それなのに、自分の手取りは、銀貨一枚にも満たない。
……くそッ!
エールをあおる。悲しかった。虚しかった。先ほどケースを渡した男の名前すら、ボリスは知らないのだ。今日はまだ運が良かったが、一歩間違えれば、ボリスも先ほどの女と同じ末路を辿る。トカゲの尻尾、その末端も末端。自分のあまりの小物さに、吐き気すら催した。世の中不公平だと嘆きつつも、脳裏をよぎるのは楽しかった時代。まだ、自分が職人として、活躍できていた時代。
……あの頃は良かった
ぽつりと。呟くと同時に思い描いたのは、モンタンの顔。
なんで、アイツはああなのに、俺は……!
ぎり、とジョッキを握る手に、力がこもる。
お前も一度、味わってみろってんだ……
この、安酒の味を。
場末の、うらぶれた小さな酒場。
腐った男が吐き出した毒は、薄暗い闇の中に、溶けて消えていった。
トリスタンは、作中では名前が出てきませんが例の売人の男です。
アヒトは書籍版2巻のキャラなので、Web版には登場しておりません。
本当にありがとうございました。
(※ちなみにアヒトは草原の民です。作中世界の草原の民たちはこんな感じです)
ちなみに、作中世界での貨幣単位は、
小銅貨10枚=銅貨1枚
銅貨100枚=小銀貨10枚=銀貨1枚
銀貨100枚=小金貨10枚=金貨1枚
となっております。
19. 仕事
ぴょこぴょこと。
金髪のポニーテールを揺らし、ケイたちの前を歩いていた幼い少女が、くるりと笑顔で振り返った。
こちらがサティナのシンボル、『サン=ディルク時計台』でーす
幼い少女―リリーが示した石造りの時計台を見上げ、ケイとアイリーンは おおー と感嘆の声を上げてみせる。
これは42年まえ、いまの領主さまが生まれたときに、先代さまが記念に建てられたものなんだよ。おもりがおちる力で歯車を回す、『じゅーすい式』って方式で動いてるんだ! 領主さまのまほうの時計を見て、毎日めしつかいたちが時間をあわせてるから、とっても正確なの!
へぇ~そうなんだ
リリーは物知りだなぁ
ケイとアイリーンに口々に褒められて、リリーは えっへん と得意げだ。
モンタンの工房を訪ねた、翌日。
ケイたちはリリーに連れられて、サティナの街を歩き回っていた。
もちろん歩き回るといっても、ただ街を観光しているわけではない。リリーの案内で、モンタンと懇意にしている職人たちの所を訪ねて回っているのだ。ケイの背中には既に、先ほど防具屋で購入した、合金張りの薄い木製の盾が背負われている。矢を弾く程度には頑丈だが、それほど重くはなく、アイリーンにも使い易い優れた一品。モンタンの知り合いということで少し値引きして貰えた。
じゃー次は、コナーおじさんのとこに行くよー
コナーおじさんってのは、なんの職人なんだっけ?
かわー!
アイリーンの問いかけに、リリーが元気よく答える。
昨日は結局夜までモンタンの工房に入り浸り、夕食にまで招かれたケイとアイリーンであったが、ケイがモンタンと意気投合している間に、アイリーンはキスカ・リリー親子とすっかり仲良くなっていた。奥の部屋でお茶をご馳走になり、リリーと手毬や歌などで遊んだ後は、ちゃっかり裏庭を借りて一緒に水浴びまで済ませたらしい。その人懐っこさ、要領の良さには、ケイも恐れ入る。
ふんふんふん~ふんふんっとぅっとぅるとぅーかちゅーしゃー♪
アイリーンから教わったらしい、うろ覚えのロシア民謡を口ずさむリリー。モンタン譲りのくすんだ金色の髪は、昨日までは三つ編みのおさげにしていたが、水浴びのあとにアイリーンの真似をしてポニーテールに変えたそうだ。アイリーンの手を引いてトコトコと歩く姿は、顔のつくりこそ少々違うものの、まるで歳の離れた姉妹のようだ。 リリーはホント可愛いな~ と笑顔のアイリーン。
本来ならば、この案内役はモンタン本人がする予定だったのだが、今朝工房を訪ねたところ、貴族関連で急な仕事が入ったらしく、モンタンもキスカも準備にてんてこ舞いになっていた。
そこで、代わりとなったのがリリーだ。昨夜のうちにアイリーンを おねーちゃん と慕うようになっていたリリーは、快く案内役を引き受けてくれた。ついでとばかりに、張り切って街の見どころを紹介する親切心を、ケイとアイリーンは微笑ましげに見守っている。
つづいて、こちらが初代領主さま、『パトリック=ハイメロス=サティナ=バウケット伯』の銅像でーす
おおー
街の広場、仁王立ちで空を指差す良い笑顔の男の銅像を見上げ、ケイとアイリーンは再び感嘆の声を上げてみせた。
サティナの観光は、今しばらく続く―。
それにしてもリリーは、随分と街の歴史に詳しいんだな
名所をあらかた見終わり、職人街の一角を歩きながら、感心した様子でケイは言った。
それはお世辞ではなく、本心からの言葉だ。リリーは、その年齢ゆえに言い回しこそ少々つたないものの、名所の解説には専門的な単語が頻繁に登場し、またその歴史的背景もよく理解しているようだった。両親がイギリス系でバイリンガルのアイリーンは、問題なくリリーの話を理解できているようだったが、後天的な英語話者であるケイには分からない語彙も多く、そのたびに十歳児に解説を頼む羽目になるのは何とも情けない気分だ。
アイリーンの手を引いて歩くリリーは、 ふふん と得意げな笑みで、
マクダネルせんせーの塾で、いっぱい勉強してるの!
マクダネル?
うん。コーンウェル商会で、『めきき』をしてる学者さん。歴史にとってもくわしいんだよ!
小首を傾げるケイに、意気揚々とリリー。コーンウェル商会といえば、昨夜の夕食時にも話題に挙がっていたが、確かモンタンの取引先の中でも最大手の商会のはずだ。
ほう。塾に通わせてもらってるのか
うん。一年くらい前に、パパの知り合いが、せんせーを紹介してくれたの。ママに読み書きは教わってたから、お話をしてみたら、『なかなか見どころがある』って、せんせーが。いまは、歴史と算数をやってるよ! お友達もできたし……
と、そこで、楽しげだったリリーの顔が曇る。
でも、おかねもちの家の子は、ときどきパパのこと馬鹿にするから、あんまりすきじゃないな……
お父さんのこと馬鹿にするのかー。それは悪い子だな!
わしゃわしゃと、アイリーンが元気づけるように、リリーの頭を両手で撫で回した。くすぐったそうに身をよじらせたリリーが、お返しとばかりにアイリーンの脇腹に手を伸ばす。 あひゃひゃやめてッ脇腹は弱ッあはははっ! と悶絶するアイリーンを、ケイは後ろから生温かい目で見守っていた。
……でも、『おおきくなったらお友達にはなれないから、今のうちに仲よくしときなさい』って、ママが言ってたー。だから、仲よくするの
偉いな! それがいい
リリーは、大人だな……
えへへ、わたしおとなー!
そんなことを話しているうちに、職人街の東、目的の革工房に到着した。
コナーおじさーん! お客さんだよー!
木の扉を開けながら、リリーが大きな声で呼びかける。革製品独特の湿った匂い。
薄暗い工房の奥で、革を太い針で縫いつけていた職人が、リリーの姿を認めてにっこりと微笑んだ。
おや、リリーか。今日も元気かー?
うん! おじさんは?
元気いっぱいさ!
革を机に置き、ふんっ、と力こぶを作りながら登場したのは、五十代前半ほどの樽のような体形の男―革職人のコナーだ。革の前掛けを盛り上げて、でっぷりと突き出た腹は絵に描いたようなビール腹、白髪は両側の生え際が大幅に後退しており、それは俗に言う、M字禿げという奴だった。
それで、お客さんかね?
うん、パパがね、コナーおじさんに紹介して、って
ほうほう、なるほどな。いらっしゃい、お二人さん。モンタンの紹介とあっちゃぁ、無下にはできねえな
ニカッ、と野性味のある笑顔で、右手を差し出すコナー。そのゴツゴツとした職人の手を握り返しながら、 よろしく、ケイだ オレはアイリーン と簡単に挨拶を済ませる。
それで、用件は?
うむ、実はこの皮の加工をお願いしたいんだが―
と、ケイが持参していたミカヅキの皮を取り出したところで、ゴーン、ゴーンと時計台の鐘の音が響き渡る。 あっ と声を上げたリリーが、くいくいとアイリーンの服の袖を引っ張った。
おねーちゃん、おにーちゃん、ごめんね。わたし、そろそろおうちに帰る
そうなのか?
うん。午後から、せんせーの塾があるの。ごはんたべて用意しないと
そっかー
至極残念そうなアイリーンが、 おうちまで送ろうか? と提案するも、リリーは首を横に振った。
だいじょーぶ、そんなに遠くないし。ひとりでも帰れるよ!
そっかー。わかった、気をつけてな!
うん! コナーおじさん、おねーちゃんたちをよろしくね。おにーちゃんも、またねー!
リリーはポニーテールを揺らし、ぱたぱたと慌ただしげに走り去って行った。
……本当に大丈夫か?
旧市街ならともかく、ここらは衛兵(ガード)が多い。近所もみんな顔見知りだしな、悪いこたぁできねえよ
それでもまだ心配げなアイリーンに、肩をすくめながらコナー。心配しなさんな、と笑って肩を叩かれ、 そうか と渋々、アイリーンは納得の様子を見せる。
話の腰が折れたな、それで?
ああ、この皮なんだが、思い入れのある品でな……
その後、しばらくコナーと話し合った結果、ミカヅキの皮は非常に質が良いとのことで、ケイとアイリーンにそれぞれ一つずつの革財布を作ることとなった。
それで、どのくらいで出来る?
そうさな、……まあ余裕を見て四日ほど貰おうか
ケイから受け取った銅貨と小銀貨を、手の中で転がしながらコナーが答える。
四日か……思ったより長い。処理が不味かったか?
いや、処理は上等だが、なめしがまだ不十分だな。このままだと長持ちしねえぞ。せっかく質が良いんだし、大事な物なら時間をかけるべきじゃねえか? まあ、どうしてもというなら早目に仕上げるが
どうする? と問いかけるコナー。ケイがアイリーンを見やると、
……せっかくだし、時間かけてやって貰った方がいいんじゃねえの?
そうだな、俺もそう思う。……お願いしよう
任せな
それなら早速、と作業に戻ろうとするコナーを、ケイは ちょっと待ってくれ と呼び止める。
すまない、それともう一つ。実は今、手元に草原の民の武具一式が八人分あるんだが、買い取り先に心当たりはないだろうか?
八人分……ねえ。どうやって手に入れた?
……サティナに来る途中で襲われたから、返り討ちにして剥ぎ取った
正直なケイの回答に、コナーは眉を寄せて困った顔をした。
死人の、それも草原の民の武具か……。悪いが、好き好んで買う奴がいるとは思えねえな
……やっぱりダメか
ケイの表情も渋くなる。というのも、先ほど立ち寄った防具屋でも、買い取りを断られていたからだ。
昨夜の夕食後に、モンタンへ話を持ちかけた際も、その反応がイマイチだったので薄々感づいてはいたが。
需要がない。
人気がない。
草原の民の武具が、全くウケないのだ。
そもそも連中の武具は、質自体はそれほど良くねえからなぁ。湾刀は切れ味こそ良いが、刃が硬いせいで折れやすい。革鎧も、装飾は素晴らしいが、柔らかめに仕立ててあるせいで肝心の防御力が低い。
強いて言うなら、複合弓だな。あれは馬上でも扱い易いから、傭兵の中には、好んで使う奴もいるらしい。だがそういう物好きな連中は、大抵もう自前のを揃えてるからな……
鎧も武器も、売り捌くには厳しいか
だなぁ。特にこのところは、武具全般が値下がり気味でな。そこそこの物が新品で安く買えるってぇのに、わざわざ中古を使おうって奴は―
―いないだろう、な
半ば諦めの表情で、ケイはぼりぼりと頭をかきながら溜息をついた。
確かに剥ぎ取りのとき、質が微妙だとは思ったんだよな……自分が欲しくない物を、他人が欲しがる道理はない、か
違いねえ。辺境の村ならともかく、この街だとちょいと厳しいな。見習い職人の練習作やら、製作過程で傷が付いた失敗作やらがゴロゴロしてる。質が悪い中古品なんざ、売り物にならんよ
小さく溜息をついたコナーは、そこでふと遠い目をする。
実際のところ、厳しいんだよなぁこの界隈は。“戦役”のときは、特需で掃いて捨てるほどいた職人も、今じゃ随分と減っちまった。腕が二流で脱落した奴、見切りをつけて農民に戻った奴、安売り合戦で自滅して大借金こさえた奴―色々いるな
お手上げのポーズを取り、脇に吊り下げられていた革のマントをぽんぽんと叩いた。
かくいう俺も、近頃は日用品ばかりで、革鎧なんざ長らく仕立ててねえ。せいぜい傭兵の常連客が、たまに修繕や手入れのために、自前の鎧を持ち込むくらいのもんよ。適当に武器防具を作ってりゃ、気楽に食っていけたのは、もう遠い昔の話さ
今は、不景気なのか
不景気というより、平和なんだよ。単純に、武具を買う必要がねえ。戦役が終わってからしばらくは、ボロ装備の更新のためにまだ売れていたんだが、今は、なぁ……。
使わないから壊れない、壊れないから替えが要らない、替えが要らないから新しい物は買わない……ま、当然の流れだわな
成る程
でも、全く売れないってわけでもないんだろ?
工房の隅、マネキンに着せられた小奇麗な革鎧一式を指差して、アイリーンが横から口を挟む。
んー、そうだなぁ嬢ちゃん。売れるには売れるが、それだけで食っていくには辛い、ってとこか。俺は独り身だからまだ何とかなるが、最近はどこも副業で何かしら別の物を作ってるよ。俺しかり、モンタンしかり……まあモンタンは本業でもかなり儲けてるから別格だが
やはり彼は、かなり上手くやってる方なんだな
ああ、そりゃあもう! 戦役が終わったあとに、本業で売り上げを伸ばしたのは多分アイツだけだろうさ
おどけたような笑みで肩をすくめたコナーが、前掛けのポケットから取り出したパイプを口にくわえる。
……っふー。元々、単価の低い矢は、安くしようにも限界があるからな。周りの職人が借金こさえてまで、安かろう悪かろうの値下げ合戦をする中で、アイツだけが質を高めて高級路線に切り替えたのさ。お蔭で貴族やら大商人やら、金払いの良い固定客を捕まえられたってわけだ。
モンタンが成功したと聞いて、後追いで値段を上げる奴らもいたが、質が伴わないことには意味がねえ。腕のいいほんの数人は生き残ったが、他はすぐに消えていった。周りの流れに逆らう胆力、需要を見抜く先見の明、上客を満足させるだけの腕前……全く、アイツは大した奴だと思うよ
ランプの火をパイプに移し、ぷかぷかと煙を吐き出しながら、コナーは腰をさすって椅子に座り込んだ。
あーいてて……この歳になるとガタがきていけねえ
ああ、すまないな。長話に付き合わせてしまって
ははっ、俺が勝手に喋ってただけさ、気にすんな
申し訳なさそうな顔のケイに、手をひらひらとさせるコナー。
まあ話が逸れたが、悪いな、そういうわけで俺には武具の買い取りはできねえや
そうか……残念だが、詳しい話を聞けて良かったよ。それじゃあそろそろ―
あ、いや、ちょっと待て。俺のところでは無理だが、捨て値になってもいいなら、処分出来る場所は知ってるぞ
炭の欠片を手に取り、コナーが紙切れに何かを書きつける。
ほら、これが住所だ。旧市街の北、ブノワ通りの5番、ちょうどスラムとの出入り口あたりだな。
ここに廃品回収屋がある。殆ど金にはならねえが、捨てるよりはマシだと思うぞ。ちょいとばかしガラの悪い場所だが、まあ兄ちゃんなら大丈夫だろ。一応武装はしておいた方がいい、ここらほど衛兵が多くねえからな
ブノワ通り……旧市街の北、だな? あとで行ってみよう、ありがとう
なぁに、いいってことよ。それくらいしか出来なくてすまんな
コナーから紙切れを受け取って、 それではまた、四日後に と、ケイたちは工房を後にした。
†††
夕焼けに染まる街。
城壁に日光を遮られ、薄暗くなった表通りを、幼い少女は早足で進む。
(今日はちょっと遅くなっちゃった……)
塾帰り。アイリーンを真似たポニーテールをぴょこぴょこと揺らし、道をうろつく酔っ払いや傭兵の姿に不安げな顔をしながら、リリーは家路を急いでいた。
ただいまー
裏口の扉を開けて居間に入る。するとそこには、明かりもつけずに、ぐったりとテーブルに突っ伏す両親の姿があった。
おかえり、リリー……
今日は遅かったのね……
薄暗い家の中、生気のない二人の声が響く。
今日は歴史だったから、マクダネルせんせーの『わるいくせ』が出たの
ああ、だから遅くなったのか。あの人の歴史好きは大概だからね……
アナタは人のこと言えないでしょ
パパとママは、どうだったの?
リリーの問いかけに、モンタンとキスカは疲れ切った笑みを浮かべた。
大変だった……まったく、在庫が20本しかないのに、30本も装飾矢を納入なんて無茶な話だよ。装飾をたった一日で10本も仕上げたのは、生まれて初めてだな……
何とか間に合ってホントに良かったわ。ビューロー家は大得意様だし……
でも次からは、せめて二日は余裕見てもらいたいよね。心臓に悪い……
パパもママもおつかれさま!
死人のように脱力しきった二人に、リリーは努めて明るい声をかける。
あー。ほんとに疲れたわー、こんなに働いたのいつぶりかしら……。あら、もうすっかり暗くなっちゃったのね。リリーごめんね、今からママご飯の用意するから。もうちょっと待っててね
いやキスカ、しなくていいよ。今日は久々に、みんなで外に食べに行こう
ぱんぱん、と服に付いた木屑をはたき落としながら、表情を明るくしたモンタンが椅子から立ち上がった。
せっかくだから豪勢に、『ミランダ』なんてどうだい?
えっ、パパほんと!?
アナタ、いいの!?
モンタンの提案に、驚いたリリーとキスカの言葉が重なる。
レストラン『ミランダ』といえば、サティナの街では五本指に入る最高級の店だ。庶民が出入りできる店、と限定すれば、街で一番のレストランと言ってもいい。シェフの腕前は掛け値なしの一級、その味は貴族の舌をも唸らせ、現にサティナの領主の係累も、お忍びで度々訪れていると専らの噂だ。
そして当然のように、『ミランダ』の料理は、庶民からすれば目玉が飛び出るほどに高い。
しかしモンタンは、妻と娘を安心させるように、
ああ、構わないさ。今日の仕事でかなり稼げたし、昨日ケイさんが矢の試作品をあらかた買い取ってくれたからね。懐にはかなり余裕があるんだ
火打石でランプに火を灯しながら、ほくほく笑顔のモンタン。
……そうね、たまには贅沢もいいかもしれないわ
わーい、やったー! パパありがとー!!
はっはっは、いやぁケイさんの腰のケースを見て、弓使いだとはすぐに分かったけど、あそこまで金払いが良い人だとは思わなかったなぁ。ホント、中まで入って貰って正解だったよ
ランプの仄かな明かりの中、モンタンは悪戯っ子のようにぺろりと舌を出して見せる。妻に故郷の話を聞かせてやってほしい、という建前でケイを工房に招いたものの、結局のところ、タアフ村の話など全くしていないのだ。
さあ、そうと決まればおめかししないとね! 流石にこんな格好でミランダには行けないよ
わたしも着替えてくるわ。もちろん、リリーもオシャレしないとね!
やったー、オシャレするー!
