ありがとう、おねえちゃん!

いいってことさ。どうだろう、リリーも髪飾りでも作ってみるかな?

えへへ……にあうかな?

青緑の皮を頭に当ててみるリリー。ケイはそんな幼女の姿を微笑ましげに見守りながら、

いずれにせよ、モンタンの矢は本当に役に立ったよ。ありがとう

改めてモンタンに礼を言う。

魔法の矢も出血矢もそうだが、特に長矢だ。今まで何度窮地を救われたか

いえいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。職人としてこれにまさる名誉はありませんよ

良かった。それで、今晩あたり打ち上げをやろうと思うんだが……あ、そういえばマンデルは知り合いだったよな?

ええ、以前矢を買っていただいたこともありますし

彼も誘ってるんだ。コーンウェル商会の飯屋を貸し切るから、肩肘張らなくて済むパーティーになると思う。モンタンたちもどうだろう?

いいんですか! それじゃあ、お呼ばれして……

伝説の狩りの打ち上げともなれば相当期待できる。モンタンもホクホク顔だ。

夕方にまた合流する約束を取り付けて、モンタン宅を辞去する。

ケイ、コウたちはどうする?

ああ、そうだな……

今日も今日とて、サティナのメインストリートは大賑わいだ。人々の間を縫うようにして歩きながら、しばし考える。

誘えるものなら誘いたいが……

立場的にすぐ来れるか、謎だよなぁ。コウの旦那はともかく、イリスは……

うーむ、とアイリーンもちょっと難しい顔。イリスはお姫様設定が足を引っ張ってフットワーク軽めに動けないのが難点だった。

まあ、でも、お忍びでなんとかするんじゃね? 最悪コウの旦那は来れるだろ

一応連絡だけしておくか

そうしてコーンウェル商会本部を訪ね、コウの屋敷に使者を送ったり革鎧の仕様を話し合ったり、諸々の手配をするうちにあっという間に日が暮れた。

久しぶりだな、キスカ。……元気にしてたか

もっちろん。あんたこそ大活躍だったらしいじゃん

マンデル、そしてモンタン一家を連れて商会が手配したレストランに向かう。マンデルとキスカはタアフ村出身の顔馴染みだ―キスカの方が年齢的に一回り下のはずだが、かなり馴れ馴れしい。いつもモンタンの妻、リリーの母としての顔しか知らなかったケイは、キスカが途端に若々しい村娘のように見えて少し驚いた。よくよく考えれば二十代、ケイとそれほど年齢は変わらないのだ……

リリーも、しばらく見ないうちに大きくなったな。……あっという間だ

はい。おひさしぶり、です

お行儀よく挨拶するリリーを、マンデルは優しい眼差しで見ていた。もしかすると自分の娘たちの幼い頃と重ね合わせているのかもしれない。

こうしてみると、本当に目元はキスカにそっくりだな。……ベネットが会いたがっていたぞ

あー……父さんねえ。たまには里帰りしたいもんだけど、あんまり家を空けられないのよねぇ……

この頃、装飾矢やら何やらの注文がけっこう詰まってるんですよ。ありがたいことなんですけどね

それに加えて、ケイたちの魔道具の『ガワ』を作ったりもしているので、モンタンは忙しい。

そうか。……まあせめて、手紙くらいは届けよう

ありがとー

そんなことを話しているうちに目的地に着いた。二階建てのそこそこ高級なレストラン―上のフロアは、今晩貸し切りだ。

おお! みんな、主役のご到着だぞ!

階段を登ると、商会関係者はすでに集まっているようだった。ホランドがいち早くケイたちの来訪に気づき、皆に知らせる。小綺麗におめかししたエッダと、以前隊商護衛で同道したダグマルの姿もあった。

ケーイ、聞いたぞ、とんでもない大活躍だな! かーっ俺もあんときサティナにいればなぁ、一緒に行きたかったぞヴァーク村に!

ダグマルがバシバシとケイの背中を叩いてくる。ヴァーク村から救援依頼が届いた当時、ダグマルは別の隊商を護衛していたため不在だったのだ。もしダグマルがいたら、荷馬車の護衛はオルランドではなく、ダグマルとその仲間たちになっていたかもしれない。

(だが、そうすると最後のゴーダンの援護はどうなっていたかな?)

ダグマルは剣と短弓を使う。それに対しオルランドは短槍使いなので、ゴーダンが槍を借りることができた。もしもオルランドがいなかったら、ゴーダンはどうしたのだろう? ちょっとした違いで、戦闘の流れが大きく変わっていたかもしれない―

残念だったな。旦那も一緒に来てたら、“大熊”と”森大蜥蜴”、 深部《アビス》 の双璧の討伐をどっちも見届けられたのに

アイリーンがからかうように言うと、 そうそう、そうなんだよー! とダグマルは悔しげに地団駄を踏んだ。

本っ当に、惜しいことをした! どんな風だったのか、あとで絶対に話を聞かせてくれよな! な!

お兄ちゃん! お帰りー!

そんなダグマルをよそに、今度はエッダがトテトテと駆け寄ってきて、ケイに抱きつく。

ただいま。といっても、あっという間だったかな

待ってるこっちは気が気じゃなかったけどねー!

すりすりと腹に頬ずりしていたエッダだが、ふと、その背後、モンタンたちに連れられてきたリリーの存在に気づく。

あ……どうも

こんばんは……

同じ年頃の女の子ということで、互いに興味を持ったようだ。

(あれ、顔を合わせるのは初めてか?)

よくよく考えてみれば、ホランドたちがサティナに定住し始めてしばらく経つが、仕事でモンタンと顔を合わせることはあっても、家族ぐるみの付き合いはなかった気がする。

わたしエッダ。あなたは?

リリー、です

リリーは塾に通うのもやめて引きこもりがちだった。アイリーンと魔術の修行(というか勉強)を始めて少しは明るくなってきたものの、出会った当初の快活さは見る影もない。

(新しく友達ができたら、何か良い変化があるかもな)

そんなことを考えつつ、商会関係者たちに挨拶する。ホランドのようによく世話になっている者から、顔見知りではあるが名前までは知らない者まで。皆、等しく今回の一件で奔走してくれた人たちだ―ダグマルを除いて。

(ってかダグマル、今回は何もしてないじゃないか)

にもかかわらず、ちゃっかり打ち上げに潜り込んでいる要領の良さに、遅れて気づいたケイは、挨拶回りの最中、吹き出してしまわないよう笑いを噛み殺していた。

おっと、お待たせしてしまったかな? 申し訳ない

と、新たに階段を登ってくる人影があった。フードを目深にかぶった二人組。

コウ! イリスも来れたか

やあ。二人とも無事だったようで何より

えへへ。あたしも来ちゃった!

コウはフードを取っ払ったが、イリスはかぶったままだ。顔よりも、頭の豹耳が見られたらまずいので、こういうときは不便だろう。

俺たちも今来たところだ。問題ないさ

それは良かった

揃ったみたいだね。それでは始めよう!

ホランドが音頭を取り、皆に酒が振る舞われる。湯気を立てる料理―仔羊の丸焼きやシチューパイ、ローストビーフなどが大皿に盛られて運ばれてきた。

では―英雄たちから一言!

さて食事にありつこうか、と思っていた矢先、ホランドから水を向けられ、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。

あ~……

コホン。まずはコーンウェル商会の皆様方に―

こういう咄嗟の英語スピーチが苦手なケイのために、アイリーンが口火を切って、少し時間を稼いでくれる。

―と、まあ、あまり長くなっても悪いのでこのへんで。ケイは?

ん、共に戦ってくれた戦友たちに。影から支えてくれた関係者の皆に。そして、俺たちを見守り、導いてくれた偉大なる精霊たちに―

隙間風がランプの灯りを揺らし、影が蠢き、コウの吐息が冷気で白くなる。

―最大限の感謝を。乾杯!

乾杯!!

そうして賑やかな宴が始まった。

†††

それから夜遅くまで飲み明かした。ケイは肩の力を抜いてコウと日本語会話を楽しみ、アイリーンは浴びるように高い蒸留酒を呑みながら、武勇伝を語って皆を楽しませていた。一番楽しんでいたのは、アイリーン本人だろうが。

翌日、珍しく羽目を外して呑みすぎたマンデルがダウンしてしまったため、タアフ村への帰還は延期し、体調の回復を待ってからさらに次の日、サティナを出発した。

ケイとアイリーンは、マンデルに同行することにした。マンデルは必要ないと固辞したが、現金や貴重品を多数抱えていることから、護衛としてついていくことにしたのだ。マンデルの娘たちに、父親を無事に帰すと約束した義理もある。家に帰るまでが大物狩りだろう。

当然、タアフ村でも歓迎と祝いの宴が開かれ、ケイたちも招かれることとなった。マンデルの娘二人が、安堵のあまり号泣していたのが印象的だった。

いやー……今回は色々あったなぁ

タアフ村からサティナに戻る道中、アイリーンが感慨深げに呟いた。

全くだ。盛りだくさんだったな……

しみじみと、ケイも頷く。

少し肌寒い晩秋の草原に、サスケとスズカの蹄の音。

今更言うのも何だが……けっこう、危ない橋だったな

違いない

ほんの少しでも運が悪ければ、ケイもアイリーンも死んでいたかもしれない。死者もなく、大した怪我もなく、たった数人で”森大蜥蜴”の番を撃破した― DEMONDAL の中でさえ聞いたことがないような偉業だ。

で、ヴァーク村からまた助けを呼ばれたらどうする? ケイ

揺れる馬上、アイリーンが振り返り、いたずらっぽい笑みで尋ねてくる。

う~~~~~ん……

ケイは難しい顔で唸った。人々を助けるために、“大物狩り”専門の狩人として活動したい―それが夢だったが、正直なところ、今回の一件はかなりキツかった。

…………当分、遠慮したいな

あっはっは。オレもー!

屈託なく笑うアイリーン。まあ、しばらくはのんびり過ごそうぜ、と気楽な調子で言う。ケイも全く同意見だった。大物狩りはこりごりだ―

家に帰って、いつもの日々が戻ってくる。

季節は巡り、サティナにも初雪が降った。

この世界で初めての冬だ。皆が冬ごもりの準備を始めている。

ケイたちは、主に魔道具の研究開発をしながら、のんびりと過ごしていた。

なあ、ケイ―ちょっと、相談があるんだが

ある日、アイリーンが神妙な顔で話しかけてきた。ストーブで温めて使うタイプのアイロンを応用したヘアドライヤーの試作品をいじっていたケイは、改まった態度のアイリーンに姿勢を正す。

どうしたんだ?

んー。その、な。……アレが、来ないんだわ

ぽんぽん、とアイリーンが自分の腹を軽く叩いた。

ケイの思考は止まった。

……それは、その……アレか? 月の

うん

…………つまり

アイリーンの顔と、腹部を交互に見比べたケイは、ガタッと立ち上がる。

子供が……!?

……まだわかんないけど、その可能性が……うん……

少し頬を赤らめたアイリーンは、ぺし、と自らの額に手を当てた。

なんかこの頃ちょっと……微熱があるみたいな感じがして、だるいし。風邪かなーって思ってたんだけど、アレも来ないから。キスカとかにも相談してみたんだけど、その、やっぱりそういうことじゃないかって……

…………!

検査薬などないので、確定的ではないが。

そうか……!

同様に、現代地球のような避妊具もなかったわけで。それでいて愛は育んでいたのだから、当然―

……嬉しいよ

ケイはアイリーンをギュッと抱き寄せた。実感は湧かないが、それでも、素直に嬉しかった。

……良かった

アイリーンもホッとしたように肩の力を抜いて身を預けてくる。しばらくそうしていたが、顔を見合わせて、なんだか互いに気恥ずかしくなった。

そうか……俺、父親になるのか……

やはり、どう考えても実感が湧かない。

うーん。オレも、母親か……うーむ……!

アイリーンは再び頬を赤らめ、両手で顔を覆う。

こっちの世界だと普通なんだけど……地球基準だと、年齢的にちょっと早すぎる気がしないでもない……!

わかる。その気持ちはめっちゃわかる

不安だーーーーー!

ううむ、色々準備しないとなぁ

とりあえず身近に、子持ちのキスカがいて色々相談できるのは助かる。

……赤ちゃん、か……

ケイは身をかがめて、アイリーンのお腹に耳を当ててみた。

バーカまだそんな時期じゃないって!

はっはっは

コツンとアイリーンに頭を小突かれて、ケイは笑う。

―地球では、骨と神経の塊になって死ぬしかなかった自分が。

父親になれるのか、と。

しかし、そうなるとアイリーンも断酒しないとだな

うぐぅッ! やっぱ……そうだよなぁ……そうなるよな……

……まあ、俺も一緒に禁酒するから……

―ケイはそこまで酒好きじゃないだろぅ、もぉぉぉ!

ぬあ~と呻きながら、ふざけてケイの胸をポカポカ殴ってくるアイリーン。

はっはっはっは

オレには笑いごとじゃないんだよぉぉ

大して痛くもない打撃を受け止めながら、ケイは、幸せを噛み締めていた―

が。

それからさらに数日後のことだった。

寒い朝だった。

まだ夜が明けて間もない、ようやく空が白み始めたころ。

蹄の音。それも複数。

目を覚ましたケイは、傍らで眠るアイリーンをよそに身を起こす。

家の前が騒がしい。

ダン、ダン! と遠慮なくドアが叩かれた。

……なに?

アイリーンも目を覚ます。

わからない、と答えたケイは、着の身着のまま外へ出た。


―そしてそんなケイを出迎えたのは。

ケイチ=ノガワだな!

フル装備の騎士が数名。さらに、豪奢な装束に身を包み、竜の紋章が描かれた旗を掲げて馬に跨る壮年の男。

……そう、だが

突然の事態に困惑しつつ、どうにか答えるケイ。

よし。ケイチ=ノガワ! これより、公王陛下のお言葉を伝える!!

懐より書状を取り出し、壮年の男が馬上でふんぞり返る。

それに合わせて、騎士たちが剣を抜き、儀仗兵のように直立不動の姿勢を取った。

は?

公王? お言葉? ―呆気に取られて立ち尽くすケイ。

…………

しかし壮年の男は、何やら非難がましい目でこちらを見るばかりで一向に話し出す気配がない。

……ひざまずけ、ひざまずけ

見かねた騎士が、兜の下、直立不動のまま小声で伝えてきた。

ハッと我に返ったケイは、慌てて跪く。そして思い出した。武道大会の表彰式を前に少しだけ教わった礼儀作法。

王の言葉は、最大の礼をもって拝聴せねばならない―

―オホン。『余、エイリアル=クラウゼ、大精霊の加護により、アクランド連合公国のウルヴァーン公にしてアクランド大公は―』

ようやく正しい姿勢を取ったケイに、咳払いした使者が書状を読み始める。

『―きたる、ディートリヒ=アウレリウスの成人に際し、大公の位をこれに譲るものとする』

ディートリヒ―武闘大会でケイを表彰した、公王のただ一人の孫。

『そして此度の譲位を祝すため、古(いにしえ)の継承の儀を、ここに執り行う』

王の言葉―それは絶対のものである。決定事項であり、至上命令である。

『ケイチ=ノガワよ』

そこに民草の意志など介在しない―

『公国一の狩人として―』

『―“飛竜”狩りに馳せ参じよ』

はい! というわけで 飛竜狩り 編が始まります。いつも感想、ポイント評価、にゃーん、大変励みになっております! ありがとうございます!

カクヨムでも1話先行で連載中です。

次話 幕間. Monster

幕間. Monster

霧がかった、深い深い森の奥。

深部(アビス) と呼ばれ、只人の踏み入れることのない領域に、その古城はあった。

フフフン フ~ン フン フフフン~♪

古城のそばの丘。肌寒く、お世辞にも過ごしやすい陽気とは言えなかったが、のんびりと草っぱらに寝転がり、鼻歌を歌う者が一人。

異形だった。

毛皮を荒く縫い合わせただけの、原始人のような服装。鋼のような筋肉がゴツゴツと張り出した体躯、全身を覆う鱗、鋭い手足の鉤爪―そして獰猛な爬虫類そのものの頭部と、たてがみのようにふさふさした金髪。

―怪物の名を、『バーナード』といった。草地に寝転がり、傍らでパチパチと燃える焚き火を木の枝でつつきながら、何やら上機嫌だ。

フフフン オー ダ ピーポー♪

盛り上がってきたのか、鼻歌ではなく歌詞を口ずさみ始めるバーナード。それにしても酷いだみ声だ。かつて、とある世界で流行った曲を熱唱している―想像してみよう、今日という日のために生きる全ての人々を。天国もなく、地獄もなく、国も国境もない。何かのために殺し合ったり、死んだりすることもない―

バーナードは焚き火から木の枝を引き抜いた。

枝の先端に突き刺さっていたのは―スイートポテトに似た感じの芋。

想像してみよう、全ての人々が、平和に暮らしている―

ユッウ~ウウゥ~♪

俗に言う石焼き芋だった。焼き立てのそれを無謀にも手で掴み、 アチチッ とお手玉しながらも、二つに割る。美味しそうな黄色、スイートポテト特有の甘い香りとともに、ホカホカと湯気が上がった。

ハッハァ~よく焼けてやがる! ユ~ メイセイ~♪ アイマ―

ご機嫌だな

歌いながらノリノリでかぶりつこうとしたところで、背後から声がかかる。

振り返れば、見上げるような大男が立っていた。

野性的な顔つき。筋骨隆々で、純粋に生物としての強さを感じさせる巨躯。圧倒的な存在感を放っており、ともすれば近寄りがたく感じてしまいそうだったが、その瞳には理知的な光があり、獣性と理性が同居しているような不思議な魅力を放っていた。また、肩には大人しい鴉を止まらせており、どこかユーモラスな雰囲気も漂わせている。

よォ、デンナー。オメーも食うか?

気さくに挨拶したバーナードは、芋の片割れを大男―デンナーに差し出す。

それが居候の態度か? まあいい、もらおう

苦笑したデンナーは芋を受け取り、豪快にかぶりつく。

しばし、金髪の蜥蜴怪人と、肩に鴉を乗せた大男が無言で焼き芋を頬張るという奇妙な光景が繰り広げられた。

ところで、さっきの歌

ぺろりと芋を平らげたデンナーが、尋ねてくる。

初めて聴くメロディだった。故郷の歌か?

そうさ、流行ってたんだ。だいぶん昔にな

バーナードは素直に首肯した。デンナーは度々、こういった会話でこちらの素性を探ってこようとする。

俺の故郷だけじゃねェ、それこそ国を超えて大流行した。何十億もの人々がこの歌を聞き、口ずさんでいた時代があったのさ

なのでバーナードは、いつも、ただひたすら嘘(・)を(・)吐(・)く(・)こ(・)と(・)な(・)く(・)答えることにしていた。『元は人間だったが気づけば竜人(ドラゴニア)になっていた』『故郷はおそらく遠く離れている』『故郷の人口は十億を超える』『音の速さで空を飛ぶ乗り物がある』『誰もが肉体から精神を切り離し精霊のように振る舞える社会だった』―などなど。

それはありのままの事実だったのだが、あえて簡潔に、具体性に欠く語り口にしたことで、デンナーにとっては荒唐無稽な話に聞こえていたらしい。そのせいか、『元人間である』という一点以外は、バーナードが大ボラ吹きなのか、あるいははぐらかそうとしているとでも解釈しているようだった。

(―高度に発達した科学は魔法と区別がつかねェ、ってか)

VR技術など、この世界の住人からすれば想像の埒外だろう。高度なインフラに支えられた億単位の人口も、眉唾ものに違いない。ただ事実を語っているだけなのに、デンナーが疑ったり、呆れたりしている様子を、バーナードは密かに楽しんでいるのだった。

お前の故郷には、吟遊詩人の精霊とやらもいるんだったか。それは国を超えて流行りもするだろうよ

そう言って肩を竦めるデンナー。バーナードは何も答えず、ただフフンと鼻を鳴らすに留めた。

しかし、俺の耳が正しければ、平和だの何だのと言っていた気がするが

おゥよ。ラブ&ピース、人類愛と世界平和を祈る歌だぜ。名曲だ

……お前みたいなやつは、そういうのを毛嫌いしてそうなもんだが

違うのか? と首を傾げるデンナー。

いや? そんなことはない。俺はむしろ平和を愛してるぜェ

お前が……?

