つけっぱなしだったランプの火は、窓から吹き込んだ風が消していった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

カルマ・ドーン

ちょっと軽めのコメディ調な作品も書いておりますので、もしよければこちらもどうぞ。

75. 誘惑

翌日。

呑んだくれ、折り重なるようにベッドで爆睡していたケイたちは、昼の鐘が鳴る頃にようやく起き出した。

本当はもっと寝ていたかったのだが、鐘の音と喉の渇き、空腹、昼飯前の仕込みの良い匂い等々に、寝床から引きずり出された形だ。

頭いたい……

ケイは酒に弱いなー

俺は弱くない、お前が強すぎるんだ……

昨夜はとことん呑み明かした。酒場が閉まってからも部屋に戻りグダグダと呑み続けた結果、床には空になった酒瓶がいくつも転がっている。おかげで気分転換にはなったが、ちょっと度が過ぎたようで、 身体強化 の紋章をもってしてもアルコールの分解が追いつかなかったらしい。

しかし、ケイと同じか、むしろそれ以上に呑んでいたアイリーンはケロッとした様子なのだから、個人差というものは大きい。やはり遺伝子レベルの酒呑みは違うな、とケイは思った。このまま調子が出ないようなら、急ぐ用事もなし、このままゴロゴロしていたいという欲求に駆られる。

それでも、早めの昼食を食べて、水をガブガブ飲んでいると頭痛も治まり、出かけてもいいか、という前向きな気分になってきた。

今日はどうする?

食後、酒場兼食堂の席でケイが話を振ると、 ふーむ と唸りながらアイリーンは考え込んだ。

……ぼちぼち『アレ』を作ろうかな

『アレ』?

前にケイと話してたやつ。訓(・)練(・)用(・)の道具だよ

周囲に聞かれないよう、声を潜めてアイリーン。まだ頭の回りがイマイチなケイは、一拍置いてから、それが魔力鍛錬用の魔道具のことだと察した。

アイリーンが契約する精霊”黄昏の乙女”ケルスティンは、物理的な干渉力が極端に低い代わりに、魔力の消費も少ない。そしてそれを応用して、ほんの僅かに影を操るような魔道具を作れば、安全に魔力を鍛えられるようになる。

本来、この世界の魔術師は、魔力の鍛錬に細心の注意を払わなければならない。魔力が枯渇すれば、待ち受けているのは確実な死だ。修行中に己の限界を見誤り、枯死する魔術師見習いも少なくないという。

魔術師の育成に力を入れている公国は、安全な修行法を喉から手が出るほど欲しているはずだ。そこで万が一にも、アイリーンとケルスティンの有用性が露見すれば―おそらく死ぬほど面倒なことになる。少なくとも、平穏無事に暮らすことなどできないだろう。『庇護』の名目で監禁されるのがオチだ。

まあ、普通の魔道具のついでに作れるようなもんだ。バレなきゃ問題ない

アイリーンはそう言って手をひらひらさせる。そんなリスクを冒してでも、ケイが魔力を鍛えるメリットは大きい。ケイが触媒なしでも魔術を―“風の乙女”シーヴの術を行使できるようになれば、いざというときの立ち回りの幅も広がるし、矢避けの護符や風を呼び込む帆など、有用な魔道具が作成可能になる。

ケイとしても、矢避けの護符は最優先で作りたいところだ。特に、アイリーンとイグナーツ盗賊団の一件を共有した現状、町中で矢が飛んできても自動的に弾き返せるくらいにはなっておきたい。

材料は?

コーンウェル商会に行って、たかろ―仕入れよう。そのあと、モンタンの旦那に木工細工を依頼するかな?

道具の本体を作ってもらいたい、とアイリーン。

そうしよう。あとリリーにも、何かお土産を持っていこうか

それは必須(マスト)だな

うむうむ、と腕組みしてアイリーンが頷く。そろそろ秋だが、市場でブドウでも買っていこうか。いやせっかくだしお菓子でもいいんじゃないか? そんなことを話しながら、二日酔いでイマイチ冴えない脳みそを冷やすように、グイッとコップの水をあおってからケイは席を立った。

†††

コーンウェル商会でホランドに相談し、『魔道具の試作と研究のため』と称して研究費や水晶などの材料を融通してもらった。

一応、契約書にもサインしてもらいたいんだけど

資金とともに、申し訳なさそうにホランドが差し出した羊皮紙には、ずらずらと大仰な文言で契約内容が書かれていた。一応、二人でしっかりと熟読したが、取り立てて問題はないようだった。

要は『資金援助するから良い物できたらウチに売ってくれよ! 絶対だぞ!』と書かれていただけだ。もちろんアイリーンも否やはないし、研究費をふんだくって逃げるつもりもない。その『研究費』でコーンウェル商会の高級菓子を買い求めると、ホランドも苦笑していたが。

影絵の試作品ができたら、ホアキンの旦那にも連絡しないとなぁ。格安で売る代わりに、宣伝してもらえるよう頼んであるんだよ

ああ、そんな話を聞いたね。ウチとしても問題はないよ。商会の名も一緒に添えてもらえるなら……

そういえばホアキンは、まだサティナにいるのか?

ケイはふと、ホランドに尋ねた。サティナに着いて隊商と別れたきり、彼の姿を見ていない。

しばらくサティナに滞在する、と言っていたよ。冬前にはキテネに旅立つらしいから、用事があるなら今のうちかな。なんなら、彼の定宿を教えておこうか?

よろしく頼む

試作品とはまた別件で、『自分(ケイ)を探す同郷(DEMONDAL)の人物』に見当をつけるため、サティナの噂話などを聞いておきたいと考えるケイだった。ホアキンは街中の酒場を回り、また新しい歌のネタも貪欲に収集するため、かなりの情報通なのだ。

ちなみに昨夜、アイリーンがメモ用紙に 追跡 の術をかけて、メモの送り主を特定しようとしたが、メモを『受け取った』時点で所有権がケイに移ってしまったらしく、不発に終わった。

試作品は、まあこれだけモノがあれば二、三日でできると思うぜ

ほう! 思ったよりも早いね。期待しているよ

ホクホク笑顔のホランドと握手してから、二人は商会を出た。

次に、その足で職人街へ向かう。

ちょうど昼飯時になってしまったので少し遠慮したが、 一緒に食べればいいんじゃね? とアイリーンが開き直り、屋台で串焼きやパンなどを買い込んでリリーの家を訪ねた。

おねえちゃん、いらっしゃい!

出迎えたリリーは大喜びだ。大量の手土産とともに現れたケイたちにモンタンとキスカは恐縮していたが、そのまま一緒に昼食を摂る流れになった。

おねえちゃん、これおいしいね!

こっちの串焼きもなかなかイケるぜ

歳の離れた姉妹のように和気あいあいとした二人に、周りも和む。ウサギ肉の串焼きにチーズを挟んだそば粉のクレープ、胡桃を練り込んだ柔らかいパン。イチジクやブドウなど季節の果物にも舌鼓を打ち、キスカが淹れてくれたミントティーを頂く。優雅な昼食となった。

そして今日はなんと、デザートもあるぞ!

わぁすごーい! かわいい!

そして食事の後、アイリーンが商会で買ってきたお菓子の箱を取り出す。煮詰めた砂糖や蜂蜜を、固く泡立てた卵白と一緒に固め、ナッツ類を練り込んで作られたヌガーだ。花や薬草のエキスで薄いピンクや緑に着色され、一口大にカットされている高級品。腕のいい職人であり、大商人とも付き合いのあるモンタンはその価値を知っているらしく、箱から現れた色とりどりのヌガーに目を剥いたが、アイリーンがぱちんとウィンクして何も言わせなかった。

おいひー!

あっ、ホント。これイケるな! ナッツが香ばしくていい感じ……あ、キスカもモンタンも、遠慮せずに食べてくれよな!

あ、はい……ありがとうございます

本当にいいんですか? あら、おいしい

おっかなびっくりといった風のモンタン、甘いものに目尻が下がり、ほわほわと頬を緩めるキスカ。

……それでモンタン、実は依頼があるんだ。木工職人として

そのままリリーがアイリーンと手遊びを始めたので、ケイはヌガーを頂きつつ、小声でアイリーンの代わりに話を切り出した。

ケイさんの依頼でしたら、喜んで

モンタンは生真面目に、居住まいを正す。

ああ、いや、そこまで大した仕事じゃないんだ。アイリーンが魔道具を作ろうとしてるから、その試作品の部品で、いくつかこういったものが欲しい

大まかな設計図的なものは、予め用意しておいた。『投影機(プロジェクター)』の本体として、宝石類をはめ込む土台を構成する部品がいくつか。そしてそれに、何食わぬ顔で紛れ込む、ケイの魔力鍛錬用の小さな『杖』。

……これくらいでしたら、明日の夕方には仕上げられます

流石だ。いくら払えばいい?

そんな、お代なんていただけませんよ!

とんでもない、とプルプル首を振るモンタン。想定されていた反応だが、これに関しては、アイリーンと方針を決めてある。

そういうわけにはいかない。これから長い付き合いになるし、仕事上でもきちんとした良い関係を築いていきたいんだ

個人的な付き合いと、ビジネス上の付き合いは分けて考えるべきだ。これは互いのためでもある。ここでなあなあで済ませると、今は良いかもしれないが、後々こじれる可能性も否定できない。金が絡む問題は厄介だ、今後も円満な交流を続けたいからこそ、きっちりと精算しておく。

それに、製作費を出すのはコーンウェル商会だからな……

わかるか? とケイはおどけて片眉を上げてみせた。要は、自分たちの懐は痛まないのだから遠慮なく取っておけ、というわけだ。

そういうことでしたら……

モンタンは苦笑して ありがとうございます と頭を下げた。そして簡単な見積もりを終え、前金を払っておく。

では早速、取り掛かります

頼んだ。それと……話は変わるが、リリーの調子は?

おかげさまで、昨日は久々にぐっすり眠れたようです

肩の荷が降りたような、ようやく人心地ついたような。

そんな穏やかな顔で、モンタンが愛娘を見やる。

アイリーンがリリーに、手を使った簡単なゲームを教えていた。お互いに、両手の指を一本ずつ立てた状態でスタートし、交互に相手の片方の手を攻撃する。自分の攻撃した指の本数分、相手の指を立たせ、指が五本以上立つことになったらその手は脱落。そして両手が脱落したら負け、というゲームだ。

また、自分の手同士をぶつけて指の本数を合算・分離させることもできる。右手四本、左手一本の状態から、右手に三、左手に二といった具合に。片手が脱落しても、同じ仕組みで片手を復活させられるので、なかなか終わらない。小さな子には、算数の勉強にもなるので良い手遊びだな、とケイは思った。

かくいうケイも子供の頃やったことがあるが、ゲームの名前がわからない。どうやらアイリーンも知らないらしく、リリーに尋ねられて返答に窮していた。

それにしても、この世界にはやはり娯楽が少ない。一応、チェスのようなボードゲームはあるし、ゲームの設定そのままなら、高級品だがトランプに似た札遊びも存在するはず。今度コーンウェル商会で、そういった手合を探してみてもいいかもしれない、とケイが考えていたところで、

……ん? リリー、どうした?

アイリーンと遊んでいたリリーに、異変が起きた。

うん……

そわそわと、急に落ち着きがなくなったリリーが、手遊びに集中できなくなっている。やおら服のポケットに手を入れたかと思うと、小さな包み紙を取り出した。

―蜂蜜飴。

黄金色のそれを一個、つまんで、口に含んだ。

さっき果物と、ヌガーまで食べたのに、さらに飴を? とケイは違和感を抱く。

……リリー、甘い物を食べ過ぎたら体に良くないぞ~?

これは流石によろしくない、と思ったのか、アイリーンがリリーを抱きかかえて優しくたしなめた。

だが……リリーの表情は、暗い。

とてもじゃないが、これは、お菓子を楽しむ子供のする顔じゃない。

……ねえ、おねえちゃん、わたしおかしいのかな

ぽつりと、アイリーンを見上げて、不安そうにリリーが尋ねた。

……あ(・)れ(・)か(・)ら(・)ね、わたし、急にはちみつアメが食べたくなっちゃうの

動悸を抑えるように、リリーが服の胸のあたりを掴む。

でもね、これじゃないの。本当は、別のじゃないとダメで、ずっと苦しいの

……どういうこと?

あのとき、変な男の子に、アメ玉をもらったんだけど。それを食べたら、夢を見てるみたいにふわふわってして、ぐるぐる目が回るみたいで、とっても変な感じだったんだけど、またあれが食べたくて、でも、はちみつアメじゃなくって……

リリーの説明は要領を得ない。自分でも何をどう言えばいいのかよくわからないらしく、静かにすすり泣いている。

また、またあのアメが、食べたいって思っちゃうの……! おかしい、よね? こんなの。おねえちゃん、やっぱりわたし、へんなびょうきなのかな? おかしいのかな……?

アイリーンの胸で、リリーは涙を流す。ぽろっ、とその口から、食べかけの蜂蜜飴が落ちて、ころころと床に転がった。

…………

アイリーンが、青ざめた顔で、ケイを見やった。

その目が、 嘘だと言ってくれ と語りかけてくる。

―リリーを誘拐したのは、麻(・)薬(・)組(・)織(・)だ。

『依存症……』

アイリーンのすがるような視線を受け止めきれなくて、手で顔を覆ったケイは、日本語で小さく呻いた。

これまでの二人の軌跡

※2018年9月6日、タアフ村編を改稿しました。

ご要望を多数いただいたため、このページにこれまでの二人の旅路をレジュメにして残します。

○日目、経過日数 + イベント

という形です。75話 誘惑 までの時点で、作中では110日が経過しています。

0  DEMONDAL で追い剥ぎと戦闘 霧の中へGO

1 転移 アイリーン被弾 タアフ村へ 盗賊と戦闘 気絶

2 目覚め 死体拾い アイリーン復帰

3 アイリーンの体調を考慮して狩りで時間を潰す

4 朝にタアフ村を出発 草原の民と戦闘 サティナへ到着 モンタン一家と邂逅

5 サティナ観光 ミカヅキの革を加工依頼 モンタン一家はレストランへ

6 船探し リリー誘拐 リリー救出

7~9 サティナに滞在

10 朝にサティナを出立 アレクセイと出会い 夜、早寝するケイ

11 ケイ、アイリーンと引き離される 精霊語で意趣返し  警戒 魔術初使用

12 ユーリアに到着 アイリーン怒る ケイしょぼん

13 開き直って神殿デート アレクセイ全裸遊泳

14 ユーリア出発 開拓村で大熊撃退

15 次の村に滞在

16 朝、滞在していた村でアレクセイと決闘 午後にウルヴァーン到着

17 朝チュン 役所の手続きで心が折れる 不貞寝

18 コーンウェル商会で武闘大会を知る

~1ヶ月スキップ~

48 武闘大会当日 その夜打ち上げ  この辺りでコウとイリスがTahfu到着

49  コウたちの翌日、バーナードがラネザ襲撃

51 身分証発行

52 図書館入館

66 キノコヘアとの出会い

69 天体観測へ 望遠鏡破壊

72 逃げるようにウルヴァーン出立

73 街道を北上

74 Diran’niren到着

77 エゴール街道を引き返し再びディランニレンへ

78 ガブリロフ商会の隊商に加わりディランニレン出発

79 キジうめえ! でも明日雨になるぞコレ

80 雨降り始めた……→馬賊の襲撃 隊商から離脱

84 シャリトスコエ到着

85 魔の森に突入 霧の中再び 賢者の屋敷へ

86 オズの屋敷を出立

87 シャリトに帰還

89 なんだかんだでシャリトに留まっていたが、商会の探りがあった

90 シャリト出立、セルゲイ・アレクセイとともに馬上の旅

94 6日かかったシャリト⇔ディランニレンを4日に短縮

95 “告死鳥”の魔術師ヴァシリーとお茶会

97 ウルヴァーンに到着、銀髪キノコことヴァルグレンに連絡

100 ヴァルグレンから使いが来る

101 茶髪ロン毛と化したヴァルグレンと星見

104 ウルヴァーン出立 吟遊詩人や隊商と合流 その夜にホアキンと交渉

105 大熊の村ヴァークに着く そして 深部 の境界線に探索へ

106 翌朝ユーリアへ出立 同日ユーリアへ到着、夕方には助平領主と謁見

107 ユーリアを出立、サティナへ

109 サティナに到着

110 ホランドと商談、リリーの家を訪ねる リリーの憔悴発覚

76. 依存

お久しぶりです。

昼下がりのサティナの街は、人々の活気で満ちている。

腹をすかせて屋台を物色する隊商の護衛戦士、市場で買い物をする子連れの女、せわしなく走り回る小間使い。客引きに精を出す商店の見習いがいたかと思えば、大道芸人の一座が何やら街の官吏と揉めていたりする。

賑やかで平和な雑踏。

だがケイとアイリーンは、その中を重い足取りで歩く。

泣きじゃくるリリーをなだめて、一緒に遊んで、モンタンたちと少しばかり話してから、ケイたちはモンタン宅を辞去した。

宿屋に戻るには早すぎる時間。

さりとて昼食は摂ったばかりで、他にすることもなく。

ふらふらと誘われるように、大通りに面した見知らぬ酒場へ、二人が足を踏み入れたのは自然な流れだった。

酒場とはいえ昼間から酔い潰れる者はそうおらず―皆無とは言い切れない―至って落ち着いた雰囲気の店だった。ちょうど空いていた店の奥の席を陣取る。

エールを。二人分な

生ぬるいエールよりぶどう酒の方が美味いが、そういう気分らしい。どっかと椅子に腰を下ろしたアイリーンが、注文さえ億劫と言った様子で給仕の娘に告げる。親指でピィンと、大銅貨を弾いて渡しながら。

ケイも異存はない。胸の内の苦い想いを、もっと即物的な苦味で洗い流してしまいたい、というアイリーンの気持ちはよく理解できたからだ。

…………

席についたはいいが、二人とも黙り込んだままだった。ケイはぼんやりと酒場の客たちを眺め、アイリーンはリリーとのやりとりを反芻するように、独りで手遊びしている。

どうぞ

トン、トンッと二人の前に、エールがなみなみと注がれたジョッキが置かれた。乾杯をするまでもなく、無言で口に含む。

苦いし、不味かった。

……だが、悪くはなかった。

と、そのとき、店の片隅で小さな歓声が上がる。

羽根帽子をかぶり、琴を手にしたひょうきんな男が皆に一礼していた。どうやら吟遊詩人がやってきたようだ。店の外であらかじめ宣伝していたらしく、歌を目当てにドヤドヤと新たな客も入ってくる。

初めて見る顔だが、そこそこ人気の歌い手なのかもしれない。

そして見た目を裏切らぬ陽気な声で、彼は朗々と歌い出す。またぞろ正義の魔女か、それとも大熊狩りの話か? などと斜に構えて聴いていたが、どうやら新しいネタのようだ。

遠く離れた異国の街の、領主の娘の物語。見目麗しい彼女は、邪悪な魔法使いに目をつけられ求婚される。そしてそれを拒絶したがゆえに、娘は体をゆっくりと獣に変えていく、おぞましい呪いを受けてしまう。

だが、そんな娘にも救いの手は差し伸べられた。さすらいの善なる魔法使いが助力を申し出たのだ。呪いを解くには、大元を断つしかない。かくして善なる魔法使いは、邪悪なる魔法使いに一騎打ちを挑んだ。

凄まじい戦いだった。強大な神秘の力が火花を散らし、魔術の秘奥の激しい応酬が繰り広げられる。邪悪な魔法使いは絶大な魔力を誇ったが、しかし、さすらいの善なる魔法使いは一枚上手だった。なんと彼は、二体の精霊を使役し別系統の魔術を操る、類稀なる才能の持ち主だったのだ。

かくして邪悪な魔法使いは討ち果たされた。だが、時すでに遅し。呪いは娘の体に深く根付き、決して解かれることはなかった。

見目麗しいながらも獣の耳を生やしてしまった娘は、街の住民たちに恐れられ、そのまま故郷を追われてしまう。それに善なる魔法使いも同道し、かくして二人のさすらいの旅が始まった。

二人は安住の地を見つけられるのだろうか。わからない、精霊だけがその行先を知っている―と物語は締めくくられる。

アニメかよ……

ぱちぱちと拍手して、歌い手の技量そのものには賛辞を送りながら、アイリーンがボソッと呟いた。

正統派のバトルもの、ってノリだったな

ああ。獣の耳が生えちゃうとか日本人の十八番だろ?

