ほほー……!
しげしげと鏃に埋め込まれた青い宝石を眺めていたロドルフォだったが、やがて大事そうに腰の矢筒にしまった。
合言葉は覚えてるな?
オービーヌ だな?
そうだ。これから俺が、『合言葉!』と叫んだら即座に オービーヌ と言い返せよ。いざというときに忘れてちゃ話にならんからな
覚えているような気がしていても、“森大蜥蜴”を前にして緊張したら合言葉が出てこないかもしれない。来襲までどれほど時間があるかは謎だが、できる限り訓練しておこうというわけだ。
ちなみに、マンデルにも同じことをやっている。
はっはっは、任せてくれ。女の名前を覚えるのは得意なんだ!
ちなみに、 オービーヌ は氷の精霊の名前だ
そ、それは畏れ多いな……!
ロドルフォはぎょっとして仰け反った。
旦那。その魔法の矢、アッシには使えないもんですかい?
キリアンの得物はクロスボウだからな……
クロスボウは太く短い矢弾(ボルト)を射出する。弓で放つ矢とは形が全く違うのだ。無理やりセットすれば発射はできるだろうが、まっすぐ飛ばないだろう。キリアンもプロなので ああ、確かに とすぐに理解し、諦める。
……ケイ、……その……
と、ここでゴーダンがもじもじと。
……魔法の槍とかは、ないか……
羨ましかったらしい。
……。すまない、流石に持ってないな……
そうか…………
……ま、まあ、なんだゴーダン。お前さんにもアッシの毒を分けてやるよ、魔法の槍たぁいかないが、毒の槍にしようぜ
お、おう……
キリアンが慰めなのか何なのかよくわからない言葉をかけたが、ゴーダンは依然として残念そうな顔をしていた。
なんとなく不憫に思ったケイは、
……お前の槍に、風の精霊への祈りを込めておこう。狙いを違わず突き刺さるように
…………!
ゴーダンがパッと明るい表情になった。
†††
ケイが祈りを捧げると、シーヴが気を利かせて(ケイの魔力を消費し)風を吹かせてくれたので、ゴーダンは大喜びだった。
めちゃくちゃはしゃいでいた。
また、アイリーンとマンデル以外の面々も、『風の精霊が顕現した』ことに驚きつつも、好意的に受け止めていた。ケイは自らが魔術師であることを特に喧伝していなかったからだ。
もっとも、皆の士気が上がるのは良いことなので、ケイも無粋な解説などはせず口をつぐんでおいたが。
それから森を警戒しつつ土木作業を進め、多数の落とし穴を掘った。子供がすっぽりと埋まる程度の深さの穴に、木の枝で軽くフタをしただけの稚拙極まる罠だが、“森大蜥蜴”の頭脳ではおそらく見破れまい。賢い”大熊”だったら引っかからなかっただろう。
日が暮れてからは、村で英気を養う。アイリーンが”警報(アラーム)“の魔術で万が一の備えをしたが、“森大蜥蜴”は昼行性なので夜には襲撃がないはず、ということでゆっくりと体を休める。
そして翌朝―
ケイは借り受けた民家の寝室で、ガヤガヤと騒がしい外の気配に目を覚ます。
まさか、出たのか……!?
朝飯食う暇もねえなケイ!
アイリーンともども、最低限の装備を身に着けて家を飛び出す。
しかし外に出てみれば、“森大蜥蜴”の来襲ではないようだった。
見れば村の入口のキャンプに、一台の荷馬車が停まっている。
あれはコーンウェル商会の……!
御者台には、数日前に知り合った護衛・オルランドの姿があった。
想像以上に早い到着だな!
ピウッと口笛を吹くアイリーン。
囮の山羊も積んでるはずだ。これは助かる―
ケイも満足げに頷いたが、
ケイさーん!!!
荷台に見覚えのある顔があって、目が点になった。
やった!! どうやら間に合ったようですね!! 世紀の大物狩りに!!
竪琴を片手に大感動している吟遊詩人。
―これで僕も伝説の目撃者になれるッッ!
なぜかコーンウェル商会の馬車に、ホアキンが同乗してきていた。
サスケ ケイにファンだって
スズカ あなたのファンはいるのかしらね
サスケ そりゃいるよ。…………いるよね?
95. 伝説
前回のあらすじ
サスケ イカれたメンバーを紹介するぜ!
スキンヘッドであり断じてハゲじゃない! 森歩きの達人キリアン!
ケイの大ファン、シャイ系ゴリラ投槍マン! ゴーダンんん!!
やたらイケメン! 爽やか用心棒のロドルフォぉぉぉ!
あとなんか商会の馬車にひっついてきた吟遊詩人
以上だ!!
ホアキン なんか僕の扱い雑すぎません?
ホアキン! なんでこんなところに―って聞くまでもないか
伝説の目撃者とやらになるためだろう。
ケイさん! 本当に間に合ってよかったです!
荷馬車から飛び降りて駆け寄ってきたホアキンは、聖地へ巡礼に訪れた信者のような、感動した面持ちで村を見つめた。
素晴らしい……ここが伝説の舞台になるわけですね……! おお―
ホアキン、悪いが話はあとだ
そのまま一曲吟じかねないテンションのホアキンを、ケイは押し止める。
今日ぐらいからぼちぼちヤバいんだ、“森大蜥蜴”が出てくるかもしれん。仕上げに色々と準備することがあるから、話は作業しながら聞かせてくれ
わ、わかりました
流石に邪魔する気はないらしく、ホアキンは素直に頷いた。
荷馬車の護衛・オルランドと話し、商会からの物資を受け取る。
健康な山羊が五頭、医薬品や食料、そしてショベルやツルハシといった道具類。
人手はあっても道具が不足していた現状、少しでも土木作業を進めておきたいケイたちにとって、物資の到着は福音だった。
エリドア! 道具の分配と落とし穴は任せるぞ!
わかった!
新品のショベルを片手に、緊張気味のエリドアが頷く。
他の者は、作業でわからんところがあったら村長のエリドアに聞け!
了解ー!
村人や人足たちが各々の持ち場に散っていく。みな、日が昇って気温が上がると”森大蜥蜴”襲来の可能性が高まるとのことで、早めに作業を終わらせてしまおうと必死だった。
襲来の可能性があるのにそれでも逃げ出さないのは、森のすぐ近くに哀れな山羊たちが繋がれていて、 あいつらが先に喰われるから大丈夫だ という安心感があるからだろう。
メェ~~~
雲行きが怪しいことを察しているのか、不安げに鳴く山羊たちを尻目に、ケイは落とし穴に目印の小さな旗を立てていた。
おい、サスケ。よく見ておけ
サスケの手綱を引いて、旗を見せておく。 なにこれ? とばかりにしげしげと覗き込むサスケ。
これは落とし穴だ
ぶるるっ
……その、彼(サスケ)は言葉がわかるんですか?
黙って作業を見守っていたホアキンだが、思わずといった様子で尋ねてくる。
いや、流石に全部わからないと思うが、コイツは賢いからな
ぶるるっ!
サスケ、この木の枝の部分をちょっと踏んでみろ
くいくい、とケイは再び手綱を引き、地面の落とし穴のフタを指し示す。サスケが前脚を伸ばし、ズボッ! と勢いよく踏み込んで転びそうになった。
ぶるふぉォ!
おっとと! ちょっとって言っただろ!
なんじゃこりゃぁと目を剥くサスケ、慌てて体を支えるケイ、 賢い……? と疑惑の目を向けるホアキン。
まあ、これでお前もわかっただろう。これが落とし穴だ。この旗と木の枝っぽいフタが目印だからな、踏まないよう気をつけろよ
ケイがそう言うと、キョロキョロと周囲を見回したサスケは、 え、これぜんぶ落とし穴なの……? こわ……近寄らんどこ…… とばかりに落ち着きなく足踏みし、ケイに寄り添ってきた。
これでよし
戦闘中は”森大蜥蜴”に集中することになるので、ケイがいちいちサスケに指示を出す暇がない。サスケには自発的に落とし穴を避けてもらう必要があるのだ。今の一幕で落とし穴のヤバさは体感できただろうし、サスケも迂闊に踏み込まないはず。
警戒に戻るかな
とりあえず作業らしい作業は終わった。ケイがやるべきことは、いつ”森大蜥蜴”が出てきてもいいように警戒するだけだ。
穴掘りに従事する村人たちに囲まれながら、自分は何もしないのは少し居心地が悪いが、昨日と違って今日は無駄に体力を消耗するわけにはいかなかった。もっとも、周囲の人間は誰もそんなことを気にしていなかったが……
急げー!
さっさと終わらせるぞー!
とっとと持ち場の作業を終わらせて退避することしか頭にないようだ。
しかしケイさん、こんな落とし穴が”森大蜥蜴”に通用するものなんですか?
ああ、これはな―
休憩タイムに移ったと判断したのか、ホアキンが話しかけてくる。ケイは昨日したように、この罠の有効性を説明した。
はは~~~なるほど、参考になりますねえ!
感心して頷いたホアキンは、目をぱちぱちと瞬かせながら、空を見上げて何やら呟いていた。ケイが話した内容を復唱して完璧に記憶しようとしているらしい。吟遊詩人は見聞きした物語を咀嚼し、アレンジして歌い上げる。当然、記憶力も良くなければ務まらないのだろう。
ホアキンも物好きだな、今回は流石に危険だぞ
それでも見たかったんですよ、だって”森大蜥蜴”ですよ? しかも”大熊殺し”がその討伐に赴いた―これで血が騒がなかったら吟遊詩人失格ですよ
その割には、他に吟遊詩人の姿はないようだが?
わざわざ現場まで出向くのはホアキンくらいのものではないか。
いや、僕はたまたま、コーンウェル商会で今回の一件を小耳に挟んだんですよ。幸運でした……ケイさんたちは既に旅立ったとのことで、同業者に教える暇もなくそのまま追いかけてきたわけです
ひょいと肩を竦めるホアキン。
どうやらロクに準備も整えず、街道をひたすら北に走ってきたらしい。その道中でオルランド率いる商会の馬車に追いつき、頼み込んで同乗させてもらったそうだ。
よく追いついたな……
この男、武芸の心得はないが、身一つで各地を渡り歩いているだけあってかなりの健脚だ。騎馬よりは遥かに低速とはいえ、先行した馬車に追いつくとはどれほどの速さで駆けたのか。
まあでも、今頃はサティナの街でも話が広まってるでしょうし。吟遊詩人たちがこぞってヴァーク村を目指してきているかもしれませんよ?
―ドドドドドと土煙を巻き上げながら、竪琴を手にした吟遊詩人たちが大挙して押し寄せる光景を想像し、思わずケイは笑ってしまった。
彼らが間に合えばいいんだがな
おや。見世物になるのはあまりお好きじゃないかと思ってましたが
ケイの一言に、ホアキンが意外そうな顔をする。
彼らが間に合うということは、まだしばらく”森大蜥蜴”が出てこないってことだからな。俺だって戦いたくてたまらないわけじゃないんだ
これだけ迎撃準備を整えておいてなんだが、何かの間違いで”森大蜥蜴”が 深部(アビス) に引き返すなら、それはそれでアリだと思っているほどだ。
まあ、おそらく今回の個体は、 深部 の境界線の変動により本来の縄張りを失って移動を余儀なくされたのだろうから、引き返す目算は低かったが……。
なるほど、そういうものですか……“森大蜥蜴”を狩るためではなく、あくまで村を守るために義によって立ち上がった、と。そういうわけですね……
うんうんと頷くホアキン。着々とストーリーが練り上げられているようだ。
噂によると、魔法の矢も用意されているとか
ああ。“流浪の魔術師”殿にお願いしたよ
流石の人脈ですね……! まさか”呪われし姫君”に加え、“流浪の魔術師”とまでお知り合いだったとは思いませんでしたが。こうしてみると最近この辺りで流行っている歌、全てケイさんたちが関わってますね?
言われてみれば、確かにそうだな……
サティナの正義の魔女。大熊殺し。流浪の魔術師と呪われし姫君の物語。
まさに英雄の星の下に生まれた、と……そんなケイさんと巡り会えたのが、僕の人生の最高の幸運かもしれません……
ポロロン……と竪琴を鳴らしながら、ホアキンは感じ入っている。必死に穴を掘る村人たちが なんでコイツこんなに暢気なんだ…… と別種族を見るような目を向けていた。ケイやアイリーンでさえある程度緊張しているというのに、肝が据わりすぎている……
ところで今回、ケイさんとアイリーンさんの御二方で戦うつもりなのですか? 荷馬車の護衛の方たちは―
ホアキンは村の方をチラッと見やった。
―あくまで”荷馬車の護衛”で、参加されないそうですけど
護衛のオルランドたちは、今も任務に忠実に、村の入り口の探索者キャンプで荷馬車を”護衛”している。“森大蜥蜴”が出現すれば、荷馬車を守るために速やかに退避するだろう。元からそういう契約なのでケイとしては特に言うこともない。
いや、流石にアイリーンと俺だけじゃあな。何人か協力者もいるぞ
ケイは、各所で武器を手に警戒する四人を示した。
あの羽飾りのついた帽子をかぶっているのが、マンデル。タアフ村から来た狩人だ。あっちのクロスボウ使いはキリアン。かなり腕利きで森歩きを生業にしているらしい。んで、あの大男がゴーダン。投槍の名手だ。そしてあの美丈夫はロドルフォ、流れの用心棒だ。四人とも、“森大蜥蜴”狩りで戦闘要員として雇った
タアフ村……マンデル……ひょっとすると”十人長”のマンデルですか? 確か武闘大会の射的部門でも活躍されてましたよね
詳しいな。そのマンデルだ
ほほう!! 皆さん、お話を伺っても?
本人がいいと言うなら、もちろん構わないぞ
それではちょっと聞いてきます!
マントを翻して、ホアキンがダッと駆け出した。とりあえず一番手近なゴーダンに話を聞きに行ったようだ。
初めまして! あの、僕、吟遊詩人のホアキンっていうんですが―!
あ、ああ……
よろしければ、今回の大物狩りへの意気込みなど―!
そ、それは……その……
なぜ参加されようと思ったんですか!? 危険極まりない大物狩りに!
やはりケイの存在が大きい俺がケイを初めて知ったのは酒場で”大熊殺し”の噂を小耳に挟んだときだ最初は半信半疑だったがウルヴァーンで開催された武闘大会の射的部門を観戦していた俺は―
最初はしどろもどろだったが、突然早口で語り始めるゴーダン。ケイがいかに武勇に優れているか、賞賛の言葉が風に流れて聞こえてきて、ケイはひどくこっ恥ずかしい気持ちになった。
なるほど……! ケイさんの義勇に感化されたと……!
ホアキンは逐一相槌を打ちながら耳を傾け、 英雄への憧れ、実にいい……! などと呟きながらぱちぱち目を瞬いて空を見上げていた。
ゴーダンから話を聞き終えたホアキンは、マンデルやキリアンにも積極的に話しかけていく。キリアンはどうやらホアキンが苦手だったらしく、それを察したホアキンが早めに話を切り上げていた。逆に、マンデルとはケイの話題で盛り上がったようだ。
最後にロドルフォ。
初めまして! ホアキンです― ¿Eres del mar?
Sí! ¿Tú también?
ニカッ! と白い歯を輝かせて笑うロドルフォ。
どうやら二人とも”海原の民(エスパニャ)“の末裔のようだ。
Hola soy Rodolfo!
¡Oh, mucho mejor! Entonces, me gustaría saber por qué decidiste participar en esta cacería―
De hecho, me voy a casar con una mujer pronto … por eso necesito un poco de dinero…
何やら話が弾んでいる。ケイもスペイン語は少しかじっているのだが、流石にネイティブの速さというべきか、何を言っているかはさっぱりだった。ただ、ホアキンがこの狩りに参加した理由諸々を尋ねていることだけは、なんとなくわかった。
(登場人物たちのバックストーリー掘り下げに余念がないな……)
これまで色々と付き合いのあったホアキンだが、ケイは彼の本質を完全には理解できていなかったようだ。
骨の髄まで吟遊詩人。まさか、ここまで徹底していたとは―
―ん
アイリーンがぴくりと森を見やった。
―静かだ。
いつの間にか。
鳥たちのさえずりも、何も聞こえない。
全てが息を潜めている。
まるで、何か、とてつもなく巨大な脅威を。
やり過ごそうとしているかのように―
メェ~~~!
メ~~~~ェ!
メェ~~~~!
繋がれた山羊たちが、狂ったように騒ぎ出した。首に巻かれたロープを引き千切る勢いで、必死に逃げ出そうとしている。つんざくような悲惨な鳴き声に、止まっていた時が再び動き出す。
退避!
ケイが短く叫ぶと、固まっていた村人や人足たちが、一目散に逃げ出した。
合言葉!
! オービーヌ !
オービーヌ ッ!
マンデルとロドルフォが叫び返す。
ホアキン、お前も戻れ!
ケイに命じられ、ホアキンが弾かれたように走り出す。チラチラと背後を振り返りながら。こんなときまで、“森大蜥蜴”の登場を見逃すまいとするかのように。
だが、もはや吟遊詩人に居場所はない。
舞台に立つ役者は―
ケイたちだ。
ズンッ、と森の奥で何かが動いた。
木々が、茂みが、ざわめく。
―ぬるり、と。
木々の隙間を縫うように、青緑の巨体が姿を現した。
でけえ……
呆れたようなゴーダンの呟き。
グルルル……と遠雷のような音が響く。
それは地を這う竜の唸り声だった。
チロチロ、と細長い舌を出し入れしながら、“森大蜥蜴”が睨めつける。
いや、ただ餌の場所を確認しただけだ。
とりあえず手近なお(・)や(・)つ(・)にかじりつく。
メェ~~~~!
最期まで悲惨に、そして呆気なく。
パキッ、ポキッと捕食されていく。
ケイはその隙に、サスケに飛び乗った。
“竜鱗通し”を構える。“氷の矢”を引き抜く。
来るぞッ! 予定通りありったけ矢をブチ込め!
そして弦を引き絞り―
ズズンッ、と再び森が揺れた。
―は?
誰かの、呆気に取られたような声。
眼前の”森大蜥蜴”の背後に―揺らめく影。
ぬるり、と。
木々の隙間を縫うようにして、《《もうひとつ》》巨体が這い出してきた。
隣り合った二頭の竜は、お互いの頭を擦り付けるようにして。
ゴロゴロゴロ……と遠雷のような唸り声。
―愛情表現の一種。
ケイの知識が、場違いなまでに冷静に、それが何かを告げてくる。
つがい……?
冗談だろ……というアイリーンのつぶやきが、やけに大きく響いた。
そして存分に、仲睦まじさを見せつけた二頭の竜は。
グルルル……
だらだらと口の端から涎を垂れ流し。
―ルルロロロロォァァァ―!!
ケイたちに狙いを定め、咆哮する。
―ここに、伝説の狩りが幕を開けた。
96. 死線
―無理だ。
地響きを立てて迫る二頭の巨竜に、ゴーダンはすくみ上がった。
常人が心折れるには、充分すぎる光景だった。
グルロロロロォォ―ォ!!
雷鳴のごとき咆哮に打ちのめされ、身体が強張って動かない。
はるか格上の捕食者を前に本能が告げる。
―なりふり構わず逃げ出せ、と。
う、ぁ……
息が詰まる。腰が引ける。後ずさる。
Aubine !
だがそこで、凛とした声が響いた。
思わず振り返る。
ケイだ。
馬上で朱(あか)い複合弓を構え、ぎりぎりと弦を引き絞っている。“氷の矢”に込められた精霊の力が目覚め、青い光が溢れ出していた。
―解き放つ。
カァン! と唐竹を割るような快音。かつて武闘大会で、ゴーダンを魅了したあの音が高らかに響き渡った。
青き燐光を散らす、一条の流星と化した魔法の矢―それは吸い込まれるように”森大蜥蜴”の鼻先へと突き立った。
グルロロロロォ―ッ!?
予期せぬ痛みにたじろぐ”森大蜥蜴”。矢を中心に、青緑の皮膚にパキパキと霜が降りていく。凍傷の激痛もさることながら、冷気がピット器官を麻痺させる。これで熱探知の能力も使い物にならない。
Aubine !
すかさず二の矢をつがえるケイ。狙うはもう一頭の”森大蜥蜴”。最初の個体より小柄だ、おそらくこちらが雌か。
快音再び。
青き流星が空を穿つ。
雌竜の前脚に氷の矢が突き立ち、凍傷で動きを鈍らせた。
効くぞ! 魔法の矢は!
