ガツンッ! と衝撃。

バーナードの胴体があった空間を巨大な槍が抉り、地面に突き立った。

何だァ!?

素っ頓狂な声を上げるバーナードは、空を振り仰ぐ。その槍は、なんと、頭上から降ってきたのだ。

果たして、怪物の黄色い両眼は、真ん丸に見開かれる。

巨大な、鳥。

真っ黒な、羽を広げれば十メートルはあろうかという怪鳥が、ばさばさと羽の音を響かせながら、徐々にこちらに近づいてくる。

その脚に、ぶら下がる人影。

ッと危ねェ!!!

阿呆のように見惚れていたバーナードは、再び転がるようにして地に伏せた。きらりとその人影の手元が光ったと思うと、先ほどと同じように槍が飛んできたからだ。

尻尾を使って跳ね起きる。その間にも怪鳥は地上へと近づき、やがて脚から離れた人影が、ズンッと重い音を立て、地上に降り立った。

おうおう、随分とウチの村を荒らしてくれてるじゃねえか

―大男だ。バーナードも人間に比べるとかなりの大柄だが、この男はそれよりさらにでかい。

巨人、という言葉を連想する。その背丈は優に二メートルを超えるだろう。

そしてそれに見合うだけの、凄まじい覇気に満ち溢れた、がっしりとした体つきだ。逆立つような黒髪。凄惨な死体の数々を前に、微塵も揺るがない不敵な表情。筋骨隆々の体躯を重厚な鎧で防護し、それでいて動きには『重さ』を全く感じさせない。その手には使い込まれた無骨な戦槌(バトルハンマー)を握っている。並の人間なら両手で扱うであろう代物を、片手で軽々と。

……何だァ、領主様のお出ましかァ?

目を細めて、バーナードが問いかけると、大男は意表を突かれたような顔をした。

おい、お前、話せるのか!?

当ッたり前だろ。何を騒いでやがる

……竜人が人の言葉を解すとは、初めて聞いたが

……ああ。そうか、確かになァ

自分が怪物の姿をしていることを、そこで初めて思い出したかのように、バーナードはぼりぼりと頭を掻いた。

俺は博識なんだ。まあそんなこたァどうでもいいだろ、領主様よォ

ハッハッハ、『博識』ときたか、こいつは傑作だ。墓守のジジイから『害獣駆除』と聞いていたが、これはなかなか楽しめそうじゃないか

くるりとその手の戦槌を回し、獰猛に笑う大男。 ギヒッ とバーナードもまた、獣のように笑った。

そうだなァ……俺もなんか物足りねェと思ってたんだよォ!!

言い終わる前に、地を蹴る。

尻尾と両足を使った、全力の跳躍。

十歩以上の間合いを一瞬で食い尽くす。真正面から、メイスを叩きつけた。

岩をも砕く竜人全力の一撃は、しかし鉄の壁に阻まれた。いつの間にか、大男が左手に盾を構えていたのだ。まるで鐘を打ち鳴らすような盛大な金属音が鳴り響き、盾の表面を削ったメイスが火花を撒き散らす。

大振りの打撃をいなされ、体勢を崩すバーナード。大男のマントがばさりと広がる。

(……やべェ!)

本能的に、再び尻尾で地を蹴って無理やり飛び退った。バーナードの尖った鼻先を、唸りを上げてバトルハンマーが掠めていく。

ジャッ、と砂利が擦れる音。二人の間合いが、開く。

よく避けたな、トカゲ野郎

間一髪で致命の一撃を回避したバーナードに、大男は不敵に話しかけた。バーナードは何も答えなかったが、その鼻先からたらりと血が垂れる。あまりの圧に、血管がやられていた。

テメェ……半端ねェな

鼻血を拭いながら、バーナードもまた笑った。鼻先からズクンズクンと疼痛を感じたが、気にしない。血に酔いしれる今は、その感覚すらも愛おしい。

DEMONDAL のガチ勢にもテメェほどの怪物はいねえよ

『DEMONDAL』? 何の話だ? それに怪物に怪物呼ばわりされる謂れはないぞ

呆れたように首を傾げる大男は、フッと小さく笑った。

俺様のことは、『デンナー』と呼べ

大男―“巨人”デンナーは、堂々と名乗る。

……ククッ。ハハッ、ヴァッハッハッハッハッ!

目を見開いて、バーナードは笑った。轟々と燃え盛る民家の炎が、夕闇の世界に二人を明るく照らし出す。

ならッ! 俺のことは『バーナード』と呼べッ!

ほう? 一丁前に人間みたいな名前じゃねえか

ヴァッハッハッハハッ、確かにッなァッ!!

右手にメイスを、左手に棍棒を握り、バーナードは再び駆ける。

この大男―『デンナー』は、ゲーム内ですら見かけたことがないほどの、凄まじい強敵だ。

だが何を恐れることがあろうか。こんなにも嬉しいのに。こんなにも清々しいのに。

これを楽しまなくてどうする―

薄闇の中に幾度となく火花が散る。

打ち鳴らされる鐘のような金属音、怪物と傑物はここに激突する。

目にも留まらぬ速さで振るわれる棍棒とメイスを、デンナーは危なげなく盾でいなしていく。その荒々しい気配とは裏腹に、戦いぶりは冷静で堅実そのものだ。虎視眈々とバーナードの一挙手一投足を観察し、隙が生じた瞬間、風圧だけで仰け反りそうなほど豪快な一撃を見舞う。

その反撃(カウンター)の威圧感たるや、人外のバーナードをして受けようという気にはならない。自慢の筋肉と鱗の装甲も、このバトルハンマーの前では濡れた紙ほどの役にしか立たない。

攻める。叩きつける。薙ぎ払う。避ける。

バーナードの尻尾を活かした不規則な挙動を前にしても、デンナーはまるで山のように微塵も揺るがない。

そして散々な酷使に耐えかねて、とうとうバーナードのメイスが真っ二つに折れた。追い剥ぎで拾った戦利品、ゲーム内でも下から数えた方が早い程度の低級品だ。むしろここまでよくもったというべきか―だが、バーナードは慌てることなく、尻尾で地面を薙ぎ払った。砕かれた家屋の小さな瓦礫が、デンナーの顔に向けて弾き飛ばされる。武器を失ったバーナードを注視していたデンナーは、流石に意表を突かれたか、初めて少しだけ視線を逸らした。

楽しいなァ、デンナーッッ!

高揚のあまり、バーナードは叫ぶ。

素敵なアンタにプレゼントだァァァァァァッッ!

その胸が、ぶわりと膨らむ―

ヴァアアアアアアアアア―ァァァッッッ!!

回避不能の至近距離で、炎の吐息(ブレス)を浴びせかける。

咄嗟に盾を掲げたデンナーは、一瞬で炎の壁に呑み込まれ、盾ごと火達磨と化した。

ヴァ―ハッハッッハ……はァ?

炎に焼かれるデンナーの悲鳴を期待していたバーナードは、しかし、次の瞬間、呆気に取られて立ち尽くした。

ぬらり―と、炎が消えていく。

まるで見えない手に拭い去られていくかのように。

ふぅ……流石に今のは肝を冷やした。そうか、竜人(ドラゴニア)だもんな、火吹芸を忘れてたぜ

何食わぬ顔で、無傷のデンナーが姿を現す。その胸元に、橙色の光が輝いている。

……火避けの加護のアミュレットかァ? マジかよ

それが、火の精霊の力を封じた希少な魔道具(マジックアイテム)の類であることを見て取り、思わず茫然と呟く。

逆に、火炎放射を受けても動揺しなかったデンナーは、バーナードの的確な認識に呆れ顔を見せていた。

本当に何なんだよお前、ドラゴニアの賢者か何かか?

賢者にしちゃ凶暴だが、と付け加えるデンナー。ハッと我に返ったバーナードは、今更のように再び距離を取る。

(やべェな……武器はねェ、ブレスも効かねえとなると……)

正確に言えば棍棒が残っているが、全身をガチガチに固めたデンナーに対し、有効打たり得るとは思えない。

……ククッ、クソッ盛り上がってきたぜデンナーァ! 楽しもうぜェ!!

ぶるぶると震えながら、逆境に酔いしれるバーナードだったが、しかしデンナーは空を見上げて首を振る。

いいや、時間切れだ

ばさりと。

複数の羽音が、風圧が、その場を呑み込む。

バーナードもまた、天を振り仰いだ。暗くなった空の色に紛れるようにして、巨大な黒の怪鳥が数羽、遥かな高みを旋回している。

―と。

夜暗より更に濃い、闇色の点がぽつぽつと。

怪鳥の背から、『何か』が飛び降りてきた。

それは、漆黒のローブを纏った人影。

常識的に考えれば絶命必至の高度から、何の装備もなく降下する。ダダダダンッ、と派手な音を立てて着地。

デンナーとバーナードを円形に取り囲むように。

その数、八人。

バーナードでさえ無事では済まないであろう高さから降り立ち、しかし、何ら痛痒を感じさせることもなく、無言で立つ。

ローブを纏い、フードを目深にかぶっているため、顔を検めることはできない。ただ全員が、何かしらの武器を携えていた。あるいは、剣。あるいは短刀。あるいは戦槌。あるいは槍。

そしてその武具には、ことごとく黒々としたおぞましい紋様が刻まれていた。

もし、バーナードが普通の人間であったなら、全身に鳥肌が立っていたことだろう。

あまりにも禍々しい気配に。

―それらは、全て、強力な呪詛が刻まれた呪いの武器だった。

残念ながら終わりだ、バーナードとやら

トントンとバトルハンマーで肩を叩きながら、デンナー。

チッ

舌打ちしたバーナードは、咄嗟に跳躍して不気味な包囲網を突破しようとしたが、すんでのところで思いとどまる。

先ほどから一言も発さない、闇色のローブの戦士たちからは―恐ろしいほどに何の気配も感じられなかった。

だが、その無音の圧を、バーナードは敏感に感じ取る。

おっと、命拾いしたな。……気をつけろよ。こいつら全員、俺より強えぞ

思いとどまったバーナードに、感心したように笑うデンナー。

流石の人外の化け物も、これには困った。手元にはロクな装備がなく、炎の吐息(ブレス)抜きでは勝ち目がないと思わせられるような強者が、八人も完全武装で包囲している。

この闇色の戦士たちに火炎放射を試みるのも手だが―何となく、無駄であるような気がした。どうせこいつらも火避けの魔道具を持っているか、当然のように回避されるか、そんな未来(ヴィジョン)しか浮かばない。

手負いの獣のように、ある種の闘争心と諦念を秘めたような顔で、バーナードは眼前の傑物―デンナーを睨む。

おう、バーナード。……お前、ここで死ねよ

あァ?

何を言ってやがる、と顔をしかめるが、続く言葉に固まった。

そんで、死んだと思って、俺のトコに来い。……お前は面白いヤツだ。ここでただ死なせるのは、ちと惜しい

不敵な笑みを浮かべたまま―そう、それは覇者の貫禄とでも言うべきものか。一種独特な気配を漂わせるデンナーの言葉に、さしものバーナードも、咄嗟には返事ができなかった。

……何を企んでやがる

企むも何も言った通りだ。お前は面白い。ここで死なせるには惜しい。それだけだ。それとも、無為な死がお望みか?

デンナーの言葉を受け、周囲の戦士たちがゆらりと武器を構えた。―無音に秘められていた殺意が、牙を剥く。

…………

お前に興味が湧いたんだ。流石に、好き勝手させるわけにはいかんが、それなりにもてなそうじゃねえか

俺ァこの村をぶち壊したんだぞ。お前は領主様なんだろ?

正確には領主じゃないな。だが、いずれにせよ、この村の木っ端どもよりも、お前の方が面白そうだし、珍しいのは確かだ

ニヤリッと、本心からの言葉としか思えないような、ある種無邪気な笑みをデンナーは浮かべた。善悪を超越した、純粋な好奇心がそこにはある。

故に、それは化け物の心にも響いた。

……カハハッ

短く、バーナードは笑う。

元より、彼には、選択肢などないのだ。

その日、公国から小さな村が消えた。

だが、そのことを知る者は、あまりに少ない―

幕間終わり。次回からようやくほのぼの移住編です。

あと活動報告やTwitterでもアナウンスしましたが、ペンネーム変えました。

甘木智彬(あまぎともあき) です。今後切り替えて参る所存……!

これからも朱弓共々、どうぞよろしくお願い申し上げます。

58. 帰還

移住編、始まるよ~

起伏のほとんどない、なだらかな平野が広がっていた。

草原―と、呼ぶには、いささか乾いた印象を受ける。からりと晴れ渡った空の下、水気に乏しい草がかさかさと風にそよぐ。

と、それに紛れるようにして、トタタッ、トタタッと軽快な蹄の音。土煙を巻き上げながら並走する、四騎の騎馬の姿があった。

おっ、見えてきたな!

先頭、“竜鱗通し”を手に、サスケを駆るケイは顔をほころばせる。

ディランニレンだ!

指差す先には、まるで岩山のような城壁に守られた、堅固な都市。

北の大地と公国の境目―緩衝都市ディランニレン。

おっ、マジか!

ケイの言葉に答えたのは、やや斜め後方で栗毛の馬を駆るアレクセイだ。馬上で手をかざし、目を細めた金髪の青年は、すぐに諦めてお手上げのポーズを取った。

ダーメだ、さっぱり見えねえ!

ケイの目でやっと見えたってことは、まだまだ遠いな

ケイの隣でスズカに跨るアイリーンが、からからと笑っている。

なぁに、夕方までには着くだろうさ

灰色の馬に跨ったセルゲイは、相変わらずマイペースだ。

―夏の終わり。

街道を避け、北の大地の中央部を縦断したケイたちは、今まさに、公国へ帰還しようとしていた。

†††

オズに見送られて館を出たのは、一週間ほど前のことになる。

別れ際にオズが言っていた通り、霧の中を二歩も進めばそこはもう森の外れだった。流石はオズの旦那だ、などと話しながらシャリトの村へと戻るケイとアイリーンだったが、しかし、すぐには村に入れてもらえなかった。

というのも、村人の多くは既にケイたちは死んだものと思っていたらしく、見事生還を果たした二人を怪物か悪霊の類だと信じて疑わなかったのだ。アイリーンが 怪物や悪霊は霧の外には出てこれないはずだろ! と主張したが、門番の村人は類稀なる慎重派―あるいは臆病とも言う―で頑なに門を開けようとしない。

結局、騒ぎを聞きつけたアレクセイが村の壁をよじ登って外に飛び出し、二人に直接触れて生者であることを確認してから、ようやく村の門は開かれた。怪物でないとわかればみな現金なもので、そのまま担がれるようにして村の集会場へ連行された二人は、酒や料理でもてなされながら魔の森の話をせがまれた。

魔の森での出来事、及びオズについての説明は、ケイはアイリーンに丸投げした。

単純に、『並行世界』という概念の説明が、ケイたち・村人の双方にとって公国語(イングリッシュ)では難しかったのと、情報を取捨選択するのはアイリーンが雪原の言語(ルスキ)で話した方がやりやすかろうと判断したためだ。

オズの『指輪』の件など、伏せておきたい情報はいくつかある―

ケイはロシア語がさっぱりなので、その場ではアイリーンが語る姿を眺めながら飲み食いするしかなかったが、あとから聞いた話によると、森で遭遇した怪物のこと、オズという『賢者』のこと、異世界の概念を説明するに留め、二人の故郷たる地球についてはサラッと流したそうだ。

大地と空と海が『世界』の全てである村人たちに、並行世界の概念を説明するのは骨が折れた、とアイリーンは語る。最終的に、悪霊や精霊を引き合いに『現世とは異なる魂の世界』の概念を応用して、漠然と別世界という概念を説明したらしい。

アレクセイとか、頭の柔らかい奴は、何となく理解してたっぽい。それ以外の連中は……ありゃ別の大陸の話か何かくらいにしか考えてないな

と、アイリーンは肩をすくめていた。

その後も、飽きもせず魔の森の話をせがまれたり―特に霧の巨人とケイが対決した話が人気だった―村の男たちと一緒に狩りに出かけたり、シャリトの住人たちに歓待されながら、だらだらと数日を過ごした。セルゲイなどは、二人揃っての移住を盛んに勧めてきたが、そんなある日、ガブリロフ商会の使者が村を訪れた。

なんでも、商会はケイたちの行方を探しているらしい。目的は言わずもがな、瀕死の重傷者を死の淵から救い出したケイの”秘術(ポーション)“だろう。商会の皆は、二人の旅の目的地がシャリトの村であったことをしっかり憶えていたらしく、わざわざ二人が辿り着いていないか確認しに来たのだ。


馬賊襲撃のあらましと、商会を強引に離脱した件は、村人たちにもあらかじめ話してあった。厄介な気配を察して、使者に応対したセルゲイは機転を利かせた。

ああ、その二人ならしばらく前に村に来たぞ。その後は魔の森に向かって霧の中へと入っていったが、それきり帰ってこない

もし二人を探しているなら魔の森に行ってみたらどうだ、とセルゲイが言うと、使者は護衛の戦士たちと顔を見合わせ、 商会の指示を仰ぐ と言い残し急いで引き返していった。それとなく物陰から状況の推移を見守っていたケイとアイリーンは、その慌てぶりに苦笑したものだ。

このまま身辺を探られるのも面白くなかったので、名残惜しくはあったが、二人は村を発つことを決めた。

商会が新たな行動を起こす前にとっとと帰ってしまおう、ということで、翌日には村を出た。村人総出で見送られ、惜しまれながらの出立だ。

ディランニレンまでの旅路には、セルゲイとアレクセイが同行することとなった。

商会の情報網に引っかからないよう、街道は使わずに、広大な平野を南西へ直接突っ切るルートを進む。公国の地図には載っていなかったが、平野にも泉や小川など水源があるらしく、小さな集落が点在しているそうだ。アレクセイも公国からシャリトの村に帰る際は、このルートを利用したとのこと。

ちなみにこの道案内の対価として、セルゲイが要求したのはケイたちの地図だった。正確には、その内容。ウルヴァーンの図書館の有料サービスで描き写してもらったその地図は、北の大地の住人たるセルゲイたちが驚くほど精確なものだった。

いかんせん、北の大地は広いからな。氏族の領地内に限った地図ならまだしも……北の大地全体の地図となると、本家の連中ですらここまで詳しいものは持っとらんぞ

出立前夜、居間のテーブルで地図を書き写しながら、セルゲイは言った。

図書館で聞いた話によると。この地図は、告死鳥(プラーグ)の魔術師を用いた人海戦術で空から見た景色をそのまま紙面上に落とし込んだものらしい。まさに『鳥瞰図』というわけだ。ただ、街道沿いや豊かな西部地域を重点的に描いているため、目ぼしい集落のない東部や辺境は調査が省かれている。

いくらか不完全な点もあるが、他の氏族の領地―特に西部が詳しく描かれている。この地図はいつの日か、我が氏族に恩恵をもたらすだろう

いかなる恩恵か、とはケイたちも尋ねなかった。

ただ、その時のセルゲイは戦士の顔をしていた―

ディランニレンに到着したのは、ケイがディランニレンを目視してから数時間後。日が傾き始めてからのことだった。

相変わらず、平原の民と雪原の民が入り混じるこの都市は、ぴりぴりとした空気に包まれている。馬賊の脅威は去ったが、草原の民への風当たりは依然として強いままだ。いや、むしろ悪化したと言っていい。北の大地側の門番たちとは、ケイの容姿を巡って当然のように一悶着あった。

来たときと同じように公国の身分証を提示して事なきを得たが、あのまま騒ぎ続けていればガブリロフ商会の人間に嗅ぎつけられたかもしれない、とケイは思う。

ケイはフードで顔を隠し、足早に街の雑踏を突っ切った。

それじゃあ、俺たちはここまでだな

公国側の門の前。普段は市場が開催されている、しかしこの時間帯は閑散とした広場で、どこか寂しげにアレクセイが言う。

アレクセイとセルゲイの親子は、今夜はディランニレンに宿を取り、ついでに買い物などをしてから村へ戻るそうだ。対するケイたちは、トラブルを避けるため早々に街を出て、今夜は野宿の予定だ。この頃は野宿続きだったので宿屋のベッドが恋しくもあるが、こればかりは仕方ない。

…………

しばし、その場に沈黙が下りてきた。広場を通りすがる町の住民たちが、黙って見つめ合う四人組を怪訝そうな顔で見ている。

ケイとアイリーンは、公国へ戻る。

アレクセイとセルゲイは、シャリトの村へ帰る。

それぞれ両国の反対側と言ってもいい位置関係だ。馬を全力で駆けさせれば二週間足らずの距離ではあるが、それでも遠い。特に、この世界にあっては―

互いに、それぞれの日々の暮らしもあるし、ここで別れれば、もう二度と顔を合わせる機会もないかもしれない。

思えば、不思議な縁だったな

やがて、アレクセイが口を開いた。平静を装っているが、やはり少し寂しそうだ。

……そうだな。まさか、また出会うことになるなんて思ってもみなかった

しみじみと、ケイは頷く。足元の影法師に視線を落としていた。夕暮れ時。四人の影がそれぞれに長く伸びている。フードをかぶっていて良かったかも知れないな、とケイは思った。自分が今どんな表情をしているのか、わからない。

……へへっ、思ったより寂しいなコレ

困ったように頭を掻きながら、アイリーン。彼女も、今となっては『別れ』の重さを知っているだけに、盛んに目を瞬かせている。

おうおう、何だテメェら、辛気臭い顔をしやがって!

