Vermillion 朱き強弓のエトランジェ
Amagi Chiaki
DEMONDAL ―硬派すぎるゲームシステムの北欧産VRMMO。スキルもレベルもインベントリも便利なギルドも存在しない、その無駄なリアリティは最早VR生活シミュレータ。そんなゲーム内で、廃人プレイヤーかつ騎射の達人として知られる主人公・ケイは、ある日相棒のロシアンNINJAと共にゲームそっくりの世界に転移する。元々リアルだった世界は、正真正銘の”現実”へ。転移の真相を探る二人は、知らず知らずのうちに世界の暗部へと踏み込んでいく。これは、生きる意味を再び手にした青年が、愛する人と彷徨い旅する物語。
参考資料 :タアフ~ユーリア
私が小説を執筆する上で、参考にした写真(私が撮ったモノ)です。
主に武器や城塞、風景などがメインになると思います。本作を読まれる上でイメージを膨らませるのにご活用ください。
サーベル
ケイ&アイリーンが使っているサーベルのイメージです。
金属製の、刃が引かれていない観賞目的の一振りでしたが、実際に手に持ってみると刀身が細い割にずっしりと重かったです。
ちなみに よく切れる刀剣と言えば日本刀 というイメージが先行しがちですが、実際のところ西洋のサーベルも切れ味はかなり鋭かったようです。
金属製のシャンデリア
アンティーク市場で なるほど! と思わされた一品。
船を象った意匠の、金属製のシャンデリアです。両側に燭台になる部分があります。
シャンデリア と聞いてしまうと、どうしてもガラス製のきらきらとした物をイメージしがちですが、言われてみれば裕福な庶民向けにこういった商品も存在したはずですよね。
このシャンデリアはアンティークなので、古くから実際に人々の生活に使われてきたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
ベネットら、村長の家の居間に下がっているのは、これの樹木の意匠バージョンとお考えください。
サティナ・城郭のイメージ
フランス南部、エグモルトという名前の城郭都市の城壁です。
サティナの街の城壁は、これをイメージしております。圧倒的重量感。実用性重視で無骨なところがそそられますね。
サティナ・城門正面のイメージ
同じくエグモルトの城門から。サティナの街の門のイメージはこんな感じです。
右下で壁と格闘している筆者の姿をご覧頂ければ、壁のデカさが伝わりやすいかと。これ攻めろって言われたら正直絶望感が……
サティナの街・城門裏のイメージ
正門を裏側から見るとこんな感じです。ちなみに街の四方にこういった門が一か所ずつあります。
門は二重構造となっており、外側の扉に加えて内側には落とし格子があります。例え最初の門が突破されても中には容易く踏み込めない構造で、敵を足止めしている間に上から煮えた油やら何やらが降り注いできます。
サティナの街並みのイメージ
城壁の上から。奥に見えるのは海ではなく運河です。
ヨーロッパはこういった古い町並みが今もそのまま残っているので、その点羨ましいですね。
サティナの街並みのイメージ2
ついでにもう一枚、パシャリ。
シュナペイア湖と神殿のイメージ
スロベニアのブレッド湖より。
作中のシュナペイア湖と、湖の真ん中にある小島の精霊の神殿は、ここからインスパイアしたものです。
湖の神殿のイメージ
湖の上、手漕ぎボートから小島を撮った一枚です。小島にはキリスト教の教会があります。作中の神殿のイメージはこんな感じ
湖の神殿・入口の階段のイメージ
ボートで接岸できる、小島の入り口の写真です。
岩山の上の領主の城その1
同じく、スロベニアのブレッド湖から。作中のユーリアの城は、こんなイメージです。
岩山の上の領主の城その2
別角度より、もう一枚。
ユーリアの町のイメージ
↑の城から撮った一枚。作中のユーリアの、周囲のイメージはこんな感じです。ただ、山はもうちょっと大きくて、遠くにある感じかな?
森の小道
岩山の上の城まで行く途中の道。作中では特に登場しませんが、雰囲気が良かったので、ここに載せます。
参考資料 :ウルヴァーン~
ウルヴァーンの街並み
イタリア中央部の町、オルヴィエートより。
比較的背の高い建物が台地に密集している、という点で、非常にウルヴァーンっぽい町です。
写真では台地であることが分かり辛いと思いますが、街並みのイメージを掴んで頂ければ幸いです。
ウルヴァーンの街並みその2
同じくオルヴィエートより。
歴史ある建物がガッツリ密集してるのは、何と言うか浪漫です。
ちなみにこの2枚の写真は、町で一番高い時計塔の上から撮影しました。
ウルヴァーン城壁イメージその1
フランス南部の町、カルカッソンヌより。
要塞都市……城塞都市? の遠景写真です。
ライトアップが圧巻ですが、ウルヴァーンはこれを何倍にも大きくしたイメージでしょうか。
山の上にそびえ立っているのでかなり高い位置にあります。
ウルヴァーン城壁イメージその2
外縁部の城壁の内側より。左手側から十メートルくらい下が地面になります。こんなもんどうやって攻めろと……
ウルヴァーン城壁イメージその3
城壁の内側にあるお城です。堀と橋でさらに防御力がUP。今は菜園になってるようですが。
注目すべきは画面真ん中の塔ですね。木材で物見櫓の部分が再現されています。城壁のポツポツと開いている穴は、銃眼ではなく櫓を組むための支点として機能していたことが分かります。
ウルヴァーン城壁イメージその4
塔の上から見下ろす写真。
ウルヴァーン城壁イメージその5
丘の下側より一枚。
とある木立のイメージ
特に名前があるわけでもない、ただの木立。
馬鎧
北の大地編、護衛戦士の重装騎兵のイメージです。
作中では写真のような板金鎧ではなく、鱗鎧(スケイルメイル)で防御している設定なので見かけはかなり違いますが……あくまでイメージということでひとつ。
頂き物 :イラストコーナー
ちょっとネタバレ感もあるので、ご注意ください!
一狩り行こうぜ!?
アイリーン服装
ケイ&アイリーン
“死神”
木靴
Runner in the Dusk
モリセット隊の皆さん
0. DEMONDAL
なだらかな起伏が続く、緑の草原。
抜けるような青空にはふわふわと羊雲が浮き、涼やかな風が吹き抜ける。
そんな牧歌的な風景の中に、しかし、場違いに荒々しく駆ける騎馬の姿があった。
その数、十騎。
突出して駆ける二騎に、それを追う八騎。
先行する二騎は、同じ革のマントを羽織り、同種と思しき褐色の馬に乗っていた。
片方だけはパンパンに膨れた重たそうな革袋を鞍にくくりつけていたが、おおよそ二人とも装備は統一されているようだ。
それに対して、残りの八人の見てくれは酷い。
馬の種類は雑多。
装備は革鎧、ボロ布、もしくは半裸。
武器も簡素な弓や骨製の槍、錆びついた剣といった、お粗末なものばかり。
てんでばらばらな構成だ。両の目を欲望の光にぎらつかせている、という点においては、八人とも似通っていたが―。
逃げる側と追う側の構図。
両者の距離は、刻一刻と縮まっていく。
逃がすな、追えーっ!
やっちまえッ!
回り込めーッ!
追う側の八騎が、手にした得物を振り上げ、口汚く叫び声を上げた。
スラング混じりの汚い英語。たまに、下品な罵声が混じる。
装備と品性の両面でまさしく、『追剥』や『荒くれ者』といった言葉がお似合いの連中だが、そんな粗野な様子とは裏腹に、騎馬の連携には見事なものがあった。
逃げる側の二騎を追い立てるようにして、八騎はそれぞれ扇状に展開。
騎馬同士の距離を一定に保ち、またたく間に半包囲網を形成した。
射かけろッ!
中央を駆ける、比較的まともな革鎧の装備の男が―どうやら追剥たちの頭目らしい―槍を振り上げて叫ぶ。
その声を受けて、両翼に展開していた四人の射手が、簡素な短弓に矢をつがえた。
FUCK YOU(死にさらせ)!!!
右翼、顔面に刺青を入れた射手の男が叫ぶ。
それを合図に、残りの三人も弓を引き絞り、一斉に矢を放った。
矢羽が立てる細い風切音。
それを耳にして、ちらっと後ろを振り返った二騎は一瞬でその軌道を見切り、巧みな手綱さばきで次々と矢を回避する。
追剥の弓の腕と、逃げる騎手の手綱さばき。その技量の差が如実に表れていた。
二騎の標的は無傷のままに、矢だけがいたずらに消費されていく。
……チッ。右のを狙え!
頭目は舌打ちし、部下たちに指示を飛ばす。たちまち、狙いが右側の一騎に集中した。
元々、右側の騎馬は鞍に大きな革袋を括りつけており、左に比べて動きが鈍い。集中砲火を浴びた騎手は果敢に回避を試みるも、苛烈さを増した弾幕には抗しきれず、ついに乗騎が矢を受けてしまう。
!!
尻に矢が刺さった馬は、いななきを上げ派手に転倒。
鞍の革袋が開き、青い液体が詰まった瓶がばらばらと地面に零れ落ちる。
肝心の騎手は直前に鞍から飛び降りたらしく、草原に身を投げ出して受け身を取ったのか、ほぼ無傷であった。
一騎墜ちたぞォ!
ヒャッハー殺せェ!
が、そこに、猛スピードで馬を駆る無法者たちが迫る。
ハッハハハ、死ねえッ!
追剥の頭目は残虐な笑みを浮かべ、地面に這いつくばる獲物に向け真っ直ぐに槍を突き出した。
鋭い槍の穂先が、ぎらりと凶悪な光を放つ。
迫る凶刃。
飛び起きた騎手はマントを翻し、一目散に逃げ始めた。
それを見て、馬鹿め、と頭目はせせら笑う。
成る程、確かにその足の速さには、目を見張るものがある。
だが、所詮は徒歩(かち)、スピードの乗った馬に対抗できるようなものではない。
あっという間に距離を詰めた頭目は、逃走する獲物の無防備な背中に、容赦なく槍を突き込んだ。
研ぎ澄まされた槍の穂先は、呆気なく革製のマントをとらえ、突き刺さる。
しかし―軽い。軽すぎる。
手応えのない槍に、風に吹かれたマントがまとわりつく。
空振った、と理解した。
その瞬間、頭目の乗騎は鋭いいななき声を上げ、がくんと前につんのめる。
転倒。
たまらず鞍から放り出され、そのまま草原の大地に背中から叩き付けられた。
ぐえっ
しこたま背中を打った衝撃で、蛙のような声が出る。
その拍子に槍を取り落としてしまったが、頭目はそれに構わず素早く立ち上がり、腰の鞘から長剣を引き抜いた。
見れば、自分の乗騎が、左前脚を斬り飛ばされてもがき苦しんでいる。
そしてその傍らに―黒い影。
敵の正体を視界に収めた頭目の目が、驚愕にカッと見開かれた。
おッ、お前はッ!
動揺する頭目をよそに、黒い影は黙したまま、半身にサーベルを構える。ただ、その青い瞳を、すっと細めて。
それは、金髪碧眼の少年だった。
女と見紛うばかりに小柄な体躯、精悍な顔立ちに鋭い目つき。
長く伸ばした金髪は、邪魔にならぬよう後頭部で束ねてある。
右手に何の変哲もないシンプルなサーベルを構える少年だったが―その装いは、異様の一言。
黒づくめ。
頭部には黒鉄の額当て。口元を覆い隠す黒のマフラー。
全身を包むのはぴったりとした布製の黒衣で、手足には黒革の籠手と脛当て。
腰の帯には黒塗りのダガーを差し、極め付けに背中には、黒塗りのサーベルの鞘を背負っていた。
その姿は、まさしく―
―“NINJA”!
頭目は呻くようにして叫ぶ。
“忍者”。
それも、純粋な日本製《メイド・イン・ジャパン》の”忍者”ではなく。
外国人が勝手にイメージを膨らませて創り出したような、何かちょっと間違えてる、“NINJA”。
“NINJA”! “NINJA”のアンドレイ!?
Holy Shit(なんてこった)!! 本物か!?
あの一瞬でマントを身代わりに……!
周囲の手下たちにも、動揺が広がる。
“NINJA”のアンドレイ。
彼は、この世界でも屈指の有名人だった。
その個性的すぎる見かけと―それでも、確かな実力から。
アンドレイという強敵の出現におののく手下をよそに、動揺の波が引いていち早く立ち直った頭目は、じりじりと全身の血が沸き立つのを感じた。
闘志。
強者に挑戦したい。
己の力を試したい。
そんな、純粋な欲求。
……アンタとは一度、戦ってみたいと思ってたんだ……!
驚愕の表情を、獰猛な笑みに染め直し。
すっ、と正眼にロングソードを構えた。
瞬間、アンドレイの姿が黒くブレる。
銀閃が横切った。
ぱすん、という衝撃。斬られた、とわかった。
は? と声を上げようとして、気付く。
声が出ない。
見れば、視界の端、己の首から赤い血しぶき(エフェクト)。
おそらく、『声帯』が破壊されたのだ。
『頸動脈』も断ち切られている。
速く、それでいて正確、かつ、致命的な一撃。
呆気に取られたまま、頭目はただ、 はええ と口を動かした。
その瞬間、多量の出血により『失血死』判定を受けた頭目は、どさりと人形のように地に倒れ伏し、そのまま物言わぬ『肉塊』と化した。
お頭ァ!
てめェッよくもッ!
頭目の死に、怖気づくよりもむしろ激昂した二人の追剥が、馬首を巡らせてアンドレイに迫る。
得物はそれぞれ槍と棍、両者ともに長柄の武器だ。
アンドレイを左右から挟み込むように、騎馬で全力の突進をかける。
対するアンドレイは、右手にサーベルを構え、左手で黒塗りのダガーを引き抜いた。
おらアァァァッッッ!!
死ねええぇぇぇッッ!!
武器を振り上げた騎乗の追剥が、左右から迫る。
一見すると絶体絶命の状況だったが、当のアンドレイは落ち着いたものだった。
彼は知っていた。
自分が一人でないことを。
カァン! と、乾竹を割ったような快音が、蒼天に響き渡る。
何だ?
追剥の一人、槍を構えていたもじゃ髭の男が、怪訝な顔で首を巡らせた。
風切音。
次の瞬間、ドチュンと湿った音を立てて、もじゃ髭の頭部が吹き飛んだ。
その首の付け根から、噴水のように血しぶき(エフェクト)が噴き上がる。確かめるまでもなく『即死』判定。『肉塊』と化し、だらりと力を失った首無しの体が、ゆっくりと傾いて馬上から転がり落ちた。
動体視力に優れた者ならば、知覚できたはずだ。
遥か後方より飛来した矢が、追剥の首に突き刺さり、それを千切り飛ばしたことを。
何だと!?
棍棒を振り上げ、今にもアンドレイに突撃しようとしていた追剥は、突然の相方の死に思わず馬の足を止める。
何が起きた。見やる。後方。
マントをはためかせ、ひとり駆ける騎兵の姿。
アンドレイと共に逃げていた、残りの一騎。
精緻な装飾の革鎧に身を固め、頭部には羽根飾りのついた革の兜、口元を布で覆っているために顔はよく見えず、かろうじて分かるのは、それが黒い瞳を持つ青年であるということのみ。
武装として、腰にひと振りのサーベルを佩いていたが、ひと際目を引くのは、左手に構える朱色の弓だ。
騎乗で扱うには少し大き目の、異様な存在感を放つ複合弓。
草原の緑に、鮮やかな朱色がよく映える。
優美な曲線を描く弧―それは、陽光を浴び妖しく煌めいていた。
―殺せッ!
しばし呆然としていた追剥たちだったが、すぐに我に返り怒りの声を上げる。
が、黒目の青年は、既に新たな矢をつがえていた。駆け足に揺れる馬上、一息に弦を引き絞り、放つ。
カァン! と快音再び、一筋の銀光と化した矢が、唸りを上げて追剥に襲い掛かった。
腹の底に響くような、肉を打つ重低音。
アンドレイと相対していた棍棒使いが、弾かれたように馬上から吹き飛ばされる。
その左胸に突き立つは、白羽の矢。
的確に心の臓を捉えた、致命の一撃(クリティカルヒット)。
どさり、と地に落ちた棍棒使いは、己の革鎧をいとも容易く突き破った矢に、ただただ呆然と視線を落とす。
No shit(ウソだろ)…!
小さく呟いたのを最後に生命力(HP)が底を尽き、追剥はただの『肉塊』と化した。
野郎ッ、なんて腕だ!
腕だけじゃねえ、あの弓もヤバい!
OK, 俺に任せなッ!!
浮足立つ追剥の中、板金仕込みの革鎧で武装した比較的重装備の男が、木製の円形盾を掲げながら勢いよく飛び出した。
カモォォン、ファッキンアーチャ―ッ!!
挑発的な雄叫びをあげながら、比較的重装備男が突撃する。
ガンガンとメイスで円形盾を叩き鳴らす姿は、まるで ここに射掛けてみろ とでも言わんばかりだ。
……
対する黒目の青年は、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。
快音。
凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面から盾持ちの追剥へと迫る。
ろくに視認すら出来ぬ矢の速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。
にやりと好戦的な笑みを浮かべた追剥は、あらかじめ身構えていたこともあり、余裕を持って盾で受ける。
が。
破砕。
一撃で盾の表面を叩き割った矢は、そのまま裏側の持ち手を貫通し、勢いを減じることなく直進。
追剥の革鎧に仕込まれた板金を、紙きれのようにブチ抜いた。
Oh……ッ!
矢の威力に自身の突進の力が合わさり、盾持ちの男はビリヤードの玉のように勢いよく吹き飛ばされる
血しぶき(エフェクト)をきらきらと撒き散らしながら、放物線を描いて宙を舞い、地面に叩きつけられた。
ぴくりとも動かない。無論、『即死』だった。
主を失ってもなお、歩みを止めなかった騎馬が、パカパカと足音を響かせながら、黒目の青年のそばを駆け足で通り過ぎていく。
……ジェームズがやられたーッ!
ヤバい、あのアーチャーはヤバい!
もうダメだ、逃げろーッ!
底知れぬ弓の威力、そしてその化け物じみた使い手を前に、完全に戦意を喪失した追剥たちは馬首を巡らせて一目散に逃走し始める。
対する黒目の弓使いも馬を走らせ、緩やかに迫撃を開始した。
弓の狙いを逸らすため、必死でジグザグに走りランダムな機動を取る追剥たち。
だが、その努力はすべて無駄に終わった。
快音が再び鳴り響くこと、二度、三度。
銀光が閃き、そのたびに追剥が馬上から叩き落とされていく。
あっという間に三騎が射殺された追剥たちだったが、最後の一騎は運が良かった。
矢の直撃を受けるも、肩に刺さったおかげで辛うじて即死は免れたのだ。
矢傷を負った追剥はそのまま馬を走らせ、丘陵の向こう側へと姿を消していった。
……
深追いはせずに、小高い丘の上で青年は馬の足を止める。
弓に矢をつがえたまま、頭を巡らせて周囲に視線をやった。
東には、地平線の果てまで続く、緑の丘陵地帯。
時たまぶわりと風が押し寄せて、さわさわと葉擦れの音を運んでくる。
西には、うっすらと霞んで見える雄大な山脈と、そのふもとに広がる森林。
森の手前、肩に矢が刺さったまま、必死で逃げる追剥の姿が小さく見えた。
鷹並みの視力を誇る、青年の視界の中、西へ西へと駆ける追剥の後ろ姿が小さくなっていく。
警戒を続けること、数十秒。
伏兵や新手の存在はないと判断し、青年はアンドレイの元へと戻っていった。
…………
矢が尻に刺さって痛そうにしている、褐色の馬のそば。
アンドレイは、がっくりと地に膝をつき、項垂れていた。
……大丈夫か?
訛りのない流暢な英語。矢を矢筒にしまい、弓を膝の上に置いた青年が、馬上から声をかける。
大丈夫じゃねえ!!
黒目の青年の言葉に、キッと顔を上げたアンドレイが悲痛な叫びで答える。こちらも英語で、Rの発音にはきついロシア語訛りが入っていた。
見ろ! これを! 酷い有り様だ!
