爽やかな風が吹き抜けても、尚(なお)。

ケイの心は、晴れなかった。

―と。

視界の果て。

茶色の小さな影が、草むらでもぞもぞとうごめく。

……見つけた

またか。……早いな

ケイの呟きに、隣で轡を並べていたマンデルが、呆れの表情を作った。彼の跨る村の駄馬の鞍には、血抜きを済ませた兎が何羽も括りつけられている。どこか乾いた笑みを浮かべるマンデルをよそに、ケイは足でぽんとサスケの腹を蹴り、弓に矢をつがえた。

ぱっかぱっかと、緩やかに前進を始めた馬上。しっかりと狙いを定めたケイは、ぎりぎりと弦を引き絞る。

快音。

突如として響き渡った鋭い音に、耳を立てた兎が草むらからひょっこりと顔を出し、何事かと周囲を見回した。そこへ、勢いよく銀色の光が突き刺さる。

キュィッ、と短い悲鳴を上げて矢の餌食となった兎の、周囲にいた仲間たちが文字通り脱兎のごとく逃げ出した。

仕留めた

風が吹いてるんだぞ。……よくもまぁ、あの距離でやれる

何気ないケイの報告に、額を押さえたマンデルの言葉はもはや嘆きに近い。二人揃って馬を進ませ、後足で空を蹴るようにしてもがいていた兎を拾い上げた。

悪いな

胴体に刺さっていた矢を引っこ抜き、血を払い飛ばしながらケイ。すかさずマンデルが横からナイフを差し出して、その兎の首を掻き切った。

ぴちゃぴちゃばしゃ、と緑の大地にこぼれ落ちる赤い液体を眺めながら、ケイは自分の手の中で、小さな命が暖かみを失っていくのを感じる。

……さて。こんなとこか

そうだな。……そろそろ、村に戻ったほうがいい

ケイから受け取った兎を鞍に括りつけながら、マンデルが草原を見渡して言った。

盗賊たちの剥ぎ取りに向かった、その翌朝。

本来ならば、すでに村を逃げ去っていたはずの、ケイは。

何故か―草原で、兎狩りをしていた。

†††

昨夜のこと。

盗賊を逃したことを悟ったケイは、アイリーンにああ言おう、こう言おうと考えを巡らせながら、村長の家に引き返していた。

おいアイリーン、話が―

ばん、とノックもせずに扉を開け、居間に入ったケイの目に飛び込んできたのは、しかし、

おねーちゃん、あ~ん

ん~ん、これ美味いな!

これこれジェシカ、こぼれとるぞ

アイリーン様、お代りはありますので、遠慮なさらず食べてくださいね

お、ありがと!

ジェシカを膝に乗せて、夕食を食べさせて貰っているアイリーンに、孫好きのひとりの祖父の顔になったベネット、そしてそんな三人を慈しむように見つめるシンシアの姿だった。

テーブルを囲んだ、まるで家族のように、和気藹々とした団らんの光景―。

あ、ケイ! おかえり!

口の端にパン屑をくっつけた、アイリーンの無邪気な笑顔を見て、ケイは、何も言えなくなってしまった。

お帰りなさい。ケイ様も、いかがですか。ご夕食はまだでしたでしょう

あ、ああ……ありがとう

シンシアに促されるままに、ケイもまたアイリーンの真向かいの席に着く。隣に座るベネットが、目ざとくケイの腰の長剣に気付いたが、そのまま何も言わずにつっと目を逸らした。愛しの孫娘の前では、計算高い村長ではなく、ひとりの祖父のままでいたいらしい。

(……まあ、どうせこの状況じゃ話も切り出せないしな)

とりあえず大人しく夕食を頂こうか、とケイは肩の強張りを自覚して、小さく息をついた。

どうぞ。お口に合えばよいのですが

ケイ、シンシアさんのスープ美味しいぞ!

野菜スープや堅パン、火で炙った塩漬けの豚肉。それらの皿を並べたシンシアが、どうぞ、とにこやかに語りかけてくる。シンプルながらも栄養バランスの良さそうなメニュー。かぐわしい香りが鼻腔を刺激する。

しかしそれらを前にしても、食欲は全く、湧かなかった。

食わねば失礼、というよりも、食えるうちに食っておけ、という精神で、ほとんど味も分からぬままに、ケイは無理やり食事を詰め込んだ。

手早く食器を片付けたシンシアが、ジェシカをクローネンの元に送り届けるため家を出たので、ケイとアイリーン、それにベネットの三人だけが居間に残される。

村長、盗賊たちの物資についてだが、この剣と銀貨は俺が貰い受ける。その代わり、残りのものは全て、そちらにお任せすることにした

ほぉ……それは、それは

ケイの申し出に、意外そうな顔をしたベネットは、 ありがたい話ですのぉ と呟きつつもゆっくりと髭を撫でつける。その目には喜色というよりもむしろ、猜疑の色。なぜそこまで都合のよい申し出を? とケイの話の裏を読み取ろうとするかのように。

―この村の人々の御蔭で、俺達は随分と救われた。その礼と考えれば、これでも安いくらいだ

大袈裟すぎない程度に愛想笑いを張り付けて、ケイは歯の浮くような台詞を口にした。だが嘘はついていない。『命の値段に比べれば安すぎる』という一点において、皮肉にも、それは偽らざる本心だった。

……勿体ないお言葉ですじゃ

一応、ケイの善意によるものと解釈したのか、納得した様子でベネットは頷いた。

いやちょっと待てよケイ、でも剣と銀貨だけじゃ少なすぎないか?

そこで、横から口を挟んだのはアイリーンだ。

鎧とか、かさばるヤツはいらないと思うんだけどさ。矢とか生活物資とか、そこらへんのは貰っといた方がいいんじゃね?

…………

矢は、遺品回収の際にこっそりと質のいい物を選りすぐって補給はしていたが、生活物資に関してはその通りだった。

ぱちぱちと目を瞬いたケイが、困り顔でベネットを見やると、老獪な村長は思わずといった様子でくつくつと喉で笑う。

いやはや。そちらのお嬢様の方がしっかりとなされておりますな、ケイ殿

……うぅむ

しかしながら、お気持ちは分かり申した。代わりと言っては何ですがの、生活物資に関しては、こちらで工面しておきましょうぞ

……ありがたい

素直に、頭を下げる。ケイとしては、 剣と銀貨だけは頂戴いたす! とドヤ顔で言ってのけた直後だけに、地味に恥ずかしかったが仕方がない。

むっすりとした表情のケイが可笑しかったのか、アイリーンがからからと笑い始め、それに同調するようにして、ベネットも厭らしさのない含み笑いを洩らす。

笑いの波が引いたあと、そこには、静かな沈黙が訪れた。

……どうすっかなぁ、この後

ぽつりと、テーブルに頬杖をついたアイリーンが、小さく呟く。

それについてなんだが、アイリーン

その話題を待っていたと言わんばかりに、身を乗り出すケイ。

ウルヴァーンに行こうと思うんだ

……えっ、ウルヴァーンって存在すんの!?

思わず声を上げたアイリーンが、ベネットを見やって あ と自分の口を押さえる。ベネットはぴくりと眉を動かした以外は、特に反応を見せなかった。 存在する という言い方は、『こちら』の世界の住人には、少々妙な発言だったかもしれない。

村長。申し訳ないのだが、今一度、地図を見せて頂けないだろうか

よろしいですとも

ベネットに地図を取ってきてもらい、アイリーンに見せる。“タアフの村”、“城塞都市ウルヴァーン”、“港湾都市キテネ”などの位置情報を説明しつつ、それとなく『こちら』の地形がゲーム比10倍の広さになっていることなども伝えた。

へぇ……

指先で唇を撫でながら、興味深げに地図に見入るアイリーン。

俺としては、早ければ明日の朝にでも、ウルヴァーンに向かって出発したいと思うんだが。どうだ、アイリーン

興味をそそることには成功した。このまま押せば、アイリーンには事実を伏せたまま、村を早く出れるのではないか。

そう思ったケイだが、期待は裏切られる。

……ごめん、ケイ。実は、ちょっとな、

申し訳なさそうに、歯切れの悪いアイリーン。

―なんかさ、体に力が入らないんだよ

その言葉に、ケイは固まった。

結論から言うと、ケイたちはあと一、二日、村に留まることとなった。

原因は、アイリーンの体調不良だ。体に痛みもなく、意識もはっきりとしているアイリーンだが、毒の後遺症なのか、体力が回復しきっていないのか、酷く体が重く疲れやすい状態が続いているらしい。

出来れば、もうちょっと休んでからにしたい。このままじゃ、あんまりにも、ケイの足手まといだ……

そうか……

寝室でベッドに横たわり、表情に影を落とすアイリーン。

薄暗い部屋の中。アイリーンと二人きりになったケイは、迷う。

リビングから寝室にまで移動するのにも、アイリーンは壁に手をついて、ふらふらと力なく歩いていた。成る程これは重症だ、とひと目で分かる頼りなさ。現状、数歩も歩けばフラついてしまうアイリーンは、身体能力において一般人以下の状態といえる。ともすれば幼女(ジェシカ)とすらいい勝負だろう。

ケイは考える。サスケに二人乗りして移動する予定だったが、万が一、何者かと戦闘状態に陥った際は、アイリーンが自力で動けなければ困ったことになる。戦え、とまでは言わないが、少なくとも、逃げたり隠れたりできる程度には。

このままの状態で外へ連れ出すのは、少々リスクが高い。

勿論、村に留まったまま盗賊の逆襲を受けるくらいならば、逃げ出した方がまだマシではあるが。少なくとも幾ばくかの休養は必須。

(明日発つのは、どちらにせよ厳しい、か)

ふぅ、と一息ついたケイは、考えをまとめた。

―そう、だな

顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべる。

まあ、ここ一日二日くらいは、様子を見ようか。丸一日寝込んでたから、体が弱ってるんだろう。ひょっとしたら、ポーションの副作用かもしれないし、ゆっくり食っちゃ寝してれば、すぐに良くなるさ

お、おう

唐突に、やたらポジティブなことを言い出したケイに、しばしアイリーンは目をぱちくりとさせたが、

……まあ、そうだよな! ゆっくり休んで、とっとと治しちまおう! よし、となればオレは寝るぜ、ケイ!

にひひ、と調子を合わせて笑顔になり、掛け布団を顔までずり上げた。

―今は、盗賊の件は、伏せておく。

ケイは、そう決めた。

襲撃の可能性は、ろくに身動きを取れない以上、今のアイリーンが悩んでも仕方のないことだ。いらぬ心労を抱えたままでは、治りも遅くなるだろう。

だから、今は、アイリーンには心配をさせないでおく。

建前の中に、独善を含んでいることは自覚しつつも、ケイはそう決めた。

(……まあ、今は体調を整えることに集中して貰わないと、な)

これからどうなるか分からん、と思いつつ、ケイはぽんぽんとアイリーンの頭を撫で、 さて、 と立ち上がる。

それじゃあ、俺はクローネンの家に戻ろう。……また明日、だな

うん。また明日

ランプの明かりを吹き消し、ドアのノブに手をかけたケイは、ふと思い出したかのように振り返る。

そういえば、アイリーン。この間は婆様が来たから聞きそびれたが、魔術に関してだ。こっちには触媒も持ってきてるよな?

ん? ……一応、こっちに来る前には、充分に使える量は持ってたぜ。ってか、ホントに魔術って使えんの?

俺に使えて、お前には使えないってこともないだろ

小さく肩をすくめたケイは、アイリーンを見つめて、

体調が回復したら、試してみると良い。充分に使える量って、大体どれくらいだ?  顕現 なら、何回ぐらい使える?

顕現 か、アレ消費デカいもんなー。触媒全部に魔力も使って、二回くらいが限界じゃね?

……そうか、まあ、そんなもんか

となると、 追跡 できるのも二回。ケイと合わせても三回。

(触媒は温存しといた方がいいか……)

逃げた盗賊を 追跡 しようにも、遺された大量の物資の中から、たった三回で当たりを引けるとも思えない。アイリーンの触媒は、ケイのエメラルドよりは入手しやすいが、小さな村で大量に工面できるものでもなかった。ここで賭けに出るよりは、手元に置いておいた方が良いだろう。

それにしても、何で急に触媒の話?

いや、これからウルヴァーンに行くにしても、ルートを考えないといけないからな。用意する物資について考えてたんだ、そのついでさ

小首を傾げるアイリーンに、半笑いで答えて誤魔化した。

……そっか

納得はしたのか、ふわぁ、と小さく欠伸をしつつ、仰向けから横向きになったアイリーンは、

おやすみ、……ケイ

……おやすみ。アイリーン

ぱたり、とドアを閉じ。

そのまま村長宅を辞去したケイは、クローネンの家に戻った。

クローネンたちとの挨拶もそこそこに、割り当てられた小さな部屋に引っ込んで、置いてあった鎖帷子を、静かに身にまとい始める。

(多分、今夜は大丈夫だと思うが……)

帷子の上からベルトを締め、次に革鎧を着込みながら、思考を巡らせた。

二人の盗賊が何処へ逃げたのかは分からないが、仮に本隊なり他の団員なりと合流し逆襲を仕掛けるにしても、たった一日では時間が足りないだろう。

そして、いくら早急に手勢を揃えられたとしても、連中が白昼堂々仕掛けてくるとは考えにくい。

早くて、明日の夜。

それ以降は時間が経てば経つほど危ない、というのが、ケイの考えだ。

(幸いなのは、村人が夜警を組んでることか……)

獣が出たとか出ないとかで、現在、タアフの村の住人は警戒態勢にある。男衆が火を焚き、交代で夜に見張りをやっているので、図らずも、夜襲に備えのある状態となっているのだ。

(だから、仮に夜襲を仕掛けられたとしても―)

ギュッ、と革の手袋の調子を確かめながら、ケイは暗闇を睨みつける。

(―村人が抵抗している間に、脱出できる)

包囲されたところで、暗闇はケイの味方だ。継続的な狙撃で包囲網に穴をあけ、他の村人を囮にすれば、逃亡は難しくない。

難しくはない―。

……。クソッ

陰鬱な気分を振り払うように頭を振ったケイは、ばさりとマントを羽織り、兜をかぶる。

腰に矢筒をつけ、弓を持てば、完全武装の戦士がそこにいた。

細く息を吐き出して、ケイは弓を抱えたまま、粗末な寝台にゆっくりと腰を下ろす。

ギシィィッ……とやや不安になる木材の軋みをやり過ごし、そっと壁に背を預けて、目を閉じた。

(…………)

静かだ。

(……そもそもが杞憂かも知れない)

とっぷりと暗闇に身を浸していると、ふと、そんな思いが頭をよぎる。瞼の裏に浮かぶのは、もはや随分と昔のことに感じられる、昨夜の戦闘だ。

(全員、殺したつもりだった)

手の内にこびりついた感触。一人残らず、矢を叩き込むか、剣で叩き切るかはしたはずだ。それこそ、確実に殺したと思えるほどに。今回逃げた二人も、運良く息があっただけのことだろう。重傷か、瀕死か―ロクでもない状態なのは、まず間違いない。

(草原にも、森にも、獣はいる。無事に逃げ切れるとは限らない……)

手負いで、移動手段もない人間が二人。血の匂いに惹かれてきた狼の群れにでも遭遇すれば、助かる見込みは限りなく低い。

(だから……何事も、なければ良い……)

徐々に。

思考が、有耶無耶になっていくのを感じる。

そのまま。

まどろみと覚醒を繰り返しながら、ケイは、

窓から差し込む薄明かりに、いつの間にか、自分が何事もなく一夜を明かしたことを悟った。

……来なかったか

安堵の溜息というには、少々重い。

疲労は蓄積しているが、さりとて今からひと眠りする気分にもなれない。ただ、外の空気が吸いたかった。だるさの抜け切らない体を引きずって、ケイは部屋から出る。

……早いな。どうしたんだ、その格好

外へ出ると、農具を手に抱えたクローネンに見咎められた。どんよりと、昏(くら)い目をした完全武装のケイに、何処となく及び腰な、訝しげな顔。

まだ日は昇り切っておらず、空は依然として薄暗い。にも拘らず既に仕事の準備とは、農民の朝は早い、ということか。

働き者なのだな、とどこか斜に構えた心で感心しつつ、この有り様をどう説明したものか、まるで他人事のようにぼんやりと考えを巡らせる。

―草原に、狩りにでも行こうと思ってな

左手の弓をちらりと見せ、言う。

……随分と重武装なんだな

そうでもない。普通だよ

真顔のまま言い切って、そそくさとその場から立ち去った。

向かうは、サスケを預かって貰っている厩舎だ。村の駄馬と共に、寝っ転がってのんびりと干し草を食んでいたサスケを連れ出し、村を出る。

木立を抜けながら、狩りのついでに周囲の地形把握でもしておくか、とケイが考えていたところで、背後から近づいてくる蹄の音。

おーい、ケイ

追い縋ってきたのは、村の駄馬に跨ったマンデルだった。

クローネンから聞いたぞ。……狩りに行くんだってな

速度を落としたケイに併走したマンデルは、ケイの顔を真っ直ぐに見詰め、

……おれも行っていいか?

†††

地形把握のため草原を走り回り、ついでに兎も仕留めたケイは、マンデルと共に村へ引き返していた。

ぱっかぱっかと、村の駄馬に足並みをそろえ、ケイたちはゆっくりと木立を進む。

……うぅむ

駄馬の鞍に揺られながら、遂に最後まで出番のなかったショートボウを片手に、マンデルが唸り声を上げた。

ケイは、凄いな。……普通、これだけの兎を狩るには、もっと時間がかかる

鞍にまとめてくくり付けた兎を、ぽんぽんと叩く。

そうか?

そうさ。……普通は、な

あまりにも平然としたケイの態度に、マンデルは小さく肩をすくめた。

本来、草原の兎は、狩るのはそれほど容易(たやす)くない動物なのだ。

まず、発見するのが難しい。生息数は多いものの、野山で暮らす種よりも体が小さいため、草陰に隠れてしまうと非常に見えづらいのだ。

そして、仮に見つけられたとしても、今度は弓で仕留めるのが難しくなる。草原の兎は非常に臆病で、自分よりも大きな生物の接近を認めると、すぐに逃げ出してしまうのだ。マンデル曰く、草原の兎を確実に仕留めるには、弓よりもむしろ罠を使う方が一般的であるらしい。

これだけの弓の腕があれば、猟師としても、戦士としても、引っ張りだこだろう。……狩りをするだけでも充分に食っていける

……そうかな

そうだとも。これは、凄いことだぞ、ケイ。……自分の腕で、どんな時でも、家族を養っていける、ということだ

なるほど。……家族、か

マンデルの言葉に、ケイはふと顔を上げる。

マンデルって、家族は、どうなんだ?

今は、娘二人と一緒に暮らしている。……妻は二人目の娘を産んだときに、熱病にかかって死んでしまったよ

それは……

いや、いいんだ。……もう十年も前の話だ

申し訳なさそうにするケイに、マンデルが気にするなと手を振った。

お袋は、俺が結婚するより前に流行り病に倒れた。……親父は、一昨年までは現役の猟師で、元気にしてたんだがな、

あごひげをさすったマンデルは、静かな目で森の奥を見やる。

ある日、『ちょっと見回りに行ってくる』と森へ出かけて行ったきり、帰って来なかった。探しても遺品の一つ、骨の一本も見つからない。……まあ、森に人が呑まれるなんてのも、そう珍しい話じゃないからな。死んだと思うことにした

そ、そうか

まあ、おれはこんなところだ。……ケイは、どうなんだ?

俺の家族か……

マンデルに話を振られ、馬上に揺られるケイは遠い目をする。最後に直接、家族と顔を合わせたのは、何年前のことだろうか。

親父に、お袋に、弟が一人。別に変わり映えのしない、普通の家族だったさ

普通の家族、か?

