その……そういうわけで、賊についてお話を伺えませんかの? ケイ殿

マンデルを華麗にスルーし、ベネット。

もちろん。と言っても、俺もすぐに逃げ出したから、そんなに詳しくは話せないが

葡萄酒をちびちびとやりながらも、かいつまんで襲撃された際の状況を説明する。場所、賊の数、その装備や練度。

……“狩猟狼(ハウンドウルフ)“ですと?

神妙な面持ちで話を聞いていた一同だったが、ケイが調教(テイム)された狼に追われたくだりを話したところで、その顔色が変わった。

……ああ。二頭は殺した。一頭は運良く鼻を潰せたから、この村まで追ってくることはないと思う

臭いを辿ってこられることを恐れているのだろう、と解釈したケイは、そう言ってベネットたちの懸念を払拭しようとするが、村長親子の顔色は冴えない。マンデルも肉を食べる手を止めて、難しい顔をしていた。

(何だこの地雷を踏んでしまった感)

一瞬で重苦しいものに変わった、場の空気に困惑する。

ハウンドウルフが、どうかしたのか

い、いえ……あの獣は調教が難しく、それを使役する盗賊団となりますと、その、限られてきますから……のう?

ベネットとダニーと顔を見合わせて、ぎこちない笑みを浮かべた。 わかるでしょ? と言わんばかりの態度。

(そう言われてもな)

分からん、知らん。

この世界に来てから僅か数時間。こちらの盗賊事情など知るはずもない。

……『イグナーツ盗賊団』

腕を組んだマンデルが、ぼそりと低い声で呟く。

…………

まさか、ご存じないので?

知ったかぶりをするか、素直に尋ねるか、逡巡している間にベネットに見破られる。

恥ずかしながら、聞いたことがない

なんと

それは

呆気に取られたように、互いに顔を見合わせる村長親子。

イグナーツ盗賊団は、“リレイル”地方一帯を中心に活動する、大盗賊団さ。近頃は、昔に比べると大人しくなった、という話だが……それでも規模が大きすぎて、未だにどこの領主も、迂闊に手が出せないらしい。……ここらじゃ、知らない奴はいないよ

マンデルが真顔で、静かに解説する。言外に、 お前は何処から来たんだ と聞かれている気がしないでもないが、その茫洋とした表情からは真意が読み取れない。ただ外野のベネットとダニーが、顔をひきつらせてマンデルに微弱ながらも殺気を放っているのが印象的だった。

しかし村長親子の態度よりも、ケイには気になることがある。

ここは、リレイル地方なのか?

ケイの問いかけに、マンデルは妙な顔をしつつも、ああ、と頷いて肯定した。

リレイル地方。

ゲーム内においては、マップの南西部のエリア一帯がまとめて、そう呼ばれていた。

平原や草原、丘陵や森林などの緑豊かな地形がその大半を占めており、要塞村”ウルヴァーン”、港町”キテネ”など重要な活動拠点が存在する、ケイのホームとでもいうべき地方だ。

……村長。妙なことを聞いて申し訳ないんだが

はぁ。なんでございましょう

まだ妙なことがあるのか? とその顔には書いてあった。

この村の近くにある、大きな町の名前を教えてくれないか

町、ですか

ベネットがふぅむ、と息をつきながら腕を組む。

まあ、一番近いのは東にある”サティナ”の町でしょう

指をぴんと立てて見せて、代わりに答えるダニー。

サティナ、か……

やはり、聞いたことがない。ケイの顔が少しばかり曇る。

それと、北に行けばウルヴァーンがありますな

ウルヴァーンッ!?

が、それに続いたベネットの言葉に、にわかにテンションが上がる。突然大声を出したケイに、他の三人がぎょっと身を引いた。

いや、失礼、取り乱した。ウルヴァーンといえば、要塞―

村の、と言おうとして、違和感に言葉を止める。

(……。俺は『大きな町(・)を教えてくれ』、と言ったはずだが)

ゲーム内でのウルヴァーンは、確かに大掛かりな工事を経て作られたプレイヤーメイドの村ではあったが、完成したそれそのものは規模としては小さなものだった。

そうです

こくりと頷いたのは、ダニー。

―要(・)塞(・)都(・)市(・)ウルヴァーンですよ

咀嚼し、理解するのに、数秒を要した。

……要塞都(・)市(・)?

ええ、要塞都市

……要塞村(・)でなく?

ベネットとダニーが、そろってブッと噴き出した。

ハハハ……なんともはや。ウルヴァーンが『村』なら、我らがタアフはさしずめ、犬小屋か何かですかな

いや、本当に。規模も人口も、比べるのもおこがましいという奴ですよ

ないない、と手を振りながら小さく笑う村長親子。

どうやらゲーム内とは違い、ウルヴァーンはその規模を変えて、『都市』として存在しているらしい。葡萄酒のゴブレットを揺らしながら、ケイは考える。ウルヴァーンが存在するということは、つまり―

となると、西にずっと行けば港町キテネがあるわけかな

そうです。“港湾都市キテネ”―ケイ殿は、キテネはご存じで? 私は数度しか訪れたことがありませんが、あそこは良い街でした。特に歓楽街

ぐへへ、とダニーの顔がだらしなく崩れる。気色の悪い笑みを浮かべる小太りの男から、つっと目を逸らしてケイは、

村長。差し支えなければ、この周辺の地図など見せてくれまいか

地図……ですか。少々お待ち下され

よっこいせ、と立ち上がったベネットが、テーブルの上の燭台を手に取って奥の部屋へと消えていく。

……あいにくと、大まかなものしかございませんが

構わない。ありがとう

戻ってきたベネットから羊皮紙を受け取り、テーブルの上に広げる。

……なるほど

たしかに、大(・)ま(・)か(・)な(・)地図だった。

随分と昔に描き出されたものなのだろう。古びた羊皮紙の上、タアフの村を中心に周辺の大雑把な地形、そして家や城などのマークがぽつりぽつりと描かれている。

東のこれが、サティナの街か。北の城がウルヴァーン、西の港がキテネ……。この家のマークは、周辺の村か?

そうなりますな。ミリア村、マザフ村、ラネザ村……

……距離はどうなっている? ある程度、正しいのだろうか

正しさとしては概ね……といったところですかな。例えば、東の街サティナには、歩いても半日もかかりませんがの。倍の距離があるキテネまでは、1日はかかりましょう

ふむ……なるほど、ありがとう

改めて地図に視線を落とす。

タアフ‐サティナ間が半日として、それぞれの街との距離を考えると、キテネまでは徒歩で1日、北に少し離れたウルヴァーンまでは3日といったところか。

もちろん、その途中には森や山谷などの障害となる地形が広がっているため、実際に行こうとするともう少し時間がかかるだろうが。

要塞都市ウルヴァーンと港湾都市キテネの、地図上での距離を測る。

ウルヴァーン‐キテネ間は、歩くと大体3、4日か

地図に従えば、そうなりますな

行商人の護衛に話を聞いたことがありますが、ウルヴァーンからキテネまでは、馬で早駆けすれば半日ほどの距離だそうですよ

妄想の世界から帰ってきたダニーが、横から口を挟んだ。ウルヴァーン‐キテネ間の馬での所要時間は、ケイが一番知りたかった情報でもあった。

なるほど、ありがとう

顎を撫でながら、考え込む。

(ゲームに比べて、色々とスケールが大きくなってるな……)

要塞村が要塞都市に。港町が港湾都市に。そして、ゲームでは馬で30分ほどだった道程が、半日がかりに。

30分の道のりが12時間の道のりに変わったからといって、単純にマップの広さが24倍になった、とはいえないのが馬という移動手段の面白いところだ。

自動車とは違い、馬はトップスピードのまま走り続けることはできない。30分間だけ走るのと、半日を通して走るのとでは、その移動可能距離に大きな差が出てくる。

ゲーム内では、バウザーホースの性能に物を言わせ、ミカヅキたちは通常の馬の駈足(ギャロップ)に匹敵する速度で、30分間ノンストップで駆け続けることが出来た。標準的な馬の駈足は、時速30km。つまり、ゲームにおけるウルヴァーン‐キテネ間の実質的な距離は、おおよそ15km弱となる。

しかし半日を通して走り続けるとなると、どんな馬でも、バウザーホースですらも、ずっと駈足を維持することはできない。途中で休憩を挟んだり、ペース配分のため速度を落としたりする必要が出てくる。そういったロスを加味すると、『この世界』でのウルヴァーン‐キテネ間の距離は、おおよそ150km強と考えられる。

つまり、ゲーム内と『この世界』のスケール感の差は、比率にして10倍といったところではなかろうか。

(ゲームの DEMONDAL のマップ全体が10倍になったとして……『ここ』は最大で、ブリテン諸島くらいの面積になるわけか?)

ブリテン諸島。要はイギリス。馬では縦断するのにも一苦労するレベルの広大さだが、それでも『世界』というくくりから見ると、その程度の面積では小さすぎる。

ここが DEMONDAL に限りなく似ている異世界であるならば、おそらくゲーム内では行けなかった海や山脈の向こう側に、設定上のみ存在していたエリアや大陸が存在していると考えるべきだ。

…………

思案顔で黙りこくるケイに声をかけるのも躊躇われ、沈黙がその場に降りる。

アイリーンが回復したら、まず『村』から『都市』へとスケールアップしたウルヴァーンに見に行ってみるべきか……などと考えていたケイだが、

外から聴こえてきた微かな音に、ふっと顔を上げる。

……誰か来てるな

マンデルもケイとほぼ同時に気づいたらしく、振り向いて扉の外へと意識を向けていた。

ざっざっざっ、と何者かが、小走りで村長の家に接近する足音。

―失礼しますっ!

バンッと家の扉が乱暴に押し開かれる。

扉の外、顔面蒼白で息を荒げていたのは、そばかす顔の若い女だった。

ティナ、どうしたんじゃ。そんなに慌てて

村長! 大変なんです!

ベネットの問いかけにヒステリックな叫びを返した女は、ばっとケイの方に向き直り、

旅の御方! 大変なんですッ! すぐに来てください!! 早くッ

今にも泣きそうな顔で、ぐいぐいと袖を引っ張ってケイを外に連れ出そうとする。

ま、待たんかティナ! 何があったんじゃ、説明せいッ!

ベネットが一喝すると、半狂乱だった女は一瞬黙り込み、

お連れの方が、アイリーン様が、―

おずおずとケイの方を見やる。

息を、―息を、されてないんです!

†††

血相を変えて、走る。

アイリーンッ!

どばんッ、と扉を蹴破らんばかりの勢いで、その狭い部屋に飛び込んだ。

中には、二人。小さな寝台に横たえられたアイリーンと、その前でおろおろとうろたえるクローネン。

どけェッ!!

狼狽して何かを言おうとするクローネンを乱暴に突き飛ばし、アイリーンに駆け寄る。

アイリーン……ッ! おいっ、しっかりしろ、アイリーン!

ぺしぺし、と軽く頬をはたくが、全く反応がない。口の上に手をかざすも、―呼気は、感じられなかった。

ランプの暖色の光に照らされてなお、アイリーンの顔は紙のように白い。まるで人形を目の前にしているような嫌な感覚。胸が早鐘を撞くように軋む。

まさか、なぜ。顔色が悪いとは思っていたが、傷はもう完治しているはずなのに―

―くそっ!

左胸に耳を押し当てた。

…………

何も聴こえない……、いや。

とくん、と小さな、今にも消えそうな、鼓動。

まだ生きてる……!

腰のポシェットをまさぐり、ポーションの小瓶を取り出した。焦りに震える手をなだめすかし、コルクを抜いて、アイリーンの口に流し込む。

数秒。

……けふっ

顔を歪めたアイリーンが、僅かに身じろぎしてむせた。その頬に、僅かに赤みが戻る。

なっ、息を吹き返した……!?

まるで神の奇跡でも目の当たりにしたかのように、驚愕の声を漏らすクローネン。そこへ、ぎょろりと振り返ったケイの鋭い視線が突き刺さる。

……貴様、何をした

おっおれは何もしていない!!

地獄の底から響いてくるような底冷えのする声、そしてじりじりと空気が焼けつくような濃密な殺気に、震え上がったクローネンが無実を訴える。

事実、クローネンは、何(・)も(・)し(・)て(・)い(・)な(・)い(・)。

おれはただっ、その娘が汗をかいてたからっ、ね、熱もあるようだったし、布を濡らして熱冷ましにしようと……

手の中の、濡れた手拭いをケイに見せる。

ほっ、本当に少しの間だったんだ! 元々、体調は悪そうだったが、少し目を離して、戻ってきたら、どんどん弱っていって……ティナがあんたを呼びに行った頃には、呼吸も、もう、ほとんど……

しどろもどろになりながら、弁明するクローネン。

その狼狽っぷりを見て、逆に少し冷静さを取り戻したケイは、クローネンが何かをしたわけではなさそうだ、と考えを改めた。アイリーンに追加でポーションを飲ませつつ、

……すまない。少し、動転していた

いや、わかってくれたんなら、いいんだが

おっかない殺気をひっこめたケイに、クローネンがほっと胸を撫で下ろす。

(……それにしても、何でこんなことに)

無意識に噛みしめた下唇が白くなる。顔色が戻ってきた代わりに、再び額に汗を浮かべ始めたアイリーンを前に、疑念が再び湧き上がってきた。

傷は、完全に治っている。それは間違いない。

腰の矢筒からアイリーンが射られた矢を抜いて観察するも、矢じりが体内に取り残されたまま、ということもありえなさそうだ。

(ポーションが足りてない? いや、一瓶飲ませれば生命力は完全に回復するはずだ、それに完全に回復していなかったとしても、瀕死の状態にまで追い込まれる理由が―)

―瀕死の状態にまで、追い込まれる。

はっ、と顔を上げたケイは、右手に握った襲撃者の『矢』を凝視した。

―全くもう、こんな夜中になんだってんだい

―すまんの、しかし事態が事態での

と、部屋の外がにわかに騒がしくなる。

ぎぃっと扉が開き、杖をついてローブを羽織った老婆が、中に入ってきた。

まったく旅人なんざ、とんだ迷惑―ひぇぇぇええぇっっ!!!

入ってきて早々、ぶつぶつ文句を言っていた老婆は、ケイと視線を合わせた瞬間に奇声を上げて腰を抜かしその場に尻もちをついた。

アンカ婆さん、どうした!?

あっ、あんらまぁ、これは……

慌てて駆け寄るクローネンに構わず、へたり込んだ老婆は目を見開いて、そのしわくちゃな顔に驚愕の表情を浮かべている。

婆様、どうしたんじゃ

遅れて、やや疲れ顔のベネットが部屋に入ってきた。

こ、こちらが旅の御方かい? ベネット

そうじゃ、そうじゃ。……ケイ殿、この婆様はうちの村の薬師ですじゃ

ヒッ、ヒヒヒッ、薬師なんて大層なもんじゃない、ただの呪い師さね。アンカ、と申しますじゃ、お見知りおきを……旅の御方

クローネンの手を借りてよろよろと起き上がり、おぼつかない足取りで薬師の老婆は寝台に近づく。

……この娘っ子は、いったい何がどうなっとるんかえ?

実は……

クローネンが、大雑把に状況を伝える。

ふむ……旅の御方、何か心当たりは

……つい先ほど、賊に矢で射られた

アンカの婆様に、ケイは賊が放った矢を渡した。

これは……。しかし、どこを射られたのか、傷跡が見当たらんが……

ここだ

矢を撫でながら不思議そうな顔をするアンカに、アイリーンの胸元を示して見せる。ポーションによって修復され、新しい皮膚が白く残った傷跡。

これで治療した

それは……!?

ケイの手の中の、瓶に僅かに残された水色の液体。視線を釘付けにしたアンカが、はっと息を呑む。

ご存じか。ハイポーションだ

高等魔法薬(ハイ・ポーション)ですと!!

オウム返しに、しわがれ声で叫んだアンカが、再びへなへなとその場にへたり込む。

……あんまり驚かさんで下され、旅の御方。心の臓が止まるかと思いましたわい

あ、ああ、すまない……っと、失礼

そこまで驚くようなことか、と怪訝に思いつつ、また顔色が悪くなってきたアイリーンの口にすかさずポーションを垂らす。

しかし、この矢で、この症状……

唸るように言ったアンカが、アイリーンの額に浮いた汗を指先で拭いとり、口に含む。

……苦い

賊は、イグナーツ盗賊団である可能性が高いそうじゃ

……なるほどの

すっ、とケイを見据えたアンカは、 旅の御方、 と姿勢を正して切り出した。

この娘の症状、これは……この矢に、『毒』が塗られていたのではないかと

…………

ケイの口から、重々しい吐息が漏れる。

やはりそうなるか、と。

そうなってしまうか、と。

リアル路線を謳う DEMONDAL には、当然のように毒も存在した。

即効性のものから遅行性のもの、即死させるものから体を麻痺させるものまで、何種類もの毒薬があり、それは対人戦闘や狩りなどで積極的に利用されていた。

しかし、その毒の大半は、空気に触れるとあっという間に劣化してしまう性質のものが多く、有効活用するためには使用する直前まで密閉容器に保存しておかなければならない、という制約があった。

強力ではあるが、その扱いには細心の注意が求められ、それでいて手間がかかる。

それが、 DEMONDAL のゲーム内における、『毒』の立ち位置であった。

ケイの場合は、素の弓の攻撃力が高すぎるのと、いちいち矢を放つ前に矢じりに毒を塗布する手間がわずらわしいのとで、ほとんど毒を利用してこなかった。

そして―これが最重要だが―ゲーム内においては、毒を受けた後の発汗や発熱といった生理的反応が、存在しなかったのだ。

そのため、今回のアイリーンの症状を、ケイは『毒』によるものだと即座に結び付けることができなかった。せいぜい、痛みによるショックでうなされている、と。

その程度の認識だった。

もしも―。

もしも、クローネンが、アイリーンの傍に付いていなかったら。

そう考えると、ケイは、背筋にゾッと薄ら寒いものが走るのを感じた。

ケイも、最初はアイリーンの傍についておくつもりだったが、ひょっとすると疲れで自分自身すぐに寝付いてしまったかもしれない。そうすれば、朝に目を覚ますと、アイリーンが毒にやられて冷たくなっていた、などということも―。

婆さん。……この症状が毒によるものだ、というのは、俺もそう思う。……だが、何の毒だと思う?

アンカの目をまっすぐ見つめながら、ケイは問いかける。

毒による継続ダメージ。絶望的な状況だ。毒は自然治癒せず、またポーションでも治せない。

しかし、仮にこの『毒』が、 DEMONDAL のゲーム仕様に準拠したものであるならば、まだ、対策の立てようはある。ポシェットを探ったケイは、その中から小さな金属製のケースを取り出した。

ここに解毒薬がある。それぞれ”隷属(スレイヴリ)”、“夢魔(インクブス)”、“単色(モノクローム)“系統の特効薬だ

“隷属(スレイヴリ)”

“夢魔(インクブス)”

“単色(モノクローム)”

ゲーム内では『三大対人毒』とまで呼ばれた、対人戦闘において最もメジャーな系統の毒だ。上級プレイヤーにも通用する毒性を持ち、そしてある程度の使い勝手も兼ね揃えた毒は、多少成分が違えどもこの三系統の派生であることが多かった。

この娘―アイリーンは、こう見えて毒にはかなりの耐性がある

アイリーンは、各種毒物に対する耐性や、肉体の強靭性が飛躍的に上昇する『身体強化』の紋章を、その身に刻んでいる。

だから、生半可な毒は効かない。矢じりにちょっと塗りたくった程度の量で、こいつの生命力を削り切ることができる毒は、この三種類ぐらいしかないはずなんだ

そして、それぞれの毒は対応した特効薬を飲めば、すぐに中和され無害になる。

……ならば、その薬を三つとも飲ませれば……

それはできない……

ケイは絞り出すように言う、

飲み合わせが悪いんだ。間違えた特効薬を飲めば、激しい拒否反応が起きる

少なくともゲーム内では、誤った特効薬を服用するとショック症状が起き、むしろ容体の悪化を招いた。万全の状態であればまだしも、今のアイリーンは体が弱りすぎている。ロシアンルーレットを試して、万が一のとき、拒否反応に体が耐え切れるか分からない。

だから、アイリーンがどの毒にやられているのか、見極めないといけないんだ

藁にもすがる思いで、ケイは問いかける。

婆さん。アイリーンは、どの毒にやられてると思う……?