しかしそんな若者三人組に、セルゲイはふてぶてしい態度を取って見せた。

別に今生の別れってわけじゃないんだぞ? ワシだってそこそこ生きてきたが、とんでもない機会にとんでもないヤツと再会することはある。運命ってヤツだ、お前らは良くも悪くも色々とあったからな、心配せずとも、今後また色々とあるかもしれん

ふむ。また決闘はゴメンだな

真面目くさってケイが言うと、アレクセイとアイリーンも思わず吹き出した。

あまり目立ちたくないので、声を抑え、それでもくすくすと笑い合う。

そうだ、ケイ、アイリーン。もしどこかに腰を据えたら、手紙を送ってくれよ

さっぱりとした表情で、アレクセイは言った。

届く保証はねーけど。商会に探られるのが面倒だったら、適当に名前変えてさ

そうだな、偽名は『セルゲヴナ』でどうだ? 場合によっては、それもあり得たわけだろう?

アイリーンを見ながらニヤリと笑ってセルゲイ。『セルゲヴナ』は『セルゲイの娘』という意味だ。決闘の件を揶揄しているのだろう。ケイはよくわかっていなかったが、アレクセイは 勘弁してくれよ親父! と頭を抱えている。アレクセイも今となっては幼妻(エリーナ)を持つ身なので、この話題は肩身が狭い。アイリーンは曖昧な笑顔を浮かべる他なかった。

ま、嬢ちゃんのような可愛い娘なら、いつでも大歓迎だがな! ワッハッハ!

ひとり、大笑いしたセルゲイは、おもむろにケイとアイリーンを一回ずつ抱きしめ、ぽんぽんと肩を叩いた。

元気でな

……ああ

セルゲイの旦那もな

頷くケイとアイリーン。続いて、アレクセイに向き直る。

……まあ、アレだ。二人なら元気にやってくだろうしな。そういう意味じゃ心配してねえよ俺は

アレクセイはケイに手を差し出した。がっしりと、握手する。

また、少し迷った様子だったが、アレクセイは同様に、アイリーンとも握手した。

二人とも、元気でな。本当に世話になったよ

それはこっちの台詞だよ。アレクセイも、セルゲイも……さようなら

『本当にありがとう。皆にもよろしくね、お二人さん』

ケイは英語で、アイリーンはロシア語で、それぞれに別れを告げ―歩き出す。

馬の手綱を引き、公国側の門を出て行くケイとアイリーン。

その背中が見えなくなるまで、アレクセイとセルゲイ親子はずっと見送っていた。

†††

門を出てから、ケイたち二人は再び馬上の人となった。

周囲はもはや薄暗くなりつつあるが、日が暮れて門が閉められたあとは、時刻に間に合わずに都市に入りきれなかった商人や旅人が周辺にたむろする。彼らとの交流やトラブルを嫌って、少しばかり距離を取ることにしたのだ。

幸い、一度通った場所なだけに、野宿する場所には心当たりがある。

夕焼け色に染まる小川を眺めながら、ケイはしみじみと呟いた。

やっぱり公国側は空気が瑞々しいな……

公国は、何と言っても水資源が豊富だ。サスケたちの飲水に気を遣わなくて済むのは本当に有り難い、と改めて思う。北の大地は大変だ、とも。

それからしばらく走って、程よい木立を見つけたケイたちは、早速馬を降り野宿の準備を始めた。

野宿続きだが、ケイもアイリーンも、どこか足取りが軽い。

―久々に、二人きりだ。

ディランニレンからわざわざ距離を取ったのは、こういう理由もある。

まず”警報機(アラーム)“を設置して外敵感知の結界を張り、焚き火を起こし、夜露避けの簡易テントを設営して、川から鍋に水を汲んでくる。ディランニレンの屋台で串焼き肉の類を買ってあるので、今宵の夕餉は少しばかり豪華なものになるだろう。

それに何より、二人だけだ。

黙々と準備を進めるうちに、時たま目があってはフフッと笑いあう。

そのまま、地面に敷いた予備のマントの上で夕餉となった。ディランニレンで買った串焼き肉と、黒パン、ソーセージと根野菜を鍋で煮詰めたポトフ。旅とは思えないような豪華な食事だ。

焚き火の光に照らされながら、二人並んで座り、鍋をつつく。

なんか久々だな、こういうの

だなぁケイ。やっぱりいいよな

腹が減っていたので多めに用意した夕食もぺろりと平らげ、満腹感も手伝って和やかな雰囲気の二人。先ほどの湿っぽい空気など嘘のようだ。食後の茶を淹れながら、のんびりと過ごす。

ケイが木にもたれかかって座っていると、アイリーンが足の間に入ってきた。

……ふぅ。オレ専用の椅子だぜ

ぽんぽん、とケイの太ももを肘掛けのように叩きながらアイリーン。すかさずケイは腕を回して、アイリーンの華奢な肩を抱きしめた。

なら、こっちは俺専用の抱きまくらかな

ふふふ

アイリーンは否定も肯定もしない。ただ悪戯っ子のような笑みを見せる。

…………

そのまま、鍋のお湯がくつくつと煮える音を聞きながら、くっついて過ごす二人。

何とはなしに、ケイの指はアイリーンの頬をなぞっていたが、そのとき傍らの警報機(アラーム)に視線を落としたアイリーンが あっ と声を上げる。

ん、どうした?

何か異変を察知したのかと、真面目なトーンでケイ。

あ、いや……大したことじゃないんだけど。約束、忘れてた。ほら、ガブリロフ商会の魔術師のヴァシリーさん

唇を尖らせた困り顔で、アイリーンは北を見やった。

『次にディランニレンに寄ったら是非お茶会をして、魔道具について話そう』って、約束してたんだった

……ああ。そういえばそんなこともあったな

ケイも思い出す。ガブリロフ商会所属の魔術師ヴァシリー。告死鳥と契約した彼は、伝書鴉(ホーミングクロウ)を何羽も使役し、変化・邪眼の魔術も使いこなすベテランの魔術師だ。

……しかし、ガブリロフ商会とはもう関わらない方がいいんじゃないか

うーん、そうなんだけどさ。魔道具の相場とかさ、『こっち』での『魔術の値段』っていうか、そういうの聞いておきたかったんだよなー。あの人プロじゃん?

ふむ……

今後は、ケイもアイリーンも何かしら魔術で生計を立てていくつもりだ。おそらく、行商人のホランド共々懇意にしているコーンウェル商会を頼ることになるだろう。ホランドが自分たちを騙すような真似をするとは思わないが、それでも、第三者視点のそういった情報を仕入れておきたい、というのは正直なところだった。

うーむ、と二人は抱き合ったまま難しい顔で唸る。

オレ的にはさー、あのヴァシリーって人、それほどガブリロフ商会に入れ込んでないと思うんだよなー

というと?

どっちかと言うと、魔術の探求者っていうか。研究資金とかのために商会に協力してる、みたいなことを言ってた気がする

実際のところ、ケイには彼の人となりがよくわからない。ヴァシリーはロシア語しか話せなかったため、直接の交流がなかったのだ。

つまり、ヴァシリー氏に連絡をとっても、ガブリロフ側には情報が漏れない、と?

頼めば、その辺は気を遣ってくれるんじゃないかな。隊商で鴉に憑依してやってきたときも、そんなノリだったし。彼なら、おそらくガブリロフ商会の面々よりもオレたちの方を重視するはずだ

ま、敵対しようとは思わないだろうな、少なくとも。そして幸い彼は告死鳥の魔術師だから、『お茶会』には誘いやすい……

ケルスティンでメッセージを送れば、文字通り飛んでくると思うぜ

じゃあ、呼ぶとしたら夕方以降か……

それとなく結論に至ったケイとアイリーンは、すっかり暗くなった空を見上げた。

ぱちんっ、と焚き火の薪が爆ぜる。

まあ、

でも、

改めて顔を見合わせた二人は、にやりと笑う。

今日じゃなくていいよな

そのまま、貪るようにして唇を重ねた。

長い夜になりそうだ。

59. 茶会

ヴァシリー=ソロコフはガブリロフ商会所属の魔術師だ。

一口に『魔術師』と言っても能力は千差万別だが、ヴァシリーは”告死鳥(プラーグ)“と呼ばれる鳥型の精霊と契約した術者で、その性質はむしろ呪術師に近い。

告死鳥との契約は呪いの一種であり、肉体を蝕み健康を害するが、その代わり使い魔―黒い羽を持つ鳥全般―の使役、使い魔への憑依、邪眼による呪殺など、幅広い術の行使を可能とする。尤も、呪いは己にも危険が及ぶ上、恨みを買うのでヴァシリーが商売道具にすることは滅多にないが。

今日も今日とて、伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしたり、使い魔に憑依して空から地形を調査したり、魔除けの護符を作成したりと、忙しなく過ごしながら、魔術の研鑽に励んでいる。そんな彼の元に、『それ』がやってきたのは夕方のことだった。

……おや

商館の二階に構えた、工房兼研究室。窓から夕日が差し込む頃、呪い返しの結界に、何か触れるものがあった。悪意ある干渉を跳ね除け撃退する魔力の壁に、ただぬるりと滑り込むような奇妙な感覚。

振り返れば部屋の壁に、まるで影絵のように、黒々と切り抜かれた淑女の姿が描き出されている。貴族の娘を彷彿とさせるドレス、輪郭だけでそれとなく美人であることを伺わせる楚々とした佇まい。

やあ、これはこれは

この精霊には見覚えがある。

しばらく前、商会の隊商に同行していた若き魔女―『アイリーン』の契約精霊で、確か名前は”黄昏の乙女”ケルスティンといったか。アイリーンはブラーチヤ街道で馬賊を撃退したのち、突如隊商から離脱してその後は行方知れずになっていたはずだ。

だが、こうして接触があったということは―

上品に会釈した影の精霊は、そのまま指先でするすると文字を書く。

『お久しぶり、ヴァシリーさん。もしよろしければ、一緒にお茶でもどうかしら』

『秘密のお茶会へご招待』―と。続いて、ディランニレンにほど近い宿場町と、その中のとある宿屋の名前と。

『窓にハンカチをぶら下げた部屋。よろしければ、いかが?』

ケルスティンが首を傾げてみせる。

喜んで伺おう。今すぐ向かうと伝えてくれるかな

ヴァシリーの返答に頷いたケルスティンは、再び会釈してふわりと消えていった。

……ふふっ

魔術師の男は、思わず笑ってしまう。そのしわだらけの顔に、皮肉な笑みが浮かぶのを抑えられなかった。商会の面々は、血眼になってアイリーンとケイを探しているとのことだったが、二人はもうディランニレンを突破して公国に戻っていたらしい。

そうとも知らずに、北の大地の辺境を未だ探し回っているであろう商会の者たちが、滑稽に感じられてならなかった。

『秘密のお茶会』、か

つまり、そういうことだろう。

ひとしきり静かに笑って、真面目な表情を取り繕ったヴァシリーは、傍らの卓上の小さなベルを手に取る。チリンチリンという澄んだ音に、小間使いの少年が飛んできた。

お呼びですか、旦那様

ああ。所用で少し出かけてくる、皆にもそう伝えてくれ。明日の朝には帰るから心配しないように

わかりました、行ってらっしゃいませ

ヴァシリーがふらりと出かけていくのは珍しいことではない。小間使いも慣れた様子で、そそくさと下がっていった。

さて、と

外出用のローブを羽織りながら、夕焼け空を見上げるヴァシリー。まだ明るいので大丈夫だろう、宿場まではそれなりに離れているが、彼の翼ならばひとっ飛びだ。

楽しみだ

にやりと笑ったヴァシリーは、ばさりとローブを翻す。

体を捻るようにして一羽の鴉に変化し、窓から飛び出した。

翼をはためかせる。呪いのせいで生身の肉体はぼろぼろだが、鴉の姿に変化すれば体調はそれほど悪くない。そして毎度のことながら、空を飛ぶのはいい気持ちだ。いつか私は鴉になるのだろうか、などと呟きながら進路を定める。

夕焼け空に鴉が一羽。

ありふれた光景だ。

誰にも気に留められることなく、鴉は楽しげに飛んでいく―

†††

―とある宿場町。野宿で一夜を過ごしたケイたちは、次の日さらに街道を南下し、昼間のうちに宿を取ってのんびりと体を休めていた。

宿屋の一室でケイたちがごろごろしていると、トントン、と雨戸を叩く音。

おっ、来たか

部屋着だけの楽な格好をしたアイリーンが、ベッドから跳ね起きて雨戸を開ける。

『やあ、お嬢さん』

ぱたぱたと羽を震わせる大きな鴉が止まっていた。かすれた声で雪原の言葉(ルスキ)を話す鴉に、アイリーンは驚くこともなくにっこりと微笑んだ。

『お久しぶりね、ヴァシリーさん』

『久しぶり、アイリーン。まさか律儀に約束を守ってくれるとは思わなかった。お招きありがとう』

そこで、窓の桟に止まったまま、ベッドから立ち上がって所在なげにしているケイをちらりと見やる。

Hello

どこかぎこちない口調で、ひらりと片羽を上げてヴァシリーが挨拶した。

こ、こんにちは

少し意表を突かれながらも、ケイも挨拶を返す。ヴァシリーは羽でくちばしを隠しながら、クスクスと笑った。

『いやはや、相変わらず公国語は喋れないんだ。『Hello』の他は『Thank you』と『Nice to meet you』だけで、困ったことに最後の一つに至っては彼には使えない』

『まあ、今から憶えるのは確かに厳しいんじゃないかしら……仕方がないわよ』

『そうだね、精霊語で手一杯さ。ところで、入っても?』

『ええどうぞ、もちろんよ』

アイリーンに招き入れられ、一羽の鴉がぱたぱたと床に舞い降りる。そこで、ズワッと人の姿へと戻った。ぎょっと仰け反るケイにアイリーン。

『……ん? 何を驚いているんだ』

『いえ、まさか、本人が来るとは思ってなかったの。てっきり、使い魔に憑依してきたのかと』

『ああ、それも考えたが、近くにいい感じの使い魔がいなかったんだ。この距離なら私が直接飛んだ方が手っ取り早い』

『今夜は、じゃあどうするの?』

『こっちで宿を取るつもりだ。ゆっくり語ろうじゃないか』

ニチャァリ、としか形容しようがない粘着質な笑みを浮かべてヴァシリー。ちなみに彼には何の他意もない。ただおどけた風に笑うと、そんな風になってしまうだけだ。

ヴァシリーがサッと部屋で手を振ると、周囲の音が消えた。隣の部屋にいたはずの宿泊客の声や、下の階の食堂の喧騒が全く聴こえなくなる。ケイもアイリーンも、ヴァシリーから波動のように発せられた魔力の揺れに気づいていた。

『これは……?』

『君らも、ただ雑談に私を呼んだわけではあるまい? 消音の結界だ、羽ばたきの音を消す術の応用さ』

なんだって?

消音の結界だって。羽ばたきの音を消す術を応用したんだってさ

ほう、そんなことができるのか。それは凄い、知らなかった

ヴァシリーの説明をアイリーンが即座に訳す。言葉こそ通じないが、ケイがあまりにも素直に感心しているので、ヴァシリーは楽しそうに笑っている。

『凄いわね、こんな術があるなんて知らなかった』

アイリーンもまた、驚いていた。ゲーム内に”告死鳥”の魔術師はありふれていたが、使い魔の使役や憑依がメインで、消音の術など聞いたこともない。廃人たるケイとアイリーンが知らないのだから、おそらくプレイヤーに発見されていなかったか、あるいはゲームには実装されていなかったか、のどちらかだ。

『それは良い。君らは何でも知っているのではないかと、少し心配すらしていたところだったんだ』

窓際の小さな椅子に腰掛けながら、ヴァシリー。

『しかし彼(ケイ)に言葉が通じないのは不便だね』

『ああ、それなんだけど、今日はちょっと考えてみたの』

ベッドサイドに放り投げてあったポーチから大きな水晶の塊を取り出したアイリーンは、 ―Kerstin. と名前を呼び、それを床の影に沈める。

Arto, Kerstin-Sensei.