そう言うマンデルの目は、何処か疑わしげだ。

ああ

しかしそれを意に介さず、ケイはただ頷いた。

本当に、『平々凡々』という言葉がお似合いの、普通の家族だった。むしろその『普通』の中で、ケイの存在だけが浮いていたように感じる。

少し気弱なところのあるサラリーマンの父に、パートで働いていた面倒見の良い母。

引きこもりがちだった弟に関しては、 おれも兄ちゃんみたいだったら思い切りゲームできたのに と言われケイがブチ切れて以来、まともに連絡を取っていないので今はどうしているのか知らないが。

なあ、ケイ。……ケイは、草原の民の出なのか

と、元の生活に思いを馳せていたところへ、マンデルが問いかけてくる。

……。あー、それは、

そこらへんの『設定』はまだ考えていなかったので、ケイは咄嗟の答えに詰まった。ゲームの設定、キャラクターメイキングの際に選択した出自を答えるのであれば、『草原の民』と言っても良かったのだが。

いや、言えないなら良いんだ

しかし、ケイの躊躇いをどう解釈したのか、マンデルはすぐに発言を引っ込める。

独り言を言うとだな。まあ、なんで草原の民の格好をしているのかは、知らないが。……顔に部族の刺青が無い時点で、少なくとも成人の儀を受けていない、外れ者であるのは間違いないわけだ

そう言われて、思わず自分の顔に手を伸ばす。と同時に、ゲーム内の草原の民のNPCは、ことごとく顔に刺青を入れていたことを思い出した。

ちら、とマンデルが横目でケイを見やる。ケイは黙ったまま、目で話の続きを促した。

もう十数年も前の話になる。ダリヤ草原一帯を治める”ウルヴァーン”のクラウゼ公に、恭順を示すかどうかで、草原の民が内紛を起こした。……その争いのとばっちりを受けた平原の民は多い。そのせいでここらでは、草原の民の受けがあまり良くないんだ

……ふむ

一応は決着が着いた今でも、部族同士で揉めることはあるらしいし、盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く。連中は、人質を取らないからな。怨みも買いやすい。そういうわけで。……もしおれがリレイル地方を旅するなら、草原の民の格好はしないよう、気をつけるだろうな

……なるほど

最初に村に入った際、警戒態勢にあったとはいえ、やたらと村人たちの態度が敵対的だったのは、そういう理由もあったのかと納得した。

元々ケイの纏う防具類は『草原の民』風のものが多いが、これは単純にキャラの出自が草原の民だったのと、親しかった革防具職人がそういったデザインを好んで使っていたからだ。

独特の紋様や、羽根飾りを多用する様式はケイの好みでもあったのだが、それが他者へ悪感情を及ぼすのであれば、話は変わってくる。

となれば、アレか……この羽根飾りとかは外した方がいいか

そうだな、そうすれば大分……なんというか、マシになる。兜のは、そのままでもいいと思うが

革鎧の各所、特に肩当てに取りつけられた特徴的な装飾が、エキゾチックな雰囲気を演出するのに一役買っている。これを外しただけでも、随分と質素な見かけになるだろう。

……あと、顔布もやめておけ、あれはあからさまに怪しい

そう、だな

顔布は戦闘においては、表情を読まれないという利点があったのだが、普通に旅する分には外しておいた方が良いかもしれない。

色々と考えることがあるな、とケイは小さく溜息をつく。それにしても、草原の民がここの住人に嫌われていたとは、ついぞ見当もつかなかったことだ。

ありがとう、マンデル。そこら辺の事情には疎くてな

そうだと思っていた。……気にするな

……。別に、出自を隠しているわけではないんだが、俺とアイリーンは、ちょっと事情が特殊でな。説明できないというより、し辛いんだ。すまない

いや、いい。……だから、気にするな

気取らない態度で、マンデルがひらひらと手を振った。

こんな見ず知らずの自分に、親切にも忠告してくれた思いやりが、痛い。

盗賊の件が、ちらりと脳裏をよぎった。ケイの心に、何とも言えない申し訳なさが募っていく。

暗く落ち込んだケイの顔を、憂いを帯びた表情でマンデルが見やる。

……そうだ、ケイ。ひとつ頼みたいことがあったんだ

ん、なんだ?

その弓。……触らせてもらえないか

ああ。お安い御用だ

興味津々な視線を向けるマンデルに、ケイは横からひょいと”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を手渡す。

受け取った瞬間にマンデルの手が、くんっと跳ね上がった。ほぅ、と小さく声を上げたマンデルは、その見た目を裏切る弓の軽さに目を丸くする。

そして、その軽さを裏切るほどに、

ぐっ……

固い。“竜鱗通し”を構えたマンデルが、一息に弦を引こうと試みた。軋みを上げる弓。胸元近くまで引き絞ったマンデルはしかし、顔を真っ赤にするもそれを維持しきれず、すぐに弦を元に戻す。

なんて張りだ。おれにはとても使えない。……指が千切れるかと思ったぞ

手袋もなしに使ってたら、指の肉がズタズタになるからな

弓を使って一番ダメージを受けるのは、弦を引く指だ。“竜鱗通し”の張力は、特に普通の弓のそれよりも強い。ゲームには痛覚が存在しなかったので、素手でも指の肉が削ぎ落ちるまで扱えていたが、現実だと痛みで使えた物ではないだろう。

しかし、この軽さでこの張力。表面の皮の質感も、見たことがない。……一体、何で出来てるんだこの弓は

それは疑問というよりはむしろ、感嘆の声。申し訳なさを押し殺し、無理に小さく笑みを浮かべたケイは、

古の樹巨人(エルダートレント)の腕木を骨組みに、飛竜(ワイバーン)の腱を使っている。表皮は飛竜の翼の皮膜だ

正直に答えた言葉に、一瞬、動きを止めたマンデルが手の中の弓を二度見した。

……

おっかなびっくり、といった様子で、ゆっくりとケイに”竜鱗通し”を返してくる。

……とんでもない代物だな

信じるのか?

ここでおれを担ぐ理由がないし、嘘と断じるには、この弓はあまりにも化け物じみている。……それに、

ふっと、マンデルの目が遠くなった。

―クラウゼ公が戦装束にしていた”竜鱗鎧《ドラゴンスケイルメイル》“と、この弓の表皮の色がそっくりだ

クラウゼ公って、……貴族だろ? 会ったことがあるのか?

いや、遠目に見たことがあるだけだ。……十年以上前の話さ

懐かしむような、それでいて何処か寂しげな。口の端に薄く笑みを浮かべたマンデルは、小さく肩をすくめた。

いや、それでもやっぱり、ケイは凄いな。その弓がどれほどの価値を持つのか、おれには見当もつかない。竜の朱き強弓を手にした、風の精霊を従える戦士、か。新月の宵闇から現れ、悪の盗賊団を征討し、麗しき少女の命を救う。……吟遊詩人が好みそうだ

まるでおとぎ話じゃないか、と、そう言ってマンデルは、静かに笑った。

―そんな立派なもんじゃない。

おとぎ話の主人公なら、そのまま悪の親玉まで倒してしまうのだろうが。

そうか、な

湧きあがる感情を押し殺し。

ケイは、引きつったような笑みを浮かべることしか、できなかった。

ちなみに、前々回登場したグリーンサラマンデルというモンスターですが、こいつのモデルはコモドドラゴン(コモドオオトカゲ)という爬虫類です。

作中のモンスター『森大蜥蜴』は、コモドドラゴンの見かけに、10tトラック並の大きさ、そしてあぜ道を走る軽トラくらいの機動力を持つとお考えください。

15. 村人

暑苦しいような、重苦しいような。

何とも形容しがたい、不快な感覚。

夢現(ゆめうつつ)のぼやけた頭のまま、アイリーンは『それ』を振り払う。ぶよん、としたものに手がブチ当たり、 んごぉッ と妙な声が聴こえた気がした。

……ん

薄く目を開くと、木の梁が剥き出しになった天井が見える。ああ、そうか、自分は眠っていたのだと。頭の中、流れていく状況認識。

ベッドの上、ゆっくりと上体を起こす。

むにゃむにゃ、と寝惚け眼のまま、部屋の中を見回した。

……お、お目覚めですか

そして緑のドアの前、額に脂汗を浮かべて畏まる小太りの男―ダニーと目が合う。

……。!?

眠気が吹き飛んだ。

―なぜ、コイツがここにいるのか。

寝室に、さほど親しくもない男が入り込んでいた、という事実。

例えそれが家主であったとしても。違和感を伴った気味の悪さ。

不意に、先ほど手にブチ当たった、ぶよんとした感触が甦る。

ぞわりと、背筋に悪寒が走った。

……

身体を守るようにシーツを掻き抱き、黙ったまま目つきを険しくするアイリーンに、さらに顔色を悪くしたダニーは ちょ、朝食の用意はできております と言ってそそくさと部屋から出て行った。

ばたんっ、と扉の閉まる音。

ほぼ同時、シーツをめくり、アイリーンは全身をぺたぺたと触って、何か異常はないか確かめた。

―大丈夫。

特に異変はない。

……何だったんだアイツ

思い出したように、両腕に鳥肌が立つ。

……きもっ

生理的な嫌悪感。寒気を堪えるように、両腕をさすった。

そわそわと、酷く落ち着かない気分になったアイリーンは、不安げに視線を彷徨わせ、窓の外を見やる。

森の緑が目に入り、少し平静を取り戻すとともに、ふと ケイに会いに行こうかな と思い立った。

ベッドから降りて、借り物の木靴を履く。木から削り出したシンプルなデザインのそれは、サイズが合ってないのでぶかぶかだったが、表面が滑らかに仕上げられているので履き心地は悪くない。

あの、脂ぎった男が居間にいたら嫌だったので、アイリーンは緑の扉は使わず、窓枠を乗り越えて直接外へ出た。

カポカポ、カポンと。

木靴の音を立てながら、穏やかな陽光を浴び、土がむき出しの道を行く。

(……体が軽いな)

歩きながら、アイリーンは昨日に比べ、明らかに体の調子が良いことに気付いた。自然と窓枠を乗り越えられた時点で気付くべきだったが、しっかりと足腰に力が入るのだ。

ふふっ、と小さく笑みがこぼれ、自然と足取りも軽くなる。

(えーと、ケイは何処にいるんだっけ)

確か―クローニンだかクローネンだか、そんな感じの名前の、村長の次男の家にいたはずだ。

それは、憶えているのだが。

彼の家が何処にあるのか、思い出す以前に、そもそも全く知らないということに気が付いた。

……えーと、

どうしたものか、とその場でうろうろしていると、村の中心の方から、壺や革袋を抱えた女たちが歩いてくるのが見えた。姦しく響く話し声。

……あら、アイリーン様。いかがなされたのですか、こんなところで

その集団の端、いつも通り柔らかな笑みを浮かべたシンシアが、アイリーンに目を止めて声をかけてくる。それに続いて他の女たちもアイリーンの存在に気付き、先ほどまでの姦しさはどこへやら、ハッとした表情で猫をかぶったように大人しくなった。

ケイに、会いに行こうと思った、んだけど……。何処にいるか、分かんなくって

面と向かって問われると、なんだか、ただ ケイに会いに行く というのが、気恥ずかしく感じられた。アイリーンは目を泳がせて、しどろもどろに答える。

その、何とも初々しい雰囲気に、村の女たちが あらぁ~ とはやし立てるような声を上げ、さらに羞恥心を煽られたアイリーンは自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。

あっ、ケイ様でしたら、うちに!

そんな中、 はいはいはい! と元気に手を上げたのは、そばかす顔の若い女だ。

あなたは?

クローネンの妻の、ティナです!

水の入った壺を抱えた、そばかす顔の女―ティナは、アイリーンにぴょこんと一礼して見せた。

我が家はこちらになります、というティナに連れられて、カポカポと村の中を歩いていく。案内されてみれば、クローネンの家は拍子抜けするほどに近かった。 狭い家ですが、どうぞ と中へ招き入れられる。

ケイ様は、早朝に狩りに出かけられたようです。でも、もう日も高いですし、そろそろお戻りになる頃かと

そうだったんだ

居間に通され、テーブルの席に着いたアイリーンは、さりげなく部屋の中を見回した。ティナの言葉通り、村長の家に比べればやや手狭で質素だが、板張りの床には塵ひとつ落ちておらず、かなり清潔な印象を受ける。

これなら裸足で歩いてもいいな、などと思いながら、テーブルの下でカポカポと木靴を動かして暇を潰した。そんなアイリーンをよそに、ティナは壺の水を鍋へ移して、かまどで火を起こして、と何やら忙しそうだ。

―今、お茶を淹れますので

ああ。ありがとう

乾燥ハーブの束を手に微笑みかけるティナに、彼女が自分のためにお湯を沸かそうとしていると気付き、アイリーンは軽く会釈して礼を言う。

……

しばしの沈黙。ぱちぱちと、かまどの焚き木が弾ける音だけが響く。

テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、頭に浮かぶのはやはり、先ほどの『アレ』だった。

脂ぎった男の顔が脳裏をよぎり、すぐに消え、代わりに柔らかで線の細い、慈しむような微笑みが思い起こされる。

……なんでシンシアさんは、結婚したのかな

ぽつりと、率直な疑問が口を衝いて出た。

シンシアとダニー。少なくとも、見かけだけでいえば、到底お似合いとはいえないような夫婦だ。ダニーにそれほど人間的な魅力があるとも思えないし、その美しさから引く手数多だったであろうシンシアが、なぜ、よりにもよってダニーと結婚することを選んだのか、純粋に疑問だった。

あ~……義姉さんは、色々と気の毒ですよね

アイリーンの独り言に、したり顔のティナ。

気の毒?

望んだ結婚ではないんですよ。殆ど身売りみたいなもんです

……というと?

僅かな興味の色を覗かせて小首を傾げると、 ここだけの話ですよ という常套句で声をひそめたティナは、

もう十年近く前の話になりますけど。義姉さんの妹さんが、熱病にかかってしまったんです。街に行けば治療薬は手に入ったんですけど、それが物凄く高価で……。義姉さんの家は裕福じゃなかったので、どうしたものか困っていたところに、あの男が、

ティナの『あの男』という言葉には、かなり棘があった。

―『親(・)類(・)な(・)ら(・)助けることもできるんだがなぁ』なんて、金をちらつかせながら言い出したんですよ。その時、義姉さんには、両想いの恋人がいたことを知りながら!

……へぇ、それは

つまり、妹を救うために、恋人を捨ててダニーの元へ嫁いだということか。

うーん、と唸り声を上げたアイリーンは、眉をひそめて何とも居た堪れない表情を浮かべた。

……それで、その妹さんは、助かったの?

……はい。そ(・)の(・)時(・)は(・)

頷くティナの顔は、渋い。

でも病気が治って一か月もしないうちに、森の外れで運悪く獣の群れに襲われて、亡くなりました

うわぁ

しかも、それを知っての第一声が、言うに事欠いて『金が無駄になった』ですよ。それも義姉さんの前で……あの豚野郎

ぶ、豚……

直球だが的確な言い様。不覚にもツボに入ったアイリーンは一瞬、顔をひきつらせる。

それにしても、シンシアを義姉と呼ぶならばダニーは義兄なわけだが、ティナは随分と彼を嫌っているようだ。

……彼のこと、嫌ってるんだ

そりゃもう! この村でアイツが好きな奴なんていませんよ!

腰に手を当てたティナは、ぷんぷんと擬音が聴こえてきそうな勢いで頬を膨らませた。

いつも偉そうに人を顎で使ってくるし、その割に自分は仕事しないし! 家に閉じこもってばかりで、たまに外に出たかと思えば、ただぶらぶら散歩してるだけだったり、街に遊びに行ったり。しかも話によると娼館通いしてるらしいですよ、金で義姉さんを娶った癖に……。義姉さんには気の毒だけど、子供がいつまで経っても出来ないのも、みんな天罰だって言ってます

そこまで早口で言ってから、ティナは小さくため息をついた。

はぁ。将来、あれが村長になるのかと思うと、気が重い……いっそのこと、ウチのダンナが村長になってくれたらいいのに

ぷすーっ、と息を吐くティナの言葉に、アイリーンの表情が渋いものとなる。

金で買った婚姻。嫌われ者。娼館通い。

アイリーンの中で、ただでさえ印象最悪だったダニーの評価が、さらに下降していく。そして、自分は少なくともあと一日、この村に―村長の家に―留まるという事実が、ずっしりと心にのしかかってきた。

あの、ティナさん

はい?

実は、ここだけの話、

声をひそめたアイリーンは、先ほどの『アレ』を、ティナに打ち明けた。

ええッ!?

ダニーが部屋に居た、というくだりで、目を見開いて顔を青ざめさせたティナは、

だだだ、大丈夫だったんですか!?

多分……。何もされてないと思うけど……

何か、どろどろしたものとか、かけられてませんでした?!

そ、それも多分大丈夫……

うええ、と顔をしかめながら、アイリーンは首を振った。

はぁ~まさかあの豚、客人にまで……?

頭痛を堪えるように、額を押さえたティナ。光彩の開いた瞳で、ゆらりと、台所の肉切り包丁を見やる。

いっそのこと……そうだわ、そうすればクローネンが村長に……

いっ、いや! 個人的には、ただ泊まる家を変えられないかなって……!

打算と欲望の色に瞳を濁らせ始めたティナに、アイリーンは慌てて声を上げた。 いやですねー、冗談ですよー と朗らかな笑みを浮かべるティナだが、冗談なのか本気なのか、なかなか判断に迷うところだった。

と、そのとき、ばたんと音を立てて外への扉が開かれる。

おーいティナ、いるか―って、あれ

草刈り鎌を手に、手拭いで汗を拭きながら家に入ってきたのは、クローネンだった。居間の椅子にちょこんと腰かけるアイリーンに目を止めて、ぱちぱちと瞬きしたクローネンは、

……なんでウチに姫さんが?

あなたぁいいところに! ちょっと聞いてよ、酷いのよ!!

ぷふぁぁっと振り返って目を輝かせたティナが、獲物に食らいつく猟犬のように距離を詰め、ことの顛末を説明する。

―と、いうわけなのよ! あなた、これはチャンスよ!

ティナは鼻息も荒く、

徹底的に糾弾して、アイツを次期村長の座から蹴落としてやりましょう!

…………

頭痛を堪えるように、ぺしっと額を押さえ天を仰いだクローネン。小さく溜息をつき、無言のまま、ティナの額をスコーンッと草刈り鎌の柄で叩いた。

あだぁッ!?

……すまない、姫さん。ちょっと待っててくれ

申し訳なさそうなクローネンは、額を押さえて うごぉぉぉ と呻くティナの腕を掴み、そのままずるずると家の外まで引きずっていく。

あ、うん……

ひとり、残されたアイリーンは、半ば呆然としたまま。

……あ、お湯沸いてる

しゅーしゅーと、鍋の蓋から吹き出る湯気の音だけが、静かに響いていた。

†††

ちょっと、痛いじゃない、何すんのよ!

静かにッ、あんまりでかい声を出すな!

家の外。声を荒げるのは、額を赤くしてお冠のティナに、負けじと彼女を睨みつけるクローネンだ。

頼むから、あんまり騒ぎを大きくしないでくれ……!

なんでよ、千載一遇のチャンスだわ!

チャンス? チャンスだと!

はっ、とクローネンは乾いた笑みを浮かべた。

姫さんはともかくとして、あのケイとかいう男は化け物だ! 下手にことを荒立てて、怒りを買ったら何をされるか分からん!

豚野郎に全部かぶって貰えばいいじゃない、別にアイツが殺されたってわたしは構わないわ

お前な……!

ティナのあんまりな言い様に、思わずクローネンは顔を引きつらせる。

あんなのでも一応、俺の兄貴なんだぞ!

知ってるわよ! わたし、貴方のことは好きだけどあいつは嫌いだわ。大嫌い

ぷい、と顔をそむけるティナ。

幼少期、両親の生業である養豚を手伝っていたティナは、当時ガキ大将だったダニーに幾度となく『豚臭い』とからかわれて泣かされており、今でもそれを相当根に持っている。ただの農民の癖に、水浴びや掃除が潔癖症一歩手前まで習慣化してしまったのも、そのせいだ。

お前が兄貴を嫌ってることは知ってる。だがそれとこれとは話が別だ、兄貴が死んだら誰が村長を継げる!?

……っあなたよ! あなた以外に誰がいるっていうの!?