あァそうさ。平和とは、不断の努力と幸運なくして成立しない、脆く、儚く、愛おしいものだ―

蜥蜴怪人の口の端が釣り上がり、鋭い歯が剥き出しになった。

―だからこそブチ壊したくなる

黄色い瞳を爛々と輝かせて。

ハハハッ、この人でなしめ

見たらわかるだろ?

思わず吹き出すデンナーに、悪びれる風もなくおどけるバーナード。

争(・)い(・)ば(・)か(・)り(・)の(・)世(・)の(・)中(・)は(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わねェか? 何にでもメリハリが必要なンだよ

その気持ちはわからんでもないが、だからといって弱い者を無意味に殺して回って楽しいか?

おそらく、バーナードが壊滅させたラネザ村のことを言っているのだろう。しかし純粋に興味本位の質問らしく、そこに非難するような色はなかった。

楽しいさ。強い奴と戦うのとは、また別の楽しみがある。俺は、平和を、幸せを、かけがえのないものを、尊いものを、台無しにするのが好きなんだよォ

ラネザ村での自らの凶行を思い出したか、バーナードは興奮に背筋を震わせる。

もちろん、弱っちいヤツのさ(・)さ(・)や(・)か(・)な(・)抵(・)抗(・)もスパイスの一つだぜェ。ただ、同じことを延々繰り返すだけじゃあつまんねェ、そのうち飽きちまう。だからメリハリが必要ってわけだ―それと一つ訂正しておきてェんだが、俺は別に殺しが好きってわけじゃねェ。最大限にブチ壊したら結果的に死んじまうってだけで

なるほど。熱しやすく冷めやすい破壊の美学というわけか

デンナーはゴワゴワとした顎髭を撫で、得心がいったという風に頷いた。その、さもわかったかのような態度が癪に障ったバーナードは、逆に聞き返す。

……そういうオメーはどうなんだよ、デンナー。オメーは強いやつと戦うの、好きそうだよなァ

ぬぅ、まあ否定はせんな。強敵と対峙すれば血が滾るのは事実だ……ただ戦いそのものが好きかと問われると、違うな

ほう?

その戦いから何が得られるか―強敵との戦いは、何らかの教訓をもたらすことが多い。相手そのものが興味深く、面白いこともある。お前みたいにな

ニッ、と不敵に笑うデンナー。打ち負かされた側であるバーナードは、ますます不機嫌になってフンと鼻を鳴らした。

そして俺は欲張りでもあるからな。そういう面白い奴がいると、つい手勢に加えたくなっちまうわけだ

ああそうかい。お陰でこうして食っちゃ寝していられるんだ、ありがたいこった

焚き火に枝を突っ込んだバーナードは、また新たに焼き芋を取り出した。今度は爪先で器用に皮を剥ぎ取り、デンナーに差し出すでもなく一人で食べ始める。

ハッハッハッハ! そう不貞腐れるなよ

デンナーは大笑いしながら、バーナードの背中をバシンと叩いた。焼き芋を咀嚼しながら、ギロリと剣呑な目を向けるバーナード。普通の人間ならひと睨みされただけで震え上がってしまいそうな眼光だったが、デンナーは動じない。

―残念ながら、食っちゃ寝の生活もそろそろ終わりだ

その言葉は、バーナードの興味を引いた。

……というと?

でかい仕事がある。お前にも当然働いてもらうからな

ほーん。まあ構わねェけどよ、細かいのは苦手だぜ? 誰彼を守れとか、逆に誰彼だけを殺せ、とかはなァ。それに自分でも言うのもなんだが、俺のこの容姿で参加できンのか?

できるとも。好き勝手に暴れて、殺し回って、呑気に過ごしている奴らを大混乱に叩き落とす。そんな怪物を探していたんだ、おあつらえ向きじゃないか?

―ハッ。なんだそりゃあ

蜥蜴面でもそれとわかる、満面の笑み。

俺様にぴったりじゃねえか

だろう? 平(・)和(・)す(・)ぎ(・)る(・)世(・)の(・)中(・)も(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わないか?

デンナーの問いに、バーナードは牙を剥き出しにした。

はハァ♪

101. 出陣

とうとう出発の朝が来た。

公国の地にも、厳しい冬が訪れつつある。

戸口に立ち、朝日を睨むケイの吐息は白い―

ケイ……

振り返れば、ケープを羽織ったアイリーン。

青い瞳が、ケイを見つめて揺れていた。そっと目を伏せる。伸ばした手が、ケイの袖を掴む。

強く―関節が白く染まるほど指先に込められた力が、何よりも雄弁にアイリーンの心情を物語っていた。

……アイリーン

ケイはただ、その手に、自らの手を重ねることしかできなかった。冷え切った指先に、せめて別れのときまで、わずかなぬくもりを与えることしか―

“飛竜”狩りに馳せ参じよ、との王命からはや一ヶ月。

サティナ郊外には、ウルヴァーンとキテネの兵団が集結しつつある。本日、そこにサティナの戦力も合流し、飛竜狩りの舞台たる辺境―鉱山都市ガロンを目指して東進する予定だ。

兵団の総指揮官は、公子ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド。今年で成人を迎え、16歳という若さで次期公王として即位する。そして今回の飛竜狩りは、他ならぬ彼の箔付けのためのものだった。

実績作り、軍事力の誇示、他都市への牽制、軍部のガス抜き、領土拡大および辺境開拓の一環―政治的な思惑はさておき、最大の問題は、ケイがそれに巻き込まれてしまうことだ。

『どうしても行かないと駄目か……?』

尊大な使者が去ってから、ケイが残された説明役の下級役人に力なく問うと、彼はギョッとして周囲をはばかるように見回した。

『……とんでもない、なんてことを言うんだ。大物狩りの英雄だか腕利きの魔術師だか知らないが、一市民が王の言葉に逆らえるわけないだろう』

お偉方に聞かれなくてよかった、と下級役人は額の汗を拭う。頼むから迂闊なことは口に出すなよ、と言わんばかりにジロッとケイを睨んだ役人は、こう続けた。

『公王陛下からの直々のご指名、子々孫々にまで語り継ぐ名誉と心得よ! それに、ケイチ=ノガワ殿。あなたは栄えある名誉市民となったときに、誓ったはずだ。公王陛下と都市ウルヴァーンへの忠誠を』

―詰まるところ、ケイもアイリーンも、現代人だったというわけだ。

十全に理解できていなかった。封建主義的な社会における、『忠誠を誓う』ことの重みを、真の意味を。

これまで名誉市民として、少なからず権利を享受してきた。それに付帯した義務(ツケ)が、今になって回ってきた。それだけの話だ……

アイリーンは、荒れた。

『なんでケイがそんな目に遭わなきゃいけないんだ!!』

飛竜狩りに徴集された、と告げた直後は呆然としていたが、すぐに激怒した。何に対しての怒りか。公王か、その使いか、それとも状況そのものか……

『逃げよう、ケイ! むざむざ死にに行くようなもんだ。若造の箔付けのためなんかに、ケイが命を賭ける必要はない!』

アイリーンの主張は尤もだったが、ケイはゆるゆると首を振る。全てを放り出して逃げる―もちろん、検討した。

しかし、逃げるとしても、どこへ逃げる?

『アイリーン、俺たちは有名になりすぎた』

片や黒髪黒目の狩人にして、風の精霊と契約した魔術師。片や金髪碧眼の雪原の民で、影の精霊と契約した魔女。

地竜を相手取った伝説の狩りも、麻薬組織を壊滅させた大立ち回りも、吟遊詩人を介して公国全土に広がっている。こんな特徴的な二人組では、どこに逃げてもすぐに足がついてしまう。

かといって、国外に居場所があるかと問われると、難しい。アイリーンならば北の大地でも生きていけるが、馬賊のせいでケイは肩身が狭い。アジア系の顔つきは例外なく草原の民と解釈されるだろう。

“魔の森”近くのアレクセイの故郷の村なら、気心の知れたケイたちを快く受け入れてくれるだろうが、北の大地を横断する長旅になるし、第一、旅する間に冬が来る。

『家ごと凍りついて死ぬ』ほどの極寒の地を踏破する―あまりにも無謀。飛竜に挑む方がまだマシなくらいだ。

公国は駄目、北の大地も危険、となれば残された土地は何処だ……?

『それこそ、飛竜狩りが行われる東の辺境に隠れ住むか、港湾都市キテネから船で別の大陸を目指すくらいしかない……』

ゲーム DEMONDAL に設定のみ存在した『フォートラント』と呼ばれる大陸。現在の公国の民は、フォートラントを発った植民船団の末裔だ。今でもフォートラントとの交流は続いているが、外洋の巨大水棲生物のせいで沈む船はあとを絶たないという。

フォートラントへの船旅は、無事に海を渡れるかどうかの博打。かといって東の辺境は、豹人(パンサニア)や竜人(ドラゴニア)が数多く生息する危険地帯。

『それに……仮に逃げたところで、今みたいに豊かな暮らしは二度とできない』

現状の安定した生活は、得難いものだ。特にこの世界においては。

公国で有数の大都市に住まいを構え、国内でも指折りの規模の商会に支援されながら、気ままに魔道具を作成するだけで食って行ける。使用人のおかげで家事はしなくていいし、最低限のインフラも整っている。飢える心配もない。

何より、アイリーンのお腹の子に、これらの資産を遺してあげられる―

そう考えたとき、逃げるという選択肢は、ケイの中で消えた。

『俺には……できない。今さら全てを捨てることなんて』

仮に自分が野垂れ死んでも、アイリーンは食いっぱぐれないし、子供にだって遺すものがある。

ケイはそう考えたが―

『暮らしなんてどうだっていい!』

アイリーンは違った。

『そんなもん、命に比べたらはした金だ! どこに移り住んだって、生きてさえいればやり直せる! ケイが帰ってこないのが一番イヤだよ! 死んだら……死んだら、お終いなんだ、ケイ……!! 頼む、頼むから……』

アイリーンの悲痛な叫びは、徐々に勢いを失い、力なき懇願へと変わった。ケイの胸板に顔をうずめ、『行かないでくれ……!』と消え入るような声で。

『アイリーン……』

気持ちは痛いほどにわかる。

だが……それでも、ケイは……

†††

話し合いは平行線だったので、コーンウェル商会へ相談に行った。

『飛竜狩りについては聞いたよ……ついさっき、ね』

商談室のソファに腰掛けながら、ホランドは太った腹をポンと叩いた。行商を辞め、本部つき商会員になったホランドは、ケイたちの魔道具販売で辣腕を振るい、この頃は一流商人としての貫禄を醸し出すようになっていた。

が、今日ばかりは少しやつれて見える。

『我らが商会も、もちろん飛竜狩りを支援するけど、ケイくん個人用の物資についても役人と話はついたよ。糧秣(りょうまつ)に関しては心配しなくていい』

飛竜狩りに同道する場合、ケイの懸案事項の一つがサスケの秣(まぐさ)だった。これまでの旅路では、文字通り道草を食わせたり、宿場街で調達する分で事足りたが、今回の目的地は東部の辺境だ。

公国は東に行くにつれ草原から荒原へと変わっていき、さらに大人数の兵団がともに移動することを考えると、現地調達では絶対に足りない。秣をかなりの量、事前に用意しておかないとサスケは飢え死にしてしまう。

行軍速度が非常に遅いであろうことを鑑みれば、ケイが徒歩でついていく手もあったが、それではケイの強みである騎射が活かせなくなる。

件の下級役人にも『歩いてくりゃいいじゃん』という旨のことを言われたが―おそらくは調整を面倒くさがったのだ―飛竜を相手取るには機動力が欠かせないと、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩った経験を混じえながら滾々と語った結果、『じゃあ後でコーンウェル商会と交渉してくるわ……』と根負けしたわけだ。

『あの役人が怠け者じゃなくて良かった』

『すこぶる働き者だったさ。話はすぐにまとまったよ。商会が追加で供出する分には、いくらでもどうぞ、とのことだった』

ホランドは肩をすくめる。要は、コーンウェル商会が独自に支援する分には、国の財布は痛まないので好きにしろ、ということだ。

役人も言っていたが、今回の狩りは成功報酬だ。最低限の食事などは軍が手配するものの、快適な旅路を望むならば諸々の経費は自腹となる。

目覚ましい活躍をした者には、帰還後にそれ相応の名誉と褒美を。

ただし労災は下りない―死んだらそれまでだ。

『ありがとう。苦労をかけることになる』

『なに。我が商会の腕利き魔術師を失うわけにはいかないからね』

ケイとホランドは、ぎこちなく微笑みあった。

『……なあ、旦那。どうしても行かないと駄目なのか?』

と、黙りこくっていたアイリーンが、縋るような目で尋ねる。

ホランドは困惑したように口をつぐむ。ケイは、アイリーンが自分と同じような言い方をしたのが可笑しくて、小さく笑った。半ば諦めたように。

『…………せめて、都市からの要請、くらいならばまだ、辞退する手もあったかもしれない。……だけど今回は、……王命だ。しかも名指しでの』

ホランドは苦しげに言葉を絞り出す。『とんでもない!』などと声を荒らげないあたり、これでも精一杯アイリーンの心情に寄り添った回答と言えるだろう。

『あまり、私の立場から無責任なことは言えないが』

沈痛の面持ちのアイリーンに、ホランドは慌てたように言葉を付け足した。

『先々代の陛下の飛竜狩りを思えば、ケイくんはそれほど心配しなくてもいいんじゃないかと思うんだ』

『ほう』

『……というと?』

ケイもアイリーンも、身を乗り出す。

『基本的に、ほとんど軍が矢面に立つんだよ。少なくとも先々代の狩りでは、告死鳥の魔術師と斥候が飛竜を一頭だけ釣って、魔術兵団と攻城兵器でタコ殴りにしたそうだ。従軍した兵士と、後方の支援部隊にはほとんど被害が出なかったらしい―』

対飛竜戦術はゲーム内のそれとは大差ないようだったが、ホランドの話を聞く限り、どうやら投じられるリソース量が桁違いだった。

具体的には、魔術師及び魔道具の数。

数百人単位で、魔術師たちが一斉に術を行使する。これはゲーム内では見られなかった光景だ。

ゲームでは、周年イベントの飛竜狩りはお祭り騒ぎのようなもので、数千人の廃人プレイヤーたちが一堂に会し飛竜に挑んだものの、その中で『魔術師』と呼べるプレイヤーはごくごく少数に過ぎなかった。

なぜかと言うと、飛竜を倒したあとは素材を巡るバトルロイヤルになだれ込むのが恒例だったため、ほとんど全員が『失っても怖くない』キャラ&装備を選択していたからだ。

その点、魔術師は触媒やら魔道具やら高価なアイテムを所持していることが多く、火事場強(・)盗(・)の被害に遭いやすい。1周年のイベントではそこそこ見かけた魔術師プレイヤーも、翌年には開き直って腰布に棍棒のみの蛮族スタイルで参戦していたくらいだ。

『百人単位の魔術師、か……』

個々の力量はゲームの廃人より劣るだろうが、その数は質を補って余りある。極めて強力に統率された兵団がどれほどの威力を発揮するか、冷静に考えれば、ケイたちもおぼろげに推察することはできた。

―案外、いけるか?

魔術師がどのような精霊と契約しているか、また使用される魔道具がどの系統のものかにも依るが、一般的な契約精霊である”妖精”の眠りの術も、百人単位で重ねがけした場合は飛竜の抵抗(レジスト)を十分に打ち破れるのでは、などと考えるうちに、ケイも少しばかり前向きになってきた。希望的観測の感は否めなかったが。

『主役はあくまで兵団だから、ケイくんの出番は……正直、自分から前に出ない限りないんじゃないかなぁ。単騎で”森大蜥蜴”を二頭相手取るよりは、よほど安全だと私は思うけどね』

ホランドの遠慮ない物言いに、思わず苦笑する。

『そういう意味だと、ケイくんより、お友達の”流浪の魔術師”殿の方が危ない立場なんじゃないか。……彼はまず間違いなく、サティナの軍団に組み込まれるだろうから。最前線だよ』

そう言って、ホランドは物憂げに小さくため息をつく。

『あ~……』

ケイは、同郷の日系人の顔を思い浮かべた。サティナの領主のもとで厄介になっている彼は、なるほど、お誂え向きなことに氷の魔術師だ。飛竜狩りにも引っ張り出されるに違いない―困り顔が目に浮かぶようだった。

―結局、アイリーンは納得したとは言い難かったが、ケイたちは少しばかり気を取り直して商会を辞した。

『……なあに、心配いらないさ。アイリーン』

帰り道、ケイはあえて気楽な調子で言う。

『いざとなったら……俺たちには切り札がある』

トン、と胸元を叩いた。

服の下、首からチェーンで吊り下げているのは―飾り気のない指輪。

『本当にヤバくなったら、この”ランプの精”にお願いするよ』

一つだけ、何でも願いを叶えてくれるという、“魔の森”の大悪魔に。

『だから、大丈夫だ。俺(・)は(・)絶(・)対(・)に(・)生(・)き(・)て(・)帰(・)る(・)』

アイリーンの手を引きながら、ケイはニッと笑ってみせた。

『…………うん』

アイリーンも小さく笑ってうなずく。

それでも彼女の手は、可哀想なほどに震えて、冷たくなっていた―

†††

あの日の指先を思い出しながら、ケイはアイリーンの手を握りしめる。

あれから、またたく間に時間が過ぎ去っていった。それでいて、頼りないロウソクの火が、ジリジリと芯を焦がしていくかのように、気が気でない一ヶ月だった。

ほんの僅かでも、ぬくもりを与えられただろうか。残せて行けるだろうか。

それを確かめるより先に、冬の到来を告げる風が熱を奪っていく。

カァン、カァンと遠くで鐘が鳴る。

出陣のときが近いことを知らせる鐘の音が。

商会の使用人が、厩からサスケを連れてきた。 今日も寒いね とばかりに鼻を寄せてくるサスケを撫で、鞍に荷物を載せる。矢筒。携帯食料。飲水の革袋。寝床にもなる毛皮、などなど……。

……行かなきゃ、な

無言のアイリーンとともに道を行く。

左手でサスケの手綱を引き、右手はアイリーンとつないだまま。指と指を絡めて、しっかりと握りしめる。恋人つなぎと呼ぶには、それはあまりに切ないものだった。

昨夜は、別れを惜しんで語り明かした。

それでもまだまだ語り足りなく感じる。

なのに、今は言葉が出てこない。

傍らのうつむきがちなアイリーンを見るに―彼女もどうやら、同じだった。

飛竜狩りに馳せ参じるんだってな! 頑張れよ!

武勇伝、楽しみにしてるぞー!

無事に帰ってこいよ、英雄!

道端で、顔見知りとなった町の住民たちが声をかけてくる。

ケイは少し硬い笑顔で、それに応えた。

ケイさん……どうか、ご無事で

お兄ちゃん、気をつけて、ね!

木工職人のモンタンと妻のキスカ、その娘リリーも、街の正門にケイを見送りに来ていた。

ありがとう。……行ってくるよ

モンタンと握手を交わし、リリーの頭を撫でてから、改めて向き直る。

アイリーン。

世界で一番、愛しい人。

言葉もなく、二人は抱きしめ合い、口づけを交わした。

思えば―この世界に来てからは、いつも一緒だった。

片時も離れずにいたい。その気持ちは今も変わらない。

互いが、互いのいない日々を想像できない。

それなのに、

ケイは行く。

アイリーン

その頬に手を添えて、名前を呼んだ。

……行ってくるよ。必ず無事で戻る

アイリーンは、愛しげにケイの手に頬ずりして、頷いた。

……待ってる。絶対に待ってるから

ケイの緊張をほぐすように、微笑みを浮かべて。

……これほど、離れがたく感じたことはない。

だが、ケイは手を離した。

ブルルッ、といななくサスケに、颯爽とまたがる。

これ以上の迷いを振り払うように。

横腹をポンと軽く蹴ると、忠実な俊馬は滑るように駆け出した。

サティナの城門を抜けると―視界が一気にひらける。

朝焼けを浴びて輝く草原が、風にそよいで波打っていた。

そこに、公国の赤い旗がはためく。

おびただしい数の軍勢が、展開している。

ドン、ドンと太鼓が打ち鳴らされ、高らかにラッパの音が響いた。

巨獣が目覚めるかのごとく、軍勢は緩やかに動き出す。

ケ―イ!!

