あまり愉快でないお喋りに興じているうちに、衛兵の言っていた役所に辿り着く。

木造と石造の建築物が混在する中、赤煉瓦で統一された役所は特に目立っていた。入口付近には衛兵が立っており、扉の上には小さなウルヴァーンの旗が翻っている。赤地に竜の紋章―煉瓦然り、衛兵の装備然り、この色はウルヴァーンの象徴なのかもしれない。

入口からはみ出る形で、そこには十数人の市民が列を為していた。彼らに奇異の目を向けられながらも、最後尾に並ぶ。

そして待つ。

…………

ただ、待つ。

(……。暇だ)

このとき、二人の見解は一致していた。

当たり前だが、このような事態は想定していなかったので、暇潰しになるような物は何も持ってきておらず。

かといってすぐ近くには他人がいるので、踏み入った話もし辛い。

『―よし、精霊語(エスペラント)で話そう』

『いいな!』

切り出したケイに、アイリーンは一も二もなく乗ってきた。

『……で、何の話?』

『まあ、図書館について、かな』

突如として謎の言語での応酬を始めたケイたちに、周囲はさらに奇異の目を向けたが、二人とも気付かない。

『実際のところ、オレ、あのくらいの壁なら越えられるぜ?』

顎で第一城壁を示しながら、アイリーン。高くそびえ立つ、白塗りで凹凸もない壁だが―ゲーム時代のアンドレイの能力を思い出し、ケイはさもありなんと頷いた。アイリーンは今でも鉤爪付きのロープを持っている筈だ。

『それは最終手段だな』

『ダメか?』

『悪くないが、俺も入りたいしな』

『上からロープを垂らせばイケるんじゃね?』

『夜なら大丈夫か? しかし、図書館が開くまでかなり待たないと……』

『うーん……そうだな。オレだけならいいケド、明るくなったあと、ケイが何処に隠れるかが問題だ……』

英語よりも貧弱な語彙を互いにもどかしく思いながら、ああだこうだと侵入計画について話し合う。そのお蔭で待ち時間もあっという間に過ぎ、三十分ほど待ってから、ケイたちの番となった。

……次ー

役所の中に入ると、区分けされた幾つかの受付のうち、疲れた様子の痩せぎすな男がケイたちを呼んだ。

粗末な腰かけが一つしかない受付。取り敢えずアイリーンを座らせ、ケイはその横に立つことにする。受付の男は胡散臭げに、じろじろと不躾な視線を向けてきた。

……用件は?

図書館に行きたいんだが、身分証も許可証もないので一級市街区に入れない。証明書取得の為に詳しい情報が欲しい

……

コツコツ、と指先で机を叩く男。

ということは、公国内で有効な身分証の類はない、と?

ない

そうか。ならばそれはウチの管轄じゃない。住民管理局に行け

えっ

ここは市庁、市民の為の役所だ。異邦人(よそもの)に対しては業務を行う権利も義務もなくてな。……というわけで、次ー

いや、ちょっと待ってくれ。その住民管理局ってのは何処にあるんだ?

話を打ち切られそうになったところで、慌ててアイリーンが話に割り込む。

……城壁沿いに東へ行けば、ウチと似たような建物がある。まあ、分からなければ付近の住民に聞くことだ。

どんくらい歩けばいい?

……十分もせずに着くだろう。さほど遠くはない

一級市街区に入るのに身分証がいる、ってのは確かなんだよな?

……ああ、戦時を除いて、規則は皆に平等だ。例えそれが王であったとしても

へえ。ところで、身分証取るのに何か注意しておく事とか―

おいッいい加減にしろテメェらッッ!!

続けてアイリーンが問いかけようとしたところで、背後から怒鳴り声。振り返る間もなくドスドスと足音が近づいてきて、ケイもアイリーンも乱暴に押しのけられた。

ゴツい体格をした、中年の男。アイリーンの代わりにどっかと椅子に腰を下ろし、ギロリとこちらを睨みつける。

人様を待たせておいて、いつまでも喋ってんじゃねえぞ! ここは市民の為の場所だ、余所者はお呼びじゃねえ! とっとと出て行けッこの蛮族どもが!

言うだけ言って、中年男はアイリーンに向かってペッと唾を吐き捨てた。反射的に飛び退り、すんでのところでそれを回避したアイリーンであったが、 こンのッ……! と眉を吊り上げて逆に睨み返す。

……なんだその目は。あァ?

それが気に食わなかったのか、椅子を蹴倒してやおらアイリーンに手を伸ばす中年。しかし、一歩前に進み出たケイが、その手首をがっしりと掴んで放さない。今度は中年の視線がケイに向く。

なんだ? テメェ、やんのかコラ

手を振りほどきながら、挑発的に語気を荒げる中年。ケイよりも少しだけ背が低いが、その代わりに恰幅が良い。この腕の筋肉の付き方―肉体労働者のそれだ。おそらく、腕っ節にそれなりの自信があるのだろう。

が、ケイはそれに構うことなく、黙って壁を顎でしゃくって見せる。

受付の真横に、大きな張り紙がしてあった。そこにでかでかと書かれているのは―

―『諍い事 厳禁』、だそうだ。張り紙も読めないのか?

ケイの冷めた言葉に、張り紙へ目をやった中年は、 ぐっ、ぬっ と言葉にならない呻き声をあげて一、二歩下がった。

しばし、張り紙とケイの間で何度も視線を往復させては、何かを言おうと口をパクパクと動かす中年。しかし、幾ら待っても何も言わないので、突発的に言語障害でも発現したのかと疑い始めたところで、

……読めないんじゃね?

ボソリと、アイリーン。

……ああ、

それで、ケイも合点がいった。

本当に読めないのか。なら仕方ないな……

確かに『こちら』の世界は、中世のヨーロッパよりは豊かで、技術も遥かに進んでいる。が、だからといって、識字率が百パーセントというわけではない。特に平民であれば、文字が読めない者も一定数いることだろう。

納得してうんうんと頷くケイを前に、中年男は顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。

俺としては、単に『目に入っていないのか』ぐらいの意味だったんだが……

もういいよ、行こうぜ。あ(・)ん(・)ま(・)り(・)待(・)た(・)せ(・)ち(・)ゃ(・)悪(・)い(・)し、時間の無駄だ

それもそうだな。というわけで、失礼した。では

受付の男に目礼し、これ以上トラブルが大きくなる前に、とケイたちは足早に役所を出ていく。

男は拳を握りしめたまま、その場でいつまでもぷるぷると震えていた。

†††

その後、城壁沿いに歩き、“住民管理局”なる場所に向かったケイたちは、再び列に並んで一時間ほど待ち、異民族向けの許可証の取り方を問い合わせた。

が。

結果として分かったのは、許可証にせよ身分証にせよ、現時点での取得は非常に難しいということだった。

まず、許可証。これは主に、一級市街区で働く使用人や業者の人間に与えられるもので、発行権は王を含む貴族位に属している。

つまり、許可証が欲しければ貴族に頼むしかない。

そして当たり前だが、ケイたちに貴族のツテはない。現段階では実質的に不可能な方策といえた。

あるいは、これからケイたちが自分たちを貴族に売り込み、士官するなり私兵になるなりして取り入ることは可能かもしれないが、時間がかかる上に確実性はない。また、これまでの道中で散々アイリーンがその美貌を『買われ』そうになっていたことも考えると、ケイ個人の感情としては、余り試したくない方針だ。何が起きるか分からない。

では、翻って身分証はどうか。

身分証とは基本的に、都市ごとに発行されるもので、これの獲得は即ち市民権の取得と同義だ。身分証が発行された時点で、行政上の一個人としての権利が保証されるが、代わりに納税やその他義務も発生する。例えば、ウルヴァーン市内で露店を開きたいならば、市民権が必須であり、売り上げのうち数パーセントを租税とはまた別に納めなければならない。

さて、その市民権の獲得方法だが、―これがまた複雑であった。少なくとも、法律や不動産関係の語彙に限界のあるケイが、途中で理解を放棄したくなる程度に。

ウルヴァーンにおける、市民権獲得の条件を大まかにまとめると、

・会話可能な英語力、税制を理解するに足る教養、最低限の読み書きの素養

(これは異民族に対する規則)

・向こう一年間は、ウルヴァーンの都市圏内に住居が確保できていることの証明

(家屋の権利書、借家の賃貸契約書、居候の場合は大家の認可書がこれにあたる。ただし、宿屋は除くものとする。また野宿も認められない)

・三年間分の租税の前払い、あるいは四年以上のウルヴァーン市への士官経験

(士官経験として、貴族の私兵や傭兵の場合は、雇用主の証書が必須)

・公国内において犯罪歴がないこと

(一部の衛兵の詰め所で、無犯罪証明書が発行可能。足が付いたレベルの犯罪者ならば、この段階で弾かれる)

・五人以上のウルヴァーン市民の推薦状

(身元保証人としての性格が強い)

これらに加え、性別や年齢、出身や身分、貴族の推薦状の有無、ウルヴァーン市民との妻帯など、様々な条件が重なることで取得の難易度が若干変動する。ちなみにケイたちの場合、出身が草原の民あるいは雪原の民とされるので、どうしても審査の基準が厳しめになるそうだ。

その夜。

“HangedBug”亭に戻って夕食を取ったケイたちは、疲労感に苛まれながらも、部屋でダラダラと話し合っていた。

まあ……英語力はまず問題ないし、無犯罪証明書も大丈夫だろ

うむ

租税の前払いも……イケるよな? ケイ

そうだな。“大熊”の毛皮の収入も入ってくるし、足りなければ宝石も売ればいい

となると……問題は、

住居の確保と、

市民五人からの推薦状、か……

ずっしりと、その言葉が重く二人の胸に圧し掛かる。

住居にせよ推薦状にせよ、不可能ではないだろう。ホランドあたりのツテを辿れば、案外何とかなるかもしれない。しかし、この排他的な街ウルヴァーンにおいて、その道程が平易なものでないことは、火を見るよりも明らかだった。

―これは面倒くさい。

何とも言えない憂鬱に襲われたケイは、腰かけていたベッドにどさりと身を投げ出して寝転んだ。すると、窓際で夜風に当たっていたアイリーンが、おもちゃを見つけた猫のように突撃してくる。

もうちょっと奥行って

お、おう

ケイを壁際に追いやり、背中を預ける様にして、すっぽりと腕の中に収まる華奢な体躯。

…………

しばし沈黙が、部屋を支配する。

……取り敢えず明日、ホランドの旦那でも訪ねてみるか

うん……

体の前に回されたケイの腕を、そっと掴んでアイリーンは息を吐いた。対するケイは、無意識のうちに美しい金髪を撫でながら、茫洋とした目つきでランプの灯りを眺めている。

ぼんやりと―。

ゆったりと―。

……なんかもう、どうでもいいなー

不意に。

アイリーンが、そんなことを言い出した。

ややこしいし、疲れるし。やっぱり調べ物なんて止めて、サティナに戻るってのはどうだろ。ケイは狩人で……オレは、リリーの護衛でもして……

ケイと同じ方向を向いたまま―表情を隠したまま、言葉を続ける。

別に、転移の理由なんて分からなくても、生きて、いけるしさ……

ケイは、悟った。

話す時が来た、と。

……なあ、アイリーン

頭を撫でる手を止めて、アイリーンの肩を掴む。そのまま反応される前に彼女の身体をくるりと転がして、自身に向き合わせた。

強引なケイに動揺して、微かに目を見開くアイリーン。

なっ、何

アイリーン。……お前は、どうしたい?

揺れる青の瞳を、まっすぐに見据える。

この世界に残りたいのか。……あるいは、帰りたいのか

どくん、という鼓動の音を、聴いた気がした。

……オ、レは

平素からは考えられないほど、弱々しく声を震わせたアイリーンは、ケイの視線に耐えきれなくなったかのように目を伏せる。

オレは……

沈黙を受け取ったケイは、華奢な体をそっと抱きしめた。

……俺は、アイリーンが一緒に居てくれたら、嬉しい

静かに、しかしはっきりと、ケイは告げる。胸元でアイリーンが、はっと息を呑むのが分かった。

でも、……やっぱり、アイリーンに決めて欲しい。このあと……どうしたいのかは

アイリーンは、押し黙る。だがケイはそれでも、言葉を続けた。

俺とお前じゃ、状況が違い過ぎるし、そのせいでアイリーンが悩んでるのは、分かってる。何故『こっち』に来たのかも分からないし、帰るためにはどうすればいいのかも分からない。普通の人間なら、不安で、悩むのは、当たり前のことだと思う。

俺は、……少なくとも俺は、元の世界に帰るつもりはない。けど、それでも自分が『こっち』に来た理由だけは、知っておきたいんだ。ただの”偶然”や”奇跡”なんて言葉じゃ、今回のことは、説明しきれないと思うから……

……うん

こくりと、小さく、頷いた。

それで、原因とか、帰る方法とか、……そういうのが全部分かってから、アイリーンにも決めて欲しい

ゆっくりと、頭を撫でる。

決めるのは、それからでも遅くない。だから……それまで、一緒に居よう

―できれば、それからも。

その言葉は、口に出さずに。

うん。……うん

腕の中で何度も頷くアイリーンは、いつしか、涙声になっていた。

今のケイには、何も言わずに、ただ抱きしめることしかできない。

―傲慢だろうか。

ある種の孤独の中で、ケイはひとり、物思いに沈む。

仮に―

今ここで、元の世界の全てを捨てて、自分と共に生きてくれ、と。

熱烈に訴えかければ、おそらく彼女は、それに応えてくれるだろう。

しかし。

それでいいのか。強制していいのか。自分の願いを、ただ彼女に押し付けていいのか。

うっ……っく……

悩み、苦しみ、涙を流す彼女を前に、答えは明らかだった。

これから先。

生きていくうえで、いつか必ず、何かを後悔する日がやってくるだろう。

ならば、そのときはせめて、―納得のいく形で後悔してほしい。

ケイは、そう考える。

このまま流れに任せ、この世界に留まることを選択すれば、アイリーンは必ずそれを後悔することになる。

今は良い。二人で幸せに暮らせる。だが十年後は? 二十年後は? どうだろうか。

その時になって行動を起こそうとしても、もう遅すぎるのだ。

今しかない。

『決める』には―まだ決めていない、今しかない。

悩みに悩んで、考えに考えて、それで一つの答えを選びとれば、いつか後悔するにしても、そこにはある種の『納得』があるはずだ。

アイリーンには、そうしてほしいと、ケイは思う。

―その『答え』が、“自分と共に生きること”であれと、祈りながら。

(……とんだ自己満足だ)

心の中で、嘲笑う。『自嘲』と呼ぶには、あまりに狂おしい感情。

アイリーンに強制したくない、と言いつつも、本心では彼女が自らの手で、帰るという選択肢を捨て去ることを期待しているのだ。

そうすれば―自分が後悔せずに済むから?

自分本位、わがまま、あるいは―これを傲慢と呼ばずして、何と呼ぼう。

しかし、それでも。

アイリーンにそうして欲しいと、ケイは願う。

(もしも―)

瞳を閉じて、考える。

(アイリーンが、帰ることを望んだなら―)

そのとき―そのとき、自分は―

オレさ、

いつの間にか、泣きやんでいたアイリーンが、口を開いた。

正直、帰りたいのかどうかは、今でも分かんないんだ

怯える様に、涙を湛えた瞳が見上げる。ケイは、黙って頷いた。

……四人家族でさ。パパと、ママと、お姉ちゃんと……みんな優しくって。でも、

もぞ、と寒さを堪える様に、アイリーンは身体を丸める。

ケイも、薄々察してると思う、けど。オレ、小さいころ、体操やってたんだ。……けっこう上手くてさ、ジュニアの大会で優勝したこともある。もしかしたら、オリンピックに出れるかも、って……オレ、ずっと頑張ってたんだ。頑張ってたんだ……

明るくなっては、暗く沈む。そんな、不安定な口調。

でも、……事故でさ。足、なくなっちゃった

はは、と乾いた声で、笑う。

嘘みたいだろ。ドラマみたいな……オレも信じられなくって。もう……ダメだ、って。昔、クローン技術で移植、みたいなの、あったじゃん。だから、それに賭けてみようかなって思ってさ。テスターになろうか、とか、色々やってみようとしたけど……宗教的な問題とか、条約とかで禁止されちゃったし。時間だけは経って、身体の感覚はズレちゃうし……それでさ、ある日、『あ、もうムリだな』って。一度思っちゃったら、もうダメでさ。それからずっと、引き籠ってた

ケイの胸に顔をうずめたまま、しかし淡々とした声で。少しの間、アイリーンは黙っていた。

……『かつてないほどのリアリティ』

やがて、ぽつりと。

……この売り文句に飛びついたのって、ケイだけじゃないんだぜ

ふっと、顔を上げた。

痛々しいほどに、儚い微笑みだった。

……でも、ケイに比べたら、オレなんて全然だよ。ずっと、自分の事、悲劇のヒロインか何かだって、思ってた。……でも、『こっち』に来た日に、ケイの話を聞いて、オレ、……オレ、

そんなことはない

アイリーンの言葉にかぶせる様にして、ケイはその身を強く抱きよせた。

……そんなことはない

耳元で、繰り返す。アイリーンは、ケイを抱きしめる力を少し強くしただけで、他には何も言わない。

ケイは、何かを得る前に、全てを失った。

アイリーンは、自らが勝ち取ったものを、打ち砕かれた。

―どちらが苦しいだろう。

純粋に、思う。

究極的には、体験していないのだから、二人の例を比較することはできない。

だが―想像することは、できる。

……つらかったな

ぽつりと、ケイが呟くと、アイリーンは何も言わずに、ぎゅっと抱きついた。

強く。強く―。

…………

それからしばらく、黙っていた。

……だから、オレ、帰るのが怖いんだ

ぽつぽつと、アイリーンはその想いを吐露する。

でも……パパにもママにもお姉ちゃんにも、もう、二度と会えないのも、悲しくて

ふるふると震えていたアイリーンは、恐る恐るといったふうに顔を上げた。

……まだ、迷ってて……全然、決められない、けど……


溢れんばかりの涙を湛えた瞳が、ケイを見つめる。

答えが出るまで、いっしょに居てくれる?

―迷う暇など。

ああ

力強く、頷いた。

一緒に居よう

その囁きは、魂からの叫びだった。

……ありがとう

儚い笑顔は、涙の彩りとともに。

どちらからともなく、唇を重ねた。

ゆったりと―

奥底にまで触れ合うような。

心休まるひと時。

しかし今日は、二人ともが疲れ果てていた。

やがてどちらからともなく、健やかな寝息を立て始める。

夜風が吹きこみ、ランプの灯りをかき消す。

闇の帳に覆われた部屋は、ただ、穏やかさに満ちていた。

31. 大会

明くる日。

一晩ぐっすりと眠り、割と元気の出てきたケイたちは、気分を切り替えてコーンウェル商会を訪ねていた。

やあやあ、お早う二人とも。用事があると聞いたけど?

商館の一室で待たされていると、ほどなくして忙しげにホランドが姿を現した。何でも近日中に、隊商が再びサティナへ発つそうで、その準備の合間を縫って話を聞きに来てくれたらしい。

忙しいところ申し訳ない、実は―

恐縮しつつも、ケイは自分たちの現状―市民権も許可証も持たないが故に、第一城壁が越えられないことを相談した。すると、

……なんてこった。知らなかったのかい? 市民権のこと

しばし、呆けたように目を瞬かせ、ホランドは思わずといった様子で苦笑した。

……うむ。あいにくと、身の回りに知らせてくれる人がいなくてな

渋い顔で腕組みをするケイに、ホランドはさらにその苦笑の色を濃くする。

いやはや、申し訳ない。キミらは『上』からの指示で、特別に護衛として参加したもんだからね。私を含めて、多分隊商の全員が、何らかの伝手を持ってるものと思い込んでたんだろう

ああいや、そのことに文句が言いたかったわけじゃないんだ

控え目に謝るホランドに、自身の発言が皮肉とも取れたことに気付きケイは狼狽した。

―でさでさ、旦那。オレたち、どうしたらいいと思う? 税金とか住居とかは何とかなると思うんだけどさー、市民権取るには市民の推薦状とやらが必要らしいじゃん

空気が気まずくなる前に、すかさず口を挟むアイリーン。

そう……だねぇ。推薦状かぁ

旦那、書いてくれない?