信じられない、と言わんばかりに頬を紅潮させ、声を裏返らせるティナ。しかし対するクローネンの表情は、げっそりと、どこかうんざりしたように。

―自分には無理だ。

その想いは、どこまでも苦々しい。

クローネンは、自覚しているのだ。自分には、ダニーの代わりは務まらないと。

たしかに、ダニーには人間的な欠点が多い。

まず村の若年層には好かれていないし、女がらみとなると途端に理性を失くす節がある。その上、大飯食らいで、意地汚く、欲深で、守銭奴。そして何かにつけて尊大な態度を取り、それに反感を抱く村人は、実際のところかなり多い。

“自分でも、村長は務まる”

“むしろ、皆に慕われている自分の方が、ダニーよりも村長に相応しい”

そう考えていた時期が、クローネンにもあった。周囲の友人に持ち上げられ、調子に乗っていたのか。あるいはダニーは嫌われているという事実が、背中を押したのか。それとも単純に、ダニーを村長に推し、自分には目もくれない父親(ベネット)への反発心だったのか。いずせによ、クローネンは成人するまで、自分の方がずっと村のまとめ役に向いていると、そう信じて疑っていなかった。

しかし本格的に、村の運営に関わる仕事に触れたとき。

おのずと、悟ってしまった。

片や、幼い頃より、書物や商人たちの話から見聞を広め、ずっと勉学に励んできたダニー。

片や、勉学を放り出し、友人たちと一緒に野山を駆けずり回って遊んでいた、自分。

頭の地力が、知識量が。

余りにも―違いすぎた。

たしかにクローネンには、読み書きや計算の素養がある。怠けて途中で放り出したとはいえ、椅子に無理やり縛り付けられるようにして、ある程度の教養をベネットから叩き込まれていたからだ。

ゆえに税の計算や帳簿の管理など、村長として要求される最低限の業務は、こなすことができる。

しかしそれはあくまで、『最低限』。村の代表として、もっと重要な業務は他にある。

例えば、商人から適正価格で商品を購入したり。

あるいは、村の生産品を適正価格で販売したり。

また、それらをこなすための人脈を開拓したり。

知識も、経験も、咄嗟の機転も、全てが足りないクローネンには、上手く出来ないようなことばかりだった。しかし、そんな煩雑な仕事を、ダニーはまるで商人のように難なくこなす。

それを間近で見せつけられたクローネンは、己の不甲斐なさに、そして兄との決定的な能力差に、ただ、打ちのめされた。

しかも。それをこなした上で、ダニーは金策も忘れていなかった。

行商人たちの話から、あるいは街の片隅でのさり気ない会話から、拾い上げた情報を分析・統合し、市場の傾向や物価の動向を予想する。

そして農作物の作付けを調整したり、価格が高騰しそうな物品を買いしめたり、流行り病を察知してあらかじめ薬を準備したり―そういったダニーの情報処理能力は、クローネンからすればもはや、異次元の領域であった。

“商人の家に生まれていればよかった”

ある日、ダニーがぽつりとこぼした言葉だ。ダニーには確かに、商才がある。それは、ただの田舎村の村長として使い潰すには少々惜しいと、クローネンも心底からそう思えるほどに、素晴らしい才能だ。

仮に、長男でなければ。あるいは、ベネットに教え込まれた、次期村長としての責任感がなければ。

ダニーは商人として独り立ちし、とっくの昔に村を去っていたかもしれない。しかし現実には、彼は彼なりに村のことを思って、タアフの地に留まっている。

タアフの村は、近隣の村に比べて、豊かだ。

質の良い農具に、酒や甘味などの嗜好品。いざという時のためには、様々な種類の薬も揃っているために、急な病気や怪我にも対応でき、村人を死なせずに済むことが多い。

物質的に、精神的に、ゆとりのある生活。しかしこの『豊かさ』は、その殆どがダニーの手によるものであることを、クローネンは知っている。彼が稼ぎだした金が、それらを買うのに充てられているところを、すぐ傍で目の当たりにしてきたからだ。

そしてベネットからダニーへ、代替わりを見守ってきた村の年寄たちも、それを分かっている。ベネットの代よりも、明らかに向上した生活水準。決してベネットが無能であったわけではない。ただ、『金を稼ぐ』という一点において、ダニーがベネットの追随を許さぬ才能を発揮しただけのこと。それらが分かっているだけに、ダニーの尊大な態度を受け入れ、彼が村長となることを支持しているのだ。

それだけの権利が、実績が、ダニーにはあると、認めているから。

……俺には、無理だ

クローネンは、ゆっくりと首を振る。

俺には、兄貴の代わりは務まらない

なんで!? あなたなら出来るわ、わたしも手伝うし、皆もあなたの方が良いって言ってるし―!

そういう問題じゃない

本当に、単純に、能力が足りていないのだ。いくらティナが手伝おうと、皆が協力してくれようと、それは埋めようのない差だった。

あるいは。

皆のまとめ役として、クローネンが形だけの村長として収まり、ダニーが裏方として働く、という形が構築できれば、それは理想的であるのかも知れない。

しかし、それはほぼ確実に実現しないだろうと、クローネンは思う。

なぜなら、ダニーは『村長になるために』、この村に留まっているからだ。幼い頃より次期村長として育てられたダニーは、『自分が村長になる』ということを、半ば当然と受け止めている節がある。それは責任感であり、ある種の諦念だ。その、『当然』という想いのみが、ダニーを村に縛り付けている。

それが無くなれば、果たして、どうなるか。

十中八九、ダニーは村を出るだろう。プライドの高い彼が、冴えない弟の陰で裏方に徹することなど、許容できる筈もないのだから。第一、村にしがみつかずとも、既に構築した人脈と自身の才能で、ダニーは商人として充分に食っていける。

村に残る理由が、見当たらなかった。

そしてダニーが出て行ったあとの村には、ただ頼りないクローネンだけが残される―。

薬も酒も、いずれは無くなる。農具は買い替えなければならない時が来る。

そのとき、新たにそれを調達するだけの金を、クローネンは捻出することができない。タアフの村は、再び近隣の村と同じ生活水準にまで、戻らざるを得なくなるだろう。決して貧しくはないが、豊かでもない。そんな暮らしに。

それは―極力、避けるべきだ。

だから、何度も言ってるだろう。お前が手伝ってくれたところで、どうにもならないんだ!

なんで……なんでそんなこと言うのよ! やってみなければわからないじゃない!

俺には分かるんだ! 俺とお前なんかが一緒に知恵を捻ったところで、兄貴の頭には敵わないんだよ!!

悔しげに顔を歪ませたティナに、クローネンはなんとも言えないもどかしさと、苛立ちを胸に募らせる。

おそらくティナは、自分の夫が、よりにもよって自分が最も嫌いな男に、劣っているのが嫌なのだ。そしてただ劣っているだけではなく、それを本人が認めていることが、どこまでも気に食わないのだろう。だからこうやって癇癪を起こす。

それが―クローネンには、どうしようもなく苛立たしい。

ティナも含めて、村の若い衆の多くは、ダニーの功績を理解できない。理解しようともしない。

尊大な態度。人使いが荒い。肉体労働をしない。

確かにそれらは欠点でもあるが、その上っ面だけに目をやって、中身を全く評価しようとしないのだ。

仮にクローネンが、いかにダニーが有能であるかを説明しても、彼らはただ感情に任せて、すぐさまそれを否定する。曰く、やれば自分たちにもできる。曰く、それほど大したことではない。根拠も経験も知識もなく、ただ感情に任せてそう言い張る。

何処までも幼稚で、救いようがないほどに無知だった。さしものクローネンも、嫌気が差す。

ともすれば、彼らをいつも馬鹿にしている、尊大な兄の心境が理解できてしまう程度には―。

……はぁ。もういい。この話は終わりだ

大きく溜息をついて、ひらひらと手を振ったクローネンは、有無を言わさぬ口調でそう言い切った。

―自分は、裏方に徹する。

クローネンは、そう心に決めている。村の自警団のまとめ役として皆の不満を受け止め、ダニーと村の若い衆の間を取り持つ、橋渡しの役目を果たすのだと。

それこそが、自分がこのタアフの村に一番貢献できる在り方であると、クローネンはそう考えている。

願わくば、最愛の妻くらいにはこれを理解してもらいたかったのだが、―不満たらたらの表情のティナを見て、クローネンは再び小さく溜息をつき、嫌な考えを振り払うように首を振った。

……ティナ。お前は兄貴が殺されても構わないと言ったがな。そもそも事を荒立てると、兄貴一人の命じゃ済まされない可能性もある。だから極力穏便に、謝り倒してでもやり過ごす必要があるんだ

そんなこと、分かんないじゃない!

『分からない』で済まされるか馬鹿! 仮に法外な賠償を要求されても、あのケイとかいう男に逆らえる奴はこの村にいないんだぞ!? あ(・)の(・)マンデルでさえだ! そうなったとき、お前に責任が取れるのか!?

……それは、

分かったなら黙ってろ。……姫さんには、俺から謝っておこう。兄貴は……いや、姫さんも会いたくはないだろうしな、向こうが望むなら謝らせるが……いずれにせよ、穏便に片付くことを祈るしかないか。ウチ以外に寝室に空きがある家、あったかな……

…………

ブツブツと額を押さえて考え込むクローネンを、ティナは、ただ恨みがましい目でじっと睨みつけていた。

が、ふっと、その視線がクローネンの背後へと逸れる。

……あ。戻ってきた

なに?

ティナの呟きに、クローネンはばっと後ろを振り返った。すると、村の入り口の方に、馬に跨ったケイとマンデルの姿。

帰ってきたのか……

こんなときに限って良いタイミングだ、と乾いた笑みを浮かべるクローネン。

ケイの隣に轡を並べるマンデルを見やり、続いてティナへちらりと視線を向けて、小さく溜息をついた。

―ティナも、マンデルを見習ってほしいもんだ。

しみじみと、そう思う。

ここらでは名の知れた弓と短剣の名手であり、かつて”戦役”では手柄を立てたマンデルは、村の中でも特に一目置かれた存在だ。

指折りの発言権と、タアフの皆に対する大きな影響力を持つ彼ではあるが、今のところ、クローネンではなくダニーが村長になることを支持している。

理由は、 ダニーの方が、より優秀であるから だ。


勿論、自分と比較して、の話ではあるが、クローネンはそれを気にするつもりはない。むしろ、マンデルのなんと理知的なことか、と感涙を禁じえないほどであった。

本来ならば、マ(・)ン(・)デ(・)ル(・)こ(・)そ(・)が(・)最(・)も(・)ダ(・)ニ(・)ー(・)を(・)憎(・)ん(・)で(・)い(・)る(・)筈(・)な(・)の(・)に(・)―そんな彼を差し置いて、ただ感情に振り回されるだけのティナには、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだが。

(今はそれどころじゃない、か)

とりあえず。ケイの怒りを買わないように、細心の注意を払って謝罪しなければならない。

(……ああ。なんで俺だけ、こんな気苦労を……)

自分が決めたこととはいえ、なんともやり切れない思いを抱えたクローネンは、自分を落ち着かせるかのように静かに深呼吸。

……はぁ

そしてその日、何度目になるか分からない、小さな溜息をついた。

†††

村に戻ると、クローネンにいきなりその場で平伏されたので、ケイはかなり困惑した。

なんでも話によると、ダニーがアイリーンの寝込みを襲おうとしたらしい。

何……?

それを聞いたケイが、夜叉の形相に変貌するのを見て、アイリーンが 待て待てケイ! と慌てて話に割り込んでくる。

アイリーン曰く、別に襲われたわけではないようで、ただ目を覚ましたら部屋にダニーがいた、というだけの話らしい。

それはそれでどうかと思ったケイだが、アイリーンが気にしないと言うので、そこまで深刻に事態を捉えるのはやめにする。ただ、泊まる家は変えたいという要望にはこたえて、最終的にアイリーンとケイがそれぞれ家をチェンジすることとなった。ケイの代わりにアイリーンが来ると聞いて、ジェシカがはしゃいでいたのが印象的だった。

ベネット宅へと移ったケイは、アイリーンは気にしないと言ったものの、家で顔を合わせるたびにダニーへプレッシャーをかけ続けた。そのため、夕食時、シンシアが冷や汗を浮かべる程度に、緊張感のある空気になってしまったのはご愛嬌だ。

食後は、またぞろ部屋に引きこもって昨夜のように待機するつもりだったのだが、ベネット宅の寝台があまりに寝心地が良すぎて、完全武装であったにも関わらずケイはそのまま熟睡してしまった。幸いなことに、盗賊たちの夜襲はなかったのだが。

そして、翌朝。

クローネンの家の前、村人風のだぼだぼのズボンに、革のベストを羽織ったアイリーンが、 よっほっ と声を出して体を動かしていた。

どうだ? 調子は

傍で見守るケイの問いかけに、アイリーンは答えず、ただ小さく笑みを浮かべる。

たんっ、と。

地を蹴った助走。砂利ッ、という足音を置き去りにして、一陣の風が吹き抜ける。

踏み込み。側転。ロンダート。そこから繋がる連続のバク転。

ダンッ、とひと際大きな音を立てて、跳ね上がる身体。見上げるような跳躍。

あざやかな、後方伸身宙返り、三回捻り。

ぴたりと、その着地は、ブレることもなく。

ゆっくりと顔を上げたアイリーンは、にっと悪戯っ子のような笑みを浮かべ、

悪くないね!

そうか

うむ、と腕を組んで満足そうに頷くケイの横で、見守っていたクローネンとティナが、あんぐりと口を開け固まっていた。

わーおねーちゃんすごーい!!

へっへへーそーだろそーだろー

足元にじゃれついてくるジェシカに、得意げなアイリーン。キャッキャと楽しげなジェシカに応えるようにして、次々に宙返りやバク転などを披露する。

(この調子なら、もう大丈夫だな)

快復―と言っていい。これならば、万が一の事態に巻き込まれても、柔軟に対応できるはずだ、と確信した。

ケイは、出立を決意する。

その後、アイリーンがいなくなると聞いて泣き出したジェシカを宥めたり、ベネットから用意して貰った食料や生活物資を受け取ったりと。

なかなかに手間取ったが、日が高く昇り切る前に、ケイたちはなんとか出立の準備を終えた。

短い間だったが、村長、世話になったな

村はずれ。見送りに来たベネットたちに囲まれながら、ケイは背後の森を見やる。

ここから木立を抜け、小川に沿った道を東へと辿って行けば、サティナの街へ着く。目的地は城塞都市ウルヴァーンではあるが、安全のためにケイたちは街道を辿り、幾つかの街や村を経由していくことにしたのだ。

短い間だったが、楽しかったぞ、ケイ

ああ、マンデル、俺もだ

マンデルと握手を交わしながら、ケイは笑いかける。

いやはや、お名残り惜しいですのぅ

髭を撫でながら、至極残念そうな表情を浮かべるのはベネットだ。本当は、ケイたちがさっさと村を出て行ってくれるので、ほっと一安心しているところだが、そんな内心はおくびにも出さない。

本当に。こちらとしても後ろ髪をひかれる思いだよ

ケイも笑顔を張り付けたまま、それに答える。

それと、手紙の件は、ありがとうございます。よろしくお願い致しますぞ

なに、お安い御用だ

頭を下げるベネットに、ひらひらと手を振ってポシェットから封筒を取り出すケイ。

何でも、ベネットの娘はサティナの街の職人の家へ嫁いでいるらしく、ケイたちが街に寄るならば、ついでに手紙の配達を頼まれたのだ。本来ならば行商人に頼むらしいが、配達料を取られるとのことで、あわよくばそれを浮かせようという魂胆なのだろう。

確かに届けよう。サティナの街の、キスカ嬢でよかったな?

『嬢』というような歳でもありませんがの

ほっほっほ、と笑い声を上げるベネット。

その隣、腰を曲げた呪い師のアンカが、楚々と進みでる。

ケイ殿、

懐から幾つかの水晶の欠片を取りだしたアンカは、

Bondezirojn. La grandaj spiritoj benos vin.

しわがれた声で、朗々と唱える。

ぱきん、と水晶がひび割れ、緩やかな風が吹いた。

アンカの手の平から風にすくわれた水晶が、きらきらと光り輝きながら、空へと散って行く。

くすくす、という無邪気な笑い声を、ケイは聞いた気がした。

―あなたの旅路に、幸多からんことを

祝福を終え、どこか得意げな顔で、アンカ。

……ありがとう、婆様

ありがとな! アンカ婆さん!

一礼したケイとアイリーンは、おもむろにサスケに跨る。ケイは鞍に、アイリーンはその後ろ、ケイの背中にぴったりとくっつくようにして。

加えて生活物資まで載せられたサスケが お、おもい と言わんばかりに困り顔でケイを見やるが、最高速で飛ばすわけではないので、旅路に支障はないはずだ。 すまん、頼むぞサスケ とケイが首筋を撫でると、サスケは しかたない と言わんばかりに鼻を鳴らして溜息をついた。

ぽん、とケイが脇腹を蹴ると、サスケはゆっくりと進み始める。

それじゃーなー、みんなー! 元気でなー!

ケイの背後、アイリーンが見送りの村人たちへ手を振って叫んだ。 元気でなー! とそれに返す言葉が聴こえてくる。

ぱっかぱっかと。響く蹄の音。木立に入り、見送りの姿も見えなくなったアイリーンは、サスケの背中に座り直した。

……良い人たちだったなぁ、ケイ?

……そうだな

アイリーンの無邪気な声に、ふっと、ケイは肩の力を抜く。

また、来れるかな?

しかし、続けて投げかけられた問いに、しばし、言葉を失った。

……来れるさ

しばらく間をおいてから。

ケイは、静かに答えた。 また今度来ようぜ! というアイリーンの声を、聞き流しながら―。

この世界に転移してから、おおよそ二日。

村での休息を終えたケイたちは、サティナの街を目指して、出発した。

以上、タアフの村編でした。

16. 公平

さらさらと。

小川のせせらぎが、耳に心地よい。

穏やかな昼下がりの陽光。照らされた水面はきらきらと美しく。

木立を吹き抜ける清涼な風が、さわさわと葉擦れの音を運んできた。

兜を脱いだケイは、木陰に腰を降ろして、ふぅ、と小さく溜息をつく。

タアフの村を発ってから、はや数時間。

超過重量で辛そうなサスケの体調を鑑みて、ケイとアイリーンは木立でしばしの休息を取っていた。

川に首を突っ込んで、がぶがぶと水を飲んでいたサスケが、 ぷはぁッ! と盛大に一息をつく。それを尻目に、ケイはバックパックをごそごそと探り、包み紙の中から堅焼きのビスケットを取り出してぼりぼりとかじり始めた。

はぁ。……さすがに三、四時間も乗ってると、キツいなぁ~

ケイの隣、木の根っこに腰かけたアイリーンが、首をゴキゴキと鳴らしながら大きな溜息をつく。

そうだな。……流石にダレてきた

水筒の水でビスケットを飲み下し、ややげっそりとした顔でケイ。どちらかといえば、 かったるい というニュアンスのアイリーンに対し、ケイの言葉は少々切実だ。

タアフの村から今まで、何事もなかった。

かれこれ数時間、小川を辿るようにして東へ進んでいるが、右手には森、左手には草原を望む田舎の道は、驚くほどに穏やかで、のどかだった。

通行人は、時たま森の獣や草原の兎を見かけるくらいのもので、行きずりの旅人や隊商に出会うこともない。一度、タアフよりも貧相で小さな規模の村も見かけたが、胡散臭げにこちらを見る住人に手を振っただけで、接触することもなかった。

欠伸が出るほどに、平和で退屈な道のり。

しかしこんな状況下でも、ケイは自分に予断を許さなかった。

どんなに平和に見えても、森の中から唐突に、凶暴なモンスターが飛び出してくるかもしれない。茂みの暗がりに、草原の草陰に、盗賊や追剥が潜んでいるかもしれない。

いつ、どこから現れるとも知れぬ敵に備えて、即時に矢を放てるよう、ケイは弓を手に警戒し続けていたのだ。

少数での旅路に警戒が不可欠なのは、ゲーム内でも同じこと。しかしゲームでの移動時間は、どんなに長くてもせいぜいが一時間だったのに対し、ケイはもう三時間以上、神経を尖らせ続けている。

背中側に座るアイリーンが後方を見張っているので、負担は幾分か軽減されているものの、殺気の感知はやはりケイの領分だ。いずれにせよ全方位に気を払う必要があり、しかも実際に、危険に曝されるのは自分たちの命となると、精神的な重圧もひとしおだった。

流石にそろそろ、集中力が持たない。

ゆえにこの休息は、サスケだけではなく、ケイにも必要なものといえた。ビスケットをかじる今も、ケイはもちろん警戒を続けているが、移動しながら次々と現れる地形に注意を払い続けるのと、一点に留まって周囲を警戒するのとでは、心理的負担が全く違う。

―あと十分ほど休憩したら、出発するか。

小川の澄んだ水を眺めながら、ぼんやりと考えていると、横でアイリーンが立ち上がる気配。

……ケイ、大丈夫か?