知らん。そういう趣味はないし

からかうような視線をくれるアイリーンに、ケイは小さく肩をすくめた。

だが、どうだろう。ふと想像してみる、例えばアイリーンに猫耳が生えたら?

…………

いけるじゃん……と思ったケイは、少しだけ元気が出た。すぐにエールをあおって苦みばしった表情を取り戻したが、一瞬鼻の下を伸ばしたのをアイリーンは見逃さなかったらしい。ジョッキを置いて、何やらニヤニヤした笑みを浮かべていた。

……それにしても、デュアル・メイジの概念が出てきたのは面白いな

んんー? ……ま、そうだな。『こっち』でも発想はあったみたいだ

あからさまな話題転換だったが、アイリーンはこれみよがしに眉をクイッとさせるのみで、話に乗ってきた。

基本、魔術師と契約精霊は、一人と一体でセットと考えられている。ケイにとってのシーヴ、アイリーンにとってのケルスティンのように。

だが、類稀なる幸運が重なって、複数の精霊と契約できてしまう者もいる。精霊に出会う幸運と、精霊の要求する契約条件をその場で満たせる幸運。どちらも非常にハードルが高い。デュアル・メイジはその中でも最も『あり得る』例で、二体の精霊と契約する魔術師のことを言う。

ゲームでも滅多にいなかったからな

ああ。『こっち』にいるなら一度お目にかかりたいもんだぜ

相当なラッキーパーソンだろ、とアイリーンは言ってから、ふと思い出したように笑う。

そういや、『妖精の母ちゃん(フェアリーズ・マム)』なんてのがいたな

ああ、いたいた。懐かしい

アイリーンの言葉に、ケイは微笑みながら目を細めた。

『妖精の母ちゃん』とは、 DEMONDAL の名物プレイヤーのひとりだ。妖精が好きすぎて、契約条件のあめ玉や砂糖菓子を手に妖精の生息域を徘徊、ついには五体もの妖精と契約を結ぶことに成功した執念の魔術師。恰幅のいい女性のアバターが嬉々として妖精を連れ回している姿が笑いを誘い、こんなあだ名がついた。

ちなみに、同じタイプの精霊と複数同時に契約するメリットは薄い。一つの術に対し全ての精霊が反応して発動させようと試みるため、効果も倍増するが消費も倍増、あっという間に魔力が尽きてしまうためだ。

でも妖精って便利だよなぁ。できるならオレも契約したい

幻惑や眠りの術は、魔道具づくりでも応用が効くだろう。

そうだな。消費魔力も―

少なくてコスパがいいし、と言おうとして、ケイは口をつぐんだ。風の、気配を感じる。きっと声に出して言ったら何か良くないことが起きる。

―まあ、いつどこで妖精を見つけるともわからないし、持っていてもいいかもな。あめ玉の一つや二つ

アイリーンはハハッと笑いながらそう言ったが、あめ玉という言葉から連想してしまったのかもしれない。顔を曇らせた。

…………

またぞろ、沈黙が降りてくる。

そして、休憩していた吟遊詩人が再び歌い始めた。今度は、サティナ定番の正義の魔女の歌だった。ホアキンに何度も聴かされていい加減飽きていたし、それ以上に居心地が悪く感じられたので、二人はどちらからともなく、席を立った。

ぶらぶらと用事もなく歩く。

雑踏を抜け、いつしか城壁が見えてきた。そういえば、町の外に出るときはいつもサスケやスズカが一緒で、徒歩で出たことはほとんどない。

行ってみようか

そだな

なんとはなしに、ケイはアイリーンを郊外の散歩に誘った。衛兵に挨拶して顔を憶えてもらってから、二人は草原に出た。

爽やかだ。午後の風が心地よい。ぼちぼち肌寒い季節がやってくる。

みずみずしい草原の緑は見慣れていたが、いつも騎乗から眺めていたので、視点の高さが新鮮に感じられた。

……なぁ。リリーのあれ、どう思う

歩きながら。見晴らしのいい、誰もいない原っぱで、アイリーンがとうとう口を開いた。

依存症、か

……あれ、本当に依存症なのかな

……と、言うと?

他に何があるのか。ケイが怪訝な顔をすると、アイリーンは オレも詳しくはないんだけどさ と前置きし、

リリー、たった一回しか経験してないんだろ? それも注射とかじゃなくて、経口摂取で。……そんなに一発で、依存症になるものなのかな

もっと何度もやらないと、酷い依存性は出ないんじゃなかったっけ? と。

……わからない。だがここは地球じゃない。俺たちの知らない、依存性が異常に高いヤクがあってもおかしくはない

まあ、そうだけどさ

そうであってはほしくない、と言わんばかりに、アイリーンは辛そうな顔をしていた。ケイも同感だ。

そう、だな……。トラウマとか、そういうので蜂蜜飴が『精神安定剤』として、条件付けされてしまったのかもしれない。……という、考え方もできる

だと良いけど……いや、良くないけどさ

ハァ、とアイリーンは短く溜息をついた。

……どっちにせよ、リリーが苦しんでることには変わりないんだ

そう、それが事実だった。

ケイは無言で瞑目することで、同意を示す。

ピピー、ピピピ……と可愛らしく鳴いて、鳥が飛んでいく。夏の残り香を追い求めるように、蝶々が舞い飛んでいた。

オレたち、どうすりゃいいんだろうな

手近な木立に踏み入って、大きな石の上に腰掛けるアイリーン。

その真向かいの切り株に座り、ケイはおもむろに、胸元のポケットを探った。

……リリーの問題を解決する方法は、ある

えっ? 何が?

これだよ

すっ、と指で摘んで見せた。

赤銅色の―何の変哲もない指輪を。

オズのくれた指輪だ。コレに願えば、おそらく一発で解決する

オズ。

北の大地、魔の森に住まう賢者。

天界より降臨せし悪魔(デーモン)が一柱。絶大なる力を持つ異次元の存在。忘却と追憶を司る者―

依存症だろうが、トラウマだろうが、オズの手にかかれば、一瞬で……

治るはず。記憶をいじれば簡単だろう。

だが―

でも、……それは、ケイ

アイリーンが困惑している。いや、言うまでもない。

わかっている。たしかにリリーは苦しんでるが……『死ぬほど』じゃない

そういうことだろ、と目で問う。

リリーは、幼いながらに苦しんでいる。

だがその苦しみのせいで、明日にでも命を落としてしまうわけではないし、現状は五体満足に暮らしていけている。

深い同情には値するが、それでも、生きているのだ。

それに対し、この指輪の力は絶大すぎる。

たとえ体が引き千切れて、ハイポーションでも治せないような致命傷を負ったとしても、指輪に願ってオズを喚べば一発で回復してくれるはず。

そう―ケイとしても、こう表現したくはないが、あまりにも『もったいない』のだ。リリーのトラウマ『ごとき』に使うには。

なにせ、この指輪で願いを叶えてもらえるのは、たったの一度きりなのだから。

…………

それがわかっているからこそ、アイリーンは険しい顔で唇を噛んだ。

……ケイは、どう思う

……もちろん、治してあげたいさ。だが、今ここで指輪を使ったら、いつか絶対に後悔する日が来ると思う

ケイが本音で語ると、アイリーンは俯いた。

そして、押し殺すような声で、 ……オレもそう思う と言った。いくらリリーがかわいそうでも、重要度の判断を間違えてはならない、とケイ同様の結論に至ったらしい。

仮にここでリリーのトラウマを癒やしたとしよう。そしてある日、もっと重大で取り返しのつかない事件が起きたとしよう。

ケイとアイリーンは絶対に後悔する。

あのとき指輪を使うべきではなかった、と。

だが……

手の中で指輪を転がしながら、ケイは思う。

この指輪の、後悔しない使い方など、あるのだろうか?

これから生きていく上で、何か大きな事件や事故があるたびに、ケイたちは自問自答しなければならないのだ。ここで使うべきか? と。

なまじ選択肢があるだけに、いつまでもいつまでも、分水嶺に立たされ続ける。

この指輪は、確かに、凄まじい可能性を秘めている。

だが分不相応な力には、それに相応しい重みが伴うのだと、ケイは初めて、実感を伴って理解した。

これから生きていく上で―悩み続けなければならない。

いつ、この指輪を使うのかを。

赤銅色に輝く指輪から、オズの笑い声が響いてくる気がした。

まさに、悪魔の指輪だ……

穏やかな、しかしどこか肌寒くすら感じられる空気の中で。

二人は、いつまでも黙り込むことしかできなかった。

オズ それリクエストしたの君らでしょwww

真面目なトーンでお送りいたしましたが、ぼちぼち、ほのぼの感が出てくると思います。

新作のカルマ・ドーンもよろしくネ!

77. 試作

吟遊詩人ホアキン

お歌をおしえて

すごい!! ホアキンですやんこんなの!! 私の脳内から直接お届けしてるレベル! まさにイメージぴったりです!! そしてエッダちゃんに歌を教えてるシーンも良い! エッダちゃんも可愛いけどホアキンの子供好きそうな優しい目もすき……。

前回のあらすじ

ケイ この指輪を使えば、リリーの心の傷も癒せるかもしれない

アイリーン うーーーーん、そうだけど

ケイ でもこの指輪、強すぎる……もったいない……

アイリーン わかる

ケイ これからことあるごとに悩むことになるのか……まさしく悪魔の指輪!

オズ(それリクエストしたのキミらでしょ)

うにょん、と影が動く。

……むっ

うにょーん、と再び影が動く。

……む~っ

夕暮れ時、宿屋の一室。

どんな感じ?

ケイの肩にあごを載せて、アイリーンが後ろから覗き込んでくる。

なかなかいい。鍛えられている感じがする

水晶のはめ込まれた小さな杖を手に、ケイは真面目くさって答えた。

ケイたちがサティナについてから数日。

コーンウェル商会付きの魔術師として、アイリーンは諸々の魔道具の試作に取り掛かっていた。まず商品化を目指すのは”投影機(プロジェクター)”―影絵を表示する魔道具だが、それよりも先に、ひっそりと魔力鍛錬用の杖も作成している。

ケイが使っているのは、そのプロトタイプ。ベースになった杖は木工職人のモンタンに依頼したものだ。杖というよりは仏具の金剛杵に近い形状で、アレイやダンベルの握りの部分だけといった風情。そこに親指の爪大の水晶がはめ込んである。

やっぱ精霊が賢いと楽だなー、作るのが

うねんうねんとうごめくケイの影を見て、アイリーンが感慨深げに言った。

水晶には『魔力を極微量、消費して使用者の影を動かす』という術が封入されているが、これがゲームだと、精霊のAIが意図的にアホの子に設定されていたせいで、影の挙動や使用者の定義に至るまで細々と設定する必要があった。おかげで呪文もどんどん長くなっていき、封入する宝石もある程度の大きさが要求された。

だが現実では、ケルスティンが『アホの子AI』から『ものすごく話がわかる子』に変化し、曖昧な命令でも理解できるようになった。『使用者の影を動かす』と言えば、使用者が誰なのかも把握してくれるし、影も適当に動かしてくれる。お陰で呪文も短くなり、宝石も小さなもので事足りた。

ゲームの精霊のAIも、これだけ賢かったら別ゲーだったのにな

もう少し、『それらしい』ゲームになってただろうな

おどけるアイリーンに、ケイも笑いを噛み殺す。

上記の理由で、ゲーム内の魔道具は宝石が肥大化しがちで、製作コストが非常に高く付いていた。それは同時に、持ち歩くリスクが高まることも意味する。

あいつ魔道具持ち歩いてるらしいぜ という話が広まれば、 へっへっへ、いいカモだ お宝をよこしなァ! と追い剥ぎプレイヤーやプレイヤーキラーたちが群がってきて、ゲームどころではなくなってしまうだろう。

大手の傭兵団(クラン)に入って常に集団行動を取るプレイヤーなら、ある程度は襲撃も避けられるかもしれない。が、それでも失うものがない追い剥ぎ用のサブキャラでヒャッハーされることもままある。

そんなわけで DEMONDAL では、対人イベントや計画的な集団戦闘でない限り、魔道具は滅多に持ち出されなかったのだ。もはや一種のステータスアイテムと化していた。

しかし仮に、ゲーム内の精霊のAIがもっと柔軟で、低コストな魔道具が作成可能だったなら―攻撃魔術を込めた杖や使い捨ての護符なども日の目を見ていたかもしれない。他のファンタジーゲームのように、派手なエフェクトの魔術がバンバン飛び交っていた可能性もあるのだ。

実際は、人外じみた威力の矢と石ころが飛び交い、奪われても懐の痛まない安物の鎧で身を固めたプレイヤーがオッスオッスぶつかり合う有様だったが。

それにしても俺の魔力、けっこう増えたんだなぁ……

揺れる足元の影に視線を落とし、ケイはしみじみと呟いた。

杖を通して、水晶に魔力が吸い取られていく感覚がある。ごくごく僅かな量―とはいえ、魔力関連の技能を全く伸ばさず、脳筋戦士として育成していたケイのキャラクターなら、今頃は枯死していてもおかしくない。

だが、ケイは平気だ。

むしろまだ余裕さえ感じる。

“風の乙女”シーヴに度々、死ぬ寸前まで搾り取られていたせいで、魔力が育っていたのだろう。ゲームにあったキャラクターの成長限界が解放されたおかげだ。

うーん、オレももっと鍛えないとな

ケイの成長ぶりに思うところがあったのだろう、アイリーンが頷いている。正義の魔女の二つ名を持つアイリーンだが、実は純魔術師(ピュアメイジ)ではなく肉弾戦と魔術の両方をこなす魔法戦士だ。脳筋戦士よりかは遥かに強大な魔力を誇るが、純魔術師に比べると当然劣る。

だが、鍛えれば鍛えるほど伸びるならば。

ここらで本格的に、魔女に転職してもいいかもな― Kerstin, arto kage-mai

アイリーンがパチンと指を鳴らすと、アイリーンの影がひとりでに動き出した。

杖に封入したものと同じ術式を、自力で行使したのだ。アイリーンの影がケイの影の手を取り、いっしょにフォークダンスを踊り出す。ケルスティンがケイの影に干渉しているのだ。

が、本来想定されていなかった挙動により、ケイの魔力消費量が一気に伸びる。

ぬごおあおあッ

ケイ!?

魂を吸い取られるような声を上げたケイは、パッと杖から手を離した。スンッとケイの影が通常状態に復帰、残されたアイリーンの影が おっと と言わんばかりに淑女の影絵―ケルスティンの姿に戻る。

どうした!?

……なんか、一気に魔力を吸われた……

げっ、大丈夫だった? いや生きてるから大丈夫なんだろうけど、ごめん

なんてこった……と青い顔のアイリーン、『うっかり』でケイを枯死させたら悔やんでも悔やみきれない。

尤も、アイリーンのせいとは言い切れなかった。影に干渉したのはケルスティンだし、そもそもこんな現象も想定されていなかったのだから。

……心配するな。思ったより勢いがあってビビっただけだ。量はそれほど大したことがなかった―

シーヴに比べれば、という言葉は呑み込み、ケイは床に転がる杖を拾い上げる。

……同じ術式だと干渉するのか?

わかんない……

やはりゲームとは異なる点も多いようだ。いくら伸びしろがあるからといって、調子に乗って死んでしまったら意味がない。慎重に検証しなければ、と浮かれていた気分を引き締める。

まあ、何はともあれ。気をつけて使えば安全に魔力を鍛えられそうだ

変なことしなけりゃ、な。……普通に使う分には安定してた?

あっけらかんとしたケイに対し、アイリーンはまだちょっと気にしている。

安定してた。魔力の消費もほとんどブレを感じなかったし、多分一般人に使わせても、ほんのり魔力が強い人間なら大丈夫なレベルだ。……やっぱり、バレたら、だいぶん拙いことになるな、これは

アイリーンの不安を払拭するように、明るい口調で語るケイだったが、自動的に別の不安点も出てきてしまった。

『この世界』では、安全に、そして確実に魔力を鍛える手段が貴重なのだ。もしもこの魔道具の存在が知られれば、国に目をつけられて厄介なことになる。

使ってみて改めて思ったが、脳筋戦士(ピュアファイター)の俺を魔術師に変えてしまう恐ろしい魔道具だな。下手な武器よりヤバい

う~~~~む……

アイリーンがベッドにぽふんと倒れ込み、腕を組んで唸りだす。

悩んでいるのか、と思ったケイは、妙な空気をごまかそうと まあ俺たちだけで使えば大丈夫だろ と努めて軽い口調で言った。

……なあ、ケイ

うん?

それでも難しい顔のままだったアイリーンは、やがて体を起こし、改めてケイに向き直る。

実は、ちょっと前から考えてたんだけどさ。……リリーを、その、オレの弟子にしようかと思うんだ

弟子?

意表をつかれ、ケイは目をしばたかせた。

弟子って……魔術の、か

うん。精霊語(エスペラント)と、アルゴリズム的な考え方と、ある程度基礎が身についてきたら、魔力の鍛錬も……

ケイの手の杖を見やりながら、アイリーン。

―ケイたちは、リリーの一件を、静観することに決めた。

オズの指輪は使わない。いや、使えない。リリーは気の毒だが、この問題を解決するのに、指輪の力は強大過ぎる。だから使わない―そのかわり、リリーやモンタン一家にはできるだけ手助けを、というのが、ケイたちの結論だ。

リリー、塾にも通えなくなっちゃったみたいだし、あの子のために何かかわりになるものを、って思ってさ

通えなくなった、というのはリリーの精神的な問題だ。以前のように独りで出歩けなくなってしまったし、塾に通う他の子供たちとの兼ね合いもある。リリーの他は裕福な家庭の子ばかりで、もともとリリーは浮いていたのに、誘拐事件のせいでさらに好奇の視線にさらされるようになってしまったそうだ。

子供は無邪気で、正直で、残酷だ。リリーの心の傷をえぐるどころか、傷口に塩を塗り込むような言葉を平気でかけてくることもある。

そんなリリーが不憫だから―というのが、アイリーンの考えなのだろう。何かに熱中させることで、一時的にでも、辛い記憶を忘れられれば、という想いもあるに違いない。

もちろん、リリーが望めば、なんだけどさ

アイリーンはそう言いつつ、リリーが断らないことを確信しているような口ぶりだった。実際、ケイもそう思う。アイリーンのような優しい魔女に、弟子入りを誘われて断る人間がいようか。

……俺も、賛成だよ

それくらいのことはしてもいいかもしれない。

『こっち』の魔術師も、どうせ修行法は門外不出の秘伝だろう。修行法を秘するのは別に怪しいことでもなんでもない。リリーにも絶対の秘密だとよく言いきかせれば、きちんと守ってくれるはずだ

ケルスティンは影の精霊。影が常に見守っているとでも言えば、言いつけを破ってまで修行法を漏らす度胸があるとも思えない。もちろん、リリーを信用していないわけではないが……。

そしてリリーの弟子入りは、少し驚いたが、冷静に考えればケイたちにとってもメリットのあることだ。今から魔力を鍛えていけば、大人になる頃には今のアイリーンを凌ぐほどの魔力量に達するだろう。それで契約精霊を見つけて魔術師になるもよし。そうでなくとも、魔道具を使ったり宝石に魔力を込めたりできる、『信用できる』人材が得られる。

アイリーンが密かに構想している”影画館”計画や、今後サティナで暮らしていくことを鑑みれば、十年単位での話になるが、アイリーンを支えてくれる有能な弟子の存在は、大きなプラスになるはず。

よかった、ケイが賛成してくれて

アイリーンは、ホッとした顔で言った。

明日あたり、リリーに話してみたらどうだ?