アイリーンの足元の影が伸び、ケルスティンが壁に姿を現す。

『これでいいわ。自動翻訳の術よ』

『自動翻訳? というと?』

ヴァシリーが首を傾げると、彼自身の言葉がすらすらと壁にロシア語で書かれ、すぐに滲むようにして『Auto-translation? What do you mean?』と英語に書き換えられた。

筆談のように会話ができるってわけだ

ケイが英語でそう言うと、今度はその言葉が英語で影絵に表示され、直ちにロシア語へと変換される。

『ほう! これは面白い!』

ヴァシリーは興奮した様子で膝を打った。

『ケルスティンは、どうやら公国語(イングリッシュ)と雪原の言葉(ルスキ)がどっちもわかるみたいだったから、試してみたらできたの』

アイリーンの言葉も、即座に変換されていく。

アイリーンが何を話しているのかもわかるようになった、とベッドサイドの椅子に腰掛けたケイは、なぜか自分のことのように得意げな顔をしている。

ヴァシリー殿とお話するのに、アイリーンに通訳してもらうと時間がかかるからな。この術があれば、不便せずに済むと思う

『……いやはや、私もこれは想像していなかった。本当に優秀な精霊だね。そして、君とも是非話したいと思っていたんだ、彼女には感謝しなければならない』

全くだ、アイリーンにも、ケルスティンにも。……しかし、普通の言葉がわかるなら精霊語なんていらなさそうなものだが……

ケイがぼやくようにして呟くと、ヴァシリーがぱちぱちと目を瞬かせる。

『む、知らないのか。精霊語は『契約』のために必要な言葉だ。我々人間の言葉で精霊に語りかけてもそれは頼みごとの域を出ず、それだけで精霊を動かすことはできない。精霊語で厳密に、そして的確に術の内容を定義することで、初めて精霊は魔力や触媒を対価として受け取れるようになる』

……そうなのか

『ああ。そして私のように、精霊語じゃないと契約精霊と意思疎通が図れない魔術師も少なくない。必ずしも、全ての精霊が人の言葉を解するわけではないんだ。……これはまず、師から教わる魔術の基礎だと思うが』

『私たちは、ちょっと我流なところもあるのよ。精霊語はそれなりに使えるけど、それが必要な理由についてはさっぱりだったわ』

荷物から、宿場で買い揃えておいた酒やツマミを取り出しながら、アイリーン。

『ヴァシリーさんも一杯いかが?』

『おっ、頂こうか』

ヴァシリーとて雪原の民だ、酒好きであることには変わりない。アイリーンから盃を受け取り、礼を言いながらも、さり気なく注がれた葡萄酒に指を浸し、その指にはめた指輪を注視した。―はめ込まれた青い宝石は、色を変えない。

『じゃあ、乾杯といきましょ』

アイリーンが音頭を取り、全員で盃を掲げ、そのまま口にする。

『うん、良い葡萄酒だ』

何事もなかったかのように、舐めるようにして葡萄酒を味わったヴァシリーはにやりと笑う。無言で盃を傾けるケイは、そんな彼の細かい動作に気づいていたが、何も言わなかった。用心するに越したことがないのは、お互い様だからだ。

『……ぷはっ。生き返るぅ~! ここの葡萄酒、美味しいわね。ヴァシリーさんが来るまで我慢するの、大変だったんだから』

早速空にした盃を振りながら、アイリーンは笑ってみせる。

『そいつは済まなかった。この葡萄酒は、こちらで買ったものかね?』

『そうよ』

……下の食堂で売ってたよ。地元のワインだそうだ

『……ほう、なるほど。すっきりとした味わいで良いものだ、これは雪原の民好みの味だよ。商会の者に教えても良いかもしれない』

盃の中身を揺らすヴァシリー。その言葉に、ケイとアイリーンは目配せした。

『……商会といえば、ガブリロフの皆さんは今どうしてるのかしら?』

平静を装ったアイリーンの問いに、ヴァシリーは苦笑を隠せない。

『血眼で君らを探し回っているよ。まさか、もうディランニレンを突破して公国に戻ってきているとは思いもよらないだろう』

『あら、そうなの』

『少なくとも数日前に話を聞いた限りでは、まだ北の大地の辺境を重点的に探っていたはずだ。魔の森に突っ込んだと聞いたが、あれは嘘だったのかね?』

『流石、耳が早いわね』

『当然だよ、私がその耳なのだから』

『あはは、そうだったわ。魔の森に行ったのは本当よ。ただ出てくるのが早かったの』

アイリーンとヴァシリーが話す間、ケイは壁に表示される訳文を読むのに注力せねばならなかった。英語なので理解はできるが、ネイティヴではないので、結局読むのにもそれなりに時間がかかってしまう。とてもではないが、途中で口を挟む余裕はない。

『私たちのことは、伏せておいてくれると助かるわ』

『まあ、わざわざ知らせる義理はない。私は別に構わないよ』

『ありがとう、本当に』

『それより、君らが……というより、ケイが瀕死の重傷者を奇跡のように蘇らせた、と聞いたのだが。流石に眉唾ものだと思ったよ、実際のところ、どうなんだい?』

ヴァシリーが、今度はケイに話を振ってくる。冗談めかしての問いだったが、その瞳には油断ならない光があった。

告死鳥の魔術師は、呪われる身。

彼も『奇跡』に興味があるのだろう。そう判断したケイは、慎重に口を開く。

……一人、知り合いを助けたのは本当だ。俺の命を分けたのさ。代償は酷く高くついたが、それでも彼は良くしてくれたから

重々しい口調で、ケイは答えた。ケルスティンが気を利かせて重々しい字体(フォント)で書き表してくれたが、ちょっと逆効果な気がしないでもない。だが少なくとも、それについて詳しく話す気がないこと、そして『それ』には代償が必要だったことはヴァシリーにも伝わっただろう。実際、限りあるポーションを消費したので、『命を分けた』という表現に嘘偽りはない。

『……ふぅん。まあそうか、代償とやらは想像もつかないが、それが気安いものでないことはわかる』

ヴァシリーは澄まし顔でクイッと盃をあおった。

『ただ、隊商の大勢の前でやったのは良くなかったな。皆、本当に必死だぞ。君の武力を恐れているのか、強硬手段に出るつもりはなさそうなのが幸いだが』

……それは良かった。俺も馬賊相手に張り切った甲斐があったというものだ

飄々として肩を竦めるケイに、ヴァシリーはくつくつと喉を鳴らして笑う。

『……君が単騎で五十人以上もの馬賊を相手取って鬼神の如き活躍を見せた、と聞いたときは何の冗談かと思ったよ。しかし、夜が明けてからもう一度、現場を見回ってみたら、とんでもない量の死体が転がっていて驚かされた。しかも、聞けば君自身、何十本も矢を受けたというのに、戦いが終わったら傷一つなくピンピンしていたと言うじゃないか。人の身とは思えぬ強さ、卓越した馬上弓の腕前、そして若くして魔術の心得まであると来た。これでは、瀕死の人間を死の淵から救い出す『奇跡』も容易く扱えるのではないか―と、外野が考えるのも自然な流れだ』

私だって君らが何者なのか教えて欲しいくらいだ、とヴァシリーは言った。

『まあしかし、公国にいれば、ガブリロフ商会も流石に手が届かない。厄介事を持ち込まれることはないだろう。ただ、噂話が漏れ出すことくらいは覚悟しておくべきかもしれないよ』

……ご忠告、痛み入る

ケイは渋い顔で頷く。と同時に、帰り際に商会の者に見つからなくてよかった、と思わざるを得なかった。

『ヴァシリーさんは、なんでガブリロフ商会に雇われているの?』

と、アイリーンが唐突に問いを投げかける。

『ん、金払いが良いから、としか言いようがない。助手もつけてくれるし、魔術書や触媒の類、そして私の場合、術に不可欠な黒羽の鳥を探すのも容易だ。一日中研究に打ち込むことはできないが、利点はあまりに多い。これを利用しない手はないよ』

アイリーンの読み通り、商会に対する思い入れは全く感じさせない口ぶりだ。

『研究って、ヴァシリーさんは普段どんなことを?』

『そうだな……私は魔除けの護符をよく研究している。より効率の良い素材、より呪いへの抵抗力が強い術式、などなど』

ケイもアイリーンも、感心して頷いた。ヴァシリーは流石に詳しい研究内容までは口にしなかったが、それでも『本物』の魔術師の生活が垣間見えるのは興味深い。

『もし、良い魔除けができたら売ってもらえないかしら?』

『もちろん良いとも。リクエストがあれば優先的に都合はできる』

アイリーンのお願いに、ヴァシリーは鷹揚に答えた。

『それとアイリーン。君の”警報機”の仕組みを応用して、告死鳥の魔術に適用できないかも研究していたよ。一応、基礎理論は完成したから、あとは黒い羽の夜目が利く鳥を探すだけだ』

……夜間に警戒してくれる使い魔か

『……そう。ただし疲労を避けるために、二羽から四羽でのセット運用を考えている。アイリーンの精霊は本当に優秀だから、その点は羨ましいよ。私の術はどうしても使い魔の性能に依存することが多い』

本当に、心底羨ましそうな顔のヴァシリー。告死鳥の魔術は便利なものが多いが、デメリットが強烈すぎる。あからさまに健康を害している魔術師を前に、アイリーンは愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。

『そうだ、それでヴァシリーさん、ぜひ教えて欲しいのだけど。私の”警報機”が完成したら、あれってどれくらいの値段になるかしら?』

『ん? ……ああ、なるほど、相場を知りたいわけだね?』

一発でアイリーンの意図を見抜いたヴァシリーが、ニヤリと笑いながら盃を揺らす。

『そうさな……あれはあまりに便利な上に高性能で革新的だから、……最初はさぞかし高値で売れるだろう……とは思うが、しかし、うーむ……』

腕組みして唸ったヴァシリーは熟考し始めるが、段々その表情が険しくなっていく。

『……公国銀貨五十枚』

やがて、ぽつりと、呟くようにして言った。

ケイとアイリーンは顔を見合わせる。それは、拍子抜けするほど少ない額だった。

茶会(酒)

ちなみに、金貨1枚=銀貨100枚です。

作中世界で、ギリッギリまで切り詰めた農民の食費一年分がだいたい銀貨十枚くらいなんで、決して安い額ではありません。庶民的には。

60. 相場

銀貨五十枚……?

少なくとも金貨は固いだろう、と考えていただけに、ケイたちは動揺を隠せない。

無論、庶民的感覚からすれば、銀貨五十枚は十二分に高額なのだが―魔道具の核をなす宝石などの材料費を鑑みると、儲けはかなり少なくなってしまう。

『そのくらいの値段でないと厳しいと思う』

依然、厳しい表情でヴァシリーは首肯した。

『でも、さっき高値で売れるって言ってなかったかしら?』

『最初はそう思ってたんだが、冷静に考えてみると、そういう結論に至った。主な問題は三つある』

アイリーンの疑問に、ヴァシリーは指を三本立ててみせる。

『一つは、客層だ。この”警報機”を最も欲するのは行商人だろうが、残念ながら彼らの多くはそれほど金持ちではない』

長年、商会経由で魔道具を商ってきたヴァシリーは、大規模な商会に属する商人だけではなく、個人の行商人や一般客の懐事情も心得ている。公国銀貨五十枚。この値段が彼らの支払い能力の限界だろう、とヴァシリーは語った。

口には出さないが、銀貨五十でも相当に厳しい、と胸の内で呟く。

『次に、需要だ。警報機は確かに便利で、見張りの負担を劇的に軽減するが、裏を返せば十分な数の見張りを用意できるならそれで事足りる。この魔道具は、あくまでも追加的要素(オプション)に過ぎないということが一つ』

そのオプションにどれだけ金を払えるか、金を払う『余裕』があるか、という話だ。大規模な商会ほど、大勢の護衛を引き連れていくので警報機を導入する必要性が低く、逆に、最大限の恩恵に与れる個人の行商人や旅人は購入する資金力に乏しい。この商品はコンセプトからしてジレンマを抱えているのだ。

また、警報機により事前に危険を察知できても、結局は、それに対応する人員も必要となる。そして、護衛にはならず者に対する『威嚇』の役割もあるので、警報機を導入してもどのみち人員を削減することはできない。護衛を減らしたせいで夜盗に襲われやすくなるようでは、本末転倒だろう。

『最後に、これは以前も問題になったが、君らに信用と実績がないことだ』

見張りは隊商の生死に関わることであり、その重要な役目を得体の知れない魔道具に任せきりにするわけにはいかない。むしろ、そういったことに抵抗を覚える顧客も多いことだろう、とヴァシリーはしみじみとした口調で言った。警報機の存在が知れ渡り、評判になれば 使ってみよう という気も起きるかもしれないが、現時点では、動作と性能に一定の保証がないという点も痛い。

『その『保証』を買って出ようとしていたのが、ガブリロフ商会だったわけだ。勿論、念入りに試験運用をした上で、だが』

ガブリロフ商会がまず使い、その性能と動作を確認、保証する。そして『評判』を生み出すために、ある程度安価で売り捌いていく。ひとたび巷で評判になれば、悪い商品ではないのだ、あとは飛ぶように売れるはず。値段を上げるとすれば、そのタイミングということになる。

『それまでは、それなりの価格に甘んじるしかないね。評判がやんごとなき方々の耳にも届けば、吹っ掛けることも不可能ではないはずだ。貴族の屋敷の盗人対策としても、大いに活躍するだろうから……個人的には、一般客向けの低性能廉価版と、上客向けの高級版に分けたらいいのではないかと思う』

『なるほど……』

『例えば、高級版はもっと装飾にも凝ったデザインで、警報もただハンマーがベルを鳴らして終わりではなく、オルゴールのようにゼンマイ仕掛けで音を鳴らす仕掛けを組み込んでみる、とか』

『ふむふむ』

『……ただ、それを為すには伝手が必要になる。貴族とも繋がりのあるような、かなりの規模の商会なり、重要人物なり……』

そのアテはあるのか、という言外の問いに、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。

あるな

あるよな

『……あるのか』

……木工職人なら、貴族に商品を卸すような凄腕が知り合いにいる。魔道具のベースの装飾などは問題ないはずだ

ケイが脳裏に思い描くのは、城郭都市サティナの職人・モンタンだ。本業は矢職人だが、木工の腕前も大したもので、彼の工房には見事な装飾や細工が飾られていた。

『商会なら、公国で手広く商ってるコーンウェル商会と仲良くさせてもらっているわ』

続いてアイリーンがそう付け加えると、ヴァシリーはズルッと椅子から滑り落ちそうになる。

『こ、コーンウェル商会。その名は聞いたことがある、とんでもない大手じゃないか。納得したよ、道理でガブリロフ商会なんて歯牙にもかけないはずだ』

公国語さえできたなら私を紹介してもらいたいくらいだ、と苦笑するヴァシリー。

『まあ、君の精霊の力があれば、どんな相手とでもすぐに手を組めるだろう、とは思っていたが……コーンウェル商会か。なんだ、それなら、すぐに良い商売ができるな』

一転、脚を組み、リラックスした姿勢でヴァシリーは穏やかに言う。

『あー、コネがない前提でお話してたのかしら』

『その通り。だからゼロから売り始めることを考えていた。しかし伝手があるなら話は別だよ、君らがコーンウェル商会とどの程度の信頼関係を築いているかは知らないが、それを利用しない手はない。最初に廉価版を売るなり、作品を貴族様に献上するなりで投資は必要かもしれないが、商会に繋がりがあるなら資金も融通がきくだろう』

むしろそこで金を出さないようなら、そんな商会は切った方がマシだ、とヴァシリーは悪い顔で笑う。先ほどまでの深刻な雰囲気は見る影もない、純粋にアイリーンのことを心配して真面目に考えていてくれただけのようだ。

『ああ、そういうことだったの……ちょっとホッとしたわ。“警報機”はウチの主力商品にするつもりだったから、あんまり高値がつかないようなら困っちゃうところだった。銀貨五十枚って、材料費だけでほとんど飛んじゃいそう』

指折り数えながら、力の抜けた笑みを浮かべるアイリーン。魔道具の核をなすのは主に宝石類だ。それなりの大きさと透明度のある高級品でなければ核として長持ちしないため、相応の品を買い求めなければならない。その購入費に加え、宝石に術式と精霊の力を封入する際に必要な触媒や、魔道具の本体となる木細工、ハンマーやベルといった細々なものを買い揃えていると、あっという間に銀貨数十枚が吹き飛んでしまう。触媒となる水晶やラブラドライトもさることながら、基本的に全て手作業で作成されているハンマーやベルも地味な出費となる。

『まあ、それは仕方がない。その代わり貴族には吹っかけてやるといい、公国の貴族は北の大地の豪族や氏族の連中より、よほど金持ちだろうから。そういう意味では、貴族を相手に相場がどうなるかは私にも見当がつかないなぁ』

『大丈夫、庶民向けの限度が知れただけでも有り難いわ。あとは商会の知り合いとの交渉次第ね』

『そうなるね。まあ君なら大丈夫だろう』

私なんかよりよほど口が達者で交渉上手じゃないか、と言うヴァシリー。

『やはり才あるものには機会が与えられるものなのだな、と思わせられる。全く、その若さで、能力に伝手に語学力にと、羨ましい限りだよ』

『あはは、そんな……』

照れたような笑みを浮かべながらも、アイリーンは(貴方こそお上手じゃない)と胸の内で呟く。魔術師と言えば尊大なイメージがつきまとうが、ヴァシリーはそんな雰囲気を醸し出しつつも、適度に相手をおだてて良い気にさせることを意識している―節がある。偉そうな人間が歩み寄ってきて、思いのほか親しげに接してくると、実態以上に気の良い人物に感じられてしまう心理。

ついつい、腹を割って話してしまいたくなる、そんな人柄。だがアイリーンは、彼と話すとき、どうにも見えない棒を押し引きしているような感覚が拭えないのだ。それは直感的なもので、別に悪意を感じるわけではない。だがヴァシリーがそういった言動を心がけているらしい、ということが若干気にかかる。

彼は、一応はガブリロフ商会側の人間だ。仮に商会にはそれほど入れ込んでいないにしても、商会と親しい存在であることは変わりない。あまり調子に乗っていると、ペラペラといらぬことまで話してしまいそうだ。穿った見方はあまり好ましくないが、それでも過度に信頼しすぎないことだ、と己を戒める。

と、ふと隣を見ると、アイリーンへの賛辞が嬉しいのか、ケイが自分のことのように得意げで純真な笑みを浮かべていた。

…………

何とも複雑な気持ちになったアイリーンは、その緩んだほっぺたをグイグイと両手で引っ張ることで、己のモヤモヤ感の解消を試みる。

なっ、なんだよアイリーン

なんでもな~い~!

唇を尖らせて、困惑するケイの頬をグリグリと引っ張るアイリーン。しかしその拍子に、ケイの左頬にうっすらと走る刀傷に目を留めて、小さく溜息をついた。アイリーンがタアフ村で昏睡状態から回復したときには、既についていた傷だ。もちろん、ゲーム時代には、こんなものはなかった―

つっと指先で傷を撫で、目を伏せたアイリーンは、すぐにニカッと笑う。

やっぱりオレがいないとダメだな、ケイは!

何を当然のことを

真顔で即答するケイに、アイリーンは思わず目尻を下げて、その頬をグニグニと揉み始める。

『…………』

突然、目の前で展開され始めた二人の世界に、ヴァシリーは葡萄酒を傾けながら曖昧な笑みを浮かべていた。(これは、遠回しに帰れと言われているのだろうか)などと穿った考えをしていたところ、ふと壁を見ると、影絵の精霊がチョイチョイと二人を指差し、呆れたようにお手上げのポーズを取る。

『……フッ』

どうやらいつものことらしい、とニヒルに笑ったヴァシリーは、窓からすっかり暗くなった空を見上げて、独り葡萄酒をあおった。

すぐに、ヴァシリーを放置してはいけないと、我に返った二人が現実世界へ戻ってきたが、それまでの数十秒がやたら長く感じられたヴァシリーであった。

†††

その後は、何事もなかったかのように、しばらく魔術談義に花を咲かせた。

ヴァシリーがガブリロフ商会で扱っている魔道具についてであったり、その性能や値段であったり、北の大地固有の精霊についての噂話であったり。

『呪いの品は売らないよ。敵を作るし、私も危ないから』

自身の商品を語り出したヴァシリーは、思いのほか饒舌だった。ヴァシリーの扱う品は、そのほとんどが使い魔で、専ら伝書鴉(ホーミングクロウ)の貸出や販売が主らしい。大事に扱えば、鴉は十年ほど現役で使える、とのことだ。変わった注文としては、特定の相手にしか手紙を届けない伝書鴉や、来客があった際に『いらっしゃいませ』と鳴く黒オウムなどもあったらしい。

その他は、簡単な魔除けの護符に始まり、『呪い』を引き受けその術者を特定する身代わり人形や、特殊な透明なインクと、それで書かれた文字が見えるようになるレンズなどなど。

特にインクとレンズは自信作だったらしく、ヴァシリーはやたらと自慢げだった。実際、ゲーム内には存在しなかったものなのでケイたちも興味津々で、二人はこのとき、これ以上ないほどに熱心な聞き役になっていた。ヴァシリーも、そうした話ができる相手に飢えていたようだ。師が亡くなって久しい、とは彼の言葉だ。

ところで、ヴァシリーと話していて、ケイたちにも朧気ながらわかったことがある。

それは、この世界の魔術師にとって一般に『奥義』とされているのは、『魔力の使いすぎで死なないラインの見極め』にあるらしいということだ。例えば、術の過剰行使、呪文の詠唱失敗、触媒不足、自分には過ぎた魔道具の作成などで、魔術師は容易く枯死してしまう。精霊語の教養などはあくまで表面的な知識に過ぎず(もちろん精霊語は魔術の根幹であり最重要であることには変わりないが)、その『枯死回避』のバランス感覚こそが、真なる魔術の秘奥と見做されているらしい。

そういう意味では、ケイたちは既に魔術を極めている。

ゲーム時代の経験で既に、『どの程度の術を使えばどのくらい魔力を消費するか』をだいたい把握できているからだ。『死んで憶える』というのは、この世界の魔術師には不可能な修練法。しかも、魔術を使っていけば、今後どのくらいの成長率で魔力が育っていくかも知っている。修練で無理をしすぎて命を落とす若き魔術師もいる、とのことだったので、二人のアドバンテージは計り知れない。

散々語って、酒とツマミが切れてから、三人は下の食堂に下りて食事を摂った。

しかし草原の民風の大柄な青年に、うら若き金髪碧眼の雪原の民の少女、そしてしわだらけで痩せこけた魔術師風の年配の男、という組み合わせは、旅人や行商人で賑わっていた食堂に一種異様な空気をもたらした。

ケルスティンの翻訳がなくなってしまったので、アイリーンが通訳せねばならず三人の会話は遅々として進まなかったが、それにしても食堂隅のテーブルで和気藹々と飲み食いする姿はあからさまに衆目を集めていた。尤も、三人とも程よく酒が入っていたので全く気にしていなかったが―