ケイが叫ぶ。
たったの二射で巨大な怪物の突進を止めた、稀代の英雄が。
臆するな! 確かに手間は増えたが―
少し強張った顔で、それでもニヤリと笑ってみせる。
―その分、名誉も報酬も二倍だ! 狩るぞッ!!
つがえる魔法の矢。
Aubine ッ!
まるで流星群のように、青く煌めく矢の雨が降り注ぐ。
グルロロロロロロォ―ッ!!
顔が、脚が、穿たれ凍てつく痛みに、“森大蜥蜴”たちがじりじりと後退る。
……行けるぞ!
うおおおおッ!
マンデルとロドルフォも”氷の矢”をつがえ、 オービーヌ! と合言葉(キーワード)を叫び、次々に放った。
青い光を灯した矢が”森大蜥蜴”の横腹に突き刺さり、凍りつかせていく。
さらにキリアンもクロスボウを構え、毒の矢弾(ボルト)を打ち込んでいた。
(そうか……俺も……)
ゴーダンは、気づく。
己もまた、英雄譚の一員であることに。
(このまま……何もせずに……)
―終われるものか。
背中に担いだ槍を引き抜く。
震える手で投槍器(アトラトル)を構える。
おお―
臆するな。
おおおおッ!!
狙え、そして穿て。
おおおおおおお―ッッ!
雄叫びを上げたゴーダンは、投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。
踏み込む。
全身をバネにして、持てる力を注ぎ込む。
ぶぉん、と投槍器(アトラトル)が唸りを上げた。
美しい放物線を描いた投槍は、無防備な”森大蜥蜴”の横腹に食らいつく。
そしてキリアン特製の毒をたっぷりと塗り込んだ穂先は、青緑の皮膚に深々と突き刺さるのだった。
†††
グルロロロロロロォ―ッ!?
横腹に槍がぶっ刺さり、絶叫する”森大蜥蜴”。大柄な体格から、おそらくこちらが雄の個体だろう。
いいぞ、ゴーダン!
横合いから痛撃をお見舞いしたゴーダンに、ケイは快哉を叫ぶ。
“氷の矢”の大盤振る舞いで”森大蜥蜴”たちがたじろぎ、突進を止められたのは幸いだった。お陰で戦線が―そう呼べるかは、人数が少なすぎて疑問だが―かろうじて維持されている。ここでゴーダンたちに逃げられたら、勝ち目がさらに薄くなるところだった。
(―しかし、まずいな)
その実、状況は芳しくなかった。
『矢継ぎ早』とはまさにこのこと。“森大蜥蜴”の目を狙って次々に矢を放ちながらも、ケイは冷めた思考で戦局を俯瞰している。
まず、想定よりも多く”氷の矢”を浪(・)費(・)してしまった。ケイは正面から、“森大蜥蜴”の顔面や脚部に命中させたが、あれは本来、アイリーンが注意を引いている間に横合いから胴体に打ち込むべきものだった。
そうすることでより効率的に体温を下げ、機動力を奪う狙いがあったのだ。
翻って顔面は効果が薄い。“森大蜥蜴”の頭蓋骨は分厚く、皮膚の下にもウロコ状の『骨状組織の鎧』があるため非常に堅牢で、ほとんどダメージが通らないのだ。それこそ目や、額に一箇所だけ存在する光感細胞が密集した部分―通称『第三の目』―を狙わない限りは。
そして今こそ、未知の痛みで”森大蜥蜴”たちも怯んでくれているが、まもなくそれは狂気的な怒りで塗り潰され、多少の痛みは歯牙にかけなくなるだろう。ゲーム時代から身にしみている”森大蜥蜴”の習性、一度(ひとたび)怒りに火が付けば、文字通り死ぬまで止まらない。
そう、ケイたちは”森大蜥蜴”を『圧(お)して』いるように見えるが、実際は、ただ”森大蜥蜴”が こんな痛み知らない! とビビっているだけなのだ。生命に関わるような打撃は与えられていない。それこそゴーダンが腹にぶっ刺した槍くらいのものか。
あの大型トラックのような巨体が『暴走』すれば―いったい、何人が犠牲になることか。
ちら、と果敢に攻撃を続けるゴーダンたちを見やる。
マンデルとロドルフォは”氷の矢”を使い果たし、今は普通の矢で顔に集中砲火を浴びせている。キリアンはクロスボウでの狙撃。同じく目を狙っているようだ。だが、上下左右に動き回る頭部で、さらに小さな目を射抜くのは容易ではなく、よしんば目の付近に命中しても、強靭な皮膚と頭蓋骨で弾かれる矢がほとんどだった。
ゴーダンはキリアンから毒壺の一つを借り受け、追加で穂先に塗布しているようだ。毒でてらてらと輝く槍を構え、慎重に投げるタイミングを見計らっている。矢と違って槍は残りの本数が少ない。
皆、必死だ。
犠牲は、抑えなければ。
―そのために最善を尽くす。
アイリーン!
矢を放ちながら、ケイはその名を呼んだ。
―小さい方の気を引いてくれ! デカいのは俺が引き受ける!
オーライ! 任せろ!
威勢よく答え、アイリーンが地を蹴った。
右手にサーベルを。左手に鞘を。それぞれ握って風のように駆ける。
オラッ、こっちだクソトカゲ!
そして、左手の鞘には大きなスカーフがくくりつけられていた。雌竜の前で派手に飛び跳ねながら、鞘を振り回すアイリーン。その姿はさながら闘牛士、ひらひらとたなびくスカーフが、否が応でも注意を引きつける。
ほれほれ! どうしたどうした!
それだけでは飽き足らず、無謀にも眼前で立ち止まりさらに挑発するアイリーン。右手のサーベルを日差しにかざし、太陽光を反射させる。
目の辺りにチカチカと、眩い光―
グロロロ……と喉を鳴らした雌竜が突如、グワッと大口を開けて喰らいついた。
なっ……
思わず、マンデルたちの攻撃の手も止まる。これまでのゆったりとした動きからは想像もつかないほど、俊敏な、目にも留まらぬ一撃。
よっ、と
しかし、アイリーンはそれを上回る機敏さで回避。どころか、ビシュッ、と右手のサーベルを閃かせ、チロチロと空気の匂いを嗅ぐ舌先を斬り飛ばした。
どちゃっ、と地に落ちたピンク色の舌が、蛇のようにのたうち回る。
グルロロォォォ―ッ!!
鋭い痛みに仰け反る雌竜。その目に、明らかに、狂気の光が宿った。頭から尻尾の先にまで、力がみなぎる。巨体が何倍にも膨れ上がるかのような錯覚。
―ロロロロガアアァァァァァッッ!!
咆哮。絶叫。空気がびりびりと震える。
そして猛進。土を蹴散らしながら、狂える竜がアイリーンに肉薄する。
―ッ!
ここに来て余裕はなく、アイリーンが全力で走り出す。追いつかれれば轢殺必至、命がけの鬼ごっこが始まった。
グロロ……
暴走し始めた雌竜につられ、雄竜もまた頭を巡らせる。
が、その右目の真下に、ズビシッと矢が突き立った。
おおっと、お前の相手は俺だ!
ケイは手綱を引く。サスケが後ろ足で立ち、いななきを上げた。
お互いカップル同士、仲良くやろうじゃないか! なあ!
デカいとはいえ所詮トカゲの脳みそ、ケイの言葉など理解できないだろう。
ただし―それが挑発であることだけは、伝わったに違いない。
グルロロロロ……
ケイを、そしてサスケを睨み、口の端から涎を垂れ流して、雄竜が唸る。すかさず目を狙ってケイが矢を放つも、即座に首を傾けた雄竜は側頭部で弾(・)い(・)た(・)。
ああ―こいつも確かに 深部(アビス) の怪物だ、と。
思わず舌打ちするケイ。ただでさえ上下左右に動いて狙いづらいのに、回避までされては―
―ロロログァアアアァァァァッッ!
そしてこちらもとうとう、怒りに火がついた。全身の筋肉を隆起させた雄竜が、狂ったように吼えたけりながら、猛烈な勢いで突進してくる。
サスケ!
ケイの叫びに応え、サスケが駆け始めた。振り向きざまに矢を放つ。ほとんど牽制にしかならないが、今は注意を引きつけることが重要だ。
雄竜のはるか後方では、アイリーンが円を描くようにして立ち回りながら、雌竜の攻撃を躱し続けているのが見える。噛みつきだけでなく、尻尾の薙ぎ払いや爪の一撃まで、当たれば即死の攻撃を紙一重で避けている。
ケイは、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
だが―今―この状況で―こんな感情をどうしろというのだ。
せめて援護を。ケイは、残数が心許なくなってきた”氷の矢”を、ためらいなく引き抜く。
揺れる馬上、それでも風を読み、慎重に狙いをつけ、
Aubine !
一条の青き閃光が、雄竜を飛び越えて空を切り裂いた。アイリーンを追う雌竜の横腹、前脚の付け根部分に見事着弾する。
アイリーンがちらりとこちらを見た。 ナイス とその口が動く。痛みからではなく、筋肉の収縮が阻害され、動きの鈍った雌竜を前に小休止。アイリーンはぜえぜえと肩で息をしていた。化け物を相手に鬼ごっこ。彼女の体力も無限ではない。
―一刻も早く、こちらを仕留める。
そらそら、どうしたァ!
続けざまに雄竜の顔面に矢の雨を見舞う。ぶおんぶおんと頭を振る雄竜、頭蓋骨と皮膚に阻まれ弾かれる矢。
雄竜に追いすがるようにして、マンデルたちが後方から矢を射掛けているが、効果抜群とは言えなさそうだ。ただでさえ強靭な皮膚を持つのに、遠ざかっているようでは相対的に矢の威力も減衰してしまう。
どうするか。一瞬、考えを巡らせたケイは、
―マンデル!
緩やかに、弧を描くようにサスケを走らせながら、“竜鱗通し”を構える。
お前にこれを譲る ! 受け取れ!
軽く弦を引き、カヒュカヒュッと続けざまに矢を放った。
突然、射掛けられたマンデルがギョッとして立ち止まる。その足元にトストスッと突き立つ矢。ハッとして引き抜けば、鏃部分に青い宝石が輝く。
“氷の矢”だ。
確かに受け取った! ……これはおれの矢だ!
マンデルは即座に意図を汲んだ。宣言するなり、“氷の矢”をつがえる。
オービーヌ !
ケイを追って側面を見せる”森大蜥蜴”へ、二連射。精確な射撃で見事、“氷の矢”を命中させる。その隣で、自分には何もなかったことにロドルフォが一瞬悔しげな表情を見せたが、気を取り直して援護射撃を続けた。
グロロロロォォ―ッッ!
胴体を二箇所、さらに凍てつかされ雄竜が咆哮する。本来ならば冷気で動きが鈍るところ、むしろ怒りを燃やしてさらに突進の勢いを増す雄竜。
だが、今はそれでもいい。
激しく揺れる馬上で、ケイは獰猛に笑う。
今やオリンピックの馬術競技のように、サスケは複雑な動きで蛇行している。
―周囲が『旗』だらけだからだ。
狙い通り、このエリアに誘い込むことができた。
果たして、怒り狂う”森大蜥蜴”は、不自然な木の枝や旗に一切頓着することなく、そのまま最高速で突っ込んでくる。
―グロロガァッ!?
太い前脚で落とし穴を踏み抜き、素っ頓狂な声を上げる雄竜。
四脚ゆえに転びはしないが、顔からつんのめるようにして地面に腹を擦り、盛大に土砂を撒き散らして速度を失う。
―今だ! サスケ!
サスケの腹を蹴り、全力で駆けさせる。慌てる雄竜が体勢を立て直す前に、側面へ回り込む。矢筒から引き抜いたのは、かつて”大熊”を一撃で絶命させた必殺の一矢、青い矢羽の『長矢』―
ケイの肩の筋肉が盛り上がる。“竜鱗通し”の弦を、耳元まで引き絞る。
一点、“森大蜥蜴”の胸元を睨んだ。肺と心臓と大動脈、重要な器官が全て一直線に並ぶ、その箇所を―
―喰らえ
カァンッ! と一際大きく響き渡る快音。
銀色の閃光が、雄竜の胸に突き刺さる。深く、深く―
が、突然、バキャッという音とともに矢が砕け散った。雄竜の胸部の肉が波(・)打(・)っ(・)た(・)ようにも見える。
―肋骨か!
分厚い皮膚と筋肉の下、肋骨にぶち当たったらしい。心臓は撃ち抜けなかったが、音からして骨はへし折れたはず。破片が肺に刺されば、いかに”森大蜥蜴”といえどもただでは済まされない。
……援護を!
さらに、マンデルたちも追撃する。ロドルフォが連射し、キリアンが狙撃し、ゴーダンが毒を塗りたくった投槍を見舞う。
Siv !
ケイも自前の魔法の矢を取り出した。エメラルドがはめ込まれた”爆裂矢”―爆発の威力はそれなりで名前負けもいいとこだが、体内に食い込んだ鏃が破裂すれば相応の出血を強いられる。
それを、連続して打ち込む。
風をまとった矢が胴体に潜り込み、バンッバァンッ! と炸裂する。大きく開いた傷口から血肉が飛び散り、雄竜が絶叫した。
いいぞ! 畳みかけろ!
続いて、サスケの鞍にくくりつけた大型の矢筒から、筒状に穴が空いた太矢を取り出す。木工職人のモンタンが趣味で開発した、対大型獣用の出血矢だ。
コヒュンッ! と独特の音を立てて飛んだ出血矢が、青緑の肌を食い破って突き刺さる。矢尻の穴から、まるで蛇口のように、どぽっどぽっと鮮血が溢れ出した。“森大蜥蜴”の図体に比べればささやかな量、しかし確実に命を削り取る出血―
うおおおおお―ッッ!
ゴーダンが再び槍を投じる。三本目だ。首付近に突き立ち、肉を溶かす毒が筋肉を痙攣させる。
グルロロロアァァァ……ッ
流石に堪えたか、これまでより情けない声で鳴く雄竜。先ほどマンデルに打ち込まれた”氷の矢”もボディーブローのように効いてきたらしく、動きにキレがない。
このまま仕留められる―
ケイたちはさらに攻勢を強める。
が。
―ッッ!!
その瞬間、筆舌に尽くしがたい爆音が耳朶を打った。
くらっ、と目眩に襲われて、少ししてから、その正体に気づく。
咆哮だ。
見れば、アイリーンが引きつけていたはずの雌竜が、凄まじい勢いでこちらに向かってきている。伴侶が危機に陥っていることに気づき、血相を変えて駆けつけようとしているのだ。
(アイリーンはどうした……!?)
ケイもまた、愛する彼女の姿がないことに、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われる。しかしよくよく見れば、雌竜を背後から必死で追いかけるアイリーンの姿があった。
無事だ。アイリーンは無事だ。
しかし安心している暇はない。一度、“森大蜥蜴”の注意が別のものに強く向いてしまえば、アイリーンはその敵意(ヘイト)を奪い返す手段を持たない。
―逃げろッ!
ケイは叫んだ。このままではマンデルたちが背後から襲われる。雌竜の接近に気づいた彼らも、泡を食って距離を取ろうとしているが、間に合わない。自分が前に出て引きつけるしかない。だが雄竜はどうする。深手は負わせたが、まだ絶命するほどではない―
グロロロ……ルロロロォァアアアアアッッ!
ケイたちの動揺を感じ取ったか。あるいは、相方の声に勇気づけられたか。
雄竜もまた、戦意を取り戻す。満身創痍の身体に、再び怒りと狂気を宿す。
グロガアァァァアアアアア―ッッ!
その巨体を振り回し、尻尾を薙ぎ払った。
地表がめくれ上がり、土砂が撒き散らされる。
土や砂だけならいいが、地中の石ころも凄まじい勢いで弾き飛ばされていた。マンデルたちの叫びがかすかに聞こえ、ケイの視界にもズッと黒い影が差す。
まず―ッ
土に紛れて、木の切り株が飛んできていた。
咄嗟に矢を放つ。ビシィッ、と命中した矢が衝撃のあまり砕け、切り株の軌道も僅かに逸れる。風の唸りを耳元に感じながら、間一髪のところで回避した。
マンデル―ッ! 無事か―ッ!?
ぱらぱらと降り注ぐ土砂を振り払い、サスケを駆けさせながらケイは叫ぶ。
なんとか……!
返事があった。土煙が晴れてみればごっそりと辺り一帯が掘り返されている。苦労して掘った落とし穴も、丸ごとえぐられるか土で埋め戻されるかのどちらかで、最早何の役にも立たない。
ロロロロ……という唸り声が響いた。
ぞわっ、と背筋に悪寒が走る。
サスケ!
ぐいっ、と手綱を引く。サスケがまるでカモシカのように跳ねる。
ガチンッ、という死神の鎌の音が背後から聞こえた。あるいは地獄の門が閉じる音か。生臭い息を感じるほどの至近、いつの間にか距離を詰めていた雄竜が噛みつこうとしていたのだ。
ロロロ……ッッ!
真っ黒な目、視線と視線がぶつかり合う。
馬鹿め
惜しかったな、という称賛と、よくぞここまで近づいたな、という歓喜が混じり合い、ケイはそんな言葉を吐いた。
Dodge this(避けてみろ)
この距離。流石に外さない。
目にも留まらぬ一撃は”森大蜥蜴”の専売特許ではない。素早く”竜鱗通し”を構えたケイは、快音、いとも容易く左目を射抜いた。
グルガアアアアァァ―ッ!
激痛と視覚の喪失に、絶叫した雄竜が闇雲に暴れ回る。これだけ矢を射てようやく抜いたか、という疲労感。折角なら”氷の矢”をブチ込んでやればよかった、と今さらのように思ったが、時既に遅し。
いい加減、くたばれ……ッッ!
首元や胴体に、長矢をブチ込む。ここまで連続して”竜鱗通し”を使ったのは馬賊と戦って以来だ、腕の筋肉が引きつったような感覚がある。早くケリをつけなければ、そろそろ雌竜もこちらに来るはず。
―は?
そう思って、チラッと視線を向けたケイは、唖然とすることになった。
伴侶の危機に怒り狂い、猛進する雌竜。
その進行方向に、立ちはだかる者がいたからだ。
右手に携える投槍器(アトラトル)―
何をやっている、ゴーダン!?
臨戦態勢で投槍を構えているのは、ゴーダンだった。
風の精霊よッ! ご照覧あれッ!
地響きを立てて迫る巨竜を前に、ゴーダンは叫ぶ。
俺の槍は―!
投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。
狙いを違わず―!
全身をバネにして、持てる力を全て注ぎ込む。
突き刺さるんだぁ―ッッ!
投じた。
真正面から、唸りを上げて槍は飛ぶ。
激しく首を振り、突き進む竜めがけて。
それは芸術的なまでに美しい放物線を描き―
“森大蜥蜴”の額。
『第三の目』と呼ばれる、最も脆い部分を貫いた。
―ルロロロロァァァァァァッッ!
ビクンッ、と体を震わせ雌竜が絶叫した。
わずかにたたらを踏み、速度が減じる。
そして突進の方向も少しだけ逸れた。
ゴーダンッ!
だからケイが間に合った。
自らがもたらした一撃に茫然自失していたゴーダンを、襲歩(ギャロップ)の勢いもそのままに、馬上から蹴り飛ばす。
グがっ
悲鳴にもならない声を上げ、吹っ飛ばされて地面を転がるゴーダン。その目と鼻の先を雌竜の巨体が過ぎ去っていく。まるで列車が通過したかのような風圧、あのまま突進を食らっていればゴーダンは挽き肉になっていただろう。
すまん、許せ!
しかし騎馬の突撃の勢いで蹴り飛ばされれば、無傷では済まされない。衝撃と痛みでゴーダンは悶え苦しんでいる。ケイも、ゴーダンがせめてもう少し小柄なら、馬上に引き上げるなり引きずって走るなり、もっとやりようもあったのだが。
流石に大柄すぎて、このような手段を取るしかなかった。
立てるか!?
ど、どうにか……
村の方に逃げろ! もう槍は使い切っただろ!
まさしく奇跡的な一撃だったが、あれが最後の槍のはずだ。
わ、わかった……
よろよろと立ち上がったゴーダンが、頼りない足取りで村の方へ逃げていく。
ゴーダン! 見事な一撃だった! あとは俺に任せろ!!