だな。モンタンの旦那たちにも相談する感じで

それがいい。モンタンたちもダメとは言わないだろう

よーし、となると、ますますオレたちも修行しないとな! 『師匠』と呼ばれるには、オレの魔力の扱いはまだまだ未熟だし

ベッドの上で座禅を組んで、真面目くさって瞑想し始めるアイリーン。

ケイたちは、アルゴリズムや魔道具作成、精霊語においては『この世界』の老練な魔術師顔負けの知識を誇るが、こと『魔力の扱い、感覚』という点では、大きく遅れを取っている。

元の世界には魔力なんてなかったし、ゲーム内にも『魔力の感覚』までは実装されていなかったので、当然だ。

ウルヴァーンのヴァルグレン氏も、ガブルロフ商会のヴァシリー氏も、オレたちの魔力を察知してきたからなぁ。あれくらいはできるようになりたいもんだ

目をつぶったまま、唸るようにしてアイリーンが言う。

“白光の妖精”と契約する銀髪キノコヘアこと、ヴァルグレン。そして告死鳥(プラーグ)と契約するガブリロフ商会所属の魔術師、ヴァシリー。二人とも熟練の使い手で、魔道具も使わずにケイたちのおおよその魔力量を看破してみせた。やはり『こちら』の魔術師は、魔力に対する知覚に優れている。

ケイたちが今から身につけるのは容易ではないが、努力する価値はある。

そうだな。俺も、もっと頑張らないと

ケイも再び、影を操って魔力を消費し始めた。

これからは、この鍛錬が寝る前の日課になるだろう。

鍛えなければならない。取りうる選択肢を増やすために。

リリーの件も気になるが、『きみは死神日本人か?』の手紙も気になるのだ。

DEMONDAL のプレイヤーと思しき人物―友好的な存在、と信じたいが、万が一ということもある。備えはあればあるほど良い。

イグナーツ盗賊団対策にもなるし、『矢避けの護符』あたりはケイも早急に作成できるようになりたかった。

…………

今一度、座禅を組むアイリーンを見つめる。

―なんと言っても、アイリーンと自分の命がかかっているのだから。

その日は、ちょっと気分が悪くなるくらいまで魔力を消費してから、日が暮れて早々にケイたちは寝た。

明日はまたモンタン宅を訪ねて、弟子入りを打診することになるだろう―。

サスケ ぼくらの出番なさすぎない?

スズカ 忘れてる人もいそう

サスケ 街MAPだからしかたないね

78. 弟子

前回のあらすじ

アイリーン そうだ、リリーを弟子にしよう

……弟子、ですか

モンタンが、ぽかんと口を開けた。

翌日、ケイたちはいつものようにモンタン一家を訪ねている。

リリーを弟子にしたいというアイリーンの申し出に、リリー・モンタン・キスカの三人の反応はまちまちだった。

リリーは目を輝かせ。

モンタンは考え込み。

キスカはどこか不安げに眉根を寄せる。

賛成、中立、反対、といったところか、とケイは思った。

わたし、やりたい! おねえちゃんみたいなかっこいい魔女になる!

諸手を挙げて大歓迎なのはリリー。『かっこいい』と言われたアイリーンは嬉しそうに、そしてちょっと気恥ずかしそうに目を細めている。

弟子、とは、本当に『魔術の』弟子ですか?

どこか慎重に確認してきたのはモンタンだ。あまりにも突然のことで、どう反応すればいいのかわからない、といった様子だ。その心情を一言で表すとすれば― マジかよ だろうか。

もちろん、魔術の弟子だ

アイリーンは鷹揚に頷いた。

なんと……しかし、いいのですか?

いい、とは?

い、いえ、普通、そういった魔術の秘奥は、親から子へのみ伝えられるものかと思っておりましたので……お二人のお子さんが産まれてから……

モンタンの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。

い、いや……

子供とかは、まだちょっと早いかなって……

途端、てれてれと頬を赤らめる二人。

そ、そりゃあ、まあ、いつかはさ。ケイとも……赤ちゃんができるだろうし? 産まれたら、きっと魔術の手ほどきもするだろうけど……

だが、今はまだ色々とやりたいことや、やるべきことがあるから、なあ? そのあたりは、追々な……

突如としてこっ恥ずかしい雰囲気を醸し出す二人に、モンタンは曖昧な笑みを浮かべて そうですか と頷いた。リリーは ? と首を傾げていた。

それに、実子以外の弟子なんてそう珍しくもないだろう。公都には魔術学校まであるんだぜ?

そうなんですか? そういった事情はあまり存じ上げなくて……魔術師の方々のお話なんて、滅多に伺う機会もありませんし

今度はモンタンが首をかしげる。彼は多少大商人とも付き合いがあるとはいえ、ただの木工職人だ。魔術師への弟子入りなど遠い世界の話なのだろう。

……まあオレも詳しくは知らないんだけどさ

かくいうアイリーンも、聞きかじっただけなのだが。

あの……お話は大変ありがたいのですが、危なくはないのでしょうか?

心底申し訳無さそうに、しかし これだけは譲れない という母の顔で、キスカが尋ねてくる。

魔力の鍛錬には危険が伴う、と聞いたことがあります

ママ、でもわたし―

あなたは黙ってなさい

口を挟もうとするリリーにぴしゃりと言いつけるキスカ。いつもは柔和で活発なキスカも、愛する我が子のこととなれば流石の気迫だった。

ご心配はもっともだ。鍛錬に限らず、魔力というものは一歩扱いを間違えれば命の危険が伴う

アイリーンは誤魔化すことなく、正直に答える。あまりに堂々とした物言いに、キスカは二の句が継げなかった。一瞬の沈黙。

……俺も、魔術を使って、何度か死にかけたことがある。扱いに細心の注意を要するのは、魔力も武器も同じだな

と、ケイがもっともらしくコメントすると、モンタン一家が ん? と怪訝な顔をした。

ケイさんが?

魔術……?

なぜそこでお前が出てくる、と言わんばかりの口調に、今度はケイが んん? と首をひねった。

……言ってなかったか? 俺も魔術師の端くれだ

ええっ?

モンタンたちは驚きの声を上げたが、どちらかというと疑いの色が強い。

冗談じゃないんですよね?

ふふっ、信じられないか?

いえ、そんなことは……ただちょっと意外で

本音は、 ちょっと どころか かなり 意外だろう。大熊をも一撃で打ち倒す狩人が魔術を……? とモンタンの顔には書いてあった。確かに、脳筋戦士と魔術師は、イメージ的には対局に位置する。

ほんとに~?

こら、リリー

遠慮皆無で疑わしげに目を細めるリリー。キスカが困ったようにたしなめるが、ケイは正直なリリーが可笑しくて思わず噴き出した。

くっはっは。まあ仕方がない、魔術師らしくない自覚はあるんだ

そして、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

リリーにも信じてもらえるように、ここは一発、魔術を披露しようじゃないか

これまでなら。

このような場面で じゃあ何かやってみせてよ と言われても、 いや触媒(エメラルド)が高くつくから…… 代償がデカいから…… などと言い訳がましくゴニョゴニョ言って、断ることしかできなかっただろう。そしてリリーの疑念も、払拭することは叶わなかったはずだ。

が。

今のケイは一味違う。

昨日の鍛錬でよくわかった。一般人に比べれば、ケイの魔力は劇的に鍛えられている。もはや規模の小さい術ならば、触媒なしでも行使できるのだ……!

行くぞ、見ていろ……ッ!

ケイは体の奥底に渦巻く魔力を意識する。

ぞわり、と空気が異様な気配を孕む。

一同は、ケイの背後に羽衣をまとった乙女の姿を幻視した―

Maiden vento, Siv.

そして、呼び掛ける。

―Faru la venton milde blovi!

ズオォッ、とケイの魔力が吸い取られていく。

くっ……!

額に汗を浮かべ、苦しげに表情を歪めるケイ。しかし耐える。シーヴの術を触媒なしで、意識的に発動するのはこれが初めてだ。

魔力が捧げられ、精霊(シーヴ)により世界の理が書き換えられていく。

うおおおお……ッ!

果たして術が完成する―!

そよぉ……

と、かすかな風が、窓から吹き込んだ。

モンタン宅の天井に飾られている、木製の風鈴のような飾りが、からん…………ころん…………と小さく音を立てた。

……ふぅ。うまくいったな

冷や汗を拭って、ドヤ顔を浮かべるケイ。 ほう…… と感心するアイリーンをよそに、モンタンたちはひたすら困惑していた。

えっ……今の、魔術なの?

リリーが衝撃を受けたような顔で尋ねる。今度はキスカもたしなめなかった。

ああ。俺は風の精霊と契約しているからな。そよ風を吹かせたんだ

へ、へえ……

大真面目に、あくまでも成し遂げた感を漂わせるケイに、リリーも冗談ではないらしいと察したようだ。

……うちわであおいだ方がつよそう

未だそよそよと揺れる天井の風鈴を見て、リリーはぽつりと呟いた。

…………

と、とにかく、リリーを弟子に取ると言っても、危険な目には遭わせない

静かにダメージを受けるケイを尻目に、アイリーンが空気を切り替えようと、再び口を開く。

まずは座学、精霊語と魔術の基本的な考え方を学ぶ。次に瞑想で魔力を鍛える。瞑想で死ぬ奴はいないからな、これは絶対に安全な方法だ

リリーの歳で瞑想したところで、魔力は本当に少ししか伸びないが、その少しが大きな差を生んでくる。

そもそも、魔力の鍛錬が危険、と言われているのは、身の丈にあっていない過剰な修練で命を落とす奴がいるからだ。魔道具を利用したり、無理に術を行使したりして、魔力を使い果たして死ぬ。だけどリリーにはそんな真似はさせない。十年単位でゆっくり、確実に、そして安全にやっていくことになるだろう

大したことはしないさ、と肩をすくめるアイリーン。そしてその言葉は、ケイが魔術を披露したお陰で、良くも悪くも説得力があった。

実際のところ、ケイの術は『脱初心者』級と呼べるもので、リリーが同じことをしようとすれば数回は軽く死ねる危(・)険(・)な(・)ものだ。ケイを見て 大したことがない と解釈するのは大きな誤解なのだが、ぱっと見の印象には勝てない。

そうですか……差し出がましいことを申し上げました。娘を、リリーを、どうぞよろしくお願いします

少しは安心したのか、キスカはホッとため息をついて一礼した。

ママ! じゃあいいの!?

しっかり、がんばりなさい

やったぁ!!

椅子から跳び上がるようにして喜ぶリリー、モンタンも続いて よろしくお願いします と頭を下げる。

何から何までお世話になって……本当に、なんとお礼を申し上げれば良いのか

いやいや、オレがしたいことだから……

おねえちゃんありがとう! わたしがんばるね!

アイリーンに抱きつくリリー。心底嬉しそうに笑っている。昔の彼女が戻ってきたかのようだった。

うん、オレもリリーに相応しいお師匠様になれるよう頑張るよ。でも、辛くなったり、嫌になったらいつでもやめていいからな

ならないよぉ!

よしよし

自分の決意をないがしろにされたと思ったのか、ぷくっと頬を膨らませるリリーに、アイリーンは苦笑してその頭を撫でてあげた。

じゃあ、商会でのお仕事が一段落したら、精霊語のお勉強を始めような

うん!

そのとき、リリーはなぜか、チラッとケイを見た。

……立派な魔女になれるように、がんばる!

なぜ俺を見た、とケイはまた静かにダメージを受けた。

†††

その後、しばらく雑談を楽しんでから、ケイたちはモンタン宅を辞去した。

リリーはアルファベットは読み書きできるので、簡単な精霊語の単語をいくつか教えておいた。本当に数語だが、これからちょっとずつ語彙を増やしていくことになるだろう。

弟子、正解だったな

鼻歌交じりに街を歩きながら、アイリーン。

そうだな

ケイも首肯する。新しい目標ができたことで、リリーは生来の明るさを取り戻しつつあった。いつ、また以前のように屈託なく笑えるようになるかはわからない。だがその日は必ず来る、と確信を持てたのが、今日の一番の収穫だ。

のんびりと職人街から、商業区まで歩いていく。

ケイたちが目指しているのは、とある宿屋。“GoldenEgg”亭―コーンウェル商会でホランドから聞いていた、吟遊詩人ホアキンの定宿だ。

魔力鍛錬用の魔道具と並行して”投影機(プロジェクター)“を試作しているアイリーンは、影絵として登録する図柄について、ホアキンに直接リクエストを聞いておこうとしているのだ。

そして、通行人に道を尋ねながら”GoldenEgg”亭に着いてみると、ちょうど宿屋から出かけようとしているホアキンを見かけた。

これはこれは、お二人とも

ケイとアイリーンの姿を認めたホアキンが、ひょうきんな笑顔を浮かべ、脱帽して挨拶する。

やあ、ホアキン

よっ旦那、数日ぶり。調子はどうよ

すこぶる良いですね! 今日はこれからお仕事です、ありがたくもさる御方から依頼を受けまして……

聞けば、これから貴族の館に詩を吟じに行くのだという。ホアキンの収入の多くは聴衆からのおひねりだが、時たま、貴族や大商人から依頼を受けることもある。

あー、タイミングが悪かったな。いや、ぎりぎり良かったのかな?

アイリーンが唸る。ホアキンが不在で空振りに終わるより、まだ会って話ができただけマシかもしれない。

まだ急ぐ時間でもありませんし、のんびり歩きながらお話しましょうか

そうだな。実は、“投影機(プロジェクター)“についてなんだが―

三人で、貴族街に向けて歩きながら、試作品について話していく。

―じゃあ、登録する図柄はそんな感じでいいかな

ええ、お願いします。受け取るのが楽しみですね!

明日にはできるから、昼頃にまた宿屋に行くよ

いえいえ、こちらから出向きますよ。たしか”BlueBird”亭でしたよね?

そうそう、それ

では明日の昼頃に。“BlueBird”亭では、わたしもここしばらく演奏していませんでしたからね。ついでに『営業』してもいいかもしれません

今日これから貴族の館に歌いに行くというのに、仕事熱心なことだ。

そういえば、ホアキン。サティナに戻ってきて、何か面白い話は聞いたか?

歌の話題になったので、ケイはさり気なく聞いてみる。

面白い話、ですか。そうですねえ、最近サティナでは”流浪の魔術師”と”呪われし姫君”の物語が流行っているようで

ああ、それか。オレたちも聴いたよ

あのアニメみたいなヤツ、とアイリーンがケイに目配せしながら笑う。

アニメ……?

ん、なんつーか、アレだ。英雄譚とかそういう意味の単語だ

ホアキンが耳ざとく興味を示したが、アイリーンはさらりと流した。

そうですか。そしてそう、このお話なんですが、なんと実話らしく、それも割と最近の出来事だそうで。しかも当の”流浪の魔術師”は今、サティナに滞在しているらしいですよ!

ほう

ケイは感心したような声を上げる。アイリーンが アニメ と表現していたように、あの話は完全にフィクションだと思い込んでいたのだ。

デュアル・メイジ―二体の精霊と同時に契約したとかいう、流浪の魔術師。彼が本当に実在するなら、話がどれだけ『脚色』されているのかも気になるところ。

確かなのか?

ええ、同業者からの情報です。紆余曲折を経て、今は領主様の庇護を受けているとか何とか……氷の魔術の使い手は希少ですからね

ほーう

領主が出てくるとなると、実在するのは確かなのかもしれない。

そして話をしているうちに、ケイたちは貴族街にたどり着いていた。

この辺りまで来ると、がらりと街の雰囲気が変わる。所狭しと建物が並ぶ商業区や職人街とは異なり、空間がゆったりと贅沢な使い方をされていた。余裕と気品をもって建ち並ぶ屋敷の数々、それぞれが貴族や名士たちの住まいだ。中には草木の生い茂る庭園まで備えるものまであった。

石畳の道幅にもかなりの余裕があり、やんごとなき方々を乗せた馬車が時折行き交っている。見回りの衛兵の数も市街区とは段違いだ。ケイとアイリーンは、特にサティナの衛兵たちにはそれなりに顔が知られているので、皆 おや と興味深げな目を向けてくるだけで、貴族街に踏み入っても呼び止められるようなことはなかった。

さて、そろそろ目的地です

それじゃ、お仕事がんばってな。オレも試作に取り掛かるわ

楽しかったよ。また何か面白い話があったら、ぜひ聞かせてくれ

和やかに、ケイたちが別れようとした、そのとき―

―あああああああああッッッ!

突然、背後から、絶叫。

何事かと振り返ると、先ほどケイたちの横を通り過ぎた馬車の窓から、黒髪の女が身を乗り出していた。

少し浅黒い肌、なかなかの美人だ。つば広な帽子をかぶり、ごてごてと飾りすぎない上品なドレスを着ている。服装はまさに深窓の令嬢といった雰囲気だが―

ケイ! あんたケイでしょ!!

女はあろうことか、ケイをビシッと指さして叫んだ。

は?

誰だあの女、と首を傾げるのがケイ。

誰だ? あの女……とケイを見やるのがアイリーン。

その場に不穏な空気が漂いかけたが、続く女の言葉に、二人の疑念は宇宙の果てまで吹き飛ばされる。

“死神日本人《ジャップ・ザ・リーパー》“ケイ!!

驚愕して目を見開くケイとアイリーンに、女は必死で訴えかけた。

あたしよ! 『イリス』よ!

ある日 街の中 豹耳に 出会った

ところで、Twitterやってます!(唐突) @iko ka

更新予定や鳴き声などを呟きます。

朱弓の進捗状況を先んじて把握し、ライバルに差をつけたい貴方に。

それと短編もいくつか投稿しましたので、もし良かったらこちらもどうぞ!

ショートショート『共通点』

あらすじ:

A市近郊に、一夜にして大量の地上絵が描かれた。現場に急行した専門家たちが目にしたものとは……

豺ア蛻サ縺ェ繧ィ繝ゥ繝シ チート剣もったまま召喚されたら異世界がバグった

あらすじ:

お気に入りのゲームにチートツールを入れて、最強の魔剣を作って遊んでいたら、深刻なバグが発生した。魔剣を使うとゲームの挙動が徐々におかしくなり、やがてクラッシュしてしまう。しかもセーブデータが上書きされて復元不可能。どうしたものか、と頭を抱えていると画面が閃光を放った。なんと俺は、ゲームの世界に勇者として召喚されてしまったらしい。めっちゃ可愛い聖女ちゃんに魔王討伐を依頼された俺は、ゲームキャラの能力も引き継いでるし、何とかなるだろうと軽い気持ちで引き受けてしまう。だが魔王は死ぬほど強かった。絶体絶命のピンチに追い込まれた俺は、殺されるくらいならと最凶の魔剣を抜き放つ。大丈夫、1回くらいならきっと大丈夫― 覚悟しろ魔王、俺の魔剣を受け縺ヲ縺ソ繧!

79. 豹耳

ご無沙汰しております、甘木です。

ご心配をおかけして申し訳ございません。私は元気です。

実はこのたび、本を出版することになりました! 詳しくは活動報告にて。

また、長らく更新停止しておりました折、鮫島恭介様 よりファンアートを頂きましたので、ご紹介させていただきます。

霧の中の巨人

大熊

鮫島様、ご紹介が遅れて大変申し訳ございませんでした……! そして素晴らしいFAをありがとうございました!

前回のあらすじ

謎の女 ケイ!

ケイ 誰だあの女

アイリーン 誰だ? あの女……

謎の女 わたしよ! イリスよ!

ケイ 誰だよ

アイリーン 誰だよ

城塞都市サティナ、貴族街のど真ん中。

あたしよ! 『イリス』よ!

馬車の窓枠から身を乗り出した黒髪の女が、こちらに手を伸ばして必死に叫ぶ。ケイとアイリーンは顔を見合わせた。

誰だよ

懸命な訴えも虚しく、異口同音に聞き返すケイたち。『イリス』と名乗った女は、馬車の窓枠からズルッと滑り落ちそうになっていた。

……お嬢様、いかがなさいましたか?