ちなみに、ソーセージの盛り合わせやチーズなどをモリモリと食べていたケイたちに対し、ヴァシリーは野菜中心のかなりヘルシーな料理を注文していた。『こう見えて、健康には気を遣っているんだ』とはヴァシリー渾身の自虐ネタだ。冗談にしてはあまりに切実だったが、酒が入っていたのでアイリーンは翻訳するのも忘れて、思わず大笑いしてしまった。

そうして満足するまで飲み食いして、ケイとアイリーンは自室に戻り、ヴァシリーは別に部屋を取って、その日は解散となった―

翌朝。

『ふう……昨日は本当に、柄にもなく騒ぎすぎてしまったな。しかし楽しかったよ、二人ともありがとう』

晴れ渡った空を見上げながら、宿屋の前でヴァシリーはニチャァリと微笑んだ。

『いえいえ、こちらこそ。色々とためになる情報をありがとう』

…………俺もヴァシリー殿と話せて楽しかった。是非また一緒に呑みたいな

アイリーンの翻訳を受けて、和やかにケイ。

『とんでもない、私こそ色々と教えてもらったからね。いやあ、魔術の道は奥が深い。……また機会があったら、是非』

ヴァシリーは満更でもない様子だった。昨夜は、なんだかんだでケイたちも魔術について、特に魔道具を動作させるアルゴリズムについて先進的な考え方をポロポロと披露してしまったので、結果的にヴァシリーもかなり得るものがあったのだ。

『それじゃあ、近くに立ち寄ったとき―まあ、ディランニレンにはもう来ないかもしれないが、そのときは一報入れてくれたまえ。アイリーンの警報機の評判がこちらまで届くのを楽しみにしているよ』

『ありがとう、ヴァシリーさんもお元気で』

……さようなら、また

二人に見送られながら、老練な黒衣の魔術師はバサリと鴉に変化し、北の空へと消えていった。

うーん、告死鳥の呪いはアレだが、やっぱり空を飛べるのは羨ましいなぁ

空の彼方で豆粒のように小さくなったヴァシリーの姿を、しかし未だはっきりと視界に捉えながら、ケイは呟いた。

『―毎度、空から見下ろして思うんだ。人の営みの、その歩みのなんと遅く鈍いものか、とね。皆がもっと速く、スムーズに動ければ、日々の暮らしはもっと豊かになるのだろう。……まあ、そんなことになれば、私は商売上がったりだが―』

昨夜、そう言ってヴァシリーが笑っていたのを思い出す。そんな風に世界を見下ろすことが多いせいか、彼は存外に大局的な物の見方をする人だった。

『―“警報機”は、最初こそ確かに儲からないかもしれないが、隊商の被害が軽減されれば、都市間や辺境での物流が活発になり、その好影響は巡り巡って君らの懐を潤すだろう。物を商うとは、きっとそういうことなんだろう、と私は思うよ―』

あのような歳のとり方をしたいものだ、とケイは思った。

そうだなー、空を飛べたら気持ちいいだろうし……でもやっぱり呪いは勘弁……

んんーっ、と朝日を浴びて背伸びをしながらアイリーン。昨夜は部屋に戻ったあとも何だかんだで夜更かししてしまったので、体の怠さが抜けていないらしい。それはケイも同じだ。

俺もいつか、修行を積めば風で空を飛べるようになるのかな……マントを翼みたいに広げてさ

多分できるようになるだろうけど、着地に難アリだな

アイリーンのにべもない答えに、苦笑する。

違いない。翼は危ないから、気球でも作るか

それも面白そうだな! 魔道具で大儲けしたら自作してみようぜ! ……まあその前にウルヴァーンに戻らないと、だな

……そういえば、ウルヴァーンに戻ったら、ヴァルグレン=クレムラート氏に占星術を教えないと……

……ああ

ケイとアイリーンは、顔を見合わせた。ヴァルグレン=クレムラート―図書館の元銀色キノコヘアーの知識人だ。北の大地への道筋などをアドバイスする代わりに、ケイが占星術を教える約束をしていたのだが、諸々の不幸な事故が起きたため、中止されてしまったのだ。

結局……カツラ、見つかったのかな……

……さあ。ってかケイ、望遠鏡を弁償しろって言われたらどうする?

……アレ、俺たちが弁償しなきゃいけないのかなぁ

だってシーヴが原因だしさ……

ぶつくさと言い合いながら、もう一眠りするために宿屋に引っ込んでいく。

こちらの世界に住み着く覚悟は決めたが、それでもその前に、まだやることは山積しているのだった。

61. 知己

ヴァシリーと別れてから二日。

ブラーチヤ街道を南下し、ケイたちは無事、要塞都市ウルヴァーンへと辿り着いた。

やっぱり街中はホッとするな

だなー

城門をくぐり、肩の力を抜いて笑い合う。

時刻は昼過ぎ。表通りの石畳を、買い物客や商人、旅人たちがゆったりとした足取りで行き交っている。馬の手綱を引いて往来を歩くケイとアイリーンは、やはり衆目を集めていた。片や、朱色の複合弓を手にした重武装の精悍な戦士。片や、サーベルで武装した雪原の民の見目麗しい少女。

草原の民に似た顔つきのケイに対し、若干刺々しい目を向ける者もいたが、北の大地やディランニレンで経験した強烈な敵意に比べれば可愛いものだ。初めてウルヴァーンに来たときは、この程度の疎外感でも随分と辛く感じたものだな、とケイは苦笑する。ここ一ヶ月の旅で、随分と精神面(メンタル)が鍛えられたらしい。

足早にメインストリートを抜けたケイたちは、迷うことなく脇道へ逸れる。通りの向こう側に、デフォルメされた甲虫がエールのジョッキを片手に首吊りした、ユニークな看板が見えてくる。“HangedBug”亭―ウルヴァーンでのケイたちの定宿だ。

小間使いにサスケたちの世話を任せ、見慣れた緑色のドアを開ける。からんからん、というドアベルの音。受付で帳簿を開いていた若い女が、顔を上げて目を見開いた。

あら! ケイじゃない、戻ってきたの!?

“HangedBug”亭の看板娘こと、ジェイミーだ。健康的に日焼けした小麦色の肌に、バンダナでまとめた亜麻色の髪。以前は肩までの長さに伸ばしていたが、ケイたちが旅している間に切ったのか、今はさっぱりとしたショートカットだ。好奇心の強そうな、くりくりとした黒色の瞳は相変わらずだった。

やあ、久しぶりだなジェイミー

外套(マント)を脱ぎながらケイは微笑む。その背後からひょっこりと顔を出し やっほー と手を振るアイリーン。ジェイミーがケイに色仕掛けを試みた件で、アイリーンは彼女に対し思うところがあったようだが、ここ一ヶ月の旅でどうでもよくなったのだろう。

二人とも! 心配したのよ、無事だったのね!

ああ、何とかな……部屋を頼めるかな?

もちろん。何日?

とりあえずは一週間まとめて

ちゃりん、と受付に小銀貨を纏めて置く。

ウチの客がよく話してたけど、北の大地って今、色々と物騒らしいじゃない。大丈夫だったの? 街道沿いに馬賊が出て暴れ回ってるって聞いたけど

帳簿に書き込みながら、ジェイミーは興味津々の様子だ。当たり前だが、距離が離れているので噂は少し遅れているらしい。ケイたちは顔を見合わせた。

……馬賊には襲われたが、まあ何とかなったよ

まあっ、襲われたの? でも無事だったのね、さすが公国一の弓使い……! 馬賊も百だか二百だか、とにかく凄い数だって話じゃない

そうだな、百はいたと思う

へぇー! 話半分に聞いてたんだけど、本当にそんなにいたの? 危なくて北の大地には近づけないわねー。本当に良かったわよ、二人が無事に切り抜けられて

そうだな、あんな目に遭うのはもう懲り懲りだ

肩をすくめるケイ。ジェイミーは二人の無事を喜んでいたが、まさか目の前の人物が件の馬賊を壊滅させたとまでは思っていないようだった。

あとで詳しい話を聞かせてね~、という声を背に、一旦部屋に引っ込む。旅の疲れはあったが、ここでのんびりすると動けなくなってしまいそうだったので、荷物を置くが早いかすぐに図書館へと向かった。

おう、『弓』の

嬢ちゃんも、久しぶりだな

やあ、久しぶり

元気だった~?

顔馴染みの衛兵たちと挨拶を交わしながら、第一城壁を抜ける。たった一ヶ月かそこらしか経っていないはずなのに、上品な館が建ち並ぶ一級市街の街並みは、どこか懐かしく感じられた。そこを抜けたあとにそびえる、豪奢な図書館も。

一ヶ月ぶりに姿を現したケイたちに、普段は無表情を崩さない図書館の門番二人組も おや という顔をしていた。尤も、ケイの視力があって気づけただけで、近づく頃にはいつもどおりの鉄仮面に戻っていたが。

お久しぶりです、ケイさん、アイリーンさん

中に入ると、片眼鏡(モノクル)をかけた背の高い女が、受付のカウンターから二人の姿を認めて声をかけてくる。ケイたちが初めて図書館を訪れたときから、何かと世話になっている受付嬢だ。久々なのでケイは一瞬迷ったが、何とか彼女の名前を思い出した。

やあ、アリッサ。久しぶりだな

お戻りになられたのですね

アリッサの返しに、ケイもアイリーンも ほう と感心した風を見せる。顔見知りではあるが、それほど親しくもない彼女(アリッサ)には、『北の大地へと赴く』と事前に伝えていなかったのだ。それなのに『戻った』という表現が出てくるということは―

早速で悪いが、頼めるかな

声を潜めて、懐から取り出した封筒をカウンターに置くケイ。元銀色キノコヘアことヴァルグレン=クレムラート氏宛の手紙だ。これで、ヴァルグレンが次回図書館を訪ねた際、ケイたちの帰還を知らせてもらえる手筈となっている。

承ります

慇懃に頭を下げるアリッサ。その旨はきちんと彼女にも通達されていたらしい。その後は何事もなかったかのように、近況や最近の出来事など、軽く世間話をしてからケイたちは図書館を後にした。

……もう図書館にも、ほとんど用がないなー

しばらく歩いてから、遠くそびえ立つ叡智の城を見やり、アイリーンは言った。

そうだな。知りたいことは概ね知れたし……

ケイも頷く。暇つぶし、という点では図書館には膨大な詩集や小説なども所蔵されているが、英語なのでイマイチ読む気が起きず、ケイたち『現代人』とは価値観が違いすぎてあまり面白く感じられない。転移に関連する情報収集、という当初の目標は達成してしまった。取り立てて、他に調べたいことがあるわけでもない。

今一度、ケイは図書館を振り返る。

物言わぬ彫像の数々が、静かにこちらを見下ろしていた。知恵と、制御された力を象徴する偉丈夫の石像や、巻物を抱えた賢者、羽衣を纏った精霊たち。

…………

記憶に焼き付けるようにじっくりと眺めてから、ケイは背を向けて歩き出した。

なんとなく、もうここに来ることはないんじゃないか、という気がした。

†††

続いて、ケイたちが向かったのは、コーンウェル商会のウルヴァーン支部だ。

幸いなことに、折よく馴染みの行商人ホランドがいた。サティナからウルヴァーンへ行商の旅を終えたばかりだそうだ。ホランドも北の大地の事変については風の噂で聞き及んでいたらしく、いたく心配していたようで、三人はしばし無事の再会を喜んだ。

それで、どうだった? 北の大地は。目的の賢者には巡り会えたのかい

商館の小部屋に通されて、ゆったりと椅子に腰掛け話し合う。

結論から言うと、賢者はいた。……俺たちの故郷は遠すぎて、もはや帰還は難しいとのことだったよ

かいつまんで、事の顛末を話す。魔の森こと、霧の中の怪物、そしてそこに居を構える奇抜な赤衣を纏った賢者―異世界という概念に関しては、面倒を避けるために省略しておいた。

そうか……

いずれにせよもう帰れない、という結論に、ホランドは瞑目する。心優しい生真面目な商人は、若い二人の境遇を気の毒に思ったようだった。

故郷に戻れないのは、悲しいことだと思う。……ただ、私個人としては、無事に二人ともう一度会えて嬉しいよ

そうだな……ありがとう。幸い、気持ちの整理はできているよ

ありがとな、旦那

しかしそのことについては、もう納得できているので大丈夫だ。顔を見合わせて笑った二人は、言外に、気にする必要はないと態度で伝えた。

と、そのとき、小部屋の扉がキィーと音を立てて開く。

お茶がはいりました~

お盆(トレー)を手に姿を現したのは、ホランドの養女エッダだ。褐色の肌を持つ幼い少女は、ケイを見てパッと顔を輝かせる。

お兄ちゃん、久しぶり!!

やあ、エッダ。ちょっと背が伸びたか?

もう、あんまり変わってないよ! あとお姉ちゃんも、久しぶり!

おー、エッダも元気してた?

以前と変わらず元気溌剌な少女に、柔らかく微笑むケイとアイリーン。皆の前、テーブルにそれぞれのマグカップを置いたエッダは、そのまま当然のようにケイの膝の上にやってこようとした。が、ソファに並んで、ごく自然に、寄り添うようにして座る二人に何かただならぬ気配を感じたらしく、その場でがくりと膝をつく。

もう入り込めないよ……

なにをやってるんだエッダ

ハーブティーを口にしながら、呆れ顔のホランド。エッダはすごすごとお盆を手に下がり、再び戻ってきて、仕方なくホランドの隣にちょこんと腰掛けた。

しかし、賢者か。実在したとは驚きだなぁ

話を戻して、ホランド。

ああ、俺たちも驚いたよ

本人曰く、精霊のような存在らしいぜ。確かに強大な力の持ち主だった

……お近づきになりたいところだが、商売っ気はなさそうだね。何より、その魔の森とやらを私では突破できる気がしない

ケイたちが話して聞かせた化け物を想像したのか、ぶるりと太っちょな体を震わせるホランド。エッダは ? という顔で首を傾げていたが、幼い彼女が話を聞いていなかったのは幸いというべきか。確かエッダは、年相応に怖がりだったはずだ。

ところで、馬賊はどうだった? かなりの規模らしいと聞いたけれども

ああ、それなら壊滅した。もう問題はないと思う

事も無げに答えたケイに、意表を突かれて目を瞬かせるホランド。

商人であるホランドには何か益があるかもしれないので、ケイは率直に馬賊が『壊滅させられた』旨を伝えた。街道沿いの治安が回復すれば、再び北の大地では交易が活発化するだろう。コーンウェル商会には直接関係はないが、その余波は何かしらの影響を及ぼすかもしれない―ホランドはケイのもたらした『速報』に感謝していた。

ほうほう、良いことを聞いた。ディランニレンで商品のやり取りが滞っていたらしいからね、それが解消されるとなると……それなりに準備が必要だろう。事前に知らせてもらえて良かったよ、ありがとうケイ

でも、お兄ちゃんたち、よく馬賊に襲われて無事だったね?

心なしかワクワクとした様子で、エッダが言う。恐ろしい北の大地、暴れ回る馬賊、そしてそんな土地を旅して戻ってきたケイたちに、ある種の冒険譚のような憧れを抱いているのだろう。実際の、血生臭い現場を目にした立場からすれば、そんなにきらきらと輝く目を向けられても―困ってしまうのだが。

……そうだな、大変だったよ

かいつまんで、そして直接的な表現は避けて、ケイは北の大地での旅を語った。隊商に合流して街道を北上したこと、斥候の任務を言い渡され、仲良くなった雪原の民の男と共に馬に乗って広大な平野を駆け回ったこと、そして馬賊の襲撃―『殺す』という言葉を使わないようにするのには骨が折れた。

時折、ケイが言葉に詰まったときは、アイリーンがそれとなく助け舟を出して、より優しい言葉で上手く情景を言い表してくれた。『悪い馬賊をやっつける』ケイを想像し、エッダはしきりに感心したり無邪気に喜んだりしていたが、ホランドはしかし、若干険しい表情をしていた。

ケイが大袈裟に話を盛る人間ではなく、そして何より、“大熊(グランドゥルス)“さえ一撃で絶命させる強弓の使い手であることを知っているだけに、ケイたちが巻き込まれた戦いの規模に圧倒されていたのだろう。同じ行商人として、賊の襲撃には思うところもあったらしい。そしてその影響や、北の大地の今後についても、思いを馳せているようだった。

……それで、二人とも、今後はどうするつもりなんだい?

北の大地の話が一段落したところで、おもむろに、ホランドが尋ねてくる。

ケイとアイリーンは、ぴったり息の合った仕草でほぼ同時に腕組みをし、 うーん と唸った。

そうだな……まだはっきりとは決めてないんだが

とりあえず、オレたちとしてはサティナに落ち着こうかなって思ってる

ケイはウルヴァーンの名誉市民だが、税金の支払い義務はあれど、必ずしもウルヴァーンに住む必要があるわけではない。自由民としてサティナに居着くか、あるいはウルヴァーンの市民権をとっかかりにサティナで市民権を取得するという手もある。市民権取得は容易ではないが、相応のコネと『利』があれば不可能ではないはずだ―

それで、折り入って、ホランドの旦那に相談したいことがあるんだ

ニヤリと笑って、アイリーンが口を開く。意味深な口ぶりに、何かを察したのか、ホランドは ほう と笑みを浮かべて身を乗り出した。

実は、例の”警報機(アラーム)”、ぼちぼち商品化を目指そうと思うんだ

待っていたよ。その言葉を

ばしん、と膝を打ってホランド。

あれが売り出せるならば莫大な利益が見込めるだろう。個人向けに売ってもいいし、ある程度実績ができたら貴族にも売り込みをかけてもいい

おお、協力してくれる? あれ材料費とか結構かかるし、試作もしてみたいからさ

もちろんだとも、それならば全面的に支援できると思うよ。……ただ、あの魔道具はかなり有用だから、逆に君の身を縛ることにもなりかねない。……その覚悟はある、と見てもいいのだね

程度によるけどな。オレはケイと一緒に暮らせるなら、あとはなんでも良いよ

潔く言い切るアイリーンに、ホランドはわざとらしく眉を上げてケイを見やり、ケイははにかんだ笑みを浮かべて照れた。エッダは遠い目をしていた。

まあ、……なんだ。詳しい話はサティナですることにしよう

話を進めようとするアイリーンを、ホランドは手で制する。

……ココじゃない方がいい?

道中でもいいよ

なるほど。旦那が言うならそうしよう

ここはコーンウェル商会の『ウルヴァーン支部』だ。多分、支部やら本部やらで人間関係や実績に関して色々あるのだろうな、と即座に察したアイリーンは、すんなりと引き下がる。

……私ももう歳だからね。そろそろ行商も身に堪えるな、と思っていたところだったんだよ。母さんや、エッダのこともある

傍らに腰掛けた養女の頭を撫でながら、ホランドは静かにそう言った。

そろそろ身を落ち着けたいわけだが、そうするにはやはり、それ相応の手柄が、ね

ぱちん、とウィンクするホランド。 まあ、軌道に乗れば私自身がまた駆けずり回ることになるかもしれないが と笑う彼は、紛れもなく商人の顔をしていた。

ところで、二人とも、夕食について何か予定は?

特に考えてないけど?

それだったら、一緒にどうかな。『Le Donjon』でディナーでも

『Le Donjon』といえば、ホランドと同じ高原の民(フランセ)が経営するレストランだ。身内向けの高級志向、といった風情の店で、少々割高だが味は素晴らしく、ウルヴァーン滞在中ケイたちも度々訪れては舌鼓を打ったものだ。

おっ、いいな!

