あんた、なかなか、腕っ節が強いな
どこか―挑戦的な、好戦的な。そんな物騒な光を、瞳の中に見た気がした。
……そいつはどうも
おどけるように肩をすくめて、ケイはそれをやり過ごす。
ようし、ここに板を差しこめ!
釘! 釘もってこい釘!
こっちにも角材回してくれ!
周囲の男達の騒がしい声を聞き流しながら、荷台を支える手に意識を集中させた。
だが、ケイが視線を逸らしても尚。
金髪の青年はじっと、野性的な目でケイを見つめ続けていた。
†††
結局、隊商の一行が次の村に到着したのは、それから数時間後のことであった。
言わずもがな、原因は最後尾の馬車だ。実は、ケイが手助けに行ってから、十分としないうちに応急処置そのものは終わったのだが、車軸の傷みが思いのほか不味かったらしく、馬車はカタツムリのような速度しか出せなくなっていた。
言うまでもなく、これは他の商人たちにはいい迷惑だ。しかし、同じ隊商の仲間である以上、そのまま置いて行くわけにもいかない。
結果として一行は、その馬車に足並みをそろえる羽目になってしまった。
本来ならば、次の村には正午過ぎに到着するはずで、村で遅めの昼食を摂ったのち再出発する予定―だったのだが、実際に村に着いたのは、日がそれなりに傾いてからのことだった。ケイとアイリーン、それにエッダは、出発前にキスカから貰ったサンドイッチを昼食にしていたが、その他の面々は亀の歩みとはいえ移動中だっただけに、軽く何かをつまむことしかできず、村に着いた時点で相当な空きっ腹を抱えていた。
遅延の原因になった『ピエール』という商人が、ホランドを含む全員から総スカンを食らったのは言うまでもない。
村はずれの広場。
円陣を組むように馬車を停めた中心、隊商の皆は粛々と野営の準備を進めていた。今、ケイたちがいるのは街道から少し外れた小さな村なので、当然のように全員が休めるような宿泊施設は存在しない。しかし再出発するにはもう暗すぎるということで、今日はここで一夜を明かす運びとなった。
ふぇっふぇっふぇっふぇ……
テントを立てたり、荷物を整頓したりする皆をよそに、焚き火にくべられた大鍋を皺だらけの老婆がかき混ぜていた。
さぁて……ここに、コレを……
ローブの胸元から、何やら粉末を取り出してぱらぱらと鍋に投じる。さらに追加で薬草を放り込みつつ、ぐつぐつと沸騰する鍋を大べらでかき回して、老婆は ふぇーっふぇっふぇっふぇ と奇怪な笑い声を上げていた。
……オレなんかより、あの婆様の方がよっぽど魔女っぽいだろ
テントを張りながら、老婆の方を見やって、アイリーンがぽつり呟いた。
奇遇だな、俺も全く同じことを考えていたところだ
テントを挟んで反対側、地面に杭を叩き込みつつ、ケイ。ハンマーを傍らに置いて、杭にテントのロープを結びつけつつ、ちらりと広場に目を向ける。
湯気を立てる大鍋をかき回す、怪しい皺だらけの老婆。もちろん魔女などではない、この隊商で薬師をしているホランドの親類だ。『ハイデマリー』という名前らしいが、隊商の皆からは『マリーの婆様』、あるいは単に『婆様』と呼ばれて親しまれている。齢は七十を超えているとのことで、この世界の基準からすると、かなり長生きの部類といえた。
婆様、まだなのか?
テントを張り終えて手持無沙汰になったと見える、商人の一人がそわそわとした様子で声をかけた。
ふぇっふぇっふぇ、焦るでない、もう少しで完成じゃ……
ハイデマリーの返答に、おお、とどよめく男達。先ほどからハイデマリーが大鍋と格闘しているのは、何か薬品を精製しているわけではなく、皆の為に夕飯のリゾットを作っているのだ。
徐々に漂い始めた、食欲を刺激する、複数のハーブが混ぜ合わせられた良い匂い―。
ふぇっふぇ、よし、ここにキノコを入れれば、出来あがりじゃよ……!
ハイデマリーはローブのポケットから、乾燥させたキノコを直に取り出し―衛生面は大丈夫なのかと不安になるケイとアイリーンであったが―それを鍋に投じようとする。
わ! わ! わ! 待て、待て! キノコはやめろ、キノコはダメだ!
しかしその瞬間、広場の反対側からホランドが矢のようにすっ飛んできて、ハイデマリーの手から乾燥キノコを勢いよく叩き落とした。
ああっ! なんじゃ、何をするんじゃ!
それはこっちの台詞だ婆さん! いい加減、何度言ったら分かるんだ! おれはキノコがダメなんだよ!
だーからって、はたき落とすことは無いじゃないかね! 苦手なら避けて食べればいいんじゃ!
ダメなんだ! 中に入ってるの見ただけで、もう鍋の中身全部が食べられないんだ!
はァーッ! 子供じゃあるまいし、いい歳した大人が恥ずかしくないのかね!
だ・か・ら! これには深いワケが……って、勘弁してくれよ、この説明ももう何回目か分からんぞ! 耄碌したか婆さん!
なんじゃとーッ!?
木べらを振り上げてお冠のハイデマリー、頭痛を堪えるように額を押さえるホランド、二人は鍋を挟んで、やかましく口喧嘩を始める。やれやれといった様子で、空きっ腹をなだめつつ、それを見守る周囲の者。
ホランドの旦那はそんなにキノコがダメなのか?
らしいな
……あー、これな、ちょっとワケがあるんだわ
どこか呆れた様子のケイとアイリーンに、近くに居たダグマルが渋い顔をした。
というと?
いやな。俺とホランドが幼馴染なのは知ってるだろ。アイツも小さい時は、普通にキノコ食えてたんだよ。だけど俺がガキのとき、ホランドと森に出かけてよ、一緒にキノコ狩りをしたんだが……、
ぽりぽり、と気まずげに頬をかき、
俺が間違えて、毒キノコを採っちまってな。それをホランドが食べちまったんだ。三日三晩、熱にうなされて、何とか一命は取り留めたが……それ以来キノコというもんがダメになっちまったらしい
それは……
ダグマルの解説に一転、ケイたちは気の毒そうな顔をする。
トラウマって奴か
TRAUMA? 何だそれは
肉体的・精神的なショックで、心に負わされる傷のことさ。戦場で死にかけた兵士が戦えなくなったり、食あたりで旦那みたいにキノコが食えなくなったり……そういうのを『トラウマ』っていうんだ
へえ、そいつは知らなかった
アイリーンの解説に、感心したように頷くダグマル。
そんなケイたちをよそに、ホランドとハイデマリーは、キノコを入れない方向で決着を付けたらしい。今夜のメインのリゾットが、ようやく完成した。
腹を鳴らしながら、木の器を片手に、焚き火の周囲に集まる隊商の面々。ケイたちも同様に用意していた器にリゾットをついでもらって、テントの傍の木の下で食べ始める。
しかしアレだな、たまに単語が通じないもんだな
もしゃもしゃとリゾットをかき込みながら、アイリーン。当たり前だが、ケイもアイリーンも、今現在話しているのは英語だ。
ああ。ゲームの中だと考えもしなかったが、同じ英語といっても、言語として成立の仕方が違うんだろう
頷いて答えたケイに、アイリーンは自前のサラミを齧りつつ、ふむと一息ついて首を傾げた。
『トラウマ』って、ラテン語起源だっけ?
いや、たしかギリシア語だったと思う。ゲーム内に、ギリシア語圏はなかったからな……多分ギリシア語そのものが存在しないんじゃないか
DEMONDAL は、北欧のデベロッパが開発したゲームであり、運営会社はイギリス資本であった。プレイヤー人口の八割以上はヨーロッパ圏の住人だったため、ゲームの主言語は英語に設定されていたが、それと同時に雪原の民(ロスキ)、高原の民(フランセ)、海原の民(エスパニャ)など、幾つかのヨーロッパ言語に対応したエリア・民族も実装されていたのだ。
だけど、旦那らが話すフランス語って、起源を辿ればラテン語だろ。んでもって、ラテン語も元を辿れば、ギリシア語に行きつくんじゃなかったっけ?
うーむ。『トラウマ』みたいにダイレクトな形じゃないにせよ、英語にもギリシア語起源の語彙は多い筈だからな。こっちの言語がどういう形で成立したのか、言語学的に興味はあるな……
ウルヴァーンの図書館で、そういうのも調べてみたら、面白いかも知れないぜ?
時間があったら挑戦してみたいところだ……が、学術的な英語は俺にはちょっと難しいんだよな
器の中身を食べきって、ケイは小さく溜息をついた。
ケイは、後天的な英語話者だ。
VR技術の黎明期、世界中の似たような境遇の患者たちと交流するために、ケイは比較的幼い頃より、コツコツと英語を学んできた。おかげで、というべきか、普通の日本人の子供よりも遥かに、生きた英語や、その他のヨーロッパ言語に触れる機会があったのだ。英語に限っていえば、日常生活に支障のないレベルで、訛りなどもなく流暢に喋れるようになっている。しかし、基本的に実地での叩き上げによる語学力ゆえに、殆ど縁の無い学術的な英語は苦手としていた。
俺はバイリンガルじゃないからな……アイリーンが羨ましいよ
バイリンガルっつっても、オレも、英語は完璧ってワケじゃないんだぜ?
羨望の眼差しを向けるケイに、照れたような表情で肩をすくめるアイリーン。
あくまで、オレの母語はロシア語だからな……はぁ、ロシア語が懐かしいぜ
おどけた様子で、わざとらしく、アイリーンは溜息をついて見せる。
そこに、唐突に。
―Тогда давай поговорим на русском со мной
背後から投げかけられた言葉。
弾かれたように二人は振り返る。
……お前は、
ケイは、言葉を呑みこんだ。
そこにいたのは、薄く笑みを浮かべて、木の幹に寄りかかった金髪の男。
―昼下がり、馬車の修理の際に見かけた、あの青年だった。
Ты говоришь на русском языке!?
驚きの表情で、アイリーンが問いかける。
Да, я русский
したり顔で頷く青年。アイリーンはさらに、
Я удивлена! Я не дубала, что есть русский в этом караване
Ага, но это правда. Меня зовут Алексей, а Ты?
Меня зовут Эйлин
Эйлин? звучит по-английски
Именно так. Это потому, что мои родители англичане…
喜色満面で、ロシア語会話を繰り広げるアイリーンと青年。
…………
ひとり、取り残されたケイは、その顔に紛れもなく困惑の表情を浮かべていた。
―っと、すまん、ケイ、
ほどなく、ケイが置いてけぼりを食らっているのに気付き、アイリーンが英語に戻す。
いやいや、その……、驚いたな。雪原の民なのか
ぎこちなく笑みを浮かべながら、ケイは金髪の青年を見やった。
ああそうだ。あんたとは、昼にはもう会ったよな
ニヤッ、と口の端を釣り上げて、青年はケイに手を差し出す。
よろしく、おれの名前はアレクセイ。雪原の民の戦士だ
……俺は、ケイという。よろしく頼む
ぐっ、とアレクセイの手を握り、簡単に自己紹介を済ませる。アレクセイは、かなり握力が強かった。
アレクセイも、護衛なのか?
いや、おれは戦士だが、護衛として雇われてはいない。ただ、ピエールの旦那とは個人的な知り合いでな、ウルヴァーンまで馬車に乗せて貰えることになったのさ
そうか、なるほど……
曖昧に頷きつつ、ケイは次の話題を探そうとする。
しかし、それよりも早く、アレクセイがアイリーンに向き直った。
Но я был удивлен, потому что я никогда не думал, что такая красивая девушка находится здесь
…Хватит шутить
Я серьезно. На самом деле удивительно
再び始まる、異言語の応酬。流れるような会話に、口を挟む余地は感じられない。
楽しげに話す二人をただただ眺めながら、ケイは無言のまま、顔に愛想笑いのようなものを張り付けていた。
おーいケイ、ちょっといいか
と、その時、焚き火の向こう側から、ダグマルがケイを呼んだ。
すまんが、今日の夜番と仕事の件で話がある。ちょっと来てくれ
あ、ああ、分かった
上司の呼出とあっては仕方ない、ケイはやおら立ち上がる。そして、迷ったように視線を揺らして、アイリーンの方を向いた。
―それじゃあ、ちょっと行ってくる
Честно говоря, Я не принадлежу к… あ、うん。Я не принадлежу к никакому клану в этом регионе….
ちら、とケイを見やり、しかしアレクセイとの会話を継続するアイリーン。
ケイは、一瞬だけ―アレクセイが、面白がるような表情を向けてきた気がした。
…………
何とも言えない、疎外感のようなもの。
それを、ぐっと、腹の奥底に追いやって、ケイは二人に背を向けた。
†††
ぱちぱちと爆ぜる焚き火の明かりを、エッダはつまらなさそうな顔で眺める。
…………
ちら、と焚き火の向こう側に目をやった。
小さな木の下で、親しげに語り合うひと組の男女。
アイリーンと、アレクセイ。
……魔法、見せてくれるって言ったのに
ちぇ、と唇を尖らせる。実は先ほどからエッダは、魔法が披露される時間を待っているのだが、アイリーンたちの話が一向に終わる気配を見せない。
直接頼みに行こうか……とは思うものの、アイリーンと話している革鎧の青年が、どうにも恐ろしく感じられた。顔つきのせいか、雰囲気のせいか。あるいは―どうやら彼が、雪原の民であるらしいためか。
(でも、お姉ちゃんは、別に怖くないもんな)
雪原の民の言葉を、流暢に話すアイリーン。それでも彼女には、『優しいお姉さん』という印象しか抱かなかった。
だが、その相手の男は、何だか怖い。粗野な獣というか、そんな雰囲気を感じる。
(……もう一人のお兄ちゃんは、怖くないのにな)
昼からアイリーンとずっと一緒に居た黒髪の青年は、まだ優しい瞳をしていたのに、と。
しかし、その黒髪の青年も、今はテントの中にいる。
先ほどダグマルと話しているのを小耳に挟んだが、彼は今晩、遅くに夜番を担当するらしい。それに備えて、早目に睡眠を取るとのことだった。
寝る前にアイリーンに挨拶をするも、あまり相手にしてもらえず、すごすごと寂しげにテントに入っていく様は、まるで餌を取り損ねて巣穴に戻る熊のようだった。
(お兄ちゃんとお姉ちゃんは、どういう『関係』なんだろう?)
ふと、エッダはそんなことを考えた。
― 友達 なのか。
―あるいは、 恋人 なのか。
ただの友達にしては親しげだったわ、とエッダはにらむ。ませた興味と、純粋な好奇心のままに、エッダは二人の仲を夢想する。
……うーん
首を傾げて空を見上げるも、そうしている間に眠気が襲ってきて、最終的には ま、いいや と軽く流した。
……エッダや。そろそろ、おねむかい?
ふわり、と暖かいものに包まれる。
……おばあちゃん
振り返るまでもなく、分かる。だぼだぼのローブ、皺だらけの細い腕、ふんわりとしたお日様の残り香。背後から、ハイデマリーに抱き締められているのだ。
まだ、眠くないもん
ふぇっふぇ、そうかいそうかい
強がるエッダに、ハイデマリーは、ただ小さく笑った。
……ねえ、おばあちゃん
ううん?
雪原の民っていうけど、『雪原』ってどんなところなの?
……そうだねぇ
膝の上に座るエッダの髪を撫でながら、ハイデマリーはしばし考える。
雪原は、“公都”ウルヴァーンよりさらに北、国境を超えた『北の大地』に広がる地域で、山々に囲まれた険しい土地じゃよ。まあ、とてもとても、寒いところじゃ。夏は涼しいが、冬は長く、厳しい。そこに住まう人々、雪原の民は、その環境にも負けない強い人々と聞く
へぇ。でもなんで、その人たちは、そんな寒いところに住んでるの?
遥かな太古の時代には、緑豊かな土地であったとか……何故、今も住み続けているか、といえば、やはり先祖から受け継いできた土地だから、かのう
ふぅん
……ああ。それに、彼らの使う秘術も関係するかもしれん
ひじゅつ?
―『紋章』、と呼ばれておる。多大な命の危険を代償に、獣の魂をその身に宿し、人とは思えぬような力を発揮する業、らしいんじゃが。詳しいことは、わたしも知らないよ
魔法みたいなものなのかな
エッダの独り言のような問いに、ハイデマリーは小さく唸る。
雪原の民の一族でも、限られた人間しか使えぬそうじゃ。ただし、その使い手に『紋章』を贈られた戦士は、普通の戦士とは比べ物にならないほどに強くなる、ということだけは確かじゃの
知ってるの?
昔、のぅ。一度だけ、『紋章』を刻まれたという、雪原の民の戦士に会ったことがある。それはそれは、鬼神の如き強さじゃった。『北の大地』には、そんな戦士がごろごろいるんだとか
ハイデマリーの言葉に、エッダは目を輝かせた。
すごいなー、行ってみたい
ふぇっふぇ、それは少し、危ないかもしれんのぅ
指でエッダの巻き毛をとかすようにして、ハイデマリーはゆっくりと頭を撫でる。
かの”戦役”より昔、その『紋章』の秘術を巡って、公国は雪原の民に戦争を仕掛けたんじゃ。今では、“戦役”のせいで、公国内では殆ど忘れられておるがの。殴った側はすっかり忘れても、殴られた側はその痛みを忘れない―かの地では未だに、公国に対する深い恨みが残っていると聞く
そう、なんだ
曖昧に頷いたエッダは、
……むずかしいね
ぽつりと、小さく呟いた。
そうだね、エッダには、少し難しいかもしれん。みんな、大人のすることじゃよ
……じゃあ、わたしも、大人になったらするの?
ふぇっふぇっふぇ。それは、エッダ次第だねぇ
頭を撫でられる心地よさに、身を任せたエッダは、ふぁ、と小さくあくびをする。
さあさ、エッダや。夜はもう遅い……そろそろお眠りなさい
……まだ眠くないもん
ふぇっふぇ、そうかい
ハイデマリーは、ただ小さく笑った。
夜は暖かく、深く、全てを包みゆく。
その闇の中に、おだやかな眠りを誘い、
しずかに、ゆったりと、すぎていった。
はい、というわけで隊商護衛編スタートです!
23. 言語
翌朝。
隊商は再び、予定よりも少し遅れて出発した。
原因は言わずもがな、ピエールの馬車だ。村の鍛冶屋に手を借りて入念に修理した結果、普通に速度を出しても問題ないレベルまで直ったものの、代わりにかなり時間を食ってしまったのだ。
何かあったら今度は置いていくぞ―というのは、隊商の長(シェフ)たるホランドの言葉である。
ガラガラガラと、車輪の転がる音。
サスケの背に揺られるケイは、何の因果か、ピエールの馬車の横にいた。
いやぁ、ケイ君が居てくれると心強いなぁ
馬車の手綱を握りながら、ニコニコと笑顔を向けるピエール。彼は二十代後半ほどの痩せの男で、見習いから叩き上げで馬車を持った若手の行商人だ。が、商売を始めたばかりで資金力がないせいか、はたまたその貧相な体格のせいか、ホランドや他の商人たちと比べると、どうにもみみっちい印象を受ける。
また何かあったら、その時はお願いするね! 頼りにしてるよケイ君
……そいつはどうも
ピエールの言葉に生返事をして、ケイは気取られない程度に小さく溜息をつく。
要は、配置転換であった。
昨日、ピエールはケイの腕力にいたく感動したようで、いざという時のフォローの為に、ケイを傍に置いてもらえるようホランドに頼んでいたらしい。そして特に断る理由を持たなかったホランドは、あっさりとそれを承認してしまったのだ。
そもそもケイとアイリーンは、元は必要とされていなかった人員、この隊商における余剰戦力だ。本来ならばただの旅人として参加するところを、コーンウェル商会のコネによって、給金を受け取れる『護衛』の立場にねじ込んでもらったに過ぎない。
つまるところホランドからすれば、ケイの配置は、割とどうでもいいのだ。それが中央であろうとも、後方であろうとも。
(―まあ、それはいいんだが、)
むぅ、とケイは難しい顔をした。じっとりとした目で見やる、数十メートル先。
スズカに跨るアイリーン―と、その横をついて歩く金髪の青年。
(……アイツが前に行かなくていいだろ!)