こちらを覗き込むように。視界に、アイリーンの心配げな顔が大写しになる。

……問題ない。気を張ってたから、ちょっと疲れただけだ

はは、と小さく笑って見せると、 ……そっか と呟いたアイリーンは、表情を曇らせたまま木の根の上に座り直した。

しばし、互いが互いの様子を探り合うような、そんな沈黙が流れる。

なんとなく気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、視線を泳がせたケイは、首元に垂らした白い顔布をそっと撫でつけた。

それは、盗賊との戦闘で駄目になった元の一枚の代わりに、シンシアが出立前に贈ってくれたものだ。シンプルな白い布地に、一筋の赤い模様。彼女は裁縫が得意らしく、左端の頬にあたる部分には、赤い糸を使った可憐な花の刺繍が施してある。

これで可愛い雰囲気になりますよ、というのはシンシアの言だが―たしかに、刺繍そのものはよく出来ており、とても可愛らしいのだが、一応は戦装束である顔布にチャーミングな装飾を施すあたり、何か独特な彼女のセンスを感じる。

マンデルから忠告を受けた以上、ケイが顔布を使う時が来るとすれば、それは殆どの場合、対人戦闘を意味するのだが―。

小さく溜息をついて頭を振ったケイは、薬液が乾いてパリパリになった頬の包帯を撫でながら、ちらりと横を見やる。

木の根に腰かけるアイリーンは、足の爪先を伸ばしたり曲げたりしながら、頭上を見上げて木漏れ日に目を細めていた。風避けのマントに、刺繍の入った頭のスカーフ、さらさらと風に揺れるポニーテール。黒革の籠手に、革のベスト、ベージュのチュニックからすらりと伸びる脚は、“NINJA”の黒装束と脛当てに包まれている。

手足の防具を着けている、背中にサーベルを背負っている、という二点を除けば、『余所行きに少しおめかしした村娘』という印象だ。しかし、そんな可憐な旅装束に、ケイはむしろ渋い顔をする。

……なあ、アイリーン

ん? どした?

やっぱり、鎖帷子、着ておかないか?

革鎧の隙間から覗く鎖帷子を、じゃらじゃらと鳴らしてみせた。

―軽装過ぎる。

ケイが今、最も懸念しているのは、他でもないアイリーンの防御力の低さだ。

革防具はおろか、布防具と呼べるものすら着けず、普段着のままでいるのは余りにも無防備なのではないかと。言外にそう指摘するケイに、対するアイリーンはなんとも微妙な表情で答えた。

……やめとく。重いし、サイズ合わないし、重いし、重いし……

いや、しかしなぁ。この間みたいに矢で射られたらと思うと……

アレは油断してただけだ! 今なら避けるなり弾くなりできるさ!

……本当か?

できるって!

……本当に?

なんだよその目は! いや、説得力がない自覚はあるけどさッ!

なんなら試してみるかウラーッ、とサーベルの柄に手をかけるアイリーンを まあまあ と落ち着かせながら、ケイは唸る。

たしかに、アイリーンの技量ならば、視界圏内から飛来する矢に対応することは、そう難しくないだろう。それは『アンドレイ』の時代から付き合いがあるので分かる。受動感気(パッシブセンス)が苦手といっても、あからさまな攻撃は探知できるわけだし、見てから捌くなり避けるなりするだけの反射神経もあるはずだ。ケイが全方位に受動(パッシブ)の網を張っており、アイリーンは一方向にだけ集中していればよい現状、よほどの事態でなければ遅れを取ることもないとは、ケイも思う。

思うのだが。

う~む、しかし、どうにも不安なんだよな……

気持ちはわかるけどさ……でもオレから機動力とったら、何も残らないだろ? 特に女の身体に戻ってから、さらに筋力落ちたっぽいし。体重も軽くなったみたいだから、ただ動く分には問題ないんだけどさ……

気だるげにゆっくり立ち上がったアイリーンが、 よっ と身をかがめて垂直に跳び上がる。

ふわりと。

まるで重力を感じさせない動きで頭上の木の枝を掴み、くるりと逆上がりの要領で回転して、枝の上に降り立つ。

ケイが足を掛ければ、確実に折れてしまうであろう細さの枝。しかしアイリーンは、僅かに木の葉を揺らしただけだった。

アイリーンの身体能力の秘訣は、何と言ってもその体重の軽さにある。筋力の強さの割に、体重が異様に軽いのだ。

キャラクターの『生まれ』は細身な体格の『森林の民』を選び、三つの紋章枠のひとつをどマイナーな『身体軽量化』で潰してまで減量、さらに『身体強化』『筋力強化』の紋章で最低限の筋力を確保し、各種戦闘系のマスタリーによって運動能力の底上げを図る。

そうして誕生したのが、極限までに機動力に特化した軽戦士、“NINJA”アンドレイだ。防御はまさしく紙そのものだが、身軽さにおいては他の追随を許さぬ、まさしく浪漫の塊。

ゲーム内では、型にさえはまれば爆発的な強さを発揮するキャラクターであったが―しかし、話が現実となると、そうも言っていられなくなる。

……ゲームの中なら、矢が刺さろうが腕がもげようが動けていたが……現実だとそうもいかないぞ

そりゃあ分かってるけどさ。でも仮に、防具のおかげで生き残れたとしても、重さのせいで逃げ切れずに捕まって嬲りモノ、なんてのは御免だぞ?

それは……まぁな。難しいところだ……

ぽりぽりと頭をかきながら、ケイは困り顔。だがそこで、アイリーンの『嬲りモノ』という言葉で、ふと考える。

―仮に、強盗や追剥の類がケイたちに襲撃を仕掛けるのであれば、ひと目で美人と分かるアイリーンよりもむしろ、ケイを優先的に攻撃するのではないだろうか。

そして初日に遭遇した盗賊たちも、最初の一矢はケイに放ってきたことを思い出した。

(初撃がアイリーンに行かないんなら、機動力があった方がいいか……)

不意打ちでも初手を凌げれば、アイリーンはその機動力で逃げ切れるし、撹乱や攻撃に回ることもできる。ケイは鎖帷子を着けたままなので生存率が上がる。

……そうだな。身軽なままでいる方がベターか

うん、オレもそう思う

木の上で腕を組み、うんうんと頷いたアイリーンは、どこか視線を遠くして小さく溜息をついた。

あぁ。……こんなことなら、“竜鱗(ドラゴンスケイル)“着けてくりゃ良かったなぁ……

“竜鱗鎧《ドラゴンスケイルメイル》”―飛竜の鱗を縫い付けて作る、今のアイリーンが装備できる防具の中で、おそらく最高の防御力を誇る鎧だ。布地をベースとしているため動きを阻害せず、鉄よりも堅牢な飛竜の鱗はしかし羽のように軽い。デッドウェイトが命取りとなる軽戦士にとって、それは最高の相性を持つ鎧といえた。

飛竜の鱗は極めて貴重な素材なので、充分な量を確保できずに、『アンドレイ』は胸から胴の一部を守れる程度の鎧しか作れなかったが、それでも他の追随を許さないその性能から、どんなサイズであれ”竜鱗鎧”は軽戦士垂涎の一品であった。

ゲーム内でアンドレイは、その鎧を後生大事に銀行に預けており、紛失(ドロップ)の心配がない武道大会や特定のイベント以外では、決して持ち出すことはなかった。

今の状況下であの鎧があれば、どれほど頼もしかっただろうかと、ケイは考える。

こんな状況になるなんざ、予想できる奴はいないだろ。仕方がないことだ

まぁーな。その点ケイはラッキーだったな……良い弓持ってて

違いない。……どうだ、鱗取りに、“飛竜”でも狩りに行くか?

弓を持ち上げてケイがそう言うと、アイリーンは ハッ と乾いた笑みを返した。

冗談。命がいくつあっても足りねーよ……。今のケイがあと100人と、オレが50人くらいいたら考えるかな。あと弩砲(バリスタ)と投石機(カタパルト)が最低5機ずつは欲しい

それに水系統の純魔術師(ピュア・メイジ)もな

あーそっか、魔術師も必要か……

無理だな……と。

二人揃って遠い目をする。

“飛竜”は、空飛ぶ宝の山だ。

骨や鱗は防具に。

牙や爪は武器に。

眼球は高位の魔術触媒に。

内臓は魔法薬や霊薬の材料に。

中でも”飛竜”の血には、飲めば身体能力が強化されるという、プレイヤーが死亡しない限り半永久的に持続するバフ効果があるので、生産職から戦闘職まで全てのプレイヤーがその恩恵を求めてやまない。

しかし、 DEMONDAL のサービス開始から三年。プレイヤーの手による”飛竜”の討伐は、未だに片手で数えられる程度しか確認されていない。

その数、僅か五頭。

大手の傭兵団(クラン)が連合を組んで討伐に成功した三頭と、 DEMONDAL サービス開始二周年記念、三周年記念のイベントでそれぞれ討伐された二頭のみだ。

何故、これほどまでに少ないのか―理由はいくつかあるが、最も大きいのは、まず”飛竜”が強すぎることだろう。

でかい、空を飛ぶ、火を吐く。

“飛竜”の特徴を端的に表せばこうなるが、その強さは、もはや凶悪というレベルではない。

まず、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“並の巨体は、それ自体が既に凶器だ。さらに全身が最高の防具の代名詞たる”竜鱗”で覆われており、弱点らしい弱点といえば眼球や鼻の穴、鱗が存在しない口腔くらいしか存在しない。

そこに加えて、飛行能力と、炎の吐息(ブレス)だ。

“飛竜”は戦闘中、滅多に地上には降りて来ない。獲物が息絶えるか、腹にため込んだ可燃性の粘液が底を突くまで、目標の上空を旋回しつつブレスを浴びせ続けるという、その優位性を最大限発揮できる戦い方を好む。

つまり、どうにかして”飛竜”を空から叩き落とさなければ、ブレスに蹂躙されるのみで、そもそも『戦い』にすらならない。

そこで必要とされるのが、弩砲(バリスタ)や投石機(カタパルト)といった攻城兵器だ。囮役が”飛竜”を射線上に誘い込み、投網やロープを投射して翼に絡みつかせ、地面に叩き落としてタコ殴りというのが、“飛竜”狩りの定石とされている。これは、落下時に大きなダメージを期待できるので、かなり有効な戦術だ。ある傭兵団(クラン)が討伐した一頭に至っては、勢いよく頭から地面に突っ込んだ結果、首の骨が折れて即死したらしい。

しかし、有効な戦術であるといっても、飛行中の”飛竜”に原始的な兵器を命中させるのは容易ではなく、そもそも命中したところで上手いこと翼が封じられる保証はない。攻城兵器の攻撃が不発に終わり、再装填を終える前に全てが焼き尽くされ、撤退せざるを得なくなった、というのはよく聞く話だ。

そして、地に堕ちたところで竜は竜、翼が封じられても炎の吐息(ブレス)は健在で、その火力は地上戦においても如何なく発揮される。例え地上戦力が充実していても、水系統の魔術師の加護がなければ、全員仲良く消し炭にされて終わりだ。

“飛竜”を引き付けられる優秀な囮役。

対空弾幕を張るに足る十分な数の攻城兵器。

攻城兵器を運用できるだけの人員。

地上で”飛竜”と交戦する屈強な戦士団。

“飛竜”のブレスを軽減できるだけの、豊富な魔力を持つ水系統の魔術師。


そしてこれらを揃えられる組織力・資金力をもってして、ようやく、“飛竜”と戦うためのスタートラインに立てる。

ワープ魔法やチャットの類が存在しない DEMONDAL では、まず頭数をかき集めて集団行動を取るだけでも一苦労だ。さらに、大勢のプレイヤーがお祭り気分で集う周年記念のイベントならばともかく、平時の”飛竜”狩りでは敵対組織の妨害や嫌がらせも予想され、道中では他モンスター(“森大蜥蜴”、“大熊”)や盗賊NPCなどとも遭遇しうるので、いずれにせよ一筋縄ではいかない。

“飛竜”狩りを企画して、それを実行に移せるだけのプレイヤー集団は、ゲーム内にも数えるほどしか存在しないのが現状だ。

加えて、ゲーム内のマップの探索が進むにつれ、 深部(アビス) と呼ばれる森や高山の奥地で、老衰して死に場所を選ぶ”飛竜”の姿が確認されるようになった。狩りに大規模な戦力を動員するよりも、 深部 の探索に人員を割いた方がコスパが良いと判明したので、近年では”飛竜”狩りをわざわざ決行する傭兵団(クラン)は減少傾向にある。

余談だが、ケイの”竜鱗通し”の材料は、サービス開始三周年記念の”飛竜”狩りイベントで手に入れたものだ。

普段はいがみ合う傭兵団(クラン)同士も、忌み嫌われるPKすらも、皆が手を取り合って一致団結し、果敢に”飛竜”に立ち向かっていくのがこのイベントの醍醐味だ。長年の確執を水に流し、同じ戦場に立つ戦友として助け合い、あるいは肩を並べて一心に剣を振るう。オンラインゲームの原点、ひとつの世界のプレイヤーとして共に戦う高揚が、連帯感が、そこにはあった―

“飛竜”を倒すまでは。

“飛竜”が息絶えると同時に、その連帯感にひびが入り、呆気なく砕け散って崩壊するのは、このイベントのお約束だ。

お友達ごっこは終わりだぜ と暴れ出すPKたち、竜の血を飲もうと殺到するプレイヤーの群れ、それらを横殴りになぎ倒す弩砲(バリスタ)や投石機(カタパルト)の砲弾。敵対組織に向けて攻撃魔術がぶっ放され、矢の雨が降り注ぎ、竜の上によじ登って意味もなく雄叫びを上げていたプレイヤーが飛来した投斧(ハチェット)に打ち倒される。

そんな混沌とした空気をよそに、ケイは竜の血を口にし、翼の腱を剥ぎ取り、ついでに隣のプレイヤーをぶち殺して翼の皮膜を奪い取り、いつの間にか死んでいたアンドレイの遺体を担いで、その場から脱出することに成功した。

それが、十日ほど前の出来事だ。幸いなことにイベント以降、ケイは一度も死亡していない。“竜鱗通し”の使用感を鑑みるに、竜の血の効能は、『こちら』の世界にも持ちこされているようだった。

(アイリーンの言うとおり、俺はかなりラッキーだったな……)

ケイの元々の筋力では、“竜鱗通し”はどうにか実戦でも扱えるというレベルで、ショートボウのような気軽な運用は到底望むべくもなかった。

竜の血の身体強化は死ぬまで有効だが、再受肉(リスポーン)の存在しない『こちら』では、それで十二分に役に立つ。

(俺は充分ラッキーだ……無い物ねだりをしても仕方がない、か)

とりあえず今は、自分のできるベストを尽くそう、とケイはひとり頷く。

結局その後、さらに十分ほどのんびりしたところで、ケイたちは再び出発した。

サスケの背中に揺られながら、ケイはちらりと後ろを見やり、

そうだ、アイリーン。次の町に着いたら、盾を買おう

盾? 何に使うんだ?

決まってるだろ、お前のためだよ。飛び道具対策だ

……え~

ケイは前方を見張っていたが、声だけでアイリーンの嫌そうな顔が容易に想像できたので苦笑する。

いらねーよ、重いし……

邪魔な時は捨てればいいだろ

え~……

あとレザーアーマーも買おう、最低限の胸部だけ守るヤツ。お前の胸のサイズに合うのがあればいいな

んー、小柄な男向けのヤツなら、普通に使えると思う……って、だからいらねーっての!!

ぽこぽこと、抗議の拳が背中を叩く。ははは、と声を上げて笑いながら、ケイはひとり、弓を握る手に力を込めた。

†††

それから、しばらくして。

相も変わらず、周囲への索敵に神経を擦り減らすケイに、見かねたアイリーンが、街道を北に外れることを提案した。

曰く、小川を併走するように草原を突っ切って行けば道に迷う心配もなく、それでいて視界が開けるので、不意打ちを受ける可能性もぐっと減る、と。

よくよく考えてみればその通りで、ケイたちは馬車を抱えているわけでもなし、必ずしも整備された街道の上を行く必要はない。

アイリーンの助言通り道を北側に外れたケイは、草原の大地が描く緩やかな丘陵を眺めながら、しばしの心休まる旅路を満喫していた。

―しかし。

安らかなる時は、唐突に終わりを告げる。

あっ

後方を見張っていたアイリーンが、小さく声を上げた。 どうした と振り返ったケイは、見やる。

左手後方。距離は、五百メートルほどの彼方か。

草原の丘を越えて、続々と姿を現す黒い騎馬。

その数、八騎。

…………

二人の沈黙が、緊張を孕んだ。片手で輪を作り、それを望遠鏡のように覗き込みながら、ケイはさらに目を凝らす。

黒い騎馬を駆る者たち―細やかな紋様と、羽根飾りで彩られた革鎧。アジア系を彷彿とさせる濃い顔立ちには、独特なうねりを描く黒い刺青。何人かは、顔布を着けているようだった。

間違いない。草原の民だ。

不意に、脳裏にマンデルの言葉が甦る。

『―盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く』

ぐっ、と内臓を掴まれたかのような不安感が、腹の奥底から湧き上がる。

件の草原の民もケイたちの姿に気づいたらしく、数人がこちらを向いて、何やら言葉を交わしているのが見えた。

……絡まれたら厄介だ。街道に戻るぞ

う、うん

こくこくと、アイリーンが不安げに何度も頷く気配を背に、ケイはサスケを加速させて街道の方へと手綱を引いた。

ちらりと後ろを振り返ると、草原の民は、何故か、こちらへ馬首を巡らせ、

なんか、追ってきてるんだけど

そう言うアイリーンの声は、微かに震えている。それをよそにケイの瞳は、彼らが矢筒の口の覆いを取り外しているところを、捉えた。

…………

ハァッ、ハァッという、サスケの苦しそうな呼吸音が響く。

……連中、なかなか良い馬に乗ってやがる

舌打ち交じりのケイの言葉は、苦々しい。度々、振り返って確認するごとに、少しずつ彼我の距離が近づいていた。サスケにかなり無理をさせているにも関わらず―やはり、超過重量が、不味い。

オ、オレのせいだ、街道から外れようなんて、言ったから……

落ち着け、お前のせいじゃない

顔面蒼白なアイリーンに、間髪いれずケイは声をかける。

街道にいたら、気付かずに奇襲されていた可能性もある。早い段階で見つけられて、むしろ良かったぐらいだ

口ではそう言うものの、本当にそうだったかは、分からない。

ぺろりと唇を舐めたケイは、首に垂らしていた顔布をずり上げつつ、鋭い視線で周囲を見回した。顔布の赤い花の刺繍が、ひらひらと風に揺れる―。

そしてふと、前方に生い茂る木立に目を止めたケイは、

……アイリーン

っ、うん

前、見えるか。あの木立

うん

あそこで、悪いが、ちょっと降りてくれ

……えっ?

困惑の声。

もちろん、置いてくわけじゃないぞ。サスケを楽にしてやりたくてな

戦うのか?

ああ。連中は、どうやらヤル気のようだからな

ふん、とケイが小さく鼻を鳴らすと、アイリーンは、 そうか、分かった、……分かった と呟いた。

オレは……どうする。隠れとけばいいのか?