いや、残念ながらそれは出来ない。書類上は、私はサティナの住人だからウルヴァーンの市民権は持ってないのさ

茶目っ気たっぷりにお願いするアイリーンに、ホランドもまたおどけた様子で肩をすくめてみせる。

そっかー、残念。出来ればだけど、他にお願いできそうな人、紹介して貰えたら嬉しいなー、なんて

ふーむ。それよりも、キミらに限っては、……もっといい方法があるかもしれないよ

ニヤリと笑みを浮かべて、ホランドは声をひそめた。

実は近々、ここウルヴァーンで、武闘大会が開かれることになったらしい

……“武闘大会(トーナメント)”?

そう。アクランド公国、ひいては諸国から勇士を募り、その武勇を競い合わせる。見事優勝した者には”公国一”の栄誉を、そうでなくても入賞すれば、賞金とウルヴァーンの名誉市民権が与えられるとか何とか……

ほう……

でも、そうなると、また闘うことになるのか?

感心したように頷くケイの隣、アイリーンは表情を曇らせる。彼女を巡って、ケイがとある脳筋戦士と決闘する羽目になったのは、記憶に新しい。

や、ケイの場合は、射的部門に出場すればいいんじゃないかな。剣や槍、馬上試合とは違って、出場者同士が直接戦うことはない筈だから

アイリーンの懸念を正確に汲み取ったホランドは、安心させるように微笑を浮かべた。

射的部門(シューティング)というからには、弓以外も?

ああ。前回、武闘大会が開かれたのは、十五年も前のことだけど、その時は弓矢に十字弓(クロスボウ)、投石紐(スリング)に至るまで、多種多様な遠距離武器が”射的”で一括りにされていたよ。基本的にやることは一緒、的当てだからね

成る程

尤も、優勝者は弓やクロスボウの使い手ばかりで、スリングは予選を突破することすら難しかったらしいけど

ということは、スリングが不利になるようなルールが?

いや、単純にここら一帯はスリングの使い手が少ないんだよ。だから弓に比べると、全体の水準がどうしても低くなりがちなんだ。貧しい村ではまだ現役と聞くけど、基本的に兵士も狩人も弓を使うからねえ

弓やクロスボウに比べると見栄えも悪いため、わざわざスリングで大会に挑む者は少ない、とホランドは言う。

投石紐(スリング)は遠心力で石や鉛玉などを打ち出す、シンプルな構造の紐状の武器だ。弓に比べると生産が容易で、道端に落ちている石ですら弾として即座に利用できるという強みがある。それでいて射程は下手な弓よりも長く、その威力も決して馬鹿には出来ない。振り回して投擲するという性質上、扱いにはある程度の習熟を要するが、入手が簡単ということもありゲーム内では無法者(アウトロー)御用達の武器であった。

拳大の石を長距離から投擲できるスリングは、投擲物そのものに質量があるため、例え鎧で身を固めていても命中すれば必ずダメージが通る。骨折、内臓破裂、あるいは武具の損壊。弓と違って片手で放てるため、使い手自身が盾を装備できるのも大きな利点だ。

馬上では扱い辛いという欠点もあるものの、集団で運用された場合、それは時として弓以上に猛威を振るう。こと打撃力という一点において、スリングは弓を圧倒するポテンシャルを秘めているのだ。

―尤も、板金鎧はおろか盾すらブチ抜く”竜鱗通し”は、そのさらに上を行く例外中の例外であるが。

(そういえば、PK(プレイヤーキラー)には、よく石投げられてたな……)

目を細めて、ケイは懐かしげにゲーム時代の思い出を反芻する。

投石、とだけ聞くとやはりチャチな印象を受けてしまうが、スリングに習熟したプレイヤーの放つそれはもはや砲弾に等しい。特に”隠密(ステルス)“に長けたプレイヤーの投擲は脅威の一言で、“受動(パッシブ)“をほぼ極めたケイですら、回避が間に合わず馬から叩き落とされたのは一度や二度ではない。

“受動”を不得手とするアンドレイはもっと酷い目にあってたな……、などと考えていたところで、コンコンとドアをノックする音が、ケイを現実に引き戻した。

お茶がはいりましたよ~

トレイの上にマグカップを載せて、部屋に入ってきたのは浅黒い肌をした幼い少女―ホランドの娘、エッダだ。

やあ、エッダ

おおー、元気してたか?

うん! お兄ちゃん、……とお姉ちゃんも、ひさしぶり!

ケイの方を向いて、無邪気に笑うエッダ。久しぶり、とはいうものの、最後に顔を合わせてからまだ三日と経っていない。しかしこの数日で、アイリーンとの距離感が決定的に変わり、また役所を訪ね回ったことで様々な経験も積んだ。数日といえども濃密な時間―隊商で過ごした一週間が、随分と昔のように感じられるケイであった。

カップをテーブルの上に置いたエッダは、何を思ったのか、そのままケイの腕の中に潜り込んでくる。当然のように膝の上に収まるエッダに、ホランドが お話の邪魔にならないよう、部屋を出なさい と、何やら小言めいたことを言い始めたが、ケイは穏やかにそれを宥めた。

所詮は子供のすることだし、何よりも彼女は顔見知りだ。お茶汲みが終わったからといって、出ていけというのも酷な話ではないか。

ケイとしてもエッダは嫌いではないし、アイリーンも子供好きだから問題はない筈―そう思って隣を見ると、アイリーンは、大人の余裕とでもいうべき美しい微笑を浮かべていた。対するエッダは少し頬を膨らませて、そんなアイリーンを見返している。

はて、これはどうしたことか、と。そこに、正体不明の危機感を見出したケイであったが、それについて深く考える前に、 それじゃあ とホランドが口を開いた。

何はともあれ、ケイが大会に出るならまず入賞は堅いだろう。というわけでこの件に関しては、支部長に私から話を通しておくよ。参加資格として、ウルヴァーン市民一人の推薦が必要になるからな

また推薦、か

ケイの口の端が皮肉に吊り上がる。ここまで徹底していると、もう笑うしかない。

まあ街としても、大会にかこつけて、ならず者が流入してきたらたまらないからね。支部長も”大熊(グランドゥルス)“を仕留めたキミに直接会ってみたいと言っていたし、ここらでひとつ有力者とのつながりを持っておくのも、悪くないんじゃないかな?

いや、素晴らしい提案だ。何から何まですまない、ありがとう

どういたしまして。まあ私は、あと三日もすればウルヴァーンを出る……だから明日明後日までには、日程を調整しておくよ

この程度のことはなんでもない、と愛想のいい笑顔を浮かべて、カップを手に取ったホランドは一口茶をすすった。

……お兄ちゃん、何かの大会に出るの?

ああ。武闘大会に、射的部門でな

目を輝かせるエッダに、軽く頷いてみせる。決闘とは違ってただの的当て競技大会なので、ケイとしても気楽なものだ。

へぇ、すごいすごい! いつ出るの?

膝の上でキャッキャとはしゃぐエッダ、問われたケイは答えに窮し、助けを求めるようにホランドを見やった。

えーと、旦那。詳しい日程とかは?

とりあえず、数日中に大会の開催が公布される、って話だったね。それから出場者がウルヴァーンに集う時間も鑑みて……まあ一ヶ月後といったところかな

一ヶ月か……

ケイとアイリーンは顔を見合わせる。

((長いな……))

想像以上に、期間が開く。尤も、大会が公布されたあとに、各地から有志たちがウルヴァーンに集う手間を考えれば、このぐらいが妥当な時間かもしれない。

(どうやって過ごしたものかな……)

ケイは考える。この世界に来てから二週間と数日。二十余年の歳月に比べれば、ごくごく短い期間ではあるが、今までの人生を振り返っても指折りに密度の濃い日々であった。

だが、『ウルヴァーンに辿り着く』という第一目標を達成してしまった今、一ヶ月もの余暇をポンと渡されて―だだっ広い草原の真ん中に放り出されたかのように、呆然としてしまった感がある。隣のアイリーンのぼんやりとした表情を見るに、おそらく彼女も同じような気持ちなのだろう。

―ところで、ケイたちは図書館にどんな用事があるんだい? 今まで、公国一の図書館を見てみたい、と願望を言う人はたくさん見てきたけれども、そのために実際に市民権を取ろうとする人までは、流石にいなかったよ

何の気なしに、ごく自然な態度で、ホランドはケイたちに話を振る。しかしそれは言外に、そこまでして図書館で何を調べたいのか、と尋ねているかのようであった。

ちら、と隣に目をやると、 別にいいんじゃね? と言わんばかりに、小さく肩をすくめるアイリーン。

短い付き合いだが、共に旅したことで、ホランドが人を陥れるような性格ではないことは分かっている。性格の善し悪しと、そこから生じ得る悪影響の有無は別問題だが、―ここは話しておくべきだろうな、とケイはおもむろに口を開いた。

……実は、俺たちは二人とも、遠い場所からやってきた異邦人なんだ

ゲームや異世界といった概念はぼかしつつ、順を追って説明する。白い霧に入り、そこで記憶が途絶え、気が付けば『こちら』の草原にいた―。

―というわけで、俺たちの身に何が起きたのか。ここは、俺たちの故郷からどれだけ離れているのか。あるいは、帰る方法はあるのか。それらの手がかりを、図書館で探したいと思う

よくよく考えれば、タアフ村でもこのことは既に話しているのだ。言ってしまえば何のことはない、などと思いつつ、テーブルの上のマグカップを手に取る。鼻腔をくすぐる、まろやかな香り―おや、これはカモミールかな、と当たりをつけた。以前、何かの機会にVRショップで飲んだことがある。

うーむ……それはなかなか、突飛な話ではある

髭を撫でながら、何かを考えるように開けっ放しの窓を見やるホランド。しばらくそのまま考え込んでいたが、やがて諦めたような顔でケイたちに向き直った。

……しかしまぁ、キミたちなら、あり得るかも知れないな

ここは、 DEMONDAL に限りなく似た世界。魔術も、奇跡も、超常現象も、その存在が客観的事実として認識されている。転移についても、話としては突飛だが、決して有り得ないとは言い切れない。

ひとまず、ホランドはケイの言うことを信用すると決めたようだ。

白い霧の異邦人(エトランジェ)、か……。図書館には、伝承や魔術、呪術について専門に取り扱う部署もあると聞く。何か手掛かりが見つかるといいね

……ねえねえ、お兄ちゃん

そのとき、エッダがくいくいと、ケイの袖を引っ張った。

わたし、知ってるよ。その”霧の異邦人”のお話

腕の中から自分を見上げる少女に、ケイは意外な思いで視線を落とす。

本当か?

うん。北の大地の東に、いつも霧が立ち込めてる深い森があって、その森から出てくる『人』は、どこか遠い場所から、霧の中に紛れこんでしまった人なんだって……

初めて聞いたな。マリーの婆様に教えて貰ったのかい?

ううん

興味深げなホランドの問いかけに、エッダはふるふると首を振る。そして、その可憐な唇から飛び出したのは、

アレクセイのお兄ちゃんに教えて貰ったの

衝撃的な事実に、ケイとアイリーンの動きが止まった。

……アレクセイ?

うん。北の大地ってどんなトコなのか聞いたら、その時に……

マジかよ……

頭を抱えたのはアイリーンだ。隊商護衛の間、情報収集のためにアレクセイから色々と話を聞いていたが、先祖や家族の自慢話、自身の辺境での武勇伝など、心底どうでもいいようなものばかりだった。

(肝心なことが聞き出せてないじゃん!!)

よもや、ここまで身近なところに、重要な手掛かりが転がっていようとは―どうせなら自分たちの境遇について詳しく説明しておけばよかった、と後悔するも、時既に遅し。

価値観がズレまくりで面白くもない長話に、延々と付き合っていた自分は何だったのかと、アイリーンは全身から力が抜けていくのを感じた。

他に何か聞いてないか!?

ズルズルと椅子からずり落ちていくアイリーンをよそに、勢い込んで尋ねるケイ。その食いつきっぷりにまんざらでもない様子で、エッダは得々と、アレクセイから聞いた話を語り始めた。

北の大地の東に広がる、悪魔の森―またの名を”賢者の隠れ家”。

十歩踏み込めば気が狂う、とまで言われる、霧に覆われた不気味な世界。

そこに巣食う得体の知れない化け物と、アレクセイの祖父の体験談。

そして、かつて霧の中から現れたという、異邦人の伝承。

ケイとアイリーンの興味を引くには、充分すぎる話だった。

その、異邦人って部分を詳しく頼む

うーん……ごめんね、そこのところは、あんまり聞いてないの

ケイに詳細を求められると、打って変わって元気を失くすエッダ。やはりダメか、と思わず失望が顔に出るケイに、 ごめんね…… と目に見えて落ち込んでしまう。

いや、気にしないでくれ、重要な手掛かりであることには違いないんだ

うーんとね、んーとね……あ、ひとつだけ、その異邦人から伝わるお歌は聴かせて貰ったよ!

どんな?

名前は……なんだったっけ。おばあちゃんは憶えてるかもしれないけど。えっとね、でもメロディは憶えてるの

目を閉じて、静かにメロディラインを口ずさみ始めるエッダ。

正直なところ、大して期待はしていなかったのだが―その、哀愁漂う物悲しい旋律を聴いて、ケイとアイリーンは全身が鳥肌立つのを感じた。

“Greensleeves”……!

二人の口から零れた名に、エッダが目を見開く。

そうそう、その名前! 二人とも知ってるの!?

興奮気味のエッダだが、ケイたちは声もなく、愕然と、顔を見合わせるのみ。

“Greensleeves”―地球では、世界的に有名な曲だ。

ケイもよく知っている。まだ小学校に通っていた頃、放課後に鳴っていた下校の音楽だった。そして、VR世界で英語を学び始めてから、イギリス人の友達に歌詞を教えて貰った曲でもある。忘れるはずがない。

ケイ……

蒼褪めた顔で、アイリーンがこちらを見る。ケイも、信じられない気分だった。今しがたのアレクセイ云々が吹き飛ぶほどの衝撃。いくら英語やロシア語が普通に使われている世界だからといって、全く同じ旋律の曲が偶然作曲されるわけがない。

そう、これは明らかな痕跡。

地球出身の誰かが残した、足跡だ。

期待が、確信に変わる。北の大地には―“霧の森”には、何かがある。

その様子だと、……故郷の歌か何かかね?

尋常ならざる様子のケイたちに、興味深げな目を向けるホランド。半ば、心ここに在らずで、ケイは曖昧に頷いた。

俺たちの故郷では、広く知られている歌だ……

そうか……

マグカップを傾けながら、ホランドが想像するのは、ケイたちの故郷だ。草原の民―に見えなくもないケイと、明らかに雪原の民の系譜と分かるアイリーン。異民族、異人種である彼ら彼女らが、普通に交流し合い同じ文化が共有される、その『故郷』とは如何なる場所であろうか―と。

……どうしよう。今すぐアレクセイのヤツを追いかけたくなってきた

うーむ、そうだな

渋い顔のアイリーンに、ケイも腕組みをして考える。

奴と離れてから三日か……馬ならすぐに追いつけるんじゃないか

アイツ徒歩だしな。大会まではどの道1ヶ月あるんだろ? なら―

いや、ちょっと待ってほしい

アレクセイを追跡する方向で話がまとまりかけたところで、ホランドが止めた。

正直に言わせて貰うと、今から追いかけるのは現実的じゃない

ん? でも、オレたちの馬、足はなかなか速いぜ?

それでも、三日のロスは痛い。ウルヴァーンから北の大地へは、大小合わせて五本も道があるんだ。……彼がどの方向に去って行ったか、キミらは知ってるかい?

……アイリーン、アイツの故郷って何処だ?

ケイが問いかけると、アイリーンは斜め上へと目を泳がせた。

ひ、ひがしのほう……

…………

ダメだこりゃ、とケイとホランドの視線が交錯する。

一口に東といっても、北東か南東かで随分変わる。……北の大地は広いからね

……冷静に考えれば、奴が真っ直ぐに故郷に帰った確証もないしな。エッダは他に何か聞いてないか?

ん~。聞いてない

そうか……

こんなことなら、もっと詳しく聞いときゃよかった……

頭を抱えて、机に突っ伏するアイリーン。しかし、ここでケイは閃いた。

いや待て、諦めるにはまだ早い。魔術で 追跡 すれば……!

おお、なるほど、キミらにはその手があったか!

喜色を浮かべるケイ、ぱんと膝を打つホランド。が、ギギギギと音がしそうなほどゆっくりと顔を上げたアイリーンは、半眼でケイを見やる。

ケイ。アレクセイの所持品、何かひとつでも持ってるか?

…………

決闘の後、報酬としてアレクセイから全財産を渡されそうになったが―それを断ったのは他でもない、ケイだ。その結果、 追跡 の魔術の触媒になる、アレクセイに所縁のある品は、武具はおろか銅貨一枚、髪の毛一本すら持っていない。

持っていない。

こんなことなら、何か受け取っておけばよかった……!!

今度は、ケイが頭を抱える番であった。

†††

結局、現実的ではないという理由で、アレクセイの追跡は取りやめとなった。

ホランド曰く、明日から夏至の祭りが始まるそうで、今のウルヴァーン周辺は人の出入りが非常に激しくなっているらしい。そしてそれが人探しの難易度をさらに上げているとのことだった。

ケイたちとしても、あれほど潔い別れ方をした以上、これからアレクセイを追いかけて再会するのは、いかにも間が抜けているし気まずい。また、わざわざアレクセイに拘らずとも、他に雪原の民を探して話を聞くという手があるのも大きかった。

膝の上のエッダと戯れつつ、ケイはホランドと支部長との面談についての話を詰め、ついでに決闘で折れた剣の代わりと、携行できるタイプの時計を探している旨を伝えた。

―懐中時計が欲しい? 全くブルジョワだねキミたちは

私も砂時計で我慢してるのに、とホランドは呆れたように笑っていたが、ケイたちに支払い能力があるのは確かなので、手配することを約束してくれた。今回の時計は少しだけ値引きして貰う代わりに、未だ買い取り先が確定していない”大熊”の毛皮の売値から天引きではなく、ケイが現金で払うことになっている。金貨一枚程度であれば、払えないことはないだろう。

最後に、商会系列の腕の良い鍛冶屋を教えて貰ってから、ケイたちは”HangedBug”亭へと戻っていった。

いやー、思わぬ展開になったなぁケイ

一階の酒場。アイリーンは少々疲れた様子で、だらしなくテーブルに肘をついた。

時刻は、午前11時を回ったところか。商会を訪ねたのが8時過ぎだったので、少なくとも二時間はホランドと話をしていたことになる。

忙しいところ邪魔して済まなかったな―と思うケイであったが、長剣や高価な時計の手配など、自分自身が下手な客より金払いが良いことを思い出したので、それ以上は気にしないことにした。

ああ。まさかあのアレクセイが―雪原の民が、鍵を握っているとは思わなかった。いずれにせよ、大きな収穫だ

弓ケースの位置を直しながら、ケイも椅子に腰を下ろしてほっと一息つく。エッダのお蔭で新たな手掛かりは得たが、『転移について図書館で調べる』という当初の目標に変わりはない。ホランドも言っていたが、現段階の情報のみで北の大地に乗り込むのは性急過ぎる。ウルヴァーン周辺に住む雪原の民から伝承について聞きだしつつ、さらに学術的観点から図書館で調査を進めるのが得策だろう。少なくとも、漠然と『転移』について調べるよりは、ずっと効率よく情報が収集出来る筈だ。

…………

しばし、席に着いたまま、二人とも沈黙する。

目をやるのは、酒場の片隅。

奥の席に陣取って、テーブルに薄紙や木材、細工用の小刀などを雑多に並べ、何やら工作に勤しんでいる若い女―ジェイミーだ。

喉が渇いたので早く注文を取りに来てほしいのだが、ジェイミーはケイたちが酒場に入ってきたことにすら気付く様子がない。薄紙を切ったり、木を糊付けして紐で縛ったり、一心不乱に手元に意識を集中させている。今はドワーフ顔の店主の姿もなく、オーダーするならば彼女しかいないのだが、あまりにも一生懸命なので声をかけるのが躊躇われた。

テーブルに両手で頬杖を突いたアイリーンが、にやりとケイに笑いかける。遠慮で声をかけないケイとは違い、気付かない彼女を面白がる構えだ。ケイも、若干気持ち悪いのを承知で、アイリーンの真似をして両手で頬杖を突く。

そのままジェイミーに視線を注ぐこと数分。

うん、できたっ

独りドヤ顔で、惚れ惚れと自身の力作を手に取るジェイミー。完成したのは、木枠に薄紙を張り合わせたシンプルな構造の直方体だ。薄紙は切絵のように、所々がデフォルメされた動物の形に切り取られており、その絵柄が何処となく稚拙なことと相まって、ケイに幼い頃に小学校で作った紙製の灯篭を連想させた。

小刀を置き、ジェイミーは様々な角度から満足げに作品を眺めている。が、斜め下から抉り込むようなアングルで見ようとしたときに漸く、テーブルで頬杖を突いたままのケイたちの姿に気づいた。

ホワッ!?