と、背後の騒動を聞きつけた御者が、馬車を停止させて怪訝そうに尋ねてくる。 やっべ という顔をした黒髪の女(イリス)は、すぐに楚々とした表情を取り繕った。

いえ……もうお会いすることは叶わないとばかり思っていた、古い顔馴染みの方がいらっしゃったものですから。少々取り乱してしまいました

つば広の帽子の角度を直しながら、口元に手をやって上品に笑う。その立ち居振る舞いは先刻とまるで別人だ。カメレオンのごとき鮮やかな変わり身にケイとアイリーンは唖然とした。

さあ、ケイさん……それに、お連れの方も。ぜひ一緒においでになって。積もる話もありますし、旧交を温めましょう?

うふふふふふと笑いながら、手招きするイリス。ケイとアイリーンは胡散臭そうに顔を見合わせた。アイリーンが(マジで誰だよ)と目で尋ねてきたので、 わからん と口を動かし答えるケイ。

……それでは、先約がありますので、僕はこのあたりで……

愉快そうに状況の推移を見守っていた吟遊詩人のホアキンが、さも残念そうに口を開く。

(お話、期待してますよ)

これから何が起きるのか―あとで聞かせてくださいよ? とばかりにニッコリと笑い、ケイに耳打ちしてから去っていくホアキン。

あとに残されたのは、困惑気味のケイと、訝しげなアイリーンと、微笑みながら手招きするイリスと。

……ケイさ~ん? いらっしゃらないの~?

相変わらず貼り付けたような笑顔のイリスだが、いつまで経っても動かないケイたちに焦れたような気配を滲ませる。

ああ……いや、お招きにあずかろう

気を取り直し、ケイは答えた。

イリスが何者かはわからないが、“死神日本人”というケイのニックネームを知っていることから、間違いなく DEMONDAL の関係者だ。そして他の転移者を探していたのはケイたちも同じ。まさかこのような、貴族の令嬢じみた人物だったとは予想外だが……

よかった。わたくしのことを覚えていらっしゃらなかったら、あるいは人違いだったらどうしたものかと……

ケイが応じたことで、イリスもホッとしたような表情を浮かべる。馬車からメイド服を着た側仕えと思しき女が出てきて、ケイたちに一礼しつつ乗車するよう促した。

(覚えてないというか、マジで誰なのかわからんのだが……)

胸の内でひとりごちつつ、肩をすくめたケイは、アイリーンともども馬車にお邪魔することにした。

御者が鞭を入れる。カタカタと車輪の音を響かせ、滑るようにして馬車は動き出した。イリスと同乗していたメイドは気を遣って御者台に移動したようだ。主人(イリス)の知己と並んで座るわけにはいかない、という配慮だろう。そんなに気を遣われるとケイは少々申し訳なく思ってしまうが、アイリーンは気後れなど一切ない様子で、しげしげと興味深げに車内の装飾などを眺めていた。

豪勢な馬車だ。俗に『キャリッジ』と呼ばれるタイプの箱馬車。貴族の家で使われるような立派なもので、窓には上質な透き通ったガラスがはめられ、座席にはビロード張りのふわふわなクッションが敷かれている。窓際で揺れる臙脂色のカーテンには、金糸で細やかな刺繍が施されていた。おそらくはサスペンション付きなのだろう、舗装された道を走っていることもあり乗り心地もすこぶる良い。

思えば、こちらの世界に来て以来、これほどきちんとした馬車に乗るのは初めてではなかろうか。隊商護衛で同乗したのは行商人御用達の荷馬車ばかりだった。馬車の格が違うと、こうも変わってくるものなのか。

ええと……

感心するケイたちをよそに、イリスはつややかな黒髪の毛先をいじりながら、何やら思案顔だ。その視線はケイとアイリーンを往復している。

……お久しぶりね? 今さらですけれども、お邪魔だったかしら。こんな綺麗な方といっしょのところを、無理に誘ってしまったみたいで

そして、少しためらいがちに愛想よく話しかけてきた。ちらちらと横目でアイリーンの様子を窺いながら―

……ああ、そういうこと

察しのいいアイリーンはすぐにピンときた。勢いでケイを馬車に招き入れたはいいものの、見知らぬ同行者がいるせいでゲームの話を切り出しづらい。遠回しにアイリーンが何者なのか探りを入れようとしている―そんなところだろう。

気ぃ遣わなくてもいいぜ。オレも DEMONDAL のプレイヤーだし

えっ

目を見開いたイリスはまじまじとアイリーンの顔を見つめていたが、不意に気が抜けたようにへにゃりと脱力した。お嬢様然とした仮面も剥がれ落ちる。

はぁ~~助かったぁ~~……勢いで招いたけど、『内密な話があるからあなたは帰ってくださる?』なんて言えないし、ホントどうしようって思ってたのよね

顔に書いてあったぜ

ふふ、ご明察よ。ケイ、この人もゲーム内のフレンド? 誰?

それよりまず、お前が誰なのか、教えてもらいたいところだ

やたら馴れ馴れしいイリスに、腕組みしたケイは苦笑を返す。

あらごめんなさい。えーと、覚えてない? 何度も戦ったことがあるんだけど。ウルヴァーン周辺で追い剥ぎやってたプレイヤーキラー……豹人(パンサニア)で投石器(スリング)を使うヤツがいたでしょ

ケイの脳裏に、黒い毛並みの豹人(パンサニア)の姿がよみがえった。今となっては懐かしい、ゲーム時代の思い出―

いたな、そんな奴が。まさかとは思うが

はーい、あたしでーす!

にぱーっと笑いながら、イリスが帽子を取り払う。露わになった頭頂部には―ぴょこぴょこと動く黒毛の獣耳。ケイの目が点になった。

うおっ、何それ!

即座に食いついたのはアイリーンだ。

すげえ! 本物?

本物よ~、誠に不本意ながら

へぇー、ゲームのアバターに精神が引っ張られて、耳だけ残った感じか

え? た、たぶん? そうかも……?

人間の耳はどうなってんだ?

そっちはついてないわ。ゲーム時代に慣れてるから平気だけど

そうなんだ……めっちゃピコピコするじゃん。触ってみていい?

えっ。いいけど……くすぐったいから優しくね? おうっ

早速、耳の穴に指を突っ込まれたイリスが悶絶している。ケイはアイリーンが楽しげに猫耳娘を弄り倒すさまを、穏やかな気持ちで眺めていた。

(いや……イリスは豹人(パンサニア)か。ということはアレは猫耳ではなく豹耳と解釈すべきだ……)

ひとり納得しつつ、うんうんと頷くケイ。

ちょっと! 優しくって言ったでしょ! っていうかそもそもアンタは誰なのよ、アンタは!?

アイリーンを引き剥がして、我に返ったようにイリスが問う。

あ、オレ?

そうよ! 顔には見覚えないけど……

オレは、その、“NINJA”アンドレイだよ。名前くらい聞いたことあるだろ……

少し気恥ずかしそうに、ぽりぽりと頬をかきながら答えるアイリーン。イリスはきょとんとしていたが、金髪碧眼、その顔立ち、そしてケイと同時に消息不明になった有名プレイヤー”NINJA”アンドレイ、それら全てが一本の線でつながり、徐々に驚愕の表情へと変わっていく。

―あえええええッ!? NINJA!? NINJAなんで!?

それ以上は言葉にならず、口をパクパクと動かしたイリスは、ビシッとアイリーンを指差す。

―女じゃん!

実はそうなんだよ。人族の女キャラって筋力低いからさ……男キャラでやってて……リアルの性別ひけらかす必要もないし……

あ……そっかぁ。なるほどね。まああたしも、だから豹人(パンサニア)使ってたんだけど

豹人(パンサニア)は、♀の方が♂よりも身体能力に優れる種族だ。単純な身体能力ならば人族の男を超えるムキムキな脳筋キャラが作成できる代わりに、ゲーム内では人族のNPC全てと敵対してしまい、商店や鍛冶屋など街の施設が利用できないという欠点があった。

加えて、豹人は DEMONDAL のパッケージ版の特典であり、わざわざそれを購入してまで使う酔狂なプレイヤーは数えるほどしかいなかった。『豹人のプレイヤーキラー』と言われて、 ああ、あいつか とすぐにわかったのはそういう理由だ。

……ええっと、じゃあ、あなたのことはどう呼べばいいのかしら? アンドレイは変だし……

本名はアイリーンだよ。ロシア人さ

アイリーンね、了解……そういえばあたしも自己紹介がまだだったわね。イリスよ。出身はスペイン

何とはなしに、二人の視線がケイに向けられる。

どうも、ケイだ。出身は日本

流れに合わせ真面目くさって挨拶すると、アイリーンとイリスがくすくす笑う。本当に、今更な話だった。

はぁ。とりあえずケイが見つかってよかったわ……

ホッとした様子のイリス。しばし、車内に弛緩した空気が流れる。

改めてよろしく。それにしても『あたしよ! イリスよ!』なんて、いきなり言われてもわかるわけないだろ……ゲーム内ですら名前知らなかったのに

そうなんだけど、いきなり見かけたもんだからちょっと動転しちゃって……いやホントにそのとおりなんだけど……

今になって恥ずかしくなってきたのか、赤くなった顔を帽子で隠すイリス。頭頂部の豹耳もへにゃりと倒れている。ゲーム内では殺し合いばかり、でじっくり観察する機会もなかったが、こうしてみるとなかなか可愛げのある耳だ。

しかし、 DEMONDAL の世界において、こんな獣耳を生やした人間は一般的ではないはずだ。この耳を『可愛い』と好意的に解釈できるのは、サブカルに馴染みのあったケイやアイリーンのような異世界人だけではなかろうか? この世界の住人は、どのように受け止めるのか。ひょっとすると耳のせいで白眼視されるのではないか? それにしてはお嬢様のように扱われているのはどういうことだ―と、そこまで考えて、ふと思い浮かんだのは先日酒場で耳にした吟遊詩人の歌。

流浪の魔術師と、獣化の呪いをかけられたお姫様の物語―

なあ、酒場で聴いたんだが……

ケイが尋ねると、 あ~ とますます恥ずかしそうなイリス。

それ、あたしです……

やっぱりか

ケモミミ生やしたお嬢様が何人もいるかって話だよな

順当! と頷くアイリーン。

いったい、なんだってそんなことになったんだ? ひょっとすると流浪の魔術師とやらもお仲間か

そうよ、彼もね―

イリスが説明しようとしたところで、馬車の速度が緩む。窓の外を見れば、立派な屋敷の門をくぐるところだった。

……話はまたあとにしましょう。あたし、ちょっとお姫様に戻るから

帽子をかぶり直し、イリスは俯いて あたしはお姫様、あたしはお姫様…… とブツブツ呟き始める。いささか病的なものを感じさせる光景だったが、馬車が停まるころには、そこには楚々とした微笑みを浮かべる令嬢の姿があった。

お嬢様

ありがとう、ヒルダ

馬車の扉を開け手を差し出すメイド―『ヒルダ』というらしい―に礼を言いながら、イリスが馬車を降りていく。ケイたちも続いた。

おかえりなさいませ、お嬢様

執事と思しき男がうやうやしく三人を出迎える。アルカイック・スマイルを浮かべた、落ち着いた雰囲気の白髪の老人だ。執事はイリスに一礼してから、ゆったりと頭を巡らせ、ケイとアイリーンにも会釈した。

お客様ですね

ええ。古い顔馴染みの方よ。まさかこちらにいらっしゃったなんて……ぜひお茶でもと。『コウ』は?

ご在宅にございます

そう。では彼にも知らせて頂戴

たおやかに微笑むイリスに、 かしこまりました と一礼し執事が屋敷に下がっていく。

ほほぅ……

その姿を見て、アイリーンは思わず唸る。動きそのものは素早いのに、雰囲気はごくごくゆったりとしたもので、全く急いでいるように見えないのだ。年季を感じさせる、洗練された足取りだった。まさしくプロ―執事としての所作を極めていると言ってもいいだろう。それが分野は違えど、身体操作に一家言あるアイリーンの琴線に触れたのだった。

(感じの良い人たちだな)

一方で、ケイも執事やメイドの態度に感心していた。今日は、そのへんを適当にぶらつくつもりで、吟遊詩人のホアキンと話をする以外には特に用事もなかった。当然ケイたちの身なりもそれに相応しく、ド庶民の格好だ。貴族街に似つかわしくないどころか、この屋敷の中で、使用人たちを含めて最もみすぼらしい服装と言っても過言ではないだろう。

だが、馬車に同乗していたメイドも、先ほどの執事も、全く表情を変えない。目の奥に侮りの光もない。草原の民風の容姿である都合上、差別意識に敏感なケイでも微塵も不快さを感じないのだ。内心どう思っているかはさておき、それを決して表に出さないプロ意識は称賛に値する。メイドも執事も、かなり厳しい訓練を受けた一流の人材に違いない。

(ただ、そんな人材が集まるとなると―)

この屋敷の持ち主は、相応の人物ということになる。敷地が限られた市壁内にこれだけ立派な屋敷を構えているのだ、さぞかし力のある―

(いや待て、たしか例の『流浪の魔術師』は領主の庇護を受けてる、って話じゃなかったか……?)

先ほどホアキンが別れ際にそんな話をしていたような気がする。もしそうなら、この屋敷は領主の別邸か、あるいはその係累のものか。

思わずケイがアイリーンを見やると、こちらも薄々何かを察したのか、意味深な視線を向けてくる。

さあ、お二人とも、遠慮なさらないで

うふふ、と上品に笑いながらイリス。 あたしはお姫様、あたしはお姫様…… と自己暗示をかけていた姿が脳裏に蘇る。

きっと苦労してるんだろうなぁ、とケイは他人事のように思った。半ば開き直りに近い心境で、屋敷に足を踏み入れる。

鬼が出るか蛇が出るか、『流浪の魔術師』とやらにお目にかかって話を聞くのが楽しみになってきた。この世界にやってきて『大冒険』をしたのは、どうやら自分たちだけではなさそうだ……

プロットではもっとサティナでのんびりさせるつもりだったんですが、ほのぼのパート飽きてきたんで、ぼちぼち地獄の門を開こうと思います。

80. 交流

前回のあらすじ

イリス あたしよ! イリスよ!!

イリス アエエエエエ! NINJA!

イリス あたしはお姫様お姫様……

イリス うふふふふ

ケイ(苦労してるんだろうなぁ)

たおやかに微笑むイリスが、ケイたちを屋敷へと誘う。

正面の扉を抜けると広々としたホール。貴族の館にしては飾りすぎず、それでいて上品な、格式高い空間だった。

どこかエキゾチックな雰囲気を漂わせる床には、白と青のタイルが散りばめられ、幾何学的なモザイク模様を描いている。しっかりと磨き上げられたタイルはまるで宝石のように光り輝き、無粋なケイのブーツでは、踏み入るのがためらわれるほどだった。

モザイク模様の、放射線状に広がるデザイン―その図柄を目で追ったケイは、自然、導かれるようにして壁面を見やる。ホールの両面の壁と、正面の階段の踊り場には、それぞれ一枚ずつ巨大な絵画が飾られていた。

向かって左手側の絵は、どうやら海辺の街を描いたものらしい。

青い海、晴れ渡った空、賑わう埠頭、所狭しと香辛料や衣料品が並ぶフリーマーケットに、大小様々な帆船。ウミネコの鳴き声や市場の喧騒が潮風に乗って運ばれてきそうな、ダイナミックで臨場感に満ち溢れた作品だ。

翻って右手側の絵には、岩山に囲まれた鉱山都市が描かれていた。

色鮮やかで開放的だった港町とは対照的に、植物の緑もほとんどない赤褐色の山肌が、荒れ地じみた寂寥感を投げかけている。だが、そんな厳しい環境をものともせず、家屋から伸びる煙突はもうもうと黒煙を吐き出し、そこに根付く人々の営みが熱気とともに伝わってくるかのようだ。

最後に正面。

風景画だ。ゆるやかに蛇行する大河と、はるか地平にうっすら浮かぶ山脈。街道を行き交う馬車、まるで要塞のよう巨大な城、そしてそれを取り囲む都市―どこか見覚えのある景色。

ウルヴァーン……

アイリーンが呟く。それはまさしく、かつて自分たちが滞在していた公都『要塞都市ウルヴァーン』そのものだった。

……なるほど

続いて、ケイも気づく。両側の風景画も公国の『四大都市』を描いたものであることに。おそらく左手が『港湾都市キテネ』、右手は『鉱山都市ガロン』だろう。要塞都市ウルヴァーン、城郭都市サティナとあわせて、国内で最大規模を誇る都市だ。

そしてサティナは、他三つの都市を結ぶちょうど中間地点に位置している。

北にはウルヴァーンが、西にはキテネが、東にはガロンが―おそらくホールに飾られているこれらの風景画も、それぞれの方角に対応しているのだろう。絵そのものの芸術性もさることながら、なかなか粋なディスプレイじゃないか、とケイは感心した。

と同時に、この屋敷がサティナ領主の別邸、あるいはその係累のものである可能性が非常に高くなった。普(・)通(・)の(・)貴族は多分ここまでしないだろう。

それではまた、後ほど……

馬車からずっと付き従っていた側仕えのヒルダを連れて、楚々とイリスが去っていく。 え とその場に取り残されたケイたちだったが、すぐに別のメイドが現れ、 こちらへ と案内してくれた。

ホールを抜け、中庭に面した回廊を行く。この屋敷は、上から見るとロの字型をしているようだ。中庭にはダリアやジニアに似た季節の花々が咲き乱れている。 きれいだな と口元をほころばせるアイリーンをよそに、ケイは一部の植物に目を留めて(あれは低級ポーションの材料では?)などと考えていた。どうやら薬草園も兼ねているらしい。

そのまま小さな談話室に通される。窓から中庭が見える日当たりの良い部屋だ。すでに別の使用人が控えており、ソファに腰掛けたケイたちに茶を淹れたり焼き菓子を供したりと、甲斐甲斐しく給仕(サーブ)してくれる。

本当に、かつてないほど快適だ。

イリスがいなくなって使用人たちの態度が豹変する―などということもなく、完璧な愛想の良さを維持。ほどよい距離感で接し、ローテーブルに食器を置く際にはほとんど音も立てず、ティーカップの取っ手は持ちやすいようにこちらに向けられていて、紅茶は少し熱めの適温だ。

そして給仕が済めば部屋の隅で待機。何かあったら声をかけてもらえるよう視界内に留まりつつ、全くプレッシャーを感じさせない自然体。

プロだなぁ……とケイは感心した。どのような職業であれ、極限まで洗練された所作とプロ意識は尊敬の念を生む。

うまいなコレ

うまい

とはいえ、今のケイたちにできるのは、焼き菓子をモシャモシャと頬張って舌鼓を打つくらいのことだったが。

ごきげんよう。お待たせいたしましたわね

中庭の噴水を眺めつつのんびりしていると、イリスがやってきた。どうやら着替えていたらしい、先ほどの白いドレス姿ではなく少しラフな格好をしていた。―といっても、紫がかった色合いの仕立ての良いワンピースで、ケイたちの服装とは比べ物にならないほど上等なものだ。

ケイたちの対面のソファに、ふわりと優雅に腰掛けるイリス。いつの間にか傍らに控えていたメイドがスッとカップを差し出し、イリスもごく自然に受け取って口に運ぶ。実に様になっていた。

すぐに『コウ』も来るでしょう。彼も驚いていらしてよ

くすりと笑うイリス。おそらくツレの”流浪の魔術師”のことだろう。ケイは曖昧に頷くにとどめた。

しばし、紅茶を飲みながら他愛ない雑談にふける。主に場を取り持つのはイリスだ。 今までどうしていたのか いつ頃から『こちら』に来ていたのか といった、当たり障りのないことを迂遠な言い回しで尋ねてくる。メイドたちの前では踏み込んだ話を避けようとしているのは明白で、ケイとアイリーンも無難に受け答えに終始した。

―そして五分も経たないうちに、部屋のドアがノックされる。

イリス様、『知り合い』がこっちに来たとのことですが……おおっ!