そうだ。連中に気付かれないよう降りて、じっとしておいてくれ。あとは俺が何とかする

…………

アイリーンは、何も言わない。そうしている間にも、目の前に木立が迫る。

そろそろだ、準備しろ。速度緩めるぞ

いや、大丈夫だ。速度はそのままで突っ切ってくれ

きっぱりとしたアイリーンの返答は、声こそは硬かったものの、それでも芯のしっかりと入ったものだった。

お前が身軽でよかったよ、鎖帷子を着てなくて正解だったな

そーだろ? だから何度もそう言ってるじゃねーか

全くだ。次の町に着いたら、一杯おごるぜ、相棒

ケイの軽口に、アイリーンは ハッ と笑い声を返す。

楽しみにしてるよ、相棒

がさりと、サスケが茂みを突き破り、木立に突入した。

狭まる視界。

木々の幹に、緑の葉に、ケイたちの姿が覆い隠される。

行けッ

あいよッ!

たんっ、とアイリーンがサスケの背中を蹴り、空中に浮かびあがった。

勢いもそのままに、革の手袋でしっかりと木の枝をつかみ、そのままくるりと身体を回転させつつ、ぱっと手を離した。

水平方向の運動エネルギーを回転で相殺し、別の枝へと跳び移ったアイリーンは、体勢が安定すると同時に素早い動きで、さらに樹上へと登っていく。

(……見事だな)

横目でそれを見送ったケイは、こんな状況下にあっても、感嘆の念を禁じえない。あれほどの勢いで跳び移ったにも関わらず、樹木は風にそよいだ程度しか揺れていなかった。この視界の悪さならば、ケイ並の視力でもない限り、絶対にバレることはない、と確信する。

続いてケイが、鞍に括りつけられていた荷物を次々に取り外していくと、見る見るうちにサスケの足取りが軽くなっていった。

木立を、抜ける。

ぶわりと、広がる視界。

何も遮る物のない、草原の大地。

どうやら襲撃者たる草原の民は、ケイが木立の中に居座る可能性を考慮していたらしい、二手に分かれて木立を挟み込み、包囲するようにして前進していた。

その数は、変わらず八騎のまま。アイリーンには気付いていないようだと、ケイはひとまず安心する。彼らは真っ直ぐに突き抜けたケイの姿を確認するや否や、小魚の群れがそうするように、再び合流して追いかけてきた。

カヒュッ、カカヒュッカヒュンと、乾いた連続音。

鈍い殺気を背中で感じ取り、弾かれるように振り返ったケイは、己の”受動感気(パッシブセンス)“の導くままに左手を振るう。

パシッ、という音を立てて、ケイに命中するはずだった矢が、朱色の弓に叩き落とされた。他の矢は近くをかすめ飛びつつも、ケイ・サスケ両者とも害することなく、草原の大地に突き刺さる。

(―射かけて、来たな?)

心の中で、問いかけた。

こちらから、先制攻撃を仕掛けるつもりは、なかった。なぜなら、本当に敵かどうか、分からなかったからだ。

しかし他でもない彼ら自身が、彼らの意志を、立ち位置を表明した。ならば、それに対する返答は、ひとつしかあるまい。

ばくん、ばくんと、心臓の鼓動の音。熱い血潮が全身を駆け巡り、頭の中は燃え滾るようだった。それでいて世界は冷たく、鋭く、どこまでもフラットに収束していく。

右手で、矢筒から一気に、三本の矢を引き抜いた。

上体を逸らし、仰向けに寝転がるようにして、サスケの背に身を横たえる。

遥か後方、天地逆転した視界の中で、ケイの瞳に八騎の敵が映り込んだ。

迷いなど、在る筈もない。

かき鳴らす、まるで楽器のように、左手の強弓。蒼穹に響き渡る死神の音色、三重奏。

草原の民の戦士たちは、閃く銀色の光を知覚した。

瞬間。

先頭から順番に、三人が吹き飛んだ。

―え?

呆気に取られた後続の、一瞬の思考の停止は、ケイに上体を起こし次の矢をつがえる時間を与えた。

馬鹿なッ!

草原の民の一人、壮年の戦士が愕然とした表情で叫び、そしてそれが最期の言葉となった。馬の頭部を貫通した矢がその胸に突き立ち、馬上から身体を吹き飛ばしたのだ。

ッ、散れェ―ッ!!

顔布で表情を隠した戦士のひとりが、逼迫した声で仲間たちに叫ぶ。動きに変化をつけなければ、ただのよい的であると。

それとほぼ同時、カァンッ! と小気味よく響く、快音。

弓の音を耳にして、慌てた顔布の戦士は乱暴に手綱を引いた。主(あるじ)の唐突な指示にも、よく躾けられた草原の民の馬は応える。身体を傾け、速度を殺さずに左へ転進、見事な回避運動を取って見せた。

―そして、そこへ吸い込まれるように、突き立つ矢。

苦痛のいななきと共に崩れ落ちる騎馬、馬上から投げ出された騎手は、 えっ とただ間の抜けた声を上げた。

―なんで。回避運動を取ってたのに。

呆然としたまま、地面に勢いよく叩きつけられる。パキバキィッ、と派手に骨が折れ砕ける音、ごろごろと転がりながら後方へ、景色と共に流れ去っていく。

そ、んな

一部始終を見ていた残りの戦士たちの全身から、どっと冷や汗が噴き出た。

弓(・)の(・)音(・)が(・)鳴(・)っ(・)て(・)か(・)ら(・)の回避であったにも関わらず、矢は狙いを違わずに、標的へ突き刺さった。

これでは―これでは、まるで、未来が見えているかのようではないか。

残りの三人ともが、得体の知れない恐怖に捕らわれて身震いする。

だが、ケイからすれば、それは大したことではない、ただのテクニックだった。

単純に、視たのだ。

散れ と叫んだ直後、顔布の戦士の瞳が左へ動いたのを。

そして手綱を握る左腕の筋肉が、右腕よりも先に硬直するのを。

視線や筋肉の動きから、次の手を予測する。

そんな、近接格闘ならば誰もが使うような技術を、ケイはただ単に、その強力な視力をもって、弓の射程範囲にまで拡張しただけに過ぎない。

が、そんな理屈など知る由もない残りの三人からすれば、それは未知との遭遇、異次元の恐怖であった。

クソッ、化け物めッ!

叫んだ一人が矢をつがえ、弓を一息に引き絞り、放つ。

しかし、それはケイを命中することなく僅かに横に逸れ、代わりに反撃の一矢を呼び寄せた。ドパッ、と水気のある音を立てて首が千切れ飛び、血飛沫が吹き上がる。

ヒッイィイイイィィィッッ!

だっダメだっ逃げ―ッッ!

残りの二人が泡を食って手綱を引き急制動をかけるが、反時計回りに旋回しつつ弓を構えていたケイに、それは悪手以外の何物でもなかった。

カン、カァンと。

それぞれの馬が体勢を整えるよりも速く。

飛来した矢によって、二人の騎手の頭が弾け飛んだ。

……こんなもんか

どちゃっ、と馬上から滑り落ちる遺体を尻目に、ぽつりと呟く。

ケイが最初の一矢を放ってから、おおよそ二十秒。

草原の民の襲撃者、八騎を相手取った戦闘は、終了した。

しかしケイは、それでも気を抜かずに、馬上から、明らかに死亡していると分かる死体以外に、一本ずつ矢を打ちこんでいく。止めの一撃。前回、盗賊を逃がしてしまった反省からだ。例えひと目で瀕死と分かる状態であったとしても、確実に息の根を止める。

また、生き残った馬も同様に、反抗的な態度、及び逃走の意志が見受けられた場合は、容赦なく射殺する。馬は賢い動物だ。下手に生かしたまま逃すと、草原の民の居住地まで戻って仲間を呼んできかねない。『こちら』に来たとき、離れ離れであったケイとアイリーンを、引き合わせてくれたミカヅキのように。

淡々と、機械的に後始末を進めていたケイだったが。

ある一人の草原の民の戦士を見て、その動きを止める。

倒れ伏した愛馬の横で、地面にへたり込んだ一人の戦士―ケイが、回避運動を先読みして矢を命中させた、顔布の戦士だった。

見れば、落馬の衝撃でやられたのか、右腕と左脚が、妙な方向にねじ曲がっていた。

重度の骨折―しかし、死に至るほどではない。そんな状態。

地面に座り込んだまま、痛みを堪えるように荒い呼吸で、涙目になりながらも戦士はキッとケイを睨みつけた。

……女、か

ぽつりと。思わず、といった様子で、ケイの口から言葉が漏れる。

顔布の戦士は、ケイよりも少し年下程度の、若い女だった。

顔には当然のように、草原の民特有の、黒い紋様が刺青で彫り込まれている。しかし、それでも目鼻の作りがはっきり分かる、アジア系の濃い顔立ちの美人だった。よくよく見れば、革の胸当てを押し上げる胸のふくらみや、女性らしい曲線を描く腰つきが目に入る。

ずぐん、と。

血の匂いに麻痺した脳髄の奥で、何か痺れるような甘い感覚が鎌首をもたげるのを、ケイはおぼろげに自覚した。

…………

恐ろしく無表情のまま、じっとこちらを見つめるケイに何を思ったのかは知らないが、身体を引きずるようにずるずると後退した女は、左手で腰の湾刀を抜き放ち、ケイに向けて構える。

ふるふると揺れる刃先、ケイを睨みつける釣り上がったまなじりから、涙が一筋こぼれ落ちた。

くっ……、こっ、殺せッ!

震える声で、叫ぶ。

―言われるまでも、ないことだった。

我に返ったように。

無言のまま矢をつがえたケイは、女の顔面に向けて無造作に一撃を叩き込んだ。

ズチュッ、という湿った音を立て、矢じりが女の右目に深く深く潜り込む。耳と鼻から血を噴き出した女は、糸が切れた操り人形のように仰向けにひっくり返り、そのままカクカクと細かく身体を痙攣させた。命の残滓と呼ぶには、あまりに滑稽な姿。

まるで酔っ払いでもしたかのように、ぐらぐらと視界が揺れている。戦闘時とは異なる、妙に大きく聴こえる心臓の鼓動。この、胸を締め付ける感覚が何なのか、判断しかねたケイは、ただ空を見上げて深呼吸を繰り返した。

……ケーイ!

と、遠くから、アイリーンの声。弾かれたように前を見やれば、木立の方から、心配げな表情のアイリーンがぱたぱたと駆けてきている。

……終わった、のか?

周囲に散在する死体を前に、青白い顔のアイリーンは、呟くようにして問うた。

ああ。全滅だ

顔布の位置を直しながら、明後日の方向に目をやったケイは、簡潔に答える。

そ、そっか……。うっ

風の向きが変わり、風下になったアイリーンに、鮮血の香りが一気に吹き付けた。口元を押さえ、思わず俯いたアイリーンが、さらに足元に転がっていた女の死体を見て目を見開く。

……女?

……ああ。顔布をしてたから、そうとは気付かなかった。だから、手加減も出来なかった

目を逸らしたまま、ケイは早口でそう言った。

アイリーンと目を合わせるのが、怖かった。

…………

……俺は、他を見てくる

沈黙に耐えかねて、そそくさと、ケイは他の死体の場所へと移動し、物品漁りを開始した。金目の物を集めていると、数分としないうちにアイリーンが側にやってきて、近くの死体にしゃがみこんだ。

……オレも、手伝う

いや、いい。アイリーンはしなくてもいい

紙のように白い顔のアイリーン。明らかに無理をしているのがバレバレだったので、ケイは軽い感じを演出しつつ、その提案を却下した。

でっでも、ケイだけにやらせるなんて、そんな、

あー、それじゃあアレだ、馬が逃げないように見張っといてくれないか。サスケの近くにいるヤツら

もっしゃもっしゃと、近くで草を食むサスケを指差して、ケイ。サスケの周囲では、三頭の馬が尻尾を振りながら、サスケと同じように草を食んでいる。草原の民の乗騎の中でも、特に従順な性格の馬だ。

この三頭は生かして連れて行くことにしたので、アイリーンにはその見張りを担当してもらうこととなった。

……なあ、ケイ

ん?

草原の民の矢筒から質のいい矢を選別していると、アイリーンが声をかけてくる。

何だ?

『こっち』の世界だと、女も、普通に戦うのかな

……さあな。分からん

分からない、としか言いようがなかった。真面目に答えるにはデータが少なすぎるし、今のアイリーンには、答えたくなかった。

ただ、まあ……男だろうが女だろうが、死ぬときは死ぬんだろうな、『こっち』の世界は……

ケイが独り言のように呟くと、アイリーンは そっか と短く返した。

最終的に、多数の質の良い矢に、まずまずの量の銀貨銅貨、そして装飾品など金目の物を手に入れたケイたちは、捕えた馬にも可能な限り生活物資や武具なども載せてから、再び東へ向けて出発した。

ケイはサスケに、アイリーンは特に性格が穏やかな一頭に乗り、他二頭は荷物の運搬役に用いることになった。

道中、あまり会話もないままに、街道に併走するようにして草原を突っ切ること、一時間弱。

丘陵地帯から平地に移り、視界が開けてきたところで、巨大な川―“モルラ川”と、大きな城壁を持つ街が見えてきた。

近隣の村々の生産物が集積され、多くの商人や職人でにぎわう街。

ケイとアイリーンは、城郭都市”サティナ”に到着した。

2013/09/12 交易都市→城郭都市に変更

幕間. Laneza

―どうにも、寂れた村だった。

ダリヤ平原の遥か南、森の奥に切り開かれたささやかな土地。

そこに、ひっそりと隠れるようにして、“ラネザ”の村はあった。

人口五十人に満たないこの小さな村は、極限にまで過疎化が進んだ限界集落だ。過去の戦役で村を連れ出された若者たちは、奇しくも従軍を経て外の世界を知り、あまりにも閉塞的な生まれ故郷に嫌気がさして、その殆どが村には帰って来なかった。

村に戻ってきたのは、外での生活の口が見つからなかった者と、戦死者の遺品だけ。

残った住人のみでの村の再興には限界があり、元々大した特色もなく、しかも街道から大きく外れていたラネザの村は、あっという間に廃れていった。

時代から取り残された村。

税務官ですら、税の徴収に来るのを忘れてしまうような、辺境の地。

ここ十年で人口はさらに落ち込み、住民の半分以上が老人となってしまった今、ラネザ村の消失は、時間の問題と言えた。村人たちに、それを自力で解決する方法は残されていない。交通の便も金回りも極端に悪いこの村を、わざわざ訪ねる物好きなど、そもそも存在しなかった。

―彼(・)ら(・)を除いては。

森を貫く一本道、ずるずると身体を引きずるようにして、互いで互いの身体を支え合いながら、のろのろと歩く二人組の姿があった。

一人は、右肩にどす黒く変色した包帯を巻いた、背の高い茶髪の男。

もう一人は、顔の下半分を黒布で覆い、杖代わりの木の棒にすがりつくようにしながら、ぎこちなく歩くやつれた男だ。

二人ともが、全身黒ずくめだった。足には黒染めの革の脛当て、腕には同じく黒革の小手。右肩を負傷した男は長剣を、もう一人は血塗れの短剣を、それぞれに腰に差しているが、それ以外には何も荷物を持たなかった。その身一つで、命からがら逃げ出してきた―そんな、印象。

人目を避けるようにして、男たちは薄暗い森の中を進む。過疎化の進んだ村には、殆ど人影は見えなかった。しかしそれでも、何人かの村人は彼らの姿を見咎め、―そのまま何も見なかったことにするかのように、目を逸らす。

そんな村人たちに構うことなく、男たちは歩き続けた。村外れに向かって森を抜けると、やがて開けた空間に出る。

そこは、墓地であった。

ぽつぽつと等間隔で並ぶ、草花に覆われた盛り土。墓標代わりに打ちつけられた木の棒、その間を縫うように、よろよろと墓守の家に向かった。

墓守の家―堅牢な造りの、大きな家だ。村の小さな木造の家々とは違い、質の良い石材でしっかりと基礎が組まれている。寂れた過疎集落の墓守にしては、分不相応なまでに贅沢な住処。

二人組のうち、右肩を負傷していた方が、なけなしの力を振り絞るように、左手で玄関のドアノッカーを打ち鳴らす。

一定のリズムを持って叩かれるそれは、明らかに符丁とわかる特殊なノックだった。家の中でガタガタと椅子を引く音が響き、扉が僅かに開かれる。

隙間から外を窺うように顔を出したのは、灰色の髪に長いあごひげを蓄えた、まるで隠者のような老人だ。立っているのもやっと、と言わんばかりにボロボロな状態の二人組を見て、老人は僅かな動揺を顔に浮かべつつ、ひとまず彼らを中へと招き入れる。

パヴエル? それに―そっちはラトか? どうしたんじゃその格好は

……隊長が、死んだ。俺たち以外は、皆、やられた……

居間に入ると同時に老人が問いかけ、右肩を負傷した茶髪の男―パヴエルが、喘ぐように答えた。 何だと…… と眉をひそめる老人をよそに、短髪の男は右肩を押さえながら、壁に背を預けてずるずると床に座り込む。木の棒にすがりながらよろよろと歩くもうひとりの男―ラトは、 ぉぉぉぅ…… と苦痛の呻きを上げながら、居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。

信じられん……。モリセットめ、あやつ、くたばりおったか……

…………

パヴエル、一体何があった。モリセット(あやつ)はそうそうヘマをするような男ではなかろう? 襲う相手を間違えたか? それとも、逆に襲撃を受けたのか?

…………

老人の問いに、しかし『パヴエル』と呼ばれた短髪の男は、俯いたまま答えない。

おい、パヴエル?

若干慌てた老人が、しゃがんでパヴエルの顔を覗き込むと、どうやら話を始める前に気を失ってしまったらしい。

首筋に手を当て、パヴエルの呼吸と脈があることを確かめた老人はしかし、それがごくごく弱いものであると気付いて これは不味いぞ とやおら立ち上がった。

ロミオー! こっち来い!

ぱんぱんと手を叩きながら声を上げる。 はいッ! と奥の部屋から返事が聞こえ、茶色の癖っ毛を跳ねさせた小間使いの少年が、居間にひょっこりと顔を出した。

ロミオ、ギスラン先生を呼んでこい。急患が二人だ、そう伝えろ

わっ、わかりました

居間の負傷者二名にぎょっとした顔をしつつ、ロミオと呼ばれた少年が駆け足で家を飛び出していく。

しかし……モリセットが死んだか……

あごひげを撫でながら、虚空を睨むようにしていた老人だったが、ふと、黙ったまま椅子に座り、昏(くら)い目で床をじっと見つめるラトに目を止めた。

……ラト、お前もずいぶんやつれてるな。一瞬、誰だか判らなかったぞ。どこを怪我した? 足をやられたのか?

……

その問いかけに、ラトはゆっくりと、顔を覆っていた布を取り外した。布の下から露わになった『傷』に、老人は口元を押さえ うっ と数歩後ずさる。

でろり、と。

垂れ下る、赤黒い、ぐしゃぐしゃに崩壊した肉の塊。ところどころに散らばる白い欠片が、折り砕かれた歯と骨であることに、数秒してから気付く。

ラトの、顔から下半分が、消失していた。

口腔から喉の奥にかけてが、丸見えになっている。僅かに、傷だらけになりながらも、残っている舌が蛇のように蠢いていた。 やぁぇ、ぁぁぅ と、ラトが言葉にならない呻き声を上げるたび、だらだらと唾液が糸を引いて垂れていく。

―やつれるはずだ。

老人は思う。こんな、『口』ともいえない口では、ろくに物が食べられるわけがない。旅の糧食として重宝される堅焼きのビスケットなど、もってのほかだ。極限にまで磨り潰した粥ですら、食べるのは厳しいだろう。

……一体、お前たちは何とやり合ったんだ

思わず、といった様子で老人が呟くと、 あぃうあああぁッ!! と叫んだラトのまなじりが釣り上がった。

あぃぅああぁぅああッ! あぃぅ、おおぃぇあぅ、おおぃえああぅッッ!

顔の残った部分を真っ赤にし、だらだらと口腔から唾液を垂らしながら。

おおぃぇあぅゥッッ! ええぁいいッおおぃぇぁっぅおあいぅゥッ!!!

叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、ラトが腰からさっと短剣を引き抜いた。びくり、と身体を硬直させた老人だったが、ラトはその短剣をバンッ! と乱暴に、机の上に叩きつけただけだった。

鈍い、くすんだ銀色の刃。こびりついたどす黒い血。ハウンドウルフの血―。

おぇぁ、あぃぅぉえんぁ

……すまん、何が言いたいのか分からん

困惑の表情で、及び腰の老人は首を横に振る。

おぇぁ、あぃぅぉ……あぃぅぉ、あぃぅぉあぃぅおぉぉおおおぉッッ! おおおおぉオオオォぁぃぁぁっォォォッッッ!

バンバンバンと狂ったようにテーブルを叩きながら、ラトは首をめちゃくちゃに振り回し、駄々っ子のようにただ叫ぶ。

おおぃぇあゥッ! おおぃぇあゥッ! おおぃぇ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウぅぅぅッッッ! おおぃぇあぅ、おおぃぇぁぅッ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウウウウウウウウぅぅッ!

しばらく叫び続けていたラトだったが、やがてその言葉は勢いを失くし、ただ昏い瞳で床を見つめ、何事かを呟くのみとなった。

老人は、ただそれを、引き攣った顔で眺めていた。

その後、小間使いの少年が連れてきた村の薬師―という名目の、専属の医者に二人を任せ、老人は浮かない顔で自室に引きこもる。

机の前、安楽椅子を揺らしながら、額を押さえて はぁ…… と大きな溜息をついた。

……まったく。モリセット隊は壊滅、ラトランドは気狂い、何が起きたかを知るパヴエルは重体、か

近頃は暇だ、などと思っていたらこれだ。こんな厄介事は御免だ、ともう一度溜息をつきつつ、

まあ、とりあえずの報告はせねばなるまいて……

机の引き出しから、小さな紙切れを一枚取り出した。羽ペンを手に、老人は目を細めながら、紙面に何事かを書きつけていく。

……ふむ

そして羽ペンをインク差しに戻したとき、紙切れにはびっしりと幾何学的な模様が描かれていた。

引き出しからもう一枚、今度は羊皮紙を取り出した老人は、紙切れの内容と羊皮紙の内容を見比べるようにして、念入りに目を通していく。

よし

数度の確認を終えた老人は、ローブの胸ポケットからホイッスルを取り出し、窓の外に向けてそれを吹き鳴らした。

ピィーッという甲高い音が、外の鬱蒼とした森に響き渡る。

やがて、バサバサと羽音を立てて、大きな黒い鴉が森の中から現れた。窓枠にしっかりと止まり、まるで血のような赤い瞳でこちらを見つめる。その右脚には、革製の小さなポーチのようなものが、ベルトで括りつけてあった。

さぁ、仕事の時間だぞ

チッチッチッ、と舌を鳴らしながら、老人は机の上に置いてあったサラミを一切れ手に取り、鴉に食べさせる。鴉が首を振ってそれを飲み込もうとする間に、右脚のポーチの中に紙切れを仕舞った。

これでよし、と。……さて、

んんっ、と咳ばらいをした老人は、鴉の眼前に右手をかざし、

―Al la kastelo.

ぎらり、と赤い瞳を輝かせた鴉は、ばさりとその翼を広げた。

ガァーッ、ガァーッと耳障りな鳴き声を上げながら、空へ向かって羽ばたいていく。それを見守りながら、老人はゆっくりと安楽椅子に座り直した。

気流を捉え、天高く昇った鴉は、二度、三度。

上空を旋回し、その進路を真っ直ぐ南へと取った。

老人の視界の中、高みを羽ばたく鴉は、まるで黒い砂粒のようで。

そのまま見る見る間に、空の果てへと、飛び去っていった。

パヴエルくんです(元気な頃の)。

追記. 2018/09/06

改稿しました。パヴエルくんのヴィジュアルは改稿前の描写に基づいております。

改稿前はオッドアイではありませんでした。

17. Satyna

―では、一週間後にまた鑑札を切り替えるように。次ッ!

大きな声が響き渡り、ぞろぞろと、長い行列が僅かに前へ進む。

あぁ~……。いい加減、待ちくたびれたぜ

全くだ

その列の中ほど、騎乗で隣り合ったケイとアイリーンは、うんざりとした表情で溜息をついた。ケイたちの前後に並ぶ、馬車の手綱を握る商人や馬に跨った傭兵、家畜を連れた農民と思しき人々も、みな同様に待ちくたびれた顔だ。

サティナの街に辿り着いてから、およそ一時間。

草原の民の襲撃の後は、特に何のトラブルにも見舞われなかったケイとアイリーンであったが―サティナで二人を待ち受けていたのは、正門前での長蛇の列、まさかの交通渋滞だった。

城郭都市サティナ。

四方に堅固な石造りの壁を備え、東に雄大なモルラ川を望むこの街は、周辺の村々の租税や生産物が集積する一大交易拠点だ。

モルラ川を介した河川舟運に加え、東西南北の街道が交差するという地形の妙、さらに良質な木材の生産地であることも加わって、職人や商人たちが一堂に会するリレイル地方南部の経済の中心地といえた。

サティナの城郭には、玄関口として四方に大きな市門が設けられている。モルラ川の船着き場専用である東側を除いた、西・南・北の市門が陸からのアクセス経路だ。

サティナから西、タアフの村の方角から来たケイたちは、当然のように西門をくぐろうとしたのだが―そこで、門番から待ったが掛かった。

曰く、家畜や馬の類は、鑑札なしで門を通すことはできないとのこと。ひとまず南の正門に行き、一頭当たりにつき所定の金額を払った上で、鑑札の発行手続きをする必要があるらしい。

要は、家畜及び騎乗生物にかけられる税金だ。

城郭の外には、サティナ北西部のスラム街を除き家屋が存在しない。スラムに馬を預けられるような施設があるはずもなく、かといって外に放置も論外だったので、ケイたちは南の正門に向かわざるを得なかった。

そして目にしたのが件の長蛇の列、というわけだ。

鑑札を手に入れるために、大人しくケイたちも並んだが、かれこれ一時間以上待たされているというのに未だ門まで辿り着けていない。手続きが煩雑なせいもあるのだろうが、税金を払えない者や横入りを試みる者のせいでもトラブルが頻発しており、鑑札の発行が更に遅延している。そこに加えて、一部の特権階級と思しき者たちは、列を無視して優先的に手続きを済ませ門をくぐっていくので、苛立ちは募る一方だった。

しかし、待っていれば、その時はいつか訪れる。

―では、以上の点に気をつけるように。次ッ!

前にいた荷馬車の商人が手続きを終え、とうとう次はケイたちの番だ。

門の下では、短槍を手にした数人の衛兵が、厳しい面持ちで門の前後を固めていた。

衛兵たちの装備は白染めの革鎧で統一されており、胸当てには心臓の上あたりで交差する左寄りの十字が描かれている。その白と黒のコントラストは、どこか日本の警察のパトカーを連想させた。

……お前、草原の民か?

衛兵の一人、この場の責任者らしい年配の黒ひげを蓄えた男が、胡散臭げな視線でケイを見やる。

いや、違う。この顔を見ればわかるだろう

サスケから降りながら、ケイは自分の顔を指差してあっけらかんと答えた。ケイの顔に草原の民の刺青はなく、装備している鎧は羽飾りの類などを排除してあるので、独特の紋様を除けば普通の革鎧とそう大して変わらない。

ふン。随分と多く、草原の民の武具を持っているようだが。これはどうした?

ここに来る途中で襲われてな。返り討ちにして剥ぎ取った

……全部か?

ああ。八人だった

二頭の馬に満載された武具を、じろじろと観察していた黒ひげの衛兵だったが、それらにこびり付いたどす黒い血に目を細め、鼻を鳴らした。

……まあ、いい。お前たち、どこから来た?

タアフの村から

目的は?

手紙の配達を頼まれた。後は買い出しやら何やら……色々だ

腰のポーチから、ベネットに託された封筒を取り出して見せる。

貸してみろ

ケイから封筒を受け取った黒ひげが、封蝋―ケイは知る由もないが、村や街ごとに模様が決まっている―を指で軽く撫で、裏側のベネットのサインを確認した。

ふン、まあ、本物のようだな。最後に軽く所持品を検査するぞ、いいな?

それは確認というよりも、命令だった。数人の若い衛兵が手際良く馬の荷物をチェックする傍ら、ぽんぽんと軽くボディーチェックのようなものも為される。

何のチェックだ、これは?

麻薬だよ。最近サティナ(ウチ)で流行ってんだ、取り締まりを強化しろとのお達しでね

ケイのチェックを終えた黒ひげが、小さく肩をすくめた。

さあ、じっとしてろ!

えぇっ、オレもかよ?!

ケイの隣、若い衛兵がアイリーンににじり寄る。ぎょっとしたアイリーンは、思わずといった様子で壁際に逃げた。

おいッ、逃げるな! 貴様、さては何か隠し持ってるな!?

こんな薄着で何をどこに隠せってんだよ!?

薄手のチュニックをひらひらとさせながら、赤い顔でアイリーン。しかしそれをよそに、手をわきわきとさせた若い衛兵が、じりじりと距離を詰める。目をぱちくりとさせたケイが困り顔で黒ひげの衛兵を見やると、 ふぅン と溜息をついた彼は、

おいニック! そんな鼻の下伸ばして、下心丸出しの顔してたら嫌がられるに決まってンだろうが! 俺のお袋でも嫌がるぞ、今のお前はな!

こつん、と若い衛兵の頭を小突き、その言いように周囲の衛兵たちがどっと笑い声を上げた。

悪いが嬢ちゃん、これも規則でな

ケイに対するそれよりも幾分か柔らかい態度で、黒ひげの衛兵が手際よくアイリーンの全身をチェックしていく。それに対しアイリーンは、ただ人形のように固まっていた。

よぅし、特に変な物は持ってないな

紳士的かつ事務的に、さっさとチェックを終わらせた黒ひげは、ぱんぱんと手を払いながら小さく笑みを浮かべる。

さてと、それじゃあ金勘定といきま―

―隊長! こいつら変なもん持ってます!

馬の荷物を検めていた衛兵が叫んだ。笑みを消し、 はぁ? と声を上げる黒ひげ。アイリーンの乗騎、荷袋から引きずり出されたのは、青い液体の詰まったガラス瓶―高等魔法薬(ハイポーション)だ。ケイとアイリーンが同時に、 あ という顔をする。

お前ら、……何だコレ。本当に『変なモノ』だな

部下の衛兵からガラス瓶を受け取り、軽く振って内容物を確認した黒ひげが、興味深げにとろみのある青い液体を日の光にかざす。明らかに自然界には存在しないタイプの青色、『変なモノ』といえば確かにその通りだが―少々顔を引きつらせたケイは、

それは万能の治療薬だ。それなりに貴重なものだし、丁重に扱って欲しい。あと直射日光は極力避けてくれ、劣化する

……治療薬、ねえ。薬か……

ふン……、と再び胡散臭げな表情に戻り、黒ひげがじろりとケイを見やった。

(素直にポーションだと言ってもいいが……)

ケイは考える。『こちら』の世界では DEMONDAL のゲーム内よりも、ポーションの希少性が更に上がっているらしかった。これは正真正銘ハイポーションであり、ケイにやましいことは何一つとして無いのだが、ここで素直に教えてしまうと、のちのち厄介なことに巻き込まれる気がしてならない。

(……ええい、これは治療薬だ! 俺は嘘は言っていないぞ!)

開き直ったケイは、しっかりと背筋を伸ばし、 そうだ、ただの治療薬だ と断言した。

ふン、そうか……

しばし、ケイとポーションを訝しげに見比べていた黒ひげだったが、何を思ったのか、片手の書類を傍らの簡易机の上に置き、おもむろに瓶のコルク栓を引き抜いた。 あっ と声を上げ、思わず身を乗り出すケイとアイリーン。それをよそに、すんすんと鼻をひくつかせて、その匂いを確かめる。

…………

しばしの逡巡。

おいやめろ、と無意識に呟くケイ、そしてそれを無視するように、黒ひげは瓶を傾けて、クイッと一口。

(おいいぃぃオッサンンンンッッ!!!)

(生命線があああぁぁぁァァッッ!!!)

のおおおおおと声にならない抗議の声、

ブフゥォ何だコレ不味ゥ!?

そして盛大にそれを噴き出した黒ひげが、あまりの不味さに身体を仰け反らせる。その勢いでこぼれそうになり表面張力の限界に挑むポーション、それを見て うわぁ! と悲鳴を上げるケイとアイリーン。

隊長!?

大丈夫ですか!?

それ毒か何かなんじゃ……

いっいや大丈夫だがッ味ッ、味ィッ! オェェッ!

えずいた黒ひげが身体をくの字に曲げ、その手の中の瓶が再び危うい角度に傾く。 あああッ! とさらに悲鳴を上げるアイリーン、 まず蓋閉めろ! と怒鳴りながら貴重な魔法薬を無駄遣いされたことに殺意を覚えるケイ。

……っあー、『良薬は口に苦し』とは言うが、ンふッ、これはまたとんでもない不味さだな

しばらくして口の中が落ち着いたのか、げっそりとした表情の黒ひげは、コルクで瓶に蓋をしつつ頭を振った。未だ怒り冷めやらぬケイは、乱暴にその手から瓶を奪い取り、後生大事に荷物袋に仕舞い込む。一口分無くなってしまったが、ひとまずは無事に返ってきたポーションに、ほっと胸を撫でおろすアイリーン。

……少なくとも、これは麻薬ではないな。何かしらの薬、ってのは本当だろうが……全く、病人だか何だか知らんが、それを飲まされるヤツは相当に不幸だな……まぁいい。

よし、とっとと鑑札の発行済ませるぞ

……いいんすか?

いいんだよ。少し口に含んだだけだが、異様に不味かっただけで、あとは特に異常もなかったしな

若い衛兵の問いかけに、肩をすくめた黒ひげは それに、 と言葉を続ける。

仮に得体の知れない新種の麻薬だったとしても、規則に定められた麻薬(ヤク)の一覧にコレは入っていない。一覧に入っていない以上、俺達にはこれを取り締まる義務はなく、逆に権利もないって寸法だ……。

さて、待たせたな。手続きを終わらせるぞ……ちゃんと金は持ってるんだろうな?

互いに、何処かうんざりしたような雰囲気で、鑑札の発行手続きは始まった。

サスケと他の馬三頭分の税金に鑑札の発行代金、合わせて銅貨45枚を支払い、帳簿にサインをし、さらにしばし待たされてから、ケイたちはようやく一週間有効な鑑札を手に入れる。

ケイたちが手綱を引いて門を潜り抜けたとき、サティナの街に到着してから、すでに二時間半が経過しようとしていた。

†††

夕暮れ。

サティナ市内北東部、商人街の一角で宿を取ったケイたちは、宿屋一階の酒場で席についていた。

結局、宿屋を探している間に、日が暮れてしまった。

宿を取る、と一言で言えば簡単だが、実際に探してみると、これがなかなか難しい。ネックになったのは、やはりケイたちが連れている四頭の馬だ。商人と職人の街だけあって、サティナには至るところに宿屋があったが、清潔さ、治安の良さ、そして余裕のある厩舎、その全てが揃った宿となると、流石に限られていた。

さっさと宿を取り、その後は手紙の配達、次にアイリーンのために防具屋を物色―などと考えていたケイであったが、実際のところそんな余裕はなかった。街中で野宿するわけにもいかず、必死で探し回った結果、少し割高な宿を取る羽目になってしまったが、まあ致し方があるまいとケイは考える。

何はともあれ、無事に宿が取れたことを祝して……

カンパーイっ

向かい合わせのテーブル。いぇーい、と笑顔を浮かべたケイとアイリーンは、なみなみとエールの注がれた木のジョッキをこつんっと打ち鳴らした。

ぐび、ぐびっ、と。

エールを喉に流し込み、ジョッキを置いた二人は、 う~ん と何とも微妙な表情を浮かべる。

冷えてないな……

冷えてねェな……

ぬるい。ぬるいのだ。酒場の空気よりはひんやりとしているが、決して冷たくはない。爽快感皆無の喉越し。

……ま、当たり前か

何を期待してたんだろうな、オレたちは……

小さく肩をすくめるケイ、真顔で遠い目をするアイリーン。この世界には、冷蔵庫など存在しない。せいぜいが、ひんやり涼しめな地下室があるくらいのものだ。

あるいは、熱系統に強い高位の魔術師がいれば話は別かもしれないが―今のケイたちには、望むべくもない。

……ケイの『シーヴ』で何とかならない?

たかがエール冷やすのに幾ら使うつもりだ

若干の期待を込めてこちらを見るアイリーンに、ケイは呆れ顔で首のチェーンをちゃらちゃらと鳴らして見せる。魔術を行使するための触媒、大粒のエメラルドは、今持っている一つで最後だ。そもそも複数あったところで、こんなことに使うのは論外だが。

しかしシーヴで冷やすのはちょっと厳しいぞ、『分子の動きを止めて空気を冷却しろ』なんざ、精霊語(エスペラント)でどう言えばいいのか見当もつかん

う~ん。難しいな……

あと仮に言えたところで、精霊が理解するかどうかは別問題だしな……

たしかに……残念、無理か

そんなことを話していると、ケイたちのテーブルにトレイを抱えた給仕の娘がやってきた。

はい、お待ちどぉ。ソーセージの盛り合わせに三種のチーズ、スープ二人前、あとパンね~

おお~

腹減った!

手際良く、娘が木の器をテーブルの上に並べていく。肉汁を垂らし、香ばしい匂いを漂わせるソーセージに釘付けになるアイリーン、娘がかがんだ際に見える胸の谷間に視線が吸い寄せられるケイ。

ごゆっくりぃ~

ぱちり、とケイにウィンクした娘は、手をひらひらとさせながら厨房の奥へと戻っていった。 さあ、早く食べようぜケイ! と急かすアイリーンに、ふりふりと揺れる娘の尻を眺めていたケイは ああ…… と生返事を返す。

イタダキマス!

ぺし、と合掌したアイリーンが おっ、これウマい! と食べ始めたので、はっと我に返ったケイも、慌ててフォークに手を伸ばした。

それから存分に飲み食いし、満腹になったケイたちは二階の部屋へと引き返す。

部屋は、広めの四人部屋を二人で使う、という贅沢をしていた。ケイたちの泊まる”BlueFish”亭は裕福な庶民向けの宿屋なので、大商人や貴族向けの高級宿とは違い、個室などは存在しない。部屋は二人部屋、四人部屋、大部屋(雑魚寝)の三種類のみだ。

そしてケイたちの場合、二人連れではあるものの、草原の民から奪った武具などの大荷物を抱えていたため、二人部屋だと狭すぎて荷物の置き場所がなく、苦肉の策として運良く空いていた四人部屋を取っていた。

あ~今日は疲れたな~

部屋の中、入って左手のベッドにアイリーンがダイブする。そして、スプリングの利いたマットレスではなかったがために、ドスッと音を立ててモロに衝撃を食らい うっ と痛そうな声を上げた。

ケイはそんなアイリーンに苦笑しながら、手にしていたランプを天井の鎖にぶら下げる。揺れる炎の薄明かりが、仄かに部屋を照らし出した。床や余ったベッドの上に、所狭しと置かれた荷物。雨戸の閉じられた窓、わずかな隙間から、殆ど暗くなった夕焼けの空が見える。外から聴こえてくる、酔っ払いの喧騒に、吟遊詩人の歌声。

腰に付けていた長剣の鞘と”竜鱗通し”を入れていた布製のケースを枕元に置き、ケイも右側のベッドに腰掛けた。

ほっ、と。

強張っていた身体から、硬い芯が抜けていくような。そんな安心感があった。

……ホント、疲れたな

ぽつりと呟いた言葉には、万感の思いがこもっている。今朝、それこそ十数時間前に出発したというのに、タアフの村を出たのがもう随分と前の出来事のように感じられた。

ぅん……

小さく、呻き声を返したアイリーンは、すりすりと枕に顔を擦り寄せて、見るからに眠たそうだ。

もう寝るのか?

