私は……隊商の責任者として、リスクは極力避けたいのだが、さりとて村の人々を見捨てたくもない
先ほどから、隊商の皆と村人たちとの間で板挟みになっていたホランドが、ぽつりと率直な考えを漏らした。
ケイ、意見を聞かせてくれないか。君はどうしたらいいと思う
そうだな……
しばし、皆の注目を浴びながら、考えを巡らせる。とはいえ、方針は既に決まっていた。アイリーンに目で問いかけると、真剣な顔で頷き返す。
……俺は、戦うことを提案する
当然のように、周囲はざわついた。 危険だ! と騒ぐ商人たちを、ホランドがすかさず手で制して黙らせる。
理由は?
逃げるのが難しい、というよりもむしろ危険だ。熊は鼻が効くし、荷馬車は暗い中だと殆ど身動きが取れないだろう? 夜、それも移動中に”大熊”に襲われるってのも、ぞっとしない話だ。それならばまだ、『来る』と分かっているこの村で迎撃した方がやり易い
う~む……。それは尤もだが
馬を二、三頭、囮として村に置き去りにして、その間に逃げるという手も考えたがな。馬やら馬車やらが犠牲になる上に、これは時間稼ぎにしかならない。人を食らったということは、人の肉の味を憶えたということだ。遅かれ早かれ、腹を空かせれば隊商の匂いを辿って追ってくるだろう。となれば次に被害を受けるのは、北の村か、あるいはユーリアの町か……いずれにせよ、戦いは避けて通れない。他の奴らになすりつけることは出来るかも知れないが
至極あっさりとした口調でえげつないことを言うケイに、アイリーンは苦笑し、ホランドは渋い顔だ。彼としても、村人は見捨てたくないが、隊商の荷馬車を犠牲にするわけにもいかないだろう。さりとて、他の人々になすりつけるのも頂けない。
しかし、戦って勝てる相手か?
今までずっと、集団の隅で黙って話を聞いていたアレクセイが、おもむろに厳しい表情で疑問を呈する。
おれは、東の辺境で何度か『大物』狩りにも参加してきたが、それは大がかりな罠と数十人規模の人手、そしてよく練られた作戦があって初めて成功するものだったぞ。入念な準備を経ても、何人もの犠牲者が出ていたのに、ましてや今回の相手はあの”大熊”だ。現状のおれたちの戦力でロクな準備もなしに、どうにか出来るのか?
出来るぜ
ケイに代わり、アイリーンが答えた。
特に”大熊”は、オレの魔術と相性がいい。そして、ケイの弓は”大熊”の皮を貫通する。時間はかかるかもしれないが、オレたち二人だけでも倒せる相手だ
断定的に、そしてどこか誇らしげに、アイリーン。
その言葉通り、魔術が使える時間帯ならば、“大熊”はアイリーンにとって御しやすい相手といえる。影を操り纏わりつかせることで、一方的に視覚を奪い去れるからだ。あとは盲滅法に暴れる”大熊”を、ケイが遠距離から削り殺せばいい。
例え生命力の強い”大熊”でも、心臓や脳を破壊されれば一撃死もあり得る。暴れている間に村の施設に多少被害が出るかもしれないが、残りの者は遠巻きに見守ってさえいれば、巻きこまれることもないだろう。相手が群れていると魔術の対象が増え、魔力と触媒の都合上そうそう使えないが、この卑怯極まりない戦術は、単体相手ならば殆ど全てのモンスターに有効だ。
しかし、『目潰し』が通用しない敵も、やはり存在する。それが”森大蜥蜴”を含む爬虫類系のモンスターだ。熱感知器官を有する彼らは、元々目が悪いことも相まって、視覚を封じても正確な攻撃を繰り出してくる。
そういった側面から、今回の相手が”森大蜥蜴”ではなく”大熊”だったのは、ある意味で僥倖と言えた。
なるほど、魔術があったか……
どうにかなるかも知れんな……
アイリーンの魔術に絶大な―過剰とすら言える信頼を置いている隊商の面々は、幾らかの希望を見出したようで表情を明るくする。対して、事情を知らぬ村人たちは、大言壮語する金髪の少女とそれに納得する商人たちを見て、むしろ不安の色を濃くしていた。
この娘は何を言ってるんだ? あの化け物をたった二人でだと?
えっへん、と胸を張るアイリーンに、胡散臭げな目を向ける村人たち。
いや、このお嬢さんは、実はこう見えて実は魔術師でな
それも、大規模な麻薬組織を一人で壊滅させた腕利きだぞ
すかさず商人たちが知った顔でフォローを入れるが、それでも怪しむような雰囲気は消えない。
ま、百聞は一見にしかずと言う。お嬢ちゃん、一丁かましてやりな!
先ほどまでの怯えは何処へやら、調子に乗った商人の一人がアイリーンを煽る。一体何をかましてやれというのか。しかしアイリーンもそれに乗っかり、
そうだな。とりあえず、熊野郎の位置でも探ろうか。今どこに居るのかが分かれば、作戦も立てやすいだろ?
そう言って、ケイの手から”大熊”の毛を拝借し、逆の手で胸元から触媒を取り出す。
Mi dedicas al vi tiun katalizilo.
とぷん、と足元の影に、水晶の欠片が呑み込まれる。
Maiden krepusko, Kerstin. Vi sercas la mastro, ekzercu!
ぶるりとアイリーンの影が震え、真っ直ぐな漆黒の線となって森の方へ伸びた。 追跡 の魔術。村人たちは目を丸くして、商人たちはワクワクした様子で、ケイは無表情で、それぞれ見守る―
―って、あれ?
しかし、すぐに人型に戻った影を見て、アイリーンが間抜けな声を上げた。アイリーンの足元で、お手上げのポーズを取って見せた影絵の淑女は、近くの地面に指で字を描く。
『 Antau okuloj 』
浮かび上がった文字に、ケイとアイリーンは同時に顔を引き攣らせた。
なんだ? どうした?
何て書いてあるんだ?
皆の質問に答えるよりも早く。
ズン、と。
森の奥から、重い音。
どうやら、お喋りが過ぎたようだな……
冷静なケイの呟きをよそに、壁の修復をしていた村人たちが、この世の終わりが訪れたかのような顔で村の中に戻ってくる。
ズン、ズンと近づいてくる地響き。そこに、木々の倒れるメキメキという音が混ざる。
……ご本人のお出ましだぜ
はっ、と笑みを浮かべるアイリーン。
森の暗闇から、赤い瞳の化け物が、ぬっと姿を現した。
―デカい。
その場に居合わせた者の思考は、その一言に集約される。
暗赤色の毛皮。首周りの白い斑点模様。盛り上がった肩の筋肉。口から突き出た鋭い牙。一本一本が草刈り鎌ほどもある長い爪。
体長は、優に4mを越えるだろう。若い個体―とケイは言ったが、『森の王者』と称されるに相応しい力強さが、周囲の空間に滲み出ている。
村の手前で立ち止まった”大熊”は、人間たちを睥睨するかのように目を細めた。
そして、グオオオオッと威嚇するかのように、凄まじい声量で、吠える。
空を圧する轟音に、護衛の戦士は震え上がり、商人と村人は腰を抜かし、荷馬車の馬たちが恐慌状態に陥った。
下肢にぐっと力を込めた”大熊”は、さらなる咆哮を上げながら、土煙を巻き上げて村に突撃する。木材で修復されかけていた壁の穴を文字通り木っ端微塵にし、人間たちには目もくれず、目指すは村の奥。並べられた荷馬車と、それに繋がれた馬達。
獣は、腹を空かせていた。
そして昨日喰らった、獲物の味を思い返していた。
―貧弱な二足歩行の猿よりも、肥え太った四足獣を。
なんと素晴らしいことか、今日の狩り場にはご丁寧にも、ずらずらと旨そうな獲物が並べられている。歓喜の咆哮を上げながら、“大熊”は走った。
それに対し、ケイは動く。
ピィッ、と吹き鳴らされた指笛に、近くの小屋の陰にいたサスケがいち早く馳せ参じる。その背に飛び乗りつつ、しばし右手を彷徨わせたケイは、鞍の矢筒から一本の矢を抜き取った。やたらとカラフルな装飾の、ややぼってりとしたデザイン―矢職人モンタン特製の『鏑矢』だ。
一息に引き絞り、打ち放つ。
ピューィピーッピロロロロと賑やかに、“大熊”の鼻先に鏑矢が飛来する。隠すつもりのない一撃、身を刺すような殺気、思わず反応した”大熊”は反射的に前脚で矢をはたき落とした。
折り砕ける鏑矢、しかし獣の足は止まる。胡乱げな赤い視線の先、そこには褐色の馬に跨る弓騎兵。自らの威容に怯えもせず、ただ醒めた目を向けてくる一人と一頭。
その、あまりにも冷静な態度が、森の王者の誇りに傷を付けた。先ほどの鋭い殺気も、あるいは十二分に脅威であったか。彼は、目の前の小さき者を、『敵』であるとはっきり認識した。
改めてケイに向き直り、“大熊”が全身の毛を逆立たせる。後ろ足で立ち上がり、万歳をするかのように両手を天に掲げた。それは、己の身体をさらに大きく見せるための威嚇行動。がぱり、と真っ赤な口腔が開かれ、
―!!!
再び、鼓膜が破れそうな咆哮。幾人かの村人が気を失い、隊商の馬が逃げ出そうと暴れ始める。
しかしそんな中、ただ一頭、サスケだけが”大熊”の目の前で平然としていた。
あるいは、彼はよく知っていたのだ。
自分の背に跨る主人の方が。
吠えるしか能の無い獣より、余程おっかないということを―。
サスケの背で、ケイは弓を引く。そこにつがえられた、青い矢羽の矢。モンタンに特注した、ロングボウ用の『長矢』だ。
“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の最高の威力を引き出すために、全力で弦を引き絞ったケイは、冷徹な目で”大熊”を睨む。
ぴぃんッ、と冴え渡った空気の中、周囲の者たちは、ケイと”大熊”の間に引き結ばれた一本の線を幻視した。
解き放つ。
銀光が迸る。
真っ直ぐに、しかし”隠密(ステルス)“により一切の殺気を持たぬそれが、“大熊”の左胸に吸い込まれた。
―オオオォォ!?
驚愕とも困惑ともとれる叫びと共に、胸に手を当てた”大熊”が大きくよろめく。そしてそのまま転がるようにして、森の方へと遁走し始めた。
が、数歩と走らぬうちに、その脚からふっと力が抜け、顔面から地面に崩れ落ちる。
ズ、ズンッと地面を揺らす音。呻き声を上げながら、もぞもぞともがいた”大熊”はしかし、ごぽりと鮮血を吐き出した。徐々にその動きを弱々しいものにして、やがて完全に動きを止める。
ふむ、
用意していた第三の矢を、矢筒に仕舞いながらケイは呟く。
―どうやら、運良く心臓を破裂させたみたいだぞ
まるで他人事。ぽかんと口を開けていた皆の頭に、その言葉が沁み入っていく。
そして―時間と共に、それが理解へと変わる。
おお……おおおおお!
最初に快哉の叫びを上げたのは、護衛の戦士の一人だった。そして理解の追いついた者から順に、頬を紅潮させて叫び始める。おっかなびっくりで”大熊”の死体に近づくホランド、未だ呆気に取られたままのダグマル、他の村人と抱き合って涙を流すエリドア、 たった一矢で”大熊”を仕留めるなんて、聞いたことがねえぞ! と大興奮のアレクセイ。
ただ、熱狂する面々をよそに、
……オレの出番ねーじゃん
アイリーンは一人、ケイに向けて苦笑いしていた。
†††
その後は、ケイの指示のもと、“大熊”の解体タイムとなった。
ここ一番の脅威は駆逐したものの、村の壁に大穴が開いていることには変わりないので、盛大に篝火を燃やしながらの作業だった。毛皮は極力傷を付けないように剥ぎ取り、魔道具の材料となる目玉をくり抜き、牙や爪も採取しつつ、薬の材料になる一部の内臓を保存する。元が巨体なだけに作業は困難を極めたが、村人と護衛の戦士と商人見習い総出で力を合わせ、何とか無事に終わらせることが出来た。
生ける伝説とも言える”大熊”の素材。特に毛皮は、莫大な利益を生むだろう、というのがホランドの見立てだった。
こんなに状態の良い毛皮があるか! 剥製にしたらとんでもない値がつくぞ……!
ウルヴァーンに着いたら期待していてくれ、とホランドは興奮気味だ。
今回、この”大熊”はケイが独力で仕留めたものなので、そこから生まれる利益はケイが独占する運びとなったが、それに異議を申し立てる者は一人もいなかった。熊の肉を鍋にして焚き火を囲みつつ、商人たちが酒を振るまい、一同は夜遅くまで宴会と洒落こんだ。
そして、宴もたけなわになった頃。
皆に英雄として持ち上げられ、しこたま酒を呑まされたケイは、べろんべろんに酔っ払ってテントの中に寝転がっていた。
あ~、もうダメだ~、呑めない、ぐるぐる回る~
ケイはだらしないなーもうダウンかよ
顔を真っ赤にしてうんうん唸るケイの隣で、こちらも呑み過ぎて少々顔の赤いアイリーンが、くすりと頬をほころばせた。
……いやぁ。それにしてもケイ、よくやったな
う~ん。まさかな~俺も、一撃で倒せるとは思わなかった~。運が良かったな~
にへら、と上機嫌な笑みを浮かべるケイ。酔っ払ってはいるが、その言葉は、紛れもなく本心からのものであった。
あそこでなぁ~、ヤツがトチ狂って威嚇してきたからなぁ、やりやすかった~
あんなおいしいシチュエーション、滅多にないよなぁ
だなぁー、そうじゃなきゃ、心臓なんて狙い撃ちに出来んよ~
最初に放った鏑矢のように、普通に矢を放っただけでは、空中ではたき落とされてしまうだろう。“大熊”には、それが出来るだけの身体能力と反射神経がある。しかし今回の”大熊”はまだ若く、経験が足りていなかった。仮に老練な個体であったならば、飛び道具で攻撃してきたケイを前に、隙を見せつけるような真似はしなかったであろう。
半笑いを顔に張り付けたまま、しばしテントの布地を見つめていたケイだが、不意に 決めた! とアイリーンに向き直る。
なあ、アイリーン。俺、決めたよ
うん? 何をだ?
俺は、狩人になろうと思う!
突然のケイの宣言に、アイリーンは目を瞬かせた。
……っていうと?
今回みたいに、害獣に困っている人たちを助けて回るのさ
どうだ、素敵だろ、と言いながら、ケイは子供のように無邪気に笑う。
―満ち足りた気分だった。
今までの人生を振り返って、ここまで他人に褒められ、感謝されたことがあったであろうか、とケイは酔った頭で考える。
今までは、どちらかというと、ただ生かされているだけの生だった―。
それを後生大事に抱えて、まるで消えかけの蝋燭の火を守るかのように、いつ吹くとも知れぬ突風に怯えながら、ケイは生きてきた。
しかしただ漫然と、平和と安全の中で、それを守るだけで朽ちていく生は、果たして生と呼べるのか。
―それはあるいは、死んでいるのと大して変わらぬのではないか。
それに対して今はどうだ―と、ケイはそんな風に考える。こんなにも充実している。輝いている。世界がきらきらと祝福してくれているかのように。
リスクを抱えて、赤の他人の為に自身の身を危険に晒そう、などと、少し前の自分なら思いもしなかっただろう。だが今は、『命を賭ける』という言葉に、陶然とするような魅力すら感じていた。
みんなに褒められて、感謝されて、生きていけるなんて……素敵じゃないか
承認欲求―という言葉が、脳裏をかすめた。だが、構いやしないと思った。それの何が悪い。どうしていけない―。
うん。いいと思う。本当に、素敵だと思うよ
優しい口調で、アイリーンは肯定した。にこにこと、慈しむような笑みとともに。
ひどく強烈な眠気に襲われながら、ケイは微笑み返した。
だろう? ……だからさ、アイリーンも、……応援してくれ
うん。応援する
……ありがとう
笑みを浮かべたまま、吸い込まれるようにして、ケイは眠りに落ちていった。
ふふっ
愛おしげに、その寝顔を見守るアイリーン。
……おやすみ、ケイ
そっと手を伸ばして、優しく、ケイの頭を撫でた。
†††
とある幌馬車の荷台で、幼い少女は布団にくるまっていた。
ぱちぱち、と篝火の火が弾ける音。少女は手の中で鏡を弄びつつ、幌に炎の明かりを反射させて遊んでいた。
―と、鏡の中に、長衣を羽織った老婆の姿が映り込む。
おや、エッダや。まだ眠ってないのかい?
……おばあちゃん
よっこらせ、と荷馬車に這い上がってくるハイデマリー。鏡をそっと枕元に伏せながら、エッダは小さく寝返りを打った。
ふふ。だめじゃないか、それで遊んじゃあ
優しくたしなめたハイデマリーが、鏡を取り上げて荷台の箱の中に仕舞う。
ホランドに見つかったら怒られるよ
……気を付けるから大丈夫だもん
これこれ
ふてぶてしいエッダに、思わず苦笑するハイデマリー。エッダの隣で布団にくるまって、長い溜息をつく。
……今日は、本当に驚いたねぇ
ねー!
エッダは目をきらきらと輝かせている。
ケイのおにいちゃん、すごかった!
―“大熊”が姿を現したとき、エッダは幌馬車に乗っていた。
こちらに全力で向かってくる化け物の姿に、気絶しそうなほど恐怖した。
だが、そうであるからこそ、“大熊”の前に立ちはだり、たったの一矢で仕留めてしまったケイが英雄のように見えた。
―いや。
間違いなく、エッダにとって、ケイは物語の中の英雄そのものであった。
全くだね。彼は本当に、大した人物だよ……
同じく、命拾いをしたハイデマリーも、口にこそ出していないがエッダと同じ感想を抱いていた。
…………
しばし、沈黙が続く。エッダは興奮した様子で、何度も何度も寝返りを打っていた。
……眠れないのかい?
……うん。どうしても、今日のことかんがえちゃうの
幼い心に、ケイのおにいちゃん、かっこよかったな、という考えが浮かび上がる。
そして次に、アイリーンの笑顔が浮かび、それは儚くも脆く崩れ去った。
……ね、おばあちゃん。何か、お話してよ
お話、ねえ
エッダのリクエストに、ハイデマリーは ふむ としばし考え込んだ。
……そうだね。それじゃあ、『現身の鏡』の伝説を、お話してあげようかね
うつしみのかがみ?
そう。これは不思議な鏡と、とある男の物語さね。……昔々あるところに、一人の男が居た―
ハイデマリーは、語り出す。
その男はとても体が弱くて、いつもベッドに寝てばかりいた。ほとんど動くことも出来なかった彼は、英雄の話が大好きで、竜を倒した騎士や、戦争で活躍した戦士の話を、家族にせがんでばかりいた。
だけどある日、彼の暮らしていた国で本当に戦争が起きて、生活は苦しくなり、家族が彼に構う時間は、だんだんと少なくなっていった。暇を持て余した彼は、仕方なく日がな一日、空想をして楽しんで、いつしか、夢の中で遊ぶようになった。
夢の中では、彼は英雄だった。戦争で活躍する立派な戦士だった。強く、勇敢で、今の自分とは、似ても似つかぬほど逞しい身体。自分はそうであると思い込んで、彼は一日の殆ど全てを、夢の中で過ごしていた―
ハイデマリーの穏やかな語り口に、エッダは小さく眉根を寄せた。
……悲しいね。そのひと
ハイデマリーは、小さく笑う。
……そうだね、そのままだったら、彼はただの悲しい人だった。
でもある日、彼は不思議な夢を見る。一枚の、自分の身の丈ほどもある、大きな鏡。それと向かい合う夢だった。
鏡には、ひとりの勇ましい戦士が映っていた。それを見た彼は、『ああ、これこそが自分だ』と、そう思ったんだよ。その戦士は、日ごろ彼が夢見て、自分自身だと思い込んでいた、空想の姿そのままだった。
そして、その夢から目を覚ました時―彼の身体は、夢にまで見た戦士のものに、本当に変わっていた
ここで、一息つく。
……彼が夢で見たのは、『現身の鏡』。古の時代に天の使いによってもたらされ、そして喪われたという伝説の遺失物。
その鏡は何処までも無垢で、人の魂の姿を映し出すという。彼は、長い長い間、夢を見過ぎたせいで、魂そのものが変わってしまっていたのさ
……だから、自分が思っていたような、英雄になっちゃったの?