言うまでもない、アレクセイだ。
旅人として隊商に参加する彼は、戦士ではあるが護衛ではなく、従って給料を受け取らぬ代わりに特別な義務も発生しない。せいぜい隊商が襲撃を受けた際に助太刀をするくらいのもので、後は皆に迷惑をかけぬ限り、何をしていてもいいのだ。
今は能天気に頭の後ろで手を組んで、大股で歩きながら、楽しげにアイリーンに話しかけている。
И так, ты знаете?
Что?
Когда он был маленьким …
風に流されてくる、楽しげな二人の会話。ロシア語なので何を話しているのかはさっぱりだが、朝からずっとこの調子だった。
…………
なんとも―、落ち着かない気分。 アイリーンが誰かとロシア語で話している 、言葉にしてしまえばただそれだけのこと。しかしその”それだけ”が、気にかかって仕方がない。会話の内容が分からないからか、アレクセイが妙に馴れ馴れしいからか、もしくは―。
もしくは……。
……ふぅ
小さく溜息をつく。
もやもやと胸の奥底から湧き上がる、この釈然としない感情を、どう処理したものか。孤独な馬上でケイは、ひとり頭を悩ませていた。
あるいは、ケイが二人の様子をよく観察していれば。
会話の大部分をアレクセイが占めており、アイリーンは質問を挟みつつも、基本的に相槌を打っているだけ、ということに気付けたのかもしれないが―。
どうしたんだい、ケイ君。元気がないように見えるけど
ぼんやりとしていると、横から声をかけられる。
見れば右手、心配げにこちらを覗き込むピエールの顔。
……いや、
一瞬、 お前のせいだよ! と言いたい衝動に駆られたが、頭を振ったケイは手をひらひらとさせて誤魔化した。
そんなことはない。いつも通り元気さ
そうかい?
ああ
そこでふと、昨夜のアレクセイの言葉を思い出す。
“ピエールの旦那とは個人的な知り合いでな”
……なあ、ピエール、ひとつ聞きたいんだが
ん? なんだい? 僕が知ってることなら、何でも聞いておくれよ
人懐っこい笑みを浮かべるピエールに、悪い奴じゃないんだがなぁ、と苦笑しつつ、
昨夜、アレクセイが言ってたんだが、あなたは彼と個人的な知り合いなんだろう? どんな風に知り合ったんだ?
ああ、アレクセイか。彼はね、僕の命の恩人なんだよ
命の恩人?
思わぬ言葉が飛び出てきた。興味深げなケイをよそに、ぴょるん、とした控え目なカイゼル髭を撫でつけながら、ピエールはどこか遠い目をする。
二年前のことだったかなぁ。僕がまだ見習いだったときの話さ。師匠の馬車に乗って、モルラ川より東で行商をしてたんだけどね、街道からちょっと外れたあたりで、盗賊に襲われてさ
ほうほう
後方から、弓矢の奇襲だったかな。それで運悪く、二人いた護衛の片方が即死、もう片方も怪我しちゃってね。……一応、ほら、僕ら商人も戦うからさ
ひょい、と御者台の傍らに置いていたショートボウを、持ち上げて見せるピエール。
師匠と、怪我した護衛と、僕ら見習いが何人か……。全員戦う覚悟は出来てたんだけど、いかんせん相手が多くてね。七、八人はいたと思う、しかもけっこう強そうでさぁソイツら。こりゃもうダメかな、と諦めかけた、まさにその時!
手綱を放り出して、ピエールは大袈裟に天を仰ぐ。
道の向こう側から、地を這うように、放たれた矢のように、猛然と駆けてくる少年が一人ッ! ……それが彼さ。あの時は、今より背も低かったし子供っぽかったけど、本ッ当に強かったなぁ。こう、バッタバッタと……あっという間に五人を討ち取っていったよ。残りの賊は、こりゃ敵わないと尻尾捲いて逃げていった
ほう、それは……やるな
ケイの口から漏れ出たのは、紛れもなく本心からの言葉。現在、アレクセイは十八歳ほどに見える。それが二年前の話となると、当時の彼は十六にも満たない、子供といってもいい年頃だろう。話を聞く限りでは機先を制したようだが、それでも大の大人を五人も殺害するのは、容易なことではない。
なかなかに侮れぬ―と、そう思うケイの目は鋭い。
あの光景は目に焼き付いて離れないよ。本当に強かった……それから近くの村によって、師匠がお礼とばかりに宴会をして。僕は、見習いだったから、特に何もできなかったけど。次に会った時は、何かお礼をしたいなと考えていたんだよ
そして、つい先日、サティナの街で偶然アレクセイと再会した―というわけだ。
なるほど、な……。しかし、すごい偶然だな。街道のはずれで、彼のような強者に出会い、その助太刀で九死に一生を得るとは……
だねえ、僕もそう思わずにはいられないよ
しかし、奴は雪原の民だろう? なんだってこんな辺鄙な場所に、しかも一人で?
ケイの疑問に、ピエールはしたり顔で頷きながら、
何でも、成人の儀を兼ねた武者修行の旅らしいよ。話によると彼は、優秀な戦士にのみ許される、『紋章』をその身に刻んでいるらしい
……ほう
相槌を打つケイの声が、真剣味を増した。
『紋章』は、少なくとも DEMONDAL のゲーム内においては、雪原の民が編み出したとされる秘術であった。いわゆる一種の魔術で、精霊の力を借り、野獣の魂をその身に封じて肉体を強化する業。
プレイヤーがそれを獲得するには、雪原の民の居住地を訪れ、長老より課せられる厳しい試練―課金アイテムにより難易度の軽減が可能―に打ち勝つことが必要であった。おそらく、術の形態や試練の内容は、この世界においても同じだろう、とケイは予想する。
それが余所者に開放されているかは謎だが―。
ともあれ、課金と廃プレイの併せ技により、ケイは現在『視力強化』『身体強化』『筋力強化』の三つの紋章をその身に刻んでいる。
対人戦闘において、紋章の有無は大きな能力差を生む。年端もいかぬアレクセイが、複数の盗賊相手に大立ち回りできたのも、それに依るところが大きいだろう。おそらく、『筋力強化』か『身体強化』か―運動能力を底上げする紋章を、その身に刻んでいると見て間違いない。
紋章を得た雪原の民の戦士は、二年ほど各地を放浪して、武勇を磨かなければならないらしい。二年前に僕らと別れた後、一人で鉱山都市ガロンまで向かって、東の辺境で魔物や未開の部族と戦ってたんだって。……あ、あと、
思い出した、と言わんばかりに、ピエールはニッコリと笑みを浮かべた。
アレクセイの場合、新しい血を入れるために、お嫁さん探しも兼ねてるんだってさ
……ほーう
相槌を打つケイの声が、僅かにその温度を下げた。
へっへっへ、どうしたケイ
ピエールを挟んで反対側。馬上で黙って話を聞いていたダグマルが、ケイの顔を見て笑い声を上げる。
そんなに気になるのか? お前の嫁さんが
面白おかしげな顔で、ダグマルは前方に、ちらりと意味ありげな視線を送った。
目を瞬かせること数秒、 your wife(お前の嫁さん) が、アイリーンを指し示していることに気付き、
別にっ、そういうわけではない
ぶんぶんと手を振りながら、早口なケイの否定に、 本当か? と笑みを濃くするダグマル。その笑顔にムッとしながら―なぜ自分がムッとしているのか疑問に思いつつ―ケイは、自分を落ちつけるように大きく咳払いをした。
―別に、彼女は俺の妻じゃないし、恋人でもない。そもそも俺たちはそ(・)う(・)い(・)う(・)関係じゃないんだ
へっ?
ケイの言葉に、ダグマルが気の抜けたような声を出す。
……つってもお前、あの娘と一緒のテントで寝てるだろ
まぁ、それは、そうだが……
返す刀のダグマルの指摘に、渋い顔をする羽目になったのはケイだ。
昨夜、ケイとアイリーンは、同じテントの中で眠った。
夜番の関係でケイが先に眠りについたこともあり、揃ってテントにINしたという感覚は薄いが、添い寝に近い至近距離で一緒に寝ていたのは事実だ。
一人より二人の方が色々な面で安全だから―ケイ以外に知り合いがいないから―持てる荷物の量に限りがあってテントが一つしかないから―理由は色々とあるが、少なくとも、『別々に寝る必要性を感じなかった』のは、これもまた事実といえるだろう。今まで散々、宿屋で同じ部屋を取っておいて、何を今更という話ではあるのだが。
一緒のテントで寝てはいるが……、その……、接触とか、そういうのはないぞ
……マジで言ってんのか?
ああ
重々しく頷くケイに、 理解不能 といった表情で、顔を見合わせるダグマルとピエール。やがて、ダグマルは何かを察したように、
そうか……お前、男色だったのか。今度からケイじゃなくてゲイって呼ぶわ
違うッ、そういうわけでもないッ!
サスケの上からずり落ちそうになりながら、思わず声を荒げる。
いや、だって。……なあ?
ダグマルに同意を求めるような目を向けられ、うんうんと頷いたピエールは、
あんな美人と一緒で、何もないってのもねえ、変な話じゃないか。僕はてっきり、彼女とは恋仲なのかと思っていたけど
……親しい友人ではあるが、恋人ではない
だけどよケイ、お前あんな娘と一緒に寝て、何とも思わねえのかよ?
信じらんねえ、という顔のままでダグマルがぐいと体を乗り出した。
普通、あれだけの美人が無防備にしてりゃ、突っ込むだろ? 男なら
左手で輪っかを作り、右手の指を差し込むジェスチャー。
いや、それは……
僅かに顔を赤らめて、ごにょごにょとケイの返事は、要領を得ない。
正直なところ。
ケイも男だ。
アイリーンのような美少女を前にして、何も思わないわけがない。
そしてこれは、目下のところ、ケイが直面している最大の問題でもあった。
アイリーンとアレクセイ。二人が話しているのを見ていると、胸の内にもやもやとした感覚が湧き上がってくる。
疎外感、危機感、不安感。
これらを表現するに足る言葉は、頭の中にいくつも浮かびあがる。だが、その中で最もシンプルで、かつ強力なのは、やはり『嫉妬』ではないかとケイは思う。
―では、何故こうも、嫉妬してしまうのか?
アレクセイに対するライバル意識だ、と。己の胸に手を当てて、 これが、恋……? と自問するのは容易い。
しかし、アイリーンに対して抱いているある種の執着が、果たして純粋に恋慕の情によるものなのか。
それが、ケイには分からない。疑っている、と言ってもよかった。
―あるいは、アイリーンに欲情しているのを、『恋』に昇華することで正当化しようとしているだけではないか、と。
そう思えて、仕方がない。単純に、性欲に振り回されているだけなのではないか。そのはけ口を求めるため、アイリーンを好きだと思おうとしているのではないか。
だとすれば、それは―彼女に対して失礼だと、ケイは思う。
元々、『こちら』に来る前のケイは、それほど性欲が強いタイプではなかった。
ピークは、おそらく十代半ばだろう。その後も人並にはあったのだが、末期症状の進行で生殖器にも影響が出始め、二十を過ぎたあたりから急激に醒めていった。転移直前のケイは、興味はあるがムラムラはせず、毎日が殆ど賢者タイムと言ってもいいような有り様だった。
しかし、この世界で新たな肉体を得て、十日と少しが経過しようとしている。
健全過ぎる肉体は、日に日にその欲求を増しているようにすら感じられた。サティナに滞在していたときは、人知れず自分で処理する方向で何とかしていたが、隊商には基本的にプライバシーがない。これは、非常に厳しい状況だった。
それでも、何とか耐えようとしていた理性は、アレクセイの登場により崩壊しようとしている。アレクセイとアイリーンの間に割って入りたい。自分だけを見ていて欲しい。もっとアイリーンと話していたい。そんな衝動的な欲求に、身を任せたくなる。だがその直後に、こうも思ってしまうのだ。
(俺は本当に、アイリーンが『好き』なんだろうか)
アイリーン、もといアンドレイとは、二年前からの付き合いになる。お互いに廃人で、仮想空間の中とはいえ、多くの時間を楽しく過ごしてきた。
しかし、それはあくまで『友人』としてだ。親密ではあるが、良くも悪くも、それだけの関係。ケイは、アンドレイのことを、ずっと男だと思っていた。
それが、『こちら』に来て、女の子だと分かって―。
だからといって、十日と経たずに、急に『好き』になるのは如何なものか。
(……結局、それは、身体目当てなんじゃないか……)
突き詰めていくと、そういう結論に、辿り着かざるを得ない。
う~ん……
眉間にしわを寄せて、急に難しい顔で考え始めるケイ。
…………
ダグマルとピエールは再び顔を見合わせて、小さく肩をすくめた。
†††
日が、とっぷりと沈むころ。
夕暮れまでに次の村に辿り着けなかった隊商は、街道の路肩に馬車を寄せて、野営の準備を進めていた。
この辺りは木々の密度も薄いし、それほど危険な獣もいない。が、だからこそ人間に関しては分からんからな……
夜番は、気合を入れていこう。皆を三組に分けて、ローテーションで三か所に一人ずつでいいと思うが
ホランドやダグマルなど、主だった者が集まり、今夜の番について話し合っている。横目でそれを見ながら、ハンマーを片手に、ケイは粛々とテントの設営を行っていた。
さて、今日はオレも流石に番をするのかな?
ケイがロープを結ぶ間、反対側から布地を支えながら、心なしかワクワクしたような顔でアイリーンが言う。
昨晩は村の中で野営をしたので、比較的安全だということで、夜の番は少人数で行われた。ケイは運悪くそれに当たってしまった一人だが、アイリーンは朝までたっぷりと睡眠を取れたようだ。しかし、それはそれで、本人としては不満足だったらしい、夜番があるかも、と期待する無邪気な表情は、まるでキャンプに来た子供のようにも見える。
アイリーンは変わらないな、と和んだケイは、穏やかな笑みを浮かべて首肯した。
旦那らの話を聞く限りだと、今晩は増員するみたいだからな。ま、昨日グースカ寝てた分、キツいのを回されるんじゃないか?
ゲエー。そいつは勘弁!
朗らかに笑いながら、テントを張り終える。ぱんぱん、とマントの裾をはたいて立ち上がったケイは、
さて、と……。んじゃあそろそろ飯かな。マリーの婆様は―
ヘイ、アイリーン!!
威勢のいい呼びかけに、ケイの言葉は上書きされた。
やはり来たか……とうんざりした様子で振り返るケイ。その隣で、 オイヨイヨイ…… と一瞬天を仰ぐアイリーン。
то ты будешь делать сегодня вечером?
良い笑顔でテンション高めにやってきたのは、案の定アレクセイだった。
Ничего делать …
Серьезно? В противном случае, в первую очередь мы будем есть вместе―
楽しげなアレクセイに、それに合わせて笑顔のアイリーン。そしてそれを前に憮然とするケイと、三人を遠巻きに見守る隊商の面々と。
―それじゃあまあ、ローテーションはこんなところか
そうだな。盗賊は恐ろしい、用心するに越したことはない……
相変わらず、夜番について話し合うホランドたち。その会話を聞き流しつつ、そっぽを向いて焚き火の炎を眺めていたケイであったが、ゆらゆらと揺れる影を見ているうちに、ちょっとしたアイデアと、ささやかな悪戯心が芽生えた。
…………
にやり、と意地の悪い笑みを浮かべて、アイリーンに向き直る。
『なあ、アイリーン。話し込んでるところを済まないが、ちょっといいか』
うぇっ?
アレクセイに構わず、強引に話に割り込んできたケイに、アイリーンはぱちぱちと目を瞬かせた。
『もちろんいい、けど……』
困惑の表情、
『……でも、なんで精霊語(エスペラント)?』
自分もエスペラント語で返しながら、アイリーンが首を傾げる。前にもこんなやり取りあったな、と苦笑いしつつ、ケイは腕を組んだ。
『うむ。というのも、魔術の話題だから、他人にはあまり聞かれたくなくてな』
『ああ、そういうこと。あっ、そういえばエッダに魔法見せてあげるんだった……』
完全に忘れてたぜ、と言わんばかりに、ペシッと額を叩くアイリーン。視界の端、唐突に始まった異言語の応酬に、目を白黒させているアレクセイが、ケイの瞳には小気味よく映った。
『まあ後でいいや。それで?』
『そうだな、エッダの話にも関連するが、お前の魔術に関してだ』
表情を真面目なものに切り替えて、ケイは話を切り出す。思い付きではあるが、ただのアレクセイに対する意趣返し、というわけでもないのだ。
『なあ、アイリーン。お前のケルスティンで、夜番の代わりというか、警戒用のセンサーみたいな術って使えると思うか?』
『……ふむ』
ケイの問いかけに、指先で唇を撫でながら、しばし考え込むアイリーン。
『……ゲーム内なら NO だったが……この世界だと分からない。できるかも知れない、とは思うな』
『うーむ、やはりそうか。俺も同意見だ』
『何か、こっちに来てから、精霊が賢くなった気がするんだよなー。ケルスティンの思考の柔軟性が上がったというか』
『だな、俺のシーヴも、心なしか素直になった気がする』
うんうん、と二人で頷き合う。
DEMONDAL の魔術は、他ゲーに比べると少々異質だ。日本人にとっては、“魔術”と言うよりもむしろ、“召喚術”と呼んだ方がしっくりくるかも知れない。術を行使する主体がプレイヤーにではなく、契約精霊にあるのがその特徴だ。
ゲーム内においては、まず”精霊”と呼ばれるNPCが存在し、プレイヤーは特定の条件をクリアすることで精霊と契約できるようになる。契約を交わした暁には、魔力や触媒を捧げることで、精霊に力を『行使してもらえる』ようになる、というのが基本的なシステムだ。
ゲーム内では、この仕様はよく、『職人』と『客』の関係に例えられていた。『職人』が”精霊”で、『客』が”プレイヤー”、『客』が支払う『代金』が”魔力”だ。
例えば、ここにお菓子職人がいたとする。客は これこれこういったお菓子が欲しい と注文し、代金を支払う。金が多すぎれば職人はお釣りを返し、注文されたお菓子を客に渡す―これが、 DEMONDAL における魔術の、入力から出力までの一連の流れだ。
ここでお金だけでなく、小麦粉やバターなども一緒に持って行って、 これを上げるから少し安くしてくださいな と交渉するのが、魔術でいうところの”触媒”にあたる。職人は、それが欲しければ受け取って割引するし、いらなければ受け取らず無慈悲に代金を徴収する。代金がマイナスになれば、内臓を売り飛ばされてそのまま死んでしまうが、これが魔力切れによる”枯死”だ。
ちなみに、お菓子職人のところに、板きれを持って行って お金も払うから、これで家を建ててくれ と交渉することもできる。受けるか受けないかはその職人次第、仮に受けたところで代金をボッタくられるかもしれないし、そもそも完成しないかもしれない。完成したところで専門外なので、その品質は保証できない。ただし、似たような分野のことであれば―洋菓子職人に和菓子を頼んでみる、など―案外、なんとかなる、かもしれない。
これらのプロセスを全て精霊語(エスペラント)でこなさなければならないのが、 DEMONDAL の魔術の難しいところだ。精霊は基(・)本(・)的(・)に(・)エスペラント語しか解さず、他に指示の出しようがないため、プレイヤーの語彙と文法力が術の複雑性・柔軟性に直結する。
その上、精霊のAIは意図的にアホの子に設計されていたので、精霊への指示は分かりやすく、かつ簡潔でなければならなかった。これがなかなかの曲者で、出来の悪い翻訳ソフトに上手く訳文を作らせるような、そんなコツと慣れが要求されることも多々あった。
『だけど、今はそんなことはない。なんつーか、うまく意志疎通を図れるというか、明らかにケルスティンの物分かりが良くなった気がする』
そう言うアイリーンに、ケイは重々しく頷いた。
『ああ。だから、警戒アラームみたいな高度な術も、抽象的な指示でこなせるんじゃないかと思ってな……』
仮に、ゲーム内でケイたちが望むような術を構築するならば、敵味方の判別方法や細かい範囲、持続時間など各種パラメータを考える必要性があり、プログラミングのような高度かつ繊細な『呪文』が要求されるはずだ。
だが、精霊がアホの子AIではなく、柔軟な思考が可能になった今ならば―。
『なるほど……幸い、触媒は腐るほどある。試してみる価値はありそうだな』
にやりと笑って、アイリーンは胸元から、水晶の欠片の入った巾着袋を取り出した。
よーし、じゃ、やってみるか!