奇声とともに体をのけぞらせ、椅子から転げ落ちそうになるジェイミー。そしてなぜか作品を手に持ったまま、ズドドドドと凄い勢いで駆け寄ってきた。

いっ、いつから……!?

……うーん。五分くらい前?

だな

うんうん、と頬杖をついたまま二人が頷くと、 イヤー! と声を上げてジェイミーは手の灯篭で顔を隠す。微かに覗く頬が紅い。

ごめんなさい、気付かなくて……ご、ご注文は!?

何か軽くつまめる物と、……俺は葡萄酒の水割りにでもしようかな。アイリーンは?

オレはりんご酒で

OKOK、ちょっと待ってて~!

近くのテーブルに灯篭を置いて、ジェイミーは逃げるようにして厨房の奥へと引っ込んでいった。

(普段は強気な娘が恥じらう姿か……イイな)

先日、夜の音の件でからかわれ、そのときは何と図々しい娘だろうと思ったものだが、恥じらいの心はあるらしい。平素がハキハキとしているだけに、新鮮な感覚だ。

最近は悪い虫が―と、嘆いていた店主のことを不意に思い出す。

(俺もアイリーンがいなければヤバかったかもな)

ギャップ萌えというヤツか。いずれにせよレアなものが見れた、と満足げなケイであった。そんなケイをよそに、アイリーンは放置された灯篭に興味津々の様子だ。

はい、お待たせ~。葡萄酒の水割り、りんご酒、それとカナッペね

しばらくして、皿とカップを満載したトレイと共に、ジェイミーが戻ってきた。

やあ、これはまた豪勢なものが来たな

テーブルに置かれたカナッペの皿に、思わず感嘆の声が洩れる。一口サイズに薄く切られた堅いパンの上、チーズや野菜、ハムなどが色取り取りに盛り付けられていた。注文を取ってから偉く時間がかかるな、と思っていたのだが、これを作っていたのなら納得だ。

サービスよ、サービス

そう言ってジェイミーは笑うが、その顔からは照れが抜け切っていない。酒も頼んだ分、少々高くついたが、手間賃を含めて小銀貨数枚をまとめて払っておいた。

なあ、コレって何なんだ?

満を持して、アイリーンが灯篭を指差しながら尋ねる。ジェイミーは、諦めたように笑いながら、

それね……明日から、夏至のお祭りが始まるでしょう? お祭りの前夜には、灯篭(ランタン)流しをするのが慣習なの。みんなで川に、灯篭や蝋燭を載せた小舟を流すのよ

へぇ~

チーズとハムのカナッペを頬張りながら、アイリーンは感心した様子だ。ケイも、精霊流しみたいなものかな、などと思いながら話を聞いていた。

しかし、そんなもの流して大丈夫なのか? 水が汚れたら精霊が怒ると聞くが

川、といえばウルヴァーンの東を流れるアリア川のことだろう。その下流にあるシュナペイア湖の、水の大精霊の伝説を思い出したケイは素朴な疑問を放つ。

ああ、それなら大丈夫。ユーリアの町の人たちが、湖にまで流れ着いた時点で死ぬ気で回収するらしいから……

そ、そうか

事も無げなジェイミーの返答に、ケイは引き攣った笑みで頷く。とんだハタ迷惑だな、とは思ったが、口には出さなかった。

今夜、私もコレ流しに行くんだけど、なんだったら一緒に見に来る?

お、いいのー?

もちろん。とってもロマンチックよ

へーいいないいな! ありがとう!

盛り上がる二人の少女。口を挟む暇もなく、ケイの同行も決まっていたが、特に断る理由もなかったので一緒に行くことにした。

その夜。

夕食を摂ったあと、ドワーフ顔の店主―『デリック』という名前らしい―に断りを入れてから、ケイたちは揃って宿を出た。

灯篭を流しに行く、というジェイミーに当初デリックは難色を示したが、ケイとアイリーンが同行すると聞いて快くこれを許した。確かに、ジェイミーほどの器量良しの娘が、日が暮れた後に一人歩きするのはよろしくない。デリックからかけられた、 頼んだぞ という言葉が妙に重く感じられるケイであった。

ジェイミーは丸腰だが、ケイとアイリーンは念のために武装して行くことにした。アイリーンは腰に短剣を差し、ケイは彼女から借りたサーベルを吊り下げる。本来、白兵戦であればアイリーンの方に軍配が上がるのだが―その可憐な見かけが災いして、抑止力にはならないと判断したのだ。

ちなみに、ケイたち以外にも同行を申し出た客は多かったが、彼らはデリックが一睨みして黙らせた。ケイは、アイリーンと好き合っているのが一目瞭然なため、『悪い虫』にならないと判断されたのだろう。

三人揃って、とっぷりと、夕闇に沈む街を行く。

灯篭を両手で抱えるジェイミーと、右手に掲げたランプで道を照らすケイ。アイリーンは、ケイの空いた左手を握り、てくてくと隣を歩いている。

灯篭流しの前夜祭。この日の街は、たしかにどこか特別だった。通りは篝火の明かりに照らし出され、いつもとは違う貌(かお)を見せている。

東へ向かう住民たちの影が、ゆらゆらと幽鬼のように揺れていた。無数の人々の足音が、息遣いが―人の気配が満ちているそこは、しかし祭りの熱気とは程遠い。

普段、これだけの人通りがあれば、スリなり何なりを警戒するものだが―今日に限っては、そういった邪悪を許さない、厳かな空気が満ちていた。

人々のざわめきがあっても尚、静かであった。

思ったより、静かなんだな

人の流れに乗って歩きながら、ケイは隣のアイリーンに囁く。

だな……

困惑したように頷きながら、アイリーンもまた小さく答えた。口を開くのさえ憚られるような雰囲気。周囲の人々も、囁くようにして言葉を交わしている。それにつられて自然と少なくなる口数。

城門を抜け、街の外に出る。アリア川に向かって、真っ直ぐに人の列が続いていた。長い棒の先端にランタンを吊り下げた、独特な照明器具を捧げ持つ衛兵たちが、儀仗兵のように、暗い夜道を照らし人々を誘導している。

十分ほど歩いて、川岸に着いた。暗い、のっぺりとした川面―湿り気のある空気が、優しく頬を撫ぜる。

ゴーン、ゴーンと、街の方から響く、鐘の音。

連鎖的に、幾つもの時計塔が、神殿が、あるいは城の尖塔が―それぞれに鐘を鳴らし、時が来たことを告げる。

おもむろに人の列が川へ近付き、思い思いに灯篭や玩具の船を流し始めた。吸い込まれるような黒色の川面に、ぽつりぽつりと揺らめく明かりが漂い、踊り、さざ波に煌めくそれらはまるで、星空がそのまま川へと注ぎこまれたかのようだ。そして、徐々にその数を増した灯篭は、やがて大きな光の波となって流れ去っていく。

嗚呼、とケイは溜息をついた。

炎とはここまで、夜の闇に映えるものなのか。

綺麗……

シンプルに、熱に浮かされたかのように、アイリーンは感嘆の言葉を口にする。

ああ、凄いな、とケイも相槌を打とうとしたが、これ以上の感嘆は、むしろ無粋であるように感じられた。何も言わずに頷くに留め、代わりに隣のジェイミーに問いかける。

これは、古くから続く伝統行事なのか?

……そうね

抱き締めるように、腕の中の灯篭を撫でたジェイミーは、

……灯篭流しそのものは、昔からあったらしいわ。でも、祭りの前日に皆で揃ってやり始めたのは、十年前から

薄闇に、ぼう、と横顔が浮かぶ。

“戦役”で亡くなった人の為の、慰霊祭なの

しばらくして、ジェイミーの番が来た。ケイのランプから火を借り、灯篭の蝋燭に火を灯す。

そっと、水面に浮かべた灯篭は、少しの間、ジェイミーの前でくるくると回る。まるで踊るように―しかし、流れる水には逆らえず、そのまま岸から引き離されていく。漂う光の群れに合流し、下流へと流れ去っていく。

……

ジェイミーは黙してそれを見送った。ケイも、アイリーンも、また同様に。

この世界は―

現実の中世ヨーロッパに比べて、技術が発達している。が、それでも、紙も蝋燭も、庶民にとってはまだまだ高価であるはずだ。

(でも、これだけの人が)

周囲を見渡す。川岸を埋め尽くす、人、人、人―。腰の曲がった老婆の姿もあれば、親に手を引かれた幼子の姿もある。皆、普通の人々だった。むしろ、貧相でさえあった。貴族のように、着飾った者たちは、この場には存在しえなかった。

……行きましょうか

灯篭の上で踊る、不格好な動物の模様が見えなくなったあたりで、ジェイミーは川に背を向けた。

歩き出す。街の方へ向けて、ゆっくりと。

……沢山の人が死んだから、

やがて、ぽつりと、口を開いた。

気兼ねなくお祭りをするのに、何かしら建前が必要だったんでしょうね

そう言って、ジェイミーは笑う。屈託のない笑顔だった。

†††

それからの一ヶ月は、瞬く間に過ぎ去っていった。

夏至の祭りが始まると同時に、武闘大会の開催が公布され、ケイは商会の支部長と面談して推薦状を手に入れた。

そして役所で武闘大会の参加手続きを行い、そのまま衛兵の詰め所に連れて行かれ、『最低限の力量を証明する』という名目で弓の腕前を試された。結果、的を粉砕しその威力と正確さで周囲の度肝を抜くこととなったが……。

その後は、ホランドに紹介して貰った鍛冶屋で適当に頑丈な長剣を見繕ったり、移住に備えてウルヴァーンの物件を見て回ったり。

東の村が獣の被害で困っていると聞いて駆けつけたり、アイリーンと一緒に近郊にピクニックに出掛けたり、昼寝したり。

ウルヴァーン周辺に住む雪原の民を探したり、伝承について調べたり、―と。

最初は一ヶ月間も何をして過ごせば良いのか、と考えていたが、過ぎてみればあっという間だ。

ケイも、おそらくアイリーンも、想像以上に充実した日々を過ごしていた。

そして、大会当日。

革鎧で武装したケイは、草原に設けられた大きなテントの中にいた。これは射的部門の選手の控室で、ケイ以外にも草原の民や平原の民、果ては雪原の民と思しき者まで、弓や十字弓を手にした戦士たちが思い思いにくつろいでいる。

大会の舞台として選ばれたのは、ウルヴァーン近郊、大きな練兵場を備えた小要塞のひとつだ。周囲が原っぱと放牧地ということもあり、見物人も大勢つめかけている。もちろん、アイリーンと、ひょっとすればエッダやジェイミーたちも応援に来てくれているかもしれない。

しかし、一世一代の晴れ舞台―となる予定の大会であるにも拘らず、ケイの表情はどこか冴えなかった。

(どうなるかな、この大会)

当初、“竜鱗通し”と矢束だけで参加しようとしていたケイであったが、大会運営からの通達で、戦闘時と同じように革鎧で防御を固めている。

(『前回とは少し違う形で競技を進める』、と言っていたが……)

大会関係者の発言を思い出し、一抹の不安を隠せないケイ。『鎧を持っているならばこれを装備するように』というのが、運営側からの指示だった。基本的に、的当てがメインで、参加者同士が直接争うようなことはない筈だったのだが―。心なしか他の選手たちの間にも、ピリピリとした空気が流れているようにも感じられる。

(いざ決闘になったところで、負ける気はしないんだがな)

参加者を見渡して、ケイが正直に思うところだ。歴戦の傭兵、あるいは凄腕の狩人といった猛者特有の雰囲気を漂わせる者もいるが、アレクセイの覇気に比べると若干見劣りしてしまう。

とはいえ、ケイも他人を傷つけたいわけではないし、自分が怪我するのもまっぴら御免だった。かといって今更身を引くわけにもいかず―スッキリとしないまま、時間が経つのを待っているのが現状だ。

特にやることもなし、“竜鱗通し”を膝の上に置いて、矢のコンディションをチェックしていたケイであったが、

ケイ? ……ケイじゃないか!?

自身の名を呼ぶ声に、思わず顔を上げる。そして視界に飛び込んできた、とび色のあご髭の渋い、がっしりとした体格の狩人に目を見開く。

―マンデル! マンデルか!

ケイの眼前に立っていたのは、タアフ村の狩人、マンデルであった。ぴったりとした服に革のプロテクターを付け、頭部には羽根飾りのついた革の帽子。背中には矢筒を背負い、使い込まれたショートボウを手にしていた。

久しぶりだな。……一ヶ月半ぶりか?

あ、ああ

穏やかな笑みを浮かべるマンデル。固い握手を交わしながら、ケイは馬鹿のように何度も頷いた。

マンデルも、大会に出るのか?

ああ。あわよくば入賞を、と思って来たんだが。……ケイも参加するんなら、優勝は無理だと確定してしまったな

謙遜しつつ苦笑いするマンデル、しかしケイは曖昧な笑みを浮かべたまま、自身の緊張が顔に出ないようにするのに必死だった。

すぅ、と息を整えて、覚悟を決める。

……村の皆は、元気か?

最大限の緊張と共に放たれた疑問。心臓が早鐘を打つかのようだったが、―マンデルは、事も無げにそれに答えた。

ああ。……何事もなく、みんな元気だよ

それを聞いて、ケイの全身から力が抜ける。

(……結局盗賊は、村に来なかったんだな)

心がすっと軽くなり、ケイはようやく本心からの笑みを浮かべることができた。

そうか……何か、村で最近変わったことはあったか?

そうだな。実はケイが出て行ったあと、子供が一人病気にかかってしまったんだが、アンカの婆様がまじないをかけたら、たちまち治ったんだ。……婆様が、『ケイたちが精霊語を教えてくれたお蔭だ』と泣いて喜んでたぞ

ほう! それは良かったな。こちらとしても教えた甲斐があった。婆様の気持ちが精霊に届いたんだろう、これは凄いことだぞ、彼女は才能がある

どうやらあの呪い師の老婆は、呪術の行使に成功したらしい。純粋な驚きと共に、ケイは心から、手放しで彼女を称賛した。

あとは、……そうだな

うーむ、と考え込んだマンデルは、

……シンシアが身籠ったくらいか

ケイの脳裏に、薄幸の雰囲気を漂わせた、ひとりの女性の姿が蘇った。

シンシアって……あの、村長の息子の妻か?

そうだ。……色白で、亜麻色の髪をした、あの美人だよ

…………

反応に困る。間違いなくシンシアのことは憶えているが、同時にその夫のことも思い出したからだ。

ケイとしては、アイリーンの面倒を見てくれたシンシアには心から感謝しているのだが、村長の息子―ダニーという名前だったか―には強姦未遂疑惑があるため、あまり良い印象を持っていない。しかもアイリーン経由で、シンシアにとってはそれが望まない結婚であったことも知っている。

そ、そうか……

結局、曖昧に頷くことしかできなかった。

シンシアは今まで、子宝に恵まれなかったからな。何はともあれ、次期村長の跡取りを授かったわけだ。……めでたいことだよ

そう言うマンデルは―穏やかで、落ち着いていた。その態度にどこか違和感を覚えたケイであったが、 それは兎も角、ケイ とマンデルが話題を変える。

この間、『とある狩人が一撃で”大熊(グランドゥルス)“を打ち倒した』と聞いたんだが。……これは、ケイのことか?

ああ、―うん。まあ、そうだな

ほう! やはりか。……小山ほどもある巨大な”大熊”だったらしいな

いや、それは流石に大袈裟だ。実際は体長五メートルほどでな―

そんなこんなで、“大熊”の話題で盛り上がっていると、外から衛兵がやってきた。

諸君! そろそろ予選が始まる。各々、準備を整えたら外に集合してくれ!

ピリッ、とテントの空気が引き締まる。とうとう、大会が始まろうとしているのだ。

いよいよだな

ああ。……緊張してきたぞ

愛用のショートボウを撫でながら、言葉とは裏腹に、マンデルが不敵な笑みを浮かべる。ケイも同じ気持ちで口の端を釣り上げ、左手の”竜鱗通し”を握り直した。

―行くか

テントを出て、練兵場に足を踏み入れる。周囲に集まっていた見物人たちが、続々と姿を現す勇士たちに歓声を上げた。

視線を走らせると―最前列に、アイリーンが陣取っているのが見える。その隣にはホランドと、エッダの姿もあった。

ケイが軽く手を振ると、それに気付いたアイリーンは元気いっぱいに手を振り返し、終いには熱烈に投げキッスを飛ばしてくる。苦笑しながら、ケイも飛ばし返した。マンデルが横で笑っている。

それでは諸君! 予選について説明しよう! まずは前回と同じように、五十歩の距離から標的を射て、その狙いの正確さを競い合って貰おう。次に―

選手たちの前で、衛兵の一人が説明を始めたので、そちらに意識を集中させる。

ウルヴァーン武闘大会、射的部門。

ケイにとっての栄光と権利を勝ち取る戦いが、今まさに、始まろうとしていた。


32. 栄光

前回のあらすじ

ケイ、武闘大会突入。

ケイは優勝した。

他の選手が次々と棄権していく中、圧倒的差をつけての大勝利であった。

公王の孫にして次期後継者、ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド公子より直々に表彰され、褒賞の一部を受け取って帰った”HangedBug”亭では今、祝勝会と称したどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。

それでは”公国一の狩人”、ケイのさらなる栄達を願って、乾杯!!

乾杯ー!

酒場の中心、ホランドが音頭を取り、それに合わせて皆が一斉に杯を掲げた。マンデルやエッダのような知己の姿もあれば、大会で知り合った他の選手もおり、はたまたその場に居合わせただけの一般客もドサクサに紛れて宴に参加している。

そしてケイは、そんな彼らに囲まれて、ほろ酔い気分で上機嫌に杯を重ねていた。

大活躍だったなケイ! 圧倒的だったじゃないか!

ふふふ、……まあな!

