞑想させたり魔法書を読ませたりして手軽に魔力を伸ばせたのだが、現実ではそうもいかない。そもそも魔力のこもった書物の類も持っていない。

(あとでアイリーンに相談してみよう)

結局アイリーン頼りだな、と苦笑するケイ。やれやれ、と呆れたようなシーヴのため息が、どこかから聞こえた気がした。

その後、矢とチェカー・チェカーの爪を回収し、アイリーンも『アビスの先駆け』の採取から戻ってきたので、一行は足早に村へと帰還することにした。

チェカー・チェカーの襲撃のせいで、かなり時間を食ってしまった。今頃、村では皆が心配してケイたちの帰りを待っているだろう。

希少な霊薬の材料である『アビスの先駆け』に、装飾品として珍重されるチェカー・チェカーの爪―想像以上の収穫だったが、村人組のエリドアとマルクは深刻な顔だ。これ以上ないほどはっきりと、確かめてしまった。 深部(アビス) が村の近くまで迫っているという事実を。

(これからどうなるか、だな)

村は、難しい選択を迫られる。ケイは他人事ながら、小さくため息をついた。

差し当たっては収集した素材をどう扱うかが問題になってくる。『アビスの先駆け』の買い取りは、村で待機している行商人(ホランド)たちと交渉することになるだろう。少しでも高値で買い取ってもらえるよう、朴訥なエリドアたちを援護したいところだ。これ以上、村のためにケイが手助けできるのは、それくらいしかない。

深部 の入り口から離れ、穏やかな普通の森を歩きながら、ケイは無性に酒が呑みたくなった。アイリーンと一緒に、何の気兼ねもなく、楽しく酔っ払いたい。

口数も少なく、ケイたちは進む。

村までは、あと少しだ。

次回、交渉したり酒呑んだりイチャイチャしたり(予定)

68. 報告

森を抜けると途端に視界が広がった。

見慣れた青空と草原の緑。ほぅっと肩の力を抜いて、ケイは人心地つく。

森を切り拓いた畑の向こうには、丸太の壁に囲まれた開拓村。“大熊(グランドゥルス)“の襲撃後、新たに建てられたという見張り櫓から、村人の一人がこちらに手を振っているのが見えた。ケイたちの帰りを待ち侘びていたらしい。

村の広場。

予定より遅れて戻ってきた一行は、やきもきしていた村人や行商人たちに、もれなく取り囲まれることとなった。

どうだった?!

森の様子は?

皆に問われ、村長(エリドア)は沈痛な面持ちで、

大漁だったよ……

と、革袋から何輪もの『アビスの先駆け』を取り出した。薔薇のそれにも似た豪奢な花びら。この世のものとは思えないような鮮やかな青色に、皆が それは…… と頭を抱えて呻く。これほど喜ばしくない大漁報告に立ち会ったのは、ケイも初めてだ。

おにいちゃーん!

と、そんな住民たちをよそに幼い声が響いた。ぴょこんっとホランドの荷馬車から飛び降りたエッダが、スタタタタと駆け寄ってくる。随分と心配していたらしく、勢いもそのままにケイに抱きついた。

だいじょうぶ!? 危ない目にあわなかった?

う~ん……ちょっと獣の群れに襲われたが、怪我はしてないよ

革鎧が顔に当たると痛いだろうに、しがみついて離れない。ぽんぽん、とその癖っ毛の頭を撫でてあげながら、ケイはにっこりと笑ってみせた。

心配すんなよ。みんな、かすり傷一つないぜ

オレが大活躍だったからな、と腰に手を当てて ふふーん と得意げなアイリーン。近くの日陰で実家のように寛いでいたサスケも、おもむろに立ち上がり、 おつかれ と言わんばかりにぺろぺろとケイの頬を舐め始めた。

やはり、 深部(アビス) の侵蝕が進んでいたのかい?

エリドアが掲げる『アビスの先駆け』を横目で見ながら、歩み寄ってきたホランドは浮かない顔だ。

……ああ。残念ながら

ケイが首肯すると、 そうか…… と憂いを帯びた表情で村を見渡すホランド。

まるで、今のうちに、この村をしかと目に焼き付けておこうとするかのようだった。

エリドアが皆に探索の結果を説明し、『アビスの先駆け』やチェカー・チェカーの爪などを披露する。チェカー・チェカーの緑色の爪は明るい日差しの下で映え、文字通り異彩を放つその美しさに、朴訥な村人たちは息を呑んだ。

住民たちの多くは、今後この村がどうなるのか非常に心配していたが、はっきりした結論は出ていない。

一行は話し合いの場所を村長宅へと移す。

“大熊”の事件の際も、ケイたちはこの『ヴァーク村』の村長宅に招かれたが、前回に比べると格段に建て付けが良くなっており、ほぼ別物に変わっていた。どうやら以前の屋敷は仮のものだったらしい。

広めのリビングには大きな丸テーブルが置かれ、大人数での会議にも利用できるようになっていた。天井にはいつかタアフ村の村長宅でも見たような、金属製の素朴なシャンデリアが下がっている。

話し合いに集まったのは、村長のエリドア、村の顔役が数名、そしてホランドを始めとした行商人たちだ。助言者かつ 深部 の”専門家”として、ケイとアイリーンも同様に招かれている。探索が終わって早々だが、少なくともエリドアは休む気にはなれないらしく、会議は早々に始まった。皆で円卓につき、まずはハーブティーで一服しながら話を進める。

とは言え、今回の話し合いは村の行末を決める会議というより、探索での『収獲』を買い取ってもらう商談が主になるだろう。そもそも、村の今後を判断できるのは領主であり、エリドアには直接的な権限がない。

『チェカー・チェカー』……そのような獣がいるとはなぁ

行商人の一人が、テーブルから緑色の宝玉をつまみ上げ、しげしげと眺める。

とりあえず『商品』の見本として指から引き剥がし、軽く洗ったチェカー・チェカーの爪だ。本当に、ただ水で洗って布で磨いただけなのだが、リビングの窓から差し込む陽の光を浴びてきらきらと光っている。

面白い素材だ

完全な球形ではないが、加工次第では化けるな

横から覗き込むホランドや他の商人たちも、興味津々だ。ケイたち『現代人』からすれば、どことなくプラスチックを連想させる人工的な色なのだが、『こちら』ではそれすらも美点の一つとなる。

しかし、チェカー・チェカーなんて聞いたこともないな。売るにしても客にどう説明したものか

獣本体の死体はないのか?

剥製にでもして店に飾れば、この爪も売りやすくなるだろう

チェカー・チェカーを知らない商人たちが、無邪気にそんなことを言ったが、探索組は いや…… と渋い顔をする。

獣の死体はない。体長一メートル近くて重いし、何より臭くてな……

誰も持ちたがらなかった、とエリドアは首を振るが、探索組の荷物運び(ポーター)は何を隠そう彼だ。一瞬目配せするケイとアイリーンだったが、空気を読んで余計なことは言わずにおいた。

ちなみに、領主への報告用にチェカー・チェカーの死体もあった方が良いのではないか、という意見も現地で出ていたが、最終的に『アビスの先駆け』で充分だろうという結論に至っている。

それに……その、……なんだ

がりがりと短く髪を刈り込んだ頭をかいて、エリドアは困ったように続ける。

チェカー・チェカーは……お世辞にも見目麗しい獣とは言えなかった。納屋に放置されたまま、カビの生えた古い雑巾みたいなヤツで……。毛糸みたいにもじゃもじゃしてたし……そのくせ手足は枯れた老人のそれみたいで不気味だったし……飾ってても客が遠ざかるだけだと思う

そ、そうか……

そんなのが何十匹と寄ってたかって襲い掛かってくる光景を想像したのか、ホランドが恰幅の良い体をぶるりと震わせた。

ま、まあ、それはいいとして。この爪と『アビスの先駆け』についてだが……

ハーブティーで口を湿らせ、気を取り直してホランドが本題に入る。

まず、探索で得たこれらの素材は、君らの間でどう分配するつもりなのかね?

ホランドにまっすぐ見つめられたケイは、腕組みをして考え込む。

……難しい問題だ

……いや、何も難しくはないと思うんだが。少なくともチェカー・チェカーの爪は、全てケイとアイリーンのものだろう

何を言ってるんだお前は、と言わんばかりの顔をするエリドア。 そうか? とケイが首を傾げると、アイリーンも呆れたように 当たり前だろ と言う。

連中を仕留めたのケイとオレだけじゃねえか

……それもそうだな

なんとなく、皆で探索隊(パーティー)を組んでいたので公平に分配せねば、という気持ちがケイの中にはあった。が、言われてみればアイリーンの言う通りだ。エリドアたち同行者は戦闘中、カカシのように突っ立っていただけで何もしていない。取り分は全てケイたちにあると言っていいだろう。

ただ、村の今後を考えると、全部自分たちで取ってしまうのは気が引ける。

じゃあ、手間賃ということで、同行者には……爪を一個ずつ配ろう

それは助かる。ありがとう

少し嬉しそうなエリドア。ちらりとケイが横目でアイリーンの様子を窺うと、彼女も特に異存はない様子だった。ケイとしてはもうちょっと渡してもいい気がしたのだが、あまりやりすぎると後でアイリーンに怒られる。

それに、今後―ケイ自身が狩人として生計を立てていくつもりもある以上、労働力の安売りをするわけにはいかなかった。 深部 の怪物を駆除してくれた上に、素材まで無料で提供してくれた などと評判になっては困る。

ともあれ、これによって自動的に、爪の交渉はケイたちが主導するところとなった。コーンウェル商会との関係上、ホランドたちはこの場で買い叩くような真似をしないだろう。そうすれば、たったひとつではあるが、エリドアと狩人のマルクも適正価格で爪を買い取ってもらえる。少しでも資金の足しになればいい、とケイは思った。

では、『アビスの先駆け』については?

……結果として、採取できたのは十五株だ

エリドアが革袋から『アビスの先駆け』を取り出し、テーブルに並べていく。立派な花が咲くので勘違いしがちだが、薬効成分が多く含まれるのは花びらではなく葉っぱの方だ。採取されたのは、咲きかけのものや、蕾も花もつけていないものも含まれる。目印の花がなく、見分けの難しいこれらは、主にアイリーンが見つけ出してきた。

取り分だが……まず、ニ株は村に分けて頂きたい。この辺りの森は、我らがヴァーク村が自由に狩猟・採取できるよう、領主……ひいては、畏れ多くも公王陛下から御許しを頂いている。採取物の一割から二割は村の取り分にしてもいいよう、法で定められているんだ

そう言って、エリドアはまず、『アビスの先駆け』のうちニ株をスッと脇にずらす。眉をハの字に寄せたエリドアの言葉に商人たちが誰も反論しなかったので、彼の言っていることは正しいのだろう。

よって、残りの十三株を、探索組で公平に分けるという提案をしたい。一人頭、2.6株という計算で……

ちょっと待ってくれ。そのうちの四株、花が咲いてなかったりして見つけにくいヤツは、オレが採ってきたんだぜ?

すかさず口を挟んだのはアイリーンだ。

それに、現地に辿り着いてから、真っ先にブツを見つけたのはケイだろ? オレたちの力がなければ、採取はもっと時間がかかったし、こんなに沢山見つからなかったはずだ。もうちょっと『公平』な分け方があってもいいんじゃないか?

確かに。ごもっともだ

眉をハの字にしたまま、しかしアイリーンのツッコミに動じることもなく、エリドアは頷いた。

では、二人には村からの感謝の気持ちを込めて、本来は村全体の取り分であるこちらの二株を贈ろう。ささやかで大変申し訳ないが……

そして、先ほど取り分けた二株を、今度はケイたちの方にスッとずらす。

周囲の森から得られた恵みも、うち何割かは税として納めるんだ。この二株は、本来そちらに充てられるはずなんだが……これで勘弁して欲しい

一見、情けない表情を見せておきながらの、想像以上のふてぶてしさにケイは思わず笑いそうになった。決して他人事ではないので笑っている場合ではないのだが、周囲の商人たちもエリドア理論に笑いを噛み殺している。しかし事情が事情なだけに、ここで もう少し出せ とも言い辛い。

アイリーンは あー とか うー とか唸った挙句、苦笑しながら おっけい、それでいいぜ と投げやりに頷いた。

ありがとう

エリドアは祈りを捧げるように手を組み、深々と頭を下げて感謝の意を示す。

少し空気が緩んだところで、窓の外から琴(ハープ)の音色が聴こえてきた。ゆったりとした、心が穏やかになるような曲調だ。続いて、澄んだ青年の歌声が響く。不安がる村人たちを慰めようという、ホアキンの粋な計らいだろうか。

……しかし、五人で公平に分けるのかね?

と、珍しく、まとまりかけた話を蒸し返すようにホランドが口を挟んだ。

何か、問題が……?

怪訝な顔をするエリドアに、ホランドは少し慌てたように首を振り、

いや、五人というと、その、それにはホアキンも含むのかね? 彼は好奇心でついていっただけのように見えたんだが……今回は珍しく、何か貢献したのかなと思ってね。大概の場合、彼はついてきても何もしないから

おそらく以前にも似たようなことがあったのだろう。商人たちが何やら渋い顔、ないし苦笑しながら頷いている。

それは……

まあ……

そうだが……

この場の探索組、ケイ・アイリーン・エリドアは困ったように顔を見合わせた。

確かに、言われてみればホアキンは特に何もしていない。と言うか、言われるまでもなく、実はケイもアイリーンも、おそらくはエリドアも薄々そう感じてはいた。

……まあ、ホアキンの旦那のお陰で、道中は退屈せず済んだな

色々話したり歌ったりしてくれたし、とアイリーンが肩を竦める。

それに、採取作業も一応手伝ってくれたし……

チェカー・チェカーの剥ぎ取りを思い返しながら、ケイ。

彼ならば、今後この村の危機を歌にして広めてくれるかもしれないから……村の責任者としては、そういった方向性でも、仲良くしたいと思う

そう言って、エリドアが締めくくった。

結局、ホアキンにも公平に取り分を、という形でまとまった。

分配が決まったところで、具体的な値段の交渉に入る。ここでもエリドアが思いの外にふてぶてしい交渉術を発揮し、様々な薬草や装飾品の値段を引き合いに出した結果、ケイたちが想定していた以上の高値で取引が成立した。

ケイたちの取り分だけでも、チェカー・チェカーの爪が三十個以上、そして『アビスの先駆け』が二人合わせて七株分の利益ということで、銀貨五十枚近い値段がついた。実に、アイリーンが売り出す予定の魔道具の価格に相当する。

村側に対してはこの場で支払いがなされ、ケイたちの分はサティナに到着してから精算することになった。まだ行商の途中なので、銀貨を大量には渡せないそうだ。詐欺に合う心配もないので、ケイたちもそれに同意した。

あとは、マルクが見つけた『アビスの先駆け』を持って領主に報告へ行くだけだ

ハーブティーをすすりながら、疲れた様子でエリドアがため息をつく。

領主サマは、ウルヴァーンにいるんだっけ?

そうだな。この村に関しては……代わりにおれがまとめている形になる

アイリーンの疑問に、律儀に頷いてエリドア。

ちなみに、地理的に言えば、ヴァーク村は”公都”こと要塞都市ウルヴァーンよりも湖畔の町ユーリアのそばに位置しているわけだが、ウルヴァーンの領地に属しているため諸々の報告はそちらへ向かうことになるそうだ。

流石に 深部 の侵蝕となると、村だけで収まる問題じゃない。領主の判断がなければ対処のしようもない……

遣いを出しましょう

明日の朝にでも

これまで黙っていた村の顔役たちが、使者の人選について協議し始める。

しかし、信じてもらえるものだろうか?  深部 の侵蝕だなんて……

……昔なら、一笑に付されていたかもしれない。しかし、英雄殿と”大熊”の件があったからな。『証拠つき』で訴えれば無視できまい、と思うよ

ケイの懸念に、苦笑いしながらエリドアが答える。

一時期は、ヴァーク村じゃなくて『大熊(グランドゥルス)村』に改名しようかなんて冗談まで出てたんだが、笑い事じゃなくなってきたな……

ははは……と乾いた笑い声を上げるエリドア、反応に困る一同。

……ともあれ、『アビスの先駆け』は、それなりに貴重だからな。証拠が必要とは言え、持っていかなきゃいけないのは何だか惜しい気もする

話題を変えるケイ。

むしろ、証拠の『アビスの先駆け』だけ取られて、報告を握りつぶされたりしなきゃいいんだが……

勝手な偏見だが、ケイはウルヴァーンに住む領主とやらにはあまり良い印象を抱いていなかった。個人的に、 領民と一緒にあってこそ良い領主 という固定観念があるので、離れた都市で悠々自適に暮らすのは、仮にも一為政者の姿としてどうなのだと思わざるを得ない。

先ほど小耳に挟んだ税金の話もあり、なんとなく典型的な お貴族様 をイメージするケイは、この危機的状況にあって領主が無視を決め込む可能性を恐れた。

しかしケイが懸念を表明すると、アイリーン以外の全員が ん? と首を傾げる。

そして一拍置いて、エリドアが ああ と何か得心したようにポンッと手を打った。

そうか……そういえばケイたちは知らないのか。なに、領主に関して、そういった類の心配は無用だよ……

エリドアは、普段の朴訥な様子とは違い、フッと斜に構えたように笑った。

なにせ、領主様はおれの親父だからな

次回イチャイチャと言ったな。あれは嘘だ。

次こそイチャイチャさせたいです……。

69. 家族

前回のあらすじ

エリドア おれの親父、実は領主なんだ

親父……!?