背後から、かすかな叫び声。

弾かれたように振り返れば、アイリーンが手を振っていた。

ケイの目は、二人の距離を物ともせず、しかと捉える。

青い瞳から溢れ出した涙が、風に散らされていく。

わななく唇から漏れる言葉は、もはや意味をなさない。

だが―これ以上ないほど、気持ちは伝わってきた。

せめて、己の心も届くように。

必ず戻る

ぐっと手を掲げてみせ、ケイは前へ向き直った。

公国の歴史に刻まれる、飛竜狩りが―

ここに、始まった。

飛竜狩り編、開幕。

102. 合流

(これほどの人数が行軍してるところは、初めて見たかもしれないな)

パッカパッカとサスケを駆けさせながら、ケイは胸の内でひとりごちた。

ゲーム内でもイベントや傭兵団(クラン)同士の戦争で大勢のプレイヤーが集まることはあったが、どんなに多くても千人がせいぜいだった。

対して、眼前に集結した軍勢は万単位だ。統一された装備で隊列をなし、歩みを進めるさまは相当な威圧感がある。街道沿いには近隣住民が見物に出ていて、お祭り騒ぎの様相を呈していた。

飛竜狩りに出陣する公国軍―きっとこの光景は絵画として残され、後世に語り継がれていくのだろうな、とケイは他人事のように思う。

そしてこのとんでもない大所帯は、とんでもなく動きが鈍い。この人員を飢えさせないだけの物資を運ぶ、大量の荷馬車が同道しているからだ。軍が自前で用意した補給部隊に加え、それを補助する形で大商会の馬車も続く。

勇ましく行軍する兵士たちも、そのほとんどが陣地構築のための工兵か、物資を守る警備兵だろう。彼らの任務は、飛竜を相手取る魔術兵団と、バリスタや投石機といった攻城兵器群を無事に現地まで送り届けることだ。工兵はそのまま戦う羽目になるかもしれないが。

(それにしてもちょっと多すぎるんじゃないか……)

いくらなんでも、こんな大所帯に襲いかかるならず者はいないと思うのだが―警備の人員はもっと減らせなかったのだろうか? ひょっとすると、公国の支配に反感を抱く草原の民に対しての示威行動も兼ねているのかもしれない。

(だとしたらご苦労なことだ)

この飛竜狩りのためだけにどれほどの物資が消費されるのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。それを可能とする公国の力を内外にアピールする目的があるのだろうが、いくら年若い次期公王の箔付けのためとはいえ、ケイとしては、費用対効果的にどうなんだと思わずにいられない。特に、お上の事情に巻き込まれた身としては―

そんなことを馬上でつらつらと考えるうち、竜の紋章が刻まれた赤い旗が見えてきた。ウルヴァーンの本隊だ。

最後尾あたりを歩く歩兵隊のうち、そこそこ偉そうだが、気位はそこまで高くなさそうな隊長格の兵士に声をかける。

狩人のケイだ。公王陛下の命により、飛竜狩りに馳せ参じた

自分で口に出しておいてなんだが、多分に皮肉な響きが混じってしまった。ここに来て不満たらたらな様子を見せるのは得策ではない、グッとわだかまる内心を飲み込んで誠実な公国市民の仮面をかぶる。

―義勇隊に合流したいのだが、何処か?

ケイのように民間から招集されたクチ、及び自分から名乗りを上げた物好きなんかは、義勇隊とやらにひとまとめにされているそうだ。

へえ、するとアンタが例の”大物狩り”か

兵士たちがケイにじろじろと無遠慮な視線を投げかける。

噂に違わぬ精悍さだな

そうか? 俺はもっとデカいかと思ってた

なあ、槍で森大蜥蜴の頭をかち割ったってのは本当か?

俺は背中に飛び乗って首をねじ切ったって聞いたぞ!

どんな噂だ。やいのやいのと勝手なこと言う兵士たちに思わず苦笑する。

義勇隊ならもうちょっと前の方だ。まあ見りゃわかる

そうか、ありがとう

隊長格に礼を言ってさらにサスケを進ませると、なるほど、統一された装備の中に、雑多な雰囲気を漂わせる一団がいた。

近寄ってみれば―なんというか、寄せ集めという表現がぴったりだった。山賊かと見紛うばかりの薄汚れた戦士がいるかと思えば、小綺麗な衣装に身を包んだ田舎の名士のような人物まで。大荷物だが武器を持たずローブに身を包んでいる奴は、まさかとは思うが流れの魔術師だろうか。狩人(どうぎょう)と思しき人員もちらほら。

そしてその中には、知っている顔もあった。

やあケイ、しばらくぶりだな。……来てくれて安心したよ

マンデル!

サスケから飛び降りて、馴染みの狩人の肩を叩く。

そう、他でもないタアフ村の狩人、マンデルだ。先の大物狩りでは生死を共にした仲間でもある。

マンデルも参加するらしい、とは聞いていたが……

関係者づてに話は聞いていた。しかし森大蜥蜴の狩りで精根尽き果てて、危険な目に遭うのはもう懲り懲り、と言わんばかりだったマンデルと、よりによって飛竜狩りの軍団で再会する羽目になるとは。

まあな。……恐れ多くも陛下の名において召集令状が届いたんだ

気まずそうなケイをよそに、マンデルは飄々と肩をすくめる。

例の武道大会。……繰り上がりではあるが、おれも一応入賞者だからな

ああ、そっちか……

大物狩りの一員として名を上げたから、ではないらしい。無理を言ってマンデルを大物狩りに巻き込んだケイとしては、自分が原因でないとわかって少し気が楽になったが、それにしても気の毒であることに違いはない。

とんだ災難―

いや、この物言いはまずい。

―とてつもなく名誉なことだな

まったく、違いない。……身に余るよ

ケイの意図を汲んで、マンデルも真面目くさって頷いた。

お話中のところ悪いが

と、雑多な集団にあって、正規兵らしい格好をした軍人が声をかけてくる。顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男だった。

ケイチ=ノガワで違いないか?

ああ、そうだ

よし

男は羊皮紙をチェックして、くるくると丸めながら溜息をつく。

お前が来ないんじゃないかと気が気じゃなかった。英雄は遅れてやってくる、とはよく言ったものだな

……名残惜しくてアイリーンと見つめ合っていたが、どうやら自分が思っていたよりも時間が経っていたらしい、とケイは思った。できることなら何ヶ月だって見つめ合っていたかった。

申し訳ない

大目に見よう。王命通りに馳せ参じた、その事実が重要だ。……しかし、馬連れとはな。うちは糧秣(りょうまつ)の面倒までは見んぞ

男はサスケをじろりと一瞥して顔をしかめる。 人間って歩くのおそいよねー と言わんばかりにキョロキョロと周囲を見回していたサスケは、突然視線を向けられて戸惑ったように首を傾げている。

ああ、それに関しては心配ない。コーンウェル商会が提供してくれることになってる、一応証書もある

ケイが懐から書類を取り出して見せると、男は途中まで斜め読みしてあっさりと興味を失った。

そうか、気前のいい話だな。騎射の達人と名高い英雄殿、その活躍に期待しよう

踵を返し足早に去っていく男。しかし途中で思い出したかのように振り返り、

おっと。一応、隊長を務めるフェルテンだ。せいぜい皆とは仲良くして、問題は起こさないでくれよ

今度こそ足早に、隊列の前方へと姿を消した。

……なんというか、あまり部隊の運用に熱心なタイプではなさそうだな

無理もない。……こんな軍人でもない平民の寄せ集め部隊ではな

ケイの感想に、マンデルが笑った。

彼は正規の軍人のようだし、そりゃあやる気もあまり出ないだろう

堅苦しくても息が詰まるから、このくらいの方が楽だけどな俺は

おれもだ。……それはそうと、ケイ。キスカが手紙で言っていたが、アイリーンがご懐妊だとか。遅ればせながらおめでとう

ああ、……ありがとう

ケイは曖昧な笑みを浮かべた。

……身重の妻を置いて出征とは、ひと悶着あっただろうな

マンデルも困ったような顔をしている。

まあ、そうだが、王命だからな……

ケイのところには、直々に使者が来たんだったか。……まあ大変に名誉なことだからな、こればかりは

もちろん、喜び勇んで馳せ参じたわけだが

かくいうマンデルも、娘二人を残して来ている。ケイたちの心はひとつだった。

今から、凱旋のときが楽しみでならないよ

それはいいことだ。……ケイと一緒だと、五体満足に生きて帰られる気がする

マンデルは急に改まって、ケイをじっと見つめた。

飛竜が出てきても、ケイなら何とかしてくれるだろう?

……いやあ、うーむ……

ケイは唸りながら、手の中の朱い弓に視線を落とした。

“竜鱗通し”―理論上二百メートル先の竜の鱗をもブチ抜く、その絶大な威力から、この弓は銘打たれた。

(飛竜か……)

実際にやれと言われたら、どうだろうか……森大蜥蜴を超えるデカブツとはいえ、高速で飛び回るし、最強の防具の代名詞たる竜の鱗で全身が覆われている。ヤツらを仕留めるなら、ただ矢が刺さるだけではダメだ。鱗を貫通した上で、致命傷を与えねばならない。となると狙うのは、頭部か、臓器が密集した腹部か、……それにしても何本の矢を命中させればいいものか……

……飛竜は、流石にちょっと厳しいな

渋い顔でそう答えると、マンデルはクックックと低い声で笑みを漏らした。

ケイ。……普通の狩人はな、『飛竜を何とかしろ』と言われたら『無理』と即答するんだよ。それに対してケイは、しばらく悩んだ上で『ちょっと厳しい』なんて答える。この時点できみは尋常じゃない

マンデルはニヤッと笑った。

そして、それがこの上なく頼もしい

ばん、とケイの背中を叩くマンデル。彼にしては珍しいボディタッチだった。……極力いつもどおり振る舞っているが、やはり不安なのかもしれない。

そういえばケイ、鎧を新調したんだな

あ、ああ。そうさ、この間の森大蜥蜴でな。腕のいい職人に頼んだんだ―

ほぼ新品の革鎧を撫でながら、ケイはチラッと振り返った。

街道の向こう、サティナの街はちっとも―ケイの視力基準でだが―小さくなっていなかった。わかってはいたものの、遅々とした歩み。

これでは東の辺境ガロンまで、どれだけかかるかわからない。

(……長い旅になりそうだな)

そしてそれ以上に疲れそうだ。

願わくば、旅路の間に話題のストックが尽きませんように―気だるさをごまかすようにサスケの首をぽんぽんと叩いて、ケイは小さく溜息をつくのだった。

103. 親睦

やはりというべきか、飛竜討伐軍の歩みはあくびが出るほど鈍(のろ)かった。

ケイも最初から覚悟していたし、隊商護衛の経験からこんなもんだろうとは思っていたので、それほど苦痛には感じない。

ただ、大人数の行軍ゆえ、もうもうと舞い上がる砂埃には参った。

冬場で空気が乾燥していることもあって、視界が常に霞んでいるようだ。サスケも ねー、ちょっと空気わるくなーい? と言わんばかりに、不満げに鼻をスピスピさせている。

視力が落ちやしないか心配だ……

少しでも埃が入らないように目を細めて、苦々しげに言うケイ。

大丈夫だ。……そのうち慣れる

対して、マンデルは達観した様子で肩をすくめる。

彼は従軍経験者だ。適度に諦めることを知っていた。

緩やかな起伏の丘陵の間を縫うようにして、ゆったりと蛇行しながら伸びる石畳の道―“サン=レックス街道”。

寒風が吹き荒む中、兵士たちはぞろぞろと歩いていく。都市近郊ではまだ『軍隊の行進』の体をなしていたが、見物客がまばらになると気も緩み、その歩みはのんびりとしたものに変わっていった。

とても飛竜狩りに赴いているようには見えないが、目的地は遠いし、飛竜と出くわすのはまだまだ先のことだ。今の段階で怯えたり不安がったりする必要はない―気を張り続けていたら参ってしまうので、実際、兵士としては彼らは正しい。

ダラダラと歩き続けること数時間。昼食の休憩となった。出てきたのは堅焼きビスケットに薄いワイン、それに干し肉の欠片。

わびしい……としょんぼりするケイをよそに、マンデルは、

おっ、干し肉がついてるとは豪勢だな。……さすがは飛竜討伐軍

などと感心していて、色々と察するほかなかった。

長く続いた街暮らし(使用人つき)のせいで、自分はすっかり贅沢になってしまったらしい、とケイは忸怩たる思いになる。

このぶんだと夕食も期待できない、何か彩りを確保せねば……と草原に目を向けると、夏場ほどではないがウサギの姿がチラホラあった。

“竜鱗通し”と銘打たれたこの弓も、一番血を吸っているのはウサギかもしれない。

それから特筆すべきことはなく、夕暮れ前に行軍は止まり、野営の準備が始まる。夕食はそれぞれの部隊ごとに食材が配られ、自分たちでシチュー的なものを作る形式だった。

案の定、配給されたのは穀類や干し肉など非常にわびしい内容だったので―マンデルいわく、これは量的にも質的にもびっくりするほど豪勢―ケイは快く部隊の皆にもウサギ肉を提供した。これから数週間、下手すれば数ヶ月、同道する仲間たちなのだ。仲良くなるに越したことはない。

よっ、太っ腹!

さすがは公国一の狩人!

無論、義勇隊の面々も大喜びだった。

近隣の部隊より具だくさんになったシチューを味わいながら、焚き火を囲んで親睦を深める。

義勇隊に集まったのは、マンデルのように武闘大会で入賞した者や、弓や弩の扱いに秀でる退役軍人、高名な狩人、森歩き、流れの魔術師などで、出自は様々だがそれなりの人物が多かった。

一部、名声や実績のためだけに参加した者たちもいたが、彼らは実力がない代わりに相応の身分(といっても田舎の名士とか豪農の子とか)の出で、こちらもまともに話が通じる手合だ。

総じて、付き合いやすい者たちばかりだった。夕飯に彩りを添えてくれるケイに絡んでくるような無作法者ももちろんおらず、良好な関係を構築しつつあると言えるだろう。

ちなみに、ほぼ強制参加だったのはケイとマンデル、その他武闘大会入賞者くらいで、あとは志願者が主だった。

それで、

シチューをかき込んだ大柄な傭兵が、目を輝かせながら尋ねてくる。

あんたは、森大蜥蜴を2頭も狩ったんだろう? 吟遊詩人の歌は飽きるくらい聞いたけどさぁ、実際のところどうだったんだ? 教えてくれよ!

野性味あふれる笑顔が素敵な彼は、その名をフーベルトという。もともと東の辺境の傭兵で、竜人(ドラゴニア)から商隊を守るため剣を振るっていたらしいが、わざわざサティナまでやってきてから義勇隊に参加したらしい。

目的は金。そしてひとかけらの名声。蜥蜴人とやり合うのにはもう飽き飽きだよ、とはフーベルトの談だ。

これからまた東へ行くのにサティナまで来るのは無駄足ではなかったのか、と尋ねると、 実はサティナに妹夫婦がいてな、ついでに会いに来たんだ! 新しくガキが生まれててさぁ、可愛いんだなぁこれが! とニカッと笑っていた。

森大蜥蜴か……そうだな……

問われて、ケイはマンデルと顔を見合わせた。

ヴァーク村を守るため、 深部(アビス) の化け物と演じた死闘はまだ記憶に新しい。

マンデル、せっかくだから頼めないか? 俺は説明がヘタだからさ……

……おれだって口下手なんだが

マンデル? マンデルというと、あの大物狩りにも同行したという”十人長”のマンデルですかな?

少しぽっちゃりとした青年が口を挟んでくる。彼はとある田舎の名士の次男坊で、名前はクリステンというらしい。

丸顔で、くりくりとした瞳が印象的。いかにも人が良さそうだ。少し気弱なきらいがあるものの、健脚らしく、行軍には問題なくついてこれる程度の体力はある。彼の体型は自堕落によるものではなく、単に裕福さを示すもののようだ。

今回、義勇軍に参加したのは、意中の女性に告白するためらしい。無事に帰ったらプロポーズするつもりなのだとか……

ああ、そのマンデルであってるよ。彼には随分と助けられたもんだ

ケイはしたり顔で頷く。そのまま さあ皆に語ってあげてくれ! とマンデルに促すが、 その手に乗るか とばかりにジロッとした目で返される。

しばし、英語力の問題で語りたくないケイと、口下手だから遠慮したいマンデルで押し付け合ったが、皆に急かされたこともあってマンデルが折れた。

そう、だな。……あれは秋も終わりに近づいた頃。おれが、いつものように森から戻ると、突然、ケイが村を訪ねてきた。そして、告げられたんだ。『ヴァーク村から救援要請が届いた。手を貸してほしい』と―

ぽつぽつと、マンデルは語りだす。

確かにマンデルは、彼自身が言う通り、舌が回るタイプではなかった。しかしその実直な語り口には、当事者ゆえの真に迫った凄みがあり、かえって聞き手たちの心を捉えて離さなかった。皆、大仰な吟遊詩人たちの歌はもう聞き飽きていたということもある。

―そしてとうとう、やつが姿を現した。……途轍もなくデカい、化け物だった。そこの馬車くらいは優に超える背丈で、おれたちは皆、そいつを見上げながら覚悟を決めた。ここでやらねばならないと。……だが、武器を構えたそのとき、再び大地が揺れた。そして背後からもう一頭、同じくらいデカい化け物が出てきたんだ―

ごくり……と誰かが生唾を飲み込む。

当事者どころか主役なのに、ケイもハラハラして聞いていたところ、不意に髪の毛を引っ張られた。

イテッ、イテテッ、なんだ? ……サスケェ!

振り返ると、サスケが少し不機嫌そうに尻尾を振っている。

あ、すまん。サスケも腹減ったよな

道草と、さっきちょっと分け与えたウサギのローストくらいでは食べ足りないか。コーンウェル商会の馬車から糧秣を受け取らなければならない。

悪い、ちょっと席を外すぞ

と、ケイは中座したが、皆マンデルの話に聞き入っていたので特に残念がることもなく、そのまま抜け出すことができた。

(なんだ、口下手とかいって、語り部にもなれそうじゃないか……)

熱のこもった口調で、森大蜥蜴との死闘を語るマンデルを尻目に、軍隊の後方を目指す。

―討伐軍のあとには、長い車列ができていた。

大量の人員の胃袋を満たす補給部隊に加え、商会の馬車も出張ってきているのだ。兵士相手に商売をする者、士官を相手に高級嗜好品をさばく者、流れの医者もいれば大道芸人や吟遊詩人、はたまた娼婦たちのテントなんてものまで。

その並外れた視力で即座にコーンウェル商会の旗を見つけたケイは、サスケを伴って馬車を訪れた。

よぉ、ケイ! どうだった、義勇隊ってのは?

親しげに出迎えてくれたのは、眉毛が濃い、よく日に焼けたヒゲモジャの傭兵―ダグマルだった。コーンウェル商会の専属傭兵で、サティナ-ウルヴァーン間の隊商護衛でも一緒に仕事をしたことがある。ケイの”大熊殺し”の目撃者の一人だ。

やあ。義勇隊は、気のいい奴らばかりだったよ。しかしなんというか、歩みがのんびりしてるな。それに土埃のひどいこと……普通の隊商護衛が懐かしいよ

はははっ、違いない!