ひょっこりと顔を覗かせたのは、これといった特徴に乏しいアジア系の顔つきの男だ。サスペンダーつきのスラックスに白いシャツ、青色のベストという服装で、小綺麗にまとまった感じからは なんとなく家庭教師っぽいな という印象を受けた。

びっくりしたでしょう? コウ

イリスがいたずらっぽく笑う。男は、ケイを見て目を丸くしていたが、すぐに気を取り直し、愛想のいい笑顔でこちらに手を差し出してくる。

これはこれは、いやはや何たることだ! ―『久しぶりだね。それとも初めましてと言うべきかな? 日本語は通じてるよね?』

Ah… yeah, 『あー、えっと、はい』

覚悟はしていたが、突然の日本語に脳が混乱する。ケイはどもりつつも、どうにかソファから立ち上がってコウと握手を交わした。

『……大丈夫です。その、日本語もなんですけど、ちょっと敬語が久々で』

『はっはっは、気持ちはわかるよ。僕も錆びついてないか心配でね』

苦笑する男―『コウ』の顔を、ケイは思わずまじまじと見つめてしまう。なぜなら『典型的な東アジアの顔』を本当に久しぶりに目にしたからだ。こちらの世界のアジア系といえば草原の民だが、彼らの肌は浅黒く、濃い顔立ちで、いわゆる醤油フェイスの日本人とは趣が異なる。

さらに言うなら現在のケイ自身の顔も、 DEMONDAL の草原の民のアバターに手を加えたものだ。多少、というか、かなり日本人のそれとはかけ離れている。コウの顔立ちに懐かしさを覚えてしまったのだ。

『さて、申し訳ないけれども、感動の再会を果たした旧知の仲って雰囲気で頼む。怪しまれたくないからねぇ……』

ぽんぽん、とケイの肩を叩いて、コウがイリスの隣に座る。まるで遠い昔を懐かしむような表情と語り口。日本語がわからない者には、思い出話をしているようにしか見えないだろう。

『わかりました。といっても、あまり演技には期待しないでください……大根役者なんで自分……』

ケイも神妙な面持ちで返す。一瞬、黙って顔を見合わせたが、あまりの白々しさに耐えきれず二人して吹き出してしまった。

からからと笑うケイとコウを、アイリーンとイリスは愉快そうに見守っている。一方で、控えていたメイドたちは、未知の言語で話し始めたケイたちに面食らったような雰囲気を漂わせていた。

『……僕たちの会話は四六時中、彼女らに聞かれているからね。イリスとも滅多なことが話せなくて苦労してたんだ。その点、我々の言語は最強の暗号として機能する。非常に助かるよ』

『まさかこっちで日本語が役に立つとは思いませんでした』

『全く同感だ。あ、もし僕の言葉で、わからないところがあったら遠慮なく言ってくれ。本当は英語の方が得意なんだ』

『……もしかして、日系の方ですか?』

『そう、二世でね―』

メイドから紅茶のカップを受け取ったコウが、おもむろにイリスとアイリーンを見やる。

失礼しました。御二方を退屈させてしまいまして

いいえ。構いませんのよ、本当に久しぶりなんですもの。ゆっくりと旧交を温められてはいかが

ありがたくそうさせていただきます。しかしその前に……初めまして。魔術師のコウと申します

胸に手を当てて、コウが一礼する。もちろんアイリーンに向けてだ。

直(・)接(・)会(・)う(・)の(・)は(・)初(・)め(・)ま(・)し(・)て(・)、というべきかな。アイリーンだ。“NINJA”と言えばわかってもらえるか

アイリーンもニヤリと笑って答える。

コウは再び目を丸くし、 なるほど…… と呟いた。“死神日本人”と同時期に姿を消した有名プレイヤー、“NINJA”アンドレイ―

あなたが……そうか。ずいぶんと、その、お変わりに。まあ、僕らも人のことを言えた義理ではありませんがね。そうなると、ケイは本当に変(・)わ(・)ら(・)な(・)い(・)なぁ……

とらえどころのない表情で、コウがぱちぱちと目をしばたかせる。ケイの容姿がアバターと完全一致していることに違和感を覚えたようだ。

まあ、それは……『追々話すとして。すいません、コウさんって彼女(イリス)のお仲間ですよね? 具体的にどの人だったんです?』

『ああ、すまないね、先に言っとくべきだった。一人、ヒゲもじゃの魔術師がいただろう。アレだよ』

コウが焼き菓子をつまんで、欠片を空中に差し出す。ふわりと燐光が漂ったかと思うと、どこからともなく現れた妖精が美味しそうにぱくつき始めた。

それを見てケイも思い出す。イリスの仲間の一人、杖術に長けた妖精使いのプレイヤーキラーのことを。たしか妖精の名前は『ダルラン』だったか。馬の知覚狂わせる幻術と、大弓の矢をいなす杖術に手を焼かされた記憶がある。

『思い出しました。幻術で馬がひっくり返って即死したことがありますよ、アレには参りましたね』

『あったねー。僕が直接きみを撃破したのはあれが最初で最後じゃないかな。あの節は誠にご迷惑をおかけして……』

『いやいやいや』

真面目くさって頭を下げるコウと、それを止めるケイ。もちろん冗談だ。

『しかし、噂では氷の精霊とも契約されていると聞きましたが、ゲーム内じゃ妖精の魔術だけ使ってませんでした?』

『きみがいなくなった直後にね、氷の精霊を見つけて契約したのさ。……おかげで今は、領主のお抱え魔術師兼、冷蔵庫製造マシーンとして活躍しているよ』

『あっ、それは……』

ケイは察した。ゆえに今のこの待遇があるのだろう、と。食料諸々の長期保存を可能とする氷の魔術師が、この世界においてどれだけ重要視されるか、想像に難くない。

『……えっと、確かあと一人、お仲間がいませんでしたか? 竜人(ドラゴニア)の』

何やら遠い目をするコウに、話題を変えようと、ケイは続けて尋ねる。

イリスたちはならず者の三(・)人(・)組(・)だった。コウとイリスがセットで転移しているということは、残り一人―竜人(ドラゴニア)のメイス使いもこちらに来ているのではないか、と考えたのだ。

ああ―

コウは、自然に肩をすくめる。

『彼とは、はぐれてしまったんだ。今はどこにいるのか、見当さえつかない』

『あ、そうなんですか』

『こちらに来た直後は一緒だったんだけどね。でも僕たちも混乱していたし、彼もその、情緒不安定だったというか。気がついたら消えてたよ。しばらく探してみたけど、完全に行方不明さ』

『そうでしたか……』

淡々とした口調で語るコウに、ケイはそれ以上言及するのがはばかられて、口をつぐんだ。

『まあそれよりも、だ。他にも話したいことはある』

コウが前のめりになるようにして、ソファに座り直す。

『なぜ僕らはこの世界に来てしまったのかとか、どうやらこちらと向こうでは時間の流れが違うらしいとか……それにしてもケイくん、本当に以前のままなんだね。きみだけゲームから飛び出してきたみたいだ』

『ああ、これですね』

改めて指摘され、ケイはぺたりと自分の顔を撫でた。

『こっちに来たばかりのとき、アイリーンも驚いてましたよ』

『ふむ。僕のこの姿はリアルのままだけど、イリスはなぜか耳と尻尾が残った。彼女(アイリーン)はどうやらリアル寄りの姿になっているみたいだが、きみは完全にゲームのままだ。……どんな法則があるんだろう』

『あー……』

今度はケイが肩をすくめる番だった。

『魂の姿、といいますか……自分で自分をどう思っているか、に依るらしいですよ。彼女(イリス)はけっこうゲームをやり込んでたみたいですし、猫耳の聴覚や尻尾の感触にも馴染みすぎていて、こちらの世界で受肉した際に耳と尻尾も再現されてしまったんでしょう。俺の場合は……寝たきりの病人で、ゲームの世界に半ば住んでたので。魂が完全に、この姿を自分と認識していたようです』

淀みのないケイの語り口に、コウの眉がぴくりと跳ねた。

『……随分と確信があるみたいだね。伝聞調なのも気になる』

『まあ……実は、別の世界からやってきた上位存在みたいヤツと遭遇しまして』

色々教えてもらったんですよ、というケイの言葉に、コウが目を輝かせた。

『すばらしい! そんなことが。僕らもこの世界について色々調べを進めていたんだけど、ほとんど手詰まり状態だったんだ。ぜひ聞かせてほしいな、その上位存在とやらの話を。僕らは―』

不意に、コウが問う。

『―僕らは、どうやったら元の世界に帰れるんだろう?』

ケイは、返答に窮した。

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前回のあらすじ

コウ 僕ら、どうやったら元の世界に帰れるんだろう?

ケイ あっ……(察し)

『どうやって帰るか、ですか』

『……おかしいかい?』

苦虫を噛み潰したようなケイに、コウは怪訝な顔をする。

『正直、今現在、いい暮らしをさせてもらっているけどね、あくまでこちらの世界基準なわけだ。イリスも僕も、地球に帰るのを第一目標にしている―』

そこでふと、コウは口をつぐむ。何かに気づいたように。気遣うように。

『―寝たきりの病人だった、って言ってたっけ。きみは、帰りたくないのか』

『俺ひとりだったら、そうだったんでしょうけど』

ケイはちらりと、隣のアイリーンを見る。

『彼女がいましたから。元の世界に帰れるかどうか、それも調べていました。その過程で北の大地―雪原の民の国まで出向いて、件の上位存在に会ったんですよ』

『なるほど。それで、帰還方法については』

『……結論から言うと、』

心苦しく思いながらも、ケイは告げた。

『……地球の俺たちの体は、もう死んでる可能性が高いそうです』

†††

屋敷を出る頃には、すでに日が傾いていた。

ケイがことのあらましを語り終えるには、それだけの時間を要したのだ。

そしてコウが話の内容を噛み砕き、理解するのにも。

―それを受け止めるのにも。

……やっぱ、ショックだよな

こつん、と小石を蹴飛ばしながら、アイリーンが言った。ケイと並んで、二人の影法師が長く伸びている。ふらふら、ぶらぶらと。どこか力ない足取りで。

……

ケイは無言で頷く。地球への帰還は絶望的―そう告げられたコウは、当初の紳士的な振る舞いからは想像もつかない狼狽っぷりを見せた。

無論、すぐにケイの話を信じたわけではない。詳しい事情―ケイたちの冒険譚に黙って耳を傾けたあと、ただ短く、『それを信ずるに値する証拠は』と問うた。

困ったのはケイだ。証拠を出せと言われても、そんなものはない。

―胸ポケットにしまってある、指輪を除けば。

“魔の森”で特典としてもらった、『一度だけオズを呼び出して願いを叶えてもらえる』魔法の品だ。

当然、コウに話を信じてもらうためだけに、この貴重な力を使えるはずもない。そこでケイが利用したのは精霊だった。この世界の精霊は嘘を見抜く。他でもないコウの契約精霊、妖精の『ダルラン』に、ケイの言葉に嘘偽りがないことを確認してもらったのだ。

それでも、『ケイが嘘を言っていない』ことがわかるだけで、『“魔の森”でオズから聞いた情報が全て正しい』証明にはならない。ケイにできたのは、オズから伝え聞いた推測―『地球の肉体はおそらく死亡している』『世界を渡るには膨大な魔力が必要』『ケイたちを呼び出したのは、おそらく時の大精霊カムイ』―を、そのまま伝えることだけだった。

それで納得できないなら、仕方ない。

自ら”魔の森”に直接確認しに行けばいい。ケイは同行するつもりはないが、北の大地へ旅立つというならば、地形やルートなど情報面での最大限の支援を約束した。もちろん、現地であった馬賊の襲撃と、草原の民を想起させる対アジア系感情の悪化まで話した上で。

―コウは、しばらく頭を抱えて動かなかった。

気持ちはわかる

腕組みして、嘆息するケイ。

逆の立場だったら、俺だって『はいそうですか』と信用する気にはなれない。プレイヤー同士で顔(・)見(・)知(・)り(・)といっても、通りすがりに殺し合う間柄だったからな

信用以前の問題だ、と思わず苦笑い。

だが、俺が嘘をついている可能性は精霊によって否定されている。精霊まで信用できないとなると、それはもう世界の仕組みそのものが疑わしいということ。かといって、自分で真偽を確かめに行こうにも、北の大地は遠く、道のりは険しい。……八方塞がりだな

コウの旦那は、オレたちみたいにフットワーク軽くねえからなぁ

アイリーンが肩をすくめる。

今現在、コウは難しい立場に置かれていた。

かいつまんで事情を聞いたが、当初、タアフ村でケイと思しき人物の情報を手に入れたコウとイリスは、サティナで装備を整え、ケイを追いウルヴァーンに向かう予定だったらしい。

が、資金調達のためコウが氷の魔術を解禁し、大きめの商会に目星をつけて売り込みをかけたところ、それがたまたま領主御用達の系列で、あっという間に唾を付けられ、気がつけば恩の押し売りで身動きが取れなくなっていたそうだ。

『うっかり安定しちゃったから、ますます動きづらくてね……』

旅にはリスクが伴う。ときには命の危険さえも―安定した生活を捨て去るにはかなりの勇気が必要だ。

そして、もともとコウは安定志向の人間だった。

彼にとって、 DEMONDAL とそのシビアな世界観はあくまでストレス解消目的の娯楽に過ぎず、『生きていく』場所としては決して魅力的ではなかったのだ。真っ当に社会人として過ごしつつ、鬱憤を晴らすためPK(プレイヤーキラー)行為に走っていた―ただ、それだけ。重度の寝たきりで元から DEMONDAL に暮らしていたケイと、仮想世界に引きこもっていたアイリーンとは事情が違う。

いくら魔術が使えようと、貴族のような生活が約束されようと。

コウはファンタジー世界での暮らしなんて、求めちゃいなかった。

―そしておそらく、イリスも同様に。

彼女(イリス)の場合、ケモミミに尻尾まで生えるわ、人前だと猫かぶらなくちゃならんわで、堪ったもんじゃねえだろうな

全くだ。お姫様のフリもよくやるよ

当初はその場しのぎの方便だった『イリスお姫様』作戦も、なまじイリスが名家のお嬢様育ちだったため、なんだかんだボロを出さないまま上手くいってしまい、継続しているらしい。というか、今更 嘘でーす! とは口が裂けても言えない雰囲気で、最近は見合い話まで出てきて苦労しているのだとか。それも相手は木っ端貴族の次男・三男や、ケモミミに大興奮の紳士がメインだそうだ……

しかし、流石にイリスも何かおかしいって気づいたみたいだな。ほとんど演技もせずにコウを心配そうに見てた。目の前に座ってたからよくわかったぜ

そう……だな。まあコウがあからさまにショック受けてたし、薄々内容も察しがついたんだろう

ケイとコウはずっと日本語で話していたので、その間アイリーンとイリスは放置されていた。だが、申し訳無さそうなケイと、みるみる顔色が悪くなっていくコウに、イリスが何を思ったか―少なくとも不安は覚えただろう。

今頃はコウからは説明を受けて、一緒に頭を抱えているかもしれない。

周囲が、賑々しくなってきた。

話しているうちに貴族街を抜けていたようだ。大通りを横切ったケイたちは商業区へと足を踏み入れた。屋台や酒場のキッチンからは、食欲をそそる香りが漂ってきている。屋敷では最高級の紅茶や焼き菓子を堪能したが、今はガッツリと腹にたまるものを食べたい気分だった。

現在ケイたちが泊まっている宿屋は、それほど飯が美味いというわけでもないので、何か買って帰ってもいいな、と屋台を物色しつつ歩く。

あーあ、キンキンに冷えたエールが飲みてえ

酒場の酔っぱらいたちを尻目に、アイリーンがぼやいた。

コウに頼んでみるか、せっかく氷の魔術師なんだし

そうしたいのは山々だけどさ……今日のノリだととても頼めないっつーか

まあ……そうだな……

渋い顔をする二人。 元の世界に帰れないのは残念だけど、まあ元気出せよ! などと無責任に励ませたらどれほど楽だろう。

気持ちの整理には……時間がかかるだろうからな……

自分もそうだった、とばかりにアイリーン。どこか達観したような、それでいて憐憫の情が滲むような。最初から『第二の人生』に感謝しきりで、その手の葛藤とはほぼ無縁だったケイには、安易に相槌を打つことさえためらわれた。

……俺には、かける言葉が見つからないよ

せめて、ケイたちのように、上位存在(オズ)と相見(あいまみ)えていれば、諦めもついたかもしれないが。コウたちが一念発起して、全てを放り出し北の大地へ旅立つ可能性は限りなくゼロに近い。このまま悶々と日々を過ごすのか……

あ、おっちゃん。その串焼き肉ウマそうだな!

と、アイリーンが屋台のオヤジに声をかける。

おうおう、えらいべっぴんさんじゃねえか! 味見するかい?

ありがとー!

そうしてちゃっかり、串焼き半本はありそうなデカい肉をゲットしていた。味見と称して豪快に頬張るアイリーン。

うっめー! おっちゃん、八本くらい包んでくれ!

あいよ!

アイリーンのとびきりスマイルに機嫌を良くしながら、オヤジが串焼き肉を大きな葉っぱにくるむ。不器用にウィンクして、一本多めに入れてくれたようだ。ぐぅ、とケイの腹が大きな音を立てる。コウたちが気の毒なのは確かだが、それはそれとして腹が減っていた。

んぐ、むぐ、美味いなコレ

な。間に挟んだアプリコットみたいなヤツがいいアクセントになってるぜ

香草も効いてて、思ったより手間がかかってる

あのオヤジ、見かけによらず繊細に味付けするじゃねーか……

などと食べ歩きしながら品評会。なお、当の屋台のオヤジは、ケイの存在に気づいて 彼氏持ちかよ……! などと悔しそうにしていた。屋台で買い物する際、それとなくアイリーンから距離を取って、他人のふりをするのが半ば癖と化しているケイだ。アイリーンが単独(ソロ)だとオマケしてもらえる可能性が跳ね上がる。尤も、この街で暮らしていくなら、この技も段々通用しなくなっていくだろう。

それはそれで―悪くない、と思えた。

今日さー、ケイたちの話、聞いてて思ったんだけどさー

夕焼けを眺めながらアイリーンが言った。

北の大地にいたとき、ケイもこんな気持ちだったのかなって

……どういうことだ?

や、全然会話がわかんなくて、こう……疎外感っていうか。オレが雪原の民相手にロシア語ではしゃいでたとき、ケイにも寂しい思いさせてたのかもな、って……そう考えたら、ちょっと悪かったな、みたいな……いや、オレなに言ってんだろ

いつもはサバサバしているアイリーンにしては珍しく、しどろもどろで要領を得ない口ぶりだ。一瞬、きょとんとしたケイは、思わず笑ってしまった。

ちょっとくらい寂しくても平気だったさ

空いている手で、アイリーンの肩をぐいっと抱き寄せる。

アイリーンが楽しそうで俺は嬉しかったよ。それに、そのあと好きなだけ、一緒に話せたしな

これまで、言語のせいで、歯痒い思いをしてきたことが幾度もある。雪原の民の言葉はまるで理解できないし、公国語も語彙が限られており、咄嗟の反応に詰まってしまう。冗談や叫び声の類は聞き取れないことも多い。もしも自分がネイティブなら、あるいは全て日本語なら、もっと気の利いた言い回しができたかもしれないのに、表現に困って首をかしげる必要もないのに―などと、思うことがあった。

そんなケイが、久方ぶりに饒舌に話すことができたのが、先ほどのコウとのやりとりだ。

何を言っても通じる。何を言われてもわかる。相手の冗談も、ほのかに匂わせるニュアンスも。ひたすら快適で、充実した会話だった。

その結果、相手に誤解なく情報を伝えられ、絶望を与える結果となってしまったのは、皮肉としか言いようがないが―。

俺も……今日はちょっと、はしゃいでたかもしれない

内容が内容なだけに、楽しさ一辺倒ではなかったにしても。

そっか……

頷いたアイリーンが、 ふふっ と笑った。

ケイ

ん?