ん……ねむい。……シャワー、したいけど、ないし……水浴びも、ちょっと……ここじゃやだ……

あー、そうだなぁ

“BlueFish”亭は石造りの三階建て、上から見ると口の字をしている。真ん中の部分の空き地に井戸とトイレがあり、水浴びならばそこですることになるわけだが、それが四方の客室の窓から丸見えになっているのだ。この世界の住人ならばともかく、まだ『こちら』の環境に慣れていないアイリーンには、少々酷だろう。少なくともケイの知る限り、アイリーンに露出癖はない。

まぁいいや……、とりあえず今は、ねる……

むにゃ、とシーツを手繰り寄せたアイリーンは、眠気に抗うのをやめて本格的な睡眠態勢に入った。エールのあとは専ら、葡萄酒の杯をかぱかぱと空けていたアイリーンだったが、流石のロシア人といえどもほろ酔い気分になってしまったらしい。疲れていたのもあるだろうが、すぐにすやすやと寝息を立て始める。

おーい、アイリーン……。寝ちまったのか?

ケイが声をかけても、全く反応はない。

…………

沈黙。

喧騒から離れた静けさとともに、ゆったりと時間が流れ出す。

ランプの火のか細い灯り。薄暗い部屋の中。

しかしケイの瞳には、アイリーンの姿が鮮やかに浮かび上がる。

寝台に横たわる細い体。シーツに浮かび上がる、しなやかで女性的な腰のライン。その身が羽のように軽く、そして柔らかいことを、抱きとめたことのあるケイは感覚として知っている。ふわりと、花のように蠱惑的な香りが鼻腔をくすぐった。アルコールのせいだろうか、アイリーンの寝顔も、微かに赤らんで見えた。ポニーテールのままほどき忘れた金髪、白く覗くうなじ、白磁のようになめらかな肌。頬にかかる前髪が、唇から洩れる呼気に揺れている。唇。桜色の、艶めかしく、まるで花弁のように可憐な―

……んぅ

むにゃむにゃ、とアイリーンが寝返りを打った。

その頬にかかる金髪を、指で払ってあげようとしていたケイは、はっと我に返ってアイリーンから距離を取る。

そして、まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のように、自分が彼女に吸い寄せられていたことに気付いた。

……いかん

ぺし、と額を叩いたケイは、困ったような顔でアイリーンを見下ろす。

『……。無防備すぎんだよ』

ぼそりと、日本語で。溜息をつき、こめかみを押さえたケイは、 アンドレイアンドレイアンドレイアンドレイ…… と呪文のように唱えた。

……よし。寝よう

フッとランプの火を吹き消し、勢いもそのままにベッドに横たわる。もぞもぞと、アイリーンに背を向けて、暗闇の中そっと目を閉じた。

やはり、何だかんだ言って、ケイも疲れていたのだろう。

……ぐぅ

何かに思い悩む暇も、思い悩まされる暇もなく、吸い込まれるようにして深い眠りへと落ちていった。

†††

翌日。

慣れない旅の疲れから、結局昼前まで揃って惰眠を貪っていたケイたちであったが、一日寝て過ごす訳にもいかなかったので、何とか気持ちを奮い立たせ行動を開始した。

一階の酒場で遅めの朝食(ブランチ)を取り、街へ繰り出す。アイリーンの防具や盾を見繕ったり、ミカヅキの遺品の皮を加工する職人を探したりと、やらなければならないことは沢山あるが、まずはベネットに頼まれた手紙の配達を終わらせてしまうことにした。

壁の内側、碁盤目状に区画整理されているサティナの街は、十字に走る大通りを境に、大きく四つの地区に分けられる。

まず、南の正門から入って右手側、真ん中から南東の区画が、貴族や大商人の邸宅が並ぶ高級市街だ。壁際の角の部分には堅固な造りの領主の館があり、また壁の外側にはモルラ川の水を引いて造られた人工湖と、その真ん中にそびえる防御用の塔がある。仮に外敵がサティナを攻撃した場合、この小さな湖と防御塔を攻略しない限りは、領主の館がある南東側を容易く攻めることができないというわけだ。

逆に、正門から入って左手側、南西のエリアは、商店が立ち並ぶ商人街となっている。ありとあらゆる種類の店が開かれており、日々あらゆる商品が捌かれるそこは、サティナの街の中で最も活気に満ち溢れた区画といえよう。

その対角線上、街の北東部、東の船着き場の門から最も近いエリアは、物作りの中心地たる職人街だ。職人たちが腕を振るう工房の他、酒類の醸造所や食料・物資の倉庫街も兼ねており、静かながらも賑々しい雰囲気を漂わせている。

そして最後が、北西部の旧市街だ。ここには職人見習いや別の区画で働く小間使いたち、あるいは公益奴隷たちの住処があり、サティナの中で最も混沌とした空気のエリアとなっている。北西部の壁の外側、地面に埋め込まれるようにして走る下水道の周囲にはスラム街が形成されているため、それに引きずられた旧市街の治安は、他の区画に比べるとあまり良いとはいえない。

ベネット曰く、手紙の届け先である娘のキスカは、木工職人の元に嫁いだらしいので、ケイとアイリーンはひとまずサティナの職人街へ向かった。

この街、衛兵(ガード)がホント多いよなぁ

人通りの少ない静かな道。そこですれ違った警邏の三人組を見て、アイリーンが感心した声を出す。

街の中では、頻繁に白い革鎧の三人組を見かけた。治安維持のために、警邏隊を組んでいる衛兵たちだ。門番同様、白染めの革鎧を装備する彼らは、腰に警棒とレイピアを差し、周囲に油断なく鋭い視線を向けている。

装備が統一されているのは、潤沢な資金の証。

そのきびきびとした所作は、訓練が行き届いていることを表す。

城郭都市サティナ、その組織力の一端だ。

すまない、そこの方、我々は『キスカ』という女性を探しているんだが……

あ、お爺さん、ここら辺で『キスカ』って名前の女の人、知らない?

そんな調子で、住人たちに聞き込みを続けたケイとアイリーンは、結果としてキスカが『モンタン』という名の職人と結婚していること、その『モンタン』の家が職人街の西側にあることを突き止めた。

一路、職人街の西へと向かう。

えーと、大通りから一本右手側、だったか?

パラディー通りだろ。あ、見っけた、アレだ

パラディー通りの十二番、十二番っと……

壁に記された数字のタイルを辿っていくと、とうとう目的地に到着した。

茶色のレンガで組まれた、二階建ての家。

軒先に吊るされた看板は、テーブル型にくり抜かれた板に、三本の矢の模様―

間違いない。聞いていた『モンタン』の工房の特徴に一致する。

さて、と。着いたみたいだが……

手の中の手紙をひらひらとさせながら、しかし工房を前に、ケイは困惑顔だ。

なんか……あれだな? ケンカしてる?

小首を傾げたアイリーンが、端的に状況をまとめた。

モンタンの、工房前。

ケイとアイリーンが出くわしたのは、何やら顔を真っ赤にして言い争う、二人の男の姿であった。

城郭都市サティナ編、スタートです。

18. 職人

―ですから、まず前の分を返してから言ってください!

工房の前。茶色のバンダナを締めた細身の男が、声を荒げた。

それができないから、こうして頭を下げてるんだろう!?

それに対し、黒い癖毛のゴツい体格の男が顔を真っ赤にして応じる。

前もそう言ってたじゃないですか! これでもう何回目ですか!

じゃあどうしろってんだ、俺に飢え死にしろってのか!?

飢え死にする前に、まだ出来ることはあるでしょう!? 身の回りの物を売るなり、家を売るなり! ちょっとは努力して下さいよ!

してるさっ! 俺なりに努力してる! だが家だけは勘弁してくれ、あれを売るのは最終手段だ! 頼むよッ、本当に困ってんだ!

その台詞も何回目ですか! もう帰ってください!

お前ッ、兄弟子に向かってその言い方はないだろうッ!

うんざりとした様子のバンダナ男に、口角泡を飛ばす勢いで詰め寄るゴツい男。

(……金の話か?)

(みたいだな)

それを遠巻きに見守りながら、ケイとアイリーンはひそひそと言葉を交わす。

先ほどから言い争う二人を眺めているが、どうやら 金を貸してほしい 貸すつもりはない という押し問答を繰り返しているようだ。バンダナ男のうんざりした様子を見るに、おそらくこれは、一度や二度のことではないのだろう。しかも借りた分はまだ返済していないと見える。 次にまとめて返すから! とゴツい男は言い張っているが、傍目から見ても信用度はゼロだった。

―ああ、わかったよ、お前の気持ちはわかった!

と、その時、大声を上げたゴツい男が、腕を組んでどっかとその場に座り込んだ。

お前が力を貸してくれないなら俺は終わりだ! 路地裏で野たれ死ぬくらいなら、このまま、ここで死んでやるッ!

道の真ん中で胡坐をかき、そのまま石のように動かない。うわぁ、と呆れ顔のアイリーン、 とんだ開き直りだな…… とケイも閉口する。

……ああ、もう

なんと鬱陶しい、と言わんばかりの顔をしたバンダナ男が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえて溜息をついた。

そしてその拍子に、道の外れに佇むケイとアイリーンの姿に目を止める。

……ん、なんだ。お客さんか?

続いて、座り込んでいたゴツい男もケイたちに気付き―ニィッ、と厭らしい笑みを浮かべた。

あ~……お取り込み中のところ、大変申し訳ない。モンタン氏の工房は、ここで合っているだろうか?

遠慮がちにケイが問いかけると、

ああそうさ! ここが腕利きの職人、モンタン様の工房よォ! 千客万来で羨ましい限りだなァ、ああ?

ゴツい男がへらへらと笑いつつ、横目でバンダナ男を見やる。

……私が、モンタンですが。何か御用ですか?

忸怩たる表情で、バンダナ男―モンタンがケイたちに向き直る。ケイは一瞬、答えに詰まった。とてもではないが、呑気に 郵便でーす などと言い出せない険悪な空気。何より、先ほどからニヤニヤと厭らしい笑みを向けてくる、ゴツい男の存在が気になって仕方がない。ちらりとそちらに目をやるケイ。

それは一瞬、ほんの一瞬の沈黙であったが、ケイの視線から、その困惑を敏感に感じ取ったモンタンは、

ああっ、もう……! すみません、少々お待ちを

くるりと背を向け、乱暴に工房の扉を開けて中へと消えていく。がさがさ、と棚を探るような音、

ほらっ、これでいいでしょう!

苛立ちも露わに、再び姿を現したモンタンが、座り込むゴツい男の眼前に小さな巾着袋を投げつけた。袋の口が開き、ちゃりんちゃりんと音を立てて、数枚の銀貨が石畳にこぼれ落ちる。

それで最後です! もう貴方に義理立てするつもりはありません、二度とです!

侮蔑の色を隠しもしないモンタンに、しかしこぼれた銀貨を拾い集めながら、ゴツい男は卑屈な笑みを浮かべ、

へへっ……。ありがとう、ありがとうよ。これできっと、どうにかなる。流石は俺の頼りになる弟弟子だ……。必ず、借りは返すぜ

その言葉に、 どうだか と言わんばかりに鼻を鳴らしたモンタンは、厳しい表情のまま口を真一文字に結び、何も答えない。

ゴツい男は大事そうに巾着袋を懐に仕舞い、ヘコヘコとしながら旧市街の方へと去っていった。

……はぁ

憂鬱な溜息をつき、バンダナを外したモンタンは、ばさりとくすんだ金色の髪をかき上げて、改めてケイに向き直った。

すみません。お見苦しいところを

ああ、いや……

それで、どんなご用件で?

爽やかな営業スマイルを浮かべるモンタンに、ケイは思わず顔を引きつらせる。これはこれで、呑気に 郵便でーす と言い辛い空気。

こちらこそ申し訳ない、それほど大した要件ではなかったんだ……。俺の名前はケイという。実は先日、タアフ村に立ち寄った際に、ベネット村長からあなたの奥さん宛てに、手紙を預かっていたのだが……

恐る恐る、手の中の封筒を見せる。ケイからそれを受け取ったモンタンは、裏側のサインを見て おっ! と声を上げた。

久しぶりだなぁ、お義父さんからか! わざわざ届けて下さったんですか? ありがとうございます

予想に反して、思わぬ喜びようだ。頭をぼりぼりとかいたケイは、気まずげに視線を逸らし、

いや、すまなかった。ただの手紙の配達だったのに……

え?

先ほどの……。結果として、俺が急かした形になってしまったから、金を貸す羽目になったしまったのかと……

ゴツい男が去って行った旧市街の方を見やりながら、ケイがそう言うと、モンタンは ああ と得心したように頷いた。

いえ、お気になさらず。こちらが貸さないと見ると、本当にあそこから動きませんからね、あの人は……。商売の邪魔になりますし、遅かれ早かれ、貸すことにはなったと思います

諦めたような顔で、小さく笑うモンタン。

ところで、お二人はタアフの村からいらっしゃったんですよね? お義父さんはご壮健でしたか?

ああ、ベネット村長ならば、お元気そうだった

そうですか、何よりです。……よろしければ、妻に村の様子を話してやって頂けませんか? もうしばらく里帰りもしていないので、村の話を聞ければ妻も喜ぶでしょう

モンタンの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。

オレは構わないぜ?

ならいいか

手紙を届けた後は、職人街の防具屋や革製品屋を見て回る予定だったが―モンタンが職人ならば、ミカヅキの皮を加工するのに、腕のいい革職人を紹介してもらえるかもしれない。

ここで仲良くなっておくに越したことはないな、と踏んだケイは、モンタンの申し出を受けることにした。 立ち話もなんですから、中へどうぞ と招き入れられ、ケイとアイリーンは言われるがままに工房へと上がり込む。

すっきりと、洗練された空間。

職人の工房と聞いて、勝手に雑然とした作業スペースをイメージしていたが、モンタンのそれはケイの想像と全く異なっていた。

上品にコーディネートされた精巧な木工細工や、レースで飾り付けられたお洒落な家具。板張りの床には木屑なども落ちておらず、奥の作業場も整理整頓が行き届いている。工房、というよりはむしろ商店といった印象。ケイは幼い頃に訪れた、家具屋のショールームを連想した。

おーい、キスカー! お義父さんから手紙だぞーっ!

モンタンが奥の部屋に呼び掛けると、 はーい と声が返ってくる。パタパタと足音を立てて、白い前掛けで手を拭きながら出てきたのは、ややふっくらとした体格の若い女だった。

父さんから手紙!? 久しぶりね! ……あら、お客さん?

この方たちが、手紙を届けてくださったんだ

それはまぁ! わざわざありがとうございます。キスカです

ケイたちにぺこりと一礼するキスカ。肩のあたりで切りそろえられた栗色の髪が、さらさらと揺れる。栗毛―ダニーやクローネンとも同じ色。ベネットは白髪だったので分からなかったが、これが彼女らの家系の髪色なのかもしれない。

いや、気にすることはない。俺達もついでに立ち寄っただけだからな……

そう言うケイをよそに、モンタンから手紙を受け取ったキスカが、 ボリスは? と小声で尋ねる。渋い顔で 帰らせたよ と答えるモンタン。ふぅん、と曖昧に頷きながら、キスカは手紙の封を切って熱心に読み始めた。

(……ボリス?)

(さっきの男のことじゃね?)

こちらも小声で、ケイとアイリーン。

…………

手紙を読みふけるキスカ、それを見守るモンタン。大きく開かれた窓から、そよ風が吹き込む。二人に釣られるようにして、ケイたちも無言だ。アイリーンは興味津々に、天井からぶら下げられた木製の風鈴―風が吹き込むたびに、ころんころんと木琴のような優しい音を立てる―を触ってみている。なんとなく、その姿は、猫じゃらしに手を伸ばす猫を連想させた。

暇なので、ケイも工房の中を見て回る。ニスが塗られ、ぴかぴかに磨き上げられた木のテーブル。滑らかな縁を撫でつけると、蔦の装飾の彫り込みが、するすると指に心地よい。レースのテーブルクロス、その上に整然と並べられた木工細工。木の枝にとまる鳥を模した置物、風に吹かれて向きを変える風車の飾り。いずれも繊細で、精巧な造りだ。モンタンの腕前が見て取れる。

壁の方へと、目を転じた。これもモンタンの作品なのだろうか、絵の入っていない額縁がいくつも飾られていた。素朴でありながら、しかし安っぽくはなく、中の絵を引き立てるであろう控え目なデザイン。

(……基本、金持ち相手の商売か)

凝った装飾の家具といい、実用性のない置物といい、いずれも一般人は手を出さないような物ばかりだ。おそらく富裕層に金払いの良い客がいるのだろう―とそんなことを考えていたケイは、ふと工房の隅の壁面に飾られた、『それ』に目を止める。

―矢だ。

金箔で豪奢な装飾を施されたもの、矢じりが特殊な形状をしているもの、質素だが堅実な拵えとなっているもの。

様々な種類の矢が、壁に掛けられていた。

……何か、お気に召す物がありましたか?

と、すぐ傍から声。はっとして見やれば、ニコニコと笑顔を浮かべたモンタンが横から覗き込んでいる。

ああ……矢も作られているんだ、と思ってな。つい見ていた

思ったより、矢を眺めるのに熱中していたらしい。モンタンの接近には全く気が付かなかった。小さく笑みを浮かべ、照れたように頭をかきながらケイが答えると、苦笑したモンタンは、

矢『も』作っている、というより……それが本業ですね

ほう、それは。本職だったのか

矢だけ作っていても、やっぱり食っていけませんからね。……最近では、どっちが本業か分からない始末ですが

これは、触っても?

もちろん、どうぞ

許可を得て、壁の隅に掛けられていた、シンプルな拵えの一本に手を伸ばす。

ほう……

手に取った瞬間、すぐにそれと分かる高品質。

しっかりとした密度の木材は、頑丈さの証。十分なしなりは、折れにくさを保証する。細く鋭く、返しの付いた矢じりは、一度獲物に突き刺さればなかなか抜けにくい。滑らかに磨き上げられた表面は摩擦を軽減し、放たれる際には威力を殺さず、また矢本体が獲物の肉に深く突き刺さり易くする。先端と末端の理想的な重心のバランス、これは矢が飛ぶときのブレを最小限に抑えるものだ。白い矢羽から覗き込むように見上げると、曲がらず、一寸のブレなく、真っ直ぐに矢が伸びているのが見て取れた。

これは……良い矢だ

思わず洩れる感嘆の声。

弘法筆を選ばず―とは言うが、弓使いは少なくとも矢を選ぶ。

弓の個性、引きの強弱や若干の歪みには慣れで対応できても、命中精度に直結する矢は、そうも言っていられないからだ。真っ直ぐに飛ぶか、あるいは、風に流されるにしても、『自分が思い描いた通りに風に乗る』ことが矢には要求される。

その点、ケイが手に取った矢は、理想的なものだった。使われている材料、加工の技術、どちらも共に申し分がない。

お気に召したようで、何よりです。ケイさんは、弓が専門なのですね?

ははっ、やっぱり分かるかな

街中ということもあって、ケイは鎧を着けずに軽装のままでいるが、腰には長剣と、布ケースに入れた”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を下げている。街での重要度が低い弓をわざわざ携帯している時点で、それがケイにとって大事であることを喧伝しているようなものだ。考えずとも、ひと目で弓使いだと予想できる。

弓を持たれていたので、そうではないかと思っていましたが。最初にその矢を手に取られたので、確信しましたね。本業の方は必ず、まず最初にその一本をチェックされるんです

そう言われてみれば、確かにケイが手にした一本は、陳列された矢の中で最も実用的なものだった。他の矢は、勿論品質は充分なのだろうが、どちらかというと装飾を重視しているきらいがあり、使い勝手の面でケイの好みではない。成る程、本業の弓使いであれば、自然とこの一本に惹かれようというものだ。

こう言うと語弊があるが、やはり多くの弓使いがこの矢を買っていくのだろうか?

そうですね、近隣の村の狩人や、知り合いの傭兵たちは……。タアフ村の猟師の方も、以前来られた際に、十数本お買い上げになられましたよ

タアフ村……マンデルか?

ご存知でしたか。そうです、マンデルさんです

そうか、マンデルも……

ほぉ、と感心したような声。ケイの中でモンタンの評価が更に上がる。

……

じっくりと手の中の矢を観察するケイに、黙ってそれを見守るモンタン。正直なところ、ここまでくればモンタンのペースだったが、それに乗せられるのも悪くない、と思うケイであった。

……ちなみに、お値段は?