アンドレイは勢いよく立ちあがり、芝居がかかった仕草で、周囲に散らばった大量の瓶を示して見せる。
柔らかな草原の地に転がるそれらは、しかし、放り出された衝撃からか、ほとんどが割れていた。無事な物はほとんど見受けられず、中に詰まっていた青色の液体も多くが流れ出てしまっている。
―High-POT(ハイポーション)がおじゃんだ! ほとんど……ほとんど全部だぞ! せっかく安く買えたのにっ! しかも”ウルヴァーン”まであと少しもないってのにっ! あんまりだっ、こんなの、あんまりだっ! これじゃ……これじゃ、大赤字じゃないか……
言っているうちにどんどんテンションが下がっていき、しまいには よよよ と泣き崩れて再び膝をつくアンドレイ。
対する黒目の青年は、そんな彼を憐みの目で見ながらも、やれやれと小さく頭を振る。
……だから『欲張るな』と言ったんだ。買占めて転売なんざ、あこぎなことを考えるからこうなる
だって、だってさぁ!
せめて、馬が重量オーバーにさえなってなけりゃ、逃げ切れた。違うか?
ぬぐっ……
青年の指摘に、アンドレイが言葉を詰まらせる。
馬の重量オーバーはやめておけ、という忠告を押し切って、無理やり大量のポーションを載せたのは、他ならぬ彼自身だったからだ。
……っていうか、お前が最初っから弓で射かけとけば、追剥(コイツら)も引いたかもしれないじゃないか! なんでもっと早く攻撃してくれなかったんだよ!
己の不利を悟ったアンドレイが立ち上がり、大仰な身振り手振りを交えて論点をずらそうとする。しかし、
おいおい、お前を『護衛』として雇ったのは誰だ?
ぬっ
考えてもみろ、『依頼主』が『護衛』を守るなんて愉快な話があるか?
ぐっ
第一、置いていかれなかっただけでも感謝して欲しいもんだ。お前を置いていけば、俺はノーリスクで悠々と逃げ切れたんだからな
ぐぬぬっ
手痛く反撃を食らって、悔しそうな顔で呻く。
どうにか言い返そうと口を開くも、反論の余地は無いと悟ったのか、そのままがくりと膝をついた。
まったく、護衛頼んだのはこちらとはいえ、何度置いていこうと思ったことか。ただでさえこっちは『貴重品』持ってるってのに……
独り言のように呟きながら、青年がぽんぽんと、膝の上の弓を叩いて見せる。
くっ……くそっ、ケイ、お前のせいだ! お前が護衛なんて頼むから! 珍しく頼みごとされたと思って、引き受けたのが間違いだった! 断っておけばポーションになんて手ぇ出さずに済んだのに! 畜生っ! 畜生っ……!!
吐き捨てるように言ってのけ、再びテンションが下降したアンドレイは、骨が抜けたかのように脱力。
どさりと力なく倒れ伏して、いじいじと地面を指先でいじくり始めた。
八つ当たりもいいところだ。『ケイ』と呼ばれた黒目の青年は、ため息一つ。
視界の遥か彼方、うっすらと見える雄大な山脈を眺めながら、
『知らんがな……』
漏れ出た呟きは、日本語だった。
1. ケイ
情報科学に革命が起き、情報処理技術が劇的に躍進したのが、おおよそ二十年前。
そして生体科学が発展し、仮想現実、すなわちVR技術が実用化されたのが十年前。
現在、世界には、VR技術を応用した様々なコンテンツが溢れかえっている。
北欧系のデベロッパに開発されたVRMMORPG DEMONDAL も、そんなコンテンツのひとつだ。
“中世ファンタジー風、リアル系MMORPG”―
そう銘打たれたこのゲームは、世界最高峰の物理エンジンを実装しており、全フィールド対人戦無制限(FreePvP)、死亡時に全ての所持品(肉体を含む)をその場にドロップ、プレイヤーの挙動を自動化する類のアビリティの排除、プレイヤー名やHPバーなどほぼ全てのゲーム的要素の不可視化、などなど、なかなかに尖った仕様で知られている。
開発会社いわく、『我々は極限にまで、ファンタジックなリアリティを追求した』。
DEMONDAL は、ゲーム的要素の強い他のVRゲームとは一線を画し、最早VR生活シミュレータといって差し支えないほどのリアルさを誇っている。
ゲーム内でメニュー画面を開くと、 ログアウト GMコール 現実世界の時刻 の三つしか表示されない、と聞けば、そのリアル志向ぶりがよくわかるだろう。
が、そんなリアル系VRゲームの先鋭たる DEMONDAL だが、悲しいかな、『極限にまで追求されたリアリティは万人受けしない』という真理の、典型的な見本でもある。
他のゲームとは違う、システムのシビアさ―特に、戦闘・生産を問わず、自動化されたアビリティの類が存在しないことが、一般人にとって大きな障害となっていた。
ゲーム内での全ての行動が現実並みに地味、かつ、その難易度が高く、他のゲームに比べてハードルが突き抜けて高いのだ。
DEMONDAL のアクティブなプレイヤー人口は、多く見積もっても二万人強。
他のVRネットゲームのタイトルが、最低でも五万人以上のアクティブ人口を持つことを考えると、その少なさがよく分かるだろう。
しかしその分、シビアでリアルな『世界』を求める猛者、変人、廃人が、高い敷居などものともせずに世界中から集まっている。
世界で最も濃い(・・)VRMMO。
それが、 DEMONDAL だ。
乃川圭一《のがわけいいち》― DEMONDAL の世界では主に『ケイ』の名前で知られる彼も、そんなクソッタレな世界を愛する廃ゲーマーの一人だ。
……それにしても、さっきの連中。かなり気合の入った追剥(・・)だったな
弓を片手に馬を走らせながら、ケイは後ろに追随するアンドレイに声をかける。
追剥たちを撃退してから、既に十分が経過しようとしていた。周囲の景色は、短草の茂る丘陵地帯から、木々が散見される疎林地帯へと変わってきている。
ケイたちの本拠地、“ウルヴァーン”の村が近づいてきた証拠だ。
あと二十分も走れば着くだろう。
そうだな……。ありゃ多分、追剥RP(ロールプレイ)用の別キャラだろうな
まだPOT(ポーション)大量喪失の衝撃が抜けきれないのか、やや沈んだ口調で首肯するアンドレイ。
そんな彼とは対照的に、矢傷をPOTで完治させた彼の乗騎は、大量のお荷物から解放されて足取りも軽やかだ。
ため息をひとつついたアンドレイは、陰鬱な気分を振り払うように頭を振り、言葉を続ける。
少なくともあの連携は、新規(ニュービー)じゃあねえ。かなり訓練しないと、ああはいかないぜ
ああ、なかなかいいチームワークだった。アレでアーチャーの腕が良かったら、危なかっただろうな
ま、リーダーが死んだあとは、ただの烏合の衆だったけどよ
そこまで言ったアンドレイは、マフラーの下、ふと怪訝な顔で首を傾げた。
……でも、オレのことは知ってたのに、お前のことは知らなかったな? 別ゲーの連中か?
“NINJA”スタイルの第一人者、かつ DEMONDAL 有数のサーベル使いとして抜群の知名度を誇るアンドレイ。
彼ほどではないが、実はケイも、ゲーム内ではそこそこ有名なプレイヤーだ。
もはやゲームの中に住んでるんじゃないか、と言われるほどにぶっ通しでログインし続ける廃人っぷりもさることながら、歴戦の戦闘狂をして一目を置かせる騎射の達人であり、また DEMONDAL で数少ない日本人プレイヤーとしても知られている。
いや、多分、“コイツ”のせいだろう
ひょい、とケイは左手の弓―見事な朱色の複合弓を掲げて見せた。
死亡時に所持品の全てをその場にドロップする DEMONDAL の世界において、死亡による装備の紛失や、それを狙う強盗・追剥プレイヤーの出現は日常茶飯事。
そのため、プレイヤーの大多数は、その装備をローコストで代替可能な量産品で固めており、高級品あるいは一点ものの装備を普段から使う者は非常に少ない。
ケイもその例に漏れず、武具も防具も、普段は最高性能からは少し劣る程度の量産品でまかなっている。
特に弓は、取り回しが悪く馬上では扱いづらい代わりに、高威力で長い射程を持つ大型の複合弓を愛用しており、弓騎兵としては異様な大弓は、『ケイ』のトレードマークとして知られていた。
が、しかし。今日に限っては勝手が違う。
朱色の複合弓。
“飛竜(ワイバーン)“の翼の腱と、“古の樹巨人(エルダートレント)“の腕木。
二つの極めて貴重な素材を用いて作成された、おそらく DEMONDAL の世界に二つと存在しない、最高の威力を誇る弓だ。
腕利きの弓職人に作成を依頼していたのだが、今日、遂に完成し、先ほど海辺の町”キテネ”で受け取ったばかりの逸品だった。
その銘を、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“という。
サイズは馬上で扱うには少々大きめだが、普段ケイが扱う大弓に比べるとコンパクトで、取り回しはそれだけ楽になっている。
が、その張力は、ただの大弓と比較にならぬほど強い。
もちろん、威力と射程も段違いだ。
演習場で試射した結果、“竜鱗通し”から放たれた矢は、二百メートル先の板金鎧を完全に貫通し、反対側へと突き抜けた。
これは理論上、二百メートル圏内であれば、ゲーム内で最高の強靭性を誇る”竜の鱗”を打ち抜く威力だ。
故に、ついた銘が”竜鱗通し”。
現状、ゲーム内で一点ものな上に、破格の威力を持つこの美しい朱塗の弓は、間違いなく大弓に代わって『ケイ』の新たなトレードマークになることだろう。
ちなみに、まだ余分な素材はあるので、ケイはその気になればあと二つ、この弓を作成することができる。
他のプレイヤーに奪われる可能性を鑑みても、割と気軽に持ち出せるのだ。その点においても、“竜鱗通し”はポイントが高かった。
ショボい木の盾だったけど、叩き割って鎧まで貫通したのには笑ったな。やっぱすげえわ、その弓
そうだろう、そうだろう
自分で作成したわけではないが、アンドレイに手放しに誉められ、ご満悦なケイ。
流石は”死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”……死神様には相応しい武器、だな?
…………
が、アンドレイのからかいに一転、渋面を作る。
“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”。
幾つかあるケイの渾名の中で、おそらく最も広まっているものだ。
かの有名な殺人鬼、“切り裂きJACK《ジャック・ザ・リッパー》“をもじったこの渾名は、ケイと交戦した者のあまりの死亡率の高さから名付けられた。
元々、威力の高い大弓を馬上でも難なく使いこなすケイは、弓騎兵として他のプレイヤーから頭抜けた実力を持つ。
その狙いは正確無比、風を読むセンスは天性のもので、大弓から放たれる矢は生半可な防具では防げず、獲物を確実に死に至らしめる。
故に、死神。
ついでに日本人なので、つなげて死神日本人。
誰が呼び始めたのかは定かでないが、その分かりやすさからあっという間に広がり、当初付けられていた”鎧通し(スティンガー)”、“大弓使い(ラージアーチャー)“などの渾名を駆逐。
現在ではさらに縮まり、“ザ・ジャップ”とさえ呼ばれる始末だ。
呼んでいる者たちにはあ(・)ま(・)り(・)悪意はないのだろうが、いち日本人として、 ジャップジャップ と呼ばれるのは、あまり良い気持ちはしない。
……早く別の渾名が欲しいな
遠い目で、素朴な願望を呟くケイ。
そうだなー。新しい渾名がつくといいなー
その背後、頭の後ろで腕を組んだアンドレイは、どこか投げやりな調子で同意する。
正直なところ。
“竜鱗通し”を得たことにより、ケイと交戦する者の死亡率はさらに上がったわけで。
しかも、この弓を常時持ち歩くとなれば、それを狙う強盗も増えることだろう。つまりその犠牲者は増える一方。
(“死神”の名がもっと広がるだけじゃないか?)
口には出さなかったが、密かにそう思うアンドレイであった。
†††
馬で駆けること、さらに十分。
疎林地帯を抜けたケイたちは小さな川に沿って、上流の方へと進んでいた。
目の前には、岩が剥き出しの高い崖に挟まれた、峡谷の入り口。
この峡谷、その名も”ウルヴァーン・ヴァレー”という。
プレイヤーメイドの要塞村”ウルヴァーン”へと続く、最も便利な道として活用されている。
この谷を抜け、崖道を登って行けば、数分とせずに村へと着くはずなのだが―
……霧?
訝しげに眉をひそめたケイは、手綱を引いて馬の足を止めた。
霧。
進行方向、峡谷の入り口から向こう側は、全て乳白色の霧に覆い尽くされていた。まるでミルクが空気中に溶け込んで漂っているかのように、先が見通せない、濃い霧。
……妙だな
ああ。天気は良いぜ
ケイの呟きに、快晴の空を見上げたアンドレイが答える。
リアル志向の DEMONDAL では、当然のように天候も再現されており、『霧』という現象そのものは珍しくもなんともない。
だが、リアル志向だ(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)、晴れ渡った昼下がりに、唐突に霧が立ち込めている理由が分からない。
……“幻覚の霧”?
アンドレイがケイの方を向いて、ゲーム内で最もメジャーな幻覚系の魔術を挙げる。
しかし、ケイは頭を振ってそれを否定した。
いや、それはないだろう。俺たちの魔術耐性を考えてみろ
……こんなに濃くは見えないな
ああ、少なくともプレイヤーには無理だ。それに、俺の第六感(シックスセンス)に反応がない
注意深く周囲に視線をやりながら、ケイは言った。
“第六感(シックスセンス)”。
リアル志向の DEMONDAL の中でも数少ない、ゲーム的な要素の一つだ。
日本人からすると、『殺気』と聞けば、馴染み深い概念かもしれない。
さっくり言ってしまえば、自分を害する『攻撃』が放たれた際、それに対して背筋がゾクゾクするような『悪寒』が発生するシステムだ。そしてその『攻撃』には、一般的に、実害のない幻覚系の魔術も含まれる。
ケイの第六感に反応なし、か。となると魔術師の仕業じゃないな
アンドレイが顎に手を当てて、ふむむ、と唸り声を上げる。
“第六感”―聴覚と触覚を融合し、新たに創られた、文字通り第六の感覚。
実際のところ、どうしてもこのシステムに馴染むことが出来ず、機能をオフにしてしまうプレイヤーも少なくない。
だが、ひとたび順応さえすれば、これほど頼りになる感覚はない、とケイは思う。
弓を扱い、遠距離からの射撃戦に主眼を置くケイは、殺気を感知する技能と、攻撃時に精神を平静に保ち、逆に殺気を隠す技能に長けている。公式で設定されているわけではないが、プレイヤーたちは前者を”受動感気(パッシブセンス)”、後者を”隠密殺気(ステルスセンス)“と呼ぶ。
ケイの場合、特に”受動(パッシブ)“が神がかった領域にあり、ほんの僅かな殺気であっても感知が可能だ。例え背後からの不意打ちであっても、大概の攻撃は事前に対処できる。その代わり殺気に敏感すぎるため、刺激的な混戦は苦手としているが―
兎も角、そんなケイであっても、この霧からは『殺気』が感じられない。
……まあ、“妖精”以外の契約精霊で、幻覚系の魔術があるなら話は別だ。仮に、脅威度も敵性意思もゼロ設定の魔術があったら、俺でも感知は出来ないぞ
矢筒から矢を抜き取りながら、ケイ。
お前は何か感じないか? アンドレイ
Nope(なんにも). 知ってるだろ、オレは”受動(パッシブ)“は苦手なんだよ。第一お前に分からないモンが、オレに分かるわけがない
しゃらりと、背の鞘からサーベルを抜き放ち、アンドレイが肩をすくめる。
サーベルによる白兵戦のほか、撹乱や奇襲なども得意とする”NINJA”ことアンドレイは、意図的に強烈な殺気を放ち相手を威圧する”能動発気(アクティブセンス)“と、殺気を抑える”隠密殺気(ステルスセンス)”、その両方を極めた近接格闘の達人だ。
対極に位置する二つの技能、“能動(アクティブ)“と”隠密(ステルス)“が変幻自在に入り乱れ、そこに軽業(アクロバット)のような変態機動が加わるのがアンドレイの戦闘スタイル。
敵を翻弄し、リズムを切り崩し、場の空気を支配する。
が、自らイニシアティブを握っていくこの戦闘スタイルゆえ、アンドレイは”受動(パッシブ)“を使う機会がほとんどない。その殺気を感知する能力は、お粗末なレベルに留まっていた。
あくまで”上級プレイヤーにしては”という但し書きはつくが、少なくとも、ケイと比べられるレベルではない。
けど、この霧があからさまに怪しいのは分かるぜ、流石にな
全くだ。どうしたものか
少なくともケイの知る限り、ウルヴァーンヴァレーに霧が立ち込める、という現象はこれまで起きた試しがない。天気が悪かった日も含めてだ。
しかし DEMONDAL は、イベントやアイテム、モンスターの追加など小ネタ的なアップデートが予告なしで行われることがある。
この霧も、おそらく新たに追加された『何か』であると考えられた。
……迂回するのが、一番リスクは少ないな
でもココ通らなかったら三十分は食うぜ?
アンドレイがわざとらしく、素っ頓狂な声を上げる。
ウルヴァーンヴァレーを通れないとなると、ここからは崖を迂回し、険しい山道を登る以外に村へアクセスする方法はない。
んじゃ突っ込むか?
ケイ……なんでお前、そう極端なんだ
冒険してなんぼだろ? それに、そういうお前も乗り気じゃないか?
ふっ、まあな。殆どのポーションを失ったオレに、もはや怖いものなどない!
えっへん、と自虐的に胸を張るアンドレイ、しかし小首を傾げて、
でもいいのか? 万が一があったら、その弓……
勿論、失くしたくはないが、予備の素材はあるしな。それに何かヤバいことがあったら、次はお前を置いて逃げるさ
この野郎っ
アンドレイがおどけてサーベルを振り上げた。笑みを浮かべたケイは、それから逃れるように馬を走らせる。
さて、ちょっくら行ってみようか相棒
おうよ
笑いながら、二人はそのまま霧の中へと入っていった。
2. 霧の中
見渡す限りの、乳白色の世界。
濃いな……
常歩でゆっくりと馬を進ませながら、ケイはいつでも矢を放てるように弓を構え、周囲に神経を張り巡らせる。
頭上から降り注ぐ陽光のおかげで明るくはあるものの、視界はぼんやりと霞み、見晴らしは非常に悪い。
五メートルほど先から急激に見えづらくなり、十メートル先に至っては殆ど何も見えなかった。乳白色のヴェールからぬっと姿を現す木々の影に、先ほどからケイはぎょっとさせられてばかりいる。
霧を構成する粒子の一粒一粒が、つぶさに見えるような錯覚。
ぼやけた視界のせいで、頭の中までぼんやりしていくような。
そんな、不快な感覚があった。
アンドレイ、着いてきてるか
おう。たまに見失うけどな
……はぐれるなよ?
気をつけるさ。流石に面倒だ
本当に大丈夫か、とケイはすぐ後ろに追随するアンドレイに目をやる。ぱっかぱっかと揺れる馬上、アンドレイはサーベルでぽんぽんと肩を叩きながら、興味深げに周囲を見回していた。
すげえな、この霧。現実(リアル)でもこんなのお目にかかったことねえよ
……お前の御国は、霧はよく出るのか?
あー、……いや。霧はあんまし、どっちかっつーと雪だな
ロシアだよな?
ああ、シベリアだ
シベリアか……寒そうだ
冬は軽く-30℃はいくぜ
そいつは勘弁だな、寒いのは苦手だ
一旦、会話が途切れる。
……やはり魔術か? 自然現象にしては、濃すぎる気がする
そうだなー。けどMob(モンスター)が魔術使っても、敵性意思は発生するだろ? そしたら、お前の第六感(シックスセンス)で感知できるはずだ
となると、脅威度がゼロ設定の、未発見の魔術か……? いや、俺たちの魔術耐性を考えると、この濃さで脅威度ゼロは無いだろう
“幻覚”じゃなくて、実際に霧を発生させてる、って可能性もあるぜ?