キャッキャと嬉しそうなリリーの姿に、先ほどの疲れも吹き飛んだ様子で、モンタンとキスカの足取りも軽い。
濡らした布で身体を拭き清め、髪型を整えるなどして身繕いし、モンタンは重要な取引で大商人相手に着る一張羅を、キスカは庶民でも分不相応にならない程度のシンプルなドレスで着飾る。リリーは可愛らしいエプロンドレスを着せてもらい、髪には赤いリボンをつけて大はしゃぎしていた。
それじゃあ二人とも、忘れ物はないね
ないわよ
だいじょうぶー!
ランプを片手に、懐へ銀貨の入った巾着を仕舞い、護身用の小刀を持ったモンタンが、厳重に家の扉に鍵をかける。
隣家の住人に出掛ける旨を伝え、留守の家に注意を払ってもらうよう頼み、モンタンたちは意気揚々と夕焼けに染まる道を歩き出した。
職人街から南、高級市街へと向かう。
さぁて、何を食べようかな
今日のメニューは何かしらね
わたし、ビーフシチューが食べたーい!
親子三人、リリーを真ん中にして手を繋ぎ、仲良く大通りを歩いていく。
先ほどまで寂しげに感じられた夕暮れの街が、一転、どこか優しげに微笑んでいるかのようだ。
滅多にない豪勢な食事に期待を膨らませ、弾むような足取りのリリー。
調子を合わせて自らもはしゃぎつつ、その姿を愛おしげに見守るキスカ。
そして、そんな愛する妻と娘に、慈しむような笑みを向けるモンタン。
―おだやかで、あたたかな家族の団らんが、そこにはあった。
その姿はきらきらと眩しく、微笑ましく。
日の暮れた、薄明かりの中にあってさえ。
まるで、本当に、輝いているかのようで。
それを。
大通りの、はるか彼方より。
呆然と。
あるいは、悄然と。
薄闇の中に身を置いて、じっとりと見つめる男の姿があった。
―ボリスだ。
…………
今しがた、寿命を削る思いで検問を突破したばかりの、懐に金属製のケースを潜めたボリスは、食い入るようにモンタンたちの後ろ姿を見つめていた。
ぎりぎりと。
軋み、響いたのは、何の音。
……くっ、
込み上げる言葉を呑み込んで。
ボリスはくるりと踵を返し、薄汚れた路地を走る。
ひた走る。
辿り着いたのは、裏町の寂れた小さな酒場。
……エール
いつものように、カウンターの席にどっかと腰を下ろし、ぶっきらぼうに注文した。
ごん、と目の前にジョッキが置かれるや否や、乱暴にそれをつかみ取って、ごくごくと不味いエールを飲み下した。
腹の奥底で。
ぐるぐると回る、煮え滾るように熱い。
燃えるような、どろどろとした何か。
―よう、兄弟。良い呑みっぷりだな
と、二杯目のエールを頼もうとしたところで、隣の席に痩せた男が腰を下ろす。
……あんたか
いつもの男だった。陰気な顔をしたボリスは、いつものように、カウンターの下で金属のケースを手渡す。
ハハッどうした、随分とシケた面じゃねえか
そう笑いつつ、男がすっとボリスの前に革袋を置いた。馴れ馴れしい様子の男を半ば無視するように、ボリスは黙って袋の中身を確認する。
いつもより軽い。中を見ると、鈍い銅と、僅かに銀の輝き。
!
だがよくよく確認すれば、それは銀貨ではなく、ただの小銀貨であった。
…………
やはり合計すると、銀貨一枚には、ギリギリ満たない。
そんな量。
どうした、それだけじゃ不満って顔だな?
耳元で、意地の悪い声。はっとして横を見やれば、痩せた男がニヤニヤと陰険な笑みを浮かべていた。
そっ、そんなことは、
誤魔化すようにエールのジョッキを手に取り、しかしすぐにそれが空であることに気付く。
……そんなことは、ねえよ……
俯いて、小さく呟いたボリスであったが、そのジョッキを握る手が、力のこもる余り白くなっているのを、隣の男は見逃さなかった。
ふっ、と薄い笑みを浮かべた男は、指先でとんとん、とカウンターを叩く。
ちゃりん、と銅貨が数枚、ボリスの前に置かれた。
―付いてきな、ボリス
そう、短く言って。男が席を立ち、酒場を出て行く。
呆気にとられた顔で、その背中を見送ったボリスは、固まったまま。
しかしすぐに、目の前の銅貨が酒代であることを察し。
そして、この『仕事』に携わって以来、初めて男から『名前』を呼ばれたことに気付き、ガタガタと慌ただしく席を立った。
遅いぜ、まさか俺が待たされるとは思ってなかった
酒場の外、壁に寄りかかるようにして、皮肉な笑みを浮かべる男。
す、すまねえ、ちょっとびっくりしちまって、う、動けなかったんだ。すまねえ、ほんとにすまねえ
……ふっ。まあいいさ
しどろもどろに謝るボリスに、鼻で笑った男は、 付いてきな と再び歩き出す。ボリスは黙って、その背中についていった。
…………
沈黙。ただ、カツカツと、靴の踵が石畳を打つ音だけが響く。
―本来、あの酒場は。
サティナの街の暗部、ならず者たちが集まって、互いで互いの声を打ち消し合い、聞かれると少々都合の悪い話をするために設けられた場所だ。
それを。
こうやって、さらに外へ連れ出されるということは。
…………
ボリスは、自分の胸の内に、恐れとも期待とも知れぬ、不思議な高揚感が広がっていくのを感じた。
……俺もさ、
歩きながら、前の男が唐突に口を開く。
昔は、『運び』をやってたんだ。今のお前みたいにな
そこで足を止め、街の片隅、暗い路地の一角で壁にもたれかかる。
だから、大体お前がどんなことを考えてんのかは、分かる。『銀貨一枚は安すぎないか?』『俺の命の値段はそんなものなのか?』……と、まあ、こんなところだろ
……っ
楽しむような、それでいて、どこか試すような口調に、ボリスは言葉を詰まらせた。
そしてその沈黙は―どこまでも雄弁な肯定。
……そう硬くなるなよ。別に責めてるわけじゃねえんだ
にやにやと。男が顔に張り付けた笑みは、相変わらず意地が悪い。しかしすぐにその笑みを引っ込めて、男は鋭い表情で言い放った。
はっきり言うが、ボリス。お前の命の値段は銀貨一枚以下だ
そのあんまりにもあんまりな言い様に、ボリスは言葉を失う。しかしそこで、 ただし、 と男は言葉を付け加えた。
―それには、『今のお前の』、という条件が付く
懐から金属製のケースを取り出し、ひらひらとそれを見せつけるように、振る。
これはな。お前がどう思ってるかは知らないが、マジで頭の中から理性を吹っ飛ばすような、ヤバい代物なんだ。そんじょそこらの組織がチマチマと運んでる、チンケな『粉』とは格が違う。―なんつったって、たったこれだけの量で、金貨一枚に届こうかって値が付くんだからよ
金……ッ!?
がこん、とボリスの顎が落ちた。全く、想像の埒外の高値。庶民ならば十年は食っていける額。金貨一枚、金貨いちまい、きんかいちまい、その言葉が脳髄に沁み渡り、自分がそれを運んでいたという事実に、今更のように背筋が震えた。
だが、お前の手取りは、銀貨一枚以下だ。なんでだか分かるか?
……わ、わからねえ
真っ直ぐに瞳を覗きこまれ、ボリスは熱に侵されたかのようにただ首を振った。
教えてやるよ。それはな、必ずしもお前である必要がなかったからだ。これを運ぶのがな
その言葉を、口の中で反芻する。反芻する間にも、男は言葉を続ける。
ボリス、お前は確かに、命を賭けてる。だがな、その『命を賭ける役』は、必ずしもお前である必要はないんだよ。命を賭ける、そいつぁ大したことだ。しかし覚悟さえあればガキでも出来るような仕事だ、違うか?
それよりももっと重要な仕事がある。例えば、衛兵を買収するのは誰だ? 運ばれたブツを安全に売り捌くのは誰だ? さらに言うなら、そもそも『これ』を生産してるのは? それをサティナまで運ぶのは? 全体の行程を管理するのは? そもそもの資金を提供するのは? ……考え出したらきりがねえ。もしこれらを全部一人でこなせたら、ボリスよ、お前は金貨を独り占めできるぜ
……む、むりだ。そんな……そんなことを、独りでだなんて……
そう、無理だ。だから分担してやるしかない。そしてお前は、その末端、一番どーでもいい仕事をやってたんだよ
そんな……
男の容赦ない言葉に、怒りとも、哀しみとも、虚しさとも知れぬ感情が、込み上げて、胸の中で、ごちゃごちゃになっていく。
途方に暮れたように俯くボリス、それをよそにケースを懐にしまった男は、代わりに平たい金属製の酒瓶―スキットルを取り出し、蓋のコルクを抜いた。
きゅぽんっ、と小気味の良い音。酒瓶の中身を一口、口に含んだ男が、 お前もどうだ? と差し出してくる。
渡されるままに、ボリスも瓶を傾けた。そして中の液体が舌に触れた瞬間、思わず目を見開く。
……美味い
ぽつりと。呟く言葉と共に、芳醇で、鼻の奥にすっと抜ける、甘いアルコールの香り。
久しく口にしていなかった、上等な酒の味。
ボリス。お前は今まで、糞つまらないどーでもいい仕事をやってきた
酒瓶を取り戻し、蓋を閉めた男が、
だが、それも今日で終わりだ
真っ直ぐに、ボリスを見つめる。
―組織は、この街から手を引くことを決定した
えっ!?
男の言葉に、ボリスはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
そっ、それは、ほっ本当に―
しっ、でかい声出すんじゃねえ馬鹿
顔をしかめる男に、慌てて口を押さえるボリス。
……いいか、よく聞け。正直、最近のサティナの警備は厳しすぎるんだ。買収やら何やらでどうにかやり繰りしてるがよ、はっきり言って割に合わねえんだわ、この街
……それは、たしかに、わかるが
―なら、自分はどうなるのだ。
まだ、借金の返済は終わっていない。自分の分け前に多少の不満はあったが、それでもこの仕事がなくなれば困る。
まるで足元の地面ががらがらと崩れ去っていくような、そんな感覚。
というわけでだ、ボリス。お前、うちに来い
しかし、続けざまに投げかけられた言葉に、ボリスの思考は完全に停止した。
……へ? 来いって、それはつまり……街を出ろと? なんで?
理解が追いついた瞬間、頭をよぎったのは、喜びではなくむしろ当惑。なぜ自分が? という、信じきれない、信用しきれない、そんな疑念を伴った黒い感情。
お前に見込みがある……というと、はっきり言ってかなり語弊がある。正直そこまで甘い話でもないんだが、
そう前置きして、男は肩をすくめた。
ボリスお前、気付いてねえのか。今回で10回目なんだよ、お前が仕事をこなすのは
……言われてみれば
今まで散々やらせといて何だが、この仕事は生存率が低い。実はお前以外にも運び人はいたんだが、何人かは捕まってな、
さっ、と親指で首を掻き切る動作。ボリスの顔から血の気が引いた。
まあそういうわけで、運にせよ実力にせよ、お前は栄えある10回目を生き延びたという実績があるわけだ。―これが理由の一つ。次に、そこに至るまで、仕事の秘密を保ち続けた―という信用が一つ。そして最後、これが一番重要なんだが、
にやり、と男は意地の悪い笑みを浮かべ、
『ウチ』のことを知ってる奴を、このまま生(・)か(・)し(・)て(・)放置なんざ出来ないんだわ
その言葉の意味を理解したとき―ボリスの顔は紙のように白くなった。
……提案、というより、命令か
拒否権はあるぜ? 酷く高くつくけどな、割に合わねえ話さ
しかし……俺には、借金が……
踏み倒しちまえ、そんなもん。今更なんでそんな真面目なんだよ
ボリスは黙って、頭の中で考えを巡らせる。
そもそも、ボリスがこの街を離れられなかったのは、持ち家があるという事実と、イマイチな矢作りの腕しかなかったのが原因だ。
借金を踏み倒して逃げようにも、中途半端な職人の腕前では、人脈のない見知らぬ街では生きていくことはできない。
……次の街でも、俺は運び人なのか
いいや。もうちっとまともな働き方をしてもらう。……具体的には、まあ俺の仕事の見習い、手伝い、雑用、そんなとこだな
簡単だろ、と笑う男。意地の悪い、しかし厭らしさはない笑み。
……ほ、本当か
10回も、薄氷を踏む思いで命を賭け続けてきたボリスからすれば、それは、
……信じられねえ、やりたい、俺はやりたいッ
まるで、天国のような話だった。
よし。……とはいえ、まだすぐの話じゃねえ。早くても一週間後くらいだ、それまでに諸々、身の回りの整理はしておきな
お、おう!
興奮に身体を震わせるボリスに、しかし、男は ああそうだ、 と思い出したかのように、
……忘れてたわ。もう一つだけ、簡単な仕事がある
…………
動きを止めて、胡散臭げな表情をするボリス。
いや、そんな顔するなって。『運び』に比べりゃカスみたいな仕事さ
……というと?
実はな。さるお方に納品する予定だった奴隷のガキがよ、この間死んじまったのよ
……奴隷?
薬関連ではなく、唐突に飛び出た『奴隷』という単語に、首を傾げるボリス。
ウチでは奴隷も扱ってんのさ。……もちろん、非合法のやつな。んでまあ、これが結構急な話でよ、納品するのに代わりの奴隷が必要なんだが、
んふぅ、と鼻で溜息をついた男は、そこで表情を曇らせる。この男の、貼り付けたような笑顔以外の表情は初めて見たな、とボリスはそんなとりとめのないことを考えた。
その『さるお方』ってのが、……早い話が、変態でよ。器量良しのメスガキじゃねえと、満足できねえタチなんだわ。器量良しの『女』なら幾らでもいるんだが、ガキは今手元になくてな……というわけで、今度スラムへ人狩りに行こうって話なんだが、お前も来るだろ?
まるで、ピクニックにでも誘うような、気軽な口調。
それは確かに―非合法ではあるが―麻薬の密輸に比べれば、『カスみたいな仕事』であった。
が、しかしその話を、ボリスは途中から、殆ど聞いていなかった。
頭の中に浮かんだのは、それは―
光り輝くような、幸せそうな、とある家族の―
…………
沈黙したままのボリスに、男はにやりと、意地の悪い笑みを、
どうしたボリス、そんな悪い顔して
……その、メスガキってぇのは、
昏い目は、どす黒く汚れ、濁っている。
メスガキってぇのは、スラムで探さなきゃならねえのか?
……薄汚れた物乞いのガキの顔を、イチイチ確認すんのは手間だからな。別にスラムには拘らねえぞ?
その返答に―笑みを一層濃くしたボリスは、 へ、へへ と、引きつったような声を上げた。
―心当たりがある
夜は、更けていく。
20. 誘拐
昼下がり。サティナの街の大通りは、多くの人々で賑わっていた。
馬の手綱を引いて、宿場を探す傭兵。
革の荷物袋を抱えた、身なりの良い商人。
浮浪者と思しき、汚い格好の子供。
黒い貫頭衣に身を包んだ、公益奴隷。
そんな雑踏をすり抜けるようにして、リリーはひとり、軽やかな足取りで塾へ向かう。
ケイたちの案内を務めた、その翌日のこと。
相変わらずアイリーンの真似で、髪型は今日もポニーテールだ。リリーが一歩を踏み出すたびに、頭の後ろで青いリボンが揺れる。
―おーい、リリー。元気かー?
と、その時。背後から聴こえてきたのは、野太い男の声。
思わず足を止めて振り返れば、そこにはぎこちなく笑みを浮かべるボリスがいた。
……おじちゃん
ぱちぱちとゆっくり目を瞬かせて、表情を曇らせるリリー。その声に滲む、微かな警戒と困惑の色。
“ボリスとは、あまりお話しちゃいけないよ”
悲しげなモンタンの顔と、その忠告が頭をよぎる。
よお。……こうやって直接会うのは、随分と久しぶりだな
はにかんだように頬をぽりぽりとかきながら、明後日の方向を見やるボリス。
その言葉通り、こうしてリリーとボリスが顔を合わせるのは、随分と久しぶりのことだった。リリーの記憶が正しければ、最後に口を利いたのはもう一年も前のことになるだろうか。ボリス本人は何度も家へ金を借りに来ているのだが、ここ最近リリーは昼間は塾に通っている。昔に比べるとお互いに、とんと会う機会が無くなってしまったのだ。
……どうしたの。おじちゃん
父親の忠告はあったが、さりとて目の前にいる人を無視するわけにもいかず、ボリスに向き直ったリリーは、上目遣いでスカートの裾をぎゅっと握った。
正直なところ。
リリーは今でも、ボリスのことを嫌ってはいない。
どうしても嫌いになれない、というべきだろうか。勿論リリーも、近頃のボリスは金の無心に来るばかりで、父親を困らせていることは知っている。
それでもリリーの心の奥底には。
ありし日の、『優しいボリスのおじちゃん』のイメージが、いまだに強く焼き付いて離れないのだ。
幼い頃、モンタンやキスカが共に仕事に忙殺され、リリーの面倒を見る余裕がなかったとき。
二人に代わって世話を焼いてくれたのが、他でもないボリスであった。
今よりも明るく、まだ真面目だった頃のボリス。幼いリリーの我がままに付きあって、よくお馬さんごっこやおままごとで遊んでくれた。近所のいじめっ子に泣かされたときは、自分のことのように怒ってくれたこともあった。ボリスの肩車に乗せられて、散歩した川沿いの遊歩道。夕日に照らされた道で、モンタンたちには内緒で買ってくれた蜂蜜飴の味。
そんな―セピア色に彩られた記憶。
身なりは汚く髪はぼさぼさで、目つきもすっかり悪くなってしまったボリスに、当時の面影はない。だが、だからこそリリーの幼心にも、 おじちゃんも大変なんだろうな という、おぼろげな同情心のようなものがあった。
いや、な。実はな
声をひそめたボリスは周囲の視線を気にするように、リリーの目線までしゃがみ込んで、懐から小さな革袋を取り出して見せる。
ちゃら、と。
金属の擦れ合う音。
実はな―モンタンにそろそろ、お金を返しに行こうと思うんだ
えっ、ホントっ!?
ボリスの言葉に、リリーの表情がぱっと明るくなった。
ああ。実は最近、ようやく仕事が上手く行きそうなんだよ
わあ、すごいすごい! 良かったね、おじちゃん!
ありがとうよ。今までは、モンタンに世話になりっ放しだったからな……そろそろ、恩を返さないと
革袋を懐に仕舞いつつ―ニィッ、と笑う。
きっと、パパも喜ぶよ! ……おじちゃんは、何のおしごとをしてるの?
ははっ……、それはヒミツさ
ぱちりとウィンクをしたボリスは、 ところで、 とリリーを見下ろした。
リリーはこれから何処に行くんだい?
わたしは、今から塾にいくの!
塾か。リリーはお勉強頑張ってるんだな。……しかしその塾ってぇのは、どこでやってるんだい?
高級市街の、コーンウェルさんのお屋敷だよ!
なるほどねえ。それで、夕方くらいまでお勉強なんだろう?
うん! だいたい、夕方の四時くらいにはおわるけど
へえ! そいつぁ凄い、俺だったらそんなに長い間、机に座ってじっとしてられねえや。……いつも塾には、一人で行ってるのかい?
うん。最初の頃は、パパかママが送ってくれてたけど、わたしはもうおとなだから、一人で大丈夫なの!
ははっ、偉いなぁ。リリーもすっかり大きくなったんだな!
えっへんと胸を張るリリーに、すっと目を細めるボリス。
よし、それじゃ頑張っているリリーに、
ごそごそとズボンのポケットを探り、 ほら、 とボリスが右手を差し出した。
ご褒美を上げよう。飴ちゃんだよ
わあー、おじちゃんありがとう!
小さな飴玉の包み紙を受け取り、飛び跳ねて喜ぶリリー。
さぁて、というわけで、俺はそろそろ行くよ。リリーもお勉強頑張ってな
うん! おじちゃんも、おしごと頑張ってね!
ああ―
背を向けて歩き出していたボリスは、にっこりと振り返った。
―頑張るよ。それじゃあ、またな
またねー!!