その背中に声をかけると、チラッと振り返ったゴーダンは、この上なく誇らしげな顔をしていた。
微笑み返してから、ケイは改めて、二頭の巨竜に向き直る。
ちょうど、頭を振って額の槍を振り落とそうとする雌竜に、満身創痍の雄竜が寄り添うところだった。
舌を伸ばし、額に突き刺さった槍をどうにか抜き取る雄竜。
毒の痛みが酷いのか、雄竜に頭を擦り付けながらぶるぶると体を震わせる雌竜。
二頭の、憎悪のこもった視線が、ケイに突き刺さった。
ぶるるっ、とサスケが鼻を鳴らす。
ケイも、背中にじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
それほどまでに、凄まじいプレッシャーを感じる。
もはやケイとサスケ以外、眼中にないといった雰囲気だ。
槍はゴーダンの仕業なんだがな……
そう呟くも、通じるはずもなく。
横目で見れば、ゴーダンは無事に村の方へと逃げおおせたようだ。ゴーダンが目をつけられるよりかは、まだ自分に敵意(ヘイト)が向いている方がいい。ずっとマシだ。
さて……ケリをつけようか
腰から長矢を引き抜く。
つがえる。引き絞る。放つ。
何千、何万回と繰り返した動作。
カァンッ! という高らかな快音が均衡を打ち破り、再び、死力を尽くす闘いが始まった。
†††
みんな! 無事か!
汗だくになったアイリーンは、マンデルたちの元へ駆けつけた。
尻尾の薙ぎ払いにやられ、全員、土まみれのひどい格好だ。
無事だ、……おれは、どうにか
俺もだ! しかし、クソッ、ほとんど何もできていない!
言葉少なにマンデル、歯噛みするロドルフォ。
アッシは、情けねえ話、ですが、ちと骨をやっちまいまして……
キリアンが胸を押さえながら、苦しげに呻く。どうやら薙ぎ払いで飛ばされた石塊か何かが直撃してしまったらしい。
しかし……これ以上、おれたちは何をすればいいんだ
マンデルは無力感に苛まれているようだった。
その視線の先では、サスケを駆るケイが二頭の竜に追いかけ回されている。ケイは”氷の矢”や長矢で脚部に集中砲火を浴びせ、“森大蜥蜴”たちの機動力を削り取りながら、挟み撃ちにされないよう巧みに立ち回っているようだ。
雄の方は、たぶん時間の問題だ。そのうち力尽きると思う。問題は雌の方だな、額に槍がぶっ刺さったのはかなりキ(・)く(・)だろうが、致命傷にはほど遠い
アイリーンは、ケイの危機にジリジリとした焦燥感を覚えながらも、冷静に言葉を紡ぐ。
で、だ。オレに考えがある
すぐに援護に向かわず、こちらに戻ってきたのは、そのためだ。
キリアンの旦那、例の毒はまだあるか?
へ? そりゃ、ありやすが……
痛みで顔をしかめながら、キリアンが腰のポーチから小さな壺を取り出す。厳重に布でくるんでいたお陰か、衝撃で割れずに済んだようだ。
よし。ありったけくれ
これが目当てだった。率直に求める。
あの雌トカゲをブッ殺す
アイリーンの目は、完全に据わっていた。
97. 果敢
アイリーンは、しゃらりとサーベルを抜き放つ。
そしてキリアンから受け取った毒壺を傾け、どろどろとした黒い毒を全て鞘の中に流し込んだ。
コイツを、
ぱちん、とサーベルを鞘に戻し、しゃかしゃかと振り回すアイリーン。毒液を刃によく馴染ませる。
―アイツの目ン玉にブチ込んでやる
アイリーンの得物はサーベルと投げナイフだ。こんなちっぽけな武器で”森大蜥蜴”に致命傷を与えるには、それこそ眼球のような弱点を狙うしかない。無論、暴れる”森大蜥蜴”に接近戦を挑むなど、無謀以外の何物でもないが―
目を狙う、か……俺もやる、やってやるぜ
唸るようにしてロドルフォも言う。
ちらっと横目で見やるのは、村の方だ。自分たちが必死で戦っているというのに、物陰からこちらを覗き見る野次馬の姿がちらほらあった。なまじケイたちが善戦していたために、好奇心が恐怖を上回ってしまったらしい。
それは固唾を呑んで見守る村人たちであったり、探索者たちであったり、伝説を見逃すまいと目を血走らせたホアキンであったり。正直、村の未来がかかっている住民たちは仕方ないとしても、物見遊山な探索者たちの目は煩わしく感じられた。
―なぜ煩わしく感じられるのか?
決まっている。大して何もできていないからだ。
衆目にさらされる無力な自分が、我慢ならないのだ。
このまま引き下がれるかってんだ……!
ロドルフォは歯噛みする。自他ともに認める自信家で(・)あ(・)っ(・)た(・)ロドルフォは今、その自尊心を著しく傷つけられていた。
本当に何もできていない。
栄誉を求め意気揚々と参加した”森大蜥蜴”討伐だが、蓋を開けてみればペチペチと遠巻きに矢を射掛けただけ。魔法の矢はケイからの貰い物、自らの矢は”森大蜥蜴”の強靭な皮膚に歯が立たず弾き返された。
無力感に苛まれているのはマンデルも同じだが、彼はまだ、ケイに頼られている。ケイから魔法の矢のキラーパスを受けて、それでも慌てることなく命中させしっかりと仕事をこなしている。
だがロドルフォには何もなかった―弓の腕前が信用ならないからだ。ケイはロドルフォを頼らなかった。弓の命中率の低さは自覚しているものの、それでも、やはり屈辱ではあった。
加えて、ゴーダンの蛮勇だ。突進する”森大蜥蜴”の前に立ちふさがり、見事、額の弱点に槍でぶち抜いた―まるで英雄譚の一節ではないか。
それにひきかえ、自分は……。
この大物狩りの舞台で、主役を張ろうなどとは思っていない。だがせめて名のある脇役にはなりたい。そのためには、多少の無茶もしよう。ここで退いては男がすたるというものだ。
ロドルフォはまだ、己の可能性を信じていた。
それに命を賭す価値があるとも。
……おれもやろう
と、重々しく、マンデルも頷いた。
それは一種の義務感から出た言葉だった。ケイを助けねば―タアフ村まで助力を請いに来た、彼の期待に応えねばという思い。マンデルはロドルフォほど楽天的ではなく、死の香りを感じ取っていた。家で帰りを待つ娘たちの顔が脳裏をよぎる。
それでも。
それでもなお、ケイの力にならねば―と。
そんな気持ちに駆られていた。
助かるぜ
ニヤッとアイリーンは笑みを浮かべる。しかし、二頭の”森大蜥蜴”を翻弄しながらも、疲労の色が濃いケイとサスケを見やり、すぐに顔を引き締めた。
アッシも、お力になれりゃよかったんですが……
胸のあたりを押さえながら、苦しげに呻くキリアン。“森大蜥蜴”の尻尾の薙ぎ払いで石か何かが飛んできたようで、重傷ではないが思うようには動けないらしい。
せいぜい、クロスボウで射掛けることぐらいしか
無理はしなくていいさ、オレたちのために祈っといてくれ。……じゃあ二人とも、覚悟はいいか? 行くぞ!
アイリーンは、マンデルとロドルフォを連れて駆け出した。
死地へと、恐れを見せることもなく。
はぁ~……
その後ろ姿を見送って、キリアンは細く長く息を吐いた。
―もともとは、ただ”森大蜥蜴”をひと目見たい、それだけだった。
伝説の怪物の姿を拝んでみたい。そう思って討伐に参加した。
故郷を捨て、身寄りもなく、そこそこ歳を食っている。
特にやりたいこともないし、悲しむ人もいない。
ここが人生の終着点になってもいいか。
最期に一花咲かせてみよう。
そんな風に考えて。
だが、“森大蜥蜴”の薙ぎ払いが眼前をかすめたとき、心の底から思った。
『死にたくない』と。
自分で考えていたより、生に執着があることに気づいた。
気づいてしまった。
そこで心がぽっきりと折れた。
それでも、尻尾を巻いて今すぐに逃げ出さないのは、討伐組の中でおそらく一番の年長で、あまりにもみっともないからだ。キリアンをこの場に押し留めているのは、なけなしの意地だけだった。
だが、それもいつまでもつか……
勝ってくれ……
胸の痛みをこらえつつ、震える手でノロノロとクロスボウの弦を巻き上げながら、キリアンは呟く。
頼む……
早く終わってくれ。
それが誰のための祈りなのか―
もはやキリアン自身にもわからなかった。
†††
アイリーンは駆ける。
背後からは、ともに走るマンデルとロドルフォの荒い息遣い。たとえ自分一人でも突貫するつもりだったが、二人の存在が思いのほか心強い。
できれば無事に帰したいが―
(……なんとかするしかない)
不吉な思いを振り払い、暴れ回る二頭の巨竜を観察する。
大柄な個体、雄竜は満身創痍だ。爆裂矢や長矢を受け、胴体からの出血がおびただしい。顔面にも矢が突き立ち、左目は潰されている。おそらくもう長くはない―放っておいても明日には息絶えるだろう。
だが、今この瞬間、脅威たるには充分すぎる生命力。流石に動きは鈍っているようだが、執拗にサスケとケイを追い回しており、止まる気配はない。
もう一頭、小柄な雌竜は比較的軽傷だ。顔面はケイの集中砲火でハリネズミのようになっているものの、未だ致命傷は負っていない。先ほど、ゴーダンの投槍が脳天を直撃したのが一番の傷か。
雌竜は、ケイの射線から重傷の雄竜を庇うように立ち回っているようだ。ケイも魔法の矢や長矢はあらかた使い果たしたらしく、何本も矢を撃ち込んでいるが、雌竜は怯むどころか怒りでむしろ動きが速くなっているようにも見える。
どちらを狙うか。
重傷の雄竜か、まだピンピンしている雌竜か。
……やはり雌竜だろう、とアイリーンは結論づけた。
ここで弱っている雄竜にトドメを刺してしまい、雌竜討伐に本腰を入れるという手もあるが―
(ただでさえ荒ぶってんのに、相方が殺されたらどれだけ怒り狂うか)
それが恐ろしい。見境なく暴れ回り、トチ狂って村の方にでも突撃し始めたら今度こそ止めるすべがない。
ケイの―自分たちの身の安全を第一に考えるなら、それもアリではある。ケイもアイリーンも、その気になれば振り切れるのだ。一通り暴れて体力を使い果たしたところで、再び攻撃を仕掛けてもいい。
(―けど、それはお望みじゃないだろう?)
ケイは”森大蜥蜴”を狩りに来たのではない。
村を守りに来たのだ。
ならば。
雌竜を引きつける。ヤツの動きが止まったら、二人とも頼むぜ
……わかった
おうとも!
緊張気味のマンデル、向こう見ずなロドルフォ。走りながらいつでも放てるよう、それぞれ矢をつがえる。
アイリーンは、すぅぅっ、と息を吸い込んだ。
Ураааааааа(ウラァァァァァァァァ)!!
吠える。裂帛の気合で。
小柄なアイリーンが放ったとは思えない、びりびりと耳朶を震わせる咆哮。驚いて思わず速度を緩めるマンデルたちとは対照的に、さらに加速する。
雌竜は相変わらずケイを追うのに夢中で、アイリーンなど気にも留めない。圧倒的な体格差―いくらアイリーンが殺気を放とうとも、人間でいうなら、足元から仔猫が シャーッ! と威嚇してきているようなものだ。殺し合いの最中に道端の仔猫を気にする者がいるだろうか。
だが、その仔猫が、威嚇するだけでなく爪で引っ掻いてきたとしたら。
そしてその爪に猛毒が仕込まれていたとしたら―?
果たしてアイリーンは、“森大蜥蜴”の暴風圏に踏み込んだ。
巨大な四足が大地を踏み荒らし、大蛇のような尻尾が暴れ回る。常人なら接触しただけで致命傷、巻き込まれれば圧殺必至。死地。ビュゴゥッと空を引き千切る尻尾の薙ぎ払いを紙一重で躱し、肉薄する。
視界いっぱいに広がる青緑の体躯―最高の革防具素材として名高い”森大蜥蜴”の表皮。強靭な皮膚組織は大抵の武具を弾き返し、分厚い肉が衝撃を無効化する。
サーベルは量産品に過ぎない。“地竜”を屠るにはあまりにもお粗末な得物。
が、その使い手の技量は生半可ではなかった。
雌竜の後脚、サスケに飛びかかろうと、力が込められたその瞬間。張り詰めた関節部分、力学的に脆くなった部位を一瞬にして見切る。
サーベルが鞘走った。
黒光りする刃が弧を描く。
ビッ、と青緑の表皮に、赤い一文字(いちもんじ)が刻み込まれた。
グルルルルアァァ―ッッ!?
猛毒の激痛が神経を焼き、雌竜がビクンッと体を震わせて振り返る。
アイリーンは視線を感じた。雌竜ではない、その背後、ケイだ。アイリーンが仕掛けたのを見て、汗だくのサスケの首を励ますように叩き、雄竜に矢を射かけて注意を引きつけている。
ケイと雄竜、アイリーンと雌竜。
つかの間の分断、各個撃破の構図。
―うおおおお!
と、アイリーンの左右後方から、マンデルとロドルフォが雌竜の顔面めがけて続けざまに矢を放った。
喰らいやがれ―!
ロドルフォがここぞとばかりに怒涛の速射を見舞う。マンデルの狙い澄ました一撃も含め、眼球を射抜く軌道の矢もあったが、雌竜はブルンブルンと頭を振り全て弾き返してしまう。
だが、その間にアイリーンは次なる一手を打っていた。懐から取り出すは、革袋。中にはぎっしりと、水晶の塊と大粒のラブラドライト。
大盤振る舞いだ―
陽はまだ高く。
ゆえに影は濃く。
革袋を開け、ざららぁと中身をぶちまける。
Kerstin!
アイリーンの足元の影に、とぷん、とぷんと触媒が沈んでいく。
Kage, Matoi, Otsu.
素早く印を切り、叫ぶ。
Vi kovras(覆い隠せ)!
アイリーンの影がたわみ―爆発した。
影の触手が雌竜の頭部にまとわりつき、完全に覆い隠す。視界が暗闇で閉ざされた雌竜は、一瞬、何が起きたのか理解できずに動きを止めた。
だがそれも、長くは続かない。
手持ちの触媒全てと、少なくない魔力を捧げたにもかかわらず、さんさんと照りつける陽光に灼かれ影のヴェールはほどけるようにして消えていく。
グルァ―?
しかし雌竜が視界を取り戻したとき―そこにアイリーンの姿はなかった。
わかるはずもない。
自らの頭部に―
ぽつんと影が差していることなど。
―上等
跳躍の頂点。
サーベルをまっすぐ下に構えたアイリーンは、獰猛に笑う。
ゴーダンの槍がぶち抜いた雌竜の額、『第三の目』―
死ね!
舞い降りたアイリーンは、そこへ全体重をかけた一撃を叩き込む。
ガツンと頭蓋骨に刃が食い込む感触―
(浅いッ!!)
しかし、アイリーンは顔を歪める。狙い違わず、確かに傷口を抉ったが、それでも硬すぎる―貫通には至らない―
グルルオオァァ―ッ!?
再び頭頂部を襲った激痛に、雌竜が思わず仰け反る。振り落とされそうになりながらも、ぐりぐりと刃をねじ込むアイリーン。無尽蔵の生命力を持つ”森大蜥蜴”も脳を破壊されれば流石に倒れる、ここで仕留めるのだ、と―
が、限界は唐突に訪れた。
あっ
バキン、という鈍い音。
サーベルが根本から、へし折れた。
DEMONDAL から持ち込んだとはいえ量産品、しかも本来は『斬る』ための武器だ。全体重をかけた刺突だの、硬い骨を抉るだの、度重なる酷使に耐えられなかった―
身を支えるすべを失い、空中へ投げ出されるアイリーン。咄嗟に手を伸ばし、何か固いものを掴んだ。ケイが雌竜の顔面に撃ち込んだ矢―それを支えにして、かろうじてぶら下がる。
至近。
“森大蜥蜴”の横顔。
雌竜と目が合う。
アイリーンの姿を認めた瞳孔が、ギュンッと収縮する。
― オ マ エ カ ―
そう言わんばかりに。牙を剥き出しにして。
次の瞬間、稲妻のように首を巡らせ、半身を食い千切られる。
そんな確信。
考えるよりも先に身体が動いた。
左手に握ったサーベルの鞘。
それを鞘口から雌竜の目に突き入れた。
ゴガッ―
鞘の中の猛毒が逆流し、眼球が内側から焼かれる。これまでと比にならない激痛、雌竜は悲鳴さえ上げられずに痙攣した。
こいつァ効くぜ―
身体を支えていた矢から手を離し、アイリーンはひらりと宙に舞う。
ここでケリをつける。
―NINJA舐めんな!
目から突き出た鞘の尻に、回し蹴りを叩き込んだ。
ぐりゅん、と鞘が柔らかい組織を突き抜けていく。怖気が走るような感触だった。鞘の本体が、完全に、雌竜の頭部に埋没して見えなくなった。
―!!
形容しがたい断末魔の叫びを上げ、めちゃくちゃに暴れ回る雌竜。この一撃はおそらく脳まで届いた。さらに毒まで流し込まれたとなれば。
殺った、という確信があった。
だが喜ぶ暇もなく、アイリーンの視界が青緑色で埋め尽くされる。
ガツン、と衝撃があり、瞼の裏で星が散った。
がっ―!?
暴れる雌竜の頭部がアイリーンを直撃したのだ。牙が当たらなかったのが不幸中の幸いだが、そのまま吹っ飛ばされてしまう。
―なっ、に。が―
一瞬、気を失ったらしい。前後不覚。ひゅうひゅうと耳元で風が唸る。奇妙な浮遊感を覚えたアイリーンは、パッと目を見開いてから、愕然とした。
嘘だろ
天地が、逆転していた。―違う。ほぼ真上に吹っ飛ばされて、驚くような高度にいた。『身体軽量化』の紋章を刻んでいるアイリーンはとにかく体重が軽い。だから巨体の頭突きを受けて、こんな高さまで―
いや、今はそんなことはどうでもいい。
どうやって着地する。このままじゃ頭から落ちる。
受け身? 取れるか? 数秒の間に何とか―体勢を―
Siv !
落ちていくアイリーンを見上げながら、ケイは叫んだ。
Vi helpos ŝin !
皮のマントを外し、宙に放り投げる。風が渦を巻く。一同は、羽衣をまとった乙女の姿を幻視した。
― Vi estas tiel rapida, huh ? ―
あどけない、それでいて妖艶な囁きが聴こえたかと思うと、突風がケイのマントをさらっていく。ばたばたとはためいて飛んでいくマント―それは上空のアイリーンにまとわりつき、落下の軌道をわずかに逸らした。
ぬわーっ!
森の方へと落ちていったアイリーンは、そのまま木立に突っ込み、バキバキと枝を折る音を響かせながら姿を消した。多少怪我はするかもしれないが、地面に叩きつけられるよりはマシなはずだ―
ぐぅッ―
馬上で揺られながらケイはうめく。えげつないほど魔力を持っていかれたからだ。咄嗟の術の行使、触媒を取り出す暇も、きちんと呪文を唱える余裕もなかった。精霊(シーヴ)に全て丸投げ、この程度で済んだのはむしろ手心があったと考えるべきか。
グルルルオアアアァ―ッ!
それをよそに、満身創痍の雄竜が悲痛な叫びを上げて、痙攣する雌竜に駆け寄っていく。鼻先を雌竜の顔に押し当てて揺するも、反応はない。
相方が事切れたことを悟った雄竜は、ぴたりと動きを止める。
グロロロロ……と地響きのような唸り声。
振り返る雄竜。残された片目が爛々と光っている。
ゴガアアァァァ―ッ!!
咆哮し、土煙を巻き上げながら突進してくる。激情に駆られ、全身の傷から噴水のように血煙を噴き上げていた。
これが最後の突進だ。ケイは悟った。
残り少なくなった矢を放ちながら、サスケを走らせる。追跡してくる敵へ矢を浴びせかける引き撃ち戦法、弓騎兵の真骨頂。
(―速い!)