にやりと笑みを浮かべたケイの問いかけに、モンタンも笑顔で返す。

十本セットで、銅貨六十枚です

ほう

一本で銅貨六枚。相場は高くても銅貨二枚、安ければ小銅貨五枚ほどでも取引されることを考えれば、かなり吹っ掛けた値段だ。勿論、稀に見るレベルの高品質であることも加味すれば、ある程度高値でも納得は出来るが。

ただし、三十本お買い上げ頂いた場合は、革製の矢筒もお付けいたします。……ケイさんは、馬には乗られますか?

ああ。騎射は得意だ

そうですか、それはちょうど良かった

そう言いながら、モンタンは近くの戸棚から、ずるりと大型の矢筒を取り出した。

これです。私の作成した普通サイズの矢であれば、四十五本まで入ります。必要ならば、馬の鞍へ取り付けることもできますよ。私の知人が作成したもので、頑丈さは折り紙つきです

ほうほう

それもまた、手に取って確認する。縫い目がしっかりとしており、モンタンの言葉通り頑丈そうだ。ミカヅキの皮の加工はこの職人に頼むか、と考えたケイは、

―よし、買おう。三十本で頼む

おお、ありがとうございます

全く迷いのないケイに、少し驚きつつモンタンは頭を下げる。

ところで、この矢筒を作った職人を紹介してもらうことは可能だろうか

ええ、知人ですので。……何かご入り用で?

うむ、実は馬の尻の皮があるんだが、思い入れのある品なので、腕のいい職人に加工してもらいたいんだ

なるほど。そういうことでしたら、是非はありません。後ほどご紹介いたしましょう

ありがとう

商談が成立したところで、矢の在庫を取りにモンタンが奥の部屋へ行こうとするが、そこでケイが呼びとめる。

すまない。もうひとつ、聞きたいことがあるんだが

何でしょう?

先ほど、『普通サイズの矢』と言っていたが、これよりも長い、大きめのサイズの矢はあるのだろうか

長い矢、ですか

ああ。というのも、これを見てほしい

布ケースから、弦を取り外した状態の”竜鱗通し”を取り出す。弦を外したとき、複合弓は逆向きに反り返ってCの字になるので、実際よりも少しコンパクトに見える。しかしケイが弦を張り直すと、“竜鱗通し”の全貌を見たモンタンが眉をひそめた。

……大きめの弓ですね。矢の長さが足りないのでしょうか

流石は職人だけあって、ひと目でケイの言わんとすることに気付く。

足りない、というわけではないんだ。この弓は張りが特に強いから、普通に使う分には普通の矢でも問題ない。だが仮に、この弓のポテンシャルを最大限に発揮しようとすれば―

―弦をもっと引く必要がある、と

言葉を引き継いで、ふむふむと頷くモンタン。

その弓、触らせて頂いても?

ああ

ケイが”竜鱗通し”を手渡すと、受け取った瞬間にモンタンの手がカクンッと跳ね上がった。 うおっ と驚きの声、マンデルの時と同様に、その見た目を裏切る軽さに意表を突かれたのだろう。

随分と軽い弓ですね……って、なんだコレ堅っ!?

弦を引いてみようと、手を掛けたモンタンの顔が驚愕に歪んだ。

言っただろう、その弓は張りが強い

ドヤ顔のケイをよそに、どうにか弦を引っ張ってみせようとするモンタンは、顔を真っ赤にして ぐ、ぬ、ぬ…… と唸り声を上げる。

しばらく生温かくそれを見守っていたケイだったが、意外と負けず嫌いなのか、いつまで経っても止めようとしないモンタンに、流石に心配になってストップをかけた。

……無理はしない方が良い、特に素手では。下手すると指がダメになる

くそっ、なんて弓だ……!

結局、肘を少し過ぎたあたりまでしか引けなかったモンタンは、 イテテ…… と右手を振りながら悔しそうにしている。

……これはまた、凄い弓ですね。私も仕事柄、弓の扱いはある程度心得ているのですが……ここまで歯が立たない弓は初めてです。失礼を承知でお尋ねしますが、ケイさんはこれを、実戦で使われているんですよね?

何処か疑わしげなモンタンに、不敵な笑みを見せたケイは、ぐっと”竜鱗通し”を耳のあたりまで引いて見せた。

すっ、凄いっ、そんなにも軽々と……!

目を見開き、唖然とするモンタン。その清々しいまでの驚きように、ケイのドヤ顔は留まるところを知らない。

いやはや……しかし、事情はよく分かりました! 大きめのサイズの矢ですが、幾つか心当たりがあるので少々お待ち下さい

心なしか鼻息を荒くしたモンタンは、ケイの返事も待たずに奥の部屋へとすっ飛んで行く。バタバタ、ガタガタと棚や引き出しを漁る音、しばらくして大量の矢束と共に、きらきらと顔を輝かせたモンタンが帰ってきた。

お待たせしました! 実は私、新しいタイプの矢も色々と研究しているのですが、いくつかの試作品も一緒にお持ちしました

ほう、それはそれは

まずは、大きめのサイズの矢です。元々はロングボウのために仕立てたものですが、その弓にはちょうど良いかと

手渡されたのは、今使っているものよりも長めの、青染め羽がついた矢だ。試しに弓につがえてみると、ちょうど耳のあたりまで引くことができた。ギリギリと、両腕にかかる負荷に全身が軋む。耳元まで引いたまま維持するのはケイでも辛く、この矢で悠長に狙いをつける余裕は流石になさそうだった。―ただしその分、かなりの威力が期待できる。

これも悪くない。ただ贅沢を言うなら、矢じりがもう少し細い方が好みだな。打撃力よりも貫通力を重視したい

細めですか……例えば、こんな感じでしょうか

ああそうだな、その矢じりは良い感じだ

幸い、替えがあります。お時間さえ頂ければ、交換致しますが?

素晴らしい、お願いしよう。……ちなみに、交換料は?

サービスでございます

慇懃に頭を下げてみせるモンタン。二人で顔を見合わせて笑いあう。この時点で、両者ともにかなりノリノリであった。

よし、この長矢も買おう。在庫は?

その一本を含めて十二本ですね

買った。全部だ

ありがとうございます

……それで、他は? これで終わりじゃないんだろう?

もちろんですとも。次にお見せしたいのはこちらになります

モンタンが差し出したのは、先ほどの長矢ほどではないが、少し長めの赤羽の矢だった。特筆すべきは、その太さだ。普通の矢よりもひと回りほど太い。また、矢じりは特徴的な円錐形でいくつもの穴が開けられており、その形はどこか注射針を連想させた。

これは……中が空洞になっているのか

はい。これは大型の獣狩りを想定した矢になります。矢じりに開けられた穴は、矢の中の空洞を通じて、末端の穴まで繋がっています

……成る程、刺さりっ放しでも出血を強いる仕組みか!

ご明察です。効果のほどは言わずもがなでしょう。ただ、中が空洞なせいで体積の割に軽く、風に流されやすい上、通常の弓ではあまり威力が出ないという欠点があるのですが……その弓ならば、と思いまして

面白い。何本ある?

試作品ですので、三本ほど

買った。三本ともだ

ありがとうございます。続きましては、こちらの矢を―

流れるような所作で、次々と矢を取り出すモンタン、 面白い! 買った! とその場の勢いで次々に買い取るケイ。二人揃って徐々にテンションを上げ、試作品の即売会はさらにヒートアップしていく。

やーねぇ、ウチの人ったらまた悪い癖が……

とうの昔に手紙を読み終えていたキスカが、頬に手を当てて溜息をつく。

あ、ああ……

その隣、キスカの言葉に曖昧に頷いたアイリーンは、引きつった笑みを浮かべていた。

最初の長矢や出血矢はともかく、そのあとの試作品はどう考えても金の無駄だ。例えば、今披露されているメロディが切り替わる鏑矢などには、明らかに実用性がない。

(あまり、お金の無駄遣いはしない方が……)

今後のことも考えると、そう忠告したいアイリーンであったが、そもそも支払いに使われている銀貨は、ケイがこの世界に来てから盗賊やらと戦って獲得したものだ。その使い道に、アイリーンが口を出す権利はない。

(それに、普段は滅多に衝動買いなんてしないもんな……)

これほどまでに、ケイが勢いで物を買うのは珍しい。

(ひょっとして、ストレスが溜まってんのかな……)

そう考えると、もはや、アイリーンには何も言えなかった。

ママー、おなか空いたー

と、そのとき、アイリーンの後ろから子供の声。

振り返れば、十歳ほどの可愛らしい少女が、奥の部屋から顔を出している。

あら、リリー。もう帰ってきたの?

うん! 今日は、いつもより早くおわったの

キスカの問いかけに、『リリー』と呼ばれたその少女は、元気に頷いた。

えーと……?

ああ。うちの娘のリリーです

小首を傾げるアイリーンに、キスカが お客さんよ、ご挨拶なさい とリリーを促す。

はじめまして、リリーです。十さいです

ぺこりと、一礼してリリー。子供好きのアイリーンは、その可愛らしいお辞儀に思わず微笑んだ。

初めまして。アイリーンっていうんだ、よろしくね

リリーの目線までしゃがみこみ、優しげな口調で言ったアイリーンに、リリーもはにかんだ笑みを浮かべる。

続いてご紹介したいのはこの矢です!

何だこれは! 随分と複雑な機構だが……

ふふふ、これこそが私の自信作、『一本で多人数を制圧すること』を想定した矢になります!

何だって!? いったいどんな仕組みが―

そんなアイリーンたちをよそに、ケイとモンタンは大盛り上がりだ。

……一度ああなっちゃうと、ウチの人ってば長いのよねぇ。リリー、そろそろおやつにしましょうか。アイリーンさん、もしよかったら奥で一緒にお茶でもいかが?

うん。喜んで……

キスカの提案に、アイリーンは苦笑しながら頷く。

―結局、趣味人たちの熱い狂宴は、そのまま日が暮れるまで続いた。

†††

サティナ北西部、スラム。

壁の外、街から伸びる下水道に、しがみつくようにして広がるこの貧民街は、壁の内側に入れない無法者や、被差別民たちの巣窟だ。

下水道―石板で囲まれ蓋をされているとはいえ、臭いまでは完全に防げない。吐き気を催すような悪臭、隙間から漏れ出る汚水、極めて不衛生な悪環境。

しかしそんな薄汚れた道を、一人の男が行く。

手入れを怠り、ぼさぼさに伸びた黒い癖毛。随分と着古しているのか、すっかり色の褪めてしまった衣服。その目つきは何処かおどおどと落ち着きなく、ゴツい身体を縮こまらせるようにして、速足で歩いていた。

男の名前を、『ボリス』、という。

サティナの街で、かつて矢の生産に携わっていた―『元』職人。

スラムの中の複雑な路地を、ボリスは迷うことなくずんずんと進んでいく。右から左へ、左から右へ。あばら家が形成する、まるで迷路のような小道。

どれほど歩いたであろうか。ボリスはスラムのさらに西、人通りの少ない寂れた通りに出た。

猫背のまま、あばら家に寄りかかり、小さく溜息をついて足を休める。見回せば、周囲に人影はほとんど見当たらない―ほんの、数人を除いて。

小さな椅子に腰かけた、怪しげな雰囲気の老婆。ボロボロの小汚い机に、水晶の欠片や動物の骨を並べている。小銅貨の入った皿を置いているあたり、物乞いの傍ら占い師でもしているのか。ボリスがすぐそばに立っていても、俯いたまま、彫像のように動かない。

そして道の反対側には、地べたに座り込んだ、険悪な目つきの薄汚い男たち。錆びついた剣を大事そうに抱える彼らは、その顔に黒々とした刺青を刻んでいた。十年前の戦役で故郷を追われ、浮浪者に堕ちた草原の民か。

あるいは―。

きっ、と鋭い視線を向けられたボリスは、慌てて男たちから目を逸らした。

…………

街の喧騒は遠く、よどんだ空気は重く。路地裏を吹き抜ける風は、かすかな緊張を孕んでいる。

ただ、不穏な静けさだけが、そこにはあった。

…………

たんたん、たんたんたん、たん、と。

その沈黙を打ち消すように、ボリスは足を踏みならす。

たんたん、たんたんたん、たん、と。

まるで暇を潰す子供のように。

……そこなお方

そのとき初めて、老婆が動いた。

緩慢な動作で、ボリスの方を向いた老婆は、にやりと、黄ばんだ歯を剥き出しにして、笑う。

……鴉を、見らんかったかね。鴉を

その問いかけに、ボリスはやや緊張しながら、 ああ、見た とだけ答えた。

そうかえ。わしも、見た。黒い鴉じゃ……

げっげっげ、と不気味に笑う老婆の瞳は、白く濁っている。その盲(めしい)た瞳で、何を見たというのか―。

……座りなされ。未来を、占ってしんぜよう……

老婆の言葉通りに、ボリスは対面の席に着く。ギシッ、と小さな椅子の軋む音。 お手を拝借 と言う老婆へ、黙って右手を差し出した。枯れ枝のように細い腕が、ボリスの手を撫でつける。

……。白じゃ

ぼそりと、老婆が告げた。

白の、羽じゃ。気をつけなされ。彼の者は、主(ぬし)に、死を運んでくる……

その不吉な言葉に、ボリスはごくりと生唾を飲み込んだ。

白い羽を避ければ、大丈夫なのか

……そうさの

曖昧に頷く老婆が、撫でつける手を引いたとき。

ボリスの手の平の上には、小さな金属製のケース。

さぁ……行きなされ。残された時間は、あと、僅か……

ケースを懐に仕舞い、無言で立ち上がったボリスは、足早にその場を去った。

背中に、剣を抱えた男たちの、じっとりとした視線を感じながら―。

来た道を、ただ引き返す。

夕暮れの、薄汚れた小道。しばらく歩いて、前方に見えてきたのは、サティナの街の城郭だ。スラムと旧市街を繋ぐ小門の前には、南の正門ほどではないが、街に入るために列をなす人々の姿があった。

黙って、ボリスも最後尾に並ぶ。列は、五人ずつに小分けして、チェックを受けているようだった。短槍を装備した、厳しい面持ちの衛兵たち。ボリスは落ち着きなく、たんたん、たんたんたん、と貧乏ゆすりをする。まるで、待ちくたびれた子供のように。衛兵の一人が、そんなボリスを胡散臭げに眺めていた。少しずつ、だが着実に、列は進んでいく。

次ッ! 五人、入れッ!

ボリスの番が来た。前に一人、後ろに三人。ぞろぞろと小門の中に入る。

よし、全員その場で靴を脱げ! 両手は頭の後ろだッ!

門の中、仁王立ちになって叫ぶ一人の衛兵。他の衛兵たちとは違い、金属製の胸甲を着けている。その兜には、白い羽飾り―上級将校、隊長格の証だ。一瞬、身体を強張らせたボリスは、白羽の隊長格と目が合いそうになったので、慌てて俯いた。

……ん?

しかし、その様子を怪しいと思ったのか。ざっざっ、と足音を立てて、ゆっくりと隊長格がボリスに近づいてくる。

口の中が、からからに乾いていた。必死に、祈る。

ただ、目立たないようにと。その辺に転がる石のようであれと―。

貴様ッ、何を隠しているッ!!

恫喝の声。思わず顔から血の気が引いたが、しかし、その声はボリスに向けられたものではなかった。

見れば、隣。ボロ布をまとったような格好の痩せた女が、衛兵に殴り倒されている。

隊長! この女、靴の中にこんなものを……

衛兵の一人が、隊長格に小さな革袋を差し出した。厳めしい表情でそれを受け取った隊長が、袋を広げて中を検める。

さらさらと、こぼれ落ちる白い粉。

指先についた粉を舐め、ぺっとそれを吐き出した隊長格は、

……麻薬だ

わっわたしは知りません! 身に覚えが―

ええい、黙れッ! じたばたするなッ!

震える声で叫ぶ女を、衛兵たちが警棒で更に殴りつける。

やめろッ! それ以上殴るな!

が、隊長格が衛兵たちと女の間に割って入り、ただちに暴行を止めさせる。縋るような目つきで隊長格を見る女に対し、門の内扉をくいと顎でしゃくって見せた彼は一言、

連行しろ

ガシッと、屈強な衛兵が二人、女の両脇を掴んで無理やり立たせる。

そいつには幾つか、聞きたいことがある。丁重に扱えよ……今(・)は(・)殺(・)す(・)な(・)

その、まるで虫けらを見るような酷薄な目に、顔面を蒼白にした女はがたがたと震え出した。

いっ、いやッ! 違うのっ、本当に知らないの! 助けてっ、誰かッ、誰かぁ!

クソッ、暴れるな!

連れて行けッ!

半狂乱になった女が暴れ出すが、しかし抵抗もむなしく、城壁の内側の詰所へと連行されていく。

……馬鹿な奴だ、あれで奴隷落ちだろ……

……いや……最近はさらに厳しく……

……運び人……例外なく斬首……

……“尋問”の最中に死なない限りは……

それを見ていた順番待ちの人々が、ひそひそと言葉を交わすが、隊長格の大きな咳払いに、皆ぴたりと口を閉ざす。

さあ、じっとしてろよ

ボリスの前にも、一人の衛兵がやってきた。乱暴な手つきで、足元から上へとボディチェックがなされる。それをじっと見つめる白羽の隊長格。衛兵の探る手が、遂に懐の金属ケースに、触れた。

……

緊張の一瞬。しっかりと、服の上からケースの形を確かめた衛兵は―顔を強張らせるボリスをちらりと見やり、そのまま手を離す。

この男も、異常ありません

振り返り、隊長格に何食わぬ顔で告げる衛兵は、先ほどのボリスの貧乏ゆすりをじっと見つめていた一人であった。


うむ、ならば通ってよし

重々しく頷いた隊長格は、興味を失ったようにボリスから視線を外す。細く長く息を吐き出したボリスは、靴を履き直し、ゆっくりと小門を抜けた。

―次の五人、入れッ!

隊長格の声を遥か後方に聞き流しながら、一本二本奥の裏路地に入り、ボリスはようやく安堵の溜息をつく。

(危なかった……)

その顔は、げっそりとやつれていた。夕闇に包まれた薄暗い、しかしスラムよりは格段に清潔な路地を、死人のような足取りでのろのろと歩く。

やがて、仄かな明かりの洩れる、小さな酒場へと辿り着いた。

……エール

カウンターの席に座り、抑揚のない声で主人に注文をつける。樽から木のジョッキに琥珀色の液体が注がれ、乱暴に目の前に置かれた。

よう兄弟。調子はどうだ

ジョッキに口を付けようとしたところで、一人の痩せた男が慣れ慣れしく、ボリスの隣の席に座って話しかけてくる。

……上々さ

陰気な口調で答えたボリスは、カウンターの下、懐から取り出したケースを隣の男へ差し出した。何食わぬ顔でそれを受け取る男。

そいつぁ何よりだ。どうだ? 上さんの機嫌は?

……女房なら、とっくの昔に逃げ出してるよ

はははは、そういやそうだったな。悪い悪い、忘れてたぜ

意地の悪い笑みを浮かべながら、男は金属製のケースを仕舞い、代わりに小さな革袋をボリスの目の前に置く。

侘びということで、今日はオレの奢りだ。たっぷり呑んでくれよな

それじゃあまたな、と言いつつ男は席を立ち、そのまま酒場を出て行った。

……

のろのろと、緩慢な動きで、ボリスは革袋の中身を確かめる。

鈍い輝きを放つ銅貨が、数十枚。

銀貨一枚には、少し足りない。かさばりはするが、それほど価値はない。そんな枚数。

……これだけか

ぽつりと小さく呟いた。これがお前の命の値段だ。そう告げられたような気がして。

……くそッ

ジョッキをあおり、エールを流し込む。苦い安酒はどうしようもなく不味いが、それでも呑まずにはいられない。銅貨数十枚。普通に働くよりはいい稼ぎだが、それでも借金を返すには遥かに足りなかった。あと数回、あるいは十数回、この仕事を繰り返さなければならない。

……エール

ぼそりと、空になったジョッキを差し出しつつ、ボリスは天井で揺れるランプの薄明りをぎろりと睨みつけた。

先ほど、自分が運んだ金属製のケース。あれの中身が売り捌かれるとき、実際に幾らになるのかは、ボリスには想像もつかない。しかし、末端価格でいえば、銀貨の十枚や二十枚では収まらないはず。

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