同感なのか、苦笑いするダグマル。ホランドと幼馴染な関係で、何かとケイとも縁のある男だが、この度は自ら商隊に志願したらしい。

『―いやぁ俺も歳だからよ。ボチボチ腰を落ち着けようと思うんだが、最後に箔をつけたくってなぁ』

最後の護衛任務が飛竜討伐軍への同道なら、これに勝る名誉はないというわけだ。戻ったら、サティナ本部の用心棒的なポストに就くらしい。

『それにせっかくケイの”大熊殺し”は見てたのに、“森大蜥蜴”の方は見損ねちまったからな。今回、“飛竜”は見逃さないぜ!』

―と、そんな思惑もあるとかないとか。

ほーれ、サスケ。たんとお食べ

ぶるふふ

サスケは、秣(まぐさ)に野菜にとたっぷり与えられて大満足の様子だ。

どうだ、ケイ。あんまり出せないけどよ、ついでに一杯やってくか?

サスケを待つ間、ひょっこりと馬車に引っ込んだダグマルが、再び顔を出して小声で言ってきた。その手には、金属製の水筒(スキットル)。

いや! ……うーん

非常に心惹かれるものがあったが、ここはぐっと堪える。

ありがたいけど、禁酒中なんだ

……ああ、嬢ちゃんと一緒にやってるんだっけ

嬢ちゃん、とは、言うまでもなくアイリーンのこと。ほぼ妊娠が確定している彼女は、ここしばらく断腸の思いで酒を断っている。ケイもその苦しみを分かち合う覚悟だった。……血涙を流すアイリーンの前で酒を楽しめるほど、無神経ではない。

でも、別にいいじゃねえか、従軍中くらい

いや、まあ、そうなんだが、今も独り待ってるアイリーンを想うとな……

溜息をつきながら、日が暮れゆく空を見上げるケイ。

―いかん。出立一日目にして、もう帰りたくなってきた。いや、最初から帰りたいのは確かだが。

……それに、俺だけ呑んで戻って、隊の皆に気取(けど)られてみろ。総スカン食らうぞ

何せ勘の鋭い傭兵から、鼻が利く森歩きまで勢揃いだ。

はははっ、そりゃあ確かに肩身が狭いな。これはしばらく、お預けにしとこうか。んで、狩りが終わったら祝杯をあげようや

それくらいはいいんだろう? とお茶目にウィンクするダグマル。

もちろん

ケイも笑顔で答えた。

サスケが満足したところで、ダグマルに礼を言い部隊に戻る。

歩いていると、道の端々で、夕食を終えた兵士たちが寝床の用意を始めていた。

(野宿かー……)

久々の地べただなぁ、と情けない顔をするケイ。街暮らしで本当にすっかり、贅沢な身体になってしまった。

今更テントに寝袋なんかで、ちゃんと眠れるんだろうか……吹き荒む木枯らしが、わびしい気持ちに拍車をかける。

しかも、独り寝だ。人肌が恋しい。より正確に言えば、アイリーンが。

一応、アイリーン謹製の影の魔道具を持ってきているケイは、夕暮れ以降に魔力を消費すればアイリーンと通信できる。

が、距離が開くごとに負担が増えていっておいそれとは使えないことと、軍に目をつけられたらヤバそうなことが相まって、一人になれるタイミングを見計らった上で数日に一回程度、ケイ側から連絡を取るように決めていた。

(今日はまだ、やめておくか……)

野営がどんな感じになるかという様子見と―あと、初日の夜さえ我慢できなかったら、多分、毎日連絡を取ってしまいそうだという恐れから。

(早く帰りたい……早々に飛竜が突っ込んできて勝手に墜落死しないかな)

などと愚にもつかないことを考えながらセンチメンタルな溜息をつくケイに、サスケが呆れたように、ブルヒヒと鼻を鳴らした。

104. 指名

おひさしブリリアント(光り輝く)

寒空の下、目が覚めた。

もぞもぞと簡易テントを抜け出したケイは、空を見上げて溜息をつく。

体中、バッキバキだった……皮のマントを敷いて寝たが、地面の寝心地は最悪。布を敷き詰めていた自宅のベッドとは比べるまでもない。そして毛布だけでは寒くて、なかなか寝付けなかった。

その上、起きたら曇天。

灰色の空が見えた瞬間、思ったのは おうちかえりたい 。

それでも軍隊は動き出す。個人の意志など関係ないとばかりに……

朝食が支給された。堅焼きのビスケット。薄いワイン。干しぶどう。

以上。

贅沢は言わないから、温かいものが食べたい

贅沢な話だ。……夕食はともかく、朝食は難しいぞ

もっしゃもっしゃとビスケットを頬張りながら、無慈悲に告げるマンデル。その横では、サスケが寝転がったままもっしゃもっしゃと草を食んでいた。彼は、どうやら問題ないらしい。 ふふん、鍛え方がちがうんだよ と言わんばかりの顔だった。

公国は水源が豊富で、北の大地ほど極寒でもない。水不足で行き倒れしかけた北の大地での旅に比べれば、この行軍なんて天国みたいなもんだ―とケイは自分に言い聞かせた。

それにしても、隊商護衛をやっていたときは、なんで色々と平気だったのだろう。自分でも不思議に思ったが、冷静に考えれば、割と温かい季節だったので問題なかったのだ。テントでも別に寒くはなかったし、朝食が温かくなくても関係なかったし。

周囲を見れば、皆、黙々と朝食を詰め込んでいる。

ここでこれ以上、不平不満をこぼしても、空気が悪くなるだけだ。贅沢を言っちゃいけない……ケイも大人しく諦めることにした。

まあ、

ビスケットを口に放り込んで、ケイは独り言のように言った。

せめて夕食は、肉でも食べたいところだな

期待しているぞ、ケイ

任せろ。獲物がいる限りは獲ってくるよ

それを耳にした皆も笑みを浮かべている。空気が少しだけ軽くなった気がした。

†††

食材を獲ってくるという大義名分を得たことで、ノロすぎる行軍から堂々と離れられるようになったのは良いことだ。

草原に出れば土煙からも解放されるし、歩く速度を制限されてストレスが溜まることもない。サスケも自由に走り回れて楽しそうだ……まるで街で暮らしていたときのように、思いついてぶらりと狩りに出てきた気分になる。

背後の街道にはずらずらと行列が続いていて、この場にいるのがケイとサスケだけという点に目を瞑れば。

アイリーンはどうしてるかな……

新たに仕留めたウサギの血抜きをしながら、寒空を見上げる。今頃、彼女もつまらなさそうな顔をして、テーブルに頬杖をついて空を見上げているのではないか―

―ケイは知る由もないが、このときアイリーンは、ふて寝していた。

それにしても、ひとたび曇ってしまうと星が見えず、ケイお得意の天気予報も使えなくなるのは困りものだ。昨日まで観測した分には、しばらく晴れと曇りが続きそうだったが……

少しでも雨が降れば、草原はかなり―しっとりした状態になる。このあたりの土は特に柔らかく、まるでスポンジみたいだ。たっぷりと水気を吸えばずぶずぶと脚が沈み込んで、サスケ単体ならともかく、ケイを乗せた状態で駆け回るのは、かなり難しくなるだろう。

土埃が立たなくなるのは利点だろうけどな……

デメリットの方が多そうだ。

……そう思うだろ?

話しかける相手がいないので、仕方なくサスケに同意を求めてみる。

耳をピコピコさせながら、 何が? と言わんばかりに振り向くサスケ。彼は賢いし、何かと色々通じてる気分にはなるが、話し相手にはならないのだ。

ケイは苦笑して、サスケの耳の後ろを掻いてやった。

サスケは嬉しそうに目を細めていた。

寒風から身を守るように革のマントを羽織り直しながら、深呼吸してみる。

冷たい空気が肺に流れ込んで、酸素を取り込んだ熱い血潮が、全身を駆け巡っているのを実感する。

ああ―自分は確かに、この世界に存在して、生きている。

(忘れていたな、この感覚を)

ゲーム DEMONDAL の中では、天気を心配したことなんてなかった。せいぜい雨が降ったら視認性が悪くなるとか、特定のモンスターが見つかりにくくなるとか、その程度で、 寒くて風邪を引くかもしれない なんて懸念は皆無だった。

そもそも、『寒さ』が存在しなかった。どれほどリアルに近い感覚を標榜していても、プレイヤーに苦痛を与えかねない感覚はオミットされていたのだ。だから雪山でも、火山の火口でも、ゲーム内はいつも穏やかで、暑くもなく寒くもなく―それが当たり前だった。

まるで病院の無菌室みたいに。

今の自分とゲームの自分。どっちが快適か? と問われれば後者だ。

だが戻りたいか? と問われれば、否。

今の方がいいに決まっている。明日の天気とか寒さとかを、リアルに悩める贅沢。そのありがたみを―自分は今一度、噛みしめるべきだな、とケイは自戒した。

贅沢になってしまったと嘆くことができる。それ自体が、すでに贅沢なのだ。

よし、気持ちを切り替えていこう

こうして独りで物思いに耽っていると、転移した直後のことを思い出す。あのときの自分に比べれば、今の自分はかなり―明るくなっていると思う。前向きで、人生を楽しむことを知り始めていると思う。

常に上り調子の人生なんてない。そうだろう? 今は不満があったり苦しかったりするかもしれないが、これを乗り越えたら幸せな家庭が待っている。

せいぜい、飛竜狩りをそつなく終えて、辺境の都市ガロンでお土産を買い込んで、サティナまで凱旋しようじゃないか。そして、そのときには、ちょっとお腹が大きくなっているであろうアイリーンに、ただいまのキスをする。

その日を夢見て頑張ろう。

もうちょっと狩るか

まず目の前のことからコツコツと。血抜きしたウサギを鞍にくくりつけたケイは、少しでも夕食を賑やかなものにするべく、再びサスケにまたがった。

―それから狩りを終えて義勇隊に戻ると、隊長の正規軍人フェルテンが待ち構えていた。

おお、ようやく戻ったか

ケイの姿を認め、あからさまにホッとした様子のフェルテン。

何か用事が?

聞いて驚け。なぜか参謀本部からお前に呼び出しがあった

その言葉に、ケイはマンデルや義勇隊の面々と顔を見合わせた。

俺……何かやっちゃいました?

知らん

恐る恐る尋ねるケイに、にべもなく答えるフェルテン。

まあ、呼び出しというか、面会というか。アレだ、お前は公国一の狩人だからな。俺たち有象無象とは違って、お偉いさんも何ぞ話を聞きたがっているのかもしれん

皮肉げに口をへの字に曲げて、フェルテンは鼻を鳴らした。

とにかく、これが召喚状だ。昼飯休憩時に出頭しろとのことだ

ケイの手に書類を押し付けたフェルテンは、 確かに渡したぞー とひらひら手を振りながら去っていった。

……どうしよう?

そりゃあ、ケイ。……出頭するしかない

マンデルが、羽飾りのついた帽子を目深にかぶり直しながら、肩をすくめて言う。

お偉いさん相手とか、俺、何を話せばいいのかわかんないんだが

安心しろ、ケイ。……おれもわからない

マンデル……

呼び出しを受けたのはケイだぞ。……おれではない

つっと目を逸らすマンデル。ケイは助けを求めて周囲を見回したが、皆、白々しく 今日は冷えるなー 骨身にしみる寒さですねー などと雑談していて、こちらを見向きもしない。

…………

孤立無援であることを悟ったケイは、手の中の召喚状に視線を落とし、手負いの獣ような唸り声を上げるしかなかった。

†††

そのまま昼休憩になってしまったので、手早くビスケットと干し肉だけを詰め込み、ケイは参謀本部がある天幕へ赴いた。

長く伸びた軍隊の中間あたりには貴族や軍の高官が多く、馬車や色とりどりの天幕が展開されている。行軍中だというのに、メイド付きでティーセットを広げてお茶を楽しむお偉いさんの姿まで散見された。

まるで別世界だ―自分がここにいることの違和感がすごい。

そして、召喚状を持ってきたはいいが、具体的にどの天幕に顔を出せばいいのかがわからない。

あの、悪いんだが

通りすがりの、比較的人が良さそうな軍人に声をかける。

なんだ

呼び出しを受けたんだが―

召喚状を見せると、その軍人はケイと書面を二度見して、狐につままれたような顔をした。

お前が? これを? ……すごいお偉いさんに用があるんだな

俺には用がないんだが

ああ……なるほど。まあ、そういうこともあるか

何やら察したらしい軍人は、同情の色を浮かべる。

案内してやろう。くれぐれも失礼のないようにしろよ―他ならぬお前自身のためにな

『召喚状で呼ばれてきた。俺の名はケイイチ=ノガワだ』……こんな感じか?

その場で仰々しく一礼しながら言ってみせると、軍人は、食料庫ですっかりカビに覆われたチーズでも見つけてしまったような、何とも言えない表情を浮かべた。

もうちょっと、こう、言い方があるだろ。……『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人の○○、参上仕りました』くらいは言え

ケイは英語の細かいニュアンスがよくわからなかったが、少なくとも自分の脳みそでひねり出した直訳より、よっぽど気の利いた言い方であることはわかった。

『本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ=ノガワ、参上仕りました』

よし、それでいい。……多分な

助かったよ、ありがとう。見ての通り異邦人でな、言葉の違いに苦労してるんだ

なぁに、まだよく喋れてる方さ。ほれ、ここがお前の目的地だ

数ある中でも、指折りに良質な布地の天幕を顎で示して、軍人が言った。

あっ! そうだ、お前に礼儀作法を教えたのが俺だってことは言うなよ。万が一、失礼があった場合は責任を取り切れんからな……

軍人が真面目くさった口調で釘を刺してくる。

俺は田舎者だからな

ケイも空とぼけた調子で応じた。

誰(・)に(・)作法を教わったかなんて、もうすっかり忘れてしまったよ。俺のマナーの先生は、恩知らずな生徒だと怒るかもしれないな

安心しろ。きっとお(・)前(・)の(・)先(・)生(・)は、そんなことで腹を立てるほど狭量な奴じゃないさ……多分な

ケイと軍人は顔を見合わせて、ニヤッと笑ってから別れた。

さて。

天幕だ。

入り口には物々しく、槍を携えた警備兵の姿まである。どうにも気が重い……

警備兵に召喚状を渡すと、 拝見します と受け取ったひとりが、天幕の中に引っ込んだ。

ケイチ=ノガワが出頭したようです

よし

ガシャンガシャンと金属鎧の音が近づいてきた。

来たか

ヌッ、と天幕の薄暗闇から、ガタイのいいフル装備の騎士が姿を現した。目的地はまだ遠い行軍のさなかだというのに、この重装備……薔薇の花や蔓、駆ける馬などの装飾が施されたかなり高級な鎧であり、身分の高さを窺わせる。

入れ、ケイチ=ノガワ

クイと手招きする騎士。バイザーを下ろしているせいでその顔は見えない。しかしこのつっけんどんな、堅苦しい声……どこかで聞いたことがあるような……

こちらに御座(おわ)すは、飛竜討伐軍の総指揮官アウレリウス公子―

―まさか公子その人がいるのか!? と目を剥きそうになるケイだったが、

―の、後見人たる公国宰相ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー閣下だ

なんだ公子じゃないのか……

(いや、公国宰相!?)

やっぱり大物じゃないか!! と目を剥くケイ。

くれぐれも失礼のないように。いいか。くれぐれも失礼のないように……!

ズイと顔を寄せて、念押しする騎士。ケイとて決して無礼を働きたいわけではないが、それにしてもそんな人物が自分に何の用だというのか。

あと、兜の下から響いてくる、真面目が服を着ているようなこの声……やはり聞き覚えがあるような……

モヤモヤした気持ちを抱えつつも、目線を下げて天幕に入ったケイは、中で椅子に腰掛けて待ち受けるお偉いさん―宰相閣下の靴を視界の端っこに収めて、その場に跪いた。

本日はお招きに預かり光栄至極、狩人のケイイチ=ノガワ、参上仕りました―

めっちゃ手の込んだ絨毯敷いてるなー、などと考えながら、棒読み気味に名乗る。

……面を上げよ

厳かな声が響き、ケイは素直に顔を上げた。

そして今度こそ、目の玉が飛び出そうなくらい驚く羽目になった。

眼前に腰掛ける、公国の宰相閣下とやら。丸顔に団子鼻、どこか愛嬌のある目元。顔に見覚えがあるとかないとか、そういう次元ではなかった。

初めて出会ったのは公都の図書館で、銀色のキノコヘアーだった。

次に出会ったときは、つややかでサラサラな茶色のロングヘアーだった。

だが今回は。

もう最初から。

ツルッとした頭を、丸出しにされておられる。

『ヴァルグレン=クレムラート』―その人物は、そう名乗っていたはずだった。

公都図書館が誇る”大百科事典(エンサイクロペディア)“の著名な編集者の一人であり、希少な癒やしの力を持つ”白光の妖精”と契約する魔術師であり、夜中に開閉できないはずの公都の第1城壁の門を出入りできる『お偉いさん』であり―

いやでも、まさか、公国宰相とは―

公国宰相、ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー伯である

威厳に満ちた表情で、ヴァルグレン―いや、ヴァルターは告げる。

ケイチ=ノガワ。此度の参上、大儀であった

そしてその威厳を崩すことなく、パチンとウィンクした。

あまりにも久々なので念のため補足しますと、 幕間. Urvan 35. 助言 62. 星見 に出てきた人です。

今回は装いも新たに登場でした。

105. 宰相

前回のあらすじ

(`・ω・) ……。

(`ゝω・)

↑公国宰相ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー伯

くれぐれも、失礼のないように……!

今一度、押し殺した声が背後から響いてきて、ケイはハッと我に返った。

まじまじとヴァルグレン―もとい、宰相ヴァルターの顔を凝視していたところ、慌てて視線を逸らす。

―そしてこの声、思い出したぞ。

背後に控えている、重装備の騎士。ヴァルグレン氏のお付きの、堅物な騎士っぽいやつだ。騎士っぽいというか実際に騎士のようだが、確かカジトールだかカモミールだか、そんな名前だったはず。

直答を許す。我が盟友ヴァルグレンより、そなたの話は聞いておる

厳かな声で、ヴァルターは告げる。

我が盟友。つまり 別人だから、そこんとこよろしくね というわけだ。この場においてヴァルターは公国の重鎮。いかに図書館や天体観測などで親しくさせてもらっていたケイでも、馴れ馴れしく振る舞うことは許されない―

ははーっ!

どう答えていいかわからなかったので、さらに一礼するケイ。

聞けば、そなたの妻は身重だそうだな。大事な時期に家をあけるのは辛かろう

そこまで知られている、という事実に、ケイはおののいた。これがヴァルグレン氏なら、 よくご存知で! とびっくりするくらいで済んだろうが、宰相にまで近況を把握されているとなると、酷く落ち着かない気分になる。

(第一『辛い』も何も、お上(あんたら)の都合で家をあける羽目になったんだが)

そう思いながら、チラッとヴァルターの顔色を窺うと、相変わらず厳(いかめ)しい顔だったが、その瞳にはちょっとだけ申し訳無さそうな色もあった。

……はっ。赤子のため、大好きな酒を断って苦しんでいるようです

相槌を打つだけでは芸がないので、少しだけ言及しておく。ヴァルターが、真面目な表情はそのままに、 んフッ と小さく笑った。

オホン

背後でわざとらしく、騎士が咳払い。(やれやれ、おちおち世間話もできんな)とばかりに、口をすぼめるヴァルター。

……さて、此度そなたに来てもらったのは、他でもない。狩猟に関してだ

どうやら本題に入るらしい。椅子に座り直すヴァルター。

(狩猟? やはり何かまずかったか……?)