エリドアの告白に、二人とも顔を見合わせた。

まさか、エリドアは貴族だったのか……

エリドア様、ってお呼びするべきだったかな?

心底たまげた様子のケイ、悪戯っぽい笑みで問いかけるアイリーン。エリドアは再び苦笑して、 いやいや と首を振った。

よしてくれ。親父は貴族だが、おれは平民だよ

聞けば、エリドアの父親はかつての戦役で武功を上げ、騎士に叙せられた一代限りの貴族なのだという。

エリドアはその三男坊。騎士に取り立てられるほどの英傑の子と言えど、残念ながら武の才能がなかったため、村長になる前は商家で事務仕事などをしていたそうだ。

ちなみに長男と次男は軍人―だった。一代限りの貴族は、その子息も功績を上げれば、親と同格に叙せられることもある。しかし幸か不幸か、クラウゼ公の平和な治世が続いており、戦乱の影もなく、軍隊での『出世』は見込めそうにない。

軍に見切りをつけた兄たちは、今はエリドアと共に開拓事業に携わっている、というわけだ。

……上の兄貴は、親父に元々領地として与えられていた『ラティカ村』で徴税官をやってる。ウチの村に来る前に、街道沿いの小さな村に寄っただろう? あの村だ。下の兄貴は、ここから少し離れて北の方……ウルヴァーンにもっと近い森のほとりで、別の開拓村の村長をやってるよ

この開拓事情は、騎士の父親が 子供らに何かを遺せるように と長い時間をかけて計画し、資金を集めていたものらしい。晴れて公王からの許可が出たため、数年前から本格的に始動したそうだ。

なので、村のことはおれたちに任せて、親父にはウルヴァーンの屋敷でゆっくりしてもらってるのさ。公都の生活は金がかかるが、田舎暮らしは身体に堪えるし、親父には長生きしてもらわなきゃ困るからな……

そう言うエリドアは、眼尻を下げて優しげな顔をしていた。

ちなみに、父が亡くなったあと、領地は公王の直轄領として取り込まれるとのこと。別の貴族に即下賜されるわけではなく、エリドアたちが基盤を固める時間があるため、待遇としてはそれほど悪くないようだ。

……尤も、それも村が存続できれば、の話だが……

表情をかげらせ、エリドアは重々しく言葉を締めくくった。

成る程な……

腕組みをして頷くケイは、正直 悪い領主とか疑ってすまんかった という気持ちでいっぱいだった。

それは、村が続いていかないと困るな。親父さんのためにも

全くだ。しかし今回ばかりは判断を仰ぐしかない。おれの手には余る

同情心に満ち溢れるアイリーン、エリドアはお手上げのポーズを取ってみせる。

二人としては、どう思う? やはりこのまま村を続けていくのは無謀だろうか?

再び顔を見合わせた二人は、

場合による

と、異口同音に答えた。

……と言うと?

まず、 深部(アビス) の境界線が今後どの程度の速さで動いていくか、それが一番重要だ。仮に今もなお、爆発的な速度で侵蝕が進んでいるようなら、悪いことは言わないからさっさと逃げた方がいい

ケイは真面目な顔でそう告げた。

深部 の領域に呑み込まれれば、異常な速度で雑草が育ち始め、作物がそれに負けてしまう。『アビスの先駆け』が咲き乱れれば臨時収入にはなるかもしれないが、畑が使い物にならなくなるのは農村としては致命的だ。それに加えて森からは危険な毒虫や獣が現れ、日常生活を送るのは困難を極める。

ホアキンの言っていた『古の海原の民の王国』も、おそらくそうやって滅んだのだ。

ただ、それを観測するにも時間がかかるだろう。爆発的な侵蝕、と言っても今日明日に 深部 がやってくるわけじゃない、少なくとも数年単位の話にはなるだろうから、安心して欲しい

全く安心できないんだが……

生真面目ゆえに真実味がひしひしと伝わってくるケイの言葉に、眉をハの字にして情けない顔をするエリドア。

まあまあ、そうは言っても侵蝕はもう止まってて、境界線はあそこから動かないかもしれないぜ。諦めるにはまだ早い

アイリーンが気休めのように言うが、実際その可能性がないわけでもない。エリドアもいくらか希望を取り戻したようだ。

そうだといいんだが……その場合は、現状維持でも大丈夫だろうか

いや……危険かどうかと問われれば、間違いなく危険だ。 深部 が近いということもあるが、何より 深部 に繋がる森と隣接しているのがマズい

顎を撫でながら、ケイは指摘する。

仮にここで暮らし続けるなら、それなりの対策が必要になるな

……対策、できるのか? 例えば?

森を切り拓く。 深部(アビス) の獣は、基本的に開けた場所に出たがらないから、 深部 に侵蝕される前に村の周りを更地にしてしまえばいい。そうすれば前回の”大熊(グランドゥルス)“のときのように、手負いの獣が村の方へ逃れてくる……といった事態は避けられるはずだ

ケイの『対策』は身も蓋もない力業だった。まさかの環境破壊推奨。

それは厳しい……というか、無理だな。うちの村だけでは……

流石のエリドアも、あまりの力業っぷりに閉口する。この村を切り拓くだけでも、どれだけの手間と時間がかかったことか。土木作業機械もなしに、人力で森を更地に変えてしまうなど無茶にもほどがある。

無論、ケイとてそれは承知の上だ。

だろうな……。しかし、できる限りのことはやっておいた方がいいと思う。人を雇うなり、そうでなくても一本でも多く木を切り倒すなり……

それに、ウルヴァーンの公王も他人事じゃないんだから、伝え聞けば何かしらの対策を取ろうとはするだろ

左手で肘をついたアイリーンが、右手の指でコツコツとテーブルを叩く。

公都まではそれなりに距離があると言っても、領土が 深部 に沈んじゃうかもしれないわけだし、人任せにはできないさ。絶対に調査団なり”告死鳥(プラーグ)“の魔術師なりを送ってくる。少なくとも数年は、この村が調査団の拠点になるはずだ

また、その流れで 深部 探索に一攫千金を狙う荒くれ者や冒険家たちも集まる可能性がある。村の安全を第一に考えるなら森の方へと村を拡張していき、そういった流れ者の受け入れ施設―宿屋や食堂、酒場など―を造ればいざというときは壁になる、などとアイリーンは割とえげつない考えを披露した。

あとは、……親父さんが騎士で、兄弟も軍人だったんなら、その伝手でどうにか軍にも働きかけられないかな? 駐屯地を作ったりとかさ

それは……無理だな

アイリーンの提案に、エリドアが首を振る。

陛下へ報告する他、自分たちでできるのは、せいぜい軍に所属している親父の従士団を呼び戻すことくらいだ。兄貴たちのコネは残念ながら大したものじゃない。そして、親父は成り上がり者だから別の貴族から助力を得るのは難しいし、そもそもここは親父の領地だ……陛下の特別のはからいでもない限り、自分たちで何とかするしかない

はぁ、とため息をついたエリドアは、ホランドに向き直った。

できれば、コーンウェル商会の皆様方には、今回の商品を宣伝して欲しい。ヴァーク村の近くで 深部 の貴重な素材が採れた、と……

もちろん、その程度のことで良ければ協力させてもらおう

神妙な顔でホランドが答え、他の商人たちとも頷き合う。

仮に、 深部 の素材が安定して入ってくるようなら、行商の頻度も高くなるかもしれない。もちろん今後の動向次第だが、一応、商会本部にも話だけはしておくよ

……ありがたい。ホアキンにも、今回の一件を歌ってもらえるように頼もう……

無精髭を撫でながら、エリドアは考え込んでいる。ホアキンも、今回の探索の利益を山分けしてもらえるので、嫌とは言わないだろう。

しばらくテーブルに視線を落としていたエリドアだが、ふと顔を上げ、力なくケイに笑いかけた。

ケイがウチの村にいてくれれば安心なんだが……

……悪いが、俺たちはサティナに戻ろうと思ってるんだ

ケイは困ったような顔で答える。ヴァーク村の現況には同情するが、だからと言って住み着こうとまでは思わない。ケイにもアイリーンにもやりたいことはあるのだ。苦笑したエリドアは、 はは、冗談さ と言って手を振った。

若干の後ろめたさ。

……なあホランド、今日はもうヴァーク村に留まるんだよな?

ん? ああ、ユーリアに出発するにはもう時間が遅いからね

ケイに問われ、ホランドは窓から差し込む日を見やる。まだ夏なので日が高いが、そろそろ夕方だ。

そうか。このまま何もせずに立ち去るのも申し訳ないからな……エリドア、もし良かったら斧を貸してくれないか

は? 斧?

目を瞬かせるエリドア。 ああ と頷いたケイは、腕まくりをしながら席を立つ。

せっかくの馬鹿力だからな。一本でも多く木を切り倒せと言ったのは俺なんだ、少しばかり手伝わせてもらおう

かくして、斧を貸してもらい、ケイは村外れへとやってきた。

エリドアや話を聞きつけた村の男衆、その他野次馬も一緒だ。

ケイに貸し与えられたのは、柄の長さが五十センチほどの両手用の伐採斧だ。他の男衆が持っている手斧と見比べるに、おそらく村にあるものの中で一番質が良い。

ケイは、斧の扱いは?

さり気なく、エリドアが尋ねてくる。どちらかと言うと斧をダメにされるのではないかと心配しているらしい。先ほどケイが 馬鹿力 と言ったのを気にしているようだ。

なあに、心配するな。こう見えて一時期は木こりで食ってたこともあるんだ

ケイの答えに、エリドアも周囲の野次馬も、 !? と信じられないと言わんばかりの顔をしたが、事実だ。尤もゲーム内での話だが。

DEMONDAL ではとにかく何をするにも金がかかるので、金策用のサブキャラを作るのが鉄板だった。ケイは手っ取り早く斧一本でできる木こりを。アイリーンは、最初から素早さ全振りで森の奥深くに潜り込んでは希少な素材を取ってダッシュで帰る探索者をそれぞれやっていた。

それじゃ、始めるか

斧の調子を確かめながら、森の入口の若木に歩み寄るケイ。

樹木の鑑定に自信はないが、樫の木の一種だろう。幹の太さは直径二十センチほど、手始めにはちょうどいい。

よっ、と

あまり力を込めず、遠心力を意識しながら幹に刃を振り下ろす。コォンッと乾いた音が森中に響き渡った。ケイの主観では『軽い』一撃だったが、一般的な成人男性のフルスイングほどの威力はある。

幹に対して斜めに食い込む斧、すかさず刃を抜き、今度は下から振り上げるようにして叩き込む。

最初の切り口から十センチほど下にめり込む刃。外したのではなく意図的なものだ。斜めになった切り口が直線で結べば直角になるよう、意識しながら伐採を進める。

コンッ、コンッ、コンッ、と連続する小気味良い音、二度三度とそれを繰り返すと、パキンッと上下の切り口に挟まれた部分が剥がれ落ちた。

幹の内側が深く露出する―その調子でさらにコツコツと、『掘る』ように刃で叩いていく。みるみる間に形成されていく『く』の字の切り口。

最後に、その反対側を軽く抉っていけば終わりだ。

こんなもんか

メリメリと音を立てながら倒れていく若木。かかった時間は一分ほどか。

腕はなまってないようだな、ケイ

そりゃあな

何やら偉そうに仁王立ちしているアイリーンに、ケイは苦笑してみせる。ケイの現状の身体能力さえあれば、それほど難しいことではない。そしてこの斧はなかなかの逸品と見え、重心のバランスが良く扱いやすい。これならかなり効率よく伐採できそうだ。

はええ……あっという間だ

本当に木こりやってたのか……

あんなに軽々と……あの斧けっこう重いんだけどな

満足げに頷くケイをよそに、外野はざわついている。

ようし、この調子で行くぞ

爽やかな笑みを浮かべたケイは、狩人の目で次なる『獲物』を探す。ヴァーク村の夏の伐採祭りは、まだまだ始まったばかりだ。

†††

その後、ケイは村の男衆と共に、夕暮れまでノンストップで伐採を続け、周囲の森を十メートル近く後退させることに成功した。

若木から大樹まで、ケイ単独で切り倒した木は優に五十を超える。切り株を放置して伐採に専念していたとはいえ、驚異的な記録だ。

周囲の男たちが疲れて休憩する間も、実に楽しそうに斧を振るっていたケイは、“疲れ知らず(タイアレス)”、“公国一の木こり”の名をほしいままにした。

ちなみにアイリーンは一同に飲み物を配ったあと、村に戻っていった。女衆と一緒に夕食の支度をしたそうで、夜は野外でのバーベキュー方式の豪勢なものとなった。

ケイが切り倒した木々のお陰で、薪木が大量に確保できたとのこともあり、キャンプファイヤーのような篝火まで焚かれている。ホアキンが陽気な曲を弾き語り、村人たちは飲み食いしながら騒ぎ、まるで本当の祭りのように皆が浮かれていた。将来への不安を忘れようとするかのように―

やがて、篝火も燃え尽き、夜の帳が下りてくる。

エリドアの家に招かれたケイたちは、ありがたく客室で寝台に身を横たえていた。

木の枠に布を吊り下げた、ハンモックのような形の寝台だ。この季節には涼しくて寝心地が良い。エリドアいわく、冬になれば下に毛皮なり藁なり詰め物をするとのこと。

いやー食った食った

寝転がり、お腹を撫でながらアイリーンはご満悦。夕食では、大鍋で振る舞われた夏野菜と野うさぎのシチューがいたく気に入ったらしく、モリモリ食べていた。村の薬草園で育てられた香草がふんだんに使われていて、あれは美味かったとケイも頷く。

しばし、心地の良い沈黙。

……そういえば、アイリーン。俺、そろそろ魔力の鍛錬を始めようと思うんだ

アイリーンの隣に寝転がったまま、天井を見上げてケイは言う。

お、遂にか

うむ。矢避けとか突風の魔道具を自作できるレベルにはしたい

オレも欲しい

もちろんアイリーンの分も作る

むしろアイリーンのために作る、とケイは胸の内で呟いた。

そんなわけで一つ頼みがあるんだが……

高く付くぜ

分割払いでいいか?

よかろうとも。それで?

ケルスティンの権能で、影を操る魔道具を作って欲しい

消費魔力が極端に少ない、長く使えるタイプの魔道具をリクエストする。

あー、そっか。それは確かに使えるな……めっちゃ売れそう、って思ったけど、これ多分バレたらヤバイやつだよな

だろうな

修行で命を落とす魔術師もいる、と”告死鳥”の魔術師ヴァシリーが言っていた。初心者でも命の危険なしに手軽に魔力を鍛えられる魔道具は、確実に需要があるが、だからこそ拙い。確実にお偉いさんに目をつけられる。

特に、あのウルヴァーンのハゲジジイな……

銀髪キノコ、あるいはサラサラ茶髪ロングのカツラ老人を思い出し、アイリーンが顔をしかめる。ヴァルグレン=クレムラート― 公都の魔術学院に口利きしてもいい と親切そうに彼は言っていたが、そんなことができる彼自身は何者なのか。高位の貴族かつ魔術師であることは間違いない。

そして公国は魔術師の戦術的な運用を強みとする国家だ。魔力鍛錬の魔道具が表沙汰になれば、もはや手段を選ばないかもしれない。

これは極秘にしよう、と二人は頷き合った。

まあ、その程度のことならお安い御用さ。今後のケイの活躍に期待、だな

任せてくれ

実用的な護符の類だけではなく、扇風機やドライヤーなど作ってみたいものはいくつもあるのだ。狩人一本でも食ってはいけるが、できればリッチに暮らしたい。

……それにしても、この村はどうなるかな

暮らす、という言葉から連想して、独り言のようにケイ。ごろりと寝返りを打ったアイリーンが、ケイの胸板を撫でながら うーん と唸る。

……正直さ、オレ、今回の一件って、皆が思ってるよりヤバいんじゃないかと思うんだよな

誰かに聞かれるのを恐れるように、囁くようにしてアイリーン。

……と言うと?

確かこの国ってさ、今はウルヴァーンのクラウゼ公が盟主をやってるけど、厳密に誰が王なのかは決まってるわけじゃないんだよな

アクランド連合公国。その歴史を紐解けば、元々は港湾都市キテネが国の始まりであり、現公王クラウゼは古キテネの領主の直系の子孫にあたる。都市の規模と強大な軍事力、そしてその血統こそがクラウゼ公の王威の根拠だ。

クラウゼ公って、けっこう歳いってるじゃん

そうだったな、確か

ウルヴァーンの武道大会をケイは思い出す。公王本人はかなりの老齢で、ケイは公王の孫にして次期後継者と目される、ディートリヒ公子によって直々に表彰されたのだ。

考えてもみろよ、あの公王とかいつポックリ逝ってもおかしくないだろ? となれば公国の盟主が代替わりするわけだけどさ、それで盟主の土地が 深部 に侵食されそうになってる、って他の都市の領主が聞いたらどうなると思う?

…………

アイリーンの不穏な囁きに、ケイは沈黙した。

……それ、やばくないか?