雑踏に消えるボリスの背中を見送って、リリーも意気揚々と塾へ向かう。
歩きながら、飴玉の包み紙を開けた。琥珀色の、丸い飴玉。さっそく口の中に放り込むと、蜂蜜の芳醇な香りとまろやかな甘みが、いっぱいに広がった。
……ふふっ
飴を舌の上で転がしながら、リリーは楽しそうに微笑む。元々軽やかだった足取りが、今ではまるでスキップのようだ。
嬉しかった。
ボリスがまた、昔のように戻ったことが。
(これでパパも、おじちゃんのこと見直すかな)
まるで自分のことのように、誇らしくて。
リリーは信じていた。
再び、ボリスとモンタンが仲良く出来る日が来る、と。
全てが幸せな方向へ向かっていると―
その時リリーは、信じていたのだ。
†††
高い! 銀貨30枚はぼったくりだろ!?
いーや、これ以上びた一文負からねえ!!
サティナ北東部の川沿い、街の外の船着き場にて、ケイは船頭と言い争っていた。
下流の町”ユーリア”までだぞ! ウルヴァーンまでなら兎も角、川の流れに乗っていくだけなのに何でこんなに高いんだ!
バッキャロー! 馬四頭も乗っけたら、どんだけ場所取ると思ってんだ!! こちとら乗せる品物は山ほどあんだよ、貰うもんは貰わねーと採算が合わねえ!!
だからって銀30は吹っ掛けすぎだろ! なんだ、アンタらは金銀財宝でも運ぶつもりなのか!?
そんな割の良いもん運びたくても運べねーよ!! 普通に資材やら家具やら積んでりゃ、銀30くらいすぐにならぁ!!
口角泡を飛ばす勢いで、額を突き合わせ騒ぎ立てる二人。ケイに胡乱な視線を向けつつ船に資材を積み込みこんでいく船乗りたち、 あーあー という顔でオロオロと見守るアイリーン。
あーわかった! もう結構だ! 悪いが他を当たらせてもらうッ!
こちとらテメェみたいなのは願い下げだ! とっとと行った行ったァッ!
しばらくして、交渉決裂というよりもケンカ別れに終わったケイは、シッシッと手を振る船頭に背を向けて、のしのしと歩き出す。
クソッ不愉快だッ、どいつもこいつも吹っ掛けてきやがる!
足元見てるよなぁ、これで三人目か……
肩を怒らせるケイの横、アイリーンが小さく溜息をついた。
ことの発端は、『ウルヴァーンには船でも行ける』という情報だった。
昨日、旧市街で武具を叩き売ったあと、ケイたちはウルヴァーンへ向かう隊商に合流すべく、護衛の仕事を探すことにした。
タアフからの道中で草原の民の襲撃を受けたことで、このまま二人旅を続けるのは危険だと判断したためだ。隊商やその護衛の戦士たちと共に移動すれば、襲撃される可能性をぐっと減らすことができる。
しかし。
結論から言えば、ケイたちは護衛の仕事はおろか、被護衛対象として金を払ってすら、隊商に加えてもらうことができなかった。
何故か。
それはひとえに、ケイたちの『信用の無さ』が原因だ。
基本的に冒険者ギルドや魔術的な何かによる、気軽な身分証明の存在しないこの世界では、業種に関わらず仕事とは人に頼んで紹介してもらうものだ。ゲーム内では、簡単な頼みごとをしてくるNPCの仕事を何度かこなし、その信用度を上げていくことで、護衛などの難易度の高い仕事が解放される仕組みとなっていた。
そしてこちらの世界に転移してから四日、当たり前だが異邦人(エトランジェ)であるケイたちに後ろ盾は存在しない。サティナに限れば、矢職人のモンタンは『顔見知り』ではあるが、あくまで顧客と店主の間柄に過ぎず、彼がケイの人となりを保証することはないだろう。
よって、素性も明らかではなく、保証人もおらず、ケイは草原の民のような顔つきで、アイリーンに至っては粗暴な性質で知られる『雪原の民』訛りの英語を話すとなれば、仲間に加えたくないと思われても仕方のないことだった。なまじ、ケイがぱっと見で屈強な戦士と判るだけにタチが悪い。仮にケイがならず者だった場合、獅子身中の虫どころの騒ぎではなくなるからだ。
それでも豪商の一人は、ウルヴァーンまでの道中、アイリーンを『貸す』ことを条件にケイたちを受け入れることを提案したが、当然のようにその話は蹴った。そして結局、合流する隊商が見つからずに、途方に暮れていたところで聞きつけたのが、『陸路ではなく水路でもウルヴァーンには行ける』という情報だった。
サティナは”モルラ川”に面した都市であり、そのため下流―北への河川舟運が盛んに行われている。それに便乗して川を下れば、陸路よりも遥かに速く、そして安全に移動できるのだ。
しかしスピーディに川を『下れる』のは、ウルヴァーンとサティナの中間に位置する”シュナペイア湖”までの話。そこから北上するには、今度はウルヴァーンの側から流れてくる”アリア川”を遡上していかなければならない。
ウルヴァーンもまた、サティナと同様、高地に位置する都市なのだ。
基本的に風力と人力で川の流れに逆らうことになるので、川を遡上するのはお世辞にも速いとは言えない。よって、シュナペイア湖の町ユーリアからは、陸路に切り替えなければならないが―それでも陸路を半分に短縮できるならば、それに越したことはないとケイは考えていた。
考えていたのだが。
そこで立ちふさがったのが、まさかの『運賃』の問題であった。
こちらが大所帯とはいえ、銀貨30枚は舐めてるよなぁ
……全くだ
頭の後ろで手を組んで、ぼやくようにアイリーンが言う。その隣を歩くケイの言葉には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
先ほどから、船着き場の船主たちに何度も交渉しているのだが、ケイたちはことごとく運賃を吹っ掛けられている。銀貨30枚などというのはまだ生温い方で、銀貨50枚、果ては金貨に近い額を要求してくる者まで、様々だ。
銀貨30枚前後が相場―ということは流石にあるまい、とケイは考える。今のケイたちにならば払えない額ではないが、そもそも銀貨30枚といえば、庶民の成人男子の三年分の食費に等しい。先ほどの船頭は、普通に荷を運べばそれくらいにはなると豪語していたが、家具やら資材やらを運ぶだけでそんなに稼げるはずがない。
業突く張りなのか、よそ者には意地悪なのか、あるいは単純に面倒で船に乗せたくないだけなのか―いずれにせよ、世知辛い話だ。
その後も手当たり次第に船頭へ声をかけて回ったが、結局銀貨30枚を下回る額は提示されることなく、ケイたちは徒労感に苛まれながら宿屋に戻ることとなった。
ああ……なんだか、無駄に疲れた
だなー
二人して、うだーっとそれぞれのベッドに身を横たえる。出掛ける前にたらふく昼食を詰め込んだのが、ちょうど消化の時間と重なったのか、眠気が酷い。
…………
しばし、ぼーっと天井を眺めるだけの沈黙が続く。しんしんと降り積もっていく、弛緩した無気力感。
……なあ、ケイ
ぽつりと、アイリーンがケイを呼んだ。
うん?
ウルヴァーンに、行ってさ。……そのあとケイは、どうするつもりなんだ?
ちらりと横を見ると、向こう側のベッドで、寝返りを打ったアイリーンがじっとこちらを見つめていた。
そう、だな……
天井に視線を戻したケイは、小さく呟いて、ぼんやりと考えを巡らせる。
要塞都市ウルヴァーン。別名、『公都』。
領主エイリアル=クラウゼ=ウルヴァーン=アクランド公が居城を構える巨大都市にして、北の異民族に睨みを利かせるリレイル地方の最前線。城郭都市サティナや港湾都市キテネなど、幾つかの大都市を従えアクランド連合公国を形成する―
昨日、聞き込みで収集した情報だ。
……まずは、ウルヴァーンにあるらしい『公都図書館』とやらに行ってみようか。利用料はかなり割高って話だが、一般人にも開放されているようだし、こちらの歴史や伝承を調べてみたいと思う。なぜ俺たちがこの世界に来たのか、何か、手がかりがつかめるかも知れないからな
『ここ』が異世界であるのは良いとしても、この世界に転移した原因はいまだ謎のままだ。ゲーム内で濃霧の中に突入した後、そこで何が起きたのか―ケイもアイリーンも一切憶えていない。
このまま何も分からずじまいなのは、どうにも気持ちが悪かった。
何者かがケイたちを召喚したのか。
あるいはその他の『何か』に起因する超常現象なのか。
せめて原因が何であるか、見当くらいはつけておきたいというのが、ケイの考えだ。
それで……それを調べて、どうするんだ?
……うぅむ
続けざまのアイリーンの問いかけに、 痛いところを突かれた と言わんばかりに唸ったケイは、自分もごろりと寝返りを打って青い瞳を見つめ返す。
正直なところ、その後どうするかは、……決めてない。今さら何言ってんだ、と思うかもしれないが、俺もまだ混乱してるんだ
様子を窺う。真摯な表情を変えないアイリーンに、ケイは言葉を続けた。
元々、『少しでも長生きして、一秒でも長くゲームを楽しむ』くらいにしか、考えてなかったからな俺は……
ケイにとって、 DEMONDAL は、もはや生きる目的だった。
この三年間は、ゲームが人生だった、とさえ言ってもいい。
それが突如として現実化したことで―生きる目的が何なのか、分からなくなってしまったのだ。
だから、思いつかない。思い描けない。これからの自分の将来が……
うん……オレも、同じだな。どうすればいいのか、分かんないんだ。自分が、どうしたいのかも……
茫然たる表情で、アイリーンが呟く。
……難しいな
視線を逸らし、ベッドから起き上がったケイは、窓に寄りかかって商店街の雑踏に目を落とす。
今日は良い天気だ。
店主と値引き交渉を白熱させる旅人に、飾られた織物をじっくりと値踏みする商人。果物の入った籠を背負って早足で歩いていく農民、その間をすり抜けるようにして走り回る子供たち。
と、一人の小さな男の子が石畳に蹴躓き、膝を擦りむいて大声で泣き出した。わらわらとその周囲に子らが集まり、通りがかった大人に慰められ、男の子はぐずりながらも友達に手を引かれて、そのまま歩き去っていく。
なあ、ケイ。ケイは、帰ろうとは……思わないよな
背後から、遠慮がちに投げかけられたアイリーンの声。
……思わないな。例え元の世界に帰れるとしても、俺はこっちで生きるよ
そっか……そうだよな……
ケイが振り返ると、アイリーンはうつ伏せになってぐりぐりと枕に顔をうずめていた。
……アイリーンは、どう思う?
オレか。……オレは、どうだろうな
しばし、動きを止めるアイリーン。
数秒ほどで、バッと顔を上げて、
わかんない!
わかんないか
うん。……オレも、ケイほどじゃないけどさ、特にリアルが充実してたってわけでもないし
一瞬、ふっと遠くなる視線。
そう言われてはたと気づく、アイリーン―もといアンドレイも、ほぼ丸一日ログインし続けるような、立派な廃人だったことに。
麗しく、まだ若いこの少女もまた、仮想世界へ引き籠るに至る『何か』を抱え込んでいたのだとすれば―
―そうか
ケイは小さく肩をすくめ、おどけるような笑みを浮かべた。アイリーンにもきっと、色々あるのだろう。ケイのように こちらで生きる と即答しない分、まだ悩む余地はあるのだろうが、それでも本人が話さないなら、敢えて聞き出す必要もないとケイは思う。
まあ、何も急いで結論を出すことはない。俺はどちらかというと、選択の余地がないだけだからな……
……そうだな。何も今、答えを出さなくてもいいわけか。そもそも、帰れるかどうかも分かんないわけだしな! よし! 保留保留!
上体を起こし、腕を組んでうんうんと頷くアイリーン。無理やりテンションを切り替えている感はあるが、言っていること自体は至極正しい。帰る帰らないの前に、そもそもどうやってこの世界に来たのかすら分かっていないのだ。
それに―
(……俺たちの肉体は、今どうなってるのか)
果たして自分は生きているのだろうか―と。
そんな疑問も浮かんだが、口には出さなかった。
よし! そうと決まれば、ダラダラしてても仕方がないな! ケイ、オレに提案があるぜ!
アイリーンがバッと挙手する。
ん、何だ?
とりあえず馬二頭くらい売り払おうぜ! 二人旅で四頭は多すぎる。船主が吹っ掛けてきてたのは確かだろうけど、馬が場所とるってのも正論だと思うんだ
……そうだな。四頭いると維持費も馬鹿にならないし、ここで売るってのもアリだろう。ただ問題は……
渋い顔で、ケイは部屋の中を見回した。贅沢にも二人で使う四人部屋。草原の民の武具を全て処分したため、かなりすっきりと広く見える。が、モンタンの矢にそれを収める大型の矢筒が幾つか、野宿を想定した小さな鍋に三脚、毛布やテントなど細々とした生活雑貨も新たに買い足したため、依然として所持品は多い。
馬二頭でこれ全部運ぶのか……
う、う~ん。何とかなるだろ?
いや、そりゃ何とかはなると思うんだが
問題は、その配分だ。
こうして改めて冷静になって見てみると―荷物の大部分を、矢と矢筒が占めていることに気付く。
気付かされる。
…………
乾いた笑みを浮かべ、壁際の数本の矢筒を見つめるケイ。それを察したアイリーンが よっ とベッドから起き上がり、矢を物色し始めた。
矢筒から抜き出したのは、カラフルな彩色の一本―メロディが変わるという売り文句の鏑矢だ。日の光にかざすように、手の中で弄んでいたアイリーンはボソリと一言、
……コレ、何の役に立つんだろ
……何かしらの役に立つだろ
目を逸らしつつ、答えるケイ。
そうか?
も、勿論。例えば……ほら、その、アレだ
言葉を探す。
……合図とか
いつ誰に使うんだよ
ぺしっ、とアイリーンのツッコミが脇腹に入る。
いや、それ以外にもだな。例えば……ほら、敵の注意を引きつけたりとか! 野獣相手とかだと効果的だと思うぞ、一応攻撃にも使えるし……とは思うが、それなら最初から普通の矢の方が……うん……
何やら軟体動物のように手を動かしつつ、フォローしようとして自滅の方向へ向かうケイに、曖昧な笑みを浮かべたアイリーンは最早何も言わなかった。
と、その時、
―ん
突然、首筋にピリッとした鋭い感覚が走り、弾かれたようにケイは振り返る。
……
どうした、ケイ?
……いや、
気のせいだろうか。何か、視線のようなものを感じたのだが。
窓から顔を出して外を見回すも、特に変わったものは見受けられなかった。ただ、向かいの屋根にいた鴉が一羽、ガァッと一声鳴いて飛び去っていく。
なんか見られた気がしたんだが
気のせいだろ。ってかケイ、何だよこの矢! 一体どんな使い方するんだコレ
訝しげなケイをよそに、アイリーンが次に取り出したのは、やたらとゴテゴテした機械仕掛けの矢だった。その先端には矢じりの代わりに、金属製のケースのようなものが取り付けられている。
ああ、それか! それはモンタン氏の自信作だ。なんとたった一本で、多数の敵を制圧できるという代物さ
……どうやって?
うむ。実はその先端のカートリッジには、びっしりと小さなダーツが入っているんだ。ワイヤーとバネ仕掛けで、ダーツが前方へ放射状にばら撒かれる、という仕組みさ。早い話が散弾だな。仕掛けが作動する距離は、5mから15mまで、このツマミで調整できるようになっているらしい
へ、へえ
したり顔でとくとくと解説するケイに、若干気押されたかのようなアイリーン。
……ただ、ダーツという特性上、貫通力に限界がある。相手が盾を持ってたり、革防具より硬い鎧を装備してたら、ほとんど効果がなくなるのが玉にきず……
何だよそれ全然ダメじゃん!!
ビシィッ、と突っ込みが脇腹に入る。
やっぱりコレ微妙じゃーん返品しようよーケイー
いっいやっ、あれだけ気前よく大人買いした手前、そういうわけにもだな……
目を泳がせるケイに、面白がったアイリーンがずいずいと攻勢に出る。
別にいいじゃん返品しちゃえばー!
しかしそれだとモンタン氏に悪い気が……
気にしないって! 向こうも商売なんだからさ!
う、うーむ
使えないなら意味ないし、『冷静に考えたらやっぱりいらなかった』って言えばいいじゃん?
そ、それもどうかな……
矢の実用性の有無、返品の是非を巡って、二人して騒々しく話し合う。
そうこうしている間に、先ほど感じた違和感のことなどは、すっかり忘れ去っていた。
†††
そして、日が暮れ始める頃。
夕食を食べつつ話し合った結果、明らかに役に立ちそうにない幾つかの矢は返品することになり、ケイたちは再びモンタンの工房へと向かった。
うぅむ……やはり申し訳ないな……
だいじょーぶだって、気にすんなよケイー
モンタンの工房に近づくにつれ、気まずさが募って足取りが重くなるケイに、全く気にする様子を見せないアイリーン。遠慮や思いやりの気持ち云々というよりも、国民性の違いが如実に表れている。
そんな中、大通りを歩いている際に、ケイはふと店じまいを始めつつある青果の露天商に目を止めた。
そうだ、手土産の一つでも……
……だから、気にし過ぎだっつの
どこまでも弱気なケイに、思わず苦笑するアイリーン。とは言いつつも、二人揃って露店を物色し、アイリーン曰くリリーの好物だという熟れたサクランボをどっさりと買いこんで、それを手土産にすることにした。
工房に着く。
日が沈みかけ、暗くなりつつあるというのに、モンタンの家には明かりも付いておらず、どこかひっそりとした雰囲気だった。
失礼する、俺だ、ケイだ
こんこん、と表の扉をノックするも、暗い工房の中から返事はない。
……留守っぽい?
分からん
首を捻りつつドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
……モンタンー? いるかー?
遠慮がちに、ドアを開けて工房の中に入る。すると奥の部屋の方でガタガタッと音が響き、モンタンがふらふらと姿を現した。
ケイさん。すいません気付きませんで……
……お二人さん共、いらっしゃい……
モンタンに続いて、キスカも奥から顔を出す。二人とも、顔色が優れない。どこかやつれたような、憔悴したような、そんな表情だった。
ああ……すまない、何かお取り込み中だっただろうか
二人の様子からただならぬ雰囲気を感じ取り、たじろぎながらもケイが尋ねると、
いえ! そんな……そんなことは、無いです。お気になさらず
強い語調で、モンタンが否定する。
……して、ご用件は?
有無を言わさぬ口調、というべきか、それ以上の追及を許さぬ確固たる態度で、極めて事務的にモンタンは言葉を続けた。
うむ……いや、言い辛いんだが、実は、昨日帰ってからよく考えた結果な……
腰から大型の矢筒を取り外しながら、ケイが要件を切り出すにつれ、モンタンの表情が険しくなっていく。何とも言えない気まずさを感じながら、ケイは話を進めていた。
あの、キスカ
そんなケイをよそに、さくらんぼの入った紙袋を手に、アイリーンがキスカに話しかける。
ええアイリーン。どうしたの
これ。さくらんぼなんだけど
顔色の悪いキスカを気遣うように、そっと袋を差し出した。ぼんやりと夢遊病者のような動きでそれを受け取るキスカ。
ちょうど、美味しそうなのが、露天商で売ってたんだ。みんなで食べるといいと思って……ほら、たしかリリーの好物だったよな?
手の中の袋を見つめていたキスカが、その言葉に、はっと顔を上げる。
……そういえば、リリーは、いないのか?
ふと思いついたように。アイリーンのそれは、外の暗さを鑑みての、何気ない質問だった。
…………
しかし、顔面を蒼白にして唇をわななかせたキスカは、腰が抜けたようにへなへなと、その場に座り込んでしまう。
うっ……、ぐっ……
え? えっ?