ぼちぼち空腹を覚えつつあったケイは、一も二もなく飛びつく。

じゃあ、ちょっと着替える必要がありそうだ

ほとんど着たきり雀の旅装を指で摘んで、苦笑いするアイリーン。

その後、商館を辞した二人は、宿屋に飛んで帰って身支度を整えた。アイリーンは水色のワンピース。ケイはカジュアルな麻のシャツと革のベストに着替える。ラフな格好をしていると、腰に括り付けた弓のケースだけがやたらと無骨に見えるが、これは仕方がない。

日が沈んで夕方の鐘が鳴るなり、二人はうきうきと連れ立って宿を出た。一応、財布は持っていくが、この流れならホランドの奢りになりそうだ。久々すぎてレストランの場所を忘れてしまい、しばし道に迷ったのは誤算だったが、ホランドはそもそも時計を持っていないこともあって、待ち合わせの時間には寛容なのが救いだった。

ル・ドンジョンの前では、エプロンドレスでおめかししたエッダに加え、ホランドの母のハイデマリーと、幼馴染みにして護衛のまとめ役でもあるダグマルまでやってきていた。ダグマルもケイたちのことは心配していたらしく、二人を熱い抱擁で出迎えた。

夕食は素晴らしいものとなった。

キャンドルの灯りに照らされながら、ベリー類の甘酸っぱい爽やかな食前酒で乾杯。エッダはお酒の代わりにレモンのジュースを供されていた。前菜は淡水エビと旬の野菜のコンソメゼリー、メインは仔牛のカツレツ。デザートにはバニラに似た香料が使われたクリームブリュレ。どれも『こちら』の世界で作るには恐ろしく手間のかかるもので、ボリュームたっぷりの上質な料理にケイもアイリーンも大満足だった。

ハイデマリーがゼリーを飲み込み損ねて咽(むせ)たり、早々に酔っ払ったダグマルが下品なジョークを飛ばし他の客のひんしゅくを買ったりと、些細なトラブルはあったものの、つつがなく優雅で楽しい時間を過ごし、その日は解散となった。

ホランドによると、二週間もすれば、再び行商でサティナ方面へ出発するらしい。次の日は旅の疲れを取るように宿屋でのんびりと過ごし、その後もウルヴァーン近郊へピクニックに出かけたり、川沿いの村に足を運んで地ワインを味わったりと、存分に羽を伸ばしたが、それでも二人の頭の片隅にはいつも図書館に残した手紙のことがあった。

―平服に騎士を無理やり押し込めたような男、『カジミール』が、ヴァルグレンの使いとして”HangedBug”亭を訪れたのは、その数日後のことだった。

62. 星見

お久しぶりです!

Not nekomimi, but hyomimi

キャラデザラフ・バーナード&コウ

リアルって素晴らしい

素晴らしい(昇天)

ヴァルグレン=クレムラート氏のお言葉を伝える。『約束を憶えていてくれたこと、嬉しく思う。突然だが今夜八時、第一城壁の南門にて待つ』とのことだ

朝、“HangedBug”亭を訪ねてきた男、カジミールはむっすりとした顔でそう告げた。その筋骨隆々な体躯を、やたら仕立ての良い平服に押し込み、どこか窮屈そうにしている。お世辞にも機嫌が良いとは言えず、口に出さずとも なぜ自分がこんなことをせねばならないのだ と思っているのがありありと伝わってきた。

食堂で朝食を摂っていたケイたちは元より、他の宿泊客たちも突然の珍客の登場に顔を見合わせている。下町の宿屋には、えらく場違いな存在だった。

今夜か……随分と急な話だな

スープで堅パンをふやかして食べていたアイリーンが、ごくんと口の中のものを飲み込んで言う。すると、カジミールは思わずムッとした様子で、

閣下―いや、ヴァルグレン様はご多忙の中、わざわざ貴様らのために貴重な時間を割いて下さっているのだ! 光栄に思え!

が、すぐに声を荒げてしまったことを恥じるかのように、咳払いして誤魔化す。

……オホン。それで、もちろん来れるのだろうな?

いや、まあ……行けるけどさ

不承不承、答えるアイリーン。その隣でこくこくとケイも首肯する。射殺さんばかりの眼光で睨みつけられれば、NOと答える気は起きなかった。事実、ケイもアイリーンも暇なのだ。

よろしい。此度は専門の天文学者も同行するそうだ。いいな、今夜八時に第一城壁の南門前だぞ。しかと伝えたからな!

用事は済んだ、とばかりに踵を返し、肩で風を切って去っていくカジミール。後には呆気に取られたような”HangedBug”亭の面々だけが残された。

……あの人、前にも来たわよね。何なの?

水差しを手に立ち尽くしていたジェイミーが、再起動して尋ねてくる。他の宿泊客も我に返って朝食を再開していたが、やはり興味津々なのか、さり気なくケイたちの会話に聞き耳を立てているようだった。

まあ、知り合いのお偉方の使いだな

木製のカップの水を飲み干して、ケイは肩をすくめる。ジェイミーはおかわりの水を注ぎながら、 ふぅん とカジミールが去っていった扉を見やった。

でも使いって言っても、あの人自身も……その、やんごとなき身分なんじゃない?

庶民の格好が全然似合ってないんだけど、とジェイミー。

多分、そうだろうな

ケイは曖昧に頷いた。あの鍛えられた肉体を見るに、十中八九軍属だろう。そして、あの溢れる気品からして、ただの一兵卒ということもあるまい。おそらくは騎士階級。

……そんなのを小間使いにするなんて、そのお偉方って何者なわけ?

ジェイミーの疑問は尤もだ。ヴァルグレンがさらに高位の貴族だったとして、カジミール『しか』使いに出せる人間がいないのか、あるいは使いに出せる人間の中で一番の『木っ端』がカジミールなのか―

わからん。というか、俺たちも詳しく知らないんだ。たまたま知り合っただけというか……そもそも身分に関しては、先方も『隠している』つもりらしい。だから彼も変装させられてるんだろうさ

あらあら、色々と『ワケあり』ってことね。……夜に城門の前で待ち合わせなんて、何をするつもりなの?

ジェイミーは遠慮なく詮索してくる。少なくとも、周囲の宿泊客たちはそんな彼女の姿勢を歓迎しているようだった。

が、残念ながら彼らの期待に応えられるほどの答えはない。

別に大したことじゃないさ、星を見に行くだけだ

へ? 星?

そう、星だ

こう見えてケイは天体観測の専門家でな

ベーコンを豪快に噛みちぎりながら、アイリーンが口を挟む。

以前、その『お偉いさん』に色々と教えてもらったとき、見返りにケイが星に関する知識を披露する約束になってたのさ。それが今日だったってワケ

ああ、……そう

ジェイミーはどこか釈然としない様子だったが、ケイやアイリーンが嘘をついている風もないので、結局は肩をすくめるに留めた。

変なの。あっ、そういえば、来週から部屋はどうするつもり? 延長する?

宿の話だ。初日にまとめて数日分、部屋を取ってあるが、それも今週末で終わる。

いや、結構だ。そろそろウルヴァーンを発つからな

あらら。また旅に出るの?

旅、というか……サティナに戻る予定だよ

ケイが答えると、ジェイミーは へぇ…… と少し俯いて、短く切った亜麻色の髪を指先にくるくると巻きつけた。

寂しくなるわね

言葉とは裏腹に、それほど寂しそうな表情はしていなかった。ケイとアイリーンを交互に見やったジェイミーは、どちらかと言うと二人を羨んでいるようにも見えた。

†††

その夜。

カジミールに睨まれるのは御免だったので、ケイたちは約束の時間よりも少し早めに城門前で待っていた。

既にとっぷりと日は暮れている。この頃は、段々と日が短くなってきた、とケイは星空を見上げて思う。街の住民たちも、ほとんどが床についているのだろう、周囲の家々に明かりはなく、門前でたかれた篝火だけが立ち尽くす二人を照らしている。時折、門の守衛所から胡乱な眼差しを向ける衛兵たちの他は、人影もない。

やあやあ、こんばんは。お待たせしたかな

と、聞き覚えのある声。守衛所の扉が開き、見知った初老の男が姿を現した。

ヴァルグレン=クレムラート氏だ。

続いて、その後ろから平服姿のカジミールと、見知らぬ中年のギョロ目の男。

んっ

んんっ

篝火の明かりに照らされたヴァルグレンの顔に、ケイとアイリーンは笑いを噛み殺してどうにか無表情を保った。

―『髪』が変わっていたのだ。

以前は銀色キノコヘアの異名を(二人の間で)ほしいままにしたヴァルグレンだが、今宵は装いも新たに、茶髪ロン毛での登場だった。

丸顔に団子鼻の人の良さそうな初老の男が、艶やかなサラサラロングヘアで微笑んでいる様はまるで冗談のようだった。

結局あの銀髪おかっぱカツラは見つからなかったのか―代替品にしてもなぜロン毛をチョイスしたのか―というよりそのウィッグはそもそも女物ではないのか―思うところは色々とあったが、とにかく真顔を維持するのに必死で挨拶すらままならない二人に、ヴァルグレンはにこやかに笑いながらファサッ……と髪をなびかせてみせた。

伸ばしてみたんだ。似合うかな?

その一言がトドメとなり、ブッと噴き出すケイたち。どうにか体裁を整えようとする二人にカジミールが怖い顔を見せたが、ヴァルグレンは悪戯を成功させた子供のように大笑いしていた。

―それでは紹介しよう

二人が落ち着いたあと、ロン毛カツラを取っ払って禿頭に戻ったヴァルグレンが、傍らのギョロ目の中年男性を示した。

こちらが天文学者のパブロ=ロブレス博士だ

どうも。今夜は星の動きと天候の関連性をご教授頂けるとのことで

ギョロ目の男―『パブロ』は、品定めするようにケイへじろじろと無遠慮な視線を向けていた。態度から察するに、『星を見れば数日後までの天気がわかる』というケイの話を疑ってかかっているようだ。 よろしく とケイも会釈したが、何とも気まずい空気が流れる。

腰のベルトに差した豪奢な長剣の鞘を撫で、カジミールが ふん と鼻を鳴らした。

それでは行くとしよう

そんな気まずさなどどこ吹く風で、ランタンを掲げたヴァルグレンが歩き出す。ランタン―金細工の枠組みに支えられたガラスの箱の中には、大きめの水晶が据えられており、それが柔らかな白い光を放っているのだ。ケイとアイリーンはそこに背中に羽を生やした小人の姿を幻視する。ヴァルグレンの契約精霊、『白光の精』“トーボルグ”だ。

以前、天体観測をしたときと同様に、市庁へと向かう。市庁舎は、城や見張りの尖塔を除けば、市街で指折りに背の高い建物だ。その屋上で天体観測と洒落込むわけだが、無人になる夜間とは言え、公共施設を自由にできる辺りヴァルグレンの底知れぬ影響力が窺い知れる。

今回は、天文学者のパブロが実用的な望遠鏡を持参しているようだ。前回、シーヴが暴走し吹き飛ばしてしまった豪奢な望遠鏡と銀髪カツラの件で、もしも弁償を求められたらどうしよう、とケイは歩きながら気が気でなかったが、幸いヴァルグレンがそれらに言及することはなかった。

カジミールが先行して市庁舎の様子を確かめ、異常がなかったので屋上まで上がる。パブロが背負袋から器材を取り出してせっせと三脚を組み立て、望遠鏡を据え付けた。

さて、それでは……詳しい話をお聞かせ願えますかな

腰に手を当てて、ぎろりとケイを見やってパブロ。ケイはしばらく彼を観察していて気づいたのだが、パブロはギョロ目のせいでキツい顔つきに見えるだけで、別にケイに思うところがあるわけではないようだった。

わかった。まず天候についてだが、鍵となるのはあの赤色の星だな

ワードナ ですか

そうだ。そしてそれを取り囲むオレンジ色の星々で構成されるのが”神秘の魔除け”座……で、あってるよな?

いかにも

鷹揚に頷くパブロに、ケイはホッと胸を撫で下ろしていた。星と星座の名は、ゲーム内と『こちら』で共通しているようだ。

話が早い。あの”神秘の魔除け”座の中には……何というべきかな……ドリル状、と言っても通じないか、そう、螺旋を描くように色とりどりの星が並んでいるんだが……

どうにか語彙を駆使して、説明を始めるケイ。望遠鏡を覗きながら、パブロは相槌を打って話を聞いている。

その星の並びについては、我々の業界でも有名ですな。不規則な色の星々が、日ごとに循環している―それが世界の魔力の流れの顕れである、と言われておりますが

ほう、それについては初耳だ。しかしそれもあり得る、もしあの星々がこの世界の魔力の流れに関連しているならば、『世界の事象』たる『天候』がそこに反映されていてもおかしくないだろう?

いや、しかし、あの星々の色の規則性については研究が進んでおりますが、天候に関連しているならば、誰かが気づくはずでは

いや、天候を予測するにはこれだけでは不十分なんだ。南の空に青色の星 ニルダ と”守護の御杖”座がある。実は”守護の御杖”座の星の輝きと連動してるんだ

なんですと?

“魔除け”座をもう一度見てくれ。星の渦、下側の一番近いところから順番に色を見て欲しい。片一方は赤、赤、橙、橙、白、青白、青、……となっているはずだ

ケイの言葉に、パブロがきりきりとつまみを捻ってピントを調節する。

赤、赤、橙、白、青白、青……ふむ、ここまで肉眼で見えておられるので?

まあな。それで、その後が、青白、白、橙、橙……

は? ……は? いやいや、待て待て。そこまでは見えませんぞ

は? 望遠鏡でも見えないのか?

いや、君……私も目の良さには自信があったんですがな、肉眼ではそもそも星の渦の三番目程度までしか……

まあいい、何にせよ最初の七つが見えるなら何とかなる……

ケイが空を指差してあれやこれやと語り、そのたびに忙しなく望遠鏡の向きを変えて星を観察するパブロ。何だかんだで二人とも楽しげな様子だ。

石像のように佇むカジミールをよそに、ヴァルグレンとアイリーンはそんな二人を微笑ましげに見守っている。

……そうだ。それで、お嬢さん、北の大地はどうだったかね?

二人を邪魔しないように、そっと静かな声でヴァルグレンが話しかけてきた。

ん? うーん……そうだな、大変だったよ

腕組みしながら、ふぅと溜息をついてアイリーン。ヴァルグレンの頭でキャッキャとはしゃぐ光の妖精は、極力視界に入れないように心がける。

ぽつぽつと、呟くようにしてアイリーンは北の大地での経験を語った。馬賊の出没に始まり、治安の悪化、民族間に漂うぴりぴりとした悪感情、そして隊商での戦闘。魔の森については、ヴァルグレン相手だと、高確率で面倒なことに巻き込まれる予感がしたので、別世界の概念やオズを始めとする『悪魔』の説明はざっくりと削る。

ヴァルグレンは、特に北の大地の情勢に興味があるらしく、神妙な面持ちで耳を傾けていた。

ほう……『魔の森』には、本当に斯様な賢者が

ああ。正体については、のらりくらりとかわされて明かしてもらえなかった。でも呪文なしで『魔法みたいなこと』をやってのけたあたり、大精霊みたいな存在じゃないかな、って個人的には思ってる

さもありなん……

アイリーンの説明に、ヴァルグレンは納得したようだった。

しかし、あの霧の中にそんな化け物がいたとは。つくづく、前回の調査で、興味本位で立ち入らなくて良かったと思うよ

本当だぜ。もし踏み込んでたら、今頃旦那はここにいないかも

怖いことを言うなぁ

ぺちん、と頭を叩いて苦笑いするヴァルグレン。カジミールが背後から厳しい目を向けてきたが、アイリーンは気にしない。

そうだ。北の大地といえば、医薬品が足りてないみたいだぜ。もっと送ったらいい商売になるんじゃないかな、あっちはあっちで”真なる銀(ヴェラ・アルジェント)“とかいう金属の優れた武具があるらしいじゃん?

どうせヴァルグレンも本当は一端の貴族なのだろう、と踏むアイリーンは、そんな話を振ってみた。もしヴァルグレンに伝手と財力があるならば、商売のチャンスになって良し。北の大地に公国の優れた医薬品がもっと行き渡れば、雪原の民が助かって良し。WINWINな取引になるだろう、と思ったからだ。

そのようだね。……そうか、薬が足りていないのか

曖昧な笑顔を浮かべて、ヴァルグレンは顎を撫でた。

……それならば、もっと送らねばなるまいて

何やら不穏な気配を漂わせる初老の男に、アイリーンは胡乱な目を向ける。―直感的に、やはりこの男とは関わり合いになりたくないな、と思った。

しかしそんなアイリーンの内心をよそに、ヴァルグレンは改めてケイを見やる。

ところで、君らはこのあと、どうするつもりなのだね?

どう、とは?

ほら来た、と胸の内で呟きながら、アイリーンはヴァルグレンの真意を尋ねる。

なに、今後の予定だよ。ずっと仮宿住まいというわけにもいかないだろう?

あー……それなら、ぼちぼちサティナに戻ろうかなって

ほう? しかし、ケイはウルヴァーンの市民権を取ってあるし、君ら二人とも図書館の年会費を払ったばかりではないかね?

ぱちぱちと目を瞬かせてヴァルグレン。ウルヴァーンを離れる意志を見せたことに驚いたようだ。そして、市民権に関してはさておくとしても、図書館の会費は決して安いものではなかった。なにせ金貨が吹き飛んだくらいだ―まだ十ヶ月以上図書館を利用できるのに、今去ってしまうのはあまりに惜しいのではないか、とヴァルグレンは言外にそう言っている。

や、まあそうなんだけどさ。サティナの方が余所者には暮らしやすいっていうか……ウルヴァーンは、異邦人に冷たいじゃん?

……そうかもしれないが

あと、家を借りるのも予算がないし、宿も結構高いしなー。サティナで安い家でも探そうかな、って思ってるよ。サティナの方が、近くに未開発の森もあって、ケイが弓の腕を活かしやすそうだし

そうか……うぅむ、しかし、彼ほどの弓の腕前でただの狩人とはあまりに惜しい

ヴァルグレンは、ふとそこで初めて思い出したかのように、首を傾げた。

それに、彼は風の精霊と契約しているのではないかね?

にっこりとした笑みの中で、その瞳だけは笑っていない。

なんなら、ウルヴァーンの魔術学院でも紹介するが……

いや~……意味ないんじゃないかな。ほら、旦那も知っての通り、ケイの精霊って、その……なかなか自由でさ。それにケイも若すぎるし、魔力も弱いしで、まともに扱えないんだってさ。魔術学院ってのはそりゃ有り難い話だけど、ちょっと難しいと思う

ふむ。……君も、素質があるように思われるが?

いやいや、学院ってガラじゃないから遠慮しておくよ、オレはただのんびり過ごせたらそれでいいんだ……

たはは、と困ったような笑みを浮かべてアイリーンは少し距離を取った。

そうかね? それは残念だ

飄々とした様子で、ヴァルグレンはおどけて肩をすくめてみせる。それほど固執するつもりもないようなので、アイリーンは密かに胸を撫で下ろした。

……そうさ、それでいいんだ

何やら熱心にパブロと話し込むケイを見て、アイリーンは儚く笑う。

―彼には、のびのびと過ごして欲しい。

人の欲望やしがらみとは無縁に、ただ自由に生きてもらいたい。そして、そんなケイを、屈託なく笑う彼の姿を、ずっと見ていたい―それが、アイリーンの願いだ。

あっ。っていうか、オレも天気予報の方法は知らないんだよ。忘れてた

いつもケイに任せっぱなしで、結局アイリーンも具体的な方法論については知らないままなのだ。望遠鏡もあることだし、今ここでケイの解説を聞かずしてどうする、と思い立ったアイリーンは、いそいそと熱心に話し込む二人へ近づいていった。

パブロの旦那、オレも望遠鏡(コレ)借りていい?

むっ。もちろん構いませんが……壊さないように

大丈夫、だいじょーぶだって

ああっ、そんなに強くツマミをひねらないように! 繊細なんですから!

やいのやいのと騒がしい三人を、ヴァルグレンは微笑ましげに見守っている。

ただ、その後ろで腕組みをするカジミールだけが、つまらなさそうに ふん と鼻を鳴らしていた。

†††

結果、ケイはパブロに、己の持ち合わせる天候予測の知識を全て伝授した。

真偽については、今後パブロを始めとする天文学者たちがデータを取って確認するそうだ。その点、ヴァルグレンはケイをある程度信用しているらしく、結果がわかるまでウルヴァーンで待つ必要はない、と言い残していった。

去るなら、別にそれで構わないというわけだ。

数日後、コーンウェル商会の隊商も準備が整ったとのことで、ケイとアイリーンは、ウルヴァーンを発ち、サティナへ戻ることにした。

早朝、“HangedBug”亭の面々に別れを告げ、サスケたちを伴って街の外へ。ウルヴァーン外縁部の宿場町では、既に隊商の馬車が列を為している。ホランドとエッダ、そして以前旅路を共にした護衛仲間たちの懐かしい顔がそこにはあった。

ケイが隊商にいてくれるなら百人力だぜ!