が、徐々に距離が詰められる。足場が悪い。直線勝負でも不整地ではサスケより”森大蜥蜴”に軍配が上がるようだった。この勢い―下手に方向転換すれば、足が緩んだところを飛びかかりや薙ぎ払いで狩られてしまう。
刺し違えてでも貴様は殺す、とそんな気迫が伝わってくる。
(今を凌げば、奴は力尽きるはず)
とにかく時間を稼がねば、そう考えながら矢筒に手を伸ばすケイ。
しかしその手が空を切った。
クソッ、矢が……!
とうとう尽きた。
腰の矢筒も、鞍に備え付けた矢筒も、いつの間にか空っぽになっていた。
竜の鱗さえ貫く弓を持っていても、矢がなければ弓使いは無力―
―うおおおお!!!
と、雄叫びが響いた。
村の方を見れば、逃げたはずのゴーダンが槍を構えていた。投槍ではなく、普通の短槍のようだが、無理やり投槍器(アトラトル)にセットしている。どこかで新しく調達してきたのか。
おおおおおおおおッ!
遠投。ビュゴォッと重い風切り音を響かせ、弧を描いた短槍が雄竜の足の付け根に突き刺さる。
わずかに―ほんのわずかに、突進の勢いが鈍った。
その隙に、ぐいと手綱を引く。
サスケが急激に方向転換し、雄竜を振り切る。追随しきれず木立に突っ込んだ雄竜は、それでも木々を薙ぎ倒しながら無理やり追いかけてきた。
喰らいやがれ―!
その横っ面にロドルフォが仕掛ける。無事な右目の周囲に、矢の雨が降り注ぐ。
ゴガァッ!
ケイとサスケしか眼中になかった雄竜も、流石に鬱陶しかったのかロドルフォを睨んで吠えかかった。が、その瞬間、開いた口にロドルフォが連射していた矢が一本、ひょいと入り込んでしまう。
ゴゲッ
そのまま喉に刺さったか、素っ頓狂な鳴き声を上げて目を白黒させる雄竜。思わずその足が止まる。
ケイは、雄竜を中心に弧を描くようにサスケを駆けさせながら、歯噛みする。絶好のチャンスだが、矢がないことには―
ケ―イ!
マンデルの声。
見れば、雌竜の身体によじ登ったマンデルが、弓を構えている。
つがえられているのは―血塗れの矢。
青い矢羽。ケイが雌竜に撃ち込んだ長矢の一本だった。ケイの矢が尽きたことを察したマンデルは、まだ使える矢を探していたらしい。
これを使え!!
曲射。マンデルの弓から放たれた長矢が、風に乗って飛ぶ。時間がやけにゆっくりと流れているように感じた。極限の集中状態。空中でわずかにしなる矢が、はためく矢羽が、その羽毛の一本一本までもが、はっきりと視えた。
手を伸ばす。
握り込む。
ビゥンッ、と伝わる振動。
ケイの手の中に、青い矢羽の、必殺の一矢があった。
“竜鱗通し”を構える。矢をつがえる。
―引き絞る。
駆けるサスケの揺れも、風の流れも、全てが計算され尽くしているように感じた。
世界が止まっているようだった―マンデルの声援も、ゴーダンの雄叫びも、サスケの息遣いも、あらゆる音を置き去りにしてケイは静寂の中にいた。
標的を睨む。頭を巡らせてこちらを見やる、満身創痍の”森大蜥蜴”を。
視線が交錯する。『奴』が次にどう動くか―
なぜか、手に取るようにわかった。
放つ。
カァンッ! と快音。
周囲の音が押し寄せるようにして、世界があるべき速度に戻った。矢が突き進む。ただならぬ気配を察して、本能的に避けようと頭を動かす雄竜。
その額に、吸い込まれるように、矢が着弾した。
カツーンと硬質な音が響き渡る。数少ない弱点―『第三の目』。矢は砕けずに、深く深く突き刺さった。
―
雄竜が仰け反る。ほとんど後ろ脚で立ち上がるようにして。
天を睨んだ右目の端から、涙のように赤い血が溢れ出した。
巨体が傾く。
地響きを上げて、倒れ伏す。
そしてそのまま、二度と再び、動くことはなかった。
98. 始末
前回のあらすじ
森大蜥蜴 グエーッ!
ズ、ズン、と地響きを立てて倒れ伏す”森大蜥蜴”。
―やったか!?
矢筒に手を伸ばした格好のまま、ロドルフォが叫んだ。
ケイは速やかに距離を取り、伏して動かぬ雄竜を睨む。
……死んだ、のか?
半信半疑。すぐさま駆け寄ってきたマンデルが、追加で何本か矢を手渡してきた。油断なく”竜鱗通し”を構え、いつでも矢を放てるよう待機する。
それでも、動かない。
どうやら仕留めたらしい―そんな実感が、じわじわと染み込んできた。
終わった……?
傍らのマンデルが茫然と呟く。
……ああ
ふぅ、と溜息をついて、ケイは”竜鱗通し”を下ろした。
俺たちの、勝ちだ……!
ケイの宣言に、マンデルが声もなく脱力して、その場に座り込んだ。
やった……やったのか! ―やったんだぁ!!
ロドルフォが喜色満面で跳び上がる。
その叫び声に、うおおおお―ッ! と村の方からも歓声が上がった。
固唾を飲んで見守っていた村の住民たちが互いに抱き合って喜んでいる。野次馬の探索者たちも大興奮で、一部の吟遊詩人(ホアキン)に至っては涙を流しながら天に感謝の祈りを捧げていた。
片膝をつき、苦しげに肩で息をしていたゴーダンは、そのまま力尽きたように大の字になって地べたに寝転がった。キリアンはどこか皮肉げな笑みを浮かべ、首を振りながら何事か呟いている。元気にはしゃいでいるのはロドルフォくらいのもので、他はケイも含め疲労困憊といった様子だ。
やったぞォ―!
うおおおおお!
英雄だああ!
ひとしきり喜んだ村人たちが、今度はズドドドと大挙して押し寄せてきた。ケイはサスケから飛び降りて彼らを迎え入れ―ることなく、木立へと急ぐ。
アイリーン!!
吹っ飛ばされたまま、姿を見せないアイリーンが心配でならなかったのだ。
アイリーン! どこだー! アイリーン!!!
……こっちだよ~
頭上から声。
振り仰げば、木の枝にアイリーンがブラーンと引っかかっていた。
アイリーン!! 大丈夫か!? 降りられないのか!?
いや、だいじょうぶ……でもちょっと痛くてさ
なんだって!? 怪我したのか!? アイリーン!!
そんなに叫ばなくても。よっ、と
勢いをつけて飛び降りたアイリーンは、しかし着地すると同時に イテテ と呻いて尻もちをついた。
アイリーン! 大丈夫かっっ!?
へへっ……体の節々が痛えや
苦笑いするアイリーン。ケイのマントに包まれていたおかげで、擦り傷などはないようだが、服の下は痣だらけだろう。
これを
ケイはすぐさま腰のポーチから高等魔法薬(ハイポーション)を取り出した。もう在庫がほとんどない貴重な薬だ―とろみのある青い液体の入った小瓶。受け取ったアイリーンは、少しためらってから、グイッと中身を煽った。
―ヴぉェッ、まっっっっず! ……うぇっ、まっず……。トイレの消臭剤を炭酸で割っても、もうちょいマシな味がするぜ……
気持ちはわかるぞ
うんうん、と頷くケイ。ついでに、アイリーンの髪の毛に芋けんぴのような木の枝がくっついていたので、取り払っておく。
あ~……けど、やっぱ効くなぁ~
痛みが引いてきたらしく、表情を緩めたアイリーンは、三分の一ほど飲んでから瓶を返してきた。
サンキュ。これくらいでいいや
いいのか?
だいぶ良くなった。致命傷でもなし、ここは節約しとこう
ひょいと立ち上がるアイリーンだが、 おっとと と早速フラついている。
……本当に大丈夫か?
咄嗟にその体を支えながら、ケイは心配げに尋ねた。ハイポーションが貴重なのは確かだが、それを惜しんで後遺症が残ったりするようでは本末転倒だ。気を遣わずに一気飲みしてほしかった―いや、今からでも口に突っ込むべきか?
……おい、待て、待て待て
瓶を片手ににじり寄るケイを、アイリーンは慌てて押し留めた。
だいじょーぶだって! まだちょっと痛えけど、死ぬほどじゃない。……別に強がって言ってるわけじゃないぞ? 優先順位の問題だ
そう言って、ケイが持つ小瓶を指で弾く。キン、と澄んだ音がした。
オレは今、確かに万全じゃないが、寝とけばそのうち治る。それに対しこれぐらいのポーションを残しておけば、理論上腸(はらわた)が飛び出るような怪我でも治せる。……少なくとも生命力(HP)的には、な。どれだけ安静にしても、飛び出た腸は戻らない。だから『今』ポーションは飲み干すべきじゃない、そうだろ?
すっ、と優しく、ケイの手を押し戻す。
……そうだな
瞑目したケイは、頷いて、ポーションをしまった。
本音を言えば―やはり飲んで欲しくはある。ケイの無茶に付き合った結果、負傷してしまったのだから。だが、アイリーンの言葉は尤もだったし、本人にそのつもりがない以上、いくら心苦しく思ってもそれはケイの独りよがりにすぎない。
もともと、アイリーンはリスクを全て承知で付いてきてくれたのだ―この期に及んであれこれ言い募るのは、野暮というもの。
……ありがとう
ケイにできるのは、心から感謝の念を伝えることだけだった。
おかげで、助かった
なぁに、お安い御用さ
なんでもないことのように軽く言ってのけて、ニカッと笑うアイリーン。傷だらけで、へとへとで、それでも笑顔が眩しくて―愛おしい。
ありがとう。本当に……
無事で良かった―
抱きしめる。こんな華奢な体で”森大蜥蜴”を屠ったとは、にわかには信じ難い。
いや~、今回は流石に疲れたぜ
無理もない、大活躍だったからな
こつん、とアイリーンがケイの胸板に額をぶつけてくる。
あの跳躍は見事だったよ
へへ、だろ? 人生でも屈指の大ジャンプさ
まさか、あれで仕留めてしまうとは思わなかった
そのあと吹っ飛ばされて死にかけたけどな
アイリーンがケイの腰に手を回し、ギュッと抱きしめ返してくる。
あの魔術はナイスアシストだったぜ、ケイ。おかげで頭から落ちずに済んだ
いやあ、実はもうちょっとで失敗(ファンブル)するところだったんだ。噛まずに呪文を唱えられてよかった
はははっ、そいつぁ助かったな
おどけてケイが答えると、アイリーンはからからと笑った。互いが互いに、幼子をあやすように、抱きしめあったままゆらゆらと体を揺らしている。体温と鼓動がじんわり伝わってきて、鉛のようだった疲労感が心地よいものに変わっていく。
するっ、とアイリーンがケイの腰に回していた手をほどいた。代わりに、ケイの頬を撫でる。慈しむように。ぬくもりを確かめるように。
……ん
そっと―。
…………
これほどまでに、互いの吐息を熱く感じたことはなかった。
……ふふ
顔が離れてから、アイリーンがぺろりと唇を舐める。怪我がなければ、ケイはその身体を、強く強く抱きしめていただろう。
……お~い
……どこだ~
と、木立の外から、皆の声。
おっと。ほら、英雄様をお呼びだぜ
パッと体を離したアイリーンが、肘で小突いてくる。
ああ……そうだな
微笑んだケイは、不意に、アイリーンを優しく抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
あっ、おい……
もうひとりの英雄様も連れて行かないとな。……万全じゃないんだ、せめてこれぐらいさせてくれ
ん……まあ、そういうことなら、くるしゅうないぞ
腕の中でふんぞり返るアイリーンは、相変わらず羽のように軽い。
うおおおお! ケイだーッ!!
“正義の魔女”も無事だーッ!
木立から姿を現したケイとアイリーンに、集まっていた村人たちが沸き立つ。ケイは笑顔で、アイリーンはぶんぶんと手を振って声援に応えた。
“大熊殺し”ーッ! ありがとおおおおう!!
馬っ鹿、もう”大熊殺し”じゃなくて”地竜殺し”だろ!
それもそうだな! じゃあ”正義の魔女”はどうすんだ?
そりゃお前―“地竜殺しの魔女”だよ!
うおおおお! “地竜殺し”ーッ!
“地竜殺しの正義の魔女”ーッ!
やんややんや。
もう何がなんだかわかんねえな
大興奮の男たちを前に、アイリーンが苦笑している。ヴァーク村の住民がこれほど喜んでいるのは、それこそ”大熊(グランドゥルス)“の一件以来か。
ケイーッ! お前はッ! お前という奴はーッ!
そのヴァーク村の村長、ハの字眉がチャームポイントのエリドアが、号泣しながら駆け寄ってくる。
お前という奴は……ッ! 本っ当に……大した奴だ……ッ! ありがとう……村を救ってくれて、ありがとう……ッッ!
ケイの肩をバシバシ叩きながら、泣きに泣いている。“大熊”襲来を乗り越え、村の発展を目指して頑張っていたら、今度は 深部(アビス) の境界線が迫ってきて、終いには”森大蜥蜴”が出現。村を預かる者として、そのプレッシャーは並々ならぬものがあったことだろう。
これで村は救われた。怪物は討ち取られ、村人に被害はなく、避難していた女子供たちも戻ってこられる。エリドアの男泣きも無理はなかった―たとえ、今回の一件が一時しのぎにすぎないとしても。
まあ、なんとか被害もなく済んでよかった。落とし穴が役に立ったぞ、手伝ってくれた皆もありがとう!
ケイがそう言うと、 うおおおお! と男たちが拳を天に突き上げて応える。奇声を発しながら飛び跳ねる者、その場で小躍りする者、精霊に感謝の祈りを捧げる者、喜びようもそれぞれだ。
おっかなびっくり”森大蜥蜴”の死骸に近づく者たちもおり、恐る恐るつついたり、青緑の皮を撫でたりする人々を、ケイは微笑ましげに見守っていた―
―ん!?
が、その中に不審な連中を見つけ、顔色を変える。みすぼらしい格好の、探索者の端くれと思しき男たちが、死骸のそばに屈み込んでコソコソと―
おい、お前ら! 何をやっている!
ケイが駆け寄ると、 げっ という顔をした探索者たちが一目散に逃げ出した。
あっ! アイツら皮剥ぎ取ってやがる!
アイリーンも気づいて、ケイの腕からぴょんと飛び降りる。
逃がすか!
幸い、マンデルが回収してくれた矢が何本かあった。カヒュンッ! と”竜鱗通し”にしては控えめな音を立て、逃走する探索者―いや、『コソ泥』たちの足元に矢が突き立つ。
止まれェ―ッ! 次は当てる!
ケイの怒号に震え上がったコソ泥たちが、両手を上げて立ち止まる。握っているのは青緑の皮の切れ端だった。
貴様ら……何のつもりだ……
のしのしと歩み寄り、唸るようにして問うたケイに、顔を見合わせたコソ泥たちは媚びるような笑みを浮かべ、
そ、その……記念品に、と思って……
―記念で他人の獲物の皮を剥ぐ奴がいるか馬鹿野郎!
反射的に、答えた奴にゲンコツを落としそうになったが、頭がかち割れたら事(こと)なのでケイは自重した。
……っふぅー。気持ちはわかるが、それを許すわけにはいかん
オレたちが命がけで倒したんだ、何もしてねえヤツが『記念品』をご所望とは少々虫が良すぎねえか? それにお前ら、見たところ穴掘りさえ手伝ってねーだろ
アイリーンの指摘に、ぐうの音も出ずに黙るコソ泥たち。
よくわかったな、コイツらが人足じゃないって
人足なら給料受け取ってから事に及ぶと思ってな
なるほど、それもそうだ
思わず感心してしまったケイだが、気を取り直して、再び憤怒の形相を作る。
それで……貴様ら
ハ、ハイ
せっかく犠牲もなく討伐できたんだ……今日という日を『無血』で終わらせたい。そうは思わないか
思います
というわけで、盗ったものを置いていったら勘弁してやろう。とっとと出せ
ケイがオラつくと、コソ泥たちは一も二もなく素材を差し出してきた。皮の切れ端―どうやら、戦いでついた傷をナイフでこじ開けるようにして、無理やり引っ剥がしてきたらしい。こんなしょーもない剥ぎ方をしてもほとんど使いみちがないだろうに、本当に記念品くらいにしかならないな、と遣る瀬無い気持ちになるケイ。
これで全部か?
全部です
……これで、全部、か?
一人、何となく怪しい奴がいたので圧をかける。
……あっ、忘れてました! こっちのポケットにも
その業突く張りは、素知らぬ顔でやり過ごそうとしていたが、ケイがそっと矢筒に手を伸ばしたところで音を上げた。
まったく、最初から素直に出せ
これでケイの気が変わって、 やっぱ全員ブチ殺しておくか…… とでもなったらどうするつもりだったのか。
いっ、いえ忘れてただけで……
あーもういい、解散!
ケイが言い放つと、コソ泥たちは脱兎の如く走り去っていった。 バカ野郎! 気が変わったらどうするつもりだったんだよ! とコソ泥たちが業突く張りをなじる声を聞き流しながら、アイリーンと顔を見合わせる。
……勝利の余韻もへったくれもあったもんじゃないなぁ、ケイ?
全くだ
苦笑するアイリーンに、ケイはうんざり顔で頷いた。
死骸のそばに戻ると、一部始終を見ていた村人たちが、それとなく探索者たちを見張っていてくれているようだ。
自然、ケイの周りに関係者が集まる。
厚かましい奴もいたもんだな
すっかり泣き顔から村長の顔に切り替わったエリドアが話しかけてきた。
ああ。油断も隙もない
盗人対策もしなきゃならんのか……
ぺし、と額を叩いて溜息をつくエリドア。
……今夜は、討伐祝も兼ねて皆で不寝番かな
『伝説の狩り』とはいっても、舞台裏はこんなもんか、と一同苦笑を隠せない。
まあ、なにはともあれ
パン、と手を叩いて、ケイはその場の面々に向き直る。
静かな面持ちのマンデルは、達成感と、危険な仕事を終えたという安堵を噛み締めているようだった。
汗まみれのゴーダンは、疲労の色が濃いながらも晴れ晴れとした顔をしている。
はしゃぎまわっていたロドルフォは、賢者タイムとでも言うべきか、反動が来たらしくどこか虚脱した様子。
負傷した胸を押さえて苦しげなキリアンは、一気に老け込んだようだ。ポーションは流石に分けられないが、あとで『アビスの先駆け』の軟膏を渡しておこう、とケイは思った。
―そして、そんな彼らから一歩下がったところで、ホアキンがツヤッツヤの満面の笑みで立っている。満足そうで何よりだ。
……みんな、ありがとう。おかげで犠牲もなく倒せた。俺ひとりでは、絶対に不可能だった―改めて本当にありがとう
ケイが一礼すると、皆、口々に いやいや こちらこそ と返してくる。
それで―報酬に関してだが、まさかの想定外が起きたからな
ちらっ、と二頭の死骸を見やるケイ。
『名誉も報酬も二倍』、この言葉を違えるつもりはない。コーンウェル商会との交渉次第ではあるが、皆、期待していてくれ!
ケイの宣言に、やはり現金なもので、笑顔にならない奴はいなかった。
ぶるるっ
が、そのときケイの後ろ髪がグイッと引っ張られる。
イテテっ何だ!? ―サスケェ!
振り返れば、ふんすふんすと鼻を鳴らす汗だくのサスケ。 ねえぼくは??? と言わんばかりの凄まじい圧を発している。
もちろん、お前も忘れてないよ。ありがとう
大活躍だったもんな!
ケイの騎兵戦術も、サスケ抜きでは成立しない。
縁の下の力持ちとはまさにこのことだ
偉いぞサスケ!
帰ったら美味いものいっぱい食べような
ブラシもかけてやるぞ~!
ケイとアイリーンにわしゃわしゃと撫でられて、口々に褒められて、不満げだったサスケもようやく機嫌を直した。
どこか締まらない様子のケイたちに、周囲の面々も笑い出す。
晩秋の澄んだ青空に笑い声が響き渡り、冬の訪れを予感させる冷たい風が、狩りのあとの血生臭い空気を吹き流していった。
ひとまず決着。次回、狩りの面々の後日譚とかやりたいと思います。
感想、ポイント評価、にゃーんなど、大変励みになっております。 更新遅いぞ! という方は、直接言われるとナイーブに傷つくので、 フシャーッ! と威嚇する程度に留めていただけると幸いです。がんばります。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます!