紙袋を胸に抱え、ぽろぽろと瞳から涙をこぼし始めたキスカに、ぎょっとして硬直するアイリーン。
キスカッ
妻が泣き出してしまったことに気付き、気遣うようにモンタンが駆け寄る。モンタンに背中を撫でられ、キスカは紙袋を抱えたまま、おいおいと声を上げて泣き始めた。
……何か、あったのか
…………
恐れ慄くようなアイリーンの問いかけに、しかし、モンタンは黙して俯いたまま、何も答えない。
リッ、リリーが、リリーが……、
泣きじゃくりながらキスカ、
……リリーが、拐われたんです……
アイリーンがはっと息を呑み、ケイは表情を険しくした。白状した妻に、モンタンは額を押さえて頭を振る。
どういうことだ
…………
黙って立ち上がったモンタンが、奥の部屋に消えた。がさがさ、と何かを探る音、ほどなくその手に二通の封筒を持って、戻ってくる。
……いつもなら、リリーが帰ってくる時間のことでした。ドアがノックされたので、表に出てみると、誰もおらずにこの手紙が残されていました
そう言って差し出す、一通の封筒。アイリーンが受け取り、ケイが後ろから覗き込む。薄暗い工房の中、手紙は非常に読みづらいが、しかしケイの瞳はそれをものともせずに文面を克明に読み取った。
殴り書いたような、わざと字体を崩したような、汚い字。そこには、『娘の身柄を預かった』『このことは衛兵には知らせるな』『身代金として金貨一枚』などいった脅迫文が並べられていた。
金貨一枚だと……?
その、あまりに高額な身代金に唖然とするケイ、
衛兵には、衛兵にはもう知らせたのか!?
焦燥に駆られたような、そんな表情でモンタンに突っかかるアイリーン。
……知らせ、ようとしました。しかし……
苦々しい顔で、モンタンは説明する。
勿論、この手紙を受けて大いに動揺したモンタンとキスカは、たまたま家の前を通りがかった警邏中の一人の衛兵に、やはりこの件を相談しようとしたらしい。
しかし、衛兵に声を掛けようと扉を開けた瞬間、玄関前に置かれていた二通目の封筒に気付いたのだそうだ。
それが、これです
手ずから二通目を開け、その文面を見せてくる。『衛兵に言おうとしたな』『次は無い』『次にしようとすれば、娘の命は無いものと思え』などと書いてあった。
それと……これが……
震える手で封筒から取り出したのは、一房の、モンタンのそれにそっくりな、茶色がかった金髪。
―リリーの髪の毛。
監視、されてるんです。身動きがとれません。仮に私が衛兵に接触すれば、彼らにはそれが分かるんです……
ガタガタと、凍えたようにその身を震わせるモンタン。
その手紙にある通り、誘拐犯は、明日の未明にスラムの入り口あたりに、身代金を持ってこいと要求しています。這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で駆けずり回って、出来る限り資金は集めましたが、それでも金貨一枚には遠く及びません……
ふっと、顔を上げたモンタンの、その瞳は虚無にも似た絶望の色に染まっていた。
ケイさん。後生です
力なく。膝をついたモンタンが、
―お金を。お金を貸して下さい……っ!
ケイの足元に、すがりつくようにして、
ほんの少し。ほんの少しでもいいんです。金貨一枚は無理でも、少しでも多く身代金を用意できれば、リリーは返してもらえると思うんです。だから、だからっ!
涙ながらに、訴える。
お願いです、お金を貸して下さい……っ
…………
ケイは、閉口した。
―返品どころの、騒ぎではなかった。
薄暗い工房の中、モンタンとキスカがすすり泣く声だけが響く。
……すまない。今、手持ちがこれだけしかないんだ
懐を探ったケイは、銀貨を五枚取り出して、モンタンの手に握らせた。
はっ、と目を見開いたモンタンは、
こ、こんなに! ありがとう、ございます! ありがとうございます!!
顔をくしゃくしゃにして、鼻水まで垂らしながら、何度もケイに頭を下げた。
―本当は。
懐に、もっと銀貨はあるのだが。
(これは……多分、ダメだな)
誘拐された子供が、そのまま確実に生かされていると―特に、この世界においてそう思えるほど、ケイは楽観主義者ではなかった。そして仮に生きていたにせよ、身代金を払ったところで、無事に帰ってくる確証もないのだ。
募金、あるいは慈善事業。
そんな単語が脳裏をよぎる。この場を凌ぎ、自分の中である程度の決着を図る、妥協のライン。
何度も何度も礼を言うモンタンとキスカの言葉を、どこか冷めた心で聞き流す。
しかし、ふと横を見ればアイリーンが、食い入るような目で作業テーブルの上に置かれた便箋を。
さらに言うなら―『茶色がかった一房の金髪』を、見つめているのに気付く。
…………
そっと手を伸ばしたアイリーンは、モンタンたちに気付かれないように、髪の毛を幾本か回収した。
ふっ、と。
青い瞳が、一瞬ケイを見やる。
……ケイ。オレは先に戻るぜ
あっ、おい! アイリーン!
ケイの制止も聞かずに、アイリーンは走って工房を出て行った。
おい、アイリーン!
ケイが宿屋に戻る頃には、アイリーンは既に黒装束に着替え終わり、背中にサーベルを背負っていた。
アイリーン、お前何を考えてるんだ!
そんなの決まってる! 助けに行くのさ!
ケイの問いかけに、 お前こそ何を言うんだ という顔で即答するアイリーン。
……ッ
その答えが予想できていただけに、ケイは頭痛を堪えるように、額を押さえて天を仰いだ。そんなケイをよそに、アイリーンは投げナイフのベルトをつけ、手にはグローブを、足には脛当てをと、着々に戦闘態勢を整えていく。
……いいか、落ち着け。落ち着けアイリーン。俺たちは今、ゲームの世界にいるんじゃない
そんなことは、分かっている
いいや、お前は分かってない! 『助けに行く』とは簡単に言うがな、それがどういう意味かお前は理解していない!
澄ました態度のアイリーンに、思わずケイの口調が荒くなった。
お前が考えていることは分かる! 追跡 で髪を使えば、リリーの位置は簡単に分かるからな! だがアイリーン、今回の件は、話を聞く限りだと単独犯じゃないぞ! お前が助けに行くというのなら、十中八九、犯人たちと戦うことになるだろう!
きっ、とその端整な顔を睨みつけた。
そうなったとき、お前に人が斬れるかッ?
……悪人相手に、容赦するつもりはない
一瞬の間。しかし言い切る。だがケイはそれを、アイリーンの躊躇いの表れであると取った。
……覚悟はご立派だがな、アイリーン。本当にそれができるかどうかは、別問題だ
出来るさ。オレは今クールだが、同時に怒ってもいるんだぜ、ケイ。身代金が金貨一枚だなんて、リリーを帰すつもりがないとしか思えない。オレにはそれが許せねえ
見返す、その青い目のまっすぐさに、ケイは思わずたじろぎそうになる。
しかしそうなる前に、瞳は揺れ、アイリーンは気まずげに視線を逸らした。
……勿論、これはオレの勝手だよ。だから、ケイを巻き込むつもりはない。『コレ』はオレが一人でやる
……何?
ぴくりと、ケイの眉が跳ね上がった。
心に、微かな苛立ちが走る。
―違う。そうじゃない。
―そういうことじゃない。
市街戦は、ケイには都合が悪い。だが逆に、オレにとっては得意なフィールドさ。時間帯もいい感じだし、オレ独りでも―
アイリーン
独白するように言葉を続けるアイリーン、その両肩を掴み、ケイは瞳を覗き込んだ。
……
戸惑ったようなアイリーンの表情を、至近距離で眺めながら、しばし迷う。何をどう言うか。
……アイリーン。ここは、ゲームの世界じゃない、リアルなんだ。ゲームと違って、何が起きるか分からない。一瞬の油断が、ほんの少しの読み違えが、致命的なんだぞ。怪我で済まずに……死ぬかもしれない。本当にそれが、わかってんのか……?
囁くような、懇願するようなケイの口調に、アイリーンの表情は硬い。
しかし同時に。それは何処までも、真摯なものであった。
……ケイに、一度命を助けられておいて、何言ってるかって思うかもしれないけどさ。それでも、オレは、……リリーを放ってはおけないよ。ゲームの世界じゃないなら、尚更だ。リリーはNPCじゃない、生きた人間なんだ。オレは彼女を助けるよ
なんでだ。なんでなんだ、別に頼まれたわけでもないのに……俺たちには、関係ないじゃないか……
『関係ない』だって!?
信じられない、という顔をしたアイリーンが、ケイの腕を振りほどく。
『関係ない』わけがないだろう! オレたちはもう、彼らと関わり合ってるんだぞ!? 『関係ない』なんてことはないんだ、ケイ!
もどかしげに、首を振ったアイリーンは、言葉を続ける。
オレは……オレには、『力』がある。リリーを探して、救い出せるだけの力が! もちろん、危険なのは分かってるさ。死ぬかもしれないし、オレ自身、人を殺めることになるかもしれない。……それでも、
それでも、と自分の考えを反芻した。
オレに、それが出来るなら。オレに、誰かが救えるなら。オレはそれをやるべきだ。出来るだけの力があるのに、見なかったことにして、尻尾を巻いて逃げるのは、それは、―
俯き、声を絞り出すように、
―『ひとでなし』のすることだよ
がつん、と。
頭を殴りつけられたような衝撃が、ケイを襲った。
無知、であるが故に言える、純粋な言葉。
しかしその純度の高い正義感は、今のケイには鋭すぎた。
歯を食いしばって俯くアイリーンには、愕然とするケイの表情が見て取れない。
…………
どすん、という音にアイリーンが顔を上げると、ケイは顔を押さえて、力なくベッドに腰を降ろしていた。
……勝手にしろ
暗く沈んだぶっきらぼうな口調に、自分の放ったことばが、ケイを酷く傷つけたことを悟る。
そして悟ったがゆえに、これ以上は何も言えなかった。ここでケイの機嫌を取るようなことを口にすれば、二人の間の溝がさらに深まると、直感的に察してしまったから。
……ごめん
ただ一言、謝った。
…………
ケイは無言のままだったが、のろのろと腰のポーチに手を伸ばし、中から『それ』を引き抜いてアイリーンに放り投げる。
慌ててアイリーンが受け止めると、それは、ガラスの瓶だった。
中で、とろりと粘性のある、青い液体が揺れている。
―ハイポーション。
……持ってけ
視線を逸らしたまま、ケイは呟くようにして言う。
……ありがとう
短く、答え。
たんっ、と小さな音が響く。
ケイが顔を上げたとき、そこにはもう、少女の姿はなかった―
人々の営みを、その眼下におさめ。
屋根を踏みしめた、黒装束の少女。
ぶわりと。
建物の壁に煽られ、吹き寄せる冷たい風。
黒いマフラーが流れ、たなびき、はためく。
―見やる。
城郭の外、西に広がる草原の大地。
黄昏の太陽が―沈みゆく。
見上げれば、月。
銀色に輝ける夜の女神。
茜色から、群青へと。
空はその貌(かお)を、変えゆく。
再び見つめる地平線。
太陽は―沈んだ。
さあ……オ(・)レ(・)た(・)ち(・)の時間だ
小さく呟いた、少女。
懐より取り出すは、水晶の欠片。
祈るように。願うように。
一瞬、瞑目した少女は、
Mi dedicas al vi tiun katalizilo.
その手より欠片を、落(おと)す。
重力に引かれる、透明な結晶。
とぷん、と。
それは、足元の影に呑まれ。
ざわざわ、ゆらゆらと。
蠢き、揺らめく。
魔性のもの。
Maiden krepusko, Kerstin.
呼吸を整え。
少女は、喚(よ)ぶ。
Vi aperos(顕現せよ).
果たして、逢魔が時。
―黒き影はそれに応えた。
21. 救出
耳元で風が唸る。
夕闇の街。
夜景が後方へ流れ去っていく。
黒装束の少女は、駆ける。
家々の屋根を、たんっ、とんっ、と。
軽い足音だけ置き去りにして。
足元から伸びる黒い影。
魚……鳥……猫……あるいは人の腕。
楽しげに、跳ねるように、泳ぐように。
目まぐるしく姿を変えながら、道を指し示す。
黄昏の乙女『ケルスティン』。
薄明を司る、宵闇と残光の化身。
アイリーンは、精霊の導きに従って、リリーの元へと向かっていた。
ケルスティンは陰を往き、影を操る精霊だ。
陽が沈んだ後の、それでいて完全な暗闇ではない、限られた環境下でしか顕現できない儚い存在。
ケイが契約を結ぶ中位精霊・風の乙女『シーヴ』に比べると、物理的な干渉能力は遥かに劣り、また影を操るという特性上、直接的な攻撃力は無いに等しい。
が、そうであるが故に消費魔力が少なく、また触媒を選り好みもしないため、術の行使にほとんどコストがかからない。扱いに癖があり、使いどころが限定されるので、純魔術師(ピュアメイジ)には向かないとされるが―魔術はあくまで補助的なものとする魔法戦士(ニンジャ)にとって、それはおあつらえ向きの契約精霊といえた。
……ここか
旧市街の一角。
屋根の上で身をかがめ、アイリーンはひと気のない寂れた通りを望む。足元の影は手の形を取り、真っ直ぐに目の前の建物を指差していた。
薄汚れた路地に面した、石造りの二階建て。飾り気も何もない、倉庫のような構造だ。一階と二階の窓からは、それぞれ明かりが漏れている。探るまでもなく、建物全体から人の気配。特に一階からはわいわいと、男たちの騒ぐ賑やかな声も聴こえてきていた。
ひらりと身体を跳ねさせて、通りの向こう側の屋根へと飛び移る。助走もなしに軽々と三メートルを越える跳躍、四つん這いになって音もなく瓦の上に着地した。四足のまま、そろそろと気配を消して慎重に窓に忍び寄る様は、まるで猫科の肉食動物のようだ。
屋根の縁に足を引っ掛けて、蝙蝠のように逆さにぶら下がったアイリーンは、そっと雨戸の隙間から中の様子を覗き見る。
(……意外と片付いてんな)
第一印象。
それは、がらんどうな、生活感のない空間だった。ほとんど家具の類も見当たらず、ただ殺風景にフローリングの床が広がっている。部屋の片隅には小さなテーブルと椅子が置かれ、卓上のランプの明かりで読書をする優男が一人。奥には下への階段があり、賑やかな声と男たちの揺れる影が見て取れる。
…………
ぱら、ぱらと優男が本のページをめくる音だけが響く。雨戸の外の忍者にはまるで気付く様子もなく、どうやら二階に居るのは彼一人のようだ。それからしばらく観察するも優男は読書に熱中したままで、これ以上は特に情報は得られそうにないと判断したアイリーンは、そっと窓から離れた。
腰のポーチから鉤縄を取り出し、屋根の端に引っ掛けて地上へ降下。今度は通りとは反対側の、勝手口の前に降り立つ。
微かに匂うアルコール臭。近づいてみれば一階は相当に騒がしい。中ではかなりのどんちゃん騒ぎが繰り広げられているようだ。それでも気取られないよう、細心の注意を払いながら、アイリーンは慎重に一階の窓を覗き込む。
(! あれは……)
アイリーンの顔に浮かぶ、驚きと困惑の色。部屋には、酒を片手にテーブルを囲み、大盛り上がりの男が七人ほど居た。皆、身なりの汚いごろつきばかりであったが―その中に見知った顔が一人。
(―ボリス! なんでこんなとこに)
ごろつきに肩を組まれ、酒に酔った赤い顔で大笑いしているゴツい体格の男。ボサボサの黒い癖毛にぎょろぎょろとした目つき。
間違いない、数日前に工房の前で見かけたボリスその人であった。
窓から離れたアイリーンは、壁にもたれかかって小さく唸る。
(……あの野郎が一枚噛んでやがるのか)
リリーは賢い子だ。頭の回る彼女が、滅多なことで犯罪に巻き込まれるはずがないと、モンタンたちに話を聞いてからアイリーンは疑問に思っていた。
身内による犯行。
今のボリスを『身内』と考えて良いものかはさて置き―彼が誘拐に関わっていたのだとすれば、リリーが油断してしまってもおかしくはない。
(アイツ、金を借りたり散々世話になってるくせに、恩人の娘を誘拐するとはどういう了見だ……!?)
困惑は、呆れに変わり、やがて怒りの炎と燃え始める。
これは一発ぶん殴らねば気が済まない、と思うアイリーンであったが、怒りに任せて正面から殴り込みをかけるような真似はしなかった。
…Kerstin
小声で、足元の揺らめく影に呼び掛ける。
Kie estas Lily?
アイリーンの問いかけに、影が人の手の形を取り、壁をスクリーン代わりにしてすっと上を指差した。
……二階(unua etago)?
『 Neniu 』
ちゃうちゃう、と手を振った影が、流麗な筆記体となり答える。
じゃあ一階(teretago)?
『 Neniu 』
……屋根裏(tegmento)とか?
『 Neniu 』
ええー
ならどこだよ!! というツッコミをぐっと堪え、冷静に考える。
中二階(interetago)……隠し部屋か?
『 Jes 』
筆記体の後、ビッと親指を立てる黒い手の形を取り、ケルスティンは揺らめいて普通の影に戻った。
(隠し部屋か……)
なかなか凝った真似をしやがる、と独りごちながら、しかしアイリーンは密かに安心する。わざわざ隠し部屋に監禁するということは、つまりリリーはまだ生きているということだ。仮に、リリーの居場所は地面の下、などと示されていれば、アイリーンも流石に冷静ではいられなかったかもしれない。
(さて、どうするかな)
腕を組んで、考え込む。
ここで奇襲を仕掛け、建物を制圧してしまうか。
あるいは戦闘を避けてリリーの救出を試みるか。
(……殴り込みをかけて全員ボッコボコにして、リリーを隠している場所を吐かせてから助け出す……)
自身の鬱憤も晴らせることを考えると、それはなかなかに爽快なアイデアだ。しかし諸々のリスクを考え合わせた結果、最終的にアイリーンは、 スマートにリリーだけを救出できるなら、それに越したことはない という結論に達した。
Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo.
懐より、大粒の青緑色の宝石(ラブラドライト)を取り出し、とぷんと、足元の影に沈める。
Vi priskribas la plankon plano de ci tiu domo, kaj vi diros al mi la pozicio de Lily.
建物の石壁に手をつき、
Ekzercu(執行せよ).
瞬間、建物の輪郭を影が走った。
おそらく、内部の人間で、『それ』に気付いた者はいない。
部屋の隅で、テーブルの裏で、あるいは自分の足元で、黒い影がかすかにさざめいたことになど―。
アイリーンの眼前に影が立ち上がる。漆黒の線により、建物の内部構造が3DCGのように描画されていく。日も暮れた夕闇の中で、黒い立体モデルは非常に見辛いが、それでも間取りや人間の位置は把握できた。
倉庫のような広めの造りで、間取りに特に奇妙な点はない。一階にはごろつきが七人、二階にいるのは優男一人だけのようだ。しかし、肝心のリリーが―彼女の隠されている場所が、見当たらなかった。
Kie estas Lily?
アイリーンの問いかけに、地面から浮かび上がった漆黒の手が、ちょいちょいと立体モデルの中ほどの、真っ黒な箱状のスペースを指差す。
……
それは、二階の優男のすぐ傍、床下に隠された小さな空間だった。隠し部屋―と呼ぶには、あまりに狭い。中が描画されずに真っ黒であるのは、そこに一切の光源がないことを示す。
つまり、リリーは、身動きも取れないほどに狭く、真っ暗な小部屋に監禁されているのだ。
アイリーンの顔が、険しいものになる。これが、いたいけな子供に対する仕打ちか、と。狭く暗い空間に閉じ込められたリリーが、どれほど恐怖を感じていることか、想像するだけで胸が締め付けられるようだった。しかもそれを為した上で、飲めや歌えやの宴会だ。
まさしく、下衆の極み。
拳の一発では済まされまい。
胸の奥底で燃え盛る怒りは、まさしく義憤と呼ぶにふさわしい。窓から漏れる一階の明かりを、アイリーンはぎろりと睨みつけた。今すぐにでも雨戸をぶち破って暴れ出したい気分であったが、どうにか呼吸を整え、連中をボコるのは後回しと自分に言い聞かせる。
ひとまずは、リリーの救出が先だ。
くんっ、と身をかがめ、軽く地面を蹴る。垂直な石壁のごく僅かな凹凸を足場に、隣の建物との壁と壁の合間をタンッタタンッと素早く駆け登った。
降り立つ、屋根の上。
鉤縄を回収しつつ、先ほどケルスティンが炙り出した建物の間取りを思い描く。
(中二階の隠し部屋、か……入口は二階にあるのかな)
先ほどのように、二階の窓に取りついて、雨戸の隙間から優男を睨みつける。独りきりで読書する彼は、おそらく隠し部屋の番も兼ねているのだろう。―それにしても、幼い少女を監禁しておいて、あんな澄ました顔で本に読みふけるとは、一体どういう神経をしているのか。
改めて、憤りの感情が燻り出す。青い瞳に、めら、と獰猛な光が宿った。
(……まあ、いい。奇はてらわず、順当に、)
黒いマフラーの下、冷静さを取り戻すように、表情を消す。
(―正々堂々、忍び込もうか)
雨戸の留め金に、手をかけた。
……キィィ。
うん?