また”大熊(グランドゥルス)“が出てもへっちゃらだな!

道中の飯が豪華になるぞ~!

皆、ケイの弓の腕前には絶大な信頼を寄せているようだ。今回、ケイとアイリーンは護衛ではなくただ同行するだけなのだが、それでも眠りながら進むわけではないので、それなりに警戒はするしトラブルがあれば対処する。隊商の皆からすれば頼もしい戦力には違いなかった。

いやー、なんだか懐かしいな。こうして並んで進むのは

隊商が進み出し、荷馬車の横で手綱を握るケイは、御者台のホランドに話しかけた。

そうだね、でも前回一緒にウルヴァーンに来たときから、まだ三ヶ月くらいしか経ってないんじゃないかな

まだそんなもんか

いやーここ数ヶ月は濃かったからなぁ……

背中に背負った円盾の位置を調節しながら、しみじみとアイリーン。

おにーちゃんが一緒だと安心だね!

ホランドの横に座るエッダが、バンザイのポーズではしゃいでいる。ヴァルグレンの都合によっては、ケイたちが一緒にサティナに来れなかったかもしれないので、随分と心配していたそうだ。晴れて一緒にいられて嬉しいのだろう。

と、そうこうしていると、ホランドの馬車の幌の中から、ぽろろん、と柔らかな琴(ハープ)の音が響いてきた。

ああ、そういえばお客さんを紹介していなかった

おや、という顔をするケイとアイリーンに、ホランドが背後に何事か話しかける。

すぐに、馬車の幌からひょっこりと浅黒い肌の男が顔を出した。羽飾りのついた帽子をかぶり、小洒落た服を身にまとった、凛々しい顔つきの美青年だ。

こちらは、吟遊詩人の『ホアキン』。彼とは長い付き合いでね。今回サティナへの旅を共にすることになったんだ

ご紹介に与りました、『ホアキン=セラバッサ』です。歌と琴を生業としております……お二人とも、どうぞよしなに

帽子を脱いで会釈する吟遊詩人―ホアキン。きらりと白い歯が眩しい。独特な訛りがあるが、海原の民(エスパニャ)だろうか。

彼の琴の腕前は大したものだぞ。大精霊はホアキンにこそ琴の才を与えたもうた。休憩時間を楽しみにしているといい

ホランドは上機嫌だ。ホアキンははにかんだような笑みを浮かべている。

ウルヴァーンからサティナへと向かう旅は、そうして和やかに始まった。

63. 吟遊

今回は Dehors Lonc Pre という中世の曲を参考にしてみました。

川のほとり。

穏やかな陽光の差し込む木立に、軽妙な、それでいてどこか物悲しい音色が響く。

馬車の傍、木箱に腰掛けた青年が、琴(ハープ)を爪弾きながら歌いだした。

心の落ち着き 今はなく

この胸は ただ高鳴るばかり

かつての安らぎ 今はなく

この想い ただ募るばかり

彼の女(ひと)いまさぬ 朝夕は

荒野にも似て うら悲し

この眼に映る 物みな全て

冷灰のごとく 味気なし

哀れ わがこの頭

物に狂いて 常ならず

哀れ わがこの心

千々に乱れて 埒もなし

ああ 心の落ち着き 今はなく

この胸は ただ高鳴るばかり―

隊商がウルヴァーンを出立して、半日が過ぎようとしている。川沿いの木立で小休止を取る隊商の面々は、思い思いに体を休めながら、吟遊詩人―ホアキンの歌声に耳を傾けていた。

ホアキンが歌うのは、どうやら一人の男が娘に恋をして、彼女の気を引くため無鉄砲な行動を繰り返すうちに破滅の道を辿っていく―という喜劇とも悲劇ともつかぬ恋歌のようだった。

ネイティブな英語話者ではないケイにとって、歌詞の全てを聴き取るのは容易ではなかったが、それでも物悲しいメロディと、それとは裏腹なえげつない内容とのギャップには思わず苦笑を禁じ得なかった。ホアキンが真面目くさって、感情を込めて男の心情を歌い上げているので、余計にその落差が引き立てられ妙な笑いを誘う。

この曲の趣旨はそういった皮肉な可笑しさを楽しむものらしく、隊商の皆も昼食を口にしながら大笑いしている。

大したものだな……

大きめの切り株に腰掛けサンドイッチを頬張るケイは、演奏の邪魔にならないよう声を落とし、隣のアイリーンに囁きかけた。ホアキンは早めに軽食を摂っていたようで、休みなく歌い続けている。

ああ。久々に音楽らしいものを聴いてる気がするぜ……

ケイと同じ切り株を分け合って、横にちょこんと座るアイリーンが、サンドイッチを咀嚼しながら頷いた。確かに、アイリーンの言う通り、音楽らしい音楽を耳にするのは随分と久しぶりのことかもしれない。

蓄音機も電子機器も存在しない『こちら』の世界では、歌は人が歌うものであり、曲は人の手によって演奏されるものなのだ。これまで、酒場や村で人々の歌う民謡は幾度となく耳にしたが、『プロ』の演奏家の曲を聴くのは今回が初めてだった。

DEMONDAL のゲーム内にも、引退したプロのミュージシャンが幾人かおり、度々演奏会が開かれていたものだ―とケイは懐かしく思い出す。その点、ホアキンの演奏は、現代社会で耳が肥えていたケイとアイリーンからしても、文句のつけようがないほど素晴らしいものだった。

いつもとは違う、賑やかな休憩時間を終えて、隊商は再び進み出す。

見事な演奏だったよ

サスケに跨り、ホランドの馬車の横を進むケイは、荷台のホアキンに声をかけた。

やあ、お褒めにあずかり光栄です

ハープを片手に、荷物の木箱にもたれかかって座っていたホアキンは、照れたように脱帽して応えた。本当に、男から見ても惚れ惚れとするような美青年だ。あらゆる動作が様になる―それでいて気取った風もなく、いやらしさもないので、ついつい好感を覚えてしまう。

『プロ』の演奏、しびれたぜ。夜も歌ってくれるんだろ?

ケイの隣で、スズカに乗るアイリーンが身を乗り出して尋ねる。

ええ、もちろんですとも

そいつは楽しみだ

ご期待ください

和やかに話す二人。

ちなみに、出立前にホランドからこっそり教えられたのだが、ホアキンは他人の女には手を出さない主義だそうだ。 だから安心していいよ とウィンクするホランドの顔を思い出して、ケイは思わず苦笑してしまう。当の本人は、素知らぬ顔のまま御者台で手綱を握っていた。

ホアキンおにいちゃんの歌、いいよねえ。あたしもあんな風に歌えたらなぁ

ホランドの隣、御者台に腰掛けるエッダが唇を尖らせて、ぼやくようにして言う。

エッダは、声質がいいからね。いっぱい練習すれば、きっと僕よりもずっと人気の歌手になれるよ

ほんと?

うん、本当だとも

じゃあ、あたしも練習する!

にっこりと笑ったエッダは、足をぷらぷらとさせながら、先ほどホアキンが歌っていたメロディを、舌足らずながらもなぞり始めた。

ホアキンもサティナを目指してるようだが、ウルヴァーンの前はどこにいたんだ? 吟遊詩人(バード)といえば、各地を転々としているイメージがあるが……

そんなエッダを微笑ましげに眺めながら、ケイが尋ねると、ホアキンは帽子の羽飾りをいじって そうですねえ と答えた。

ウルヴァーンには一ヶ月ほど逗留しましたが、その前は東の、オスロという小さな街に滞在しておりました。その前は、さらに東の果て、辺境の都市 ガロン に

鉱山都市 ガロン か

ええ、ええ、そうです。ご存知で?

名前だけな。実際に訪ねたことはないよ

そうでしたか。熱気と活気に包まれた賑やかな街ですよ。周辺の村から出稼ぎに来る者も多いので、僕もなかなか稼ぎやすいんです

当然ながら、吟遊詩人であるホアキンの収入源は聴衆からの『おひねり』だ。極稀に貴族や商人に招かれて演奏することもあるようだが、安定しない。夏場は東の辺境で、冬場は暖かな西の沿岸部で、と旅しながら巡業するのが彼のスタイルらしい。

あまり一箇所に留まっていても、『飽き』が来てしまいますからね。ガロンなんかは大きな都市なので、酒場を転々としていけばそれなりに稼ぎ続けられるんですけど、僕には旅が性に合っているようで

照れたように笑いながら、ホアキンはそう語った。ちなみにサティナには一ヶ月ほど滞在する予定で、その後は冬になる前に港湾都市キテネへと移動するそうだ。

へえ、旅ばかりってのも疲れそうなものだがなぁ

こんな毎日ですから、旅のない人生の方が想像できないくらいですよ

移動は、やっぱり隊商と一緒に?

ええ、近場の村ならともかく、一人で旅するのはおっかないですね。特に、吟遊詩人なんかはお金を持ち歩く場合がほとんどですから、狙われやすくって

成る程、それは確かに恐ろしいな

しみじみと相槌を打つケイ。

なあなあ、いろんなところに行ったことがあるみたいだけどさ。やっぱり、地域ごとに人気な歌って違ったりするのか?

アイリーンは興味津々な様子で質問を投げかける。ホアキンはポロロンと琴を鳴らしながら、 ふむ と考え込んだ。

そうですね。東の辺境では、明るい喜劇か、意外と恋歌なんかが人気ですね。逆に西の都市部では、英雄譚や冒険譚がより好まれているように感じます。尤も、初めはみな娯楽に飢えているので、どんな曲でも等しく歓迎されますが……

へえー。例えば、どんな歌があるんだ?

先ほどの『恋狂いのジョニー』なんかは、かなりの人気曲ですが、そうですね、最近といえば……ああ、交易都市サティナを舞台にした、『正義の魔女』事件の歌は、東の辺境でも大人気でしたよ

……『正義の魔女』?

首を傾げるアイリーン。

ええ。しばらく前に、南から流れてきた同業者に聴かせてもらいましてね。サティナに巣食う麻薬の密売組織を壊滅させ、誘拐された幼い少女を救い出した、旅の魔法使いの話です。なんでも、つい最近起きたばかりの実話が元になっているそうで、その魔法使いは影の精霊を従える、息を呑むほどに見目麗しい金髪の乙女だったとか……

ホアキンは、ふとアイリーンを見やってくすりと笑った。

そういえば、アイリーンも『金髪の乙女』ですね

えっと……うん、まあ……

アイリーンは何とも言えない顔で曖昧に頷いている。わかってて言っているのだろうか、と思うケイだったが、御者台のホランドとエッダを見ると何やら笑いを噛み殺していた。ひょっとすると、ホアキンは何も聞かされていないのかもしれない。

それと他には……辺境で大暴れしたという北の大地の戦士『銀刃』の武勇伝や、北東の街オスロ近郊の山に現れるという『白き竜』の伝承……ああ、そういえば、ここらの村であったという『大熊殺しの狩人』の伝説、これも辺境で人気でしたよ

『大熊殺しの狩人』……?

首を傾げるケイ。

ええ。小さな開拓村を襲った突然の悲劇― 深部(アビス) より出でし恐怖、“大熊(グランドゥルス)”。山の如く巨大な怪物の襲撃に、あわれ無力な村人たちの命は風前の灯火かと思われた。が、まさにそのとき! そこに屈強な狩人が颯爽と現る。見上げるほどに巨大な化け物に、怯むことなく鋭い一矢を浴びせ、心の臓を見事撃ち抜いた―!

途中から、ハープを爪弾き、ノリノリで歌い始めるホアキン。

ええ、これも人気ですし、僕もお気に入りの英雄譚です。なんでしたら、今夜、本格的にお聴かせしますよ。異邦の旅人が颯爽と現れ、人々の危機を救う話っていいですよねえ。黒髪に、深く穏やかな漆黒の瞳。その者、褐色の駿馬を駆り、面妖なる蒼き革鎧を身にまとい、朱き強弓を携え……

と、そこまで口にしたところで、ふとハープを弾く手を止め、ホアキンは眼前のケイをまじまじと凝視した。

黒髪黒目で褐色の馬を駆り、青みを帯びた革鎧を装備して朱色の弓を携えた若き異邦の戦士を―

えっと……

何とも言えない顔をしているケイを前に、硬直して視線を彷徨わせるホアキン。

……ブッ。ンふっ、くふふ……ッ

と、そんなホアキンを横目でチラ見したホランドが、堪えきれずに噴き出した。

……その、まさかとは思いますが?

恐る恐る尋ねてくるホアキンに、ケイはどう答えるべきだったのだろうか―

―ええっ!? 嘘でしょう?! まさか貴方のことだったとは!

ホランドから事実を知らされた際のホアキンの仰天っぷりは、その後、隊商の皆の間でも語り草になったという。

大興奮のホアキンの矢継ぎ早の質問に答えるうち、日は傾いていき、やがて隊商は小さな村に辿り着いた。

今日は、この村で一夜を明かすのだ。アイリーンが”警報機(アラーム)“を取り出し、影の魔術を披露した際の、ホアキンの顔はなかなかに見ものだった。

次回、やり手の吟遊詩人に魔道具を売り込んでみよう の巻

64. 営業

お久しぶりです!!

前回のあらすじ

吟遊詩人 昔々あるところに、正義の魔女ありけり

アイリーン(オレだ……)

吟遊詩人 昔々あるところに、大熊殺しの狩人ありけり

ケイ 俺だ!!

吟遊詩人 えッ!?

月夜だ。

草原の風が頬に心地よい。

頭上には、ケイの瞳には眩しいほどの満月。

篝火に照らされた村の広場に、陽気な音色が鳴り響く。普段は寂れた小さな農村も、今宵ばかりは賑々しい。木箱に腰掛けたホアキンが、大勢の村人に取り囲まれながら琴(ハープ)を爪弾いている。

娯楽に乏しい田舎では、吟遊詩人の来訪は数少ない楽しみだ。ホアキンの歌う冒険譚に、恋物語に、そして大都市を舞台とした悲喜劇に、大人も子供も目を輝かせている。

さらに今夜の演奏は特別だ。まるで映画のスクリーンのように張られた荷馬車の幌、そこに踊る影。アイリーンが仕掛けた”警報機(アラーム)“から伸びる影が、ホアキンの歌声にあわせて物語の情景を描き出していた。

輪郭だけでも恐ろしいような、辺境の巨大な怪物に子供たちは息を呑み、それを討ち倒す戦士の勇姿に男たちは歓声を上げた。一転、貴族の館で繰り広げられる甘い恋の一幕には、女たちもうっとりとした様子。

北の大地で成長したのは、どうやらケイとアイリーンだけではなかったらしい。水を得るため強行した『邪悪な魔法使い』作戦などを通し、ケルスティンは現代人たるケイたちにも通用するほどの演出力を身につけていた。その映像美術は『こちら』の住人に対しても効果絶大で、ケイのそばにいたエッダなどは興奮のあまり立ち上がって、飛び跳ねながら観劇していたほどだ。

大いに盛り上がったところで、最後にホアキンが陽気な歌を歌い出し、皆で篝火を囲んで踊ってお開きとなった。ケイも、アイリーンに連れ出されて、慣れないながらに踊ってみた。振り付けも何もない、ただ手を繋いでくるくる回るような単純なものだったが、その場の空気も相まってやたら楽しく感じられた。アイリーンの手を握りながら、しみじみと、 ああ、平和な場所に戻ってきたのだなぁ と実感するケイなのであった。

―いやぁ、今夜は大盛況でした

一息ついたところで、ホアキンがケイたちのテントまでやってくる。おひねり代わりにもらった果物や野菜、干し肉、果実酒の壺などでその手はいっぱいになっていた。

どうです、一杯

おっ、頂こうか

呑もう呑もう!

ホアキンの申し出に、ニヤリと笑うケイ、身を乗り出すアイリーン。三人はその場で小さな酒宴と洒落込んだ。歌い通しで疲れていたのだろう、木のゴブレットになみなみと葡萄酒を注いだホアキンは、美味そうにそれを飲み干していく。

ぷはっ。生き返りますね

この辺りの葡萄酒は美味いな。それにしても、見事な演奏だったよ

オレたちも楽しませてもらったぜ

いえいえ、ケルスティンのお陰で、僕も新鮮な気持ちで歌えましたよ。彼女は本当に凄いですね

未だ、馬車の幌でくるくると踊るケルスティンを見やって、ホアキン。

できれば、これからも共演してもらいたいくらいです

そんな冗談交じりの言葉に、アイリーンがぴくりと反応した。

う~ん、ケルスティンはオレの契約精霊だからなぁ。ずっと共演は難しいかな

まあ、そうでしょうね

当然のことだ、と苦笑交じりのホアキンをよそに、ふむぅ、と顎を撫でながらアイリーンは思案顔。たとえ”警報機(アラーム)“を魔道具化しても、現状のような柔軟な対応は望むべくもない。そこに居るのは、宝石類を核としたある種の人工知能―ケルスティンの分霊に過ぎず、呪文として封入された行動を忠実に実行することしかできない。

が、裏を返せば、行動を設定さえしておけば、どうにかなるということだ。

……やりようによっては、あらかじめ準備しておいた影絵を、状況に応じて出力することくらいはできるかもしれないぜ

……と言いますと?

例えば、決まったフレーズなり曲なりに反応して、影絵を表示する魔道具……みたいな。“投影機(プロジェクター)“とでも呼ぼうか。どんな図柄を出すか、あらかじめ決めておく必要があるから、今夜みたいな即興は無理だけど、何種類か用意しておけば演出としては使えるんじゃない?

ほうほう。『辺境の怪物』『勇敢な戦士』『貴族の館』といった具合に、いくつか絵を用意しておいて、物語の進行具合に応じてそれを投影し切り替えられる道具、ということでしょうか

そうそう、そんな感じ

理解が早い。ホアキンは興味をそそられたようで、そのような道具をイメージしているのか、空を見上げながらしきりに頷いていた。

それは素敵ですね……でも、お高いんでしょう?

いやー、まあ、そりゃなあ

通販番組のような返しに、アイリーンも苦笑を隠せない。

魔道具の核の部分に宝石が必要だからなー。影絵を出す魔道具なんて作ったことないから、どのランクの宝石が必要になるかわかんないんだけど……インプットする影絵の数にも依存するしなあ、うーん……

アイリーン、影絵を一枚出すだけの魔道具は、どのくらいのコストがかかるんだ?