これあげる

突然、口元に差し出される串焼き肉。

お、おう……ありがとう

一口かじると、そのままアイリーンがもぐもぐと二口目以降を食べ始める。

……オレ、日本語勉強してみよっかな

唐突に、アイリーンはそんなことを言った。

え? なんでまた

だってこの世界で最強の暗号になるじゃん

ロシア語は雪原の民が理解できてしまうし、精霊語も魔術師なら聞き取れる。

だが日本語なら、ケイとコウ以外には理解不能だ。

『コニチワ』と『アリガト』しか知らねえけど、もともと興味あったしな

それならもちろん、レクチャーぐらいお安いご用だが

ホント? じゃあ教えてくれよ、日本語で何て言うのか―

顔を寄せて、アイリーンは悪戯っぽく笑う。

―たとえば、『I love you.』とか

夕陽に染められて、その頬はほのかに紅く。

……そうだな。それは難しい質問だ

真面目くさって頷いたケイは、極めてシンプルに応える。

アイリーンの頬に手を添えて―

その『言葉』を語るには、唇さえあれば、事足りるのだった。

屋台のオヤジ キレそう

82. 野掛

※昨日も更新しておりますので、お久しぶりの方はご注意ください。

それから数日、ケイたちは平穏な日々を過ごしていた。

木工職人のモンタンと魔道具の構造について話し合ったり、リリーに精霊語(エスペラント)を教えて魔術の先生っぽいことをしてみたり、アイリーン謹製の魔道具で魔力を鍛えたり、吟遊詩人のホアキンと納品予定の魔道具の打ち合わせをしたり。

―それで、例のご令嬢の件はいったい何だったんです?

打ち合わせ時、当然というべきか、ホアキンは興味津々で尋ねてきた。

彼女は……そうだな、俺たちと同郷というべきか

かいつまんで事情を話す。実はイリスも『同じ場所』から来た人物で、向こうがケイを知っていて、思わず声をかけてきた、と。ケイもイリスのことは知っていたが、直接ご尊顔を拝してはおらず、急に話しかけられてもわからなかった―

嘘は言っていない。イリスの現実(リアル)の顔を知らなかったのは事実だ。

ホアキンは ほ~そうですか~~ と完全には納得していないことを匂わせつつも、それ以上突っ込んではこなかった。

まあ、歌にして広げようとは思いませんよ。そこはご安心を。……酒の肴くらいにはするかもしれませんが

程々に頼むよ

心得てますよ

そう言ってホアキンは笑っていた。いずれにせよ、イリスたちと付き合いが続くなら、遅かれ早かれ噂にはなるだろう。その程度なら実害はない、とケイも笑って許すことにした。

それからサスケとスズカのブラッシングをして、コーンウェル商会のホランドと家購入の進捗状況を聞いて。

イリスから連絡が来たのは、そんな折だった。

野掛(ピクニック)でもいかが? という誘い。コウとの情報共有が終わったのだろう、改めてケイたちとも話をしたいらしい。

屋敷からの使いの者に了承の旨を伝え、さらに数日後。

ケイたちは、サティナ郊外の草原にいた。

†††

コウから事情を聞いたわ

白馬を並足で駆けさせながら、揺れる馬上でイリスが言う。

正直、まだ実感が湧かないのよね……もちろん、あなたたちを疑ってるわけじゃないんだけど……

ぽつぽつと、素の口調で語るイリス。ここでは猫をかぶる必要もない。周囲にはサスケとスズカを駆り並走するケイたち以外、付き従う者もいないからだ。これがイリスの狙いだったのだろう。

ちなみに、ピクニックに同行した使用人たちは、木立のそばにテントを張って、お茶の用意をしている。その横にはデッキチェアに座り、何やら書き物をするコウの姿もあった。今日は乗馬の気分ではない―とのことだが、おそらくは、使用人を自分の方に引きつけておき、イリスを自由にさせる腹積もりだろう。

鷹の目を凌駕するケイの視力は、ちらちらとこちらを窺い見るメイドの目の動きを、事細かに捉えていた。

はぁ……

馬の脚を止めて、ぼんやりと地平線を眺めながらイリスはため息を一つ。草原の風に黒髪がたなびく。

今日はドレスではなく乗馬服姿だ。キュッとウエストが絞られたジャケットに、ぴったりとしたズボン。首元には白いスカーフを巻き、少し大きめのトップハットをかぶって獣耳を隠している。

相変わらず、様になっていた。儚げな表情、憂いを帯びた視線も相まって、白馬にまたがる姿は一枚の絵画のようですらある。タイトルをつけるなら、『物思いに耽る騎乗の麗人』、あるいは『元の世界に帰れない衝撃を噛み締める異世界人』といったところか。

いい感じに服装がキマっているイリスに対し、ケイたちは、ほぼいつもどおりの格好だ。草原に出るということもあって、ケイは革鎧を装備しマントを羽織った狩人スタイル。アイリーンはいつもの村娘風の装いで、ベルトに護身用のダガーを差している。

(……お粗末だなぁ)

イリスと並ぶと格差が酷い。貴族並に遇されているイリスと同程度とは言わないまでも、見苦しくない程度に服飾品を揃えた方がいいかもしれないな、とケイは考えた。今後とも、イリスたちとの関係が続くならなおさらだ。

ねえ、二人は納得してるの? 得体の知れない自称『悪魔(デーモン)』とやらに、帰還は無理だって断言されて

不意に振り返ったイリスが、問う。

……納得、か

難しいな、とケイは空を見上げた。

……オズは、凄まじい力を持っていた。まさに『上位者』ってやつだった

アイリーンがぽつりと呟くようにして答える。

リアルタイムで思考を読むわ、記憶を読み取って魔力に変換するわ。挙句の果てには虚空からオレん家の冷蔵庫と、キンキンに冷えたコーラを出してきやがった。魔力で作り上げたんだぜ? 半神(デミゴッド)みたいなもんだよ

呆れたように肩をすくめてみせるアイリーン。

だが……それでいて、紳士的な態度だった。格下のはずのオレたちに対しても、な。サービス精神と好奇心、共に旺盛な異世界の隠遁者―それがオレの印象だ。悪意のある存在だったら、オレたちは生きて帰ってこれなかっただろうし、わざわざ嘘を吹き込む理由も必要もない、とオレは思う。はっきりした証拠なんてのは示せねえけど、オレから言えるのはそれだけだよ。フツーにいいヤツだった

……随分と肩を持つのね

まあー、ぶっちゃけさ。仮に悪意を隠してたとしても、オレたちにはどうしようもないワケよ

なあ? とアイリーンに同意を求められたので、ケイも重々しく頷く。

だな。彼我の力量差がでかすぎて、対話できただけでも奇跡と言えるぐらいだ。……とはいえ、俺たちもオズの話をただ鵜呑みにしてるわけじゃない。なんだかんだで、彼の話には説得力があった

曰く、世界を渡るには膨大な魔力が必要である。

曰く、魂を失った肉体は衰弱死する。

曰く、こちらと向こうの世界では、時間の流れが違う可能性がある。

まず、世界を渡るのに凄まじい魔力が必要、というのは疑うまでもないだろう。ワープ航法みたいなものだろうし

オズは『世界を渡るには、大陸全土を耕すくらいの魔力がいる』と言っていた。オズの力があれば世界渡りも可能かもしれないが、ケイたちではそれに見合う対価を差し出せない。たとえ国中のあらゆるものをかき集めても、触媒として捧げるには足りないのではなかろうか。

そして、仮に対価を出せたとしても―

『魂を失った肉体は衰弱死する』。これも、わからんではない。そんな気はするって程度の考えだが

そもそも地球では、魂の存在を知覚することも、証明することもできなかった。その上で、理屈を抜きにして、直感的に理解しやすい話ではある。

最後に、時間の流れについては―奇しくも、俺たちの出会いで完全に証明されてしまった

ケイの言葉に、イリスは ……そうね と首肯する。

ケイたちがこの世界に転移してから、おおよそ四ヶ月が経つ。

それに対し、イリスたちがこの世界に来たのは、二ヶ月半ほど前らしい。

そして DEMONDAL 内で『ケイ』と『アンドレイ』が失踪したのは、イリスたちが転移する一週間ほど前のことだそうだ。

つまり、地球で一週間経つ間に、こちらの世界では一ヶ月半が経過していた。

オズは理論的なヤツだった。そして彼の話が本当なら、色々と辻褄が合う。彼の話に納得したか、と聞かれれば……納得した、と言わざるを得ないな、俺は……

ため息まじりの言葉は、ざぁっと吹き寄せる草原の風に紛れて消えていった。

波打つ草原の彼方に、舞い踊る”風の乙女”の姿を幻視したケイは、ふともう一つの『根拠』と呼べるものに思い当たる。

それと、精霊だ。俺とアイリーンの契約精霊がオズにも友好的だった。この世界に来てから、精霊には何かと……助けられてる、からな

ちょっと悔しそうに、ケイは言った。

だから、精霊の振る舞いから、オズも信用できると判断したわけだ

……なるほど、ね

ただ、それを第三者から聞いてもしっくりこない、ってのはわかるぜ。オレたちだって、オズのアホみたいな力を見て、ある意味、諦めがついたわけだし

俯くイリスに、アイリーンがフォローを入れる。

いや、いいのよ。わかってるの。今から荷造りして、北の大地に出向いて、魔の森とやらに分け入って、オズに会って―そんなこと、やる気にもなれないもの。納得できないなりに納得するしかないわよ

だってゲームの世界に転移すること自体、理不尽で突拍子がないことなんですもの、とイリスは言う。

その点は、ケイたちも納得しきれていない。

オズはこの転移について、時の大精霊『カムイ』の仕業だろうと睨んでいたが、そもそもなぜ膨大な力を消費してまで、カムイがケイたちをこの世界に呼んだのかは謎のままなのだ。

ただ、カムイを呼んでも出てこないので、確かめようがない。

納得できないなりに、納得するしかない―。

はぁ。まあ、考えても仕方ないから、そのうち気持ちを整理していくわ

話を聞いてもらえただけでもモヤモヤがマシになった、とイリスは無理に笑う。

この世界で生きていく、か……。そうだ、ちょっと相談があるんだけど

ぽん、と手を叩くイリス。

その、アイリーンに

えっ、オレ?

突然の指名にアイリーンが驚く。

無理もない。ケイだってイリスとは浅い付き合いしかなかったのに、アイリーンはそれに輪をかけて、交流がなかったのだ。ケイはまだ、イリスたちPK三人組と幾度となく交戦したことがあるが、『アンドレイ』は―ケイの知る限りでは、一度も戦ったことがないはず。

困惑するケイたちに、イリスは言いにくそうに、

その……女同士のことで……

……あ~

ケイはなんとなく察した。自分は席を外した方がよさそうだ、と。

じゃあ、俺はコウと話してるよ

オーライ

馬首を巡らすケイに、アイリーンが頷く。

それじゃ、お悩み相談コーナーといくか―

そんなアイリーンの声を背中に聞き流しながら、ケイはコウと使用人たちの元へ戻っていった。

†††

で? 相談ってなんだ?

使用人たちに怪しまれないように、トコトコと馬を駆けさせながら、アイリーンは口火を切る。

突然ごめんなさいね。相談、っていうか、ちょっと聞きたいことがあって

イリスは、もじもじとしてから、

……その、あなた、ケイとはどういう関係?

は?

どういう意図の質問だそれは、とアイリーンはまず不審に思った。

不躾でごめんなさい。ただの興味本位ではあるけど、教えてくれると助かるわ

イリスは存外に真剣な顔だ。

ええと……まあ、恋人……だけど

アイリーンはぽりぽりと頬を掻く。改めて答えると恥ずかしい。なぜだろうか。相手が同郷の人間だからか。

そっか……そうよね。そっかー

はぁ……とため息をつくイリス。

それが、何か関係があるのか?

うーん、身の振り方を考えてるのよ……この世界に骨を埋める覚悟を決めた先達として、あなたの、相方(パートナー)との距離感が知りたかったの

なるほど……?

わかったような、わからないような。

そういうそっちは、相方(コウ)と何かあるのか?

何(なん)っっっにもないわ。それが問題というか

イリスの顔は、どことなくげっそりしていた。

あたしに見合い話が来てる、ってのは聞いたでしょ? 箸にも棒にもかからない木っ端貴族とか、金持ちだけど獣耳趣味の変態オヤジとか、そういうのがわんさか来てるのよ……

……おおう

自分ではまずありえない境遇に、アイリーンは口の端を引きつらせた。

はっきり言って、断りたいわ。体のいい厄介払いだろうし。でも理由もなく断り続けるのも難しくって

お姫様扱いしてもらってるんだろ? それなら、ある程度のワ(・)ガ(・)マ(・)マ(・)くらいは通るんじゃないのか?

やー、お姫様扱いって言っても、領主がコウの顔を立ててるだけだから。あたしなんてオマケよ、世話してる方からすればむしろ邪魔でしかないはず。家もコネも金も特殊技能もないお姫様なんて、ただの金食い虫でしかないし

そして当然、そんな金食い虫を迎え入れるとなれば、身体が目当てとしか考えられないわけで。

そういう意味で、あたし今、ものすっごくコウにお世話になってるのよ。正直、コウは全然……その……タイプと違う人だったんだけど、頼りになるし、もし求められたら応えなきゃな、くらいには考えてたの。でもね!?

話しながら、徐々にヒートアップしていく。

何(なん)っっっにも! 本当に何にもないのよ!! 言い寄ってくるとか! 口説いてくるとか! 一ミリもないの! ……あたし、これでも、顔とかスタイルにはけっこう自信あったんだけどなぁ……

そ~だな~

馬の足並みに揃えて、乗馬服越しにたゆんたゆんと揺れる双丘。それを半目で眺めつつアイリーンは相槌を打った。

さすが英国紳士(ジェントルマン)―なんて感心してる暇もなくなってきて。これからどうしたもんか、悩んでるのよ! すなわち! 金持ち変態オヤジの愛人になるか、コウにアタックを仕掛けるか……! 今がギリギリというか、もう瀬戸際なのよ……!

ぐっと拳を握りながらイリス。アイリーンは お、おう……そうなんだ…… と気圧されながらも、ひたすら相槌を打つ。

だから、その、あなたはどうしてるのかな~って思って~

きゃぴ☆、とウィンクするイリスだが、本音は少し違う。

―もしケイがフリーなら、ケイにアタックするのもアリだと思っていたのだ。

なぜなら、けっこう好みだから。『公国一の狩人』として、ウルヴァーンの名誉市民に認定されたことも聞いていたし、今のようなお姫様暮らしは無理でも、そこそこ食ってはいけるだろうという打算もあった。

まあ、アイリーンとの距離感を見るに、まずフリーではなかろうとは思っていたが……。

そういう悩みだと、オレはあんま参考にならないな……

一方、アイリーンはイリスの胸の内など知るよしもなく、申し訳無さそうに首を振る。

いいのよ……むしろありがとう。ぶっちゃけただけでも、だいぶん気持ちが楽になったから……

そっか……ちょっとでも役に立ったなら幸いだよ……

ホント、どうしたもんかしら。あなたやコウと違って、あたしは投石くらいしか能がないし、かといって今更狩人として生きていくわけにもいかないし……

ぬがー、と顔を手で覆うイリス。

そんな彼女を見ながら、アイリーンも頭の片隅で考えていた。

―自身の契約精霊、“黄昏の乙女”ケルスティンの力を込めた魔力トレーニング用の魔道具のことを。

ア(・)レ(・)を使えば、イリスも魔術師並の魔力を得られるようになる。『石投げくらいしか技能がない』と嘆く彼女に、最低限、コウの助手くらいの地位を与えられるかもしれない。いや、コウの助手ではなく、自分の魔道具作成を手伝ってもらうという手もある。潤沢な魔力には、ただそれだけで価値があるのだ。さらに、何かの拍子に”妖精”あたりと契約できれば、イリス自身も魔術師になれるかもしれない。

同郷なだけあって、先進的な魔術・魔道具にも理解があるし、身内に引き込めるならばこれほど安心できる人材もいないだろう。

ただ、リスクがあるとすれば、情報の漏洩。

あの『安全な』魔力トレーニング用の魔道具は、安易に世に出すことができないものだ。誰でも魔術師になれる、あるいは一端の魔道具使いに変えてしまうオーパーツは、社会の仕組みを崩壊させる危険性を秘めている。

―ア(・)レ(・)の秘密を共有できるほど、イリスは信頼に値する人物か……?

愛想よく話を聞くアイリーンの青い瞳に、いつしか値踏みするような光が宿っていたのも、無理からぬことだった。イリスには同情するが、一番大事なのは、他ならぬケイと自分の安全なのだから―

それでね!? 酷いのよ、この間来たお見合いとか! 上から目線で『呪われてはいるが愛人にしてやらんこともない』みたいな言い草でね―

ええ~それは酷すぎるだろ―

しかも一緒に送られてきた肖像画、実物よりマシに描かれてるはずなのに、ブサイクとかいうレベルじゃないクリーチャーで―

呪われてるのはどっちだって話だよな―

いつしかお悩み相談コーナーは、ただの愚痴へと変わりつつあった。

爽やかな草原で、馬の背に揺られる乙女たち。

笑顔の裏に複雑な想いを渦巻かせつつも、会話は楽しげに弾む。そうして二人は親睦を深めていくのだった……

83. 方針

更新速度強化の紋章を刻みました。

もってくれよ……俺の身体……ッッ!(白煙を吹き上げながら)

『やあ、ケイくん。どうしたんだい?』

一人で戻ってきたケイに、デッキチェアで優雅に紅茶を味わっていたコウが気さくに声をかける。

『なんでも、女同士で相談があるそうで』

『あー、そりゃ男は蚊帳の外だ』

サイドテーブルにカップを置きながら、苦笑するコウ。

『ケイくんも一服どうだい』

『ごちそうになります』

ケイはひらりと身を翻し、サスケから降りる。木立のそばに張られたテント―小さなテーブルや折りたたみ式の椅子、茶器一式に簡易竈まで用意され、そこはすっかり屋外ティールームの様相を呈していた。

ヒルダ

はい、かしこまりました

コウが声をかけると、背後に控えていたヒルダ―イリスの側仕えのメイド―がケイの分のお茶を用意し始めた。別の使用人が新たなデッキチェアを運び、またたく間に新たな席がセットされる。

ケイも腰を下ろそうとしたが、どうやらサスケがまだ走り足りなさそうだったので、手綱と轡(くつわ)を外してやった。

よし、そのへん走ってこい

ケイがぽんと尻を叩くと、サスケが わーい と言わんばかりに喜び勇んで走り去っていく。

よ、よろしいのですか……?