本を読んでいた青年は、金属の軋むか細い音に、ふと顔を上げる。
見れば、テーブルのすぐそばの雨戸が、開け放たれていた。
まるで風に吹かれたかのように、ゆらゆらと揺れる戸の留め金。微かな空気の流れが、そっと頬を撫でる。
……おかしいな
何故、独りでに開いているのか。
今日はそんなに風も吹いていないはずだが、―と。
本を片手に席を立ち、窓から顔を出して周囲を確認するも、夜の空気はむしろ静かに、穏やかに、風は強いどころかそよいですらいなかった。
……。妙なこともあるもんだ
どこか、空恐ろしげに。
小さく呟いた青年はしかし、名状しがたい嫌な予感を振り払うように、頭を振ってそっと雨戸を閉める。
その瞬間、視界が黒色に染まった。
んグッ!?
困惑の叫びはくぐもり、遠くへは響かない。天井から背後に降り立ったアイリーンが、顔面にマフラーを巻き付けたのだ。混乱した青年がそれを振りほどこうと、しゃにむに顔をかきむしる間に、アイリーンは素早く正面に回り込んで両の拳を構えた。
全身のばねを使って、打ち放つ。
ドッドンッと鳩尾を抉る二連撃、青年の胴がくの字の折れ曲がる。一瞬、身体が浮き上がるほどの衝撃に、ごぷりと逆流した胃液がマフラーを汚す。喉に詰まる吐瀉物、呼吸をも許さぬ激痛、呻き声すら出せない青年は、ただ腹を押さえてがくりと膝をついた。その姿はまるで、断罪の時を待つ咎人のように―そこへ、止めの回し蹴りが側頭部に炸裂し、青年はそのままボーリングのピンのようになぎ倒される。
One down(一丁上がり)…
振り抜いた足をすっと降ろして、アイリーンは小さく呟いた。床の上、ぴくりとも身じろぎをしない青年を前に、その言葉はあまりに素っ気ない。ともすれば酷薄とすら取れる容赦のなさ、しかし、これでもアイリーンは手加減している方だった。ゲーム時代より筋力が低下しているとはいえ、肉体のスペックを限界まで引き出す格闘術は健在だ。全力で蹴りを放っていれば、優男の細い首など簡単に折れ砕けていただろう。
さて、リリーはどこかな……
もはや男になど興味の欠片もなく、アイリーンは目を細めて床に視線を走らせる。ケルスティンの 探査 によれば、テーブルから数メートル離れた床下に、隠しスペースがあるはずだ。
……ここだな
それは、すぐに見つかった。床板をよくよく注意して見れば、一部分にだけ不自然な切れ込みが入っていることが分かる。短剣の刃をそこへねじ込むと、てこの原理で板は呆気なくはがれた。
こいつぁ楽勝だぜ、と嬉々として床板を取り外すアイリーンであったが、すぐにその顔から表情が抜け落ちる。
床板の下から、重厚な金属製の蓋が現れたのだ。
見るからに頑丈そうな造りだった。がっちりと組まれた留め金は金庫を連想させる。つるりとした表面に一か所だけ、直径二センチほどの歯車状のスリットが開いていたので、そこへ指を突っ込んでダメ元で引っ張ってみた。
……まあ、ダメだよな
開かない。予想通りビクともしない。十中八九、このスリットは鍵穴だろう。NINJAの嗜みとして、簡単な構造の錠前ならばアイリーンでも開錠できたのだが、手持ちの道具でこの金属製の蓋をどうにかするのは無理そうだった。
無言で立ち上がったアイリーンは、床に倒れ伏した優男を軽く蹴り飛ばして、未だ意識がないことを確かめてから持ち物を探り始める。酸っぱい吐瀉物の臭いに辟易としながらも、上着やズボンのポケットを手当たり次第にひっくり返した。
…………
しかし、この鍵穴に対応するような代物は、何も見つからない。ポケットから金属製の鍵は出てきたものの、この鍵穴には小さすぎる。仕方がないので、部屋の棚なども粗方漁ってみたが、結局めぼしいものは見当たらなかった。当の優男から鍵の在り処を聞き出そうにも、マフラーをはぎ取ってみると完全に白目を剥いて泡を吹いており、頬をはたこうが鼻をつまもうが一向に目を覚ます気配がない。
(……どうしよっか)
床に胡坐をかいて、膝の上に頬杖を突く。しばしの思考の停滞。この『蓋』に対して 追跡 を使い、鍵の位置を探り出すという手もあったが、それをすると手持ちの触媒をほとんど使い切ってしまう。かといってこのまま、手当たり次第に探すのも時間の無駄に思われた。
どうするか。
『ガッハハハハ……!』
『あーはっはっはっ!』
そうしている間にも、階下から響いてくる、ごろつきどもの笑い声。
……
じっとりと、目を細めたアイリーンは、やおら立ち上がり。
背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。
―同じ魔術を使うなら。
まだ、こちらの方がよい、と。
(ま、結局こうなるか……)
胸元から触媒の水晶の欠片を取り出しながら、アイリーンは渋い顔でひとり肩をすくめる。階下、ランプの炎に揺れる男たちの影を見やった。
刃の具合を確かめるように、ひゅんひゅんとサーベルを回す。
―問題ない。ビッ、と空を裂いて振り下ろした一刀は、ぶれることなく。
かすかな殺気を余韻に残し、ぴたりと止まる。
……待っててな、リリー。すぐに助けるから
小さく、呟き。
アイリーンは一切の躊躇いなく、
そのまま階下へ、身を躍らせた。
†††
日が暮れてから、どれほどの時間が経ったか。
そんなことを気にする奴は、ここにはいない。一階で酒を酌み交わすごろつきたちは、夜はまだまだこれからだ、と言わんばかりに大いに盛り上がっていた。
―そんで、ソイツを裸にひん剥いて、表に逆さ吊りにしてやったってワケよぉ!
ヒーッヒッヒッヒ、ひでぇ話だ!
ガッハハハハハ! 完全にとばっちりじゃねえか!!
大して面白くもない酔っ払いの話に、大して可笑しくもないのに大笑いする酔っ払い。酒さえ入っていれば猫が歩いても面白い。飲んでは笑い、笑っては飲む。最初、この場に呼ばれたときは緊張気味だったボリスも、今ではすっかり上機嫌でエールをがぶ飲みする始末だ。
渦巻くような男たちの熱気に、むっとするアルコールの匂い。
そこへ酒飲み特有の高すぎるテンションが入り混じり、部屋はまさしく混沌の様相を呈していた。
しかし、そんな乱痴気騒ぎに、突如として姿を現す、黒づくめの闖入者。
……あん?
最初にそれに気付いたのは、階段の真向かいに座っていた一人だった。 酒は充分だが女っ気が足りねえ と、そう考えていた矢先のこと。ジョッキに新たに継ぎ足したエールを、ぐいと喉に流し込もうとしたまさにその瞬間、階段から姿を現した黒装束の美少女に目を奪われる。
しばし、呆けたように動きを止める男。傾けたジョッキから、だばだばとエールがこぼれおちる。
―へへっ
ああ、自分は酔っ払いすぎて、妙なものが見えているのだと。そう判断した男は、にへらとだらしない笑みを浮かべて、改めてぐいぐいと酒をあおり出した。
逆に面食らったのはアイリーンだ。第一発見者が騒ぎもせず、へらへら笑いながら再び呑み始めるのは予想外だった。しかしすぐに気を取り直して、左手に握っていた水晶の欠片を足元の影に叩きつける。
Kerstin!
精霊を喚(よ)ぶ声に、何事かと驚いたごろつきたちが、一斉にアイリーンの方を見やった。
階段下に佇む、黒装束の少女。
その背後、薄闇の向こう。
ごろつきたちは、穏やかな微笑を浮かべる、貴婦人の姿を幻視した。
呆気にとられる男たちをよそに、アイリーンは素早く左手で印を切る。
Kage, Matoi, Otsu.
視界、男たちの姿を指でなぞった。
Vi kovras(覆い隠せ)!
アイリーンの足元。
ヴン、と影が震える。
それに共鳴するように。
男たちの影。
さざめき、うごめき。
弾け飛ぶ。
漆黒の濁流。
それは無音。
だが轟音を錯覚させるほど。
爆発的に。
男たちの全身を、包み込んだ。
うわあああぁぁッ!?
何だコリャァああ!!
ヒイイイィィッッ!?
一瞬で、その場は大混乱に陥る。ごろつきたちからすれば、突如として足元から湧き出た黒い影(バケモノ)に丸飲みにされたのだ。
驚きのあまり椅子ごと倒れる者、影を振り払おうと暴れる者、混乱と恐れで身動きすら取れない者―男たちの反応は様々であったが、実際のところ、ケルスティンの『影』に直接的な害はない。混乱の少ない者から順に、視界が奪われたことを除いては、特に影響がないことに気付くだろう。
だが、それを許すアイリーンではない。
部屋の中。
一息に、踏み込む。
一人目。椅子から転げ落ち、床に這いつくばっている男。程よく足元にあった頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。ゴン、と鈍い音、一撃で昏倒。
二人目。椅子ごと倒れて、後頭部を打ったのか、頭を抱えて呻く男。太腿に刃を突き刺し、サックリと足を封じる。
三人目。影を振り払おうと躍起になって暴れる男。得物を振るって右腕を切り裂き、傷の痛みに動きを止めたところで、その頭部に苛烈な殴打。サーベルのナックルガードと柄頭でタコ殴りにする。
四人目。身がすくんで動けないのか、椅子に座りっぱなしの男。流れるような回し蹴りを頭に叩き込み、壁際まで吹き飛ばす。
五人目。そろそろ術の効力が切れかけているのか、まとわりつく影が薄れている男。這いずるように出入り口まで辿り着いていたので、動けないようふくらはぎを撫で斬りにする。
六人目―と、テーブルを囲むごろつきたちを、反時計回りに制圧してきたアイリーンであったが、ここで気付く。床にへたり込み、顔から影を振り払おうとしているのは、他でもない、
テメェ、ボリスッ!!
視界を潰されたまま、いきなり誰かに名を呼ばれ、びくりと身体を震わせるボリス。アイリーンはその胸倉を引っ掴んで、引きずり起こすように無理やり立たせた。
ヒッ、だっ、誰だッ……何だッ!?
怯えながらも、胸倉を掴む手を引き剥がそうと抵抗するボリスであったが、サーベルを床に突き立てたアイリーンは、お構いなしにその顔面を張り倒す。
パァン! と鋭い音が響き、脳天を揺さぶられたボリスは、ふらりと壁に手をついた。幸か不幸か、その一撃で顔面の影が振り払われ、一瞬白目を剥いたボリスはしかし、すぐに視界を回復させる。
が、その瞬間、 ヒッ と息を詰まらせた。
……今のが、リリーの分だ
文字通り、目を白黒させるボリスが見たのは、―背筋の凍るような、冷たい表情。しかし青い瞳には、めらめらと怒りの炎が燃えるようで、
ぶぅんと、
唸る左のアッパーカットが、もじゃひげの顎に炸裂した。
がッ!?
のけぞる。まぶたの裏で星が散る。切れた口の中、広がる血の匂い。
これはモンタンの分ッ
叫んだアイリーンは、間髪入れずに右拳を振りかぶり、
ごぶぅ……ッ!?
抉り込むようなボディブロー。ごぷりと腹の酒が逆流する、
これがキスカの分ッ!
腹を押さえてふらふらと後ずさるボリスを前に、すっ、と右脚を引く。
構える。
そしてこれが、
ぐるんっ、と身体を回転させ、打ち放つ。
―オレの分だッ!!!
全力。
必殺の回し蹴り。
ボリスの鳩尾に、突き刺さった。
―ッ!!
もはや、悲鳴すら出ない。まるで冗談のように吹き飛ばされたボリスは、そのまま石壁にゴッ、ビタアァァンと激突する。
ぁ、ッげ……
ずるずると。壁にもたれかかって尻もちをついたボリスは、目を裏返らせて酒を吐き出しつつ、それでも何かを求めるように手を彷徨わせ、
……ォぼ
そのまま何も掴むことはなく力尽き、自らの吐瀉物の上にどちゃりと倒れ伏した。
……ふン
目を細め、ただ鼻を鳴らすアイリーン。
―あぁッ、クソッ、チクショウッ、何だってんだよコレは!!
その時、最後に残されていた一人が、ようやく顔にまとわりついていた影を振り払うことに成功する。
……あ?
しかし、視界が回復すると同時に、動きを止めた。見回せば、無事なのは自分だけ。周囲には、まさしく死屍累々といった様子で倒れ伏す仲間たち。
さて、ナイスなタイミングだな
目の前には、床からサーベルを引き抜いて、ぽんぽんと刃の背で肩を叩く、正体不明の黒装束の美少女。
その笑みは、少女の美貌には不釣り合いなまでに獰猛で。
思わず、尻もちをついたまま後ずさったごろつきは、無意識のうちに、媚びるような愛想笑いを浮かべていた。
すっ、と喉元に、サーベルの刃が突きつけられる。
―テメェに、訊きたいことがある
男にできたのは、ただ阿呆のようにコクコクと頷くことだけであった。
†††
真っ暗な、狭い空間。
手足は縛られ、口には猿ぐつわをかまされ。
体操座りの格好のまま、身じろぎもできない。
(なんで……こんなことに、なったんだろ)
虚ろな瞳で、ぼんやりと。
リリーは、闇の中、視線を彷徨わせる。
―気が付けば、ここにいた。
帰り道のこと。今日、塾はいつも通りに終わったのだが、帰宅自体は遅くなった。コーンウェル商会の御曹司であり、塾では机を並べて勉強する仲の、『ユーリ』という男の子がリリーを引き止めたのだ。
リリーとしては早く帰りたかったのだが、父親の大得意様であるコーンウェル商会、その跡継ぎの好意を無碍にするわけにもいかない。美味しいお茶を頂きつつ、大して興味もない詩や文学の話を聞き流したが、暇(いとま)を告げて屋敷を出る頃には、すっかり遅くなってしまった。
リリーの身を心配して、ユーリが護衛と共に家まで送ることを提案したが、早く帰りたかったのと、独りでも大丈夫だと思ったのと、御曹司に送迎をさせるなどとんでもないという理由から、断っていた。
それが、間違いだった。
あの時、その言葉に素直に従っていれば、と。今となっては、そう思う。
リリーがいつものように、大通りを歩いていたときのことだった。一人の見知らぬ少年が、声をかけてきたのだ。
身なりは悪くないが、何だか目つきが悪いという印象の、リリーよりも少し年上の男の子だった。曰く、 ボリスのおじちゃんが、仕事の祝いに家まで料理を持っていこうとしているが、多過ぎて持てないのでリリーに手伝って欲しい とのこと。
正直なところ、変な話だとは思った。ボリスの家が旧市街で、夜歩くには危ないことも知っていた。
しかし、朝の件もあり、 おじちゃんも一人じゃお金を返し辛いし、理由をこじつけて一緒に行って欲しいのかな などと深読みしたリリーは、その誘いにまんまと乗ってしまったのだ。
ボリスの家まで送ってくれるという男の子が、ポケットから 食べる? と蜂蜜飴を取り出したのも、大きかったかもしれない。それを頬張りながら、男の子に連れられて、リリーは意気揚々と旧市街に踏み入っていった。
そして―そこからの記憶が、曖昧なのだ。うらびれた路地を歩いている途中で、口の中で蜂蜜飴が砕け、変な味の粉末が出てきたのまでは憶えている。その後は、ぐにゃぐにゃと視界が回り、まるで夢の中にいるようで、気が付けばここに閉じ込められていた。
(わたし……どうなっちゃうんだろ……)
死んだような無表情で、何度も自問を繰り返す。自分が誘拐されて、監禁されているらしいということは、薄々察していた。泣いて、叫んで、もがいて―既に、体力も気力も使い果たしている。
(怖いおじさんたちに連れられて……むりやり働かされるのかな……)
真っ先に連想したのは、“奴隷”や”身売り”といった言葉だった。鞭を持った『怖いおじさん』に、鉱山のような場所で、重労働を強いられるイメージ。
それに匹敵する―あるいは、それよりも恐ろしいことを想像するには、リリーはまだ幼すぎた。
しかし、そうであったとしても、怖くてたまらないことに変わりはない。猿ぐつわを噛みしめ、 えぐっ と小さくしゃくりあげる。もはや泣き過ぎて、涙は枯れてしまったのだろうか、真っ赤になった瞳からは何もこぼれ落ちなかった。
(パパ……ママ……助けてよぅ)
もうわがままも言わないし、もっとお勉強も頑張るし、言うこともよく聞くから、と。
(会いたいよぅ、パパ、ママぁ……)
暗闇の中、顔をくちゃくちゃにして。
ただ祈り。声も出さずに、泣く。
―と。
頭上で、ガキンッ! という大きな音が鳴った。
飛び上がらんばかりに驚いて、上を向く。続いて、ギリギリギリ……と金属同士が擦れる音。突然の状況の変化に、目を見開いたリリーは、処刑の時が近づいた死刑囚のようにガタガタと震え始める。
ガコンッと頭上に光の隙間が生まれ、徐々にそれは広がっていく。頼りない暖色の明かりに、 外だ とだけ思った。
ここから出られる、のか。
あるいは出(・)さ(・)れ(・)る(・)―のか。
……ん―ッ!! んん―ッッ!!
唐突に、恐怖の感情が再燃したリリーは、ほとんど身動きが取れないにも拘わらず、最後の力を振り絞って何かに抗うように身をよじらせた。
リリーッ! リリーッ!!
が、どこか聞き覚えのある優しい声に、その動きを止める。
リリーッ! 大丈夫か!?
見れば、四角形に切り取られた頭上から、こちらを覗き込むアイリーンの顔があった。
無事か!? 待ってろ、すぐに出してやるからな!
かがみ込んだアイリーンは、右手を伸ばしてリリーの背中の縄を掴む。そして、その細腕からは想像できないような力強さで、一気にリリーを引き上げた。
ひでぇ、こんな小さな子に……なんて真似しやがる
猿ぐつわと、手足をキツく拘束する縄に、目つきが険しくなるアイリーン。一方でリリーはいまだに理解が追いつかず、目をぱちくりとさせている。
短剣で縄を切断したアイリーンは、手早くリリーの猿ぐつわを取り払った。
助けに来たぞ、リリー。もう、大丈夫だ
安心させるように、穏やかな笑みを浮かべて、アイリーンはわしゃわしゃとリリーの頭を撫でる。数秒して、 どうやら自分は助かったらしい と悟ったリリーは、
……ふぇっ
真っ赤な瞳に、枯れたと思っていた涙がみるみる溜まっていく。
お……ねえぢゃああぁぁぁああん!!!!