口を開きかけたアンカは―

…………

つっ、と、目を逸らして俯いた。

やはり分からないか、と。歯を食いしばる。

ゲーム内。

ゲーム内であれば。

この三つの毒は、簡単に見分けがつく。それぞれ継続ダメージに加えて、特徴的な効果があるからだ。

“隷属(スレイヴリ)“系統は、感覚が鈍り、体が異常に重く感じられる。

“夢魔(インクブス)“系統は、毒を受けた時点で、『昏迷』状態となる。

“単色(モノクローム)“系統は、視覚から色彩感覚が失われ、また視野狭窄も併発する。

身体の動きを麻痺させるような毒もあるが―ゲーム内では、アバターの動きは制限されても、プ(・)レ(・)イ(・)ヤ(・)ー(・)が(・)意(・)識(・)を(・)失(・)う(・)こ(・)と(・)は(・)な(・)い(・)。

つまり、毒を受けた本人が、症状を自己申告できたわけだ。

体が重くて動かないならば “隷属(スレイヴリ)”。視野狭窄が生じれば”単色(モノクローム)”。そして、自己申告できない、すなわち会話が不可能な状態に陥っていれば、“夢魔(インクブス)“といった風に―。

それで充分だった。あとは周囲の者が、対応する特効薬を与えてやればよかった。

しかし、今。

アイリーンの意識は、混濁したまま戻らない。

本人に、どのような毒の症状が表れているのか、確認することが、出来ない。

……個人的には、意識を失ってるから、“夢魔”系統が怪しいんじゃないかと思う

ぽつぽつと、ケイは静かに言葉を続ける。

しかし断言もできない。“隷属”系統も身体感覚を鈍らせる以上、それが重症化して意識が混濁しているという可能性もある

“単色”系統を除いたところで、確率は2分の1。

……どうすればいいんだ

ケイの呟きに、しかし部屋の面々は沈黙したままだった。

数分か、あるいは数十秒か―再び顔色が悪化しつつあったアイリーンに、手持ちのポーションを全て飲ませたケイは、すっと立ち上がった。

ちょっと待っててくれ

お、おい……

クローネンの制止も聞かず、小走りでベネットの家に戻る。

玄関口、杭につながれていたミカヅキが、 ぶるるっ と鼻を鳴らしてケイを出迎えた。

……大変なことになった。本当に間抜けだな……毒かもしれないなんて、少し考えれば分かったろうに……

はぁ、と重いため息をつくケイ。サスケが だいじょうぶ? と心配げに、顔を覗き込んでくる。

……大丈夫。アイリーンは助けるさ

サスケの鼻づらを優しく撫でてやり、ケイはぎこちなく微笑んだ。鞍に取りつけてあった革袋を取り外して、再びアイリーンの元へと戻る。

……お若い方よ。どうなさるおつもりか

ゆらゆらと揺れるランプの光。枕元でアイリーンの汗をぬぐっていたアンカが、悲痛な声で尋ねてきた。

婆さん。少し頼みがある

……ワシにできることなら、何なりと

こ(・)れ(・)をアイリーンに。顔色が悪くなるたびに、飲ませてやってくれ

革袋を、アンカの足元の床に、そっと置く。

怪訝な顔で袋を開き、中を覗き見たアンカが―、はっと息を呑んだ。

十数本にも及ぶ、ハイポーションの瓶。

そして、これだ

ポシェットから取り出したのは、金属製の小さなケース。それからそれぞれ色の違う丸薬を数粒つまんで、そっとアンカに手渡した。

……俺(・)が(・)戻(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)ら(・)、どれか一つを、アイリーンに飲ませてやってくれ

ケイの言葉に、全員が目を剥いた。

ケイ殿!?

お若いの、まさか!

ケイは小さく笑う。

分からないんだったら……使った奴に聞くのが、一番早い

頼んだ、と言い残して。

背後からの声には耳を貸さずに、ケイは足早に部屋を出た。

†††

お、おい、ケイ!!

ベネットの家の前、ミカヅキの手綱を引いていくケイを、クローネンが呼びとめる。

無茶だ! いくら装備が良いからって!

ケイは答えず、ひらりとミカヅキに飛び乗った。

……随分と騒がしいが

ぬっ、と建物の陰から、マンデルが姿を現す。

ケイ。……相手は、十人近いんじゃなかったのか

そうだな、大体そのくらいだろう

だから無茶だ! 一人でそんな人数相手に、勝てるわけがない! しかも聞いたぞ、賊はあのイグナーツ盗賊団なんだろ!?

槍を振り上げて、クローネンが叫ぶ。

じゃあ、何だ。ついてきてくれるか?

えっ。それは……

ケイのからかい混じりの返しに、短槍使いの男はぐっと声を詰まらせた。

冗談さ。俺一人で十分だ。こちらは騎兵、向こうは数が多いとはいえ所詮は徒歩……弓のいい練習になるよ

楽観的に言ってのけるケイ、しかしクローネンとマンデルは顔を曇らせる。

しかし、こんな新月の夜に……

眉をひそめたクローネンは、思わず空を振り仰いだ。夜の真の暗さの前には、星明かりすら闇に呑まれるかのようだ。こんなに暗闇の中、単騎で駆けるなど自殺行為以外の何物でもない。

―少なくとも、クローネンにとっては。

しかしケイは笑って見せる。

だから、心配しなくても大丈夫だ。ほら、

無造作に矢筒から矢を引き抜き、一切のた(・)め(・)も気迫も感じさせずに、すっと空へ向けて弓を引き絞った。

快音。

ギィッ、と鋭い鳴き声が頭上から聴こえてきたかと思うと、ぼとりと黒い塊が地面に落ちる。

―それは、矢に射抜かれた、一羽の蝙蝠だった。

…………

胴体を貫かれ、ばたばたともがき苦しむ蝙蝠。クローネンとマンデルは顎が外れんばかりにぽかんと口をあけて、絶句した。

言ったろう? 夜目は効く方なんだ

馬上から、蝙蝠の矢を引き抜き回収したケイは、にやりと口の端を釣り上げる。

……それじゃあ、行ってくる

唖然としたままの二人をおいて、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。

いななきの声ひとつ漏らさずに、滑るようにして褐色の馬は走り出す。

その馬上で揺られながら、ケイは顔布で口元を覆い隠し、今一度その左手に朱塗の弓を握り直した。

……急ぐぞ。頼んだ、ミカヅキ

主の声に、忠実なる駿馬は短く鼻を鳴らして応える。

果たして、新月の宵闇に。

―死神は、放たれた。

9. 会敵

火の中で小枝が爆ぜて、ぱちりと音を立てる。

木立の中、焚き火を囲み、男たちは思い思いの格好で身体を休めていた。

火に当たり暖を取る者、地面にマントを敷き寝転がる者、堅焼きのビスケットをかじる者、壁に寄りかかり周囲を見張る者―。

盗賊団『イグナーツ』の構成員たちだ。肌の色も髪の色も、体格も民族も、てんでばらばらな寄せ集めの集団。しかし、全員が黒染めの革鎧に身を包み、『片方の瞳が白く濁っている』という点で不気味に似通っていた。

風のそよぐ、肌寒い新月の夜。盗賊たちは見張りの一名を除き、程よく肩の力を抜いてリラックスしている。だが同時に、その表情にはどこか覇気がなく、皆、ぼんやりと眠たげな様子だった。

それは、―悪く言えば、シ(・)ケ(・)た(・)面というやつだ。

はぁ~あ

焚き火の前、平石の上に腰かけた痩せぎすな男が、大きな溜息をつく。

陰気な男だ。シケた面をした盗賊たちの中でも、際立って暗い雰囲気を漂わせている。

栄養状態がよろしくないのか、はたまた、元からそういう骨格なのか。痩せこけた頬に落ち窪んだ眼窩と、まるで髑髏のような顔立ち。薄暗い焚き火の明かりが投じる陰影に、伸ばしっ放しのぼさぼさな長髪も相まって、その姿はまるで幽鬼か何かのようだ。

盗賊よりも墓守でもしている方が、よほど似合いそうなこの男。その名をモリセットという。イグナーツ盗賊団が実働隊、九人の手下を率いる隊長だ。

はぁ~……

小枝に刺した燻製肉を焚き火で炙りながら、モリセットは再び溜息をついた。どんよりとした不自然な白と黒のオッドアイに、じゅうじゅうと脂を滲ませる肉が映り込む。ある程度炙ったところで、くるんと手を返し、今度は反対側にもじっくりと火を通し始めた。

……なぁ、モリセットよぉ

モリセットの対面、胡坐をかいて座る小太りの男が、間延びした声で話しかけた。

なんだ

ちら、と目だけを動かして、モリセットは答える。

あんまりなぁ、焼きすぎると、おいら、脂がもったいないと思うんだぁ

これでいいんだ。……贅沢だろ

ぽたぽたと滴り落ちる肉の脂を眺めながら、モリセットは暗い笑みを浮かべた。

程よく脂の抜けた肉が好きなんだよ、俺は

……んだども、その調子だと、『程よく』どころか、からからになっちまうぞぅ?

それが、俺にとっての『程よい』加減よ

もったいねぇなぁ。そんなだから、モリセットはいつまでたってもガリガリなんだぁ

呆れたような、諦めたような口調でお手上げのポーズを取る。

ほっとけ。生まれてこの方、不便はしてねえよ

ぶっきらぼうに返すモリセット。そうしている間に、肉は程(・)よ(・)い(・)加減に仕上がっていた。炙るのを止め、ふうふうと息を吹きかけてから、がぶりと勢いよくかぶりつく。

……腹、減ったなぁ。モリセット、おいらにも肉、分けておくれよぅ

悪いな、これで最後だ

あぁ~。んじゃあ、一口だけでも―

手下が最後まで言い終わる前に、大口を開けたモリセットは肉を全て口に詰め込んだ。

あぁ~~~!

そんな目で見ても、無いもんは無いぞ

くっちゃくっちゃと口を動かしながら、モリセット。

くそぅ。モリセットだけ、ずるいぞぅ

……。あのな、ラト。こちとら食料は公平に分配してんだ。テメェの食い物の管理くらいテメェでしやがれ

ずる呼ばわりされたモリセットが、小太りの手下―ラトをジト目で見やる。意地汚く指をくわえるラトは、周囲の仲間たちに、

おぅい、誰か、肉持ってないかぁ肉

わりぃ、もう食っちまった

俺も品切れだ

ビスケットならあるぞー

仲間の返答に、 はぁ…… と今度はラトが深刻な溜息をつく。

みんなしてよぅ、シケてんなぁ

仕方ねーだろ。獲物逃がしちまったんだから……

しょぼくれたモリセットとラトは、再び顔を見合わせて、小さく溜息をついた。

数時間ほど前のこと。

モリセットたちは近くの岩山の陰で、人目を避けて野営の準備をしていた。しかし、手下の一人が木立で揺れる明かりを見つけたので、直ちにこれを襲撃することにしたのだ。

こんな新月の夜に自分から目立つ真似をするなど、襲ってくれと言っているようなものだ。ちょうど、手持ちの食料も少なくなってきていたことだし、盗賊としてこれを見逃す手はない。

獲物は二人。奇妙な組み合わせだった。異国の黒装束に身を包んだ金髪の少女―それもかなり器量良しの―と、草原の民風の格好をした青年。たったの二人で大して周囲を警戒することもなく、煌々と火を焚いていた。まさに鴨が葱を背負っているような状態。

対するモリセットたちは、総勢十名。先手を取って包囲し、矢を射掛ければ逃しようのない容易い獲物―のはず、だったのだが。

まさか、パヴエルがしくじるとはなぁ

……いや、ホントすんません

ラトのぼやきに、焚き火に当たりながらビスケットをかじっていた若者―パヴエルが、申し訳なさそうに頭を下げる。

茶色の巻き毛に、割と端正な顔立ち、目の下にははっきりとした隈。片目が白濁しているのは周りと一緒だが、他の団員と比べるとまだ濁り具合が薄かった。傍らには、簡素な短弓と矢筒。今回の襲撃の一番手を担い、初撃の矢を放ったのが、他でもないパヴエルだ。

あれは、相手が悪かったと思うしかないな

そう言って、モリセットは静かに首を振る。パヴエルは、仲間に加わってからまだ日が浅く、盗賊としての動きが身に付いていない。今回は相手が少数で、さらに油断していたこともあり、経験を積ませようとしたのだが―

あの野郎、避けやがった

腕を組みながらモリセットは唸る。パヴエルが矢を放った、まさにその瞬間に、あの黒髪の青年は弾かれたように身体を逸らした。音で攻撃を察知したのではなく、攻撃の際に漏れ出た僅かな殺気を感じ取り、矢の射線そのものを回避してみせたのだ。

あの距離で勘付くなんてなぁ。まぐれじゃないよなぁ

ありゃあ、分かって避けてただろ。俺が女の方を狙ったときも、直前に気付きやがったからな……

顎を撫でながら、渋い顔をするモリセット。あのように油断しきった状態から即座に回避行動を取るのは、熟練した戦士でも難しい。パヴエルは新入りではあるが、ずぶの素人ではない。モリセットも自分の技量にはそれなりの自信がある。しかしあの青年は、軽々とそれらを凌駕してみせた。

あの野郎。俺の矢に勘付けるくらいなら、女を庇うくらいのことはしやがれってんだ。それならあの娘は殺さずに済んだし、野郎は片付くしで万々歳だったんだが……

パヴエルの矢が軽々と回避されたのを見て、青年は手強いと早々に見切りをつけたモリセットは標的を少女の方に変更した。

本来ならば、野郎なんぞに用は無いので、青年の方はさっさと殺しつつ、残った少女を皆で楽しむつもりだったのだが―モリセットは、お楽しみの少女を生かすことよりも、食料や貴重品などを奪うことに重点を置いたのだ。

が、この目論見は、見事に頓挫した。矢傷を負った少女という足手まといを連れながら、青年はモリセットたちの包囲を突破し、追手の狩猟狼(ハウンドウルフ)まで撃退してしまったのだ。

逃げ出されるのはまだ想定内だったが、まさかハウンドウルフまでやられるとは思っていなかった。頭痛を堪えるように、モリセットは額を押さえる。

ああ……。十人がかりで二人を襲っておいて、逃げられた上に虎の子のハウンドウルフも二頭死なせちまった……。お頭になんて報告すりゃいいんだ……

壁の陰、鼻を腫らした状態で寝そべる、唯一生きて戻ってきたハウンドウルフに目をやりながら、

クソッ、あの野郎、次に見かけたら絶対殺してやる

……まあ、済んでしまったことは、仕方ないんだぁ

再び鬱々としたオーラを漂わせ始めたモリセットに、ラトは小さく肩をすくめた。

あーあ。でもよ、あの女も勿体ねえよな

寝転がっていた手下の一人が、夜空を眺めながら口惜しそうに呟く。

だなぁ。あれ、かなりの上玉だったぜ

あの長~い金髪。……貴族みてえだったな

案外、お忍びだったりして

それに反応して、他の手下たちも口を挟んだ。

まあ、もう生きちゃいねえんだろうけど……毒矢食らっちゃあな

オレは別に死んでてもいいけどな。明日あたり探したら、死体くらいは見つかるかも

死体はねーよ、流石に萎える

それが美人だとイケるもんだぜ、人形みたいでな

美人だろうがブサイクだろうが、穴がありゃ一緒だろ

でも一日経つと微妙じゃね? 硬くなってさ……

口の端に薄く笑みを浮かべた男たちが、やいのやいのと喋り出す。

(……流石に、そろそろ娑婆に出ないとな)

そんな手下たちを観察しながら、モリセットは考えた。思えばここ数週間、部外者との接触を極力避けて、リレイル地方を縦断してきた。皆―自分も含めて―女に飢えているのだ。それなりに付き合いのある手下たちだ、この程度で暴走するとも思えないが、溜め込んだままの状態はよろしくない。

(あるいは、今回でそれを解消できれば、と思ってたんだがな……)

異国の装束に身を包んだ少女。殺したのは少々勿体なかったかな、とはモリセット自身も思わないでもない。結局、性欲の解消はおろか食料の一つ、銅貨の一枚すら手に入らずにハウンドウルフを二頭も失ってしまった。

(こりゃお頭に絞られるな……)

モリセットの溜息は留まるところを知らない。

盗賊稼業をやるなら利益を出せ、被害は出すな、というのが盗賊団の頭領の指示だ。犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。

正直なところモリセットは、たかが二人、それも若い男女の組み合わせ相手に、こんな手痛い犠牲を払う羽目になるとは、これっぽっちも思っていなかった。

(パヴエル一人に任せたのは、失敗だったか)

今回の失敗の反省点を洗い出す。

(どうせなら弓を持った全員で、一斉にあの野郎を狙えばよかった)

青年が身に着けていた革鎧に必要以上に傷がつくのを嫌って、練習代わりにパヴエル一人に任せたのが失敗だった、と反省する。

モリセットの隊のうち、弓を装備しているのは彼自身を含めて六人。六人で同時に、そして程よく狙いをばらして射掛ければ、流石にあの男も避けきれなかっただろう。そして矢が一本でもかすれば、鏃に塗りたくった毒で無力化できる。

間抜け面の若造なんぞ、パヴエル一人で仕留めきれるはず―という、油断があった。

(忘れた頃にやってくるもんだな、油断ってぇのは……)

薄く笑ったモリセットは、空を見上げて、ふぅーっと細く長く息を吐き出した。

もはやそれは溜息ではない。次からは気をつけて全力で殺しにかかろう、と結論を出したところで、反省タイムは終了した。

さて、と気分を入れ替えたモリセットは、ぱんぱんと手を叩きながら、

よーし、てめーら。そろそろ―

寝るぞ、と手下たちの猥談を止めようとした。

カァン! と乾いた音が響く。

何だ今の、とモリセットが怪訝な顔をするのとほぼ同時、ボグンッという鈍い音が、

ぼオッ

見張りをしていた手下が、水気のある奇声を発して激しくその身を痙攣させた。

おい、どうし―

慌ててそちらを見やったモリセットの口が、驚愕にあんぐりと開かれる。

壁に寄りかかって見張りを担当していた手下―今や壊れたからくり人形のように痙攣する男の顔面に、黒羽の矢が突き立っていた。

いや、それは、ただ刺さっているのではない。頭蓋を完全に貫通し、背後の石壁にまで突き刺さっている。

文字通り男は、矢によって壁に縫いとめられていた。

なっ―

即死。あり得ない威力。

矢が石に刺さるなど。弩砲(バリスタ)でもこう容易くは―

モリセットが混乱に囚われている間に、再び乾いた快音が響き渡る。

―来るぞッ正面!

はっと我に返ったモリセットに言われるまでもなく、手下たちがさっと身を低くした。が、それを嘲笑うかのように、身をかがめた手下の一人、その胴体に無慈悲な矢が突き刺さる。

ぐおアッ

肉が引き裂け、骨の砕ける音。

背骨を折り砕かれた手下が、ぐにゃりとあり得ない方向に胴を曲げながら、吐血して倒れ込んだ。赤黒い血の泡をぶくぶくと口角に浮かばせる男は、まだ息こそあるものの―これは助からないと、モリセットは即座に見切りをつける。

素早く、足元の弓と矢筒を拾い上げた。

壁! 隠れろッ!

モリセットの号令一下、男たちは壁の陰に向かって素早く移動する。壁まで、ほんのわずか、十歩にも満たない距離。しかしその間にも、カァン、カァンと、背後から乾いた音が襲いかかり、その数の分だけ手下たちが倒れ伏していく。

モリセットのすぐ後ろでも、手下の一人がうなじを撃ち抜かれた。肉の引き千切れた首から噴水のように血が迸る。それを背中に浴びながらも振り返ることなく、モリセットは身を投げ出すようにして壁の裏側に滑り込んだ。

―クソッ、何だってんだッ!

間一髪で逃げおおせたモリセットは、大きく息をつくと同時に全身からどっと嫌な汗が噴き出るのを感じた。唯一の生き残りのハウンドウルフが、木立の闇に向かって唸り声を上げながら、モリセットに身を擦り寄せてくる。そのぼさぼさの毛を撫でつけて、モリセットは必死に荒い呼吸を抑えようと努めた。

隊長、今の、何っすか!?