そう……『英雄の姿』を、彼は手に入れた。そして、彼は自分が空想していた通りに、まるで英雄のように強かった―。
元気になった彼は、自分が思い描いていたように、意気揚々と戦争に出かけていった。そして名を上げ、武功を上げ、見る見る間に出世していった……
へぇ! それでそれで?
……そして彼は、戦争で死んだ
ハイデマリーの一言に、エッダの笑顔が固まった。
……なんで?
流れ矢に当たって、死んでしまったんだよ。彼は英雄のように強く、英雄のように活躍したが、物語そのままの英雄―主人公では、なかったんだよ。彼はどんなに強くても、一人の人間に過ぎなかった……だから、偶然で、つまらないことで、死んでしまった
…………
やはり人間、身の丈に合った生き方がある、という話だねぇ……
ふぇっふぇ、と声をあげて、ハイデマリーは小さく笑う。対して布団をかぶったエッダは、 むぅ と難しい顔をした。
……ケイのおにいちゃんは、英雄かな
やがて、ぽつりと。
頭上の幌と、篝火の炎に揺れる影を眺めながら、エッダは呟いた。
……どうだろうねぇ
答えたハイデマリーは、
……そうだね。彼は、英雄だよ
そう言って、優しくエッダの頭を撫でた。
少なくともわたしらにとっては、ね……。今日の彼は、本当に勇敢だった。彼なら英雄になれると、わたしはそう思うよ。
さ、エッダや。そろそろ眠りなさい。明日の朝も、早いんだからね
……うん
大人しく目を閉じて、エッダは布団をかぶり直す。
……おやすみ
おやすみなさい
夜は、更けていく―。
†††
翌日、酷い二日酔いに苦しみながらも、隊商は村を出発した。
村人総出で、見送りをされながらの出立だった。少し気恥ずかしく、頭痛を抱えてはいたものの、ケイはそれに快く応えた。
昨日決意したことを、改めて心に強く刻みつけながら―
そこからは、再び拍子抜けするほどに、平和な道のりだった。
特にこれといった獣に遭遇することもなく、一日をかけて、夕方には次の村に到着する。
漏れなくそこでもケイの英雄譚が語られ、巨大な”大熊”の毛皮が披露され、一時は村中の人々がケイの元に集まり、村娘にチヤホヤされるケイにアイリーンが嫉妬し―等々あったものの、おおむね問題なく一日は終わった。
『それ』が起きたのは、翌朝のこと―
早朝、目を覚ましてテントから出たケイを、出迎える青年の姿があった。
アレクセイだ。いつになく真剣な表情。
どうしたのか、と訝しむケイを前に、アレクセイは腰の短剣を抜いた。
きらりと輝く銀色の刃を眼前に掲げ、重々しく口を開く。
―雪原の民の戦士、セルゲイの子、アレクセイ
朗々と、響き渡る低い声、
貴殿、朱弓の狩人ケイは、共にひとりの乙女を追い求む、我が恋敵である
は? と混乱するケイを置き去りして、アレクセイは口上を続けた。
故に、我が祖、アレクサンドルの名に於いて、
じっと、水色の瞳が見つめる、
―貴殿に、決闘を申し込む
それなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある。
28. 決闘
―貴殿に、決闘を申し込む
アレクセイの言葉に、ケイは二の句が継げなかった。
ゲーム内であれば決闘と称して、一対一(タイマン)での勝負を持ちかけられたことは何度もあったが―リアルでやられるのは流石に初めてだ。
返答や如何に?
短剣を突き付けたまま、飽くまで慇懃な態度のアレクセイ。その様子を見るに、万が一にも冗談ということはあるまい。
未だ混乱のさなかにあるケイと、堅い表情を崩さぬアレクセイ。しかも片方が抜き身の短剣を突き付けているとあれば、ただならぬ二人の雰囲気を察したのか、隊商の面々や村人たちがわらわらと周囲に集まってくる。
どうしたどうした?
恋敵同士で決闘だとさ
ほう、痴情のもつれかね
ひそひそと言葉を交わす野次馬たち。彼らの視線にこの上ない居心地の悪さを感じながらも、ケイは 決闘? とオウム返しにする。
然り
ケイの目を真っ直ぐに見据えたアレクセイは、重々しく頷いた。
なんでまた急に
貴殿は、我が恋敵であるが故に
それ以上の言葉は不要、と言わんばかりの不遜な態度に、ケイも閉口せざるを得ない。
あーあー出やがった、雪原の民の悪い癖だよ……!
と、野次馬の片隅、ダグマルが頭痛を堪えるように頭を抱える。
……悪い癖、というと?
決闘だよ! トラブルがあれば決闘! 色恋沙汰で決闘! 犬が吠えても決闘!
呆れ果てた表情で、ダグマルは天を仰いだ。
何でもかんでも、腕っ節だけで解決しようとすんのさ。恋愛関連は特にそれがヒドい。雪原の民は一夫多妻制で、『強い男こそ良い嫁を貰うべき』って考え方でな。決闘による略奪婚も容認されてるんだよ。いい女がいれば婿の座を巡って、もれなく奪い合いが起きるって寸法だ
は、はぁ……
ダグマルの解説に、ケイはただ、気の抜けた相槌を打つしかない。どちらかといえば、恋愛に関してはロマンチストなケイからすれば、到底有り得ないような考え方だ。
……しかし実際のところ、どうなんだそれは。俺たちが闘ったところで、最終的に相手を選ぶのはアイリーンじゃないのか
仮に全く関係のない男が勝利したところで、それが女性の心にどう響くというのか。あるいは雪原の民の間では、選ばれる側の意思が介在する余地は無いのだろうか。眉根を寄せて、ケイは率直な疑問を口にする。
それに対しアレクセイは、ここにきて初めて慇懃な態度を崩し、 さも当然 と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
惚れた男が情けなくボコボコにされりゃあ、百年の恋だって冷めるだろ?
おどけるような薄ら笑いと、瞳の中に踊る悪意の光。
……ほう
静かに、そして微かに。口の端を吊り上げて、ケイは曖昧な笑みを浮かべる。面と向かって言い放つということは、つまりはそういうことだろう。
安い挑発だ、と平静を保とうとしながらも、胸の内側にどろりとしたものが広がるのを止められない。ケイは決して喧嘩っ早い性質ではないが、これは少々頂けなかった。この軽薄な態度も、自分が勝つと信じて疑っていない傲慢さも、アイリーンを景品扱いしているところも、その全てが気に食わない。
―というか元からコイツは、何かと癪に障る奴だったな。
“不倶戴天”という言葉を連想する。
一瞬の瞑目ののち―その表情をさらに濃いものとして、ケイは悪感情を抱くことに躊躇いを捨て去った。
それぞれ趣の異なる笑みを浮かべて―
沈黙のままに、二人の男は対峙する。
ぴん、と張り詰めた空気は俄かに冷たく。
立ち込めた朝靄も凍りつくかのようだ―
…………
最初は面白半分に二人を取り囲んでいた野次馬たちも、今では足元から這い上がってくるような寒気に口を閉ざし、固唾を飲んで見守るばかり。
……ま、まあ、と言ってもそれは雪原の民の風習だ。ケイは……あー、その、草原の民か平原の民か知らないが、とにかく出自は別だろ。ここは北の大地じゃないし、となれば、別に決闘に応じる必要は無いわけで―
へらへらと半笑いを浮かべたダグマルが、二人の間に割って入る。
受けて立ったところで、ケイにはメリットもないし、応じる必要なんかどこにも―
そうだ、別に応じる必要はない
指先で短剣を弄びながら、腕を組んだアレクセイが、ダグマルの声にかぶせるようにして言う。
北の大地なら、決闘から逃げれば、もれなく臆病者の謗りを受けることになる。が、あんたは雪原の民じゃないし、そもそも、“大熊(グランドゥルス)“を一矢の下に討ち取った英雄だ……。今回の決闘を断ったところで、誰もあんたのことを臆病者扱いはしないだろうさ
ケイの眉根がぴくりと動く。朗々と語られるアレクセイの言葉は、どこか反語的であるように感じられた。
―なので、こちらから条件を付けさせて貰おう
すっ、と。
アレクセイは指を三本、立てて見せる。
一つ。おれの武器は、剣と盾のみとする
まず、己の得物に制限を科した。
二つ。決闘は、五十歩の距離から始めるものとする
その上で、間合いを投げ捨てる。そして、
三つ。代わりにあんたの武器は、自由とする。剣でも、お得意の弓矢でも、好きに使うといいさ
不敵な笑みで彩られたアレクセイの宣言に、野次馬たちが大きくどよめいた。特に、ケイの弓の威力を直に目の当たりにしている隊商の面々は、 命知らずな…… と驚きの表情を浮かべている。
……舐められたもんだな。弓だと手加減できないぞ
知らずと、ケイの口から、そんな言葉がこぼれ出ていた。
うっかり手が滑れば―と、攻撃的なニュアンスを漂わせる呟きに、アレクセイは小さくお手上げのポーズを取る。
接近戦だと、余りにもあんたに不利だ。弓使いに剣で勝っても面白くも何ともないし、あんたの『全力』を打ち破らないと意味がない。―それに、
ニィッ、とその笑みが凶暴さを増す。
―勝負の後に、『弓さえあれば』なんて言い出されたら面倒だ。言い訳の余地は潰しておかないとな
……。大した自信だ
まぁーな。たしかに、あんたの弓は脅威的だ。しかし雪原の戦士は、剣も盾も弓も槍も斧も、全て扱えてようやく一人前とされる。その中でおれが剣と盾を選んだ理由ってのを、あんたに身を持って教えてやるよ
ほう。それは楽しみだ。しかし……ご自慢の剣だか盾だか知らないが、叩き壊されても文句は言うまいな?
ハハッ。ということはこの申し出、受けて貰えるのか?
心から嬉しそうに―アレクセイの表情は、もはや獣のそれだ。改めて問われたケイは、今一度リスクとリターンを心の秤にかける。
それが、余りにも軽く、無に等しいものであるにも拘らず―天秤はがくりと片方に傾いた。
メリットがないことなど、分かり切っている。
実際のところ、癪に障る話だ。断れば、アレクセイは大人しく身を引くだろう。だが代わりに、ケイのメンツには傷が付くことになる。逆に、受ければ、アレクセイの思う壺だ。奴の掌の上で踊らされるのかと思うと、それだけで腹が立つ。
―どっちに転んでも腹立たしいなら、ブン殴れるだけ闘った方がマシではないか。
醒めた、それでいて沸騰するような心情で、ケイはそんなことを考える。ここまで挑発されて受けて立たなければ、男が廃るというものだ。
(それに、―俺は狩人だ)
ケイは、狩人として身を立てることを決めた。それも、ただの猟師ではなく、“大熊”のようなモンスターを相手取る『大物狩り』として。
―ならば、目の前の狂犬如き、始末できずに何とする?
―ちょぉぉっと待ったぁぁ!!
意を決してケイが口を開こうとした瞬間、外野から叫び声が上がった。どすどすと足音を立てて、ホランドが駆け寄ってくる。
決闘だと!? 責任者を置いて、勝手にそんな話を進められても困る!
咎めるような口調のホランド、その怒りの矛先は、どちらかといえばアレクセイに向いているようだ。
いや、これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない
関係ないわけがあるか! 私はこの隊商の責任者で、彼は護衛の戦士だ! あと半日とはいえ、まだ仕事が残ってるんだぞ!
そう、あと半日なのが問題なんだ。今を逃したら闘い辛くなる
お冠のホランドなど、どこ吹く風のアレクセイ。
隊商はこのまま北上すれば、半日とせずに要塞都市ウルヴァーン―その外縁部に到着する。護衛任務が正式に完了するのは市街区に入った後であるため、決闘を挑むにしても、適切な場所が見つけ辛くなることをアレクセイは懸念しているのだろう。
その点、現在隊商が逗留しているこの開拓村は、都市部に近いので比較的安全で、尚且つ広い場所も見つけやすい。先ほど提示した条件で決闘を挑むならば、成る程、この村に居る間が好機であるといえた。ウルヴァーンに着いた後に、再び外へ出向いて決闘を―という手も勿論あるが、わざわざそんな面倒な真似をしてまで、ケイが決闘に応じるかはまた別問題だ。
しかし―
仮に、彼が仕事に支障をきたすような事態になれば、代わりにおれが護衛をやろう。勿論、報酬はいらない
まだ何かを言い募ろうとするホランドに、面倒くさそうに頭を掻いたアレクセイが向き直る。
また、他にも何か問題が起きた場合は、おれがそれに関する全責任を負うことを、祖アレクサンドルの名に於いて誓う
短剣を掲げたアレクセイの宣誓に、ホランドは困り顔で視線を彷徨わせた。
……なあ。ダグマル、どう思う
……俺に振られても、なあ
こちらも渋い顔で、ダグマル。
正直、個人的には、お互い同意の上ならさっさと終わらせてくれ、って話なんだが……正(・)規(・)の(・)手(・)続(・)き(・)を踏まないトラブルの方が、よっぽど面倒だからな
じっとりとした目で、アレクセイとピエールを見やるダグマル。アレクセイは素知らぬ顔だが、野次馬の中に居たピエールは気まずげに視線を逸らした。
……一応、護衛のまとめ役としての意見を聞きたい、ダグマル
う~む。まあ、こっちの脳筋野郎はどうでもいいとして、問題はケイか。一昨日の村みたく、“大熊”なんて出現すりゃ話は別だが、……それ以外なら、ケイ抜きでも支障はないな。元々六人でやってたわけだし、いざとなりゃ姫さん(アイリーン)の魔術もある
そうか、……二人とも。人死には出さないんだろうな?
髭を撫でつけながら、どこか疑わしげな様子で、ケイとアレクセイを見やる。
…………
それに対し、二人の若者は不気味な沈黙で答えた。
おいおい……なら当然、許可は出せないぞ
気を付けよう
善処するぜ
即答する二人。やれやれと頭を振ったホランドは、 勝手にしたまえ と溜息をつく。
それでは、改めて……
上機嫌なアレクセイは、ゆっくりとケイに向き直った。
貴殿に、決闘を申し込む
いいだろう、受けて立つ
堂々たる宣言に おお…… と聴衆たちがどよめき、アレクセイは満足げに頷く。
よし。条件は、さっきの通りでいいな。場所に関しては―
ん~なんだよもう煩いなー
―と、背後のテントがガサゴソと。
振り返れば、アイリーンが目を擦りながら外に出てきていた。
……って、あれ?
対峙するケイとアレクセイに、テントを取り囲む野次馬たち。場のただならぬ雰囲気に気付いたアイリーンは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
……どういう状況?
説明を求めるようにこちらを見やる彼女に、ケイは ふむ と考えて、
すまんが、お前を巡ってちょっと決闘することになった
†††
当然のように、アイリーンは反対した。
意味分かんねえよ! オ、オレを、めめめ巡って決闘だなんて、そんな……!
村人に借りた納屋の中、ゴスゴスッ、とケイは脇腹にツッコミの嵐を食らう。怒るやら恥ずかしがるやらで、アイリーンは大変な有様だ。
まったく! 勝手に大事な話を進めやがって! こっちの気持ちも考えろってんだ! そ、それにオレは、……今さら、そんなことしなくたって……
頬を染めて、指先をいじりながら、何やら一人照れ始めたアイリーンをよそに、ケイは深刻な顔でじゃらじゃらと鎖帷子を着込む。
すまん。あそこまで挑発されると、我慢ならなかった
腰のベルトに剣を差しながら、その声に幾らかの後悔を滲ませて、ケイはアイリーンに謝った。決闘のせいで隊商の出発が少し遅れており、アイリーンを含む多方面に迷惑をかけている。時間が経って頭が冷えるにつれ、あの場面ではスルーした方が大人な対応であった、と思い直し始めたのだ。
しかし、それと同時に『正規の手続きを踏まないトラブルの方がよっぽど面倒』という、ダグマルの言葉も思い出してしまう。
万が一、アレクセイが暴挙に出たらどうなることか―。有り得ない、とは言い切れないのが、あの男の厄介なところだ。アイリーンは高レベルの自衛能力を備えているので、ちょっとやそっとの事では攫われないだろうが、その過程で何が起きるのか―
(―クソッ、つまりは全部アイツが悪い!)
苛立たしげに革鎧を装着し、グローブをはめるケイ。一方で、その腰の剣の鞘や矢筒に目を落としたアイリーンは、心配げな顔で、
……真剣勝負、なんだろ?
そう、だな
やっぱり、止めない?
それも考えたんだが
アイツは多分、口で言っても聞かないだろ、と。ケイの言葉に、アイリーンはさもありなんという顔で、 クソッ、全部アイツが悪い! とケイと同じような結論に達した。
ケイは……怪我、とか……、しないでくれよ
安心しろ。俺はむしろ、どうすればアイツを怪我させないで済むか、逆に心配してるところだ
革兜をかぶりながら、ケイはシニカルな笑みを浮かべる。
―弓で手加減をするのは、本当に難しい。
ケイとしても、決闘には勝ちたいが、アレクセイを殺してしまいたいわけではない。
しかし、生半可な攻撃では、奴は止まらないと予想している。
だからといって、充分な威力を秘めた一撃では、今度は致命傷になってしまう。
そして―これが最重要だが、アレクセイ如きのために、残り少ない魔法薬(ポーション)は使いたくない。
困ったもんだ、全く
最後に首元で顔布の紐を結びながら、ケイはおどけて小さく肩をすくめてみせる。
…………
それでも、アイリーンの不安げな表情は消えない。くしゃくしゃと、艶やかな金髪を撫でつけたケイは、 大丈夫 と安心させるように、軽く言ってのける。
弓さえ使えれば、剣士に負けることはない。さ、あまり皆を待たせても何だからな。ちゃっちゃと行って、ちゃっちゃと終わらせよう
装備を点検し、問題がないことを確認したケイは、アイリーンと連れ立って納屋を後にした。
目指すは、村はずれの川沿い。五十歩の距離を真っ直ぐに取れ、かつ足場が悪くないという条件の下、河原が果たし合いの場として選ばれたのだ。
辿り着いてみれば、隊商の面々がほぼ全員と、この小さな村のどこにこれだけ住民がいたのか、と思ってしまうほど多くの村人が集まっていた。鎖帷子に革鎧、そして異様な朱色の複合弓を手にした完全武装のケイの姿に、すでに酒などを酌み交わして出来あがっていた村人たちがさらに沸き立つ。
よ~ぉ、遅かったじゃねえか色男ー!
聞き慣れたダミ声。見やれば、顔を赤くしたダグマルが手を振っていた。地面に外套を敷いて座り込み、近くの村人たちと葡萄酒を酌み交わしているようだ。
待たせたかな
また呑んでるのか、と苦笑しながらも、ケイは視線を左右に彷徨わせる。集まった観衆の中に、金髪の青年の姿を探した。
……奴は?
まだ来てねえよ、お前のが先だ安心しろー!
そうか
肩から少し力を抜いて、ケイは微笑んだ。と同時に、自分がある程度、緊張していたことを自覚する。
さあさあ! 間もなく始まる世紀の決闘!
野次馬の中心では、両腕に二つの鉢を抱えたホランドが声を張り上げていた。
片や、勇猛果敢で知られる雪原の戦士、歴戦の若き傭兵、アレクセイ! 片や、巨大にして暴虐なる怪物”大熊”を、たった一矢の下に仕留めた異邦の狩人、ケイ! 希代の美少女を巡って、男の意地と意地とがぶつかり合う! 果たして、勝利の女神はどちらに微笑むのか! さあどちらに賭ける!? どちらに賭けるねー!?
どうやら、賭けの元締めをやろうという魂胆のようだ。ホランドに煽られた聴衆たちが、鉢に硬貨を投げ入れ、代わりにその足元から木の札を持ち去っていく。最初はあまり乗り気でなかった癖に、いざ決闘が始まるとなると、この開き直りようだ。 流石は旦那だな と笑うアイリーンの横、ケイもつられて苦笑した。
しかし、あれが噂の娘か……別嬪さんだ
そりゃ取り合いも起きるわナ
あんの長い金髪、綺麗だな~
で、革鎧の男が、“大熊”狩りの……?