ああ。ただその前に、とりあえずホランドに相談しておくか……
おう、だな!
二人は意気揚々と、ホランドのところへ向かっていく。
…………
あとには、ポカンとした表情の、アレクセイ一人が残された。
結果として。
ホランドは魔術の使用を快諾し、それに応えたアイリーンは、わずか 顕現 一回分の水晶を代償に術の構築に成功した。
具体的には、隊商の馬車群を中心に半径五十メートルの範囲で、獣や部外者が侵入すればケルスティンが影の文字で教えてくれる、という術だ。明日の朝日が差すまで有効らしいが、奇襲を受けるリスクを大幅に減らせることを考えると、素晴らしいコストパフォーマンスといえた。
とぷんと影に呑まれる水晶や、影絵のようにダンスを披露するケルスティンの姿を見て、エッダは飛んだり跳ねたりの大喜びだった。そんな娘の喜びようもあってか、今後この術式を使う際、消費される触媒代はホランドがもつらしい。水晶のストックに余裕はあるとはいえ、願ってもない申し出だ。
また、この術で夜番の労力が大幅に削減されたので、功労者のアイリーンはローテーションから外され、昨日遅めに番をこなしたケイも今日の夜番は免除となった。
夕食後、興奮気味のアレクセイが凄い勢いでアイリーンに話しかけていたので、何とも鬱陶しかったが、それほど腹は立たなかった。
比較的、穏やかな気持ちのまま、ケイは眠りに落ちていくのだった―
†††
パチッ、パチッと音を立てて、焚き火の小枝が爆ぜる。
~♪
横倒しにした丸太にリラックスした様子で腰かけ、鼻歌を歌いながら、火の中に小枝を投げ込む金髪の青年。
~♪ ~~♪
ぽきぽきと小枝を手折りながら、自身が醸し出す陽気な雰囲気の割に、鼻歌のメロディはどこか物悲しく、哀愁に満ちている。
~~♪
手元に、小枝がなくなった。手持無沙汰になった青年は、傍らに置いた砂時計の残量を確認し、ふっと視線を上げる。
…………
焚き火を挟んで反対側に、腰かける老婆と、褐色の肌の少女。
……お嬢ちゃん
にやり、と野性的な笑みを浮かべた青年―アレクセイは、語りかけた。
そろそろ寝なくっていいのか?
……まだ、眠くないの
褐色肌の少女―エッダは、後ろから自分をかき抱くハイデマリーの手を握りながら、はっきりと返した。
強がっている風、ではない。そのきらきらとした目は、馬車の幌に映し出された影に固定されている。
まるで影絵のように、くるくると踊る、ドレスで着飾った人型の影。
これ、すげえよなぁ。暇つぶしにはぴったりだ
口の端を釣り上げて、子供のように純粋な笑顔で、アレクセイは頷いた。ちらり、と見やるは、一つのテント。寝静まった、物音ひとつ立てないテント―。
しかしまさか、アイツまで魔術師だったとはね……
…………
アレクセイの呟きには、誰も答えなかった。
……~♪
退屈した様子のアレクセイは、踊る影を見ながら、再び鼻歌を歌い始める。
アレクセイ。ひとついいかの
アレクセイの鼻歌が一周したあたりで、ハイデマリーがおもむろに口を開いた。
ん、なんだい、婆さん
その歌、よい旋律じゃ……なんという名の曲なのかね
これか。『GreenSleeves』って曲だよ
……ほう? 雪原の言葉の歌じゃないのかえ
ああ。平原の言葉の曲さ
薄く笑みを浮かべ、姿勢を正したアレクセイは、すっと軽く息を吸い込んだ。
Alas, my love, you do me wrong,
To cast me off discourteously.
For I have loved you for so long,
Delighting in your company.
Greensleeves was all my joy
Greensleeves was my delight,
Greensleeves was my heart of gold,
And who but my lady greensleeves…
哀愁と、情熱と、かすかなほろ苦さ。
深みのあるテナーの歌声が、静かに響き渡る。
宵闇にまどろむ者たちを、起こさぬよう、優しく、穏やかに。
……すごーい
ぺちぺちぺち、と控え目な拍手をするエッダ。ハイデマリーもそれに続き、何度も何度も頷いていた。
まことに、良い曲、じゃ。……しかし、一度も聴いたことがない。平原の民の歌、なんじゃろう?
う~ん、平原の言語の歌だけど、雪原の民に伝わる歌だ。……遥かな昔、霧の彼方より現れた異邦人(エトランジェ)が、我が一族に遺していったと聞く
……霧の彼方?
……エトランジェ?
ああ。一口に『北の大地』と言っても、色々あるんだよ
興味津々な二人に気を良くしたのか、得意げな顔をしたアレクセイは、焚き火から燃えさしの枝を取って、地面に地図を描き始めた。
北の大地―って呼ばれてるけど、公国から見て北、って意味だからな。北の大地も東西南北で分けられるのさ。北は、延々と果てしなく雪原の続く、白色平野。夏でも雪は溶けず、その果てまで辿り着いたものはいないと言う。南、というか中央は、いろんな部族が集まってる。冬は寒いが、まあ悪くない土地だ。西は、海に近くて、かなり住み易い。塩もあるし、魚も獲れるし、交易だってできる。雪原の民同士で取り合いが起きるくらい、いいところさ。そして、東―
簡単な地図の東側を、さっと丸く囲った。アレクセイは声をひそめ、
ここは、魔の森と呼ばれている……年がら年中、いつ行っても、霧が立ち込めている不気味な森なんだ……
今までの陽気な調子とは打って変わって、おどろおどろしい声色の語りに、エッダがはっと息を呑んだ。
賢者の隠れ家……悪魔の棲む森……いろんな呼び名があるけどな。一つ確かなのは、ここが本当に、ヤバい場所だってことだ……
……どう、どうヤバいの?
恐れ慄くようなエッダに、難しい顔をしたアレクセイは、しばし呼吸を溜めてから話し始める。
……これは、俺のじい様から聞いた話だがな
まるで寒さを堪えるように、二の腕をさすりながら、
じい様が若かったとき……、やっぱりほら、男だからよ。自分の勇敢さとか、そういうのを証明したくなったらしい。十歩入れば気が狂う、とまで言われる霧の中にどれだけ入っていけるか、試してみようとしたらしいのよ。
だが、じい様は、魔の森のヤバい噂は色々と聴いててな。やれ、方向感覚を失わせる火の玉だとか……やれ、人間の声を真似て道を誤らせようとする化け物だとか……そういうのに対抗するために、せめて道にだけは迷わないようにって、ロープを持っていくことにしたんだと
アレクセイは、ひも状の何かを腰に巻きつける動作をして見せた。
こうやって腰にロープを巻いてさ。もう片方は、森の入口の木に、がっしり縛り付けておく。そうすれば、ロープの長さの分は、中に入って戻ってこれるって寸法よ。念には念を入れて、何重にも木の幹に片方のロープを巻き付けて、準備は万端、じい様は霧の中に入っていった……
祈るように手を組んで、アレクセイはしばし黙り込む。
だが……それは、入ってすぐのことだった
ごくり……とエッダが生唾を飲み込んだ。
なんと俺のじい様は……入ってすぐだってのに、小便がしたくなっちまったらしい
……えっ?
だから、小便。漏れるほどじゃあねえが、何だか気になる。って、そんな感じだったらしい。でもよ、泣く子も黙る魔の森で、立ち小便するほど俺のじい様は馬鹿じゃねえや。入ってすぐだったってこともあるし、とりあえずロープを辿って入口まで戻ることにしたのよ。それで、何の問題もなく、霧の外まで出て、さあ小便を……ってところで……、じい様は気付いちまった……
すっと、薄青の瞳が、エッダを見据える。
あれだけ……念には念を入れて、硬い結び目で何重にも括りつけてたロープがよ……ほどけてたんだと。まるで、手品みたいにな……
…………
もちろんじい様は一人だった……十歩も行かず、入って、戻っただけだぜ? 周りには自分以外、人(・)っ(・)子(・)一人いやしねえ……それだけでもチビりそうだったのに、じい様は、さらに妙なモノに気付いちまったんだ……
……なに……?
なんだかよ。結ったばかりの新品のロープが、ひどく黒く薄汚れて見えたんだと。それで手にとって、よく見てみたら……
アレクセイは、指の隙間を三センチほど開けて見せた。
こんぐらいの大きさの……手形が、びっしり……まるで手の汚ねぇ小人が、それで遊んでたみたいにな……
……!
しかもその手形……結びつけてた部分だけじゃなかった……よくよく見れば、ほどけた先から、辿って……辿って……自分が腰につけてる方まで、びっしり……それでじい様は、『まさか!』と思って、腰のロープを急いでほどいたんだ。すると……
……、すると……?
案の定……、腰んとこまで、手形は辿り着いてやがった……。急に、恐ろしくなったじい様は、もう死に物狂いで、着てた革鎧を脱ぎ棄てた……そしたらよ、
アレクセイの瞳は、まるで死んでいるようだった。
鎧の。背中一面。手形がびっしり。ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた……
…………
じい様は言ってたよ。あの時もし、小便に戻ってなかったら……全身に手形をつけられてたら、自分はどうなってたんだろう、って……
…………
ぱちっ、と焚き火の小枝が、爆ぜた。
……それ、ほんとなの……
消え入りそうな声で、エッダが尋ねる。アレクセイは真顔で、 ああ と頷いた。
これに関しては、与太話でも何でもねぇ。少なくとも『手形』は本当にあった話だ。なんで断言できるかっつーと、俺も現物を見たからだ。俺のじい様は、勇敢にも、そのロープと革鎧を家まで持って帰ってきたんだよ
えっ
気味が悪過ぎて何度も捨てようかと迷ったらしいが、これがないことには証拠にならねえから、と気合で家まで運んだらしい。途中で恐ろしい目にもあったらしいがな……まあ、それはまた今度にしておくとして
もっ、もういい! もういいよ!
泣きそうな顔で、ぷるぷると首を振るエッダ。
まあ……そういうわけで、魔の森はマジでヤバい。踏み入った者の半分は、帰ってこねえ。帰ってきたとしても、大抵のヤツは頭がおかしくなっちまってる。霧の中は、化け物や、この世ならざるものが、ウヨウヨしてんのさ……
アレクセイはぶるりと体を震わせた。
だから俺も、霧の中にだけは、絶対に立ち入らねえ。この世ならざるものなんて……どうやって太刀打ちすりゃいいんだか……恐ろしい。……っつーわけで。ってか、なんでこんな話になったんだっけ
霧の……エトランジェの話じゃなかったかの?
あっ、そうだそうだ、そうだった!
ハイデマリーの指摘に、ぱんっと膝を打ってアレクセイ。今までの空気を払拭するように、つとめて明るい声を出す。
まーそれで、魔の森な。あれの唯一の良いところは、中の化け物どもが外に出て来ねえってとこだ。裏を返せば、霧の中から出て来る奴は、化け物じゃあない、多分。言い伝えによると、『入ってないのに出てくる異邦人』ってのがいるらしい。どこか、遠いところから、霧の中に紛れ込んじまった奴ってのがな……
それが、例の歌を遺していったのかえ
そうさ。まあ、かなり昔のことらしいから、本当かどうかは分からねえけどな……
俺は現物を見ないと信じないタイプでね、とアレクセイは肩をすくめた。
……ま、そーいうわけで。お嬢ちゃん、そろそろ寝た方がいいんじゃねえか
すっかり大人しくなってしまったエッダに、苦笑いしながらそう尋ねる。
……おばあちゃん
心細げな表情で、ハイデマリーを見やるエッダ。ちょいちょい、と何かを求めるように、ローブの袖を引っ張っている。
はいはい。一緒に寝ようかね
うん……
ハッハッハ、良い子はおやすみ。ま、霧の化け物は、魔の森から出てこられねえ。お嬢ちゃんには害はないから、安心しな
うん……。お兄ちゃん、おやすみ……
しょんぼりとした表情のまま、ハイデマリーにしがみついて、エッダは荷馬車に用意された寝床へと入っていった。
……さて、暇だ
砂時計の砂は、まだ余っている。一人きりになって、改めて時間を持て余したアレクセイは、とりあえず暇潰しの為に馬車の幌へと目をやった。
ん、あれ? いねえ
が、先ほどまで踊っていたはずの影絵の貴婦人は、どこにも見当たらなくなっていた。
それじゃあエッダ、おやすみ
おやすみ、おばあちゃん……
馬車の中、ハイデマリーと隣り合わせで、エッダは頭から布団をかぶっていた。
…………
隣に感じる、ハイデマリーの温かさが心強い。が、今日聞いた話は、幼いエッダには、少々強烈過ぎた。
もし、布団の外側に、『手形』が来てたらどうしよう―。
そんな、根拠のない恐怖に駆られ、なかなか顔を出すことができない。
しかし、季節は初夏の、それほど寒くはない夜。頭を出さずに布団の中に潜り込んでいると、当然のように、暑くなる。
(……大丈夫だよね、お兄ちゃん、お化けは森の外に出れないって行ってたし……)
暑さには代えられず。どうにか自分を励まし、勇気を奮い立たせたエッダは、ぎゅっと目を瞑ったまま布団から顔を出した。
頬を撫でる、ひんやりと心地の良い夜気。くふぅ、と息を吐き出し、蒸れていない新鮮な空気を楽しむ。
…………
徐々に、眠気が襲ってきた。そうだ、今日は魔法のせいで、少し夜更かししていたんだと。そんなことを考えつつ、うつらうつらしていたエッダであったが―。
ふと、何かの気配を感じ。
半覚醒状態のまま、目を開いた。
視界に飛び込んできたのは―黒。
馬車の幌をびっしりと埋め尽くす、黒く小さな手形―
―きッ!
くわっ、と顔を強張らせたエッダは、そのまま目をぐるりと裏返させて、気絶した。
……んっ。……エッダや。何か言ったかえ
…………
……寝言かえ……
…………
あとには、悪戯を終えてくるくると踊る、影絵の精霊だけが残った。
ちなみに、元々DEMONDALの開発会社は精霊語をラテン語にするつもりだったのですが、ラテン語が難しすぎて心が折れ、急遽もっとシンプルで例外規則のない、人造言語な(=ネイティブがいないのでスタートライン的に平等)エスペラント語をチョイスした、というどうでもいい設定があります。
決して、作者がラテン語やろうとして心折れたわけじゃありません。ほんとですよ! ……ほんとですよ!
24. Yulia
ぼんやりと、薄暗い。
木のポールに支えられた布地を眺めて、自分がふと目を覚ましていることに気付く。
テントの中、ぱちぱちと目を瞬いたケイは、小さく欠伸をしながら上体を起こした。
(……朝か)
入口の布の切れ間から漏れ出る、蒼ざめた冷たい朝の光。おそらく、太陽もまだ顔を出していないような早朝だろう。空気の流れが微かに肌寒く、テントの布越しに鳥たちの鳴き声が聴こえる。
眠気を払うように頭を振って、ふと傍らに目を落とした。テントの支柱を挟んで反対側、アイリーンがマットの上に身を横たえている。上着を丸めた即席の枕に、ほどかれて広がる金髪、その寝顔はすやすやと健やかで、自分の身体を抱えるように毛布にくるまっていた。
体が丸まっているということは、少し、寒いのだろうか。そう思ったケイは、自分の毛布をはぎ取り、そっとアイリーンに掛けてやった。
……んぅ
もぞもぞと身じろぎをして、軽くポジションを変えるアイリーン。起きたかな、と一瞬身構えるケイであったが、アイリーンはそのまま毛布を手繰り寄せ、顔を埋めて幸せそうに眠り続ける。
……ふふ
思わず、笑みがこぼれた。出来ることなら、このままずっと寝顔を眺めていたい気分。しかし、目を覚まさないのをいいことに、乙女の寝顔を覗き見るのも如何なものかと思い直し、鋼の意志で視線を引き剥がした。さもなくば、目のあたりにかかった髪を指で払ってあげたい、白磁のような頬に触れてみたい―と、そんな欲求が際限なく湧いて出てしまう。
枕元に転がしていた剣の鞘を手に取り、そっとテントの外に出た。
ひんやりと、湿り気を含んだ風が頬を撫でる。白んだ空、たなびく巻き雲―その卓越した視力で朝焼けの星空をざっと眺めたケイは、 今日も晴れか と小さく呟いた。
すぅ、と息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込む。しばし、呼吸を止めて、体温に馴染ませた呼気を、ゆっくりと吐き出した。
身体の隅々にまで芯が通り、力が満ち満ちていくような感覚。循環、という言葉を思い起こす。
腰のベルトに剣を引っ提げて、軽く体を動かした。起き出している隊商の面々に おはよう、おはよう と声をかけながら、モルラ川の河原へと向かう。
現在、隊商の野営地は下流に位置しているが、相変わらず川の水は驚くほど綺麗だった。水をすくって口をゆすぎ、ついでにぱしゃぱしゃと顔を洗うと、水の冷たさに眠気の残滓が洗い流されていく。現代の地球では有り得ないほどに透き通った水面には、小魚の泳ぐ姿が見て取れた。上流のサティナのような大都市が、下水道を整備して汚物処理を徹底し、汚れた水を川に垂れ流さないよう気を付けている成果だろう。
基本的に、この世界では様々な技術が発達している。とある事情で火薬が存在せず、そのせいで武器こそ剣と弓のレベルに留まっているものの、冶金技術や衛生観念は、中世ヨーロッパのそれとは比較にならない。特に農業、土木建築、薬理などの分野においては、いわゆる『現代知識チート』で何とかなりそうなものは、おおよそ全て実現されている。宗教や政治などに束縛されず、自然に技術が進歩した結果だ。
……これでお手軽な魔法でもあれば、もっと楽になるんだがな
顔を洗ったは良いが、タオルを持ってくるのを忘れたことに気付き、頬から水を滴らせながら渋い顔をするケイ。こんなとき、気軽に風なり火なりを起こして乾燥させることができれば、まさしく『ファンタジー』といった感じなのだが―実際には、高価なエメラルドを一つ犠牲にする羽目になる。
しかしそんな世界、 DEMONDAL というゲームを選んだのは他でもない、ケイ自身だ。自分が好き好んでやった結果である以上、納得するほかない。
尤も、ある程度のプレイののち、異世界に転移することが確定していたならば、もっとライトなゲームをやりこんでいただろうが……
仮に他のゲームで遊んでいたらどうなっていたのか、なぜ自分たちはこの世界にきてしまったのか。疑問は尽きないが、考えてもキリがないし、生産性もない。
シャツで顔を拭ったケイは、気を取り直して腰の剣を抜いた。
ここ数日、ケイは実戦から遠のいている。
ここまで、隊商の護衛とは何だったのかと、そう思わずにはいられないほどのんびりとした旅路だった。勿論、平和なのは歓迎するべきことだ、ゲームと違って本当に命の危険があるのだから。とはいえ、その間に腕が鈍るのも頂けない。平和とは即ち、戦いに備える時間のことを言うのだ―
真っ直ぐに、虚空に剣を突き出す。刃を盾とした、防御の構え。
朝もやの漂う川のほとりで、空気が鋭さを増していく。その黒い瞳は、ありし日に戦った誰かを視ていた。前方、数歩の距離。敵意を持った存在が、焦点を結ぶ。
一瞬の静止ののち、ケイは動いた。
想定するのは、槍だろうか。長物の刺突をいなすように、ケイの剣先が揺れる。ゆるやかに弧を描く刃、巻き込むように、受け流すように。返す刀が踏み込みと共に唸る。振り下ろす動きが足の筋を断ち、ひるがえった一閃が首筋を撫でた。
ひゅん、と余韻を残し、下がること二歩、三歩。剣が突き出され、再び防御の構えが完成する。相対していた心像(イメージ)は霞がかかった朝焼けの中に、ぐらりと崩れて霧散していった。
息をつく間もなく、次。今度の相手は長剣か、上段、中段、下段と多彩な攻撃を受け流すように、滑らかな足捌きで得物を振るう。
無心。限りなくフラットな心境。
型をなぞるように、身体が動く。まとわりついた朝もやが、渦巻き、あるいは斬り裂かれる。くんっ、と剣を跳ね上げる動きは、梃子の原理で相手の武器を弾き飛ばす。すかさず、そこに叩き込まれるコンパクトな刺突。控え目にすら見えるそれは、しかしちょうど身体の中心を捉える高さ。心の臓を抉り取る、致命の一撃だ。そして流れる水が集まるかの如く、再び完成する防御の構え。
目まぐるしく、想定される状況を変えながら、ケイは身体を動かし続けた。十分にも満たない、僅かな時間。長いようで短い、それでいて濃い、そんな凝縮された空間の中で、一心に仮想の敵を斬る。荒々しくも研ぎ澄まされた、不思議な調和がそこにはあった。
しかし―それも、終わりに近づいた頃。
ぴんっ、と弦楽器をつま弾くような、微かな殺気が場を乱す。
咄嗟に、感覚の導くままに、振り向いて横薙ぎに剣を払った。
パシンッ、と音を立てて、飛来した木の枝が両断される。
なんだこれは、と眉をひそめるケイをよそに、パチパチとやる気のない音が響く。
やあ、お見事お見事
顔を上げたケイが見たのは、薄く笑みを浮かべて拍手する、金髪の青年。
―アレクセイだ。
……何の真似だ
剣を鞘に収めながら、憮然とした表情でケイは問う。急に物を投げつけられて、不快に思わない人間がいようか。
悪い悪い。あんたの剣が、あんまりにも綺麗だったから……突っついてみたくなっちまったのさ。俺はトランプのタワーがあったら、つい崩してしまうタイプでね
悪びれる風もなく、おどけた様子で肩をすくめるアレクセイ。しかしケイが何か反応を示す前に、すかさず言葉を続ける。
それにしても、あんたの剣はお飾りじゃなかったんだな。よほどの使い手に師事してたんだろう、見事な剣技だったよ。羨ましいぜ
……そいつはどうも
合理的だし、俺にも参考になる部分があった……けど、おいそれと他人に見せつけるような代物でもないなぁ
お前が勝手に見たんだろうが
それもそうか。ま、気を付けなってこった。世の中には、俺より悪い奴がたーくさんいるからな、何をどう盗まれるか分かったもんじゃないぜ……?