知らんッ!

運よく生き残ったらしい、青ざめた顔のパヴエルの問いかけに、吐き捨てるようにして答える。自分と同様、壁の陰に隠れて身を縮こまらせる手下たちに視線を走らせ、その数を数えた。無事に逃げおおせたのは、―六人。

(ジャック、ホリー、グレッグ、ネイハム、四人もやられちまったのか!)

思わず漏れそうになった呻き声を、無表情の下に飲み込んだ。

最初、見張りを担当していたネイハムが矢を受けてから、まだ数十秒と経っていない。壁の陰に身を隠すまでのほんの僅かな間に手下のほぼ半数が矢を受けていた。しかも、そのことごとくが手の施しようのない致命傷。

っぐ……うぅ……

壁の向こう側から呻き声。まだ息のある者もいるのか。モリセットは壁の陰からそっと顔を出し、周囲の様子を窺った。

カァン、と。

慌てて顔を引っ込めると、モリセットの鼻先を白羽の矢が掠めていった。

危ッ……

上体を仰け反らしたモリセットは、腰を抜かしたように尻餅をつく。近い。ぞっとして背筋を振るわせるモリセットをよそに、矢は真っ直ぐにそばの木へと突き立った。

ブウゥゥン……と蜂の羽音に似た、振動音。生木に深く深く突き刺さった矢が、凄まじい着弾の衝撃に震えている。生身で受ければひとたまりもない―それは手下たちが証明してしまった。生半可な盾や鎧では紙のように食い破られてしまうだろう。

……モリセット、これは、マズい相手だぞぅ

ラトが低い声でぼそりと呟き、腰の鞘から短剣を抜き放つ。取り回しに優れた、良質のショートソード―しかし敵の弓の威力に比するとあまりにも頼りなさげだ。

とんでもない弓、だなぁ……

ああ。だが……

ラトの声に頷きつつ、未だ震える矢を睨みつけるモリセット。その額をつっと冷たい汗が伝った。とんでもない弓。確かにその通りだ。化け物じみた威力に、神がかった狙撃の精度。自身もいっぱしの弓使いであるだけに、それはよく分かる。

だが、何よりもモリセットが危機感を覚えているのは、

(殺気が微塵も感じられねえ……!)

これほどの威力を持つ弓であるにも関わらず、確実に命を奪い去る殺意に満ちた一撃であるにも関わらず。

感知できないのだ。その攻撃が。これの意味するところは―敵は、モリセットの技量を遥かに凌駕する使い手であるということ。

おかげでこの矢が何処から射られたものなのか、大まかな方向しか見当がつかない。弓の音と、着弾までの時間差から、かなり距離が置かれていることだけは確かだ。しかしその距離をものともせずに、確実に中ててくる技量。

ラト。何か感じ取れたか

いんや。その様子だと、モリセットもダメかぁ?

ああ

とんでもない化け物だなぁ

違いねえ。何者だ? 盗賊か?

引きつった笑みを浮かべるモリセットに、間延びした声を努めて維持するラトは、

分からね。……だども、相手は一人だと思うぞぅ

自信なさげなラトの推測は、そうであって欲しいという、ある種消極的な願望も多分に含んでいた。だが、それはおそらく正解だろうと、モリセットの勘が告げる。

(クソッ、俺らを襲っても盗る物なんてロクにねえぞ……!?)

しかもムサい男所帯だ。これほどの弓の腕前の持ち主なら、盗賊などしなくても充分に食っていけるはず。なんでわざわざ自分たちなんかを―

腹立ち混じりにそう考えていたモリセットだったが、そのときふと、木に突き刺さったままの矢に目を止めた。一点の汚れもない、白羽の矢。

(……待てよ、最初にネイハムを殺(や)ったのは、たしか黒羽の矢だったはず)

腰の剣を抜き、そっと壁の陰から突き出す。よく手入れしてある刃は、鏡のように周囲の景色を映し出した。襲撃者の矢に倒れた手下たちを見やると、その身体に突き立っているのもまた白羽の矢。

(黒い矢羽……)

モリセットの視線が、自然と、自分の矢筒に吸い寄せられる。

ぎっしりと詰まった、黒羽の矢束。

……まさか

たらり、と額を嫌な汗が流れる。

一本だけの黒羽の矢。

草原の民が得意とする、弓という得物。

モリセットを凌ぐ高い技量に、今宵この場所で襲撃してきたという事実。

それらの要素が絡まりあい、一つの推論へと収束していく。

あの野郎……ッ!

草原の民の格好をした青年。

成る程、『彼』ならば、モリセットたちを襲う理由は、充分すぎるほどにある―

(仇討ちに戻ってきやがったのかッ!)

―襲う相手を、間違えた。

苦虫を潰したような顔で、モリセットは天を振り仰いだ。

だが、いつまでも悔やんでいる暇はなかった。自分ひとりならまだしも、モリセットは手下たちの五人の命を預かる隊長だ。ここに隠れていたところで、壁は二面しかない。側面に迂回するぐらいのことは、子供でも思いつく。

(遮蔽物―林の方に逃げるしかねえな)

南の森は、矢を防ぐには絶好の場所かもしれないが、夜に踏み込むには木々が生い茂りすぎている。東西に広がる木立の方が、人の身には歩きやすいだろう。ではそのどちらへ逃げるか、とモリセットが考えを巡らせたところで、再び夜空に快音が響き渡った。

回り込まれたか、と肝を冷やしたが、自分たちに矢が飛んでくることはなく、ボフンッという音と共に焚き火の明かりが吹き飛ばされる。火勢が弱まり、暗闇が下りてきた。

(……矢で焚き火を吹き飛ばした?)

なぜ、と考えながらも、目を瞬いて暗闇に適応しようと試みる。そして不意に、『奴』も夜目が効く様子だったと思い当たり、モリセットはおぼろげに敵の考えを読み取った。

パヴエル、点眼しとけ。奴が仕掛けてくるぞ

はっ、はい

モリセットの言葉に、パヴエルが慌てた様子で懐を探る。取り出したのは、小さな金属製の容器。ふたを開け、白い液体を一滴、左目に垂らした。その薄く白濁した瞳に液体が触れた瞬間、パヴエルは うっ と苦しげな声を洩らす。液体は、とある猛毒を改良して作られた目薬で、点眼し続ければ色の見分けがつかなくなる代わりに、フクロウのように夜目が効くようになる。モリセットを含め隊の全員は、これを片目に点眼していた。

おい、煙玉持ってる奴いるか?

二個あるっす

オレも二個持ってます

一個だけなら……

続いたモリセットの問いかけに、口々に手下たちが答える。

よし。すぐにでも奴は迂回してくるはずだ。ちっとでも怪しい音がしたら、順番にばら撒きながら反対側に逃げるぞ

敵意を剥き出しに、唸るようにしてモリセット。

クソッお陰でとんでもねえ散財だ! あの野郎、絶対ブッ殺してやる……ッ

腰のポーチから取り出した、直径五センチほどの球体に目を落とし、モリセットは鬱々と呪詛の言葉を吐く。

と、その瞬間、モリセットたちから見て東の茂みが、ガサガサと派手に音を立てる。それに混ざって聴こえる蹄の音―

来たぞッ東だ、最初は俺が撒く! お前たちは走れ!

球体についていた紐を引っ張り、投げる。

これでも食らいやがれッ

煙玉(スモーク)。地面に叩きつけられたそれは、勢いよく灰色の煙を噴き出した。続いて手下たちが一つずつ投じ、廃墟の周辺はあっという間に濃い煙に包まれる。

視界を遮るよう手際よく煙玉を投げながら、モリセットたちは西に向かって一目散に逃げ始めた。

ワンテンポ遅れて、煙の尾を引くケイとミカヅキが、咳き込みながら煙幕の中から飛び出てくる。

ゲホッゴホッなんだこれッ!?

顔の前で手を振って煙を振り払いながら、慌てた様子でケイ。少なくともゲーム内にはこんな形の煙幕は存在しなかった。幸いなことに、煙に毒の成分は含まれてないらしい。

木立の奥、未だ濃く立ち込める灰色の煙を睨む。

…………

顔布の下の険しい表情。

先ほど、『襲撃者はケイである』という正しい推測をしたモリセットであったが、一つだけ大きな勘違いをしていた。

ケイの目的は仇討ちではなく、ましてや盗賊の皆殺しでもない。

モリセットたちが使った毒の種類を特定すること。

そして一刻も早く、アイリーンに解毒剤を処方すること。

その二つこそがケイの考える全てであり、他のことに気を回す余裕などなかった。むしろ、刻一刻とアイリーンが弱っていく現状、焦りすら感じていたといっていい。

周囲を見回して敵がいないことを確認したケイは、素早くミカヅキから下りて空き地に転がる盗賊たちを見て回った。

……死んだか

まるで他人事のように、ぽつりと呟く。身体に矢の突き刺さった四人。最初に仕留めた見張りは別としても、他の三人は即死ではなかった。念のため、使いかけのポーションを一瓶持ってきていたので、意識さえあれば助命を餌に、毒について聞き出せないかと考えていたのだが―。

……時間を無駄にした

緊張と焦りの色を濃くし、再びミカヅキに飛び乗る。矢筒から矢を引き抜いていつでも放てるように準備しつつ、盗賊たちの跡を追って木立に突っ込んだ。

(絶対に逃がさん……!)

煙幕は想定外だったが、追跡に支障はない。煙を辿っていけば逃げた方向は分かるし、ケイの視力を持ってすれば暗い木立の中でも盗賊たちを見つけられる。森の中では騎兵のアドバンテージ―機動力こそ活かし辛いものの、それでも構いやしないと思った。逃げるのであれば何処までも追いかけて、漏れなく矢を叩き込んでくれる。

アイリーンを救うことが至上命令であるケイにとって、盗賊の生死など心底どうでもいいことだった。裏を貸せば、情報さえ聞き出せるなら、生き残りは一人でも構わない―

……いた

早速ひとり、視界に捉える。時折こちらを振り返り、木の根に足を取られそうになりながら、必死で逃げる痩せぎすの男。きりきりと弓の弦を引き、ケイはどす黒い感情の赴くままに、迷いなくその背中に狙いをつける。

快音。

左手の強弓より放たれた銀光が、唸りを上げて盗賊に襲い掛かった。

しかし弓の音を耳にしてびくりと身体をすくませた男は、そのまま足を何かに引っ掛けて盛大に転んだ。男の頭上すれすれを、致命の一撃が切り裂いていく。身体を起こして、ますます必死に逃げ始める男。運の良い奴だ、とケイは嗤う。だが次はない、と矢をつがえる。胸の奥で、ぐらぐらと悪意が煮え滾るようだ。それは狩りの高揚に似ていた。

―強いてこのときの、ケイの失敗を挙げるとするならば。

それは、最初に四人を仕留め、迫撃の勢いに酔ううちに、『自分こそが狩る側である』と確信してしまったことだろう。

だが、こうして無様に逃げ惑う盗賊もまた、本来は他者を喰らう獣だ。

その性質は残忍。冷酷にして狡猾。

連携し、群れで追い込む狩りこそが―彼らの本領であり、真骨頂。

木立のどこかで、ピィッと指笛の音が響いた。

何だ、と思考するより早く、 オゥンッ! と獣の鳴き声。

ミカヅキの足元の茂みから、夜の闇より黒い、大きな塊が飛び出してくる。

ハウンド―!?

体格の良い黒毛の狼が、大口を開けてミカヅキの前脚に喰らいついた。牙が食い込み爪で引き裂かれ、ミカヅキが悲鳴のようないななき声を上げて急停止する。暴れる馬上、必死でバランスを取りつつ、ケイは弓を引き絞った。

銀光が閃く。

水気のある音と共に、狼の胴を白矢の矢が撃ち抜いた。地面に縫い付けられ、吐血しながら身を震わせるハウンドウルフ。盛大にいなないたミカヅキが仕返しとばかりのその頭蓋骨を踏み抜き、蹄で粉砕する。飛び散る赤い色。

だが―奇襲はそれで終わりではなかった。ギリッと何かが軋む音に、ケイはハッと顔を上げる。前方、十歩ほどの距離。茂みから、木の陰から、革鎧に身を包んだ盗賊たちが姿を現した。短槍使いが一人、剣士が一人、弓使いが二人。

弓使いたちの背後、ケイが追いかけていた痩せぎすの男(モリセット)もまた、その手に弓を引き絞る。

毒の滴る鏃―

―やれッ!

その顔を凄惨な笑みで彩った、モリセットの号令一下。

鋭い風切り音とともに、一斉に毒矢が放たれた。

つよい(確信)

追伸. 2018/09/06

10. 逆境

―これは、捌ききれない。

ひと目見て即座に、ケイは悟った。

仮初(ゲーム)の、しかし豊富な戦闘経験が告げる。

自分はまだいい。矢の一、二本は避けられるだろう。だがミカヅキが避けるには―その体が、投影面積が大きすぎる。

身体を捻って一本は回避し、続くもう一本は右手の篭手で弾き飛ばした。が、最後の矢がミカヅキの胴体に突き刺さる。

―ッ!!

苦痛に身体をよじり倒れ伏すミカヅキ。その動きに逆らわず、ケイも半ば振り落とされるような形で転がり落ちた。柔らかな森の大地で受身を取り、衝撃を殺したケイはばさりとマントを翻して立ち上がる。

騎兵が地に落ちた。快哉を上げた盗賊たちが、武器を振り上げて殺到しようするが―

不意にその足が止まった。

貴様ら

低く抑えられた声から、滲み出る怒りの色。顔布の下、獣のように歯を剥き出しにしたケイは、燃え滾るような血走った瞳で盗賊たちを睥睨した。

ぶわりと。

澱んだ空気の森に、重たい風が吹き付ける。

ケイを中心に爆発した濃密な殺気に、圧倒されたモリセットたちは思わず息を呑んだ。

が、それも一瞬のこと。

まばたきほどの間に、ケイの強烈な殺気はぱたりと鳴りを潜めた。

唐突に。跡形もなく。

静かに佇むケイは、何も感じさせなかった。怒気も覇気も殺気もなく。

ただ茫洋として地を踏みしめる、まるで人形のような存在感―

(いや、違う!)

矢を引き抜こうとする体勢のまま固まったモリセットは、全身をぶるりと震わせた。背筋に焼けつくような感覚が走る。

これは、そう。

危機感だ。

胸の奥底で、直感(シックスセンス)が警鐘を鳴らしている。

それは、何も感じ取れないからこそ不味いと。それは、自分を超越した何かが、そこに潜んでいることの証左であると―

カァン、カンッと。

風にたなびくマントの下、軽やかに響く快音の二重奏。

前触れもなく、唐突に、革の生地を突き破った二筋の銀閃が奔る。

避―

けろ、というモリセットの警告を過去のものとして、眼前、弓を構えていた手下が二人、弾け飛んだ。

一人は額をかち割られ。

一人は右肩を粉砕され。

まるで独楽のように空中でくるくると―、そのまま地に叩き付けられる。

―ッぎやあああああああぁぁァァ!

衝撃で矢が折れ、肩の傷口をさらに抉られた弓使いが絶叫した。右肩を押さえて地面をのた打ち回る彼は、自分の身に何が起きたのかをまだ正確に把握できていない。風に翻弄される木の葉のように、濁流に呑まれた小魚のように、圧倒的な武を前にして無力。

(……何も、感知できなかった)

口の中がからからに乾いていた。モリセットの額からたらりと汗が滴り落ちる。

目と鼻の先に射手がいるにも関わらず。

風圧を感じるほどの至近距離であったにも関わらず。何も、感じられなかった。

これはひょっとすると、夢か幻ではないかと。そんな、現実感をも殺すほどの凄まじい一撃。

かろうじて理解できたのは、この青年がマントの下に弓を構え、視覚的にも射線の予測を出来なくした上で、またたく間に殺気のない矢を二連射してみせたということだ。

(なんて野郎だ……!)

そんなまるで曲芸のようなことを、実戦で事も無げに実行してみせた。とんでもない奴に手を出してしまった、と嘆くことも後悔することも、今のモリセットには許されない。粘り気すら感じる冷たい空気の中で、弓を握る手に力を込める。

(こいつに弓を使わせたら不味い)

あの乾いた音が鳴り響くたびに、手下が一人また一人と倒れていく。

そして―その『次』が、自分でない保証など。

ッ殺せェ―!!

自身の怯えを振り払うかのように、モリセットは腹の底から雄叫びを上げた。と同時に、新たに矢をつがえ、放つ。

おおよそモリセットがその痩身から発したとは思えぬ大音量に、硬直していた手下たちもハッと我に返る。慌てて剣を構え突撃する剣士、それに合わせて併走する短槍使い。

飛来した矢を事も無げに右手で払い落とし、冷めた目で 竜鱗通し を構えるケイ。前方の盗賊のうち次の標的を見定めようとするが、

(……待てよ)

ふとした違和感。目の前の盗賊たちを数えた。

弓使いが三人。短槍使いが一人。剣士が一人。

(―もう一人は、何処にいる?)

生き残りは、全部で六人いたはず―

ぴりっ、と背筋に微かな悪寒が走る。

上だ。樹上を見やれば、視界に大写しになる銀色に輝く刃、小柄な人影―

くぅッ!?

バク転をするように背後に向かって飛ぶケイ、その顔面に鋼の刃が襲い掛かった。裂かれる顔布、左の頬をびりびりと冷たいような熱いような感覚が走る。地に身を投げ出し、距離を取るためにごろごろと転がったが、襲撃者はその隙を逃がさない。

死ねッ!

それは、ショートソードを構えた小太りな男だった。体格に見合わぬ俊敏さで、あっという間に間合いを詰める。

短剣使いのラト。その見かけによらず身軽さと隠密技術を兼ね備え、奇襲・撹乱を得意とするモリセット隊随一のアタッカーだ。ケイが決定的な隙を見せるまで樹上で息を潜めていたが、満を持して牙を剥く。

突撃するラト、ぎらりと輝く凶刃。ケイの弓を封じるため、近接戦闘を挑む構えか。

その狙い通り、弓での迎撃は間に合わない―左手で 竜鱗通し を握り締めたまま、ケイは右手で腰のサーベルを抜き放つ。

シッ!

鋭い呼気と共にラトが刺突を繰り出した。対するケイは無言のまま、横殴りの一撃をその刃先に叩きつける。

ギィィンと甲高い音、暗い木立が火花の色に染まった。豪快に短剣が弾かれ、ケイの膂力に目を見開くラト。しかしそのまま驚きに囚われることなく、左手で黒塗りのナイフを引き抜き、ケイに向かって突き出した。

―踏み込みが浅い。まるで苦し紛れの一撃だ。身を引いて至近距離からのナイフを悠々と回避するケイ、だがその瞬間にラトはにやりと笑った。

キンッ、と金属音。肌を刺すような危機感。

ケイが反応するより早く、ナイフに仕込まれたバネが、勢いよく刃を射出する。

(弾道ナイフ?!)

何とか身体を傾け、あわやというところで直撃は避けた。首の皮が切り裂かれて焼け付くような痛みが走る。体勢が崩れたケイに、追い討ちを仕掛けるラト。ケイのサーベルの牽制を紙一重でかわし、容赦なくショートソードを振るう。

ぐうぅッ!

ケイの口から苦痛の声が漏れる。左肩の革鎧の隙間に刃がねじ込まれた。肉が抉られ、強烈な痛みに思わず弓を取り落とす。

力任せに体当たりを仕掛け、何とかラトを弾き飛ばしたものの、その背後からは長剣を振り上げた剣士と短槍使いが迫る。

これは―、まずい。自由の利かぬ左腕。素早く立ち上がった目の前の短剣使い(ラト)、その背後の短槍使いは槍ごと突進してくる構えだ。そして横の剣士の突撃も充分に勢いが乗り、一人離れた弓使い(モリセット)も虎視眈々とこちらを狙っている。

おそらく全員でタイミングを合わせて攻撃してくるだろう。特に脅威的なのは目の前の短剣使いと、距離を置いた弓使い。いずれかを迎撃すれば、他の攻撃をまともに喰らう羽目になる。さらに逃げを打つか―いやそれもまずい。立て直しがきかないままではいずれにせよジリ貧に―

ゆっくりと流れる時間の中、ケイは選択を迫られる。どの攻撃を受けるか、あるいは、いなすのか。

ぶるるぅォ!!