凄まじい加速で、あっという間に地平線の彼方まで遠ざかっていくサスケに、メイドの一人が目を丸くしていた。

大丈夫だ、飽きたらそのうち戻ってくる

サスケ(あいつ)は賢いからな、と言って笑うと、 は、はぁ……まあ、このあたりには獣もいませんし…… と気を取り直すメイド。しかしサスケはただの馬ではない。リラックスした姿ばかり見ていると忘れがちだが、その正体は雑食の凶暴な魔物(バウザーホース)だ。草原で出くわすような獣なら、たいていの相手は返り討ちにできる。心配無用だろう。

ケイが椅子に腰掛けると、サイドテーブルに紅茶のカップが置かれる。小さな焼き菓子とミルク差しも一緒に。

いたれりつくせりとはこのことだ。何人ものメイドにかしずかれると、思わず気後れしてしまうが、そんなケイとは対照的にコウは堂々としている。

『こういうのは、肩の力を抜いて自然体でいればいいのさ』

脚を組みながら、コウはのんびりと言った。

『彼女(メイド)らもプロだからね。変に遠慮されるより、堂々と構えてもらった方が色々やりやすいと思うよ』

『そんなものですか』

『うん。オドオドしたり、みっともない姿を晒すと、それはそれで侮られるから。かといって、ことさら偉そうにする必要もないけどね。たとえば後ろの―』

そこでふと、コウは口をつぐんだ。しばし沈黙。続く言葉を待ちながら、ケイも紅茶をいただくことにした。屋外で淹れたとは思えないほどの理想的な温度、そして香り。メイドたちの技量の高さがうかがい知れる―

『日本語で話してても、固有名詞を出すとバレちゃうな。そうだ、丘(おか)を英語読みしてくれ。彼女のことは丘田(おかだ)さんと呼ぼう』

丘は英語で Hill(ヒル) 。

つまり丘田(おかだ)の『おか』を入れ替えて―丘田(ヒルダ)。

んっぶぅ

危うくケイは、紅茶を鼻から噴き出すところだった。ちょっと予想外でツボってしまった。背後のヒルダが怪訝そうにしているが、まさか自分の名前が原因とは思うまい。コウは悪戯を成功させた子どものようにからからと笑っている。

『名案ですけど吹いちゃいましたよ』

『ああ~丘田さんが変な人を見る目でこっち見てる』

『ンふッこれ以上笑わせないでください!』

ふう、とため息ひとつ、気を取り直したケイは紅茶を飲みながら、(言葉が通じすぎるのも考えものだな)などと思った。

『それで、ヒル……丘田さんがどうしたんですか』

『彼女ねー、男爵家の生まれなんだよ。彼女自身に爵位があるわけじゃないけど、貴族の家の者だから下女より身分が上―侍女っていうんだっけ? 日本語では。仕事もできるし、バリバリのキャリアウーマンって感じさ。将来的には侍女長とかになるんだろうね。でもプロだから、自分の生まれとかは関係なく、相手が何者であれ、お客様にはきちんとした態度で接する』

『ほほう……』

『何が言いたいかっていうと、まあお互いリスペクトしましょ、ってことさ。彼女は僕の客をきちんともてなすし、きみはきみで堂々とそれを受けつつ、紳士的に振る舞えば何の問題もない。一応きみはゲストだから、丘田さんと同格の侍女は、さん(Miss)付けで呼んだ方がいいかもね』

『なるほど』

そう言われて見てみると、周囲の使用人たちも、各々服装の『質』が違うことに気づく。たとえばヒルダのメイド服はかなり上等なものだが、その他のメイドたちは生地が微妙に粗雑だったり、デザインが簡略化されたりしている。一口に使用人と言っても、召使いか管理職かで明確にランク分けされていた。

今まで区別がついていなかったが、少しばかり視野が広がった気分だ。

『色々あるんですね、全然知りませんでしたよ』

『まあ機会がなければ気づく必要さえないしね』

手帳を開き、何やら書き込みながらコウが頷く。

『……それは?』

『アイデア帳さ。素人なりに、冷蔵庫を始めとした魔道具の改良にも取り組もうと思っていてね。思いついた先から、色々アイデアを書き留めてるんだ』

見た感じ、どうやら日本語でメモしているらしい。暗号として大活躍してるな、とケイは笑った。

『……ケイくんは、』

紙面に視線を落としたまま、不意に、コウは口調を改める。

『どうやって、この世界で生きていくつもりなんだい』

静かな、問い。

『……どう、ですか。狩人にでもなろうかと思ってますが』

『狩人?』

意外そうに、顔を上げるコウ。 今さら? とでも言わんばかりの表情だ。

『ええ。特に”大熊(グランドゥルス)“みたいな、一般人では手に負えない大物狩りの専門家になろうかと』

サティナやウルヴァーンの周囲には開拓村が多く、まれに 深部(アビス) から怪物が迷い出てくることもある。そのような状況下で、村人たちに大きな被害が出る前に、怪物を狩り殺す専門家になりたい、とケイは考えていた。

『それはまた……アレだね。確かに”大熊”クラスのモンスターを狩れば、実入りもいいだろうけど、危険すぎないかい?』

『それはある程度、承知の上です。……こう言っちゃあなんですが、俺は人の役に立ちたいんですよ』

気取るでもなく、あくまで生真面目なケイを、コウはまじまじと見つめた。

『それは……勇敢だね。いや、冷やかしているわけではなく』

揶揄するような言い方になったことを、恥じるようにコウは視線を逸らす。

『僕は、そういうの御免だな……って思っちゃうからさ』

『……昔だったら、違ったかもしれません。この世界に来た直後は、俺も、“どうやって死なないか”をずっと考えてたんです』

転移直後のことを思い返しながら、ケイはぽつぽつと話す。

『もともと地球では、持病で余命が幾ばくもなかったので……死にたくない、っていつも思ってたんです。でもそのままじゃ、生きている、って感じがしないというか。こういう言い方すると語弊がありますけど、自分の命の使い方―どう生きるか、をより深く考えるようになったんです』

『…………』

『きっかけは、ウルヴァーンの近くの開拓村で、“大熊”を仕留めたことでした。“大熊”のせいで村にも大きな被害が出てましたから、そりゃあ感謝感激されましたよ。……あのときは、俺もすごく救われた気分でした。人から頼られて、感謝されるのが、あんなにも心地良いなんて、俺は知りもしなかった……』

それまで、頼ってばかりの、人生だったから―

『……だから、今は、そういう風に生きたいって、思ってます』

ふと素に戻ったように、ケイは気恥ずかしそうに笑った。

コウは、嗤(わら)わなかった。

『立派だね……』

僕には真似できそうにない、とコウは肩を竦める。

『ま、とはいえ、大物なんてそうそう出てきませんけどね。仮に出てきたとしても、俺の耳に届く頃には、領主や軍が解決してるかもしれませんし』

そう言いながら、ケイはふと、今度タアフ村を訪ねても良いかも知れないな、と思った。こうしてコウやイリスと出会えたのも、あの村で得た縁のおかげだし、懐かしさから狩人のマンデルにも会いたくなってきた。

『なるほどなぁ……僕はどうしたもんかな』

『……やっぱり、まだ気持ちの整理が』

『つかないねえ』

はぁ、と嘆息混じりに、コウは。

『まあ……でも、しばらく僕も考えて、気づいたんだよ。別に地球に帰ったところで、絶対にこれを成し遂げたい! という確固たる目標も夢もなかった、ってことにね……僕はただ惰性で生きてただけだった』

もちろん、ネットやら何やらの便利さ、快適さはこちらの世界と比べるまでもないけど、と口をへの字に曲げてコウは言う。

『逆に、それにさえ目を瞑れば―なかなか看過しづらいデメリットではあるけど―こちらの世界も悪くはない、とは言えないこともないかもしれない』

『そうですね……』

こんな多重否定文、英語だったら咄嗟にわからんぞ、などと思いながら、ケイは相槌を打っていた。

『こちらの世界で、革新的な冷蔵庫とジェラートの父として名を馳せるのも、いいかもしれない……なんて考えてるよ。今はね』

複雑な心境を覗かせながらも、フフッとコウは笑みを浮かべてみせた。

『ところで、話は変わるけど、きみとアイリーンは、ど(・)う(・)なんだい? 随分と……親しげに見えるが』

『えっ』

宣言どおり、突然の話題転換に少し戸惑う。

『えっと……彼女とは、恋人同士です』

改めて言うと恥ずかしい。ケイは柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。母国語のせいか。

『あ~~~良いねぇ、若いねぇ』

何が良いのか、腕組みをしてうんうんと頷くコウ。言われっぱなしは癪なので、逆にケイも聞き返す。

『そういうコウさんは、どうなんです? イリスと何かあったり?』

『いや、ない。彼女とは友人関係を維持してるよ』

ところが、即答。

即答であった。

『へぇ……そうなんですか? コウさんたちこそ、けっこう親しげに見えますよ。イリスだってかなり美人ですし』

『恋人持ちがそんなこと言っていいのか~?』

『いや、客観的にですよ』

茶化すコウに、冗談めかして言うケイ。

『こっちの世界に来て、一緒に色々乗り越えて、仲が進展してもおかしくないじゃないですか』

『まあ、ね。確かに彼女とは知らない仲でもないし、美人であることは事実だ……だが、だからこそ僕は、今の関係がベストだと考えている』

『……それはまた、どうして?』

『だって恋人にしたら面倒くさそうなんだもん彼女』

コウの答えは、にべもないものだった。

『今でこそ、可愛げがあるというか、大人しく僕に感謝してくれているけど、恋人ないし夫婦になったら絶対それを『当然』と考えるタイプだよ、彼女は。いわゆるお嬢様に憧れる男は多いが、嫁にしたらそれを養わなければならない、という事実は頭の片隅に置いておくべきだ。まあ、このまま魔術師としてやっていくなら、金は足りると思うけどね……金は(・)、ね……』

ただパートナーとして上手くやっていける自信がないんだよなぁ、とコウは深い深いため息をついた。

『……あ、今のはもちろん、本人には内緒だぜ』

『わ、わかってますよ』

『きみの彼女にも、だからね。男同士の秘密ってことで頼むよ』

『わかりました』

聞かなかったことにしよう……とケイは思った。

『そいや、きみの夢……大物専門の狩人になりたい、って話はアイリーンにもしているのかい? 恋人として反対されたりとかは?』

『話はしてますし、反対も特には。むしろ背中を押された気がします』

『ははっ、さすがに勇ましいな。彼女(アイリーン)はどう生きていくつもりなんだろう』

『あいつは、影の魔術が使えますから、色々と魔道具を売ろうとしてます』

ケイは、影絵を用いた投影機(プロジェクター)や、防犯用の警報機(アラーム)の販売計画について話す。

特に警報機(アラーム)の、『精霊に捧げられた触媒は魔力に変換され消滅する』という性質を、物理的なスイッチに応用する発想はコウにとっても目からウロコだったらしく、 ほほー! と大いに感心していた。

『それは面白い。都度触媒をセットし直す必要があるとはいえ、魔術的作用をダイレクトに物理現象に変換できるわけか……』

『あと、俺もそのうち魔道具作りにチャレンジしてみようかと』

『きみが?』

コウがきょとんとする。

『……脳筋戦士で、魔術関連には一切技量割り振ってないんじゃなかった?』

『こっちの世界で受肉して、ポテンシャルの制限はなくなったらしいです。事実、俺もけっこう魔力が増えてるんですよ…… Maiden vento, Siv. ―Faru la venton milde blovi! 』

ケイが唱えると、ふわっとかすかな風がコウに吹き寄せる。確かな魔力の流れ。羽衣をまとった乙女の姿を幻視したコウは、驚愕に目を見開いた。

『そういえば! 風の精霊と契約してるんだったか! そっかぁゲーム的なポテンシャルの制限も取っ払われたわけか……なるほどなぁ!』

ちなみに大興奮のコウの背後、ヒルダも !? と目を白黒させていたが、ケイたちは気づかなかった。

『見たところ、ケイくんはすでに脱初心者といったところか』

『そうですね。駆け出し魔術師くらいは魔力も確保できてると思います』

『……何を作るつもりなんだい?』

『まあ、メジャーなところで矢避けの護符(タリスマン)とか。あとは風を集めやすい帆とかですかね……』

『うわ~~~それ絶対売れるやつだ! 港湾都市(キテネ)からの勧誘に備えるべきだね。狩人よりそっち専門の方がいいんじゃないか?』

『ははは、そうかもしれません。まあまだ遠い道のりですが』

実際、作れるようになればアホみたいに売れるだろうな、とは思っている。少なくともコウの冷蔵庫とはいい勝負をするはずだ。需要(シェア)的な意味で。

『いいなぁ、僕も矢避けの護符とか欲しい。まあ今のところ身の危険は感じてないけどさ』

万が一ということがあるからねえ、とコウは胸のあたりを撫でながら言う。

『もちろん、作れるようになったら融通しますよ。……代わりと言っちゃなんですが、俺は冷蔵庫が欲しいです。キンキンに冷えたエールが飲みたくて……!』

ケイが心の底から言うと、コウが破顔一笑した。

『はっはっは、たしかに、きみらは長いことご無沙汰だろうからね……』

『夢に見るくらいですよ。生温いのばっかりですから……』

『こればっかりは、魔術抜きじゃどうしようもないからね。わかった、冷蔵庫に関しては隙を見て作ってあげよう』

『いいんですか!?』

『ああ。ただし順番待ちがすごいから、今すぐの話じゃないよ』

コウ曰く、冷蔵庫は注文が殺到しているので、一日あたりの製造数を絞っているのだという。魔力が厳しいから、というのが表向きの理由だが、実際は過剰労働の回避と希少価値の維持が目的だとか。

『今は朝と夜に一台ずつ作ってるよ。その気になればあと三台はイケるけど、大事を取っている―ことにしている』

とはいえ、あくまで領主公認のもと自重しているだけなので、余裕があればその他の魔術の研究はできるし、むしろ推奨されているという。『自分用』という名目で密かに冷蔵庫の核となる部分を作るのは、そう難しくない。

『ありがとうございます!!』

『先行投資ってヤツさ。矢避けの護符もそうだけど、もし、きみたちが何か面白いものを作ったら、ぜひ声をかけてくれよ』

もちろん、とケイは快諾し、コウと固い握手を交わした。

『まあ、それはそれとして、だ……。ヒルダ』

不意に、コウが振り返って声をかける。

はっ!? はい!

ぼんやりとしていたのか、突然名前を呼ばれてビクッとするヒルダ。しかしすぐにプロの顔に戻り、背筋を伸ばす。

たしか、エールかワインもあったと思うんだけど

はい、どちらもご用意しておりますが

それじゃあ、エール……で、いいかな?

あっ、はい

確認されたケイは、コクコクと頷く。

それじゃ二杯頼むよ

かしこまりました

すぐさま、銀製のゴブレットになみなみと注がれたエールが運ばれてくる。

さて…… Aubine! Arto, Rei-Kyaku.

懐から白い粉―おそらくは塩―を取り出し、呪文を唱えたコウがふぅっと手のひらの上に息を吹きかける。吹き散らされた塩がきらめきながら、冷気へと変換されてゴブレットにまとわりつく。ケイは、冷笑を浮かべる長衣の乙女の姿を幻視した。

だが、それも一瞬のこと。銀のゴブレットは今や、急激に冷却されて白く曇っている。ケイは思わず おお……! と感嘆の声を漏らした。

『いやはや。宣之言(スクリプト)には手っ取り早く日本語使ってるけど、僕たち同士じゃ味気ないにもほどがあるな』

『俺だって似たようなもんですよ、実用性が第一ですし……』

もっともらしく頷いて答えながらも、ケイの目はゴブレットに釘付けだ。苦笑したコウはゴブレットを手に取り、一つをケイに渡す。

『これは……!』

―キンキンに冷えてやがるっ…………!

ケイはごくりと生唾を飲み込んだ。咄嗟に、草原の方を見ていた。アイリーンを呼ぶべきか。しかしアイリーンとイリスは、楽しそうに笑顔で話しながら、仲良く馬を駆けさせていた。

―今は邪魔をするべきではない。

ここはひと足お先にいただこう、とケイは判断した。

『それじゃ、乾杯しようか』

『はい! ありがとうございます』

『我々の友情に』

『……偉大なる氷の魔術に』

ニヤリと笑った二人はゴブレットを掲げ、こつんとぶつけた。

『―乾杯!』

ぐいっ、とエールをあおる。

目の覚めるような冷たさ、爽やかな喉越し―

かぁ~~~っ!

―間違いなく、こちらの世界に来てから、一等美味いエールだった。

……ちなみに、それから酒盛りに突入したケイだったが、 もっと早く呼べ とアイリーンに怒られる羽目になったのは、言うまでもない。

†††

とっぷりと日が暮れて、月が昇る頃。

サティナの街も、住人たちの多くは寝静まっていた。

貴族街も例外ではなく、屋敷の窓からはロウソクのかすかな明かりが漏れるものの、静けさに包まれている。

ただ、そんな中で、活発な人の気配を感じさせる屋敷が一つ。

街の南東部に位置する、領主の館だ。

サティナの行政的な中心部でもあるこの館は、衛兵隊を統括していることもあって、夜になっても人の出入りが絶えない。

それにしても、平時よりは活発な印象を与えるが―

それで、

屋敷の奥。とある執務室にて。

シンプルだが座り心地の良さそうな椅子に腰掛ける、初老の男。

―コウ殿はほろ酔い加減でご機嫌だった、と

はい

初老の男の言葉に、キリッとした顔つきのメイドが答える。

―ヒルダだ。

普段、滅多なことでは表情を崩さない彼女だが、この場に限っては、緊張の色を浮かべていた。

無理もない。彼女の眼前に座す、この初老の男―柔和な顔に射抜くような眼光の持ち主こそが、サティナの領主、『ランダル=カーティス=サティナ=バウケット』伯その人だからだ。

コウ様は、ケイ様とかなりの長時間、会話を楽しんでおられました

ケイ―公国一の狩人、か。どのような内容だった?

それは……申し訳ございません。聞き取ることができませんでした

心底申し訳なさそうに、顔色を悪くしながらヒルダは頭を下げる。

ふむ。例の聞き慣れぬ故郷の言葉とやらか

領主カーティスは、ヒルダの隣に視線を向ける。そこに立っていたのは、執事服に身を包む白髪の老人。領主別邸を任せている家宰のアルノルドだ。

はい。ケイ様が初めて屋敷を訪れた際、コウ様との会話に用いられていた言語と思われます

慇懃に、わずかに頭を下げながら答えるアルノルド。顔に浮かべたアルカイックスマイルはまるで作り物のようで、その胸の内を悟らせない。

ふむ。ヒルダ

はっ

お前はたしか、複数の言語を操るとのことだったが

はい。海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を学んでおります。雪原語(ルスキ)も初歩的な会話でしたら可能です。草原の民の部族語も、単語レベルなら聞き取れます

それでも、コウ殿の言葉はわからず、か

……はい。公国語や海原語、高原語とは根本的に異なる印象です。最初は、草原の部族語を疑いましたが、それとも発音が全く異なります

精霊語(エスペラント)、という可能性はないか? お前の報告によれば、ケイとやらも魔術の才を見せたそうではないか

カーティスに問われ、ヒルダはしばし迷う素振りを見せたが、 いいえ と首を横に振った。

精霊語とも、響きが異なっているように感じられました。少なくともRの発音は全くの別物です

ふぅむ。お前がそこまで言うからには、そうなのだろう。……同郷、とのことだったな。特に疑っていたわけではないが、本当なのやもしれぬ

短く整えたあごひげを撫でながら、カーティスは考えることしばし。

大儀であった。ヒルダは下がってよい

はっ

頭を下げ、きびきびとした動きで、ヒルダは退室していった。

残されたのは、領主カーティスと、家宰のアルノルドのみ。

ふぅ……

億劫そうに席を立ち、自らの手で背後の戸棚からグラスと瓶を取り出したカーティスは、クイッと眉を釣り上げて、アルノルドに問う。

……お前も呑むか?