弓で一撃で仕留めたんだと
少し余裕が生まれたからか、雑然とした空気の中、周囲の会話が断片的に拾えるようになる。別嬪さんか、と思ったケイは、隣のアイリーンにさり気なく視線をやった。しかし、全く同じタイミングでこちらを見たアイリーンとばっちり目があい、反射的に目を逸らしてしまう。
…………
何とも落ち着かない気分のまま、沈黙の中に沈む。
おにいちゃん……
と、ハイデマリーと一緒に、今度はエッダがやってきた。もじもじとしているような、そわそわとしているような―いつもの天真爛漫なエッダとは、何かが違う。
やあ、エッダ
声はかけたものの、それ以上何をどう話せばいいのか分からないケイ。隣のアイリーンも、似たような状況で、ただ曖昧な笑みを浮かべている。
……おにいちゃん、決闘するの?
……まあな
おねえちゃんをかけて?
ん……まあ、そうなる、な
何とも渋い顔で答えるケイに、俯いたエッダは ……そう と小さく呟いた。
明るい黒色の瞳が、ケイとアイリーンの間で揺れる―。
それは、どこか悲しげで、それでいて困惑しているような、不思議な表情だった。
……おにいちゃん、がんばってね。負けちゃダメだよ!
やがて、ぎこちなく笑みを浮かべたエッダは、ケイが何かを答える前に、背を向けてトタトタと走り去っていく。
はぁ、まったく。あの子もねえ、そうねぇ……
曲がった腰をさすりながら、ハイデマリーがくつくつと笑い声を上げた。
さて、ケイや。あんたも若いんだから、あんまり酷い怪我はするんじゃないよ。気を付けてね
それだけを言い残し、ハイデマリーもエッダの後を追ってゆっくりと歩いていった。
……何だ今の
……さあ?
ケイとアイリーンは顔を見合せて、互いに肩をすくめる。
しかし、エッダみたいな小さな子も、見物に来るのか
うーん。教育上どうよ、って思わないでもないけど
この世界だと普通なのかも知れんな……
そーだな、こっちは何かと物騒だし
気を紛らわせるように、取り留めのないことをぽつぽつと語り合う。皆の視線を一身に浴びていることに、気付かない振りをして、ただただ時が過ぎるのを待った。
そして―
待たせたな
遂に、村の方から、アレクセイが歩いてくる。
ピエールと連れだって登場した彼も、やはり、ケイと同様に重武装だ。板金付きの革鎧に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の兜。手甲も、脛当ても、兜と同じ白っぽい金属で出来ており、狼のような動物の装飾が彫り込まれている。しかし、両者ともに相当に酷使されてきたのであろう、無数の細かな傷のせいで、浮き彫り細工の殆どが潰れて見えなくなっていた。
左腕の上腕部には直径30cmほどの、丸みを帯びた金属製の円形盾(バックラー)。これもまた、かなり使い込まれた逸品で―何度も、主人の命を守ってきたに違いない―表面には幾筋もの刀傷が走っている。
そして、その右手に握られている、アレクセイの『剣』。無造作に肩に担がれ、ひときわ衆目を集めるそれは、形容するのに一言で足りる。
大剣。
ケイに負けず劣らず体格の良いアレクセイ、その背丈とほぼ同じ刃渡りの、長大な片刃の剣だった。振り回しやすいように長めに作られた柄、緩やかに弧を描いて反り返った刀身。片刃ということも相まって、それは何処か日本の大太刀を連想させた。
どこに持ってたんだそんなの
思わず問いかけたケイに、アレクセイは屈託のない笑顔で、
普段持ち運ぶには、ちょいと邪魔だからな。ピエールの旦那の馬車に置かせて貰ってたのさ
隣に居るピエールの背中を、左手でドンッとド突くアレクセイ。本人としては軽く叩いたつもりなのかも知れないが、金属製の盾を装備した一撃は想像以上に重く、元々細身のピエールは勢いよく前につんのめった。
ゲフッちょっアレクセイくん痛い痛い!
や、旦那、こいつぁ失敬
非難するようなピエールに、頭を掻きながら笑って誤魔化すアレクセイ。
さぁてアイリーン。この決闘で、きっとお前のハートを射止めてみせるぜ
ケイの傍らのアイリーンに、改めて向き直って爽やかな笑みを浮かべる。それに対し、アイリーンは イーッだ と顔をしかめて応えた。
うっせー! お前なんかボコボコにされんのがお似合いだ!
ばーかばーか! とケイの前で、容赦はないがイマイチ捻りのない罵倒を浴びせるアイリーン。その目にギラリと不穏な光を宿したアレクセイは、口の端を歪めてぺろりと唇を舐めた。
……そそるねぇ
軽薄な笑みを浮かべたまま、 よっ と無造作に、右手の大剣を振り下ろした。
数歩の距離。びゅオッ、と風を巻き込んで、ブレた刃がぴたりと止まる。
喋繰(しゃべく)り回っていた周囲の野次馬が、みな、悉く押し黙った。
それは、示威行為―とでも呼ぶべきか。
風を切り裂く鈍い音は、その凶器たり得る重みの証左。片手で振り下ろす動作、ぴたりと定まる刀身、それぞれ使い手の力量が十全のものであり、長大な刃が決して見かけ倒しでないことを如実に物語る。
おれの言葉の意味が分かったろう
どこまでも不敵に、アレクセイは嗤う。
得物にも格の違いってもんがある。そんなな(・)ま(・)く(・)ら(・)じゃ、打ち合いにもならないぜ
大剣を肩に担ぎ直し、ケイの腰の長剣に視線を注ぎながらの言葉に、ケイは小さく溜息をついた。
この期に及んで、身を引くつもりはない。別に、そこまで煽ってくれなくても結構だ
顔布を着けながら、ケイが冷めた目を向けると、アレクセイも表情を消して そうか と頷いた。
どうしようもない沈黙が、その場に降りる。
顔布で表情を隠したケイと、もはや、アイリーンさえ眼中にないアレクセイ。黙した二人の視線がぶつかり合い、弾け、渦を巻き、不気味な静けさだけが滲み出る。
二人とも、準備は良いか
いつの間にか、近くまで来ていたホランドが、どこか疲れた様子で二人に問うた。
問題ない
完璧だ
返答は、言葉少なに。
よし。……それでは、お互いに悔いなきよう。全力で闘うことだ
ホランドの言葉を受け、今一度、ケイに一瞥をくれたアレクセイは、何も言わずに兜の面頬を下ろした。ガシャン、と目元を隠すバイザーの奥、隙間から覗いた青い瞳が、真っ直ぐにケイを射抜く。ゆらりと背を向けたアレクセイに、人混みが二つに割れ、五十歩の道を譲った。その背中を見送りながら、ケイも無言のまま、おもむろに矢筒の口のカバーを取り外す。
ケイ……
唇を噛みしめたアイリーンが、ケイの左腕に手を添えた。
心配するな
顔布の下、極力優しげな笑みを浮かべて、ケイはそっと、その手に自分の手を重ねる。
負けやしないさ。信じてくれ
……分かった
不安げな、そしてやるせない表情を浮かべたアイリーンは、最後にケイの手をぎゅっと握りしめて、野次馬たちの最前列にまで下がっていく。
…………
アイリーンから、視線を引き剥がし。
ケイは思考を切り替えた。
†††
五十歩の距離。
大股で歩いて、40m強といったところか。
それほど大した距離ではない―とケイは思う。本気のアレクセイであれば、おそらく数秒とせずに詰めてくる。どうしたものか、と他人事のように考えながら、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の弦を軽く弾いた。
ぶんっ、と心地よい音が耳朶を震わせる。
元々は、まず盾を破壊して戦意を喪失させ、後遺症にならない程度に痛めつけるつもりだったのだが―。あの金属製の円形盾(バックラー)、貫徹するには骨だぞ、というのがケイの正直に思うところだ。
概して、バックラーのような小型の盾は、その防御範囲の狭さから飛び道具に弱いとされる。だが、あの使い込まれた傷だらけの盾を見るに、アレクセイも相応の技量は持ち合わせているはずだ。最初の一矢、二矢は、避けられるか捌かれるか―いずれにせよ、無効化されるとケイは予想する。
(さて、どうやって『倒す』か……)
右手で矢筒の矢を弄びながら、じっくりと戦術を吟味する。殺そうと思っても死にそうにない、ふてぶてしい態度のアレクセイ、しかしそうであるからこそ、ふとした拍子に死んでしまうかも知れない。手抜きが許される状況でもなし、ここは身から出た錆ということで、ある程度の後遺症は覚悟して貰おうという結論に至った。
視界の先―ちょうど五十歩の間合い、アレクセイがこちらに向き直る。
右肩に大剣を担いだまま、長く伸びた柄に左手を添えた。両手持ち―ちょうど左腕のバックラーが、胴体を覆い隠す位置に構えられている。腰を落とし、かすかに上体を前傾させた姿からは、手足の末端にまで満ち満ちた気が見て取れるかのようだ。
(……まるで示現流だな)
二ノ太刀要ラズ。何よりも疾く、一撃を叩き込む。そんなシンプルにして、苛烈な意志。五十歩の間合いを隔てても尚ひしひしと伝わってくる、今にも爆発しそうな戦意の高まり、ぎりぎりと軋みを上げる筋肉の躍動―。
双方とも……準備はいいな
二人の間に立ったホランド。沈黙を肯定と取ったか、ひとり頷き、
それでは……先ほども言ったが、両者ともに悔いのないように。また、今後に禍根を残さぬために、全力で闘いつつも、ある程度の手心を忘れないように。万が一、怪我などで決闘の継続が不可能であると判断された場合は―
くどい
ぴしゃりと、アレクセイの冷たい声がホランドを黙らせた。
“―これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない”
不意に、アレクセイの言葉が頭の中に木霊する。そのとき無言を貫いたケイであったが、初めて、アレクセイの言う事に共感できたような気がした。
口元しか見えぬアレクセイの顔―にやりと歪んだ唇が、 さあ、始めよう と告げる。
……ああ
小さく頷いて。
ケイは矢筒から矢を引き抜いた。
つがえる。
引き絞る。
―
そこに、言葉は不要。
双方が同時に、
動いた。
アレクセイが地を蹴る。
爆発的な加速。
速い。
地を這うように、二、三歩で最高速に達した。
かすかに粉塵を巻き上げながら、アレクセイは真っ直ぐに迫る。
―まずは、小手調べ。
間髪いれず、迎撃の矢を放つ。
快音、穿たれる風。
身体の中心線を抉るように、白羽の矢が飛来する。
しかし、体を僅かに捻り、アレクセイは余裕を持ってそれを回避した。初撃はやはり見切られたか、と平坦な思考が流れていく。
続けて、第二射。
今度は避けられず、いや、回避による時間のロスを嫌ったか、無造作に掲げられた盾が矢を弾き飛ばす。ガァンッ、と硬質な音、火花を散らして明後日の方向に逸らされる。やはり並の一撃では、あの盾は貫通できないという確信。
三本。
まとめて、矢筒から引き抜いた。
構え、引き絞り、放つ。その瞬間、ケイは精密機械と化す。
カカカッ、と小気味よい連続音、強弓から銀光が閃いた。目にも止まらぬ早業、野次馬たちがどよめき、同時にそれは―殺気に強弱を織り交ぜた巧みな連撃。敢えて中途半端に込められた殺気が、彼我の距離感を狂わせる。回避行動を取り辛くさせる妙技、護衛の傭兵たちが唸った。
しかしその好敵手もまた、只者ではない。
ただちに軌道を見切り、最適解を弾き出す。一本は盾で、一本は剣で、一本は脛当てで、それぞれ受け止めた。派手に火花が飛び散り、けたたましい金属音が鳴り響く。しかし一矢足りとも彼の者を傷付けるまでには至らない。
既に間合いを詰めること、おおよそ三十歩。ニィッとアレクセイが笑みを深める。残り二十歩を数えるうちに、決着をつけねば勝機は無いと―。
(ただの矢じゃ、貫通は無理か)
静かに、ケイは分析する。決して、手加減したわけではない。今までに放った矢は全て致命傷たり得るもの。板金程度ならば容易くブチ抜く威力、しかし、アレクセイの防具は耐えた。あの、白っぽい金属―何の合金かは知らないが、相当に良質なものだろう。
(た(・)だ(・)の(・)矢(・)では、無理か……)
―ならば、其れ相応のものを。
ケイは、矢筒から抜き取った。
青(・)い(・)羽(・)の(・)矢(・)を―。
……!
見守っていたアイリーンが、まさか、と息を呑む。
“大熊”さえ一撃で絶命せしめたそれを。
決闘で、人間に対し用いるのかと。
―そう。
ケイは、矢をつがえる。
両者の距離は、残り十歩を切った。
アレクセイは、目前だ。凶暴な笑み―獲物を喰い殺さんと、不気味な沈黙の中にしかし狂犬は猛る。兜の面頬、その隙間の奥にあっても尚、水色の瞳がぎらぎらと血に飢えた光を放つ。
対するケイは、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。
死ぬなよ
小さく、呟いた。
―快音。
凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面からアレクセイに迫る。
ろくに視認すら出来ぬ速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。
その笑みをさらに好戦的な色に染め、あらかじめ身構えていたこともあり、アレクセイは余裕をもって盾で受けた。
が。
ボグンッ! と異様な音が響く。
矢は―
盾の中心に、突き刺さる。
丸みを帯びていた表面は無残に陥没し、矢はその裏の左腕を食い破って、あまつさえ鎧の板金と革を穿ち、胸に突き立ってようやく止まった。
がフッ
強烈な一撃を叩き込まれたアレクセイ、肺から押し出された呼気は否応なしに声となり、力の抜けた体躯がそのままぐらりとよろめいた。
しかし―
ケイが、次の矢をつがえるよりも速く。
―ははッ!!
アレクセイは―笑った。
血反吐を吐きながら―たしかに、笑った。
その腕に、背筋に、力が戻る。
口元が吊り上がり―それは、凄絶な笑みとして知覚された。
獣か。―否。
狂人か。―否。
―鬼だ。それは鬼だ。修羅の境地に至る人斬りの顔だ。
アレクセイが剣を構え直す。
ぐんっ、と両脚に力が籠る。
まるで陽炎のように、その体躯が、膨れ上がるような錯覚が、
―おおおおああああぁぁッッ!!!
吠えた。
場を塗り潰すような殺意の嵐。
ケイの全身から冷や汗が噴き出す。
アレクセイはさらに身を低くして―次の瞬間、空気がたわんだ。
その足元の地面が、爆発したかのように弾け飛ぶ。
残りの距離が、一瞬で、ゼロになった。
あああああああぁぁぁッッ!!!
ぎらりと輝いた大剣が―振り下ろされる。
ぶぅん、と不吉な音が押し寄せた。
全てを賭けた一撃。重過ぎる一撃。
込められた殺意に魂が震え、世界が裏返るかのような錯覚すら抱いた。
驚きも、恐怖も、感じる暇さえない。
ほぼ反射的に、ケイは腰の剣を抜き放った。
鞘走った鋼鉄の刃を頭上に掲げるようにして。
受け流す。いや、受け流せるよう試みる。
しかし―奇妙に引き延ばされた時の中。
ケイは、見る。
アレクセイの大剣。
右手の長剣に、ぶち当たる。
くわんくわんと震える刃。
その中に大剣が―め(・)り(・)込(・)ん(・)で(・)い(・)く(・)。
愕然とするケイの眼前―長剣が、音を立てて砕け散った。
打ち合いどころか、受け流すことさえ―
わずかに、その軌道をずらしたものの、大剣は唸りを上げてケイに襲い掛かる。
白い刃は、ケイの兜の即頭部を削り。
革鎧の肩当てを叩き切り。
そのまま、左肩の鎖帷子に食らいつく。
この一撃で、ケイは左腕を失う―
加速された思考の中、アレクセイは、己の勝利を確信していた。
ガツンッと。
衝撃とともに、刃の進撃が止まるまでは。
なっ―
異様な手応え。剣を受け止めた、その原因を目の当たりにしたアレクセイは、驚愕のあまり目を見開いた。
―異様な存在感を放つ、朱色の複合弓。
ケイの左手に構えられた”竜鱗通し”、その持ち手の部分に、大剣の刃は受け止められていた。折れるでもなく切れるでもなく、僅かに、その表面を凹ませただけで―
馬鹿な、とアレクセイは、雷に打たれたかのように動きを止める。
(鋼の長剣すら叩き折った一撃を―!!)
ただの弓が受け止めるなど―。
しかしあいにく、“竜鱗通し”はただの弓ではない。
“飛竜(ワイバーン)“の翼の腱に皮膜、そして”古の樹巨人(エルダートレント)“の腕木。
ただでさえ貴重な素材を元に、特殊な加工を経て生み出された、傑作中の傑作。
特に、持ち手には幾重にも皮膜が巻かれており、この弓のパーツの中で最も頑丈な造りとなっている。その耐久性たるや、現在のケイの所持品の中でも最上位といっても過言ではない。
得物にも格の違いがある、と言ったな―
唸るようにして。ぎりぎりと、剣の柄ごと右拳を握りしめながら、ケイは言う。
アレクセイの瞳を、睨みつけた。
―その通りだ!
唸りを上げた右のアッパーが、無防備な下顎に叩き込まれた。
ぐぁッ!?
ゴッ、と腹に響く打撃音、アレクセイの身体が跳ね上がる。
さらに、肘打ちで迫撃をしようとするケイ、しかしアレクセイはよろめきながらも左腕を振り回した。
上腕部のバックラーがケイの右肩に叩きつけられ、刺さりっ放しだった矢がケイの顔面を引っ掻いた。文字通り、刺すような痛みに一瞬たじろぐケイ、その隙に体勢を立てなおしたアレクセイは、
―おおおおおおぉぉッッ!
再び、闘志に火を付け、真っ直ぐに大剣を突き込んできた。
切れた口から血を垂れ流しながら、それでもその刺突は鋭く、十分な威力が乗っている。
しかし―刺突というチョイスが、不味かった。力任せの薙ぎ払いの方が、ケイに対しては効果的であったかもしれない。
身に染みついた剣術が導くままに、ケイは折れた刃を横から叩きつけた。火花を散らして大剣の上に刃を滑走させながら、アレクセイの懐に飛び込む。
(……来るか!?)
どこかで見た動きだ。アレクセイは思い出す、ケイがひとり、河原で剣の修練をしていた日のことを。
(折れた剣―短剣の代わりにはなる―首狙いか!)
あの日の動きを参考に、アレクセイはケイの次の一手を読んだ。このまま大剣の間合いを封じたまま、短剣術に近い動きで白兵戦を仕掛けてくるに違いないと。
しかし、アレクセイは、知らない。
ケイの汎用剣術には、剣が使いものにならなくなったときのための―
“徒手格闘”の教義も含まれているということを。
アレクセイは、知らない。
あの日、型の途中で邪魔を入れてしまったため、それを見る機会を自ら失ってしまったことを―
剣の柄を握る右手が、くんっ、と軽く曲がった。
手首のスナップで、ケイは折れた剣をアレクセイの顔面に向けて投擲する。
なにッ!
回転しながら迫る刃に、一瞬焦ったアレクセイはしかし、頭突きのような動きで兜を当てることで刃を弾き飛ばすことに成功した。
だが一瞬、注意が逸れる。
その隙に、右手がフリーになったケイが、代わりにアレクセイの右腕を掴む。
そして―全力で引っ張った。
ただでさえ、刺突によって前かがみになっていたのだ、引っ張られたことによりさらにバランスを崩す。咄嗟に足を踏ん張ろうとするアレクセイだったが、身をかがめたケイがその脚を払った。
うわッ!?
致命的―そう、致命的なまでに、アレクセイの身体が傾いた。ぐっ、と腹に力を込めたケイは、
―吹っ飛べ!!!