そう言う笑顔は、どこか挑発的だ。心の内に不快感が募る。
……御忠告、痛みいる。それで? 話が終わりなら、失礼させてもらうが
つれないねえ
あくまで一線を引いたケイの態度に、へらへらと笑うアレクセイであったが、その目は真剣な光を帯びていた。
……ひとつ、聞きたいことがある
アレクセイが笑みを引っ込め、ぴん、と指を一本立てる。
はっきりと言うが、俺はアイリーンに惚れている。そこで知りたいのは、彼女とあんたの関係だ。単刀直入に聞かせてもらうが、アイリーンは、あんたの女なのか
その、あまりに直球すぎる物言いに、思わずケイは言葉を詰まらせた。
……なかなか、ダイレクトな質問だな
まあな。だが俺も、こう見えて結構本気なわけよ。もし彼女があんたの女なら、こっちにもそれなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある
かつてないほどに、真摯な態度でアレクセイは言う。その真っ直ぐな視線はケイから毒気を抜き、逆にある種の誠実さをもたらした。困り顔で目を泳がせたケイは、
アイリーンは、俺の……、親しい女友達(ガールフレンド)だ。だが、恋愛関係にあるかと問われると、……難しいな
なんつーか、俺の所見なんだが。あんたら、『恋人同士』って感じはしないんだよなぁ。あんたらの関係はむしろ……、そう、ちょうど『お姫さま』と、『それを守る騎士』って間柄に見える
我ながら言い得て妙だ、とひとり何度も頷くアレクセイ。対するケイは、苦虫を潰したような顔をしていた。
……あれ。もしかして、本当にお姫様と騎士だったりする?
はっ、まさか。俺が騎士階級の人間に見えるか?
見かけで判断できるほど、人を見る目に自信はないんでね。まーそもそも、騎士サマなんざ数えるほどしか会ったことないし、お姫様に至っては殆ど見かけたことすらない。比較なんざしようがないのさ……でも、あんたら二人とも、なかなかにミステリアスだからね。だからこそ分からねえ
へらへらと笑顔を取り戻したアレクセイは、今度は何か探るような視線を向けてくる。
アイリーンが言ってた―『故郷が懐かしい』ってな
その言葉に、ケイは息を呑む。アレクセイは観察するような目を外さないまま、
それで俺は、『なら、一度帰ればいい』って言ってやったのさ。そしたら、『もう、帰れないかもしれない』って、彼女、悲しそうにしてたぜ。アイリーンは、故郷について多くを語らないが、少なくとも俺の知る部族の出ではなさそうだ。……あんたら二人とも、随分と遠くから来たみたいだな
アレクセイの口調からは、カマをかけるような、あわよくば情報を聞き出そうという思惑が端々に感じられる。が、ケイはそれよりも前に、軽いショックを受けていた。
(アイリーンは、そんなことを話していたのか……)
故郷のことなど―アイリーンのリアルに関わる情報など、ケイは殆ど知らない。ケイが知っているのは僅かに二つ、アイリーンがロシア人で、シベリアに暮らしていた、ということぐらいのものだ。
(『故郷が懐かしい』だなんて……そんな様子、全然見せてくれなかったし……帰りたいだなんて、一言も―)
―聞いていない。
ま、まあ、話せない事情があるんなら、いいんだけどな
ケイの、思いのほか深刻な雰囲気の沈黙を、どう受け取ったのかは分からないが、アレクセイは少々慌てた様子だ。
いや……別に……
そういうわけで、アイリーンがあんたの女じゃないってんなら、俺は好きにやらせてもらうぜ
曖昧に頷くケイをよそに、手をひらひらとさせながら、アレクセイは逃げるようにその場を去っていった。
沈黙したケイはひとり、河原の倒木に腰を下ろす。
水面を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせた。この、胸の内の、寂しさのようなもの。
(……詰まるところ、アイリーンも、一人の人間だってことだ)
彼女も彼女なりに考え、彼女なりに行動する。ケイのように、元の世界に帰ると、あと何年生きれるか分からない、という差し迫った事情でもない限り、郷愁の念に駆られてしまうのも当然というものだろう。
ケイは、元の世界に未練がない。両親に二度と会えないのは、残念と言えないでもないが、ここ数年はリアルで顔を合わせてはいないし、数日に一度メールでやり取りをする程度の仲だった。また、幼い頃より病室に閉じ込められていたことも相まって、故郷や文化に対する思い入れも薄い。今は元いた世界を失った悲しみよりも、新たな肉体を手に入れられた歓びの方が、大きいのだ。
その他の友人たちと連絡を取れなくなったのも、それはそれで残念だったが― ここ最近で一番仲の良かった、アイリーンが一緒にいるしな という考えに至り、ケイはそこでハッとさせられた。
アイリーンの存在が、自分の中で、大きな心の支えになっている。
その事実に、今さら気付かされたからだ。
(……もし、この世界に来たときに、アイリーンが一緒に居なかったら)
自分は、どうなっていただろうか。ケイは想像してみる。
一応、それなりに、生きていけたであろうとは思う。タアフ村のマンデルではないが、弓の腕さえあれば、傭兵なり狩人なりで生活の糧を得ることはできる。
だが、果たしてそれは、楽しい人生だろうか。
今の自分のように、この世界を楽しもうと、前向きになれただろうか。
(……いや、きっと、なれなかった)
独りなら、不安に呑み込まれていた。なぜ自分がここに居るのか、何をどうやっていけばいいのか―今でも、将来に対する懸念材料は尽きない。それを踏まえたうえで、ケイが前向きでいられるのは、同じ境遇のアイリーンという存在に、自分の悩みや不安を吐露できていたからだ。彼女の前向きさやユーモアのセンスに、どれだけ救われてきたか分からない。
それがなければ、今でも暗い夜には、独りで震えていたに違いない。
(だが……俺は、どうなんだろう)
翻って、自分の立場を考える。
アイリーンにとって、この『乃川圭一』という人間は、どういった存在なのか……。
そのことに思いを馳せると、ケイはまるで、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
サティナで、乗せてもらう船が見つからず、宿屋でくだを巻いていたとき―二人で今後のことを話して以来、アイリーンは、不安を漏らさなかった。
彼女はいつも明るく振舞っており、そしてケイは、そのことに微塵も疑問を抱いていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然だ。
(アイリーンに、不安がないわけないじゃないか……)
何をどうすればいいのか分からない、とアイリーンは言っていた。自分がどうしたいのか分からない、とも。
しかし―それだけの筈がない。家族はどうしているのか。元いた世界とこちらの世界に時間のズレはあるのか。元の世界の肉体はどうなっているのか。そもそも帰れるのか、帰れないのか。
そういった不安を前に、途方に暮れた状態のことを、 どうすればいいのか分からない と、彼女は表現していただけではないのか。
話しさえしてくれれば、いつでも相談には応じるのに―とは思わないでもないが、ケイはそこで、ある恐るべき仮説に辿り着いてしまう。
あるいは自分は、乃川圭一という男は。
もはやアイリーンにとって、悩みを打ち明けるに値しない存在なのではないかと―。
思い返すは、サティナの街での一件だ。リリーが誘拐され、その救出の是非を巡って、アイリーンと対立した夕べのこと。
勿論、ケイもリリーを助けたくなかったわけではないが、怪我や死のリスクを鑑みて、殴り込みには消極的だった。結果的にアイリーンが先行し、見事リリーを救い出したわけだが、―今となっては、あの時の自分が、みみっちく感じられて仕方がない。
結果論であるということは分かっている。また、リスクを恐れて慎重に立ち回ることが、間違いだと思っているわけでもない。
しかし―あの時、『見捨てる』という選択肢を、アイリーンは『ひとでなし』のすることであると断じた―
失望されたのか、と。
ケイは、恐れる。自分には相談せず、アレクセイには話をしていた、というのは、そういうことではないのか。実は、アイリーンは明るく見せかけているだけで、あの笑顔の下で自分を軽蔑しているのではないかと。
まさかとは思うが、そう考えると、背筋に震えが走るようだった。
締め付けられる心が、彼女には、彼女だけには嫌われたくないと、叫ぶ。
『……どうすればいい』
呟く日本語(ことば)は、誰にも届かず。ただ、陰鬱な溜息だけがこぼれる。
昨夜、精霊語(エスペラント)でアレクセイに意趣返しのような真似をしたが、こうしてみるとただ虚しいだけだ。アレクセイと、自分とを比べて、やはりネイティブには敵わないのか、と。そう思いたいような、思いたくないような、複雑な心境だった。
『俺は、どうしたいのか……』
アイリーンに嫌われたくない、というのだけは確実だが……。
考え込んでいるうちに、野営地の方から賑やかな声が聴こえ始める。
見れば、いつの間にか、太陽が顔を出していた。思ったよりも時間が経っていたらしい。もう一度溜息をついて、ケイは重い腰を上げる。
(……どんな顔をして会えばいいのか、分からなくなってきた)
この頃、―いや、この世界に来てから、ケイはアイリーンとの距離を測りかねている。しかし、今日はそれが一段と酷くなりそうだった。
朝日を受けて、川の水面がきらきらと輝く。
しかし、その煌めきはただただ眩しいだけで。
美しさとして楽しむ余裕は、今のケイにはなかった。
†††
野営地に戻ると、アイリーンは既に目を覚ましており、 グッモーニン、ケイ! といつもと変わらぬ様子で、愛嬌たっぷりに挨拶してきた。
その、『変わらない感じ』にホッとしつつも、不安感は完全に拭いきれず、ケイはどこかぎこちなく おはよう と返してしまった。アレクセイが話しかけてきたのを良いことに、どうにかこうにか、誤魔化したが。
軽い朝食を摂ってから、隊商は再び出発した。
ホランド曰く、早目に次の村を通過し、今日中に湖畔の町”ユーリア”に辿り着くのが目標らしい。
ケイはというと、昨日と同じように、最後尾のピエールの馬車の横でサスケの手綱を握っている。前方には相変わらず、スズカに跨るアイリーンと、それについて歩きお喋りをするアレクセイの姿があった。
…………
ケイはただ、黙って、それを見ていた。
次の村に到着したのは、出発してから二時間後のことだ。
昼前の、中途半端な時間帯。村人との商売のために、軽く一時間ほど滞在するそうだが、ピエール曰くこの村は『美味しい』商売相手ではないらしい。村に滞在するのも、物流のための慈善事業のようなもので、用事が終わり次第すぐに出発するとのことだった。
当然、村に居る間は、護衛たちの休み時間となるわけだが―ケイは、ダグマルに許可を取り、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“片手に、近くの原っぱに出かけることにした。
ケイ、どこに行くんだ?
……ちょっと、昼飯の準備で、狩りにな。弓も使わないと腕が鈍る
サスケに跨ろうとしたところでアイリーンに見咎められたが、動揺を悟られないように極力素っ気なく答えて、さっさと村を出る。
あまり時間をかけると、隊商の皆を待たせてしまうかもしれないので、野兎三羽と大型の鳩に似た鳥を一羽仕留め、手早く血抜きを済ませてから村に戻った。
アイリーンは、アレクセイと話をしているのではないか、と予想していたケイであったが、どうやら木陰で寝転がって昼寝をしているようだ。アレクセイは川べりで暇そうに、村で買ったらしいビワに似た果物を食べている。独りで出掛けたのは自分のくせに、その事実に少しホッとしながら、ケイはハイデマリーに狩ってきた獲物を手渡した。
……どうした、ケイ。シケた面してんじゃねえか
手持無沙汰になって、サスケの傍でぼんやりとしていると、赤い顔をしたダグマルが陽気に話しかけてくる。その手には小さめの壺、近くに寄ってみれば微かに酒臭い。どうやら葡萄酒を直呑みしているらしい。
まだ昼にもなってないぞ、いいのか、そんなに呑んで
なぁに、かまやしねえ。どうせすぐにユーリアに着くしな。それに、ここらは盗賊も獣も出ねえんだ
……馬から落っこちても知らんぞ
そこまで酔っ払いはしねえよ
ガッハッハ、と大笑いするダグマル。しかしその言葉とは裏腹に、そこそこ出来あがっているようにも見える。それほど酒には強くない体質なのか。
(酔っ払いの相手は面倒なんだがな……)
さりとて、他にやることもなし。ケイはダグマルの話に付き合うことにした。
で、ケイ。お前、ユーリアじゃ一発『買う』つもりかい?
……何をだ?
何、って。……そりゃナニをだよ
怪訝な顔をするケイに、ぐへへと下衆な顔で笑うダグマル。しかし、いつまでもケイが察さず、きょとんとしたままなので、呆れたように天を仰いだ。
なんだオメエ、知らねえのか。ユーリアといえば、屈強な船乗りや傭兵が集まる町だ。男が集まる所にゃ、女も集まる。……色街だよ、色街!
ここにきて、ダグマルの『買う』という言葉に合点がいく。
……なんだって急に、そんな話を
平静を装って返すも、興味がゼロといえないのも、ケイの辛いところだ。
別に急でもねえよ、みんな楽しみにしてるぜ? お前も、色(・)々(・)と(・)溜まってるだろうからよ、先輩の親切心よぉ
ぐへへへ……と意味深に、アイリーンが昼寝している方向を見やって、ダグマルが再び下衆な顔で笑いかけてきた。
……いや、いいよ。気持ちはありがたいが
冷静に考えると、病気とかも怖いし―と、口には出さないでおいたが、丁重にお断りする。
上玉の揃ってる、良い宿を知ってるんだが……
俺には、必要のないことだ。気にしないでくれ
そうか……
くい、と葡萄酒の壺を傾けたダグマルは、ケイに憐れむような目を向けた。
薄々そうじゃないか、とは思ってたがな。お前やっぱりアレか、不能(インポ)か
それは違うッ!
その後、やたら絡んでくるダグマルと言い合いをしているうちに、出発の時間となった。
†††
村を出てから数時間、昼食の休憩を挟みつつ、隊商は一路ユーリアへと向かう。
北に向かって進むごとに、地形は徐々に起伏のあるものへと変わっていく。草原は平野に、平野は丘に、モルラ川も緩やかに蛇行を始めた。
ダグマルはやはり酒に弱いらしく、馬の上でフラフラになっていたが、その言葉の通り旅路に支障はないようだ。日が傾く頃には、一行は湖畔の町ユーリアに到着した。
ユーリアの特徴は、なんといっても隣接しているシュナペイア湖だろう。サティナから流れてくるモルラ川と、ウルヴァーンから流れてくるアリア川。その二つが交わる交通の要所であり、物資の一時的な集積地、及び船乗りや商人に対する歓楽街として機能している。
町としての性格上、サティナに比べると開放的で、堅固な城郭などは擁していない。また、歓楽街が町の大部分を占める上に、衛兵の数も少ないので、治安はそれなりに悪いようだ。
だが、湖のそばの岩山に領主が城を構えており、城壁の中にはユーリアの騎士や傭兵が詰めているそうで、有事の際への備えは万全とのこと。
それじゃあ、明後日の昼、十二時の鐘が鳴る時に、この広場に集合だ。解散!
町はずれの広場。ホランドの声を受け、がやがやと傭兵たちが町に散っていく。隊商は、ユーリアに二日間滞在する予定だ。その間は各自宿屋に泊ることとなり、今回の場合、宿泊費は自腹となる。
よし、それじゃあケイ、オレたちも行こうぜ
あ、ああ……
ケイはアイリーンに強引に腕を引かれ、商人街の一角を歩いていた。勿論、サスケとスズカも一緒だ。
さて、厩舎のある、そこそこの宿屋となると……
きょろきょろと、周囲を見回しながら歩くアイリーン。宿屋の密集する商人街だけに、『INN』と書かれた看板は山ほどあるが、逆により取り見取りすぎてどれを選べばいいのか分からない状態だ。
見当がつかないな。ホランドの旦那に聞いておくべきだったか
かもなぁ
ケイの言葉に、ちと急ぎ過ぎたかな、とアイリーンが渋い顔をする。
結局、割高なのは覚悟で、派手な装飾がされたガチョウの看板が目印の、小奇麗な宿を取ることとなった。
ようこそ、“GoldenGoose”亭へ。お二人様で?
酒場を兼ねたそこそこに清潔なホールで、女将と思しき中年の女性が、見事な営業スマイルを向けてくる。
ああ、それと馬を二頭頼む
小間使いにサスケとスズカを任せ、ケイたちは早速部屋を取ることにした。
それで、何人部屋が空いてる?