よしよし。怖かったな
ふらふらと、アイリーンの胸元にすがりついて、火がついたように泣き始めるリリー。一瞬、それに釣られて泣きそうな顔をしたアイリーンは、そっと瞳を閉じてその小さな体を抱き締める。
大丈夫。……もう大丈夫だから
涙と鼻水で、リリーの顔は酷いことになっていた。赤子をあやすように、ゆっくりと身体を揺らす。時折、泣き過ぎてむせるリリーの背中を、アイリーンは優しくさすってあげた。
……さ。もう、泣きやんで。せっかくの可愛いお顔が台無しだよ、リリー
えぐっ、おねえぢゃ、おねえぢゃん
パパとママが待ってるから。……おうちに帰ろう
うぅ……ぅん、帰るぅ……
手を引かれて立ち上がり、目を擦りながらリリーはコクコクと頷く。それを見て、アイリーンは小さく微笑んだ。リリーは可哀そうだったが、とにかく無事に助かって良かった。
長時間にわたって監禁されていたせいで、足取りの覚束ないリリーを背負い、階段を降りて行く。途中、呻き声を上げて倒れ伏す男たち―特に、気絶してひっくり返ったままのボリスを見て、背中のリリーがはっと息を呑んだが、気にせずに居間を突っ切って玄関から表に出た。
さて、お家はどっちかな
とりあえず、現在位置は旧市街の真ん中あたりだ。日が沈んだときの記憶を頼りに方角に当たりを付け、とりあえず大通りに出れば間違いあるまい、と判断したアイリーンは、街の中心部に向かって歩いていく。
しかし、歩き始めて一分も経たないうちに、
……なんだアレ
前方に、揺れる大量の明かり。石畳を走る大人数の足音と、ガチャガチャと金属の装備が擦れ合う音。
道の向こう側から駆けてきたのは、ランタンを掲げた衛兵の一団だった。
あっ! アイリーン!!
そして、その中から、ひょっこりと顔を出したのは、
―ケイ!?
思わず、背中のリリーをずり落としそうになりながら、アイリーンは素っ頓狂な声を上げる。
衛兵の中から飛び出てきたのは、全身フル装備で持てるだけの矢筒を抱え、ハリネズミのようになったケイであった。かなり走り回ったのか、革兜の下、顔は上気し、汗の浮いた額には髪の毛が張り付いている。
無事か!!?
食らいつかんばかりの勢いで、ずいと詰め寄ってくるケイに気圧され、呆気にとられながらもアイリーンは頷いた。
お、おう……
……もう終わったみたい、だな。遅すぎたか……
アイリーンの背中のリリーを見て、安堵のため息を吐きつつも、気が抜けたように膝に手をつくケイ。その背後、 リリーッ! リリーッ! と聞き覚えのある声が響く。
……! パパーッ!
目を見開いたリリーが、アイリーンの背中からぴょこんと飛び降りて、声のする方へと駆けていく。
衛兵たちの一団の後ろから、フラフラになりながらも、モンタンが走り出てきた。
リリーッ!! 無事だったかい!?
パパー! パパぁーッ!!
モンタンの腕の中に、飛び込むようにしてリリー。二人揃って道の真ん中にずるずると座り込み、そのまま声を上げて泣き始める。
よかった! 本当に、無事でよかった! ああ、リリー……!
パパぁーッ! こわかったよぉーッ!
ひしと抱きしめ合う親子二人を、穏やかな表情で、アイリーンとケイは見守っていた。
あ~。その、なんだ
しかし、そこで横から声がかけられる。顔を向ければ、そこには衛兵の一人。年配の、立派な黒ひげを蓄えた男だ。
あっ、アンタはあの時の……!
黒ひげを指差して、アイリーン。彼は、サティナの街の検問を抜ける際、主にポーションの件で『世話になった』衛兵の一人であった。
兜を外してぼりぼりと頭をかいた黒ひげは、困ったような顔で、
すまないが、状況の説明を求めたいんだが
ああ……まあ、見ての通りだ
リリーとモンタンの方を示し、ケイは小さく肩をすくめた。
アイリーンが、子供の救出に成功したのさ
いや、まあ、そりゃ見れば分かるが……
輪をかけて困り顔になった黒ひげは、胡散臭げな視線をアイリーンに向ける。
……腕利きの魔法戦士が救出に向かった、とは聞いていたが。このお嬢ちゃんが?
ああ、そうだ。彼女がその魔法戦士さ。……アイリーン、結局、リリーはどこで監禁されていたんだ?
この通りを真っ直ぐ、歩いて一分もしないところの、倉庫みたいなヤツ。中にごろつきが八人いたから、とりあえず死なない程度に痛めつけておいた。……あと、ボリスもグルだった
……なんだと?
最後、小声で付け足した情報に、ケイは眉をひそめて表情を険しくする。ますます訳が分からない、といった様子の黒ひげは、半信半疑ながらも追求は諦めたようで、 おい、お前ら! 誘拐犯の住処は近いらしいぞ! と周囲の部下に声をかけていた。
ってか、ケイもケイだよ。どうしてここに?
アイリーンの問いかけに、ケイは自嘲するように乾いた笑みを浮かべる。
……まあ、お前が出て行ったあと、衛兵に連絡して、モンタンを説得して……援護なり何なりが、出来ればと思ってな。尤も、来るのが遅すぎたみたいだが……
いや、それもだけど。何で、この場所が分かったんだ?
首を傾げるアイリーンに、気まずげな表情で、つと視線を逸らすケイ。
その背後。
ランタンの明かりに照らされた宵闇の空に。
アイリーンは、妖艶な笑みを浮かべる、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。
え、ええー?
唖然としたアイリーンの顎が、がこん、と落ちる。
……触媒(エメラルド)使ったのかよ? 無駄すぎる……!
……。いいんだよ、別に!
しばし、渋い顔をしたケイであったが、開き直ったようにアイリーンを見据えて、
宝石の一つや二つ、いつでも買える! だが、
だが……、と。
黒い瞳を揺らし、口を開いたケイは―そのまま何も言えずに、再び目を逸らした。
まあ、その、なんだ。……遅くなって、すまん
すっと、頭を下げる。ケイの思わぬ行動にぱちぱちと目を瞬かせたアイリーンであったが、やがて しょうがないな という顔になって、コツンとケイの頭を小突いた。
……別にいいよ。来てくれただけでも、嬉しいし。それに……
出発前、自分の言葉が、ケイを傷付けてしまったらしいことを、思い出す。
…………
しかし、どうだろう。今ここでそれを謝ると、問題を蒸返すことにならないだろうか。
今は―。
唇を引き結んだアイリーンは、ぽん、とケイの肩に手を置いて、笑顔を作った。
ま、本当に『来てくれただけ』、だけどな! 気持ちは嬉しいけど、はっきり言って今回はクソの役にも立ってないぜ!
くっ、事実だけに言い返せない……!!
はっはっは、と笑うアイリーンを前に、悔しそうな顔をするケイ。
だいたい何だよその格好! 戦争でもおっぱじめる気か? そんなに矢持ってても、使い切れねえだろ!
そんなことはない、何かに役に立つかも知れないじゃないか! ほっとけ!
市街戦で弓は使えねぇだろー
いざとなれば壁ごとブチ抜くつもりだったさ!
やいのやいのと、騒がしく。そのそばでは、おいおいと泣く親子二人。さらにそれを取り巻く衛兵たちの輪。
兜をかぶり直しつつ、夜空の月を見やった黒ひげは、
……はぁ。早く帰りてぇ
ただ、小さく溜息をついた。
†††
その後、衛兵たちの手によって、ボリスら誘拐犯一味は全員が御用となった。
調べてみると、建物内部からは麻薬など非合法の物品が次々と見つかり、実は大規模な麻薬組織のアジトであったことが判明した。ボリスは、その組織の下っ端だったらしい。
厳しい取り調べにより、芋づる式に構成員が捕縛され、ボリスを含むその殆どが打ち首となった。斬首を免れた残りの者は奴隷に落とされ、鉱山やサティナ北西部の汚物処理村で、死ぬまで強制労働を課せられるそうだ。
ただ、全ての構成員が口にしていた、まとめ役の『細身の男』については、『トリスタン』という名前が分かったのみで、他には何も情報が得られなかった。どれだけ市内を捜索しても見つからないため、既にサティナから脱出している可能性が高いそうだ。
モンタン一家はというと、今回の一件で、全員が心身ともに疲れ果てていた。
特にリリーは大きなショックを受けているようで、しばらくは塾にも行かず、家でゆっくりと過ごすとのこと。モンタンも、しばらくは休業するそうだ。
当分は、家族水入らずで過ごすつもりです
ケイに借りた銀貨を返しながら、モンタンは無理やり笑みを浮かべて、しみじみとそう言った。 本当に、ありがとうございました と、アイリーンの手を握って、何度も頭を下げていたのが印象的だった。
ケイたちは、事件の後も、三日間サティナに滞在した。
革職人のコナーに任せていたミカヅキの皮の仕上がりを待つのと、護衛の仕事を探すためだ。
今回の一件を通し、幸か不幸か、ケイたち―主にアイリーンだが―は、『評判』という形で信用を得ることに成功した。
悪人たちのアジトに颯爽と殴り込み、誘拐された子供を見事救い出した正義の魔法戦士。そしてそれがうら若き乙女ともなれば、評判にならないわけがない。アイリーンの武勇伝はあっという間にサティナの街に広がり、前日に仕事を探したときとは打って変わって、逆に商人の方から護衛を頼まれるほどの人気ぶりであった。
その中で最も大手だったのが、モンタンの得意先でもあるコーンウェル商会だ。何でも、商会の御曹司のユーリという少年は、誘拐当日にリリーを遅くまで屋敷に引きとめていたらしく、それが誘拐の一因になったのではないかと、自責の念に苛まれているそうだ。同時に、リリーを無事に助け出したアイリーンには深く感謝しているようで、救出の翌日には宿屋まで、本人が直々に多額の謝礼を届けに来た。
謝礼はユーリ少年のポケットマネーから出ているとのことだったが、それがなんと金貨数枚分に匹敵するほどの大金だった。驚いたのはケイもアイリーンも同じで、有難く頂戴しようとはしたものの、正直なところ、それほどの大金を手渡されるとそれはそれで持ち運びに困る。
魔術の行使にエメラルドや水晶などの触媒を消費した、と言うと、聡い少年はすぐにその意図を察し、金貨一枚ほどの現金を残していったあと、残りの額に相当する宝石類が翌日に届けられた。ケイが 顕現 を二回使えるだけのエメラルドに、アイリーンが枯渇の心配をしなくて済むほどの上質な水晶とラブラドライト。『宝石の一つや二つなど~』というケイの言葉が、思いのほか早く実現した形だ。
ちなみにユーリは、リリーが塾通いを再開する際に、護衛を付けることを画策しているらしく、アイリーンをコーンウェル商会専属の護衛として雇うことを提案してきた。男の護衛だとリリーが怖がるかもしれないが、アイリーンならばリリーと知己である上に、器量・力量ともに問題ないというわけだ。謝礼とは別に、これまた目が飛び出るような報酬が提示されたのだが、ケイもアイリーンもサティナに留まるつもりはないので、断腸の思いでその話は断った。
護衛の話が無くなって、ユーリは至極残念そうにしていたものの、ケイたちがウルヴァーンに向かう予定であることを知ると、すぐに仕事の口を利いてくれた。サティナから街道を北上し、ウルヴァーンまで陸路で向かう隊商の護衛。それも、かなり報酬の良い、数日前までは考えられないような破格の待遇だ。今まで全く接点のなかった少年に、ここまで世話になるとは、流石にケイも予想外だった。
(―情けは人のためならず、か)
出立の朝。サティナの北門前にて、ケイはその言葉の意味を考えずにはいられない。
目の前では、今回護衛として参加する隊商の面々が、積荷の最終チェックを行っていた。ケイとアイリーンは準備万端で、ケイはサスケに、アイリーンは新たに『スズカ』と名付けた草原の民の馬に跨っている。ちなみに残りの二頭は、コーンウェル商会経由で売却済みだ。
おねえちゃん……行っちゃうの
うん、ごめんな。どうしても、ウルヴァーンに行かないといけないんだ
ケイの隣では、アイリーンとリリーが、別れの挨拶をしている。
…………
申し訳なさそうなアイリーンに、リリーはただ俯いた。 行かないで とも言わない。ダダをこねて泣きもしない。ただ、無表情で、黙り込んだまま―。これはこれで、来るものがある。
そうだ。リリーには、これを上げよう
スズカからひらりと飛び降りて、アイリーンはリリーの目線までしゃがみこんだ。
……これは?
お守りさ
アイリーンがリリーの手に握らせたのは、チェーンに吊り下げられた紅水晶(ローズクォーツ)の結晶だった。
昨日の夜、作っておいたんだ。魔法をかけておいたから、日が沈んだ後なら、一度だけオレを呼ぶことができる。だからもし、また何か危ない目にあったとしても、それで呼んでくれれば、すぐに助けに来られるよ
尤も、『呼ぶ』といっても、瞬間移動ができるわけではない。ただ局所的な 顕現 を利用して、ごくごく短い間、会話ができるだけの代物だ。他にもお守りを起点に、遠距離から影を送り込むくらいのことは出来るかも知れないが、所詮は子供だましの域を出ない。
しかし、その言葉は、まさしく魔法のように劇的に作用した。瞳に輝きを取り戻したリリーは、大切そうに、ぎゅっとお守りを握りしめる。
……おねえちゃん、ありがとう
精一杯、健気な笑みを浮かべて礼を言うリリーであったが、その瞳にみるみる涙が溜まっていき、すぐに表情が崩壊した。
おねえちゃあぁぁん……
……よしよし
胸に顔をうずめて静かにすすり泣くリリーの頭を、そっとアイリーンが撫でつける。ケイはそれを、馬上から黙って見守っていた。
……ケイさん
と、リリーたちを邪魔しないように、ケイの横にモンタンとキスカがやってくる。
やあ、どうも
流石に馬上のままでは失礼なので下馬しようとするが、モンタンがそれを押しとどめた。
ケイさん。今回は、本当にありがとうございました
……俺は何もしていない。礼なら、アイリーンの方に頼む
頭を下げるモンタンたちに、ケイは困ったように微笑んだ。苦笑い、と形容するには、少々苦すぎる味。
アイリーンさんには、もう何度もお礼を言いましたし。いえ、というか勿論、回数の問題ではないんですが……
自分の言葉を否定するように、慌てて手を振るモンタンをよそに、キスカが一抱えほどあるバスケットを差し出した。
サンドイッチです。こんなもので申し訳ないですけど、今日のお昼にでも、アイリーンさんとどうぞ
おお、それは有難い。……バスケットごと頂いても?
ええ、もちろんです
ありがとう
バスケットをサスケの鞍に括りつけつつ、笑顔で答える。その間に、気を取り直したモンタンが中型の矢筒を取り出した。
すいません、何だか捻りがなくて申し訳ないんですが……何本か追加で、長矢を仕上げておきました。是非使ってください
おお、これは……。矢は、既に沢山あるんだが……いいのか?
もちろんですとも
深々と頷くモンタン。実際のところ、矢は本当に沢山ある。モンタンから買い占めたものがその殆どだが、問題はその体積だ。ケイの腰、サスケの鞍の両側、サスケの背中、と合計で四つも矢筒がある。しかもそのうち三つがかなり大型のものだ。
……ありがたく、頂戴しよう。ただ、矢筒は充分に空きがあるから、矢だけ頂いてもよろしいか
ええ、どうぞどうぞ
矢だけを抜き取って、腰の矢筒に仕舞う。心なしか、他のものよりもさらに丁寧に仕上げられている気がした。
よーし。それじゃあそろそろ出発するぞー!
隊商の先頭から、声が上がる。商人たちが荷馬車に乗り込み、護衛の戦士たちは馬上で背筋を伸ばす。
出立の、時が来た。
それでは、そろそろ
ええ。……お元気で
本当に、ありがとうございました
ケイに向かって頭を下げたモンタンとキスカは、最後の機会とばかりにアイリーンにも別れの挨拶をしに行った。
モンタンたちと、名残惜しそうに会話するアイリーン。それから視線を剥がし、ケイはぼんやりと、晴れ渡った空を見上げる。
がらがら、と車輪の音を立てて、隊商の荷馬車がゆっくりと進み始めた。
ぽん、とサスケの脇腹を蹴り、ケイも前進する。
おねーちゃーん! またねー!!
おう、元気でなー! 絶対また来るからなー!!
ケイの隣、アイリーンが背後のリリーたちに向かって大きく手を振っている。
この世界に転移してから、おおよそ十日。
なぜ、自分たちは、この世界にやってきたのか。
その謎を解き明かすために、ケイとアイリーンは旅立つ。
目指すは、北。リレイル地方の中心部。
―要塞都市、“ウルヴァーン”だ。
本当にありがとうございます……!!
幕間. Lily
…………
段々と小さくなる隊商の影を、幼い少女は、物悲しげにじっと見つめていた。
……リリー
傍に寄り添う父親が、そっとその手を握る。
さあ、そろそろおうちに帰ろう
……うん
今日のお昼はビーフシチューにしましょう。ね?
反対側の手を母親に引かれ、少女はゆっくりと歩き出す。
時折振り返って背後を見やるも、雑踏の中で、遥か彼方の隊商が見えるはずもなく。
やはり浮かない顔で、少女は小さく溜息をつくのであった。
…………
両親は、そんな少女に、心配げな様子で顔を見合わせる。
……リリー。何か欲しいものがあったら、遠慮なく言うんだよ。パパが何でも買ってあげるからね
大通りの商店街に差し掛かったあたりで、何とか娘を慰めようと、父親が努めて明るく話しかけた。
欲しいもの、と言われて、少女はふと思い出す。
事件に巻き込まれる直前のこと。身なりはいいが目つきの悪い、少し年上の男の子から貰った、琥珀色の甘いモノ―
……ねえ、パパ
少女は、父親の服の袖をくいくいと引っ張った。
ん? なんだい?
あのね、わたし―
狂おしいまでに、あの味を思い出す。
―わたし、蜂蜜飴たべたい
幕間. 根城
―話は、数日前まで遡る。
リレイル地方南部。
辺境の村ラネザよりさらに南、凶暴な獣たちの徘徊する深い森の奥。
村の住人たちが 深部(アビス) と呼び、決して足を踏み入れることのない、危険な領域に。
ひっそりと、『それ』は佇んでいる。
……
樹海を蛇行しながら流れる川。
その水面を、滑るように小舟が進んでいく。
しん、と沁み入る静けさの中に、時折、さざ波の音だけが響く。
小舟に乗るのは、五人。いずれも、黒い外套に身を包んだ男達。
船尾にて、ゆったりと櫂を漕ぐ者。
クロスボウを抱え、周囲を警戒する者。
舳先に吊るした香炉の火が、消えないよう見張る者。
残りの二人は、舟の真ん中で、身を寄せ合うようにして座り込んでいた。
そこに、一切の会話はない。会話する余裕がない、というべきか。真ん中の二人は俯いたまま身じろぎもせず、他の者はそれぞれの役割に集中していた。あるいは、彼らにとっても、ここは油断できない場所なのかもしれない。例え獣避けの香を焚き染めていたとて、それは絶対の安全を保証するものではないのだ。
どれほどの時間が経ったか―。
延々と、同じ場所を通り続けているのではないかと。そう錯覚してしまうほどに代わり映えのしなかった景色が、徐々にその様相を変え始める。
樹木の密度が薄くなり、代わりにごろごろとした石材が散見されるようになった。地面に横たわる苔むした石柱。崩壊しひび割れた巨大な石壁。遺跡、あるいは廃墟。そんな言葉を連想させる。かつて、ここで何かが栄え、そして滅び去った跡―。
と、頭上より、バサバサと羽音が聴こえてきた。
同時に、小舟を丸ごと覆い隠すような、巨大な影が差す。思わず全員が空を見上げると、三羽の黒い鳥が舟を取り囲むように旋回していた。そのうちの一羽が包囲の輪を外れ、ゆっくりと小舟に接近してくる。
ばさり、ばさりと吹き荒れる風。穏やかだった川面が、風圧に吹き散らされる。近づいて見れば、圧倒されるほどにその鳥は大きかった。両脚の爪は短剣のように鋭く、嘴はぎざぎざの歯が生えた恐ろしげなもので、体長はおそらく十メートルを優に超えるだろう。まさしく、怪鳥とでも呼ぶべき存在。
―Ni honoras la nigra dentego!