そのまま全力で、アレクセイを投げ飛ばした。
一本背負い―と呼ぶには、それは豪快すぎる。
アレクセイは、世界が回るのを感じた。
何が、一体、何がどうなっているのか。びゅうびゅうと唸る風の音を聞きながら、混乱する脳が現状把握に努める。しかしそれをよそに、アレクセイは、在りし日の出来事を思い出していた。家畜の豚の突進をモロに食らい、見事に吹き飛ばされた思い出。あのときも、こんなふうに世界が回って見えたっけ、と、他愛のない思考が―
背中を襲った恐ろしい衝撃に、セピア色の記憶が砕け散った。
がつんっ、と顔面を襲う衝撃。ただでさえ血塗れだった口、その唇が切れて血が噴き出した。
地面とキスをしている―その状態に気付いたのは、一拍遅れてのこと。やたらと長く感じた滞空時間、ロクに受け身すら取れず地面に叩きつけられたらしい。
―いや、それはいい、地面の方向が分かったのだから。
震える足腰に、立ち上がれ! と命じる。
大地に手をついて、起き上がろうとしたところで―
アレクセイは、立て続けに乾いた音を聴いた。
次の瞬間、ハンマーで殴られたかのような衝撃が頭部を襲い、アレクセイの意識は闇に呑まれた。
†††
おおおおお!!!
どさり、と力の抜けたアレクセイが地面に倒れ伏すのを見届けて、周囲の観客たちが沸き立った。
あっぶねえ……
それをよそに、ケイは呼吸も荒く口元の顔布を取り去った。即座に確かめたのは、“竜鱗通し”の状態。大剣を受け止めた部分が少し凹んでいるものの、それ以外に異常は見られなかった。何度か思い切り引いてみたが、致命的な損傷もしていないらしい。
ケーイ!!
泣きそうな顔で、アイリーンが駆け寄ってくる。
大丈夫か!?
ああ、大丈夫だ、かすり傷さ
大丈夫じゃないだろ! 血が出てる!!
ぺたぺたと、ケイの顔や左肩に触れるアイリーン。
思ったより、手古摺っちまった
ピエールや見習いの若者たちに介抱されているアレクセイを見ながら、ケイはしみじみと呟いた。未だ気絶したままのびているようだが、咄嗟に”竜鱗通し”で防御していなければ、今頃あそこに転がっていたのはケイだったかもしれない。
(っていうか下手したらお互い死んでたなアレは……)
決闘を振り返って、ケイは渋い顔をする。アレクセイも大概な勢いで来ていたが、ケイも『長矢』の威力の調整を失敗していれば、何が起きたか分からない。
(気持ち弱めにしといてよかったな……)
アレクセイの鎧の胸元に開いた風穴を眺めながら、そんなことをつらつらと考える。
……ケイ? ケーイー?
と、目の前でアイリーンが手を振っていた。
ん? なんだ?
なんだじゃねえよ、大丈夫か? 頭打ってないか?
ケイの額に手を当てて、心配げなアイリーン。
大丈夫だ。そこまで大した傷じゃない
そうか……
うん……
ケイは微笑みを浮かべて、うるんだアイリーンの瞳を覗き込む。
…………
しばし、そのまま見つめ合っていたが、すぐに二人とも様子がおかしいことに気付いた。
静かすぎる。
恐る恐る、といった様子で、周囲を見回して見れば、
ん~ん。お熱いねぇお二人さん
ニマニマと、生温かい笑みを浮かべてこちらを見つめる、顔、顔、顔―。
ボッと、ケイとアイリーンの顔面が赤く染まる。
よーしケイ! これで名実ともに、アイリーンはお前さんのものだ! 喜べ!
完全に酔っ払いモードのダグマルが、葡萄酒の杯を掲げながら叫ぶ。どっと沸いた野次馬たちが、それに続くように歓声を上げた。
いや~あんな美人の嫁さん、羨ましいなぁ!
なぁ!
よっめ入り! よっめ入り!
よっめ入り! よっめ入り!
手拍子ととも、謎のコールが始まる。ケイたちは恥ずかしいやら何やらで、困り顔のままもじもじとしていたが、
キスしろ~!
誰かが叫んで、その場の空気が変わった。男性陣は雄叫びに近い叫びをあげ、村の女性陣は黄色い悲鳴を上げる。
キース! キース! キース!
ぐるりと周囲を取り囲んで、手拍子と共に囃し立てる群衆。ケイとアイリーンの顔面は赤色の限界に挑もうとしている。
ケッ、ケイ!
叫んだアイリーンが、ケイの手をぐいと掴んだ。
なんだ!
逃げよう!
アイリーンに手を引かれ、ケイも走りだす。大盛り上がりの村人たちを押しのけ、二人はなんとか、包囲網を突破することに成功した。
意気地なし~!
根性見せやがれ~!
全力で逃走する二人に対し、村人たちの冷やかしは続く。
しかし、追いかけようとする者は、誰一人としていなかった。
†††
……まったく、もう!
村外れ。川沿いの木陰で、アイリーンは口を尖らせている。
怪我しないって約束しただろ!
不機嫌の理由は、主にケイの負傷だ。アイリーンの前で上半身裸になったケイは、あらかじめ準備していた薬草などで、肩の切り傷を消毒していた。
ちなみに念のため、アイリーンはポーションも持ってきているのだが、それほど重傷ではないため、今回は使わないこととする。
すまんすまん、イテテ……染みるなぁこの薬草
POTほどじゃねーだろ
顔をしかめるケイに、消毒用の軟膏を塗り込むアイリーンは容赦がない。
川のせせらぎの音を聴きながら、しばし、場を沈黙が包む。
……よし、はい終わり
肩の傷に包帯を巻いて、ぽんぽん、とケイの頭を叩くアイリーン。
ありがとう
まったく、金輪際こういうのはナシだぜ! すっごいヒヤヒヤしたんだからな!
ポーチに薬を仕舞いながら、アイリーンは怖い顔をしてみせる。ケイはそれに笑って、しかしすぐに表情を引き締めた。
すまん。でも、お前を取られたくなかったんだ
真剣な顔のケイを、横目でチラ見したアイリーンは、ポーチを片付けながら はぁ と溜息をついた。
じゃあ、何か。今のオレは、ケイのものなのかな
……すまん。言い方が気に障ったなら謝る
感情を感じさせないフラットな言い方に、ケイは慌てて声を上擦らせた。しかし、そんなケイの様子を見て、アイリーンは逆に口元をほころばせる。
……なあ、ケイ
な、なんだ?
目の前で膝をついて、アイリーンはじっと、ケイの瞳を覗き込む。
やがて、ゆっくりと手を伸ばしたアイリーンは、ケイの右手を手にとって、―自身の胸元へと導いた。
お、おいっ
なぜ、自分はアイリーンの胸にタッチしているのか、なぜアイリーンはこんな真似を―と一気に挙動不審になるケイであったが、数秒とせずに、気付いた。
アイリーンの右胸。この、今自分が触れている部分は、かつて毒矢が突き立っていた場所であるということに―。
あの日のこと、オレ、あんまりよく憶えてないんだ
ぽつりと、アイリーンは言った。
でも、ケイがオレのこと、守ってくれたのは、憶えてる
青色の瞳が、揺れる。
なあ、ケイ……命を助けられるのって、けっこう、凄いことなんだぜ
胸元に抱いたケイの手を、アイリーンは、愛おしげに撫でた。
それに、オレは……ケイと違って、ケイが男だってこと、最初から知ってたんだ
目をぱちぱちと瞬かせるケイ。アイリーンは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、
……こうやって、怪我したのは、嬉しくないけどさ。でも今回も体を張って、ケイは頑張ってくれたことだし、
不意に、体を寄せる。ふわりと良い香りが、鼻腔をくすぐった。
―お礼、あげないとな
アイリーンの顔が、視界に大写しになって―
ちゅっ、と。
柔らかい感触が、唇を奪った。
……え?
茫然と、ケイは。
体を離したアイリーンは―はにかんだように えへへ と笑った。
口元に手をやって、何が起きたか反芻するケイ。
やがて、『それ』が理解に変わったとき。
ケイは、自身の胸の内の感情が、
どうしようもなく、抑えが利かないものになったことを、
―はっきりと、自覚した。
†††
その日のうちに、隊商は村を出発した。
ひとりの勝者と、ひとりの敗者、
そして、ひと組の恋人たちと共に、
隊商はゆっくりと、街道を北上していく。
なぜ、自分たちは、この世界にきたのか。
どのようにして、生きていくのか。
元の世界に戻る方法は、存在するのか。
存在したところで、―元の世界に、帰るのか。
知りたいこと、考えなければならないことは、まだまだ山積している。
その手がかりを得るため、今日までケイたちは、旅を続けてきた。
果たして―進み続けること、おおよそ半日。
隊商は、要塞都市ウルヴァーンに到着した。
ちなみに作中経過時間は現在で2週間くらいです。
幕間. Urvan
要塞都市ウルヴァーン。
またの名を、『公都』。リレイル地方と北の大地との境目に位置し、アクランド連合公国の中枢を為す巨大都市。
その在り方はまさしく、『要塞都市』の名を体現している。
小高い岩山の上に築かれた領主の居城を中心に、整然と建ち並ぶ高級市街。それらを分厚い第一の城壁が取り囲み、その外側には、雑多な一般市街の街並みが壺から溢れ出したミルクのように広がっている。
市街地の外縁部には、高くそびえ立つ第二の城壁と、明らかな防御の意図をもって張り巡らされた用水路。第一城壁と比べても遜色がないほどに立派な城壁は、並大抵の攻撃ではびくともしないだろう。また、水堀としても機能する用水路は、特に騎馬民族の侵攻に対して有効であるに違いない。
街の周辺はもれなく田畑として開墾され、初夏の風にそよぐ緑の海の中に、ちらほらと農家の納屋や宿場の赤い屋根が見える。そして、見張りの兵と高い物見櫓を擁する小要塞が、大海に顔を出す小島の如く、あるいは、惑星を取り巻く衛星の如く、あちらこちらに点在して周囲へ睨みを利かせていた。
城壁だけではなく、都市圏そのものが、有機的な一つの防衛拠点として機能する―
それが、ウルヴァーンの”要塞都市”たる所以だ。
街の中心部、領主の居城。
遥か昔、ウルヴァーンが辺境の開拓村に過ぎなかった頃の名残か、過度な装飾を排した城は、機能性を重視した造りとなっている。中庭に設けられた薬草園、広めにスペースを取られた練兵場、隣接する公都図書館に、城の各所から突き出た尖塔―
その中で最も背の高い、主塔(ドンジョン)と呼ばれる塔の一室。大きな採光用のガラス窓を備えたそこに、一人の老人が居た。
長い人生の労苦が滲み出るような灰色の髪に、長く伸ばされた顎ひげ。目じりと眉間には深いしわが刻まれ、その眼光は老いてなお鋭い。金糸の編み込まれた赤色のローブを羽織り、首元には大粒の宝玉(ルビー)が嵌めこまれた魔除けのタリスマンが光る。そして、額には鈍く金色の光を放つ、王冠。
そう、彼こそが要塞都市ウルヴァーンの領主にして、アクランド連合公国を統べる者。
公王エイリアル=クラウゼ=ウルヴァーン=アクランド、その人だ。
ウルヴァーンの街並みを一望できる窓を背に、執務机に向かうクラウゼは、時折小さく咳き込みながらも書類の山と格闘していた。
山積みにされた紙束のうち一枚を手に取り、内容に目を通し、さらさらとサインをし、指輪の判を押してまた次の書類へ。厳しい表情のまま、延々とその作業を繰り返す。
しかし―どれほどの時間が経ったか、書類の山が中ほどまで片付いたところで、クラウゼは口に手を当てて激しく咳き込み始めた。ゴフッ、ゴフッと肺の奥から湧き出るような、水気を伴ったいかにも苦しそうな咳。
……陛下
執務机の傍、控えていた禿頭の初老の男が、遠慮がちに声をかけた。
そろそろ、休憩されては如何ですかな
……うぅむ
羽根ペンをペン立てに戻し、背もたれに身を預けたクラウゼは、唸るようにして溜息をつく。
……そうしよう。ヴァルター、茶を。それとアントニオを呼べ
はっ
『ヴァルター』と呼ばれた禿頭の男が壁際に控えていた侍女を見やる。楚々とした仕草で頭を下げた彼女は静かに、しかし足早に、執務室を出ていった。
……はぁ。歳を取るとガタがきていかん
侍女の姿が見えなくなると同時に、肩の力を抜いて、クラウゼ。ヴァルターと二人きりになったためか、威厳に満ち溢れていた王の顔は、ひとりの老人のそれへと変わっていた。
何やら疲れた様子の公王へ、ヴァルターは励ますように声をかける。
お戯れを。陛下はま(・)だ(・)ま(・)だ(・)ご壮健であられますぞ
……余より若いそちに言われてものう
おどけるような笑みを浮かべるヴァルターに、じっとりとした目を向けながらも、クラウゼは諦め顔で溜息をつく。ともすれば慇懃無礼、不敬とすら取られかねないような言い方も、ヴァルターなりのユーモアと思いやりの精神の表れであると、長い付き合いで心得ているからだ。
アクランド連合公国宰相、ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー伯。
クラウゼがウルヴァーンの領主、ひいては公王に即位して以来、数十年を共に過ごしてきた腹心の部下の一人だ。
いやいや、最近はわたくしめも、抜け毛が気になるようになりましてな……
ぬかせ
つるつるな頭皮を撫でながらうそぶくヴァルターをよそに、鼻を鳴らしたクラウゼは大儀そうに立ち上がった。
質素なしつらえの椅子の背後、窓から差し込む陽光に目を細めつつ、眼下に広がるアクランドの大地を眺める。
…………
後ろ手を組んで景色を眺める目は、どこか遠く。寂寥感の滲むような公王の後ろ姿に、自然と口をつぐんだヴァルターは、おどけるような笑みを引っ込めた。
……近頃は、
重々しく、クラウゼは口を開く。
『ディートリヒ』に位を譲ることを考えておる
……陛下
こちらもまた、どことなく寂しげに、ヴァルターの眉が下がる。長く伸ばした顎鬚を指で梳きながら、クラウゼは言葉を続けた。
ディートリヒはまだ若いが、それ以上に、余は歳を取り過ぎた。万(・)が(・)一(・)のことを考えると、今のうちに譲位しておいた方が、火種になり辛(づら)かろう
成る程。……陛下は、完全に身を引かれるおつもりで?
いや。余は顧問役に回る
左様ですか
クラウゼの返答に、ヴァルターは楽しそうに頷いた。
いわゆる、『形だけ』という奴ですな
うむ。いくらディートリヒが聡い子だとはいえ、全てを任せるには経験が足りぬ。ここ数年、平和が続いておるが、……今は繊細な時分よ。雪原の民の件もあるし、草原の民に不穏な動きがあるとも聞く
少し、表情を厳しいものとして、クラウゼは執務机の上の報告書を手に取った。
草原の民の本拠地”リッフ”に置いた総督府から、いくつか報告が上がってきている。公国の支配に対して反抗的であった部族が、近頃になって急に大人しくなったらしい。
字面だけ見れば好ましい事態だが、長きに亘(わた)って抵抗を続けてきた輩が、昨日今日で従順になるとは考えにくい。十中八九、何かよからぬ事を企んでいる―というのが、クラウゼとヴァルターの見立てだった。
先の戦役で、ウルヴァーンの組織化された魔術師兵団の前に惨敗を喫した草原の民ではあるが、その機動力と馬上弓による攻撃力は、決して侮れるものではない。例え反乱を起こされたとて、鎮圧はそう難しくないだろうが、同時に油断も許されぬ相手だ、とクラウゼは考える。
……ところで、北の大地はどうなっておる?
報告書を書類の山に戻しながら、問いかけた。口の端を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべたヴァルターは、
相も変わらず、身内で小競り合いを続けているようで
うむ。それは重畳
その、小馬鹿にするような口調に、クラウゼはむしろ上機嫌で頷く。
過去には戦火を交えたこともある公国と北の大地ではあるが、現在、両者の関係はそれなりに良好だ。領土を巡って起きた紛争は、草原の民の介入もあり、北方の街を幾つか分割統治することで決着が付いている。
公国の統治に食い込まれる形になったため、当時のクラウゼとしてはあまり面白くない話であったが、南北で人の行き来が活発化し、結果的には周辺の経済が発展することとなった。ウルヴァーン側は食料品や嗜好品、医薬品などを。北の大地は一部の金属製品や優れた武具などを、それぞれ輸出している。
公国・北の大地の双方にとって、そう悪くはない関係だ。しかし、雪原の民の武力が再び、ウルヴァーンへ向けられることを恐れたクラウゼは、戦争を回避するために幾つかの手を打っておいた。
そのうちの一つが、北の大地の西部で起きている、雪原の民同士の領土紛争だ。
元来、その厳しい冬の環境で有名な北の大地だが、中でも海に面している西部は例外で、比較的温暖で実りも多く、暮らしやすい土地として知られている。
そして―そうであるが故に、争いの種になりやすい。
近年の人口増加に伴い、雪原の民は緩やかな土地不足に陥りつつある。安定的に食料を生産できる、実りの豊かな大地が求められているのだ。しかし、苛酷な北の大地において、そのような土地は、西部の他に存在しない。
そこでクラウゼは、工作員を行商人として多数送り込み、敢えて西部の豊かな部族に安く医薬品などを供給することで、生活水準の格差をさらに助長させ、部族間での対立を煽ることに成功したのだ。
そしてそれは、結果的に『紛争』という形で現れた。
ウルヴァーンの供給した医薬品やその他の技術の影響で、生活環境が改善されたためにもたらされた人口増加だが、それがまた内輪での殺し合いの種となったのだから、まさに皮肉としか言いようがない。しかし、仮にクラウゼが手出しをしていなければ、その圧力の矛先はウルヴァーンに、ひいては公国全体へと向けられていたことだろう。
雪原の民は、優秀な武具に加え、『紋章』という独自の身体強化術を保有する民族だ。今まで、せいぜい小競り合いとでも呼ぶような、小規模な軍事衝突ならば何度もあったが、民族の移動を伴う大規模な侵攻となると、どのような被害が出るかは想像もつかない。
―少なくとも今は、全面戦争は避けたい。
それが、クラウゼの考えだった。現状、公国が必要としているのは、『時』―雪原の民同士が分裂するためにかかる時間だ。元から部族間でのいさかいが絶えず、まとまりがあるとはいえない彼らであったが、それでもひとたび共通の『敵』を定めれば、足並みをそろえる余地はある。
それを、徹底的に、分断しなければならない。
自身も草原の民という不和の種を抱え込んでいる現状、一致団結した雪原の民と事を構えるのは、あまりに危険だ。仮に、公国と北の大地が全面戦争に突入すれば、千載一遇の機会とばかりに草原の民も蜂起するだろう。
流石に、リスクが大き過ぎる。それに見合うほどのリターンがあるのか、と問われれば―
(―たしかに、北の西部は、魅力的ではあるがの)
クラウゼは、視界の果てを流れるアリア川を眺めながら、遥かな大海へと想いを馳せる。
海。そして、外海へとつながる港。これこそ、“要塞都市ウルヴァーン領主”としてのクラウゼの求めるもの。
そしてあるいは、雪原の民との戦争を望む者たちにとって、その主張の根幹を為し得るものだ。
……最近は、主戦派も口喧しくなってきましたからな
クラウゼの思考を読んだのか、独り言のように、ヴァルターは呟く。
……うむ
小さく溜息をつきながら、クラウゼは再び椅子に腰を下ろした。その顔には苦々しい、精神的な疲れの色が浮かぶ。
臣下の中には、北の大地との開戦を声高に主張する者たちがいる。主に、軍閥に属する者や、軍事産業の関係者だ。軍事費(くいぶち)の確保が目的か、あるいは武具などの特需が狙いか―その思惑は様々であろうが、彼らの主張の建前を為すのが、海外への橋頭保の獲得。
即ち、北の大地西部の沿岸地域を手中に収めることだ。
自前の港を確保すれば、ウルヴァーンの地位は盤石のものとなる、と。言ってること自体は尤もなんですがな
……しかし、時期尚早よ
わたくしも陛下とは同じ考えですが……まぁ、近頃キテネが……その、何と申しましょうか、“調子に乗っている”ので、腹に据えかねている者も一定数は居るのでしょう
うぅむ……
嘆かわしい、と言わんばかりのヴァルターに、渋面を作るほかないクラウゼ。
要塞都市ウルヴァーン。
城郭都市サティナ。
鉱山都市ガロン。
港湾都市キテネ。
アクランド連合公国内の巨大都市といえば、以上の四つが挙げられるが、その中でもキテネは公国における唯一の外海への玄関口として、貿易から製塩までを一手に担い、他の都市とは一線を画した絶大な経済力を誇っている。
そう―盟主たるウルヴァーンを差し置いて、最大の経済力を、だ。
元々、軍事力のウルヴァーン、工業力のガロン、そして何事もそつなくこなすサティナ、という風にバランスが取れていたのだが、この問題のややこしいところは、実は公国の盟主は必ずしもウルヴァーンと決まっているわけではない、という一点にある。
アクランド連合公国に名を連ねる貴族たちは、ウルヴァーンの領主に対して絶対的な忠誠を誓っているわけではない。
ただ、強大な軍事力を誇るウルヴァーンが、諸侯に安全を約束することで、主従の契約を結んでいるに過ぎないのだ。
故に、称すること、『アクランド”連合”公国』。その権力は流動的で、ときには酷く曖昧ですらある。
そもそも歴史を紐解けば、ほんの百年ほど前までは、『アクランド連合公国』なる国家は存在していなかったのだ。当時はキテネを主体とした小国で、その中でもウルヴァーンは一地方都市に過ぎなかった。また、現公王たるクラウゼも、その出自を辿っていくと、かつてのキテネの領主の血筋に行きあたる。度重なる政変や異民族との衝突、そしてウルヴァーンの発展を受けて当時の領主が『遷都』し、その結果生まれたのが現在の公国なのだ。
裏を返せば―今後再び、『遷都』が起きる可能性も、ゼロではない。
とはいえ。
港湾都市キテネが絶大な経済力を誇るのも、別に今に始まったことではなく。
ウルヴァーンも、草原の民を支配して、その本拠地の岩塩の採掘権を押さえることで、塩の独占に対抗してみたり。
サティナも独自の税制を採用することで、キテネ経由の商人を牽制し、他の経済圏へのアプローチを積極的に行ったり、と。
良くも悪くも政治には関わり合いにならないガロンを除いて、それぞれいい意味で牽制と調整を繰り返し、これまでは特にこの問題が表面化することはなかった。
しかし。
ここにきて最近、キテネの領主に不穏な―どこか、野心的な影が見え隠れするようになってきた。
あの『噂』の件がなければ、と思わずにはいられませんな……
はぁ、と珍しく愁傷な顔で、ヴァルターは嘆息する。
数ヶ月前のこと。一般民衆の間で、とある噂が流行り出した。
曰く、現公王陛下は体調が優れず、間もなく崩御なさる。
曰く、跡取りのディートリヒ様は若すぎるため、代わってキテネの現領主が、公国の盟主になられる。
―と。
街角で、市場で、あるいは場末の酒場で、まことしやかに囁かれたこの噂は、異様なほどの速度で公国全土に広まった。
その不自然さ、そして単純に不敬であるという理由から、宰相ヴァルター率いる諜報部が出所を探った結果―
港湾都市キテネに行きついたのだ。
勿論、キテネの領主は即座にこれを否定したが、このことが判明した際、ウルヴァーンの貴族たちは、揉めた。
―これは、ウルヴァーンに対するキテネからの挑発である、と。
そう、受け取る者が少なからずいたのは、事実だ。
(……滅多なことは無い、と思いたいがのう)
顎鬚を撫でつけながら、クラウゼは考える。思い浮かべるのは、キテネの領主の顔。
(何を考えていることやら……)
年に数回、顔を合わせているが、彼は代々受け継いできた華やかな商才の割に、寡黙で実直な男という印象だった。しかし、そうであるが故に、時折何を考えているのか、推し量りにくいところがある。
論理的に考えて、実質的な軍事力に劣るキテネが公王の座を狙ったところで、無駄に金がかかるばかりでメリットと言えるメリットはない。また、キテネに『そのつもり』がないということを、クラウゼは半ば直感的に確信していた。
(しかし、そうであるとするならば、他の勢力が噂を流したことになる)
そもそも、クラウゼの体調不良は、一部の貴族にしか知られていない機密事項だ。誰かが思いつきで、ひょいと流せるような代物ではない。となると、公国内の貴族に不和の種をばらまくため、何者かが意図して噂を流した、と考えるのが自然なわけだが―
(―誰が? そして、どのような意図で?)