アイリーンの問いかけに、女将が台帳を開く。ケイの顔に、緊張の色が浮かんだ。
……そうですね。二人部屋が一つと、大部屋が一つ。あと、個室も二つ空いてますよ
女将の言葉に、(来た!)と頷くケイ。
そっか、それじゃあ―
個室で頼む
アイリーンが言う前に、ずいと割り込んだ。ケイとアイリーンの顔を見比べて、不思議そうに女将が小首を傾げる。
二人部屋の方がお得になりますが?
いや、個室がいい。……アイリーンも、いいよな?
ケイは、確認の意を込めて、アイリーンを見やった。アイリーンは少し眉をひそめ、
……うん。いいけど……
それじゃあ決まりだ
どこかホッとした様子で、カウンターにジャラリと二日分の代金を置くケイ。
(これで、ようやく一人になれる……)
ダグマルの言葉ではないが、正直なところ、ケイはかなり溜まっている。ぶっちゃけた話、発散したくてたまらないのだ。
(これで二人部屋になっちまったら、かなりやりづらいからな……)
その上、二人部屋は、色々と危険だ。サティナではずっと同じ部屋に泊り、ここ数日はさらにテントでほぼ同衾状態だったが、そろそろケイの理性が限界に近付きつつある。アレクセイ由来のストレスもあって、このまま悶々とした状態が続けば、突発的な衝動に負けてしまう可能性があった。
それで、アイリーンとの、友人関係すら崩れてしまったら―考えるだけでも恐ろしい。
(元々、二人部屋だったのも、個室がなかったからだし……俺には、俺という獣から、アイリーンを守る義務がある……)
イマイチ煮え切らない表情のアイリーンをよそに、ケイがそんなことを考えていると、
アイリーン!
聞き覚えのあるハスキーボイス。ぎょっとして、ケイとアイリーンは同時に振り返る。
見れば、そこには、荷物を抱えて、満面の笑みを浮かべるアレクセイ―
よ、よぉ……
奇遇だな、アイリーン! 俺もこの宿を取るつもりなんだ
そ、そうか。それじゃ
自分たちの荷物を抱えて、そそくさと二階に上がっていく。 あ、待ってくれよ! というアレクセイの声を無視して、とりあえず片方の個室に、逃げるようにして入った。
……なんでヤツが……
ベッドの上に腰を下ろして、げっそりとした表情のアイリーン。
……イヤなのか?
う、う~ん。なんというか、ちょっと鬱陶しいな
身も蓋もないアイリーンの言葉を聞いて、しかし努めて平静に、ケイは そうか と首肯した。
でも最近、色々と話してたじゃないか
別に大したことじゃないよ
探るような言い方をするケイに、小さく肩をすくめて見せたアイリーンは、
さ、それよりケイ、ちょっと町を見てみようぜ! さっきウマそうなもん売ってる屋台があったんだ!
ちょうど小腹も空いてきたことだし、それもいいなと思ったケイは、一緒に町に繰り出すことにした。宿屋のホールでアレクセイには遭遇したが、アイリーンがそれとなく理由を付け、同行は断った。
こっちの方から良い匂いがするな
金には余裕がある。食い倒れと洒落こむか
懐の財布をいじりながら、幾分か楽しそうな様子で、ケイ。街中なので武装は解いているが、腰のケースには”竜鱗通し”を、さらに財布や宝石類も、全身に分散して身につけている。
ユーリアはサティナに比べると遥かに規模の小さな町だが、その分人口密度が高いので、道を行き交う人も多い。そして通行人が多いということは、それをカモにするスリも多いということだ。“受動感気(パッシブセンス)“に長けたケイであれば、コソ泥程度にスられはしないだろうが、万が一ということもある。海外旅行の鉄則、『貴重品は分散する』は、この街においても有効だろう。
それで、その屋台ってのは?
んーと、たしかこっちに……
二人で連れだって、商人街をふらふらと歩いていると、道端から陽気な音楽が聴こえてくる。見やれば、井戸端の小さな広場に、人だかりができていた。
あれは……?
見てみようぜ!
アイリーンがケイの手を引いて、人だかりに突撃する。ケイとしては、スリが山ほど居そうな人の群れは遠慮したかったのだが、仕方がない。
ぐいぐいと野次馬を押しのけて、中心に到達するとそれは、
……大道芸人か
ぽつり、とアイリーンが呟いた。
広場に居たのは、派手な服に身を包み、笛や太鼓などの楽器を演奏する芸人達だった。
その中心には、陽気な音楽に合わせ身体をくねらせる踊り子。ゆったりとした動きで腰を振りながら、彼女は妖艶な流し目を野次馬に向けていた。
その格好は、半裸どころか、殆ど裸といっても差し支えがないほどに扇情的なものだった。股間は腰布で隠しているものの、メリハリの利いた上半身には、御情け程度の薄布と亜麻色の髪しか覆い隠すものがない上に、覆われたところも色々と透けている。しかもそれが、リズムに合わせて、ゆさゆさと揺れるのだ。いや、むしろ、 揺らしている といっていい。
群衆の中から、踊り子の前に置かれた平皿に、次々に銅貨が投げ入れられている。下品なヤジが飛べば、薄く笑みを浮かべた踊り子は、そちらに向けて挑発的な仕草で肉体美を披露し、さらに白熱した男達が歓声を上げる。その場にいた男どもは、誰も彼もが鼻の下を伸ばしていた。
そして、不幸なことに、やはりケイも男であった。
いや、数日の禁欲を強いられた後で、このような状況下に置かれ、目が釘付けになってしまったケイを、咎めるのはあまりに酷というもの。
しかし、それでも尚(なお)、彼の失敗を挙げるとするならば、それは―
…………
傍らでムスッとした表情をする、アイリーンという少女の存在を、うっかり失念してしまったことだろう。
……ん? あれ? アイリーン?
ふと、ケイが我に返った頃には。
その隣から、アイリーンの姿は、消えていた。
†††
何だよ、何だよっ
ぷっすりとした脹れっ面で、肩を怒らせて歩くアイリーン。
不機嫌な表情のまま、“GoldenGoose”亭に戻り、愛想笑いを浮かべた女将から荒々しく鍵を受け取って、部屋に入った。
雑然と荷物の置かれた、狭い個室。
ドサッと身を投げ出すように小さなベッドに突撃し、そのまま寝転がってボスボスと枕を殴る。
……何だよ
しばらく枕を痛めつけたあと、力尽きたようにうつ伏せになって、シーツにぐりぐりと顔を埋めた。
―最近、なんだか、ケイが冷たい。
アイリーンはそう、感じていた。
一緒に話していてもノリが悪いし、ゲーム時代のような、あけすけな態度を取らなくなった。何かを自分に隠しているような雰囲気もあるし、近頃では、会話をするときに目を合わせるのすら避けているように思われる。
(なんか、暗そうな顔してるから、せっかく町に連れ出したってのに……!)
全然楽しそうにしないばかりか、笑顔を見せたと思ったらアレだ。もう、なんというか、最悪だった。
それに―腹が立つのは、アレクセイの件。
(なんで止めないんだよ。なんで何も言わないんだよ)
アイリーンはバイリンガルの英語話者だが、やはりロシア語の方が話す分には楽だ。そのため、情報収集を兼ねて、最初はアレクセイと積極的に交流を図ったが―近頃はいい加減、鬱陶しくなってきた。なので、出来ればケイと話したかったのだが、ケイはどうやら自分を避けている。そればかりか、アレクセイが自分に話しかけてくると、澄まし顔でそれを放置して何処かに行ってしまう始末。
(何だよっ、何だよ……そんなにオレと話すのがつまんないのかよ……)
しょんぼりとした顔で、枕をぽすぽすと叩く。
二人の仲がぎこちなくなったのは、いつからだろう。
アイリーンは、考える。始まりはおそらく、サティナのゴタゴタのあと―はっきりとしたのは、やはり、この隊商に加わってからだ。
サティナのゴタゴタ―そのことに思いを馳せると、アイリーンは自分の中の怒りが、しおしおと萎びていくのを感じた。
あの時―リリーの救出の是非を巡って、ケイと対立した時。
アイリーンは、自分が ひとでなし という言葉を出したことを、今では深く悔やんでいた。この言葉がケイを傷つけてしまったのは、あの時の反応からしてまず間違いない。そして傷つくということは、『人を見捨てる』という選択肢を、アイリーンが知らぬ間に取っていたということだ。
なぜ。いつ。どこで。聞いていない以上、それは知りようがない。
しかし、推測はできる。
アイリーンが把握できていないということは、『こちら』に来た直後、矢を受けて気絶していた間か、あるいは直接戦闘に関与していない、草原の民との遭遇戦での出来事だろう。タアフの村に関することか、あるいは襲い掛かってきた草原の民にまつわることか―そこまでは分からないが、何にせよ、今さらそれを咎めようとは思わない。
彼が、好き好んで人を見捨てるタイプではないことは、アイリーン自身よく理解しているつもりだ。
ケイが何を選択したにせよ、それはきっと、断腸の思いで決めたことだろう。その間自分は、逃げるか、気絶するかしていただけだ。
そんな人間に、その行為を ひとでなし と言われて、ケイが何をどう思ったか―。
(……ひょっとするとオレ、嫌われちゃったのかな)
ぶるりと、背筋を震わせる。
実は、そう考えると、辻褄は合うのだ。
このところケイが、冷たいわけも。どこか、会話にぎこちなさが漂う理由も―。
……なんでだよ
ぽつりと、アイリーンの呟きが、虚ろに響く。
狭く、小さく―
それでも、広すぎる部屋に。
はい。というわけで今回は、けっこう書くのが難しかったです。
参考資料 の方に、イメージの写真を何枚か追加しましたので、よろしければご覧ください。
活動報告でも書きましたが、諸々の事情により親バレしちゃいまして、何故かアイリーンやケイのイラスト提供を受けることになりました。うーむ。
それと今回の作中で、大道芸人たちが演奏していた音楽のイメージは、
↑こんな感じです。演奏者は、フランスのles Dragons du Cormyrというグループの方々となります。昔の文化の再現も兼ねて、雑技団的な活動をしていらっしゃるようです。
HPはこちら
いい感じの音楽だったので、思わず紹介してしまいました。
25. 湖畔
夕方、“GoldenGoose”亭の酒場。
宿泊客たちが賑やかにテーブルを囲み、酒を酌み交わしながら談笑する中。
どんよりとした雰囲気を漂わせ、ひとりカウンター席に座る青年の姿があった。
ケイだ。
目の前には、獲れたての湖の魚のムニエルや、夏野菜のスープ、柔らかめのパンにコケモモのジャム、果物の盛り合わせなど、元の世界の基準に照らし合わせても豪勢な夕食が並んでいるが、どうにも食欲が振るわなかった。ケイは先ほどから、手に持ったスプーンでスープをかき混ぜてばかりいる。
原因は言うまでもない、アイリーンの一件だ。
町中でアイリーンを見失い、慌てて探し回るも全く見つからず、まさかと思って宿屋に戻ってみれば、案の定、彼女は先に帰ってきていた。
愛想笑いを浮かべる女将に、 お連れの方はもう戻られてますよ と言われたときの、あの絶望感―。
恐る恐る、部屋の扉をノックしてみるも、返事はなく。それでも頑張って声をかけ続けてみたが、その結果、一瞬だけ顔を出したアイリーンは、
眠い!
とだけ言って、バタンと扉を閉ざしてしまった。それからは、ノックしようが声を掛けようが、取りつく島もない。
(……完全に嫌われてしまった……)
うわあああ、と頭を抱える。扉を開けた時に垣間見えた、不機嫌極まりないアイリーンの表情。現実から目をそむけるように、木のジョッキに注がれたエールをぐびぐびと喉に流し込む。美味い不味いというよりも、ただ苦いだけの液体だったが、今の自分にはお似合いな気がした。
(……どうすればいい……)
澱んだ目でスープをかき混ぜつつ、考えを巡らせるも、妙案は思いつかない。俺ってこんなに打たれ弱かったっけ、などと思いながら流し込むエール、アルコールで停滞していく思考、完全な酔っ払いの悪循環。
……お口に合いませんで?
と、カウンターの向こうにいた女将が、心配げな顔で声をかけてくる。ケイの食が全く進んでいないのを、気にかけているようだ。
いや、……そういうわけではない……ちょっと考え事を、な
そうですか。エール、お代わり注ぎましょうか?
ああ……頼む
空になったジョッキに、女将の手で壺からエールが注ぎ足される。それをちびちびとやりながら、ケイは食事を再開した。
こうやって平和な環境下で、温かく美味しい料理が食べられる―それも、仮想の味覚でなく、自分の舌で味わえる。まずは、この状況に感謝せねばならない、と思い至ったからだ。
しかし―。
(独りで食べると、なぜこうも味気ないのか)
これでは、食事というより、ただの栄養補給ではないか。独りで黙々と食べていると、食物を口に詰め込み、噛み砕き、嚥下するというプロセスが浮き彫りになってしまう。
……はぁ
最後に溜息を一つ、パンの切れ端にジャムを塗りたくって、無理やり口に突っ込み、ケイの夕餉は終了した。だが、先ほどからあることが気にかかっていたケイは、
女将
なんでしょう
何か、サンドイッチのような、時間をおいても食べられるような物はないか
ありますよ。夜食でしょうか
まあ、そんなところだ
追加で料金を支払って、ベーコンと葉物野菜を挟んだサンドイッチを作ってもらう。ついでに紙の切れ端と羽根ペンを借りて、書きつけること数語。皿とメモを手に二階へ上ったケイは、緊張の面持ちでアイリーンの部屋の前に立つ。
……アイリーン
コンコン、と軽くノックする。
…………
返事は、ない。
……その、昼間は、悪かった。ドアの前に、サンドイッチ置いとくから。腹が減ったら食べてくれ
…………
やはり、返事はなかった。ホントに寝てんのかな、と溜息をついたケイは、部屋の前にサンドイッチを置いた旨を伝えるメモを、ドアの隙間から差し込んだ。
そのまま、ふらふらと自室に戻る。
乱雑に荷物が置かれた、狭い部屋―。
この宿は、個室には備え付けのランプなどは置いてないらしい。窓から差し込むかがり火の明かり以外に光源はなかったが、強化されたケイの視力ならそれで充分だった。
どさり、と寝台に腰を下ろして、ベルトと剣の鞘、弓のケースを外し、上着を脱いで一息つく。身体の中から、緊張の糸が抜けていくような感覚。やはり、こういった安全の保証された密閉空間でないと、心からリラックスはできない。
ぼんやりと、木の板を打ち付けただけの壁を眺める。
……広い、な
ぽつり、と呟いた。
数時間前、あれだけ望んだ個室であったにも関わらず―何もする気が起きない。これでは個室を取った意味がないではないか。
(いや……部屋が共同だったら、もっと気まずいだけか)
それでも顔を合わせはする分、何らかの糸口は得られたかも知れないが。
(……考えても無駄か)
いずれにせよ、今の状況が全てだった。
考えても無駄、だから考えない。至極真っ当なロジック。
はぁ~あ
身を投げ出すように寝台に転がったケイは、何度目になるか分からない溜息をついて、そのままずるずると眠りに落ちていった。
†††
翌日。
アルコールのせいだろうか、ケイは昼前まで眠りこけていた。
う~……イテテ
ベッドで上体を起こし、額を押さえて唸り声を上げる。頭の芯がじくじくと痛み、視界がぐらぐらと揺れているようだ。昨夜は少々飲み過ぎたらしい。
取り敢えず水でも飲もうか、と身支度を整えて部屋を出る。
隣の扉を見やると、昨日置いたサンドイッチは皿ごと無くなっていた。しかし、果たしてアイリーンが食べたのか、他の客あるいは宿の従業員が持っていってしまったのかは、判断がつかない。
(……他の奴が持っていく、という可能性を考えてなかった)
やはり、昨夜の自分はアルコールのせいで思考力が低下していたらしい。万が一、アイリーンがメモを見て、ドアを開けてみたら何もなかった―などという事態が発生していたら、目も当てられない。廊下でひとり渋い顔をするケイ。
しばし、ドアの前で、アイリーンに声をかけるか迷う。
(……もう先に起きて、何処かに行ってるかも知れないしな)
自分も寝起きだし、とりあえず先に顔でも洗うか、と思い直したケイは、肩をすくめて階段を降りていった。
中庭の水桶の水で顔を洗う。そして昨日と同様、またタオルを忘れてしまったので、仕方なく便所のちり紙(ティッシュ)で水気を拭き取った。
ティッシュ―といっても、勿論これは製紙されたものではなく、『ポピュリュス』という名前の木の葉を乾燥させたものだ。本物のトイレットペーパーやティッシュには劣るものの、悪くない肌触りで様々な用途に役立つ。かくいうケイも、この世界に来てから幾度となく世話になっていた。これがなければ、この世界のトイレ事情はもっと不潔になっていただろう。トイレットペーパーに相当するものがないのは、現代人には少々辛い。
(これは本当に、 DEMONDAL 準拠で助かったな……)
手の平サイズの六角形の葉っぱを見ながら、しみじみとそう思う。
ゲーム内においても、ポピュリュスの葉はプレイヤーに馴染み深い存在だった。至る所に群生しており、入手は容易であるが、その割に需要が高くNPCに売り易いのだ。
もちろん物が物だけに、売っても大した金にはならないが、より高度な仕事を紹介してもらうための、NPCとの信頼関係の構築に一役も二役も買うのがポピュリュスの葉だった。
おそらく、 DEMONDAL の初心者が最初に手を出すお使い(クエスト)が、この『ちり紙集め』になるだろう。蛇蝎の如く嫌われる凶悪なプレイヤーキラーも、強大な傭兵団(クラン)を率いるトッププレイヤーも、かつては裸に近い格好でポピュリュスの葉を集めて回ったのだ。
(懐かしい……)
手の中の葉を眺めながら、初心者の頃を思い出して目を細める。
森で葉っぱ集めに勤しんでいたら、運悪く狼の群れに遭遇し、採取用ナイフで応戦するも手も足も出ず食い殺された思い出―
(しかしアレ、現実だったらシャレにならんな)
そう思い至って、ふと真顔に戻る。
ゲームでは、子供のNPCも小遣い稼ぎにやっている設定だったが、果たして大丈夫なのだろうか……。
そんなことをつらつらと考えながら、中庭から宿屋に戻る。が、勝手口を潜り抜けたあたりで、 おーいアレクセイ! という呼び声を耳にして足を止めた。
おー、お前らどうした? わざわざこんなトコまで
例のハスキーボイス。酒場の方から聴こえてくる。なんとなく、酒場からは死角となる階段の影に身を隠したケイは、そっとそちらに耳を傾けた。
いやさ、皆でこれから、湖の神殿に行ってみようって話でよ。お前もどうかなーと思って誘いに来たんだ
おそらくこの声は、隊商に参加していた若者のものだろう。他にも複数人の気配が感じられる。そういえばアレクセイは、他の若い見習い連中とも仲良さそうにしていたな、と思い当たる。
あー、水の精霊のな。いや、いいよ、俺は遠慮しておくぜ
お、そうか?
ここで、見習いが声をひそめる気配、
……“お姫様”、か?
ああ、そうさ
微かに笑いを含んだアレクセイの声は、いつもの薄笑いが目に浮かぶようだ。
実は俺も、神殿に行こうと思っててね。今日は天気も良いし、絶好のデート日和だろう? 今度こそ距離を縮めて見せるぜ
自信満々なアレクセイの言葉に、おお、と感心したような声を上げる見習い達。
けど、いいのか? あのケイとかいう男―
なぁに、構やしねぇよ
また他の若者がおずおずと不安げに尋ねるが、アレクセイは鼻で笑い飛ばした。
本人が『自分の女じゃない』って言ってたんだ。なら遠慮することはねえさ
そうか、ならいいだろうが……
っつーことはアレクセイ、もう姫様と約束は取り付けたのか?
うんにゃ
カコン、とテーブルの上にジョッキを置く音。
朝からずっとここで張ってるんだがねぇ、お姫様はぐっすり眠られているようで……いつまで経っても起きやしねえ
朝からって……もう四時間も待ってんのか?