だがここで、倒れていたミカヅキが一石を投じる。口から血の泡を噴きながらも最期の力を振り絞り、半身を起こしてケイと対峙するラトに後ろ足を向けた。

それにラトが気付くのと、強烈な蹴りが放たれるのが同時。

ぶぅんと不気味な唸りを上げた蹄が、ラトの顔を直撃した。

ぼぐゥッ

おおよそ人の声とは思えぬくぐもった音を立てて、ラトの顔面が崩壊する。赤黒い血と肉片をばら撒きながら、小太りな身体が吹き飛んでいった。きりもみしながら、頭からぐしゃりと地面に落ちる―バウンドし、激しく痙攣を繰り返す肉体。

ラトぉッ!

こいつっ、よくもッ!

額に青筋を浮かべたモリセットが、ミカヅキに向かって矢を放つ。胴体に黒羽の矢が突き立ち、断末魔の悲鳴を上げたミカヅキは、今度こそ力尽きたようにどうと倒れた。

ケイの頭に、かぁっと血が上る。

貴様ァッ!

憤怒の形相。左頬を切り裂かれ血に塗れたケイの顔は、地獄の悪鬼が如き様相を呈している。だが、その姿は同時に満身創痍。どくどくと血を流す左腕はだらりと垂れ、得物は右手に握り締めるサーベルのみ。圧倒的に自分らが優勢であると知るモリセットたちは、ケイの気迫にも怯える様子を見せなかった。

ハッハハ、悔しいか! 嬲り殺しにしてやるッ!

残忍な笑みを浮かべて弓を引き絞るモリセット。短槍使いと剣士もまた、引きつったような笑みを浮かべている。

対するケイは、―逃げた。

くるりと踵を返し、モリセットの狙いを惑わすように、木々の陰に隠れながら走る。

ッ待ちやがれ!

慌てて追いかける剣士と短槍使い。

モリセットはひとり冷静に、その場から矢を放つ。

音と殺気で攻撃を察知し、小刻みに動いて矢を回避。ケイはモリセットを中心にして、円を描くように走った。その間にサーベルを口に咥え、右手で腰のポーチを探る。

取り出したのは、ひとつのガラス瓶だ。

その中でとぷんと揺れる、青色の液体―使いかけの高等魔法薬(ハイポーション)。

半分しか残っていないが、肩の傷を治療するには、これだけでも充分すぎるはずだ。瓶のコルクを親指で外す。

地面に目を走らせ、目当てのものを見つけた。

そちらに向かって走りながら、何度か深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたケイは肩の傷にポーションをぶちまける。

その瞬間、視界が真っ白に染まった。

『―痛えええええええええええぇぇぇええェェェェッッッッ!!!!!』

日本語。絶叫。

腹の底から絞り出したような、空気がびりびりと震える大音量。

ひとり叫ぶケイの右肩から、白い湯気のようなものが凄まじい勢いで立ち昇った。

激痛。

最早、そんな言葉では生ぬるい。

まるで肩の傷に塩を擦りこまれ、細胞をぷちぷちと針で潰されていくかのような。

やすりで肉を抉り、磨り潰され、熱した火箸で神経を引きずり出されるかのような。

今は怒りも憎しみも焦りも、全てが遥か彼方に吹き飛んでいた。吼える。目の前が白くなるような、痛覚の奔流。

ぐッうおおおおおおおおおおおおオオオオオオォォァァァァァァァァッッッッッ!

驚いたのはモリセットたちだ。追いかけていた満身創痍の青年がいきなり絶叫したかと思うと、肩から得体の知れない気体を噴き上げて猛烈に苦しみ始めたのだ。

ジュウウゥッ、と焼けた鉄を水に突っ込んだような音と共に、迸る涙をぬぐいもせずに慟哭する。口に咥えていたサーベルが地に落ちてカランと音を立てた。その肩から立ち昇る湯気のようなものが何なのか、理解の追いつかないモリセットたちは呆気に取られる。あるいは、彼らの目がケイ並みに良ければ、肩の傷口が真新しい白い皮膚に覆われていく様を見て取れたかもしれないが。

ぜえ、ぜえと。

……貴様ら、

肩で息をするケイは、ぎろりと目の前の盗賊たちを睨みつける。涙に濡れ、血走った両眼、開かれた瞳孔にモリセットの顔が映り込む。

―まとめてブッ殺すッ!

痛みを全て怒りに転化し、八つ当たりのように宣言。

乱暴にサーベルを拾い上げ、大地を蹴る。

停滞していた戦いの火蓋が、再び、切られた。

11. 対価

一瞬の間隙、そして突然の戦闘再開。

先に我に返ったのは短槍使いの男だ。腰だめに槍を構えて、迎撃の態勢を整える。

対するケイは右手にサーベルを構え、弓使い(モリセット)の存在を意識しつつも、剣士と短槍使いの間で視線を彷徨わせた。

そして、その黒い瞳が、すっと剣士に照準を合わせる。

たなびくマントの影、キンッ、と澄んだ音を立て、左手の指でポーションの瓶を弾く。剣士の顔を目掛けて、ガラス瓶がきれいな放物線を描いた。

それは投擲ですらない、ただ指で弾き飛ばしただけの攻撃。速度も殺気も威力も中途半端、だが中途半端であるが故に注意を引き付ける。

反射的に動いた剣士の長剣が、瓶を空中で叩き落とした。

破砕。

割り砕かれた瓶が細かな破片を飛び散らせ、その幾つかが剣士の顔に振りかかる。目には入らなかったが鋭利な破片が顔を切り裂き、剣士は うおッ と声を上げて一瞬たたらを踏んだ。

死ねやゴラァッ!

それをよそに、短槍使いの男が槍を繰り出す。弓を持たぬケイであれば、自分一人でも何とかなると思ったのか。あるいはケイの剣の腕は、短剣使い(ラト)にいいようにしてやられる程度で、それほど脅威ではないと軽んじたのか。

実際のところ、それはあながち的外れでもない。ラトには不意を突かれたとはいえ、事実としてケイは剣を苦手としている。

―弓(・)に(・)比(・)べ(・)れ(・)ば(・)。

うおおおッッ!

鋭い槍の一突き。短槍使いを睨みつけたケイは、横殴りのサーベルをもってそれの返答とした。サーベルの刃が短槍の柄を叩き、けたたましい金(・)属(・)音(・)が鳴り響く。柄を砕き折る勢いでサーベルを振るったにも関わらず、まるで傷一つ付かない短槍。

金属製。短槍使いの得物は、刃から柄に至るまで、その全てが合金で構成されていた。普通の槍に比べればかなり重量があるはずだが、木製に見せかけた塗装と、軽々と扱う短槍使いの技量が、その材質をケイにそれと悟らせなかったのだ。

眉をひそめるケイに動揺を見て取ったのか、にやりと口の端に笑みを浮かべた短槍使いは強引に槍を振るう。サーベルに弾かれて僅かに狂った軌道を腕力で修正し、穂先をケイに向かって勢いよく突き込んだ。

力押し。腕力に自信があるが故の選択。

しかし次の瞬間、それが悪手であったことを悟る。咄嗟にサーベルの刃の背に左手を添えたケイが、短槍使いを遥かに上回る膂力をもって、力比べを挑んできたからだ。

―おおおおぉぉッ!?

尋常でないケイの腕力を感じ取り、短槍使いはサーベルを撥ね退けようと全身全霊で力を込める。

しかし、押せない。

びくともしない。

むしろ槍の構えを無理やり押し広げられている。ただ槍にサーベルを添えられただけにも関わらず、ケイと短槍使いの攻防は一瞬で逆転していた。

がりがりと音を立てて、火花を散らすサーベルが槍の柄の上を滑走する。迫る鋼の刃。短槍使いが身を引くよりも早く、力任せに槍の防御を押しのけたケイが神速で懐へと踏み込んだ。

剣の間合い。レールのように槍の柄を奔ったサーベルが、短槍使いの手元へと辿り着き、当然のようにその指を切り飛ばす。

しかし刃は止まらない。指が地に落ちるよりも速く、サーベルが短槍使いの足の間に割って入る。鋼の凶器が男の内股を薙ぎ、左大腿動脈が切り裂かれ赤い血潮が噴き出した。

だがそれでも尚、無慈悲な剣舞は止まらない。ようやくケイの速さに知覚が追いついた短槍使いが、悲鳴を上げようと口を開く。だがその声が絞り出されるよりも先に、跳ね上がった刃が返す刀で首筋を撫でた。頸動脈を裂く、致命の一撃。

ごぽりと喉から湿った音を立てながら、血飛沫を撒き散らす短槍使い。力なく地に倒れ伏す彼に、しかし目もくれることもなくケイは半身を翻す。

真っ直ぐにサーベルを突き出した受けの構え。我流ではなく、明らかに修練を積んだと分かる滑らかな動き。

一瞬の間に、ケイはもう一人の剣士に対する防御態勢を整えていた。

ふッ……ざけるなァァァッ!

長剣を掲げて打ちかかりながら、突き動かされるようにして剣士の男は叫ぶ。

今しがた斬り捨てられた男は、隊でも随一の力自慢だった。合金製の槍を軽々と扱う膂力、そして長時間戦えるスタミナを兼ね揃えた、自他共に認める槍使いだった。

それが。

一瞬、投擲物に気を取られ、視線を戻したときには、サーベルの錆と消えていた。

まさに鎧袖一触。

なんという武威。なんという―理不尽。

(弓に加えて剣も一級だとッ!?)

剣士として、理不尽を感じずにいられない。こんな若さの青年が、何故これほどまでの力を―

しかし、それも当然といえば当然のことだ。

限りなく中世に近いファンタジー世界、 DEMONDAL 。文明の利器に甘やかされることなく育ったこの世界の住人たちは、無論、現代人よりも身体能力に秀でている。特に荒事を生業とするモリセットら一味は、膂力やスタミナにおいて、この世界の一般人をも大きく上回っていた。

が、対するケイは、その世界をモチーフとしたおとぎ話の国(VRMMO)からやってきた、最高の戦士の中でもさらに上位の存在だ。

その身体能力は、一言で言うなら化け物。

控え目に言っても人外クラスだ。

加えてケイは、ゲーム内でひたすら洗練され続けてきた汎用剣術を修めている。

プレイヤー同士が動画サイトで情報を共有し、合理的に数学的に、そして人間工学的に研ぎ澄まされてきたえ(・)げ(・)つ(・)な(・)さ(・)の結晶。

心臓や肝臓などの急所は当然として、全身の動脈や金的、眼球なども積極的に狙っていく。場合によっては武器を放棄することも想定されており、徒手格闘すらも『剣術』の範疇のうちに含まれる。

ケイの場合は筋力に優れるので技巧よりも力に重点を置き、守勢に回りつつもカウンターで急所を狙う、防御的な殺人剣がその基本だ。

ゲーム内では初歩の初歩とされる剣術だが、ケイはこれを完全にものにしており、上級プレイヤー相手に豊富な戦闘経験も積んでいる。基本ゆえに奇をてらった戦法には弱い節があるものの、ケイの”受動(パッシブ)“と併せれば、一対一で普通に戦う分には、滅多な相手に負けることはない。

―そう、例えば、目の前の剣士のような、普通の相手には。

くそがぁッ!

怒鳴りつけながら、上段に構えた長剣をケイ目がけて振り降ろす男。

自暴自棄とも取れる正面からの攻撃。殺気を感知するまでもなく、当然のように流れるように、そして機械的にケイは対応する。

上段から迫る長剣に、迎撃のサーベルを叩きつけた。防御というよりもむしろ、武器そのものを破壊するかのような手荒な一撃。

ギイィン、と鈍く刃が共鳴し、夜闇に火花が飛び散る。

ぐッ!?

刃がぶつかり合った瞬間に、剣士の手に長剣が吹き飛びそうになるほどの衝撃が襲う。鍔迫り合いになどなりようもなく、ただ弾かれる長剣。

そこで、その衝撃を逃がして回避行動を取るなり、別の手を打つなりすればよかったのだが―無理やり体勢を修正しようとしたのが彼の運の尽きだった。

中途半端に力の篭った構えに、ケイがぐいと割って入る。左手の篭手で剣を押しのけ、無理やりこじ開けるようにして肉薄した。そして突き込むサーベル、革鎧の隙間の喉元に鋭い刃が吸い込まれる。

こっぉ

喉を刺し貫かれ、カッと目を見開いた剣士は、そのままぐるりと目を裏返らせた。その身体から力が抜けるのと、微弱な殺気がケイを貫くのとが同時。即座にサーベルで串刺しにした死体を前面に掲げるケイ。

ドッ、と軽い衝撃が死体越しに伝わる。盾代わりにした剣士の背中に黒羽の矢が刺さっていた。

何なんだよ……何なんだよお前はァッ!?

見れば、最後の一人、引きつった顔のモリセット。ずっと弓で剣士を援護しようと構えていたのだが、ケイが射線に気を払い、剣士を盾にするように立ち回っていたため、ロクに矢を放つことができなかったのだ。

悲鳴のように叫びながら、弓を引き絞る。

その場にサーベルごと死体を打ち捨てたケイは、転がるようにして迫撃の一矢を避けた。そして、あらかじめ目星をつけていた『それ』を、拾いながら立ち上がった。

ケイの手に握られたそれを見て、今度こそモリセットは顔から血の気を引かせる。

朱色(あかいろ)の、弓。

木立の中、ほぼ無きに等しい星明かりを受けて尚、その朱塗りは美しくあでやかに。

矢がつがえられた。

ぎりぎりぎりと。まるで地獄の門が顎(あぎと)を開くが如く。

弦が引き絞られる。狙いはぴたりと、モリセットへ。

定められた。

モリセットの顔面をだらだらと冷や汗が伝う。その手から力が抜けて弓がこぼれ落ちた。触れた空気が弾けそうなほどに、張りつめた殺意がケイの全身から溢れ出している。

―What(何か) do you say(言うことはあるか)?

問いかけられたモリセットは、媚びへつらう笑みを浮かべようとして、失敗し。

それでも引きつった笑みに近い顔で、

I’m sorry(ごめんなさい)

カァン、と。

快音とほぼ同時、銀光がモリセットの右膝を撃ち抜いた。

―ッ!

声にならない叫び。膝小僧を貫くように、関節をまとめて破壊され、右足はその機能を喪失した。足をあらぬ方向へと折り曲げながら、モリセットは地面に這い蹲る。

―ぁ! ぉ―ッッッ!

あまりの激痛に、しかし痛みのあまりもがくことすら出来ず、ひきつけを起こしたように身体を震わせ絶叫するモリセット。そんな彼をよそに、ケイはゆっくりと歩み寄りながら、新たな矢を引き抜いて弓につがえた。

しばし待つ。

肺の中の空気を根こそぎ絞り出し、呼吸もままならず喘ぐモリセットに、ケイは再び声をかけた。

お前にチャンスをやろう。俺の質問に答えろ

その言葉に、モリセットは脂汗にまみれた顔を上げ、じろりと目を細めてから悔しげに頷いた。

簡単な質問だ。お前たちが使っている毒の名前と系統を教えろ

……毒の名は 鴉の血 。系統は”隷属”だ……!

かすれた声で、モリセットが答える。“隷属”系統―村に残してきた解毒剤の一つが当てはまる。ケイは、自身の表情が変わりそうになるのを必死で抑えた。

……毒、あるいは解毒剤は、手元にあるか?

油断無く、いつでも矢を放てるように注意しながら、重ねて問う。

ある、両方とも……

胸元を探ったモリセットが、睨むようにケイを見上げながら、目の前に金属製と木製のケースを一つずつ置いた。

大きい方が毒、小さい方には、解毒剤が入っている……

分かった。もう少し前に押し出せ、俺が足で取れるように

弓をちらつかせながらケイ。この期に及んで、モリセットはそれ以上怪しい素振りを見せなかった。大人しく差し出されたケースをおもむろに拾い上げる。

大きい方のケースは、ガラス製の容器を木細工で覆ったものだ。中にはとろみのあるドス黒い液体。なるほど、見るからに『毒』という感じの代物だった。

対してもう一つの小さいケースは、ケイが持っているそれに近い丸薬入れだ。中には、ケイの持つ解毒剤より一回り小さい、白い錠剤がぎっしりと詰まっていた。

…………

しばし考え、ぱちんと丸薬入れのふたを閉めたケイは、毒薬入れを開けて無造作に自分の矢を突き入れた。かき混ぜる。鏃に付着するどす黒い液体―そして、自然にそれを弓につがえ。

放つ。

軽い音が共に、モリセットの左ふくらはぎに矢が突き立った。暗い木立に、再びかすれた悲鳴が響き渡る。

―なっ、なんでっ

お前が本当のことを言っているか確かめたい

いよいよ顔面を蒼白にして呻くモリセットに対し、淡々と言い放ったケイは、自前のポーチから赤色の丸薬を取り出した。無造作に、モリセットの眼前に放り投げる。

死にたくないなら飲め。それも”隷属”系の特効薬だ

…………

ハッハッ、と荒い息遣いのモリセットは、しばし視線を丸薬とケイの間で彷徨わせた。

しかし結局、のろのろとした動きでそれをつまみ、口に入れ、飲み込む。よほど酷い味なのか、顔を歪ませたモリセットがえずくような声を上げる。

…………

数秒、数十秒と過ぎても、モリセットの体調に異変はない。毒は隷属系、という事実に嘘はないようだった。このとき初めて、ケイは少し気を緩める。

……どうやら本当らしいな

……当たり前だ、……この期に及んで、つまらん嘘など……

足の傷の失血が響いてきたか、青白い顔でモリセット。

……その素直なところは評価する

じゃ、じゃあ……

わずかに希望の色を見せるモリセット。ケイは無言のまま、矢筒から新たな矢を引き抜いた。それを見たモリセットは再び滝のように冷や汗を流し始める。

お前に、もう用はない

なぁっ!?

無慈悲なケイの言に、モリセットが目を剥いた。

たっ、助けてくれるッて……

『助ける』とは一言も言っていない。『チャンス』と言っただけだ

冷たく言い放ち、ぎりぎりと音を立てて弓を引き絞る。

お前には『正直に真実を話すチャンス』をくれてやっただろう

そんな……

ケイの目を見て、そこに一切の希望がないことを悟ったのだろう、モリセットは唇をわななかせる。死神の足音が、すぐそこまで迫っていた。

そんなッ……あんまりだ……!

憎々しげなモリセットの呟きに、ケイは表情を険しくする。

……もはや、抵抗するすべを失った相手だ。

本当に殺すのか? と心の中で。

そんな風に、ささやく声が。

だが、逃がすのは論外だし、手当をしなければどうせ死ぬ。

そして手当をしてやる時間も義理もない。

ならば。

―そもそも、こいつは俺を、俺たちを殺そうとしたのだ。

そう、自分に言い聞かせ。

ためらいを振り払った。

心を鬼にした。それを自らに強いる。

……許すわけにはいかない。死ね

快音。

モリセットが最期に見たのは、自身に迫る銀色の光。

そして弓を構えるケイの背後に、なぜか、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。

ひどく無邪気で、それでいて妖しい笑顔を浮かべる少女の姿を。

瞬間、水音を立て視界が真っ赤に染まり、意識が弾け飛んだ。

どちゃり、と地に崩れ落ちるモリセットを背に、ケイは急いでミカヅキの元へと走る。

全く身じろぎしない、褐色の毛並みのバウザーホース。その傍らに膝を突き、名前を呼んで首元に手を当てたケイは、しばしの沈黙のあと クソッ と毒づいて下唇を噛んだ。

ミカヅキの身体に、生命の鼓動はなかった。

抜け殻のようになったミカヅキ。目を閉じたまま、口から少量の血の泡を吐いて、息絶えている。

ミカヅキの胴に刺さった矢を見たときから薄々思ってはいたが、例え毒矢でなくとも、これはもう助からなかったかも知れない。狙い澄ましたかのように、腎臓と肝臓のある位置がやられていた。ポーションが数瓶はないと、とてもではないが治療しきれなかったであろう。

……痛かったろうな。ごめん

たてがみを撫で、語りかける。遺体を目の前にして、今更のようにじくじくと罪悪感が湧いて出てくるが、ケイには乗騎の死を悼む時間がなかった。

村の方角を見やる。

立ち上がろうとして、ふらついた。体が妙に重いことに気付く。

肉体的にも、精神的にも、ケイは限界寸前まで疲弊していた。当然かもしれない。異世界で、人生で初めてだらけのことに直面し、とうとう殺人にまで手を染めてしまった。

(……いや、だが、これはおかしい)

ただ疲れたにしては―妙な感覚がある。まるで、バケツに開いた穴から少しずつ水が漏れ出ていくような、そんな感覚が。

そこで、はっと気付いた。

(まさか……毒か?)