……だとしたら、かなり上位の精霊だな。契約できれば儲けモノだが……二人で戦うのは、ぞっとしないな
……攻撃的(アクティブ)Mobじゃないことを祈るぜ
アンドレイがお手上げのポーズを取る。
が、突然、ぎょっとしたように顔を強張らせ、左手で腰の投げナイフを引き抜いた。
……
どうした、アンドレイ
一瞬、アンドレイが発した鋭い殺気を感知し、馬の歩みを止めたケイは弓を構えつつ尋ねる。
投げナイフを左手に、アンドレイは困惑したような顔で、ぽつりと答えた。
……声が聴こえた
……声?
思わず、ケイは眉をひそめる。
『視力強化』の呪印を刻んだ両の瞳ほどではないが、極限までステータスを高めたアバターとして、ケイの耳もかなりの高性能を誇っていた。
しかし、先ほどから、声など聴こえてはいない。
……何だ……何だ、今の……
……落ち着け。なんだか嫌な感じがする
壊れた機械のように、せわしなく視線を彷徨わせるアンドレイ。
その姿に、言い知れぬ不安を覚えたケイは、思わずそう口にして―自分の発言に戸惑った。
“嫌な感じがする―”
何を馬鹿な、と。一笑に付したい気分だった。
確かに DEMONDAL には”第六感(シックスセンス)“という、『悪寒』を発生させるシステムが存在する。だがそれはあくまで、鳥肌が立つような、ゾクゾクとした『感覚』を再現するもの。
断じて、根源的な不安を呼び起こすような―
ヒトの感情に、直接影響を及ぼすようなものでは、ない。
しかし、他でもない今。
ケイは得体の知れない何かが、足元からじりじりと這い上がってくるような―そんな、感覚に襲われていた。
……アンドレイ、俺には何も聴こえない
そんな筈はない! ほら……まただ!
微かに怯えの表情を浮かべたアンドレイが、鋭い声を上げる。
ケイも聴こえるだろ!?
……いや、聴こえないぞ
事実、何も聞こえない。だが、アンドレイはそうではないようだった。
嘘だ! なんでだよッ!!
本当だ、落ち着けっ
なんで聴こえないんだ! ほら、また―
その瞬間。
言葉を続けようとしたアンドレイは、かっと目を見開いて、硬直した。
…………
……アンドレイ?
……誰だッ!!
サーベルを振り上げたアンドレイが、周囲を見回し、叫ぶ。
誰だッ!! 何処にいる?!
アンドレイッ
誰だ?! なんで、なんでッ―
怯えきった顔で、アンドレイは絶叫した。
―なんでオ(・)レ(・)の(・)名(・)前(・)を(・)知(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)?!
……は?
何を言っているんだコイツは。と、思わずケイの思考が一瞬停止する。
……。アンドレイ、いい加減に落ち着い―
ぐるんと、アンドレイがこちらに顔を向けた。
その瞬間、ケイの背筋に冷たいものが走る。
ア(・)ン(・)ド(・)レ(・)イ(・)の(・)視(・)線(・)は(・)、ケ(・)イ(・)を(・)素(・)通(・)り(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。
明らかに、目の焦点があってない。能面のように表情が抜け落ちた顔は、紙のように白かった。リアルな造形とはいえ、高々ゲームのアバター―にも関わらず、背筋が凍るようなおぞましい何かが、そこにあった。
…………
無言のまま、アンドレイが左手を振り上げる。きらりと光る投げナイフ。
ぶわりと、アンドレイの黒衣が膨れ上がるような錯覚が、
いや、ちょっと待
左腕がブレた。
鋭く刺すような殺気。ケイは慌てて身をかがめた。
ビッ、と空を切り裂いて、ケイの頭を銀色の刃がかすめる。
おいっ、ふざけるなっアンドレイ!!
思わず怒鳴るが、アンドレイは意に介さず、そのままきょどきょどと周囲に視線をやり、
くそっ、何処だ。アイツ、何処に行きやが、あああああ、あ、あ、あ、消え、消え
うわ言のように呟きながら、馬上で寒さに凍えているかのように、己の身を掻き抱く。その体は冬山の遭難者のように、カタカタと細かい震えを起こしていた。
流石に心配がピークに達したケイは、ひらりと鞍から飛び降り、アンドレイに近づこうとした。
が、その瞬間、ぴたりと震えを止めたアンドレイが、再び腰から投げナイフを引き抜く。
来るか、と咄嗟に身構えたが、アンドレイはケイとは明後日の方向を向いて、
そこかッ!
ナイフを投じた。
風切音。
しかし、何もないところへ投げられたナイフは、当然、何者をも捉えない。
乳白色のヴェールに、呑まれて、消える。
普通なら地面に刺さるなり、崖の岩肌に弾かれるなり、何らかの音がするはずだったが、霧の世界は不気味なほどに静かなままだった。
また、また、消えた……
泣きそうな表情で俯いて、アンドレイが小さく呟く。
その表情に憐憫を、そして理解不能な状況に怒りを覚えたケイは、たまらず、腹の底から声を振り絞って、叫んだ。
おいッ、アンドレイッ! しっかりしろ!!
その声に、はっとアンドレイが顔を上げる。
……ケイッ!!
叫び返すアンドレイはしかし、振(・)り(・)返(・)っ(・)た(・)。
―ケイがいる方向とは、真逆に。
ケイ! 何処に行ってたんだ!
心なしか安堵の色が滲む声で、アンドレイがほっと溜息をつく。
全く、ビビらせやがって……
ああそうさ、さっきから変な声がしてたんだ
いや、幻聴じゃねえよ。ホントだって
それよりお前、何処に行ってたんだよ? けっこー怖かったんだぜ?
え? さっきからここにいた? 嘘つけ、絶対いなかっただろ
からからと笑うアンドレイ。
―いや、冗談ではない。
おい……おいっ!! アンドレイ!!!
楽しげに会話するアンドレイに、ケイは全身が総毛立つのを感じた。
お前、誰(・)と話してるんだ!
ふっ、とアンドレイが、こちらを見た。
焦点のあっていない目。
……なあ、今、また声が聴こえなかったか?
彷徨う視線。
なあ、ケイ。…………ケイ?
再び、振り返ったアンドレイが、 あれ? と戸惑いの声を上げる。
おい、今度は何処行ったんだよケイ! 悪ふざけは止めてくれ!
ふざけてんのはお前だ! 俺はここにいる!
……! そっちか!
明後日の方向を向いたアンドレイが、手綱を握り馬の横腹を蹴った。
ヒヒン、と鳴いたアンドレイの馬が、駆け足で走り始める。
ケ―イッ! 待ってくれ―ッ!
違う! それ(・・)は俺じゃないッ! 止まれ、アンドレイ!!
必死で叫ぶ、
アンドレイッッ!!!
少年の後ろ姿が、霧に呑まれた。
蹄の音が遠のいていき―消える。
…………
一人残されたケイは、ただ、呆然と立ちすくんだ。
……。!
数秒、あるいは数十秒。はっと我に返る。
追わなければ、と思った。
正直、気味の悪い、この得体の知れない状況に、ログアウトするなりキャラチェンジするなりしたい気分だったが。
このまま放っておけるほど、アンドレイは付き合いの浅い相手ではなかった。
何かがヤバい、と。ケイは、直感していた。
くそっ、アンドレイの馬鹿野郎
手間かけさせやがって、と毒づきながら、手綱を引いて馬に飛び乗ろうとした。
……?
だが、引いた手綱が全く動かない。首を傾げたケイは、手綱をたどるようにして視線を動かし、馬に目をやる。
……ミカヅキ? どうした
名を呼びながら、異変を感じたケイは愛馬に向き直った。
手綱を握ったまま、乗騎―ミカヅキの顔を見るも、ミカヅキはまるで剥製にでもされてしまったかのように、微動だにしない。
……おーい、ミカヅキ?
ひらひらと、ミカヅキの顔の前で手を振る。普段なら、飼い主であるケイをトレースするように、首なり目なりを動かすはずだ。
が、ミカヅキは真っ直ぐ前を見たまま、全く動かなかった。
……どうなってんだ
バグか? とケイはため息をつく。
やっぱりログアウトしようか、とさえ思った。
なんだかもう、この場をすぐに去ってしまいたい、と。
ぶるるっ
そう思った矢先、まるでエラーを起こしたコンピュータが再起動を果たしたかのように、ミカヅキが鼻を鳴らして首を振った。
おお、戻ったか、良かった
ぶるるっ、ぶるるっ
ほっと一息つくケイをよそに、ミカヅキは鼻を鳴らす。
ぶるるっ、ぶるるっ、ぶるるるるっ
すぐに、何かがおかしい、と気付いた。
ぶるるるるっ、ぶるるるるるるるっ
頭をぶんぶんと振りながら、ミカヅキは鼻を鳴らし続ける。
ぶるるるるるるるるるるるるるるるるる―
終いには、まるで壊れた玩具のように、ブレて見えるほど激しく首を振り回し、そのいななきはまるでエンジン音のようで、
……ミ、ミカヅキ?
恐る恐る、ブレまくる顔に手を伸ばし―
ぴたり、と。
ケイの手が触れる寸前で、ミカヅキはその動きを止めた。
……
ミカヅキの目が、すっとケイを捉え、その口が開き、
ミ” カ” ツ” キ” ィ
ひび割れた低音の声が、
うおっ!?
ぎょっとしたケイは、思わず後ろに飛び退ろうとして、足をもつれさせその場に尻もちをつく。
…………
意味が分からない。唖然としたまま、阿呆のように口をぽかんと開けるばかりで、言葉は何も出なかった。
普通、ペットは喋らない。
当たり前だ。所詮は馬。
人間の声は出ないし、出せない。
出せない、筈だった。
…………
剥製のようなミカヅキの顔が、真正面から、こちらを見つめる。
ガラスのような目の玉が。
じっと、ケイを見つめたまま、動かない。
ぐわんぐわんと、視界が揺れるような。
口の中が、からからに乾いていくような。
そんな錯覚が、ケイを襲った。
……ぶるるっ
どれほどの時間が経ったか。
再び、鼻を鳴らしたミカヅキは、ケイからふっと目を逸らした。
そのまま踵を返し、主人であるケイを置いて、霧の中へと駆け去っていく。
だんだんと遠ざかる蹄の音は、やがて聴こえなくなった。
静寂。
…………
呆気に取られたケイだけが、ひとり残される。
かひゅーっ、と。
ケイの喉が、大きくかすれた音を立てる。
ようやく肺機能が復活したケイは、このとき初めて、己が呼吸を止めていたことに気が付いた。
しばし、尻もちをついたまま、浅い呼吸を繰り返す。
静謐な霧の世界に、ぜえぜえと喘ぐような声が、響いて、吸い込まれて、消えていった。
……落ち着け。……落ち着け、落ち着け……
己に言い聞かせるように、小さく呟きながら。
胡坐をかいて座り直したケイは、胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。
ようやく心臓の動悸が治まったあたりで、ふう、と大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑える。
黙考すること、数秒。
……。落ちよう
ケイは、この状況から逃れ去ることを選択した。あまりにも、気味が、悪かった。
顔面蒼白のまま、ケイはログアウトするため、思考操作でメニュー画面を呼び出そうとした。
しかし、いつもなら特に意識せず実行していた操作が、上手くいかない。
何度メニューを呼び出しても、出てこなかった。
……なんで出てこないんだよ
ぼそりと、呟く。
まさかこのまま。
ログアウトできずに―。
ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。背筋に、ぞっと冷たいものが走った。
誰もいない。
一人きりで、霧の中。
じわりと体の表面が熱くなり、体の芯は逆に冷えていくような、そんな感覚。
……くそっ。なんで上手くいかないっ
苛立たしげに呟きながら、頭を振って再び思考操作を試みる。失敗。試みる。失敗。試みる。
失敗。
……っ!!
焦りと苛立ちがピークに達そうとした、まさにその瞬間、ケイの眼前に音もなく、半透明のウィンドウが現れた。
無機質な白色の画面には、いつものように、現在時刻とGMコール、そしてログアウトの表示が三つ、浮かんでいた。
目線でのカーソルコントロールを試みると、これまでの無反応が嘘だったかのように、メニュー画面は快適な操作性を示す。
まるで、いつも通りだった。
……よかった
それを見たケイは、ほっと安堵のため息をつく。
正直なところ、状況が不気味すぎて、『心霊現象にでも巻き込まれてしまったのではないか』、と。
そんな他愛もない妄想が、心の中で膨れ上がって、どうしようもなくなっていたのだ。
……ゲームの中なのにな
強がるように鼻で笑いながら、ケイは『Logout』のボタンに手を伸ばし。
触れた。
ノ” カ” ワ” ケ” イ” イ” チ”
その瞬間、ケイの真後ろから。
ひび割れたような低音の声が、吐き気を催すような強烈な殺気が、
!??
何故に本名、不気味な声、凄まじい殺気、意味が分からずに、転がるようにしてケイは立ち上がり、地面を蹴って距離を取り、振り返りながら弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞り、
しかしそこで動きを止めた。
人がいた。
まるで死人のように、真っ白な肌。
なぜか全裸だった。いや、股間に生殖器が見当たらないあたり、全裸といっていいものか。まるで宇宙人のように。つるつるとした体。
頭部には、一切毛髪は見当たらなかった。というよりも、人形(ヒトガタ)はしているが、これを人と呼んでいいものか。
顔はのっぺらぼうのように、まっさらで。
ただ、目のあるところに、黒い穴が二つ。
―
一瞬の思考の空白、 何だコイツは という、純粋な疑問が脳裏を駆け巡る。
と、人形(ヒトガタ)の顔、ちょうど、口に当たる部分が、ぐぱりと横に裂けて、
ヨ” ン” タ”
ぐわんと、視界が揺れた。
がくりと、その場に膝を
そこで、意識が途絶えた。
3.
ぼんやりと、夢を見ていた。
幼い頃に、友達と外で遊んでいる夢。
無邪気に、楽しそうに。
鬼ごっこだろうか。走り回る自分の姿。
さらりと砂のように。
溶けて消えた。
白い部屋。
窓の外を眺めていた。
翼を広げた鳥が、羽ばたいていく。
青い空に描く軌跡を、ただ目で追った。
清潔なベッドの上。ぴくりとも動かずに。
動けずに。
そっと瞳を閉じる。
視界が青く染まる。
たゆたう水色の世界。
息は苦しくない。
そ(・)う(・)い(・)う(・)風(・)に(・)、出(・)来(・)て(・)い(・)る(・)。
怖くはなかった。
沈んでいく。自分の内側へと。
深く、深く―
†††
―しばらく、歩き続けたと思う。
目の前に、鏡があった。
何も映っていない、鏡。
いや。
目を凝らせば、見えてくる。
浮かび上がってくる。
黒い髪、黒い目。
精緻な装飾を凝らした革鎧。
羽根飾りのついた兜。
腰にはひと振りのサーベルに、矢筒。
そして左手には、朱塗りの、強弓。
……俺だ
ぽつりと呟いた言葉は、確かに響いた。
それと認識した瞬間、はっきりと形を成す。
ケイ。
かつて、自分が名付けた。
そして、今までを共に生きてきた。
……俺の、身体(からだ)
ぐっと、拳に力を込めた。
絶えず収縮する筋肉の躍動を。
全身を駆け巡る血潮の流れを。
末端まで広がる神経の瞬きを。
強く、感じ取る。
いつの間にか、目の前の鏡は消え去っていた。
代わりに、真っ直ぐと道が伸びている。
心なしか、自分の周囲がにぎやかに感じた。
元気に駆け回る馬の姿や。
羽衣をまとった少女の姿。
まるで走馬灯のように。
それらの影を、幻視した。
行こう、と。
誰に言うとでもなく、呟いて。
その一歩を、踏み出した。
4. アンドレイ
―ケイ! ケイっ!
声がする。
起きろ! おいケイ! 起きろってば!
ぐらぐらと、三半規管が身体の揺れを訴える。
どこか懐かしい感覚だ。
幼い頃、船に乗って酷く酔ったときのそれに似ていた。
……やめろ、揺さぶるな
吐き気をこらえて呻きながら、うっすらと目を開ける。
!! 目が覚めたのか!
視界に飛び込んできたのは、オレンジ色の―これは、夕焼けに染まった空だろうか。そして、自分を心配げに見下ろす、黒い影。
金髪碧眼。黒鉄の額当てに、全身を覆う黒装束。
ひとりの”NINJA”が、そこにいた。
……ここは?
自分が仰向けに倒れていることに気付き、ケイはゆっくりと上体を起こす。
周囲を見回した。茜色に染まる、一面の草原。
振り返ると、背後にはごつごつとした、大きな岩山がそびえ立っている。
草原はともかくとして、この岩山には見覚えがない。
……どこだ、ここ
オレにも分からねえんだ!
寝起きのように霞みがかった思考のまま、ぽつりと呟いたケイの言葉に、NINJAが反応する。きついロシア訛りの英語。
気付いたらここにいて……でっ、でも、見てくれよケイ! ほらこれッ! どう考えてもおかしいんだ!
NINJAはそう言って、足元の草を引っこ抜いて見せた。
草の根に付着していた土が、ぽろぽろと地面に零れ落ちる。
……何だと?
あ(・)り(・)え(・)な(・)い(・)。
ぼんやりとしていた頭が、一気に冴えた。驚愕に目を見開いたケイも、手元の草に手を伸ばす。
無造作に引き千切った。
ぶちぶちと、繊維がちぎれる感触が指先に伝わる。
草の青臭さが、土の匂いが、鼻腔をはっきりと刺激した。
指先に付着した草の汁を、舐めとってみる。
もちろん、苦かった。
……そんな、バカな
手の中の草は、引き千切っても消えることはなく。
五感すべてに、その存在を訴えかけてくる。
地面の土も、その粒子の一粒一粒に至るまでが、全て知覚できた。
なっ!? おかしいだろ!?
あ、ああ
必死の形相で詰め寄ってくるNINJAに、少し気圧されながらも、ケイは頷いた。
いくら世界最高峰の物理エンジンを誇る DEMONDAL といえども、土壌や雑草などのオブジェクトへの干渉は、幾つかの例外を除いて大幅に制限されている。そんな微細な物体の運動までを演算しようとすると、情報量が多くなりすぎて処理が追いつかなくなるからだ。
故に、ゲーム内では、特定のアイテムを除いて、植物や地面は『不干渉オブジェクト』、すなわち『破壊不可能』に設定されている。
―設定されている、はずだった。
それがどうだ。
今、ケイの手の中には、ちぎられた葉がたしかに存在している。
ぶわり、と草原の風が吹きつけて、手の平から草を吹き飛ばした。
ざあぁ、と草擦れの音を立てて、湿り気のある草と土の匂いが運ばれてくる。
くるくると風に舞う草を、ケイはただ呆然と目で追った。
視線を上にやれば、茜色に染まる岩山。
その岩肌が所々、きらきらと瞬いているように見える。
露出した鉱石の一部が、夕日の光を反射しているのだ。
さらに頭上を仰げば、夕暮れの空に雲がたなびいている。
ゆっくりと形を変えていくそれは、断じてグラフィックの使い回しなどではない。
風によって為される、自然の造形。
かつてないほどに、圧倒的な。
圧倒的すぎる、情報量だった。
―そう、それはまるで、
現実(リアル)……
ありえない、と真っ先に理性は否定する。
もしここが現実であるならば。
この体は、何なのだ。
籠手も革鎧も、腰のサーベルも。
足元に放り出されていた朱塗の弓も、全てが『ケイ』のものだ。
ひょっとすれば、いや、ひょっとしなくとも、顔も『ケイ』のままだろう。
……メニュー画面が出てこないんだ。何度やっても
傍らで、NINJAが震える声でそう言った。
何かを堪えるかのように拳を握りながら、俯いてじっと地面を見ている。
…………
困惑の表情で、ケイはNINJAを見た。
メニュー画面が出てこない、という情報も大切だが。
この黒装束に身を包んだ人物も、ケイの混乱を助長させる一因であった。
……? ど、どうしたんだよ、ケイ
黙りこくるケイに、そして他(・)人(・)を(・)見(・)る(・)か(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)よそよそしい視線に、NINJAが気付く。
いや、その―
言い出そうとして、口をつぐむ。
逡巡することしばし。
……何だよ、どうしたんだ?