隊から離れて、積極的に夕飯の献立を豊かにしに行っていることだ。一応、時間内に戻ってくる分には、そして成果を上げる分には、許可されているはずだが。

というより、なぜ一般狩人に過ぎない自分の動向が、こんな上層部にまで把握されているのか……。

そなたほどの狩人であれば知っておるやもしれぬが、このあたりから辺境ガロンにかけての地域は、猛禽類が非常に多い

突然始まる鳥類の話に、ケイは面食らった。

だが―内容については理解できる。あくまでゲームとしての DEMONDAL での話だが、このあたりのエリアは大型猛禽類の宝庫として知られており、ケイのような弓使いのプレイヤーには人気の狩猟スポットでもあった。

『こちら』に転移して以来、専ら食用のウサギや鳥を狩るばかりで、猛禽類はスルーしていたケイだが、ゲーム内では全鳥類の羽根をコンプリートすべく、目を皿のようにして猛禽類を探し、超レアなアルビノなんかを見つけた日にはテンション爆上がりしていたものだ。

そして、公都ウルヴァーンと我らが飛竜討伐軍の間では、伝書鴉(ホーミングクロウ)によって定期的に連絡が取られている……

少々もったいぶった口調で、ヴァルターは続ける。

話がちょっと見えてきた。

無論、複数の伝書鴉を運用することで、不測の事態には備えてはあるが……此度の栄えある飛竜狩りで、まかり間違って公子殿下のお心を煩わせることは許されぬ。故に我ら臣下は、ありとあらゆる可能性を想定し、万全を期さねばならないのだ

そこで、そなただ―と身を乗り出すヴァルター。

この飛竜討伐軍において、そなたを”Archducal Huntsman”に任命する

アークデューカルハンツマン……!?

オウム返しにするケイ。

意味がわからない。

ヴァルターの言動が意味不明、というわけではなく、単純に、単語の意味がわからない……!!

おおいに焦るケイをよそに、背後の騎士がつかつかと歩み寄ってきて、何やら書類じみたものを差し出してきた。

羊皮紙に長々と文言が書き込まれており、大きめの身分証のようにも見える。文末には、おそらくヴァルターのものと思しき署名。

辞令だ。身分証も兼ねているので、紛失しないように

つっけんどんな口調で、ケイの手に書類を押し付けてくる重装騎士。

現時点をもって、そなたは原隊を離れ、飛竜討伐軍の行動範囲内において、そなたの裁量で行動する権限を得た。そなたの任務は、付近一帯の伝書鴉の障害となりうるものを排除し、通信の安全性をより高めることである

ここで、おどけたようにヴァルターが口の端に笑みを浮かべる。

そなたほどの狩人であれば、猛禽と伝書鴉を見間違えることもあるまい?

……はっ! それだけはありえません

ケイにとっては、赤と青を区別するくらい簡単だ。

よろしい。……無論、そなたが全力を尽くしたところで、軍そのものが移動しつつある都合上、全ての障害の排除は難しかろう。万が一、不測の事態が発生したとしても、ただちにそなたの責を問うことはない。いずれにせよ、たとえ微々たる影響しか及ぼさぬとしても、我らは万難を排す覚悟で臨まねばならないのだ

要約すれば、伝書鴉が途中で襲われたら面倒だから、ここら一帯の猛禽類を事前に狩っておいてね。でも流石に狩り尽くすのは難しいだろうし、万が一不測の事態が起きても、全部が全部きみの責任にはならないから安心してね。ということだろう。

また、狩りの成果を提出すれば、そなたの献身に報いるだけの追加報酬は出そう。詳しくはその者に聞くように

重装騎士を示しながら。

追加報酬! 思っても見なかった話だ。公国宰相が直々に持ちかけてきた案件で、はした金ということはあるまい。

……はっ! ありがたき幸せ!

現金なもので、(ボーナスタイムだ!)と喜びながら一礼するケイ。

どちらかといえば、こちらがメインかもしれない、という気がした。アイリーンが妊娠中なのに呼び出してしまったことに対する埋め合わせなのだろう。

うむ。武闘大会での活躍は聞いておる。そなたほどの狩人がおれば我らも心強い、期待しておるぞ。……そして、我が盟友ヴァルグレンより、よろしく、と

付け足された言葉は、優しく響いた。

さがってよい

ははっ……!

ケイはもう一度ヴァルターの顔を見てから、深々と頭を下げ、その場を辞した。

薄暗い天幕から日なたに出ると、まるで別世界から帰ってきたような気分だ。

報酬についてだが

一緒に出てきた件の重装騎士が、付近の大きな天幕と、その横の大きな竜の旗を掲げた馬車を指差す。

あちらの参謀本部に狩りの成果を持っていけば、都度、相応の銀貨が支払われる

おお……!

破格。破格の報酬といっていい。

ケイの能力なら、金貨を稼ぐのだって夢じゃない。

その他、細々とした注意点や、成果を提出しに来るのに向いている手すきな時間帯などを教えてもらう。

何から何まで、大変ありがとう。ええと―

この騎士の名前。

(カモミールなら、流石に特徴的すぎて覚えているはずだ。であれば―)

消去法的に考えたケイは、

ありがとう、カジトール卿

愛想よく笑顔で言う。

私の名はカジミールだ

カシャッ、とバイザーを跳ね上げた騎士―カジミールは、ケイの記憶にある通りの、堅物が服を着ているような不機嫌な仏頂面で応じた。

あっ、それは、失礼を……ええと、それではごきげんよう

ケイは逃げるようにして、その場をあとにした。

(何はともあれ、自由の身になったことだし……)

懐に、大事にしまい込んだ書類。

(単語の意味もよくわからないし、ここはバイリンガルを頼るか)

彼(・)の様子も気になっていたので、ちょうどいい。

この飛竜討伐軍に、サティナの軍団の一員と同行している、もう一人の顔見知り。

“流浪の魔術師”こと同郷の日系人・コウに会いに行くべく、ケイはサティナの旗印を探し始めた。

106. 同郷

前回のあらすじ

(`・ω・) そなたを”Archducal Huntsman”に任命する!

(;゜Д゜) 何ですかそれは!?

ウルヴァーン本隊のあとには港湾都市キテネの軍団が続いており、サティナの軍団はどうやら殿(しんがり)のようだった。

港湾都市キテネは、文字通り沿岸部に位置する。ここまで遠路はるばる歩き通しのキテネの軍団は、曇天のもと、砂埃にまみれていることもあって、お疲れムードを漂わせていた。

休憩時なので、今は殊更だらけているのもあるかもしれないが、こんな調子で辺境のガロンまで大丈夫なのか、他人事ながら心配になる。

それに対し、サティナの兵士たちは、まだ出立したばかりで元気そうだ。仲間に囲まれて踊るお調子者や、何やらレスリングじみた運動に興ずる者たちまで。

おっ、“地竜殺し”だ!

よーう、調子はどうだい!

今(・)回(・)も頼りにしてるぞー!

サティナの面々には広く顔を知られているケイは、行く先々で気さくに声をかけられた。

おかげさまで元気さ。領主様お抱えの”流浪の魔術師”殿に用があるんだが、どこにいるか知らないか?

快く応じながら、コウを探す。

聞けば、お抱え魔術師たちは皆、専用の馬車を割り当てられているらしく、そちらを目指すことにした。青い旗を掲げた馬車の群れ。訪ねて回ることしばし―

『やあ、ケイくん。数日ぶりだね』

お目当ての馬車が見つかった。いかにも魔術師らしいローブを身にまとう、どこかくたびれた雰囲気を漂わせる日系人。

“流浪の魔術師”こと、コウタロウ=ヨネガワだ。

『どうも、こんにちは』

会釈しながら、母国語のありがたみが身にしみる。先ほど未知の単語で焦りまくっただけに、なおさらだ。

『義勇隊(そっち)はどんな感じ? あ、上がってよ、狭いけど』

こじんまりとした馬車の扉を開いて、手招きするコウ。

『お邪魔します』

特に気負うことなく乗り込んだケイだったが―

こんにちは

思わぬ先客の姿に、固まってしまった。……狭い馬車には、コウの他、もう一人顔見知りの女性がいたからだ。

こ、こんにちは。ヒルダさん

挙動不審になりながらも、どうにか挨拶を返す。

黒を基調に、メイド服をベースにしたような旅装の、上品な女性。それはコウが身を寄せる、サティナの領主邸宅で度々世話になっていた、使用人のヒルダだった。

VIP待遇の魔術師に使用人がついているのは、何もおかしいことではない。だが女性が? しかも狭い車内で二人きり? もしかして自分はお邪魔虫だったのでは、しまった出直すべきか―

そんな思考がグルグルと巡るケイをよそに、コウとヒルダはごく自然体で、 悪いけどお茶をお願いできるかな、ヒルダさん かしこまりました、コウ様 と言葉をかわしている。

では、用意して参ります

ケイと入れ替わりに、馬車を出ていくヒルダ。

ふぅ、と溜息をついて座席に背を預けるコウと、何をどう言ったものか迷うケイ。

『えーと……リア充爆発しろ?』

『既婚者がそれ言う?』

二人は顔を見合わせて、困ったように笑いあった。

『びっくりしました。まさか……“丘田(おかだ)さん”がここにいるなんて』

頭に手をやりながら、馬車の外を見やってケイは言う。

丘田というのはコウが発案したヒルダのあだ名だ。丘は英語でHill、そこに田を足して丘田(ヒルダ)。日本語で会話しても固有名詞はそのままなので、本人に聞かれてもバレないように言い換えている。

『僕もねえ、まさか彼女がついてくるとは思ってなかったよ』

コウも戸惑いがちに答えた。

『大丈夫なんですか? こんな行軍についてくるなんて、何というか、その……』

『妙齢の美人メイド、おっさん魔術師、狭い馬車で二人きり。何も起こらないはずがなく……ってな感じかい?』

おどけたようにお手上げのポーズを取ってみせるコウだったが、がっくりと肩を落として溜息をつく。

『実際ねえ。領主様が彼女を寄越してきたのは、そ(・)う(・)い(・)う(・)意(・)図(・)があってのことだと思うよ。自分で言うのもなんだけどさ、僕ってほら、最前線に配置される可能性が高いから……』

『うわー、やっぱそうなんですか……』

コウは氷の魔術師であり、“飛竜(ワイバーン)“のブレス―火炎放射への数少ない対抗策でもある。攻城兵器や前線指揮官を守るため、攻撃部隊の中心に据えられるのは、まず間違いない。

言うまでもなく危険な役割だ。訓練を受けている戦士でもなし、いつ臆病風に吹かれて逃げ出してもおかしくない。そして、いわゆる由緒正しき家々出身の魔術師とは違い、流れ者であるコウには社会的に縛るものがない。

―なら、縛っちゃえ。

つまり、そういうことだろう。ヒルダは上級使用人で、本人は授爵こそしていないものの男爵家出身だったはず。

飛竜討伐軍に派遣され、しかも流れ者の異邦の男性に仕えさせられている時点で、けっこう酷い扱いだが―そんじょそこらの一般人ではない。お手つきにしてもいいから頑張ってね、という領主側の無言の圧力を感じた。

『まあ……正直なところ、彼女がいてくれて助かってるのは事実だ』

コウは極めて渋い顔で認める。

『何せ、こんな馬車に缶詰じゃロクな娯楽がなくってね……』

『……えっ、まさか……』

『……ああいや違う違う、そういう意味じゃない!』

やはり自分はお邪魔虫だったのでは―とビビるケイに、一拍置いて、語弊を招く言い方であったこと気づいてコウが慌てて手を振った。

『そうじゃなくて! 話し相手とか、遊技盤(チェス)の相手とか、そういうことだよ!』

バッ、と折りたたみテーブルの上の、遊びかけの盤面を指差すコウ。どうやら一局指している途中だったらしい。

『彼女とは健全な関係だから! まだ手は出してないから!』

『ま(・)だ(・)……?』

『あっ、いや、その……』

コウは深く溜息をついて、座席に沈み込んだ。

『……ケイくん、こんな密室でさ。向こうがその気だったら、男ができる抵抗なんてたかが知れてるよ……』

『まあ、もちろん、気持ちはわかりますが……あっ、自分は、決して非難してるわけじゃないんで、悪しからず。むしろ仕方ないっつーか』

『そう言ってもらえると助かる。既婚者という点も心強いね』

『いやー言うて自分は恋愛結婚ですんで……相手も国籍こそ違えど同郷ですし』

『ン……まあそうなんだけどさ……』

頬杖をついたコウは、おもむろに盤面の女王(クイーン)の駒をつまみ、コツンと魔術師(ビショップ)を小突いた。

どうやら磁石が仕込んであるらしく、グラッと揺れるものの、倒れまではしない。まあ、移動中に馬車が揺れることを鑑みれば、これぐらい強度がなければ遊べたものではないだろうが。

『単純な色仕掛けなら、どうにか耐えられるんだけどね。四六時中一緒で同情を引くような言動を取られると、僕はそういうのに弱いんだ……時間の問題だよ……』

『アレな聞き方になりますけど、寝るときも一緒なんです?』

『拒否したら彼女だけ外で野宿』

ケイのあけすけな質問に、肩を竦めてみせるコウ。

ああ、……とケイは唇を引き結んだ。コウはそういうのに弱いタイプだ―

『……正直なところ、事実関係は抜きにしても、床を共にしちゃった時点で丘田さんの嫁入り先は限定されるでしょうし……責任を取った方が楽になれるのでは』

ケイの容赦ない意見に、コウは両手で顔を覆った。

『そうだよね……そうなるよねぇ……』

そのとき、神妙な顔をしながらも、ケイは思う。ケイとアイリーンもことあるごとにアレコレ言われたものだが、確かに、他人のこういう話題は楽しい……! コウには気の毒だが。

影の魔道具でアイリーンと通信するとき、話のネタができた。

『ちなみに、肝心の丘田さんはどんな感じで……?』

『……言い渡されたお役目とはいえ、実は、前々からお慕いしていました……みたいなことを囁きかけてくる。でもさ、こんな外人のおっさんに、良家の娘さんが恋するなんて、そんな恋愛小説でもあるまいし……僕に少しでも気に入られようと、心にもないこと言ってるんだろうなぁ、と考えたら気の毒で気の毒で』

『あ~……』

いずれにせよ、その台詞は遺憾なく効力を発揮しているわけだ……。コウの陥落はそう遠くないな、とケイは思った。コウを狙っているであろう、もうひとりの同郷、豹耳娘(イリス)には気の毒だが。

お待たせしました、お茶をお持ちしました

と、金属製のポットとカップを手に、ヒルダが戻ってきた。

ありがとう、ヒルダさん。いつもすまないね

コウが座り直しながら、何事もなかったように穏やかな笑みを浮かべる。ヒルダも自然に微笑み返し、お茶の用意をしながら、コウの隣に楚々と腰掛けた。

いえいえ。ケイさんも、どうぞ

ありがとうございます

お茶を受け取りながら、(なんかもう長年連れ添った夫婦みたいな距離感だな)とケイは呑気なことを思った。

『こんな外人のおっさんに』とコウは卑下していたが、……まあヒルダが恋(・)し(・)て(・)いるかは別にしても、傍から見る分には、案外まんざらでもないんじゃないか、という気がした。

コウは言うまでもなく、この世界ではトップクラスの魔術師だ。しかも希少な氷の精霊との契約者。冷蔵庫は作る先から飛ぶように売れていくし、その他、高度な魔道具だって何でもござれ。出自なんて関係なく、才覚だけで新たに家を興せるレベルの男だ。

しかも、こう見えてかなりの杖術の使い手でもあるので、ゲーム由来の肉体はほどよく鍛えられている。ゲーム内では熟練プレイヤーから初心者まで容赦なく殴り殺す無法者だったが、現実では思いやりのある紳士で、女性にも優しい。

翻ってヒルダ。女性にしては背が高く、割とがっしりめの体格をしている。顔立ちは凛々しいタイプの美人、それでいてその所作は柔らかく上品だ。聞けば、海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を話せ、雪原語(ルスキ)さえも学んでいるとか。意志の強そうなキリッとした瞳は、彼女の豊かな教養と知性を覗わせた。

そんな、男爵家出身の才媛なのに、飛竜狩りに派遣されたり、異邦人に仕えさせられたりと、扱いが雑なのが気になるところだが―それだけ領主側がコウを重視しているというポーズなのか、それともヒルダの実家での立場がそんなに良くないのか。

いずれにせよ、ヒルダの立場から見ると、コウはかなりの優良物件だと思う。

ふと、対局中のチェス盤に視線を落とすと、―ケイは決して優れたチェスプレイヤーではないが―かなり白熱した戦局であるように思われた。というか、おそらくヒルダ側が押している。

コウに忖度することなく、いい勝負をしても大丈夫、そんなことでヘソを曲げられることはない、とヒルダが安心して指せる程度には、信頼関係があるわけだ。

(―割とお似合いなのでは……?)

行儀よくお茶を口にしながら、そんなことを考えるケイ。

『ところで、僕に用事でもあったのかい? 少し焦ってるようにも見えたけど。長々と喋っておいてなんだけどさ』

改めて日本語で、そして話題もさっぱりと切り替えて、コウが話しかけてきた。

いくら言葉を聞き取られる心配がないとはいえ、本人を前に、センシティブな会話ができるほど豪胆ではない。ケイも、コウも……。

『ああ、それなんですが……実は先ほど、宰相閣下に呼び出されまして』

『誰に呼び出されたって?』

『宰相閣下です』

『さいしょうかっか……?』

コウが首を傾げている。日本語が流暢なので忘れがちだが、彼は英国育ちで英語がメインなので、日常的に使わない日本語は通じないことがある。

『Chancellorです。Chancellor His Excellency』

『えっ、あっ、さいしょうってその宰相か!』

コウはびっくりしているし、その隣でかしこまっていたヒルダも、突然の理解可能な思わぬ単語に驚いている。

『ほえーなんでまた?』

『それがなんか……新しい役目を俺に与えるとかで……Archducal Huntsman? とかいうのに任命されたんですが、意味がよくわからなくて』

コウに書類を差し出しながら、ケイ。

ざっと目を通したコウは、 あー と声を上げた。

『確かにそういうことが書いてある。Archducal Huntsmanは、日本語で言うなら……そうだな……、なんて言えばいいか』

あっという間に読み終わって、自然に隣のヒルダにも紙面を見せながら、考え込むコウ。ヒルダも書類を一瞥して、 わあ、おめでとうございますケイさん などと言ってきた。

『Archdukeが、この国の王様、つまり大公って意味なんだ。Archducalは『大公の』という形容詞で、キングに対してのロイヤルみたいな単語なんだけど』

ここが公国じゃなくて王国だったら、ロイヤルハンツマンだったというわけだ。

『ああ、なんとなくわかりました。王様お抱えの狩人的な』

『そうそう。なんかなー、これを言い表すのに、何かいい感じの日本語があった気がするんだけど。王に近いエスコートみたいな単語で……ちか……ごえい……ああそうだ、近衛だ! 近衛狩人ってとこかな』

『このえかりうど』

強そう。

ヒルダさん、この役職について何か知ってる?

英語に切り替えて、コウが尋ねる。

はい。確か、公王陛下直轄の森や狩猟場において、管理維持を任される役人だったと記憶しています。特例的に、この飛竜討伐軍において、それと同等の権限を与える旨が記されていますね

ははぁ、なるほど……それで、権限とはどんなものが?

申し訳ありません、具体的な法規までは。ただ、聞きかじった話ですが、公王陛下主催の狩猟会で、警備のため近衛狩人が100人ほどの兵士を率いたことがあるそうで、裁量は軍の百人長と同等ではないかと。狩猟に関することに限る、と条件はつくでしょうが

しかし、なんだってケイくんが任命されたんだい?