ケイ自身、盗賊たちとの戦闘で少なからず負傷している。思い出すのは短剣使い、無意識のうちにケイは首の傷に手を伸ばした。

奇襲や暗器のナイフなど、あのような搦め手を使う男が、毒の使用を避けるとは考えにくい。傷はそれほど深くないので、毒も微量しか盛られなかったのだろう。念のため、ポーチのケースから、赤色の丸薬を取り出して飲み込んだ。

……ぅぇ

たしかに、酷い味だった。ポーションなど比較にならないほど。吐き気を催したが、若干、身体が軽くなったような気もした。思い込み(プラシーボ)効果に過ぎないかも知れないが……。

……さて、

改めて村の方角を向き、ケイは考える。ここからタアフの村までは、ミカヅキをトップスピードで走らせて十分弱かかった。人の足ではどれほど時間を食うか―自分が村に戻るまで、アイリーンがもつか。

厳しいな……

ふぅ、と小さく溜息をついたケイは、そっと右手を首元に伸ばす。こうなれば、最終手段を使うしかない。ごそごそと首の周囲をまさぐり、篭手越しに細いチェーンを探り当て、ケイは胸元からネックレスを引きずり出す。

銀のチェーンの先には、薄緑色に透き通った、親指の爪ほどもある大粒のエメラルド。

それだけでひと財産になるような、最高級の品だ。ケイは右手にぶら下げたそれを眺め、ミカヅキの遺体に視線を移した。

……ミカヅキがいるんだから、お前も来てるんだろ

頼むぞ、と祈るような呟き。

Mi dedicas al vi tiun katalizilo.

囁くように”宣之言(スクリプト)“を唱え、そっとエメラルドに口づける。

直後。

くすくすくす、と。

押し殺したような、小さな笑い声が聴こえた。

何処から、とも言えない。

くすくす、くすくす、と。

草原の葉を揺らす風の音とともに。

ケイの周りを、あらゆる方向から、取り囲むように。

― Kei ―

耳元。

― Vi estas vere agrabla ―

耳朶を蕩かすような、甘えた囁き。


ピキッ、と小さな音が響いた。

手元。ぶら下げたチェーンの先、エメラルドに無数の傷が走っている。

見る見るうちに亀裂は数を増やし、緑から白へと色が変わっていくエメラルド。

やがて、パキンと砕け散ったそれは、砂よりも細かな粒子へと姿を変え、吹き抜けた風に誘われて夜闇の中に溶け去って行く。

それを見届けたケイは、虚空に向かって、その名を呼んだ。

Maiden vento, Siv.

すう、と呼吸を整えて、

Vi aperos(顕現せよ).

瞬間、ケイは身体の中からごっそりと、何か大切なものが奪い去られるのを感じた。

†††

ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……

ランプの炎が揺れる、薄暗い部屋の中。

ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……

しわがれた老女の声が、単調に文言を紡ぐ。

タアフの村、クローネン宅の一室。

小さな寝台の上に、熱に侵され未だ意識の戻らぬアイリーンが寝かされていた。そして寝台を囲むように、村人が四人。彼らはケイが出て行ったあとから、まんじりともせずに、その帰りを待ち続けていた。

一人は、寝台の近くに椅子を置き、発熱でうなされるアイリーンの世話を焼く、村一番の高齢者にして呪い師・アンカだ。

彼女は先ほどからずっと、村に伝わる治癒の文言を唱えながら、水で濡らした布でアイリーンの額に浮いた汗を丁寧に拭っていた。時折、急激に顔色の悪くなるアイリーンに、ケイから預けられたポーションを少しだけ服用させるのも、彼女の役割だ。

……アンカ婆さん、大丈夫か。もう夜も遅いし、なんだったら俺が代わるが

そんなアンカに、遠慮がちに声をかけたのは、壁際に控えていた村長の次男・クローネンだ。

いんや。この程度、どうってことないさね。心配しなさんな

アンカのゆっくりとした言葉に、 そうか、 と引き下がったクローネンは、どこか残念そうにすら見える。

元々、アイリーンの看病というよりはむしろ、彼女が盗賊団の一味であることを考慮して『見張り』の役割を与えられていたクローネンだったが、盗賊の仲間どころかアイリーンが本当に毒で死にかけていると知ったあとはひどく同情的で、今は自分から積極的にアイリーンの世話をしようとしていた。

自分が、自分こそがケイからアイリーンの世話を仰せつかったのだ、と使命感に燃えるアンカに、やんわりと助力を断られ続けられているが。

…………

アイリーンを心配する二人組をよそに、壁に寄りかかるようにして、ぼんやりと虚空を眺めているのは、特徴的な濃い顔立ちをした猟師・マンデルだ。

相変わらず彫の深い顔立ちのせいで、黙っていると何を考えているのか傍目にはよく分からない。ただ、今の彼は、ポーションのおかげで何とか命を繋いでいるアイリーンよりはむしろ、盗賊への戦闘に飛び出していったケイのことを心配していた。

あの、暗闇の中で蝙蝠を撃ち抜いて見せた弓の腕があれば、滅多なこともあるまいとは思いつつも、それでもやはり落ち着かない気分だった。そしてそれを考えて、連想するのはケイの持つ見事な朱塗りの弓だ。

あの矢を放つ際の音からして、かなり張りの強い弓であるはず。ケイが帰ってきたら触らせて貰えないだろうか、などと思考が若干呑気な方向に逸れていく。

そしてそんなことを考えているうちに、再びケイの安否が気になり、心配しては弓のことを考え……という思考のループを、マンデルは延々と繰り返していた。

……はぁ

部屋の隅、小さな溜息が響く。他の三人とは少し距離を取り、椅子に座って腕を組んだまま憮然とアイリーンを眺めているのは、村長のベネットだ。

(惜しい……)

アンカが、残り少なくなってきたポーションをアイリーンに飲ませるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をする。

ベネットの気持ちを一言で表すならば、『勿体ない』だ。

致死の毒に侵され、死にかけている小娘を延命させるためだけに、目の前で極めて貴重な高等魔法薬(ハイポーション)が浪費されていく。これがあれば、タアフの村だけではなく、近隣の村も含めて毎年どれだけの子供が病や怪我で死なずに済むか、ベネットには考えるだに口惜しかった。

ケイは盗賊たちから毒の種類を聞き出し戻ってくる、とは言っていたが、それは流石に無理だろうというのが、ベネットの考えだ。

人数差の問題もあるが、そもそも悪名高い”イグナーツ盗賊団”を相手にしているのがまずい。ここ数年は大人しくしているようだが、一時期は”イグナーツ”の名を聞くだけでも歴戦の傭兵たちが尻ごみするほどに凶悪な武装集団だったのだ。

ケイは質の良い馬を持っているので、あるいは逃げ帰ることくらいはできるかもしれないが、仮に話を聞くために戦闘に陥ったならば、ケイは生きて帰って来ないだろうとベネットは予測している。

そこにきて、余所者の小娘のためだけにポーションを浪費―。

(口惜しい……)

ぎり、と歯噛みしながら、ひとり嘆く。

実は先ほど、ベネットは他三人に、アイリーンにポーションを飲ませるのをやめよう、と提案していた。あえて回復させずに毒で死なせてしまい、ケイが帰ってきた場合は ポーションを使い果たしてしまったので、治療しようがなく死んでしまった と説明しつつ、実際には何本かのポーションをネコババしてしまってはどうか、と。

しかしこれは、三人全員に止められた。

あのお方は必ず帰ってくる! と根拠なしに言い張るのがアンカ。

それは流石に酷い、と人が良すぎることをぬかすのが、クローネン。

そして、 俺じゃアイツ相手に嘘をついてバレない自信がない といって加担することを拒んだマンデル。

三者三様ではあったが、あのマンデルをして、かなり強硬な態度で反対されてしまったので、ベネットも渋々引き下がったのだが。

(それにしても、のう)

惜しい。あまりに惜しい、と。

アイリーンにポーションを飲ませるアンカの後ろ姿を見ながら。ベネットの表情がさらに渋くなる。

(……まぁ、仕方がないのかのぅ)

はぁ、と今一度、小さく溜息をつこうとした―その瞬間。

びゅごう、と。

家の外で、風が吹いた。

……?

ただ、風が吹いただけ、のはずだったのだが。

何か違和感を感じたベネットは、羊皮紙で塞がれた窓に、すっと視線をやる。

ぱさ、ぱさ、と。

不自然に、窓の羊皮紙が動く。

なにか―冷たい空気が。

突如、ごうっと音を立てて、部屋の中に一瞬だけ突風が吹き荒れた。

うおっ!?

なんじゃ!

それぞれ、驚きの言葉を口に。部屋にまで不自然に入(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)強い風に、部屋の中を照らしていたランプの火が、全て吹き消された。

真っ暗になった部屋の中―何も見えない。

はずが。

その暗闇の向こう側に、ベネットは、そして部屋に待機する一同は。

ひとりの、羽衣をまとった、あどけない雰囲気の少女の姿を幻視した。

うおおおッ!?

なんだお前は!!

動揺して素っ頓狂な声を上げる男性陣。が、それに対してアンカだけは、

せっ、精霊様じゃああああああぁぁ!!

無邪気な笑みを浮かべる少女の姿に、テンション爆上げで絶叫する。

精霊!? これが……?

まるで幽霊か化け物のようだ。『そこにいる』はずなのに上手く知覚できない、存在そのものが希薄に感じられる『何か』の出現に、神聖さよりもむしろ不気味さを感じてしまったベネットは思わず疑わしげな声を出す。

そんなベネットたちの姿に、くすり、と口元をほころばせた少女は、

― En la nomo de miaj abonantoj, mi transdonu lian mesagxon ―

あどけない雰囲気には不釣り合いなほど、艶やかな声で一同に告げた。

おお、ありがたやありがたや……

婆様、何を言っているのか、分かるのかっ?

羽衣の少女が何を言ったのか全く理解できなかったベネットは、両膝を床に突き手を擦り合わせて有難がり始めたアンカに勢い込んで尋ねるも、

分かるわけないさね、精霊語だよこれは!

気の抜けそうな返答に、ずりっと椅子から滑り落ちそうになった。

分からんのに、ありがたがっとるのか!

このような美しい精霊様がおっしゃることぞ、ありがたいお言葉に違いないさね!

そんな馬鹿な、と思わず呆れたベネットが、さらに言葉を続けようとしたとき、

『―聞こえるか? ケイだ、アンカの婆さん、聞こえるか』

部屋の中に、『ケイ』の声が響き渡った。

―ケイ! ケイなのか!?

目を見開いたマンデルが、大きな声で問う。

『―時間がないので手短に言う。俺の契約精霊に、声を運んで貰うことにした。毒の系統は”隷属”で、特効薬は赤色の丸薬だ。アンカの婆さん、特効薬は、赤色の丸薬だ。一粒でいいから飲ませてやってくれ、頼んだ』

ケイ、今お前はどうしてるんだ! どこにいる!?

マンデルが少女に向かって問いかけるも、少女も、ケイも、何も答えない。

― Jen cio ―

ただ、それだけ、短く告げた少女は。

ごうっ、と部屋の中に再び風を巻き起こし。

次の瞬間には幻のように消えていた。

…………

呆気に取られて、しばし、部屋の中が沈黙に包まれる。

……赤色の丸薬!

最初に我に返ったのは、やはりというべきか、アンカであった。

クローネン! 火じゃ! 明かりを!

あっ、ああ、わかった!

アンカに命じられたクローネンが、どたどたと慌てて部屋を出ていき、すぐに外から火種を取って戻ってきた。

ランプに火を灯し、光源を確保。

アンカは懐を探って、ケイから預かっていた丸薬を取り出す。

―そして、あった。確かにあった。

赤色の、丸薬。

お連れの方を、今お助けしますぞ……!

震える手で、それをつまみあげたアンカは、アイリーンの唇を開き、少量の水とともに飲み込ませる。

果たして―アイリーンは。

†††

数十分後、タアフの村に、汗まみれになった一人の男が走って戻ってきた。

ケイだ。

脳筋戦士(ピュアファイター)の分際で魔術を行使したせいで、魔力の反動で危うく死にかけたケイだが、その直後に無理を押し通して数キロの道のりを全力疾走したため、吐き気と疲労の二重苦で息も絶え絶えであった。

頬を切り裂かれ、右肩も血塗れ、顔面は蒼白で幽鬼じみた雰囲気を漂わせるケイに、警戒を担当していた村人たちも村長を呼ぶことすらせず黙って道を開けた。

ふらふらになりながらも、村の中を駆け抜ける。砂利道を抜け、見覚えのある小さな家、クローネンの家へ飛び込んだ。

アイリーンッ

ばん、と小さな部屋の扉を開けると、蝋燭の薄明かりの中、寝台を取り囲んでいた四人の村人たちがサッと振り向いた。

どッ、どうなッ、アイリーンッ

ケイ殿、落ち着いて下され

寝台脇の椅子から立ち上がったアンカが、酸素不足に喘ぐケイの手を引いて、寝台の横までいざなった。

貴方のご尽力で―助かりましたぞ

寝台の上。

穏やかな顔で、すやすやと寝息を立てる、アイリーンの姿があった。

……ああ

へたり込むようにして、寝台の横で膝を突き、ケイは泣きそうになりながらアイリーンの髪を撫でた。

指に伝わる、確かな暖かみ。生きている。

―よかった。

色々と考えることも、後悔することも、あるが。

どうにかアイリーンだけは、助けられた。

よかった、……ほんとうに、

ほっと安堵の溜息をつくと同時。

ふらりと力なく、寝台に突っ伏したケイの意識もまた、泥のような疲労に引きずられ。

そのまま、暖かで心地よい闇の中へと沈んでいった。

12. 遺物

少しばかりグロい部分があるかもしれませんので、苦手な方は注意です。

夢すら見ない、深い眠りだった。

はっ、と突然、覚醒するようにしてケイは目を覚ます。

水の底から水面へ、一気に引き上げられたかのような感覚。窮屈な寝台の上、目に飛び込んできたのは木造の梁が剥き出しになった天井。ぼんやりとした眠気の残滓を振り払い、ケイはがばりと上体を起こす。

そこは、こぢんまりとした部屋だった。

開け放たれた窓からは、穏やかな太陽の光が差し込んでいる。埃のない、清潔に保たれた空間。しかし木箱(チェスト)や虫除けの乾燥ハーブの束、折りたたまれた毛皮など、所狭しと詰め込まれた雑多な生活物資が、物置然とした印象を与える。

どこか―見覚えが、あった。

(あれ、ここってアイリーンが寝かされてた部屋じゃ……)

たしか、クローネン、村長の次男の家だったはず。しかし小さな部屋の中に寝台は一つしかなく、そして当然のように、ケイは一人でそれを占有していた。

アイリーン。

……何処行った!?

叫びながら飛び起きようとした矢先、左の頬を不意に襲った鋭い痛みに、 おぅふ…… と呻いたケイは動きを止め、恐る恐るといった様子で顔に手を伸ばした。

ざらりとした感触と、疼くような痛み。どうやら左頬には湿布のような、包帯のようなものが当てられており、かさぶたのようにくっついているらしい。そこでケイは、昨夜、盗賊と交戦中に短剣で切り裂かれた頬の傷を、そのまま放置していたことを思い出した。

(誰かが手当てしてくれたのか……)

触れた指先に、つんと鼻の奥にしみるような薬液の匂いが付いている。おそらくは村の薬師を兼ねている、呪い師のアンカの手によるものだろう。口の中、舌で頬をつついて痛みを再確認したケイは、これからはしばらく喋るのにも物を食べるのにも苦労しそうだ、と少しばかりブルーになった。

いやしかし、そんなことはどうでもいいのだ、今は。

アイリーン。アイリーンどこ行った。

寝床から抜け出し、バンッと勢いよく扉を開いて部屋の外へ出る。

が、それほど大きくはない上に、構造も単純なクローネンの家だ。扉を開けると、すぐそこは居間だった。部屋の真ん中に置かれた食卓、席について今まさにスープを食べようと、スプーンを手に あーん と大口を開けた幼女と、ばっちり目が合った。

…………

ケイは扉を開け放った格好のまま、幼女はスプーンを口に運びかけた姿勢のまま、それぞれ固まる。

可愛らしい女の子だった。歳は三、四歳といったところだろうか。肩まで伸ばした栗色の癖毛、あどけなさを漂わせる顔にはそばかすが散っており、とび色をした両の瞳は、ケイに視線を釘付けにして大きく見開かれている。まるで森の中で熊にでも遭遇してしまったかのような固まり具合。

……やぁ

ぎこちなく、笑みを浮かべたケイは、とりあえず幼女の緊張をほぐそうと、片手を上げて対話を試みる。

しかしケイは、自分の現在の格好をすっかり失念していた。

重武装な上に、装備は自他問わぬ血液でデコレーション済み、この世界の住人の中では頭抜けて筋肉質で大柄な体格と、頬の傷のせいで引きつった笑みは威嚇の表情にしか見えず、それは、いたいけな幼女を怯えさせるには充分に凶悪な様相で、

キャ~~~~ァ!

一拍置いて、本人としては必死な、可愛らしい悲鳴を上げた幼女は、椅子から飛び降り ママーッ! と叫びながら、とてとてと家の外へ走り出ていった。右手にスプーンを握りしめたまま。

あとには、しょんぼりと手を下ろすケイと、食卓の上で湯気を立てるスープだけが残される。

しばらくして、ぱたぱたと家の外から近づいてくる足音。

お目覚めになったんですね。お早うございます

家の中に入ってきたのは、そばかす顔の若い女だった。洗い物でもしていたのだろうか、濡れた手を前掛けで拭きながらぺこりと頭を下げる。

どこかで見たことがあるぞ、とケイはしばし考え、このそばかす顔の女は、昨夜村長の家で歓待を受けていた際、アイリーンが死にかけていることを伝えにきた者であることを思い出す。状況から考えるに、クローネンの妻だろうか。

お早う。申し訳ない、どうやら娘さんを酷く怖がらせてしまったようだ

おどけたように肩をすくめ、戸口に目をやった。

扉の外から半分顔を覗かせていた幼女が、さっと扉の裏に隠れる。

いえ、うちの子はあまり、村の外の人には慣れていませんから……緊張しているんでしょう。ジェシカ、出ておいで

やっ!

ジェシカと呼ばれた幼女の声が、扉の外から返ってきた。こりゃ嫌われたもんだ、とケイも苦笑する。

あ、わたしは、クローネンの妻のティナです

俺はケイだ、よろしく。ところで、少々聞きたいんだが、昨夜、俺の連れがここで厄介になっていたと思う。彼女は今どこにいるんだろうか?

お連れの方でしたら、村長の家に

ハキハキと答えたティナの言葉に、ケイはほっと安堵の息を吐いて、

そうか、もう意識は戻ったか……

あ、いえ、まだ眠られたままみたいです

えっ?