小舟の舳先、香炉の火の見張り役だった男が、片手に金属製のメダルを掲げて高らかに叫ぶ。
ずん、と音を立てて、近くの石壁に降り立った怪鳥は、翼を畳みながら首を傾げてそちらを覗き込んだ。握り拳ほどもある大きな赤い瞳が、じっとメダルを捉えて動かない。
ごくり……と、真ん中に座り込んでいた男の一人が、生唾を飲み込む音が響く。
……ガァ
ほどなくして、怪鳥は興味を失ったように視線を外し、一声鳴いて再び翼を広げた。来たときと同じように羽音を響かせながら、頭上の二羽と共に何処ともなく飛び去っていく。
……おっかねぇ
怪鳥の後ろ姿を見送りながら、ほっと溜息をつくように、先ほど生唾を飲み込んだ男。風にフードがあおられて、その相貌が露わになっていた。短く刈り込んだ茶髪に、こけた頬、げっそりとやつれた顔。歳の頃はまだ若い、二十代前半ほどであろうか。
青年の名を、『パヴエル』という。
壊滅したモリセット隊の、数少ない生き残りの一人だ。右肩の傷は未だ癒えておらず、出血で弱った身体には力が入らない。そんな衰弱した状態であるにも関わらず、ベッドから外に連れ出され、さらに化け物のような鳥には睨まれて、肝を冷やしたパヴエルの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。
……あぅぇえぉぁ
その隣では、布で口元を隠したラトが、ぼんやりとした表情で何かを喋っている。それが意味のある言葉なのか、あるいはただ赤子のように声を上げているだけなのか。本人が気狂いになってしまった今では、確かめる術すらない。
そんな二人をよそに、小舟は再び進み始める。舳先の男は、落ち着いた様子で懐にメダルを仕舞っていた。香炉の火は突風で吹き消されていたが、これ以上、獣避けの香の必要はない。
ここから先は、彼らの縄張り(テリトリー)だ。
視界が開け始める。見やれば、川の上流。小高い丘の上に、ひっそりとたたずむ建築物の影。がっしりとした石造りの外壁が連なり、幾重にも水堀が取り囲む中、控え目な高さの尖塔がそびえる。苔むして古びてはいるが、明らかに人の手が入っている、堅牢な要塞建築。
―『それ』に、名前は付けられていない。
だが、それを知る者は単純に、『城』とだけ呼ぶ。
獣の跋扈する樹海と、黒き翼の怪物に守護され、滅び去った古代の都市の中心部に、静かにそびえ立つ古城。
イグナーツ盗賊団。
その、知られざる本拠地だ。
†††
水門を潜り抜け、城の中へと通されたパヴエルにラトは、無口な黒服の男たちに連れられて、尖塔の一つを登っていった。
肩を貸してもらいつつ、フラフラになりながらも、塔の頂上へと辿り着く。目の前には、複雑な装飾の施された、重厚な木製の扉。その両側には、まるで岩のように微動だにしない、全身鎧で武装した衛兵の姿がある。
―ここを『城』だとするならば、中に居るのは、あるいは『王』か―
そう考えたパヴエルの、顔色がさらに悪くなる。下っ端に過ぎない彼にとって、『城』を訪れるのはこれが初めてであったし、そもそも昨日までは、その所在地すら知らなかったのだ。ましてや盗賊団の首領になど、お目にかかったこともない―
額に冷や汗が浮き上がり、口の中はからからに乾いていた。今のパヴエルには、隣で白痴のように呆けた表情をしているラトが、ただただ羨ましく見えて仕方がない。
……お頭、連れてきました
黒服の一人が、控え目に扉をノックする。 通せ と中からくぐもった声。パヴエルの緊張は、この時ピークに達した。
ギィッ、と軋みながら、扉が開かれる。入らないという選択肢はない。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になったパヴエルは、黒服たちと共にその中へ足を踏み入れた。
―それほど、広くはない部屋だ。
ふかふかの赤い絨毯が足音を吸いこむ。そこは拍子抜けするほどにこじんまりとした空間だった。しかし塔の最上部の一室だけあって、解放感が素晴らしい。まず目に入ったのは、窓の木枠にはめられたガラスだ。透明で混じり気がなく、真っ直ぐに成型された品。それは、貴族の館でもお目にかかったことのないほどに、上質なものだった。
よく来たな
窓の前、執務机に向かっていた男が、羽根ペンを動かしながらふっと顔を上げる。その眼光に射竦められ、パヴエルは人形のように硬直した。
大男。
彼を形容するのに、これ以上に相応しい言葉があろうか。
全身の盛り上がった筋肉。まるで山のような存在感。手の中の羽根ペンが、ともすれば玩具のように見えてしまうほど太い腕。どことなく熊を連想させる彫りの深い顔立ちは、 公国の将軍だ と言われれば信じてしまいそうなほどに、威厳に満ち溢れている。
外の衛兵は要らないんじゃないか、と瞬間的にパヴエルはそう思った。ただ椅子に座っているだけなのに、空気が渦巻くような力強さがひしひしと伝わってくる。モリセット隊を壊滅させた、謎の弓使いとはまた別種の、絶望にも似た圧倒的強者の風格。
―カァ
部屋の片隅、止まり木の鴉が一声鳴き、気圧されていたパヴエルはハッと我に帰る。
は、はいっ
背筋をぴんと伸ばし、慌てて答えるパヴエルに、大男は薄く笑みを浮かべた。
モリセット隊のパヴエルに、そっちはラトランド、だったな? さっそく詳しい話を聞かせてもらいたいところだが―先にこれを終わらせちまおう。少し待ってもらっていいか
も、もちろんです
こくこくと頷くパヴエル、大男はニカッと野性味のある笑顔を見せて、机の上の書類に視線を戻す。
しばし、紙の上を羽根ペンが走る音だけが響く。緊張に凝り固まったまま、パヴエルはちらちらと部屋の観察を試みた。上質な赤い絨毯、ボードゲームの置かれた丸テーブル、上品な仕上げの木の椅子に、書物や巻物がぎっしりと詰められた本棚。
部屋の隅に飾られているのは、大男に相応しい巨大な鎧だ。普通の板金鎧(プレートメイル)よりも重厚な、質実剛健な造りのそれは、幾多の戦いを潜り抜けてきたのか、あちこちに修繕の跡や傷が見られた。その隣には、壁に無造作に立てかけられた戦鎚(バトルハンマー)。これも随分と使い込まれたものなのだろう、きちんと手入れがなされているにも関わらず、全体がどす黒く鈍い光を放っていた。
……クゥ
そこでふと、止まり木の黒い鴉と目があう。首を傾げて、身を乗り出すように、こちらを覗き込む赤い瞳。そこに、まるで心を見透かすような、得体の知れない知性の光を見た気がして、薄気味が悪くなったパヴエルはそっと目を逸らした。
―よし、こんなもんか
最後にさらさらとサインをし、羽根ペンをインク入れに戻した大男が、ばさりと書類の束を傍らの黒服の男に差し出す。
いつものように頼む。お前たちは下がっていいぞ
畏まりました
大男に促され、付き人の黒服たちが恭しく部屋を辞する。ぱたん、と扉の閉まる音。残されたのは大男にパヴエル、ラトの三人だけとなった。
はぁ~、まったく、肩がこる……
ごりごりと首を鳴らしながら、肩を回す大男、
さて、待たせたな。これでゆっくり話ができる
机の上で手を組み、改めてパヴエルたちに向き直る。その野生的な体格に不釣り合いなほど理知的な―そうであるからこそ底が知れない―目に見据えられ、パヴエルはびくりと身体を震わせた。
……むっ
が、緊張して顔色の悪いパヴエルに、何を思ったのか大男は顔を険しくする。
そういえば、お前たちは負傷しているんだったか?
…………
え、ええ……
厳しい表情の大男に、呆けたように何も言わないラトの隣、自分は何かやらかしたのかと戦々恐々としながら、パヴエルは小さく首肯した。
パヴエルの返答に、渋い顔になった大男は、
むぅ、そいつぁ悪いことをした。立ちっ放しだと辛いだろ、ちょっと待て
やおら立ち上がり、部屋の隅、丸テーブルの傍らに置いてあった椅子を二脚、ひょいと抱え上げて持ってくる。
ほれ、とりあえずこれにでも座れ
そっ、そんなっ、大丈夫ですっ
なーに、減るもんでもなし、気にすんな
何でもない顔で、 ほれほれ と椅子を勧める大男。頭目が手ずから椅子を用意するという事態に驚愕し、ひたすらに恐縮するパヴエル。しかしそんな彼をよそに、 おおおぉぉぅ と呻きながらラトがさっさと腰を下ろしてしまったので、おっかなびっくりで席に着いた。
よしよし、それでいい
満足げに頷きながら、大男はどっかと自分の椅子に身を投げ出し、くいと首を傾げる。
さて、二人とも、改めてよく来たな。俺がイグナーツ盗賊団の頭目、『デンナー』だ
堂々たる名乗り。
―デンナー。
その名を聞いて、パヴエルは動きを止めた。
吸い寄せられるように、部屋の隅に立てかけられた、使い込まれたバトルハンマーに視線をやる。
デンナー……“巨人”の『デンナー』?
思わず、といった様子で、口からこぼれ出た言葉。それには答えず、大男―デンナーは、ただその笑みを濃くする。
……すっすいません、自分は、パヴエルです
目上の人間を前に呆然とする、という失態に気付いたパヴエルは、すぐに気を取り直して姿勢を正した。
……それと、こいつが、ラトランドです。口をやられてうまく喋れないのと、その、ちょっと頭がイカレちまったみたいで……
うむ、報告でもそう聞いている
机の引き出しから書類を取り出して、それを眺めながら顎ひげを撫でつけるデンナー。
たしか、タアフの村の近く、だったな。弓使いの男に奇襲されて、モリセット隊は壊滅、モリセットの野郎も死亡、と……
はい
詳しい話を聞かせてくれ
真面目な顔のデンナーに促され、ぺろりと唇を湿らせたパヴエルは、順序立てて最初から話し始める。二人組の旅人を襲撃したこと、それを逃がしてしまったこと、野営の最中で奇襲を食らったこと―。
デンナーは時折それに質問を挟みつつ、手元の紙にメモを取りながら、真剣な顔で話を聞いていた。
なるほど、な……モリセットの最期はどうだった?
すいません。自分は気絶していたもので、分かりません
……そうか、ならいい。気にするな
申し訳なさそうに小さくなるパヴエルに、 何でもない という顔で手をひらひらさせるデンナー。
……そして、これが、
気まずさを払拭するように、パヴエルはそっと、胸元から『それ』を取り出した。黒い布に覆われた物体。ことん、と机の上に置く。
デンナーはおもむろに手を伸ばし、その布を剥ぎ取った。中から姿を現す、鈍い銀色の刃。
―ハウンドウルフの血で汚れた、短剣。
ハウンドウルフに刺さってたんで、多分、襲撃者の所持品かと……。逃げる途中で見つけたんで、回収しておきました
……うむ。でかした
短剣を手に取り、陽光に照らすように眼前に掲げる。指先で刃を弾くと、ぴぃんと澄んだ音が響いた。
しばらく無言で手の中の短剣をいじっていたデンナーは、顔を上げてふいに正面からパヴエルを見据える。
パヴエル。お前、魔術について知識はあるか
えっ? ……いえ、ありません。精霊語で精霊にお願いして、奇跡が起こせるってこと以外は、特に……
ふむ。こういうとき、敵の所持品を探しておくってのは、モリセットに教えられていたことか?
はい。それが手がかりになるかもしれないから、と隊長にはいつも言われてました
そうかそうか。あいつも上手くやってたんだな
何度も頷くデンナーは、上機嫌なようでどこか寂しげでもあるという、不思議な表情をしていた。
―わかった。二人とも、報告ご苦労だったな
立ち上がったデンナーが、ぱんぱんと手を鳴らす。すぐさま扉が開かれて、黒服のメイドが二人、しずしずと入室してきた。
二人に部屋を用意しろ。それと滋養の付く食べ物もな。ああ、一人は口がダメになっているから、そこは気を利かせろよ
かしこまりました、デンナー様
恭しく頭を下げたメイドたちは、 こちらへ とパヴエルたちを部屋の外に誘う。
えっ、いや、そのっ
唐突な、まるで客人のような扱いに、目を白黒させるパヴエル。助けを求めるようにデンナーを見やると、彼はニカッと口の端を吊り上げ、
なあに、休暇みたいなもんだ。こんな辺鄙な場所だが、ゆっくりするといい。傷が癒えたら、またそれになりに働いてもらうがな
ガッハッハ、と声を上げて笑う。
困惑の表情を浮かべつつも、ありがとうございます、と頭を下げたパヴエルは、結局一言も喋らなかったラトと共に、メイドたちに連れられて部屋を辞した。
ぱたん、と扉が閉じ、部屋にはデンナーと、赤い瞳の鴉だけが残される。
デンナーはどっかと椅子に腰を下ろし、行儀悪く執務机の上に足を投げ出した。
……どう思う、親(・)父(・)?
手の中で短剣を弄びながら、独り言を呟くように。
カァ~
部屋の鴉が一声鳴き、澄まし顔で毛づくろいの真似をする。
親父。俺までからかうのはやめてくれ
カァ~カァ~、カぁ~カッカッかッかッかッ!
その鳴き声が、途中からしわがれた老人のそれに変わっていく。
……そうさの。かッかッ、まぁ、只者ではあるまいて
鴉は翼をはためかせ、止まり木から執務机へ。ぎょろり、と蠢いた赤い瞳が、デンナーを見据える。
黒い鴉。
瞳が燃えるような赤であることを除けば、見た目は何の変哲もない、ただの鳥。
それがまるで、当然であるかのように、鴉は朗々と喋り出す。
凡人ならば、モリセットの坊主に、奇襲された時点で『詰み』じゃろう。それをいなし、逆襲を仕掛け、なおかつ十人の隊を壊滅させたとなると……その力量を疑う余地はあるまい。問題はむしろ、
『何故そんな使い手が、そんなところに居たのか』
じゃのう
深々と頷く鴉に対し、デンナーは手元の書類に目をやった。ボリボリと頭を掻きながら嘆息する。
おかしいよなぁ。黒装束をまとった金髪碧眼の乙女に、草原の民風の弓使いの男。しかも男の方がかなりの使い手ともなれば、目立たないはずがねえんだが
海辺の町ならともかく、タアフの村は内陸部じゃからのう。モリセット隊と接触する前に、近くの街なり村なりで話題に上るはずじゃ
ああ。それなのに調べても調べても、全く情報が出てこないってのが解せねえ
ばさり、と書類を机の上に放り出し、デンナー。紙面上には、近隣の街や村々に潜り込んだ構成員の報告が、事細かに記されていた。
うむ。何者かの、作為を感じるの。不自然であるということは、そういうことじゃ。あくまで、魔術師としての勘じゃがの……
親父の勘は良く当たる。どこが怪しいと思う?
タアフの村と言えば、バウケット領じゃろ? ならばサティナしかあるまいて
ま、ウチの『客』じゃないデカい街といえば、サティナくらいのもんだしな……
しばし、考え込むように、一人と一羽は沈黙した。
……まあいい、すぐに分かることさ。親父、いつものように頼む
相分(あいわ)かった、鳥たちに探させよう……
黒羽の鴉は、短剣の前、ばさりと翼を広げる。
Barono de nigregaj, Stina.
ぎらりとその瞳が光る、
Vi sercas la mastro… ekzercu!
呼びかけに呼応するように、卓上の刃が微かに鳴動した。
ふむ……
鴉の両目が、まるでカメレオンのようにぎょろぎょろと目まぐるしく蠢く。しかし、それも長くは続かず、視線はすぐに一点へ定まった。鴉は真っ直ぐに東を向いて、小さく首を傾げる。
―見つけた。サティナじゃ
ほう、やはりな。となると、その『弓使い』とやらは、あの街の回し者か。サティナの何処に居る? 高級市街なら、領主に雇われた傭兵でまず間違いないと思うが
これは……妙じゃの。商人街かのう、何の変哲もない宿屋におるわい。ふぅむ、黒装束ではないが、金髪の女子も連れておる。背中を向けておるので本人の顔は見えぬが―
実況するように、虚空を見つめながら、鴉はさらに言葉を続けようとした。が、その時、机の短剣がカタカタと震えだし、部屋の空気がぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。
む、いかんッ
鴉の声に、焦りの色が浮かぶ。ばさりと翼を翻して、目の前の短剣から飛び退った。
― Sinjoro ―
部屋の中。
― Kion vi volas, huh ? ―
無邪気な、それでいて妖艶な、声が。
轟々と窓の外、風が吹き荒れる。ガタガタと揺らされる窓枠。何か不吉な予感に襲われたデンナーは、咄嗟に床に伏せた。
突風が、吹きつける。
けたたましい音を立てて、部屋の窓が割り砕かれた。飛び散るガラスの破片、ばさばさと舞い散る書類、獣の咆哮のように唸りながら、吹きこみ渦巻き荒れ狂う風。
こ、これはッ!
吹き飛ばされないよう、机の上で必死に張り付きながらも、鴉は見た。
―放置されていた短剣に、見る見る間にひびが入っていき、ボロボロに崩れ去っていく様を。
! 待て!
慌てて短剣に近寄ろうとしたところで、バシンッと音を立てて、鴉はまるで見えない手にはたかれたように、部屋の端まで弾き飛ばされる。
親父ッ!
大事ない! しかし―!
身を起こしたデンナー、その目の前でざらざらと、砂のように短剣が崩壊した。その細かな粒子は風に巻き上げられ、虚空へ誘われるように溶けて消えていく。
― Gis la revido ―
鈴の鳴るような、悪戯っ子のような、笑いを含んだ声。巻き上がる風の中に、デンナーはひとりの、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。
そして唐突に、風は止む。
…………
後には呆気にとられたようなデンナーと、部屋の隅で羽根を散らし、頭痛を払うように首を振る鴉だけが残された。
……親父、いったいどういうことだこりゃ
めちゃめちゃになった部屋の惨状に、唇を尖らせたデンナーが、咎めるような目で鴉を見やる。しかし茫然と口を開けた鴉は、
……かッ
ただ、息を詰まらせたような声を、
かッ、かッかッ、カカカッッ、カッハハハハハハッ!!
興奮してばさばさと翼を動かしながら、引き攣ったように笑い始める。
かッかッかッ、彼奴め、気付きおった! わしの『眼』に気付きおったぞ! カカカッ、傑作!! こいつは傑作じゃ!
俺には面白くもなんともないんだが……どういうことだ
書類を整理しながら、憮然とするデンナー。羽ばたいて、デンナーの肩に止まった鴉は、その横顔を覗き込むように、
魔術師じゃよ
そっと、囁いた。
件の弓使いの男は、魔術師じゃ。大精霊の加護を受けておる
大精霊?
いかにも。“妖精”や”鬼火”なんぞの子供騙しではない、強大な元素の精霊よ。この場合は、十中八九、風じゃろうが
何が可笑しいのか、鴉はくっくっくと再び喉を鳴らす。
勘弁してくれよ、親父が油断したおかげで部屋はこの有り様だぞ……
デンナーは額を押さえて、小さく溜息をついた。窓ガラスは粉砕され、家具や調度品は倒され、書類やら何やらが散乱し、部屋はまるで竜巻の直撃を受けたかのようだ。
くふッ、かッかッ。すまんのぅ、いやはや。……あの若者、興味が湧いた
トンと机に飛び降りて、鴉。ぎらぎらと輝くその双眸には、知性のそれとはまた別種の、何ともおぞましい輝きがある。
欲しい。あの精霊の力、是が非でも欲しい。どうにかして、我が物としたい。それに……。 Tiuj kiuj insidas en la sablo… alie gi estus unu el la vizitantoj…
焦点の定まらぬ目で何事かをぶつぶつと呟く鴉に、書類をまとめ上げながらデンナーは再び小さく溜息をついた。
……まあ、いいさ。とりあえず結論として、件の弓使いはサティナの関係者と見てもいいか
そうさの。凄腕の弓使い、それも魔術師など、その辺に林檎のようにごろごろと転がってはおるまい。わしら(イグナーツ)への対策として雇われた傭兵か、あるいは……。いずれにせよ、ただの偶然ということはなかろうて
うむ、と頷いたデンナーは、ぱんぱんと手を鳴らす。
すぐに扉が開かれ、黒服のメイドがしずしずと入ってくる。人形のような澄まし顔をしていた彼女たちであったが、部屋の惨状を見て、流石にその表情を変えた。
デンナー様、これは……
うむ。ちょっとした手違いで、悪戯っ子が入ってきちまってな……お前たち、掃除は任せたぞ
は、はい……
本気とも冗談とも取れぬ態度、おどけたように肩をすくめるデンナーに、メイドたちは困惑しながらも頷いた。ばさり、と飛んできた鴉をその腕に止めて、
それじゃあ、俺は屋根裏に戻る。何かあったら呼べ
かしこまりました
頭を下げるメイドたちを尻目に、デンナーは部屋を後にする。
……しかし、あの部屋の扉も、考えようによっては不便だな
カァ
複雑な装飾の施された、木の扉。螺旋階段を登る前に、ちらりと見やってデンナーはひとり小さくごちた。ただの扉に見えるそれは、実は盗聴対策として、一部の限られた音しか通さない魔法がかけられている。密談には好都合だが、裏を返せば、中で何が起きても外の人間には分からない。
螺旋階段を、登る。
かつかつ、とブーツの踵が石段を打つ音だけが響く。パヴエルが最上階だと思っていた執務室だが、その上には実は小さな屋根裏部屋がある。デンナーが自分以外の立ち入りを禁じている、完全にプライベートな空間だ。
階段の上、小さな木の扉の鍵を開けて、デンナーは屋根裏部屋に入る。デンナーの巨体には不釣り合いなほど狭い部屋には、大きめの寝台にこじんまりとした本棚、それに止まり木と、小さなサイドテーブルだけがあった。
さて、どうするかね、親父
デンナーの問いかけに、止まり木に移った鴉が首を傾げる。
……サティナへの対応かの?