99. 後日
『公都』ウルヴァーン。
公国でも屈指の巨大都市。小高い岩山に築かれた領主の居城を中心に、貴族たちの館や邸宅が整然と建ち並び、さらにその外側には、壺から溢れ出したミルクのように雑然とした一般区の街並みが広がっている。
そんな市井の片隅―宿屋”HungedBug”亭。
一階は酒場も兼ねており、夕暮れ時は宿泊客や常連たちで大賑わいだ。
はぁーい、お待ち遠様、エール2つにソーセージとチーズの盛り合わせね
HungedBug亭の看板娘、『ジェイミー』は、今日も給仕に会計に掃除にと、忙しく働いていた。
よっ、待ってました
ジェイミーちゃんいつもカワイイねぇ
はいはい、ありがとね
常連セクハラ親父の手をパシッと払い除けながら、ぞんざいに答えるジェイミー。健康的な小麦色の肌、グラマラスな体型、その上かなりの美人なジェイミーは、良くも悪くも男にモテる。
はぁ~どっかにいい男いないかな……
が、寄ってくる男は大抵、砂糖菓子に群がるアリのごときロクでもない連中ばかりなので、本人は灰色の日々を過ごしていた。養父にして宿屋の主人、『デリック』が悪い虫に睨みを利かせているということもある。そのへんの若い男は、父の名前を出すと青い顔をして逃げてしまうのだ。過去に一体何をやらかしたのか―
いい男ならここにもいるぞぉ~~!
ジェイミーの独り言を聞きつけて、酔っ払った赤ら顔の親父が自己アピール。
はいはい、いい男いい男
溜息混じりにあしらい、食器を片付けるジェイミー。とりあえず酒臭い男にはもううんざりだった。
―そういや聞ききました? 例の話
―あれか? ヴァーク村の……
テーブルを拭いていると、酒場の隅、宿泊客たちの会話が聞こえてくる。
なんと、本当に”森大蜥蜴”が出たって話ですよ
聞いた聞いた。それも二頭も、だろう?
おれは三頭って聞いたぞ
群れに襲われたんじゃなかったか?
そいつぁ世も末だな!
ワッハッハと大笑いする男たち。
……で、実際のとこ、どうなんだ
“森大蜥蜴”が出たのは確かのようですが
ヴァーク村の連中も気の毒にな。真面目に開拓してたのに
深部(アビス) の領域が移動してきてたんだろ? 遅かれ早かれじゃないか
深部 の話題ともなると、自然、声を潜めて話し合う。不思議なもので、コソコソ話されると何が何でも聞きたくなってしまい、ジェイミーはテーブルの頑固な汚れを取るふりをして注意深く耳を傾けた。
二頭や三頭ってのは尾ひれがついたか
本当だったら、今頃もっと大騒ぎになってるさ
しかし、二頭まとめて討伐されたって小耳に挟みましたよ
それこそまさかだ、まだ軍は動いてないだろ?
でもコーンウェル商会が大規模な商隊を送り出してるんですよ、南の方に
若手の行商人の言葉を、皆が黙り込んで吟味した。
確かに、革職人ギルドも今日は忙しそうにしてたな……
旅人風の男があごひげを撫でながら唸る。
しかし……誰がどうやって討伐したんだ?
自分が聞いたところによると―どうも”大熊殺し”が動いたとか
“大熊殺し”! あの武闘大会の奴か
―えっ、ケイのこと?
思わず口を挟んでしまうジェイミーに、男たちは一瞬びっくりしたような顔をしたが、美人のウェイトレスが興味を示したとあって嫌な顔はしなかった。
そうそう、“公国一の狩人”のケイさ
嬢ちゃんも『ファン』なのかい?
からかうように尋ねられたので、ジェイミーは心外だとばかりに、
ファンも何も、顔見知りよ。“HungedBug(ウチ)“にしばらく泊まってたんだもの
そう答えると、男たちは へえ! と興味深げに身を乗り出した。
どんな奴だったんだ?
ものすごい大男らしいじゃないか
本当に大熊を一撃でぶっ倒すような弓使いなのか?
そうねぇ……
問われて、ジェイミーははたと気づく。なんだかんだで、ケイが弓を扱う姿を直接見たことがないことに。実はあれだけ話題の武闘大会でさえ、当日は宿屋で忙しく働いていて観戦どころではなかったのだ。
―わたしの人生って……
ど、どうしたんだ嬢ちゃん、急に死んだ魚みたいな目をして……
いや……いいの。そうね。ケイは確かに大柄だったわ。わたしより20cmくらい大きかったかしら? でも、『ものすごい大男』ってほどでもないわね、義父さんの知り合いでもっと大きい人見たことあるし
ジェイミーは女にしては背の高い方なので、それほどケイが『でかい』とは思わなかったこともある。
弓の威力はよく知らないんだけど、腕のいい弓使いなんだなぁ、とはいつも思ってたわ。フラッと出かけていったと思ったら、草原で兎を何羽も仕留めて戻ってきて、明日の飯にでも使ってくれ~なんて言ってくることもザラにあったし
ほほー。そんなに長いことココに泊まってたのか?
そうねー2ヶ月くらい?
長いな。その間、ずっと何してたんだ?
問われて思い浮かんだ光景は―
『おっ、アイリーン、このサラミ美味いぞ。ほれ』
『あーむ』
『うおッ直接食うやつがあるか!』
『んー! 香草が効いてんな。こっちのチーズも絶品だぞ』
『あ、あー……ちょ、ちょっと恥ずかしいなコレ』
『ケイが先にやってきたんだろー! ほら食え食え!』
『あ、あーん……』
所構わず―恋人と仲睦まじく―
クッ―っ!!
どっどうしたんだ急に嬢ちゃん、唇から血が出てるぞ……!?
い、いえ……いいの。そうね。武闘大会で優勝してから、ずっと図書館に通って調べ物してたみたい
図書館んぅ?
男たちは顔を見合わせた。
図書館っつーと……第一城壁の向こうにあるとかいう、アレ?
そそ
たしか入館料がすごく高かった気がするんですが……金貨とか……
あー、それくらいするって言ってたわねー
ひぇぇ、想像もつかねえ
狩人が図書館に何の用があるんだよ……
そんな金をかけて何を調べてたんだ?
なんか伝承とかを調べてるって言ってたわねー
伝承……? と再び顔を見合わせて、さらに困惑する男たち。
なんだってそんなものを……
そんな高い金を払ってまで……
っていうか、狩人なんだよな……?
ケイって、なんか違う大陸? から来たんだって。精霊様のいたずらか何かで迷い込んじゃったんだってさ。それで『故郷に帰る方法を探してる』って言ってた。結局見つからなかった、というか、『遠すぎて帰れないことがわかった』らしいけど―
おおい、ジェイミー!
と、厨房の方からダミ声が―養父デリックの声が聞こえてきた。
いつまでも喋ってないで、早く運んでくれ!
あっ、はーい。それじゃ
―このままくっちゃべっていたら確実に雷が落ちる。そう判断したジェイミーは速やかに離脱し、仕事に舞い戻った。
はぁ~いお待たせ、エールと蒸留酒と、兎肉のシチューね~
あくせく皿を運びながら、ふと思う。ケイは今頃どうしているのだろうと。
“森大蜥蜴”狩りに動いた―とのことだが、“大熊”を一撃で撃ち倒したというケイならば確かに、伝説の地竜でも狩れてしまうかもしれない。
(きっと、すごく儲かるんだろうなぁ……)
“大熊”の毛皮が売れて、ずいぶんと羽振りが良かった。きっと”森大蜥蜴”狩りでも巨万の富を得るのだろう。自分が迫ったときは満更でもなさそうだったし、デリックもケイ相手ならとやかく言わないだろう―あの恋人の女さえいなければ―
はぁ……
溜息をついた。『もしも』を思い描いても虚しいだけ。
いい男、いないかなぁ……
ジェイミーの呟きは、酒場の喧騒に紛れて消えていく―
†††
ヴァーク村。
“森大蜥蜴”の討伐・解体後、落ち着きを取り戻したかのように見えた開拓村だが、噂を聞きつけた旅人や吟遊詩人らが押し寄せ、逃げていた探索者たちもまた森に入るようになり、彼らを相手に商売する商人たちまで戻ってきた。
さらには、避難していた村の女子供が帰ってきたことも重なって、以前より遥かに混沌とした様相を呈している。村を取り囲むように色とりどりの天幕が張り巡らされ、もはや開拓村というよりは小さな町といった規模になりつつあった。
そんな村の片隅で、村長宅を間借りしている男がいた。
ホアキンだ。
吟遊詩人として誰よりも先に駆けつけたこの男は、伝説を見逃し絶望する同業者らを尻目に、今回の英雄譚をいかにして一曲にまとめるか―羽根ペンを片手に毎日唸っていた。すでに主役たるケイたちはサティナへと帰還しているのだが、伝説の熱気が冷めやらぬうちに、この伝説の地で、伝説の英雄譚を仕上げてしまうべきだと判断し、村に残ったのだ。
うぅーむ……
始まりのフレーズ、曲調、登場人物たちの活躍―それぞれ詰め込みたい要素が多すぎる。普通、こういった英雄譚は事実を『少しばかり』脚色するのが常だが、今回の一件に関してはその必要が一切なかった。自身が目撃した全てを観客にそのまま伝えたいくらいだ。
むむぅ……
参考がてら、かたわらのメモ用紙に目を落とす。討伐後の、登場人物たちへのインタビュー集だ。ぱらぱらとめくる。
***
―マンデルさん、どのような心境ですか
『ひとまず、一息ついた。……無事に終えられてホッとしている』
―ケイさんをここぞというところでアシストされていましたね
『活躍らしい活躍なんてものはなかったが、最善は尽くしたと思う』
―今、何かしたいことはありますか
『……家で帰りを待つ娘たちに早く会いたい』
―今回の狩りをまとめるならば
『おれの人生において、最も困難で、輝かしい一日だった』
―またケイさんから助太刀を頼まれたら、どうしますか
『…………最善は尽くすが、今回の一件で身の丈というものを思い知った。この村に平和が訪れることを祈る』
***
―キリアンさん、お疲れのようですね
『ああ……へへ、そうかもしれやせん。疲れやしたね』
―今、何かしたいことはありますか
『特には。ただゆっくり酒でも呑みたい』
―今後はどうなさるおつもりですか
『アッシは、故郷へ帰ろうかと。森歩きは引退……しやしょうかね。恥ずかしい話、ちょっと森に入るのが怖くなってしまいやして』
―故郷、ですか
『もう何年も……何十年も帰っていやせん。捨てたものと思ってやしたが―幸い、報酬はたっぷりいただきやしたし、静かに暮らそうと思いやす』
***
―ゴーダンさん、今どんなお気持ちですか?
『まだ……夢でも見ているみたいだ。生きていることが信じられない』
―あの投槍、見事でした。大活躍でしたね
『風の大精霊のお導きがあればこそ。自分の実力ではない』
―今回の狩りをまとめるならば
『ケイとともに戦えたことを、誇りに思う』
―もしまた助太刀を頼まれたら
『絶対に参加する』
***
―ロドルフォさん、やりましたね
『ああ、何とかな! 生きて帰ってこれて良かったさ!』
―今、どんな心境ですか
『概ね満足だな! 力及ばず歯痒い思いもしたが、最後に役に立ててよかった。自分のベストは尽くしたと思う!』
―これから、何かしたいことはありますか
『実は……女を一人、待たせていてな。近々結婚を申し込もうとしてたんだ。今回の大物狩りのおかげでいい土産話ができた。報酬で資金も用立てられたし、いいことづくめさ!』
―おめでとうございます
『ありがとう! ありがとう!!』
―それで、結婚されるのはどんな方なんです
『うむ! サンドラという名前でな、出会ったのは二年前で―』
***
うーん、ロドルフォに関係ないこと聞きすぎたな……
その後、ロドルフォの惚気話が延々と続くメモを傍らに置いて、ホアキンは溜息をつく。同じ海原の民(エスパニャ)のよしみで、ついつい話が弾んでしまった。
掘り下げといっても限度があるしなぁ……
考えすぎで頭から湯気が出そうだ。間借りしている部屋、小さなベッドに寝転がって頭を冷やそうとする。
もっといいものを作れるはずだ……後世まで歌い継がれるような名曲を……
そして完成した暁には、アイリーンに魔道具を注文し、曲と影絵の相乗効果で一世を風靡するのだ―
う~ん……
吟遊詩人はひとり思い悩む。
頭の熱は、当分下がりそうにない―
†††
一方その頃、ウルヴァーン北部のとある宿場街。
ランプの明かりが揺れる宿屋の一室で、静かに商談が進められていた。
本日はご足労いただきありがとうございます
『いやいや、こちらこそ』
一人は身なりの良い、緊張気味の中年男。そして対面、ローテーブルを挟んで―椅子の背に止まっているのは、一羽の鴉だ。
契約条件に関してですが、事前にお送りした書簡通り―
『ああ、訳は確認したよ。特に問題はなかったと思う』
それは何よりです。念の為、口頭でも確認させていただきたく
『お願いしよう』
男は公国語を、鴉は雪原語(ルスキ)を操っているが、コミュニケーションに不自由はない。テーブルに置かれた水晶のペンダントから影の手が伸び、壁に影絵の文字を描いてそれぞれの言語を翻訳しているからだ。
『いやはや、これは本当に便利だな!』
改めて感嘆の声を上げる鴉。その名を『ヴァシリー=ソロコフ』という。雪原の民の告死鳥(プラーグ)の魔術師だ。ちなみに本体ではなく、使い魔の一羽に憑依している。
同感です
しみじみとした顔で頷く身なりのいい男は、コーンウェル商会の商人。今日、ヴァシリーといくつかの契約を結ぶために、この宿場街に派遣されてきていた。ヴァシリーの住む緩衝都市ディランニレンと、ウルヴァーンの中間地点が選ばれた形だ。
おかげでこうして、良いご縁をいただけましたし
『全くだね』
朗らかに笑い合う二人。しかし、実はヴァシリーは、コーンウェル商会そのものは割とどうでもよく思っている。現在所属しているガブリロフ商会だけでも、研究費は充分に賄えているからだ。
コーンウェル商会の伝手で、北の大地には生息しない珍しい鳥が手に入るかもしれない―とは期待しているものの、それはあくまでおまけに過ぎない。ヴァシリーの目的は、コーンウェル商会にパイプを繋いでおくことで、アイリーンと定期的に連絡を取ることにあった。
(『全く、大した技術力だ……これほどの魔道具をいともたやすく完成させてしまうとはね』)
商人の言葉に相槌を打ちながら、翻訳の魔道具に視線を落とすヴァシリー。
(『まだ若いというのに……流石に嫉妬してしまいそうだ』)
以前、『茶会』で話し合ったときもそうだったが、アイリーンとその連れのケイが保持している魔術の知識は、かなり洗練されている。それを少しでも吸収したい―自らの研究にも取り込んでいきたい。同じ商会に所属して接点を設ければ、また魔術談義もできるかもしれない。そんな知的好奇心と、貪欲な探究心が、この度の契約につながった。
―というわけで、いかがでしょうか
『ああ、うん。私としては問題ない』
ありがとうございます。では―
『―しかし、ひとつ疑問があるんだが…… 契約者は、死傷の危険性がある狩猟やその他のイベントに、自発的には参加しないよう努力する 、この条文は本当に必要なのかね……?』
あ、ああ、それですか
ヴァシリーの指摘に、商人は苦笑い。
実はその……ヴァシリー殿もご存知の、我らが商会の専属魔術師たちがですね
『アイリーンとケイのことかい?』
そうです。その、御二方がですね、その~……実はつい先日、ウルヴァーン郊外の開拓村に”森大蜥蜴”が出現しまして。そちらの討伐に赴かれてしまったんです
『はぁ?』
一瞬、ヴァシリーは誤訳を疑ったが、この条文を見る限り―つまりは、そういうことなのだろう。
『それでこの条文か……いや、そんなことより、二人はどうなったんだね?』
ご無事です。どころか、“森大蜥蜴”を二頭も仕留めてしまわれて
『はぁ? 二頭……!?』
椅子の背に止まって目を丸くする鴉に、商人の男は、(鳥もこんなに表情豊かになるんだなぁ)などと可笑しく思った。
おかげで、我らが商会も素材を捌くのに大わらわですよ
『それは……凄まじいな。しかし、まさか、たった二人で討伐を?』
ケイの強弓、そして馬賊相手の死闘を知るヴァシリーは、あの二人ならばやりかねないと考えた。
いえ、流石に現地の住民や有志の方々と協力して、とのことですが
『それにしても大したものだな。いやはや……無茶するもんだ』
全く、同感です
これ以上なく、しみじみと頷く商人。
そういった事情で、こちらの条文が追加されたというわけです
『確かに、投資するだけして死なれたのでは商会側も堪るまいよ』
まあ私は心配はいらないから安心してくれ、とおどけて言うヴァシリーに、商人の男は朗らかに笑った。今後ウルヴァーン支店でヴァシリーを担当することになるわけだが、この魔術師とはうまくやっていけそうだ、と密かに胸を撫で下ろす。
というわけで、よろしければ契約書にサインを
『相分かった。……あ』
ぴょん、とテーブルに乗り移ったヴァシリーが、『しまった』という顔をする。遅れて商人も気づく。この鴉(からだ)でどうやってサインするのか、と。
『あ~……その、あれだ。インク壺を貸してくれたまえ、鉤爪で何とか』
あ、はい……こちらをどうぞ
『ありがとう。いやしかし、脚で文字を書くわけか。なかなか骨だぞコレは……』
ローテーブルの上で片足立ちし、四苦八苦するヴァシリー。書類がズレないように慌てて押さえる商人。
『ああっインクがこぼれた!』
ああっ契約書が!!
一人と一羽がぎこちなく奮闘する様は、傍から見れば噴飯ものだったが、幸いにして覗き見る者は誰もいなかった。
静かに始まった商談は、こうして、にぎやかに終わっていく。
次回 100. 平穏
サティナに帰還し、平穏な日々のありがたみを噛みしめるケイだったが―
100. 平穏
前回のあらすじ
ジェイミー どっかにいい男いないかなぁ
ホアキン なかなか歌がまとまらない……!
ヴァシリー 鳥の脚でサインするのは難しいという知見を得た
やっぱり家は落ち着くな……
自宅のリビングでどさりと荷物を下ろし、ケイはホッと一息ついた。
違いねえ。愛しの我が家!
その隣ではアイリーンが猫のように、 うーん と背伸びをしている。
(……そうか、俺も『落ち着く』ようになったか、この家で)
ケイはそんな感慨を抱く。見慣れた家具。古びた木の香り。思い出深い窓ガラス。しばらく暮らすうちに、この家にもすっかり愛着が湧いていたらしい。留守中も商会で雇った使用人たちは、きちんと手入れをしていてくれたようで、埃もなく綺麗に片付いている。
そう、ケイたちは、サティナへと帰還していた。
嵐のような日々だった。“森大蜥蜴”の討伐。素材の監視を兼ねた宴。コーンウェル商会の人員の到着、商人との交渉、解体、報酬の分配、etc, etc… 休めたのは討伐直後くらいのもので、それからは目の回るような忙しさだった。
どうにかやるべきことを済ませて、村人たちに惜しまれながらヴァーク村を発ったのが四日前。マンデルを除く、討伐のメンバーたちと別れたのもそのときだ。
『本当に……夢のようだった。ありがとう』
『これで胸を張って結婚を申し込める! さらばだ!』
ゴーダンとロドルフォは、それぞれの故郷に帰っていった。ゴーダンは東の辺境の村へ、ロドルフォは西の沿岸部へ。ケイがボーナスを弾んだこともあり、銀貨ではち切れそうな革袋と、『記念品』の色鮮やかな”森大蜥蜴”の皮の切れ端を携えて。
『今回のことは……家族に話しても、信じてもらえないかもしれないな』
そう言って笑うゴーダンはちょっとした豪農の次男坊らしく、家族に金を預けたら今度はサティナまで遊びに来るつもりとのこと。ちなみに、ケイを追う雄竜に投げつけた5本目の槍は、商会の護衛『オルランド』から借り受けたものだったそうだ。
『いやーもうこれ家宝にするっス! ありがてえ』
“森大蜥蜴”の血がついた短槍を回収して、オルランドは童心に帰ったように顔を輝かせていた。討伐には参加せず馬車の『護衛』に専念していたオルランドたちだが、そのあとの素材の監視や商会の人員の誘導などでは、よく働いてくれた。
『この鮮やかな青緑! サンドラのブルネットの髪によく似合うに違いない!』
ロドルフォは恋人に結婚を申し込むそうだ―“森大蜥蜴”の皮を髪飾りにして贈るのだとはしゃいでいた。実はケイは別れ際まで結婚の件を全く知らなかったのだが、もし事前に話を聞いていたら討伐のメンバーに選ばなかったかもしれないな、とは思った。
ちなみにキリアンだが、報酬を受け取ったあと、人知れず姿を消していた。討伐の日を境に、めっきりと老け込んでしまったように見えたキリアン―彼の助力がなければ、森の様子もわからず、ゴーダンとロドルフォも仲間にならず、アイリーンが毒で雌竜を仕留めることもできなかった。今回の狩りの成功も、彼に依るところが大きい。
何度も礼は言ったが、それでも別れの挨拶くらいはしたかった。なぜ何も言わずに去ってしまったのか―正直なところ、少し悲しく思う。ただ、ヴァーク村に残ったホアキンによれば、キリアンは”森大蜥蜴”との戦いで、心に傷を負ってしまったらしいとのこと。
忘れたかったのかもしれない。
忘れられたかったのかもしれない―
†††
荷物を置いたケイたちは、大通りを挟んで斜向いの商業区を訪れた。コーンウェル商会傘下の高級宿―いつもサスケとスズカを預かってもらっている宿だが、今日はマンデルがここで一泊する。ヴァーク村からサティナまで、四日間の旅の疲れを癒やしてから、タアフ村に凱旋しようというわけだ。
マンデル、いるかー?