う、うぅむ
意を決して、ケイは問いかけた。
お前、―誰だ
……は?
なに言ってんだコイツ、と。
呆気にとられたNINJAの口から、間抜けな声が出る。
―おいおい、ショックで頭がイッちまったのか? 勘弁してくれよケイ! いや、気持ちは分かるけどな?
こいつは参ったぜ、と言わんばかりに、ぺちんと額を叩いて見せ、
アンドレイ! “NINJA”のアンドレイだ! ……忘れたとか、言わないよな?
雨の日に捨てられた子犬のような、不安げな顔でケイの表情を伺う。
アンドレイ。
予想できていた答えだ。
(いや、それは分かるんだが)
違う、俺が聞きたいのはそこじゃない、とケイは眉間を押さえる。
ケイのことを『ケイ』と親しげに呼び、かつ、全身黒ずくめで背中にサーベルを背負っている人物など、ケイの交友関係の中には一人しか存在しない。というより、 DEMONDAL の全プレイヤーの中でも、一人しかいないだろう。
しかし、それでも。
目の前の”NINJA”と、ケイの知る『アンドレイ』とでは、決(・)定(・)的(・)に(・)、異(・)な(・)る(・)点(・)が(・)あ(・)る(・)。
……OK, 『アンドレイ』
顔を上げたケイの視線が、真っ直ぐに『アンドレイ』を捉える。
真剣な眼差し。
な、何だよ
その、気を悪くしないで欲しいんだが
おう
ひとつ、お前に聞きたいことがある
……何だ?
あくまで、確認なんだがな? その……
まどろっこしい奴だな、何だよ!?
普段のケイらしからぬ、奥歯に物が挟まったかのような勿体ぶり方に、『アンドレイ』が声を荒げる。
ケイは、困惑の表情のまま、おずおずと問いかけた。
……なんでお前、『女の子』になってんの?
……へっ?
本日二度目の間抜け顔。『アンドレイ』の動きが止まる。
……何言ってんだよ?
いや、だって、それ……
ケイが指差す先をたどり、『アンドレイ』も視線を落とす。
自分の胸元に。
より正確に言うならば―胸(・)の(・)ふ(・)く(・)ら(・)み(・)に(・)。
……ぇあっ?
奇声。『アンドレイ』の目が点になる。
えっ? なんで? えっ?
恐る恐る、といった風に、『アンドレイ』が自らの控え目な胸に手をかける。
むにゅ、むにゅ、と。
……あ、ある
どこか呆然と、呟く。
そして、はっ、と何かに気付いた様子で、そのまま股間に手を伸ばした。
もぞ、もぞ、と。
……な、ない
何が。ナニがである。
……なんで?
知らんがな
忍者のコスプレをしたひとりの少女(・・)が、そこにいた。
†††
火打石で火を起こすのは、実はさほど難しくはない。
よく揉みほぐした麻綿と、乾燥した火口、それに火打金があれば完璧だ。きちんと手順さえ守れば、子供でも容易く、そして意外なほど素早く火を起こすことができる。
まず、片手に火打石と火口を併せて持ち、逆の手で擦りつけるようにして火打金を振り下ろす。
飛び散った火花が火口につけば、それを麻綿でくるみ、息を吹きかけるなり軽く振るなりして空気を送り込む。
すると白い煙が立ち上り、数十秒も待てば燃え始めるだろう。
これで、火種の出来上がりだ。あとはそれが消えないうちに、あらかじめ用意しておいた枯れ枝や枯れ葉で火を育てていけばよい。
よし、できた
焚き木の火勢が安定したことを確認し、ケイは満足げに頷いた。
火打石セットを腰のポシェットに仕舞い、手を擦り合わせながら頭上を仰ぎ見る。
……冷えてきたな
仄暗く染まりつつある空。太陽は既に地平の彼方へと沈み、代わりに星々が瞬き始めていた。今宵は新月か。頭上に生い茂る枝葉の隙間、僅かに覗く空は、どこまでも暗い。
草原に面した、木立の中。崩れかけた石造りの廃屋の影で、ケイは粛々と、野営の準備を進めていた。
遭難したときに最も大切なのは、大まかでも周囲の地形を把握することだ―と、何かの本で読んだことがある。その定石に基づいて、ケイは混乱から立ち直ったあとは、すぐに周辺の探索を実行した。
そして見つけたのが、岩山の南に広がる深い森と、その入り口に佇む廃墟だ。そこには崩れかけた二面の石壁と朽ちた屋根が残るのみであったが、タイルの床のおかげで体を横たえられるだけの充分なスペースがあった。それでいて周囲には程よく草木が茂り、旅人たちの姿を覆い隠してくれる。
あくまでゲーム内での経験則ではあるが―草原のように開けた場所で、暗い中、火を焚くのは危険を伴う。見晴らしがよければ炎は目立ち、何かよからぬものを引き寄せかねないからだ。
人か、獣か、―あるいはそれ以外の何かか。分からない。何も分からない。しかし、警戒には値する。
マントの前を打ち合わせ、ケイはほぅっと溜息をついた。揺らめく焚き火の明かりが、廃墟に長い影法師を作る。時折吹きすさぶ風は、凍える夜の訪れを予感させた。本来ならば、こんな見知らぬ土地で火を焚きたくはなかったのだが、暖も取らずに過ごすには、今宵は少々肌寒い。
また、暗いのもいけなかった。『視力強化』の呪印を持つケイは、星明かり程度でも充分に闇を見通せるが。ケイの『相方』は、そうもいかないだろう。
……さて、
視線を戻す。焚き火を挟んだ対面。
平石の上にちょこんと腰かけて、火に当たり暖を取る人物。
彼女(・・)に向けて、ケイはぎこちなく笑みを浮かべた。
寒くはないか? お(・)姫(・)様(・)
……お姫様(プリンセス)はよせ
Rにきついロシア訛りの入った英語。ケイのからかいの言葉に、憮然として答えたのは、『アンドレイ』―もとい、金髪のコスプレ忍者少女だった。
……それと、別に寒くはない
ぼそり、と付け加えて、むすっとした顔のまま目を逸らす。
薄手の黒装束と革のマントだけだったが、それほど寒がっているようにも、強がっているようにも見えなかった。
(そういえばこいつ、ロシア人だったな)
この程度の気温では『寒い』の範疇に入らないのだろう。ひとり納得して、 ならいいが と返す。
…………
しばし、沈黙。
焚き木が爆ぜる音だけが小さく響く。
お互いに何かを話したいが、何を話せばいいのか、と。
そんな、遠慮にも似た、迷いのある空気。
しかし黙り込んでいるうちに、早くも焚き木が燃え尽き始めていた。追加で焚き木を放り込み、ケイはおもむろに口を開く。
……なあ、そろそろ、話さないか
ん。そう、だな……
ぼんやりとした雰囲気で、少女は答えた。
……本当に、『アンドレイ』なんだよな?
疑うような言い方になってしまうのは、仕方のないことだろう。平石の上、体操座りで爪先を眺める彼女に、ケイは今一度問う。
ああ、そうなる。オレは、『アンドレイ』だ
ゆっくりとした口調で、少女は肯定した。
それは、お前は本当は女だったが、ずっと男キャラを使ってた、ということか?
その解釈であってるぜ
うぅむ……
それを聞いて、嘆息とも、溜息ともつかぬ呼気が、ケイの口から洩れる。
ゲーム内で、ケイが”NINJA”アンドレイと出会ったのは、今から2年ほど前のことだ。
最初に近づいてきたのはアンドレイの方だった。生粋の忍者スキーであるアンドレイは、ケイが『日本人である』というだけで、なんとなく興味を持って接触してきたのだ。
話してみれば意外に意気投合し、互いにソロプレイヤーであったこともあり、それ以来何かと一緒につるんできた。しかし、
女だったとは、なあ
その中の人が異性であるとは、ついぞや考えたこともなかった。
―女々しい野郎だ、とは常々思っていたが。
でも、なんでわざわざ男キャラ使ってたんだ?
そりゃあ女キャラだと筋力低いし。NINJAするなら、男の方がいいかな、って……
たしかにな
昨今のゲームでは珍しいことだが、 DEMONDAL においては、男女のアバターに明確な能力差が存在する。
基本的に、男キャラの方が身体能力全般に優れており、対して、女キャラは手先の器用さに補正がかかる代わりに、筋力などのステータスが伸びにくい。
つまり、純粋な戦闘職を選ぶならば、男キャラの方が明らかに有利な仕様というわけだ。女キャラは本来、細工などの生産系で本領を発揮するが、大工などでは筋力も要求されるので、女キャラならば生産全てに向いている、とはいえない。
もちろん、キャラクターの種族や血統によってはその限りでなく、また女キャラにのみ高い適性を示す魔術なども存在するが、何処となく不平等感が漂うのは事実だ。
このアバターの性能差は、ゲーム内外で様々な議論を呼んだが、結局 DEMONDAL の運営会社がそのスタンスを変えることはなかった。下手な平等主義で世界観を歪めることはせずに、あくまでリアリズムに徹したのは、 DEMONDAL らしいといえばらしい選択といえよう。
余談だが、男キャラにも弱点はある。
股間に攻撃がヒットすると大ダメージを受け、高確率で気絶(スタン)状態になってしまう。ちなみにこれは他の人型モンスターの雄にも有効だ。
あと、わざわざ女だってバラしても、良いこと無いだろうし。だから黙ってたんだ
なるほど。既に『アンドレイ』のときから人気だったしな、お前。中身が女だってバレたら、もっと面倒なことになっていただろう……
……よしてくれ
ケイの言葉に、心底気持ち悪そうな顔を浮かべる少女。
端正な―というより、耽美系の顔立ちをしていた『アンドレイ』が、その道の諸兄らから根強い支持を受けており、ファンクラブまで存在していたのは DEMONDAL では有名な話だ。
祭り上げられた本人は迷惑そうにしていたが、キャラを作り直して雲隠れしようにも、既に結構育ててしまったあとだったので、やむなく育成を続行したらしい。
……それにしても
目の前の金髪忍者ガールを眺めながら、ケイはしみじみと、
今の姿だと、アンドレイって呼ぶのはやっぱり違和感があるな……
その言葉に、少女は渋い顔をした。
……『アイリーン』
ん?
『アイリーン』。オレのホントの名前
ちら、と少女―アイリーンは、顔を上げてケイに視線を合わせた。
アイリーン……か
青色の瞳を、見つめ返す。
小柄で華奢な体躯に、すっと通った鼻筋。
猫科の動物を思わせる、釣り目がちな瞳。
艶やかな金髪は長く伸ばされ、邪魔にならないよう、後頭部で束ねてある。
(こうしてみると、『アンドレイ』の面影もあるな……いや、『アンドレイ』が『アイリーン』に似せてあるのか)
キャラメイクのときに、無意識に自分の姿を投影してしまったのか。
……あんまりジロジロ見るなよ
などとケイが考えていると、アイリーンは顔を少し赤くして目を逸らしてしまった。
あ、すまん
なあ。……ケイは、どうなんだ?
……どう、とは?
名前とか
ああ。俺の名前は、『圭一』だよ。ケイイチ
枯れ枝を手にとって、地面に『KEIICHI』と書いた。
ケイチ?
んー。ちょっと違うな、ケイイチ、だ
ケ、イ、チ
ゆっくり言っただけじゃねえか。ケ、イ、イ、チ
ケェ、イィ、チ
あー、まあそんな感じ
……言いにくい。ケイの方がいい
ばっさりと本名を否定するアイリーン。同じ母音が連続する『ケイイチ』は、外国人には発音し辛いだろうな、とケイも思う。
別に俺は『ケイ』でいいよ。呼びやすい方で呼んでくれ
リアルでもそう呼ばれてたし―という言葉は、呑み込んだ。
焚き火の炎に視線を落したまま、再び沈黙が訪れる。
何を話すべきなのか。考えが、うまくまとまらない。
ゆらめく炎を眺めていると、全てがどうでもよく思えてしまう。思考を停止させたままでいるのが、心地よい。
ふと顔を上げると、アイリーンはぼんやりとした表情で、両足のふくらはぎをむにむにと揉み解している。焚き火の明かりを照り返す、艶やかな金髪を眺めていたケイであったが、それに気付いたアイリーンがちらりと視線をよこした。
……ケイは全然、顔変わってないんだな。……元から、そういう顔、なのか?
少し遠慮がちに、しかし好奇心には勝てなかった、といった様子で、アイリーンがおずおずと尋ねてきた。
顔か……
ぺたりと、自分の頬を撫でる。先ほど、腰の短剣を鏡代わりに確認しようとしたが、思ったほど刃がピカピカではなかったので、ぼんやりとしか見えなかった。
それでも、アイリーンが『変わっていない』というのなら、そうなのだろう。きっと、ゲーム内での『ケイ』の顔のままなのだ。
しかし、それが実際の顔なのか、と聞かれると。
……分からない。リアルでは、鏡なんてもう何年も見てないからな……
えっ
遠い目で呟いたケイの言葉に、アイリーンがぎょっとした顔で硬直する。
“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》”、弓使いのケイ。
死神の異名をとるほどの、恐るべき弓の腕前で知られるケイだが、それと同時に DEMONDAL で指折りの廃プレイヤーとしても有名だ。
事実、準廃人のアイリーンから見ても、ケイの廃人っぷりは半端ではない。ログインしたときに、ケイがいなかった試しがないのだ。
二十四時間ぶっ通しでログインし続けている、という噂も、あながち嘘ではないのかもしれない、と。アイリーンも、薄々そうは思っていたのだが―
そうは思っていたのだが、年単位で鏡を見ていないレベルとなると。
そっ、そうか……
笑顔が引きつり、目が泳ぎだすアイリーン。一気に挙動不審になる彼女に、ケイは思わず苦笑いした。
(……まあ、そうなるよな)
ケイのあまりの廃人っぷりに引いてしまったのか。
それとも、こ(・)ち(・)ら(・)の(・)事(・)情(・)を察して、思い切り地雷を踏んでしまった、と動揺しているのか。
別にケイ自身は、アイリーンにどう思われようともそこまで気にしないのだが―常人ならば、気まずく感じてしまうのは道理だろう。
(しかし、タイミング的にはちょうどいいかも知れないな)
いずれにせよ、現状を考えるには、避けては通れない話題だ。
アイリーン
ん?! な、なんだ?
そろそろ、本題に入ろうと思うんだが
お、おう
真剣な雰囲気のケイに、アイリーンが表情を堅くして居住まいを正す。
…………
いや、別にそこまで畏まらなくても
自分から真剣に切り出しておきながら、借りてきた猫のような豹変っぷりに、思わずケイは吹き出してしまった。
それにつられて、アイリーンも小さく笑う。
特に意味もなく、二人でくすくすと笑いあってから、 いや、すまん とケイは言葉を続けた。
それで、本題ってのは、今の俺たちの状況についてだ
……ここが何処なのか。そして何故、オレたちはここに居るのか、って話か?
Exactly(その通り)
話が早い。
なかなかその話題に踏み込めずにいたのは、どうやらケイだけではないようだった。
5. 骨董品
オレたちの現状、か
桜色の唇を指先でなぞりながら、アイリーンが呟いた。
状況が特殊だから何とも言えないが、考えられる可能性は、せいぜい二つぐらいのものだろう、と俺は思っている
OK, 言ってみな。オレ様が聞いてやるぜ
抜かせ
どうやらアイリーンも、『アンドレイ』の調子が戻ってきたらしい。結構なことだ、と笑いながら、ケイは指を一本立てた。
まあ、そこまで大したものじゃない。まずは一つ、『俺たちは依然として DEMONDAL をプレイ中である』
次に二本目、
そして二つ、『俺たちは何故かゲームの中から飛び出していて、ここはどこか別の場所である』
まあ、妥当なとこだな
平凡だろ? だが俺の想像力では、これが限界だ
そうなのか? ふふん、ケイ、オレには『三つ目』があるぜ
ほう、お聞かせ願おうか
アイリーンはドヤ顔で指を三本立て、
三つ目。『オレは DEMONDAL をプレイ中に寝落ちしていて、実はこれは夢である』
……、なるほど。あり得るな、存外まともなアイディアだ
存外ってなんだオイ
ケイはふむふむと頷いた。アイリーンが心外そうにしているがそこは気にしない。
夢オチ、という可能性。
焚き火の光と、その炎の暖かさを直に感じていると、 これほどリアルな夢があるのか? とは思わないでもない。
しかし―自分が挙げた最初の二つに比べれば、よほど現実味のある話だ。
夢なのかどうか。
それを確かめるために、ケイはひとつ、古典的な方法に頼ることにした。
ぬんッ
……。なにやってんだよ
み(見)へ(て)わ(わ)か(か)は(ら)は(な)い(い)か(か)? ほ(ほ)っ(っ)へ(ぺ)は(た)を(を)つ(つ)へ(ね)っ(っ)へ(て)い(い)ふ(る)ん(ん)は(だ)
全力で。高STR(筋力)の本領発揮だ。
……うむ。めっちゃ痛い。だが目は覚めない。従ってこれは夢ではない。Q.E.D.(証明終了)
しばらく抓って真っ赤になった右頬から手を離し、真面目くさった表情のまま言う。
……。少なくともケ(・)イ(・)の(・)夢ではない、ということが証明されちまったか
呆れ顔でそれを見届けたアイリーンは、 夢オチなら気が楽だったんだがなぁ と残念そうにしながら、腰の帯から投げナイフを一本抜き取った。
おい、ナイフ使うのか?
それを見て、驚きの声を上げたのはケイだ。まるで注射でもするかのような気軽さで、アイリーンは左腕の袖をまくり始めていた。
まあな。オレ、……夢の中で何回か、痛い思いはしたことあるけど、結局最後まで目は覚めなかった。どうせやるなら、これくらいは思い切らないとダメだろ
いやいやいや、だからと言ってナイフはやりすぎだろう、傷が残ったらどうするんだ。力が不安なら俺が抓ってやるぞ? 痛いぞ?
……いや、別にいいよ。遠慮しておく
鬱血して紫色に腫れ始めているケイの右頬を見て、アイリーンは静かに遠慮した。
まあそれに、今更傷なんてな……
小さく呟きながら、左腕の内側に軽くナイフを押し当てようとする。が、
…………
どうした?
そのまま、腕を凝視して、動かなくなってしまった。
いや、……なんでもない
怖気づいた、というわけではないらしい。袖をそっと元に戻したアイリーンは、左手のグローブを外して、躊躇うことなく手の平にナイフの刃を這わせる。
……ッ
……どうだ?
メッチャ痛い。血も出てきた
ぽたり、ぽたりと。
アイリーンの手から、赤い滴が零れ落ちる。
さてさて、困ったぞケイ。これで夢オチの可能性が完全に消えた
まあ、流石に夢じゃあないだろとは、最初から思っていたがな……。というかそれ大丈夫か。お前かなりざっくり切(や)ったんだな
う、うん……正直思ったより切れた。腕やめといて良かったかもしれない
アイリーンの手の平の皮膚は、数センチにわたってぱっくりと切れていた。肉にきれいな切れ目が入り、じわじわと血が滲み出る様子は見るからに痛そうだ。
ちょっと待て、たしか包帯がポーチに……
いや、いい。POT(ポーション)を試してみたい
腰のポシェットに手を伸ばすケイを止めて、アイリーンは岩陰に向かって チッチッチッ と舌を鳴らした。
廃墟の、苔生した石造りの壁。柔らかな地面の上に、二頭の馬が寝転がっていた。
ケイの愛馬『ミカヅキ』と、アイリーンの乗騎『サスケ』だ。
アイリーンの舌打ちの音を聞いて、サスケの方が 呼んだ? と言わんばかりにつぶらな瞳を向けてくる。
アイリーンによると、彼女が草原で目を覚ましたときには、サスケが隣に寝転んでのんびりと草を食んでいたらしい。
気が付けば草原のど真ん中、自分一人と馬一頭。
そんな状態で、ケイの姿も見当たらず、最初はかなり動転したそうだが、そこへミカヅキが颯爽と駆けてきて、ケイが倒れている岩山のそばまで誘導してくれたそうだ。
そういう意味で、ケイもアイリーンもミカヅキに多大な恩があるわけだが、当の本人(?)はクールに決めておりまるで気にする風もない。今もアイリーンには見向きもせずに、もっしゃもっしゃと草を咀嚼していた。
サスケに歩み寄ったアイリーンは、鞍に括り付けたままの革袋から、ハイ・ポーションを一瓶取り出した。
さーて、どうなるかな、っと。ゲームなら、シュワワッと一瞬で治るんだけど……
焚き火に戻ってきて平石の上に座り直し、アイリーンが片手で器用にコルクを抜く。
そぉっと、手の平に向けて瓶を傾ける様を、ケイも興味津々に覗きこんだ。
とろみのある水色の液体が垂れて、傷口に触れる。
その瞬間。
ジュゥゥッ!! と鉄板が肉を焼くような音を立てて、一気に傷口が泡立った。
ヴぉにゃ―ッッ!!!