六時の鐘の前から待ってるから、もう五時間は過ぎたな……酒が進んでいけねえや
お、おう……
心なしかその声に、同情の色が滲む見習い達。
流石の俺も、待ちくたびれてきた。そうだ、お前らも座れよ。退屈しのぎに付き合ってくれんなら、酒の一杯でもおごるぜ
おっマジかよ。それなら遠慮なく
アレクセイの申し出に、ガタゴトと椅子を引く音が連続して響く。
よーし、そんじゃあどんどん頼め
自分は、とりあえずエール
葡萄酒で
ぼくは蒸留酒ストレートで~
オイオイ高いのはナシだぜ!
昼前、閑散としていた酒場が、にわかに騒がしくなる。
…………
気が付けばケイは、逃げ出すように、勝手口から外に出ていた。
歩く。
ずんずんと突き進むように。
当てがあるわけではない。
ただ、衝動に身を任せて、猥雑な裏通りを行く。
その表情は、煮え切らない。
悔しさと、苛立ちと、―ある種の怒りが、混じり合っているような。
(……アレクセイと比べて、俺のこの情けなさは何だ)
そんな気持ちが、胸の内で煮え滾る。
なぜ、自分はこうも肩を縮めるような生き方をしているのか。
(……そもそも俺は、こんな無駄に禁欲的な人間だったか)
―いや。
少なくとも今までは、一つのことをいつまでも抱え込むような真似はしなかった。
勿論、ゲーム時代と今とでは事情が異なるし、考えなければならないことは多い。
しかし、それに囚われたまま塞ぎ込んでしまうのは、また何か違うような気がする。
(あの、アレクセイの潔さを見ろ)
折角、この世界に来て新しく肉体を得たというのに。
もっと今の生を楽しまなくてどうする―。
……はぁ
―とは、思うものの。ケイは小さく溜息をついた。開き直って行動を起こそうにも、現状、アイリーンとは断交状態にあることを思い出したのだ。
(まず何よりも先に、アイリーンの機嫌をどうにかしないと……)
何をどうすれば良いものか。仮に、現時点で嫌われてしまっているならば、ここから挽回するのは難しそうだ。そう考えて、思わず頭を抱えたくなる。
(……しかし、なんでアイリーンはあんなに怒ったんだ)
ここにおいてケイは、根本的な疑問に思い当たった。
今までは『アイリーンが怒ったらしい』という、事象そのものにしか気を回していなかったが、そもそも、なぜあんなにも不機嫌になってしまったのか。
心当たりといえば、やはりあの大道芸人の一座しかないだろう。正確には、踊り子の扇情的な裸身に見惚れ、鼻の下を伸ばしてしまったこと。
(だが、それで不機嫌になるということは―)
―それは俗に言う、嫉妬(ヤキモチ)という奴ではないか?
であるならば、なぜ嫉妬なんか―というのは、流石にケイでも分かる。そんじょそこらの有象無象の輩に、嫉妬の感情など抱きようがない。ある程度の『興味』の対象でなければ、引き起こされない感情。
つまり―。
(……眼中にないワケじゃない、ってこと、か)
希望的観測、という言葉が真っ先に思い浮かびはしたが。
そう考えれば、まだ―希望はある。
視界が開けた。
歩いているうちに、裏町を抜けていたらしい。
目の前に広がるのは、湖畔の景色。青く澄んだシュナペイア湖。
それほど大きくはない湖だ。帆を広げた荷船が、何隻も行き交っている。そしてその真ん中には、ぷかりと浮かぶような小島。
歩けば端から端まで、数分とかからないような小ささだ。だが、生い茂る木々の間に、白い石材で造られた建物が見える。
(そういえば……神殿だとか何だとか、言ってたな)
荷船に混じって、満杯に人を乗せた大型のボートも散見された。櫂をこぐ船頭に、ローブを羽織った旅人風の乗員たち。杖を持つ者、祈るように手を組む者、湖の水を自らに振りかける者―巡礼者、という言葉を連想した。
あれが、水の精霊を祭った神殿だ。鐘楼の鐘を三回鳴らせば、願い事が叶うって言い伝えもあってな、各地から水の精霊を信仰する連中がああやって巡礼に訪れる
背後から、唐突に。
驚いて振り返れば、そこには赤ら顔で よっ と手を上げる、ダグマルの姿があった。
なんだ、あんたか
なんだとは御挨拶だな、他に言い様はねえのかよ
何がおかしいのか、けらけらと笑うダグマル。微かに漂う酒気に、ケイは顔をしかめた。
また呑んでんのか
おうよ。好きなだけ寝て美味いもん食って、酒飲んで最後は女! これぞ傭兵の休日よ、ユーリア最高!
ヒューゥ、と歓声を上げながら、強引に肩を組んでくる。完全に酔っ払い親父の言動だ、通行人の目が痛い。
ええい、やめろ暑苦しい!
なんだよ~ノリ悪いなぁ~
ケイが無理やりその手を引っ剥がすと、拗ねたように口を尖らせるダグマル。いい歳した男にそんな真似をされても気色が悪いだけなのだが、幸いなことに、ダグマルはすぐにからかうようなニヤけ面に戻った。
で、何やってんだ? こんなトコで独りでよ
独りで、という部分が強調されて聴こえたのは、気のせいではないだろう。 うぅむ と唸り声を上げたケイは、腕を組んで湖の方を向く。
ん……何かあったのか
怒るでもなく不機嫌になるでもなく、あくまで静かな様子のケイに、ダグマルはふざけた笑みを引っ込める。引き結んだような表情の裏側に、何か変化を感じ取ったのか。
何かが『あった』訳ではないが、『あろう』とはしているな
ほう
遠回しなケイの物言いに、興味深げなダグマルはそれでも黙って続きを待つ。
アレクセイが、アイリーンをデートに誘うつもりのようだ
そいつはまた
だが幸(・)い(・)な(・)こ(・)と(・)に(・)、奴はまだアイリーンと接触できていない
……指を咥えて見逃すつもりはない、ってことか?
さも愉快、と言わんばかりにダグマルは笑みを濃くした。湖の神殿を見据えたまま、ケイは厳しい面持ちで ああ と頷く。
今まで色々と、小難しいことを考えていたが、アレクセイを見ていたら馬鹿馬鹿しくなってきてな……俺だってアイリーンと仲良くしたいし、一緒に居たいと思う。だから、俺も馬鹿になることにした
うむ、いいんじゃないか
ダグマルのニヤけ面は、いつもよりも優しげだった。
……だが、その前に一つ、問題があってな
腕組みを解いて、ケイはダグマルに向き直る。
ダグマル、相談事があるんだが、いいだろうか
おうよ。色恋沙汰と借金に関してなら、これでも経験豊富だぜ? 何でも来いよ
そいつは頼もしいな、ありがとう。実は昨日、アイリーンを怒らせてしまったんだが……ここは素直に謝った方がいいかな。それとも、蒸し返すようなことはせず、別の事でフォローした方がいいか?
……何で怒らせたかによるな
別の女の裸につい目を奪われてな……
ああ……。まあ、素直に謝っとけ。つべこべ言わずに、ストレートにな
分かった
感謝の念を込めて目礼したケイは、ぱしんと頬を叩いて、 よし! と自身に発破をかける。
それじゃあ、行ってくる
よしよし、頑張ってこい。……が、時にケイ、何かプランはあるのか?
……取り敢えず、あの神殿とやらに行ってみようかと
俺も興味あるしな、とケイは肩をすくめて答えた。
そうか。それなら、後であっちの船着き場に行くといい。赤い屋根の小屋に、格安で手漕ぎボートを貸してくれる爺さんがいる。ダグマルの紹介だとでも言っとけ
……ありがとう。耳寄りな情報、恩に着るよ
なぁに
手をひらひらとさせたダグマルは、バンッとケイの背中を叩き、そのままくるりと背を向けた。
幸運を祈る。結果報告、待ってるぜ
楽しみにしておいてくれ
笑顔でそう返し、ケイも歩き出した。
―まずは会って、話はそれからだ。
そもそもアイリーンが、まだ宿屋にいるか分からない。いざとなればエメラルドの使用も辞さないつもりだが―最近ロクな魔法の使い方してないな、とケイは苦笑いした。
ひょっとしたら、既にアレクセイに誘われているかも……と考えると、自然に足が速くなる。
来た道をそのまま引き返し、勝手口からコソコソと、足音を消して宿に戻った。
酒場ではまだ、見習い達がどんちゃん騒ぎを繰り広げているようだ。その中には、アレクセイの声も混じっている。どうやらアイリーンはまだ部屋から出てきていないらしい。
ゆっくりと階段を上り、緊張の面持ちで、アイリーンの部屋の前に立つ。
コンコンッ、と少し強めにノックした。
アイリーン。いるか
しばし待つ。
…………
返事はない。
アイリーン、話があるんだ
もう一度ノック。
アイ―
言いかけたところで、ガチャッとドアが開く。
何
無表情のアイリーンが、ドアの隙間からぬっと顔を出した。
じろり、とこちらを睨(ね)め付ける青い瞳に、一瞬だけたじろいだケイであったが、咳払いして姿勢を正す。
……昨日は、すまなかった。ごめん
ケイの言葉に、アイリーンの顔が、無表情から不機嫌にシフトした。
……話って、それだけかよ
いや、
ぽりぽりと頬をかき、泳ぎそうになる目を、努めてアイリーンに合わせる。
知ってるか。ここの湖の真ん中に、水の精霊を祭った神殿があるらしい
……聞いたことがある
なんでもその神殿には、三回鳴らしたら願いが叶う、っていう触れ込みの鐘があるそうだ。今日は天気もいいことだし、その―
ぴん、と空気が張り詰めるような錯覚、
―一緒に、行かないか
アイリーンは黙ったまま、口をへの字にした。
……二人で?
ああ、二人で、だ
ん……
ドアにもたれかかって腕を組み、そっぽを向くアイリーン。
やがて、顔をしかめたままニヤける、という離れ業を披露した彼女は、
……いく
そう言って、小さく、頷いた。
†††
行く準備をする、ということで、ケイはしばし部屋の外で待たされる。
といっても、数分後には出発となったのだが、部屋から出てきたアイリーンは 鏡があればいいのに と小さくボヤいていた。
下では相変わらずアレクセイ達が騒いでいるので、気配を殺して裏口から外に出る。
ついでに買い食いもしようぜケイ
賛成だ。実は起きてから何も食べてない
オレは干しレーズン食べたけど、さすがにちょっとお腹空いた
目抜き通りをぶらぶらと歩き、屋台や露店を見て回る。チーズを包んだそば粉のクレープ(ガレット)、切り売りされていた生ハムを塊ごと、口当たりの爽やかな甘めのりんご酒(シードル)に、ビワやさくらんぼなど旬の果物をどっさり。目についた美味しそうなものを、片っぱしから買い込んでいく。
あ、ところでケイ
うん?
……サンドイッチありがと
……おう
そんなことを話しながら。
荷物持ちはケイの役目だが、大通りを抜ける頃には、買い込んだ食料品は一人では持ち切れないほどの量になっていた。
俺たちはどうやら、かなり腹が減っていたらしい
買い食いってレベルじゃねえなコレ……下手したら一日しのげるぜ
何処で食べる?
ケイの問いかけに、アイリーンは顎に手を当てて うーん と唸った。
……せっかくだし、湖を見ながら食べたいな
そうだ、そういえばボートがあったな
そう考えたケイは、ダグマルに教えてもらった通り、町外れの船着き場に向かう。そして赤い屋根の小屋に住む老人に、手漕ぎボートを貸してもらった。
ボートのレンタル料は、僅か銅貨五枚。ちょっと贅沢な一日分の食費程度だ。聞くところによると、老人は湖で釣りをしつつ、信用できる人にだけボートを貸して、日銭を稼いで暮らしているらしい。
しかし、手漕ぎボートなんて初めてだな……
オレもだ。どうやるんだろ
小屋の傍のボート置き場。おっかなびっくりといった様子で、大型の手漕ぎボートに二人して乗り込む。最初にアイリーンが乗り込んだときは僅かに揺れる程度だったボートも、ケイが船着き場から足を掛けると、それだけでグラッと大きく傾いた。
……これ、乗っても大丈夫だよな?
一応、大の男が三人まで乗り込めるぞい。お前さん、かなり体格がよろしいようだが、それでも流石に二人分も重いということはあるまい?
引き攣った笑顔で不安げなケイを、杖をついた老人が笑い飛ばした。
ホレホレ、こういうのは思い切りが肝心よ。真ん中に足を掛けて、さっと乗ればよい
杖でピシピシと背中を突かれ、ケイは意を決して乗り込んだ。グラグラと揺れるボートに翻弄され、危うくバランスを崩して転倒しかけたが、姿勢を低くして何とか耐える。
あ、危なかった……
そんな大袈裟な
顔色の悪いケイを見て、アイリーンと老人がからからと笑う。
(いや、俺、泳ぎ方よくわからないんだよな……)
とは思ったものの。二人きりのボートがおじゃんになるのが嫌だったので、ケイはそのことは黙っておいた。
それではボートを漕ぐときは、荷船の進路を遮らないように気を付けるんじゃぞ。連中の船は重いから止まれんし、急に進路も変えられん。事故でも起こしたら、無条件で荷船側が有利になるから気を付けるようにな。それと、くれぐれも湖にゴミを捨ててはならんぞ。水の精霊様がお怒りになる
気を付けるよ
食料品を積みながら、老人からの注意を受ける。荷船に関しては気を付けなければならないが、元々、これほどまでに美しい湖だ。わざわざゴミを捨てて汚そうという気すら起きない。
食料よーし、乗員よーし
オールよーし
慣れない手つきでオールを握りながら、ケイは微笑みかけた。
よし、行こうぜ!
アイリーンもそれに、笑顔で応える。
気を付けて行ってくるんじゃぞ~
微笑ましげに目を細める老人に見送られながら。
ケイとアイリーンは、シュナペイア湖へと漕ぎ出していった。
26. 神殿
蒼く透き通った湖面に、映り込む羊雲。
初夏の日差しは高く、じりじりと肌を焼く。
それを慰撫するように、涼やかな風が吹き抜けた。
さざ波立つ水面に、陽光が煌めき散っていく。
そして。
そんな中、不格好に進むボートが一艘。
ケイー、ちょっと右に曲がってる
む……こうか?
違う、逆逆! オレから見て右!
ケイの対面、くいくい、とケイの左手側を指差すアイリーン。慣れないオールの扱いに四苦八苦しながら、ケイは左腕に意識的に力を込める。
ぐいと力強く押し動かされたオールが、水面を渦巻かせながら推力を生む。水と泡の弾ける音を立てながら、ボートは緩やかに向きを変えた。
……おっけー、真っ直ぐになった
うーむ、なかなかに難しいもんだなコレは
オールを漕ぐ手は休めることなく、ケイはしみじみと呟いた。オール漕ぎは、単純に仕事として見れば大した運動ではないのだが、普段は使わない筋肉を連続して動かすので、精神的な疲労が大きい。それに加えて、漕ぎながらだと進行方向が見えないのは、思ったよりもストレスだった。
やっぱキツい?
いやキツくはないんだが。いかんせん慣れない作業だからな
やや心配げなアイリーンの問いかけに首を振って即答する。情けないと思われたくないが故に、少し意地を張ったような答え方になったが、ケイとしては嘘はついてない。腕の筋肉が張っているような感覚はあるものの、この調子ならばあと何時間でも漕いでいられそうだった。
ちなみに、本来ならばこのような手漕ぎボートは、腕よりもむしろ上半身を動かして、体全体で漕ぐものなのだが、それを指摘してくれる熟練者はこの場にいなかった。
ま、急ぐことはない。のんびりと楽しもう
これはこれで悪くない、とケイの表情は朗らかだ。ボートの後部にちょこんと腰かけたアイリーンも、にこにこと頬を緩めている。
だな! ……でもオレはちょっと小腹が空いたぜ
そう言ってアイリーンは、ガサゴソと買い物袋を漁りだした。ケイが漕ぎ続けているのをよそに、まだほのかに温かいチーズ入りのそば粉のクレープ(ガレット)を取り出し、これ見よがしにパクついて見せる。
んん~、うまい!
頬に手を当てて幸せそうなアイリーン。本当に美味しそうな顔をする。ぽやぽやという効果音すら聴こえてきそうだ。
あっ、フライング……
だってお腹すいたもん
船着き場の近くから湖の真ん中あたりまでは、荷船がせわしなく行き交っていて危ないので、神殿の近くに着いてから食べ始めようという話だった。が、そのことはもう忘れることにしたのか、 一口つまむ というレベルではなく、アイリーンはガツガツと食べ始めている。
俺も食べようかな
かく言うケイも、起きてから何も口にしていない。腹の虫の鳴き声が大きくなるのは、時間の問題だ。
ふふふ、残念ながらそれはできない!
が、意地悪な笑みを浮かべたアイリーンが、買い物袋をずるずると自分の方へ引っ張る。
ケイは漕がないとダメー
ええー……
だってこんなトコでボヤボヤしてたら危ないぜ? ほら、言ってる間に前から荷船っ、こっちに曲がって
ガレットを持っていない方の手で、ケイの右手側を指し示すアイリーン。ちらりと振りかえって見れば成る程、前方から大型の荷船が向かってきている。
買い物袋とアイリーンとを見比べ、しょんぼりとお預けを食らった犬のような顔をしたケイは、仕方なくオールを漕ぎだした。
俺もお腹空いたな……
荷船とすれ違いながら、いじましく空腹を訴えるケイ。自分のガレットを口に詰め込んで、 やれやれ と肩をすくめたアイリーンは、
しょうがないなー。ケイも食べていいぜ
口をもごもごとさせながら、買い物袋を漁る。そして タ・タ・ター! と謎の効果音を口ずさみながら、もう一つのガレットを取り出してすっとケイの口元に差し出した。
はい、コレ
お、サンキュ
何の考えもなしに、目の前のガレット(エサ)にかぶりつく。
ん、美味い!
ふふふ、だろー?
思わず二口、三口と続けて食べてしまうケイに、まるで自分が作ったかのように、得意げに胸を張るアイリーン。
しかし、
ヒューッ! お熱いねぇー!
見せつけてくれるじゃねえか!
突然の冷やかすような声に、二人して動きを止めた。
見れば後方、先ほどすれ違ったばかりの荷船。
船尾に船乗りたちがゾロゾロと押しかけて、身を乗り出すようにこちらを見ていた。アイリーンが振り返った瞬間、その美貌に囃し立てる声が過熱する。
デートかーぁ? 若いねーッ!
お嬢ちゃーん! あとで俺とお茶しなーい!?
一瞬、きょとんと顔を見合わせた二人であったが、―すぐに 今の自分たちがどう見られているか を自覚して、ぱっと目を逸らした。
いそいそと後ろの席に座り直すアイリーン。黙ってオール漕ぎを再開するケイ。相対速度の関係で、騒がしい船乗りたち(ギャラリー)はすぐに遠ざかっていった。
…………
明後日の方向に目を泳がせつつも、互いに互いの様子を探り合うような、そんな沈黙がその場に残される。
アイリーンを視界に収めつつ、透き通る水面を眺めていたケイは、
……ここは、本当に水が綺麗だな
まるで独り言であるかのように、ぽつりと呟いた。
そうだな、オレも同じこと考えてたよ
ごく自然な様子で、アイリーンも相槌を打つ。そのまま船べりから少し身を乗り出して、何処どこまでも蒼い湖を覗き込んだ。
まるで底まで透けて見えるみたいだ……
ゆらゆらと揺れる水面―ケイがオールを止めると、鏡のようになったそこに、アイリーンの顔が浮かび上がる。慣性でゆっくりと、波紋を広げながら進むボート。
ケイの目だったら、底が見えたりする?
ふと顔を上げて、アイリーンは無邪気に問いかける。
さっきまでは見えてたけど、もう見えない。ここらは深いらしいな
そっかー。大体何mくらいありそう?