それがですね……

ケイが伝書鴉の安全確保のため、障害となるものを片っ端から狩るよう要請されたことを説明すると、ふたりとも なるほど と感心していた。

『つまり、軍団長とか高位の貴族とかに絡まれない限り、通信の保全をタテに干渉を突っぱねられるだけの権限を付与しつつ、それでいて軍への指揮権は持たないという絶妙な采配だねこれは』

『ははぁ、そんな意図が……つまり、勝手に狩りしてていいよ、というお墨付き以外の何物でもないってことですかね』

『身も蓋もない言い方をするなら、そうだね』

コウに太鼓判を押されて、ケイはようやく安心したように座席に身を預けた。

『良かった。これでホッとしましたよ、自分が何になったのかわかんなくて……』

『言葉がわからなかったらそうだろうね。僕だって急に宰相に呼び出されて、お前を近衛狩人に任命する! とか言われたらビビるもん』

おどけたコウの言葉に苦笑しつつ、お茶を一口。今更のように、旅の道中でありながら、香り高い高級なお茶であることに気づいた。

味わう余裕もありませんでした。おいしいです

それはよかったです

ヒルダもくすくすと笑っている。

さて、それじゃあ、自分はそろそろ失礼します。せっかく任命されたんで、役目を果たさないと。コウさん、改めてありがとうございました

いやいや、お役に立ててよかったよ。あんまり根を詰めないようにね……といっても、きみは狩り好きだから、むしろ楽しめるかな?

はは、実は猛禽を一羽狩るごとにボーナスがつくんですよ

ケイがニヤリと笑って指で輪っかを作って見せると、コウもヒルダもからからと笑っていた。

そりゃあいい。じゃあ、頑張っておいで

はい。ヒルダさんも、美味しいお茶をありがとうございました

いえいえ。精霊様の御加護がありますように

そんなわけで、ケイは馬車をあとにした。

チラッと振り返れば、中でコウとヒルダが何事か話しているのが見える。

ケイが去ったというのに、ヒルダは隣りに座ったまま。

『……お似合いだと思うんだよなぁ』

ふふっと笑いながら小さく呟いて、ケイはコキコキと首を鳴らしながら、元いた義勇隊に戻ることにする。

ひとまず、マンデルをはじめ仲間たちに事の顛末を伝えてから、『近衛狩人』としての任務を果たしにいくことにしよう。

……銀貨のボーナスも、欲しいことだし。

107. 一狩

寒空の下、ウサギが一羽―

草原の只中で、耳をピクピクさせながら草をはんでいる。

周囲を警戒しているつもりなのだろう。だがそのウサギは、自らがどれほど危機的状況にあるかを、まるで理解していなかった。

ウサギから、三十歩ほどの距離。

サスケにまたがるケイの姿があった。

ウサギも、ケイの存在は認知していた。 だけどこれくらいの距離があれば大丈夫だろう、人間は鈍いし とでも思っているようだった。その手の”竜鱗通し”が何なのかを、ウサギは理解できない。そこにつがえられた矢の意味も。

ケイがウサギを捕捉してから、かれこれ数分が経っていた。もしもケイがその気であれば、ウサギは既に四、五百回は死んでいただろう。比喩表現や誇張ではなく統計的な事実として。

だが、ウサギは今も生きながらえている。

なぜか? それはケイがちらちらと空を見上げていたからだ。

何かの様子を―タイミングを計るように―

フッ、とウサギに影がさした。

音もなく、まるで流星のように、猛禽が舞い降りてきたのだ。

それは鷲(ワシ)だった。翼は広げれば優に二メートルを超えるであろう大物。胴体は茶と灰色のまだら模様で、頭の部分だけが初雪のように白い。頭部には冠状の羽毛を生やしており、まさに空の王者といった風格を漂わせていた。

ぎらりと、大振りな爪を光らせて―呑気に草をはんでいたウサギを狙う。果たして獲物は、弾かれたように逃げ出した。『脱兎のごとく』と言葉になるだけあって、それはもう見事な逃げっぷりを披露する。

だが、その全力の疾走も、天空から襲い来る捕食者の羽ばたきには、わずかに及ばない―鋭い爪がウサギの背を抉る―

と、思われた瞬間。

カァン! と唐竹を割るような快音。

鷲の爪は届かなかった。ドチュンッと水気のある音を立てて、必殺の一矢がその身を貫いたからだ。空の王者は一転、獲物と化し、それでいて地に堕ちるより先に空中で散った。

あわやというところで、九死に一生を得たウサギ。

―が、鷲を貫いた程度で”竜鱗通し”の矢が止まるはずもなく。

そのまま直線上にいたウサギにも襲いかかった。

―キュィッ!

断末魔の叫びじみた悲鳴とともに、矢を受けたウサギがひっくり返る。

よしっ

当然のように、一石二鳥ならぬ一矢二羽をキメたケイは、ご満悦でサスケから飛び降りた。心なしか弾む足取りで、成果をチェック。

鷲は首の付け根あたりを貫かれ、即死だった。それでいて肉体の損傷は最小限に抑えられており、さぞかし立派な剥製になるだろう。

そして、ウサギも虫の息。サクッととどめを刺して血抜きを始める。

うーむ、もういなさそうだな

空を見上げて、 こんなもんか と頷くケイ。近寄ってきたサスケの鞍に、立派な鷲をくくりつける。

一日の稼ぎとしては充分だろ。今日はこれくらいにしておくか

続いてウサギもくくりつけ、サスケの手綱を引いて歩き出す。

―くるりと向きを変えたサスケの反対側の鞍には、びっしりと、鷹や鷲といった猛禽類が吊り下げられていた。

……あ、もうちょっとお土産も狩っとくか

思い出したように、今しがたウサギの仕留めたばかりの、血塗られた矢をつがえて草原に視線を走らせるケイ。

―いた

引き絞って、リリース。

カヒュンッと軽やかな音とともに矢が飛んでいく。

そしてまたその先から、 キュイッ! と短い断末魔の叫び。

~~♪

口笛を吹きながら回収に向かうケイ。どことなく呆れたような顔を見せるサスケ、鞍で揺れる無数の獲物たち。『この世界』に来てから、おそらく最大効率で、ケイはその才能を遺憾なく発揮していた。

革のマントをはためかせる寒風だけが、戦々恐々としているようでもあった―

†††

時を遡ることしばし。

コウと別れたケイは、一旦、義勇隊の皆に事の顛末を伝えることにした。

おお、ケイ。……生きて帰ったか

明るい顔で戻ってきたケイに、マンデルはホッとした様子を見せる。

ああ。どうにか無礼討ちされずに済んだよ

それは何より。……それで、いったい何の用事だったんだ?

それがだな―

かいつまんで説明する。参上したらまさかの宰相閣下だったこと。伝書鴉の通信の保全のため狩りを依頼されたこと。そして近衛狩人なるものに任命されたことなど。

ほっほう、近衛狩人ですか!

横で話を聞いていた、ぽっちゃり系の田舎名士の次男坊・クリステンが感嘆の声を上げた。

知ってるのか?

ええ、書物で読んだことがあります! 出自に関わらず大変優れた狩人のみが任命される、大変名誉な役職だとか……!

ほほー

大物狩りとして既に名誉をほしいままにしているケイは、現時点でさらなる名誉は求めていなかったが、それでも尊敬の眼差しで見られるのは気分が良かった。

近衛狩人という、なんか強そうな字面も気に入っている。それでいて大仰な名前の割に、大した責任が付随していない点もポイントが高い。

そういうわけで、俺は義勇隊を離れることになった

ケイが告げると、マンデルも含めて皆がシュンと悲しげな顔をする。

そうか。……それは残念だ

寂しくなるな……晩飯が

彩りが……

現金な奴らだ、と思わず苦笑する。

安心してくれ。何か食えそうなモノを仕留められたら、お裾分けに来るからさ

ケイの言葉に、パッと表情を明るくする面々。

よっ、旦那! 太っ腹!

さっすが公国一の狩人!

近衛狩人、ばんざーい!

やんややんや。やっぱり現金な奴らだ、とケイも笑みが溢れた。

それに、どうせ―

夜になったら戻ってくるし―と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もしかしたら、コーンウェル商会の馬車で厄介になるかもしれないと思ったからだ。

昨晩、野宿をしてみて気づいたが、アイリーンと影の魔道具で通信しづらい。一般部隊の野宿には、明かりがほとんどないからだ。反対に馬車の近くでは獣避けや防犯のため何かしら火が焚いてあるので、影の魔術を使いやすい。

さらに、臨時収入でキャンプ用品を増強しても、コーンウェル商会なら馬車に載せてもらえそうなのはデカかった。

そういうわけで、たぶん、夜はコーンウェル商会の馬車に身を寄せることになる。皆には悪いが……。

ともあれ、そういうわけさ。隊長殿(フェルテン)にも伝えておいてもらえるか? 問題がありそうなら、俺が書類を見せて直接対応するからさ

わかったー、頑張れよー、などと皆の声援を背に。

ケイは意気揚々と”任務”に取り掛かるのであった―

†††

―夕方、参謀本部に猛禽類を提出しに行ったら、担当者が目を丸くしていた。

……こんなに!? 今日一日で仕留めたのか? 嘘だろ……

木箱に板を敷いただけの簡易机の上に、どっさりと山積みの猛禽類。周囲の軍人がぞろぞろと集まってくる。

これは見事な鷲だな……

見ろよこの尾羽根、いい矢になるぞ

あ~~~これ生きてればなぁ、飼いたかった……!

感心する者、はしゃぐ者、恨めしげに見てくる者―反応は様々だった。非難がましい視線には肩身が狭い思いをしつつ、報酬の銀貨を受け取る。

革袋にぎっしり、ずっしり。これは飛竜狩りの”行き”だけで金貨数枚は稼げるな、とケイは確信した。

少なくとも、狩り尽くさない限りは。逆に帰り道にはあまり期待できないかもしれない。街道沿いの森にはまだ生き残りがいるだろうが、それにしても大幅に数を減らしてしまうだろうから。

貴様……弓の腕前は大したものだが、全滅させたらタダじゃおかんからな……!

鷹好きと思しき軍人が、若干血走った目でケイの肩を掴み、唸るようにして言う。 宰相閣下のご命令なので と抗弁しても、理屈が通じそうにない目つきだった。

いや、これでも若い個体や雌は避けたんだ

闇雲に狩ったわけじゃない、と主張するケイに、鷹好き軍人が固まる。

なん……だと……

振り返ってよくよく見れば、鷹好きゆえに気づいてしまった。机の上に並ぶのは、ほとんどが雄であるという事実に……

再来年には数は回復するから……たぶん

さら……ええ……?

鷹好きが呆然とした隙に、本部を脱出。

ケイは晴れて自由の身となった。

銀貨の袋は、ぴっちりと革紐で口が縛ってあり、ポケットにそのまま放り込んでもチャラチャラと音を立てない。

あからさまに大金を持ち歩くと、懐が寂しい兵士が気の迷いに駆られかねないので非常に助かる。このあたりも、きちんと考えられているんだろう。

さて……ちょっと行商人たちでも覗いてみるかな

義勇隊の皆のためにウサギは確保済みだが、せっかく臨時収入もあることだし、何かお裾分けがあってもいいだろう。

ついでに、コーンウェル商会の馬車に、近くでキャンプを張っていいか打診もしておこうか。ケイなら二つ返事で了承をもらえるはずだ。晩飯は義勇隊の皆と摂ってもいいし、商会にも肉を持っていって、ご相伴に預かってもいい……

~~♪

サスケの手綱を引きながら、ケイは自然と、鼻歌交じりに歩いていた。地球で流行っていたポップミュージック―

(―そして日が沈んだら、)

曇り空の合間から覗く、夕焼けを見上げてケイは微笑んだ。

(アイリーンに連絡を取ってみよう)