左手側に陣取るアイリーンに褒められ、照れながらも鼻高々になるケイ。

予選の内容そのものは、概ね想定内だった。それほど緊張はしなかったさ

……まったく、他の選手は災難だな

テーブルを挟んで対面、蒸留酒のカップを傾けて、しみじみと呟いたのはマンデルだ。

おれは最初から、ケイのことを知っていたからまだマシだったが。……初めてお前と競う羽目になった奴らは、心底絶望しただろう

やるからには全力で、と決めていたんだ

飄々とした態度のケイに、改めてマンデルは苦笑する。

まったく。途中で棄権した奴らを、おれは責める気にはなれないよ。……あれほどの実力差を見せ付けられると、普通は心が折れる

いやでも、マンデルも凄かったじゃないか。あの短弓に、まさかあんな使い方があるとは思わなかったぞ

なに、あれは大道芸みたいなものだ。ケイだってやれば出来るはずさ。……だが所詮は小細工、ケイには敵わなかったようだな

いや、あの状況下でそれを試みた度胸と、実際に成功させた胆力は素直に尊敬するよ。俺にはとても真似できないな。正直、あの時はかなり焦った

ふっ、ならば、せめて一矢報いることには成功していたわけか。……光栄だよ、ケイに尊敬されるなんて

そういって肩をすくめるマンデルではあるが、実は大会ではケイに次いで入賞を果たしている。ウルヴァーン主催の大会であるにも関わらず、軍属の弓兵や傭兵などを差し置いて、上位入賞者のうち二名を異邦人と平民が占めるという異例の事態であった。

しかし実際のところ、おれはケイに負けてよかったかも知れない。……あのまま決勝に進んでいたらと思うと、ぞっとするよ

ああ、あれは流石に予想外だった。まさかあんな形になるとはな

普段通りの装備を、ってのがああいう意味だったとは思わなかったぜ

感慨深げなマンデル、面白がるようなケイ、呆れ顔のアイリーンと、三者三様に決勝戦を振り返る。

でも、お兄ちゃんなら大丈夫だって、わたし信じてたよ!

テーブルの下から、ケイの右手側に、ぴょこんと褐色の肌の少女が顔を出した。ホランドの娘、エッダだ。

“大熊(グランドゥルス)“だって平気でやっつけたんだし。あのくらい、お兄ちゃんならどうってことないよね!

まあ、な。練兵場の真ん中に引っ立てられて、突然アレが始まったら流石に焦ったかもしれないが

お兄ちゃん、全然慌ててなかったよね。とってもカッコよかったよ!

英雄を見るようなキラキラとした眼差しに、ケイは面映い気分で杯を揺らす。

……ありがとう。でも今回は直前に告知(アナウンス)があったからな、“大熊”のときに比べれば大分マシだ

はっはっは、そう言われちまうと、もう片方の選手は形無しだなぁ!

背後から酒臭い息。振り返ってみれば、顔を赤くしたダグマルの姿があった。

よっ、英雄! 呑んでるかい!?

ああ、呑んでるよ。あんたほどじゃないが

おどけて、手に持つ杯を示してみせる。対してダグマルは、葡萄酒の小さな壺から直呑みしているようだった。

はっはは、呑むぜー、おれは呑むぜ! なんつったってタダ酒だからな! な!?

え? いや、各自で会計してもらうつもりだが

……なに?

赤ら顔のまま表情の抜け落ちるダグマルに、ケイはぷっと吹き出した。

冗談だよ、何マジになってんだ

……テメェッこのっ、ビビらせやがって!

ケイにヘッドロックを決め、葡萄酒の壺でこめかみをグリグリとするダグマル。 痛い痛い と笑いつつも、そんなに支払いが恐ろしいほど呑んでるのか、と思うケイ。しかしこの際、そんなことはどうでもよかった。

よーしみんな、改めて言うまでもないが、今日は俺の奢りだ! 呑め呑め!

ケイの宣言に、うおおお、と周囲が沸き立つ。

いいぞいいぞー!

さすっが優勝者ー!

よっ大将、太っ腹!

皆、ケイをヨイショするのに余念がない。さらにいい気になって注文を重ねるケイと、その恩恵を享受するその他大勢の構図。ケイの隣では、アイリーンが あーあ という顔をしていたが、流石に止めるような無粋な真似はしなかった。

陽気な空気の中、酒場のドワーフ顔の主人は 酒が足りねえ! と嬉しい悲鳴を上げ、ジェイミーを含む従業員たちは、忙しげに客たちの間を飛び回っている。

それにしてもアレだな、決勝に出てたあの弓兵は大丈夫だったのか

ああ、アイツか

話を決勝戦に戻し、ケイが問いかけると、腕を組んだダグマルはしたり顔で、

何でも、右肩が食い千切られて大ごとだったらしい。早々にギブアップしたのと、決勝戦だから特例で高位魔術師が治療にあたったのとで、一命は取り留めたそうだが。今じゃ傷ひとつなくピンピンしてるってよ

そうか、それは重畳

ただ、傷は治っても腕の感覚がなかなか戻らないらしくてな。軍は辞めるかもしれないそうだ

うーむ、そうか……

沈痛な面持ちのケイの前に、ゴトリと串焼き肉の皿が置かれた。

―怪我しちまうとなぁ。感覚はなかなか戻らねえもんさ

太い腕を辿っていけば―前掛けをしたドワーフ顔。デリックだ。

おれも昔、矢を受けちまってなぁ……おかげで今ではこのザマよ

ぽん、と右膝を叩いてみせるデリック。足を引きずって歩いていたのは、そういうことだったのか、とケイも合点がいく。

あなたも戦士だったのか?

戦士、っつーか、傭兵だな

気恥ずかしそうに鼻の頭をかいて、デリックが目を逸らす。

これでも、おれがひよっ子だった頃は有名人だったんだぜ

代わりに、自分のことのように嬉しそうに、ダグマルがずいと身を乗り出した。

根っからのパワーファイターでよ、“戦役”のときは、斧で敵の砦の壁を叩き壊したこともあるんだぜ。“巨人”デンナー旗下の”赤鼻”デリックといやぁ、ここらじゃ知らない奴はいなかった

貴様ッ、次にその名を出したら舌を引っこ抜くぞッ!!

ダグマルの言葉に、デリックが額に青筋を浮かべて怒鳴りつける。

大層ご立腹な様子だが、顔が紅潮しているせいで逆にその”赤鼻”っぷりが強調されてしまい、ケイとアイリーンは堪えきれずに酒を噴き出した。口を押さえて身をよじるケイたちをよそに、 い、いやーすまねえ親父つい口が滑って…… と媚びるような薄笑いを浮かべるダグマル。

……まっまあ、ともかく、おれがまだ傭兵になりたてだった頃は、随分と世話になったもんだ。なっ親父

おうおう、昔はこいつも、ただの洟垂(はなた)れ小僧でな。最初に戦場に連れ出したときなんざ、それこそ鼻水どころかションベンまで―

あーっ! わーっ! その話は勘弁してくれよ!

薮蛇になってしまった暴露話に、慌てるダグマル。 食事中だぞー 汚ぇ話すんじゃねー と外野から野次が飛び、なぜか木皿や食べ残しの骨がダグマルに投げつけられる。

イテッイテテッなんでおれに……

コラァーッ! 貴様ら食いもん粗末にしてんじゃねえぞ! それに店の物投げてんじゃねえッ!

うわー”赤鼻”が怒ったー!

逃げろー!

―ッッどいつが言いやがった!? ブッ殺してやるッッ!

目を血走らせたデリックが袖をまくり、声のした方に突撃する。椅子のひっくり返る音や皿の割れる音、 ひええぇぇ 貴様かオラァッ! と飛び交う悲鳴や怒号。宴はまだ始まったばかりだというのに、場は既に混沌(カオス)の様相を呈していた。

もぉ~、私だって楽しみたいのにーッ!

店主が乱闘を巻き起こす一方で、ジョッキを腕一杯に抱え涙目のジェイミー。尻を触ろうとするセクハラ親父どもの手を華麗に回避しつつ、恨みがましげに諸悪の根源たるケイを睨む。

ゴブレットを片手に、ケイはデリックの大立ち回りを笑いながら眺めていた。ともすれば怪我人すら出かねないレベルの騒ぎであったが、平然と笑っているあたり、かなり酔いが回っているらしい。

そして、その左隣には当然とばかりにアイリーンが収まって腕を絡め、右側からはエッダが引っ付いてアイリーンに負けじと甘えている。

…………

アイリーンは兎も角、年端の行かぬ少女(エッダ)ですら、ケイにアプローチをかけているという事実。そんな中、自分はムサいセクハラ親父どもに囲まれ、汗水垂らして給仕に徹している―思わず動きの止まったジェイミーは、ふっと、遠い目になった。隙ありと言わんばかりに、尻や太腿に伸ばされるセクハラの手。

―うん、

やがて、吹っ切れたように頷き、ダンッとジョッキをまとめて手近なテーブルに置いたジェイミーは、

―やめたッ!

爽やかな笑顔。その場でトレイを放り捨て、呆気に取られる客たちをよそに、すたすたと厨房へ引っ込んでいく。

そしてすぐに戻ってきたかと思うと、その手には木苺のタルトを載せた皿。

ナイフ、フォークと共に近くのテーブルにセッティングし、いかにも優しげに微笑みながら、ケイに甘えるエッダに話しかける。

ねぇ、お嬢ちゃん。とってのおきのお菓子があるの。木苺のタルトよ。食べない?

わ、おいしそー

タルトに釣られ、トコトコと席を立つエッダ。にやり、と邪悪な笑みを浮かべたジェイミーは、そのままケイの右隣に収まる。

……ねえ、お兄さぁ~ん

服の胸元の紐を緩め、胸の谷間を強調しつつ、ジェイミーはケイにしなだれかかった。唐突な色仕掛けにきょとんとするケイ、その奥でタルトを頬張りながら しまった! と目を見開くエッダ。

こんなムサいトコは出て、わたしとイイコトしな~い?

人差し指で の の字を描くように、ケイの胸元をいじりながら流し目を送る。

周りに誰もいない時、幾度となくイメトレを重ねてきた必殺技。満を持して解き放つ。

…………

ケイの陰からアイリーンが顔を出し、じっとりとした、底冷えのするような視線を送ってくる。凍りつくような殺気も放たれているが、ジェイミーは勇気を振り絞って耐えた。タルトそっちのけで、背中をぽこぽこと叩いて抗議するエッダには、この際気が付かないふりをする。

ふむ……

一方、渦中のケイは存外冷静にゴブレットを傾けながら、―男の性(さが)か、視線は谷間に吸い寄せられていた。

―成る程、強調するだけのことはある。

アイリーンを草原とするならば、こちらは山岳。小麦色の滑らかな肌は、それだけで自然の豊かな実りを彷彿とさせる。その攻略には容易ならざるものがあるだろう―やはりケイも男なので、つい鼻の下が伸びそうになる。

だが、それもあくまで興味レベルで、不思議と過分に心が動かされることはなかった。

アルコールによって気が大きくなっているからだろうか。

それともアイリーンの絡める左腕が、ミシミシと軋みを上げているからだろうか。

……いや、すまない

いずれにせよ、ケイはゴブレットを置いて、そっとジェイミーの身体を引き離した。

素敵なお誘いではあるが……俺にはもう愛する人がいるのだ

至極真面目くさった態度で言ってのけ、左手に抱いたアイリーンの額に、ちゅっと口付けしてみせる。

一瞬呆けたような顔をして、すぐにぽっと頬を赤らめるアイリーン。ひゅーひゅー、と囃し立てる周囲の男たち。ここまで瞬間的に振られるとは思っておらず、愕然とするジェイミー。そしてその後ろで絶望したような表情を浮かべるエッダ。

こっ、……これでも、スタイルには自信あるんだけどなっ

谷間を強調する程度ではダメだったかと、スカートを少したくし上げて脚線美なども主張していく。その後ろで、自分の身体を見下ろしてしょんぼりとするエッダ。

それは、その通りだが……

ずっとひとりだと、飽きがくるかも知れないわよ? 新しい刺激はい・か・が?

本命が無理なのは分かっていた。すかさず戦術目標を下方修正、愛人の座を狙いにいく。が、それでもケイは、ゆっくりと首を横に振った。

飽きなんて、きそうにないな。俺はアイリーンに夢中だよ

真顔で言い切られると、流石に言葉に詰まる。そのままケイは、恥じらうアイリーンを抱きかかえて、これ見よがしにイチャイチャし始めた。

ケッ、ケイ、恥ずかしいよ、みんな見てる……

構うもんか。アイリーンが居てくれれば、俺はそれでいい

もう、やだっケイったら……

絵に描いたような恋人たちの甘い空気、周囲の面々も うへぇ と既にお腹いっぱいの様子だ。

ひたすらに羨ましそうな顔をしているエッダの横で、ジェイミーはがくりとテーブルに突っ伏する。

う゛~入り込む隙がないじゃないのよぉ~

せっかく千載一遇の優良物件なのに、と歯噛みするジェイミー。周囲の男たちが いい男なら他にもいるぞー! と力こぶアピールをし始めるが、眼中にはない様子だった。

―ええい、もう! 呑んでやる! 浴びるほど呑んでやるー!

ヤケクソになったか、 酒もってこーい! とジェイミーは叫ぶ。しかし、大きな影がその首根っこを掴んで、そのままひょいと持ち上げた。

なに言ってやがる、お前は酒を運ぶ側だろうが

乱闘にケリをつけたデリックであった。顔に飛び散った返り血を拭きつつ、晴れ晴れとした笑顔で、

さっ、休憩は終わりだ。働くぞー馬車馬のようにな!

やっヤだーっ! わたしも楽しみたーいー!

はっはは、折角の書き入れ時だ、無駄にはできねえ

くっ……抜け出してやる、どうにかして抜け出してやるぅ

とりあえずお前は皿洗いだな。喜べ、たんまりとあるぞ

イヤ―ッ!

肩に担がれたままジタバタと駄々をこねるジェイミーが、デリックに連れられて厨房へと消えていく。戦線離脱。いや脱落。

まだ二口しか食べていないタルトの皿を手に、エッダがケイの右隣を占拠した。

……ねえねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんもタルトたべる? おいしいよ?

お、美味しそうだな。頂こうか

無邪気に話しかけてきたエッダに、アイリーンとのイチャイチャを中断するケイ。幼い子供の前でやらかすのはよろしくない、という判断によるものか。ふっ、と口の端を歪めて視線を向けてくるエッダに、ぴくりとアイリーンの眉が跳ねる。

はい、お兄ちゃん。あーん

……あ、ありがとう

エッダがピュアなスマイルで差し出してきたタルトに、 自分で食べられる とは言い出せず、気恥ずかしげにかぶりつくケイ。

ん、美味しいなコレ

でしょー?

モグモグと咀嚼して満足げなケイの傍ら、エッダはちらりと挑発的な笑みをアイリーンに向けた。

…………

アイリーンもまた、穏(・)や(・)か(・)な(・)微笑でそれを迎え撃つ。

宴の夜は、まだまだこれからだった。

†††

翌朝。

二日酔いの頭痛に悩まされつつも、重い体を引きずって、ケイは何とか起床する。

うう……呑みすぎた……

あの程度でケイはだらしないな!

……そう言うアイリーンは元気だなー

昨夜はケイ共々遅くまで楽しんでいたにも関わらず、服を着ながら笑い飛ばすアイリーンには、全く疲れた様子がない。基礎体力というか、バイタリティというか、そういった根本的な部分では、アイリーンの方がよほどパワフルに見えるのは、気のせいだろうか。

ケイとしては正直なところ、優勝して賞金も手に入ったのでしばらくはアイリーンと爛れた生活を送りたかったのだが、市民権取得の手続きのことを考えると、のんびりはしていられない。武闘大会の熱が冷めぬうちに―役所の人間にやる気があるうちに、早めに終わらせてしまう必要がある。

……あら、おはよう……

食堂に降りると、死んだ魚のような眼をしたジェイミーが掃除をしていた。

……おはよう

おっはよー

……うっ

既に何処となくやつれた感のあるジェイミーであったが、仲良く連れ立ってきたケイとアイリーンを見て、何故かさらにダメージを受けたらしい。箒を杖代わりにしつつ、眩暈に襲われたかのようによろめいている。

……大丈夫か?

うぅ……大丈夫よ。大丈夫。何ともないわ……

そ、そうか……

昨晩は大酒を飲んだものの、ケイは酔っ払っても記憶はしっかりと残るタイプだ。当然ジェイミーの色仕掛けもバッチリ憶えているわけで―しかし当の本人は、どうやら無かったことにしたいらしい。ケイとしても異論は無かった。

ゾンビのようなジェイミーに給仕してもらいつつ、フルーツやサンドイッチ、昨晩の宴会の残り物のスープなど、たっぷりと朝食を詰め込んだ。

そしてその後、ケイたちは市民権取得の手続きに丸一日を費やす羽目になる。

まず、武闘大会の優勝の賞状を携えて、街の東にある住民管理局に向かう。

朝一番に出かけたので管理局は混み合ってはおらず、建物の中にもスムーズに入ることが出来た。そして賞状さえ提出すればすぐに身分証が―と淡い期待を抱いていたケイであったが、残念ながらというべきか、やはりというべきか、そんなことはなかった。

ケイが申請するのは、ウルヴァーンの”名誉市民権”。『名誉』と接頭語がつくものの、その本質は基本的に普通の市民権と同じものだ。ただ、定められた手続きの仕方と管轄が、普通の申請と微妙に違う。

武闘大会で優勝したという実績、税金の支払い能力、そして諸々の手続きにかかる費用の前払いなど、全ての条件は満たしていたが、肝心の役所の職員が『名誉市民の手続き』という特殊な業務に慣れていなかったため、さらに時間がかかることとなった。

アイリーンと一緒に小一時間ばかし権利と義務について説明を聞き、あらかた書類にサインをし終わったところで、担当の職員が とある特殊な書類の書式が分からない と言い出した。規則の確認のために休憩を挟むこと数十分、待ちぼうけを食らった挙句に職員が引っさげてきたのは 普通の書類で代用可 という何とも気の抜ける答え。この書類にサインが終わると同時に、何故か業務の管轄が住民管理局の手を離れたらしく、ケイたちはそのまま市庁へと移動させられることとなった。

この時点で、時刻は昼前。市庁の前には住民たちの長い列が出来上がっていた。それに並ぶことさらに数十分、ようやく窓口に辿り着いたところで、実は名誉市民の手続きには専用の窓口が用意されていたことが発覚。大人しく並んでいたのが全く無駄だったと分かり、事前の説明の無さにイラッとさせられることとなった。

その後も、何枚もの書類に必要事項を記入したり、無犯罪証明書のために衛兵の詰め所に行かさせられたり、書類に不備が見つかったため住民管理局にとんぼ返りしたりと、ウルヴァーン市内中を歩き回る羽目になり、一応の全ての手続きが終わる頃には日が暮れようとしていた。

それでもまだ、すぐに身分証が発行されるわけではなく、翌日から書類の審査が始まり、そこから面接や幾つかの手続きを経て、晴れて身分証が発行されることになる。名誉市民の場合、普通の手続きよりも優先して行われるので、遅くとも三日後には終わるだろう、という見込みだった。

……というわけで今日は忙しかったよ

お役所仕事、というわけか。……災難だったな

“HangedBug”亭の酒場で夕食をとりつつ、ケイたちはマンデルに愚痴っていた。

今夜の食事は、送別会を兼ねている。ケイたちとは別の宿に泊まるマンデルだったが、明日にはウルヴァーンを発つらしい。ちょうどホランドがサティナへと行商に出発するとのことで、ケイの紹介もあり、客人として同行することになったそうだ。

ところでマンデル、仕官について何か話はなかったか?