レセプションで教えてもらった二階の部屋。ドアをノックすると いるぞー と間延びした声が返ってきた。
中に入ると、そこは広々とした上品な部屋。
ベッドだけではなく、頑丈そうな物入れのチェストに、小さな丸テーブルと椅子が何脚か。テーブルの下には小洒落た模様のカーペットも敷いてある。弓形に張り出した出窓―俗に言う『ボウウィンドウ』というやつだ―には、なんとガラスがはめられており、冷たい外気を遮断しつつも柔らかな日差しが差し込んでいた。窓際には花まで飾られている。
そして肝心のマンデルはというと、ゆったりとしたダブルベッドに寝転がり、存分にくつろいでいるようだった。
いやぁ、快適だな。……いいのか、こんなに上等な部屋に泊まっても
と言いつつ、全く遠慮する様子は見せないマンデル。言葉の割にふてぶてしい態度に、ケイは声を上げて笑った。
もちろんだとも。コーンウェル商会は太っ腹だからな
今回の宿代はコーンウェル商会持ちだ。先ほど本部で顔を合わせたホランドがマンデルのために手配してくれた。ケイとしても、存分に楽しんで元を取ってもらいたいと思う。
そいつはありがたい。せっかくだし、風呂にでも入ってみるかな。飲み物も好きに頼んでいいんだったか
好き放題にやっていいんだぜ、マンデルの旦那。そのうち『あの地竜殺しの英傑が一人、マンデルの泊まった部屋!』って名物になるだろうからな
壁に名前でも刻んだらどうだ、とからかうアイリーンに、マンデルは うへぇ と渋面になった。髭もじゃで表情が分かりづらいが、どうやら照れているらしい。
このあと、マンデルは風呂に入ってのんびりするとのことだったので、ケイたちは夕食の約束を取り付けてから、今度は木工職人モンタンの家を訪ねた。
ケイさん! よくぞご無事で!!
おねえちゃん!!
五体満足なケイに、ホッと胸を撫で下ろすモンタン。その横から勢いよくリリーが飛び出してきて、アイリーンに抱きついた。
お二人とも……うまくいったんですね?
さらに家の奥から、モンタンの妻キスカも顔を出す。
ああ、お陰様で。モンタンの矢も大活躍だったぞ
ケイたちが”森大蜥蜴”を撃破したのは一週間ほど前のこと。まだサティナにまでは詳細が伝わっていないらしい。立ち話も何だということで、中でお茶をいただく。
正直、もうヴァーク村はダメかもしれないと思ってたんだが、驚くべきことに到着するとまだ無事だった
どころか、探索者やら商人やらで大賑わいでさ―
キリアンという熟練の森歩きの話によると、実は―
っつーわけで、人を集めて落とし穴を掘ったり、迎撃準備を―
交互にことのあらましを語るケイとアイリーン。モンタンたちは目を輝かせて聞き入っていた。何せ、『伝説』の当事者たちから直に話を聞けるのだ。現代地球に比べ娯楽の少ない世界で、これ以上のエンターテイメントはなかった。
それでこれが、活躍してくれた矢たちだ
ケイは矢筒から矢を取り出した。“森大蜥蜴”の死骸から回収したものだ。モンタン特製の出血矢や宝石の消滅した魔法矢、最後に額を撃ち抜いた長矢などなど。黒ずんだ血の跡がこびりついており、見方によっては汚かったが、モンタンには最高の手土産になるだろうと思ったのだ。
おお……! これが……!!
モンタンは震える手で受け取り、惚れ惚れと眺める。自ら手掛けた矢が伝説の怪物を打ち倒した―職人として、その感慨はいかほどか。
で、こっちが”森大蜥蜴”の皮だ
今度はアイリーンが10cm四方の切れ端を差し出す。リリーとキスカが、色鮮やかな青緑色に目を見張った。
……触っていい?
もちろん
リリーはおっかなびっくりといった様子で皮を受け取り、恐る恐る、指先で表面をつついた。
……こんな色、はじめて見た
確かに、こちらの世界では珍しい色合いかもしれない。ケイが持ち込んだ革鎧も”森大蜥蜴”製ではあるが、硬化処理などをした関係で、これほど鮮やかな色は残っていない。
……ありがと
しばらくキスカとともに、しげしげと観察していたリリーだが、やがて満足したのか皮を返してきた。
ん? それはお土産だからリリーのだぞ
えっ!?
アイリーンが告げると、リリーとキスカが マジで!? と言わんばかりに皮を二度見する。目と口がまん丸くなった表情があまりにもそっくりで、 ああ、やっぱり親子だなぁ と納得しつつもアイリーンは笑ってしまった。
いいんですか?! こんな貴重なものを……
まあ、貴重といえば貴重なんだけど……
あまり使いみちがない。傷跡を避けて皮を剥ぐと、どうしてもこのような切れ端も出てきてしまった。もちろん、普通の動物の皮に比べると市場価値は非常に高いが、使うとしてもサイズ的にはせいぜい小物を作るぐらいだろうか。ケイたちは記念品として、こういった端材を商会からいくらか譲り受けていた。
もちろん、ケイは革鎧を新調し、アイリーンもちょっとした防具を別途作るつもりではあるが。
ほんとうにいいの、お姉ちゃん?
ああ。なにせ二頭も倒したからな
配って回る余裕は充分にある―ヴァーク村に到着した商会職員も、二頭の巨大な死骸を見て卒倒しそうになっていたほどだ。一応、使者を送って事前に伝えてはいたが、『番(つがい)を倒した』という情報だけは半信半疑だったらしい。しかし落ち着いてからは、いったいどれほどの儲けを生み出せるか、文字通り皮算用で大興奮していた。
ありがとう、おねえちゃん!
いいってことさ。どうだろう、リリーも髪飾りでも作ってみるかな?
えへへ……にあうかな?
青緑の皮を頭に当ててみるリリー。ケイはそんな幼女の姿を微笑ましげに見守りながら、
いずれにせよ、モンタンの矢は本当に役に立ったよ。ありがとう
改めてモンタンに礼を言う。
魔法の矢も出血矢もそうだが、特に長矢だ。今まで何度窮地を救われたか
いえいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。職人としてこれにまさる名誉はありませんよ
良かった。それで、今晩あたり打ち上げをやろうと思うんだが……あ、そういえばマンデルは知り合いだったよな?
ええ、以前矢を買っていただいたこともありますし
彼も誘ってるんだ。コーンウェル商会の飯屋を貸し切るから、肩肘張らなくて済むパーティーになると思う。モンタンたちもどうだろう?
いいんですか! それじゃあ、お呼ばれして……
伝説の狩りの打ち上げともなれば相当期待できる。モンタンもホクホク顔だ。
夕方にまた合流する約束を取り付けて、モンタン宅を辞去する。
ケイ、コウたちはどうする?
ああ、そうだな……
今日も今日とて、サティナのメインストリートは大賑わいだ。人々の間を縫うようにして歩きながら、しばし考える。
誘えるものなら誘いたいが……
立場的にすぐ来れるか、謎だよなぁ。コウの旦那はともかく、イリスは……
うーむ、とアイリーンもちょっと難しい顔。イリスはお姫様設定が足を引っ張ってフットワーク軽めに動けないのが難点だった。
まあ、でも、お忍びでなんとかするんじゃね? 最悪コウの旦那は来れるだろ
一応連絡だけしておくか
そうしてコーンウェル商会本部を訪ね、コウの屋敷に使者を送ったり革鎧の仕様を話し合ったり、諸々の手配をするうちにあっという間に日が暮れた。
久しぶりだな、キスカ。……元気にしてたか
もっちろん。あんたこそ大活躍だったらしいじゃん
マンデル、そしてモンタン一家を連れて商会が手配したレストランに向かう。マンデルとキスカはタアフ村出身の顔馴染みだ―キスカの方が年齢的に一回り下のはずだが、かなり馴れ馴れしい。いつもモンタンの妻、リリーの母としての顔しか知らなかったケイは、キスカが途端に若々しい村娘のように見えて少し驚いた。よくよく考えれば二十代、ケイとそれほど年齢は変わらないのだ……
リリーも、しばらく見ないうちに大きくなったな。……あっという間だ
はい。おひさしぶり、です
お行儀よく挨拶するリリーを、マンデルは優しい眼差しで見ていた。もしかすると自分の娘たちの幼い頃と重ね合わせているのかもしれない。
こうしてみると、本当に目元はキスカにそっくりだな。……ベネットが会いたがっていたぞ
あー……父さんねえ。たまには里帰りしたいもんだけど、あんまり家を空けられないのよねぇ……
この頃、装飾矢やら何やらの注文がけっこう詰まってるんですよ。ありがたいことなんですけどね
それに加えて、ケイたちの魔道具の『ガワ』を作ったりもしているので、モンタンは忙しい。
そうか。……まあせめて、手紙くらいは届けよう
ありがとー
そんなことを話しているうちに目的地に着いた。二階建てのそこそこ高級なレストラン―上のフロアは、今晩貸し切りだ。
おお! みんな、主役のご到着だぞ!
階段を登ると、商会関係者はすでに集まっているようだった。ホランドがいち早くケイたちの来訪に気づき、皆に知らせる。小綺麗におめかししたエッダと、以前隊商護衛で同道したダグマルの姿もあった。
ケーイ、聞いたぞ、とんでもない大活躍だな! かーっ俺もあんときサティナにいればなぁ、一緒に行きたかったぞヴァーク村に!
ダグマルがバシバシとケイの背中を叩いてくる。ヴァーク村から救援依頼が届いた当時、ダグマルは別の隊商を護衛していたため不在だったのだ。もしダグマルがいたら、荷馬車の護衛はオルランドではなく、ダグマルとその仲間たちになっていたかもしれない。
(だが、そうすると最後のゴーダンの援護はどうなっていたかな?)
ダグマルは剣と短弓を使う。それに対しオルランドは短槍使いなので、ゴーダンが槍を借りることができた。もしもオルランドがいなかったら、ゴーダンはどうしたのだろう? ちょっとした違いで、戦闘の流れが大きく変わっていたかもしれない―
残念だったな。旦那も一緒に来てたら、“大熊”と”森大蜥蜴”、 深部《アビス》 の双璧の討伐をどっちも見届けられたのに
アイリーンがからかうように言うと、 そうそう、そうなんだよー! とダグマルは悔しげに地団駄を踏んだ。
本っ当に、惜しいことをした! どんな風だったのか、あとで絶対に話を聞かせてくれよな! な!
お兄ちゃん! お帰りー!
そんなダグマルをよそに、今度はエッダがトテトテと駆け寄ってきて、ケイに抱きつく。
ただいま。といっても、あっという間だったかな
待ってるこっちは気が気じゃなかったけどねー!
すりすりと腹に頬ずりしていたエッダだが、ふと、その背後、モンタンたちに連れられてきたリリーの存在に気づく。
あ……どうも
こんばんは……
同じ年頃の女の子ということで、互いに興味を持ったようだ。
(あれ、顔を合わせるのは初めてか?)
よくよく考えてみれば、ホランドたちがサティナに定住し始めてしばらく経つが、仕事でモンタンと顔を合わせることはあっても、家族ぐるみの付き合いはなかった気がする。
わたしエッダ。あなたは?
リリー、です
リリーは塾に通うのもやめて引きこもりがちだった。アイリーンと魔術の修行(というか勉強)を始めて少しは明るくなってきたものの、出会った当初の快活さは見る影もない。
(新しく友達ができたら、何か良い変化があるかもな)
そんなことを考えつつ、商会関係者たちに挨拶する。ホランドのようによく世話になっている者から、顔見知りではあるが名前までは知らない者まで。皆、等しく今回の一件で奔走してくれた人たちだ―ダグマルを除いて。
(ってかダグマル、今回は何もしてないじゃないか)
にもかかわらず、ちゃっかり打ち上げに潜り込んでいる要領の良さに、遅れて気づいたケイは、挨拶回りの最中、吹き出してしまわないよう笑いを噛み殺していた。
おっと、お待たせしてしまったかな? 申し訳ない
と、新たに階段を登ってくる人影があった。フードを目深にかぶった二人組。
コウ! イリスも来れたか
やあ。二人とも無事だったようで何より
えへへ。あたしも来ちゃった!
コウはフードを取っ払ったが、イリスはかぶったままだ。顔よりも、頭の豹耳が見られたらまずいので、こういうときは不便だろう。
俺たちも今来たところだ。問題ないさ
それは良かった
揃ったみたいだね。それでは始めよう!
ホランドが音頭を取り、皆に酒が振る舞われる。湯気を立てる料理―仔羊の丸焼きやシチューパイ、ローストビーフなどが大皿に盛られて運ばれてきた。
では―英雄たちから一言!
さて食事にありつこうか、と思っていた矢先、ホランドから水を向けられ、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。
あ~……
コホン。まずはコーンウェル商会の皆様方に―
こういう咄嗟の英語スピーチが苦手なケイのために、アイリーンが口火を切って、少し時間を稼いでくれる。
―と、まあ、あまり長くなっても悪いのでこのへんで。ケイは?
ん、共に戦ってくれた戦友たちに。影から支えてくれた関係者の皆に。そして、俺たちを見守り、導いてくれた偉大なる精霊たちに―
隙間風がランプの灯りを揺らし、影が蠢き、コウの吐息が冷気で白くなる。
―最大限の感謝を。乾杯!
乾杯!!
そうして賑やかな宴が始まった。
†††
それから夜遅くまで飲み明かした。ケイは肩の力を抜いてコウと日本語会話を楽しみ、アイリーンは浴びるように高い蒸留酒を呑みながら、武勇伝を語って皆を楽しませていた。一番楽しんでいたのは、アイリーン本人だろうが。
翌日、珍しく羽目を外して呑みすぎたマンデルがダウンしてしまったため、タアフ村への帰還は延期し、体調の回復を待ってからさらに次の日、サティナを出発した。
ケイとアイリーンは、マンデルに同行することにした。マンデルは必要ないと固辞したが、現金や貴重品を多数抱えていることから、護衛としてついていくことにしたのだ。マンデルの娘たちに、父親を無事に帰すと約束した義理もある。家に帰るまでが大物狩りだろう。
当然、タアフ村でも歓迎と祝いの宴が開かれ、ケイたちも招かれることとなった。マンデルの娘二人が、安堵のあまり号泣していたのが印象的だった。
いやー……今回は色々あったなぁ
タアフ村からサティナに戻る道中、アイリーンが感慨深げに呟いた。
全くだ。盛りだくさんだったな……
しみじみと、ケイも頷く。
少し肌寒い晩秋の草原に、サスケとスズカの蹄の音。
今更言うのも何だが……けっこう、危ない橋だったな
違いない
ほんの少しでも運が悪ければ、ケイもアイリーンも死んでいたかもしれない。死者もなく、大した怪我もなく、たった数人で”森大蜥蜴”の番を撃破した― DEMONDAL の中でさえ聞いたことがないような偉業だ。
で、ヴァーク村からまた助けを呼ばれたらどうする? ケイ
揺れる馬上、アイリーンが振り返り、いたずらっぽい笑みで尋ねてくる。
う~~~~~ん……
ケイは難しい顔で唸った。人々を助けるために、“大物狩り”専門の狩人として活動したい―それが夢だったが、正直なところ、今回の一件はかなりキツかった。
…………当分、遠慮したいな
あっはっは。オレもー!
屈託なく笑うアイリーン。まあ、しばらくはのんびり過ごそうぜ、と気楽な調子で言う。ケイも全く同意見だった。大物狩りはこりごりだ―
家に帰って、いつもの日々が戻ってくる。
季節は巡り、サティナにも初雪が降った。
この世界で初めての冬だ。皆が冬ごもりの準備を始めている。
ケイたちは、主に魔道具の研究開発をしながら、のんびりと過ごしていた。
なあ、ケイ―ちょっと、相談があるんだが
ある日、アイリーンが神妙な顔で話しかけてきた。ストーブで温めて使うタイプのアイロンを応用したヘアドライヤーの試作品をいじっていたケイは、改まった態度のアイリーンに姿勢を正す。
どうしたんだ?
んー。その、な。……アレが、来ないんだわ
ぽんぽん、とアイリーンが自分の腹を軽く叩いた。
―
ケイの思考は止まった。
……それは、その……アレか? 月の
うん
…………つまり
アイリーンの顔と、腹部を交互に見比べたケイは、ガタッと立ち上がる。
子供が……!?
……まだわかんないけど、その可能性が……うん……
少し頬を赤らめたアイリーンは、ぺし、と自らの額に手を当てた。
なんかこの頃ちょっと……微熱があるみたいな感じがして、だるいし。風邪かなーって思ってたんだけど、アレも来ないから。キスカとかにも相談してみたんだけど、その、やっぱりそういうことじゃないかって……
…………!
検査薬などないので、確定的ではないが。
そうか……!
同様に、現代地球のような避妊具もなかったわけで。それでいて愛は育んでいたのだから、当然―
……嬉しいよ
ケイはアイリーンをギュッと抱き寄せた。実感は湧かないが、それでも、素直に嬉しかった。
……良かった
アイリーンもホッとしたように肩の力を抜いて身を預けてくる。しばらくそうしていたが、顔を見合わせて、なんだか互いに気恥ずかしくなった。
そうか……俺、父親になるのか……
やはり、どう考えても実感が湧かない。
うーん。オレも、母親か……うーむ……!
アイリーンは再び頬を赤らめ、両手で顔を覆う。
こっちの世界だと普通なんだけど……地球基準だと、年齢的にちょっと早すぎる気がしないでもない……!
わかる。その気持ちはめっちゃわかる
不安だーーーーー!
ううむ、色々準備しないとなぁ
とりあえず身近に、子持ちのキスカがいて色々相談できるのは助かる。
……赤ちゃん、か……
ケイは身をかがめて、アイリーンのお腹に耳を当ててみた。
バーカまだそんな時期じゃないって!
はっはっは
コツンとアイリーンに頭を小突かれて、ケイは笑う。
―地球では、骨と神経の塊になって死ぬしかなかった自分が。
父親になれるのか、と。
しかし、そうなるとアイリーンも断酒しないとだな
うぐぅッ! やっぱ……そうだよなぁ……そうなるよな……
……まあ、俺も一緒に禁酒するから……
―ケイはそこまで酒好きじゃないだろぅ、もぉぉぉ!
ぬあ~と呻きながら、ふざけてケイの胸をポカポカ殴ってくるアイリーン。
はっはっはっは
オレには笑いごとじゃないんだよぉぉ
大して痛くもない打撃を受け止めながら、ケイは、幸せを噛み締めていた―
が。
それからさらに数日後のことだった。
寒い朝だった。
まだ夜が明けて間もない、ようやく空が白み始めたころ。
蹄の音。それも複数。
目を覚ましたケイは、傍らで眠るアイリーンをよそに身を起こす。
家の前が騒がしい。
ダン、ダン! と遠慮なくドアが叩かれた。
……なに?