絶対ヤバイ

ケイが他都市の領主なら、確実に不安視する。不安視だけで済めばいいが、仮にキテネの領主が盟主交代などを主張しようものなら―。

そしてウルヴァーンの立場から考えてみれば、そのようなことは許容できないはず。

……拙いな、この村ごと揉み消されるんじゃないか俺たち

思わず寝台から起き上がってケイ。

オレもそれは考えた。だから、揉み消されないようにするべきだなって思ってさ

アイリーンは寝転がったまま、にやりと笑う。

そこでホアキンの旦那だよ。取り返しがつかないレベルで話を広げてもらおうぜ

……成る程

このまま、ウルヴァーンに報告するだけだと、村ごと『口封じ』される可能性もあった。しかしホアキンが各都市で話を広めてしまえば、もはや強硬策は取れなくなる。

ウルヴァーンとしては、『 深部 の侵蝕は止まった』と主張せざるを得ないだろ。事実がどうであれ、な……その証拠としてこの村も存続する必要がある。そういう意味じゃ、ヴァーク村は少なくとも半世紀くらいは安泰だと思うぜ

ううむ……

ケイは唸って再び寝転がったが、どうにも落ち着かなかった。

思ったより大事になってしまったな……

だな……

エリドアは大丈夫なんだろうか

胃痛で死んでしまったりしないだろうか、とケイはふと心配になる。

多分だけど、エリドアの旦那も大なり小なり似たようなことは考えてるんじゃないかな。親父さんは一代限りでも一応貴族なんだし、その辺うまく立ち回るだろ、多分

だといいが……

何をどう言おうと、 深部 がすぐそばまで迫っているという事実は変わらない。

この村にとって良い方向にことが運べばいいが、とケイは祈った。

しかしそれはさておき、

こう言っちゃなんだが、移住場所にサティナをチョイスしたのは正解だったかもしれないな……

うん……ぶっちゃけオレもそう思う……

二人は顔を見合わせて、はぁとため息をついた。至近距離でケイの顔を覗き込んだアイリーンが、こつんと額をぶつけてくる。

……将来的には、オレがサティナで市民権を取れればいいな

それは素敵だ

現状は、ケイがウルヴァーンの市民権を保持していることにより、住居の購入などが格段にやりやすい。金を持っていても、自由民だとこうはいかないだろう。

いやー、サティナに着いたら色々頑張らないとな

家探しに魔道具作り。ある程度基盤が固まれば市民権の獲得。コーンウェル商会を通じて、サティナの市民とも良好な関係を築く必要がある。

ケイともゆっくり暮らしたいしな……

ふふっ、微笑んだアイリーンが、ケイの首に腕を絡めてくる。

そのまま、ちゅっ、とついばむように口づけ。ケイもアイリーンを抱きしめ返したが、ハンモックのような寝台がぐらぐらと揺れて落ち着かない。

……残念ながら、寝台(コイツ)は激しい運動には適さないみたいだ

だな

唇を離して、苦笑する二人。

それに、汗臭くないか?

密着しながら気にするケイ。久々に伐採が楽しくて張り切ってしまったが、そのせいでかなり汗をかいた。一応、水で濡らした布で身体を清めたが、水浴びほど綺麗になってはいないと思う。

へーきへーき、ケイの臭いなら……

そう言ってアイリーンがケイの胸元で深呼吸したが、おもむろに顔を上げ、

って思ったけど流石にちょっとアレかな

だろう?

クックック、と二人して笑いを噛み殺す。アイリーンは冗談交じりだ。二人して汗だくになることもあるので、互いにそれほど気にならないだろう。

ま、ユーリアに行けば豪勢な宿屋もあるし

湖畔の街ユーリアは行商の中継地点として栄え、旅行者向けの施設が充実している。

久々に風呂に入ってもいいな

高くつくが、たまにはいい。

そしたら……ね?

アイリーンが妖艶に笑う。

昼間の疲れもあり、二人はそのまま、笑いながら眠りについた。

次回は村を出立して湖畔の街ユーリアへ。

70. 水流

最近なろうでは性描写の規制が厳しくなったようですね……

ところで今回は濡れ場というか、ありていに言って交尾のシーンがありますのでご注意ください。

翌朝。

ぷかぷかと羊雲の浮かぶ、気持ちの良い天気だった。

日の出とともに起き出した二人は、まずは柔軟体操をこなして身支度を整える。

元々身体が柔らかく身軽アピールをしているアイリーンはともかく、ケイまで180度の大開脚でべったりと地面に張り付いているのは異様な光景だ。付き合いの長い隊商の面々はもう慣れっこだが、ヴァーク村の住民はケイを見るたびにぎょっとしている。

ちなみに、先日からエッダも真似をして、一緒に体操をするようになった。

まだ幼い彼女ではあるが、馬車に乗りっぱなしの生活ゆえか身体が固く、ケイたちのようには開脚できない。 ふぎいぃ~……! と顔を真っ赤にして唸りながら挑戦している。無茶をしすぎないよう、その道のプロフェッショナルであるアイリーンがそれとなく見守っていた。

体操のあとは、村長屋敷でエリドアから朝食を振る舞われる。堅焼きのパンと、川魚の身が入ったスープだ。

そういえば昨日、聞きそびれたことがあるんだが……

朝食の席で、水を飲みながらエリドアが尋ねてきた。

なんだ?

深部(アビス) のことだ。森の生態系が変わっていくのはわかったが、侵食された地域の川はどうなるんだ?

エリドアの問いに、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。

……どうなんだろ。ケイは?

わからん……

ゲーム内の記憶を辿ってみても、そう言われてみれば、 深部 には大規模な川がなかった。また、元からあった河川が侵食された例もないはず。

(そうだな、 深部 といえば森という先入観があったが、地脈に応じて境界線が変化するなら、海や川も 深部 になり得るわけか……)

考えたこともなかった、とケイは顎を撫でる。おそらく DEMONDAL の場合、ゲームデザイナーがコスト削減のため、海や川ごとの特異な生態系の実装を避けたのだろう。あるいは単に面倒くさかったのか―いずれにせよ、ゲーム内にはそもそも存在すらしなかった。

川や海の 深部 については聞いたことがないな、オレたちも

アイリーンが肩を竦める。

うぅむ……だが、いくつか推測できることはある。森の変化は『アビスの先駆け』を始めとした特殊な植物を起点にしている。だが今のところ、ここらの 深部 には水生植物は存在しない……はずだ

つまり、陸地ほど劇的な変化はないはず、とケイは見解を示す。

じゃあ、川からある日突然、化け物が出てくるなんてことは……?

それはないと思う

ケイとアイリーンが異口同音に答えると、エリドアはあからさまにホッとした様子を見せた。

そうか、それは良かった。……村の近くにも川があるんだ。アリア川の分流で、小さくてもそれなりに魚が採れるし、水も飲める。この川が使い物にならなくなったら死活問題だったよ

スープの具の魚肉をスプーンで転がしながら、エリドア。ちなみにアリア川とは、村の北部ウルヴァーンの方から流れてくる大河だ。隊商が行き交う街道もアリア川に沿うようにして敷かれている。

アリア川の分流ということは、 深部 は下流にあたるわけか?

そうだな、そうなる

そうか。それなら影響は微々たるものだろう。下流の魚が巨大化することくらいはあるかもしれないが……

ケイがそう言うと、 魚がでかくなるぶんには、歓迎だな とエリドアは笑った。話によれば、子供が泳いで遊べる程度の小川らしく、いくら魚が巨大化しても限度があるとのことだった。仮に化け物レベルまで育ったところで、川が浅すぎて遡上してこれないだろう。

そのまま和やかに談笑しながら朝食を終えたケイたちは、出立の準備をする。

準備と言っても、荷物はほとんどホランドの荷馬車に載せてもらっているので、サスケやスズカの身繕いをしたり、装備を整えたり等々、楽なものだ。特に荷物から解放されて身軽になったサスケは嬉しそうにしている。

最近はサスケとスズカも仲が良いな~

そうだなぁ

並んでまぐさや野菜を食べるサスケとスズカ。かれこれ三ヶ月以上一緒に過ごしているわけだが、ケイとアイリーンのように仲が良い。

サティナに定住するなら、サスケたちが一緒に暮らせるような家が必要だな

ああ。でも探すのに苦労しそうだぜ

サスケたちにブラッシングしてあげながら、ケイとアイリーンは難しい顔をする。

人口密集地帯のサティナでは、普通の空き家でさえなかなか見つからないだろう。馬小屋付きとなるとどれほどの難易度になるか―最悪の場合、城壁の外に衛星のように点在する町や村に住むことになるかもしれない。

しかし、閉鎖的な村社会に異邦人の二人が飛び込むのは、それなりの勇気を要する。その点、サティナは都会で、知り合い―コーンウェル商会の関係者や職人のモンタン一家など―も多いので、気が楽なのだが。

(お前を手放すという選択肢はないしな)

サスケのたてがみを撫でて上げながら、ケイは思う。苦楽を共にした仲、ということもあるが、魔の森の賢者ことオズの話によると、サスケは不老の存在らしい。できれば一緒に末永く過ごしたいものだ。

ま、その辺はサティナについてから考えようぜ

アイリーンが楽観的な風を装ってそう言った。そうだな、とケイも頷く。一応ホランドにも相談はしているのだが、彼の立場でははっきりしたことは言えないらしく、サティナに着いたら商会の御曹司ユーリ少年に相談してみたらどうか、とそれとなくアドバイスを貰っている。サティナの誘拐事件を解決した関係で、有力者と顔つなぎができていたのは僥倖だった。アイリーンに感謝するしかない。

商会のツテがあれば、空き家と言わずとも貸家くらいは見つかるかもしれない。あるいはサスケとスズカを商会で預かってもらって、しばらく適当な貸家で過ごし、金を稼いでから改めて家を探すと言う手も―などと考えていたケイだが、キリがないので思考を打ち切った。

アイリーンの言う通り、サティナに着いてからでいい。どのみち詳しいリサーチが必要なのだ―今は旅を楽しもう。

そうこうしているうちに出立の時間となった。隊商の馬車がぞろぞろと動き始める。

困ったことがあったら、手紙を送ってくれ。基本的に、俺たちはサティナに滞在しているはずだから

わかった。そのときはお願いするよ……そんな機会なんて、ないことを祈るが

相変わらず、眉をハの字にして困ったような顔をするエリドア。彼と固く握手を交わしてから、ケイたちも馬上の人となった。村人総出で、(主に戦力的な意味で)惜しまれながらの出発だ。

しかし、ケイたちと一緒にいると退屈しないね

御者台、手綱を握るホランドがしみじみと言う。

私もかれこれ数十年、行商を続けてるけど、“大熊(グランドゥルス)“なんてお伽噺でしか聞いたことがなかったし、ましてや 深部 なんて……

ね。お兄ちゃんたちの周りだけお伽噺みたい

ホランドの隣に腰掛けたエッダが、うんうんと頷いている。

……俺たちのせいじゃないぞ

まるで自分たちが騒動を巻き起こしているような言い方だったので、心外だという顔をするケイ。

ええ、ええ、本当に。まさに歩く伝承ですね

が、それをよそに荷台からひょっこりと顔を出したホアキンが、琴を抱えたまま恍惚とした表情を見せる。

ぼく自身、 深部 の入口まで踏み込むことができましたし、チェカー・チェカーなんて化け物にも襲われて、無事生還するという貴重な体験ができました。稀代の英雄の二人の戦う姿を直に目にできましたし、もう、吟遊詩人冥利に尽きますよ……!

白い歯を見せてニッコリと笑ったホアキンは、 次の町でも期待してますよ! などと抜かした。

行く先々でトラブルに巻き込まれてたまるかよ!

アイリーンが冗談半分に怒ってみせる。ホアキンは素知らぬ顔、エッダとホランドもけらけらと笑っている。ケイも苦笑するしかなかった。

隊商は進む。

ヴァーク村に 深部 が迫っていたこともあり、護衛戦士たちと連携して警戒していたが、森から怪物が飛び出てくるなどということもなく、平和な旅路が続く。

南下するにつれ、少しずつ鬱蒼とした森の緑が引いていった。代わりに広がるのは見晴らしの良い、青々とした平原だ。地形から起伏が消え、馬車の足も速くなる。

畑仕事に精を出す、村とも呼べないような小さな集落や、思い出したようにぽつぽつと点在する木立が、後方へゆっくり流れていく。

ケイたちも一度は通った道だ。

そう言えばこの辺りはこんな風だったな、と感慨深く思い出す。

そして数時間後、昼前に隊商は湖畔の街ユーリアに到着しつつあった。

城壁のない、交易の中継地点として栄える街、ユーリア。隣接するシュナペイア湖の真ん中には小さな島があり、水の大精霊を祀る神殿が建てられていることから、精霊の信仰者が巡礼の旅に訪れる。

相変わらず、綺麗な湖だな

視界に遠く、青く揺れる湖面を眺めながら、ケイは感嘆の声を漏らす。大規模な街と隣接しているとは思えないような、澄んだ湖だ。

上流に大都市を擁する、モルラ川やアリア川といった大河とも運河で接続されているのに、ゴミの一つも見当たらないのは驚嘆に値する。

汚したら、水の大精霊がブチ切れるんだっけ

そうですね。二百年ほど前に、汚されていく湖に精霊が怒り狂い、ユーリアの元になった街が半分は沈んだと伝えられています

アイリーンの呟きに、ホアキンがしたり顔で答えた。

それ以来、ユーリアの住民も、川の上流に住む人々も、川を汚さないよう細心の注意を払っているんですよ。水の大精霊様は基本的に湖に眠ると言われていますが、怒れば川を遡ってでもやってくるでしょうからね

ウルヴァーンやサティナといった大都市で、神経質なまでに下水道が整備され、浄水施設まで存在する理由がこれだ。結果として、現代人でも耐えられるレベルの生活環境が維持されているので、ケイとアイリーンからすれば水の大精霊さまさまだった。

……そういえば、それで思い出したが、前にウルヴァーンに滞在していたとき、慰霊祭と称してアリア川に灯篭(ランタン)流しをやってたな。下流の湖でランタンがゴミになったら水の精霊が怒るんじゃないか、と心配したんだが、みな『ユーリアの住民が死ぬ気で回収するから問題ない』と笑ってたよ

まるでいやがらせじゃないか、とケイは苦笑して付け加えた。

まさしく、いやがらせですよ

が、ホアキンが真顔で答える。珍しく、どことなく冷たい声に、ケイも冷水を浴びせられたように真顔になった。

……と言うと?

その慰霊祭は、十年前の戦役―草原の民の反乱で亡くなった人々を弔うためのものです。実は当時、ユーリアの領主は、ウルヴァーンへの援軍を拒否したんですよ

街道の先、ユーリアの街並みを眺めながら、ホアキンは続ける。

結果として、ウルヴァーンは大きな被害を出しながらも、自力で反乱を鎮圧したわけですが、ユーリアの領主は防衛に徹して最後まで動きませんでした。ユーリアには城壁がないため、草原の民の襲撃に備えた、というのが表向きの理由ですが―

一度言葉を切り、ホアキンは囁くようにして、

―実際は何らかの裏取引があり、反乱軍を見逃す代わりに、ユーリアには手を出させないよう約定を結んだ、とまことしやかに語られています

事実、ユーリアには小規模な襲撃しかなく、ほとんど被害が出ていないのだという。

…………

ケイとアイリーンは沈黙した。思い出すのは、慰霊祭で目にした光景だ。

老いも若いも、大勢の人々が、戦没者を弔うために灯籠(ランタン)を川に流していた。暗い水面に浮かぶ光は、まさしく膨大な数だった。その光が―戦役で犠牲になった人の数だけ―毎年毎年、川を下ってユーリアに押し寄せるのだ。

これだけの人が死んだのだ、と。

そう言わんばかりに。

成る程、な……

ケイは呻いた。あのときはただ『美しい』とだけ思った光景。そこに秘められた意味を知って、ぞくりと背筋が寒くなる思いだった。アイリーンも同感らしく、引きつったような笑みを浮かべている。

とはいえ、あのランタン流しは純粋に戦没者を弔うために始まったものですし、多くの人は『それで迷惑がかかっても構わないだろう』と思っているだけですよ

ホアキンはそう言って、小さく肩を竦めた。

と、そんな話をするうちに、とうとうユーリアに到着する。

ホランド曰く、前回と同様、隊商はユーリアに丸一日滞在するとのことだ。出発は明日の昼頃になるらしい。

さて、俺たちはどうしたものかな

どうしよっかね

サスケたちの手綱を引いて歩きながら、ケイたちは大通りを歩く。

ホアキンの話を聞いて強張っていた心も、陽気に騒ぐ船乗りたちや大道芸人、商談を進める商人を眺めるうちに、ほぐれてくるようだった。まだ明るいのに街角で客を引く娼婦、せわしなく行き交う商人の小間使い、巡礼者と思しき旅装の一団。

まさに『雑踏』と呼ぶにふさわしい光景だ。

そして前回の滞在時に泊まった宿屋”GoldenGoose”亭の看板を目にしたケイたちは、吸い込まれるようにしてそちらへと歩いていった。

そこそこ高いが、馬小屋があり、清潔で風呂もある宿屋だ。サスケとスズカを預け、部屋を取る。

うーん、どうする? とりあえずメシか?