ああ、あったよ。軍の方から弓兵部隊の、百人長の待遇でどうか、と話があった。……もっとも、断ったがね

あったのか。そして断ったのか、流石だな

ああ。一度軍属になったら簡単には辞められないし、ウルヴァーンに移り住む羽目になるからな。……おれには、狩人の方が性に合ってる

飄々と、肩をすくめるマンデル。

もちろん、給金は魅力的だがね。……だが、それでも

タアフ村の方がいい、か

……ああ

実際、金だけでは必ずしも、楽しい暮らしができるわけじゃないもんな

もっしゃもっしゃとサラダを口に運びながら、アイリーン。

そうだな。ここだけの話、俺もタアフの村とウルヴァーン、どちらが良いかと聞かれると……タアフだ。2日かそこらしか滞在しなかったが

感慨深げにケイは呟いた。森と草原の緑に囲まれた、小さな田舎村の景色が色鮮やかに蘇る。思えば、今現在はウルヴァーンで暮らしているケイとアイリーンではあるが、旅はあの村から始まったのだ。村の人々の顔を思い出す。―盗賊に報復を食らわない、という前提ではあるが、排他的なところのあるウルヴァーンよりは、まだタアフ村の方が居心地が良いだろうと、ケイには思えた。

何だかんだで、あれは住みやすい村だよ。他の村より豊かだしな。ところで、そう言うケイの方こそどうなんだ? ……仕官の話は

一応、来た。マンデルと同じで軍から弓兵として迎えたい、と。ただ、百人長とかそういうポストの話はなかったな

む、そうか。……そいつはまた、変な話だ

ケイ、優勝してんのにな。ヒラかよ、とはオレも思った。差別かな?

自分のことのように不満げな様子で、アイリーンが眉をひそめる。ポストがどうであろうとケイが仕官することはないのだが、それでも不当に悪い扱いをされているのであれば気分的にいけ好かない。

どうだろうな。経験の有無は、一応見られているかもしれないが。……おれは元々、軍で十人長にまで出世していたからな、その記録があったのかもしれない

そうだったのか

意外な話だ。マンデルが軍に籍を置いていたとは知らなかった。

しかし、とケイは思う。タアフ村で盗賊の遺品を回収した際、凄惨な死体を目の当たりにしても、マンデルだけは取り乱すことがなかった。十年程前にあったらしい”戦役”なるものに、マンデルもまた身を投じていたのかもしれない。

だが、それだけか? ケイ。……ケイほどの使い手であれば、もっと引く手数多だと思っていたんだが

ああ、個人的な手合いであれば、何人か声はかけられた。物好きな貴族の用心棒やら、隊商の護衛やら、あと東の辺境から来たっていう戦士には『うちの傭兵団(クラン)に入らないか?』と誘われたな。今のところ全部断ってるが

ほう。……ちなみに、なんという傭兵団だった?

問われて、目を細めたケイは、思い出そうと虚空を睨む。

……なんだっけ。アイリーン憶えてないか?

たしか……、“青銅の薔薇”だか何だか、そんな名前だった、と思う

“青銅の薔薇”か! あそこはかなりの大手だぞ、“戦役”では”巨人の翼”と並ぶ一大傭兵団として知られていた。……と言っても、ケイたちには分からないか

いや、何となく見当はつく。道理で断ったとき、奴(やっこ)さんが驚いてたわけだ。有名だったんだな……

その後も、仕官や軍のこと、他愛の無い雑談や愚痴などをつらつらと話し合い、程よく酔っ払ったあたりで送別会はお開きとなった。マンデルは明日の朝は早いらしく、見送りも不要と言っていたので、これでしばらくのお別れだ。タアフ村の呪術師アンカやクローネン夫婦、サティナの街の矢職人モンタン一家によろしく伝えてもらうよう、ケイはマンデルに頼んでおいた。

(次はいつ会えることやら)

自室でアイリーンと一緒にゴロゴロとしながら、ケイは思いを馳せる。

そもそも今回の大会で、マンデルと再会したのが予想外のことだった。

手軽な通信技術も、移動手段もないこの世界。次に相見(あいまみ)える機会があるとすれば、それは数ヵ月後か、一年後か、それとも―

†††

三日が過ぎた。

ウルヴァーンの市長と面接したり、追加で書類を提出したり、色々と面倒なことはあったが、ついにケイの身分証が発行された。

大きさは手の平サイズの長方形で、頑丈な羊皮紙で出来ている。ウルヴァーンの紋章の判が押された上に、びっしりと『ケイ』という人物の名誉市民としての権利が大仰な文言で書かれ、最後には市長のサインが書き込まれていた。裏側にはケイの本人確認のために人相書きと似顔絵、そして直筆でサインをする場所がある。

このサインというのは、必ずしも読めるものである必要はなく、『他者にとって真似しづらいもの』であることが一番望ましい。色々と悩んだ結果、ストレートに『乃川圭一』と漢字で書くことにした。こちらの世界の住人にとって、ぱっと見での判読と模倣は非常に困難であろう。

ようやく、この日が来たなアイリーン……

ああ。なんか、すっげー長い間待ってた気がする……

二人して遠い目をしながら、第一城壁に沿って歩いていく。

図書館に行くために一級市街区に入ろうとして、門前払いを食らったのが一ヶ月前のことだ。もう一ヶ月が経った、というべきか、それともまだ一ヶ月というべきか。いずれにせよ、感慨深いものがある。

懐に仕舞った身分証の存在を、どこか誇らしく思いながら、前回世話になった門番の所にまで辿り着いた。

おお、アンタらか

大会の様子は見てたぞ。優勝おめでとう

こちらから声をかけるまでもなく、若い衛兵と年配の衛兵、それぞれが話しかけてきた。

ありがとう、ありがとう。というわけで、市民権を取ってきたよ

懐から身分証を取り出し、年配の方に手渡した。兜の面頬を跳ね上げて、老眼なのか、身分証を遠く離しながら、一応目を通す衛兵。

……うむ、ケイイチ=ノガワ、確かに本人だ。通ってよし

にこりと微笑んで、身分証を返してくる。

あ、だがその身分証で通れるのは本人のみだぞ。そちらの娘は……

と、若い方の衛兵が口を挟んできた。

そう、実際のところ、身分証の持ち主はケイであり、それはアイリーンには何ら効果を及ぼさない。

つまりアイリーンには、門をくぐる権利がないのだ。

が。

ケイたちは慌てなかった。

(どれだけ時間をかけて、クソ面倒な手続きを乗り越えてきたと思っている……!)

これは既に予想済み。そして、その対抗策も考えてあった。

おもむろにアイリーンの肩を抱き、ケイははっきりと宣言した。

―彼女は、俺の妻だ

妻帯者。身分証を保持する市民が家長であった場合、その妻がウルヴァーン市民でなかったとしても、一人までであれば速やかにこれに市民としての権利・義務を与える。

つまりアイリーンがケイの妻であれば、彼女も同様の権利を有するのだ。

ケイの宣言に、腕を絡めつつ、照れて頬を染めるアイリーン。

これは、今回に限っては、門を抜けるための方便ではあるが―

(いつかちゃんと、式を挙げたいな)

ケイは思う。まだ、アイリーンがこの世界に留まるとはっきり結論を出していない以上、ケイとしては待つしかないが、いずれ本式に結婚したいと。

(……しかし、『こちら』での結婚式って、どんな風にやるんだ?)

ふと疑問に思う。この世界は、あらゆる元素の精霊が当然のように存在するが故に、逆に宗教的な発想が希薄になっている節がある。日本的な八百万の考え方に近いものがあるのだろうが、少なくとも結婚の形が『絶対神の前で誓う』タイプではないのは確かだ。

(……そうだ、ユーリアの水の精霊の神殿とかで、結婚式は挙げられるんじゃないか。こちらでも花嫁はドレスを着るんだろうか……)

アイリーンのウェディングドレス姿を想像して、思わず頬を緩めるケイ。

頬に手を当てていやんいやんと照れるアイリーンに、未来の花嫁姿を想像してニヤニヤするケイ。微笑ましいのか、あるいは鬱陶しいのか―いずれにせよ、他者をうんざりさせるだけの桃色空間がそこにはあった。

目元を隠す兜の下、若い衛兵は憮然とした表情で、年配の方は苦笑している。

―まあ、分かった。確かに規則に則れば、その娘が妻である場合、彼女は君と同様の権利を保持する

年配の衛兵の言葉に、ケイとアイリーンは満足げに頷いた。

これで、ようやく、本当にようやく、面倒な手続きから解放される―

というわけで、

すっと、手を差し出す年配の衛兵。握手か? と勘違いしたケイは思わず握り返しそうになるが、そこで彼は衝撃的な一言。

“婚姻証明書”を見せてもらおう

…………

ケイは吠えた。

サスケ 最近出番ないね

スズカ ね

サスケ 弓騎兵なのにね

スズカ ね

33. 図書館

前回のあらすじ

アイリーン、婚姻証明書を持っておらず城門で門前払いを食らう

幸いなことに、婚姻証明書の取得はそれほど難しくなかった。

市庁で書類に記入し、公証人の前で口づけをして終わりだ。手続きとして正式に口づけを要求されるのは少々意外であったが、『こちら』にも”誓いのキス”という概念は存在するらしい。人前で改めてキスするのも恥ずかしく、照れるケイたちとは対照的に、公証人の中年親父が そんなもんもう見飽きた とでも言わんばかりに終始淡々としていたのが印象的だった。

それからは書類の審査や手続きが始まり、昼休みを挟んだ後しばらくして証明書は無事発行された。が、書類を手に市庁を出る頃には既に日が傾き始めていたので、ケイたちはまた日を改めて図書館に出直すことにした。

全く、婚姻証明書はとんだ伏兵だったな

でもまぁ、スムーズに取れてよかったぜ

その日のうちに片付けば『スムーズ』と認識するようになったあたり、二人ともかなり訓練されている。ケイもアイリーンも、若干待ちくたびれた感はあるものの、特に疲れた様子はなかった。

帰り道、ついでとばかりに市場の屋台や露店を冷やかして回る。アイリーンが何か面白そうなものを見つけては、ケイの手を引っ張っていく―ここのところ、ウルヴァーンの街中でよく見られる光景だ。すっかりケイたちの顔を憶えてしまった商人などは、微笑ましげにそれを見守っている。一部、アイリーンに見惚れながら、ケイに嫉妬の目を向ける男たちもいたが。

最終的に、魔術の触媒に使えそうな水晶の塊や、“平たい桃(ペッシュ・プラット)“というまんまなネーミングの、潰れたような形の桃などを買い込み、ケイたちは宿屋に戻った。

……あら、お帰りなさい。図書館はどうだった?

酒場で箒を手に掃除していたジェイミーが、静かな微笑みと共にケイたちを出迎える。

いや、図書館には行けなかったよ

オレが一緒に高級市街に入るには、婚姻証明書が必要だったのさ。それの取得で一日が潰れちまった

懐から羊皮紙を取り出して、ひらひらと見せるアイリーン。

そう……じゃあ二人とも、正式に籍を入れたのね

ゴフゥッと吐血しそうなジェイミーをよそに、ケイたちはそそくさと席に着く。何かを悟ったような顔つきのジェイミーにサーブしてもらいながら、適当に飲み食いし、いつものように部屋でイチャついてからそのまま寝た。

明くる日。

高空に巻雲のたなびく爽やかな朝。薄く立ち込める朝靄の中、ケイたちは城門を抜け、いよいよ第一城壁の内側へと足を踏み入れた。

……成る程、これが一級市街区か

やっぱすげえな、外とは大違いだ

おのぼりさんのように、きょろきょろと周囲を見回しながら歩く。

全てが良質な石材と、赤煉瓦で構築された世界。城を中心にして、放射線状に伸びる広めの街路。通りを挟む建築物はどれも三階建て以上の高さを誇り、驚くべきことに、ほぼ全ての窓にガラスが嵌まっていた。その整然とした街並みは近代の趣すら感じさせ、肌寒い朝の空気と相まって、何処か冷たい印象を投げかけている。

普段、門の外から覗き込むと閑散として見えていた高級市街であったが、この時間帯は忙(せわ)しなく行き交う人々で賑わっていた。その多くは質素だが清潔な衣服を身にまとった使用人たちで、加えて小型の馬車に乗る商人たちの姿も散見される。そしてそれらの通行人に、威圧的な視線を向ける赤い衣の衛兵(ガード)達。

ウルヴァーンの象徴たる竜の紋章を縫い付けた赤衣に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の胸当て、派手な羽根飾りのついた兜。その手に握られているのは装飾過多の斧槍(ハルバード)―まるで玩具の兵隊だな、とケイは思う。だがそうやって観察するうちに、ふと衛兵の一人と目が合った。

―おい、そこのお前!

通行人を押しのけて、のしのしとこちらに近づいてくる衛兵。反射的に周りに怪しい影を探したが、残念ながら、マークされているのはケイ自身のようだった。

なぜ怪しまれるのか。特に見咎められるような憶えもない、自分の体を見下ろしてケイは首を傾げる。この日のためにアイリーン共々新しい服を仕立て、貧乏臭く見えないよう気をつけていたのだが。

……俺か?

そう、お前だ! その腰につけているものは何だ!

ケイの腰の弓ケースを指差し、衛兵が咎めるような口調で言う。ああ、と合点がいったケイは、

これは、弓ケースだな

……許可無く第一城壁の内側に武器を持ち込むのは禁止されている。ましてや飛び道具など……貴様、それを知ってのことか

許可ならあるぞ

何やら不穏な気配を漂わせる衛兵に、肩をすくめながら身分証を提示するケイ。一般市民ならば兎も角、ケイは名誉市民なので、特権的に一級市街区への刀剣類や弓具などの持込が許可されている。『個人で携行できるもの』と制限はされているが、現状ケイが所持しているのは”竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“と長剣だけだ。法律上は何の問題も無い。

ちなみに、名誉市民であろうと何であろうと、鏃や十字弓(クロスボウ)の矢弾(ボルト)、あるいはそれに類する鋭利な凶器などの『遠距離から対象を傷つける道具』の持込は、暗殺防止の観点からかなり厳しく制限されている。万が一許可無しで持ち込んでいるのが露見した場合は、王侯貴族からの擁護でもない限り、問答無用で死罪に処せられるらしい。

サティナの麻薬検査に比べれば、城門で厳密なボディチェックがあるわけでもなく、その気になれば隠し持って入るのも不可能ではないだろうが―、いずれにせよケイには縁のない話だ。

許可……む、名誉市民か、ケイイチ=ノガワ……この名前……

ケイから受け取った身分証に目を通し、兜の下、口元を引き結ぶ衛兵。

あっ、隊長。この人、今大会の射的部門の優勝者ですよ

近くに居た別の衛兵が、ひょこひょこと近づいてきてケイを指差した。

自分、会場で見てたんで顔覚えてます

む、そうか

部下の言葉に、手の中の身分証と目の前のケイをしげしげと見比べる衛兵。先ほどからやたらと威圧的な態度といい、色々と遠慮の無い奴だな、とは思いつつも口には出さず、ケイは小首を傾げて見つめ返した。

……ふむ、失礼した。ちなみに、そちらは

俺の妻だ

はいコレ婚姻証明書

手際よく、羊皮紙を広げて見せるアイリーン。今度は手に取るまではせずに、衛兵はさっと文面に目を通し、

む、これは失礼した。怪しい者ではなかったのだな

あんたの同僚が城門で見張ってるんだから、ちょっとは信用しろよー

ぷーっと頬を膨らませたアイリーンの一言に、衛兵はこつんと兜を叩いて苦笑する。

ふむ、まあ確かに、その通りだが。どうにかして壁を乗り越えて忍び込んでくる、不逞の輩がいないとも限らんからな

いずれにせよ失礼した、と言いながら、そのまま彼は自分の持ち場へ戻っていった。

お気を悪くなさらずに。うちの上司、アレでかなり真面目な性質(タチ)でね

助け舟を出した部下の衛兵が肩をすくめ、おもむろにケイに向き直る。

ところで! 良かったら握手してもらえませんか? 大会でのご活躍、見てましたよ! 本当に凄かったですね! 自分なんかもう大興奮でッ!

あ、ああ。楽しんで貰えたなら何よりだ

ぐいぐいと押してくる部下衛兵に少し気圧されながらも、差し出された手を握り返し、まんざらでもない様子を見せるケイ。それを見て、ふーむと眉をひそめたアイリーンが、

なあ、ケイって大会で優勝した割に、あんまり顔と名前が知られてないのか?

えっ? ……うーん、そうですねえ、

その問いかけに、ケイの手を握ったまま首を傾げた部下衛兵は、

……人によるんじゃないでしょうか。会場にいなければ顔は分からないでしょうし、余所者が優勝した、って聞いただけで興味を失くす人も多いですからね

え~、なんだそりゃ

がっくりと脱力して、アイリーンが気の抜けた声を上げる。

ああでも、うちの上司は例外ですよ。あの人、ついこの間まで所用で別の都市に行ってたんで、そもそも大会のことあんまり知らないんです

そうだったんだ。いやさ、さっきみたいに何度も止められたら、鬱陶しいじゃん?

……そんなに、何度も来る予定なんですか? 一級市街に

ああ。図書館に用事があってな。しばらく調べ物をすることになると思う

重々しく頷きながら、ケイ。

なるほど、図書館ですか……。私たち衛兵の数も限られてますから、そのうちあなたの顔も知れ渡ると思うんですがねー。そういうことでしたら、馬か馬車で乗り入れたらどうです? 城門を越えた時点で、呼び止められることはなくなると思いますよ

……成る程、馬ごとは忍び込めないからな。しかし図書館に厩舎はあるのか?

あります。何せ遠路はるばる来られる、高貴な身分の方々もいらっしゃいますからね。よほど凶暴な騎獣でもない限り大概のものはお世話できるでしょう

ほう。ならば次回は、馬で乗りつけるとしようか

図書館に行く日、ずっと厩舎に押し込められているよりは、少しでも歩けた方がサスケたちも気分がいいだろう。握手(ファンサービス)も切り上げて部下衛兵に助言の礼を言い、ケイたちは再び歩き出した。

―しかし、職務質問が鬱陶しいから馬に乗るというのも、間抜けな話だな

仕方ねーよ、だって実際鬱陶しいもん

ケイの呟きに、ひょいと肩をすくめるアイリーン。

ここしばらくアイリーンと一緒に過ごして分かったが、どうやら彼女は『アウェー感』というものが非常に苦手らしい。文化的・精神的に受け入れてもらえない、あるいは自分にとって相手が受け入れがたい、という状況に酷くストレスを感じるようだ。特にウルヴァーンは官民揃って余所者には冷たいところがあるので、このところのアイリーンはどうにも不貞腐れ気味だった。

元々、欧米人に混ざって一人でゲームを遊んでいたケイは、そういった疎外感にはもう慣れっこであったが―。

ちらりと隣を歩くアイリーンに目をやる。つまらなさそうな、ちょっと落ち込んだような、このところよく見かける表情。ケイは無造作に、その金色の髪に手を伸ばした。

な、なに

突然、わしゃわしゃと頭を撫でてきたケイに、アイリーンが目をぱちくりさせる。

……なんだよケイ

いや、お前が居てくれてよかったよ

はぁ?