それも、だが、イグナーツのことさ。……この『盗賊ごっこ』も、そろそろ終いにしていいんじゃねえか
寝台に腰かけ、肘をついて手を組んだデンナーは、真っ直ぐに赤い瞳を見つめた。
時間は充分にかけた。種も充分に蒔いた。奴隷商の仕事も、せこいクスリの商売も、諜報の真似ごとも、もううんざりだ。
最近は、サティナも取り締まりを強化してきたからな。割に合わねえから、ウチもあの街からは手を引くことを決めたばかりだ。ここで示し合わせたように、向こうが敵対行動に出てきたのも、何かのサインじゃないかと思ってな
……頃合い、かの
ああ
ぽつりと呟くような鴉に、デンナーは深々と頷く。くっく、としわがれた声で、鴉は喉を鳴らした。
……正直なところ、わしも、伝書鳩の役にはもう飽き飽きでのぅ
それは、今のお(・)ま(・)ま(・)ご(・)と(・)を止めても終わらないぜ。むしろ、今よりもっと忙しくなるんじゃないか
意地の悪い笑みを浮かべるデンナー。
まあ、件の弓使いのこともあるしの。相応に準備せねばならん
ああ……だがそろそろ、取りかかろう
相分かった。となればデンナー、わしは少し戻(・)る(・)ぞ(・)。『此奴』の世話は頼んだ
分かった
デンナーが頷くと、止まり木の鴉の瞳から、すっと赤い色が抜けて薄くなった。
……カァーッ、カァーッ
一声、二声。首を振りながらきょろきょろと周囲を見回す様子は、まるでただの鳥だ。
それを見ながら、デンナーは独り嘆息する。
まったく、モリセットの野郎。これからってときに死んじまいやがって……
イグナーツ盗賊団の構成員は数知れないが、その中でもモリセットは、デンナーとは十数年の付き合いになる最古参の『仲間』の一人だ。
思い描くのは、数週間前、幹部クラスの集まりで最後に顔を合わせたときのこと。
―お頭、俺たちがこれ以上、『盗賊』を続ける意味はあるんですかい?
モリセットはデンナーに、このように問うた。
イグナーツ盗賊団は、その名の通り、盗賊団だ。
しかし旗揚げから十余年。商売柄、女子供を攫うこともあり、その関係で盗賊団は奴隷商とのつながりを得た。限りなくブラックに近いグレーの領域ではあったが、そこで表社会への間口を確立したのだ。
それを契機に、デンナー達は、様々なものに関わり合っていった。その巧みな隠密行動から密輸や密売にも手を染め、合法・非合法を問わず薬品も扱うようになり、それらのカモフラージュとして真っ当な商売にさえも手を出した。近頃では、自分がイグナーツの手先であるということを知らずに、働いている者も多いことだろう。
そして、魔術を介した通信と活動範囲の広さは情報収集を助け、さらなる組織の拡張を可能とした。今では幾つかの街と裏取引を行い、イグナーツ盗賊団は諜報組織の真似ごとまでしている。
―巨大な、それでいて組織化された、公国の裏社会の大部分を占める存在。
それが、イグナーツ盗賊団の現状だ。
その組織の全体像を、把握している者は非常に限られている。モリセットは、そんな数少ない構成員の一人だった。彼がデンナーに疑問を呈したのは、イグナーツ盗賊団の莫大な資金源において、盗賊稼業の占める割合が余りに少なく、殆ど儲けがなかったことだ。
詰まる所、今となっては、盗賊稼業は『無駄』に過ぎぬのではないかと。
……俺たちは、“盗賊”である必要があったんだよ
しかしデンナーは、このように答えた。
所詮は盗賊だが、ついでに諜報の真似もしている。そんな姿勢を、立場を、演出しなきゃならなかったんだ
イグナーツは巨大で、強大な組織だ。しかし『表』の連中に無駄な警戒心を掻き立てて、全て敵に回してしまうと、それを相手に戦い切れるほど組織としての体力がない。
故に、油断させなければならない。所詮はただの、盗賊であると。
また、各々の街との取引のうちには、『手を結んだ領地内での活動は自粛する』というものも含まれていたため、示威行為としてもやはり”盗賊稼業”は必要だった。
―盗賊をやるなら、利益を出せ。
―その代わり、被害は出すな。
犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。デンナーはそう、モリセットに指示していた。
モリセットは特別に強いわけではないが、用心深く、狡猾な男だ。欲を出すことも調子に乗ることもなく、ついこの間まで、淡々とその任務をこなしていたわけだが、
まったく、死んじまいやがって
ぽつりと、寂しげに。
……まあ、それももう終わりだ
顔を上げ、デンナーは寝台横のサイドテーブルを、そっと撫でた。
音もなく、テーブルの表面に、幻のように地図が浮かび上がる。主要な大都市が全て収められ、リレイル地方の詳細な地形が記された、本来であれば国の最高機密とされてもおかしくないレベルの地図。
その上に、同じような幻の旗(フラグ)が立ち上がり、表面をびっしりと埋め尽くした。港湾都市キテネ、城郭都市サティナ、鉱山都市ガロン、要塞都市ウルヴァーン―それらの街に突き立つ、色や形の異なる無数の旗。デンナー達が仕掛け、ばら蒔いた、『種』の証―。
おもむろに腰を上げ、窓の外を見やる。
地平の果てまで広がる、緑の景色。
森と、そこに埋もれた、廃墟の姿。
これまで、色々なものを手に入れてきた―
巨大な盗賊団の首領として、デンナーはおおよそこの世に存在する、ほぼ全てのものを獲得してきた。
様々な金銀財宝を略奪し、女を手に入れ、金を手に入れ―今ではこうして、一城の主にまでなった。
しかしそれでも。
まだ、奪い取ったことのない、ものがあった。
振り返る。そこに浮かび上がる、幻の地図。
―アクランド連合公国。
さあ、
にやりと。
男は、獣のような、獰猛な笑みを浮かべた。
―国盗りを、始めようか
運命の歯車は、回り出す。
22. 護衛
緩やかに蛇行しながら、北へと流れるモルラ川。
その川べりに茂る、青々とした木々の間を抜けるようにして、焦げ茶色のレンガで舗装された道が真っ直ぐに伸びる。
“サン=アンジェ街道”
城郭都市サティナから、“公都”こと要塞都市ウルヴァーンまで。リレイル地方の南北を結ぶ、陸上通運の大動脈だ。
おりこうさんのマイケルは~、今日もげんきに馬車をひく~
早朝にサティナを発ったケイたちであったが、日はすでに高く昇り、隊商はそろそろ次の村に到着しようとしている。ここまで特に変わったこともなく、欠伸が出るほどに平和で、のんびりとした旅路だった。
もうかたほうのダニエルは~、ふきげんそうに見えるけど~、ほんとはとってもやさしいのよ~
隊商は二頭立ての馬車六台から成り、商人たちと、その家族や見習いが十数名、それにケイとアイリーンを含む護衛が合わせて八名の構成だった。動きは鈍いが、盗賊にせよ野獣にせよ、迂闊には襲い掛かれないような大所帯。
おひさまぽかぽか~、風も気持ちいい~、でもわたしは~、とっても~とっても~、た・い・く・つぅ~う~
小鳥のさえずりに、がらがらと回る車輪の音。それらに混じって、幼い歌声が響く。サスケに跨り、馬車の速度に合わせてゆっくりと進むケイの横、荷台の幌の影からひょっこりと、浅黒い肌の少女が顔を出した。
ねえ。わたしのお歌、どう?
―良いんじゃないかな
上手だと思うぜ
曖昧に頷くケイの隣で、草原の民の黒馬(スズカ)に跨るアイリーンが、優しい微笑みとともに頷いた。
えへへー。そうでしょー
にぱっ、と顔を輝かせた少女は、そのまま御者台によじ登り、足をぶらぶらとさせながら らんらら~おなかがすいた~ と歌い始める。韻もへったくれもないような即興の歌詞であったが、無邪気にメロディを口ずさむ姿には、それだけで見る者を和ませるような微笑ましさがあった。
エッダは本当に、お歌が好きだな
御者台で手綱を握る太っちょの男が、『エッダ』と呼ばれた少女の頭をわしゃわしゃと撫でつける。
きっと、お父さんに似たのよ?
はっはっは、そうかいそうかい
歌うのをやめて首を傾げるエッダに、楽しそうに声を上げて笑う男。
男の名を、『ホランド』という。
コーンウェル商会に所属する商人の一人で、この隊商の責任者だ。ケイたちからすれば、今回の護衛(しごと)の直接の雇用主ともいえる。でっぷりとした太鼓腹、どう見ても悪人には見えない垂れ目、トレードマークはきれいに整えられたちょび髭だ。隊商の皆からは、『シェフ』と呼ばれて親しまれているらしい。
といっても、これは英語で言うところの『料理長』ではなく、彼の生まれの高原の民の言語(オン・フランセ)で『長』という意味だ。扱っている商品のほとんどが食料品なのと、ホランド自身が美食家であることも、この呼び名と無関係ではないだろうが。
歳の頃は三十代前半といったところで、エッダのやりとりを見る限りでは、どうも彼女の父親にあたる人物のようだ。しかし、ホランド自身は肌が白く、顔立ちもエッダとは似ても似つかない。何か事情があるのだろうか、と勘繰るケイをよそに、ホランドはぽんぽんと腹を叩いて肩をすくめた。
そうだな、父さんもそろそろお腹が空いてきたぞ。だけど、もうすぐ次の村に着くから、エッダは中に戻っておきなさい。お兄さんたちの仕事を邪魔してはいけないよ
んん~
肯定とも否定ともとれぬ声。ホランドに優しく背中を叩かれながら、エッダは御者台に肘をついて、じっとケイたちを観察する。
凛々しい褐色の毛並みの馬を駆る、黒髪の精悍な若者。エッダのそれよりもさらに深い黒色の瞳を持ち、筋肉質で引締った体格をしている。全身を精緻な装飾の革鎧で覆い、左手には朱色の弓、腰には長剣、馬の鞍にはいくつか大型の矢筒を括りつけていた。
その頑強そうな肉体に比して、顔は不釣り合いなほどに童顔であったが、左頬に走る真新しい刀傷が、何とも言えない凄みを醸し出している。湖面のように静かな眼差し―どことなく、暗い雰囲気を漂わせているきらいはあるものの、エッダは不思議と 怖いひとだ という印象は抱かなかった。
その弓使いの青年の隣にいるのは、黒馬に跨る金髪の少女だ。エッダとは対照的な真っ白な肌に、透き通るような青い瞳。金糸で編まれたような髪はリボンで後頭部にまとめられ、陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。その身にまとうのは質の良い麻のチュニック、裾からは黒いズボンを履いた脚がすらりと伸びる。
あるいは、お忍びの貴族の令嬢が庶民の格好をしていると言われても、信じてしまいそうなほどに可憐な姿―しかし、背中に背負われたサーベルと木の盾が、手足の革の籠手と脛当てが、彼女もまた戦いに携わる者であることを如実に示している。エッダの視線に気づき、 うん? と首を傾げて微笑む様子からは、彼女が戦士であることなど想像もつかないのだが。
……ねえ、お姉ちゃん
おもむろに口を開いたエッダは、
お姉ちゃんが、魔法使いって、本当?
興味津々なエッダを前に、アイリーンは ふふん と胸を張った。
ああ。そうだぜ、魔法使いだ!
へぇ、すごーい! ねえねえ、魔法ってどんなの? 見せて見せて!
ん、んー。それはだな……
しかし、続いて投げかけられた無邪気な要望に一転、アイリーンは困り顔で、さんさんと輝く太陽を見上げる。
アイリーンが契約を結ぶ”黄昏の乙女”ケルスティンは、その名の通り、日が暮れてから本領を発揮する精霊だ。陽射しの届かない地下深くならともかく、昼間に野外で 顕現 することはできない。それでも一応、簡単な術の行使ならば昼間でも可能なのだが、普段のコスパの良さの反動のように触媒と魔力を馬鹿食いしてしまう。
実質的に、アイリーンは昼間に魔術が使えないのだ。
そしてこれは、明確な弱点の一つであり、大きな声で喧伝するようなことでもない。
む~……
こらこらエッダ、お姉さんがもっと困っているだろう
どうしよっかな、と唸るアイリーンを見て、ホランドがすかさずフォローを入れた。
そもそも魔法使いに魔術の秘奥をせがむのは、商人に仕入れ先を尋ねるようなものだ。あまり無理を言ってはいけないよ
えー、だって、見てみたいもん
うーむ、まあ父さんも気持ちは分かるけどな! 仕入れ先にせよ、魔術の秘奥にせよ
ちら、とアイリーンに期待の眼差しを向けるホランド。これではどちらの味方なのか分からない。
アイリーンは口を尖らせて、時間を稼いでいるつもりなのか、明後日の方向に目を泳がせている。
……今は移動中だし、夕方、野営の準備が終わった後とか、ゆっくり時間のあるときにでも見せてあげたらどうだ?
ケイが横から提案すると、 それだ! と言わんばかりにアイリーンがびしりとケイを指差した。
そうだな。今は仕事中だからな。後でなら見せてやってもいいぜ?
えっ、ほんと!?
ああ。夕飯が終わったあと、ちょっとだけ、な
指先の隙間で ちょっと を強調しつつ、アイリーンは茶目っ気たっぷりにウインクして見せる。脳筋戦士のケイとは違い、アイリーンは魔力が強い。太陽さえ沈んでしまえば、子供騙しの簡単な術なら触媒なしでも行使できるのだ。
わーい、やったー! ありがとう!
おおー、言ってみるもんだなぁ
エッダとホランドが、 いぇーい と御者台でハイタッチする。夕飯の後の楽しみが増えたぞ、とはしゃぐ二人を見て、これでは魔術師というより手品師扱いだな、と思わずケイは笑う。しかし、アイリーンは得意満面の笑みを浮かべているし、当人が満足ならいいことだ。
さあさ、エッダ。わがままも聞いて貰えたことだし、中に戻っておきなさい。もうちょっとで次の村だからね
はーい
今度は聞き分け良く、荷台の方へ戻っていくエッダ。ニコニコとそれを見届けたホランドは、その笑顔のままアイリーンに向き直った。
いやはや、ありがとう、ありがとう。行商の旅というのは、どうにも退屈なもんでね。遊び盛りのあの子は、随分と刺激に飢えているようだよ
分かるぜ。あんぐらいの子だったら、そりゃそうだろうな
全く。しかし、本当に良かったのかね? 自分で言い出しておいて何だが、魔術師は滅多に自分の業を見せないと聞く
大丈夫。見せてもいいものしか見せないから
あっけらかんとしたアイリーンの言葉に、 こいつは一本取られた とホランドは苦笑した。
なるほど、そこは商人と変わらない、か
今回はエッダの顔に免じて、特別に見物料は取らないでおくぜ
はっは、これは敵わないな
ぱしっと額を叩いて、ホランドが笑いだすが、そこに背後から響く蹄の音が混じった。
おーい、ホランド! ちょっと待ってくれ!
見れば後方、馬に乗った傭兵が、こちらに向かって手を振りながら駆けてきている。
おお、ダグマル。どうした?
どうしたもこうしたもないよ、トラブルだ
ケイたちの横までやってきて、騎乗で肩をすくめる傭兵。それは眉毛が濃い、よく日に焼けた中年の男だった。
『ダグマル』と呼ばれた彼は、この隊商では傭兵のまとめ役をやっており、ケイたちの直接の上司に当たる人物だ。ホランド曰く幼馴染だそうで、悪友とでもいうべき関係なのだろう、お互いにかなりフランクな口調で話している姿が、朝から度々見かけられていた。
何が起きた?
ピエールんとこのオンボロ馬車が、今になってイカれやがった。何でも、車軸がガタついて動けねえらしい。今、皆で修理してるが、これがしばらくかかりそうでよ。少しの間待っておいて欲しいんだわ
……それは仕方ない。が、ピエールはいい加減、新しい馬車を買うべきだな
全くだ。けどアイツ、金がねえからなぁ
やれやれと嘆息したダグマルは、しかしすぐに気を取り直してケイを見やった。
それでだ、ケイ。お前たしか力自慢だったよな? ちょっと後ろに行って、修理を手伝ってやってくれないか。馬車を支えるのに人手が必要でよ
分かった、問題ない
助かる。俺は前の奴らにも知らせてくる、この分だと村に着くのは遅れそうだな
再び小さく肩をすくめ、ダグマルは慌ただしく前方へと駆けていく。それを見送りながら、ケイはアイリーンに”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手渡した。
というわけで、俺は後ろに行くが……。邪魔になりそうだから、預かってくれ
あいよ
ありがとう
弓はアイリーンに任せ、ケイは馬首を巡らせて後方へと向かった。
ホランドの幌馬車から後ろに一台、二台、トラブルを抱えているのは、どうやら最後尾の馬車のようだ。商人の男と数人の見習いたちが荷台から重い荷物を降ろしつつ、工具や木材の切れ端を手に、後輪に群がるようにして慌ただしく修理を進めている。
ダグマルから、人手が足りないと聞いたが
おお、ありがたいっ
顔を真っ赤にして、荷台を持ち上げるように両手で支えていた商人が、救世主を見るような目でケイを見た。しかし同時に、その腕からふっと力が抜け、馬車の下で荷台を支えていた男が ぬぉっ と唸り声を上げる。
すっ、すまない、支えてくれないか!?
任せろ
商人の悲鳴のような声に、ケイはすぐさまサスケから飛び降りて、代わりに荷台を支え持った。ぐっ、と腰を入れて両腕に力を込めると、まだ少なくない量の商品を載せているにも関わらず、荷台は軋みを上げて僅かに浮き上がる。
おっ、軽くなった
下から荷台を支えていた短髪の青年が、嬉しげな声を出す。しかし、よくよく見るとこの男、どうやら商人の見習いではなさそうだった。板金付きの革鎧で身を固めている上に、腰には短剣の鞘が見受けられる。体つきも商人のそれではなく、実戦的に鍛えられた戦士の肉体だ。
(護衛か? しかし初めて見る顔だな)
腕に力を込めつつ、ケイは記憶を辿って首を傾げた。今朝、サティナを出発する前に、ケイたちは他の護衛と顔を合わせている。しかしどうにも、この青年には見覚えがない。短く刈り上げた金髪に、薄い青の瞳。肌は白く、全体的に色素が薄いように感じられる。目つきが妙に鋭く威圧的であることを除けば、その顔立ちは整っていると言っていいだろう。ピアスだらけの左耳が非常に印象的なので、仮に一度でも会っていれば、記憶に残っていない筈がないとケイは考える。
護衛の傭兵ではなく、誰かの個人的な用心棒なのか。
あるいは行商に同行しているだけの旅人なのか。
ケイが考えを巡らせていると、ふと、その青年と目が合った。