そうだな、あと風呂にも入りたいな~

食堂の椅子に座って う~ん と伸びをするアイリーン。ケイも空腹だったので昼食を注文しつつ、風呂を沸かしてもらうように頼む。風呂の準備には時間がかかるので、これでちょうど良い。

“GoldenGoose”亭の名物料理らしい湖の魚のムニエルに、じっくりと煮込まれた濃い味のポトフ、ソーセージの盛り合わせ、柔らかい白パンなどをモリモリと食べる。美味しいものを食べると口数が減ってしまうのはケイもアイリーンも一緒だ。

食後、満腹になってジュースのような葡萄酒をちびちびやっていると、風呂の用意ができたとのことでいそいそと入りにいく。

ケチらずにお湯を二人分頼んだので、同じ風呂に交代で入る必要はない。風呂は宿に隣接した小屋にあり、小さなスペースに個人用の浴槽をはめ込んだようなもので、それぞれ小さなドアと壁で仕切られている。ケイもアイリーンも別々の風呂に浸かり、旅の垢を落としてさっぱりとした気分だ。

いや~スッキリした

メシも美味い、酒も美味い、風呂も気持ちいいし何より清潔だ。文句ないな!

ほくほくした顔で部屋に戻る二人。お値段が高めの宿屋なので治安が良く、リラックスできるのがいいところだ。中庭に面した窓は開けっ放しで、厚手のカーテンが風に揺れている。

さて、このあとはどうしようか。明日の昼までゆっくりできるが

窓の枠に寄りかかって、空を見上げながらケイ。

天気もいいことだし、何なら湖にでも―

しかし、振り返りながらの言葉は途切れる。

アイリーンの唇に、口を塞がれていた。

さわさわと、涼やかな風。

……で? どうするって?

しばらくして顔を離し、いたずらっぽい笑みを浮かべるアイリーン。

さて、何だったかな

ひどい物忘れに陥ったケイは、ニヤリと笑い、少し乱暴にアイリーンをベッドに押し倒す。わざとらしく悲鳴を上げて倒れ込むアイリーンに、ケイはじわじわと迫る。

しばし、至近距離から見つめ合った二人は、くすくすと笑ってそのまま口付けた。

それからはどったんばったんの大騒ぎだった。

途中で、独り身と思しき隣の客が荒っぽく部屋から出ていき、逆に反対側の部屋はカップルだったのか、そちらでもおっ始めたが、ケイもアイリーンも気にしない。もはや誰にもはばかることはない。

そんなこんなで、お互い思う存分に楽しんでいたのだが、数戦を終えて小休止していたところで邪魔者が現れた。

コン、コンと。

何者かが部屋のドアをノックしている。

並んでベッドに寝転んで戯れていた二人は、弾かれたようにドアを見やった。

何かの間違いかと思ったが、再びドアが叩かれている。『あの……ケイさん、居ませんか?』とドア越しに少年の声。

『すいません、コーンウェル商会の使いなんですが……ケイさん、居ませんか~?』

顔を見合わせるケイとアイリーン。

なんだろう

わからん

上体を起こし胸元までシーツを引き上げるアイリーン。ベッドから起き上がったケイは、急いで下着とズボンを身につける。

どうした?

念のため、ドアを足で押さえながら少しだけ隙間を開けるケイ。これで何者かがドアに体当りしてきても、一気に開け放たれることはない。

しかし警戒するまでもなく、部屋の外にいたのは小柄な少年一人だけだった。顔に見覚えがある。確か隊商の誰かの見習いだったはずだ。

何かあったのか?

危険はなし、と判断してドアを開け放つケイ。上半身裸の筋骨隆々の青年が視界に大写しになって、少年は少し気圧されたようだったが、背後に見えるアイリーンの姿―艶かしい裸の肩が見えている―から状況を察したらしく、気まずげに赤面する。

えっと、その、申し訳ありません。お楽しみのところを……

いや、それはいいんだが……

ケイたちは、隊商の面々にどの宿を取るつもりかは伝えていなかった。コーンウェル商会はわざわざケイたちを探し出してまで使いを寄越したことになる。

ええと、実は、領主様がお二人をお呼びです

少年の言葉を理解するのに、しばしの時間を要した。

は? 領主? ……ユーリアの領主か?

そうです。実は、商会でお二人の 深部 の素材が話題になりまして、事が事だけに領主様にも 深部 の報告をしたのです。すると大いに興味を示された領主様が、ぜひ現地に赴かれたお二人の話を聞きたいとのことで……

つらつらと事情を説明する少年。ケイは豆鉄砲を食らった鳩のような顔でアイリーンを振り返ったが、アイリーンも同じような顔をしていた。

今すぐの話か?

今すぐの話です

……急いだ方が?

……その、できれば。領主様がお待ちですので……今はホランドさんが対応しているはずですが……

ケイたちを探すのにかなり時間がかかった、と小間使いの少年は付け足す。今更つべこべ言ってもどうしようもない話だった。

わかった。支度しよう。領主様はどこに?

岩山のお城です。馬で参上されても構わないとのことでした

シュナペイア湖のほとりの大きな岩山を思い出し、 あそこか…… とケイは呟く。

領主の城は岩山の頂上に位置し、かなり堅固な造りになっている。城まではきちんとした石畳の道が敷かれ、傾斜もなだらかに整えられているが、人の足で登ろうとすればそれなりに時間がかかる。馬で参上のくだりはそういうことだ。

わかった、すぐに馬で向かおう

ありがとうございます。では自分は商会にそう伝えて参ります

ほっと肩の荷が下りたような顔で、少年は飛ぶようにして去っていった。

えらいことになったな、アイリーン

だな。こっちの領主はどんなヤツなんだろう。畜生、リサーチ不足だぜ

急いで服を着ながら二人はため息をつく。先ほどのホアキンの話が真実ならば、領主一族はかなり狡猾な気質ということになるが―

部屋の鍵を閉め、身支度を整えたケイたちは急いで階下へと降りる。そのまま馬小屋へと突入。

サスケ、悪いがお前の出番―

ばんっ、と馬小屋の扉を開けたケイは、しかし硬直する。突然立ち止まったケイの背中に、 へぶっ とアイリーンがぶつかった。

ちょっと、ケイなにいきなり止まってんだよ

アイリーンが文句を言うが、ケイは固まっている。訝しんで馬小屋を覗き込んだアイリーンは―しかし、同様に固まった。

馬小屋の中では、サスケがスズカに後ろから覆いかぶさっていた。

二頭とも、 あっ という顔をしてこちらを見ている。しばし、奇妙な沈黙がその場を支配した。

…………

何も言わずに扉を閉めたケイは、困惑の表情でアイリーンを見やった。

いや、無理だろあいつ……

そもそもサスケは馬ではなく、馬に擬態した『バウザーホース』というモンスター。普通の馬であるスズカと交わったところで、繁殖が可能とは思えないのだが―

呆然と立ち尽くしていたケイたちだったが、気を取り直し、再び扉を開ける。

すると藁のベッドに上にはサスケが寝転んでおり、その隣には、何事もなかったような顔のスズカが尻尾を振りながら立っていた。

おーい。おーい、サスケ?

しかしケイが近寄ってもペシペシと顔を叩いても、サスケは目を閉じたまま、うんともすんとも言わずに寝転がり続けている。

そのままテコでも動かない構えだったので、ケイとアイリーンは珍しく、スズカに二人乗りして城へ向かう羽目になった。

サスケ つかれた

71. 召喚

前回のあらすじ

サスケ ふぅ……

大通りの人混みを抜けてから、ケイたちはスズカに跨った。

このがっしりとした体格の黒毛の雌馬は、どこぞのサスケと違い二人乗りの加重も苦にしない。ダカカッダカカッと激しく蹄の音を鳴り響かせ、きつい勾配の坂道も一気に駆け上がる。

岩山の頂上―領主の居城へと続く道は閑散としていた。呼び出されでもしなければ一般庶民には縁のない場所なので当然だ。お蔭で通行人に気を遣う必要もなく、速やかに城門まで辿り着く。

止まれ、何者だ!

が、そこでケイたちを出迎えたのは門衛たちの槍だった。単騎で突っ込んできた異邦人を警戒しているらしい。領主に呼び出された旨を伝えても彼らはまだ半信半疑の様子だったが、ケイの名は伝え聞いていたらしく、ウルヴァーンの身分証を出すと、途端に態度が軟化する。

これは失礼した

話は聞いている、こっちに来てくれ

兵士に促され、城門の内側へと招き入れられる二人。

サンクス、マイ身分証……

小さく呟きながら、ケイは胸元に身分証を仕舞い直す。今後、情勢がどう転ぶか不明なウルヴァーンではあるが、やはり身分証の効果は絶大だ。

これはこれで悪くないな、とケイは思った。

遠く離れているのでウルヴァーンからは干渉されにくく、そして他所の街では、公都の民なので無下には扱われない。いいとこ取りをしている気分だ。願わくばこれからも上手く利用していきたい。

兵士に連れられ、アイリーンと共になだらかな石畳のスロープを歩く。

ユーリア城は規模としては至って小さい。下から見上げるとかなり狭苦しく見えた。岩山の天辺に築かれた土台、そこにこじんまりと石造りの館や見張りの塔が建ち並ぶ様は、 DEMONDAL のゲーム内の『要塞村』ウルヴァーンを彷彿とさせる。

が、ひとたび城門を抜けると、そんな印象は見事に塗り替えられた。

城内の石畳や建造物には、それぞれ白系統の石材が配され、現役の軍事施設とは思えないような清潔感ある佇まい。まるで観光名所にでも足を踏み入れたかのようだった。中庭には丁寧にも木が植えられ、木陰には小洒落たベンチまで置かれている。

ユーリア城には仰々しい城壁がない。唯一、城門付近は分厚い壁に護られているが、あとは腰の高さほどの壁―いや、塀があるだけで、閉塞感とは無縁だった。地平線の彼方に雪を頂いた山脈が見えるほかは、視界を遮るものは何もない。

お陰で中庭からは眼下の景色を一望できた。

活気に満ちたユーリアの街並み、蒼い煌めきを湛えたシュナペイア湖、豆粒ほどにも見える船乗りや旅人、商人、巡礼者たちの姿―そして、それら全てを包み込むように風にそよぐ緑の草原。

崖下から吹き上げる涼風が、夏の日差しの熱を吹き散らしていく。あまりの爽やかさと心地よさに、思わず足を止めて風景を満喫してしまいそうだ。

ただし、足元には気を払う必要がある。一歩でも塀の外へと踏み出せば、そこはもう断崖絶壁だ。城をぐるりと取り囲む塀は、防衛用というより兵士のための安全柵も兼ねているのだろう。

この崖こそが天然の『城壁』、まさに難攻不落の要塞だ。領主の城ともなれば対魔術防御もしっかりと施されているはず。攻城兵器も届きにくい高さ故、航空戦力でもなければ、ちょっとやそっとのことでは陥落しなさそうだ。

ゲーム内では飛行型モンスターを飼い馴らし、騎獣として運用することも可能だったが、『こちら』の世界にそんな命知らずがいるかは謎だ。火薬(地球のそれとは違い火の精霊の影響で長時間に亘り高温で燃え続けるもの)を利用した熱気球や飛行船は存在するかもしれない。

すごい高さだな

ひょい、と壁から身を乗り出して下を覗いたアイリーンが、ぴぅっと冷やかすように口笛を吹いた。

おいおい、気をつけてくれよ。領主様の客人が落っこちるなんて冗談じゃねえ。おれの責任になっちまう

それを見咎めた案内役の年かさの兵士が、白髪混じりの眉をクイッと吊り上げる。

そ(・)れ(・)をやるならせめて帰りにしてくれ、そしたら別のヤツを案内につけてやる

はははっ。落ちたヤツはいるのか?

いたさ。昔、度胸試しで足を滑らせた阿呆がな

笑いながらケイの質問に、ふんすっと鼻で溜息をついて老兵士。

どうなった?

おれが兵士になったばかりの頃の話だ。初めて見た死体がそいつだったよ

しばらくソーセージを食う気がしなかった、と老兵士は語る。曰く色々と飛び散っていたらしい。城の北側の岩肌には、いまだ血痕がこびりついているそうだ。

そんな話をするうちに、城門の反対側、領主の館に辿り着いた。ここからは湖の中心の小島と水の大精霊の神殿がよく見える。館には、奇妙なドーム状の建造物が隣接しており、老兵士によると水の精霊を祀る礼拝堂とのこと。

館に入ってからはケイもアイリーンも護身用の短剣を預かられた。当然の処置なので粛々と従う。ケイが肌身離さず携帯している”竜鱗通し”も同様だ。弦を張らず、矢もなければ凶器たりえないとは思うのだが、武器を持たせたまま領主の前に連れて行くわけにもいくまい。一時的な措置とはいえ、唯一無二の相棒を手放すのは不安で仕方がなかったが、こればかりはどうしようもないとケイも諦めた。

エントランスホール。漆喰で塗り固められた白い壁、ふんだんに使われた大理石。床には赤色の絨毯が敷かれ、まさしく貴族の館といった風情だ。窓には透明なガラスが嵌まり、頭上にはクリスタルのシャンデリアが輝く。領主の血族か、階段の踊り場の壁には着飾った貴人たちの肖像画が飾られ、ケイたちは興味深く絵画の中の服装や装飾品を観察していた。

そのまま待たされることしばし。

階上からドタドタと足音がしたかと思うと、ホランドが顔を覗かせる。

やあ、やあ、ケイにアイリーン。良かったよ来てくれて

二人の姿を認め、あからさまにホッとした様子を見せるホランド。小間使いの少年の話によれば、今まで彼が領主の応対をしていたはずだ。確かにその心労はひとしおだろうが―バトンタッチされる側としては堪ったものではない。

来ることは来たが、その、領主様に会うのか? 俺たちは

畏れ多くて気後れしているような声を出しながら、ホランドにだけ見えるよう表情で不満を訴えるケイ。周りには召使や役人といった関係者、騎士階級と思しき帯剣した者がちらほら見かけられたので、不満げな様子を気取られないよう気を遣う。

いやいや、突然で大変申し訳なく思う

少しばかり苦い顔をしたホランドが、トタトタと階段を下りてくる。歩調に合わせて太鼓腹が揺れる揺れる。

ワリィけど礼儀作法(プロトコル)とか全然ダメだぜ。貴族のなんて知らねえぞ

ポニーテールの先をいじりながらアイリーン。あまり気が進まないときの癖だ。

大丈夫、細かいことを気になさる方ではないから……

気にしないんだ、本当に……とどこか諦め口調でホランドは言った。彼もまた被害者の一人、というわけだ。

……まあ、光栄なことだと思うさ。それで、何を話せばいいんだ?

ふぅ、と溜息をついて、アイリーンが建設的な話題に切り替える。

主に 深部 のことだ。私も聞いた限りのことは話したんだが、何というか領主様は『現場主義』でね……チェカー・チェカーや巨大化した森は、私が実際に目にしたわけではないから

へえ。じゃあオレたちが見てきたものをそのまま語ればいいわけ?

その通り。特に武勇伝を好まれる方さ

そういうのなら俺たちよりもホアキンの方が向いてるだろうに

彼なら貴族慣れしているし、何より現場にいたのに、とケイが口を挟むと、ホランドはもっともらしく頷き、お手上げのポーズを取った。

もちろん探しているとも。ただ、夕方に備えて午睡(シエスタ)してるのか、姿が見当たらないんだ……今回に限って行きつけの宿には泊まってないみたいだし、ただでさえユーリアは旅芸人が多い街だから……

ああ~……と納得の声を上げるケイにアイリーン。吟遊詩人は酒場の賑わう夕方から夜にかけてが稼ぎ時だ。今頃は休憩を取っていてもおかしくない。

ホランド、客人の用意はいいか? 閣下がお待ちだ

と、階上から癖毛の栗色の髪の男がひょっこりと顔を出す。歳は二十代後半か、気位が高そうな顔立ちで瞳は薄い緑色だ。僅かに覗き見える肩までの服装から、一目で上流階級と看て取れる。それなりに鍛えているようなので騎士かもしれない。

畏まりました、すぐに参ります

愛想の良い商人の顔をしたホランドが、笑みを浮かべて一礼する。なんとなくケイもつられて会釈したが、隣のアイリーンは腕組みを解いただけだ。

よくよく考えれば、貴人相手に会釈だけというのは中途半端でかえって失礼になるのではないか? などと不安を覚えるケイ。しかし、栗毛の騎士(っぽい男)はこちらを一瞥して ふむ と声を上げただけで、そのまま顔を引っ込めた。気分を害した様子はない。

栗毛騎士の代わりに現れた従士に連れられ、階上へ。一応ホランドもついてくるようだ、彼には間を取り持って欲しいと切に願う。ケイたちはこれまで何度か『お偉いさんらしき人』―具体的にはウルヴァーンの銀髪キノコなど―に会ったことはあるが、こういった形で正式に謁見するのは初めてだ。

階段を一歩上がるごとに、ケイは柄にもなく自分が緊張していくのを自覚した。戦場と違ってアドレナリンで誤魔化せない分、むかむかと胸焼けが続くような感覚。

歩きながら、ホランドが簡単に補足する。領主の名は『データス=メルコール=ユーリア=リックモンド』。長くて一度では憶えられないが、ケイたちが直接その名を呼ぶ機会はないだろう。細かい礼儀作法を気にする人物ではないので、常識的な範囲で敬意を持って接すれば問題はない。部屋に入ったらとりあえず跪くこと。あとは相手の指示通りに受け答えすればいい―

階段を上がって日当たりの良い広間を抜け、板張り(フローリング)の大部屋へと通される。咲き乱れる花々の模様を描く、踏むのが躊躇われるような豪奢なカーペットが敷かれ、その上には長大なダイニングテーブルが無造作に鎮座していた。どうやらここは領主一族の食堂らしい。さり気なく、テーブルの脚に施されている蔦や人の顔の装飾も恐ろしく精緻だ。自分が仕留めた大熊の毛皮とこのテーブル、どちらが高く付くだろう、などとケイは詮無きことを考えた。

それからいくつかの部屋を抜け、ようやく領主の居室まで辿り着く。ちょうど建物を部屋伝いにぐるりと一周した形だ。この手の貴族の館には廊下がほとんどなく、大部屋が連結された構造を取ることが多い。そしてどの部屋にも使用人なり役人なりが詰めているため、万が一にも怪しい人物は奥まで辿り着けないという寸法だ。

そして領主にお目にかかる前に、ダメ押しのボディチェックがあった。ケイは従士が、アイリーンはメイドが数人がかりで、凶器を持ち込んでいないか入念に検査する。そうしてようやく、謁見の間へと通された。

湖とユーリアの街が見渡せる、特等席とでも呼ぶべき眺めの一室。

窓際のソファには小太りの中年オヤジが腰掛けている。いわゆる洋梨型の肥満、体型に比して小顔なため、その姿はひどくアンバランスに映った。短く濃い黒髭にぎょろりとした大きな瞳が印象的な人物だ。隣には先ほどの栗毛騎士が護衛として控えている。ホランドがすぐさま跪いたので、ケイとアイリーンも倣って畏まった。

この男こそが、ユーリアの領主『データス』なのだろう。第一印象として、あまり気が合いそうなタイプではないな、とケイは思った。

やっと来たか。お前が『公国一の狩人』、ケイとやらだな

顎髭を撫でながら、興味深げにデータス。とりあえずその足元に視線を落とし、目を合わせないようにしていたケイは、どう答えたものかわからず、軽く頭を下げ肯定するに留めた。

そして、そちらが『正義の魔女』か……ほほう……

一転、データスはアイリーンに目をやり、さらにもしゃもしゃと顎髭を撫でる。

よい、三人とも楽にせよ

データスが鷹揚に手を振ると、ホランドがすくっと立ち上がった。一拍遅れてケイとアイリーンも続く。アイリーンの顔を真正面から捉えたデータスが、 おお……! と感嘆の声を上げた。

アイリーン、といったか。サティナでの一件は聞いておる。噂に違わぬ美貌よな

……恐縮です

にこりともしない鉄面皮で、アイリーン。お前に褒められても嬉しくねえ、という心の声が聞こえた気がした。

雪原の民の出であったな。美人の唇から紡がれれば、独特の訛りも存外美しく響こうというものよ。そうは思わんかフェルナンド?