奇声を上げてアイリーンが飛び上がる。その手から空中に放り出されたポーションは、ケイが咄嗟にキャッチした。ふたがなかったので、少し中身がこぼれてしまったが。
ぁ―ッ! ~~~ッッ!!!
悲鳴を振り絞ったあとは声すら出せず、手を押さえて悶絶するアイリーン。尋常ならざる苦しみっぷりに、 おい、大丈夫か と歩み寄ったケイは、少し逡巡してから、その背中をゆっくりとさすってやった。
ナイフで手を切ったときより、よほど痛そうに見えるのだが、気のせいだろうか。あの傷口の泡立ち方は、オキシドールでの消毒を彷彿とさせた。ケイが知っているゲーム内のポーションは、傷口に振りかけるとシュワワッと爽やかな音がして、傷が治って終わりだったのだが。
時間にして数十秒。
冷や汗を垂らして、ぜえぜえと喘ぐアイリーンの背中をさすりながら、
……落ち着いたか?
……うん
それで、どんな感じだ?
ヤバい。ものすごく痛かった
それは見れば分かる。俺が聞いてるのは傷の方だ
お、おう
恐る恐る、といった風に、アイリーンが手を広げると。
治ってる、……けど
……。傷は、残るんだな……
うん……
傷口は、ふさがってはいたが、新しい皮膚が白い線のようにくっきりと浮き出て見えていた。
ポーションといえば、傷すら残さずに完治、というイメージだったのだが。
その場になんとも、微妙な空気が流れる。
……まあ、まあ。まだ手の平で良かったじゃないか。あんまり目立たないし
そ、そうだな
もう痛くはないんだろ?
ああ。ちょっと肉が張る感じはするけど、問題ない。……やっぱりちょっと深く切りすぎちまったか
左手を握ったり広げたりを繰り返しながら、アイリーンが小さくぼやく。
そんな彼女をよそに、焚き火を挟んだ対面に座り直しながら、ケイは手の中のポーションの瓶を興味深げに観察していた。
……これ、飲んだらどうなるんだろうな
そりゃあ、体力が回復するだろう。……多分
ケイの呟きに、答えるアイリーンの言葉が尻すぼみになる。
…………
おいやめろ、期待のこもった目で見るな!
アイリーン。お前はデキる奴だと、俺は信じている
オレはモルモットじゃねえ!
チッ
『チッ』じゃねえよ! 人体実験はもうごめんだぞ!
はぁ。意気地のねえ野郎だな……
意地はもう張っただろっ次はテメェのターンだ!
膝をぺしぺしと叩きながら、ぷんすか怒るアイリーン。なんだかんだ言いつつも 次はケイが体を張るべき というアイリーンの主張はもっともだったので、毒見(あじみ)はケイが担当する運びとなった。
…………
どうだ?
ポーションを少しだけ口に含み、渋い顔をするケイに、心なしかワクワクした表情でアイリーンが問いかける。
うむ……そうだな。体力が回復してるかどうかは、正直よく分からない。だが、心なしか体が温まって、手足の冷えが幾分か解消された気はする。あと、石の上に座りっぱなしで痛くなってた尻が、楽になった。ひょっとすると、腰痛や肩こりにも効くのかもしれないな
冷え症のジジイのレビューかよ!! そうじゃなくて! いや、それも大事だけど! 味はどうなんだ味は
……昔VRショップで試食したリコリス飴に似てるな。あれから甘み成分を抜いて、ミントとショウガをぶち込んだらこんな風味になるんじゃないか? あとちょっと苦い。それに何故か知らんけど炭酸っぽい、口に入れた瞬間シュワワッてなる。とろみのある炭酸ってどうなんだコレ
聞くからに不味そうだな
ああ。不味い。凄く不味い
しかも舌の奥の方に、エグい後味がずっと残るタイプの不味さだった。渋い顔のまま、ケイはポーションの瓶にふたをはめ直す。
一方のアイリーンは、 お前も試してみるか? とケイが話を振ってこないか、戦々恐々と身構えていたのだが、このポーションはそんな風に茶化す気分にもなれないほど不味かった。
……さて、アイリーン
ポーションの瓶を弄びながら、ケイはおもむろに口を開く。空気の変化を察したアイリーンは、小さくため息をついた。
……楽しい現実逃避(おしゃべり)の時間は、もう終わりか?
ああ。残念だがな。そろそろ真剣に考えないとヤバい
すっかり暗くなってしまった夜空を見上げながら、ケイは真面目な顔を作る。
アイリーン。ついさっき気付いたんだけどな。ここがどこなのかを考える上で、重要な手掛かりになるものを発見した
いつの間に? 何だ、それは
あれだ
アイリーンの問いかけに、ケイは頭上を指し示した。
ハスニール 、 ワードナ 、 ニルダ
空をなぞるように、指を動かしながら、
ドミナ 、 カシナート 、それに イアリシン
それは、何かの名前のようであった。
……何の話だ?
小首を傾げるアイリーン。対するケイの答えは、簡潔だった。
星だよ
遥か彼方、無数に輝く星々に視線を合わせたまま、ケイは答える。
星座が……星の配置が、 DEMONDAL の世界と全く同じなんだ、ここは
ケイの言葉に、思わずアイリーンは夜空を振り仰ぐ。
しかし、満天の星空を眺めても、それはアイリーンにとってただの『星空』に過ぎず、地球のそれとの違いなどさっぱりわからなかった。
マジなのか?
ああ。あの緑色の星が ハスニール 、それを中心に構成されるのが”栄えある名剣”座だ。その隣の赤色の星が ワードナ 、周りを囲むオレンジ色の星々と”神秘の魔除け”座を形作ってる。あの青色の星は ニルダ で、一直線に続く星と共に”守護の御杖”座を―
ああ分かった分かった、もう結構だ。……でもなんでそんなに詳しいんだ、公式のフォーラムでもwikiでも、星座なんて見たことねえぞ
気にしたこともなかったから、見逃しただけかもしれねえけど、と言いながらアイリーンは星空に目を凝らす。
無理もない。隠しクエストで手に入る情報だからな。星座も、その意味も―“占星術”の存在に至っては、知ってる奴は魔術師より少ないだろうな
“占星術”? ってかおい、隠しクエストってなんだ
“ウルヴァーン”から”ダリヤ平原”を抜けて北に行くと、森があるだろう? その奥に小屋で一人暮らししてる婆さんのNPCがいるんだが、ポーションなり薬草なりで腰痛の治療をしてやると、その礼代わりに教えてもらえるんだよ。実は、イベントやら天候やらは、星と連動してるらしくってな。ゲーム内で俺の天気予報が良く当たってたのは、そういうわけだ
なんだって!
たしかに、ケイの天気予報は良く当たっていた、とアイリーンは振り返る。てっきり風向きや雲の様子から予想しているのだろう、と思っていたのだが、まさか星にその秘密があったとは。
薄情だぜケイ! なんでオレにも教えてくれなかったんだよ!
憤るアイリーンに、ケイは心外そうな顔で、
教えようとしたぞ? でもお前が『興味ない』って断ったんだろうが
えっ
思わずアイリーンは固まった。慌ててそのことを思い出そうとするも、ケイに出会ってからの二年間、占星術に関する話題など全く思い当たる節がない。
……マジで? 身に覚えがねえんだけど
一年ぐらい前だったか。“ウルヴァーン”の酒場で俺が『おいアンドレイ、神秘的な星々の法則に興味はないか? 大いなる宇宙の真理がお前を待っているぞ』って言ったら、『興味ない、そういうのは他を当たれ』って……
明らかに誘い方が悪(ワリ)ぃよッ!! 新興宗教の教祖かテメェは!! ああ思い出したさ、あんときか! またぞろお前の分かりづらいボケだと思ってスルーしたんだよッそういうことだったのかチクショウッ!
毒づきながら、アイリーンがガシガシと髪をかきむしる。
はぁ。まあいいや。それで?
……俺は、
ケイは、少しばかり躊躇の色を見せたが、
俺は、ここが DEMONDAL の世界なんじゃないか、と思う
はっきりと、言った。
……そいつはまた、飛躍したな。つまり何か、ここは DEMONDAL にそっくりな、異世界ってわけか?
言い換えれば、そういうことだ
……。最近のANIMEでそういうやつがあった気がするな。ゲームをやってる最中に、ゲームの中の世界にト(・)リ(・)ッ(・)プ(・)しちまう、ってストーリーだ。ケイも観たか?
いや。あいにくと、アニメはあんまり詳しくなくてな
へっ、ロシア人の方が日本人より詳しいってのも、変な話だな。まあ、いい。それでだ、そんなトリップが実際にあるとなると―トリップしちまってるのは、手前の頭の方じゃないか、ってオレは思うわけだ。告知なしに神アップデートが来ていて、リアリティが劇的に向上、同時に起きたシステム障害でログアウトできない……って考えた方が、よほど現実味があるぜ
もちろん納得できない部分も多いけどな、と、真摯な表情でアイリーンは言う。ケイの意見に反対する、というよりも、議論のための問題提起。
それは俺も考えた。だがな、アイリーン。そ(・)っ(・)ち(・)の(・)方(・)が(・)現(・)実(・)味(・)が(・)あ(・)る(・)か(・)ら(・)こ(・)そ(・)、俺はそれがあり得ないと思うんだ
アイリーンの顔を見据える。
アイリーン。お前のVR環境は、“External”と”Implant”のどっちを使ってる?
えっ? ……そりゃあ、普通に”External”だが
ケイの唐突な質問に、アイリーンが面食らったかのように答えた。
現在、VR環境機器は、二種類に大別される。
“External(外付け式)“と”Implant(埋め込み式)“だ。
外付け式とは文字通り、体の外部から脳と神経系に作用を及ぼし、VR環境を実現するタイプのことだ。外部の機器の組み替え・交換により、機能や性能を自由に調節できるので、拡張性に優れている。
対する埋め込み式は、直接体内に埋め込み、脳神経に作用するタイプのことだ。クローン技術で形成された神経系と、電子機器で構成された機械系。それらのハイブリッドの生体コンピュータであり、肉体に直接埋め込むという仕様から交換が難しく、拡張性に乏しいという欠点がある。
埋め込み式の方が外付け式よりも情報を正確に伝達できる、という利点はあるものの、拡張性の欠如は如何ともしがたく、また部品同士が干渉してしまうため外付け式と埋め込み式は併用ができない。
現在では、性能上の問題から外付け式が一般的であり、埋め込み式を使っていた人間も除去・交換手術を受けて外付け式に切り替えるパターンが多い。
―ごく一部の、例外を除いて。
俺は、“Implant(埋め込み式)“だ
ケイは言葉を続ける。
正確には、“IBMI-TypeP”を使ってる
“TypeP”!? マジかよ、VRマシン最初期の骨董品じゃねえか
そうさ、骨董品だ。残念ながら、使い続けてる
……。ってことは
まあ、お前も勘付いてるだろうとは思うが
ふぅ、と細く息を吐きだした。
俺は、寝たきりの病人でな。“Fibrodysplasia Ossificans Progressiva”―進行性骨化性線維異形成症。筋肉が骨に変わっちまう奇病だ。発症したのはもう、15年も前か。5年前ぐらいから、体も動かなくなった
…………
圧倒されたように押し黙るアイリーンを前に、しかしケイの述懐は止まらない。
今の現(・)実(・)の(・)俺(・)は、生命維持槽にプカプカ浮いてる骨と神経系の塊さ。VRマシンの臨床試験に参加したのが12年前、試験は見事に成功し、俺はVRマシンの実用化に大きく貢献した―が、その代わりにマシンの生体部品が、当初の予想よりも広い範囲で神経と癒着・結合しちまって、もう交換できないんだ
ケイの表情は、穏やかだった。全てを受け入れた顔。
……それ以来、ハードもソフトも、継ぎ接ぎみたいに何度か更新して、今までどうにか誤魔化してきた。けど、それも、3年前の更新が最後になった
3年前、っていったら……
ああ、そうさ。 DEMONDAL のサービス開始の年だ
ケイの口の端が、儚い笑みにほころぶ。
『かつてないほどのリアリティ』、その売り文句に俺は飛び付いた。一日のほぼ全てをVR空間で過ごす俺にとっては、リアリティのある他人との交流こそが、一番求めてやまないものだった。賭けみたいなものだったよ、マシンの更新手術は。家族にも主治医にも、担当の大学教授にも、全員に反対された。俺の体はもうボロボロで、更新手術に耐えられるかどうか、わからなかったんだ。でも俺が、『リアリティがどうしても欲しい、それがないなら、これ以上無為に生きても辛いだけだ』って我儘を言ったら、最後にはみんな折れてくれた
夢を見るような目つきで、ケイは語る。
実際、 DEMONDAL のリアリティは、凄かったよ。草原の風も、風が運んでくる葉擦れの音も、太陽の温かさも。動植物の造形、NPCの挙動、自分の肉体の感覚、目に入ってくるもの、触れられるもの、 DEMONDAL の全てが、今までのゲームとは比べ物にならないくらい、“リアル”だった。俺の欲していた、ほとんど全てのものが、 DEMONDAL には揃っていた―でも、それが限界だった
アイリーンに視線を合わせ、ケイは静かに微笑んだ。
俺のマシンは、 DEMONDAL に最適化されてる。オンボロでも、少しの余裕を残して、ゲームがつつがなく動くようにな。でも、それが限界なんだ、アイリーン。例え、どんな神アップデートが来ても、どんな技術革新があっても―
足元の砂を手ですくい、指の隙間からさらさらと零れ落ちる砂粒に、見惚れる。
―俺の骨董品(マシン)じゃ、この情報量は処理しきれない
絶対に、とケイは言葉を結んだ。
…………
アイリーンは、何も言えなかった。
……とまあ、辛気臭い話になっちまったが、俺の身の上話はどうでもいい。俺が言いたかったのは、こ(・)の(・)世(・)界(・)がゲームの中だろうと異世界だろうと、どちらも俺からすればブッ飛んだお話だ、ってことさ。勿論、俺のマシンでも軽々と動くような、神アップデートが来たんならそれはそれで問題ない。システム障害なんてすぐに復帰するだろうし、それまで待てばいいだけの話だ。だから、俺から提案したいのは―って、なんだおい、泣いてんのか
ぐすぐすと涙を零し始めたアイリーンに、ケイが上擦った声を出す。
べっ、……違っ、泣いてなんか……
いや、泣いてるじゃねえか
顔を手で隠すアイリーンの仕草に、ケイは苦笑いしながら、歩み寄ってぽんぽんとその背中を叩く。
別にお前が泣くことはない。一昔前なら、俺も泣いてたかもしれない。だが今はVR技術があるからな、別に不幸じゃないさ
これ、違っ……違う、ケイに、同情し、てる、わけじゃ……
大丈夫だって、良いから良いから
ぐずるアイリーンの肩を抱いて、赤子をあやすようにその頭を撫でる。なんで俺がこいつを慰めてるんだろうな、と考えると可笑しくて、ケイは忍び笑いを止めることができなかった。
……いや、悪かった。もう大丈夫だ
数分とせずに落ち着いたアイリーンが、肩にかかったケイの手を撫でる。もう一度、ぽんぽんとその肩を叩いてから、ケイはアイリーンの対面に座り直した。
…………
焚き火越しに目が合うと、アイリーンは恥ずかしそうに顔をそむけ、
……思う所があったんだ。ケイが可哀そう、とか、そういうことで泣いたんじゃない
そうか
うん、まあ……そういうことなんだ。だから、気にしないでくれ
もどかしそうに言うアイリーンに、ケイはくすりと笑みを返す。
いいさ。話を続けよう
おう。それで、提案したいこととか、何とか言ってたよな?
大したことじゃないけどな。俺が提案したいのは、『ここが DEMONDAL に似た異世界である』と仮定して行動しよう、という、それだけのことさ。もしここがゲーム内で、システム障害でログアウトできないだけなら、数日もすれば解決するだろう。アイリーン、プライベートな質問で悪いが、お前一人暮らしか?
いや。家族がいる
なら安心だ、娘がいつまで経ってもゲームを止めないとあれば、飯の時間にでもなれば家族がマシンを引っぺがしに来るだろうさ。アニメとは違って、マシンを外そうとした瞬間に脳ミソが爆発、なんてこともないしな
おい、お前アニメ詳しくないって嘘だろ?
どうだか
二人でくすくすと笑いあう。
まあ、そんなわけで、ここがゲームなら慌てる必要はない。が、もしここが『異世界』なら……
ち(・)ょ(・)っ(・)と(・)は(・)慌てる必要があるな
そういうことだ。最悪を想定して動け、というセオリー通りに行こう
結論を出したところで、ケイはふぅ、と小さくため息をついた。口の中がからからだ。珍しく長口上をぶちまけたせいで、喉が渇いているらしい。
……アイリーン、水持ってないか
水か? サスケの荷袋の中に、水筒があったと思う
『備えあれば憂いなし』、だな
ソナエ……?
いや、こっちの話だ。ちょっと水貰うぞ、喉が渇いた
立ち上がって、 ぼくの名前呼んだ? と言わんばかりに小首を傾げるサスケに近寄り、その荷袋の中を漁る。
それにしても、これからどうする?
水筒を探すケイに、背後からアイリーンが声をかけた。
うーむ。どうしたものか
いつまでもここで、ってわけにもいかねぇだろ?
喉も渇く。尻も痛い。となると、やはり人里を探すしかないか
やっぱそうなるよな
あーあ、と面倒くさそうにアイリーンが声を上げる。
果たして、水筒は荷袋の一番底にあった。ごちゃごちゃと詰まったポーションの瓶を押しのけて、袋から引きずり出す。
(あってよかった)
振って確認するまでもなく、中身は十分に入っているようだ。希少かつそれ以上にクソ不味いポーションで喉の渇きを癒すのは御免だったので、アイリーンが水筒を携帯していたのは僥倖としか言いようがない。
その場に腰を下ろして、焚き火に当たりながら、少しずつ中身を流し込む。
(……やはり、ゲームとは思えないな)
液体が喉を通りぬけていく感覚。VR技術で再現されているとは、とても思えないようなリアルさ。
先ほど、ケイは『異世界であると仮(・)定(・)し(・)て(・)行動しよう』と言った。
だが、正直なところ、ここは異世界だろうと、ケイは半ば確信していた。
―そうであることを望んでいた、とも言うが。
ケイのそばで寝転んでいたミカヅキが、のそりと首を動かして、ケイの膝に頭を載せてきた。どうやら、枕代わりにしようという魂胆らしい。ゲーム時代からミカヅキのAIは飼い主(ケイ)に遠慮しないタイプであったが、異世界に来てからその図太さに磨きがかかっているようだ。
こやつめ、と苦笑しながら、その首筋を撫でてやる。人間よりも高い体温、チクチクと指先を刺激する硬い毛、皮膚の下で脈打つ血潮の流れ―ただ体表に手を当てただけでも、既にこれだけの情報量がある。
これこそが現実。そうでなければ何なのだ、と、もはや感動すら覚えるほどだ。耳の裏をコリコリと掻いてやると、ミカヅキは気持ちよさそうに目を細めた。
(しかし、何でこんなことになったんだか)
再び、水筒で口を湿らせながら、ケイは考える。
(たしか―ここに来る前は)
海辺の町”キテネ”で、朱塗の弓を受け取ったのだ。そして、
(追剥に襲われて、撃退して)
そのあと―。
(そのあと……どうしたんだっけか)
思い出せない。
アイリーン
ん?