意識を取り戻したので村長の家に招かれている、と解釈したのだが、違ったようだ。ではなぜ自分と場所をチェンジしたのか、と問えば、

その、昨日夫たちが倒れたケイさんを運ぼうとしたのですが、重くてなかなか動かせず、代わりにお連れの方は凄く軽かったので、ケイさんをウチに泊めてお連れの方を村長の家に移した方が楽という結論に……

成る程、それは……ご迷惑をおかけした

がたいがデカい、筋肉質、完全武装、と三拍子そろえば、それは重いだろう。見れば、篭手や脛当て、兜など幾つかの装備は外されているようだが、革鎧の胴やその下の鎖帷子だけでも十分に重量はある。

しかし、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を含め、外された装備はどこに行ったのだろうか。

あ、お預かりしている武具は、村の革細工の職人が手入れをしてるはずです。お義父さ―村長が命じたとか

腰の鞘があったあたりに手を伸ばし、さり気なく視線を彷徨わせたケイに、目ざとくその意図を察したティナが告げる。

そうか、ありがたい

物が物だけに盗られるとも思っていないが、はっきりと知らされるとやはり安心できるものだ。

(しかし……、もしこの村が悪人ばかりだったら、俺が意識を失った時点でアイリーン共々身ぐるみを剥がされていても、おかしくなかったわけか)

村ぐるみの追剥。

ゲーム内にはそこまで酷い罠は存在しなかったが、中世の資料などでは度々その存在が言及されている。もし、このタアフの村がその一つであったならと考えると、なかなかに恐ろしいものがある。

たまたま善人が多かったからよかったものの、一歩間違えば危なかった、と振り返る。やはり昨夜の自分は、冷静なつもりだったが、何かしら動転していたのだろうか。

…………

突然、ケイが厳しい顔で考え込んでしまったので、何か機嫌を損ねるようなことでもあったのかと、真意を量りかねたティナが困惑の表情を浮かべた。

しかし、その沈黙が長くなる前に、

よお、目が覚めたのか

戸口から声をかけてきたのは、ピッチフォーク―四、五本の歯を持つ熊手のような農具―を肩に担いだクローネンだった。額に薄く汗をかいているところを見るに、農作業をしていたのか。

ああ、ぐっすりと眠ったおかげで、随分と元気になったよ。迷惑をかけた

なに、気にするな

ケイの謝意に、小さく笑みを浮かべるクローネン。昨夜に比べると随分とフレンドリーな様子に、おや、とケイは小さく首を傾げる。

そういや、あんたが目を覚ましたら、話があるって親父が言ってたんだ。来るか?

村長の家か?

そうだ

アイリーンの様子も見に行きたいケイとしては、是非は無い。

ああ、行こう

重々しく頷いたその瞬間、ケイのお腹がぐぅぅ、と盛大に音を立てた。

…………

何が起きたのか理解できないケイ、目をぱちくりさせるクローネン。ティナが ふっ と声を出し、震えながら口を押さえてケイに背を向けた。

おなかすいたの?

いつの間にか、クローネンの影に隠れるようにして足にしがみついていたジェシカが、舌足らずな声で聞いてくる。

どうやら、そのようだな

まるで他人事のケイの返答に、噴き出したクローネンとティナが声を上げて笑う。ケイとしては至極真剣に、幼少期以来の 空腹で腹が鳴る という現象に感心していたのだが、その真面目くさった態度が尚更笑いを誘うらしい。

ティナ、まだスープはあったな?

笑いを噛み殺しながら、クローネンが尋ねた。

ええ、あるわよ

この腹ペコの客人に昼食を。俺は親父を呼んでくる

わしゃわしゃとジェシカの頭を撫でつけてから、クローネンはそそくさと家を出て行った。家の外から押し殺したような笑い声。残されたジェシカが、スプーンをキャンディーのように舐めながら、くりくりとした目でケイを見上げている。

その、お席にどうぞ。庶民のスープですけど、お口に合うかどうか

かまどの鍋から木の器にスープをよそったティナが、ケイに笑いかけた。今更のように恥ずかしくなったケイは、赤面しながら ありがとう と席に着く。

おなかぺこぺこ~

ジェシカもケイの対面に座り直し、テーブルの下で足をぶらぶらとさせながら、スープを食べ始めた。

ケイもティナから木のスプーンを受け取り、供されたスープを口に運ぶ。黄色の、とろりとした液体。口にした瞬間、ざらっとした舌触りと、仄かな甘みのある素朴な香りが広がった。塩以外に調味料は使っていないようだが、素材が良いからか、野菜の旨みが生きている。

……美味しい。これは?

かぼちゃのポタージュです。パンと一緒にどうぞ

そう言って、ことりとテーブルに置かれる堅焼きのパンの籠。かなり堅いが、スープに浸してふやかすと食べやすいようだ。

野菜と穀物中心のさっぱりとした食事だったが、一口味わった途端に猛烈な空腹を自覚したケイは、頬の痛みも忘れてモリモリと食べ始める。

食べながら、ジェシカが全くパンに手を伸ばさないことを不思議には思ったが、どうやら幼い彼女にとって堅焼きのパンは食べづらいので、代わりにスープに穀物を入れリゾットのようにして食べているらしい。

にこにこと鍋をかき混ぜるティナは、時折申し訳なさそうに器を空にするケイにお代りを継ぎ足しながら、そんな二人の様子を見守っていた。

戻ったぞ~

クローネン宅から村長の家までは、それほど離れていない。しかしある程度ケイが落ち着くタイミングを計っていたのだろう、たっぷりと時間を置いてからクローネンが戻ってきた。

ケイ殿、お目覚めになられたのですな

杖を突きながら、ベネットが中に入ってくる。その背後には、愛想笑いを浮かべたダニーの姿もあった。

おじーちゃん!

ちょうど食べ終わっていたジェシカが、スプーンを置いて きゃー と声を上げる。

おお~ジェシカや~、今日も元気かのぉ~

普段から好々爺然とした笑顔を張り付けているベネットだったが、この時ばかりは本当にだらしなく相好を崩し、 おじいちゃんだよ~ と言いながら孫娘の額にぶちゅ~っとキスの雨を降らせる。あごひげがくすぐったそうにしながらも、キャッキャとはしゃいでいるジェシカ、そんな祖父と孫の姿を穏やかな笑顔で見守るクローネンとティナの夫婦。

しかし、そんな穏やかな雰囲気の中でただ一人、ダニーだけはどこか、取ってつけたような乾いた笑みを浮かべているのが、ケイには印象的だった。

さて、ジェシカや。もうお腹も一杯になったじゃろう、お友達と遊んでおいで

おじーちゃんは?

あとで一緒に遊んであげよう。でも今は、このお兄さんとお話をしなければならないんじゃよ

ん~……わかった

意外と聞き分けの良いジェシカは、そのままぴょんと椅子から飛び降りて、ぱたぱたと外に走り出ていく。

……可愛いお孫さんだ

間違いありませんな

ケイの言葉に、うむ、と重々しく頷くベネット。

その間にも、食器を手早く片付けたティナが、あらかじめ沸かしていたお湯で人数分のハーブティーを淹れ、 洗い物をしてきますね と食器を手に、さり気なくその場から席を外す。

後には、男たちだけが残った。穏やかな団らんの空気が、自然と引き締まっていく。

さて、ケイ殿。お身体の調子はいかがですかな

ケイの対面の席に着きながら、ベネット。ダニーがその横の椅子に腰を下ろし、クローネンはケイの隣で椅子を引いた。

すこぶるいい。今しがた、馳走になったおかげで腹も膨れたし、大変美味だった。それと、この傷を治療してくれたのは、アンカの婆さんかな

思い出したように、ずきずきと痛む頬の傷を撫でながら、ケイ。

そうですじゃ。あの婆の特製軟膏は、効きますぞ。流石に、ケイ殿のポーションには敵いませんがの

そうか、あとでお礼を言わねばな……。それと村長、俺の武具の手入れまで手配してくれた、と彼の妻から聞いたが

ケイが隣のクローネンを見やりながら言うと、ベネットはにこりと笑みを浮かべて、

せっかくのお見事な武具が、返り血で痛みかねませんからの。僭越ながら村の職人に手入れをしておくよう、命じておったのです。とはいえ、こちらの独断となってしまいましたが―

いや、こちらとしても助かった。ありがとう

それならば僥倖ですじゃ。困ったときはお互い様と言いますからの……ああ、あとでその胴鎧も修繕しておくよう、命じておきましょうぞ

愛想よく話を進めるベネット。それに付き合って愛想笑いを張り付けたケイは、タダより恐ろしいものはないな、と心の中で呟いた。

それで、話があるとのことだが

おお、そうでしたの

ケイの言葉に、ベネットがぽんと手を打ってみせる。わざとらしいというよりも、予定調和な言動。

話とは、昨日の盗賊のことですじゃ。昨夜は、詳しいお話を伺おうにも、お疲れの様子でしたからの……

申し訳ない

お気になさらず。して、事の顛末をお聞かせ願えますかな

もちろん

ベネットたちに、昨夜、村を出た後のことを話して聞かせる。ミカヅキを駆り現場に戻り、そのまま野営していた盗賊たちを襲撃したこと。その戦闘でミカヅキを失った代わりに、盗賊たちを全滅させたことなど。

全滅……

ケイの言葉を反芻するかのように、ベネット。

十人近い敵を相手にして戦闘に勝利し、なおかつ全滅させるなど、にわかには信じがたい話だ。しかし、少なくとも何人かを殺害しているのは、ケイが浴びた返り血を見れば明らかだった。

成る程。話は分かりました、……場所は、『岩山』の近くなのですな?

そうだ

賊どもの死体は、いかがなされましたかの?

そのまま放ってきた。色々と値打ちのありそうなものもあったが、回収する時間も余裕もなかったからな

ケイがそう言うと、ベネットとダニーの目がきらりと輝いた。思わず苦笑しそうになる。この話の方向性が見えてきた。

となれば、やはり回収しに行くべきでしょうな

……そうだな。案内しよう

ふぅむ、しかしケイ殿は昨日の戦いお疲れでしょう、今日はゆっくり休まれては如何ですかな

そうです、『岩山』であれば場所はわかりますし、わざわざケイ殿のお手を煩わせるまでもありませんぞ

ベネットが言い、ダニーがそれに乗っかる。

それに対し、少しばかり影のある哀しげな表情を作ったケイは、

馬を、そのまま置いてきているのでな。まずは直接、弔ってやりたい

なるほど。そういうことでしたら……

これ以上、ついてくるなとも言えない。

いやはや、お手数ですがケイ殿、案内をお願いしてもよろしいですかな

もちろん、俺に是非は無い。この村の人々には大変よくしてもらっているし、このぐらいはしないとな

ははは、と朗らかに笑った一同は、物資回収の準備をするために一度解散する運びとなった。

クローネンは人手を集めに。ケイは胴鎧の修繕と、残りの武具を回収するために革職人の所へと向かう。

……『この村の人々には大変よくしてもらっている』、か。言ってくれるわい

自宅へ引き返しながら、ベネットは隣のダニーにぼやくようにして呟いた。それを受けて、小さく肩をすくめたダニーは、

案外、本当に馬を弔いたいだけかも知れんぞ、親父

さてな

長年を馬と共に過ごす生粋の草原の民ならともかく、どこか胡散臭く感じられてしまうのが、あのケイという男だった。

まあ、いずれにせよ、そこまで甘くはなかろうさ

たしかにの

流石に少しわざとらしすぎたかの、とベネットは苦笑する。そんじょそこらの追剥と違って、イグナーツ盗賊団ほどの規模の盗賊団ならば、そこそこ質の良い武具を使っているはずだ。あわよくば剣の一、二本でも誤魔化せれば、と思っていたのだが、そうは問屋がおろさないらしい。

まあ、なるようになるじゃろ。取れるだけの物は取ってこい、ダニー

分かってる。荷馬車を使うぞ、親父

ほくそ笑む親子二人は、体格こそ違えど、やはり似たような顔をしていた。

†††

革職人に胴鎧を預け、代わりに籠手や脛当て、兜などを受け取ったケイは、村長の家に戻っていた。

ケイが訪問した際、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を惚れ惚れと見つめていた年配の革職人は、 この弓に使われている皮膜は何なのか としきりに尋ねてきた。

正直に 飛竜(ワイバーン)の翼の皮膜だ と答えたケイだが、大笑いした職人はさもありなんといった風に何度も頷き、 そりゃ見たこともないわけだ! と随分と面白がっていた。どうやら冗談だと思ったらしい。

逆にそのあと、ケイの革鎧一式が森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)の革だと知った途端、職人がおっかなびっくりな手つきで革鎧を扱いだしたことが、ケイには可笑しかった。

(人を驚かせたいなら、適度な現実味がないとダメってことだな)

荒唐無稽すぎるのも考えものだ、とケイは思う。

ちなみに、森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)とは、地域を問わず深い森の奥に棲む大型の爬虫類で、ソロで遭遇すれば逃げるのが一番と言われる上位のモンスターだ。

その名の通り、深みがかった青緑色の表皮を持つ森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)は、成体ともなればその体長は10メートルを優に超える。

熊型の巨大モンスター、大熊(グランドゥルス)と双璧を成す森の王者だ。

特筆すべきはその機動力だろう。バカでかい巨体から鈍重なイメージがあるが、その見かけに反して森を駆けるのがとにかく速い。木が耐えきれれば木登りすら可能なので、その踏破性は言わずもがなだ。少なくともケイの足では振りきれない相手といえる。

強靭な革はなかなか攻撃を通さず、分厚い肉は衝撃にも強い。太い腕も、鋭い爪も、長い尻尾もギザギザに尖った歯も、全てが脅威ではあるが、何よりも強力なのはその巨体と重量そのものだ。体当たりやのしかかりを食らえば、どんなプレイヤーでも即死は免れない。しかも、歯の隙間から血液の凝固を妨げる毒が分泌されているので、少しでも噛まれると出血が止まらなくなるというオマケつきだ。顎のサイズの関係で、毒が活きる前に胴体をごっそりと食い千切られ即死するパターンがほとんどだが。

ともかく、特定の地域に行かねばエンカウントしない飛竜(ワイバーン)と違い、人里と生活圏がかぶる森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)の方が、こちらの世界では現実的な脅威として認知されているのだろう。実際のところ、地を這う竜といっても過言ではない実力を持つモンスターだ。

一度獲物を追いかけ始めると猪突猛進なところがあるので、地形を駆使した罠さえ張れば、狩ること自体は不可能ではない。ゲームでは、上級者向けの、比較的手に入れやすい防具の素材として普及していた。が、狩るのが可能とはいえ、入念に準備をしたプレイヤーのパーティーでも、度々事故死は発生しうる。

ゲームならば笑いごとで済むが、現実(リアル)となった今では、後衛のケイですら相手取りたくないモンスターだった。

ケイ殿、戻られましたか

村長の家には、まだダニーもクローネンもおらず、ベネットがひとりテーブルの上で帳簿を広げているのみだった。

ああ。とりあえず、職人に胴鎧を預けてきた

成る程。……その鎖帷子も見事なものですな

革の籠手、脛当て、兜に鎖帷子といった出で立ちのケイを見て、ベネットが感心した声を出す。革職人の所で、鎖帷子にこびりついていた血を濡れた布で拭いてきたので、その細やかな鎖の質感がさらに際立って見えた。

この帷子には何度も命を救われているよ

撫でつけると、しゃらしゃらと音を立てる冷たい金属が心地よい。

ところで、皆が集まるまで、アイリーンの様子を見ておきたいのだが、よろしいか

もちろんですとも。こちらへ

よっこいせ、と席を立ったベネットに案内され、奥の部屋へと通される。書籍や、巻物の類が収められた本棚。お洒落な装飾の施された木箱(チェスト)。床には落ち着いた緑色の絨毯が敷かれ、そして、クローネンの家のそれよりも、明らかに上質な大きな寝台の上。

眠り姫は、そこにいた。

すやすやと、静かな呼吸を繰り返す様は、まるで本当にただ眠っているかのようだった。普段ポニーテールにまとめていた髪はほどかれ、黄金の糸のようにして枕元に広げられている。汚れていた黒装束を、誰かが替えてくれたのだろう、今は清潔な白い薄手の服を身にまとっていた。血色を取り戻した顔に、苦しみや痛みの色はない。穏やかな陽光の差し込む部屋の中、それはまるで完成された一枚の絵画のようだった。

アイリーン

枕元まで歩み寄り、膝をついてそっとその頭を撫でる。僅かに身じろぎをしたように見えた―気がしたが、それはケイの願望がもたらした錯覚だったのかも知れない。


今朝、何か、うわ言のようなことをおっしゃっていました

突然、すぐそばから、か細い声。ぎょっとして見やれば、ベッドの対面、静かに佇む女性の姿があった。

美しい女性だ。

全体的に華奢な身体のライン。ただの農村の村人とは思えないほどに肌の色は白く、亜麻色の髪も艶やかに手入れがなされていた。すっと通った鼻筋。穏やかな笑みを浮かべる唇。淑やかさと色気を両立させた目元には、ひとつ、泣きぼくろがあった。そのせいかは分からないが、これほどの美しさにもかかわらず、どこか線の細い、薄幸の雰囲気を漂わせている。

異国の言葉のようで、何をおっしゃっているのかは分かりませんでしたが……

少し、申し訳なさそうに言葉を続けた女性は、

……申し遅れました。ダニーの妻の、シンシアです

声を出せずにいたケイを見て、しゃなりと、淑やかに礼をして見せた。

あ、ああ。ケイという者だ。よろしく

我に返ったケイが慌てて目礼を返すと、くすり、とシンシアは笑った。

いや、すまない。全く気が付かなかった

それだけ、お連れの方が心配でいらっしゃったのですね

静かな部屋の中に、シンシアの優しげな声が響く。

そう……だな。やはり、そうだろう。あなたが、アイリーンの世話をしてくださっているのだろうか

今朝からですが、そうなります

そうか……ありがとう

ケイの心のこもった謝意に、シンシアはやはり静かに、 いえ、 と一言だけ答えた。

と、そのとき、部屋の外からのしのしと足音が近づいてくる。

ケイ殿! 準備が整いましたぞ! 参りましょう!

ばん、と扉を開けて入ってきたのは、上機嫌なダニーだ。腹の贅肉を震わせてノリノリなダニーを見て、この男はどう足掻いても絵にならないな、とケイは思った。

いやはや、お連れの方―アイリーン殿は、やはりお美しいですな! まるで女神のようではないか……! ああ、ケイ殿、いつまでも見つめておられたいお気持ちは十分にわかりますが、そろそろ参りませんと日が暮れてしまいますぞ!

何が楽しいのか、身振り手振りを交えて声を張り上げるダニー。自分の妻を前に他の女をベタ褒めするのはどうか、と思ったケイだが、シンシアはアイリーンの髪を愛おしげに撫でるのみで、特に反応は見せなかった。

そうだな、行こうか

鎖帷子の位置を直しながら、ケイは立ち上がる。

シンシアさん、アイリーンを頼む

はい、と目礼を返すシンシア。

アイリーンに目をやり、 行ってくる と小さく呟いたケイは、マントを翻して部屋を後にした。

回収作業に向かうのは、総勢で八人。

ケイ、クローネン、ダニー、マンデル、そして村の自警団の男衆が四人だ。ケイはサスケに乗り、ダニーと数人は荷馬車、残りは徒歩で現場へ向かう。

手綱を、括り付けていた棒から外す際、 どこへいくの? と目をぱちくりさせていたサスケに、ケイはただ一言、 ミカヅキを迎えに行くよ とだけ告げた。

ミカヅキ、という単語に反応したのか、嬉しそうに尻尾を揺らすサスケを見て、ケイはなんとも、居た堪れない気持ちになった。

森を抜け、草原を突き進む。

昨夜とは打って変わって、現場への道のりはなんとも平和なものだ。

天気は快晴、風は穏やか。真っ青な空には羊雲がぽつぽつと浮かんでいる。

徒歩の村人たちに速度を合わせ、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせるサスケの上、ゆっくりと草原の道なき道を進んでいると、まるでピクニックにでも出かけているかのような錯覚に陥った。

しかし、現場の廃墟に近づくにつれ、そんな平和な錯覚も徐々に薄れていく。

まず、異常として感じ取られたのは、ガァガァ、ギャァギャァと、耳をつんざくような鳴き声だ。

鳥。

どこからこんなに集まったのか、と。

疑問に思わざるを得ないほどの、鳥の大群。

大地を覆い尽くす勢いで、鳥たちが『何か』を啄んでいる。

そして、それが見える距離まで近づいたあたりで、空気に混ざる死臭が、明らかにその存在感を増す。穏やかな陽光の降り注ぐ草原の真ん中、しかし、局所的に、視覚も嗅覚も聴覚も、不協和音を奏でるように否応なく異常を知らせてくる。

鳥たちの蠢く木立の廃墟。

鳥葬、という言葉を、ケイは連想した。

ええい、邪魔だ邪魔だ! 消えろ!