はっ……仰る通りかと

いきなり水を向けられた栗毛騎士(フェルナンド)が、困惑混じりに首肯する。腹芸は苦手と見え、 どうでもいい という本音が透けて見えるようだ。しかしそれを気にする風もなく、うむうむ、と満足げに頷いたデータスはアイリーンに向き直り、

どうだ、アイリーンよ。吾輩の愛人にならんか? 悪いようにはせんぞ

爆弾を投じた。

はっ?

はァ?

は……?

それぞれ、呆気に取られるホランド、思わず素の声が出るアイリーン、聞き間違いかと耳を疑うケイだ。驚愕する三人をよそに、データスはソファから身を乗り出して話を続ける。

身分の関係上、夫人にするわけにはいかんが、吾輩ならばお前に何不自由なく過ごさせてやれる。旅暮らしよりもこの館の方がよほど居心地が良かろう。お前が望むならば宝石でも魔術書でも、好きなものを取らせようではないか

欲望の光を隠しもせず、ぎらぎらとした目でデータス。その口上は止まらない。

お前は美しい。そのような流浪の身で、襤褸を身に纏っているようではあまりに勿体ない。もっと美しく着飾り、豊かに過ごす権利がお前にはある。……心配せずとも、仮に身ごもっても捨てるような真似はせぬぞ。流石に後継ぎの候補にするわけにはいかんが、男ならば騎士程度には取り立てられるし、女ならば婚姻を世話しよう。どうだ? 悪い話ではなかろう?

ぽかんと口を開けて絶句していたアイリーンは、類まれなる精神力により、辛うじて引き攣った愛想笑いを浮かべることに成功した。

既に夫を持つ身ですので、そういったお話は……

なんと、結婚しておったのか

データスは大げさに驚いてみせる。ここに来て冗談ではないらしいと察したケイは、顔が険しい。

それならば、一晩だけでもどうだ? 報酬は弾むぞ?

それでもなお諦めずに食い下がるデータス。ぐへへへ、という擬音がぴったりな笑顔だ。ケイの顔がさらに険しくなった。

いえ、夫に悪いので流石に……

ちらちらケイの方を伺いながらアイリーンはじりじりと後退る。

ふはは、なぁに、夫には秘密にすればよかろう。『晩餐会に招待された』とでも言えばよい。もちろん、それが嘘にならぬよう、もてなしはしようぞ

ソファから腰を浮かせかけて手をワキワキとさせるデータスだが、この発言に一同は ん? と首を傾げた。

いや、秘密と言っても……

何言ってんだこいつと言わんばかりにケイとホランドを交互に見やるアイリーン。ホランドも困惑を隠せない様子で、ケイと顔を見合わせる。

……どうした?

何やら妙な雰囲気を漂わせる三人に流石のデータスも違和感を覚えたか、訝しむようにこちらを見てきたので、ケイは無礼を承知で不機嫌なまま答えた。

俺の妻だ

今度はデータスが絶句した。

……おい、どういうことだホランド、聞いとらんぞ!

ええっ、申し上げておりませんでしたか?!

データスに噛みつかれ、驚愕するホランド。

たわけが! 知っておったら誰がこんな真似をするか! お前から伝え聞いたのは、『隊商に『大熊殺し』と『正義の魔女』がいること』、『その二人が 深部(アビス) に踏み込んだこと』、この二点だけだ! 噂に名高い英雄二人がよりにもよって結婚しているなどと、一言も聞いとらんわ!!

……閣下の仰る通りだ、ホランド。私も聞いた覚えはない

口角泡を飛ばし怒鳴るデータス、その隣のフェルナンドも呆れたような顔で告げる。しばし目を閉じてホランドは考え込み、やがて頭を抱えた。

……言われてみれば、確かにお伝えしておりませんでした。大変申し訳ありません! 私どもにはあまりにも当然の事実でしたが故……

瞬速で土下座をキメるホランド。しかしデータスの怒りは収まらない。

何が『夫には秘密に』だ、たわけが!! 当の夫を前にしてこの物言い、ただの大間抜けではないか!! どうしてくれる!!

下手を打ったことをよほど恥じているらしく、データスは顔を紅潮させて座ったまま地団駄を踏む。そしてぎりぎりと歯ぎしりしたかと思うと、シッシッとホランドを追い払うように手を振った。

ええい、もう良い! 下がれ、二度と顔を見せるでないわ!!

ああ、それでしたら、私めもサティナの本部に移る予定ですので、今回の謁見が最後になりますかと……

なにィ!? 行商をやめるのか?!

控えめなホランドの申告に、一瞬、虚をつかれたように目を見開いたデータスは再び顔を真っ赤にして、

馬鹿者!! そんな大事なことをなぜもっと早く言わん、別れの品の一つも用意できんではないか!!

よくわからないキレ方をしたデータスが、そのままソファ脇のテーブルから呼び鈴を手に取りチリンチリンと鳴らす。すぐさま隣の部屋から飛んできた召使に何やら耳打ちするデータス。頷いて一礼した召使は、またぞろ疾風のように退室していった。

全く、ホランド、お前というやつは。そんな気の抜けた性分でよくもまぁ隊商の長が務まるものだな!

ははっ、これはお手厳しい……

腕組みをしてフンッと鼻を鳴らすデータスに、平伏したままのホランドは苦笑い。

思えば長い付き合いだったな……ああもうよい、楽にせよ

そして一人、しみじみとし始める。二転三転する場の空気に、ケイとアイリーンは顔を見合わせて肩を竦めた。

そうだ……それに、ケイといったか

何ともきまり悪そうに、データスがケイに向き直る。

その……良い妻を持ったな。羨ましいわ

それは……ありがとうございます

どう答えればいいんだコレ、と思いながらもケイは頷いた。

仮に、仮にの話だが……もし妻を一晩貸せと言ったら、どうする?

が、話はまだ終わっていない。ソファにゆったりと座り直したデータスが下卑た笑みで尋ねてくる。データスの斜め後ろで、フェルナンドが小さく肩を竦めるのをケイは見逃さなかった。まだ諦めてないのかこのオヤジ、と呆れ半分にちらりとホランドの様子を窺うと、彼も同様にあからさまな呆れを覗かせていたので、これは深刻な事態ではないと判断する。

もちろん、連れて帰る

ぶっきらぼうに、ケイは答えた。

ほほう。吾輩が城門を閉じよと命じてもか?

帰り道を塞ぐというわけだ。しかしケイは動じなかった。

別に構わない。幸いこの城は、飛び降りる場所には事欠かないからな。……妻と一緒に飛んで帰るさ

胸の奥、力の源からフッと何かが抜き取られる感覚。

ふわりと、窓の隙間から不自然な風が吹き込んだ。不敵に笑うケイの背後、データスは、羽衣を纏った乙女の姿を幻視する―

……なんと、魔術師か

さしもの領主もこれには驚き、目を見開いた。傍らのフェルナンドが反射的に剣の柄に手を置いたが、危険は少ないと判断したのか、ゆっくりと直立の姿勢に戻る。

おいホランド、聞いとらんぞ

私めも驚いております

眉を吊り上げるデータス、ホランドも本当にびっくりしたような顔をしている。

はて、とケイは首を傾げたが、よくよく考えてみれば、ホランドの前でケイが魔術の技能を披露したのはこれが初めてだ。精霊語(エスペラント)を含む魔術の知識については察していたかもしれないが、風の精霊(シーヴ)と契約していることまでは知らなかったのだろう。

吾輩は魔術には疎いので何とも言えんが……まさか風の精霊か? その若さで元素の大精霊と契約し、なおかつ崖から飛び降りても平気なほどの術を行使できるとは、俄には信じがたいが……

目を細め、顎髭を撫でながら唸るデータスに、ケイは内心ドキッとした。実のところ虚勢を張っているのだ。崖からの紐なしバンジージャンプは、手持ちの宝石と魔除けの護符(タリスマン)を全て触媒に捧げてもなお、今のケイの魔力で成立するか怪しい大技。やってみろと言われればかなり厳しい。

……しかし、ふははっ、信じがたいがそれでこその『英雄』か。まさに、お前のような『例外』が、そう呼ばれるのであろうな……

が、勝手に納得したデータスは、お手上げのポーズを取って疲れたようにソファに身を預ける。

……普通ならば、お前のように有望な魔術師は放っておかんのだが。どうだ? 吾輩の下で働いてみぬか?

残念だが、遠慮する

であろうなぁ

ダメ元の勧誘をすげなく断るケイ。データスは失望する風もなく溜息をついた。彼としてはむしろ、ケイが喜び勇んで承諾した場合の方が困るのではなかろうか。

閣下、正義の魔女も魔術師として勧誘すれば穏便に済んだのでは?

と、フェルナンドが横から口を挟む。

……しまった、その手があったか! 雇ってからお手つきにすれば……!

今更のように悔しがり始めるデータス。もはや怒る気力すら湧かないケイは、アイリーンと顔を見合わせて苦笑するほかなかった。

†††

その後、申し訳程度に 深部 での出来事を話してから、ケイたちは解放された。

ホランドは記念と称して高級葡萄酒の小樽を、ケイたちは情報料として金一封をそれぞれ与えられた(大した額ではなかった)。英雄たちのこれからの更なる活躍を祈る、などと、ありがたくも投げやりな言葉とともに送り出される。

あれはあれで、悪い御方じゃないんだ

坂道を下りながら、ホランドが呟くように言った。

好色であけすけなところがあるのが玉に瑕だが……気位が高い貴族よりも、よほど親しみがあって、付き合いやすい

……まあ、わからないでもないぜ

頭の後ろで手を組んだアイリーンが、溜息混じりに首肯する。

ユーリアの街は栄えてるしな。少なくとも領主としては有能なんだろうな、とはオレも思ってたさ

街は良くも悪くも、領主の鏡というからね……

その結果が交易と色街、か。金が取り柄のスケベオヤジなのは確かだな

スズカの手綱を引きながらフンッと鼻を鳴らすケイ。いつになく毒のある口ぶりに、思わず二人が苦笑した。

……しかし、それにしてもケイが魔術師だとは知らなかったよ……

言ってなかったか?

聞いてないよ。全く本当にお伽噺の世界さ、“大熊(グランドゥルス)“を弓矢の一撃で仕留める魔術師だなんて滅茶苦茶だ!

途中から、ホランドの言葉は悲鳴のようだった。

そうは言っても、アイリーンだって白兵戦に強い魔術師だぞ。弓矢が得意な魔術師がいても不思議じゃない

いや、君、そういう問題じゃなくてね……

それに俺の魔術技能は、アイリーンに比べれば大したことはない

実は大見得を切ったんだ、とケイは肩を竦めてみせる。

……それじゃあ、さっきの飛び降りるってのは……?

強がりみたいなもんだ

あっけらかんとケイがそう明かすと、ホランドは オーララー と高原の民風(ア・ラ・フランセ)に天を仰いだ。

領主様が変な気を起こさなくてよかったよ……

まあ、一応、切り札も用意していたがな。もし本気で手を出してくるようだったら、俺もそれなりに脅すつもりだったさ

へえ、どうするつもりだったんだ、ケイ?

スズカのたてがみを撫でていたアイリーンが、興味深げに尋ねてくる。

簡単だ。『突風を起こして、ユーリアの街の道端のゴミを全部湖に放り込んでやる』と言うつもりだった

ニヤリと笑って、ケイ。それは現状、ケイの魔力と手持ちの触媒によって行使可能な術の中でも、最も現実味があるものだった。

そしてユーリアは、はるか昔、シュナペイア湖を汚しすぎたせいで水の大精霊の怒りを買い、街の大部分を沈められた過去を持つ―

弾かれたように、ホランドが眼下を見やった。

宿場や色街が密集する、猥雑としたユーリアの街並みを―

……本当に、領主様が変な気を起こさなくてよかった……

思わず、額の冷や汗を拭うホランド。同時に、あの場でケイがそれを口走らなくてよかった、とも思う。データスは貴族としては驚異的なまでに寛容な領主だが、街に危害を加える者には容赦しない。そしてケイに『それ』が可能であると知れば、全力で然るべき処置を講じただろう。

万が一の奥の手、さ。俺だって、今の発言がどれだけ危険(リスキー)かはわかってるつもりだ

ホランドがあまりにビビっているので、ケイはおどけたように付け足す。限定的とは言え、街を滅ぼす力を持っているのだ。暗殺されるのは御免だった。

本当に万が一のときは、『一度だけ助けてもらえる指輪』を使ってオズを呼び出すという手もあるわけだが―

と、そんな話をしながら歩いていると、坂道の下に新たな人影。

見れば、コーンウェル商会の小間使いと、話題の吟遊詩人ことホアキンが、えっちらほっちらと坂道を上がってくるところだった。

やあ、皆さんお揃いで

こちらに気づいたホアキンが手を振ってくる。

ホアキンもお呼ばれか?

クイッ、と背後の城を親指で示しながらアイリーン。ホアキンが苦笑して頷いた。

ええ、随分と寝坊してしまったようで……皆さんはもうお帰りなんですね。どうでしたか? ユーリアの領主様との謁見は

うーん……

ニコニコと朗らかに笑うホアキンを前に、一同は顔を見合わせる。

……まあ、なんというか、ホアキンは男で良かったな。美女だったらどうなったことかわからないぞ

渋い顔でケイがコメントすると、一瞬きょとんとしてから破顔するホアキン。

ええ、ええ、そうでしょうね。データス様は女好きで有名ですし……ああ、成る程、そういうことですか

アイリーンとケイを交互に見やり、何かを察したホアキンが面白可笑しそうに目尻を下げる。

ぜひ今度、何が起きたのか教えてください。残念ながら今は急いでますので……

ああ、早ければ明日にでも教えるぜ

手をひらひらとさせるアイリーン。ホアキンは微笑んで一礼してから、急ぎ足で坂道を登っていった。

その後ホランドとも別れ、ケイたちは宿屋”GoldenGoose”亭に帰還する。思ったより早く帰ってこれたとは言っても、日は既に傾きかけていた。今頃はホアキンが一曲披露しているのだろうか。自分たちの武勇伝を聞かされたとき、あの領主はどんな顔をするかな、と考えると可笑しかった。

あ~疲れた……

部屋に入るなり、アイリーンがベッドにダイブする。手土産の金一封の革袋をサイドテーブルに放り投げ、ケイもアイリーンの隣にどさりと倒れ込んだ。

全くだ……しかし無事帰ってこれてよかった

アイリーンの頬を、そっと指の背で撫でながら、ケイ。

ホントだぜ。いやもう、子供がうんたらとか言い出したときは……ゾッとした。あ~もう思い出したくもない!

頭を抱えてジタバタと悶えるアイリーン。確かにアレはキツかったろうな、とケイも心の底から同情した。

俺もたまげたよ。一発ぶん殴ってやろうかと思ったくらいだ

ハハッ。ケイ、あんときスゲェ顔してたもんな

……そうか?