俺たち、ここに来る前って、何してたんだっけか。“キテネ”から戻ってくる途中、追剥に襲われて、それを返り討ちにしたのまでは憶えてるんだが……
……そういえばそうだな。なんで忘れてるんだ
あごに手を当てて、アイリーンが考え込む。
……追剥を倒して……それからちょっと進んで……“ウルヴァーンヴァレー”に……
そのとき同時に、二人ともが思い出した。
霧だ!
何故忘れていたのか。
そう、ウルヴァーンヴァレーに謎の霧が立ち込めていたのだ。
そして霧の中に揃って突入して―。
それから―
…………
それから―。
……くそっ、思い出せない
ケイは毒づいた。
何か。
何かがあったのだ。
はっきりと思い出せないが、霧の中で、何(・)か(・)に―
ぶるるっ
と、短く鼻を鳴らす音に、ケイの思考が遮られる。
……? どうした、ミカヅキ
見れば、ミカヅキがいつの間にか半身を起こし、首を巡らせて周囲の様子を窺っていた。その両耳はせわしなく動き、先ほどまでは眠たげだった瞳も今は剣呑に細められている。
ケイは知っていた。この表情、この動き。ここに来る前、ゲームの時代から、ミカヅキのAIに組み込まれていた。
―何かを、警戒する動作。
傍らに置いてあった 竜鱗通し に、ケイはそっと手を伸ばす。
……どうかしたか?
焚き火を見つめていたアイリーンがそれに気付き、不安げな様子を見せる。分からん、とだけ短く答えて、ケイはおもむろに立ち上がった。
ミカヅキが警戒してる。……獣かな
仮にこの世界が DEMONDAL に準じているのであれば、狼などがいても不思議ではない。それほど深い森ではないので、一人では手に負えないような、凶暴なモンスターは出てこないと信じたいが―。
腰の矢筒のカバーを外しながら、暗闇を見透かそうと目を見開く。炎の明かりの届かぬそこは、常人では知覚の及ばぬ領域。しかし、まばたきほどの間に、ケイの瞳は限界まで瞳孔を開き、即座に環境に適応する。
…………
北側の森には、特に異常は見受けられない。時折コウモリや小動物の影が見えるが、それだけだ。
では翻って、木立の向こう、南側の草原はどうか。
夜風に揺れる茂み。―いや、違う、風のせいではない。
何かが、いる。
その瞬間、首筋に焼け付くような感覚が走った。
ほぼ同時、カヒュン、というかすかな音。
考えるより先に体が動いた。咄嗟に身を伏せる。手を伸ばせば届く距離、風を切る音。かつん、と背後の壁に、一本の矢が当たって跳ね返った。
―何者かに矢で射られた
―なぜ攻撃してきたのか
―数は、方向はどちらか
脳裏を駆け巡る思考。が、それを遮るようにして新たな殺気。
弾かれたようにそちらを見やる。鳴り響く微かな音。手練の一撃か。巧妙な”隠密殺気(ステルスセンス)”。辛うじて感知するも、即座に悟る。
これは自分を狙ったものではない。
殺気の向かう先、その軌道を辿れば―金髪の、少女。
アイリーン、避け―
どすっ、と。肉を打つ、鈍い音。
……え?
その呟きは、さも不思議そうに。きょとん、とした表情で、アイリーンは自分の胸を見下ろした。
右胸に―矢が一本、生えていた。
信じられない、という風に。目を見開いて。
こちらを見る。なにが、と。問いかける視線。
……ぁ
ぐらりと、その身を傾けた少女は、
アイリーンッ!
―糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。
6. 逃走
ケイの行動は早かった。
クソッ!
毒づきながら、足元の焚き火を蹴り飛ばす。焚き木の炎が散らされ、辺り一面を暗闇が覆い隠した。
アイリーンっ
素早く駆け寄り、抱きかかえ、転がり込むようにして廃墟の石壁の裏に身を隠す。
俗に言う”お姫様抱っこ”の体勢―しかし、肝心のお姫様(ヒロイン)の胸に矢が突き立っているようでは色気もクソもない。腕の中にすっぽりと収まるアイリーンの華奢な体は、驚くほどに軽かった。
しっかりしろ
ささやくようなケイの呼びかけに、アイリーンは答えられない。苦悶に顔を歪ませて、ハァッ、ハァッと浅く短く呼吸を繰り返している。手の平を這う、ぬるりとした血の感触に、ケイは顔を青褪めさせた。
―失敗した。
焚き火の明かりを隠すため、こうして木立に身を潜めていたが―その考えが甘かったということが、最悪の形で示されてしまった。
(ゲームの中でさえ、警戒が必要だったっていうのに……!)
盗賊NPC、火を恐れない夜行性のモンスター、あるいはPK(プレイヤーキラー)。夜に、しかも少人数で不用意に目立つ行為は、ゲーム内ですら危険だった。
ま(・)し(・)て(・)や(・)異(・)世(・)界(・)と(・)も(・)な(・)れ(・)ば(・)。
せめてもう少し、草原側にも目を向けていれば、とケイは己の迂闊さを呪う。アイリーンは『視力強化』の紋章を刻んだケイほどは夜目も効かないし、“受動殺気(パッシブセンス)“にも長けていない。最高レベルの視力、弓という遠距離攻撃の手段、そして殺気に対する感受性。それらを兼ね備えたケイこそが、警戒役を引き受けて然るべきだった。
少なくとも、暢気におしゃべりを楽しんでいる場合ではなかった―
ぐらぐらと視界が揺れるような感覚と共に、自責の念に押し潰されそうになるが、
う……ケ、イ……
腕の中、額に脂汗を浮かせたアイリーンが小さく呻く。それを見て、ぐるぐると渦巻いていたケイの頭の中が、すっと冷えた。
(―今は、どうするかだ)
時間が惜しい。思考を切り替えた。
そっと壁の陰から頭を出して、辺りの様子を窺う。焚き火の光が失われた今、夜の木立は僅かな星明かりに照らされるばかり。それは、ほぼ暗闇に等しい空間であったが―強化されたケイの瞳は、そこに潜むものを鮮やかに映し出した。
(三人、……五人、いや六人。見える範囲でこれか)
草陰にうずもれるように蠢き、徐々に距離を詰めようとする人の影。壁の死角も考慮すると、伏兵があと二、三人はいると見ていい。完全に囲まれていた。
この襲撃者が何者なのか―ということは、この際おいておく。
重要なのは、連携する程度に知性があり、弓矢を保持した人型生物に包囲・攻撃されている、という事実だ。
……Oй……Пoчe……y……
細かい震えを起こしながら、アイリーンがうわ言のように呟く。よく聞き取れず、意味は分からなかった。ぼんやりとした目つき、焦点が合っていない。暗がりで見えないが、顔色も悪そうだった。
喋らなくていい、じっとしてろ
耳元に囁きながら、どうするべきかを考える。
―決断は、早かった。
ミカヅキ、サスケ、来い
呼びかけに、ぶるるっとミカヅキが答える。アイリーンの傷に障らないよう慎重に、しかし素早く、ケイはミカヅキに跨った。
アイリーン、ちょっとの辛抱だ。耐えてくれ
ケイの言葉は届いたのか。アイリーンは小さく何事かを呟きながら、曖昧に頷いた。
行くぞッ!
ミカヅキの横腹を蹴る。果たして褐色の馬は、いななきの声ひとつ洩らさずに、滑るようにして走り出した。
馬だッ
逃げるぞッ!
壁の裏から飛び出したケイたちの姿に、伏せっていた襲撃者たちが立ち上がる。
カヒュカヒュン、と弓の鳴る音。
ケイの顔が強張る。咄嗟に手綱を引き、ミカヅキの進路を横にずらした。
唸りを上げて、一瞬前までケイの胴があった空間を、黒い矢羽が引き裂いていく。
(やってくれるッ!)
少なくとも一人は、腕のいい弓使いがいる。振り返れば、黒い革鎧を装備した男たちが、手に手に武器を振り上げて騒ぎ立てていた。
ケイは手綱を操り、木立の間を縫うようにしてジグザグに不規則機動を取り始める。生い茂る木々が障害物になったこともあり、襲撃者たちの狙いに迷いが生じたらしい。追加で放たれた矢はどれも見当違いの方向へと逸れ、虚しく木の幹に突き刺さる。
見た限りでは、騎乗生物の影もない。―逃げ切れる、とケイは確信した。
そのまま木立を抜け、草原を東に突き進む。
(……さて、となると治療だが、どうしたものか)
ケイは心配げに腕の中の少女を見やった。馬の揺れに耐えるように、苦しげに眉根を寄せるアイリーン。
右胸の矢傷。辛うじて動脈の位置からは逸れているものの、鏃の形状によっては血管が傷ついている可能性もある。少なくとも肺に穴が開いているのは確実だ。このままでは呼吸もままならない。また、これだけの傷を抱えたまま馬に揺られるのは、お世辞にも体に良いとは言えないだろう。
しかし、先に治療するという選択肢はなかった。
確かにポーションを使えば、傷そのものはすぐに完治するかもしれない。だが、先ほどの手の平の傷を治した際の苦しみ方を考えると、これほどの重傷を治療した場合、すぐに復帰するのはおそらく不可能だろう。最悪、痛みで気絶してしまう可能性すらある。
治療中は完全に無防備。その後も、気絶したアイリーンを庇いながら戦う羽目になるかもしれない―そういった諸々を考慮すると、おのずと安全な選択肢は限られていく。
すなわち、逃げる。
周囲の地形は既に把握済みだ。このままミカヅキに駆けさせていれば、追っ手は完全に撒けるはず。ある程度進んでから、アイリーンに治療を施して再び距離を取ってもいい。
もしくは、容体が安定したところでサスケにアイリーンを任せて、ケイが単独で遊撃に回るという手も―
バウッ、バウッ
と、背後から響いた獣の鳴き声に、ケイの思考が妨げられる。
弾かれたように振り返れば、地を這うように駆ける、三つの大きな黒い影。
―“狩猟狼(ハウンドウルフ)”!
黒色のぼさぼさとした毛並み、ぴんと尖った耳に、星明かりの下でも不気味に輝く両眼。首にはめられた革の首輪が、野生ではなく調教(テイム)された個体であることを示す。
ハウンドウルフ。別名、“黒き追跡者(ブラックシーカー)”。
ゲーム内で、攻撃補助用のペットとして、非常に人気の高かったモンスターだ。その凶暴性から調教が難しく、手懐けるのは至難の業とされていたが、一度懐けば従順になり、決して主人を裏切らず、あらゆる局面で有能に立ち回る。
大柄な体躯、それに見合わぬ俊敏さ、底知れぬスタミナに、高い攻撃力。
そして何よりも恐るべきは、その追(・)跡(・)力(・)だ。
狼としての嗅覚をフルに生かし、どこまでも執拗に獲物を追い続ける。馬の駆け足程度の速さならば一晩中でも走り、三十分ほどならば馬の襲歩にすら追随が可能。
例え地の果てまで行こうとも、『臭い』が残っている限り、彼らから逃れる術はない。ハウンドウルフが自ら追跡を止めるのは、主人の笛に呼び戻されたときか、獲物の喉笛を喰い千切ったときだけだ。
そんな、死神の先駆とでもいうべき黒き獣が―三頭。
……こいつは、
厄介だ。ケイは思わず舌打ちした。じりじりと距離を詰めながら、狼の群れがそうするように、散開し追い立ててくるハウンドウルフ。時折、三頭のうちいずれかが足を止めて、夜空に遠吠えを上げている。そうやって『獲物』の位置を知らせるよう、訓練されているのだろう。
一瞬前までは気楽な逃避行だったのが、今や手に汗握る狩猟劇に様変わりだ。しかも、ケイは『狩られる』側―後ろを走るサスケも、怯えの色を見せている。
クソッ、弓さえ使えりゃな……
左腕にアイリーンを抱きかかえたまま、狼たちを睨み、ケイは忌々しげに毒づいた。
平素であれば、弓騎兵のケイにとって、ハウンドウルフは恐るるに足る相手ではない。
馬型の騎乗生物の中で最高性能を誇るバウザーホース(ミカヅキ)を駆り、百発百中の弓の腕前をもってすれば、ハウンドウルフなど足が速いだけの『的』にすぎない。むしろ、図体がデカくて逃げない分、草原の兎より仕留め易いぐらいだ。
が、今はアイリーンで片腕が塞がっている。先ほどから色々と試みているのだが、ぐったりとした彼女を腕無しで支える術がない。ゲームでは常に弓で戦ってきたケイにとって、この状況は想定外と言ってよかった。
仮に、これがゲームであれば、ケイは即座にアイリーンを放り出すだろう。
地面に激突した衝撃で死ぬかも知れないし、もしくはハウンドウルフに食い殺されるかも知れない。しかし、その隙に弓を使えば、一瞬でこの黒い獣どもを殲滅できる。
その後で―生死を問わず―アイリーンを回(・)収(・)し、治療するなり拠点で再受肉(リスポーン)させるなりすればいい。それならば能力低下(デスペナ)も所持品紛失(アイテムロスト)も免れる。なんのデメリットもない。
しかし、それが現実となると―。
(放り出すわけにはいかないよな)
腕の中、馬の揺れに耐えるように眉を寄せるアイリーン。
か弱い少女を捨て置く、ましてや馬から地面に投げ捨てるなどと、そんな鬼畜の所業はやれと言われてもできないだろう。
(ここが DEMONDAL の世界なら、復活も可能かもしれんが……)
ゲームに似(・)て(・)い(・)る(・)だ(・)け(・)の異世界、という可能性もある以上、無茶はできない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが高すぎた。
ウォン、オンッ!
吠え声。そうやって考えている間にも、ハウンドウルフたちがじりじりと追い上げてきている。
全力で駆けるこの黒き追跡者たちは、瞬間的な足の速さにおいて、今のミカヅキを上回っているのだ。
ゲーム内の馬型の騎乗生物では最高の速度、最高レベルのスタミナ、そして優れた走破性能を誇るバウザーホース―ミカヅキだが、いかんせんこの種族、加重に弱い。パワータイプではなく、スピードタイプなのだ。アイリーンという同乗者が一人増えただけで、最高速がガクンと落ちていた。
おいミカヅキ、根性出せ! お前の速さはこんなものじゃないはずだ!!
無茶言うな、と言わんばかりにミカヅキがちらりとケイを見る。これでも、よく走っている方だ。筋肉の密度が尋常ではないケイは、見かけに比してかなり重い。そこに重量オーバーで同乗者が加わっているのだから、既にいっぱいいっぱいの状態だった。
(……逃げ切るのは無理だな)
分かってはいたが、改めて悟ったケイの目が遠くなる。そもそも、ここで少々加速したところで、ハウンドウルフの追跡は止まらない。先ほどから、アイリーンが腰の帯に差している投げナイフが、ちらちらと目に入る。
残念ながらケイは、ナイフ投げが不得手だ。練習したことはあるが、実戦ではまともに刺さった試しがない。
ましてや今は揺れの激しい馬上、動く目標に投げつけてみたところで、牽制にすらならないだろう。
(……手持ちのカードで勝負するしかない、か)
腰のポシェットに手を伸ばす。取り出したのは、ウズラの卵ほどの大きさの、鉛玉。
礫(つぶて)だ。
対人用のお守り代わりに持ち歩いていたもの。全身が分厚い毛皮で覆われた獣には効果が薄いが、無いよりはマシだろう。
せめて額にブチ込めれば……
右手側のハウンドウルフに狙いを定める。鐙(あぶみ)を踏むケイの足の動きから、その意図を察したミカヅキが、やや時計回りに円を描くよう馬首を巡らせた。
急激に接近してくるケイたちに、件のハウンドウルフは飛びかかって食らいつかんと、走りながら姿勢を低くする。
そしてぐっと脚に力を込め、まさにミカヅキに牙を剥こうとした、その瞬間。
ケイは右手を振り下ろす。
ビッ、と腕が空を切る音。最適化された動作、並はずれた筋力、それらを合わせた礫が至近距離から放たれる。
野生の動物をして反応する暇すら与えずに、人外の威力を秘めた礫がハウンドウルフの顔面に炸裂した。
ぎゃんッ!
鼻づらに強烈な一撃を見舞われたハウンドウルフは、短く悲鳴を上げてその場にひっくり返る。地面の上で鼻を押さえてのた打ち回る獣の姿が、すぐに後方へと流れて小さくなっていった。
一頭が戦線離脱―とケイの気が若干緩もうとしたところで、 ぶるるっ とミカヅキの警戒の声。見れば左手、いつの間にか至近距離まで迫っていた一頭が、こちらに飛びかかろうと既に身構えていた。
(―いかん!)
礫を取り出すのは間に合わない、と判断したケイの右手が、腰の短剣に伸びる。
ハウンドウルフが地を蹴るのと、ケイが短剣を引き抜くのが同時。
いかに俊敏な狼といえど、空中で姿勢を変えることは出来ない。ハウンドウルフの首筋に、ケイは真っ直ぐ短剣を突き出した。
肉を裂き、短剣の刃が首筋の骨に食い込む感触。ぐぼっ、と湿り気のある音が、狼の喉から漏れる。しかし、明らかな致命傷を受けてもなお、怯む様子すら見せないハウンドウルフは、ケイの右腕に牙を立てようと大きく顎を開いて首を巡らせた。
その執念、そして闘争心に驚きながらも、ケイは咄嗟に短剣から手を離す。
喉元の支えを失った黒き狩人は、ケイに噛みつくことはかなわずに、そのまま夜の草原に叩きつけられて事切れた。
残るは一頭……!
後方、追い縋る最後のハウンドウルフを見やり、ポシェットを探る。
残りの礫は、二つ。
そのうちの一つを右手に構え、慎重に狙いを定めた。
ぐルルル……
警戒するように唸り声を上げたハウンドウルフは、姿勢を低くしながら小刻みに軌道を変え、ケイを翻弄しようと試みる。
彼は知っていたのだ。ケイの右手から、何か危険なモノが放たれるということを。そして不用意に近づけば、自らのそれよりも鋭く長い爪に、手痛い反撃を貰うであろうということも。
まったく、賢しらな獣だった。そのことに感心すると同時に、忌々しくも思う。
ゲームみたいに、大人しく狩られていればいい……!
そう、吐き捨て。黒き獣。睨みつける。
(―死ねッ!)
最大級の殺意を込めて、全身に力を漲らせた。
!!
物理的な圧力すら感じさせる濃厚な殺気。全身の毛が逆立つような指向性のある悪意。思わず震え上がったハウンドウルフの体が一瞬、硬直する。
その、間隙。
ケイの右腕がブレた。
ビシュッと鉛の礫が空を切る。ケイが全力で投じた、必殺の一撃。
しかし幸か不幸か。ケイは目測を誤った。
ハウンドウルフの額を狙って投じた礫は、僅かに耳を掠めて、その背中に命中する。
毛皮越しに鉛が肉を打つ、痛そうな音。が、獣にとってその程度の痛みは、むしろ神経を逆撫でするものでしかなかった。先ほど、ケイに『恐れ』を抱いてしまったことを否定するかのように、牙を剥いた狼は激しく吠えかかりながら突進してくる。
“能動発気(アクティブセンス)“は苦手だな……
慣れないことして手元が狂ったか、とため息をつくケイ。礫は外れ、血走った獣が目の前にまで迫っているというのに、その態度は落ち着いたものだった。
なにせ、決着はもう、ほとんど着いているのだ。
完全にケイに気を取られていた狼が、も(・)う(・)一(・)頭(・)の存在を思い出したのは、視界の端に褐色の毛並みが映ったときだった。
ぶるるォッ!
ハウンドウルフの後方から、いななきを上げながらサスケが猛然と突っ込んでくる。思わずぽかんと口を開いて呆気に取られる狼。その無防備な横腹に、サスケは右前脚の蹄を容赦なく叩きこんだ。
キャンバス地が破れるような音を立てて、黒い毛並みの腹が切(・)り(・)裂(・)か(・)れ(・)る(・)。口から血反吐を吐いてよろけた狼に、止めとばかりにサスケの後足キックが炸裂。ハウンドウルフは、腹から臓物を撒き散らしながら吹き飛んでいった。
Well Done(よくやった)!