さらに目を瞬くアイリーンに、照れ臭くなって頬をかいたケイは、 なんでもない と首を振った。

大通りを抜ける。

いつの間にかケイたちは、噴水のある大きな広場に出ていた。足元はこれまでと違い、赤煉瓦ではなく大理石のタイルで固められている。さんさんと降り注ぐ陽光の下、きらきらと輝く白色の世界が、目の前に広がった。

そして、その先にそびえ立つ、白亜の宮殿。

……これが、

―とうとう、辿り着いた。

ウルヴァーンの誇る、叡智の結晶。

公都図書館が、今ここに二人を迎えた。

†††

まず、その佇まいに息を呑む。

装飾が、造形が、周囲の建築物とは一線を画していた。背の高さは、付近一帯と比べてもそう大差ない。だがその圧倒的なまでの奥行きが、蔵書量の凄まじさを予感させた。

構造は端的に言えば半月に近い。来訪者を迎え入れるようにして、建物全体が緩やかに孤を描いている。正面の幅は百メートルを優に越えているであろう。一階から三階まで細長いアーチ状の窓が設けられ、その全てに極めて透明度の高いガラスが嵌まっていた。

壁面は上品な白。大理石のなめらかな輝き。まるで太陽の光に染め上げられたかのような飴色の照り返しが美しい。そして石材の光沢によってさらに引き立てられているのが、一面に刻み込まれたレリーフだ。花や蔓、小動物の意匠は職人の執念を感じさせるほどに繊細で、その陰影が大理石の色と絶妙なコントラストを生んでいた。仮にそれらを芸術品として見た場合、一体どれほどの価値を持つのか―呆けたように視線を這わせながら、ただただ感嘆の溜息が洩れるばかり。

また、壁と一体化する形で随所に配された、精巧な彫像にも目を奪われる。今にも動き出しそうな―とはよく聞く表現だが、これらの彫像はその真逆を行っていた。まるで、生命(いのち)ある者の時をそのまま止め、石として固めたかのような生々しさ。元素の精霊を象ったものか、あるいは歴史上の偉人を再現したものか―羽衣をまとった乙女たちが妖艶に微笑み、分厚い本を手にした老人が厳(いかめ)しい顔つきで空を睨む。髪の毛一本、風にはためく衣のしわ、そういった細部が恐ろしいまでに彫り込まれている。

そして、それらの中でも最も目を引くのは、図書館の中心部、屋根に鎮座する一体だ。右手に剣をだらりと下げ、左手に短杖(ワンド)を高らかに掲げる美丈夫の姿。その背中にはまるで天使のように、大きな一対の翼が広げられている。ただし、その翼は鳥のそれではなく、蝙蝠のような、爬虫類のような、あるいは―“竜”を彷彿とさせる、皮膜と鋭い爪を持つ攻撃的なものであった。

まっすぐに前を向いた美丈夫は、どこまでも凛としてそこに在る。厳しい表情は下界を睥睨するが如く、それでいてある種の慈愛を漂わせる。竜のような荒々しさの中に、母性的な穏やかさを内包する存在。欲求に対する理性の勝利と、知のもたらした調和を高らかに謳(うた)う、気品に満ち溢れた像であった。

しばし声もなく、ケイたちは見惚れる。

……すげえな、まるでルーヴルだ

やがて、アイリーンが口を開いた。

ルーヴル?

ケイがオウム返しにすると、アイリーンは小さく頷いて、

そ、ルーヴル美術館。パリの

……行ったことあるのか?

うん、小さい頃に、一度だけ……

遠い日の記憶と重ね合わせているのか、アイリーンはぼんやりした表情だった。

ルーヴルって、こんななのか……

あー、いや、建物自体は似てる。けど、こんな感じの石像はついてなかったな。どっちかっつーと、石像のノリはヴァチカンのサン・ピエトロ広場っぽいと思う

そうなのか……

成る程、と頷くケイも、やはり何処かぼんやりとしていた。

……そろそろ、入ってみるか?

そう、だな。ここで見惚れてても意味ねーし

二人で よし! と気合を入れ、ケイたちはゆっくりと歩き始める。

図書館正面の入り口は巨大な観音開きの扉だ。木の枠にガラス細工が嵌め込まれ、中が透けて見える構造になっている。鉄格子の嵌まった一階の窓に比べると防犯性能は無きに等しいが、扉の両側には屈強な二人の警備兵が立っていた。

両者ともに街中の衛兵よりは軽装で、胸当ても兜も装備していない。黄と黒の縞模様の衣を身に纏い、手には背丈より少し長い程度の金属製の棒を握っている。ハルバードに比べれば随分と大人しい得物だが、恰幅のよい男が持てば威圧感は充分だ。いかにも職務に忠実、と言わんばかりに真面目腐った顔で、二人とも直立不動の体勢を維持していた。

ケイたちが歩み寄っても、警備兵たちはぴくりとも表情を動かさない。そのまま呼び止められることもなく、ケイが取っ手に触れようとしたところで―音もなく、独りでに扉が開かれた。

一瞬、虚を突かれて固まるも、すぐに あっ とアイリーンが何かに気付く。

これ、魔道具じゃん

よくよく見れば、扉の装飾には巧妙に精霊語(エスペラント)の呪文が隠されていた。随所に嵌め込まれている宝石も、ただのお飾りではないらしい。

無駄に金かけてるな……

感心したような、呆れたような表情のケイ。現代人からすればただの自動ドア、地味なことこの上ないが、この手の物理的な作用をもたらす魔道具は造るのが存外難しい。高位の精霊でなければ実現できないはず―そして高位の精霊になればなるほど、要求される触媒も希少なものとなる。サイズ的なことを考えると、この大扉の作成に必要だった触媒だけで、ちょっとした家くらいならば建てられるのではなかろうか。

そんなことをつらつら考えながら中に踏み入ると、そこは広々としたホールであった。

内装はまさしく、“豪華絢爛”と言う他ない。白を基調としているあたりは外壁と一緒だが、天井のフレスコ画には青空で舞い遊ぶ精霊たちの姿が描き出され、また梁と言わず柱と言わず、至る所に金箔をふんだんに用いた装飾がなされていた。

入って正面には受付と思しき木のカウンター、その奥にはずらりと並ぶ本棚―図書館の内部が見て取れる。上品な臙脂色のふかふかな絨毯、日当たりのいい窓際には座り心地の良さそうなソファが置かれ、ホールの突き当たりには高級感のあるテーブルや椅子がいくつも並ぶ。ティールームであろうか、茶器を載せたトレイを手に、忙しげに動く給仕の傍ら、ソファや椅子に腰掛けて談笑する身なりの良い人々の姿も見られた。

そして彼ら全員の視線が、新たに入ってきたケイたちに集中する。

…………

なんとなく気まずい。ケイたちの存在は、この場では明らかに浮いていた。

ケイもアイリーンも服は新調していたが、所詮は平民向けのもの。周囲の人々が身にまとう絹の衣に比べれば、若干見劣りするのは否めない。皆、すぐに目を逸らし、何事もなかったかのように会話を再開していたが、露骨になり過ぎない程度に注意を向けられているのが丸わかりだった。

しかしこの程度で怖気づくほど、ケイもアイリーンも柔なメンタルはしていない。互いに顔を見合わせ、小さく肩をすくめただけだ。つかつかと、揃って受付に近づいていく。

落ち着いた色合いのカウンターの奥に、受付嬢と思しき若い女が二人。

―こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか

そのうち、片眼鏡(モノクル)をつけたショートカットの受付嬢が、先んじて尋ねてくる。立ち仕事か、と一瞬思ったが、どうやら背の高い椅子に腰掛けているらしい。自分よりも少し低い位置にある受付嬢の目を見て、ケイは口を開いた。

図書館を利用したいんだが

……初めてのご来館ですね? 利用料が年間で銀貨五十枚となりますが

払えるのか、と言外に尋ねているようだ。

それは、今ここで払っても構わないのかな

懐から財布を取り出し、カウンターの上に置く。じゃら、と重々しい硬貨の擦れる音が響いた。

ほう、と声には出さないが、受付嬢が感心したように小さく首を傾げる。

もちろんです

それは良かった

受付嬢の差し出してきたトレイに、財布から取り出した金貨を1枚載せる。ゆっくりと目を瞬いた受付嬢は、ケイとアイリーンの間で視線を彷徨わせた。

お二人分、ですか

ああ、よろしく頼む

……かしこまりました。登録しますので、身分証の提示をお願いいたします

心なしか、先ほどよりも恭しい態度。ケイは身分証を、アイリーンは婚姻証明書をそれぞれ提示し、図書カードを作成してもらう。

手のひらサイズの羊皮紙に、銀色の万年筆で丁寧に文字を書き込んでいく受付嬢。鈍く輝く青色のインク―注意深く、一文字ずつ刻み込んでいくかのような手つきだ。

……はい、それではここに、サインをお願いします

万年筆を渡され、言われるがままに名前を書き込む。すると羊皮紙の上、書き込んだサインがすぅっと青白く発光した。

これで、このカードは一年間有効となります。有効期限が過ぎますとカードそのものが自動的に消滅いたしますので、ご了承ください

淡々とした受付嬢の説明を聞きながら、手の中の万年筆をしげしげと観察するケイ。

(これも魔道具か……)

あるいは、インクも特殊なものに違いない。一々小道具が凝っている。

ありがとうございました。さて、お二人とも、初めてのご来館とのことですが、施設の説明等は必要でしょうか

片眼鏡の位置を調整しながら、無表情のまま受付嬢が問いかける。ケイがアイリーンを見やると、彼女は小さく頷いた。

お願いしよう

分かりました。それでは、

やおら席を立つ受付嬢。受付の業務は、もう一人の同僚に任せるのだろう。カウンターから出てみれば、片眼鏡の受付嬢はかなり背の高い女だった。おそらく170後半はあると見ていい。

では、このエントランスの説明から。まずあちらのティールームですが、当館の会員の方は無料でご利用いただけます。また、二階には個室や会議室もございますので、事前にご予約いただければ―

ティールームやサロン、御手洗いなどの説明を受け、いよいよエントランスから図書館の内部に入り込んでいく。

―静謐な空間だ。本や巻物のぎっしりと詰まった棚が、壁のように整然と立ち並んでいる。足元の絨毯は落ち着きのある緑で、フロア中央には椅子やソファが置かれていた。

一階は主に、詩や小説の文学、歴史書などを取り扱っております。基本的に作者・著者別に分けられておりますが、内容やジャンルによって何かお探しの場合は、受付か司書にお申し付けくださるとよいでしょう

少し声のトーンを落とし、囁くように受付嬢。 司書はあちらの事務室に~ と続いて説明し続けるそばで、アイリーンがくいくいとケイの袖を引っ張った。

ん? どうした

ケイ、あれっ、あれ見て

何やら興奮した様子で近くの壁を指差すアイリーン。

怪訝な顔でそちらを見やれば、壁面に固定されたランプ。

無色透明なガラスの中で、淡い光が揺れている。一瞬、昼間から油を燃やすとはなんと贅沢な―と思うケイであったが、すぐにそれが炎の明かりでないと気付き愕然とした。

あれは、魔術の明かりだ。

極めて貴重な照明の魔道具。弾かれたように周囲を見回し、壁に一定間隔で取り付けられたランプから、天井にぶら下がるシャンデリアに至るまで、全てが火を使わない魔道具で統一されていることに気付く。

嘘だろ……ゲームでも一度にこんな量はお目にかかったことないぞ……

いくら火災対策っつっても、コレはヤバイよな

二人ともにわかに茫然自失となっていた。作成難易度とコストが馬鹿高く、一部の古代遺跡やダンジョンで発掘される他は、ゲーム内で入手すらままならなかった魔道具。それが、この広い館内全てをカバーするほど、大量に備えられている―

ウルヴァーンの生産能力と経済力に、ケイもアイリーンも驚くばかりであった。

……よろしいですか? では二階へ

そんなケイたちをよそに、淡々と説明を続ける受付嬢。彼女に連れられて、今度は階段で二階へ上る。

さて。二階は学術書、及び”大百科事典”のフロアとなっております

“大百科事典(エンサイクロペディア)”?

はい。こちらです

受付嬢が示すのは、二階の窓際、ずらりと並んだ二十六架の巨大な本棚。それぞれA, B, C…と棚にアルファベットが振ってある。そして棚の中には、本でも巻物でもなく、革で装丁されたファイルのようなものがぎっしりと並べられていた。

こちらが、当館の誇るエンサイクロペディアです。これら全ての棚が、一冊の百科事典として機能します。一つの語句から、多角的に調べを進めていくことができるのです

一番手前のAの棚に近づいた受付嬢が、 例えば、 と一冊のファイルを抜き出した。

“リンゴ”を調べたい場合は、こちらのように

背表紙に”Apple”とあるファイルを手渡してくる。アイリーンとともにパラパラとめくってみると、そこにはリンゴの基本的な情報―植物学的な特徴、主な産地や品種、収穫の季節や栽培法などが、イラストも交えて大まかに記されていた。

興味深いのは、ページによって文字の筆跡が異なっていることだ。またファイルの末尾には、参考文献や”編集者(エディタ)“なる者達の名が書き連ねてある。

当館の利用者のうち、高い教養と深い専門知識を持つ方は”編集者(エディタ)“と呼ばれ、エンサイクロペディアを編纂する権利を有しておられます。新たな発見があれば情報の追加がなされ、間違いが見つかれば訂正される。当館のエンサイクロペディアは、絶えず進化し続ける事典なのです

……要は、アナログのウィキペディアだな

違いない

アイリーンの言葉に、ケイも深々と頷いた。

アナログ……、ウィキ? いえ、エンサイクロペディアですが

意味が通じなかったらしい受付嬢が真顔で訂正してくるが、既にこのとき、二人の注意は棚の方へと向けられていた。

早速Nの棚に移り、北の大地(ノースランド)の項目を探す。すると想像以上に分厚いファイルが見つかり、中身をめくってみれば雪原の民の風習や伝承、伝説などが歴史書の出典付きで記されていた。

……これは、なかなか長い付き合いになりそうだな

パタンとファイルを閉じ、にやりと笑みを浮かべるケイ。少なくとも、手当たり次第に本を読み漁っていくより、調べ物が捗るのは間違いない。

俺は、とりあえず『北の大地』から攻めてみよう

じゃあオレは『霧』から調べていこうかね

この図書館であれば、『こちら』に来ることになった原因も掴めるかもしれない―

ケイたちの探求は、まだまだ始まったばかりであった。

34. 探求

―“北の大地(Northland)”。

北の大地とは、“アクランド連合公国”北部に位置する地域の総称である。

そのあまりの広大さと、後述の政治的な理由により、地政学的に明確な領域を定めることは困難を極めるが、一般的には緩衝都市”ディランニレン”を境目として北、雪原の民に実効支配されており、かつアクランド連合公国の支配の及ばぬ地域を『北の大地』と定義することが多い。

その実体は”民族共同体”とでも呼ぶべきもので、確たる王権は存在せず、有事の際は主な氏族の代表が一同に会し、全体の方針を決めていくという擬似的な合議制を取る。場合によっては代表同士の決闘によって議決を成すこともあるといい、その政治形態は極めて野蛮かつ原始的と言わざるを得ない。また、各氏族がそれぞれ土地の領有を主張しているが、氏族によってその線引きが異なるため、水源や鉱脈を巡っての氏族間での小競り合いが後を絶たないのが現状である。

北の大地における最大の都市は”シルヴェリア湖”の湖畔に位置する”青銅の環(ブロンズウィコリツォ)“である。これは、雪原の民のうち最大規模の八氏族(ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ)を筆頭に、ほぼ全ての氏族の代表が館を構える都市で、北の大地の政治的中枢といえる。

また、周辺には主要な大規模集落が散在しており、南部の都市”ベルヤンスク”を経由して緩衝都市ディランニレンまで直通の街道も整備されていることから、交通の面から見ても要衝であることは間違いない(ちなみに北の大地の整地技術は公国と比して非常に未熟であり、馬車で通行可能な街道は限られている)。

青銅の環(ブロンズウィコリツォ)からさらに北上すると、“白色平野(ヴィエラブニーネン)“に行き当たる。身を切るような氷点下の風が吹き荒れる中、季節を問わず雪が降り積もり、地平の果てまで何もない白い雪原が延々と続くという。かつて幾人もの冒険家が探索を試みたが、多くは帰ることなく、終にその果てまで辿り着いた者はいない。余談だが、環境の過酷さを鑑みても帰還率が低すぎることから、白色平野には人喰いの魔物が棲んでいるという言い伝えもある。

北の大地の西部は、公国と同様に”アルデイラ海”に面している。アルデイラ海沿岸部には漁港が栄え、北の大地にしては気候が温暖であることも相まって、過酷な環境に適応した雪原の民には西部は住み易い土地として知られている。

一説には、平原の民が”フォーラント”より”リレイル”の地に訪れたのと同時期に(P.K.400年前後)、雪原の民もアルデイラ海を越えて北の大地に漂着したと考えられているが、当時の記録が紛失してしまったため、その正確な起源は現在不明である(詳しくは”雪原の民”の項を参照)。

翻って東部には、白色平野(ヴィエラブニーネン)よりもたらされる豊富な水源により、森林地帯が広がっている。寒冷な気候風土に適応した針葉植物が多く、真冬に花を咲かせる植物や全身が体毛に覆われた人型原住生物など、一種独特な、興味深い生態系が構築されている。

それに関連して、北の大地で有名なのが”魔の森”の伝承である。これは東部の森林地帯のうち、比較的人里に近い南東部のことで、不可解なことにこの地域には年中濃霧が立ち込めており―

―“魔の森”(北の大地)。

『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深く怖(おそ)ろしきものどもよ。

遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。

まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように―』

“北方紀行”より、著者・ハーキュリーズ=エルキン。

“魔の森”、別名”賢者の隠れ家”、“悪魔の棲む森”とは、北の大地の北東部に広がる地域の呼び名である。

元来、北の大地の東部は白色平野(ヴィエラブニーネン)を水源とする樹海が広がっている、その中でも特に北東部は、気象条件を問わず常に霧が立ち込めているという。

この森は現地の住人たちに魔界、あるいはある種の聖域と看做(みな)されている。前述の”北方紀行”の著者、旅行家ハーキュリーズ=エルキンは『森に立ち込める霧はあまりに濃く、まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかっているかのようであった』と記している。付近の村に滞在した四日間、ハーキュリーズは幾度となく森の入り口まで足を運んだが、その異様な雰囲気に圧倒され終に中にまでは踏み入ることは出来なかったという。

その埋め合わせをするかのように、ハーキュリーズは現地の住民に精力的な聞き込みを行い、情報収集に努めた。霧の中で蠢く、見上げるほどに巨大な人の影。時折聞こえてくる女の悲鳴に似た絶叫や無数の足音。夜になればそこかしこに漂う鬼火など、この森にまつわる不可解な話は枚挙に暇(いとま)がない(詳しくは”北方紀行”の項を参照)。

しかしその中でも特に興味深いのは、“賢者の隠れ家”という別名の由来にもなった、霧の彼方に館を構える賢者の逸話であろう。数歩でも足を踏み入れれば発狂、迷い込めば命はないと言われる”魔の森”であるが、正気を保ったまま戻ってくる者も稀に存在する。

その者達の口から語られるのが、霧の森に佇む、場違いなほど豪奢な館の話だ。そこには奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が、無数の蔵書に囲まれて暮らしているという。森を彷徨い歩き、運良く館まで辿り着いた者たちは、賢者に森の入り口まで送り届けて貰い無事に生還を果たしたとのことだ。その際、万病の特効薬や貴重な魔術の秘奥を与えられた、という話もあるそうだが、真偽のほどは定かでない。

いずれにせよ、“魔の森”に迷い込み、赤い衣の賢者と邂逅した、と主張する者が一定数いるのは事実である。研究によれば、“魔の森”には低位の精霊の活動を阻害するほどの強力な結界が張り巡らされており、少なくとも森の中にそういった魔術的領域を構築する”何か”がいることは確実視されている。

しかしながら、P.K.742年の”戦役”による公国との関係悪化を受け、魔術師団の調査が打ち切られたことから、詳しいことはまだ判明していない。

†††

もぞもぞ、と、隣で何かが動く気配。

薄暗い中、ケイはぼんやりと目を覚ました。宿屋の一室。天井の木の梁、鎖にぶら下げられたランプ。横を見れば、 う~ん と声を上げながらアイリーンが目を擦っているところだった。

ぱちぱちと、ケイを捉える青い瞳。お互い寝ぼけ眼のまま、しばし見つめ合う。

……おはよ、ケイ

おはよう、アイリーン

頭を撫でると、むふ、と笑ったアイリーンが、上体を起こして うーん と猫のように背伸びをした。シーツがぱさりと落ちて、白いからだが露になる。

両手を挙げて、ちょうど万歳の形で惜しげもなく晒されるそれを、斜め下の角度から鑑賞する。まろび出る、と表現するには些(いささ)か慎ましやかだが、大きさに貴賎はない。右胸、白い肌にはっきりと残る、小さな傷跡―

……む

と、視線に気付いたアイリーンが、ぴろりとケイのシーツを捲り上げる。

―He’s(げんき) fine(だな)!