ぺたりと自分の頬に手を当てて目を瞬かせるケイに、アイリーンはニヤリと楽しげに口の端を吊り上げる。

そうとも。隣でホランドの旦那がヒヤヒヤしてたぜ

ほう。そいつは悪いことをしたな

悪びれる風もなく真面目腐って言うケイに、アイリーンはくすくすと笑った。

しかしホランドの旦那が、シーヴを知らなかったのは傑作だったな

思えば、意識的に見せたことはなかった。知らないのも当然か……

ホランドとはそれなりの付き合いになるが、お互いにまだまだ知らない部分も多いということだ。例えば、ホランドの娘エッダは肌の色からして明らかに養女だが、その辺の事情も詳しく聞いたことはない。

サティナについて落ち着いたら、旦那とも親睦を深めないとなー

魔道具の件がある。否が応でもそうなるだろうさ

そうだな。…………リリーは元気かな

ぽつりと、アイリーンが心配そうに呟いた。

リリー。サティナで麻薬密売組織に誘拐され、アイリーンに助け出された少女。別れ際まで寂しそうだったのが、強く印象に残っている。信じていた人に裏切られて、心に深い傷を負っていた風もあった。今頃はどうしているのだろう― きっと元気さ とは、無責任に口に出すことが、ケイにはできなかった。

…………

無言で、アイリーンが手を伸ばし、おもむろにケイの右腕を抱きかかえた。

少しだけ目を細めて、アイリーンがこちらを見てくる。

ケイはその目が好きだ。こちらを探るような目。今、アイリーンは何を考えているのだろうと、ケイはそれを知りたくて堪らなくなる。

しばし二人で見つめ合ってみた。でも、結局、何もわからない。

わからなかったので、ケイはアイリーンの額に口付けた。

口元をほころばせたアイリーンが、ずりずりとベッドの上に這い、少しだけケイよりも高く目線を置いて、張り合うように額にキスしてくる。

すかさずケイも上へ、アイリーンも負けじとさらに上へ―終いには二人してベッドの枕元に頭をぶつけ、下らないのに可笑しくて笑ってしまう。

アイリーンがケイにのしかかってきたり、仕返しでケイがアイリーンをひっくり返したり、決して広くはないベッドの上でしばし、小犬のようにじゃれ合った。

不意に、二人の手が絡まる。指が絡まる。握り締める。

少しだけ、汗ばんでいるように感じた。鼓動も感じる。にぎにぎと、相手を確かめるように変わる力加減も。その全てが愛おしい。

動きを止めて、二人に視線がぶつかった。また、お互いを探るような。

……今、なに考えてるかわかる?

身体を投げ出したアイリーンは、どこか挑発的だ。

ケイは答えない。その代わり、しっかりと口付けた。

熱を感じる、鼻息がくすぐったい。

水気のある音を立てて唇が離れると、彼女はいたずらっぽく笑う。

……正解

今度は、わかった。

それが嬉しくて笑う。

二人は再び、ひとつになった。

エンッ!(イチャイチャの反動で作者が爆発する音)

↑ちなみに、ユーリア城のイメージです。参考資料のところにも置いてますが。

それと、また新たに、御二方より朱弓にレビューを頂きました。

普段から皆様のご感想も楽しみに拝見させて頂いておりますが、レビューを頂くのもまた格別に嬉しいものです!

Daiouika様、九傷様、ありがとうございました!!

次回はぼちぼちサティナに帰還予定です。イチャイチャも継続させる所存!(満身創痍)

72. 展望

前回のあらすじ

領主 我が愛人となれ、アイリーン!!

ケイ 断る!!

領主 !?

明くる日。

天気はあいにくの曇りだった。

ぎらぎらとした日差しが遮られ、これはこれで過ごしやすい。

湖面を走る風はむしろ肌寒いほどで、夏の終わりを予感させる―

正午過ぎ、隊商はユーリアを出発した。

晴天では蒼く澄んでいるシュナペイア湖も、今日ばかりは灰色に濁って見える。これでしばらく見納めなので残念といえば残念だ。それに対し、隊商の面々は 深部(アビス) の素材―チェカー・チェカーの爪や『アビスの先駆け』など―を高値で売りさばけたらしく、すこぶる機嫌が良い。街道を進む馬車の列はいつもに増して、賑々しい雰囲気を漂わせていた。

ケイとアイリーンは相変わらず、仲良く並んで馬の背に揺られている。一時は気まずさで寝込んでいたサスケも、今日は何食わぬ顔でパッカパッカと調子よく蹄の音を響かせていた。気持ち、スズカとの距離が縮まっているようだ。

ケイが意味もなくわしゃわしゃとたてがみを撫でると、 なにかね? と澄まし顔でサスケは振り返り、フイッと前方に向き直った。大人になった―のだろうか。

―で、その後、どうだった領主様は?

深部(アビス) で見聞きした怪物、植生についての歌を披露しました。あとはケイとアイリーンの武勇伝を少々……

ケイが話を振ると、ホランドの馬車の荷台、ホアキンがほがらかに答える。

深部 の歌には大いに興味を惹かれた様子でしたが、武勇伝に関しては、手応えがイマイチでしたね。何か粗相をしたかと心配しましたが、どうやら違うようで

ははっ、だろうな

アイリーンが苦笑する。ホアキンは 詳しく聞かせてくれるんでしょう? と言わんばかりに、おどけて表情を作ってみせた。

事の顛末を話す。領主がアイリーンを愛人にしようとしたこと。ホランドの説明不足でケイとアイリーンの仲を知らなかったこと。そしてケイの眼前で 夫には内緒にすればよかろうグヘヘ などと言い大恥をかいたこと。

まだ幼いエッダも話を聞いているので、かなりぼかして話したが、ホアキンには問題なく伝わったようだ。

なにそれ~領主様おかしい!

『領主が秘密でアイリーンを恋人にしようとした』と解釈したらしいエッダがけらけらと笑う横で、忍び笑いをもらすホアキン。荷馬車の手綱を握るホランドも同様だ。ケイとアイリーンもほほえましい気分でピュアなエッダを見守っていた。

まあなんにせよ、愉快な領主様だった

もう一度会いたいかと問われれば、謎だけどな

揃って肩を竦めるケイとアイリーンに、ホランドたちも声を上げて笑う。

それからは平和な旅路が続いた。

ユーリアからサティナへ。これまでの軌跡をなぞるように、サン=アンジェ街道を南下していく。途中、見覚えのある村や宿場町を訪ねるたび、記憶が蘇った。ああ、ここではアレクセイと一悶着あった。ここに来たときは、転移に関してまだ気持ちの整理がついていなかった、等々……

野を越え、川を越え、二日も進めば、やがて視界の果てに城郭都市サティナが見えてくる。草原の緑の海にぽつんと浮かぶような街の影。

やあ、サティナだ。そろそろ到着だな

ケイの目でようやくってことは、まだまだ時間がかかるな

ぬかせ

こつん、とケイが拳でアイリーンの頭をつつくと、アイリーンはころころと声を上げて笑う。

が、その言葉通り、隊商がサティナに着く頃には夕方になっていた。

もはや懐かしさすら覚える重厚な石壁。サティナに滞在していたのはわずか数日に過ぎなかったが、誘拐事件に巻き込まれたこともあり、色々と印象的な街だった。

相変わらず城門前には荷物検査の長蛇の列がある。“正義の魔女”が麻薬組織を壊滅させたにもかかわらず、なお検査の必要があるということは―根(・)絶(・)はできなかった、ということだろう。

このまま日が暮れれば城門が閉じられ、サティナを目前に野営するはめになる。ホランドは近場の宿場町まで引き返すことを検討していたが、幸い荷物検査は思いの外スムーズに進み―以前に比べればかなり簡易的な検査になっていた―隊商は無事、日没前には街に入ることができた。

その日はもう遅いのでそのまま解散し、ケイたちは宿屋で一泊。

『今後』についての具体的な話し合いの場が持たれたのは、その翌日のことだ―

†††

コーンウェル商会、本部の一室。

ようやく落ち着いて話ができるね

テーブルをはさんでケイとアイリーンに向かい合い、ソファに腰掛けたホランドが、ぽんぽんと太鼓腹を叩く。

上品な部屋だ。さすがは商会本部とあって、商談用の小さな個室でも装飾に抜かりがない。シックな緑色の絨毯、オーク材のつややかなローテーブル、窓には透明度の高いガラスがはめられ、洒落た青と白の花瓶には生花が飾られている。ソファに置かれているクッションも、のどかな農村の風景を描いたクロスステッチは見事なものだ。

サティナのコーンウェル商会本部を訪ねるのは、これが初めてではない。アイリーンが誘拐事件を解決した際には、商会の御曹司ユーリ少年と面談する機会があった。事件に巻き込まれたリリーに好意を抱いていたらしい彼は、無事リリーを助け出してくれたアイリーンにいたく感謝していたのだった。

今日はユーリ少年の姿はないようだが、また会う機会もあるだろう。

旦那と組めるのは気楽で助かるぜ

ソファに身を預けたアイリーンは、我が家のようにくつろいでいる。その隣、ケイも完全に肩の力を抜いていた。大自然も悪くはないが、突然野盗やモンスターに襲われることのない町中は、やはり落ち着くものだ。

わたしも同じ気持ちだよ。とりあえず、当座の予算は確保できそうだから、何か要望があったら伝えて欲しい

ホクホク顔のホランドがひげを撫でつけながら答えた。ホランドもケイたちと同様、サティナへの移住を望んでいる。アイリーン印の魔道具という確実に売れる商品を足場に、商会内での立場を高めていきたいと考えているようだ。

んじゃあ、まず旦那に相談があるんだ

身を乗り出したアイリーンが、早速本題に入る。

まず商品について、例の”警報機(アラーム)“なんだけどさ

うん

やめようと思う

はっ?

突然のアイリーンの宣言に、ホランドが目を剥いた。

それはどういう……?

もちろん、魔道具そのものをやめるって意味じゃないぜ。別の商品を主力にするって意味だ

チッチッチと指を振りながらアイリーン。ホランドはあからさまにホッとした様子で、胸をなでおろした。

ああ、ああ、なるほど。気が変わったのかと思って驚いたよ。……しかし、“警報機”は、やはりその、『難しい』のかな

具体的に説明するまでもなく、ホランドも問題点については認識しているようだ。

なにせ命に関わるシロモノだからな

改めて腕組みしたアイリーンが、渋い顔をする。

ケイとも相談したんだけど、『初めての』商売には向いてないかなって

……俺たち自身、二人旅を通して”警報機(アレ)“の便利さが身に沁みている。だからこそ他の旅人に使ってもらえれば、きっと便利だし助かるだろうという考えがあったんだが、客からすれば得体の知れない魔道具だ。よほど評判が良くない限り、命を預ける気にはならないだろう

言葉を引き継いで、ケイ。

アイリーン印の”警報機(アラーム)“は、旅の道中において、夜番の負担を劇的に軽減する革命的な魔道具だ。完成した暁には誰でも手軽に、水晶の小さな塊を捧げるだけで、敵対者に反応する影の結界を張れるようになる。

結界の範囲内に敵―人間の他、獣も含む―が踏み込めば、自動的に影で威嚇し、さらにベルを鳴らして注意を喚起する優れもの。本来ならば最大の警戒心をもって暗闇に目を凝らさなければならないところを、“警報機”のそばでうたた寝をしていても夜番を務められる。ケイたちも大いに助けられたものだ。

が、翻って、二人がそこまで安心できたのは、『“警報機”は確実に作動する』ことを知っていたからに他ならない。影の領域でケルスティンを欺くのはほぼ不可能であり、“警報機”そのものの機械的信頼性や術式の仕様も全て把握している。ゆえに、『そうそう動作不良は起きない』という確信があるのだ。

―しかし、客はそうもいかないだろう。特に魔道具の中身は完全にブラックボックスなので、魔術師相手ならともかく、一般人相手にはいくら説明しても限界がある。

そして何より、“警報機”を最大限に活用できる層―少人数で動かざるを得ないような旅人たちの大部分は、残念ながら懐に余裕がない。“警報機”はそれなりに高価な魔道具なので、コンセプトからして矛盾を抱えているのだ。

最初は、ホアキンの旦那に試作品を預けて、宣伝してもらおうかと考えていたんけどさ。そこまでして”警報機”に拘る必要もないって気づいたんだ。手始めに、もっとお手軽な、責任のない魔道具を作っていこうと思う

というと?

“投影機(プロジェクター)“だ

アイリーンは腰のポーチから、するりと丸めた羊皮紙を抜き取った。実は昨夜のうちに、勢いで簡単な設計図を仕上げてしまったのだ。宿屋の狭い机の上、ロウソクの薄明を頼っての作業は一苦労だったが。

“警報機”に比べればかなり単純な魔道具さ。あらかじめ登録しておいた図柄を影絵にして、壁やらスクリーンやらに投影する―ホアキンの旦那が村で演奏していたとき、ケルスティンが即興で物語を絵にしてただろ? あれの簡易版みたいなヤツ

ほほーう! それは面白そうだ

ホランドは髭を撫でながら興味を示した。

隊商の皆もわたしも、あの影絵には随分楽しませてもらったからね。商品化できるなら素晴らしいし、飛ぶように売れると思うよ。多少割高でもね

なにせ『正義の魔女』の魔導の真骨頂だ。防犯グッズよりよほど売りやすいし、好事家が必ず飛びつくはず、とホランドは太鼓判を押した。

そいつは良かった。個人的には、ホアキンの旦那みたいに、吟遊詩人や楽団と一緒に運用すると真価を発揮する魔道具だと思うぜ。流石に、ケルスティンが直接やるような臨機応変かつダイナミックな演出はできないし、仮に絵を動かしたところで単調なものになるだろうからな

なるほど、なるほど。……それならば場所と楽団を用意して、見世物をやるのもいいかもしれないね。あるいは、劇場で演出に使うとか……

そいつは名案だ! 映画館(ムービーシアター)ってワケだ

Movie?

あー……動く絵のことだよ。オレたちの故郷にも似たようなものがあって、ムービーシアターって呼んでたんだ。まあ、『シャドウシアター』でもいいかな?

虚空を睨み、何やらにんまりと笑うアイリーン。映画館ならぬ『影画館』構想に思いを馳せているらしい。アイリーンが楽しそうなので大変良いことだ、とその隣でケイもニコニコだった。

あと、“警報機”と”投影機”の応用で、夜間限定の通信魔道具も考えてるんだけど、どうかな旦那?

勢いづいたアイリーンが、身を乗り出してさらにアイディアを披露する。

指定した受信機に文章を送信、受信機は文章を受け取ったらベルを鳴らして、一定時間影絵で文章を表示する、みたいな魔道具。伝書鴉(ホーミングクロウ)の手紙と違って文章が形で残らないし、夜しか使えないって弱点はあるけど、どんな距離でも一瞬で届くからかなり需要はあるんじゃないか?

それは……確かに素晴らしい商品になりそうだけど、少し『怖い』ね

ノリノリのアイリーンに対し、一転、ホランドは慎重だった。

個人で使う分には構わないだろうけど、商品として大々的に売り出すのは……ウチの商会でも、流石に及び腰になるんじゃないかな

なんでだ?

既存の伝書鴉と役割がかぶりすぎている。ひょっとしたら”告死鳥(プラーグ)“の魔術師たちを敵に回すかもしれない……

ホランドいわく、貴族に雇われている”告死鳥”の魔術師たちにはゆるやかな横のつながりがあるのだという。いわゆる同業組合(ギルド)のように高度に組織化されているわけではないが、『共通の懸案』に協力して当たる程度の連携力はあるそうだ。そして貴族と直接のつながりがあるだけに、敵に回すと恐ろしく厄介な相手になるらしい。

既得権益と衝突しかねないとあっては、流石のアイリーンも閉口する。

やめとこう。そこまでして売りたいわけでもないし

その方が無難だとは思うよ、わたしとしてはね

緊急性が高い通信はオレの魔道具で、普通の手紙は伝書鴉で、みたいな住み分けもできる気はするんだけどなぁ

あ~……これはあくまでも噂だけど

それでも渋るアイリーンに、ホランドは肩をすくめ、

そういう『緊急時の連絡』の必要性があるやんごとなき方々は、それぞれ自前で魔術師を雇って、各々の手段を用意しているそうだよ。まだそこに食い込む余地があるかは謎だし、何より機密性の高い案件を貴族様と組んでやろうとすると、その、面倒なことが色々と―

オーライ、やめよう! よくわかった! この話はナシだ

天を仰ぎながら手をひらひらとさせるアイリーン。厄介事はうんざりと言わんばかりの顔だ。

まあ、何はともあれ、まずは”投影機”だろう。飛ぶように売れて他のことをやる余裕なんてなくなるかもしれないぞ

ケイがおどけた風に言うと、アイリーンもホランドも たしかに と苦笑した。

それじゃあ、とりあえずこれが作成に必要な材料のリストな

ふむ……。意外と安くつきそうだね

気分を切り替えたアイリーンが、羊皮紙をホランドに見せながらさらに具体的に話を詰め始める。

投影する図柄を増やすなら、もうちょっと高くなる。現状だと、想定してる図柄は五枚までだ。図柄の種類を追加するなら、触媒のラブラドライトと水晶がさらに必要になるだろうな

ほうほう……このぐらいの素材なら、明後日までには揃えられるだろう。仮に、明後日に全ての材料を渡せたら、試作品はいつ頃できるかな?