その正体も謎だが、意図するところも分からない。正直、工作として噂をばら撒くならば、もっと上手いやり様がある。この場合、噂の広まり方―拡散速度があからさま過ぎるため、『工作である』と自分から喧伝しているに等しいのだ。
(誰が、何のために……?)
いくら考えても、ぐるぐると疑問が渦を巻くばかりで、胸の内側にずしりとしたものが積み重なっていくかのようだった。そして、ふいに思い出したかのように、肺の奥から湧き上がってくる、重い咳。
ゴフッ、ゴフッと激しくせき込み、クラウゼは悲観的な考えを振り払うかのように頭を振った。
(まったく、こんなことでは身が持たんな……)
―老いを感じる。口にこそ出さないが、このところは物忘れも激しい。
万が一のことがある、とは自分でも考えたくないし、出来る限り国の行く末を見守りたいとは思うものの、やはり頭がはっきりしているうちに自分は身を引くべきだ、とその思いを新たにする。
(許せディートリヒ……重荷を背負わせることになる)
まだ若い―幼いとすら言っていい、孫の顔を思い浮かべながら、老いた王は溜息をつく。
ひとつ、溜息をついて―暗い考えは、終わらせることにした。
……そう言えば、そろそろ、殿下の御誕生日ですな
それを見計らったかのように、ヴァルターが話題を振ってくる。
早いものよ、あの子ももう十四になるか
祖父の表情、と言うべきか。腕組みをしながらのクラウゼの顔は、この時ばかりは、どこまでも優しげであった。
……盛大に、祝ってやらねばならん
民への披露目も兼ねて、と呟く。
それでしたら、やはり、何か催し物を企画するべきですかな?
……そうよな、今後のことも考えると……
コツコツ、と指先で執務机を叩きながら、クラウゼは考えを巡らせる。
……腕利きの戦士は、いくらいてもいい。武道大会でも開くか?
ちら、とクラウゼが目をやると、ヴァルターは満面の笑みで答えた。
良い考えであられます
では、そのように計らえ
はっ
恭しくヴァルターが頭を下げたところで、扉の外から、足音が聞こえてくる。
クラウゼは威厳のある表情を取り戻し、ヴァルターは姿勢を正した。こんこん、と扉を叩く音。
―アントニオ様がいらっしゃいました
通せ
平坦な声で、ヴァルターが答えた。
扉が開かれ、茶器を携えた侍女と共に、一人の男が執務室に入ってくる。
丸顔で、歳は四十代前半ほどか、ぽっちゃりとした体格の男だった。幾つもの宝石が縫い付けられた煌びやかなローブ、頭頂部には羽根飾りのついた小さな帽子、ひと目で上級貴族と知れる出で立ちをしている。
陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……
柔和な笑みを浮かべ、仰々しく一礼する男。その名を、『アントニオ』という。クラウゼの主治医にして専属の薬師だ。
具合が悪いからこそ、そちを呼んだわけであるが
はっ、申し訳ございません……
口の端を歪めて笑うクラウゼに、柔和な笑みを引き攣らせるアントニオ。しかし、すぐに気を取り直して、侍女が準備した簡易テーブルの上に薬箱を置き、秤やカップなどを用意する。
……それでは、如何様に致しましょう
いつものように。咳が鬱陶しくてかなわん
仰せのままに
一礼し、アントニオは慣れた手つきで、薬剤を調合し始めた。粉末やシロップなどを手際良く量りとり、持参した水とともにカップの中で混ぜ合わせる。
すぐに、どろりとした濁った緑色の、いかにも不味そうな薬液が完成した。
さて……
新しく匙を手にとって、アントニオは薬液をすくい取り、口に含む。
ふむ……問題はないようです
味見、ではなく、責任を取るための毒見の性格が強い儀式。しかし当然のようにそれをクリアしたアントニオは、侍女が運んできた別の白銀のカップに、改めて薬液を注ぎ直した。
一見、何の変哲もないカップだが、見るものが見れば、その強力な魔術の波動に気付くだろう。毒を検知すれば直ちに知らせる、高価な魔道具だ。
なみなみと薬液が注がれたカップを、侍女がクラウゼの手元まで運ぶ。そこで、駄目押しのように、傍らのヴァルターがパチンと指を鳴らした。
Thorborg.
ふわりと、柔らかな金色の光が、カップの周囲を漂う。その光の中に、一同は、羽根を生やした小人の姿を幻視した。
ヴァルターは、公国の宰相であると同時に、国立魔道院で魔術を修めた優秀な魔術師でもある。毒見の術式もお手の物で、その老練な精査の眼を欺くことは、人の身ではまず不可能と言ってもいい。
カップの周囲をくるりと、舐めるようにして回った光は、そのまま二度三度と明滅してから霧散する。
……問題ありませんな
気負わない様子でヴァルターが断言して初めて、クラウゼは目の前のカップに手を付けた。
とぷん、と揺れる薬液をうんざりとした顔で一瞥し、覚悟を決めたかのように一気に喉に流し込む。
…………
顔をしかめた。凄まじいまでの苦さ、そして後味の悪さ。しかし同時に、胸の奥からつかえが取れるような、そんな爽やかな感覚があった。
……いつものことながら、そちの薬は良く効く。大儀であった
勿体なきお言葉にございます
薬の苦みも余程効いたようで、侍女が新たに白銀のカップへと注いだ、蜂蜜のたっぷりと入った口直しの紅茶を飲みながらも、クラウゼの言葉はどこか投げやりだった。それでも、アントニオは感極まったかのように平伏する。
このところ、手足が異様に冷えることがある。……何とかなるか
はい。それでしたら、薬液の調合に心当たりがございます
では、次はそのように計らえ。今後とも頼りにしておる
ははっ! 身に余る光栄……!!
薬箱を抱えたまま、終始ぺこぺことへつらい、部屋を辞するアントニオ。
その姿を、あからさまに表情に出すことはせず。
しかし、どことなく胡散臭そうに、ヴァルターは見送っていた。
†††
要塞都市ウルヴァーン、領主の城の片隅―。
日当たりの悪い地上階の一画に、その小さな部屋はある。
異様な部屋だ。壁の全面が棚で占有され、そこには所狭しと、瓶に詰められた乾燥植物や、何かの種子、得体の知れない乾物などが並べられていた。床にも足の踏み場がないほどに収納箱が置かれ、部屋に比して大きめの机には、乳鉢やすりこぎ、秤、ビーカー、カップや試験管などがぎっしりと置かれている。
そんな部屋に、ひとりの男はいた。
醜い男だった。顔は、火傷か何かで酷くただれ、片目は瞼が捲くれ上がったかのようになり、その下の瞳は白濁している。もう片方の目は酷く小さく、その顔のパーツのアンバランスさが、見る者に生理的嫌悪感を掻き立てた。やたらと腫れぼったい唇、その隙間から見える乱杭歯、異常なまでの猫背で机に向かう男は、ただ一人黙々と、すりこぎで何か不気味な紫色の骨のようなものを磨り潰している。
…………
ごりごりと、すりこぎの音だけが、部屋に響く。骨のようなものを粉末状にし、別の容器に移し替えて、また新たに磨り潰す。そんな単純な、しかし地味にきつい作業が、延々と続く。
しかし―どれほどの時間が経ったか。
部屋の外から、カツカツと、早いペースで足音が近づいてきた。
作業する手を止めた醜い男は、手慣れた様子で、フードを目深にかぶる。
間もなく訪れる主人に醜い顔を見せ、その機嫌を損ねてしまわぬように―
足音が部屋の前に辿り着くと同時、ノックも何もなく、乱暴に扉が開かれた。
無言のまま、一人の男が部屋に入ってくる。丸顔に、ぽっちゃりとした体躯、やたらと豪奢なローブ―アントニオだ。
調子はどうだ? ん?
執務室にいたときとは打って変わって、気取った調子で声をかけるアントニオ。
は、はー。お蔭さまで、順調にごぜぇます
ん。本日も陛下は、調合した薬に大変ご満足しておられた。誇りに思うといい
ははぁ。ありがとぅごぜぇます
ぎこちない動作で、しかし醜い男は、わざとらしく頭を下げて見せる。機嫌を損ねないように。
さて。それで本題だが、陛下はこの頃、手足の冷えにお悩みのようだ。カンジントア草、リオカの実、レース豆のエキス、この辺りに効能があると思うが、どうだ?
流れるようなアントニオの言葉に、しばし男は、黙考する。
……おっしゃる通りにごぜぇます。完璧でごぜぇます
うん、やはりな。私の見立てに間違いはない
ふふん、と得意げに鼻を鳴らしたアントニオは、至極ご満悦な様子だった。
そういうわけで、うん、そうだな、三日分。今日の夜までに用意しておけ
はっ……はぁ、夜までに、でごぜぇますか
何か?
一から用意するとなると、分量的に、それはなかなかな無茶な要望だった。若干の驚きを滲ませる男に、しかしアントニオは不機嫌な顔で問い返す。慌てて、醜い男は平伏した。
いっいぃえ。確かに、夜までに、三日分でごぜぇますね
そうだ。それでいい
頷いたアントニオは、ふっと、その丸顔に見下すような笑みを浮かべる。
お前のような醜い化け物が、誰のお蔭で食うに困らずいられるか、よくよく考えることだ
は、はぁー
では、……そのように計らえ
何がおかしいのかニヤニヤと笑いながら言い放ったアントニオは、そのまま男を一瞥することもなく、乱暴に扉を閉めてさっさと出て行った。
カツカツカツ、と足音が遠のいていく。その間も、男は、頭を下げたままだった。
やがて、足音が完全に聞こえなくなってから、ぽつりと、
ふん。……自分では何も出来ねぇ、若造風情が……
毒々しさがにじみ出るような声だったが、と同時にそれは、どこか楽しげでもあった。
足を引きずりながら、棚を巡って目当ての材料を集める。葉や木の実の入った瓶を机の上に並べ、先ほどと同じように、すりこぎで擦る作業を再開する。
ごりごり、ごりごりと。
無機質でどこか暴力的な音が、響く。
―どれほどの時間が経ったか。
閉ざされた雨戸の隙間から、夕焼けの光が差し込む頃。こんこん、と扉をノックするような音が響いた。
しかし、それは扉からではなく、閉ざされた窓の方からであった。にやりと、笑みかどうかも分からない、醜い口の端を歪めて、すりこぎを置いた男は、急いで雨戸を開け放った。
そこに居たのは、一羽の鴉。
窓枠にとまった、真っ赤な瞳の鴉だった。
雨戸が開くと同時に、慣れた様子で、鴉は部屋の中へと入ってくる。とんとん、と机の上を跳ねてから、ふわりと床に降り立った。
それをよそに、醜い男は、扉の方へと向かう。慎重に、音を立てないように開き、部屋の外の様子を伺った。
―誰もいない。
そのことを確認し、そっと扉を閉める。
そして、振り返れば―部屋の中に、ひとりの黒衣の老人がいた。
異様な雰囲気の、老翁であった。
まずその背丈。漆黒のローブに包まれたそれは、のっぺりとした存在感を放つ。年老いてなお、ぴんと伸びた背筋は、その壮健さを窺わせた。短く伸ばした黒い髭に、同じように短く刈り上げた黒髪。その顔や黒衣から覗く手は皺だらけで、相当な老齢であることを示していたが、かっ、と見開かれた両の瞳は、荒々しいまでの覇気を秘めていた。血のような、燃え盛る炎のような、深紅の瞳―
―
無言のままに、老翁は軽く右手を振った。
その瞬間、世界から音が消える。
窓から、あるいは天井から、微かに聞こえていた周囲の生活音が、一切合財消え去った。音を封じる魔術を行使したのだろう、と醜い男は無知ながらも、ぼんやりと推測する。
下手に城の中で魔術を使えば、宮廷魔術師たちが直ちに検知する、と。そんな話も聞いたことがあったが、少なくとも目の前の老翁が、規格外の存在であるということだけは、はっきりと理解していた。
……さてさて、久しいのぅ。元気にしておったか?
背の低い男を覗き込むようにして、親しげに老翁は問いかける。
へ、へぇ。お蔭さまで……
暗い笑み。しかし、それは上っ面を塗り固めた媚笑ではなく、真の畏敬の念が滲み出るものだった。
そうかそうか。……陛(・)下(・)の(・)御(・)様(・)子(・)は(・)?
そして、続けざまに問われた言葉に、男は醜い笑みをさらに濃くした。
……この頃は、手足の冷えに悩まされておられるそうで
カッカッカッカ……そうか、そうか
懐から、無色透明な液体の詰まった小瓶を取り出しつつ、老翁は邪悪な笑みを浮かべる。
ならば……先(・)は(・)長(・)く(・)な(・)い(・)な(・)
その小瓶を、醜い男に、手渡した。
へ、へへぇ……
それを受け取りながら、男も引き攣ったような笑みを浮かべる。
カッカッカ、へっへっへ、と。
どろどろとした嘲笑の声が、静かすぎる部屋に響く。
やがてそれは、ばさばさという、一羽の鳥の羽ばたきの音に変わり。
それすらも遠ざかっていったあと、ゴリゴリと、再びすりこぎの音だけが響く。
何事も―
何事も、なかったかのように。
いつまでも。
29. 一夜
とうとう着いたか
ウルヴァーン外縁部、宿場町。サスケの背から降りたケイは、ぽつりと小さく呟いた。
ぶるるっ、と鼻を鳴らすサスケの首を撫でながら、遠景の要塞都市を見やる。風にそよぐ麦畑の果て、小高い丘の上にひしめく石造りの家々に、それらを取り囲む分厚い城壁。
領主の城、第一の城壁、第二の城壁と、段々に構造物が広がっていく様は、まるで街そのものが大きなひとつの岩山のようだ。
遂に、……だな
同じく、スズカから下馬したアイリーンが、そっとケイの隣に寄り添う。
アレクセイとの決闘から、おおよそ半日。
ウルヴァーンの都市圏に辿り着いた一行は、城壁の外側の宿場に逗留し、市内へ入るための準備を進めていた。
―そっちの荷は1番馬車に、割れ物はまとめて2番だ。ちゃんとリストは仕上げておけよ。あっ、毛皮の畳み方にはきちんと気を払うんだぞ、折角状態が良いんだから!
宿場町の一角に居を構える、コーンウェル商会の倉庫前にて。ホランドの指示の下、商人や見習いたちが忙しげに動き回り、積荷を別の馬車へと移し替えていた。
税金対策、であるらしい。隊商の荷馬車のまま市内に乗り入れると、馬鹿にならない租税を取られるので、経費削減の為に専用の馬車を使ってここから市内の支部までピストン輸送するそうだ。
今回も、何事もなく辿り着いたな……
いや、何事もないってこたぁねえだろ。“大熊(グランドゥルス)“出たじゃん
まぁな。でも俺ら何もしてないし……
気が付いたら終わってたもんなぁ
忙しげな商人たちを尻目に、仕事を終えた護衛たちは気楽なものだ。あとは市内で給金を受け取るのみなので、武装を解きながら、のんびりと駄弁っている。
そして、そんな彼らから距離を置き、ケイとアイリーンは二人の世界にいた。
沈黙のうちに、吹きつける風の音を聴きながら、ただただ遠くに佇む都市の姿を眺める。ようやく目的地に辿り着いたという安堵と、慣れ始めていた旅の日々が終わってしまう寂しさと、新たな環境への一抹の不安と。二人の顔には、それらが綯(な)い交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいた。
……それにしても、アレがウルヴァーンか
しんみりとした空気を振り払うかのように、ケイは口を開く。
ゲームのとは、大違いだな?