アイリーンも目を覚ます。
わからない、と答えたケイは、着の身着のまま外へ出た。
―そしてそんなケイを出迎えたのは。
ケイチ=ノガワだな!
フル装備の騎士が数名。さらに、豪奢な装束に身を包み、竜の紋章が描かれた旗を掲げて馬に跨る壮年の男。
……そう、だが
突然の事態に困惑しつつ、どうにか答えるケイ。
よし。ケイチ=ノガワ! これより、公王陛下のお言葉を伝える!!
懐より書状を取り出し、壮年の男が馬上でふんぞり返る。
それに合わせて、騎士たちが剣を抜き、儀仗兵のように直立不動の姿勢を取った。
は?
公王? お言葉? ―呆気に取られて立ち尽くすケイ。
…………
しかし壮年の男は、何やら非難がましい目でこちらを見るばかりで一向に話し出す気配がない。
……ひざまずけ、ひざまずけ
見かねた騎士が、兜の下、直立不動のまま小声で伝えてきた。
ハッと我に返ったケイは、慌てて跪く。そして思い出した。武道大会の表彰式を前に少しだけ教わった礼儀作法。
王の言葉は、最大の礼をもって拝聴せねばならない―
―オホン。『余、エイリアル=クラウゼ、大精霊の加護により、アクランド連合公国のウルヴァーン公にしてアクランド大公は―』
ようやく正しい姿勢を取ったケイに、咳払いした使者が書状を読み始める。
『―きたる、ディートリヒ=アウレリウスの成人に際し、大公の位をこれに譲るものとする』
ディートリヒ―武闘大会でケイを表彰した、公王のただ一人の孫。
『そして此度の譲位を祝すため、古(いにしえ)の継承の儀を、ここに執り行う』
王の言葉―それは絶対のものである。決定事項であり、至上命令である。
『ケイチ=ノガワよ』
そこに民草の意志など介在しない―
『公国一の狩人として―』
『―“飛竜”狩りに馳せ参じよ』
はい! というわけで 飛竜狩り 編が始まります。いつも感想、ポイント評価、にゃーん、大変励みになっております! ありがとうございます!
カクヨムでも1話先行で連載中です。
次話 幕間. Monster
幕間. Monster
霧がかった、深い深い森の奥。
深部(アビス) と呼ばれ、只人の踏み入れることのない領域に、その古城はあった。
フフフン フ~ン フン フフフン~♪
古城のそばの丘。肌寒く、お世辞にも過ごしやすい陽気とは言えなかったが、のんびりと草っぱらに寝転がり、鼻歌を歌う者が一人。
異形だった。
毛皮を荒く縫い合わせただけの、原始人のような服装。鋼のような筋肉がゴツゴツと張り出した体躯、全身を覆う鱗、鋭い手足の鉤爪―そして獰猛な爬虫類そのものの頭部と、たてがみのようにふさふさした金髪。
―怪物の名を、『バーナード』といった。草地に寝転がり、傍らでパチパチと燃える焚き火を木の枝でつつきながら、何やら上機嫌だ。
フフフン オー ダ ピーポー♪
盛り上がってきたのか、鼻歌ではなく歌詞を口ずさみ始めるバーナード。それにしても酷いだみ声だ。かつて、とある世界で流行った曲を熱唱している―想像してみよう、今日という日のために生きる全ての人々を。天国もなく、地獄もなく、国も国境もない。何かのために殺し合ったり、死んだりすることもない―
バーナードは焚き火から木の枝を引き抜いた。
枝の先端に突き刺さっていたのは―スイートポテトに似た感じの芋。
想像してみよう、全ての人々が、平和に暮らしている―
ユッウ~ウウゥ~♪
俗に言う石焼き芋だった。焼き立てのそれを無謀にも手で掴み、 アチチッ とお手玉しながらも、二つに割る。美味しそうな黄色、スイートポテト特有の甘い香りとともに、ホカホカと湯気が上がった。
ハッハァ~よく焼けてやがる! ユ~ メイセイ~♪ アイマ―
ご機嫌だな
歌いながらノリノリでかぶりつこうとしたところで、背後から声がかかる。
振り返れば、見上げるような大男が立っていた。
野性的な顔つき。筋骨隆々で、純粋に生物としての強さを感じさせる巨躯。圧倒的な存在感を放っており、ともすれば近寄りがたく感じてしまいそうだったが、その瞳には理知的な光があり、獣性と理性が同居しているような不思議な魅力を放っていた。また、肩には大人しい鴉を止まらせており、どこかユーモラスな雰囲気も漂わせている。
よォ、デンナー。オメーも食うか?
気さくに挨拶したバーナードは、芋の片割れを大男―デンナーに差し出す。
それが居候の態度か? まあいい、もらおう
苦笑したデンナーは芋を受け取り、豪快にかぶりつく。
しばし、金髪の蜥蜴怪人と、肩に鴉を乗せた大男が無言で焼き芋を頬張るという奇妙な光景が繰り広げられた。
ところで、さっきの歌
ぺろりと芋を平らげたデンナーが、尋ねてくる。
初めて聴くメロディだった。故郷の歌か?
そうさ、流行ってたんだ。だいぶん昔にな
バーナードは素直に首肯した。デンナーは度々、こういった会話でこちらの素性を探ってこようとする。
俺の故郷だけじゃねェ、それこそ国を超えて大流行した。何十億もの人々がこの歌を聞き、口ずさんでいた時代があったのさ
なのでバーナードは、いつも、ただひたすら嘘(・)を(・)吐(・)く(・)こ(・)と(・)な(・)く(・)答えることにしていた。『元は人間だったが気づけば竜人(ドラゴニア)になっていた』『故郷はおそらく遠く離れている』『故郷の人口は十億を超える』『音の速さで空を飛ぶ乗り物がある』『誰もが肉体から精神を切り離し精霊のように振る舞える社会だった』―などなど。
それはありのままの事実だったのだが、あえて簡潔に、具体性に欠く語り口にしたことで、デンナーにとっては荒唐無稽な話に聞こえていたらしい。そのせいか、『元人間である』という一点以外は、バーナードが大ボラ吹きなのか、あるいははぐらかそうとしているとでも解釈しているようだった。
(―高度に発達した科学は魔法と区別がつかねェ、ってか)
VR技術など、この世界の住人からすれば想像の埒外だろう。高度なインフラに支えられた億単位の人口も、眉唾ものに違いない。ただ事実を語っているだけなのに、デンナーが疑ったり、呆れたりしている様子を、バーナードは密かに楽しんでいるのだった。
お前の故郷には、吟遊詩人の精霊とやらもいるんだったか。それは国を超えて流行りもするだろうよ
そう言って肩を竦めるデンナー。バーナードは何も答えず、ただフフンと鼻を鳴らすに留めた。
しかし、俺の耳が正しければ、平和だの何だのと言っていた気がするが
おゥよ。ラブ&ピース、人類愛と世界平和を祈る歌だぜ。名曲だ
……お前みたいなやつは、そういうのを毛嫌いしてそうなもんだが
違うのか? と首を傾げるデンナー。
いや? そんなことはない。俺はむしろ平和を愛してるぜェ
お前が……?
あァそうさ。平和とは、不断の努力と幸運なくして成立しない、脆く、儚く、愛おしいものだ―
蜥蜴怪人の口の端が釣り上がり、鋭い歯が剥き出しになった。
―だからこそブチ壊したくなる
黄色い瞳を爛々と輝かせて。
ハハハッ、この人でなしめ
見たらわかるだろ?
思わず吹き出すデンナーに、悪びれる風もなくおどけるバーナード。
争(・)い(・)ば(・)か(・)り(・)の(・)世(・)の(・)中(・)は(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わねェか? 何にでもメリハリが必要なンだよ
その気持ちはわからんでもないが、だからといって弱い者を無意味に殺して回って楽しいか?
おそらく、バーナードが壊滅させたラネザ村のことを言っているのだろう。しかし純粋に興味本位の質問らしく、そこに非難するような色はなかった。
楽しいさ。強い奴と戦うのとは、また別の楽しみがある。俺は、平和を、幸せを、かけがえのないものを、尊いものを、台無しにするのが好きなんだよォ
ラネザ村での自らの凶行を思い出したか、バーナードは興奮に背筋を震わせる。
もちろん、弱っちいヤツのさ(・)さ(・)や(・)か(・)な(・)抵(・)抗(・)もスパイスの一つだぜェ。ただ、同じことを延々繰り返すだけじゃあつまんねェ、そのうち飽きちまう。だからメリハリが必要ってわけだ―それと一つ訂正しておきてェんだが、俺は別に殺しが好きってわけじゃねェ。最大限にブチ壊したら結果的に死んじまうってだけで
なるほど。熱しやすく冷めやすい破壊の美学というわけか
デンナーはゴワゴワとした顎髭を撫で、得心がいったという風に頷いた。その、さもわかったかのような態度が癪に障ったバーナードは、逆に聞き返す。
……そういうオメーはどうなんだよ、デンナー。オメーは強いやつと戦うの、好きそうだよなァ
ぬぅ、まあ否定はせんな。強敵と対峙すれば血が滾るのは事実だ……ただ戦いそのものが好きかと問われると、違うな
ほう?
その戦いから何が得られるか―強敵との戦いは、何らかの教訓をもたらすことが多い。相手そのものが興味深く、面白いこともある。お前みたいにな
ニッ、と不敵に笑うデンナー。打ち負かされた側であるバーナードは、ますます不機嫌になってフンと鼻を鳴らした。
そして俺は欲張りでもあるからな。そういう面白い奴がいると、つい手勢に加えたくなっちまうわけだ
ああそうかい。お陰でこうして食っちゃ寝していられるんだ、ありがたいこった
焚き火に枝を突っ込んだバーナードは、また新たに焼き芋を取り出した。今度は爪先で器用に皮を剥ぎ取り、デンナーに差し出すでもなく一人で食べ始める。
ハッハッハッハ! そう不貞腐れるなよ
デンナーは大笑いしながら、バーナードの背中をバシンと叩いた。焼き芋を咀嚼しながら、ギロリと剣呑な目を向けるバーナード。普通の人間ならひと睨みされただけで震え上がってしまいそうな眼光だったが、デンナーは動じない。
―残念ながら、食っちゃ寝の生活もそろそろ終わりだ
その言葉は、バーナードの興味を引いた。
……というと?
でかい仕事がある。お前にも当然働いてもらうからな
ほーん。まあ構わねェけどよ、細かいのは苦手だぜ? 誰彼を守れとか、逆に誰彼だけを殺せ、とかはなァ。それに自分でも言うのもなんだが、俺のこの容姿で参加できンのか?
できるとも。好き勝手に暴れて、殺し回って、呑気に過ごしている奴らを大混乱に叩き落とす。そんな怪物を探していたんだ、おあつらえ向きじゃないか?
―ハッ。なんだそりゃあ
蜥蜴面でもそれとわかる、満面の笑み。
俺様にぴったりじゃねえか
だろう? 平(・)和(・)す(・)ぎ(・)る(・)世(・)の(・)中(・)も(・)つ(・)ま(・)ら(・)な(・)い(・)、そうは思わないか?
デンナーの問いに、バーナードは牙を剥き出しにした。
はハァ♪
101. 出陣
とうとう出発の朝が来た。
公国の地にも、厳しい冬が訪れつつある。
戸口に立ち、朝日を睨むケイの吐息は白い―
ケイ……
振り返れば、ケープを羽織ったアイリーン。
青い瞳が、ケイを見つめて揺れていた。そっと目を伏せる。伸ばした手が、ケイの袖を掴む。
強く―関節が白く染まるほど指先に込められた力が、何よりも雄弁にアイリーンの心情を物語っていた。
……アイリーン
ケイはただ、その手に、自らの手を重ねることしかできなかった。冷え切った指先に、せめて別れのときまで、わずかなぬくもりを与えることしか―
“飛竜”狩りに馳せ参じよ、との王命からはや一ヶ月。
サティナ郊外には、ウルヴァーンとキテネの兵団が集結しつつある。本日、そこにサティナの戦力も合流し、飛竜狩りの舞台たる辺境―鉱山都市ガロンを目指して東進する予定だ。
兵団の総指揮官は、公子ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド。今年で成人を迎え、16歳という若さで次期公王として即位する。そして今回の飛竜狩りは、他ならぬ彼の箔付けのためのものだった。
実績作り、軍事力の誇示、他都市への牽制、軍部のガス抜き、領土拡大および辺境開拓の一環―政治的な思惑はさておき、最大の問題は、ケイがそれに巻き込まれてしまうことだ。
『どうしても行かないと駄目か……?』
尊大な使者が去ってから、ケイが残された説明役の下級役人に力なく問うと、彼はギョッとして周囲をはばかるように見回した。
『……とんでもない、なんてことを言うんだ。大物狩りの英雄だか腕利きの魔術師だか知らないが、一市民が王の言葉に逆らえるわけないだろう』
お偉方に聞かれなくてよかった、と下級役人は額の汗を拭う。頼むから迂闊なことは口に出すなよ、と言わんばかりにジロッとケイを睨んだ役人は、こう続けた。
『公王陛下からの直々のご指名、子々孫々にまで語り継ぐ名誉と心得よ! それに、ケイチ=ノガワ殿。あなたは栄えある名誉市民となったときに、誓ったはずだ。公王陛下と都市ウルヴァーンへの忠誠を』
―詰まるところ、ケイもアイリーンも、現代人だったというわけだ。
十全に理解できていなかった。封建主義的な社会における、『忠誠を誓う』ことの重みを、真の意味を。
これまで名誉市民として、少なからず権利を享受してきた。それに付帯した義務(ツケ)が、今になって回ってきた。それだけの話だ……
アイリーンは、荒れた。
『なんでケイがそんな目に遭わなきゃいけないんだ!!』
飛竜狩りに徴集された、と告げた直後は呆然としていたが、すぐに激怒した。何に対しての怒りか。公王か、その使いか、それとも状況そのものか……
『逃げよう、ケイ! むざむざ死にに行くようなもんだ。若造の箔付けのためなんかに、ケイが命を賭ける必要はない!』
アイリーンの主張は尤もだったが、ケイはゆるゆると首を振る。全てを放り出して逃げる―もちろん、検討した。
しかし、逃げるとしても、どこへ逃げる?
『アイリーン、俺たちは有名になりすぎた』
片や黒髪黒目の狩人にして、風の精霊と契約した魔術師。片や金髪碧眼の雪原の民で、影の精霊と契約した魔女。
地竜を相手取った伝説の狩りも、麻薬組織を壊滅させた大立ち回りも、吟遊詩人を介して公国全土に広がっている。こんな特徴的な二人組では、どこに逃げてもすぐに足がついてしまう。
かといって、国外に居場所があるかと問われると、難しい。アイリーンならば北の大地でも生きていけるが、馬賊のせいでケイは肩身が狭い。アジア系の顔つきは例外なく草原の民と解釈されるだろう。
“魔の森”近くのアレクセイの故郷の村なら、気心の知れたケイたちを快く受け入れてくれるだろうが、北の大地を横断する長旅になるし、第一、旅する間に冬が来る。
『家ごと凍りついて死ぬ』ほどの極寒の地を踏破する―あまりにも無謀。飛竜に挑む方がまだマシなくらいだ。
公国は駄目、北の大地も危険、となれば残された土地は何処だ……?
『それこそ、飛竜狩りが行われる東の辺境に隠れ住むか、港湾都市キテネから船で別の大陸を目指すくらいしかない……』
ゲーム DEMONDAL に設定のみ存在した『フォートラント』と呼ばれる大陸。現在の公国の民は、フォートラントを発った植民船団の末裔だ。今でもフォートラントとの交流は続いているが、外洋の巨大水棲生物のせいで沈む船はあとを絶たないという。
フォートラントへの船旅は、無事に海を渡れるかどうかの博打。かといって東の辺境は、豹人(パンサニア)や竜人(ドラゴニア)が数多く生息する危険地帯。
『それに……仮に逃げたところで、今みたいに豊かな暮らしは二度とできない』
現状の安定した生活は、得難いものだ。特にこの世界においては。
公国で有数の大都市に住まいを構え、国内でも指折りの規模の商会に支援されながら、気ままに魔道具を作成するだけで食って行ける。使用人のおかげで家事はしなくていいし、最低限のインフラも整っている。飢える心配もない。
何より、アイリーンのお腹の子に、これらの資産を遺してあげられる―
そう考えたとき、逃げるという選択肢は、ケイの中で消えた。
『俺には……できない。今さら全てを捨てることなんて』
仮に自分が野垂れ死んでも、アイリーンは食いっぱぐれないし、子供にだって遺すものがある。
ケイはそう考えたが―
『暮らしなんてどうだっていい!』
アイリーンは違った。
『そんなもん、命に比べたらはした金だ! どこに移り住んだって、生きてさえいればやり直せる! ケイが帰ってこないのが一番イヤだよ! 死んだら……死んだら、お終いなんだ、ケイ……!! 頼む、頼むから……』
アイリーンの悲痛な叫びは、徐々に勢いを失い、力なき懇願へと変わった。ケイの胸板に顔をうずめ、『行かないでくれ……!』と消え入るような声で。
『アイリーン……』
気持ちは痛いほどにわかる。
だが……それでも、ケイは……
†††
話し合いは平行線だったので、コーンウェル商会へ相談に行った。
『飛竜狩りについては聞いたよ……ついさっき、ね』
商談室のソファに腰掛けながら、ホランドは太った腹をポンと叩いた。行商を辞め、本部つき商会員になったホランドは、ケイたちの魔道具販売で辣腕を振るい、この頃は一流商人としての貫禄を醸し出すようになっていた。
が、今日ばかりは少しやつれて見える。
『我らが商会も、もちろん飛竜狩りを支援するけど、ケイくん個人用の物資についても役人と話はついたよ。糧秣(りょうまつ)に関しては心配しなくていい』
飛竜狩りに同道する場合、ケイの懸案事項の一つがサスケの秣(まぐさ)だった。これまでの旅路では、文字通り道草を食わせたり、宿場街で調達する分で事足りたが、今回の目的地は東部の辺境だ。
公国は東に行くにつれ草原から荒原へと変わっていき、さらに大人数の兵団がともに移動することを考えると、現地調達では絶対に足りない。秣をかなりの量、事前に用意しておかないとサスケは飢え死にしてしまう。
行軍速度が非常に遅いであろうことを鑑みれば、ケイが徒歩でついていく手もあったが、それではケイの強みである騎射が活かせなくなる。
件の下級役人にも『歩いてくりゃいいじゃん』という旨のことを言われたが―おそらくは調整を面倒くさがったのだ―飛竜を相手取るには機動力が欠かせないと、“森大蜥蜴(グリーンサラマンデル)“を狩った経験を混じえながら滾々と語った結果、『じゃあ後でコーンウェル商会と交渉してくるわ……』と根負けしたわけだ。
『あの役人が怠け者じゃなくて良かった』
『すこぶる働き者だったさ。話はすぐにまとまったよ。商会が追加で供出する分には、いくらでもどうぞ、とのことだった』
ホランドは肩をすくめる。要は、コーンウェル商会が独自に支援する分には、国の財布は痛まないので好きにしろ、ということだ。
役人も言っていたが、今回の狩りは成功報酬だ。最低限の食事などは軍が手配するものの、快適な旅路を望むならば諸々の経費は自腹となる。
目覚ましい活躍をした者には、帰還後にそれ相応の名誉と褒美を。
ただし労災は下りない―死んだらそれまでだ。
『ありがとう。苦労をかけることになる』
『なに。我が商会の腕利き魔術師を失うわけにはいかないからね』
ケイとホランドは、ぎこちなく微笑みあった。
『……なあ、旦那。どうしても行かないと駄目なのか?』
と、黙りこくっていたアイリーンが、縋るような目で尋ねる。
ホランドは困惑したように口をつぐむ。ケイは、アイリーンが自分と同じような言い方をしたのが可笑しくて、小さく笑った。半ば諦めたように。
『…………せめて、都市からの要請、くらいならばまだ、辞退する手もあったかもしれない。……だけど今回は、……王命だ。しかも名指しでの』
ホランドは苦しげに言葉を絞り出す。『とんでもない!』などと声を荒らげないあたり、これでも精一杯アイリーンの心情に寄り添った回答と言えるだろう。
『あまり、私の立場から無責任なことは言えないが』
沈痛の面持ちのアイリーンに、ホランドは慌てたように言葉を付け足した。
『先々代の陛下の飛竜狩りを思えば、ケイくんはそれほど心配しなくてもいいんじゃないかと思うんだ』
『ほう』
『……というと?』
ケイもアイリーンも、身を乗り出す。
『基本的に、ほとんど軍が矢面に立つんだよ。少なくとも先々代の狩りでは、告死鳥の魔術師と斥候が飛竜を一頭だけ釣って、魔術兵団と攻城兵器でタコ殴りにしたそうだ。従軍した兵士と、後方の支援部隊にはほとんど被害が出なかったらしい―』
対飛竜戦術はゲーム内のそれとは大差ないようだったが、ホランドの話を聞く限り、どうやら投じられるリソース量が桁違いだった。
具体的には、魔術師及び魔道具の数。
数百人単位で、魔術師たちが一斉に術を行使する。これはゲーム内では見られなかった光景だ。
ゲームでは、周年イベントの飛竜狩りはお祭り騒ぎのようなもので、数千人の廃人プレイヤーたちが一堂に会し飛竜に挑んだものの、その中で『魔術師』と呼べるプレイヤーはごくごく少数に過ぎなかった。
なぜかと言うと、飛竜を倒したあとは素材を巡るバトルロイヤルになだれ込むのが恒例だったため、ほとんど全員が『失っても怖くない』キャラ&装備を選択していたからだ。
その点、魔術師は触媒やら魔道具やら高価なアイテムを所持していることが多く、火事場強(・)盗(・)の被害に遭いやすい。1周年のイベントではそこそこ見かけた魔術師プレイヤーも、翌年には開き直って腰布に棍棒のみの蛮族スタイルで参戦していたくらいだ。
『百人単位の魔術師、か……』
個々の力量はゲームの廃人より劣るだろうが、その数は質を補って余りある。極めて強力に統率された兵団がどれほどの威力を発揮するか、冷静に考えれば、ケイたちもおぼろげに推察することはできた。
―案外、いけるか?