作業に集中できるなら一日でできる。ただ、静かで落ち着ける環境が欲しいな。宿屋だとちょっとばかし、その……わかるだろ?

アイリーンが小さくお手上げのポーズを取ると、ホランドは苦笑しながら頷いた。

少なくとも、魔術師の研究所に向いていないだろうね。そうだね、静かな環境か……街中で、となるとすぐの話にはならないかな

……やっぱ、難しいか

今後の将来的な計画―家についても話を切り出そうと思っていたのだろう、アイリーンの眉が少しばかり下がった。

いや、コーンウェル商会のツテをもってすれば、物件の一つや二つは容易く用意できるよ。なに、安請け合いじゃないさ、君らのためなら『上の方』はそれくらいするはずだ。お(・)抱(・)え(・)の魔術師に然るべき環境を与えず、いつまでも宿屋住まいさせているなんて知れたら、商会の沽券に関わるからねえ

お抱え、か

ふふん、と小さく笑ったアイリーンが、ケイに目配せしてくる。ケイも顎を撫でながらニヤッと笑い返した。とぼけたような顔で『既成事実』として語るホランドが可笑しかったからだ。

ま、それなら大船に乗った気持ちでいるさ……頼りにしてるぜ、旦那

こちらこそ。わたしも君たちと一緒に稼がせてもらわないといけないからね

わざとらしく悪い表情―元々垂れ目のいかにもお人好しな顔つきなので、全く悪役には見えない―を作って、揉み手してみせるホランド。ケイとアイリーンは思わず噴き出し、ホランドも柄ではないと思ったのか、腹を叩きながら笑っていた。

話し合いは終始和やかな雰囲気で進んだ。アイリーンはいくつか魔道具のアイディアを語り、ホランドは商人としての意見を述べながら、後で『上』に報告するのだろう、こまめにメモを取っていた。ケイもまた、今後の展望を語る。アイリーンと暮らす環境を整えつつ、できれば彼女に市民権を取得してもらいたいこと。また、自分自身もこれから少しずつ魔力を強化して、最終的には魔道具の制作にも取り組みたいこと、等々。

特にケイの魔道具に関して、ホランドは多大な興味を示しており、興奮を隠せない様子だった。ケイの契約精霊、“風の乙女”シーヴは元素の大精霊、伝説に語られるような存在であり、―その力を封じた魔道具に期待するなと言う方が無理、というわけだ。

実際、使い捨ての矢避けのお守りでも、とんでもない高値がつくだろうとホランドは予測していた。と同時に、軍事的にも非常に貴重であるため、領主クラスの干渉も視野に入れねばならず、慎重に対応する必要がある、とも。

まあ、君たち相手だから言うけどね

途中、茶を飲みながらホランドは訥々と語った。

この国における『魔術師』の価値は、多分、君らが考えているよりずっと重い。公国の魔術師はその多くが既に貴族のお抱えか、そうでなければウルヴァーンの公王のお膝元、魔術学院の出身者が大半だ。流れ者の魔術師なんて滅多にいないし、コーンウェル商会はこの分野で遅れを取っているから、この機会を逃すわけにはいかないんだよ

―だから、せいぜい自分たちを高く売りつけることだ、と。

わたしも、ご相伴に預からせてもらうからね

そう言って笑うホランドは、確かに商人の顔をしていた。

そのまま、昼過ぎには話し合いも一段落し、商会本部を辞したケイたちは近場の食堂で軽く食事を摂ってから、街へと繰り出した。

久々だなぁーサティナは

賑やかでいいことだ

人々の行き交う大通りをのんびりと歩く二人。

アイリーンは良質な麻のチュニックに黒いズボン、つややかな金髪をリボンでまとめてさらに頭巾をかぶった町娘風スタイル。ケイはいつものように、白いシャツと革のベスト、少しダボッとしたズボンという代わり映えのしないラフな格好だ。

それぞれ、腰には護身用の短剣を差し、ケイは”竜鱗通し”のケースも携帯している。弦を外し、ケースの中でCの字に曲がる”竜鱗通し”は、それでもサイズゆえになかなかの存在感があり、町中で異彩を放っていた。

道行く町人たちが物珍しそうな視線を向けてくる。一見、“草原の民”のような顔つきのケイを警戒しているのか、“雪原の民”の目を見張るような美少女に鼻の下を伸ばしているのか、あるいは どこかで見た顔だぞ と訝しんでいるのか。

今や、サティナの名が出れば必ず語られる”正義の魔女”ではあるが、アイリーンが実際に滞在した日数はごくごくわずかで、直接顔を見たことがある人間はもっと少ない。いくら武勇伝で聞く特徴と合致していても、まさか道ばたを歩いているのがその張本人だとは誰も思わないようだ。

なんとなくそれが可笑しくて、ケイとアイリーンは顔を見合わせてニヒヒッといたずらっ子のような笑いを漏らした。

さて、ケイたちは何の目的もなくぶらついているわけではない。大通りを曲がって街の北東部に向かう。

職人街だ。

サティナの知人、かつ誘拐事件の被害者家族でもある、矢職人のモンタンを訪ねようとしているのだった。事件後の心配もあるし、魔道具の作成では仕事を頼むことになるかもしれないし、ケイとしては、良質な矢を補充しておきたいという考えもあった。

昼下がりの食事時ということもあり、この時間帯の職人街はむしろ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。記憶を頼りに小道を行き、角を曲がり―パラディー通りの十二番に、それはあった。

茶色のレンガで組まれた、二階建ての家。

モンタンの工房だ。

気のせいか―その家はまるで、賑々しい職人街にあって、息を潜めているかのように見えた。雨戸も半分閉じられて静まり返っており、どこか煤けた印象を受ける。ただ煙突から立ち昇る細い煙だけが、住人の存在を示していた。

…………

顔を見合わせる二人。ケイは訝しげに、アイリーンは心配げに。

こんこん、とドアノッカーを鳴らしても、しばらく反応はなかった。だがケイが続けて鳴らすと、少ししてから ……はい と小さな男の声。

こんにちは、俺だ、弓使いのケイだ

それに相方のアイリーンもいるぜ

一瞬の沈黙。すぐに、どたばたと騒がしい気配があり、バンッとドアが開かれた。

ああっ! あなたがたは!

姿を現したのは、矢職人のモンタンだ。くすんだ金髪にバンダナを巻いているのは相変わらずの、痩身の男。少しばかり疲れて見えたが、ケイたちの―特にアイリーンの―姿を認めるなり、パッと顔を輝かせた。

戻って! こられたんですね!

あ、ああ……

つい昨日、な……

ガシッと二人の手を取ってぶんぶんと振りながら、 信じられない と言わんばかりに笑みを浮かべるモンタン。その勢いに少し気圧されながら、ケイたちは事情を説明する暇もなくただただ頷いた。

リリー! リリー、お姉ちゃんが帰ってきたよ! アイリーンお姉ちゃんだ!

心ここにあらずといった様子で、モンタンが家の奥に向かって叫ぶ。 ささ、どうぞどうぞ! と手を引かれるままに誘い入れられるケイとアイリーン。しかし二人が困惑気味に浮かべていた愛想笑いは、奥の暗がりから顔を出した少女を見て、凍りついた。

リリー……?

目を見開き、アイリーンは呟く。その唇をわなわなと震わせて。

アイリーン……おねえ、ちゃん……?

かすれた声で、少女は―誘拐事件の被害者『リリー』は、どこか夢見るようなぼんやりとした口調で、アイリーンを呼ぶ。


父親譲りのくすんだ金髪。だが、以前の活発さは今や影も形もない。

そこにいたのは、目の下に濃いくまを作り、やつれ果てた幼い少女だった。

73. 再訪

前回のあらすじ

北の大地から公国に帰還し、城塞都市サティナへと舞い戻ったケイたち。

二人は、アイリーンが『正義の魔女』と謳われるようになったきっかけ、

誘拐事件の被害者『リリー』に会いに行く。

だが、二人が目にしたのは、見る影もないほどやつれた幼い少女の姿だった……

おねえちゃん……おねえちゃん!?

沈黙は長くは続かなかった。

ハッ、と夢から醒めたように目を見開いたリリーが、おぼつかない足取りで駆け寄ってきたからだ。

おねえちゃんっ!

リリー……

しゃがみこんだアイリーンが、やせ細った少女を優しく抱きとめる。 ほんと? 夢じゃない? とうわ言のように呟きながら、ぺたぺたと頬を触ってくるリリーに、どんな顔を向けるべきか―アイリーンはわからないようだった。

夢じゃないよ、本当だよ……。久しぶり、リリー

努めて優しくささやきながら、リリーをぎゅっと抱きしめる。それ以上、困惑の色を見せまいとするかのように。

アイリーンさん! ケイさん! お戻りになられたんですか?!

家の奥からさらに、前掛けで手を拭きながらキスカが慌てて走り出てきた。モンタンとキスカ、そしてその娘リリー。一家が揃った形だ。

しばらくぶりだな、本当に

おおよそ、三ヶ月ぶりの再会だろうか。改めてモンタンと握手しながら、ケイはリリーに視線を落とす。

幼い少女は―微かに震えているようだった。アイリーンの胸に顔を埋め、もう二度と離さないとばかりに抱きついて離れない。

彼女(リリー)に、何が?

ためらいがちにケイが問うと、バンダナを脱ぎ去ったモンタンは、沈痛の面持ちで口を開く。

……まだ、事件のことが忘れられないみたいなんです。夜もうなされて、ほとんど眠れないらしく……

……返す言葉もない。

信じていた人に裏切られ、誘拐され、監禁され。

挙句、奴隷として売り飛ばされるところだった。

幼いリリーが味わった恐怖、絶望はいかばかりか―。事件が『解決した』とはいえ、それは決して『終わった』ことを意味しないのだ、と痛感させられる。

そうか……

一同はただ、どうしようもない無力感に苛まれながら、抱きしめ合うリリーとアイリーンを見守ることしかできなかった。

†††

しばらくして、リリーが落ち着いてから、ケイたちは工房の奥でハーブティーをご馳走になった。モンタンの作品の一つだろうか、蔦が絡んだような小洒落た装飾のテーブルを皆で囲む。

リリーはアイリーンに隣り合って座り、アイリーンの手をギュッと握りしめながら、うつむき加減に飴を舐めていた。

黄金色の、蜂蜜飴―

本当に、帰ってきて頂けて良かった

木のマグカップで茶を飲みながら、モンタンがしみじみと言う。

あれから。

ケイたちが旅立ってから。

モンタン一家が、いつもの日常を取り戻すことは、ついに叶わなかったそうだ。

『正義の魔女』こと、アイリーンの英雄譚はサティナの街で一世を風靡した。だがそれは、モンタン一家が好奇の目に晒されることを意味していた。

ただ衆目を集めるだけならまだしも、『少女(リリー)が誘拐・監禁されていた』という事実はよからぬ憶測を呼び、しつこく詮索する者や、噂を鵜呑みにして勝手に同情する者、幼いリリーに下卑た言葉を浴びせる心無い者さえいた。

モンタンの工房には見物人まで押しかけてくる始末で、リリー本人はおろかモンタンとキスカも、迂闊に外を出歩けなくなってしまった。日常生活にすら支障をきたす現状―リリーが以前通っていた塾に、復帰する見込みも立っていない。

人の噂も七十五日、という。事件からすでに三ヶ月。しかし、『正義の魔女』の英雄譚が吟遊詩人によって街中の酒場で歌われているのに、忘れろというのは無理な話だった。

まあ、以前は働きすぎなくらいでしたから、家族でゆっくり過ごす分には、ちょうど良いくらいなんですが……ね

そう言って、モンタンは力なく笑う。アイリーンはリリーの頭を撫でながら、唇を引き結んでいた。その表情には、やるせなさが溢れている。誰が悪い、というわけではない。吟遊詩人の知り合い(ホアキン)がいるのでよくわかっているが、彼らは彼らの仕事をしているだけだ。

そして、アイリーンのせいで迷惑を被っている、などとモンタンは微塵も思っていないし、当然、責める気もなかった。

ただ、息苦しい日々が続いていて、終わりが見えない。

憂鬱の中で、溺れそうになっていたのだ。

―少なくとも、今日この日までは。

でも、お二人が戻ってこられたので……

何か、好転するのでは。

口には出さないが、モンタンはそう願っているようだった。

どうぞ

キスカが、ハーブティーを淹れ直しておかわりをついでくれる。ケイは礼を言いながら、湯気を立てる木のカップを手に取り、しげしげと眺めた。客人用のカップだろうか。新品のように思える。植物の蔓や花々、くねる蛇の模様など、偏執的なまでに刻まれた装飾の数々―凄まじく手間のかかった逸品だ。

家に引きこもる毎日、モンタンがどのように過ごしていたのか―その暮らしの一片を垣間見た気がした。

ところで、お二人はその後、どうされていたのですか? ウルヴァーンに向かうと伺っておりましたが……。しばらく前、公都へ向かう隊商が”大熊(グランドゥルス)“に出くわして、腕利きの護衛がそれを仕留めたと聞きました。あと、武闘大会で何やら異邦の弓使いが、優勝したとも風の噂に……

沈んだ空気を変えようとするかのように、明るい笑みを浮かべたモンタンが尋ねてくる。誰のことか察しはついているぞ、と言わんばかりの様子に、ケイは思わず苦笑した。

ああ、それは俺だ。大熊(グランドゥルス)には、行きがけの開拓村で出くわしたんだ。モンタンの長矢のおかげで一撃で仕留められたよ、ありがとう

やはり! いや、でも、大熊を一撃で!?

運良く心臓を射抜いてな。そのあと、ウルヴァーンの武闘大会に出て優勝した

おおっ、とモンタンとキスカが驚き、リリーも顔を上げる。

ほんと? おにいちゃん、すごいっ

本当さ。大会で優勝したおかげで、ウルヴァーンの名誉市民になれたんだ。これがその証拠だよ

胸元から身分証を取り出して、リリーに渡す。大事そうに受け取ったリリーは、 うわ~っ と小さく笑みを浮かべながら、分厚い羊皮紙に描かれたケイの似顔絵や、その身分を保証する大仰な文言などを見ていた。

すっごいね! ……今まで、ウルヴァーンにいたの?

いや、そのあと、北の大地に行ったんだ。あれから色々あってな~

優しい笑みを浮かべたアイリーンが、口を開く。語るべきことは山ほどあった。

ウルヴァーンへの道中、立ち寄った湖の街ユーリアとシュナペイア湖の美しさ。大熊に遭遇したこと。雪原の民(アレクセイ)とケイの決闘騒ぎ。

ウルヴァーンに到着して、調べ物をするべく図書館に向かうと、身分証がなければ一級市街区に入れず、門前払いをされたこと。身分証を手に入れるため、ケイが武闘大会に出場したこと。そして圧倒的実力を見せつけての優勝。

晴れて図書館に入れるようになり、『霧の異邦人』という手がかりを掴んだ。北の大地に詳しい、怪しげな銀髪キノコの賢人との遭遇。北の大地の情報の対価に、占星術を教える運びとなり、天体観測をしたら望遠鏡とカツラを吹っ飛ばしてしまい、弁償するのが怖くて逃げるように出立した話をすると、リリーも声を上げて笑っていた。

それから、北の大地への旅。緩衝都市ディランニレンでの苦労。一時は東回りのルートで二人だけの縦断を試みたが、飲み水が不足し引き返したこと。アイリーンが魔術で隊商に売り込みをかけ、同道する許可を得たこと。

馬賊の襲撃に関しては、以前、別の娘(エッダ)に話したときのように、オブラートに包んで勇ましい冒険譚のように語った。二回目なので、ケイとアイリーンも慣れたものだ。リリーは遠い異郷の地と、そこでの激闘に思いを馳せているようだった。

最後に、辺境のシャリト村と、『魔の森』の話。アレクセイとの思わぬ再会。気さくな村人たちと手厚い歓迎。霧の中での出来事は、これ以上リリーに心理的負担をかけるのを避けるため、かなり軽い調子で話した。霧の巨人をケイが弓矢で打ち倒した話や、ロープがいつの間にか解けて離れ離れになりかけたこと。

そして、『魔の森の賢者』との邂逅―。

自分たちが、遠く離れた場所からやってきたこと。もう、戻れないこと。ここに至って、ケイとアイリーンも、思わずしんみりした口調になった。

だが、『こちら』で暮らす決意を固め、森を脱した。

はるばる北の大地を引き返し、ディランニレンを越え、ウルヴァーンで再び天体観測をして銀髪キノコあらため茶髪ロン毛との約束を果たし、開拓村に迫る 深淵(アビス) に挑み、アビスの怪物の群れと戦い、ユーリアでアイリーンが領主の手篭めにされかけ―

さらに、話に合わせてお土産も渡す。北の大地で手に入れたちょっとした民芸品や、アビスで襲いかかってきた怪物”チェカー・チェカー”の宝玉のような丸い爪などなど。そんな小物もまじえた、波乱万丈のケイとアイリーンの物語に、リリーは驚き、目を輝かせ、夢中になって聞き入っていた。

―というわけで、戻ってきたのさ。サティナまで

そう言って話を締めくくり、ホッと小さくため息をついたアイリーンは、冷めたハーブティーで喉を潤す。工房に来たのは昼下がりだったのに、話し終える頃にはすっかり日が傾いていた。

……それじゃあ、おねえちゃんたちは、

ワクワクした顔から一転、ふと表情を曇らせたリリーは、少しためらってから、意を決したように尋ねてくる。

おねえちゃんたちは、これから、どうするの? またどこかに行っちゃうの?