そうだな、
それに応えて、アイリーンも小さく笑った。
ゲームの方は村だったし……こっちのと比べたら、犬小屋か何かだなありゃ
違いない
どこかで聞いたような表現に、思わず苦笑する。ゲーム内のウルヴァーンはプレイヤーメイドの要塞村―岩山の上に慎ましやかに築かれた防御拠点で、下手すれば今ケイたちのいる宿場町よりも小規模なものだった。
まさしく、比べるのもおこがましい、ってヤツだ……
笑い飛ばした湿った空気と、ぼんやり蘇る郷愁にも似た想いと。それらを胸に、ケイとアイリーンは静かに、見知らぬ街へと視線を戻す。自然と、惹かれあうようにして、手と手が重なり合った。
…………
それ以上は言葉を交わすこともなく―しかし、自分たちは同じ気持ちを共有していると。確信しながら、その手の温もりを確め合った。
―が。
おーい、ケイ! アイリーン!
背後から投げかけられたハスキーボイスに、慌てて手をほどき、弾かれたように振り返る。
見やれば―こちらに手を振りながら、のしのしと歩いてくるアレクセイ。
その姿は、決闘の際と同じく、完全武装。あるいは、所持品すべてを身に付けた姿、というべきか。肩に担いだ業物の大剣、柄の部分には兜を引っ提げ、ケイにブチ抜かれた円形盾(バックラー)の他、鎧、脛当て、手甲を装備。そして背中には、旅装具がパンパンに詰まった背嚢を背負っている。
良い感じの雰囲気を粉砕され憮然とするケイと、 げっ と嫌そうな声を上げるアイリーン、しかし二人の様子を気にする風もなく、アレクセイは目の前までやってきた。
……もう動けるのか
問いかけるケイの声に、どこか皮肉めいた響きが込められていたのは、仕方のないことかも知れない。決闘でケイに手酷くやられ、まだ半日しか経っていないにも拘わらず、アレクセイはぴんぴんしているようだ。切れていた唇の傷は殆ど治りかけ、下顎の青痣も既にその色を薄くしつつある。“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“に貫通させられた左腕に至っては、包帯こそ巻いてあるものの、まるで痛がる素振りすら見せない。
まあな、傷の治りは早いんだ
左手をくいくいと動かしたアレクセイは、 ふんっ と筋肉に力を込める。が、その瞬間、まっさらだった包帯に、じわりと血の赤色が滲んだ。
おっと、まだ傷は塞がってなかったか
ついうっかり、とでも言わんばかりに、まるで他人事のアレクセイ。ドン引きしたらしいアイリーンが、すっと一歩後ずさる。ケイの皮肉な笑みも少々引き攣っていた。
いくら痛みに強いとはいっても、これは少々異常だろう。ともすれば、比喩的意味ではなく、全く痛みを感じていないような―
『痛覚軽減』、か
ケイの呟いた言葉に、アレクセイはふっと顔を上げる。少しだけ見開かれた両の瞳は、無理やり驚きの表情を打ち消したかのような。
紋章だろう?
違うか、と首を傾げてみせるケイ。決闘の時から見当はつけていたが、この反応を見て確信した。
『痛覚軽減』―アイリーンの刻む『身体軽量化』程ではないが、ほとんど使われていなかったマイナーな紋章の一つだ。
取得条件は比較的緩く、その効果は『痛みを軽減しノックバックや気絶の可能性を減らす』こと。しかし、ゲーム内では些細な傷でも死に直結しており、そもそも痛覚がフィードバックされることもなかったので、負傷を前提とした『痛覚軽減の紋章』は有難味が薄かった。せいぜいが魔術師プレイヤーが、被弾による詠唱失敗の可能性を減らすため、保険としてその身に刻むことがある程度のものだった。ケイも、こうしてアレクセイに出会わなければ、その存在すら忘れていたであろう。
ゲーム内では役に立たなかった『痛覚軽減』だが、翻って現実では、それなりに有用であると言わざるを得ない。ケイ自身、この世界に来てから経験した対人戦闘において、痛みのせいで行動が阻害されたり、判断を誤ったりということは度々あった。怪我の自覚が遅れる、という欠点はあるものの、攻撃力に特化したいのであれば有用な能力だ。ただでさえ勇猛果敢な戦士が痛みに鈍感になれば、果たしてどのような化学反応が起きるのか―
ちなみにアレクセイの場合、その傷の治りの早さを鑑みるに、あとは『身体強化』か、あるいはマイナーな『自然治癒力強化』の紋章を刻んでいる、というのがケイの見立てだ。
……詳しいな。いや、その通りなんだが……どこで知った?
薄く笑みを浮かべるアレクセイだが、その瞳は笑っていない。おや、地雷を踏んだかな、などと軽く思いつつ、ケイは小さく頭を振った。
知り合いの雪原の民の戦士は、お前だけじゃなくてな
へぇ。なんて名前だ?
『アンドレイ』だ
ぴくりと、黙って話を聞いていたアイリーンが、横目でケイを見る。
アンドレイ……アンドレイか。おれの知り合いにはいないな
まあ、昔の話だ。それより何か用事か?
何やら思案顔のアレクセイに、ケイは投げやりに話題を振った。
ああ、そうだった。用事があるのはケイの方なんだが
ぽん、と手を打ったアレクセイは、言葉とは裏腹にアイリーンの方を見やって愛想を振りまきつつ、背負っていた背嚢をどさりと地面に下ろした。
さて、
続いて、大剣と円形盾をケイの足元に放り出し、脛当てや手甲などの装備も順次外していく。背嚢を基礎として、ケイの目の前に積み上げられていく物資の山。
え、お前何を
困惑するケイとアイリーンをよそに、鎧を脱ぎ去ったアレクセイは、いつか湖で見せた恐るべき脱衣速度をもって、あっという間に肌着とサンダルだけの姿になった。そして、最後に右手に握りしめていた財布を、出来あがった山の上に載せる。
―これが、おれの全財産だ!
高らかに宣言し、キリッとケイを真正面から見据えるアレクセイ。
ほぼ裸一貫で腕組みをし、堂々と仁王立ちする姿は、ただでさえ衆目を集めることこの上ない。それが唐突に叫ぼうものなら、周囲の人間に注目するなと言う方が無理だった。駄弁っていた傭兵たちも、通りがかりの住民も、忙しげにしていた商人たちですらも、その手を止めて何事かとこちらを見ている。
……どういうことだ
受け取られよッ!
くっ、と悔しげに顔を歪ませるアレクセイ。
貴殿は……決闘の勝者であるが故にッ!
その言葉に、思わずケイとアイリーンは顔を見合わせた。ふるふる、と無表情で首を振るアイリーン。
いらん
それを受けたケイの答えは、簡潔明瞭だった。ずるっ、と腕組みの体勢からずっこけるアレクセイ。
何故だ!
なぜ、と言われてもな。特に魅力を感じない
困った風に、ケイはぽりぽりと頬をかきながら答える。
確かに、ケイはアレクセイと闘って勝利を収めたが、それは自身の名誉とアイリーンを守るためであった。ケイも若干負傷したが、それに釣り合うほどにはアレクセイを叩きのめしてもいる。ケイにとって、決闘は既に終わったこと―これ以上どうこうしようという気は、あまり起きなかった。
強いて言えば、アレクセイの防具―白羽(ふつう)の矢とはいえ”竜鱗通し”の一撃を弾いた合金の脛当てや手甲は、ケイの現在の防具と比しても魅力的と言えた。だが新品ならば兎も角、アレクセイのお下がりは御免蒙りたい。
迷惑料として金だけを徴収するのも考えたが、それはそれで狭量であるように感じられた。ケイが独りであればまだしも、今はアイリーンがいる。彼女の見ている前で、殊更金に意地汚くなろうという気も、また起きなかった。
まあ、なんだ。気持ちだけ受け取っておこう
し、しかし……それは困る!
にべもない答えのケイに、おろおろと弱った様子のアレクセイ。そこには普段の強気な態度など、見る影もない。それほどまでに断られるのが予想外だったのか、と面白おかしく感じながら、ケイは逆に尋ね返した。
なぜ困るんだ? お前にも悪い話じゃないだろうに
一族の沽券に関わる。決闘の挑戦者が敗北した場合、勝者に全財産を譲るのがしきたりだ。恋慕の為に、自分から決闘を挑んでおきながら負け、その上……な、情けをかけられるなど……!
説明するうちに、アレクセイの頬が紅潮する。最後の言葉は、殆ど絞り出すかのようだった。自分が負けた、という事実もひっくるめて、それを解説させられるのが余程の屈辱なのだろう。
だから……これは、ケジメなんだ。受け取ってくれ
……成る程な
嘆願するようなアレクセイに、ケイは困った様子で兜を脱いだ。
つまり、受け取られなければ、一生の恥ということか
その通りだ
ふむ……。ならば、そうだな、
小さく溜息をついて、物憂げに前髪をかき上げたケイは、表情を真面目なものに切り替える。
―分かった。その申し出、受けよう
えっ、受けるの
ケイの隣で、心底意外そうに目を瞬かせるアイリーン。
おお、受け取ってくれるか!
それをよそに、アレクセイはぱっと顔を輝かせる。しかし同時に、荷物の山を見下ろして、少し寂しげに細められるその水色の瞳を―ケイは見逃さなかった。
ああ。ところで、……受け取ったものをどう処分しようと、それは俺の勝手なんだな?
……。ああ、勿論だ。売るなり使うなり好きにするといい
一瞬の間。しかしアレクセイは、毅然と答えた。 そうか と改めて言質を取ったケイは、重々しく頷き、
―ならば、俺は決闘の勝者として、お前にこの装備一式を譲る
言い放つ。
……え
ケイの台詞に意表を突かれ、ぽかんと間抜けな顔をする周囲の面々。
ふッ―ふざけるな! それじゃ何も変わらないじゃないか!
すぐに、頬を紅潮させたアレクセイが、噛みつかんばかりの勢いで詰め寄るが、ケイがそれに動じることはない。
いや、俺はしかと受け取ったぞ。お前の覚悟と、誇りをな
あくまで真摯なケイの言葉に、毒気を抜かれたアレクセイは、陸に揚げられた魚のようにパクパクと口を動かした。
ケイは、異邦人だ。
無論、雪原の民の慣習などには明るくない。アレクセイがその気になれば、決闘後のやり取りはいくらでも誤魔化せたはず。
しかしそれをせずに、自ら財産の譲渡を申し出たのは、まさしく彼自身が誇りに生きている証だ。例え、それが相容れぬ、理解しがたいものであったとしても、その真っ直ぐさは称賛に値する。
最低限の生活はおろか、命の保証すらないこの世界。それも、知り合いもロクにいない異郷の地で、所持品の全てを投げ出し、他者へと明け渡す覚悟がどれほどのものなのか―
いや、清々しいまでの潔さだとケイは思う。
―感服した。その心意気、全く天晴れと言わざるを得ない。故に、貴殿に敬意を表して、これらの武具を贈りたい
朗々と語られる口上と共に、漆黒の眼光が、揺れる瞳を捉えた。
受け取られよ。誇り高き、雪原の民の戦士―アレクセイ
静かな、それでいてどこか有無を言わせないケイの言葉に、アレクセイは黙って俯いた。ぱし、と顔面を覆い隠した右手のせいで、その表情を窺い知ることはできない。
……しきたりに、従っておけば、
―全部なかったことになるとでも、思っていたのか。
小さな声が、ケイの耳朶にまで届く。恐れるような、わななくような―そんな訥々とした言葉が。
…………はぁぁ~
やがて、長く細く息を吐いたアレクセイは、虚脱したような表情で天を仰いだ。口元を引き結んで天上の何かを睨みつけ、ガリガリと荒っぽく頭を掻き毟る。
……分かった。有難く頂戴する
何かを悟ったように、存外、素直に頷いたアレクセイは、荷物の山から衣服を拾い上げ、黙々と着込み始めた。
それからは、先ほどの場面を逆再生するかのようだ。ズボンを履き、シャツを羽織って板金付きの革鎧を纏い、手甲と脛当てを身につける。放置されていた財布を乱暴にポケットに突っ込み、剣と盾を拾い上げ、背嚢を背負う。
そしてそこには、数分前と、見た目だけは何一つ変わらない、アレクセイの姿があった。
…………
鼻の頭をかきながら、気まずげに目を逸らしたアレクセイは、荒々しい動作で兜をかぶる。そしてそのまま面頬(バイザー)を下ろそうとしたが―動きを止めて、短く息を吐いた。
すっ、と。面頬にかけていた手を、そのままケイの前に差し出す。
―感謝する
逸らされることなく向けられた視線を、しかと受け止めながら、ケイはその手を握り返した。
アレクセイの握力は、強かった。
感謝される云われはない。俺は、俺が思ったことをしただけだ
……そうか
苦笑して、大剣を担ぎ直したアレクセイは、ケイたちに背を向ける。
……あんたには負けたよ
背中越しに、一言。ガシャリと兜の面頬を下ろし、ゆったりとした足取りで歩き始めた。
北へ。
涼やかな初夏の風が吹きつける中、その背中が段々と小さくなっていく。
結局、最後まで振り返ることなく、青年はひとり旅立っていった。
……さて、
黙ってそれを見送ったケイは、サスケの手綱を取り、兜をかぶり直す。
俺たちも、行くか
うん
言葉少なに頷いたアイリーンが、ひらりとスズカに飛び乗った。ホランドたちの呼ぶ声が聞こえる。出発の準備は整ったらしい。
―とんだ茶番だな。
などと、皮肉な想いが湧き出てきたが、不思議と悪い気はしなかった。
馬上、もう一度、ちらりと北を見やって。
隊商の皆に合流すべく、ケイも馬首を巡らせた。
†††
城門をくぐり抜け、一般市街のコーンウェル商会支部で給金を貰い、ケイたちの護衛としての仕事は完了した。
ひとり頭、小銀貨6枚に銅貨が少々。銅貨に換算してしまえば70枚弱といったところか。
それが、隊商護衛をこなしたケイたちの、七日間につけられた値段だった。
粗食であれば一日の食費が銅貨3枚で賄えることを考えると、悪くない給料といえるだろう。アイリーンは途中から夜番に魔術を使い始めたので、その触媒代として特別手当が小銀貨2枚ほど上乗せされていた。
ちなみにホランド曰く、護衛任務で負傷した場合には、怪我の程度によって負傷手当なども出るらしい。
いや、今回はケイたちと働けてよかった。また機会があったら是非頼むぜ!
こちらこそ、色々と助かった。ありがとう
姫さんも元気でな!
そのうち会えるさ、またな!
ダグマルら護衛仲間たちは、仕事納めに呑みに行くとかで、給金を受け取るや否や連れ立って支部を出ていった。酒がないと生きていけないのか、と苦笑するケイであったが、アイリーンがぼそりと オレもウォッカ飲みたいな と言うのを聞き逃しはしなかった。
その後、ホランドと”大熊(グランドゥルス)“の毛皮の扱いについて簡単に話し合い、ケイたちも商会支部を後にする。
毛皮は好事家にかなりの額で売れると予想されているが、買い手が見つかるまで待つか、ある程度の値段で商会に売り払ってしまうか、ケイには二つの選択肢があった。前者はどれくらいの期間が開くか分からない代わりに売値が上がり、後者は買い叩かれる代わりにすぐ纏まった金が手に入る。
サティナで仕入れた情報によると、ウルヴァーンの図書館は入館料がそれなりに高くつくらしいので、極力早目に現金が欲しいケイとしては、即売り払う方向で話を進めている。
実際、どれくらい時間がかかるか分からんからな
全くだ。でも”大熊”の皮って、加工すりゃそこそこな防具になるよな? 使うってのもアリじゃないか?
俺は今ので大丈夫だ。アイリーンがいるなら、それでもいいと思うが
いや、オレもいいよ。……重いし
そんなことを話しながら、ホランドに教えてもらったお勧めの宿屋を目指して歩いていく。
夕刻、一般街を貫くメインストリートを、埋め尽くさんばかりに行き交う人々。買い物かごを抱えた女に、黒い貫頭衣を着込んだ奴隷、露天商との値引き交渉に勤しむ旅人風の男―。
サスケの手綱を引きながら、綺麗に整備された石畳の上を行くケイが気付いたのは、サティナやユーリアに比べ建物の背が全体的に高いことだ。城壁外縁部の建物から始まり、全てが基本的に三階建て以上の造りとなっている。そのせいか、中世ヨーロッパ風の街並みであるにも拘わらず、他の町に比べ何処となく先進的な雰囲気が漂っていた。
流石は”公都”、か……
おのぼりさんよろしく視線を彷徨わせているうちに、目的の宿屋へと辿り着く。デフォルメされた甲虫が、エールのジョッキを片手に首吊りしているユニークな看板―“HangedBug”亭だ。
入り口前で小間使いにサスケとスズカの世話を任せ、緑色に塗られた扉を開く。からんからん、とベルの音が鳴り、中の様子が目に飛び込んできた。
あら、こんばんは
ケイたちを出迎えたのは、綺麗に畳まれたシーツを手にした若い女だ。程よく日に焼けた小麦色の肌、肩までの亜麻色の髪をバンダナでまとめ、いかにも好奇心が強そうにくるくると動く黒色の瞳が可愛らしい。
食事、それともお泊り?
部屋を取りたい
OK、ちょっと待っててね
にこりと愛想のいい笑みを浮かべ、女はシーツを手に奥へと引っ込んでいく。“HangedBug”亭も、宿屋の例に漏れず、地上階は酒場兼食堂となっているようだ。ランプの明かりに照らされた大部屋には丸テーブルが並べられ、カウンターの内側にはグラスを磨く中年の男の姿があった。筋肉質な体格、ぼさぼさに広がった髭―ゲーム内には存在せず、おそらくこの世界も同様であろうが、ひと目見て あ、ドワーフだ と思わせられる見てくれだ。後で聞いたが、アイリーンも同じことを思ったらしい。
はいはい、お待たせ。それじゃあ……
戻ってきた女が、受付の帳簿を広げる。黒色の瞳が、ケイとアイリーンを交互に見つめた。
……相部屋でいいかしら?
……ああ
極力、気負わないように意識しながら、何でもないことのようにケイは頷く。隣にいるアイリーンの存在が、かっと熱くなるような、浮き上がるような、そんな錯覚を抱いた。
何日ほど泊られるご予定?
まだ決まってないんだが、逆に最低で何日から部屋を取れる?
別に一日でもいいわよ。ただ、一日ごとに延長はちょっと迷惑ね。一週間単位で取ったらちょっとお安くするけど?
そうか、それならまず一週間でお願いしよう
ん、OK。それじゃあ203号室ね
鍵を受け取り、部屋代と馬の飼料代をまとめて銀貨で支払う。 ごゆっくりー という女の声を背中に、ケイとアイリーンは揃って階段を上った。
203号室。
こじんまりとした、清潔感のある部屋だ。窓際の小さなテーブル、クッション付きの安楽椅子、鍵付きの木箱(チェスト)に、両サイドの壁に置かれた二つの寝台―ホランドが勧めてくれた通りに、家具などのグレードが他の宿屋に比べて高い。窓は雨戸が嵌っているだけの簡素な造りだが、通りの裏側に面しているため比較的静かな環境だ。
わっ、ベッドだ!