おそらくこの世界で初になるだろう、遠距離リアルタイム通信での恋人たちのひとときだ。

~~~♪

自然と足取りも軽やかになる。

その浮かれっぷりたるや、きつく口を縛ってあるはずの銀貨の袋さえ、チャリッと涼やかな音を立てるほどだった。

108. 交信

前回のあらすじ

鷹・鷲・兎

従軍商人の馬車を巡り、色々と買い物をしたケイはご機嫌だった。

(やはり買い物はストレス解消になるな……!)

商品はどれも割高であり、今日の報酬はほぼほぼ使い切ってしまったが、全く後悔していない。

こんな行軍で、銀貨を後生大事に貯め込んでいても仕方がないのだ。紙幣と違って重いし、嵩張るし、行軍で疲れ果てた兵士たちに妙な気を起こさせるかも知れない。

第一、どうせ明日になればまた手に入る。

なら使っちゃえ、そして行軍ライフをより豊かに便利にするのだ……とケイは開き直ることにした。

まず買い求めたのは、クッションや毛布の類だ。

いくらサスケを連れているとはいえ、旅にあまり嵩張るものは持ってこられなかったので、ケイの寝具や野営具は最低限に抑えられていた。

が、実際に野宿してみた思ったが、けっこう寒い。

諸々の道具を揃えるのに、色々アドバイスしてくれたアイリーンがロシア人であることを失念していた。 ロシア人は寒さに強いんじゃねえ、寒さに負けないようガッツリ着込んでるんだ! と日頃から豪語していたアイリーンだが、ケイからすれば、やっぱりそこらの日本人より寒さに強い。

秋口にケイが長袖を着始めても、アイリーンはしばらく半袖のままだったし……。ほぼ100%ゲーム由来の筋肉質ボディで、体脂肪率が低いケイは、そもそも寒さに弱かった。

持ってきた毛布や皮のマントだけでは足りない。地面の最悪な寝心地も何とかするため、邪魔になるのを承知で、予備の毛布をしっかりと買い込んだ。

これらを全てサスケに載せたら負担になってしまうので、あとで残りの銀貨を引っさげて、コーンウェル商会の馬車と交渉するつもりだ。クッションみたいな軽いものなら、多分載せてくれるだろう。

次に、食料。

特に嗜好品の類だ。昨日は義勇隊の皆と侘しい食事を共にしたが、従軍商人の中には濃い目の味付けの料理をご奉仕価格(ボッタクリ)で提供している者もいた。

香辛料をたっぷりと使ったソーセージの香ばしい匂いに、ケイは抗うことができなかった。

立ったままかぶりついた、串焼きソーセージのこれまた美味いこと!

おっ、見事な食いっぷりだねえ。もう一本いくかい?

頼もう

毎度!!

と、店主に勧められるがまま、ぺろりと何本も食べてしまった。

(こりゃ、匂いを落としてからじゃないと義勇隊には近寄れないな……)

鼻のいい森歩きや狩人たちが多数いるのだ。自分だけ濃厚なスパイス臭を漂わせていたら、一発でバレてひんしゅくを買ってしまう!

いや、ケイに表立っては文句を言ってこないだろうが、絶対裏で羨ましがられる。……少しでも誤魔化せるように、ケイは義勇隊の皆への差し入れとして、香辛料の類も買い足すことにした。これで彼らの食事も少しは彩りが出るだろう。

そうして、デザートの新鮮な果物―みかんとオレンジの合いの子のような柑橘類―も平らげて、今日狩ったウサギ肉を、義勇隊へお裾分けしにいった。

また侘しい食事に逆戻りかと恐れていた義勇隊の面々は、ケイが約束通りウサギとともに姿を現したことで安心したようだ。

おれたちも、自力で確保しようとしたんだが

マンデルが、いち狩人として忸怩たる思いを滲ませていた。

……残念ながら、ケイほどには狩れなくてな

マンデルがかろうじて2羽仕留めただけで、他の狩人たちは1羽か、矢を無駄にしたかのどちらかのようだった。

近づいたら逃げられるし……

逃げられない距離からだと必中ってわけにもいかないし

そもそも見つけられねえよ……

と、狩人の面々は口惜しげにしている。普段、彼らは畑を荒らすイノシシや鹿なんかを相手にしていて、草原のウサギのように、すばしこくて小柄な獲物にはあまり慣れていないとのことだった。

ケイは、弓の腕もさることながら、抜群の視力で、かつサスケに乗って視点を高くして狩りに挑んでいるので、徒歩で慣れない獲物を狩ろうとしていた彼らと比べるのはあまりフェアとは言えなかった。

ともあれ、ケイが供給したウサギ肉と、お裾分けの香辛料に皆は大喜びだ。

ちゃっかりケイも夕食のスープのご相伴に預かってから、 また明日 と別れを告げて、今度はコーンウェル商会の馬車へ向かった。

交渉するまでもなく諸々に二つ返事でOKをもらい、馬車の直ぐ側のスペースを借りてテントを設営することになったのだった―

―よし

すっかり日も暮れて、夜番の兵士や護衛の戦士以外は、早々に眠りにつこうとしている。

ケイもまた、テントの中、新たに購入した毛皮やクッションでパワーアップした寝床にいそいそと潜り込んだ。

かなりいい感じだ。今夜はよく眠れるだろう。

泥棒避けの篝火の明かりが外で揺れている。夜番を担当する兵士や護衛の戦士たちの、かすかな話し声だけが響いていた。

テントの中はほぼ真っ暗闇だが、ケイの視力なら、入り口の隙間からかすかに差し込む光だけでも充分だった。

胸元から、アイリーン謹製・お守り型の通信用魔道具”小鳥(プティツァ)“を取り出す。

目覚めろ小鳥(プティツァ)

ケイがキーワードを囁くと、ズズッと手元の影が蠢き、かすかに魔力が抜き取られていく感覚があった。

これはサティナの自宅の魔道具”黒い雄鶏(チョンリピトゥフ)“と対になっており、今頃は”警報機”を応用した機構で、着信を知らせる呼び鈴が鳴っているだろう。

待つこと数十秒。手元で再び影が蠢き、ズズ……と文字を形作った。

『元気?』

アイリーンからの通信。彼女の手癖が再現された筆致に、思わず笑みがこぼれた。

元気だよ

外の夜番たちに気取られないよう、最小限の声量で答える。

『……良かった』

数秒後、返事があった。

そっちこそ、元気か?

『……ケイの目がなくなって、酒を堪えるのが大変』

アイリーンが断酒に苦しんでいるのは、このところいつものことなので―つまり元気というわけだ。

俺も、アイリーンと一緒に断酒続けてるから、頑張ろう

『……(大きな溜息)』

この通信機は出発前にテスト済みだったが、実際に使ってみると、字幕機能みたいで妙に可笑しかった。

そっちは、何か変わったことは?

『……特にない。飛竜討伐軍が何日で帰ってくるか、賭けが流行ってるくらい』

アイリーンは賭けた?

『……毎日明日に賭け続ける羽目になる。やめておく』

……一日でも早く会いたいのは、お互い様だ。

こうしてリアルタイムに連絡が取れるだけでも、この世界ではありえないほど恵まれているが。

……それがいいな

『……そっちは何か、ニュースは?』

ああ、そうだ。ビッグニュースがある

こっちには話題が山盛りだ。ケイは寝転がったまま、ぐいと通信機に向けて身を乗り出した。まるで目の前にアイリーンがいるかのように。

なんと近衛狩人に任命されたぞ

『……Что(シュト)?』

ロシア語での表示。英語で言うなら What? だ。

思わず母国語で はァ? と漏らしてしまったであろうアイリーンの困惑顔が目に浮かぶようで、ケイは周りに気取られぬよう、笑い声を噛み殺すのに必死だった。

それから、ぽつぽつと説明した。

ヴァルグレン氏が実は宰相だったこと。いきなり呼び出しを食らったこと。通信保全を建前にボーナスタイムに突入したこと。それからコウとヒルダについても。

アイリーンも、『……マジかよ!』『……やったじゃねえか!』『……おう、コウの旦那がそんなことに!?』『……イリスが泣くなぁ!』などと大盛り上がりで。

お互い、相手の言葉は文字で表示されているので、ちょっとした通信のラグを挟みつつ、久々の(二日ぶりだが、二人にとってはもっともっと長く感じられた)会話であることを鑑みても、話題は尽きる様子を見せなかった。

ケイはいつの間にか、傍らにアイリーンが寝転がっていて、戯れに至近距離で手紙のやり取りでもしているような、そんな錯覚に陥りつつあった。

きっとアイリーンも、ふたりの部屋のベッドに寝転んで、ランプに揺れる影文字を眺めながら、似たような気持ちを抱いているに違いない―

このまま夜が更けるどころか、朝まで語り尽くせそうな気分だったが。

残念ながら、1回あたりごくわずかとはいえ、自前の魔力を消費する魔道具なので徐々に限界が近づきつつあった。

肉体的な疲労に、魔力の消耗まで加わって、まぶたがどんどん重くなってくる。

『……眠いんだろ? 今日はこれくらいにしとこうぜ』

ケイの状態を察したのか、アイリーンが気遣いを見せた。

あるいは、気を利かした影の精霊(ケルスティン)が、『(眠たそうな目)』とでも表示したのかもしれない。

ホントは、もっと話したいけど……そうしようか

目をこすりながら、ケイは言った。

…………

名残惜しげに、手の中の魔道具に視線を落とす。木の板に水晶や宝石が組み込んである作りで、どことなく地球のスマホを彷彿とさせるデザインだった。

画面なんてないけれど―アイリーンと見つめ合っているような気がした。

ヤ ティビャー リュブリュー、アイリーン

ちょっとだけはっきりした声で、ケイは告げた。

アイリーンと一緒に暮らすうちに、ちょっとずつロシア語もかじり始めたケイが、一番言い慣れている言葉だ。

『……けい、すき。あいしてる』

アイリーンの返信が日本語で、ひらがなで表示されていたのは―つまりそういうことだ。彼女もまた、ケイに暇を見ては日本語を教わっていたから。

愛おしくてたまらなくて、思わずケイが チュッ と唇で音を立てると、ほぼ同時に『(キスの音)』と表示された。

笑い声を堪えるのに苦労した。

……おやすみ、アイリーン。明日もまた、連絡するよ

『……楽しみにしてる。おやすみ、ケイ。いい夢を』

名残惜しいが、そこで通信を切り上げた。

大事に胸元に魔道具をしまい込んだケイは、仰向けに寝転がり直す。

……ふふ

テントの中、独り、ガラでもなく幸せそうな微笑みを浮かべたケイは、毛布にくるまって、ほどなく寝息を立て始めるのだった。

109. 機嫌

改良したフカフカの寝床で、ケイは爽やかな朝を迎えた。

……正確には、ちょっと寝過ごした。寝心地の良さに加えて、昨日は夜ふかしまでしていたからだ。

おーい、ケイ。起きろー

……んが

コーンウェル商会の馬車の護衛、ダグマルが起こしに来るまでいびきをかいていたくらいだ。

初冬にもかかわらず、テントの外が明るい。つまり朝日はかなり昇っているということだ。

このまま寝てたら置いていかれるぜ?

うおっ、まずい!

テントを片付けたり身支度したりで、何気に準備に時間がかかるのだ。ケイは慌てて飛び起きた。

よく眠れたみたいじゃないか。それにしても、こいつはまたずいぶん色々と買い込んだもんだな

テントの中の、クッションや毛布を覗き見て、ひげモジャのダグマルはクックックと忍び笑いを漏らす。

まあな、せっかくの臨時収入だったから。起こしてくれてありがとう

なぁに。まあ今すぐ出発ってわけでもねえし、ぼちぼち朝飯だからよ。ケイの分も取っといてやるから、慌てず安心して支度しな!

ガハハと笑いながら、ダグマルは去っていった。夜番の明け方担当は朝食係も兼ねていたらしく、焚き火には鍋がかけられていて、粥(ポリッジ)的なものがぐつぐつと湯気を立てていた。

おお、ありがたい!

待望の温かな朝ごはんだ。ケイは手早く、革鎧を身に着けてテントや毛布を片付け始めた。

―粥はお世辞にも美味とは言い難かったが、初冬の冷える朝には、温かいものを口にできるだけで涙が出るほどありがたかった。

義勇隊の皆には悪いが、これだけでも商隊側に来た甲斐があるというもの……

お礼といっちゃなんだけど、昼頃には兎を獲ってくるよ

余分な荷物の運送代としていくらか支払ってはいるものの、毎度タダ飯にありついていては世間体が悪かろうと、ケイはそう申し出た。

おっ、そいつぁいいねえ! せっかくなら、食料には余裕があるし、しばらく馬車に吊るして熟成させようぜ。すぐに食うより美味えぞー

ケイの弓の腕をよく理解しているダグマルとコーンウェル商会の関係者は、兎肉が確定したことで大喜びしていた。

やはり馬車があると大違いだな、とケイはしみじみする。肉は熟成させた方がより美味い。それは常識だが、徒歩で余計な荷物を極力減らしたい義勇隊では、熟成させるひと手間なんてかけてられないのだ……しかも、わびしい食事に耐えながら、皆が皆、肉を我慢できるかと問われると……。

(しかし、義勇隊にも兎を持っていかないといけないしな)

そして本部に上納する猛禽類も狩らなきゃいけない。

うーむ、今日は忙しくなるな!

言葉とは裏腹に、ケイはルンルン気分だった。昨日、一昨日のケイとは同一人物と思えない。

クッションのおかげで快適に眠れたし、アイリーン成分も補給できたし、さらには温かな飯まで!こりゃ周囲にも貢献せねばバチが当たる、とばかりに。

ハイヨー!

“竜鱗通し”を握りしめて、颯爽とサスケに跨った。 えっ、普段そんなかけ声なくない? とびっくりした様子のサスケに二度見で振り返られながら、ケイは草原へと繰り出すのであった。

†††

サティナ周辺からウルヴァーンにかけては、ゲーム内だとリレイル地方と呼ばれていた。

草原や丘陵など、緑豊かな風景が広がる地域だ。

ただ、鉱山都市ガロンのある東部の辺境へ―つまり海側から陸側へどんどん進んでいくごとに、地形が起伏を増していく。

あと数日も進めば、草原はまばらになっていって、今ほどは兎の肉にありつけなくなるだろう。その代わり、森の動物を狩れるかもしれないが―草原ほど見晴らしはよくないので、狩りに専念でもしない限りは、やはり運が絡む。

公国は豊かだな

街道の周りを駆け巡り、獲物を探しながら、ケイは呟いた。その視線の先には、街道沿いに流れる河川がある。

北の大地では、ルート選択を失敗して、水不足で行き倒れそうになったものだ。

それに対し公国は、そこら中に水源がある。おかげで大軍でも水の調達には困っていないようだ。

サスケに澄んだ川の水を飲ませる。……すぐ近くを軍隊が通っているというのに、驚くほどの水質の良さ。

それもそのはず、みだりに水を汚すと精霊が怒り狂って何が起こるかわからないので、公国は水源の管理にかなり神経を尖らせているのだ。

なので、飛竜討伐軍においても、休憩のたびに工兵が穴を掘り、割としっかりしたトイレや食器の洗い場などが敷設されている。従軍魔術師だか錬金術師だかが、薬品などで汚物処理しているところも見かけた。

(あれは、ゲーム内にはなかったなぁ)

ポーション作成をはじめとした”錬金術”は存在したが、汚物処理の薬品なんてものは実装されていなかった。いくら現実に限りなく近いVRMMOを標榜していても、流石にそういった要素は。

だがこの世界にはあ(・)る(・)のだろう。

サティナやウルヴァーンといった大都市には必ず下水施設があって、街から離れた処理場では、犯罪奴隷なんかが浄化作業に従事していると聞く。具体的にどうやって処理しているのかはわからないが、おそらく、あの手の薬品のノウハウが蓄積されているのだろう……

そんなことを考えながら、兎や猛禽を仕留めていく。

昼前には、兎が十数羽、猛禽数羽がサスケの鞍にぶら下がっていた。

ケイにしては、割と控えめな成果だった。……兎はともかく、猛禽類は単純に見つからなかったのだ。

ひょっとすると昨日殺しすぎたせいで、付近一帯の猛禽類が恐れて逃げ出したのかもしれない―

(いや、まさかな)

言葉が喋れるわけでもあるまいし、と苦笑するケイ。兎も思ったより少ないが、代わりに、木立に狐や野生の猫といった生物を見かけた。

この辺りは小型の捕食者が多いので、競合する猛禽類が少ないのだろう。

(今日は、昨日ほどは稼げなさそうだな)

しかしケイは、あまり気にしていなかった。寝床など、この行軍中にずっと使うであろうものには初期投資を終えたし、買い食いで散財するにも限度がある。

―せめて、酒でも呑んでいたら話は別だったのだろうが、よりによって断酒中。

いやー、アイリーンはキツいだろうなぁ……

馬上で、曇り時々晴れなそれを見上げながら、ケイは嘆息した。

大して酒好きでもない自分が、これだけ飲みたい気分になるのだ。大の酒好きで、毎日晩酌するのを楽しみにしていたアイリーンが、どれだけ我慢に我慢を重ねていることか―

アイリーン、頑張れー!

周囲にサスケ以外誰もいないので、ケイは空に向かって叫んだ。

……いくら風の乙女(シーヴ)の加護があろうとも、サティナにまで声は届かないだろうが。 まったく何やってるの と言わんばかりに、クスクスクス、というかすかな笑い声が聞こえた気がした。

兎を持ってきたぞー

昼時の休憩時に、ケイは義勇隊を訪ねた。

よっ! 待ってました!

でかした!!

近衛狩人ばんざーい!

やんややんやと出迎える皆に混じって、しかし、何やらムスッとした顔の男。

おお、隊長殿

ご機嫌斜めな人物にわざわざ話しかけたくはなかったが、あまりにこちらをガン見してくるので、ケイは仕方なく声をかけた。

……狩りの成果は上々のようだな。流石は英雄殿、いや近衛狩人様だ

ふん、と鼻を鳴らしながら皮肉げに言うのは、他でもない。

顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男こと、義勇隊の隊長フェルテンだった。

110. 立身

前回のあらすじ

ケイ よーし、今日もお仕事頑張るぞ!

ケイ あ、そうだ、義勇隊の皆にお裾分けしにいこう

隊長 ……ふん、狩りの成果は上々のようだな! (プンスコ

ケイ(なんかめっちゃ機嫌悪いぞコイツ……)

兎を手土産に、昼時の義勇隊を訪ねると、何やら苛々した様子の隊長・フェルテンに出迎えられた。

聞けば、特別任務だとか

落ち着きなく足先で地面を叩きながら、皮肉げな口調でフェルテンは言った。

一応、こいつらから話は聞いたが、正式な書類があれば見せてもらいたい

もちろん構わないが

早速、辞令兼身分証が役に立つときが来たようだ。……ただ、仮にも義勇隊の責任者なら、フェルテンにも通達がいってそうなものだが。

ケイが胸元から書類を取り出して見せると、文面をチラッと一瞥したのち、最後の署名―公国宰相ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー伯名義―を確認して、フェルテンは鼻の横の筋肉を痙攣させた。

……相わかった! 流石に英雄は違うな、一足飛びにお役人様と来た!

半ば憤慨しながら、書類を突き返してくるフェルテン。

いや、役人というか、あくまで飛竜討伐の間だけなんだが……

なんでこんなキレてんだ、と困惑気味に答えるケイだったが、 ああそうかい! とフェルテンはますます不機嫌が加速したようだ。

結局、 今後の活躍をお祈り申し上げる! 的なことを慇懃無礼に言い放ち(早口だったのでケイにはよく聞き取れなかった)、荒々しい足取りでフェルテンは去っていった。

……なんだアレ

顔を合わせたと思ったら、原因不明の不機嫌を撒き散らして、ただ消えた。ワケがわからないのでケイが周りに尋ねると、彼らもまた微妙な顔をしていた。

ケイと同じく、理解に苦しみ首をかしげる者から、フェルテンを小馬鹿にしたように笑う者、憐れむような顔をする者まで、それぞれ。

単純に、ケイ殿が気に食わないのでしょう

田舎名士のぽっちゃり次男坊・クリステンがしたり顔で答えた。

む。何か失礼だっただろうか

いえ、ケイ殿が直接というわけではなく、雲上人から目をかけられた上に出世していくのを羨んでいるのかと。自分の記憶が正しければ、近衛狩人は軍の百人長に匹敵する役職だったはずです

クリステンは記憶を反芻するように、こめかみに指を当てながら言う。

そして、我らが義勇隊をよく見てみてください。何人くらいです?

ケイは隊の面々を見回した。

……100人には届かない。数えたわけではないが、だいたい80人かそこらだ。

この義勇隊の長は、つまり今のケイと同格以下なのさ

従軍経験者のマンデルが、肩を竦めながら言う。

あー……

流石のケイも、おぼろげながら事情を察した。

当初から、己の待遇に不満がありそうだったフェルテンのことだ。ただでさえ英雄扱いでチヤホヤされていたケイが、一気に同格以上の役職をホイッと与えられるのを見て、苛立ちが抑えられなくなってしまったのかもしれない。

そういうことなのか?

イマイチ実感が湧かずに、ボリボリと頭をかくケイ。その様子に、マンデルをはじめ周囲の面々も気が抜けたように苦笑していた。

ケイはピンと来ないかもしれないが。……百人長とは大したものだぞ

マンデルいわく、平民がなれるのは十人長がせいぜいだという。

十人長でさえ、任命されるのは従士や騎士の一族だったりするんだ。ちなみにウチの、タアフ村の村長ベネットも元々は従士だぞ

へえ! かの御仁も戦働きしていたのか

あの老人もかつてはそんな時代があったらしい。

しかし、その割に、息子のダニー氏はあまり……運動的には見えなかったが?

たぷんたぷんな体型の、どちらかと言えば商人のような男を思い浮かべながらケイは問う。

ああ。……彼は戦役の際も、カネを払って兵役を免除されたくらいだからな。武力より経済力でウチの村に貢献しているよ

マンデルは極めて平静な顔で、つっとケイから目を逸らしながら訥々と語った。

そいや、オレの村の村長も元従士で、十人長だったって話だな

ウチもだ。三年くらい十人長やってたって、耳が腐るほど聞かされたよ

他の連中も口々にそう言っている。少なくとも一般庶民のレベルでは、十人長とは想像よりも重みがある役職のようだ。

そして百人長ともなれば、ほぼ確実にお貴族様の血筋さ。……場合によっては騎士の子さえ『部下』になるんだから、それも当然だが

なるほど

そうしてみると、近衛狩人がどれほど例外的な存在かがよくわかった。軍への指揮権がないからこそ許されているのだろう。やはり従軍経験者の話はためになる……

翻って我らが隊長殿も、おそらくは貴族の次男坊か三男坊でしょう

クリステンがマンデルの言葉を引き継いだ。

軍で汗を流すこと数年。飛竜討伐軍に志願し、どうにか出世しようと息巻いてみれば―割り当てられたのは義勇隊の隊長! その上、部下に吟遊詩人に歌われるような英雄がいて、二日と経たずに自分と同格以上に出世……

クリステンの芝居がかった語りに、ケイは渋い顔をし、他の面々はくすくすと笑っていた。当事者じゃなければ笑えていたかもしれない。

だが、そうは言っても、あくまで討伐軍の間だけだぞ?

それを言うならケイ殿。義勇隊の隊長だって同じですよ

指摘されて初めて気づいた。

しまったー!

フェルテンの不機嫌が加速した理由がわかり、思わず額を叩いて呻くケイ。謙遜のつもりだったが、この場合だと煽りに受け取られかねない―!

……うん、まあ。言ってしまったものは仕方がないな。俺もあまり調子に乗らないよう気をつけよう

腕組みして、うんうんと頷くケイ。

自分としては 自由に動けてラッキー くらいにしか思っていなかったが、一時的とはいえ、この肩書がかなりい(・)か(・)つ(・)い(・)ものであることをようやく理解した。

何かしらで絡まれたら、印籠よろしく身分証を出して切り抜ければいいや、と甘く考えていたが、そのせいで逆恨みや余計な妬み嫉みを買うかもしれないし、そもそもそんな目に遭わないよう立ち回るべきだろう。

堂々と我が物顔で陣地を歩き回っていたのも、きっとよろしくない。元々異邦人なこともあるし、もうちょっとこう、肩身が狭い感じで動いた方が良さそうだ……

……なんというか

……あんたらしいな

何やら一人で納得し、反省するケイに、義勇隊の面々は呆れたように笑っている。

ケイ殿はそのままでもいいですよ。我ら庶民の希望の星ですからね!

そうそう。威張り散らすお偉いさんより、よっぽどいいや!

飯も持ってきてくれるしな!

お調子者の誰かの一言に、全員が噴き出して笑う。