……いや。サティナに腰を落ち着けようと思うんだ

アイリーンがにこやかに答えると、

……っっ!

リリーの表情が、ぱぁっと明るくなった。雲の切れ間から陽が差し込むような、消えた暖炉に再び火が灯るような、そんな笑顔だった。

だから、これからはずっと一緒だよ

……うん、うんっ

嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いて。

おねえちゃんに……ずっと、ずっと会いたかったの

リリーはそう言って、首にかけていたチェーンを引っ張り、紅水晶(ローズクォーツ)のお守りを取り出した。

それは……

アイリーンが目を瞬く。

サティナを出立する前、アイリーンが作った『魔法のお守り』。

簡易的な 顕現 の魔術が封じられており、日が沈んだあとなら、一度だけアイリーンを『呼べる』魔道具だ。『呼べる』と言っても、ごくごく短時間、会話するのがせいぜいな、子供だましのような代物だが。

……どうしても、さびしくって、何回も使いたくなったけど

指先で紅水晶をいじりながら、ぽつぽつとリリーは話す。

……でも、ガマンしてたの。一度使ったら、なくなっちゃうから……

泣き笑いのような顔で、リリーはアイリーンを見つめた。

使わなかったけど……おねえちゃんが会いにきてくれたから、よかった!

リリー……

おねえちゃん……!

再び、二人はひしと抱きしめあった。それ以上の言葉は、不要だった。キスカがハンカチで目元を拭っている。ケイとモンタンも、顔を見合わせて、笑った。ケイは静かに。モンタンは、穏やかに。

その後も少しばかり、将来の展望を語らった。アイリーンがコーンウェル商会で魔道具を売り出す予定で、その際は木工を依頼したい、と打診すると、モンタンは二つ返事で了承した。現在は家具職人としても高級矢職人としてもほぼ休業中で、貯蓄を切り崩しながら暮らしていたそうだが、ぼちぼち仕事を再開せねばとも思っていたらしい。まさに、渡りに船というやつだ。

日が暮れて、モンタンは ぜひ一緒に夕食を と勧めたが、肝心の台所を預かるキスカが お客様に出せるようなものがない と悲鳴を上げ、一同は日を改めて、一緒に食事に行く約束をした。

今日は、ありがとうございました

お二人とも、お元気そうで本当に良かったです

おねえちゃん! またね!

頭を下げるモンタン、肩の荷が下りたようなキスカ、元気を取り戻したリリー。三人とも、晴れやかな顔をしていた。

ケイとアイリーンも、その姿を見て、少しばかり感じ入るものがあった。

自分たちが『帰ってきた』場所に、意義があったのだ、と。

そのことを知って。

それじゃあ、また

リリー、またな!

三人に見送られながら、ケイとアイリーンは宿屋に戻ろうと―

―あ。そういえば、ケイさん

したところで、モンタンが不意に呼び止めた。

ん? どうした?

いえ、今の今まですっかり忘れてたんですが、二週間ほど前にケイさんをお探しの方が、うちを訪ねてきたんです

……俺を探す人?

訝しげに、眉をひそめるケイ。心当たりはなかった。コーンウェル商会絡みならすでに関係者と会っているし、サティナには他に知り合いもいないはずだ。ケイの弓の腕を頼みにした、赤の他人だろうか? などと推測したところで、続くモンタンの言葉に、顔色が変わる。

ええ。なんでも『タアフ村から来た』とのことで

―タアフ村から来た。

―ケイを『探して』いる。

(……まさか)

脳裏に、あの夜が、血みどろの戦いが蘇る。

(イグナーツ盗賊団の追手か!?)

『こちら』に転移した直後、タアフ村の近郊で盗賊団と交戦した。構成員十人を全員殺したつもりだったが、翌日遺品を回収に行ったら死体が八人分しかなかった。

二人、逃した。

しかし、全員に手傷を負わせたのは事実。その後タアフ村に報復があった様子もない。おそらくはのたれ死んだのだろうと、今の今まで楽観視していたが。

(俺にピンポイントで報復するつもりか……?)

自然、表情が険しくなる。サティナでようやく、平穏無事に暮らせるかと思っていたが、甘かったのだろうか……幾多の修羅場をくぐり抜けたケイの顔は、モンタンをたじろがせるほど凄みのあるものだった。ケイが事情を打ち明けておらず、見当のつかないアイリーンが怪訝そうな顔をしている。

そ、それで、その方からメモを預かってるんです。えーっと

モンタンが家に戻り、ドタバタと戸棚を探ってから、すぐに小さな紙切れを持ってきた。

こちらです

なんて書いてあるかは、読めないんですけど―

モンタンの言葉を聞き流しながら、メモを受け取ったケイは、驚愕した。

イグナーツ盗賊団のことなど、頭から吹き飛ぶほどの衝撃。

そこにはシンプルに、一文だけ書かれていた。

74. 告白

24日にも投稿しておりますので、ご注意ください。

で、どういうことなんだコレは

その夜。

モンタンたちと別れて、ケイとアイリーンはまっすぐ宿屋に戻った。そして食事もそこそこに部屋へ引っ込み、ランプの明かりの下、額を合わせてテーブルを覗き込んでいた。

件のメモ用紙。

『きみは死神日本人か?』、と来たか

ケイに意味を教えてもらったアイリーンが、小指の先で唇を撫でながら呟く。

―“死神日本人(ジャップザリーパー)”、弓使いのケイ。

VRMMO DEMONDAL において、広く知られていたケイのあだ名だ。“竜鱗通し”を手に入れる前から馬上弓を得意としていたケイは、数多のプレイヤーを正確無比な騎射で葬り去ってきた。

ケイと敵対し、交戦した者たちの死亡率はあまりにも高い。いつしか『死神』と呼ばれ恐れられるようになり、そこに『日本人』が付け足され、フォーラムなどで話題となった結果、すっかり定着してしまったのだ。

―それはさておき。

このメモ用紙一枚からは、いくつか重要な情報が読み取れる。

少なくとも、ゲーム内のケイをよく知る人物ってことだな

ああ。その上、日本語ができる……

顔を見合わせた二人は、 うーむ と唸りながら、再びメモに目を落とす。

メモの主。モンタン曰く、『ケイさんのような黒髪黒目で、草原の民のような顔つきの男でした。中肉中背で、身なりはあまり良くなかったです』とのこと。

草原の民のような顔つき―ケイは思わず、自分の頬をぺたりと撫でた。その男は、十中八九、日本人だろう。ケイがウルヴァーンを目指して旅立ったと聞いて、ひどく落胆していたそうだが、 自分はしばらくサティナに滞在する予定だ と言い残して去っていったらしい。それ以来、姿を現していないそうだ。

……他にも、いたんだな。『こっち』に来てたヤツが

嘆息混じりにアイリーンは言う。しかしその口ぶりには実感がこもっておらず、どこか半信半疑といった様子だ。確かにメモは実在するのだが、それでも信じられない心境―ケイも気持ちはよく分かる。

俺たちが来てるんだから、他にいてもおかしくはない。ただ、 DEMONDAL に俺以外の日本人プレイヤーがいるなんて聞いたこともなかったんだが……アイリーンはどうだ?

知らねえな。知ってたら一度は声かけてるよ

ケイが問うと、アイリーンはお手上げのポーズを取った。元々ケイとアイリーンが知り合ったのは、NINJA好きで日本かぶれなアンドレイ(アイリーン)が、『日本人だから』という理由だけでケイに話しかけてきたのがきっかけだ。

DEMONDAL は北欧産オンラインゲーム。サーバーはヨーロッパに位置し、プレイヤーの多くは欧米人だ。アジア系はともかく、生粋のアジア人のプレイヤーはほとんどいない。

ケイを知っていて、日本語の読み書きができるような人物なら、ケイかアイリーンのどちらかの交友関係にはひっかかりそうなものだが―

ソロ専みたいな、ほとんど他と交流がないヤツだったのかもな

もしくは、趣味で日本語やってたとか……。別言語を母語に持つ日系人の可能性も否定できないぜ

なるほど、それならわからないな

実際のところ、ケイも好き好んで、自分が日本人であることをアピールしていたわけではない。しかし後天的な英語話者ゆえ、他プレイヤーと会話に支障をきたすこともあり、 どこ出身? 日本だよ みたいな会話の流れで、国籍が周知されたという事情がある。

要は、言葉のせいで看破された。

だが仮に、バイリンガルの日系人であれば、そんな事態にはならなかったはず。何食わぬ顔で欧米人に混ざって、そのままプレイしていたのかもしれない。だとすれば手紙の主を特定するのは困難だ。

それにしても、不思議なのは、なぜ俺を探しているかってことだ。どうやって俺が―『ケイ』が、『こちら』にいることを知ったんだ? その男は

そりゃあ、『タアフ村から来た』って話だったし、村の誰かからケイの話を聞いたんじゃね? オレたちみたいにタアフ村の近くに転移したのかも。それだったらケイの外見はゲームと同じだし、弓使いで、かつ風の精霊と契約してる。……そんなヤツそうそういねーだろ、察しがついてもおかしくはない

……確かにな

言われてみれば、自分はキャラが濃い上にゲームと全く変わらない。これがアンドレイから劇的な変化を遂げたアイリーンであれば、特定されることはなかっただろうが。

……いずれにせよ、気の毒ではあるな

メモから視線を剥がし、ケイは窓の外、夜空を見上げた。

満天の星空。星々の配置は、地球のそれとは全く違う。『ここ』が別の世界なのだ、と否応なしに思い知らされる。

ケイたちは、それこそ『死ぬほど』苦労して、遥々北の大地くんだりまで赴き、この転移の真相を知った。VRゲームを通して魂を引っこ抜かれ、ゲームそっくりの世界に受肉。元の世界の魂を失った肉体は、今頃活動を停止している―という衝撃の事実を。

このメモ用紙を渡してきた人物は、以前のケイたちと同様、突然の転移で右も左もわからない状況だろう。

会いたいような、会いたくないような、複雑な気分だな

はぁ、と溜息をついたアイリーンが、やおら立ち上がってベッドに身を投げた。スプリングもない安物、ギシッと床と木材が軋む音。

会ったら十中八九、説明することになるだろうしなぁ……

元の世界のあなたの肉体はもう死んでますよ、などと、どんな顔をして告げればよいのか……ケイたちには少々荷が重い。

…………

そんな二人の心境を物語るかのように、沈黙の帳が降りてくる。同じゲームのプレイヤーのよしみで、情報交換や多少の手助けはやぶさかではなかったが……。

……ところで、さ。ケイ

しばらくして、アイリーンが口を開いた。

うん?

モンタンの旦那が、このメモの話を切り出したとき、ケイってばなんかすっごい険しい顔してたじゃん? あれ、なんかあったのか?

ベッドに寝転がり、肘をついたリラックスモードでアイリーンが尋ねてくる。

澄んだ青い瞳が、まっすぐにケイを捉えた。

心臓が跳ねる音を、聞いた気がした。

……ああ

この期に及んで、ケイはアイリーンに隠し事をするつもりはない。正直に、全てを話そうと腹をくくる。

実は、『こっち』に転移して、盗賊と戦ったときのことなんだが―

ケイは極力私情を排除して、淡々と語った。盗賊全員を殺したつもりが、二人取り逃がしていたこと。即座に報復を恐れたこと。そしてそれを誰にも告げることなく、逃げ出そうと決めたこと。

それは、ケイがずっと一人で抱え込んでいた罪だ。

アイリーンは体を起こし、ベッドに座り直して真剣な顔で聞いていた。ケイは、今にも彼女の表情が冷たいものに変わるのではないかと恐れていたが、アイリーンは真摯な態度のまま、咎めたり、失望したりすることなく、黙ってケイの告解に耳を傾けていた。

なるほど……

アイリーンは瞑目する。時折、ケイの様子がおかしかった理由が、腑に落ちた。

薄々、察しては、いたのだ。ケイが何か秘密を抱えており、そのせいで度々良心の呵責に苦しんでいたことを。

あの夜―『こちら』に転移した直後の夜。盗賊たちの奇襲により、アイリーンは毒矢を受けて生死の境を彷徨った。無意識のうち、右胸の傷跡に触れる。ポーションによる治癒は激痛が伴うが、幸いなことに、アイリーンは何も憶えていない。

そう、笑ってしまうくらい憶えていないのだ、あの夜のことは。目を覚ましたら全てが終わっていて、ただベッドに寝かされていた。

……ケイ

……うん

話してくれてありがとう。なんでケイが悩んでたのか、ようやくわかったぜ

ケイの緊張を解きほぐすように、アイリーンは柔らかく微笑んだ。ケイの取った選択は確かに、最善のものではなかったかもしれない。だが自分たちの身の安全を最優先に考えるなら、致し方のないことだった。

アイリーンは何も知らずに寝込んでいただけだ。それに関して口を挟むことはできないし、何よりアイリーン自身も救われている。そしてケイは決して冷血漢ではなく、罪悪感に苦しんでいたことも知っている。

責めることが、できようか。

オレもさ、色々経験を積んだから、自分の身を守るのが『この世界』でどんなに難しいことなのか、よくわかってるつもりだ

朗々と語りだすアイリーンに、ケイが意図をはかりかねたように、目をぱちぱちと瞬いている。

ケイがこのことを黙ってたのも、タアフ村の連中にバレたら何をされるかわからなかったのと、オレにいらん心配をかけたくなかったからだろ?

わかってるんだぜ、と言わんばかりに眉をクイッと上げてみせると、ケイはバツが悪そうに視線をそらした。

当時、盗賊を逃したことをタアフ村の面々に打ち明けていたら、ケイたちがその責任を負わされていたかもしれない。『盗賊が報復に来たら人身御供に差し出そう』『こいつらのせいで賊に目をつけられる、殺してしまえ』―等々、嫌な想像はいくらでもできる。

実際、タアフ村の住民たちは比較的良心的な人々だったが、それでも何が起こるかわからないのが世の中だ。それに、アイリーンは毒矢から回復した直後で、体調も優れず足手まといだった。自己保身とリスク回避という点で、ケイの判断は正しかったのだ。

そして当時のケイは、アイリーンに対して少々過(・)保(・)護(・)だった。もちろん、バツが悪くて言いたくなかったこともあるだろうが、アイリーンに余計な心労をかけたくない、という気持ちがあったのは確かなはず。

ケイ。あんまり自分のことは責めないでくれ

アイリーンは立ち上がり、ケイの両肩に手を載せた。覗き込む。その黒い瞳を。

そもそも、一番悪いのは盗賊の連中なんだ。そこは間違えちゃいけない

いや、しかし……

わかってる、だからといって黙ってたのも、褒められた行為じゃない

しゅん、と小さくなるケイ。まるで頭から水をかけられた熊みたいだ。愛おしくて思わず笑いそうになるのを、ぐっと堪える。

……でも、タアフの村は今でも無事っぽいし、オレたちも元気に生きてる。結果オーライじゃねえか。オレだって命を救われたんだ、ケイを責めるつもりはないし、そもそも責められないよ

……そういうもんか

過程は大事だが結果はもっと大事ってことさ。第一報復とかそんなの関係なく、タアフ村の近くに盗賊が十人もいたんだぜ? どちらにせよタアフ村が襲われてたかもしれないし、ケイはそれを未然に防いだのかもしれない。仮定(if)の話をしてちゃあキリがない。……それに、

ケイの手を握って言い聞かせるように話しながら、アイリーンは言葉を続けた。

オレは今、ちょっと嬉しいんだ

は? とケイが呆気に取られたような顔をする。

嬉しい? なんでだ?

―決まってる。

ケイが打ち明けてくれたからだよ

今まで隠していたことを、なんのためらいもなく。

アイリーンが尋ねたら、腹をくくった顔で、正直に話してくれた。

それが、嬉しかったのだ。

昔と今では、二人の関係も変わった。それは、ごまかしやウソで成り立つものではない。そりゃあ人間だから、腹には一つや二つ、隠し事くらいはあるかもしれないが。それでも、一緒に生きていくと決めた。楽しいことも、苦しいことも。一緒に分かち合って、支え合っていく。

そんな関係だと、アイリーンは思っていたし、ケイにもそう思って欲しかった。

そして、ケイもそう思ってくれているのが、よくわかった。

ケイの覚悟は、しっかりとアイリーンに伝わっていたのだ―

おんぶにだっこのお姫様(プリンセス)はゴメンだ。そうだろ?

グッ、とケイの手を強く握って、アイリーンがニヤリと笑いかけると。

……ああ

ケイは、一瞬苦笑して、次に晴れやかな笑顔に変わって、力強く頷いた。

よっし。じゃあこの話は終わり!

バンッ、とケイの背中を叩いて、アイリーンはその手を引っ張った。

ケイ! 呑みに行くぞ! 小腹も減った!

ええっ。いや、構わないが、さっき食べたばかりじゃないか?

いいんだよ! ケイだって、なんださっきのメシは! ちまちまオヤツみたいなもんしか食ってなかっただろ! 食い直せ!

きっと、諸々の心配事や罪悪感で食欲がなかったのだろう、とアイリーンは思っていた。それでは体によろしくない。

いや、うーん、確かに……ええい、まあ行くか!

呑み明かそう! サティナ再訪祝だ!

それはもう昨日やっただろ!

細かいことはいいんだよ!!

開き直った様子で笑うケイとアイリーンは、手を取り合って、部屋を出ていく。

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