ニヤリと笑うアイリーンに、 うむ と重々しく頷いてみせながらケイは身を起こす。このまま若さに身を任せておっぱじめたいのは山々であったが、そうすると一日が使い物にならなくなってしまう。イチャつくのは暗くなってからでも遅くはない。

さて、起きるか

んだな

いそいそと、足元に脱ぎ散らかされていた下着を身に着け始めるアイリーン。それを尻目にベッドから抜け出したケイは、雨戸を大きく開け放った。

雲ひとつない快晴。朝焼けの空に視線を走らせ、星々の並びに異常がないことを確かめたケイは満足げに頷く。

爽やかな朝だ。今日も、いつも通りの一日になるだろう。

ケイたちが公都図書館に出入りするようになってから、早二週間。

相変わらず”HangedBug”亭に部屋を取るケイたちであったが、ここのところ、その日常はパターン化してきている。

まず朝起きて顔を洗った後は、中庭で軽くストレッチだ。勿論ストレッチといっても、いやらしい方ではない。屈伸やアキレス腱から始まり、柔軟体操で体をほぐしていく。

元体操選手で、身のこなしからしていかにも体の柔らかそうなアイリーンは兎も角、ケイまでが180度開脚をこなすのは傍目には奇異に映るらしい。中庭に顔を洗いに出てきた宿泊客たちが、地面に足を広げてべったりと張り付くケイを見るたび、ぎょっとした顔をしていた。

ちなみに、ケイの身体(アバター)の柔らかさは、今に始まったことではない。 DEMONDAL のゲーム内ではアバターの関節が柔らかめに設定されていたので、リアルではどんなに体の硬いプレイヤーでも、楽々体操選手のような柔軟性を発揮できたのだ。その点、生身が骨になりかけていたケイには、皮肉としか言いようがなかったが―。

余談だが、ゲームのノリのままリアルで180度開脚しようとして、ぎっくり腰になったプレイヤーもいるらしい。

さてと。柔軟はこれくらいにして……

おっ、やるか? よーし、かかってこいよ!

コキコキと首の骨を鳴らすケイ、挑発的にクイクイと指を曲げるアイリーン。

柔軟体操(ウォーミングアップ)の次は、アイリーンと組み手をする。勿論、組み手といってもいやらしい方ではない。腕がなまらないよう、近接戦闘の復習だ。

他の宿泊客たちの好奇の視線をよそに、中庭で相対する二人。ケイはファイティングポーズで、アイリーンは自然体のまま、不敵な笑みを浮かべている。真剣で遣り合うのは流石に危険なので、念のため互いに素手でやっているが、―ケイが本気で剣を持って斬りかかったところで、アイリーンに傷を負わせられるか怪しい。

一呼吸。数歩先、視界に悠然と佇むアイリーンを捉える。

……いくぞ

ぐんっ、と。

踏み込んだ。最小限の動きを意識し、掌底を放つ。

狙うは胴。威力よりも速さを重視、迷いなく叩き込む。

そこに一切の手加減はない。容赦もない。

手抜きしてどうにか出来るほど、アイリーンは易(やす)い相手ではない。

肉薄。急激な接近、アイリーンの顔が大写しになるような錯覚。

不敵な、面白がるような笑みが妙に印象的に映る―

瞬間、金色がぶわりと広がった。

それはさながら白い蛇のように。

絡み取る。ケイの右腕。捻じ曲がる軌道。

凄まじい負荷が肩を襲い、たまらず姿勢を崩す。

そして狙い澄ましたように足が払われ、視界がぐるんと回ったかと思うと、気がつけば尻餅をついていた。

すわ喧嘩かと止めに入ろうとしていた見物人たちが、呆気に取られたように、ぽかんと口を開けて硬直している。呆然としているのは、ケイも同じだった。何が起きたのか分からない。

ぺしっ、と軽い音を立てて、首の後ろが叩かれた。

勢いがよければ良いってもんじゃないぜ、ケイ

振り返れば、アイリーンが腰に手を当ててケイの顔を覗き込んでいる。

……そう言われてもなあ

唇を尖らせたケイは、困り顔で立ち上がった。

今の、どうやったんだ?

どうって……右手をこう、ガッて引きながら、後ろにジャンプして足払い

お、おう……

言っていることは分かるが、実際にやっているところをイメージできない。

毎回言ってるけど、ケイの攻撃は素直すぎるんだよー

しかし、俺がかけられるフェイントなんざ高が知れてるからな……

や、フェイントとかそういうのじゃなくて

―攻撃後の隙が多い。

―予備動作が分かりやすい。

―反撃されてからのリカバーが遅い。

アイリーンが次々とケイの弱点を挙げていく。手厳しい指摘にケイは渋い顔だ。

基本的に、力比べになれば滅多な相手に負けないケイだが、“柔よく剛を制す”の言葉通り、アイリーンのような技量に長けた戦士とはとことん相性が悪い。弓の腕こそ頭抜けているものの、こと近接戦闘にかけては基本から外れた動きができないので、一定ラインより上の戦士にはまるで歯が立たないのだ。

ちなみに、ゲーム内の上位陣にはアイリーン並の戦士がゴロゴロいたので、その中でのケイの相対的な強さはお察しであった。

―と、いうわけで、その辺に気をつけてもう1回やってみよー

出来る気がしない……

心なしか先生っぽい口調のアイリーンに、早くも諦めモードのケイ。ゲーム時代から明白だったが、ケイに白兵戦のセンスはない。

その後、30分ほどアイリーンに関節を極められたり投げ飛ばされたりしてから、最後に打撃のスパーリングをこなし、朝の運動は終了した。

二人で組み手をしている間に、朝の混み合う時間は過ぎたのか、食堂はそれなりに空いていた。

あら、おはようお二人さん。今日も元気ね、朝から訓練なんて

ケイたちが食堂に入ると、トレイを片手に忙しげに給仕していたジェイミーが愛想よく笑いかけてくる。

やあ、おはよう。やらないと体が鈍るからな

それで、朝食?

ああ、いつもどおりで頼む

OK、ちょっと待っててね

厨房の奥へと引っ込んでいくジェイミー。一時はケイとアイリーンが揃って登場するたびにダメージを受けていたが、流石にもう慣れたのか、今では平気な様子だった。

一方、ケイの傍らのアイリーンは、ジェイミーの方は見向きもせずに、他の客の皿をチラ見して 今日はホットサンドか…… などと呟いている。大会の打ち上げ以来、アイリーンは積極的にジェイミーと話そうとせず、また、ジェイミーもアイリーンと目を合わせようとしない。女の確執をビンビンと感じるケイであったが、この件に関しては努めて気付かぬフリを決め込んでいる。触れるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。

で、今日はどうする?

いそいそと席に着きながら、アイリーンが問いかけてきた。

どうするもこうするも、……いつも通りだろ

だよなー

にべもないケイの返答に、へにゃりとテーブルに突っ伏すアイリーン。ケイもため息ひとつ、遠い目で頬杖をつく。

ここ二週間、図書館が休館の日曜は除いて、ケイたちは朝から晩まで読書漬けだった。

“大百科事典(エンサイクロペディア)“で気になる単語を調べ、並行して参考文献や関連書籍なども読み込んでいく。便利な検索機能があるわけでもなく、 どの情報が必要なのか は結局自分でしか判断できないので、自分で手当たり次第に目を通すしかない。そして学術用語や詩的表現に苦戦させられ貸し出しの英英辞典が手放せない日々には、ケイもアイリーンもいい加減うんざりしていた。

が、その甲斐あってか、調査自体は非常に捗っている。

むしろ必要な情報はほぼ出揃った、といっていい。

元よりエッダから”霧の異邦人”というかなりピンポイントな情報は聞いていたので、その線を辿って調べを進めていたのだが―調べれば調べるほど”魔の森”や”赤衣の賢者”など、興味深い伝承が次々と見つかった。

特に”魔の森”に関しては、十数年前に派遣された魔術師団の研究資料が公開されていたため、情報の確度はかなり高い。その他の伝承とも絡めて多角的に検討した結果―高位の精霊か、件の”賢者”か、はたまた別の魔術的要因か―詳細は不明だが、いずれにせよケイたちは、北の大地の”魔の森”に転移の手がかりがある可能性が高い、という結論に達した。

加えて、(軍事上の理由で公国の地形図は禁書扱いであったにもかかわらず)北の大地中央部から南部にかけての詳細な地形図が一般公開されていたため、既に”魔の森”の場所も判明しており、旅のルートもいくつか目処が立っている。

情報は得られた。後はそれをどうするか。

ケイたちは、次の行動を選択する必要に迫られていた。

はい、お待ちどうさま、ハムとチーズのホットサンドね

お、ありがとう

厨房から出てきたジェイミーが、ケイとアイリーンの前に皿を置いた。ケイが代金を支払い、その間にアイリーンが水差しから木のカップに水を注ぐ。いただきます、と二人で手を合わせてから、ホカホカのホットサンドにかぶりついた。

ん、うまい

山羊のチーズにも慣れたもんだな

とろりとした濃厚なチーズの旨み。知らず知らずのうちに沈んでいた表情が、ほのかな笑みに彩られる。

―なぜ、この期に及んで、ウルヴァーンに留まっているのか。

本来のケイたちの行動力を鑑みれば、すぐに北の大地に旅立っていてもおかしくはなかった。しかしなぜ、未だウルヴァーンで足踏みしているのか。理由はいくつかあるが、やはり最大のものは 踏ん切りがつかない ことであろう。

最悪、手がかりなど一切見つからないまま、数ヶ月あるいは数年、図書館で情報収集に挑む覚悟だった。それが思ったよりもあっさりと解決の糸口が見つかって、逆に拍子抜けしてしまったのだ。

本当にこれで大丈夫なのか。もっと他にあるのではないか―そんな半信半疑な気持ちが抜けきれず、自信が持てない。

また、目的地が”北の大地”なのもいけなかった。まずケイは言葉が通じないし、ロシア語話者のアイリーンであっても、ようやく慣れてきた公国の暮らしから離れて、見知らぬ土地へ旅に出ることに躊躇いがある。

そして、あ(・)の(・)アレクセイの故郷だ、二人で旅をすればトラブルは避けられないだろう。これが港湾都市キテネや鉱山都市ガロンのような大規模都市、あるいは辺境であっても公国内でさえあれば、気軽に現地まで行ってみようという気になったかもしれないが―

…………

ホットサンドを食べ終わり、水を飲みながら、二人して物思いに沈む。

―あと一押しが足りない。

口には出さないが、二人ともが似たようなことを考えていた。“転移”の核心に迫るならば、北の大地に行くべきだと、頭では理解はしている。

ただ、確証がない。紙面上の情報だけでは足りない。

自分たちの背中を押すに足る、何かきっかけが欲しい―

……やっぱり、話を聞いてみるべきだろうな

テーブルを指でトントンと叩きながら、アイリーンが切り出した。

話? 誰に?

うーん。……専門家、とか?

ケイの問いに、小首を傾げながら、疑問系でアイリーン。

専門家か……

顎に手を当てて、うーむ、とケイは唸る。

公都図書館は、周囲に諸研究施設や学院が密集しており、学者や研究者のような知識層が集う社交場(サロン)としても機能している。当然のように、北の大地に詳しい者もいるだろう。

そうだな……実際、“魔の森”までどのルートで行けばいいかも分からないし、その辺もアドバイスが貰えると助かるな

アドバイスという点では、雪原の民を探して直接話を聞くという手もあり、実際に何人かホランドのツテを頼りに探してみた。が、ウルヴァーン在住の雪原の民は西部の出身者が多く、南東部の”魔の森”に関しては図書館以上の情報は得られなかった。

そうしてみると出身者ゆえのバイアスがなく、全般的な知識がある(と期待される)平原の民の専門家の方が、むしろ意見を仰ぐには適しているかもしれない。

個人的には、エンサイクロペディアの編集者(エディター)あたりを当たってみたらどうかと思うんだけど。“北の大地”と”魔の森”の項って、確か同じ編集者だったじゃん?

そうだったのか、よく憶えてるな。よし、今日はその方向性で行こう

話がまとまったところでカップの水をぐいと流し込み、ケイたちは席を立った。

†††

編集者、ですか?

公都図書館。エントランスのカウンターで、片眼鏡(モノクル)の受付嬢が小首を傾げる。

ああ。エンサイクロペディアの”北の大地”の項の編集者で、名前は確か―

―『ヴァルグレン=クレムラート』、だったかな?

言葉を引き継ぐアイリーン。ケイは受付嬢に だ、そうだ と肩をすくめた。片眼鏡の位置を直しながら、 ふむ、 と声を漏らす受付嬢。

ここ二週間ですっかり顔馴染みになった彼女だが、その名を『アリッサ』という。あまり表情の動かない長身の美女だが、話してみると意外に茶目っ気もある人物だということが分かってきた。

ヴァルグレン=クレムラート氏、ですか……

……何か問題でも?

ほんのわずかに、表情を曇らせるアリッサ。ケイが尋ねると、 いえ、 と首を振ったアリッサは、

その、編集者の中でもヴァルグレン氏は、独特な方ですので

それは、頑固とか偏屈とか、そういう感じの?

いえ、そういうわけではないのですが……かなり神出鬼没な方なんです

アイリーンの率直な物言いに、かなり答えにくそうな様子のアリッサ。

直接会って話が聞ければ、と思っていたんだが……難しいのかな

はい。正直なところ、ケイさんの方から能動的にアポイントメントを取るのは難しいと思います。ご多忙な方であられますから

そうか……ならば、伝言だけでも頼めないものだろうか

それは……

せめて受付経由で連絡を、と思ったが、アリッサの反応は芳しくない。

それも、……難しいかと

え? っつっても、エントランスに入ってきたところに、ちょっと声かけてくれるだけでもいいんだけど

アイリーンが素っ頓狂な声を上げる。何も、それほど無理なことを頼んでいるわけではない。不思議そうな顔をするケイたちに、少しばかり困った様子のアリッサは、周囲を気にするように声を潜めた。

……図書館の入り口は、このエントランスだけではないのです。必ず私が応対できるわけではありません

へえ、他にも入り口あるんだ?

はい

で、ヴァルグレン氏はそちらを使ってると

残念ながら、詳細は申し上げられません

一線引いた態度できっぱりと言い切るアリッサに、ケイたちは目配せしあった。どうやらワケありらしい。

そうか……じゃあ、他を当たってみるとするか

その方がよろしいかと。ヴァルグレン氏は、事情が特殊ですので……別の編集者であれば、連絡を取るのもさほど難しくはないと思います。なんでしたら、言伝も承りますが

いや、ヴァルグレン=クレムラート氏以外は、まだ見当もつけていないんだ。ちょっとエンサイクロペディアを見てくるよ

肩をすくめて笑い、くるりと受付に背を向けたところで あ、お待ちください と後ろから声をかけられる。

折角ですので、ヴァルグレン氏の特徴だけでもお教えしておきます。あの方は本当に神出鬼没ですが、二階のエンサイクロペディアの近くで見かけられることが多いので、運が良ければ直接お会いできるかもしれません

おお、それはありがたい

編集者ヴァルグレン=クレムラート―まるで珍獣か何かのような扱いだ。ワケありっぽい素性といい、係わり合いになったら微妙に厄介そうな気配といい、適度に好奇心がくすぐられる。ケイもアイリーンも興味津々だった。

はい。では、ヴァルグレン氏ですが、彼は五十代の男性です。顔は丸顔で中肉中背、服装は特に決まっていません―が、特徴的な点がひとつ

アリッサが、自分の前髪を摘んでひらひらとさせる。

髪型です。透き通るような銀髪で、綺麗に形が整えられています。キノコみたいに

ケイの脳内に、銀髪マッシュルームカットの老紳士が現れた。んふぅ、と隣でアイリーンが笑いを噛み殺す音がする。

……なかなか個性的な御仁のようだな

周囲の利用客を見回して、ケイは呟いた。

地球の中世ヨーロッパに比べれば遥かに技術が発展している『こちら』の世界だが、こと男性のヘアスタイルに関しては、残念ながら中世レベルと言わざるを得ない。手入れが楽で邪魔にならなければいい、とでも言わんばかりに、ざっくりと短く刈り込んだだけの髪型が一般的だ。尤も、長くて鬱陶しい部分を適当に後頭部で縛っているだけのケイも、人のことを言えた立場ではないのだが。

はい、かなり個性的です。私の知る限り、銀髪でヴァルグレン氏のような髪型の方は他にいらっしゃらないので、見かけたならまず間違いなく本人かと……

成る程、ならばそれを見逃さないようにしよう、ありがとう

改めてアリッサに礼を言い、ケイたちは館内に入っていく。

さて、またエンサイクロペディアを調べる日々が始まるのかね……

二階へ階段を上がりながら、溜息交じりにケイは呟いた。

だな……。正直、相談するならヴァルグレン=クレムラートが一番なんだけどな。北の大地も魔の森もこの爺さんが両方編集してるし、書き方も一番分かりやすいしさ

仕方ない、とでも言わんばかりに、嘆息するアイリーン。

全くだ。それにしても、銀色のキノコヘアか……目立つな

仮にそんなヤツがいたら、見逃そうったって見逃しはしねーだろうけど

しかし図書館の入り口が他にあるとは知らなかった。VIP用か?

身分の高い人は、庶民と同じ出入り口なんざ使わない、ってことじゃね

となると……ヴァルグレン氏もやんごとなき身分の方なのだろうか

その可能性は高いな。まあでも、忙しくて神出鬼没らしいし? まさかこのタイミングでたまたま出くわすなんて、そーんな都合のいい……こと、は……

と、二階まで辿り着いた所で、階段の手すりに手をかけたまま、ゆるやかにアイリーンが動きを止める。

……どうした?

ぽかんとした表情のアイリーンに、訝しげなケイはその視線を辿り―

……あ

エンサイクロペディアの棚の間に、埋もれるようにして、細身な人影。

中肉中背で、落ち着いた緑色のローブを羽織った男が、熱心に何かのファイルを読み込んでいる。後ろ向いているため顔は見えないが、その髪色は不自然なまでに美しい銀色だった。

そして、耳にかからない程度の長さで、真横にびしりと切りそろえられた、独特なヘアスタイル。

…………

しばし呆気に取られる二人であったが、すぐに我に返った。

なあ、ケイ

なんだ、アイリーン

あれは……多分そう、だよな?

ああ……多分、な

神妙な顔で、ケイは頷く。

―銀色キノコが、そこに居た。

35. 助言

静謐な空間に佇む、銀色キノコヘア。

ゲーム時代、フィールドで初めて、契約可能な精霊に遭遇したときのことを思い出す。あのときも目の前に唐突に出現した精霊に、何事かと驚いたものだった。条件を満たせなかったので契約は出来なかったが。

ゆっくりと、恐る恐るといった風に、ケイたちはその人物に接近していく。

すまない、そこなお方

声をかけると、熱心に何かのファイルを読んでいた男がくるりと振り返る。

その顔を見た瞬間、思わずケイは笑いそうになった。年の頃は五十代後半といったところか、丸顔に団子鼻、垂れ目で、どこか愛嬌のある顔立ち。

そしてそこに、このヘアスタイルだ。嘘くさいほどに手入れの行き届いたマッシュルームカット。近寄ってみれば、前髪も見事にヴァーティカルであった。

が、初対面で顔を見た瞬間に吹き出すなど無礼というレベルではないので、鋼の意志をもって可笑しな気持ちを押し殺す。

―何かな?

……編集者の、ヴァルグレン=クレムラート氏とお見受けするが

ふむ。いかにも、私がヴァルグレン=クレムラートだが、君は……、いや待て

キノコヘア―改め、ヴァルグレンの視線がケイとアイリーンの間で揺れる。

君の顔には、見覚えがあるぞ。確か武道大会の優勝者ではなかったかな、射的部門の。名前は……ケイ=ノガワといったか

その通りだ。……武道大会のときは、現地に?