腕組みをして頭を悩ますアイリーンに、ケイが横から口を挟む。

えっ? それなら……そうだな……影絵一枚……水晶と、それに封入する触媒……ペンダント型にするとして……んっと……

指折り数えてしばし考えたアイリーンは、やがて 銀貨五枚くらいかな という結論に至った。おそらく原価に近い値段。

影絵一つで銀貨五枚、ですか。それはなかなかですね……

庶民視点では、安い、とは言えない額だ。ちなみに、比較的大食いのケイが、飯屋で豪勢に腹いっぱい飲み食いすると、だいたい小銀貨三枚―銀貨0.3枚ほどの金額になる。酒を頼めばもっと行くだろう。

それに加えて、触媒代がかかるかな。一回使うたびに、爪先くらいの、ちぃ~っさな水晶の欠片が必要になる、はず

ちいさな、の部分を強調し、指で僅かな隙間を作ってみせながらアイリーン。あまり反応が芳しくないので、運用費はそれほどかからないことをアピールする狙いがあったようだが、ホアキンは逆に さらに金がかかるのか…… と言わんばかりの顔をした。

魔道具は高い、とは聞いていましたが、使うのにもお金がかかるんですねえ

……まあ、所詮は魔術師の手作りだからなぁ……精霊の力がこもった、本物の魔道具にはどうしても劣るさ

がくり、と肩を落とすアイリーン。

ちなみに銀貨五枚って、原価だからそこんとこヨロシクな。ホアキンの旦那の魔力がそれなりに強ければ、使用者が魔力を供給するタイプにしてもいいんだけど……

値段については心得てます、他言はしませんよ。そして僕は普通の人ですから、魔力を使うだなんて、そんな真似をしたら死んでしまいます

意外となんとか……いや、何でもない

何回か訓練すれば大丈夫じゃないか、と言いかけたケイだが、口をつぐんだ。それで万が一、失敗して死んでしまったら、責任が取れない。

しかし見方を変えれば、アイリーンの契約精霊・ケルスティンは、数いる精霊の中でもずば抜けて術行使に要求される魔力が低いので、一般人でも気軽に魔力を鍛えられる魔道具を開発できるのではないだろうか。

(……便利だが、露見すれば危険を招くかもしれんな)

あとでアイリーンと話し合っておこう、と一人頷くケイ。

―とは言え、その魔道具に大いなる可能性を感じるのも確かです。現金ばかり持ち歩いていても仕方がありませんし、それならいっそ、価値ある魔道具に換えてしまうのもアリかもしれませんね

そんなケイをよそに、やはり魔道具の魅力には抗いがたかったのか、気を取り直して前向きに検討し始めるホアキン。

オレも造ったことないから、今すぐにはできないけどな。材料の目処も具体的には立ってないし。一応、ホランドの旦那が、色々と工面してくれるって話なんだけど

ホランドの荷馬車の方を見やりながら、あぐらをかいたアイリーンが頬杖を突く。

あと、ホアキンの旦那には、できれば宣伝をお願いしたいかなって思ってたんだ

宣伝、ですか

うん。実は”投影機(プロジェクター)“より先に、“警報機(アラーム)“を商品化しようって話でさ。旦那としては、あれどう思う? 売れそう?

広場の中心に設置された警報機を指差しながら、アイリーンは問う。

範囲内に外敵が入ったとき、音が鳴る魔道具、でしたっけ

そう。あと外敵を影で脅かすおまけ付き

値段はどの程度で?

銀貨五十枚くらいかな

アイリーンの答えに、ホアキンは難しい顔をした。

厳しいですね。有用なのは確かですが、……よほどの酔狂でない限り、個人では買わないでしょう。懐に余裕のある商人なら話は別ですが、僕が商人なら、むしろその予算で護衛の数を増やそうとするでしょうね……

やっぱりかぁ

存外、辛辣な答えに、がっくりと再び肩を落とすアイリーン。

一般人に売るよりも、貴族や金持ちを相手にした方が良いのでは?

オレたちもそうしたいんだけど、実績がないからさ……

……ああ、なるほど。宣伝というのはそういう意味でしたか

実績を積み上げて次につなげたい、というアイリーンの意図を汲み取ったようだ。

そういうことなら、微力ながらお手伝いできるかもしれませんが、僕としては投影機の方がまず欲しいですね。基本的に僕は隊商に加わって、大所帯で移動することが多いので、警報機よりも影絵の方が即戦力になる、と申しますか。優先順位の問題ですが

う~ん……じゃあ、警報機(アラーム)との複合型なんてどうだろう? 投影機(プロジェクター)の機能を組み込む形でさ

いや待てアイリーン、それだと警報機単体の性能が伝わりにくいから、宣伝としてよろしくないんじゃないか? それに機能を複雑化させるとトラブルの元だぞ

多機能すぎて失敗した数々の日本製家電を知るケイは、思わず口を挟む。ある程度目的が合致した機能を複合させるならともかく、警報機と投影機の複合型などテレビ付き防犯ブザーのようなものだ。バラして売った方が良いに決まっている。

そ、そうかもな。じゃあ、投影機に、格安で警報機をつけるって形でどうだろう……具体的な値段はホランドの旦那と要相談だし、試作もしないといけないし、すぐの話にはならないと思うけど

ええ、ええ、それで構いません。僕としても楽しみです、まさか自分が魔道具の持ち主になろうとは、夢にも思いませんでしたよ

にこにこと朗らかに笑うホアキン。曰く、しばらくはサティナに滞在予定だし、仮に出ていっても冬が明ければまた戻ってくるので、別に魔道具の受け取りは急がないそうだ。宣伝も快く引き受けてもらえるとのことで、とりあえず当初の目的は達成できた。

その後、ホアキンの旅の思い出話や隊商の面々についての他愛もない噂話などで盛り上がってから、酒宴はお開きとなる。ぼちぼち眠気を覚えつつあったケイとアイリーンは、仲良くテントで寝転がったが、 う~ん…… とアイリーンはまだ何かを考えている様子だ。

どうした? 寝れないのか?

……いや。よくよく考えれば、さっきの営業(セールス)は主導権握られっぱなしだったな、と思ってさ

……そうか?

うまいこと、こっちから譲歩するように誘導されてた気がしてきた……やっぱ一筋縄じゃいかねーな、話と演技に関しては、あの人プロだわ

ぐぬぬ、と少しばかり悔しげなアイリーンに、ケイも先ほどの会話の流れを振り返ってみたが、確かにそんな気もしてきた。

まあ、宣伝費用と思えば安いものだろう。プライスレスさ

……それもそうだなー。プライスレス、ぷらいすれす……

眠くなってきたのか、むにゃむにゃと口を動かしながらアイリーン。もぞ、と身じろぎしたアイリーンが、テントの中を転がってケイの上に乗っかってきた。

ケイが無言のまま、胸元からこちらを覗き込むアイリーンの鼻をぴんっと指で弾くと、アイリーンがころころと笑う。

そのまま、二人でじゃれあっていたが、酒の力もありぐずぐずと沼に沈むようにして眠りについた。警報機(アラーム)のお陰で二人は夜番をする必要もない。穏やかで、平和なひとときだった―

翌朝。

村人たちに惜しまれながらも、隊商は再び出発する。

歌いすぎると喉に悪いので、ホアキンは休憩時間は演奏しないが、馬車に揺られながらエッダに歌を教えていた。

ホランドの隣、御者台に腰掛けて足をぷらぷらとさせながら、楽しそうにメロディを口ずさむエッダに、 この娘も将来、良い歌手になるかもしれないな などと和むケイであった。

そうして、近隣の村々を経由し、昼頃にまた別の集落で休憩する。そこは以前、ケイが”大熊(グランドゥルス)“を仕留めた開拓村だった。

おおっ、あのときの英雄殿だ!

酒だ! 酒を持ってこい!

隊商の来訪を喜んでいた村人たちは、ケイの姿を認めてさらに喜んだ。近隣でもケイの顔は知られており、行く先々で『大熊殺しの狩人』として歓迎されたが、当事者たちの盛り上がりは流石に別格だった。

お陰でこの辺りも大分拓けてきたよ。あのときは本当にありがとう

なに、当然のことをしたまでさ

村長に酒壺や果物を手渡されながら、ケイははにかんで答える。アイリーンは自分のことのように得意げな顔をしていたし、ホアキンは 歩く伝説ですねえ と何やら感じ入っていた。

そのまま昼食でも摂ろうか―という流れになり、ホアキンが演奏準備を初めたところで、しかしケイはふと、村の端っこで遊ぶ子供たちに目を留める。

何か、視界に違和感を覚えたからだ。

こんな辺境で目にするには、鮮やかすぎる色。

見れば、子供のうち、おままごとをして遊ぶ年長の女の子が、髪に花を挿している。自然物とは思えないような抜けるような青色。薔薇のように豪奢な造形の花びら。

あの花は……?!

どうしたケイ

アイリーン、あの女の子、頭の花

……えっ、あれって

思わず、二人して駆け寄る。当の本人、髪に花を挿した女の子はきょとんとした様子だったが、アイリーンが優しく そのお花、綺麗ね。見せてくれない? と頼む。

おずおずと手渡されたそれを、二人はまじまじと観察した。

……間違いないな、アイリーン

……ああ。お嬢さん、このお花はいったいどこで見つけたんだい?

え? その、パパが……あたしのパパ、狩人なんだけど、森でみつけて、あたしにくれたの……

そばかす顔の女の子は不安げに、 お姉ちゃん、ほしいの……? と首を傾げた。どうやら大切なお花が取られてしまうのかもしれない、と思ったようだ。相手が村の恩人だけに、遠慮している風もある。

あ、ごめんごめん。ちょっと興味があっただけさ。これはあなたのものだから

アイリーンは笑って、その子に花を返す。一方、ケイはその手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握り直しながら、難しい顔で森の方を見やった。

その花が、どうかしたのかい?

村長とともに、あとを追いかけてきたホランドが、興味津々に尋ねてくる。

しばし、二人は顔を見合わせたが、やがてケイが困惑顔で口を開いた。

あの花は……“魔法薬(ポーション)“の原材料の一つだ

サスケ ぼくたち影薄くない?

スズカ 移動手段なのにね

65. 霊花

前回のあらすじ

少女 パパがこのお花を見つけてくれたの

ケイ あ、これ、ポーションの原材料だ

ΩΩΩ な、なんだってー!!

“魔法薬(ポーション)“の原材料だって!?

ホランドと村長の目の色が変わった。二人の視線が少女の青い花に集中する。異様な熱気をはらんだ大人たちの目に、思わず ひぇっ と声を上げて後退る少女。

こっ、これが噂に名高い霊薬の……!?

待て、待て、落ち着け

鼻息も荒く少女に迫る村長を、ケイが押し留める。

あくまで原材料の『一つ』だ。それに、薬効成分があるのは主に葉っぱの方で、花には傷薬程度の効能しかない

そう言って肩を竦めるケイに、村長は困ったような顔を向けた。物資に乏しい開拓村では、その程度の『傷薬』でも十分貴重なのだ。

傷薬でも、ウチの村では喉から手が出るほど欲しいんだが……それに加工したら凄いものになるんだろう?

……一口に魔法薬(ポーション)と言ってもピンからキリまであるからな。他の材料次第だ

例えば、ケイたちが持つ残り少ない高等魔法薬(ハイポーション)は、貴重な素材と高度な設備を用いて調合されたもので、瀕死の怪我人すら治癒させる正真正銘の霊薬だ。が、それほど手間をかけていない低位のポーションでは、そこまで劇的な効果を望めない。一応、千切れた手足を患部に当てて、ばしゃばしゃと薬液を浴びせ続ければ接着剤のようにくっつけられる程度の効能はあるので、大したものと言えば大したものだが。

……君たちは、ポーションの調合にも詳しいのかね?

口ひげを撫でつけながら、穏やかに問いかけるホランド。そのゆっくりとした口調とは裏腹に、茶色の瞳には油断ならない、探るような光がある。

いや。材料はいくつか知ってるが……

調合法まではわかんねーな、流石に専門外だぜ

ケイとアイリーンは二人揃ってお手上げのポーズを取った。

事実だ。 DEMONDAL では廃人プレイヤーとして名を馳せていた二人だが、基本的に戦闘と採取がメインであり、生産(クラフト)は手付かずのままだった。 DEMONDAL には、他のVRMMOでは一般的な便利機能、プレイヤーの動作を補助(アシスト)する自動制御システムが存在せず、全ての工程は手作業で現実並の熟練と器用さが要求されるため、よほどの情熱がなければ職人にはなれなかった。

ましてや高度な魔法薬の調合など、素人が手を出せる領域ではない。ケイたちも調合法をうっすらとは憶えているが、複雑な手順をすべて網羅しているわけではないし、そもそも必要な他の素材も設備も揃っていない。

専門のプレイヤーに納品するため、主要な原材料を暗記していたが、それだけだ。

オレたちなんかより、ウルヴァーンの薬師の方がよっぽど詳しいんじゃねーかな

ポニーテールの毛先をくるくると指でいじりながら、アイリーン。ケイたちには難しいとはいえ、裏を返せば、ある程度専門的な教育を受けた人間なら、特別な能力がなくとも製造可能だ。ウルヴァーンには図書館もある。叡智と魔術を重視するあの都市が、薬師を育成していないとは考えにくい。

うぅむ……やはりあの手の魔法薬は貴族のお抱え薬師、そして魔術学院の専門家たちの専売特許、か。惜しいな、君たちがポーションも扱えるならいい商売ができると思ったんだけど

期待しすぎだろ。オレたちを何だと思ってんだよ

いかにも残念そうなホランドに、アイリーンが笑っていた。

その隣で調子を合わせて苦笑しながら、それに、とケイは胸の内で付け加える。仮にポーションの製造技術があっても、ケイたちはそれを秘したままにするだろう。自分で使う分にはいいが、奇跡の霊薬など厄介の種にしかならない。

北の大地での一件を思い返し、脳裏に蘇った血みどろの記憶を振り払うように、ケイは頭(かぶり)を振った。

そんなケイをよそに、周囲の皮算用は続く。

まあ、いずれにせよ、村の近くでポーションの原材料が見つかったのは喜ばしいことだ。なあ、エリドア

そ、そうだな

ホランドに声をかけられた村長―そう言えば『エリドア』とかいう名前だった、とケイは今更のように思い出す―が、気を取り直して頷いた。

正直、ウチの村は貧しくて何の取り柄もない。しかし貴重な霊薬の素材が見つかるとなれば話は別だ! きっと皆の生活も楽になる!

あとで発見者から詳しく話を聞かねば、と鼻息も荒く村長(エリドア)。最初は頼りなげだったハの字型の眉も、この時ばかりはキリッと凛々しくつり上がっている。話を聞きつけた他の村人たちも興奮気味で、 これで娘に美味いものを食わせてやれる 自分たちで薬に使ってもいいな などと期待をのぞかせていた。

…………

そんな彼らをよそに、何とも言えない表情で立ち尽くすケイとアイリーン。

そして二人の様子がおかしいことに、いち早く気づいたのは、やはりと言うべきか、ホランドだった。

……どうかしたのかね?

ん? いや……

うん……

ホランドに聞かれても、調子の悪そうな二人。

……何か気になることでも?

小躍りしそうになっていたエリドアも、眉をハの字に戻して恐る恐る尋ねてくる。村の窮地を救った英雄、それもただの腕自慢ではない、博識の戦士と魔女が浮かない顔をしているのだ。不安になるのも無理はなかった。

じっと顔色を窺うような視線を向けられ、困ったように顔を見合わせるケイたち。

しかし、ここまで思わせぶりな態度を取っておいて、今更 なんでもない で済ませられるはずもない。二人揃って言い淀んだ時点で、二人の方針は既に決まっていたようなものだ。喜んでいるところに水を差すようで悪いが、と、難しい顔をしていたアイリーンが、開き直ったように厳しい表情に切り替えた。

率直に言うぜ。これはかなり危険な兆候だ

周囲の村人たちを見回しながら、告げる。

この花、 深部(アビス) の境界線上の近くにしか生えないんだ

― 深部(アビス) 。

森林や高山の奥深く、人類が踏み込むには危険すぎる領域の総称。

そこには、“大熊(グランドゥルス)”、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“といった巨大な怪物が闊歩し、致死毒を持つ動植物が当たり前のように生息し、時として”飛竜(ワイバーン)“さえも姿を現す。常人が踏み込めば、一日ともたない。北の大地の”魔の森”とは違い、直接的な命の危険がごろごろと転がっている、そんな場所。

しかし同時に、そこは宝の山でもある。

強力な薬効を持つ植物に、美しい毛皮を纏う獣。命を脅かす怪物も、討ち取ることに成功すれば、その遺骸は貴重な素材となるだろう。また領域内の魔力が活性化していることから、精霊の力を宿した真なるマジック・アイテムが見つかることもある。

ポーションの原材料たるこの青い花も、そんな『宝』の一つだ。

この花の名は、『ヴィグレツィア・グランドフローロ』。偉大なる生命の花、みたいな意味らしい。薬効成分は、花びらよりむしろ葉っぱに含まれてるんだけどな。花が咲いてない時期は探し出すのに苦労する。……らしいぜ

ゲーム時代を思い出したのか、アイリーンが懐かしむように目を細めた。しかしすぐに表情を引き締める。

……で、この花、強力な癒やしの力を秘めてるんだが、こいつ自体はそれほど丈夫な植物じゃない。魔力が程よく活性化し、それでいて影響が強すぎない、 深部 と普通の土地の境界線付近でしか生育しないんだ。だから『アビスの先駆け』なんて別名もある。そして今回、それが村から歩いていける距離のところで見つかった……

わかるか? と視線で問いかけるアイリーン。

まさか……

その意味を理解し、ホランドが慄いたように口を震わせる。

…… 深部 が、広がったのか

呟きのような言葉に、ざわっ、と村人たちに動揺が広がった。

基本的に、 深部 は人の生活圏から遠く離れたところにある。と言うより、人が 深部 から距離を取らざるを得ない。好き好んで”大熊”や”森大蜥蜴”の住処に近づく者はそうそういないだろう。

が、実は、 深部 の境界線は不変ではない。

地殻変動のように、あるいは一種の自然災害のように、その領域が徐々に、あるいは突然ズレることもあるのだ。

DEMONDAL のゲームの設定によれば、この世界には陰陽道で言う『地脈』のようなものが各地に走っており、それが精霊を惹きつけ魔力を活性化させ、その恩恵に与る特殊な生態系― 深部 を構築していくのだという。そしてその『地脈』は地殻変動その他の要因でズレることがあり、その動きによっては、普通の森がある日を境に 深部 へと変質していく、などということも起こりうる。

それが、この村の近くで起きているのだとしたら―

―しっ、しかし! この村から 深部 までは、徒歩で十日以上の距離があるはずだ! 俺は領主からそう聞いているぞ! 魔術師に作ってもらった地図をお持ちだそうだから、間違いはない!

自分に言い聞かせるように、エリドアがそう声を張り上げた。

……確かに、公国は”告死鳥(プラーグ)“の魔術師を総動員して、空から見た地図を積極的に制作しているな

腕組みをしたケイは、重々しく頷く。

その領主の話は、決して間違ってはいなかったんだと思う

そっ、そうさ! 英雄殿もそう思うだろう? きっとこの花が見つかったのは、何かきっと別の理由が……

しかし、だ。俺たちはウルヴァーンの図書館で調べ物をしたわけだが……記憶が正しければ、公国の現在の地図の大半は、クラウゼ公が公国の盟主になって間もなく作成されたもののはずだ。……その領主が持っている地図は、最新のものなのか? ひょっとすると十年、二十年も昔のものなんじゃないか?

それだけの時間があれば境界線は変わり得るぞ、とケイが付け足すと、エリドアは今度こそ色を失った。

しっ、しかし……

正直、前回の”大熊”のとき、薄々ヘンだとは思ったんだよなー。いくら獲物を深追いしたからって、そんなクソ離れた場所から、『たまたま』人里まで 深部 の化物が出てくんのか? ってな

がしがしと頭を掻きながら、アイリーン。

一応、『アビスの先駆け』が別の要因で……例えば草花の妖精の悪戯とかで咲いた、って可能性もゼロじゃねーけど。一応、最悪の想定はしておいた方がいいと思うぜ

神妙な様子のアイリーンの助言に、エリドアはますます情けない顔をして、そのまま頭を抱えた。

なんで……なんでウチの村ばっかりこんな目に……

お気の毒だが……

ケイとしては、そう言うほかなかった。

……本当に 深部 なのかね?

不気味そうに、そして不安げに村の近くの森を見やりながら、ホランド。

確実とは言えない。アイリーンも言った通り、精霊の悪戯や、何らかの要因で魔力の場が乱されていたり、俺が予想もつかないような原因で『アビスの先駆け』が咲いた可能性もある

ちなみに、その手の現象はゲーム内でもごく稀に起きていた。特に妖精の悪戯による特殊な草花の出現は、プレイヤーに棚ぼた的な利益をもたらすことが多く、概ね歓迎されていた。尤も、毒花が咲き乱れて初心者~中級プレイヤーまでもが犠牲になることもあり、油断は禁物だったが。

俺としても、妖精の悪戯であって欲しいとは思うが……この村は以前”大熊”に襲われている。あの時は『偶然』で片付けたが、今回この花が見つかった、となると……楽観はできないぞ

全くその通りだな

いずれにせよ、発見者の話をもう少し詳しく聞く必要があるんじゃないか。あるいは早急に領主へ遣いを出して、告死鳥(プラーグ)の魔術師に空から確かめて貰うべきか

そうだな……エリドア、どうする?