荷物を床に置いたアイリーンが、嬉しそうにベッドにダイブする。いつぞやのサティナの宿屋とは違い、ちゃんと詰め物がされていたので、アイリーンの身体はぽふんとマットレスに受け止められた。
あぁ~~~体が溶ける~ぅ~
ここんとこ、地面に布敷いただけだったからな
同じように荷物を下ろしながら、ほっと一息ついてケイ。ぐっぐっ、と程よい固さのマットレスの感触に、思わずその頬が緩む。行商の旅はなかなか楽しめたが、テントで眠り続けていたため身体中が凝り固まっていた。快適な寝床の存在は、素直に嬉しい。
素直に、嬉しい。
…………
いつの間にか、部屋の中には沈黙が降りていた。
テントのような布地ではなく、しっかりと壁と天井で構築された密閉空間の中にいる―そのことが、二人きりであるという事実を、改めて浮き彫りにしているように感じられた。目的地に辿り着いた安堵、達成感、高揚感、それらのもたらす気持ちの緩みもまた、そんな感覚に彩りを添えている。
装備を外したり、荷物を整理したり、雨戸の開閉の確認をしたり、と無駄に動き回って、その沈黙を誤魔化そうとするケイ。しかし、何を話すか迷っている間にも、空気は飽和へと突き進んでいく。
…………
とうとうすることがなくなって、ケイがちらりと視線をやると、枕を抱きしめてこちらを窺っていたアイリーンはまるで人形のように跳ね起きた。
ああ、そうだ
目があって、まるで思い出したかのように、ケイは口を開く。
その……ホランドの旦那に、聞き忘れたことがあった。ちょっと行ってくるが、いいか? 野暮用だからすぐ戻る
あ、うん、そう? オレは全然いいケド
目をぱちくりさせながらも、枕を抱きしめたままアイリーンは小さく頷いた。
よし、それじゃあ行ってくる
鍵は預かっとくぜ~
任せた
ピンッ、と指で弾いたルームキーを、パシッと受け止めるアイリーン。
気を付けてな、行ってらっしゃい
ああ、またあとで
背中越しに笑いかけて、再びくつろぎモードで寝転がるアイリーンを尻目に、ケイは部屋を出て行った。
コツ、コツ、コツ……と、ブーツの足音が遠ざかっていく。寝転がったまま、アイリーンは注意深く、その音に耳を傾けていた。
―やがて、ケイが確実に宿を出たと思われる頃、アイリーンはおもむろに身を起こす。
ふむ、
腰に手を当てて、広くも狭くもない部屋を見渡すアイリーン。片隅に置かれた荷物に視線を落とし、続いて着ていたシャツを指で摘む。
……よし、着替えるか
誰に言うとでもなく。
アイリーンは荷物をひっくり返し始めた。
†††
既に暗くなりつつある道を早足で歩き、ケイは再び商会を訪ねた。
目的は、アイリーンに告げた通り、ホランドだ。
やあやあ、来ると思ってたよ
支部の片隅、商談用の小さな部屋。そわそわと落ち付かない様子のケイを、ホランドは朗らかな笑顔で出迎えた。
ならば、用件も分かっている、のかな
勿論だとも。コレだろう?
得意満面な様子で、ホランドは部屋に持参した小さな箱を開いて見せる。
その中に、真綿と共に収められていたのは、手の平サイズの四角い鏡だった。
おお……これか
そう。元々は、こっちを納品する予定だがね、客が『丸いのがいい』と言いだしたんだ。それで輸送していたのが、君らも見た丸い手鏡ってわけさ
成る程。それで、値段は?
細かい説明はどうでもいい、と言わんばかりのケイの食いつきに、ホランドは可笑しくてたまらないといった風に苦笑する。
銀貨20枚―と言いたいところだが、身内のよしみで15枚にまで負けておこう。ちなみにこれは原価に近いから、これ以上は負からないよ
いや、充分ありがたい。……どう支払おうか?
うーん、今ここで払って貰ってもいいし、毛皮の代金から天引きでもいい
……天引きでお願いしたい
現金はあまり使いたくない、という要望に、ホランドは快く答えた。
さて、ギフトラッピングは必要かね?
そんなものもあるのか。ぜひ頼む
にやり、と意味深な笑みを向けてくるホランドに、ケイは照れたように頬をかく。驚いたことに、近くの棚から包装紙やリボンを取り出したホランドが、手ずから鏡の入った木箱のラッピングを始めた。
……時に、旦那。“HangedBug”亭の近くで、どこかオススメのレストランはないだろうか。この際、金に糸目はつけず、良いディナーにしたいと考えているんだが
驚くほど器用に、かつ手際良くラッピングするホランドの手を眺めながら、遠慮がちにケイは尋ねる。
ん、レストランか……金に糸目はつけない、となると……いや、しかし君らは、ドレスとかは持ってないだろう?
う……残念ながら
貸衣装……は、サイズが合うのがないかもしれないし、ちょっともう遅いしな。気取らずに済む美味しい店といえば……うぅむ
“シェフ”としての本領発揮か、思わずラッピングの手を止めて真剣に考え始めるホランド。
……心当たりはあるが、問題は……Tu sais parler le francais?
唐突なホランドの言葉に、ケイはぴくりと眉を動かし、しばし目を泳がせた。
……Ouai, un petit peu
ほう、これは驚いた。なら問題ないね
高原の民の言語(フランス語)は話せるか、という問いに、少しだけ、と返したケイ。ホランドはいたく感心した様子で、何度も頷いている。
あ、ああ……だが何でまた急に?
“HangedBug”の裏側の通りにある、『ル・ドンジョン』というレストランなんだが、オーナーから給仕まで全員高原の民の出でね。それほど高くなく、抜群な味の料理を出す代わりに、ウチの言葉を話せない奴はお断りなんだ。君らも最初は断られると思うから、私の紹介だと言うといい
胸元からメモを取り出し、羽根ペンでさらさらと何かを書きつけるホランド。受け取ってみればホランドのサインと、フランス語で『丁重にもてなすように!』と書かれていた。
しかし多芸だね君は。いや、私とダグマルの会話が、それとなく分かってるみたいだったから、そうじゃないかとは思っていたんだが
それほど話せるわけじゃない。少しかじってる程度だ
肩をすくめて、控え目に答える。
幼少期より英語を学んでいるケイだが、VR機器の実用化後は、世界中の患者と交流するためその他のヨーロッパ言語も少しかじっていた。具体的にはフランス語、スペイン語、イタリア語が少々、ポルトガル語が最低限の挨拶といくつかの単語を知っている。ロシア語は手が出しづらく結局何も学ばないままだったが、現状、少しはやっておけばよかったと後悔しているのは内緒だ。
よし、これで出来た
ありがとう、完璧だな
小奇麗に飾り付けられた箱を手に、にこにことご満悦のケイ。ケイとはまた違った種類の笑みを浮かべたホランドは、励ますようにケイの背中を小突いた。
まあ、頑張りたまえ。Bonne(幸運を) chance(祈る)!
ハハッ、Merci bien(どうもありがとう)!
苦笑いしながら、箱を小脇に抱えて商会を後にする。
そして宿屋に戻る途中、このまま持って帰ってしまうとサプライズプレゼントにならないと気付いたケイは、どうにか隠そうと苦心した結果、腰の弓ケースの中に箱を収めることに成功した。
(許せ、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)”)
ケースの中で窮屈そうな相棒に、申し訳なさが募る。
戻ったぞー
宿屋にて。ケイが扉をノックすると、 お帰りー とアイリーンが鍵を開けた。
おっ
部屋の中のアイリーンを見て、ケイの目が一瞬点になる。
……着替えたのか?
うん
柔らかなランプの明かりの下、アイリーンは照れた風に微笑んだ。その身に纏うパウダーブルーのワンピースが、ひらりとケイの前で踊る。
……そんなの、持ってたっけ
えっと、実は、サティナで見つけてさ
微かに頬を染め、裾を撫でつけるアイリーンの上目遣いが、真正面からケイを射抜いた。
……似合ってるよ
……ありがと
えへへ、と笑うアイリーンを、ケイは最早直視できなかった。
その後、アイリーンに先に部屋を出て貰い、何とか鏡を隠した後、揃ってレストランへと出掛ける。
ル・ドンジョンは思ったよりも簡単に見つかった。お城の形をした看板が特徴的で、店の前にもでかでかと『Le Donjon』と書いてあったからだ。ホランドの危惧したとおり、一見さんお断りと言わんばかりに門前払いを食らいそうになったが、ホランドの書付を見せるとすんなりと中へ通された。常連と思しき客たちに奇異の目で見られつつも、案内されたのは小奇麗な個室。
ケイ、フランス語もイケるんだな!
……ちょっとだけな
控え目な言葉の割にドヤ顔のケイであったが、この後、メニューを手渡されて分からない単語のオンパレードに苦労する羽目となった。
取り敢えず最初に白ワインベースの食前酒(アペリティフ)を楽しみながら、パスタや子羊のグリル焼きなど、オーソドックスなメニューを注文する。オーダーから肝心の料理が来るまで随分と時間がかかり、その間にかなり酔っ払ってしまったが、その分クオリティは素晴らしいものだった。
前菜は生クリームと牛のひき肉、それに複数の香草を混ぜ合わせたムースだ。香り高く旨みの濃いソースが、舌の上で踊り食欲を掻き立てる。ケイはあっという間に平らげてしまったが、アイリーンはちまちまと名残惜しそうに食べていた。
続いて、パスタ。麺にコシがあり、ケイにありし日に食べた手打ちうどんを思い出させた。ケイの頼んだボロネーゼ風味と、アイリーンのカルボナーラ風味をそれぞれシェアしたが、どちらも申し分ない出来だった。特に、カルボナーラの方は、湿り気のある独特な香りの何かがふんだんに振りかけてあり、アイリーン曰くトリュフに似た食材ではないかとのことだった。
メインは子羊のグリル焼き。そしておそらくこれが、最も印象的な一品であった。一口食べ、二人とも動きを止めて、そのまま無言で完食してしまったほどに。羊であるにも拘わらず、まず肉に臭みが殆ど感じられない。ある程度の触感を維持しつつも柔らかく、噛み締めるごとに旨みが滲み出る。こってりと濃厚で、それでいてしつこさのない脂身。嚥下するごとに、もう一口、あと一口、と食べ進めてしまい、気が付けば皿の上には何も残っていなかった。
下拵えで、肉を念入りに叩いてるんだろうな
上品に口元をナプキンで拭いながら、そうじゃないとあそこまで柔らかくならない、とアイリーンは言う。確かに、ケイの方のグリル焼きには砕かれた骨の破片が混入していたので、アイリーンの推測は正しいのだろう。
デザートにはリンゴのタルト。頬っぺたが落ちそうになるほどの甘味は、勿論この世界において十二分に贅沢なものだ。そして、このところビールや葡萄酒など弱いアルコールにしか縁の無かったアイリーンも、ここぞとばかりに強めの蒸留酒を頼み、至極ご満悦の様子だった。
いやー美味しかった
また来ようぜ!
二人してほろ酔い加減のまま、良い気持ちで宿に戻る。今夜のディナーで銀貨が吹き飛んだが、それも仕方ないと納得のいく満足度だった。おそらく、またここに食べにくるのは確定事項といってもいい―ケイに至ってはル・ドンジョンで食事をすることを生きる目的にシフトしてもいい、とすら考えかけていた。
宿に戻ったあとは、交代で風呂に入る。地上階には、共用ではあるが小さな浴室が設けられているのだ。そしてこれが、ホランドが”HangedBug”亭を勧めた理由の一つでもある―まずはアイリーンが浴び、入れ替わりでケイがさっぱりと旅の疲れを洗い流した。
いやー良かった。満足、満足
ケイが部屋に戻ると、アイリーンはベッドの上でゴロゴロとしていた。風呂上がりで湿った金髪が、ケイの瞳には妙に色っぽく映る。服は再びワンピースをチョイスしたようで、微かに覗く太腿の白さが眩しかった。が、アルコールで適度に気が大きくなっていることもあり、ケイは何とか余裕を保つ。
サッパリした! ホント良かったよ、お風呂があってさ
全くだ、俺、風呂なんて何年ぶりだったことか
タオルで髪の毛を拭きながら、しみじみと呟くケイ。 あっ という顔をするアイリーンに、すぐに今のは失敗であったと気付く。
ああ、そうだ、アイリーン。実はひとつプレゼントがあるんだ
あくまで、ふと思いついた風に、ケイは話題を変える。部屋の隅の荷袋から、おもむろに、例のラッピングされた箱を取り出した。
おっ! 何それ! 何それー!
ベッドで身を起こし、まるで幼い子供のように、テンション高めにはしゃぐアイリーン。その隣に腰を下ろしたケイは、 はい と木箱を手渡した。
……開けていい!?
当たり前だろ
何を当然のことを、と笑うケイの前で、アイリーンは慎重に、まるで爆弾を解除するかのように包装紙を剥がしていく。
そして、箱の中、真綿の下から姿を現す、鏡。
……! 鏡じゃん!
ケイと鏡を交互に二度見して、アイリーン。目をまん丸にして驚く鏡の中の自分と、しばし見つめ合ったまま、絶句する。
……鏡じゃん!
欲しがってただろう?
いや、マジで……? やった! ありがとう! ありがとうケイ!
飛び上がらんばかりに喜びながら、鏡を手に、もどかしそうに、ありがとうの言葉を繰り返す。鏡を大事そうに箱の中に仕舞ったアイリーンは、満面の笑みを浮かべて、こちらに飛び込んでくる構えを見せた。
それを受けて、ケイが腕を広げると、体当たりするかのように抱きついてくる。ふわりと良い香りが漂い、一瞬視界が金色の髪で埋め尽くされた。
ありがとう! マジで嬉しい!
どういたしまして、そこまで喜んでもらえたら、俺も嬉しいよ
小柄で華奢な体躯を、そっと抱きしめながら、ケイも相好を崩す。アイリーンは きゃー と声を上げながら、ケイの胸元にぐりぐりと額を押しつけていた。
しばらく、そのまま和気藹々と抱き合っていたが、
…………
やがて―沈黙が降りてくる。
優しく見守るようなケイと、慈しむように見上げるアイリーン。
……アイリーン
最初に、少しだけ、勇気を出したのはケイだった。ちゅっ、と祝福するかのように、アイリーンの額にそっと口づける。
くすぐったそうに体を震わせたアイリーンは、それに負けじと、背伸びをするかのようにケイの額に唇を這わせた。
同じ高さで、二人の物言わぬ瞳が、向かい合う。黒と青の視線が、絡まり合う。
…………
水が流れるかのように、引き寄せられるかのように。
キスを交わした。
ちゅっ、ちゅっと小鳥が啄ばむかのような。他愛のない、確め合うひと時。お互いの息がくすぐったく、心地よくて、笑いながらも、止めることはなく。
しかし、どちらかが、唇を甘噛みしようとして―密やかな均衡は破られた。
蕩かすような―。躊躇いは、一瞬だった。
もはや、二人を分け隔てるものは、何一つとして存在しない。
頭の芯がしびれるような感覚。まぶたの裏で星が散るような。互いが互いを求めて交わし合う。それは、鳥肌立つような官能だった。ずっと、ずっと、いつまでもこうしていたい―と。そんな願いはしかし、やがて呼吸の限界に阻まれる。
ぷはっ、と。まるで溺れかけていたものたちが、息継ぎに喘ぐかのように。互いに、みっともないほど、呼吸を乱していた。全力疾走を終えたあとのように、心臓は早鐘を打っている。
……アイリーン
華奢な体を、抱きしめる。とくんとくんと、自分と同じような早さの心音が、たまらなく愛おしかった。
止まらない、もう、止まれない。湧き上がる、燃え滾るような欲求の予感に、おののいた。
ケイ……
少し体を引き離して、アイリーンがケイを覗き込む。
透き通るような蒼い瞳は、無言のうちに語る。アイリーンもまた、震えていた。
ふっと、天井で揺れるランプに、アイリーンは不安げな目を向ける。
―と。
部屋の外、大気が動く。
窓の隙間から吹きこんだ小粋な風が、ランプの明かりを、優しくかき消した。
闇の帳が下りる。暗い―しかし、ケイの瞳は、全てを映し出す。
はっきりと、白く浮かび上がるような、狂おしいほどに愛らしい、ひとりの少女の姿を―
アイリーン
耳元で囁いて、そっと、その手を引き寄せた。
あっ……
もう、理由など、なかった。
二人はもつれ合うようにして、そのままベッドへ倒れ込む。
夜は―これからだった。
30. 受難
ゆうべはおたのしみでしたね?
小鳥のさえずりが聴こえる。
窓から差し込む朝日に、ケイはぼんやりと目を覚ました。
朝か昼かも分からない曖昧な意識、寝起き特有の倦怠感。なぜか左腕が痺れていて、ほとんど感覚がなかった。夢うつつのまま寝返りを打とうとしたところで、何かが半身に抱きついていることに気付く。
とても柔らかく、温かなもの―。
寝ぼけ眼でそちらを見やると、きらきら輝く青い瞳。ケイの左腕に頭を預けたまま、微笑むアイリーンとぱっちり目が合った。
……おはよ
微かに頬を紅く染め、照れたように視線を逸らす。はにかむ彼女を見て、昨夜のことが色鮮やかに脳裏に蘇った。ああ、そうか、自分たちは結ばれたのだ―と。そんな想いが、すとんと胸に落ちる。
……おはよう
無意識のうちに、ケイもまた口元を綻ばせていた。シーツから覗く肌色、裸の肩の上、ほどかれた金髪がさらりと流れる。吸い寄せられるように、半ば衝動的に、アイリーンの頬にそっと手を添えた。同じ人間でも、男女でこれほど違いが出るものか、と―指先に伝わるなめらかな感触に陶然とする。
心地よさそうに目を細めるアイリーンを見て、ふと芽生えた悪戯心のままに、背中から脇にかけてのラインを指でなぞった。くすぐったそうに身をよじらせたアイリーンは、甘い声を洩らしながら、お返しとばかりにケイの上に覆いかぶさってくる。
―そのまましばらくじゃれ合っていたが、既に日は高く、空腹と喉の渇きもあったため、いい加減に起き上がることにした。
ところで、大丈夫か?
麻のシャツを羽織りながら、ケイ。ベッドの上で髪をまとめようとしていたアイリーンが、髪留めの紐を口に咥えたまま小首を傾げる。
ふぁふぃふぁ(なにが)?
その……身体の調子とか
うん、悪くはないな
どこか含みのあるケイとは対照的に、至極あっけらかんとした様子のアイリーン。
……そうか、ならよかった
互いに経験のなかった者同士、色々と心配していたが、どうやら杞憂であったらしい。半ば拍子抜けした気分で、しかしほっと一安心しながら、ケイは微笑んだ。
髪を結い上げてポニーテールにし、ベッドの上でしなやかに背伸びをするアイリーン。一糸まとわぬ姿、という点を除けば、まさしくいつも通りの彼女だった。
不意に―
目の前のアイリーンも、その存在すらも、こ(・)ち(・)ら(・)に来てからの全てのことは幻ではないか―と、そんな漠然とした不安に駆られた。
実は自分は、今も生命維持槽に浮いたままで、知りもしない少女や健康な身体を夢見ているだけなのではないか、と。
無論、それはただの錯覚だ。
もしそうだったら怖いな、という子供じみた根拠のない恐れ。そういえば幼い頃は、目を覚ませば独りきりになっているのではないか、と不安でなかなか寝付けなかったことを思い出す。
今までどちらかといえば、マイナスを基準に浮き沈みするような人生だった。そのため魂まで染みついた仄暗い考えが、時たま顔を出してしまうらしい。あるいは、それは現実感を失ってしまうほどに、今のケイが幸せである証左なのかも知れないが―。
……うん? どうした、ケイ
一瞬、遠い目をしたケイに、するりとシーツから抜け出したアイリーンが顔を覗き込んでくる。吸い込まれるようなサファイア色の瞳の中に、どこか心配げな光を認めた。
いや、
思わず、すがるようにして手を伸ばし、その肩を抱きとめる。目をぱちくりとさせながらも、アイリーンは何も言わないまま、されるがまま。
……どうしたの?
やがて、腕の中から、ケイを見上げる。
何でもない、と答えようとして、やめた。
急に不安になったんだ。何もかも夢なんじゃないか、って
体を離してそう言うと、眉を下げたアイリーンは、ケイの背中に手を回し逆にその身を引き寄せる。
オレも
こつん、とケイの胸板に額を当てて、くぐもったアイリーンの声。
オレも、たまに不安になるよ
……そっか
再び、抱き締める。感触を確め合うように。
それは、雪山で遭難した旅人たちが、互いの体温を分かち合うのに似ていた。
……ありがとう。もう大丈夫だ
やがて、ケイの方から体を引き離す。少しの名残惜しさと、冷静になって省みる気恥ずかしさと、傍にいてくれる人への感謝と―。それらが綯い交ぜになった末に、選び取ったのは、頬をかきながら視線を逸らすことだった。気まずいときや恥ずかしいとき、斜め上へと目を泳がせるのは、本人も気付いていない癖。
……うん
それを見て取ったアイリーンは、ただ、にこりと微笑んだ。素直なようでそうでもない、そんな彼のことを愛おしく思いながら―
しかし次の瞬間、眉をひそめたかと思うと、 へッきゅ と控え目にくしゃみをする。
おっと、その格好じゃ風邪引くぞ
今日は初夏にしては肌寒い日だ。慌ててシーツを引っ張ってくるケイに、 そうだな と笑うアイリーン。自然と、ふたりだけの世界は霧散してしまったが、しんみりとした空気もまた、消え去っていった。
……ところでアイリーン、今って何時頃なんだ?