荷馬車から降りたダニーが、棒を振り回して鳥を追い払う。突然の闖入者に食事を邪魔され、恨みがましい声を上げた鳥たちが、バサバサと騒々しく翼をはばたかせ飛び立っていった。

羽根のヴェールが取り払われ、死体の様相が露わになる。

…………

一同は、一瞬、言葉を失った。

空き地に転がる四人の盗賊。

爆発に巻き込まれたかのように、撒き散らされた血肉。

一夜が明け、鳥に食い荒らされたことを鑑みても、その体の損壊具合は異様であった。

頭蓋骨を矢で岩に縫い留められている者。

首が半ばから引きちぎれたようになっている者。

肋骨ごと心臓を射抜かれ、胸部がごっそりと陥没している者。

胴体が異様に折れ曲がり、口から臓物をぶちまけている者に至っては、人が人に何をどうすればこんなことになるのか、見当もつかない。

実感が湧かない。

目玉をほじくられ、皮膚と肉を剥ぎ取られ、鳥に無残にも食い荒らされた顔面からは、とてもではないが、末期(まつご)の表情を推し量ることなどはできない。

しかし例外なく、限界にまで開かれた口蓋からは、今にも死者たちの断末魔の叫びが聴こえてきそうで―。

うぇ、と誰かが嘔吐(えず)く。

動きを止めた人間たちに、これ幸いとばかりに戻ってきた数羽の鳥たちが、再び死体をつつき始めた。

大きな一羽の黒いカラスが、食い破られた腹をつんつんと啄む。傷口に頭を突っ込んで、そのままずるりと大腸を引きずり抜いた。

でろん、と力なく垂れるそれは、血の気が抜けてもなお、赤く濡れて。

くちゃくちゃと咀嚼するカラスの黒い瞳が、馬上のケイをじっと見つめた。

ケイは、こみあげる嘔吐きに、耐える。

濃厚な死臭と、赤と黒で彩られた血と肉の光景。これだけで既に、生理的に、充分な吐き気を催す。

ましてやそれが、自分の手によるものともなれば。その事実が、そっとケイの首に手を添える。

馬上、顔を青くしたケイは、静かに空を見上げた。

後悔などない。罪悪感も、おそらくない。最初の一人を手に掛けた時点で、そんなものは全部投げ捨てた。

そもそも自分は被害者だ。殺すに足る正当な権利も、理由もある。この盗賊たちは死んで当たり前な存在だと心から思うし、それを殺した自分に責められるいわれはないのだとも考える。

考えるのだが。

それでも、単純に気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。

おぇぇ、と耐えきれなくなった若い村人が、膝を突きながら草原に胃液をぶちまける。それにつられるようにして、他の村人も口元を押さえ、何人かはやはり耐えきれずに、吐いた。

吐かなかったのは、顔色を悪くしたダニーと、同じく気分の悪そうなクローネン、そしてこんな状況下でもいつも通りに見えるマンデルだ。

ケイ、

マンデルが静かに、ケイを見やる。

次からは、もう少し上品に殺した方がいい。……その方が、片付けが楽だ

そしてケイの返事は待たずに、手近の比較的損壊の少ない死体に近寄って、躊躇うことなく遺品を漁り始めた。

…………

クローネンが黙ってそれに続き、ダニーは おい、お前らしっかりせんか! と声を張り上げて他の村人たちを叱咤する。

……ああ

低い声で答えたケイは、静かにサスケから降り、誰も手をつけようとしない、一番悲惨な状態の遺体に近づいた。罪や責任といった、様々な言葉や考え方はあるが、少なくとも事実そのものはこういった形で付いて回るのだろう―。

むせ返るような血臭に辟易としながらも、ふとこちらを見守る鳥たちを見やり、皮肉げに口の端を吊り上げる。立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。

その後、ケイたちはその手をどす黒く汚し、革鎧や剣などの武具、指輪などの装飾品、そして銅貨銀貨を回収した。空き地の端に小さな穴を掘り、四人ともまとめて埋葬する。

ケイはもとより村人たちも、疲れ果てて既にげっそりとしていたが、残念ながらこれで終わりではなかった。案内のケイを先頭に、今度は西へと突き進む。

第二の現場へと到着した。こちらの死体は空き地のそれに比べると、まだマシな状態だった。のろのろと村人たちが作業に取り掛かる中、サスケの手綱を引いたケイはゆっくりと『それ』に歩み寄る。

―酷い有様だ。たった一晩が経っただけなのに、見事な毛並み、逞しい筋肉、それらの見る影もなかった。

胴体に受けた矢傷を起点にして、はらわたを食い破られている。皮肉なのは、残っていた毒にやられたのか、その周囲で鳥や小動物が死んでいることだ。

近づいてみれば、腐植土から這い出た無数の虫が、蠢きながら体内の肉に群がっているのが見える。額当てのおかげで顔面の損傷がそれほどでもないのが、唯一の救いか。

すまん

すっかり冷たくなってしまった鼻づらを撫でながら、ケイは呟いた。

すまん、ミカヅキ。昨日は、……助けてくれてありがとう

昨夜の、最期の力を振り絞ったミカヅキの援護がなければ、この場で骸を晒していたのはケイの方だったかもしれない。改めて申し訳なさと、感謝の想いが募る。

ぶるる、と。

ケイの横で鼻を鳴らしたサスケが首を傾げ、鼻先でつんつんと横たわる亡骸をつつく。

目を閉じ、しばしの黙祷を捧げたケイは、ぽんぽん、とサスケの首筋を優しく叩いてから さて、 と立ち上がった。

ミカヅキの世話もしたいところだが、盗賊達から剥ぎ取りもせねばなるまい。自分だけは愛馬の死を嘆き、後は他人任せというわけにもいかないだろう。

だが静かな気持ちで目を転じたところで、頭をざくろのように弾けさせた死体が視界に入り、思い出したように吐き気がぶり返した。

……うッ

歯を食い縛る。意地でも、吐くものかと。しばらく呼吸を整えてから、ケイは敢えて、そのグロテスクな死体に歩み寄り、遺品を剥ぎ取り始めた。

よーし、値打ちのありそうな物は見逃すなよ! それと革製品は丁寧に扱え、これ以上傷をつけるな! 首元や手もしっかり確かめるんだぞ、装飾品があれば高く売れる―

相変わらず指示だけは達者なダニーの声を聞き流し、機械的に作業を進める。脛当てを剥ぎ取り、篭手を外し、胴鎧を脱がせ、懐を漁り、集めた物品をまとめて、森の外で待機する荷馬車まで運ぶ。

そのうち、服や手が血で汚れても何も感じなくなった。嗅覚も触覚も、感情すらも麻痺させて、何も考えないように、ただ手を動かす。

気が付けば荷馬車には、血塗れの防具や武器類が山積みになっていた。

―死体はどうする

あらかた片付いたところで、誰とはなしに、ぼそりと呟いた。

森だからな、そのままでもいいだろう。……誰もこんなところには入ってこない

若干疲れた様子で、マンデルが言う。片付けにうんざりしていた全員が、一も二もなく賛同する。どうせ盗賊の死体だ、野晒しにしたところで誰も悲しまない―

最終的に、革防具や長剣、合金製の短槍、指輪や首飾りなどの装飾品に加え、銀貨の詰まった財布なども獲得したケイたちは、血塗れになって村へと引き返していった。

―盗賊たち、四(・)人(・)分(・)の死体を、森の中に残して。

13. 強者

わああぁぁ、と。

包み込むように、響き渡る歓声。

無数の白い光が瞬いた。

星々と喩えるには、眩しすぎる閃き。

目の前に広がる、柔らかな床。

12m×12mの、正方形。

ここは、妖精たちの舞い踊る舞台。

自分もまた、妖精のひとりになる。

チャイコフスキー。白鳥の湖。

流れるような、しとやかな調べ。

身体が自然と、動き出す。

軽やかに、踊るように、舞うように。

たんっ、と。

最後の着地を、決める。

割れんばかりの、喝采。

会心の出来に、自然と笑みが浮かぶ。

やった、と言葉がこぼれ出た。

今まで積み重ねてきたものが。

今ここで、遂に報われたのだと。

そう思い、金色の輝きを確信した。

途端に。

場面が切り替わる。

ばぁんと横殴りの衝撃。

輝かしい全てが吹き飛んだ。

砕かれて。粉々に。磨り潰されて。

熱い。痛い。まるで、燃えるように。

ひしゃげた鉄と、ガソリンの匂い。

割れたガラス、黒い煙。

視界が暗転する。

暗い部屋。

モニタの輝きだけが照らす部屋。

膝を抱えて、座る。

丸く、短くなった脚。


逃げた。

逃げ続けた。

出ておいで、という呼びかけに。

耳を塞いだ。

良い天気だよ、という声に。

カーテンを閉じた。

逃げた。

逃げ続けた。

仮想の世界に。

仮初の世界に。

身駆を求めて。

過去を求めて。

駆ける。

駆け続ける。

霞む視界を。

白い霧の中を。

行きついた先には、

行きついた先には、きっと、

―真っ白な、血の気のない、

ア”イ”リ”ーン”、

黒い空洞が、見つめる。

ア”イ”リ”ーン”、ロ”ハ”チ”ェ”フ”ス”カ”ヤ゛

†††

―ああぁぁッッ!?

ぜえぜえと荒い呼吸、冷たい汗が額を伝う。

寝台の上、目を見開いて飛び起きたアイリーンは、がばりとシーツを跳ねのけて両足をまさぐった。細い指が、太腿を伝い、ふくらはぎを撫で、足首に触れる。

…………

たしかな、肉と骨の感触。

足首から先を握ったアイリーンは、そこで、拍子抜けしたように。

ふっと顔から表情が抜けたまま、しばし呆然とする。

……、あれ

そこで初めて、我に返り、周囲をきょろきょろと見回した。

それほど大きくはない部屋だ。

緑色の絨毯。レリーフの刻まれた木箱(チェスト)。古びた巻物や書物が詰められた本棚。ガラスの嵌っていない窓からは、穏やかな陽光が差し込んでいる。窓の外には、木造平屋建ての質素な家屋がぽつぽつと、その向こう側には緑豊かな森が広がって見えた。

……何処だ、ここ

ぽつりと呟いた。ふと身体を見下ろして、自分が黒装束ではなく、白い薄手のワンピースを身に纏っていることに気付く。服の上から身体を撫でると、ブラは無かったが、下は穿いていた。

―どうして、こんな服を着てるのか。

そんな疑問が脳裏をよぎる中、服を撫でる手が右胸に触れた瞬間。

ズグンッ、と身体の芯に響くような痛みが、フラッシュバックする。

あっ

思い出した。

霧を越え、草原を惑い、木立の中、焚き火の薄明かりに照らされた夜の風景を。胸に突き立った矢。自分を抉り取った痛みの記憶。

それはまるで、他人事のように現実離れしていて、頭の中に、おぼろげな、混濁した心象(イメージ)を描き出した。

しかし、曖昧な記憶の中でも、ひとつだけは、はっきりと憶えている。

声。

自分の名前を呼ぶ声。

……ケイ?

ひとり部屋の中、か細い声でその名を呼ぶ。

しかし、当然のように返事はない。ただ窓の外から時折、鳥の鳴き声が聞こえる他は、しん、と静まり返った空間。

ぎゅ、とシーツの端を握りしめ、心細げな表情を浮かべたアイリーンは、再び落ち着きなく周囲を見回し、ふと部屋の扉に目を留めた。

絨毯と同じ、濃い緑色に塗装された木の扉。

数秒の逡巡。こくり、と生唾を飲み込み、意を決したアイリーンは、音を立てないようにそっと寝台から降りた。覚束ない足取りで、壁に手を突きながらふらふらと歩き、ゆっくりと扉を押し開く。

ギィィッ、と想像していたよりも大きな軋み。

びくびくしながらも、部屋の外へ出る。

そこは、リビングのような大きめの部屋だった。部屋の真ん中には大きなテーブル、天井には樹木を象った意匠の金属製のシャンデリア。足元は絨毯ではなく、粗めの木材を打ちっ放した木の床だった。絨毯に比べると薄汚れており、素足ではあまり歩きたくはなかったが、アイリーンに選択の余地はない。

窓を見る。やはりガラスの嵌っていない、質素な作りの窓。もうひとつ、テーブルの反対側には扉があったが、どうやらこれは玄関らしい。

家の外に出るかどうか。

アイリーンは、迷う。

自分が何処に居るのか確認はしたいし、でも裸足だし、そもそも誰がいるのか分からないし、と。

しかしそうやって迷っているうちに、扉の方がギィッと音を立てて開く。

……あら

入ってきたのは、線の細い、色白の美人だった。腕に抱えた籠の中には、綺麗に畳まれた衣服が積み重なっている。

お目覚めになられたのですね

突然の遭遇に固まって動けないアイリーンに対し、色白の女性―シンシアは、にっこりと優しげに語りかけた。

あっ、あのっ、はい

シンシアの柔らかな笑みに少し緊張が解け、なんとか動きを取り戻したアイリーンはこくこくと頷いて返す。

良かったです。お連れの方が、随分と心配しておられましたから……

……連れ? 連れって、ケイのこと!?

そうです、ケイ様です

……そっか、……ケイ、居るんだ

テーブルに籠を置きながら、慈しむような微笑みのシンシアに肯定され、ほっと肩の力が抜ける。

はい。今は、出かけておられますが、そろそろお戻りになる頃合いかと

そっか。……ありがと

安心したのと同時に、ふらりと、足に力が入らない自分を感じた。

なんだか―身体が、重い。

……お加減が優れないのですか? まだ、身体が弱っておられるのでしょう。お休みになられた方が―

心配げなシンシアが全てを言い終わる前に、家の外からがやがやと騒がしげな声が聞こえてくる。

あら、噂をすれば……。アイリーン様、ケイ様がお戻りになられたようです

がらがらと荷馬車の近づいてくる音を耳にしたシンシアが、にっこりと笑った。アイリーンが ホント!? と顔を輝かせる。そんな少女の姿に、今は休むよりもケイと会った方が元気が出るかもしれない、とシンシアは他愛のないことを考えた。

自分が微笑ましげな目で見られているとはつゆ知らず、アイリーンはそそくさと家の扉を開ける。

ケイ! 戻って―

きたのか、と。

続けようとした元気な声が、しぼんだ。

赤黒い行進。

目に飛び込んできたのは、疲れ切った表情で歩いてくる男たちと、がらがらと音を立てる荷馬車、そして馬にまたがった一人の青年だった。

青年。バウザーホースを駆り、右手に朱色の弓を持った彼は、間違いなくケイだ。

しかし、籠手や胴の鎖帷子はどす黒く汚れ、その表情は遠目にも険しい。アイリーンが知るケイのアバターそのままの、どこが変わったかと問われても答えられない、それでもアイリーンが知っているケイとは、明らかに何かが違う顔つき。

―ケイであるのは、間違いない。でも自分が知っていたケイではない。

そんな確信めいた困惑が、声をかけることを躊躇わせる。

! アイリーン!?

が、困惑している間に、ケイの方が立ち尽くすアイリーンに気付いた。

アイリーン!! 目が覚めたのか!

先ほどまでの厳しい表情は何処へやら、顔を輝かせたケイがひらりと馬から飛び降り、アイリーンに駆け寄ってくる。

―っと、この格好じゃ不味いな

そのまま抱きつきかねない勢いだったが、自分の体を見下ろして立ち止まった。

片や、真っ白なワンピース姿。

片や、どす黒く血で汚れた姿。

数歩。

近いが、手は届かない。

そんな距離。

…………

顔を見合せたまま、お互いに、どこか困惑したような笑みを浮かべる。

その、オレ、眠ってたみたいだな?

あはは、とぎこちなく笑ったアイリーンに、 そうだな、 と調子を取り戻したケイが頷いた。

丸一日寝てたぞ。体の調子はどうだ? 昨日のこと、憶えてるか?

ん……体は、多分、大丈夫だ。昨日のことは、焚き火のトコまでは憶えてるけど、そのあとはあんまり

矢を食らったのは?

憶えてる。そこらへんから、ちょっと夢を見てたみたいに曖昧な感じがする

そうか……

……もしかして、ポーション、使ったのか?

右胸の、矢が刺さっていたところを撫でながら、アイリーン。

ああ。憶えてないのか?

幸運なことにな

ということは、ポーションで治療した痛みも記憶にないというわけだ。けろりとした表情のアイリーンに、それは確かに幸運だ、とケイは少しばかり安心する。

自分で肩の傷を治してみて分かったが、ポーションの痛みは尋常ではない。忘れられるものなら、頭の中から消去してしまいたい経験だ。肩を切り裂かれた傷でさえ拷問じみた苦痛だったのだから、肺を貫通した傷が内側から治療されていく痛みは一体どれほどのものか。想像するだに恐ろしい。

ぶるるっ

と、ケイに置いていかれたサスケが、ぱかぱかと二人の元までやってきた。つぶらな目で げんきー? と問いかけるように、アイリーンの頬をべろべろと舐める。ふさふさと揺れる尻尾。

あははっ、こら、くすぐったい……って、あれ?

じゃれるサスケに笑い声を上げていたアイリーンだが、ふと気付いた。

なんでケイがサスケに乗ってんだ? ミカヅキは?

その言葉に、ふっ、とケイの表情が翳る。

……あいつは、死んだよ

え、と声を上げるアイリーンに、ケイはサスケの鞍を示して見せる。折り畳まれて括りつけられた、褐色の皮。

盗賊に矢で射られてな。……さっき、形見を回収してきた

額当てに、タリスマンに、鬣。そして、綺麗なまま残っていた尻の部分の皮。亡骸の残りは、自然に任せることにした。

……この皮で、財布でも作って貰うかな

はは、と口の端を無理に釣り上げた笑みは、どこか痛々しい。

そ、そっか。だ(・)か(・)ら(・)そんな、血で汚れてるみたいな……そんなことになっちまったんだな?

ああ、だ(・)か(・)ら(・)だ。ちょっとな

皮の剥ぎ取りは、マンデルに手伝って貰いながら、ケイ自身でやった。そのせいで血に汚れているというのは、嘘ではない。

でも……“再受肉(リスポーン)”、は?