ああ、見ていたよ、君の活躍は。遠目にだがね

茶目っ気たっぷりにウィンクしてみるヴァルグレン。しかし―ケイはその瞳に、どことなく、油断のならない光を見た気がした。髪型に惑わされそうになるが、ただの人好きのする老人ではない、と直感が告げる。

―して、その大会の優勝者殿が、私に何の用かな?

にこにこと微笑みながら、ヴァルグレン。気を取り直してケイは咳払いをひとつ、

初対面で厚かましいが、実は貴方に折り入って頼みがあるのだ

エンサイクロペディアの”北の大地”、“魔の森”の項でヴァルグレンを知ったこと、そしてケイたちの目的―魔の森に行くことなどを、大まかに説明する。

―というわけで、専門家の貴方からも、意見を賜りたいと思っていたのだが

……ふむ。なるほどなるほど

顔から笑み引かせ、小さく頷いたヴァルグレンは、近くの窓へと目をやった。

正午前の、穏やかな日差しが差し込んでいる。その向こう側で、ぱたぱたと羽音を立てて飛んでいく、白い鳩。

無言のまま懐に手を滑り込ませ、ヴァルグレンは懐中時計を取り出した。文字盤には淡い光が躍る―魔術式の時計。ちらりと時間を確認し、パチンと蓋を閉じる。

そうだね、立ち話もなんだし、座ろうかケイ君。あと、そちらのお嬢さんも

言うが早いか、ヴァルグレンはそそくさと近くのソファに腰掛ける。それに倣ってケイもその向かいに座り、続いてアイリーンがケイの隣に腰を下ろした。

ふかふかの、座り心地の良い深緑のソファ。外張りはしっとりとしたシルク製で、細やかな花々の刺繍が小気味良い。もう幾度となく腰掛けているが、座るたびに思わず撫で付けてしまうほど滑らかな手触りだ。

……さて、話を続ける前に、幾つかいいかね

ゆったりと背もたれに身を預けたヴァルグレンが、肘掛で頬杖を突く。

何なりと

まず、君たちの目的の動機が知りたい。なぜ、“霧の異邦人”や”魔の森”の伝説に興味を抱いたんだね? そして、なぜ実際に”魔の森”を訪ねようと思ったのか―失礼だが、君たちは熱心な歴史学の学徒にも見えないし、興味本位で行くにしては北の大地は遠すぎる。それに、そちらのお嬢さんは雪原の民とお見受けするが、彼女の方が私より余程詳しいのではないかね

面白がるような、それでいて静かな瞳がケイを見据える。

……そうだな、

意見を求めるようにアイリーンを見たが、彼女は肩をすくめただけだった。ケイに任せる、ということらしい。

専門家にアドバイスを求める以上、下手に情報を隠しても良いことはない、と判断したケイは、自分たちの境遇も含めてある程度正直に説明することにした。

実は、俺たち二人ともが、その”霧の異邦人”かもしれないんだ―

ゲームや異世界といった概念はぼかし、順を追って説明する。白い霧に入り、そこで記憶が途絶え、気が付けば『こちら』の草原にいた―。

―俺たちは『ここ』がどこなのか。また、『故郷』に帰る手段があるのかどうかを突き止めたい。その手がかりが”魔の森”にはあるのではないか、と期待しているわけだが

……。なるほど

ケイの説明を聞き、中空に視線をやるヴァルグレン。物思いに沈む中、その右手が頭頂部へと向かい―しかし指先が髪に触れる前にぴたりと動きを止め、そのまま何をするでもなく手を引っ込めた。

つまり、何だ。君たちは故郷へ帰る方法を突き止め、やがて公国から去っていきたいと―そういうことかね?

いや、去るかどうかは未知数だ。俺としては、こちらの生活も悪くないと思う。だが、あのとき何が起きたのかだけはハッキリさせておきたいんだ

ふむ。そちらのお嬢さんもかね?

えっ

唐突にヴァルグレンに話を振られ、アイリーンがぴくりと肩を震わせる。

オ、オレは……『帰れるかどうか』だけ、はっきりさせてから考えたいと思う

そうか……

…………

アイリーンの迷いのある口調に、何を見出したのかは分からないが、何度も頷くヴァルグレン。

ケイは、無言だった。

……まあ、君たちの目的は大体分かった。そうだね、“魔の森”は、君たちにとって興味深い場所だと思うよ

それは、行く価値がある、ということだろうか

そう、だね。あると言っていいだろう

薄く笑ったヴァルグレンが、内緒話をするかのように声を潜める、

―実は、私も現地に行ったことがあるのだよ。“魔の森”にね

思わず、ケイとアイリーンは身を乗り出した。どうやらこのヴァルグレンという人物、ただの学者肌の男ではないらしい。

それはまた……まさか、ご自身が出向かれているとは知らなかった

なに、昔派遣された魔術師団の付き添いでね、流石に中にまでは踏み込んでいないよ。ただ、あの森には『何か』がある―これは確かだ。少なくとも、君たちが体験したような転移現象を引き起こすに足る、強大な力を持つ『何か』が、あそこにはある。私たちの調査では大したことは判明しなかったが、君たちが行けばまた、違ったものが見えてくるかも知れないね

薄く笑って、ヴァルグレンはソファに深く座り直した。

……そういった意味では、行く価値はあるだろう。君たちにとっては

その言葉は、控えめでありつつも、自信に満ちていた。黙ったまま、ケイたちはそれを吟味する。


……やっぱり、行くしかねえな

ぽつりと、アイリーンが呟いた。その声の小ささの割りに、目つきは鋭い。

そうだな

対して、ケイはただ頷いた。少なくとも反対する理由は持ち合わせていなかった。

……ヴァルグレン氏。やはり俺たちは、現地に行ってみようと思う

うん、いいんじゃないか

ただ、これも厚かましいお願いとは重々承知しているのだが―、出来ればどのルートで行けば良いか等、ご教授いただけないものだろうか

……ふむ。私としては吝かではないけどもね、ひとつ条件がある

にやりと意味深な笑みを浮かべるヴァルグレンに、思わずケイたちは身構える。

……なに、そう身構えずとも、大したことじゃない。君たちは公国よりも遥かに遠い所から来た、そうだろう? ならば私が知らないような、珍しい知識も持ち合わせているのではないかね。―出来ればでいい、私が北の大地のことを君たちに教える代わりに、君たちも何か有用な知識を私に教えてくれたまえ

要はギブアンドテイクだよ、とヴァルグレンは言う。

有用な知識、か……

むぅ、と声を上げて指先で唇をなぞるアイリーン。ケイも腕を組んで考え込む。

科学技術や戦術論、電気を応用した通信など様々なものを考えていたケイだが、窓の外の青空を見て、ふと思いついた。

……ヴァルグレン氏、貴方は”占星術”をご存知か?

占星術……というと、星々の動きを見るという、あの占いかね?

そう。それの発展系で、星を見れば一週間後までの天気がほぼ確実に分かる方法があるのだが、それでどうだろう

ほう! それは面白い

占星術を利用した天気予報。ヴァルグレンの眉がピクリと跳ねる。

どの程度正確に予見できるんだね?

翌日の天気は読み間違えない限り確実に当たるが、色と明るさの関係で、未来の天気になるほど読むのが難しくなる。具体的には、天頂に季節を問わず見える七つの星があるんだが―

身振り手振りも交えつつ、簡単に説明していく。顎の辺りを揉み解しながら、ヴァルグレンは終始興味深そうな様子で、

ふむ、なかなか面白いね。星を見てそこまで正確に天気が分かるという話は、ついぞ聞いたことがない。……しかし、口で説明されただけでは、よく分からないな。ケイ君、機会を見て一緒に星を見ながら教えてくれないかね? それで手を打とうじゃないか

勿論、問題ない

よし。ならば先に、君たちへのアドバイスを終わらせてしまおうか。私も少々忙しい身でね、時間が惜しい

それは……こちらとしては構わないが、いいのか?

特に証拠を出したわけでもなく、あっさりと了承されたことに肩透かしを食らうケイ。こめかみを指先でとんとんと叩きながら、ヴァルグレンはニヤリと笑った。

なあに、それが本当かどうかは、実際にやってみればすぐに分かることだ。騙されたなら、私も君もその程度の人間だった、ということさ。―さて、私が通ったルートを教えよう、それと付近の部族の情報も。北の大地の地図はこのフロアにあったかな?

地図ならここにあるぜ

ヴァルグレンがソファから腰を浮かせようとした瞬間、アイリーンが小物入れから折り畳まれた羊皮紙を取り出し、目の前のローテーブルの上に広げる。一般公開されていた北の大地の地図を図書館の有料サービスで模写して貰ったものだ。

用意が良いね。そういえばお嬢さん、名前を聞いていなかったかな

アイリーン。アイリーン=ロバチェフスカヤだ。出身は、雪原の民じゃないけど雪原の民に似た部族。よろしく、Sir(おじさま)

ハッハハ、こちらこそよろしく

茶目っ気たっぷりなアイリーンの自己紹介に、相好を崩すヴァルグレン。アイリーンお得意の、人の懐にするりと入り込む無邪気なスマイルだ。

さて、それでルートに関してだが、まず緩衝都市ディランニレンまで行き―

額を突き合わせながら、地図を覗き込む。ケイは腰のポーチからメモ用紙を取り出し、ヴァルグレンの助言を書き取り始めた。

†††

それから昼過ぎまで、ヴァルグレンはケイたちに詳細な情報を提供してくれた。

当初ケイたちは、アリア川を東へ渡り、川沿いに北上してから山脈を東に迂回するルートが最短と考えていたのだが、ヴァルグレン曰くこのルートは夜盗が多く、二人旅では危険らしい。

代わりに、ウルヴァーンからブラーチヤ街道を北上し、商業都市ベルヤンスクから東へと進むルートを提案された。こちらの方が柄の悪い集落を避けられるため、比(・)較(・)的(・)安全だそうだ。

思ったより、有意義な時間になったな

うん。しかしあの爺さん、何者なんだろうなー

昼食を取るため宿屋に戻る道すがら、アイリーンが腕を組んで唸る。

ケイたちとの話が終わったあと、懐中時計を一瞥したヴァルグレンは目を剥いて、 長居しすぎた と泡を食った様子で何処かへと飛んで帰ってしまった。占星術の件は、ケイたちの宿屋まで追って使いを出すらしい。

あの懐中時計、何気に魔術式だったもんなぁ……買ったらメッチャ高いよなぁアレ

装飾も凄かった。金貨が吹き飛ぶな

服装こそ野暮ったいローブを羽織っていたものの、あれはカモフラージュとしか思えない。しかしあれだけ個性的な髪型だと、服装を変えたところですぐに正体が露見しそうなものだが―公然の秘密、というやつなのだろうか。

…………

がやがやと騒がしい昼時の街を、ケイたちは沈黙のうちに歩く。子供たちの走り回る路地からは、何やら美味しそうなスープの香りが漂ってきていた。

ウルヴァーンに住み始めて一ヶ月余り。見慣れた街並みが、今は何処か違って見える。懐に大事に仕舞い込んだ、ヴァルグレン直伝のメモの存在が、重たい。

―この街を出る。

その事実が、徐々に、徐々に、ケイたちの中で輪郭を成していく。

通りの先に、デフォルメされた甲虫が、ジョッキを片手に首吊りしている看板が見えてきた。“HangedBug”亭。ケイたちの常宿。食堂は混み合っていたので、ケイたちは一旦部屋に戻った。

もはや自分たちの家のように感じられる、203号室。

改めて見てみると、いつの間にか部屋にはこまごまとした物が増えていた。それは爪切りであったり、干し果物を入れておく小さな器であったり、あるとちょっと便利なサイドテーブルであったり。

勿論、北の大地に旅立つのであれば、全部は持っていけない。

……そろそろ、荷物も整理しなきゃな

ぽつりと、アイリーンが寂しげに呟いた。

ヴァルグレンからの使者が来たのは、それから三日後のことだった。早朝に、まるで騎士を無理やり平服に押し込んだかのような、背の高い偉丈夫が宿にやってきたのだ。

貴殿がケイ=ノガワ氏か。ヴァルグレン=クレムラート氏よりのお言葉を伝える。『今夜8時、第一城壁の南門にて待つ』とのことだ。しかと伝えたぞ

なぜ自分がこんなことをせねばならんのだ、と言わんばかりに不満たらたらな顔で、男はそれだけを告げて去っていった。

……何? 今の人

たまたまその場に居合わせたジェイミーが、洗濯物の籠を手にしたまま、不思議そうな顔をしている。

知り合いの部下、か何かだな

ふぅん。……イケメンね

ケイの答えに、 あーあ、その辺にイケメン転がってないかなぁ と呟きながら、ジェイミーは洗い場の方へと消えていった。

ってか、今のって、絶対平民じゃないよなアレ……

立ち振る舞いと言葉遣いが、どう考えても騎士階級だな

ひそひそと、食堂の片隅で言葉を交わすケイとアイリーン。あの男がずかずかと中にまで入り込んできたせいで、食堂内も妙な空気になっている。

そもそも、夜の8時って城門はもう閉まってるんじゃなかったっけ? あの爺さん、第一城壁の外に住んでるってことはないと思うんだけど

……門をどうにかできるだけのツ(・)テ(・)があるんだろうな

少なくとも木っ端貴族には、門の開閉に口を出す権利はない。先ほどの使いの者といい門の件といい、やんごとなきオーラが滲み出ているが―

(―あの老人、タアフ村のベネット村長と同じ匂いがする)

一見人好きのする好々爺だが、タヌキ親父をさらに一、二回捻って、パワーアップさせたような雰囲気もある。今後のことを考えると、取り入っておくべきか深入りしないよう気をつけるべきか、判断に迷うところだ。

その日は夕方まで、いらない小物を処分したり、逆に旅の小道具を工面したりして過ごしたが、ケイもアイリーンもそわそわと落ち着かない気分だった。

夏は日が長い。日が暮れると同時に、ケイたちは仕度を始めて宿を出る。宿で借りたカンテラと、メモ帳と万年筆を持っていくことにした。ケイに明かりは必要ないが、カンテラは念のためだ。

果たして、20時前、門の前にはヴァルグレンが待ち構えていた。前回とは違って灰色の地味なローブを羽織り、髪型は相変わらずマッシュルームのままだ。そばには、護衛であろうか、今朝宿にやってきた偉丈夫がこちらも地味な平服を着て待機していた。その背中には革の大きな背嚢。腰に豪奢な装飾の長剣を佩いているあたり、身分を隠すつもりがあるのかないのか分からない。

やあやあ、こんばんは二人とも。三日ぶりになるかな

ケイたちと同様、カンテラを片手に、にこにこと愛想の良いヴァルグレン。

どうも、こんばんは。お待たせしてしまっただろうか

あからさまに不機嫌そうな偉丈夫に、戦々恐々としながらケイが問うと、 いやいや と気負わずヴァルグレンは首を振った。

今来たところだ。さあ、行こうか

カンテラを掲げながら、ヴァルグレンが先頭を切って歩き出す。

……ところでヴァルグレン氏、今晩はどこに行かれるおつもりなのか?

なに、市庁の建物を借りようと思ってね。あれなら背が高いし、周りに邪魔な建物がないから、天体観測にはうってつけだろう? カジミール、用意は出来ているな?

はっ、先方には連絡済で、鍵も確保しております、閣下

じゃら、と胸ポケットから鍵束を取り出し、『カジミール』と呼ばれた偉丈夫がキリッと答える。

だから、『閣下』はやめろと言ったろうに

はっ、申し訳ございません

カジミールが頭を下げる横で、アイリーンがケイの方を向いて白目を剥いてみせた。ケイも渋い顔で頷き返す。

…………

しばらく、会話もないままに歩いていると、赤レンガ造りの市庁が見えてくる。窓からは明かりが漏れておらず、人の気配はなかった。

今夜は、人払いしておりますゆえ

先んじてカジミールが入り口の扉を開け、ヴァルグレンのために扉を開ける。

さてさて、ここは三階建てか。階段が堪えるねえ

何なら、肩をお貸ししようか、閣下

ははっ、からかわないでくれ給えよケイ君

ケイが思い切って軽口を叩いてみると、ヴァルグレンは苦笑していた。その後ろでカジミールが怖い顔をしていたが。

市庁の屋上に出ると、夜の一般市街が一望できた。ところどころに明かりは見えるが、天体観測の邪魔になるほどではない。

さて、ではカジミール、頼む

はっ

床に背嚢を置いたカジミールが、中から木の箱を取り出した。何かと覗いてみれば、

ほう、望遠鏡か

金箔やら宝石やらで飾り付けられた、豪奢な天体望遠鏡。もっとシンプルなものはなかったのかといいたいところだが、実用に耐えるなら問題ないだろう。

私はそれほど目が良くないからね

笑うヴァルグレンの横で、カジミールが箱から三脚などの部品を出して並べ、組み立てようとしている。が、

むむ。これは、……この部品がここで、……むむ

まるでチェスの難しい局面に挑むかのように、厳しい顔つきのカジミール。ヴァルグレンは何も言わずに微笑みながら見守っていたが、不気味な沈黙が続くうち、カジミールの額にだらだらと汗が浮かんでいく。

……この部品が、これじゃね?

見かねたアイリーンが、口を出した。

……むむ。そのようだな

で、これが、こっちじゃん?

……うむ

それで、こっちがこう繋がって、こうか

…………

着々と組み立てられていく望遠鏡を前に、黙りこくるカジミール。ケイとヴァルグレンは顔を見合わせて苦笑した。

―と。

ケイは、ヴァルグレンの手にしたカンテラに、ふと目を留めた。

炎の明かりにしては揺らぎもせず、光が安定しすぎている気がする。

そしてケイはその白い光の中に、背中に羽を生やした小人の姿を幻視した。

……ヴァルグレン氏、それは、精霊か?

思わず尋ねたケイに、 ほう と意外そうな顔をしたヴァルグレンは、

分かるのかね?

まさかとは思うが、“白光の妖精”ではないか

……これは驚いた。よく知っているね

ヴァルグレンがカンテラの蓋を開け、 ―Thorborg と呟くと、光の塊がひらひらと舞い出てくる。

いや……俺も、実際に見るのは初めてだ

すげえ、超レアなのに……

ケイもアイリーンも、興奮した面持ちで、ヴァルグレンの肩に座る光の小人に見入っていた。

“白光の妖精”とは、“妖精”という呼び名を冠された下位精霊の一種だ。“妖精”たちは気分次第で何処にでも顕現し、甘いお菓子さえ持っていればその場で契約可能、かつ使役に要求される触媒も草花や砂糖、水晶などありふれたものばかりで、ゲーム内では力が弱いがお手軽な契約精霊として知られていた。

が、その中でも”白光の妖精”だけは別格だ。他の妖精が眠りや幻惑を司るのに対し、この精霊はいわゆる突然変異的な存在で、『清浄なる癒しの光』を司っている。

少なくとも DEMONDAL では数少ない、即効性のある癒しの魔術が使える稀有な精霊であり、かつ照明の魔道具の作成にも欠かせない存在であった。そのレアリティの高さと有用性から、白光の妖精と契約に成功した者にはあらゆる傭兵団(クラン)から声がかかり、リアルマネーでの買収すら持ちかけられたという話も聞く。廃人と名高いケイも、ゲーム内では直接お目にかかったことがないほどの希少な存在だ。

……ひょっとすると、図書館の照明の多くは、ヴァルグレン氏の手によるものなのだろうか?

妖精を従えている時点で、ヴァルグレンが魔術師であるのは間違いない。

いや、あれは私の前任者だね。私はメンテナンスをやっているだけだよ。……それにしても驚かされるな、ケイ君、君は魔術にも詳しいのかね?

ヴァルグレンの問いかけに、ケイは曖昧に頷いた。

このとき、おそらくケイは、少し気が緩んでいたのだろう。

ああ……俺も、風の精霊と契約している

正直に、答えてしまった。

このときは、まさかこの言葉が、あのような事態を引き起こすことになろうとは―

……何?

ヴァルグレンの顔色が変わる。

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