ケイの快哉の声を聞いて、 ふふん、ぼく強いでしょ とでも言いたげに得意げな顔をするサスケ。その足の裏、かかと部分の裏側に展開されていた鋭い骨の刃が、音もなく畳まれてただの蹄に擬態した。
バウザーホース。
馬型の騎乗生物の中では最高レベルの性能を誇る彼らだが、厳密には馬ではない。高いレベルで馬に擬態した、凶暴な雑食性のモンスターだ。手懐けるのはハウンドウルフ以上に難しいとされ、仮に使役に成功したとしても、その扱いには注意を要する。
……ミカヅキ、お前もよくやった。ありがとうな
ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いて、労をねぎらう。言われるまでもないわ、とでも言いたげに、ちらりとケイを見て鼻を鳴らすミカヅキ。
こうやってきちんと感謝の念を示さないと、ヘソを曲げるのがバウザーホースだ。ゲーム内のAIですらそうだったのだから、いわんや異世界をや。どうにか人里を見つけられたなら、野菜にせよ肉にせよ、何かしら豪勢な餌を用意するべきだろう。
(……だが、今はアイリーンの治療が先だな)
不安げに眉根を寄せて、ケイは嘆息する。それはそれで、考えると気が重い。
ミカヅキを早足で駆けさせながら、左手に広がる草原と右手側の森を見比べたケイは、―しばし迷ってから、森の方へと馬首を巡らせた。
これから行う『治療』に不安を隠せないケイを乗せ、ミカヅキはゆっくりと暗い雑木林に踏み込んでいった。
†††
雑木林の中は、ほぼ真っ暗闇だった。頭上に生い茂る木の葉のせいで、わずかな星明かりすら遮られている。
(これだけ暗ければ、人間に奇襲されることはないだろ)
並みの人間の夜間視力では、歩くことすらままならないはずだ。それでいてこの雑木林は、背が高く幹の細い木々が植生の大部分を占めており、先ほどの木立に比べて視界が開けている。
ケイが充分に警戒し続けている限り、獣相手でも遅れを取ることはないはずだ。現に、ケイと同様『視力強化』の紋章を持つミカヅキは問題ないようだが、何の強化も施されていないサスケはかなり歩きにくそうだ。今はケイが手綱を引いて誘導している。
さて……この辺でいいか?
数百メートルほど分け入ったあたりで、ミカヅキの足を止める。周囲を見回しても、視界圏内に生物は見受けられない。ミカヅキも平然としているので、頭上を含めた感知圏内にも、敵対者は存在しないと考えられた。
アイリーン。聴こえてるか?
額に浮き出た汗をぬぐってやりながら、声をかける
где……кто……?
目を閉じたまま、悪夢にうなされているかのようにアイリーンが小さく呟くが、発音が不明瞭な上にロシア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。
アイリーンを抱えて、ゆっくりと地面に降り立つ。枯葉と腐植土の上にマントを敷き、そっと華奢な身体を横たえた。
よし。ミカヅキ、サスケ、警戒は任せる
ミカヅキが鼻を鳴らして答え、サスケがキリッとした表情で周囲をきょろきょろと見回し始める。暗闇の中、サスケにはほとんど何も見えていないはずなのだが。
さて、と
水筒の水で軽く手を洗い、アイリーンの傷を検める。黒装束のせいで傷口が見えないので、布地を切り裂くために短剣を取り出そうとするが鞘には何もない。そこで、先ほどの戦闘で短剣はハウンドウルフに道連れにされてしまったことを思い出す。
仕方が無いのでアイリーンの投げナイフを一本拝借し、黒装束の胸元を切り裂いていく。
……ふむ
流石に矢が生えているとなると、いたいけな少女の胸元を覗いても、邪な感情は湧いて出なかった。
……あと二センチ上に刺さってたら、右鎖骨下動脈がやられてたなコレ
肋骨の間にするりと入り込むようにして、矢は刺さっていた。傷口の形状からするに、鏃は『刃』や『返し』が付いたタイプではなく、シンプルな円錐状、ないしそれに近い形であることがわかる。つまり、矢を抜くときに、傷が広がる危険性が低い。
いずれにせよ、一刻も早く傷を塞いでしまいたいところだが、矢を引っこ抜く前に少しでも体力を回復してもらった方が良いだろうと考えたケイは、
アイリーン。聴こえるか? ポーション飲めるかー?
耳元で呼びかけるも、反応は芳しくない。アイリーンは先ほどからずっとうわ言を呟いているのだが、かすれ声な上にどうやらロシア語だった。
仕方がないので、口元にポーションを少しずつ垂らす。が、
……не вкусно……
顔をしかめたアイリーンの唇から、そのほとんどが零れ落ちてしまう。何を言ってるかは分からなかったが、おそらく 不味い と言っているのだろう。いずれにせよ、ずっと意識が混濁した状態が続いており、ろくに意思の疎通も図れていない。
(……いや、しかし考えようによっては、これは好都合(チャンス)なんじゃないか)
そこで、ポーションを片手に、ケイははたと考え直す。
ポーションによる治療は、どうやら多大な苦痛を伴うらしい。手のひらの切り傷を直しただけで、アイリーンは冷や汗だらだらの状態になっていた。それが、胸に突き刺さった矢を抜き、その穴を塞ぐとなると―どれほどの痛みに苛まれるのか想像もしたくない。
……意識が朦朧としてるうちに、さっさと終わらせた方が本人のため、か……?
しばし考えて、決断する。
よし、ひとり頷いたケイは、籠手を外して袖をまくった。念のため、何本か予備のポーションもすぐに使えるよう膝元に置き、ふぅっと息を吐いて矢に手をかける。
…………
ゲーム内ならば、今までに幾度となく矢を抜いてきたが、現実でそれをやるとなると流石に重みが違った。傷口を押さえる左手に、アイリーンの胸の鼓動が伝わってくる。
深呼吸。
行くぞ
覚悟を決め、ケイは傷を広げないよう慎重に、しかし苦痛を軽減するため大胆に、ズヌッと矢を引き抜いた。
ぅうッ……!?
途端、苦痛に顔をしかめたアイリーンが、うめき声とともに身をよじる。傷口から、黒っぽい血が溢れ出してきた。静脈血。動脈は切れていない。
さて、怨むなよアイリーン……
お前のためだからな、と呟きながら、ケイはそっと、ポーションの瓶を傾けた。
とろみのある水色の液体が垂れて、―傷口に触れる。
ッ!!!!
ジュッ、と肉の焼けるような音が響き、アイリーンがかっと目を見開いた。
ぎッ―!!!!
絶叫とともに、跳ね上がるようにして暴れ出した体を、慌てて押さえつけつつポーションを垂らし続ける。ポーションが足りずに、中途半端に傷が塞がってしまうのが、一番避けるべき事態だった。
ぉぁぁ―ッッッッ!!!!
よほどの痛みなのか、小柄な少女とは思えないような馬鹿力で、アイリーンはケイの腕をはねのけようとする。そしておおよそ乙女が上げるものとは思えぬような、獣の咆哮のような絶叫。
すまんッ、アイリーンッ、落ち着けッ許せッ!
アイリーンの胸元、水色のポーションは、まるで意思を持つスライムか何かのように、怪しく蠕動しながら傷口に潜り込んでいった。アイリーンの体の中から、鍋の湯が沸騰するときのそれに似た、ゴポゴポという不気味な音が響いてくる。
やがて、暴れていたアイリーンの体の動きが細かな痙攣に変わり、見開かれた瞳はいつの間にかぐるんと裏返って、完全に白目になっていた。
げほっ、ごぼっ!
時たまアイリーンが咳き込むたびに、口から固まりかけた血液と思しき、赤黒い塊が吐き出される。そしてそれがあらかた出終わった後は、ポーションが揮発したのだろうか、口と鼻から蒸気とも湯気とも知らぬ気体がもくもくと立ち上り始めた。
……ぁっ……ぅ……
最後に、体の痙攣が収まってきたあたりで、口からぶくぶくと泡を吹き始める。ポーションと同じ、うっすらとした水色の泡。
………………
あまりにも壮絶なありさまに、呼吸をするのも忘れてドン引きしていたケイだが、すぐにハッと気を取り直し、慌ててアイリーンの脈を取る。
……良かった。生きてる……
ぴくん、ぴくんと痙攣しながら泡を吹き続けているので、よくよく考えれば生きているのは当たり前だった。しかし自分で『アイリーンの心臓が動いている』という事実を確かめて、ケイはようやく一息つく。
次に傷口を確認すると、手のひらの切り傷と同様、白い傷跡は残っているが、穴そのものは完全に塞がれているようだった。
胸に耳を当てて呼吸音も確認する。少し早目だが、規則正しい鼓動の音が聴こえるのみで、呼吸器関連の異常な音は聴こえない。
ひとまず安心、か……
とりあえず、いつまでたっても白目のままなのは、あまりにも気の毒だったので、そっと瞼を閉じてやる。
……こっちでは大怪我だけはしないように、気をつけよう
―さもなくば、これと同じ目に。ケイはぼそりと呟いた。
ぶるるっ
同感だ、と言わんばかりに、ミカヅキが小さく鼻を鳴らした。
……ん?
そこで、ふと顔を上げる。
視界の彼方。
先ほどまで真っ暗闇だった雑木林の果てに、光が見える。
ゆらゆらと揺れる、オレンジ色の光。
見ているうちに、ひとつ、ふたつと、数が増えていく。
“鬼火(ウィル・オ・ウィスプ)“か……?
下位精霊の一種を疑ったが、すぐにそうではないことに気付く。
あれは、人工の火。松明の明かりだ。
細かく移動していることから、何者かが松明を掲げて歩き回っていることは間違いないのだが、流石に遠すぎるのと暗すぎるのとで、持ち手までよく見えない。
……さっきの連中、じゃあないよな
方向が逆だ。それに、徒歩で先回りしたにしては、速過ぎる。
…………
どうするべきか。
しばし迷って、結論を出す。
行ってみよう。ミカヅキ、頼む
アイリーンを抱えた状態で、再びミカヅキに騎乗した。兜をかぶり直し、口布をつけて顔を隠しつつ、一応の武器の確認をする。短剣が無くなり、礫を二つ消費したが、それ以外は全部揃っている。問題ない。
よし、と小さく頷いてサスケの手綱を手に取り、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。常歩でゆっくりと歩いていく。ほとんど速度は出ていない上、地面も柔らかい腐植土なので、蹄の音は立たない。
歩き出してみれば、彼我の距離はそれほど離れてはいなかった。距離が縮まるごとに、その明かりの詳細が見えてくる。
……村か
それは、雑木林の中、空き地を切り開いて作られた小規模な村だった。
一軒の大きめのログハウスの前で、松明を持った数人の村人が、慌ただしく行き交っているのが見える。みな清潔な服を身にまとい、血色や肉付きも悪くない。小さな村ではあるが、それなりに良い暮らしをしているのだろうか。
向こうはまだ、こちらの存在に気付いていない。接触するにせよ隠れるにせよ、その判断はケイに委ねられていた。それぞれのメリットとデメリットをしばし考えながら、ケイは腕の中のアイリーンを見やる。
(……やはり野宿は避けたいな)
苦しげな表情。アイリーンは体力を消耗している。可能であれば、せめて彼女にだけでも、暖かい寝床を用意したいという想いがあった。
……よし、行こう
万が一に備え、サーベルだけはすぐに抜けるよう、抱えたアイリーンの位置を調整しておく。改めて気合を入れなおし、ケイはミカヅキを駆けさせた。
先ほどとは違い、柔らかい土を踏みしめる鈍い足音が響く。最初に気付いたのは、村の広場にいた犬だ。ケイたちの方を向き、激しく吠え掛かる。
……おいっ、何か来てるぞッ!
みんなッ集まれ!
篝火だ! 篝火もってこい!
遅れて足音を聴きつけたのだろう、にわかに村人たちが慌て始める。
(……英語か。少なくとも言葉は通じるな)
そう思っている間に篝火がいくつも設置され、勢いよく燃え盛る炎が村の周囲をにわかに明るく照らし出した。あり合わせの武器や農具を手に、十人ほど村人が、ケイの方を向いてそれぞれに得物を構える。
ミカヅキの手綱を軽く引き、駆け足から常歩ほどの速度に落としつつ、ゆっくりと村に接近していく。
武器を構えていた村人のうち、短槍を構えた精悍な顔つきの男が進み出て、
止まれ! 何者だ!
と、誰何を投げかけてきた。
ケイたちが DEMONDAL の世界に転移してきてから、数時間。
―第一村人、遭遇である。
ちなみに、作中でケイやアイリーンが話しているのは、基本的に英語です。
7. Tahfu
篝火にくべられた薪が、ぱちりと音を立てる。
―何者だ!
前方、十歩ほどの距離を隔てて、短槍を手にした男はケイを見据える。その顔に浮かぶは緊張の色。
ケイを射抜く猜疑の眼差し。周囲の男たちも似たような様相で、棍棒や鋤、伐採用の手斧などあり合わせの武器を手に、いつでも動けるよう中腰で構えている。
完全な臨戦態勢。全員、ケイに対する警戒心を隠そうともしていない。
(……随分と物々しいな)
たかが自分ひとりに大仰な―とは思ったが、自分が姿を現す前から起き出して騒いでいたことを鑑みるに、他に何か警戒すべきことがあったのかもしれない。その辺も把握しておきたい、などと考えつつ、ケイは口を開いた。
夜分に失礼する。俺は旅人だ。決して怪しい者ではない
とりあえず、敵対者ではないことを第一に、宣言する。
『怪しい者ではない』……?
大真面目なケイの発言に、男たちがざわめいた。
新月の暗い夜。滅多に人の出歩かない時間帯。
闇から松明も持たずに、馬に乗って現れた男。
全身を覆う革鎧。腰に剣、手には弓の重装備。
布で口元を隠しているため顔立ちは分からず。
挙句、その左腕には年頃の少女を抱いている。
額に汗を滲ませ、病人のように顔色の悪い娘。
着ているのは、見たこともない異国の黒装束。
しかもまるで、誰(・)か(・)に乱暴されたかのように。
襟元が切り裂かれ、白い胸元が露出していた。
…………
―はっきり言って、怪しすぎる風体であった。
……だから、何者だ
ややトーンの下がった声で、男たちの中心、短槍を握り直した若者が問う。
……端的に言うと、つい先ほど賊に襲われて、逃げてきた
困ったように肩をすくめつつ、ケイはかいつまんで現状を説明する。
霧に呑まれ、気付いたら見知らぬ場所におり、日が沈んでしまったので野営していたところを盗賊と思しき一団に襲撃され、雑木林に逃げ込んだ。そして暗闇の中で松明の光を見つけたので近づいてきた―といった具合に。
嘘は一切ついていない。ただ、ケイたちが DEMONDAL という『ゲーム』のプレイヤーであった、という事実をぼかし、あくまで普通の旅人であったかのような言い方をする。
……つまり、あんたの目的は、何だ?
ケイの話を聞いて、その精悍な顔に警戒と困惑の入り混ざった表情を浮かべた村人は、僅かに短槍の穂先を下げて問いかける。
ああ……見ての通り、連れの体調が悪い。彼女のために身体を休める場所があれば、と考えていた折、ちょうど松明の明かりが見えたものだからな。そちらこそ、こんな時間になんで急に起き出して騒いでたんだ?
今度は逆に、ケイが疑問を投げかける。
……それには、おれが答えよう
のんびりとした、低い男の声。
ケイの右手側。弓を手にした一人の男が、ちょうど死角になっていた小さな家の陰から、のっそりと姿を現した。
随分と濃い顔立ちをした男だ。顔の下半分を覆う、とび色のあごひげが渋い。実直で真面目そうな顔つきに、がっしりとした体格。茶色のぴったりとした服で身を包み、羽根飾りのついた革の帽子をかぶっていた。
マンデルという。……この村の狩人だ
濃い顔立ちの男―マンデルは、そう言って軽く帽子を持ち上げる。
ケイだ。よろしく
そういえば名乗るのを忘れていた、と思いながら目礼したケイは、弓使いの性か、自然とマンデルの持つ弓に視線が吸い寄せられた。
シンプルな作りのショートボウ。艶やかな仕上げの木製で、持ち手の部分には黒ずんだ布が幾重にも巻かれている。村人たちも何人かは弓を持っているが、他と比べてマンデルのそれは、もっと使い込まれている印象を受ける。おそらく、その弓を日常的に狩りの道具として用いているのだろう。
そして次に目を止めたのは、マンデルの帽子。正確に言えば、その帽子についている羽根飾りだった。マンデルはマンデルで、ケイが装備する革兜、それについた羽根飾りにじっと視線を注いでいる。
…………
一瞬、二人の目線が交差した。
ふっと、どちらともなく笑みを浮かべる。無言のシンパシー。困惑の表情を浮かべる周囲の男たち。
……それで、おれたちが騒いでいた理由だが
何事もなかったかのように真顔に戻り、マンデルは話を続ける。
つい先ほど、突然、凄まじい獣の咆哮が聞こえてな。みな、それに叩き起こされたのさ。……凶暴なモンスターかもしれない
モンスター?
ああ。この季節になると、たまに森や山の方から、人里に下りてくることがある。寝込みを襲われては、たまらんからな。……今夜は、交代で番をすることになるだろう
それで男衆が出張っているわけだ、とマンデルは周囲の村人たちを示して見せた。
ケイ、あんたは、向こうから来たんだろう? ……何か、いなかったか?
うーむ……特に、そういった野獣の類は見かけなかったが
思い返すも、心当たりはなかった。強いていうならば、襲撃者たちがけしかけてきた狩猟狼(ハウンドウルフ)くらいのものだが、雑木林にまでは辿り着いていない。
こんな暗闇じゃ、例えモンスターがいても見えないだろう
間延びした空気で会話するケイとマンデルに、苛立ちの混じった声で、短槍使いの男が口を挟む。
ミカヅキ―馬たちも警戒していなかったから、少なくとも周辺には何もいないはずだ。一応、俺もこいつも、夜目は利く方でな
ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いた。
篝火の向こうの暗闇と、自信満々のケイとを見比べて、村人たちが胡散臭そうな顔をする。マンデルはただ、生真面目な顔で そうか と頷いていた。
―お話中のところ、失礼する
ざっざっと砂利を蹴る足音。村の中央から、人の気配がこちらへ向かってくる。
暗がりから姿を現したのは、腰の曲がった白髪の老人と、小太りの中年の男だった。
ようこそ、旅の御方。“タアフ”の村のまとめ役をやっておる、ベネットだ
その息子、ダニーという
白髪の老人・ベネットは顔に小さく笑みを浮かべ、その息子らしい小太りの男・ダニーは尊大な態度で、それぞれ名乗った。
(なるほど。村長と次期村長のお出ましか)
あまり不躾にならないように気をつけながら、二人を観察する。
村長のベネットは、好々爺然とした老人だ。一見すると人が良さそうに見えるが、ハの字に垂れた眉の下、両の瞳がさり気なくケイの全身を観察している。直感的に、『タヌキ親父』という言葉が思い浮かんだ。
対して、その息子のダニーには、特に思うところがない。小太りな、だらしない体形も相まって、良くも悪くも『ただの偉そうな男』というイメージだ。ある意味お互い様とはいえ、ベネットとは対照的に、臆面もなくじろじろと不躾な視線を向けてきている。特にその視線は、腕の中のアイリーンに集中しているように思われた。
(それにしても”タアフ”の村、か……)
ゲーム内では聞いたことのない名前だ。やはりゲームそのものではないか、と思いを巡らせつつも、ケイは口を開く。
馬上より失礼。俺はケイイチ=ノガワ。ケイイチが名(ネーム)、ノガワが姓(サーーネーム)だ。騒がせてしまったようで申し訳ない
顔布を外したケイは、毅然とした態度で名を名乗った。ケイの言葉に、村人たちが小さくざわつく。ベネットは張り付けたような笑顔のまま表情を変えなかったが、ダニーはぴくんと眉を跳ね上げて心なしか顔を強張らせた。
……ノガワ殿。我らが村に、如何様な目的でいらしたので?