アイリーン

眉をひそめて尋ねてきたアイリーンに、ケイは表情を引き締めた。

そこらへんの話は、後でしよう。とりあえず、中で待っててくれ。すぐに行くから

ただ、一言だけ、そっと歩み寄ったケイは、アイリーンの耳に囁く。

……一日過ごして分かったが。ここは、

―ゲームじゃない。

†††


『さて、何から話そうか』

身づくろいをしてさっぱりと小奇麗になったケイは、椅子に腰を下ろしおもむろにそう切り出した。

村長宅、一番奥の寝室。

現在、部屋の中にはケイとアイリーンの二人きりだ。ダニーたちには、アイリーンとしばらく話をする旨を伝えてある。

寝台の上で胡坐をかいていたアイリーンが、ケイの言葉にぴくりと眉をひそめた。

『……なんで精霊語(エスペラント)?』

『ここの住人に聞かれたくないからだ。Just in case.』

念のためな、と英語を混ぜたケイは、小さく肩をすくめた。

『つまりCode(暗号)ってわけか』

『そういうことだ。英語以外の俺達の共通言語ってコレだけだろ。分からない単語は英語でいい』

『オーライ。ところで、魔術って使えんの?』

『使える』

アイリーンの問いかけに、ケイは断言する。

『精霊もこっちには来ているらしい。ただ、魔力を吸い取られる感覚はヤバかった。あれは確実に寿命が縮まってる。もう少しで気絶するところだったし、魔力が切れたら死ぬっていう仕様が、どういう意味だったのかを理解した』

『ってことは、ケイは魔術使ったのか?』

『……ああ。少し野暮用でな』

つっ、と視線を逸らすケイ。

何に使ったのか、尋ねようとしたアイリーンだったが、ケイのむっすりとした雰囲気にどこか壁を感じ、聞きあぐねる。

『―まあ、魔術の話は後でいいとして。問題は”この世界”のことだ』

強引に話の流れを修正し、ケイは真っ直ぐにアイリーンを見据えた。

『俺は最終的に、この世界はゲームではなく、 DEMONDAL に似た別の世界だろう、という結論に達した』

『……ふむ』

『根拠は、まあ、色々だ。感覚がリアルすぎる。汗やら血やらの細部までが全て再現されている。それにNPC―というか、この世界の住人の言動がAIとは思えない。エトセトラ、エトセトラ、だ』

『なあ、ケイ。昨日って結局あの後、どうなったんだ?』

アイリーンの、どこか不安げな質問。ケイはふぅ、と静かに息を吐き出した。

『そうだな、』

かいつまんで、事の顛末を説明する。アイリーンを抱えて逃げ、狩猟狼(ハウンドウルフ)を撃退し、ポーションで傷を治療、そしてタアフの村に辿り着き―

村長の家に厄介になったことや、アイリーンの毒が判明したこと。そして毒の種類を特定するために、盗賊たちに逆襲したことを、ケイは、伝えた。

『…………』

アイリーンの顔が、曇る。

『盗賊は、やっぱり、殺したのか?』

『ああ。……何人かは、な』

『そっか』

神妙な表情で、考え込むように、アイリーンは俯いた。

『…………』

どう、言葉を繋げたものか。ケイは迷う。

別に、恩を着せたいわけではないのだ。ケイ自身が選択したことだし、ケイの中では、ある程度の割り切りはもう済んでいる。

だから、アイリーンにまで、変な罪悪感を背負いこんで貰いたくはない。

それを言葉にしたいのだが、どう言えばいいのかが分からない。何を言っても、アイリーンに気を遣わせそうで。

しかし、考えている間に、アイリーンの方がふっと顔を上げた。

『その……ケイ、』

『ん? なんだ』

蒼い瞳が、ケイを見据えて、揺れる。

『……ありがと。助けてくれて』

はにかむような笑みは、どこかぎこちなかったが。

言葉はすっと、胸に沁みた。

『……なに。まあ、その、なんだ、』

ぽりぽりと頬をかいたケイは、敵わないな、と笑う。どう足掻いても、相手に気を遣わせてしまうのか。しかも、自分の気が少し楽になっただけで、結局は何も出来ていない。

どうにも、自分勝手な野郎だ、と。

ふっ、と笑ったケイは、尊大に腕を組んでふんぞり返り、

『―存分に感謝するが良い!』

『うお、いきなり態度がでかくなった!』

大仰にアイリーンが引いてみせ、顔を見合わせた二人は、くすくすと小さく笑いあう。

『まあ、そういうわけで、ゲームじゃないだろうと思ったわけだ。ゲームにしちゃあ色々と―出(・)来(・)過(・)ぎ(・)てる』

『こう言っちゃなんだけど、オレも本気でこれがゲームだとは思ってなかったよ』

アイリーンは小さく肩をすくめた。

『技術が発達すれば、これくらいリアルなVR空間も再現できるかもしれない。けど、今それがいきなり実用化されるのは、流石にちょっとありえないよな』

ベッドのシーツをひらひらとさせながら、ぼやくようにして、その視線はどこか遠く。

『まあな。……それと関連して、“こっち”とゲームの違いなんだが、どうやら復活はナシみたいだ。当たり前っちゃ当たり前なんだが』

仮に誰でも”再受肉(リスポーン)“できる世界なら、『殺し』がもっと軽い扱いになるはずだ。しかし、周囲の村人や盗賊たちを見るに、そういった考え方はなさそうだ。皆、地球の人々と同じくらい、死に敏感だった。

『そっか……じゃあ、死なないようにしないとな……』

窓の外の風景を眺めながら、しみじみと呟くアイリーン。その内容が、あまりにも当たり前すぎて、ケイには何処か可笑しくすら感じられた。

……ん?

と、そのとき、扉の外側からコツコツと、足音が近づいてくる。

―ケイ殿。呪い師のアンカにございまする

コンコン、と扉をノックしながら、しわがれた老婆の声。

ああ、アンカの婆様か

椅子から立ち上がったケイは扉を開け、杖をついた老婆を部屋の中に招き入れた。

申し訳ありませぬ、お邪魔虫でしたかのぅ?

いやいや、ちょうど話も終わったところだ―アイリーン、こちらは、お前が寝込んでる間、ずっと世話してくださった、村の薬師の、アンカの婆様だ

どうも、迷惑をかけたらしい。ありがとう

いえいえ、お気になさらずとも

アイリーンに礼を言われたアンカは、その微笑みを目にして ……お美しや と小さく呟いた。しわくちゃになった顔に埋もれる小さな瞳に、アイリーンの姿が映り込む。子供のようにきらきらと、未知への好奇心に輝く瞳。

ケイに椅子に座らせて貰いながら、アンカは手にしていた袋を差し出した。

ケイ殿。お預かりしていたポーションにございます

おお、ありがとう

そういえばポーションのことを失念していた、とケイは受け取りながら引きつった笑みを浮かべる。思わず中身を検めると、満タンの瓶が数本に、半分ほどまで使った瓶が一本。そこまで劇的に減っているというわけではない。

タヌキには指一本触れさせておりませんぞ

……タヌキ?

ベネットのことにございます

アンカの言葉に、ケイは苦笑を抑えきれなかった。たしかにあの爺ならば、ネコババしかねない。

村長といえば、彼から聞いたが、俺の頬の手当てもしてくださったようだ。改めてありがとう

大したことにはござりませぬ。わたくしめの調合した傷薬です、ポーションほどの効き目はとてもとても……。ポーションをお使いした方がよろしかったでしょうかぇ?

いや、ポーションが勿体ない。手当の件、感謝する

ポーションを使えば、この程度のかすり傷は即座に治る。が、傷薬では致命傷は治せない。アンカがポーションを温存してくれたことに、ケイは素直な感謝の意を示した。

身に余る御礼にございまする……。さて……、ケイ殿

んんっ、と咳払いをしたアンカが、真っ直ぐにケイを見据え、居住まいを正す。

この度は、厚かましながら、二つ、お願いがございまする

……なんだろうか

ケイの眉が下がった。この誠実な、礼儀正しい老婆に、ケイは素直に好感を抱いている。アイリーンの面倒を見てもらった恩もあるし、何か願いがあるならば極力聞いてあげたい、とは思っていた。

しかし、やはりそれは、願いの中身に依る。

……ひとつは、ポーションのことにございまする

言いにくそうに、しかしはっきりと言葉を紡いだアンカに、 やはりそうきたか とケイは思った。二人の会話に、ほぼ置物と化していたアイリーンも、さもありなんという顔をしている。

病や怪我で、人は死ぬものにございまする。それが自然の運命、逆らえるものにはございませぬ。―しかしながら、生まれたばかりの赤子が、熱に侵され、息を引き取って行くのは、あまりにも虚しく、辛いものにございます……

ずるり、と椅子から床へ滑り落ちるように、アンカは平伏した。

今年、出産を予定している女が、村には三人ほどおります。そのうち、何人の赤子が大きくなれるかは、わたくしめにはわかりませぬ。ケイ殿。その魔法薬が、何物にも代えがたい、貴重なものであることは理解しております。しかし、どうか、ほんの僅かな量に構いませぬ。弱った赤子を助けられる程度のポーションを、お与え下されませぬか……

よしてくれ、婆様

床に額を擦り付けるアンカを、ケイは抱え上げて椅子に座り直させる。

手を組んで俯いた、小さな、あまりに弱々しい老婆を前に、ケイは細く長く息を吐き出した。

―ポーションは、生命線だ。

ゲーム内でさえ、素材や生産設備の関係で、高等魔法薬(ハイポーション)は希少性が高かった。この世界の住人を見るに、こちらでのポーションの希少性は更に高いようで、再入手の手立てがあるのかどうかすら、わからない。

―ここで情に流されるか、自分たちの命を優先するか。

考えるまでもないことだ。自ずと結論は出る。

……すまない。婆様

ケイは静かに、頭を下げた。

これは……流石に、我々が持っていたい

その言葉に、アンカは痛々しい表情で、ゆっくりと首を振った。

いえ……最初から、わかっており申した。対価として要求致すには、あまりに過ぎたものであることは……お気になさらないでくだされ、ケイ殿。ただの老いぼれの、世迷いごとにございます

すまない……

潔いアンカの言葉。ケイの中で申し訳なさが募る。

しかし、―耐えた。

……で、もう一つの方の願いってーのは?

場に沈黙が降り、飽和する寸前の絶妙なタイミングで、能天気を装ったアイリーンの一言が響く。

おお……もうひとつ、これも厚かましい願いにございますが、

表情を幾分か明るく回復させたアンカは、ケイとアイリーン二人に、

―実はケイ殿に、精霊語のご指南を賜りたいのです

アンカの申し出に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。

……というと?

真にお恥ずかしながら、わたくしめは村の呪い師でありながら、精霊語の素養がありませぬ。村に伝わる精霊様への呪いの文言が、正しいものなのかどうかすら、分からぬのです

ここでアンカは、まるで周囲に人がいないか気にするかのように、

……正直なところ、病人にいくら祈りを捧げても、効能があるとは思えぬのでございます。ゆえに、文言そのものが間違えているのではないかと……

小さな声で、囁いた。

その程度ならば、お安い御用だが

ケイは事も無げに答える。ポーションに比べれば、どうということはない頼みごとだった。

本当にございますか! ありがとうございまする……

再び床に平伏しそうになったアンカを、ケイとアイリーンは慌てて止めた。

†††

アンカへの精霊語(エスペラント)の指導をさっくりと終わらせたケイは、腹が減ったというアイリーンの世話を再びシンシアに頼んでから、村長の家を後にした。村長のベネットは、まだ帰っていないようだ。おそらく約束通り、孫娘のジェシカと遊んでいるのだろう。

祈りの文言を添削され、ついでに有用な幾つかの動詞や指示語、精霊が好む触媒などもまとめて教わったアンカは、鬼気迫る様相でそれらを紙に書き取り、感涙に咽び泣きながら帰っていった。

教えた側のケイとしては、喜んで貰って嬉しくはあるものの、正直なところ複雑な心境だ。契約精霊を抜きにした”呪術”など、精霊語が正しかったところで、どれほどの効果があるものかわかったものではないからだ。

魔術も呪術も、精霊語で精霊に話しかけて自分の願いを告げ、魔力や触媒を捧げることにより何らかの目的を達成してもらう、という点で、その本質は変わらない。

ただ、『喚べば精霊が応えてくれる』のが契約精霊ありきの魔術で、『いるかどうかも分からない精霊に取り敢えず頼む』のが呪術、と定義されている。

有体に言えば、呪術は不確実なのだ。

精霊は、何処にでも存在するし、何処にも存在しない。例えば、ケイが契約している精霊 風の乙女 は、風の吹く場所になら何処へでも顕現し得る。

彼女は一陣の風であると同時に、大気全体の流れでもある。 風の乙女 のうち個体名を『シーヴ』と名乗る者は、契約したことにより今はケイ一人に注目しているが、本来ならば風の吹く場所全てを知覚していた存在だ。

その広大すぎる知覚の中で、ひとりの人間が祈りを捧げたところで、いちいちそれに注目する理由が、彼女にはない。

故に、精霊の気を引くために、呪術においては『精霊が好む空間』を演出することが何よりも大切らしいが、実際問題、そういった細かいテクニックを、ケイは知らなかった。

なぜなら、ゲームの DEMONDAL において、“呪術”は設定やNPCの話においてのみ示唆される存在で、実際にはプレイヤーがそれを使用することはできなかったからだ。ゆえに解析も、推測すらもできない。

ケイに出来たのは、うろ覚えのNPCの話を参考に、割と顕現しやすい低位の精霊が好む触媒を、アンカに教えることぐらいのことだった。

(……まあ、それでも、ないよりはマシか)

村の中の砂利道を歩きながら、考える。

年齢的にそこそこに魔力があると考えられるアンカが、正しい精霊語で祈りを捧げれば、それなりに精霊の注目を集める、かもしれない。

ケイとしては、宝くじに当たる確率が若干上がった、ぐらいに受け止めて貰いたかったのだが、今後の呪術に大いに期待を寄せているアンカを見ると、なんとも申し訳ない気分になる。

そんなことを考えている間に、村の中心の広場に到着した。

タアフ村の中で唯一、石畳が敷かれている空間。

中央に井戸を配し、普段は洗い物や水汲みなどで生活の中心となる場所に、今は整然と盗賊から回収した武具が並べられていた。

広場を取り囲むように、手の空いている村人たちがぐるりと見物に集まっている。村の生活ではお目にかかれないような武器防具に、大人から子供まで、男たちはみな目を輝かせていた。そんな彼らに、仕方がないわね、と言わんばかりの呆れた視線を向ける、洗い物の籠を手にした村の女たち。

もっとも、死体回収に向かった面子、クローネンやマンデルたちは、やはり死体の記憶を引きずっているのか、はしゃぐ気にもなれないようだったが。

おや、ケイ殿。お話はもう終えられたのですかな

石畳の上の武具をじっくりと見定めていたダニーが、ケイに愛想笑いを向けてくる。

ああ。そちらは、首尾はどうだろうか

上々です。流石はイグナーツ盗賊団、装備の質もなかなかですぞ

そうか

ごまをするように揉み手のダニー。鷹揚に頷いたケイは、並べられた長剣にちらりと目をやった。

(……成る程、さすがに一番質がいい奴は取らないでおいたか)

あらかじめ目をつけていた、最も質の良かった長剣は、そのまま地面に置いてあるのを確認する。しかし体感的に、少々剣全体で見ると、どうにもその数が少ないような気がした。おそらく、ケイがアイリーンと話している間に、ど(・)こ(・)か(・)へ(・)誰(・)か(・)が(・)持ち去ったのだろう。

苦笑交じりに、そんなことを考えていたケイだったが。

ふと、剣のそばに並べられていた革鎧に目をつけて、その顔色を変えた。

胴鎧が―八つ。

いかがなさいました? ケイ殿

……ダニー殿。一つ尋ねたいのだが、この鎧は、これで回収されたもの全てか?

えっ

ケイの問いかけに、ひい、ふう、みいと鎧の数を数えたダニーは、

ええ、これで合っている筈です。きっかり八人分。あの場にあった賊(・)の(・)死(・)体(・)の(・)数(・)と(・)一(・)致(・)し(・)ま(・)す(・)の(・)で(・)

……そう、か

―足りない。

昨夜ケイが戦った盗賊は、全部で十人。

(―二人、逃したのか)

歪みそうになる表情を、必死に押し固める。

今すぐサスケに飛び乗って、現場をもう一度確認しに行こうかとも思ったが、不思議そうな顔でこちらを覗き込むダニーを見てやめた。この業突く張りの男が余計な死体を見逃すはずがないし、第一、ここで怪しまれるべきではない、と。

(……せめて、逃げた奴の所持品、ナイフでも何でもいい、それがあれば 追跡 が出来るんだが、)

整然と並べられた武具を前に、ううむ、と唸る。魔術の行使に必要な触媒の宝石(エメラルド)は、もうひとつある。『逃亡者』が使っていた武具なり道具なりがあれば、それに染みついた魔術的な『匂い』を頼りに、風の吹く場所に居る限り 風の乙女 でその位置を暴くことが可能だが。

肝心の、その『持ち物』がどれなのかが、わからない。

だからといって、手当たり次第に試すわけにもいかない。純戦士(ピュアファイター)であり、魔術の使用を前提としていないケイには、触媒も、魔力も、全てが足りていなかった。

…………

訝しげにこちらを見るダニーをよそに、顎を撫でながら、ケイは考えを巡らせた。

……ふむ。これら戦利品についてだが

しばらくして、唐突に話を切り出したケイは、目をつけていた長剣に歩み寄り、おもむろにそれを拾い上げる。

昨夜の戦闘で、ケイのサーベルは刃の付け根が歪み、すっかり使い物にならなくなっていた。元々、力任せに『叩き切る』使い方しかできないケイは、サーベルのような『斬る』タイプの剣と相性が悪い。

それでもわざわサーベルを使っていたのは、相方であるアンドレイに万が一のときすぐに渡せるようにするためだが―現状のケイには壊れにくい、頑丈な長剣が必要だった。

しゃらり、と鞘から白刃を抜き放つ。

手になじむ重さの剣だ。刃渡りは八十センチほど、刃は程よく肉厚で、切れ味も悪くなさそうに見える。試しに、片手で振り回してみた。

ビッ、ピゥッ、と鋭い風切音。

がやがやと騒がしかった村人たちが、その剣圧にぴたりと押し黙った。

(……速い)

一振りの速さに、思わず目を見張ったのがクローネン。

(……ブレないな)

寸分の軸の乱れもなく、ぴたりと止められた剣を見て、ケイの底知れぬ膂力を推し量ったのがマンデル。

ダニー殿

な、なんでしょう

この剣と、回収した銀貨は頂戴いたす

抜き身の剣を手にしたまま、ケイは有無を言わせぬ口調で言い放った。

その代わり、残りの武具や、装飾品は丸ごと差し上げよう。随分と世話になったからな。よろしいか?

なっ!

ダニーが目を剥いたのは、ケイの申し入れが想像以上に破格のものだったからだ。盗賊たちの銀貨は、それなりの財産になる金額ではあったが、武具や装飾品を全て売り払った際に見込まれる収入は、それを上回るものだ。周囲の村人たちも、おお、とどよめきの声を上げる。

はっ、はい! 勿論です!!

そうか。ならばよかった……ところで、気のせいかもしれないが、剣の数が少々足りない気もするな。まだ、鍛冶屋が手入れをしているのだろうか?どうでもいいことだが、銀貨に数(・)え(・)間(・)違(・)い(・)がないことを祈っているぞ、ダニー殿

ケイがにこりと笑いかけると、興奮で赤らんでいたダニーの笑顔が、僅かに青ざめて引きつった。

そんな彼をよそに、夕焼けに染まり始めた空を見上げ、ケイは小さく溜息をつく。

……今日は、なんだか疲れが抜けきれていないようだ。すまない、あとは任せてもよろしいかな

も、勿論です

ありがとう。戻る、といってもダニー殿の家だが、俺は失礼するよ

ぱちん、と剣を鞘に戻したケイは、ダニーに背を向けてきた道を引き返し始めた。

(……正直、残りの武具やら装飾品やらも勿体ないが、換金する時間の方が惜しい)

ダニーたちの話によれば、近いうち、具体的にはあと一週間ほどで、行商人たちが村にやってくる。

そのときに武具やら装飾品などを売り払い、盗賊たちから奪った品を現金に換えるか、あるいは諸々の物資と物々交換するのがケイにとっては理想的だったのだが、敵を逃がしたとなればそうも言っていられなくなった。

相手は、地方一帯に名を轟かせるような盗賊団だ。昨夜戦った連中の腕前からして、あれが本隊ということもあるまい。おそらくはせいぜいが一部隊。

となれば―かなりの確率で、報復の攻撃があるはず。

(装飾品も……指輪がヤバそうだしな)

持ち運びが楽な装飾品類は持っていくのもアリだったが、盗賊たちがはめていた指輪のうち、妙に画一的なデザインのものがあったことが気にかかる。

(仮に、アレが盗賊団の印的な指輪だったら、持ってるだけで逆に俺の方が 追跡 を喰らう可能性もあるしな……)

ある程度大きな武装集団ともなると、魔術師の一人や二人がいてもおかしくない。

かといって、 その妙に似た感じの指輪以外の装飾品だけ貰うわ というのは、いかにも怪しい。よって、装飾品類は全てダニーたちに譲った方が自然だった。

(……まあいい、銀貨全部と長剣だけでも悪くない収入だ)

あとは。

(アイリーンが本調子に戻り次第、村を出よう)

右手に握る剣の鞘に、ぎり、と力がこもる。

明るかった森が、黄昏の中で鬱蒼と暗く染まっていく。

ケイは、なんとも言えない胸騒ぎを抱えたまま、急ぎ足でアイリーンの待つ家へと戻っていった。

作中でようやく24時間が経過しました。

皆様の感想を、お待ちしております。

14. 狩人

さぁぁぁ、と。

広がりのある葉擦れの音が、風に運ばれてくる。

草原。地平線の果てまで続く、緑の大地。

抜けるような青空に、ひつじ雲がふわふわと漂う。

(……平和だな)

サスケに跨り、ぐるりと周囲を一望したケイは、漠然とそう思った。

目に優しい、心休まる風景―といってもよい。

しかし胸の奥。燻り続ける、焦りに似た何か。

とぐろを巻く陰鬱な感情が、ちくちくと胸を刺す。

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