まあ、まあ。よくわかったよ。みんなありがとう

隊長はアレだったが、この隊の皆は気のいい奴らばかりだ。

見方を変えればあの隊長も、ケイが無自覚に調子に乗りつつあったことをわかりやすく教えてくれたとも言える。

そういう意味では、最小限の被害で済んで良かったかもしれない。

(やはり人間、無駄に目立たないよう気をつけないとな……)

……などと、周囲が聞けば噴飯ものなことを考えながら、ケイはこれからもっと慎ましやかに立ち回ろう、などと思いを新たにするのであった。

†††

そんな反省も踏まえて、夕方。

猛禽類をそこそこ仕留めたケイは、獲物をこそこそと隠しながら参謀本部へ向かっていた。

昨日よりもさらに遅めの時間帯をチョイスしたことにより、夕餉の準備で周囲が慌ただしい。薄暗さも相まって、目立ちにくいという寸法だ。

……と、ケイ本人は考えている。

マントで猛禽類の束を必死に隠そうとしながらぎこちなく歩く、朱色の強弓を背負った馬連れの狩人が目立つかどうかは、また別問題だ。

しかし本部が近づいてきたところで、何やら、ざわっと異様な空気が流れた。

(目立ったか?)

と少し慌てたが、どうやら自分ではなかったらしい。

……見れば、向こうから、小姓の少年たちを引き連れた、赤い衣をまとった人影が歩いてくるではないか。

(げっ、公子!!)

ケイの視力は、一発でそれが誰かを見抜いた。

まさかこんなところで鉢合わせようとは……

いや、名目上、飛竜討伐軍は彼が率いる軍勢であり、いくら警備の問題があるとはいえ、四六時中引きこもっているわけにもいかないだろうから、我が物顔で歩き回っていても誰も文句は言わないのだが。

ケイは慌てて物陰に引っ込もうとしたが、周りの兵士や軍人たちが先んじでひざまずきつつあり、しかもサスケの存在があったので機敏に動けなかった。

というか、ここでサスケを引っ張ってテントの陰に隠れたりしたら、あからさま過ぎる。

仕方がないので、その場でひざまずいてやり過ごすことにした―

―む

問題があるとすれば、いち平民にすぎぬケイではあるが、武道大会で表彰されたために、公子と面識があることだった。

公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である

……まさか直接、話しかけられることになろうとは。

111. 公子

前回のあらすじ

ケイ これからは目立たないようにするぞ! (`・ω・´)

公子 公国一の狩人、ケイチであるか。大儀である

ケイ 目立たない……ように…… (´・ω…:.;::..

公子ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド。

16歳という若さで、公王の座に就こうと―あるいは、就かせられようと―している少年だ。その重責のためか、歳の割に顔つきは厳しい。現公王にして祖父・クラウゼ公ゆずりの鷲鼻(わしばな)、きりりとつり上げられた細眉、鳶色の瞳にライトブラウンの髪。よく言えば高貴な、悪く言えばツンとした高慢な雰囲気を漂わせているが、それはむしろ、この少年が雲上人であることを自他共に認めさせるような、超然とした風格を与えているようにも思えた。

そう、雲上人。

普通はわざわざ、自ら一般人に声をかけてくるようなことはない。

だが―ケイにとっては不幸なことに、今のケイは厳密には一般人ではなかった。

なんといっても”近衛(Archducal)狩人( Huntsman)“だ。

果てしなく末端に近いとはいえ、名目上、公王直参の家臣。次期公王(Archduke)たる公子ディートリヒが、一言くらい声かけしてもおかしくはない。

これがまだ平時ならスルーしていたかもしれないが、今は陣中であり、ここにいる全員は何かしらの理由で、公子のために命を賭けて馳せ参じている。

ケイのような平民出身者もちゃんと気にかけてますよ、というアピールは、ディートリヒからすれば、いくらしても損にはならないのだ。それがケイにとって有り難いかどうかは別問題だが。

ちなみに、ケイのような身分の者は、公子から個人として認識されている時点で、一般には相当に名誉なことだ。それだけで周囲から妬まれてもおかしくないのだが、幸か不幸か、それはケイの与り知らぬこと―

(―どうすりゃいいんだ!?)

そんなことより、ケイは跪いた状態でとにかく焦っていた。

公子からわざわざ声をかけられたにもかかわらず、だんまりがヤバいことくらいは流石にわかる。

何か。

何か答えなければ。

先日、礼儀作法の教師、もとい親切な軍人に教わった表現を思い浮かべつつ―

ははっ! お声をいただき恐悦至―

そなたは近衛狩人として―

言葉がかぶった。

よりによって公子と。

…………

沈黙。

その場に、異様な緊張感が満ちる―

(あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―ッッ!!)

やっちまった。

ケイは全身がカッと熱くなり、嫌な汗が吹き出るのを感じた。

ぎりっぎり、ケイの方が先に口を開いていたので、公子の言葉を遮るという最悪の事態は避けられたが。

それにしても気まずいことこの上ない。下手に表現なんてこねくり回そうとせず、 ははーっ! とだけ答えておけばよかったとケイは心底後悔した。

(そもそも直答は許されてたのか!? わからん!!)

何にもわからない……!

口の中がカラカラに乾いていた。咄嗟に謝ろうかと思ったが、 Excuse me は日本語では すいません と訳されていても 許してください という命令形であり、それを公子に使っていいのかわからない。

かといって ごめんなさい(I’m sorry) も何か違う気がする。いや、多分というか絶対ダメだ。それとも I beg your pardon(お詫び申し上げます) だろうか? 切実に、今この瞬間に、コウの助けが欲しい……!!

―おそらくコウがこの場にいたら、ケイの肩を叩いて、首を振りながらこのように言っただろう。

『ケイくん、平民が自分のやらかしに対して、王侯貴族にあれこれ言って、少しでも失敗を軽減しようとするのがそもそも間違いなんだよ。頭を垂れて、向こうの出方を待ちつつ、慈悲が与えられることを祈るしかないんだ……』

つまり、色々考えて黙り込んでいる現状が正解だった。

ふふ……っ

と、かすかに笑い声。

公子のお付きの者―小姓のひとりが、くすくすと笑っている。決して馬鹿にするような雰囲気はなく、ただ可笑しくて仕方がないといった様子で。

それを皮切りに、他の小姓の少年たちも忍び笑いを漏らし始めた。ケイの錯覚、あるいは希望的観測かもしれないが、その場の空気が弛緩したように思える―

そう肩肘張らなくともよい

苦笑交じりに、再び公子が口を開いた。

式典ではないのだ。……ここには口うるさい儀典長もおらんしな

冗談めかして公子が言うと、小姓たちの笑い声がさらに大きくなった。

狩りの成果は上々のようだな。これからも励むがよい

そうして、赤い衣を翻し、公子は颯爽と歩み去っていった。

はは……っ!

ケイはさらに頭を下げつつ、そう絞り出すのがやっとだった。

(た、助かった……)

たっぷりと時間を置いてから、面を上げる。公子の背中と、それに付き従う小姓の少年たち。

どこのどなたかは存じ上げないが―笑い飛ばして空気を変えてくれた小姓の少年には感謝しかない。

平伏していた周囲の者たちもそれぞれに作業を再開し、辺りはガヤガヤと夕飯時の活気を取り戻しつつあった。

(酷い目に遭ったな……)

半ば自業自得だが胸の内で呟き、公子の背中を見送りながら歩き出そうとしたケイだったが―

おっと

前方不注意だったため、目の前の小間使い風の男にぶつかりそうになった。

が。

ぬ(・)る(・)り(・)とした動きでケイをかわし、何事もなかったかのように歩いていく男。公子が去っていった方へ―

なんだか、アイリーンを思い出すような、なめらかな足さばきだった。

ケイがそう感じたということは、つまり、達人級の動きだったということだ。

(あれ……只者じゃないな)

不審者か? まさか公子を狙っている? とケイの心がにわかに物騒な方向へ傾き始めたが、その視点で周囲を見回すと、公子をゆるく取り囲むような形で、その手の『人員』がところどころに配置されていることに気づいた。

(ああ……SP的な感じか)

そりゃそういうのもいるよな、と今さらのように気づく。鎧を着込んだ騎士が表の護衛だとすれば、暗殺などを未然に防ぐ裏の護衛も存在するはず。

雲上人は大変だな、などと思いつつ、その場を去ろうとしたところで。

ケイの視界から外れるように、不自然な動きをする者がいた。

―ん

一般人なら見過ごしていただろう。

だがケイはゲーム内で、そういう動きをして死角に潜り込もうとしてきたヤツを、何百と弓でブチ抜いてきたのだ。

辺りが薄暗くなろうと、人混みに紛れようと、そんな『怪しい』挙動をケイの目が見過ごすはずもなく。

あっ、おい……

テントの陰に隠れてコソコソと移動するその男に、ケイは声をかける。

しかし、ケイの声を認識していながら、男はむしろ足を早めた。

む、怪しいヤツ……!

行商人のような格好をしているが、帽子を目深にかぶって顔を隠しているし、そもそもなぜ声をかけられて逃げるのか。

ケイは早足でその男を追う。さらにサスケが まってー とケイを追う。

……ああっもう、なんで追いかけてくるんだよ!

しかしすぐに、追走劇は幕を下ろした。肝心の男がキレ気味に足を止めたからだ。

あっ、……お前!

夕闇が降りてこようと、ケイの瞳は正確に、その人物の顔を認識した。

あまりにも見覚えのある顔。

思い出すのは、北の大地―ガブリロフ商会の隊商護衛の日々。

公国の薬商人として隊商に参加していた、あの男―!

……えっと、確かランダール! なんでここに!?

辛うじて名前を思い出したケイに、苦虫を噛み潰したような顔をするランダール。

アイリーンの話によれば、馬賊の襲撃を受けた際、ランダールは一介の商人とは思えないような豪剣を披露して、一瞬で二人を斬り捨てたという。

今となっては、と(・)て(・)も(・)胡散臭い男だ。それが、なぜ飛竜討伐軍にいるのか。その腰に吊り下げられた無骨な長剣が、実に行商人の姿に馴染んでいる―

いやー奇遇だな。悪ィ、積もる話もあるけどよ

チラッと背後を―公子たちが歩いていく方向を振り返ったランダールは、サッと表情を切り替えて ヘヘッ と愛想笑いを浮かべた。

今ちょっと忙しいんだわ……あとでお前んトコ訪ねるからよ、ちょっと今は勘弁してくれや! な?

ええ……といっても、俺がどこにいるのか知ってるのか?

コーンウェル商会んとこだろ! 知ってるよ!

ヤケクソ気味に答えたランダールは、 またあとでな! と有無を言わせぬ口調で言い放ち、踵を返す。

するすると―泳ぐように、陣中の人混みに紛れて消えていく。

ああ……

取り残されたケイは、ある種、納得の声を上げた。

見る者が見れば……それは明らかに、一般人の足さばきではなかった。

(仕(・)事(・)中(・)だったか……)

アイリーンの推測通り、やっぱり只者じゃなかったんだなぁと思いつつ、邪魔して悪かったな……などと今更のように申し訳なさも抱く。

ぶるるっ

と、ケイの背中をサスケが鼻面で押した。振り返れば、 おなかすいてきました と言わんばかりの、純真な瞳が見返してくる。

そして背中をぐりぐりされたせいで、マントの下にはまだ猛禽類を山ほどぶら下げたままであることを思い出す。

……そうだな、飯にするか

参謀本部に、今日の成果を提出しに行かなければ。

公子やランダールと鉢合わせしたのは想定外もいいところだったが、それはそれとして、夕食にはありつきたいし、支払いもしてもらいたいし。

(今夜のアイリーンとの話題ができたな)

そんな呑気なことを考えながら、ケイもまた足早に、参謀本部へ出向くのだった。

112. 旧交

前回のあらすじ

ケイ 目立つのはどうにか最低限で済んだな……

日も暮れて、コーンウェル商会の皆と夕食をともにして。

馬車の近くにテントを張り、アイリーンに連絡しようかと思ったところで、ケイに来客があった。

よう、来たぜ

酒の壺を片手に掲げた、三十代前半の男。四角い顔が印象的だ―茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。人好きのする笑顔に、夜番の篝火の明かりが濃い陰影を投じていた。黒っぽいくりくりとした瞳が、薄暗い中でもケイをしかと捉えている。

自称”公国の薬商人”こと、ランダールだ。

本当に来たのか……

ケイは驚きを隠さずに出迎えた。『あとでお前んトコ訪ねるからよ』とは言っていたが、こんなにすぐやってくるとは。

さっき言っただろ? 積もる話も色々あるし、まあ呑みながら話そうや

テントの外、切り株にどっかと腰を下ろしながら、ケイに木製のゴブレットを勧めてくるランダール。

お気持ちはありがたいが、今は断酒中なんだ

しかしケイが軽く手を挙げてそれを押し止めると、きょとんとした顔を見せる。

なんでまた?

妻が妊娠中で、酒を断っててな……その苦しみを分かち合うために、俺も飲まないことにしてるんだ

へえ! 結婚してたのか。それに赤ん坊とはめでたい……っていうかおい、まさか妻って、あの嬢ちゃんか?

ランダールは目を丸くして身を乗り出す。

どの嬢ちゃんかは知らんが、アイリーンだ

へえー! はっはは、そいつはめでたい。おめでとうおめでとう。まったく、ケイも隅に置けないな!

うりうり、と肘で小突いてくるランダールに、 よせやい と笑顔で応じながら、ケイは思った。

(俺が結婚してることも、アイリーンが妊娠してることも知らないのか……)

公国には何もかも把握されてるんじゃないか、と思っていたが。上司は宰相閣下ではないのだろうか? もしくは現場の人間には、そんな細かい情報までは共有されていないだけか。……ケイの重要度を考えれば別におかしくはない。

(……あるいは、知らないフリをしているだけか)

ケイの目には、ランダールが本当に驚いていたように見えたが、仮に裏稼業の人間ならば、ケイ程度を誤魔化すことなどお茶の子さいさいだろう。

ただでさえ外国語環境では、ケイは鈍(・)い(・)。母国語(にほんご)と違って、相手の言葉の裏に滲む、細かい機微を読み取れないからだ。

しかしここで知らないフリをすることに、どんな意味があるかはわからない。

(まあ、どっちでもいいか)

ランダールはどのみち、公子を守る側の人間なのだろうとケイは推測している。少なくとも公子を狙う曲者ではないだろう。ケイが気づくレベルの『不審人物』なら、早々に公子側の人員に処分されているはずだ。

こうしてホイホイとケイを訪ねてこられる時点で白、と考えていい。

仕事はもういいのか?

今は暇だからよ

さり気なく探りを入れたが、軽く返された。はてさて……

(いずれにせよ公国側の人員なら、“小鳥(プティツァ)“について知られるわけにはいかないな)

あの通信用魔道具は危険すぎる。早くアイリーンに連絡を取りたいし、ここは聞きたいことだけ聞いて、さっさとお引き取り願おう。

暇ならちょうどいいな、まあ呑んでくれよ。俺は人が呑んでるところを見るだけでも楽しくて好きなんだ

心にもないことを言いながら、 つまみもあるぞ などと、香辛料たっぷりのジャーキーを差し出すケイ。

え、そうか? じゃあ、まあ、仕方ねえなー、そこまで言われちゃなあー

ランダールは嬉々としてジャーキーを咥えながら、トクットクッ……と澄んだ蒸留酒をゴブレットに注ぎ始めた。

今宵、ケイにこうして話をしに来たのも、何らかの意図があるはず。酒で口を軽くして……という魂胆だったのだろうが、こんな機会がなければ、ランダールの立場では早々酒など飲めまい。

悪いなぁ、俺だけ

並々と蒸留酒を注いだゴブレットを掲げて、目を細めるランダール。お互い、予定調和という感じがする。酒でケイの口を軽くする、という建前で、ランダールも上等な酒を持ち出したのかもしれない。

まあ俺にはこれがあるからな、気にするなよ

なんだぁ、お前さんもしっかり呑むんじゃないか

これは仕方ないだろ

ケイが取り出したのは、うっすい葡萄酒の革袋だ。それをゴブレットに注ぐ。

これはノーカンだ。酒ではない。アイリーンとの協定でも、そう定められている。度数がめちゃくちゃ低いので、『身体強化』の紋章で耐毒性も強化されているケイには、ほとんど水と変わらないのだ。それこそ樽いっぱいでも飲まない限りは。

そも、行軍中は、常に清潔な飲み水が手に入るとは限らない。衛生上の問題から、エールやワインで水分補給も余儀なくされる。

なのでこれは仕方ない。それにアイリーンの言う『酒』とはウォッカみたいな強めの蒸留酒のことだ。これはぶどうジュース。ぶどうジュースなのでノーカン。

久々の再会を祝して、乾杯

太っ腹な近衛狩人殿に乾杯!

こつん、とゴブレットをぶつけてグイッと。

かぁーッ生き返るなぁ~

ランダールはジャーキーをもしゃもしゃと味わい、そこに蒸留酒を流し込んで至福の顔を見せる。とても公国の裏の人員には見えないが……

このまま、ただ酒盛りをして終わりともいくまい。

ケイとしても、離脱したあとのガブリロフ商会の動向は気になるところ。

それで、あのあとはどうなったんだ?

先手を打って、本題に入ってみる。

大騒ぎだったよ。十中八九くたばると思われてたピョートルが蘇ったんだ

変わらぬ調子で答えるランダール。

あんときの、ゲーンリフの慌てっぷりは見せてやりたかったな。アイツがお前さんにキツく当たってたせいで逃げられたんだ、と突き上げるやつが多くてな……自分らの態度は棚に上げてさ

ちょっと意地の悪い顔で、くつくつと喉を鳴らして笑う。ケイも思わず苦笑した。異民族への風当たりが強くて、あの北の大地での隊商護衛は、お世辞にも快い思い出とは言えなかった。

そんな中でも、ケイには親身で接してくれたピョートルと、その仲間たちは一服の清涼剤だったが―

ピョートルは、どうしてた?

自分が快復してることが信じられないみたいだったぜ。目を覚まして、事の顛末を聞いて、もっとケイに礼を言いたかったと後悔していたな

そうか……

そのとき、ランダールはふと思い出したように、杯を傾ける手を止めた。

そういえば、俺もちゃんと礼を言ってなかったな。本当にありがとう、ケイ。お前さんがいなけりゃ、俺も今頃、異国の地で骨を晒していたところだ。本当に命の恩人だよ

どういたしまして。俺自身も助かりたい一心だったよ

馬賊との壮絶な騎射戦、その後の敵魔術師との魔術戦、さらに後味の悪い戦後処理やピョートルとの別れ―そういったものを生々しく思い出しそうになって、ケイは首を振って、ぶどうジュースを口に流し込んだ。

……ふぅ

…………

夜空を見上げて、溜息をつくケイの横顔を眺めながら、ランダールは思案するように盃を傾けている。

ピョートルも、もし俺がまたケイに出会うことがあれば、『心から感謝している』と伝えてくれ、って言ってたよ

そうか。……彼には随分と助けられたからな、恩返しができてよかったよ

……いやはや、デカい恩返しだ。アレに懲りて、ゲーンリフどもも、ちったぁ身内以外にも優しくなればいいんだがな

そうなるとは欠片も思ってなさそうな口調で、苦笑いするランダール。

―それにしても、あれはいったい、どういう魔(・)法(・)だったんだ?

そら来た。

……いや、なに。薬商人としては、俺も興味があってよ

その設定はまだ有効らしい。

どうもこうも、魔法だよ

ケイは何食わぬ顔で、懐に手を突っ込む。ひょい、とランダールに放ってみせたのは、缶入りの軟膏だ。

これは?

アビスの先駆け をすりつぶした軟膏

えっ?

手の中の缶をまじまじと見つめ、フタを開けてみて、青白いクリーム状の軟膏に目を丸くするランダール。じっくりと観察する目つきが、完全に、『そのスジの者』になっていた。

これで、あれだけの傷を……?

いや? もちろん違う。あのとき使ったのは魔法薬(ポーション)さ

……ポーション

単語を反芻しながら、ランダールはどのような表情をするべきか、迷っているようにも見えた。

ポーションを口移しで飲ませたんだよ。もっとも、あのときの戦闘と、ピョートルの治療で使い果たしてしまったけどな

その軟膏は余り物で作ったやつさ、と。

俺とアイリーンは、昔 深淵(アビス) に潜ったことがあってな。本当に運良く、材料が揃ってたんだ

そんなに貴重なものを、よく他人のために使ったな……

迷ったさ。でもピョートルは見捨てられなかったし、後悔はしてないよ

ケイは清々しい顔で言い切る。……とはいえ、ハイポーションの瓶は、本当に僅かながらまだ残してあるのだが。

漢だなあ。……しかし、今回みたいな飛竜狩りに連れ出されるくらいなら、余らせといた方が良かったんじゃないか?

声を潜めて、冗談めかして尋ねてくるが、まだケイに手持ちがあるのか言外に探ってきているようでもあった。

それを予測していたケイは、困ったような顔で肩をすくめて答える。

たとえ温存しておいても、飛竜相手には役に立つとは思えないな。アレは怪我一つなく生き延びるか、黒焦げにされるか、八つ裂きにされるかの、どれかだよ

それもそうだ。……ま、ケイみたいな強弓の使い手がいてくれるってだけでも、俺みたいな商(・)人(・)は心強いよ

どこか白々しく、ランダールは笑って言った。

……若手の腕利き薬商人が、支援してくれているのは俺としても心強いよ

ケイも白々しくそれに応じる。

ところで、商(・)売(・)は(・)順(・)調(・)なのか

まあ、ぼちぼちだな。俺も今は、さ(・)る(・)商(・)会(・)に(・)属(・)し(・)て(・)る(・)からよ、独りで切り盛りしなくて済むってのは、まあ気楽っちゃ気楽な話だ

ああ、独立じゃなくなったのか……北の大地じゃ商品の薬を配りまくってて散々だったみたいだが、ランダールが破産したんじゃないかって心配してたんだ

おうおう、聞いてくれよ。ホントに酷い目にあってよぉ……あのあとも何だかんだと理由をつけられて、ほとんど薬を取られちまってさ、目的地のベルヤンスクに着く頃にはもう香水しか―

その後も、あくまで一介の商人としての苦労話を、ランダールはあれこれと聞かせてきた。

ケイも興味深く聞いていたが、アイリーンに連絡したい気持ちがじわじわと高まってきたので、ランダールにぐいぐいと酒を飲ませて、空になったタイミングで 疲れたから休みたい という理由で、お開きにした。

ありがとうよ。美味い酒を独り占めにさせてもらって

なあに、久々に話せて楽しかったさ

強い蒸留酒を呑みきって、ランダールも流石に赤ら顔だった。少しばかりふらふらした足取りで、ケイに別れを告げる。

ふと。

月光の下、足を止めて、振り返ったランダールは。

そんなわけで、俺にも今は頼りになる仲間がいるからよ。ケイも何かあったら話してくれや、助けになれるかもしれねえ

お、おう……覚えておくよ、ありがとう

あんまり関わり合いになりたくはないなぁ、と思いながらもケイは笑顔で答えた。

まぁ、また何かあったら話に来るわ……それじゃあな

ひらひらと手を振りながら、ランダールは闇夜に消えていった―

(また何かあったら話に来るのか……)

ケイは微妙に渋い顔で、その背中を見送る。

暗闇に紛れたと判断したのか、先ほどの千鳥足はどこへやら、機敏な動きで足音もなく去っていく背中を―

月明かりに篝火の光まであれば、この程度の暗闇はケイの前では意味を成さないのだが、ランダールは知る由もないことだ。

(面倒なヤツに目をつけられてしまった)

強引に呼び止めたのはケイなので、自業自得といえば、それまでだ。

ボリボリと頭をかいたケイは、何はさておき愛しのアイリーンに連絡を取るため、そのままモゾモゾとテントに潜り込むのだった―

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