丁寧な語調で問いかけるベネットは、愛想笑いを崩さない。
『ケイ』で結構だ。先ほども話したが、連れの体調が優れない
腕の中の少女に視線を落とす。額に汗を滲ませて、 うぅん…… とうなされているアイリーン。
こんな状態では、野宿を強いるのも忍びなくてな。できれば彼女だけでも、ゆっくりと休ませてやりたいのだが……
どうだろう? と目で問いかける。
勿論、相応の礼はしよう
なるほど、なるほど
ベネットがゆっくりと相槌を打った。
たしかに、お連れの方はご気分の優れぬ様子。しかしなにぶん、ここは小さな村でしてのう……。お役に立てるものがあるかどうか。村の者たちに聞いて参りますがゆえ、少々お時間をいただければ
構わない、助かる
いえいえ、なんのなんの。それでは……ダニー、クローネン、手伝え
すぐに戻って参りますので、と会釈しながら、ベネットが背を向けて歩き出す。その後ろにダニーと、短槍を構えていた精悍な顔つきの男―クローネンというらしい―が続いた。
彼らを馬上から見送りながら、ケイはふと、どことなく似通った雰囲気のクローネンとベネットの後ろ姿に目を止め、
……マンデル
ん? ……なんだ
あのクローネンと呼ばれていた、短槍使いの男も、村長の血縁なのか
ああ、あいつも息子さ。……長男のダニー、次男のクローネンだ
そうか。ありがとう
納得しながら、少し年が離れている兄弟だな、と考えていたケイは、周囲の村の男たちが渋い顔をしているのには、気付かなかった。
†††
ケイからは見えぬ暗がりまで歩いたところで、ベネットは さて、 と話を切り出す。
クローネン。たしかお前の家には、空いてる寝台があったな?
親父! まさかあいつを村に入れるつもりなのか?
そのつもりじゃが
声を荒げるクローネンに、 いかんのか? と首を傾げるベネット。
親父たちも話を聞いてただろう! もしもあいつ自身が、盗賊の一味だったらどうするんだ!
クローネンが最も心配しているのは、その点についてだった。
盗賊に襲われて、命からがら逃げおおせた被害者―を装った団員を、あらかじめ標的の村に潜り込ませ、内部から破壊工作を行い、その混乱に乗じて襲撃する。
一部の盗賊団がこの手口で荒稼ぎしているという噂を、クローネンは村に訪れた行商人たちからたびたび聞いていたのだ。
はぁ……何を騒いでいるのかと思えば、そんなことか。まったく、お前でも思いつくようなことを、俺や親父が考えなかったとでも思っているのか?
それに対し、ダニーが肩をすくめて、これ見よがしに溜息をついて見せる。これだから出来の悪い弟は、とでも言わんばかりの雰囲気だ。
お前の考えはもっともじゃが、クローネン。わしゃその可能性は低いと思っとる
怒るでもなく馬鹿にするでもなく、ベネットは淡々と、
最近、そういった手合いの輩がおることは、わしも知っておるよ。しかし、潜入させるにしては、あのケイとかいう若者は怪しすぎるんじゃ。草原の民の格好をしとる癖に、名乗りで家名(サーネーム)ときた。怪しいなんてもんじゃないわい。それに、たかが囮役に、あれだけの装備を持たせる余裕があるなら―最初から盗賊なんぞやらんでも、充分食っていけるじゃろ
親父の言うとおりだ。俺が盗賊なら、もう少し貧相でま(・)と(・)も(・)な(・)奴を送り込む
顎を撫でながら、ダニーが言葉を引き継いだ。
お前は見る目が無いから分からんだろうがな、クローネン。あのケイという男の装備、全身どれも一級品だぞ
……そうなのか?
兄に指摘されて初めて、クローネンは自分が『ケイ』という男の持ち物に、全く気を回していなかったことに気が付いた。
村長であるベネットは勿論のこと、その跡を継ぐダニーも、村の代表者として様々な品に触れているため、自然と物を見る目が鍛えられている。その鑑定眼が、初対面の相手を見極める際の観察眼としても、一役買っているのだ。
ベネットは目を細めて、ケイが身に着けていた装備品に思いを巡らせる。
あの革鎧、恐ろしいほどに丁寧な仕立てじゃった。それに、見たこともないような素晴らしい装飾―胴体だけでも、銀貨10枚は下らんじゃろうて
銀貨10枚!?
その見立てに、素っ頓狂な声を上げたのはクローネンだ。銀貨10枚といえば、平均的な農民一人、その一年分の食費に匹敵する。
革鎧って、高くてもせいぜい銀貨1枚とか、そのくらいのものじゃないのか?
バカ、それはなめし皮を重ねて縫い合わせただけの、安物の値段だ。あの男の鎧は硬化処理がしてある奴で、作る手間も防御力も、安物とは比べ物にならん。まず、ものとしての格が違うんだ。それにあの細かいレリーフ。前、街に買い出しに行ったとき、武具も服飾も色々と見て回ったが、あんなに洒落た装飾は見かけなかった。芸術品としても十分に価値がある
よほど腕のいい職人が仕立てたんじゃろうな。金を積んだからといって、すぐに買えるような代物でもなさそうじゃ。……それにダニー、気付いたか。あの馬
おお、見事な馬だったな!
ぱしん、と手を叩いて、ダニーはケイたちの馬を評する。
艶の良い毛並みに、賢そうな顔つき、それに並みの馬では比較にならん体格! 名馬というのは見たことがないが、ああいうのを言うんだろうな。しかもそれが二頭!
言われてみれば、とクローネンも思い返す。あのケイという男が乗っていた馬は、たしかにかなり上等な部類に入るのではなかろうか。
村でも一頭、荷馬車のための馬を飼っているが、それと比較するのもおこがましいほどに、あの褐色の馬たちは全身に力が満ち満ちていた。
そう、馬自体も大したものじゃが……あの馬たちが着けておった額当てよ。二頭とも、タリスマンが埋め込んであったわい
タリスマン?
ダニーとクローネンが異口同音に聞き返す。
わしも、本物には二度しかお目にかかったことはないがの。魔除けの護符じゃ。縁起物ではない、魔力が込められた本物よ。幻術や、魔性の者どもの力を弱め、持ち主を守るという。わしですら込められた魔力が感じ取れるんじゃ、よほど強力な代物なんじゃろう
ほっほっほ、と声を上げて笑うベネット。
一般に、特別な才能がある場合や、魔術師のように過酷な修業を積んだ場合を除いて、人間の魔力は歳をとるごとにゆるやかに増大し、五十代を過ぎたあたりから劇的に伸び始める。
それに伴って魔力に対する知覚も研ぎ澄まされていき、歳をとればとるほど、人はそういった『魔』のものを鋭敏に察知できるようになるのだ。臨終の間際ともなれば、その知覚は精霊たちの御許にまで近づくという。
ゆえに、タアフ村でも指折りの高齢者であるベネットは、タリスマンに込められた魔力を、僅かに感じ取れたのだ。
タリスマン、か
クローネンは顎に手を当てて、ふーむと息をついた。
―凄いのは分かるのだが、いまいち実感が湧かない。
それが、クローネンの正直な感想だった。
今まで二十余年の歳月を生きてきたクローネンだが、『魔力が込められた品』などという代物には、ついぞやお目にかかったことがない。もちろん、そういったものが貴重であることは理解しているし、魔道具をこしらえるためには大金が必要であることも、行商人たちから聞いた話で知っていた。
しかし、あまりにも自分と関わり合いのない話なので、その凄さに実感が伴わない。
……あの男、本当に何者なんだ
一方でその兄、ダニーは事態を深刻に受け止めたようであった。
親父。ひょっとするとあの男、本当に貴人なのかも知れんな
そうじゃのぅ
飄々とした態度のまま、ベネットがあごひげを撫でる。
鎧もそうじゃが、タリスマンこそ、金を積めばすぐ手に入るという代物ではないしの
そんなもんを馬にまで持たすのは……
やはり、相応の地位におらんと無理じゃ
馬には持たせたが自分の分はない、ってこともないだろうしな
じゃのう。連れの女子(おなご)にも持たせておると考えて、タリスマンが4つ。……あの男が身につけとる物だけで、この村の全員が一年間遊んで暮らせるわい
そうだ! 連れといえば、あの女も只者じゃないな!
ぬふーっ、と鼻息を荒くしたダニーの相好が、だらしなく崩れる。
あのきめの細かい、染みひとつない真っ白な肌! それに長く伸ばされた、艶やかで美しい金髪! 平民じゃありえない、あれは絶対に貴族の係累だ!
にわかに興奮状態に陥る小太りの男の姿に、クローネンは露骨に、ベネットは表情を変えずに、それぞれ小さくため息をつく。
(村一番の美人を娶った癖に……女好きも困ったもんだ)
歳の離れた兄を見るクローネンの目は、冷たい。ダニーが街に買付けへ行くたびに、娼館の香水の残り香を漂わせて帰ってくることは、村の公然の秘密だった。村の金を横領しているわけではなく、生産品を相場よりも高く売り付け、それで出た利益を使っているのだから、誰も文句は言えないのだが。
なあ親父、草原の民にも貴族っているのか?
脱力感に襲われる体を、槍にもたれかかるようにして支えながら、クローネンはベネットに問いかけた。
おらん。基本的に、連中は氏族ごとに固まっておるからの。それぞれの氏族の族長と、それらを束ねる長老がおるだけじゃ
それじゃあ、あのケイって奴は……
顔には氏族の紋様の刺青も入れとらんし、名乗り方も妙じゃった。草原の民ということはまずなかろう。……なんでわざわざ、草原の民のような格好をしておるのかは、わしも知らん。あの者、いったい何処から来たんじゃ?
本人も分からないらしい。旅の途中で霧に呑まれて、気が付いたら『岩山』の近くにいた、って話だ。何か神秘的な現象に巻き込まれたのかもしれない、と言っていたが
そう言うクローネンに、ベネットは胡乱な目を向ける。そして、自分の息子が、怪しい旅人の言葉をほぼそのまま受け取っていることに気付き、半ば愕然とした、それでいて半ば諦めたような顔をした。
……まあええわい。向こうは向こうで、聞かれたくない事情でもあるんじゃろう。さて、そういうわけで、これからのことじゃが。これ、ダニー! 話を聞かんか!
ひとりニタニタとした笑みを浮かべて、心ここにあらずといった様子のダニーを、現実に呼び戻す。
おお、すまん親父。ついボーッとしていた
……はぁ。最初の質問に戻るが、クローネン。お前の家には予備の寝台があったな?
ああ。一応、いつでも使えるようにはしてあるはずだ
クローネンは小さく頷いた。ほとんど物置のようにしている小さな部屋だが、綺麗好きの妻が日頃から掃除はしている。
よし。ならばお前の家に、あの連れの女子を預ける
なんだって! 親父、うちにも客人用の寝室があるだろう! なんなら、シンシアを叩き起こしてもいい、そうすれば寝台がさらに一つ空く!
再び鼻息を荒くしたダニーが、ベネットの言葉に噛みついた。
明日の朝が辛くなる。愛しの妻(シンシア)は寝かせておいてやれ
対するベネットの返しは素っ気ない。
それでクローネン、お前にはひとつ頼みたいことがある。あの女子を預けるから、その見張りをして貰いたいんじゃ
……見張り?
看病、ではなく、見張り。その言葉の違和感に、クローネンは眉をひそめた。
そう、見張りじゃ。十中八九ないとは思うが……あの者たちが、盗賊の一味であった場合のためじゃ
真剣な表情のベネットに、自然とダニーとクローネンの顔も引き締まる。
あんな小娘でも、人目を盗んで抜け出せば、村に火を掛けて回るぐらいのことはできるからの。クローネン、お前なら力も強いし、腕も立つ。仮にあの娘が盗賊だったとしても、お前が付いておけば押さえこめるじゃろう
もちろんだ、あんな小娘には負けようがない
自信満々な笑みを浮かべて、クローネンは頷いた。
うむ。もっとも、あの様子で本当はそんな元気があるのなら、病人の役者としては一級じゃが……
ケイの腕に抱かれていた、体調の悪そうな少女の顔を思い浮かべて、ベネットは小さく呟いた。
まあ、ええわい。それであの、ケイとかいう男は、いつもの来客と同じように、うちへ招く。そして念のため、護衛としてマンデルを呼ぶんじゃ
……マンデルを、うちへ?
ダニーが露骨に嫌そうな顔をする。
仕方なかろう。マンデル以上に、この村で腕が立つ者もおるまい? 腕力然り、弓の扱い然り
まあ……そうだが
渋々、といった風に認めるダニーだが、それでも不満らしく、表情はぶすっとしたままだった。しかし、そんな子供じみた抗議には見向きもせずに、厳しい表情のベネットはただ、決定事項を告げる。
うむ、それではそういうことじゃ。お前たち、くれぐれも立ち入った話を聞くでないぞ。あんなな(・)り(・)をしているということは、それ相応の理由があるということじゃ。そして、そんな理由なんぞには、関わらん方が良いに決まっておる。なるたけ丁寧に迎え入れ、付かず離れず世話をし、貰えるものを貰って、可能な限り早く去って頂く。そのことをゆめゆめ忘れるな
おう
わかった
何はともあれ了解の意を示す息子たちに、うむ、と重々しく頷いた。
―さて、
くるりと振り返り、曲がってしまった腰をぽんぽんと叩きながら、ベネットは顔に笑みを張り付ける。
いつまでも客人を待たせるわけにもいかん。お出迎えと行こうかの
好々爺然とした愛想の良いひとりの老人は、招かれざる客の待つ方へ、ゆっくりと歩き出した。
8. 死神
ケイが案内されたのは、村の中で一番大きな家だった。
申し訳ありませんな、こんな田舎の村では、大したおもてなしも出来ませんで
いやいや、とんでもない。こんな真夜中に突然、こちらとしても申し訳ない限りだ
ランプの明かりが照らす居間。ベネットにテーブルの席を勧められながら、ケイは何食わぬ風を装っていたが、実は内心かなり恐縮していた。
(お忍びの身分の高い人間、とでも解釈してくれているみたいだが……)
明らかに、ただの旅人をもてなす態度ではない。それ自体は狙い通りだったのだが、相手も謝礼を期待しているとはいえ、夜中にここまでの歓待を受けるのはどうにも居心地が悪かった。
ミカヅキとサスケは家の前の杭につないであり、相変わらず意識の戻らないアイリーンは、別宅に寝台の空きがあるということで、そこで厄介になっている。
最初は、病人のように顔色の優れないアイリーンを心配して、ケイも傍にずっと付いていようとした。しかしクローネンが 自分が世話役をする と強く主張したこともあって、思い切って彼を信用し村長らの歓待を受けることにしたのだ。
(敵意は感じられなかったしな)
責任を持って世話をする、と言ったクローネンの生真面目な顔を思い出す。ゲーム内では殺気の感知に長けていたケイだが、生来より人の悪意にもかなり敏感な性質(たち)だ。クローネンは、ケイに対してはまだ警戒心を解いていなかったが、少なくとも体調の悪いアイリーンには同情的であった。悪いようにはすまい、というのがケイの判断だ。
また、彼が独り身の男であれば別の心配もあっただろうが、既婚者で幼い娘もいるらしいので、その点もあまり心配はしていない。それでも万が一、『何か』があればケイは大暴れするつもりだが―それも態度で示しているので、向こうも心得ているだろう。
ささ、どうぞどうぞ。我が村の豚を使った燻製肉になります
媚びるような笑みを顔に張り付けた長男坊、ダニーが、肉の塊を載せた皿や木製のゴブレット、干し果物やビスケットなどを、これでもかとテーブルに並べ始める。最初の尊大な態度とは随分な変わりように、ケイは思わず笑いそうになった。ベネットが これはなかなかに美味ですぞ といいながら、ナイフで手ずからに肉を切り分けていく。
そしてこちらは、近隣の村の葡萄を使った酒になります。去年は十年に一度の当たり年でしてな。近年にない良い出来といえましょう。さあ、どうぞ
……ありがたい
その間に、ダニーが葡萄酒を注いだゴブレットを勧めてくる。
流石はタヌキ親父とその息子、といったところか。押しつけがましくなく、それでいて妙な間を作らない、実に見事な連携だった。接待慣れしている、という印象。こんな夜分に突然やってきた者を相手に、ここまで手際良く対応できる辺り、年季というものを感じさせられる。
(……しかし、これは、飲んでも平気なものだろうか)
流されるまま思わず手に取ったゴブレットの中、とぷんと揺れる赤色の液体を眺めて、ケイはひとり逡巡した。本物のアルコールを口にするのは、幼い頃に飲んだ甘酒以来だ。加えて現状だと、不用意に飲み食いすると一服盛られやしないか心配してしまう。
(こ(・)の(・)体(・)なら大丈夫だとは思うが……)
アルコールは、問題ないはずだ。また、薬を盛られたとしても、『身体強化』の紋章を刻んだこの身なら、よほど強力な毒でない限り耐性がある。
あるには、あるのだが。
ケイが香りを楽しむふりをして時間を稼いでいると、何かを察した風のダニーが、自分のゴブレットにも葡萄酒を注ぎ、 それではお先に と口をつけた。
(……大丈夫っぽいな)
自分用のゴブレットにだけあらかじめ毒を―という可能性もあったが、ダニーから緊張や悪意を読み取れなかったので、ケイも踏ん切りをつけた。
そっとゴブレットを傾ける。少しだけ、口に含む。酒精の香りと、滑らかな葡萄の風味が、ふわっと鼻から抜けるようにして広がった。
…………
いかがですかな?
こちらを覗き込むように、ダニーとベネットが首を傾げる。体格こそ似ていない二人であるが、その笑顔を見ると、なるほど親子だと思わされた。
……口当たりがとてもよく、飲みやすい葡萄酒だ
そうですか、それはよかった
ケイの返答に、ほっとしたように―おそらくこれも演技だろうが―顔を見合わせる村長親子。
(危ねえ、むせそうになった)
この葡萄酒、度数はかなり低めだったが、やはり慣れない『酒』であることには変わらず、肺の空気が逆流しそうになった。口の中で転がすうちに何とか慣れてきたので、少しずつなら問題なく飲めるが、ジュースのようにとはいかない。
肉と合わせると、また味わいが違いますぞ
と、肉を程よいサイズにカットしたベネットが、皿をずいと目の前に寄せてくる。
『こちら』に来てから、まだ水とポーションと葡萄酒しか口にしていない。空腹を自覚し始めていたケイは、嬉々として皿の肉をつまんだ。
おお、これは……
凝縮された肉の旨みと、程よい脂が舌の上で踊る。燻製肉独特の濃い木々の香り、塩味そのものはかなりキツめだったが、そこに少しずつ、葡萄酒を流し込むと―ベネットの言葉に嘘偽りはなかった。
口に残った脂を、濃い目の味を、アルコールで洗い流すことの心地よさ! VR技術では再現しきれない、本物の味覚。久しく味わうことの出来なかった食物に、ケイは感動しながら舌鼓を打った。
……なあ、村長
そんなケイの隣、のんびりとした、低い男の声が響いた。
一つ聞きたいんだが。……なんで、おれまで呼ばれてるんだ?
濃い顔立ちの男―マンデルは、眠そうに目を擦りながら、村長に尋ねる。
―
一瞬の空白。笑顔のベネットから、首筋をちりちりと焼くような、微弱な『殺気』がもれ出るのをケイは感知した。
……なに、聞くところによれば、ケイ殿は盗賊に襲われたとのこと。それも、ここからそう離れておらん場所でじゃ。村で一番腕が立つお前に、わしらと一緒に話を聞いておいて欲しかったんじゃよ、念のためにの
……なるほど
その返答に納得したのか、マンデルはぼんやりと眠たげな表情のまま、ケイの前の肉をちらりと見やる。
小腹が空いたな。おれもつまんでいいか? ……ケイ殿
ああ、もちろん。あと『ケイ』でいいぞ
……ありがたい
もぐもぐと二人で燻製肉を堪能する。一人だけで食べるのは気まずかったので、ケイとしては歓迎だ。マンデルも気にする風はない。
うむ。……これは酒が欲しくなるな
そして肉を飲み込んでの第一声がこれだ。ちなみにマンデルには水しか供されていない。頭痛を堪えるように額を押さえるダニー、その横でベネットは相変わらず笑顔のままだったが、口の端が引きつっていた。