その場でしゃがみ込んでブツブツと呟く村長を、ホランドが揺する。

おいおい、しっかりしろ! お前は村のまとめ役なんだぞ!

あ、ああ……

ふらふらとエリドアが立ち上がるが、その目は死んでいた。

……とりあえず、発見者に話を聞こうか。……リンダ、マルクはどこに?

パパならお家にいるよ……?

リンダ、と呼ばれた少女が、小さな声で答える。幼さゆえケイたちの話の内容がよく理解できていないのだろう。ただ不安そうに、その手に美しい青い花―癒やしの力を秘めた霊花を握っている。

ケイとアイリーンは、何とも居た堪れない気分になった。

そのまま皆でぞろぞろと、花の発見者である狩人の家を訪ねる。村の外れの丸太小屋でハーブティーを飲みながら寛いでいた狩人―『マルク』というらしい―は、突然の大勢の来客に驚いたようだ。

そして、エリドアやホランドからことのあらましを聞き、真っ青になった。

なんてこった、こんなことなら持ち帰らなきゃよかった……!

少し的外れな嘆き方をする狩人の男に、ケイとアイリーンは笑っていいものか困ったような顔をした。見て見ぬふりをしたところで、なかったことになるわけではない。

いや、持って帰ってくれたからこそ気づけたんだ。それで、森は何か変わった様子はなかったか?

あ、ああ……そうだな……

ケイたちの真剣な眼差しに、マルクはひどく落ち着かない様子だ。

曰く、マルクが『アビスの先駆け』を見つけたのは、森に入って西へ一時間ほど進んだ地点、いつも狩りをしている獣道の周辺だそうだ。森に仕掛けた罠を見回る際に発見したらしい。森そのものは、この時期にしては静かだと感じたが、それ以外は特に異常は感じなかったとのこと。

他にこの花は咲いてなかったか?

どうだろう、わからない……視界に見える範囲では、気づかなかった

そうか……

咲いていたのが一輪だけなら、妖精の悪戯という可能性も充分にある。

……確認、しに行くべきか?

ケイの沈黙、あるいは皆の無言の重圧を感じ取り、冷や汗をかくマルクは、この世の終わりが訪れたような顔をした。

狩人であればこそ、マルクは野性の獣の恐ろしさは重々承知している。そして、それを軽々と上回る怪物が、どれほど手に負えない存在なのか、身に沁みてわかっているのだろう。できることなら、そんな存在が普通にうろつく 深部 には、一歩たりとも近づきたくはないはず。

英雄殿……その、申し訳ないんだが、おれ一人では 深部 か普通の森かなんて区別がつきそうにないんだが、その……

藁にもすがる思いなのか、拝むような姿勢でケイの顔色を窺うマルク。

……う~ん、俺も 深部 の探索は専門外なんだが……

DEMONDAL のゲーム内では、確かに、 深部 の探索はエンドコンテンツの一つであり、ケイも時折探索しては素材や装備を集めていた。

が、それは死んでも復活が可能だったからで、命が一つしかない現状では、よほどのことがない限り踏み込むのは御免だ。

いっ、いやっ! おれも 深部 に入るつもりなんざ毛頭ない!! ただちょっと見に行くのについてきてもらえれば、と……!

慌てて、ブンブンと首を振るマルク。一人で行くのがよほど怖いのだろう、気持ちはよく分かるが―。果たしてこの男は、これから狩人としてやっていけるのか、ケイは心配になった。

それはさておき、マルクひとりでは 深部 の侵蝕が進んでいるのか、確認しづらいというのも事実。

旦那、このあとの予定は、どうなってるんだっけ?

アイリーンがホランドに水を向ける。記憶が正しければ、隊商はこの村で少しばかり商売をしてから、川沿いの街道を進み、シュナペイア湖を擁するユーリアの街へ向かうはずだ。

……事態が事態だからなぁ

隊商の責任者たるホランドは低い声で唸った。仮にケイがマルクに同行するならば、往復で二時間以上はかかるので隊商の出発に間に合わない。現状、ケイはただの客分なので置いていっても隊商に支障はないのだが、今後の商売や世間体諸々を考え合わせると、大いに問題がある。何よりホランド自身も、この件には大きな関心を寄せていた。

……よし、ここはケイに合わせよう。きみが彼(マルク)に同行するというなら、隊商の予定を変更する。皆には私から話しておこう

うむ、と大きく頷いてホランド。予定変更の起点をこちらに振ってきた辺り、うまい言い方だな、とケイは思った。

…………

ちらり、と傍らのアイリーンを見やる。ぴくん、と眉を動かしたアイリーンは、唇を引き結んで、まっすぐにケイを見つめ返してきた。

迷いのない、澄んだ青色の瞳。

わかった。同行しよう

“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を握りしめながら、ケイは頷く。

この村を”大熊”から救ったとき、ケイは夢を抱いた。 人々を凶悪な獣から守る狩人になりたい と。

今がそのときだ。

ケイが行くなら、オレもついてくぜ

間髪入れず、アイリーン。気負わずに背中のサーベルの具合を確かめている。

……おれも、行こう。足手まといになるかもしれないが、この村のことだ。村長として、自分の目で確かめる必要がある

険しい顔で、しかし毅然と決意を表明するエリドア。

あ、じゃあ僕も行きます

が、そこに場違いなほど爽やかな声が響く。

見れば、野次馬の端、今まで沈黙を保っていた吟遊詩人の青年が、ここぞとばかりに挙手していた。

こう見えて森歩きには慣れてます。皆さんの邪魔はしません、万が一のときは別に置いていって貰っても結構です。……いいですよね? ね!?

好奇心で目を輝かせるホアキン。

ケイとアイリーンは顔を見合わせ、呆れたように肩を竦めた。

しばらく、ほのぼのパートのつもりだったんですが……おかしいな(当惑)

次回、狩人・狩人・魔法戦士・村人・吟遊詩人というパーティーで森へ。

66. 探索

前回のあらすじ

サスケ イカれたメンバーを紹介するぜ!

前衛:アイリーン(NINJA)

後衛:ケイ(狩人) マルク(狩人) ホアキン(吟遊詩人) エリドア(村人)

サスケ 以上だ!

スズカ バランス悪いと思う

しっとりとした樹木の香り、湿り気を帯びた土の匂い。

頭上には眩しい木漏れ日が踊り、小鳥たちのさえずりが響く。

穏やかな森だ。当初、警戒しながら足を踏み入れた一行だったが、あまりの平和さにピクニックにでも来たかのような錯覚を抱きつつあった。ふかふかの腐葉土が、ブーツ越しにも心地良い。

恐ろしく平和だ……

緊張した面持ちで先頭を進むのは、『アビスの先駆け』の第一発見者こと、マルク。その手に携えているのは、取り回しの良い狩人御用達の短弓(ショートボウ)だ。小型ながらも張りは強く、森の獣を仕留めるに充分な威力を秘めている。

が、 深部(アビス) の怪物を狩るとなると、少々心許ない。

本人も自覚はあるらしく、しきりに額の汗を拭いながら、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。木陰や茂みに、見えない敵を見つけようとするかのように―この調子では目的地に辿り着く前に疲労困憊してしまう。

まあ、警戒は俺に任せてくれ

マルクの後ろをついていきながら、気を遣って声をかけるケイ。

Take it easyってヤツだ。“大熊(グランドゥルス)“みたいなデカブツは遭遇する前に気がつくし、人間サイズの小物なら俺が何とかする。心配いらないさ

左手の”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を見せながら、ケイは軽い調子で言ってのけた。正直なところ大熊クラスと出くわさない限りは問題ない、と考えており、その心の余裕は態度にも表れている。そして隊商護衛の経験から『緊張感を維持しつつ肩の力を抜く』ことに慣れているケイは、外野からすれば、過剰に気を抜いているようにも見えた。

流石に気楽すぎないか、と言わんばかりに、ちらりと不安げにケイを見やるマルク。ケイとしては励ますつもりだったのだが、残念ながら逆効果だったらしい。実際は油断どころか、“竜鱗通し”と一緒に束ねた矢も握っており、いつでも矢を放てる臨戦態勢だ。一行の中で誰よりも警戒の網を張っているのがケイだった。

つっても、それで安心できたら世話ないぜ、ケイ

と、ケイの後ろを歩くアイリーンが、頭の後ろで腕を組みながら言った。

たしかにゴキゲンなピクニック日和だが、地獄の淵まで散歩しに行くようなもんだ。緊張するなってのが無理な話じゃないか?

そうは言いつつ、あまり緊張した様子を見せないのはアイリーンも一緒だ。むしろ他の男たちに比べ格段に軽装なので、より一層、気楽な物味遊山の風情を漂わせている。

現在のアイリーンの出で立ちを一言で表せば、『森ガール』だろうか。長袖のシャツにぴったりとした長ズボン、背中にはサーベルを背負い、丈夫な革手袋をはめている。獣相手には効果が薄く、デッドウェイトになる盾や額当ての類は全て村に置いてきた。足音をほとんど立てずに、木々の間をすり抜けるようにして進む様は、猫科の肉食動物を彷彿とさせる。

そして腰のベルトには投げナイフの束と、飲料水を詰めた革袋、そして金属製の水筒(スキットル)をぶら下げていた。スキットルの中身は度数の高い蒸留酒だ。これがあれば怪我をしてもすぐに消毒できるし、もちろん、いざというときには宴会のお供にもなる。

……まだ、 深部(アビス) が動いたと決まったわけじゃない

アイリーンの背後、憮然とした顔で言うのは、開拓村の村長エリドアだ。今回、彼は村の責任者として、事実関係の確認のために同行している。その立場上 深部 の侵蝕については否定的だが、必死で自分に言い聞かせている節があり、本当にそう思っているかは謎だった。

身体が頑丈で、畑を耕す以外に特に技能のないエリドアは、一行の中で荷物運び(ポーター)を担当している。その背には大きな革の荷物袋。万が一、 深部 の希少な動植物が発見された場合は、きちんと持って帰れるようにするためだ。

深部 の侵蝕を極力認めたくない彼ではあるが、それに対する備えも忘れない辺り、複雑な心境が窺える。

それにしても 深部(アビス) 、ですか

最後尾の吟遊詩人、ホアキンが感慨深げに呟く。

物語や伝承では幾度となく耳にする言葉ですが、まさか、それを自らの目で確かめることになろうとは……

……だから、 深部 と決まったわけでは……

眉をハの字にして弱々しく抗弁するエリドアに、これは失敬、とばかりに頭に手をやり すいません と苦笑するホアキン。

探索を目的とした一行の中で、ホアキンは異彩を放っている。エリドアでさえベルトに護身用の剣鉈を差しているというのに、完全に丸腰なのだ。邪魔にしかならない琴を置いてきているのは当然としても、ナイフの一振り、針の一本さえ持っていない。

本人曰く、武技の心得は一切ないので、とにかく逃げ足を優先するとのことだ。今回の探索はあくまで『自己責任』、足を引っ張るようなら見捨てていっても構わない、とホアキンは言っていた。悪く言えば人任せ、しかし裏を返せば己の分をわきまえているとも言える。足場も悪いし、すぐ隣で素人に危なっかしく鉈を振り回されるよりはマシかもな、とはアイリーンの言だ。

そういや、 深部 ってのは、巷ではどんな風に語られてるんだ?

興味津々なアイリーン。 そうですねえ…… と頷くホアキンの右手が、所在なさげに揺れる。肌身離さず抱えていた琴も、今はない。

―アクランドは遠く 北と東の狭間 義勇アルバート 精霊の導きを受け 深緑の最奥に挑まんとす―

朗々とした歌声が響き、一瞬、辺りが静まり返る。まるで森の獣や小鳥たちも思わず耳を傾けたかのようだった。

ホアキンが歌ったのは、百年ほど前にアクランド連合公国を旅して回ったアルバートという義賊、もとい探検家の冒険譚だ。尋常ならざるサバイバル技術を身に付けていたのか、精霊の加護を得ていたのか、はたまた単に運が良かっただけなのか、公国北東部の広大な 深部 を一週間かけて歩いて縦断した、という逸話が残っているらしい。

小山ほどの大きさがある”大熊(グランドゥルス)”、木々を薙ぎ倒して進む”森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)”、そして翼を休めながら見たこともない美しい獣を貪り食う”飛竜(ワイバーン)”― 深部 に棲まう怪物たちの姿が、ホアキンの涼やかな声でおどろおどろしく語られる。マルクやエリドアは震え上がっていたが、ケイとアイリーンからすれば眉唾ものだ。“大熊”も”森大蜥蜴”も確かにデカブツだが、『小山ほど』とは流石に盛り過ぎだろう。他に目撃者がいないだけに、いくらでも誇張できる話ではある。

尤も、ゲームと比較すると世界そのもののサイズが拡大しているだけに、 深部 の怪物たちが巨大化している可能性も否定はできないが。

ともあれ、そんな怪物たちをやり過ごしつつ、アルバートは珍しい草花や昆虫を収集し、公国の博物学を一人で数十年分も進歩させたという。彼自身は魔術師ではなかったようだが、マジックアイテムをいくつも保有していたとの話もあり、行く先々で様々な騒動を引き起こしていたようだ。公国での冒険の後は、港湾都市キテネで商船に乗り込んで西の大陸フォートラントに渡ったとも、東の辺境のさらに果て、まだ見ぬ未開の国を目指して旅立ったとも言われている。

フォートラントか……

ホアキンの解説を聞きながら、ケイは小さく呟いた。 DEMONDAL のゲーム内では、存在が示唆だけされていたエリアだ。そして海辺の交易都市キテネには、金払いの良いフォートラントからの商人NPCが多数いたことを、ケイは懐かしく思い出す。フォートラントとリレイル地方を行き来する船舶も存在したが、プレイヤーが乗り込むと、外洋で必ず巨大な海竜に襲われる仕様で決して辿り着けないよう調整されていた。近々大型アップデートで追加される、との噂もあったが―ゲーム内の皆は、今頃どうしているのだろうな、とケイは郷愁にも似た思いを抱いた。

一方で、この世界では、フォートラントは普通に行き来が可能な大陸として認識されているようだ。そういえば、公都の図書館で調べ物をしていたときも、フォートラントの記述を目にした覚えがある。

元を辿れば、現在の公国の民もフォートラントから来た人々の末裔だったか

そうですね。三百年ほど前に平原の民がこの地を訪れた、と伝わっています

ケイの問いに、首肯するホアキン。すかさずアイリーンが口を挟んだ。

平原の民が、って言うけど、他の民族はどうだったんだ?

草原の民は、この地の原住民族ですが、詳しい来歴は不明です。雪原の民(ロスキ)は平原の民とほぼ同時期に北の大地に渡った、と言われていますね。高原の民(フランセ)や海原の民(エスパニャ)が本格的にこの地を訪れるようになったのは、それからさらに半世紀ほど経ってからのことだったとか。確か、その頃にフォートラントに存在した古き海原の民の王国が、 深部 に呑まれ滅んだと聞いています

故に、海原の民は新天地を求めざるを得なかった―と言外にホアキンは語る。先祖の苦難に思いを馳せたのか、褐色肌の青年は憂いを帯びた顔で木漏れ日越しの空を見上げ、ため息をついた。その眼前では、これから迫り来る苦難を思い描いてか、エリドアがますます顔色を悪くしている。

と、マルクが手を挙げて隊列を止めた。

……確か、この辺りだったと思う

話をしているうちに、目的地へと辿り着いたようだ。

一見、普通の森と変わらない。

青々とした背の高い広葉樹林。足元は柔らかな腐葉土で、一面に茶色の大地が広がっている。頭上に生い茂る木の葉のカーテンのせいで少々薄暗いことを除けば、存外に見晴らしはよく、ケイの視力をもってすれば奥の方まで見通すことができた。茂みや木々の裏に何が隠れているかまではわからないが―

……静かだな

サーベルの背負い紐をいじりながら、アイリーンが周囲を見回した。森に入ってすぐのところは、小鳥や小動物のざわめきで満ち溢れていたものだが、この辺りの静けさは空恐ろしいほどだ。

……どうする? もう少し進むか?

声を潜めてエリドア。言葉とは裏腹に、一刻も早くこの場から立ち去りたそうな顔をしている。

ちょっと待ってくれ

ケイは右手を軽く握り、望遠鏡のような輪っかを作って覗き込みながら、森の奥を見やった。周囲の余計な情報を遮断し、ピンホール効果と併せて視力をさらに引き上げるテクニック。じっくりと舐めるように、視線を横に動かしていく。

やがて、ケイの眼は、森には不似合いなほど鮮やかな色を拾い取った。

……見つけた。間違いない、『アビスの先駆け』だ。一、ニ、三……多いな。少なくとも妖精の悪戯ではなさそうだぞ……

ケイの言葉に、皆の表情が良くも悪くも引き締まる。

ということは……つまり、本当に 深部 の侵蝕が進んでいる、ということですね

エリドアやマルクを気遣ってか、ホアキンが神妙な表情を作って確認するが、興奮で上擦った声は隠しようもない。

そういうことになる

……なんてことだ

お終いだ……

渋い顔でケイが首肯すると、エリドアとマルクがこの世の終わりが訪れたような顔で呻いた。事実、彼らからすれば世界の終わりに近い。

……で、どうする? 『アビスの先駆け』、咲いてんだろ?

腕組みしたアイリーンが、クイと森の奥を顎でしゃくった。

採取しに行くか?

行った方がいいだろうな。……村の皆には、先立つものも必要になるだろうし

この後、村がどうなるかはわからない。領主が開拓を中断するかもしれないし、案外、 深部 探索の前線基地として維持されるかもしれない。そうなれば、命知らずの探検家で村が賑わうという可能性もありうる。―エリドアたち元の住民が、それを喜ぶかどうかは別として。

いずれにせよ、これから金が入用になるのは確かだろう。

……そう、だな

エリドアがいち早く再起動を果たし、背中の荷物袋を担ぎ直す。平原の民として一般的な茶色の瞳には、めらめらと使命感の炎が燃えている。

……おっかない化け物はいないのか?

一応、見える範囲にはいない

そうか……ならいいが……

短弓に矢をつがえながら、マルクは限りなく不安そうだ。

一行は最大限に警戒しながら、『アビスの先駆け』を目指し、さらに奥へと進む。

……まだ進むのか?

ケイがあまりにあっさりと 見つけた と言ったので、アイリーン以外の面々は割と近くに花が咲いていると考えていたようだ。なかなか見つからない青い花に、エリドアが訝しげな視線を向けてくる。

もうちょっと先だ

ケイの眼はバカみたいに高性能だからな。ケイの言う『もうちょっと先』はオレたちの『だいぶん先』だ、憶えといた方がいいぜ

アイリーンは慣れっこの様子で、ぷすーっと息を吐いてからそう言った。その左手には投げナイフ。いつ、どこから何が飛び出てきても反応できる構え。

そうして歩みを進めるうちに、ケイとアイリーンを除く三人が顔を強張らせ始める。今まで木々や茂みに遮られていてよく見えなかったが、森の奥の木々が一気にサイズ感を増し始めたからだ。

それは、『巨人の森』―とでも形容するべきだろうか。この辺りは比較的幹の細い常緑樹が主だったのだが、同じ種類の樹木であるにもかかわらず、奥の木々は一回りも二回りも幹が太く、背が高い。

何だアレは……なんであんなに木が育ってるんだ

……『アビスの先駆け』を見つけたとき、ここまでは来なかったみたいだな

恐れおののくマルクに、ある種の確信を深めるケイ。

あ、ああ……もうちょっと手前に咲いていたと思う……

そうか、たまたま外側に咲いてたヤツを見つけたのか……成る程な

今回の『アビスの先駆け』発見が、 深部 の侵蝕が原因である、と断定できなかった理由がこれだ。樹木の巨大化は 深部 侵蝕に伴うわかりやすい現象の一つであり、村でマルクが巨木の存在を証言していれば、ケイとアイリーンは即座にそれと判断できただろう。

仮に、樹木の巨大化が確認できず、一輪だけ『アビスの先駆け』が咲いていたなら、妖精の悪戯である可能性の方が高かった。だが実際は、マルクがたまたま深入りする前に霊花そのものを発見していた、というわけだ。

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