いえ、まだ仕事がございますので

つまらんやつだ

そうして、自分の分だけ、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。

……まあ、コウ殿に不満がないようなら、それでいいのだ

再び椅子に腰を下ろしながら、カーティスは言った。

実のところ、コウとケイの会話内容にそれほど興味はない。コウの故郷―帰還が叶わぬほど遠いと聞く―についても、割とどうでもいい。

もちろん、わかるならそれに越したことがないが。

あくまで最重要は、コウの今後だ。現状に満足して、サティナに留まってくれるなら、それでいいのだ。

今(・)は(・)。

かの御仁にご満足いただけるよう、わたくしどもも最善を尽くしております

あくまで慇懃に、アルノルドが一礼する。

うむ。……しかし、そう遠くないうちに情勢が変わるだろう。さすれば、コウ殿の力が必要になる……

背もたれに身を預け、カーティスはしばし瞑目した。

……陛下は、決(・)断(・)を(・)下(・)さ(・)れ(・)た(・)

まるで独り言のように。

カーティスは、しわがれ声で呟いた。アルノルドの、まるで貼り付けたような穏やかな笑み(アルカイックスマイル)が、わずかに、そして、初めて崩れる。

……とうとう、にございますか

うむ

では……

人手の準備くらいは、しておくべきであろうな

かしこまりました

カーティスの言葉に、アルノルドは一礼する。

下がってよい

はっ……

そうして、老練なる白髪の家宰は、静かに退室していった。

…………

カーティスは独り、グラスの酒を舐めるように味わいながら、物思いに耽る。

“公国一の狩人”、か

ぽつりと呟く。

その称号が―何をもたらすか。皮肉な笑みを浮かべて。

ふん

鼻を鳴らしたカーティスが、とんっ、と執務机にグラスを置く。

飲み干されることのなかった酒が、グラスの中でただ、揺れていた。

不穏な気配……

よろしければ、一言でも感想をいただけると嬉しいです。 感想の書き方わかんない…… 書く気力がない…… という方は、 にゃーん とコメントしていただけると、私がとても喜びます! 猫アレルギーで猫飼えないので、猫飼ってる感(?)を味わわせてください。どうぞよろしくお願いいたします。

84. 挑戦

イリスたちとの再会から、早くも一ヶ月ほど経つ。

相変わらず、平和な毎日を楽しんでいるケイとアイリーンだったが、ちょっとした変化もあった。

それは―住環境。ケイたちは宿屋を出て、一軒家へ移っていた。

そう、後援者(パトロン)たるコーンウェル商会が、とうとうケイたちのために住居を用意してくれたのだ。

いや~探すのに苦労したよ……

コーンウェル商会の本部にて、疲れ顔で語るのはホランドだ。行商を引退しサティナに腰を落ち着けた彼は、コーウェル商会の商人としてケイたちとの折衝を担当している。ケイたちとしても、見知らぬ他人より、気心が知れているホランドの方が付き合いやすい。

ちなみに、ホランドの養女エッダは私塾に通い始めたそうだ。読み書き計算などは既に一通り覚えているが、教養や礼儀作法も身につけて、将来的には侍女のような上級使用人を目指しているのだとか。

ま、本人は吟遊詩人も諦めてないみたいだけどね

ホランドはそう言って苦笑していた。ホアキンに歌を習っていた関係で吟遊詩人への憧れも捨てきれないようだ。

また、ホランドの母ハイデマリーは変わらず矍鑠(かくしゃく)としており、厳しい行商生活から解放されてもなお、散歩が趣味で周辺を歩き回っているらしい。徘徊老人などと言ってはいけない。

そして行商でいつも一緒だった護衛のダグマルは、未だに隊商護衛を続けているそうだ。年齢的に商会の用心棒(けいびいん)になる手もあるが、本人曰く 身を固めるにはまだ早い とのこと。

あいつは死ぬまで同じことを言ってそうな気もするがね……まあ、それはそれとして、家の話だ

ホランドは表情を引き締めて、書類を取り出す。

その場しのぎの宿屋暮らしも、気づけばずいぶん長引いていた。

物件探しが困難を極めたせいだ。“正義の魔女”ことアイリーンを、商会専属の魔術師として迎え入れるにあたり、コーンウェル商会は総力を上げて物件を探し回っていたが、それでもなお数週間もかかってしまった。

そもそも市壁の内側に、都合のいい空き家なんぞ存在しないのだ。

巨大な石壁に取り囲まれた都市―その中に住むメリットは計り知れない。獣や魔物に襲われる心配もなく、下水道が整備され、突発的な犯罪を除けば人同士の争いも少ない。もちろん税金が高いなどのデメリットも存在するが、多くの住民は市内に留まろうとし、子どもが産まれるに従って人口も増えていく。

結果、一般市街は常に過密状態となっていた。仮に何らかの事情で空き家ができても、すぐに埋まってしまう。

しかもケイたちが事前に 無理やり住人を追い出すような真似はNG と条件を出していたため、家探しの難易度はさらに高まっていた。

集合住宅(アパートメント)の一室やボロ家を確保するのならばともかく、商会専属の魔術師を住まわせるに相応しい物件でなければならず、かといって無理に追い出すわけにもいかず(下手な真似をすると近隣の住民経由でバレる)、ケイたちがのほほんと宿屋暮らしをエンジョイする間、コーンウェル商会の関係者は血眼になって探し回っていた。

そしてようやく見つけたのが―職人街の一角、工房付きの二階建て家屋だ。

元は陶芸職人の工房兼住宅だったそうだが、高齢ゆえに引退して、壁外の小さな町へ引っ越すことにしたらしい。

―ちなみに件の陶芸職人は、コーンウェル商会から法外な価格での不動産売却を打診され、ホクホク顔で出ていった。決して無理やりではない。ホランドはわざわざ口にしないし、ケイたちも知る由のないことだが……。

いい家だな

よく見つかったなーこんなお誂(あつら)え向きのヤツが

家に案内され、 ほほー と暢気(のんき)に感心する二人。 全くだよ…… とその後ろで遠い目をするホランド。

何はともあれ一軒家。商会の面子をかけて確保された物件だけあって、ケイたちも概ね満足だった。

まず、元は工房を兼ねていたこともあり、使い勝手のいい作業スペースがある。一階は大部屋で区切られた広めの造りで、床にはテラコッタ風のタイルが敷き詰められており、綺麗にしておけば裸足で歩き回っても快適そうだ。

二階には個室がいくつか。とりあえず一番大きな部屋を寝室とし、書斎、物置、客人用の寝室、という風に分けることにした。家具は、テーブルや椅子などは前の住人が置いていったものがあるが、寝台や戸棚などは新しく購入する予定だ。その他、必要な家具類も、順次コーンウェル商会が調達してくれるとのこと。

トイレは汲み取り式で、数週間に一度、公益奴隷が屋外の浄化槽から糞便を回収して回る仕組みになっている。残念ながら風呂はついていないが、代わりに、コーンウェル商会傘下の高級宿で借りられるよう話をつけておいた。

同様に、サスケとスズカも宿屋の馬小屋で預かってもらうことになった。さすがに職人街で馬を飼うことはできなかったからだ。運動不足を避けるため、足繁く通って外に連れ出してあげなければならないだろう。

その他、生活用水は飲用水は近場の井戸に汲みに行く必要がある。この世界には手押しポンプが普及しているのでまだマシだが、そこそこ重労働にはなるはずだ。洗濯や洗い物も、下水に直結している公共の洗い場まで出向かなければならない。

そこで、そういった家事雑用のために、使用人も派遣されることになった。掃除や洗濯を担当する女が一人、水汲みその他の力仕事を担当する男が一人。ホランドと協議した結果、住み込みではなく、朝から夕方まで出勤する形で、掃除や洗濯をしてもらうことになった。

ちなみに。

使用人の話が出たあと、家を見学中のケイとアイリーンは密かに、それぞれ相方の隙を見計らってホランドへ条件を出していた。

使用人の男は、枯れていそうな無害なヤツで

使用人の女は、肝っ玉母さんみたいな人で頼むぜ

どちらがどちらのセリフかは、言うまでもないだろう。

(全くお似合いだよ君たちは……)

と、苦笑する商人がいたとかいなかったとか。

あとは、防犯設備(セキュリティ)だな

一通り見学し終わって、一階のリビング。アイリーンが家の『窓』をコンコンと叩きながら言った。

窓―といっても、元職人の住居に窓ガラスなんて高級なものがついているはずもない。開けっ放しの四角い穴で、外側に木製の雨戸があるだけだ。

だが、これでは困る。

この家は、魔術師の研究所となるのだ。

魔術の秘奥が蓄積され、魔道具や、魔道具の核となる宝石類も管理していくことになるだろう。当然、それ相応の盗人対策も施さなければならない。

とりあえず確定なのは、警報機(アラーム)の導入かな

何を隠そうアイリーンは、この街で防犯設備を売ろうとしているのだ。警報機(アラーム)の有用性をアピールするいい機会になる―作動する日が来ないのが最善とはいえ。

ただし、それでも強引に突破してくるヤツがいるかもしれないし、昼間は作動させられない。だから鍵付きのチェストも欲しいかな。デカくて重くて、丈夫であればあるほどいい

わかった、もちろん手配しよう。どこに置く?

そうだな……どう思う、ケイ?

意見を求められて、ケイも考え込む。

……二階の書斎か?

オレもそう考えてた。書き物とか研究するならあの部屋だしなー

ふーむ。となると、チェストの重さも制限されるね

ホランドが髭を撫でながら指摘する。 あー…… とケイたちも気付かされた。

そっかー、あんまり重かったら床が抜けちまうのか

それが怖いね。本当に、重くて頑丈で大きなチェストなら、ウチの商会にオススメのやつがあるんだ。でもそれだと一階か地下にしか置けないと思う

なるほど……

話し合いの結果、チェストは地下の倉庫に設置し、必要があれば書斎にも鍵付きの戸棚を作ることで決着した。

それと、できればいいので窓にガラスも嵌めたいな

が、ガラス……!

アイリーンの要望に、ホランドがごくりと唾を呑む。

……かなりの費用になる

だろうな。だから、『できれば』でいいぜ。でも、窓ガラスがあったら、窓そのものにも魔術を仕掛けられるんだ。あと割ると音がするから、侵入しづらくなる

しばらく悩んだホランドは、自分では判断できないと結論づけたのか、 商会に戻って上の者たちと相談してみる と言うに留めた。

―しかし後日、 時期を見て窓ガラスを導入していく……! と連絡が来た。コーンウェル商会の並々ならぬ意気込みが感じられる。それだけアイリーン―そして将来的にはケイ―の魔道具に期待を寄せているのだろう。

それに報いるだけの結果を出さねば―

そんな決心のもと、ケイたちの新生活はスタートした。

手始めに、アイリーンが魔道具を作りまくった。投影機(プロジェクター)と警報機(アラーム)の試作品だ。

投影機(プロジェクター)は試供品を渡していたホアキンから高評価を得ており、コーンウェル商会でも どう活用するか で盛り上がっているそうだ。以前アイリーンが構想を語った影画館(シネマ)も前向きに検討されているとのこと。

警報機(アラーム)本体の部品は、木工職人のモンタンが如才なく仕上げてくれていた。数台まとめて納品し、コーンウェル商会の隊商での試験運用が始まっている。使い勝手を確認しつつ、改善点があれば洗い出し、実績を積んでいく。

ちなみにその間、ケイは魔力トレーニングに勤しんでいた。例のアイリーン謹製魔道具を使って、ちょくちょく影を操り、魔力を消費して負荷をかけている。

この魔道具、長らく名前がなかったが、先日”Черный кот(チョンリーコット)”、すなわち”黒猫”と命名された。ケイは アイリーンが作ったんだからアイリーンが名付けるべきだ と主張し、アイリーンは ケイのために作ったんだからケイが名前つけて と駄々をこね、二人でイチャイチャした結果、ケイの提案をアイリーンがロシア語訳する形に落ち着いたのだ。

今では普通に コット と呼んでいる。カモフラージュと害獣(ネズミ)対策のため、本当に黒猫を飼ってもいいな―などと思いつつ。

さて、この”黒猫”という魔道具には、一つ特徴がある。

アイリーンの契約精霊『ケルスティン』の魔術全般に言えることだが、日が暮れている間は消費魔力が少ない代わりに、日が昇ると消費魔力が激増するのだ。

この特徴がなんとなく、気まぐれな性質に思えることから、“黒猫”という命名につながった。魔力が少ない人間でも、夜間に影を操れば安全に魔力の鍛錬ができることが、この魔道具の最大の強みと言える。

しかし鍛えているうちに余裕が出てきたケイは、敢えて昼間に、ごく短時間使うことで、一気に魔力を消費し高負荷をかける訓練も始めていた。

これがまた、よく効く。

さながら、昼夜で重さが激変するダンベルのようだ。昼間は短時間の高負荷トレーニング、夜は低負荷で持久力を鍛える―そんな調子で。

おかげでこの一ヶ月、劇的に魔力が鍛えられた実感がある。

そろそろ魔道具の作成に踏み切ってもいいか―と。

ケイがそう考えるほどに。

†††

と、いうわけで、作ってみよう

初めての魔道具作成だな!

Yeah!

その日、ケイたちは盛り上がっていた。

気分も明るければ部屋も明るい。

なぜなら、家の窓がとうとう全てガラス張りになったからだ。秋も中頃で少しずつ肌寒くなってきた時分、窓を閉めながら部屋を明るく保てる窓ガラスは非常にありがたかった。冬にはもっと重宝することになるだろう―

ちなみに全ての窓ガラスには、アイリーンの防犯魔道具が仕込まれている。窓ガラスが割られると、その原因に向かって影の呪いの手(※エフェクトのみ)が伸ばされ、下手人を覆い尽くし視界を奪う仕組みだ。

“黄昏の乙女”ケルスティンが、北の大地で鍛えに鍛えた演出力。どんなに場馴れした盗人でもパニックに陥ることは必至だ。高い制圧力が期待できる。

反面、昼間に作動した場合は……消費魔力が激増する都合上、宝石に蓄えた魔力が一瞬で枯渇し、ほとんど意味を成さないのが玉に瑕だ。

―さて、今回作るのは『突風』の魔道具だ

一階の作業場、ケイは机の上に材料を並べる。

1.糊

2.木片

3.豆粒のようなエメラルドの原石

以上だ。あとは作業用のピンセットくらいか。

改めて見るとショボいな

まあ使い捨てだからなぁ……

ぼそりと呟くアイリーンに、ぼりぼりと頭をかきながらケイ。『魔道具』などと呼んでいるが、肝心なのは魔術を封じ込む宝石だ。極端な話、宝石だけあればいい。ただしそれだと使い勝手が悪く、不幸な事故が起きるかもしれないので―失くしてしまったり、ポケットに放り込んだまま存在を忘れて洗濯したり―土台となる木片を用意した。

そう、大切なのはあくまでも宝石だ。

魔道具の作り方はシンプル。まず、魔道具に求める動作を精霊語(エスペラント)で記述する。次に、記述した宣之言(スクリプト)を唱えながら宝石に魔力を込める。すると、宣之言(スクリプト)を記憶した契約精霊の分体が宝石に宿る。

これで完成だ。

精霊の分体という『自我を持たないAI』に、精霊語(エスペラント)でプログラミングする、というイメージでいいだろう。

プログラミングできる宣之言(スクリプト)の長さや、発動する魔術の威力は、宝石の大きさと質に比例する。大きくて質の良い宝石ほど、複雑な動作を可能とし、強力な魔術を発動できるというわけだ。

今回ケイが作ろうとしているのは、特定の合言葉(パスワード)に反応して突風を発生させる使い捨ての魔道具。主に、敵の足元に投げつけて体勢を崩したり、手元で発動させて肉薄してきた敵を引き剥がすのに使う。

使い捨てである理由は二つ。敵に拾われて再利用されるのを防ぐためと、威力を向上させるためだ。

基本的に、粗悪な宝石を魔道具にしたところで大した威力は期待できない。が、魔術が発動する瞬間に、宣之言(スクリプト)を封じた宝石そのものを触媒にして精霊に捧げて魔力に変換すれば、威力がブーストされるという裏技がある。

このランクの宝石じゃ、恒久型の魔道具にしてもたかが知れてるもんな

指先で豆粒のようなエメラルドを転がしながら、ケイは呟いた。

ケイの契約精霊”風の乙女”シーヴは、燃費が悪い。ものすごく悪い。

そのくせ、エメラルドしか触媒を受け付けないため、今回も仕方なくエメラルドを調達した。小さく粗悪な原石なので高くはないが、安くもない。少なくとも使い捨てにはしたくないお値段ではある。

だが、実践してみないことには進歩もないので、必要な支出と考えるべきか。

どうせこの程度の原石で『突風』を生じさせる魔道具を作っても、効率が悪すぎて、息を吹きかけた方がマシなレベルの風(?)が出る、しょーもない玩具が出来上がるだけだ。

だが使い捨て型にすれば、一応実用レベルのものになるはず―

よーし、やるか

腕まくりをして、椅子に座ったケイは、宣之言(スクリプト)を書き連ねた紙を取り出す。一応、宣之言(スクリプト)は暗記しているが念のため。

……アイリーン、魔力ってどんな感じで込めればいい?

その感覚を把握するために作るんだろ?

それもそうか

まあ必要な魔力を均等に込める感じでいいんじゃないか? こればっかりは感覚的な話だから、……まあアレだ、『考えるな、感じろ』だよ

わかった……やってみよう

深呼吸。

(シーヴは欲張りだからな……気持ち強めに、魔力を込める感じでいってみるか)

身体の奥底で渦巻く魔力を感じ取る。コンディションはばっちりだ。ケイは手元の原石に意識を集中させ、ゆっくりと宣之言(スクリプト)を唱え始めた。

Maiden Vento, Siv. Vi restos en ĉi tiu juvelo kaj faros venton eksplodi kiam …

奥底から魔力を汲み上げ、それを一旦手で捏ね上げて、押し込むようなイメージで原石に注ぎ込んでいく。

不思議な感覚だった。

ケイの魔力に呼応するかのように、周囲の空気が渦を巻き、みるみる原石に吸い込まれていく。『風』が、『空気』が、魔力に変換されて封じ込まれているかのように―

… devas eviti vundi la uzanton mem. Ekzercu.

全てを無事、唱え終わり、ケイは ふーっ と細く長く息を吐き出した。

……言い間違いとかなかったか?

なかったと思うぜ

……できたかな?

ケイの問いに、アイリーンはニヤリと笑った。

バンッ、とアイリーンの手がケイの背中を叩く。

完成おめでとう!

……あー、よかったぁ!

一気に脱力して、へにゃりと机に突っ伏すケイ。

思ってた10倍くらい緊張した……

ハハッ、そうだよな。噛んだりしたら全部パァだもんな

アイリーンが苦笑している。そう、このプログラミング作業、一発勝負でやり直しがきかないのだ。仮に宣之言(スクリプト)を間違えたり中断したりしてしまった場合、動作不良のゴミが出来上がるだけ。どんなに上等な宝石でも、触媒として捧げるくらいしか使いみちがなくなってしまう……

どでかい宝石で複雑な魔道具を作る場合、クソ長い宣之言(スクリプト)を唱える人はプレッシャーが半端ないだろうなぁ、とケイはしみじみ思った。

だがこれでもゲームよりマシだな……宣之言(スクリプト)が短くて済む

それは間違いない

うんうんと頷いて同意するアイリーン。

DEMONDAL のゲーム内では、精霊のAIが意図的にアホの子に設定されていたため、ものすごく細かくかつ厳密に言葉を定義し、膨大な条件分岐を考えて宣之言(スクリプト)を記述しなければならなかった。

しかし、こちらの世界では精霊たちに自我があり、柔軟な発想が可能なため、ある程度ざっくりした宣之言(スクリプト)でも望んだ動作をしてくれるのだ。少なくとも突風を発生させる魔道具で、まず突風の定義から入る必要はない。

いやー、緊張した……

ぼんやりと、完成した魔道具―小さなエメラルドの原石を眺めるケイ。こうしてみると、このしょーもない原石も綺麗に見えてくるから不思議だ。窓から差し込む陽光を浴びてキラキラときらめいて―

―ん?

ふと、怪訝な顔をするケイ。

何か―光の反射がおかしいような。

顔を近づけて、じっくりと原石を観察したケイは―すぐに顔をひきつらせた。

原石の内部が、徐々に、白く曇りだしていた。

これは―非常に微細な傷だ。それが徐々に、内部で拡大している。しかもカタカタと音を立て、原石そのものが震え出した。

ヤバい、魔力を注ぎすぎた!

エメラルドは含有物(インクルージョン)が非常に多い宝石だ。今回使用した粗悪な原石も例にもれず、内部に気泡や細かい傷がたくさんあった。どうせ使い捨てだし、比較的単純な宣之言(スクリプト)だし、まあ大丈夫だろうと踏んでいたのだが―

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