魔術師がどのような精霊と契約しているか、また使用される魔道具がどの系統のものかにも依るが、一般的な契約精霊である”妖精”の眠りの術も、百人単位で重ねがけした場合は飛竜の抵抗(レジスト)を十分に打ち破れるのでは、などと考えるうちに、ケイも少しばかり前向きになってきた。希望的観測の感は否めなかったが。
『主役はあくまで兵団だから、ケイくんの出番は……正直、自分から前に出ない限りないんじゃないかなぁ。単騎で”森大蜥蜴”を二頭相手取るよりは、よほど安全だと私は思うけどね』
ホランドの遠慮ない物言いに、思わず苦笑する。
『そういう意味だと、ケイくんより、お友達の”流浪の魔術師”殿の方が危ない立場なんじゃないか。……彼はまず間違いなく、サティナの軍団に組み込まれるだろうから。最前線だよ』
そう言って、ホランドは物憂げに小さくため息をつく。
『あ~……』
ケイは、同郷の日系人の顔を思い浮かべた。サティナの領主のもとで厄介になっている彼は、なるほど、お誂え向きなことに氷の魔術師だ。飛竜狩りにも引っ張り出されるに違いない―困り顔が目に浮かぶようだった。
―結局、アイリーンは納得したとは言い難かったが、ケイたちは少しばかり気を取り直して商会を辞した。
『……なあに、心配いらないさ。アイリーン』
帰り道、ケイはあえて気楽な調子で言う。
『いざとなったら……俺たちには切り札がある』
トン、と胸元を叩いた。
服の下、首からチェーンで吊り下げているのは―飾り気のない指輪。
『本当にヤバくなったら、この”ランプの精”にお願いするよ』
一つだけ、何でも願いを叶えてくれるという、“魔の森”の大悪魔に。
『だから、大丈夫だ。俺(・)は(・)絶(・)対(・)に(・)生(・)き(・)て(・)帰(・)る(・)』
アイリーンの手を引きながら、ケイはニッと笑ってみせた。
『…………うん』
アイリーンも小さく笑ってうなずく。
それでも彼女の手は、可哀想なほどに震えて、冷たくなっていた―
†††
あの日の指先を思い出しながら、ケイはアイリーンの手を握りしめる。
あれから、またたく間に時間が過ぎ去っていった。それでいて、頼りないロウソクの火が、ジリジリと芯を焦がしていくかのように、気が気でない一ヶ月だった。
ほんの僅かでも、ぬくもりを与えられただろうか。残せて行けるだろうか。
それを確かめるより先に、冬の到来を告げる風が熱を奪っていく。
カァン、カァンと遠くで鐘が鳴る。
出陣のときが近いことを知らせる鐘の音が。
商会の使用人が、厩からサスケを連れてきた。 今日も寒いね とばかりに鼻を寄せてくるサスケを撫で、鞍に荷物を載せる。矢筒。携帯食料。飲水の革袋。寝床にもなる毛皮、などなど……。
……行かなきゃ、な
無言のアイリーンとともに道を行く。
左手でサスケの手綱を引き、右手はアイリーンとつないだまま。指と指を絡めて、しっかりと握りしめる。恋人つなぎと呼ぶには、それはあまりに切ないものだった。
昨夜は、別れを惜しんで語り明かした。
それでもまだまだ語り足りなく感じる。
なのに、今は言葉が出てこない。
傍らのうつむきがちなアイリーンを見るに―彼女もどうやら、同じだった。
飛竜狩りに馳せ参じるんだってな! 頑張れよ!
武勇伝、楽しみにしてるぞー!
無事に帰ってこいよ、英雄!
道端で、顔見知りとなった町の住民たちが声をかけてくる。
ケイは少し硬い笑顔で、それに応えた。
ケイさん……どうか、ご無事で
お兄ちゃん、気をつけて、ね!
木工職人のモンタンと妻のキスカ、その娘リリーも、街の正門にケイを見送りに来ていた。
ありがとう。……行ってくるよ
モンタンと握手を交わし、リリーの頭を撫でてから、改めて向き直る。
アイリーン。
世界で一番、愛しい人。
言葉もなく、二人は抱きしめ合い、口づけを交わした。
思えば―この世界に来てからは、いつも一緒だった。
片時も離れずにいたい。その気持ちは今も変わらない。
互いが、互いのいない日々を想像できない。
それなのに、
ケイは行く。
アイリーン
その頬に手を添えて、名前を呼んだ。
……行ってくるよ。必ず無事で戻る
アイリーンは、愛しげにケイの手に頬ずりして、頷いた。
……待ってる。絶対に待ってるから
ケイの緊張をほぐすように、微笑みを浮かべて。
……これほど、離れがたく感じたことはない。
だが、ケイは手を離した。
ブルルッ、といななくサスケに、颯爽とまたがる。
これ以上の迷いを振り払うように。
横腹をポンと軽く蹴ると、忠実な俊馬は滑るように駆け出した。
サティナの城門を抜けると―視界が一気にひらける。
朝焼けを浴びて輝く草原が、風にそよいで波打っていた。
そこに、公国の赤い旗がはためく。
おびただしい数の軍勢が、展開している。
ドン、ドンと太鼓が打ち鳴らされ、高らかにラッパの音が響いた。
巨獣が目覚めるかのごとく、軍勢は緩やかに動き出す。
ケ―イ!!
背後から、かすかな叫び声。
弾かれたように振り返れば、アイリーンが手を振っていた。
ケイの目は、二人の距離を物ともせず、しかと捉える。
青い瞳から溢れ出した涙が、風に散らされていく。
わななく唇から漏れる言葉は、もはや意味をなさない。
だが―これ以上ないほど、気持ちは伝わってきた。
せめて、己の心も届くように。
必ず戻る
ぐっと手を掲げてみせ、ケイは前へ向き直った。
公国の歴史に刻まれる、飛竜狩りが―
ここに、始まった。
飛竜狩り編、開幕。
102. 合流
(これほどの人数が行軍してるところは、初めて見たかもしれないな)
パッカパッカとサスケを駆けさせながら、ケイは胸の内でひとりごちた。
ゲーム内でもイベントや傭兵団(クラン)同士の戦争で大勢のプレイヤーが集まることはあったが、どんなに多くても千人がせいぜいだった。
対して、眼前に集結した軍勢は万単位だ。統一された装備で隊列をなし、歩みを進めるさまは相当な威圧感がある。街道沿いには近隣住民が見物に出ていて、お祭り騒ぎの様相を呈していた。
飛竜狩りに出陣する公国軍―きっとこの光景は絵画として残され、後世に語り継がれていくのだろうな、とケイは他人事のように思う。
そしてこのとんでもない大所帯は、とんでもなく動きが鈍い。この人員を飢えさせないだけの物資を運ぶ、大量の荷馬車が同道しているからだ。軍が自前で用意した補給部隊に加え、それを補助する形で大商会の馬車も続く。
勇ましく行軍する兵士たちも、そのほとんどが陣地構築のための工兵か、物資を守る警備兵だろう。彼らの任務は、飛竜を相手取る魔術兵団と、バリスタや投石機といった攻城兵器群を無事に現地まで送り届けることだ。工兵はそのまま戦う羽目になるかもしれないが。
(それにしてもちょっと多すぎるんじゃないか……)
いくらなんでも、こんな大所帯に襲いかかるならず者はいないと思うのだが―警備の人員はもっと減らせなかったのだろうか? ひょっとすると、公国の支配に反感を抱く草原の民に対しての示威行動も兼ねているのかもしれない。
(だとしたらご苦労なことだ)
この飛竜狩りのためだけにどれほどの物資が消費されるのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。それを可能とする公国の力を内外にアピールする目的があるのだろうが、いくら年若い次期公王の箔付けのためとはいえ、ケイとしては、費用対効果的にどうなんだと思わずにいられない。特に、お上の事情に巻き込まれた身としては―
そんなことを馬上でつらつらと考えるうち、竜の紋章が刻まれた赤い旗が見えてきた。ウルヴァーンの本隊だ。
最後尾あたりを歩く歩兵隊のうち、そこそこ偉そうだが、気位はそこまで高くなさそうな隊長格の兵士に声をかける。
狩人のケイだ。公王陛下の命により、飛竜狩りに馳せ参じた
自分で口に出しておいてなんだが、多分に皮肉な響きが混じってしまった。ここに来て不満たらたらな様子を見せるのは得策ではない、グッとわだかまる内心を飲み込んで誠実な公国市民の仮面をかぶる。
―義勇隊に合流したいのだが、何処か?
ケイのように民間から招集されたクチ、及び自分から名乗りを上げた物好きなんかは、義勇隊とやらにひとまとめにされているそうだ。
へえ、するとアンタが例の”大物狩り”か
兵士たちがケイにじろじろと無遠慮な視線を投げかける。
噂に違わぬ精悍さだな
そうか? 俺はもっとデカいかと思ってた
なあ、槍で森大蜥蜴の頭をかち割ったってのは本当か?
俺は背中に飛び乗って首をねじ切ったって聞いたぞ!
どんな噂だ。やいのやいのと勝手なこと言う兵士たちに思わず苦笑する。
義勇隊ならもうちょっと前の方だ。まあ見りゃわかる
そうか、ありがとう
隊長格に礼を言ってさらにサスケを進ませると、なるほど、統一された装備の中に、雑多な雰囲気を漂わせる一団がいた。
近寄ってみれば―なんというか、寄せ集めという表現がぴったりだった。山賊かと見紛うばかりの薄汚れた戦士がいるかと思えば、小綺麗な衣装に身を包んだ田舎の名士のような人物まで。大荷物だが武器を持たずローブに身を包んでいる奴は、まさかとは思うが流れの魔術師だろうか。狩人(どうぎょう)と思しき人員もちらほら。
そしてその中には、知っている顔もあった。
やあケイ、しばらくぶりだな。……来てくれて安心したよ
マンデル!
サスケから飛び降りて、馴染みの狩人の肩を叩く。
そう、他でもないタアフ村の狩人、マンデルだ。先の大物狩りでは生死を共にした仲間でもある。
マンデルも参加するらしい、とは聞いていたが……
関係者づてに話は聞いていた。しかし森大蜥蜴の狩りで精根尽き果てて、危険な目に遭うのはもう懲り懲り、と言わんばかりだったマンデルと、よりによって飛竜狩りの軍団で再会する羽目になるとは。
まあな。……恐れ多くも陛下の名において召集令状が届いたんだ
気まずそうなケイをよそに、マンデルは飄々と肩をすくめる。
例の武道大会。……繰り上がりではあるが、おれも一応入賞者だからな
ああ、そっちか……
大物狩りの一員として名を上げたから、ではないらしい。無理を言ってマンデルを大物狩りに巻き込んだケイとしては、自分が原因でないとわかって少し気が楽になったが、それにしても気の毒であることに違いはない。
とんだ災難―
いや、この物言いはまずい。
―とてつもなく名誉なことだな
まったく、違いない。……身に余るよ
ケイの意図を汲んで、マンデルも真面目くさって頷いた。
お話中のところ悪いが
と、雑多な集団にあって、正規兵らしい格好をした軍人が声をかけてくる。顔は悪くないが、どこか不貞腐れたような雰囲気のせいで小物臭く見える男だった。
ケイチ=ノガワで違いないか?
ああ、そうだ
よし
男は羊皮紙をチェックして、くるくると丸めながら溜息をつく。
お前が来ないんじゃないかと気が気じゃなかった。英雄は遅れてやってくる、とはよく言ったものだな
……名残惜しくてアイリーンと見つめ合っていたが、どうやら自分が思っていたよりも時間が経っていたらしい、とケイは思った。できることなら何ヶ月だって見つめ合っていたかった。
申し訳ない
大目に見よう。王命通りに馳せ参じた、その事実が重要だ。……しかし、馬連れとはな。うちは糧秣(りょうまつ)の面倒までは見んぞ
男はサスケをじろりと一瞥して顔をしかめる。 人間って歩くのおそいよねー と言わんばかりにキョロキョロと周囲を見回していたサスケは、突然視線を向けられて戸惑ったように首を傾げている。
ああ、それに関しては心配ない。コーンウェル商会が提供してくれることになってる、一応証書もある
ケイが懐から書類を取り出して見せると、男は途中まで斜め読みしてあっさりと興味を失った。
そうか、気前のいい話だな。騎射の達人と名高い英雄殿、その活躍に期待しよう
踵を返し足早に去っていく男。しかし途中で思い出したかのように振り返り、
おっと。一応、隊長を務めるフェルテンだ。せいぜい皆とは仲良くして、問題は起こさないでくれよ
今度こそ足早に、隊列の前方へと姿を消した。
……なんというか、あまり部隊の運用に熱心なタイプではなさそうだな
無理もない。……こんな軍人でもない平民の寄せ集め部隊ではな
ケイの感想に、マンデルが笑った。
彼は正規の軍人のようだし、そりゃあやる気もあまり出ないだろう
堅苦しくても息が詰まるから、このくらいの方が楽だけどな俺は
おれもだ。……それはそうと、ケイ。キスカが手紙で言っていたが、アイリーンがご懐妊だとか。遅ればせながらおめでとう
ああ、……ありがとう
ケイは曖昧な笑みを浮かべた。
……身重の妻を置いて出征とは、ひと悶着あっただろうな
マンデルも困ったような顔をしている。
まあ、そうだが、王命だからな……
ケイのところには、直々に使者が来たんだったか。……まあ大変に名誉なことだからな、こればかりは
もちろん、喜び勇んで馳せ参じたわけだが
かくいうマンデルも、娘二人を残して来ている。ケイたちの心はひとつだった。
今から、凱旋のときが楽しみでならないよ
それはいいことだ。……ケイと一緒だと、五体満足に生きて帰られる気がする
マンデルは急に改まって、ケイをじっと見つめた。
飛竜が出てきても、ケイなら何とかしてくれるだろう?
……いやあ、うーむ……
ケイは唸りながら、手の中の朱い弓に視線を落とした。
“竜鱗通し”―理論上二百メートル先の竜の鱗をもブチ抜く、その絶大な威力から、この弓は銘打たれた。
(飛竜か……)
実際にやれと言われたら、どうだろうか……森大蜥蜴を超えるデカブツとはいえ、高速で飛び回るし、最強の防具の代名詞たる竜の鱗で全身が覆われている。ヤツらを仕留めるなら、ただ矢が刺さるだけではダメだ。鱗を貫通した上で、致命傷を与えねばならない。となると狙うのは、頭部か、臓器が密集した腹部か、……それにしても何本の矢を命中させればいいものか……
……飛竜は、流石にちょっと厳しいな
渋い顔でそう答えると、マンデルはクックックと低い声で笑みを漏らした。
ケイ。……普通の狩人はな、『飛竜を何とかしろ』と言われたら『無理』と即答するんだよ。それに対してケイは、しばらく悩んだ上で『ちょっと厳しい』なんて答える。この時点できみは尋常じゃない
マンデルはニヤッと笑った。
そして、それがこの上なく頼もしい
ばん、とケイの背中を叩くマンデル。彼にしては珍しいボディタッチだった。……極力いつもどおり振る舞っているが、やはり不安なのかもしれない。
そういえばケイ、鎧を新調したんだな
あ、ああ。そうさ、この間の森大蜥蜴でな。腕のいい職人に頼んだんだ―
ほぼ新品の革鎧を撫でながら、ケイはチラッと振り返った。
街道の向こう、サティナの街はちっとも―ケイの視力基準でだが―小さくなっていなかった。わかってはいたものの、遅々とした歩み。
これでは東の辺境ガロンまで、どれだけかかるかわからない。
(……長い旅になりそうだな)
そしてそれ以上に疲れそうだ。
願わくば、旅路の間に話題のストックが尽きませんように―気だるさをごまかすようにサスケの首をぽんぽんと叩いて、ケイは小さく溜息をつくのだった。
103. 親睦
やはりというべきか、飛竜討伐軍の歩みはあくびが出るほど鈍(のろ)かった。
ケイも最初から覚悟していたし、隊商護衛の経験からこんなもんだろうとは思っていたので、それほど苦痛には感じない。
ただ、大人数の行軍ゆえ、もうもうと舞い上がる砂埃には参った。
冬場で空気が乾燥していることもあって、視界が常に霞んでいるようだ。サスケも ねー、ちょっと空気わるくなーい? と言わんばかりに、不満げに鼻をスピスピさせている。
視力が落ちやしないか心配だ……
少しでも埃が入らないように目を細めて、苦々しげに言うケイ。
大丈夫だ。……そのうち慣れる
対して、マンデルは達観した様子で肩をすくめる。
彼は従軍経験者だ。適度に諦めることを知っていた。
緩やかな起伏の丘陵の間を縫うようにして、ゆったりと蛇行しながら伸びる石畳の道―“サン=レックス街道”。
寒風が吹き荒む中、兵士たちはぞろぞろと歩いていく。都市近郊ではまだ『軍隊の行進』の体をなしていたが、見物客がまばらになると気も緩み、その歩みはのんびりとしたものに変わっていった。
とても飛竜狩りに赴いているようには見えないが、目的地は遠いし、飛竜と出くわすのはまだまだ先のことだ。今の段階で怯えたり不安がったりする必要はない―気を張り続けていたら参ってしまうので、実際、兵士としては彼らは正しい。
ダラダラと歩き続けること数時間。昼食の休憩となった。出てきたのは堅焼きビスケットに薄いワイン、それに干し肉の欠片。
わびしい……としょんぼりするケイをよそに、マンデルは、
おっ、干し肉がついてるとは豪勢だな。……さすがは飛竜討伐軍
などと感心していて、色々と察するほかなかった。
長く続いた街暮らし(使用人つき)のせいで、自分はすっかり贅沢になってしまったらしい、とケイは忸怩たる思いになる。
このぶんだと夕食も期待できない、何か彩りを確保せねば……と草原に目を向けると、夏場ほどではないがウサギの姿がチラホラあった。
“竜鱗通し”と銘打たれたこの弓も、一番血を吸っているのはウサギかもしれない。
それから特筆すべきことはなく、夕暮れ前に行軍は止まり、野営の準備が始まる。夕食はそれぞれの部隊ごとに食材が配られ、自分たちでシチュー的なものを作る形式だった。
案の定、配給されたのは穀類や干し肉など非常にわびしい内容だったので―マンデルいわく、これは量的にも質的にもびっくりするほど豪勢―ケイは快く部隊の皆にもウサギ肉を提供した。これから数週間、下手すれば数ヶ月、同道する仲間たちなのだ。仲良くなるに越したことはない。
よっ、太っ腹!
さすがは公国一の狩人!
無論、義勇隊の面々も大喜びだった。
近隣の部隊より具だくさんになったシチューを味わいながら、焚き火を囲んで親睦を深める。