ぱっと見た感じ、最後に見えた所は水深8mはありそうだった
へぇーけっこう深いんだ
そんな他愛のないことを話していると、ボートはいつしか、小島の傍にまで辿り着いていた。船着き場から少し離れた、神殿へ続く白亜の階段を眺められるポイントで、船底に食料を広げて遅めの昼食と洒落こむ。
そういえば、前にマリーの婆様が言ってたな。シュナペイア湖の伝説
ナイフで生ハムを薄く切り取りながら、アイリーンが言った。
伝説?
そう。何でも、
口の中の肉をりんご酒(シードル)で流し込んで、
この湖のどこかに、船が沈んでいるらしい。それも、金銀財宝を満載した状態で、な
ほう……事故か何かか?
いや、水の精霊に沈められたそうだ
遥か昔、シュナペイア湖のほとりで暮らしていた住人達は、我が物顔で水を使いゴミを捨て、あるいは汚水を垂れ流して、湖を汚し続けていた。
しかしある日、湖の穢れに我慢しきれなくなった水の精霊が、怒り狂って湖に渦を巻き起こした。
湖を行き交っていた船やボートは片っ端から渦に呑まれ、そのまま水底に引きずり込まれてしまった。
さらに用水路を逆流した水は田畑を押し流し、作物を全て駄目にしてしまったという。
作物がやられ、飢えに苦しんだ住人達は、それ以来決して湖は穢さぬと心に誓った。そして精霊の怒りを鎮めるために、湖の真ん中の小島に神殿を建て、崇め奉ってきた―って話らしい
で、その時の船の中に、財宝を積んだ奴があった、と
だな。婆様曰く、水の精霊が怒って湖中の船が沈められた、ってのは大体200年くらい前のことで、歴史書にも記されている事実らしいぜ。ただ、その中に、本当にお宝を積んだ船があったのかどうかは、正確な記録が残ってないんだってさ
まあ、伝説ってそんなもんだよな
小さく肩をすくめ、アイリーンの手元のりんご酒を手に取って喉を潤す。
しかし、浪漫は感じるな。金銀財宝そのものには、それほど興味はないが……『宝探し(トレジャーハント)』という言葉の響きが良い
同感だぜ
うむうむ、と二人で腕を組んで頷き合う。
元々ケイもアイリーンも、こういった夢のある話は大好きだ。ゲーム時代から面白そうな噂を小耳に挟めば、取り敢えず現地に突撃するのが常だった。勿論、それで痛い目にもあってきたが、多少非効率であっても物事を楽しむのが、二人のスタイルだった。
ケルスティンの魔法でどうにかならないか?
オレも今、ちょうど同じこと考えてたんだよ。湖の底を 探査 すれば船の残骸くらい見つかるかもって
ケルスティンは影の精霊だ。 探査 で水中の影を描写させれば、最新のスキャンソナーに勝るとも劣らない精度で水底の地形が把握できる。
問題は触媒の量と、見つけたところでどうするか、か
うーん。水晶は、このぐらいの広さの湖なら、5kgも揃えれば足りると思うけど
さくらんぼをもぎ取りながら、アイリーンが湖を見回した。
でも、仮に見つかったとして、船の残骸をどうやって引き上げようか
ゲームなら問答無用で潜るがな。……いや、こっちでも可能、か?
水底を覗き込みながら、ケイ。『紋章』で強化された、自身の身体のスペックを考えての発言だったが、それと同時に、水泳に馴染みがないからこその無謀な考えでもあった。 いや、 とアイリーンが即座に否定する。
湖の底の方は、水が物凄く冷たいらしいぜ。たまに湖で泳ぐ人が、冷たい水の流れにやられて、低体温症で死んじまうって話を聞いたことがある。リアルでやるのはやめといた方がいいんじゃね?
そうか……第一、深さも分からんしな。作業用の機械なんてものはないし、潜水服なんてもってのほか……
水系統の魔術師でもいれば、話は別なんだろう、けど……
『水の精霊の神殿』とやらに、自然と二人の視線が引き寄せられる。
……いないかなー、魔術師
うーむ。しかしアイリーンのその『伝説』を聞く限りでは、ここの水の精霊は上位精霊っぽいからな。とてもじゃないが契約できんだろ……
だよなー
揃って不満げに口を尖らせる二人。
DEMONDAL では、精霊は大雑把に下位から上位の三段階に分けられていたが、基本的に『上位』とされる精霊たちは、決まった位置に出現する代わりに契約のため無理難題を吹っ掛けてくる、もはやNPCに近い存在だった。プレイヤーが契約できるのは実質的に中位以下の精霊であり、上位精霊の提示するゲームでさえ厳しかった条件―“飛竜(ワイバーン)“の目玉を10個もってこい、だとか―が、この世界の住人に達成できるとは到底思えない。
ちなみに、ケイが契約するシーヴは中位精霊、アイリーンのケルスティンは下位精霊に分類されている。
まあ、水系統の使い手がいたら、とっくの昔に引き上げられてるだろうな
確かに。そもそもオレが 探査 したところで残骸が見つかるとも限らねーし
お宝は無かった……なんて分かった日には興醒めだ。伝説は伝説のままにしておいた方が、夢がある
だな。やめよやめよ
そんなことを話しているうちに、ケイたちはあれほどあった食料を、すっかり食べ尽くしていた。膨れたお腹をさすりながら、胃のスペースを確保するように、二人揃ってだらしなく体勢を崩す。
うぅ……お腹いっぱいだ……もう食べられない……
食ったなぁ。美味かった
頷くケイの言葉には、万感の想いが込められている。
アイリーンと会話しながらの食事。昨夜の孤独な晩餐とは違い、味よりもむしろ話そのものに集中していたのに、ケイの心は『美味しかった』という幸福感に満ち溢れていた。
やはり食事はこうでなければ―と、最後に残ったりんご酒を少しずつ味わう。
ねむい……ふぁ
上品にあくびをして、こてんと船底に寝転がるアイリーン。
あくびって感染するよな
湧き出た眠気を噛み殺しながら、ケイは背伸びをして空を見上げた。
今日は、いい天気だな
だなぁ。……ねえ、ケイって、昼間でも星が見えたりする?
ああ。見えるぞ
マジか。いいな~どんな風に見えんの?
どんな風……と言われてもな。白い点がぽつぽつ、って感じか。それほど綺麗じゃないし、夜みたいに小さな星は見えない
へぇ~『視力強化』ってスゲェな……
寝転がったまま、アイリーンは頭の上に手をかざして、青空に目を凝らす。暫くそうやって、見えもしない星を眺め続けていたアイリーンだが、だんだんとその瞼が下がっていき、終いには、
……くぅ
小さくいびきをかき始める。
しばらく、頬杖をついてそれを眺めていたケイであったが―それはそれで乙なものだ―、あんまり遅くなってもなぁ、と思い直し、ゆらゆらとボートを揺り動かした。
はっ。……オレ寝てた!?
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、がばりと起き上がるアイリーン。
数分くらいうつらうつらしてたみたいだが……起こして良かったか?
うん。ありがと。完全に寝るとこだった
猫のように背伸びをしながら、神殿の方を見やる。
……そろそろ行く?
そうだな
頷いて、ケイはオールを手に取った。
†††
近づいてみても、やはり『小さな島』という印象は変わらない。先導役のアイリーンにあれこれ指示されながら、木材で組まれた桟橋に接岸する。
ケイたちが食べている間に、新たに巡礼者が訪れたのだろう。船着き場には大型の渡し船が停泊しており、パイプを咥えた船頭が暇そうに煙をくゆらせていた。胡乱げな目でこちらを見る船頭に目礼しつつ、船着き場の柱にロープでボートを固定する。
さて、こんなもんか
盗まれはしないと思うけど、風で流されたりしたら笑えねえもんな
……全くだ
先ほど潜って宝探し云々言っていたものの、出来れば、足のつかない場所では泳ぎたくないケイであった。
桟橋から歩いて、白亜の石段を上がっていく。島の形状は丘のそれに近く、まるで湖面に、ひょっこりと小山が頭を出しているかのようだ。
これ……船で運んで造ったのかな?
階段の白い石材をぽんぽんと足で踏みしめながら、アイリーン。
そうだろうな。精霊の怒りを鎮めるためとはいえ、よくやるよ
全部人力だろ? ヤバいよな……
高さにして、二階建ての家ほどだろうか。石段を登り終えると同時に、ローブに身を包んだ巡礼者たちとすれ違う。
あとに残されたのは、静謐さの漂う涼やかな空間―
わぁ……
そこに広がる光景を目にして、アイリーンが感嘆の声を上げた。
白い神殿―ギリシアのそれを彷彿とさせる単純な石柱の連続に、船を丸ごとひっくり返したような木製の屋根。水の精霊を祀る神殿ということもあってか、屋根の造形は意図的に船に似せてあるらしい。中心を走る竜骨と、屋根としては珍しい流線型がどこか非現実的で、機能美にも似た独特の雰囲気を醸し出している。
石段から神殿までは、大理石の白い石畳で一直線に舗装されていた。すっ、と伸びる白の路、周囲の緑の木々が、風にそよいでさわさわと葉擦れの音を響かせる。
蒼き湖に浮かぶこの島は、言葉通り、俗世から切り取られた非日常の空間だった。沁み入るような静けさの中に、穏やかな、それでいて背筋の伸びるような、不思議な空気が流れている。まさしくここは聖域であると、そう感じさせられた。
凄いな
ぽつりと呟いた言葉は、シンプルだが、そうであるが故に偽りがない。
悪く言えばケイは、この神殿を舐めていた。所詮は片田舎、神殿といっても、せいぜいが石造りの祠があるくらいのものだろう、としか考えていなかった。
だが実際に来てみて―精霊の威容とでもいうべきものに、圧倒されている。
……なるほど、わざわざ人が巡礼に来るわけだ
そうだな……オレたちも、中に入ってみようぜ!
厳かな雰囲気などどこ吹く風、と言わんばかりに興奮気味のアイリーンに手を引かれ、神殿の中へと足を踏み入れる。
石柱と屋根のみで構成されたそこは、どこまでも開放的な空間だった。飾り気のないタイルの床が広がり、その真ん中に、真っ白な大理石の彫像が安置されている。
一抱えもあるような大きな台座に、羽衣をまとった妙齢の美女の像。採光用の窓から光が降り注ぎ、その涼やかな笑みを照らし出している。そして彫像の前には何やら重そうな木箱が置かれ、天井からはロープが一本、ちょうど腰の高さまでぶら下がっていた。
あのロープが、『願いが叶う鐘』ってヤツかな!?
テンション高めのアイリーンは、小走りで彫像の前まで行き、躊躇なくロープを引っ張った。
からーんころんからん、と鐘の鳴る音が、頭上から響き渡る。
おおーこれだこれだ!
嬉しそうにはしゃぐアイリーン。なんとなく、ケイは日本の初詣を連想した。
願い事はいいのか?
もうしたぜ!
何を願ったんだ?
ケイの何気ない問いかけに、アイリーンはニヤリと意味深な笑みを浮かべ、
ひみつ!
そのまま、ケイに向かってあかんべえをする。そして、面食らうケイにからからと笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。
で? ケイは? どうするんだ?
やや強引に、話題を流そうとするかのように、今度はアイリーンが聞いてくる。その顔に浮かぶのは純粋な好奇心で、その他には何も読み取れない。アイリーンの態度は不思議、というか不可解だったが、まあいいかと流したケイは、顎に手を当てて考え込む。
願い、か……
何にしようか、としばし思いを馳せる。
…………
しかし、なにも思い浮かばない。
(いやいや、何かあるだろ)
そうは思うものの。
…………
やはり、なにも思い浮かばない。
(待て待て。何かあるはずだ、何か……)
つぶらな瞳でこちらを見るアイリーンの存在に、焦りのようなものを感じながらも、考えを巡らせる。
思い出すのは、二週間ほど前。まだ、ゲームの DEMONDAL で遊んでいた時代。
(俺が目標にしてたのは……そう、)
『弓を極めたい』―だとか。
『キル数2000を突破したい』―だとか。
『鳥の羽根を全種類コンプリートしたい』―だとか。
『自分も”竜鱗鎧(ドラゴンスケイル)“が欲しい』―だとか。
(……ロクなもんがないな)
我ながら、乾いた笑みが浮かぶ。『弓を極めたい』というのは兎も角、他のは余りにどうでもいいか、現実ではやりたくないことばかりだ。見事に、 DEMONDAL のことしか考えていなかった。
―いや。
ゲーム以外のことを、考えないようにしていたというべきか。
……そうか
ここに至って、ケイは気付いた。
二週間ほど前までの自分が、願っていたこと。
“生きたい”
“一秒でもいいから、長生きしたい”
切実な、真摯な、それでいて、嘆きの声を振り絞るような。そんな想い。
勿論これは、長寿を願うものではない。
消えかかっている命の灯を、少しでも長く、一秒でも長く、ただただ維持したいという、前向きでありながらも諦めを伴った仄かな夢―。
しかし今。
ケイは、ここにいる。
これ以上ないほど健全な肉体を持って、ここに居る。
(そうか、俺の願いは、もう―)
―叶っていたのか。
今更のように、ケイは笑う。
しかし、だからといって、これ以上は何も願わないのか、というと、それは違う。
(転換期にいるんだ、俺は)
過去の自分を振り返って、そう思った。
今まではずっと、『生きること』そのものに執着していた。
だが、健康な肉体を得て、『普通に生きること』が許された以上、別の何かを探さなければならない。
いや、―その何かを、探し出したい。
ただ漫然と『生きる』のではなく、『どう生きるか』を模索する―模索できる、その時が訪れたのだ。
(しかし困ったな。今急にそんなもの、思いつかないぞ……)
せめて、来る前に考えておくんだった……とは思うものの、アイリーンを誘う前までは、それどころでなかったことも思い出す。
アイリーン。
ふと、顔を上げた。
……ん? なに?
見つめられて、小首を傾げる、美しいひとりの少女―。
(……そうか)
ケイの口元がほころんだ。
難しいことを考えずとも、今は、ひとつ願いがあるじゃないか―
おもむろに手を伸ばし、ロープを強く引っ張った。
からーんからんからんっ、と鐘は高らかに鳴り響く。
随分と長考だったな? 何を願ったんだよケイ
アイリーンの興味津々な問いかけに、
……秘密だ
ケイは、ただ笑った。
†††
その後、石像の前の箱が実は賽銭箱であったことに気付いたり、互いの『願い事』をそれとなく探り合ったり、それが由来して追いかけっこに発展したり、しかしスピードタイプのアイリーンに勝ち目はなくケイが呆気なく捕まったり、それで二人で密着してるところを不意打ちで管理人のオヤジに目撃されて恥ずかしい思いをしたり、などと色々あったが、日が傾き始めたのでケイたちは町に戻ることにした。
今日は、来て良かったな
少しは慣れてきた様子で、オールを漕ぎながらケイは、しみじみと呟く。
遠景に見送る白亜の神殿。あの場所がなければ、ここまでスムーズに、アイリーンと仲直りはできなかっただろう。心からの感謝をこめて、ケイはそっと、水の精霊に祈りを捧げた。
ああ、ホントに楽しかった
相槌を打つアイリーンも満足げだ。二人の間に、これまでのような、ぎくしゃくとした空気はなかった。
…………
不思議と苦痛ではない沈黙の中で、ただ水の音だけが静かに響く。遠目に映る小島、湖を行き交うボートに渡し船、徐々に茜色に染まりつつある空―全てが優しく、穏やかだった。
ふとした拍子に、二人の目が合う。
視線が絡み合い、気恥かしげに逸らされ、それでも再び、見つめ合う。
未だ明るい空の色に照らされ、アイリーンの顔だけが鮮やかに浮かび上がる。きらきらとした光をたたえる蒼い瞳―夜空の星なんかより、よほど綺麗だ、とケイは感じた。
なあ、アイリーン
うん?
ケイは自然と、口を開く。微笑みを浮かべて、アイリーンが応える。
何を言おうか、と言ってから考えたが、それでも自然と口は動いた。
俺さ―、実は
アイリ―ンッッッ!!!!!
突如として、響き渡る、
!?
聞き覚えのあるハスキーボイス。
弾かれたように、ケイとアイリーンは見やる。
数十メートルほどの距離。巡礼者たちを多数乗せた渡し船。
その中に、こちらに向けてぶんぶんと手を振る若者の姿―
アイリーン! こんなトコにいたのかよぉー!!
大声で叫ぶのは、他でもない、アレクセイだった。 げェッ! とケイとアイリーンの声がユニゾンする。
朝からずっと待ってたのに! 薄情だぜええアイリーンッッ!
そう言いながらも、どこか屈託のない笑顔で叫ぶアレクセイは、良く見れば顔が赤い。その周囲でヘラヘラしている若者たち―隊商の見習い連中だ―も同様に、どうやら酔っ払っているようだった。
ちくしょぅー遠い! 遠いよアイリーン! 今そっちに行くからなっ!
やたらといい笑顔で不穏なことを宣言したアレクセイは、あろうことか、その場でポイポイと服を―
わ! わ! わ!
畜生なんなんだアイツ!
顔を赤くして目を背けるアイリーン、ケイが我に返ってオールを握りしめる頃には、アレクセイは生まれたままの姿で船上で仁王立ちしており、
アッイッリ―ンッッ!!!
一声叫んでから、見事なフォームで湖に飛び込んだ。ザッパーンと上がる水しぶき。
アイリ―ンッッ!!
そしてそのまま、限りなくバタフライに近い泳法で、息継ぎの合間にアイリーンの名を呼びながら見る見る間に距離を詰める。
ケイ! 逃げて!
言われるまでもない!!
ケイも、全力でオールを漕ぎだした。
本気のケイの腕力を受けて、オールは爆発的な推力を生み出す。が、それでも尚、アレクセイが僅かに速い。それこそまるで宙を舞う蝶のように、きらきらと水滴を輝かせながら、徐々に徐々に彼我の差を縮めていく。
クソッアイツ速いッ!
ケイ、このままじゃ追いつかれる!
アイリ―ンッ!!!!
湖の水は冷たいんじゃないのか!? 低体温症は!?
そんなもん知らねーよ!!
ア―イ―リ―ンッ!!!!
渡し船の巡礼者たちや周囲の荷船の乗組員たちは、その様子を見て笑い転げていたが、特にケイはそれどころではなく笑われていることに気付きすらしなかった。
何でここでお前が出てくるんだよッ!
真っ赤な顔で必死にオールを漕ぐケイ、アイリーンの名を連呼しながら泳ぎ続けるアレクセイ。
最初は悲鳴のような声をあげていたアイリーンは、そんな二人をよそに、いつしか腹を抱えて笑っていた。
夕暮れの湖の果てに、一艘のボートと一人の姿が消えていく―。
結果。
最終的にボートに追いついたアレクセイであったが、ケイのオールがた(・)ま(・)た(・)ま(・)頭部に直撃し、一撃で昏倒させられたので、そのまま事なきを得た。
……平和な一日であった。
逆襲のアレクセイ
27. 英雄
翌日。
昼前に、隊商の面々は町外れの広場に集合した。
ケイがアイリーンと共に荷物の確認をしていると、ショートソードに複合弓で武装したダグマルが、 よっ と手を上げながら近づいてくる。
どうだケイ、調子は?
悪くないな
そうかそうか
ニヤけ面で何度も頷いたダグマルは、意味ありげな視線をアイリーンに向け、声をひそめる。
で、どうだったよ?
ケイははにかんだように笑い、
……お蔭で、上手くいったよ
おおー! どこまでいった? コレか?