さあ?
財布の中身を確認するケイの傍ら、服を着るアイリーンは動きを止めて、小さく首を傾げる。
オレが目を覚ましたときは、鐘が九つくらい鳴ってた。……けどもう1時間は経ってるよなぁ
3時間ごとに鳴らすんじゃないか? この街は
あー。なるほど
木製の戸を開け放ち、太陽の位置を確認するアイリーン。
……11時過ぎってトコか
まあ、そのくらいだろう
麻のシャツに綿のズボン、今日は肌寒いのでその上に革のロングベストを着込み、腰には”竜鱗通し”を収めた弓ケース、というお馴染みの街中スタイルで、ケイは手の中の部屋鍵をピンッと弾いた。
対するアイリーンは”NINJA”の黒装束で足元を固め、チュニックと革のベストといういつもの旅装で決めている。腰にはサティナで新調した短剣を差しており、サーベルや投げナイフなどの武装は、今は部屋の鍵付き木箱(チェスト)の中だ。
よし、顔洗ってから飯にしよう
入念に戸締りを確認し、部屋を出る。
……しかし、はっきり時間が分からないのって、思ったよりストレスだよなぁ
階段を降りながら、ぼやくのはアイリーンだ。特に用事があるわけではないのだが、正確な時刻が知りたいと思ってしまうのは、やはり現代人の性だろうか。
別に時間に追われてるわけではないが、気になるな
うん。時計欲しい……時計……
ぶつぶつと呟くアイリーンに、どうにも苦笑を禁じ得ない。
技術水準が比較的高い DEMONDAL 世界には、当然のように時計が存在する。時計塔のような大型のものに始まり、機械式の懐中時計は勿論のこと、時刻を表示する魔道具までその形態は様々だ。
しかしケイもアイリーンも、ゲーム内では一度たりとも時計を使ったことはなかった。
理由は単純、ゲーム内でいつでも呼び出せるメニュー画面に、常に時刻が表示されていたからだ。現実における時間と、ゲーム内の時間の両方。プレイヤーがアイテムとしての時計を必要とするのは非常に稀で、基本的にロールプレイのためのコスプレ用品か、あるいはNPCに対する贈り物としてのみ機能していた。
そう、機械式にせよ魔術式にせよ、時計は非常に高価だったが、一応それなりに需要もあったのだ。プレイヤーは殆ど必要としない時計を、逆にNPCたちは非常に有難がっており、プレゼントした場合の親密度の上昇は下級のお使い(クエスト)数百回分に匹敵するという。
キャラ育成の手間が省ける、上級者向けのアイテム。重課金戦士にして廃プレイヤーたるケイも度々世話になっていたが、 そうでもなきゃ使わねえだろこんなもん とアンドレイが笑っていたことを思い出し、どうにも皮肉な笑みを抑えられなかった。
時計か……どうにかして自作できないものか
宿屋の中庭、バシャバシャと顔を洗いながら、ケイ。ホランドに頼むにしても、時計を買うとなればかなりの出費を強いられることになる。自作できるのであればそれに越したことはないのだが―と、腰のベルトに引っかけていたタオルで顔を拭きつつ、ちらりとアイリーンに期待の眼差しを向けた。
……難しいな
対して、腕組みをするアイリーンは、渋い顔だ。
魔術式でも、やっぱり厳しいか?
いくつか問題がある。まず、詳しい作り方が分からない。次に、触媒が貴重で手に入り辛い。最後に、仮に作れたとしても、ケルスティンを使役する限り多分夜しか使えない
……うーむ
実際のところ、作り方は術式付与の応用でなんとかなると思う。『こっち』だとケルスティンも融通が効くからガッツリ呪文(スクリプト)組まなくていいし、触媒も運が良ければ見つかるかもしれないな。……でも、
日が暮れたあとしか使えない、ってのは、確かに痛いな
あるいは、夜番の為だけのものと割り切れば、需要はあるかもしれないが。
っつか、シーヴの方がいいんじゃね? 中位精霊だし
呪文の方は大体見当がつくが、風の精霊の時計ってのがイマイチ想像できないんだよな……。それに俺の場合だと、おそらく魔力が足りん
……時計作りで枯死ってのも、笑えない話だな
悟ったような顔のケイに、苦笑するアイリーン。結局、お金を溜めてから何かしらの時計を買った方が早い、という結論に達した。
アイリーンはしばし御手洗いに行くとのことで、先に一階の食堂へ。厨房で仕込みでもしているのだろう、タマネギ系のスープの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。丸テーブルの並ぶそこは、中途半端な時間帯ということもあり、人影もまばらだった。
あら、こんにちは。お食事?
食堂に足を踏み入れると、布巾でテーブルを拭いていた若い女が愛想良く尋ねてきた。昨日ケイたちを出迎えた、小麦色の肌の美人だ。奥のカウンターには、黙々と樽から壺に酒を移しているドワーフっぽい男。どうやら酒場は、主にこの二人で回しているらしい。
ああ。昼食として簡単に食べられる物を二人分、あと水も頼む
簡単に、ね。チーズとハムのパニーニでいいかしら?
うむ。それで
OK、ちょっと待っててね
テーブルに着きながらオーダーすると、ぱちりとウィンクして奥へと引っ込んだ女は、すぐに陶器のピッチャーと木製のゴブレットを手に戻ってくる。
はい、どーぞ
ありがとう
水の注がれたゴブレットを手渡され、礼を言いつつ喉の渇きを癒す。一度杯を空けて、ピッチャーから水を注ぎ足しながら水分補給するケイを見て、むふっと何やら意味深な笑みを浮かべた女は、
昨夜はお楽しみだったみたいね
んぶゥ
ケイは鼻から水を噴き出した。
ばっ、なにをっ
ナニをって、ねえ。ここ床板薄いから
むせるケイをよそに、眼前、テーブルに肘をついた女はずいと体を寄せてくる。
ね、ね、お兄さん。あの金髪の娘とはどんな風に出会ったの? 草原の民と雪原の民のカップルだなんて、なんだかとってもロマンチック
うっとりとした表情、きらきらと好奇心に輝く瞳で顔を覗き込んでくる。しばらく咳き込んで、不意打ちからどうにか立ち直ったケイは、取り敢えず椅子ごと身を引いて距離を取った。
ゲーム時代に関わる話題は、今のところ最も突っ込まれたくない部分のひとつだ。アイリーンと話し合って、早急にそれらの『設定』を構築するべきかも知れないな、などと考えつつ、当座を凌ぐ為に口を開く。
……別に、どうということはない。数年前にとある町の酒場で知り合って、それ以来の仲だ
ふぅ~~~ん
ニマニマと笑いながら指先でテーブルをなぞる動きは、まるで次の一手を考えるチェスのプレイヤーのようだった。
ねぇ、それってどこの酒場?
ここから遥か彼方、遠く離れたところさ
……そう。ところで、雪原の民のお姫様を連れた草原の民の狩人が、南の村で”大熊(グランドゥルス)“を仕留めた、って噂を小耳に挟んだんだけど。何か知らない?
……さあな
耳の早いことで、と思いつつ投げやりに返す。ケイのやる気のなさが伝わったのか、 むっ と表情を曇らせた女は、続いてさらに問いかけようとするが、
ジェイミー、いい加減にせんかッ!
だみ声とともに、スパァンッと小気味よい音が響く。 いびゃッ! と色気もへったくれもない声を上げて、女が飛び上がった。
痛ァッ何すんのよ!
何すんのもクソもあるかッ! 男漁りに精出す暇があるなら仕事をせんかッこのアバズレがッ!
涙目で尻をさする女―『ジェイミー』に対し、いつの間にかカウンターから出てきていたドワーフ風男が、手にしたトレイを振り上げて怒鳴る。どうやらアレで尻をはたいたらしい。
お客さんと親睦を深めてるだけなんですけど!
やかましい! グダグダ抜かすんなら娼館に売り飛ばすぞッ!
ひぇぇごめんなさーい!
口答えを試みるも、ドワーフ風男の剣幕に脱兎の如く逃げ出すジェイミー。スカートをパタパタとはためかせながら、カウンターの奥の厨房へ引っ込んでいく。
ふぅ……
溜息を一つ、今度はぎょろりとケイを見下ろす。すわとばっちりかと顔を引き攣らせるケイであったが、 ほれ とドワーフ風男は左手に持っていた皿を無造作にテーブルに置いただけだった。
皿の上、パニーニの生地の隙間から、蕩けたチーズがはみ出る。
まったく、アイツは……目を離せば無駄話にうつつを抜かしやがる
……なに、客商売にはぴったりじゃないか
確かにその通りだが、愛想が良過ぎてもいけねえや。アイツは器量だけはいいからな。たまに勘違いする野郎が出てくんのさ……この間も一人……勿論ブッ飛ばしたが……
何を思い出しているのか、虚空を睨んで、まるで野犬が威嚇するように歯を剥き出しにして唸る男。
そ、それにしても、娼館に売り飛ばすってのは穏やかじゃないな
おっかない雰囲気に引きながらのケイの言葉に、男は鼻を鳴らした。
ふン。引き取った頃はなァ、まだ小さくて可愛げもあったもんだ。だがここんトコは色気づいてきていけねえ、無駄に身体ばかりデカくなりやがって、まったく……
自分の腰あたりの高さを示しながら、嘆いてみせる。引き取った―と言うからには、血のつながりがあるわけではないのだろう。しかし憎々しげな口調とは裏腹に、その表情は哀愁と優しさが入り混じったようなもので、ケイにはまさしく年頃の娘を持て余す父親のそれに見えた。
……まあいい。ご注文は以上で?
ああ
銅貨8枚
ぶっきらぼうな口調に戻る男。テーブルに銅貨を束ねて置くと、 毎度 とそれらを無造作に前掛けのポケットに突っ込み、のそのそとカウンターへ引っ込んでいった。ぎこちなく、足を引きずるような歩き方―。
よっと、お待たせー。これ何?
入れ違いに、アイリーンが食堂に入ってくる。
ハムとチーズのパニーニだそうだ。今来たばかりだからまだアツアツだぞ
いいな! 食べよう食べよう
いそいそとテーブルに着くアイリーン。 イタダキマース と嬉しそうにパニーニに齧りつくアイリーンを見ながら、早目の昼食と洒落込んだ。
†††
昼食後、身支度を整えた二人は、公都図書館のある高級市街区を目指して、街の中心部へと向かっていた。
ケイとアイリーンがウルヴァーンを訪れた理由は、二人が『こちら』の世界に転移した原因を探ること。
すなわち、ゲーム内に発生した謎の白い霧や、その他の超常現象にまつわる情報を公都図書館で収集することにある。
問題は入館料がいくらになるか、だな
……ああ
頭の後ろで腕を組んで歩くアイリーンの言葉に、懐の財布のずっしりとした重みを感じながら、ケイは頷いた。
公都図書館は、表向きは、貴賎の関わりなく誰に対しても開放されている。が、その代わり入館料がかなり高めに設定されており、実質的に利用できるのは貴族や裕福な商人、知識階層などに限定されているのだ。
世知辛い話だが、これは必ずしも悪いことではなく、裏を返せば利用者の質が一様に高いことを示す。また話によると図書館は、そういった知識階層の社交場(サロン)としても機能しているらしい。
貴族はさておくとしても、学者や商人などの存在は、ケイにとってもかなり魅力的だ。そういった知識人に接触を図れば、より効率良く情報を収集できるのではないか―とケイは期待している。
さて、となれば一番の問題は、やはり馬鹿高いと噂の入館料だ。具体的にいくらかかるのか―ウルヴァーンの住民たちに聞き込みを試みたが、そもそも一般人は図書館にさほど興味を抱いておらず、入館料がいくらなのかを具体的に知る者はいなかった。
というわけで、今回ケイは、手持ちの現金を全て持ってきている。金貨一枚に、銀貨が数十枚。粗食に甘んじれば、大の大人が十年は食い繋げられる額だ。
流石に、これだけあれば足りると思うんだがな……
不安げに呟きながらも、つい周囲の通行人へ必要以上に警戒の目を向けてしまうケイ。全財産を持ち歩いているのはいつものことだが、今は街中ゆえに武装を解除しており、どことなく心細い。
財があれば襲われる前提、襲われれば武力で制圧する前提で思考が回るあたり、ケイも大分この世界に馴染んできている。おっかない雰囲気を漂わせるケイに、逆に通行人の方が足を速めて、逃げる様にその場から去っていく始末だった。
ケイ……もうちょっとリラックスしろよ、それじゃ逆に怪しいぜ
むっ。普通にしてるつもりだったんだが
臨戦モードに突入しつつあるケイを、呆れ顔で諌めるアイリーン。全く自覚のない様子を見て(重症だな……)という思いを強くするが、ここ二週間の経験を振り返り、それもやむを得ないことかも知れないと思い直した。
(平和ボケするよりマシか……)
むしろアイリーン自身が、街中だからという理由で気が緩みつつあったことを自覚し、改めて気を引き締める。
そんなこんなで、無駄に切れたナイフのような空気を纏う二人であったが、公都の中心で真昼間から暴漢が出現するはずもなく、そのまま高級市街への入り口である第一城壁に辿り着いた。
ぐるりと市街を取り囲む、分厚い強固な城壁。城門から垣間見える、一般市街よりも洗練された石と煉瓦の街並み。壁の高さは六メートルほどだが、ウルヴァーンは岩山の斜面に築かれているので、下方に位置するケイたちからは体感的にもっと高く感じられた。
五十メートルごとに間隔をおいて設けられた城門には、もれなく落とし格子と鋲打ちされた木製の大扉が備え付けられ、斧槍(ハルバード)と細剣(レイピア)で武装した衛兵が二人ずつ、城壁の外を行き交う市井の民に鋭い視線を向けている。
大勢の人々で賑わう一般区に対し、城壁の近くは、まるで波が引いたかのように閑散としていた。近寄る者がいない―というべきか、城門を抜ける者も殆ど見受けられず、城壁を隔てた向こう側には、まるで別の世界が広がっているかのようだ。それを奇妙に思いつつも、ケイたちが城門をくぐり抜けようとすると、
止まれ
両脇の衛兵が斧槍を交差させて行く手を遮った。
目を引く赤色の衣の上に金属製の胸当てを装備し、派手な羽根飾りのついた兜は、面頬が仮面のように目元を覆い隠す造りになっている。その奥から覗く瞳が、威圧的にケイたちを見据えた。
見慣れぬ者だな
一級市街区へ、如何なる用か
訝しむ様子を隠しもしない、何処となく傲岸な態度。怪しまれる覚えのないケイとアイリーンは、きょとんとして顔を見合わせる。
……図書館に行こうとしているだけなんだが
ふむ、
ケイの顔、アイリーンの顔、ケイの弓ケース、アイリーンが腰に差す短剣、といった風に視線を動かした衛兵は、おもむろに口を開いた。
―許可証、あるいは身分証を提示せよ
えっ
同時に困惑の声を上げたケイたちは、再び顔を見合わせる。
図書館に行くのに、身分証が必要なのか?
一級市街区に入れるのは、市民及び許可を得た者に限られる
マジか……
また、仮に身分証があったところで、特別な許可なしに武装を内側に持ち込むことは、まかりならんぞ
事務的に、そして有無を言わせぬ口調で、交互に説明する衛兵二人組。まさか、図書館に入る前に足止めを食らうとは想定外だった。 えー…… と硬直したままのケイとアイリーンに、衛兵たちは呆れた様子で姿勢を崩す。
……そもそも、草原の民と雪原の民が、公都図書館に何の用がある
先住民と辺境の蛮族に、文字を読む風習があったこと自体が驚きだな。それにしても、城門をくぐり抜けたところで、お前たちに入館料は払えるのか?
片方の年配の衛兵は疑念を滲ませる声で、もう片方の若い衛兵は嘲るような口調で。困ったように、表情を曇らせたケイは、おもむろに片手を懐に突っ込んだ。
図書館の入館料ってのは具体的に幾らなんだ? 聞いて回ったんだが、知ってる人がいなくてな
年間、銀貨五十枚だ
ケイの問いかけに、 どうだ払えまい とばかりに胸を張る若年の衛兵。兜のせいで口元しか見えていないが、ドヤ顔をしているのが手に取るように分かった。
成る程……
懐からもったいぶって財布を抜き出し、わざとらしく中身を確認する。
払えない額じゃないな
大きく膨れた巾着袋、その口から覗く金と銀の色に、二人の衛兵が動きを止めた。ふふん、と二人の反応を堪能してから、ゆっくりと見せつけるように、再び財布を懐に仕舞い込む。
……。見かけによらんもんだ
やがて、ぼそりと年配の衛兵が呟いた。彼らが意表を突かれるのも無理はない、日本で言うならば、みすぼらしい身なりの若者がいきなり懐から数百万円の札束を取り出したようなものだ。
現状、ケイもアイリーンも服飾には全く金をかけていない。ケイの方は飾り気のない肌着と、防具としても機能する革のロングベスト。アイリーンに至ってはタアフ村で譲り受けたお古の農村娘スタイルだ。せめてケイが革鎧を含むフル装備であれば話は別なのだが、この状態では貧乏人と見られてしまっても致し方ない。
……まあ、金があるのは分かった。が、それと城門を抜けることとは、別問題だ
呆気に取られた状態から再起動を果たした若い衛兵が、やや憮然とした様子で言い切った。袖の下でも要求されれば―と考えていたケイは、己の考えが甘いことを悟る。
なあ、身分証とか許可証ってのは、どうやったら取れるんだ? 要は素性の分からない奴は入れられない、ってことなんだろ?
その時、静観していたアイリーンが、衛兵二人に無邪気に問いかけた。
……許可に関しては、我々の関知するところではない。役所に行くことだな
先に答えたのは、年配の衛兵。
役所ってーのは何処に?
城壁に沿って南に行けばいい。ここからだと歩いて十分もかからないだろう。赤煉瓦の建物で、おそらく入口に人が並んでるから、見ればすぐに分かる筈だ
分かったよ、ありがとうオッちゃん!
……なぁに、いいってことよ
アイリーンの特上の笑顔を向けられて、年甲斐もなく照れた風の衛兵。美人は得だな、などと他人事のように思いつつ、ケイも礼を言ってから、その場を辞した。
……で、どうする?
しばらく歩き、衛兵たちから離れたところで、ボソリとアイリーン。
……まあ、行ってみるしかないだろう
だな。それにしても証明書がいるだなんて聞いてないぜ……
誰か教えてくれてもよさそうなもんだが
……ホントに必要なのか? もしかしてオレたち、体よく追い払われた?
その可能性も否定できんが……
聞き込みを試みたここの住人は勿論のこと、ホランドら隊商の面々にも、ウルヴァーンを訪れた目的が図書館であることは話している。にも拘らず、高級市街に入るために許可証が必要であることは、誰一人として口にしなかった。
……しかしいきなり騙そうとするもんかな
怪しいと思われたのか、……単純に性格が悪いのかも知れないぜ? ここの連中、なんつーか余所者に冷たいカンジがする
少し、ふてくされたように頬を膨らませて、アイリーンが言う。それに対しケイは唸るのみで、口には出さなかったが、それは無言のうちの肯定だった。
先ほどの衛兵の若い方もそうだが、ウルヴァーン市民は、どことなく余所者を見下している感がある。聞き込みの際も、ケイたちとは殆ど目を合わせず、返答も投げやりでぶっきらぼうだった。公都の民であるという自尊心からなのか、はたまた単純に排他的なだけなのか。サティナに於いても、“戦役”の記憶から、草原の民を毛嫌いしている住人は度々見かけられたが、ここはそれに輪をかけて酷いという印象だ。
例外的に、余所者と接することが多い宿屋の従業員や、客商売に関わる商人は一様に愛想がいい。が、裏を返せば、それ以外は―
―あんまり、居心地の良い街じゃなさそうだな
オレたちには、な
ふぅ、と溜息をつくアイリーン。随分とブルーな様子だ。ひょっとすると、生まれで差別されるのに慣れていないのかもしれないな、とケイはふと、そんなことを思った。