クイクイッ、と何やら卑猥な動きをするダグマルに、ケイは一転、冷やかな目を向けた。
……そういうのは、きちんと段階を踏んで、だ
かーっ、お堅いねぇ
額をぱちんと叩いて、しばらくからからと笑っていたダグマルであったが、不意に溜息をついて表情を引き締める。
ま、それはいいとして、だ。ケイ、それにアイリーン、二人とも聞いてくれ
突然の真面目な口調、どうやら仕事の話のようだ。面食らいつつも、ケイとアイリーンは神妙な顔で耳を傾ける。
……こっからウルヴァーンまでの道のりは、今までと違って気合を入れて欲しい。途中で二つほど開拓村に立ち寄るが、そこがなかなか厄介な土地柄でな。森を切り拓いた所なもんで、昼夜問わずに獣が出やがるんだ。お蔭で盗賊の類はいないが、狩猟狼(ハウンドウルフ)の群れなんかに襲われたこともある。とにかく、隊商の荷馬車に被害を出さないことを最優先に立ち回ってくれ
いつになくダグマルが重武装なのも、それが理由らしい。
了解した
ベストを尽くすぜ……
狩りはお手の物のケイに対して、投げナイフ以外に有効な飛び道具を持たないアイリーンは浮かない顔だ。アイリーンは対人戦闘に特化したタイプなので、人型モンスター相手なら兎も角、獣の群れと戦うようなシチュエーションはあまり得意としていない。
特に嬢ちゃんの魔術、頼りにしてるからな!
ニカッと笑ったダグマルが、手をひらひらさせながら去っていく。実は昼間は魔術が使えないことを伏せているアイリーンは、何とも曖昧な表情を浮かべていた。
……ま、“飛竜(ワイバーン)“でも出張ってこない限り、大概の相手は俺が何とかするさ
自信なさげに丸まった背中をぽんぽんと叩いて、励ますようにケイ。
……そうだよな。魔術が必要な場面なんて、そうそうないよな
気を取り直したのか、木の丸盾を背負いながら、アイリーンは軽く笑い飛ばした。
隊商は、予定通りユーリアの町を出発する。
滞在中も商売に勤しんでいたホランドのようなやり手を除いて、皆この二日間で英気を養ったらしい、隊商の面々も生き生きとした様子だ。特に騎乗の護衛たちは弓を片手に周囲を警戒しているものの、互いに雑談する程度の余裕はあり、いい意味で肩の力を抜いている。
ピエールは滞在中、本格的に馬車を修理したらしく、もう故障の心配はないとのことで、ケイは本来の持ち場―ホランドの馬車の横に戻ることとなった。当然、その隣で轡を並べるのは、アイリーンだ。
それにしても、あの屋台のガレット美味かったなー
思ったよりも良い町だった
だな! また来ようぜ!
うむ。神殿にももう一度行ってみたいしな
ケイたちの会話に以前のようなぎこちなさはなく、自然に談笑する二人の様子を、周囲は生温かい目で見守っていた。出発前、ケイがダグマルに”結果報告”をしたことにより、話が隊商中に広まっていたのは当然の帰結というべきか。幸いなのは、ケイもアイリーンも互いの会話に集中していて、自分たちが観察対象になっていることには気付いていないことだ。
ちなみにアレクセイはというと、昨日酔っ払って醜態を晒したことを気にしているのか、ピエールの馬車に乗って大人しくしていた。
要塞都市ウルヴァーンを目指して、隊商は一路北へ向かう。
大きく蛇行するアリア川を右手に捉えながら、川沿いの街道を進んでいると、まるでこれまでの道程をそのまま進んでいるかのような錯覚に陥る。ただ一つ、サティナ‐ユーリア間との違いを挙げるとすれば、それは周囲の植生だろう。林を抜ければすぐに草原が広がっていたモルラ川沿岸地域とは違い、こちらは何処までも深い森が広がっている―“ラナセル大森林”だ。
広葉樹が生い茂り、陽光が遮られた森の中は薄暗く、ケイの瞳をもってしても奥までは見通すことはできない。
しかし成る程、豊かな森だ―と思わされる。
アイリーンと話しながら森にも注意を向けているが、先ほどから幾度となく獣の姿が見かけられた。鳥は勿論のことキツネや鹿、猫に似た小型の肉食獣の姿もある。
ホランド曰く、ウルヴァーンの統治下にある”アクランド”領は、この森を開墾することで豊かな土地を確保しているらしい。木はそのまま資材になり、獣は日々の糧になる。薬草の類も豊富で、切り拓けば森の黒土は優秀な田畑に様変わりだ。これから立ち寄る開墾村も、そんな開発の最前線といえる。
はっきり言って、商売相手としては微妙だな。元々開拓村には、借金に追われた人間や、農家の次男坊、三男坊なんかが送られるものだからね。どちらかといえば貧乏人が多い
そう言ってボヤくのはホランドだ。これから立ち寄る村は、他の行商人であればスルーしてしまうほど、儲けの少ない商売相手らしい。
さりとて、彼らは物資を必要としているし、行商人は物流の担い手だ。無碍にするわけにも、いかなくてなぁ
旦那は商人の鑑だな
商談に忙殺されロクに体も休められず、疲れのせいか愚痴っぽいホランドに、アイリーンが調子を合わせて相槌を打つ。
ケイも黙って話を聞いていたが、突然、その目をチカッ、チカッと眩い光が襲った。
うおッ、なんだ?
強力だが繊細なケイの目に、その光は強すぎる。見れば、荷馬車の上でエッダが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。その手に握られていたのは、掌サイズの金属製の円盤。
あっ、それ! もしかして鏡!?
目ざとく気付いたアイリーンが、食らいつくように馬を荷馬車に寄せる。
うん! 鏡ー!
エッダ!! それを持ち出すなと言ったろう!
振り返り、声を荒げるホランド。びくりと体をすくませたエッダは、 ごめんなさーい! と言いながら、すっ飛ぶようにして幌の影に逃げていく。
ちゃんと仕舞っておきなさい! 割れたら大変なんだから!
は~い……
拗ねたような声だけが返ってくる。 まったく! とプリプリ怒りながら、ホランドは手綱を握り直した。
旦那、アレは商品なのか?
青い瞳をきらきらと輝かせ、興味津々な様子でアイリーン。
ああ、あれはサティナから運んでいる品でね。元はといえば鉱山都市ガロンで造られたものだよ。ウチの悪さをする娘に、見つからないよう隠してたんだが……ユーリアにいる間に荷を漁ったみたいでね
そうか。高いんだろ?
まあ、……小売価格で銀貨二十枚といったところかな。サイズは小さいが、質がいいものでね。錆びないんだよ
へ~ぇ……
顎に手を当てて頷くアイリーンの顔には、 それほど高くはないな…… という考えが透けて見えていた。それにすかさず気付いたホランドは、
ああ、いや、すまない。あれは依頼された品でね、売ることは出来ないんだ
……。そっかー
あからさまにがっかりするアイリーン。 まあまあ、また縁があったらね…… など言いながら、ホランドはケイに意味ありげな目を向けた。ケイはそれに頷き返しつつ、 ウルヴァーンに着いたら、ホランドを頼ろう と密かに決意を固める。銀貨数十枚程度なら、即決で購入できるだろう。
†††
それから暫く、平和な旅路は続く。
特筆すべきことといえば、ユーリアから一時間ほどの所で、街道に彷徨い出た大きな鹿を前方の護衛が弓で仕留めたくらいのものだ。その他は何事もなく、事前にダグマルから注意されていただけに、ケイたちは拍子抜けした気分であった。
が。
夕刻、最初の村に到着した時に、そんな平和な空気は一撃で吹き飛んだ。
……何だあれは。一体どうなっている?
街道の彼方、視界に入った村の姿を見て、御者台のホランドが驚きの声を上げる。
開拓村は、周囲をぐるりと丸太の壁で囲んだ、ちょっとした小要塞とでも呼べるような村だった。
しかしその壁の一部は、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように、大きく穴が開いて破壊されている。憔悴しきった様子の村人たちが、手に木材を抱えて修復作業を進めているのが見えた。
ひとまず隊商は村に入り、住人たちに事情を聞くことにする。
とんでもないコトになっちまった―
疲れの滲む顔で、説明を始めたのはエリドアという名の男だ。どうやらこの村の村長らしく、ケイの第一印象は、 村長にしては若い だった。おそらくは三十代後半―体格こそ筋肉質なものの、八の字になった眉のせいで常に困り顔に見えることもあり、全く頼れる風には見えない。
疲れのせいか、あるいは頭の回転がそれほど速くないのか、エリドアの説明はいまいち要領を得なかったが、話をまとめるとこういうことだった。
始まりは、一昨日の昼のこと。
村人の一人が村外れの森で、手負いの獣を見つけた。
それは体長が3mほどにもなる、世にも奇妙な美しい動物だった。馬に似た体躯、緑っぽい光沢を見せる美しい毛皮、鋭く尖った長い一本角。攻撃的な雰囲気を漂わせていたそれは、しかし足と腹に深い傷を受けており、村人が見つけた時点で息も絶え絶えの状態であったという。
ひと目見てただの獣ではないと察した村人は、村に仲間たちを呼びに行き、そして見事、寄ってたかって滅多打ちにして仕留めることに成功した。
これは絶対に高く売れる、と大喜びで皮を剥ぎ角を取り、腐りそうな肉は祝いと称して皆で食した。ただ焼いて塩で味付けしただけだったが、その肉は大変に美味であったらしい。
食べられそうにない奇妙な色の内臓は捨て、骨などの『残り物』は念のため倉庫に仕舞い、村人たちは大満足で眠りについた―そして、そこまでは良かった。
悲劇が起きたのは、その次の日、即ち昨日の夕暮れのこと。
森の奥から突然、凄まじい咆哮が聴こえたかと思うと、見たこともないような巨大な化け物が姿を現したのだという。
村の壁越しに、頭が見えるほど大きかったそれは―
―熊、だった。メチャクチャでかい熊だったんだ
げっそりとした様子で、エリドアは言う。
腕の一振りで木の壁を破砕したその熊は、真っ直ぐに『残り物』を置いていた倉庫に向かったが、骨と皮の余りしか残っていなかったことに怒り狂い、そのまま村人たちに襲いかかった―。
六人、食われた。男が三人、女が二人、子供が一人。丸ごと食われて、殆ど死体も残らなかった。……怪我人も二人いたが、みな朝までには死んだ
エリドアの口から訥々(とつとつ)と語られる凄惨な事件のあらましに、隊商の面々は顔を引き攣らせ、しんと静まり返る。
……どうするつもりだ?
ホランドの問いかけに、エリドアはただただ、重い溜息をついた。
今朝、ウルヴァーンに何人か行かせた。馬も食われてしまったから、仕方なく徒歩で……。しかし、そもそも、助けが来てくれるのかも分からないし、まず話を信じてもらえるかどうか
うぅむ……
崩壊した丸太の防壁を見やりながら、ホランドは唸る。確かに、3mはあろうかという丸太の壁よりもさらに背丈の高い熊など、俄かには信じがたい話だ。しかし、実際に破壊された壁や家々を見れば、それが法螺吹きの類でないことはすぐにわかる。
俺たちも危ないんじゃ……
逃げた方が……
囁くような声で商人たちが相談し始め、それを耳にしたエリドアの顔色が悪くなる。このまま隊商―具体的に言えばその護衛の戦士たち―に逃げられると、村が壊滅してしまうのは火を見るよりも明らかだった。
待ってくれ。おれたちを見捨てないでくれ!
……気持ちは分かるが、そんな化け物の相手なんざ、金貨を積まれたって御免だぞ
護衛の代表として口を開いたのは、ダグマルだ。崩壊した壁を見やりながら、その表情には、同情と憐憫がありありと滲み出ていた。
というか、それより早く逃げた方がいいんじゃねえか?
そ、そんな……!
そうだ、逃げよう! 我々の戦力でどうにかなる相手じゃない!
あの壁をぶち抜く相手となるとな……
村の面々も一緒に逃げたらどうだ?
後を追ってくるかもしれないぞ……
……それは困るな
おい! 俺たちに残って囮になれってか!?
周囲の村人たちも集まって話に加わり、場が騒然とし始める。
その集団からそっと抜け出して、ケイはひとり、崩れた壁の方へ歩いていった。
半ば諦めたような顔で修理を進める村人たちをよそに、まず壁の外側の地面に視線を走らせる。探すまでもなく、くっきりと残された大きな足跡。しゃがみ込んで、自分の手の平と照らし合わせたところ、『熊』の足のサイズは軽く五十センチを越えていた。
足の指の形に沿って踏みしめられた土、根っこから折り倒されている森の木々、壁に刻み込まれた巨大な爪跡、それらを注意深く観察する。
どう思う、ケイ?
背後から声。振り返るまでもない、アイリーンだ。
……そうだな。アイリーン、ちょっとあそこの壁、見てみてくれないか。毛が挟まってる
ん、どれどれ
ケイが指差さす丸太の壁、地面から2mほどの高さの所に、軽く助走をつけたアイリーンはぴょんと飛び上がって取りついた。軽業師でも成し得ないような跳躍に周囲の村人たちが唖然とするが、アイリーンはそれを気にすることなく、
……ビンゴ
壁の隙間に挟まっていた、数本の獣の毛を引っこ抜く。
もう暗くなってきてんのに、よくこんなもん見えたなケイ
まあな。ちょっと貸してくれ
アイリーンに手渡されたそれを、夕焼け空にかざして見る。ゴワゴワと堅く、光沢のある暗い赤色の毛。
この色の毛の熊は、……一種類しかいないよな
でも、話で聞く限りだと、ちょっと小さくね?
多分、若い個体なんだろう。こんな人里まで出てきたのもそのせいじゃないか?
なるほど……
手の中の毛に視線を落とし、森の奥を見やり、二人は共に表情を曇らせた。
どうする? オレが 追跡 してもいいけど
日の沈んだ空を見上げて、アイリーン。
……俺たちだけで決めてもな。雇い主に相談するのが筋ってもんだろう
ケイとアイリーンの二人だけならば自分たちで好きなように対応できるが、隊商や村人たちのことを考えると勝手に振舞うわけにはいかない。二人は議論の紛糾する村の中へ戻っていく。
時間の無駄だ! 村を離れよう!
頼む、見捨てないでくれ! 助けてくれよ!
今、下手に逃げても危険じゃないか?
まだ集まっていた方が、戦いやすいかも知れないな……
いやいや危険すぎるだろう! あの丸太の壁を一発でぶち壊す化け物だぞ?
どうやら隊商の面々も、逃げる派と村に留まる派で分かれているらしい。そこに 兎に角助けてくれ と泣きつく村人が加わり、話し合いはまさしく混沌の様相を呈していた。
すまない。幾つか聞いていいか
そんな中、ひとり場違いなほど生真面目な雰囲気を漂わせたケイは、手を挙げてエリドアに問いかける。まるで死人のように、ゆっくりと首を巡らせたエリドアは、
なんだ……?
熊についてなんだが、背丈は少なくとも4m以上で、毛皮は暗めの赤っぽい色、首のまわりに斑点のような白い模様はあったか? そして下顎の牙が異様に長く、燃えるような赤い目をしていなかったか
突然の具体的な質問に、面食らった様子のエリドア。記憶を辿るように目を細めた彼は、
……すまん、目の色は分からない、逃げるのに必死だったんだ。体毛は、赤っぽかったと思う、牙は……そうだな、下の方が長いように見えた。模様は……おい、皆! 熊の首周りに、白い斑点はあったか? 目は何色だった?
……憶えてないな
言われてみれば、あった気もするが……
おっかなくて目なんて見てねぇよ……
村人たちはボソボソと、呟くようにして口々に答える。エリドアは申し訳なさそうな困り顔になった。
……すまん。皆、よく憶えてないみたいだ
なら、吠え方はどうだった? 『グオオオォッ』と地の底から響いてくるような、そんな重低音じゃなかったか?
ああ、それは憶えている! そんな感じだった、思い出しただけでも震え上がるような……
ケイの口真似に、エリドアはガクガクと何度も頷いた。 成る程 と腕を組んで得心するケイ。
……心当たりが?
いつの間にか静かになっていた皆を代表し、ホランドが問う。 ああ とケイは首肯して、
話を聞く限り、十中八九”大熊(グランドゥルス)“だろう
その、断定的な言葉は間違いなく、皆に幾らかの動揺をもたらした。
“大熊(グランドゥルス)”。
『陸の竜』こと”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“と双璧を為し、『森の王者』と称される巨大なモンスターだ。
普通の熊との違いは、まずその体格。次に、強靭性の高い毛皮と分厚い筋肉による、桁外れな防御力だ。生半可な武器では傷一つ付けられず、仮に皮を突破して傷を負わせられたとしても、筋肉と脂肪の層に阻まれるため致命傷には至らない。
“森大蜥蜴”のように毒があるわけでもなく、“飛竜”のようにブレスを吐くわけでもないが、“大熊”はその防御力と腕力でシンプルかつ絶大な強さを誇る。また、猪突猛進な”森大蜥蜴”とは違って知能も高く、待ち伏せや撤退、罠の回避や足跡を使ったミスリード、岩や木を投擲して遠距離攻撃、など人型モンスターに匹敵する戦術行動を取れるため、ゲーム内では非常に戦い辛い相手としてプレイヤーたちから恐れられていた。
そして、その辺の事情はこちらの世界でも同じなようで、アイリーンを除く全員が、“大熊”の名を聞いてぎょっと身を仰け反らせる。
……“大熊”?
まさか、有り得ない
流石にそれは……
しかし、それも一瞬のこと。隊商の面々はすぐに気を取り直して、 そんな筈はない とケイの考えを一笑に付した。
深部(アビス) の獣が、こんな場所に出るわけがない。いくら森を切り拓いたと言っても、ここは街道に近い人里だぞ
疑わしげなエリドアに、ケイは頷きながらも、
確かに、普通はこんな所までは出てこない。しかし基本的に、―これは”大熊”に限った話じゃなく、全ての熊に言えることだが―、連中は獲物への執着心が強いからな。一度食うと決めたら、何処までも追いかけてくる。
御宅らが仕留めた『緑色の獣』は、特徴からして 深部 に棲む”イシュケー”というモンスターだ。肉が美味く内臓は栄養価が高い。おそらく、“大熊”に追われて逃げてきたんだろうな
じゃ、じゃあ……村が襲われたのは、俺たちがイシュケーを殺したから、なのか?
うーむ。いずれにせよ、近くまでやってきていたのは事実だ。遅かれ早かれ、同じ結果にはなった、かも知れないな
そうか……近くにまで来られた時点で、運の尽きだったのか……クソッ
エリドアは眉根を寄せて、悲痛な表情で嘆いている。ケイとしても、同情の念は禁じえないが、少なくともイシュケーが村襲撃の一因となったことは否定のしようがない。
……理屈は分かったが、ケイ。“大熊”ってのは、小山ほどもある巨大なモンスターじゃないのか? 話を聞いた限りだと、今回の奴は小さすぎるように思えるんだが……その、『“大熊”にしては』、という意味でだが
完膚なきまでに粉砕されている村の倉庫を見やりながら、それでも信じきれない様子のダグマル。 小山ほどもある という表現を聞いて、ケイは思わず苦笑した。
“大熊”の成獣は、確かに見上げるほどにデカいが、それでも体長7mは越えないよ。それでも充分デカいっちゃデカいが……ここを襲ったヤツは、大きさからして、まだ巣立ったばかりの若い個体だろう。老練な”大熊”は自分の縄張りから出て来ないし、そもそも獲物を逃がすようなヘマはしないだろうからな。それにさっき、暗赤色の獣の毛を見つけたが、この色も”大熊”特有のものだ
まるで、見たことがあるような言い方だな?
……まあな
半信半疑なダグマルの言葉に対し、ケイは小さく肩をすくめるにとどめた。
兎も角、いずれにせよ相手は一撃で壁をぶっ飛ばすような化け物だ。逃げるにしても戦うにしても、早目に決断することをお勧めする。連中は夕暮れや朝方の、薄暗い時間帯に一番活発に動くからな
ケイが茜色に染まる空を見上げながらそう言うと、皆はいよいよ困った様子で顔を見合わせる。